不破さんの一連の論文はきわめて微妙なところに差し掛かっていると思う。
すなわち、我々は「共産党」という名前を放棄すべきかもしれないということだ。
この党名にはあまりにも強くスターリン主義のイメージが刷り込まれている。
我々がスターリン主義でないという時、共産主義イコールスターリン主義だった時代をどう総括するかが問われる。それはあまりにも長く、あまりにも強烈である。それは1927年のコミンテルンテーゼに始まり、57年のフルシチョフによるスターリン批判まで続いた。
スターリン批判のあとそれが払拭されたかというと、それも怪しい。
フルシチョフが一生懸命スターリン批判を行ったにもかかわらず、中国はそれに追随しなかった。「スターリンにも良い所はあった」式の議論が続いてきた。本家のソ連ですら、フルシチョフが失脚しブレジネフが登場するに及んでスターリン批判は尻すぼみとなった。
私が入党した昭和42年には、「共産主義読本」が発行され、初級教育の教科書となった。これは当時から見てもひどいもので、スターリンの「弁証法的唯物論と史的唯物論」というパンフレットの引き写しだった。それに毛沢東の「矛盾論」が乗せられていた。
もちろん、実践的にははるかに進んでいたが、教育学習部にはコチコチのスターリン主義者が鎮座していたのだ。
その後も折々を通じて日本共産党はスターリニスト党としての面影を露わにすることがあった。この20年ほどはさすがにない。
「真の共産党」と「スターリニスト党」との分岐はどこにあったのかを探るのは難しい。各国の共産党はコミンテルンの支部(ビューロー)として結成されている。いうなればソ連共産党のコピーである。
トロツキストはトロツキーの失脚まではまともな共産党だったと答えるだろう。しかしその根源を突き詰めていけばボルシェビキという組織のあり方まで遡らなければならないのかもしれない。
とすれば、社会民主党という党名にまで我々は遡らなければならないのか。
あるいは、さらにマルクスが「共産党宣言」を発した時代にさかのぼって、「共産党」としての再生を宣言すべきなのかもしれない。だとすると、スターリン主義にもとづいて活動してきた時期の共産党は共産党として認めないのか、現在も世界各国で活動している共産党は共産党として認めないのか、という厄介な問題が浮上してくる。