大テロルをやっているうちに、ブハーリンの経歴が気になった。彼はロシア革命の指導者の中で最高の知識人だ。知的エリートと言って良いだろう。

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ウィキペディアからかんたんに経歴を拾っておく。

1888年モスクワに生まれる。両親は教員で、父はモスクワ大学で学んだ数学者だった。知的な雰囲気の家庭で育ったブハーリンは、少年時代は、父親の影響で蝶や鳥類に熱中した。

中学校在学中に革命運動に関係し、1905年ロシア社会民主労働党に入党し、党の分裂の際は、ボリシェヴィキに参加する。1907年モスクワ大学法学部に入学する。

活動の結果、大学を放校処分となり、3年間流刑となるが、脱走し、モスクワ経由でドイツに亡命した。

1912年秋にウィーンに移る。ウィーン大学で経済学を学ぶ。1914年まで経済学と社会学を学び、新聞・雑誌に寄稿する中で亡命していたボリシェヴィキの中で理論家として一頭地を現すようになる。

1915年「帝国主義と世界経済」、1916年「帝国主義国家の理論によせて」の両論文をそれぞれ発表し、レーニンの帝国主義論と国家観に影響を与えている。

その後、オーストリアを追われたブハーリンはスイスに亡命し、ローザンヌに住んだ。1915年に北欧、アメリカ・ニューヨークに移る。この時期は、レーニンと理論や革命戦術をめぐり対立していた

十月革命後、祖国に戻り『プラウダ』の編集長となる。

1918年ブレスト・リトフスク条約調印をめぐり、ブハーリンは、「左翼共産主義者」グループを率いて、対独講和を主張するレーニンに反対した。

ブハーリンは、ドイツ革命を目論見てドイツを訪問。スパルタクス団に影響を与えるが、国外追放処分を受ける。ドイツ革命には失敗したものの、ブハーリンは内戦中、理論家として赫々たる成果を上げる。

1920年「過渡期の経済学」、1921年「史的唯物論」を次々に著し、レーニンから激賞された。

共産党内の闘争の結果、スターリン派から「右翼」として批判されたブハーリンは、党、政治局員、プラウダ編集長、コミンテルン議長を解任された。

一度は失脚したもののブハーリンは、ファシズムの台頭を危惧し、自己批判してスターリン支持を表明した。1934年には、党中央委員候補、『イズベスチヤ』誌編集長として復帰し、1935年の新憲法(いわゆる「スターリン憲法」)起草にも参加する。

「かんたんに」と言いながらかなり長い紹介になってしまったが、どう考えても、ブハーリンこそがレーニンを継ぐべき人だったということをわかってもらうためだ。

学生時代には、独習指定文献に「ふたたびトロツキーとブハーリンの誤りについて」というレーニンの論文が入っていて、トロツキーとブハーリンが串刺しにされていた。

……てなことが刷り込まれていて、ブハーリンというと通俗経済学の影響を受けた人物のような印象を受けていた。

それが大テロルの記事を調べているうちに、「ひょっとすると、こいつはレーニンより一段上の人物かもしれない」と思うようになった。

周知のごとく、レーニンの帝国主義論はヒルファーディングの金融資本論とホブソンの帝国主義論のアマルガムである。

ヒルファーディングの育ったのはウィーン学派であり、ウィーン学派はイギリスの経済学を批判することから出発している。その意味で問題意識はマルクスと通底している。いわば繁栄するイギリス主義を別な窓から羨望の目でみつめている。

ウィーン学派はそもそもは反動ではない。いわばマルクスの好敵手としての「反マルクス主義」であり、「もうひとつの発展モデル」の提唱者として、ドイツ・オーストリアの社会民主党のライヴァルであった。

ウィーン学派と対決し、あるいはそこから批判的に学ぶ中から、ヒルファーディングやカール・ポラニーが育っている。

モスクワ大学(卒業はしていないが)のエリートであるブハーリンが、ポラニーに先立つこと10年、1905年革命のキャリアを引っさげて、ウィーンで反マルクス主義者と丁丁発止とやりあって、というのは、想像するだけでもまばゆいほどの光景である。