いつもPIPPOさんには勉強させてもらっている。今回は山村暮鳥の詩だ。

冒頭の「おうい雲よ」というのはむかし教科書で見た覚えがあるが、山村暮鳥については何も知らなかった。

苦学して牧師になった人のようだ。

幾つかの詩が紹介されているが、圧巻は「自分は光をにぎっている」というもの。

短いのでそのまま転載する。

自分は光をにぎってゐる  山村暮鳥

 自分は光をにぎってゐる

 いまも いまとて にぎってゐる

 而(しか)も をりをりは 考える

 此の掌(てのひら)を あけてみたら

 からっぽでは あるまいか

 からっぽで あったら どうしよう

 けれど 自分は にぎってゐる

 いよいよ しっかり 握るのだ

 あんな 烈(はげ)しい 暴雨(あらし)の中で

 掴(つか)んだ ひかりだ

 はなすものか

 どんなことが あっても

 おお石になれ、 拳

 此の生きの くるしみ

 くるしければ くるしいほど

 自分は ひかりを にぎりしめる

詩集「梢の巣にて」 1921年より

ネットで調べると、ずいぶんと愛好者は多いようで、いくつかの文章が上がってくる。

PIPPO さんは「はなすものか  どんなことがあっても」というところが気に入ったようで、見出しにもしているが、歌の文句なら「おゝ石になれ、拳」というのがサビになるだろう。

面白い頁があって、中国人らしきブログ主が中国語に訳している。

「自分は光をにぎっている」は「我手握光明」で、ちょっとそっけない。

握るのではなく、握っているでなくてはいけない。最後の締めでは、同じ「自分は光をにぎっている」は「我愈是将光明紧握在手中」と変えられている。かなりの意訳になり、表現が過剰になっている。

ということで、あまりいただきかねる訳だが、中国人にも感動を与えたということは分かる。