大テロルという言葉自体あまり聞いたことがなかったが、ロシアでは大粛清とは呼ばず大テロル(英語ではGreat Terror)と呼ぶのが一般的なのだそうで、たしかに党の粛清のレベルをはるかに超えているので、そちらのほうが適当だと思う。

弾圧にあたった直接の責任者がニコライ・エジョフであったことから、「エジョフ時代」とも呼ばれているようだ。本質的ではないがわかりやすい命名だ。

  スターリンの右の小男がエジョフ

「大テロル」の全貌については加藤哲郎さんなどが一生懸命調査されており、私ごときの出る幕ではない。

ただ、コミンテルン第7回大会におけるディミトロフが、大テロルにおけるエジョフと並んで、スターリン戦略の一つの駒であったとする見解については、すこし経過のなかで確認してみたいと思う。

ソ連共産党はトロツキーの排除、ウクライナなどでの農民の強制移住、大テロルを通じて「共産党」ではなくなっていた。

そのソ連共産党の指導を受け、活動してきた日本共産党は、ある意味で共産党ではなかったということになる。

その自己批判は、スターリン批判の徹底を通じて以外には不可能である。犠牲者のような顔をして済ますのは無責任であろう。スターリン批判を徹底することが自己批判であり自己点検となる。

革マルではないが、「反スタなくして反帝なし」なのである。

ただしスターリンの罪業については、事実関係の確認なしには点検が進まない。不破さんが引用しているいくつかの文献についても、一昔前なら「権力者によるためにするデマ情報」として一蹴されていたかもしれない。

したがって、年表については、各事項について情報の出どころ、確度の評価が必要になってくる。それはとても私の手に負えるものではない。

まぁあまりしゃっちょこばらずに、やれる範囲からやっていくことにしよう。


「大テロル」は、「農業集団化」という民衆大虐殺の最後の仕上げである。連中は殺し慣れていたのである。

大テロルの「犠牲者」の多くは、それに加担したか、目をつぶったか、いずれにしても同じ穴の狢である。

1934年

1月 ソ連共産党の第17回大会。第一次5か年計画の達成を確認。トロツキー派との党内闘争が終結したことから「勝利者たちの大会」と称される。復党を許されたカーメネフがスターリン崇拝の演説を行うなど、スターリンの独裁体制が完成。大会代議員1965名のうち1180名が、その後数年のうちに粛清される(フルシチョフ「秘密報告」で示された数字)。

7月 NKVD(長官はゲンリフ・ヤゴーダ)、秘密警察の地位を与えられ、一連の粛清の指揮を執る。

NKVDNarodnyi komissariat vnutrennikh del)は、文字通りには「内務省」のこと。34年の組織改編で、秘密警察と強制収容所を統合し、人民弾圧機能を強化した。

12月 レニングラードの党幹部セルゲイ・キーロフが暗殺される。スターリンは、キーロフ暗殺の背後に巨大な陰謀があるとし、容疑者に対する即決裁判を指示。

「キーロフは、共産党の中央委員で人気があった。多くの人がスターリンの後継者と見なしていた」とされる。しかしその本性はジノビエフ派の拠点レニングラードで粛清に辣腕を振るったスターリンの走狗でしかないようだ。


 キーロフの肖像画

12月 スターリンがキーロフ暗殺事件について公式声明。犯行はトロツキー一派の仕業と断じる。その後、レニングラードで“一味”の逮捕が相次ぐ。

フルシチョフの秘密報告では、スターリンの指示を受けたヤゴーダが仕組んだものとされる。しかしこれには有力な反論もあり、暗殺は単独犯行で、事件を知ったスターリンが最大限に利用したというもの。

1935年

レニングラードで共産党活動家5千人が逮捕される。

5月 ジノヴィエフとカーメネフが逮捕される。

この年世界では、
3月 ヒトラー、ヴェルサイユ条約を破棄し、再軍備を宣言。その後国際連盟からも脱退。
7月 フランス人民戦線が結成される。

7月 コミンテルン第7回大会が開かれる。

1936年

8月 第一次モスクワ裁判。カーメネフとジノヴィエフらが「合同本部陰謀事件」を企んだとされ銃殺刑となる。両者は32年に党指導部に対するテロを計画したとされる。またキーロフ暗殺の責任者とされた。

第一次モスクワ裁判のあと、逮捕されていたレニングラードの共産党活動家5千人も全員が銃殺刑となる。

9月 NKVDのヤゴーダ長官(内務人民委員)が、粛清の不徹底により解任される。後任にニコライ・エジョフ。ヤゴーダは後に逮捕され銃殺。

ブハーリンのエジョフ評価 私の長い生涯のあいだに、エジョフ以上に嫌悪感を起こさせる人間には会ったことがない。私は彼を見るたびに、ある光景を連想せずにはいられない。それは、 ラステラヴェヤ通りの公園にいる悪ガキどもだ。彼らのお気に入りの遊びは、パラフィン油に浸した紙を浮浪者の肛門に挿入し、それに火をつけることだ。 彼らは、恐怖に陥ったおじさんが、火から逃れようと必死に(しかし、無駄に)周囲をコロリコロリと転がる様子を見て喜ぶのである。私は、エジョフが子供の 頃にこんなふうに楽しんでいたであろうこと、そして今も、形は違えど、同じことをし続けて楽しんでいることを、いささかも疑わない

12月 スターリン憲法が制定される。草案はブハーリンとラデックが起草。

この年、世界では、
2.26事件。

3月 ドイツ軍がラインラント進駐。
日独防共協定が締結。ソ連を東西から挟む枢軸連合が形成される。
7月 スペイン人民戦線政府の成立。内戦が始まる。英仏米は独伊の干渉を黙認。

8月 ベルリン・オリンピックの開催

西安事件が発生。第二次国共合作が成立。

1937年

1月 第二次モスクワ裁判。ピャタコフ、ラデックらが「並行本部陰謀事件」で多くが銃殺刑。死刑を免れたものも全て獄死。

2月 「右翼トロツキスト陰謀事件」が発生。ブハーリン、ルイコフ、ヤゴーダが逮捕される。

3月 共産党中央委員会総会。スターリンはキーロフ事件を根拠に階級闘争激化論を定式化。大テロルを合理化する。

階級闘争激化論: 階級闘争が前進するほどに、打ち破られた搾取者階級の残党たちの怒りはますます大きくなり、彼らはますますはげしい闘争形態にうつり、ソビエト国家にたいしてますます低劣な行動をとり、命運つきた者の最後の手段として死物狂いの闘争手段にますますかじりつくであろう。

3月 中央委員会総会を受け、NKVDの体制の刷新。逮捕の範囲が一気に拡大する。

4月 NKVDの手により地方党組織の大物が次々に粛清される。

この地方粛清のなかでヴィーンヌィツャ(Vinnytsia)の大虐殺が起きた。ヴィーンヌィツャはウクライナ中西部の町。NKVDは約1万人とされる住民を大虐殺した。後にヴィーンヌィツャを占領したドイツ軍は、死体埋葬地を発掘し、反ソ連宣伝に利用した。

6月 ミハイル・トハチェフスキー元帥を始めとする軍幹部が「ナチスドイツのスパイ」として銃殺される。その後元帥5人のうち3人が粛清されるなど赤軍大粛清が始まる。

9月 ハルビンからの帰国者5万人が「日本スパイ」の疑いで逮捕され、うち3万人が銃殺される。

11月 山本懸蔵が逮捕される。この他10名ほどの日本人活動家が粛清された。山本逮捕は野坂の密告によるもの。しかし加藤によれば山本も多くの同志を売っていた。

この年世界では、
ローマ法王、ナチスによる教会弾圧とユダヤ人差別を批判(3月)。その一方でスペインのフランコ政権を承認。
4月 ドイツ空軍がゲルニカを無差別爆撃。

盧溝橋事件(7月)第二次上海事変(8月)が開始される。南京虐殺事件の発生(11月)。
イタリアが防共協定に加わる

1938年

第三次モスクワ裁判。「右翼トロツキスト陰謀事件」に関与したブハーリン、ルイコフ、ヤゴーダが死刑の判決を受ける。

12月 モロトフとスターリンがエジョフとNKVDを批判。エジョフは内務人民委員を辞任する。

この年、世界では、
国民政府が重慶に移り徹底抗戦の体制に入る。日本軍が重慶爆撃。
3月 ドイツがオーストリア併合。

4月 日本、国家総動員法公布

9月 ミュンヘン宥和会議。ズデーデンの割譲を承認。
11月 水晶の夜。

1939年

8月 独ソ不可侵条約。

9月 ナチス・ドイツがポーランド侵攻。第二次世界大戦の開始。ついでソ連もポーランド侵攻。カティンの森事件が発生。

この年、世界では、
3月 ドイツがチェコ、リトアニアのメーメルを併合
3月 マドリード陥落。スペイン内戦の終結。
4月 イギリス、徴兵制を施行。
4月 ドイツがポーランドとの不可侵条約破棄を宣言
6月 日本国民の男子の長髪及び女子のパーマが禁止される
7月 ノモンハン事件が発生。

1940年

1月 ソ連がフィンランド各都市を空爆。「冬戦争」と呼ばれる。1ヶ月で終結。

2月 NKVDのエジョフ長官が銃殺される。後任にはベリヤが就任。

6月 ソ連がバルト3国を占領。

40年 トロツキー、亡命先のメキシコで暗殺される。

この年、世界では、
2月 「風と共に去りぬ」がアカデミー賞を受賞。これを見たら日本人は米国と戦争しなかったろう。
4月 ドイツ軍がデンマーク、ノルウエイに侵攻。
5月 ドイツ軍がベネルクス、フランスに侵攻。
5月 チェンバレン内閣が総辞職。チャーチルの挙国一致内閣が成立。
6月 ドイツ軍がパリ入城。
12月 ヒトラー、バルバロッサ作戦(ソ連侵攻)の準備を命令。