「労働者階級の指導性」などもはや死語かと思ったが、「死亡宣告」がくだされたかどうかは、案外定かでない。
今思えば、あの頃の労働者階級の指導性というのはほとんど戯画であった。
党のトップに君臨するのは紛れもなく知識人であった。あの難しいマルクスの理論を曲がりなりにも理解できるのは、相当の素養のある知識人でなくてはならない。だから党がマルクス主義を標榜する限り、それは知識人によって指導されなければならなかったのである。
しかしそれだけでは党は知識人グループの域を出ない。国民大衆と結びつかなくてはならないのである。弾圧厳しき折にあっては自覚的大衆とは労働運動の活動家であった。
それにマルクス自身が労働者を資本主義の墓掘り人として位置づけていたから、それと結びついて「労働者階級の歴史的使命」という言葉が唱えられるようになった。労働者の方も労働争議だけ繰り返していても、世の中は変わらないことに気づいていたから、労働運動と政治闘争の結合には積極的に呼応した。
こうして共産党は知識人と労働者のいわば統一戦線として発展してきた。
こうして党の現場の指導部は労働者が多くを占めるようになった。注意すべきは党が全体として「労働者階級の歴史的使命」という理論を受け入れたのであって、党の様々な活動において労働者出身党員の指導性を受け入れたのではないということだ。
党は国政の革新を目指す以上、国民の党であり、そこで幹部として指導するのは、個人として優れた資質を持つ人物である。人物本位、能力本位でなくてはならない。その限りでは普通の民間の会社や組織と変わるところはない。
ところがあの頃の党はどうもそうではなかったように思える。最初は学生だから信頼されていなかったのかと思った。たしかに、まったく物を考えていなかった学生が4年間の間に赤くなり、卒業して社会に出れば、また関係ない一市民に戻るという状況が横行していた。
しかし、党大会に出ると資格審査委員会が「出席者のうち労働者何%、農民何%、勤労市民何%、…」とやっていく。これは学生を特別扱いしているというより、知識人を動揺分子として見ているのだなということが分かった。
考えて見れば分かることだが、共産党というのは労働者を中核とする地域活動家と知識人の統一戦線なのだ。
それが科学的社会主義という理論を介在させることによって、渾然一体となって運動するところに特色があるのだ。
ところで問題は、これらの、おそらくは軍国主義的発想とスターリン・毛沢東による干渉の影響を受け継いだ「遺風」が、現在は克服されているかどうかという問題だ。
私は基本的には克服されていると思う。
基本的には克服されているという認識は、以下の点に基づいている。
1.スターリン主義、毛沢東主義の拒否、レーニン主義の克服
2.非平和的移行(非議会的移行)の可能性と、武力革命路線の峻別
3.知識人の集団化と労働者概念の拡大・拡散
4.社会的ルールの普遍化
とくに4番目の問題が大きいと思うが、この点についての吟味はこれから行っていかなければならない。
主体的にきちっとした総括のもとに「遺風」が克服されているかというと、いささか心もとないところもある。「もうそんなことが出来るご時世ではなくなった」からやめたということではなく、党の基本的理念から見て、「労働者優位論」が過ちであることを、激しく言えば「許しべからざる過ち」であることを確認していく必要があると思う。
ただし、それらの議論は今国民の間に広がりつつある変革への要求を励ますために行われるべきであり、足を引っ張るために行われるべきではない。これは武谷批判への反批判の際にも強調したことである。