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AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2021年08月

この記事は下記のニューズウィーク記事を要約したものです。正確に知りたい方は本文にあたってください。

藤崎剛人(ブロガー、ドイツ思想史)
ニューズウィーク 8/24


かつてのタリバン政権では、女性の就労・教育をはじめとする様々な権利が抑圧されていた。いくら「伝統」や「信仰」を持ち出したとしても、こうした人権侵害は是認できるものではない。

しかしいまのタリバンは、必ずしも暴力で支配する恐怖勢力とは呼べない。もしそうであれば、数と装備で勝る政府軍をこれほどまでに早く駆逐することはできなかったろう。

多くのアフガニスタン人はターリバーンを支持した。だからこそ物量に勝る政府軍に対して戦闘を継続できたのだ。

1979年のソ連軍侵攻に始まる無秩序は、アフガニスタンの人々にとっての最大の苦悩だった。タリバンはそんなアフガニスタンに、内容はともかく、一つの秩序を与えることに成功した。

しかしその秩序の中には、女性差別や泥棒の手を切り落とすといった反人権的な「因襲」も含まれていた。そのような構造的暴力は、2001年のタリバン放逐後のアフガニスタンでも解消されなかった。

タリバンを原理主義的なテロ集団とみなす視点は、こうした構造的問題を見落としている。

人権や自由、平等、個人の尊重といった、普遍的価値観を苦々しく思う勢力は、どの国にもいる。日本はその典型であって、先進国には珍しい大学進学率の男女格差や、医学部入試などでの差別となって現れている。

こうした差別主義にたいして、アメリカは曲がりなりにも「グローバル」な価値観を植え付けようとしたのだろうか。

そうではない。アフガニスタン侵攻は、民主主義のための戦争ではなく、アル・カイーダへの報復戦争だった。

その戦争で、ニューヨークの死者約3000人の10倍以上が死亡し、その100倍の難民が生まれた。

「女性の解放」はこうした暴力の口実に使われた。

この戦争に大義はない。暴力とともに配給された人権を、その土地に根付かせることは難しい。

医師の中村哲は、2019年に銃撃を受けて亡くなるまで、一貫して軍事力の行使に反対していた。

たとえ理想だとしても、平和と人権の二兎を追う必要があるのだ。



新藤さんからの配信です。とりあえず拡散します。各自判断願います。


宮田律 「アフガニスタン ータリバンの「国民和解政府」


出所は FB 21.08.30
宮田律アルバム「アフガニスタン ータリバンの「国民和解政府」

というところのようです。



明日、米軍がアフガニスタンからの撤退を完了させ、9月1日からタリバンの新政府が成立する。


1996年から2001年まで継続したタリバン政権と違って、アフガニスタンの広範な勢力を集めた政府の樹立を考えているようだ。

そこには旧政権のカルザイ元大統領やアブドラ元外相の政権参加も見込まれるようだ。

タリバン政権はアフガニスタンの国民和解を目指した政府になる印象だ。

新国家では大統領は置かれない。イランのような最高指導者も置かれない。その代わりに12人のメンバーから成る執行評議会が設けられる。

アフガニスタンでは8月23日にタリバンのカブール制圧後に初めてロヤ・ジルガ(国民大会議)が開かれた。

これはアフガニスタンの伝統的な民意を吸収するシステムであり、800人ほどの国内の著名な学者たちを集めて開催された。

内相にはタリバンの軍事司令官であるムッラー・イブラーヒーム・サドルが就任している。

彼は、1980年代はソ連軍と戦っていた聖戦士である。

1994年にタリバンの創立とともに参加し、米英軍の侵攻とともに、地下に潜った。

2016年に軍事司令官となった。宗教的には厳格な見解をもち、かつてはアルカイダとも近い関係にあった。

財務相にはグル・アガー・イスハークザイが就任した。彼はカンダハルでの自爆テロなどに資金を提供したとして国連や米国、EUなどから制裁を受けている。

他方で、2015年頃からアフガニスタン政府との和平交渉に加わったとも言われている。

国防相には、ムッラー・カイユーム・ザーキルが就任した。

彼は2001年にアフガニスタン北部のマザリシャリフで米軍に捕らえられ、2007年までキューバのグアンタナモ基地に収容されていた。

2007年12月にアフガニスタンまで移送され、2008年5月に部族の長老たちの圧力もあって、釈放された。

タリバン以外では「イスラム党」の指導者だったヘクマチアル(1947年生まれ)も政府に参加する可能性が指摘されている。

イスラム党は、急進的なイスラム原理主義に訴える組織で、アフガニスタンにおけるイスラム国家の創設を目指していた。

少数民族からも、冒頭のタジク人のアブドラ元外相、ウズベク人のラシード・ドスタム将軍、ハザラ人・シーア派で、カルザイ政権で第二副大統領を務めたモハンマド・ハリリなどが参加する可能性がある。

少数民族の参加はタリバン政権の安定のために必要で、もしできなければアフガニスタンはまた内戦に陥ることすら考えられる。

ハリーリーはもしハザラ人が守られることがなければ武力で蜂起するとも述べている。


こうやって見ると、やはり女性閣僚がほしいと思うが、タリバン政権中枢をあまりに孤立させれば、政権内の強硬派が影響力を増す可能性もある。

タリバン政権を有効に取り込めば、穏健な傾向が生まれることを日本も含めて国際社会は心得ておいたほうがいいと思う。



ここまでの発言はTamaki Matsuoka さんという方のものらしい。

これについて宮田律さんがコメントしている。


Tamaki Matsuoka さん、有り難うございます。私もタリバンは経済的な安定があれば次第に穏健化すると見ています。その後押しを国際社会はしたほうがいいと思います。

(女性問題に関して)日本も歴史的に見れば、女性の政治・社会参加は最近のことです。欧米も同様だったでしょう。タリバンを排除すれば急進化・過激化してしまうことでしょう。

おそらくバイデン政権はタリバンが「国民和解政府」をつくるという見通しがあったので、軍隊を撤退させたと思います。だとすれば、表現が古いですが「ウルトラC」です。同盟国の日本にはそのような米国の意図が伝わっていなかったと思います。


Prensa Latina (Cuba)
Addis Ababa, Aug 28 

エチオピア ティグレ人民解放戦線と交渉すべきではない


map

学識経験者たちが、政府とティグレ人民解放戦線(TPLF)との交渉を停止するようもとめた。
彼らはTPLFを平和への最大の脅威と考えている。

彼らは国際社会の一部とTPLF支持者の主張する「紛争の平和解決」に反対している。そして政府支持のデモを励ましている。

ジンマ大学の保健・衛生学部長であるS.メコンネンはいう。
TPLFとと交渉する理由はありません。それは道徳的に正しくなく、いかなる観点からも受け入れられません。
そのような選択は私たちの国を不安定にだけです。それは結局のところ屈辱的な交渉でしかありません。
ティグレイまで出向いて、相反する利益について議論しても、それはTPLFが国防軍(FDNE)の北部司令部を攻撃するための準備期間を与えるだけです。
「合意」は不公平です。そのような合意は破棄するべきです。
もしそれが「交渉」という名の下に生き残るならば、それは国を滅ぼすことになるでしょう。
アダマ科学技術大学の化学工学部長A.ゴンファはこういう。
議会によってテロリストと宣言された組織と交渉することは、倫理的にも法的にも賢明ではありません。
彼らがこの国を破壊しようと決意していることを示す証拠があります。交渉の提案は煙幕にすぎません。
TPLFとの議論は検討することさえ不可能です。
彼らは日々、民間人を虐殺しています。テロリストとして、みずからを確認している連中との取引はあり得ません。


続いて行われた日米の専門家会議は、米国による放射能被害の隠匿工作の中軸となった、というのが安倍記者の見解です。

これが連載の後編部分に当たるのだが、枝葉が多すぎてとにかく読みにくい。それなのに幹が見えない。ひょっとすると幹なしの幽霊話かもしれない。一行ごとに論旨がジャンプしていくので、ノートを取るのさえ苦労する。

基本の筋は、多分以下のような流れだ。

1.放射性物質の影響と利用に関する日米会議

1954年11月15日、学術会議との懇談会が開かれた。会議の正式名は「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」である。
日米会議
             左クリックで拡大

米国側の実体は米国原子力委員会で、日本側はおそらく「第五福竜丸事件 善後措置に関する打合会」の流れの延長線上にある行政+専門家組織である。

この会議は非公開で、学術会議の会議室で5日間続けられたようである。この会議の議事録や報告文書は公開されていなかったが、この度他資料に紛れ込んでいたのを「発見」された。

ところでこの記事が「怪しい」のは、「会議関係文書が発見された」と言う割には、その文書がほとんどまったく紹介されていないことである。

わずかに
ビキニ核実験被害は“原爆被害” の一環だと示すものです。
という一行のみが面影を伝えているのと、その中の1ページのみが写真で示されているのみである。率直に言えば、この写真も日米会議の資料かどうかはあやしい。後述する「報告会」の目次である可能性も否定できない。


2.日米会議の報告会

記事が主に依拠している事実は、会議の内容を伝達する「報告会」の案内状に基づくものである。

この報告会というのが、ちょっとややこしい経過になっていて、ここまでの経過とは別に政府が「原爆被害対策に関する調査研究連絡協議会」(以下「協議会」)を立ち上げていた。

これは研究者も混じえた連絡組織だったようで、のちに「死の灰と闘う科学者」となった三宅泰雄も委員に加わっている。

この協議会の委員を対象に、日米会議の内容を支障ない範囲で伝達しようというのが報告会の目的だった。案内状には「(日米会議の)学術上の内容は、なるべく多くの学者に伝えることによって、この会議の意義が生かされる」と書かれていた。


3.報告会の中身

配布された議事日程によると、「人体に対する放射線の最大許容量」、「放射性物質による汚染の除去」、「放射能測定機と測定方法の基準化」など4つの演題に基づいてレクチャーがなされた。

とくに最初の「人体に対する放射線の最大許容量」がメインテーマであった。

演者は米国原子力委員会の医学部生物課長のボール・B・ピアソン。ただし肩書きは「農芸化学博士」だったようだ。

講義内容は、記事を読む限り「最大許容量」についての一般的議論ではなく、「(米原子力委員会の)報告と決定」についての下達であった可能性がある。

ただしあまり深読みをすることは慎まなくてはならない。これはあくまで「議事日程」に書かれた演題名からの類推に過ぎない。

この後の文章は、正直、額面通りに受け入れられない。
この報告会を境に、日本の学者の中に「許容量以下だから危険はない、無害だ」との論調が強まり、漁港での汚染マグロ検査を取りやめる根拠にされていきました。
このままではあまりにも根拠が弱い。

多分、安倍記者に情報提供した人間が居て、それなりに当時の内部事情も体験しているのかも知れない。他のファイルに紛れ込んでいたマル秘文書を発見したのだから興奮するのも分かる。

しかしまずは「会議関係文書」そのものをしっかり読み込んでほしい。これでは「羊頭狗肉」のそしりを免れ得ない。この記事は、それまでの第一報として受け止めておきたい。

ビキニデー以来の日本における核兵器反対運動の盛り上がりは凄まじいものであった。あらゆるものが音を立てて、轟々と鳴り響きながら、津波のように日本を襲い、飲み尽くし、世界に広がっていった。

まず我々はこの平和のうねりを追体験することが必要だ。その中で起きた様々な逆流も、そのうねりの中の逆流として位置づけなければならない。ここを歴史認識の出発点とするべきだと思う。

赤旗 8月26、27日号に2回連載で
「ビキニ事件: 封印された放射線の影響」
が掲載された。安倍活士記者の署名記事である。

多分、公開された厚生省資料の読み解きと解説を目的とした記事である。
率直に言ってすごく読みづらい文章だ。事実がつまりすぎている。前後二編は別の記事として上げるべきであろう。
別に安倍記者を非難しているわけではない。解説や背景説明なしにこの分量に収めるにはあまりにも内容が濃すぎるのだ。すこし小分けにして、核心的事実と周辺的事実を整理して紹介する。

最初はビキニ被災が判明して直後の政府対応。


1954年

3月19日 第五福竜丸、母港焼津に帰着。

ビキニの核実験で発生した死の灰を浴びたことが判明。乗組員から放射線障害が発生したことから、「死の灰」の有害性が明らかになる。従来米国はこの問題を明らかにしていなかった。

3月29日 内閣が秘密会合「第五福竜丸事件 善後措置に関する打合会」を組織。第1回会合が持たれる。
5月22日 第12回会合が開かれる。厚生省環境衛生部長が「近海物の放射能の件」と題して報告。
約1ヶ月前より、九州沖や台湾・フィリピン沖で捕獲した魚11隻分を検査したところ、最高522カウントの汚染が確認された。また100カウント以上のものが0.2% あった。骨、内臓に集積を認めた。

6月8日 第13回会合では、日本国内での雨に含まれる放射能が問題となった。
1.室戸測候所の職員・家族は天水を利用しており、6名に白血球数減少が見られた。
2.鹿児島県の灯台職員のうち7名が頭痛・吐き気を訴えている。
と報告された。
環境衛生部長は「雨水中の放射能について種々苦労している」と発言した。厚生大臣は「国民の不安感を除去する必要がある」と述べた。

6月8日 定期会合。外務省の報告によれば、「米国原子力委員会関係の専門家が2名来日。非公式に日本側専門家と懇談」している。

懇談の席上、さらに数名の米側専門家を加えて、意見交換を行うことになった。会議の開催方法としては、「日本学術会議が “純粋学術的に意見交換” を行うために、米国専門家を招聘する」という体裁を取ることになった。


内閣の「打合会」についての記述はここで終わる。

2021年8月20日
 ラテンアメリカ短報より

アフガニスタンを去る
長い戦争が終わった。国と人々はどうなるだろうか?


20年前、どうだったのか

20年前の2001年、ニューヨークの巨大ビルが突入したジェット機によって崩壊した。米国政府は怒りに打ち震え、アフガニスタンを襲い、政府を崩壊させた。

そのとき、ラテンアメリカ政府のほとんどは、米国がアフガニスタンではじめた戦争に対して、公式の支持を表明しなかった。

ベネズエラのチャベスは猛烈な批判を展開し、「それはより多くの恐怖を伴うテロにつながっていくだろう」と警告した。

キューバのフィデル・カストロは、「米国の敵対者はゲリラ戦を挑むだろう。その戦闘能力は、今後20年間のあいだ紛争を引き伸ばす可能性があるだろう」と述べた。その20年目が今年である。


週末に、アフガニスタン政府が崩壊した。混乱がカブールの空港を飲み込んだ。

チリとメキシコの政府はアフガニスタン難民を受け入れる計画を立てた。いくつかの国はアフガニスタンの女性​​の権利を保護する共同国際声明に署名した。

そのとき、キューバとベネズエラの指導者は、20年前と同じ批判を繰り返した。他の中南米諸国が、アフガニスタンの人道的危機について懸念を表明するだけだったのに…


内政非干渉は原則Non-interference

ラテンアメリカの外交および外交政策の関係者の世界では、アフガニスタンでの悲惨な出来事は、他国の内政に対する非干渉の原則の重要性を改めて確認させるものとなった。

非干渉はラテンアメリカ諸国の外交政策にとって共通の信条である。それは冷戦期間にワシントンがラテンアメリカの右翼独裁政権や軍事クーデターを支持したとき強固な信念となった。

ポスト冷戦時代となってからは、多くのラテンアメリカ諸国は、「非同盟主義=主要な大国とは同盟を組まない」という立場(nonalignment with any major power bloc)を維持することを目指してきた。

これまで非同盟を提唱してきたインドやエジプトなどが方針を変えたとしても、この点でラテンアメリカ諸国が揺らぐことはなかった。

コロンビアの政治学者サンドラ・グズマンは「エルティエンポ」に書いている。

アフガニスタンでの米国のプレゼンスの拡大は、これまでと同じ過ちだ。彼らは相変わらず「軍事力の脅迫や、実際の使用を通じて民主主義国家を構築しようとしている。

ブラジルのヴァルガス財団所属の政治学者ギリェルメ・カサローニェスは本誌に語った。

米国は、民主主義や人権などの価値観を擁護することによって、武力占領を正当化してきた。しかしそれでも、アフガニスタンを長期に占領することに大義はないし、支持者を見つけることは困難だ。

多くのラテンアメリカ人は、もし人権尊重に取り組むなら、軍事的介入以外の方法が使用されるべきであると強調している。

それらの方法によってシステムの転換と進歩を遂げることが、いかに難しいか、を認めたとしてもだ。


#アフガニスタン 自己決定1、人権0」

カブールが陥落した後、ウルグアイの政治学者アンドレ・マラマッドはこうツイートした。

わかりにくいので、訳者の解釈を付け加えておく。

これは二進法だ。二進法で割り切れば、まずは「国民が自国の運命を自ら決める」ことが究極の権利であり1であること、人権は自決権がなければ絵に描いた餅に過ぎない、すなわち0に等しいということだ。これが現実の、厳然たる、帰納的な結論だ。

自決権は空気や水と同じように大切なものだが、空気や水のように黙っていて与えられるものではない。ホーチミンも「独立ほど尊いものはない」と言っている。

だから決して他国に干渉してはならないこと(批判とは違う。タリバンはしっかりと批判されるべきだ)、
ある国が別のある国に干渉するのを見て見ぬ振りしたり、付和雷同したり、手助けをしたりしてはならないこと、
大国や「先進国」の傘のもとに入らないこと(東洋では「渇しても盗泉の水は飲まず」という)、
などを国際社会は改めて学ばなければならない。


以下略

https://www.youtube.com/watch?v=Bl69UChizeY&t=4s
ご観覧のおすすめ

新藤通弘さん(ラテンアメリカ研究者)からこの動画のご紹介がありました。

You Tubeに載せられた動画で、
投稿者は “EmbaCubaJapon” つまりキューバ大使館です。

現物(リンク先)に行っていただければよいのですが、動画に付けられたコメントをご紹介します。
1986年のチェルノブイリ原発事故で深刻な身体的・精神的被害を受けた、ロシアやベラルーシ、ウクライナ出身の子どもたち26,000人以上が20年余りにわたって、キューバで無償の治療を受けた。この物語の主人公サーシャはそのひとりである。
本作は、キューバ革命の指導者フィデル・カストロが立ち上げた人道特別プログラムへのアプローチである。医師とスタッフの証言に加え、2019年ウクライナに帰国したサーシャの近しい人々との再会、生き延びようと苦闘した子どもたちの証言、母親たちの感謝の思い、原発事故後に味わった苦しみ、そしてキューバが与えた希望を取り上げた。キューバの人々は違う言葉を話し、経済困難に直面しながらも連帯的な行動で命を救い、幾千人もの子供たちの病気を治した。
チェルノプイリ2

チェルノプイリ3
チェルノプイリ4

Tom Lodge


The Conversation
August 6, 2021

The Conversation is a unique collaboration between academics and journalists that in just 10 years has become the world’s leading publisher of research-based news and analysis.

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この文章は、創立100周年を迎えた南アフリカ共産党が、なぜ闘う民衆の中で高い尊敬を払われてきたか、なぜいまも南アの政治の中で強い影響力を保持しているのかを、強固な労働闘争の伝統と一貫した非差別という二面から簡潔に解説しています。
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共産主義者は南アフリカの歴史をどのように形作ったか
党創立100周年を振り返る。

はじめに

最近まで、100歳まで生きることは、それ自体が祝う価値のあるものだった。イギリスでは、新しい百歳以上の人が女王から特別なカードを受け取ります。

同じ生誕100年を迎える共産党が南アフリカで維持されています。
その30万人ほどのメンバーは、シリル・ラマポーザ大統領から100周年を祝福するメッセージをもらえるかも知れません。

でも、彼らは党の長い寿命よりも祝うべきことがたくさんあります。
南アフリカ共産党は、109年の歴史を持つアフリカ民族会議(ANC)に次ぐ、アフリカで2番目に古い政党です。

しかし、共産党という政党としての厳しい生存条件下では、生存し続けたこと自体が成果です。南アフリカの共産主義者は、ライバルや敵よりも長生きしただけではありません。その歴史を見るなら、彼らは南アフリカの歴史を形作ったと胸を張って主張できるだけの成果を持ち合わせているといえます、

その成果は、私の著書「Red Road to Freedom:A History of the South African Communist Party 1921-2021」で概説したとおりです。
Mandela & Slovo
        ネルソン・マンデラとジョー・スロボ


南ア共産党の形成

最初に、彼らは南アフリカの人種的および社会的分裂を克服する政治的連帯活動を開始しました。

それは1921年に党を結成したときからのことで、黒人の南アフリカ人に入党を呼びかけ始めました。

10年後、数千人の黒人が仲間を率いて党に加わりました。それはほとんどの社会生活が、法律だけではななく、慣習によっても人種隔離されていた時代でした。

1948年以降、第二次大戦が終わった後、政府の強制するアパルトヘイトは、異人種間の接触をさらに制限するようになりました。

しかし、そのような閉じ込めはそれ以前はかなり広範でした。

「人種を超えた政治を」という党のコミットメントは、時々多少の揺らぎはありましたが、黒い南ア人人と白い南ア人が政治的目標を共有し、一緒に運動に取り組むことができるという具体的証拠を提供し続けました。

第二次大戦前、1930年代の初頭、白人共産主義者は有罪判決を受け、扇動罪で懲役刑を言い渡されました。なぜなら、共産党が世界大恐慌に立ち向かうために、黒人活動家にも決起を訴えたたためです。

今日南アフリカでは、共産主義者は社会的信頼関係の接合部分を広範囲にわたって占めています。国の政治が非差別的になったぶんだけ、彼らの活躍の分野も広がっています。

第二に、現代の南アフリカには、発展途上国で最も強力な労働運動の1つがあり、それは依然として政府の政策を形作っています。

その歴史的な意味合いは複雑です。職人組合や無政府主義者の運動もあり、共産主義者だけが労働運動の先駆者ではありませんでした。

しかし、1930年代と1940年代には、リトアニア移民のレイ・アレクサンダーのような人々が産業別労働組合を組織しました。それは労働運動の永続的な基盤を構成することになりました。今日の最も強力な労働組合のいくつかは、その系図の始まりを彼女の努力にまでさかのぼることができます。

ポートエリザベス市などの1940年代の共産主義者は大きな成果を上げました。ドライクリーニング労働者のレイモンド・ムラバは、ストライキ運動を孤立させないようにコミュニティで支援するための戦術を作り上げました。それは住民の企業への抗議から始まり、地域全体の闘いにしていく「同盟戦略」を練り上げました。


共産党の社会共同体における影響力

こうした労働運動の指導者と地域活動家の間のこの連合は、これから50年のちまで続くことになりました。そして1994年にアパルトヘイトを終わらせ、国家解放を可能にするのを助けました。

地方レベルでは、1940年代には労働組合員はしばしばコミュニティのリーダーでもあり、共産党に所属していました。

SACP 65
  SACP 65周年ポスター

彼らが最も忙しかった場所、たとえば東ケープ州のポートエリザベス郊外のニューブライトン、イーストランドに沿って分散しているタウンシップ(黒人住宅地)、またはケープタウンのランガでは、共同体指導者と組合活動家の共産主義者は、1950年代の党の非合法時代も組織化と動員を続けました。

ANCは1950年代に最も地方への定着を強め、体系的な存在感を示したのは偶然ではありませんでした。
なぜなら、1950年代のアパルトヘイトに対する「抵抗の10年」の大規模な行動は党のネットワークで培養されたからです。1940年代に共産主義者が最もよく組織された場所に、ANCは大きく根を張ったのです。

党はその他にも解放運動の発展に大きな功績を残しました。アパルトヘイトを押し付ける少数派の支配に対し、ANCが武力闘争を展開した時期があります。

この武力闘争を呼び水にして、1980年代に多くの種類の政治的行動が刺激され発展したのです。それはその時期において、確かに重要であり決定的だったのです。

その時、共産主義者は武力作戦の主要参謀メンバーのほとんどを率い、多くの前線部隊司令官を担いました。その後、夜間学校やその他の訓練施設を通じて、党は南アフリカの政治的指導者の歴代の幹部を育て上げました。

今日のANCは、組織内部での会話において、40年前にアンゴランの合宿で党のコミッサールが採用した専門用語と表現を今でも使用しています。それは何よりも、教育者としての永続的な影響力の証です。

例えばANCが構築しようとしている社会秩序を説明するため、「民族民主主義」の概念がよく使用されますが、この言葉は第二次世界大戦後に東ヨーロッパで発展した資本主義と社会主義の間の移行段階の概念に由来しています。


政治規範の転換における党の先駆的な役割の最後の例:

他のどの南アフリカの政治運動よりも早く、共産党は女性をリーダーシップに導きました。

党が創立100周年に当たり思い出すべき先駆者には、多くの女性が含まれます。
レベッカ・バンティング、ジョシー・ムパマ、モリー・ウォルトン、ドラ・タマナ、ベティ・デュ・トワ、ルース・ファーストたちです。


今日の南ア共産党

今日の南アは三頭立ての馬車に例えられます。統一戦線政党『アフリカ民族会議』(ANC)、南ア共産党、そして南アフリカ労働組合連合(コサツ)です。

共産主義者は、30年近くANC政府で重要な地位を占めてきました。

たとえば、シリル・ラマポーザの最初の内閣で共産党員は、貿易産業や高等教育を含む多くの大臣のポートフォリオに任命されました。他にも大統領職自体や財務省など、他の重要な役職を歴任してきました。党には数十万人のメンバーシップを数えることができます。

彼らはまだ歴史を形作っています。南アフリカの共産主義者は、政府への参加が本当の違いを生むと主張しています。公的雇用プログラムへの取り組みを強化し、工業の再活性化を促し、より良い貿易政策、そして学生への財政援助の増加を進めようとしています。

しかし彼らは、彼らの努力の多くが政治的腐敗と官僚的な非効率性によって帳消しにされていることも認めています。そして、政府の「新自由主義」マクロ経済政策を大幅に変更させることにも失敗したことを認めています。

共産党は、より市場規制を強化し、地元産業への支援と保護を手厚くすること望んでいます。  彼らは、公共サービスから民間企業への「委託」が拡大するのを嫌っています。

彼らは、公職が支援で左右されることを嫌い、それを制限する役割を果たそうと努力しています。当初、彼らはジェイコブ・ズマが大統領に就任しようとした時、彼を批評家から守ろうとした。

2007年ANC総会ではズマがANCの大統領候補になるのを手助けし、その後の大統領選での勝利にも貢献しました。


南ア共産党の未来

SACP

これからも共産主義者は、ANC内およびより広い政治的領域で強力なグループを構成すると思います。

しかし、彼らの支持は本当に重要かどうかはわかりません。党は独自候補者を立てているわけではないし、その支持者は選挙区を支配するものではありません。

ANC独自の内部投票においても共産党の動向は必ずしも支配的なものではありません。また、国や地方自治体の世論調査でも強力な影響力を発揮しているわけではありません。

党の最大の獲得すべき社会集団は、成長を続ける若い失業者です。党の現在の戦略的目的は「社会主義の能力を構築すること」である。

これには、地元産業の促進と公共サービスの提供の強化が含まれます。

このコースをたどることは、その課題の点では、過去に直面したものと同じくらい手ごわいものとなるでしょう。世界市場では、衰退している産業を、一般的に再建することは非常に困難です。特に労働者が権利を持っており、その結果、比較的高給である国では余計そうです。

南アフリカの初期の工業化は、黒人に対する強制労働体制の下で起こりました。そのときから、だんだんと熟練した産業労働力を構築するようになりました。

その間、間違いなく南アフリカの発展と、民衆の闘いの歴史は党とともにありました。

しかし今日、産業雇用は停滞または減少しています。このような状況下では、統一された政治基盤を構築することは非常に困難です。

現代の状況下では、希望と連帯が古い確実性に取って代わる必要があるでしょう。





雑誌「解放」について


『解放』(大正期の綜合雑誌)目次(一) : 大正八年六月創刊号より同一〇年三月号までの分
著者 本間 洋子
雑誌名 日本文學誌要 巻 1 ページ 44-61
発行年 1957-12-01

およびウィキペディアなどから編集した。



1919年(大正8)5月 大鐙閣(だいとうかく)から創刊された。この時代、第一次世界大戦直後のデモクラシー思潮が風靡した。この中で革新的傾向な傾向を示したのが、黎明会=東大新人会、マルクス主義者、無政府主義者の潮流であった。

『解放』は黎明会の機関誌的役割を持った総合雑誌として発行された。黎明会は吉野作造・福田徳三・大山郁夫らを中心とする社会科学研究者の集団として位置づけられている。創刊号の発行部数は3万部に達した。

実際の編集には黎明会と近い新人会の赤松克麿・佐野学・宮崎龍介らが参加したとされる。新人会は東大学生を中心とした左翼サークルでロシア革命の1年後に結成された。

ウィキペディア(麻生久の項目)によると、『解放』文化集団のオーガナイザーは麻生久だったらしい。
吉野作造らを担いで大正デモクラシーの啓蒙組織である「黎明会」を創設し、新渡戸稲造・大山郁夫・小泉信三・与謝野晶子ら錚々たる知識人・文化人を参加させた。また東大新人会にも先輩グループとして参加している。
『改造』や『中央公論』など既存の総合雑誌とは一線を画し、労働問題、社会問題での実践が重視され、社会主義的傾向が強かった。

『解放』は創刊号巻頭に無署名の「解放宣言」を掲載。「宣言」は軍国主義や専制主義など各種の圧迫から全人類の諸階層を解放することを創刊目的に掲げた。


創刊後の経過 第一次『解放』時代

黎明会、新人会の会員が執筆したほか、荒畑寒村、堺利彦、山川均、山川菊栄などの社会主義者も毎号のように登場した。さらに無政府主義の石川三四郎も加わった。

総合雑誌として、文芸や創作欄も取り上げられ、初期プロレタリア文学系の創作・評論が主流となった。主な書き手として、小川未明、宇野浩二、宮地嘉六らが活躍した。一時は『中央公論』・『改造』と総合雑誌のシェアを競うにいたった

1920年(大正9年)6月 赤松ら第一次新人会メンバーは左派労働運動に関わるようになる。この号から麻生久、山名義鶴らが結成した解放社によって編集部が担われることになった。赤松は第一次共産党に加入し中央委員に就任するが、検挙され獄中転向

1923年(大正11)9月 関東大震災が発生。出版元の大鐙閣が全焼して事実上倒産。このために、直前に出された1923年9月号をもって実質上の廃刊となった。ここまでの3年半を第一次『解放』という。

このあと、本間洋子の論文には「1924年(大正13年)5月 半年の休刊の後、『解放』誌が再刊された」とあるが、これはどうも怪しい。。

ウィキに詳しい経過が載せられているが、正直のところ大鐙閣が潰れたあと、誌名を勝手に僭称している感もある。

1925年10月 山崎今朝弥という『社会主義研究』の編集者が、総合雑誌化する形で誌名を変更し「解放」を名乗ったもののようである。一応、編集同人をかき集め、石川三四郎・新居格・小川未明・赤松克麿・麻生久ら13名を同人としている。

この第二次『解放」の実態は不明な点が多く、執筆陣も大幅に入れ替わり、谷口善太郎・水谷長三郎・片山哲・三輪寿壮・高津正道・阪本勝・河野密らが新たに迎えられた。

とくに文芸欄で急進化の傾向が著明で、葉山嘉樹・林房雄・村山知義・平林たい子・山内房吉・青野季吉が活躍し、プロレタリア文学の一大拠点となった。

一方で既存の大家がほぼ姿を消したことから人気はガタ落ちし、発行継続が困難となっていった。後半には定期刊行誌の体裁をなしていなかったようである。

山崎は1927年4月号をもって従来を形態での慣行継続を断念し、同人誌に代えたという。

最終的には32~33年(昭和7~8)ごろに廃刊となったようだが、正確な時期は不明のままとなっている。逆に言えばよくそこまで持ったものだと感心する。


本間洋子氏が調べた初期の『解放』誌の目次が閲覧できる。


これを見ると、吉野作造はお飾り的存在で、主調をなしているのは福田徳三であることが伺える。

これが第3号になると福田が消え佐野学や森戸辰男、高畠素之が巻頭論文の執筆に当たる
ようになる。

1920年(大正9年)9月 創刊号以来音信がなかった福田徳三が三号にわたり巻頭論文『マルキシズムとしてのボルシェビズムを連載している。福田徳三がロシア革命をいかに評価していたかはとても興味あるところである。

1921年 その後山川夫妻や堺利彦、荒畑寒村らの古い社会主義者がが紙面の主要部分を固める。

何か衝き動かされるように北海道を旅している。
旅するといっても、ひたすら車を運転して一人さまようのだ。
そんな旅の途中で、たとえば北見紋別の小料理屋で、唐牛健太郎が漁船に乗り組んでいた頃に、行きつけだった時の写真、そのあと浜美枝がお忍びで来たときの手紙などを見せてもらった。
今日のお披露目は、丸瀬布町の博物館で見つけた「前衛」。

前衛復刊8号

なんでこんなものが麗々しく飾ってあるのか、さっぱりわからない。北海道人ですら丸瀬布というのがどんな街なのか知らない。そもそもそんな街があること自体知らない。北海道に勢いがある時分は丸瀬布町だったが、いまでは遠軽町の字でしかない。
そんな山間の寒村に1946年7月1日に、たしかに「前衛」の読者がいたのだ。しかも学校の先生とかのよそ者ではなく、博物館に蔵書を寄付してガラス張りの展示場に飾らせるほどの有力者の読者がいたのだ。

どうだい、すごいだろう。第1巻8号と書いてあるが、ただの第一巻ではない「復刊第一巻」なのだ。
この号では共産党の憲法草案が発表されているらしい。

平澤三郎という名前は聞いたことがない。誰かのペンネームだろうか。

まぁとにかくこんなところで「前衛」に出会うとはなんともおかしな話だ。北海道という土地柄が独特なものだることを示しているようだ。内地の田舎では、よもやこんなことはあるまい。

そしてその横にはこんな雑誌も展示されていた。


大正8年解放

見当もつかない雑誌だが、多分28年後に前衛を買ったのと同一人物だろう。丸瀬布にそんな物好きが何人も居るわけはない。
その28年間が日本にとってどういう時代だったかを考えるとき、ほど遠からぬ網走に12年にわたって宮本顕治が閉じ込められていたという時代を思いやる時、なにかジーンとまぶたに滲みてしまう。


daijiworld.com

Aug 08 2021


Maj Gen SB Asthana 
この記事は、ムンバイの国際情報紙「daijiworld」から拾ったものです。著者はインド国軍の少将で、進歩的傾向はまったく無く、もっぱらパワー・オブ・バランスの面から評価しています。
インドにとって最大のライバルであるパキスタンの動向に、もっぱら関心が向いていることが分かります。ただ欧米の報道からは見えない側面に光が当てられていて勉強になります。Pakは正式の呼称でないかも知れませんが、一応そのまま掲載します。
端的にいえば、未来も過去と同様に暗いものだと言えますが、外国の支配が消滅した点では一歩前進なのかも知れません。
国連の使節は安保理に、アフガニスタン戦争が破壊的な段階に入ったと報告した。

米国は、アフガニスタンでの軍事任務の終了にあたり「対テロ戦争の任務完了」と宣言した。それは恥ずかしい言い訳であ。

タリバンは日々領土を獲得し、占領地に恐ろしい弾圧を課している。それは世界的なテロの復活が始まったことを意味する。

他の地域の利害関係者は懸念しているが、無力に見守っているだけだ。

将来の可能性を推測するには、アフガニスタンに直接関与している3つの勢力の戦略を批判的に分析する必要がある。

なぜ米国はアフガニスタンで敗れたのか

米国は、オサマ・ビンラーディンとアルカイダを保護したタリバン政権を駆逐すことを目的としていた。彼らの軍事的目的は、アフガニスタンのテログループが再び本土を襲う事のないよう弱体化させることだった。

アフガニスタンの平和と開発は、彼らの主な目的ではなかった。

パキスタンとの関係

パキスタンはタリバンや他のテログループへの支援を行っていた。周知のごとく、タリバンの生みの親はパキスタン軍である。

米異国はそれを十分に知っていたにもかかわらず、パキスタンの「二股膏薬」を黙認した。兵站チェーン、諜報活動の拠点をパキスタンに依存しなければならなかったからである。

戦闘の経過

米国は戦争の原則に従ってタリバン体制を撤廃し、民主的に選出された政府を復活させ、ビンラディンとアルカイダを排除した。

しかしその後、軍事力だけではワッハーブ派のイデオロギーを排除できないことを認識せざるを得なくなった。

宗教的原理主義の問題に対して、軍事的解決策だけで解決を図るのは戦略的な間違いだった。

多国籍軍(MNF)は、都市部に依拠し、技術と空軍力によってタリバンと戦っていたが、それは逆効果だった。

地方で空爆の巻き添え被害が1つ起きれば、無実の人々の殺害は、多くのテロリストの誕生につながる。そして原理主義者の思想を強化することになる。

戦闘の倦怠感と本国への政治的配慮が、MNFの撤退への欲求を駆り立てた。

こうしてタリバンとの米国の偽の和平交渉が持たれたが、それは米国の侵した第二の誤りであった。それはタリバンをテロリストの地位から解放し、政治的実体として正当化した。


最大の受益者は、パキスタン軍

米国は一貫して、テロリストに対するパキスタン軍の支援を過小評価してきた。このため、パキスタン軍はアメリカによる金銭的援助と軍事支援の主要な受益者となってきた。

パキスタンの功績は、最終的に米国とMNFが敗北するのを助けたということである。

にもかかわらず、米国はパキスタンに依存し続けており、パキスタンが再び必要になるかもしれないと期待している。

なぜなら米国はこの地域において、パキスタン以外の一切の影響力を失ったからである。

20年間の戦争の後、米国は2,400人の兵士、3兆ドル以上を失い、戦略的空間、パキスタンの基地を失い、アフガニスタン-パキスタン地域から一切の軍事的影響力を失ったことになる。

それは60年代のベトナム戦争にも匹敵する軍事的惨敗である。


タリバンの再建戦略

タリバンは、MNFとの戦争に敗れた後、いくつかの教訓を学び、農村部で生き残った。

その間、パキスタンの全面的な支援を受けた。

MNFが疲れ始めたとき、タリバンは地方で戦線を拡大し始めた。安全な聖域には指導者の何人かを迎えた。

タリバーンは、米軍の戦闘づかれとその政治的影響に巻き込まれ、米国政府に話し合いを促し、不可欠なアクターとしての正当性を確立した。パキスタンの調停はタリバンに有利なものだった。

交渉の席で、タリバンは5000人の「捕虜」の釈放要求を出した。米国はアフガン政府に圧力をかけ、これを認めさせた。タリバンの戦力は一気に強化された。


戦闘のイニシアチブがタリバンに

米軍は、荒れた地形や歩兵が支配する作戦を避けて基地からの作戦に絞った。空爆とドローン攻撃は、タリバンの影響力の増大を防ぐには不十分であった。

タリバンは米国との停戦協定を進行させる一方、農村地域の占領を強化した。

彼らは至る場所の国境地帯に進出し、アフガニスタン国防治安部隊(ANDSF)を孤立させた。タリバンの戦略的勢いは改善され、戦闘のイニシアチブを握るようになった。

パキスタン軍は軍事教員を動員してタリバンを指導し、10,000人以上のテロリスト(IS・アルカイダ)にパキスタン国内を経由・迂回させ、タリバンのもとに送り込んだ。


タリバンの戦略的目標

タリバンの現在の戦略的目標は、選挙を戦うことなく、彼らの条件で権力構造に入ることである。そのために最大の領土を獲得した後、交渉のテーブルに最大の圧力をかけようとしている。

彼らは、過去20年間に民主主義に慣れてきた大衆の支持がないことを認識している。

したがって、タリバンは、彼らに有利な政治的解決のための最良の選択肢として、話し合いと攻撃を同時並行で行うことで政権獲得の道を開こうとしている。

タリバンは中国指導部との交渉にも成功し、ウイグルの独立運動を支持しないという約束と引き換えに、承認を得ようとしている。

「人々の願望を満たす」という穏健派のポーズは、すでに反故にされつつある。占領地の男性は髭剃りと喫煙の自由を失い、女性は自由を失う。

タリバン占領地では、タリバンの戦闘員と結婚させるために、15歳から45歳までの独身の女の子のリストが作られている。


アフガン「政府」のこれから

ガニ政権と政府軍は、軍事戦略では勝つことはできないが、敗北を遅らせることができる可能性はある。武器、戦略物資の量ではタリバンを圧倒している。

彼らがファイティングポーズを取って、地上戦に真剣に取り組むなら、空軍力の効果的な使用、および健全な戦略によって士気の低下を改善し、タリバンに対する流れを変える可能性も消えていない。


これからのパキスタンの役割とタリバンとの関係

タリバンと手を組み、ガニ政権を崩壊させ、この戦略的地域で中国と軍事的関係を構築するというパキスタンの戦略は、これまでのところ順調に進んでいる。

ソ連と米国が敗北し撤退した後、残された最後の大国となった中国は第三の失敗者となることを恐れている。

そのためこれまで以上にパキスタンを前面に立て、その後方から影響力を拡大しようとするだろう。

このため、タリバンに対するパキスタンの影響はさらに強化されるかも知れない。

しかし権力をにぎったタリバンは、強硬路線を取り、将来も同様のスタンスをとる可能性が高い。

数え切れないほどの難民の流出と、より過激なテログループが出る危険もあり、これらは懸念事項でである。

タリバンの力が成長するにつれて、パキスタンを攻撃するようになる可能性もある。パキスタンの二股外交のために、これまで何度も煮え湯を飲まされてきたからだ。

foobar がついにASIOを排除。

知らなかった。毎日foobarを聞かない日はないと言うのに。

今日、久しぶりにアップデートしようと思ったら、とんでもないことになっていた。

ASIOがない!

Fostex AP8 というAVコンバーターはASIOを指名しているが、それはもうfoobarにはないのだ。

もともとfoobarはASIOが嫌いだ。使えるのだが、それはfoobarが商売熱心だからと言うだけであって、本心は「ASIOなんて」と思っていた。

WASAPIが出てきた時、それは良く言えばモニターサウンドだった。必要な音はしっかり出ているのだが、それ以上の「音作り」はしなかった。

じつは私はそれが好きで、foobarの哲学は嫌いではなかった。

中音部のサラサラ感と、混ざり合わないテクスチュアは、クラシックで弦楽の中音が大好きな人間には一番の聞き所だ。

モーツァルトのジュピターや、メンデルスゾーンのイタリアの第4楽章のフーガを何よりも愛する人間には、WASAPIがいかにもふさわしい。

とは言うものの、WASAPIの痩せた低音と干からびた高音は、音場に浸りたいときには寂しいものだった。

それがある日突然、美しくなった。下半身にふくよかな肉付きがうまれ、高音にも倍音が重なり、なまめかしくなったのだ。

それはfoobarが控えめなオーバーサンプリングをかけることで、WASAPIを見事にみずからの音として取り込んだ瞬間だった。

それからは、私にはもうWASAPIで十分だったのだが、ポップス系の人には、まだASIOの厚化粧が捨て去り難かったようだ。

それから1年から2年毎に、foobarのWASAPIは目に見えて美しくなって来た。それにつられるようにコンバータも良くなって行った。

その辺で私の音楽遍歴も長い休止期に入っていた。

そして今回、あっと驚いた次第である。

驚きの中身は2つある。

まず何よりもASIOが完全に選択肢から排除されたということだ。

おそらくポピュラー畑を中心にまだASIO派は根強く存在するはずだ。その人たちに「お前らバカか、いつまでキャンデーしゃぶってるんだ」と罵声を浴びせたのだから相当の衝撃だろう。

もう一つは、自分で作った選択肢だろうが、eventとpushをやめちまったことだ。たしかにこれは意味のない選択だった。両方ともexclusiveということで全然問題ないのだが、人騒がせであったことは間違いない。

合わせてadvanced の選択も全部捨てちまって「そんなことはどうでもいいことだ」と決めつけた。ああだこうだと議論した人はいい面の皮だ。

でも、こういうことはいろいろ好みの問題で議論したことが、技術的になもう決まりだということで、片付いたということなので、我々としても長年の便秘が片付いたようなスッキリした気分だ。

それはある意味で、foobarの勝利宣言なのかしれない。豊臣秀吉の天下統一宣言にも、それは似ている。

それにしても、オーバーサンプリングの腕もふくめて、実にいい音に仕上がったものだ。

それでも伊勢丹、行きますか?

このあいだ日経新聞の記事()を紹介したばかりだが、息継ぐまもなく続編が登場した。
こちらは「Diamond Online」で、週刊誌系だから遠慮会釈はない。

8月13日付で見出しは
伊勢丹新宿店でもコロナ感染者続出
新たな「感染防止ルール」に外部社員反発

編集部の山本記者の署名記事だ。


コロナ感染と階級差別

まず新たな「感染防止ルール」の出された背景が説明される。

伊勢丹新宿店では約1万1500人が働いている。このうち三越伊勢丹HDの自社雇用従業員は約2000人で、残る約9500人(83%)は取引先の外部社員だ。

従業員の感染者も外部社員が中心だ。7月29日から8月4日までの7日間の感染者数は70人。このうち自社雇用の従業員は1人で、外部社員の感染者数が69人とほとんどを占めている。

外部社員は接客業務に従事するケースが多いため、もともと感染リスクが高い。これに加え、外部社員のコロナのワクチン接種が進んでいないという要因もある(勧めていないのだから当たり前だ)

と、ここまでは日経新聞と同じ。


驚くべき「内部資料」を入手

しかし、日経新聞は記事の裏取りに、担当者の談話をとっただけだったが、山本記者は現場取材に取り組んだ。

その結果、驚くべき内部資料を手に入れたというのが、記事の売りだ。

それは三越伊勢丹HDが取引先の従業員に示したもので、「感染防止に向けた11のルール」なるものが記されている。

記者は「関係者の言葉」を借りて、「取引先従業員に対しての事実上のPCR検査“阻止令”だ」と断罪する。

本当にそのような「断罪」に値するものだろうか。中身を見てみよう。

…………………………………………………………………………………………………………

伊勢丹新宿店の “ルール”

とくに関係者が問題としたのが次の行だ。
① テナントが従業員の検査を実施する場合には、「必ず検査受検計画を事前にお知らせください」
② PCR検査を個人的に受ける場合には、「結果判明の2日前から休んでください」
わかりにくい指示だが、これを忠実に実行すると、結果的には、「検査で陽性者が出ても伊勢丹の濃厚接触者は常にゼロになってしまう」のだそうだ。

なぜなら濃厚接触者の対象は発症2日前までの接触者だからだ。

直接の効果はそういうことだが、間接的には「必ず事前申請」をすることが求められるから、強力な検査抑制になる。

事実、スタッフに伝達して以降、「検査を受けたい」という声は出ていないそうだ。悪知恵と言うより、悪魔の知恵と言うべきだ。


担当者の言い分

以下が伊勢丹担当者の記者への回答である。

「当社は“取引先が雇用する従業員”のPCR検査について事前報告を指示しているわけではなく、お願いをしているだけだ。それは(検査の禁止ではなく)陽性が判明した場合の対応を準備するためだ」

実に巧妙な言い回しだが、結局は感染隠し対策だ。それ以上にこの担当者の外部社員への白々しさが際立つ発言だ。

こういうやり方なら、“書類上” ではクラスターが見えなくなり、保健所からチェックも受けず、営業停止に追い込まれずに済む。

だがこれは感染隠し対策であって感染対策ではない、むしろ感染促進策なので、ほとんど人道犯罪だ。

記事には医療関係者のコメントが掲載されている。
本来なら、「だらだらと感染者を出し続けて」いる伊勢丹は、全従業員に対して一斉検査を行い、全員分の検査結果が出るまで、一時休業とすべきだ。
しかし、だらだらと感染者を出し続けても、担当者にはその自覚がないらしい。(それにしてもこの担当者ってどんな顔しているのだろう)
カネは出さない、責任は現場にかぶせる、本社には傷をつけない、下請けなんぞ知ったこっちゃない。客が感染しようと「我々が社」の責任じゃない。
これでうまく行けばよいが、そうは問屋が卸さない。案の定、外部社員からクラスターが発生した。メディアに漏れた。「誰の責任だ」と上層部から怒声が聞こえてくる。そこで今度はクラスター隠しに奔走する。それもまた皺寄せはテナントと外部社員だ。一番きつい冗談は、それでも自分は頬っかぶりしようとしていることだ。

佐川財務局長並みだ。

ということで、いささか羊頭狗肉に属する記事ではあるが、日経記事と読み合わせると面白い。

読書ノート
危機の中のミャンマー
機能しない仲裁外交から標的制裁へ
根本敬 (上智大学)


この文章は、雑誌「世界」に掲載された根本先生の論文の学習ノートである。クレームがあれば直ちに取り下げます。

状況の概要

非武装の市民に対し機関銃やロケット砲まで使用する弾圧は、ミャンマー国軍のイメージを決定的に悪化させた。

6月20日現在、870人以上の市民の命が奪われ、逮捕者も6000人を超えている。拷問による死亡報告も20件を超える。教員と公務員15万人が馘首された。

私服調査員と自警団が住民監視を強化し、家宅捜索を名目にした略奪を行なっている。

山岳高原地帯では戦闘がいっそう激化し、住民の一部は難民となってタイ側に出ている。

一方、国民民主連盟(NLD)が中心となり、国民統一政府(NUG)が4月16日に結成された。

NUGは「フェデラル民主制」の憲法構想にくわえ、国軍の解体、新しい連邦軍と国民防衛隊の結成の構想を提示している。

国際社会による仲裁は全く機能していない。

現状を改善する方法としては、国際社会ができるかぎり一致して、「標的制裁」およびNUGとの関係を強化することが大切である。


選挙敗北からクーデターへ

今年2月1日、国軍はウィンミン大統領を拘束し、ミンスエ第一副大統領(国軍出身)に大統領権限を委譲した。ミンスエは非常事態を宣言した。

これに基づきミンアウン・フライン国軍総司令官(以下フライン)が全権を握った。前後してアウンサンスーチー国家顧問(以下スーチー)も拘束された。

2020年2月の総事挙ではNLDが2015年に次いで2度目の勝利をおさめた。国軍はNLD支持が低下し、総選挙では過半数を割ると予想した。しかし蓋を開けると、前回以上の大敗であった。

海外からの選挙監視団は総選挙が公正に行なわれたとし、事挙管理委員会は国軍からの不正調査要求を却下した。

クーデターの目的は明確である。スーチーとNLDを政界か
ら排除し、総選挙を実施。国軍系政党(USDP)が支配する議会を作ることである。


これまでの改革の動き

現憲法は軍が作成し押し付けたものである。スーチーは絶対大統領に就任できない。条文はそのように仕組まれている。

憲法改正には上下両院の75%を越える議員の賛成が必要なため、25%を軍人議員が押さえている議会での改憲は実質不可能である。

*NLDは憲法の隙をついて、国家顧問という「国家元首の大統領より上に立つ」役職の設置を議会で可決し、アウンサンスーチーを就任させた。

*また、軍が支配する「国営企業」の民営化も企てた。

*ロヒンギャ難民問題では、スーチーが国際司法裁判所で虐待を否認する一方、一部での「行き過ぎ」を認めた。

これら一連の行動が国軍の怒りをいっそう強めた。


なぜ文民統制を拒否するのか

まず、ミャンマー国家を正しい方向に導けるのは国軍だけ、という強い信念がある。

1948年、ミャンマーはピルマ連邦の名称で英国から独立した。それから14年間はウー・ヌ首相が政権を運営し「段階的な社会主義化」をめざした。
国軍はウー・ヌ首相と反ファシスト人民自由連盟(AFPFL) を支持した。

一方で、ピルマ共産党(BCP)とAFPFLの私兵団だった人民義勇軍(PVO)白色派との内戦がはじまり、そこにカレン民族同盟(KNU)の武装抵抗が重なり、国軍はその対応に追われた。

そのようななか、ウー・ヌ首相は国軍への政権委譲を受け入れ、軍政が始まった。ネィウィン大将が首相となり、国内の治安を立て直した。

1960年に総選挙を行なって民政に戻した。この経験が、「国軍だけが国を統治できる」という自負心を強めた。

1962年、軍はクーデターを行い長年にわたる軍政へと移行する。

国軍は社会主義経済体制の実現を目指したが、経済の著しい停滞を生じ、失敗に終わった。しかし議会制民主主義に戻ることはなく、2011年まで50年にわたる軍事政権が続いた。


国民の支持なき権力維持の背景

ところで、国軍は丸腰の国民を平気で撃ち殺している。なぜそうした行動がとれるのだろうか。

一つは1948年の独立以来、今日に至るまで73年間、
休みなく戦闘を続けてきた軍だからである。戦闘の相手はほとんど常に自国民だった。

1962年の第一回クーデター時には、ヤンゴン大学学生同盟の建物にこもって抵抗をつづけた大学生を爆弾で数十名殺害し、1988年の第2回クーデター時にも学生や市民のデモ隊に水平射撃を繰り返し、総計で1000人前後を殺害している。今回のクーデター後もすでに870人以上を殺害している。
このことからわかるように、人を殺すことに慣れてしまったのが国軍なのである。

2つ目の要因として、国軍が国民の中に支持基盤をつくらなかったことを指摘できる。国軍にとって国民は動員対象にすぎなかった。

国軍が総翠挙のたびにNLDに敗退するのは、支持基盤をつくってこなかったからである。

もうひとつの要因として、国軍自らが経済利権を構築してきたからである。国軍は銀行・保険・海運・メディア・貿易会社等を含むコングロマリットを形成してきた。

これにより軍と将校たちは莫大な配当を確保。その総額は国防予算を上回っている。

企業群は民間企業扱いで、すべて非公開・非課税のため関係者以外には誰にも内側が見えない。その結果、国軍はミャンマー経済よりも、国軍系複合企業体のほうを優先するようになった。

こうして軍は、武力・政治・経済のすべての面で自己完結した寄生集団となった。

こうして国軍は、国民を「命令に従わない敵」とみなすようになった。今回のクーデター後の暴虐行為は無論のこと、尋問センターと呼ばれる拷問システムまで築き上げたことは、その象徴である。


不服従運動の持続する理由

今回のクーデターでは、市民的不服従運動(CDM)の拡大が多くの注目をひいた。この運動の主役は「Z世代」と呼ばれる若者たちである。

2011年以降の民政移管で、一定の自由と経済発展を享受してきた都市中間層の若者が一斉に立ち上がった。彼らはもともと政治に関心を抱く世代ではなかったが、このクーデターで、政治が自分たちと密着する問題であることに気づいた。

不服従参加者は職場への出勤拒否にはじまり、国軍系企業の不買運動などを続けている。運動には多数の公務員も参加している。様々な省庁の職員が加わり、そのなかには外交官も含まれる。

与党NLDも運動を追い風にクーデターへの対抗勢力として国民統一政府(NUG)を発足させた。NUGは連邦制度の確立を訴え、国民の圧倒的支持を受けている。

国民の中のスーチーの位置づけにも変化があらわれている。彼女を支持する国民が圧倒的に多いことには変わりはないが、その支持の質は変化している。

個人崇拝的な支持は弱まり、幅ひろい国民運動の精神的支柱としての役割を負うようになりはじめている。


機能しない仲裁外交をどう乗り越えるか

ミャンマーの状況が改善するためには、国軍の退場とNUGの承認という方向で、国際社会が取り組むべきだといえる。しかし、現実は先進国グループと中国およびロシアとの間で、深刻な対立がある。そのため国連安全保障理事会も暴力の即時停止以外、明確な方向を出すことができていない。

日本政府は「国軍との太いパイプ」を強調したが、実際には何の役割も果たせない。

その中で、東南アジア諸国連合(ASEAN)の役割に期待がかかるが、実際には玉虫色の対応しかできず、フラインはそのことを読み切っている。

このように、仲裁を旨とする国際外交はミャンマーに対して機能を果たしていない。そのようななか、国際社会は軍事政権への「標的制裁」を強めるしかない。

「標的制裁」は、国家全体ではなく人権侵害を犯した個人と団体(軍、政府部局などの組織)に範囲を絞って制裁を行なうことことである。

日本はG7で唯一、「標的制裁」の根拠となるマグニツキー法(人権説明責任法)が未制定であり、早急の対応が求められる。


正しい目的と正しい手段

スーチーは1988年に民主化運動に参加した時から、「正しい目的は正しい手段によってのみ達成される」と訴えてきた。

誤った手段を選んでしまうと、表面上は民主化を達成できたようにみえても、いずれ砂上の楼閣のように崩れ去っていくという考えである。

それは国際社会がどのようにミャンマーに関わるべきかを考える際にも重要なメッセージとなろう。

仲裁外交の典型は、説得を基盤としつつインセンティヴを提示して、国軍を交渉や和解のテーブルに着かせることである。

だが、これまでの経過を踏まえる限り、国軍はテーブルに着いた後に交渉に素直に応じるとは考えにくい。「おいしい」部分だけを盗んで椅子から立ち上がって去り、何も交渉の成果を生み出さないリスクのほうが圧倒的に大きい。

逆に、標的制裁にひとつでも多くの国連加盟国がかかわれば、国軍の未来は先細り、国民を暴力的に支配し続けることは困難となろう。

そのとき、並行してNUGを政府承認する国家が増えれば、ミャンマー危機をめぐる国際的対応の潮目が変化する可能性がある。

これこそ、私たちが選択すべき「正しい手段」ではないだろうか。

…………………………………………………………………………………………………………

後段の根本さんの提案については説得力もあり、心動かされるのだが、軽々に判断は付きかねるところもある。

「根拠のない楽観論」と言われると返す言葉はないが、1988年移行の動きを見ると、軍と言えども国際社会への復帰は否応なしに迫られる課題だと思う。この度の政変で軍が失ったものは、「未来」そのものであり、これまでのどの政変よりも深刻であるに違いない。

むしろ、日本政府にどのような姿勢を取らせるかを検討すべきかも知れない。少なくとも対中封じ込め戦略(=欧米型人権キャンペーン)に流し込むような議論だけは避けなければならない。

チリの反ピノチェトの闘い(憲法改正に40年を要した)や、南アフリカの反アパルトヘイトの闘いなども想起しつつ、若者たちにエールを贈ることになるが…

下の図はNHK教育テレビの最近の「サイエンスZERO」で示された魚の脳の絵。
スマホでとったのでこちらの姿が写り込んでいるが、気にしないでください。
t

困るのは、未だに小脳・中脳・大脳と分ける考えだ。発生学的に見て、このような書き方は間違いだと思う。後脳・中脳・前脳と分けるべきなのだ。

「小脳・中脳・大脳」論者をふくめ、すべての人が、中枢神経は後脳・中脳・前脳で始まったということで合意している。だとすればなぜそれが「小脳・中脳・大脳」という組み立てになったのかを説明しなければならない。前脳はどこへ行ったのかを説明しなければならない。間脳がどこから出現したのか、なぜ間脳と呼ばなければならないのか、を説明しなければならない。

一応、私の考え方を説明しておく。我々はマクリーンの呪いから解き放たれなくてはならない。

間脳は存在しない! 終脳も存在しない! あるのは前脳と、付属装置だ!

後脳は菱脳ともいわれる、10対の脳神経の一次中枢だ。
中脳は四丘体を中心として視覚と聴覚の一次中枢だ。魚ではこの2つで大抵の用を足してしまう。
間脳は失礼な言い方で、ここが由緒正しい前脳で、本来の最高中枢だ。ここで五感を判断して運動系(錐体路)に戻していく。
前脳を子細に眺めると、プロソメア(前脳分節)と呼ばれる “亜分節” に分かたれる。この中で、視床と呼ばれる神経核群が統合中枢である。視床の中でも内外側の膝状体が聴覚と視覚を統合する働きをなす。
もう一つは視床下部との連携だ。体液を経由する情報を集中し、神経を経由する情報と照らし合わせ、個体としての構えを形成する。視床下部と下垂体からは、多くの液性物質が分泌され、脳の活動全体をジェネレートする。これを神経内分泌システムと呼ぶ。

大脳はもともとは前脳の別館で外付けの記憶装置だ。最初は嗅脳(海馬)に間借りしていたのが徐々に発達して演算し判断するようになり、特にホモサピエンスの発生に向けて言語獲得(視覚情報の信号化+聴覚情報との統合)のためにいわば「AI化」したものだ。
小脳は錐体路系の記憶中枢が発達したものだ。バッチファイルとか実行ファイルの集積したものだ。
外付け装置としては、この他にも松果体とか、ヒゲ感覚の中枢があるが、現在では退化している。

鳥は生物進化の王道を歩んできた。その鳥の脳との比較解剖で、上記の特質はすでに明らかと思われるのだが、いまだに共有されていないのが不思議だ。


百貨店は「自粛の枠から外せ」と働きかけてきた。さらに、自分勝手に「感染予防対策をした安全な施設」と称し、無原則的に営業枠を拡大した。その際に根拠となるように、店員への職場接種を推進した。
しかし伊勢丹はそれすらもケチった。7月上旬から現場社員5千人にコロナワクチンを接種したが、外部社員を接種枠からオミットしたのだ。
その結果、大規模クラスターが発生した。この1週間の感染者は94人、先週より2.2倍増えている。そのほぼすべてが職場接種から弾かれた外部社員だ。
これを報じた日経新聞(7日付)は感染対策の「死角」だったと書いている。冗談じゃない、どこが「死角」だ。
伊勢丹新宿本店の勤務者は取引先やバックヤードをふくめて1万5千人、そのうち自社社員は870人、たったの5%だ。これで外部社員分の340度が「死角」になる視神経というのがどういう構造になっているか、それこそが問題だ。
伊勢丹の担当者はこううそぶいている。
「直接の雇用関係にない取引先社員に接種を強制はできない」
まことに白々しい。そうじゃなくてこう言うべきだろう。
「直接の雇用関係にない取引先社員への接種を強制される義理はない」
これ自体はただのケチだが、おそらく日頃から、外部社員は人間ではないと思っているから、こういうセリフが出てくるのだろう。こういうヒラメのような目の会社に「安全」を云々する資格はない。
一般人にとっては伊勢丹の自社社員が「安全」であるかどうかはどうでも良いことだ。むしろ外部社員が安全ではないこと、その違いが見た目ではわからないこと、にたいする不安のほうがはるかに深刻だ。
ただちに不要不急の金持ち目当ての営業を停止させるべきだ。これは根拠のない、ほとんどデマに近い「安全神話」を振りまいたことに対するペナルティだ。
日経新聞は、次のような美談も添えて、(富裕層御用達の)伊勢丹への不信を煽っている。
地方に好例がある。熊本の鶴屋百貨店だ。この店では「同じ館で働く全従業員の健康を守るため」に、取引先の理解も得た上で、職場接種を実行した。
外部社員とその家族を含む6千人が職場接種を7月までに完了した。7月以降の新規感染者数は2人にとどまっている。
記事は最後に、企業の側に「一層の対策強化と説明責任が求められる」と控えめに指摘しているが、気分としては日本有数の高級ブランド、「三越伊勢丹」の低級な企業精神に対する弾劾文であろう。

2020年代の世界の特徴 その3 「進歩勢力」と連帯

かつて「81カ国声明」(81カ国共産党・労働者党代表者会議 1960年)というのがあって、3つの革命勢力が規定されていた。

すなわち社会主義体制・新旧植民地の反帝勢力・資本主義国で社会主義を目指す勢力である。3つ目の「資本主義国で社会主義を目指す勢力」として主にヨーロッパの社会主義運動が措定されていた。

ところが社会主義体制が消滅し、西欧諸国でもアメリカへの従属は明らかなものとなりつつある。

今日ではアメリカ以外のどの国においても、アメリカへの軍事的・金融的・外交的従属を断ち切る任務を抜きに多数派革命はできない。否応なしに世界の諸国の進歩的運動は一本化することになるだろう。

だから、思想・信条の違いはあっても、すべての国は連帯が必要だ。そして、その運動の骨組みは非同盟運動の枠組みとかなり類似したものになるのではないか。なぜなら、今日の時代において非同盟であるということは、アメリカと軍事同盟を組まないということだからだ。


アメリカの巨大複合体への反撃と連帯

アメリカの巨大複合体はみずからへの従属を迫り、それに従わないものに対しては、フェイクを取り混ぜたイデオロギー攻撃を仕掛け、国際法に反する経済・金融封鎖で首を絞め、暴力的な挑発を仕掛け、最終的には武力侵攻も辞さない。これを撥ね退ける戦いにおいて、まず必要なのは連帯だ。

同じ敵との、同じ闘いには、当然、敵からも同じ攻撃がかけられる。それを闘う仲間として理解し合ううことが大事だ。場合によっては闘い方に批判も出るだろうが、全体として連帯していく必要がある。大事なのは、間違っても巨大複合体の仕組んだ思想攻撃に同調しないことだ。とくに西欧諸国がアメリカへの無批判的同調を強めている現在、このことは重要だ。

保留点を明確にすることは連帯しないということではない。「批判」は連帯運動が対等であるための条件であって「踏絵」ではない。「アメリカ民主社会主義」(サンダース派の青年たちが結成した全国組織)の運動方針にはこう書かれている。
私たちは国際連帯に向けて努力しなければなりません。私たちの任務の一部は、このアメリカで帝国主義に立ち向かうことでなければなりません。


2020年代の世界の特徴 その2 「主要な敵」

帝国主義という言葉を使わなくなったのは、アメリカ以外に帝国主義と呼べる存在はなくなった、というのが逆説的な理由だ。

が、概念的にもアメリカはレーニン的な「帝国主義」の枠組みを大きくはみ出している。


1%の人は誰なのか、何処にいるのか

これまでの議論の積み上げから類推すると、第一候補は軍産複合体である。第二候補は投機的金融業界である。第三はGAFAなどのハイテク企業である。

この中で金と力を持っているのは第一候補の軍産複合体をおいてない。他は許認可でがんじがらめになっており、吹けば飛ぶようなものだ。


21世紀初頭の軍産複合体と現在の複合体はどう違うのか

現在の巨大複合体は、かつての軍産複合体に財務省・連銀がくっついて、マネーの出口を支配したことに特徴がある。

それが2008年リーマン・ショックとその後の欧州金融危機の期間に、連銀の三次にわたる量的緩和結果として起きたことである。

それは軍・財・銀複合体と呼ぶべきエイリアンだ。軍事脅迫に加え経済脅迫を加えることによって、多くの国々が膝を屈した。

バイデンの国際政治

トランプ政権の相次ぐ暴走を社会実験と見たバイデンは、その経済制裁の手法を体系化し、奇天烈なフェイク攻撃に代え「人権攻撃」を制裁の口実として用いるようになった。

この攻撃の方法はかつての冷戦戦略と瓜二つである。
ただ、この「バイデン・ドクトリン」とでも呼ぶべき戦略体系はさらに詳しく分析する必要があろう。

2020年代の世界の特徴 その1

ヴァージル・ホーキンスさんはこう言っている。
シンプルに、わかりやすく、ひと言で何かを言い表せば、「なるほど」と思う人はいるでしょう。
しかし、国際社会で起きている出来事は、そんなに単純ではありません。「複雑さを犠牲にせずに分かりやすく書く」ということが大事です。
まさにそのとおりなのだが、現実にはそのような思考過程をたどるには、私の脳の老化はもはや進行しすぎている。

ということで、一言コメント集みたいなもので、議論に参加したい。

今回は「主要矛盾」ということで、とりあえず以下のようにつぶやいてみることにする。

第一の問題、もっとも根本的な矛盾は、階級的矛盾の激化だ。社会システムそのものが貧富の差を猛スピードで拡大しつつある。そして拡大された貧富の差が、社会システムを傷つけ、破壊しつつある。この先に断崖が待っていることは疑いない。

第二の問題は、政治矛盾の激化だ。この間に不寛容や反理性など、さまざまな混乱を内に秘めつつも、99%の人間が社会改革を求めて結集しつつある。世界は1%対99%の闘いに収斂しつつある。

第三の問題は、米国を中心とする支配層が、根本的矛盾から目をそらせるために人工的に作り出している矛盾の「激化」だ。第一の柱は米中対決論であり、第二の柱は「人権外交」攻勢だ。
これらは「バイデン・ドクトリン」として定式化されつつある。


2021年6月18日
「社会主義の明日のために:過去2年間の総括」
「アメリカ民主社会主義」全国政治委員会草案

若い人たちの組織で、サンダースの大統領キャンペーン組織から衣替えしたもののようです。ツッコミどころはいろいろありますが、なにせ勢いが良い。こうでなくっちゃと思います。


全国政治委員会が2年前に発足したとき、大統領選挙が私たちの最大の政治的焦点だった。

去年春にCOVID-19が発生し、5月にはジョージ・フロイドの殺害をきっかけとした大規模な暴動が起き、政治情勢を大きく変えました。

活動スタイルは変化しました。人々へのアプローチは、社会的距離、バーチャル集会、個人の活動制限などに適応する必要がありました。

パンデミックは資本主義から仮面を剥ぎ取り、社会を構築する人々に真実を明らかにしました。

あらゆる場面で、資本家の利益が公共の安全と福祉に優先されました。営業再開、ワクチン接種、学校の​​再開に関する情報は覆い隠されました。

これらの失敗は、非常に多くのコミュニティを壊滅させた。それは横行する反アジアの暴力の一因となった。国家はますます暴力で対応するようになり、警察による殺人が相次ぎ、人々の怒りが広がった。

1月6日の「議事堂の反乱」が明らかにしたように、極右は消えておらず、国家はこれらの勢力に反対する意志はない。

去年のトランプ駆逐作戦は、共和党による投票権への攻撃の激化を促しました。

資本家が引き起こした気候危機は、冬の嵐を引き起こし、非常に多くの命を奪った。さらにこの夏には干ばつ、竜巻、ハリケーンが土地を荒廃させ、より多くの死者をもたらしている。

アメリカ合衆国移民・関税執行局(ICE)は、容赦なく残酷で不正な機関であり続けています。それは移民家族の分離と黒人女性と茶色の女性の強制的な不妊手術を強化しています。

すでにアメリカ帝国主義によって搾取されている多くの国々は、ワクチン特許の独占と禁輸・封鎖・制裁による医療資源の不足によって悪化し、壊滅的な人命の損失に苦しんでいます。

ナイジェリア、コロンビア、パレスチナで、警察と軍隊は「尊厳を持って生きる」権利を要求する大衆に暴力を振るいつづけています。

この2年で、私たちがどれほど強力であるかが示されました。しかしそれらすべてが、一層迅速に進めなければなりません。この仕事でお互いを支え合いながら、いま私たちは、この間に奪われた命と機会を残念に思い悼みます。

それでも、社会主義を展望するだけでなく、社会主義組織を構築するという日々の仕事がそれ自体希望であります。

昨年のたたかいは、たんに選挙に勝利しただけでなく、集合的な力を獲得したことでも評価されるでしょう。

それは私たちが闘った時、どのくらいの階級的な力を持つことができるかを示しました。

今後、より直接的な行動に向かっとき、皆が一緒に働くとき、私たちは最も強力であることを学ぶべきです。

私たちは国際連帯に向けて努力しなければなりません。私たちの任務の一部は、このアメリカで帝国主義に立ち向かうことでなければなりません。

この闘いは人種的正義のため戦いであり、檻と警官のいない世界(a world without cages and cops)のための戦いであり、豊かさと尊厳、民主の社会主義世界(socialist world of abundance, of dignity, and of democracy)の実現を目指すものです。

私たちは全国各地で支部を設立し、その活動を前進させ、国と支部の間で活動を一体化させるための措置を講じました。

地方リーダーと話をして、国の組織としてどのように行動できるか、南部の同志、地方の同志、組織を始めたばかりの同志が直面している特定の問題について学びました。

私たちは、「組織化権の保護法」を成立させるためのキャンペーンや、郵便事業救済キャンペーンなど、これらの教訓を全国的なキャンペーンに組み込むよう努めてきました。

私たちは新しい支部への訓練を開始しました。全国教育委員会の訓練プログラを作り、基本的カリキュラムに沿って指導しています。

それぞれの支部が地元の大衆組織や組合と強力な同盟関係を築き、労働者階級に私たちの運動を根付かせるために働いています。

国際的なつながりを深めるため、ペルーとベネズエラにそれぞれ2人の代表団を派遣しました。

急速に成長している社会主義組織であるがゆえに、私たちは間違いを犯しました。

私たちは、DSAをより成熟させるためにやるべきことがたくさんあり、多くのことを学ぶ必要があることを知っています。

最も重要なことは、支部が行動キャンペーンに焦点を当てて、どのように主体的力量を成長させるか、真剣な議論を積み重ねることです。私達はそれを支援することを約束します。

「バーニーを勝たせるキャンペーン」は、人々の出会いの大切さと、ビジョンの共有に向けての取り組みの重要性を教えてくれました。

100K Recruitment Drive(他人種・労働者・社会主義組織を今年中に10万人まで増やす計画)は団結して働くことでどれだけ成長できるかを示しています。

BIPOC(黒人、先住民族、有色人種)の優先決議は、組織が多民族であることを保証するためにも、文化と構造の転換の必要性を明確にするためにも役立ちます。
私たちのPRO Actキャンペーンは、それらの優先度を通知しています。

過去2年間はあっというまでした。私たちはいま、これから構築する中身を楽しみにして集中しています。

労働者階級はみずからのものを取り戻さなければならない。そのための手段となる組織を築き上げなければならない。

私たちはもはや、6年前の結成時とは異なる組織であり、6年後にどのような組織に成長するか、夢を膨らませている。

永遠の連帯を!

最新に近い「動物系統樹」 二胚葉と三胚葉動物の分岐

の続編で、それより二世代さかのぼった分岐である。


二層構造の発生

多くの動物の初期発生において、細胞の特徴的な層構造が出現する。

これが多細胞生物が発生して最初の分岐であり、これが第一次のボディプラン(体の構造)である。

この層構造は胚葉構造と呼ばれる。胚葉形成しないままに現在まで生きてきたのが海綿である。
動物系統図

外胚葉と内胚葉

二層構造の分岐には、外胚葉と内胚葉の2層がある。二層構造がそのまま残されたものが二胚葉動物と呼ばれる。

二胚葉動物はより原始的なものと考えられる。

いっぽう進化したものでは、外胚葉と内胚葉の中間に中胚葉が出現する。その結果胚に三胚葉構造が形成される。

これが、三胚葉動物の共有派生形質である。 おそらくこの時点でショウジョウバエ(この図では脱皮動物)と脊椎動物に共通するボディプランはほぼ確定したのだろう。

ただし、系統樹を見ても分かるように、いくつか未確定の部分があり、今後、変化する可能性もある。

だからあまり厳密に考えずに、流れを見ていくほうが良いだろうと思う。


二胚葉と三胚葉動物の表現形質

三胚葉動物のもっとも明確な特徴は、「前後軸を挟む対称性」である。これにより動物の基本的ボディプランは完成する。

いっぽう二胚葉動物(平板動物、有櫛動物、刺胞動物)は前後軸を持たない。多くは多形平面を形成する。


左右対称性の意味

左右対称性は次の意味をふくむ。すなわち背腹の非対称および前後の非対称である。

この非対称性は内臓側と支持組織側、頭側と尾側という構造をもたらす。

この非対称性がもたらす最大の産物が脳である。これは感覚器と神経系が集中したものであり、感覚器が頭部に集中した結果、脳も頭部に形成されることになる。

また動物型の生命機能である呼吸・循環中枢は頭部に近い深部内臓に形成される。


この文書は下記表題のファイルを要約紹介したものである。詳細を知りたい方はリンク先をあたっていただきたい。

2021/05/23「東洋経済 ONLINE」
「メディアの偏った報道」解消に挑む阪大教授の志
データで浮かび上がる日本の国際報道の問題点
大阪大学教授
ヴァージル・ホーキンス

研究の目的と方法

2016年、ホーキンス教授は「報道されていない世界」の情報を分析し、伝えるメディア・プロジェクトを立ち上げた。

その名前が「グローバル・ニュース・ビュー」(Global News View:GNV)である。

GNVでは、読売、朝日、毎日の3紙の国際ニュースをピックアップする。

地域ごと、トピックごとに分類し、それぞれの記事の分量や扱い、報道内容の三段階評価(ー、0、+)で色分けする。

これにより国際報道の傾向を分析し、日本のメディアの現状を浮き彫りにしようと試みた。


結果

1.報道の量と広がり

日本の新聞の国際報道は、ニュース全体の10%前後だった。アメリカのテレビ報道では国際ニュースが15~20%とされる。

量が少ないだけでなく地域的な偏りもある。アフリカのニュースが占める割合は、日本の新聞では2~3%、欧米では6~9%である。

2.自国中心主義に基づく報道バイアス

まず、日本のメディアは、「被害者に日本人がいるか」「その出来事と日本人にはどんな関わりがあるのか」を考える。

ついで、日本のメディアは、欧米メディアの報道を追いかけ、欧米メディアの目線で考える。

アフリカの出来事なのに、ニューヨークやワシントンから「アフリカのこの問題について、アメリカ当局はこういう見解を示している」といった伝え方をする。

3.高所得国中心主義

ほかにも問題点はある。

まず、貧困国であればあるほど、報道されない。これは鉄則だ。

次に、人種的な問題がある。まずは日本人かどうか、その次は白人かどうかだ。

変形された人種的な問題もある。たとえばアメリカに住んでいる黒人は注目される。ブラック・ライブズ・マター運動は日本でも注目された。

アフリカの黒人は?  
アフリカでは多くの黒人が亡くなっても注目されない。

このようなことでは、日本の国際化などまったくおぼつかない。


考察

1.この現状をどう変えるべきか、方法はあるか

すごく難しい。今後はますます、解決が難しくなる。

あれこれの問題の前提として報道のビジネスモデル自体が崩壊しつつあること、「ニュースはタダで見るものだ」という考えが報道を飲み込もうとしている危機的状況だ。

これが進めば国際報道の現場はさらに劣化が進み、貧者と劣者はますます貶められるようになる。

これらへのトータルな対応が何にも増して急務だ。

2.著者たちの気構え

大事なところなので、そのまま引用させてもらいます。
どうやって、少しでも多くの人に見てもらうか。それが大きな課題ですね。もう1つは、複雑さを大切にしていく、ということです。シンプルに、わかりやすく、ひと言で何かを言い表せば、「なるほど」と思う人はいるでしょう。池上彰さんのように。
しかし、国際社会で起きている出来事は、そんなに単純ではありません。GNVの編集原則の1つは「複雑さを犠牲にせずに分かりやすく書く」ということです。難しさや複雑さを犠牲にしたら意味がありません。それどころか、事実と違うものが認識されてしまう可能性があります。
…………………………………………………………………………………………………………

ホーキンスさんがそれとなく言っているのは、

欧米諸国のメディアが欧米中心主義で、金持ち優先思想で、白人優先思想だということです。

この文章が密かに言っているのは、

もっと情けないのは日本のメディアで、その3つに加えて欧米追随主義で、金持ち追随思想で、白人追随思想だということです。最悪です。

私たちは胸の内で、つぶやかなくてはなりません。

それは騙されているのではないか? 
それは追随主義ではないか? それは「名誉白人」の思想ではないか?
私たちはひょっとして自分の(アジアやアフリカや中南米の、貧しい、有色の)仲間を攻撃していないか? 


上映が終わってしまうというので、見に行った。
全然当たらなかったらしい。すでに1週前から1日1回夜6時半からの上映のみ。それでも客は10名いるかいないかという不入りぶりだ。

しかし中身はすごい。ハリウッドばりの金をかけて、息をも継がせぬシーンが連続する。
基本的にはアクション映画で、いいやつと悪いやつも最初っから分かっていて、事実、ほぼそのとおりに進んでいくのだが、合間に挿入される「気の利いたセリフ」が半端なく切れ味鋭い。
私が宣伝文句を考えるとしたら「考えさせるアクション」だ。まぁこれでは客足はかえって遠のくだろうが…

とくに権力者側のセリフが非常に論理的で説得的だ。それは良し悪しと言うよりは先進国の論理と言えるだろう。正しいが優しくない。スマートだが残忍だ。主人公はその論理を突き抜けられないまま状況に引っ張り回される。
ただ本気に考えさせるには、テンポが早すぎるから、頭が回らない。もし20代でこの映画を見たら、その印象は相当違ってくるだろう。
あるいはもう一度見るという手もあるか、少々疲れるが…
あるいは、姑息だが吹き替えで見るという手もある。
ソボク
コン・ユ

(追記)映画が終わって、帰ってきてから一杯やり始めで、なにか考えがまとまらなくてそのまま寝てしまって、次の日になったら、もうそもそもどんな映画だったか忘れてしまってしばらく経った。

普通、「なぜ生きているのか」という問いは、生きる目的を、あるいは生きる目的の有無を問うている。しかしこの映画が発する「なぜ生きているのか」という問いは、もっと実存的だ。その人が生きているのは生き続けているからであり、死なないからだ。

人間はいつかは死ぬのだが、それまでは生きている。だが不死身の人間は死なないから、「なぜ生きているのか」という問いに答えることはできない。

ここまでは禅問答もどきの論理ゲームだ。このアクションがすごいのは、このパラドックスに実践的な “解” を与えているところだ。主人公は実験動物としての若者に“人間”を見出し、その生に「人間的な生」の意味を与える。かくして死ねないはずだた若者が、意味のある死を迎えることになる。

このイマジネーションの力はすごい。「神々の黄昏」を見るようだ。

ところで、この主人公の役者(コン・ユ)がめっぽううまい。権力者の論理になすすべもないのだが、「やはりそれはおかしいぜ」と、体験的真理が示す道に従うことを選択する、そういう心のヒダが無理なく浮かび上がる。しかもタフガイ的な演技もしっかり演じきっている。

日本でこういう映画を作れる人は、黒沢明のあと、もういないだろう。もう映画の王道のところでは韓国には勝てない。

実はその1週間前に、BSで「殺人の記憶」という映画を見た。だいぶ前の、韓国映画が立て続けにヒット作を飛ばした頃の映画だ。

正直言って、よくわからない映画だ、こういう推理小説みたいな映画は、そうでなくても疲れる。登場人物が覚えきれないうちにどんどん筋が進行していくから、見終わった後、「この映画ってなんだったんだろう」ということになる。

それから絵柄が露悪的なところがあって、見ていてなんとなく「腐ったキムチ」のような不快感を催す。この印象は映画で見た「半地下の人」のときにも感じた。日本人ならこんなにこ汚い絵は作らないだろうと思う。車と携帯がある生活と、終戦直後の「飢餓海峡」みたいな生活が共存していて、時代感覚が分からない。

これも吹き替えで見たほうが良い映画だろう。と言っても、もう一度見るほどの気は起きないが…

日経新聞の土曜版にの「この父ありて」(梯久美子)という連載で茨木のり子編をやっていて、この間は5回めだった。このおかげで月曜に医局に行くのが苦でなくなっている。


1953年(昭和28年)、茨木は川崎洋と出会い、詩誌「櫂」を発行した。「櫂」にはまもなく谷川俊太郎、吉野弘、大岡信、岸田衿子、中江俊夫が参加する。

記事の一節を引用する。
創刊号が出た後、茨木と川崎は新宿で待ち合わせた。中村屋でライスカレーを食べて反響の葉書を読み、紀伊国屋書店の喫茶部で珈琲で乾杯した。それが精一杯の贅沢で、帰りの電車賃ぎりぎりしかお金が残らなかった。
水尾比呂志はその話を聞き、中村屋でライスカレー、紀伊国屋で珈琲というのは「一流のコース」だと言ってくれた。…
当時、私の生まれ育った静岡では、電車賃ではなく汽車賃と言っていた。電化はされていたが、まだ電車は走っていなかった。たしかにライスカレーが主流で、カレーをかけて食べるのがカレーライスだったかもしれない。サジがコップに突っ込んであるのがライスカレーで、紙ナプキンに包んでいるのがカレーライス。きっと中村屋の作法が全国に広がり、変形されていったのだろう。

当時、母は父とのあいだに、なにか鬱屈があったのだろう。2,3回ほど私を連れて東京まで行った。有楽町から日劇前、数寄屋橋、ドブ川越しの朝日新聞ビルと歩いた(歩かされた)記憶がある。茨木ではないが「帰りの電車賃ぎりぎりしかお金が残らなかった」かも知れない。

あのときの東京の記憶は、かな錆びの酸っぱい匂い、国電の燻んだぶどう色と、小学2年生の抱く「メトロポリス」への狂おしいほどの憧れだった。

いまは太宰も高見も川端もみんなごっちゃだが(当時もそうだった)、でも私の憧れたのは、彼らの屯する猥雑な巷の身辺雑事ではなく、もっと知性で輝いている颯爽とした潔い文化だった。それはひょっとしたら母の憧れであったのかもしれない。

その「東京文化」の一端をになった人たちが、そのときそうやって、電車賃と交換してでも、一日の暮らしと交換してでも守るべき、文化を創造する清々しい歩みを始めていたのだ。

私はそちらに与する。
 

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