鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2021年04月

インド共産党(マルクス主義者)
「健康非常事態:緊急措置の提言」

Health Emergency: Immediate Measures
https://cpim.org/pressbriefs/health-emergency-immediate-measures

2021年4月19日

インド共産党(マルクス主義者)政治局は、次の声明を発表した。

我々は、パンデミックの急拡大によって引き起こされた健康被害と生活荒廃に深刻な懸念を表明する。

このような深刻な健康非常事態では、中央政府は次のことを行う義務がある。

ワクチン製造に向けて、すべての公共部門の医薬品製造施設の全情報を、直ちに一括統制する。

すべての施設の能力は、需給ギャップを満たすために最大限に活用される必要がある。

しかしタミルナドゥ州の公共部門にある「統合ワクチン・コンプレックス」は、60億ルピーで建設されたが未使用のままである。

中央政府は3500億ルピーのワクチン予算を直ちに使い切る決断が不可欠である。

新型コロナのワクチンや治療薬の入手可能性と流通について、市民はさまざまな疑問や懸念を抱いている。

それら薬剤の有用性と配布システムが公開されていくことが重要である。

必須医薬品の買いだめと闇の売買に対する厳格な取締りを強化する必要がある。

中央政府は米国政府に対ししっかりと要請を行い、インドでのワクチン生産に不可欠な原材料の供給を確保するようにしなければならない。

政治局は、新型コロナに関する緊急事態を、その重大さに鑑み、すべての人が深刻に受け止めるよう求める。

本当に真剣に考えてほしい。

すべての大衆集会と超拡大型イベントは禁止されるべきである

中央政府は、ささいな政治上のゲームにふけることをやめ、むやみに人々を非難することをやめ、州・地方政府の肩に責任をなすりつけることをやめなければならない。

このパンデミックを克服するためには、中央政府と州・地方が協力することが最も重要である。

最後に再度、訴える。

我が国のすべての人々は、計り知れない悲劇をもたらいる新型コロナウィルスに立ち向かうために、一緒に立ち上がらなければならない。


14日、世界最大の宗教行事「クンブメーラ」が強行され、数十万人のヒンズー教の巡礼者がガンジス川で沐浴。巡礼者らは、信仰が身を守ると信じている。
沐浴
つくづく思う。インドを前に常識は粉々に打ち砕かれる。インドを知らないと世界も人間も識ったことにはならない。


Morning Star(イギリス)


左派の大統領候補アンドレス・アラウスは、衝撃的な敗北の後、ふたたび人民の政権を目指すと語る。

「たしかに今度の選挙は後退ですが、決して政治的または道徳的な敗北ではありません。私たちの行動計画は生活再建のためのプロジェクトです。だから、すべての人の未来を築くこと、そのための連帯を強めることを目的としています」

今回選挙を振り返ってみよう。

「希望の連合」(UNES)のアラウス候補は、2月7日に行われた一次選挙で32.7%の票を獲得し1位となった。

その後、決選投票までのあいだ、ほぼすべての全国世論調査で優位に立ってきた。

しかし、激しい中傷キャンペーンにさらされた。アラウスをコロンビアの武装ゲリラと結びつけるなどのフェイク・ニュースが繰り返し流された。一方、コレア元大統領や左派勢力には厳しい活動制限が加えられ、十分な反撃が果たせないままに終わった。

そして昨日の投票の結果、保守連合のラッソが52.4%を獲得し、アラウスは47.5%にとどまった。

当選後の記者会見で、ラッソは「エクアドル人は、これまでの14年間とは大きく異なる、新しいコースを選択した」と述べ、コレア時代の政策を破棄すると宣言した。

アラウス候補は、困難を跳ね返せなかった主体勢力の弱体を反省し、「進歩的な政治と社会民主主義を代表する歴史的な新しいブロックを構築する」と誓った。



日本では「ロシア・ピアニズム」という言葉が普及しているので、それに合わせます。著者は、自身が若手の有望なピアニストのようです。

はじめに

「ロシアのピアニスティックな伝統」という言葉には、多くの混乱があります。この言葉は、ロシアからやってきた成功したピアニストに適用されています。それは突然現れた大道芸の達人がコンテストの賞品をかっさらうイメージを思い起こさせます。

そして、セルゲイ・ラフマニノフやスビアトスラフ・リヒテルとは異なる美的原則を持つピアニストも、同じ「偉大なロシアの学校」の代表者であると見做されることがよくあります。

この用語の本当の意味を発見するために、私はこの伝統に属していた演奏家たちに共通する、ピアニスティックな特徴を見ていきます。

セルゲイ・ラフマニノフ、ヨゼフ・レヴィン、ヨゼフ・ホフマン、ウラディミール・ホロヴィッツ、ハインリッヒ・ノイハウスなどのピアニストの録音の遺産に触れてみましょう。さっと聴いただけでも、これらのピアニスト全員が絶妙に美しい音色を持っていたことが明らかになります。

 この分野での彼らの信じられないほどの成功は、ピアノを歌わせるときの響きと音色(singing tone and colour)が、世代とこえて引き継がれ、育て上げられたことによるものでした。


ヨゼフ・レヴィンたちの演奏術

 ヨゼフ・レヴィンは、著書「ピアノフォルテ演奏の基本原則」の中でひとつの長い章を書き、それを「美しい音色の秘密」に捧げました。そこでは、「鳴り響く歌う」音色をどのように達成するかを説明しています。

「最初の主要原則は、可愛らしい、鳴り響く、歌う音が必要な場合、キーが指のなかでもできるだけ柔らかく、弾力性のある部分で触れられるようにすることです...

指を爪のところからさかのぼって最初の関節に行きます。そこから少し後ろに戻ると、そこには肉のクッションがあって、弾力性があり、抵抗力が低く、しなやかであることがわかります。古いヨーロッパのいくつかの演奏法も示唆していますが、指先ではなく、指のこの部分でキーを叩くのです...」

 彼はまた、良い音色を生み出す上で、自由な手首と腕が果たす役割の重要性を強調しています。

「...非常に柔軟に保持された手首は、手と腕の重力だけでキーを鍵盤の底まで運ぶことができます。そのとき、打撃の感覚はまったくありません」

そして

「...手が下がるとき、指腹のできるだけ広い面をキーにかみ合わせます。手首は非常にリラックスしているため、通常はキーボードの高さより下まで沈みます」

この最後の一節は、ホロヴィッツの有名な「フラット・フィンガー=ロー・リスト」技法が独特かつ奇妙なものではなく、歌のトーンの理想を追求するための必然的な行いであること、それはこの伝統の不可欠な部分であった、という事実を証明するものとして、特に興味深いものです。

ヨゼフ・ホフマンもこうアドバイスしています。
「ほとんどのプレーヤーがそうであるように、無意識のうちに手首を硬直させることがないよう注意する必要があります。ただそれだけです」
腕の重さの使い方について、彼は次のように述べています。
「...集中的に意識することで、腕に力を入れるのではなく、力の表示を指先に移すように努める必要があります。 ...私が提案する方法は...腕を実質的にぐったりと脱力したままにします。しかし、この腕の緩みを獲得するには、細心の注意を払って数ヶ月のあいだ修行することが必要です」

ハインリッヒ・ノイハウスもそれを彼の著書「ピアノ演奏の芸術」で非常に雄弁に述べています。「飛び出す準備ができていること、自分の前の兵士のように」

 

ロシア・ピアニズムと「音色」

 セルゲイ・ラフマニノフも音色に関心を持っていました。
ジーナ・バッカウアーは彼との共同研究をこう要約しました。「ラフマニノフと一緒に勉強することは私の人生で最も素晴らしい経験の1つでした...…彼は本当に音色の素晴らしいスペシャリストの一人でした。彼が生み出そうとしていた音のなかで、音色は最も重要なものでした。テクニックなどは二の次で、そもそも色、色、色でした」

これは、技術の性質に関するホロウィッツの言葉と非常によく似ています。

「...しかし、私には驚異的なテクニックはありません。私の指はキーボードを急速に上下させます。たしかにそれも必要ですが、2、3分も聞き続ければとても退屈になります...ピアノという楽器は、大きな音から小さな音まで可能です。しかし、演奏される多くの音はその間にあります。それらのさまざまな音を出すことができるようにすること、今ではそれをテクニックと呼んでいます。それが私がやろうとしていることです」

私たちにとって幸いなことに、ホロウィッツは長生きしたので、高度な最新の機器で演奏が録音されました。彼が楽器にもたらす素晴らしい色彩効果の証拠が不足することはありません。

教えるとき、彼は生徒たちに「左手の色が最も重要だった」と教えました。 「あなたは色のために練習しなければなりません」と彼は言いました。
「それぞれの色は、それぞれの指に乗ることができなければなりません。それができるようになると、演奏に本物の色が浮かび上がり、解釈はわざとらしくなくなります...…色と指のパレットを使用すると、テンポを揺らすことなく雰囲気を作り出すことができます」

 

フレージング: ピアノの音と人間の声

明らかに、ピアノで「歌う」技は、たんに美しい音を生み出す能力に還元することはできません。歌の質を達成する上で最も重要なのは、これらの音をフレーズに統合することです。

ここで議論されたピアニストがお互いに賞賛をあたえ、影響を受けたことは明らかです。しかしそれとは別の、「外部」からのインスピレーションもありました。ラフマニノフとホロヴィッツはどちらも、偉大な歌手によるフレージングの影響を強く受けていました。

ラフマニノフは、交響的舞曲のリハーサル中にフィラデルフィア管弦楽団に演説したとき、次のように述べています。
「私は作曲について考えるときいつも、シャリアピンと彼の歌について考えます。 彼は私の理想でした」

フョードル・シャリアピンとラフマニノフのフレージングの明らかな類似点の1つは、特定の音楽の音節を強調して長くし、他の音節を短くすることです。これにより、メロディーラインに自然なスピーチのような趣きが与えられます。

多くの場合、フレーズはフルトーンで始まり、美しく制御されたディミヌエンドに向かいます。そして終わりに差しかかって消えていきます。ほとんどの場合、最後は肺から排出される空気の自然法則に従って、ほとんどささやきとなります。 そのような言い回しが、最も絶妙な表現力をもたらします。

ウラディミール・ホロヴィッツはしばしばこのようなフレーズを愛用し、ときには作曲家の節回しや強弱の表現に反することさえありました。
たとえばスクリャービンの練習曲嬰ハ短調、作品2の1は、作曲家が反対のマークを付けているにもかかわらず、逆ダイナミクスを意識的に選択しました。そのおかげで、ノスタルジックな感情が染み込んでいます。

ホロヴィッツもまた、シャリアピンを大いに賞賛しました。そしてしばしばラフマニノフを喜こばそうとして、彼の歌をパロディ化しました。

しかし彼にもっと大きな影響を与えたのは、イタリアのバリトン、バッティスティーニでした。子供の頃、ホロウィッツはピアノ演奏よりもオペラや歌手にずっと興味を持っていました。

彼は後に次のように回想しています。
「そのころ私はピアニストよりも、歌手のレコードを収集していました。私はバッティスティーニとカルーソに興味があり、ピアノで歌手を真似ようとしました。それは今日でも私の演奏に当てはまります。
キーボードで最も重要なことは音色と節です。ピアノのリサイタルよりもオペラのほうがはるかに素敵です。ピアノリサイタルは退屈してしまいます。
彼らは良いオクターブ奏法、ダブルノートをやって見せます、でもそれで何ですか? それらはみな同じようにしか聞こえません。音色と節がなければ意味がありません。
私が学んだアントン・ルビンスタイン、偉大なルビンスタインも、彼の生徒たちに「人間の声の音を真似てみてください」と教えました。
ホロウィッツは続ける。
「強さと軽さ、それが私のタッチの秘密です。授業中のルビーニの声色を真似ようとして、何時間も座っていたものです」


ペダリングとレガートの芸術

さらに別のインタビューで、ホロウィッツは次のように説明しています。
「ルビーニはベルカント・スタイルのバリトン歌手の中で最も偉大でした。そして彼の歌のスタイルはとても自由でした。彼はいつもある音符から別の音符にスライドしていました。こんなポルタメントだらけの歌手は聞いたことがありません。
私はそれが好きだった。ピアノでやってみます。あなたはペダルでそれを行うことができます。私はいつもそうやっています」

ホロウィッツはこれを「レガート・ペダリング」と呼んでいます。

「...最も重要なことは、ピアノという打楽器を歌う楽器にすることです...… 私が歌の質感を得るために用いる1つの方法は、ダンパー・ペダルを頻繁に使用することです。
あるコードから次のコードに変更するときに、ダンパーペダルが十分長く踏み込まれたままにすると、2つのハーモニーが一瞬重なります。このことでレガート・ペダリングの結果である歌唱風の質感が生成されます」

このペダリングの原理は、レガートの品質を向上させるだけでなく、ピアノ音の「響きの寿命」を大幅に延ばす効果もあります。そうしないと、打楽器ではすぐに音が消えてしまい、歌曲に必要な音のラインを維持できなくなります。

上記の演奏を、ショパンの夜想曲作品9 No. 3 を演奏する「私の音楽の祖父」ハインリッヒ・ノイハウスの演奏と比較してください。 ホロウィッツとノイハウスという二人のピアニストは、ノイハウスの叔父であるフェリックス・ブルーメンフェルドによって手ほどきを受け、のちにアントン・ルビンスタインに師事しました。だから同じようなレガートが出現するのは偶然ではありません。


ただし、このペダル・レガート効果は、適切なフィンガー・レガートの代わりにはなリません。それは、フィンガー・レガートの効果に追加されたものです。

フィンガー・レガートの秘密は、ホロウィッツの言葉によれば、「前の音符を追うように、シンプルに、とてもシンプルに演奏すること」でした。

この指示は、ヨゼフ・ホフマンの意見に直接対応しています。
「レガート・スタイルで最も美しい音色は、指が鍵盤を滑走し鍵盤に「しがみついて」歌うことによって生みだされます...常に2本の指が同時にキーを押さえ、音を出している必要があります」
当然のことながら、ヨゼフ・レヴィンは根本原則の章を「美しいレガートの基礎」と名付けました。その中でも、「...常に2つの音が共鳴りする瞬間を持っている」と主張しています。


音のブレンディング

ペダルには別の芸術的な使用法があります。それがブレンディングです。それはとても特別な色彩効果を生み出すことができます。

ホフマンは著書「ピアノ演奏」の1セクションを「ブレンディング」に捧げました。

「...一見異質なトーンのブレンドが、音色を特徴づけるための手段であることがたくさんあります...…ブレンディングに関連して、次のことを覚えておく必要があります。それは、ペダルは単に音色を伸ばすだけでなく、音に色付けするための手段でもあります。そしてその効果は抜群です。

ピアノチャーム(piano-charm すみません、意味不明でした)という用語で一般的に理解されているのは、ペダルを芸術的に使用することによって様々な音色が生み出されることです。
...時々、不協和音を意図的に混合することによって、奇妙なガラスのような効果を生み出すことができます。
その典型をショパンの協奏曲(アンダンテ、101、102、103小節)の刺繡のような素晴らしいカデンツァに見出すことができます。このようなブレンドは、これにさらに強弱のグラデーションを加えることで多数の効果を生み出します...」

ホロウィッツは絶妙なペダリングが賞賛された演奏家です。彼は教え子たちと一緒に多くの時間を費やしました。

教え子の一人、Eduardus Halimはこう語ります。
「ホロウィッツは音を重ね、ハーモニーをブレンドすることにためらうような人ではありませんでした。それは美しい効果でした...ハーモニーが空中に浮かんでいるようにさえ見えました。そのハーモニーはペダルを踏まれたときに浮かび上がる倍音の衝突に引き立てられました...」


音の層のフィーチャリング(差別化)

ロシア・ピアニズムが持つ非常にユニークなテクニックは、音楽の質感をさまざまな密度と色のポリフォニックな素材に分割することです。それはこの楽派の保有する最も優れた機能です。

ノイハウスの言葉を借りれば、「マルチプレーンの色調のテクスチャを作成することです。それはピアニストにとって骨の折れる事ですが、成功すればまことに満足のいく仕事です」

これは、深く浸透して突出する重い音が、軽いさらりとしたタッチと並び立つように、腕の重みを分散することによって実現されます。それは内声部を引き立たせる場合に特に効果的です。

2声部、あるいはそれ以上から構成される対位法では、旋律線の組み合わせが驚くべき「サラウンド」効果をもたらすことがあります。この場合、名画が持つ遠近感のように、各々の声部がリスナーから異なる距離にあるかのように聞こえます。 すべてのメロディーラインは同時にはっきりと聞こえ、それぞれが完全な独立性と自由をもって呼びかけ、応えます。

偉大なロシアのピアニストたちはこの魔法の能力を培い、芸術の形にまで高めました。
ラフマニノフはピアノ音楽を作曲するときに、このポリフォニック効果を念頭に置いていました。彼はホロヴィッツとともに、このテクニックの最大の開拓者でした。 変ト長調の自作の前奏曲の演奏と、彼自身の歌曲「デイジー」のピアノ転作の録音です:

ホロヴィッツの考える「ラフマニノフの音」を知りたいときは、彼の最初のピアノ協奏曲の録音の第2楽章に進んでください。

このパフォーマンスを、たとえばスビアトスラフ・リヒテルの演奏と比較してみよう。すると、フレージング方法と内声部の扱い方など、リヒテルのピアニズムが古い世代のピアニストとはかなり異なっていたことがすぐにわかります。
私はリヒテルを尊敬しています。しかし、彼がハインリッヒ・ノイハウスによって訓練されたにもかかわらず、私はリヒテルが同じロシア・ピアニズムの伝統に属しているとは思いません。ピアニスティックで芸術的な原則の多くに関する限り、彼はむしろ異端者です。それはリヒテルがノイハウスに師事し、一人立ちする前は、主に独学だったからでしょう。

一方、ノイハウスのもう一人の偉大な生徒であるエミール・ギレリスは、キャリアの後半になってからこの声部の差別化のテクニックを意識的に開発しました。

以前のレコーディングでは、彼は優秀な技術者、燃えるような情熱を持った名手として登場しました。しかしそのころ、テクスチャの密度の繊細な差別化、彼の特徴である深い「黄金の」トーンはまだ身につけていません。
バッハ(シローティ)のプレリュード ロ短調の録音は、それらを身に着けたピアニストとしての大きな進化の証です。


アントン・ルビンスタインの芸術

ここで議論されたピアニスト(この記事でロシア・ピアニズムのすべての代表者を議論することは不可能です)が、音色、色、レガート、フレージング、ペダルの使用、 内なる声など。性格の異なる数世代のピアニストが同じ原則を共有し、解釈において同じ理想を志向したのは単なる偶然でしょうか。
芸術がこれらのミュージシャンの測定の標準であった一人の男がいました。 アントン・ルビンスタインの名前は、彼ら全員のために特別な魔法を持っていました。 ヨゼフ・ホフマンは幸運にも彼と一緒に勉強し、後に「ルビンスタインが私に遊び方を教えてくれた方法」に関する章を書きました。

ラフマニノフは、ルービンスタインからのレッスンを受けていませんでしたが、彼の有名な歴史的コンサートで演奏するのを聞きました。「...ルービンスタインの芸術は私の想像力を征服し、間違いなく私のピアニスティックな形成に大きな役割を果たしました...私は聞いていました。 ラフマインの秘密のひとつにペダルを踏むことは、彼自身が「ペダルはピアノの魂である」と非常に適切に表現しました。それはすべての人に大いに役立つでしょう。 ピアニストはそれを覚えています。」

ヨゼフ・レヴィンはラフマニノフと同じ頃、ルビンスタインを聴きました。それ以来、ルビンスタインを生涯の理想と仰ぎ、演奏を続けてきました。 

ホロウィッツはルビンスタインを聴いていません。ルビンスタインはホロヴィッツが生まれる10年前に亡くなりました。でもホロヴィッツは彼の名前に敬意されるのを聞いて育ちました。そして彼の演奏の思い出を聞くことにとても熱心でした。

ホロウィッツはパデレフスキーのことを語っています。
「学生時代、まだ周りには彼と一緒に活動したり、コンサートで演奏を聞いたりした人たちがたくさんいました。私はその人たちから多くの話を聞きました。演奏を聞いた人は誰もその経験を忘れることができませんでした...
パデレフスキーもその一人でした。彼はルビンスタインを聞いたときのことを話しました。そのときパデレフスキーはまだ19歳だったのです。それはパリでの出来事でした。
当時のルビンスタインは年を取り、病気になり、目の病気、緑内障を患っていました。彼はシューマンの嬰ヘ短調ソナタを演奏しました。
パデレフスキーは、最初しばらくのあいだ、動きがひどかったと言いました。ルビンスタインはミスを連発しました。 しかし、彼がゆったりしたメロディーの第2楽章に来たとき、彼は今まで聞いたどのピアニストよりも深い感銘を与えてくれました。

ホロヴィッツは自分自身を「ルビンスタインの孫弟子」と呼びました。
「私はフェリックス・ブルーメンフェルドに師事しました。彼はアントン・ルビンスタインにピアノを、そしてチャイコフスキーに作曲を学んだのです。フェリックスはアントンの右腕でした。そして彼の演奏をあらゆる角度から心から知っていました。

ホロヴィッツは、ルビンスタインによって設立されたロシア・ピアニズムの伝統に属することを非常に誇りに思っています。

「私はウクライナで生まれ、キエフ音楽院で学んだロシアのピアニストです。私の音楽家としての精神はロシアの伝統を反映しています。あるアメリカの批評家は、私の演奏をアントン・ルビンスタインの伝統を引き継いでいると言いました。彼は正しかったと思います。
ルビンスタインの直弟子の中で最も有名なヨーゼフ・ホフマンは、私がリストのペトラッチのソネットを演奏するのを聞いて、私に言いました。「私の先生は、あなたのペダリングを気に入ったと思う」

これらの引用からも、アントン・ルビンスタインがロシアのピアニストの伝統の発展にどれほど深く影響したかは明らかです。

ロシア・ピアニズムは消滅したのか?

この人物(ルビンスタイン)はロシア・ピアニズムに一つの基準をセットしました。その後の数世代の音楽家が、その基準に照らして自分自身を設定しました。彼らはみなルビンスタインの演奏スタイルの特徴となったいくつかのポイントを積極的に評価しました。これがロシア・ピアニズムの源流となったのは偶然ではありません。

これらの偉大な演奏家は、強烈な音楽的個性にもかかわらず、ロシア・ピアニズムの一員として認識されています。

 ホロウィッツは自分を「最後のロマンティック」と呼ぶのが好きでした。 では、ホロウィッツを最後にロシア・ピアニズムの伝統は消滅したのでしょうか?

今日の技術環境では、多くの若いピアニストがよりロマンチックな形式の音楽表現を模索しようと頑張っています。ホロヴィッツのような素晴らしい個性を模倣しようとすることもありますが、最終的には彼らのマニエリスム(個性表現)だけに挑戦します。

最後にホロウィッツからの言葉を覚えてもらいたいと思います。
「どんな模倣でも模倣は似せ絵です。自分の力でやってみてください」
そして古い中国のことわざ引用します。
「師の足跡をたどろうとしてはならない。そうではなく、彼が求めていたものを探せ」

終わり

ハイルディノフの演奏はここで見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=WStgClQWtrw



はじめに

今日の我が国は社会的に大きく変化しており、教育においてもこの変化に対応して大きく変貌した。

これを受けて、中央教育審議会で学習指導要領の改訂が審議され、ゆとり教育の見直し、算数や国語などの主要5教科の授業時間を約1割増やす方向が打ち出されている。

算数教育要綱
  図1 小学校の算数教育要綱

1.学習指導要領における算数科の目標

小学校教育が目指す人間形成において、算数科が受け持つ観点として算数科の目標が定められた。

数量や図形についての算数的活動を通して、基礎的な知識と技能を身につけ、日常の事象
について見通しを持ち筋道を立てて考える能力を育てるとともに、活動の楽しさや数理的な処
理の良さに気づき、進んで生活に生かそうとする態度を育てる。

上記目標で分かるように「算数的活動」という考え方が基本になっている。その具体例として以下の8つの項目が並べられている。

① 作業的な算数的活動:手や身体などを使って、ものを作るなどの作業
② 体験的な算数的活動:教室の内外において、各自が実際に行ったり確かめたりする内容
③ 具体物を用いた算数的活動:身の回りにある具体物を用いた活動
④ 調査的な算数的活動:実態や数量などを調査する活動
⑤ 探求的な算数的活動:概念、性質や解決方法を見つけたり、作り出したりする活動
⑥ 発展的な算数的活動:学習したことを発展的に考える活動
⑦ 応用的な算数的活動:学習したことを様々な場面に応用する活動
⑧ 総合的な算数的活動:算数のいろいろな知識、あるいは算数や様々な学習で得た知識などを総合
的に用いる活動

と、ここまでが総論のようである。「活動の楽しさ」など聞いて呆れる。学校の先生の話はつかれる。


3.算数の各領域

① 数と計算

この領域は、整数、小数及び分数の意味やそれらの表し方について理解できるようにし、数について
の感覚を豊かにする。
また、整数、小数及び分数の加減乗除の意味について理解し、それらの計算の仕方を考え、適切に用いることができるようにする。
さらに、数の意味や計算の仕方などの学習を通して、数学的な考え方や数理的な処理の良さに気づかせることをねらいとしている。

② 量と測定

この領域は、様々な量の量の意味と測定についての理解を図ることをねらいとしている

③ 図形
図形の教育計画
    図2 図形の教育計画

この領域は、算数的活動を通して基本的な平面図形や立体図形について理解できるようにし、図形の性質を活用して、適切に処理したりできるようにすることをねらいとしている。

空間図形の見取り図、展開図、投影図、表面積、体積などが小学校での最も重要な指導内容である。3次元空間なら学んで努力すれば身につけることができる。

また、図形の学習を通して論理的な考えの進め方を知るとともに、その過程を通じて数学的(幾何学的)な考え方の育成を図ることも重要なねらいである。


④ 数量関係
関数の処理
図3 関数の処理に関する教育計画

この領域は、「数と計算」、「量と測定」、「図形」の三領域の内容を理解したり、活用したりする際に用いられる数学的な考え方や方法を身につけることをねらいとしている。

また、数量や図形について調べたり、表現したりする方法を身につけることも大切なねらいである。なかでも、「関数の考え」、「式で表すことと式を読むこと」及び「統計的な処理」などは中学数学でも重要な内容である。


論文そのものは、絵に書いたような無味乾燥のお役所風文書であるが、3つの図表がかなり小5の崖を的確に示している。




日経新聞から。

4.19nikkei


解説を読んでもなおわかりにくいが、
①小学校5年生で明らかに習熟の壁があることが分かる。
②それはとりわけ算数で著明に現れる。
③それはたんなる習熟の時期的遅れではなく、高得点層と低得点層への分離と固定化である
ということになる。
淡々と説明されているが、これは大変な問題ではないか。

実はこの時点で授業が一気に難しくなっているから壁ができるのでる。
それは「概数の知識と図形の応用」なのだそうで、理由の特定もできているのだ。それは「算数的論理」の理解である。つまり算数の国語的理解、正確には一種の言語としての理解である。

一番かんたんな比喩は、音楽と五線紙の関係である。五線譜が読めなくたって音楽は楽しめるし、場合によっては立派な演奏家にだってなれる。しかし五線譜を読めるようになることで、そこから先に奇跡の世界が広がっていくのである。だから本気で音楽をやろうと思ったらどうしても五線譜を理解するしかない。そういうブレイクスルーがいつかは、やってくるのである。

書いているうちにだんだん腹が立ってくるのだが、教育者はどうしてそれを是正しようとしないのだろうか。1年間で80ー63=17%もの生徒が脱落してしまうのは、教育の内容が学習能力をこえて過重なのか、教育のスピードが早すぎるのか、そのいずれかである。

それを知るためにテストをするのであって、理解率が3分の2以下であれば、生徒が反省する前に教師が反省しなければならない。というより、指導要領の作成者が悪い。結論はそれしかないはずだ。

しかも大事なことは、「算数は理解の積み重ねが重要な科目」なのだということである。だから、この1年でついた差は取り戻すことができないまま固定化され、年とともにどんどん拡大していくことになる。人的資源の確保という観点から見れば、とんでもないムダの発生をもたらしていることになる。

そのことに気づいていながら、過去数十年にわたり、まったくなんの問題意識も持たない、どうするんだ。

これでは選別のための選別である。小5の算数の授業計画に落とし穴を作って、そこで17%の生徒を競争から脱落させる。たとえそこでかろうじて踏みとどまっても、そのつっかかりがボデーブローとなってやがて脱落していくものもあるだろう。

競争社会である以上、何らかの選別はつきまとうしかないのだろうが、このような形で競争に決着つけるのはどうも腑に落ちない。

とりあえずは、なぜそこでつまづく子がいるのか、しっかり原因を突き止めて、手立てを立ててほしいものである。

というより現場の教師は分かっているはずだ。おそらく次々と落ちこぼれていく子を前に地団駄を踏んでいるはずだ。なぜならそれは自己否定でもあるからである。

かつて水道方式とかをふくめて優れた実践経験があるはずだ。一度自分なりにレビューしてみたいと思う。

11日の日経3面に「アリババと政府 緊張なお」という記事が掲載された。

アリババそのものには興味はないが、習近平の締め付けの第一波=党幹部の粛清に続いて、今度は経済界に粛清の波が広がっていくのか?という関心はある。

このたび中国政府がアリババ集団に対して3千億円(日本円換算)の罰金を科した。昨年の第1四半期純利益の12%に当たると言うから、額としては驚くほどのものではない。

問題は罪の中身で、「独占禁止法違反」というものだ。これはまったく政策転換というほかない。これまで政府はアリババを支援して巨大化を促してきた。いわば政府が率先して独禁法破りをしてきたことになる。

さらに独禁法の適応がアリババを狙い撃ちして行われていることも明らかだ。最近、テンセントやバイドゥにも罰金刑が課せられているが、最大でも数千万円にとどまっている。

なぜアリババが習近平に狙い撃ちされたか。日経特派員は3つの理由を上げる。

一つは本業におけるテナント(出店者)への締め付け、つまりは下請けいじめだ。今回の独禁法違反は主にこの点に関わっており、極めてわかりやすい。
だが、日経記者は「これは表向きの理由だ」ととる。

第二は、アントグループの暴走だ。アントはアリババの設立した金融企業である。普通の銀行とは違い直接預金を扱うのではなく、融資を銀行に仲介し手数料を取るという仕掛けになっている。このため銀行法や各種金融関係法令の支配を受けない。

さらにアントが注目されるのは、最大のスマホ決済サービス・「アリペイ」を保有していることだ。これを通じて膨大な庶民キャッシュのフローの主流を把握している。

その「事実上の集金力」は金融業界に大きな影響力を発揮し、ひいては国有銀行を含む既存金融のガバナンスを脅かすものとなっている。

第三の理由は、かなり生臭いが、江沢民を先頭とする上海閥への攻撃という意味合いも持っているとされる。来年の党大会で無期限の終身指導者になることを目指している習近平にとっては、上海閥はぜひとも抜いて置かなければならない棘であろう。

これら3つの理由を考えると、習近平はかなりの決意を持ってアリババ潰しにかかってみるべきだろう。今回の賠償額は少ないが、引き続き第二、第三の矢を放ってくると考えておいたほうが良さそうだ。



グーグル・ドライブというのがあって、名前を聞いてもピンとこないが、オンラインのOCRソフトである。


最初から脱線。「読み取り革命」の悪口

以前からOCRでは悩んでいて、最初はプリンターについてくるOCRでやっていた。
これが役立たず、というか労多くして実り少なしだ。

思い余って有料の「読み取り革命」を購入したが、正直言ってクズだ。実に豊富なオプションが付いて煩わしいことこの上なし。なのに肝心の読み取り機能はただのおまけソフト以下、役立たずのおまけで値段を釣り上げているだけの、ほとんど詐欺まがいの代物だ。

それが数年前のこと、その後はオンラインソフトでかなりの読み取り力を備えたものがでてきて、例えばPDFだとlightPDFなどは結構使えるようになっていた。


しかしこのグーグル・ドライブの読み取り力は桁違いである。さすがはグーグルである。

以下、自分のための心覚えである。万人向けの解説としては宮尾範和さんの「のり部屋」というブログが親切であり、そちらに行かれることをおすすめする。

そこでもし突っかかるようなことがあったら、こちらも覗いてみると多少は足しになるかもしれない。

Google Drive への行き方

Google Driveはオンライン・ソフトでありダウンロードしてデスクトップに常駐してというものではない。

そこにたどり着くにはグーグル・クロムのスタート画面から階段を降りていくことになる。

つまらないことだが、グーグル・ドライブという住所はない。「ドライブ」という住所にグーグル・ドライブは格納されている。
グーグルドライブのあリ場所


Google Driveを開く

まずこの画面でビビる。
マイドライブ、クイックアクセスなど聞いたことのない言葉が並ぶ。
最初の画面

いろいろやってみた結果、これらは無視して構わないようだ。

やることは唯一つ。マイドライブと書いた字の横の逆三角を、左クリックすることだけだ。
そうするとポップアップが出てくるので、「ファイルをアップロードする」をクリックする。オンラインでの作業だから「開く」のではなく「アップロードする」になるのだろう。
マイドライブの吹き出し

あとはいつものエクスプローラーでの作業と変わりない。アップロードが終わると、下の方の「ファイル」という字の下に写真が出てくる。


いよいよOCR変換へ

といっても、手技は至ってかんたん。あっけないほどだ。

アップロードされた写真の上で右クリックする。するとポップアップが出てきて、どう処理するかを聞いてくる。

上から二つ目、「アプリで開く」を選択するとさらに別の吹き出しが出てくるが、選択は唯一つ、グーグル・ドキュメントなのでこれをクリックする他ない。
グーグルドキュメントへ
これで作業が始まる。多少の時間がかかる。

しばらくすると、別ファイルが立ち上がる。このファイルは上下2画面からなっており、上は最初の写真だ。そしてその下にテキスト化された文章が示される。


どう保存するか

私はこれまで通り、コピペしてテキストファイルにして保管している。

ワードやPDFでも保存できるようだ。

画像ファイル以外の形式は

文書のフォトコピーをそのままPDFにしたファイルとか、グーグルブックスの文書などはどうなのか、まだわからない。

そのうちぼちぼちと手掛けることにしたいが、とにかくこの手の作業は我ら高齢者には応える。
 

岩岡千景「鳥居 セーラー服の歌」
(拾った新聞で字を覚えたホームレス少女の物語)

こんな本を図書館で見つけて、つい読んでしまった。すごい迫力で、活字だから読めるけど、声に出して聞かされたら逃げ出したくなるでしょう。

ただ、それだけではだめで、作品としてもすごいのだ。それが一番なのだ。

それで申し訳ないが、岩岡さんの文章を一回置かせてもらった上で、埋め込まれた作品を取り出して、ばらして、半分位に絞って、ジャンル的にまとめ直した。
これだと彼女の歌の力が直接わかってもらえるのではないだろうか。
鳥居


自殺した友

消えた子の 語らざる声
とつとつと
指紋少なき 教科書にあり

あおぞらが 妙に乾いて
紫陽花が あざやか
なんで死んだの

真夜中の
樹々は切り絵に なりすまし
もう友のない 我にやさしい


養護ホームの生活

先生に 蹴り飛ばされて 
伏す床に
トイレスリッパ 散らばっていく

理由なく 殴られている
理由なく トイレの床は
硬く冷たい

まっさきに
夜明けの風の 宿る場所
屋上階に 旗はそよぎて

灰色の空 見上げれば
ゆらゆらと
死んだ眼に似た 十二月の雪

虐げる人が 居る家なら
いっそ 草原へ行こう
キリンの背に乗り


自殺した母

いつの日も
空には空が ありました
母と棺が 燃える 
真昼間

お月さま 
すこし食べた という母と
三日月の夜の 坂みちのぼる

対岸に 灯は点りけり
ゆわゆわと 泣きじゃくる我と
川を隔てて

全員が 花火の方を 向いている
赤・緑・青
それぞれの顔


授業

慰めに
「勉強など」と 人は言う
その勉強が したかったのです

音もなく 涙を流す 
我がいて
授業は進む
次は25ページ


心を病んで

キッチンの 蛇口の上で
首絞めて
逆さに 吊るし上げられた花

あいつらと 同じ血が
流れているなんて
ぞっとするだろう

夜の海に
君の重みを 手放せば
陶器のように 沈みゆく 首

セパゾンを
コートに 多く 隠し持ち
「不安時」の 文字
見られぬように

心とは
どこにあるかも 知らぬまま
名前をもらう 「心的外傷」


自殺を考える

これからも
生きる予定の ある人が
三か月後の 定期券買う

つらいこと ばっかりで
なぜ生きないと いけないのか?

書きさしの遺書 伏せて眠れば
死をこえて 会いにおいでと
紫陽花が咲く

すてきな夏服を もらったから
夏まで 生きてみよう
(太宰「晩年」より)



この文章を書いたあと、すこしネットで関連文献を探してみた。

それで見つけたのがこの文章。
式守 操 さんのHP(2020-09-26)から

あらためて感じたのは、私の読んだ本は、あくまで岩岡千景さんの著作、「鳥居 セーラー服の歌」であるということ。

式守さんの読んだのは鳥居の著作だ。これはどうしようもない。式守色をできるだけ取り除きたくて細工したが、やはりそれでは外形的にしかわからない。

例えば友達の死の瞬間を見つめた以下の三首。
カンカンと 警報知らす音は 鳴り続けて 友は硬く丸まる(紺の制服)

硬い線路を 脈打たせつつ 配管をめぐらす 鉄の車体近づく(同)

ぐんぐんと 近づいてくる 急行の灯りは 鉄の暴力となり(同)
これを除外した岩岡さんの意図はわからぬでもない。目を背けたいほど、脳みそが崩れてしまうほど生理的につらい。多分、人格が裂け、心が体と別れ、自分でないものが心を支配する、憑依的な精神現象が起きているのであろう。

同じことが、服薬死を遂げた母を、死の現場で見つめ続ける三首にも言える。
花柄の籐籠 いっぱい詰められた カラフルな薬 飲みほした母(キリンの子)

冷房をいちばん強くかけ 母の体は すでに死体へ移る(曲がり角)

いつまでも時間は止まる 母の死は 巡る私を 置き去りにして(同)
とりあえず、これ以上の引用は文意が崩れる。直接式守さんの文章を読んでほしい。
あと、ちょっと…、多くの歌を読み込んでいると、文体の揺れが気にならなくもない。


2021年4月10日 “Scroll.in” India
Nandita Haksar
勇敢なシン・アウンへのオマージュ

シン・アウンは “Mizzima news” の共同創立者である。かつて彼女はインドで15年の亡命生活を送った。ミャンマに戻り活動していたが、一昨日、勾留された。

シン・アウン

ミャンマーの市民的不服従運動の画像を見ると、全国の町の通りに何十万人もの人々が押し寄せる壮大な抗議が見られる。

しかし大事なのは、そこにいる一人一人、旗を掲げる一人一人、三本指の敬礼をする学生たち、民主主義のために歌を歌う十代のわかものが、それぞれの勇気の物語を持っていることを忘れがちだ。

すべての抗議者は、自分が直面している危険を知っている。彼らは彼らの友人が撃たれて殺されるのを見た。人々は毎日逮捕され、拷問されている。

だから彼らは、逮捕、拷問、監禁が現実的な可能性であることを知っている。それを覚悟した上で、残忍な軍事政権のもとで民主主義のために戦うと決めるのだ。

そのような堅く団結した民主的な人々の中に、鋭い知性と、信念にもとづく勇気をもって働き続ける女性、シン・アウンがいる。


必死の電話がけもむなしく

シン・アウンは4月8日の朝に姿を消した。友人たちは彼女がどこかに隠れているだろうと期待していた。しかし、ついに彼女が軍隊に捕まったことを知った。彼女は現在、尋問センターで拘束されている。

軍事政権は彼女を捕らえただけでなく、彼女のすべてのものを破壊し奪った。

4月9日、彼らはアパートを襲撃しすべてを奪った。これにはインド亡命中に蓄えた資料すべてが含まれていた。そのコンピューターには彼女のメディア活動の歴史が保存されていた。

それから彼女の車とお金。彼女の個人銀行口座の預金、彼女が管理していた会社の口座のお金を押収した。ヤンゴンにあったシンアウンとの財産はすべて持ち去られたか、破壊された。


この虚弱な女性はなにものか?

ミャンマーの軍事政権にとって、彼女は重大な脅威であった。その理由は、彼女が虚弱な体にもかかわらず、決してくじけることのない強い精神力をもっていたからである。

33年前の1988年、ビルマで国民蜂起があった。そのときシンアウンはまだ学生だった。彼女はそれまで政治に関与したことはなかったが、何百、何千人の “普通の人たち” と同じように抗議行動に参加した。

その後シン・アウンは著名な活動家となり、軍のターゲットとなった。ある日彼女はインドの国境を越え亡命した。そのとき彼女は若く、弾圧がいつか終わり、国民民主連盟が権力を握ると確信していた。15年間も亡命しなければならないとは、思いもしなかった。

亡命学生たちは、国連難民高等弁務官事務所の証明書以外に身分証明書を持ってなかった。シン・アウンは、苦労の末インドの大学に進み、経営学コースで学位を取得した。彼女はこのキャリアを抵抗の組織で活用した。

シン・アウンは「BBCインド」で働きはじめた。そしてさまざまな政党や組織、幅広い進歩的な人々を識った。

インドではソエミントにも会った。彼はビルマ学生運動の英雄であり、非暴力的な手段で飛行機を乗っ取り、世界の人々にビルマの窮状を訴え、注意を向けさせた。

1998年、インドにいたシン・アウンとソエミントは、共同で “Mizzimaオンラインニュースサービス” を創設した。それは独立系報道の主要な情報源に成長した。

さらにシン・アウンは、ビルマの女性の組織化にも深く関わった。彼女はビルマ婦人連盟に加わり、それをビルマ国内少数民族を巻き込む運動に育て上げた。


市民権を取り戻す

2012年、民主化が実現すると、シン・アウンとソエミントはミナマールに戻り、ミャンマー市民権を取り戻した。それは彼らが何よりも大切にしていた市民権だった。

二人は多くの人々が第三国に定住する手続きを助けたが、自分たちは第三国定住のすべての申し出を拒否した。それは彼らが祖国へ強い愛情をもっていたしるしだった。

ミャンマーでは、8.8.88世代が畏敬の念を持って見られている。この間の軍事政権から民主主義への移行の過程において、二人は重要な役割を果たし続けてきた。 ソエミントは軍政時代に実行したハイジャック事件で裁判にかけられたが、彼女は冷静さを保ち、ひるむことなく支援し続けた。

シン・アウンの体調が不良となる

 シン・アウンは最近になって体調を崩し、精力的な活動はできなくなった。彼女は体調に合わせゆっくりと着実に物事を進めていた。

今年2月、クーデターが起こったとき、彼女はすでにミジマ通信社の経営を譲っていた。軍事政権がミジマ通信社の営業免許を取り消したとき、シン・アウンはすでに社員でさえなかったのだ。

ビルマ婦人連盟は、いまもシン・アウンの解放を訴え続けている。彼女はジャーナリストであると同時に、女性の権利活動家であり、なによりも優れた女性である。

彼女にはどんな状況にも耐える勇気と力があることを私は知っている

マヤ・アンジェロウの詩「スティル・アイ・ライズ」はシン・アウンとミャンマーの勇敢な女性のために書かれたものである。
“軍部の皆さんへ”
あなた方は私を歴史に書き留めることができます
あなた方の苦くねじれた嘘で、
あなた方は、私をほこりだらけの場所に投げ込み
踏みにじることができます。が、
それでも、ほこりのように、私は立ち上ぼるでしょう。

違和感を覚える「国民統一政府」構想

軍により追放されたスー・チー派国会議員を中心に、「国民統一政府」が構想されているようだ。

代表のミン・コー・ナイン氏は、国民の意志が挙国一致内閣の優先事項であると述べた。

そして民主化運動と自治を求める少数派コミュニティの間の目的の統一を強調した。

そして少数民族のメンバーと抗議指導者を含む役職者のリストを発表した。

スーチーは国家顧問としてリストされた。この件で彼女とは連絡が取れていないが、彼女は何が起こっているのかを知っていると確信していたと述べた。

主な目的の1つは、国際的な支持と認識を獲得することである。

国際協力大臣であるササ博士は、こう語る。
私たちは民主的に選出されたミャンマーの指導者です。だから、自由で民主的な世界が私たちを拒絶するなら、それは彼らが民主主義を拒絶することを意味します。
米国などの国は、ベネズエラの現政府を違法と判定し、野党指導者フアン・グアイドをその国の合法的な指導者として認めました。同じようにわたしたちも承認されるべきです。
元国連大使を含む国際的な専門家グループであるミャンマー特別諮問委員会は、NUGの創設を歴史的なものとして歓迎し、それは合法的な政府であると述べた。


これが目下わかっている情報である。これではバチェレ国連人権担当官が恐れる国際勢力の巻き込みと、「紛争のシリア化」というシナリオそのものではないか、と危惧する。

闘いの目標は「人権」という抽象的命題にあるのではない。軍による虐殺という事態を中断させること、虐殺が当然のこととして許されるような無法状態を停止することだ。
決して軍の転覆でも「市民革命」でもない。まして欧米流の人権尊重社会を作ることでもない。
そのためには当面どうしても軍との妥協が必要になる。
選挙方法の再検討は必要であり、とりあえずインパニッシュメントは保障しなければならない。非武装の市民を虐殺したことについての真相究明は必須である。
サスペンス映画ではないが、追い詰められた犯人が人質を盾に立て篭っている。彼らにどのように銃を置かせるかの問題だ。
大事なことは、この妥協が88年以来の戦いの歴史の中で明らかな前進となることの確認だ。この妥協は軍部のお恵みではなく、闘いの中で勝ち取った確実な前進となる。
この妥協を少しでも実りあるものとするためには、ミャンマーに影響を及ぼすすべての国の意思統一が必要だ。はっきり言えば中国と日本が合意し、和平の枠組みを提起する。ASEAN諸国は当事者として作業の進展を支える。こういった構図が必要となる。
出口と展望を示すことが、なによりもミャンマーの民衆を鼓舞することにつながると思う。

繰り返すがこれを人権問題に絞り込む発想、軍部主敵論、米中対立の地政学、経済制裁一辺倒の北風政策は問題解決にならない。中長期の課題は明確に分けながら議論をしていくべきである。
そこに日本の出番があるのだろうと思う。



ミャンマーの「元旦」にあわせ抗議者が集結
4月13日

ヤンゴン(AFP): 13日はミャンマーのティンヤンの新年祭であった。
人々は祝祭の集いに集まり、伝統的な土鍋に民主化のメッセージを書いて、花を盛りました。
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ミャンマーの文化の中心地であるマンダレーでは、人々は鍋や花を金色の仏舎利塔に置き、レジスタンス運動の象徴となった三指の敬礼を示す標識を付けました。

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「モロトフジャーナル」を地下出版
4月13日

ヤンゴンでは、当局は、オンラインと印刷物の両方で全国に流通している「モロトフ」というタイトルの地下ニュースレターの責任者を捜索している。

この出版物は、進行中のインターネットの停止と情報の抑制と戦うために若い活動家のグループによって始められた。

当局は「モロトフジャーナルは違法に発行されており、関係者や発行を支援する人に対して法的措置が取られるだろう」と述べている。

軍事評議会は意見表明に対する規制を一段と強化した。俳優や歌手を含む200人の有名人にたいし、「反軍宣伝に加担した」として逮捕状が発せられた。

有罪判決を受けた場合、彼らは3年の懲役に直面することになる。



抗議する医療従事者に発砲
4月15日 マンダレー

医療従事者による反対行動に治安部隊が発砲し、1人が死亡、数人が負傷した。

BBCのビルマ語放送によると、医療従事者が第2の都市マンダレーで反対行動を行った。すぐに軍隊が到着して発砲し、一部の人々を拘束した。

BBCやその他の報道機関は詳細を報道していないが、Khit Thitメディアは付近の寺院敷地内で男性が射殺されたと述べた。

匿名の住民は、「ここには抗議行動はなかった。兵士たちがやって来て、誰かを探しているようだった」と、電話で言った。
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人々は民主主義の回復をもとめ毎日街頭に出ています。写真:AFP
ビルマ政治囚支援協会は、クーデター以来、治安部隊が715人の抗議者を殺害したと報告している。さらに現在も約3,000人が拘束されている。

ミシェル・バチェレ国連人権担当官は、「ミャンマーの状況が本格的な紛争に向かっているのではないかと心配している。シリアなどでの過ちが繰り返されてはならない」と述べた。




「歴史」ブログの独立を完了しました。下記の表をクリックすることで、該当するリンクに飛べるようになっています。( )内はカテゴリー内の記事数です。
おかげでこのブログは10日間もご無沙汰することになってしまいました。
一応アプリを使って完全撤去したつもりでしたが、見直してみるといくつか抜けていて、逆にこのカテゴリーではないものも混じっていました。多少のエラーは眼をつぶることにします。
独立して一番良いのは細かいカテゴリー分けができて探すのが容易になったことです。もう10年も立ちましたので、その間に知識の発展もあり、その変遷も辿れるます。まぁこれは自分だけの感慨ですが…

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2021年4月3日(土)

2021年4月3日(土) 「赤旗」
キューバ大使と緒方副委員長が会談

私は見逃していたのですが、友人に教えられて読みました。なんともコメントのしようがないので、皆さんへの周知を促しておきます。(と言いつつコメントしてしまった)
注目すべき点のみゴシック表記しておきます。

 日本共産党の緒方靖夫副委員長・国際委員会責任者は2日、党本部で、ミゲル・A・ラミレス駐日キューバ大使の訪問を受け、会談しました。

 緒方氏は最初に、ラミレス大使の一昨年11月の着任に祝意を述べ、党本部訪問を歓迎しました。

 大使は、新型コロナウイルスとのたたかいやワクチン開発、二重通貨の一本化に進んだ経済改革、4月半ばのキューバ共産党第8回大会、不当な締め付けを強化する米政権の政策などキューバをめぐる情勢と課題を説明しました。

 この機会に、大使はキューバ共産党のレジェス国際部副部長からの緒方氏宛ての手紙を手渡しました。

 緒方氏は大使の詳細な説明とレジェス氏の手紙に感謝し、その中で表明されている両党関係を発展させたいとの意向に基本的に賛成すると応じました。

 さらに、複雑な国際情勢のもとで各党には独自の立場があり、意見の違いがあるのは当然だと指摘。それを含めて対話を維持することが大事だと強調しました。

 大使は、さまざまな問題があっても対話していくことに賛意を示しました。

 両氏は、対話を続けていくことにしました

 会談には、松島良尚国際局員とクラウディオ・モンソン一等書記官が同席しました。



                 
  医師・作家 マ・ティーダ
  き き て 道 傳  愛 子

本日朝、教育テレビで放映されたマ・ティーダさんのインタビューを見て感動しました。
途中からだったので全編見たいと思いましたが、ネット検索したところ、上記サイトに全文が掲載されていました。ここでは少しでも多くの人の眼に触れてもらうために、宗教的内容に触れた部分を割愛し、要約のみ紹介させていただきます。それでも十分に長い。覚悟はしてください。

マ・ティーダさんの経歴

ナレーター:  去年十二月、国際交流基金アジアセンターの招きで、一人のミャンマー人が来日しました。マ・ティーダさん。外科医として貧しい人々の診療にあたり作家としても活動してきた女性です。
マ・ティーダさんは、ミャンマーの軍事独裁政権に抵抗する民主化運動で捕らえられ、およそ六年間の獄中生活を送った方です。
ミャンマーが、まだビルマと呼ばれていた時代、学生や僧侶をはじめ数多くの市民が民主化を求めて立ち上がりました。運動の広がりを恐れた軍は、武力で鎮圧に乗り出し、抵抗する人々に向けて次々と発砲。数多くの死傷者を出しました。
ナレーター: その後、クーデターによって全権を握った軍の支配は続きました。マ・ティーダさんは、当時外科医を目指す医学生でした。軍政批判を続けたアウンサンスーチーさんと共に抵抗運動を続け、一九九三年に逮捕されます。懲役二十年の刑でした。
獄中では、病気になっても適切な治療が受けられず、重い子宮内膜症になるなど過酷な日々を送りました。



マ・ティーダさんの獄中生活 

ティーダ:  狭い独房に入れられた私は、読み書きも許されず、友人や親戚、仲間たちと連絡もできませんでした。世界の全ては3.6メートル四方の御独房で、あれもこれも禁止されました。
そこで私は毎日二十時間近く瞑想を行いました。それにより、とても深く自分自身を見つめることができました。そしてやがて、私の自由は、刑務所でも奪えないと分かりました。

道傳インタビュアーの導入

道傳:  バンコク駐在の特派員になってから、私はミャンマーの民主化を取材してきました。マ・ティーダさんと知り合ったのは、二○一三年のこと。以来五年間、親交を重ねてきました。
今回の来日にあたり、獄中生活の支えとしたご自身にとっての仏教とは何か。それはどのような生い立ちの中で育まれたものなのか、聞きました。

道傳:  マ・ティーダさん、今日はありがとうございます。
ティーダ:  お招きありがとうございます。
道傳:  あなたは、ミャンマーで民主主義のため、文字通り闘ってきました。その人生に一番影響を与えたのは、どなたでしょう?
ティーダ:  両親です。母からの影響はとても大きいですが、一番は慈愛の心です。母は、誰に対しても真の思いやりがあり、早朝に三時間以上も祈っていました。
道傳:  遠い親戚の叔父さんが来て、家族と住むようになった話もありましたね。どういう経緯で? 彼は刑務所から釈放されたばかりだったとか?
ティーダ:  彼は民主化運動を支持する学生だったので、逮捕され、インセイン刑務所に入れられました。
釈放の時も、家族が出向いて連れ帰ることができません。そこで私の父が我が家に連れてきました。彼はひどい病気でした。すごく痩せていて、肌からは、小さな虫が湧き出していました。
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父が教えた市民精神

ティーダ:  父は、なぜ彼が逮捕されたか。それがどういうことなのか説明し、とても辛抱強く、彼の傷の手当てし、面倒を見ていました。
実は父は医師になりたかったのですが、第二次世界大戦で、両親を亡くし、医大に行くお金がありませんでした。
父もまた私に大きな影響を与えました。父の方が私よりずっとリベラルです。私にとって、父は、ミャンマーの完璧な市民でした。
父は、シャン族と中国人の混血で、母は、モン族と中国人との混血です。多くの血が混ざっています。父は、私たち子どもたちに、市民としての精神が、民族の誇りより、いかに大事か教えてくれました。有名でもリーダーでもないけれど、父こそ私のお手本であり、市民の手本だと思っています。

リベラルであるということ

道傳:  お父さんは、リベラルだったとおっしゃいましたね? あなたよりも?
ティーダ:  私たちの文化には、古臭いところがあります。たとえばビルマ人は通常、男性と女性の下着を一緒に洗わないのです。しかし、父は、そんな伝統には従いませんでした。「どっちも同じ布だろ」と言っていました。そのように、父はいつもリベラルで、無意味な伝統に従わず、合理的に行動しようとしていました。

両親と

医学生から活動家に

ティーダ:  父方のいとこが何人かシャン州にいたので、ほぼ毎年、夏に行きました。ある地域には電気もなく、どんな生活をしているか分かりました。私たちのヤンゴンでの生活とはかけ離れていて、私は、彼らのことがとても気になりました。
それで、私は幼い頃から、どうしたら助けを必要とする人々の力になれるか、いつも考えました。
道傳:  しかし、思いやることと、実際に行動することは違いますよね。医学生として、民主化運動に参加することを決め、なぜ行動し、立ち上がろうと思ったのですか?
ティーダ:  立ち上がるということではありません。ちょっと助けたいような気持ちです。自分を英雄と思ったこともありません。
チャップリンの映画に、こんな話がありますね。彼は、どこかに向かい、走っていたと思います。そして、彼を追って、他の人もみんな一緒に走っていました。誰かが「止まれ」と言い、全員一列になって止まりました。そして、誰かが、「勇敢な者は一歩前に出よ」と言いました。チャップリンは、動かずにいたのですが、他の人たちが一歩後ろに下がってしまった。
ですから、私は刑務所にいた時も、こう言っていたんです。「自分は動かずに立っているのに、周りが後ろに下がるのです」と。それで私が「勇敢な者」になってしまう。英雄などにはなりたくありません。それだけのことです。
道傳:  しかし、社会が何か間違っていると感じていた?
ティーダ:  もちろんです。電気がない、良い道路もない状況で生きている人々を知っていたので、、社会はどこか間違っていると思いました。
また、私には恐怖もありました。私が恐れたのは不正義を許し、受け入れてしまうことだったのです。

1988年の民主化闘争

ナレーター:  一九八八年三月に始まった学生による反政府デモは、八月になると呼びかけに応じた一般市民や僧侶などにも広がり、大規模な民主化運動に発展しました。当時母親の看病のため夫の母国イギリスから帰っていたアウンサンスーチーさんは、民主政権の樹立を訴え運動の象徴的な存在となります。
アウンサン・スーチー:  私が国外で生活し、外国人と結婚しているのは事実です。しかし、祖国への愛と献身は、過去も未来も揺らぐことはありません。独立の父アウンサン将軍の娘として、この闘いの先頭に立ちます。この闘いは第二の独立闘争です。
民衆:  規律を守って闘おう! 規律を守って闘おう! 規律を守って闘おう!
ナレーター: しかし、翌年、スーチーさんは自宅に軟禁されます。軍は選挙で彼女が率いる国民民主連盟が圧勝しても、政権を譲ろうとはしませんでした。
当時多くの政治犯が収監されたインセイン刑務所。スーチーさん軟禁後も抵抗を続けたマ・ティーダさんが、逮捕され送られた場所です。一九九三年、二十七歳になろうとしていた頃でした。

アウンサンスーチーの側近となり、そして逮捕

道傳:  アウンサンスーチーさんとは、どのようにして知り合われたのですか?
ティーダ:  当時、私たちはストをし、毎日デモをしていました。そのとき、アウン「サンスーチーさんのアシスタントにならないか」と誘われたのです。
その時は断りました。誰か一人のために働く気にはなれなかったし、また当時は結構、彼女に否定的な感情もありました。「ずっと私たちの国から離れていたのに、今になっていきなり現れて」と。それが最初に思ったことだったんです。
しかし、彼女の演説の語り口からその心情が十分伝わってきました。口だけではなく、心からだと。
ティーダ:  私の仕事は彼女とスタッフの健康をケアすること。もう一つ、すべての報告やデーター収集、メモの作成などをしなければなりませんでした。
道傳:  逮捕されたときには、何をしていたのですか?
ティーダ:  私は外出中でしたが、自宅の前で張られていました。そして家宅捜索され、「探し物をするだけだ」と言われ、部屋や本を調べられました。
そして、治安秩序の侵害で七年、違法組織との接触で三年、違法印刷物の発行と配布に各五年、合計で刑期二十年の刑です。

刑務所での生活と瞑想

道傳:  刑務所での一日は、どのようなものでしたか? 決められた日課など、朝は何時に起床とか?
ティーダ:  朝とても早いです。私たちは食事の時間を待ちました。でも与えられるのは、味のないお粥だけです。そんなまずいお粥とお湯が一杯だけでした。
二週間に一度の両親との面会の時、食べ物を差し入れてもらいました。ですから、食べ物は家族の差し入れが頼りでした。夕方になると、独房の外に出て、歩く時間が十五分与えられました。それ以外の時間は独房の中に。それが五年六ヶ月六日の生活です。
道傳:  二十代三十代の頃と言えば、本をたくさん読んだり、友人に会ったり、海外旅行したり、経験を積み自信をつけたり、そういう機会をすべて失ったのですね?
ティーダ:  そうです。でも刑務所で、私が最も恐れたのは、本が全く読めなくなることです。当時は本を読まないと、罪を犯しているようで、とても辛かったのですが、私は「ヴィパッサナー瞑想」で自分を読むことができたのです。これで心が解放され、本がなくても気にならなくなったのです。
以下中略

宗教はアヘンか?

道傳:  私が、軍事政権時代のミャンマーを取材していたとき、多くの人がパゴダに行って参拝し、寄進し、とても熱心に祈っているのを見ました。現世より来世が良くなるようにと。
現世には全く希望がないから、支配や政治の問題を問わずに、現世をあきらめ、来世に期待しようと自分に言い聞かせる。このような考え方は、軍事政権にとっては非常に好都合だったでしょうね?
ティーダ:  はい。独裁者たちによって、社会がそのように形作られてきたのです。宗教指導者の中には、社会を良くする方法が分からないため、目的をそらす人たちがいます。
私は、ブッダの教えとは、自分自身を教化することだと思ってきました。祈ったり崇拝することで、許されるとか、何か得られるとか、徳が積まれ救われるとか、豊かになるとか、これはブッダの信仰のあり方ではありません。
私は、現世で自由になりたいのです。来世までは待てません。いつも現世こそが、私にとって最上の恵みだと感じています。

釈放後の生活 医師として文筆家として

医師として

ナレーター:  釈放後、マ・ティーダさんは医師になり、ムスリムの人々を無料で受け入れる病院で働きました。
その後は慈善病院にもボランティアとして勤務。貧しい生活で医療費を払えない人やさまざまな宗教の人と向かい合ってきました。
私がミャンマーを訪ねた時、マ・ティーダさんは、医師としての仕事と共に、文筆家として雑誌や新聞の編集にも力を注いでいました。自分で考え行動する。その土台となる情報や知識を、みんなで共有することが、民主化に必要な第一歩だと考えたので。
「木霊(こだま)」という新聞の編集責任者を務めるマ・ティーダさんは、冒頭に論説を掲げ、「国民の声を自由に響かせよう」と訴えています。若い世代に向けた月刊誌も編集。メッセージ欄を設け、検閲の廃止など表現の自由の大切さを伝えてきました。

社会からの同調圧力と排除

道傳:  二○一四年に取材したとき、あなたはムスリム無料病院で診療なさっていました。なぜムスリムの病院で診ることを選んだのですか?
ティーダ:  当時、反政府の医師である私を受け入れてくれる病院は、ただ一つ、ムスリム無料病院だけでした。
すべての政治囚とその家族は、政府や軍の諜報部だけでなく、社会にも差別されました。多くの人が私たちを避け、かなりの距離を取りました。
釈放された政治囚とその家族は、治療を受けられる場所がありませんでした。ムスリム無料病院は、その唯一の場所だったのです。
道傳:  これはあなたに、今まで話さなかったことですが、私がヤンゴンの人々に、あなたのことを聞いたとき、あなたが、ムスリム無料病院で患者を診ていることを、快く思っていない人たちがいました。
私は驚き心配になりました。人々が、民主主義や包容力のある社会について語っていた時に、まだ少数の人たちが、ムスリムを診るべきでない、というような話をしていたので、なぜだったのでしょう?
ティーダ:  人々は今、独裁や軍事政権とは別の恐れがあるのかもしれません。仲間内で圧力をかけ合い、その圧力への恐れが広がっています。
そのような同調圧力を受けた人々は、私がムスリムのような「異なる人々」に奉仕するのは間違っていると考えるのだと思います。
道傳:  それはどんな「恐れ」でしょうか?
ティーダ:  私たちの社会には批判・中傷が飛び交っています。人々はそれを非常に恐れています。
私はいつも、自分の責任の主体は、自分自身だと考えているので、十分な支持がなくても、批判されても、自分でいられるのだと思います。

文筆活動の展開方向

道傳:  一方で、あなたは、作家としても非常に活動的ですね。今はどんなメッセージを?
ティーダ:  「インフォ・ダイジェスト」に取り組んでいます。毎月一つの問題を取り上げ、事実や数字、図表情報を載せます。
独裁と闘うため、最も重要なのは知識、そして知恵なのです。しかし、十分な知識なくして、どうやって間違っていることを指摘し正せるでしょうか? 

表現の自由が民主主義の基本

道傳:  なぜ発言したり人の話を聞くことは、民主主義の過程で重要なのでしょう?
ティーダ:  「表現の自由」こそ鍵で、他の権利にも関わります。表現の自由なしに、他の権利を確立できるでしょうか。かなり難しいです。
道傳:  表現の自由が、逆にヘイトスピーチ(憎悪表現)を惹起することもあると思いますが、どう考えますか?
ティーダ:  ミャンマーでは、いまだに多くの人が、民主主義と自由を区別できません。
人々は、自由を味わったことも、自由を行使する権利を持ったこともありません。ですから、自由をよく理解していないのだと思います。
少しの自由を得ると、その自由を行使したくなるものです。しかし使い方を理解していないので適切に使うことができません。自由を行使する際に他者のことなど気にしなくなります。自由な言論だと思っていることが、ヘイトスピーチになっていることを知らないのです。
ですから、他者の権利を擁護できないと、表現の自由という権利が確立されたことにはなりません。
道傳:  民主主義にとって重要な前提ですね。

表現の自由と情報公開

ナレーター:  マ・ティーダさんは、「表現の自由」の問題と共に民主化にとって大きな壁となっているのは、情報の閉鎖性だと考えています。
ミャンマーではいまだにあらゆる情報が軍によって管理され、軍を通してしか伝わらないのが現状だと報告しています。そして事実を報道しようとするジャーナリストが、危険な状況に置かれていると訴えました。
ティーダ:  一年半ほど前、ワという地方で、戦闘がありました。取材に行こうとしたジャーナリストが、軍に「死刑を含む軍法を適用する」と脅迫され、取材できなくなりました。
紛争が起きている場所や危険なところに赴いて、取材しようとするジャーナリストの安全が確保されなければ、国民はいったいどのようにして事実を知ることができるでしょうか。
私はこの正しい情報を得る「知る権利」について尽力しています。政府は、一次資料を出すべきです。国民は、その情報にアクセスできる権利を持つべきです。そうすれば、国民はそのデータから直接事実を知ることができます。情報を操作されるようなこともなくなるでしょう。

ロヒンギャ問題を民主化への糸口へ 

ナレーター:  今、ミャンマー西部ラカイン州のイスラム系の人たちをめぐる問題が発生しています。彼らはロヒンギャと呼ばれていますが、その多くが迫害され、難民となっています。
マ・ティーダさんは、この問題で、非難の応酬ではなく事実を明らかにすることが、ミャンマーの真の民主化への糸口になると考えています。
道傳:  ミャンマーの最近の課題に、ロヒンギャの人々に関する問題があります。これは、ミャンマーの民主主義にとってひとつの試練となっていますが、どんな試練なのでしょうか?
ティーダ:  この問題は、私たちの過去と深く関係しています。
情報が欠如しています。そのため、現在の問題が何かがわからないのです。外国メディアと国際社会も、情報の欠如に苦しんでいます。そのため人種と宗教の歴史などの文脈を、深くは掘り下げられないでいます。
私たちは、外国メディアも、国内の政府メディアも信じていません。それは歴史を通して経験してきたことです。信頼できる情報は圧倒的に不足しています。全体状況を詳しく知ることができません。

情報不足は問題を過度に単純化する

多くの人は情報が不足した状況では、問題を過度に単純化してしまおうとします。それでとても考えが足りない、単純なコメントを出します。しかしそれは現実と違います。
いまだに多くの人が、チッタゴン丘陵地帯で、何が起きているか知りません。そこに暮らす仏教徒の少数派が、暴力的な扱いを受けていることなどについても知らされていません。
道傳:  あなたは、罪ある強者から、罪なき弱者に、罰が転嫁されると書いていました。
人々が状況に対して怒っているけれど、どうすればいいか分からない。そういう状況があって、そんなときに怒りを強者に向ける代わりに、弱者を攻撃する傾向があるかも知れません。これはミャンマーで起きていることの説明の一つになるでしょうか?

ティーダ:  そう思います。ですから、国民の和解と和平のためにも、もっと真実を明らかにして行かなければなりません。
それを抜きにして「もう前に進まないといけない。過去のことは忘れろ。権力者の過ちとか、誰が正しいかは放って、何もしなくていい。とにかく前進するのだ」と言うのではうまくいきません。
私たちは、学び合い教えあうことで、社会に調和を取り戻そうとしていますが、それには時間がかかります。
道傳:  ロヒンギャの問題は、個別の問題として見るべきでなく、ミャンマーの民主主義にとっての試練だと言えますね? (ティーダさんはこの話題で、道傳さんと先進国メディアをえん曲に、繰り返し批判しているのだが、道傳さんには通じていないようだ)

ティーダさんとスーチーの相違点、共通点

道傳:  かつて、あなたはスーチーさんと緊密に動いていました。
ティーダ:  はい。短い期間ですが。
道傳:  では今、手を携え、一緒に働くのはどうですか?
ティーダ:  今、私は彼女と手を組んでいないとは思っていません。スーチーさんがそうであるように、私も私らしく、自分の国のために、何かしようとしています。それが助け合うことになると信じています。彼女のためだけでなく、社会のために。
道傳:  アプローチが違うということですか?
ティーダ:  そうです。私は自立していたいのです。私にとって一番素敵な言葉は「自立」です。ですから、皆のために道を作る意味でも、本当に自立していたいのです。
私たちは、他の誰かや政党に率いられるのではなく、全員一緒に目的地を目指さなくてはなりません。その基礎となるのが草の根の人々です。
彼らに力が必要です。私の目標は、私の国のすべての人が完全に自立し、基本的人権と相互理解と相互の尊重です。

ミャンマーに民主主義を

近影

ビルマ語には、「民主主義」の訳語がまだありません。人々は現実に向き合う準備がまだできていないのです。指導者か、政党か、誰か他の集団が、民主主義を運んで来てくれると、人々は考えていました。
自立していない人々は、多数派や力のあるところにいないと安心できません。安全のためだとして、武力やより大きな集団に頼ります。
人々はいつも、より大きなギャング(暴力的な権力集団)を求めているのです。それは自らの安全のためです。彼らはいつも自分たち民衆の力を過小評価し、いつも救世主を求め、より大きなギャングに繋がろうとするのです。
道傳:  今は、民主的な選挙で選ばれた政府がありますね。それでもまだ五十年間以上続いた軍政の負の遺産があるとお考えですか?
ティーダ:  現在の状況はクーデターの頃より悪いところもあります。軍事政権の時代には、権力には正統性がないと簡単に言えました。
選挙や憲法という過程を経た今、人々はわからなくなったのです。「2008年憲法」により、国軍司令官が内務省を統括することになりました。内務省は行政全体の最重要省庁ですから、軍が行政のほとんどを支配していることになります。軍事政権時代より軍の権限は強化されたのです。しかも合憲的に。
道傳:  独裁は必ずしも軍だけのものではないかも知れません。「非常に力強い権力」という意味で独裁を定義するなら。アウンサンスーチーさんにも、潜在的に大きな影響力があります。
厳しい言い方かもしれませんが、人々がそれに受け身になってしまって、「自分たちは深く考えなくていい」と思うようになるのでは?
ティーダ:  それもたしかに心配です。それを防ぐためにも、国のすべての人に、自立した存在になってほしいと思います。それが私の最終目標です。たんに民主主義や連邦制度ではなく、最終目標は「自立」です。

社会に広がる不寛容をどう克服するか

道傳:  なるほど。社会はより複雑になり、ミャンマー内外にも、不寛容が広がってます。宗教は、過激主義や不寛容の広がりに対して解決の手掛かりになるでしょうか?
ティーダ:  十年前の2007年に起きた「サフラン革命」に戻りましょう。あの時は僧侶たちが平和的な運動を率い、他の多くの仏教徒でない者たちも参加しました。かつて私たちの社会には、とても強い相互の調和があったのです。
いま私が強く望むのは、政治・宗教・社会の指導者たちが相互に大きな敬意を払うことです。それには間違いなく長い時間がかかります。でもそうしない限り変えていくことはできません。

 
     これはNHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものである

 

       

「経済制裁は反対派の助けになっていない」かも知れないというちょっと衝撃的な評論が出た。
「スクロール・イン」というインドの独立系のブログの 3月31日号に掲載されたもので、

Why economic sanctions against Myanmar may not help the cause of the pro-democracy protesters

This would allow the country’s military to brand domestic democratic activists as stooges of the West.

はじめに

2月1日の夜明け前の急襲で、軍部は再び国家権力の支配権を直接掌握した。

これはスウチーが徐々に軍事代表のポストを削減しようとした計画に対する拒否である。

ミャンマー軍部と中国

1970年代半ば、中国はビルマ共産党への支持を取りやめた。それ以来、中国はミャンマーに強力な足場を築いてきた。

ミャンマーは、北朝鮮やパキスタンと並んで、中国の3つの最も重要な戦略的パートナーであり、中国が失うわけにはいかない国だ。

民主化が実現しスウチーが政治的発言力を強めると、中国はスウチーを西洋のリベラルな偏見を持った、信頼できないパートナーと見るようになった。

彼らは自由民主主義が普及すれば、軍が政府の支配を失い、最終的にはミャンマーが西側諸国と連携することになるのではないかと恐れている。

そしてスウチーの改革を、軍の役割を完全に段階的に廃止する試みと考え、ミャンマーを中国の軌道から外すための第一歩と見なしている。

このため、中国は国際舞台での軍事政権の強力な防波堤となっている。


西側諸国は反軍運動の指導者となるべきではない

西側諸国は、ミャンマーの民主主義運動を支える方法として、より厳格な制裁を課すという古い戦術をとっている。

闘争のイニシアチブを握る地元の市民社会活動家もその考えに立ち、この呼びかけを繰り返している。彼らは主に社会の上層部に所属している。

そしてバイデン政権に対し、新たなより厳しい制裁を課すよう促している。

しかしミャンマーの歴史の中で、このような闘いが有効であった試しはない。

西側の政府は長い間、ミャンマーの権威主義体制に制裁を強要してきたが、一般の人々の苦しみを悪化させるだけだった。

軍の権威主義的支配はそのまま維持された。民主化運動家は西側のエージェントというレッテルを貼られ、民衆から孤立した。

同じことが繰り返されるなら、それはかえってミャンマーの抗議運動の障害になるかも知れない。

そして第三世界の救世主のように振る舞う中国とロシアの地位を引き上げることになる。


ミャンマーの民主主義は勝利できるだろうか?

数年前、世界の祝福を受けて民主的な改革・解放が始まった。そして先月はじめ、突然の終わりを告げた。それはすべての人々を激怒させ、大規模な反クーデターの闘いを引き起こし、これまでに少なくとも126人の殺害をもたらした。

しかし軍事政権に対する大規模な反乱はミャンマーでは目新しいものではない。ミャンマーの国民は独裁政権に対する反乱の長い歴史を持っている。

今までのところ、これらの繰り返されてきた激動は、勢力バランスを軍隊から民衆へと決定的にシフトさせることができていない。軍は常に力ずくでそれらを粉砕してきた。

しかし、ミャンマーの民主主義の未来は、現在の蜂起の成功にかかっている。

ミャンマーの軍事政権は、活気に満ちた民主主義の2つの基本的な柱である政党と市民社会を縛り上げてきた。

さらに、軍隊の組織体系は、人口のかなりの部分に権威主義の文化を教え込むことができた。フライン軍事政権の強固な基盤を提供するこの人たちは、多くのオブザーバーが理解できず無視してきた。

さらに最新の監視技術は、民主的な活動家を追跡することをより簡単にし、彼らが抗議を組織することをより困難にしている。


それでも運動は十分に強靭だ

それでも、現在ミャンマーで進行中の抗議運動は、強力で強靭である。その力の源は彼らの自発性だ。自発的であるために、特定の参加者を追跡することによってだけでは、動きを阻止することはできない。中央組織がないため、監視の目よりも優位に立つことができる。

リアルに考えて、間違いなく、平和的な抗議が軍事力に匹敵することはめったにない。しかし、運動が成長しているというのは間違いない事実だ。

その理由は簡単だ。あらゆる分野の人々が参加し、当局や関係者に市民的不服従に参加するよう促している。100人以上の逃亡した警察官がまさにそれを証明した。

街頭行動のみならず、山猫スト、任務放棄、不同意など多様な形態で人々の強固な意志が継続して示されることは軍事政権にとって致命的な打撃となる。

この傾向が続けば、ミャンマー国民は歴史上初めて民主主義に到達することに成功するかもしれない。1990年に隣国バングラデシュの人々が行ったように。

あるいは闘争は失敗し、直接の軍事政権が復活するかも知れない。

最悪そうなったとしても、政権を握った軍部は自らの権力基盤の維持を図らなければならない。そのためには、徐々に民主主義システムを再導入していく可能性がある。


ちょっと論旨がわかりにくい文章なので、私なりに読みを入れておきたい。

話としては2つある。

一つはこの闘いはミャンマーの民衆が闘うべき性質のものであり、民衆の頭越しに軍事政権を懲らしめようというのは、気持ちはわかるが、余計なお節介になるかも知れないということだ。

そういう上から目線ではなく、あくまで民衆の闘いを評価し、拡散していくこと、そのためにもっともっと学ぶことこそが連帯の基本に座らなければならないということだ。

もう一つは、ミャンマーの人々の闘いの強靭さにもっと確信を持ってよいということだ。人々は40年の間、屈服を強いられてきたが、もはやその世界に戻ることはないだろう。軍部にはこの歴史の流れをせき止める力はない。

少なくともミャンマーについては、この2つが基本であり、いわゆる「地政学」的な分析や社会経済的評価は二次的なものにとどまるだろう。

ということで、この分析は的を得たものだと思います。先日取り上げたシンガポール首相の発言は良心的なものですが、これらについての確信がないような気がします。


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