鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2021年01月

コタンの星になった医師マンロー


一応マンローの生涯の最後まで書き上げました。かなり凸凹の構成になっています。これから章立てを改めようと思っています。

お読みいただければ分かるように、マンローの行動は当時としては相当破天荒なものでしたが、彼の学問的活動は決して奇をてらうようなものではなく、大変筋の通った立派なものでした。しかしその研究はほとんど英語で書かれたものであり、日本人にはほとんど知られていません。

おそらく本職は考古学・人類学者でしたが、決してそこにとどまるものではなくたいへん多岐にわたっています。しかもそれらの研究にはりんとした筋が一本貫かれています。それ故にこそ、マンローは北海道の山間のアイヌ集落にとどまり、そこでアイヌの人々にかこまれて、最期を迎えたのだろうと思います。

このような人が日本にいたことを、とりわけその学問的両親と業績を、私達は忘れてはならないでしょう。

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第4章 マンロー、人類学にのめり込む

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第6章 人類学研究が絶頂に

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第7章 「先史時代の日本」 その1

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第8章 「先史時代の日本」 その2

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第9章 全国遺跡の行脚

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第10章 そして二風谷へ

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第11章 二風谷、アイヌと向き合った12年

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第12章 マンローが遺したかったもの

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青空文庫より

違星北斗の「北斗帖」の最初の三首である。
はしたないアイヌだけれど日の本に
生れ合せた幸福を知る

滅び行くアイヌの為に起つアイヌ
違星北斗の瞳輝く

我はたゞアイヌであると自覚して
正しき道を踏めばよいのだ

この異常な前向きさが、曼珠沙華のようにいっぱいの毒を含んで美しい。

三首とは良く言ったもので、三つの生首が並んで晒されているような風情だ。しかも子細に眺めるとなにか笑みを浮かべているではないか。

このカラ元気のあと、数首をおいて真情が吐露される。
深々と更け行く夜半は我はしも
ウタリー思いて泣いてありけり
この「真情」はたんなる詠嘆ではない。薬売りの行商をしながら北海道中のアイヌ・コタンを歩き巡り、人々を組織しようとした、日々の終わりに吐いたため息なのだ。

それは自分のために流した涙ではなく、ウタリの暮らしを日々つないでいく、地の塩としての密かな決意なのだ。

その後数十首の短歌が並び、そのたびに強烈な素手のパンチとなって炸裂する。

旅は辛い。山頭火のレベルではない。
ガッチャキの薬屋さんのホヤホヤだ
吠えて呉れるな黒はよい犬

「ガッチャキの薬如何」と門に立てば
せゝら笑って断られたり

*慣れてくると自分を客観視できるようになる。
よく云えば世渡り上手になって来た
悪くは云えぬ俺の悲しさ

空腹を抱えて雪の峠越す
違星北斗を哀れと思う
(北海道で雪の峠を歩いて越すなど狂気の沙汰だ)
「今頃は北斗は何処に居るだろう」
噂して居る人もあろうに

それにしても貧乏は辛い。このひとの貧乏は混じりっけなし、いのちを脅かす。
めっきりと寒くなってもシャツはない
薄着の俺は又も風邪ひく

炭もなく石油さえなく米もなく
なって了ったが仕事とてない

それでもこの人はやせ我慢する。
感情と理性といつも喧嘩して
可笑しい様な俺の心だ

支那蕎麦の立食をした東京の
去年の今頃楽しかったね

無くなったインクの瓶に水入れて
使って居るよ少し淡いが

アイヌを見世物にする人への怒りと見世物になるアイヌへの、革命家としての悲しみ
白老のアイヌはまたも見せ物に
博覧会へ行った 咄! 咄!!

見せ物に出る様なアイヌ 彼等こそ
亡びるものの名によりて死ね

子供等にからかわれては泣いて居る
アイヌ乞食に顔をそむける

病よし悲しみ苦しみそれもよし
いっそ死んだがよしとも思う

ということどもすべてを含んで、なおも前向きに歌う違星よ!


第12章 マンローが遺したかったもの

1.マンローの研究目的

この章は、一つの推察に過ぎません。

60歳をはるかに超えたマンローが、最後の力を振り絞って北海道の寒村に飛び込み、最後はほとんど無一物になってまで求めたものはなんだったのか、それは今となっては推察するしかありません。

ただ、その波乱に満ちた生涯をあとづけていくと、日本古来の先住民であるアイヌ(縄文)人を文化史の中軸として据えることに、学問的な使命感を燃やしていたと考えざるを得ないのです。

そのためにミッシングリングを探し求めた結果が、二風谷行きとなったのではないでしょうか。

そのことを考えると、遺著「アイヌ:信仰と儀礼」は、たしかに遺稿集ではあるにせよ、マンローの意図したところとはかい離があるように思えます。


2.マンローのつけた表題は違った

1936年11月のセリグマンあての手紙にはこう書かれています。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。

そしてマンローは、やがて本となるべきこの論文に「アイヌ むかしといま」(AINU Past and Present)という表題を与えました。

この題名にはマンローの思いが込められていると思います。

たしかにマンローは、眼前のアイヌの暮らしそのものを丹念に記録してはいますが、マンローはたんなる写実に徹しているのではありません。そこに旧石器・縄文以来の日本先住民の「むかし」を投影しようとしています。

しかしマンローの最大の理解者セリグマンはすでに39年に亡くなっていました。その遺志を継いだ妻のブレンダは、十数年の歳月をかけて遺稿集の出版にこぎつけました。

ブレンダの努力がなかったら、この本は日の目を見ることなく、忘却の彼方へと沈んでいたに違いありません。ブレンダ・セリグマンの貢献には感謝の他ありません。

しかしそのうえで、マンローの意思をもう少し正確に受け止めてもらいたかったという気持ちもします。

本の題名は「アイヌの伝習」(Ainu:Creed and Cult)と改められました。後から加えた序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」の2章もカットされてしまいました。

ブレンダはマンローの19世紀的な大仰さを好まず、テーマの社会的広がりを避けようとしたのだろうと思います。

たしかにマンローの持論というか、一種の「大風呂敷」をあまり好かない人もいたでしょう。でも、そこも含めていかにもマンローだし、北海道の山間の僻地のアイヌ部落に骨を埋めた心意気は、たんなる民族学的興味からは理解できないでしょう。


3.いま一度「先史時代の日本:序説」へ

マンローの日本先史時代の認識は次のようなものでした。

① メソポタミア・エジプトの古代文明が中央アジアの遊牧民へと波及した。

② 中央アジアの遊牧民は、広大なステップ地帯を西はヨーロッパの大西洋岸から、東は遼河・黄河地帯まで移動し、農耕を広げ、武器を広げ、文化を広げた。

③ それが東アジアに、最初は青銅器文化を、ついで鉄器文化を広げた。

④ 日本ではそのころ先住民が北海道から沖縄に至る全土に広がり、大陸とは異なる文化(縄文)を展開した。

⑤ 紀元前数世紀から、まず最初に弥生土器を特徴とする青銅器文化が進出し、ついで、先行する文化を押しのける形で大陸から鉄器文化が流入した。

⑥ 鉄器文化の担い手はやがてヤマト政権を形成し、有史時代へと入っていく。

⑦ 先住民(マンローの言うアイヌ人)は絶滅したのではなく、ヤマト政権により抑圧され、辺縁化し、最後にアイヌ人として生き残った。

彼の持論の中でストーンサークル・支石墓文化論は少々勇み足ですが、その大筋はここ数十年のゲノム研究により確認されています。

明治の末にこれだけの理論を打ち立てた先見性は驚くべきものがあります。


4.ヒューマニスト マンロー

また、医学的言及にも秀でたものがあります。学位論文におけるがんと結核についての社会医学視点、それを説得力あるものとする見事な疫学的推論技術は眼を見張るものがあります。

北海道でのアイヌの実地診療にもとづいた、疾病と公衆衛生についての心のこもった指摘は、当時国内でおいて群を抜いたものでしょう。

「熊祭り」をめぐるバチェラーとの論争ではこう述べています。

バチェラーはアイヌコタンを伝道に歩いているのに、アイヌの精神面について理解しようとしない。
アイヌにはアイヌの信仰がある。一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ。

バチェラーはその後みずからの誤りを認め、マンローに詫びを入れています。マンローが尊敬されていたことを示すエピソードです。

マンロー伝

第11章 二風谷、アイヌと向き合った12年


1.マンローと北海道

話はさかのぼりますが、マンローがアイヌに実際に接触するようになったのは、随分前のことです。

日本に来てまもなく、マンローは最初の北海道旅行に出ます。35歳のときのことです。このときはバチェラーの案内で白老のアイヌ村落を訪問しています。

マンローがアイヌに本格的な興味をいだいたのは、むしろ日本各地での調査を通じてでした。

三ツ沢遺跡で発掘された古代人骨がアイヌ人のものだと認定されました。

さらに10年ほど下って九州南部の発掘調査で「アイヌ文化」が全国に広がっていたことを知ったマンローは、あらためて深くアイヌのことを考えるようになりました。


2.なぜ二風谷か

セリーグマンが軽井沢を訪問したのが、1929年(昭和4)のことでした。この年マンローは北海道のアイヌ人社会への移住を決意したようです。

後に道庁の職員の谷さんにこう手紙を書いています。
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がると思ったからだ。それに風景が美しいというのも大きい。
それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。

実は白老という選択肢もあったと思います。最初の北海道旅行(98年)で訪れたのも白老でした。

16年には、家族とともに2ヶ月にわたり白老に滞在しています。このときは木材倉庫を改造して借り、アイヌの無償診察と並行しながら研究をおこないました。

主としてこのときの経験から北海道庁に報告書を提出しています。これは「旧土人に関する調査」という題で発表されました。

報告書はほぼ全てがアルコール問題に関連しています。
アルコールが貧困、濫費、不衛生、疾患をもたらしている。
そしてこれに他所から持ち込まれた伝染病(痘瘡、結核、梅毒)が加わる。
さらに和人による様々な差別がこれを助長している。
したがってアイヌの健康対策としては、禁酒が第一の柱となる。
そのためには、まずもってアイヌへの敬意を持つこと、さらに農地の確保と営農援助などの具体的支援をもとめる。

そして、次のように書き添えています。
かつてスコットランド高地人は哀れむべき状態にあった。しかしその後、彼らは英国における第一流の学者を輩出した。種族の間に教育の差はあっても、知能上の差はない。

マンローの面目躍如たるものがあります。

マンローは白老の経験をもとに、診療と調査・研究を組み合わせることの有効性を実感し、その方式を二風谷でも踏襲しました。

白老でのフィールド調査から13年、マンローは今度は日高・釧路地方にアイヌ遺跡調査のため来道しました。

このときアイヌの健康状態が一変していることに驚きます。それは結核の蔓延です。当時二風谷でも結核が猛威をふるい、全数35戸のコタンから年間27体の柩を送り出したと言われます。柩を設えるまでもなくみまかった子供たちを加えると、死者の数はその3倍に達しました。

32年、マンローは道庁あてに提出した開業届にこう書いています。
私が見た病気は、まず結核のあらゆる病型である。
消化器疾患は、そのほぼ全てが回虫症である。
トラコーマはほとんどのアイヌ人が感染している。
膿痂疹や疥癬などの皮膚病は、貧困層では当然のことである。
心臓病、気管支炎、ロイマチス、貧血もかなり多い。
梅毒の多くは陳旧性であリ、顕性は少ない。
精神病・ノイローゼも多く、とくに女子に目立つ。
(私たちはそれから35年後の1966年に、山一つ隔てた穂別町和泉のアイヌ部落で検便を行ったが、学童のほぼ全てが回虫陽性でした)


3.チヨ夫人との二人三脚

この節は私にはトリビアルな話題ですが、読者サービスでいろんなエピソード、それと写真を転載します。

アデル夫人と別居状態になったあと、マンローは軽井沢のサナトリウムの婦長だった木村チヨさんと深い仲になります。

どうもマンローには、母性本能をくすぐるところがあるようです。チヨさんはマンローの二風谷行に同行し、献身的に働きます。そして37年に二人は入籍します。マンロー74歳、チヨ52歳のことです。

33年マンロー邸が完成した頃が、多分一番楽しかった時期ではなかったでしょうか。

白い木造3階建て部分は居室、渡り廊下でつながった平屋は診療室だった。22歳年下のチヨさんが看護師として手助けしました。
「日本語があまりうまくなくてね。奥さんが愛敬のある人で、そばに立って通訳していました」
アイヌ民族について教えを乞おうと、マンローはよくエカシ(長老)のもとに出かけていたという。チヨ夫人と仲むつまじく連れ立って歩いていた。(地元民の談話)

クリニックの診療はかなりチヨ夫人に委ねられていました。皮膚病や眼病の治療などはほぼナースの仕事です。マンローは午前中は研究に専念し午後から診療したとのことです。

北大の解剖学教室に研修に来ていたマライーニという若い医師は、次のように書き綴っています。
朝早くからアイヌの病人が五・六人、ときには十人も、邸宅の客まで待ち合わせていた。
マンロー邸は、コタンの人々のサロンとなった。男たちは熊や鹿を射止めた手柄話に花を咲かせ、時にはヤイシヤマ(情歌)を歌った。マンローやチヨを巻き込んでウポポを踊った。
2人は結婚式や葬式にも招待され、貴重な風習を体験した。マンローは薬草の使い方、毒矢の扱い、鮭漁の方法などを教えてもらい、ノートに書き写した。

4.最晩年のマンロー

このように日本を愛し、アイヌを愛し、アイヌとの生活を愛したマンローでしたが、時局の変化はマンローに酷いものとなりました。

セリグマンの尽力で手に入れたフォード財団の研究費も期限が切れ、安定した収入源は閉ざされました。地元での診療はお金になるどころか、金食い虫となっていきます。

収入を手に入れるため、夏の間は軽井沢の病院に行って、アルバイトして、そのお金で残りの9ヶ月を凌ぐという生活になりました。

1939年になると二風谷から平取にかけて、「マンローはスパイだ」とのデマが流れ始めました。
道で人に行き交うとき、知らない人は自分を見て顔をしかめたり、嘲るようになった。気の毒な病人を往診する以外は全然外出しないようになった。

と、マンローは書いています。

旅行中には憲兵に捕まるという事件も起きました。
マンローとチヨは憲兵に列車から引きずり下ろされた。憲兵は殴る蹴るの暴行を加えた。マンローは「日本人! 国籍日本人!」と叫んだ。チヨは「マンローは軽井沢の病院長で、秩父宮さまのテニスのお相手」と訴えた。これを憲兵が確認したことで2人は釈放された。

76歳となったマンローは、一度は自宅・土地を処分して軽井沢に戻ろうと考えましたが、軽井沢出張中に思い直し、二風谷永住を決意します。永住というのはここで死ぬということです。

41年、体の不調を感じたマンローは、北大で腎臓がんの診断を受けました。秋にはすでに診療困難となり二風谷の自宅で療養を続けることになりました。

その年の12月、太平洋戦争が始まりました。マンローは日本国籍を取得していましたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉となりました。北大の学生が逮捕された宮沢事件にも関係していたようです。

翌42年4月、癌性腹膜炎が併発し腹水が貯留。さらに腸閉塞を併発し死去しました。チヨ夫人、高畠トク元夫人、マライーニ、福地医師が臨終に立ち会いました。享年79歳でした。



葬儀はバチェラーが平取に建てた聖公会の教会で行われました。遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬されました。コタンの人々も長い葬列に続きました。

Sahara Press Service 20/01 / 2021
次期国防長官ロイド・オースティン、上院防衛委員会で証言。
トランプが「モロッコ」と宣言した西サハラについて「あらためて精査する」と証言。
西サハラは、1975年以来、モロッコが占領している。この地域では、帰属を決定するための国民投票が開催されることになっているが、これまで実施されていない。

インホーフ議員の主張

サハラウィーの熱心な支持者であるジェームズ・インホーフ議員(R)は、1975年に提出された国際司法裁判所の意見を引用して、人民の自決権を擁護した。

また彼は、米国、国連、アフリカ連合はすべて、サハラウィー人の自己決定と独立を達成する権利を支持してきたと述べた。

「私たちは国民投票で自己決定する方式を支持してきました。米国、国連、そしてアフリカ連合とアフリカの52か国のほとんどは、この方式を支持してきました」

オースチンの証言
lloydaustin
                Lloyd Austin

オースチンはインホーフ委員長の質問に対し、「これは詳細な答えを出す前に、私がもっと綿密に調べたい質問です」と述べた。

オースチン次期国防長官は、西サハラ関係文書は、国防長官として就任したあと、「最初に検討する問題の1つになるだろう」と証言した。

SPS 23/01 / 2021
西サハラでの米国の立場を逆転させることは、
新政権のアフリカに向けての最も緊急の行動だ
 


プレトリア(南アフリカ)2021年1月23日(SPS) 南アフリカのナレディ・パンドール外相は、「バイデン大統領は西サハラに関する自国の立場を逆転させるべき」だとのべた。 外相はチャタムハウスが主催したズーム会議に出席し、「バイデン新大統領は、西サハラ人民の自国領土に対する主権を承認すべきであり、モロッコへの前政権の認識を速やかに覆すべきである」と述べた。 さらにパンドール外相は、バイデン大統領がここ数日採用した初期の政策声明と立場は感動的だったと述べた。 その上で、「西サハラについての決断は、新大統領がアフリカに関して取り組むべき最も緊急かつ肝要な行動だ」と強調した。
パンドール 南ア外相
           南アフリカ パンドール外相

1.九州南部縄文文化と野焼き

先日、テレビで阿蘇山のカルデラ内の野焼きの風習が取り上げられていた。

とくに私の興味を引いたのは阿蘇における野焼きが1万3千年前から続いているという事実だった。

地層を掘り返せば、それはかなり明白な事実として確認できるだろう。

阿蘇だけでなく姶良・鬼界カルデラから、霧島、雲仙、桜島と噴火の歴史はしおりのように地層に織り込まれているはずだ。


2.野焼きの焼畑との違い

そして1万3千年という数字が、南九州における早期縄文の出現とピタリと一致することが、私を驚かせた。

まさに南部縄文は野焼きとともに始まった。そして火の大規模な使用が副産物としての素焼き土器を生み出し、縄文文化を導き出したと言えるのではないだろうか。

番組の紹介では、野焼きによって管理された草原という環境を作り出し、年間のエネルギーやCO2の出納をちゃらにしつつ、人間の住める空間に変えるというのが野焼きのサイクルなのだという。

焼かれた野は、狩猟・採集文化の舞台なのだ。

そこが焼畑と異なるところで、焼畑の場合は焼いたあとそこから地力を収奪する。そして何年かの後にはそこでの耕作を放棄し再生を待つ、というサイクルになる。野焼きは植物が生え、育ち、生き物を育み、人間はそのおすそ分けに預かる。耕作はしない。


3.野焼きが縄文文化(南方)を生み出した

そしてこれこそが関東以北に起こった縄文文化とは別個の南方縄文文化を説明する根拠なのではないか、とひらめいたのである。

なぜなら、常緑樹林は落葉樹林と異なり、そのままではただの緑のジャングルでしかない。人間を寄せ付けない酷薄な自然である。縄文人が生きていく手段を提供することはできないからである。

もちろん、これは想像であり1万3千年前(最終氷期)の南部九州が常緑樹の森林だったとする根拠はない。だが落葉樹林であったとすれば、野焼きをする必要もなかったはずである。

そうすると、おのずから目はグローバルな歴史へと広がる。世界における人類の歴史のトバ口で野焼きはどんな役割を果たしたのだろう。

その答えがわかれば、南部九州の縄文文化についてもおのずから回答が与えられるのかも知れない。


3.野焼きへの “科学的” 批判の嵐

とは言うものの、今や野焼きは四面楚歌の状態である。というより犯罪扱いされている。

これはエコロジーではなく「環境ハラスメント」である。しかもこのキャンペーンにはかなりの「科学者」が手を貸している。このあたり「嫌煙ハラスメント」と良く似ている。

私は医師の端くれであり、科学的視点を無視するわけではない。だが、この論争にはもっと多くの、「非」科学者が絡むべきである、と考える。

人類史の黎明期から延々と営まれ続けてきた「野焼き」という業が人類にとって悪いものであるはずはないのだ、という確信から出発すべきである。それは人類が初めて「環境」そのものを改編し、管理する瞬間だった。その炎は人類文化の発祥を告げる狼炎であったはずだ。

それは人類史的な確信であり、変革の立場からのダイナミックな視角であり、構造学的枠組みからの脱出である。


4.野焼きのエコロジー

霧島市のホームページには次のような記載がある。
かつては里山の雑木林から薪や炭を作り、落ち葉は田畑の肥料に利用するなど、人為的な管理により良好な環境が保たれていました。
しかし生活様式の変化から、里地里山との関わりが減少し、手入れ不足による荒廃が進んでいます。
スギ・ヒノキ植林地では適切な管理がされず、森が暗くなり下層植生が失われています。そのため、周辺の植生は単調になっており、そこに生息・生育する生きものも少なくなっています。
…草地はこれまで、人の手により草刈りや火入れ等の管理を行ってきたことによって維持されてきました。しかし、人の手が入らなくなると、植生の遷移が進み木本類が侵入してきて草地は消滅します。
CO2という単一のものさし、価値観で事物を裁断するのは、特定の立場の人々の思い上がりだと思う。


1月22日 DAILY SABAH (トルコの政府系紙)


1.ネタニヤフの心中は穏やかではない


バイデンの大統領就任に当たり、ネタニヤフ首相は「両国間の同盟を強化するために新政権と協力することを楽しみにしている」と述べた。

そしてこう付け加えた。
「あなた(バイデン)と協力して、米イスラエル同盟をさらに強化し、イスラエルとアラブ世界の間の平和を拡大し、イランがもたらす脅威に立ち向かうことを楽しみにしている」

しかし、いくつかの報道機関によると、穏やかな口調にもかかわらず、イスラエルの心中は穏やかではない。

新政権がイランとの核合意を復活させ、パレスチナとイスラエルの和平プロセスに再び関与する可能性があると。


2.イスラエル紙の見たネタニヤフ

以下はイスラエルの日刊紙「ワラ」からの転載である。
イスラエル政府は、トランプによって4年間「甘やかされた」ために、依存症に陥っている。
それは麻薬中毒者がリハビリテーションの間に禁断症状を呈しているように見える。
ネタニヤフ大統領が恐れるのは驚くべきことではない。

バイデンの新政権は、これらの恐れを和らげようとしている。しかし、それが成功するかどうかは明らかではない。


3.新国務長官ブリンケンのスタンス

新国務長官のアントニー・ブリンケンは、議会の公聴会で、共和党だけでなくイスラエルと湾岸諸国にも、安心のメッセージを送ろうとした。

(ブリンケンはバイデン副大統領の右腕だった。両親ともにユダヤ系で、中東問題では積極介入を推すタカ派)

彼らはここ数週間、イラン問題で(トランプ時代から)後戻りしないようにバイデンに促している。

そして再合意には異論を唱えずに、「イランとの合意に至るためには、その前に共和党と相談しなければならない」ということを納得させようとしている。


以下は4日前の夜遅く、山陽放送で報道されたニュースで、あっという間に消えました。グーグルのキャッシュから起こしたものです。

2021年1月20日 
イランのロウハニ大統領「米が核合意復帰すれば全ての約束守る」

アメリカでバイデン次期大統領の就任が間近となるなか、イランのロウハニ大統領は「アメリカが核合意に復帰すれば、全ての約束を尊重する」と述べ、イランへの制裁解除を求めました。

イランのロウハニ大統領は20日、閣議の冒頭の演説で、アメリカの次期政権が2015年に締結されたイラン核合意に復帰すれば、「イランは合意に示された全ての約束を尊重する用意がある」としたうえで、イランに課されている経済制裁の解除を求めました。

さらに(ロウハニは)、「“暴君”トランプの時代は終わった。トランプの政治生命は終わった」と述べ、対イラン強硬策を講じてきたトランプ大統領を強く批判しました。

(ロウハニは)、バイデン次期大統領に対して「法による支配を尊重し、過去4年の間に残された禍根を取り除くことを期待している」と呼びかけました。

ただ、イランは、濃縮度20%のウラン製造に着手するなど合意違反を続け、表向きは欧米への強硬な姿勢を崩していないため、バイデン次期政権との外交交渉がすぐに始まるかは不透明です。



これまでハメネイの強硬意見だけが突出して報道されてきただけに、ロウハニの意見表明には注目すべきものがあります。

本日付の赤旗にバイデン就任が報道されている。その中で志位委員長の談話にちょっとだけ違和感を感じたので、素直に感想を述べたい。
志位コメント



一、民主主義への言及なし

私は今度の選挙の意義を、ともかくアメリカの民主勢力が一丸となって、トランプ政権の間違った政策を正すために立ち上がり、とても厳しい状況の中、民主主義を守り抜いたことにあると考えている。

もし敗北していれば、それは世界の民主主義にとって、今世紀最大の危機を招来していた可能性がある。

だから私はバイデンの就任を心から喜ぶものであり、アメリカの民主勢力、とくに進歩派の人々と青年達に敬意を表したいと思う。

その一言がない。これが一点目。


二、「力の政策」の放棄をもとめること

トランプ政権の対外路線を「国際協調に背を向け」たと一括しているが、不十分である。その本質は「アメリカ第一主義」ではなく、それを「力による圧迫」で世界に押し付けた野蛮さにある。

中東においても中南米においても、暴力支配と理不尽な経済・金融制裁が続き、大量の難民や失業者、暴力の連鎖を生み出した。この「力の政策」から脱却するかどうか、この点こそまさに「注目される」べきなのである。

ブリンケン新国務長官は「力の政策」の信奉者のように思われ、サンダースらも国内問題に力を集中すると見られることから、今後も国際情勢は厳しい見通しとなろう。


三、核問題にも触れること


ついでながら、オバマのプラハ演説以来、店ざらしになっている非核化政策にも触れるべきである。

アメリカ政府の態度次第で、北朝鮮、イランの核問題はすぐにでも片付く可能性がある。またイスラエルの核疑惑にも原子力調査機関の査察をもとめるべきである。世界各地に生まれている「非核地帯」に対して核の不使用を宣言すれば、その実効性が担保されることになる。


四、安保を日中問題の足かせにしないこと


おそらく米中対立は世界の覇権をめぐる対立だから、そうかんたんに解決するとは思えない。かなりの長期にわたり続くと覚悟しなければならない。日中問題にもそれが投影することは避けられない。

これは半ばは日本国内の問題である。なぜなら日中問題は日中両国で平和的に解決するしかないからである。日米安保体制についてはいろいろ議論のあるところではあるが、それと日中問題とは混同してはならない。このことは譲れないし、米国はこれを侵すべきではない。


ついでに、国際面にも一言。
特派員の署名入り記事は、いづれも格調高いものだ。ワシントン駐在の遠藤特派員は、あえて最初に17本の大統領令に触れ、逆にトランプの4年間がいかにひどいものだったかを浮き彫りにした。その上で就任演説の要旨を過不足なく伝えている。

なのになぜ?という記事が続く。時事通信の配信記事だ。全国の市民の声ということで4人の意見を載せている。それにつけた見出しが「根深い分断、祝賀ムードなく」だ。
4人の声は、
①67歳男性:バイデン氏は社会の分断を修復できない。②黒人青年 イデオロギー対立に嫌気し棄権。新政権への期待無し。④18歳女性: 必要最低限でも十分助けになる。④38歳白人男性: 「私達の国の敗北だ」と嘆く。

こんなクソ記事になんの意味があるというのだ。どうせ時事通信の記者だって、事務所でテレビ番組を見て書いたに違いない。「ニューヨーク、シカゴ、オークランド発」などと、よくもおこがましくも書いたものだ。


以前あげた年表がある

こちらはその増補版

三大文化の始まり
BC7000 長江流域に初期稲作が登場。
BC6200 遼河流域で最初の文化、興隆窪文化が栄える。
BC4800年 華北平原および黄河流域に人々が定着。黄河文明の先駆けとして、陝西省から河南省にかけて仰韶文化が発祥。貧富の差がみられ、社会の分業・階層化が進んだ。河南龍山文化に引き継がれる。
BC4700 遼河流域で紅山文化が栄える。風水や龍の信仰は遼河文明が黄河文明に影響を与えたものとされる。

黃河文化の突出
BC4300年 黄河下流に大汶口文化が発生。山東龍山文化に引き継がれる。
BC3000年 龍山文化の前期が開始。
BC3000年 長江中流域でミャオ族による屈家嶺文化が始まる。下流域では良渚文化が主役となる。
中原・陜西龍山文化と山東龍山文化に分かれている。
中原・陜西では、城壁を備えた都市が出現する。最大のものは陝西の陶寺遺跡。
山東龍山文化は山東省東部の章丘県龍山鎮にある城子崖遺跡を中心とする。
BC2600 後期竜山文化登場。黄河中流から下流にかけて広がる新石器時代後期の文化である。青銅器が使用され始めている。

黃河文化(華夏民族)の南方進出
BC2500頃 華夏民族が南方に進出。「涿鹿の戦い」に勝利し、蚩尤民族を駆逐。蚩尤民族はミャオ族と黎族に分裂し、ミャオ族は四散した。
BC2500年 長江中流域の屈家嶺文化が衰退。上流の湖南で石家河文化が始まる。
BC2000年 龍山文化の末期 人口は激減し、遺物も貧しくなる。(500年にわたる暗黒期)

夏の建国と二里頭文化: 五穀の栽培と農耕文化への移行
BC1920 黄河が大洪水。このときに禹が土木、治水を率い功績を上げたことから王位に就いたとされる。
BC1900年 史書によれば夏が建国され、初代の禹から末代の桀まで471年間続く。龍山文化集団の流れをくむ遊牧民族的な父系集団。陽城に都を構える。
BC1900年 河南省洛陽市二里頭村を中心に、推定人口2万人に達する巨大な遺跡が建設される。炭素14法で殷に先立つことが判明。『史書』に伝わる夏に相当すると見られる。
二里頭遺跡は4層からなり、1期と2期が夏王朝のものとされる。粟、黍、小麦、大豆、水稲の五穀を栽培していた。最盛期の人口は2万人以上と推定される。青銅器はない。
BC1700年頃 二里頭遺跡の3期と4期からは青銅器工房と宮殿が発見され、殷時代の遺跡とされる。
メソポタミアではBC4000年より前に青銅器時代に入っているが、中国に青銅器が入ったのはBC1600ころ、夏の時代の末期である。

殷(商)による夏の滅亡: 青銅器兵器時代の到来
BC1600年 商の湯王が諸侯を率いて夏の桀王を滅ぼしたとされる。夏の遺跡では夏人の毀損された遺骨と殷(商)の青銅の武器が多量に出土する。
BC1600 殷(商)が建国される。殷は後継王朝の周による呼称。都は亳(商城)に置かれた。考古学的には河南省鄭州市の二里岡遺跡に一致。先行する二里頭文化に影響を受け、青銅器を大々的に使用する中国最初の文化となる。
BC.1400 殷は王位継承の争いにより一時衰退。
BC.1300 後期殷王朝を隆盛に導いた盤庚王(第19代)、殷の都を河南省安陽市の大邑商(殷墟)に遷す。このあと殷は最盛期を迎える。

殷(商)から周の時代へ: 中原の統一と絶対王政
BC.1071 紂王、妲己を寵愛する
BC.1056 周の文王、殷により幽閉され死没。周の武王、紂王(帝辛)の暴政に対し周を中心とする勢力を結集。
BC.1046 殷周革命。周(西周)が建国される。鎬京(西安)を都とする。
BC.827 宣王が周王朝を復興,中央集権的政策を行う。

戦乱の600年
BC.770 周の幽王が殺される。残党は成周(洛邑)に都を移し東周となる。平王が即位。春秋時代の始まり。諸侯は東周をたてまつり割拠。
BC.551 孔子が誕生。これに前後して老子、孫子が誕生する。
BC.476 晋が消滅。盟主不在の戦国時代に移行。
BC.473年 越王勾践が呉王夫差を滅ぼし、長江流域の覇者となる。

鉄器時代への突入と西の辺境「秦」の強大化
BC400頃 鉄器の時代に入る。鉄製武器をいち早く取り入れた秦が勢力を拡大。BC.230 秦が韓を滅ぼす。以後、趙、魏、楚、燕を相次いで滅ぼす。
BC.221 秦の始皇帝が中国を統一。漢人が長江人を駆逐して長江流域に定住。

Easy Youtube Video Downloader Express PRO のダウンロード

私のようなメカ音痴が書いたレポートが、意外とロングセラーを続けている。

いくつかのファイルは、私のあまたあるブログ記事の中で、つねにBEST5に入っている。

多分この記事も、じわじわと読み続けられる記事になるだろうと思う。

といっても私の成功談のほとんどは、実際の所どうやって成功したのかわからないので、本当のところ役に立つかどうかはわからないのだが、「純粋な日本語」で書かれているのが「売り」である。

Youtube との仁義なき戦い

ここ数年、Youtubeの厳しさは絶望的なレベルに達している。

いまや動画のダウンロードはMP4で360pが上限だ。これだとMP3ファイルでの帯域は95Kbにしかならない。中波放送レベルの音質だ。

故にこの2、3年はすっかりダウンロードを諦めていた。

ダウンロード・アプリのPRO版

しかし以前愛用していたEasy Youtube Video Downloader Express というFirefox アプリにPRO版というのがあって、有料だが高音質でダウンロードできるという情報は気になっていた。

しかしそこにはPROへのアップグレードという手順と、それをペイパルという決済ソフトを使ってやらなければならないという、高い壁がある。

しかし何回かの挫折を繰り返すうち、何故か今回は闘争心メラメラで、ついに行くところまで行ってしまった。

現在、ダウンロードはサクサクと進んでいる。サクサクというにはかなり遅いが、それでも外付けのダウンロードサイトよりは早い。

ペイパル加入が一番のストレスだ

30ドルという出費は決して法外なものではないと思う。たどり着くまでは手続きの煩雑さ、パスワードとかIDとかいういつもながらのバリアーがあって大変だ。
とくにペイパルへの加入手続きは、やはり手が震えてしまい、なんども挫折した。最後は勇気である。狂気というべきかも知れない。

一言だけ付け加えておく。ペイパルのユーザーによるガイドには「銀行引き去りがトラブルが少なく安全だ」と書いてある。しかしこれはできない。
結局最後はクレジットカードを使うしかない。だから最初からクレジットカード方式で申し込めば、労力の半分はいらなくなる。

ダウンロードの時間は普通の方式より時間がかかる。だから映像をダウンしてあとから音を剥ぎ取る方式はやめたほうが良い。MP3方式の256KBで落とすのが一番エコだ。音は以前AAC196KBで落としていたときより良さそうに思える。

以上は私の個人的経験にもとづく個人的感想だ。あまり信用しないほうが良い。

ハクスリー 年譜
Thomas Henry Huxley

鎖につながれて
正しい道を歩くくらいなら

私は間違いながらも
自由に歩く方を選ぶ。

1825年5月4日 
西ロンドンで生まれる。貧乏人の子沢山の家系で、8人の子の中で下から2番目だった。

1842年(17歳) 奨学金を得て、チャリングクロス病院で医学の研究を開始。

1845年(20歳) ロンドン大学で医学士の試験に合格。解剖学と生理学では首席となる。

1846年12月 海軍の測量船「ラトルスネーク」に船医として搭乗。オーストラリア近海で無脊椎動物(刺胞動物及び尾索動物)の研究に没頭。

1850年 王立協会のフェローに選ばれる。

1854年7月 海軍を辞め王立鉱山学校の講師となる。英国地質調査所の博物学部門も兼任。
当時ほとんどの科学者は裕福なアマチュアだったが、ハクスリーは海軍からの奨学金と大衆科学雑誌の記事を書いて生活を支えた。



1858年 脊椎動物の頭骨と脊柱が相同器官であるというこれまでの通説を否定。

1859年 チャールズ・ダーウィン『種の起源』を出版。ハクスレーは「十分に良い仮説」と評価する。
「進化説を考えなかったのは、私がどれほど愚かだったかの証拠だ」と語る。

以後進化論を熱心に擁護し、「ダーウィンのブルドッグ」と呼ばれる。

1860年 オックスフォードで開催された英国学術協会の討論会。ハクスリーとリチャード・オーウェンの仕込みを受けたウィルバーフォース大司教が対決。ハクスリーは、人間が猿と関係があったと主張。

1863年 ハクスリー、類人猿と人間の連関について包括的なレビューを発表。両者の脳がすべての解剖学的詳細において基本的に一致していることを示す。

1871年 王立協会の事務局長に就任。81年からは総裁となる。

1885年 ハクスレー、重い病に冒され公職を引退。

1895年6月29日 長い闘病生活のあと亡くなる

第10章 そして二風谷へ

1.生活基盤が崩れる

このあたり私生活上はいろいろと事件が相次ぎました。それは1923年(大正12)になって一気に生活の破綻をもたらしました。モンロー60歳のことです。

8月はじめに義父の貿易商ファブルブラントが突然死しました。その3週間後に関東大震災が発生しました。横浜の自宅は全焼し、発掘資料や機材などは全滅してしまいました。図書3千冊、原稿・写真なども灰燼に帰しました。

翌年に入ると、当主を失い震災で甚大な被害を出したファヴルブラント家は破産してしまいました。
ファブルブランド絵葉書
        ファブルブランド社の発行した絵葉書

ファブルブランド社はスイス時計の輸入販売を主力としていました。妻の実家の財力をあてにしていたマンローは窮地に陥りました。医師としての名声はすでに赫々たるものがありましたが、もともと財布の底は抜けている人です。

貧乏とマンロー独特の生活スタイルに悩んだ妻アデルはヒステリー状態になりました。マンローは、ウィーンのフロイトあてに妻を紹介し、送り出しました。結果的にはそのまま離婚へとつながっていったのですが、紹介先が天下のフロイトですから、たんなる厄介払いとは思えません。


2.敬遠されたマンロー史学

私生活上の問題もさることながら、日本の関連学会からのネグレクトがかなり応えた可能性もあると思います。

三ツ沢遺跡の発掘からアイヌ先住説を唱えたマンローは、アイヌ人が日本列島にあまねく先住していた、すなわち今で言う「縄文人」説に至りました。

さらに先住民が絶滅したあとに大陸から大和人が渡ってきたのではなく、両者は併存し、あるいは融合しあるいは排除されたのだと主張しました。とくに風土記などに登場する土蜘蛛に注目し、これが辺縁化する縄文人だと唱えています。

さらにマンローは、後続民族が青銅器と弥生土器(中間土器)を使用する弥生人と、鉄器を使用するヤマト民族に分けるられるのではないかと示唆しています。

これらが日本の学会主流に受け入れられなかったのは、日露戦争のあと俄然盛り上がった皇国史観の影響が大きいと思います。

多くの学者がビビって忖度しました。世は、津田左右吉が「凶悪思想家」と非難された時代だったのです。万世一系の教義に真っ向から対立するアイヌ先住民説、ヤマト政権=征服王朝説は表立って主張できるようなものではありません。マンローは英語で書いていたから、あまりお咎めを受けなかったのかもしれません。


3.窮地を救ったセリグマン

孤立すれば、意固地になる。マンローの所説が若干主観的となったのはやむを得ないところでしょう。

たとえば支石墓を巡るマンローの主張は、やはり勇み足だったと思います。

公私ともに窮地にあったマンローを救ったのが、故国のロンドン大学の人類学教授セリグマンでした。

マンローの読者は圧倒的に英国人でした。有名な科学誌「ネイチャー」にも彼の研究動向が掲載されています。

中でもセリグマンは熱心な支持者で、訪日時にわざわざ軽井沢のサナトリウムまで来て、マンローの仕事を称賛しました。

同時にセリーグマンは、マンローの論文に起源や解釈を偏重する傾向があることも指摘しました。そして得られた結論を性急に一般化することなく、まずは正確な事実の記述を行うよう助言しました。

よほどこの言葉が嬉しかったのでしょう。マンローはそれから死ぬまでの20年近く実事求是の態度を守り続けました。

セリグマンは言葉で励ましただけではありません。ロックフェラー財団にマンローの研究を推薦。翌年には財団から150ポンドの研究費が与えられました。

後年セリグマンの奥さん(同じく人類学者)が監修した「アイヌの伝習」は淡々と事実が積み上げられているようですが、ぜひ「先史時代の日本」を下敷きとして読んでもらいたいと思います。

こうして、60を過ぎたマンローは、都会や外人社会での生活と決別し、アイヌの現地研究に余生を捧げることになったのです。


4.なぜ最期の地が北海道なのか

変な質問ですが、なぜマンローはアイヌ研究のために北海道に来たのでしょう。

というのは、マンローにとってアイヌとはまず縄文人だったはずです。そして縄文人の生き残りがアイヌ人として北海道に生き残っているという理解です。

その限りにおいて、マンローは来日後まもなく北海道への旅行を繰り返すようになります。

しかしそれは先史時代の日本の研究の一環なのです。アイヌの姿の中にはるか昔の縄文の面影を探し求める旅なのです。

この点がアイヌ人保護に尽力した英国人宣教師バチェラーとの違いでした。

バチェラーは当時一般的だったアイヌ人コーカソイド説に従って、日本人とはまったく異なる印欧系種族の末裔と考えていました。

マンローは奉仕や保護に来たのではありません。調査し、研究し、そのことで日本を学ぶために、北海道に居を構えたのです。

これが、逆境の中にあってもたじろがず、生涯にわたってアイヌの地に踏みとどまった理由なのではないでしょうか。

最近、グーグル・クロームより早くて、プライバシーが守られるという謳い文句のブラウザーが登場した。ただ広告をブロックするとお金がもらえるなどと触れ込みがあるのは、どうもいただけない。
本線でないところを売りにするのは抵抗がある。

もともとずっとIEでやってきて、とくに不便を感じたことはなかったが、You Tubeをダウンロードする関係上FireFox に切り替えたのが15年くらい前だろうか。

それで10年やってきて、今度はWindows 10 になって、これでFireFox が動かなくなってしまった。なにか知らないがとんでもなくメモリーを食ってしまい、You Tubeどころか普通に文書ファイルを見るのさえクラッシュしてしまう。

そこでグーグル・クロームに変えたらサクサクと動く。さらについでに日本語入力もグーグルにしてすっきり感この上ない。

昔はNEC9000シリーズで松茸とか一太郎を使っていたから、マイクロソフトIMEはほとんど悪夢だったが、「美人は飽きる、ブスは慣れる」という言葉通りそれなりに慣れてしまって、今までやってきた。

というわけで、今やグーグルの虜となっていたわけだが、You TubeのダウンロードだけはどうしてもFireFox のアドオンでないとできない。そこで二つのブラウザーソフトを併用してきた。

それもYou Tube のダウンロードが中波並みの音質でしかダウンロードできなくなったため、ほとんどYou TubeともFireFoxともおさらば状態だった。

ところが、Easy Youtube Video Downloader Express が突然生き返ったのである。
これの PRO UPGRADE についに成功したのだ。
今や、MP3ファイルが256KBの高音質で取り放題になった。これについては別記事で説明する。

こうしてFireFoxはふたたび、私のマスト・アイテムとなった。

まぁ、そういうことなので、いまのところ、あえてクロームからブレイブに乗り換えるほどの氣はしないが、試すくらいはしてみようかとも思っている。



日経新聞の「展望 2021年」というお正月特集で「中銀発のデジタル通貨」が取り上げられていた。
本来なら去年がデジタル通貨元年となっていたはずだが、コロナで延期となった感がある。
いまのところは「デジタル人民元」が先行しているが、今年中にはECBが試験運用を開始するはずだ。
しかしその目論見はかなり違ってきていて、もはやビットコインとの共通性はなく、まったく別の通貨だと考えたほうが良さそうだ。

中銀の考えるデジタル通貨は、手っ取り早くいえば中銀が胴元になった電子マネーだ。クレジットカードのように使えるが、支払いは即時に完了している。信用の積み重ねがなく、すべてがキャッシュフローとしてあつかわれることになる。

ただしこれは決済機能のみであり、これを使った信用取引の世界はこれから開拓されていくこととなる。

私たちとしては、これがドル支配体制に風穴を開けるようになるかということだが、それはむしろ逆向きになる可能性が高い。現在はクレジット会社や金融機関で行われている大小の決済取引が、これからは中銀の統制のもとに行われるようになる可能性がある。さらに各国中銀が国際的な金融ネットワークに紐付けられれば、それは唯一の金融大国である米国と米ドルの支配力を強固にするほかないからだ。

一面、各国中銀の支配力は、その範囲ではさらに強まり、国内信用取引のほぼ全てを我が手に掌握することになる。そして国民のプライバシーは徹底的に侵害され、AIの前に丸裸となる。

これを日経では「金融包摂」と読んでいる。

それを民間でやろうというのがフェースブックだったり、モルガン・チェースだったりする。発想は同じで、巨大マネーを担保とする疑似マネーの創造である。

これらとは別に、ピア・トゥ・ピアのウェブ型信用の積み上げで通貨構築を目指すビットコインの行方はどうなるのだろうか。
 

1週間前の赤旗。寺井奈緒美という歌人の連載がある。「くねくね TANKA ロード」という、ちょっと冴えない題名で、山頭火をあつかっている。山頭火はクロウト筋の評価は高いようだが、正直あまり好きな歌人ではない。

文章の最後に、何気なしに正月を歌った自詠が置かれている。
正月の集まり 嫌で抜け出した君と
会う気がする ブックオフ
字余りなのか字足らずなのか、そこは山頭火風に崩れている

おトソが回って、ほろ酔いと言うにはいささか酩酊…
言葉の節目がおぼろげで、
雰囲気だけが足より前に、ゆらーり、ゆらーり

だから、「君」は彼なのか、彼女なのかもあいまいだ。

この歌には句点がないから、
私は「君と」のあとで区切った。
だから君は彼だ。
私はブックオフで彼を待っている彼女だ。
正確に言うとブックオフに一人いて、
ふと、彼がふらりと入ってきそうな気がしている彼女だ。

この歌をすなおに五七五七七で読めば、「抜け出した」で切れる。
屈託を抱いたまま、酔い醒ましにフラフラと歩いていて、
ふと街角のブックオフに入った。
立ち読みしているうち、突然君が現れたような気がした…
ということになる。

しかしそれでは身もフタもない。
やはり主語がフラフラと定まらぬところに余韻が残る
その場合、駅前の紀伊国屋も大学前の古書店もだめなので、
まさに中途半端、まさに「ザ・ブックオフ」なのだ。

ところで、詠みびとが女性だから何となくそう書いたけど
ブックオフで、一人立ち読みしているのは
ひょっとして彼かも知れない。
そのほうがお互いに
すこし正月らしく、秘めやかにハメを外した気分だ。

とにかくなんとなしに、
うなぎのようにヌラヌラとした歌だが
それも、お正月の気分かもしれない

なにか、これを毛筆風のポスターにして
ブックオフのカウンターの脇に張り出してみたいな。



2021年1月12日

かなり長いので、ちょっと端折って紹介します。

1.積極財政主義者サンダース

4年前の大統領選挙の直前、共和党幹部のポール・ライアンは、共和党全国委員会でこう語った。

「誰が上院予算委員会の委員長になるか知っていますか?」と問うた。そして答えた。「バーニー・サンダースという男です。彼のことを知ってますか?」

共和党は長い間、バーモント州の自称民主社会主義者であるサンダースが、予算委員会の指揮を執ることを恐れてきた。

なぜなら彼は「大きな政府と、より多くの連邦政府の借入金による、より大きな支出」を提唱してきたからだ。

民主党が上院を取り戻すことで、その恐れは、いままさに現実になりつつある。

サンダースは、アメリカ議会の最も進歩的なメンバーである。そのサンダースが、民主党の歳入・歳出計画を立案し、中心的な役割を果たすことになる。


2.“攻撃的” 財政の展開

サンダースは、「積極財政で経済刺激策を推進する。そのために新しい役割に迅速に取り組む」と述べた。

さらに、「危機は非常に深刻であり、可能な限り迅速に行動しなければならないと信じている」と述べた。

「“攻撃的” という言葉に下線を引いてください」と彼は言った。「私はそこからそこから始めます」

僅差での上院支配にもかかわらず、サンダースは税金、医療、気候変動などに大きな影響を発揮するだろうと予想されている。

なぜなら、あまり知られていないが、予算委員長としての役割には、信じられないほど強力なツールがあり、特定の法律については単純な過半数で承認を得られるからである。

「和解」(reconciliation)と呼ばれる予算メカニズムにより、議会は60票を獲得することなく法律を成立できる。

これは、トランプやブッシュのおこなった減税や、オバマの医療法案など、主要な対立法案を成立させた手段である。

(このあと「和解プロセス」の説明があるが省略)

「プロセス」の利用により、サンダースは新しい税金と財政支出を決定する上で主導的な役割を果たすことになる。


3.コロナ下の緊急対策

サンダースは、「最初の緊急の景気刺激パッケージは大規模なものにしたい」と述べた。

彼は、市民への直接支援のために、議会が通過したばかりの600ドルに加えて、1,400ドルを追加したいと考えている。

さらに州や都市へ、ワクチンの配布、検査、接触トレーシングのための資金を提供する必要があるという。

また、パンデミックの際に誰でも治療を受けることができるように、緊急の国民皆保険プログラムを作成しようとかんがえている。これには現在保険に加入しているかどうかは関係ない。

「このアイデアについては、規模とタイミングについてバイデンとすでにバイデンと相談していますわ」と語った。

彼は「すべての人のためのメディケア」など、長年訴えてきた自身の優先政策と関連付けるつもりはないと付言した。

そして「それはそれ、コロナは緊急対策である」と強調した。


4.米社会の構造的問題とサンダース

彼は、民主党が従来型の予算編成方針を超えて「アメリカ社会の構造的問題」に対処できる政策を実現したいと考えている。

そのために「和解」方式をどのように使えるかを試そうとしている。

サンダースもバイデンも景気刺激法案の規模を明らかにしていないが、木曜日に計画の概要が説明される予定である。

サンダースは、1兆ドル以上の費用がかかる可能性のある法律は、「漸進的な方法」で歳入を増やすことを目指すべきであると述べた。

これは富裕層と企業に対する増税を示唆したものである。上院の手続きの下では、増税案は財務委員会からていあんされる。担当議員は民主党進歩派のワイデン議員である。

すでにワイデンは、企業や金持ちを対象とする増税に積極的に取り組むことを明らかにしている。

ワイデンはインタビューで言った。「誰もが、公正な支払いを負担しなければならないという前提から始めなければなりません」


5.バイデン・サンダース関係は緊張をはらんでいる

バイデンの補佐官は、政策目標を法律化するために、サンダースなど議会委員会と緊密に協力すると述べている。

しかし、それにはいくつかの保留がある。サンダースの提案は、バイデンの全面的支持を得ているわけではない。

バイデンは、すべての人をメディケアの対象としては考えていない。また刺激策の優先順位を決める際に、一時的な医療保険の拡大を強調しているわけではない。


6.民主党穏健派の離反のリスク

バイデンは民主党内穏健派からの脅威にもさらされている。共和党との僅かな票差から言って、穏健な上院民主党員からも挑戦がもたらされる可能性がある。

民主党議員の一部は、バイデンが提案した支出プログラムのいくつかと、サンダースが支持する多くのプログラムに反対している。民主党の一致した政策のように見えたものでさえ、障害にぶつかる可能性がある。

ウェストバージニア選出の上院議員は、議会で最も保守的な民主党員である。彼は、刺激法案で1人あたり1,400ドルの現金給付を行うことは優先度が高くないと述べた。しかし最終的に賛成票を投じる可能性を否定はしなかった。

サンダースは上院の民主党指導者と協力して働くと言明しており、「全国民のメディケア」のための戦いは、すべて健康委員会に任せると述べた。

彼は、「和解立法」が「民主党の間で強力な支持を得るだろう」と確信しているようだ。

元民主党上院の指導者ハリー・リードは、「上院議員としてのサンダースは大統領選挙で主張したほど思念的ではなかった」と述べた。リードは2014年にサンダースを予算委員会のランキングメンバーに選んだ。民主党の同僚から「サンダースは民主社会主義者である」と懸念の声が上がったが、それを受け入れなかった。

「彼は本当の進歩的な社会主義者として知られている人だが、上院のコーカスにとって問題だったことはなかった」とリード氏はインタビューで述べた。「彼は反逆者になろうとはししなかった」


7.上院共和党による攻撃準備

共和党のリンゼイ・グラハムやノーキス上院議員は、サンダースが動けば連邦債務が増えるだけと攻撃している。

保守派の恐れについて尋ねられたサンダースはこう答えた。

「共和党の議員が私を嫌ったとしても、世論調査は私を支持するでしょう。そして増税と支出の増加が共和党員を含む幅広い有権者の間で受け入れられると思います。共和党議員は有権者から見放されることを心配するべきでしょう」

第9章 全国遺跡の行脚

1.マンロー史観の確認

「先史時代の日本」を書き上げたあと、関東大震災でほぼすべての財産を失うまでの生活は、考古学の現場を巡る旅の歴史でした。

それは彼の先史学の骨組み、すなわち基層としての縄文史(マンローの思いとしてはアイヌ史)→弥生史(思いとしては青銅史)→古墳史(思いとしては鉄器史)の三層構造を確認する作業の時代でした。

私は、その象徴が南九州における縄文遺跡の発掘だったと思います。

マンローは、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張しました。

アイヌは後から来た大和民族に追われ、周辺地に居住するようになりました。それが九州ではツチグモと呼ばれるようになったと考えました。また熊襲や隼人にも先住民族として関心を寄せました。

また大和民族の象徴として中間土器(弥生土器)を特徴づけ、先住民(縄文人)と対比する考えを示しました。

今日では、南九州縄文文化の先駆性について疑うものはいませんが、マンローがその先にアイヌともつながる人類学的特質を見抜いたのは、慧眼としか言いようがありません。

2.マンローの医学論文

普通は、この歳になって、研究も集大成され、内外に多くの知己を得、医業もそれなりに軌道に乗って落ち着いていくものですが、このひとの熱中ぶりは収まりません。

本を自費出版すると、今度はそれを売り込みに故郷イギリスへと旅立ちます。

直接の目的は、取りそこねたままの博士号を取ることでした。博士号がなくても医業につくことはできるのですが、本を出版するにあたって著者名の肩がMDなのとMBでは収まり具合が違う。

それだけではなくイギリスの考古学や人類学の当時の到達水準を肌身で感じたいというのは、当然あったのだと思います。

受験にあたってマンローが用意したのは「日本人のがん」というレビュー論文でした。彼は当時の日本の官庁統計や医学雑誌をもとに、類を見ない水準の論文を書き上げました。

私見ですが、この論文は乏しい資料から巧妙な方法で日本の疾病構造の特徴をつまみ出しています。

都市と地方の死因統計を比べることで医学水準をふくめた文化比較をして、がんの増加傾向を確認します。

これが議論の主筋ですが、マンローは結核死の急増にも注意をはらっています。

大変志の高い論文であると同時に、ちょっと言い過ぎるマンローの性格も垣間見えます。


3.離婚、そして三度目の結婚

マンロ-はエジンバラ大学で口頭試問を受け、めでたく合格します。その後も家に居るわけでも日本に変えるわけでもなく、ロンドン、パリ、ベルリンと第一次世界大戦直前の欧州を漫遊し、1年後に横浜に戻ります。

このとき女性を連れて帰ってきたので、トクさんは即刻離縁します。

マンローはまもなく女性に愛想尽かししてフランスに帰してしまい、その後は独り身になります。

その後の暮らしはしばらくよくわかりませんが、横浜市内を頻回に引っ越していたという話もあります。ただすでに膨大な資料を抱えていたはずなので、事の真偽は不明です。

何年か後に50をとうに超えてからスイス人令嬢と三度目の結婚をします。

この女性は横浜でも指折りの貿易商の娘で、母は日本人。当時としてはちょっとゆき遅れ、18も年上のマンローに相当入れ込んだようです。

私はこういう話は苦手なので、興味のある方は桑原さんの本をお読みください。ただ相当バイアスがかかっていることは覚悟しておいたほうが良いでしょう。

4.3年間の調査旅行の残したもの

モンローは新しい妻とともに3年間の新婚旅行に出ました。沖縄、南九州、そして北海道と3年にわたる発掘の旅。それが新婚旅行だったのです。

この「とんでもない旅行」の内容を伝える資料はあまり多くありません。また発掘資料は報告はそのほとんどが関東大震災のときに屋敷もろとも灰となりました。

最近になって鹿児島でも先駆者としてのマンローの功績が見直されているようですが、一時は発掘した場所(石郷遺跡と柊原貝塚)さえ分からなくなるほど、忘れられた存在でした。その内容と意義についての研究はこれからの課題だと思います。

木へんに冬はヒイラギのはずだが当地では「クヌギ」と読む。 原は「バル」なので「くぬぎばる貝塚」が現地名である。(垂水市の史跡

1913年のことです。現在は石郷遺跡に石碑が建てられ、碑文にはこう書かれています。
大正4年英人マンロー、此地ヲ発掘調査シ学界ニ発表ス。當時斯種土器ハ,所謂アイヌ式ト称セラレ,九州地方ニ於ケル最初ノ発見地ナリ。
マンローは土器の文様を主要な根拠にし、沖縄も含む九州全土の先住民はアイヌであると主張。その面影をもとめ、鹿児島まで至ったのです。ここにマンローの思いの焦点があります。彼が追ったのはいまで言えば縄文人であり、まさにそこにマンローの先見性があるのです。


トランプ批判のてんこ盛り

see you in DC

6日 トランプが提唱した抗議集会が開かれる。トランプは「抗議はワイルドなものになるだろう」と語り、「戦い」を挑発する。

6日 トランプの呼びかけを受けた支持者数千人が連邦議会議事堂に乱入。議事堂のドアが破られたとき、景観の低渡航はなかった。警察との衝突で4人が死亡した。上下両院の合同会議は中断され、議員らは一時避難する

6日 襲撃のTV中継を見ながら喜ぶトランプ一家の映像がトィッターにアップされ100万回の視聴。
https://twitter.com/ReesusP/status/1347227775975870469

6日 ソーシャルメディアで、群衆のためにバリケードを取り去ったり、建物内で侵入者らとセルフィーを撮る警官や警備員の姿などがシェアされる。この日の議事堂警察は暴動鎮圧のための特別武装をしていなかった。

6日 午後8時 両院会議が再開。深夜にバイデン当選が確定される。共和党の重鎮ロムニー上院議員は、演説でトランプを激しく非難。

6日 共和党の中からも怒りの声。
チェイニー下院議員(元副大統領の娘)は「大統領が暴徒を扇動した。火を付けたのは大統領だ」と投稿。
ギャラガー下院議員(トランプ支持者)は「米国の議事堂で途上国のような騒ぎが起きている。トランプはこの事態を止めるべきだ」と投稿。
ブッシュ元大統領は「一部の政治指導者が米国の制度や伝統を無視したことににがくぜんとしている」と発言。

7日 メルケル首相、騒動への「激しい怒りと悲しみ」をあらわす。「トランプが敗北を認めていないことは極めて遺憾だ」と語る。ジョンソン英首相も、「米議会の恥ずべき様相」を非難。マクロン仏大統領は、「民主主義を疑おうとする少数派の暴力に、われわれは屈しない」と誓う。イランのロウハニ大統領は、米議事堂での混乱が「西洋の民主主義がいかに脆弱であるかを示した」と述べた。
Qアノンの容疑者

7日 ティム・ライアン下院議員、「警官配備策を調べるほどに憤懣が増す。厳密なる取り調べが必要だ」とコメント

7日 マッカーシー陸軍長官、「事前に国家警備隊への要請はなかった」と述べ、防衛計画の欠如を示唆する。

8日 ツイッター社はトランプ大統領のアカウントについて、「暴力をさらにあおるリスクがある」として永久停止にする。これに対しメルケル首相は、「言論の自由への介入は、メディア側ではなく、法に基づいて行われるべきだ」とコメント。

9日 財界保守派もトランプを批判。全米製造業協会(NAM)会長は、「この暴動は製造業者が信じる米国の姿ではない」とかたる。さらにペンス副大統領に対し、憲法修正第25条を発動しトランプ大統領の即時、職務停止を真剣に検討するようもとめる。

10日 シュワルツェネッガー、ツィッター動画で「トランプは史上最悪の大統領」と批判。
「議事堂への乱入はナチス・ドイツを連想させる。うそが国をどこに向かわせるか私は知っている」と語る。

10日 アップルとグーグル、親トランプのソーシャルメディア「パーラー」の配信を一時停止する。

11日 全米プロゴルフ協会、全米プロゴルフ選手権の開催地に、トランプ氏のゴルフ場を使用しないと発表。

12日 統合参謀本部、「トランプ支持者の議会乱入は、憲法に対する直接的攻撃である」と非難。「言論と集会の自由は暴力や扇動、反乱に訴える権利を誰にも与えていない」と強調。軍は引き続き憲法を守ることにかかわる」と述べる。

12日 陸軍は襲撃者に現役兵士が参加していたかを確認する作業を開始したと発表。

12日 下院本会議、トランプ解任をもとめる決議を採決し可決。ペンスが応じなければ、弾劾訴追の決議案を採決の予定。

12日 アメリカンフットボールの強豪「ペイトリオッツ」のベリチック・コーチが、「大統領自由勲章」の受け取りを辞退すると表明。ベリチックNFL屈指の名将。前回っ選挙ではトランプを支援した。

12日 大手企業が続々と政治献金の停止を打ち出す。ホテルチェーン大手マリオット社はバイデン当選を認めない議員への献金を停止。政治献金そのものの見直しの動きの広がる。

12日 FBI、大統領の就任式に武装集団による抗議デモが計画されていると警告。インターネットを通じての参加を呼びかける。

13日 トランプが6日ぶりに記者会見。事件の責任は自分にはないとし、さらなる騒乱が起きれば民主党の責任と強調する。

五木の子守唄 とりあえずのまとめ

「成り行き」話はさらに進んで、「球磨の巡礼歌」の類歌探しに入った。

しかしそれはなかった。調べた限りではこの歌はかなり孤立した歌であった。

1.子守歌に紐付けられてしまった巡礼歌

日本の子守歌としては江戸の子守歌、中国地方の子守唄、竹田の子守唄、島原の子守唄が知られている。

五木の子守唄も子守歌としてはかなりそちらの系統と共通している。しかしそれは、何度も繰り返すように、五木村に伝わる「守子歌」に関しての話だ。

五木の子守唄の本質は、「おどま勧進勧進」に始まる巡礼歌であり、それは五木村とも守子歌とも縁のないものだ。


2.芸者歌になった巡礼歌

ここから先は、私の推論に過ぎないことをご承知いただきたい。

おそらく昭和のはじめにこの歌を採譜した地元の音楽教師田辺隆太郎は、人吉の芸者から聞き取ったに違いない。

その「芸者A」はそれより前、おそらくは大正時代に聞いた巡礼歌を、「五木の子守唄」として広めたのであろう。

BS朝日の放送では、「旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄」が採譜されたとある。

ここまでは正しいが、「1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子」というのは間違いと思う。

五木四浦の子守歌というのは、じつは芸者歌であり、そのルーツは巡礼歌であったと考えるべきだろう。

巡礼は無宿人(浮浪者)であり、流しの芸人でもあった。そして幸運にも宿場に居着いて、地付きの芸者に成り上がったかも知れない。

明治まで「芸人」は職能ではなく、まずもって身分(河原乞食)であったから、巡礼歌を守子歌でもあるかのように偽装する必要があったのではないか。


3.「巡礼歌」の構成

ここから先はもはや「五木の子守唄」と呼ぶのはふさわしくない。「巡礼歌」と呼ぶことにしたい。

歌詞から言うと、この「巡礼歌」は二つつの本歌と、それに対する問答歌からなっている。

最初は

おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる

の本歌に対する二連の返し歌からなる

二つめは

おどんがうっちんだら おかん端いけろ
人の通る数 花もらう

の本歌に対する三連の返し歌。

花は何の花 つんつん椿
水は天から もらい水

おどんがうちんちゅうて 誰が泣ゃてくりゃか
裏の松やみゃ せみが鳴く

せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる

順番は私のアレンジである。


4.巡礼歌の旋律

歌のメロディはヨナ抜き短調で、御詠歌と同様だ。古関裕而の採譜と照菊のレコードに差がないことから、すでに戦前「五木の子守唄」として完成していたものと思われる。

しかし聞けば分かるようにこの旋律は子守歌系ではなく御詠歌の流れをくんでいる。九州でどのような御詠歌が歌われていたかは「九州詠歌青年会」の男声合唱で偲ぶことができる。

聞いてもらえば分かるように、三拍子系であることにさほどの意味はない。変形七々七五の歌詞にメロディが乗ったものである。


5.巡礼の歴史

2020年11月29日 「五木の子守唄」は子守唄ではない
http://shosuzki.blog.jp/archives/84519534.html

の最後に
旅役者や大道芸や瞽女たちは流れ者の芸者だが、「ヘンド」たちは御詠歌を歌うだけしか能がない。彼女たちは、より悲惨な運命に翻弄されて行ったのではないかと危惧する。

と書いたが、それがずっと気になっていた。それが最後の記事でそれなりにスッキリした。

つまり、旅芸人とヘンドの間には理屈で考えるほどの差異はなかったということだ。

皆それなりに、したたかに生きていたのだ。巡礼おつうのように、やすやすと息絶えていたのではない。

流れ者(無宿人)には2つの系統があった。一つは旅芸人系(乞胸)であり、もう一つが願人系である。

遍路(ヘンド)は寺社建立への寄付を募る願人系で、もともとは芸で身を立てていたわけではない。

しかしそれだけで食っていくわけには行かないから、鳴り物入りで練り歩いたり、それが「大きな鉄の鉢をたたいて、大声で叫びながら練り歩く」ようになった。

さらに進めば、何らかの芸をすることで糊口をしのぐようになる。それが御詠歌であり、義太夫であったのであろう。

こうなってくれば「女太夫」と変わりない生活になる。やがてそれが地着きの芸者へと変化してのかも知れないし、地元の子女に音曲を伝えたのかも知れない。


6.遍路のイメージ

九州における遍路のイメージは、2つの記述の間を行き来する。

一つは北原白秋が故郷柳川での子供時代のイメージに沿って、多少美化しながら描いたもの。
春なれば街の乙女が華やぎに
君もまじりて美しう、恋の祈誓の
初旅や笈摺すがた鈴振りて、
大野の南、菜の花の黄金海透く
筑紫みち列もあえかのいろどりに、
御詠歌流し麗うらと練りも続く日、

もう一つは高群逸枝が水俣の田園を歩く遍路たちの列に憐憫の眼差しを交えて描いたものである。
この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。



1.「球磨の巡礼歌」の構造的本質

何回も歌詞を見返しているうちに分かったのだが、この歌、もはや五木とも子守歌とも言わず、「球磨の巡礼歌」と呼びたいのだが、この歌詞の「本歌」は以下の2つだ。
一.
おどまくゎんじんくゎんじん ぐゎんがら打てさるく
ちょかでままたゃて ろにとまる
二、
おどんがうっちんだら 往還端いけろ
人の通る数 花もらう

これ以外の歌詞は本歌取りというか返し歌というか、そんな感じの対話だ。


2.“ぐゎんがら打てさるく” 集団

この “ぐゎんがら打てさるく” がよく分からない。明らかに大音を立て、自らを目立たせるふるまいだ。

これは旅芸人なのではないだろうか。彼らが非人であったゆえにその歴史が隠されてきたのではないか。

ネットでもこの辺になると極端に情報が少なくなる。

できるだけ不適切な記載を予防するために、「部落解放同盟東京都連合会」のホームページから勉強しようと思う。

3.乞胸(ごうむね)について

江戸の被差別民に、乞胸(ごうむね)と呼ばれるグループがあった。大道芸を業としていた。乞胸たちは一般の町人や武士からは蔑視されていた。
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明治3年、平民も苗字を名乗ることになったが、乞胸は布告から除外された。

4.辻勧進(つじかんじん)について

芸のない者や女や子どもたちが、往来に出て銭を乞うこと。おつうの境遇はかなりこれに近い。れっきとした武家の娘だが、おそらくは因果を含めて養家を追い出されたのであろう。あるいは耐えかねて家出したのか。戦後の浮浪児を忍ばせる。

実母とは知らず、この家においてくれと懇願するさまは、なんとも悲惨だ。

ところでサイトの指摘では、辻勧進も乞胸の大道芸の一つに入っていた。ほかに猿若、義太夫節、物真似、講釈などが乞胸のレパートリー。無芸も芸の内ということか。


5.願人(がんにん)について

乞胸(ごうむね)とほとんど同じく大道芸を生業とする。

しかしその成り立ちは少し違った。願人は僧侶のたく鉢を起源とする下層の僧侶であった。ありていに言えば乞食坊主である。乞食坊主といえども坊主は坊主、このため願人は寺社奉行の管轄とされていた。
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江戸時代中期には、大きな鉄の鉢をたたいて「お釈迦、わい!」と大声で叫びながら往来していた、という文献があるそうだ。 まさにこれこそ “ぐゎんがら打てさるく” の実像だ。 

それが幕末ころには、もっぱら踊りや謡などを街頭で見せて銭を稼ぐ存在となった。いわば “願人の乞胸化” である。

願人芸人化の象徴が「住吉踊り」である。「一人が長い柄の派手な傘を持って歌いながら踊り、それに合せて数人の踊り手が団扇を持って周りを輪になって踊る」芸で、俗に言う「かっぽれ」である。
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明治6年に「願人呼称廃止」が布告され身分が引き上げられたが、物貰いが禁止されたため、生活はかえって困窮したという。


6.女太夫(おんなだゆう)について

女太夫は非人小屋に所属し、一人あるいは二三人ずれで三弦を弾きながら市中の店や門口に立って歌・浄瑠璃を奏で、銭を乞う。

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正月には綺麗に化粧し、新しい服を着て日和下駄をはいて、「なまめきたる」風姿で唄う。

とくにこれを「鳥追」(とりおい)芸という。


巡礼歌と御詠歌

巡礼歌というのが聞きたかったが、浄瑠璃の台本には出てこない。多分御詠歌なのであろう。

御詠歌集みたいなものがないかどうか、探して見ると、勧進歌みたいなものが出てくるかも知れない。

You Tubeには「九州詠歌青年会」というチャンネルがあって、お坊さん方で作った男声合唱団の演奏を聞くことができる。白秋の柳川時代を歌った詩の一節 “御詠歌流し麗うらと練りも続く日” を彷彿させる。

かなり大量の楽曲があり、これまで流布されてきた御詠歌を現代風な味付けで聞くことができる。


これを聞いて感じたことが2つある。

1.短調が御詠歌の基本

一つは、短調のヨナ抜き節は御詠歌の基本であるということだ。古来民謡と呼ばれてきた労働歌の多くが長調であるのと対照的である。

逆に言えば、短調の民謡は御詠歌から旋律を借りたものと言っても良さそうな感じがする。

3.三拍子ではなく無拍子

もう一つは、御詠歌にあっては言葉に節回しをつけていくのであり、盆踊りなどと違って太鼓の音に合わせて曲が展開していくようなものではないということだ。

それでも和歌などに音を付けていけば、五七五七七の歌詞は自ずと四拍子のリズムをもとめる。

しかし、“おどみゃぼんぎりぼんぎり” という歌詞にそのまま音符をつけていっても、そこからハギレのようリズム感は生まれない。

そこで三拍子部分をかなり多く含む変拍子形が生まれたのだろうと思う。三拍子っぽいからといって、朝鮮歌謡に結びつける必要はない。

このシリーズはとりあえず以下の5本です

著作権の件では全く問題ないだろうが、「桂七福のホームページ」からの転載いささか気が引けるが、この際ご容赦を。

なお桂七福さんは上方落語の噺家さんで、徳島県に在住されているようです。「人権落語・健康・福祉を主旨とした講演活動が大好評」だそうで、お近くの方はご利用されたらどうでしょうか。


十郎兵衛住家の段

…「順礼に御報謝」と、言ふも優しき国訛。
 「テモしほらしい順礼衆、ドレドレ報謝進ぜう」と、盆に白米の志、

…「可愛らしい娘の子、定めて連れ衆は親御達、国はいづく」
と尋ねられ、
 「アイ、国は阿波の徳島でござります」
 「何ぢや徳島、さつてもそれは、マア懐しい。わしが生れも阿波の徳島、そして父様や母様と一緒に順礼さんすのか」
 「イエイエ、その父様や母様に逢ひたさ故、それでわし一人、西国するのでござります」
と、聞いてどうやら気にかゝる、お弓は猶も傍に寄り、
 「ムヽ、シテその親達の名は何というぞいの」
 「アイ、父様の名は十郎兵衛、母様はお弓と申します」と、聞いて吃驚り、…

見れば見る程幼顔、見覚えのある額の黒子、「ヤレ我子か、懐しや」
と言はんとせしが、…

ここからがおつうの口説き。
 「イエイエ勿体ない、何の恨みませう。恨みる事はないけれど、小さい時別れたれば、父様や母様の顔も覚えず、余所の子供衆が、母様に髪結うて貰うたり、夜は抱かれて寝やしやんすを見ると、わしも母様があるならあの様に髪結うて貰はうものと、羨やましうござんす。…
 「イエイエ、恋しい父様や母様、たとへいつ迄かゝつてなと、尋ねうと思ふけれど、悲しい事は一人旅ぢゃてゝ、何処の宿でも泊めてはくれず、野に寝たり、山に寝たり、人の軒の下に寝ては、た、た、叩かれたり。怖い事や悲しい事も、父様や母様と一所にゐたりや、こんな目には逢ふまい物を、何処にどうしてゐやしやんすぞ。逢ひたい事ぢや逢ひたい事ぢや、逢ひたい」
と、わつと泣き出す娘より…
junreika

次は、おつうの死骸を抱いて嘆く女房の口説き…

 「コレ娘、これ程酷い親々を、よう尋ねて来てたもつたの。一人旅では泊め手はなく、野に寝たり山に寝たり、怖い事や悲しい事も、父様や母様に逢ひたさ故と言やつた時はノコレ、悲しうて悲しうて、身ふしも骨も砕くる様にあつたれどナア…



このシリーズはとりあえず以下の5本です


五木の子守唄と巡礼おつるの物語

巡礼歌と聞いて思い出すのは、「ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはなんとか」という語り。

なんで覚えているかはわからない。多分チャンバラ映画で覚えたのだろう。たしか「鳴門秘帖」という映画があって、多分シリーズ物だったろう。

70過ぎの私ですらこんな有様だから、若い人にはさっぱり分かるまい。

徳島新聞(電子版)に分かりやすい解説があったので紹介する。
2017/11/20
1月11日 この文章をアップ後、直接台本が読めないだろうかと探した所、桂七福のホームページから閲覧できることが分かりました。ただしこちらは阿波浄瑠璃ではなく上方浄瑠璃の台本のようです。題名は同じですが段名が「十郎兵衛住家の段」となっています。細部も若干異なるかも知れません。
こちらは別記事としてアップしましたのでご覧ください。

徳島の伝統芸能である阿波人形浄瑠璃。その代表的な演目が「傾城阿波の鳴門 順礼歌の段」。

ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します」のフレーズでおなじみです。

「傾城阿波の鳴門」は「時代物」の作品で、阿波徳島藩のお家騒動を描いています。10段で構成されていて、「順礼歌の段」は8段目です。

 ◆あらすじ
阿波徳島藩のお家騒動に絡み、主君の命を受けた十郎兵衛は、幼い娘おつるを祖母に預け、妻お弓とともに名を変え、盗賊に身をやつして大阪に潜んでいました。

順礼歌の段
 ある日、大坂の家に巡礼姿の女の子が訪ねてきます。お弓は言葉を交わすうち、娘のおつるだと分かります。
お弓は、おつるに国元に帰るよう諭しますが、おつるが去った後に思い直し、慌てておつるの後を追います。

偶然おつると出会った十郎兵衛は、我が子とは知らず、所持金欲しさに絞め殺してしまいます。そのあとお弓から、女の子が娘のおつるだと聞き、二人は悲嘆に暮れます。
junreika

その後十郎兵衛夫妻はおつるの死骸もろとも隠れ家に火をつけ、徳島へ帰参します。さして最後は無事に国次の刀を取り戻したのでした。

 ◆「順礼歌の段」見どころ
「自分を祖母に預けてどこにいるか分からない両親を探して西国巡礼している」と聞いたお弓は、両親の名を尋ねます。

「ととさんの…」という有名なせりふは、その問いに答えたものです。
おつるは「同じ年頃の子どもが母親に、髪を結ってもらったり、抱かれて寝たりするのがうらやましい」「一人旅なので宿に泊めてもらえずに野山で寝たり、軒先で寝てたたかれたりすることもある。親がいればこんなつらい目に遭わないだろう」と語り、両親に会いたいと切々と訴えます。

お弓は悩みに悩んだ末、国元へ帰るように諭しておつるを帰します。おつるの両親を恋う気持ち、お弓の愛情と葛藤が胸を打ちます。
これに思い当たったのです。
私でさえおぼろげに話を知っていたのですから、明治大正の頃に人吉の花街で巡礼おつるの話を知らない人はいなかったと思います。

「一人旅なので宿に泊めてもらえずに野山で寝たり、軒先で寝てたたかれたりすることもある」という下りは、まさに五木の子守唄の情景そのものです。

悲しみや辛さの、あくどいまでのてんこ盛りは、浄瑠璃のいわば常套手段です。虫けらのように軽視される命という巡礼観も底を流れています。

巡礼歌の歌詞は、この話がひとつの下敷きになっているのではないかとも思えるのですが、いかがでしょうか。


泥沼の「五木の子守唄」
BS朝日 「歌の旅人」より
2009年8月14日「五木の子守唄」

一般に流布している「五木の子守唄」は、戦後の昭和25年(1950年)、作曲家古関裕而氏が、熊本・人吉地方で唄われていた民謡を採譜・編曲してオルガン曲として世に出したものだ。

五木地方の子守唄は、長い時間をかけて積み重ねられてきたため、歌詞のヴァリアントが非常に多く、記録されているだけでも70~80聯ほどもあるといわれている。

昭和5年(1930年)人吉市の小学校の教師、田辺隆太郎氏が、この地方の民謡を初めて採取・採譜して球磨民謡集を編纂した。
その中に旋律も拍子も違う2つの五木の子守唄が載っている。
1つは五木地方の子守唄、2拍子。もうひとつは五木四浦地方(現相良村・四浦)の子守唄、3拍子。


the Museというページ

ここではいくつかの文献を基礎にして、五木の子守唄に関するかなりラジカルな見解が述べられています。

最初は当地にゆかりの深い女性解放運動家の高群逸枝の著作「女性の歴史」にもとづいています。

一部紹介させていただきます。

この歌は五木のみならず、肥後一円で歌われた。私は熊本南部の水田地帯に育ったが、10、20人とうち群れて、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、この歌を声高く合唱する子守たちのなかに私もよくまじっていた。
ただし、歌詞は、平地から山地に入るにしたがって深刻となり、球磨の五木へんで絶頂にたっしていたとおもう。
そのわけは、後にいうように、そのへんが子守たちの大量給源地であったからだろう。

上村てる緒が採取した歌詞の一部及び近隣各地の歌詞と田辺隆太郎の2つの採譜は、今日では次に収録され、容易にチェック出来ます。
「日本わらべ歌全集 (25) 熊本宮崎のわらべ歌」(柳原出版 72年)

節回しが通常歌われているものと全く違うこと、下の句(7775形式の75部分)が繰り返される等の特徴に気づかれることでしょう。

上村占魚の証言
人吉出身で高浜虚子に師事した俳人、上村占魚 (1920 - 1996) の随筆「五木の子守唄と私」(「愚の一念」1965年 笛発行所 所収) には次の様な既述があります。

昭和4、5年、家には五木在から子守、女中が来ていたが、彼女達の歌は耳にしたことはない。家兄がうたうのはききおぼえた。

この中で彼は昭和15年頃北原白秋に人吉ヴァージョンと五木ヴァージョンを唄って聞かせたことも披露しています。白秋は色々なところで、この唄を高く評価していますが、これがそのきっかけだったのでしょうか。

久しぶりに赤旗経済面の勉強

本日から山田博文さんの「経済の潮流」というのが始まった。


1.コロナ不況

20年度の世界経済成長率は、IMF試算で-4.4%となった。これは1930年代の世界大恐慌以来の落ち込みである。


2.深刻な雇用喪失

サービス産業がとりわけ深刻な打撃を受けたため、不況の影響がもろに雇用に及んでいることが特徴だ。

ILOの調べでは世界の労働者の8割が打撃を受け、5億人の雇用に相当する労働時間が失われた。


3.世界の製造業の川上で広がるリストラ

製造業ではサプライチェーンの切断により、サプライサイドの経営困難が深刻化。リストラが進んでいる。


4.各国の財政出動

コロナ開始後の各国の財政支出は総額12兆ドルに達する。

そしてリーマンショック以来の累積債務は、国際金融協会(IIF)によれば、総額277兆ドルに達した。これは経済規模の3倍に当たる。

公的資金は国民生活、民間経済の防衛に貢献するが、実体経済の発展にはつながらず、企業モラルの低下をもたらす。


5.各国中銀の金融緩和に着地点が見えず

金融緩和は満腹となり肥え太った富裕層の口にドルを押し込むようにして行われた。

しかも低金利によって、余剰資金が国債・公債に流れ込むことを阻止した。

これがリーマン・ショック以降10年にわたり続き、コロナ発生後さらに強化された。


6.株高がもたらしたとてつもない富

行き場所を失った資金は、そのほとんどが株式市場に流れ込んだ。

ダウ平均株価は史上最高となり3万ドルを越えた。株式の時価総額はGDPの2倍に達した。

米国の資産上位1%の金融資産は、全資産の半分を超えている。


これらの事実は、現在の経済・金融システムが社会にとってきわめて不合理なものとなっていることを示している。

これに代わるものを、我々は真剣に模索しなくてはならない。


なお、経済面左下の「こちら経済部」は、新春らしく流行り言葉が玉飾りのように連ねられている。
しかしこのスペースにこれだけ突っ込むのは無理。悪くいえば言葉が踊っていて地についていない。
おトソ気分はそろそろ終えて、議論の首根っこを押さえていこう。

山田さんの文章も、だいぶ順序を入れ替えている。
とにかく今後は、米大統領選を期に情勢がガラガラと動くことは間違いない。きのうの議事堂乱入を一昨日、誰が予想し得たであろうか?
経済学は諸パラメータでできているが、諸パラメータに重みづけを行い本質的なものを引き出していくのは歴史的な経験に基づいた叡智である。
筋の通ったわかりやすい実践的な分析が求められていると思う。

水素を用いた自然エネルギー利用の第三段。
これも日経新聞の12月28日付け一面トップだ。
まずは三段からなる見出し
三菱重が水素製鉄設備
CO2 排出ゼロに
欧州で来年稼働へ

1.製鉄とCO2

鉄鋼業界のCO2排出量は年間20億トン。これは20年前の2倍に達している。
製鉄由来CO2排出量の、全産業に占める割合は25%。これも20年前に比べ5%増えている。
すなわち製鉄工程のCO2排出は最大最悪となっており、その改善がCO2 削減の鍵を握っている。

2.製鉄工程がCO2を生み出すメカニズム

鉄鉱石は酸化鉄の形で採掘されている。これを鉄として用いるためにには還元(精錬)が不可欠だ。現在の精錬法は、石炭(コークス)を燃焼させて、炭素を鉄鉱石内の酸化鉄と結合させ、二酸化炭素として取り出すもの。ある意味では、炭酸ガス産出は精錬過程の本質的な一部だ。 

3.炭素の代わりに水素で還元する

炭素の代わりに水素を酸化鉄にくっつけると、炭酸ガスの代わりに水(H2O)が産生され、排出される。残りは還元されたFeとなる。

もちろんそれにはエネルギーが必要だが、エネルギーの供給役は水素が果たす。それは石炭がエネルギーを供給すると同時に、酸素の受け手としての炭素の供給者になるのと同様である。

4.水素製鉄の実用可能性

このプラントはDRIとよばれ、“鉄鉱石を水素で直接還元する” 手法なのだそうだ。高炉に比べ生産量は少ないものの、投資額は半分以下となるらしい。ただし記事からは詳細は不明。

ページ下に解説

5.ネックは安価な水素の供給

水素の現在の価格は1立米で100円。これを10円以下に押さえないと採算には乗らならしい。

それにしても炭酸ガスといい水素といい、いざ使おうとなるとそうかんたんなものではないようだ。「雲をつかむような話」にならなければ幸いだが…


水素DRI法の解説 (神戸製鋼所のページより

以下の解説は神戸製鋼所のHPからのもの。日経新聞に紹介された三菱重工方式とはやや異なる可能性があるが、原理的には同じものと思われる。



Midrex社の水素を活用した直接還元製鉄法。当社グループ100%子会社であるMidrex Technologies, Incの保有する技術。

直接還元法(DRI: Direct Reduced Iron)

これまでミトレックス社では天然ガスを還元剤とする直接還元鉄プラントを開発してきた。

これは天然ガスを還元剤として、粉状の鉱石を加工したペレットをシャフト炉によって還元し、還元鉄を製造する方法である。

今回は天然ガスではなく水素を還元剤とする直接還元鉄プラントを実証実験した。

水素は天然ガスプラントの炉頂ガスに含まれる水素を回収し利用した。


天然ガスベース

水素還元

Fe2O3+3CO→2Fe+3CO2

Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O

Fe2O3+3H2→2Fe+3H2O




1月3日の「赤旗」に載ったちばてつやの随想。
とても良いので、多分著作権絡むと思うけど、全文転載する。

ちばてつや
画面の上を左クリックすると拡大されます。

燃料アンモニアよりメタン

前項記事で燃料アンモニアをこき下ろした。
今度は水素によりメタンガスを産生させ、これを貯蔵可能燃料とするプランだ。
たしかにこれだと天然ガス並みのエネルギーが引き出せる。

それが日経新聞12月20日付けの記事だ。見出しは下記の通り。
CO2+水素 再利用で連携
日中、メタンガス製造
世界最大プラント建設へ
内容は私の思いと多少ずれているので、そのまま紹介しても仕方ない。要点だけ紹介する。

実は、水素は産業廃棄物でもある。
それは化学産業や製鉄などで多く発生する。もちろん炭素燃料を使用すれば炭酸ガスが発生する。

この2つを結合すると、メタンが発生する、というのが日経の話だ。

ここから先は私の話。

風力発電で得られる電気で水を電気分解して水素を獲得する。これを加圧・液体化して運搬するというのが、当初の話だった。

しかしこれは、水素の容量あたりエネルギー発生量が低く、コスト的に厳しい。また輸送・貯蔵にもLNGの数倍の費用がかかるという。

だが、ここで産生された水素を炭酸ガスと反応させて、メタンガスにしてはどうだろうか。

メタンガスであればLPGとほぼ同等の燃料効率が期待できる。

たしかにメタンガスの燃焼は炭酸ガスの産生をうながすが、それはもともと存在した炭酸ガスのリサイクルであって、その増加をもたらしたわけではない。

それと炭酸ガスを目の敵にして、CO2 削減を自己目的化するのは、どうも本末転倒の気がする。炭酸ガスの多い地球は、基本的には人類に優しい温暖な気候なのだ。

(少なくとも当面は)問題は、化石燃料の過剰使用による大気汚染であり、合成樹脂による環境汚染だ。さらに原子力の統御力なき利用による核汚染の拡散なのだ。


問題は炭酸ガスの取り込み

ただ記事を見ると、それでもコスト的には厳しい。工場内、あるいは近接する工場群のあいだの廃物のやり取りにとどまるようだ。

問題はおそらく炭酸ガスの有効な取り込みなのだろうがこの仕組をもう少し知る必要がありそうだ。


燃料アンモニア 

はじめに
私はこれまで水素こそが次世代エネルギーの核心と考えてきた。
もちろん水素そのものはエネルギーの担体であり、人類が依拠すべきエネルギー源ではない。
基本的なエネルギー源は、いまもこれからも太陽光と風力だ。
水素はそれを輸送・保存可能なエネルギーとする一種の蓄電体だ。これは「エネルギーキャリア」と呼ばれるらしい。

それを前提に考えるなら、水素はLPGのように取り扱うことも可能ではないか。

そこで三井物産が10年前に提示した夢が広がった。パタゴニアで風力発電プラントを立ち上げ、そこで発電した電力を水解法で水素に変える。これをタンカーで日本まで運ぼうというのだ。
しかしこれには強力が障壁があることがわかった。水素の重量・容量あたりのエネルギー発生量がかなり低いことである。したがって輸送コストが倍になる。
これは引き続きエネルギー源を海外に広く頼ろうとする日本にとってはかなりの障害になる。

はたと考え込んだときに、「燃料アンモニア」の記事が飛び込んできた。これは水素に代わりうるのだろうか?

アンモニアを燃やして発電」という記事から勉強を始めたい。

著者は小林 秀昭(東北大学 流体科学研究所 教授)という方です。


1.ガスタービンで世界初を実現

2014年、小林らはアンモニア燃料のガスタービン発電を実現した。
さらに2018年にはメタンに20%のアンモニアを混ぜた燃料で2MWの大型ガスタービン発電に成功している。
ということで、「アンモニアも混ぜたメタンガス」というのが真相のようだ。
しかもそれが世界初というから、操業化までは道遠しの印象だ。
まぁここまで来たのだから一応は目を通しておこう。

2.アンモニアの燃焼性は低い

アンモニアはメタンなどの炭化水素系燃料と比較して、炎を良い状態で安定させる“保炎範囲”がとても狭い。燃焼速度も非常に遅く、メタンのわずか5分の1に過ぎない。

小林らはアンモニアを石炭火発で混焼させることで石炭の使用料を減らし、炭酸ガスの産生を減らすことができるという。

ああ、ほとんど絶望的だ。さらにアンモニアの燃焼によって生じる窒素酸化物も厄介だ。

3.CO2 より NOx のほうが良いとはいえない

原理的にはNH3のHがO2と結合してNとH2Oになるのだろうが、NOx(窒素酸化物)の産生の可能性はないのだろうか。やはり気になってしまう。

CO2 より NOx のほうが良いとはいえないと思う。

結局は蓄電池問題なのだ

これまではどれが良いか問題のはなしである。それはこれからも続いていく話題になる。
しかし、なぜこんな話に門外漢の私がこだわるかということが実は一番の問題なのだ。
同日の日経の7面に
「50年排出ゼロ目標 電気料金値上げ抑制のためには9兆円投資が必要に」
という記事がある。

これによると蓄電池とCCS(二酸化炭素の回収・貯留)で9兆円の投資が必要とある。内訳は蓄電池配置に4兆円、水素発電所とCCSの建設に5兆円とされる。

ただ記事をよく読んでいくと、これは石炭火発をゼロにしたときの試算のみで、原発・火発はいまのままということだ。

原発と石炭火発をやめて自然エネルギーでそれを賄うとすれば、原発44基分44ギガワットの蓄電池が必要になる。その際は蓄電池本体で7兆、送電網増設に10兆円が必要になる。

アンモニアやメタンの話は、この発送電システムを全面オンラインにするが、一部オフラインにしてコスト節減は測れないかという話である。それと国内だけでなく海外の電力資源も使い回すとすれば、「動く蓄電体」の検討は不可欠の話題だ。


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