鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年10月


これは 
の続きというか、おまけです。

今回また行ったというのではなくて、図書館でたまたま見つけた本の紹介です。
堀淳一さんという方がいて、元は北大教授ですが、鉄道の廃線歩きで有名な方。何冊も本を書いていますが、多分これは極めつけ。
昭和40年ころの地図と最近の地図をならべて表記しています。
それを見ると、今さらながらに北海道の無惨な「近代化」を見せつけられる思いです。その中の天北線の北半分の鉄道のあった頃の地図を転載します。
 天北線北半分

          図上、左クリックで拡大します

天北線沿線を車で走ったときは、正直のところ浜頓別以北にはあまり関心がなかったのですが、この地図を見て、線路とはまったく関係のない浜通りばかり走っていたことがわかりました。しかしこの線路はどうしてこうも意味のないところばかりを走ったのでしょう? 突き詰めると、ただひたすら浜頓別というたった一つの街のために作られた線路のようです。
そもそも天北原野というのが不思議な形をしていて、日本海側から少なくとも6本の山並みが縦じわになって連なっています。どうしてこのような地形が出来上がったのでしょう。多分プレート理論で説明できるのでしょうが…
機会があればもう一度、天北線に忠実に走ってみたいと思います。

第7章のための準備

この1章だけで「先史時代の日本」を要約するのはとてもできませんが、「マンロー学」への入り口としてお読みいただければ幸いです。

ということで、「先史時代の日本」の要約を書き始めたところだったが、ふとしたことから、すごい論文を見つけてしまった。

それが先日あげた2020年10月23日 アバさんのマンロー論 である。

当時の考古学の状況、到達点など知らない私には「先史時代の日本」の大著は手に余った。

一応、序説を読んだところでその梗概でお茶を濁そうと思ったが、アバさんは全巻を通読した上で、当時の学会の到達状況も見渡しながら評価しているので、いまのところは決定版と行ってよいだろうと思う。

「伝播主義」史観について

ただし、メソポタミアから西域を伝わってさまざまな文化が伝播してきて、それが中国文明を形づくったという壮大な提起は、アバさんからは壮大なほら話として受け止められているようだ。

この話は実は序説部分に展開されており、中国の先史時代に関する相当の知識がないと読み込めないところである。

支石墓(ドルメン)文化の扱い

さらに支石墓(ドルメン)文化の扱いは慎重にやらないと、せっかくの議論を相殺してしまう恐れがある。

この点については、アバさんの議論に付け加えなければならないので、これだけでもうひとつの章(第8章)を追加したいと思う。

第6章の追補

後もう一つ、アバさんの論文の前半には「先史時代の日本」執筆に至るマンローの考古学的活動の経過が記載されていて、そこにはわたしにとっで新しい事実も含まれているので、第6章の修正もしなければならない。

それまで生きていられるかどうか、少々心配になってきた。

日本のどこかにロイターの言う事なら何でも正しいと信じている人がいるようだ。私はどうもへそ曲がりで、ロイターの言うことは信用ならないと考えている。
セーシェルのニュースもその一つだ。

独立以来初 セーシェル大統領選挙で野党派が勝利

ということで、あたかも独裁勢力に対して民主派が勝利したような扱いだ。しかし実際には左派勢力の統一戦線政府が保守派の政党に敗れたということなのだ。

なにも難しいことを調べなくても良い。ウィキペディアの日本語版をみれば、ちゃんとこう書いてある。

1794年にはイギリス海軍が占領し、1814年にはパリ条約によってセーシェルはモーリシャスとともにイギリス領となった。1872年には民政総督府が置かれ、1903年にはモーリシャスから分離して単独の植民地となった。

1948年には立法評議会選挙が実施されるなど、政治的自治は徐々に拡大していった。1964年にセーシェル独立派のフランス=アルベール・ルネが社会主義政党のセーシェル人民統一党を、イギリス領残留派のジェイムス・マンチャムが保守政党のセーシェル民主党を組織した。

1976年6月29日にイギリスから独立し、民主党のマンチャムが大統領に、人民統一党のルネが首相に就任した。(この後人民統一等は何度も党名を変えている)

しかし翌1977年にルネがクーデターでマンチャムを追放して実権を握り、一党独裁制を敷いた。人民統一党は1978年にセーシェル人民進歩戦線と改称し、1979年には憲法を改正して正式に一党独裁となった.

数度にわたってクーデター未遂が起きるが、観光開発により経済は成長を続けた。

1991年に入ると民主化運動が盛んとなった。1993年には民主的な新憲法が発布された。同年、複数政党による民主選挙が行われた。人民進歩戦線は経済成長を評価されて33議席中25議席を獲得した。

2016年の議会選挙で野党のセーシェル国民連合が議席の過半数を獲得し、人民党のダニー・フォール大統領とのねじれが生じた。

2020年10月には野党連合が大統領選挙、議会総選挙ともに勝利し、43年ぶりの政権交代が実現した。

セーシェル政府のガバナンス(統治能力)は良好であり、アフリカ有数の政府の質を誇る。
(photo1)Japan-Seychelles Summit Meeting
Japan-Seychelles Summit Meeting 
August 31, 2019


ということで独立直後の16年は「独裁」が続いたもののの、それは反独立派との対立と考えられる。その証拠に、16年後の選挙では人民進歩戦線が圧勝している。

その後も「民主主義」のもとで政府・与党は良好なガバナンスを誇ってきた。

おそらく20年以上を経て、住民の間に一種の飽きが出てきた可能性はある。もう少し経過を見ていく必要はありそうだ。


キューバ グランマ紙

october 20, 2020

In Bolivia, MAS is more


ボリビア人民は、軍事クーデターのあとも真実と尊厳を失っていないことを鮮やかに示した。

社会主義運動(MAS)の大統領候補ルイス・アルセは圧倒的に勝利した。2位の候補に20パーセント以上の差をつけて破り、右翼の幻想を打ち砕いた(mas は英語で more である)

キューバのカネル大統領は次のようにあいさつを送った。
「MASのみなさん、おめでとうございます。あなた方はOASと帝国主義のに導かれた裹頭勢力が奪った政治権力を、選挙という方法で奪い返すことができました」
そして「キューバはルイス・アルセ勝利の喜びを分かち合っています。ボリバル主義の理想がよみがえりました」
と強調した。

半日の後、ルイス・アルセはカネル大統領にこう応えた。
「ありがとう、カネル大統領。団結した人々は、選挙という方法により、経済的、社会的、政治的な回復と安定を決意しました。そして我が人民は希望を取り戻しました」
投票の結果は、2019年の選挙後にでっち上げられた茶番劇を明らかにした。その茶番劇の背後には米州機構、リマグループ、そして米国がいた。それは軍事クーデター、エボ・モラレスの国外追放、そして30人以上のボリビア人の命が犠牲になる弾圧へとつながっていった。

しかし人々の意志は非常に強力なものだった。そのため暫定大統領アニェスはMASを合法政党として承認せざるを得なかった。

アルセ候補の当選の弁

当選したアルセは、勝利後の最初の記者会見で、国民統一の政府を建設するつもりだと強調した。彼は過去の過ちに学び、それを克服すると述べた。そして憎しみを捨て和解の道に進む決意を明らかにした。

アルセは副大統領候補のデビッド・チョケファンカとともに、軍事クーデター後に課された新自由主義の悪夢を逆転させようとしている。

彼らにはそれだけの経験と道徳的権威がある。 

ボリビアの経済困難はアニェス暫定大統領の時代にひどくなった。広範に広がった腐敗、天然資源や生産設備の民営化と大企業への譲渡が相次いだ。それはコロナ禍への対応のまずさにより耐え難いものとなった。

こうして尊厳を傷つけられた人々は、平和を目指して投票した。

就任後も、内外の敵が確実に「闇の計画」に着手するだろう。新政府は国民を団結させる複雑で困難な課題に直面するだろう。注意深く信頼を強化し、経済・社会の発展のための道すじを指し示し、コロナへの対応を変換し、発生数や死亡率をコントロールしなければならない。

そしてクーデターによって損壊された国民主権と友好的な国際関係を回復しなければならない。


むかし何かで読んだのだが、「国会で安定した過半数を占めることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に代え…」という一節があった。
まあそれはどうでも良いのだが、今回のボリビアのケースを見ているとまさにそういう実感が湧いてくる。


「キューバとコロナ」学習会のための資料です。

1. キューバの感染状況
ウィキペディアより転載
ky-ba kansenn
7月にはいったん完全な封じ込めに成功したが、その後8月からぶり返し、ばらつきはあるものの平均40~50人の新規感染数で推移している。しかし世界的な動向から見れば抑え込みに成功しているとってよい。死者数もきわめて少ない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その1 訪問診療の威力

システム

ファミリードクターが一人当たり約200世帯を受け持ち、

各家庭を週に1回訪れている。

感染者や要注意対象はさらに頻回の往診を行う。

効果

感染者の早期発見・早期隔離が可能となり、

集団感染のリスクも抑えられ、

医療崩壊も起こらない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その2 濃厚接触者への「濃厚な」対処

濃厚接触者『全て』を2週間入院させる

入院先は陽性者とは別の施設

総入院者は感染者の約3倍にのぼる

濃厚な対処が可能なのは国民的合意のため 

健康は全ての国民に与えられる人権で、

国民ひとりひとりがその獲得に尽力する


 

 

キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その3 新規薬の積極利用

20種以上の薬剤で治療

免疫賦活薬 インターフェロンα 2b、バイオモジュリンT

インターフェロンα 2bはデング熱、HIV-AIDS、B型およびC型肝炎で
有効性が試されている

重症化した患者にはジャスビンザ(Jusvinza)

新規薬を使わざるを得ない理由

アメリカは医薬品まで封鎖している。キューバへの販売は犯罪。
第三国で作った製品でも処罰対象になる。

さらにアメリカはインターフェロンα 2bを使わないよう各国に呼びかけている。

 



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由


その4 圧倒的な医療スタッフ

医師数が多い: 人口1,000人中約8.7人が医師(日本は2.6人)
外国人も多数受け入れている

緊急医療援助国際部隊「ヘンリ・リーブス」
コロナ以前より、28,000人を超える医師たちが世界59ヶ国で医療支援

コロナ後には、あらたに2,800人の医師が24ヶ国で活動。

ヘンリ・リーブスは19世紀末に独立戦争に参加し戦死した米国人

 







下記の文章は
北大史学 第46号 2006年11月30日に掲載された
ラファエル・アバ 「ある英国人が見た日本列島の先史文化ーーN. G. Munroと“Prehistoric Japan” (1908年)」のうち「第3章 Munro著 Prehistoric Japn 」をノートしたものである。


第3章のうち(1)、(2)節はマンロー書の背景説明なので省略する。

第3節 『先史時代の日本』の構成

“Prehistoric Japan”に見られる「先史観念」を検討する。
著書の構成を確認したい。
Munroは先史時代の時代構成を原始文化ヤマト文化との二つの部分に分けた。これは当時の本邦学会における主流に従ったものである。ただしヤマト文化はマンローの造語であり慣用的には「古墳時代」である。

原始文化

原始文化は 本文第1章 “旧石器時代″ から、第8章 ”中間型土器″ までからなる。当時の日本の考古学者は「石器時代」と称していた、現在のいわゆる「縄文文化」が中心となっている

第1章では日本列島の旧石器文化存否問題を提起している。マンローは日本の石器時代(縄文時代)を新石器時代とした上で、無土器時代イコール旧石器時代の可能性についても触れている。この部分は戦後、東北大学の芹沢教室が盛んに引用したとのことである。

第8章では弥生土器(中間型)について述べている。注意しなければならないのは、弥生式土器(中間型)が原始文化の最後に付け加えられる形で記載されていることである。

ヤマト文化

゛ヤマト文化″は第9章Some Bronze Vestiges″から始まり、第15章 “The Prehistoric Races″ までの7章からなる。

実際には第9章では現在でいう弥生文化と青銅器との関連を分析する序論部分となっている。弥生文化が原始時代の最後に位置づけられるのに対し、青銅器文化はヤマト文化の端緒期として位置づけられる。ただしこれは青銅器文化をヤマト文化とは異なる独立の時代としたいとの密かな意思の現れである、アバはそのように読んでいる。

第10章から第13章までは現在でいう古墳文化について述べている。


特論部分

ヤマト文化の各章のなかで14,15章は特論部分となっている。

第14章は「石器時代人民」や「ヤマト人」の宗教論であり、第15章は日本列島の人種・住民論に当たる。


章構成の特徴

こうした構成はMunro自身の創見ではない。当時、既に出版されていた2つの概説書、八木奘三郎『日本考古學』と八木・中澤『日本考古學』の構成を基本的に引き継ぎいでいる。

しかしながら、幾つかの点において変更が行われている。例えば、八木が「器物」という一つの章で括ったのを、Munroは「生活用具」、「武器」、「土器」の三つの章に区分している。

おそらく最も注意すべきことは、「人種論」の章が著書中に示す位置である。八木と八木・中澤の概説書ではこの「人種論」は最初に置かれている。しかしMunroは最後の章に置いた。しかもこれは僅か15頁の短文である。

モンローがこの本を書いた目的は、遺物や遺跡という物質的な所産をヨーロッパ人に紹介することにある。だからあまりここでは「人種論」にあまりこだわりたくなかったのかもしれない。

同じような趣旨のベルツの本 “Zur Vor- und Urgeschichte Japans” では人種論が30ページにわたっている。


第4節 マンローの先史文化観

(1)「原始文化」

Munroは日本列島で発見されていた先史文化の考古資料を全体的にどのように理解していたのか。結論を先にいうと、原始文化は「縄文時代」、ヤマト文化は「古墳時代」に相当する。

原始文化の遺跡は貝塚や住居址であり、そこから出土する打製石器と精巧な磨製石器が特徴的である。また遺跡からは常に土器が出土する。この土器は一般に粗製で、ロクロを用いずに製作された。時には非常に精巧な文様のあるものも見つかる。

当時日本の考古学人類学界では「縄文文化」という用語がなく、「石器時代」と括られていた。これはアメリカのE. S.モースの命名(cord marked pottery)である。

その他、骨角製の道具も見られる。この文化はヨーロッパの新石器時代の文化に相当する。ただしヨーロッパと異なって、これらの遺物はドルメンや横穴墓からは出土しない

また、旧石器文化は、この新石器文化に先行して存在する可能性が認められるが、確実な証拠は得られていない。(マンローは縄文時代を新石器時代と考えている。そして日本に旧石器時代=無土器時代があったかどうかは今後の発見に待つとする)

(2)「ヤマト文化」

ヤマト文化の遺跡は墓室や横穴であり、そこからは剣などの鉄器が主体的に出土する。

ヨーロッパの鉄器時代に相当する。しかしそこには青銅器や金属器の石製模倣品も見られる。それらの中には、大陸から直接にもたらされた舶来品も発見される。

「土器」は石器時代と異なる。材質は硬く、ロクロを用いて製作されている。その文様は単純である。

一般には「ヤマト文化」ではなく「古墳時代」という。「古墳時代」という用語は1890年代の前半から散見されるようになるが、明確な定義を最初に与えたのは、八木奘三郎である。

「吾邦上古の時に當りて人々高大なる墳墓を築造し、以て死者の靈魂を慰せしことあり、予は便宜上當時を目して日本の古墳時代と謂ふ」(八木1896)

しかしマンローは、学界において既に定着していたこれらの用語ではなく、「原始文化」(Premitive Culture)と「ヤマト文化」(Yamato Culture)と言い換えた。

ただこの時代区分は、言葉こそ新しいものの、実態としては八木奘三郎の「石器時代」(先史時代)、「古墳時代」(原史時代)とかわらない。

ではなぜ言い換えたのか? それは、第三の文化、つまり青銅器文化の挿入と絡んでいる。


(3)第三の文化としての「青銅器文化」 

剣、鉾、ヤジリ、銅鐸などの青銅器は、九州や瀬戸内海に面する幾つかの地域でのみ発見される、それは原始文化の分布とも、ヤマト文化の分布とも一致しない。大和文化とは時期的に近接しているにもかかわらず、その墳墓の中に発見された例もない。

このことをマンローは問題にしている。

つまり、「この青銅器は原始文化ともヤマト文化とも異なる、もうひとつの文化に属するのではないか」という可能性である。

現在我々の「常識」からみれば、これは当然の結論だといえるかもしれないが、実際に日本の学者のほとんどが青銅器を「古墳時代」のものとして分類していた当時では、こうした認識は決して一般的ではなかった。

例えば、坪井正五郎は1899年に日本における青銅器時代の存在を完全に否定していた。

八木も「日本考古學」(1902)で銅鉾についてこう語っている。
銅鉾は古墳時代の品と見て良いのだろうか。たしかにこれらが古墳中より出た例は多くない。去れ共他の點より考へて時期に大差なしと見て宜しいのではないか。
そこには政治的な問題が潜んでいた。すなわち、「石器時代の物質的な所産は優等である日本人(天孫民族)と無縁だ」と考える人の存在である。

彼らにとっては、石器文化と古墳文化とは、その担い手の間に断絶がなければならなかった。日本人が野蛮人の子孫であってはならないからである。

これが明治時代の日本考古学思想にみられる「青銅器時代」否定論の、一つの思想的基盤である。


(4)「青銅器時代」論の意味

Munroは「青銅器文化」を、たんなる過渡期あるいは中間的な段階としては理解しなかった。それは「原始文化」と「ヤマト文化」との間の関連性においてのみ論じられるものではない。それは、短いがまったく独立した時代だ。

日本列島に最初に青銅器文化と鉄器文化を持ち込んだ「戦士集団」、その供給源は明らかに大陸にある。出発点が詳細に特定できないとしても、これらの集団は「原始文化」の担い手であった列島先住民とは明らかに異なる。その集団は、原住民に対して直接の係わりがない異質な人々だ。

この中では、まず青銅器文化の担い手が列島に流入した。彼らは先住民と混住し、ある種の内的な変化をたどった。そのあとで、大陸からの新たな影響がおよんだ。すなわち鉄器集団である。第二の集団が進入することによって、日本列島は鉄器化した。

これがマンローの考えである。

つまりMunroがいう「青銅器文化」は、後に称された「弥生時代」や「中間時代」と重なり合うにしても、ピッタリと符合することはないのである。


第5節 マンローの歴史叙述スタイル

上記のごとく、時代編成に即して八木の「日本考古學」とMunroのPrehistoric Japanを比べると、「青銅器文化」の認識に最大の違いがあることがわかる。

しかし全体を読み通すと浮かび上がってくるのは、歴史叙述の方法そのものの違いである。
八木は基本的に、非アイヌ説を唱える坪井正五郎の石器時代人民論を受け入れている。その結果、八木は日本列島で発見されていた考古資料を、「石器時代」(先史時代)と「古墳時代」(原史時代)という二つの時代にわけた。

そして両者の間に完全な切断面を設定した。すなわち石器時代の文化の担い手が絶滅、あるいは列島を去った後、古墳文化の担い手である「天孫人種」があらわれた、としたのである。

こうした図式に対して、Munroは次のように考えた。それはより複雑で、侵入と混血、支配と服従、っどうかを繰り返す複数の段階にわけられる歴史であった。

(1)原始文化 (primitive culture)

紀元前1000年より前、原始文化は主に本州、四国と九州に分布していた。北海道ではその数は少ない。ただし北海道は未開拓地が多く、発見が遅れている可能性も考えられる。

原始文化の担い手は、かつて日本の史書で「エミシ」・「エソ」とよばれていたものである。北海道、樺太と千島列島に居住するアイヌはその子孫であろう。

ただし、原始文化においてアイヌは主体的な役割を果たしたであろうが、それは他人種の共存と必ずしも矛盾しない。

原始文化の年代の広がりは今後調査により大きくなるかもしれない。例えば三ツ沢貝塚の堆積層は、これまで発見された貝塚と比べ際立って厚い。それはそれまでに推定されていた年代よりも、古い年代からのものであることを示唆する。

坪井正五郎が設定し、当時一般に受け入れられていた、3000年という年代よりも古い可能性がある。


(2)青銅器文化

3000年前あるいは2500年前、大陸から戦士集団が日本列島に流入する。彼らの手によって初めて金属器の文化が日本列島に現われた。

なぜMunroは「3000年前あるいは2500年前」という年代を与えたのかは明らかではない。伝播主義的な立場に立っていたMunroは、ユーラシア大陸での文明の全体的な伝播を考慮して、その年代を推定した可能性が高い。

中東からの製鉄術の伝播のテンポから考えると、紀元前5世紀ころに日本に到達したのは鉄器ではなく青銅器であったはずだ

青銅器の分布やその出土状況からは、青銅器の担い手は、鉄器の担い手に先行して列島に進入した可能性が高い。

すなわち、まず青銅器をもつ集団が西日本の一部分に進入した。その後に、大陸からの新たな影響、および新しい集団の進入によって列島に鉄器が広がった。

この推論には2つの根拠がある

一つは青銅器の出土範囲が九州と瀬戸内海に面する地域に限られていることである(銅鐸は大和国までは発見されている)

一つは鉄器文明の担い手の建造したものと思われる古墳からは青銅器は発見されず、多くは土中から発見される。

(3)マンロー青銅器文化論の矛盾

以下の一文は、これまでの論理展開とは激しく矛盾する。一応書き出しておく。

青銅の武器は初期のヤマト文化のものであり、青銅器も鉄器も、基本的にヤマトに付随するものであり、決して石器時代の文化から発展したものではない。

石器時代からの内発的発展ではないということについては同意するが、「青銅器が初期ヤマト文化だ」とか、「青銅器も鉄器も、基本的にヤマト文化だ」というのは戯言に過ぎない。


(4)北方へのヤマト文化の進出

(この項すべて疑問ー私)

青銅器文化の分布は九州や瀬戸内海に面する地域に限られるが、鉄器の普及に伴って侵略者が伊勢・近江まで進み、そこは2000年前まで原始文化との境界線となった。

後に「ヤマト人」はより北へ進み、1~2世紀頃関東地方の征服をほぼ完了し、北方への動きはやがて日本の史書にみられる東北の占領へとつながる、

「ヤマト人」による関東の征服という考え方は、当時の視点からみても、かなり曖昧であり、Munroによる「古事記」、「日本紀」などの史書の解釈である。


(5)「中間土器」(intermediate pottery) 

原始文化の土器(縄文土器)としても、ヤマト文化の土器(土師器・須恵器/祝部土器)としても認識できない素焼きのものを「中間土器」として分類した。これは日本の考古学者が「彌生式土器」と呼んでいるものである

「中間土器」は原始文化とヤマト文化が本土で長い期間共存した証拠であり、おそらくヤマトの征服者の要求に応じるため、原住民の製作者が作ったものであろう。それらはヤマト文化の墳墓から出土する素焼きの土器(土師器)や陶質の土器(須恵器/祝部土器)と共時的に製作された

担い手の問題を別にして、Munroの「中間土器論」は、当時の日本の考古学者の「彌生式土器論」との類似性が高く、根本的にかわらないといってよい。ただしそれは、弥生土器が「石器時代」とも「古墳時代」とも異なる特定の時代をあらわすという考え方を表すわけではない。


第6節 Prehistoric Japanの2つの功績

(1)日本列島先住民とアイヌとの連続性の提起

1950年代以降、芹沢長介らは「旧石器文化存否問題」の提起を高く評価した。ただそれは、部分的な側面にとどまり、縄文以前の無土器文化を補強するための材料とされた。

では、この著書の真価はどこにあるのか。

それは八木著「日本考古學」と八木・中澤共著「日本考古學」に次いで、日本で書かれた第三番目の考古学概説書である。

前の2冊と比較しての最大の特徴は、「石器時代の人民はアイヌだった」という仮説を最も有力な説として主張していることである。

「アイヌ先住民説」は、単純に石器時代の文化の担い手が誰だったのかという問題ではない。それは先史時代の日本列島に開花した文化を全体として把握する上で決定的な意味を持つ。そして包括的なモデルを創る上で、これまでとは大きく異なる帰結を導くだろう。

Munroは、日本列島の先住民が現存する「アイヌ」と直接に繋っていると考えた。

そうすると、「原始文化」の担い手は現在まで生き続けていることになる。そうすると、彼らと征服者の役割を果たす「ヤマト文化」の担い手とは、長い期間共存したことになる。さらに、征服者は無人でない地域に進入してきたことになる。

Munroが考えた全体的なモデルは素晴らしいものだが、弱点もある。

約3,500ヶ所の遺跡からの金属器の発見例が唯一つだけであること、古墳からは原始文化との共時的な関連を示す証拠が一つも発見されたことがないこと。にもかかわらず原始文化とヤマト文化との併存を主張するのは強引である。

れはMunroに限らず、当時石器時代人民=アイヌ説の主張者に共通の弱点であった。

(2)青銅器時代の暗示

マンローのもう一つの功績が、青銅器文化を古墳やヤマト文化に属する事物から分離したことである。分離しきれたわけではないが、青銅器文化という時代認識の提唱は、二項対立的な歴史構成を乗り越えた考え方として評価できる。

しかしながら、この「青銅器文化」は弥生土器との間の相互関係を確証することに到っていない。その結果、青銅器文化は不本意な形でヤマト文化に組み込まれ、二元的な構成からの本質的な解放に成功していない。(むしろ弥生時代という時期区分こそが矛盾をはらんでいるのではないかー私)


ついでに英文抄録も訳出しておきます

ニール・ゴードン・マンロー(1863-1942)は、スコットランドのダンディーで開業医の息子として生まれた。
エディンバラ大学医学部を卒業後すぐに(1888年)、海外航路で船医として働き始めアジア(インド・中国)を旅した。
1891年、横浜に来て、自分のクリニックを設立した。また、日本で考古学研究に携わるようになり、東京人類学会、日本考古学協会の会員になった。
一連の発掘調査の後、マンローは1908年に「先史時代の日本」を出版した。これは、彼自身の調査結果と日本の研究者による考古学的調査に関する深い知識に基づいている。
マンローによれば、「先史時代の日本」は「ヨーロッパの読者に先史時代の日本についての考えを与える試み」だったが、実際には、この本は3番目の包括的で体系的な「解説書」だった。
最初に英語で書かれた日本列島の先史時代の文化であった。
1910年代以降、マンローの関心は主にアイヌ文化、特に精神的および宗教的領域に移った。彼の人生の最後の時期に、彼はアイヌの中に住む北海道二風谷に自宅を建てた。
現在、彼は基本的にアイヌ文化研究者として記憶されている。その一方、彼の考古学者としての主な仕事である「先史考古学日本」は、これまで「不公平」な扱いを受けている。マンローが考えた術語や概念についての誤解は考古学文献も含め頻繁に見られる。
この論文は、マンローが発掘された材料に基づいて定義した包括的スキームと、考古学的文化の概念形成に焦点を当てながら、「先史時代の日本」の内容を分析した。

この文章はPDFファイルで読むことができる。…のだがどうやってたどり着いたのか、憶えていない。
最終的にはここからダウンロードに成功した。

Thank you for joining the Academia.edu community.

Your download, N. G. MUNRO AND ‘PREHISTORIC JAPAN’ (1908) – THE PREHISTORIC CULTURE OF THE JAPANESE ARCHIPELAGO FROM THE POINT OF VIEW OF A SCOTTISH PHYSICIAN by Rafael Abad, is too big to email, but here is a direct download link

テキストファイルには変換できず、「読み取り革命」で変換した。デジタル化で先進を切る北大図書館ですらこの有様だから、まさに「先史時代」である。

第6章 人類学研究が絶頂に

三ツ沢遺跡の発掘を機に東大解剖学教室の小金井良精との知遇を得たことは、マンローにとって大きな足がかりになりました。

マンローは三ツ沢の人骨を “アイノの頭蓋骨” と予想し、小金井に鑑定を依頼しました。彼は合わせて発掘現場を訪れ発見場所の検分も依頼しました。

小金井はこの人骨をアイヌ人に近縁のものと判断しました。

実は、小金井には大きな声ではいえない実績があったのです。彼はアイヌ人の人骨300体を隈なく調査し、日本人と比較・検討しています。そのおかげでアイヌに関する人類学上の権威になったのです。

その結果いくつかのパラメーターで両者間に有意の違いがあることを発見しています。

小金井 アイヌ
    人類学雑誌に掲載された小金井の講演(結論部分)

小金井の証言に自信を得たマンローは、雑誌に人骨の発見状況や頭蓋骨の計測所見を掲載しました。そしていくつかの根拠を元に、この人骨がアイヌ人であると断定します。

ただこの断定は危うさを含んでいました。小金井は①どちらかといえばアイヌに近い、②積極的にアイヌと断定することではない といっているに過ぎないので、マンローの主張を完全に裏付けるものではありません。

またアイヌ先住説については、南方x北方の混合種ではないかとの意見も出されました。

現在ではアイヌのみならず沖縄もふくめ、仁保人の体内には縄文人の血が色濃く残っている事がわかっています。

だから一歩立ち止まればよかったのですが、さらに突き出してしまいます。

東京人類学会雑誌に東京人類学会雑誌に「アイヌ模様と石器時代模様」を発表。縄文土器とアイヌ紋様の類似に注目し、アイヌこそ縄文人の子孫なのだと主張しました。

これは印象論であり、議論の質を低めるものです。こういう議論に入ってしまうと、アイヌを犬ころだと思っている大方の日本人には受け入れられなくなってしまいます。だからこそ小金井は慎重に数字でもってモノを言うようにしていたのです。

これを見た学会主流は、マンローをアマチュア学者と断定し、その主張を無視します。いかにもやりそうな、こすっからい手口です。

ついでマンローは、小金井らと川崎の南加瀬貝塚の発掘調査を行います。発掘遺物の層位的分析に基づいて、マンローは弥生・縄文土器の年代評価を提起しました。

当時はまだ縄文も弥生もへったくれもなく、石器時代と一括されていた時代です。その先見性は群を抜いていたと思います。

日本の学界の無理解ぶりに失望したマンローは、考古学研究の成果をまとめ出版しました。

これが『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)です。

自費出版されたこの本は、長年にわたり、英語での概説書としては唯一のものでした。
だから外国人は日本の先史時代に関してマンローの本を読んで興味と関心を持ってやってくるのに、日本人の研究者はそのことを知らないという、困った状況が続いたことになります。



三ツ沢のような大規模な事業を単独で実行した裏には、潤沢な資金とともに有能な事務方がついたことがありました。

それが高畠トクでした。トクは明治10年生。没落士族の娘でしたが、女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた才媛です。

特派マンローの申し出を受け、トクは秘書兼通訳になりました。1900年ころのことと思われます。このあとの十年は生涯にわたり最高の十年でした。

相次ぐ大規模な発掘調査でマンローは名を挙げ、日本の学界にも積極的に関わるようになります。

その話は一旦置いておいて、肉体的・金銭的には相当疲弊していただろうと思います。

妻アデレは声楽とピアノの得意なお嬢様育ちで、実家は横浜でも屈指の貿易商です。流石に夫婦関係もギクシャクしたものになるかもしれません。

桑原さんの本から引用します。

嫉妬したアデルは、実家のクリスマス・パーティーで、ピアノを叩き付けるようにヒステリックに演奏し、客の前でマンローから平手打ちを食らっている。このパーティーにはトクも招待されていた。

というから、トクからの聞き取りでしょう。

このあとマンローはアデレと離婚し、トクと結ばれました。

元気になるに従って、マンローは次第に考古学にのめり込むようになりました。

ここで当時の日本の考古学の状況について少し話しておきましょう。

教科書でもおなじみですが、日本の考古学のはしりとなったのが、アメリカ人教師エドワード・モースによる大森貝塚の発掘でした。

モースについてはいろいろな評価がありますが、そのエネルギッシュな進化論の普及活動で日本の考古学の骨格を作り上げました。(「種の起源」の発表は59年で、モースの活動開始は77年)

まずはそれを評価すべきです。

モースの活躍があったとはいえ、考古学研究の中心はイギリスやドイツ系の学者でした。

最初中心になったのはドイツ人シーボルトでした。大シーボルトの次男で、名も同じだったので小シーボルトと称されていました。

彼らの頭には91年にインドネシアで字発見された「ジャワ原人」のことがあったのではないでしょうか。

それは33歳の軍医ウジェーヌ・デュボワが発見し、「ジャワ原人」(ピテカントロプス・エレクトゥス)と名付けられました。「第二の原人」探しは考古学者の密かなあこがれであったと思います。

おそらく95年ころから、考古学好きグループの刺激を受けて発掘にのめり込んでいったようです。

はっきりしている記録としては、1904年、マンローとベルツの共同で根岸競馬場付近の「坂の台貝塚」を発掘したことです。このときマンローは41歳。

多分それは今までの発掘とは比較にならない大規模なものだったのでしょう。

岡本孝之さんは次のように書かれています。
この発掘と、翌年の小田原、三ツ沢の3箇所の発掘は、経済的には大変な出費となった。マンローは個人開業して、膨大な費用を賄おうとした。この病院は1年余りで閉鎖。経営失敗が夫婦不仲の原因となる。
翌1905年、今度はマンロー単独で箱根の発掘作業に入りました。そこは早川沿いの河岸段丘で何層かの礫層が露出していました。

そこから旧石器時代の遺物とみられるものを発見しています。旧石器と言っても、日本で言う縄文時代です。

しかしこれらは小手調べに過ぎませんでした。この年の秋、横浜市内三ツ沢の丘陵地帯で縄文遺跡を発見したのです。

そこは宝の山でした。多量の貝層やそれに含まれる縄文土器・石器などが掘り出されました。

それどころではありません。竪穴住居群が発見され、その一つからはこども1体、大人4体の、ほぼ完全な人骨が発掘されたのです。

これだけの大発見の割に、世間的には知られていないというのも不思議です。さらにいえば全くの個人の意志と私財によって成し遂げられたというのも評価されるべきではないでしょうか。


藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です

弥生時代という時代区分を放棄すべき

「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。

これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは量的な問題だけではないか。

厳密な意味では記紀の作成をもって歴史時代の始まりとすべきだが、先史時代の末期は文書がなかったのではなく紛失した可能性が高い。

卑弥呼の時代、好太王石碑、倭の五王、任那滅亡、日出ずる国文書など、他国の史書により確認される事績はほぼ歴史と考えても良い。


原史(Protohistoric)時代の提起

このようにしてサブ時代区分として、紀元200年から700年まで(古墳時代に相当)を歴史の原史(Protohistoric)時代と考えてもよいのかもしれない。

このようにして先史時代と歴史時代をつなぐ接点は、何を基準にして切断するかという問題でもある。

先史時代と歴史時代は原理的には2つにしか切れないのだが、切り方に2種類あるということになる。

したがって切り方によって異なる2つの切り口が生まれ、これによって先史時代は3つの時期に分かれることになる。

そして外国文献を通じて浮かび上がる500年の「原史」時代(基本的には先史時代の晩期)、先史時代と歴史時代を最終的に分かつ記紀・大宝律令(7世紀末)がもう一つの切り口を提供する。


先史-原史-有史 の切断と統合


武器 道具

石器

鉄器

有史時代


食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代


統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代


人種的には

YハプロD(+C1)

YハプロD+O1(+C1+N)

YハプロD+O1+O2

YハプロD+O1+O2

(O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代


ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。

時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。

ウソのようなホントのはなし

「血液型がO型ならコロナにならない」というので、てっきり都市伝説か、悪くすればフェイクかと思っていたが、なんとNEJMに載った論文なのだそうだ。(New England J of Medicine は世界で最高の医学雑誌と言われている。しかし時々先走ることもある)

出処は 7/25 日経Gooday 30+


イタリアとスペインの患者を対象に行われた臨床研究。

新型コロナで重症化するリスクは、血液型がA型の人で45%高く、O型の人では35%低いことが明らかになった。

「新型コロナの重症化にはどんな危険因子が関係しているのか」
それを探す研究が、世界中で行われている。

その一つが重症化群と非重症化群に分けてゲノム解析の比較をすることだ。

ゲノム解析と言っても、全ゲノムをチェックするような面倒な話ではない。

疾患関連SNPを見つけ出し、その近くの疾患感受性遺伝子を推定するという方法である。(ちょいと面倒なので詳細は略)

今回はイタリアとスペインの4都市の7病院で、呼吸機能の低下した1610人と健常者2200人を比較した。

その結果、A型の重症化リスクは、他の血液型(B型、AB型、O型)の1.45倍になることが明らかになった。

一方、O型の重症化リスクは、他の血液型の人の0.65倍にしかならないこともはっきりした。

これまでも武漢での疫学調査により「新型コロナウイルス感染者はA型の割合が有意に多い」ことが認められていた。

今回の研究ではそれがゲノム解析によって裏付けられた。

アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一

上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)


ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。

従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。

① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)

本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。

特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。

すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)

第一章 モースの時代

1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。

考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。

当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。

翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。

第二章 三宅米吉の時代

1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。

これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。

三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。

第三章 ハ木奘三郎の時代

1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。

八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)

① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)

② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)


第四章 マンローの時代

1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。

この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。

マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。

そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。

(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)


第五章 鳥居龍蔵の時代

1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)

鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。

ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)

アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。

鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。


マンローが横浜に降り立ち、「日本の人」となったのは、1891年5月12日のことのようです。明治で言えば24年。このときのマンローの年齢は28歳でした。

前の章で書いたように、マンローはインドでの生活を断念し香港に拠点を移したのですが、そのことは香港で生活の資を確保するということでした。

記録によると、彼は1890年に香港の汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社に船医として勤務しています。この会社は香港・横浜間の定期航路をもっていて、2週間に1度行き来していたようです。

マンローはこの航路の船医として何度も横浜を訪れました。その間にインドでの体験をまとめた「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という論文集を横浜で発行しています。小生未見ですが、一種の哲学論らしいです。この頃は考古学の道は断念し哲学者への道を模索していたのかもしれません。

香港の生活は1年ほど続きましたが、この間に病気がぶり返し、入院が必要となりました。

このとき馴染みのあった横浜での療養を決意したようです。

横浜に降り立ったマンローはそのまま横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。ここは外人専用病院で、医師もイギリス人でした。入院は年余に及んだと言います。

ここからマンローの日本での生活が起ち上がっていくのですが、その生活環境はかなり特異なものでした。

病癒えたマンローはそのままゼネラルホスピタルの院長に就任します。これはおそらく看板院長ということでしょう。エジンバラ大学出身ということになれば日本では相当の肩書きです。当時の東大にもエジンバラ大学出身のお抱え学者がたくさんいました。

イギリスの領事館は1874年まで横浜にあり、当時も旧領事館を中心に、貿易関係者からなる一種の外人租界が出来上がっていました。

マンローはこの外人租界の中で外人の患者だけを診療し、英語だけしゃべって生活していました。租界に住む外人女性と結婚し、家庭を築きました。

とはいえ、外国人社会の中にマンローもそれなりに溶け込んで行きます。とくに東大医学部お雇いの医師でゼネラルホスピタルの顧問でもあったベルツとの親交は大きな影響を与えました。

ベルツは趣味の域を越えた人類学の徒で、帰国後はドイツ人類学界の東洋部長まで務めています。一回り上のベルツは、マンローの良き導き手だったのではないでしょうか。

英語ができる日本人たち、たとえば新島襄、内村鑑三、新渡戸稲造などのキリスト教関係者、岩波茂男、土井晩翠などとの交流もあったようです。




中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
5世紀に現在のハンガリー地域を拠点として広い版図を誇ったアッティラ帝国は、フン族の系統だと考えられている。

過去3000年以上にわたり、遊牧民族はシルクロードをかけめぐった。それにともない、征服王朝をたてた勝者のDNAも拡散していった。

2003年に発表された、中央アジアの多数集団のY染色体の調査では、契丹(遼)時代の起源を持つ系統が8%近くに達するとされている。

ウイグル人は東アジア人と西ユーラシア人の中間に位置している。しかし、ウイグル人自身に多様性があり、東に位置するウイグル人はより東アジア人に、西に位置するウイグル人はより西ユーラシア人に近い。

此処から先はややポレミック

まず、東アジア人の祖先集団とシベリアから南下した集団が5500~5000年前(紀元前3千年)に混血した。
O2とC2との混血を指す?

これは、日本列島では縄文時代中期、黄河流域では仰韶文化から龍山文化への移行期にあたる。

西では、5000~3800年前(紀元前4千年)に、西ユーラシア人と南アジア人の混血があった。これはカスピ海・黒海の北部にいたインド・ヨーロッパ語族(印欧系集団)が南下し、イラン(ペルシャ人)とインドに移住していったイベントに対応していると考えられる。
印欧系とセム語系の混血を指す?

そして、シベリア・東アジアの混血集団と、西ユーラシア・南アジアの混血集団が、中央アジアで3800年前ごろにまず混血し、さらに西暦1240年ごろ(蒙古帝国による制覇?)、第二段階の混血が生じたと推定されている。
「中央アジアで3800年前ごろにまず混血」というのはさっぱり実態がわからない。

斎藤流シルクロード論

ユーラシアの東西交流は、遊牧民が誕生するよりもはるか以前からおこなわれてきた。
バイカル湖の南に位置するマルタ遺跡出土の、24000年前の人骨のゲノムは、現代のヨーロッパ人と南北アメリカ原住民の中間だった。
(こういう斎藤氏の言い方が好きでない)

後略

匈奴の歴史 年表

戦国時代

紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。
戦国時代の匈奴
             戦国時代の匈奴

紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。

紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。

紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。

紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。

匈奴最大版図

紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。

紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。

前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。

前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。

前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。

前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。

前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。

前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する

前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。

紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。

紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。

紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。

紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。

87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。

匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)

匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。

戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。

昨日は頭にきてハニー中野信子をののしったが、それはあまりに志が低い。こちらまで「脳なし科学者」になってしまう。
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まずは各紙論調をチェックすることにした。

赤旗: 3日主張 
任命を拒否された6人は、安倍政権が強行した反動法案に反対してきた。
それを理由に任命しないのだとすれば、憲法第23条が保障する「学問の自由」を侵害するものです。
推薦候補の任命拒否は、「一定の監督権の行使」なのか?→それが問題なのではない。
①「日本学術会議法」第2条、第3条に照らして違法行為なのだ。
② 「日本学術会議法」第7条(83年の法改正で追加された条項)および政府答弁に照らして違法。

菅政権は異常な特質を継承していることが示された。

信濃毎日新聞 9日

政府の言い分には根拠がない。

学術会議は国内の研究者を代表する機関である。それは科学研究や政策のあり方について提言する。その独立を確保することは、学問の自由の制度的な保障となる。

本来、首相には拒否できる余地はない。

しかし18年に内閣府が、「推薦通りに任命する義務はない」とする見解を明確化した。

(なぜなら学術会議は)首相が所轄する行政機関であり、人事を通じて一定の監督権を行使できる。

内閣府は、公務員の選定を国民固有の権利と定めた憲法15条を持ち出す。

また監督権の根拠には、内閣の行政権を定めた憲法65条と、首相が行政各部を指揮監督すると規定した72条を挙げた。

それ自体、独善的な見解であり、受け入れられない。しかも、過去の国会での答弁と矛盾する。

政府が一方的な解釈で権力行使の枠を広げるのは「法の支配」の原則に反する。

朝日新聞 9日 社説

学術会議問題 論点すり替え 目に余る

首相は任命拒否の理由には答えようとしない。

すり替えの事例

1. 同会議の「必要性」の議論

「組織の形態や役割を検討する」と、論点をすり替え。
これは学術会議の側に非があるという「印象操作」に過ぎない。

2.同会議の実情について誇張と歪曲

A   会員が自分の後任を指名することも可能な仕組みだ(首相発言)
実際は、新会員の推薦に際しては性別や年齢、地域性などに配慮している。

B 学術会議は07年以降、答申を出していない(下村元文相)
政府は07年以降諮問していない。しかし答申ではないが、様々な提言を行っている。20年度だけで83本の提言や報告をまとめた。年間5億円の予算は、そのための連絡費に使われている。

C 今回の対応は学問の自由の侵害に当たらない(加藤官房長官)

しかし当該者の研究・発表が、今回の不利な人事につながったのは疑いようがない。

西日本新聞 7日
首相は拒む理由の説明を

重複分は割愛。

今回の6人は安全保障関連法や特定秘密保護法といった政府の法案や政策に批判的な立場を取っていた。政府に盾突くような学者は公職に任命しない。
という姿勢が読み取れる。

このままでは、「政権の意に沿わない学説は認めない」とのメッセージと受け取るほかない。

しかし首相は「一切関係ない」と断言した。それなら拒んだ理由を説明すべきだ。

首相は「個別の人事に関することはコメントを控えたい」というが、これは個別ではない。6人という集団である。

中国新聞 9日
首相の説明なってない

首相説明の翌日になって、政府側は18年に作成した内部文書を公表した。
そこには「首相は人事を通じて一定の監督権を行使することができる」と書いてある。
しかし文書はこれまで公表もされていないし、その適法性は議会を通じて確認されていない。議会ではむしろ83年の答弁書が通念化されている。

いま引きこもりを主人公とした映画を見終わったところである。とても感動的だった。たぶん数多くの実例を踏まえているのだろうと思う。

深く考えさせてくれる映画ではあるが、たぶんそれが病気だということから目をそらそうとする、希望的観点に基づいているのではないか。

「引きこもり症候群」という症候群があるとすれば、それは「自閉症」に基づく症候群であろうと思う。しかし「自閉症」という疾患単位はあるにせよ、そういう本質規定はまったくの誤りである。誤りであるだけでなく、本人と家族をますます窮地に追い込む罪作りな病名であろうかと思う。

自閉症はまず何よりも微細脳損傷と理解すべきかと思う。その損傷部位は一時記憶装置である。

大体が脳の働きの大部分は記憶装置である。判断とか対応というのは、さまざまなイベントを視覚化させ、その画像を短期記憶装置により連続的な事象と捉え、その事象をハンドルにより操作していく技能のことである。

一つ一つの画像に意味はなく、パターン化したシンボルに過ぎない。、それが連続した時にはじめて現象としての意味を持ってくる。いかに画像が鮮明であろうと、その時間軸上での再構築と動態化能力がないと無意味になってしまう。

自閉症の人はこのパターン化、シンボル化ができない。画像はいつまでも画像のままである。

これは一次的には頭頂葉の障害であり、さらにこの情報を二次処理する特定の脳分野の障害であり、反応系の連結障害である。どちらが原因でどちらが結果なのかは不分明である。聴覚情報(嗅覚・触覚も)というのは本質的に連続的なので、生物は発達のどこかの時点で聴覚と視覚を結合させる能力を手に入れたに違いない。

病理学的には発達障害と認知症は同じ病気であるが、病因としてはことなる。こういう視点からの取り組みが必要である。

なぜこのような当たり前の話をするかというと、児童精神医学や教育心理学には変なカリスマがたくさんいて、それを信じる変な実践家がたくさんいるからだ。

くれぐれも「脳科学者」を名乗る怪しげな輩には騙されないように、ご用心を!

第2章 遍歴の時代 エジンバラから横浜まで

マンローは歴史の話や発掘の話では饒舌ですが、自分のことはあまり語りません。

とくに卒業前後の事情はあやふやです。3つの謎があります。

第一には、病気で学校を休んでいることです。最低でも1年は休んでいます。おそらく結核だったようで、チュニジアで転地療養を行っています。

第二には、きちっとした形で卒業していないことです。日本でもイギリスでも、卒業と医師国家試験とは別になっています。

ところがどうしたわけか、マンローは卒業はしたが医師免許はなかったのです。これだと診療はできません。もしやればモグリということになります。

第三には、第二の疑問とも関連しますが、なぜ卒業と同時に祖国を去ったのでしょうか。1888年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。25歳のことです。

“マンローは多くのスコットランド人がそうであるように、その放浪癖によって外国旅行を重ねた”(トムリン)という意見もあって、たしかにそうも言えるかと思いますが、はたしてそれだけでしょうか。

それ以来死ぬまで、マンローはたった一度しか、祖国の土を踏んでいません。父親が死のうが母親が死のうがお構いなしです。むしろそちらのほうが気になります。

88年、大学を卒業すると同時に、マンローはスコットランドを離れました。そして外国航路の船医となってインドへ向かいました。

インドでは各地を旅行し発掘調査に関わっています。この間、父ロバートが没していますが、ついに国に戻ることはありませんでした。

さりとてインドでの研究が順調に進んだかというと、そういうわけでもありませんでした。彼はインドの持つ巨大な「混沌」とぶつかり、かなり精神的にまいったようです。

晩年、マンローは最後の妻チヨにインドと香港で見たことを語っています(桑原による)。これをちょっと膨らませて紹介します。

「英国人は傲慢で、インドの人たちを奴隷でも扱うように接していました。それに輪をかけて昔からのカースト制度が人々を苦しめていました。人々は進んだ文明から疎外され、遅れた文明からいじめられていたのです」

このような精神的ストレスに加え、インドの厳しい気候が身体を痛めつけました。おそらくは学生時代に発症した結核が再燃したのだろうと思います。

やがて彼はインドでの研究を断念、香港に移ることにしました。

ここでマンローは別の船会社の船医に就任します。この船会社は香港・横浜間の定期航路を運営していました。したがってマンローは横浜に定着する前に、船医として横浜に何度も寄港していたはずです。

香港に移ったあとも病勢は思わしくなく、マンローは横浜で療養生活に入る道を選びます。これが1891年(明治24)5月のことです。

マンローは横浜ゼネラルホスピタル(外国人専用)に入院。その後年余にわたる療養を経て社会復帰します。

彼は横浜に来て病気療養中に「精神の物質的基本性質とさらなる進化」という文章を書いて出版しています。インド滞在中に執筆した哲学に関する覚え書きのようですが、詳細は不明です。

自分の人類学者として生きていく道を模索し、整理していったのではないかと思います。

ようやく病癒えたマンローは、日本永住を決意。2年後には入院していた横浜ゼネラルホスピタルの院長に就任します。この時齢30歳、放浪の前半生に別れを告げることになりました。




第1章 マンローの学生時代

マンローは1863年にエジンバラ近くのダンディーという町で生まれました。明治維新の4年前ということになります。親は開業医で、一族は14世紀まで辿ることができるという名門です。

まぁ田舎ではよくある話です。島崎藤村みたいなもんだと思ってください。

79年にエジンバラ大学医学部に入学しています。学生の頃から考古学・人類学に興味を抱いていたようです。テームズ川流域で石器時代の遺跡の発掘にも参加していたと言われています。

このころ、人類学と民族学(民俗学)、考古学は未だ分化せず一体のものでした。

そんなときに若き学徒に影響を与えた人物といえば、なんと言っても進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンでしょう。

ダーウィンはマンローより54歳年上ですが、結構長生きしているのでかなり時期的にはかぶります。それになんと言ってもエジンバラ大学医学部の大先輩に当たります。

ダーウィンも、親が医師だから医学部に行ったのですが、どうも血を見るのが苦手だったらしく、途中退学してしまいます。そして大好きだった生物学の道に進むことになります。

卒業後はビーグル号に乗って世界一周しました。航海の途中とりわけガラパゴス諸島で珍奇な生物に出会い、それを機に生物が進化することを確信するにいたりました。

彼の発表した「種の起源」は、人間も含めたすべての生物が単純で原始的な生命から発達してきたという衝撃的な主張で、いわば生物学における地動説でした。

マンローにとってはダーウィンの冒険心と行動力、それに事実の示すところに従う大胆で実証的な理論構築の手法が大きな影響を与えたのではないでしょうか。

マンローの著作を流れる実証的な姿勢、大胆な構想力などはいわばエジンバラ学派のスタイルとも言えるでしょう。それがマンローの思想のバックボーンを形成したのではないでしょうか。

人脈ついでにもうひとりの同窓生を上げておきます。それはシャーロック・ホームズの作者コナン・ドイルです。

エジンバラ大学医学部で3年先輩に当たるので完全にかぶっています。ドイルも進化論を知って無神論者になり、学生時代にモグリの船医をしてケープタウンまで行ったそうです。マラリアになって死ぬ目にあったそうです。こんな命知らずはエジンバラ大学の伝統かもしれません。

大学を出てロンドンで開業したが、あまり流行らないので暇つぶしに書いた探偵小説が大ヒットしてしまいました。ホームズシリーズの第一作が発表されたのが84年のことですから、マンローがテームズ河畔の発掘に加わるなど、考古学に夢中になり始めた頃です。

マンローはホームズの探偵小説を読んでいたのでしょうか。それはわかりませんが、二風谷のマンロー邸の2回の書棚に「緋色の研究」や「バスカービル家の犬」が並んでいたのではないか…、楽しい謎です。

序章 マンローが生まれた国 スコットランド

最初から寄り道ですみません。まずスコットランドの紹介をさせてください。

というのもマンローの行動スタイルや、アイヌに注ぐまなざしは、スコットランドという文化・風土を踏まえて初めて理解できるのではないかと思うからです。

イギリスは大ブリテン島と小ブリテン島からなり、大ブリテン島の3分の2ほどがイングランド、北の3分の1がスコットランドとなっています。

私たちがイギリスと言っている国は、正式には「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」です。

略するときは連合王国(UK)と呼ばれ、これらの地方の総称として使われます。

スコットランドは連合王国とは言うものの、ずっとイングランドの風下に立ってきました。

日本でも東北の縄文人が大和朝廷の支配に組み込まれていきますが、スコットランドも似たような環境にありました。ただ人種や言語・宗教よりは経済。生活水準が大きな違いでした。

その点では、スコットランドは東北というより信州に近いかもしれません。

「イングランドではえん麦は馬の飼料だが、スコットランドでは人間の食料だ」と言われたくらいの差があったのです。

それが18世紀の中頃から急速に事情が変わってきました。アメリカやインド、アジアとの貿易が盛んになり、繊維など輸出を狙った“糸へん産業”が盛んになります。

そしてイギリスは産業革命の時代に突入していきました。

機械制大工業は大量の労働力を求めました。また、原料としての羊毛、動力としての石炭や水力も必要になりました。

そこで目をつけられたのが後進地帯で貧乏国であるスコットランドでした。ほそぼそと粗放農業が営まれていた山野は牧畜地帯となり、そこから多くの過剰人口が吐き出されました。

まさに資本主義のための「根源的蓄積」の舞台となりました。「嵐が丘」の舞台のような荒野に工場が立ち上がり、港へはインドや南米向けの船が出入りし、山からは石炭が運び込まれ、ハイランドから大ぜいの労働者が下ってくる…そんな世界が出現したのです。

スコットランド人ワットの蒸気機関にはニュートン力学がふさわしい教義となりました。スコットランド人哲学者のヒュームは、キリスト教の教えに対して「懐疑論」を提示し、観察と経験に基づく事実を重視しました。「懐疑論」はのちに “恥ずかしがり屋の唯物論” と揶揄されることになります。

スコットランド人経済学者ジェイムズ・スチュアートは利潤がブルジョア的生産過程に基礎をもつことに気づきました。また有効需要が社会発展の原動力だということを突き止めました。

そのゆえに、近代社会が生産過程を中核として形成されると論じました。それはスコットランドにおいて近代工業がどんどん立ち上がっていく姿を前にしての感慨でもありました。

もうひとりの経済学者アダム・スミスは社会の分業化、商業の国際化に伴い、労働が富を生み、富が自立的増殖することを指摘しました。

こうして二人のスコットランド人がイギリス古典経済学の基礎を打ち立てたのです。

彼らは同時代のフランスの啓蒙主義者に倣って「スコットランド啓蒙主義」と呼ばれています。

ジェームズ・スチュアートと剰余価値論の変ぼう

小林昇の解説」から

重農学派が剰余価値説を提唱。
いかなる労働が交換価値をつくり出すか
→いかなる労働が使用価値をつくり出すのか
→いかなる労働が剰余価値をつくり出すのか
への転換。

ジェームス・スチュアートは農業から鉱工業一般に価値論を拡大するに当たり、多くの言葉を生み出し。多くの混乱をもたらしつつ剰余価値の探求を進めた。

もっとも単純化した形態では、スチュアートの主張はこうである。

商品には有用性だけではなく、特有の自然的な性質がふくまれている。これを「内在する価値」(intrinsic worth)と呼ぶ。
これに労働が加えられて商品となるが、そのための労働時間を「有用な価値」(useful value)とよぶ。

つまり商品の売値=交換価値は、材料費(スチュアートのいう内在価値)と労働量=労働時間(スチュアートのいう有用な価値)としてもとめられることになる。

たぶん、スチュアートはケネーの再生産表の厳密な適用によって価値の抽象化に成功したのであろう。

ここには商品の形態は姿を消し、これによって生産の本質が明確に掴まれている。

スチュアートの結論:
原文はこうなっている。

その譲り渡しによって一般的等価(Universal Equivalent)をつくり出す労働を、私は産業(インダストリ)と名づける。

私は次のように読み直す。

(商品の)譲渡によって一般的等価
  “Universal Equivalent”が作り出される。このような商品生産体制を、私は産業  “Industry”と名づける。

スチュアートにあっては生産と労働の分離は行われていない。インダストリーにつながる“労働”については、労働ではなく生産というべきであったと思う。

「生産」という抽象的範疇はまだスチュアートの主張の中には現れない。おそらく産業というのが「生産」の概念を代用しているのであろう。

これは重農説における農業生産と労働の未分離が重石となってのしかかっていたのだろうと思う。率直に言って、それはマルクスにも引き継がれている。

このあと、労働の生産への置換えを注意深く進めながら、議論をたどってみたい。

スチュアートは、将来の資本主義的な生産様式における生産活動を、現在や過去の生産様式と区別する。

この生産活動は生産のブルジョア的形態であって、古代の形態とも中世の形態ともちがっている。

現在は封建的生産からブルジョア的生産への移行期にあり、前者は没落の段階にある。

その違いは、商品の交換過程にもっとも顕著に現れている。

封建時代にも商品はあり、商品が交換される際には貨幣が用いられていた。

しかし、商品は残余ではなく富の基礎形態(交換価値)となった。そして商品の販売は富を取得するための主要形態となった。

このような商品と貨幣のあり方はブルジョア的生産時代に特有のものである。

したがって主要な「生産」の性格は交換価値(富の素材)を生むという抽象的なものとなった。

「マンロー小伝」を書くにあたってマンローの肩書きをどうしようかと悩んでいる。
まず即物的に「医師マンロー」というのはいかがかと思ったが、どうも違う。まず真っ先に違うのは、彼が45歳になるまで医者(ドクター・マンロー)ではなかったことである。
それと、彼は職業として医師ではあっても、きわめて訓練の不足した医師だったことである。だから彼はもし伝記を書いてもらえたとしても、医師マンローとは書いてほしくはなかったろうと思う。

そしてここからが問題なのだが、彼は考古学者であり民俗学者であったのかということである。たしかに主観的には考古学者であり民俗学者であった。ただ学者というほどにマンローはプロフェッショナルであったかと言われると、いささか疑問符がついてしまうのである。

彼は調査(フィールドワーク)も研究も発表もすべて自分のお金でやった。だから彼は職業的研究者ではなくてアマチュアなのだ。

だから結局、彼は「好事家」(ディレッタント)という肩書きに落ち着くのかもしれない。なまじ「日本の硬貨」などという本を出しただけに、そういう印象を持たれることをおそれる。

しかし彼の研究手法は半端な道楽ではない。国籍を日本に移し、すべての生活を日本での研究に注ぎ込み、すべての資産をなげうち、2度の災難で、資料の殆どを灰燼に帰しつつも、最後まで研究に打ち込んだ人を道楽者と言ってはいけない。

とすれば、少なくとも伝記を書く人間としては、彼がどういう人間であったかというよりは、彼が何をもとめ何に生涯を捧げたかをもって彼の肩書きとしなければならない。

だから私は彼を「学徒」とし、「先史日本研究者」と規定したい。アイヌ民俗の研究も、先史日本へのタイムトンネルの入り口ととらえていたのではないだろうか。

ただそうやって生涯、“我を通した”わけだから、多少の偏屈であったことは疑いを容れない。堀辰雄が「風立ちぬ」の作中で出会ったマンローもまたマンローであろうと思う。


61年草稿における機械論
(佐竹『剰余価値学説史執筆の動機』の読書ノートです)

協業や分業による生産力の増大は、社会的労働の無償の自然諸力の表現である。

これに対し、機械は生産諸部面に商品として、不変資本の一部分として入っていく。

それが剰余価値の増大にどう結びつくのはは考察が必要である。

まず考えられるのは、機械の採用は生産規模の拡大を意味するということだ。すなわち、資本の蓄積であり、それによる競争での勝利である。

生産規模が拡大すれば機械の効率が上昇し、剰余価値が増大する。しかし生産規模が拡大するとは限らないから、機械が剰余価値を拡大するとは言えない。

では競争での勝利以外にも機械の導入の意義はあるのか?

ここでマルクスは「機械の採用にかんする八つの要因」を指摘する。

(1)特別剰余価値の生産
(2)絶対的労働時間一総労働日ーの延長
(3)労働強度の増大 (労働効率の改善)
(4)機械導入による単純労働への代替
(5)賃金引上げの要求やストライキへの対抗手段
(6)「労働者たちが労働の生産性向上を我が物にしようと思い上がること」を防ぐ
(7)労働や材料のムダの最小化(労働の連続性や廃物利用など)
(8)機械による「労働の代替」

あげては見たものの、それらの多くは的外れだ。機械の採用の動機ではなく、採用の結果・影響・効果に過ぎない。

マルクスは剰余価値の概念が空回りしていることに気づき、それがスミスのv+mドグマ、重農主義の労働価値への単純な当てはめよるものであることを発見する。
そして資本主義のもう一つの特徴である機械の充当という過程が、この空回りを露呈したと考える。

ここで主格としての資本家が、「人格化された資本」として機能していると規定することにより、新たなパラダイムを獲得するのである。

2 October 2020 Trend (中見出しは訳者による)


OSCEミンスクグループの共同議長の声明についての、
アゼルバイジャン共和国外務省のコメント

1.今回の新たな事態について

「2020年9月27日、アルメニア軍は、アゼルバイジャン共和国との軍事境界線に沿って、大口径の武器、迫撃砲、さまざまな口径の銃砲を発射しました。これはアゼルバイジャンに対するもう一つの新たな攻撃行為です。

今回の侵略行為は、ここ数ヶ月の間にアルメニアが行った挑発行為の継続です。

7月12〜16日のトブズ地区への攻撃、8月23日のゴランボイ方向での妨害行為と武力偵察の挑発、アゼルバイジャン国内の占領地における違法な定住計画の実施、アルメニア政府幹部の挑発的な言動などが続いてきました。

アゼルバイジャン共和国のイルハム・アリエフ大統領は、国連総会の第75回会期の一般討論で、「アルメニアがアゼルバイジャンに対する新たな軍事的挑発の準備をしている」と警告しました。

2.一連の事態におけるアルメニア政府の関与

以下の点に注意を喚起したいと思います。

アルメニア政府の言葉と行いによる挑発行為は、OSCEミンスクグループの共同議長によって仲介された紛争の解決プロセスに障害をもたらしています。

彼らはアゼルバイジャン領内の占領地シュシャで行われた“政権”の発足式に参加しました。

同じく占領下の都市カンケンディでは挑発的な「カラバフはアルメニアだ」という声明を発しました。

占領地区において「新しい領土のために新たな戦争を」の概念を導入しました。

紛争解決交渉において7つの前提条件を提示し、話し合いの形式を変更し、合意のハードルを遠ざけようとしています。

3.アルメニア軍の非人道行為について

アゼルバイジャンに対する軍事侵略の一環として、アルメニアの軍隊は民間人に対してさまざまな犯罪を犯しています。

アゼルバイジャンの民間人と市民インフラを意図的に標的にすることは、今やアルメニア軍の伝統とすらなっています。

それらは国際法、特に国際人道法および1949年のジュネーブ条約とその追加議定書の規範と原則に著しく違反しています。

10月1日の時点で、19人の民間人が殺され、55人が負傷し、200以上の家屋と民間施設が破壊されました。

彼らはナゴルノ・カラバフ地域だけでなく、さらにその周辺地域を軍事占領しています。アルメニアはこれらの作戦で、テロリストグループと傭兵を使用しています。それらの事実は数多くあります。

現在もこの政策は継続されており、過激派の部隊は、アゼルバイジャンに対する新たな侵略行為の一環として広範に利用されています。(当面、この項については訳者は争いません)

4.アルメニアの狙いはなにか

OSCEミンスクグループはこれまでの多くの声明を発し、その中で何度も、「現状(武装占領状態)は受け入れられない」と強調しています。

しかし、アルメニアはこれに反して行動し、武力に基づいて現状を維持し支配体制を強化しようとしています。

アルメニアは占領地を併合しようと狙っており、交渉を通じて紛争を解決することに関心がないことは明らかです

今日まで、アルメニアは国際機関によって採択された多数の決定の要件を遵守していません。

まず第一に、1993年の国連安保理決議822、853、874および884号です。をれらはアゼルバイジャンのすべての占領地からのアルメニア占領軍の撤退を定めたものです。

それどころか、占領黙認の雰囲気の中で、アルメニアは新たな攻撃行為を行っているのです。

この地域の現在の状況に対して、アルメニアの政治・軍事指導者はすべての責任を負っています。

1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。


先程のブログの別記事から

The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science

という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。

1.C系人は8千年前にラオスからやってきた

東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6つのグループに分類できる。

①ラオスのホアビン文化の古人骨(8千年前)
このゲノム配列は愛知県田原市の縄文人に類似。
②~⑥はいずれも紀元前後より新しいもので、それぞれの地域の現生人との繋がりあり。

ということで、インドから到来したC型人(C1)の6つのグループがラオス近辺で分離し散らばっていたこと、その流れが経路は不明ながら本州まで到達していたことが推測される。

蛇足ながら、彼らがナウマンゾウをもとめて日本にやってきたのなら、ナウマンゾウがそうしたように、朝鮮海峡を渡ってやってきたに違いない。

ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。

2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた

もう一つの話題、日本固有種とされるC1a1が中国側のどこかで分岐し、日本に渡来したという情報もあるが、こちらは論理的に無理がある。何よりも、それが5500年前程度ということでは、辻褄が合わない。

私の考えではナウマンゾウを追って4万年前に朝鮮経由で日本に来たのがC系人だ。中国本土のC1人はすでにO1人に置き換わっているはずだ、と思う。

ブログ主も、そこまで攻撃的にはせずに、5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性に照準を合わせたほうが良いと考えている。

5500年前に長江文明の担い手が朝鮮へ、そして日本へやってくる可能性はないとは言えない。しかしそれが意味のあるほどの量を持って実現したのかというと、やはり否定的にならざるを得ない。

ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。

Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。

そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。

現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に圧迫されたためかもしれない。

分布は広範で他系人との混交が目立つ。特に注目されるのが遼河文明の遺跡人骨でN1が60%以上の高頻度で見つかっている。

対となるミトコンドリアDNAハプログループはZ系統である。


次が「知識探偵クエビコ」というかなり専門的なサイト

1.南シベリアのミトコンドリアDNA

記事の前半はC2人の話で、とりあえず飛ばしておく。その次がR人の話で、印欧族と対応するらしい。これも飛ばしていく。

次の話題が、私のテーマと関係ありそうだ。

バイカル湖・アルタイ山脈近くの南シベリアの遺伝子データはY染色体については不足しているので、ミトコンドリアDNAで議論する。

この地域のミトコンドリアは、最初の頃あまり東方要素が強くなく、紀元前1500年あたりから東方要素が増えてくる。

2.C1 人はクロマニヨン人より古い

もう一つ、これはC1人に関する話題で、

C1b系統はオーストラリアにも相当に早い時期に到達していた。C1a系統もヨーロッパの西の端にいて日本にいて、実はアフリカのベルベル人でも見つかってる。二つ合わせたC1系統は、クロマニヨンより古い時代に、かなり世界に拡がってたようだ。

3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人

そして3つ目がヨーロッパのN人だ。

鉄器時代になってすぐの時代、ハンガリーにN人が現れる。ハンガリー語もウラル語族で、マジャール人も元はウラル山脈あたりにいたと言います。フィンランドはNが過半数を超える国です。

4.ウィキペディアの批判

こ之人、ついでに「ウィキペディアのNの項目」も、遼河文明論に関連して批判しています。

Nは日本の周囲のどこを見ても日本よりは高頻度で、普通に各種渡来民にその頻度で含まれていた可能性があります。


こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。








2泊3日で紋別までドライブしてきました。走行距離は700キロ、まあこんなものでしょう。
紋別の夜はとても楽しいものになりました。ホテルで紹介してくれた店がイマイチで、フラフラと歩いていて入ったのが、いわゆるスタンド割烹。
ちょっと敷居は高そうだったが、実際は問題なし。というより刺盛り頼んだきりあとは酒だけという、行儀の悪い客で通したからです。
入って10分もしたら、「お医者さんですか」と見透かされました。それから話が始まったら長いこと。さんざん聞かされました。

この店は唐牛(元全学連委員長)が世捨てびとになって潜行したときに足繁く通った店だそうです。唐牛はしばらく漁師にになって沖に出たそうですが、やがて東京に戻っていきました。その紋別時代いろいろな人(ブント系)が紋別まで遊びに来たそうです。
亭主は奥の部屋から色んな人の色んな本をたくさん引っ張り出してきては、私に見せるのでした。まぁ今の人に言っても「ハアッ?」と問い返されるだけですから、たとえ民青でも話がわかる人が来れば嬉しいのでしょう。
その話がひとしきり終わったあと、亭主が持ち出してきたのがこの話のもとです。
まず浜美枝の自筆のはがきを持ち出してきました。「紋別に来たときに色々お世話になりました」という礼状でした。
もちろん「とりあえず」という簡素なものではあったが、真心のこもったもので感心しました。字体がまたなかなかのものでした。「水茎のあと麗しく」というようなものではない、端的に言うと意志的な、力強い字で、おそらく書字スピードも相当なものだと想像されます。
女優さんというイメージからは程遠いハガキを見せられたあと、今度は2枚の写真。1枚目はロケで紋別を訪れたときの、かなり濃いめの化粧の大柄な美人が、いかにも風の男性とともに写されています。
それが2枚めはプライベートで再訪した時の写真、これが別人のような目鼻立ちで、地味な出で立ちながら、震えてくるほどの美人です。そしてあのはがきを書いた人だなと思わず納得させるイメージです。
多分、こんな人が身近にいたら、好きだとか嫌いだとかいうんではなくて、多分あこがれの対象になるでしょう。
それだけでも、とっても楽しい話を聞かせてもらえました。こういうことがあるから、旅は楽しいのです。



映写幕(スクリーン)の穴はなぜか?

むかし、笛吹童子の全五作一気上映なんてのがありまして、劇場は超満員。座るどころか立つところもない。私らは小学1年か2年だったと思います。そのうち誰かやんちゃなやつがいて、ステージの上に登っちゃいました。
スクリーンは黒幕で枠どってありますから、舞台との間には40センチくらいの隙間があります。そこに寝そべって仰ぎ見ることになります。
当然劇場の兄さん方は大怒りで、「降りろ降りろ」と怒鳴りますが、なにせそれには無理がある、そんなに超満員になるまで、ガキどもを相手にキップを売りまくった責任はどう取るのか、ということで、結局はそのまま上映開始ということになります。
実は私もその悪ガキの一人で、とにかく千代の介や錦之助がこれだけの迫力で見れるというのは、子供心にも感激でした。

と、ここまでが前置き。
その時気がついたのですが、スクリーンには一面に穴が空いている。しかもほころびやいたずらで空いたものではない。きちっと等間隔に図ったように網目状になっている。

「なんやろね?」と思いつつ、はや60有余年、この間試写会のニュースをテレビで見ていたら、やっぱり網目状に黒点(おそらくは穴)がついている。

流石に気になって「このままでは死ねない」と思い至ったのです。

ウィキペディアについてはまったく記載はない。著者がひたすら気にしているのは、「なぜ銀幕(Silver Screen)なのか」と言うことです。

しかし私にしてみればそれは別に不思議でもなんでもない。近くによって見ればたしかに銀色なのです。

ウィキによれば銀色に塗装が施されているそうで、正体は酸化マグネシウムかなんかだそうです。むかしは銀を使ったという話もあるようですが、それは多分、今で言う都市伝説でしょう。

で、結論から言えば、あの穴は「サウンドスクリーン」といって、スクリーン後ろにおいたスピーカーの音のヌケを良くするための仕掛けなのだそうです。

つまり劇場のスクリーンは、基本的にはすべてサウンドスクリーンだということですね。

「銀色塗装を施して、音のヌケを良くするための穴を打ち込んだ映写幕を劇場用スクリーンと呼ぶ」と定義すれば間違いは少ないと思うので、ウィキさん、そのところよろしくね。

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