鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年10月


これは 
の続きというか、おまけです。

今回また行ったというのではなくて、図書館でたまたま見つけた本の紹介です。
堀淳一さんという方がいて、元は北大教授ですが、鉄道の廃線歩きで有名な方。何冊も本を書いていますが、多分これは極めつけ。
昭和40年ころの地図と最近の地図をならべて表記しています。
それを見ると、今さらながらに北海道の無惨な「近代化」を見せつけられる思いです。その中の天北線の北半分の鉄道のあった頃の地図を転載します。
 天北線北半分

          図上、左クリックで拡大します

天北線沿線を車で走ったときは、正直のところ浜頓別以北にはあまり関心がなかったのですが、この地図を見て、線路とはまったく関係のない浜通りばかり走っていたことがわかりました。しかしこの線路はどうしてこうも意味のないところばかりを走ったのでしょう? 突き詰めると、ただひたすら浜頓別というたった一つの街のために作られた線路のようです。
そもそも天北原野というのが不思議な形をしていて、日本海側から少なくとも6本の山並みが縦じわになって連なっています。どうしてこのような地形が出来上がったのでしょう。多分プレート理論で説明できるのでしょうが…
機会があればもう一度、天北線に忠実に走ってみたいと思います。

日本のどこかにロイターの言う事なら何でも正しいと信じている人がいるようだ。私はどうもへそ曲がりで、ロイターの言うことは信用ならないと考えている。
セーシェルのニュースもその一つだ。

独立以来初 セーシェル大統領選挙で野党派が勝利

ということで、あたかも独裁勢力に対して民主派が勝利したような扱いだ。しかし実際には左派勢力の統一戦線政府が保守派の政党に敗れたということなのだ。

なにも難しいことを調べなくても良い。ウィキペディアの日本語版をみれば、ちゃんとこう書いてある。

1794年にはイギリス海軍が占領し、1814年にはパリ条約によってセーシェルはモーリシャスとともにイギリス領となった。1872年には民政総督府が置かれ、1903年にはモーリシャスから分離して単独の植民地となった。

1948年には立法評議会選挙が実施されるなど、政治的自治は徐々に拡大していった。1964年にセーシェル独立派のフランス=アルベール・ルネが社会主義政党のセーシェル人民統一党を、イギリス領残留派のジェイムス・マンチャムが保守政党のセーシェル民主党を組織した。

1976年6月29日にイギリスから独立し、民主党のマンチャムが大統領に、人民統一党のルネが首相に就任した。(この後人民統一等は何度も党名を変えている)

しかし翌1977年にルネがクーデターでマンチャムを追放して実権を握り、一党独裁制を敷いた。人民統一党は1978年にセーシェル人民進歩戦線と改称し、1979年には憲法を改正して正式に一党独裁となった.

数度にわたってクーデター未遂が起きるが、観光開発により経済は成長を続けた。

1991年に入ると民主化運動が盛んとなった。1993年には民主的な新憲法が発布された。同年、複数政党による民主選挙が行われた。人民進歩戦線は経済成長を評価されて33議席中25議席を獲得した。

2016年の議会選挙で野党のセーシェル国民連合が議席の過半数を獲得し、人民党のダニー・フォール大統領とのねじれが生じた。

2020年10月には野党連合が大統領選挙、議会総選挙ともに勝利し、43年ぶりの政権交代が実現した。

セーシェル政府のガバナンス(統治能力)は良好であり、アフリカ有数の政府の質を誇る。
(photo1)Japan-Seychelles Summit Meeting
Japan-Seychelles Summit Meeting 
August 31, 2019


ということで独立直後の16年は「独裁」が続いたもののの、それは反独立派との対立と考えられる。その証拠に、16年後の選挙では人民進歩戦線が圧勝している。

その後も「民主主義」のもとで政府・与党は良好なガバナンスを誇ってきた。

おそらく20年以上を経て、住民の間に一種の飽きが出てきた可能性はある。もう少し経過を見ていく必要はありそうだ。


キューバ グランマ紙

october 20, 2020

In Bolivia, MAS is more


ボリビア人民は、軍事クーデターのあとも真実と尊厳を失っていないことを鮮やかに示した。

社会主義運動(MAS)の大統領候補ルイス・アルセは圧倒的に勝利した。2位の候補に20パーセント以上の差をつけて破り、右翼の幻想を打ち砕いた(mas は英語で more である)

キューバのカネル大統領は次のようにあいさつを送った。
「MASのみなさん、おめでとうございます。あなた方はOASと帝国主義のに導かれた裹頭勢力が奪った政治権力を、選挙という方法で奪い返すことができました」
そして「キューバはルイス・アルセ勝利の喜びを分かち合っています。ボリバル主義の理想がよみがえりました」
と強調した。

半日の後、ルイス・アルセはカネル大統領にこう応えた。
「ありがとう、カネル大統領。団結した人々は、選挙という方法により、経済的、社会的、政治的な回復と安定を決意しました。そして我が人民は希望を取り戻しました」
投票の結果は、2019年の選挙後にでっち上げられた茶番劇を明らかにした。その茶番劇の背後には米州機構、リマグループ、そして米国がいた。それは軍事クーデター、エボ・モラレスの国外追放、そして30人以上のボリビア人の命が犠牲になる弾圧へとつながっていった。

しかし人々の意志は非常に強力なものだった。そのため暫定大統領アニェスはMASを合法政党として承認せざるを得なかった。

アルセ候補の当選の弁

当選したアルセは、勝利後の最初の記者会見で、国民統一の政府を建設するつもりだと強調した。彼は過去の過ちに学び、それを克服すると述べた。そして憎しみを捨て和解の道に進む決意を明らかにした。

アルセは副大統領候補のデビッド・チョケファンカとともに、軍事クーデター後に課された新自由主義の悪夢を逆転させようとしている。

彼らにはそれだけの経験と道徳的権威がある。 

ボリビアの経済困難はアニェス暫定大統領の時代にひどくなった。広範に広がった腐敗、天然資源や生産設備の民営化と大企業への譲渡が相次いだ。それはコロナ禍への対応のまずさにより耐え難いものとなった。

こうして尊厳を傷つけられた人々は、平和を目指して投票した。

就任後も、内外の敵が確実に「闇の計画」に着手するだろう。新政府は国民を団結させる複雑で困難な課題に直面するだろう。注意深く信頼を強化し、経済・社会の発展のための道すじを指し示し、コロナへの対応を変換し、発生数や死亡率をコントロールしなければならない。

そしてクーデターによって損壊された国民主権と友好的な国際関係を回復しなければならない。


むかし何かで読んだのだが、「国会で安定した過半数を占めることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具に代え…」という一節があった。
まあそれはどうでも良いのだが、今回のボリビアのケースを見ているとまさにそういう実感が湧いてくる。


「キューバとコロナ」学習会のための資料です。

1. キューバの感染状況
ウィキペディアより転載
ky-ba kansenn
7月にはいったん完全な封じ込めに成功したが、その後8月からぶり返し、ばらつきはあるものの平均40~50人の新規感染数で推移している。しかし世界的な動向から見れば抑え込みに成功しているとってよい。死者数もきわめて少ない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その1 訪問診療の威力

システム

ファミリードクターが一人当たり約200世帯を受け持ち、

各家庭を週に1回訪れている。

感染者や要注意対象はさらに頻回の往診を行う。

効果

感染者の早期発見・早期隔離が可能となり、

集団感染のリスクも抑えられ、

医療崩壊も起こらない。



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その2 濃厚接触者への「濃厚な」対処

濃厚接触者『全て』を2週間入院させる

入院先は陽性者とは別の施設

総入院者は感染者の約3倍にのぼる

濃厚な対処が可能なのは国民的合意のため 

健康は全ての国民に与えられる人権で、

国民ひとりひとりがその獲得に尽力する


 

 

キューバがコロナ抑え込みに成功した理由

その3 新規薬の積極利用

20種以上の薬剤で治療

免疫賦活薬 インターフェロンα 2b、バイオモジュリンT

インターフェロンα 2bはデング熱、HIV-AIDS、B型およびC型肝炎で
有効性が試されている

重症化した患者にはジャスビンザ(Jusvinza)

新規薬を使わざるを得ない理由

アメリカは医薬品まで封鎖している。キューバへの販売は犯罪。
第三国で作った製品でも処罰対象になる。

さらにアメリカはインターフェロンα 2bを使わないよう各国に呼びかけている。

 



キューバがコロナ抑え込みに成功した理由


その4 圧倒的な医療スタッフ

医師数が多い: 人口1,000人中約8.7人が医師(日本は2.6人)
外国人も多数受け入れている

緊急医療援助国際部隊「ヘンリ・リーブス」
コロナ以前より、28,000人を超える医師たちが世界59ヶ国で医療支援

コロナ後には、あらたに2,800人の医師が24ヶ国で活動。

ヘンリ・リーブスは19世紀末に独立戦争に参加し戦死した米国人

 







藤尾慎一郎「弥生鉄史観の見直し」
国立歴史民俗博物館研究報告 第 185 集 2014 年 2 月
の読後感です

弥生時代という時代区分を放棄すべき

「弥生=鉄史観の見直し」というより、弥生時代という時代区分を放棄すべきなのではないか。紀元前8世紀から始まった米作り集団の渡来と、紀元前1世紀からの鉄器時代の到来は明らかに違う時代だ。

これに対して、弥生時代末期と古墳時代を分ける違いは量的な問題だけではないか。

厳密な意味では記紀の作成をもって歴史時代の始まりとすべきだが、先史時代の末期は文書がなかったのではなく紛失した可能性が高い。

卑弥呼の時代、好太王石碑、倭の五王、任那滅亡、日出ずる国文書など、他国の史書により確認される事績はほぼ歴史と考えても良い。


原史(Protohistoric)時代の提起

このようにしてサブ時代区分として、紀元200年から700年まで(古墳時代に相当)を歴史の原史(Protohistoric)時代と考えてもよいのかもしれない。

このようにして先史時代と歴史時代をつなぐ接点は、何を基準にして切断するかという問題でもある。

先史時代と歴史時代は原理的には2つにしか切れないのだが、切り方に2種類あるということになる。

したがって切り方によって異なる2つの切り口が生まれ、これによって先史時代は3つの時期に分かれることになる。

そして外国文献を通じて浮かび上がる500年の「原史」時代(基本的には先史時代の晩期)、先史時代と歴史時代を最終的に分かつ記紀・大宝律令(7世紀末)がもう一つの切り口を提供する。


先史-原史-有史 の切断と統合


武器 道具

石器

鉄器

有史時代


食料獲得

狩猟・漁撈・採集

水田耕作

有史時代


統合すると

石器+狩猟

石器+水稲

鉄器+水稲

有史時代


人種的には

YハプロD(+C1)

YハプロD+O1(+C1+N)

YハプロD+O1+O2

YハプロD+O1+O2

(O2は支配者としての北方民族)

慣用的には

旧石器+縄文

弥生前半

弥生後半+古墳

有史時代


ここで鉄器は紀元前100年、漢軍の進駐と楽浪郡の設置に続いて起きている。青銅はそれより100~200年前、これは長江文明由来のハプロO1人が持ち込んだもので、用具と言うよりは銅鐸を始めとする祭祀用品である。日本に青銅器は持ち込まれたが、それは青銅器時代を形成するには至らなかったと考えるべきであろう。

時代の切断も統合も、大局的には大陸→半島からの圧力を受けた在来諸人種の「辺縁化」と見ることができる。
その「辺縁化」は基本的には中央アジアの遊牧民の東漸圧力によるものである。(正確には東西への移動圧)
もう一つの圧力として南方から北上する水稲作りの圧力がある。米作りは労働集約型の農業であり、畑作以上に人造りが欠かせない。この人口圧が気候変動と抗いつつ、平和的に北上を進め、狩猟民族を圧迫していく。
日本列島は終着駅なので、これ以上辺縁化はできず、吸収されるか淘汰されるか、落人化するか、下部構造化する以外の方法はない。それぞれのYハプロがどうなっていったかは想像するしかないが、同じ人種のミトコンドリアDNAとの対比である程度見えてくるものがあるかもしれない。
西の終着駅であるブリテン島やイベリア半島の流れも参考になるであろう。

ウソのようなホントのはなし

「血液型がO型ならコロナにならない」というので、てっきり都市伝説か、悪くすればフェイクかと思っていたが、なんとNEJMに載った論文なのだそうだ。(New England J of Medicine は世界で最高の医学雑誌と言われている。しかし時々先走ることもある)

出処は 7/25 日経Gooday 30+


イタリアとスペインの患者を対象に行われた臨床研究。

新型コロナで重症化するリスクは、血液型がA型の人で45%高く、O型の人では35%低いことが明らかになった。

「新型コロナの重症化にはどんな危険因子が関係しているのか」
それを探す研究が、世界中で行われている。

その一つが重症化群と非重症化群に分けてゲノム解析の比較をすることだ。

ゲノム解析と言っても、全ゲノムをチェックするような面倒な話ではない。

疾患関連SNPを見つけ出し、その近くの疾患感受性遺伝子を推定するという方法である。(ちょいと面倒なので詳細は略)

今回はイタリアとスペインの4都市の7病院で、呼吸機能の低下した1610人と健常者2200人を比較した。

その結果、A型の重症化リスクは、他の血液型(B型、AB型、O型)の1.45倍になることが明らかになった。

一方、O型の重症化リスクは、他の血液型の人の0.65倍にしかならないこともはっきりした。

これまでも武漢での疫学調査により「新型コロナウイルス感染者はA型の割合が有意に多い」ことが認められていた。

今回の研究ではそれがゲノム解析によって裏付けられた。

アバ・デ・ロスサントス
日本近代考古学思想における「先史」の概念に関する研究
一E.S.Morse著『大森介墟古物編』(1879年)から
鳥居龍蔵著『有史以前乃日本』(1918年)まで一

上記文献はオリジナルではなくその要旨である。下記はそのさらなる要約である。
ネットで調べたら、これは平成20年度の北海道大学文学部に提出された博士論文であった。
これが一線級の学者でなく大学院生の博士論文として提出されたものであることにおどろく。このような議論こそ日本の考古学・人類学研究の焦点に据えられるべきではないかと思う。
(現在はスペイン国立セビーリャ大学文献学部所属)


ここでは明治・大正期における「先史」に関する受け止め、「先史」という時代概念の受容過程を考察する。それは考古学史としてあっただけではなく、「先史観」が問われる思想史としてもあった。

従来の日本考古学史研究には2つの系譜がある。

① 資料集成や学史上の基礎的事項(発見・発掘調査・先駆的研究など)の整理を行う第一の系譜
② その時期に展開された考古学研究の実践を、社会・政治・経済等との関係において吟味する第二の系譜(より露骨にいえば皇国史観とのせめぎあいー私)

本論では、発見史・思考史・研究法史の三者の相互関係を整理しながらアプローチする「弁証法的学史論」をとる。

特に重要な主題として、時代概念・その形成過程という先史学の流れを「思想史」という観点から検証する。

すなわち、旧石器時代・繩文時代・弥生時代・古墳時代といった現在使用されている時代概念を前提とせず議論したい。(より露骨にいえば批判的再検討ー私)

第一章 モースの時代

1879年(明治12)に、E.S.Morse著『大森介墟古物編』が出版される。

考古学が欧米の考古学にキャッチアップし、集古の学から先史学へと発展する。

当時の日本社会では三時代法における「石器時代」の考えは比較的すんなりと受け入れられた。
それに対して、「先史」という概念、用語が未だ正しく理解なかった。

翻っていえば、有史時代、あるいは歴史という概念は十分に受け止められなかった。

第二章 三宅米吉の時代

1886年(明治19)に三宅米吉『日本史學提要』が出版された。モースの著書に遅れること7年、ともかく日本側に素地が形成されたことを意味する。

これは三宅というよりは当時形成されつつあった日本の学術集団の受け止めを反映したものであった。

三宅は日本歴史を「神代」から語るのはやめた。
しかし「神代」を先史に取り替えるのではなく、「太古」という独自概念を主張した。つまり有史以前ではあるが先史ではないということだ。

第三章 ハ木奘三郎の時代

1902年(明治35)にハ木奘三郎『日本考古學』が出版された。

八木は坪井正五郎の門下であり、それは東大考古学の到達として捉えられる。(そこには坪井の理論のゴタマゼ性と思いつき性、一言で言えば無思想性が顕になっているー私)

① 先史時代(Prehistoric)、原史時代(Protohistoric) 、歴史時代(Historic) の3区分の導入
19世紀後半の欧米考古学の時代区分法の主流。文字資料の出現を基準とする区分法。
(これ自体は、研究の方法論から見て、たいへん正しい分類だ。ただ歴史は生産史、文化史としてだけではなく軍事史としても見なければならないので、これだけでは不足だー私)

② 「古墳時代」という新たな時代概念を導入した。
(最悪の時代概念である。石器時代を即自的な時空間として成立させた。その結果生じた先史時代と原史時代との論理的間隙を生じ、多くの混乱をもたらしたー私)


第四章 マンローの時代

1908年(明治41)に『Prehistoric Japan』が出版された。

この書物は「先史」という思考空間を論じるうえで、欠くことのできない位置を占める。

マンローは先史時代(石器時代)と原史時代(古墳時代)とを結びつけた。

そして弥生文化(青銅器文化)をヤマト文化の初期段階として位置づけた。それらは当時ようやく認識され始めた時代概念である。

(この本は日本の学界からは無視されている。強烈なアンチテーゼだったと想像される)


第五章 鳥居龍蔵の時代

1918年、鳥居龍蔵『有史以前乃日本』が刊行された。鳥居はマンローとの「ドルメン論争」を通じて「固有日本人」概念を構築した。(鳥居はマンローの提起を正面から受け止めた唯一の日本人学者だったー私)

鳥居の「固有日本人」は弥生文化を担った人々のことである。これにより日本人(大和民族)にも石器時代があったことが確定され、先史時代が科学的議論の対象とされるようになった。

ということで、肝心のところは省略されているが文章の性格上やむを得ないところである。「固有日本人」説についてはウィキ上で次のように書かれている。(鳥居の論考にはこの頃から“ブレ”が目立つようになるー私)

アイヌ人を除く古代の日本人として、固有日本人、インドネジアン、インドシナ民族が挙げられる。固有日本人とは現代日本人の直接の祖先であり、弥生文化の直接の担い手である。この人々は、石器使用の段階に東北アジアから日本列島に住み着き、金属器使用時代になって再び北方の同族が渡来してきた。

鳥居とマンローとの間には「ドルメン論争」が発生した。これは固有日本人論にとどまらないものがあり、日本の考古学の根幹に関わるいくつかの重要な論点がある。


中央アジアで最大版図を誇ったのは、13世紀に興ったモンゴル帝国である。
モンゴル帝国以前には、女真族の金、契丹族の遼、セルジュークトルコ、ウイグル、突厥、柔然、エフタル、匈奴などが興亡した。
ゲルマン民族の大移動の原因となったフン族の移動は、匈奴の一部がユーラシアを東から西に移動したためだとされている。
5世紀に現在のハンガリー地域を拠点として広い版図を誇ったアッティラ帝国は、フン族の系統だと考えられている。

過去3000年以上にわたり、遊牧民族はシルクロードをかけめぐった。それにともない、征服王朝をたてた勝者のDNAも拡散していった。

2003年に発表された、中央アジアの多数集団のY染色体の調査では、契丹(遼)時代の起源を持つ系統が8%近くに達するとされている。

ウイグル人は東アジア人と西ユーラシア人の中間に位置している。しかし、ウイグル人自身に多様性があり、東に位置するウイグル人はより東アジア人に、西に位置するウイグル人はより西ユーラシア人に近い。

此処から先はややポレミック

まず、東アジア人の祖先集団とシベリアから南下した集団が5500~5000年前(紀元前3千年)に混血した。
O2とC2との混血を指す?

これは、日本列島では縄文時代中期、黄河流域では仰韶文化から龍山文化への移行期にあたる。

西では、5000~3800年前(紀元前4千年)に、西ユーラシア人と南アジア人の混血があった。これはカスピ海・黒海の北部にいたインド・ヨーロッパ語族(印欧系集団)が南下し、イラン(ペルシャ人)とインドに移住していったイベントに対応していると考えられる。
印欧系とセム語系の混血を指す?

そして、シベリア・東アジアの混血集団と、西ユーラシア・南アジアの混血集団が、中央アジアで3800年前ごろにまず混血し、さらに西暦1240年ごろ(蒙古帝国による制覇?)、第二段階の混血が生じたと推定されている。
「中央アジアで3800年前ごろにまず混血」というのはさっぱり実態がわからない。

斎藤流シルクロード論

ユーラシアの東西交流は、遊牧民が誕生するよりもはるか以前からおこなわれてきた。
バイカル湖の南に位置するマルタ遺跡出土の、24000年前の人骨のゲノムは、現代のヨーロッパ人と南北アメリカ原住民の中間だった。
(こういう斎藤氏の言い方が好きでない)

後略

匈奴の歴史 年表

戦国時代

紀元前318年 匈奴は秦を攻撃するが敗退。これを機に秦は国力を強化。
戦国時代の匈奴
             戦国時代の匈奴

紀元前215年 秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させる。さらに長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぐ。

紀元前209年 始皇帝の死。単于頭曼は黄河の南に攻め込み、匈奴国を建設。

紀元前209年 頭曼の子冒頓(ぼくとつ)が反乱に成功。父頭曼を殺し単于(王)に即位した。さらに東の東胡と西の月氏を駆逐。巨大王国を建設。

紀元前200年 匈奴は太原に侵入し、晋陽に迫る。漢の劉邦(高祖)は自ら出陣したが惨敗を喫し、以後匈奴への臣属を強いられる。

匈奴最大版図

紀元前180年 匈奴、敦煌の月氏を駆逐し、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を支配下に収める。月氏残党はサマルカンドに大月氏国を建てる。

紀元前177年 漢が匈奴に反撃。西方進出に集中していた匈奴はこれを容認。

前141年 漢の武帝が即位。漢は河南の地を奪取することに成功。

前121年 漢の総攻撃開始。匈奴は重要拠点である河西回廊を失う。

前119年 漢が漠南の地(内モンゴル)まで侵攻。形勢は完全に逆転し、匈奴が朝貢を行うようになる。

前102年 漢の李広利が西域に遠征。匈奴の西域に対する支配力は低下し、オアシス諸国は漢の支配下に入する。

前80年 匈奴に内紛発生。漢の干渉にあい、戦力は大幅に低下。服属していた丁零や烏丸,鮮卑も離反した。

前60年 匈奴の日逐王が漢に服属する

前31年 匈奴国内が分裂。一時期は5人の単于が並立する。

紀元9年 王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼして新を建国する。王莽の蛮族視政策は西域にも及ぶ。これに反発した西域諸国は、匈奴に従属するようになる。

紀元13年 新は匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させる。匈奴は恭順せず反抗を続ける。

紀元23年 新が滅亡。その後光武帝による後漢が成立する。

紀元46年 匈奴国内で日照りとイナゴの被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡する。匈奴は南北に分裂し、親漢派の南匈奴が北匈奴を撃破。

87年 東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴を大破する。北匈奴はその後消滅。南匈奴もその後内紛により自滅。

匈奴の起源は謎となっている。現在のところ、北上する黄色人種(N系)、北方の古いアジア人(C系)、中央アジア遊牧民(QR系)が混合してで形成された集団だとされる。(二重三重にいい加減な定義)

匈奴は遊牧を専らとし、農耕は行っていなかった。しかし連れ去った農耕民奴隷による農業生産が確認されている。匈奴は文字を持たないため、自身の記録を残していない。

戦になれば匈奴の男は皆従軍する。匈奴には馬はかかせない。中国にはズボンはなく、着物風の服装だった。乗馬術を知らず馬車に乗って戦っていた。そのため騎馬戦術に長ける匈奴には勝てなかった。

昨日は頭にきてハニー中野信子をののしったが、それはあまりに志が低い。こちらまで「脳なし科学者」になってしまう。
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まずは各紙論調をチェックすることにした。

赤旗: 3日主張 
任命を拒否された6人は、安倍政権が強行した反動法案に反対してきた。
それを理由に任命しないのだとすれば、憲法第23条が保障する「学問の自由」を侵害するものです。
推薦候補の任命拒否は、「一定の監督権の行使」なのか?→それが問題なのではない。
①「日本学術会議法」第2条、第3条に照らして違法行為なのだ。
② 「日本学術会議法」第7条(83年の法改正で追加された条項)および政府答弁に照らして違法。

菅政権は異常な特質を継承していることが示された。

信濃毎日新聞 9日

政府の言い分には根拠がない。

学術会議は国内の研究者を代表する機関である。それは科学研究や政策のあり方について提言する。その独立を確保することは、学問の自由の制度的な保障となる。

本来、首相には拒否できる余地はない。

しかし18年に内閣府が、「推薦通りに任命する義務はない」とする見解を明確化した。

(なぜなら学術会議は)首相が所轄する行政機関であり、人事を通じて一定の監督権を行使できる。

内閣府は、公務員の選定を国民固有の権利と定めた憲法15条を持ち出す。

また監督権の根拠には、内閣の行政権を定めた憲法65条と、首相が行政各部を指揮監督すると規定した72条を挙げた。

それ自体、独善的な見解であり、受け入れられない。しかも、過去の国会での答弁と矛盾する。

政府が一方的な解釈で権力行使の枠を広げるのは「法の支配」の原則に反する。

朝日新聞 9日 社説

学術会議問題 論点すり替え 目に余る

首相は任命拒否の理由には答えようとしない。

すり替えの事例

1. 同会議の「必要性」の議論

「組織の形態や役割を検討する」と、論点をすり替え。
これは学術会議の側に非があるという「印象操作」に過ぎない。

2.同会議の実情について誇張と歪曲

A   会員が自分の後任を指名することも可能な仕組みだ(首相発言)
実際は、新会員の推薦に際しては性別や年齢、地域性などに配慮している。

B 学術会議は07年以降、答申を出していない(下村元文相)
政府は07年以降諮問していない。しかし答申ではないが、様々な提言を行っている。20年度だけで83本の提言や報告をまとめた。年間5億円の予算は、そのための連絡費に使われている。

C 今回の対応は学問の自由の侵害に当たらない(加藤官房長官)

しかし当該者の研究・発表が、今回の不利な人事につながったのは疑いようがない。

西日本新聞 7日
首相は拒む理由の説明を

重複分は割愛。

今回の6人は安全保障関連法や特定秘密保護法といった政府の法案や政策に批判的な立場を取っていた。政府に盾突くような学者は公職に任命しない。
という姿勢が読み取れる。

このままでは、「政権の意に沿わない学説は認めない」とのメッセージと受け取るほかない。

しかし首相は「一切関係ない」と断言した。それなら拒んだ理由を説明すべきだ。

首相は「個別の人事に関することはコメントを控えたい」というが、これは個別ではない。6人という集団である。

中国新聞 9日
首相の説明なってない

首相説明の翌日になって、政府側は18年に作成した内部文書を公表した。
そこには「首相は人事を通じて一定の監督権を行使することができる」と書いてある。
しかし文書はこれまで公表もされていないし、その適法性は議会を通じて確認されていない。議会ではむしろ83年の答弁書が通念化されている。

いま引きこもりを主人公とした映画を見終わったところである。とても感動的だった。たぶん数多くの実例を踏まえているのだろうと思う。

深く考えさせてくれる映画ではあるが、たぶんそれが病気だということから目をそらそうとする、希望的観点に基づいているのではないか。

「引きこもり症候群」という症候群があるとすれば、それは「自閉症」に基づく症候群であろうと思う。しかし「自閉症」という疾患単位はあるにせよ、そういう本質規定はまったくの誤りである。誤りであるだけでなく、本人と家族をますます窮地に追い込む罪作りな病名であろうかと思う。

自閉症はまず何よりも微細脳損傷と理解すべきかと思う。その損傷部位は一時記憶装置である。

大体が脳の働きの大部分は記憶装置である。判断とか対応というのは、さまざまなイベントを視覚化させ、その画像を短期記憶装置により連続的な事象と捉え、その事象をハンドルにより操作していく技能のことである。

一つ一つの画像に意味はなく、パターン化したシンボルに過ぎない。、それが連続した時にはじめて現象としての意味を持ってくる。いかに画像が鮮明であろうと、その時間軸上での再構築と動態化能力がないと無意味になってしまう。

自閉症の人はこのパターン化、シンボル化ができない。画像はいつまでも画像のままである。

これは一次的には頭頂葉の障害であり、さらにこの情報を二次処理する特定の脳分野の障害であり、反応系の連結障害である。どちらが原因でどちらが結果なのかは不分明である。聴覚情報(嗅覚・触覚も)というのは本質的に連続的なので、生物は発達のどこかの時点で聴覚と視覚を結合させる能力を手に入れたに違いない。

病理学的には発達障害と認知症は同じ病気であるが、病因としてはことなる。こういう視点からの取り組みが必要である。

なぜこのような当たり前の話をするかというと、児童精神医学や教育心理学には変なカリスマがたくさんいて、それを信じる変な実践家がたくさんいるからだ。

くれぐれも「脳科学者」を名乗る怪しげな輩には騙されないように、ご用心を!

ジェームズ・スチュアートと剰余価値論の変ぼう

小林昇の解説」から

重農学派が剰余価値説を提唱。
いかなる労働が交換価値をつくり出すか
→いかなる労働が使用価値をつくり出すのか
→いかなる労働が剰余価値をつくり出すのか
への転換。

ジェームス・スチュアートは農業から鉱工業一般に価値論を拡大するに当たり、多くの言葉を生み出し。多くの混乱をもたらしつつ剰余価値の探求を進めた。

もっとも単純化した形態では、スチュアートの主張はこうである。

商品には有用性だけではなく、特有の自然的な性質がふくまれている。これを「内在する価値」(intrinsic worth)と呼ぶ。
これに労働が加えられて商品となるが、そのための労働時間を「有用な価値」(useful value)とよぶ。

つまり商品の売値=交換価値は、材料費(スチュアートのいう内在価値)と労働量=労働時間(スチュアートのいう有用な価値)としてもとめられることになる。

たぶん、スチュアートはケネーの再生産表の厳密な適用によって価値の抽象化に成功したのであろう。

ここには商品の形態は姿を消し、これによって生産の本質が明確に掴まれている。

スチュアートの結論:
原文はこうなっている。

その譲り渡しによって一般的等価(Universal Equivalent)をつくり出す労働を、私は産業(インダストリ)と名づける。

私は次のように読み直す。

(商品の)譲渡によって一般的等価
  “Universal Equivalent”が作り出される。このような商品生産体制を、私は産業  “Industry”と名づける。

スチュアートにあっては生産と労働の分離は行われていない。インダストリーにつながる“労働”については、労働ではなく生産というべきであったと思う。

「生産」という抽象的範疇はまだスチュアートの主張の中には現れない。おそらく産業というのが「生産」の概念を代用しているのであろう。

これは重農説における農業生産と労働の未分離が重石となってのしかかっていたのだろうと思う。率直に言って、それはマルクスにも引き継がれている。

このあと、労働の生産への置換えを注意深く進めながら、議論をたどってみたい。

スチュアートは、将来の資本主義的な生産様式における生産活動を、現在や過去の生産様式と区別する。

この生産活動は生産のブルジョア的形態であって、古代の形態とも中世の形態ともちがっている。

現在は封建的生産からブルジョア的生産への移行期にあり、前者は没落の段階にある。

その違いは、商品の交換過程にもっとも顕著に現れている。

封建時代にも商品はあり、商品が交換される際には貨幣が用いられていた。

しかし、商品は残余ではなく富の基礎形態(交換価値)となった。そして商品の販売は富を取得するための主要形態となった。

このような商品と貨幣のあり方はブルジョア的生産時代に特有のものである。

したがって主要な「生産」の性格は交換価値(富の素材)を生むという抽象的なものとなった。

61年草稿における機械論
(佐竹『剰余価値学説史執筆の動機』の読書ノートです)

協業や分業による生産力の増大は、社会的労働の無償の自然諸力の表現である。

これに対し、機械は生産諸部面に商品として、不変資本の一部分として入っていく。

それが剰余価値の増大にどう結びつくのはは考察が必要である。

まず考えられるのは、機械の採用は生産規模の拡大を意味するということだ。すなわち、資本の蓄積であり、それによる競争での勝利である。

生産規模が拡大すれば機械の効率が上昇し、剰余価値が増大する。しかし生産規模が拡大するとは限らないから、機械が剰余価値を拡大するとは言えない。

では競争での勝利以外にも機械の導入の意義はあるのか?

ここでマルクスは「機械の採用にかんする八つの要因」を指摘する。

(1)特別剰余価値の生産
(2)絶対的労働時間一総労働日ーの延長
(3)労働強度の増大 (労働効率の改善)
(4)機械導入による単純労働への代替
(5)賃金引上げの要求やストライキへの対抗手段
(6)「労働者たちが労働の生産性向上を我が物にしようと思い上がること」を防ぐ
(7)労働や材料のムダの最小化(労働の連続性や廃物利用など)
(8)機械による「労働の代替」

あげては見たものの、それらの多くは的外れだ。機械の採用の動機ではなく、採用の結果・影響・効果に過ぎない。

マルクスは剰余価値の概念が空回りしていることに気づき、それがスミスのv+mドグマ、重農主義の労働価値への単純な当てはめよるものであることを発見する。
そして資本主義のもう一つの特徴である機械の充当という過程が、この空回りを露呈したと考える。

ここで主格としての資本家が、「人格化された資本」として機能していると規定することにより、新たなパラダイムを獲得するのである。

2 October 2020 Trend (中見出しは訳者による)


OSCEミンスクグループの共同議長の声明についての、
アゼルバイジャン共和国外務省のコメント

1.今回の新たな事態について

「2020年9月27日、アルメニア軍は、アゼルバイジャン共和国との軍事境界線に沿って、大口径の武器、迫撃砲、さまざまな口径の銃砲を発射しました。これはアゼルバイジャンに対するもう一つの新たな攻撃行為です。

今回の侵略行為は、ここ数ヶ月の間にアルメニアが行った挑発行為の継続です。

7月12〜16日のトブズ地区への攻撃、8月23日のゴランボイ方向での妨害行為と武力偵察の挑発、アゼルバイジャン国内の占領地における違法な定住計画の実施、アルメニア政府幹部の挑発的な言動などが続いてきました。

アゼルバイジャン共和国のイルハム・アリエフ大統領は、国連総会の第75回会期の一般討論で、「アルメニアがアゼルバイジャンに対する新たな軍事的挑発の準備をしている」と警告しました。

2.一連の事態におけるアルメニア政府の関与

以下の点に注意を喚起したいと思います。

アルメニア政府の言葉と行いによる挑発行為は、OSCEミンスクグループの共同議長によって仲介された紛争の解決プロセスに障害をもたらしています。

彼らはアゼルバイジャン領内の占領地シュシャで行われた“政権”の発足式に参加しました。

同じく占領下の都市カンケンディでは挑発的な「カラバフはアルメニアだ」という声明を発しました。

占領地区において「新しい領土のために新たな戦争を」の概念を導入しました。

紛争解決交渉において7つの前提条件を提示し、話し合いの形式を変更し、合意のハードルを遠ざけようとしています。

3.アルメニア軍の非人道行為について

アゼルバイジャンに対する軍事侵略の一環として、アルメニアの軍隊は民間人に対してさまざまな犯罪を犯しています。

アゼルバイジャンの民間人と市民インフラを意図的に標的にすることは、今やアルメニア軍の伝統とすらなっています。

それらは国際法、特に国際人道法および1949年のジュネーブ条約とその追加議定書の規範と原則に著しく違反しています。

10月1日の時点で、19人の民間人が殺され、55人が負傷し、200以上の家屋と民間施設が破壊されました。

彼らはナゴルノ・カラバフ地域だけでなく、さらにその周辺地域を軍事占領しています。アルメニアはこれらの作戦で、テロリストグループと傭兵を使用しています。それらの事実は数多くあります。

現在もこの政策は継続されており、過激派の部隊は、アゼルバイジャンに対する新たな侵略行為の一環として広範に利用されています。(当面、この項については訳者は争いません)

4.アルメニアの狙いはなにか

OSCEミンスクグループはこれまでの多くの声明を発し、その中で何度も、「現状(武装占領状態)は受け入れられない」と強調しています。

しかし、アルメニアはこれに反して行動し、武力に基づいて現状を維持し支配体制を強化しようとしています。

アルメニアは占領地を併合しようと狙っており、交渉を通じて紛争を解決することに関心がないことは明らかです

今日まで、アルメニアは国際機関によって採択された多数の決定の要件を遵守していません。

まず第一に、1993年の国連安保理決議822、853、874および884号です。をれらはアゼルバイジャンのすべての占領地からのアルメニア占領軍の撤退を定めたものです。

それどころか、占領黙認の雰囲気の中で、アルメニアは新たな攻撃行為を行っているのです。

この地域の現在の状況に対して、アルメニアの政治・軍事指導者はすべての責任を負っています。

1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。


先程のブログの別記事から

The prehistoric peopling of Southeast Asia | Science

という論文を紹介したものの要約です。早い話がパクリのパクリ。元ネタがScience と書いてあるので読み始めたが、いささか眉唾の記事。

1.C系人は8千年前にラオスからやってきた

東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6つのグループに分類できる。

①ラオスのホアビン文化の古人骨(8千年前)
このゲノム配列は愛知県田原市の縄文人に類似。
②~⑥はいずれも紀元前後より新しいもので、それぞれの地域の現生人との繋がりあり。

ということで、インドから到来したC型人(C1)の6つのグループがラオス近辺で分離し散らばっていたこと、その流れが経路は不明ながら本州まで到達していたことが推測される。

蛇足ながら、彼らがナウマンゾウをもとめて日本にやってきたのなら、ナウマンゾウがそうしたように、朝鮮海峡を渡ってやってきたに違いない。

ただしそれは4万年も前の話で、ラオスのC型人が米作り文明花開く8千年前の長江流域のO1人社会を乗り越えてはるばる日本まで来る理由が思いつかない。

2.C1a1人は紀元前3千年に中国からやってきた

もう一つの話題、日本固有種とされるC1a1が中国側のどこかで分岐し、日本に渡来したという情報もあるが、こちらは論理的に無理がある。何よりも、それが5500年前程度ということでは、辻褄が合わない。

私の考えではナウマンゾウを追って4万年前に朝鮮経由で日本に来たのがC系人だ。中国本土のC1人はすでにO1人に置き換わっているはずだ、と思う。

ブログ主も、そこまで攻撃的にはせずに、5500年前程度の時代に、中国側から日本へ何者かが渡来した可能性に照準を合わせたほうが良いと考えている。

5500年前に長江文明の担い手が朝鮮へ、そして日本へやってくる可能性はないとは言えない。しかしそれが意味のあるほどの量を持って実現したのかというと、やはり否定的にならざるを得ない。

ウィキのハプログループN (Y染色体)に関する記載は承服しがたいものがあるが、一応そのまま紹介する。

Y染色体のハプログループNは、NOグループを親系とし、ハプログループOとは4万年前に分岐した。

そしてユーラシア北部、さらにはシベリアを横断して北欧まで分布を広げている。

現在はユーラシアの極北地帯に分布しているが、これは後から入ってきた人種に圧迫されたためかもしれない。

分布は広範で他系人との混交が目立つ。特に注目されるのが遼河文明の遺跡人骨でN1が60%以上の高頻度で見つかっている。

対となるミトコンドリアDNAハプログループはZ系統である。


次が「知識探偵クエビコ」というかなり専門的なサイト

1.南シベリアのミトコンドリアDNA

記事の前半はC2人の話で、とりあえず飛ばしておく。その次がR人の話で、印欧族と対応するらしい。これも飛ばしていく。

次の話題が、私のテーマと関係ありそうだ。

バイカル湖・アルタイ山脈近くの南シベリアの遺伝子データはY染色体については不足しているので、ミトコンドリアDNAで議論する。

この地域のミトコンドリアは、最初の頃あまり東方要素が強くなく、紀元前1500年あたりから東方要素が増えてくる。

2.C1 人はクロマニヨン人より古い

もう一つ、これはC1人に関する話題で、

C1b系統はオーストラリアにも相当に早い時期に到達していた。C1a系統もヨーロッパの西の端にいて日本にいて、実はアフリカのベルベル人でも見つかってる。二つ合わせたC1系統は、クロマニヨンより古い時代に、かなり世界に拡がってたようだ。

3.ヨーロッパ(マジャールとフィンランド)に広がったN人

そして3つ目がヨーロッパのN人だ。

鉄器時代になってすぐの時代、ハンガリーにN人が現れる。ハンガリー語もウラル語族で、マジャール人も元はウラル山脈あたりにいたと言います。フィンランドはNが過半数を超える国です。

4.ウィキペディアの批判

こ之人、ついでに「ウィキペディアのNの項目」も、遼河文明論に関連して批判しています。

Nは日本の周囲のどこを見ても日本よりは高頻度で、普通に各種渡来民にその頻度で含まれていた可能性があります。


こ之ブログはかなり読み応えがあります。N人は極東に遼河文明を築き、西方ではハンガリーやフィンランドまで進出したという、大変行動範囲の広い種族だったようです。多分遊牧民族だったのでしょう。農民ではないからあまり土地には執着しないようです。
移動の手段、交通の手段、異民族との接触、交易の知識等には長けていたはずなので、その木になれば戦争には強かったでしょうが、極度に自然に左右される生活なので、人口=国力の強化維持には弱点を持っていたと思います。
その結果各地で文明が開花するに従い、辺境へと追いやられる結果になっていったのではないでしょうか。








2泊3日で紋別までドライブしてきました。走行距離は700キロ、まあこんなものでしょう。
紋別の夜はとても楽しいものになりました。ホテルで紹介してくれた店がイマイチで、フラフラと歩いていて入ったのが、いわゆるスタンド割烹。
ちょっと敷居は高そうだったが、実際は問題なし。というより刺盛り頼んだきりあとは酒だけという、行儀の悪い客で通したからです。
入って10分もしたら、「お医者さんですか」と見透かされました。それから話が始まったら長いこと。さんざん聞かされました。

この店は唐牛(元全学連委員長)が世捨てびとになって潜行したときに足繁く通った店だそうです。唐牛はしばらく漁師にになって沖に出たそうですが、やがて東京に戻っていきました。その紋別時代いろいろな人(ブント系)が紋別まで遊びに来たそうです。
亭主は奥の部屋から色んな人の色んな本をたくさん引っ張り出してきては、私に見せるのでした。まぁ今の人に言っても「ハアッ?」と問い返されるだけですから、たとえ民青でも話がわかる人が来れば嬉しいのでしょう。
その話がひとしきり終わったあと、亭主が持ち出してきたのがこの話のもとです。
まず浜美枝の自筆のはがきを持ち出してきました。「紋別に来たときに色々お世話になりました」という礼状でした。
もちろん「とりあえず」という簡素なものではあったが、真心のこもったもので感心しました。字体がまたなかなかのものでした。「水茎のあと麗しく」というようなものではない、端的に言うと意志的な、力強い字で、おそらく書字スピードも相当なものだと想像されます。
女優さんというイメージからは程遠いハガキを見せられたあと、今度は2枚の写真。1枚目はロケで紋別を訪れたときの、かなり濃いめの化粧の大柄な美人が、いかにも風の男性とともに写されています。
それが2枚めはプライベートで再訪した時の写真、これが別人のような目鼻立ちで、地味な出で立ちながら、震えてくるほどの美人です。そしてあのはがきを書いた人だなと思わず納得させるイメージです。
多分、こんな人が身近にいたら、好きだとか嫌いだとかいうんではなくて、多分あこがれの対象になるでしょう。
それだけでも、とっても楽しい話を聞かせてもらえました。こういうことがあるから、旅は楽しいのです。



映写幕(スクリーン)の穴はなぜか?

むかし、笛吹童子の全五作一気上映なんてのがありまして、劇場は超満員。座るどころか立つところもない。私らは小学1年か2年だったと思います。そのうち誰かやんちゃなやつがいて、ステージの上に登っちゃいました。
スクリーンは黒幕で枠どってありますから、舞台との間には40センチくらいの隙間があります。そこに寝そべって仰ぎ見ることになります。
当然劇場の兄さん方は大怒りで、「降りろ降りろ」と怒鳴りますが、なにせそれには無理がある、そんなに超満員になるまで、ガキどもを相手にキップを売りまくった責任はどう取るのか、ということで、結局はそのまま上映開始ということになります。
実は私もその悪ガキの一人で、とにかく千代の介や錦之助がこれだけの迫力で見れるというのは、子供心にも感激でした。

と、ここまでが前置き。
その時気がついたのですが、スクリーンには一面に穴が空いている。しかもほころびやいたずらで空いたものではない。きちっと等間隔に図ったように網目状になっている。

「なんやろね?」と思いつつ、はや60有余年、この間試写会のニュースをテレビで見ていたら、やっぱり網目状に黒点(おそらくは穴)がついている。

流石に気になって「このままでは死ねない」と思い至ったのです。

ウィキペディアについてはまったく記載はない。著者がひたすら気にしているのは、「なぜ銀幕(Silver Screen)なのか」と言うことです。

しかし私にしてみればそれは別に不思議でもなんでもない。近くによって見ればたしかに銀色なのです。

ウィキによれば銀色に塗装が施されているそうで、正体は酸化マグネシウムかなんかだそうです。むかしは銀を使ったという話もあるようですが、それは多分、今で言う都市伝説でしょう。

で、結論から言えば、あの穴は「サウンドスクリーン」といって、スクリーン後ろにおいたスピーカーの音のヌケを良くするための仕掛けなのだそうです。

つまり劇場のスクリーンは、基本的にはすべてサウンドスクリーンだということですね。

「銀色塗装を施して、音のヌケを良くするための穴を打ち込んだ映写幕を劇場用スクリーンと呼ぶ」と定義すれば間違いは少ないと思うので、ウィキさん、そのところよろしくね。

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