鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年09月

人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。

しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。


1.ハプロN人が文明のメッセンジャー

小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
それはN人だった。N人は多分1万年くらい前に中央アジアでO人と分離し、北方の草原を西へ、あるいは東へと遊牧するようになった。
西に行ったものはG人を西に押しやった。G人はドルメン文化を形成した人々で、有名なアイスマンもその一人である。
東に行ったものは、ゴビ砂漠を越えて華北一帯に流れ込み、遼河文明を形成した。紀元前3千年ころのことと思われる。


2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか

東アジアに先住していたのはC人である。C人は6万年前にインドを経由して東南アジアに進出した。そしてアジア全域に散らばった。

ナウマンゾウを追って日本に到達したのはC1系で、4万年前のことだった。モンゴルからシベリアまで広がっていったのはC2系だった。

D人の経路は不明だが中央アジアから直接、あるいはインドを経由してチベットから中国の西域に達し最終的にはサハリンから日本に達した。途中の経路にはかろうじて痕跡が残されているが、経路を追うほどの密度では存在しない。

C人、D人は現在辺縁的に残存する程度である。


3.C人を追い出したO人とN人

これに対し現在の主流を形成するのは、O人とN人である。

O人はインドシナの山間部を経由して中国南部に入った。そして長江流域に米作の文明を築いた。このとき先住していたC人は南方に押しやられた。

N人は、おそらくそれより少し遅れて陸の東西回路を東進し、C人先住民を北に追いやった。

これが可能だったのは9千ないし7千年前にかけて温暖化が進行し、これに伴い海進と湿潤化も進み、陸の東西回路、いわゆるシルクロードの利用が容易になったためではないか。

N人が構築した河北~南満文化は、不明の理由で衰退していく。これに対し長江まで前進したO人の一派であるO2系が北進し、N人を追いやった。

長江から北に進出したO2系は、N人がもたらした西方文明を受容した。その力で南進。青銅器文化にとどまっていた長江文明(O1系)を制圧し、影響力を華中・華南にまで及ぼすこととなった。


4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者

結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。

これがマンローから学んだことをふくめ、達した結論である。(まだまだ変わっていく可能性はあるが)

これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
習近平政府にとっては、あまり気持ちの良い議論にならないかもしれない。

真田十勇士というのはなんで覚えたのだろうか、どうも記憶がはっきりしない。
ふと三好青海入道というのが口の端に浮かんできた。まぁ猿飛佐助だが、あとはかろうじて霧隠才蔵、それに三好清海入道にはたしか弟がいたよな、というあたりで記憶はぷつっと切れる。
たぶん東映映画で憶えたんではないかと思うのだが、どうもそんな映画を見た記憶がない。これが里見八犬伝だと、なんか天守閣の屋根で錦之助と千代の介が見えを張っている場面が思い出される。ただしこちらの方は犬山とかいう名前がさっぱり思い出せぬ。どうも困ったものだ。
困ったときはウィキペディア。とりあえず真田十勇士をあたってみる。
十勇士の名前は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人。ただし下の方は別バージョンがあるらしい。

真田十勇士はいずれも明治になってからの講談の創作のようだ。江戸後期に真田昌幸・幸村らが徳川家に抵抗する物語が『真田三代記』として語られるようになり、その中のサイドストーリーとして十勇士らの物語が挿入されたらしい。
面白いのは、最初の頃は霧隠才蔵が主役で、猿飛はあとから挿入されたまったくのフィクションらしいということである。

最初に猿飛佐助が出てくるのは1914年(大正3年)の立川文庫『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』からであり、その後も主役の座は安定しなかった。
「真田三勇士」というのが当初の触れ込みで、顔ぶれは由利鎌之助と霧隠という具合。霧隠は今も猿飛を凌ぐほどの人気を博している。

映画で見た記憶だが、ウィキによると『真田十勇士 忍術猿飛佐助 忍術霧隠才蔵 忍術腕くらべ』(1954年 東映)というのが該当するようだ。私としてはまったく憶えがない。
いずれにしても猿飛というキャラにまったくリアリティーがないのは確かである

まぁ、どうでも良いが…

分かった!

映画のことなど憶えていないわけだ。

私の真田十勇士の記憶は少年画報に連載された杉浦茂の「真田十勇士」という漫画が源泉だ。「オール・ザット・十勇士」というサイトに詳しく触れられている。

猿飛佐助は信州鳥居峠の麓に生まれ、山中で猿と遊び暮らしていた。忍術の大名人戸沢白雲斎に教えられ、免許皆伝となる。巻物をくわえ、手で印を結べばたちまちドロンと姿が消えるという忍術の達人。これはどうも怪傑児雷也のパクリではないか。幸村のもとで諸国探索を言い渡され、三好清海入道と珍妙な道中を繰り広げる。
霧隠才蔵は浅井長政の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。伊賀流忍術の百々地三太夫に師事する。猿飛佐助と忍術比べで負け、弟分となり真田幸村に仕えることになる。
そうだ、そうなんだ。このときの刷り込みがもとで。甲賀は伊賀より強いという固定観念が出来上がったのだ。

俺の思想的ベースは杉浦茂だったのだ!
考えてみれば赤胴鈴之助も、途中からは武内つなよしだったけど、始まりは杉浦茂だったし、イガグリくんも杉浦茂だった(と思う)。


ウィキによると、上記のイガグリくんの記述は記憶違いでした。私は少年画報読者だったので、冒険王は従兄弟の家で読んでいたと思います。昭和28年の小学校入学なので、最初の1年は読んでなかったのかもしれません。

秋田書店の『少年少女冐險王』に1952年3月号から1954年8月号まで福井による執筆作が連載されていたが、福井が過労によって34歳の若さで急逝。有川旭一が正式に作品を引き継いで連載を続けた。

少し少年画報、冒険王、少年クラブについては記憶違いを修正しておきたいと思います。

それにしても、「手塚学」というのはすごいですね。「マンガ学」の一大分野を形成している。読んでいて嬉しいのは、私小説を書いていた小説家たちの無頼・露悪傾向に比べればはるかに健全だということです。
私の子供の頃の記憶をたどるなら、子供漫画界の座標軸を説得力をもって示していたのは馬場のぼるだろうと思います。彼らは絶えず子供を見つめて、子供の先に未来を見据えていました。同じ漫画家でも「漫画読本」で大人向けお色気漫画を書いていた連中とはまったく違います。

馬と乗馬の歴史年表

約6000年前 乱獲により激減した馬が、食料源として飼育されるようになる。

家畜化については諸説紛紛だが、役畜化の前に馬具なし家畜としての利用(食料・搾乳)の歴史はあったであろう。しかし反芻胃を持たず、筋肉質の馬は牛よりは低価値である。

紀元前3500年ころ 遊牧民が馬を役畜化。
カザフスタンで発見された馬歯遺跡にハミを利用した痕が発見。

紀元前2400年 メソポタミアで戦争に戦闘用馬車が使用される。

紀元前2000年 メソポタミアで乗馬用の馬が導入される。

紀元前1500年ころ シンタシュタ-ペトロフカ戦争で最初に乗馬兵による戦闘が行われる。

紀元前1400年ころヒッタイトのキックリによって馬術書が書かれる。5枚の粘土板に楔形文字で書かれ、馬の調教・飼養・管理につき書かれている。

紀元前1200年頃 エジプトでは青銅製のハミが使用される。

紀元前9世紀~8世紀 遊牧民スキタイが王国を建設。彼らは馬に乗りつつ遊牧し、中央アジアや現在のロシア南部・ウクライナで帝国を築き上げる。このような遊牧民は「遊牧騎馬民族」と呼ばれる。

紀元前8世紀 馬上のまま戦闘を行う方式が始まる。

紀元前 680 年 この年の古代オリンピックで、戦車競走が始まる。

紀元前400年ころ ギリシアのクセノポンが馬術書を記す。

紀元前3世紀 サルマタイ人がスキタイ王国を滅ぼす。鉄製の鐙とより高度な馬術を持っていた。その後サルマタイ人はローマ帝国の各地に馬術を広めたとされる。

3世紀 魏志倭人伝、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」と記す。

4世紀 古墳に馬の埴輪が副葬される。当時の牛・馬のDNA解析により半島から輸入されたものと判明。

4世紀末ころ 中国大陸より騎馬の風習が伝わる。(高句麗との戦いの最中ということになる。これは「騎馬民族」説に対する真っ向からの挑戦となる。別記事では弥生時代末期とされ、4世紀末には乗馬の習慣が広がるとの記載がある。こちらの方が妥当)

5世紀 フン族が東ヨーロッパに侵入し大帝国を築く。フン族はあぶみ付き馬具を採用し、馬上で弓を扱う。

12世紀 中国で17騎の金(満州)の使節団が北宋の歩兵2千を襲い潰走させる。

13世紀 モンゴル軍の騎馬軍団は乗馬のまま矢を放つ攻撃で世界を席巻したと言われる。

紀元前1千年ころに中央アジアの遊牧民族の間で洗練されたという記事があった。まだ確認をとっていないが、事実とすればこれは重大だ。
私は古来騎馬民族の頃から、遊牧民は馬に乗って草原を疾走しているものだとばかり思っていた。紀元前4千年に馬が家畜化されたという記載は、馬が人に乗られることを受け入れるようになったということだと思っていた。
その発想から、遊牧民の戦闘力の技術的背景として馬・車輪・鉄製武器の3点セットを考えていた。しかし、例えばアレクサンダー大王の部隊ならどうだったのか、チャリオット(一人乗り戦争馬車)であのような大国を作り上げられたであろうか。やはり卓越した乗馬技術を持つ騎兵部隊を縦横無尽に駆使して、風林火山の勢いで世界を征服していったのではないかと想像してしまう。
逆に言うとそれは、軍事組織の戦闘組織と輸送組織への分化をもたらしたのではないかと思う。戦闘は騎兵で、兵站は馬車という二大機能である。

驚くべきことだが、このような軍の機能と戦闘の形態は、第一次世界大戦の直前まで、3千年ものあいだ続いていたのである。

これまで何度となく、20世紀論を考え論及してきたが、3千年続いた戦争を有り様を根底から覆したことこそ、実は20世紀の最大の特徴だったのではないだろうか。


11.中国文明

エジプトやカルデアのように、中国の古代文明は農業の基礎から生まれました。

 土壌を耕して穀物を栽培する技術は、人類を地域に結び付け、社会を創造して、相互奉仕と保護の精神をもたらしました。それは動き回らずに生産する工芸品の開発を可能にし、優れた交換手段を生み出し、これにより余剰商品をもたらし、商業の発展を促します。

農業の拡充のために土地の灌がいや排水、沖積地を埋め立てることで、生産力はさらに拡大しました。人間はこうして彼自身を耕作していったのです。

豊かな実りが彼らの苦労に応じ、食料の不安を和らげたので、多くの趣味や娯楽を満足させる時間を確保しました。

 この豊富さは、中国の初期の入植者が黄河の沖積谷に発見しました。 古代の記録は中国文明の始まりを示しています。

史記で伝えられている神話的な記述では、農業の始まりには奇跡的な物語とありそうもない偉業が織り込まれています。しかし農業の開始こそが文明の始まりであったことをよく示しています。

* その後の中国の古代史研究の発達はめざましく、夏・殷・周の時代まで考古学的に確定され、さらにその前駆者として南満の遼河流域に中央アジア遊牧民の流れをくむ遼河文明が成立していたことまで明らかになっている。
彼らとその子孫が麦、馬、車輪、青銅器、鉄器をもたらしたのは間違いないだろう。


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初期の中国人入植者は明らかに牧歌的な遊牧民ではなく、土壌の灌漑と栽培の方法に熟練していました。

 残念ながら、紀元前213年に秦の始皇帝が焚書を命じたため、ほとんどすべての現存する中国文学が破壊された。そして文学者はすべて生き埋めにされた。これにより、古代の古典は生き残りの数人の学者が口承で伝授するだけのものになりました。



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本の一部が後に発見され、古代の伝統と教えが完全に失われたわけではないということがあきらかになりました。今日では焚書坑儒の影響は小さいものと考えられています。

中国の最も才能のある学者の一人による次の声明は興味深いものです。
紀元前500年以前の中国の歴史の正確さには、疑問を呈する向きがあるかもしれません。
しかし今日まで伝承されている書物は、秦の当時またはそれ以前の時期に存在したものと実質的に差はありません。そのことに疑いはありません。
孔子時代に広まった一般的な中国文化を簡単に紹介します。

それによって、読者がヤマト文化とその発想の源について、より明確な考えを持てるでしょう。

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同様の文化が存在したと仮定すれば、私たちはおそらく間違いではないでしょう

紀元前1000年から紀元前500年にかけて、史記を始めとする古典が記録されました。その中にはもっとむかしの記憶についての記録も残されています。

一方、その後の年代記作者がいくつかの項目を誤って解釈したり、自分たちの時代の文化に合わせて改ざんした可能性もあります。しかし生業の有り様についてはあまりブレはないでしょう。

古代中国人にとっての農業の重要性は、運河、灌漑、排水、利水の繰り返しから集められるかもしれません。

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以下はコインの話 略

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天文学、数学、宗教など 略

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12.中国の墓制とドルメン

墓、洞窟、盛り土の埋葬が行われ、墓も石で造られました。

ドルメンは、1つの巨大な石で覆われた巨石室で、中国では非常にまれです。

それらは世界のどの地域でも一般的というわけではない。輸送の困難は計り知れません。

 2つ以上の大きな石で覆われた支石墓はより一般的であり、多くの小さい石がしばしば使用され、屋根はアーチ型または円錐形になります。

 このようなチャンバーは、構造が安定していないだけでなく、壁を構築する巨石への誘惑が大きくなるため、必然的に破壊されやすくなります。

 中国の農業文明の偉大な時代に、耕作民が古墳を破壊し、根底にあるドルメンを露出させ、これらのほとんどを消滅させたと考えられます。

 いずれにせよ、中国の霊廟などになお現存している小さめの支石墓は、ドルメンの直系の子孫であります。

13.メソポタミアと文字文化の拡散

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これらおよびその他の考察に基づくならば、メソポタミア文明は初期の中国文化の源泉だといえます。そして黄河地域の農業開拓技術は、もともとカスピ海の南岸地方(イラン)から来たという見方が成り立ちます。

現在の中国は西アジアの起源を感じさせませんが、正確な場所を与えるのはおそらく時期尚早です。

 葦や竹で書くことは、バビロン人と初期の中国人の両方に共通でした。

 どちらの場合も、絵文字から表意文字への変更は、筆記材料の違いから生じました。

柔らかい粘土の正方形のスタイラスに掻いた楔形の文様、織物や紙に刷毛筆を使用することで奨励される正方形(篆書)文字、いずれの場合も最初は苦労して絵を描いたのが、記号に置き換えることで、「時間の経済」の影響をもたらすことになります。

エジプトでは、石碑文(例えばロゼッタ石)は保存目的のために制作されあす。石の彫刻は時間がかかるがそれはそれでよい。しかし情報伝達を目的とする書字では象形文字が多用されます。

エジプトでは、教育はカルデアほど一般的ではありませんでしたが、公式の目的以外に、アルファベットの執筆は意外に流行していた可能性があります。その痕跡があります。

初期のエジプト人の書体は、シュメール人の書体に非常に類似しています。それはとても印象的です。

フェニキア人が商取引の媒体として文字を所持した事実は示唆に富んでいる。

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紀元前4000年までさかのぼって、シュメール語の書体は中国の古代の碑文よりも高度でしたが、実際に楔形文字やくさび形の文字が確立したのは紀元前約2500年までくだります。

 このメソポタミア文化を取り巻く草原・ステップでは、原始的な生活形態が後世まで続きました。バビロニアの時代、知識や習慣は外側の部族に向かってゆっくりと広がっていきました。

中国文化の発祥地は、カルデアと共通していたかもしれません。それともかなり外戚だったのかもしれません。


14.ヤマト文化と中国文明

ヤマト陶器固有の特徴と墓の珍しい碑文は、中国の初期のものに似ていますが、基本的な相違点もいくつかあります。

その「書」、天文学、宗教、工芸、特に水路の灌漑システムにおいて、中国の初期の文化は西アジアのそれに類似しています。

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「詩」は「その思いをゆったりと歌い、真剣な想いを表現したもの」と言われています。「舞」も社会の信仰活動では重要な役割を担います。

日本でヤマト時代が登場する前、中国の文明はどういう状況だったのか。それに関するいくつかの情報は、ヤマト文化を考察するときに役立つでしょう。

いくつかの類似する特徴とともに、いくつかの非類似の特徴にも注意する必要があります。

まず、中国からの文化の借用は明らかです。

しかし、日本語との相違、ヤマト神話、独特の習慣など、明らかに中国とは無関係のいくつかの機能が残っています。

古代中国の史書の記述に依拠するなら、ヤマト人の起源に光が当てられるかもしれません。この点については多くの言及が存在します。

ただし紀元前1000年以前の中国の歴史については、書かれたこと自体の真正性については、まだ結論を下すには十分に確立されていません。


15.朝鮮半島の歴史とヤマト
 
* この節に入る前に、この本の出版された1908年(明治41年)を想起していただきたい。翌年には日韓併合がなされ、伊藤博文がハルビンで暗殺される。その後大逆事件へと向かう。そういう微妙なときだけにおそらく日本人なら口をつぐんでいた話題であろう。

中国と日本の間には朝鮮半島とすでに述べた狭い海域があります。

紀元前1000年頃、現在の遼東半島や現代の満州の一部を含む、遼河地帯と大同江の間に古朝鮮が広がっていました。



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半島南部の残りの部分には、多くの部族や小さな王国が住んでいました。

中国の歴史にある、半島の民族に関する記述を文字通りに受け入れずに、
民族学的に観察すると、以下の点で人類社会の原始的な特徴とピッタリ一致しています。

1.竪穴住居。
2.綿、絹、麻については後で説明しますが、衣類は乏しいです。
3.祖先、トラ、木、天体の崇拝。
4.家の放棄、他の場所での新しい居住地の建設。
5.圧力による幼児の頭部の平坦化。
6.同族結婚の禁止。
7.農業の拒否(一部の地域)。

上記に多かれ少なかれ対応する社会の状態、部族の雑多な集まり、そしておそらく中国人からは冒険的で遊牧民の群れと見られ、支配の対象となりました。

 すべてのアジア全体で、敗北の結果は、虐殺、奴隷化、隷従を意味しました。

幸運にも、強力な敵との接触時に脱出した人々は、抵抗が最も少ない方向に向かい、占領が黙認された場所に落ち着きました。


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現代と同じように、アメリカの征服は武器の圧倒的な優位性と、規律と冒険的な精神によって実行されました。

極東の小国朝鮮に入った戦士たちも先住民とたたかって、開拓地を保持するのにほとんど困難がなかったでしょう。

これはおそらく同族社会と近親結婚の禁止によって混合された子孫によって促進されました、

また、先住民は内部の平原を広範に保有し、粗放な農業あるいは放牧を営むのですが、後発組はこれとは競合しませんでした。かれらは河口に近い沖積平野を比較的に限定的に、集約的に使用する農業のスタイルをとったからです。

中国の周王朝の創始者の弟箕子が五千人の信者と朝鮮に移住(または逃亡)したと言われています。箕子は紀元前11世紀初頭に箕子朝鮮を創設しました。

箕子は伝説的な人物で、人々に様々な芸術、医学、占い、そして文学を教えました。

 さらに、大同川の南側の領域が、ツングース系、中央アジア系、中国の長江流域からの入植者によって湿られた可能性があります。

 これらの民が漢王朝の時代まで独立を維持できたならば、彼らはおそらく中国から何も学ぼうとはしなかった。


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紀元前5世紀頃、または少し後、朝鮮の南にある多数の氏族が、それぞれ3つのグループまたは国と呼ばれる国に集められました。馬韓、弁韓、辰韓

 それぞれが国土固有ではない農業、養蚕業、その他の芸術を奨励した中央政府の管理下にあったと考えられています。

 辰韓と弁韓は、山の半島の背骨の西に領土を占めていました。 馬韓は山東半島の向かい側で、さらに南にありました。

 紀元前300年に鉄を生産したと言われていますが、鉄鉱石は長白山の近くで採掘されました。これより1世紀以上前に中国と朝鮮で鉄器として製造されていました。

朝鮮半島は袋小路を形成し、その中に初期のアジア文明の諸勢力が本流のように流れ込んだ。

 当時、武装国「朝鮮王国」は支配下の民衆が脱出しないよう妨害したかもしれませんが、南部に住んでいる人にとっては、海岸から見える対馬の島が魅力的な展望を形成し、海を越えてたっぷりの土地のある日本に引き寄せられました。

 
16.日本におけるヤマト族の受け入れ


ヤマト進出が具体的に侵略の形をとったと考える必要はない。

ヤマト集団が大陸から進出して権力を掌握するまではかなりの時間を費やした。

他の侵入者との競合、先住民の抵抗などの形で戦いを強いられた。

最初は海岸沿いの沖積地の小さな帯路のみが支配域で、背後の山には統権が及ばなかったこと、

等が挙げられます。

ヤマト移民が日本で国家的地位を獲得するには、優れた軍事条件と本土からの補強を持ってしても容易なことではありませんでした。それは種族間の融合とゆっくりとした形成過程を経て初めて成し遂げられたのした。
  
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歴史上どこでも、進んだ国が勝利し、文化水準の低い人々の土地を占有するできごとが見られます。

 エジプト人、ヒッタイト人、カルデア人、中国人、韓国人は進んだ国の範疇に入ります。以前は文化水準の低い人々は「蛮族」と呼ばれていました。

 日本でも最初は平等に、後には差別的に、先住民を扱っています。 この変化はかならず深刻な結果をもたらすでしょう。

先住民はまず最初に強い抗議をもって反対の意思を示します。なぜならそれはアジア本土から大和への文化の強制を意味するからです。

したがって、この文化の押しつけが先住民に受け入れられるためには、長期に渡る緩やかな変化が必要となるのです。


17.ヤマト族支配のもとでの本格的開発

 日本の沖積平野は奥羽の荒地までヤマトを引き寄せましたが、背後の開かれた社会は、石器人が禁止された文化の流入を供給し続けました。

日本の沖積平野にヤマトは引き寄せられ、北の荒れ地にも進出していきました。彼らの背後では先住民が支配者と交流しヤマトの文化を取り入れていきました。

ヤマト民族は、中東や東アジアからの農業生産システムを受け取とりました。そして農業のより高い生産目標、安定した社会関係を築き、労働システムを支持し調整することで、進歩をもたらす社会関係を発展させました。

農業生産と耕作は主として女性の働きによるものでした。それは否応なしに原始的な生活にうち勝つことになりました。

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8.エジプト文明

*かなりくどいが、我慢して聞いてください。これでもずいぶん省略した。

古代からナイル川の沖積層に設立されたエジプト王国は、長らく完璧なアジア風支配を維持しました。

エジプト文明の伝統はエチオピア、アッシリア、ペルシャ、ギリシャ、ローマへと受け継がれていきました。

建築・芸術と美学は、何世紀にもわたって高度な完成度に達しました。それは紀元前1千年ころまでの数千年の間に徐々に高みに到達します。

乾燥した気候と埋葬の慣習により、職人技の成果は他に類を見ないほど保存されています。


-11

その比類なき文明の長さにより、その文化の光が多くの芸術品や工芸品に輝き、思想の発達を与えています。他の国への文化の伝播は、商売を通して、旅行者の観察を通して行われました。

エジプトでの陶器作りは、ろくろを用いて整えられ、、かなりの高温で焼き上げられました。時々艶を出すために釉薬がかけられました。

エジプト人はガラス製造に優れ、知られている限りでは、この芸術の先駆者でした。彼らの宝石のイミテーションは非常に完璧だったので、今でも本当の石とまちがえることがあります。

さまざまな色のデザイン、成形およびカットは非常に並外れたものであり、グレージングとエナメルの技術は他の材料は、早くも第4王朝の頃に完成していました。


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冶金学、特に青銅、銀、金の技術もかなりの水準に達していました。

エジプト人は2つの名称の下で金属を分類しました。貴金属—金、エレクトラム(金と銀の合金)、銀。卑金属ー銅、鉄、鉛です。

国内の調理器具や家庭用の小さな器具は、ほとんどが青銅でできていました。青銅は鋳造と同様に鍛造されるようにもなりました。

いっぽう、スズ鉄は戦争の武器のために確保されました、および彫刻家や石工のノミ、斧や小刀の頭、ナイフの刃やのこぎりなどの硬い材料にも使用されました。

以下、エジプト文明の諸技術が延々と述べられるが省略。

-13、-14、

-15

9.メソポタミア文明

ユーフラテス川とチグリスの間の土地は、その驚くべき豊饒から、文化の古さはエジプトの古さではないとしても、その後の文明はおそらく優れていました。

冶金、陶器製造、織物製造の技術は、エジプトの芸術と異なりませんでした。一般的な教育と法的管理では非常に優れていました。

カルデアは、農産物だけでなく、高度な技術を必要とする織物やその他の素材の製造でも有名です。

地中海に近接しているため、古代の商業旅行者であるフェニキア人への物資の供給基地ともなりました。

大胆な海の探検家フェニキア人は、英国がやっと原始的な文化から脱出したころ「海を支配」しました。

地中海に植民地を植え、アジアの海岸に沿って交易の機会を捜しました。

-16

火と太陽の崇拝(拝火教)はメソポタミア全体で、さらに西アジア全体で優勢でした。

亡くなった人々に敬虔な供養がなされただけでなく、エジプトの場合のように、死者はくわ、鎌、くぎ、斧などの道具が副葬されました。

後期バビロニア人とアッシリア人ではセム族の血が主流でしたが、シュメール人とアカシア人の祖先は遺伝子的に言語的に印欧語系でした。

 エジプトとカルデア文明に対抗したヒッタイト、5つの海に進出したパルティア人などのさまざまな後の国家も印欧語系でした。

* メソポタミア文明がアジア文明の祖先だという割には、解説は淡白だ。メソポタミアの民が中央アジアの民、小アジアの民と交流(多くは非平和的な交流)するなかで、軍事的技術として車輪、馬の利用、銅→鉄の利用がもたらされた。さらに文字、小麦の利用が広がった。
そしてそれらを東西に広めたのが中央アジアの民の伝播力である。

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10.中央アジア諸民族

中央アジアは遊牧民族の生息地として知られています。トルコ・ウィグル系文化や言語は、セム族やヨーロッパ人から多かれ少なかれ明白に分離しています。

彼らはアジアを東西に歩き回っていました。タルタルのヨーロッパへの侵入も、遊牧民の移動の可能性を示しています。

カスピ海の北部に住む部族は、絶え間ない自然の脅威のなかで暮らしており、彼らの側の移動運動は、古代史の最も確かな事実の1つです。

*メソポタミアと同様多民族が時代を織りなしている。Y染色体ハプロで言えばG系人、N系人、R系人が過去から絶えることなく中央アジアを起点に大陸内部を東西に移動していた。彼らには文化を創設するほどの生産力はなかったが、文明を伝達する力を持っていたし、文明間の格差が極大化した時には、それを利用して支配者となることもあった。

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 有史時代の初めから、ユーラシア大陸の東西をつなぐルートとして、海路と陸路の両方が利用されていました。

紀元前500年以前は、海路ではなく陸路が東西アジアの文化伝達に使われていたと考えるのは合理的です。

大まかに言えば、アジアの緯度40度から50度の間は、人口の移動、武装遠征、商品の隊商によって、先史時代から絶えず横断されてきたと言えます。

このあとモンゴル人につての記載は省略




あるブログにこう書いてあった。
ところでサヴァリッシュはその後1989年から91年にかけて「ロンドン・フィル」とも全集録音(EMI)を行っているが筆者はどちらかと言えばこの素朴な「ウィーン響」との旧全集に親しみを感じている。
これはフォンタナで出していたサヴァリッシュのブラームス全集に対する評価である。
自宅で一人きりで日本酒を2合ほど飲んだところ。BGMでシューベルトの「グレート」をかけている。
流石にムラムラと来た。

これは素朴な録音ではなく無惨な録音である。

フィリップスという会社が二枚舌で、その1枚でサヴァリッシュとウィーン交響楽団をなめきって、もう1枚で我らごとき貧乏学生をなめきっているという、悪夢のようなレコードだ。

たしかに1時間を超える長時間演奏をLP1枚に収めるのはもともと無理な話だ。それを1200円で売るのだからありがたい話ではある。
しかし聞こえてくるのは「へ」みたいな音ばかり。500円はたいてナガオカのサファイア針を買ってきたが音は一向に変わりばえしない。音が良くなると聞いてスプレーを買ってきて滴り落ちるほどにふりかけたが一向に変わらず、最後は石鹸をつけてスポンジで洗ったりしたが、多分悪くなっただけだろう。
当時の純朴な私は我が耳の悪さを嘆いて終わったのだが、今では分かった。駅前通りのおしるこ屋のおしるこが嫌な甘みがして、駅のトイレで吐いたときの思い出、サッカリンの毒だ。

その思いでをシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏で洗い流している。サヴァリッシュさん、ごめんなさい。

馬と車輪の年表

面倒なのでまとめて表示する。
* 「面倒」でやったことなのだが意外な発見があった。まず、車輪というのはそれだけでは意味のない道具で、まずは「動力」があって、それがどういう動力なのかによって意味合いがまったく変わってくるということだ。実は車輪の技術というのは、ローマ帝国以来、産業革命までずっと凍ったままだった。それが蒸気機関が発達しさらにガソリン機関が発展するに連れ、急速にイノベーションが進んだ。つまり車輪というのは、工学的発想から言えば一種の歯車なのだ。
* もう一つ、これは発見というよりたんなる感想なのだが、車輪の発明はコロの応用ではないのだ。コロの発想からは絶対に車輪の発想は連想されない。車輪の原理の核は車輪ではなく軸受にある。回転するときの摩擦抵抗をどう受け流すかが、技術の肝だ。
おそらくはロクロ回しが発想のきっかけだろうと思う。ロクロの真ん中をドーナッツにして芯棒を通せばそれで一輪車だ。ただしこの発想を実用に変えるには資材の強度が問題になる。それができたところから順に手あげ方式で、各地に車輪が生まれたのではないかと思う。
* 面白かったのは車両という運搬システムが一旦廃れたということだ。その理由が乗馬技術(というより技能と呼ぶべきだろうが)の発達だというのだ。これについては項を改める。


紀元前5千年ころ シュメール(ウバイド期)で最古の車輪が発明される。元々はロクロが発展したもの。

車輪の起源はコロ→+軸受説と、回転体→連結・横置き説がある。気持ちはコロ説だが、技術的にはロクロ説に傾く。工学的にはコロから車輪の発想は生まれない。「繋留コロ」にはまり込むともうアウトだ。

紀元前4000年ごろ 馬が家畜化される。手綱をウマの口でとめるハミが実用化。(牛はすでに紀元前8000年ごろ)

紀元前3700年ごろ カフカース(コーカサス)で荷車などが使われていた痕跡。

紀元前3500年ごろ ポーランド南部で出土した陶器に車輪のある乗り物が描かれる。 

紀元前3千年紀 車輪がインダス文明にまで到達する。

紀元前2000年ごろ カフカース地方でスポークを使った車輪が発明される。車輪が軽量化したことにより、馬車を戦車(チャリオット)として利用可能に。

最初はコロに使う丸太を輪切りにした。その後、板を円板型に貼り合わせたものに発展。

紀元前1700年ごろ アジア系のヒクソス人が馬に引かせた荷車(戦車)でエジプトに攻め込み蹂躙。おそらく小アジアのヒッタイト。

紀元前1600年頃 殷王朝の王墓から戦車が発掘される。車両は馬4頭だてで、車輪はスポークを用いたものであった。

甲骨文字に「車」「軍」という字の原型が見られ、軍は車(戦車)と囲いを示す。

紀元前1200年ごろ 中国で車輪を使った戦車が存在していた。

紀元前1千年紀 ケルト人が戦車の車輪の外側に鉄を巻きつける発明。

紀元前1000年ごろ 中央アジアでウマに直接に騎乗する技術が開発される。これにより騎馬・遊牧という生活形態が、著しく効率化。

紀元前8世紀 アッシリアが弓騎兵を活用して世界帝国に発展する。

紀元前3世紀 秦の始皇帝、戦車を駆使して全土を統一。

以上のごとく車輪発明のギネス争いは、「われこそ一番!」の名乗り争いが続いている。

出土された地域が点在しており、同じ時期に世界各地で考案されたと考えられる。

本家争いは実はどうでも良いので、馬と組み合わせた戦闘技術の柱の一つとして確立されたことに最大の意味がある。

軍事目的の実用が始まったのは紀元前2千年ころ、スポーク付き車輪が発明された頃であろう。

鉄・車輪・馬の三拍子が揃うのも、ほぼこの頃であろう。車輪は戦闘というよりロジスティックスだったのではないか。


古代の戦車httpswww.napac.jpcmsimagespublishchap01.pdf
             古代の戦車

というのも、ベン・ハーのようなチャリオットが戦闘の主役になる日はついに来なかったからである。

一頭の馬を戦闘に使いこなすにはそれに騎乗して戦うのが一番効率的だ。その技術というか技能が確立されたのが紀元前1000年ごろというから、それで古代世界は完成というか終わりだ。

あとはマケドニア帝国からローマ帝国となだれ込み、その後1千年の安定と停滞が訪れる。

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6.日本における民族の交代

古墳で銅製のヤジリが出土することがあります。発見された銅製の矢じりは銅鉾の形に似ています。ヤマト墓の青銅製の矢先は青銅文化の生き残りと思われます。

鉄の剣の導入により、青銅のような弱い金属は淘汰されました。突いたり切ったりするためには弱すぎるからです。しかしヤジリであれば、加工が容易であることは利点となります。だから鉄の導入後も使われ続けました。

青銅は武器や道具としては不向きですが、死者への供物としては用い続けられました。それには理由があります。

ドルメンで石の剣が出土するのは、古墳で青銅のヤジリが出土するのと類似しています。ドルメンの主たちの祖先には、石の剣を振り回した祖先がいたことを暗示しています。ヤマトの古墳から石の剣が欠如しているわけは、ヤマトの先祖が石の剣を使っていなかったからです。

それではヤマトの古墳からどうして銅剣が出てこないか。それはヤマトがやってきたときにはドルメンが(すでに)限られた地域にしか流布していなかったからです。

ドルメン人が鉄製武器の文化より後着したというのはありえない話です。

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青銅の担い手がヤマトの同盟者として日本に来た可能性はあります。しかしそれなら、青銅と鉄の剣が古墳(時代の墓)から見つかるでしょう。

まさに問題は、青銅文化から鉄の文化への連続的進化があったのかどうかということです。この問題は簡単に解決されません。

タイラーらが指摘したように、「文明化は、もともとの住民による自発的な成果ではなく、外国によって生成される傾向がある」のです。

文明は、内発的に発展する場合もあります。しかし劇的発展は移入によってもたらされることのほうが遥かに多いのです。

文化が継続的に発展した可能性を示すいくつかの証拠もありますが、それは包括的なものではありません。

圧倒的な量の遺物が示すのは、ヤマト時代の遺物が大陸から輸入されたものであり、それが日本人の新たな文明を形成したということです。

* つまりマンローは一種の「騎馬民族説」を唱えているのだ。大陸から鉄製の武器で武装した集団が来襲し、石器集団(部分的に青銅化)を支配する。それが大和政権で、ヤマト種族と弥生人との間には明らかに隔絶がある。

当面、確実な結論としては、日本のいくつかの地方で、アジア本土からの新文化の移入によって補強された進歩があったと仮定することです。


7.鉄はいつ、どこから、どのようにやってきたのか

青銅器と鉄器の文化がどこから始まったか、それらを日本に持ち込んだ軍兵がどこからやってきたのか(なぜならそれらの金属器はまず何よりも兵器であったから)、それらの兵器が大陸のどこから、どのルートでやってきたのか。

この大問題は、まだ明確に解決できていません。 これらの重要な問題は、しかしながら、いくつかの検討課題をかかえています。私はそれらの条件の短い要約を与えることを提案します。

ここで、アジア全体の状況をみたうえで、私はヤマト侵攻の時期について考えてみたいと思います。

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ここで説明されている「ヤマト」という言葉は、「ヤマトの国」から取られました。現在の奈良県です。中国の記録では、紀元1世紀以降の古代日本の主権者として記載されています(邪馬台国)

 日本の歴史家や考古学者は、ヤマトを政治的実体としてではなく、「種族」として語っています。それは先住民とは対照的にミカドの国を建国した人々の美称なのです。

 ヤマトという用語は、8世紀初頭の歴史的な時代(奈良時代)まで引き伸ばして使われることががあります。

ヤマト文化の流入は紀元前1000年から500年の間に始まったと考えられます。それは世界史に見るならば、アジア西部(中東)に起きた鉄器文明が、偏西風のように中国・韓国へ流れ、進歩をもたらした歴史です。







以下は、マンロー「先史時代の日本」序説(Preamble)の要約です。北海道立図書館にある原本を底にしています。ただしアメリカの図書館のサイトでは、写真判(PDF)のほかになんとテキスト版で閲覧・ダウンロードできます。

冒頭、マンローはこの本の性格についてこう書いています。

The following work is an attempt to give the European reader some idea of Prehistoric Japan.
A longer preparation would have been desirable but circumstances did not counsel delay.
The result is a sketch rather than a complete picture but it is a faithful sketch so far as it goes.

序説だけでも33ページあり、率直に言って文体は古風、学術論文にしては冗長です。古今東西の固有名詞がならび専門用語も多く、グーグル翻訳は歯が立ちません。

いかにマンローが悪文(主観的には美文?)かを味わっていただきたい。
It is not impossible that this metal, which is less common than iron as a material for arrow-heads, though less liable to disappear through decay, was in special vogue as an appropriate offering to the dead.

文章構成はハチャメチャで、見出しなど一つもありません(見出しは勝手につけたもの)。そして突如として終わるのです。

それにも関わらず翻訳作業をやりきったのは、やはり中身の面白さです。手垢のついた先史時代の日本論とはまったく異なる、世界史的、人類学的パースペクティブが繰り広げられるのは一種の快感です。

“Prehistoric Japan”は先史時代と訳しました。歴史に先立つ時代という意味です。それに対して石器時代(縄文時代をふくむ)は原始(Protohistoric)時代としました。 

誤訳もあろうかと思いますので、変なところは原文に直接あたってください。

私なりの解説は、1ポイント字を小さくして、要約のあいだに挿入していきます。




先史時代の日本 序説

1.日本列島の自然地理

日本列島は東アジアの海岸に沿って、3連の花綵(かさい)のように連なっています。

中央の花綵は、南の九州と四国から北のエゾ・サハリンへと繋がります。この中央曲線と向き合うユーラシア本土は反対側に後退し、日本海を形成しています。

*この中央弧は、今日ではユーラシア大陸東縁の太平洋側へのかい離と考えられている。これに対し千島列島、琉球列島は本来の花綵列島である。マンローの時代はプレート・テクトニクスの考えは生まれていなかった。

中央弧の西端は朝鮮半島に接近し、朝鮮海峡を形成しています。さらに海峡の途中に両方をつなぐように対馬、壱岐などの島が連なっており、晴れた日にはお互いの島影全体が見えます。

日本の北端にあるサハリン島は、エゾとシベリアの間に架かっています。

このように、大陸と日本列島の間の海は、たとえ原始人類であっても行き帰りにほとんど障害を与えませんでした。

北側の花綵曲線は千島列島によって形成され、カムチャッカ半島に到達します。それはオホーツク海の東の境界を示します。

南側の花綵曲線は、台湾(フォルモサ)と接近する琉球諸島で構成され、東シナ海の境界を形成します。フィリピンとも敷石上につながるこの経路を用いれば、マレーシアやポリネシアまでもコミュニケーションが可能でした。

 この北上ルートに沿って、黒潮の流れに支えられて、現在でも区別が可能な2つの人類が先史時代に日本に到達したという強い推測があります。

* 港川人(1967年発見)などは南方由来と考えられるが、縄文以降は台湾と琉球の間は人的交流は見られず。南方からの進出は見られない。遺伝子研究にっよれば、先島諸島までふくめすべて縄文人と考えられる。


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2.日本の原始時代

日本ほど古代文化の名残が豊富な国はほとんどありません。

大陸や朝鮮半島との地理関係は、日本をさまざまな民族的要素と文化の自然な合流点に指定しました。他の地方との間隔は移住の決定的障害とはなりませんでしたが、移住しやすさにはかなりの影響がありました。

* 最初は4万年前、朝鮮からナウマンゾウを追って渡海してきた人々。ついで2万5千年前、最終氷河期の極期に間宮海峡・宗谷海峡からマンモスを追って南下してきた人々がいる。マンモスは青函海峡を渡らなかったがマンモス人は渡り、本州から沖縄まで全国に広がった。彼らがやがて縄文人となる。

言語など伝達情報や手段は明確な区別があります。それは住民に選択的な影響を及ぼします。

先史時代の古代日本にもそれは言えます。初期の文化の類型を簡単な概要で比較しておくことは、後の日本の文明を考えるうえで有用でしょう。

先史時代の考古学は、日本に2つの異なる文化が存在することを明らかにしています。さらに3番目の文化の痕跡も存在しています。ここではそれにも触れておきます。

最初の文化は原始時代(Primitive Ages)の文化です。土に埋め込まれた多くの遺物(貝塚)が残されています。もう一つの文化は、特定の権力者のために構築され、後に発掘された墓室や洞窟(古墳)です。そしてそこから発見される遺物です。後者が土壌から掘り出されることもありますが、それは例外的なことです。

古墳と関連する遺物は先史時代の文化です。それ自体が時間的、空間的に限定された存在です。このため、ある特定の時代の陶器が後の時代の墳墓に副葬する場合を除いて、評価に混乱は起こりません。

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3.縄文文化(貝塚と生活用具)

* マンローの時代、日本の原始時代における無土器文化は実証されず、原始時代(石器時代)は縄文文化から始まると考えられていた。それは九州南部で1万1千年前、東北で1万年前から始まる。

貝塚の文化は原始的な文化です。それは4,000を超える住居と貝殻(廃棄物)を考古学的特徴とするユニットです。金属製品は皆無です。

天然石の存在が特徴で、磨かれ、細かく削りだされたり、荒く削りとられた道具や石器、様々な用途に使用されている天然石の存在が特徴です。

副次的生活道具である土器は、すべての時代や場所について常に存在しています。

* マンローは、縄文式土器の存在は彼らが石器人であることを否定はしない、と考えている。肝心なのは生活用具ではなく生産用具、さらには軍事用具である。

陶器は素焼きです、通常は粗い質感であり、石器や磁器などの固さを備えているわけではありません。この時代ではろくろは使われません。

 それは一般に華美(ornate)で、過剰な装飾が施され、時には非常に手が込んだものである。貝殻と骨の加工品は装飾品である。通常は住居跡で発見されます。

「原始的」という言葉は古い(Ancient)というだけではなく、「始原的」(Prototype)という前向きな意味合いを持っています。

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未開人の特徴は、石器を使用する文化です。これ(縄文時代)を石器時代と呼ぶことは適切です。

燃料以外の木材の使用は、過去3000年までさかのぼります。ひょっとすると木材は、原始人の生活において、文化尺度としての優先権を、加工された石よりも強く主張するかもしれません。

しかし進歩の共通の尺度として、石器は間違いのないものです。そして日本の原始文化を、ヤマト文化と区別する指標となります。


4. ヤマト時代の遺物

ヤマトの遺物には石の武器はありません。ヤマトの墓では、鞘包丁や刀の石の模造品、時には青銅製の矢じりを石で模した複製品が見られます。それは生産用具ではありません。実用というには小さいサイズです。

磨かれた石による不可解な目的の道具、調理器具の小さなモデルが存在します。これらは原始的な文化を意味するものではありません。副葬するにはもったいないというだけの話です。

それらは「石器時代」を意味するものではありません。

 ヤマトにとって「石器時代」は事実上過去のものでした。

ヤマトの墓には青銅の矢じり、銅鐸、銅鏡などがいくつか見られますが、主要な銅の役割は金や銀メッキの土台などでした。

しかし、このヤマト文化の主な特徴は金でも銀でもどうでもなく、鉄でした。長い直線の剣、馬具と他の家具は丁寧に仕上げられ、鋲留めされています。

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陶器は非常に硬質です。 部分的な例外を除いて、すべてろくろで成形されています。 装飾はシンプルで控えめです。

 墓から得られた陶器はおそらく葬式や儀式用に特別に制作されたものです。 この陶器の落ち着いた色合いと装飾、および他の陶器とは異なる仕上げの様式がそのことを示唆しています。


5.支石墓と青銅器時代

ヤマト時代は原史時代(Protohistoric)と呼ばれていますが、日本のドルメン文化が終わったのが、文字で表わされた「歴史」の登場する400年ほど前のことなので、それらを先史時代(Prehistoric)と呼ぶのが正確です。

* ここでマンローの独特な歴史区分に言及して置かなければならない。マンローは日本の人類史を、石器時代と鉄器時代に分ける。これが基本だ。
ついで、石器時代と鉄器時代の間に青銅器を念頭に置いた移行期を設定する。これを支石墓時代(ドルメン期)と呼ぶ。さらに鉄器時代が始まってから文字による歴史の時代に至る期間を、ヤマト時代(先史期)と呼ぶ。
ややこしいことに、マンローはこれを後期支石墓時代と呼ぶこともある。その際は前方後円墳も支石墓とみなされるわけだ。
これにより先史時代は4つの時代・時期に分けられる。
すなわち、
1.石器時代 通常区分では旧石器+縄文が相当する
2.支石墓時代 通常区分では弥生時代に相当する
3.ヤマト時代 通常区分では古墳時代に相当する
4.有史時代 通常区分では奈良時代及びその後現在に至る時代。
ということで、実際上は通念上の区分とあまり変わらないのだが、特徴づけ方が相当変わっている。

6世紀から7世紀の出来事(飛鳥時代)は、8世紀の日本書紀・古事記に書かれた資料があります。しかしそれは日本の長いドルメン期のごく一部に過ぎません。

 葬儀の風習も墓の内容に一定の特徴を与えていますが、初期のドルメンと後のドルメンの内容に大きな違いはありません。

*後期ドルメンは前方後円墳が終わっても続くことになる。これは「プレ記紀時代」の定義であって、ドルメン期の定義ではない。このドルメン観には最後まで悩まされることになる。

 「先史時代」という表現は文章におる歴史の誕生以前、数万年前からの相対的または地域的な意味しか持っていないことは明らかです。

支石墓文化を別な面から眺めれば、石器時代と鉄器時代の間、すなわち青銅器時代ということも可能です。青銅器文化が石と鉄の時代の間に日本の南西部に限定して存在したといういくつかの事実があります。

* これも牽強付会の説である。九州西部に限局しているのはまさに日本型支石墓であり、青銅器は当時弥生人の生活圏すべてで発見されている。

 剣、甲羅、矢じりなどの青銅製の武器は、九州の土壌と内海に面するいくつかの州で発見されています。銅鐸はヤマト周辺とその東方で報告されています。

これらはヤマトの古墳には見られず、石器時代の遺跡にもありません。青銅器が唯一発見されるのが支石墓であり、それはヤマトとは異なる文化に属しているかのように見えます。

支石墓には金属器の代わりにそれを模倣した石器がしばしば見つかります。それは石器時代の人たちが金属器と接触しなかったことを示しているわけではありません。



8月6日 北海道新聞にこのような記事が掲載された。
私の名前も紹介されているので、転載させていただく。

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続き

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堀川さんからは御丁寧なご質問を受け、答えさせていただいた。
しかし何分にも30数年前の調査なので、記憶は不鮮明で、ご期待には添えなかった。
忸怩たる思いである。
ただあの頃は未だ話題にもならなかった、原爆被災者における内部被曝の問題を、おぼろげながらに指摘できたのではないかと密かに考えている。

前期記事 「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」
の冒頭講演 「支石墓に見る日韓交流」を抜粋紹介する。

演者は埼玉大学准教授の中村大介さん

1.支石墓とは

日本では弥生文化の開始期に北部九州で突然出現する。ゆえに弥生文化を考える際にきわめて重要なマターである。

2.支石墓の種類

ドサッとコピペする。東アジアだけでも色々な言い方があるということだ。

支石墓の種類

3.東北アジアの支石墓の源流

遼東半島源流説が主流となっている。石棚墓の源流が長江流域だとする主張があるが、明確な根拠はない。

遼東半島では支石墓に先立ち積石墓の例があり、この墓式の流れと考えられる。

支石墓の開始は紀元前15世紀ころ。紀元前6世紀に一気に拡散したと考えられる。

4.朝鮮半島の支石墓

半島南部では一次葬が主要であり、墓は個人用のものと考えられる。したがって形態は類似していても葬制は異なっている。

南部支石墓は2つの亜型に分かれる一つは浅い湖南式、もう一つは深い嶺南式である。

紀元前2世紀にはすでに衰退が始まった。これは鉄器の流入と符節を合わせている。

5.日本列島の支石墓

分布地は島原、糸島、唐津、佐賀に偏在している。この内、糸島が嶺南式でほかは湖南式である。。

6.支石墓に葬られた人

嶺南の支石墓では弥生人に近い半島住民が確認されている。

糸島・唐津の支石墓で発掘された人骨は縄文晩期人の形質的特徴を持つ人骨が確認されている。


ネット上で、支石墓に関する論説は少ないが、下記の記事が参考になる。
平成26年度 東アジア国際ミニシンポ「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」記録
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。

紀元前1500年頃 遼東半島付近で支石墓が発生。テーブル状形態を示す。

その後 テーブル型支石墓は中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に拡大。

縄文晩期 長崎県大野台・原山に石棚墓群が出現。浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺を伴う。(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
大野台

紀元前500年頃 朝鮮半島が無文土器時代に入る。

紀元前500年頃 支石墓が朝鮮半島のほぼ全域で造設。約4-6万基とされ、世界の支石墓の半数に相当する。分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。

ユネスコ世界遺産に指定された高敞、和順、江華の800近い支石墓群は、青銅器時代の北方式支石墓とされる。
幽里

紀元前400年頃 朝鮮半島西側の中南部と北部九州に支石の丈が低い支石墓が広がる。天井石が碁盤状を呈するため碁盤石とも呼ばれる。テーブル型との境界は全羅北道付近とされる。


紀元前400年頃 朝鮮半島からの強い影響を受け、碁盤石、蓋石墓が松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広がる。支石墓の地下には土壙(どこう)、石棺、石室、甕棺(かめかん)などが設けられる。

紀元前200年頃 弥生時代中期。墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)

紀元前後 弥生後期。支石墓内に細型銅剣が副葬されるようになる。須玖遺跡では多量の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類を出土する

紀元100年ころ 弥生時代終期 日本の支石墓が終焉を迎える。

ヒッタイトと鉄の歴史

ヒッタイト地図
              ヒッタイトの版図

紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。

紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。

紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。

紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)

最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。

紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。

紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。

中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。

紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )

紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる


西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。



とりあえずあまりかまけている暇はない。
マンローの所説を理解するための覚え書き。

1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。

2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。

3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。

4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。

少なくともマンローはそう信じているということだ。



紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前3500年 メソポタミア Mesopotamia文明が発生

紀元前3000年 農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。

紀元前2700年 シュメール人が都市文明を建設。ウル・ウルク・ラガシュなど。

紀元前25世紀 ウル第1王朝時代。大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手した。都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には神殿。

紀元前24世紀 シュメール人都市の勢力は衰え、北方のセム語系のアッカド人によって征服される。

紀元前24世紀 アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアの統一に成功する。さらにシリアや小アジアやアラビアにまで進出。

紀元前23世紀 サルゴン1世の国が東方の山岳民の侵入をうけて滅亡。

紀元前22世紀 シュメール勢力の復興。ウル第3王朝を名乗る。

その後 アムル人がメソポタミアに侵入。アムル人は「西の人」の意味。シリア砂漠に住むセム語系遊牧民。

紀元前20世紀 ウル第3王朝が滅亡する。

紀元前20世紀 印欧語系民族の一支族、中央アジアから移動を開始する。

印欧語族の強さの秘密: 馬を戦闘に使用した。オリエント世界では初めてのことであった。馬に引かせた戦車隊は機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破した。
このためオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成された。
中東BC2千年

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。

紀元前19世紀 小アジアのアナトリア高原に印欧語系のヒッタイト人が進出。

紀元前18世紀 古バビロニア王国の第6代王・ハンムラビが、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展。

ハンムラビ王の功績: 
① 運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める。
② シュメール法を継承・集大成したハンムラビ法典を制定する。「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則にもとづく。これにより領内の多民族を統一支配することが可能になる。

紀元前1680 ヒッタイト王国、古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす。

ヒッタイトはバビロニアを破壊・略奪し引き揚げる。メソポタミア南部には印欧語族のカッシート人が入り、バビロン第3王朝を建てる。

紀元前15世紀 印欧語族フルリ人がメソポタミア北部から北シリア一帯にミタンニ王国を形成。

紀元前1430 ヒッタイト新王国が成立。

紀元前1330 ヒッタイト新王国、ミタンニを制圧する。

紀元前1274 ヒッタイト王国、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争う。カデシュの戦いで引き分けとなり講和条約を締結。

紀元前13世紀末 東地中海全域を巻き込んだ民族大移動。バルカン方面から大量の民族が侵入する。(海の民の襲来)

紀元前1180 ヒッタイト王国が滅びる。民族大移動が原因とされる。ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及する。

紀元前7世紀 アッシリア、鉄製の武器と騎馬戦術によにより全オリエントの統一に成功。

まもなく新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分裂。

紀元前525年 メディア王国の流れをくむアケメネス朝がオリエントを統一

藤崎一郎元駐米大使 「米中関係を打開するために」
(9月2日 朱健栄のセミナーでの発言)

米中の力の差は社会理念の差

いまの米中関係は 2 大大国とまでいわれる関係では全然ないのではないか。軍事的にも経済的にも、そして何よりも理念ということです。

経済だけは大きくなってきたが、その前提はそんなにしっかりしたものではない。
社会も、一党独裁ですべてを決めるという立憲的な脆弱性がまだ残っています。


トランプと習近平

トランプさんがあまりにも乱暴なので、習近平は一時期、自分が世界貿易のチャンピオンであると印象づけるのに成功した。それがたとえばダボスでの習近平主席のスピーチのように主張された。

しかし中国はコロナで間違いをしてしまった。武漢の感染が一段落した後、マスク外交で感謝を強要したり、いわゆる「戦狼」外交が強まった。

その印象があまりにも強かったから、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、インドとの関係などすべて悪くしてしまった。

これが中国の現状だろうと思います。


米大統領選挙を見据えて

まず注目すべきなのが、8 月 6 日の王毅外相の新華社とのインタビューです。ここで王毅は対米 4 原則を打ち出した。対立回避、対話継続、デカップリングせず、ゼロサムゲーム(真剣勝負)はしないというものです。(デカップリングせずの意味は不明)

これに対応してバイデンと民主党は、だいぶトランプとは異なる政策を打ち出しています。

メディアを始め多くの識者(とくに日本国内)はこの点を読み違えています。バイデンの目指すのは強硬化ではなく原則化です。国益ではなく国際的なルールなのです

バイデンは対中で毅然とした態度を取るという立場を出しつつも、「自滅的で一方的な関税戦争はしない」ことを明らかにしています。

なぜなら、その戦略は中国の軍事姿勢を誇大化させ、その反映として米国の軍事肥大を招き、結局は米国の労働者をいためてしまうからです。


事態は中国の受け止めにかかっている

バイデンが勝利することを前提にすれば、アメリカは中国に「原則」をもとめてくる。

原則とは人権と民主主義です。彼らは最初の一年目に「民主サミット」をやるといっている。

そのときに中国がどういう対応をするのか、香港、WHO、台湾問題、ウイグル問題が注目される。あるいは南シナ海、東シナ海でもそうです。

しっかりやらないと、最初の一年目で相当イメージがかわるかもしれません。

その意味でこの前の王毅国務委員の新華社インタビューを大変関心をもってみています。
(いっぽうで、習近平総書記は今月3日に講話を行い、敵対勢力による「5つの企て」を決して承認しないとのべた。習近平は講話で被害者意識を強く押し出し、原理主義的な方向への傾倒を印象づけている)


王毅国務委員・外相の新華社インタビューは以下で閲覧できます。
http://jp.xinhuanet.com/2020-08/07/c_139271507.htm 

感想
誰かが、AALAニュースに転載したのを要約したものである。今後、転載にあたっては転載者の氏名と転載理由を記載していただきたいと思う。
とは言いつつ、なかなか面白い見解ではある。
ただ、立場上言及はできないだろうが、習近平の立場についても理解が必要だろうと思う。
習近平は中国共産党の維持をまっさきに考えるほどケチな男ではないと思う。ただ文革中に泥水も飲んできた人間として、「中間管理層の腐敗とそれを生み出す社会システムは我慢ができない」ということは分かる。そして、ここからが論理が屈曲するのだが、紅衛兵の造反に依拠するのはさらなる愚挙だということも理解する。
となれば、腐敗分子の粛清を思い切ってやるには軍部の力を借りるほかないということだ。
これは実は、多くの「民主政府」がたどる道でもある。民衆の力によって政権についた政府が、その地位を守るために軍部と手を結び、軍の力で強引に困難を乗り切っていくという例は枚挙に暇ない。
棺を覆って初めてその真価が問われることになるのかもしれない。
ただ軍部(人民解放軍)がはしゃぎすぎていることは間違いないので、その動きには厳しい目を注がなければならない。さらに周恩来ー楊潔篪ー王毅の外務担当者の動向にも注意を向け続けなければならないであろう。

マンローは縄文・弥生という時代区分を用いずに、先史時代の日本を描き分けています。
それは日本の先史時代をメソポタミア、アジア北部回廊、中国古代王朝、朝鮮半島と一貫した変化として捉えるために非常に重要な視点を提供しています。
そしてこの世代交代の重要な指標として「ドルメン文化」の考えを突き出しています。しかしながらこの考えはうまくなかったと思います。理由は西欧のドルメンとインドのドルメン、遼河文明、朝鮮の北方式と南方式はそれぞれが起原も発送も異なっているからです。少なくとも朝鮮の北方式と南方式は分けて考えるべきでしょう。

ただマンローがとくに朝鮮半島の南方式(支石墓)を重視したのは大事なポイントです。
マンローは支石墓文化の世界的な共通点として、青銅器時代=鉄器時代の前夜という歴史段階を考えました。それは石器時代と鉄器時代という人類史の二段階の短い移行期であり、とりわけ東アジアでは短縮され、一つの時代としては認識し得ないほど短い場合もあるが、必ず通らなければならないステップだとかんがえたようです。

そしてその考古学的特徴を列挙し、これを先史時代と歴史時代の分岐点として、日本の歴史を考えるよう進めました。
ともすれば陶器の文化、木の文化、稲の文化に目を奪われがちな我々にとって、この世界史的な視点はぜひとも心すべきことです。

この教えは引き継ぐべきではないでしょうか。

ドルメン同根論は破綻したが

ドルメン同根論は間違いなく破産している。マンローは破産したドルメン論にしがみつくことにより、考古学・人類学の主流から外れてしまった。

しかし同根論の根っこにある北方系人種の横移動の歴史は、必ずしも廃棄されたわけではない。

Yハプロ学説が人類学を席巻する20年前までは、HLA、T細胞白血病、HB抗原など多くの研究で、東アジア人の原基は北方を指していたのだ。

さらに、麦、金属器の渡来は中央アジアからの北方ルートを経由したと考えるのが素直である。


中央アジア系人種の横移動

ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

ドルメンの議論を聞いて初めて知ったのは、西ヨーロッパに先住していたのが非印欧系のハプログループG2aだということであり、彼らの時代は紀元前5000年に始まり3000年まで続いたということである。

ハプロGグループは9,500-30,000年前にコーカサスで誕生した。紀元前5000年に一部がヨーロッパに移動した。当初より農耕技術を持っていた可能性がある。

紀元前3000年ころにはハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に駆逐され、混血することなくほぼ絶滅した。これをもってドルメンの時代も終焉を迎えた。

ハプログループG2aは現在もジョージアを中心にコーカサス地方に分布している。彼らの中央アジアにおける生息域は、現在のトルコ・ウィグル系人種のそれと重なっている。

もう一つの北方系ハプロ集団 N系人

おそらくマンローが混同しているのがハプロN人である。

ハプロN人は、20,000年前~25,000年前に、中央アジアでハプロO人と分岐した。シルクロードを経由し東アジアに達したと見られる。

一部は西方向に横移動しフィンランド人の祖先となっている。

N型人は確実な遼河文明の担い手である。古代中国文明の最初期に属する周王朝が、N系人による国家とする主張もある。私は与しないが。

N型が中央アジアから東進するに際して、先住者であるG型人の風習・伝統を身に着けた可能性があるが、人種として直接の血の繋がりはない。

強いて言えばG型人はコーカサス人であり、N型人はアフガンないしタジク人である。

N型人の過剰な強調には要注意

最近N型人の歴史的意義の強調が目立つ。中には通説の書き換えを迫るような提起もある。

注意しなければならないのは、O型人との関係を見誤らないようにすることだ。

最近の考古学的知見によれば、遼河文明のうち夏家店文化の上・下層の境界、すなわち紀元前1500年頃に遼河文明の担い手がN型人からO2人に交代したようである。

遼河文明の人種的交代が紀元前1500年頃とすれば、紀元前1000年ころに始まる黄河流域の周王朝がそれを遡ることはありえず、遼河文明研究者による引っ張り過ぎだろうと思う。

N型人とO型人はどこで分化したか

ウィキの流れ図では、イルクーツク近辺でNとOが分化したことになっているが、今日の通説としてはOはインド経由でインドシナから華南へと進出したことになっている。亜型(C1,C2)への分化のパターンもそちらのほうが説明しやすい。

ウィキによるNOの流れ図


それに華北~東北地方におけるN型人の現代の分布を見ても、明らかに南から北上したO2人がN系人を駆逐し、周辺部へと追いやっていることが明らかだ。

したがってNO人はイラン~アフガンあたりで分離し、O型は南ルート、N型は北方ルートで東アジアに入ったとするのが考えやすい。

N型人は交易民だった可能性がある

N型人はたんに進出し、征服し、支配する民族ではなかったのではないか。

かなり頻繁に東西方向への移動を繰り返し、西方文化を東アジアにもたらした可能性がある。

蒙古族や満州族、ツングース系は古来より土着していたC型人だが、西域回廊を支配していた夏や匈奴、突厥などはN型人だった可能性がある。

北方ルートを通じて麦栽培、青銅器、鉄器という三大文化が持ち込まれたのは、まさにN型人がルートを押さえ、華北を支配した時代と一致する。

マンローの偉大な示唆

何れにせよ、遺伝子解析などなかった20世紀初頭に、マンローが、横移動する民族、支石墓時代(青銅器)から鉄器時代の移行が民族の交代を伴った可能性、などまで念頭に置いていたことには驚くほかない。

私は素人でこれ以上の言及はできないが、学界各氏のご検討をたまわりたいと思う。

「マンローとドルメン論」に関して面白い論文を発見した。

く物の解釈>学知と精神』という表題で著者は 全成坤さんという方。肩書きは高麗大学日本研究センターのHK研究教授となっている。日本語の文章である。

この論文の主眼は、崔南善という日帝時代の考古学者を紹介するものである。
これによると崔南善は「楽浪文化は朝鮮における最古の最大のものである」とし、個々の用具や様式が個別に日本に渡ったのではなく、一塊の「文化」として渡ったと見るべきだということだ。

そしてその論文でドルメンに言及して鳥居龍蔵の研究とゴードン・マンローの見解を紹介しているのである。

申し訳ないが、そこだけ知りたいので抜書きさせてもらう。

鳥居のドルメン研究のきっかけはマンロー博士の慶応大学での講演「日本人の起源」である。
鳥居によれば、マンローは以下のようにドルメン論を提示した。

①日本にはドルメンが多い。その構造はヨーロッパ、アフリカ、インドのドルメンと同じである。またアフリカ、インド、日本にしろ、さらにヨーロッパにしろ、その原始的記念遺構の出土品はすべて閉じである。
②ドルメンを建築した人種は同ーの起源であって、日本の先史時代文化はヨーロッパからインド、さらにまた中央アジア、蒙古、朝鮮を経て入ってきた。

この論旨は「先史時代の日本」にお手も通底している。

これを見た鳥居は、以下の見解に至っている。
①その名称が示しているように、これはテープルであって、決して部屋ではない。ドルメンと古境をわけて考えるべきだ。
②マンローの「日本人は総じてヨーロッパ人と異なる民族とはみなしえない」という説に同意する。

この日欧同一民族説は、現代の私たちには到底認められるものではない。

鳥居はこの点に配慮して、ヨーロッパからの巨石文化論を受け入れ、人種の移動論を展開しつつ、日本における「異なる」古墳形態が生成されたという立場に立つのである。

しかしこれでは紛糾した議論に風を送るようなもので、なんともひどい様になってしまった。

これがゴードン・マンローの負の側面である。

支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。


斎藤文紀「東シナ海陸棚における最終氷期の海水準」 第四紀研究 1998

東シナ海における最終氷期の海水準を検討した。
koukai

この結果、5万~2万5千年前の海水準は黄海で-80±10m,東シナ海で-0±10mと推定された。
最終氷期最盛期ではさらに低く、最低位海水準は-120±10mと推定された。
現在のような海域が広がりはじめたのは第四紀に入ってからである.
氷期は寒冷と同時に結氷による乾燥気候をもたらしてた。
1万3千年以前、黄河は乾燥によって干上がっていた可能性がある。 


という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。
図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。


アクシオンの説明漫画(赤旗日曜版)

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秋本祐希さんが自作した4コマ漫画で、今回の発見の本質をかなり的確に表現していると思います。
リードでは次のように紹介されています。
イラストを使った素粒子の分かりやすい説明が評判の秋本祐希さん。自作の漫画でゼノン実験について解説しています。

 もご参照ください。ダークマターについては別途勉強します。


シャボン玉

この歌を作った野口雨情は、小樽の新聞社に勤めてたそうです。
明治41年(1908)の3月に長女が生まれたのですが、生後8日で風邪をこじらせて死んでしまったのだそうです。

歌詞が出来上がったのは、それから十数年経ってからのことだそうですが、シャボン玉というのはこの女の子のことなのだそうです。

最初に浮かんだ歌詞は一番ではなくて、二番の方だったかも知れませんね。

シャボン玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

この歌詞を鎮魂のフレーズだとすると

風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

と上を向いて歌う、密かな潔さがしみじみ感じられます。


啄木ほどではないが雨情も、伝記を読むと本を投げ飛ばしたくなるほどに醜悪な生き方だ。とくに北海道時代の貧乏暮らし、自堕落な博労もどきの生活には辟易とする。有島の「カインの末裔」を地で行っている。
よくわからないが、これが自然主義文学なのだろうか。




図書館でなんのつもりか短歌の書棚に立ち止まってしまった。
「北二十二条西七丁目」(田村元)という歌集があって、何気なしに手にとってパラパラとめくって、いったん書棚に戻しそのまま行き過ぎたのが、なぜか後ろ髪ひかれる。
結局、借り出して読む羽目になった。
奥付を見ると、77年群馬の生まれ、北大で学生生活を送ったあと、東京で就職。そのままサラリーマン生活を送っているようだ。
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表紙の色さながらに薄雪模様のさらりとした歌風だが、その範囲内で、年齢とともにしみじみ感がにじみ出てきて、味わい深いものがある。

一度通読して、今度は後ろから読んでいくと、これが意外に趣が深い。

いくつかお気に入りをあげておく

しづもれる 空気がありて
昭和へと つながってゐる
乾物売り場

鎌倉で 飲もうよと
妻にメールして
「了解」とのみ 返信を受く

行ったことがないのに
とても懐かしい
友がふるさとと 呼んでゐる町

旧姓を
木の芽の中に置いて来て
きみは小さくうなづいてゐた

春の雨 われを包んで
われをややはみ出しそうなものを
ゆるして

たむらくん
根暗だよねといふことば
轍のように思ひ出します

こんなにも 冬の日差しが明るくて
寂しさの底に
ふるさとはあり

われのみが 「少し太った」
それ以外
変はらぬままの同期三人

この街のどこか
まばらに梅の咲く
登り詰めたき坂道がある

「あってはならない」こと
あまたある世の中に
酒があってもよくて良かった

帰り来て靴を脱ぐとき
ドアノブに立て掛けておく
ななめな気持ち

「上げない」ことにした案件が
消しゴムの角で
小さく丸まってをり

雨を見て 雨の向かうの東京は
見て見ぬふりをして
シャツを取り込む

彼が下宿したのが北22西7で、私はその30年前に北20西6に下宿していた。

そして彼は学問と彼女に未練を残しつつ、「平地に糧を得るもの」となった。
一時はかなり鬱々とした時を過ごしたらしいが、伴侶を得て穏やかさがめぐってきたようだ。

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