鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年09月

人気記事にランクインした。
あらためて読んでみる。
我ながら、なかなか良い。

しかしY-ハプロの話に入って行くと、今の私の考えとは違う点に気づいた。それはマンローの論文「先史時代の日本」に導かれたものだ。マンローの論文はY染色体などまったくなかった時代に書かれているが、文化の移動と文明の移植を見事に説明している。


1.ハプロN人が文明のメッセンジャー

小麦、馬、青銅器、そして鉄を持ち込んだのは。YハプロC人ではなかった。
それはN人だった。N人は多分1万年くらい前に中央アジアでO人と分離し、北方の草原を西へ、あるいは東へと遊牧するようになった。
西に行ったものはG人を西に押しやった。G人はドルメン文化を形成した人々で、有名なアイスマンもその一人である。
東に行ったものは、ゴビ砂漠を越えて華北一帯に流れ込み、遼河文明を形成した。紀元前3千年ころのことと思われる。


2.東アジアにおける最初の人類=C人はどのように拡散したか

東アジアに先住していたのはC人である。C人は6万年前にインドを経由して東南アジアに進出した。そしてアジア全域に散らばった。

ナウマンゾウを追って日本に到達したのはC1系で、4万年前のことだった。モンゴルからシベリアまで広がっていったのはC2系だった。

D人の経路は不明だが中央アジアから直接、あるいはインドを経由してチベットから中国の西域に達し最終的にはサハリンから日本に達した。途中の経路にはかろうじて痕跡が残されているが、経路を追うほどの密度では存在しない。

C人、D人は現在辺縁的に残存する程度である。


3.C人を追い出したO人とN人

これに対し現在の主流を形成するのは、O人とN人である。

O人はインドシナの山間部を経由して中国南部に入った。そして長江流域に米作の文明を築いた。このとき先住していたC人は南方に押しやられた。

N人は、おそらくそれより少し遅れて陸の東西回路を東進し、C人先住民を北に追いやった。

これが可能だったのは9千ないし7千年前にかけて温暖化が進行し、これに伴い海進と湿潤化も進み、陸の東西回路、いわゆるシルクロードの利用が容易になったためではないか。

N人が構築した河北~南満文化は、不明の理由で衰退していく。これに対し長江まで前進したO人の一派であるO2系が北進し、N人を追いやった。

長江から北に進出したO2系は、N人がもたらした西方文明を受容した。その力で南進。青銅器文化にとどまっていた長江文明(O1系)を制圧し、影響力を華中・華南にまで及ぼすこととなった。


4.中央アジアの遊牧民が東西文明の伝達者

結局、変更点はN系人の進出を挿入したところにある。N系人というのはおそらく匈奴ではなかったか。そして匈奴のあと中国の北部と西部を支配した突厥もそうではなかったか、とおもう。Yハプロがもし違っていても、そのたぐいの民ということで説明できるのではないだろうか。

これがマンローから学んだことをふくめ、達した結論である。(まだまだ変わっていく可能性はあるが)

これは考えようによっては現在の漢民族に対する先住民としてウィグル人を位置づけることにもなる。
習近平政府にとっては、あまり気持ちの良い議論にならないかもしれない。

真田十勇士というのはなんで覚えたのだろうか、どうも記憶がはっきりしない。
ふと三好青海入道というのが口の端に浮かんできた。まぁ猿飛佐助だが、あとはかろうじて霧隠才蔵、それに三好清海入道にはたしか弟がいたよな、というあたりで記憶はぷつっと切れる。
たぶん東映映画で憶えたんではないかと思うのだが、どうもそんな映画を見た記憶がない。これが里見八犬伝だと、なんか天守閣の屋根で錦之助と千代の介が見えを張っている場面が思い出される。ただしこちらの方は犬山とかいう名前がさっぱり思い出せぬ。どうも困ったものだ。
困ったときはウィキペディア。とりあえず真田十勇士をあたってみる。
十勇士の名前は猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊左入道、穴山小助、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎の10人。ただし下の方は別バージョンがあるらしい。

真田十勇士はいずれも明治になってからの講談の創作のようだ。江戸後期に真田昌幸・幸村らが徳川家に抵抗する物語が『真田三代記』として語られるようになり、その中のサイドストーリーとして十勇士らの物語が挿入されたらしい。
面白いのは、最初の頃は霧隠才蔵が主役で、猿飛はあとから挿入されたまったくのフィクションらしいということである。

最初に猿飛佐助が出てくるのは1914年(大正3年)の立川文庫『真田三勇士忍術名人猿飛佐助』からであり、その後も主役の座は安定しなかった。
「真田三勇士」というのが当初の触れ込みで、顔ぶれは由利鎌之助と霧隠という具合。霧隠は今も猿飛を凌ぐほどの人気を博している。

映画で見た記憶だが、ウィキによると『真田十勇士 忍術猿飛佐助 忍術霧隠才蔵 忍術腕くらべ』(1954年 東映)というのが該当するようだ。私としてはまったく憶えがない。
いずれにしても猿飛というキャラにまったくリアリティーがないのは確かである

まぁ、どうでも良いが…

分かった!

映画のことなど憶えていないわけだ。

私の真田十勇士の記憶は少年画報に連載された杉浦茂の「真田十勇士」という漫画が源泉だ。「オール・ザット・十勇士」というサイトに詳しく触れられている。

猿飛佐助は信州鳥居峠の麓に生まれ、山中で猿と遊び暮らしていた。忍術の大名人戸沢白雲斎に教えられ、免許皆伝となる。巻物をくわえ、手で印を結べばたちまちドロンと姿が消えるという忍術の達人。これはどうも怪傑児雷也のパクリではないか。幸村のもとで諸国探索を言い渡され、三好清海入道と珍妙な道中を繰り広げる。
霧隠才蔵は浅井長政の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児。伊賀流忍術の百々地三太夫に師事する。猿飛佐助と忍術比べで負け、弟分となり真田幸村に仕えることになる。
そうだ、そうなんだ。このときの刷り込みがもとで。甲賀は伊賀より強いという固定観念が出来上がったのだ。

俺の思想的ベースは杉浦茂だったのだ!
考えてみれば赤胴鈴之助も、途中からは武内つなよしだったけど、始まりは杉浦茂だったし、イガグリくんも杉浦茂だった(と思う)。


ウィキによると、上記のイガグリくんの記述は記憶違いでした。私は少年画報読者だったので、冒険王は従兄弟の家で読んでいたと思います。昭和28年の小学校入学なので、最初の1年は読んでなかったのかもしれません。

秋田書店の『少年少女冐險王』に1952年3月号から1954年8月号まで福井による執筆作が連載されていたが、福井が過労によって34歳の若さで急逝。有川旭一が正式に作品を引き継いで連載を続けた。

少し少年画報、冒険王、少年クラブについては記憶違いを修正しておきたいと思います。

それにしても、「手塚学」というのはすごいですね。「マンガ学」の一大分野を形成している。読んでいて嬉しいのは、私小説を書いていた小説家たちの無頼・露悪傾向に比べればはるかに健全だということです。
私の子供の頃の記憶をたどるなら、子供漫画界の座標軸を説得力をもって示していたのは馬場のぼるだろうと思います。彼らは絶えず子供を見つめて、子供の先に未来を見据えていました。同じ漫画家でも「漫画読本」で大人向けお色気漫画を書いていた連中とはまったく違います。

馬と乗馬の歴史年表

約6000年前 乱獲により激減した馬が、食料源として飼育されるようになる。

家畜化については諸説紛紛だが、役畜化の前に馬具なし家畜としての利用(食料・搾乳)の歴史はあったであろう。しかし反芻胃を持たず、筋肉質の馬は牛よりは低価値である。

紀元前3500年ころ 遊牧民が馬を役畜化。
カザフスタンで発見された馬歯遺跡にハミを利用した痕が発見。

紀元前2400年 メソポタミアで戦争に戦闘用馬車が使用される。

紀元前2000年 メソポタミアで乗馬用の馬が導入される。

紀元前1500年ころ シンタシュタ-ペトロフカ戦争で最初に乗馬兵による戦闘が行われる。

紀元前1400年ころヒッタイトのキックリによって馬術書が書かれる。5枚の粘土板に楔形文字で書かれ、馬の調教・飼養・管理につき書かれている。

紀元前1200年頃 エジプトでは青銅製のハミが使用される。

紀元前9世紀~8世紀 遊牧民スキタイが王国を建設。彼らは馬に乗りつつ遊牧し、中央アジアや現在のロシア南部・ウクライナで帝国を築き上げる。このような遊牧民は「遊牧騎馬民族」と呼ばれる。

紀元前8世紀 馬上のまま戦闘を行う方式が始まる。

紀元前 680 年 この年の古代オリンピックで、戦車競走が始まる。

紀元前400年ころ ギリシアのクセノポンが馬術書を記す。

紀元前3世紀 サルマタイ人がスキタイ王国を滅ぼす。鉄製の鐙とより高度な馬術を持っていた。その後サルマタイ人はローマ帝国の各地に馬術を広めたとされる。

3世紀 魏志倭人伝、「牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」と記す。

4世紀 古墳に馬の埴輪が副葬される。当時の牛・馬のDNA解析により半島から輸入されたものと判明。

4世紀末ころ 中国大陸より騎馬の風習が伝わる。(高句麗との戦いの最中ということになる。これは「騎馬民族」説に対する真っ向からの挑戦となる。別記事では弥生時代末期とされ、4世紀末には乗馬の習慣が広がるとの記載がある。こちらの方が妥当)

5世紀 フン族が東ヨーロッパに侵入し大帝国を築く。フン族はあぶみ付き馬具を採用し、馬上で弓を扱う。

12世紀 中国で17騎の金(満州)の使節団が北宋の歩兵2千を襲い潰走させる。

13世紀 モンゴル軍の騎馬軍団は乗馬のまま矢を放つ攻撃で世界を席巻したと言われる。

紀元前1千年ころに中央アジアの遊牧民族の間で洗練されたという記事があった。まだ確認をとっていないが、事実とすればこれは重大だ。
私は古来騎馬民族の頃から、遊牧民は馬に乗って草原を疾走しているものだとばかり思っていた。紀元前4千年に馬が家畜化されたという記載は、馬が人に乗られることを受け入れるようになったということだと思っていた。
その発想から、遊牧民の戦闘力の技術的背景として馬・車輪・鉄製武器の3点セットを考えていた。しかし、例えばアレクサンダー大王の部隊ならどうだったのか、チャリオット(一人乗り戦争馬車)であのような大国を作り上げられたであろうか。やはり卓越した乗馬技術を持つ騎兵部隊を縦横無尽に駆使して、風林火山の勢いで世界を征服していったのではないかと想像してしまう。
逆に言うとそれは、軍事組織の戦闘組織と輸送組織への分化をもたらしたのではないかと思う。戦闘は騎兵で、兵站は馬車という二大機能である。

驚くべきことだが、このような軍の機能と戦闘の形態は、第一次世界大戦の直前まで、3千年ものあいだ続いていたのである。

これまで何度となく、20世紀論を考え論及してきたが、3千年続いた戦争を有り様を根底から覆したことこそ、実は20世紀の最大の特徴だったのではないだろうか。


あるブログにこう書いてあった。
ところでサヴァリッシュはその後1989年から91年にかけて「ロンドン・フィル」とも全集録音(EMI)を行っているが筆者はどちらかと言えばこの素朴な「ウィーン響」との旧全集に親しみを感じている。
これはフォンタナで出していたサヴァリッシュのブラームス全集に対する評価である。
自宅で一人きりで日本酒を2合ほど飲んだところ。BGMでシューベルトの「グレート」をかけている。
流石にムラムラと来た。

これは素朴な録音ではなく無惨な録音である。

フィリップスという会社が二枚舌で、その1枚でサヴァリッシュとウィーン交響楽団をなめきって、もう1枚で我らごとき貧乏学生をなめきっているという、悪夢のようなレコードだ。

たしかに1時間を超える長時間演奏をLP1枚に収めるのはもともと無理な話だ。それを1200円で売るのだからありがたい話ではある。
しかし聞こえてくるのは「へ」みたいな音ばかり。500円はたいてナガオカのサファイア針を買ってきたが音は一向に変わりばえしない。音が良くなると聞いてスプレーを買ってきて滴り落ちるほどにふりかけたが一向に変わらず、最後は石鹸をつけてスポンジで洗ったりしたが、多分悪くなっただけだろう。
当時の純朴な私は我が耳の悪さを嘆いて終わったのだが、今では分かった。駅前通りのおしるこ屋のおしるこが嫌な甘みがして、駅のトイレで吐いたときの思い出、サッカリンの毒だ。

その思いでをシュターツカペレ・ドレスデンとの演奏で洗い流している。サヴァリッシュさん、ごめんなさい。

8月6日 北海道新聞にこのような記事が掲載された。
私の名前も紹介されているので、転載させていただく。

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続き

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堀川さんからは御丁寧なご質問を受け、答えさせていただいた。
しかし何分にも30数年前の調査なので、記憶は不鮮明で、ご期待には添えなかった。
忸怩たる思いである。
ただあの頃は未だ話題にもならなかった、原爆被災者における内部被曝の問題を、おぼろげながらに指摘できたのではないかと密かに考えている。

前期記事 「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」
の冒頭講演 「支石墓に見る日韓交流」を抜粋紹介する。

演者は埼玉大学准教授の中村大介さん

1.支石墓とは

日本では弥生文化の開始期に北部九州で突然出現する。ゆえに弥生文化を考える際にきわめて重要なマターである。

2.支石墓の種類

ドサッとコピペする。東アジアだけでも色々な言い方があるということだ。

支石墓の種類

3.東北アジアの支石墓の源流

遼東半島源流説が主流となっている。石棚墓の源流が長江流域だとする主張があるが、明確な根拠はない。

遼東半島では支石墓に先立ち積石墓の例があり、この墓式の流れと考えられる。

支石墓の開始は紀元前15世紀ころ。紀元前6世紀に一気に拡散したと考えられる。

4.朝鮮半島の支石墓

半島南部では一次葬が主要であり、墓は個人用のものと考えられる。したがって形態は類似していても葬制は異なっている。

南部支石墓は2つの亜型に分かれる一つは浅い湖南式、もう一つは深い嶺南式である。

紀元前2世紀にはすでに衰退が始まった。これは鉄器の流入と符節を合わせている。

5.日本列島の支石墓

分布地は島原、糸島、唐津、佐賀に偏在している。この内、糸島が嶺南式でほかは湖南式である。。

6.支石墓に葬られた人

嶺南の支石墓では弥生人に近い半島住民が確認されている。

糸島・唐津の支石墓で発掘された人骨は縄文晩期人の形質的特徴を持つ人骨が確認されている。


ネット上で、支石墓に関する論説は少ないが、下記の記事が参考になる。
平成26年度 東アジア国際ミニシンポ「支石墓の謎 墓地に見る日韓交流」記録
文字化けしてコピペができないので、別記事で要点を複写して転載する。

紀元前1500年頃 遼東半島付近で支石墓が発生。テーブル状形態を示す。

その後 テーブル型支石墓は中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に拡大。

縄文晩期 長崎県大野台・原山に石棚墓群が出現。浙江省の石棚墓群に類似する。屈葬や箱式石棺を伴う。(支石墓としている記事もあるが、石棚墓に近い。行きに支石墓が皆無であることから浙江省から直接渡来した人々によるものではないかとの説もあり)
大野台

紀元前500年頃 朝鮮半島が無文土器時代に入る。

紀元前500年頃 支石墓が朝鮮半島のほぼ全域で造設。約4-6万基とされ、世界の支石墓の半数に相当する。分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。

ユネスコ世界遺産に指定された高敞、和順、江華の800近い支石墓群は、青銅器時代の北方式支石墓とされる。
幽里

紀元前400年頃 朝鮮半島西側の中南部と北部九州に支石の丈が低い支石墓が広がる。天井石が碁盤状を呈するため碁盤石とも呼ばれる。テーブル型との境界は全羅北道付近とされる。


紀元前400年頃 朝鮮半島からの強い影響を受け、碁盤石、蓋石墓が松浦半島、前原市付近、糸島半島、島原半島などへ広がる。支石墓の地下には土壙(どこう)、石棺、石室、甕棺(かめかん)などが設けられる。

紀元前200年頃 弥生時代中期。墳丘墓出現(吉野ヶ里遺跡)

紀元前後 弥生後期。支石墓内に細型銅剣が副葬されるようになる。須玖遺跡では多量の前漢鏡・銅剣・銅鉾・玉類を出土する

紀元100年ころ 弥生時代終期 日本の支石墓が終焉を迎える。

ヒッタイトと鉄の歴史

ヒッタイト地図
              ヒッタイトの版図

紀元前 3500年ころ メソポタミアでは紀元前3000年ころの隕鉄性鉄器が発見されている。またアナトリアの王墓からは隕鉄製の短剣が発見されている。

紀元前2000年ころ クリミアの印欧語人が黒海を渡り小アジアに侵入。先住民を制圧しヒッタイト国を建設。

紀元前 1800年ごろ クレタ島の民が、山火事の焼け跡から隕鉄を発見、鉄鉱石を高温で蒸し焼きにする直接製鉄の原理を発見。

紀元前 1700年ごろ クレタ島の技術をヒッタイトが継承し人工鉄製造法を開発。門外不出の国家的な技術とする。(最近の調査で鉄の製造は紀元前20世紀をさかのぼる可能性が指摘)

最初の製法は直接製鉄法: 木炭を低酸素下に熱して、CO→CO2により、混焼した酸化鉄の鉱石を還元する。

紀元前1190 ヒッタイト帝国が「海の民」の侵攻により滅亡。背景に製鉄のための森林乱伐と枯渇。その子孫(タタール人)はインドや中国で製鉄を伝承。

紀元前1000年ころ 製鉄技術が中国,インド,ギリシャへ伝播。

中国で製鉄法が発達。鉄鉱石を溶解する銑鉄の製造( 間接法 )まで進化する。

紀元前 200 年ごろ 青銅器にやや遅れて鉄器が伝来。最初は鉄斧( 錬鉄製 )

紀元前119年 中国で鉄と塩が専売制になる


西暦 400 年ごろ 九州,中国,大和地方で砂鉄を用いた初期の「 たたら吹き 」製鉄が始まる。「 たたら 」は,タタール人が語源。



とりあえずあまりかまけている暇はない。
マンローの所説を理解するための覚え書き。

1.メソポタミアの文明は諸民族間の戦争と、諸民族の共通利害の形成(戦争予防)の文明なのだ。
こういう時代は世界史の中でいまだにない。シュメール人が原基になっているが、それは紀元前2千年、ウル第三王朝の滅亡とともに消滅した。
後はセム人を主体としながら印欧語人がしばしば襲来するという構図だ。印欧語人というのは中央アジア人という意味で、セム人生活圏の北方に居住する人々である。

2.以後は唯武器時代だ。強いものが勝つ弱肉強食の時代である。ただし腕っぷしが強いとか勇敢だとかいうだけでは覇者にはなれない。最後に物を言うのは知恵と情報である。

3.ただし中央アジア人そのものが人種の坩堝みたいなところがあり、古くはヨーロッパで絶滅したG人、その後は東西廻廊(シルクロード)を形成したN系人、印欧語人、などが重畳して「中央アジア人」を形成することになる。

4.肝心なことはグリニッジが世界の標準時になっているように、メソポタミアが世界文明史の標準時になっているということだ。そしてヒッタイトで鉄が実用化された紀元前2千年が、人類史の紀元ゼロ年なのだということだ。

少なくともマンローはそう信じているということだ。



紀元前4000年 ティグリス・ユーフラテス両河下流の沖積平野では人口が増加。神殿を中心とした大村落が数多く成立し、銅や青銅器なども普及。文字が発明された。先住のシュメール人の他、セム語族のアッカド人、アムル人、アッシリア人らが侵入。

紀元前3500年 メソポタミア Mesopotamia文明が発生

紀元前3000年 農業や牧畜に直接従事しない神官・戦士・職人・商人などが増え、大村落は都市に発展した。

紀元前2700年 シュメール人が都市文明を建設。ウル・ウルク・ラガシュなど。

紀元前25世紀 ウル第1王朝時代。大規模な治水や灌漑によって農業生産を高め、交易によって必要物資を入手した。都市は周囲を城壁で囲まれ、中心部には神殿。

紀元前24世紀 シュメール人都市の勢力は衰え、北方のセム語系のアッカド人によって征服される。

紀元前24世紀 アッカド人のサルゴン1世、メソポタミアの統一に成功する。さらにシリアや小アジアやアラビアにまで進出。

紀元前23世紀 サルゴン1世の国が東方の山岳民の侵入をうけて滅亡。

紀元前22世紀 シュメール勢力の復興。ウル第3王朝を名乗る。

その後 アムル人がメソポタミアに侵入。アムル人は「西の人」の意味。シリア砂漠に住むセム語系遊牧民。

紀元前20世紀 ウル第3王朝が滅亡する。

紀元前20世紀 印欧語系民族の一支族、中央アジアから移動を開始する。

印欧語族の強さの秘密: 馬を戦闘に使用した。オリエント世界では初めてのことであった。馬に引かせた戦車隊は機動力をいかして先住民をつぎつぎに撃破した。
このためオリエントの各地方の接触が促され、1つの世界としての『古代オリエント』が形成された。
中東BC2千年

紀元前19世紀 アムル人がバビロンを都とする古バビロニア王国を樹立。バビロン第1王朝と呼ばれる。

紀元前19世紀 小アジアのアナトリア高原に印欧語系のヒッタイト人が進出。

紀元前18世紀 古バビロニア王国の第6代王・ハンムラビが、全メソポタミアを統一して中央集権国家に発展。

ハンムラビ王の功績: 
① 運河の大工事をおこなって治水・灌漑を進める。
② シュメール法を継承・集大成したハンムラビ法典を制定する。「目には目を、歯には歯を」の復讐法の原則にもとづく。これにより領内の多民族を統一支配することが可能になる。

紀元前1680 ヒッタイト王国、古バビロニア王国と争ってこれを滅ぼす。

ヒッタイトはバビロニアを破壊・略奪し引き揚げる。メソポタミア南部には印欧語族のカッシート人が入り、バビロン第3王朝を建てる。

紀元前15世紀 印欧語族フルリ人がメソポタミア北部から北シリア一帯にミタンニ王国を形成。

紀元前1430 ヒッタイト新王国が成立。

紀元前1330 ヒッタイト新王国、ミタンニを制圧する。

紀元前1274 ヒッタイト王国、北進してきたエジプト新王国のラメセス2世と、シリアの覇権をめぐって争う。カデシュの戦いで引き分けとなり講和条約を締結。

紀元前13世紀末 東地中海全域を巻き込んだ民族大移動。バルカン方面から大量の民族が侵入する。(海の民の襲来)

紀元前1180 ヒッタイト王国が滅びる。民族大移動が原因とされる。ヒッタイトに独占されていた製鉄技術が、オリエント各地に普及する。

紀元前7世紀 アッシリア、鉄製の武器と騎馬戦術によにより全オリエントの統一に成功。

まもなく新バビロニア・リディア・メディア・エジプトの4大王国に分裂。

紀元前525年 メディア王国の流れをくむアケメネス朝がオリエントを統一

藤崎一郎元駐米大使 「米中関係を打開するために」
(9月2日 朱健栄のセミナーでの発言)

米中の力の差は社会理念の差

いまの米中関係は 2 大大国とまでいわれる関係では全然ないのではないか。軍事的にも経済的にも、そして何よりも理念ということです。

経済だけは大きくなってきたが、その前提はそんなにしっかりしたものではない。
社会も、一党独裁ですべてを決めるという立憲的な脆弱性がまだ残っています。


トランプと習近平

トランプさんがあまりにも乱暴なので、習近平は一時期、自分が世界貿易のチャンピオンであると印象づけるのに成功した。それがたとえばダボスでの習近平主席のスピーチのように主張された。

しかし中国はコロナで間違いをしてしまった。武漢の感染が一段落した後、マスク外交で感謝を強要したり、いわゆる「戦狼」外交が強まった。

その印象があまりにも強かったから、イギリス、フランス、オーストラリア、カナダ、インドとの関係などすべて悪くしてしまった。

これが中国の現状だろうと思います。


米大統領選挙を見据えて

まず注目すべきなのが、8 月 6 日の王毅外相の新華社とのインタビューです。ここで王毅は対米 4 原則を打ち出した。対立回避、対話継続、デカップリングせず、ゼロサムゲーム(真剣勝負)はしないというものです。(デカップリングせずの意味は不明)

これに対応してバイデンと民主党は、だいぶトランプとは異なる政策を打ち出しています。

メディアを始め多くの識者(とくに日本国内)はこの点を読み違えています。バイデンの目指すのは強硬化ではなく原則化です。国益ではなく国際的なルールなのです

バイデンは対中で毅然とした態度を取るという立場を出しつつも、「自滅的で一方的な関税戦争はしない」ことを明らかにしています。

なぜなら、その戦略は中国の軍事姿勢を誇大化させ、その反映として米国の軍事肥大を招き、結局は米国の労働者をいためてしまうからです。


事態は中国の受け止めにかかっている

バイデンが勝利することを前提にすれば、アメリカは中国に「原則」をもとめてくる。

原則とは人権と民主主義です。彼らは最初の一年目に「民主サミット」をやるといっている。

そのときに中国がどういう対応をするのか、香港、WHO、台湾問題、ウイグル問題が注目される。あるいは南シナ海、東シナ海でもそうです。

しっかりやらないと、最初の一年目で相当イメージがかわるかもしれません。

その意味でこの前の王毅国務委員の新華社インタビューを大変関心をもってみています。
(いっぽうで、習近平総書記は今月3日に講話を行い、敵対勢力による「5つの企て」を決して承認しないとのべた。習近平は講話で被害者意識を強く押し出し、原理主義的な方向への傾倒を印象づけている)


王毅国務委員・外相の新華社インタビューは以下で閲覧できます。
http://jp.xinhuanet.com/2020-08/07/c_139271507.htm 

感想
誰かが、AALAニュースに転載したのを要約したものである。今後、転載にあたっては転載者の氏名と転載理由を記載していただきたいと思う。
とは言いつつ、なかなか面白い見解ではある。
ただ、立場上言及はできないだろうが、習近平の立場についても理解が必要だろうと思う。
習近平は中国共産党の維持をまっさきに考えるほどケチな男ではないと思う。ただ文革中に泥水も飲んできた人間として、「中間管理層の腐敗とそれを生み出す社会システムは我慢ができない」ということは分かる。そして、ここからが論理が屈曲するのだが、紅衛兵の造反に依拠するのはさらなる愚挙だということも理解する。
となれば、腐敗分子の粛清を思い切ってやるには軍部の力を借りるほかないということだ。
これは実は、多くの「民主政府」がたどる道でもある。民衆の力によって政権についた政府が、その地位を守るために軍部と手を結び、軍の力で強引に困難を乗り切っていくという例は枚挙に暇ない。
棺を覆って初めてその真価が問われることになるのかもしれない。
ただ軍部(人民解放軍)がはしゃぎすぎていることは間違いないので、その動きには厳しい目を注がなければならない。さらに周恩来ー楊潔篪ー王毅の外務担当者の動向にも注意を向け続けなければならないであろう。

ドルメン同根論は破綻したが

ドルメン同根論は間違いなく破産している。マンローは破産したドルメン論にしがみつくことにより、考古学・人類学の主流から外れてしまった。

しかし同根論の根っこにある北方系人種の横移動の歴史は、必ずしも廃棄されたわけではない。

Yハプロ学説が人類学を席巻する20年前までは、HLA、T細胞白血病、HB抗原など多くの研究で、東アジア人の原基は北方を指していたのだ。

さらに、麦、金属器の渡来は中央アジアからの北方ルートを経由したと考えるのが素直である。


中央アジア系人種の横移動

ヨーロッパ先住民・ハプログループG2a

ドルメンの議論を聞いて初めて知ったのは、西ヨーロッパに先住していたのが非印欧系のハプログループG2aだということであり、彼らの時代は紀元前5000年に始まり3000年まで続いたということである。

ハプロGグループは9,500-30,000年前にコーカサスで誕生した。紀元前5000年に一部がヨーロッパに移動した。当初より農耕技術を持っていた可能性がある。

紀元前3000年ころにはハプログループR1b (Y染色体)に属す印欧語集団に駆逐され、混血することなくほぼ絶滅した。これをもってドルメンの時代も終焉を迎えた。

ハプログループG2aは現在もジョージアを中心にコーカサス地方に分布している。彼らの中央アジアにおける生息域は、現在のトルコ・ウィグル系人種のそれと重なっている。

もう一つの北方系ハプロ集団 N系人

おそらくマンローが混同しているのがハプロN人である。

ハプロN人は、20,000年前~25,000年前に、中央アジアでハプロO人と分岐した。シルクロードを経由し東アジアに達したと見られる。

一部は西方向に横移動しフィンランド人の祖先となっている。

N型人は確実な遼河文明の担い手である。古代中国文明の最初期に属する周王朝が、N系人による国家とする主張もある。私は与しないが。

N型が中央アジアから東進するに際して、先住者であるG型人の風習・伝統を身に着けた可能性があるが、人種として直接の血の繋がりはない。

強いて言えばG型人はコーカサス人であり、N型人はアフガンないしタジク人である。

N型人の過剰な強調には要注意

最近N型人の歴史的意義の強調が目立つ。中には通説の書き換えを迫るような提起もある。

注意しなければならないのは、O型人との関係を見誤らないようにすることだ。

最近の考古学的知見によれば、遼河文明のうち夏家店文化の上・下層の境界、すなわち紀元前1500年頃に遼河文明の担い手がN型人からO2人に交代したようである。

遼河文明の人種的交代が紀元前1500年頃とすれば、紀元前1000年ころに始まる黄河流域の周王朝がそれを遡ることはありえず、遼河文明研究者による引っ張り過ぎだろうと思う。

N型人とO型人はどこで分化したか

ウィキの流れ図では、イルクーツク近辺でNとOが分化したことになっているが、今日の通説としてはOはインド経由でインドシナから華南へと進出したことになっている。亜型(C1,C2)への分化のパターンもそちらのほうが説明しやすい。

ウィキによるNOの流れ図


それに華北~東北地方におけるN型人の現代の分布を見ても、明らかに南から北上したO2人がN系人を駆逐し、周辺部へと追いやっていることが明らかだ。

したがってNO人はイラン~アフガンあたりで分離し、O型は南ルート、N型は北方ルートで東アジアに入ったとするのが考えやすい。

N型人は交易民だった可能性がある

N型人はたんに進出し、征服し、支配する民族ではなかったのではないか。

かなり頻繁に東西方向への移動を繰り返し、西方文化を東アジアにもたらした可能性がある。

蒙古族や満州族、ツングース系は古来より土着していたC型人だが、西域回廊を支配していた夏や匈奴、突厥などはN型人だった可能性がある。

北方ルートを通じて麦栽培、青銅器、鉄器という三大文化が持ち込まれたのは、まさにN型人がルートを押さえ、華北を支配した時代と一致する。

マンローの偉大な示唆

何れにせよ、遺伝子解析などなかった20世紀初頭に、マンローが、横移動する民族、支石墓時代(青銅器)から鉄器時代の移行が民族の交代を伴った可能性、などまで念頭に置いていたことには驚くほかない。

私は素人でこれ以上の言及はできないが、学界各氏のご検討をたまわりたいと思う。

「マンローとドルメン論」に関して面白い論文を発見した。

く物の解釈>学知と精神』という表題で著者は 全成坤さんという方。肩書きは高麗大学日本研究センターのHK研究教授となっている。日本語の文章である。

この論文の主眼は、崔南善という日帝時代の考古学者を紹介するものである。
これによると崔南善は「楽浪文化は朝鮮における最古の最大のものである」とし、個々の用具や様式が個別に日本に渡ったのではなく、一塊の「文化」として渡ったと見るべきだということだ。

そしてその論文でドルメンに言及して鳥居龍蔵の研究とゴードン・マンローの見解を紹介しているのである。

申し訳ないが、そこだけ知りたいので抜書きさせてもらう。

鳥居のドルメン研究のきっかけはマンロー博士の慶応大学での講演「日本人の起源」である。
鳥居によれば、マンローは以下のようにドルメン論を提示した。

①日本にはドルメンが多い。その構造はヨーロッパ、アフリカ、インドのドルメンと同じである。またアフリカ、インド、日本にしろ、さらにヨーロッパにしろ、その原始的記念遺構の出土品はすべて閉じである。
②ドルメンを建築した人種は同ーの起源であって、日本の先史時代文化はヨーロッパからインド、さらにまた中央アジア、蒙古、朝鮮を経て入ってきた。

この論旨は「先史時代の日本」にお手も通底している。

これを見た鳥居は、以下の見解に至っている。
①その名称が示しているように、これはテープルであって、決して部屋ではない。ドルメンと古境をわけて考えるべきだ。
②マンローの「日本人は総じてヨーロッパ人と異なる民族とはみなしえない」という説に同意する。

この日欧同一民族説は、現代の私たちには到底認められるものではない。

鳥居はこの点に配慮して、ヨーロッパからの巨石文化論を受け入れ、人種の移動論を展開しつつ、日本における「異なる」古墳形態が生成されたという立場に立つのである。

しかしこれでは紛糾した議論に風を送るようなもので、なんともひどい様になってしまった。

これがゴードン・マンローの負の側面である。

支石墓(ドルメン)
日本においてそれは卓越した文化を形成したのか?

マンローの「先史時代の日本」はまことに素晴らしい本である。それはマンローの博識と偉大な仕事の結晶であり、シーボルトJrやベルツなど初期文化人の高水準の考察の賜であり、明治期考古学の金字塔と言っても差し支えない。

ただ、ドルメンについてだけは素直に首肯できないところがある。

もちろんドルメン文化が日本にも存在したことは認めるにやぶさかではない。しかし西日本の支石墓と北日本のそれとは、起原も時代も支えた人々もまったく異なるものだろう。

これをドルメンとして一括することは、私としては認められないのである。

この議論は、マンローの日本ドルメン文化論の誤解に基づくものかもしれない。まずはウィキペディアからドルメン論を学んでおきたいと思う。


A.起源
もっとも早い発祥は西ヨーロッパだが、それは起原ということではない
世界各地で独自に発展したと思われる。

①北西ヨーロッパ
紀元前4000年-3000年頃: 新石器時代から金属器時代初期に建造された。

②歴史的背景
農耕の伝播→人口増加→階層分化と関連している。
紀元前3500年頃に巨大な支石墓が激減し、小規模な支石墓へ移行。
紀元前2000年頃、西ヨーロッパの支石墓は消滅。
③消滅の理由
ウィキでは「上級階層を中心とする社会構造が崩壊し、民主的な共同体にとって代わられた」と説明されているが、到底納得できない。
私は石がなくなったためだろうと思う。畑作りに際して巨石を取り除いたのが、畑の開発が「完了」したために材料がなくなったのではないか。

④支石墓の作り手
ヨーロッパにおける支石墓の主な作り手は、ハプログループG2a (Y染色体)とされる。アイスマンがその典型
Haplogrupo_G_(ADN-Y)

⑤遼東~南満の支石墓
紀元前1500年頃に遼東半島付近で発生し、中国吉林省方面へ広まった。
巨大な一枚岩を天井石とし、これを複数の板石で支えるテーブル型構造で、北方式と呼ばれる。

⑥朝鮮半島の支石墓
朝鮮半島では世界の支石墓の半数、約4-6万基が存在する。遼東半島より出現は新しい。

南方式と呼ばれる。地表は土盛りで地下に支石構造の埋葬施設を持つ。

紀元前500年頃(水稲作の開始頃)から半島のほぼ全域で建造、特に南西部の全羅南道である。
日本では縄文時代晩期に浙江省様式の支石墓が長崎県に建造される。西北九州から広がることはなく、稲作受容期の弥生時代前期には早くも終焉。
朝・日での担い手はハプログループO1b2 とされる。


斎藤文紀「東シナ海陸棚における最終氷期の海水準」 第四紀研究 1998

東シナ海における最終氷期の海水準を検討した。
koukai

この結果、5万~2万5千年前の海水準は黄海で-80±10m,東シナ海で-0±10mと推定された。
最終氷期最盛期ではさらに低く、最低位海水準は-120±10mと推定された。
現在のような海域が広がりはじめたのは第四紀に入ってからである.
氷期は寒冷と同時に結氷による乾燥気候をもたらしてた。
1万3千年以前、黄河は乾燥によって干上がっていた可能性がある。 


という文献を見つけた。というより以前にも見ている可能性がある。
図を見ると、80メートルの等高線は東シナ海より北に切れ込むが、それでもソウル~山東半島のラインまでにとどまる。これが現在の等高線とすれば、かなり黄河の土砂が等高線を押し上げている可能性はあるが、それでも朝鮮半島と大陸が陸続きだったということになる。
1万年前ころ稲作文明を築き始めた長江流域の人々と、同じDNAを持つ人達が朝鮮半島にいたかも知れない。


アクシオンの説明漫画(赤旗日曜版)

IMG

秋本祐希さんが自作した4コマ漫画で、今回の発見の本質をかなり的確に表現していると思います。
リードでは次のように紹介されています。
イラストを使った素粒子の分かりやすい説明が評判の秋本祐希さん。自作の漫画でゼノン実験について解説しています。

 もご参照ください。ダークマターについては別途勉強します。


シャボン玉

この歌を作った野口雨情は、小樽の新聞社に勤めてたそうです。
明治41年(1908)の3月に長女が生まれたのですが、生後8日で風邪をこじらせて死んでしまったのだそうです。

歌詞が出来上がったのは、それから十数年経ってからのことだそうですが、シャボン玉というのはこの女の子のことなのだそうです。

最初に浮かんだ歌詞は一番ではなくて、二番の方だったかも知れませんね。

シャボン玉 消えた
飛ばずに消えた
生まれて すぐに
こはれて消えた

この歌詞を鎮魂のフレーズだとすると

風 風 吹くな
シャボン玉 飛ばそ

と上を向いて歌う、密かな潔さがしみじみ感じられます。


啄木ほどではないが雨情も、伝記を読むと本を投げ飛ばしたくなるほどに醜悪な生き方だ。とくに北海道時代の貧乏暮らし、自堕落な博労もどきの生活には辟易とする。有島の「カインの末裔」を地で行っている。
よくわからないが、これが自然主義文学なのだろうか。




図書館でなんのつもりか短歌の書棚に立ち止まってしまった。
「北二十二条西七丁目」(田村元)という歌集があって、何気なしに手にとってパラパラとめくって、いったん書棚に戻しそのまま行き過ぎたのが、なぜか後ろ髪ひかれる。
結局、借り出して読む羽目になった。
奥付を見ると、77年群馬の生まれ、北大で学生生活を送ったあと、東京で就職。そのままサラリーマン生活を送っているようだ。
41yy0AUS0NL._SX341_BO1,204,203,200_

表紙の色さながらに薄雪模様のさらりとした歌風だが、その範囲内で、年齢とともにしみじみ感がにじみ出てきて、味わい深いものがある。

一度通読して、今度は後ろから読んでいくと、これが意外に趣が深い。

いくつかお気に入りをあげておく

しづもれる 空気がありて
昭和へと つながってゐる
乾物売り場

鎌倉で 飲もうよと
妻にメールして
「了解」とのみ 返信を受く

行ったことがないのに
とても懐かしい
友がふるさとと 呼んでゐる町

旧姓を
木の芽の中に置いて来て
きみは小さくうなづいてゐた

春の雨 われを包んで
われをややはみ出しそうなものを
ゆるして

たむらくん
根暗だよねといふことば
轍のように思ひ出します

こんなにも 冬の日差しが明るくて
寂しさの底に
ふるさとはあり

われのみが 「少し太った」
それ以外
変はらぬままの同期三人

この街のどこか
まばらに梅の咲く
登り詰めたき坂道がある

「あってはならない」こと
あまたある世の中に
酒があってもよくて良かった

帰り来て靴を脱ぐとき
ドアノブに立て掛けておく
ななめな気持ち

「上げない」ことにした案件が
消しゴムの角で
小さく丸まってをり

雨を見て 雨の向かうの東京は
見て見ぬふりをして
シャツを取り込む

彼が下宿したのが北22西7で、私はその30年前に北20西6に下宿していた。

そして彼は学問と彼女に未練を残しつつ、「平地に糧を得るもの」となった。
一時はかなり鬱々とした時を過ごしたらしいが、伴侶を得て穏やかさがめぐってきたようだ。

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