2020年08月
アフリカ日本協議会から学ぶもの
以下はあるセミナー報告の紹介である。報告そのものがアップロードされているので、興味のある方はそちらにお越しいただきたい。
ということで、天下のNHK相手に「撃ちてし止まん」というのが小気味好い。
なおより詳細に事実関係に触れられている下記の文章も参照されたい。
NHK BS1国際報道(2020年4月30日放送分)への抗議
ダークマターとアクシオン
Astro Arts というサイトに
ダークマターはふたつの性質を持っている。
なぜ未知なのか。なぜなら観測不能だからだ。
なぜ観測不能なのに、分かるのか。何か、論理が堂々めぐりしているようだ。
我々の知っている宇宙の5倍がダークマターで埋め尽くされているのだ。ダークマターは原子や電子などの「普通の物質」より5倍も多く存在する。それは宇宙の全エネルギーの約1/4を占める。
下の図を見ると、素粒子のうち目下人類が確認可能なものは5%に過ぎず、残りはダークマターとダークエネルギーが占めているということになる。
ダークマターは普通の物質とほとんどぶつからずに通り抜けてしまうが、ごくまれにキセノンの原子にダークマター粒子が衝突する。そうするとキセノン原子は大きなエネルギーを得て、蛍光を発したり、電子を放出したりすると考えられる。キセノンを収納した容器の周囲に蛍光や遊離電子を捉える装置を置けば、これを捉えることができるはずだ。
なにか聞いたことがある。これはニュートリノの観測と同じ理屈=“待てばうさぎが跳んできて、ころり転がる木の根っこ”という「待ちぼうけ理論」のようだ。
「アクシオン」と呼ばれる未知の素粒子がキセノンの電子にぶつかった。
ここからが話しのややこしいところなのだが、結論として「過剰エネルギー=ダークマター由来」仮説は否定されたらしい。つまり話はこれでおしまいなのだ。
下世話な話でいうと、話がおしまいということは、実験は失敗に終わり、その意義は否定され、予算は凍結され、計画は廃棄されるということだ。
話は2段階ある。一つは過剰な電子反跳を生み出したエネルギー=物質がダークマター由来ということだが、これは否定された。しかし過剰なエネルギーを生み出したものは確かにある。それが何かということだ。そこで考え出されたのが「太陽アクシオン」仮説だ。
そもそも「アクシオン仮説」は、クォークの間に働く「強い力」に関する仮説だ。
つまり「さてこそダークマターのご登場!」と意気込んだものの、どうも別物らしいと分かってちょっと落胆気味だった。
しかしダークマターではないにせよ、新たな素粒子が見つかったことには違いないわけで、あらためてアクシオンの研究が進みはじめた。
それが23日の日経新聞に載った「宇宙の謎解明 粒子を発見?」というちょっと情けない見出しの記事。副題も「暗黒物質観測中に謎の信号」というもので、上の解説を読まないと多分誰もわからないだろうと思う。
ただしゼノン計画の紹介記事は、どの報道を見てもなにか胡散臭いのだ。大げさなばかりで、内容がない。肝心なことは「新たな素粒子の発見!」ということなのだから、これまでの素粒子モデルを紹介した上で、どこがノイエスなのかを主張すべきだが、記事のほとんどはダークマターの解説と、「ぜノン計画がいかに素晴らしいか」の宣伝ばかりだ。
記事のテーマは別のプロジェクトの研究中に、新種の素粒子らしきものが見つかったということだ。
しかし自然界のトリチウムが干渉した可能性、ニュートリノの未知の性質に由来するものという可能性は否定できない。
そうならばただのコンタミネーションに過ぎない。新たな素粒子の発見というからには、それなりに、しっかりした説得力のある根拠を示すのが筋というものだろう。
9月5日 文章修正
米国がベネズエラ向けタンカーを拿捕
まず報道内容から
これらのタンカーは約100万バレル、4億円のガソリンを積んでベネズエラに向かっていた。
米政府は、「友 好国の協力を得て」拿捕したと発表したが、詳細は明らかでない。
なぜこのような事件が発生したのか。
しかしタンカーは公海上を国際法上の違反なしに平和に航海しているのだから、上記の理由で拿捕することは、それ自体が戦争行為あるいは海賊行為に等しい。
そこで司法省は7月に、連邦地裁に対してベネズエラ向け貨物の差し押さえ許可をもとめた。それが今回認められてことから拿捕に及んだということだ。
つまり禁輸措置という制裁行動には、第三国への禁輸おしつけもふくまれるということになる。
米司法省によればタンカーはイラン革命防衛隊が運航にあたっていた。イラン革命防衛隊は米国が「外国テロ組織」に指定している。したがってこれは反テロ行動の一環だ、と主張しているようだ。
赤旗はこの事件を以下のように報道している。
米政府はベネズエラの マドゥーロ 反米政権を『正統性がない』 と見なし、(その結果)同政権を支援するイラ ンとともに石油禁輸を含む制裁を科しています。
この論理で行けば、いずれキューバ制裁も是認するようになるのかも知れない。
「NHKの南ア批判」を通じて考える報道における誠実さ
という記事からの抜粋
これは7月5日付でYahoo News に投稿されたもので、ノンフィクションライターの井上理津子さんによるレポート。ただし抜粋部分は井上さんが現地で観光ガイドをしている高達さんの発言。
4月30日に、NHK BS1で「南アフリカ・学校まで略奪~新型コロナで社会崩壊寸前」というニュースが流れた。
私は未見
南アフリカ・学校まで略奪〜新型コロナで社会崩壊寸前 5週間のロックダウンを続ける南アフリカでは、その期限を30日に迎えるが、感染者が予想以上に増えていて、延長が検討されている。しかし、経済的な打撃は特に貧困層に顕著に表れている。貧しい黒人が暮らす地区では、収入が途絶えた人々による略奪が続き、その対象が商店から学校へと移っている。悪質なことに、証拠を隠滅するために放火され、200近い学校が破壊された。 |
現地で観光ガイドをしている高達さんは憤る。
ちょうど日本で “ロックダウンしないのか” という声が上がっていたころでしょ? このにゅーすは “ロックダウンするとこうなる” と歪曲して伝えた、NHKの日本政府への忖度報道だったのでしょう。
なにか変だと思いつつも、日本語の情報がなかなか手に入らない状況で気をもんでいた。南アといえば日本AALAの友好国であり、まずはその国が公式に打ち出している情報を正面から受け止めて、そのうえでメディアの投げてくるクセ球をしっかりと受け止めつつ、日本国内の多くの人々に発信していくという姿勢が必要だろう。
我々はメディア組織ではない。メディアでさえも情報の取捨に関しては誠意が必要なのだから、ひど梅諸国との連帯を謳う組織が、いい加減な情報に踊らされてはならないだろう。
ナターシャ・グジーを紹介します
映画「糸」を見ました
そのためか、入場料が1700円に上がっていました。映画の前に行った床屋さんも200円上がっていました。映画はともかく、床屋さんの値上げは賭けみたいなものです。それまでの値段も相当割高だと思っていましたから、年金ぐらしの年寄客は一気に減ると思います。
それはともかく、
映画は、一言で言えば駄作です。小松菜奈ファンからすれば、ずいぶん金をかけていることは分かるのですが、それが小松菜奈を引き立てる方には役立っていない。
出てくる場面は多くても何やら印象がまったく定まりません。怪人二十面相ではないが「結局、どんな人だっけ?」という感じです。展開は安易で場当たり、伏線ゼロで個々のエピソードも紙芝居のように陳腐です。
それに引き換え主人公の男優の年上の妻は、まことに魅力たっぷりです。ネットで調べたところ榮倉奈々さんというらしい。
とはいえ、こちらはサイドストーリーなので、一体なぜ、彼女が主人公を好きになったのかは一切省略されています。
10回ものの連続テレビドラマの「総集編」というと分かってもらえるでしょうか。
ひたすら筋が混み合って、やたらと役者が多くて、泣かせどころはくどくどと引っ張って、要するに脚本がなっていないのです。だから結局のところ何を言いたいのかさっぱり見えてこない。
なにかむかしの東映の正月映画「赤穂浪士」を思い出してしまった。オールスターの顔見せだから、出演者に粗相の無いように、忖度、忖度。ただし赤穂浪士は、筋はみんな知っているからいい加減でもよいが、こういういかにもありがちな筋を雑然と連ねたんでは何も印象に残らない。
小松菜奈のイメージを大事にしまっておきたい人なら、見ないほうがいいのではないでしょうか。男役の俳優が好きな人なら、ぜひ見たら良いでしょう。榮倉さんファンならなおさらです。いま目をつぶったら榮倉さんの顔しか出てきません。
なお、斎藤工がなかなかかっこよかったことも付け加えておきます。死んだカミさんのお気に入りでした。こちらの話をもっと膨らませてもらったほうが、よほどリアリティのある脚本になったのではないでしょうか。
西里竜夫「革命の上海で」を読んで
著者は西里竜夫。戦後、長く日本共産党熊本県委員長を務めたらしい。
1977年 日中出版からの発行となっている。
多分、西里さんも中西功さん同様に、戦後は微妙なコースを歩んだのではないか。
38歳で終戦を迎え、釈放された。まもなく日本共産党に入り、40歳で熊本に戻る。同時に熊本県委員長となるが、3年後に委員長を降りている。同じ1950年、中西功(当時共産党選出国会議員)は党中央と対立し除名されている。いわゆる50年問題である。西里も関連していた可能性がある。
50歳で熊本安保共闘の副議長に就任しているが、党における肩書きは不詳である。
以後20年間の経歴は空白となっている。しかし衆議院選挙には毎回出馬、毎回落選を続けているので、日和っている様子はない。そしてこの本を執筆した70歳の時点で、県委員会副委員長となってる。
なおこの本を発表した1977年といえば「文化革命」真っ盛りの頃だ。しかしその話はまったく触れられていない。異様といえば異様だ。
彼はその後さらに10年を生き、80歳で息を引き取っている。
ストーリーはすべて一人称で書かれ、ディテールは異様に詳細だ。日記をつけることなど許されるわけはないので、ややいぶかしさを覚える。
ただ研ぎ澄まされた神経の中で生きた十数年であるので、私ども「ぼーっと生きている」人間には想像もつかないような記憶力が働いているのかも知れない。
豊富な史実が散りばめられているが、もはや私にいちいち拾い上げるほどの根性はない。
日経秋田記者「戦後民主主義の岐路」について
きょう終戦75年世界迫りくる無秩序の影戦後民主主義の岐路に
とりわけ気がかりなのは、強大な経済力を使いもう一つの国際システムであるIMF・世銀体制まで切り崩しにかかっている中国の行動だ。
もちろんそれは長期目標ではあるが。
もっとあげておこう。植民地がなくなった、人種差別がなくなった、男女差別がなくなった、先住民への差別がなくなった…
これらがすべて戦後わずか100年足らずの間に実現したことである。
義和団事件の真相
「義和拳」運動の指導者朱紅燈
朱紅燈は山東省泗水の生まれ。本名を朱逢明、天龍と号していました。ただし生地についてはいくつかの異説もあります。
彼の指導の下、茌平の義和拳運動は著しい発展を遂げます。そしてその勢いは地域の村々へと連携を強めていきます。そしてキリスト教会への攻撃はどんどん激しさを増していきました。
現在の中国では義和拳の朱紅燈が義和拳運動の創始者のように扱われ、英雄視されているが、どうも正確ではないようだ。
彼自身は明時代の高臣の子孫と称したらしいが、これはかななり怪しい。
朱紅燈の活躍したのは1899年末まで。このときは未だ騒乱は山東省内に限局されていた。彼らの運動は一種の空気抜きとみなされ、省当局は一定の泳がせ背策をとっていた。それどころか地方では一種の私設警察として庇護していた。
しかし最後にはドイツを始めとする列強の関知するところとなり、省長は更迭、泳がせ政策は弾圧政策へと変更された。
実はここまでは義和団運動の前史みたいなもので、それから飛び散った若者が華北一帯に広がり、西洋排斥運動に転化したあたりから、本格的な義和団運動が始まると見たほうが良い。
いづれにせよ、日本(ネット世界)では正確な情報が意外に伝わっていないことがはっきりしたので、この記事もなにかの役に立つかもしれない。
義和団事件の真相
も参照してください。
米国発「経済制裁」の歴史 年表
05 マカオのデルタ・アジア銀行(BDA)、北朝鮮の資金保管先だとして米財務省が「主要懸念先」に指定。BDAは直ちにすべての北朝鮮関連講座を停止。
ベトナムと米国のパートナーシップ
ベトナムの外交政策
By Shindo
はじめに
7月23日、ポンペオが猛烈な反中国と反共産主義の演説をした。注目を引いたのは、ベトナムが、台湾、日本と同列に親米国として扱われていることだ。
米越関係はどう変わってきているのか
「抗米救国の戦い」を20年にわたり戦ったベトナムが、今や、米国と密接な関係に入っている。
以下の年表を作ってみた。
1995年、ベトナム、アメリカとの国交を正常化
2009年以降、南シナ海を航行する米空母が、ベトナム軍・政府関係者と提起交流を開始。
2010年8月、次官級の米越国防政策対話の初会合。これに合わせ空母「ジョージ・ワシントン」が共同演習に参加。
2011年9月、「防衛協力の推進に関する覚書」が締結される
2013年7月、オバマ大統領、米越包括的パートナーシップを提唱
2015年7月、ベトナム共産党書記長が訪米。米越共同声明発表
2016年5月、対越武器禁輸措置が完全撤廃される。
2016年10月、米艦2隻がカムラン湾に入る。
2017年8月、リック国防相が訪米し、マティス国防長官と会談。米空母のベトナム寄港で合意。
2017年11月 トランプ大統領がハノイを訪問し、チョン共産党書記長と会談。
2018年3月 空母「カール・ビンソン」がダナンに寄港。
このように米越関係は驚くほど親密である。
日越関係はどう進んでいるのか
日本との関係も進展している。内容省略。
東アジアの持続的平和共同体をめざして
新藤さんはベトナムの外交政策を評価したうえで、下記のごとく総括している。
ベトナムは社会主義の道を歩んでいると言い切れるでしょうか。
ベトナムの外交政策には、中国包囲策としてのパートナーシップが見え隠れしています。
最後に新藤さんは、諸外国との原則的関係として以下の点を強調している。
① 実情をリアルに見たうえで、友好と連帯を進める。
② 非同盟運動の原則(平和5原則+バンドン十原則)
③ 貧困・格差の解消、地球環境の保全
この記事は新藤さんの書いた「ベトナムの対米、対日外交政策」を読んだ私の感想文である。
私が思うに、非同盟諸国との付き合いにはいろいろ事情があるということだろう。
その辺も察した上でたがいに礼儀を尽くし、友好を深めるというのが新藤さんの主張だと思うので、私もまったく賛成である。
「小異を残して大同につく」の視点から、コントロヴァーシャルな話題はできれば避けたいし、手のひら返し的な評価や、ジャーナリスト的なほじくり返しもやりたくない。
しかし人権絡みの議論が出る際は、国際的な評価が迫られる場合も出てくる。その際は、とくに人権そのものよりも、人権の基礎となる社会権・生存権の状況を判断することが重要だろうと思う。そうすれば、乏しい情報を元にいたずらに打撃的な評価をする愚は避けられるだろうと思う。
これを新藤さんの3つのポイントに加え、第4のポイントとして提案しておきたい。
世界から見た「終戦」の意義
アフリカ(とくに南ア)におけるコロナ感染
アフリカ大陸のコロナ感染者数
まさに感染爆発ともいえる状況だ。
しかし実は、これらの数は当てにならない。アフリカ大陸は13億の人口を抱えるが、人口が約半分のラテンアメリカでは、感染者300万人、単純な感染者数で6倍、人口あたりの感染者数は12倍となる。
誰が見てもそんなはずはないので、アフリカ大陸では人口100万人当たり4200件の検査しか行われていない。同じ時期、アジアでは7650件、欧州では7万4255件のPCR検査が行われた。
つまりアフリカの患者数が少ないのは、感染が少ないのではなく検査が少ないからだ。それはアフリカの貧しさの象徴だ。
「タンザニアのレポート」
お祈りから1カ月も経たないうちに、マグフリ大統領は新型コロナに対する勝利を宣言した。そして自国への観光を再開し外国人観光客の誘致を呼びかけた。多分コロナ感染者以外の観光客は行かないだろうが。
そして5月初めからは全国レベルの患者数・死亡者数を公表することをやめてしまった。
ただこれには同情すべき理由もある。海外から輸入された検査キットは欠陥品であり、ヤギから採取したサンプルでも陽性反応が出たという。
タンザニア以外ではもっと悪い
データの不足はアフリカ諸国の多くに共通する。公式数値だけ見るとアフリカの大半では新型コロナ禍を免れているようだが、もっと悪いのは確実だ。
ブルンジではWHO当局者が対コロナ措置の不十分性を指摘したところ、WHOの駐在員3人が説明なしに国外退去処分となった。その後、ンクルンジザ大統領が死亡、大統領夫人はケニヤに救急搬送された。現地では死因はコロナではないかと囁かれている。
赤道ギニアでは政府が、「WHOは感染者数を水増ししている」と非難し、駐在員の更迭をもとめ、感染データの提供を阻んでいる。
また、貧困と紛争によって疲弊し、調査を行う財力がない国もある。検査キットが致命的に不足し、大規模な検査、監視、接触追跡を実施するには、あまりにも医療システムが疲弊している。
アフリカ全土では人口千人あたり病床数が2ベッド未満しかない。住居内に手洗い場を持ち石鹸のある家庭は人口の約3割とされる。
その後7月に再び感染者が増え、ロックダウンを再開した。医療従事者は疲弊し、医療システムは崩壊寸前にある。
困ったことにアフリカ・飢餓と来てもまったく危機感が沸かなくなっている我々がいる。
経済マクロ
新型コロナの影響で南アフリカの大部分の学校が休校となっており、約2000万人の子どもが給食を受けられずにいる。このため一部の子どもたちは、栄養を十分に摂取できないでいる。
ベネズエラ情勢 赤旗が触れない事実
赤旗のベネズエラ記事
グアイドーを支持する野党連合の 27 政党は12月予定の国会議員選挙に参加しないと発表した。『不正選挙には参加しない』との態度を表明した。さらに『ベネズエラは人道危機にあり、犯罪的、抑圧的な独裁が支配している。自由で透明な国際的な監視団による選挙が必要だ』と強調した。選挙管理委員会を任命するのは、国会の役割だが、政府の意を受けた最高裁が勝手に任命した。このように最高裁を野党封じ込めに使うのは政府の常套手段だ。
“難民” は、この間に経済危機で生活の糧を失い、故郷コロンビアに戻った“ベネズエラ人”の数を反映している。
つまりは上流階級による“資本家ゼネスト”のとばっちりをモロに被ったことになる。もちろん彼らを供し続けることができなくなった上流階級の弱体化も反映しているのだろう。
2019 年の国会議員選挙は、自由で正当ではなかった。それは2018 年の大統領選挙より、一層悪いもので操作されていた。
“人権は「普遍」なのか” を読んで
なかで題名が刺激的なのと、薄くて2,3時間で読めそうなので、下記の本を借りだした。
次の講義が「プロセスとしての人権」(増田一夫)というもので、これぞまさしくアーレントの紹介に過ぎない。
これから(人権の普遍化に向けて)、私たちが発明していかなければならない政治とは、現在とは別様な世界のあり方、より良い共生のあり方を考える自由の技法としての政治なのです。
3.
4.
人権は西洋人が考え出した贅沢品ではないか?人権の強調は西洋による文化帝国主義ではないか?
それは支配者の言い種だ。
南アフリカの苦しみに、心添わせよう
Cyril Ramaphosa 大統領
親愛なる友人の皆さん
どちらも南アの現実の一面を切り取っているのかも知れないが、現地を経験した人の視点はどうなのか、伺いたいところである。ひょっとしてベネズエラのように、どちらから見るかでまるっきり景色が違うのかも知れない。
人権に関する最近の考え方
私がこの間、口を酸っぱくして言ってきたのは、世界の人権に対する考えは変わってきているということだ。
ところが20世紀末から急速に国家間の垣根が取り払われ、ヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化してきた。世界は単一化しグローバル経済のもとに置かれることになった。
グローバリゼーションは世界の人民が等しくチャンスを与えれるべきものとして構想されたはずだ。
しかし貧富の差はますます拡大し、途上国に貧困と戦争が蓄積しつつある。ひとりひとりの人間の法と人道のもとでの平等は、実現されたとも前進したとも思えない。
このような状況だからこそ、自由と平等をグローバルに構想することが必要だ。グローバルな世界のもとで、不自由で不平等な、絶望的な状態のもとに置かれているのは不条理である。それは人権の名のもとに救済されなければならないと思う。
人権が人間の自由に関する権利だということについては、英国の名誉革命、アメリカの独立宣言、フランスの人権宣言以来変わりはない。
そして今、我々はコロナの時代を迎えた。その結果、人権は生存権に集中して論じられるようになった。世界中のすべての人の人権はコロナの時代を生き抜く権利として提示されている。
それを示す基本文書が4月に発表されたグテーレス国連事務総長の声明である。
米国という一つの国家内でも、平等と生存権の重要性は証明されている。「黒人の命も問題なのだ」というスローガンが、今の時点での人権問題の所在を明らかにしている。
国連の提起に真剣に耳を傾けてほしい
公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒している。
ユニバーサルな生存権を重視するのは、それが今日における人権の主要な側面であるからだ。平等な権利は互助の精神と表裏一体のものだからだ。
ウイルスは差別をしない。貧富を問わず一つの社会全部にとって脅威だ。新型コロナは、その地域の根本的な差別をあぶり出す。弱者層は一方的に人命を失い、生計の道を絶たれている。そこでは根の深い不平等があり、それがウイルスの広がりを助長し、さらに不平等を深めている。それぞれの国でウイルスとたたかうとき、そこに差別があってはならない。いま最も危険に晒されている国々は、それらを排除せず、特別な対策を講じるべきだ。
もしその国がウイルスの拡散を抑えることに失敗すれば、すべての国が危険に晒されることになる。世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くない。このことを明記すべきだコロナ対策は基本的には隔離である。それだけに一層、排除と差別は拙劣なアプローチだ。インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのだ。
自由権は絶対に必要
連続テレビドラマ「わたしを離さないで」を見て
しょうがないから見ることにした。
最初に見たのが「わたしを離さないで」という連続テレビドラマ。綾瀬はるかの主演だというので見はじめた。
* 恋愛ドラマというには結構きつい
4年くらい前のドラマだが、中身は恋愛ドラマというには結構きつい。よくこんな番組を民放で作ったものだ。
一種のSFで、iPSから作られた人間が生体移植用の材料として使われる、彼らには普通の人間と同じ人格が備わっているが、唯一自分の生死を自分で決められないという問題がある。というより、家畜と同じでいつ臓器を取られても良いし、その結果死ぬことは当然のこととされる。
つまり人格はあるが人権はないということになる
浮世離れした非常に危うい設定だから、話はどんどん観念的かつ悲観的になっていく。最後は、「これは俺たちのことではないだろうか」という気になってくる。そしてみな死んでしまうことになる(のだろう)…
ドラマでは綾瀬はるかの相手役の男優が非常にうまい。あまりうますぎて、時々「この人、気は確かなのだろうか」と思ってしまうくらいだ。眼に一種の狂気が宿る。
三浦一馬と言って、最近自殺してしまったらしい。
ただ陽光学院の先生方がまったく書き込まれていないので、背景がよくわからないまま筋が突っ走っていく、これだけ長丁場のドラマなら、もう少し脇の筋も描かれるとぐんと厚みが増してくるのだろうが、ただでさえ捻りまくった設定が、ますますねじれてわからなくなるかも知れない。
* イシグロが書いたのだそうだ
うかつにも見逃したのだが、あとでネットで調べたらこのドラマの原作はイギリスの作家イシグロのものなのだそうだ。
イシグロは日系二世で、このドラマの前後にノーベル文学賞をとった。この作品はイギリスでベストセラーになったのだそうだ。
そう言われて、あらためて考え直すと、このドラマはロボット人間の葛藤劇というだけではなく、それを利用する側の人間もふくめた一種のディストピア社会なのだ。
その中で健気に生きる、一群のロボット人間たちによる、ひとつのビルドゥングスロマンなのだ。そう考えると、この設定は決して突拍子もないSFではない。
かつて戦前から戦中の若者は、天皇の名において社会から死を強要された。生まれた瞬間から死が運命づけられていた。その中で若者たちは喜び、悲しみ、成長していった。ある日突然召集令状が来るまでは。
ドラマとの違いは、その運命と、その死がもてはやされるかどうかの違いでしかない。ウソがてんこ盛りにされた社会からそれらを剥ぎ取れば、それはまさに無残な社会だ。
あるいはアフリカの途上国の人々だ。彼らの生や死は、常にスコップ一杯の生や死として扱われる。50万、百万の死をテレビで聞きながら、私たちはそれを露ほどにも受け止めず弁当をひろげ、お茶のペットボトルに口を当てる、
ただイシグロは、その冷厳な現実を突き出すだけでなく、その中にも生きている意味を掴み取ろうと必死にもがきつづける、人間の生の力強さをも描き出そうとする。そこに若者たちの共感を得ようと訴えている。
とにかく一度ご覧になるようおすすめする。アマゾンプレミアというところに申し込むと見ることができる。中身からすれば契約料は決して高くない。設定は面倒っぽいが、若い人ならやってくれるだろう。
相当ヒマな人でないと見れないだろうが…
人権(とくに社会権・生存権)に関する備忘録
ここでは社会権・生存権に関連する2つの前進を挙げたい。一つは93年に国連開発計画 (UNDP) が「人間の安全保障」を提唱したことである。
これは国民の生存を国家安全保障の一環と位置づける考え方である。国民を平和のうちに生かし続けることが、国家防衛と並ぶ政府の基本義務だと規定され、国家の本来責務の一環としてビルトインされた。
これは福祉経済の発想に通じるものである。