鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年07月

国連と人権 年表

1941年8月 ルーズベルトとチャーチルが大西洋憲章を発表。全ての人類の「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を保障と平和の確立」をうたう。(後の社会権と平和的生存権に該当)

1945年

4月 「国際機構に関する連合国会議」が開催される。50ヵ国の代表がサンフランシスコに結集。「平和を推進し、将来の戦争を防止するための国際機構」の結成で合意。「国連憲章」を採択する。

国連憲章前文: われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から、将来の世代を救うことを決意した。
…基本的人権、人間の尊厳と価値、男女・各国の同権を尊重する。
第1条: すべての人権と自由を尊重し、人種、性、言語または宗教による差別をなくす。

1946年 国連経済社会理事会が、憲章第68章にもとづき国連人権委員会を設置。委員長はアメリカの国連代表でもあったエレノア・ルーズベルト。スイスのジュネーヴに本拠を置く。国際連合の指示に基づき、人権規定の具体化作業に着手。毎年春1ヶ月程度の全体審議を行う。

1947年

5月3日、日本国憲法が施行される。個人の尊重(13条)、法の下の平等(14条)、生存権(25条)、教育を受ける権利(26条)など、「4つの自由」から取り入れられる

1948年 「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」が採択される。

1948年12月 人権委員会の提案した「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)を採択。ユニバーサルな基本的人権の原則を定めた。このあと、12月10日が人権デーとなる。


当初は単一の国際人権章典の作成を目指していたが、まずは国連総会で世界人権宣言を採択することとなる。「宣言」にとどまったため、法的拘束力はなかった。
「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじった野蛮行為をもたらした」とし、人権を守ることを平和を守る行動の核心に据える。
「宣言」は30の条文からなり、自由権、参政権及び社会権の三種に大別される。第一条。すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。
エレノア・ルーズベルトはこの宣言を「全人類のための国際的なマグナ・カルタ」と呼んだ。

1949年 人権委員会は、世界人権宣言後、人権規約案の作成に入る。このとき、権利の内容は自由権及び参政権など市民権と政治的諸権利にとどまっていた。

1949年 「人身売買及び管理売春の禁止条約」が採択される。

1950年 第5回国連総会、人権委員会の報告を受け、「自由な人間」の実現のためには欠乏からの自由、つまり経済・社会・文化的諸権利の確保が必要だと判断。規約草案に社会権規定を含めることになる。

1951年 「難民条約」が採択される。

1951年 第6回国連総会、人権委員会での議論を受け、自由権に関する規約と生存権に関する規約とに分けて2つの国際人権規約を作成することを決定。

1952 年 「婦人参政権に関する条約」が採択される。

1953 年  「1926 年の奴隷条約の改正条約」が採択される。

1954年 人権委員会が起草作業を終了。国連総会(第3委員会)での逐条審議に移る。人権に自由権とならべ社会権をふくめた、規約はA、B、ふたつの構成部分に分けて成文化された。

1955年

4月 バンドン会議などを受けて、非同盟諸国が民族自決権を人権の柱の一つとするよう主張。

67年の国際人権規約の社会権規約と自由権規約の第1条には、「すべての人民は、自決の権利を有する」とし、民族自決の権利を重要な人権としている。
さらに社会権規約は途上国の国内事情などを考慮し、「締約国は規約上の権利の完全な実現を漸進的に達成するために行動をとることを義務づけられる」と規定される。

1959 年 「児童の権利に関する宣言」採択

1960年 国連総会、植民地独立付与宣言を採択。

1965年 国連総会、人種差別撤廃条約(あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約)を採択。

1966年 社会権と自由権を二本柱とする国際人権規約が採択される。

世界人権宣言を基礎として条約化された。人権にかかる諸条約の中で最も基本となるものである。
*社会権規約(A規約)は正式には「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際条約」と呼ばれる。
*自由権規約(B規約)は「市民的・政治的権利に関する国際規約」と呼ばれる。

社会権規約は、すべての者の権利として、労働する権利(6条)、社会保障の権利(9条)、相当の生活水準の維持と飢餓から免れる権利(11条)、教育への権利(13条)などが規定されている。
とくに生存権保障(11条)は「人間の生存と尊厳にとって基本であり中核的権利である」として、差別の禁止(2条2項)とともに直接的義務であり、司法審査に服するとされている。

1973 年 「アパルトヘイト犯罪の禁止及び処罰に関する国際条約」が採択される。

1975 年 「障害者の権利に関する宣言」採択

1979年 国連総会で女性差別撤廃条約が採択される。

6月 日本国は、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」(社会権規約)と、「市民的および政治的権利に関する国際規約」(自由権規約)をともに批准。

国際人権規約の批准は、憲法第98条2項により国内法としての効力をもち、憲法に次ぐ法規範であり、国会制定法よりも優位となる。

1989 年 「児童に関する権利条約」(子どもの権利条約)が採択される。

1993年 ウィーンで世界人権会議、「普遍的・生来的な人権の保護と促進がすべての国家の普遍的義務であるとする「ウィーン宣言・行動計画」を採択。「世界で最も正統性の高い人権思想」といわれる。

1993年 国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)が設置される。人権委員会と連携しながら実務に当たる。

1993年 国連開発計画(UNDP)が「人間開発報告」を発表。「人間の安全保障」を提唱する。

2001年

8月 南アのダーバンで、「人種差別、外国人排斥及び関連不寛容に反対する世界会議」を開催。

植民地主義が人種差別や外国人排斥などの不寛容をもたらして来たとし、「寛容、多元主義および多様性の尊重が包摂的社会を生み出すことができる」と宣言する。

2002年 南アで持続可能開発サミットが開催され、開発と人権が関連付けられる。

2006年 障害者の権利条約が国連総会で採択される。

2006年 国連総会、人権委員会を廃止し、新たに直属の人権理事会を設立。

人権委員会は構造的な脆弱性のもとに、人権ロビーに掻き回されてきた。人権NGOの多くは冷戦構造を引きずり、自由権こそ人権の核心であると主張し、「社会主義国には人権委員会の構成国である資格はない」と批判してきた。

2007年 先住民の権利宣言、国際総会で採択。

2015年 国連サミット、世界人権宣言を基礎とした我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダを採択。17項目の「持続可能な開発目標」を設定する。

目標1:貧困をなくそう
目標2:飢餓をゼロに
目標3:すべての人に健康と福祉を
目標4:質の高い教育をみんなに
目標5:ジェンダー平等を実現しよう
目標6:安全な水とトイレを世界中に
目標7:エネルギーをみんなに そしてクリーンに
目標8:働きがいも 経済成長も
目標9:産業と技術革新の基盤をつくろう
ヒューライツ大阪のサイトより引用
目標10:人や国の不平等をなくそう
目標11:住み続けられるまちづくりを
目標12:つくる責任 つかう責任
目標13:気候変動に具体的な対策を
目標14:海の豊かさを守ろう
目標15:陸の豊かさも守ろう
目標16:平和と公正をすべての人に
目標17:パートナーシップで目標を達成しよう











人権は国連の活動すべての中心にあります。
今まさに、その人権が攻撃にさらされているのです。

1.人権の中核的な理解

 a.人権は人間の尊厳と価値に関わる

それは人類の「希望の地平」を広げ、可能性の範囲を拡大するものです。

人権は「人々の最高の願望」です(世界人権宣言)

 b.人権は世界にとって究極的なツール

それは社会の「持続可能な開発」を前進させるためのツールです。
それは公平・公正な世界を構築するためのツールでもあります。


2.「世界人権宣言」以後の世界の変化

植民地支配とアパルトヘイトは克服され、独裁政権は倒され、民主主義が広がりました。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的権利をすべて詳しく定める画期的な規約も成立しました。

一世代の間に、10億人が貧困を脱しました。飲料水へのアクセスから幼児死亡率の大幅な低下が達成されました。

女性や若者、少数者、先住民その他が指導する人権運動も前進しました。


3.新たな人権の危機

それでも、人権は現在、ますます大きな課題に直面しています。どの国も例外ではありません。

法の支配は後退しています。

戦火の拡大、人身取引と奴隷化が横行しています。

少数者や先住民、移民、難民、LGBTIコミュニティーは「他者」として中傷され、ヘイト行為の標的となっています。

こうしたギャップを極限にまで拡大しているリーダーもいます。人々を分断し、得票数を増やすというねじ曲がった政治的計算が当たり前になっているからです。


4.世界人権宣言の精神を実現すること

私たちの長年の課題は、世界人権宣言の野心を現実世界の場での変化へと転換することです。

経済的、社会的、文化的権利だけで人々の自由への希求に応えられるわけではありません。

国連としての多様な行動を推進していかなければなりません。

第一に人権の前進を目標とする社会開発です。

平和で公正な社会と、法の支配の尊重を軸とする人権に基づくアプローチは、より恒久的かつ包摂的な開発へとつながります。

人々が極貧状態を脱出するのを支援し、女児をはじめ、すべての人に教育を確保し、ユニバーサル・ヘルスケアを保障し、あらゆる人に平等な機会と選択へのアクセスを確保することです。

そのことで、人々はその権利を要求するためのスキルを獲得できます。

それは「誰一人取り残さない」という呼びかけに沿ったものです。あらゆる形態の不平等・差別を撤廃するために取り組みます。

第二に、危機の時代にあっても人権を守ることです。

危機の時代には人権が最も大きな試練にさらされます。

予防がうまく行かず、暴力がはびこってしまうこともあります。

私たちは「人権を最優先に」をモットーに各種危機に取組みます。


5.さいごに

人々は譲ることのできない固有の権利をもとめています。それは戦争や抑圧、貧困で尊厳を奪われている人々も同じです。

市民的、文化的、経済的、政治的、社会的な人権はいずれも、目的であると同時に、手段でもあります。

国連事務総長報告 「新型コロナと人権」
4月23日

大したものではないが、「ウィルスと差別」に関する記載は傾聴の価値がある。


1.新型コロナはインクルージョンを促す

ウイルスは差別をしません。コミュニティ全部にとって脅威であり続けます。

新型コロナが地域的に過度な影響を及ぼす例が見られます。
それはその地域の根本的な構造的不平等と広範な差別を浮き彫りにしています。特定の社会層が、あまりにも不均衡に、人命と生計の両方を失っています。

そこでは根の深い不平等がウイルスの広がりを助長し、それがさらに不平等を深めるという悪循環を生んでいます。

ウイルスの脅威に対応するとき、そこに差別があってはいけません。差別的な慣行は私たちすべてを危険に晒すことになるでしょう。

国は最も危険に晒されている、または過度に影響を受けている特定のグループに対して、特別な対策を講じなければなりません。

インクルージョン(包括)は私たち全員を保護する、最も良いアプローチなのです。


2.世界的な連帯が不可欠だ

A. 新型コロナとの戦いがそれを要求している

新型コロナウイルスは人類全体を脅かしており、人類全体が反撃しなければなりません。

しかし、多くの国では、そのための資源を十分に確保することができません。公衆衛生能力の格差は、貧しい国をより高いリスクに晒しています。

私たちはすべての国が等しく効果的に対応できるようにする必要があります。

もし一国がウイルスの拡散を抑えるための努力に失敗すれば、すべての国が危険に晒されます。

世界は、最も弱い医療システムと同程度にしか強くないのです。

ウイルスは、国境を越えた協力と集団による行動によってのみ打ち負かされるのです。

B. 先進国には低所得国を支援する必要がある

先進国が低所得国を支援することによって、世界的に人権が実現します。

知的財産制度の柔軟な運営が必要です。治療とワクチンは、世界的な公共財であるべきです。

また、新型コロナウイルスの研究のためには、世界的な統計システムの共有が必要です。

ピウスツキの巡回展というのを札幌でやっている。

それが分かったのが本日、赤旗道内版にちらっと載ったのを見た。

明日、道AALAで「コロナと人権宣言」で話をしなければならず、最後の追い込みなのだが、展示会の最終日はまさにその明日、25日になっている。

ということで、急いで行ってきた。


ポスターがパネル6面に並んでいる。朝10時には誰も受付におらず、観客もおらず一人で堪能してきた。

もともと5月にやるはずだったものが、コロナで延期になったらしい。私にとっては幸いであった。

展覧会の主催は「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」。
お金をとる方の博物館で私はまだ入ったことはない。
いまどき珍しいが、今回の展示会もすべて撮影禁止である。誰もいないのでとってもわからないが、一応遠慮しておいた。


ピウスツキについて

今回の展覧会は思い切って、ピウスツキが平取に滞在して写真を取りまくったときの記録に集中している。明治の中頃、1週間ほどだけ滞在したときのものだ。

きわめてスッキリした構成だが、わからない人にはわからないだろうと思う。

ピウスツキはポーランド人。当時ポーランドは祖国を失い、ピウスツキは国籍上はロシア人だった。

皇帝暗殺事件に関係したために、シベリアに流刑となり、長いことサハリンで暮らした。

その間に樺太アイヌの女性を娶るなど、現地に溶け込んでいた。とくに蝋管レコードによるユーカラや儀式の音源採集は名高い。

そのピウスツキが平取に来ていた。しかも日露戦争の始まる半年前に。(正確には白老と平取)

このことは私は沙流川博物館の展示で初めて知った。


波乱万丈の生涯

ピウスツキの波乱万丈の生涯については、到底ここで語る余裕はない。

まずは井上紘一氏の力作「ブロニスワフ・ピウスツキ年譜」をご覧頂きたい。必ずや目の回るような臨場感を味わえるであろう。

ただ、この年譜はピウツキの自叙伝に基づいて作成されていると思われ、客観性はどうかと言われると、ちょっと首をひねるところもないではない。函館の停車場で行き倒れのアイヌ人グループを助けたら、それが白老の有力者だったなど言うのは、出来すぎの感がある。

これだけ短期のバタバタ調査で、それなりの業績をあげたのはおそらくバチェラーの後援の賜物であろう。

もう一つは樺太アイヌという存在である。実は初めて知ったのだが、樺太から稚内、稚内から江別、江別から石狩へと移住を迫られた樺太アイヌは、そのほとんどが疫病のため死別、離散したと憶えていたが、じつは20年ほどしてから樺太に戻ったのだ。当時、樺太は千島との交換条約により全島がロシア領となっていた。したがって彼らは国籍を変えたはずだ。

ピウスツキは最初、島の北部に住むニブフ人の調査にあたったが、主要なフィールドを樺太アイヌに乗り換えた。彼は調査をするだけではなくロシア語教育も行った。酋長の姪を娶るほどの入れ込みであったようだ。

私の個人的感想: 日露戦争前夜に、ピウスツキをふくめたロシアの反政府派の連中が、イギリス人宣教師の援助を得ながらアイヌの調査をした。これにはなにか裏があるのではないか、と疑ってしまいたくなる。

まぁ、話はこのくらいにしておく。


樋口さんの本を読んでいて、言葉が乱舞していると感じた理由は、一つは権利・人権論の考察がないこと、一つはあまりにも早く各論(リベラル対イリベラル)に入りすぎるからだ。

彼は政治学の総論を書いているのだから仕方がない。
しかしいまは、もっと根っこの方の問題、つまり政治哲学(目的論)が問われているのだろうと思う。

なぜならこの本の出版は去年の12月、つまりコロナ前のことであり、いまはコロナ後だからだ。

自由と平等の関係

近代社会において、人間の権利は自由と平等のうちに存する。

自由と平等は二項対立の関係ではない。人間は自由であるべきだし平等であるべきなのだ。
人間は不自由であってはいけないし、不平等であってはいけないのだ。

だから、人は自由であることを求め、平等であることを求める権利を持っている。

しかしふたつの権利はおのずから重み付けが違う。


自由権は原理的で、平等権は具体的

自由を求め、いかなる差別も拒否する権利は、社会的規範の中で暮らす人間にとってもっとも原理的なものだ。
一方平等を求める権利は、限定的で条件付きのものだ。

自由を求める権利は相対的で主観的なものだが、平等を求める権利には具体的な尺度がある。

平等は算術的な平等を意味するものではない。大事なのは、すべての個人が法のもとでの平等を享受することである。
平等の権利とは、良心に恥じることなく暮らしていく権利である。
そのために「まっとうな」生活水準を保持する権利である。


生存権と福祉の義務

注意しなければならないのは、人々の平等を求める権利に照応するのは「まっとうな」生活水準を保持であるということである。

それは憲法25条に規定された「健康で文化的な最低の生活」の維持である。

それ以下の最低の肉体的生存、あるいは傷病に対する療養などについては、本来は国が国民に対して追うべき福祉の義務に属することである。

それを承知の上で、ゼロレベルからの生存権を含めて、「具体的人権」として考えるべきであると思う。

そしてそれを「平等を求める権利」の発展形として考えるべきであろうと思う。


地球規模で考える自由権と平等権

これまで自由も平等も国家レベルで考えられてきた。
国家があり、憲法があり、それぞれに医療・教育などの制度があって、それを基準に国民としての人権というものが考え語られてきた。

しかし、20世紀末から急速にヒト・モノ・カネ・資本の移動が自由化し、ある意味で垣根が取り払われる状況も生まれている。

したがって、国民ではなく「世界市民」としての人権が語られる状況が生まれているかのように見える。

しかしその自由化は偽りの自由化(ネオリベラリズム)であり、強者にとっての自由化でしかない。

もし「世界市民」の社会みたいなものが生まれるとすれば、それは強者の社会でしかなく、弱者には厚い高い国境の壁が妨げとなる。

まずは移住の自由の大幅な拡大が、国際的に合意されなければならないだろう。


世界規模での平等と生存権の考え方

率直に言えば、「まっとうな」生活水準を保持する権利は、途上国においては程遠い現実である。

したがって、ゼロレベルからの生存権をふくめて、「具体的人権」として考える必要がある。

餓死しない権利、集団虐殺やレープから身を守る権利、奴隷労働を避ける権利などから始まり、初歩レベルの教育や医療を受ける権利が緊急に保障されなければならない。

新型コロナに感染しない権利、新型コロナで死なない権利は、まさにここにハマってくるものだろう。

現代民主主義をどう捉えるか

「現実の政治」論というのは三本セットになっています。
*現代政治というのはなにかということ、
*民主主義制度とは何かということ、
*そのなかで人間はどう扱われるのか、
ということの組み合わせです。

現代民主主義というのは現実の政治のあり方で、これは誰のため、なんのための政治なのという視点がまず必要です。

それが「現代」という言葉に凝縮されています。つまり古代でもなく、中世でもなく、近代でもなく現代という時代が要請している政治のあり方です。


民主主義には思想と制度がある

中世においては封建制と身分制度が支配していました。
イギリスやフランスの革命はそれを打ち破って新しい制度を作りました。

それが自由と平等の民主主義制度です。

革命が作り出したものはそれだけではありません。自由と平等は人間にとって何よりも大事なものだという考えです。

これが民主主義思想です。


民主主義思想はリベラリズムと呼ばれるようになってきている

これまで制度としての民主主義と思想としての民主主義は、しばしば混同して用いられてきました。

そのために議論がすれ違うこともしばしばありました。

しかし2015年の有事法制の際に、立憲主義という言葉が民主主義の土台の思想として持ち込まれました。
最近ではより幅広い「リベラル」という言葉も使われるようになりました。

ただあまりにも多くの言葉が一時に持ち込まれたために、頭の中が混乱しています。

例えば最近岩波新書で出た
樋口陽一「リベラル・デモクラシーの現在」
という本を読んでいると、さまざまな言葉が乱舞していて、めまいがしてきます。ちょっと言葉の遊びみたいな気もしてきます。

押さえておくべきは、「リベラル」という形容詞は現代民主主義の思想を表現しており、「デモクラシー」は制度としての民主主義だということです。

これで納まりは良くなるのですが、「リベラル」というのがちょっとうっとうしいのです。
すでに独特の色がついていて、「自由主義」みたいな言い方から、「進歩主義」あるいは「革新的」みたいなニュアンスまでスペクトルが広がっていて、論者ごとにイメージがずれてくる可能性もあります。
そこで「現代」民主主義にしてみたわけです。

「現代の」という形容詞にどう含意していったらよいか、作業としては難しいのですが、多くの人が参加しやすい作業仮説になるのではないでしょうか。

この文章は
去る15日、開かれたニカラグア革命41周年記念学習会での発言に加筆したものです。

ニカラグア革命41周年、おめでとうございます。

ニカラグアは私にとって奇跡の国です。そして昨年ニカラグアを訪れて、もう一つの奇跡を体験しました。

それは「愛と平和、許し」の3つのモットーを加えた政策を打ち立てて、その実現に成功しているからです。

この話はちょっとややこしいので、後回しにして、まずは私がどのようにニカラグアから、奇跡を授けられたかを順番に語っていきます。

1.ニカラグア 最初の奇跡

1979年7月、ニカラグアは革命に成功しました。ソモサ独裁を許さないと決意を固めた若者が、資本家層もふくめて国民の圧倒的支持の下に決起したのです。

1979年という年、ラテンアメリカのほとんどの国が軍事独裁政権の支配のもとにありました。

革命どころか、反政府の意思表示さえ困難な状況にありました。

そんな中、武装したゲリラが一斉蜂起し、武力革命を成功させたのです。

まさにミラクルです。

とはいえ若者たちが作った新政府はか弱いものでした。ソモサを打倒するところまでは一致したものの、資本家はそれ以上の改革には反対でした。

文盲一掃、医療無償化、農地改革の改革三本柱は、至るところで壁に突き当たりました。

しかし若者たちはそれにめげることはありませんでした。愛と平和の旗印を掲げ、教会の改革派と一緒に粘り強く運動を進めました。

2.米国と真っ向勝負した10年間

明日にでも潰れるだろうと思っていた新政府は、結局10年も続くことになりました。これが第二の奇跡です。

米国と資本家の思いのままにならない政府に対し、ついに破壊命令がくだされました。新政府樹立から5年目のことです。

ニカラグアの北と南から米国の雇兵部隊が侵略を開始しました。同時に厳しい経済制裁と、ニカラグアは独裁だというキャンペーンが開始されました。

こうして人口600万、北海道ほどの小国が米国を相手に一騎打ちすることになったのです。私たちは随分支援もしましたが、正直言ってとても太刀打ちできないと思っていました。

しかしそれからの5年間をニカラグア政府は耐えたのです。恐るべきインフレがやってきて、市場からは物がなくなりました。

そして5年後の選挙でついにサンディニスタは政権の座から降ろされました。

5年間の内戦で国の経済はずたずたになり、ニカラグアは中米の最貧国と呼ばれるようになりました。

実は本当のニカラグアの奇跡はここから始まったのです。

3.雌伏の15年とニカラグア革命

政権から降りた後もサンディニスタへの支持はほとんどそのまま維持されました。

アメリカな何度もこの厄介な国から手をひこうとしましたが、そのたびに親米政権が選挙で負けそうになるので、手を引くことが出来ませんでした。

こうして15年が経ち、ついにサンディニスタは政権に返り咲いたのです。しかも新米政権がルールを敷いた選挙で勝ったのです。

今や政党となったサンディニスタは、あのときの大統領オルテガをふたたび大統領に就任させました。

4.安定した多数者革命

それからのニカラグアの政治はもう一つのミラクルでした。

中米最貧国と言われたニカラグアを年率5%の経済成長に乗せ、あわせて医療・教育・福祉の大幅拡充を実現してきました。

とくに愛と平和を基調とする国内宥和政策は、資本家層やカトリック教会からも広い支持を受けるようになりました。

こうしていまでは国内で圧倒的多数の支持を受け、中米でもっとも安全な国として国際的注目を浴びるようになりました。

5.「愛と平和」の革命

ところで1年ちょっと前に、ニカラグアでも学生らの暴動があり国際的に注目されました。
メディアの多くは、サンディニスタ独裁に対して自由を求める若者が決起したと報道しましたが、事実は白黒逆だったのです。

ただここでは事実問題では争いません。この暴動への対処を政権幹部に聞いたとき、またしてもあの言葉が飛び出したのです。

「私たちの対処の基本は愛と平和、そして赦しだ」

こうして明らかな殺人・放火の犯人のほかは恩赦が与えられました。その代わりに社会の中での教育がもとめられました。

「これはソモサの残党、コントラ兵士に対して我々が行ってきたこととおなじことだ」と指導者は語ります。

サンディニスタに批判的な勢力もこれを受け入れ、事態は急速に沈静化に向かいました。残ったのは明らかに米政府や右翼勢力と結びついた雇われ勢力のみとなりました。

私たちがニカラグアを訪問したのは暴動から3ヶ月あとでしたが、もはや暴動の跡はまったく見当たらず、市民もまったく何事もなかったように活動していました。

「愛と平和と赦し」 これが、ニカラグア革命が到達した最大の教訓です。それ自体が奇跡ではないでしょうか。

ただ、学内施設が破壊された国立自治大学だけは、まだ連中への怒りが収まらないようでした。

日本考古学の歩み

ろくに知りもしないでいうのも何だが、年表づくりしてみて、なにか徒労感に襲われる。

記載すべきことと、省略して良いことの重み付けが、そもそもよく分からない。

なんだかんだ言いながらも、考古学が始まって以来すでに100年は立っているはずだ。その100年、考古学は何をやってきたか、それを考古学者は自ら語ろうとしない。

なぜだろうか?

私はどうも、最初の階段についての統一した認識がないからだと思う。

私は考古学は何よりもまず集古の学だろうと思う。それはまず博物学として始まり、それが分類され、時間軸上に位置づけられていくことが絶対的な実務だ。

もちろんそれには考える過程も含まれている。だからそれだけで考古学と呼んでよいのかも知れない。

しかし日本の考古学は、絶対的な宿命、「日本人はどこから来たのか」という命題を抱えてきた。

これは今から考えてみれば無理な話で、考古学にそんな問題への答えなど出せるわけがないのだ。

この呪いから解き離れたいまは、安んじて博物学に徹していればよいのだ。それは有史時代の考古学と同じ目的意識だ。

ただゲノム解析というのはきわめてラフなスケッチであり、その間隙を埋めながら先史時代を豊かに描き出すかは依然として考古学の役割である。

あまり卑弥呼云々の歴史学的な要請にこだわることなく(経営的にはゆるがせに出来ないが)、淡々と歩みをすすめるべきではないか。

マンローの位置づけについて

このような日本の考古学の発展史からすれば、マンローはその始祖と言ってもよいのではないだろうか。

その根拠は三つある。

一つはまずなんと言ってもその圧倒的な資料数にある。二度の火災でその多くが灰燼に帰したが、それでも国内外の資料数とその多様性は圧倒的である。

第二には、近代的で大規模な発掘手技と、周囲状況や位層解析もふくめた科学的な分類・整理である。三ツ沢と鹿児島の発掘は今日でも圧巻である。

第三には、考古学を博物学にとどまらせず人類の歴史と結びつけて「先史時代の歴史学」と位置づけたことである。

これは「言わざるべきことを言わない」戒めであるとともに、「言うべきを言いきる」ことの大切さを諭しているのだろうと思う。

マンローがただ一人の始祖というわけではない。数人の外国人がマンローの周囲にあって共同したり支援したりの関係にあった。この「マンロー・グループ」は、広く言えば東京・横浜在住のヨーロッパ知識人社会と言ってもよい。

その代表が東大医学部教授のベルツであり、オーストリア大使館のシーボルト(小シーボルト)である。

マンローの「日本先史時代」論は彼らとの交流の中で生まれ、固められたものであろうと思われる。しかし、それはユーラシア大陸を挟んだ対極にあるブリテン島の歴史を知るものの論理であり、その中で少数者として劣位にあったスコットランド人の思いであったろう。

マンローの日本人起源論は、平たく言えば「アイヌ先住・渡来人重畳」説である。ここで「アイヌ」と言うのは、今で言えば「縄文人」であろう。

これはブリテン島において、イベリア半島から移住した先住民文化の上にアングロ・サクソンと呼ばれる大陸系が侵入し、混血の度合いに応じた「英国民」を形成した経過に比するものがある。(ただし先住民=ケルトというのは不正確であること。イングランド人はアングロ・サクソンと自称するが、DNA的には先住民の血を濃く残していることを付記しておかなければならない)

マンローの業績はその俯瞰性や先見性において群を抜くものであった。しかし彼は日本のアカデミーとは隔絶していた。彼の活動の地は横浜に限定され、出版は英語に限られていたから、決して多くの日本人の目に届くものではなかった。

例えばモースのように有能な通訳を抱え、日本人目当てに通俗的な講演会を行っていれば、その影響力は計り知れないものとなったであろう。

なぜマンローは孤高の位置に留まったのか

多くの謎に包まれているが、最大の問題は、彼が終生、日本語を喋れなかったことだ。喋らなくても良い世界の中にいて、そこから出ようとしなかったことだ。
北海道から西南諸島に至るまで縦横無尽に動き回り、多くの人と接触しているが、それはすべて通訳を介してのものだ。

これは彼の個人的習性に関わっていると言わざるを得ない。

飽くなき好奇心と、地球の果てまで赴く行動力は彼の個性を何よりも特徴づけている。しかし、それと対照的に事物への執着と裏腹な人物への無関心が同居している。さらに自らの弱点をさらすことへの病的な臆病さも見え隠れする。

今で言う発達障害だが、こういう人が医者になると、普通はあまりいいことはない。しかし幸いなことにマンローはまずまず如才なく医者稼業を送っていたようだから、弱点を補強するだけの修養は積み重ねていたのだろうと思う。

今回、彼の二大論文である「先史時代の日本」、「アイヌ、伝説と習慣」の一端に触れることで、おおよその射程は定まったように思われる。




考古学には発達史がない?

はじめに

実はいまだにマンローにハマっていて、とにかくアイヌ研究史の中でマンローが無視されている印象があり、それじゃ考古学の方ではどうなのかと思って調べてみた。

とりあえずの結論としては、マンロー無視は考古学においても同じだということがわかった。

それも驚きの一つではあるが、そもそも日本の考古学には歴史がないということにびっくりした。

まずネットで調べられる範囲で、いろんなキーワードで検索をかけたが、江戸時代の博物学的なものから始まって、貝塚や遺跡が見つかるたびに認識が深まって、先史時代の全容が次第に明らかになっていく…みたいな記載を期待したのだが、今のところ見つけられていない。

昨日は道立図書館に行って検索をかけたのだが、どうもこれと言ったものは見当たらない。

勘ぐると、マンローの名を表に出したくないためにそういう事になっているんでは…とさえ思えてしまう。

マンローは自著に「日本の先史時代」と名付けた。彼の問題意識は鮮明だ。発掘して遺物を見つけ出しては、それらを時系列の中にはめ込んで、「日本の先史時代」を浮かび上がらせることこそが目的なのだ。

無論考古学の内容は他にもある、江戸時代や奈良時代を掘り出し、歴史の内容を豊かにすることも大事なことだ。

しかし、文字のない時代は考古学しか語れない。先史時代は考古学の独占販売なのであり、先史時代を詰めていくことが考古学の最大の目的意識でなくてはならない。

大事なことは考古学的方法ではなく、対象とする時代だ。カッコを付けない考古学は、先史時代(研究)学と呼ぶべきだろう。

考古学は古物を見てものを考える学問だ。だから何を見てどう考えてきたかの歴史が考古学史を形成する。いろいろあって良い学問なのだ。

空がわき道に逸れないようにするためには、学問の歴史を絶えず念頭に置いて考えていかなければならない。

もう一つは、ゲノム解析による日本人の形成過程がかなり明らかになっているので、この道筋に沿って古物を構成していかなければならないということである。

とくにY染色体ハプロの解析は考古学の画期となっており、まさにこれを持って考古学史は有史時代に突入したと言ってよいだろう。

そんなことを念頭に置きながら、雑音のない旧石器と縄文を中心に、年表づくりに取り掛かりたい。当然のことながらマンローとその周囲は大きく取り上げることになる





水戸光圀、古代石碑の記事に従い、栃木県侍塚古墳を発掘。

蒲生君平、古墳を陵墓として崇拝の対象とする。前方後円墳は君平の造語。

木内石亭と弄石社: 石斧や石鏃を古代人の作成したものと判断

1823 大シーボルト、初回の訪日。植物学者として多くの標本を持ち帰る。帰国後に全7巻の『日本』を刊行。
はべらぼうに面白い。一読をおすすめする。
ウィキには「トムセンの三時代区分法を適用して、日本の遺物を年代配列し叙述」とあるが、どこかはわからない。

1869 小シーボルト(シーボルトの次男)が兄とともに来日。墺外交官業務の傍ら考古学調査を行いう。『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。

小シーボルトは町田久成、蜷川式胤ら古物愛好家とともに古物会を開催。「考古説略」を出版し欧州の考古学を伝える。

1876 ベルツ、東大医学部の教授となる。小シーボルトの影響で骨董品収集を趣味とする。

1877 モースが東大の生物学教授となる。偶然車窓から大森貝塚を発見。教室員とともに発掘に取り組む。

小シーボルトが第一発見者を争うが、実地研究で先行したモースの功に帰せられる。このあと小シーボルトは考古学の学術活動から手を引く。

1879 モース、ダーウィンの推薦を受け、『ネイチャー』誌に大森貝塚に関する論文を発表。このとき "cord marked pottery"の用語を使用。これが『縄文土器』の語源となった。

モースは考古学の素養はなかったが、講演活動を通じダーウィンの進化論を精力的に紹介した。

1877 帝国大学理科大学動物学科の学生坪井正五郎、同志10名により「人類学の友」を結成。

1886 坪井らにより「東京人類学会」が結成される。機関誌第1号を発表。

1895 坪井正五郎、通俗誌に「コロボックル風俗考」を発表。石器時代人はアイヌ人に置き換えられたと主張。アイヌ伝承の「コロボックル」を旧石器人と解釈する。

1897 ベルツ、樺太アイヌ調査の為、北海道石狩を訪問。ベルツはマンローとともに横浜の三ツ沢遺跡の発掘にも参加している。

1916 東大の他、京大や東北大でも考古学教室が開かれ、従来とは異なる思潮が競合するようになる。

1919 史跡名勝・天然記念物保存法が成立。重要遺跡が「史跡」として保存されるようになる。

1925 大山巌の次男大山柏が大山史前学研究所を設立。

1928 広義の人類学(自然人類学、考古学、民族学)に関心をもつ若手研究者により人文研究会が設立される。江上波夫、岡正雄らが参加。

1928 清野謙次、『日本石器時代人研究』を発表。縄文人骨のマススタディにより「超万世一系」論を提唱。

1930 東京帝大の山内、甲野、八幡らは、縄文土器の編年によって縄文人の歴史を探ろうとし、「編年学派」と呼ばれる。出土層の層位に着目し編成。

1932 山内清男、「日本遠古の文化」を発表。縄文は狩猟・漁獲・採集文化であり、弥生は農耕の文化と規定。

1943 小林行雄、弥生土器の型式と様式をカテゴリー化する。

1948 登呂遺跡発掘調査をきっかけに日本考古学協会が発足。「文化戦犯」を排し、「自主・民主・平等・互恵・公開の原則に立って、考古学の発展をはかる」と謳う。

1949 アメリカの化学者リビー、二酸化炭素同位体測定法を発明。

1959 近藤義郎、弥生農村を倉庫を共有する「単位集団」<大規模な工事にあたる「農業共同体」の2階層に集団化する。

1960 坪井清足、縄文時代を生産力の停滞と呪術支配の世界として定式化。マルクス主義の公式を当てはめたものとされる。

1970 所沢の砂川遺跡。旧跡時代の遊動型キャンプの遺跡。原石の加工処跡を中心とする放射線型遊動生活が想定される

1975 下條らにより、磨製石器(弥生時代)の石材研究が一般化。北部九州における石器生産の専業化が明らかになる。

1980 群馬の下触(しもぶれ)牛伏遺跡。旧石器時代・前半期ナイフ形石器群期の遺跡。直径数十メートルの石器ブロックを形成。打ち欠け石器のほか局部磨製石斧も出土。大型哺乳動物の共同狩猟のためのキャンプと考えられる。
後半期ナイフ形石器群期では大型キャンブは消失し、落とし穴による小型獣捕獲(富士山南麓)へと代わっていく。

1981 西田正規、紋切り型縄文観を批判、温暖化に伴う多様化が生活の多様化を生み出したところに縄文時代の特徴を見るべきだと主張。「タコ足的な生業活動」と形容する。

1982 馬淵久夫、青銅器の鉛含有量測定により、産地の同定を行う。同じ頃、釉薬の鉛成分の分析も一般化。

黒曜石の放射性同位元素分析により、産地の同定が行われるようになる。

1992 三内丸山遺跡の発掘が始まる。780軒にもおよぶ住居跡や大型掘立柱建物が存在したと想定される。ここから豊かな縄文のイメージが広がる。

1999 青森県太平山元遺跡の土器、AMSによる再検討で従来より4千年遡る可能性が指摘。
この土器は日本最古とされ、縄文文様はないが縄文土器に比定される。


どうもはっきりしないが、渡辺氏のその後の文献にはマンローに対する言及は見られない。たぶんセリグマン夫人と渡辺氏は絶交状態に入ったのであろう。
しかし二人が絶交するのは構わないが、とばっちりでマンローまで言及なしというのは、いかにも大人げない。同じ道を歩いた先輩への敬意は、多少の見解の違いはあっても形にあらわすべきだろうと思うが。

なんだろうかとネット上を探したが、みな口をつぐんでいる。やっと見つけたのが木名瀬高嗣「アイヌ民族綜合調査」というPDFファイル。

結構長いので要約紹介する。



1.序

1950 年代の北海道で大規模なアイヌ調査が行われた。それは、「アイヌ民族綜合調査」と呼ばれる。

調査目的は下記のごとく示されている。
アイヌ民族について幾多の調査研究が行われて来たが、未だアイヌ民族の人種的民族的系統、固有文化の本質は十分に解明されたとはいえない。
一方、アイヌ民族固有文化は急速に消滅しつゝある。
アイヌ民族は文化的、社会的経済的条件も決して恵まれたものとはいえない。アイヌの福祉政策のためにも、基礎調査が必要である。

2.「アイヌ民族綜合調査」の組織構造

この調査は日本風の「ミンゾク学」(民族学/民俗学)ではなく、英米流の「文化人類学」「社会人類学」という機能主義的な社会理論のもとに行われた。

調査の構成メンバーは「文化人類学」「形質人類学」そして「北海道諸学者」の三者から成り、「沙流アイヌ共同調査報告」はそのうちの前二者による成果である。

その中核を担ったのは、泉靖一と杉浦健一という2 人の人類学者で、戦後の東京大学文化人類学教室の草創期を担った人物として知られる。
彼らは1952 年3 月刊行の『民族学研究』16 巻3・4 号(合併号)に「沙流アイヌ共同調査報告」で研究論文を発表している。

それらはいわば未完の企図にとどまり、学問領域の内部で再検討の対象として顧みられることはなかった。

「 北海道諸学者」(北海道大学を中心とした)

「北海道諸学者」の分担した調査について東大の研究者はまったく期待していない。「速やかにその報告の発表されるのを待っている」と述べるのみである。

新しい理論枠の影響を強く受けるた中央の「文化人類学」者たちは、旧来からの素朴で記述的な方法に基づく個別民族誌の研究にとどまる者たち(金田一京助や高倉新一郎ら)を区別していた。

それらのアイヌ研究者は北海道ばかりでなく全国の学界に分布した。金田一京助門下で東京学芸大学教授であった久保寺逸彦がそれに相当する。

以下は木名瀬さんのキツーイ総括
理論研究の中央に位置する(と自認する)「文化人類学者」集団が、「北海道諸学者」と一括された「ミンゾク学者」とアイヌの「アイヌ人情報提供者」という周辺化された二重のエージェントを媒介としてアイヌを〈知〉的に搾取・収奪することが「綜合調査」の中心的な構造であった。


3.アイヌの激烈な反応

調査の中心を務めた東大の泉靖一は、アイヌから激烈な反応を受けたという。
「何故アイヌが胴が長いなどと、つまらぬことを云って、シャモと差別するか」「何故つまらぬことをしらべて金もうけするや」
「どうして調査するならば、もっと有益な生活の為になるような調査をしないか」立つづけにまくし立てられる。
これが毎日新聞の署名記事(藤野記者)として書かれたのだが、木名瀬氏によればその記事は
暗い色調の底に哀愁とロマンティシズムが漂う文体で貫かれた筆致はどこまでも第三者的で、ときに冷笑的と映る場面も少なくない。

ということで記事が紹介されている。以下その一部
道東、白糠の町を、アイヌこじきが歩いていた。軍隊服にアカじみた外被、うすい背中に全財産をつめこんだリュックが、軽くゆれている。
酒屋から隣りの雑貨屋へ、親指の出た地下タビはよろめいて、年はもう七十才は越しているだろう。
写真をとられていることに気づいたらしい。さっと道ばたにかがみこみ、ふり返って、カメラマンをにらみつけた。両手には大きな石が―。
財布をとり出すと、敵意をむき出しにした老アイヌの姿勢が、とたんに、ゆるんだ。
「モデルだろ、どんな格好すればいいんだ」
そして酒くさい息をはきながら、身の上を語った。
たしかに木名瀬氏のいうとおりだ。「アイヌこじき」の表現には「夜の街」同様ギックリだ。

渡辺氏がこの調査に参加したどうかは分からない。しかし東大人類学教室所属の渡辺氏がマンローへの「細かな異同」として持ち出したのが、この調査に基づくデータであることは間違いなさそうだ。

それにしても マンロー Labyrinth だな。すっかりハマったね。他にやることあるのにね




イントロダクション
渡辺仁

ブリティッシュ・ミュージアムのデジタル図書にこの本があって、一応全部閲覧可能にはなっているらしいのだが、途中でちょん切れている。
しばらく進むと、突然セリグマン女史の注釈が出てきて、「渡辺氏の文書」にはマンローとの原著との間にいくつかの食い違いがあるというくだりへと続く。

そして突然本文の第1章が始まる。

途中欠落があるのか、とにかく不思議な体裁だ。

とにかく切れるところまで、訳を入れておく



THE AINUは北海道、サハリン南部、そして千島列島の先住民です。 彼らは、そのひげを生やした体、ウェーブのかかった髪、長い頭で有名です。

1939年の北海道のアイヌ人口は16万人と推定されており、1854年からおそらくほとんど変化がありません。サハリンと千島(クリル諸島)にはさらに10,000人が散らばっていた可能性があります。

北海道は、本州の本島の北、北緯41度30分から北緯45度3分、東経140〜145度の間に位置する、約30,000平方マイルの島です。北海道の北端はサハリンから約20海里離れており、北東にはクリル諸島がカムチャッカに向かって伸びています。

 北海道の気候は亜寒帯です。年間平均気温は5.2°Cから7.6°Cの間で変動し、11月から5月にかけて雪が長く続きます。島はモミ、トウヒ、シラカバ、オーク、ニレがよく樹木が茂っています。

 川のほとんどは、島の中心を北から南に流れる山脈に沿って流れています。山ではヒグマとシカが見られ、5月から10月までほとんどの川でサケが回流してきます。かつてアイヌは狩猟や釣りを中心に暮らしており、山菜や果実も採集されていました。

アイヌと日本人の接触は長く続いており、さまざまな形をとっています。 1599年以前は、一般の日本人はアイヌとの接触を制限されていました。

 1599年、北海道の南西端(松前)に根拠地を設立した日本人は、徳川幕府から「松前氏」として認められました。彼らは、松前藩の藩領(松前)として、この地域および隣接地域の所有権を与えられました。松前藩域でのアイヌ人の定住は、すでにそこに確立されたものを除いて禁止されました。

日本の民間人はまた松前藩のエリアの外に住むことを禁じられました。松前はアイヌとの独占的貿易権を有し、沿岸に貿易・漁場を設けました。

 彼らは米、米ワイン、タバコ、塩、フライパン、ナイフ、斧、針、糸、漆器、装身具などを、鮭、皮、工芸品、および満州の装身具や衣類などの本土の特定の商品と交換しました。

この間、アイヌは独立を維持しました。

 しかし1799年、北海道のこの地域は、ロシアの商人の侵略から日本の利益を守るために、徳川幕府の直接の支配下に置かれました。

 当時、北海道沖には外国船(オランダ、ロシア、英国、フランス)がよく見られ、北太平洋におけるロシア人の植民地化が活発化していました。徳川政権は、千島列島がロシアの植民地化するのに危機感を持っていました。(1771)。

 商取引の成立を願ってロシアの船が北海道沿岸にやってきました(1779年)。その後、ロシアは代表を日本に送り、外交関係を結ぶことを望んだ(1792年のラクスマンと1804年のレサノフ)。

 交易所は軍事ポストになり、日本人はアイヌ地域に限られた行政組織を設立しましたが、防衛のために必要な場合を除いて、彼らの内政にほとんど干渉しませんでした。貿易は以前と同様に続きました。

1821年、松前は再び領土を管理し、従来の政策を続けた。アイヌはこれらの沿岸の交易所周辺で日本人によって雇われるようになりました。

1854年から1867年にかけて、北海道南西部は再び徳川幕府の直下に置かれました。1868年に島は日本の領土の一部となり、アイヌ文化を大きく変える植民地化の過程が始まりました。

今日、アイヌ語はめったに話されておらず、その後は高齢者のみが話しています。 純血のアイヌはほとんど絶滅しています。 そして伝統的な経済全体が大幅に変更されました。

日本政府は北海道に行政本部を設置した。

アイヌは日本国勢調査の登録簿に含まれ、それらの領土はアイヌと日本の開拓者の両方に土地の区画を許可するために制定された土地法で政府の財産になりました。

アイヌはサケを釣ったり、…


どうもさっぱりよくわからないのだが、セリグマン女史の言い分によると、渡辺氏はこのイントロダクションで、どうも自分の数字や自分の見解をどしどし突っ込んでいるみたいなのだ。
ひょっとすると、渡辺氏はマンローの所説をあまり読まないで、自分の数字を入れたのかも知れない。

こうなると、どちらが正しいかというのではなく、ある本の紹介を頼まれた人間がとる態度としてどうかということになる。

この話は、とりあえずなかったことにしておこう。真相がわかればその時点で書き込みたい。

マンローーについて書かれた最良の日本語文献は桑原さんのドキュメンタリーです。しかしこれはマンローー亡き後の関係者からの聞き書きを集めたものです。
マンローーが日本語もしゃべれないままに50年も日本に居着き、最後は北海道の山の中で敵国人として冷たい目を浴びせられ、生活の糧も奪われ死んでいく過程というのはなかなかわからないところがあります。
その点で、マンローが心を許し頼みとしたイギリス人考古学者セリグマンへの手紙は、その内心を知る上できわめて貴重なものと言えるでしょう。
「アイヌの文化と伝統」はマンローの遺稿集です。これをセリグマンの妻で同じく考古学者だったセリグマンが一冊の本にまとめ上げました。
セリグマンの書いた序文はマンローの手紙の内容を駆使して書かれており、マンローの「アイヌ観」を知る上で最高の文献だろうと思います。ここでは全文をそのまま訳しておきます。
後半は校閲者の渡辺仁に対する反批判のような中身になっていて、どうも前後関係とかがわからないと意味が読み取れません。
渡辺氏は後に東大教授、北大教授を歴任し、この世界のボスになった人です。この後マンローについて言及した様子はなさそうで、彼がマンローを黙殺すれば、学会も黙殺せざるを得なかった可能性があります。もう一つは1950年代前半に東大の文化人類学教室が中心になって「アイヌ民族綜合調査」というのが行われ、既存の「北海道諸学者」の学説が随分批判されたらしい。そこまで関連付けるべきかわからない。とりあえずこの本に収録された渡辺氏の「紹介」を読むことにするか。
若干ややこしくて煩わしいところもあると思いますがご了承ください。



序文  B・Z・セリグマン

NEIL GORDON MUNROは1863年にエジンバラで生まれ、教育を受け、最終学歴として医学を学びました。

卒業直後、彼は極東へ向かいました。最初はインド、その後香港を経て日本へと旅を続けました。

 1893年に横浜の総合病院の院長になり、時々ヨーロッパに戻ったが、その時から死ぬまで日本を我が家としました。(“時々”と書かれているが、1回のみである)

 彼は日本の先史時代に興味を持ち、とりわけアイヌの人々の伝統と暮らしに関心を集中するようになりました。彼は19世紀末からの20年間に、何度もアイヌの人々のもとを訪れています。これまで出版されたアイヌ関係の著作は次のとおりです。

1.「日本の原始文化」 日本アジア協会の連載記事 Vol。 34、1906。
2.「先史時代の日本」 横浜 1908年 エディンバラ 1911年。
3.「ヨーロッパと日本の巨石群に関する考察」 横浜、1909年。
4.「いくつかの巨石群: 起源と遺物」 横浜、1911。
その他の雑誌にアイヌと自然に関するさまざまな記事を載せています。

彼は貴重な先史時代の遺物のコレクションをエジンバラ博物館に提供しました。

二風谷定住への経過

後年、マンローは軽井沢療養所の院長を務めました。その任が解かれ、軽井沢での診療と並行して長期の自由行動が許可されると、夏は軽井沢で働き、それ以外は北海道に長期滞在するようになりました。

その頃から、彼の主な関心は先史時代の考古学的研究から、アイヌ人の生活に関する民俗学的研究に移っていきました。アイヌの生活を見るにつけ、マンローの嘆きは深くなりました。

当時アイヌの人々は、長年の狩猟と食料収集の生活をあきらめ、農業から生計を立てるために働かざるを得なくなりました。彼らは貧しく、アルコールに溺れ、人生への興味を喪失し退化していました。その数も疫病などにより減少していました。

セリグマンとの出会い

1929年に私の夫、故C. G.セリグマン教授(F.R.S.)は日本を訪れました。軽井沢まで出向いてマンローに会いました。そのとき、セリグマンは1923年の大地震で、マンローのアイヌに関するすべてのメモ、標本、写真が失われたことを知って愕然としました。

マンローは自費でアイヌの研究を行ってきましたが、震災で深刻な経済的損失を被り、研究を続けることができなくなっていました。

セリグマンはそれまでの交流の中で、マンローの正確な観察力とアイヌへの知識、アイヌの人々への親密な観点を確信していました。

そこでイングランドに戻ると、セリグマンはマンローが調査を続けることができるように、ロックフェラー財団に研究資金を申請しました。

 1930年に資金が供与されると、マンローはすぐに北海道の沙流川流域の二風谷に小さな家を建て、そこに定住しました。そしてアイヌの生活と伝統について集中的に研究を始めました。

彼の仕事の方法はクリニックを開くことでした。彼の妻は訓練を受けた病院看護師で、多くの患者をこなすことが出来ました。二人はクリニックに群がったすべての人に無料の治療を与えるました。

アイヌの人々はマンロー夫婦を信頼しました。そして待合室でうわさ話、歌、伝説、むかし話をする用になりました。待合室は、そこに来たすべての人のためのオープンハウスとなりました。

マンローは多くの長老(エカシ)と知り合いになりました。マンローは「友」とか「先生」と呼ばれました。エカシはマンローの貴重な情報提供者となりました。

1932年、2番目の不幸がマンローを襲いました。12月のある朝、夜明け前に、マンロー夫婦の自宅兼クリニックである二風谷の茅葺きの住居が焼失しました。

マンロー夫妻は炎から脱出しました。マンローはアイヌの研究メモを保管していたブリキの箱をなんとかして救いました。しかし彼のすべての所持品、彼の本、彼の写真や他の科学資料は焼けてしまいました。

北海道の冬の厳しい寒さは老マンローを痛みつけました。健康は損なわれ、その後遺症は彼を一年者あいだ苦しめ続けました。いつ軽井沢に戻って夏季療養所で仕事をしたのか、また年間を通じて北海道に留まったのかは定かではありません。

しかし、彼は屈しませんでした。

セリグマンはさらなる助成金を申請しました。 1933年にロックフェラー財団はもう一度寄付を行いました。さらに王立協会と英国科学振興協会からも助成が行われました。 日本アジア協会からの支援もありました。

大英協会内のアイヌ研究小委員会が結成され、これには現在、ダリルフォード教授、ラグラン卿、F.S.A。、アーサーD.ウェイリー、C.H.、C.B.E.、F.B.A。が含まれ、私自身が議長を務めています。

1934年、モンローはセリグマンあての手紙で、永遠にアイヌに留まるつもりだと書いています。

この手紙の中で、アイヌに関するさまざまな研究成果が語られています。

彼はアイヌ語で録音し、翻訳しました。数多くの歌と伝説、さまざまな病気の治療のための50の祈りが採集されました。また困難な出産のときのさまざまな治療、そして儀式と悪魔払いの儀式の説明を書き記しています。また、音楽や娯楽についてもメモをとっていました。

村で興味深いセレモニー(多分イヨマンテのこと)が行われたときには、映画を撮影しました。映画の出来栄えに満足しなかったので、2回目のときは、プロの写真家に撮影を依頼しました。そして写真家の指示の下で働いたり、スチール写真を撮ったりする役に回りました。

 マンローはまた妊娠、出産、精神の瞑想、病気の治療に関連する儀式の映画などを撮影しました。儀式の踊り、醸し酒の儀式、そして熊を犠牲に捧げる儀式も撮影されたといいます。

 残念ながらこれらの映画は消失し、最後の一巻だけが英国に届きました。それは 現在、王立人類学研究所が所蔵しており、1933年1月10日から展示されていました。

 最近、ポジティブが元のネガから作成され、1961年9月のアテネの Comité International du Film Ethnographique et Sociologique (文化人類学映像に関する国際委員会)の会議で示されました。

クマの儀式は、すべてのアイヌの儀式の中で最もよく知られています。マンローも何度か目撃しましたが、彼の本のなかではきちっとした説明はされていませんでした。

マンローは、「家の中で行われる祭りはイヨマンテの前半を構成する。それは新築祝いの式典に似ている」と述べ、儀式のために準備されたイナウの写真をセリグマンに送りました。

熊送り(イヨマンテ)のため、熊の子が捕らえられました。熊の子は細心の注意と敬意をもって世話をされ育ちます。熊の子は神の代表として、ときには神(カムイ)自身として扱われました。

適切なサイズに成長すると、檻に入れて育てられたクマは広場に引き出され、儀式的に殺されました。これがイヨマンテの後半部分を構成します。 

マンローはなぜか、アイヌの宗教についての本で、この最も重要な儀式を説明していません。それは重大で不思議な省略のように思われます。

そのため後の出版に際して、私(編者 B.Z.セリグマン)はマンローが映画(イヨマンテを撮影したもの)のために書いたキャプションから作成した説明を追加しました。

アイヌはまた狩により捕らえた熊を殺すときも類似の儀式を行いました。マンローはその儀式も何回か見ていますが、これについて書かれた報告は見当たりません。

この儀式についてはバチェラーが以前手短に説明を加えています。それがヘイスティングスの 『宗教と倫理の百科事典』第1巻に紹介されています。

マンローの最晩年

さて研究発表ですが、さまざまな悪条件により、マンローの予想よりも作業の進行が遅れがちになりました。二風谷の冬の厳しい気候と陸の孤島のような孤独な生活は、彼の健康を著しく損ないました。

マンローは出来上がった原稿の大部分を、1938年頃までにセリグマンに送りました。その間セリグマンは、マンローがなんとか生活できるようにと個人的な資金源からお金を集めました。

それは本の形で章立てて整理されました。しかしそれは完全ではなく、すぐに本にして出版できるほどの準備ができていませんでした、そして熊送りの説明も含まれていませんでした。

これらのポイントについて、マンローとセリグマンの間に手紙のやり取りがあったのですが、それは1941年の日本の世界大戦への参戦によって突然打ち切られてしまいました。


マンロー夫人と “貞操帯

戦後、私(セリグマン)はイギリス領事館から「マンローが1942年4月に亡くなった」という知らせを受け取りました。そのあとマンローの妻の住所はわからないままでした。

マンローはその手紙で彼女のことに何度も言及していました。その文面から、妻はマンローの診療の仕事を仕切り、家計を維持し、マンローの健康を守ってきたことがわかります。それだけでなく、彼女はアイヌ民俗の研究においても貴重なはたらきをしてきました。

長老はマンローに、女性が服の下に身に着けていた秘密の貞操帯(ウプショロクッ)によって魔法の力を行使できると言っていました。

(ウプショロクッは結婚した女性が下着を締める飾り紐で、強いられたものというより、女性の誇りを象徴する意味を持つ)

マンロー夫人はアイヌの女性たちにエカシの言葉を伝え、女性は自信を感じるようになりました。そのおかげで、マンローはこの主題を追究できました。そしてウプショロクッがアイヌの社会組織で重要な役割を果たしていることを発見できたのです。

マンロー夫人はアイヌの女性5人に、自分のウプショロクッの正確なコピーを織るよう依頼しました。そして出来上がったウプショロクッはのちに大英博物館に与えられることになりました。


マンローの研究態度

アイヌの習慣に関するマンローの記事が、メディアにたくさん掲載されたのは1934年のことです。彼は秘密のガードルが母系相伝することを報告しました。さらにそれらの持つ魔法の力、共同体における意味と重みについて言及しました。

マンローがアイヌ文化について本を書く目的は、アイヌの人々の慣習を注意深く観察し、報告するだけではありません、それは世界全体、特に日本人にアイヌの生き方を提示し訴えることでした。

アイヌの文化には考慮に値する価値があり、彼らは不条理な迷信だけを信じている未開の民ではありません。

 マンローはこの見解を一貫して強調しました、アイヌ人には、不合理に見えるかもしれない信念や儀式があります。それを記録するとき、彼はヨーロッパの民俗習慣と比較し共通点を見出すために苦労しました。

 実際、彼の未発表の記事の1つに発表の機会が与えられたため、彼はこの本をアイヌに対する「寛容の嘆願」にすることを意図していました。

もちろん、いまこの本を読んでいる読者にとって、そのような嘆願は不要です。だからそのような「奴隷の言葉」は省略されています。

マンローの関心は、北海道南部の沙流渓谷の二風谷でとどまるものではありません。彼は地区の情報提供者と協力し、道北の北見を何度か訪問しています。彼はサハリンにも調査に行くつもりでしたが、それはできませんでした。

彼の主な情報提供者は、アイヌの伝承にまだ精通している年配の男性と女性でした。

もしマンローの努力がなかったら、その知識の大部分は彼らと共に消えたでしょう。なぜなら、古い生活様式は日本(内地)の影響力が増大する下で急速に姿を消し、新しい生活条件では古い儀式、信念、伝説は無視されたからです。

彼の情報提供者は、もう誰も生きているとは思えません。

マンローーはたくさんの素晴らしい写真を送ってきました。その写真とオリジナルの原稿はすべて王立人類学研究所に寄託されています。多くがこの本に掲載されています。しかし残念なことに、英国に届いたのは写真だけであり、ネガをたどることはできませんでした。

何が渡辺氏との見解の違いを生み出したか

戦争中の出版は不可能でした。終戦の後、改めて出版への模索が始まりましたが、原稿を校訂できる有能な人物を見つけることが大変困難でした。

幸運なことに私たちは、ロンドン大学に留学していたすでにさんとめぐりあうことができました。

 彼は東京大学人類学部人文研究所の講師で、東京アイヌ合同研究委員会の研究委員でもありました。彼には1950年から1952年までの4回にわたる現地フィールドワークの経験がありました。このため彼の援助は非常にありがたいものでした。

原稿についての一般的なコメントに加えて、彼は自分の経験と日本語およびその他の情報源から得た脚注を追加し、この本の歴史的意義についての紹介を書きました。

渡辺氏はマンローが準備した論文を閲読しましたが、他の記事や材料は見ていません。

彼は多くの細部にわたる違いや誤りを指摘し、マンローの主要な解釈の一つを批判しました。これらの訂正、追加情報は、すべて脚注に組み込まれています。

私は事実問題での違いを検討する際には、いくつかの条件を考慮する必要があるとかんがえます。

すでに述べたように、マンローーは20世紀前半の数十年にアイヌの住む地域を訪問し、1930年からはそこに住み、12年後に二風谷で亡くなるまで、そこは彼の家になりました。

1930年代ですでに、若い世代は古い慣習を守っていませんでした。彼の信頼できる情報提供者はすべて高齢者でした。彼の情報は、長老との話し合いのなかで知った出来事に補足され、基づいていました。

1950年代に東京共同研究委員会と渡辺氏が調査を行ったとき、宗教的思想は、すでに生きている信念というよりも、神学のシステムとして理解されていたかもしれません。
これが解釈の主な違いのいくつかの理由になっているでしょう。

事実の違いに関して、マンローは二風谷地区と他の信頼できる地区を参照したと指摘しました。彼は地区ごとのバリエーションの存在を予測していました。

「霊返し」の儀式

渡辺氏との解釈上の主な違いは、植物の精神的本質に関するものです。

 マンローは、シランバカムイという植物の神があり、すべての植物はシランバカムイからラマト(精神または魂)を枝分かれさせていると述べています。

木にもラマトがあります。木の種類によっては、他の種類よりも霊的な力が強いため、より神聖であり価値があります。

渡辺氏は、すべての植物は「霊の化身であり、すべての獣、鳥、魚、昆虫はカムイ族の霊である」と述べています。「カムイの国では霊は人間の形をしていて、人間として生きる」が、アイヌの村を訪れると「木や草などに変装」するのだそうです。

マンローによれば、この本で「霊返し」と訳した式典は、化身と霊を引き離し霊をカムイの地に帰すことです。

渡辺氏によると、野菜で作られた捧げものは、しらんばカムイという単一神ではなく、それぞれの植物の霊からその美徳を引き出しているといいます。

動物の世界に関しては、解釈の違いはそれほど大きくありません。

アイヌはすべての動物がカムイであると信じてはいないと考えています。しかし同じ種のなかに良い動物と悪い動物がいることを示唆しています、そしてこれはクマ、ヘビ、キツネとスズメバチで特に注目されます。

悪い動物からの保護は、カムイ族の首長に訴えることによって得ることができます。なぜなら良い首長は自分の悪い部下を抑制することができるからです。


アイヌ語の発音と語尾音について

主に口唇、口蓋、および口蓋音に関して、渡辺氏との違いも発生します。

マンローーはそれらをb、d、g(シランバ、イオマンデ、オンガミ)として、渡辺氏はp、t、kとして音訳します。 私はマンローのスペルを保持しました。一貫性を保つために渡辺氏のスペルを変更する必要がありました。

この決定を支持するために、私は二風谷(ニブダニ)がマンローが住んでいた村の公式の住所であることに言及しておきます。

アイヌ語の完全な歴史的・文化的記述とアイヌ語の構造を説明することは、マンローの目的の一つでした。彼はそれをアイヌの過去と現在と呼びました。

しかし、マンローが残した材料を検討した後、私たちの委員会は、「アイヌの過去と現在」まで語るには不足していると判断しました。そしてこの本には、「儀式と信仰、そしてアイヌの日常生活への影響」に限定して扱うのが最善であるという結論に達しました。

 マンロー本来の意図を反映するためには、ノートからラグラン卿が編集した「アイヌの家の建設」に関する記事、それに狩猟技術、織物、その他の活動に関するノートが、やがて全面公開されることが望まれます。

この本の章別構成について

第1章、第2章、第3章、第4章、第5章、および第11章は、マンローの書いたとおりに掲載されます。

第 6、7、8、9、10章では、マンローが書いたいくつかの個別の記事に含まれる文章、彼のオリジナル作品に散在する情報、および多数のメモを整理したもの、さらにCGセリグマンへの手紙から抜粋し編集したものです。これら貴重な資料は、私が知る限り、いまだかつて公開されていないものばかりです。

 マンローーは祖先崇拝、母性、愛国心などについて観察した中身の重要性を理解してなかったかも知れません。それは私も最初は同じだったようです。

私は社会的組織に関する第12章を作成しました。マンロー自身の仕事から、祖先崇拝、母性、愛国心などを抜き出し、戦後に現場で働いていた日本人作家の情報も付け加えました。これによりシークレットガードルに関するマンローの情報についてもより広い視野から科学的に追跡できるでしょう。

 読者は、第2章、第3章、および第4章が大変かもしれません。カムイ、イナウはアイヌにとって非常に重要であり、注意深い説明と写真はマンローの誠実さへのオマージュです。

これらの章を読み飛ばしたいと思ったら、飛ばして構いません。後で間違いなく興味が生じるでしょう。これらの章は参照としても使用できます。


マンロー夫人との接触

英大使館員だったヒュー・ギブ氏の努力により、1959年10月にマンロー夫人と連絡をとることができました。彼女は夫のアイヌ研究がようやく出版されることを知って喜こびました。

彼女の証言により、オットマンローの死の際にフォスコ・マライーニが二風谷にいたこと、マンローが彼にタイプ手稿がいっぱい入ったリュックサックを託したことが明らかになりました。

私は出版社を介してマライーニに手紙を送りました。マンローの手紙で言及されていた未発表資料、貴重な映画がようやく見つかるのではないかと期待を膨らませました。

6か月後、彼はリュックサックを持ってロンドンのわたしのところまで来てくれました。しかし残念ながら、中身は作成した本のカーボンコピーと、付録Iとして本に付け加えたいくつかの伝説とメモだけでした。

謝辞

私は英国協会の委員会のすべてのメンバーに感謝します:

マンローの本のオリジナルの活字書を読み、渡辺氏に援助を与えてくれたフォルデ教授に。

アイヌ語と日本語の単語のスペルと翻訳をチェックしてくれたArthur Waleyに。

特にラグラン卿は、この作品の改訂と再編において、より簡潔にするために努力していただきました。  彼はまた、インデックスを作成してくれました。

アイヌに関する最新の書誌を紹介してくれたワシントン州議会図書館のW. H.ギルバート氏に感謝します。王立人類学研究所の司書であるカークパトリックさんには、このリストを確認していただきました。この本の主題に直接関係する作品のみを含めることにしました。

B. Z. S.

London, 1962



を大幅加筆した。
 
「日本のがん」の紹介はこの文章に突っ込むのは、かなり無理があるが、当座のしのぎということで我慢しておく。読者の皆さんはここは飛ばしてよい。

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。

斎藤環の「直接会うのは暴力」だろうか
赤旗の「朝の風」の激賞の吟味

赤旗の「朝の風」で斎藤環の「直接会うのは暴力」という発言を捉えてこれを積極的に捉えた考察が掲載された。
誰とどこで会うかは人権の問題だ。…人間だから直接会うのが当然という前提を見直す必要がある。
などなどだ。

言葉が踊っている。花から花へ舞っている。世間ではこういうのを「哲学」という。

ただ、そもそもの言い出しっぺである斎藤環という人がどういう人で、どういう背景でこのような物言いをしているのかがわからないと、なんとも常識的な判断がしにくい。

6月20日号のヤフーニュース

「朝の風」子が見た元ネタは、ヤフーニュースの6月20日号だそうだ。 

題名はえらく長い。
精神科医・斎藤環が語る、コロナ禍が明らかにする哲学的な事実 「人間が生きていく上で、不要不急のことは必要」

ということで、いわば至極当たり前のことで、特に社会から半ば引退して好き勝手に引きこもっている団塊世代には、共感さえ覚える。

「強いられた引きこもりさん、ようこそいらっしゃいました」ということだ。

斎藤さんは精神科医で引きこもりが専門だそうだ。ここで対象とするのは社会不適応としての引きこもりだ。

つまり現在この瞬間、引きこもりには三種類あることになる。

一つは病的(と言っていよいか)な引きこもり、これは思春期の病気で中年まで引っ張っている人もいる。斎藤さんは非社会性と呼んでいる。
ふたつは好き好んでの引きこもり、活字三昧で、世の中高みの見物、私などがその典型だ。
三つが新種のコロナ性引きこもりだ。この人達はやる気満々で、ある人はこの生き方に満々と闘志を燃やしているし、ある人はフラストが溜まって、日暮れになると紅灯の巷へという場合もあろう。

それで、斎藤さんという人はウィキで調べると、言葉の料理人みたいな人で、和風、洋風、中華、いかようにでも言葉を操って概念らしきものをこしらえる人のようだ。
一応精神科の教授の肩書きもあるので臨床もやっているのだろうが、まずはメディアへの露出が命の人らしい。

だから「直接会うのは暴力」くらいのことは平気で言う種類の人かもしれない。私なぞはどうも苦手で、虫酸が走る。

ただこういう人が実際あってみると案外社交的で如才なかったりすることもあるので、予断は禁物だが。

ヤフーニュースの主な内容

斎藤さんが最近『中高年ひきこもり』という本を発表した。ちょうどコロナでステイホームが強いられたので、話題性はある。

途中まではなんの変哲もない臨床医学の話。「その辺が落とし所かなと思います」なんてセリフは常識人そのものだ。

そこから、急に
なぜ人は直接会おうとするのか。
それは人が直接会うことは暴力であるからだ。
という台詞が飛び出す。
それで
そういう露悪的な言い方をするのは…直接会って話をすることに耐えられない人もいることを想像してほしいからです。
という風につながっていく。つまりは「直接あって話すのは結構精神的には重労働なんだ」ということを「暴力だ!」というキャッチコピーでまとめちゃったということなのであろう。

「朝の風」子は見事にその疑似餌に引っかかったという具合。しかも自身の思いで斎藤さんの言葉を膨らませている。

ただし、インタビューの最後でこうも言っており、バランス感覚はしっかり保たれている。

非常に憂鬱なのは私も同じですけれども、ストレスをあえて引き受けていかないと、精神のバランスは保てないので、私も一緒に取り組んでいきたいと思います。

つまりは小学校の頃の夏休み明けと同じだ。やすみにあきて学校に行きたい気分と、また規則と日課で体も心も縛られることへの拒否感。

この斎藤さんという人言葉遣いは時に過激だが、医学的判断としては結構常識的な人に見える。ただ、
「直接会うのは暴力」というフレーズはウケ狙いっぽくていただけない。人が生きていくための最低の強制というのはあり、その源となっているのは自然・社会のパワーだ。この強制的なパワーをゲヴァルトというならたしかに「暴力」ではあるが…


G614 の話

ちょっと長い前置き

実はロシアから帰ってくるに当たり、イタリアでの新型コロナが恐ろしく毒性が強くてバタバタと死んでいる、という話でかなりスリルを感じたことを覚えている。
ブログにも、イタリアコロナは武漢コロナとはレベルが違う、中東からヨーロッパに渡る間になにか突然変異したのではないかと書いた。

ただその頃はウィルスの強弱ではなく環境因子のほうがはるかに大きいと言われ、イタリアの状況を聞いているとそれで納得したところもあった。

しかし今になって統計的に観察してみると、やはりアジアとヨーロッパではケタが違うとしか思えない。

たとえは悪いが包丁を振り回す通り魔と、榴弾砲やカラシニコフであっという間に数百人をなぎ倒すテロリストの違いみたいなものだ。

この印象の違いは米国の両岸を見ると鮮明になった。

同じ国で生活水準や医療にさほどの差があるとも思えないが、東海岸の新型コロナの凶悪さは別格である。

そこに持ってきて学会で突然変異の可能性の話が出てきたから、気になる。

おそらく数ヶ月の間にアジア型亜種はヨーロッパ型亜種により淘汰されるだろう。

秋以降に第二波が来るとすれば、それはヨーロッパ型になるのではないかと気になる。

そのためにはヨーロッパ型コロナのウィルス学的特徴を踏まえておく必要があるのではないか。

と、ここまでが長めの前置き

G614 変異の新型コロナ

4月末、世界最大の非営利生物医療研究機関、フロリダ州のスクリプス研究所は、細胞の受容体ACE2に結合するスパイクS蛋白質の2箇所のアミノ酸が変化していることを発見した。

それはひとつは、S1サブユニットの結合ドメインであり、もう一つはS2サブユニットの境界にあるN-末端から614番目のアミノ酸である。

この2箇所は、感染当初(2020年1月)はアスパラギン酸(D614)だったが、時間が経つにつれて次第にグリシン(G614)に変化していった。

突然変異(D614→G)の割合は、2020年1月、2月には見られなかったが、3月に(26%)、4月(65%)、5月(70%)と次第にG614の割合が増加していた。

3月以前は中国も含めてアジアとアメリカで殆どがD614型だが、イタリアではすでにG614が優勢だった。

それが3月以降は中国とシンガポールを除き、ほとんどがG614に変化している。日本でも3月以降はほとんどがG614型である。

D614とG614の毒性を比較するために、マウスの白血病ウイルスにD614と突然変異型G614を入れた偽ウイルスを作った。

これをヒト胚性腎細胞に感染させ、感染率を観察した。突然変異型G614のスパイクを持つウイルスの感染率はD614に比し感染率は9倍であった。同様の結果はインド各地での感染ウイルスのスパイク蛋白質の分析からも示されている。

ただし日本でも、すでに3月にはG614への変換は終了しているにもかかわらず、欧米のような爆発的な感染拡大は見られない。

日本での感染者数の少なさは、必ずしもG614からだけでは説明しきれないかもしれない。

ニール・ゴードン・マンロー 「アイヌの信仰と宗教儀式」(英文)

目次

序文 B.Z.SELIGMAN

解題 H.WATANABE

上記2論文は、稿を改めて抄訳を記載する。

I. 基本概念
Ⅱ. カムイ
III.イナウ
IV . Effigies
V .Hearth and  Home
VI . House-building  rites
VII . The  House-warming  Ceremony (Chisei  Nomi )
VIII 。 The  Feast  of  all  souls  or  Falling tears
 (Shinurapa )
IX 。 Exorcism (Uepotara)
X .Various  rites
XI . Death  and  Burial
XII . Social  organization この章は SELIGMAN による



以下本文

I.基本概念

アイヌの宗教に特微的な基本概念は次の3つである。
すなわち、ramat, kamui, inau である。

ramat は人々の魂である。kamui は神々である。inau は神への捧げものである。それはカムイに提供され、彼ら自身もラマトとしての性格を持つ。

これらの8つのカムイを超えて至高のカムイが存在する。それは天空と関連するカムイである。アイヌは彼らをPase-Kamui と呼んでいる。

天空と関連するパセ・カムイの長はKando-koro Kamui, すなわち“天の所有者”と呼ばれる。
しかしKando-koro Kamuiは唯一神ではなく、Pase-Kamui の中の一員に過ぎない。

Ⅱ. カムイ

kamui は次の8つに分類される。
 (1) 存在の遠い,伝統的なkamui
 (2) 身近な信頼しうるkamui
 (3) 従属的なkamui
 (4) 獣の姿をしたkamui
 (5) spirit を助けるkamui と個人的なkamui
 (6)有害な,悪意のあるkamui
 (7 )流行病のkamui
 (8 )言うに言われぬほど恐しいもの。

第Ⅰ章では(1)遠くに存在する至高のパセカムイについて論じた。

第Ⅱ章ではそれ以外のカムイについて論じる。それらは一族の祭るカムイであったり、獣に化身したカムイであったりする。いたずら好きで悪さをするカムイ。お守り、アイコン的なカムイ。さらには疫病神のカムイまでいる。貧乏神がいないのは貧富のない社会だったからだろうか。

これらのカムイを生き生きと紹介するマンローは、鬼太郎らを紹介する水木しげるのような趣きがある。

III.イナウ

第三章ではイナウについて論じる。
イナウは超人間的力を持ち, 人間とカムイとの間の媒介者となる。

イナウにはさまざまなタイプがある。マンローはイナウを形態別に分類し,説明している。
イナウに彫刻されたekashi 、itokpa ,ikubashui などの「印」について述べている。また,戸外でのイナウの正しい並べ方も説明している。

Ⅳ. 木偶(EFFIGIES)

形態は大体inau に似ているが、カムイ を表した像とされる。シュトゥ・イナウカムイと呼ばれ別扱いで尊重される。

Ⅴ. 囲炉裏と家

礼拝の場所としての家,屋根,絶対に汚すことの許されない炉,席順,器物の配置,宝物,pu、便所について記述される。

風水みたいなものでしょうか。

VI.  家を新築するときのみそぎ

「家を暖める儀式」(エピル)と言われ囲炉裏にくべる新しい火を作る。 日本では上棟式に当たるのか。
聖なる醸し酒が醸造され、パーセ・カムイに捧げられた後、客に振る舞われる。聖なる醸し酒の重要性が強調されるいっぽう、酒を飲むときのエチケットが述べられる。むかしからアイヌには酒癖の悪いのがいたのだろう。

VII. 上棟式の続き (CHISEI NOMI)

悪霊を追い払うために屋根に矢が放たれる。

世帯主が賓客と儀式的交礼を交わした後、家の神聖な窓が開けられ、窓の外のカムイへの祈りが捧げられる。

VIII. すべての魂の饗宴(シヌラパ)

ここから饗宴が最高潮に入る。ここでの主役は女性である。女性は戸外に出て、東窓の外の広場に集まり、ヌサと戸口の霊への挨拶を行う。
先祖の霊への呼びかけを女性が行い、女性によるダンスが始まる。このとき戸外に儀式用の座席がしつらえられる。(実はこのへんから私の役は怪しげである。雰囲気だけ味わっていただきたい)

IX. 厄祓い (UEPOTARA)

厄払いには多くの種類があり、目的ごとに方法はことなる。ほとんど私の力では翻訳不能。

X. さまざまな儀式

厄払いだけでなく狩猟や漁業などの幸運を祈る儀式もある。これも詳細は省略する。

XI. 死と葬儀

死と葬儀はさまざまな哲学を内にふくむだけに、多様かつ複雑である。死後の世界も善人と悪人では異なってくるので、交通整理が必要である。とりあえず葬式の次第のみ箇条書しておく。
  体からラマトの別離と出発。死体の処理。
親族の順序・主な会葬者。
別れの挨拶。お悔やみ。
葬儀での行動・葬式の食べ物
埋葬の準備。埋葬儀式。墓柱の儀式。
妊婦の死体の儀式。
水とブラッシングによる会葬者の浄化。  
などなど
マンローは葬儀屋の社長のごとく書き連ねる。


XII. 社会組織の編成

第Ⅻ章はマンローの英国における庇護者であったC.G.Seligmanの未亡人B.Z.Seligman(彼女自身も民俗学者)が、手紙や遺稿を編集しながら自説を構築したもの。母系社会と父系社会の混交した様式が見られるとしている。


“Medicine in Japan and Scotland : Dr. N. G. Munro” TURNER, Roderick J. 東邦大学 2014

ブログ主からの一言

多分、留学生の研究発表みたいな論文だろうと思う。それにしてはよくまとまっており、勉強になるところもある。結局日本人の研究者がいかに勉強していないかということだろう。

私注を入れるうちにいつの間にか当初の量の数倍に膨れ上がってしまった。いずれターナーの文章に示唆を受けた私のオリジナルとして発表していくことになろうかと思う。

少なくとも日本で考古学を志そうとするなら、マンローの学問的足跡を確認せずに自らの立ち位置を定めることは出来ないのではないか。



あらすじ

マンローはアイヌの人々を無料で治療した医師として知られています。しかし彼の功績はそれだけでありません。

彼の日本での生活のほとんどは、考古学的・人類学的研究、各地での発掘作業と遺物の収集、晩年のアイヌ文化の客観的で厳格な記録に当てられました。
その中でも最も重要な学問的貢献は、アイヌの遺産の文書・記録化と保存にあったと言えるでしょう。

マンローは1888年にエジンバラ大学で医学の学位を取得しました。その後、インド・香港を経由して日本に定着。医師としての活動の傍ら、生涯を通じて日本で研究を続けた。

他にもアイヌに携わった英国人は、イギリス聖公会のジョン・バチェラー牧師などたくさんます。しかし彼が治療した何千人ものアイヌ人の患者にとって、マンローほど大切な人はいないでしょう。

しかしマンローの名は日本でもスコットランドでもあまり知られていないままです。


序章 生い立ち

ニール・ゴードン・マンローは、1863年6月16日、スコットランドのロッキーで生まれました。父は現地の開業医だったロバート・ゴードン・マンロー、そして母親はマーガレット・プリングル・マンローでした。

ニールはキンロスの学校に通いました。彼の家族は1882年にラトに引っ越しました。
1879年、彼はエジンバラ大学の医学部に入学しました。

入学して3年目、彼は深刻な肺感染症(おそらく結核)になり、チュニジアに移住して療養生活を送りました。

このためか、彼は医学部を遅れて卒業し、医学博士の学位を取らないままインドへの旅に出るのです。



この目的地が考古学への関心を引き起こしたのか、それとも主題への既存の関心が場所を選択する要因になったのかは、未解決のままです。

(注: 彼は学生の頃からすでに考古学に興味を持ちテームズ河畔の遺跡発掘に参加したりしています。療養先のチュニジアでも発掘に手を染めていました)

1888年に大学を卒業した後の3年間はほとんど記録がなく、私たちはほとんど知ることができません。ただしその足どりについては、乗船名簿や宿泊記録などいくつかの記録が残っています。

ビクトリア朝の理想とスコットランド人の冒険心に従って、彼は行動したと思います。
(注: スコットランドは自然環境が厳しく多くの若者は国外を目指しました。その中でエジンバラ大学医学部の先輩ダーウィンの活躍は、マンローにとって大いなる刺激だったと思われます)

彼はしばらくの間、P&Oフェリーラインで働いていましたが、この間は確かにインドに航海していました。彼が1891年5月に日本の横浜に到着したのは香港経由でした。
(注: 彼はインド航路を運行する海運会社に船医として採用され、インドに渡っています。そこでも発掘活動を行いましたが、健康を害し香港に移動。今度は横浜航路の船医となりました。その間も病気が悪化し、横浜の横浜総合病院に入院しました。退院後もそのまま外人病院に雇われ、横浜に居着いてしまいました。その後、彼は父親の死にも帰国することなく、1942年の彼の死までずっと日本から出ることはありませんでした)

彼は1898年に横浜総合病院で医師として働き始めました。共同でこの病院を設立したことも記録に残っています。1899年に彼は日本で医療免許を与えられました。

(注: この病院の院長になったことはありますが、設立したのは個人開業のクリニックです。総合病院の設立は維新直後のことです)

1898年に彼は、アイヌの本拠地である巨大な北の島である北海道を初めて訪れました。

 1905年にマンローは帰化し日本人になりました。カタカナっでマンローとしましたが、その後漢字で「満郎」と名乗るようになりました。

興味深いことに、Munroの以前の当て字は「卍樓」でした。ただしマンロ自身の書簡や他の学者によるこの変更への言及はありません。
卍(マンジ)は、ヒンズー教、仏教、ジャイナ教に関連する古代の宗教的シンボルです。
しかし第二次世界大戦前にナチスが、(ハーケンクロイツ)を党章として採用してからは使わなくなったようです。

一度だけ日本を離れ、帰国したことがありました。1909年にエジンバラで医学博士号を取得するためです。
(注: 医学士の免許はあるため診療は可能でした。ただ考古学の論文を発表するにあたって医学博士の肩書きはあったほうが幅が効いたようです。結局、マンローは1909年になって「日本におけるガン」と題する学位論文を作成。エジンバラに戻って学位審査を通過し博士号を受けることになります)


女たらしのマンロー

スコットランド人は、女性を追いかけることについて「積極的」であると考えられています。女たらしで有名なスコットランド人にトーマス・グラバーがいます。長崎のグラバー邸の主です。
プッチーニのオペラ「マダムバタフライ」は、グラバーの妻ツルをモデルにしたと言われます。(諸説あり)

マンローも艶福家で、4人の妻と結婚しています。他にヨーロッパ旅行中に知り合ったフランス人女性がいますが、日本に来てすぐに別れたようです。

1895年、マンローは最初の妻であるアデル・レッツと結婚しました。アデレは横浜のドイツ人商社の社長令嬢でした。

二人の間には2人の息子がいました。弟のロバートは1902年に亡くなりました。ロバートへの肉親の情が1908年出版の「日本のコイン」に示されています。
アデル・レッツも1905年に亡くなっています。

その年、文郎は高畠トクと結婚しました。
(注: 暴き立てるのも気が引けるが、マンローは高畑トクと結婚したくてアデルと離縁したのだ。国際結婚では離婚が難しいため、日本に帰化したのだ)

そのトクとも1909年に離婚したが、二人の間には娘のアイリス/あやめがいました。

1914年、今度はスイス商社の令嬢(母は日本人)アデーレ・ファーブルブランドと結婚しましたが、1937年に離婚しました。そして4人目の妻、木村チヨと結婚しました。

チヨは看護師として軽井沢のクリニックでマンローの医療を手伝う中で結ばれることになりました。1942年にマンローが死んだときは最後を看取りました。彼らには子供がなく、1974年に彼女は亡くなりました。いまは同じお墓に葬られています。


マンローと考古学

考古学はおそらく日本でのマンローの作業で、最もよく文書化・記録化された領域です。彼日本中の何百もの発掘調査を監督ました。いくつかの遺跡では乞われて参加しました、

縄文時代やその後の工芸品を何千と集めました。そして人類学的パラダイムに基づいてそれらを整理しました。そして日本の先住民としてアイヌの優位を確立しました。

(注: 正確にはアイヌ人ではなく縄文人です。アイヌ人は北海道に暮らした縄文人で、いくらかのオホーツク人の血統を伝えたものです。日本人は、主として半島からの渡来人と縄文人が交わって形成されたとされます)

私たちにとって特に興味深いものは、日本の考古学におけるマンローの役割に関連することです。

マンローの最も注目すべき発掘には、横浜近郊の三ツ沢、大森、根岸があります。彼はその他に北海道での遺跡発掘、神奈川県箱根、鹿児島県でも調査を行っています。(注: 軽井沢は長野ではなく川崎の遺跡である)

彼の初期の考古学の仕事は「先史時代の日本」(1908年、1911年再版)で集大成されました。彼のもっとも重要な理論的貢献は日本における先史時代のアイヌとの関係を明らかにしたことです。

マンロー以前には、日本列島の最初の定住者をめぐる議論は、アイヌとは何の関係もありませんでした。マンローが最初にそれを主張したのです。

日本の先住民族はアイヌ人(縄文人)でした。彼らは日本列島全般にわたって生息し、南は琉球諸島から北は樺太島(現在はロシア領サハリン島)まで分布していました。
それは現代日本人の祖先ともつながっていました。

アイヌ(縄文人)は本州北部で比較的に密度高く暮らしていました。北海道だけでなく、特に青森でもおおくの縄文遺跡が見られます。
(注: 南西日本では常緑樹地帯で山のみのりは少なく、比較的に漁撈生活に特化していった可能性があります)

マンローの蒐集品

悲劇的なことに、マンローは二度の災難で本、資料、発掘品、手紙のほとんどを失いました。

経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアは、彼の人生の継続的なテーマでした。

最初は1923年の関東大震災です。横浜の自宅は多くのコレクションもろとも全焼しました。当時軽井沢にいたマンローは直ちに横浜に戻り、資料喪失のショックに耐え被災者の治療にあたりました。経済的に余裕のない人々への無料のヘルスケアを施すことは、マンローが生涯一貫して追求したテーマでした。

そして二度目は1932年、定住準備のため北海道の二風谷で借りていた家が焼失したときです。こうして日本国内に彼が集めていた資料はほぼなくなりました。

幸いにも、彼は1894年から少しづつ、考古学的資料をスコットランドに送り始めていました。このような努力のおかげで、スコットランド国立博物館にはマンローの集めたかなり大量のコレクションがあります。


マンローの医学研究の水準

マンロの死亡診断書には、1942年に79歳で癌で死亡したと記載されています。

彼は1882年に結核に罹患し、療養を余儀なくされました。彼はチュニジアに転地し、1年間の療養生活を送りました。その後彼は医学博士の学位を取らないまま医療を続けました。1909年になってやっとエジンバラ大学から学位を取得したのです。

彼の博士論文は「日本のがん」と題されています。タイプ原稿で30ページにもわたる長大論文で卒論というより「総論」の趣があります。審査にあたった教授たちはさぞ辟易としたことでしょう。

論文ではまず、日本の死亡統計が1899年以来に始まったことを明らかにしています。つまりこの論文のわずか10年前のことだということです。

医学校の出身者は20,592人。これに対し医師補が15,046人で医学レベルがきわめて低い。このため統計の信頼度は相当低い。

その事もあって、死因統計では「不明死」が多い。例えば1904年の統計では不明死が11%を占める。2位以下からが病名のついた病死となっている。

死因の上位を占めるのは脳溢血や脳軟化など脳血管疾患。感染症では脳膜炎、胃腸炎が多い。マンローはこの中から「近代疾患」としての結核とガンに注目する。

イギリスの近代統計からは次のことがわかっている。近代工業の発展に伴い人口の大都市集中が進む。これに伴い労働者の間に結核が蔓延する。結核は多臓器を犯すが、医学の進歩に従いこれらが結核菌の感染によるものであることが明らかになる。これらが相まって結核の全死因に対する割合が増える。しかし結核の蔓延はやがて正しい療養や予防の普及により減少するようになる。そしてこれに代わって癌による死亡が増えてくる。

ここでマンローは、日本における結核の有病率と発生率に関する広範なデータを検索し、都道府県別の結核とがんによる死亡を比較した。

その上で統計に関して考察を加えています。たとえば、肉を食べるという新たに広まった習慣にもかかわらず、横浜の胃がんによる死亡率は1908年には10万人あたり44.4人と低いのです。

それなのに奈良県は、10万人あたり92.8人という「驚異的な」ガン死亡率がある。つまり日本人のがん発生の機序は英国人とは異なるということを示しています。

マンローは奈良県のガンの高発生率が胃がんによるものであり、それが主として山林労働者の食習慣にあることを推測し、「癌の外因性は、生体組織への機械的、熱的または化学的攻撃であることが明確に確立されているようだ」と結論づけています。

これは現代の医師や研究者にとって単純化しているかもしれませんが、細胞の病理学と生物遺伝学について深く理解している読者にとって興味深い提起です。

マンローは最新の医学をよく勉強していたようです。論文では「酵素・毒素・芽球・形成性」などの近代医学用語もしばしば用いられています。

イギリスではまた男性の癌が急速な増加を示していますが、日本でそれを証明することはできません。女性のがん死亡率が男性を上回っているというのも興味深い事実です。


マンローの理論活動

マンローは考古学研究、アイヌの生活についての民族学的研究で多くの業績を残しています。また学位論文「日本におけるガン」や「日本の古銭」の研究なども水準の高いものです。

その他にも多くの哲学的論文を新聞に寄稿したり、アイネシュタインが訪日したときは相対性理論についての解説を掲載したりしています。これらは英文で書かれ、残念ながらまだ閲覧していません。マンローは深い知的推論の能力を持ち、きわめて抽象的な概念に関して理解力を持っていたようですが、その水準は未知のもののようです。

マンローは最後まで日本語の読み書きも、会話さえ出来ませんでした。このため日本の学者との交流もきわめて限られていて、日本語での文献はほぼゼロ、身の回りの雑事を描いたルポに限定されています。

マンローは深い知的推論と抽象的な概念の理解の能力を持っていました、

彼の日常の活動は特に抽象的なというよりは肉体的であるという事実にもかかわらず、すなわち、彼の患者の治療と考古学的発掘でした。マンローが行った厳密で詳細かつ影響力のある調査の多くは、彼の「予備」の時間(つまり、非稼働時間)に行われたものです。

さらに、マンローや彼の業績の特定の部分に関する作品はたくさんありますが、私の知る限り、本や他の一般的な参考資料はほとんどありません


二風谷での研究活動

マンローと4人目の妻チヨさんは、1930年以降最後の12年間を北海道二風谷で過ごしました。しかし北海道の生活は初めてではありません。以前から何度も北海道を訪れ、アイヌ民族の研究に熱情を燃やしました。

彼はアイヌの人々の文化、言語、民間伝承、伝統、工芸品を考古学的に忠実に文書として記録していました。その間、アイヌの人々に軽費または無料の医療を施しました。

彼は1923年の関東大震災の後、軽井沢療養所で患者を治療するようになりました。これは夏の間、避暑客用に開放され、外国人コミュニティに人気がありました。

マンローは1930年には院長に就任しています。二風谷に居を定めた後も夏の間は軽井沢で診療を行い、そのお金で二風谷のための生活資金や住民のための治療資金を賄っていたようです。


まとめ

マンローは多くの側面を持つ水準の高い知識人です。ここではその多くを簡潔さのために割愛しましたが、もっとも脚光を浴びているアイヌとの彼の関係だけでも、いくつかの日本語のドキュメンタリー、本、展示会の主題となっています。

ここでは非常に初歩的な紹介を死、興味を持つ材料を提供できれば幸いです。そして、マンローへの興味の幅がさらに広がることを期待します。

何千ものマンローが2度の被災で失われました。しかし1923年と1932年の個人の手紙、データ、加工品、資料などがまだ大量に眠っています。

マンローが行った調査は厳密で詳細かつ影響力のあるものでした。しかしそれらはかれの「余暇」を使っておこなわれたものです。だから発表を前提に行われたものではありません。

さらに、マンローの業績の特定の部分に関する研究はたくさんありますが、私の知る限り、彼の生き方や業績を総合的に暑かった書籍はほとんどありません。

これは、スコットランドと日本の歴史に興味のあるすべての人にとって、とても不幸なことです。

マンローが愛し、共に暮らすようになったアイヌの人々に対するマンローの医療は、

アイヌ人々がいまもマンロー博士を忘れず、尊敬し続けている理由はたくさんあると思います。ともに暮らし医療奉仕を行ったことは、その理由の1つにすぎないと思います。

そして将来、両国の研究者は、マンローという人物について思いを同じくし、より深い理解を深めるでしょう。


マンロー「先史時代の日本」梗概

“Prehistoric Japan”, by Neil Gordon Munro 1908, 1st Edition
ph1 munro_1908_cvr

本文 705 pp. 折りたたみ多色マップと421のイラスト

Examples of Illustrations

Figure 395 - Wood Cut, Color Added
Figure 395
見たことのないイラストである。埴輪のようにも見えるが木彫とあり、どこかの寺の陳列物なのか。

Figure 391 Fiigures on an Ancient Bow
Figure 391
これも初見の図であるが、なぜ古代の弓か、分かる人はご教示願いたい。

Figure 400 Biwa
Figure 400

このような見事な美術品が当時はかんたんに入手できたのだろうか。

Contents

序文
A. 無土器時代
第1章 旧石器時代
B. 縄文時代(新石器)
第2章 新石器時代の遺跡
第3章 居住地
第4章 道具と道具
第5章 武器
第6章 陶芸
第7章 食事、服装、社会関係
C. 弥生時代(中級土器時代)
第8章 中級陶器
第9章 いくつかのブロンズの痕跡
D. 大和時代
第10章 大和遺跡と墓地
第11章 大和金属と石の遺物
第12章 大和焼
第13章 大和社会生活と人間関係
第14章 宗教
第15章 先史時代を担った人種
(A.~D.の大時代区分は鈴木の挿入したもの)

奥付(Colofon) 
munro_1908_colofon


この文章は
Pitt Rivers Museum Photograph and Manuscript Collections
のうち
のページを抄訳したものです。

ちょっと感想を。
多少間違っているかもしれませんが、マンローは日本の先史時代を初めて体系づけた人です。彼は先史時代を旧石器時代(打ち欠き石器)、新石器時代(縄文時代)、中間期(弥生時代)、ヤマト時代と区分しました。
そしてそれらの時代の実在を、石器、土器、金属器などで実証し、地層により前後付けました。
第二にドルメンを太古のものとして位置づけ、各地の石造物を一括し系統づけ、その世界史的意味を探りました。
第三にアイヌを日本人の源流の一つとして位置づけ、先史時代にはアイヌがあまねく日本列島に存在したこと、これと渡来民の交流の中に日本人が生まれたと考えました。現存のアイヌ人はこの流れに合流しなかった人々だと考えました。
これらの考えは当時にあって群を抜くものだと思いますが、いかがでしょうか。
ここに彼が発掘したものを見ると、驚くものばかりです。頭飾りやテラコッタなど、日本製のものとしては見たことがありません。間違いなく重文級のものでしょう。
これまでのマンロー関連資料といえば、桑原さんの本をふくめ周辺情報が多く、彼の業績に迫るものは乏しいのです。これからさらに英文資料と格闘を続けることになりそうです。



マンローの紹介

ニール・ゴードン・マンロー(1863年〜1942年)はスコットランド人の医師でした。卒業後、インド・香港を経て日本に定着。1893年から横浜総合病院の病院長を務めました。

マンローは医師の職務以上に、考古学者として尊敬されるべき存在になりました。なかでも横浜市内の三沢貝塚の発掘でその名を知られています(1905–6)

マンローは考古学調査の成果を集大成し、「先史時代の日本」(1908)を出版しています。それは重要かつ影響力のあるものです。

晩年は北海道に住み、二風谷のアイヌコタンにクリニックを開設し、終生を捧げました。

彼は先住民文化の断固たる支持者として活動しました。彼は今でも「アイヌの友人」として愛情を込めて記憶されています。

マンローのコレクションは、スコットランド国立博物館、北海道博物館、大英博物館、ピットリバーズミュージアムなど、さまざまな機関が所蔵しています。

ここで見られる写真はすべて、ニール・ゴードン・マンローが1905年頃撮影したもので、最近発表されたものです。

 Philip Grover:「レンズが捉えた幕末・明治の日本: オックスフォード大学所蔵写真より」(東京:山川出版社、2017)。

この本は、オックスフォード大学のピットリバース博物館の歴史的なコレクションを利用し、日本の初期の写真に関する文学への貴重な情報を追加・提供しています。

著者のフィリップ。グローバーは、博物館の学芸員です。主に明治時代(1868〜1912)に焦点を当て、コレクションのハイライトを紹介します。

これらの重要な資料は初めて海外の視聴者に提供されたものです。

写真1 「日本(先史時代)」というラベルの付いた、深い溝と水路のパターンが刻まれた大きな石の拡大図。
写真1


写真2 平らな風景の中央に見られる大きな(先史時代の)彫刻が施された岩。地元では「カエルの石」と名付けられています。奈良県飛鳥。
写真2

写真3 遺跡として知られている、大和時代の墓地とされるドルメンの入り口。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃。
写真3

写真4 マンロー(中央)と日本の同僚(左)が石舞台古墳というドルメンの上に立っている。 奈良県島の庄。 1905年頃(1911年まで)。
写真4

写真5 ニールゴードンマンロによって発掘された陶器の置物。 縄文時代。 横浜市内の住宅地から。
 1905年頃。
写真5

写真6 マンローが発見した「壺」と名付けられた背の高い壺。 やきもの文化としてヤマト文化に属する。1905年頃(1908年まで)。
写真6 

写真7 マンローによって発見された金属製の工芸品。キャプションに「頭飾りの装飾」があり、左側に「型から分離されていない青銅の矢じり」があり、「ヤマト文化」というラベルが付いています。
1905年頃(1908年まで)。
写真7

写真8 ニールゴードンマンローによって発掘されたテラコッタの花瓶。
写真はニール・ゴードン・マンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
写真8

写真9 枝と藁で作られたエタ小屋、または屋根のあるピット住居。建設中に撮影したもの。
撮影はマンロー。 日本。 1905年頃(1908年まで)。
写真9

写真10 アイヌの建物、おそらくは店舗で、背後には他のいくつかの建物が見えています。
撮影はマンロー。 北海道。 1905年頃。
写真10


写真11 路上で人力車を置き、その横に人力車の人(車夫)が立っています。撮影はマンロー。1905年頃。
写真11

参考文献

Neil Gordon Munro 「アイヌ:クリードアンドカルト」 B. Z.セリグマン編(ロンドン、1962年)。

ニール・ゴードン・マンロー 「先史時代の日本」(横浜、1908)。

「N. G.マンローと日本考古学:横浜を掘った英国人 N. G.マンローと日本の考古学](横浜、2013年)

「海を渡ったアイヌの工芸:英国人医師マンローのコレクションから<マンロー・コレクションにみるアイヌの技と精神>」(札幌、2002)

ジェーン・ウィルキンソン、「ゴードン・マンロー:日本の考古学と人類学におけるベンチャーズ」、イアン・ニッシュ(編)、イギリスと日本:伝記の肖像(Folkestone、1994)、pp。218–237。 




赤旗にワシントンの遠藤特派員が良い記事を書いている。というより4つの記事を1本にするという離れ業を演じていて、これが流れもよくスラスラと読めるのだから、すごい筆力だと思う。

1.トランプ流「経済再開」の失敗
南部・西部で5月アタマから強引な経済再開を初めたが、感染拡大で悲惨な結果。

2.コロナ感染拡大の責任を問う世論調査で堂々の1位
7月1日に発表された世論調査、「感染拡大に誰が責任を追うべきか」で、「大統領」との答えが34%で堂々の一位。以下「経済再開が早すぎた州」、「マスクをしない人」、「中国」と続く。

3.差別反対運動への敵視が度外れなものに
トランプは平和デモまで敵視し、米軍投入を打ち出した。これが軍の総スカンを食らった。
最近ではツイッターへの投稿が度外れたものになっている。例えばミズーリ州で平和的に行進するデモ隊に拳銃を向けている白人夫婦の映像をリツイートしている。
デモ隊に銃口

また有名になった「Black Lives Matter」(国人の命は大切だ)のスローガンを「憎悪の象徴」とツイートしている。市当局は5番街のトランプタワー前の路面に同スローガンを描く計画を立てた。これに対しトランプは「美しい通りを侮辱するものだ」と反対した(共同通信)。

4.トランプの負け犬化が明らかに
同じ1日発表の世論調査で、大統領選挙の支持率が出た。バイデン49.9%、トランプ40.4%となった。中西部や南部のいわゆる激戦6州はすべてバイデンが上回った。しかし逆に言うと、いまだに岩盤支持層はほとんど無傷でいることになる。まさに「神州不滅」だ。


上院選については情報が少ないので、別途検索をかけてみたい。
オバマ二期を通して議会は共和党のものだった。オバマに失望を訴える人はこのことを考慮すべきだ。その議会が今度は動く可能性がある。上院選で、アリゾナ、ノースカロライナ、コロラドの各州で民主党が逆転する見通しとなった。
幸せなバイデンは、議会とのねじれなく思い切り政策展開できることになりそうだ。



Long Hash のサイトより

Oct 24, 2019 03:10 AM | José Rafael Peña Gholam


はじめに

私の長男アドリアンは、ベネズエラのカラカスで生まれました。

私は一生懸命働きました。そして節約しました。そしてビットコインのおかげで、私はすべての医療費を現金で支払うことができました。

この国を揺さぶる経済危機の真っ只中に、長男アドリアンは首都のまともな民間クリニックで生まれたのです。


ビットコインとの付き合い

ベネズエラに住んでいると、生活自衛の方法を見つけるように駆り立てられます。

そのオプションのひとつが、通貨ボリーバルをビットコインに交換することです。

過去2年間、私は給与のすべてをビットコインで受け取りました。

私はビットコインの動揺性(ボラティリティ)を完全に認識しています。
それでも、超インフレに陥っている通貨ボリーバルよりはるかに安全だと思っています。

一つの例ですが、今年1月に、カフェオレは450 ボリーバルかかりました。
9月までに同じコーヒーが14,000 ボリーバルになりました。(この手記は19年10月に書かれたもの)


出産費用の計算

そんなとき、私は父親になることを知ったのです。その瞬間から、妻と赤ちゃんに適切な治療を受けるにはどれくらいの費用がかかるかを計算し始めました。

民間クリニックの出産費用の相場は、数年前なら500ドルから700米ドルの間でした。しかしその後値上がりを続けています。

私たちが最終的に出産した民間クリニックは、最低でも1500ドル、帝王切開のときはさらに2500ドルが必要でした。

この民間クリニックは最も安価な部類に入ります。

聞いた話ではカラカスの高級診療所では、帝王切開の費用が最高6,000米ドルになるそうです。

ベネズエラの最低賃金は月額で約16ドルです。


なぜ米ドルで話すのか

おそらくあなたは不思議に思っているでしょう:

ベネズエラに住んでいるのに、なぜ米ドル換算で話すのか?

それはインフレのためです。
ここでは、ほとんどの商店が、商品やサービスの価格をドルで設定しています。超インフレから身を守るためです。

何かを買うときは、その日の為替レートをみてボリーバルで支払うか、または直接ドルで支払うことができます。持っている場合ですが。


ビットコインの利息はかなり大きい

私は最初にも言ったとおり、給料をすべてビットコインで受け取っています。ビットコインではなく、ドルで貯金することもできましたが、過去数年にわたって、ビットコインはそれ以上の大きな利息を提供してくれました。

想像してみてください。たとえばボリーバルしか持っていなかったとしたら、ハイパーインフレが原因で随分目減りしていたでしょう。
今日の医療費が貯蓄を上回っていた可能性は十分にあります。

ビットコインを持っていなかったら、妻と生まれてくる子供はどうすることになったのでしょうか。 


公立医療機関の悪い噂

最良の選択肢は、母親と赤ちゃんの世話を専門とする公立産科病院だったでしょう。

しかし、これらの場所は患者で溢れており、一人ひとりへのきめ細かな配慮はほとんどありません。備品不足も深刻だそうです。

これらの公立産科病院についての悪い話を聞いたことがあります。

これらの病院の一部の従業員は明らかに低賃金で働いており、有能な従業員はほとんどいないということです。

これは、妊産婦に対するケア不足や医療ミスにつながる可能性があります。

また、妊婦が数日間も陣痛に陥り、その間胎児一緒に放置されるとか、または疲れた産婦が赤ん坊をベッドから落とすこともあると聞きました。(ここまで来ると流石に信じがたいが…)

妻をこのように扱わせる道はありません。


ビットコインを売るリスク

多額のビットコインを売ることはリスクを伴います。息子が生まれた週にそれを体験しました。

その週、1ビットコインの価格が10,000ドルから8,200ドルに下がったのです。

このような市場の動きは非常にイライラします。私にとってとても不安な週が始まりました。

私は価格が下がるのを見て、次の値下げから身を守るためにステーブルコインに交換すべきか、または、何もせずにビットコインの価格が9月30日までに反発することを期待するか、判断が付きませんでした。

その日が息子の出産代を払わなければならない期限です。

私は待つことにしました。

残念ながら、ビットコインの価格は1万米ドルに戻りませんでした。私は損失を取り、1 BTCに対して8200米ドルのレートで取引をすることにしました。

取引と言ってもドルに変えるわけではありません。取引相手にビットコインを売り、それを対ドル相当のボリーバルで現金化するのです。そして、そのボリーバルで診療費を支払うのです。


ビットコインの現金化

私は人気のあるWebサイトであるLocalBitcoins.comでボリバルとBTCを交換しました。

息子が生まれる前の夜、私はエスクローサービスのあるLocalBitcoinsにBTCを転送しました。あとはクリニックに到着するまでに転送が確認されることを待っていました。

私はある人物との取引を選択しました。
その人は私と同じ銀行を利用し、プラットフォームで良い評判のある人で、わたしに最高の価格を提供してくれました。

この人物はシンガポールにIPアドレスを持っていますが、電話番号はベネズエラに登録されています。LocalBitcoinsのたくさんの秘密の1つです。


ドル交換はヤバ筋?

少なくとも私にとってビットコインを手に入れるのは、ドルを手に入れるのよりはるかに容易です。

まず“LocalBitcoins”にアクセスし、そこで最良のオファーを選択して取引を行います。
合意が成立し送金が完了すればあとは確認を待ちます。こうして仕事場を離れることなくビットコインを受け取ることができます。

ドルと交換するのは別な話になります。まず、私がドルを買いたいと通告しなければなりません。
(これから先はよく分からない。通告先は“my circle of friends and family”であり、彼らはWhatsapp あるいは Instagramのサイト先に存在するらしい)

もしそのサイトでドル売りを希望する人を見つけたとします。私は彼と為替レートについて交渉し、現金を引き渡す場所を打ち合わせる必要があります。(つまり非合法の闇取り引きのようだ)


BTCをボリバルに交換

私の息子の出産の場合、BTCをボリバルに交換するのは、妻の陣痛が始まった朝に行われました。

これは私にとって非常に危険な動きでした。

なぜなら時間通りに、私が診療所に支払うのにいくつも障害物があることがわかっていたからです。

取引を始めた人が反応しない可能性とか、もっと悪いことに、私の銀行が多額の送金を不審に思いブロックするのではないかとか恐れました。

私の取引相手は、同じ銀行の4つの銀行口座から、金額が異なる6つの送金を送信してきました。おそらく、1つの送金だとブロックされてしまうを回避するためでしょう。

通貨ボリーバルを受け取った後、診療所への支払いに取り掛かりました。

私はそれを2つの銀行振込に分けて問題なく行うことができました。


ビットコインは私を救った

最後の転送を終えて、私が感じた安堵と喜びは息子に会った最初の瞬間の喜びを完全に超えていました。

診療所に支払う費用負担はすべて瞬時になくなりました。

私はビットコインを使用して、自分のやりかたで出産費用を支払うことが出来ました。私はそれを誇りに思い、幸せに思いました。


ビットコインの貯蓄のほとんどを手放すのはつらいことです。しかしこの際は、息子を安全に出産させ、母親にきちんとした治療を提供することがより重要でした。

私は2月の記事で「ビットコインはベネズエラを救わない」と書きました。


いまでもその思いは同じです。

  しかし、この体験で、ビットコインが自分の生活の中でいかに重要であるかがわかりました。

わたしはビットコインのおかげで、ベネズエラのハイパーインフレと戦い、貯蓄を積み、短時間に多額のお金を支払うことができました。

たとえば、必要なものをビットコインの代わりに金でやり取りすることを想像してみてください。

ソーシャルメディアで、ビットコインは市場の憶測以外には何の役にも立たないと言っている人がよくいます。

深刻な経済問題やハイパーインフレのない国では、おそらくそれは本当です。

しかし、経済が機能不全に陥っているベネズエラのような国は、ビットコインは巨大な可能性を示しています。

私の息子の誕生の物語はその実例です。


コロナについていろいろ勉強してきて、結局カギを握るのはユニバーサル(普遍的)な生存権の思想だろうということに思いが至った。
言葉だけ取り出すと、まぁいわば宗教の世界である。ただ偉大な宗教家がそれを思念の果てに漠然たる目標(ゴール)として選び取ったのではなく、もっと現実的で、差し迫った課題(タスク)として提起されているという違いである。
そういう思いで世界人権宣言や各種の人権文書を読んでみると、どれもみな微妙に的を外れていることに気づく。書き出しはりっぱだが、終わりは各論の延々たる羅列に終わる。大河のような流れが事実の砂漠の中にやせ細っていく。そこにはゴールに向かっての道のりが見えない。
これなら聖書を読んだほうが、個人的にははるかに救いは得られる。

我々が心しなければならないのはひとつ。世界人権宣言が発表されて以来70年、世界のすべての人々に対する生存権の保障はほとんど前進していないということである。

そしていま重要なこと。それはコロナのパンデミックのもとで、“ユニバーザルな生存権”が絵に描いた餅だという事実が白日のもとにさらされていることだ。
そしてもっと重要なことは、この権利が保証されないまま事態が進めば、それはブーメランとなって全人類にはね返り、人類滅亡の危険を招きかねないということだ。

致命的な第二波のパンデミックが来ない間に我々がなすべきことは3つある。
短期的には、第一波で人類が叡智を振り絞って考え出したありとあらゆるノウハウを結集し、教訓化し、第二波に備えることだ。とくに臨床医学的知見とウィルス学的治験のつき合わせでこの感染症の科学的構築を進めることだ。
中期的には、必要な医薬品、設備・装置の開発を急ぎ、配備を進めることだ。また第一波を広範に総括し、社会資源の有効な配置を一元的に進めることだ。
長期的には、ここがいちばん大事なのだが、途上国等の流行最前線に必要な援助を行いここで火の手を食い止めることだ。実のところ途上国はいま感染真っ盛りなので、むしろ超短期課題とも言える。ただ私はこれを短期課題にしたくないので、あえて長期課題と括っておく。

コロナとの闘いがユニバーサルな生存権をもとめている

途上国でコロナと闘うためには、ためらいなく、惜しげなく資源を投入する必要がある。
わたしがユニバーサルな生存権を重視するのは、平等な権利は互助の精神と表裏一体のものと思うからだ。

そして、まさにこの「ためらいなく、惜しげなく」の発想が「お互い様」の精神に裏打ちされていなければなならないと思うからだ。

国境の枠にとらわれる限りこのユニバーサルな視点は隠れ勝ちになる。ともすれば二の次にされかねない、下手をすればバイキン扱いされかねない途上国の人々に手を差し伸べるにはどう考えたらよいか。

それは私達先進国に住む諸個人が、資源の拠出を(“ユニバーサルな生存権”に照応する意味で)義務と考えるところから始まるのではないかと思う。

間違えないでください。マルクス思想ではありません。
軽薄にいうと、2020年の世界の流行は第一に新型コロナですが、第二の流行はマスクです。

日本人、それに一部の東洋人の間ではマスクは比較的馴染みの深いものでした。
しかしそれ以外の地域、とくに欧米や中東、アフリカでは決して一般的なものではありませんでした。
新型コロナのパンデミックが始まった頃、外国ではマスクをした日本人は奇異の念で見られ、ときにはそれが「ヤバい人種」の象徴のようにさえ受け止められました。

しかし新型コロナがヨーロッパ全土を覆い大変な状況になると、おしゃれの本場イタリアやフランスでもマスクが当たり前のモードになりました。いわば、コロナ・リテラシーの象徴となったのです。

マスクはやがて新型コロナとともに米国に渡りました。そして2つのイデオロギーの衝突の中で、進歩派の象徴となりました。逆に言うとマスクを着けないことが保守派のクリードとなりました。

3つの写真を提示します。
トランプ集会
トランプ集会です。密密密+ノーマスクスです。空中に飛び交うウィルスが見えるようです。
白人至~1
白人至上主義者の集会です。当然マスクは未着用です。
BlackLivesMatter
ニューヨークで開かれたBlack Lives Matterの集会です。100%マスク着用です。
なお写真はクレームあり次第外します。


ここでマスクの本来の意義を確認します。これは本人のコロナ防御用にも役立ちますが、圧倒的な意義は他人への感染予防のためです。つまり利他主義→社会的予防→自らの感染防止という三段階を踏んだ防御アイテムなのです。

つまりそこには① 利他のコミュニティの思想があり、② それを前提とする予防手段というリテラシーがあり、③ それを共有する世間という道徳的枠付があるのです。

これが、東洋の風俗がパンデミックの圧力を受けて、ヨーロッパのモードとなった経過です。


ではなぜアメリカで白人原理主義者がマスク思想を敵視するのか。これが次の問題です。

これはコロナが人類に突きつけた「命の平等性」が基礎にあります。新型コロナは白人優位主義を打ち砕きました。それは3月以降に西欧各国で猛威をふるい、本家の中国を上回り、最悪記録を次々と更新しました。

これを機に欧州のみならず世界の国々が、社会ぐるみの予防対策を取るようになりました。そのためには「お互い様」の我慢がもとめられ、我慢が困難な弱者への配慮がもとめられました。

この2つ、つまり無差別な「命の平等性」と「お互い様」の思いやりは、ともに白人優位思想の根っこを揺るがすような危険な思想です。

だから、白人原理主義者はマスクが嫌いなのではなく、マスクに象徴されるようなアジア・ヨーロッパの「無差別・平等・博愛」思想を敵視するのではないでしょうか。

もちろん、このような時代遅れの考えはいずれコロナの前に吹き飛ばされるでしょう。「マスクか死か」と問われれば、真理の前に膝を屈するしかありません。

最後はちょっと読み過ぎになったかもしれません。


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