鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年03月

近代開始期におけるスコットランドの意味

実は「医師マンロー伝」を執筆中であるが、多分挫折するだろうと、密かに思っている。

その理由は近代開始期よりマンローの出現に至るまでのスコットランドが、なにか宝の山でもあるかのように多くの頭脳を生み出しているからだ。
それに気を取られていると、肝心のマンローの話がちっとも進んでいかない。

スコットランドの歴史への登場、それはまずスミスとスコットランド派の経済学者の著作から始まった。それはスチュアート・ミルの登場をもっていったん終了するのであるが、それはエジンバラ大学医学部の系譜へとつながっていく。

すなわちチャールズ・ダーウィン、コナン・ドイル、そして我らがドクター・マンローである。

イギリスの中でも決して先進地域とは言えないスコットランド、政治・経済的にはイングランドの後塵を拝していたスコットランドが、なぜ今も光り輝くような経済学の古典を生み出したのか、おそらくその精神がエジンバラ医学の骨格を提供しているのではないか。

一応、ウィキから経済的背景をレビューしてみた。

1688年の名誉革命によって、スコットランドはインの支配下に入った。人口で5倍、経済力で38倍の差があった。

1707年 スコットランドはイングランド王国と合同して、グレートブリテンを形成。

それまでスコットランドの伝統的な味方はイングランドではなくフランスだった。知識人は行動の指針をフランスの啓蒙主義に求めた。

1745年 旧王の勢力がスコットランドで反乱。一時はロンドンの北200キロのダービーまで迫る。ジャコバイトの反乱と呼ばれる。
このあとタータンとキルト、バグ・パイプの使用が禁止された。

1760年以降 ヨーロッパの辺境から産業革命の中心地へと変身していく。

製糸や石炭鉱業が盛んになる。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関車は産業革命の中心となる。

スコットランドが経済成長の中心となった理由。
大学・図書館が整備されたこと。
農牧地の囲い込みが大規模に行われ、都市に豊富な労働力をもたらしたこと。
人件費がイングランドより圧倒的に安かったこと。
があげられている(ウィキ)

18世紀スコットランドの学問状況

これは膨大な作業になるだろうと思い、つい怯み続けてきた。

このたび、インターネットで下記の論文に出会い、議論のヒントが多少見えてきた気がする。
とりあえず、読書ノートとしてアップしておく。


出だしの部分は快調なので、そのまま引用させていただく。
十八世紀後半期をもって経済学史上の最も決定的な画期のひとつと見ることができる。
ケネー『経済表範式』(1767)、ジェイムズ・ステュアート『経済の原理』(1767)、アダム・スミス『国富論』(1776)という3つの巨大な経済学体系が、その象徴として聳え立ったからである。
この内、後ろの二つは経済的に後進国であり、政治的にイングランドに従属していたスコットランドの作り上げたものである。
これら「スコットランド歴史学派」は、一つの謎である。
田添が考えるには、

イングランドは、直面する経済・社会問題を次々に認識し、その場その場で対策を樹ててきた。

だがそれでは体系的経済学を発想することさえできない。スミスはそれを「学問研究を全く放棄してしまった」と批判した。

一方、後発のスコットランドは切羽詰った位置に置かれていた。イングランドやフランスのような先進経済に飲み込まれまいとすれば、それに追いつき追いこすことが至上命題であった。

そのためには両国が歩んだコースをたどり、それをセオリー化し、市民社会の形成地図を描き出すこと以外になかった。

このようにして諸範疇を検出し編成する、つまり体系をつくり出すことがスコットランドの使命だったのである。


スチュアートとスミスとマルクス

ここは下世話な話も交えて大変楽しいところであるが、本筋から外れるので省略する。

ごく荒っぽく紹介しておくとスチュアートの著作は歴史的、発生的議論を踏まえておるので大変説得力があるのだが、スミスは彼の議論の曖昧さをついて、要するに重箱の隅をほじくり、取れる揚げ足を取りきってスチュアートを投げ捨てるのに成功した。

その経過を知ったマルクスはスチュアートの歴史的論理を用いてスミスを批判するのだが、結果的には勝手な解釈で議論を混乱させ、しかもなおかつスミスを批判しきれていない、という惨めな状況に陥っている、というのが田添さんの議論のようだ。


スチュアートと「超過利潤」論

田添はスチュアートの理論の内実にも踏み込んでいる。

ステュアートは生産過程を流通から把握するという観点を貫き、利潤範疇に対する内在的な考究を進めた。こうして利潤が流通過程から発生するだけではなく、生産過程にすでに基礎をもつことを明らかにした。

さらにその事をもって、生産過程を中核として近代市民社会が形成される過程を解き明かした。これは重商主義的理解にとどまっていたスミスを凌駕するものである。

スチュアートは有効需要を社会的な発展の原動力として把握した。ステュアートにあっては、賃金が生活資料の価値を規制している。

スチュアートとニュートン

エディンバラ学派については簡単に触れれれているに過ぎない。

ステュアートが学んだエディンバラ大学では18世紀中頃に教育改革が進められた。「新哲学」としてニュートン理論が導入され、それに基づいて教育体系の刷新が進められた。

こうした変革の風はステュアートに強い影響を及ぼした。実証的な歴史過程をふまえた理論的考察が何よりも重視されるようになった。

これ以上については不明である。ニュートンとスコットランド学派については別途検討して見る必要がある。

しかしそれにしても、ここまでふくめて医師マンローを描き出すのはなかなかに大変である。


(4月7日 更新)

我々にとって、たしかに「社会主義の大道」を探ることはだいじなことでしょう。未来社会論というカテゴリーはそれを指しているのだろうと思います。

しかしそれ以上に必要なのは、「社会主義の大道」ではなく「歴史の大道」なのではないでしょうか。
スターリンも見てきて、毛沢東も見てきて、場面によってはそれを反面教師に、それを乗り越える形で、私たちは「社会主義の大道」を学んできました。

ただ綱領(マニフェスト)的見地からみるならば、「社会主義の大道」はもはや主要な問題ではありません。大事なのは、あれこれの路線が社会主義の大道か、それとも脇道とかという「内部論争」ではありません。

大事なのは私たちの目指す「社会主義の大道」が、「歴史の大道」に従っているかどうかです。そのことによって、私たちは社会主義の道が「歴史の大道」であることを主張できるのです。

「歴史の大道」とは何でしょうか。それは20世紀において人類が果たした前進を引き継ぐことです。二つの世界大戦の再現を許さず、平和の道を歩むことです。そして、すべての人間が “人間として平等” であることを認め、人類愛にもとづく世の中を目指すことです。

それが20世紀から引き継ぐべき最大の任務でしょう。

それは世界大戦を引き起こしたものが誰なのかを知ることです。その人類の敵どもが、何を目指して何を行ったのかを知ることです。

同時に、人類の敵と闘い彼らを撃破したのが誰なのかを知り、そのためにどのくらいの血が流されたのかを学ぶことです。

「歴史の大道」は単純に与えられたものではありません。それは私たちに進むべき道として指し示された道なのです。

私たちは「歴史の味方」だった人たちに寄り添い、流された彼らの血を無駄にすることなく、平和と民主主義、人類愛のために戦わなければなりません。これが実践としての「歴史の大道」なのです。

歴史は無謬ではありません。

変革を目指す多くの人たちは、その願いとは別に多くの誤ちを積み重ねてきました。その中には許せない誤ちもあり、甘受せねばならない誤ちもあっただろうと思います。むしろ、正しいものなどなかったという方が正確かもしれません。

肝心なことは、人類は20世紀にどう進歩したのかという視点から流れを見極めていくことです。さまざまな誤りもふくめて、歴史を前進させていく人間の歩みを、全体としてポジティブに受けとめて行くことがだいじなのです。

私たちは審判者ではありません。私たちの仕事は、「社会主義の大道」の視点からあれこれ詮索することにはありません。歴史の審判は歴史がするのです。

メトロノームの針が右に傾いたら反動で左に傾いたら進歩というわけではありません。人間は右足と左足を交互に前に出しながら歴史の歩みを進めていくのです。

だからリアルでしっかりした「20世紀論」を構築し、その上に「21世紀論」と「未来社会」を積み上げなければならないのです。中国批判の上にセメダインで接ぎ木するようなものではありません。

2回めを迎えて、志位さんの綱領改定の講義がますます冴え渡っている。
志位さんの批判の刃は鋭く、快刀乱麻、とどまるところを知らない。
わたしごときオールド・ボルシェビキには、我が身を苛まされる如きマゾヒスティックな快感すら覚える。

今更ながらの話になるが、2000年を迎えるにあたって「来たるべき世紀」の物語は語ったが、20世紀論を語り尽くさなかったことが後悔される。

とくに今回ロシアを旅し、独ソ戦とペテルブルクの包囲戦の実相を知るに及んで、ファシズムというのが20世紀を彩る最大の出来事だったということ、ファシズムとの闘いこそが、民主主義論にヒューマニズムという価値観を付加し、「現代民主主義」の考えを強固にささえていることを実感した。

思えば、20世紀は戦いの世紀だった。本当に数々の戦いがあり、それを世界の民衆は戦い抜いた。そして私達に平和の時代を引き継いでくれた。

ボルシェビズム、スターリン主義、毛沢東主義… いろいろ言われておりそれらに対する批判はまことにもっともなことではある。我々は苦渋を以て「社会主義の失敗」を認めなければならない。

しかし、それにも関わらず、ソ連や中国の人民は多大な犠牲を払って、世界からファシズムを放逐する闘いの先頭に立った。その事を忘れるべきではない。

その事実に思いを致し、その戦いに敬意を払うことは、現下の政策に批判を加えることとはまったく矛盾しない。むしろその敬意こそが、ソ連や中国を批判するうえでだいじな背景となっているのである。



Winamp をもう一度試そうとダンロードして立ち上げたが、海外放送はまったく反応しない。

もう海外放送というのがそもそも潰れたのかと思ったが、ネット放送+海外で検索してみたらまったく話は違っていた。

“Audial Radio Free” というソフトが有って、いまや飛ぶ鳥を落とす勢いなのだ。

二通りの録音方法

これで録音するには二通りあって、一つはオンラインでストリーミングを流して、それを先程のようにAudacityで録音する方法である。ただしこれはラジオ放送のエアチェックと同じ原理なので、やってみないと何が取れるかわからない。

音源そのものも、その場でメモしておかないと、なんの曲で誰の演奏でというのがわからなくなる。高齢者には絶望的な作業である。

アプリを落として録音する方法

こちらの方はWinampと同じで、ソフトをダウンロードして立ち上げる。放送局一覧に行って聞きたい番組をクリックすれば音楽が聞ける仕組みだ。

もちろんそれをストリーミング録音することもできる。こちらの方はまだよくわからないが、録音を開始するのは簡単で、ダウンロードのフォルダーにMP3の形式で保存されていく。原音にもよるのだろうがビットレートは320kbというかなりの高品質だ。

有料版というのもあるようでどのくらいの性能差があるのかも不明だ。もう少し経験を積んでからまた報告する。

難点は使い方を説明したサイトが少ないことで、日本語版は会社の取説ページを除けば、数えるほどしかない。そして取説はいかにも取説で、かゆいところをすべて省いてくれている。

ホームページからのダウンロードは複雑

ダウンロードが非常に複雑で、至るところに地雷原が仕掛けてあって、有料版へ向かう落とし穴や、ログインを強制する画面が顔を出す。まるで「ゼルダの伝説」みたいだ(と言ってもまったくのゲーム音痴だが)。

企業のホームページからのアクセスは避けて、ウィンドウズのアプリストアというところから入っていくことにする。


グーグルで “Microsoft Store  Audials Radio Free 日本語” と入れて検索をかける。

Audials Radio Free を入手 - Microsoft Store ja-JP」が真っ先に引っかかるので、そこに入る。


すると下図のページに異動する。
Audials
ここで「入手」をクリックすると
開きますか?
がポップアップで出てくるので「開く」をクリックする。

しばらく微妙な時間が続くと、別のポップアップ画面(ちょっと大きめ)が現れる。
インストール済みです
一瞬行き止まりに入ったみたいで心配だが、上の方に「この製品はインストール済みです」と書いてあって「起動」ボタンがあるので、クリックする。

そこで時計がぐるぐる回って、下の画面に到着する。これでプログラムは開始されたことになる。
起動時画面
ここで検索窓に“Classical” と入れると、局が列挙されるので普通に開けていけばよい。

初期設定については記事を改める。



あたしも馬鹿だねぇ。気がついたら、1年前におんなじことをやって、おんなじように挫折している。


というのがそれだ。

You Tubeの音がひどくなって久しい。ときどき何かオンラインソフトとか、アプリでなにか出物がないかチェックするが、まったくだめだ。
結局、ダウンロードでAACとかビットレーとか書いてあるが、あれは嘘だということがわかってきた。本当に95kbps あればもう少しまともな音がするはずだ。きっと実際の音は50そこそこではないかと思う。というのは、以前ネットラジオからチェックした時、95kbといえばそれなりにハイファイだったと覚えているからだ。 
しかしそれはダウンロードできるファイルのビットレートであり、You Tubeから流れてくる音はそのままオーディオに流してもそれなりに聞けるような気がする。
そこで当分の間、流れてくるストリーム音源をそのままアナログ録音して見ようと思う。

仕掛けは実に簡単だ。You Tubeの音楽を再生して、それをAudacity で録音すればよい。ただし一つだけ準備が必要だ。
Audacity
6段目の左端のウインドウ。“Windows WASAPI” になっているが、デフォールトは “MMI” になっている。そのままだとマウスのクリックとか内蔵マイクの拾った音とか全部入ってしまう。
窓の右側の下向き矢印をプルダウンして、“Windows WASAPI” に変えなければならない。
そこだけ直せば、後はスイスイと録音できる。

まっさらのおろしたてのAudacity ならもう少し仕掛けがいる。
Audacity は Wav 方式で録音することになっている。これをMP3に変換して保存するためにはエンコーダー(Lame) が必要だ。Wavのまま保存してもいいが、無駄だ。所詮それほどの音質ではない。私はMP3の200Kb 固定レートで保存している。演奏時間がわかるので絶対固定レートにすべきだ。

ファイル分割が必要になることがあるが、Audacity でも問題なくできるが、やはりMP3 Directcut が断然楽だ。餅は餅屋で(といってもAudacity は録音ソフトではないが)。

聞いてみての感想だが、ダウンロードファイルより断然良い。高音部のくぐもりが宇宙晴れする。よく今まで我慢して聞いてきたものだと感じる。

録音したままで席を立つと、次のファイルまで延々と録画される。クラシック音楽の場合は、案外それで良かったりする。次のファイルまで録画してしまっても、それはそれで使えることがある。

以前、海外ネットラジオのストリーミング再生できるソフトが流行って、中にはWinamp などストリーミング録音が可能なものもあった。ダラダラと無制限に録音しておくと、ちゃんと曲ごとに区切られてタグも付いてというすぐれものだったが、曲そのものがお仕着せということもあっていつの間にか使わなくなってしまった。

一度探してみよう。

大きな声では言えないが、12日から19日までペテルブルクとモスクワを観光旅行してきました。
毎日、刻々と状況が変わり、帰る前の日には午後と夜の行事がキャンセルとなりました。

帰りの飛行機は肘掛けを上げて、3席独占。臥床して寝ることができました。
それでも成田についたときには思わず客席から拍手がでました
機内ではイタリア帰りという若者が、「あちらではとんでもないことになっている」と話していました。
帰ってきたときは、むしろ日本のあっけなさに「大丈夫かな?」と訝しんだくらいですが、いよいよ本物になってきたようです。

23日、イタリアから到着した40代男性の新型コロナ感染が確認された。

22日のツイッターにはこのような発言も: 「この時期に旅行する神経が分かりません。何故行ってしまったんですか? 帰国して、しかも待機せずとか…」

イタリアのコロナは別物?

どうも日本で感じていたコロナ像と、ヨーロッパを席巻しつつあるコロナは、別人のような印象を受けます。例えて言えばインフルエンザのAとBくらいの違い。

とにかくやたらと人相が悪い。感染力も毒力もエグくて、ファシストの顔をしています。

これから日本に来るのは別のコロナと考えたほうが良いのではないでしょうか。

イタリア・コロナの特徴

とにかく報道の範囲から、イタリア・コロナの特徴を探ってみたいと思います。

1.感染スピードがやたらに早い

25日の時点で全世界の感染者は40万人を超えました。前の日に比べて4万712人増えています。絶対数はばらつきがありますが増加数は圧倒的です。

感染者が10万人に達するまで67日間、次の10万人はその11日後、さらに次の10万人はわずか4日間でした。その多くがイタリア、スペインなど南欧系諸国です。

以下は岩田デノーラ砂和子さんによるものです。
イタリア政府は7日に北イタリア14県の封鎖(行動抑制)を決定しました。各州知事は北イタリアから来た人に14日間の自主隔離を通告しました。
しかし煽る報道も手伝って非常識な人々、およそ数万人が全国に散ったのです。それが各地でトラブルとなりました。実家に到着するも家に入れてもらえず、車で自主隔離を迫られることもあったようです。
これらの混乱は、コンテ首相が「私は家にいます #iorestoacasa」とテレビで語った後、沈静化したようです。
レッドゾーン
            14の封鎖県
2.いまさら仕方ないが “感染者No.0”

イタリアで最初のコロナは1月下旬です。中国人観光客2人がイタリア旅行中に発症しました。

これは孤発に終わったようです。しかし「ステルス・キラー」を通じて生き延びた可能性も否定できません。

1月30日、クルーズ船「コスタ・スメラルダ」でマカオ人女性の疑似患者がいましたが、検査では陰性でした。このため下船予定者1千人がそのまま下船した。

次のケースが2月18日、ミラノ南東60キロでの38歳のイタリア人男性(診断は21日)です。それから1週間以内に900人の感染が確認され、そのうち21人が死亡しました。

経路は明らかになっていませんが、1月中旬に中国とコンタクトがあったドイツ人男性がイタリア人男性と接触していることがわかりました。このドイツ人の勤務先でも陽性者が数人発覚しています。


2.毒性がべらぼうに強い

イタリアで死者が7500人を超えました。すでに中国の2倍に達しています(CSSE)

北部ベルガモ医師会の会長は「自宅で死亡した患者はカウントされていない」と述べています(読売)

注目される研究があります。陽性が確認された約5800例をさかのぼって調査したものです。
これによると、2月20日以前にウイルスはすでに同州南部の広い範囲に拡散していた可能性があるといいます。疫学の専門家の間では、コロナ肺炎に似た症状が昨年秋から確認されており、欧州での感染が早く始まっていたとの見方があるようです(朝日新聞 =河原田慎一)
ソーシャルメディアでは「自分より若い患者に」と人工呼吸器を譲った72歳の神父が話題になっています。(BBC)

スペインでも3400人に到達しました。

木村正人さんによれば

マドリードの高齢者介護施設で17人が死亡、アルコイでも21人が死亡。高齢者介護施設を支援するために軍が動員されています。

遺体を受け入れる場所がなくなり、スケートリンクを臨時の遺体安置所としているそうです。

アメリカは感染者が6万6千人、死者が737人です。インフルエンザが大流行した上にこの数です。


ハグやチークキスとは関係ない

木村一人さんは次のようなイタリア人の意見を紹介しています。
南イタリアではキスしてハグする男性を見かけますが、北イタリアでは基本的にはそんなことはしません。
つまり、もしキスが原因なら“クールな北部人”に多発する事象を説明できない、というのです。

とにかく、そんな生活習慣でこの病気がわかったような気になることは、ぜったいだめです。全く不明のエイリアンが戸口の向こうまでやってきているのです。武漢から昨日まで2ヶ月の経験は、もはや役に立ちません。もう忘れてください。


こういうひどいやつもいる。

古森 義久:産経新聞ワシントン駐在客員特派員というひとで

イタリアの悲劇は中国依存のツケ」というとんでもないデマを振りまいている。
米欧の専門家たちの間では、イタリアが近年「一帯一路」への参加などを通じて、中国との絆を異様なほど緊密にしてきたことが今回の感染拡大の最大の温床となったとする見解が広まってきた。
むかし、朝鮮人部落の子と遊ぶと「あそこの家の子と遊んじゃいけないよ、悪い病気が移るからね」と言われたみたいなものだ。それで病気にでもなったら「ほらご覧、言ったじゃないの」という具合である。この男が違うのは、それを飯の種にしているところだ。

ここまで調べた範囲で中国オリジン説にはなんの根拠もない。欧米では「東洋人は来るな」と殴られたりすることもあるそうだが、この人はそういうリスクも甘受するのか、それとも白人もどきの面立ちなのか?

いずれにしても、学問的に否定されているウワサを、人が苦しんでいるときに垂れ流すのは、しかも他人が言っているように書いて自分の責任を免れようというのは、人間として卑劣の極みだろうと思う。

もうこんなことを言っても役に立たないかもしれないが、もし生き延びる人がいたら、2020年の今日、こんな馬鹿なことを言う人間がいたことを覚えておいてほしい。

大木毅「独ソ戦」を読んでの感想を記す。旅行後の感想もふくむ。

1.犠牲者数への畏怖を持つこと

ソ連側の犠牲者が2700万人というのは、ほぼ動かしがたい数字である

幾多の研究を歴て、人口統計学的に、死者の数字は強固なものになりつつある。問題は民間人の死をどれほどドイツ軍の責任に帰すべきかという線引の問題のみだ。これを厳密に取れば1千万ほど割り引かれる可能性がある。

この法外な犠牲者の数、それに象徴された「生き地獄」への想像力を働かせること、これがすべての出発点である。

2.2700万人はピスカリョフスキ墓地で実感できる

とはいえ、2700万人という数は私にも実感できなかった。

それがやっと実感できたのが、レニングラードのピスカリョフスキ墓地だ。ここに間違いなく、50万の霊が丸太のように埋められている。


3.誰がこのような死をもたらしたのか?

この数字は、戦争による、戦争につきものの死ではない。

邪悪な信念にとりつかれた人間集団の、邪悪な行いによる過剰な死である。それは犠牲者数におけるドイツとソ連との圧倒的な非対称性に明示されている。

大木さんの本のたすきに書かれた「戦場ではない、地獄だ」というのはこのことを表している。

だから私たちは、誰がこの圧倒的かつ非対称的な死をもたらしたのかを、決してゆるがせにできないのである。


4.ヒトラーは3つの戦争を同時進行した

大木さんの主張の根幹はここにある。ヒトラーは3つの戦争を同時進行した。

それは第一に通常の純軍事的な戦争であり、第二にイデオロギーに支配された世界観戦争であり、第三に具体的に敵とみなした相手への絶滅戦争である。


5.原理主義にもとづく世界観戦争

アーリア民族を唯一至高の人間と考える思想に基づく戦略。

戦う相手に降伏を許さない、カイライ政権は一切認めない、住民に一切の権利を容認しない、人間としての平等を認めない、などを基本とする。

それは現地住民のモノ扱い、使い捨て戦略に帰着する。

大木さんは使い捨て戦略の具体的証拠として、二つの「計画」を上げる。

A)東部総合計画

これは1942年6月に採用された計画で、3つの柱からなる。

まず、ポーランドと西部ロシアの住民3千万人をシベリアに送る。
ついで、労働力として残置する1500万人をゲルマン植民者の奴隷とする。
最後に、各国に点在する民族ドイツ人が開拓者として入植する。

B)飢餓計画

これは食料省が企画したもので、ソ連領内からの食料をドイツ本国に供給することを目標としている。

この計画では、現地住民のうち3千万人が餓死することを前提としている。


6.核心となる絶滅戦争

絶滅戦争の典型はレニングラード包囲戦と全期間、全戦線における系統的住民虐殺である。前者についてはここでは省略する。

後者の典型はハイドリッヒの「機動部隊」(41年6月結成)だ。
Heydrichmarke
それは戦争の全期間を通じて90万人を殺害(主として銃殺)した。その対象はユダヤ人とボルシェビキであった。

ヒトラーはボルシェビキとユダヤ人を同じものと考えていた。41年9月アウシュビッツで最初のガス室が作動したとき、その対象はソ連軍捕虜600名であった。


7.ドイツ軍は共犯者、ドイツ国民は無辜ではない

2700万人を死に至らしめたのがナチスであったにせよ、ドイツ軍がそれに積極的に手を貸したことを看過すべきではない。

ここで大木が例証としてあげるのは捕虜の扱いである。戦時捕虜となったソ連軍兵士570万のうち300万が死亡している。ドイツ軍は捕虜に対してなすべき最低の待遇を与えなかった。

国民の多くもナチスの蛮行に気づきながら口をつぐみ、ナチス礼賛を続けた。

ヒトラーへの「共犯性」を覆い隠そうとする歴史修正主義は事実をもって葬り去るべきだ。

それとともに、ソ連の人々が「われわれは莫大な犠牲を払ってヨーロッパと世界をナチズムから解放した」というとき、その声にも謙虚に耳を傾けるべきだと思う。


8.チャーチルの決断

チャーチルは最も強固な反共産主義者であるが、最初にソ連に手を差し伸べた人物でもある。

いろいろな理由が挙げられているが、つまるところ

ひとつは、スターリンは小悪でヒトラーは邪悪の象徴と捉えた。すなわち「人類とその歴史にとっての敵」である。

もうひとつ、この世界戦争はナチス独裁の崩壊を目指す闘いである。独ソ戦はヒトラー対スターリンではなく、ファシズム対ソ連人民の闘いだと考えた。

彼は41年8月の大西洋憲章において、ルーズベルトとこの考えを共有した。

この項は大木さんの意見に全面的に同意するものではないが、私達にとって示唆に富む見解である。




Russia Beyond に「第二次世界大戦によるソ連国民の本当の犠牲者数は?」という記事があって、そこからの引用。

犠牲者数をめぐる議論の経過

1.スターリンは犠牲者数を過小申告した

1946年初めにゴスプラン(国家計画委員会)はより大きい数を報告したが、スターリンは握りつぶした。

1946年 スターリンは「大祖国戦争」に言及。「ソ連は約700万の人々を失った」と発言。犠牲者に関する初めての公式発言となる。

1965年 フルシチョフはもっと大きな数字「2000万人」を示した。ブレジネフも、この数字を一貫して示した。しかし2000万人「以上」と表現した。

ソ連崩壊の後、ロシア当局が公式に認めた推定死者数は再び増加している。

2015年 ロシア国防省が発表した公式の推算が最も新しい、正確なものと言われる。これによると兵士と民間人の両方を含む犠牲者全体が2660万人とされる。

その後2019年までのあいだに、これより新しい数字はロシア当局からは発表されていない。しかしいくつかの研究では、これよりもっと多い数が主張されている。それも踏まえて、2700万人という数が最もあり得べきものとして流布しているのである。

2.どこまでを犠牲者とするか

犠牲者の数は70年かけて700万から2700万まで増えてきたのだが、この数はいったいどこまでの範囲をカウントしたものなのか。

ソ連→ロシア政府当局が対象としているのは、1941~1945年の独ソ戦(大祖国戦争)のみである。

1939~1941年の軍事行動(ポーランドへの侵攻と、フィンランドとの「冬戦争」)、さらに1945年の対日戦は含まれていない。

この犠牲者数は2つのカテゴリーに分かれる。戦闘員と民間人である。それぞれが3つの小類型に細分される。

約1200万人の兵士が戦死したか、行方不明になった。もしくは捕虜になったまま帰還しなかった。

約1460万人は民間人であり、ドイツ軍が占領した地で殺されたか、飢餓や疾病などで死亡した。もしくはドイツに強制連行されたまま帰還しなかった。

2700万人は過小評価? 過大評価?

独ソ戦が終わったのはもう74年も前のことだが、数字をめぐる論争はまだ続いており、さまざまな歴史家がさまざまな推算の方法を提案している。

この中でゼムツォフ議員は4200万人説を唱えている。これは実際に死んだ人々だけでなく、戦争のせいで生まれなかった(と推定される)子供たちまで含めており、恣意的と言わざるを得ない。

いっぽうゼムスコフ教授は1600万人説を唱える。なぜなら民間人の1460万人には「飢餓や疾病などで死亡した」例が含まれており、これでは戦争による死と自然死とを区別できない。

民間人犠牲者のカテゴリーは直接殺害された人たち、空襲、爆撃で死んだ人たち、レニングラード包囲戦で亡くなった人たちに限定すべきだと主張する。こうすると民間人犠牲者は450万人となり、総犠牲者は1600万人となる。。

とは言いつつも、多くのロシア国民が2700万という数字を支持しているのも、いわれのないことではない。

数の問題の議論の前に踏まえておくべきこと

まず、ロシアだから、スターリンだからという色眼鏡をかけて議論するのはやめるべきだということである。

そういう人に議論に参加する資格はない。もし参加するなら、心ある人は議論の輪から身を引いていくだろう。

Russia Beyond はこう書いている。
ただ一つ否定できないことがある。大祖国戦争の間に、ソ連は厖大な数の人々を失った。
だが、それによって世界はナチス・ドイツから救われた。
勝利の代償は恐るべきものであった。が、もし敗北していたら?その代償はもはや想像の外だろう。
つまり、犠牲者の数よりも、犠牲の意味を知ってほしいということだ。それはナチズムという人類史の上で最も邪悪な力に対し、ロシア国民が「十字架を背負って」闘ったということだ。だから犠牲者の数が桁違いに大きいのだというのだ。
だから私たちは平和と民主主義のいまを生かされている。
ロシアの死者たちは、いまを生きる者に、そこを知ってほしいと訴えているのではないだろうか。

モスクワでの行き帰りの飛行機でやっていた「邦画」の主人公。
映画は吹き替えで、中国語がかぶっていた。
だから言葉はわからないし、筋はわからない。でもこの横顔が素敵だった。nana
ストーリー的には脇役らしいのだけど、映像的な存在感は主役を上回っていた。
それにしても変な話だけど、今どきの青年に共通する「生活感が乏しいところに生活感がある」という不思議な人畜無害的透明感。女性の半分はブスではなく美しいという、統計的には単純な事実。
水たまりはたいてい泥水なのだが、蒸留水でできた水たまりが、いまにも日なたで干せ上がるみたいなウソっぽいリアルさ。
横置きの黒御影の墓石の「六甲の水」に差し込まれた一輪の白バラのアイミョン的ワールド
こういう世界、嫌いではない。
気持ち悪いクロスオーバーおっさんやなぁ…

ここではピスカリョフの記念墓地のパンフレットの英文を基礎に、封鎖博物館の説明文を加えて文章化した。なお後者は05年の「イスクラ友好友の会」の旅行記より拝借したものである。
さらにインターネット上の「Russia Beyond」の「レニングラード戦をめぐる7つの事実」という記事と写真を付け加えた。
私のオリジナルはまったくない。のりとはさみによる編集であることを記しておく。
なお、年表化した包囲戦の経過については、ウィキの「レニングラード防衛戦」を元に、別途記事を起こそうと思っている。


1.レニングラード包囲戦とは

レニングラードの包囲戦は都市の歴史で最も悲劇的なページです。そして第二次世界大戦の歴史の中で最も悲劇的なものです。

当時のレニングラードはモスクワに首都を譲ったとはいえ人口320万人。今の大阪市より多くの人が住んでいました。520の工場群と72万の労働者。ソ連各地の発電所設備の8割を有する大都会でした。

レニングラードの包囲は1941年の10月から始まり、2年半も続きました。包囲戦の全経過を通じて100万人以上の市民が亡くなりました。ほぼ同数の兵士が戦場と市立病院で死亡しました。市外に避難した者からも数万人の犠牲者が出ました。

ソ連の戦争犠牲者の数は少なめに見積もられてきました。レニングラードでも公式発表は死者67万人ですが、最近の研究では110万人程度と推計されています。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎をふくむすべて)を上回る数です。

世界の戦争の歴史で、レニングラードほど多くの生命を捧げた都市はありません。


2.ナチス・ドイツの最初の標的

ナチス・ドイツの指導者は、攻撃の最初の標的としてレニングラードを選びました。ヨーロッパから最も近く、政治的・経済的・戦略的に重要な場所だったからです。ヒトラーは熱狂的なナチス党員を司令官に選びました。

それはドイツ軍の「バルバロッサ作戦」と呼ばれる東部侵攻計画の柱の一つでした。

レニングラードを目指す北部軍の特別行動部隊は、6月末リトアニアに入ると首都カウナスで1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺しました。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を射殺します。

ドイツ軍北部軍は1日30キロの速度で進攻、7月10日にはレニングラード州に入りました。レニングラードを防衛するソ連軍には兵士も武器も不足していました。

スターリンは将軍たちを粛清するしか能のない男で、レニングラード防衛軍の司令官をモスクワに召喚すると即刻銃殺刑にしてしまいます。本当は真っ先に自分の頭に向かって引き金を引くべきでした。


3.狭まるレニングラード包囲網

ソ連側では数十万のレニングラード市民義勇部隊が突貫工事で縦深壕を設営、これでドイツ軍機動部隊の動きを止めました。レニングラード南方は沼沢地帯が広がり機動戦が展開しにくい地形です。ここに潜んだソ連軍は原始的な白兵戦を挑み、ドイツ軍に多大な出血を強いました。

人々の抵抗は、ドイツ軍にロシア人蔑視と敵視を強めました。「捕虜の列車輸送は車両が汚染される」とし、禁止しました。ナチの「虐殺部隊」は地方の有力者、知識人も「浄化」の対象とするようになりました。

9月はじめ、ドイツ軍はレニングラードの東方の町、ラドガ湖畔のシュリッセンブルクに出て、レニングラードにつながる陸路を遮断しました。街の周囲は事実上、完全に封鎖されてしまいました。
Siege_of_Leningrad_Eastern_Front_1941_06_to_1941_12
   ドイツ軍の侵攻とレニングラード包囲


4.ヒトラーが望んだのは、勝利ではなく絶滅だった

ヒトラーはレニングラードを攻略するのではなく、この都市を地表上から抹殺しようと考えていました。ヒトラーはつぎのような訓令を発します。
レニングラードを密閉せよ。そして飢餓によって弱体化せよ。春には市を占領し、生存者を排除し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする
ドイツ軍参謀本部が作成した「C‐124秘密文書」には、こう書かれています。
…2 総統はサンクトペテルブルクを地表から拭い取ることを決定した。
…4 もし市内の状況が変わって市民が降伏をもとめた場合、彼らの求めは拒否される。なぜなら補給や食料を提供することに関わる問題は、我々によって解決できないし、解決すべきでもないからだ。
われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。
この目標に沿って、ドイツ軍司令部は集中的な爆撃と砲撃を開始しました。水道・電力などの民生施設と食料倉庫が集中的に攻撃されました。こうして市民は水なし、食料なしで生活することを余儀なくされました。
爆撃を受け避難する市民
          爆撃を受け避難する市民
包囲中、市内では15万個近くの砲弾、10万7千個以上の焼夷弾および高性能爆弾が使用されたと推定されています。その結果、市街の500万平方メートル以上が破壊されました。それは建物3つに一つの計算になります。

ドイツ軍はフィンランドと秘密協定を結んでいました。それによると、空襲は街の周辺部から始まり、市民を徐々にネヴァ川両岸の中心部に追い込み、最後に集中爆撃で一人残らず根絶やしにする予定でした。


5.次々に生活が追い込まれていく

一番つらいのは爆撃や砲撃ではありません。なにもない街では生きていくこと、生活することが一番つらいことなのです。
家にも街路にも電気はありません。川岸から氷の穴まで行くのは大変でした。輸送用燃料がないので、どこへ行くにもソリを引いて歩くしかありません。
滑りやすいので、氷穴の脇でひざまずいてバケツで水を掬いました…。飢えで衰弱していたから、水をバケツに掬ってもそれをうまく引き上げられません。家に持ち帰ると水は凍っていて、それを解かして、煮沸して使いました。
壊れた水道から水を
          壊れた水道から水を汲み出す
この年は記録的な寒さで、冬には気温が零下38度まで下がりました。暖房がないのでストーブで床材・家具や本・アルバムなどが焼かれました。

逃げようとする市民は容赦なく射殺されました。射殺するドイツ兵士もやりきれません。そこでドイツ軍は多数の心理カウンセラーを陣地に常駐させました。そして「劣等人種に対する同情は不要である」というナチスのイデオロギーを強力に注入しました。


5.そして飢餓地獄が襲った

包囲が始まった最初の年、秋から冬にかけて最も恐ろしい問題は飢餓でした。まず食料と食料の配給が減りました。

最初は包囲戦開始前の9月2日でした。このとき市民への食糧の配給が削減され、肉体労働者は1日にパン600g、労働者は400g、その他の市民と子供は300gと定められました。
やせ衰えた家族
             やせ衰えた家族
11月20日から配給はさらに減りました。毎日のパンの配給は事務員、扶養家族、および子供で125グラムに減少しました。 労働者のためには250グラム、前線の兵士のために500グラムが確保されました。

パン以外の製品はほとんどなくなりました。そのパンは “偽物のパン” と呼ばれました。半分は小麦粉ですが、残りは残飯、野草、壁紙などでした。にかわや靴、革のベルトを煮て食べました。耐え難い臭いだったが、塩・コショウ、酢などを加えて飲み込みました。
10歳の男の子は「猫を捕まえた。殺して次の日に食べた。とても美味しかった」と書いています。

ある画家はこう書いています。恐ろしさをある種の気高さにまで昇華しています。
寝台にごろりと横になる。生きる意欲が失せていく。…手紙は誰からも来ない。雪が降っている。みんな死んでいき、雪に被われるだろう。

恐ろしいのはこの飢餓作戦がきわめて科学的な予測の下に、ドイツ人らしい几帳面さで実施されたということです。
軍の諮問を受けたミュンヘン栄養研究所は、飢餓作戦の計画を提出しました。この計画では市民を市内に留め封鎖を継続すれば、市内は飢餓状態に陥り、人々は半年以内に絶滅するだろうと報告しています。ここにナチスの精神の真髄があります。

6.ターニャの日記

この頃、12歳の少女、ターニャ・サヴィチェワが日記を書き始めました。その日記によれば、翌年5月にかけて肉親全員が次々と死んでいきました。

41年12月28日の午前12時  姉ジェーニャが死んだ。
42年1月25日の午後3時 おばあちゃんが死んだ。
3月17日の午前5時 次男リョーカが死んだ。
4月13日の深夜2時 ヴァーシャおじさんが死んだ。
5月10日の午後4時 リョーシャおじさん
5月13日の午前7時半 ── ママ
サヴィチェフ家は死んだ
みんな死んだ
残ったのはターニャだけ
Tanya_Savicheva
44年5月 ターニャはシャトコフスキー病院に入院。1ヶ月に死亡。

市民の声はこのページに数多く記載されています。ぜひご覧ください

街路、工場、そしてアパートで、家族ぐるみの餓死が続いていきました。872日の封鎖の間に100万人が餓死・凍死しました。毎日絶え間なくどこかに砲撃ああり、時々爆撃があって、そのたびにあちこちで死人の群れが発生しました。

まさにこの世の地獄です。ただそれがインフェルノと異なるのは、ナチスという人間集団が作り出した人工の地獄だということです。

第二次世界大戦の現代史的本質は独ソ戦に集中的に表現されています。その特徴を一言で言えば2千万を越える過剰死と過剰殺戮です。その典型がレニングラードにおける市民の餓死です。そしてその典型がターニャとその家族です。

その重さから、子供用のソリが庶民の主な輸送手段になりました。人々はソリを使って水や物を運び、…死体を埋葬地に運びました。毎日、朝日が昇ると、街には白いお棺を載せた橇の長い行列が続きました。
夫をそりで運ぶ
          衰えた夫をソリで運ぶ女性

7.埋葬する場所もなくなった

1942年1月、レニングラードの墓地という墓地が死体で溢れました。市当局は、郊外のピスカリョフスカ駅付近の空き地を確保して、大量の埋葬を許可することにしました。

埋葬は毎日行われました。3千人から1万人が100x10メートルほどの塹壕のような穴に投げ込まれ、一杯になると埋め立てられました。

1942年2月20日は最大の埋葬日でした。一日だけで10,043人もの市民がピスカリョフスキに埋葬されました。
共同墓
    この墓石の後ろの帯塚に千体ほどの遺骨が埋葬されている

7.人々は抵抗を続けた

そんな中でもラジオ放送が続けられました。各アパートに一つラジオが置かれ、毎日2時間くらい放送が流れました。

ラジオで流された詩の一節です。
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。
私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
放送のない間も、ラジオからメトロノームの音が流れ続けました。それは「この音が聞こえる間、レニングラードは生きている」という意味を持っています。

止まってしまったら、それはドイツ軍が放送局を襲ったことを意味します。この音はいまでも深夜の放送で流れ続けています。

メトロノームの音は街頭でも放送された。遅いときは注意報で、速い時は緊急警報でした。

路上には1500ものスピーカーが設置されました。警報は計3740回に及びました。余裕があるときは管弦楽や詩の朗読も放送されたそうです。
路上の拡声器
             路上の拡声器
このような状況にあっては、生きること自体が闘いでした。学校で学ぶこともそうでした。エルミタージュの地下にも学校があって、こどもたちが学んでいました。

寒くてインクは凍りました。子どもたちは自分の手でインクを温めて勉強しました。みな、学校に行きたかったのです。

解放されるまでの間、レニングラードは街ぐるみ前線で、子供もふくめて市民一人一人が兵士でした。人々は農業の経験はありませんでしたが、多くが知識人でした。勉強し経験交流しました。イサク広場の農園では立派なキャベツが出来上がりました。

42年8月、レニングラードの大ホールではレニングラード市民ショスタコービッチの第7交響曲が初演されました。その一部はラジオ放送されました。
団員は徴兵され最前線で戦っていた。演奏のために市内に戻ることが許され、1日だけ銃を楽器に持ち替えて、演奏に参加し、そしてまた戦場へと戻っていった。彼らのほとんどが、そのまま帰ってこなかった。(松浦晋也のL/D
43年1月、レニングラード防衛軍が封鎖突破を目指すイスクラ作戦を開始しました。5日間の激闘の末、ドイツ軍の包囲網を突破し、内陸との回廊の確保に成功しました。
これでレニングラードをふくむ北部戦線は大きな転換期を迎えました。しかしその後も、ドイツ軍の圧力は依然として続きます。

44年1月15日、ロシア北部の解放を目指す一斉攻撃が始まりました。すでにすべての前線で戦闘態勢の維持が困難となっていたドイツ軍は戦闘力を喪失。レニングラード周囲を撤退し70キロ西方へと敗走しました。
解放の日

8.ピスカリョフスキ墓地のいま

レニングラードでは包囲からの解放を祝う祝砲があげられました。包囲が始まってから実に872日目のことでした。

しかしその傷跡はあまりにも深いものでした。人々は遺体を集め、街を清め、墓地を整備しました。

いまこのピスカリョフスキ墓地には186の共同墓があります。そこにはこの町で暮らした42万人以上の市民が横たわっています。彼らは空腹、爆撃、砲撃で亡くなりました。そしてそのほかに7万人以上の兵士、レニングラード防衛隊の隊員が葬られています。

dairituzou
        公園の最奥にある女性像、寒かった!

市内には他にも多くの墓地がありますが、ピスカリョフスキの埋葬者が群を抜いています。

(このあと、墓地の整備の歴史が語られているが、省略します)

「ベトナム 手洗いダンス」という歌が評判のようだ。

「内閣官房」というサイトがいろいろの映像をアップしている。

こちらのページは元の映像に日本語の字幕付きでおすすめ。


このページは若者二人のダンス付きで左に英語、右にベトナム語の歌詞がつく。もはや明らかにヒット狙い。


こちらはタイ・バージョンでベトナムの曲にタイ語の歌詞と美男美女のダンスをつけている。


こちらはUSバージョンで、どうもベトナムの米公館でのパーティーのように見える。

19世紀 ロシア文学 年表(文章が長い「年表」です)

2015年12月16日 
と合わせながら読んでください。

1820年 プーシキン、長編詩『ルスラーンとリュドミーラ』を発表。

1824年 プーシキン、当局に睨まれ、北ロシアの故郷に送られる。この時期に『ボリス・ゴドゥノフ』を執筆する。

1825年 貴族の若手将校たちがペテルブルクで武装蜂起。12月に発生したために「デカブリストの乱」と呼ばれる。

1831年 プーシキンに長女マリアが生まれる。後に「アンナ・カレーニナ」のモデルとなる。

1833年 プーシキン『エフゲニー・オネーギン』

1825年から書き継がれ、8年で完成する。

遊び疲れたオネーギンが田舎の領地に隠棲する。地方貴族ラーリン家の娘タチヤーナは、オネーギンに恋し、思いを打ち明けるがあしらわれる。
オネーギンは友人の許嫁にちょっかいを出し、決闘で殺してしまう。田舎にもいられなくなり、モスクワに戻る。
一方タチヤーナも結婚して公爵夫人となりモスクワに出る。二人は再会し、今度はオネーギンが恋に落ちるが、タチヤーナはこれを拒み離れていく。

1834年 プーシキン『スペードの女王』

こちらは寓話の短編。舞台はペテルブルク。

臆病な賭け好きの青年ゲルマンが、友人の祖母アンナ・フェドトブナ伯爵夫人を知り、その屋敷を襲う。
彼女は必勝の手を知っており、過去に大勝したことがある。その秘密を教えろと銃で脅迫したところ彼女は死んでしまった。
何日かあとにゲルマンの枕元にアンナの亡霊が立った。そして3-7-1の必勝番号を告げた。
彼は1回目に3,二回目に7で勝ったが、3回目に1の札を引いたら、それがスペードの女王に早変わりし、その女王がゲルマンに微笑みかけた。その瞬間にゲルマンは発狂してしまった。

というわけで、話はほとんど「罪と罰」に重なっている。

1836年 ゴーゴリ『検察官』

ある地方都市。ペテルブルグから検察官がやってくるとの話が持ち上がる。実は査察官らしき人物の正体は貧乏な小役人なのだが、田舎者の無知につけ込んでシコタマ騙し取る。

この偽査察官も田舎の腐敗役人の裏返しに過ぎないから、ユーモアはジャリッと砂混じりだ。

ゴーゴリはウクライナ人でプーシキンの薫陶を受けた。プーシキンが漱石ならゴーゴリは芥川に当たる。超一流の皮肉屋だが、思索家としては復古派にとどまる。

技法と多彩さにおいて追随を許さない。 ドストエフスキーは「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」という。

1837年 プーシキン、決闘に敗れ死亡。彼は決闘マニアだった。


1840年 レールモントフ『現代の英雄』

カフカス勤務のロシア軍将校、ペチョーリンの物語。貴族の出で高い教育を受けたがオネーギンと同じくシニカルで虚無的だ。
しかもなお悪いことに人を残酷な実験や快楽のための材料とみなしている。

レールモントフはデカブリスト敗北後の反動的社会状況に抗議していたと言う。
プーシキンと同じく決闘で死んだが、この作品により、プーシキンと並ぶ近代ロシア文学の創始者とみなされている。


1842年 ゴーゴリ『外套』

ドストエフスキーは「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」と書いた。

貧しい小官吏のアカーキー・アカーキエヴィッチが一大決心をして外套を誂える。外套は彼の生涯の夢になる。
しかし外套ができあがった最初の夜、その外套はペテルブルクの暗闇で剥ぎとられてしまい、アカーキー・アカーキエヴィッチは悲嘆のあまりに死んでしまう。
その後彼の幽霊が出始める。幽霊は嫌味な上司の外套を剥ぎとってしまう。


1840年代 評論家ベリンスキーが「批判的リアリズム」を唱える。

1852年 ゲルツェン『過去と思索』

亡命先のロンドンで自伝の執筆を開始。デカブリストの衣鉢を継ぐビルドゥングス・ロマンとしても面白く、ベストセラーとなる。

1857年 ゲルツェン、雑誌『鐘』を発行。「ブ・ナロード」を提唱し、「革命的民主主義」の先駆的思想家となる。マルクスとは疎遠なままに終わる。

1850年代 ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイらがあいついで文壇に登場。社会問題への関心とヒューマニズムで共通する。

1862年 ツルゲーネフ『父と子』

登場人物の一覧を見るだけで、「絶対に読むものか」と決意を抱かせる小説。読み終わっても登場人物の名が思い出せない。海馬が強烈な拒否反応、ツルゲーネフと聞いただけで総毛立つ思いがする。

1860年代 チェルヌィシェフスキー

1863年 トルストイ『戦争と平和』

全四巻からなる大作である。6年にわたり書き継がれた。
基本的には歴史小説だが、平和=恋愛の場面と戦争=ナポレオンの侵略とが組み合わさり、波瀾万丈の物語となっている。

1866年 チェルヌイシェフスキー『何をなすべきか』

ベリンスキーの社会批評を発展させ、革命的民主主義を提唱。

1866年 ドストエフスキー『罪と罰』

学生崩れの若者が、ナポレオンと自分を比較し、良い企図はあらゆる犯罪を正当化し得ると考える。
彼は金貸しの老婆を殺し金を奪うが、煩悶のあまり警察に自首する。
ドストエフスキーは40年代から活動開始。シベリア流刑となり、戻ったあと本格的な著作活動を開始。

1869年 ドストエフスキー『白痴』

1872年 ドストエフスキー『悪霊』

1873年 トルストイ『アンナ・カレーニナ』

『戦争と平和』についで書かれ、完成に4年を要した。愛と死をめぐる悲劇の物語。

1879年 ラヴロフら『前進』を発刊。これをもとに「人民の意志」を結成。

1880年 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

「正教の神髄を代弁した者」と評される。

父フョードル。強欲で好色な成り上がりの地主。前妻との間に長男のドミートリイ。
後妻は次男のイヴァンと三男のアレクセイを生んだあと死亡。
長男ドミートリイ。野生的な魅力をもつ。堕落した生活を送り、婚約者カチェリーナから借金を背負う。にもかかわらず近所に住む妖婦グルーシェンカを父と争う。
次男イヴァン。理科大を出たインテリで無神論者。兄の婚約者を愛している。
三男アレクセイ。中学校を中退して修道院に身を預けた修道僧。神の愛によって肉親を和解させようとする。
父+三兄弟を軸に入り組んだ人間関係と妬みや憎しみなどネガティブな感情が渦巻く。

1881年 「人民の意志」活動家がアレクサンドル2世を暗殺。

1890年代 チェーホフ『短編小説』

我々にはむしろ劇作家として馴染みが深い。『かもめ』(96年)、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』(01年)、『桜の園』(04年)などが知られている。

1902年 ゴーリキー『どん底』(戯曲)


1907年 ゴーリキー『母』(長編小説)


1.進化史から見たヒトとトリ

海中に暮らす脊椎動物、要するに魚が陸上に上がり始めたのが3億5千万年前の話だ。

それはやがて両生類となり、3億2千万年前には単弓類と双弓類に分かれた。

単弓類は哺乳類となり、進化は緩やかになる。一方双弓類は爬虫類に発展し、生物進化の主流を担うようになった。

爬虫類の中から獣脚類(いわゆる恐竜)が分化し、その一亜型として鳥類が誕生するんは20億年前のこととされる。

哺乳類→霊長類→人類と進化が始まるのは、1億年前の隕石衝突→地球寒冷化以来のことである。

いったん進化の流れから取り残された単弓類が、継体天皇よろしく皇位につくのであるから、そことなく無様で、急拵えだ。

進化系統図

脳みそが大きいと言っても、実は電線だらけで本当に働く神経集団は多くはない。

そこに行くと進化の王道を歩んできた鳥の脳は美しい。おそらくBiomimetics に携わる人たちは実感しているのではないだろうか。

2.トリ脳のすごいところ

どう考えてもカラスの脳は人間それに勝るとも劣らない。哺乳類一般よりははるかに優れているのではないか。おそらく膨大な記憶装置を伴う言語能力だけが鳥にないものだろうと思う。

その能力をあの小さな脳の中にコンパクトに取り込んでいるのだからすごい。

鳥の脳をモデルに人工知能を形成して、記憶装置は外付けにしてファイブGでつないでやれば、大型コンピュータの機能は飛躍的にアップするのではないだろうか。

ということで、鳥の脳モデルを検討してみたい。

3.トリ脳の解剖学的構造

カラス基本脳構造

トリ脳の解剖図である。
基本構造は後脳・中脳・前脳の三脳構造である。前脳を視床と呼んだり間脳と呼んだりするのは、大脳こそ最高の産物と考えるマクリーン風の間違いである。発生学的には大脳は終脳ではなく前脳の突起物であり、眼球は中脳の突起物であり、小脳は後脳の突起物である。

それから上、大脳部分は人間と大きく様相を異にする。人間では髄質がその大半を占めるのに対し、トリでは髄質・皮質の構造は見当たらない。
その代わりに大脳そのものが階層構造を形成する。ある意味で、大脳すべてが皮質で構成されていることになる。これなら5Gもへったくれもない。電線ゼロの直つながりだ。

4.トリ脳の活動領域

カラス脳活動領域


一応、見た範囲で解剖図との対応関係をチェックしておくと

延髄~後脳: 脊髄の上行、脳神経の入力・出力。睡眠・覚醒

中脳: 背側 視覚、感覚統合  腹側 ドパミン作動性神経の中枢

視床: 前脳でのフィードバックループ

線条体: 視床の背側に淡蒼球という結節が付着し、その表面を覆うように形成される。
古皮質ないし原始皮質とも言うべき位置を占め、頭側から尾側に向けて音声学習などの機能が特定されている。最尾側は側坐核とも言われ、学習・意思決定など高次な機能を司るが、これは単独に行われるのではなく弓外套や巣外套の情報を統合した機能と見られる。

外套群: 線条体を弓外套と巣外套が包み、さらにその外側は中外套-高外套と積み上がっていく。


それぞれの階層間には前後関係において一定の機能のつながりが見られるようだ。しかしこの絵を見ただけで、それ以上のことは言えない。さらに学習を深めたい。

この記事は「基軸通貨 75年 ドルへの不安」という日経記事の紹介です。筆者は日経新聞国際部長の発田さんです。

大変要領よくまとめられていて、参考になります。しかしこの記事1発でわかるほどデジタル通貨は甘くありません。

少し話の順序を変えて、議論の流れが飲みやすくなるよう工夫してみました。いくつかの部分には補足的説明も折り込みました。

そのため原文よりかえって長くなってしまいました。ご容赦の程をお願いします。


問題意識 デジタル人民元はドルを揺るがすだろうか?

中国が発行するデジタル人民元が普及しつつある。
問題はこれがドルを基軸とする国際金融体制を揺るがすことになるか否かである。

それは2種類の議論を内包している。ドルの単一支配体制が人民元により破綻するのかという問題、もう一つはデジタル通貨が国債決済の主役になっていくのかという問題だ。

1.ブレトンウッズ体制とドル本位制

ブレトン・ウッズ協定以来75年間、ドルは世界の基軸通貨であり続けている。

貿易の半分はドル決済だ。各国の外貨準備、証券発行、新興国の対外債務の3分の2がドル建てだ。新興国の中には、普通にドルが国内流通している国も珍しくない。

もともとのドル支配体制は金本位制を背景としていた。フランスが60年代にドル覇権に挑んだことがある。しかし金の大幅流出にも関わらずドル覇権が揺らぐことはなかった。

73年に、ベトナム戦争と財政破綻によりブレトン・ウッズ体制は崩壊した。ドルは金の裏打ちをなくし、世の中は変動相場制の時代に移行した。

アメリカは双子の赤字を抱え困難に直面した。ドルの価値は大幅に下落した。

このとき「基軸通貨ドルを防衛せよ」という共通認識が形成された。実質的には通貨システムの押し付けであったが、形としては先進諸国の合意による通貨システムの再建であった

その後、ドル基軸体制はそのまま続いている。

理由は単純だ。米国に代わる強国が登場しなかったからだ。世界第二の経済大国にのし上がった日本も、総合力において到底かなうものではなかった。


2.中国もドル覇権から抜け出せない

だが21世紀に入って状況は大きく変わりつつある。中国という強力なライバルの登場だ。

いまや中国のGDPは購買力平価ベースでは米国を逆転している。このまま行けば、2030年には市場実勢ベースでも米国を抜くことになる。

とはいえ、中国もかつての日本同様にドル支配の軛のもとにある。

あらゆる通貨の中でドルは特権的地位にある。その特権はとてつもないものだ。

ドルが貿易の決済通貨である以上、各国はドルを持たなければならない。そのために、日本や中国は1兆ドルを超す米国債を保有している。

外国企業はドル調達や為替差損の調整にコストとをかけざるをえない。

一方、米国は経常収支が赤字でも世界から資金を集めることができる。米企業はドルに関する手当てをまったく必要としない。


3.通貨覇権と軍事覇権

米国以外の多くの国にとって、最大の脅威は通貨覇権が軍事覇権を支えていることだ。

イランはトランプ政権成立後に石油収入の8割が減った。外貨準備はあるのに、その9割にアクセスできない。

どうして米国はこのようなことができるのか。それは送金情報を送る国際銀行間通信協会(SWIFT)が決済網を握っているからだ。

米国が対イラン制裁を発動したとき、それが実効化できたのはSWIFTがイランの銀行を決済網から締め出したからだ。そしてSWIFTの運営を握っているのが米銀だからだ。

同じ手口はベネズエラにも適用された。中国の党幹部はSWIFTなどの国債決済網は「米国の覇権維持ド道具」と見ている。


4.米国第一主義がドルへの信頼を揺るがせている

ドルによる通貨覇権への不安は、中国や途上国だけでなく先進国や、金融中枢からも湧き出ている。

ドルは世界システムとしての安定性を欲するが、トランプの自国第一主義はこの考えと激しく衝突するからだ。

自国第一主義というのは、自分の立ち位置を中心に土俵を作るようなものだ。土俵際まで追い込まれたら自分を中心に土俵を書き直すことにする。

これではルールも何もあったものではない。

先年、米国は「世界の警官は続けられない」と宣言した。安全保障分野と同じように世界経済システムの守り手の役割も放棄するなら、もはやドル支配体制の維持に意味はなくなる。

その不安感を典型的に示したのが、昨年8月のイングランド銀行カーニー総裁の講演だ。

デジタル通貨容認論だけが全面に出る形で報道されたが、最も重要なことはトランプ政権への不信感と、ドル依存体制への危機感である。

カーニー総裁は「経済政策をめぐる不確実性」や「あからさまな保護主義」が、通貨システムを介して世界経済を破壊する危険性があると指摘した。そして世界はドル基軸体制から脱却する必要があると訴えたのである。

その延長線上に代替システムの一つとしてデジタル通貨(中銀主導型)の可能性を示唆したのである。



5.デジタル通貨が切り札となるか?

デジタル通貨には長所と欠点がある。

最大の長所は通貨を介入することから来る為替リスクがないことだ。その他にも銀行を通さないことから、金融介入をシャットアウトできること(公的介入さえも迂回できる可能性がある)、簡素でスピーディな手続きも長所としてあげられる。

一方で、大銀行や政府・中銀のバックアップがないから、外部の干渉に弱い。あまりに投機性が高いためにアメリカでは半ば犯罪扱いされてきた。

大資本がバックアップすれば短所はカバーされる

この欠点はピア・トゥ・ピア評価が安定しないことから生じる。それは各国中銀や大手銀行がシステムに介入し、取引の信頼性を担保すれば克服できる。

特に先行しているのが中国人民銀行だ。

いま、IMFや世銀を先頭に多くの国際的銀行ネットワークは米国の影響下にある。これに対して中国は、ブロック・チェーンを使って銀行を通さない決済を広げようとしている。

このブロック・チェーンの先にビットコインを接続すれば、大手金融網とは関係なくもう一つの経済圏が構築される可能性がある。


6.人民元そのものの弱点はそのまま残っている

そこでデジタル人民元に未来はあるかという話になる。

発田さんの指摘によれば、人民元は個人の両替は年間5万ドル以下、海外投資には事実上使えない、浮遊ペグではあるが完全変動相場制ではない、などの制限が残っている。
その結果外国為替市場での取引シェアは2%にとどまっている。

まずは国際通貨にふさわしく、さまざまな制限を撤廃し、ブラッシュアップしなければならない。どちらにしても、人民元が国際化されなければデジタル人民元も国際的なものにはならないだろう。

ただし、ドルの側から人民元に押し込むようなプッシュ要因が今後出現しないとは限らない。あるいはユーロとの協調のような局面も考えられる。

いずれにせよデジタル通貨元年のような様相を呈している2020年、動向を慎重に見極めていく必要がありそうだ。

SDGs(持続可能な開発目標)について

1.SDGsとはなにか

Sustainable Development Goals の略。“s”は複数形の”s”なのでエスディージーズと読む。恥をかかないよう一言。

2015年9月に国連で開かれたサミットの中で世界のリーダーによって決められた、国際社会共通の目標です。

17のゴール・169のターゲットから構成され,地球上の「誰一人取り残さない」(leave no one behind)ことを誓っています。

2.なぜSDGsが叫ばれるようになったか

20世紀の最後の20年間、ネオリベラリズムに基づくグローバリゼーションが拡大しました。

これは一部の企業(とくに米国の情報産業)の活性化により景気の回復をもたらしましたが、それと引き換えに貧富の格差の拡大と、貧困層の社会的排除という深刻な問題を生み出しました。

その傾向は特に若者層、発展途上国という地球の未来を担う社会集団に顕著に現れました。

そのために社会のひずみと歪んだ風潮が、世界中のいたる所で強まっています。

3.SDGsは何を目指すか

まず、格差→貧困+差別という連鎖をどう断ち切るかというグランド・デザインが必要です。

それが「社会的包摂」という考え方です。

すなわち地球上の誰一人も取り残さないこと、僧いう世界を実現するという構えです。

ヘイトや差別観にもとづく行動が青年の間に広がっていますが、その多くは自らも差別され貧困に追い込まれているのです。

多くの国で、若者の失業率はふた桁に達し、中には半分以上が失業という状態すら生まれています。青年は社会から排除され、貶められているのです。

これらを解消するには個別の対応ではなく、とくに仕事面での保証が必要です。納得の行く仕事と暮らして行ける賃金は、包摂力のある世界を作る上で必須です。

4.企業の社会的責任 CSR

仕事を具体的に保証しているのは企業です。個別企業というのではありませんが、企業全体の社会的任務が問われて然るべきです。

このような企業の社会的責任を求める考えを「企業の社会的責任」(Corporate Social Responsibility)とよびます。

これはメセナとか社会貢献というのとはレベルの違う話です。あくまでも自主的な企業活動の一部であるとはいえ、一定の社会的合意をもふくむものです。

5.企業への具体的要請

CSRはイギリスのブレア政権で始められ、欧州金融危機さなかのEUで強化され定式化されました。

企業は2つの側面から規定されています。

出資者による所有と運営という面、そして労働者など生産組織に関わる人々、商品やサービスを利用する消費者などです。後者は「利害関係者」(ステークホルダー)と呼ばれます。

EUはこの2つの側面をすり合わせ、それらの共通価値を拡大していくようもとめました。

たしかに利益をどう分配するかということだけに限れば株主と利害関係者はゼロサムの世界にあります。さらに利害関係者の間でもなにかと衝突はつきものです。

しかし企業というのは社会分業の中で役割をにない社会活動の一部を担っているわけですから、その公共的性格は誰もが了解し受け入れなければなりません。

6.企業は何をなすべきか

企業はビジネスを展開するにあたって、企業活動による負の影響を減らさなければなりません。

そのために、少なくとも長期の企業戦略においてはCSRを組み込まなければなりません。労働安全や福祉に加えて、広範な利害関係者への配慮もなされなければなりません。

これは決してネガティブな課題ではありません。ステークホルダーの多様な要求を満たすことは、そのための革新的なサービスを生み出すことに繋がります。

こうして社会課題に対応しつつ企業価値を向上させるという企業活動スタイルに脱皮して行くことがもとめられていると言えるでしょう。

日経新聞「やさしい経済学」(長谷川直哉さん)より

(SDGsをめぐる連載のうち企業責任の部分を要約したものです)

シンポ「朝鮮半島の非核化と東アジア平和構築」
が行われ、その要旨が日本AALAの機関紙に掲載された。

主催者の坂本恵先生のまとめをさらにピックアップして紹介する。演者は南基正さん、李俊揆さん、李柄輝さんの三人である。

A 南基正さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と日韓関係再構築ー2つのプロセスの相互関連」

B 李俊揆さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と東アジア国際秩序の展望」

C 李柄輝さんの発言 「朝鮮半島情勢の新局面と朝鮮の“正面突破”作戦

これはきわめて注目すべき報告。
なぜかと言うと、朝鮮大学校準教授、在日三世という方の日本語で、正確かつ過不足なく共和国のものの考え方が聞けるまたとない機会だからだ。

AALAがこういう形で北朝鮮の考え方を紹介できるのは、とても良いことだと思う。

ここまでが前書き。

1.はじめに

朝鮮はSea PowerとLand Powerが拮抗する場所だ。周辺はみな大国で、朝鮮民族はいつも大国の間で翻弄されてきた。

国力がなければ朝鮮の自主権は担保できない。これが地政学的な宿命だ。

2.社会主義強国論

16年5月に労働党大会で「社会主義強国」が採択された。国力をつけ自決権を確保することと、社会主義建設とを結びつけた路線。

それまでの「先軍政治」路線をあらため、軍から党へ、国防委員会から国務委員会への転換が行われた。

テクノラートが政権の中枢を担い、生産現場の裁量性や部分的な市場経済の導入も行った。

3.社会主義強国論から「正面突破路線」へ

2ヶ月前の19年12月、労働党中央委員会は「正面突破路線」を打ち出した。

これは社会主義強国路線を排除するのではなくその上に積み上げられた路線である。

社会主義強国路線は経済優先への切り替えを目指す計画であるが、それを対外開放のもとに行おうつぃた。

しかしアメリカは経済封鎖に近い制裁を課し続けている。これに対しあくまでも自力更生を貫きながら、制裁攻撃を正面突破しようとする路線である。

同時に軍事的な脅迫に対しても核開発もふくめて対抗していく。なぜなら、この軍事的包囲体制の打破と、新しい平和体制の実現なくしては、真の経済発展はありえないと覚悟しているからである。

4.核開発に至る歴史的経緯

1953年に停戦協定が結ばれた。そのなかで戦争を再燃させないことが約束された。そのために双方が武器を持込むことが禁止された。

しかし米国は58年に韓国に戦術核を持ち込んだ。共和国では米に対する不信が強まった。その結果、共和国は61年の7月にソ連・中国の核の傘に入った。

その後、ソ連が崩壊し韓中が接近。そしてブッシュが共和国に対し核先制使用を宣言した。

これが共和国が核開発を進めてきた理由である。

だから、それらの脅威をなくさなければ核開発を止めることはできない。そして「停戦体制」を終了させ、解体することが完全な非核化の最大の保障となる。

5.18年の米朝共同声明

共同声明での共和国側の主張は次のようなものである。

① アメリカの核脅迫を停止すること
② 共和国への好戦的敵対関係を停止すること
③ アメリカは「最大限の圧迫と関与」外交を停止すること
④ 誠意をもって交渉に臨み、継続させること

最大の難関は核兵器を「最後の一発まで放棄しなければ制裁は微塵たりとも解除しない」ことに米が固執していることにある。

これに対し、中国、韓国、ロシアは異を唱えているが、日本が3国に同調しないのが隘路になっている。

日本が日朝共同声明の精神に立ち帰り、積極的な役割を果たすよう、支援してもらいたい。

記事の途中に突っ込んだが、別記事として起こしておいたほうが良いと思い、別途上げることにした。いわば記事の解説用の脇コラムだと思ってください。

南基正さんの主張の土台には、「戦場国家」ー「基地国家」という地政学的把握がある。
東アジアは、依然として朝鮮戦争で形成された地政学的状況に規定されており、いわば冷戦体制を引きずっている。

朝鮮戦争において半島の南北は前線国家となり、日本は基地国家となった。これはアメリカから見ての関係であるが、それが日韓両国を関係付けるメカニズムともなっている。

しかしこれは偽りの関係であり、他律的な関係でもある。この歴史付けられた不幸な関係を解きほぐすことが、東アジアの真の協同にとって不可欠な課題である。

これは私の感想だが、昨今の日韓関係論に鑑みて、この基本的視点を握って離さないことの重要性を確認すべきだろうと思う。

あえて誤解を恐れずに言おう。

この基本関係に比べれば、日帝支配や慰安婦・徴用工の問題は過去の関係に過ぎない。それらは歴史問題(の一部)として、時間をかけて相互理解を深めるしかない。

もし前向きに関係改善を図るのなら、非核・平和の構造づくり、アメリカへの従属との決別、中国もふくんだ多国間主義の関係づくりが基本となる。

韓国の自覚的な進歩勢力はすでにそのような認識に到達している。

その際は欧州で独仏の同盟が基軸となったように、日韓の平和友好がキーポイントにならざるを得ない。

日本が東アジアの現実をリアルに地政学的に捉えるならば、日韓が連帯し、中国・北朝鮮と一定の緊張をはらみながらも共存・共栄を図るという道すじしか描けないのではないだろうか。

詳しくは下記の記事、とくにその3をご参照ください


シンポ「朝鮮半島の非核化と東アジア平和構築」
が行われ、その要旨が日本AALAの機関紙に掲載された。

主催者の坂本恵先生のまとめをさらにピックアップして紹介する。演者は南基正さん、李俊揆さん、李柄輝さんの三人である。

A 南基正さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と日韓関係再構築
ー2つのプロセスの相互関連」

1.朝鮮半島の平和形成過程と日本の役割

和平の動きが始まって3年になる。日本はこの動きに加わらなければならない。なぜなら日本は“後方基地”として朝鮮戦争に事実上加わってきた当事国だからである。

関係六カ国のうち五か国はそれぞれこの間の和平の動きに関わってきた。日本だけが外れたままである。

そのハードルになっているのが拉致問題である。しかししそれを理由にして、東アジアを平和と希望の拠点へと転換すること、“歴史の課した宿題”を解くことを怠ってはならない。

2.東北アジア非核地帯の可能性

この項は、以前からの南先生の所説であるが、正直むずかしい。

骨組みとしてはこういう論理だ。

東北アジア平和構想の具体的一歩は非核地帯の創設だ。

まず南北だが、これは18年の板門店宣言で基本的認識を共有した。

南北はそれぞれ、戦場国家から脱皮することを選択した。このことは基地国家日本にもそこから脱皮するチャンスを与えている。

ついで韓日だが、これは98年の韓日共同宣言で、韓国が日本の「非核三原則」を評価するという形で価値を共有した。

そして朝日間でも、02年の朝日共同宣言で、北の核問題を国際法に沿って解決するという原則を共有した。

すなわち、日・韓・北の三者間で非核地帯条約へと至る確認は、原理的にはすでに形成されている。

3.日本の市民的イニシアチブがカギを握る

安倍内閣は成立以来、日韓・日朝の関係を冷却化し疎遠化することに傾注している。このため平和構想への道は遠のいているように見えるが、客観的状況はそうではないと思う。

日韓の市民が連帯し平和への動きを強めることは、情勢を大きく動かす可能性がある。とくに日本において憲法改正と軍事化を阻止する闘いが大きな役割を果たすだろう。

B 李俊揆さんの発言 「朝鮮半島の平和形成過程と東アジア国際秩序の展望」

題名としてはこちらのほうが大風呂敷で、いわばすべてである。
ただ坂本先生の要約を見ると、実際は南基正さんの緒論の資料的補強を内容としているようだ。

1.平和形成の3つの段階

18年9月の南北首脳会議での共同声明を読み込むと、平和形成過程は3つの段階を念頭に置いていると言う。

① 南北分断体制の克服
② 冷戦構造の2つの柱である朝米関係と朝日関係の改善
③ 東北アジアの安全保障体制と多国間協力

2.6カ国協議体制の意義

6カ国協議はすでに15年間も店ざらしとなっているが、東アジア平和の枠組みとしての先進性を失っていない。

05年の第4回会談で共同声明が出されている。それに基づいて、07年2月に「初期段階の措置」という合意が成立している。

その措置は次の5つである。

①朝鮮半島の非核化
②米朝国交正常化
③日朝国交正常化
④経済及びエネルギー協力
⑤北東アジアの平和及び安全のメカニズム

今、聞き終わったところだが、すごい腕前だと思う。
モーツァルトの交響曲第36番「リンツ」だが、もとは相当地味な曲だ。
取り立てて美しい緩徐楽章があるわけでもなく、取り立てて壮大なフーガがあるわけでもない。楽器編成は、「これでも交響曲と言うべきか」というくらい簡素で、どちらかといえば「ノリ」で勝負の曲だ。

それを艶っぽく、「これぞモーツァルト」というテクスチュアにして聞かせてくれた。随所に粋なひと刷毛をあしらいつつ、透明さを失わない。

まぁブロムシュテットの腕ということになるのだろうが、そのニュアンスをここまで表現できる楽団としての水準はさすがという他ない。N響の歴史的名演と呼んで良いのではないだろうか。
とにかくすごいリンツだ。カルロス・クライバー以来の衝撃だ。これは冥土の土産話になる。
どうでも良いが、池田昭子さん、相変わらずきれいだけどちょっと老けたかな。第2オーボエに回ったんだ。

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