鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2020年02月

李成市(り・そんしと読む。早稲田大学文学学術院)

李さんはなかなか慎重な人で、簡単に尻尾を掴まれるようなものの言い方はしない。あくまでもその専門分野でのエキスパートとして、その矩は越えないように努力してるようだ。
それでも十分にその説は魅力的である、


1. 東アジア世界論における漢字の伝播と受容

西嶋定生は、漢字を媒介に、中国に起源する儒教、漢訳仏教、律令を受容した地域を「東アジア文化圏」と名づけた。

西嶋によれば、東アジアは政治的には「冊封体制」としてシステム化された。この二本柱によって「東アジア世界」が形成された。

しかしながらこの論理は成り立ち得ない。いかにその理由を述べる。

2.東アジア文化圏における例外としての新羅

6世紀以降の新羅は漢字を受容していた。それは中国の冊封を受ける以前からであった。これは「東アジア政治システム」からでは説明できない。

さらに言えば、新羅は純粋な漢文(正格漢文)ではなく「変体漢文」とよばれる新羅的な様式を用いていた。

それは新羅言葉を文字として表現するために、漢字を用いる試みである。それは漢字文化であっても、漢文文化ではない。

このような傾向は法制、儒教、仏教の受容にも同じように見られる。

3.韓国と日本の木簡

現在日本の木簡は、37 万点の出土がある。
中国で木簡が大量に使用されたのは秦漢時代である。日本で使われ始めたのが7世紀なかば、大化の改新ころからなので、長い間隔がある。

最近韓国での木簡出土が増えており、その内容が日本のそれと酷似していることが分かってきた。このため日本木簡の源流を韓国に求めるようになってきた。

問題は、このような類縁関係を生み出した要因である。

百済・新羅木簡の出現は、日本木簡に比べ1世紀ほど先行している。この文字化の流れがどこからどこへ流れているかは、おのずから明らかであろう。

「古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」の学習ノートを作ろうと思ったが、途中でやめた。

そもそも冒頭論文の李成市「概説 古代日朝文化交流史」をパラパラとめくってみて、これは面白そうだと買ったのが、家に帰ったらおもしろいのは概説だけだったという笑い話だ。

前記記事では意気込んで、
やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。
と書いた手前、李成市さんの文章だけはちょっと説明しておく。日本の学者というのは在日韓国人の研究者で、日本で学問的素養を積んだという意味である。

はじめに

古代における日朝関係は多元的・並行的である。
日朝関係というより朝鮮三国+倭の4か国関係史と考えたほうが良いのかもしれない。
その際、任那・伽耶の扱いが微妙になるが、事実に即して慎重に議論していくことにする。

というのが李さんの所論、大いに同感である。

1.百済と倭国の交流

高句麗が漢城に都を構え南進してきた。
漢城付近に住む人々が、高句麗の南進に対抗するために百済国を形成した。

漢城というのが曰く有りげだ。平壌というなら旧楽浪郡であり漢人と交わった現地人が住んでいたはずだ。その時漢城付近が楽浪の一部だったか、帯方郡だったのかは微妙だ。

2.高句麗と倭国との交流

好太王の頃は倭と南朝鮮の覇を争ったが、6世紀の中頃には落ち目になって、新羅に漢城(ソウル)を奪われている。

おそらく百済と反新羅連合を組み、百済のよしみで倭国にも使節を派遣していたのだろう。ただしそれは倭王朝がすでに消滅し大和王朝が倭国の支配権をにぎったのちである。

この他多くの高句麗人が聖徳太子の元を訪ねた
とされている。聖徳太子は百済とつながる蘇我氏と対抗しようとしたと言われる。
経路は不明だが、日本海側領土の大半はすでに新羅に制圧されていることから、反新羅連合を組んだ百済からであろう。

3.新羅と倭国との交流

591年に新羅が倭典(倭国との外交機関)を設置したという記載があるが、その後はすべて白村江以降の話になる。

その姿は、憎々しいほどに余裕たっぷりである。表向きは日本を立ててはいるが、任那を滅亡させ白村江でも日本軍を壊滅させ、唐の大軍を撃退した新羅の実力は揺るぎないものがある。

それに引き換え、日本は君臣の礼を強要したり、駄々をこねて使節を追い返したり、やることがガキである。いまの首相に似ていなくもない。

とりあえず、いまの私の関心域からは外れるので、内容は省略する。

以下は私の感想だが、

一つは、多元的・並行的に加え、重層的であるということも付け加えたほうがいいのではないか。

半島では古朝鮮族が基本的には駆逐され、消滅している。おそらく南部では日本人に近い遺伝子組成の人々がいて、それが三韓の消失に時をあわせて、記憶の底に沈んでいったのではないか。

それに代わり、中国東北部に出自を持つ人々が多数を占めるようになった。

三韓→三国時代→新羅という半島南部の政治過程は、その民族移動過程の上に乗っかっているのではないだろうか。


やっと、見つけた。
「とんでも本」でなく、イデオロギーむき出しでもなく、朝鮮側と日本側の歴史を真面目に照合した文献。ちなみに緒論を書いた李成市さんは名前は朝鮮人だが、日本の学者。


古代日本と古代朝鮮の文字文化交流」という題で歴博のシンポの記録のようだ。

とりあえず下記年表に追補する形でファクトを拾っていくことにする。


これは下記記事の増補版となっている

ただし、「抜き」とはいっても日本書紀に対応する事実があるものは、注記の形で載せている。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

189頃 80年の戦乱の末、和平が成立。卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

 楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

 当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者はもとは扶余(高句麗北方)からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。公孫淵は斬首に処せられる。魏はさらに海路南進し、楽浪・帯方の両郡を魏の直轄地とする。倭と韓(東濊・韓族)は帯方郡に服属する。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。大夫伊聲耆、掖邪狗らが魏に赴く。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。
(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者の載斯烏越から狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は帯方郡所属の武官、張政を邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。張政は台与を励ます。台与は即位当時13歳とされる。(張政は狗奴国の撃退、卑弥呼の死、後継男王の失敗、台与の就任のすべてにかかわったことになる)
248 国中遂に定まる。壱與は張政らの還るを送らしむ。さらに張政に掖邪狗らの使者を同行させ朝貢。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。この後、倭王讃による朝貢(413)まで中国の史書から倭国の記載は消失する。(この朝貢は日本書紀に神功皇后の挙?として示されている)

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。
三国時代地図

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

346 近肖古王が即位。新羅と同盟し、高句麗と戦う。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌城(黄海南道白川郡)へ進駐した高句麗兵を急襲。5000の首級を挙げる。

371年 近肖古王の率いる百済軍、高句麗の平壌へ攻め込み、故国原王を戦死させる。

372年 百済は東晋に朝貢。鎮東将軍・領楽浪郡太守に柵封される。

375 百済、「七支刀」を作成し、倭王に贈与する。これが石上神宮に伝存するものである。

古事記には応神天皇の時代に百済の照古王が和邇吉師を貢上。和邇吉師は論語十巻と千字文一巻を持参したとされる。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

405 百済王死去。倭国で人質となっていた王子が帰国し即位。

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

420 高句麗が宋に朝貢し「征東大将軍」、百済も朝貢し「鎮東大将軍」を下付される。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。

427 高句麗、平壌へ遷都。王都を大城山城に定める。百済に圧力をかける。

428 倭国、50人からなる使節団を百済に派遣。(三史)

429 百済王、妹の新斉都媛(池津媛)貢進する(日本書紀応神紀)

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

435 高句麗、(宋ではなく)北魏に入貢する。

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

439 北方民族の鮮卑が華北を統一。北魏を建てる。

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

471 稲荷山鉄剣がこの年作成される。(辛亥年)

472 百済、北魏に入貢し、高句麗に対する帥を乞う。

475 高句麗が百済の首都、漢城を占領。蓋鹵王を殺害。百済はいったん滅亡。その残党は公州の熊津まで後退し、新たに都とする。

477 百済で佐平、解仇が反乱。文周王を殺して三斤王を擁立。翌年にはさらに三斤王に対しても反乱を起こすが失敗、鎮圧される。

477 倭国、宋に遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。
これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)日本書紀ではこの2年後に雄略は没している。

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。
「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。
上表文では朝貢が滞った理由として①高句麗が百済を攻めるために朝貢路が確保できない。②高句麗との戦闘準備中に父済と兄興が急死した、ことをあげている。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

481 高句麗軍がさらに南進。百済・伽耶・新羅の連合軍は泥川の闘いで撃退する。

487 紀生磐(きのおおいわ)宿禰、任那で高句麗に通じて三韓の王になろうとする(憲宗紀)

491 高句麗軍、新羅に攻めこむ。百済は新羅に加勢して高句麗軍を撃退。

496 伽耶が新羅に白雉を送る。

498 百済が済州島(耽羅)を支配下に入れる。(これは日本書紀では継体2年とされる)

501 百済、新羅に対する警戒を強め、国境に柵を設ける。

502 武寧王が百済に戻り即位する。新羅を一大国と認め、連携して高句麗に対抗する戦略をとる。

502 南朝に斉に代わり梁が成立。北魏の混乱・衰退に乗じて華北に進攻。

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)。伽耶諸国の荷知王も梁に遣使。

502 百済の武寧王も梁に朝貢。梁の「支持」を背景に伽耶諸国への進出を図る。

502 倭国、百済の「要請」を容れ、任那4国を割譲(百済本紀に基づく記述とされる)。

503 麻立干、智証王を名乗り新羅を正式国名とする。

503 伴跛(はへ)国、百済の一地方を奪取。伴跛は任那の一国であり、4国の百済割譲を肯んじなかったとみられる。

505 伴跛国、倭国と敵対し戦火を交えるに至る。

505 新羅の第一次対外膨張が始まる。海岸沿いに北上。

513 百済より倭国へ五経博士が来る。五経博士は3年間の交番制で、段楊爾、漢高安茂らが来日する。後に五経の他、医、易、暦などの博士に拡大。

517 近江毛野臣の軍が派遣される。(継体21年の事項。継体初年を497と仮定した場合)

521 新羅が百済に伴われ、梁に初の遣使。

522 新羅が伽耶を影響下に置く。新羅貴族の娘が伽耶国王に嫁す。

523 新羅の法興王、南方の支配域を巡行。伽耶国王はこれに出向き拝謁。

524 新羅、北方の蔚珍(悉直国)を併呑し悉直州を置く。(金石文あり)

新羅の膨張

532 金官国(金官伽耶)が新羅に投降。

538 百済の聖明王、都を熊津から泗沘(扶余)に移す。「周書」、百済に僧尼・寺塔甚だ多しと伝える。

538 仏教公伝の年とされる。552年説もある。

552 高句麗、これまでの大城山城に代え、長安城の築城を決定。新羅の進出に備えたものとされる。

553 新羅、漢山地域(高句麗が百済より奪った地域)を奪取。新州を置く。556年にも百済、伽耶の領土を侵食。

553 日本書紀によれば、倭国が百済に馬、船、弓箭を贈り、卜書、薬物の送付を要請。

554 百済と加良が新羅の管山城を攻撃するが敗退。百済の聖王が戦死する。

554 倭国、百済救援のため新羅に出兵する。

561 新羅、安羅の波斯に築城し、倭軍と対決の構え。

562 大伽耶国が新羅に滅ぼされる。伽耶諸国全域を新羅が征服。

564 新羅、北斉に遣使し冊封される。

568 新羅、東海岸を北上。現咸鏡南道まで版図を拡大。

586 高句麗が大城山城に代え長安城に遷都する。

589 隋が中国を統一。

591 新羅に倭典(倭国との外交機関)が設置される。

595 高句麗の嬰陽王、僧慧慈を日本に派遣。慧慈は20年にわたり聖徳太子に近侍した。
冠位十二階は高句麗の制度を輸入したものと言われる。




この独ソ戦年表は「ヘイトの衝突としての東部戦線」(20年2月21日)から独立させたものです。


スターリンの大粛清: 1936年から1938年までのあいだに、134万人が政治的理由で逮捕された。そしてそのうち68万人が処刑された。
1940年

12月 ドイツ陸軍参謀部、ソ連侵攻作戦「オットー計画」を提示。ヒトラーは計画を了解した上で、「レニングラードとウクライナの占領を第一目標とする」よう指示。これを受けて「バルバロッサ作戦」の策定が開始される。


1941年

6月22日
3時15分 ドイツ軍は作戦名「バルバロッサ」の下にソ連を奇襲攻撃。西部戦線とは別の戦争、劣等民族の「絶滅戦争」と位置づけ、「敵軍事力の殲滅」を狙う。

北方軍集団ではレニングラードを包囲、中央軍集団は白ロシアのソ連軍を殲滅したあと、開戦1ヶ月でスモレンスクを占領する。これに対し、南方軍集団は進撃が遅れる傾向があった。
地図 開戦時

7月 開戦後1ヶ月でソ連軍は壊滅的被害。戦車約3500両、航空機約6000機、兵士約200万人が戦闘不能になる。ミンスク-スモレンスクを守る西部方面軍は壊滅する。ドイツ軍も相当の出血を強いられ、前線は停滞する。

8月 スモレンスクを陥落させた中央軍集団の主力部隊は南方軍集団の支援に回る。

ヒトラーは中央軍を北方と南方へと転進するよう命じ、モスクワ攻略を遅らせた。
モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していた。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)

8月末 キエフ、ハリコフなどが陥落。この間にソ連軍捕虜は白ロシアで28万、スモレンスクで31万、キエフで66万人に達し、戦傷死を合わせて200万人が戦闘不能となる。

9月 ドイツ軍77個師団がタイフーン作戦を開始。モスクワ攻略に乗り出す。しかし作戦を担う中央軍は戦力分割により手薄となっていた。

モスクワ包囲


10月 ドイツ軍、クレムリンまであと十数キロのところで進撃が止まる。原因としては①ソ連が予備役を動員し戦意を維持したこと、②戦線拡大にも関わらず、輸送手段が劣悪であったこと、③ソ連の焦土作戦で装備の現地調達が困難となったこと、が挙げられる。

11月 ルーズベルト大統領、モスクワが陥落の危機を脱したと判断。ソ連に対する武器・物資援助(レンドリース法適用)に踏み切る。

12月6日 ソ連軍、モスクワで冬季大反攻を開始。ソ連軍は満州やシベリア地区の精鋭部隊をモスクワ周辺に投入。冬季装備の不足したドイツ軍はいったん敗走するが、辛うじて戦線崩壊を回避する。

12月8日 真珠湾攻撃。アメリカは直ちに対独参戦。ヒットラーは、アメリカを支配するユダヤ財閥が、ソ連を操るユダヤ人秘密結社と結託したと判断。ユダヤ人問題の『最終的解決』を命じる。


1942年 

2月 ソ連軍の冬季大反攻が終了。持久戦に移行する。ここまででドイツ軍の死者は20万人に達する。

冬 レニングラードの包囲が続き、多くの市民が飢餓で死亡する。

6月 ドイツ軍のブラウ(青)作戦が発動される。南部戦線にてコーカサス地方の石油資源獲得を目的とする。ソ連軍は戦略的撤退で戦力を温存。スターリングラードの線で戦力を再編成。

ブラウ作戦


8月 ブラウ作戦に参加した第6軍がB軍集団を形成。油田確保を目指すA軍集団と分離しスターリングラードを攻撃。テヘラン回廊の寸断を図る。

攻撃は絨毯爆撃から始まった。出撃回数1600回、使用爆弾1000トンで市街地は廃墟と化した。ソ連軍は待ち伏せと狙撃で「ネズミ戦争」を挑んだ。このためドイツ軍は砲撃や空爆が不可能となった。

11月 ソ連軍、占領されたスターリングラードの奪還を目指す。百万の歩兵と1千台の戦車がドイツ軍の補給路を切断。ドイツ軍第6軍33万の将兵は市内に孤立する。ヒトラーは第6軍の突破撤退を禁止し、死守命令を出す。

1943年

2月1日 スターリングラードを守備するドイツB軍10万人が投降。ほとんどがシベリアに送られ、祖国に帰還できたのは5000人にとどまった。ソ連軍の死者は50万人、民間人の犠牲者は20万人に達する。

2月 コーカサスで進軍が止まっていたA軍集団は、かろうじて撤退に成功。ブラウ作戦は完全な失敗に終わる。

このあとテヘラン回廊を通じて、ソ連に大量の軍事物資が届き始める。

2月下旬 ドイツ軍、進撃するソ連軍をハリコフで逆包囲し、殲滅する。

7月 ドイツ軍90万人が「城塞作戦」を開始。クルスク突出部を南北から挟撃する。ソ連のT34との戦車戦となるが、10日後にドイツ軍は撤退。これを機に攻守が逆転する。
クルスク
             地図 クルスク戦の配置

7月 連合軍がシチリアへ上陸。ムソリーニは解任・逮捕される。

8月 ハリコフ攻防戦が展開される。ドイツ軍はT34戦車軍と対抗するが後方支援なく、撤退に追い込まれる。

9月 ソ連軍の冬季攻勢が開始される。ハリコフ・キエフが奪還される。ドイツ軍はドニエプル河の西側まで撤退。

1944年

1月 レニングラード解放。約900日間の包囲が終了する。

6月22日 ソ連軍がバグラチオン作戦を発動。陸空一体の電撃戦を展開。圧倒的な物量・戦力差は個別に撃破され、中央軍集団は事実上壊滅する。

1945年

1月 ソ連軍がヴィスワ=オーデル攻勢。ポーランドを横断し、ドイツ国境を越える。

4月16日 ジューコフ元帥のベルリン総攻撃が開始される。

5月8日 ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がベルリンで無条件降伏文書の批准。

松たか子

本日、パラサイトを見てきた」というのが、2月20日の記事。
実はそのときに気になったのが、上映中の映画のポスター。
「ラスト・レター」というのだ。

松たか子と広瀬すずの共演というか競演。いまを盛り、いずれアヤメかカキツバタ、もうこれは見ないと辛抱たまらない…

とは思ったのだが、さすがにジジイが一人で行くのには気が引ける。
どうしようかと悩んでいたが…、緊急情報!

上映中 / 2月27日(木)上映終了予定

出船を知らせるドラの音が響き渡る。

上映時間は?
なんと1日1回、21時10分から23時20分まで!

しょうがないから行ったのさ、一人で
夜霧の立ちこめる湿原のブラックアイスバーンを突っ切って、江別まで

で、どうだったかって?
おい、夜中の1時にこの記事を書いているんだぜ、

とにかく広瀬すずがきれいだ。うっとりする。美人ではない、可愛いいというのでもない、とにかくきれいなのだ。わかる? この表現…

多分、監督の腕の冴えなのだろう。

これがないと映画じゃない。映画というのはまずこうでなくちゃいけない。

これはこれですごいんだけど、この映画で一番キラキラして魅力的なのは、妹役の女優さん。
七菜

森七菜っていうんだそうだ。
出し惜しみして、ほとんどまともに顔を拝めないまま映画が終わってしまう。これも監督の演出なのだろう。松たか子と広瀬すずさえ写っていればいいのだ、この監督には…

とにかくいい映画だった。筋はどうでもいいのだが、ちょっと「エフゲニー・オネーギン」っぽい。

客はわたしひとり、と思ったらタイトルロールが始まる頃飛び込んできた、中年のおっさん。

とにかく劇場の銀幕を独り占めだ。
極楽、極楽!


ビットコインの歴史

2008年 「サトシ・ナカモト」の名前でビットコインに関する論文が発表される。

2009年1月  ビットコインのオープンソース・ソフトウェアが発表され、運用が開始される。

2009年6月 「資金決済に関する法律」が成立。流通性や汎用性を持つ電子的な決済手段を仮想通貨と定義する。

2010年5月 ビットコインによる商取引が初めて成立する。ピザ2枚が1万ビットコインで売られた。

2012年 欧州中央銀行は「未制御だが、特殊なコミュニティで用いられる電子マネー」と定義。

2013年3月 ブロックチェーンの分岐が起こり、激しい売り攻勢に直面する。米国の国土安全保障省はビットコイン取引所を押収し、FBIはSilk Roadのウェブサイトを閉鎖。

10月 中国のIT大手バイドゥがビットコインによる決済を導入。バンクーバーでビットコインのATMが導入される。

11月 中国を拠点とするビットコイン取引所のBTC China、世界最大のビットコイン取引所となる。

12月 中国人民銀行がビットコインの使用を禁止する。ビットコインの価値は暴落。

2013年 米財務省の金融犯罪取締ネットワーク(FinCEN)、「どの司法組織においても法定通貨としての価値を持たないもの」と定義。半ば犯罪扱いする。

2014年

1月 ビットコインを使ったマネーロンダリングで男が逮捕される。

2月 マウントゴックス、全ての取引を停止。取引IDの改ざんにより送金が繰り返され、480億円相当が引き出された。

6月 エクスペディア、デル、楽天スーパーロジスティクスがビットコイン決済の取扱を開始。時価総額は約8400億円に達する。

2014年 欧州銀行当局、「公的機関の裏づけはないが、支払手段として受け入れられ、電子的に譲渡、保管または取引される」ものとする。
中央銀行によって発行されるデジタル通貨は「中央銀行のデジタル通貨」とされる。

2016年 改正資金決済法が成立。仮想通貨を「弁済や購入・売却、相互交換を行うことができる電子情報上の財産的価値」と再定義。

2017年7月 ロシア人のビーニク、マウント・ゴックスなどから不正に金銭を入手したとして逮捕される。

2018年 資金決済法の再改正。欧米での呼称に従い、「仮想通貨」を「暗号資産」(crypto asset)に変更。

2018年7月 ベネズエラ政府が経済危機への対策として埋蔵原油を裏付けに発行したデジタル通貨「ペトロ」を発行。



世界経済フォーラム(ダボス会議)での仮想通貨・ビットコインに関するトピックス
https://coinpost.jp/?p=128782

ダボス会議でのブロック・チェーンの扱いはトピックスどころではない。ブロック・チェーンのために会議が開かれたというくらいの扱いだ。

上の記事では関連イベントや発表、注目発言をまとめている。

1.6中銀がデジタル通貨研究

共同研究の組織は「CBDC利用可能性評議会」と名づけられた。CBDCは中央銀行デジタル通貨(central bank digital currency)の略称。

今回のフォーラムではフォーラム事務局よりCBDCの枠組み案が提示された。これは全28ページからなり、各国中銀が発行するCBDCが適切かどうかを判定する基準となる。

また、デジタル通貨のガバナンスについても枠組みの設計が必要だとし、国際連合組織の設立を明らかにする。

ガバナンスを構成する要素としては効率性、スピード、相互運用性、金融包摂、透明性の5項目が挙げられている。

2.米ヘッジファンド創業者レイ・ダリオは語る

お金の目的は二つある。交換の手段と富の保存手段だ。現在、ビットコインはどちらにも効果的ではない。

しかしパラダイムシフトの限界が近づいているのも間違いない。国債のマイナス金利化はそのシグナルだ。

3.「大事なのは電子決済」

ヨルダンのデジタル経済相は「大事なのは電子決済で現金取引を排除すること。新たな通貨の発明は必要なし」と語る。

4.時流は逆に金回帰に向かう

イスラエルの歴史学者は、「P to P の信用など空虚だ。トランプの一吹きで吹き飛ぶ」とし、むしろ信頼を内蔵する金への回帰が強まるだろうと主張した。

5.「デジタル・ドル」プロジェクト

米商品先物取引委員会のジアンカルロ前会長が「デジタル・ドル」プロジェクトを発表。
ブロックチェーンを用いて米ドルをデジタル通貨化する。これにより手軽にドルの取引を行う環境の実現を目指す。

6.カリブラCEOが語るリブラ

フェスブック社のザッカーバーグは、仮想通貨「リブラ」の構想を立ち上げ、その関連子会社としてカリブラ社を立ち上げた。カリブラのCEOを務めるデビッド・マーカスが語る。

リブラを小売決済かホールセール型にするかは決まっていない。しかしいずれにせよ、リブラは金融決済を革新し、中央銀行が直面する通貨問題および自国経済の課題を解決する鍵となるだろう。

リブラの銀行からの支持率が低いが、我々の目論見は銀行との競争よりもっと高いところにある。
我々は金融包摂という課題を理解し、リブラをその解決法として試すものだ。

7.リブラ以外のデジタル通貨

Bakkt社は消費者向けの仮想通貨構想を発表した。
仮想通貨だけでなく、バーチャルグッズやデジタル証券、ポイントなどもその対象とするとのことだ。と言われてもなんのことやらわからぬ。

すでに仮想通貨を手掛けているリップル社は、「今後12ヵ月に渡り、仮想通貨企業の自社株発行が続々と行われるだろう」と述べた。

8.「サトシ、ダボスへようこそ」

世界経済フォーラムの会場に大型ポスターが掲示され、人目を引いた。スイス大手金融グループクレディ・スイスが掲示したものである。
satoshi
写真

リブラの台頭や、中国政府によるCBDC発行計画やブロックチェーン戦略などの盛り上がりは、まさに「サトシ・ナカモト」の切り開いた世界が大きく広がりつつあることを示している。

2020年がブロックチェーン元年となる可能性が見えてきた。もし新型ウィルスが鎮火し、トランプが再選されてその無軌道ぶりに拍車が掛かるようなら、一気にドル離れ、中銀離れが進んでいくのかも知れない。

それは金融一極支配の突破口になるのだろうか?

ブロックチェーン(Blockchain)とりあえずの感想

メリットやデメリットはどうでも良い

どうも困ったことだが、ビットコインやブロック・チェーンを扱う現場の人達が強調する「メリット」というのがさっぱり実感できないのである。

中央依存性が低い
安全性が高い
追跡可能性が高い

というのは、たしかにブロック・チェーンの特徴ではあるかも知れない。しかしだからといってそれが即「メリット」だと言われると、実のところそれはあまり実感できないのである。

「それをメリットだと思う人がやったら?」ということになる。

どうも記事は、ビットコインの相場に手を出そうとしているコンシューマーに、揉み手をしながら近づいてくるセールスマンのような感じで、油断ならない。



邪道が正道に

そもそもビットコインのそもそもの目的は非営利であった。それは金融独占の打破であり、「持たざるもの」に信用の窓地を開放することであった。しかしその目的はとうに失われた。

いまやそれは「口座を持てない人々」とはそもそも無縁な、高度のテクノロジーを利用した金融バクチとして発展しつつある。2018年のダボス会議でソロスは言った。1日で25%も値動きするような通貨は通貨ではない。誤解にもとづくただの投機だ。

業界2位の暗号通貨である「イーサリアム」は、ブロックチェーンを利用した取引を、一桁も二桁も増やそうとしている。
百鬼夜行の世界には詐欺や不祥事が続発してきた。暗号通貨が「暗号」であるゆえの弱点、強力な守りと利便性の矛盾が攻め込まれる隙間を提供してきた。

また中国では暗号資産の技法だけを盗み出して、P to Pとは真逆の「全展望監視システム」の方向に持っていこうとしてる。

鬼と出るか蛇と出るか

私が問うているのはメリット、デメリットという欲得の世界ではない。それが金融支配体制に風穴を開け、ドルの桎梏から抜け出し、脱一極の世界へ進み出す切符になるかどうかを問うているのである。

本来の分散型、ピア・トゥ・ピアの「民主的」な世界的金融システムが展開できるならこれほど素晴らしいことはない。

いわば政治の世界での一極支配対多国間主義という図式を、金融の世界に投影して行きたいのである。

まずは決済機能から

その際、人々が最も期待するのは決済機能であろう。フェアーな決済こそがいま最も求められているものだ。これがないために米国に国内法を発動され、不当な制裁を甘受せざるを得なくなっている。
ここ数年のEU諸国の米国追随ぶりは目を覆うばかりだ。イラン、ベネズエラ、パレスチナなどで米国が横車を押してもフランスもドイツも見て見ぬ振りをする。こんなことはイラク戦争の頃はなかったことだ。


ブロックチェーン(Blockchain)その2


2019-04-27 小俣淳平


#0 ビットコインを知らずしてブロックチェーンは語れず

「いや、ビットコインじゃなくてブロックチェーンが知りたいんですけど」

その気持ちはよくわかります。しかし、ビットコインとブロックチェーンは密接に関わっているものなので、ビットコインを知ることはブロックチェーンを知ることにも繋がります。

ビットコインは2008年にサトシ・ナカモトによって考案されたデジタル通貨です。名前は日本人のようですが、その正体は謎に包まれています。

ビットコインは国家が管理しなくても機能する「お金」として設計されました。これを自律分散型デジタル通貨と呼びます。

そして今まで約10年間一度もそのシステムがダウンしたことがありません。

最近は仮想通貨ではなく「暗号資産」(Cryptoasset)と呼ばれるようになっています。


#1 ブロックチェーンをなんとなくイメージする

世界中のスマホやパソコンが繋がって、蜘蛛の巣のようになって地球を覆っている、皆さんも想像しやすいインターネットのイメージです。

ただその繋がり方が、従来の一般的なインターネットとは違います。
どこかのサーバーにみんなが繋がっているのではなく、個々のパソコン同士が個別に繋がってネットワークを作っているのです。

そのネットワーク上で、正しい取引データを記録した台帳を、みんなで共有し、確認していきます。
そして確認した記録を一区切りにして1ファイルにまとめます。これをブロックといいます。

このブロックはどんどん増えていくので、それを時系列でつなげていきます。みんながその取引の履歴を確認しているので、みんなが安心して取引できるのです。これがブロック・チェーンです。

このようにすると、国や銀行が信用を与えなくても、大勢の人の相互信用で「お金」を作り出すことができます。

#2 ブロックチェーンのメリット

「銀行があるんだから、ブロックチェーンををわざわざ使う必要はない」と思うのは間違いです。

ブロックチェーンにはいろいろメリットがあります。それは銀行などと比べて分散型であることが関係しています。
ブロックチェーンのメリット
          図 ブロックチェーンのメリット

ただし、このメリットの説明は、原理的にはそのとおりであるにせよ、現実にはまだ信じられないところがある。

連載かと思いきや、記事はこれで終わりである。
もう少し関連知識が必要なようだ。



ブロックチェーン(Blockchain)

A. ブロック・チェーン 原理と用語の説明

①「ブロック」と呼ばれるデータの単位を生成する。
一つのブロックにはいくつかの取引の履歴が記録される。これを「トランザクション」と呼び、ハッシュ関数で「暗号化」されている。

②「ブロック」をチェーンのように連結していく。
この方法でデータを保管・蓄積していく。
各ブロックには、「タイムスタンプ」とブロック間のリンクが含まれる。
図 ブロックの内部構造
transaction
一つのブロックを原基として、枝分かれも含めた系統樹が形成される。


ブロックチェーンのデータベースは、対等端末のネットワークで相互管理される。これをP2P(ピアツーピア)方式という。
分散型のタイムスタンプサーバーで管理されるため、「分散型取引台帳」とも呼ばれる

p to p
     取引もWeb型となり、強力なプラットフォーマーが不要となる

B. パブリック型チェーンとプライベート型チェーン

ブロックチェーンの代表的なものにビットコインと イーサリアム がある。ビットコインは通貨の帳簿で、イーサリアムはプログラムの帳簿である。

ビットコインにおいては、やり取りはネットワーク参加者同士で行われ、第三者の参加者により検証される。
検証者は作業の報酬としてビットコインを受け取る。これにより市場でのビットコインの総量は増えていく。そのことでやがて交換・売買の場としてのビットコイン市場が膨らみ、通貨としての機能を発揮するようになる。

誰でもその気になれば、インターネット上でコイン発行作業に参加できる。さらに銀行が特権的におこなってきた検証作業にも参加できる。
これをパブリック型チェーンという。

 運営主体を評価するためにマイニングの市場規模を確保すること、検証に6ブロック(約1時間)程度をかけることがもとめられる。

とりあえずお金の移動を高速化することに特化した通貨をプライベート型チェーンと言う。
このチェーンには管理者がおり、仕組みは簡単だ。難点は、胴元がコケたらすべて一瞬でアウトということだ。

C. ブロックチェーン 使い方の広がり

ブロックチェーンを仮想通貨以外の目的で使う方式が広がっている。それが海外送金だ。
金融機関を経由することで数百円から数千円の手数料が発生するが、ブロックチェーンを利用することで送金が瞬時に可能となり、手数料もタダ同然になる。

ブロックチェーンの一番の魅力は、まだ可能性の段階に過ぎないが、米国の金融支配とドル乱発から離脱できるかも知れないということだ。
商取引もインターネットでピア・トゥ・ピアの正式取引ができるようになれば、大金融資本を介在しない取引が全世界で可能になる。ドルはたんなる「引き出し権」(DSR)の標章に限りなく近づく。

もちろんアメリカはプラットフォーマーを使ってインターネット金融の世界も支配しようと狙っている。しかしいくら支配を強化しようと図ってもネットの世界は原理的には自由で平等だ。

この可能性については、これからもう少し文献レビューを頑張りたいと思っている。

D. ブロックチェーンの発展動向

イングランド銀行、連邦準備制度、日本銀行をふくむ各国中銀も、ブロックチェーンに基づく暗号通貨の発行を研究している。
メガバンクを中心にグローバルな共同開発も急展開している。

今後のブロックチェーンの発展方向としては、暗号通貨の他に取引の自動化、取引や権利の記録への適用などが考えられている。
とりあえず、第1号の完成。

インドの不況が深刻らしい

日経新聞日曜版(16日)の一面トップが「インド、金融不安の足音」というもの

内容は
1.インドが信用不安と景気低迷のダブルパンチを受けている。
2.信用不安が引き金になって景気低迷に拍車をかけている。
3.信用不安の主因は国営銀行がずさんな融資で不良債権を増やしたため。

ということで、ではどういうふうにして不良債権が増えたのだろうか? というのがこの記事の主題。

ニューデリ駐在の馬場記者の分析では、

① 2016年の末に政府が高額紙幣を廃止した。
② 金の置き場に困った人々がタンス預金を銀行に預け入れた。
③ 銀行は金余りとなったが、貸出金利は低下した。
④ この余剰資金はノンバンクに流入した。雨後の竹の子のようにノンバンクが出現し、ずさんな審査でずさんな融資を行った。
⑤ 18年夏、大手ノンバンクのIL&FSが大量の焦げ付きを出し債務不履行に陥った。
⑥ これをきっかけに銀行や監督当局が警戒を強め、ノンバンクへの資金流入がストップした。
⑦ 貸し渋り、貸し剥がしで個人ローンが困難になり、住宅・自動車の販売が激減した。

というスキームである。1990年代のバブル崩壊時の日本と酷似するパターンだ。

一応数字も上げておこう。

①昨年、インドの銀行融資に占める不良債権の割合は8.9%。
②この不良債権率は、この5年間で5%増えた。
③銀行のノンバンク向け融資残高は、18年をピークとして半減している。
④ 経済成長率は4%台に低迷しており、不良債権率を押し上げるという悪循環に陥っている。

ということで、かなり不況は長期化しそうな雲行きである。

世界経済を押し上げてきた中国とインドが失速すれば、ただの金貸し国家にすぎない米国経済がたちまち資金不足に陥るのは目に見えている。

アメリカの強みはドルと金融システム、情報プラットホームの3本柱だが、その中でアキレス腱はAIプラットフォームであろう。

仮想通貨やブロック・チェーンが拡大した際、このフィクションがいつどういう形で崩れるのか、想像力を鍛えなければならない。

はじめに

3月7日に「泊原発を再稼働させない連絡会」の講演会があって、元福井地裁の裁判長の樋口英明さんがお話をされることになっている。

2014年5月、福井地裁で大飯原発運転差し止めの判決が出された。ついで2015年04月、福井地裁で高浜原発運転差し止めの判決が出された。

これらは今日各地で出されている、原発差し止め判決の雛形ともなっているものであり、今一度確認しておくべきであろう。

樋口さんは、この2つの判決を出された方である。演題はずばり「私が大飯原発を止めた理由」となっている。聞かない理由はないだろう。

ただし話は法理論も入ってきて多少むずかしいと思う。少し私なりに勉強した中身を紹介しておきたい。

Ⅰ.判決に至る経過

こういう下世話な話は素人にもわかりやすい。それとこの判決の意味が逆に証明されたことにもなるので、分かる範囲で紹介しておきたい。

樋口英明氏は当時62歳。福井地裁の裁判長を勤めていた。まず2014年に大飯原発の稼働を差し止めている。この判決は名古屋高裁(金沢支部)であっという間にひっくり返された。

高浜差し止め判決については相当の悶着があった。3月になって、関電側は学者や専門機関による意見書の提出を要求、判決の引き伸ばしを図った。

樋口裁判長はこれを認めなかった。すると関電側はその場で裁判官の交代を求める「忌避」を申し立てた。

このような忌避が認められるわけはないが、名古屋高裁でそれが棄却されるまで、一時的に裁判は中断となる。

ところがその間に4月になり、樋口氏は「定期異動」という名目で、名古屋家裁への転勤を命じられた。

樋口氏の後任裁判長は同じ15年の12月に高浜の差し止め仮処分をあっさりと覆した。判決そのものも18年7月に高裁で覆されている。

「グル」だと断定はしないが、相当いやらしい人事である。しかも福井地家裁から名古屋家裁・簡裁といういわば左遷人事である。ただしこの案件が継続審理だったために、旧ポストで仮処分決定を出すことには成功した。

樋口氏はこの職を最後に定年退職となった。



実は不勉強で、14年の大飯原発訴訟と15年の高浜原発訴訟の2つがあることを知らなかった。
したがってその2つの判決の違いもよく分かっていない。両方とも樋口さんの作成したものである。

最初の大飯原発判決は、「人格権」という考えから訴訟の妥当性を導き出し、「万が一」の論理から裁判による差し止めの妥当性を導き出す。

いわば2階建ての論立てになっているが、詰まるところは裁判所の判断権原が司法の責務に由来していることの論証である。

① 人格権の枠組み

人格権は生存を基礎としているから、すべての法分野において、最高の価値を持っている。
人格権は憲法13条と25条に規定された権利である。
それは裁判においても依拠すべき解釈上の指針である。
生存に関わる人格権侵害のおそれがある際は、執行の差止めを請求できる。
また、多数の人格権を同時に侵害する恐れがあるときは、なおさらである。

② 「万が一」の論理

原発に求められるべき信頼性はきわめて高度なものでなければならない。

大きな自然災害や戦争以外で、憲法の人格権がきわめて広範に奪われる可能性は、原発事故のほかは想定しがたい。

かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあれば、その差し止めが認められるのは当然である。

③ 裁判所の判断権原

①と②からして、原発の安全性判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しい。

原発の安全性基準があっても、その事項については裁判所の判断が及ぶ。

原子力規制委員会は新規制基準への「適合性」の審査を行うが、「安全性」については、裁判所の判断が別個に及ぶべきだからである。



大飯原発から1年経って、こんどは高浜に関して同じような訴訟があった。

高浜判決については、少し詳しく勉強した。おそらく判決も大飯から1年経ってさらに踏み込んでいるのであろうと思われる。

判決内容は耐震性評価、使用済み核燃料の保管に関して具体的に踏み込んで問題を指摘している。

念頭に置いているのは明らかに原子力規制委員会の安全性評価である。そこには「規律ある操業」を目標とする委員会への強い批判の声が聞かれる。

1. 基準値震動について

「基準地震動」は当該原発に想定できる最大の地震動である。それを超えれば炉心損傷に至る危険をも含む。

「基準地震動」は計算で出た一番大きな揺れの値ではないし、観測そのものが間違っていることもある。基準地震動を策定する合理的根拠は見い出し難い。

実際には「基準値振動」は何度も越えられている。原発の所在地は20ヶ所たらずだが、この10年足らずのあいだに4ヶ所で「基準地震動」を超える地震があった。

高浜原発の「基準値振動」も過去における地震の記録と周辺の活断層の調査分析に基づいている。高浜のデータだけが信頼に値するという根拠は見い出せない。

2.「基準値未満なら安全」とはいえない

高浜原発が運転を開始した時、基準地震動は370ガルであった。その後関西電力は、「安全余裕がある」との理由で550ガルに引き上げた。しかしこのとき根本的な耐震補強工事は行われていない。
さらに新規制基準が実施されたのを機に、700ガルにまで引き上げられた。このときも根本的な耐震補強工事は行われないままだった。

原発の耐震安全性確保の基礎となるべき「基準地震動」を、何のしかるべき対応もなしに数値だけ引き上げるということは、無責任な耐震安全性の引き上げと言わざるを得ない。それは関西電力のいう「安全設計思想」とも相容れないものである。

とはいえ、関西電力の基準地震動、700ガル以下なら安全なのだろうか。
実際には700ガルを下回る地震によっても、①外部電源が断たれ、②主給水ポンプが破損し、③主給水が断たれるおそれがある。
関西電力はこのことを自認している。

関西電力は「原発の安全設備は多重防護の考えに基いている」という。しかし、多重防護とは「堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えている」という備えを指すのである。第一陣の備え(外部電源と主給水)が貧弱なため、いきなり背水の陣となるような備えは、多重防護とは言いがたい。そのような「第一陣軽視」の考えは、多重防護の意義からはずれていると思われる。

外部電源と主給水によって冷却機能を維持するのが原子炉の本来の姿である。外部電源と主給水は安全確保の上で不可欠な役割を担っている。これら「第一次設備」はその役割にふさわしい耐震性を求められる。それが健全な社会通念である。
しかるに、関西電力はこれらの設備を「安全上重要な設備でない」と主張している。だから「安全なのだ」ということになる。このような債務者の主張は理解に苦しむ。

このような考えのもとでは、「基準地震動」である700ガル未満の地震においても、冷却機能喪失による炉心損傷に至る危険が認められると言わざるをえない。

3. 小括

関西電力は他の原発敷地と高浜原発との地域差を強調している。しかしその地域差なるものは確たるものではない。全世界の地震の1割が我が国の国土で発生しているのであり、「日本国内に地震の空白地帯は存在しない」と考えなければならない。

その上さらに、基準地震動に満たない地震によっても、冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るのである。すなわち高浜原発の危険は、「万が一」というレベルをはるかに超える現実的な危険である。

4. 「使用済み核燃料」というもう一つの問題

使用済み核燃料は、将来、我が国の存続に関わるほどの問題である。しかしそれは堅固な施設によって閉じ込められていないのが実情である。格納容器に代わるべきものとして使用済み核燃料プールが位置づけられているが、その耐震性はBクラスにとどまっている。

なぜか? その理由は「使用済み核燃料を閉じ込めておくための堅固な設備を設けるためには膨大な費用を要する」からである。

そこで「深刻な事故はめったに起きないだろう」という見通しのもとに、姑息的な対応で済まされている。すなわち、「国民の安全を何よりも優先」との見識は前提とされていないのである。


5. 当面、守られるべき住民の安全について

A) 安全性確保に必要な方策

原発の脆弱性を補強し安全性を確保するためには、

①基準地震動の策定基準を見直し、基準地震動を大幅に引き上げ、それに応じた根本的な耐震工事を実施する、
②外部電源と主給水の双方について、基準地震動に耐えられるように耐震性をSクラスにする、
③使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込む、
④使用済み核燃料プールの給水設備の耐震性をSクラスにする

などの方策がとられなければならない
さらに、中央制御室へ放射性物質が及ぶ危険が予想されることから、耐震性及び放射性物質に対する防御機能が高い免震重要棟の設置が必要である。

しかるに原子力規制委員会が策定した新規制基準は、①~④について規制の対象としていない。免震重要棟については無期限の猶予期間が設けられている。かような規制方法に合理性がないことは自明である。

B) 新規制基準に求められるべき合理性 「万が一」への備え

平成4年の最高裁判決(いわゆる伊方判決)の趣旨は、まず「原発の周辺住民に重大な危害を及ぼす深刻な災害が、万が一にも起こらないようにする」ことである。そのため、「原発設備の安全性につき十分な審査を行う」ことにある。

そうすると、新規制基準に求められるべき合理性とは、「深刻な災害を引き起こすおそれが万が一にもない」といえる厳格な内容を備えることである。

しかるに、新規制基準は上記のとおり、緩やかにすぎ、これに適合しても本件原発の安全性は確保されていない。新規制基準は合理性を欠くものである。

そうである以上、もはや新規制基準に適合するか否かについて判断する必要はない。そこには、住民が人格権を侵害される具体的危険性が明らかである。


6. 保全(仮処分)の必要性について

高浜原発の事故によって住民は取り返しのつかない損害を被るおそれがある。したがって、本案訴訟の結論を待つ余裕はない。

すでに原子力規制委員会の設置変更許可がなされている現状では、現状を保全する(緊急の)必要性が認められる。



「万が一」論の根拠は最高裁「伊方判決」である。これは1993年の最高裁第一小法廷判決を指す。

「伊方判決」の趣旨は、原発周辺住民のに深刻な災害が万が一にも起こらないようにすること(一次予防)。そのため、原発の安全性に十分な意を尽くすこと(二次予防)にある。

判決当時にはあまり注目されていなかった部分だ。判決全文(判例倉庫)を読むと、以下の行が出てくる。

原子炉設置許可の基準として、右のように定められた趣旨は、
①原子炉が原子核分裂の過程において高エネルギーを放出する核燃料物質を燃料と して使用する装置であり、
②その稼働により、内部に多量の人体に有害な放射性物質を発生させるものであって、
③原子炉を設置しようとする者が原子炉の設置、運転につき所定の技術的能力を欠くとき、又は原子炉施設の安全性が確保されないときは、
A 当該原子炉施設の従業員やその周辺住民等の生命、身体に重大な危害を及ぼし、
B 周辺の環境を放射能によって汚染するなど、深刻な災害を引き起こすおそれがある
以上①~③にかんがみ、右災害が万が一にも起こらないようにするため(努力しなければならない)

これが福井地裁判決の法的根拠を形成しているのである。

ということで、結果的には原告側敗訴でったが、重要な前進があったのである。それが「万が一論」である。

当面の予定

ちょっとつらいのだが、とりあえず原発稼働の停止を命じた福井地裁判決の学習を優先することにする。
まさに転進である。3月7日の学習会、樋口英明さん(元福井地裁裁判長)の「私が大飯原発を止めた理由」の事前学習資料だ。

レニングラード、モスクワ、スターリングラード、及び東部戦線全体の学習はいったんおいて、機関紙の原稿をあげなければならない。

実は、自分に課した任務からすれば、「ブロック・チェーンと仮想通貨」の学習が最優先なのだが、3月12日からのロシア行スタディー・ツァーが間近に迫った今は、急速に事前学習を強めなければならないのだ。

ということで、頭の冴えている午前中にやるべきことをやらなければいけない。(と言いつつ映画に行ってしまった)


モスクワ攻防戦

7月 ドイツ軍、モスクワへの中間点スモレンスクを陥落する。

8月 ヒトラーは中央軍を北方と南方へと転進するよう命じ、モスクワ攻略を遅らせた。この結果9月末までにウクライナを制圧し、ソ連軍100万人を無力化した。

モスクワ攻撃を最優先しない(=ドイツの生活圏確保を優先)という戦略に関しては、ヒトラーと軍トップの意見は一致していたという説もある。(山崎雅弘:モスクワ攻防戦ードイツ軍敗北の真因)

タイフーン作戦発動

9月30日 ドイツ軍が「タイフーン作戦」を発動。モスクワ攻防戦が始まる。

ドイツ軍はモスクワの北部と南部からの両翼包囲を目指した。北方では第3装甲軍と第4装甲軍がモスクワ・サンクトペテルブルク鉄道を切断しようと試みた。南方では第2装甲軍がトゥーラ南方に進出。主力の第4軍は直接西からモスクワへ進む。

10月7日 初雪が降る。そのあとに道は泥濘地(ラスプティッツァ)となる。ドイツの機甲部隊は大幅に機動力が低下。ソ連のT34戦車と狙撃師団がドイツ軍に出血を強いる。

10月10日 レニングラード防衛軍司令官のジューコフが呼び寄せられ、首都防衛に当たることとなる。共産主義者義勇団など予備兵力を大量動員し、防衛戦を再構築。

10月14日 ドイツ第3装甲軍がヴォルガ川を渡河。モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道を断つ。

10月25日 ドイツ空軍がモスクワを空襲。消耗が激しい為これを最後に出撃不能となる。

10月末 第2装甲軍がトゥーラ近郊まで到達。

11月7日 革命記念日。赤の広場で恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行。スターリンは首都残留の姿勢を誇示する。

モスクワ攻防戦に突入

11月12日 参謀総長ハルダ―と中央軍集団幹部がオルシャで戦略会議。補給線の厳しさに警戒の声もあったが、中央軍司令官ボック元帥はモスクワへの攻勢を主張し認められる。

11月15日 ドイツ軍が「秋季攻勢」を開始。第2,3,4装甲軍が前進。

11月30日 ドイツ第4装甲軍、モスクワから8kmのヒムキに到達。ここで気温が零下20~40度まで下がり、車両や火器は使用不能に陥る。

ソ連軍の反撃

12月5日 ソ連軍は、ドイツの機動作戦が一段落するのを待って反撃を開始。シベリア軍管区と極東軍管区から抽出した部隊により押し返す。とくに南西方面ではドイツ軍に1万6千人の損害を強いる。

12月6日 補給路の伸び切ったドイツ軍は有効な反撃できず。各軍司令官はモスクワ攻勢の中止と西方撤退を指示。

12月14日 ドイツ軍首脳、限定的撤退を容認。ヒトラーの怒りを買う。

12月19日 ブラウヒッチュ陸軍総司令官が解任される。ヒトラー自らがドイツ陸軍の最高司令官に就任。(山崎は敗北の原因はヒトラーではなく、ブラウヒッチェら軍トップにあったとする)

1942年

1月5日 スターリン、春の全面攻勢を主張。

1月7日 ドイツ軍、モスクワ攻撃を断念。

1月 各地でソ連軍の攻撃が行われたが、"ルジェフ肉挽き機"などいずれも失敗に終わり、深刻な戦力低下をもたらす。

蛇足 戦死者ランキング
ルジェフの戦いは世界戦闘ランキングで堂々の1位に輝いている。戦死者は189万149人。うちドイツ軍が78万人、ソビエト軍が111万149人というものだ。札幌の人口が一つの戦闘で亡くなったというから信じがたい。
ちなみに第2位が第一次大戦におけるソンムの戦いで、戦死者は122万人。第3位がスターリングラードの戦いで、死者72万741人となっている。


これだけ死んだら、2千万、3千万という数字もたしかに納得はする。それほどヒットラーとナチは凶悪だったのだ。そして日本もそれに加担していたのだ。





レニングラード封鎖 その経過

概況

当時、レニングラードは319万人の人口を擁し、520の工場群と72万の労働者を有していた。またソ連の発電所設備の8割が集中していた。

飢餓や砲爆撃によって100万人以上の市民が死亡する。公式発表は死者67万人。最近の研究では110万人程度と推計されている。

これは日本本土における民間人の戦災死者数の合計(東京大空襲、沖縄戦、広島・長崎を含む全て)を上回る。

さらに兵士約50万人が戦死・病死している。

ドイツ軍は、「科学的な方法による破壊」作戦を狙った。これはミュンヘン栄養研究所ツィーゲルマイヤー教授の提案によるもので、兵糧攻めにより制圧する計画である。

国防軍最高司令部の訓令。
レニングラードを密閉せよ。春に我々は市を占領し、レニングラードを平らな地面にする。降伏を要請する声が出ても、それは拒否される。われわれは、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。

時刻表

レニングラードの占領のために北方軍集団が編成される。第18軍、第16軍、第4装甲集団の3個軍で構成され、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュヒラー将軍は熱狂的なナチス党員であった。

6月26日 第16軍がリトアニアの首都カウナスに入る。同行した特別行動部隊は1000人のユダヤ人を集め、棍棒で撲殺する。さらにその後の数日で3800人のユダヤ人を殺害。

6月26日 フィンランドが宣戦を布告し、冬戦争の際に奪われたカレリア地方へ入る。しかし旧国境を越えての侵攻は控える。

7月13日 ドイツ軍機甲部隊、レニングラードの玄関であるルーガ河に橋頭保を確保。その後沼沢地での遊撃戦で消耗し、いったん橋頭堡の強化に注力する。

7月中旬 レニングラード防衛の最高司令官パヴロフ。解任され即座に銃殺となる。

7月後半 第16軍が追いつく。各部隊で投降した赤軍捕虜を射殺する虐殺事件が発生。軍司令部はユダヤ人と政治委員に加え、ソ連の高官、財界の重鎮、地方の有力者、知識人を「浄化」の対象として虐殺した。

8月2日 ドイツ軍装甲部隊が進撃を再開。ソ連軍は機甲師団への補給路をイリメン湖で切断しようと図る。ドイツ軍は激戦の末これを排除。

8月13日 ノヴゴロドが陥落。ルガ防衛線が突破される。

9月8日 レニングラードと内陸部を繋いでいたラドガ湖畔のシュリッセルブルクが陥落。包囲網が完成する。ここを初日として872日もの間、封鎖状態に置かれる。

9月11日  レニングラード防衛司令官ヴォロシーロフ元帥が解任される。ジューコフ上級大将が後任となる。ジューコフのモットーはいつも『後退する兵、士官は銃殺』であった。

10月 ドイツ軍、モスクワ後略に目標を変更。レニングラードは包囲による飢餓作戦へと変更。ジューコフはモスクワ防衛のため異動する。

包囲戦の開始

ドイツ軍がレニングラード爆撃を開始。ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫へ攻撃を集中。砲弾15万発が打ちこまれた。空からは焼夷弾および爆弾10万7千発以上が投下された。

9月中旬 ドイツ北方軍のレープ司令官は、毎日午前10時~午後7時の市内砲撃を指示。脱出を図る民間人は即刻射殺に処することとなる。(彼は戦後も善人扱いされ、天寿を全うした)

9月12日 食料備蓄はバダーエフ倉庫に集中されたままであった。このため食料は一瞬にして失われた。

食料の残量は以下の通り
穀類・小麦粉 35日分
えん麦・粉物 30日分
肉類・家畜 33日分
油脂 45日分
砂糖・菓子類 60日分

9月末 石油と石炭も尽きた。唯一の燃料は倒木。
水くみ
マイケル・ジョーンズ著 松本幸重訳
路面電車は氷に覆われて立っている。…白い囲い板で覆われた、死体を載せた橇の長い行列が行く。
接着剤、セルロース、松葉、靴底、革のベルト、その他何でも食料になった。
膠、ゼラチンをゆっくり火で数時間煮沸し、塩コショウ、香辛料、酢、マスタードを加えて食べた。臭いは耐え難かった。

11月20日 ラドガ湖が結氷し、馬橇の輸送部隊が活動を開始。翌年4月まで通行可能となる。「命の道」と呼ばれたが、ドイツ軍の攻撃にさらされる「死の道」でもあった。
氷上輸送
             ラドガ湖の氷上輸送
1942年

1月 最悪の飢餓状態を迎える。パンの配給券がとまった。暖房が止まった状態で気温マイナス30度まで下がり、1日2万人の死者がでる。

オリガ・ベルゴーリツ
私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく。
3月 ショスタコーヴィチが作曲した『交響曲第7番 レニングラード』が包囲下で初演される。(なぜバルトークはこの曲を笑いものにしたのだろうか)

5月 ソ連軍、レニングラード解放を目指す攻勢を開始。攻勢は失敗に終わり、第2突撃軍が投降する。

6月 ゴヴォロフ砲兵中将がレニングラード方面軍司令官に就任。

夏 ラドガ湖底に29kmにわたる石油パイプラインが敷設された。

8月 ドイツ軍、マンシュタイン元帥の増援部隊をレニングラードに配置。ラドガ湖補給路の切断を狙う。双方が攻勢をかけるが、いずれも失敗し戦線は停滞。


1943年

1月12日 シュリッセルブルク回廊の確保を目指すイスクラ作戦が開始された。
プーシキン市の鉄道駅での攻防戦

プーシキン市の鉄道駅での攻防戦

https://blog.goo.ne.jp/geradeaus170718/e/e7f72bfce1b0650b4c20c802a1399215

1月17日 内陸との回廊が確保され、モスクワへの鉄道路線が奪還される。レニングラード市当局は封鎖の解除と解放を宣言。封鎖後872日にして、独ソ戦は大きな転換期を迎える。

2月5日  ネヴァ川左岸を通る臨時鉄道が開通。ドイツ軍の砲兵陣地を通過するため、「死の回廊」とも呼ばれた。

1944年

1月15日 レニングラード・ノヴゴロド攻勢が始まる。ドイツ第18軍と第16軍は壊滅的打撃を受け、北方軍集団は戦闘力を喪失して敗走。これが事実上の解放となる。

3月にロシアに旅行することになって、目下勉強中である。
「戦争と平和について学ぶ旅」ということで独ソ戦について学ぶのが主要テーマである。
私にとっては、「ウソみたいな犠牲者数」を検証するための旅になりそうだ。
去年、岩波新書でずばり「独ソ戦」という本が出て、従来の疑問にスッキリと答えてくれたように思える。しかしその答えが本当に正しいかどうか、感覚として確かめてみたいという思いである。

目下のところ、私は「4分の1の正義」ということを考えている。国家・政府の支配者は独・ソともに最悪だった。国民レベルでもドイツは邪悪な精神に支配されていた。唯一ソ連の国民のみが相対的にイノセントであった。というのが私の想定である。
そこに自分の軸足を置いて世の中を俯瞰しようというのが、今回の作業の出発点だ。そうでないと何を言っても諸行無常の歴史的ニヒリズムになってしまうからだ。
とりあえず、戦記風に歴史を追っていく。

ウィキペディアによれば
独ソ戦の犠牲者(戦死、戦病死)は、ソ連兵が1470万人、民間人の死者をいれると2000〜3000万人が死亡した。
これは人類史上全ての戦争・紛争の中で一国として最大の死者数である。ソ連軍の被害
大木によれば
1939年にソ連総人口は188,793,000人。
この内、戦闘員が8,668,000人ないし14,000,000人死亡。
民間人4,500,000ないし10,000,000人が軍事行動やジェノサイドにより死亡。
ほかに疫病や飢餓により死亡した民間人が8,000,000人ないし9,000,000人
となっている。
すべてを合わせたソ連の総死者は、ソ連時代は公式には20,000,000人とされてきた。ソ連崩壊後は上方修正され、現在では27,000,000人とされている。

(大木 毅 『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』2019年 岩波新書)

一方、ドイツ兵の犠牲者は390万人で、ドイツ民間人は約600〜1000万人である。

大木によれば、西部戦線や南部戦線も合わせたドイツ人犠牲者は、戦闘員が444万人ないし532万人。民間人が150万人ないし300万人とされる。

ドイツが戦争初期に捕らえたソ連兵の捕虜500万人はほとんど死亡した。
大木によれば、570万人のソ連軍捕虜のうち300万人が死亡した。

いっぽう、ドイツ兵捕虜300万人の多くは強制労働に従事させられ、およそ100万人が死亡した。大木もほぼ同様の数字を提示している。

独ソ戦の目的

独ソ戦の目的というが、ソ連側に目的などない。そもそも戦争などやる気はなかったし、戦争が始まってからもまだ夢見心地だった。

多くの人の見るところでは、バルバロッサ作戦が始まったときと、モスクワを攻めたときと、コーカサスに向かったときは、戦いの意味が違っていた、あるいは変わっていたということのようである。

目標は大きく分けて3つある。一つはソ連の軍事的壊滅であり、ひいてはスラブ民族の浄化へと進む「狂気の目標」であり、ふたつめはソ連政府を解体し、共産主義を地上から消滅させようという反共主義であり、3つ目がソ連生命線論に基づく植民地支配の構想である。

実際の戦闘においてはそれらが重層し、時々において重点を変えていたと思われる。肝心なことはこれらの三点すべてで、ヒトラー・ナチスとドイツ軍指導部は目標をともにしていたということである。そしてそのことが、最近の研究でますます明らかになりつつあるということだ。

ヒットラーは「我々は敵を生かしておくことになる戦争などしない」と言い放つ。
ドイツは東ヨーロッパ支配のための「東部総合計画」を持っていたが、この計画によれば、最終的に3千万人のロシア人・スラブ人が餓死すると見込まれていた。

東部戦線に関する地図はDNAというサイトの動画がわかりやすく、きれいだ。




本日、パラサイトを見てきた。
それまで8番か9話でやっていたのが、アカデミーとったら大きい3番に昇格して上映回数も増えた。
それで見終わった感想といえば、「ウーム」ということになる。
いかにも韓国映画らしい、やや強引だが力でグイグイ押してくる映画だ。
どうしても是枝監督の「万引き家族」と比較してしまうのだが、一言で言えば「艶」がない。艶がないから余韻が残らない。なぜだろうと考えて、やはり4人家族の個性が描けてないことが弱点なのではないかと思う。
映画館を出たあと役者の顔が思い浮かんでこないのである。4人が4人とも薄っぺらい。特におっかさん役がまったく無個性なのが家族全体の印象を希薄にしている。樹々希林とは雲泥の差だ。おっかさん役のキャラで言えばむしろ安藤サクラが相当するのだが、難しい役を見事に実在感を持って演じていた。そこはかとなく色気さえ漂わせていた。
ネタバレになるが、おっかさんが元の女中を蹴っ飛ばして死なせてしまう、あの一瞬はこの映画の肝なはずだ。おっかさんが描けていないから、あのエピソードがまったく生きてこない。
最後はタランティーノばりの血しぶきとなるが、どうもあそこまで行くと引いてしまわざるを得ない。
総合的に見れば万引き家族のほうが数段上だ。
スラムを漫画チックに突き放しているのも違和感がある。私は25年前、北海学園の加藤先生に連れられてソウルの山の上のスラムを訪れた。たしか月見丘と言ったのではなかったか。彼らは朝鮮戦争の頃、北から逃れてきた人たちで、そこはいわば難民キャンプであった。彼らはただ貧しいだけではなくピンミンとして差別されていた。彼らはとても優しくて、ひっそりと、豊かではないが穏やかに暮らしていた。
だから、彼らを相対的貧困層というのではなく、パラサイトと呼ぶのにはなにか強い抵抗を感じてしまうのである。
率直に言って、韓国映画にはもっといいのがたくさんある。あえてこの映画を社会風刺だとか、反差別だとか、あれこれと深読みしなくてもいいのではないだろうか。


新型コロナ肺炎についての所感

今まで水際封じ込め戦略でやってきたので、余分な意見を言って混乱を助長してもいけないと思い、発言を控えてきた。

しかしもうそのような段階を超えて、市中感染症としての扱いが必要になったので、知恵を寄せ集めることも大事かと思う。

知恵と言っても大したことはないのだが、私には2つの心当たりがある。

1.ノロとの類似点

一つは、拡散スタイルが出始めの頃のノロウィルスにとても似ているという印象だ。今でこそ連中もおとなしくなってきたし、こちらもあしらいが分かってきたので、それほどの恐怖はない。

しかし最初の頃は正体がわからなかったから、とにかくその牛若丸並みの神出鬼没ぶりが怖かった。対策チームのキャップは「ヤクザ・ウィルス」と言っていた。どこにでも難癖をつけ、こちらが弱気と見れば襲ってくる。

今はとにかく手→口の接触を避けることが第一で、とにかく「さわるな、触らせるな」が標語である。

特に医療・介護従事者は、就業時間中はつねに手袋をする必要がある。

これが一次予防。つまりスタッフの感染防止で、一種の水際作戦だ。

二次予防が手洗いとうがいである。

これだけ潜伏が長い、しぶといということは、ヒトの防御機構から見てちょいと大人しげで警戒させないのだろう。コソコソと増殖して、ここぞと思ったら一気に発症するんだろうと思う。ヤクザたるゆえんである。逆に言えば、こちらがアラートでいれば、不顕性感染しても発症を防ぐ可能性がかなり高いということだ。

その間は増殖の場たる口腔~咽頭粘膜をうろちょろしているわけで、うがいを強力にするだけでかなりウォッシュアウトできる可能性がある。ノロと違って胃酸には弱いようだから、飲み込んでしまっても構わない。口腔~咽頭粘膜の保清は二次予防・一種の治療と考えられる。

2.下気道炎型のウィルス感染

実は私は2012年に老健施設でウィルス性下気道感染の大流行を経験している。


それがRSウィルス感染である。入所者の3割が発症した。その半分が医療施設への転院を要した。ほとんど防ぎようがない。例の豪華客船並みである。

とにかく最初から下気道感染の形で発症するから、ノーアウト満塁から試合を開始するようなものだ。
熱はさほどないが咳がひどく、見る間に全身状態が悪化してくる。CRPは二桁に達する。

肺炎と言っても最初はウィルス性の気管支肺炎だから、単純写真では分からない。しかしCTをとると一目瞭然だ。CTをとるということは医療機関に送るときにも大事で、そうでないと老人医師の見立てはなかなか信用されない。これで24時間はずれ込む。

3.抗生剤の早め投与が必須

じつはRSウィルスは子供の病気で、しかも軽症で終わる病気だ。教科書にはそう書いてある。
しかし年寄では重症化する。しかも発症してから重症化するまでの間隔が短い。あっという間なのだ。このことはあまり教科書には書いてない。当時は書いてなかった。

かといって片っ端から病院に送っていたのでは、送られる方も持たない。だからICUから一般病室に移す感じで送り返された。
こちらの経営も危ない。経営的にはRSの後遺症はほぼ1年続いた。カルロス・ゴーン並みだ。だから相当真面目に考えた。

これは免疫低下の問題だ。というより、高齢者に半ば常在する肺炎双球菌(そのたぐい)の二次感染がらみだと考えた。

とすれば結論は一つ、早めのクラビットしかない。もう一つは強めの抗炎症薬、例えばロキソニンである。

後者はナースが嫌がった。低体温やら循環虚脱やらが怖いからだ。だから補液をしながら消炎剤を使った。老健だからすべて持ち出しになるが、それでもベットが空になるよりはいい。
もちろんそれでだめなら送ることになるが、かなりそれでがんばれた感じはある。

何も統計など取らないからそれが有効かどうかは分からない。

ただ大きい病院ほど、若い先生ほど抗生物質を使うのを嫌がる。クラリスロマイシンの予防投与は、ほぼ100%切られて戻ってくる。なので、どうしたものかと考えている。


4.RS感染だという根拠

別になにもない。検査はしていない。ただその時の江別保健所の感染症サーベイランスで小児のRSがとんでもない大流行をしていたと言うだけである。

そして感染経路が、床上まで水に浸かった家のように、あちらこちらから水が漏れ出してくるような発症の仕方だったからである。

とにかく面会謝絶にして、ナースや介護士にガウンもどきをさせるくらいしかなかった。

医者一人だからそれで良かったが、病院のように医者がたくさんいるところでは、意思決定は遅れるだろうと思う。タミフルを巡って果てしない議論が続いた医局会議を思い出す。
病院管理医師としてはそこら辺を留意して置かなければならないだろう。

洋楽レコード業界の戦後史

この文章は下記の論文の要約・紹介である。
著者の生明さんはかなりの洋番マニアらしく、うんちくを披露している。生明さんには申し訳ないが、そちらのほうが面白い。
詳細・正確に知りたい人はリンク先へどうぞ。

広島経済大学経済研究論集 第31巻第4号 2009年3月


1.レコード生産の再開と社名復活

昭和20年10月、占領軍は蓄音機やレコードの生産を許可した。

日本を代表する2つのレコード会社、日本コロムビアと日本ビクターは、戦争中に横文字名称禁止令を受けて、それぞれ日蓄工業と日本音響株式会社に解消していた。

戦災を免れた日蓄工業(日本コロムビア)は、早くも10月、ポータブル蓄音機の生産・販売を再開した。また邦楽レコード(SP盤)も生産を開始した。

さらに12月には、洋楽のポピュラー盤,翌46年1月には洋楽のクラシック盤も発売を開始した。

日本音響株式会社(日本ビクター)は工場・倉庫が戦災で焼失したために遅れを取った。

しかしコロムビアの工場にレコード盤のプレスを委託して、昭和21年9月には邦楽の発売に漕ぎ着ける。

それより前、昭和20年12月には日本ビクターの名称に復している。また日蓄工業も昭和21年4月に日本コロムビアに戻した。

2.コンテンツの不足

この段階での音源は、戦前に支給された古い原盤を使用した再発売に過ぎなかった。

昭和20年12月、日蓄工業はアンドレ・コストラネッツ楽団の「ビギン・ザ・ビギン」と「眼に入った煙」(煙が眼にしみる)のカップリング盤を発売したが、
原盤は戦前にアメリカ・コロムビアから支給されていたものである。

昭和21年1月から発売されたクラシック盤も,ワインガルトナー,メンゲルベルク,ワルターなど戦前のコロムビア盤の再発売だった。

3.ライセンス制度への移行

コロムビア,ビクター両社とももとはCBS,RCAの子会社であったが、戦争中は完全に資本関係を断絶していた。

戦後も日本の厳しい保護政策のもとで戦前への復帰は困難であり、RCAとCBSの洋楽2大メジャーは経営を止めたままであった。そこで見いだされたのが「米国吹込み原盤輸入契約」制度であった。

昭和22年にコロンビアが米CBS・コロムビアと,ビクターは少し遅れて昭和25年に,米RCA ビクター社とライセンス契約を交わした。

4.初期のヒット曲…ポップス

昭和24年9月、コロムビアはポピュラー音楽は従来のM盤シリーズに代わりL盤シリーズが発売され、米国の戦後の作品が紹介されるようになった。

うんちく ①
L盤シリーズとは L1000番からのレコード番号が使われたからそう呼ばれるようになったものである(L盤の Lは,Limitedの Lという説と,M盤より1ランク上の Lという説がある)。

いっぽうビクターは、 S 盤シリーズを設けてポピュラーのヒット曲の発売を開始した。S 盤の S は Specialの S といわれる。

このコロンビアの L盤とビクターの S 盤は、 SPレコードの時代における洋楽ポップスの源泉となった。

初期の L盤からはダイナ・ショアの「ボタンとリボン」などの大ビットが生まれ,S 盤からはプレスリーの連続ヒットなどが生まれた。

5.初期のヒット曲…クラシック

コロムビアは昭和24年,新契約に基づく初の新譜として,ワルター指揮ニューヨーク・フィルのベートーヴェンの「運命」を発売した。

ビクターも昭和25年8月,ハイフェッツとビーチャム指揮のロイヤル・フィルによるメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を発売した。

以後両者が毎月新譜を発売するという体制が整った。


6.第三勢力とライセンス制(戦前)

戦前、ビクターとコロムビアは,原盤使用のためのライセンス契約は結んでいなかった。なぜなら両者は実質的には海外企業の日本支社だったからである。

両社は昭和2年に洋楽の原盤を持ち込んでプレスをするようになった。

これに対抗する勢力となったのがポリドールとキングレコードである。

日本ポリドール蓄音器商会は、独ポリドールの輸入を扱っていた阿南商会等が設立した、日本資本の会社だった。

大正15年、阿南商会の阿南正茂と,銀座十字屋の鈴木幾三郎がドイツに渡り,ポリドールの製造元であるドイツ・グラモフォンと折衝した。

その結果、ドイツ原盤の日本におけるレコード製造・販売について許可された。このライセンス契約に基づいて、昭和2年に会社が立ち上げられた。

これに続いたのがキングレコードである。
キングレコードは昭和11年(1936)に講談社のレコード部門として独立した。このときテレフンケンとのライセンス契約を結んだ。

テレフンケンは1932年にウルトラフォンという会社を引き継いで生まれた。グラモフォンやコロム
ビアには及ばなかったものの,ベルリン・フィルやアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団などのオーケストラ,ベートーヴェンの交響曲などをカバーしていた。

このことから、キングレコードはビクター,コロムビア,ポリドールに次ぐ第4勢力となった。

うんちく ②
生明さんのうんちくはポリドール、キングに続くというか続けなかった勢力も取り上げている。
日東蓄音器株式会社は西日本の雄と言われたが、ライセンス契約が不調に終わり、命運尽きたらしい。
東京レコード製作所は昭和9年、アメリカのジャズ・コード「ラッキー」と契約し評判となったが、社長が死亡しコロンビアに吸収された。
この他にも西宮市の内外蓄音器商会、名古屋のツルレコードという会社が洋盤をライセンス生産している。
さらにドイツの会社の日本支社というかたちで、は日本パーロフォン,日本オデオンという会社も存在したらしい。

7. アメリカン・ポップス黄金期

1950年代は、アメリカン・ポップスの黄金期であった。それらの音楽はレコードだけではなく,進駐軍のラジオ放送,朝鮮戦争に赴くミュージシャンたちのライブ公演を通じても流れ込んだ。

音楽も含めアメリカ文化の影響力は圧倒的で、レコード市場でも大きな比重を占めるようになった。

日本コロムビアのL盤,日本ビクターのS盤だけにとどまらず、多くのライセンス契約が締結され,アメリカのヒット曲が日本でも続々と発売された。

戦前からのキング,ポリドール,テイチクに、53年レコード事業を開始した東芝も加わり、6社の競争体制となった。

アメリカ側のレコード会社はあまりに煩雑なため省略する。原文をお読みいただきたい。

ヒット曲も量産された。
男性歌手ではペリー・コモ,ナット・キング・コールなど。
女性歌手ではペギー・リー,ダイナ・ショア,ジョー・スタッフォード,ドリス・デイなどである。

8.ジャズなどの発展と群小レーベルの割拠

1940年代から60年代にかけてはアメリカのジャズの発展期・隆盛期でもあった。多くのジャズ専門のレコード会社が誕生し,後世に残る名演名盤を送り出した。

代表的なレーベルを設立順に挙げると,ブルーノート,アトランティック,プレスティッジ,リバーサイド,ヴァーヴ,インパルスなど。

ロックンロールも誕生した。ビル・ヘイリー、チャック・ベリーやリトル・リチャードなどが一つのジャンルを築いた。そしてプレスリーがブレイクして大スターになった。

その後ブリティッシュ・ロックが盛んとなり、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどが生まれる。

アメリカでは哲学的なメッセージとクラッシック音楽を土台とするプログレッシブ・ロックが大きな影響を与えた。

黒人層の音楽が白人にも受け入られるようになり、メジャー化した。リズム・アンド・ブルースがソウル・ミュージックになり、70年代のディスコサウンドにつながって行く。(このくだりは「へぇ?」)

さらに1960年代のフォークソングも一つのウェーブとして浮かび上がった。その中心にいたボブ・ディランはロック歌手に変身する。

これらのレーベルはマッチのラベルのごとく多様で錯綜している。もはやオタクの世界であるので、ここでは省略する。

9.日本と欧米レーベルの整理統合

70年代に入るころから、アメリカのレコード産業に変化が生まれてきた。ポピュラー音楽のレーベルが少しずつ統合され始めた。

そしてWEA、MCA 、ポリグラムの3社の誕生につながった。これに戦前からのCBS コロムビア,RCA ビクター,EMIを加えたビッグ・シックスが覇を競う時代となった。

この頃日本は戦後成長から高度成長に移行し、62年には貿易自由化,63年には為替自由化,1967年からは資本自由化に踏み切った。

この中で世界のビッグ・シックスと日本がどう組み合わさっていくのかが問われる。

順に見ていくと、最初は1968年CBS レコードとソニーとの合弁だった。翌年には東芝音楽工業が英国EMI、キャピトルと合弁して東芝EMIが生まれる。日本グラモフォンはドイツ・グラモフォンとの合弁会社となった。

以下列挙すると
松下電器+日本ビクター+フィリップスで日本フォノグラム
パイオニア+渡辺プロダクション+ワーナーの顔ぶれで,ワーナー・パイオニア
日本ビクター+RCA の折半出資によるアール・ブイ・シー
日本ビクター+MCAの合弁でMCAビクター

という形で、 6つの世界のメジャーの合弁化が完成したことになる。
この間のゴタゴタで、日本コロンビアとキングレコードが提携先を失い没落した。日本コロンビアは2017年に上場廃止。キングレコードは2000年にクラシック盤の供給を停止。レコード会社としては健在。

キングレコードとライセンス関係を結んでいた英デッカも80年にポリグラムに買収され、ポリグラムはシーグラムに買収され、ユニバーサル・ミュージックの傘下に入る。

以下略

以下は
(広島経済大学研究論集 1987) の摘要である。
2018.07 髙山裕二「ポピュリスムの時代」の情報も追加しました。ただし高山さんの主張には相当異論があります)


かなり辛口の評論になっているが、30年後の今書けば、かなり受け取り方は違ってくるのではないかと思う。今日読んでみると、清家さんが弱点と見ていることが、むしろ非常に新しい視点を展開しているようにも思える。
清家さんは、ルルーが思想家ではなくジャーナリストで、宣伝コピーづくりの名手と評しているように見えるが、たしかに卓見である。しかしかなり水準の高いジャーナリストであったことも間違いないところであろう。

ルルーの思想

1.ソシアリスム(socialisme)の提起

ルルーは宣言する。
私は著述家ではなく信仰者である。その信仰の対象は人類全体 Humaniteである。私はこの信仰を理解し、それに仕えたことを幸福に思う。
ソシアリスム(socialisme)は引力の如き科学的法則である。それは社会的倫理としては協同(アソシエート)である。それは実践としては、多数者階級の物心両面での向上である。

その元になるのは人々の心の繋がり(連帯)であり、生き生きとした日々の暮らし(知情意の備わった営み)であり、それが世代を超えて巡っていくこと(円環の連鎖)である。

2.サン・シモン派への接近

ルルーの評論家としてのスタートは、メッテルニヒ反動のさなかであった。一方でイギリスを起点に産業革命の波が広がり、自由を標榜したブルジョアが革命を裏切り「ブルジョア貴族制」を構築しつつあった。

フランス大革命の共和主義は、カルボナリ党やフリーメーソンを経由してサン・シモン派に流れていった。ルルーもこの流れの中に居た。

サン・シモンの主張
人間による人間の搾取がこれまでの人間関係の基礎だった。これからは協同した人間による自然の開発が進められなければならない。
そのためには、最も数の多い貧困者階級の生活を物心両面から改善すべきである。
理想の社会建設を志向する精神が彼らを惹きつけたと考えられる。


3.サン・シモン派からの離脱

ルルーはジロンド派のコンドルセが唱える「進歩と完全化」を称揚した。そしてコンドルセを引き継ぐサン・シモンに影響されるようになる。

しかしサン・シモンによる「進歩と完全化」は、やがて「宗教」へと収斂していく。「組織は調和的になるほど、宗教的性格を帯びるようになる」のだそうだ。

ルルーはサン・シモンの調和的世界を尊重したが、宗教化は首肯しなかった。絶対者を前提とするかぎり、自由も平等も否定されていく可能性があると見たためである。

彼はサン・シモン派から離れ、「独立評論」誌を立ち上げた。ここから彼の眞面目が発揮されるようになる。

ルルーとサン・シモン派の間にはもう一つの決定的な違いがあった。

サン・シモン派はエリートに指導される社会を構想した。ルルーは共和主義者でありデモクラットであり社会主義者であった。

ブルジョワジーの特権は認めない。ルルーは特権階級の支配の代わりに、代議制政治を「進歩のための必然的道具、不滅の形態」と位置づけた。


4.ルソーとルルー

フランスに社会主義理論が形成されていくのは7月王政下である。何故か?

ナポレオン後の反動政治は、フランス革命を闘った人々にとって耐え難い屈辱であった。さらにフランスにも波及しつつあった産業革命が、多くの貧困層を生み出し、人間の不平等に拍車をかけた。

だから自由・平等の精神は、否応なしに社会主義の色彩を帯びざるを得なかった。これがその理由である。

ルルーは人民主権を唱える点ではルソーの後継者であったが、契約理論は受け入れなかった。彼の立場は一種の全体論であった。
人間一人一人は社会全体の反映である。各人はそのままで人類全体であり、一個の主権である。
そして主権論の立場から、それを否認されたものとしてプロレタリアを位置づける。

ここで有名な言葉「自由・平等・博愛」が飛び出す。
フランス革命と全人類の遺産である,自由・平等・博愛,一言で言えば人民主権がないがしろにされている。
これは「独立評論」の1842年9月号に載せられた「金権政治論」の一部のようである。


5.多数者革命の提案

現在おこなわれているブルジヨワジーとプロレタリアとの闘争は,労働要具を持たない階級とそれを持っている階級との闘争である。
ルルーはこう宣言する。

しかし、ルルーは契約論ではないので、労働者階級の階級闘争という視点には立たない。
彼が念頭に置くのは、労働者階級と言うよりはフランスの3,500万の国民のうちの3,400万人のたたかいである。まさに多数者革命なのである。

彼は、無産階級が政治的権利と経済的権利をもとめて議会の改革と憲法改革に立ち上がるよう訴える。

以降の論考については省略する。


本日の赤旗に掲載された記事。
再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の紹介である。
三谷幸喜が発表記者会見で披露したのが「ひかわなにお ほほはあみあみ」という呪文。
詳細は記事を読んでいただきたい。
三谷は「試験に出ます!」と会場を笑いの渦に包んだらしいが、赤旗にはそのくだりはない。
主人公が悪漢というのが面白い。三谷のことだから、シェークスピアもどきのハチャメチャになっていくのだろう。
筋立て命の芝居になるのだろうから、あまり時代考証で画面をこ汚くしないでほしい。
いっそのこと「ひかわなにお ほほはあみあみ」を題名にしてしまったらどうか、とも思う。それまで長生きするとするか。
三谷
 画面をクリックすると原寸大になります。

征韓論の思想的背景

征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

① 朝鮮側に落ち度はない
最大の類似点は、朝鮮政府側に、少なくとも武力干渉を受けるような落ち度はまったくないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

② 日本側には下心がある
もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。朝鮮のためとか東アジアのためとかいうのはおためごかしに過ぎない。
初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。

③ 朝鮮は橋頭堡
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

④ 帝国主義時代の世界政治の論理
大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。


をご参照ください。

アナーキー・イン・ジャパンと言うサイトに面白い文章があったので紹介する。

1922年(大正11)に書かれた大杉栄の文章がそのまま掲載されているのだが、中身はバクーニンが書いたプルードンとマルクスの評価だ。

興味のある方はそちらへどうぞ



1845年7月、バクーニンは官憲の追及を逃れ、はじめてパリへ行った。そこで彼はプルードンやマルクスとも相知った。

バクーニンは、この二人からはもっとも大きな影響を受けた。後年、彼はこの二人を次のように批評している。

プルードン

プルードンは古い理想主義の伝習を打ち破ろうとした。しかし彼もまた矯正することのできない理想主義者であった。

彼は本当の道を発見する天才であった。力強い天才で革命的な思索家であった。しかし、いつもその理想主義のために、もとの誤謬に落ちていった。

彼の大きなふしあわせは、かつて自然科学を学ばず、その方法を知らなかったことである。

マルクス

マルクスは思想家としては優れている。彼は史上いっさいの政治的、宗教的、法律的進化が経済的進化の原因ではなくって結果だということを主張した。

それは彼が発明したのではないが、その原則を確定してそれをその全経済学説の基礎とした名誉は彼のものだ。

マルクスは、僕とは較べものならないほど学者だった。すでに無神論者であり、博識な唯物論者であり、また考え深い社会主義者であった。

彼の談話は、いつも有益なそして才気に充ちたものだった。しかし悲しいことには、そこに卑劣な憎しみがあまりにしばしば入ってきた。

われわれの間には、隔てのない親しみというものは、決してなかった。僕は彼を不実で危険な見栄坊だと言った。

マルクスはプルードンよりも、自由についてもっと合理的な理論の上に立てるかもしれない。しかし彼には自由の本能がない。彼は徹頭徹尾強権主義者だ。

(後略)

つまり社会主義の大道を本能的に知っていたのはプルードンだった。しかし彼はその大道を進むすべを知らなかった、ということになるのだろうか。
マルクスに対しては本質的な批判はない。ただ強権的で陰謀的だという性格的欠陥が俎上に載せられている。たしかに資本論であれこれの学説を批判するとき、しばしば人格的な否定まで論が及ぶことがしばしばある(例えばマルサス)。
実際にはその主張を受け入れ、取り入れる場合にすらそうするのだ。
私達はそのへんも考慮しながら読んでいく必要があると思う。

ウィキペディアのルルーに関する記事は簡潔に過ぎ、不当に過小評価している。

ピエール・ルルー(Pierre Leroux)
1797年4月7日 - 1871年4月

ウィキペディアによれば、ルルーは思想家と言うよりは一種のコピーライターで、「三の組」とよばれる基本原理まとめるところに妙技がある。

例えば神におけるそれは「力、知性、愛」、人間におけるそれは「感覚、感情、知識」である。社会経済は家族、国家、財産から成り立っており、という具合に続いていく。

ということで、かなり辛口の評価となっている。
この記事の著者によれば、この評価は Encyclopædia Britannica によっているらしい。

ただこの記事は著しく不十分であり、例えばフランス革命の3つの標語「自由、平等、博愛」の作者であること、社会主義という言葉を、今日の用法で用い始めた人物であることが書かれていない。(初期社会主義 人物と思想

もう少し調べて書いた紹介文が必要であろう。

下記論文が見つかった。この文章からとりあえず年譜を作成する。

広島経済大学研究論集 1987


1797年 パリ郊外に職工の息子として生まれた。父親の死により

1808年 リモナデ、イエ(ソーダ水販売業)の父が死去。

1809年 パリ市の奨学金を得てレンヌのリセに通う。

「ルルーは自らの稼ぎにより家族を支えることを強いられた」とか、「学校を退いて石工として働いた」というのは嘘。
学校に入る前に父は死んでいる。石工(macon)ではなく、フリーメーソンになったという意味。

1814年 リセを卒業。植字工として身を立てる。

1817年 イギリス旅行。進歩的政治に触れ社会改革を志す。熱烈な炭焼党員となる。

炭焼き党(Charbonnerie)はイタリア、フランスを基盤とする革命的秘密結社。フランスでは1820年末時点で 8万人が加盟。

1824年 「le globe」(地球)紙の創刊にたずさわる。

「ル・グローブ」を編集したのはデュボワであった。デュボアはルルーとはリセ時代からの旧友。当時は(師範大学を出てリセ・シヤルルマーニュの教授を勤めていた。ルルーはデュボワの“控えめな共同作業者”であった。

反動的な王制l復古時代に芸術・宗教・政治の自由を鼓吹し、欧州諸国に広く講読された。

1825年 ルルー、サン・シモンと知遇を得る。

1827年 ルルー、「ル・グローブ」に最初の署名記事「ヨーロッパ連合論」を発表。徐々に雑誌の中核の役割を果たすようになる。

1830年 

7月 第二次フランス革命。「ル・グローブ」グループの多数派が新政府支持に乗り換え、雑誌は経営危機に陥る。ルルーは「ル・グローブ」のgerant (発行責任者)となりフィリップ派との合流を拒否。

1831年

1月 「ル・グローブ」はサン=シモン教の準機関誌になる。ルルーとサント=ブーヴは共同声明『無能な自由主義との訣別』を発表。

2月 サン=シモンの教義の普及のためブリユツセル, リエージュ, リヨン,グルノーブルを歴訪。

11月 ルルー、サン・シモン教の教祖アンファンタンと衝突。サンシモン教と断絶。

11月 ルルー、「ル・グローブ」を離れ、「百科評論」に移る。「百科評論」は1819年創刊の自由主義の雑誌出会ったが、サン=シモン教会離反グループの機関誌となる。1835年版まで続く。

1833年 ルルー、レノー と共に『新百科全書』の刊行に着手。「19世紀における人類の知識の一覧表を提供する,哲学,科学,文学,産業辞典」をめざす。

33年 レノーと共に, 『人権協会共和派原理』を発表。

1834年 評論集『個人主義と社会主義』を発行。

1835年 6月 サンド(当時31歳)はサント=ブーヴの紹介でルルーと知り合い、熱烈なルルー賛美者となる。金銭的援助を惜しまなかった。

ショパンとワケアリになりマジョルカ島に渡ったのは38年。

1840年、論文『De l'humanite 』を発表。人道主義哲学に基づくものとされる。

1841年11月 『新百科全書 』が終刊。ルルーはジョルジュ・サンドとともに『独立評論』を創刊する。1年後にルイ・ブランに経営権を引き渡す。

1845年 サンドの援助を得て雑誌「社会評論ープロレタリア問題の平和的解決」を発刊する。

1848年

2月 2月革命が勃発。ルルーは共和制を主張する。

4月 ルルーは立憲議会に立候補するが落選。6月の補欠選挙で選出される。

6月 6月蜂起の直後,ルルーは「勇敢に敗北者の弁護をひきうけた」(コミューン政府の弔文)

49年5月 立法議会選挙。ルルーは再選を果たす。自ら経営する日刊紙『真正共和制』を発行。急進的社会主義者としばしば対立。

1851年12月 ルイ・ボナパルトのクーデターのあとロンドンに亡命。ルイ・プラン、カベらと社会主義雑誌の発行を企画するが果たせず。ジャージー島での農業経営に入る。

1858年 ジャージー島で哲学,政治,文学を扱った雑誌「希 望」を刊行。

1859年 大赦の後帰国するが、政界を事実上引退。マルクスはインターナショナルの中央評議会にルルーを指名。

1871年 4月12日 脳卒中にて死亡。



1.時代遅れになった「科学的社会主義」の表現

「社会主義の大道」論の根拠になっているのは、おそらく「科学的社会主義」論でであろうと思う。

しかし「科学的社会主義」言い方はもはや正確とは言えないと思う。科学的社会主義という言葉は、私の記憶では、第十何回かの共産党大会で打ち出された言葉だろうと思う。それまでは「マルクス主義」とか「マルクス・レーニン主義」と言っていたのを、それでは個人崇拝になってしまうというので言い換えて使うようになったのではないか。

この言葉が生まれた根拠はエンゲルスの書いた「空想から科学へ、社会主義の発展」という入門書から来ているものと思われる。

改称の狙いは社会主義的思想をマルクスの片言隻句に求めるのではなく、その後の理論的成果も組み入れて幅の広い思想として捉えようとするものであった。

しかし昨今のような「野党は共闘」の時代には、かえってその狭さが目立ってしまう。マルクス主義的な社会主義思想を「科学的」と断定することは、それ以外の社会主義を「非科学的」と切り捨てる趣きがある。

だから逆に、「マルクス主義的社会主義」と相対化した言い方のほうが、共闘勢力からすればむしろ自然ではないのかとも思う。「マルクス主義的社会主義」もあれば、「ケインズ左派的社会主義」もあると言った表現である。

2.社会主義の淵源は百科全書派にある

そもそも社会主義は人々が思い浮かべた明日の世界像の集大成なのだ。

それと、労働運動や社会実験を廃棄にした考えではなく、もっと哲学的に考え抜いた社会主義の概念、すなわち「人道的社会主義」の考えからもっと学ぶ必要があるのではないか。

社会主義は個人主義や自由主義より劣ったものではなく、それらの弊害に苦しめられた人々から生まれた新しい考えである。

彼らは旧世界にいたずらに反抗するのではなく、それを不正義のシステムとして認識しようとした。そしてそれを克服するための一段高い倫理を考えぬいた。だからそれは現世の掟より新しく、高級で崇高なものなのだ。

空想的であることは悪いことではなく、素敵なことなのだ。人道的であることは弱々しいことではなく、強靭な思想と信念であることを表現している。

客観的に見れば、マルクスの明らかにしたのは、それが夢ではなくしっかりとした根拠を持っているということなのであって、夢が正しいとか間違っているとかいう評論ではない。

ここではマルクスの主張に基づき形成された社会主義イメージを「マルクス派社会主義」としておく。そして19世紀前半を中心に出現した諸思想は、「初期社会主義」として一括する。


3.自由・平等・博愛こそ、社会主義の根幹

エンゲルス以来、空想的社会主義といえばサンシモン、フーリア、オーウェンと相場は決まっているが、どうも私は違うように思う。

社会主義はあれこれのモデルの中にあるのではなく、三次にわたるフランス革命を通じて研ぎ澄まされてきた思想なのだろうと思う。

「社会主義」については、まずそういう押し出しをすることが大事ではないかと感じる。

そういう点で、フランス革命をさらに前に進めようとした思想家の中には、まだまだ注目すべき人がいるのではないかと思う。

ガローディ『近代フランス社会思想史』(1949)では以下のような人々が列挙されている。

①ラムネーのキリスト教的封建的ロマン主義

②ブルードンのブルジョワ的無政府主義。

③その間をただようサン=シモン主義者ピエール・ルルー

④フーリエ主義者ヴイクトル・コンシデラン、

⑤サン=シモン主義からフーリエ主義に移行したコンスタン・ベクール。

⑥ジャコパン民主主義の伝統に立つ共産主義者ラボンヌレー,ラオチエール, ピヨーなど。

⑦19世紀フランスの唯物論的共産主義の代表者であるデザミ、ブランキ

ほとんど聞いたこともないような人物ばかりである。これらの人物像から集合論理として社会主義を探っていく作業が必要だ。それこそが「社会主義の大道」につながる営為ではないかと思う。


4.イギリスとドイツの社会主義

イギリスで思想家として注目するとしたら、それは父ジェイムズ・ミルではないか。「ミル評注」のミルである。

もうひとり、フランス以外で注目しなければならないのはヘーゲルであり、資本主義の成長の必然性とともにその没落をも予想しているのは流石である。


1821年 ヘーゲル、「法の哲学」を発表。

1821年 ジェイムズ・ミル、政治経済学綱要を発表。

1828年 ブオナローティ、『バブーフの、いわゆる平等のための陰謀』を上梓。七月革命の結果に失望した共和主義者の関心を集める。
バブーフは共産主義という言葉を最初に用い、“完全な平等”という意味を込めた。政府機構の奪取と改革を唱えるが、社会システムでは農地分配の改革を求めるにとどまった。

1831年 リヨンで職工の蜂起

1832年 ピエール・ルルー、「socialisme」を「personnalite」の対比語として用いる。
原義としては「社会化論」というニュアンスとされる。ルルーはフランス革命に際して「自由、平等、友愛」の語を普及させた人物である。

1848年

2月 『共産党宣言』が発表される。社会主義の理論に資本主義の分析を加え、科学的に強化する。

フランス 2月革命、ドイツ3月 革命

1862年 第一インターナショナルが設立される。労働組合の奨励や労働時間の短縮、更には土地私有の撤廃などを決議する。

1871年 パリ・コミューン。世界初の社会主義政権が誕生。

1984年 イギリスでフェビアン協会が発足する。

1889年 第二インターナショナルが結成される。議会制民主主義による平和革命の路線は「修正主義」と呼ばれ、暴力革命やプロレタリア独裁を主張する「教条主義」と呼ばれた

1890年 ドイツ総選挙で社会主義労働党が躍進。このあと社会民主党と改称する。

1896年 ベルンシュタイン、議会制民主主義による平和革命の路線を提唱。「修正主義」と呼ばれる。暴力革命やプロレタリア独裁を主張するカウツキーらは「教条主義」と呼ばれた

1914年 第一次世界大戦が勃発。第二インターナショナルは崩壊。

おあつらえ向きの資料がないので、とりあえず暫定版。
しばらく時間がかかるでしょう。実はその前にしなければならないことが二つ、三つあります。

「社会主義の大道」を考えるにあたって

そもそも社会主義とは何なのか一度整理して見る必要がある。

1.社会主義の定義(所有論としての社会主義)

2.社会主義の歴史(空想的社会主義と科学的社会主義)

3.資本主義か社会主義か(社会システムとしての社会主義)

4.自由主義か社会主義か(平等論・博愛論としての社会主義)

5.社会主義と民主主義(政治システムとしての社会主義)

それぞれが大変に重い理論課題ではあるが、社会主義の歴史を見ていく中で、「大道」も含めて、かなり答えは見いだせそうな気もする。

ということで、例によって年表づくり

社会主義の年表へ

私にはイラン革命の2つの側面がどう組み合わさっているのかがよく分からない。
ひとつは非常に馬鹿げたイスラム原理主義の側面だ。中身は革命と言うには程遠い中世世界への後戻りで、それに暴力性を帯びた過激性がついてまわる。
これは戯画としての革命だ。
もう一つは、非常に優れた世界観と民主主義の観点を併せ持つ外交の世界だ。
これを最初に感じたのは2005年だったか、日本AALAが主催したシンポジウムで、イランの大使が発言した中身だった。
あの「コーランを批判した」との理由で、日本まで来て大学の教授を刺殺する狂気の部隊(スレイマニはその司令官だった)の祖国が、どうしてこのような格調高い考えと協調できるのか。
ずっと気になっていたが、そろそろ一度そのへんを洗い出して見る必要がありそうだ。

イラン・イスラム共和国年表

(固有名詞にやたらと“ー”を入れたがる原理主義者が居ますが、全部外させてもらいます。私はクーバともニカラーグァともべネスエーラとも書きません)

1979年

1月 イラン・イスラム革命。パーレビ国王が追放される。

2月 最高指導者ホメイニの下でイスラム共和制を採用。
①イスラム原理による超封建的独裁、②近代社会と資本主義への憎悪、③革命の輸出を路線とする。
無神論者・不可知論者は死刑イスラムからの離脱も死刑となる。同性愛者も死刑。

11月 アメリカ大使館人質事件。52人のアメリカ人を444日間にわたり人質とする。
事件の背景:革命政府は国王の財産の返還と、身柄の引き渡死を要求。米国はこれを拒否した。

1980年

4月 米国、イランに対する国交断絶と経済制裁を実施。

4月 ヘリコプターによる救出作戦が失敗に終わる。空中衝突で8人の米兵を失う。

9月 イラクのフセインがイランに侵入。イラン・イラク戦争が勃発。

1981年 イスラム左翼集団ムジャヒディン・ハルクがイスラム共和党本部と首相府を爆破。大統領、首相など70人の政府高官が殺害される。このあと弾圧により国内での影響力を失う

1984年 米国、イランをテロ支援国家に指定。

1988年

7月 米軍の巡洋艦がイランの民間航空機を撃墜。乗員乗客290人が死亡。

8月 イラン・イラク戦争が終結。イランは3500億ドルに達する損害をこうむる。

1989年

2月 ホメイニ、『悪魔の詩』の著者ラシュディに“死刑” を宣告。

6月 ホメイニが死亡。専門家会議がハメネイ大統領を後任の最高指導者とする。

90年 原子力開発を再開。イランには革命前から原発があったが、ホメイニは開発を中断していた。

1991年

7月 筑波大学助教授がつくば市内で殺される。『悪魔の詩』を翻訳出版したことが理由だとされる。(事件は未だ未解決)

91年 第一次湾岸戦争。イランは中立の立場を維持。

1995年 米政府、イランとの貿易・投資・金融の禁止措置を実施。

1997年 大統領選挙。穏健保守のハタミが当選。イスラム指導者と自由化を求める行政府が衝突。

1999年後半 ハメネイとハタミ大統領が連携。左右の過激派を許さないことで合意。保守派もこの連合を受け入れる。

2001年

6月 大統領選挙でハタミが再選される。保守派は新聞の発刊停止、改革派候補の立候補制限など圧力を強める。

2002年 

1月 ブッシュ大統領がイラク、イラン、北朝鮮を「悪の枢軸」と非難。

2003年

3月 米軍、イラク侵攻。

2005年

6月 大統領選挙。決選投票で保守強硬派のアフマディネジャドが62%の票を獲得。

アフマディネジャドは工学者で、テヘラン市長から転じ、終盤ではハメネイの支持を受けた。

8月 最高指導者ハメネイ、核兵器の製造・配備・使用を禁じたファトワ。

10月 アフマディネジャド、「イスラエルは地図から抹殺されるべきだ」と発言。

2006年

1月 アフマディネジャド、平和的核開発をすすめると発言。ただし核兵器の製造は違法で、我らの宗教に反すると述べる。なおパーレビ時代に原発があったが革命後は停止していた。

3月 ハメネイ師は「イランは核開発計画を絶対に放棄しないし、いかなる制裁も恐れない」と語る。

実は02年から秘密裏にウラン濃縮計画、プルトニウム抽出実験などを行ってきたが、これが暴露された。

12月 国連安保理、イランに対する第一次経済制裁を決議。

2007年

米国、イランの革命防衛隊などの軍事組織を「テロ組織」に指定。

2008年

4月 イラン、遠心分離器の増設を表明。

6月 イスラエル副首相、イランの核兵器開発を止めるには攻撃しかないと発言。メディアには「イスラエルがイランの核施設攻撃を想定した軍事演習を実施」との報道。

7月 EUとの核開発をめぐる協議に、アメリカが参加。

2009年 大統領選挙でアフマディネジャドが再選される。ハメネイは引き続き支持に回る。

2011年 2期にわたる失政で、国内経済は疲弊。アフマディネジャドと最高指導者ハメネイとの軋轢が表面化。

2012年

1月 米国が核開発疑惑への報復として禁輸処置。オバマ米大統領、ホルムズ海峡封鎖論に対し、「必要ならば武力行使も検討する」と警告する。

1月 EUも独自にイランに対する制裁を強化。イラン国内の強硬派は「報復としてホルムズ海峡封鎖を行うべき」と主張。

12年 シリア内戦が本格化。イランはシリア干渉を強める。イラン人兵士の総数は7千~1万人に上る。支援費用は年間平均60億ドルとされる(国連)

2013年

6月 イラン大統領選挙では、保守穏健派のロウハニが勝利。

2014年 イラクでISが支配圏を急速に拡大。イランはシリアとの2正面作戦を余儀なくされる。このためアフガン人難民から民兵をリクルート。

2015年 イランと安保常任理事国+ドイツ・EUが、核技術に関する包括的共同行動計画に合意。

2016年 核問題に関する経済制裁が撤廃される。

2018年

5月 トランプ大統領、「核合意には致命的な欠陥がある」と脱退。制裁措置を再開。

年末 イランのインフレ率は31%、失業率は14%、経済成長率は−3.9%となる。

2019年 中国、インド、日本、韓国、トルコに認めてきた原油輸入禁止の適用除外の措置が打ち切られる。

5月 イラン、核合意の制限を破棄。3.67%を超えるウラン濃縮を開始。

6月 安倍首相がイランを訪問。ハメネイは「核兵器は保有も製造も使用もしない、その意図はない」と発言。

2020年

1月 ソレイマニ司令官殺害事件。トランプ大統領は「イランが報復すれば、イラン国内52か所を標的とする」と投稿。この数字は占拠事件で人質となった米国人の数。

ロウハニらは「シリアでの活動が、アメリカの制裁を招き、制裁が民間の経済活動を阻害している」としてソレイマニ路線を批判しているらしい。


イランの二面性を軍事面から評価するために、下記のレポートがとても参考になる。


私には、とても要約する力量はないので、本文にあたって欲しい。

の再解読

すみません、いくつかの事実が判明し、根本的な訂正が必要になりました。

* これは有名な写真の後の写真です。1枚目の写真を撮ったあとに三吾さんが帰ってきたんですね。三吾さんはよそ行きの格好をしているので、演奏会が終わって帰ってきたところではないでしょうか。
多喜二通夜3
その肩を掴んでいるのが江口渙です。鹿地亘は引っ込めばいいのに座ったままです。

ちょび髭は姉夫婦と書きましたが間違いです。これは小林本家の方です。その前の女性はその奥さんでしょう。姉は近所でも評判の美人だったようで、後の写真のうりざね顔とはまったく異なるようです。

姉夫婦は小樽にいましたから、飛行機でもなければ到底間に合いません。それに背負っていた赤ん坊は姉夫婦の子供ではなく、妹(幸田)の子でした。

妹の子が居た理由があまりにも突飛だったので、そこが思い浮かびませんでした。

ということで、文章を再アップします。

既発の有名な写真(以下写真A)と同じアングルでほぼ同時に撮られたものと考えられる。前列右端の原泉と後列左の小坂多喜子が、2枚の写真の両方に同じ位置で写っているからだ。その差は数分程度と思われる。
これまで写真Aの撮影者は「貴司山治あるいは『時事新報』のカメラマン前川」とされていたが、これで貴司山治の撮影であることが確定された。

ここはまったく正しい。

おそらくその時に小林家に到着したのが鹿地亘、千田是也らであったろうと思う。彼らは上野壮夫(小坂の夫)とともに遺体の枕元に座り、腕組みして遺体を見下ろした。そこで貴司が二度目のシャッターを押した。

これはむしろ逆の可能性がある。

貴司は鹿地亘、千田是也らと同時に小林卓に到着した。彼らが遺体を囲んでいる間に貴司はカメラを三脚にセットした。

そしてとりあえずとったのが写真Aだった。

その時三吾が帰ってきて、セキと並んで枕元に座ったのが写真Bだろう。デスマスク取りや写生はその後始まった。

それでその前の話だが、最初に来たのは寝台車である。セキと孫(多喜二の妹の子)に小林本家の旦那(おそらくその妻と)が登場していた。
その後ろをついてきたタクシーに乗っていたのは江口渙と安田医師であった。安田医師とセキの二人で死体検案を開始した。

そこに百合子・稲子らのグループが合流した。多分壺井栄、若杉鳥子も居たと思う。

検屍が終わり安田医師と百合子・稲子らのグループが退席した。

これと入れ替わりに時事新報社の車がやってきた。下帯姿の多喜二の遺体を撮影したのは時事新報のカメラマンであったろう。

ここにはふじ子が居て遺体に抱きついたり号泣したりと騒いでいる。これを見ていたのは小坂多喜子夫婦である。百合子・稲子らのグループは見ていない。

時事新報社のカメラマンは写真を撮るなり帰った。上野によればふじ子は「いつの間にか帰った」ことになっているが、時事新報社の車に同乗した可能性が高い。

そして百合子グループもふじ子と時事新報も居なくなったあと、貴司、原、鹿地、千田らがどやどやとやってきて写真を撮った、という経過である。

それで前列左端の女性であるが、タキさんの可能性は低い。セキが連絡を取らない限りタキさんは来れないが、セキにそのような暇はなかったと思われる。

そこで私の文章だが、

下記の経過表から見て(多喜二の)姉ではないかと思う。姉は絶対来ているはずだ。セキさんが背中におぶったまま築地まで行った、その孫は絶対に引き取らなければならないからだ。そのとなり性別不明の人物は姉の旦那と考えたい。

と書いた。
これがまったくの見当違いであることが、今回分かった。

それが最初に書いた文章である。

私は姉夫婦は東京に住んでいたのではないかと考えた。セキの背負っていた「孫」が誰かを説明するにはそれしかなかったからである。

しかしそれは思い込みだった。セキさんがとんでもないウルトラCをかましていたのである。

いろいろあるのだが、結局、小樽の家は住む人が居なくなって、妹が嫁に行った幸田家が引き取ることになったのである。

姉は結婚して佐藤になって家を出て、朝里に住んでいた。

幸田家は商いをやっていて、子沢山でなかなか面倒が見きれない、ということになった。そこでなんとセキさんがその一人を引き取って東京で面倒を見ることになったのである。

つまり、たまたま娘が忙しいから子守をする、というレベルではなく、里子を育てている状況だったのだ。どうもこのおっかさんやることがスケールを外れている。

ということで、私の当て推量はとんだ間違いだった。

それではこのちょび髭は誰かと言うと、秋田の小林本家の旦那なのである。

これがこの「母の語る 小林多喜二」のだいじなポイントだ。

セキさんというのは火事場で知恵が働く人で、多喜二の遺体を身請けするには、戸主の了承が必要だと分かっていた。そこでたまたま東京に居た本家の旦那に無理を言ったのである。

田舎の人は律儀な人で、もう秋田からすっかり足を洗ってしまった多喜二の面倒を最後まで見てくれたのだ。

この2枚の写真は、戯曲の台本の1ページのように、それらの事実を鮮やかに描きつくしている。




以下は

2017年05月16日  多喜二の通夜 時刻表  の追補版である。
追補分は、小林セキ(述)「母の語る 小林多喜二」(新日本出版社 2011)からの採録である。

きわめて貴重な資料である。読み始めでは編者の独特の表現がやや気になるが、終戦直後(1946年2~4月)にセキさんの「懇願」により行われた聞き取りの文章化であり、やっと真実が語れるというセキさんの思いがひたひたと伝わってくる。

私にとって最大の驚きは、セキさんがふじ子と面識があったということである。

私はその婦人の方の名も知りませんが、いつか阿佐ヶ谷の家へ原稿料なぞ届けてくださって、こっそり多喜二の消息なぞ伝えていただいた方がそれではないかと思います。

短い期間ながら、しかも日陰の生活をしながらも、多喜二を愛してやっていただいたかと思えば、その方に心から御礼を申し上げたいのでございます。

これは第一次原稿には入っていない。最初は黙っているつもりだったのだろう。しかしその後、平野謙がゲスの勘ぐりをやったために、2年後の再聞き取りと第二次原稿作成の際に付け加えたのであろう。
“日陰の生活”とか“愛してやっていただいた” なんてセリフは編者の思い入れだろう。だがセキさんが彼女の真意をしっかり理解し配慮していたことは間違いない。
だから、狂乱するふじ子を見ても驚かなかったし、そのことは明かさずに終えたのであろう。
しかし、二人の間に「大恋愛」があったことも知らなかったし、「原稿料」が本当に原稿料なのかどうかも知らないままだった。


2017年5月16日

以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。


2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。
警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の河面さんという主婦から知らされた。(夕刊という情報もある)

多喜二の家は馬橋3丁目375番地。部屋は8畳、6畳、3畳の3間に、台所のある一軒家。周囲には菜園、竹藪もあった。31年にここを購入し、母セキ、弟三吾の三人で暮らしていた。

隣家は河面さんという夫婦。夫が大学の教師だった。

セキは河面さんに小林本家(当時東京に在住)に連絡を取るよう依頼した。三吾は外出中で連絡つかず。
セキは預かっていた二歳の孫をネンネコでおぶると、ハイヤーを雇い築地書に向かう。

セキが負うていた孫は多喜二の妹、幸田つぎ子の長子である。当時、幸田一家は小樽の小林実家に住んでいたが、家事多忙のためセキが預かっていた。

江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。築地署前の大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが、すでにセキは出発後であった。阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 無産者弁護団の青柳盛雄弁護士らが、遺体との面会を要求するが拒否される。

江口渙、佐々木孝丸、大宅壮一らプロット関係者20名余りが前田医院前に集結。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師もやってきた。

午後6時半 セキが築地署に到着。「多喜二の母です」と申告し特高室に案内される。特高室で「なぜ知らせなかった」と抗議。

この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

午後7時30分 親戚の小林さんが築地署に駆けつけ、身元引受人となる。遺体の引き取りが決まる。

遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていた。三吾の行方はまだつかめなかった。

小林さんは秋田の小林一族の本家にあたる人。当時は東京に在住しており、セキは日頃から連絡をとっていたと思われる。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。


午後9時30分

セキが前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。
 

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口、佐々木がタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田医師、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。ただし稲子の回想には矛盾が多い。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。

前田病院に電話したのは稲子で、彼女は西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したというが、片道30分もかかるのでありえない。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子の回想: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。

息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。

私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた(小坂は最初から最後まで、比較的冷静に事態を観察していた人物であり、その証言は座標軸として貴重だ)

小坂と上野
       小坂と上野
セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。
その間に、江口、佐々木らが本家の小林さんと今後の措置につき打ち合わせ。


午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。

玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。

我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。

お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、混乱・錯綜している。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、時事新報の記者とカメラマンが到着する。新聞社の車に同乗したふじ子が駆け込んでくる。この後、小坂多喜子の文章にある「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。

原泉はこの「女優」に見覚えがあった。そして「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。時事新報の記者を見つけ同行させた。

11時30分 自宅で江口が新聞のインタビューに答える。

顔面の打撲・裂傷、首の縄のあと、腰より下の出血等がひどい。たんなる心臓麻痺とは思えない。明日、当家から死因に関する声明書を発表する。


12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

ふじ子の句、二首

恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。



2月22日


午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う


午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

江口によれば以下の如し。

多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。

22日夜 無宗教の通夜。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

2月23日

午後1時 告別式。
午後3時 堀の内の火葬場で火葬を行う。

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