鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年12月

ドクター・マンローの人生をどう見て、どう描くか

この2ヶ月半ほどはマンローの年譜づくりに夢中だった。
と言っても、年譜はすでに3つほどある。
一つはほぼ唯一と言っていい「マンロー伝」を書き残した桑原千代子の作成したもの。
一つは、残念ながら未完のまま終わった谷万吉らの年譜である。
そしてもう一つが、沙流川歴史館年報に掲載された、詳細な年譜である。この作成には佐倉の歴博が絡んでいるのかも知れないが、詳細は不明だ。
それぞれにソースが異なり、私はそれらを突き合わせた。かなりわからないところもあるが、わからないところが分かったということは前進であろう。
その他、最近になって英国にあってマンローの研究に指導・助言を与えたセリグマンという学者に送った手紙が公開されているようだ。その一部が紹介されている。
一番、彼の思想を知る上で重要と思われる、いくつかの哲学的エッセーがある。目下のところ、その題名を知ることができるのみで、内容が分からない。前後の事情から類推するのみである。

率直に言えば、桑原さんの伝記は史料として貴重なものであるが、マンローという人物を知る上ではかなり不満が残る。

私の目下の感想としては、彼の最大の功績はその晩期にある。まず何よりも“彼がそうやって生きた”ことに我々は感動する。
もちろんその間に文字通り地を這うようにして収集した民俗学的情報は、おそらくアイヌ研究における金字塔となるであろう。
しかし“彼がそうやって生きた”ことの意味が持つ普遍性に比べれば、学術的な意義はかすんでしまうほどだ。

ということで、医者でもある私に最もふさわしい仕事は彼の気持ちを想像しながら、その生きた道を物語ることだろう。

若い頃、「ドクトル・マンボウ航海記」という小説があった。北杜夫の書いたもので、卒業後なんとなく現実逃避みたいにして船医になる。そして世界を漫遊するという設定だった。
マンローは逃避どころか、まっしぐらに人類学の旅に突っ込んでいったので、そのへんは少し違う。しかしスタイルとしては、何となくそれでいいかなと思う。
つまり一人称に近い形でマンローに寄り添い、彼が何かをしたとき実は何をしたかったのかを忖度しならお付き合いするという文体が、マンローを表現するのには最もふさわしいのではないかと思う。

そんなことで、まずは始めて見ますか。


マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

ただ今日では、縄文人はツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化を共有していた可能性はあると思う。マンローの主張の中で最も議論を読んだのが「日本ドルメン時代」(The Yamato Dolmen Age)だ。

これは1917年(大正6)に日本亜細亜協会で講演した中身で。日本の起源問題をイギリスのドルメン文化と関連付けて論じたものだ。

これに対し日本側から鳥居龍蔵、梅原末治などが反論し、かなり大規模な論争になったらしい。

そもそものきっかけは、明治19年に渡瀬荘三郎が後志の「環滞石籬(り)」について東京人類学会報告で発表したことに端を発する。

えらく難しい言葉を作り出したものだが、これは忍路郡忍路村の三笠山にあるストーン・サークルをさしている。

我らがマンローは、この遺跡がえらく気に入ったらしい。明治36年と翌年に二度にわたって現地調査している。

なぜ気に入ったかと言うと、似たようなストーン・ヘンジがイギリスにもあるからである。

マンローはこのストーン・サークルを、石器時代人が夜間に天体観測をした場所であると考えた。イギリスのストーン・ヘンジもそのように考えていたからである。

しかし、この考えには素人目に見てもかなりの無理があろうかと思う。

まず、これらの巨石文化というのはおよそ未開人種の間ではほぼ普遍的に見られるものではないかという疑問である。

だから、それぞれの巨石群の成り立ちや構成を具体的に調査・分析して個別の特徴をもっとあぶり出す必要があるだろう。

つぎにそれらの個別的特徴をふるいにかけていくつかの類型に区分けしていく作業が必要である。

そんなことは、マンローのほうがはるかに良く分かっているはずだ。

むしろマンローは話を面白くするために、話をふっかけたのかとも思える。

日本のストーンサークルは北方型と南方型に分かれる。

南方型のストーンサークルは九州に分布し、渡来系文化と平仄を合わせているようだ。こちらはとりあえず置いておく。

北方型についてだが、これも北方型としてはまとめにくいらしい。

駒井和愛は北海道のストーン・サークルの形態だけを整理して、(1)ストーン・サークル(2)環状列石墓(3)立石構造に分けている。

この内、狭義のストーンサークル(忍路型)について、鳥井龍蔵はツングース族の流れをくむものと考えている。

ただ今日では、DNA解析により、縄文人(の祖先となる旧石器人)は、ツングース族より古くから日本列島に分布していたことがはっきりしている。

彼ら旧石器人は、かつて氷河期の頃にマンモスを追って樺太から北海道へと渡ってきた民であるから、ツングースやギリヤークと類似の文化(細石刃文化)を共有していた可能性はあると思う。

一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

これはこれであるのだろう。

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。


一方、東北のストーンサークルを研究してきた大場磐雄は、大湯の例を挙げて祭祀場説を主張した。

これはこれであるのだろう。

何れにせよ「ストーンサークル=なんとか」みたいな決め方をせず、慎重に議論を進めなければならない、というのが現在の議論の趨勢ではないだろうか。

マンローは時に議論を急ぎすぎるきらいがある。


函館市史のうち

巨石文化

渡島半島のストーン・サークル

函館のストーン・サークル

を参考にしました

進化の王道は、ヒトではなく鳥の脳

以前、「最高の脳の姿というのは鳥の脳ではないか」と述べたことがある。
鳥の脳はなんの無理もすることなく、進化の法則に従って深化した。だから構造上なんの無理もなく小型で高性能の脳を実現した。

それに比べ人間の脳の何たる不様なことか。脳の容量がいくら大きいからと言ったって、ほとんどは電線(と絶縁鞘)だ。脳として使っているのは僅かな部分だ。

神経線維は何本あっても所詮は線維

ある科学者は、このような神経線維の網の目こそが脳の本質であり、そこにこそ思考や判断が宿っているのだと言う。アホなこといいなさんな! それは、パソコンの後ろに走っている無数の電線が、パソコンの本体だと言っているのと同じでしょう。そんなモノないほうがいいに決まっている。

ペタペタと大脳や小脳をくっつけ、むかしの温泉旅館ではないが、本館・新館・別館・第二別館と継ぎ足しただけのものだ。

人間の脳が醜い理由

理由は2つある、進化の辺縁系として夜中にコソコソ動き回っていた小哺乳動物が、天変地異により突如、生態系トップの地位を押し付けられたからだ。
本来の脳はすでにそれなりに出来上がってしまっていたから、いろんなアタッチメントやブースターを外付けして、機能をアップせざるを得なかった。

そしてもう一つは言語を身につけたからだ。

大脳は結局、「言語脳」だ

エンゲルスは「猿が人間になるについての労働の役割」を書いて、労働こそが進化の最大の要因だと主張しているが、あれは嘘だ。

言語以外の仕事や能力はすべての動物が持っている。集団の狩り(労働)による第二の天性もほぼすべての動物に共通している。
肝心なのは人間が集団行動の手段として言語を使ったことだ。

言語は時間軸上に構築された表象

言語の最大の特徴は音の連なりにある。つまり時間軸上に構築された表象なのだ。

しかも狼煙や手旗信号のようなまどろっこしさではなく、リアルタイムで猛烈な情報が受け渡りされなければならない。だから10の子音と5つの母音(日本語)を使いこなすことで、瞬間情報量を増やすしかなかった。

たまたま人間は樹から降り、起立歩行することになって声帯周りの自由度がアップし、それが可能だったから、主役が回ってきたのだ。同時にそれを識別できる聴覚(というより音声識別力)をみんなが共有することになったのだ。

言語活動の高度化に伴う脳の組織改編

言語が人間の脳活動の中心となった瞬間から、猛烈なシステム化が始まり、脳構造の改築が始まった。

動物の脳の基本構造である「三脳構造」はある意味で全面否定された。

それまでの視覚(三次元的弁別)優位の脳システムは聴覚(音声識別)を基本とする構造に切り替わった。ただし聴覚は一般的な鋭さではなく、言語を弁別する能力が求められるようになった。

さらに聴覚だけでなく聞いた音を、一連のものとしてまとめ、記憶し、意味づける能力が求められるようになった。それはこれまで全く存在しなかった能力であり、作り上げていく他なかった。

言語活動の三要素(コード化、演算、メモリ蓄積)

これは私の独断だが、言語活動を遂行するためには、読み取り(シラブル化)機能と、メモリー(作業用)と演算回路が必要だ。

現在ではこれが聴覚中枢とウェルニッケで行われているが、当初からそうであったかは不明である。ただ、いずれにせよ中脳下丘の機能から派生したのかも知れない。

聴覚優位化に伴う視覚の運命

聴覚(言語覚)が聴覚をしのいで知覚・識覚の頂点に座ったとき、視覚は聴覚の前にヒザマづくことになった。

知覚が知識(習慣)に置き換わるということは、視覚をふくめた知覚というものが、「物語」の一コマとして認識されることになる。
言葉が認識の支配者となり、その時間軸上に視覚的事象を始めとする体験、姿勢感覚、運動体験などが散りばめられていくことになる。

中でも最大の進化論的変化は、視覚の時間軸化であろう。

視覚の時間軸への組み込み

網膜からの画像はいったん後頭葉に投射され、シンボル化処理と動画化処理を加えられる。そしてシンボル化視覚情報は側頭葉へ、動画化情報は頭頂葉の中心溝後部に整列させられる。

この内とくに動画化情報が脳のクロック機能として言語を統御する。なぜなら言語は時間軸情報であるが故に、クロック機能が必須なのにも関わらず、聴覚には前後の認識という相対的な機能しかなくて、クロック機能はないからだ。このクロック機能は文字の読解にも必須の機能だ。もっとも、これはずっと後の話だが…

一度は、聴覚に従属したと見えた視覚が。このクロック機能によってふたたび脳機能の首座を占めるようになる。(その優位性は必ずしも絶対的なものではないが)

連合機能は、モジュール化出来なかったためのシノギの手法

結局これらの機能がすべて大脳に押し付けられるようになり、それが大脳の異常な肥大をもたらした。
たしかにそれらの機能は「連合機能」であり、線維性連絡の増大によってしか実現できなかったのかもしれない。

とはいえそれは不格好でグロテスクである。鳥の脳進化の先に、人間のような機能を持つ脳は実現できなかったのであろうか。

これからAIを構築していく人たちにそのような問い掛けをしてみたい、と、ふと思った次第である。

旭川博物館の展示物紹介

2ヶ月ほど前に旭川博物館に行ってきた。買ったばかりのファーウェイのスマートフォンが威力を発揮した。
とにかくフォーカス不要、明るさ調整も不要、近くに寄ればパッとマクロになる。
何よりもありがたいのは手ぶれ防止だ。片手どりOKになると、俄然カメラ位置が広く取れるようになる。つま先立ちして手を思い切り伸ばしてカシャッということも可能だ。
展示物の撮影の苦労は、とにかくガラスの映り込み、展示パネルの照り返しをいかに排除するかにある。
函館出土の土偶
            函館出土の土偶(笑顔が素敵だ)
これだけの高機能カメラなら、電話機能もネット機能も何もなくても10万円の価値がある。おそらくカメラ屋さんはバッタバッタと倒産するのではないだろうか。

そんなわけで一部を紹介する。

「アイヌ民族」の成立過程

展示資料の中でも圧倒的なのが「縄文からアイヌへ」と題されたパネルである。
文化圏とヒトの形質を図示したものだが、文化と形質の間に微妙な乖離がある。
この乖離を理論化したのが瀬川史学の精髄だ。(瀬川拓郎さんはこの博物館の前館長)

1.縄文晩期
縄文からアイヌへ1

縄文人による縄文文化が全国を風靡していた。

2.続縄文前期

宮城・山形ラインまでは縄文人社会が続いたが、その南には渡来人と縄文人の混血した弥生人が北上してきていた。

さらに稲作の北限は津軽海峡までやってきていた。これに伴い弥生文化圏も本州北限まで達した。

すなわち形質的には縄文人だが文化的には弥生人という集団が誕生した。

3.続縄文後期

寒波が襲来し、稲作の北限は宮城まで後退した。

北海道まで退いた続縄文文化はふたたび秋田・岩手の南端まで広がった。一方で弥生文化→古墳文化も残されたため、青森・岩手・秋田の3県は両文化の混在地帯となった。

それにも拘らず弥生文化→古墳文化の北上は進み、山形・宮城のほぼ全域が弥生人の支配下に入った。

一方サハリンからはニブフが南下し、海岸沿いにコロニーを形成した。

4.擦文文化成立期
縄文からアイヌへ2

本州中部以南では飛鳥時代の始まりに当たる。
阿倍比羅夫~坂上田村麿の北伐が本格化する。

この時期、境界は最も輻輳したものとなる。最も一貫した傾向は大和朝廷の北進であるが、その勢いはそれほど強くない。これは縄文人が強く抵抗したためかもしれない。

ヒト形質から見ると秋田と岩手南部が弥生系→大和系となり、北海道の北半分はオホーツク文化を担うニブフ人が縄文人と混住した。縄文人は擦文文化をにない、津軽・渡島を中心に分布するようになる。

文化的には、稲作の目立った北進はないが、雑穀(粟)の農耕を開始していた。縄文人の多くは土師器を受容するようになり、弥生文化→大和文化に包摂されるようになる。

5.擦文文化確立期

大和政権で言うと平安時代以降に相当する。
この時期、縄文人は2つに分裂する。
本州に残った縄文人は、稲作を基調とする大和文化を全面的に受け入れ、固有言語を放棄し同化した。

同時に全面的に大和に従属しつつ、そこで培った力を北に向けた。彼らはバイリンガルだったであろう。

そして大和政権の目下の同盟者として、北海道の縄文人に対し優位に立ち、北への進出を加速したのではないか。
アイヌの北方進出
         後段は少し過大評価の感もあるが…
北海道の縄文人はオホーツク人を北海道から駆逐し、縄文語をしゃべる縄文人の土地とした。この過程でオホーツク文化を包摂し、人種的にも混合した。これがアイヌ人である。

DNA的には4分の1(ミトコンドリアDNAの約半分)がオホーツク系と考えられる。本州に残留し大和人と交配した縄文人とは外見上もかなり異なる形質を有するに至った。

6.アイヌ文化成立期

地図は単純化した。形質を問題にしなければ、内地の縄文人は和人となり、北海道の縄文人はアイヌとなった。

アイヌは宗谷海峡を超え樺太南部まで分布した。彼らは狩猟・漁労のかたわら大陸との交易にも乗り出した。

彼らは遅れていたために農業を営まなかったのではなく、狩猟に特化したと考えられる。

7.結論

結論というか、私の感想です。

①アイヌ人は縄文の血を色濃く残す民族である。

②アイヌ人はニブフや千島系の「オホーツク人」の血と文化を受け継いでいる。

③アイヌ人は狩猟・漁撈を生業として特化した民族である。

④アイヌ人は大和人との交流の中で発展した。(しかしそれは従属的なものであった)
助命を乞う蝦夷



私たちは基本的には国連中心主義をとっているから、国連で定められたさまざまな取り決めについては尊重していかなければならない。

しかし専門職に携わる多くの人にとっては、国連のさまざまなガイドラインが、しばしば根拠に乏しく恣意的で、あえて言えば非科学的でさえあることを知っている。

そして国連および関連機関に働く人々の利益に沿った偏向をふくんでいることを勘づいている。

彼らは国連ロビイストの圧力のもとにさらされている。そしてその場限りでは正しくても、世の中の全体のバランスからすれば正しいとは言えない立場を表明することがある。

そしてそれがしばしば途上国や後進国に不利益をもたらし、先進国に有利に働くことを知っている。

しかし私たちは「だから国連など無意味だ」と叫ぶ気持ちはサラサラない。

やるべきことは国連と諸機関が提出するさまざまのリコメンデーションに対し、眉にベッタリと唾を付けて臨むべきだということだ。

とくに人権、環境、医療などの「敵なし議論」で、上から目線のかさにかかった言い方をするときには注意を要する、とだけ言っておく。

「日経ビジネス」に面白い記事があると紹介されたので読んでみました。
大変面白いです。要約を紹介します。
インタビュアーが“知ったかぶりのアホ”に見えてしまいますが、瀬口さんの的を得たコメントを引き出したという点では見事なインタビューというべきでしょう。



瀬口 清之 
キヤノングローバル戦略研究所研究主幹
2019年11月14日 


1.最近の香港の状況

香港の抗議活動は10月以降、急速に状況が悪化している。抗議活動が暴力化している。

リーダー格の人が拘束されるにつれて歯止めのないものになっている。

香港政府への怒りや、共産党政権への不安や怒りは理解できるが、よりよい社会を作る運動に向かっていない。

2.抗議活動の過激化を促した3つの出来事

1つは7月に白いTシャツを着た人々による抗議運動の参加者の襲撃だ。

警察はこれに対し、一般市民を十分に保護しなかった。ここから反警察の機運が高まり、抗議活動の暴力化が進んだ。
 
2つ目は、10月4日のマスクなど覆面の着用を禁止する法律の制定である。
これも人々の怒りの火に油を注いだ。

3つ目は、香港区議会議員選挙で、ジョシュア・ウォン氏の立候補が拒否されたことである。氏は2014年に広がった雨傘革命のリーダーで香港自決を主張している。

11月5日には、デモに参加した学生が駐車場ビルから転落死した事件も発生した。以上のように予断を許さない状況が続いている。

3.一般市民まで襲われる事態

中国系の施設襲撃や略奪が頻繁に起こっている。

中国系銀行はシャッターをこじ開けられ、火炎瓶を投げ入れられた。
中国出身の人が営む店舗も襲われている。それだけではない。デモ参加者を「暴徒」と呼んだ香港人の菓子店も略奪の対象になった。

香港市民は、自分たちがターゲットにされるのが怖くて何も言えなくなっている。

4.警察は暴力や違法行為を抑えられなくなっている

11月11日に警察官の発砲事件が発生した。これは警察にとって深刻な事態である。こういう対応しか取れなくなってきているということが問題だ。

香港の警察力は狭い香港の地域内に限られている。本土や他地区からの応援をもとめることは出来ない。
中国の武装警察が深圳に待機しているが、深刻な米中摩擦のもとでは、出動はほとんど不可能である。

5.闘争は深刻な経済的損害をもたらしている

中国人の訪問者数は半減した。土産物店、化粧品店、宝飾店などが続々と閉店している。

6.抗議活動の出口が見えない

当初は逃亡犯条例への反対でした。その後、経済格差への反発、香港政府・香港警察への反発、中国政府への反発へと課題が広がった。

現在は5大要求に集約されている。しかし獲得目標が曖昧なため一般市民からの支持がない。

香港の経済格差は激しく、約40人の富裕層に総生産の4分の3が集中している。これに対する手立ては明確ではない。むしろ反本土で真の問題がおおい隠されている側面もある。

本来なら、不動産税や相続税、贈与税などを富裕層に課す、所得税の累進度を高める、社会保障制度を充実させる、といったことを求めるべきだ。

しかし、こうした要求は見られない。

“香港市民社会の安定を目指して経済格差を本気で解消するための抗議活動とは思えません”

7.なんのための自決か

自決をもとめるなら最大の課題は行政長官の民選・普選であろう。

しかしその前に何のために自決が必要か、何のために参政権が必要なのかを明確にしなければならない。
そこが曖昧なのである。

その理由は実は、みんなのために命がけで義を貫き通すリーダーがいないからではないか。

8.香港の歴史的悲劇

なぜリーダーが輩出しないのか。それは香港が自決した経験がないからではないか。

香港は英国植民地として、参政権のない非民主的な統治体制に貶められてきて、それが政治的に血肉化している。

自決した経験を持たない人は、自決の仕方を知らない。そういう発想にならないのだ。彼らにとって香港は“自分たちの祖国”ではない。

少なくともエリート層はそう見える。自分の財産をいかに守るか、自分の移民先をどこにするかを考える。

抗議活動に参加している当の学生たちでさえ同様だ。富裕層の子弟が多いので、いつでも香港の外に脱出できる。
「庶民のために」という意識でやっているわけではない。

“これが香港問題の本質です”

習近平の評価については省略。せめて赤旗にこれくらい言ってほしかったが…






後進国は「社会主義」を語ってはいけないのか

今回の綱領改定議論で一番イヤな感じがするのが、ここなのだ。志位さんは一生懸命に中国を批判することで後進国革命を否定しようとするが、それとこれとはレベルが違うと思う。
マルクス主義の最も魅力的なのポイントは、どんなに遅れたスタート地点からでも社会主義へのキャッチアップは可能であり、世界の模範となりうるのだという「ユニバーサリズム」であったと思う。
今は先進国の植民地となり支配された後進国だけれども、いつかは民主主義革命を成功させ人民民主主義を実現できると考え、多くの若者が共産主義の理念を支持した。これが20世紀を大きく前進させる原動力となった。
今それをそのままの形で社会主義理論に流し込むのは辛い。それはよく分かる。しかしそれならそれなりの総括はすべきである。「もうあなた方の運動の先に社会主義なんてものはないんだよ」と言い切る無神経さが、昔風活動家としてはいささか辛いのである。

かつて日本共産党の先輩は60年の「80カ国共産党の声明」に当たり、3つの革命勢力の同等性を説いた。そして社会主義諸国の戦いがすべてに優先して革命を推進する力になるのだというソ連・中国と対決した。これは今でもきわめて正しいと思う。

変化する国際的力関係を考慮せずに特定の変革勢力だけを突出させるのは、革命運動の漫画化に等しい。ましてそれが革新勢力の中心概念になるのだとしたら、私としては天を仰ぐ他ない。

資本論の新版が出るのに合わせ、社会主義の未来についても議論が盛んである。しかし先進資本主義国の未来にしか社会主義像がないのだという議論は、あまりに貧しく寒々しい教条主義だ。

そこでは独裁的で反動的な権力を民衆の力で顛覆したロシア革命や中国の解放闘争、さらにアメリカと高い勝利したベトナム解放闘争すらその歴史的意味を消失する。ましてやキューバやニカラグアの戦いなど一時的な民衆の錯乱と受け取られるしかない。

いつの間に、日本の社会主義・共産主義思想は乾燥シイタケのように干乾びたものになってしまったのだろうか。


先進国と途上国との関係において、「人権」問題は常にコントロバーシャルでデリケートな問題であった。

「人権侵害、人道的犯罪との戦い」という言葉が、繰り返し内政干渉の政治的道具として使われてきた。

だが私たちは、経験上知っている。先進国の意向に従うものの人権侵害は大目に見られ、先進国に逆らうもののそれは容赦なく罰せられてきたことを。

20年前、ノリエガが支配するパナマは米軍の直接侵攻を受け政府を破壊された。外国の武力侵攻に抗議する人々は、親ノリエガだろうが反ノリエガだろうが、海兵隊の標的となった。

今となって明らかなのは、ノリエガはコンタドーラ・グループの先頭に立ってニカラグアやエルサルバドルへのアメリカの干渉を止めさせようとしたから首を切られたのだ。別に国内で独裁体制を敷いたからでも麻薬カルテルに首を突っ込んだからでもない。

10年経てばそういう話は明らかになる。だから歴史を学ぶ人間は誰でも「アメリカが民主主義を言い出し始めたらクーデターが始まるな」ということは分かるのだ。

ロイターもBBCもそのくらいは百も承知でヤマを張るのだ。だから連中の言うことは決してまともに信じてはいけない。少なくともそれを根拠にして綱領を書き換えるなんて言うことは絶対にやってはいけないことなのだ。

繰り返す。「人権」というのは実に階級的な概念なのだ。むかし北海道選出の国会議員で高崎裕子さんという人がいて、この人の決り文句が「強いものに味方はいらない。弱いものにこそ味方が要るのだ」というセリフだった。
国際政治の中でもこの観点は絶対必要だ。弱い国に向かって叫ぶ「人権」が、「弱い国の強者」の人権にならないよう、私たちは心がけなければならない。


少し遅れましたが、11月はじめに京都外語大学で開かれた「ベネズエラ・シンポジウム」に行ったときの写真を紹介します。

講義では名古屋大学の岡田さんの報告が面白かったです。

1.ベネズエラ問題は人種問題の側面がある

そのことを示すのが下の図です

ベネズエラ人の人種的エイデンティティ

ベネズエラはかつて白人主義をとったこともあり、白人の比率が高いのですが、それでもメスティソが多いのです。

もう一つ、ベネズエラが白人主義をとったということは、白人に人種差別観が強いということを示唆しています。戦前は日本人移民は入国できませんでした。

2.ベネズエラは豊かな国

ニュースを見ているとベネズエラは超貧しい国と誤解されるかもしれませんが、実はとてもゆたかな国なんです。

石油は唸るほどある。国民向けのガソリン代はほとんど無料なのです。少なくとも中流以上の人なら、働かなくても食っていける国です。景気のいいときは、カラカスの下水にはヘネシーが流れているというくらい贅沢をしていました。

それは豊かだと言うだけではなく、富が偏在していることも意味しています。だから非白人系の怒りが燃え上って、それがチャベスを大統領の座に押し上げたのです。

豊かな国ベネズエラには南米諸国から多くに人々が移り住んでいました。その人たちの多くは資産家の召使いとして働いていました。ベネズエラにめぼしい産業はないのでそれより他に働き口はなかったのです。

LA内の人口移動

この表からはいろんなことが読みこめますが、岡田さんの示すようにコロンビア発ベネズエラ行の人口移動が圧倒的だということです。年間53万人にも達しています。

これはちょっと古い1990年の統計です。もう一つの図(ちょっと見えにくいので省略)では、2000年で60.5万人となっています

あらあらですが、20年で1千万人がコロンビアからベネズエラに入って、その多くが不安定就業人口となっていたら、その人たちが経済危機に際してとる手段は帰国でしかないでしょう。

数百万の国外難民がいるのに、あふれかえるような難民キャンプの映像がまったく報道されないのは、こういう事情で説明できるのだろうと思います。

 

3.ベネズエラで殺人が多いのはチャベスのせいではない

岡田さんが証拠として示した図がこれです。

殺人率とインフレ率

ベネズエラで「カラカソ」と呼ばれる民衆暴動が起き、これを憂いたチャベスがクーデターを企てたのが1990年のことです。そして出獄したチャベスが大統領選に打って出て勝利したのが1998年のことです。そのチャベスが今度は逆にクーデターをかけられ、民衆に救い出されたのが2002年のことです。

これらの事件は安定した物価水準にも、増加する一方の殺人事件にもまったく影響を与えていません。“良くも悪しくも”、関係ないのです。

あるとすれば、麻薬カルテルの浸透、隣国コロンビアでの武装闘争の激化でしょうか。

 

岡田さんは別にベネズエラ問題で、どちらに肩入れしているわけではありませんが、メディア(および赤旗)で流されるベネズエラ情報については一定の批判的視点を持っていらっしゃるようです。

 

 

インテルのコアーi7というのは、多分10年の発売だからもう10年になる。
パソコンの世界で10年と言うと遠い昔の話のはずだが、どういうわけか未だにi7だ。一体どうなっているのか。8や9は出ないのか気になって調べてみた。

日本語での情報はほとんどない。
仕方がないので“Quara”という英語のQ&Aサイトで調べた。

Are any laptops using the i8 processor?

という質問に対する答え。

答え1(回答日17年11月)

i8というプロセッサーはない。
Iシリーズの数は3と5と7だけだ。

ベーシックな使い方ならi3で十分。
普通にゲームをしたり、画像・映像・音声を編集するなら、i5が優先される。

i7は、あなたが筋金入りのゲーマーなら選択肢となるだろう。あるいは「最高のプロセッサーがほしいいんだ」と言うんなら、それでもいいかな。

i9が必要になるとはどうしても思わない
あなたは、最近市場に出回っている第8世代のプロセッサのことと勘違いしていないかな。(実際は第10世代が登場している)

答え2 (19年8月)

たしかに i8 & i9 というのはあるけど、それは retro designed cpu socket に差し込むように作られているんだ。

普通のパソコンに i8 & i9 を使う意味はまったくない。

 i7 でさえ、ラップトップで真の能力をできるわけではない。実際のところはその一部を使っているだけなのだ。

答え3(17年11月)

一言申し上げておきますが、i8プロセッサーなどというものは存在しません。

 たしかに i9 は存在しますが、それはデスクトップ型パソコンのものです。
電力を大量に消費するため、ラップトップではバッテリーが持ちません。発熱量も相当なものです。

ただこのQ&Aは少し古いかもしれません。ネットで検索すれば i9をくみこんだラップトップ機が載っています。

たとえば
ThinkPad P73:プレミアム
CPU:インテル Core i9-9880H プロセッサー (2.30GHz, 16MB) vPro対応
Memory: 16GB PC4-21300 DDR4 SODIMM (8GBx2)
Storage: 512GB SSD
販売価格:¥473,484

思えば私は2011年、レノボ初の i7 搭載ラップトップを買ったのですが、5年目にピンクの煙を出してお陀仏しました。修理は断られました。

ただ、目下パソコンのスピード感覚で最大の問題は通信速度かもしれません。とくにワイファイで回線が混み合うとがっかりするくらいスピードが落ちます。

ファーウェイに頑張ってもらって早く5Gになるといいのですが、透明性の問題は深刻になるでしょうね。

人間というのはどんどん億劫になってものぐさになるが、楽になる工夫にはどんな苦労もいとわないものである。
まさにこれがイノベーションの原理なのだが、年齢とってくるとその便利さに対する欲望が減ってくる。今のままで十分、もう俺にはこうやって生きていくのが楽なのだ。ということになる。
これが、一気に変わったのがスマートフォンの導入。結局便利さを実現するための障壁があまりに高すぎたこと、パソコンのときのような親切なおじさんとかお兄さんがだんだん周りにいなくなってきたことが原因なのだろう。

1.活字情報の読み取り

目下はスマートフォンでとった写真ー主に文字情報なのだがーを原稿に落とす作業にハマっている。台形補正のソフトを手に入れて、「読み取り革命」でテキストファイルに変換している。
しかしどうも「読み取り革命」の能力が低いらしく、段組みや表・統計資料については手に負えない。

かえってプリンターにおまけでついた読み取りソフトのほうが成績が良いことすらある。

まぁこちらの方は筋道はついているので、ぼちぼちやっていこうかと思う。

2.英語の翻訳

これはもうグーグル翻訳で十分だ。文学や芸術に手を出す気さえなければ、過去の数万もする「こりゃええわ」等の翻訳ソフトよりはるかに良い。

これだけ良いのだから、和英もできるのかどうか、外国人相手に試してみたいと思っている。

将来的には主要「著作」はすべて英訳してみたいものだ。(アイヌ年表の英語版にはユジノ大学の先生からメールが来た)

4.DSD コンバーター

「PCM-DSD_Converter」という無料ソフトがあって、WAVファイルをDSDファイルに変えてくれる。要はCD規格の44KBを180KBとかに変えてくれるらしい。

要するに原音をオーバーサンプリングして音を足してくれるらしい。そこで実際にやってみたのだが、私の耳ではあまり代わり映えはしない。

みるとファイルのサイズも全然変わっていないので、ひょっとするとやりそこねているのかもしれない。

私のオーディオセットでは、CDとDSDとの違いを鑑別できるわけはないのだから当面諦めることにする。

5.AACをMP3に変更する

私の願いはそう高級なものではなく、ダウンロードしたYoutubeの音をなんとか聞くに耐えるレベルまで持ち上げたいということである。

ことに最近のYoutubeはビットレートが100以下に抑えられているから、中波のラジオの音よりはるかにひどい。

この音をMP3の250KBまでオーバーサンプリングしてついでにちょっと化粧しようと思いついた。

やることは
①AudacityでAACファイルを引っ張り出す
②エフェクトの低域・高域で低音をちょっと引き上げる
③同じくエフェクトのコンプレッサーで音量を揃える。
④編集したファイルをMP3の250KB固定レートで保存する。
というだけのシンプルなものだ。
efekuto

エフェクトの低域・高域をクリックする。低域と高域をそれぞれ1.0づつ上げる。音量が下がるので、エフェクトのコンプレッサーで補正する。これをMP3の250KBで、固定レートにしてファイル保存する。
これで十分音はクリアーになる(というよりクリアーになったように聞こえる)。ながら族には嬉しいことだが曲ごとの音量調整は不要になる。時間が分かるということは途中から聞くのも容易になるということだ。
高音のひしゃげやくぐもりは、改善しないがザラザラとしたささくれ感は随分軽減される。   

当分はこれで我慢するしかなかろう。何回も聞くのならHMVとかで有料ダウンロードもできる。

6.文字起こしソフトの可能性

この後試みたいのが文字起こしだ。これができれば講演のテープ起こしなどが容易になる。

どの程度のものなのか試してみようと思う。いろんなソフトを比較した表があったので、転載させてもらう。

文字起こしソフト比較表


結論的には転載するほどのものではなく、

「googleドキュメントの自動文字起こし」の性能が圧倒的だということだ。

説明はリアルタイムの文字化を前提としているようだが、こちらとしては圧倒的に録音した音声の起こしが多いだろうと思う。

まずはNHKニュースの録音を起こすところから始めたらどうだろうか。やってみたら報告する

中村哲さんの死と、私たちの「自己責任」

中村さんの死をきっかけにふたたび「自己責任」論が噴出するかと思い、2ちゃんや掲示板を覗いてみた。

分かったのは、すでに掲示板というものは存在しないということだ。しかしネトウヨの寄せ場は、yahoo知恵袋などQ&Aサイトにあった。

多くのホームページは受け入れなくなっているから、自分で質問をして自分で答える式のことをやっている。ただし2ちゃんみたいなえげつないのは弾かれるらしい。

正直、どのQ&Aも低調だ。「自己責任」をめぐる議論は、論点が出尽くしているのかもしれない。


1.中村哲は、狙われていると日本政府から通達されていたのに、アフガニスタンに行った。自業自得ですし、なぜ、特別扱いするの?

と参加をうながす挑発的な質問があった。しかし回答数は3つ。

質問は、「自己責任論で一般化できない特別な事例があるのか」ということに帰結するので、答えは「そういう事例はある」ということになる。
ついで、中村さんがそういう事例に該当するのかということになるが、「該当する」ということになる。

ただ議論としては二段階だが、中村さんの事例は「ある」ことを証明すればほとんど終わってしまうので、「自己責任」論者の立場はかなり苦しい。

前半の論理が破綻した瞬間に「げんこつ」が飛んでくるだろう。


2.中村哲さんは日本に引き上げる決断をすべきだったと思わないか。引き上げる勇気を持つべきでした。

相手の出方次第では、自己責任論に持っていこうという、変化球の質問だ。

反論としては、中村さんは引き揚げる勇気も持っていたが、それ以上に残留する勇気を持っていた。私たちには両方ともない。
だから、残留する勇気も、そのためのノウハウも持たない人間が、とやかくいうべき問題ではない。

むしろ、彼の意志をサポートする私たちの責任が問われるべきなのではないか。

中村さんは身に寸鉄も佩びず、戦火のアフガンを生き抜いた。「憲法が守ってくれた」のはその基本的なポジションだ。具体的には自分の責任で自身を守ってきたのだと思う。

批判する側はまずそれをわきまえるべきだ。

彼は死の責任を誰にも問うていない。問うてもいない質問に答えるのは無意味だ。中村さんがその命をかけてあなたに問いかけているのは、「私の生と死は無意味だったのか、無駄だったのか」ということだ。

批判する側には、その問いに答える「責任」がある。


3.憲法9条が僕らを守ってくれると言っていた中村哲先生が、お亡くなりになりました。どういうことでしょうか?

虫唾の走るような質問だ。これに対しては胸のすくような回答がある。多分、何度も試され済みのQ&Aなのだろう。

「シートベルトがあなたの命を守ります」という交通安全のための呼びかけに対して、「シートベルトをしていても亡くなったのはどういうことでしょうか?」とチャチャを入れているのと同じです。

中村さんは、9条が自分達の活動を支え、またその環境を作っているという極めて真っ当なことをおっしゃっているだけで、これで自分は不死身となったなんてことは一言も言ってません。


4.危険を承知で人道支援がしたいから行った訳で、自己責任。

ここまで言う人間もいる。

まず危険な場所で危険を顧みずに犠牲的精神を発揮することになんの問題もない。
ただし危険な任務を出来る限り安全に遂行するのは本人の責任もあるし、周囲の義務でもある。

しかし問題はそれ以前だ。

人道というのは人の道だ。それはあなたにとっても人としての道だ。
人道的行為というのは往々にして無償で、損を覚悟で、場合によっては危険も承知でやるから人道的行為なのだ。
人のためになるからと言っても、それを儲けの対象としてやるんなら、人道的行為とは言わない。

もし人道的行為を行う人がいれば、我々は敬意を払い、それをサポートする「人としての責任」がある。

ジャワ原人の記事が赤旗にのっていた。
随分、現代に近いところまで住んでいて、ホモ・サピエンスとかぶっていたのではないかとも言われたが、結局10万年前にはいなくなったようだというのが今回の記事。
何処かの小さい島には矮性種ホモ・フローレシエンシスが生き残っていたらしい。ガンドンで発掘された原人はかつてはソロ人と呼ばれた。ジャワ原人の子孫であり、これも結構最近まで生き延びていたようだと言われる。なかにはアボリジニーの祖先ではないかという人もいるらしいが、これはDNAで完全に否定されている。
ただそれでもすごいのだ。180万年前にすでに存在が確認されている原人が10万年前まで生き延びていたということはすごいのだ。どうもあの辺りにはコモドアトカゲとかオランウータンのように、生物種を生き延びさせる環境が備わっているようだ。

ジャワ原人
ジャワ原人の記事が気になったのは、たまたまマンローの年譜を編集していて、彼が横浜を根城に遺跡発掘を始めた頃に、インドネシアでジャワ原人が見つかったからである。
「彼にとってはかなりの衝撃だったろうなぁ」と思っている。
その後彼も三ツ沢遺跡で旧石器人のほぼ完全な人骨5体を発見しているから、かなりのインパクトを与えてはいる。しかし所詮は縄文人であり、今ならゴロゴロある。

それはそれとして、とにかくジャワ原人について少し調べてみることにする。


ジャワ原人(ウィキペディア)

170 - 180万年前にジャワ島で住んでいた化石人類である。
オランダ人ウジェーヌ・デュボワが1891年に発見して以来、名称は変遷を遂げている。
デュボアはPithecanthropus erectusと名付けた。ピテクス(サル)+アントロプス(ヒト)の合成語である。
ドイツの生物学者ヘッケルは、東南アジア方面で人類の進化が起こったとし、ピテカントロプスというきざったらしい学名を用意した。
そしてその説を信じたデュボアがジャワ島で原人の骨を見つけたのである。
ピテカントロプスの名は、1920年代になって北京原人が発見されたことから公認された。
しかし戦後になって、それらがすべてアフリカに出自を持つことが確認され、ピテカントロプスという学名は消失した。
現在の正式名はHomo erectus erectusである。


下記はバチェラー年譜においてあったものを別記事としてあげたものである。一記事としてはまだ完成しているとは言えないが、素通りするにも痛ましいので記事として起こす。
これら、「イサベラ・バードの北海道の旅」の記載は、彼女の著した「日本奥地紀行」の内容に基づくものである。


 とりあえずここに突っ込んでおくが、膨らんでくるようなら別途記事を起こす。「イザベラ・バードの道」を現代に活かす に詳細な論究あり。
「イザベラ・バードはなぜ平取をめざしたのか」では、平取詣での理由が下記のごとく説明されており、納得がいく。

ダーウィンが『種の起源』で進化論を発表した影響で、欧米の人類学者の間で「容貌がまるでヨーロッパ人のようだ」と日本の先住民族アイヌへの関心が高まった。当時英語で表記された地図では北海道の東部や北部は描かれておらず、「平取」が北海道の最深部と思われた。それで桃源郷のように扱われたのではないか。

ただここには書かれていないが、デニング牧師の影響を無視するわけには行かないと思う。

5月 イザベラ・バードが横浜に入る。3週間の準備の後、東北北海道旅行に出発。


8月12日 イザベラ・バードが函館に上陸。函館聖公会のデニング夫妻の歓迎を受ける。デニングは3年前に平取を訪問しており土地勘があった。

8月 シーボルトJrが平取を訪問。現地でイザベラと顔を合わす。

8月23日 イザベラ・バード平取に到達。義経神社近くの平取アイヌの首長・平村ペンリウク宅に4日間滞在する。義経神社は二風谷より下流の平取本町にある。当時はアイヌ人専用の神社だったらしい。

通訳兼案内人の日本人伊藤某は「アイヌ人を丁寧に扱うなんて!彼らはただの犬です。人間ではありません」と断言しました。それから彼は、村で集めたアイヌ人の悪い噂を私に残らず話すのでした。

9月12日 イザベラ・バード、函館に戻る

バードは、「アイヌは純潔であり,他人に対して親切であり,正直で崇敬の念が厚く,老人に対して思いやりがあると賞賛。

またペンリウクが伝道師デニングを批判した言葉も記録している。

もしあなたを造った神が私たちをも造ったのならば、どうしてあなたはそんなに金持ちで,私たちはこんなに貧乏なのですか

また、アイヌの飲酒の習慣についても同情的な眼差しを送っている。

泥酔こそは,彼らの最高の幸福である。「神々のために飲む」と信じる彼らにとって,泥酔状態は神聖なものである。

izaberaha-toryotei

医師マンローについて文献を集めていますが、その経過についての報告です。


1.道庁職員 谷万吉との往復書簡

往復書簡集は
北大に保管されているらしいが、目下アクセスの方法は不明。

最も重要な書簡は36年12月の谷宛書簡
私がアイヌの研究に余生を捧げることにしたきっかけは、来日したセリグマンの勧めによる。
二風谷をフィールドとして選んだのは、アイヌ人家族が密集して住んでいるので調査の能率が上がるというのが一番だが、風景が美しいというのも大きい。それを30年に4ヶ月暮らしてみて実感した。

「(谷が)二谷文次郎氏の案内で,自転車で二風谷のマンロー館を訪ね
たのがマンローとの交際の始まりであり,昭和年()のことである。以
来マンローが次第に苦境に陥って行くのを支え,亡くなるまで,この人ほど惜
しみなく助力し,公私にわたって誠心誠意尽くした人は他にあるまい。マンロ
ーは谷氏を何より力と頼み,頼りにし,誰よりも信頼して心打ち明ける手紙を
何通も書いた」
伸顕「アイヌ民族と2人の英国人」より

なお谷万吉は戦後に「ニール・ゴードン・マンロー博士年譜(未定稿)」 1
という資料を編集しているらしい。

谷 万吉, 小山 政弘∥編 北海道史研究会 1975-1976
『北海道史研究』第9号、第10号 抜萃
ということで、明日もう一度図書館に行ってみようと思う。

後日談: 大麻の道立図書館内「北方資料室」に年譜1,2の別刷りが献呈されています。ただ基本的にはすでに組み込み済みでした。

谷万吉には「二風谷コタンのマンロー先生」『赤れんが』第 48 ~ 50 号(1977 年),第 51・53 号(1978 年)という文章もある。
「赤レンガ」という雑誌は自治労傘下の「全道庁」組合の機関誌かもしれません。これもネットでは探せません。


2.セリグマンとの往復書簡

そのセリグマンとの書簡も残されている。

31年2月に書かれた手紙

アイヌの研究は書籍としてまとめたい。その際の項目は以下のようになるだろう。
①アイヌの家屋について
②アイヌの宗教の特徴
③中心的祭礼としてのイヨマンテ
④妊娠と分娩にまつわる習慣
⑤病気と治療、呪術、薬草など
⑥イム(憑依)とトゥス(シャーマン)と精神分析
⑦踊り

谷への書簡が書かれる1ヶ月前の36年11月にも、セリグマンあての手紙が書かれている。
いま、19章からなる本を構想している。5年前から内容が深化した。序章「アイヌの過去に関して」と終章「アイヌの現在に関して」が付け加えられた。

38年7月に書かれたセリグマンあての書簡でも、このことは繰り返されている。
「詳細で真実な情報を! というのが私の欲求です」(真実は細部に宿るということか?)

しかし、「Ainu Creed and Cult」として出版されたとき、この2章はカットされた。マンローがつけた表題「Ainu Past and Present」は採用されずに終わった。
セリグマンの妻で編集者であるブレンダは、テーマの社会的広がりを好まなかった。彼女はこの本を文化的な枠に押し込めておこうとしたと考えられる。

3.容易ならざる手紙

内田さんが紹介した手紙の中にはかなり悲惨なものも混じっている。

38年のセリグマンあての手紙では、生活困窮が訴えられている。アイヌ研究の必需品である撮影用カメラも売却した。相当の値段で売れたらしい。
二風谷の自宅も売却する方向で検討していたようだ。

にも拘らず、「詳細で真実な情報を!」とさらに意気軒昂であったのだ。齢70歳にして何たるど根性か。


4.横浜開港資料館「開港のひろば」


という記事がある。
これにより以下の事実が確定

マンローは1890年にはイギリスの汽船会社ペニンシュラ&オリエンタル社のアンコナ号で船医を務めていた。アンコナ号は、当時香港―横浜間を2週間に1度行き来していた。したがってマンローは、船医として横浜に何度も寄港していたと考えられる。

自著によれば、インド滞在中に執筆したものをまとめて1890年に日本で小冊子を出版した、とある。これがもし性格なら、90年の横浜寄港時に出版に回した可能性がある。

1891年5月12日に香港から到着したオセアニック号の船客の中にDr. Munroの名前あり。

1905年に、マンローが三ツ沢貝塚(神奈川区)を発掘。


5.木村チヨとの三角関係

もう少し詳しい経過が分かった。どうでも良い週刊誌ネタではあるが、「真実は細部に宿る」のだから、ここは我慢。

21年(大正10)7月 それまで毎年避暑に通っていた軽井沢に、「マンロー医院」を開業した。10月までの季節限定で、外国人避暑客を対象とした施設。これに合わせ神戸から木村チヨが引き抜かれ着任した。(誰が引き抜いたのだろう?)

24年(大正13)3月 マンローと木村婦長の恋愛問題に悩んだアデール夫人は、神経衰弱に陥る。かねてフロイトの精神分析に傾倒していたマンローは、アデールを強引にウィーンに赴かせる。

25年(大正14) 「マンロー医院」を母体に「軽井沢サナトリウム」が発足。通年マンローが診療を行う。7~9月は外国人の組織した「軽井沢避暑団」が経営母体となる。

この間に関東大震災が挟まる。

それでどうなるかは、年表の方をご覧うじろ。

6.慶応大学岡本孝之さんの講義

2008年に北海道大学で行われた慶應義塾大学准教授 岡本孝之氏の講演「マンローの考古学研究 ~横浜時代を中心に~」がPDFファイルで読めます。

非常に素晴らしい内容で、とくに桑原本を読んで釈然としなかったところがかなりスッキリしました。
なんとかマンロー像から谷崎文学的な匂いを一掃したいのですが…

なお岡本さんには「横浜のマンロー」岡本孝之 「考古かながわ」2004年12月号
という文章もあります。ネットで参照可能です。


7.桑原千代子『わがマンロー伝-ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』


1983 年に新宿書房から出された単行本で、身近な人が丹念に事実を調べており、その迫力は圧倒的です。しかし贔屓の引き倒し的なところがあり、細かなところで違和感を感じます。

また記載がトリビアルで、発掘調査の内容や意義、数多く書かれた文章についての論究はほとんど見られません。いうなれば「裏から見たマンロー」です。そうなると天邪鬼なもので、どうしても表から見てみたくなるのです。

8.内田順子さんのレポート
昨日、歴史館に二度目の訪問をしまして、素晴らしい資料を見つけました
歴史館年報
内田順子さんという方の講義録「二風谷におけるマンロー: 最新の調査からわかったこと」が載っています。
実は、全20ページもあってその場で読む暇はありませんでした。これから道立図書館で探そうと思っているところです。とても詳しい年表が付録でついていたので、それだけ参考にさせてもらいました。

上記記述の続きです。

本日、内田さんの講義録を閲覧しました。
「沙流川歴史館年報」の第13号です。札幌では、道立図書館に付設した北海道歴史資料室で閲覧が可能です。

講義はもっぱら、映像のデジタル化に伴う諸作業の紹介ですが、自筆書簡からの引用が非常にためになりました。

その主要部分をかなり年譜に取り込みました。結果的にはさらにかなり分厚くなっています。

なおこの「年報」に折込でついていた年表は内田さんの作成したものではなく、この年行われた「マンロー展」に合わせて館が独自に編集・作成したもののようです。

新たな増補分はすべて2019年11月24日 

に突っ込みました。ただすでにご覧の方には二度手間になるかもしれないので、増補分を下記に挙げておきます。


9.ネットで閲覧可能な主な文献


①平成17年度 国立歴史民俗博物館 民俗研究映像「AINU Past and Present-マンローのフィルムから見えてくるもの」:映画フィルムの資料批判的研究に関連する研究ノート    内田順子
PDFファイルのため直リンクは出来ない。検索窓に署名を入れてグーグルしてください。

② 伝統的知識の公開と「社会関係資本」としての活用 UKにあるマンロー書簡の社会ネットワーク分析を中心に
手塚 薫  国立歴史民俗博物館研究報告 第 168 集 2011 年 11 月
これも①と同じ方法で検索してください。

③ 鷹部屋福平はいろんな文献でくそ味噌に批判されているようですが、最晩年のマンローとおそらく英語での交友があり、あとのことを託されるほどの信頼を得ていました。

*鷹部屋福平「毛民青屋集」に基づいた1940年の二風谷村アイヌ集落に見られた建築物の実態
佐久間 学, 羽深 久
*鷹部屋福平の『橋のいろいろ』(1958 年 石崎書店)

これも未見です。図書館で探してみようかと思っています。

ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」これはおそらく桑原千代子の本を底本にしたものと思われます。

⑦手塚薫 2010「マンロー・谷往復書簡による社会ネットワークの復元とその活用」『年報 新人文学』7 : 216?263。
これも③と同じ手塚さんの文章です。まだ見つけていません。

⑧ラファエル・アバ 2005「ある外国人が見た日本列島の先史文化:N. G. MunroとPrehistoric Japan(1908年)」『北大史学』46 : 1?24。

英国の偉人の生涯をたどる『Great Britons』 - Onlineジャーニー
これもネットで参照できます。 

とりあえずこんなところです。

キューバ封鎖解除決議の内包する国家関係の原則

今年も国連でキューバ封鎖解除決議が解除された。
この決議は正式には「米国の対キューバ経済・通商・金融封鎖解除の必要性」に関する決議と言われる。

今までは米国とイスラエルだけの反対だったが、今回はブラジルとコロンビア、ウクライナが加わった。

かつてキューバから、チェルノブイリの子どもたちに対する献身的なケアーを受けたウクライナが、トランプとの取引のために民族の誇りと良心を売ったことは、残念でならない。

しかし、それにも拘らず圧倒的多数の国家がこの決議を支持しているという事実は、この決議に含まれた諸国間関係の原則が今や揺るぎないコンセンサスとなっていることを示す。

そういう観点からこの決議を読み解くことも、意味があることであると思う。

決議に示された国家間関係の4つの原則

そこに示された原則は以下の通りである。

国連憲章の目的と原則を遵守すること。すなわち

1.大小を問わず、すべての国の国家主権は平等であること。

2.いかなる国や国際機関も、他国の内部問題に干渉したり介入したりしてはならない。

3.国家間の通商は尊重されなければならない。交通・航行の自由は制限されてはならない。

4.いかなる国であっても自国の国内法を他国の政府・企業・個人に強制してはならない。

例外としての制裁について

国連は、以上の4つの原則が状況によって制限されることがありうることを認めている。
その際の手段が制裁である。

その内容、目的、手段は厳しく制限されている。それが2005 年の「国連首脳会議成果文書」に示されている。

制裁の意義

制裁は、国連憲章の下で、武力行使に頼ることなく国際問題を解決するための重要な手段である。
それは国際の平和と安全を維持する努力を行うにあたっての重要な手段である。

制裁の内容

制裁の対象は、慎重に選定されなければならない。その目的は明確でなければならない。

実施にあたっては、期待された結果を出すための実効性と、人民や第三国に起こりうる不利益とを厳密に比較することが求められる。
制裁の具体的内容は安全保障理事会で定められる必要がある。

制裁の内容に含んではいけないこと

以下の内容は制裁に含まれてはならない。すなわち内政不干渉の原則を侵犯すること、他国政府を実力で倒すことを目的とすること、テロ活動などを組織・支援・許容することである
(1970 年国連総会で「友好関係原則宣言」として採択)













1週間御無沙汰しました。
理由はSo-netからPlalaに乗り換えるのにえらく手間がかかったからです。例によって取説はまったく役立たず、いろいろ探してやっとわかりました。
結論はたったこれだけです。
103
この絵が出たきたら、上の窓(ユーザー名)に“user”と入れて、下の窓(パスワード)にも“user”と入れればよいのです。
これで終わりなのですが、このことはほとんどのマニュアルに書いてありません。だからみんな泣いているのです。
EzXNetwork というサイトで、
パスワードを自分で設定した覚えがないとか、どうしてもわからない場合はuser、admin、ntt、0000、9999、1111で試してみてください。
というのはそういうことなのです。

もう一つは持続先の設定画面です。
接続先ユーザー名にモザイクが掛かっています。
これもたいへん困るので、プロバイダーからもらったユーザーIDを入れても動きません。
ユーザーIDを入れた後、その後ろに @plala.or.jp をつけなくてはなりません。
この2つがクリアできればそれで終わりなのですが、この2つがしっかり書かれているマニュアルを見つけるのはほぼ不可能です。

悩んでいる人は、このページを読んでください。

1.PPP緑色灯の消えていることを確認

まず前のプロバイダーとの契約を破棄すると、突然、ネットが繋がらなくなります。
これはルーターのPPPというところが切れていることで判断できます。
pppランプ-700x525

2.パソコンとルーターの電源を切る

オフにし、10分経ったらまた点ける
この時点でもPPPの緑灯は付きません。

3.パソコンで次の操作を行う

まずブラウザを立ち上げアドレス欄に「192.168.1.1」と入力しましょう。すると、ポップアップ画面が表示されます。クロームではだめでインターネット・エクスプローラー(IE)でないとだめだと書いていますが、実際には逆で、クロームでないと開きません。コピペでなくしっかりと打鍵入力してください。

そこには「ユーザー名」と「パスワード」の入力欄があるのでどちらも入力しましょう。このユーザー名・パスワードは、ユーザー側が任意設定したものになります。

103
これが問題の箇所です。

この説明を読んで「ユーザー名」と「パスワード」を入れられる人がいるでしょうか?
会社がくれた報告書には「お客様番号」とか「認証ID」とか「認証パスワード」とか「ホームグループパスワード」、「無線略号化キー」など、訳のわからない数字や暗号が並んでいます。

この中に、「設定ID記載欄(ルーターPW、無線セキュリティーID等)」という欄があります。
ここに
ルータ ログインID  USER
ルータ ログインPW  USER
と書いてあるのを発見しました。

これが「ユーザー名」と「パスワード」のことだと分かる人がどれほどいるでしょう。
とにかく仕方がないので、皆さん、覚えてください。取説の作成者は国語能力ゼロなのです。

4.接続先設定

ユーザーIDについては、上に書きました。

もう一つ付け加えておかなくてはなりません。
最後の方に「PPPキープアライブに関する設定」というのがあります。
PPPキープアライブに関する設定を行います。

PPPキープアライブ機能 (初期値:使用する)

  PPPキープアライブ機能を使用するかどうかを指定します。

というところですが、「初期値:使用する」をそのままだと、SO-NETのPPPがそのまま残ってしまいます。ここは一旦、更新した上で、再度、「PPPキープアライブ機能を使用する」にチェックを入れなければなりません。

ここまで行くと完成です。



結局、ギリシャ自然哲学の到達点は「非在」ということだ。

非在ということは、2つある。

1.原子論による非在→有関係の乗り越え

一つは諸物の根源は空気だということである。空気というのはなにもないということだから非在であるが、無ではないということだ。

そこにはなにもないようでいて実はある。それが原子だ。

デモクリトスの「原子論」によりギリシャ哲学は非在から有への転換という難問を乗り越えた。

ここから出てくる派生的な見解が、認識の限界と発展だ。

この発展的認識論により相対主義が乗り越えられた。

2.非在・有の相互転移の統一的理解

ヘラクレイトスのすごいのは、アナクシメネスの空気=根源論を解決するために、時間軸の導入によってゼロの概念を生み出し、これにより非在から有が生成されることを説明しようとしたことだ。

実数としてのゼロの概念は、時間軸上においてはごく当然のことだ。すなわち今がゼロであり、未来と過去に向かって正の数直線と負の数直線が伸びていく。

これに対し他のベクトルにはゼロはない。ゼロがあるとしてもそれは相対的なものでしかないし、個別的なものでしかない。

日本橋やオリンポスは、信じる人間にとってのみ中心である。

ところが、今という瞬間をどんどん薄切りにしていくと、だんだん向こうが見えてきて透き通ってくる。

そうして最後は、何もなくなってしまうのではないか、しかしそこには物事が変化していくエネルギーというものが残っているはずだ。それはパンドラの箱の最後に残された“エスペランサ”(希望)だ。

そこでは、非在は希望というエネルギー、すなわち、さまざまな原子のベクトルの集合に転化されているはずだ。

3.非在は証明されなくてはならない

しかしこのような「非在」をめぐるわかりにくい議論は、どこかで終止符が打たれなければならない。

それが物質存在の階層性である。ヘラクレイトスは時間軸の特殊性を強調することで、物質の構造性とリアリティを否定しようとした。

それは頑固な唯物論者の強烈な反撃を呼んだ。そこでデモクリトスが登場し、原子論を提唱することで妥協を図った。モノは消滅しない、しかしそれはアルケーとしての存在の在りようを変える。
原子は単純な妥協ではなかった。

(つづく)

フルトベングラーのまともな録音

信者にはとても嫌みな演題であろうが、やはり気になる。
他になければ我慢して聞くのだが、同じ曲に対していくつも音源があると、その中のどれを聞けばいいのかと、普通の素人は思う。しかし困ったことに、信者はそれが答えられないのだ。
しかも困ったことに、この音源は論外という結論も出せないのだ。
だから、結局私のような素人が入っていて判断するしかない。

一番の問題は第九である。

まず、音源がいくつあるのかを明らかにしなければならない。ついでそれらをリマスターしなければならないのだが、もちろんそれは原理的には無限にあるのだが、一応メインに流布されているエディションを総ざらえしなければならない。

そのためには、まず権威あるあるいは、ありそうな文献によって整理しなければならない。

思い出すと、かつて私はそれをやったことがあるのだ。それが「ウラニア盤のエロイカ」だ。

多分、第九の整理はもっと大変だろうと思う。

まずは「フルトベングラー  第九 録音」と入れてグーグル検索だ。

最初にヒットしたのが、タワーレコードのサイト。
https://tower.jp/article/feature_item/2018/10/17/1114

TAHRA原盤 フルトヴェングラー4つの”第九”が最新リマスタリングで蘇る!

という記事だ。

冒頭の文が以下の通り。

フルトヴェングラーの第9は、亡くなるまでの17年間に13種類の録音があります。

これを聞いただけで早くも戦意消失する。

ただその後救いの手が差し伸べられる。

その中でも特筆すべき演奏はつぎの4種。

それは

1.1942年3月 『ベルリンの第九』
「大戦中の緊迫感に満ちた劇的な爆演」だそうだ。

2.『ストックホルムの第九』
大戦中にストックホルム・フィルに客演した「凄演」だそうだ。

3.『1952年ウィーンの第九』
至高絶美の演奏で彼のベストではないか、と評されている。

4.1954年のルツェルン音楽祭公演
「最晩年の深い思索と境地を感じさせる感動的名演」だそうです。

ということ、まず音源的にはこれに絞っていいのだろうが、史上最も人口に膾炙されている51年のバイロイトがここには入っていないので、これを

5.1951年、バイロイトでのライブ録音
として付け加えておくことにする。

ただし私の個人的思いではあるが、フルトベングラーほど第9にふさわしくない音楽家はいないと思う。
「大戦中の緊迫感」というのは、ドイツがポーランドやユーゴ、ロシアで数十万、数百万の罪なき人々を虐殺するというジェノサイド的状況がもたらした緊迫感なのであって、到底その思いは共有できない。
ヒトラー賛美と民族浄化の進軍ラッパを吹きながら、戦後もいけしゃあしゃあと「芸術」活動を展開し続けた男に賛辞を送る気分にはならない。
藤田嗣治の戦争画を「緊迫感に満ちた劇的な美しさ」とは言えないだろうし、広島の上空に立ち上ったきのこ雲の悪魔的な美しさを、肯定的に眺めることは難しいだろう。


話せばちょっと長いのだが、腕時計の電池が切れて近くの量販店に交換に行ったのだ。
「すぐ出来ますよ」と言われて、要はその間近くで待っていろということだ。
なるほど、量販店のカウンターのそばは、何かと手に取りたくなるようなものが並んでいる。飽きないといえば飽きないのだが、ついいろんなものを買わされてしまうことになる。電池とか懐中電灯とか、USBやスマートホンの小物とかである。老眼鏡や安物時計も目に飛び込んでくる。
なかでも私は、むかしの習性からか、CDやDVDのワゴンがあるとどうしても手にとってみたくなる。

「おっ!」と思わず声を上げてしまったのが、紙製のジャケットに入ったCD。なんと税抜き198円となっている。ワオっと飛びついて、一気に10枚をゲット。これで2200円だ。ひどいものだ。

と、ここまでが前フリ。

そこで買ったものの1枚がカラヤンとウィーンフィルのモーツァルト40番だ。ジャケットには録音が1960年となっている。
何回も再発を繰り返していて私もLP時代に二度買った。最初は中古で、最後は石鹸で洗ったがシャリシャリ・パチパチノイズはとれなかった。二度目はロンドンの名盤シリーズで1000円だったと思う。どちらにしてもシケた話だ。

それで盤の由来を調べてみた。
そうすると、どうも録音は60年ではなく59年らしい。59年の後半にカラヤンとウィーンフィルは半年かけて世界を一周した。日本でもあちこちで演奏したようだ。その出発前にウィーンでLP数枚分の録音を行って、今で言うプロモーションに使ったらしい。その1枚がモーツァルトの40番だ。

ネットで調べると、この盤を60年録音と記載したレコードが結構出回っている。ただしその場合は60年の何月にどこで録音したとかというデータはないので、多分59年録音盤を60年版と称して売っているだけのことだろう。

聴き比べてみると、時々クラリネットが勝手にコブシを入れるのだが、それが同じだ。

ということでこの音源の由来を調べているうちに、ネットで別の音源を発見してしまった。それが本日の主題であるフリッチャイの40番である。この録音は何月かはわからないが、同じ59年で、秋以降なことは間違いない。ムジークフェラインの大ホールでの録音だそうだ。おそらくウィーン交響楽団の秋の定期で振ったついでに録音したのであろう。

白血病になる前のフリッチャイはベルリンが本拠で、RIAS交響楽団を振ってカラヤンのベルリン・フィルと対抗していた人だ。それがわざわざウィーンまで出かけて他流試合の相手と録音を残すというのも変わった話だ。

ただこの録音についてはいろいろな思いがあったのだろうと思う。59年にこの40番を録音して2年後に同じウィーン交響楽団と41番を録音して、その次の年には亡くなっている。

まず考えられる理由は、死ぬ前にウィーンの楽団を振って40番と41番を冥土の旅の置き土産にしたかったのであろう。しかしその直前にカラヤンがウィーンフィルを振った40番が、世界のベストセラーになってしまったことが念頭になかったとは言えないだろう。

とにかく異様なまでの遅いテンポにまずは驚く。「疾走する悲しみ」どころではない。「匍匐前進」だ。

それでも第一主題はまだいいのだが、第二主題に入るともはやエンストでも起こしかねないテンポまで制動される。それというのも、第一主題がこのテンポでなければならないからだ。フリッチャイはそう主張する。そしてその主張は第一楽章の終わる頃には有無を言わせぬ説得力を持って迫ってくる。

ムジークフェラインでの録音にも拘らず音はデッド気味でマイクが近接している。それはポリフォニックな効果を生んでいる。これってセルの音作りじゃない?

そして終楽章のフーガに突っ込んでいくに従い、体中が音で満たされ、溺れていくような錯覚に包まれていくことになるのである。

この演奏を聞き終わってカラヤンをふたたび聞くと、なんとヘルベルト・フォン・チャラヤン(もちろん決してチャラくはないのだが…)

1959年における40番の、この2つのウィーン録音は、1970年のセルの東京文化会館ライブとともに、40番の演奏を語る上で欠かすことの出来ないものだろうと思う。(フルベン信者の皆さん、ごめんなさい)

蛇足だが、41番もすごい。ボディービル・コンテストに出場したモーツァルトという感じだ。ベートーベンの2.5番と言うべきか。
しかし第4楽章はぜひ聞くべきだ。「いいか悪いかじゃない。ジュピターを語るなら、まずこれを聞いてからにしてくれ!」と、フリッチャイが吠えているような気がする。録音は秀逸そのものである。グラモフォンがデッカに対抗してメラメラと燃えていた「リヒテルのチャイコン」時代だ。

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