鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年10月

1.素晴らしさ…自叙伝の一節

バチェラー資料を探しているうちに、次の資料に出会った。
 「HOMAS日本語版ニューズレター」という定期版で、「北海道・マサチューセッツ協会」という団体が発行している。道庁の外郭団体のようだ。その64号に「アイヌ民族保護を訴え続けたジョン・バチェラーの生涯と業績」という文章が寄せられている。

その中で、バチラー自叙伝「我が記憶をたどりて 」 (昭和3年10月発行)の一節が引用されている。

とても良いので、みなさんにも紹介しておきたい。
「世界の文化の進歩は、凡ての人が皆生存権を有して居る様に、あらゆる民族もまた民族としての生存権が明らかに認められて参りました。之は当然なことであります。日本人が米国や其の他で、差別的待遇を受けて居ることを聞く時に、ほんとうに嫌な気が致します。日本は、大いにその非を責め、又世界にむかって人類平等主義を主張せなければならないと思ひます。それをなす前に、同国民であるアイヌ族が持って生れた其の生存権まで奪ひ去られ、山から山へ追ひ込められて、予防し得る病気のため地上から滅び行かんとして居る事に注目され、其の開発向上策に誠意を示さるることを希望致します。 


2.歴史的限界…アイヌ人=「コーカソイド」説

大シーボルトの唱えたアイヌ白人(コーカソイド)説は、現代版「高貴な野蛮人」説である。
欧州各国はアイヌ人を原ヨーロッパ人の共通の子孫と考え、調査団や研究者を派遣した。
彼らはアイヌ人が日本人によって不当な仕打ちを受けていると思った。

これはバチェラーのみの見解ではなく、アイヌ人の中に分け入った当時の白人に共通する感情であった。

これは密やかな白人優位観の発露であったと言えるだろう。

3.伝道実践と思想・信仰の自由

もう一つ、これはマンローとの論争を通じて明らかになったことだが、アイヌ人の保護も然ることながら、根本的にはキリスト教の伝道であり、思想・文化の押しつけと紙一重の行動であったことである。

この辺は非常に難しくて、民主主義の思想がキリスト教の教えと深いところで結びついているために、剥離が困難なところがある。

例えば、戦後の食糧危機を救ったのは米国のキリスト教団体の力が大きかったし、平成天皇の教師を勤めた女性は戦闘的平和主義者のクエーカー教徒であった。

ただ原理的にはアイヌ人の思想・信仰の自由と觝触する可能性はあったということである。



堀辰雄の作品「美しい村」に出てくるレエノルズ先生は、明らかにマンローのことだ。
以下、関係部分を引用する。
私はいつもパイプを口から離したことのないレエノルズさんのことを思い出した。そして今の人影はその老医師にちがいないと思った。
…それはあの四十年近くもこの村に住んでいるレエノルズ博士が村中の者からずっと憎まれ通しであると言うことだった。ある年の冬、その老医師の自宅が留守中に火事を起したことや、しかし村の者は誰だれ一人それを消し止めようとはしなかったことや、そのために老医師が二十数年もかかって研究して書いていた論文がすっかり灰燼に帰したことなどを話した、
爺やの話の様子では、どうも村の者が放火したらしくも見える。
――それ以来、老医師はその妻子だけをスイスに帰してしまい、そうして今だにどういう気なのか頑固に一人きりで看護婦を相手に暮しているのだった。(美しい村)
堀は、1930年(昭和5年)10月に喀血し入院している。その後軽井沢の知人のもとで療養生活を送っている。おそらくそのときにマンローの存在を知ったのであろう。交際した形跡はない。
そして「美しい村」を執筆・発表したのは1933年のことだから、すでにマンローが北海道に転居したあとだ。

堀辰雄の心の「黒い奥底」

“憎まれ通し”というのは創作であろう。その証拠としてあげた火事騒動は二風谷での話だ。
だから堀が、ある意味でっち上げまでしてマンローの悪口を言いふらすのは解せない。
70歳近くなって、北海道の山の中のアイヌ部落へ定着して、現地の人達のために尽くそうというのは、決して“頑固に一人きりで看護婦を相手に暮す”ことではない。少なくとも後ろ指を指すような行いではない。

堀がマンローの悪口を書いた40年ほど前、バチェラーは函館の学生の驚くべき言動を次のように書き留めている。
哀れな者を軽蔑する事は人道に外れた事です。学生達はまるで気狂い程傲慢になって信じ難い事、驚くべき事を申した。実に其点 に於て心の悪い青年だと残念に思いました。
『アイヌ民族は本当の人間では無い。人と犬との混血児だ。人間の子孫で無いから犬程、熊程毛がはえているのだ。言葉はあっても極く僅かで悪い言葉ばかりだ。食べる物は皆何にも料理しない。生のまま食べる。又其外の事も余り野蛮ですから、その中へ行く事は甚だ危険な事 だ』と、斯う学生達は言うのでした。
学生というのは当時の知的エリートであり、もっとも革新的な層を形成していたであろうと思われるが、それにしてこの態度だ。平均的日本人のアイヌ観がいか程であったかが想像される。

堀辰雄の女性観

なにかマンローの女性関係が気になっているようだが、「詩人」らしからぬゲスの勘ぐりだ。「看護婦を相手に」というのも、何か見下した物言いだ。
しかも書いた時点で本人たちは健在なのであるから、失礼千万な話ではある。

私の見るところ、マンローはペール・ギュントのようだ。万年青年で、幾分自己中で放浪癖がある。金には無頓着だ。親兄弟にも無関心だ。女性遍歴は、港々で恋をする懲りない性格の証だ。少々羨ましくもある。

これだけモテるというのは、少なくとも表面的には“良い人”だからだろう。二風谷の住民に最後まで敬愛され続けたのも間違いなさそうだ。臨床医としては理想的な性格かも知れない。
このような人物を「倫理的」に否定しようとする堀の心根には、日本のエリートの浅ましさ、おぞましさを感じてしまう。

主として
ONLINEジャーニー「アイヌと共に生きた男」
を参照しました。
この文章は『わがマンロー伝―ある英人医師・アイヌ研究家の生涯』桑原 千代子著・新宿書房刊
を底本としているようですが、実物は未見です。

2017年04月25日 ジョン・バチェラー (John Batchelor)年譜も参照してください。

1863年6月16日 スコットランドのダンディー(Dundee)に生まれる。名門出身で外科医の長男。

1879年 エジンバラ大学医学部に入学。考古学の魅力に取り憑かれる。

1882年 ダーウィンが死去。彼はエディンバラ大で医学を学ぶが、血を見るのが苦手で退学し、ビーグル号に乗った。

1888年 25歳で大学を卒業。スコットランドを離れる。インド航路の船医となる。

1890年 マンロー、灼熱のインドを離れ、香港と横浜を結ぶ定期船アンコナ号の船医になる。

1891年(明治24)

5月12日 病気療養のため29 歳で渡日。そのまま外国人専用の横浜ゼネラルホスピタルに入院。

8月 デュボワがインドネシアで原始人類の骨を発掘。「ジャワ原人(ピテカントロプス・エレクトゥス)」と名付けられる。

1892 年(明治25) 入院先の横浜ゼネラルホスピタルで病院長となる。その後軽井沢サナトリウムなどで働く。この間東大のベルツらと発掘仲間として親交を結んだと言う。

1895年(明治28) 横浜の貿易商「レッツ商会」の令嬢アデレー・マリー・ジョセフィンと最初の結婚。令嬢は、発掘に熱中し研究に湯水のごとくお金を使うマンローとは肌が合わなかった。

1898年 バチェラーの案内で北海道に旅する。このとき春採コタンでの熊祭りを映像に収める。
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マンローと長老イソンノアシ

1899年(明治32) 北海道旧土人保護法が制定される。実際には旧土人収奪法であった。

1900年頃 亜細亜協会主催のマンロー講演会。出席した高畠とくは,マンローの日本史についての誤りを指摘する。トクは柳川藩江戸詰家老の次女。明治維新で零落し、横浜で女中奉公をしながら学識や英語力を身につけた。

1905年(明治38年) 夏、早川・酒匂川流域の段丘礫層を掘削。旧石器とみられるものを発見。

1905年(明治38) 横浜市の三ツ沢貝塚を発見し発掘調査。人骨を発掘(こども1体,大人4体)する。当時最新式と言われたトレンチ(塹壕)方式を採用。膨大な費用を私費で賄う。
 
1905 年(明治 38 年)

2月 日本に帰化。 日本名「満郎」と名乗る。当時、外国人同士が日本で離婚手続きを取るのは難しかった。

3月 日本人満郎として、アデレーと協議離婚。

5月 マンローが高畠とくと結婚。
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  高畠トクと娘 離婚直後のもの

1908年(明治41) 

マンロー、考古学研究の成果をまとめ、『先史時代の日本』(Prehistoric Japan)を出版。権威付けのためにPh.dの肩書きが必要と痛感する。マンローは20年ぶりに帰国し、エディンバラ大で口頭試験を受け博士号を取得する。

1909年 マンロー、「ブロンドのフランス人女性」を連れて帰国。トクを離縁。まもなくフランス人女性は帰国。この人を入れるとパートナーは5人。

1913年 ベルツがドイツで死去。マンローに考古学研究費として3千円を遺贈する。

1914年 在日スイス人富豪ファヴルブランの娘アデルと3度目の結婚。財産が目当てだったともいわれる。

1914年 北海道で冷害→飢饉。マンローはアイヌの置かれている境遇に心を痛め、研究の合間に無料で彼らの診察を始める。研究の比重は、考古学から生きた人間をあつかう人類学へと移る。

1920年頃 木村千代と知り合う。千代は日赤看護婦養成所を首席で卒業した秀才。神戸の病院で婦長として働いたあとマンローのアルバイト先だった軽井沢の病院に赴任。

1923年(大正12)9月 関東大震災。マンローは軽井沢に居を移す。

1924年 軽井沢サナトリウム病院長に就任。婦長の木村チヨと恋愛関係におちいる。

1924年 妻アデルの実家が破産。これがもとで離婚に至る。アデルは神経衰弱となり、ウィーン大学のフロイドのもとに治療に赴く。

1924年 木村チヨと事実婚。(61歳)チヨはマンローを長年無給で支えた。

1924年の出来事に関する記述は、前後関係が錯綜しており、感情も混じえたものとなっています。
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     マンローと千代

1929年(昭和4) 社会人類学者で、ロンドン大学教授のセリーグマンが軽井沢を訪問。マンローのアイヌ研究を高く評価。

1930年 11月 マンロー、木村チヨと共に二風谷に滞在。4ヶ月の間にイオマンテ(熊祭り)などの記録映像を残す。この映像に対しバチェラーは、「残酷野蛮な行事を公開するのは心ないやり方」と批判。マンローは「一方的なキリスト教のおしつけをせず、アイヌ民族の心を理解すべきだ」と反論。

Youtubeで実物を見ることができます。貴重な映像で残酷とは言えません。膨大な制作費が投じられていることは、画面からも伺えます。 Iyomande: The Ainu Bear Festival
熊送り

1932 年(昭7) 

9月 二風谷永住を決意。チヨと共に二風谷に移る。このときマンロー69歳であった。研究の傍ら、衛生思想の普及に努め、無料診察を続ける。

12月 二風谷の仮住まいが火事に遭い多くの物を失う。「Kimura さんが持ち出した小型のシネカメラ以外に、なにももってくることができませんでした」

1934年 マンロー邸内に撮影用のチセが建てられる。

1935年 道庁職員の谷万吉が二風谷のマンロー館を訪ねる。以後、死亡までの困難な数年間を親身に支える。

1937年(昭和12) アデールと協議離婚成立。同年木村チヨと正式に結婚。アデルは3000坪の敷地と豪邸を売り払い、マンローの負債も精算したという。

1941年 第二次大戦が勃発。日本国籍を取得していたが、敵性外国人とみなされ事実上の自宅幽閉を余儀なくされる。 

1942年(昭和17年)4月12日 腎臓ガンのため79 歳で死去。遺体は遺言に従い火葬され、二風谷のトイピラの丘に埋葬される。千代に「アイヌの皆のように葬ってくれるね。土饅頭に名前はいらないよ」と言い残したという。
全コタンの人々も長い葬列に続いた。住民の一人、貝沢正は「外国人がこれだけしょっちゅう来ている中で、特に我々と関係があるのはマンロー先生です」と語っている。

軽井沢には妻のチヨの手で分骨の墓碑が建立される。「医学者兼考古学者 満郎先生墓」と記される。
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             晩年のマンロー

1946年 アイヌ研究の遺稿はロンドン大学へ送られ、『AINU Past and Present』として発表される。

1974年 長年にわたり博士を助けた千代夫人が死去。夫婦で二風谷共同墓地に葬られる。

二風谷の展示がすごい

天気があまりに良いので、今年最後と思い遠出した。

高速から日高に入りそこから二風谷に向かった。紅葉が盛りでというか少し見頃を過ぎていて、落葉を敷き詰めた中に楓の紅が強烈な輝きを示していた。

二風谷は以前から気になっていたところで、瀬川拓郎さんは「アイヌ文化の発祥地」とまで言っている。ユーカラの多くもこの地に伝えられたものだ。

明治以降に訪れた外国人の数も異常に多い。いわば研究者のメッカとなっている。

博物館が3つあって、その中で歴史館というのを選んで入場した。理由はただだからである。
そこしか入っていないので他との比較はできないが、良い施設であった。鵡川から幌尻岳までを納めた、5メートルを超える大パノラマは圧巻である。屋上からの眺めも素晴らしいものだった。

二風谷にはかなり金が入っているようだ。ダムとの関係で建設省から入ったか、故萱野議員の政治力で中央からつぎ込んだか、とにかく町立の博物館とは思えない展示だ。

展示は2つの柱からなっている。これには他の展示施設と比べ際立った特色がある。

一つはアイヌの保存していた、あるいは遺跡から掘り出された遺品の数々だ。

立派な大刀や鉄製品、美しい装飾品、それらは日本人の有力者の持ち物に遜色ない。どうも既存のアイヌ観を一旦捨てなければならないようだ。それらの遺品の多くは17世紀後半の樽前山噴火の前のようだ。

しかもその頃は、広範に畑作が行われていた痕跡がある。狩猟・採集生活と言うより農業が生活の基本だったのではないか。ただし本州に輸出するための鳥獣の捕獲は一種の産業として営まれていた可能性がある。それは現金化され、和人の制作した商品と交換された。

この経済的余裕がアイヌ文化の成長をもたらしたのであろう。

もう一つは明治期に二風谷を訪れた外国人の多さである。




以下の4連作になっています
「foobar2000でソニーワイヤレスを鳴らす」ことに成功した。と言っても何かを成し遂げたわけではない。
人さまのサイトで教えてもらっただけなのだ。

koulogさんのブログで、奇跡に出会ったのだ!
2015年3月 1日 (日)
という記事。

記事の中ほどで、主題とは関係なく、「ついでにこういうこともできます」みたいな説明があって
こうする事でWireless Lan経由でハイレゾで信号を送る事が可能になります。
という図があって、それがこれ
capture
この絵のとおりにやったら、まったく音飛びなし。koulogさんが神様に思えてくる。見ずらいと思うのでよく見たければご本人のサイトに行ってほしい。

しかしそれにしても、「なぜ?」なのかさっぱりわからない。狐につままれた気持ちである。

以下の4連作になっています
これで大体わかった。つぎはアプリを使ってスピーカーにワイファイ接続する方法についてだ。

「ワイファイ接続」というが、実はこれが一番苦労したところだ。
はっきり言っておこう。この機械はスマートホン向けのもので、パソコン使いの連中はそもそも眼中にない。そういう機械だ。
ソニーの取説には「ワイファイ接続」の方法は書いてない。自分で調べるしかない。私はこれで土日の2日間、まるまるつき合わされた。MDの移植に続いて二度目の「魔のソニー」だ。
とにかく、このブログを見る人のために、順番に書いていこう。

1.機械の説明

これは比較的簡単。といっても取説は余分なことは書いても必要なことは書かないから、読み解きには一苦労する。

まずは機械の説明。いくつも名称があるので覚えて置かなければならない。正式名は“SRS-HG10”だ。どういう機械かというと「ワイヤレススピーカー」だ。ただしこれはソニーがそう自称しているだけで世間的に通るかどうか走らない。そしていわば愛称として“h.ear go2” という名前もある。これはこの種類のソニーの製品をくるめたグループ名のようである。

ボタンがたくさんあって、分散している。ボタンは無くてもいいのもあるが、必要な操作には足りない。だから、一つのボタンに複数の機能があったり、組み合わせ操作があったり、長押し操作があったり、相当面倒である。
製品の思想としてはスマートホンの外付けとして設計されている。取説もそのように書かれている。そのように使うつもりの人は、このブログを読む必要はない。パソコン用の据え置きの外付けスピーカー機能をもとめる人は、怒りに身悶えしながら、大事なことを覚えていかなければならない。

2.ブルートゥースその他の接続

まず、背中の左上隅にファンクションボタンがあるので、そこを押して見る。上面左奥のランプが左から順番に点灯する。ネットワーク、ブルートゥース、USB、オーディオ・インと並ぶ。後ろ2つは何も操作はいらない。

ブルートゥースは上面のエキストラ・バスを長押しして「ペアリングです」と言われたら、パソコンのブルートゥース画面を開いて、ペアリングすればよい。再生の操作はすべてパソコン側で行う。

音を試し聞きしたが、一言で言ってお話にならない。2千円くらいの外付けスピーカーと何ら変わりはない。これで2万8千円はサギだ。

3.ワイファイ接続(無線LAN接続

機械の名前が3種類あったように、接続の仕方もいくつかある。我々にはワイファイ接続というのが一番ピンとくるのだが、これは無線接続の規格名であり、一般名では無線LANという。ブルートゥースも無線だが、こちらは無線LANとは言わないらしい。

ブルートゥースはいわば親機と子機の接続であり、無線LANの方は同格の機械同士が契約を結んで接続するという関係にある。この契約のプロトコールがワイファイということになる。

テクニシャンはこういう概念論をすっ飛ばしてしゃべるから、言語明瞭・意味不明ということになる。

それで、ワイファイ接続については取説に書かれていない。「別冊に書かれている」となっているが、そんなものは入っていない。どこかネットにあるのだろうが、何処にあるのかも書かれていない。まったくもって不親切な取説だ。

仕方がないのでグーグルで“srs-hg10 wifi接続”と入れて検索した。

ソニーのヘルプガイドで、
というページがヒットした。

ここには3つの方法が書いてある。それぞれについて数行づつ説明が書かれている。

①専用アプリ “Sony | Music Center” を使う
②無線LANルーターのWPSボタンを使う
③パソコンを使う。

私たちのほしいのはこんなものではなく、標準的な方法を唯一つだけ、その代わりもっと丁寧に書き込んでほしいのだ。

この“ヘルプ”が、私を無限地獄に引き込んだ。

正解は結局②のみだった。①は正解の半分しか含まれていナい。③はほとんど不可能だ。

この③に挑んで、まる2日を費やした。「ルーターのWPSボタン」がどうしても見つからなかった。挙句の果てに無線LANルーターの取扱説明書を読んで、やっと分かった。

ルーターの取説

我が家の無線LANルーターには「WPSボタン」がちゃんと着いていたのだ。しかしあまり字が小さいので見逃していたのだ。

1.2つの「WPSボタン」

これに基づいて接続法を説明する。
接続は二段階に分かれる。
まず最初はワイファイスピーカーとルーターを接続する作業だ。まずスピーカーのWPSボタンを押す。
スピーカーのランプがチカチカし始めたらLANルーターのWPSボタンを押す。すると2つの機械がドッキングしてそのランプが付く。
第2段階はパソコンにその接続を認識させることだ。正確に言うとすでに認識はしているのだが、その接続をアクティベートすることだ。

具体的には設定→ネットワークとインターネット→Wi-FiにSRS-HG10のネットワークがあるのでそれを接続する。

これは一度接続すればそれは永続的なものとなるので、「利用可能なネットワーク」には姿を表さない。「既知のネットワーク」には登録されている。


2.ドライバー付きの再生ソフトを接続する

これだけではまだ動かない。最後に音楽再生ソフトをこの接続と関連付けなければならない。

このとき登場するのが、ソニーの音楽再生ソフト「ミュージックセンター」である。

このソフト、スパホ用のアプリを無理やりパソコンに移植したものらしい。不格好でセンスは最悪だ。
しかし当面ワイファイスピーカーにファイルを転送できる唯一のソフトだ。
musicCentor

この写真が立ち上げ時のもの。右肩にある雪だるまのマークを押す。
吹き出しの中から“hear go2”を選択する。これですべての手続の終了だ。

流石にBluetoothとはレベルが違う。ラジカセレベルの音はする。などというとソニーに叱られるか。
もちろん書斎でDAC→プリメイン→Daliにつないだ音と比べては可哀相だ。なにせ値段は10分の1だ。

ワルキューレの葬送音楽を聴いたが、強奏でも音が潰れない。中音源まで分離されて聞こえる。クラシック聞くのなら、ExtraBassは入れないほうが良いだろう。その分音量を上げるのが良い。

とりあえずこれで音は出た。次はFoobarでどうやって音を出そうかという算段に入る。




以下の4連作になっています
foobar2000でワイアレススピーカーを鳴らす

「SRS-HG10」を買ってきて、Wifi環境で鳴らそうと思ったのだが、専用のアプリを使えとしか書いてない。しかもこのアプリ、例によって使い勝手の悪いことおびただしい。取説も取り付く島もない。

そこでいっそfoobar2000で鳴らそうと考えた。多分これでまた3,4日は無駄に過ごすことになるだろうが…

ハウツーIT というサイトに
という文章があった。
これに従って開始することにする。

やることの基本

① foobar2000にUPnP/DLNAのコンポーネントを追加する
② foobar2000を起動させているPCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする。
③ 家庭内のLAN設定やファイアウォール環境によっては多少設定する必要がある。

ということなので、② は多分、①が成功すれば自動的にそうなると思うので、 ③ が面倒になりそうな気がする。

方法

オフィシャルのコンポーネントページを開く。
http://www.foobar2000.org/components

UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Point 0.99.49

というのをダウンロードする。
A、B、C 順なので一番下の方だ。
上にUPnP MediaRenderer Output 1.3.2というのがあるので、間違えないようにする。

ダウンロード先(私の場合はデスクトップ)に“foo_upnp”というDLLが開かれるが、これは直接使うということではないようだ。

Components にApplyする。
するとそこに、UPnP/DLNA Renderer, Server, Control Pointが組み込まれる。

しかし案の定、これだけでは動かない。

最初の書き方がなんとなく気になっていたが、再生できるようにするのではなく、「PCをサーバー、レンダラーとして使えるようにする」だけのソフトのようだ。

というページには、その続きが書いてある。

続けて、UPnP MediaRenderer Output コンポーネントを追加します。

これを先ほどと同じ要領でダウンロード→アプライ→インストールします。

コンポーネンツ一覧表に “UPnP MediaRenderer Output” が載っていれば完成です。

すると、デジタルメディアレンダラ―(DMR)を出力先に指定できるようになります。
つまり、DLNA対応オーディオを指定できるようになります。

いよいよここからが最後のコースです。

Fileメニューから Preferences - Playback - Output とたどります。
Device の個所に、デジタルメディアレンダラ―(DMR)であるDLNA対応オーディオがリストされているはずです。

私のパソコンでは
UPnP : foobar2000 Renderer(鈴木頌)[DESKYOP-8kjip59]
と出ました。

これに出力先を変更して再生しようとしましたが、再生できません。”Playback stopped” になってしまいます。

つまりこの文章で一歩先には進んだが、まだゴールにはたどり着けない。そしてこの手の話は1か0かなのです。99%は0に等しいのです。

もう少し頑張りましょう。

ネットの日本語文献では、とりあえず、これ以上めぼしいものはありません。

しかたないので、くやしいけれど、ソニーの取説にもう一度チャレンジします。


もう一度foobarをワイファイ・プレーヤにする手順

ソニーのMusicCenterというソフトで、音を機械にワイファイ送信できるようになった。これまでの仮定で、だいぶ話のすじが見えてきたのだが、まだ最終課題であるfoobarをワイファイの発信元にする手段はできていない。多分、かなりいい線まで行っているのだが、最後のツメができていない感じだ。

もう一度文献を読み直すことにする。今度は余分なことには関わらずにプロシーデュアのみ追求していくことにする。


「ネットワークオーディオ化」というのはわかりにくい言葉だ。オーディオの「ネットワーク化」ということだろう。

著者は「ネットワーク化」には2つの意味があると言う。

一箇所に保管した音楽を別の他の機器からも再生できる(サーバー、クライアント機能)
オーディオ機器を他の機器(例えばスマホ)から操作できる(レンダラー機能)

そしてこれらのネットワークを家庭内で構築することを「家庭内LAN」という。

と、ここまでが前説。

で、foobar2000にUPnP/DLNAコンポーネントを追加することから話が始まるのだが、ここからの手技はすでに勉強した所。

今読み直すと、意外に大したことは書いてないことに気づく。

次がこれも読み直しにいなるが、
これは先程より少し親切で、

UPnP/DLNAコンポーネントのほかにUPnP MediaRenderer Output コンポーネントも入れないと再生はできないということになっている。

逆に言うとこちらがあればUPnP/DLNAコンポーネントはなくても良いということになるのかも知れない。まぁ一応は入れておくが…

「これで、DLNA対応オーディオで聴くことが出来ます」とあるが追加されたデバイスのどれをとってもSRS-HG10では再生されない。

正確に言うとUPnP:hear go2では16秒かだけ再生され、その後Hold状態となる。
このときバッファー値を変えて「適用」ボタンを押すとまた数秒くらい動くがまた中断する(終了ではない)

どうもこれは「ひどい音飛び」に属する現象のようだ。

で、修正を図る。

で、アドバンス設定を色々いじった結論。これはfoobarをいじれば済む話ではなさそうだ。

それで済むのは2014年ころの話。今は無線LANの通信速度がかなり決定的なようだ。

たしかにソニーのMusicCenterという再生ソフトを使っても、2,3分に一度の割で音飛びが発生している。

ソニーよりfoobarのほうが格段に音が良いから、その分無線LANルーターに負荷がかかっているのかも知れない。





ワイファイとブルートゥースがどう違うのか知らなかった。
この度ソニーのワイファイスピーカー「SRS-HG10」を衝動買いして、それが違うということが初めてわかった。

そこで勉強の成果を以下にまとめておく。

USSEN GATE 02 というサイトの
という記事

まずはリード部分から、
スマートフォンの普及に伴い、Wi-Fiと同じくらい認知度の高まりを見せたのがbluetoothです。
そうなんだ。最初はワイファイで、あとからブルートゥースなんだ。

「その詳しい仕組みや両者の違いなど、知らない人も多い」
まさにその通り。

1.Wi-Fiとbluetoothの基本

Wi-Fiの名は、Wi-Fi Allianceという団体が認証した製品のみが名乗ることができます。
大まかにわけて6種類あり、周波数帯と暗号化方式で分かれています。

bluetoothの名は、エリクソン社の技術として始まりました。今では、無線マウスや無線キーボード、スマートフォンなどに利用されており、身近な存在となっています。

両者は対応機器同士を無線で通信する点では共通していますが、通信規格や使用環境には大きな違いがあります。

2.通信規格上の違い

通信速度: 圧倒的にWi-Fiのほうが速いです。bluetoothの通信速度は最大でも24Mbpsですが、Wi-Fi規格は速いものでは6.9Gbpsに達します。60Gbpsの規格も開発されています。

通信距離: bluetoothは届いてもわずか数十メートルですが、Wi-Fiは数百メートル先まで届きます。
ただしWi-Fiは速いものほど直進性が強くなり、障害物の影響を受けやすくなります。

3.利便性の違い

利便性については一概に決めることはできません。

Wi-Fiはワイヤレス・ネットワークを構築するのに用いられます。デバイスは、射程範囲内ならどこでも持ち運ぶことができます。

これに対してbluetoothは、1つの機器を近くの対応機器につなげるものです。
bluetoothは1対1の連携となります。利用したいデバイス同士を「ペアリング」操作で接続します。

消費電力が少ないのは、bluetoothのメリットです。長時間使用する場合に向いています。
Wi-Fiは消費電力が激しく、バッテリーがすぐに消耗してしまいます。

4.ブルートゥースの使い方

スマホはワイヤレスイヤホン、パソコンはワイヤレスキーボードとマウスで使うことが多いようです。

ということで、ブルートゥースの方はあらかた分かった。

で、問題は、音楽を無線で飛ばして良い音で聞く場合、どちらが良いかということだ。まぁ、ここまでで答えはほとんど分かったようなものだが…

そこでDENONの
というページから。

1.Wi-Fiスピーカーの仕組み

ワイヤレススピーカーは大きく分けてWi-FiスピーカーとBluetoothスピーカーの2つのグループがあります。

それぞれ仕組みが違うため、メリットとデメリットがあります。

Wi-Fiは当然Wi-Fiネットワークが利用できる環境でしか使えませんが、Bluetoothは直接無線で接続するためルーターを必要としません。

2.音質はどうか

Wi-FiスピーカーはLAN回線を使用するため、伝送できるデータ量が大きく、高音質な再生が実現できます。

WAVやFLAC、DSDなど高音質なハイレゾ音源の再生に対応しているのは、こちらのタイプです。

Bluetoothは伝送できるデータ量が少なく圧縮されるため、Wi-Fiと比べると音質は劣ります。

3.ネットワークとの関係
Wi-Fiスピーカーのメリットとしては、複数のスピーカーに接続できること、音楽ストリーミングサービスを使えることなどが挙げられます。
ということなので、「SRS-HG10」を買ってブルートゥースで聞くなど愚の骨頂ということになる。













その3

FRB、マネー制御難しく
短期債を月600億ドル購入、長期債は温存
金利安定を急ぐ

ワシントン駐在の川浪記者の署名記事

リード部分

短期金融市場の資金が逼迫している。短期金融資金の不足は短期金利の乱高下を招いている。
FRBは短期国債を月600億ドルづつ買い入れると発表した。

量的緩和の後始末としての量的縮小が、今回の短期資金不足の原因となっている。

FRBはバランスシートを再び拡大することになり、金融政策の「正常化」は一段と遠のいた。

一連の経過は、量的縮小が予想以上に困難であることを示している。

11日のFRB発表の概要

① 短期債の購入を開始する。
② 「これは現在の金融政策を変更するものではない」

量的縮小と短期金利の経過

リーマンショック以降10年でFRBの金融資産は4.5兆ドルに達した。

17年から量的縮小に転じ、これまでの2年間で3.9兆ドルにまで減少した。ただしショック前の資産量は1兆ドル足らずだった。

しかしその量的縮小の影響が短期資金市場にシワ寄せされた。市場から余剰資金が吸い上げられ、民間銀行がFRBに預ける準備預金は3分の2にまで減少した。これが短期金利の乱高下する理由となっている。

政策金利は2%弱なのに、銀行間金利は1時10%まで急上昇した。FRBは引き締めすぎたとの声が上がっている。

7月以降2度にわたる利下げが続いている。今月末に追加利下げが行われたとしても、もはや利下げ効果は期待薄である。
とすれば量的緩和に再び頼らざるを得なくなる可能性が出てくる。

量的緩和の今後

たしかに通貨量は不足している。グローバルには新興国の経済発展がドル需要を高めている。国内的には、財政の拡大と赤字幅増大が民間マネーの吸い上げを引き起こしている。

量的緩和はたんなる金融政策ではなく、経済の拡大に伴う必然的な経過という側面もある。

記事の最後は次の言葉で結ばれている。
量的緩和後のマネーの流れは、いまだに金融当局すら予期できずにいる。
その先にナイアガラが待っているのかどうかは誰にもわからない。


リーマンショック以来の連銀の金融政策は基本的には量的緩和であった。というより金利はすでにゼロ金利まで済ませており、それ以上やるとすれば量的緩和しかなかった。
だから、景気が回復したとき連銀が真っ先にやりたかったのは量的縮小であり、その後に適正金利への復帰という路線であったろうと思う。
私としては以前から気になっていたのだが、量的引き締めのテンポが早すぎたのではないか。
金利の上げ下げは見せやすい。トランプももっぱらそちらに目が向いている。
しかしこの10年間、もっとも有効な金融施策は量的緩和だったのであり、通貨量の調整こそもっとも慎重に行うべきではなかったのかという思いがある。

ということで、この記事には非常に興味があった。

拾った日経新聞日曜版 その2

2.ホルムズ緊張 LNGも影響 海峡通過は14%だが、原油連動がアダに

サウジの原油施設が攻撃され、11日にはイランのタンカーが紅海で攻撃された。

こうした中でLNGの価格も上がっている。16年の底値がトンあたり3万円余だったのが最近では5万円を超える価格にまで達している。

LNGは震災後の原発停止時の救世主となった。あのときはLNGを入手するために四苦八苦した。高いスポット買いを余儀なくされ、しかもパイプラインが不備なためにとんでもない輸送コストを強いられた。これが貿易赤字の大きな理由になった。

現在では日本の発電力の4割をになっている。さらに都市ガスのすべても担っている。

LNG価格は、購入3ヶ月前の原油価格をもとに決められることになっている。なにか変なのだが長年の商慣習らしい。

これはかつてLNG産出国が中東の石油産出国と重複していたことから形成されたらしい。しかし現在では日本のLNG調達先は随分と多様化している。

大まかに言うと豪州4割、東南アジア3割、中東2割、これにロシアとアメリカが合わせて1割という構成になっている。大変覚えやすい。

これだと原油にお付き合いする必要はないし、ホルムズ海峡緊張で右往左往する理由もない。

結局の所、日本は供給先(その多くが石油メジャー)からなめられているということなのだろう。

ただ20年の長期契約がまだ残っているので、これが切れた後は順次、原油非連動型になっていくのだろう。それまではとりあえずスポット外の比率を高めることで対応するものと見られる。










拾った日経新聞日曜版

昨日医局のゴミ箱で捨てられた日経新聞日曜版を拾って読んだ。まさに拾い読みだ。誰も読んだ様子はない。

日曜版の良いのは相場面がないことで、全編読み物で、赤旗日曜版並みの情報量である。クォリティははるかに高い。

サラッと書き留めておく。

1.の「チャートは語る」という連載もの 資金吐き出す株式市場/ 自社株買いが増加/ 過去5年間で通算200兆円、調達額を上回る/
の3本見出し

世界の上場企業は株式発行による調達を減らす一方、市場から株式を買い上げる自社株買いを増やしている、18年には150兆円に達した。

株式発行との差額は5年間の累計で200兆円になった。この傾向は20年前から始まっている。

自社株買いについては3面に解説記事がある。

企業が自社株を買い取ると、この株は議決権がなく配当も支払われない。場合によっては償却されることもある。
これによって企業は配当金を節約でき、何よりも安全性を買うことができるようになる。投資家にとっても一株あたりの利益が改善し、それが配当増となって跳ね返ることになる。
株が金庫に塩漬になれば、それは株式交換などで「現金」化され、M&Aやマネーゲームのチップとなっていく。これはかなり犯罪に近い運用だ。

自社株買いという事態は株式市場にとって2つの意味を持っている。短期的には大量の買いが市場を支えているという側面、長期的には株式市場が徐々に収縮し意味を失いつつあるという側面だ。

ではこのような傾向がどうして生じたのか。

記事ではいくつかの要因を上げている。

① 企業が投資に慎重になり、余った金を還元しようとしている。株主も価値の希薄化につながる増資を嫌う傾向がある。

② 投資マネーが株式から債券へとシフトしている。株式による資金調達額は、この10年間で2割減少している。スタートアップ企業も未公開のままファンドから資金を調達できるようになった。

③ 産業構造の変化が進み、設備投資など多額の資金需要が減少している。



記事はこう結んでいる。

資本主義を支えてきた株式市場は、その存在意義を問われるようになっている。

ちょっと言い過ぎの気もするが…

本日の赤旗国際面はビッグニュースが目白押し。見出しだけ並べても最近の世界の激動ぶりがよく分かる。

1.エクアドル: 政府が燃料費補助廃止を撤回

2.韓国: 検察特捜部を縮小

3.シリア: シリア政府、クルド勢力と連携
米大統領、トルコに制裁

4.ポーランド: 議会選挙 上院で野党が過半数

5.ハンガリー: 野党共同候補がブタペスト市長選挙で当選

6.チュニジア: 無所属の大統領が勝利

7.イラン: タンカー爆発は国家の関与か

8.アメリカ: IMF予測 世界成長を下方修正

9.中国: 対米輸出が前年比22%減となる

これらのニュースの中で、エクアドルがなぜトップ記事になったのかはよくわからない。どうも最近の赤旗国際面はよくわからない。

これらについては、少し背景をふくめて勉強しなければならない。

幕末期 国学や水戸学の一部や吉田松陰ら、「日本書紀」の記述を牽強付会。日本が朝鮮を支配していたと主張。これを論拠として朝鮮進出を唱える。背景に朝鮮侵略で、欧米からの圧迫の代償を得ようとしたと言われる。

長州藩の桂小五郎(木戸孝允)は征韓論に基づく日朝提携論を唱え、勝海舟に献策。勝は欧米勢力に対抗する日清韓三国の連合を構想した。(木戸は後に反征韓論に転換)

1864年 国王の後見となった大院君は、清を除く他国との通商・交流を禁止する強力な鎖国政策を開始。

1866年

2月 大院君政権が「丙寅教獄」と呼ばれるキリスト教弾圧。フランス人宣教師9人、朝鮮人教徒8000人を殺害。

7月 米国の武装商船ジェネラル・シャーマン号が大同江へ侵入。座礁した際に朝鮮民の攻撃を受け、全員殺害される。

10月 フランス人宣教師殺害に対し報復攻撃。フランス極東艦隊が1ヶ月に渡り江華島を占領、朝鮮軍と戦う。

1867年

1月 八戸事件発生。「八戸順叔」なる香港在住の日本人が、清国広州の新聞に「日本(幕府)は軍備を西洋化し、朝鮮を征討しようとしている」との記事を寄稿。清・朝鮮の疑念を招く。

3月 徳川慶喜がフランス公使ロッシュに、フランス・朝鮮間の調停を依頼する。

7月 老中板倉勝静から対馬藩へ八戸記事を公式に否定するよう命じる。

11月 徳川慶喜、大政を奉還。

1868年

1月(旧暦で慶応3年12月) 王政復古の大号令。錦旗をいただく明治政府が成立。鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと進展。

1月 新政府は対馬藩を介して発足を通告し、国交確立を望む。朝鮮側は国書の受理を拒否。

これまで外交権を代表する徳川将軍と朝鮮国王は彼比対等の礼をとっていたが、国書は清国皇帝の使用する字句である「皇」「勅」などを含んでいた。

4月 江戸開城。

10月 慶応4年から明治元年へと改元。

11月 新政府、対馬藩を通じて国書を送り、王政復古したことを知らせる。この中で新しい印鑑や「左近衛少将」「朝臣」「皇」「勅」などの文言が含まれていたことから、朝鮮政府は受け取りを拒否。

12月 岩倉具視、木戸孝允らが国書受理拒否の事態を受け朝鮮侵略を画策。戊辰戦争に動員された将士を朝鮮侵略に転用するとともに国民の眼を外にそらしたいと考えていた。

1870年(明治3年)

2月 明治政府は特使佐田白茅を釜山に派遣。国交を求めるが拒否される。

4月 佐田白茅は、朝鮮の対応に憤慨し征韓を建白する。「三十大隊を出兵すれば朝鮮を征服できる」とし、参議の木戸孝允が訴えに共鳴。

7月 薩摩藩士の横山安武が、征韓論の非を訴え諫死(切腹)。

12月 岩倉視察団が出発。岩倉・大久保・木戸の三巨頭と伊藤博文らが1年10か月にわたる外遊を行う。「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対し何と言い訳)」と批判される。

1872年(明治5年)

1月(明治5年) 対馬旧藩主を朝鮮に派遣し国交を要請。朝鮮はこれを拒否。

5月 対朝鮮交渉は外務省の専管となり、対馬藩の関係は解消される。

8月 外務大丞花房義質が釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に赴き折衝するが不調に終わる。

1872年 大院君の排外鎖国政策がさらに強化される。これに伴い排日の風も強まる。

1873年(明治6年)

伊達宗城が清に派遣され、日清対等の日清修好条規の締結に成功する。朝鮮は再度の国交交渉呼びかけも拒否。

5月 朝鮮が、釜山の日本人滞在施設「草梁倭館」に日本を侮辱した書を掲示。倭館への食糧供給を拒絶する。

6月 閣議で対朝鮮外交問題を議論。板垣退助は居留民を保護するため兵を派遣するよう主張。西郷隆盛は派兵に反対し、まず大使を派遣し直接交渉するよう主張(遣韓論)。

6月 太政大臣三条実美は、閣議を受け、朝鮮出兵と特使派遣を含む原案を作成。西郷は自身が大使として赴くと主張し即時出兵を抑える。これを板垣・大木・後藤・江藤が賛同。

6月 副使大久保利通、が帰国。そのまま閉居となる。

7月 木戸孝允が帰国。原因不明の脳発作のような持病が出現。そのまま閉居となる。

7月 中国出張から戻った外務卿の副島種臣、遣韓大使の派遣に賛成したが大使にはみずからあたることを要望する。

8月17日 閣議で西郷の遣使を決定。事重大に属するので岩倉大使の帰国を待って熟議することとなる。

8月 三条は明治天皇を巻き込んで決行を抑える。三条の意を受けた伊藤博文がフィクサーとなる。

9月23日 岩倉具視,大久保利通らが欧米視察から急遽帰国。西郷派遣案潰しに奔走し始める。

「10月政変」

10月12日 大久保利通が参議に復帰。副島外務卿も参議兼任となる。大久保は厳しい財政状況の中で戦端を開くのは困難とし、西郷と対決する意志を固める。

10月14日 参議会議。岩倉と大久保は、内政改革・国力充実を急務として出兵・遣使に反対。西郷・板垣・江藤・後藤・副島らと論戦となる。大隈,大木は大久保に同調。
三条は「軍備が整っていない」ことを口実にし、征韓論を受け入れつつ、西郷の派遣を遅らせようと図る。これには岩倉・大久保・木戸が反発し、辞職の構えを見せる。

10月18日 三条は病に倒れる。副島・江藤・後藤・大木喬任の四人で行われた閣議は、岩倉を太政大臣摂行とする。

10月20日 明治天皇が三条邸への見舞いを行った後に岩倉邸に行幸させ、岩倉への太政大臣摂行就任を命じる。大久保利通の差し金によるとされる。

10月22日 西郷・板垣・副島・江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、朝鮮遣使を発令するよう談判。岩倉は自らが太政大臣摂行となった以上、自分の意見を奏上するとし、事実上遣使を拒否。

10月23日 西郷、参議を辞任し東京を離れる。

10月24日 岩倉は樺太問題が急務であるという趣旨を上奏し、大使派遣の中止案が裁可される。西郷の辞表は受理され、参議と近衛都督を解かれる。大久保・木戸らの辞表も却下される。

10月25日 板垣・江藤・後藤・副島らの辞表が受理される。以降岩倉・大久保政権となる。大久保は内務省への全権集中を図る。

10月25日 西郷らの辞職を受け、の薩摩系官僚・軍人の約600人もが明治政府に辞職を申し出る。

1874年(明治7年)

1月 岩倉が赤坂喰違坂で旧土佐藩士暴徒に襲われる。軽傷を負うが命に別状なし。

1月 板垣、江藤、副島、後藤らが愛国公党を結成し、民選議院設立建白書を政府に提出する。

5月 宮古島島民の遭難を発端として、初の海外出兵となる台湾出兵。この後大久保は右旋回。木戸孝允は出兵に抗議し参議を辞任。木戸は当初征韓論者であったが、外遊後は反征韓論に変わった。

1875年(明治8年) 江華島事件。李氏朝鮮に対して軍艦を派遣。

1875年 日朝修好条規(江華条約)を締結する。朝鮮侵略の突破口。

1876年(明治9年)10月 熊本県で神風連の乱、3日後に「秋月党」の乱が発生。




征韓論の動きは現在の安倍政権の行動ときわめて類似している。

最大の類似点は、朝鮮政府側に落度がないということである。
もっぱら日本政府側が難癖をつけ、それを口実に韓国に口出しし、手出ししようとしていることである。

もう一つの類似点は、日本側の行動の理由が下心があってのものだということだ。初期の木戸孝允らがあけすけに語っているように、それは戊辰戦争後の失業武士や兵士の不満の、イデオロギー的はけ口として期待されている。もちろんそれは成立したての新政府の基盤強化に役立つであろう。
そして三つ目の類似点が、真の敵である中国やロシアなどとの衝突に備えた橋頭堡としての朝鮮半島の確保である。
これらを一言で言えば、軍国主義・帝国主義の強化だ。

大久保も木戸も西郷と変わるところはない。その攻撃性においてまったく一致している。それをいかに実現するかという手法の違いだけだ。
平たくいうと「食われないためには食うしかない」ということで、それが19世紀後半の世界政治の論理だったというほかない。ただ、「朝鮮人民にはまことに相済まないことであった」という反省は持たなければならない。これがないと、いくら未来志向と言っても、そもそも話は始まらない。

医療史から見た戦後期の予防接種法と結核予防法の研究
Historical Research of the Preventive Vaccination Law and the Tuberculosis Preventive Law
issued in post 2nd World War Occupied Japan 

研究代表者 渡部幹夫

BCGの有効性(費用対効果)問題は未だに結論がついていない。ついていないがまだ続けられている。論理的、倫理的にはもはや結論を出すべきときと思うが、結核撲滅に命をかけた人々の“亡霊”がそれを妨げているようにも思える。
これは臨床医を長く勤めた研究者による過不足のない論文(の抄録)で、物事を考える上での参考になると思う。


1.研究開始当初の背景

(1)「医療史」という括り

医学の臨床と医療制度の間には大きな哲学の違いがある。しかし、それぞれの領域が独自の哲学で対応してゆける時代ではなくなった。
このことを「医療史」という括りで、社会史として検討することを試みた。

(2)結核予防法と予防接種法

結核予防法と予防接種法は、戦後期被占領下に大きな改正が行われた。それはその後の日本の保健予防行政の中心をなした。
今回はこの二法を医療史研究の中心とする。

2.研究の目的

(1)GHQおよび日本側当局はよくやったのかも知れない

GHQおよび日本側当局は、第二次世界大戦後の劣悪な状況の中で、保健衛生の改善を迅速に行なった。その努力は評価されてよい。 

しかしその施策の中に、現在の保健・医療・福祉の問題と関連する歴史的な事実が多数存在している。
これらについては、戦後期の法体系の成立過程や、国民の受容過程を知ることが必要であると考えられる。

(2)世界で最も強力な予防接種法

日本では被占領下に、世界で最も強力な予防接種法が成立施行された。それは接種事故など多くの問題を起こしてきた。
この予防接種法について、成立過程を明らかにすることが必要である。

(3)結核予防法の改正

戦後占領期には結核予防法が全面改正された。この時期は、結核が国民保健をめぐるビッグイシューを占めた。その故に、当時からその法制度や医療をめぐる議論が活発であった。

なかでも現在もなお議論のあるBCGの接種問題や、法による結核管理について研究目的とした。


3.研究の方法

(1)一次資料

日本の資料として医学医療関係の資料および日本学術会議資料、新聞資料等を参考とした。

GHQ側の一次資料として、国立国会図書館公開のGHQ/SCAP文書を材料とした。

(2)GHQ/SCAP文書

GHQ/SCAP文書としては、① Tuberculosis Control、② BCG Immunization
 Japan の2つを対象とした。

(3)医学的資料
医学的資料は、昭和28年から昭和48年のにわたる結核実態調査報告書(一次から五次)と結核統計総覧(結核予防会編)により研究した。

4.研究成果

(1)BCG論争の総括

昭和26年、新結核予防法が施行され
た。この法律は国民健康保険制度のない時代の国民に非常に歓迎された。

しかし、結核の予防接種としてBCGが法で義務付けられたことから、いわゆる「BCG論争」が医学界、国会、行政、言論界、報道メディアで起こった。

論点は二点に集約できる。
① 結核に対する予防効果が確立していない。法による強制接種は望ましくない。
② 副反応の頻度が高く、無害とは言えない。

社会保障制度審議会と日本学術会議は、この二点から強制接種に反対の立場をとった。
結核予防会及び結核予防審議会は推進の立場をとった。
GHQは接種推進を明確にしたが、厚生大臣は強制接種に躊躇した。日本医師会の態度は不明確である。

この論争は、衆議院厚生委員会のBCG接種推進の決議と厚生大臣の辞任により政治的に終結した。

この論争を通じて問題点も明らかにされた。乾燥ワクチンの不確実性や接種の方法などである。
これについては昭和27年から、BCG接種研究協議会が組織され改善がはかられた。

医学的論争を社会が共有することにより日本の結核医療の体系は「社会的な認知」を得たように思われる。

(2)論争の政治的背景

占領下においても国民の健康についての議論は活発に行なわれた。背景には保健・衛生・福祉予算をめぐる政治的問題があった。
特に厚生行政においてはGHQと日本の学術界を含む状況が反映していた。
結核死亡率推移
その後の五次にわたる結核実態調査では、結核の死亡率の低下は著しい。法律の寄与(ストマイ治療の普及、三者併用の導入など)は明らかである。
患者数は正確な数を掴むことができない。したがってBCGの寄与については確言できない。

(3)旧予防接種法の問題点

予防接種法成立期のGHQ/SCAP文書から、戦後期の日本の防疫上の困難と当時成立した旧予防接種法の問題点が明らかとなった。

昭和23年に成立した予防接種法について、その制度の成立期の問題とその後の問題を研究した。

占領下に成立した予防接種法は、GHQ/PHWにより法制化された。それは極東米軍の軍事的方針によるものであった。
それは日本製ワクチンを広い範囲に、多くの疾患に対して強制接種することを目的とするものであった。

予防接種を嫌がる意識は世界に存在する。また予防接種は科学的に解明されない部分をふくむ医療行為である。

この点で、日本の法制定及びその後の歴史を研究して気づくのは、① 予防接種の慎重接種の考え方の欠落、② 予防医療政策の転換がつねに遅れる傾向である。

1988年 厚生科学研究報告書「世界各国の予防接種対策・特に健康被害救済制度に関する研究」では、この点を強調して下記のごとく著している。
予防接種が法律で義務付けられている国は少なく、日本のような制度を設けている国はほとんどない。

日本では終戦直後に大量の復員兵や帰還者が入国しており、感染症の爆発的な発生が認められた。
チフス
つまり旧予防接種法は、いわばMPが強制的にDDTを頭に振りかけるのと同じ発想だ。牛豚を消毒するのと本質的な違いはない。

しかし、大量帰還は47年末にはほぼ終結しており、感染症は持ち込まれたが拡散せず、そのまま収束に向かっている。すでにこの時点で、これら疾患に対する予防接種の必要は失われている。

(4)著者は結論を慎重に回避しているが…

論文の性格上からか、論文は論争に黒白をつけるのを控えている。しかし文末に以下のような感想を載せている。
英国に滞在して、予防接種やワクチンの安全性に対する社会の対応が、英国では非常に鋭いと感じた。日本との意識の違いは明らかである。

結核の歴史 年表

BC8000 インドやイラン、中東でウシの家畜化が始まる。人型結核菌は牛の結核菌から感染、変異したとされる。

BC7000  イスラエルの人骨(女性と子供の 2 体)から人型結核菌の痕跡が発見された。

BC3000頃 中国・上海の広富林遺跡で出土した女性人骨から、結核発症の痕跡を発見。

BC600  古代エジプトの一ミイラの肺、胸膜、横隔膜、大腿骨から結核菌の細胞壁マーカーが検出された。

AD200頃 鳥取の青谷上寺地遺跡で、弥生時代後期の人の背骨に結核の痕。縄文人に結核菌が見つからないことから、弥生時代に渡来民とともに伝来したと考えられる。

735年 天然痘が筑紫で発生。急速に東方に伝播する。

1510年 梅毒が広東方面から琉球を経て伝来。1~2年で全国に拡大する。

1008年頃 『源氏物語』に、紫の上が胸の病を患い、光源氏が悲しむ記述。

1864年 江戸日本橋の開業医、本間玄洞が内科秘録を発表。1年半で55名の結核患者を診療。その多くは20~40歳で人の集まるところに多発する傾向だとする。

1882年 ロベルト・コッホが結核菌を発見。

1890年 ロベルト・コッホが結核菌の産生するツベルクリン抗原を発見。結核治療目的に開発されたが効果はなかった。

1899年 日本で最初に結核に関する統計調査。人口1万人あたりの死亡者数は15.29人であった。

1907年 ピルケは、結核菌感染者にツベルクリン抗原を経皮投与すると、遅発アレルギーが起こることを発見した。これがツベルクリン・テストのはじめとなる。

1913年 石原修が「女工と結核」を発表。女工の結核死は一般の約3倍と推計した(国家医学会雑誌)

1918年 結核死が史上最高の25.71人となる。諸外国と異なり、常に女が男をはるかに上回つていた。石原は、女工の結核死は一般の約3倍と推計した。

1921年 BCGが初めて人に用いられる。フランス・パスツール研究所のカルメットとゲランが作成したもので、牛型結核菌を13年間、231代継代して得られた弱毒株。BCGはBacille Calmette-Guerinの頭文字をとったもの。

1924年 志賀潔がBCG株の直接分与を受け、持ち帰る。乳幼児期のBCG接種は、結核の発症を52~74%抑えることができるとされる。

1934年 日本での結核患者数は131万5250人、全人口の2%に達する。結核死亡者は13万1525人に達し、うち 15 ~ 34 歳が64%に達する。この後都会では自然免疫の獲得(tuberculinization)により発症率が漸減。

1944年 ワクスマンらがストレプトマイシンを開発。

1947年 死因疾患ランクで1位となる。以後4年間、1位を続ける。

1950年 抗うつ剤として開発されたイソニアジドに抗結核作用があることが発見される。

1951年 日本で結核予防法が制定。BCG接種、結
核検診、化学療法の導入を柱とする。

1952年 ピラジナミドが臨床応用を開始。酸性環境にいる菌に殺菌的に働くが、毒性が強く使用されないままに終わる。

1961年 抗抗酸菌薬エタンブトールが開発されれる。

1961年 半合成抗菌薬リファンピシンが登場。新三者併用の多剤療法で9ヶ月で治療が可能となる。

1992年 WHOが世界結核非常事態宣言を発する。喀痰塗抹検査中心の患者発見,標準化された短期化療を柱とする。

1980年 結核の死因ランキングが10位以下となる。

1986年 米国で6ヶ月の短期化学療法を標準治療として行うように勧告。ピラジナミドの2ヶ月間併用により治療期間を短縮でき、再発を抑えられるとする。

1994年 WHOなどが監視下服薬法(DOT)を推奨。

1996年 日本で10年遅れて4者併用療法を採用。

2003年 BCG接種法が相次いで変更。小中学校でのBCGの中止、乳幼児でのツ半なしでの接種、生後1才までの接種延期など。

2005年 ツベルクリン反応検査が廃止される。

2007年 結核予防法が廃止される。感染症法に統合。

オープンソースの哲学

わたしごとき門外漢には、どこまでがIBMの宣伝でどこまでがエシカルな領域なのかがよくわからないのだが、GAFAのようなプラットフォームが仕切る情報ディストピアの世界に突入していくのか、ネットの本来持っていた開放型世界が広がっていくのかは、非常に気になることなのだ。

米中摩擦もことの経緯はともかくとして、もっと本質的な未来社会論の立場から見て気になる話題だ。

ASCIIxビジネスに掲載されたレッドハット幹部の講演「デジタルリインベンションの “第2章” とは」を読んでみた。(言葉はちんぷんかんぷんである)

ユーザードリブンによるイノベーションが進展するなかで、副産物として生まれたのが、オープンコミュニティーである。レッドハットは、そこに積極的に参加するとともに、オープンソースをエンタープライズ領域でも活用できるようにするための努力をしてきた。

過去10年間において、エンタープライズのイノベーションの中心にあったのは、Linuxである。

Linuxは開発環境のプラットフォームとして最も使われており、パブリッククラウドの54%がLinuxである。Microsoft Azureにおいても、多くのユーザーがLinuxを利用している。Linuxは、エンタープライズにおけるイノベーションエンジンだといえる

だが、オープンソースはエンタープライズの90%の課題を解決できるが、残りの10%の課題は解決できない。このギャップを埋める必要がある。そこに2社が一緒になるメリットがある。

エンタープライズ機能追加の姿勢

IBMは最初にエンタープライズシステムにLinuxを採用したベンダーである。それをきっかけに、約20年間にわたる両社のパートナーシップが発展してきた。

いまやLinux、Container、Kubernetesといった技術からイノベーションが生まれている。クラウド、データセンター、エッジコンピューティング、自動運転などが構築されている。

その結果以下のようなラインアップが形成されてきた。

1.過去7年間かけて、OpenShiftをエンタープライズ分野で活用できるように進化させた。

2.過去5年間で、Linux対応のクラウドレディのポートフォリオを取り揃えた。

3.95%のユーザーがLinux Containerを活用している。企業クラウドの実現において、Kubernetesが不可欠になっている。

4.世界の上位3台のスーパーコンピューターのうち、2台はLinuxで稼働している。上位500位のなかで、最も利用されているOSはLinuxになっている


オープンソースであることが最大の要因

エンタープライズ分野やスーパーコンピューターの分野で、Linuxがこれだけ多くの実績を持っているのは、Linuxがオープンソースであることが最大の要因である。

そしてIBMとの連携の中で、ハイブリッドクラウドを実現するための環境が整って来ているからである。

両社の補完関係は、ハイブリッドクラウド化が進展していくなかで、レッドハット製品や技術を活用することが不可欠となる、という形で進行するだろう。

一方で、生まれるハイブリッドクラウドにおける複雑性をどう解決するかが、ますます深刻な課題となる。そのためにIBMが持つAIを活用する機会がますます増えていくだろう。

さらに、業種ノウハウとしては、IBMの蓄積は圧倒的である。AWSやGoogleよりも蓄積は多く、エンタープライズにおけるLinux活用が加速される土壌が整っている。

「第2章」ではクラウドそのものが進化する

第1章では、AIテクノロジーの部分的導入が進展した。
① ソフトレベルでは、モバイルを活用したエンドユーザーのデジタル化への対応、
② 業務エリアへでは、ITコスト削減やクラウド導入、コールセンターなどが進展した。

これに対し、第2章とはクラウドをエンタープライズで活用する時代である。

そのためには、ハイブリッドクラウドの環境の進展が必要だ。ベンダーロックインのクラウド環境からの脱却、データとアプリケーションの柔軟な活用が不可欠となる。


…ということで、

何やらわからないが、これまでもIBMはLinuxと連携し技術展開を図ってきたが、今回それを一層強化しようということらしい。

その理由をLinuxの側から説明しているのだが、一つはLinuxの持つパブリックなオープン性であり、一つはIBMの持つAIテクノロジーであり、もう一つがIBMの培ってきた業種ノウハウだということらしい。

そして、これらの特質は、クラウドそのものが巨大化し進化する「第2章」において、時代に適応するために不可避となるだろうと見通している。

例えばいま最後のブラックボックスとなっているのがインテルなどのCPUだが、これらのアーキテクチャーもすべてオープン化しないと巨大クラウド環境には適応できないだろう。
私も、スマートフォンを買って初めて知ったのだが、この市場はシステム的には iフォンと、アンドロイドの一騎打ちになっているらしい。
それでアンドロイドはオープンなのだそうだ。それで私はアンドロイドにした。これならファーウェイの開発が米国から妨害されても、負けることはないだろうと考えている。


19.10.02
宮本眞樹子 「見て聞いて感じたベネスエラの今」

ベネスエラに行ってきました!

ハバナからカラカスまで直行便で3時間、お隣、という近さです。
12年ぶりのカラカスは、見たところ変わっていません。朝の通勤ラッシュ、夕方の雑踏、道端の物売り、美人でお洒落で魅力的な女性たち、普通の生活が見えます.
強いて言うなら、警備の人が増えた事でしょうか。

私がベネスエラを訪問していた時、首都カラカスでは、「ノー・モア・トランプ!大集会」と、「女性のための集会」が開かれ、スクレでは「ベネスエラ・キューバ相互連帯集会」が同時に開かれていました、なんとまあ精力的な事でしょう。

スクレ市まで行きました

今回は「連帯集会」に参加するために、カリブ海に面したクマナ県スクレ市に行ってきました。スクレはカラカスから東へ525キロ、海岸沿いのリゾート地でもあります。
島影が浮かび、絵のように美しい海と海産物の美味しいスクレ。ここはボリーバルとっともに南米を解放したアントニオ・ホセ・スクレが生まれた土地で、“栄光の地“と呼ばれています。

街の中心にある「フィデル・カストロ来訪記念彫刻美術館」を訪ね、スクレ像の建つ公園を散歩しました。
ショッピングセンターでお買い物して、ねっとり濃いガトーチョコレート(これが超美味!)にカプチーノのお茶タイム。
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      <買い物に来た女性たちと小さなお店の前で>

夜は海岸通りの公園で、毎週金曜の夜開催されるフィエスタ(お祭り)を楽しみました。
屋台の魚介類を賞味しながら、音楽が高鳴り、若者たちが盛り上がっているのを満喫しました。

”愛の高齢者“プロジェクト

ステージでは、”愛の高齢者“プロジェクトが開催されていました。
美しく着飾った年配女性の、それはそれは優雅で綺麗なダンスが披露されました。終わった後はやんやの喝さいを浴びていました。
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       <”愛の高齢者“プロジェクトの女性たちと>

曲が変わると誘われて、私も一緒に踊りました。日本人が珍しいのか、次々現れる男性を相手に、休む間もなく踊り続けてしまいました。

小腹が空いて、民芸品や手作りお菓子などがずらりと並んだ屋台を冷やかしながら食べ歩きました。
地元の人たちとお喋りしました。気になっていたことを訊いてみました。

「どこに餓死する人が?」

「ここでは食べ物がいっぱいあるけれど、日本のニュースでは食べ物が無くて餓死しそうな人がいるとか、病院に行かれなくて死にそうとか言われているの。本当にそういう人がいるのですか?」

たっぷり太った屋台の女性は笑いながら、「どこに餓死する人がいるのかね?」と聞き返してきました。
そして傍に立っていた二人の男性の太鼓腹を撫でました。このマッチョたちは私を物珍しげに見ていたのです。

周りにいた人たちも、どっと笑いました。そして「どこに餓死する人がいるのかね?」と、互いのお腹をさすりました。訊いた相手がふさわしくなかったかも(^^;)

フィエスタをやらないわけにはいかない

「失礼しました、日本ではそんな風に伝えられているものですから」
私はそう言い訳して謝りました。その女性は言葉を続けました。

「今年の3月、ベネスエラの発電所がテロ攻撃で壊されたの、知ってるでしょ? あの時、3日目が金曜日だった。フィエスタの日よ。
停電だったけど、フィエスタをやらないわけにはいかないもの。それが私たちのお愉しみなんだから。
それでみんなで車を集めて、車のライトで照らして、音楽をかけて、みんなで踊ったのよ」

感動で言葉を失った私、心の中で呟いていました。

「あっぱれ! ベネスエラ人よ!」

カラカスの庶民の生活事情

カラカスに戻ってから、お世話になった人や運転手さんたちにいろいろ質問してみました。
「インフレで物価高になって大変ですね?
 食べるものは調達できるのでしょうか?
 病院や教育費は?
 サラリーは平均どのくらいでしょう?」

答えは次のようなものでした。

「米国の封鎖強化で、インフレは酷い、サラリーが下がってお金は無い。今、サラリーの平均は6万5千ボリーバルだ。年金も少ない。私と同年齢の女性は4ボリーバルでまったく足りない。
 でも、食糧プロジェクトがあるから食べ物はある。政府からの食糧支援は2年前から更に増えた。
 例えば、お米、トウモロコシの粉(主食のパンケーキを作る)、卵、パスタ、油、砂糖、珈琲、ツナの缶詰…いろいろある、
 高齢者や障害者にはミルクなど更に多く支給される(安価で)」

キューバのリブレタ(食糧支援)と同じです。(真紀子さんはハバナ在住)

八百屋さんや小売店に行ってみました。食料品の品数は豊富、キューバは比べ物にならないくらいです。野菜や果物の価格はキューバと同じくらいです。珈琲はキューバの半額です。
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          <カラカスの街の八百屋さん>

* お店には、ベネズエラの側の案内で行ったのではなく、モールの前にあった小さな店にぶらっと寄ったとの宮本さんの説明です(新藤さんの注)

「病院は種類があって無料のもあります、教育費は大学まで無償です。

ガソリンは激安! だから、ヤンキーが狙う

移動中、スタンドでガソリンを入れました。運転手さんが「これで払う」といって、支払いのお札を私に見せました。500ボリバルです。
「え!まさか、それだけ?」 それではトイレチップと同じ金額です。

信じられない私、別の運転手さんに訊いてみました。
「ガソリンはリットル幾らですか?」
「ガソリン1リットルは0.0001米ドル、0.01セントだ」
(お店によって為替レートが若干違いますが、1USドル=20,000~23,000ボリーバル、9月末現在)
「は!そんな激安!?」
「いいかい、40㍑買うとする、100ボリバル払う、60㍑買っても100ボリバル、200㍑買ったとしても100ボリバルだ、要するにいくらでもないのだ、ここではオイルは水よりも安い」

計算が合わないだけでなく頭がついていけません。分かったのは
「だから、ヤンキーが石油を狙うのね」「シー!(その通り)」


宮本眞樹子(キューバ、ハバナより)

ベネズエラ大使らの邦銀口座が勝手に凍結

緊急に拡散することをもとめます。

朝日新聞報道(10月6日)

まずは朝日新聞の報道(平山亜理記者 2019年10月6日18時00分)

SMBC信託銀が駐日ベネズエラ大使らの口座を「凍結」

南米ベネズエラの駐日大使や、大使館員が開設しているSMBC信託銀行の口座が凍結された。

同銀行広尾支店の副支店長は、「トランプ米大統領がベネズエラ政府関係者による米ドル取引を禁じたためである。取引の一部がこの規制に抵触する懸念が生じると判断した」と説明した。

(「ベネズエラへの経済制裁」を理由に挙げているが、米国政府の行動を口実にした勝手なふるまいであることは間違いない : 筆者)

この結果ベネズエラ大使や大使館員は、子どもの学費の支払いやクレジットカードなどの引き落としもできなくなった。

大使が日本の外務省などと交渉し、円の口座は使えるようになったが、米ドル口座は使えないままだ。

朝日新聞の取材に、同行は「米財務省の規制に違反しないかを調べている」と説明。完全な凍結ではないが家賃の支払いなどが窓口で4時間かかった大使館員もいる。

イシカワ大使のメッセージ

2019年10月8日(火) 12:07 

皆さま
お疲れ様です。
今回の銀行の措置については、ご懸念と非難のメッセージをありがとうございます。
措置を知らされてすぐ、外務省に連絡を取り状況を知らせました。
銀行側は国家間の外交関係を定めるウィーン条約に一方的に違反していいます。
またトランプの大統領令は違法で国際法侵害に当たります。このような措置が域外適用されることは間違いです
以上のことを警告しました。
皆さまからの連帯のご支援を得て、これからも銀行側に圧力をかけていくと同時に、制裁の域外適用の危険性を一般に知らせていくつもりです。
イシカワ

なお、新藤さんによると、
トランプ政権の海外口座への凍結措置は、キューバ大使館にも9月にありました。しかしキューバに関しては、友好議員連盟などの協力で解決したようです。

1.ウォーレンに注目すべき理由

これまで我が国の、とくに左翼層の中ではウォーレンはあまり注目を浴びて来なかった。

彼女はエスタブリッシュメントに片足突っ込んでいるし、「社会主義」という過激な言葉も口にしない。

しかし、彼女は1%の富裕層の懐ろにいかに腕を突っ込むかという点では十分に過激だ。

これまでの所、議論の方向としては、サンダースが「民主的社会主義」というスローガンで、正義の社会のイメージ構築に勢力を注いでいる。これに対しウォーレンは、いかに富裕層から金をむしり取るかという議論に集中している。

それはなかなかクロウト受けする議論である。世界の未来を占う上でも、たいへん興味のある、実りのある議論になっている。

おそらくウォール街の銭ゲバたちにとっては、ウォーレンのほうがはるかに気にかかる存在、一番出てきてほしくない候補なのではないだろうか。

サンダースが心筋梗塞で倒れてしまったから、というのでなく、まじめに、21世紀の資本主義にどう立ち向かっていくのかという観点から、ウォーレンの議論を検討して見る必要があるだろう。

2.ウォーレンとは誰か

まずはウィキペディアから。

エリザベス・ウォーレン。今年70歳を迎えた。サンダースほどではないが決して若くはない。

まずこの年齢を我々はしっかり受け止める必要がある。今世界中で、この歳の人間が立ち上がる必要があるということだ。

彼女は1949年、オクラホマで「中流階級の底辺」として生まれた。12歳の頃、父は心筋梗塞で倒れて働けなくなった。彼女は叔母が経営するレストランでウエイトレスとして働いた。

NASAのエンジニアと結婚し専業主婦となったが、娘が2歳になると法学部に進学した。1976年に司法試験に合格し、自宅で弁護士の業務を開始した。

彼女は必ずしも法学者としてのエリートキャリアを上り詰めてトップに来たわけではない。テキサス大学、ペンシルベニア大学、ハーバード・ロー・スクールと積み上げてきた。

おそらくは、かなり論争的で戦闘的なリベラルの代表格として注目される存在であったのだろうと思う。

それが2008年のリーマンショックを機に、政界に踊り出ることになった。

オバマ政権は「不良資産救済プログラム」(TARP)を立ち上げ、その監督のために議会監督委員会メンバーを組織した。ウォーレンは乞われて議長を務めた。

彼女は一気に多忙となり、大統領補佐官、消費者金融保護局の顧問を兼任した。

マイケル・ムーアの映画などに出演し、知名度が上がっていった。

この後のウィキペディアの記載は一方的であり、あまり論理的とはいえない。


3.今必要なのは「勝てる候補」なのか? 「勝つにふさわしい候補」なのか?

いまやバイデンでもウォーレンでも、ひょっとすればサンダースでも勝てるかも知れない情勢になっている。

とすれば大事なのは、「どう勝つのか」ということになる。バイデンで勝っても勝ったことにはならない。ではウォーレンならどうなのか?

フェイスブックのザッカーバーグは「それは最悪だ」という。まずウォーレンはIT大手について、市場を独占し「競争を無力化している」と主張している。

仮にウォーレンが民主党の指名を獲得すれば、ウォール街の大口献金者は共和党のトランプ大統領支援に回るだろう。だがもしウォーレンが勝利すれば、それは自殺行為となるかも知れない。

ここまで主旨を貫けるのであれば、私たちはウォーレンで十分である。はたしてどうだろうか?

4.ウォーレンの政策

そんな状況の中ではじめて日経(10月7日号)がウォーレンの政策を正面から取り上げた。

最初にも取り上げたように、ウォーレンの政策はバラ色の未来を語ることをしない。その代わりに1%の富裕層を徹底して糾弾し、いかにして彼らから金をむしり取り草の根の大衆に振り分けるかに集中している。

その2つの柱がトランプ減税の見直しと富裕層への課税強化策である。

① トランプ減税の見直し

トランプ減税は法人税を35%から21%に引き下げた。これを35%に戻す。
ただしこれをすべての企業に適用するわけではない。法人税再引き上げの対象となるのは、全世界での税引き後利益1億ドル以上の企業のみである。
これは約1200社が対象となるだろう。

② 富裕層減税

最上位層への課税を強化し、10年間で3兆ドル(300兆円)の税収を確保。
これにより改装への社会保障給付を引き上げる。引き上げ幅は25%に達するだろう。

③ いくつかの独占禁止措置

トランプが破棄したグラス・スティーガル法を復活させる。
GAFAを分割し、権力の集中を排除する。
金融機関監視委員会の機能をさらに強化させる。

このように5寸釘を脳天にブスブス打たれてはさすがのGAFAも年貢の納め時というものだ。

Yさんのブラジルだよりを転載します。
YさんはY大学の先生で、ブラジル経済が専門です。
ニカラグア訪問団でご一緒させていただきました。
 ブラジルにきています。PCdoB(ブラジル共産党)の幹部に取材しました
 PT(労働党)とPSOL(ブラジル社会主義自由党)は、時間がなく、取材には至りませんでした。
1 ジルマ・ルセウ(前大統領)の弾劾やそれにいたる2013年頃からの抗議運動には、米国の介入がある。
  ジルマの電話が盗聴されていたのは、報道されたように、周知のことだ。
  ベネズエラやニカラグアへの米国の介入と似ている。
2 米州機構のニカラグア報告は、きわめて批判的で残念だ。
  あれを仕切った委員はブラジル人で、彼はPT派の人だからなおさら非常に残念な状況だ。
  バチェレ(現OAS事務局長・前チリ大統領)のベネズエラ報告も残念だ。とまどっている。
  個人を越えた、組織のなにか力が働いていると考えるほかない。
  (ただバチェレについては「もともと、市民社会との関係が強い人ではないと思う」というようなことを、
  おっしゃったと思いますが、全体に微妙な表現で、完全に理解できませんでした)
3 ただしニカラグアのガバナンスがいいと思わない。
  オルテガの奥さんが副大統領というのは、まあどうかと思うけど。

4 ベネズエラも民主主義の点で問題があるとは思う。しかしそれでも、今は彼らを支持している。
 サンパウロでは長年の友人にききました。彼がいうには、
1 ジャバラトの汚職捜査は、ひどいの一言。PTつぶしの作戦だ。
  汚職そのものは、嘘ではないにしても。
2 ジルマ弾劾も、PTつぶし以外のなにものでもない。弾劾のロジックがおかしい。
  むろんジルマやイグナシオ・ルーラ(元大統領)が完全に白かどうかはわからないが、
  とにかくPTつぶし最初にありきの捜査だ。
3 ボルソナロ(現大統領)は、ブラジルの民主主義的な諸制度をつぶしつつある。
  大学予算カットもひどいし、私の研究すら影響を受けそうな状況だ。
  PT政権は、科学技術の発展を重視していた。ボルソナルは反対の動きだ。
4 ルラのときに国会内で野党票を買収していた。それは事実で、メンサロン事件とよばれた。
  仕切ってたのはディルセゥ議員だが、彼は「good management賞」だ(皮肉)。
  ジャバラトと比較したら少額だった。少額で国会を仕切ってたんだから、
  効率的な金の使い方で“good management”賞だ。ジャバラトの汚職の規模は、それと比べるとでかすぎる。
5 司法がPTつぶしに加担して、おかしくなっている。

 こんな感じです。

2019年9月29日 

萩原伸次郎 「恐慌と信用制度の崩壊」より

重金主義への回帰を阻んだもの

マルクスは金融恐慌を金融危機の本質とみなし、「信用主義から重金主義への転化」と呼んだ。

しかしこれは「3つの要因」により乗り越え可能となった。

1.金本位制からの脱却

第一次大戦後の不況において、英国は長期の不況に陥ったが、金本位制の停止→銀行券の大量発行により負の連鎖を断ち切ることに成功した。

2.大規模財政出動と金融緩和

需要の創出により、実体経済のテコ入れを行い、経済成長とインフレにより財政赤字を解消した。

3.不均等発展と新興国からの富の還流

海外投資が新興国の発展を促し、先進国は金融支配を強めた。その一部が還流し先進国を潤した。
金融恐慌時は資金が一気に流出し、新興国は資金不足に苦しんだ。

リーマンショックと1929年大恐慌の違い

1.アメリカと世界は、銀行を救済するのに全力を上げた。無制限に信用を供与し資金を注ぎ込んだ。

2.その結果、世界大恐慌は起きなかった。

3.並行して行われるべき金融改革は引き伸ばされ縮小され、キャンセルされた。

4.供与された資金は死蔵され、実体経済には還流されなかった。

その結果、経済回復は遅延し、失業は高止まりし、新興国経済・金融・財政は破綻した。貧富の差は一層強まった。ドルの支配力は絶対となった。

30歳代、非正規、短歌      萩原慎一郎さんの歌

この間アイミョンの歌から、以前感心した山田航さんの短歌の話になって、なんとなくその話題が心にわだかまっていたが、これにツイッターという表現形式が絡んでいるのかなと、ふと思いついた。
ツイッターという表現形式は字数的にはおそらく短歌の2、3作分くらいのブレスを持った文学だろうと思う。
そのつぶやきから枝葉をとっていって、息継ぎを入れていくとちょうど短歌になる。
感覚としてはまさにつぶやきであり、問わず語りの、自分に向けての話しかけであり、人知れぬ、人へのひそやかな問いかけでもある。
山田航さんの歌と萩原慎一郎さんの歌はかなり顕著な違いがある。山田さんには冷徹に自らを突き放した仮名性の目がある。萩原さんは敢えて自分から離れず、自分を隠さず、即自の視点を保持しようとしている。

だから優しさがあって読者が癒やされるのだろうと思う。それも一つの技巧なのだろうが、本人には非常に疲れる技巧だろうと思う。

“非正規”がらみに絞っていくつか紹介しておく。


朝が来た

朝が来た こんなぼくにもやってきた 太陽を眼に焼きつけながら

夜明けとは ぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

寒夜を走るランナーとすれ違いたる ぼくは自転車漕いでいるのだ

非正規の友よ、負けるな ぼくはただ 書類の整理ばかりしている 

非正規という  受け入れがたき現状を  受け入れながら生きているのだ

階段をのぼりくだりて 一日の あれこれ あっと言う間に終わる

牛丼屋

ぼくも非正規 きみも非正規 秋がきて 牛丼屋にて牛丼食べる

牛丼屋 頑張っているきみがいて きみの頑張り 時給以上だ

「研修中」だったあなたが「店員」になって 真剣な眼差しがいい

頭を下げて 頭を下げて牛丼を 食べて頭を下げて暮れゆく

あした

消しゴムが 丸くなるごと苦労して きっと優しくなってゆくのだ

コピー用紙 補充しながら このままで 終わるわけにはいかぬ人生

もう少し待ってみようか 曇天が 過ぎ去ってゆく時を信じて

あなた

遠くから みてもあなたとわかるのは あなたがあなたしか いないから

作業室にてふたりなり 仕事とは 関係のない話がしたい

かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

生きているというより 生き抜いている こころに雨の記憶を抱いて

最後の歌は、自殺の理由を説明しているような気がする。“雨の記憶” がどういう記憶なのか…
なにか “雨の音の記憶” のような気がして、「美しき水車小屋の娘」みたいな情景もふと浮かぶのだが…
知らないままのほうが良さそうだが…

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