鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年08月

久しぶりにしっかりしたY染色体ハプロの話に出会った。
Y染色体で探る日本人の起源」というブログ記事である。

「0.プロローグと案内」という記事が2016-04-24にアップされているので、記事そのものが新しい。
以下5本の記事が並ぶが、この後は制作中となっており上梓されていない。最終記事が2016-04-25となっているので、このまま中断の可能性もある。

といっても、「0.プロローグと案内」は目次が書かれているだけだ。次の「Y染色体で探る日本人の起源 1.知識編」も取り立ててこれと言った記載はない。

ということで、「2.世界のY染色体」に入る。
最初に、英語版wikipediの展開地図の画像が転載されている。
これに対する著者の批判が加えられる。最大の問題はこの地図が古いということだ。使用されているラベルが以前のものであり、最新の成果が反映されていない。

ここから本論に入る。

世界のY染色体ハプログループ

① 出アフリカ共通祖先から生まれたのがCとFの共通祖先CFと、DとEの共通祖先DEである。
② Dの集団は東に向かった。Cは世界に拡がり、日本人にも少なからずいる。
③ Fはインドのドラヴィダ人にいる。FはGからTまでの共通祖先となっている。
④ G~Jは現存数は少ない。Kはまばらに存在するが、LからTの共通祖先である。この時期は人類にとって試練の時期であったようだ。
⑤ NOになって現存人につながる人口は爆発する。Nは北欧を含むユーラシア北部に多い。数的には中国が最多である。
⑥ Oは東アジアで最大の人口を持つ。
⑦ Rはロシアなど東ヨーロッパとインドに多い。

この辺の記述は崎田さんの本にはなかったものだ。世界はそれなりのスピードで進化しているらしい。
それらは十分推測できるものであった。とくに多くの人種がイルクーツクからシダレヤナギのように落ちかかってくる図は、展開的に見てありえないということが予想された。


日本人のY染色体ハプログループ構成

ついで次の記事に移る。ここでは各論文の合算データを作成している。
日本人Y分布
転載させていただく。気がついたことを列挙すると、

① 北海道のDが多い。予想外にアイヌ系のYが反映しているかも知れない。サンプル数としては十分だが…
② O1b2は長江系でいわゆる弥生人である。2種の別は半島から渡来した順であろうと思う。47zは韓国で少ない。こちらが先着と思われる。O1a、O1b1はコンタミのレベル。(注によると、現在は47zではなくCTS713というらしい)
③ O2は朝鮮半島北部~遼東から降臨した、いわゆる天孫族と思われる。中国地方に多いのは新羅からの渡来、いわゆる出雲系天孫族と思われる。
④ C1a1は4万年前にナウマンゾウを追って朝鮮から渡ってきた旧石器人の末裔だ。アイヌにも韓国にもいない。
⑤ C2はアイヌではオホーツク人を反映する。本州では、朝鮮半島東岸からのいわゆるツングース系の渡来を意味する。

お願い。利用できる日本人のY染色体データの情報求む!

と書いてあるが、本当にそう思う。どうしてこんなに少ないのか。これっぽっちのデータで偉そうに物を言うのは、本当は恥ずかしいことなのだが。

35000年ほど前からいたハプロD集団

このあと、記事はトリビアルな話題にスピンアウトしていく。

とくにD1b系統はほぼ日本限定の存在。このあとDグループの痕跡を求めるが、あまりに煩瑣なDの経路問題は煩わしい。

結論としてはCグループの弟分として広がったと考えるほかない。

であればCがどういう経路をとったかであるが、これは南方系が有力である。

先程の話の続きで言えば、CF、DEのうちEはアフリカに戻り、Fはインドに残り、Cがアジア南方に進出した。おそらくDはCと行動をともにしたと思われる。

それ以上は、目下は不明というほかない。推論には節度が必要である。


氷河期が終わるまでにやってきた人々2 C1

C1に関する議論は行きつ戻りつする。Dに先行していたかも知れないとか、南方系由来かも知れないとか、九州南部の縄文文明の担い手だとか、面白いがとりとめがなく根拠もない。

このあと記事は途切れてしまう。



私の感想 

D人がいつどこからやってきたのかが最大の焦点


ここを外してしまったのでは、話の焦点が合わなくなる。

考古学的に見れば、縄文人の祖先となるD人は、2万5千年前(最終氷期)に間宮海峡→樺太→北海道→本州と南下してきたと考えられる。
それより前のことはわからない。その痕跡は大陸側にはまったくないからである。Y-系統樹からはまったく説明がつかないが、黒曜石や細石刃など、考古学的には論証可能である。

C1人はD人以前に先住していた

ただ、そうだとすると説明が難しくなる問題がいくつかある。

最大の問題は、4万年前に信州~関東平野で大型獣を獲物としていた先住者である。私はこれはC1人だろうと考える。彼らはD人が南下してきた頃に絶滅の危機にあった。長いボトルネックの時代を経て日本人のYハプロに何らかの痕跡を留めるほどの割合で生き延びた。

彼らはどこから来たのかわからないが、朝鮮(当時は半島ではなくユーラシアの東端)から渡来したと考える。

ヨーロッパにもC1人がいると言われるが、CとかDは変異の確率が低い。だから出アフリカから極東まで長い期間C1のまま到着したのであろう。であればエデンからヨーロッパまで同じC1のまま移動したとしてもありえなくはない。(争うつもりはないが)

九州南部の縄文文明をになったのがD人なのか、C1人なのかはとりあえずどうでも良い。もちろん確認できればそれに越したことはないが…

留意すべきは朝鮮半島の形成期である1万5千年~1万年ころに、朝鮮半島が無人の野であったことである。


最近のイエメン情勢

これまで書いてきたイエメンの情報と基本的な特徴は変わりないが、よりひどくなっている。
同時にサウジと連合軍の攻撃が無法であること、彼らは分裂し勝ち目がなくなっていることが明らかになってきている。
トランプ政権はイエメン攻撃をビジネスと考えていて、金儲けのために戦争の継続に執着している。メディアの中にも人権派のフリをして、フーシ派を極悪人のように描くことで、ジェノサイドに肩を貸そうとする動きがある。これはベネズエラやニカラグアのケースと類似した手法だ。

イエメン関係記事: 下記をご参照ください






2012年09月08日 南イエメンの解放闘争




2018年

9月 ウォールストリート・ジャーナル、「20億ドル相当の兵器供給がフイになる」とサウジを弁護したポンペオ国務長官の発言を報道。

10月15日 国連世界食糧計画(WFP)、ホデイダでの戦闘が激化すれば1200万人が飢饉に直面すると発表。

10月23日 ローコック国連事務次長の報告。「いままさに、重大な飢餓がイエメンを飲み込もうとしています。その徴候がはっきりと現れています」

11月 国連安全保障理事会、CNNによれば、英国が「限定的な停戦を求める決議案」を提出したが、米国が「急ブレーキをかけた」とされる。

11月 サウジの反体制記者カショギが殺害される。CIAはムハンマド皇太子の命令と断定。米国はサウジ機に対する空中給油支援を停止。

11月 国連食糧農業機関(FAO)、イエメンの食糧事情について報告。人口の6割にあたる約1,780万人が支援を必要としており,うち約880万人は深刻な食料不足,約290万人は深刻な栄養不足状態。10分ごとに1人が死亡している。

11月21日 英国のNGO「セーブ・ザ・チルドレン」、イエメン内戦で栄養失調死した子どもは推定8万4千人と発表。とくに有志連合がホデイダの港を封鎖してから悪化したとする。
ホデイダでは、約5カ月にわたって続く空爆で推定30万人が難民となった。
イエメン事務所代表は「こうして亡くなる子どもは、内臓の機能が落ちてついに停止してしまうまで、大変苦しい思いをする。泣く力さえ残っていない子もいる。親たちは何もできないまま死ぬのを見ているしかない」
ワシントン・ポスト紙は恥知らずにも、こう書いている。
フーシは反対派を片っ端から拘束しては拷問する。幹部は豪華な邸宅に暮らし、高級車のポルシェなどを乗り回す。反対派を拘束、手足を縛り付けてローストチキンのように火あぶりにする。
これはありえないと思う。人道援助に対する間接的妨害だ。ワシントン・ポストを自ら貶めている。

12月14日 イエメン正統政府とフーシ派が部分停戦について合意。ホデイダにおける停戦,タイズ市における人道回廊開設が実現。
ホデイダは物流拠点で国連の支援物資が集まる港湾都市。サウジはホデイダ制圧のため1万4000人のスーダン人雇い兵を投入。
12月 サウジアラビア主導の有志連合軍は、その後も空爆を続ける。
サウジがイエメン戦争につぎ込んでいる戦闘機や爆弾はほとんどが米国製だ。現地ではボーイングなどの技術者数百人が働く。トランプは1200億ドル強の武器売却に成功した。

2019年

3月26日 WHO、イエメンで過去3ヶ月に11万人がコレラと類似症に感染。3分の1は5歳未満。
(2017年には100万人以上がコレラと類似症に感染した)

4月4日 米議会上下院、有志連合への米軍支援を中止する決議を採択。上院が54対46、下院が247対175。

4月8日 首都サヌアで爆発。子ども14人が死亡、重傷を負った子どもは16人。

4月16日 トランプ大統領、有志連合支援を中止する決議に拒否権を発動。「決議は大統領の権限を弱め、兵士の命を危険にさらす」と主張。

5月14日 フーシ派軍、原油パイプラインのポンプ場2か所を無人機で攻撃。「侵略者のジェノサイド及び封鎖の継続に対する報復」と声明。

5月20日 南部タイズに空爆。子ども7人が犠牲になる。この10日余りに死傷した子どもは、国連確認で27人。

6月12日 フーシ派軍、サウジ南部のアブハ空港にクルーズ・ミサイルを発射。空港の管制塔に命中したと発表。サウジ発表で26名の民間人が負傷。

6月23日 フーシ派軍,サウジ南部のアブハ空港、ジーザーン空港に対し「カースィフK2」ドローン複数機で攻撃。サウジ発表でシリア人1名が死亡、民間人21名が負傷。

7月2日 フーシ派軍、サウジ南部のアブハ空港をドローンで攻撃。サウジ発表で民間人9名が負傷。

7月 アラブ首長国連邦(UAE)、イエメン戦線から撤収開始。ホデイダ港周辺の軍事拠点をサウジに移譲。地上戦を担ったUAE軍に対し、血を流そうとしないサウジに不信が広がる。

7月19日 サウジ、16年ぶりとなる米軍国内駐留を承認。

7月20日 ニューヨーク・タイムズ、ムハンマド皇太子が特殊部隊や軍事顧問の派遣を求めてきたと報道。

7月29日 イエメン北部の町で市場が空爆を受けて、子ども4人を含む民間人14人が死亡。サウジが支援するイエメン政府は「フーシがロケット弾を使用した」と非難。

8月1日 アデンの政府軍施設がフーシのドローン攻撃を受け、少なくとも40人近くが死亡。大半は訓練中の治安要員だった。

8月1日 同日、イスラム過激派が警察署に対し自動車爆弾を使い自爆攻撃。10人が死亡し、16人が負傷。

8月10日 南部地域の分離独立派、アデンの大統領府や軍事施設を占拠。これまで分離独立派と暫定政権は共闘してきた。
分離独立派は南部暫定評議会(STC)を名乗り、アラブ首長国連邦(UAE)の支援を受けている。地上勢力を掌握してきたUAE軍は、サウジと結ぶ暫定政府に反感を募らせる。
8月17日 南部暫定評議会(STC)、占拠していたアデン市内の主要公共施設を政権側に明け渡す。

8月20日 フーシ派軍,米国の無人機MQ9を地対空ミサイルで撃墜。

8月27日 ウォール・ストリート・ジャーナル、米政権がフーシとの直接対話を準備中と報道。米議会は超党派で、連合軍への軍事支援を停止するよう要求している。

8月28日 暫定首都アデンに到着した政府軍、大統領宮殿やアデン国際空港を奪還。

8月28日 南部暫定評議会、シャブワ県での敗北・撤退を認める。政府軍背後のサウジアラビア主導の有志連合軍を非難する。

8 月29日 ポンペオ米国務長官、暫定政権と南部暫定評議会(STC)に対し、対立を解消するよう求める。

 

 データで見る:紛争下のイエメン、人道危機の規模
ユニセフ・イエメン人道状況報告書(2018年12月)/ユニセフ・イエメン人道ニーズ概況報告(2019年)

1億1,300万人  -  人道支援が必要な子どもたちの数
2億4,100万人  -  人道支援がなくては生きられない人の数
200万人  -  急性栄養不良で治療が必要な5歳未満の子どもの数
1億9,700万人  -  基本的な保健ケアへのアクセスが必要な人の数
1億7,800万人  -  安全な水、適切なトイレなどへのアクセスが必要な人の数
出典:ユニセフ・イエメン人道状況報告書(2018年12月)/ユニセフ・イエメン人道ニーズ概況報告(2019年)
ただしイエメンの総人口は約2,892万人(2018年/国連)であり、ユニセフの数字にはベネズエラ並みの誇張(翻訳ミス?)があるようだ。

イギリスの恐慌を中軸とする19世紀経済史

1815年 ワーテルローの戦い。イギリスが世界の覇者として復活。

1815年 穀物法が制定。地主保護が明確となる。

1825年 イギリスで世界最初の恐慌が発生。世界最初の鉄道営業が開始。

1832年 第1回選挙法改正が議会を通過。中産階級と産業資本家が参政権を得る。

1833年 一般工場法が制定される。労働者保護が具体的に動き出す。翌年には救貧法も成立。

1833年 東インド会社が商業活動を停止。重商主義が終焉を迎える。

1836年 イギリスで2回目の恐慌が発生。 

1837年 ヴィクトリア女王が即位。

1838年 参政権を求める労働者がチャーティスト運動を組織。

1840年 アヘン戦争。清朝を下し東アジアの覇権を確立。

1846年 穀物法が廃止される。さらに関税の廃止、航海法の廃止が続き、自由貿易主義に基づく海外発展が進む。地主階級の政治的影響力は失われる。

1847年 イギリスで3回目の恐慌が発生。独仏で連動。

1848年:マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』を発行。

1857年 イギリスで4回目の恐慌が発生。独仏米で連動。

1857年 インドでセポイ(傭兵)の乱が発生。

1866年 イギリスで5回目の恐慌が発生。

1873年 イギリスで6回目の恐慌が発生。独仏米で連動。このあと1896年まで世界的な「大不況」が続く。ただしこの22年間の実質 GDP は、アメリカとドイツは2倍、イギリスとフランスも 5 割増大している。

1875年 アメリカ,ドイツが保護主義に戻る。世界輸出に占めるイギリスのシェアは急速に低下する。

1875年 イギリスがスエズ運河会社株を買収。

1877年 インドを植民地化し「インド帝国」を創設。ビクトリアが皇帝を兼任。

1882年 イギリスで7回目の恐慌が発生。フランスは最も深刻な恐慌を経験する。日本でも松方デフレが発生する。

1890年 イギリスで8回目の恐慌が発生。

1900年 イギリスで9回目の恐慌が発生。独仏日で連動。


ということで、経済史の世界ではまるっきりだめ。相対的剰余価値の低下で恐慌のすべてを説明しようという話だ。
1867年以前のマルクスも多分そうだったのだろうと思う。しかしマルクスはそこからもう一つ上に登っている。それが信用の拡大だ。
おそらく、拡大する信用が、イギリスの産業と産業資本家を捕まえ、絞め殺したのだろうと思う。

ヤマト生命の項目では書ききれなくて、無理に突っ込んでも汚くなるので、別項にしました。
生命保険会社がこれだけ破綻していたとは知りませんでした。迂闊でした。
嫁さんの生命保険が意外に多かったのですが、昔は条件が良かったのだそうです。それだけ保険会社がつらい思いをしているのだということがわかりました。

1997年4月 日産生命が破綻。戦後初の生保破綻となる。超低金利から運用利回りが下がり、逆ざやが発生した。

1999年6月 東邦生命が破綻。債務超過額 は6,500億円。

2000年5月 第百生命が破綻。

2000年8月 大正生命が破綻。受け皿会社であるあざみ生命保険株式会社が設立された。

2000年10月 千代田生命が破綻。超過債務は 5,975億円。

2000年10月 協栄生命が破綻。超過債務は最大の 6,895億円。

2001年3月 東京生命が破綻。戦後7番目の生保破綻となる。その後金利、株価が上昇し、生保業界の財務内容が改善。

2002年4月 大和生命保険株式会社として出発した。株式会社の組織形態取得を目的とした操作。生保の株式会社化として話題になる。

株式会社は資金調達が容易で、M&Aが展開できるメリットがある。一方でハイリスク・ハイリターンな経営に向かう危険を持つ。

2002年 大同生命、2003年に太陽生命、2004年に三井生命が株式会社化。

2008年10月10日 中堅生保の大和生命が破綻。7年ぶり、8番目の生保破綻となる。サブプライムローンを抱え債務超過におちいる。

2010年4月 第一生命が株式会社化。株主数は137万1000人で、NTTの103万人を上回る。

経過を詳しく分析した研究として
が挙げられる。
ここではヤマト生命の資産運用の特徴として、
1.有価証券の割合が高く貸付金・不動産・動産の割合が低い
2.有価証券の中でも株式と外国証券の割合が高く、公社債の割合は低い。
3.株式の中でも株式投資信託や不動産投資信託、デリバティブや仕組み債などの比率が高い。
また人材としても、経営トップに異色の元大手証券会社の出身者をすえるなど型破りだった。

その上で、著者はこのままでは業界全体がジリ貧に陥る。経営の長期安定を考えれば株式会社化は必然である。そのうえで生保会社としてのモラルをどう担保するかを考えるべきだと主張している。

大和生命保険は、かつてあった生命保険会社である。
“だいわ”ではなく、“やまと”と読む。

1889年9月20日に創業。当初の社名は日本徴兵保険株式会社であった。

徴兵検査に合格して兵営に入営すると経済的不利益を生じる。安穏に家庭業務に従事しているものから一定の金額を醵出させるべきと考えた。こうして徴兵保険が考え出された。
大手は4大徴兵保険と呼ばれた。それは
第一徴兵保険→東邦生命、富国徴兵保険→富国生命保険、日本徴兵保険→大和生命、国華徴兵保険→第百生命である。

1945年終戦とともに、10月に日本徴兵保険が大和生命株式会社に改称。

1947年10月 大和生命保険相互会社に組織変更した。その後も「ヤマト生命」の通称は残された。

2000年8月、大正生命保険株式会社が破綻。大和生命はソフトバンクと組んで、大正生命の受け皿となる。

2001年2月21日 - ソフトバンク・ファイナンスと折半出資で、「あざみ生命保険株式会社」を設立。大正生命保険の受け皿会社となる

ここからはウルトラCの離れ業。ウィキペディアの記載では複雑すぎてよくわからない。

2001年7月1日、あざみ生命保険株式会社に、大和生命の営業を譲渡し、財産の管理を委託した。

2002年4月1日に、あざみ生命保険株式会社と合併。此処から先が小細工。
あざみ生命を存続会社とし、大和生命保険相互会社を消滅させる。同時にあざみ生命の商号を大和生命保険株式会社に変更する。結果として相互会社から株式会社への組織変更。

2008年

9月 リーマンショックの影響から114億円の債務超過となり、経営破綻。最終的に債務超過額は643億まで膨らんだ。リスクの高い投資が多かったとされる。

10月10日に、会社更生の手続きを開始。東京地方裁判所に更正特例法申請を提出した。

2009年

4月 米国プルデンシャル・グループのジブラルタ生命が69億円を出資することで合意。

ジブラルタは地中海のジブラルタル海峡にある岩山、「ジブラルタ・ロック」から命名されたもの。岩山のように安全というのが謳い文句。
1280px-Rock_of_Gibraltar_South_View
4月30日、更生計画の認可が決定。ジブラルタ生命の完全子会社となる。

6月1日 更生手続が終結。社名はプルデンシャル・ファイナンシャル・ジャパン生命保険株式会社へ変更される。この社名変更もきわめて複雑である。その理由は、持株会社であるプルデンシャル・ファイナンシャル・グループそのものが、きわめて複雑な構造になっているからなのだが、これ以上の解説はしない。

(日本)ジブラルタ生命とは別会社である。こちらの前身は2000年に経営破綻した協栄生命保険である。こちらは(本家の)ジブラルタ生命とは関係なく、プルデンシャル米国本社が買収し、事業を承継している。

2010年4月1日、プルデンシャル・ジブラルタ・ファイナンシャル生命保険(The Prudential Gibraltar Financial Life Insurance Co., Ltd)に商号変更する。ジブラルタ生命との資本関係を明確化することを目的とする。

2013年4月からは、「PGF生命」を社名の略称として使用している。銀行窓販チャネルに特化した営業を行い、ジブラルタ生命との棲み分けを行っている。


AALA全国大会に向けての準備

1.世界が当面する三大問題と人権

方針案は核・環境・格差を三大問題としている。現実に世界で興っているさまざまな闘いも、これらの問題を巡ってのものである。

注目されるのは、これら多くの運動が人権をめぐる課題として提起されていることだ。

それは平和的生存権であり、持続可能な生活環境を維持する権利であり、差別されずに生活する権利であり、他国の不当な脅迫を拒否する権利である。

これらの権利は人類がともに共有すべき権利であり、我々が思想・信条の違いを乗り越えて擁護すべき権利である。

私は、人民連帯運動の基本的な構えとして、この考えを徹底していく必要があると考える。


2.国際紛争をどう解決すべきか

国際紛争をめぐっては2つの考えが必要だ。

まず、国家や民族の自決権を擁護するという立場である。ホーチミンがいうように「独立ほど尊いものはない」のである。

もう一つは、いかなる紛争であれ、平和的解決を目指すべきだということである。

平和的解決は多国間の協議を通じてしか実現しない。一方的な制裁や脅迫は、決して正しい解決にはつながらない。

7月に行われた非同盟諸国外相会議の声明は、それらのことをきっぱりと示している。


3.「自主的な国作り」とはなにか

総会方針に「キューバとベネズエラ、ニカラグアは「自主的な国作りを続けている」と書かれている。

自主的という言葉には、一般的な「自主」という以上の特別な意味が込められている。

それは「モンロー主義」には従わないという不服従の立場だ。
それはアメリカに支配されてきた歴史への批判と、ホセ・マルティのいう「我らのアメリカ」への誇りだ。

「自主的な国作り」という表現は、そこを読み込んでいくべきだろうと思う。


4.コンセンサスにもとづく運動を

日本AALAはコンセンサスに基づいて運動を展開する組織である。

もともと、多様な意見を持つ人がコンセンサスで共同活動するのだから、一致できない論点が出てくる可能性はある。

それらについては、当面全体方針とはせずに、引き続き研究・議論を重ねながら合意形成を目指すことになる。もちろん、その間メンバーが個人の見解に基づいて意見を表明することは妨げられない。

具体的に、ベネズエラ政権に対する評価の不一致が問題になっている。

もちろんベネズエラをふくめたラテンアメリカ諸国の人々との連帯は、私たちの共通の願いであり、組織としての死活的任務だ。

そのうえで一致点はどこで、不一致点はどこかを明らかにしなければならないだろう。

「一致できない論点は原案から削除する」という意見があるが、アメリカの「制裁」は認められないということは一致できるのではないか。

それは書くべきであろうと思う。

いま間違いなく、アメリカの干渉行為(武力脅迫・経済制裁・金融攻撃)がベネズエラの民衆を苦しめている。

だから、「いかなる情勢変化があろうとも、私達はベネズエラの民衆を見捨てない」と宣言することでは、私たちは一致できるのではないか。

5.不破講演(2005年)の核心

日本AALA50周年の記念講演「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ―いまこの世界をどう見るか」はいまなお示唆に富むものだ。

そこで話された大事なことは、「歴史的出来事の現実の推進力」がどこにあるのかという見方、すなわち「21世紀論」の視点と「変革の立場」を貫くことである。

世界の「99%」がアメリカの一国行動主義を批判し、ルールある平和を擁護する方向、これが21世紀の流れなのだと不破さんは主張する。

さらに世界の進歩勢力の中にも、さまざまな否定的現象が噴出することがあるが、その際も、一般的な評価にとどまらず、功罪を明らかにし、教訓を導き出さなければならない。これが「変革の立場」だと強調している。

以上のような立場を強調し、日本AALAのさらなる発展に向け奮闘したいと考える。

勃興しつつある「信用市場」をマルクスがどのように描いていたのかを、ざっくりと知りたくて探していたら、下記の文献にぶつかった。

現代金融危機とマルクス理論
―マルクスの危機分析は現代に通用するか―
萩原 伸次郎  
『社会システム研究』 2009年3月

大谷さんたちの論文を読むときの息切れ感がなくて、とても読みやすい。ただこれらの叙述がマルクスの最終到達段階ではないことを念頭に置いておかなければならない。

まず最初の拠り所は、

第3巻第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分裂.利子生み資本」の第27章「資本主義的生産における信用の役割」である。

A 信用は流通過程を加速する。

この中の、<信用による貨幣の節約>という機能に注目ずる。
マルクスは、商業信用が基礎となって銀行信用に発展する際に、貨幣が3通りの仕方で節約されるという。

第1 取引の一大部分において、貨幣が全く必要とされなくなる。
第2 流通手段の流通スピードがアップする。
第3 紙券による金貨幣の代位

この結果、貨幣は(決済時以外には)必要なくなる。

つまり、流通過程を加速させることが信用の核心的意義である。

もう一つ、その派生的意義は(決済と次の決済の間隔が延長することにより)「投機」の隙間を生み出すことである。

B 株式制度は私的所有の一つの止揚である

信用は、個々の資本家に他人の所有にたいする絶対的な処分権を提供する。

しかし、それは無責任と投機を生み出す。

他人の所有にもとづく投機活動は大胆になり、大成功を収めるか、もしくは破産をもたらす。
「小魚たちは鮫たちにのみ込まれ,羊たちは取引所狼たちにのみ込まれる」

C 「資本還元=架空資本の形成」のメカニズム

流通過程の短縮、決済間隔の延長、他人資本の動員は「証券」あればこその働きであり、証券に価値をもたらす。これが貨幣市場の成立する理由である。

商品取引においては商品と貨幣が相対する。同じように貨幣市場においては貨幣と証券が相対する。それはともに貨幣資本の2つの形態である。

証券の価値はどのようなメカニズムで決まっていくか。
貸し出し資本に期待される利子によって決まるのである。

それは基本的には、平均利子率として計算される架空の価値である。
しかし実際には、それ以上に投機的な期待値として値付けされることがある。(というよりむしろそれが通常)

ついで証券の性格規定、貨幣資本との関係においてスケッチ的な考察がなされるが、いまいち明確な規定が与えられているわけではない。やや散漫な例証が続く。

D 貨幣市場と証券取引

素材的富が増えれば、自由に利用できる貨幣資本も増える。その中身も有利子手形、国債・公債・社債など債券、株式などに多様化する。

貨幣資本家階級数も増える。その構成部分は金利生活者たち、銀行業者たち、取引業者などである。しかしその多くは預託者であり、貨幣市場で主役を演じるのは投機取引を行なう証券取引業者たちだ。

金利生活者は銀行業者たちに貨幣資本を預託する。
銀行業者たちは、証券取引業者連中にこれら貨幣資本を大量に用立てる。
こうして賭博師の一味が激増していく。


ということで、マルクスは“貨幣資本の節約”ということで「信用」を特徴づけているが、これは貨幣世界を前提にして見た強引な世界観である。

同じことなのだが、それは貨幣の節約ではなく“使いまわし”である。資本家は貨幣を使い回すことによって貨幣の価値を高めるのである。それが結果として貨幣の節約効果をもたらすのだ。

もう一つの「流通過程の加速」という考えも、原因と結果が逆転している。貨幣資本の介在しない信用取引の世界がますます拡大することが本質であって、その結果として流通過程が加速するのに過ぎないのだ。

そして“貨幣資本の介在しない信用取引の世界”が、ある日突然自立する。それは貨幣量(バーチュアルルだが)が現実の市場の10倍にも達する世界だ。しかしそれは架空の世界だ。

「資本論」が本当に描かなければならなかったのはこの世界だったのかも知れない。しかしマルクスはその素材を残したと言えるのではないか。




1.1970 年代の世界経済

不況の深刻化,失業の増大,インフレの高進という事態が,米国をはじめ,多くの 先進資本主義国を襲っていた。日本だけが例外であった。

2.世界経済における英・米経済の興亡

ポール・ケネディ『大国の興亡』(1987年)
アメリカの衰退は帝国の「過剰拡張」による。それは世界経済の覇権国にいずれは訪れる歴史的運命だ。

3.戦後世界経済とケインズ連合の興亡

マサチューセッツに留学して「戦後世界経済とケインズ連合の興亡」(1996 年)という本を書いた。

その論点は以下の通り

①1970 年代以降のアメリカ資本主義の危機は,戦後形成されたケインズ連合の危機・崩壊であった。

②その要因は企業の多国籍化と、金融自由化と金融機関の強力化である

③帝国の「過剰拡張」は国内での蓄積危機を回避し、世界経済的規模で資本蓄積を継続させる道である。

④そこに金融が再登場し,アメリカの経済システムが金融覇権を軸に回り始める。

しかしこれだけではソ連崩壊後の現代世界経 済そのものの分析には至ることはできない。

4.現代世界経済と金融不安定性の構図

『世界経済と企業行動』(2005 年)で現代世界経済論(ポストケインズ論)の一つのあり方を示せたと考える。

それは2008年リーマン・ショック後の世界経済危機についても分析の視角を提供している。
中心的な視座はミンスキー・モデルを国際的な分析に援用することにある。

この本の骨子は以下の通り。

A) 戦後世界経済システムの本質
①戦後の(西側)世界経済は世界市場志向・資本集約型産業企業を中核とする多国籍化であった。
②多国籍企業の組織的特徴は,多角的事業部門性にある。
③多国籍企業の活動には国際資本取引の自由が保証されることが必要だ。
これらに対応した世界システムが GATT → WTO 体制と呼ばれるものであった。

B)よみがえった米国巨大金融機関
ミンスキーの三分類を持ち出してくるが、少々説明が必要。
不安定撹乱型金融には(1)ヘッジ金融、(2)投機的金融、(3)ポンツィ金融の3つがある。 ポンツィは、1920年代にボストンでねずみ講を組織した詐欺師だ。要するに詐欺まがいの不安定金融。
ようするに米国の金融機関が蘇ったのはこのような悪辣な手法によるということ。
それで、米国の対外金融が投機金融からポンツィ金融に変わったとする。(ただしここでは説明はない)

C)リーマンショック後の世界

「新自由主 義と金融覇権」という視角から見る必要が出てきた。「金融覇権」というキーワードが重要であると考えるが、今後の課題となる。

(ミンスキーについては私の記事も参照されたい。


19.08.21 朝日新聞の記事のようです(新藤さんの紹介)


折り鶴の君、いまどこに 
27年前の米国、「一日一折り」教わった手順


ニカラグア千羽鶴
   田上長崎市長に自作の千羽鶴を届けたニカラグアのコロネル大使


折り鶴の作り方を教えてくれた女性に再会したい

駐日ニカラグア大使のロドリゴ・コロネルさんが27年前、米国で出会った日本人女性を探している。今夏、長崎と広島の被爆者のために自作の2千羽の鶴を送り届けたコロネルさん。「直接会ってお礼を言いたい」と願う。


コロネルさんは1992年、米国に留学した際、同じクラスの日本人女性から折り鶴を見せてもらった。美しさに感動し、作り方を教えてくれるよう頼んだが「すぐに忘れるなら時間の無駄」と断られた。


あきらめきれず、2週間頼み続けると、一日一折りずつなら教えてもいいと言われた。その一折りを毎日100回練習し、完璧にできれば次を教えるという。

「きっちりと折らないと、形が崩れてしまう」。毎日、練習を重ね、3カ月かけてすべての折り方を覚えた。


 女性が見守る中で折り鶴を完成させると、女性は両手を上に上げて “〇” の形を作った。意味が分からなかったが、よくできたという意味なのだろう、と思った。


 その後、女性とは連絡が途絶えた。コロネルさんは当時16歳。女性も同じ年齢くらいだったが、名前も覚えていないという。


駐日大使着任、広島長崎悼み届けた2千羽


 昨年、コロネルさんは駐日大使として来日。これを機に久しく作っていなかった鶴を毎日折るようになった。レストランやホテルで箸の袋で鶴を折り、サービスしてくれたスタッフにお礼として置く。チップの習慣のない日本で、せめてもの感謝を見せるためだ。


 来日後、広島と長崎を初めて訪れた。広島で被爆し、白血病になった少女の快復を願い、少女や友人が千羽鶴を折ったエピソードを学んだ。

千羽鶴に平和への思いが込められていることを知り、今年に入り、広島と長崎のために千羽鶴を折り始めた。4カ月かけたといい、「被爆者の痛みを想像した」と振り返る。


8月7日、千羽鶴を届けようと長崎市役所に行くと、田上富久市長と職員が拍手で出迎えてくれた。30メートルほど職員が両脇に並ぶなかを歩いた。

「ありがとうございます」と口々に声をかけられ、涙がこみ上げた。

千羽鶴は長崎原爆資料館のエントランスに飾られている。




こんな人が大使をしている国が悪いことすると思いますか?
「被爆のマリア」をお父さんが歌にして、それを娘が歌って、その娘の旦那が日本大使をしているような国が悪いことしていると思いますか?


西野智彦 「平成金融史」がめちゃめちゃに面白い

わからない言葉だらけで、読んでいても意味はよくわからないのだが、おそらくは多少の想像やフィクションも織り交ぜた「関係者の発言」が散りばめられ、これが筋の運びを面白くしている。

西野さんの平成観は、次の言葉に尽くされている。
昭和の負の遺産にもがき苦しみ、痛みを散らしつつ、抜本的治療を令和に先送りしたのが平成だった気がします。
それが副題のごとく「バブル崩壊からアベノミクスまで」という言葉に込めた実感なのだろう。

私の読後感

とくに1997年の危機を消費税+アジア通貨危機の複合と見ていたのが、実は当時の日本の金融構造が本質的に持っていた弱点の爆発したものだということが実感できた。

また2001から02年の第二次金融危機が、97年危機よりはるかに深刻であったこともわかった。

資本主義における市場問題は新たなステージに

本そのものへの感想とは離れてしまうが、いま実感として思っていることがある。

それは、資本主義における「市場」構造が新たなステージに入っているということである。

マルクスが商品市場に対して、その上位に来るもう一つの市場、すなわち信用市場を示唆したことの重要性はつとに指摘されているが、現在ではすでに市場の決定権は信用市場に移っており、商品市場は従属的な機能を受け持つに過ぎなくなっている。

つまり商品の生産機能はすでに飽和状態に達しており、需要に対して(予備脳を含めた)供給のバランスは不可逆的に過剰化しているということだ。

株式市場・債券市場・為替市場と「信用市場複合体」

そして、マルクスが信用市場と呼んだ新たな市場は、今や金融市場=銀行資本の競争のレベルをはるかに超えている。

それが株式市場であり、債券市場であり、為替市場だ。この3つの市場がおたがいに絡み合いながら「信用市場複合体」を構成していると見るべきだろう。

多国間協調主義 vs 信用市場複合体

これら3つの市場に対して、人々は総力戦を挑まなくてはならない。その機能はほぼ国家の手に集中しつつある。

そのことが「平成金融史」でとても良くわかる。97年はまさに「金融史」にふさわしく銀行や金融機関の倒産や債務整理などが中心だが、後半に入れば主要な関心は日銀、通貨、株価へと移っていく。「金融」は気息奄奄となり、物価・賃金・財政赤字などはまったく背景と化している。

つまりある意味で帝国主義戦争の時代の再現とも言える。そういう時代に多国間協調路線(マルチラテラリズム)は今後の展望を切り開いていくことができるのであろうか。

国際連帯運動はその地平を切り開いていくことができるのであろうか。ここを大いに語り合っていきたいものである。

高天原=朝鮮説の系譜

私が日本書紀を読み解いて高天原・大八洲朝鮮説を書いたが、じつはこの考えは以前からあったもののようだ。

ネット上の文献を拾ってみる。


これはウィキペディアの項目の一つとなっている。
慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。「天津神が住む高天原」と記載されている。

韓国側の主張らしいが、根拠はほぼ語呂合わせレベルである。

2.宮崎からの移住説


これは九州南部の縄文文明が鬼界カルデラ爆発を受けて朝鮮に渡ったというものだ。
可能性としてはありうるのだが、「日向に住んでおられた天皇家のご先祖も朝鮮半島に渡られた」となるとさすがに「見てきたような」話だ。

神話の系統、ハプロタイプなどからは否定される。

3.古田史学
高天原は朝鮮南部にあり、日本に渡洋攻撃を仕掛け、ニニギノミコトが九州北部に“降臨”し出雲を国譲りさせた。
というのがあらすじだ。
ほぼ妥当だと思うが、「芦原中つ国」と高天原とを同一視するのは、合点がいかない。
天つ国を"海人(あま)族"の住んでいる地域と読み込むことにも疑問がある。


ということで、3が最も有力だ。というよりほかは学説の名に値しない。それ以外にも、あまり強い根拠はないが、南部朝鮮説を示す文献はかなりある。
もちろん考古学的な裏付けのない話なので、どうとでも言えるのだが。内地の各地を比定する説に比べれば妥当性は高い。




赤旗に載ったインタビュー記事が的を得ていると感じたので紹介しておく。

1.世界はどう見ているか
大前提として「日本は第二次世界大戦を引き起こした戦犯国」と考えている。
だから、安倍政権の行動は歴史修正主義と受け止められている。

2.日韓併合
韓国併合は明らかに歴史的な誤りである。
しかし日本は一度も「韓国併合」を間違いだと認めていない。

3.懲罰
政府担当者が「懲罰」といった事実は消せない。
世界の、日本政府の歴史修正主義への疑惑は強められた。

4.経済制裁という手段
サプライチェーンというのは所詮は下請けだ。
需給関係が切れても川下はゼロにはならないが、川上はゼロだ。

5.徴用工問題の扱い
慰安婦とは異なり、徴用工はまったく手がつけられていない。
日本政府としての反省や謝罪も行われていない。
慰安婦と同様、徴用工への補償も着手しなければならない。

「資本論」新版の刊行に寄せて、座談会が掲載されている。
実にグッドタイミングで、萩原伸次郎さんも参加されている。萩原さんは北海道AALAの55周年記念講演会で講師を勤めてもらうことになっている。これでチケット20枚くらいは上乗せできそうだ。

とりあえず、座談会のキモを列挙しておく。

1.第一部は第一版とフランス語版・第3版の異同を詰め、全体としてフランス語版よりに再編集したこと。

2.第2部は商品市場と金融市場の乖離問題を浮き彫りにするよう編集されている。論理構成とは別に執筆時期から言えば、第2部こそがマルクスの理論作業の最終到達点であるから、ここから資本論全体を上向き、下向きにレビューしなければならない。

3.第3部は第2部の後半草稿より以前に書かれたもので、本来は第2部で到達した理論水準に基づいて書き直しが必要なものである。

この辺は、この間の草稿の読み直しによって随分明らかになってきたことである。

私は、この理論がベーム・パヴェルクの「価格形成論」からみた批判への回答になっていると思うし、この点でエンゲルスの解答がまるでトンチンカンであることも証明できるのだと思う。

4.佐藤金三郎さんと中期マルクス

一つ、私が興味を持ったエピソードで、萩原さんが同僚であった佐藤金三郎さんの思い出を語っているところがある。実は佐藤さんの「資本論研究序説」は私が最も興味深く、かつ共感を持って読んだ本の一つである。

佐藤さんは「中期マルクス」と言われる57年草稿、いわゆる「要綱」の検討を通じて、マルクスの思想的ジャンプアップを分析している。

最近考えるにあたっては、佐藤さんのいう「中期マルクス」の主たる営為は、じつはヘーゲルの「法の哲学」の再読み込みではなかったのかと思うようになっている。

当初はヘーゲルを読んでいたの思いつきであったが、アレントを紹介した論文を読んでいて、これはかなり確信に変わりつつある。

4.商品市場・貨幣市場・信用市場

マルクスはこの作業を通じて構築した論理で、一気呵成に資本論まで進んでいった。ただ一気に行ったために論理が荒っぽくなっていた。そのために商業資本の分析のところでケタグリをかけられ、盛大にコケてしまったのではないか。

商品市場のうえにもう一つ乗っかるべきカテゴリーがある。それが金融市場であり信用市場である。それは価格実現という「命がけの跳躍」が、否応無しにもたらしめるものである。
これらの市場は最初は控えめな助言者として現れるが、まもなく鉄の論理の体現者として君臨することになる。その市場の論理は商品市場の論理と完全に一致せず、ますます乖離するようになる。
この市場の介在によって商品市場が引き裂かれていく過程を書き込んでいかないと、資本論は完成しない。

そこで問題は、マルクスがそれをやり遂げたのだろうかという話になる。第二部草稿の読み込みがさらに必要になっていくのであろう。

5.自由時間について

自由時間の議論はおそらくヘーゲルの影響を受けたものである。
カント主義者たるヘーゲルにあって、自由時間はレジャーではない。むしろ自己陶冶の時間である。
ということもあるので、自由時間の問題はもう少し吟味をしておきたいところである。

「資本論」新刊の情報

本日の赤旗に、資本論の新刊が出るとの記事。
9月から刊行が始まり、隔月で12巻が刊行されるということなので、完成は2年後ということになる。
選書版の大きさで、セットで2万4千円くらいになりそうだ(消費税動向による)

1冊あたりにするとほぼ2千円、当節の出版事情を考えれば決して高くはない。

考えてみれば、読みもしないのに長谷部訳の青木文庫版、岡崎次郎の国民文庫版、マルエン全集版、新書版とよくも買ったものだ。何故か向坂版は買っていない。

私は、資本論というのは読破し全体を把握するという本ではないと思っている。
摘み食いでその時々に能力の続く限り読んで、しばらく解説本を読みながら咀嚼して…という経過を積み重ねていくものだろうと思う。

マルクスの本を読むというのは、あの悪文に耐えるという努力を自らに強いることになる。さらに「1エレのリンネル」が空を舞うことになる。







  
こちらは正真正銘のお医者さんが書いたレビューで、とても読みやすい。というか安心して読める。
脳科学屋さんのオキシトシンの話は、当面、聞き流しておいて良さそうだ。
オキシトシンはノルアド作動系のストレスに反応して分泌されるので、オキシトシンを定量すると原因となるストレスの種類を分けることができる。これが目下のところ確立された“オキシトシンの有用性”ということになる。

1. ストレスの歴史

19 世紀初頭 ウォルター・キャノン、ストレスがホメオスタシスを乱し,生体に歪みを生じさせると指摘。交感神経 - 副腎髄質系の活性化に要因を求める。

ハンス・セリエ、ストレスの種類によらず非特異的に起こる全身反応を指摘。中心となるのが ACTH -副腎皮質ホルモンであると主張。

2. ストレスの定義

多くの生理学者は,「ストレス刺激はストレスホルモンの賦活化を誘発するもの」と捉えている。

例えば視床下部(CRH・バゾプレシン)、下垂体前葉(ACTH)、副腎皮質系の活性化,交感神経・副腎髄質系の賦活化(ノルアドレナリン・アドレナリンの放出)である。

刺激の形態としては物理的刺激と精神的刺激に分けられる。

3.ストレス反応を修飾する因子

1) 時間経過
急性反応が生じる警告期→生体に適応性が出来た抵抗期→生体の抵抗力が落ちた疲弊期

2) 発達と妊娠分娩
幼若期はストレス反応は同程度あるが、副腎皮質ホルモンの反応は高くない。
妊娠分娩時にはストレス反応が減弱する。原因は複数考えられ、未解明である。

3) 幼若期体験
幼若期体験は,その後のストレス反応を変容させる。これも原因は未解明である。

4) 環境

5) 摂食状況
空腹だとストレスが増強する。
ついでにちょっと面白いのは、飢餓時に減少するレプチンを前投与するとノルアドレナリン放出が減弱すること、逆に飢餓時に増えるグレリンの投与でノルアドレナリン放出が増強し,ACTH 反応も増強するのだそうだ。

6) 遺伝的要因
最近,この原因因子の一つがバゾプレシンだと報告されている。ということはオキシトシンもありうるかな。

4. ストレス反応を伝達する神経回路

神経内分泌系のストレス反応は,脳幹部(橋と延髄)にあるノルアドレナリン・ニューロンが少なくとも一部を担っている。

これを確認するのがオキシトシン・ニューロンの活性化試験である。

延髄のノルアドレナリン・ニューロンが視床下部へ投射されると、恐怖刺激に対するオキシトシン反応は減弱する。

ところがノルアドレナリン・ニューロンを介さないストレス(たとえばモルヒネ
禁断刺激)はオキシトシン反応を減弱させない。

ということで、二つのストレス反応機序があると考えられる。

最近の「脳科学」と称する学問を聞いてると、とても気になることがある。

それはオキシトシンがとてもポジティブなホルモンで脳の活性化を促すのに対して、ステロイドホルモンがストレス時に放出されてそれが脳組織にダメージを与え、鬱や脳委縮をもたらす悪人ホルモンだという二項対立的ドグマである。

「脳科学者」と呼ばれる人には往々にして独断的な、こじつけ的な物言いをされる人がいるが、私にはそんなに単純なものとは思えないのである。まず彼らは医師・医学者ではない。そこまでいうときは相当慎重でなくてはならないだろう。

脳内アミンにはGABAもあればグルタミン酸もある。一昔前にはエンドルフィンが「幸せホルモン」ともてはやされた。そうそう話は単純なものではない。

それに最終的な神経伝達物質はカテコールアミン系なのだから、その話を抜きにやられると、ますます話がいかがわしく思えてしまう。

とはいえ、もはや私の知識は相当時代遅れになっている。すこし情報を仕入れてから判断することにしよう。

キルギスにおける米国のプレゼンスについて

2019年08月09日 キルギス政変の背景を探る の記事にかんして、コメントを頂きました。

2005年のチューリップ革命は米国の介入がありました。
YouTubeに当時のドキュメンタリーがあります。

私も、アメリカの関与を考えたのですが、どうもあまり関係なさそうなので書きませんでした。(ということは、あまり調べるほどの事件でもなかったか、と思っています)
ウィキペディアによれば、マナスには、2001年に米空軍基地が設置されました。アフガニスタン作戦の拠点でしたが、2014年に米軍は撤退しています。
なお2005年と2010年の政変には米軍基地の存在が大きく関わっているようです。
2010年4月8日 Niall Green 「キルギス政権崩壊」をご参照ください。 

北大スラブ研の論文にもほとんど触れられておらず、現在では影響はないものと判断しました。ただ背景としては書いておくべきだったかと思います。
ご意見ありがとうございました。

ところでこのピッグという歌、歌詞がどうにもわからない。

 Pigs (three different ones) 
というのが題で、1番から3番まであって、三種類のブタが取り上げられている。そのうちの1番の歌詞がこれだ。

Big man, pig man, ha ha charade you are.
You well heeled big wheel, ha ha charade you are.
And when your hand is on your heart,
You're nearly a good laugh, 
Almost a joker,
With your head down in the pig bin,
Saying "Keep on digging."
Pig stain on your fat chin.
What do you hope to find.
When you're down in the pig mine.
You're nearly a laugh,
You're nearly a laugh
But you're really a cry.

爪の引っ掛けどころもない絶望的な詩だ。

これはネイティブでもそうらしい。

 I need help interpreting a line to the song "Pigs (Three Different Ones)"

というQがあって、それへのAがこれ。

ピンク・フロイドの歌、とくにウォーターズのは難しいらしい。なのだそうだ。それで

The lyric "well heeled big wheel" is about the metaphorical "pigs" in the album, which itself is a huge reference to the book Animal Farm by George Orwell. 
と、一気に話は難しくなる。
4B-Carl-Glover
それはともかくとして、
Well heeled というのは裕福な育ちということ、big wheel というのは重要ということだそうだ。何も大仰に振りかぶらなくても、そこだけ教えてくれればよいのに…

つまり “家が金持ちだからというだけで重要人物になったブタども” ということらしい。まさにトランプや子ブッシュなど、そのとおりだ。

それからシャレードだが、どうも本来の意味(ジェスチュア)というより、一芝居打って人を騙すみたいな使い方のように思える。この映画の脚本は元は違う題名だったがそれでは売れず、シャレードに変更したのだそうだ。わかったのはそこまでで、なぜ変えたのか、なぜ変えたら売れたのかはわからない。

この映画には同名の主題歌があって、いかにもの歌だが、歌詞は美しい。

When we played our charade
We were like children posing
Playing at games, acting out names
Guessing the parts we played

ところでアニマル・ファームの話はどこへ行ったんだっけ?


ピンク・フロイド好きの人へ

今も75歳でコンサート活動を続けているロジャー・ウォーターズのこのビデオは、圧倒的な迫力だ。

「ブタ」は社会の頂点にいる人たち、富と権力を持つ人たちだ。
「ブタ」たちは、社会の他の人たちを操作できる。そして悪意の競争と冷酷さを奨励する。だからブタは強力なままでいることができる。
という歌だ。情けないが、日本で放送しようとすれば、きっと「忖度殺し」されるだろう。

queen trump

サウンド的には、こちらのほうがはるかに良いので、まずこちらからみてほしい。こちらはメキシコ市のソカロ広場で20万人の聴衆を前に演奏したものだ。このコンサートはメディアがベネズエラを袋叩きにしている最中に行われた。

だから、その時のメッセージで、ロジャー・ウォーターズは次のように“真実”を語っている。
ベネズエラでは、今のところ内戦も暴力も殺人もない。政治犯の大量収監もなければ、報道の抑圧もない。
誰かの持ち出した“人道コンサート”は、米国のベネズエラ侵略に手を貸すものなのだ。それはベネズエラ国民の必要とするものとは違う。民主主義や自由とも関係ない。
そうです。まさにそのとおりなのです。
ピンク・フロイドを愛する皆さん、私のブログに来てくれたついでに、検索窓に“ベネズエラ”と入れてみてください。なぜロジャー・ウォーターズがそういうのか、わかってもらえるでしょう。

Facebook に、ロジャー・ウォーターズの発したメッセージがあるので紹介する。


おはようございます。 私の名前はロジャー・ウォーターズです。 
わたしから一つお話があります。 それはベネズエラについてです。 

1998年、ベネズエラの人々は社会主義をめざす政府を民主的に選出しました。その政府は石油産業を国有化しました。

その後、米国政府の支援を受けて、当時の大統領チャベスを倒すクーデターが試みられました。 

それは2日間続きましたが、結局失敗しました。大統領の復帰を要求したベネズエラの人々が街頭で、巨大な抗議行動を展開したからです。

彼は2日後に牢獄を脱出して大統領に復帰しました。それが2002年の物語でした。

つぎに米国がやったことは、「ベネズエラは米国にとって戦略的脅威だ」といって、それを理由に経済制裁と封鎖を課すことでした。

これらの米国の違法な制裁は、ベネズエラに不当な負担をもたらしました。
それは経済を破壊し、インフレを促進しました。それによって国内の反対派を活発化させました。

多くの人々がベネズエラを去っています。ベネズエラでは、特に貧しい人々の生活は困難です。それは主にインフレのためです。
食べ物がないというのは嘘です。たくさんの食べ物があります。しかし人々が買うには高すぎます。

彼らは二度目のクーデターという目標を持っています。彼らは10年もの間クーデターを準備してきました。今はグアイドとか言う名の操り人形を持ち込んでいます。

それは疑問の余地なく明らかです。すなわちグアイドは救世主のふりをして、コロンビア国境の向こう側で彼を操る人形師と会っているのです。それこそがベネズエラに苦難をもたらした張本人です。

これはナンセンスそのものです。これは2002年に彼らが達成しそこねたことです。
その失敗したクーデターが企てられたのは、チャベス政府が、アメリカ政権にとってとんでもないことをしでかしたからでした。

それは石油産業からの収入を政府が受け取ることでした。そして、それを社会計画としてベネズエラの人々に分配することでした。

私には操り人形と彼を操るマスターへのメッセージがあります。

ベネズエラから手を引け!
あなたがしていることは、無法で汚らわしい。

私達はベネズエラの人々、何百万人もの人々を、世​​界中でサポートしています。
みんなが新聞で何を読んでいるか知らないけれど、それでも私たちはあなたを愛しています。

歴史はおそらく証明するでしょう。ベネズエラの社会主義は、世界中で政治が進むべき道を照らす光だということを。
大丈夫、私たちはあなたと一緒です。

コメント5,115件
シェア1万件

千秋論文に学ぶ

以前にも造山帯の話は勉強した。
遡行的に議論すると、

1.日本列島は千島列島や沖縄・南西諸島、アリューシャンのような花綵列島ではない。
それはユーラシア大陸の東縁にできた山脈が大陸より分離したことで形成された。
2.日本列島は当初は朝鮮海峡を開口部とする日本半島だった。
この山脈は太平洋プレートの潜り込み→ユーラシア側の盛り上がりでできたのではない。
3.この山脈は南中国大陸が北中国大陸に衝突し潜り込むことによって、その境界線上に形成されたものである。(ということは、上位だから新しいというわけではない)
この境界の上位面上に形成されたのが朝鮮半島の小白山脈である。
4.小白山脈も、日本列島が分離したあとユーラシア大陸の東縁を形成した可能性がある。
その後東シナ海の進出により、日本列島と同様に、独自の半島を形成したのかもしれない

千秋博紀 「超大陸と日本列島の起源」より 地学雑誌 2011


Ⅰ.はじめに

日本列島は海洋内島弧ではなく、大陸縁の造山帯が押し出され、分離したものである。

II.日本列島は南中国大陸に属していた

日本列島の本体は南中国地塊の南縁に由来する。

宇奈月帯が南中国地塊の北端であり、その上位の飛騨帯は、北中国地塊由来である可能性がある。

その上位に隠岐帯、さらにその上位に朝鮮半島が重畳し、これらはいづれも北中国地塊由来である。 

III.日本海の拡大と飛騨・宇奈月帯の移動

わからないので略

IV.超大陸の歴史

1) 超大陸はなぜできたか

これまで地球史を通じて下記の超大陸が出現している。

a)ヌナ(コロンビア)超大陸(18–19 億年前)

b)ロディニア超大陸(6–10 億年前)

c)ゴンドワナ超大陸(3.5–5.4 億年前)

d)パンゲア超大陸(2–3 億年前)

このうち、パンゲアについてはいくつかの批判を経て以下の結論となっている。

地球上のすべての大陸が完全に一つになるという必要性はないし、すべての大陸
が完全に一つになるかどうかは問題ではない。

問題は、それがきわめて偏ったマントル対流様式の存在を示しているということである。

アジアコールドスーパープルームという巨大なマントル下降流が生じた。これは東大平洋の下降流とインド洋東の下降帯がインドネシア近辺で衝突し重複下降する事象である。

2)超大陸はなぜ分裂したか

スーパープルームは一方でマントル上昇流をもたらす。

これにより大陸は分離し膨張し、結果として海水(特にインド洋)の侵入を許すことになる。

XI.議論

日本列島の地史が先カンブリア時代にさかのぼることはわかっている。しかし初期の段階を議論するための情報は乏しい。

日本列島の歴史は 20 億年近く前までさかのぼる。

日本海の誕生はごく最近の 2000 万年前であり、日本列島の地史の 99%以上は中国大陸と一体化した歴史である。

北中国と南中国が衝突したトリアス紀の衝突型造山帯の空間分布の追跡と韓半島への連続性,日本列島への連続性の研究は重要である。




May 30, 2019


ベネズエラ中央銀行(BCV)が3年ぶりに経済指標を発表しました。

1.GDPの縮小

データは、ベネズエラの経済が2013年から2018年の第三期までに47.6パーセント縮小したことを明らかにしています。これについての公式のコミュニケーションはありません。

2.月次インフレ率

BCVのデータは、ベネズエラのハイパーインフレ(月間50%を超えるインフレ)が始まったのが、わずか1年ちょっと前、つまり2018年4月だったことを明らかにしています。

2018年の総インフレは13万パーセントに達しました。

そして12ヶ月経った2019年3月にインフレ率が50%を下回りました。BCVの3月と4月のインフレ率は、それぞれ34,8と33,8%です。

inflation
2017年1月以降の月間インフレ率。青はベネズエラ中銀、橙は国会チームのデータ、
50%の緑色破線はハイパーインフレのしきい値。


野党が支配する国会附属機関も2017年11月から経済分析を開始していますが、こちらも3月に初めてインフレ率が50%を下回ったと発表しています。

3.石油と貿易比率

ベネズエラは、2015年以来、原油価格の下落、経済の不正管理、制裁の結果として、深刻な経済的失速状態に陥っています。

石油輸出収入は、2017年には315億ドルでしたが、2018年には298億ドルに低下しました。

輸入総額は2012年に史上最高となり、660億ドルに達しました。それが2017年には120億ドルまで低下しました。2018年にはそれから149億ドルにまで増加しましたが、依然として1/4以下の水準です。

4.非道な経済制裁

今年はじめ、フアン・グイドが自称「暫定大統領」を宣言します。政府打倒を目指すワシントンは、直ちにフアン・グイドを支持することを決定しました。それ以来、米国財務省の制裁は著しくエスカレートしています。

米国による一方的な措置は、ベネズエラの経済、特に石油部門をターゲットとしています。

ワシントンDCに本拠を置くシンクタンクである「経済政策研究センター」が最近、報告書を発表しています。その結論は以下のようなものでした。

米国の制裁により、2017年以降、ベネズエラの石油生産量が著明に減少している。さらに制裁はベネズエラに40,000人以上の死者をもたらした。

研究者のJeffrey SachsとMark Weisbrotは、「経済制裁はハイパーインフレと深刻な経済危機に対処する可能性を奪った」と結論を与えました。

5.経済改革の挫折

ベネズエラ政府は昨年8月に包括的な経済改革を実施しました。

これには、通貨の再変換、為替レートの切り下げ、通貨をペトロ暗号通貨に固定することが含まれます。

しかしそれにもかかわらず、ハイパーインフレを抑止することはできませんでした。政府はボリバル・ペトロの為替レートを切り下げて給与を引き上げざるを得ませんでした。

最新の昇給は4月末に行われました。

最低賃金と食糧費補助は合計で65,000ソブリン・ボリバルです。これは並行市場レートで約11ドルに相当します。

6.金融政策の改革

ベネズエラ中央銀行は昨年12月に進路を変更しました。通貨安誘導政策の採用です。

DICOMの公式外貨オークションでドルに関してボリバルを積極的に切り下げました。
5月6日、BCVは並行市場指標のペースを維持するため為替管理の廃止を発表し、完全変動相場制へ移行しました。
「交換ボード」は現在、公共銀行と民間銀行によって運営されており、為替レートはBCVに伝えられています。

中央銀行による最近の措置は、流通するボリバルの量の制限とともに、経済のインフレスパイラルを減速させました。

しかしこれは劇薬です。インフレの抑制は需要の縮小を犠牲にしてもたらされることになります。エコノミストは、どこかで資金手当がない限り、このインフレ抑制策には長期的な経済停滞のリスクがあると警告しています。


UN Human Rights Council Adopts Resolution Rejecting US Sanctions

7月13日、国連人権理事会第41回評議会は、ベネズエラに対する米国による制裁を非難する決議を採決しました。

決議案は非同盟国運動(NAM)の議長国ベネズエラとパレスチナから提出され、賛成28票、反対14票、棄権5票で承認されました。

ベネズエラ政府は「決議に対する国連人権理事会の加盟国の圧倒的な支持に感謝する」との声明を発表しました。

この文書は、「すべての国の「譲渡不能な権利」としての自決権を再確認しました。そして一方的な強制措置(制裁)を拒否し、他国や米州諸機関の干渉なしに、国民主権・独自の政治的、社会的、経済的、文化的システムに従って、進むべき道を決めるべきである」と訴えています。

ベネズエラは非同盟運動の当番議長として、加盟国からの大きな支持を得て国連人権理事会に決議案を提出しました。

ベネズエラのホルヘ・アレアザ外相はこう述べています。

すでに今年の5月、国連の特別報告者であるIdriss Jazairyは、制裁がもたらす悪影響に対する報告をしています。彼は「キューバ、ベネズエラ、イランに対する政治的目的での経済制裁の使用は、人権と国際法に違反している」と非難しています。

しかし今回の決議は、ベネズエラにとって重要な意味を持っています。それは理事会が国連の人権高等弁務官ミシェル・バチェレの提出した報告書を体系的に拒否しているためです。

バチェレ報告は、ベネズエラ政府の主要な社会政策を無視しています。そして米国政府による経済制裁についても言及していません。

今回の決議は、米国による経済制裁が「対象国(ベネズエラのこと)の人々の福祉を妨げ、人格の完全な実現を障害している」と述べています。

2017年以来、ホワイトハウスはベネズエラの個人や事業体に対して150の制裁を課しており、食料と医薬品の不足により4万人以上の市民が直接死亡し、1,160億ドルの損失が発生しました。

この数字は、最近の経済政策研究センターによる独立した報告書によって明らかにされています。


マイペディアで
別名は伽耶をはじめ加耶,伽倻,加良,駕洛,任那など多数あるが,いずれも同じ国名を異なる漢字で表記しようとしたためである。
と書いているが、なぜが欠落していて、とても説明にはなっていない。「つまりそういうことなんだよ」と言われても、どういうことなのかはわからない。

田中俊明『古代の日本と加耶』2009 日本史リブレット70 山川出版社(ウェブサイト「世界史の窓」からの重複引用)
にこう書いてある。これはなかなか説得力がある。
朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶が用いられる。加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。
ということで、伽耶(かや)は加羅(から)が10世紀近くを経て、朝鮮語風になまったものと見ることができる(スペイン語の -lla と同じ)。もしこの学説が証明できるのなら、韓国の学者も当時の用法「加羅」を使うべきであろう。

ウィキペディアには、私の一番知りたい疑問「なぜ、日本語文献では加羅が表に出てこないのか、本当に加羅と伽耶は単なる言い換えに過ぎないのか」
についての答えがない。
そこで他の文献もあたってみることにした。

ブリタニカ→コトバンク

『三国志』魏志東夷伝によれば、古代の南朝鮮地方には諸韓国が分立していた。
そのなかで代表的なものは南北2国あり,
南がいわゆる「任那加羅」、または「金官加羅」である。

「広開土王碑」文に登場するのは「任那加羅」である。

532年、金官加羅は新羅に併合された。

北方の代表的な国は「高霊加羅」あるいは単に「加羅」とも呼ばれた。

562年、「高霊加羅」は残存の任那諸国とともに新羅に併合された。これが『日本書紀』でいう「任那の滅亡」である。

これは多くの本に載せられている経過である。しかしどうも、これがスッキリしない。

「または」とか「別名だ」というのだが、本当にそうなのだろうか。加羅=伽耶=任那とそうかんたんに言えるのだろうか。

マイペディア・世界大百科事典

マイペディア・世界大百科事典→コトバンクの表現は、より断定的である。

日本書紀の「任那」は諸小国の総称であるが、任那は本来金海加羅を指す。

以上のごとくであるが、これではまったく納得できない。中国の史書が一度ならず、これだけ明確に二つを使い分けているのに、それについて口をつぐんで、事実上同一視するのは歴史への冒涜とすら言える。

高校の教科書

山川出版社の教科書『詳説日本史』では、「
日本書紀では加耶諸国を任那と呼んでいる」と書いてあるらしい(世界史の窓」からの重複引用)。加羅ではなく伽耶と書いた理由は不明だ。もし加羅の言い換えであれば、これは不正確だ。少なくとも倭の五王のくだりでは任那と加羅はしっかり書き分けられている。


伽耶  または加羅、または加羅諸国

ウィキペディアの記載はわかりにくい。

広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。
洛東江流域を中心として散在していた小国家群。

金石文である広開土王碑文と中国文献で確実な事実を表すと下記の如くなる。

414年 広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初

438年 『宋書』のこの年の条に 「弁辰」が消えて「任那」が登場。

451年 『宋書』のこの年の条に倭王済が「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けられたとの記述。

478年 宋朝が倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授ける。

537年 中国梁国の史書「南齊書」では、「加羅國、三韓種也」とされる。

629年 『梁書』が成立。「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。

660年 『翰苑』が成立。新羅条に「任那」が登場。その註に伝聞として、「加羅と任那は新羅に滅ばされた」とある。

801年 『通典』が成立。新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。

どういう地理関係にあったかは別として、とにかく同時に併存した別個の国だったことは間違いない。

問題は、これだけ存在が確実である「加羅」が日本の文献にほとんど登場しないことである。

加羅と三韓

あまり深読みしてても仕方がないが、「加羅國、三韓種也」とあるのは任那と加羅・秦韓・慕韓とは、すこし国としての扱いが違うのかも知れない。

つまり、任那は百済や新羅と同じ扱いで、加羅は半島南岸にわずかに残った旧三韓の名残りと見ることもできる。

少なくとも中国はそうみていた。とにかくこの基本線を踏み外してはいけない。

1.ユニラテラリズムの世界に直面して

今世界では非常に複雑な動きが生まれています。
トランプの政治は、当選当時のポピュリスム的言動とは様相を異にしてきています。

一言で言えば、私たちはまったく経験したことのない一国支配(ユニラテラリズム)の世界に突入しつつあります。

ここで私たちは不破哲三さんの言葉を思い起こす必要があります。
私が非常に大事だと思うのは、新しい現象、新しい事物が社会に生まれたときに、それにどういう態度でのぞむか…です。開拓者には既成のテーゼはないのです。新しい現象にぶつかったら、それを解明する道は、自分たちが鍛え上げてきた方法論をもって、その新しい現象を考察する以外にないのです
考えて考え抜いて、答えを求めていくほかありません。

2.歴史の推進力

その際に大事なことは「歴史的出来事の現実の推進力」がどこにあるのかという見方、すなわち「21世紀論」の視点と「変革の立場」を貫くことです。

その際に、AALA50周年事業の一環として行われた不破講演「アジア・アフリカ・ラテンアメリカ―いまこの世界をどう見るか」(2005年)は、連帯運動の「導きの糸」として未だに輝きを失っていません。

不破さんの時代認識の最大のポイントは、今の時代を「平和の世界秩序をめざす第二の波」と捉えることです。それは第一の波、すなわち第二次世界大戦直後の時期につづく大きな波です。

この第二の波、すなわち「21世紀の波」の特徴は、民族自決がいまや当然の前提となり、諸国民の尊厳を前提に平和の枠組みが作られようとしていることです。

もう一つの特徴は、「99%」と呼ばれる世界の圧倒的多数の人々がアメリカの一国行動主義を批判し、世界の平和ルールを擁護する方向に動き始めていることです。

この講演はすでに14年も前のものですが、その骨太な歴史評価は今もなお輝きを失っていないと思います。

まったく新しい世界政治に対応する上で、私たちは不破さんの提起を、重要な羅針盤として受け継いでいかなければならないでしょう。

3.変革の立場で評価することがだいじ

かつて「社会主義を目指す国」と呼ばれた国でもさまざまな否定的現象が噴出し、その存在意義そのものが問われている場面も目にするようになっています。
もちろんそれらの現象は事実を踏まえて厳しく評価しなければなりません。

ただその際も、功罪を明らかにし教訓を導き出さなければなりません。それが不破さんの強調する「変革の立場」だろうと思います。

なぜここを強調するか、
それは非同盟諸国や非社会主義の進歩的政権を、その欠点も含めどう見るかという課題につながるからです。

たとえばラテンアメリカの左翼政権は、正統マルクス主義ではありません。

別論文ですが、不破さんはパリ・コミューンについて考察したことがあります。
コミューンの指導部にマルクス主義者は一人もいませんでした。しかしマルクスは、コミューンの行動を最大限に評価したのです。
そのことを前提として、不破さんは「共産党がいないところでも新しい革命が生まれるし、科学的社会主義の知識がなくても、新しい社会の探求に進み出るのに不都合はない」と主張しているのです。

同時に、不破さんは中国を引き合いに出してこう警告しています。
いくら憲法に社会主義と書いていても、資本主義に引かれる考え方、気分が必ず現れる。それは土台に作用して、土台の社会主義部門を腐らせる可能性がある
つまり、社会のあり方が多様であるように社会進歩の形態も多様なのだから、状況に合わせて具体的に判断しなければならない。それと同時に、たんなる評論家的ランキングではなく、変革の立場から評価することが大事だということでしょう。

情勢が不透明な中、私たちはこの不破講演の提起に立ち帰り、基本的な姿勢を再構築する必要があると思います。

キルギスで政変があり、前大統領が逮捕されたという。
しかし目下のところまったく予備知識がない。トルクメニスタンに次ぐ未知の国である。

中央アジアという地域

大体中央アジアにいくつ国があるのかさえ言えない。もっとも中央アメリカの国を全部言えるのもかなりのオタクであろうが。
(答えは五か国、これに新疆ウイグル自治区を加えれば6つになるが、とりあえずおいておく)
中央アジア地図

ウィキペディアで中央アジアの歴史を調べると、10分もしないうちにめまいがしてくる。
人種・文化・歴史のるつぼだ。とても定義などできそうもない。逆にそれが中央アジアのアイデンティティーとも言える。

各共和国の国境線はソ連によって人為的に引かれたものらしい。民族分布とは必ずしも合っていない。それにしても雑然としている。

中央アジアにおけるキルギスの位置

北西部の三国が面積も広く石油資源を持つのに比べ、キルギスとタジキスタンは山の中の小国で、これと言った資源もない。

キルギスの場合面積が20万平方キロで日本の半分、人口が600万人で、北海道並み、一人あたりGDPは30万円強という超貧乏国だ。というより貨幣経済が発達していない国というべきかも知れない。

ということで、この2カ国については別のメガネで見ていく必要がありそうだ。

キルギスの政治

そろそろ主題に入ります。

ウィキペディアによれば、「中央アジア5カ国で最も民主的」な国なのだそうだ。政党の活動は自由であり、共産党をふくむ約40の政党が活動している。

したがって政権交代も頻繁だ。ただし歴代大統領はすべて敗北後に亡命しているそうで、「荒っぽい民主主義」なのかも知れない。

91年の独立からアカエフが大統領職にあったが、独裁傾向を強めた。このため2005年の「チューリップ革命」で打倒された。名前とは異なり、群衆による暴動の色彩が強く、「革命」後に混乱に陥った。

バキエフが大統領に就任したが、これも2010年に放逐された。

2011年からはアタンバエフが大統領に就任した。アタンバエフは任期を完うし17年に引退した。

後任大統領となったジェエンベコフは、公共事業に絡む汚職や暴力団との関係容疑でアタンバエフを追及した。

今年6月、議会が訴追免責特権を剥奪した。アタンバエフは出頭要請に応じず自宅に立て篭った。

このため、数千人の治安部隊が投入されアタンバエフを拘束した。このときの銃撃戦で死者も出ている。

これが概略の経過である。

時事ドットコムニュースによると、
退任後も影響力を残す前大統領にジェエンベコフ氏が反発し、友人同士だった2人はすっかり険悪になった。
らしい。

いろいろあたってみたが、どうもアメリカなりロシアなりの影響というものは感じられない。つまり脱イデオロギー的な「革命」であるらしい。


という北大スラブ研の論文があって、その中で著者は大略次のように問いかけている。

清新に見えた政権がやがて腐敗して、「ピープル・パワー革命」が何度も繰り返されるという事態はおなじみのものだ。

根本的な変革でも単なる政変でもない、それなりに広い社会層の直接行動によって行われる政権交代を、「革命」として一般化するのではなく、独自の現象として研究する必要がある。

とりあえずはそんなところでしょうか。

8月16日
下記もご参照ください
キルギスにおける米国のプレゼンスについて

高久健二 「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報 第6号2012年3月

学習ノート

紀元前2世紀初頭 燕の武将衛満が古朝鮮の準王を退けて衛満朝鮮を建てた。亡命漢人政権であり、前漢王朝の外臣として存続した。

衛氏朝鮮の成立後、青銅器、鋳造鉄器など燕の文物が持ち込まれる。

紀元前150年ころ 半島南部地域は三韓の勢力が残存。原三国時代を形成する。慶尚南道を中心に木棺墓の墳墓群が形成される。

紀元前109年 朝鮮王右渠が漢への入朝を拒む。

紀元前108年 王険城が陥落。漢は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟郡の四郡を設置。
遺物の構成から見て古朝鮮=王険城=楽浪郡都=平壌及びその周辺と考えられる。

紀元前100年ころ 原三国地域とくに辰韓(嶺南、現在の慶尚道)で、八達洞遺跡、茶戸里遺跡、良洞里遺跡など。楽浪との交易拡大による。

紀元前45年 郡県の再編成を契機とし
て楽浪郡は発展期を迎える。「楽浪郡初元四年県別戸口簿」 によれば、この頃の楽浪郡の戸数は43,835戸に達する。

三韓諸国の首長層は外臣として取り込まれ、「臣」と自称する。前漢王朝への朝貢は支配者間の格差を拡大する。

紀元前l世紀中葉~後葉 北部九州で前漢鏡が護棺墓に副葬されるようになる。楽浪郡・三韓・倭を結ぷ長距離交易ルートが確立したと考えられる。

紀元後 2 年 『漢書』地理志によれば、楽浪郡の戸数は62,812戸である。

この論文の良いところは、三韓地域を3つに細分したことである。

三韓地図

短距離交易地域
楽浪と近接した距離にある京畿・嶺西地域(現ソウル周辺)である。馬韓との中間地域で、後に百済が興った地域である。

中距離交易地域
日本海側に位置する領域。現江原道。

長距離交易地域
弁韓と辰韓をふくむ地域で、嶺南地域(現慶尚道)と呼ばれた。
洛東江をさかのぼり、倭館からは険阻な小白山脈を越えて、南漢江を下って、京畿地域へと至るルートが想定され、特定の漢式遺物が集中的にもたらされたと考えられる。
なお馬韓地域(全羅道)には、この時期のものとして見るべき遺跡はない。

衝撃的な図を見つけた。
平凡社「韓国歴史地図」という本で、2006年の出版。3800円もする。
この最初の方の図版がこれだ。

朝鮮半島

植生はとりあえず置くとして、1万5千年前までは朝鮮半島は存在しない。おそらく中国大陸の東が裂けて、黄海と渤海湾が形成されたのだろう。
1万年前にはほぼ現在の形が出来上がっている。その後の変化は台湾島の形成とスンダ大陸の消滅くらいだ。
かなり荒っぽい地図だということはわかる。「現在」という図は日本列島やフィリピン諸島が一塊となっている。
しかし朝鮮半島が形成されたのが1万2千年前、西暦でいうと紀元前1万年ということは、本文中にも明記されている。

もしこれが事実なら、これまでの先史時代の評価には相当の検討が必要となる。黄河は現在の黄海をずっと南下し(あるいは淮河の河道を経由して)東シナ海に開いていたのかも知れない。朝鮮半島南部の長江人は渡来したのではなく、もともと定住していたのかも知れない。

とにかく対応する日本側文献を探さなくてはならない。

どうも、いろいろ調べてみると、「為替操作国」はアメリカの世論操作の可能性がある。

理論的には10%の追加関税は10%の通貨安で相殺することが可能である。さては中国側の「奥の手」かと興味を持ったが、中国側には為替を「禁じ手」として行使する意図も能力もなさそうだ。

たしかに下げ幅は大きいが、トレンドから見れば想定内の下げとも思える。

何が起きたのか

まずはニュース情報を総合してみる。

8月1日 トランプ大統領、中国産品に10%の追加関税を課すと発表。9月1日発動の予定。

8月5日 人民元相場が一時1ドル=7元台となる。これは11年ぶりの安値。

8月5日 トランプ大統領がツイート。「これは『為替操作』だ。中国は為替を操作して、米国からビジネスや工場を盗み出している。もう許さないぞ」

8月5日 米財務省、意図的に通貨安を誘導しているとして、中国を「為替操作国」に指定。この措置に伴う新たな経済制裁は無し。

8月6日 クドロー米国家経済会議委員長、「関税の重荷はほぼ全て中国側にかかっている。中国経済はボロボロになっている」と発言。

8月6日 中国人民銀行(中央銀行)は為替操作を否定。

8月6日 オフショア人民元は、7.1元台まで元安が進んだ。海外投機筋が元売りを主導している。


人民元相場: これまでの流れ

2005年7月21日 ドルペグ相場制(1ドル=8.28元)から管理フロート制(03%の変動幅)に移行した。同時に2.1%の切り上げ。

2007年5月21日 変動幅を上下0.5%に拡大。この結果、1ドル=6.83元まで上昇する。

2008年9月 リーマンショックが発生。人民元売り介入により、1ドル=6.83元に固定。

2010年6月 管理フロート制に復帰。1ドル=6.05元まで上昇。

2014年 人民元が下落トレンドに入る。経済成長率の鈍化、国外への資本流出が背景にあるとされる。

2015年8月 チャイナ・ショック。人民元相場が急落し、中国が制御不能な資本流出に見舞われる。

2017年 トランプ大統領の就任に伴い一時的な元高。トランプの元安攻撃に対応した可能性あり。

2018年~現在 長期の元安傾向が再現。米中貿易戦争やドル金利上昇による資金流出が背景となる。

今後の予測

アメリカにはまだまだ「経済・金融戦争」を拡大する余力が残されている。メディアはトランプにエールを送り続けている。

いまのところ中国はサンドバッグ状態に耐えるほかない。隠忍自重がもとめられる。今後は迂廻輸出や現地法人などの経営努力がもとめられることになるだろう。ただしかつての日米経済摩擦と異なり、中国には安保という重荷がない。その分フリーハンドを行使できる。

貿易赤字構造は究極的にはアメリカ自身の責任なのだから、何時までも踏み倒すわけには行かない。いづれツケが回ることになる。そのときアメリカ以外のすべての国がツケの支払いを求めることになるだろう。

とにかく最近のメディアの倫理的頽廃は目を覆うばかりだ。ほぼデマ宣伝みたいなものまで、権力側の情報をなんのためらいもなく垂れ流すから、よほど注意が必要だ。これが今回の出来事の最大の教訓かも知れない。


米財務省の「為替操作国」指定・三基準

(1)対米貿易黒字が年200億ドル以上、(2)為替介入(ドル購入)がGDPの2%以上、
(3)経常黒字がGDP比で2%以上
3つのうち、2つを満たすと「監視対象」に、すべてを満たすと「為替操作国」に指定する。

現在は日本やドイツなど9カ国が「監視対象」に指定されていいる。

チャイナ・ショック

2015年7月、中国で証券バブルが弾け、上海証券取引所は株価の30パーセントを失った。上場銘柄の半数以上が取引を停止した。8月には全世界同時株安がもたらされた。

「ファイナンシャルスター」記事を参考にしました。

出雲の国譲りをもう少し突っ込む

目下のところ私の妄想に過ぎないが、イザナギ・伊邪那美の作った大八洲と豊葦原中国はいずれも朝鮮半島南岸地域だと思う。
そこには九州から渡った晩期縄文人が住み着いていた。そこに長江下流域で水稲を栽培していた人々(YハプロO1b)が山東半島から渡ってきた。
彼らは縄文ネットワークを通じて九州 に渡りコロニーを形成し始めた。

衛氏朝鮮残党(遼河人)の南進

紀元前200年ころに漢が進出し楽浪郡を形成した。衛氏朝鮮は滅び残党は南に向かった。
彼ら天孫族は「高天原」により、豊葦原中国を攻略した。彼らが百済や新羅の祖先となる。
やがてスサノオ派が天孫系から分裂した。彼らは支配権争いに敗れ出雲へと逃亡した。
アマテラス派は追討軍を派遣し、日向に上陸した後、スサノオ派の拠点宗像を奪い、さらに東に向かった。

出雲族の大和征服

ここでスサノオ派は出雲を明け渡すのだが、アマテラス派の支配下に入るのではなく、さらに東に向かうことになる。
つまり神武東遷の前に出雲天孫系の「東遷」が先行したのである。
こういう二段跳び、三段跳びができたのは彼らが稲作民ではなく狩猟民であったからだろう。いわゆる「騎馬民族」である。
一方、稲作を営む長江人系には天孫系の支配を甘んじて受けるという選択肢しかなかった。
彼らの信仰は放棄され、そのシンボルであった銅鐸は投棄された。
絶対年代で言えば、国譲りと移動の開始が3世紀前半、すなわち卑弥呼の時代である。そして東征の終了、すなわち大和の制圧が3世紀の後半である。

であれば神武の東征は紀元300年前後のこととなる。
スサノオの子孫はもはや引かなかった。倭国に臣従し神武の支配下に入るふりをしながら政府の実体を離そうとしなかった。そして10代を経て応神天皇系というかたちで支配権を掌握してしまうのである。

朝鮮半島の先史時代の時代区分が難しいのは、おそらく住民の人種的構成が変化するためではないか。
考古学的、遺伝学的に確認しうるような変化があれば、まずそこをメルクマールにしなければならない。
つぎに生活の糧の変化を見ていく必要がある。狩猟生活から狩猟+採集生活への移行が土器(調理及び保存習慣)の出現として表される。
それは半定住生活への移行でもあるから、竪穴式住居の出現としても示される。
それ以前の生活は旧石器時代とされているが、むしろ無土器時代というべきであろう。
長江文明を見ればわかるように、土器が出現し水稲栽培が行われるようになった後も石器そのものは旧石器が主体であった。
少なくとも稲作地帯においては、石器の改良は社会の進歩の主要な指標とはなっていない。

無土器時代(旧石器時代)の始まり

日本に最初に渡来したホモサピエンスはおよそ4万年前、朝鮮半島を経由して入ってきたと思われる。

そもそも出アフリカが6万年前なので、朝鮮半島への進出は6万年前~4万年前となる。

旧人たちの話については、とりあえずは触れないほうが良いと思う。
(旧石器時代の代表的な遺跡は50万年前に遡るとされているらしい)

無土器時代(中石器時代と新石器時代)の終わり

おそらく中石器も新石器も無意味な分類と思うが、韓国の学会の主流となっている。

ウィキペディア<朝鮮の先史時代>ではこう書かれている。

朝鮮の新石器時代(朝鮮語版)は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まり、新石器時代の主要な指標となるものは、磨製石器と櫛目文土器に代表される土器である。

日本語版ウィキペディアでは、新石器時代を櫛目文土器時代と読み替えているが、これは誤解を招く。

新石器時代は約1万(中石器を含む場合)-8000年前から始まったとされているが、櫛目文土器の出現するのは6千年前以降である。つまりそこには4千年の時差がある。

櫛目文土器時代(第一次遼河文化時代)

最古の櫛目文土器は遼河文明から発見された。6千年前(紀元前4000年)に遼河地域を原郷にしてユーラシア大陸北部に拡大したと言われる。

ところで「朝鮮半島では紀元前4000年以降に初めて現れる」とされているが、瞬時に半島全体に広がったということだろうか。

伝播様式も不明だが、朝鮮先住民がこれを受け入れたか、あるいは遼河文明人が南方に進出したかのいずれかであろう。

何れにしても、縄文土器のように内発的に発生したものではなく、輸入文化に過ぎない。それだけの生活様式の変化が先行していたのかは疑問である。

鬼界カルデラ噴火との時間的関係

約7,300年前の鬼界カルデラ噴火はアカホヤ火山灰を降り積もらせ、九州南部の縄文文化を壊滅に追い込んだ。

問題は、この時点で朝鮮半島は北方の遼河流域に至るまで無土器文化=狩猟生活のレベルにとどまっていたということである。

もし朝鮮海峡を挟んで人や文化の流れがあったとすれば、それはどちらを向いて流れるだろう?、答えは明らかである。

この後、日本側の文化が衰頽し、半島側の文化が急発展したとすれば、櫛目文土器の逆流入はありうるのだろうか。

曽畑土器は縄文前期後半(紀元前4千年~3.5千年)とされ、櫛目紋土器の影響を受けていると言われる。

櫛目文文化が遼河流域から本流のように広がり、土器文化の大先輩である日本まで接近したということになる。まるで推理小説の種明かしだ。

無文土器時代(第二次遼河文化時代)

紀元前1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけて始まった。

農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が形成された。

前期は紀元前850年まで、それから550年頃までを中期とする。大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

中心となったのはこれまでより南方の松菊里文化( ソングンニ)だった。

南部では異なる文化が営まれるようになった。南岸地方で長江文明からの渡来人が水田耕作を開始した。

後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。

無文土器の終末期

終末期(紀元前300年)には鉄器が出現し、青銅器が広範に普及する。

その後紀元前200年ころに衛氏朝鮮が建国され、紀元前100年後には漢により滅ぼされ、楽浪郡となる。この間、そしてその後も、朝鮮半島南部は「韓」として残される。

ということで、韓国の先史時代認識は、基本的に京畿道以北の古朝鮮(南満をふくむ)を念頭に置いていると思われる。三韓、後の任那・伽耶は朝鮮人嫡流とは認めていないフシがある。






韓国考古学の時代区分体系には青銅器時代が設定されており、この時代は新石器時代と鉄器時代の間に位置している。

しかし、その時期区分は充分に設定されていない。

銅鉱山の開発、製錬・合金、鋳造などと関わる証拠がなく、名称が果たして適切なのかが疑問である。

日本の占領時代、先史時代は石器時代と金石併用時代に区分されていた。

60年代はじめ、北朝鮮考古学界は先史時代の分類として新石器時代と青銅器時代、鉄器時代を設定した。これは占領時代の先史体系を否定するためだった。そのために無理やり西洋文明の区分であるトムソン分類を適用したとも言える。

朝鮮の歴史学はきわめてナショナリスティックでイデオロギッシュで、主義主張のためには論理が破綻しても気にしない傾向がある。これもそういう議論の一つだろう。

彼らは支石墓出土遺物の組合せにより青銅器時代と鉄器時代を分けようとした。3つの根拠を上げているが、素人の私からみても相当無理がある。

韓国の学界も北朝鮮考古学を受け入れて青銅器時代を設定した。

その後発掘例が増加するにつれて、青銅器・鉄器時代の区分は深刻な矛盾を抱えるようになった。
土器、青銅器、鉄器のように特定の時代を代表する物質文化要素の交替および変化の時期が一致しないという矛盾である。

もう一つは青銅器そのものが自生的文化ではなく、西方からの輸入文化であるため、地域ごとにかなりの時差があり、絶対年代と連動しないことだ。
社会の発展段階とも照応しない。時代区分の指標としては使いづらい。

今世紀に入ってから、青銅器時代を理解するためには農耕社会の成立過程に注目しなければならないという意見が出始めた。

安在皓は、「青銅器時代は青銅器の使用によって始まったのではなく、農耕集落の移住定着から始まった」という点を明確にし、現在では多くの共感を得ている。

つまり平ったく言えば、定着農耕時代を青銅器時代と言ったって、それで通じるならいいじゃん、ということだ。

まぁ、いいけど、それならいっそ使わないほうがいいよね。

参考までに
「韓国 歴史地図」 2006年 平凡社
から先史時代の概略。韓国教員大学のスタッフの共著になるもの。

BC50万 旧石器時代が始まる。

BC1万~8千 古新石器時代が始まる。事実上中石器時代。原始無文土器などを使用。済州島高山里遺跡

BC8千 新石器文化が始まる。磨製石器・土器を使用。狩猟+採集生活。

BC6千 櫛目文土器使用。一部の地域で農耕開始。鍬・鎌・石犂使用。

BC1千 無文土器の使用が始まる。青銅器時代始まる。

はじめに

弁証法は、近代思想の中にある機械論的思考を克服するものと位置づけられる。
マルクスは、ヘーゲルの弁証法や社会哲学を批判的に継承した。

従来の研究では,ヘーゲルの『論理学』とマルクスの『資本論』との関係を問う研究が多かった。
しかし最近、マルクスの『資本論』はヘーゲルの『法の哲学』との対応においてこそ検討されなければならない、と主張されるようになっている。
この主張の代表がアンドレアス・アルントである。
Arndt1


Ⅰ 『法の哲学』と『資本論』

ヘーゲルの『法の哲学』は「序論」と「緒論」に続き、第 1 部「抽象法」、第 2 部「道徳」、第 3 部「人倫」(家族,市民社会、国家)からなる。

それに対してマルクスの『資本論』は、第 1 部「資本の生産過程」、第 2 部「資本の流通過程」、第 3 部「資本の総過程」からなっており、1対1の対応関係にはない。

重要なことは、「社会哲学」という理論的レベルで、ヘーゲルからマルクスへの継承・批判の関係を検討することである。

1 .現実世界と理性的原理

a) ミネルヴァのフクロウ

ヘーゲルは「序論」において、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」と述べた。
つまりヘーゲルは、「現実世界は理性的な原理によっており、理性的原理を実現しようとする」と主張しているのである。(要するに、「自己発展の論理」に貫かれているということ)

『法の哲学』が考察の対象とする「近代社会」は、宗教革命やフランス革命を経て成熟を迎えた。近代的な法・権利、道徳、人倫(家族・市民社会・国家)が整備された。(すなわちヘーゲルの青年期から熟年期にかけて、激動を経て目前に現出した社会)

このような時代認識を持ったヘーゲルは、哲学が「ミネルヴァのフクロウ」として、近代社会の原理の理論的な集大成を行う必要があると感じた。(時代の子であり、哲学者のトップと自負するヘーゲル自らが…)
「ミネルヴァのフクロウは夕暮れの訪れとともに飛翔を行う」(S. 28)と言うのはそういう意味である。

b) マルクスのヘーゲル「継承」

マルクスはヘーゲル『法の哲学』の批判的検討をとおして、「市民社会」の分析の重要性を学んだ。

マルクスは、近代社会そのものが「富の過剰と貧困の過剰」という矛盾を含んでいると考えた。
近代社会は変革すべきであり、その主体はプロレタリアートであると考えた。

そしてマルクスは「市民社会の解剖学は、経済学に求めなければならない」と考えるようになり、かつてヘーゲルが行ったように経済学批判の研究に打ち込んでゆく。

2 .「抽象法」と「天賦の人権の楽園」

a)人格と所有権

抽象法の第一は所有権である。「人格が物件を支配することが権利として承認される」ことは、近代社会の根幹である。
「物件」には自然物とともに、熟練や知識、学問、能力など精神的なものも含まれる。

所有権はまずもって物件の占有取得である。
所有権はまた、「物件の使用」の権利である。所有者は、物件の価値の所有者でもある。
所有権はさらに物件を譲渡する権利でもある。

抽象法の第二は「契約」である。契約は所有権の移転である。
抽象法の第三は「不法」である。これらについては省略。

b)マルクスの権利論

法的関係は、経済的諸関係がそこに反映する意志関係である。マルクスのヘーゲル批判の要点は、「人格」や「所有権」の根拠が、それらの経済的関係に存在するということにある。

近代の人権宣言とそれに基づく「自由、平等、所有」の権利は、商品交換に関わる経済関係を基礎にしている。
しかし、資本家と労働者との関係は、外観とは異なり自由でも平等でもない。「自由意志契約」のもとで、労働者には長時間労働が強制される。

3 .ヘーゲルとマルクスの家族論


4 .ヘーゲルの市民社会論

a)市民社会の普遍化

市民社会とは、まず第一に「欲求の体系」(System der Bedürfnisse)である。
人々の欲求は無限に多様化し特殊化してゆく。この特殊化した欲求を満足させる手段、およびそれを生産する労働も多様化する。

一方で、労働が普遍的・客観的なものになると、労働は分割され抽象化され単純化する。機械も導入されることになる。

この普遍化された生産と客観化された交換,多様化する消費の体系が市民社会の「普遍的資産」をなす。
市民社会においては、さまざまな欲求をとおして人間の関係が普遍化する。またこの欲求を満たす手段も普遍化する

b)市民社会の分裂

市民社会においては、諸個人の特殊性と社会的連関の普遍性とは分裂している。
普遍的資産に参加する可能性は諸個人の「特殊的資産」であり、不平等である。

この結果、一方に富が蓄積し他方に貧困が蓄積する。
惨めな労働に縛りつけられた階級の、従属と窮乏も増大する。彼らにはさまざまな精神的自由や便益を享受することが不可能になる。

こうして、いかにして貧困を取り除くかという問題が、近代社会の重大問題となる。

c)市民社会はこの問題を解決できない

市民社会は格差の増大、貧困の蓄積、極貧層の増加を解決することはできない。それは原理的に不可能なのである。

富者に負担をかけることは諸個人の自立性の原則に反する。また、貧困者に労働を与えることは生産物の過多を引き起こすからである。(貧困問題の解決は、過少蓄積と過剰循環、過剰生産をもたらす)

これは何を意味するか、

市民社会は富の相対的過剰にもかかわらず、全体としては十分に富んでいないのである。だから貧困の過剰を防止できないのである。

市民社会は矛盾の解決を求めて海外に進出する。その結果は、植民地争奪戦争、植民地の抵抗と独立戦争である。

ヘーゲルは,「市民社会」の矛盾を解決するものとして、「職業団体」さらには「国家」に期待をかける。ここで彼の思考は行き止まりとなる。


5.マルクスの市民社会論

マルクスはヘーゲルが行き詰まったところから出発する。

マルクスは、資本主義的蓄積の一般的法則として、「富の蓄積は貧困の蓄積である」と結論づけた。(すなわち、資本主義的蓄積は貧困の蓄積=貧困層の増大を求めるということになる)

一方でマルクスは、ヘーゲルの「職業団体」に対応するものとして「労働者階級」を位置づける。そして階級闘争を通じて、「自由で平等な生産者たちの協同社会」の実現を目指すという青写真を描いた。

6.ヘーゲルとマルクスの国家論

省略

7.ヘーゲルが語り、マルクスが語らなかったもの

ヘーゲルが『法の哲学』で提起した問題について、マルクスがすべてを論じたわけではない。
マルクスが語らなかった主なものは、自由意志や道徳論、社会政策論である。それらは経済学研究に時間が割かれたため論究できなかったものと推測される。

以下略


この後、論文はアルントの紹介を離れて、ヘーゲル『論理学』とマルクス『資本論』の比較検討に移っていくが、そっちの方はこれまでも論じられてきたことであり、今回は触れないでおく。

牧野論文を読む限り、アルントの最大の功績は、ヘーゲルがマルクスの偉大な先行者であったことを明らかにしたことである。

そこには私的所有、階級社会としての市民社会、格差拡大と貧困化、帝国主義への発展、資本主義の根本的転換の不可避性などマルクス主義の要素の多くがふくまれている。

ただ一つ異なるとすれば、国家の将来的な位置づけであろう。今回、あまりあまり深く読み込まなかったが、いずれそのような問題意識を持って再学習したいと思う。

「非同盟諸国外相会議」のカラカス政治宣言

上記の会議が7月20日、21日ベネズエラの首都、カラカスで開催されました。
正式名称は「非同盟諸国運動調整ビューロー閣僚会議」というのだそうです。

その会議の「宣言」が発表され、その抄訳を新藤さんが訳されています。大変ありがたい話ですが、それでさえも法律用語風の言い回しで相当読みにくい。

そこで私が勝手に10分で読めるように縮めて言い換えて、読み物風にまとめました。大事だと思うところはゴシックにしています。

もとより正確さにかけているので、気になる方は新藤さんの本文をご覧ください。

はじめに

私たちは…特に平和の推進と国際法を順守する緊急の必要性について率直に討議した。
そして反戦勢力、平和愛好勢力として非同盟運動の役割を果たすために、以下のことを決定した。

平和と国際安全保障の維持のためには、諸国家が国際法の諸原則と国連憲章に従うことが重要である。
とくに主権、政治的独立、加盟国間の国境の不可侵を尊重することを再確認する。

平和的手段を通じた国際紛争の解決を推進する。国連憲章の原則に違反する力あるいは脅迫、軍事侵略の行使を慎まなければならない。

単独行動主義について

特定の国々により押し付けられた単独行動主義的な措置に反対する。
単独行動主義は国連憲章、国際法、人権の侵害を生み出し、国際関係に否定的影響を与える
非同盟諸国にたいし、単独行動主義にもとづく一方的な経済制裁、威嚇的・一方的な制限を慎むべきである。それは主権と独立、貿易・投資の自由に脅威を与える。
非同盟諸国のみずから決定する権利を妨害してはならない。それは国連憲章、国際法の基準と原則に対する重大な侵害となる。
単独行動主義的な措置は逆転されるべきである。こうした措置や法律は即時に廃止するよう要請する。

被害国との連帯

侵略行為あるいは単独行動主義は国際法違反である。それによる被害は賠償されるべきである。

単独行動主義が非同盟諸国、とりわけ発展途上国に圧力をかけるために行うレッテル貼りに断固反対する。

外部からの力の行使の脅迫、侵略行為、抑圧的な措置の被害を受けている諸国民との連帯を引き続き強化する。

以下略


ユニラテラリズム(単独行動主義)とマルチラテラリズム(多国間主義)

マルチラテラリズムは非同盟運動の最も基本的な理念の一つです。非常に訳しにくいのですが多方向主義とも訳せます。三カ国以上でやる交渉ならマルチラテラリズムですが、たとえばサミット会議などはマルチラテラリズムとは言いません。大国間の談合はそもそも多国間主義の理念に反するのだから当然です。これは普通「多極化論」と呼ばれます。

これらの合意形成過程を一切無視して、大国が自らの意見を一方的に押し付けるのがユニラテラリズムです。「無理が通れば道理が引っ込む」ことになるので、ユニラテラリズムは本質的に間違っています。

これができるのはアメリカしかありません。だから「単独行動主義」というのは、反多国間主義のことであり、事実上アメリカの覇権主義にほかなりません。

多国間主義の立場に立つ非同盟運動は、単独行動主義と原理的に相容れません。ここがベネズエラやニカラグアの問題を考える上でのキーポイントだろうと思います。

何れにしても世界の国々の3分の2を結集する非同盟運動が、メディアの大宣伝を打破し、単独行動主義との対決を打ち出したことの意義は決して小さくないと思います。



1.NICA法の成立

去年の11月、トランプ大統領はニカラグア政府が「米国の国家安全保障と外交政策に対する異常で異常な脅威となっている」と宣言しました。そしてオルテガ政権の閣僚を個人的に制裁する内容の大統領令に署名しました。「個人」と言っても拡大解釈が可能なようにできています。
この「Nica Act」が実施されると、米国政府は金融機関(例えばIMF・世銀・米州開銀など)がニカラグア向けに融資するのを制限できるようになります。

オルテガ大統領は、この決定を断固として拒否しました。
M&R Consultoresの世論調査によると、ニカラグアの人々も大部分が拒否しています。それはニカラグアの民主主義にとって有害であると考えられています。

2.ニカラグアの反応

水曜日にニカラグア国会は、92人のうち70人の賛成で一つの法律を可決しました。
それは5つの非政府組織を解散させました。それらは去年ニカラグアで危機を引き起こしたクーデター策動に際して、組織的、財政的にこれを支え、事実上指導的役割を演じました。

ニカラグアの地元メディア “El 19 Digital” はこう書いています。
実際、広く実証されているように、これらの団体は第三国の政府機関や一見私的な組織から多額の資金を受け取っていた。援助団体の元をたぐると、それらは反サンディニスタ政府で暴力的な行動を訴える外国政党や政府にたどり着く。
複数の国際アナリストによると、サンディニスタ政府に対する抗議運動は USAID や NED などの悪名高い米国機関が資金を提供し支援していました。

マックス・ブルメンソール氏は、このようにニカラグアの状況を説明しています。
ニカラグアの学生リーダーたちは、オルテガに対する彼らの戦いを助けてもらおうとして、ワシントンのトランプ大統領や右派政府高官の発言を歓迎した。
「キューバ・ディベート」という雑誌は「USAIDはニカラグアに対するソフトクーデター計画をどのように準備したか」というレポートを掲載しています。
学生たちのクーデターの目論み支援するために、USAIDはおよそ7千万ドルを割り当てた。これは前年比で800万ドルの増加だ。

3.左翼政権諸国の反応

ラテンアメリカの左翼政権を統合する「アメリカ人民連盟」(ALBA)は、ラテンアメリカ諸国の発展を阻害しようとするアメリカの強制を拒否しました。

ボリビアのエボ・モラレス大統領は、オルテガ大統領に「帝国主義に反対するのはあなただけではない」語り、ニカラグアの人々への連帯を表明しています。




July 2019 「米国はキューバ、ニカラグア、ベネズエラへの攻撃を強化している」
Intensification of US aggression against Cuba, Nicaragua and Venezuela

4月16日、ジョン・ボルトンが「ピッグス湾の侵略に参加した退役軍人の会」に出席し演説した。
彼は述べた。「トランプ政権は民主主義、主権、安全、法の支配を擁護する。モンロー・ドクトリンはいまも生きている」

この200年も前に宣言されたモンロー・ドクトリンは、アメリカがアメリカ大陸を好きなように形作る「権利」としてずっと主張されてきた。

ボルトンは、キューバ、ニカラグア、ベネズエラを「専制のトロイカ」だと決めつけ、新たな経済制裁策を発表した。

彼は、この「トロイカ」が崩壊すると、アメリカ大陸は「雪をかぶったカナディアン・ロッキーから輝くマゼラン海峡まで、人類史上初めて自由な半球になる」と宣言した。

モンロー・ドクトリンのこの非常に危険な復活は、「民主主義」とも「人権の尊重」とも何の関係もない。しかしアメリカの経済的権益擁護と左翼政権を排除することには深い関係がある。
ロシアと中国は米国を「世界を不安定化させ国際法に乱暴に違反している」と非難しており、このところの状況は、冷戦時代以来見られなかった対立を露わにし、世界を危険にさらしている。

ニカラグアに最も壊滅的な影響を与える制裁措置はNICA法である。それは「米国は国際貸付機関にたいし、ニカラグアへの貸付を行わせないよう阻止する」と定めている。政府の財政困難を駆り立てている。

国連の特別報告者 Idriss Jazairyは、政治的な目的のために経済制裁を使用することは人権と国際法の違反だと言う。 
「そのような行動は、一般の人々が見せしめや人質にされてしまう。それは前例のない人道的な災害を引き起こす可能性がある」

和平交渉と恩赦法

2月26日にニカラグアの世論調査会社が行った調査では、回答者の90%以上が、家族や地域社会の幸福を保証するために対話、平和、安定を望んでいると回答している。

このような背景の下、政府代表と野党「正義と民主主義のための市民同盟」による交渉が開始された。 協議には、OAS代表や教皇庁代表が立ち会った。

重要な合意がなされている。一つは市民の権利を強化するための手続きに関するものであり、もう一つは昨年の暴力に関連して拘禁された人々の釈放である。それは国際赤十字委員会によって監督されていることになっている。

国会はこれを受けて、2018年4月18日以降の全国で起きた事件で、すべての関係者に完全な恩赦を与える法律を承認した。
政府は市民同盟の反対派逮捕者を釈放した。さらにOASが関与して、選挙改革のための検討プロセスが再開された。

なお保留されている問題は次のとおり。
① 暴力事件に関連して国外逃亡した人々の帰還を許可する。 
② NICA法という違法な米国の制裁措置の停止。それは国の最貧者、最も脆弱な分野に対して度外れに悪い影響を与えている。

「正義と民主主義のための市民同盟」は、政府との交渉を担当する主要な野党グループだった。
しかし、先行きは不透明である。反対派を構成している70の組織のうち多数は、政府との和平交渉をやめて、米国がさらに制裁を強化するようもとめている。

米州機構のアルマグロ事務局長は、囚人の釈放が大幅に進んだことを確認し、ニカラグア政府が健康と教育の改善を進めていると称賛した。 
このため、アルマグロはSNSでは過激派に非難された。

私の疑問

1.ボルトンの主張は、ある面では「正しい」のだろうか?
2.NICA法は、民主主義を守るためには必要なのだろうか?
3.交渉を拒否する野党強硬派の立場は、支持しうるものだろうか?
4.「専制のトロイカ」を打倒することは、民主主義の実現を意味するのだろうか?

朝鮮半島の先史時代
(ウィキペディアを足がかりに)

4万年前 朝鮮半島に古代人の出現。(50万年前という説っもあるが、朝鮮人の悪い癖であろう)

約3万年前 公州石壮里遺跡がこの頃と推定される。

紀元前8000年頃 旧石器時代が終わり、磨製石器の生産が始められる。(トムソン分類の有効性は疑問。現在は櫛目文→無文時代と土器で分類するのが主流)

紀元前8000年頃 櫛目文草創期が始まる。初期のものを隆起文土器と呼ぶこともある。

紀元前6000年 櫛目文前期が始まる。ただしこの時点では櫛目文土器の出土なし。漁労や狩猟、竪穴式住居が特徴。

紀元前4000年頃 遼河文明から最古の櫛目文土器が発見。
遼河文明圏はY染色体ハプログループNの人種が担っていた。

紀元前4000年頃 喜界カルデラ噴火後に形成された曽畑式土器は櫛目文土器の影響を強く受けているとされる。


紀元前1500年 無文土器が始まる。農耕が始まる。並行して漁労、狩猟、採集が行われた。

紀元前12世紀 箕子朝鮮(平壌)が創始されたと伝えられる。

紀元前850年 無文土器時代が中期(松菊里文化)に入る。朝鮮に青銅器が出現。
この頃から南岸部は、水田耕作など北中部と異なる発展様式をとる。

紀元前550年 無文土器時代が後期に入る。集住が進み、環濠集落や高地性集落が増える。

紀元前300年 無文土器時代が終末を迎える。青銅器が広範囲に普及するとともに鉄器も出現する。

↑このページのトップヘ