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AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年07月

岡村道雄 「日本列島の南と北での縄文文化の成立」 1997年より

抜書き+私流感想です。

II.縄文環境の成立と各地の人類活動

1.列島規模の自然環境の変化に関する概況

1)地形と気候など

1万5千年前 急激に温暖化。海水面は70mの上昇。
宗谷海峡(海深60m)は水没。北海道は大陸・サハリンと隔絶する。
朝鮮海峡が大きく開く。1万3千年前に朝鮮海峡から日本海にむけて対馬暖流の流れ込みが始まる。
まだ瀬戸内海は成立せず、関門海峡も閉鎖状態。
黒潮前線は1万年前には房総沖まで到達。親潮は東北北部に退いた。

感想
つまり、1万5千~1万年前にかけて日本周辺の気候は激変(温暖化)したのだ。
1万9千~1万7千年前の最終氷期から一気に変化した。
温度だけではなく、列島の構造も変化した。これを“晩氷期”という
1.朝鮮海峡は現海面より80メートル低かった。海峡そのものはそれより前からあった可能性があるが、この間に開大し、対馬海流が流れ込むことで容易には越えられない壁となった。
2.朝鮮半島と中国本土との間の広大な平原は水没し、残された朝鮮半島からは人跡が途絶えた。
3.温暖化(湿潤化を伴う)は黒潮の北上と対馬海流の発生によって、紀伊~東海と日本海南岸の2つの方向に進んだ。海流の入らない瀬戸内平原~近畿には冷涼・乾燥の気候帯が残された。関東甲信越以北では依然寒冷気候が支配的であった。


2)植物相

晩氷期からの温暖化によって、日本列島は複雑な自然環境の変化を開始した.

紀伊半島・東海・伊豆半島・房総半島を結ぶ線の南側には照葉樹林帯が、北側には暖温帯落葉広葉樹が分布した。これらは混淆し、クリ帯と呼ばれる豊かな縄文の森を発達させた。
落葉広葉樹林の北側、北陸から東北の日本海側、関東から東北南部の太平洋岸には、冷温帯落葉広葉樹林が広がった。
中部高地から東北南部の山岳、本州の北部、道南から石狩低地には亜寒帯針葉樹林が広がった。
さらにその北側(道北、道東、樺太)には森林ツンドラが拡が広がった。

3)動物相

更新世の末期: 大型哺乳類(マンモス・オオツノジカ・ナウマンゾウ・ヘラジカ・ニホンムカシジカ)が絶滅。短期間に急激な気候変動があり、人類の活発な狩猟による。
マンモスは、日本では1万1千年前、中国で8千年前、イギリスでは1万4千年前に絶滅したとされる。

これに対応して、1万5千年前にシカ・イノシシなど小動物を目標とする道具組成の交代がみられた。落とし穴や槍先形尖頭器、細石器や石鏃などである。

感想
日本の旧石器人は、4万年前に朝鮮半島から渡来した第一波、2万5千年前に樺太方面から渡来した第二波の混合である(人口比では第二波が優勢)。
この旧石器人が人種的特性を変えることなく縄文人へと移行する。その際、気候に合わせて南方型、北方型、中間の北九州型と分かれていくが、旧石器人としての特徴は共通のまま維持された。
この時期、朝鮮半島は無住の地であり、朝鮮半島との交流を念頭に置く必要はない。


2.各地域の自然環境と文化圏

1) 九州南部・四国南岸

1万2千年前 晩氷期の急激な温暖化を受け、日本列島の南部で最初に縄文的な環境が形成されはじめる。最初はコナラ類や暖温帯落葉広葉樹が卓越する。
後氷期(1万年前~現代)になるとシイ属やクスノキ科などの照葉樹林が拡大する。
同様の植生傾向は黒潮の北上により四国・紀伊半島南部、東海地方まで分布した。

1万3千年前 細石刃文化の後半に遺跡が爆発的に増加。無文土器が登場。
1万1千年前  細石器は消滅し、太めの隆帯文土器が特徴となる.
この時期に縄文的な生業・生活の原型が成立した。竪穴住居による半定住生活。

植物性食料の本格的導入: 堅果類の貯蔵穴さらには粉砕や摺り下ろし用の磨石・石皿・凹石、煮沸・アク抜き用の土器、木材の伐採・加工用の各種の磨製石斧などが発達
炉穴の普及は、獣・魚肉の薫製による保存食糧の確保、調理における火の常用を示す。

これら“九州南部縄文”文化が、種子島から四国南岸まで広がる。

2) 九 州 北 部

植生帯の区分では九州南部と異なり、冷温帯落葉広葉樹で、朝鮮半島につながる。

草創期第1段階 大分県の市ノ久保遺跡で細石刃核と無文土器が発見。韓国や北陸との類似が指摘される。
草創期第2段階 隆線文土器、次いで爪形文土器を伴う細石刃文化が数多く発見されている。


感想
櫛目文土器は6千年前に作られた朝鮮半島最初の土器だ。日本ではその5千年も前から土器が作られている。櫛目文土器が曽畑遺跡に持ち込まれていることを文明波及の傍証とする向きがあるが、これは牽強付会だ。むしろ重要なのは土器の使用開始が日本より5千年も遅れていることではないか。


3) 近畿 ・伊勢湾 ・渥美湾沿岸

ほとんど明らかにされていない。
近畿地方や濃尾平野に暖温帯常緑広葉樹(照葉樹)が拡大するのは、7,000~6,000年前まで下る。

4) 東海 東部 ・関東

13,000~12,000年前にトウヒ・マツ・カラマツ属などの亜寒帯の針葉樹林が冷温帯性の落葉広葉樹が優先する森林へと変化した.その後さらに照葉樹林が形成されるようになった。

東京都西部の秋川沿いに多量なサケの骨が発見されている。

10,000年前 温暖化により南関東まで縄文的環境が成立。

5) 中部 ・信 濃川中流域

1万1千年前 北アジアと同様の寒冷気候が継続し、落葉広葉樹とトウヒ属やツガ属などの針葉樹が混交して疎林を形成。
シカ・カモシカ・ツキノワグマとガン・ヒシクイの遺体が発見

隆線文土器は発達せず、爪形文土器や押圧縄文・表裏縄文・多縄文などの縄文系土器が発達。

6) 北 海 道

北海道は晩氷期になっても旧石器時代的な自然環境が継続し、亜寒帯針葉樹が優勢だった。

10,000年前まで北海道はサハリンを経て沿海地方と陸続きであった。この半島づたいにマンモス動物群が到来し、北海道の旧石器時代人の狩猟対象となっていた。

12,000年前にマンモスが絶滅した。この頃からアムール川流域と共通する細石刃製作技法が広がる。

約8,000年前 道南から次第に縄文的環境に移行した。(北海道の記載は若干荒っぽい)

まとめ

縄文草創期は新・古の2段階に分けられる。(隆線文以前と隆線文期)

1万3千~1万2千年前 九州南部の古段階の草創期文化。神子柴系の木葉形石槍や打製石斧。細石刃と最古の土器の共伴は、旧石器人の「本州から九州までの古段階における一般的な様相」と考えられる。

長野の御子柴遺跡に由来する神子柴系石器群は、アムール川流域起源の細石刃文化の流れを汲む。まだ陸続きだった1万3000年前に渡ってきた。
東北日本を経て急速に南下し、中部日本を中心に独自の文化として発達し、九州までにも拡がった。


感想
旧石器時代は三期に分けられることになる。
第一期 4万年前に朝鮮半島由来の旧石器A人が渡来してから、2万5千年前の寒冷期(ウルム)ピークまで。
第二期 2万5千年前に、アムール→樺太を経由して旧石器B人が渡来してから、旧石器A人との混淆・棲み分け。
第三期 1万3千年前、アムール由来の細石刃文化(御子柴)が東北日本を経て日本全土に拡大。この内九州南部に進んだ旧石器B人が温暖化した気候に適応し、無文土器→隆帯文土器を指標とする縄文文化の創始者となる。

南方縄文は6千年前の鬼界カルデラ噴火でいったん絶滅しており、九州北部の縄文文化との関連や連続性については、いまのところ肯定も否定もできない。九州北部の縄文文化が朝鮮半島の影響のもとに成立したとの仮説も、首肯はできない。
東北・北海道の旧石器人が縄文人となるのは、さらに5千年を経てからであり、その間は縄文文化と旧石器時代の併存時代であった。また北方人が生み出した縄文文化は、南方縄文とは独立したものであった可能性が高い。

こんな感じで良いのかな。



情報メディア発信局」というブログがあって、面白い見解を載せています。ただし私と同じで、思いつき的な文章が多くあまり実証的ではありません。
最終結論としては荒唐無稽で、とても受け入れられるものではありません。ただ、部分的にはうなずける推理があり、参考になります。以下紹介させてもらいます。

南九州の縄文人が古代朝鮮王国を作った

A) 西日本にも大規模な縄文文化が形成されていた

鹿児島の上野原遺跡と佐賀の東名(ひがしみょう)遺跡がそれを証明した。

上野原遺跡は約7000年前のアカホヤの大噴火により消滅した。
佐賀の東名遺跡は約7000年前に起こった。すなわち上野原文化が佐賀県佐賀市に移住したとして矛盾はない。

B) 2つの九州 縄文遺跡には重要な共通性がある

地面を掘って食物を保存すると言う習慣が共通している。これは考古学的に見てかなり特異な習慣である。

ただし東名遺跡の位置づけは未確定である。鬼界カルデラ噴火と同じ8千年前の貝塚遺跡で、貯蔵穴・人骨集中地が出土しているが、それ以上の言及は今のところない。

C) 7000年前、朝鮮半島は無人だった

1993年に発行された韓国国立中央博物館の書籍によると、“朝鮮半島は無人だったことが韓国国立中央博物館の文献で明らかになっています” しかし流石にこれは、そのままうのみにはできない。
これについて神旅 仏旅 むすび旅という記事があって
▶半島の歴史は旧石器時代から始まる。しかし、発見された遺跡数は50カ所程度にすぎない
▶その後、紀元前1万年から5千年まで半島から遺跡がなくなる。つまり、考古学上では半島の人々は絶滅した。
▶再び人の痕跡が現れるのは紀元前5千年頃で、これを櫛文土器文化とよぶ。
ということになっているらしい。さらにこの記事は下記のように踏み込む。
韓国での考古学調査の結果明らかになったことは、「韓国人の遠い祖先は、日本の縄文文化をもって無人の朝鮮半島に移り住み3千年の間に北部にまで広がった縄文人だった」ということである。

D) 東名は縄文海進により水没し、彼らは朝鮮に向かった

だんだん話が破天荒になっていきます。

E)百済、高句麗、新羅の振る舞いは宮崎、鹿児島、熊本の県民性に似ている

“それを言っちゃぁおしめぇよ” です。

E) 日向の国が人が住める状態に回復し、彼らは故地に“天孫降臨”した

もはや荒唐無稽の酒飲み話です。オチをつけたがるのは悪い癖です。


いただきたいのは、A)、B)、C)ですが、一番欲しいのは上野原→鬼界カルデラ→東名の連続性です。
とりわけ鬼界カルデラ→曽畑遺跡(熊本)ではなく→東名であることの証明です。

平和市長会ニュース(Mayors for Peace Newsletter)の2010年1月号です
記事の見出しは「ニカラグア全自治体が平和市長会議に加盟」となっています。

要旨は以下の通り
2010年1月、秋葉会長は、加盟都市が急増した中米のニカラグアを訪問し、オルテガ大統領や前国連総会議長のデスコト氏らと会見した。
ニカラグアは内戦を経験しており、平和への思いを強く持つ国であることから、核兵器廃絶への深い共感を示した。
オルテガ大統領は、原爆の話は子どもの時から聞いており、是非日本を訪問したいと考えていると述べた。
秋葉会長に、この国の最高の栄誉である「ルーベン・ダリオ文化独立勲章」が授与された。訪問に前後して「核兵器廃絶に向けて努力する」アピールが出され、ニカラグア国内の全自治体が平和市長会議に加盟しまた。

こういう経過を知っていたら、メディアの“掌返し”に疑問を持つのが普通でしょう。

平和市長会のニュースについては下記もご参照ください
2012年11月23日

集会での演説要旨(キューバのグランマ英語版より)

40年集会

オルテガは全国民に「貧困撲滅の戦い」への参加を呼びかける

オルテガ大統領は、サンディニスタ革命40周年記念集会で、数十万人の人々を前に演説した。

彼は演説の冒頭、貧困と失業を根絶するための行動に参加するよう求めた。彼は同時に、予算が全体として削減されたにもかかわらず、道路・学校・保健センター・病院の建設が続いていると明らかにした。

外交の分野では、経済制裁を厳しく批判した。これは新たに採用された攻撃の形態である。それはあけっぴろげの恥知らずの攻撃だ。
どんな国でも、国際法に基づかない制裁措置を課す権利はない。そのような制裁を課した国は犯罪を犯しており、そのような行動は許されるべきではない。

オルテガは問う「結局、誰が苦しむのか? 苦しむのは民衆である。アメリカはなぜ民衆の生活をそのようにして弄ぶことができるのだろうか?」

40周年記念集会に参加した外国人ゲストの中には、アメリカ合衆国から来た「平和のための退役軍人グループ」(Veterans for Peace)がいた。オルテガは、これら元兵士が今では「人類の道は平和への道しかないと確信している」と強調した。その一人が、中米に武器を運ぶ列車を止めようとして足を轢断されたブライアン・ウィルソンである。 「彼こそは平和の本当の英雄だ」とオルテガは付け加えた。

ニカラグア年表 7/8 ビオレータ・チャモロの大統領就任まで

の87年9月の項目に詳しい経過あり。

Brian Willson

オルテガは、国の社会的、経済的発展のために働きたいと思うすべての人々と対話する準備ができていると語った。彼は労働者、技術者、大小規模の生産者と対話すると述べた。

選挙は2021年(前倒しすることなく、予定通り)に行われるだろう。そして我々はそれらを勝ち取るべく準備している。

オルテガは、すべての選挙改革は憲法に従って行われる。選挙の後に「我々は選挙を奪われた」などという抗議ができないようにすると強調した。(El Digital 7/20/19)

その他のあいさつ

祝賀会場であるラ・フェ広場には500人以上の外国人客が数千のニカラグア青年とともに並んだ。
オルテガ大統領の前に、副大統領ロザリオ・ムリーリョ、キューバとベネズエラの代表、そしてカトリック司祭アントニオ・カストロ神父がスピーチを行った。

ロサリオ・ムリージョ副大統領はこう述べた。
この40年、ニカラグアは栄光、若さ、歴史、そして未来に満たされていた。「サンディニスタ人民革命」は負けることなく意気高く、前進を続けてきた。

キューバ代表のサルバドール・バルデス・メサ第一副大統領はフィデル・カストロの言葉を引用した。
「サンディニスタの勝利は、45年のソモサ独裁に対する勝利ではない。それは150年にわたる外国支配の勝利だ」

演者たちは平和の重要性を訴えた。また社会的、経済的正義と貧困の撲滅の課題を強調した。

それぞれは米国がニカラグアやキューバ、ベネズエラに対して制裁を科したことを非難した。それはすでに貧困状態にある人々をさらに貧困に追いやることにつながるだろう。

キューバはニカラグアの成功が帝国主義を苦しめていると言う

キューバのミゲル・ディアス=カネル大統領は、ツイッターでメッセージを送っている。(紛らわしいが、この人は大統領兼首相でバルデス・メサの前の副大統領。プレジデンテはこれまで議長と訳されてきたが、今年から大統領となったらしい)

下記のセンテンス “Nicaragua pains them, love pains them” はとても難しいが、「ニカラグアには棘がある。“愛”という棘が奴らを苦しめる」と訳しておく(我ながらなかなかの訳だ)。
「私たちはサンディニスタ革命40周年を歌う。それはラテンアメリカの歴史を変えたのだ」


本日、北海道AALAでの報告会用の原稿です。

サンディニスタ革命40周年記念集会に参加して

はじめに

目の前に広がっている景色は、35年前に見た景色と同じでした。会場いっぱいの人々、10万人は越えていたと思います。
しかし集会の雰囲気はどことなく成熟したものを感じました。

考えてみればあたりまえの話で、ダニエル・オルテガは私と同世代、あの時が30代後半で今は70歳を超えています。
その下にふた世代積み重なったサンディニスタ党の集会なのです。

あのときは一方で革命の熱気が残っていて、片方ではコントラが大規模な侵攻を開始して、とにかくものすごいテンションだったのです。

いまでは与党とはいえ一つの政党にすぎず、支持しない人もたくさんいます。街にも幟や飾りはほとんど見かけず、サンディニスタがあまり目立たないように抑えている感じでした。

それなのに革命直後並みの動員力を持っているのはなぜでしょうか。これは一つの謎です。

アメリカに負けなかった国: ニカラグア

謎といえば、何から何まで謎です。10年近くも続いた内戦は、自分の責任ではなくアメリカから一方的に仕掛けられたものでした。

とはいえ、内戦のもとで5万人が命を失い、経済が崩壊し自滅した政権だったのに、その後も国民の影響力を失わず、生きながらえ、あまつさえ20年後に政権に返り咲き(しかも平和的に)、今では国民の7,8割の支持を受けているというのは、謎でしかありません。

そもそも自滅というのは正確ではありません。むしろアメリカの雇兵部隊に打ち勝ち、和平にまで持ち込んだことで、国の独立を守り、戦いそのものには事実上勝利したのです。

ニカラグアは小さな国です。面積や人口から言うと、北海道が独立して一つの国になったようなものです。

そんな国がアメリカに正面から立ち向かって勝てるはずはないだろうと思っていましたが、私の間違いでした。それは歴史的に証明されたことです。

ニカラグアは独裁国家ではない

そんなニカラグアを独裁主義国家だという人がいます。これはどこをどう押しても大嘘のコンコンチキです。

サンディニスタは戦いには勝った(というか引き分けに持ち込んだ)のですが、1990年の選挙では負けてしまいました。

彼らは、命がけで守った政権を野党に譲り渡し、長い間野党として活動してきました。

そして16年後に保守党分裂のすきを突いて、ちょっとした手練手管(もちろん平和的な)を使って見事に政権に復帰します。

2013年01月27日 ニカラグア大使講演、聞き書き: どうして、サンディニスタが政権に再び就いたか

それからというもの、世論調査では圧倒的に支持され、選挙のたびに大勝を繰り返しています。アメリカにしてみれば憎たらしいと思うでしょうが、選挙が公明正大だから手を出せずに来たのです。


それが10年も続いているのです。いわば民主国家としてのアメリカのお墨付きをもらったようなものでしょう。それが急に去年になって変わったというなら、その証拠を出すべきではないかな。

メディアは誰を「市民」としているか

今回、これだけ大々的に40周年記念集会をやったのは、単純なお祝いではないと思います。

去年の4~6月に国内で大規模な反政府派との衝突があって、それから1年経って国内はどうなっているのかを世界に知らせたいという思いがあるでしょう。

この「衝突」は2つの否定的影響を与えました。一つはそれまでニカラグアはポジティブなイメージで語られてきたのに、独裁政治のもとで暴力がまん延する危険な国だというネガティブなイメージに変えられたことです。

もう一つは、反政府派(の一部)が武力であちこちを占拠し、道路を封鎖したことです。さらにアメリカなどが制裁を課したことから、GDPは前年比4%(ちょっとうろ覚え)下がったと言われます。

もちろんこれとは別に人命をふくむ物理的被害はありますが、紙面の関係上ここでは省略します。

メディアの事件報道は偏ったものでした。
例えば、毎日新聞は次のように報道しています。
【サンパウロ山本太一】反政府デモを暴力的に取り締まる中米ニカラグアの反米左派オルテガ政権に対し、国際社会の非難が高まっている。
4月以降、当局との衝突などで市民約270人が亡くなった。各国は対話による解決を求めるが、混乱は深まる一方だ。
軍や警察がデモ隊や立てこもった市民に発砲し、死者や負傷者が相次いでいる…
それで市民というのが、この写真です。
民主派
説明文は「車やバイクに乗ってオルテガ政権に対し抗議の声を上げる人々」となっています。こういうのを普通日本では暴走族というけど、山本記者には「自由を求める正義の市民」に見えるらしい。

とにかく、メディアはなんの根拠もなく書き放題です。ベネズエラと同じことが行われています。

ニカラグア政府は紛争をどう抑えたか

今の世界が本当に怖いのは、米国がやると決めた瞬間から、対象国が世界中から孤立してしまうことです。

ドルの購入やドルによる決済が困難になり、世界との通常の貿易が不可能になります。禁輸措置がとられると、ドルを持っていても医薬品すら買えなくなります。さらに通関手続きが制限されることから物資は滞留します。

それらが何をもたらすかはベネズエラで見たとおりです。経済政策の失敗という見方もあるようですが、論理的にありえない話です。

ニカラグアに残された道は唯一つ、ひたすらに隠忍自重することでした。

反政府派がいかに暴力をふるい、破壊活動と封鎖を続けようと、政府は手を出しませんでした。サンディニスタ活動家にも待機の指示が出されました。警察は暴徒の破壊行為を遠巻きに眺めるだけで、事実上為すがままにさせました。

「軍や警察がデモ隊や立てこもった市民に発砲」している写真はありません。彼らが一方的に暴れ、サンディニスタの活動家を“人間タイマツ”にしている写真のみです。

当時の「衝突」は日本大使館が詳しくフォローしています。メディアに頼らざるを得なかったので仕方ないのですが、そのほとんどは反政府の「市民」による暴行でした。

今年3月にニカラグア国内のテレビで6夜にわたって放映されたドキュメンタリー番組が、余すことなく実態を伝えています。(ただし全体に冗長で、目を背けるような映像もふくまれており、日本人向けに手入れが必要でしょう)

ただこれに警察力をもって対応すれば、相手の思うつぼになります。ここは「ならぬ堪忍、するが堪忍」です。

実はこれでネを上げたのが経営者たちでした。
道路封鎖で3ヶ月にわたり全土で産業活動が止まりました。
資本家にとっては全国で無期限ゼネストを打たれたようなものです。

結局最終的にはアメリカと資本家たちの根負けの形になりました。サンディニスタではない普通の人々が、バリケードに立ち向かうようになりました。

7月に入って徐々に道路封鎖のバリケードは解除され、暴徒たちはいつの間にか消え去りました。結局のところ、反政府派の妄動は自己破産していったのです。

反政府派への恩赦と「愛」

暴徒は数ヶ月の妄動の間に、警察官やサンディニスタ活動家など数百人を殺害しました。

普通なら一般刑事犯として処罰すべきものですが、政府はこれらの暴徒に全て恩赦を与えました。無罪ではなく無処罰です。それが反政府派との和解の条件でした。

ただすごいのは、恩赦を和解の条件として提示したのではなく、「愛と平和」というサンディニスタ哲学の基本として提示したことです。

この考えは、かつてコントラとの和平の中で打ち出された考えです。内戦中にコントラは集団虐殺など悪辣な行為を繰り返していましたが、和解にあたっては一切その罪を問わず、土地を与え職を与えました。
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このときのサンディニスタに対する信頼感が、今も国民の間に強く根付いていると思います。ニカラグアは、党派を超えてすべての市長が反核宣言をしている唯一の国です。

恩赦というのは罰しないということですが、そうではなく「罪は恕されなければならない」という考えが大事なのです。

若干宗教的になりますが、恕すというのは「愛」なしには実現できない行為です。愛の具体的な試金石です。
そこから導かれるのは、神が愛し恕すように我々も互いに恕さなければならないということです。

といっても言うは易く行うは難しい。

サンディニスタの青年と話す機会がありました。彼女も一生懸命勉強して納得したが、納得できない人もいると正直に話していました。

とにかく、このような方針と哲学を掲げた政党が国民の圧倒的支持を受けて活動を続けているという事実を、ささやかな事実ではあるけれども、大いに語っていかなければならないと強く心に刻みました。


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序文
宇土市岩古曽町に所在する曽畑貝塚は、九州縄文時代前期の最も代表的な遺跡である。

曽畑式土器の器形や文様は、朝鮮半島の櫛文土器と類似しているとされる。

昭和61年の低湿地遺跡の調査では、縄文時代前期の貯蔵穴62基が発見された。食料にしていたドングリやそれを入れた編み物製品、瓢箪などが出土している。

遺跡の位置と歴史的・地理的環境

曽畑貝塚は早くも明治23年、若林勝邦らによって学会報告されている。昭和34年には慶応大学考古学民族学研究室を中心に本格的な発掘調査が実施された。

層位的分離で九州縄文時代土器編年の実証事例となっており、下層から押型文土器一轟式土器一曽畑下層一曽畑上層一鐘ケ崎式・市来式土器へと移行する。

近隣の松橋町曲野遺跡では、旧石器時代の包含層が検出されている。
2万2千年前の「AT火山灰」層の下層に、小型のナイフ形石器・台形石器・掻器それに局部磨製石斧を有する石器群が発見されている。

宇土には弥生時代や古墳時代の遺跡も多い。熊本県内64基の前方後円墳のうち、12基が宇土半島基部に集中している。なかでも西岡台遺跡の大環濠、豊富な遺物が出土した向野田古墳が著名である。

曽畑低湿地遺跡の動植物遺体

縄文早期~前期初頭の堆積物からは、ニレ、ケヤキなどの落葉広葉樹林から常緑広葉樹林への推移がみとめられる。これにより冷涼気候から温暖気候への転換期に当たることが示唆された。

その後、約6000年前の縄文前期前半に照葉樹林時代に移行。暖温帯要素のアカガシやシイノキの優占によって特徴づけられる。

本遺跡は貝塚本体から約100m離れ、海辺の海抜約3.5m上に営まれていた。58基を数える貯蔵穴の内容物はイチイガシが殆どであった。

本遺跡出土の大型植物の特徴は、ナラ類ではなくカシ類、なかでも唯一アク抜きを必要としないイチイガシが優先していることにある。

東北日本の縄文時代に多いクリは出土しない。カヤやオニクルミもきわめて少ない。それが西南日本の照葉樹林帯の特徴を示している

弥生前期になると、自然林が破壊され、その跡地にマツの二次林が拡大し、雑草類も増加し始めた。

3体分の人骨が発見された。彼らはすべて縄文時代前期に生きていた。

以下略


この論文集では朝鮮半島の土器とのつながりが強調されているようである。
「曽畑式土器」は九州の縄文時代前期の最も代表的な土器とされるものである。
また、曽畑式土器の器形や文様は朝鮮半島新石器時代の櫛文土器と大変類似していることが指摘され、両国の文化交易を理解するための重要な貝塚とも評価されている。
果たしてそうだろうか?

隣に南九州型縄文文化が先行し、かなりの程度まで発達しているのに、なぜそちらを無視するのであろうか? 

朝鮮半島新石器時代というのは5千年ほど前に始まったものであり、それ以前に朝鮮半島に南九州縄文を超えるような水準の文化は存在していない。むしろ文化的空白期と考えるべき時期である。

6千年前に鬼界カルデラの噴火があり南九州の縄文文化は途絶した(アカホヤ時代)。しかしそれ以前の文化が曽畑を含んで成立していた可能性はないのだろうか。

南九州の縄文土器は本州北部の縄文とは明らかに様式が異なり、無文であった。しかも本州に比べ明らかに先行していた。
これらを考えれば押型文土器一轟式土器へと続く流れの端緒にあるのは南九州縄文と同根の文化であった可能性が高いのではないか。現に曽畑からは2万2千年前の旧石器遺物も発見されているが、これは南九州縄文との一体性を強く示唆する。

やや強引な推理ではあるが、「アカホヤを逃れた南九州縄文が北へ逃れ、曽畑文化を作り、さらに海を渡って朝鮮南部にまで進出した」というような可能性もあるのではないかとも考える。


みんなをずっとだまし続けるのは不可能だ

リンカーンの有名な文句に「人民の人民による人民のための政治」というのがありますが、それほどではなくても同じようによく知られた、もう一つの言葉があります。
少数の人ならずっとだませる。みんなをいっときだますことも可能だ。しかし、みんなをずっとだまし続けるのは不可能だ。

You can fool some of the people all of the time, and all of the people some of the time, but you can't fool all of the people all of the time.
というのです。

7月15日から1週間あまり、ニカラグアに行ってきました。そこで多くの出来事を経験し多くの人と接触する中で、ずっとこの事を考えていました。

リンカーンの言葉は絶対に正しいと思います。

しかし、“ずっと” というのは何時までなのでしょう。ヒトラーが政権についてから、廃墟となったベルリンで自殺するまで、世界は12年と1億の人間の死をもとめられました。

その間、世界の人口の半分は「鏡の国」、“ウソがマコトとなり、マコトがウソとなる世界”に閉じ込められました。ヒトラーは ある意味では、“ヒトラー的なもの” の代表にしかすぎません。それはいつか、どこかにか出現するのです。

いま、ラテンアメリカの数億の人々もトランプの作った「人種の壁」の向こうの「鏡の国」に追いやられ、“貧困と無知と暴虐のもとに暮らすアリたち”のように蔑まれています。

日本をふくむ「先進国」の人々は、1%の人々が “99%” を支配し貶めていることを憤っています。しかしその多くは、 “99%” たる「私たち」のなかに中東やアフリカ、ラテンアメリカの人々がふくまれていることを理解できないままでいるように見えます。

だから難民が押し寄せるとそれを害虫のように嫌い、「彼らには民主主義の一員としての資格はないのだ」と決めつけます。それは巨大な情報操作のなせる業です。

そうして作られた歪んだ「民主主義観」が、新興国とそこに住む人々への根拠のないヘイト感情をもたらします。それが結果として、「1%による支配」を補強していくのです。

私たちは今、歴史の流れに究極的確信を抱きつつも、国内外に現存するこうした無知と無関心と偏見の壁をどうしても乗り越える必要があります。この作業にはスピードがもとめられています。

連帯運動は審判する運動ではありません。それはなによりも自らが相手国の人々に学び、闘いに共感し、その教訓と歴史的意味を語り広げていく「知的運動」です。
「学びなくして連帯なし!」です。みなさんが「知性」のエンジンをフル稼働させてもらうよう期待します。


赤旗に、金文子「日韓の歴史をたどる」という連載が始まっている。

今朝の記事はその5回目で、「王后殺害事件」(1895年10月)を扱ったもの。「国権回復恐れ、勢力拡大狙った日本」という横見出しがつけられている。

以前より議論のあった高宗の后、閔妃の殺害をめぐる黒幕論である。

結論から言うときわめて明快な解答で、指揮系統のトップにいたのはときの外務大臣西園寺公望ということだ。

根拠は、西園寺の文書である。

(親日政権の成立に)内密にせいぜい尽力せらるべし

という訓令が「日本外交文書」に残されているらしい。

これだけではやや抽象的だが、発せられた日付が事件の2ヶ月前であること、それが事件の外務省側の責任者であった杉村ふかし書記官のもとめに応じたものだったということを勘案すると、西園寺の指示だったと言えるとの判断である。

そのあたりの機微は、杉村の回顧録「在韓苦心録」に記載されている。

杉村は事件の2ヶ月前に西園寺に報告書を提出している。金文子の解釈によると、杉村は王后が政権を掌握したことを明らかにした。

そしてこれを傍観すべきか、親日政権の成立に尽力すべきか、について指示を求めたという。

ということで、事件の指揮系統が外務省のトップまで通じていたことはわかった。

ただこれだけでは、この線が本線なのか、軍部と三浦梧郎の線が本線なのかはわからない。それと外務省が列強を挑発するような強硬策に走った理由が見えてこない。

明らかなのは、外務省が三浦と軍部の独走に追随したのではなく、トップの明確な意思をもって対応したことである。

それ以上はもう少し金文子さんの文章を読み進む必要がありそうだ。
この事件についてはいろいろな論及があり、その中で外務省の線は比較的軽視されていたかも知れない。

かと言って「主犯説」にまで持ち上げるのはちょっとむずかしいかも知れないが…



シャッターというのは間違いなく和製英語だろうと思っていたが、なんと由緒正しい英語であった。
カタカナ通りにシャッターと発音するとこれは「ぶち壊す」(Shatter)という意味になる。
シャターと言わねければならないらしい。

今でこそ我が家の車庫も電動式シャッターだが、その昔はおいそれと一般人が導入するようなものではなかった。

そこでシャッターの歴史を紐解くことにした。

スズキシャッターという会社のホームページに「シャッターの歴史」という年表があったので、まずはそれを利用させてもらう。ただし法令関係の記載がやたらと多いので、少し技術面に絞り込んで使わせていただく。

EXTERIOR SHUTTERS


欧米諸国でシャッターという場合のニュアンスはやや異なるようである。
そのむかしはシャッターといえばルーバーシャッター、つまり鎧戸のことを指した。最古のものは古代ギリシャの大理石製のものとされる。その後細工の容易な木製に変わった。ガラスのない時代は窓といえばルーバーのみであった。

熱帯地方の植民地に作られた屋敷では、通風性を旨とするプランテーション・シャッターが普及し、コロニアル・スタイルの特徴となった。

近代に入って窓ガラスが普及し、ルーバーの角度は可変式となり、装飾の要素が強まった。

1837年 シャッターの祖形となる木片をつづり合わせた木製シャッターがイギリスで作られる

原理的には、シャッターとは何枚もの細長い部材をすだれのように連接し、これを枠体に巻き込んだもの。

1862年 ロンドン大博覧会に木製シャッターが出品される

1872年 クラーク・バーネット(英)、スチール・シャッターの特許申請。近代シャッターの最大の目的は防火にあった。(FIRE AND SMOKE-PROTECTION SHUTTER)

1896年(明治29年) 日本で最初のシャッター(英国製)が日銀本店に取付けられる。当時は「畳込防火鉄戸」と呼ばれていた。

1903年(明治36年) 梅川鉄工所が国産スチール・シャッターの生産を開始する。

この頃から洋式建築にはシャッターなどの建築金物が輸入されるようになった。

1906年(明治39年) サンフランシスコ大地震発生。スチール・シャッターの防火性能に注目される。

1923年(大正12年) 関東大震災。日本でもシャッターの有効性が認識されるようになる。 

1932年(昭和7年) 白木屋に大火発生。これをきっかけに「百貨店規制」の引き金になる

1950年 建築基準法が施行される。耐火建築物や特殊建築物での設置が義務付けられる。

1955年(昭和30年) 軽量シャッターの導入が相次ぐ。小規模な建築物や店舗やガレージなどにもシャッターが普及するようになる。

 

考古学における気候変動論の検討
-日本列島・朝鮮半島の水稲農耕開始前後を対象として-

徳島大学埋蔵文化財調査室の端野晋平さんによる文章だ。



キーワードは縄文晩期・倭韓地方・水稲・気候・考古学と多彩だ。多彩だが、まさに皆の知りたい勘所だ。特に「倭韓地方」という発想は面白いと思う。

この手の学際的研究は、意外に根文献を探すのが難しくて難航することが多い。ネット時代とはいえ、一次資料は大都市の大図書館で検索しないと入手できない。

まずは徳島の地で、論文にまで仕上げた著者の努力に敬意を評したい。

1.炭素 14 年代が基本

過去の気候変動を暦年代に落としてくための手技としては、炭素 14 年代の較正曲線が最適なものと考えられる。

過去における地球規模での気候変動は、大気中の 14C の増減によって推定できることが知られている。

14C 量が多いほど宇宙線照射量が多く、宇宙線量の増加→雲の増加→太陽熱量の低下→気温の低下という流れをもたらす。
逆に14C が減少傾向にある時期は温暖期に相当することになる。

寒暖を推定するもう一つの方法が「風成砂丘の形成」を考古学的に証明することである。
これは寒冷化に伴う海水準低下→風成砂丘の形成という現象を発見することである。
ただし適用範囲は西日本に限定される。

2.気候学的検討の結果

上記を組み合わせて表示したのが下の図である。

北部九州の気候変化

縦軸は14C濃度であり、横軸が紀元前900~200の時間軸である。
全般にこの時期全体を通じて温暖化に向かいつつあったことがわかる。
その中で小規模な揺り戻しとして2度の寒冷期があったという時間関係だ。

黒川式、夜臼式、板付式、城之越式は九州北部における弥生土器の様式名。

著者により細かい分析がなされているが、要はBC900年から北部九州の急速な温暖化が始まり、700年ころになってそれが弥生文化(黒川式)の発生をもたらしたということだ。

その後300年ほど足踏みがつついた後、紀元前400から再び急激な温暖化が始まり、それとともに板付Ⅱ→城の越へと文化が進展していくという関係になる。

3.二段階渡来説(初期渡来)

以下の二つの段階を設定することができる。

渡来第1段階:
無文土器前期/縄文晩期中葉(黒川式期)
半島南部との交流と渡来人の存在を暗示する
水稲農耕は試行的で一般化しなかった。

渡来第2段階:
無文土器中期/縄文晩期後葉(夜臼式期)
水田遺構、農耕具、磨製石鏃・石剣、壺形土器、支石墓などが出現。

以降はやや夢見がちな論調となるため省略。


寒冷期の絶対年代は研究者ごとに様々で方法論的にも統一されたものではない。
かなりの幅をもたせて第一期:BC900~700、第2期:BC500~350 くらいに捉えておくのが無難であろう。

「二段階渡来説」は著者のオリジナルであろうが、初期渡来のメカニズムを第一期=寒冷プッシュ論、第二期=温暖プッシュ論として提示している。ただし上にも述べたように、寒冷期そのものをそこまで厳密には絶対年代化できないのではないか、という根本的な疑問がある。

火山の噴火とか断層や津波の痕跡など、より直接的な根拠があると同定ははるかに容易なのであろうが…

国際日本文化研究センター 
教授 安田喜憲
長江流域における世界最古の稲作農業」ノート

1.世界最古の土器を作った人々

最終氷期最盛期後半の2万~1万8000年前  世界最古の土器は、いち早く森林環境が拡大した長江中流域の南部で誕生した。「森の民」が、いちはやく土器づくりを開始し、世界にさきがけて定住生活に入った。

2.定住革命から農耕革命へ

稲作は長江中流域で1万年以上前に誕生した。野生イネは完熟するとただちに脱粒してしまう。しかし突然変異で脱粒性を失ったものが発見され育成された。

約8500年前 中流域の彭頭山遺跡は、確実に巨大な稲作農耕集落が存在していたことを示している。

稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴ってはいなかった。農民たちはタンパク源を野生動物や魚類にもとめたのである。

麦作農耕の起源は、晩氷期の1万2000年前とされる。

JICAニカラグアの所長あいさつ」という文章を見つけた。現場の感覚は、“独裁政権による流血の弾圧”という一部報道とはかなりニュアンスが違っているように見える。

要旨は以下の通り

所長挨拶
 名井弘美JICA所長

80年代の内戦期を終えて迎えた90年代は、ニカラグアにとって復興に向けた国造りの時代でした。

2000年代に入り、より国としての成長、発展を目指す段階を迎え、特に2010年以降は安定した経済成長を遂げてきました。

ニカラグア人は一般的に誠実且つ真面目で、一昔前の日本のような助け合い精神を有している、親日的な国民です。内戦のイメージが強い国ですが、実は治安も大変よいことに私自身赴任して驚きました。

残念ながら2018年4月に発生した政府・反政府派の対立により、一時的に治安が悪化し、これに伴い経済が悪化しています。

それは、特に貧困層、あるいは貧困からようやく脱却しつつある人々の生活を直接的に脅かしつつあります。

JICAニカラグアは、ニカラグアの良さや強みが活きる協力を展開するつもりです。



続縄文文化とは続縄文時代に北海道の各地に花開いた文化ということになる。
なにか堂々巡りみたいな規定で、独自性に基づかない規定である。

おそらく前半の恵山文化は、津軽の縄文後期文化の延長と思われ、独自の意義は薄いのではないのか。

したがって続縄文という場合、我々はもっと、続縄文中期~後期の道央低地帯に起きた特異的な文化に焦点をあわせるべきではないかと思う。

国立歴史民俗博物館の高瀬克範さんは「続縄文文化の資源・土地利用」という論文でおおよそ下記のごとく主張されているが、妥当と思われる。


1.縄文後期に共通する特徴は、縄文文化期よりも魚類の重要性が高まる点にある。

2.道央部は続縄文文化期後半期に優勢を示し、外来系の物資入手力が相対的に高かった。サケ科の利用を基軸とした経済が基盤となっていると考えられる。

3.このように比較的定住性の高い集団に隣接して、は広域に移動して物資を運搬する集団が併存していたらしい。

4.東北北部の弥生文化は平野部の稲作地帯と狩猟採集に重きをおく集団が併存していたが、弥生中期の気候激変によりが崩壊し人口が激減した。その結果、現象的には続縄文文化の分布域拡大につながった。

続縄文時代

紀元前500年 本州以南で弥生時代が始まる。陸奥(宮城・山形以北)では米作りと続縄文のハイブリッドとなる。

紀元前3世紀頃 続縄文時代が始まる。基本的には縄文から擦文時代への移行期であり、一括できるかどうかはかなり疑問がある。

続縄文文化は前半と後半、末期に分かれる。

前半期 陸奥につながる恵山式文化と、宇津内式・下田の沢式文化(道北・道東)とが並立して現れた。生活スタイルは縄文時代と共通しているが、漁労と原始的栽培(アワ・キビ・ヒエ・ソバ)の比重が高くなっていることが特徴。

紀元前後 北海道内の続縄文集落で、釣り針など少数ながら鉄製道具が使用されるようになる。

後半期 北海道全体が宇津内式・下田の沢式を引き継ぐ後北式土器に統一される。後北式は江別式とも称される。続縄文文化は樺太南部や陸奥・羽越地方、千島列島まで広がる。

5世紀 続縄文文化とは別に、樺太からオホーツク海沿岸にオホーツク文化が浸透。フゴッペや手宮の刻画もこの頃のもの。

5世紀 集落が海岸沿いから内陸河川周辺に移る。サケの捕獲が生活の主体となる。海を越えてやってきたオホーツク人(粛慎)に海岸地帯を奪われたためかもしれない。

農耕(米作りを含め)が発達しなかったのは、「気候のためだけではなく、サケがあれば百姓などする必要がなかったからだ」、という意見もある。

5 - 6世紀 本州より土師器文化が進出。これが江別式土器と接触する中で北大式土器が出現。

紀元600年ころ 続縄文時代が終わり擦文時代に入る。



時代区分というのは、どうしても先学の基準に従わざるを得ず、無批判に受け入れがちだ。しかしある程度素養を積んでくると、やはりムラムラと反骨心が湧いてくる。やはり根っからのへそ曲がりなのであろう。

縄文→弥生は良いとして古墳時代という時代区分が適切かどうかは以前から疑問に思っていた。そもそも両者を分けるカテゴリーがまったく異種なのが胡散臭い。さらにそれが飛鳥・奈良時代という首都による政治区分になっていくのは、ものさしとしての意味を根本的に疑わせる。尺貫法とメーとる法を混用するがごときである。

まあこれは言葉の問題だが、私は歴史的観点の延長から先史時代も区分すべきだと考えている。つまり人間社会の有機的構成の高度化を尺度に考えるべきだと思う。これはマルクス主義でも唯物史観でもなく、人類史として考える以上当たり前の話である。そのうえで、具体的な手がかりとなる考古学的遺物から、もっとも歴史区分を反映するものを取捨選択して、それを時代のマイルストーンとして採用すべきではないかと考える。

その意味ではトムソンの旧石器・新石器・青銅器・鉄器という区分は発想としては的確なものだと考える。しかし、そのことがトムソン分類の妥当性を支持するわけではない。



私は、人間が生き延びることができるようになった三大発明というものを想定する。それは水の利用手段、火の利用手段、そして狩りの手段である。

この3つを確保することによって、しかも集団として具備することによって、人間は他の動物に対する優位性と相対的安定を獲得できるようになった。

おそらくこれが石器時代という時代の本質的特徴なのだろう。そして3つの生活手段が多様化することで人類社会は飛躍的に発展していくことになる。

ではそれぞれについて見ていくこととしよう。

水の利用というのは貯水と運搬、そして利水(農耕)に尽きる。それについて画期となるのはツボ・カメの使用と灌漑設備だ。前者は縄文式土器と水田耕作を重要なエポックとして押し出すことになる。

火の利用というのは着火や炉の作成などの安定化技術、調理による食材の多様化、金属の精錬技術などが挙げられる。

狩りの手段は実に多様だ。だからたぶん時代区分のメルクマールにはならないだろう。中では鉄が大きな変化をもたらしたものである。狩りは農耕の発達により一旦傍流の活動となるが、その後“マンハント”、すなわち戦争が人間社会のルーチンとなるに従い巨大な発展を遂げていく。火薬の発明、飛行機の発明、核兵器の発明は人類の大量殺戮史の分岐点となっていくだろう。しかし古代の世界ではとりあえず置いといてよい。

新たな時代区分の提唱

もちろん誰も聞いてくれないことを承知の上で、言っておきたい。

まず石器時代だが、これは厳密には無土器時代というべきであろう。これに対抗するのが縄文時代だ。縄文時代も旧石器時代であることは間違いない。中国の長江文明も最後まで石器時代の基盤の上に成立していた。しかし、そのことにどれほどの意味があるのだろうか。

こうして1万年ほど前から土器時代が始まる。これにより旧石器人の生活は飛躍的に発展し、縄文人が形成される。これを縄文時代ということは妥当である。であれば、それとの対比として無土器時代を「旧」石器時代と言うことは、悪くはない。

これについで主要な社会変化をもたらしたのは、農耕文明への移行であろう。これをどう画期として位置づけるかは難しい。難しいから弥生時代としてしまう。これは便宜的であるが有効な設定だと思う。

ただ、これは縄文後期における雑穀栽培の意義を過小評価している可能性がある。稲作のみが農耕ではないことに強く留意すべきであろう。夏・殷・周の中国文明は稲作なしに出現している。それは弥生時代の到来のはるか前のことである。

これ以降には技術学的な画期は、あまり目立たない。明治維新まで、ある意味では万世一系の世界が続いているとも言える。

ただし中国を見ると、大きな変化が矢継ぎ早にあって、それに伴って社会のあり方が何度も根本的変容を受けている。

それが紀元前3千年の小麦栽培、紀元前2千年の青銅器、そして紀元前1.5千年の鉄器である。いずれも内発的、自生的な技術ではなく、おそらくは新疆 回廊を通じたメソポタミアからの流入である。

これらのうち鉄器のみが日本に社会変動の要因をもたらしている。だから弥生時代をベタで描くことは納得出来ないのだ。

その画期がいつ頃なのかよく知らないが、政治状況や戦争(大量殺戮)の発生などを考えると紀元前後のことではないかと推量している。

私は紀元550年頃、倭国滅亡と蘇我氏の全権掌握まで続くその時代を「大乱時代」、あるいはいっそ「倭王朝時代」と呼びたいと思う。

以上をまとめるとこうなる。()内が通称である。

1.無土器時代(旧石器時代)

2.土器時代(縄文時代)

3.稲作時代(弥生時代)

4.鉄器時代(大乱時代)

* 新石器時代は日本では存在しない。稲作時代の後半に青銅器(銅鐸など)が入ってきたが実用性はなかった。


私の「相続」奮戦記 2

死後手続き・相続の体験を綴る

以下は心覚えのための記録であり、ひと様に見せるようなものではないが、ひょっとして参考になるかも知れないので載せることにする。

3.闘いの幕が切って落とされた

5月7日火曜日、長いGWが明け、いよいよ戦闘開始だ。

とにかく何から何まで連休明けに集中しているから大変なことになっている。区役所には8時半についたが、そもそも駐車場が空き待ちの長蛇の列。

基本的には急ぎの仕事が3つある。健康保険と介護保険の解約が一つ、つぎに年金の解約が一つ、そしてもう一つが電話の名義変更だ。

水道・ガス・電気等は最初から私の名義だから良いのだが、その他については遅れれば違約金とか罰金とか下手すれば電話が止まってしまう。

4.医療・介護保険関連の解約手続き

健康保険の手続きは意外に煩雑だったが、これは当方の事情によるものであった。つまり1ヶ月前の3月31日に健康保険の任意継続が切れて、国保に切り替えたばかりだったのである。

4月のはじめに健康保険の事務所に行って解約手続きをして、今度は区役所で国保加入の申請をした。たしか銀行振込にするために銀行にも行って、なにか書類を書いた記憶がある。

そうして2週間ほどしてから新しい国民健康保険の保険証と高齢者医療のカードが送られてきた。その直後の死亡だった。「もうちょっとどちらかがずれてくれればよかったのに」と思ったが、「まぁその分だけ長生きしたのだから良しとしなければ」と納得させた。

意外にも、この手続は、基本的には区役所の窓口ですべて解決した。保険証と死亡届を提出し、1時間ほどで銀行の引き落とし口座を閉じてもらうための手続きが完了した。

続いてが介護保険の解約。介護保険には家族とかいうのはなくてみんな保険本人だ。したがって私の分離して保険料を変更してなどという手続きは必要ない。国民健康保険の隣の窓口で簡単に手続きを終了した。

ただし介護保険の給付に絡んでの自己負担、実費負担はたくさんある。それらはすべて銀行口座から引き落とされているのだが、在宅サービスだけで4,5ヶ所の会社が絡んでいる。こちらは基本的にケアマネのところで終了手続きをすることになっていて、私が関わる必要はない。

のだが、妻の銀行口座が閉鎖されると、その分が一斉に請求書の山となって押し寄せてくる。それは一つ一つ対応する以外にないのだ。

医療・介護保険の他に、それに追加して特定疾患の指定取り消しと身体障害者指定取り消しもある。前者は区役所隣の保健センターが窓口、後者は区役所2階の福祉課が取扱部署となる。

それぞれで返納手続きをしなければならない。ただしこの2つは、悪用さえしなければ、特に何もしなくても自然消滅するらしい。身障者に配布される「おむつチケット」はやかましくチェックされる。

なお葬祭料補助というのがあって、これは国保の一環とされているようだ。面倒ではあるが3万円もらえるようなので、一応手続きはしておいた。会葬御礼のはがきがあればよい。

しかし、今から考えれば、ここまでは最初のジャブに過ぎなかった。

BSドキュメンタリー「偽りの後見人」がすごい。
見ていてふとハメットの「血の収穫」を思い出した。「悪」が10階建てで積み上がっている。
最初にこの壁を見せられたら絶望するしかない。しかしこの絶望の城壁を、人々は「絶望しながら」登っていくのだ。
まさにハードボイルドだ。大変に塩っ辛いが、リアルで、したがって感動的だ。
いまならまだネットで全編閲覧可能なので、ぜひご覧頂きたい。

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