鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年06月

死後手続き・相続の体験を綴る

以下は心覚えのための記録であり、ひと様に見せるようなものではないが、ひょっとして参考になるかも知れないので載せることにする。

1.妻の死から葬式まで

4月27日の夜、妻の容態が急変して救急車で病院に向かったが、間もなく死を告げられた。

年齢的にはまだ若かった。だが、多系統萎縮症という病期の性格上、これから先は生きていても苦しいだけで、病期的には頃合いであったかも知れない。

飲み友達の青山君に連絡して、葬儀社への連絡を頼んだ。それから出入りのヘルパーさんの土田さんに身の回りの処理を頼んだ。

青山さんが知り合いの葬儀屋さんに連絡をとってくれ、30分ほどで霊柩車がやってきてくれた。

じつはこの葬儀屋さん、種市さんという。バリバリの活動家で、私自身も顔見知りの「民主的な葬儀屋さん」である。いわば民医連の葬儀屋版ということで、テレビドラマになってもおかしくないような立派な筋の通った営業をしている。

それはそれとして…
いまや「一人暮らし老人」となった私が自宅に妻を連れて帰ってもどうしようもないので、葬儀屋さんに一泊させてもらうことにした。

とりあえず遺体を広間に安置した後、葬式の段取りの相談が始まった。式は家族葬、無宗教というところまではスラスラと行ったが、お悔やみ欄に載せるかどうかが思案どころとなった。結局載せてもらうことにした。

今考えると、お悔やみ欄に載せたら家族葬ではないのだ。じゃあどちらにすべきだったのかと考えると、やはり載せて正解だったと思う。

80,90の婆さんならそれで良いが、69歳という齢ではまだ娑婆に色気もある。友達の何人かにも来てもらいたかろう。

それは家族葬ではなく、ただのお葬式だ。それでいいのだと納得した。葬儀屋の種市さんも飲み友の青山さんも「ウンウン」とうなずいた。

2.序盤戦の開始

翌30日(日曜日)は友引で、通夜と葬式が1日づつ後ろにずれた。別に占いを信じるわけではないのだが、焼き場の関係でそうせざるをえないのだ。実のところ、これは私にとってはありがたかった。

なにせ土曜の夜中の急死で、しかも未だかつてないという長期連休の初日であるから、お役所関係は全てストップだ。ということは葬式以外の仕事はできないということだ。

現金はなぜかあった。たまたま、まったく無関係のことで150万ほど引き出していたからだ。これも今から考えると不思議な事で、カミさんの所業ではないかと考えている。

葬儀屋の費用は170万円。不足分は後日払込となった。無宗教だと安い。戒名もお経もいらない。ムダに頭を下げる作業も省略できる。

偲ぶ会は私が病状経過を報告して、私の選んだ写真をストリーミングで流した。15分の長さで、その間ロシアのショパンたちのピアノ曲を流した。写真はダブリがあったり大きさが不揃いだったり、手作り感というかでっち上げ感たっぷりだった。

弔電を紹介し、後は全員に一輪づつお花を捧げてもらい終了。全部で30分だが、十分だった。後で皆さんに良かったと褒められた。

ただし写真の選択とスライド化は私にしかできないので、きわめてタイトな仕事となった。私がそれにかかりっきりになったのだが、青山さんが受付を、土田さんが接待を仕切ってくれてまことにありがたかった。

3.最初にして最大の教訓…日記をつけること

死亡日がGWの幕開けということと、そのGWが史上空前の長期に渡るということで、ポッカリと空白が生まれた。

29,30日で葬式が終わり、妹家族と息子家族で8人が寝起きした我が家は、5月3日には私一人となった。正確には骨と遺影があるが、これをボデーカウントするとかえって気持ち悪い。

仮設祭壇は花で埋まり、ユリの匂いが殊の外辛い。

恒例のメーデー集会、憲法記念日集会も今年は面倒だ。本屋で「死後のしごと」という新書を買って読んで暮らしていた。

その時愕然としたのだが、業務量の煩雑さと膨大さは半端ではない。本を読もうとするのだが、活字が頭の中に入ることを拒否する。目は活字の上を泳いでいる、本はボールペンの赤線で埋まっていく、しかし脳は反応しない。

このぐーたら脳にやるべき仕事を押し込むためには、音読し、書写し、ポイントとなる事実に番号を割り振るしかない。

ことの大変さに気づいた私は、ノートに書き出すことにした。今考えるとこれがどれほど身を助けたかしれない。

メモ帳では絶対に足りない。ノートは開いたら左側から書き始めなければならない。片面では足りず見開きにしなければならないことが多いからだ。

左側には問題リストを書き出す。書類や名刺、連絡先、メモ紙を貼り付ける。貼るのは便利だし、後々かならず役に立つが、貼るだけでは頭には入らない。その貼ったものが何なのか、どんな意味を持つのかを右側に手書きする。一つの資料には必ず2つ、3つの意味があるのだ。

どんなに整理された文章であっても、それはあくまで文章である。最終的にはそれを片手に現実にぶつかっていく他ないのである。その決意を育てるための文章化なのだ。

両替商(覚え書き)

室町時代末期 両替商の前身が登場する。替銭屋(かえせん)、割符屋(さいふ)などと呼ばれた。

替銭・割符は、銭の代用の役割を果たした手形・証文のこと。対象が米の場合は替米(かえまい)と呼ぶ。後に出現する為替に対し、その先駆的な役割を果たした。

土倉(どそう)は、物品を質草として担保とし、担保に相当する金額の金銭を高利で貸与した。

金山および銀山では、山師の持ち込む金銀地金の精錬、鑑定および売買を行う金屋および銀屋が出現し、金融業務を行った。

1601年(慶長6年)徳川家康、金座および銀座を設立し、慶長小判および慶長丁銀を鋳造させる。

1609年(慶長14年) 幕府は三貨の相場を定める。金一両が銀五十匁とされる。金、銀、銭(銅)の三貨制度が確立。

銭1千文を1貫文という。これが4貫あると金1両、銀50匁となる。ただし交換比率には相当の変動幅があり、時代が降るにつれ銭の価値は下がっていく。

三貨制度のもとで、手数料を徴収して両替を行う商売が登場。

両替商の中から本両替が派生する。金銀両替を中心に、為替、預金、貸付、手形の発行など広範な業務を担った。公金取扱業務にあたるものもあった。

一方、これまでの庶民金融にとどまったものは、脇両替(わきりょうがえ)と呼ばれるようになった。

江戸、大坂、京都の3都の両替商集団が頭角を現す。本両替の多くは大坂に本店を置いた。江戸は脇両替(銭屋)が多かった。

1662年(寛文2年) 大坂町奉行により、天王寺屋五兵衛ら3名が正式に幕府御用を任命される。

1670年 大阪の幕府御用商が増え、「十人両替仲間」を形成する。

1700年(元禄13年) 金一両が銀六十匁となる。ただし一般商取引では変動相場となる。

ここまで調べてきて、どうも三井というのは、江戸幕府が大阪に送り込んだ金融界の尖兵ではないかという感じもする。
その際、斬り込みにあたって、為替制度というのがどのような役割を果たしたのか、もう少し調べてみなくてはならないようだ。

同じサイトの別記事で、「三井の歴史 暖簾印を定め、両替商へ進出」というのがあり、ここに京都進出の経緯が比較的詳しく紹介されている。
しかしなぜか読みにくい内容だ。

少し解説もつけながら紹介する。

1683年、高利が両替業に進出した。

1686年には、京都にも両替店を開いた。

ここからが大事なところだが、
高利は両替店を活用した為替でも商才を発揮、江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となる。
と書かれている。しかし「両替店を活用した為替」とは何なのかわからない。そもそも両替業とはどんな商売なのだろうか。

為替業が「江戸・大阪間」に限定される形で展開されたこと、為替業者間の競争に江戸の商人が勝利した理由、「幕府の御用為替方」という肩書きがどんな意味を持つのかもわからない。

とりあえず読み進めよう。

1.上方は銀建て、江戸は金建てであったので、仕入れが行われる上方へその代金を送金する江戸では、貨幣相場や為替の動きを注視する必要があった。

ということで、「財」に3つの形態があることがわかる。すなわち米、金、銀である。これらは相互に交換されなければならないが、それは商品取引ではなく「財」同士の取引だから「両替」ということになる。

2.幕府は西日本の直轄領から取れる年貢米や重要産物を大阪で販売して現金に換え、それを江戸へ現金輸送していた。

この仕掛けには3つの無駄がある。コメを大阪で販売するための流通コスト、銀を金に交換する両替コスト、さらに金を江戸に運ぶコストである。

為替業者が間に入ると、第2、第3のコストは消失する。業者の為替手形が決済手段となり「仮想通貨」の役割を果たすからだ。

3.高利は幕府に為替の仕組みを献策した。幕府は大阪御金蔵銀御為替御用を命じた。

それがいかに良案としても、そこには権威と規模(手形の流通量)が必要だ。幕府はそれを勘案して三井に丸投げしたということになる。

4.三井両替店は大阪に江戸両替店を出店させ、幕府の為替御用方としての地位を確立。

こうして事業を成功させた高利は、65歳になって京都へ居を移し、8年後に没した。

彼にとって江戸は勝負の場所であったが、人生双六のあがりは「京」でなくてはならなかったのだろう。

これが、京都と三井をつなげる「絆」である。高利の思いは思いとして、京都の町衆が高利を仲間として受け入れていたかどうか、いささか疑問の残るところではある。

ということで「三井は京都を本拠としていた」というのはほぼウソ。功成り名遂げた三井家の始祖が晩年を過ごした隠居所くらいのところであろう。ただその子孫が京都をフランチャイズにした可能性は否定できないが…

両替の歴史、金本位と銀本位の並立、江戸と大阪の交通・運輸についてはいずれまた調べたいと思う。

テレビで祇園祭の山鉾について特集番組を組んでいた。
見ていて気になったのが、「三井は京都を本拠としていた」という話。
私の記憶では松阪出身の三井某が江戸に出て、「越後屋」の屋号で商売を始めたという話だったように思う。
それが掛売りなし、正札売りのやり方で成功したというような話だったように思う。
ただこれは三井本人の宣伝の匂いもしていて、やはり金貸しが本業ではなかったのか、着物の商いは金貸しという後ろ暗い商売を隠すカモフラージュではなかったのか、とも感じている。
もうひとつは、これは京・大阪の資本に対抗する江戸資本の代表ではないのかという印象もあった。
それが京都を代表する大店と言われると、ずいぶん話が変わってくる。
本当のところはどうなのか? ひょっとして三井自身の宣伝に騙されているのではないか?
少し調べてみることにした。

まずは「三井広報委員会」のサイトから「三井の年表」を探した。

江戸時代初期 三井高俊(三井高利の父)が妻・殊法と松阪で酒・味噌などの商いを始める

元和8年(1622) 三井家の家祖・三井高利誕生

寛永12年(1635) 高利、14歳で松阪を出立、長兄の店に奉公する

慶安2年(1649) 母・殊法の孝養のため松阪に帰郷

延宝元年(1673) 52歳で江戸本町1丁目に三井越後屋呉服店を開く

天和3年(1683) 本町1丁目店を駿河町南側へ移し、その隣に両替店を新設

元禄7年(1694) 高利、73歳で没

宝永7年(1710) 長男・高平が事業統括機関・大元方を設置

書いてあることは簡単。

1.戦国時代末期、三井則兵衛高俊という人物がいた。
彼は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めた。俗に言う「伊勢商人」のひとつである。
この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれる。
武士の子である高俊は商いに関心が薄く、家業は実質的に妻の殊法が取り仕切っていた。

2.長男・俊次は早くから江戸へ出て本町4丁目に小間物屋を開店。後に呉服業も手掛けるようになった。4男にあたる高利も、14歳で江戸の店に出て奉公した。

3.高利は故あって松坂に戻るが、52歳で江戸に出て三井越後屋呉服店を開いた。兄の店に対し分家筋ということになる。店は成功し経営は発展。やがてその長男が持株会社を創設し「三井家」を名乗ることになる。

本家筋がどうなったのか、京都の話はどこにいったのか、皆目わからない。

なお越後屋は明治のはじめに独立し、明治26年にはいったん三井呉服店を名乗るが、明治37年に三越百貨店と改称する。ようするに「三越」というのは、このときに三井と越後の頭文字をくっつけたものなのだ。

ここまでが予告編。2つの謎は次回に。

NHKニュースで沖縄慰霊祭での山内玲奈さんの詩の朗読を報道していました。
「平和の詩」と題された詩の一部だが、見事に要点を外した切り取り(編集)でした。

平和の詩「本当の幸せ」全文および動画は、下記リンクでご覧になれます。


またこの特集と並行して【沖縄戦の写真特集】も組まれています。
戦死した日本の従軍看護婦とみられる女性」の写真は、「モノ」化された10万の生命の象徴です。決して目を逸らせてはいけない「事実」だと思います。

この日、平和への思いを新たにしたいものです。

赤旗の記事で初めて知ったのだが、
投資ファンドのうち最大手のバンガード・グループはアップル、フェイスブック、アルファベットの筆頭株主となっている。
このバンガードにブラックロック、ステート・ストリートを加えた3社が世界の株式市場を席捲している。
のだそうだ。
初耳だったので調べなければとは思ったが、ついそのままにしていた。
そんなとき「資産運用3巨人」という言葉が日経新聞に載っていたのを発見した。


どうも赤旗記事はこの日経記事の引用のような気がする。とりあえず以下にその要約を載せる。

資産運用の御三家

バンガード、ブラックロック、ステート・ストリートの3社が御三家と呼ばれる。3社の株式運用額は約8兆8千億ドル(990兆円)。これは世界の時価総額(9月末)の10.4%に当たる。

東証1部の最近の時価総額が約600兆円に過ぎないことを考えれば、それがいかに凄まじい額であるかはよく分かる。

sankyotou

たとえいかに控えめな投資家であったとしても、議決権を通じた社会への影響力はもはや無視できない。

インデックス運用 投資方式の特徴
これらの投資会社は、米S&P500や日経平均株価など株価指数に連動するインデックス運用を主力としている。
のが共通の特徴なのだそうだ。

インデックス運用はコストが安いらしい。
例えばトップのバンガード社には「トータル・ストック・マーケットETF」という商品がある。
これは米国株に分散投資する一種の投資信託なのだが、その経費率が年0.04%。つまり100万円投資して、投資家が負担するコストは400円だけ。

と言われてもよくわからない。

一応、インデックス運用をめぐる最近の動きについて引用しておく。
世界の運用資産に占めるインデックス運用の比率は現在17%前後。これが25年には25%まで高まる見通しだ。
コストの最少化を目指すインデックス運用は投資先数の割にアナリストの数が限られるが、新しい運用も登場し、伝統的運用の領域を侵そうとしている。

もの申すファンド

2017年、石油大手の株主総会で異変が起きた。「カリフォルニア州職員退職年金基金」が気候変動に関する対応を求めた。
これに御三家の一つブラックロックが乗った。「企業の長期安定成長を目指し、健全な経営を働きかける」というのがその意向だった。
なぜなら最良のインデックス運用には、企業の誠実な株主対応が不可欠と考えたからだ。
こうして株主提案が続々と可決された。

運用大手三社

ほかにも、ステート・ストリートが「日本企業に女性取締役の登用をもとめる」と発表している。

それが意味するのは、単純な環境とかフェミニズムの問題ではなさそうだ。これはコーポレートガバナンスが空洞化し、ファンドが企業を支配する時代の始まりなのかも知れない。

5Gをめぐる争い  

夏目啓二さんの連載記事の最終回。5Gとファーウェイの話が中心となる。
この辺はほかの記事でも明らかにされていることが多く、新味はないが、よくまとめられているので転載させてもらう。

現状

5Gの通信規格は現行システムの100倍の通信速度を持つ。

この分野でファーウェイが世界をリードしており、世界を支配する可能性がある。

昨年8月、トランプ政権は国防権限法を制定し、政府機関でのファーウェイ製品の使用を禁止した。
さらに同盟国に対してもファーウェイの5G製品を使用しないよう求めた。

ここまでは周知の事実である。

各界の反応

EU

今年3月、欧州委員会は5Gについて協議した。その結果、米国とは一線を画し、ファーウェイ排除を見送った。

西側諸国

日・豪政府は米国に追従。英・独は目下のところ同調せず。

制裁の効果

18年度、ファーウェイは基地局の売上シェアを2%減らし、トップの座を譲った。ライバル社のエリクソン(スエーデン)が僅差でトップとなった。

しかしファーウェイは欧州・中東・アフリカ・アジア太平洋で以前トップの座にあり、しかもシェアを拡大している。

総じて制裁効果は著明とは言えない。

追加制裁

5月15日、米商務省は強力な措置を打ち出した。ファーウェイとの取引の禁止である。

これは昔のココムと同じ思想だ。政府機関ではなくすべての商取引を一網打尽とするものだ。当然同盟国へも同様の措置をもとめて圧力をかけてくると見られる。

特に後者の影響は深刻なものとなる可能性がある。

ファーウェイの年間海外調達額は670億ドルで、この内100億ドルが米国からの調達である。

100億ドルという額は必ずしも大きくはないし、他国への切り替えも不可能ではない。しかし中核的な部品、スマホの基本OSは、グーグルなど米企業の独占となっているもの多い。

これに加え、部品調達の6割を占める東アジア諸国が米国との同盟関係を重視するとなれば、影響は極めて深刻なものとなる。



ここまでが、記事の要約です。

米中摩擦の技術学的背景を知るにはたいへん役に立つ資料だと思います。

ただ、この米中摩擦がどうなるかという問題は、結局は米政府内における政治意思決定過程の問題です。それは短期的には米国の政治的力関係・景気動向に左右されると思われるので、そのへんの分析が大事になっているのだろうと思います。

具体的には大統領選挙に向けた支配層の動き、とりわけトランプ陣営、軍産複合体と並んで政治支配力を持つ金融ファンド(ウォール街)の動きが注目されるのではないでしょうか。

5Gとファーウェイ

米中摩擦の技術的背景ー中国はどこまで追い上げたか

GAFAの背後に三大資産運用ファンド

米中摩擦の技術的背景ー中国はどこまで追い上げたか

夏目さんの連載記事は本日が(中)で、3回続くことがわかった。

それで本日の話は、ハイテク面での米中摩擦がどういう局面にあるのかという話。ぶっちゃけていえば、中国のハイテクがいかにすごいのかという話だ。

それはそれで面白いのだが、この連載の主題とは少しずれた話になる。

そのことを承知した上で、話を拝聴することとする。

1.ハイテク企業の3つの分野

この記事はスクラップ・ブック並みにファクトがギチギチと詰め込まれている。これを解凍して読みやすくしようとすると、元記事の3倍位に膨らんでしまうだろう。

米中ハイテク産業の比較話に入る前に、私なりに情報を整理しておきたい。

一言でGAFAというが、業態はかなり違っている。

正確な意味でプラットフォームと呼ばれるのは、グーグルとファイスブックだろう。
グーグルは検索エンジンから始まって、アンドロイドでスマートフォンのOSを握り、クロムでメインブラウザーの地位を獲得した。しかしその圧倒的強さは検索エンジンに由来している。ブラウザーの地位は必ずしも強固とは言えない。

これに対し、アマゾンはネット通販会社であり、販売方式の斬新さによりトップの地位を獲得したが、この世界の競争は並み大抵でなく激烈である。

アップルは携帯電話(スマートフォン)で成功したハードウェアメーカーであり、技術的な優秀さよりはアイデアの斬新さとスマートさに成功の要因がある。

このように、ハイテク企業と言っても中身はものづくり、販売、「狭義のプラットフォーム」提供という3つの分野に分けられるだろう。

それぞれで米中の力関係がどうなっているのか、というより中国が如何にGAFAを追い上げているのかを見ていく必要がある。
この記事ではハードウェアに焦点が当てられ、アップルの例が取り上げられている。

2.アップルのライバルたち

4大企業がアップルとライバル関係にある。すなわちファーウェイ、オッポ、ビボ、シャオミである。

10年前、アップルは中国市場で販売1位だった。現在は5位に転落している。

フラッグシップ会社のファーウェイは、スマートフォン販売でアップルを追い越し、世界2位となった(1位はサムスン)。

3.中国企業の4大成長センター

中国には先端企業の集中する成長拠点が4つある。
北京: ハイテク系企業センター
上海: 金融系センター
深圳: スマートフォンなど製造系センター
杭州 : 電子商取引(EC)系センター

深圳のリーダーがファーウェイであるのに対し、杭州 ではアリババ集団が本拠を構える。

4.シリコンバレーと珠江デルタ

広東省の朱江河口域は多くのハードウェア系のスタートアップ企業がひしめいている。企業価値が10億ドルをこすユニコーンはこの3年間に3倍化し、70社に達している。(米国は120社)

とくに深圳市にはファーウェイ、ZTE、トランションが本拠を置き、地域に技術・ノウハウを蓄積している。

5.中国(アジア)先端企業とファンドの投資

2018年度の全世界における投資額は553億ドルであった。このうち54%がアジア太平洋地域へと投資された。これは米国をふくむ北米地域の2倍に当たる。

どこから?

米国のカーライル社がアジアファンドを立ち上げ65億ドルを集めた。ブラックストーン・グループも94億ドルを集めたと言われる。

シンガポールやマレーシアの政府系投資会社、カナダの年金投資委員会も活発に動いている。

どこへ?

アジアの企業別投資額の上位3位は中国が独占している。
1位: アリババ集団の金融部門を受け持つアント・フィナンシャルへ140億ドル
2位: 検索エンジンのバイドゥの金融部門へ43億ドル
3位: ネット金融サービスのルーコムへ13億ドル

となっている。

とりとめのないまとめになってしまったが、時間があれば別資料で補完していきたい。


米中摩擦の技術的背景ー中国はどこまで追い上げたか

GAFAの背後に三大資産運用ファンド

赤旗経済面で注目すべき連載が始まった。
「米中デジタル競争」という題名で、寄稿者は愛知東邦大学教授の夏目啓二さん。本日は(上)でありこの後下になるのか中・下と続くかはわからない。

いづれにしてもインタビューでなく寄稿ということなので、相当力の入った記事であることは間違いない。

本日の見出しは「GAFAの支配と動揺」となっている。「支配」だけでなく「支配と動揺」というのが気に入った。

以下、要旨を紹介していく。

1.はじめに

GAFAはデジタル多国籍企業である。
それは世界のデジタル産業を支配している。
GAFAこそ現代世界経済の支配者である。

GAFAの2つの特徴として、①顧客の囲い込みによる利得拡大、②投資ファンドとの結合が挙げられる。

2.囲い込みで巨利

GAFAはプラットフォーマーと総称され、膨大な顧客を囲い込むことで、巨額な利益と高い利益率を確保する。

GAFAはいづれもデジテル技術開発により規模を拡大した後、投資ファンドの注目をあびるようになった。その後、新規株式公開(IPO)を利用して資本を調達して一気に巨大化をなしとげた。

これにより新たに巨大な顧客集団が創出され、高い売上対利益率をもたらす。

こうしてGAFA経営者と投資ファンドは、高利益率と高株価を一手におさめる一握りの独占者となる。

3.投資ファンドとの結合

投資ファンドはGAFA株の時価が押し上げられることで、さらなる投資家を引きつけるようになった。

新興プラットフォーマーはスタートアップ(二軍)と呼ばれる未公開企業からスタートする。

そのうちIPOにあと一歩というめぼしい企業はユニコーン(次世代GAFA)と呼ばれ、投資ファンドはテコ入れの機会をうかがっている。

投資ファンドはプラットフォーマーに対して、一種のパトロンとしての力を急速に獲得しつつある。

4.投資ファンドの実体

投資ファンドのうち最大手のバンガード・グループはアップル、フェイスブック、アルファベットの筆頭株主となっている。

このバンガードにブラックロック、ステート・ストリートを加えた3社が世界の株式市場を席捲している。

彼らの持ち株総額は990兆円と言われ、そのうち500兆円をGAFAへの投資が占めている。

ここに今日の世界的な所得格差と資産格差の実態が厳然と示されている。

5.GAFAのゆらぎ、それをもたらしたもの

この強固な覇者連合のうち、GAFAの側に揺らぎが出ている。ここに現在の経済覇権をめぐる混乱の原因がある。

GAFAの18年通年利益(税引前)は合計で約15兆円だった。しかし売り上げ対利益率は6年前に26%だったのが20%にまで低下している。
この低下傾向はかなり確実な傾向(超過利潤の低下)であり、GAFAによる世界経済支配が揺らぎつつある兆候である。

「利潤率の低下傾向」は一般的なものであるが、直接的には強力なライバルの出現によりもたらされる。

それは具体的には中国のプラットフォーマーである。彼らはGAFAに倣ってBATHと呼ばれる。
すなわち、バイドゥ(百度)・アリババ・テンセント・ファーウェイの4企業である。


ヘーゲルの政治経済学の研究 

これは「現代倫理の危機」 牧野広義、藤井政則、尼寺義弘 (文理閣2007年)
の第8章 「ヘーゲルの政治経済学の研究」(尼寺義弘)の読書ノートである。



諸欲求とこれら諸欲求の満足はいかにして実現されるか。それらを律する諸法則とは?

Ⅰ.欲求・労働・享受の理論

労働は土地(自然)と並んで、市民社会の富の源泉である。それは古典経済学の中心概念である。

ホッブス
コモンウェルスの栄養は、生活諸素材の豊かさと分配にある。それらは労働によって生産され加工され輸送され分配される。
神は生活諸資材を惜しみなく与えているのでそれを受け取るために労働と勤勉以外のものは不要である。

ヒューム
この世のものはすべて労働によって取得される。そのような労働の唯一の原因は私たちの情念である。

アダム・スミス
労働はあらゆる事物に対して支払われた最初の「本源的な貨幣」だった。あらゆる富が最初に取得されたのは、金や銀によってではなく労働によってであった。

ヘーゲル
労働は自然が提供する素材を、多様な過程(手段)を通して「特殊化」する。
労働の過程(手段)が多様なのは、特殊化への動機が多様だからである。
この「特殊化」に当たり、労働の過程(手段)には合目的性と価値が付与される。
このとき同時に、(生活の)素材は、主として人間の生産物から構成される素材となる。(法の哲学 第196節)

ヘーゲルはイギリスの政治経済学を取り入れた最初の(ドイツ古典)哲学者であった。
彼の最大の理論的功績は、欲求、労働(生産)、享受(充足)の連関を社会の根本的な連関として剔出したことにある。すなわち人間(諸個人)は欲し、労働し、労働することで享受するのである。

欲求・労働・享受という3つの行動は、主体的・人間的な実践である。
そこでは労働(人間的諸力の発揮)は普遍的契機であり、享受は個別的契機であり、欲求は特殊的契機を形成する。
労働は欲求により具体性を与えられる。労働は欲求と享受という個別行為を全体へと結びつける媒辞となる。

Ⅱ.直観と概念

ほとんどがむだ話。省略。

Ⅲ.道具と機械

…分業が発展すると、労働のスタイルも大きく変化する。

対象に全体として立ち向かっていた労働が分割され、個別労働となり、それらの諸労働は多様性を剥奪される。

かくして労働はより普遍的なものとなり、それと同時に全体性に対し疎遠なものとなる。そしてますます機械的なものとなる。

機械的労働のさらなる機械化は、労働を多様性のないまったく量的なものにする。それは将来的には、労働を機械に置き換え、労働者を分離するだろう。

同時に、労働過程の全体概念が主体の外部に定立されることによって、「道具は機械へと移行する」のである。

この機械化は人間の解放を可能とする基礎をふくんでいる。

これに対し、アダム・スミスはもう少しリアル(悲観的)な見方をしている。

分業は知的な、社会的な、軍事的な美徳を破壊する危険がある。これを防ぐには政府が何らかの労をとる必要があるし、「民衆の教育」が必要となってくる。

Ⅳ.全面的依存の体系

アダム・スミス
分業社会が確立されると、人々は欲望の大部分を交換活動によって満たすことになる。社会は商業社会となる。
商業社会は全面的依存の体系として成立する。そこではすべての個人が市民社会の一員として、「私的人格」を身にまとって行動する。
彼らは互いに無関心で利己的に振る舞っている。

しかし社会には一定の規則があり、経済的な「掟」として諸個人を縛っている。

市民社会の掟

① 市場の掟

剰余生産物の所有者はそれを貨幣化しようとして市場におもむく。しかしこの剰余が販売できる保証はない。
彼の運命は「無縁な力」に依存している。それは剰余物の価値、すなわち総欲求と総剰余の相対関係である。

② 自然価格と市場価格

この点について、アダム・スミスは揺れ動く市場価格の基盤に、しっかりとした自然価格というものを想定する。これが「見えざる手」の実体的な基礎となる。
自然価格は市場価格を通じて発現する。すなわち諸欲求とその充足との「無意識的で盲目的な全体」として現象する。
ヘーゲルはさらに議論を進め、自然価格が剰余の普遍的な性質に媒介されたものであり、かなりの程度で実定可能だと主張する。

普遍的なものはこの「無意識的で盲目的な運命」を把握し統制できるはずであり、そうすべきであると考える。
そして、より積極的に政府が介入すべきだと主張する。

③ 価値と価格、そして貨幣

市民社会において占有は所有となる。社会により財産の神聖不可侵が保証されて、初めて真の「市場」は成立する。

所有権という権利がもののうちに反映されると、物は他の物との間に「同等性」という性質を獲得する。これが「価値」である。

これに対し、所有権を介さない経験的な同等性は「価格」として示される。

市場に持ち込まれた「剰余」は、その所有者を通じて、すべての剰余への可能的な享受と向き合う。
それは市場において、普遍的な欲求の一形態として立ち現れ、貨幣と呼ばれる。

貨幣はそれ自身が必需品であると同時に、すべての必需品の抽象態であり、媒介である。
貨幣の媒介作用を基礎にして商業活動が成立する。

貨幣は普遍的な交換能力であり、その普遍性は「労働の普遍性」に基づいている。したがって貨幣は「労働の媒辞」であり、たんなる一般的な交換手段ではない。


この際、高齢者ドライバーの一人としてはっきり言わせてもらう。
事故の本質は「高齢者事故」ではなく、「自動車の暴走事故」だ!
1.高齢者事故の原因はブレーキとアクセルの踏み間違いではない!
2.事故の原因はブレーキをかけることができなかったためだ!
この2つは明らかに違う。1.の場合はドライバーの責任だ。しかし2.の場合は自動車の欠陥による。すなわちメーカーの責任だ。

以前、車には3つのブレーキがあった。
AフットブレーキとBエンジンブレーキとCハンドブレーキだ。もう一つ、ブレーキではないが、Dクラッチを切るという逃げ道もあった。
いまBもCもない。Bがなくなったのはオートマになったから仕方がないが、Cをなくしたのは自動車会社だ。
かくして、一度踏み間違えたら対応の手段は消滅する。失敗してしまったらもうそれをカバーする手段がない。こういうのを非可逆的・致命的欠陥というのではないか。
せめてパーキング・ブレーキの使い方を自動車学校で指導すればもう少しなんとかなるかもしれないが、教えている気配はない。

つまり自動車会社は自動車を欠陥品へと改造したのだ。その安全軽視の思想が「踏み間違い」という「制動失敗」事故を多発させているのだ。これは自動車会社による「未必の故意」と言わざるを得ない。

メディアはもっと事故を分析してほしい。「踏み間違い事故」は、「高速道路の逆走」とは別の範疇の事故のはずだ。それは統計をとるまでもなく、決して高齢者に特有の事故ではないはずだ。

ハンドブレーキを廃止した自動車会社の責任をもっと厳しく追求すべきだ。


どうも思ったような記事が拾えない。考古学会からはあまり積極的な発言がないようだ。
とりあえずメモ程度に記録しておこう。

約10万年前の最終氷期から紀元前8000年頃まで現在より海面が130mほども低かったため、東シナ海の大部分は陸地であった。
最終氷期最寒冷期(LGM)でも日本列島とは対馬海峡(最深部240メートル)によって隔てられていた。
LGM

朝鮮半島と九州 の両側で剥片尖頭器が発見されているが、朝鮮半島のもののほうが古く、朝鮮半島から九州 に流れたと考えられる。

BC6000年  満州南部の遼河流域で遼河文明。櫛目文土器などが出土(興隆窪文化)。
遼河文明は黄河文明や長江文明とならぶ古代中国文明と考えられている。ただし文明の担い手は漢民族ではなくハプログループN (Y染色体)系統の民族であったとされる(根拠不明)。

BC6000年頃 縄文海進が進む。海面が今より2-3メートル高かった。朝鮮海峡の拡大により対馬海流が黒潮から分流。

BC6000年 半島南部から隆起文土器が発見されている。隆起文土器は南九州文化の中核であり、鬼界カルデラの噴火のあと隆起文人の移動があったと推定される。

BC5000年頃 長江下流域で最古の稲作(河姆渡文化)。

紀元前4000年ころ 海面上昇により大陸棚の沿岸部は海中に没している。これにより朝鮮半島の独立性が確定する。

紀元前4000年頃 朝鮮半島に櫛目文土器が出現する。(ソウル岩寺洞遺跡)

紀元前1500年頃、遼河流域に夏家店下層文化。支石墓、無文土器や大規模な住居を特徴とする。

紀元前1000年頃 朝鮮半島に無文土器と支石墓が建造される。遼河文化の影響を受けたものと考えられるが、厳密な連続性は確認されていない。

紀元前1000頃 朝鮮半島北部で箕子朝鮮が登場(中国文献上)。首都は王険城 (現在の平壌)

紀元前900ころ 朝鮮半島南部で縄文土器が発見。水田耕作はじまる。

紀元前800ころ 中部で無文土器文化が発展。青銅器も導入される。松菊里文化と呼ばれる。南岸部は様式を異にし、多数の支石墓が造られた。

紀元前700 北九州で縄文水田(菜畑遺跡)

紀元前500年頃 海を越えて半島南西部に米作集団が入植。水稲栽培が開始される。初期の渡来人は「難民」的性格が強かったとされる。

紀元前300年頃 無文土器時代の終末と鉄器の出現。

前195年頃 衛満が箕子朝鮮を滅ぼし衛氏朝鮮を建国する。


満州ブログさんのページでとても面白い記事を見つけた。

1.朝鮮半島の無人時代

朝鮮半島では、旧石器時代と櫛目文土器時代の間に、大きな断絶がある。

12000年~7000年前の間の約5000年間、朝鮮半島では人の住んだ形跡が認められない。

ただし済州島では1万年~7千年前のものとされる高山里遺跡が存在している。この遺跡では南九州縄文の由来とされる隆起文土器や有舌尖頭器が見つかっている。

2.隆起文人(南九州縄文)の朝鮮半島進出

7200年前、鬼界カルデラの噴火のあと、隆起文土器は朝鮮半島の南・東南の沿岸部にも現れる。これが、朝鮮本土の最古の土器である。

同時代の日本列島の土器に比べて様式が古いため、済州島の隆起文人が渡来した可能性が高いとされる。

3.櫛目文人(ウラル系文化)の朝鮮半島進出

6000年前、朝鮮半島の北側から別の土器(櫛目文土器)が伝わり、朝鮮半島全土に広がる。

これはウラル山脈の文化に由来するもので、同じ土器文化はスカンジナビア半島にも広がっている。

一説では、このウラル系人はY染色体のハプロでN型とされている。

4.櫛目文人と隆起文人の融合

おそらく朝鮮半島において櫛目文人と隆起文人の融合があったであろう。

その融合文化(櫛目文の優勢)が九州 に逆輸入されて轟B・曽畑式土器が作られるようになったと考えられる。

この融合をになった人々が、やがて縄文晩期人に移行していくのではないだろうか。

この一連の過程は、Y染色体ハプロのドクトリンから見て、きわめて説得力のある論理である。


曽畑式土器

以下はウィキペディアからのもの

縄文時代前期の曽畑貝塚(熊本県宇土)から出土した土器。

鬼界カルデラ大噴火後に始まった文化とされる。
朝鮮半島の櫛目文土器とは表面の模様のみならず、粘土に滑石を混ぜるという点も共通しており、櫛目文土器の影響を直接受けたものと考えられている。
遺跡そのものは南島系海人族のものであり、櫛目文土器の造り手であるウラル系民族から製法を学んだのではないかとされる。

南九州縄文文化との関連(私の感想)

「南島系」という表現にはかなりの違和感を感じる。

鬼界カルデラ大噴火は約7,300年前とされており、それまでの間に南九州にはかなりの規模で縄文文化が確立していた。この南九州人はもともと日本列島にいた旧石器人の流れの上にあり、寒冷期(2.5万年~2万年前)に南下してこの地域に住み着いたと考えられる。

この文化はほぼ絶滅してしまうのだが、その一部は北九州に移動して本州から浸透してきた縄文文化と合体したと思われる。これに半島系の人々が交わっている可能性もある。そうして縄文晩期人が形成されたのではないか? と目下のところは考えている。

櫛目文土器と縄文式土器

ゲノム解析による日本人論がたくさん出てきている。そのなかで①旧石器人が縄文人になっていく過程、②縄文晩期人の由来、がいろいろ議論になっているようだ。

そこで鍵となるのが、南九州にいち早く開いた“縄文文化”の位置づけだ。彼らを縄文人と呼んでいいのか、それとも朝鮮半島の影響を受けたものなのかという問題がひとつある。

片方では出口問題、鬼界カルデラの噴火で一旦南九州の文化が消滅した後、彼ら(の残党)が北九州に移動した可能性があるのか、もし移動したのだとすれば、彼らが縄文晩期人を形成したのではないかという問題がある。

そこで議論となるのが、南九州人の土器が朝鮮の櫛目文土器ではないかという主張である。

櫛目文土器土器時代は1万年前に始まり、3500年前まで続いたという。その後、無文土器時代へと移行し、これが紀元300年まで続く。

横並びにすれば櫛目文土器が縄文に一致し、無文土器が弥生土器に一致することになる。

しかし東北の縄文式土器も南九州の土器も1万年以上前に始まっており、少なくとも櫛目文土器が縄文に先行しているとは言い難い。

率直に言って、Y染色体やミトコンドリアDNAの理論とも、考古学的年代とも整合しないように思えるが、まずは少し主張(ウィキペディア)に耳を傾けてみよう。

櫛目文時代の亜区分

前期 8000~5500年前

漁労や狩猟が行われた。後半期には大規模な貝塚。竪穴式住居で半定住的生活。

櫛目文土器が出現するのは6000年前からであり、意外に遅い。最古のものは遼河文明から発見されており、北から流入した文化と考えられる。

当時の朝鮮半島に居住していたのはY染色体ハプロのNに相当する。これは縄文人の源流であるナウマン人(C1)、マンモス人(D2)に比べ遅れてアジアに到着した人々である。

中期 5500~4000年前

中心は漁労や狩猟。雑穀などの栽培が始まる。

後期 4000~3500年前

えらく短いが、なにか意味のある区分なのだろうか。

この後、ウィキペディアに問題の記載が出現する。
縄文時代前期に日本列島の九州から南西諸島まで広まった曽畑式土器も、朝鮮の櫛目文土器の影響を強く受けた。
他にも朝鮮半島に起源をもつ「結合式釣り針」や「隆起文土器」、「鋸歯尖頭器・石鋸」など共通する文化要素が見られる。
ということで、曽畑式土器と言われると「なるほどそこから来たか」とおもうが、かなりの変化球ではある。

曽畑式土器については次の記事で触れることにする。

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