鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年04月

アメリカの金融力が強化された理由は、リーマンショックで焼け太りしたことだ。 
FRB資産の推移
          2019年4月27日 日本経済新聞
まず連銀はこの10年間で4.5兆ドルのドルを発行した。500兆円、日本の5年分の予算と匹敵する。
これだけドルを乱発すればインフレになるのが普通なのに、まったくそのようなそぶりもない。
結果として米連銀は大金持ちになってしまったわけだ。
見えないインフレ
これは世界経済にとって何を意味するか。換金可能な現金・有価証券が世界に溢れ、その結果、物質財に対してアメリカ以外の国の持つドルは目減りしたことになる。見えないインフレだ。
不況に加えてインフレが襲えば、経済困難はますます耐え難いものとなる。

実体経済の正常化を阻害
金融構造の正常化は始まったが、実体経済の正常化は進んでいない。
下振れ圧力は軽減されないままで、なかば構造化されている。
企業が長期にわたり設備投資を手控えてきた結果、生産性が低下して経済全体の活力が落ちている。
成長率の低下により、低金利が構造化されている。
労働市場は完全雇用に近づいたにもかかわらず、賃金上昇率は低いままである。この結果インフレ率も上がらないままで推移している。

ドルは実体経済にとって「麻薬」
つまりドルは溢れているが、ユーザーサイドでは欠乏感が支配している。ドルなしでは生きていけないのに、「もっと多くのドルを」と望めば、それはますます自分の首を締めることになる。
まさにドルが麻薬化しているのである。こうなるとドルの需要は底なしとなり、アメリカのドル支配は絶対的なものとなる。
魔法使いの弟子がホウキに水くみを命じて、それが止まらなくなってしまったような恐怖感を感じる。

国債決済通貨とドルの切り離し
ドルの麻薬化は資本主義経済と国際金融システムにとってなかば宿命である。これまでは実体経済における決定力と、覇者としての節度によって金融秩序がかろうじて保たれてきたが、10年間で500兆円という巨額のドルが垂れ流されたのでは溜まったものではない。コカインを通貨代わりに使うようなものである。
かってケインズが夢見て果たせなかった国際決済通貨「オーロ」の実現に向けて一歩を踏み出す以外にはないだろう。


田中宇さんのブログを読んでいて、どうも話が良くわからない。目眩いがしてくる。

軍産の世界支配を壊すトランプ - 田中宇 その他

これはどうも、私が「軍産複合体」の定義を曖昧にしたまま話を勧めているからだと気づいた。

すこしウィキペディアその他で基礎勉強をしておくことにする。

軍産複合体(Military-industrial complex)とは、軍需産業を中心とした私企業と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念である。

この概念は特にアメリカ合衆国に言及する際に用いられ、1961年1月、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が退任演説において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を告発したことにより、一般的に認識されるようになった。アメリカでの軍産複合体は、軍需産業と国防総省、議会が形成する経済的・軍事的・政治的な連合体である。

軍産複合体の概念を広く知らしめたアイゼンハワーの退任演説は1961年1月17日に行われた。なお、演説の最終から2番目の草案では、アイゼンハワーは最初に「Military-industrial-congressional complex(MICC)、軍産議会複合体」という概念を用いて、アメリカ合衆国議会が軍事産業の普及で演じる重要な役割を指摘していたが、アイゼンハワーは議会という語を連邦政府の立法府のメンバーを宥めるために削除した。
いわゆる「レーガン革命」は軍産複合体の優位性を建て直した。ジョージ・メイソン大学のヒュー・ヘクロのいわゆる「防衛官僚により聖別されたアメリカの展望」でロナルド・レーガンは、1980年代から共和党の合い言葉になり民主党の大半も同様だったやり方で、国家と国家の安全の状態をプロテスタントの契約神学の覆いの下に隠した。
ブッシュ家は、軍産複合体を生業としてきた。第43代大統領の曽祖父サミュエル・ブッシュはオハイオ州で兵器を製造していたバッキー・スティール・キャスティング社を経営していた。
祖父のプレスコット・ブッシュは東京大空襲の焼夷弾E46の製造社に関与していた。
父ブッシュはCIA長官、副大統領、大統領時代において、海外との兵器貿易を押し進めた。

冷戦終了後の1990年代、兵器メーカーは議会工作を強めた。献金を受けたタカ派シンクタンクが仮想敵国の軍事的脅威を強調した。

有力なロビイストが国防関係の議員達に働きかけるようになった。1997年だけでもロビー活動費として5,000万ドルが費やされ、870万ドルが1998年にかけての選挙資金として提供された。
レーガン政権時代には、多くの反対を押し切って「スターウォーズ計画」が進められた。15年間に550億ドルの巨費を投じられたが、具体的な兵器は一切完成しなかった。
1990年代、ホワイトハウスは「イラン」「イラク」「北朝鮮」の3カ国を「ならずもの国家」と名指しし、他に、「スーダン」「シリア」「キューバ」などを敵視した。これは多大な軍事費を引き出すための呼び水となった。
2001年の9・11同時多発テロのあと、アメリカの軍事費は一気に増額し、国防総省の総予算は3,750億ドルに膨れ上がった。
アフガニスタンとイラクでは、主戦闘以外のあらゆる侵攻作戦上の業務を米国の民間会社へと委託するようになった。戦争そのものが新たな産業として確立した。
新型兵器の開発も一段と進んでいる。F-22「ラプター」戦闘機や「ジョージ・H・W・ブッシュ」、「ジェラルド・R・フォード」原子力空母が新たに配備された。防衛研究費だけでもGDPの1.2%に上る。

21世紀になると、軍産複合体という概念は米国のそれに対する固有名詞となった。

軍事産業は巨大な労働市場を提供するようになった。四軍の基地も有力な就職先を提供しており、議員選挙時の支持票とも密接に結びついている。
ユダヤロビーについてはここでは省略する。
下記記事を参照されたい。


ということで、古典的にはアイゼンハワーの時代から続いていることになっているが、現実的に目に見える存在となったのはレーガンの時代からだということで、意外に新しい事象なのだ。

レーガンというのはただの見栄えの良い置物で、実体としては父ブッシュが仕切っていた。だから実質的には2期勤めたようなものだ。

この時期はさきに上げたキッシンジャー、ベーカー、シュルツ、ヘイグらの国務長官と時節を合わせている。クリントンが2期勤めた後、子ブッシュが政権を取ると副大統領にチェイニーが就任し政権を牛耳った。

政策的には幅があるものの共和党の中でも右派に属する集団であろう。固まった機構とか社会構造というよりは、政治的ムーブメントであり、しかも“欲と二人連れ”といってもおかしくないくらい利権色が濃厚だ。日本でいうとかつての「原子力ムラ」がそれに近い存在かもしれない。

田中宇さんはボルトンは「タカ派」であって軍産複合体の主流ではないとしているが、歴代国務長官がボルトンを推薦しているという事実は受け止めておくべきだと思う。やはりそれはシステムと呼ぶべきではないだろうか。

ということで、国務省官僚出身者と共和党の右派政治家を頂点とし中央・地方の軍事関係者、さらにユダヤロビーや南部プロテスタントなどを巻き込む、巨大な反共と利権の集団であり、民主党といえどもうかつに踏み込めない領域になってるものと予想される。(民主党版の軍産複合体もある)

とりあえず上記のごとく把握した上で、田中さんの記事を読むと、どうも少しづつ枠組みがずれて居るような気がしてくる。これがめまいの原因だろう。

ラニアケア超銀河団 Laniakea Supercluster
ただのウィキペディアの要約です。

2014年に新しく提唱された超銀河団。
Laniakea は、ハワイ語で天空を意味する laniと「広々とした」を意味する akea に由来する
Observable_universe_r
           ウィキペディアより
直径5億2000万光年の範囲に、およそ10万個の銀河を含んでいる。質量は約1017太陽質量に及ぶ。これは天の川銀河の10万倍に相当する。

天の川銀河が属する局部銀河群やおとめ座銀河団もその一部である。

重力による拘束を受けていないため、いずれ分散されてしまうと予想されている。

ラニアケアは4つの子領域に分けられる。
その一つがおとめ座超銀河団である。
銀河系(天の川)はおとめ座超銀河団に内包される。

超銀河団の中では、多くの銀河が、重心の方に向かっており、グレートアトラクターと呼ばれる。

ラニアケア超銀河団はシャプレー超銀河団の方向へ向かっているように見える。おそらく両超銀河団は、より大きな構造の一部分であると考えられる

赤旗の「残念でない 生き物たち」の連載が終わってしまった。残念だ。

結構、読み流してしまったが、貴重な話がたくさん聞けたような気がする。

本日の話題はワニ。以前にも北大の先生の記事を紹介したことがあるが、正直のところいまいちストンと落ちたという感じがしなかった。「二足歩行」の話はそのご確認が取れていない。

今回の話はまったく系統性はなく、数百字の中にいかに多くを書き込むかという性格のものだが、さすがプロだけあって聞き所満載だ。

以下個条書きしておく。

* かんたんに変温動物というが、なかなかきつい。暑いときの体温は40度を超える場合もある。

* ワニは爬虫類だが、岸辺以外の場所を歩くときは、爬(は)って歩くわけではない。堅い地面では胴体を持ち上げ、“シャキン”とした姿勢で歩く。急ぐときは犬と同じ走り方をする。(見てみたいものだ)

オーストラリアワニ(別名ジョンストンワニ)は、体を持ち上げて飛び跳ねるようにして走る。速度は最高で時速60kmに達する。

* ワニは極端な少食である。同じ体重の鳥が必要とする十数分の一の食物で生きていける。

* ワニには高度な社会性がある。獲物の捕獲も協力し、捕らえたあとは分け合う。自分の子でなくても救援に乗り出す。

* ワニはもともと恒温動物で、足は胴の下についていて、皮膚には羽毛が生えていた。変温動物となったのは一種の適応である。
Giant Gator Walks Across Florida Golf Course | GOLF.com

熱帯で、襲われる恐れがないほど強力で凶暴なら、それでもやっていける。それで大胆な省エネを実現できるならそれに越したことはない。

以前にも述べたが、鳥の脳というのは最も優秀な脳である。
容積あたりの能力は人間の1千倍くらいはあるのではないだろうか。
なぜそれだけの容積あたり能力が実現できたかというと、長年かけてじっくり進化してきた正統派の脳だからである。それは汎用型コンピュータではなく、それぞれの機能が独立ユニット化されている。軽量小型化できるのである。
人間の脳の80%は電線だ。しかも被覆電線だ。「複雑な回路を通って処理されるから、高度な判断が可能なのだ」というが、それは負け惜しみに過ぎない。
こういう不様な脳になったのは、恐竜が絶滅したからだ。日陰に隠れ、夜に手さぐりで活動していた哺乳類がほりだされ、いきなり主役のバトンを引き継いだからだ。
しかも哺乳類の中でも最も原始的だったモグラやネズミの属から、樹上生活を送る霊長類が出てきて哺乳類のトップになってしまう、という二重の混乱があって、そのなかでホモ様が抜け出してきたのだ。
人間の脳はもともと王者になるようにはできていない。応急措置や増築・改築を重ねてとりあえず鳥並に使えるような脳になった。それがエレクトスになって言語能力が発達したから、他の種と隔絶した力を身につけるようになったのだ。人間の力の源は言葉なのだ。

人間は謙虚にならなければならない。日本が飛躍的に発展したのは明治維新の後と第二次大戦の敗戦の後の2回だけだ。そのとき日本人は謙虚になりひたすら学んだのだ。
「クール・ジャパン」などとひとりよがりしていても進化はない。

2012年08月13日 赤旗「ベネズエラはいま」を読む
いまどきこの記事を読んでくれる方がいました。
なかなかものが言いづらくなっている今、心より感謝します。

 いまは「世界史の回転軸」について考えています。
一方におけるトランプや右翼のゴリ押し、他方における地方選挙と民主勢力の伸び悩みという状況のなかで、「だれに依拠し、どう戦い、どの方向に展望を切り開いていくのか」という変革者の視点がますます必要になっています。

答えは明らかで、「民衆に依拠し民衆のために闘うこと、そして民衆にとって望ましい目標を提起すること」です。

階級闘争が激化すればそこにはバリケードが形成されます。
そのとき、バリケードを挟んで対峙する2つの勢力のあいだで自分がどちらにいるか、自分の居るべき場所はどちらか、そこを見失ってしまったのでは話しになりません。

それは何よりも鍛えられた皮膚感覚と階級感覚が決めることです。五つ星のホテルに泊まりながらバリケードの向こう側を語ることはできません。

捲土重来を期しローマを脱出しようとしたペテロにイエスは問いかけます。
「クオ・ヴァディス、お前はどこへ行くのか?」

そしてイエスは自ら応えます。
「君は去れ、私は向かう」
若い人には勧められませんが、余命いくばくもないジジババにはずしんと応える呼びかけです。

米中通商戦争はエネルギー戦争

米中通商戦争はエネルギー戦争としての側面も持っている。

中国が今後発展していく上で最大のネックとなっているのがエネルギーである。
20世紀末までは時代遅れの石炭でしのいできたが、それはPM5となって自分の首を絞めるようになった。
中国エネルギー
       中国における一次エネルギー消費量の推移
中国は原油の確保をめぐって悪戦苦闘を続けてきた。南シナ海の海底油田はその一つだ。
米国は逆に原油供給先を潰しにかかってきた。イラン、リビア、ベネズエラへの干渉は中国に対する兵糧攻めだ。

石油からどこへ?

一方で、フクシマ以来原子力への芽が絶たれたことから、「石油に代わる未来のエネルギーは何なのか?」が問われるようになっている。

私がこの間勉強してきた感じでは、それは自然エネルギーをベースロードとし、LNGで増減を調整するミックス電源となるだろう。

自然エネルギーは、あれもこれもの夢物語ではない。広大な大陸では風力、人口密集帯では太陽光だ。これに揚水発電・省エネが組み合わされることになる。

蓄電池や液体水素などの話はその次の世代の話となる可能性が高い。

いずれにせよLNGの確保が死活問題

原油と違ってエネルギーの全てではないが、LNGの重要性は死活的なものとなる。
しかしパイプラインをふくめるとLNGの初期コストは相当なものとなる。EUに対するロシアの恫喝を考えると、政治コストも高価なものとなる。
そして今後LNG最大の供給先となりそうなのが、半ば無尽蔵のシェールガスをかかえる米国だ。これに対して最大の輸入国となりそうなのが中国という構図になる。

どうやっても中国はエネルギー不足という呪縛から逃れられそうにないのである。

ジョン・ボルトンと彼を支える「システム」

はじめに

前回、ハノイの米朝首脳会談が潰れたとき、テレビのニュースを見ていて、「アッ、こいつが潰したんだな」とかんじたので、なんの論証もなくそのまま文章にしました。

それが以下の記事です。
この話には伏線があって、第一回目の首脳会談のときにも妨害活動の先頭に立ったのがボルトンだったのです。
それについて書いたのが下記の記事です。

私の第一感は正しかったようです。まもなくニューズウィークがそれを裏付ける記事を組みました。それが下記のものです。

ハノイのボルトン
  1日目の会談に出なかったボルトンは突如2日目に会談に姿を表した
ボルトンは、ハノイでの27日夜の夕食会には出席しなかった。
米朝会談の2日目、突然ボルトンがこれみよがしの席に着席した。会談の準備を進めてきたビーガンは後方席に座った。
周知の通り、その後会議は流産した。トランプは本気で会議を成功させようとしたのに、どうしてか。

韓国統一部元長官がこう語っている。
会談2日目の28日朝の時点では「ほぼ100%楽観的」だった。
しかし土壇場になって、ボルトンが「核兵器だけでなく、保有する生物・化学兵器についても報告義務を課す」と言い出した。
この結果、会議は合意に至らなかった。

ニューズウィークは不思議なことにそれ以上は掘り下げず、もう一つの謎に迫ろうとしない。「なぜトランプはボルトンのちゃぶ台返しを許したか」を書いていない。しかしそれは明らかに取引だ。

米朝交渉の流産と、ロシア疑惑追及の中止をトレードオフするという取引だ。現にロシア疑惑はうやむやに幕引きされようとしており、トランプ再選の芽すら出てきた。
それをできるのはFBIにこれ以上の追及を思いとどまらせる力を持った「システム」だけではないか。ボルトンはその「システム」の尖兵と考えるべきであろう。



今後のこともあるので、この際ボルトンについてのまとめ記事を掲載します。

1.ボルトンの経歴と実像

ウィキペディアによれば
ボルトン(John Robert Bolton)は1948年ボルチモア生まれ。
1970年にイェール大学を卒業、1974年イェール・ロー・スクール修了。
高校時代からゴールドウォーターの選挙運動に参加するなど保守派で、転向者という意味でのネオコンではない。親イスラエル派、親台派の代表的人物と見なされている。
ヘルムズ上院議員の補佐官を経て国際開発庁および司法省に勤務した。クリントン政権期は保守系シンクタンクに在籍し、クリントン批判を続けた。
2001年、ブッシュ政権によって国務次官(軍備・安全保障担当)に任命された。金正日を「圧政的な独裁者」と呼び、北朝鮮で生きることは「地獄の悪夢」などと発言した。北朝鮮はボルトンを「人間のクズ」と評した。
対イラク開戦では開戦推進派として戦争への流れをつくった。彼は大量破壊兵器疑惑が誤りだったと判明したあとも、戦闘継続を主張した。

2.ボルトンの国連観

2005年、国際連合大使に任命されたが、上院で承認されず未着任のまま満期辞任する。
しかしこのときの推薦名簿は、そのまま彼の支持母体を示している。ウィキペディアによれば、5人もの共和党政権の国務長官が連名で推薦した。すなわちキッシンジャー、ベーカー、シュルツ、ヘイグらである。これがおそらく「システム」の国務省系列であろう。
ウィキペディアによれば彼の国連観は以下のようなものであった。
「国連などというものはない。あるのは国際社会だけで、それは唯一のスーパーパワーたるアメリカ合衆国によって率いられる」

浪人中は極右の大物としての発言を続けた。
イランの核爆弾を止めるために、イランを爆撃せよ(To Stop Iran’s Bomb, Bomb Iran)
イランへの爆撃や北朝鮮への先制攻撃も主張している。
またオバマの広島訪問を「恥ずべき謝罪の旅」と強く批判している。



3.「悪魔の化身」となったボルトン

トランプは大統領選挙のさいにボルトンを国務長官候補として検討していた。そして3月にマクマスター大統領補佐官を電撃解任したトランプは、ボルトンを後任に任命した。
3月29日、ボルトンと会った当時の「狂犬マティス」国防長官は、「あなたのことは悪魔の化身だと聞いている」と挨拶している。
4月9日、国家安全保障担当補佐官に就任したボルトンは、1回目の首脳会談を前にして突如「リビア方式」を提唱。日本や韓国のタカ派と共謀して会議の流産を図った。
会談のぶち壊しに失敗したボルトンだが、今度はシリア軍事攻撃をトランプに強くもとめた。さらにアサド政権の後ろ盾であるロシアやイランへの対処を含む「より大きな戦略」を訴えた。
その後も中距離核戦力全廃条約(INF)の破棄や、イラン核合意からの離脱を推進した。18年秋には、国防総省に対し、イラン空爆のための軍事オプションを提示するよう求めた。
こうしてただの反共ポピュリストに過ぎなかったトランプは、極右のハードライナーとしての姿勢を露わにしていくことになった。


景気減速という暗雲が漂い始めている。とくにそれをもたらしているトランプ政権の横暴に懸念が集まっている。
Oct18産経

IMFや世銀は、「米国の景気次第で世界が景気後退入りする」とコメントしている。
主要国GDP予測
米国の景気後退入りは、すなわち世界経済の大きな転換を意味する。
鉱工業生産
主要国の金融緩和であふれたマネーは、景気悪化を懸念し米国債を買いに集まっている。米国債10年物金利はこの半年で1%も低下している。
一方で、貿易を巡る緊張は高まったままだ。いくつかの大きな新興国市場や途上国経済は資金不足を経験しつつある。
新興国投資

米国は量的緩和策とゼロ金利を6年続けた。消費者支出と投資が回復し、アメリカ経済を景気後退から引き戻した。

これが各国の輸出を促し、日欧の苦境を救う結果となった。その代償として米国以外の国のドル建て債務は9兆ドルに達した。

長期の低金利により、金融システムが疲弊している。今や銀行間の金融市場は機能せず、証券市場と為替市場が景気を左右するようになっている。

FRBは金利引き上げは慎重だが、マネタリーベースの年間マイナス11%超という金融緊縮路線は続けている。
FRBの路線は、低金利=株高の継続を目論むトランプ政権と矛盾し、先行きを不透明にしている。


高柳良治さんの文章からちょっと引用させてもらう。

へ一ゲルは「精神現象学」で、独特の「ロビンソン物語」を展開している。
そこでの行論はこういうことになる。

欲求(Begierde)は対象を完全に消費し尽くし、それによる混じりけない自己感情を自分の手に残す。

この満足は、それ自身としては消え去るものにすぎない。なぜならそこには何もモノとしては残らないからである。

これに対し労働は形成する。労働している人にとって労働の対象は自立性をもっているから、労働は対象に永続的な形式を与えることになる。

このとき労働する人の(目的)意識は自分の外に出て対象に入り永続する。このとき、労働する人は自分自身が自立した存在であることを実感する。

この後は高柳さんの解釈。
たんたる欲求の満足はその場かぎりで消失してゆく。
しかし労働は形成する.しかもこの形成は二面的である。
一方で、労働対象は労働によって今までの形式を否定される。そしてその代りに新しい形式(価値)を獲得する.

と同時に、人間は労働によって、自然のまま衝動的な生から脱け出すのである。
人間は労働において自立した対象の中に入り込まなければならない。その過程で対象に対する認識が深められ、習熟し、能力が高められるからである。
ルカーチが言うように、人類の発展、原始状態からの社会化は、労働によってのみ可能となる。

文章ではこのあと道具・手段と理性の狡知が語られるが、私は従来の見解に対して異論がある。いずれ、もう少しシラフのときに書くことにする。

新古典派にはこのような人類史的視点はない。一輪車の曲乗りで、転ばないような方程式を作ることを経済学の本流と考えれいる。


ヘーゲルの「前期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指す。精神現象学はヘーゲルのシェリングとの決別の辞であった。
前期からさらに初期を分けることもありだ。その境界はフランクフルト行きかイエナ行きか、そのへんが難しい。しかしそれはいずれにせよシェリングとの出会いと別れを以って区切られることになるだろう。
そんな経過を追求すべく足取りを追ってみる。


1770年8月27日 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、シュツットガルトに生誕。生地シュトゥットガルトは当時ヴェルテンベルク公国の首都であり、父ヘーゲルは公国の官僚であった。

1778年 小学校2年でシェイクスピア全集を読破。ヘーゲルの才能を愛した学校の教師が、独語訳全集をプレセントしたという。ゲーテやシラーは好まなかったとされる。

1781年 カントの『純粋理性批判』が発表される。

1785年 歴史や法律、道徳などを広く学び、ノートするようになる。

ヘーゲルの心を捉えたのはギリシア悲劇や歴史書であったという。世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とする学問路線を形成する基盤となった。

1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。


「学生時代」

1788年

9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。

10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。

またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。

ヘルダーリンは初期のグループを主導していた。「ヘン・カイ・パン」を唱え、「美的プラトン主義」の弁証法を主張した。ヘンカイパンは「一にして全」という意味で、万能の神は自分の内にすべての要素を備えているという神秘的汎神論。

1788年 カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の体系を明示。意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を提示する。

1789年

7月 フランス革命が勃発。

8月 フランス革命派が人権宣言を発する。

9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)

11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。



1790年(20歳)

9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。

10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。

11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。

冬 ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングを含む10人が、神学院2階の大部屋で共同生活を送るようになる。部屋は一種の秘密結社となり、フランス革命についての禁書を読みあった(ルカーチ)

1791年

11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。

1792年

夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。

ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。

1793年

6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。

夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。

「ベルン時代」

1793年(23歳)

9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。

10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。

1794年

6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。

7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。

94年後半 「民族宗教とキリスト教」の後半の執筆が始まる。カントの実践理性の視点からキリスト教批判が展開される。「民族宗教」の試みは事実上放棄される。

94年末 ヘルダーリンやシェリングと文通を通じて交流を再開する。

94年9月 シェリング、神学校を卒業。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。

12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。

1795年

1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」

2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
シェリングのヘーゲルへの手紙「ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった」とし、キリストとの関わりを断ち切れないヘーゲルを強烈に批判。

4月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「カントの体系とその最高の完成から、ドイツに革命が起こることを、僕は期待する」

5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。

7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。

7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。

7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。

8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。

11月 「キリスト教の既成性」がほぼ完成。カントの「実践理性の要請論」の立場は理性の無力の告白に他ならないとし、道徳論の「定言命法」が持つ「既成性」を見るようになる。

既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。

11月 シェリング、チュービンゲン大学を卒業。「キリスト教の実定性」の執筆に取りかかる。(ヘーゲルの「キリスト教の既成性」との内容的関連は不明)

1796年

1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。

4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。

夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。

宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。

秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。


「フランクフルト時代」(政治の時代)

1797年

1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。

4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。

4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。

ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。

冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。

1998年

4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。

夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)

カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。

10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。

シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。

1799年

1月 父の死により遺産を相続。

2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)

イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。

11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。

7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。

1800年(30歳)

9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。

「産出的な自然」の概念を基礎に、精神と自然との絶対的な同一性を原理とする。超越的な絶対者の自己展開を叙述する学として定式化。

9月 ヘーゲル、この頃「1800年の体系断片」を記述。

11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる


「イエナ時代」

1801年

1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。

5月 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であるとする。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。

10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。

「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)

1802年

1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。

3月 第一巻第二分冊が刊行される。

7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。

「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。

1803年

5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。

冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。

直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。

1804年

冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。

1805年

2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。

5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。

12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。

1806年

2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)

正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。

7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。

9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。

10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。

10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)

11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。

1807年

1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。

3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。

4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。

シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。

11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。

ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。

「ニュルンベルク時代」

1808年(38歳)

5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。

11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。



参考資料



上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書) 

武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)

現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978

シェリングについては下記の記事を参照のこと

2018年03月04日  シェリング 年譜
2018年12月21日  「弁証法的実在論者」としてのシェリング

北海道の革新運動における森谷尚行氏の貢献

おそらく各所で故森谷尚行氏(以下敬称略)の顕彰の動きは始まっていると思うのだが、私自身の個人的な事情もあり経緯については知らない。
手元に資料と言ってもほとんどないのだが、とりあえず一つの同時代証言として書き残しておく。

大まかに言って、森谷の業績は3つある。

第一は学生運動における民主派の担い手としての役割だ。

森谷が北大入学の年に60年安保闘争が始まった。当時の北大学生自治会は唐牛を全学連委員長に送り出すなど極左派の拠点だったが、森谷はその北大自治会委員長となり、極左派の手から大学を守るために大いに奮闘した。
その後北大は全国における民主派の拠点となっていった。私が教養部時代を送った60年後半には学生の1割が民主派の活動家であった。いっぽうで札幌医大や地方の学芸大学にはかなりの極左派が残っていた。
もちろんこれらは森谷一人の手になる成果ではないが、それはやがて北海道が民医連運動の先進となっていくことにつながっていく。

第二は、高揚した学生運動を民医連運動へとつなげていく上で果たした役割である。

もちろん医学部においても戦後民主運動、安保闘争などを通じて覚醒した活動家が存在したが、そのような民主的医師運動と民医連は実のところ無縁であった。民医連も、レッドパージされた労働者が地域で展開する消費者生協的なレベルにとどまっていた。
2つの運動を初めて結びつけて、それを「医師集団の技術建設運動」と位置づけたのは森谷を中心とする同期生たちであった。
言うまでもなく、北海道は全国の民医連医師集団運動の「嚆矢」であるが、それ以上のものではない。時期を同じくして全国では怒涛のような医療運動(老人医療・公害医療・労災・職業病の取り組みなど)と自治体革新運動の波が全国を席巻した。それに比べれば北海道の経験はささやかなものである。
しかし北海道青年医師集団の実践が後に続く全国の医師・医学生にとって文字通りの「極北」となったことは間違いない。

第三は、医師集団の技術建設と結びつけながら、医療民主化の課題・医療戦線統一・「新たなイメージの民医連建設」を語り、現実化していったことである。

「新たなイメージ」というのは、じつのところ、かなり未定型のまま残された思想課題である。それを一言で言えば、民医連を何よりもまず変革を目指す技術者集団として捉え、その思想を鍛え合い、その実践を相互に支え合っていくという視点を貫くことである。
それが森谷を先頭とした北海道民医連の展開である。それは集団的な技術建設を勝ち取った医師集団が、生涯にわたりどうその技術を発揮していくかという提起でもあった。
同時にそれは、それ自体が「統一戦線」の思想に基づいていた。「事務職」という強固な活動家集団が技術運動と結合し、独特な「医療・社会実践」の地平を切り開いた。それを全道数万の社員・協力会員組織が支えた。

繰り返すがこれらの仕事は森谷が一人で成し遂げた成果ではない。しかしもし森谷がいなければ、それらのどれ一つとして成し遂げられなかった可能性がある。

これら3つが成し遂げられた社会条件は、いま切り崩され兼ねない危機を迎えている。これを耐え抜いて次の時代にバトンを繋ぐためには、野暮ったいが、医師・医療技術者がもう一度集団として自己形成を強めていく以外にあるまい。

「民主的集団医療の構築」は未だに民医連医療のキー概念であろうと思っている。


2013年02月14日  徳洲会: 民医連との決定的な差は医師の位置づけ もご参照ください。

「倒立振子」というのをテレビでやっていて、要するに腰高な物体をいかにして自力直立させるか、そのための制御系は以下にあるべきかという研究分野だ。

つまり私たちがホウキやモノサシを手のひらで立たせ続けるための「運動法則」だ。
常識的に考えて、これは知覚系と計算系と運動系の3つのモジュールからなるだろうとわかる。

そしてこの計算系が、「ミクロ経済学」の範疇と一致することがわかる。

わかると同時に、「これを経済学の肝だ」と合弁することがいかにバカバカしいものであるかということがわかる。

根本的には、「バランスをとることになんの意味があるか」という話だ。それはバランスよく経済が成長していくための制御系に過ぎない。

根本的なことは成長することだ。人間にも自然にも無限の可能性があると信じることだ。

乗り物を展示した設計者が、「この乗り物の胆はここにあります」といってオートジャイロのところに連れて行ったら、発狂したのではないかと思われるだろう。

もちろん部品やエレメントには重要性において差があることも間違いない。

しかし、それを認めたとしても、オートジャイロの重要性を認めたとしても、そのことでエンジンや翼の重要性を軽んじる発想にはやばいものを感じる。少なくともこのようなバランス感覚の欠けた設計者の作った乗り物には乗りたくはない。


ヘーゲル 『法の哲学』(Grundlinien der Philosophie des Rechts)  1821年

本格的に取り組むことにした。
と言っても原文を直接当たるのではない。ネット上の文献を当たりながら、目次に沿って小分けして、つまみ食い的に陣地を広げていこうという作戦である。
視力が落ちてきて、長いこと活字を読むのが辛くなったことが一番の理由。本に横線を引いて、そこを後でタイプして電子ファイル化するのが面倒だということもある。
なによりも老い先短い状況で、できるだけ広く・浅く・要領よく知識を吸収したいということだ。

まずこのページが出発点。
ウィキペディアの目次をリンク集にして、ここから網を張っていこうという作戦だ。
以下が「大目次」でそれぞれのパートに移動する。それぞれのパートが大きくなるようなら、それぞれに小目次を置くことになる。
数字はページ数ではなく§(セクション・サイン)をさす。ドイツ語ではパラグラフ・ツァイヘンというらしい。日本語では「段落」が相当する。

学習の順序だが、段落が全部で360あり、この中の比重としては
第一部第一章「所有」が40、第三部第二章「市民社会」が70段落、第三章「国家」A国内公法が70段落となっており、ここが重点となっているものと思われる。

この内、経済が直接関係するのは、原論部分での「所有」問題、労働と欲求を扱う「A 欲求の体系」である。
まずはこのあたりから手を付けることにしたい。私の本はみっしりと赤線と書き込みで埋まっている。しかし、そのようなことをしたことさえも全く思い出せない。


大目次

序文と緒論
- 自由の原理論 1~33

第1部 - 抽象法 34~104
第1章 - 所有 41~71
A 占有取得 54~58
B 物件の使用 59~64
C 自分のものの外化、ないしは所有の放棄 65~70
   所有から契約への移行-自由は「所有」という形を取る
第2章 - 契約 72~81
第3章 - 不法 82~104
A 無邪気な不法 84~86
B 詐欺 87~89
C 強制と犯罪 90~103
   権利ないし法から道徳への移行-「人格」の相互承認が自由の基礎

第2部 - 道徳-意志が普遍的な正しさ(自由)を求める 105~141
第1章 - 企図と責任   115~118
第2章 - 意図と福祉 119~128
第3章 - 善と良心-偽善とイロニー 129~140
   道徳から倫理への移行-制度として実質化した自由

第3部 - 倫理 142~360
第1章 - 家族 158~181
A 婚姻 161~169
B 家族の資産 170~172
C 子どもの教育と家族の解体 173~180
  家族から市民社会への移行

第2章 - 市民社会 182~256
A 欲求の体系 189~208
  a 欲求の仕方と満足の仕方 190~195
  b 労働の仕方 196~198
  c 資産 199~208
B 司法活動 209~229
  a 法律としての法 211~214
  b 法律の現存在 215~218
  c 裁判 219~229
C 福祉行政と職業団体 230~256
  a 福祉行政 231~249
  b 職業団体 250~256
第3章 - 国家 257~360
A 国内公法 260~329
  Ⅰ それ自身としての国家体制 272~320
a 君主権 275~286
b 統治権 287~297
c 立法権 298~320
  Ⅱ 対外主権 321~329
B 国際公法 330~340
C 世界史 341~360

解題 ざっくりと紹介。

生前に出版された最後のヘーゲルの著作である。
“読みやすい理由”: ヘーゲルが直接執筆した文章ではなく、死後に受講生が編集したもの。

ヘーゲル自身によれば、『法の哲学』の主題は「自由」である。
国家と社会を哲学の立場から論ずるということは、それらを「人間とはいかなるものか」という所にまで引きつけて検討することである。

常識(客観的精神)は家族や市民社会、国家などの“自由な人間”の行為により生み出される。それは抽象法、道徳性、人倫の三つの段階に区分される。
人倫はまた家族、市民社会、国家の三段階に区分される。
①家族: 愛情による集団統一の段階
②市民社会: 諸個人の欲望の体系に基づく労働の体系。(「欲望」は市場においてもたらされる)
③国家: 
a.立法権や執行権、君主権を用いて欲望の体系を包摂する。
b.市民社会の利己性を監視し、普遍性を現実化させる
c.対外的には、普遍性ではなく自国の特殊性を実現する

この「解題」はとりあえずこのままここにおいておく。長くなるようなら整理するか、移動させる。
これまでバラバラ書いてきたメモ書きは、いずれ整理統合する。

『法の哲学』の権利論とマルクス

はじめに

「理性的なものは現実的であり,現実的なものは理性的である」(S. 24)
近代社会の成熟という「夕暮れ」においてこそ,哲学は「ミネルヴァのフクロウ」として,近代社会の原理の理論的な集大成を行うために,「飛翔」を始める。

マルクスは,近代社会そのものが,ヘーゲルも指摘した「富の過剰と貧困の過剰」などの矛盾を含んでいる以上,それを変革しなければならないと考える。

この解放の頭脳は哲学であり,心臓はプロレタリアートである」

マルクスは,『法の哲学』の批判的検討をとおして,「市民社会」の分析の重要性を学んだ。

そしてマルクスは,かつてヘーゲル自身が古典派経済学の研究を行ったように,「市民社会の解剖学は,経済学に求めなければならない」と考えた。

重要なことは,『法の哲学』「序論」で表明された「社会哲学」という理論的レベルで,ヘーゲルからマルクスへの継承・批判の関係を検討することである。

A 「法の哲学」の権利論

1 .所有権

第 1 部 「抽象法」で近代的な人間(人格)の権利が論じられる。
第一の権利は所有権である。それは人格が物件を支配する権利である。
物件には,自己の身体も含めた自然物とともに,熟練や知識,学問,能力など精神的なものも含まれる。
所有権の主体は個別的な人格であるから,所有は「私的所有」である。
所有権は次の2つを意味する。
(A)物件の占有取得(Besitzname)である。それは身体による獲得,労働による形成,標識付けなどによって実現される。
(B)「物件の使用」である。所有権とは,物件の部分的使用ではなく,全範囲の使用の権利である。

価値(Wert): 個々の物件には特有の有用性がある。その中にある普遍性(共通の尺度)が物件の価値である。
物件の価値は貨幣によっても表現される。物件の所有者は,物件の使用者であるとともに,その価値の所有者でもある。

「物件の譲渡」: 物件は譲渡されるが、人格と自己意識の本質的な普遍性は,譲渡されない。

人格性の放棄: 奴隷,農奴などでは人格が放棄されている。労働においても,全時間と全生産物を譲渡するならば,それは人格性を他人の所有にしてしまうことになる。

2.契約

抽象法の第二は「契約」である。契約は相互に他者を人格として,かつ所有者として承認し合うことから始まる。
契約においては異なる物件が相互に交換される。その物件の価値は互いに等しい。

3.不法(Unrecht)

不法には3つの種類がある。すなわち罪なき不法、詐欺、犯罪である。

3-B マルクスによる「法の哲学」批判

マルクスが問題にするのは法そのものではなく、法の根拠としての経済的関係である。

契約という関係は,法律的に発展していない社会にあっても、両者のあいだの意志関係である。そこには経済的諸関係が反映する。

マルクスは,ヘーゲルの言葉を引用する(67節)

もしも私が,労働を通じて費消した私の時間と、労働を通じて生み出した私の生産物を外に譲渡した場合,私はそれらの実体,私の普遍的な活動,私の人格性の発露を,他人の所有にゆだねることになろう。

これは労働を労働時間に換算するという点で、マルクスがヘーゲルの考えを明確に継承したことを示す。

肝心なことはマルクスがヘーゲルの先に進まざるを得なかったことである。

現実には資本家と労働者との関係は自由でも平等でもなかった。

「自由意志契約」のもとで,労働者には長時間労働が強制される。そこで「自由な意志関係」に基づく労働時間を法律によって制限するために「工場法」が必要になった。

マルクスは「『譲ることのできない人権』のはでな目録に代わって,法律によって制限された労働時間というマグナ・カルタが登場する」と述べた。

4.人倫(Sittlichkeit)

5.市民社会論
ヘーゲルの市民社会論は「人倫」の第二部で扱われる。
市民社会では諸個人が相互に独立した特殊的・具体的人格として関係し合う。

諸個人は「欲求のかたまり」として,利己的目的を満足させるための経済活動を行う。

その中で,諸個人はおのずから社会関係を形成する。市民社会はこのような「全面的依存の体系」であり、個人の利己主義と社会的連関は分裂する。

これを克服するためには、個々人が学び教養を形成しなければならない。

学び(Bildung)の主題は
①自己の特殊な目的の実現は,普遍的な社会的連関によって媒介されていること
②自己の行動を普遍的な連関に適合させ,その一環としなければならないこと
である。

市民社会は2つの側面を持つ。

それは第一に欲求の体系である。
市民社会においては,人々の欲求は無限に多様化していく。これを満足させる手段を作り出すために、労働も多様化する。
これらの労働が固定的なものになるにつれて、労働が分割される。
分業によって労働が単純化されると、その技能も生産性も増大する。さらに人間の代わりに機械も導入される。
これらの生産・交換・消費の体系が、市民社会の「普遍的資産」をなす。
だれもがこの普遍的資産に参加できるわけではない。それは各人の資本と技能、すなわち「特殊資産」(端的に言えばおカネ)によって条件づけられる。
おカネと技能と労働の種類によって身分(Standが生じる。

それは第二に司法の体系である。それは「法律」であり,「裁判」である。
それは第三に行政の体系である。犯罪の
取り締まり,公益事業,生活必需品の価格指定,教育,貧困対策などを行う。
しかしこれらは第一の体系を補完し維持するためのものでしかない。

そのため,市民社会は富と貧困の矛盾を露呈させる。

a) 市民社会においては,一面においては,富の蓄積が増大する。社会関係が拡大し、欲求を満たす手段が拡大するからである。

しかし他面において,貧困が増大する。なぜなら富の蓄積とは富の不平等化だからである。
ヘーゲルはいう。
特殊的な労働の個別化と制限が増大し,このことによって,このような労働に縛りつけられた階級の従属と窮乏も増大する。そしてこのことは,その他のさまざまな自由,とりわけ市民社会の精神的便益を感受し享受することが不可能になることと結びついている。

こうして市民社会は,一方で「賤民(Pobel)」の
出現を引き起こし,他方で極度の富を少数者の手中に集中させる。
いかにして貧困を取り除くかという問題が,とりわけ近代社会を動かし苦しめている重大問題である。

しかし市民社会はこの問題を解決できない。
なぜなら富者に負担をかけることは市民社会における諸個人の自立性の原則に反するからである。

ヘーゲルは言う。
市民社会は富の過剰にもかかわらず,十分には富んでいない。
市民社会は貧困の過剰と賤民の出現を防止するほどに十分な資産をもっていない。
市民社会は発達するにつれて、そのことを暴露するようになる。
ここでいう「資産」とは,単なる財貨ではなく,「普
遍的資産」としての生産・流通・消費のシステムのことである。
残念ながら、ヘーゲルの市民社会論はここで止まる。その後のハプスブルクであったりプロイセンだったりする「国民国家」への期待は見事に裏切られていく。ただヘーゲルはそれすらも必然的は発展過程とみていたかもしれない。


5-B マルクスの市民社会論
『資本論』はマルクスの独自の「市民社会」論となっている。
a. マルクスは,ヘーゲルが問題にした「富と貧困」の
問題は,資本の労働搾取に基づくものと論を進める。

b. 「富の蓄積は貧困の蓄積である」と議論を進める。(私が思うには、マルクスは労働市場と商品市場との根本的な差異を指摘したのである。かなりどぎつく不正確な表現であるが…)

c. マルクスは,ヘーゲルの「職業団体」に対応するものとして,「労働組合」や「協同組合」を位置づける。


本日の赤旗お悔やみ欄に、花田克己さんの訃報があった。
山口県党南部地区委員長、詩人会議役員とある。
50年ほど前、「詩人会議」誌の購読者だったことがある。なにか聞いた名前だとネットを検索した。
bookface’s diary
というサイトで、

坑夫の署名 花田克己詩集

が紹介されている。そこには本の表紙写真も掲載されている。転載しておく。

1969年12月、飯塚書店から刊行された花田克己(1931~)の第3詩集。

 この詩集は、私の三冊目の詩集である。しかし第一詩集『おれは坑夫』、第二詩集『うまい酒』の主な作品とそれ以後二年半の主な作品を一冊にまとめたものである。私の四〇年近い生涯と、ほぼ二〇年の詩作活動のひとつの決算とも言えるものである。
 既刊の二冊の詩集はいずれも私が所属していた「宇部詩人集団」が発行してくれたものであり、地方での出版であった。しかしさまざまな援助によりかなりひろい反響を得たことは私にとって大きな励ましとなった。だが地方での出版という枠から免れることのできない面もあった。それだけにこの詩集は私の第一詩集という側面もあり、全国的な批判を是非するどく寄せて下さるよう読者のみなさんに切望するものである。
 しかも出版される現在が、歴史的な一九七〇年闘争のさなかという光栄をになっていることに重大な責任を痛感磨るのである。いまはただこの詩集が七〇年闘争にほんの少しでも寄与できるものであってほしいと願うのみである。(「あとがき」より)

 むかし宇部には筑豊炭田につながる鉱脈の上に炭鉱があったから、そこに関係していたのだろう。
別のサイトにはこんなうたがある。

宇部興産炭鉱労働者のうた


【作詞】花田克巳
【作曲】荒木栄

1.瀬戸内海の海底深く
  九州むけて掘り進み行く
  宇部と小野田の四つの炭鉱を
  流れる汗で一つに結ぶ

2.仲間の流した血のしみこんだ
  多くの友のいのちを呑んだ
  ボタの埋め立てかなしみこえて
  今日も夕日が彩っている

3.米騒動の闘いのなか
  倒れていった先輩たちの
  いのちはわれらの血潮にとけて
  あすを明るく染め上げている

4.スクラム組んだおれたちの顔
  ひとつひとつに朝陽が映える
  長い歴史と明日への希望
  こめてひらめく組合旗

  われら闘う宇部興産炭鉱労働者

長い間ご苦労さまでした。


ついでで申し訳ないが、お悔やみ欄の隣の人物、佐合義広さんは義弘さんの間違いではないか?
多分、イールズ世代の人ではないかと思う。

私たちはこれまで、マルクスがヘーゲルの弁証法を唯物論的に改造し、史的唯物論を打ち立て、古典派経済学の成果を引き継いで社会主義革命の理論を打ち立てたのだと考えてきた。

しかしそれは間違いではないが、不正確なのではないか。そんな気がしてきている。

彼の資本論にけるアイデア、とくに歴史的な視点、社会経済学的な視点はかなりの程度においてヘーゲルの市民社会論を直接引き継いだものであるように思われる。

古典派経済学の教科書を書くのに、リカードの見解だけを並べて、アダム・スミスの議論はリカードの意見に包摂されているからと省略することがあるだろうか。むしろ、アダム・スミスの論建てを最初に提示してこれにリカードらがどう追加・修正を加えていったという展開にするのが普通であろう。

その発想でいくなら、「ドイツ古典経済学」の教科書は、ヘーゲルがイギリス古典経済学から何をどう学び、どのように立論を展開したのかが、まず論ぜられるべきであろう。その後にマルクスの修正が加えられるべきであろう。

弁証法論理学がヘーゲルから引き継いだものの主体と考えてきたが、考えてみるとそれは付け足しだったかもしれない。
(57年草稿の頃はかなり論理学も読んでいたようだが)

マルクスがヘーゲルから引き継いだ最大のものは、実は「革命家」としての情熱だったのではないか。ヘーゲルは度し難い観念論者であると同時に、最もアクティブな立場を貫いた革命家であった。それが法の哲学のいたる所からほとばしり出ている。

見田石介さんはヘーゲルが観念論者であるにも拘らず唯物論的な発想で多くのことを語るために、論旨がわかりにくくなっていると嘆いているが、そうではないと思う。
彼は革命家である限りにおいて唯物論的たらざるを得なかったのであろうと思う。

私たちは今後の理論的スタンスを
「アダム・スミス党ヘーゲル派マルクス・グループ」と定め直さなければならない。


1.右も左もベネズエラ政府を非難

アメリカのペロシ下院議長とバイデン元副大統領(共に民主党)によるグアイド大統領承認は、ワシントンの悪意ある合意の最新版です。

フィデル・カストロ以来、ラテンアメリカの国家元首は一貫して悪魔化されてきました。

しかし、カストロの就任した1960年代は冷戦の極寒の時期でした。今日のベネズエラとは異なり、キューバは一党制でした。

左右両派のベネズエラに関するコンセンサスの範囲は、最近のトランプ大統領とオカシオ・コルテス議員の発言によって示されています。

連邦議会の演説で、トランプはベネズエラの経済危機を社会主義の失敗に帰しました。これに対してオカシオ・コルテスは「権威主義体制と民主主義の問題」であると主張しました。

二人のコメントは互いに補完し合っています。

ワシントンを支配するストーリーによると、ベネズエラは経済的にも政治的にも大失敗です。経済苦境と国家の権威主義的な支配の責任は、マドゥーロと取り巻きにあります。

当然のことながら、主流メディアは疑問を投げかけようとはしません。ほとんどの報道は経済制裁の有害な影響にふれつつも、国家の無能力と汚職にアクセントマークを付けています。

さらに少なからぬ左翼は、少なくとも部分的に節度ある経済制裁を支持しています。国の差し迫った経済的困難を乗り越えるために必要だというのです。

今や、こういったベネズエラ非難を批判的に検討している人はほとんどいません。一部の人々は制裁には異議を唱えますが、マドゥーロ政府を攻撃することで実質的に反対に参加します。

例えば、Gabriel Hetlandによる最近の記事は、「Maduroは権威主義的な手段によって権力を保持している」と述べています。そこではベネズエラ経済を分析した結果、「経済困難の主な要因は、政府の石油収入の管理ミスと汚職である」と主張されています。

2.根拠のないベネズエラ非難をそのままにしてはおけない

私は昨年末、アメリカとカナダで2ヶ月間、ベネズエラへの連帯を訴えるツアーへ参加しました。そのとき、「ベネズエラの経済的、政治的問題を詳しく知る必要はない」という意見をよく耳にしました。それは主要な問題ではなく、主にはトランプの制裁の違法性と軍事介入の脅威だからだというのです。

しかし、「国際法の遵守を!」だけで問題を解決できるのでしょうか。

マドゥーロが恐怖の独裁者であり、完璧に無能な支配者であるとの烙印が押されたら、人々は外国の介入に反対して、ベネズエラ政府を熱心に支持する旗のもとに集まりますか?

私はそうは思いません。

絶対に、政治・経済的の両方を、事実に即して詳しく検討する必要があります。連帯の努力が有効に働くか否かは、ベネズエラ政府の“真実性”にかかっているからです。

マドゥーロ政権についての圧倒的に支配的なストーリーが撒き散らされています。しかしそれは額面通りに取ることはできません。その中に1片の真理があるとしてもです。


3.「元を正せば」のどこが「元」なのか?

ベネズエラの野党はいつもこう主張します。「制裁も、原油価格の下落も、国の経済的困難を合理化するものではない。全ては経済の誤った管理のせいだ」と。

一部の野党アナリストは、要因としての原油価格の重要性を否定または最小化しています。そして「他のOPEC諸国はベネズエラと同じくらい石油輸出に依存しているが、ここまでの経済混乱はなかった」ことを指摘します。

野党の中心的な主張は、ベネズエラの悲惨な経済困難がトランプの制裁実施より先だということです。

2014年半ばから国際原油価格の急激な下落が来たとき、すでに政府の失政が蓄積していたからこそ、原油値下がりがベネズエラに悲惨な影響を与えたというのです。

そこに続いて石油価格の下落、そして制裁というわけです。

2日に渡って野党の大統領候補となったカプリーレスは、「危機は原油価格の下落前に始まったが、長い間政府によって無視され、抑圧され、覆い隠されてきた」と主張しました。

この考え方には2つの誤りがあります。

そもそも、ベネズエラに対する米国の「経済戦争」は、いろいろの要因の中で最も古くから始まっています。トランプによる制裁はそのなかで最終のものです。


4.米国のベネズエラ干渉の歴史

1999年にゥーゴ・チャベス大統領が当選したときから、米国は新自由主義と米国の覇権の受け入れを拒否するベネズエラ政府に干渉を続けてきました。米国の敵意はさまざまな点で経済に深刻な打撃を与えました。

例えば、2006年にはベネズエラ空軍に高価なF-16戦闘機のスペアパーツの販売を禁止しました。このためベネズエラ政府はロシアからの戦闘機の購入を余儀なくされました。

国際制裁もトランプで始まったのではなく、2015年のオバマ時代に始まっています。オバマはベネズエラを米国の国家安全保障への脅威と呼んで制裁を命令しました。

その命令に続いて、フォード、キンバリークラーク、ゼネラルモーターズ、ケロッグ、そしてほとんどすべての国際航空会社を含む多国籍企業によるベネズエラからの撤退が続きました。(オバマを弁護するわけではないがキューバとの国交正常化のための議会対策という側面もある)

2番目に、マドゥロの下の石油価格は2014年以来低かっただけではなく、任期中に急落しました。チャベスの下で起こったことのちょうど反対のことが起きたのです。

高値は期待とコミットメントを生み出します。それが急降下すると、それは欲求不満と怒りに変わります。現在の価格は下落前の水準の半分をわずかに超えた程度です。このため、油価急落は大問題です。


5.闇市場対策の失敗

3つの要因がベネズエラの経済的困難を説明しています。低原油価格、ベネズエラに対する「経済戦争」、そして誤った政策の3つです。

政府政策のカテゴリーで際立っているのは、公定価格と間価格との格差拡大の問題に対するマドゥーロの反応の遅れです。

配給品は市場を通して低価格で販売されることになっていました。しかしその製品の多くが闇市場に回り、法外な価格で販売されたり、近隣のコロンビアに密輸されてしまいました。をれは汚職や密輸の助けになります。


6.独裁者のレッテルは千回も貼り直される。

メディアはベネズエラ報道において良質な情報源が徹底して不足しています。

ベネズエラの民主主義に関する声明は、露骨な誤解を招くものから正確なものまで多岐にわたります。

前者の例は、「ガーディアン」紙の主張です。

そこではベネズエラ政府が「ほとんどのテレビ局とラジオ局を統制している。それらは絶えず親マドゥーロ宣伝を流し続ける」と書かれています。

これは明らかなウソです。実際には、ベネズエラの人々の80%が、3つの主要な民放(Venevisión、Televén、およびGlobovisión)を見ています。これらは贔屓目に見ても親政府であるとはいえません。

もう一つの極端な例ではHetlandの主張があります。

野党指導者ヘンリック・カプリレスが汚職の容疑の結果として、公職立候補権を剥奪されたというものです。ヘトランドはこの決定が政治的に動機付けられたものと述べました。

実際には、その動きはHetlandが議論したものよりも悪かった。

一時、政治的地位が大幅に下落したカプリレスは、政府との対話を主張する穏健派野党に鞍替えし、多くの市民の支持を集めました。
しかしカプリーレスはその政治的地位を利用して党内に過激派を招き入れました。その結果、国内対話を起こすための努力は水泡に帰したのです。


7.軍・警察の暴力

マドゥーロを独裁者と呼ぶ人々には、2つの共通する主張があります。

政府は、2014年から2017年にかけて、政権交代をもとめる平和的デモを残酷に抑圧したとされています。それは4ヶ月間に及ぶものでした。

事実はどうでしょうか、抗議行動はとても平和的といえるものではありませんでした。2014年には6人の国家警察隊員と2人の警官が殺害されました

抗議者たちはカラカスの空軍基地にむけて発砲し、2017年にはタチラ市のいくつかの警察署を攻撃しました。

もちろん、抗議行動に関連して発生した多数の死亡者を取り巻く状況にはさまざまなバージョンがあります。しかしメディアがそれらを提示したことはほとんどありません。まず公平な分析が必要です。

第二に、野党は、昨年5月の大統領選挙は正当ではないと主張しています。したがってマドゥーロの再選は認められないとし否定しています。

大統領選挙を無効とする理由は、それが制憲議会(ANC)によって行われたためであり、そもそも制憲議会そのものに法的根拠がないというのが主張です。

グアイドの大統領としての自己宣言の正当性も制憲議会の違法性を根拠にしています。

8.最後に

第一に、民主的規範の違反や警察による抑圧の事例は、それ自体で政府が権威主義的であるか独裁的であることを証明するものではありません。

第二に、国の経済問題はいかなる種類の介入も正当化するべきではありません。紛争の本当の問題はベネズエラの民主主義の状態です。


なぜヘーゲルか

このところヘーゲル絡みの話題が続いているので、読者の方々は「なぜいまさらヘーゲルか」と訝しんでおられるかもしれない。

実は、事の発端はケインズにあるのであって、根井さんの「ケインズ革命の群像」(中公新書)という本が面白くて読んでいたら、厚生経済学」に突き当たった。

経緯は省略するが、ケインズもビグーもマーシャルの新古典派を引き継いでいるが、かなり毛色が違う。

厚生経済学は一方で進歩的な色合いを込めつつも、実際の理論は数字ばかりでさっぱりわからず。言うこととやることがこれだけ違う学問も珍しい、不思議な学問だ。

結局、ミーゼスやハイエクも含めて、需給曲線と市場原理主義で価値論を無視する新古典派は、一括してポイ捨てするほかないと思うようになった。

スミスが「諸国民の富」を書いたとき、経済の研究対象は「富」と定められたはずだ。富を考察の対象から外した学問が経済学であるはずがない。それはたかだか「市場経済学」だ。

ということで、スミス→ミル→リカード→マルサス→セー→マルクスとつながる古典派をもう一度押し入れから掘り出して、ホコリを払って再吟味するべきではないかと思う。シュンペーターは準会員だ。

それで考えているうちに、「いきなり→マルクスだろうか?」と考えるようになった。

つまりそこにはカッコ付きかもしれないが、ヘーゲルが入るのではないかと思ったのである。

なぜそう思ったのかには理由がある。

以前「療養権の考察」を書いたときに、ヘーゲルの「仕事」概念が知りたくて「法の哲学」を読んだことがある。

なかなか目からウロコが多くて、すごく感心した。

それで、あとから「経済学批判要綱」に行くと、ヘーゲルの仕事概念を下敷きにした労働力能論や、欲望の拡大再生産論があったりして、あぁかなり「法の哲学」を読み込んだなぁと感じたことがある。

それと、我が身に合わせて言うのもなんだが、マルクスはどれほどヘーゲルを読み込んだのかという素朴な疑問もある。ドイツ語の原文でも難しいのは同じだろう。大抵は耳学問ですませたのではないかと勘ぐってしまう。

ただし「法哲学」だけはノートもとってガッチリと読み込んだ。「批判」も書ききっている。だからマルクスにとってヘーゲルのイメージは「法哲学」だったのではないか。

だから、マルクスがヘーゲルから経済学についてヒントを得たとしたら、それは法の哲学だったろうと思う。

ということで、マルクスとヘーゲルの関係については一つの研究対象となるのだが、私の考えているのはそこにはない。

もちろんヘーゲルは古典派経済学をそれほど本腰を入れて研究したわけではないだろう。また法の哲学はあくまで法の哲学であって経済の哲学ではない。

しかしそれにもかかわらず、ヘーゲルには独特のひらめきがあるし、古典派経済学に重要な寄与を成し遂げているのではないかと想像する。

もっと言ってしまえば、ヘーゲルはドイツ古典哲学とイギリス古典経済学を結合させた最初に人物として評価されるべきである。このような文脈で言えば、マルクスは経済哲学の分野の二代目に過ぎない。
ヘーゲルは初代らしく闊達に資本主義(市民社会)を語る。彼は資本主義社会の根っこをなす商品社会・市民社会のエッセンスを、ある意味マルクスよりより全面的に網羅しているのではないか。

また当初よりマルクスが特別力点をおいている所有の問題ではヘーゲル法哲学との取っ組み合いの中で独自の視点を形成していったと思われるので、この点についても両者の視点の違いと共通性を考察する必要があるだろうと思う。

いずれにしても、ヘーゲルを古典派経済学の山並みの一つのピーク、とりわけ経済哲学の一つの頂点として改めて見直す必要があるのではないか、というのが私の意見である。



という論文にドイツのアルントという人の説が紹介されている。
これぞ私のもとめていたものだ!

とりあえず、リード部分を紹介しておく。

マルクスの経済学批判の構想(プラン)は,1.「資本」から始まり,2.「土地所有」,3.「賃労働」,4.「国家」,5.「国際貿易」,を経て,6.「世界市場」に至る。

これは,ヘーゲルの「市民社会」から「国家」に至る『法の哲学』に対応するものである。
したがって,マルクスの『資本論』はヘーゲルの『法の哲学』との対応においてこそ,検討されなければならない。

それに対して,ヘーゲルの『論理学』とマルクスの『資本論』は(これまで強い影響が指摘されてきたが)、理論のレベルが異なり,マルクスの『資本論』からヘーゲルの『論理学』を批判的に乗り越えた「論理学」を見出すことはできない。

ヘーゲルの『論理学』ではなく、『法の哲学』とマルクスの『資本論』との対応について検討するべきである

と、アルントは主張する。

角田修一 書評
「見田石介著作集 第1巻 ヘーゲル論理学と社会科学」(1977年)

見田石介は
「ヘーゲル弁証法の神秘的な観念論の外皮というものは、それを一皮むけばそこに正しい弁証法が現れてくると言った表面的なものではない」
と言った。
そんなにかんたんなものではないからこそ、彼の哲学は難解なのだ。
見田石介は
「マルクスの方法を理解するのに、ヘーゲルの言葉や流儀を当てはめようというのは間違いであり、『資本論』にそれらを適用しようと試みるなどというのはまったく非科学的な態度である」
と述べている。

へーゲルの観念論たる本質はどこにあるのか。どこを最も警戒しなげればならないのか。
見田石介は
「要するにヘーゲルは、人間の思考過程を現実の過程と同一視した。へーゲルの思考概念は、現実の世界を生みだす真の実在になってしまっている」
にも拘らず、ヘーゲルにはまた、客観的内容を一定反映した「唯物論的な要素」がある。
そこには人間の認識の限界を説く経験論や、認識を主観の世界に閉じ込めるカント主義とは異なるヘーゲルの科学主義がある。
ヘーゲルの難解さの原因は、このような二面的立場の混在にある。

へ-ゲル弁証法の合理的な核心
見田石介は
「否定という形式のもとでの発展」が、へ-ゲル弁証法の合理的な核心だとする。
それは第一に事物の変化が、それぞれの事物の自己運動だということである。それは現状否定という形で運動する
第二には、事物の変化が発展だということである。それは単純な否定ではない。古いものは新しいもののモーメントとなり、新しいものはより豊かな一つの全体となる。
第三は、諾事物の変化はたがいに連関(因縁)を持っているということである。それは必然的でありユニバーサルである。

へ-ゲル弁証法の革新性

へーゲルの論理学は従来の論理学(形式論理学)に対してどこが新しいのか。

見田石介は
第一に、へーゲルは「弁証法」を持ち込んだこと。弁証法とは上記の3つを柱とするもの。
第二に、感覚的な直接的な認識から本質へと向かう「探求の過程」を示し、既存の論理的な諸カテゴリーを位置付けたこと。
第三に、最も基礎的な概念から出発して、直接的な認識にすすむ「叙述の過程」を示したこと。
第四に、概念や推理の形式のみを取りあっかう形式論理学でなく、「思考」が論理をとらえる過程を対象とした。(ヘーゲルの「思考」は自然過程の裏返しであることに注意)
第五に、「普遍」についての新しい考え方を提起したこと。(内容略)
をヘーゲルの論理学の発展への寄与とした。それはへーゲル論理学のうちの肯定的側面としてマルクスに受げつがれた部分でもある。

一方でヘーゲルの論理学は根本的(致命的?)な欠陥を持っている。

見田石介は
へーゲルの方法は、
①叙述的方法: 現実の事物の原理としての概念から具体的なものを展開する方法
②演繹的方法: 抽象的な要素から具体的なものを総合する方法
③歴史的方法: 探求の過程に沿った方法
の3つを区別できなくなっている。結局①の方法に集約させてしまう。
哲学史の歩みに照応した認識の深まりの歴史的過程も、実際に事物を分析し総合して行く合理的な認識過程も、すべて萌芽としての根本概念からの発生的展開という衣を着せられてしまう。
へーゲル自身、論理学の中で分析と総合をおこないながら、これに概念の自已展開という移式を無理にあてはめるのである。
これがへーゲルのいう「絶対的方法」の根本的欠陥である。

と書いた。

「1968年7月11日クーゲルマンあての手紙」

榎原均さんのページを使わせていただきました。すなおに尊敬に値する経歴の持ち主です。


社会的総労働の配分論としての商品論

世の中にはいろいろな欲望があり、それぞれが一定の量を持っています
それらのいろいろな欲望量に対応して、いろいろなものが生産されます。
それらの生産物が生産されるためには、いろいろな社会的総労働が必要となります。
それらの生産物、さらにそのための労働については、いろいろな“量的に規定された量”がもとめられるでしょう。

これは子どもでもわかることです。

このように一定の割合で社会的労働を分割することは、いつの世の中でも必要です。

もちろん社会のあり方によってその現象様式は変りうるのですが、労働の社会的分割そのものは必ず必要です。それはけっして社会的生産の特定の形態によって廃棄されうるものではありません。
(どうも社会的分割というのは分業ではなく、いわば「社会的協業」ともいうべき共同作業を指すようだ)

自然法則はけっして廃棄されうるものではありません。
歴史の移り変わりとともに変化するのは、それらの諸法則が貫かれる形態だけです。
その歴史的形態の一つが交換価値です。

なぜ交換価値が特殊なものなのか。それはある種の社会的生産の形態に伴って発生するからです。

それはどういう社会か。
それは「社会的労働の関連が個人的労働生産物の私的交換として実現される社会」です。
つまりそれは、生きた人間同士の関係が、労働生産物の交換を通じて実現される社会です。
しかも生きた人間は生産を個人的に行い、生産物を私的に交換するのです。それが主要な社会関係となっているような社会形態は商品社会と呼ばれます。

交換価値は、商品社会という社会形態での労働分割形態の(量的な)表現なのです。


ここまでが本文。榎原さんは話をわかりやすくするために、ロビンソン・クルーソーの挿話を付け加えている。

ここで自然法則とされている労働の社会的分割に関して、マルクスは「ロビンソン物語」を念頭に置いていると思われる。

ロビンソンには生産的な仕事がいろいろとある。彼は、それらの仕事が自分の身体活動の、したがって人間的労働のちがった形態にすぎないことを知っている。

彼は、必要に迫られている。生活のために彼のさまざまな仕事時間を正確に割り振らなければならない。どの仕事をより長く、どれをより短くするかは、目的とした有用効果の達成のために自ずから定まる。経験が彼にこのことを教える。『第一篇 商品と貨幣 第一章 商品 第四節 商品の物神的性格とその秘密』

ここで明らかなように、ロビンソンの労働配分は、一方における欲求、他方における必要労働時間を勘案して決められる。
この場合、商品も交換もないのだから交換価値も抽象的労働も存在しない。欲求量と労働量とは、ロビンソンの内部において一致している(せざるを得ない)。


ロビンソンの次に「農民家族の素朴な家父長的な勤労」が考察される。
家庭内で農耕、牧畜、裁縫などが自然発生的に分業される。それらは、商品生産と同じように機能する。しかし個人の労働は共同的労働力の器官としてのみ作用する。
家族という共同体内部では、日々の必要量、個々の労働を担う成員の能力が前もって明らかになっている。それが労働の社会化のを成立させる柱となっている。

まえがき 工藤さんの言いたいこと

1.価値の二重性とアリストテレス
商品の価値には使用価値と交換価値という二重性がある。これはマルクスが「経済学批判」で再三強調しているように、アリストテレスが発見したものである。
2.ヘーゲルはアリストテレスを引き継いでいる。
ヘーゲルの「哲学史」はアリストテレスの影響を受けている。
3.マルクスはヘーゲル論理学の受容
マルクスはヘーゲルをそのまま引き継いでいるわけではない。
マルクスはヘーゲルの自己展開の論理を発生論的推論に置き換えている。
また展開過程を歴史的に追試することにより確認しながら進んでいる。
この2つの“逆立ち”修正操作により、ヘーゲルの論理の持つ観念論的弱点が克服され、荒唐無稽さが払拭された。そしてヘーゲルの論理学の真髄が引き出された。

資本論・商品論とヘーゲル

(1)商品分析の4つの段階
資本論第一部冒頭の「商品の分析」では次のような論理展開が行われている
第一段階: 商品が二重の価値を持つことの説明。すなわち使用価値と交換価値。
第二段階: 交換価値の本質は労働の作り出した「価値」である。
第三段階: 商品の二重の価値を労働が作り出すのだから、労働も二重性を帯びていることになる。それは具体的有用労働と一般的抽象労働である
第四段階: 市場においては、商品と商品が等価として対置される。それは人間的労働が等価の関係として対置されることである。(ということは、人間的欲望が対応しているということでもある)
このような論理展開はヘーゲルの論理学を元にしている。

(2)ヘーゲルの3つの論理
この4つの段階は、ヘーゲルの「大論理学」に示された3つの論理の応用である。その3つの論理とは
① 「分析的認識」(大論理学の「概念論」と関係)
② 「反省的思考」(大論理学の「本質論」と関係)
③ 「判断」(大論理学の「概念論」と関係)
以下、この3つの論理について詳説する。

第一の論理 分析
分析の視点は商品認識の4つの段階に共通して現れる。
ヘーゲルの考える分析の方法: 分析は何度も繰り返し掘り下げる。
① 素材を論理の塊として再構築する。素材は直観の塊であり、これを論理の塊として抽象化する。
② 認識は進展であり、区別の展開である。視点を据え、要素に分解し、要素の集合として特徴づける。
③ 進展は区別の展開の繰り返しである。区別された抽象をふたたび具体化し、さらに区別する。

第二の論理 反省
① あらゆる存在は、「媒介」されて存在する。存在を知ることは「媒介」を理解することである。
② 存在を媒介との統一として把握することを、「反省された思考」という。
③ 大論理学の「有論」では、まず物事はその直接態において捉えられる。その際に、物事の奥に隠されたものを「本質」という。
④ 物事の本質を探るためには反省が必要。

この付近から相当、腹がむず痒くなってきた。この人はヘーゲルが分かっていない。
ヘーゲルは“Reflexion”と言っているので、反省ではなく反照だろう。鏡に写った影だ。フィルムに落とした風景だ。
ヘーゲルというのはいったいに言葉の使い方が乱暴な人で、そのうえに訳語がずれてくるから、何を言っているかわからないところがたくさんある。ヘーゲルの本を読むコツは、わからないところは飛ばすことだ。ツァー会社の宣伝ではないが「ヘーゲル、5日間の旅」だ。大丈夫、彼はまた同じことを繰り返す。

第三の論理 判断
判断とは物事が存在する必然性についての理解である。
ヘーゲルの唱える判断には2つの特徴がある。
① 概念内に措定された規定性(なんやこりゃ?)
② 判断のプロセスは思考の上行過程と呼ばれる。
③ そこではまず定有の判断が行われ、ついで反省の判断、そして必然性の判断が続き、最後に概念が判断される。
この定有→反省→必然性→概念という4つの判断過程を踏むことによって新しい概念が作られる。

多分ここで言いたいのは、現象→実体→本質という武谷の三段階説と同じことだ。しかし武谷モデルのほうがはるかにスッキリしている。ここで高齢学習者である私の学習エネルギーはがくんと落ちる
ここで私は本を閉じた。

なお「分析」にかかわる記述でちょっと脈絡なく、クーゲルマンへの手紙が紹介されている。
これは分析の視点の一つとして、「概念を歴史と発展の視点から捉える」というマルクスの立場を示したものだ。

この手紙は資本論第一部の発行後1年経ってから書かれたもので、分配問題について重要な言及がある。

工藤さんによれば、
① 社会の欲望量には社会的総労働が対応する。その個別の分配割合は社会的に規定される。社会的に規定されるというのは、市場的であると否とを問わない。
② 社会的配分の仕方は生産形態によって規定されない。それ自体が自然法則であり、それをなくすことはできない。
③ 労働生産物が私的に交換される社会、すなわち商品社会では、社会的配分は交換価値を通じて貫徹される。
ということで、面白そうな話題だが、詳細不明である。あとで調べてみよう。

マルクスは所有の問題、労働の問題でヘーゲルを引き継いでいる。それはおもに「法哲学」を通じてのことになる。ところがヘーゲルのこれらの議論は、アダム・スミスを読んで得た知識に基づいているらしい。
ということで、マルクスは経済学の概念形成にあたって、特に初期においてはスミス→ヘーゲル経由で仕込んでいるのではないかという気がする。

そんな日々の中で、たまたま「マルクス資本論とアリストテレス・ヘーゲル」という本が見つかった。パラパラと目を通す。
工藤晃さんの書いた本で2011年、新日本出版社の発行だ。
私の目下の関心とぴったりだと思って読み始めたのだが、どうも車線違いのようだ。

工藤さんは資本論の論理がヘーゲルの大論理学と重なっていることを強調したいらしい。そのうえで、マルクスが援用するヘーゲルの現象(認識)過程論がアリストテレスに淵源を持つことを強調する。

ただしアリストテレスのことなどは、当座どうでも良いことなので、少々煩わしい。

工藤さんの問題意識は、むかし読んだ見田石介さんの「資本論の方法」につながるものではないだろうか。正直の所、この年になってヘーゲル論理学を深めようという気はない。またマルクスにそれほど肩入れしたり、忠義立てしようとも思ってはいない。

むしろヘーゲルが直接イギリス経済学に触れてそれを摂取しているのだが、それをどう解釈すべきかが一つ、もう一つはそれをマルクスはどう受け止めているかというのが一つである。

一応、最初の数ページだけメモしておくことにする。



この間読んだ文献で、マルクスの真髄は労働価値説よりも私的所有の廃棄にあるのではないか、と書かれていて気になっていた。

そこで、所有の問題をロックからヘーゲルと引っ張ってきて、市民社会の根底に据え、それを覆すことを革命論の中核に据えた、という議論が本当に正しいのかを少しかじってみたい。

ヘーゲルの「法の哲学」第41節

「人格が(法的な)理念として成立するためには、自分の周囲にある「自由圏」を自分に与えなくてはならない。

持って回った言い方だが、自分の周囲の「自由圏」を自分のものになってはじめて人格が成立する、つまり人格というのは「自分+自分の所有する自由圏」ということになる。

したがって、「所有」とは自由の最初の現実化であり、自由の最初の実在性である。


「法の哲学」第42節

自由圏は本質的に外界であるが、人格に取り込まれることにより、「物件」と呼ばれるようになる。そしてそれは法律的な関係の中に立つ。

人格は発展し、自由圏は拡大する。したがって人権のもたらす物件は増大する。


第43節 交換可能な物件

物件の中には2つのものが含まれる。ひとつは人格と分かちがたく結びついた生命や肉体、天賦の才能といった物件である。

この他に第二の物件もある。それは人格が意志を以って、自らの能力によって生み出した所産である。

これら第二の物件は、外的な自然の諸物件と同じように契約や売買の対象とすることができる。

ただし人格の支配のものに置くことができない自然対象、太陽や星などは物件とはなりえない。

第44節 物件に対する所有権

外面的に見れば、物件はいかなる自己目的も持たない。これを所有に結びつけるのは、人格の意志である。

物件とはあるものを物件にしようとする意志の産物でしかない。

ここでヘーゲルの物件論は一旦無内容になる。

第45節 占有と所有

所有一般は誰かのものにすることであるが、占有は私のものにするということである。

所有は状況であるが占有は行為であり意志である。

占有が所有となるためには、それが合法的に行われた上で、社会全体から承認されなければならない。

所有を指すドイツ語

ヘーゲルはDas Eigentum を用いている。所有ではなく財産と訳されることもあるが能力という意味を含むので資産というべきである。

46節 私的所有の必然性

所有という形で私の意志は客観的なものとなる。自然は人の意思を受け入れ、この時所有は私的所有という性格を帯びる。

ずいぶん持って回った言い方だが、ヘーゲルは観念論者の宿命として、いかに述語に主語を持たせないかに気を使う。

ロックは私有財産を労働から基礎づけた。
ルソーは私有財産を技術の発展から基礎づけた。
ヘーゲルは“個別的な意志の排他性” から私的所有の必然性を基礎づけた。

ヘーゲルは、ここでは社会関係の枠組みを無視して議論している。しかし政治家ヘーゲルは、後の段で、「国家という理性的な有機体」に対しては、共有や公的所有を認めている。


47節 生命と肉体への権利

私は私の精神と肉体を所有する。それは他の物件を人格として所有するのと同じである。

動物も彼らの霊魂により自分を占有している。しかしそれは意志による占有ではないから、権利による所有ではない。彼らは自分の生命に関するいかなる権利も持っていない。

肉体はただの現存在であるかぎり精神的なものではない。それが精神の器官となり手段となれば、それは自由で意志的である私の一部となる。そのような肉体に加えられた暴力は私に加えられた暴力である。

だから何やちゅうねん。

49節 財の平等

具体的な人間は、個人として、各自異なった欲求や目的を持ち、能力や機会も異なっている。結果として財の占有には偏りが出る。

抽象的な同一性に固執する平等論は空虚である。

しかし生計は占有の概念とは別に語らなければならない。生計は抽象法の範疇ではなく、「市民社会に属する問題」である。

むかし、高橋敷さんという人がいてベネズエラの大学で教えたことがある。その時の思い出を本にした。2015年に亡くなられたようである。高橋さんの経歴についてはウィキを参照のこと。
それが「みにくい日本人」(原書房)という本である。当時ベストセラーになったらしい。
1970年の出版であるが、南米在留期間は59~67の8年間である。後半はベネズエラのゲリラ闘争の頃と重なる。ゲリラについては詳しい年表があるので参照されたい。

その中の一節を紹介する。もはや入手困難な本であろうから、著作権など無視してコピー起こしする。

まず飛び込んでくるのがベネズエラの強烈な貧富の差と、それに劣らず強烈な有色人への差別意識。

ついで半ば奴隷としてつれてこられた東洋人(チーノ)に対する無知と蔑視。

それらが、ベネズエラの地に限って日本人植民がきわめて少ないことの説明だ。

最後が、この本の題名になっているのであるが、それに反発しながら実際には迎合し、「名誉白人」の地位をもとめ、東洋人(チーノ)や現地の有色人を差別することにかけて引けを取らない「みにくい日本人」だ。

わたしたちの「AALA人民連帯運動」は、こういう日本人像から脱却し、差別とは無縁の真の国際人となるための、気づきと学びの運動でもある。


2章 残酷と忍従のあと
  1 日本人不毛の地

 ◇夢の楽園

ベネズエラ。ここは夢とロマンスの国、さもなくば恋と情熱とリズムの楽園ともいえよう。
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        60年代初頭のカラカスのハイウエイ
 創市四百年の歴史を持つ首都カラカスは、人口百五十万、マイケティア空港から、またラガイラ海港から、キロメートル当り、時価にして十億円はかかる、片側六車線のすばらしい舗装道路が、いくつかの長いトンネルをくぐりぬけながら、海抜九百メートルの斜面をなだらかにのぼって、わずか二十分で都心部を結びつける。
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         写真はいずれも60年代初頭の絵葉書
 そこには、何階層にも重なり交錯しながら、国の各地方に広がってゆく美しいインターチェンジの白い輪の放列かあり、その中に空高くそびえる二本の政庁ビルを中心に、昼は色とりどりの花園や、
大学都市の広壮な造形に飾られ、夜は南十字の星影と、スケールの大きいネオンにいろどられて、ごみ一つない、清潔な近代都市が、緑ゆたかに広がっている。

 人口九百万、国土は日本の二倍半、たとい国民の半数を占める原住インディオの貧しい生活を、郊外や山間の僻地に捨て去っているとはいっても、この、ぜいたくなまでの富の来たるところを見ようと思えば、飛行機で四十分、西の方、カリブに続く美しいマラカイボの湖面を見わたせばよい。

 そこには、すみきった青空にむかって、無数ともいえる石油并が林立し、スペクトルのように輝きを変えるエメラルドの水面から、おびただしい石油の管が四方に送られる。世界第二の産出量を誇り、この国の貿易愉出の九六パーセントを占める、原油のすきとおった流れこそ、ベネズエラの明日なのである。


 ◇屈辱の日本人

 だが、未来を求めるこの楽園が、日本人にとっては何と耐えがたい屈辱の国なのだろうか。東洋人にとっては、未来どころか、つきまとう古き鎖のまぼろしの国であるかもしれない。

 美しいショーウインドをのぞいて歩きながら、しばしばあわれみとも軽蔑とも分かち難い、冷たい視線が自分に集まるのを意識する。そしで、ささやき合う母と子の対話が耳に入ってくるのだ。

「ごらん、チーノ(中国人)よ。ママ」
「まあ、ネクタイしてるわ、オホホホ。でもかわいそうね」

そしてタクシーに乗って、ますます事の重大さにおどろくのである。
「チーノ。さっさと行き先をいえ」
「俺は(ポネス(日本人)だ」
「何だって、前にもハポネスというチーノを乗せたことがあるぜ。ハポンがチーノの県か、チーノが「ポンの県か。どっちだい」

 腹を立てたってどうにもならない。
「お前、学校で地理を習わなかったのか」
「習ったよ。ハポンやチーノぱ、アヘンと伝染病の産地だって」


 ◇クマーナの町

 カラカスの台地を降りた車が、荒々しい濯木の野を分けて、まっすぐなパンアメリカン道路を東へ六百キロメートル、明るいカリブの青を左に眺めながら、何度かココヤシの林をすぎ、弓なりの木の
幹の間を通りすぎた後、来訪者歓迎のアーチと、漁業の盛んな町を象徴して、マクロを差し上げた少年の裸像に迎えられて、この東部の中心地に到着する。

 その昔、海賊に備えたという、数十門の砲台を据え付けたスペイン風の白い城が、緑に包みこまれて海岸の台地にそびえ、山手の方には人工の濠に影をうつして、日本のどんな大学だって太刀打ちできない、巨大なオリエンテ大学のビル群がひしめいている。

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 しかし、これらの人工美にはるかに優り、旅行者の魂を神秘の境にさえ引き入れる、カリブ海の陶酔の輝きはどうであろうか。泳ぎつかれた金髪のセニョリータたちが憩う白糖の砂浜は、背後から、一度はのけぞって、幹の上の方でもう一度おおいかぶさる″びんろう樹”のぬれた緑に包みこまれて、数秒おきに小さくひびくそらからの波のタンバリンに洗われている。

 マルガリータの島影に夕陽が落ちると、空を染めつくした金線の残光が一瞬波の上を走り、びんろう樹の影をとかせていたサファイアの海面が、たちまちヒスイに変わり、やがて深いコバルトブルーの眠りにおちてゆく。

 この美しい海の而を、日々見なれて来たクマーナの人が、どうして人種差別の先頭に立つのか。カラカスでおどろいた対日無知は東部に行くにしたがって、ますます、とうにもならない、ひどいものになってくるのであった。

 ◇チーノーキャノン

 「おーい、来てみろチーノがいるぞ」
 海の美しさに見とれて、ぼんやり岸に立っている私を見つけて、五、六人の中学生が走りよって来た。

 「見ろよ、われわれより上等の服を着ているじゃないか」
 「ワッハッハ。ほんとうにチーノだ」
 「石をぶっつけようか」
 「よせやい。可哀そうじゃないか」
 「オーイ。チーノ。どこから来だのかいってみな。ホンコン、トウキョウ、。ペーピン、それともシャンハイかな、ニッポンかな」

 私は無視してじっと沖を見ていた。明日の朝刊はすべてを解決してくれるだろう。「日本人教授来たる」と。だが、この分では、ペルーでの初講義以上の困難を覚悟せねばならないだろう。別れを惜しむペルーの学生を振りきってまで、苦しみを求めてなぜこんな国にやって来たのだろう。

 それにしてもカリブの海の色あいはどうだ。恋を思いださせ、死をあこがれさせ、情熱のたかまりをかきたてる。とても現世のものとは思えない、生命を吸いこむ美しさなのである。タマーナの人々は、幸せな筈なのに。

 「あなた、見てごらん、チーノじゃない」
 汐風にふかれながら、若い一組の男女が通りすぎる。
 「ややっ。ごらん。チーノがカメラ持ってるぜ。それもキャノンじゃないか。世界の最高級品だよ。おどろいたなあ、まったく」


 ◇学生たちの生活

省略


 ◇黄色いプロフェサー

 さきの吉川教授の人気や、海洋研究所のドクトル・奥田(元北海道大教授)の活躍に目をつけて、東洋人不毛のベネズエラ東部に、一つ日本人を招こうと考えたゴンサレス学長は唯一の知日家だった。

 だが彼にともなわれて初講義に立った私の教室に、溢れるばかりに集まった学生たちは、学問が目的でないことだけは明らかであった。

「さあ、チーノ先生の講義がはじまるぞ」
「犬のサーカスよりは珍しいぜ」
「オー、オー、プロフェッサー・チーノ」
 さすがに礼殼だけは正しいものの、彼らのささやきは、まことにたまらないものであった。

 私は決して腹を立てずにたんたんと天体を論じた。何よりも私は日本の文化を示す道具を持っていた。だが、講義終了後の物理本館の屋上で、これ見よがしに学生実習用に日本からもって来た望遠鏡をすえつけている私をとり囲んだ学生たちの質問は、まことにひどいものだった。

 「先生、これはどこの望遠鏡ですか」
 「書いてあるじやないか。メイド・イン・ジャパンと」
 だが、学生は気の毒そうに訊ねるのだ。
 「それはわかります。私たちの知りたいのは、日本に会社を設けている国の名なのですけれど……」

 彼らによれば、ソニーも、キャノンも、日本の土地にある外国の会社の作品であり、だから商品名も英語であった。そして、私か大散財をあえてして、ラガイラ入港の見本市船「さくら丸」に何人かの学生を招いたことも、結果としては、どれだけの効果があったか知れたものではない。

 「先生、さくら丸はいい船ですね。こういう船が買えるんだから、日本は金持ちだといえますよ。」

 だが、さしもに忍耐を重ねた私か、ただ一度だけ、怒って灰皿をたたき割ったことがある。それは海岸のホテルで開かれた企画教授会でのこと、サービス係のマルコ助教授が、ひとりずつに葉巻を配ったとき、私の番になって一言多かった。

「どうぞ一本、プロフェサー・高橋、残念ながら当地にアヘンはありませんので……」

マルコはびっくりしてしまった。ほんのお世辞のつもりだったと弁明した。しかし、それ以後、私にアヘンの話をしかける者はいなくたった。

 こんな日常に、とつぜん一九六四年オリンピックが東京で開かれたことは幸いであった。大学に出勤すると、あいさつはオリンピックのことであった。

 「先生、昨日テレビを見ましたよ。東京って美しい町ですね。まるでカラカスみたいだ。日本をみなおしましたよ。自動車だって走っているじやないですか」


 ◇侮蔑対策三方法
 このような日常を生きぬいて、しかも教授としての面目を保って学生を指導してゆくにはさまざまの適応型がある。

 日本人教授第一号である吉田氏は学習型であり、報復型である。位相数学の世界的権威が、不心得な無礼学生を徹底的にしぼり上げたのではたまったものではない。だからといって「チーノはむつかしい」と音をあげるには彼らの誇りが許さなかった。学生たちは吉田氏を恐れるようになった。

 奥川氏は研究型、または超越型たった。チーノとか、アヘンとかいう言葉にも、氏は何の反応も示さなかった。

「チーノ、何、俺に名をつけるのか、どうぞ」という氏に、学生たちは、偏見を表明する興味と錢会を失ってしまった。

 東部という日本不毛の世界にとびこんだ私は、説得ないしは生活指導型をとらなければならなかった。日本は世界第三の工業国であること。新幹線も東京タワーもあること。

 そして、そのためには、学生たちを招いて夕食をともにしたり、日本のスライドを紹介する必要があって、日本の威厳のために涙をのんで、一日四十ボリパールの高級ホテル、クマナゴートに往まねばならなかった。
 市内には、十ボリバールを払えば、豊かな生活が楽しめる下宿がいくらもあった。クマナゴートに往んだのは、ただアメリカ大教授、ドイツ人教授か往んでいるのに対抗したにすぎなかった。


 ◇ムスメ売る国日本

 昭和四十年代の世界で、排水口に流れるゴミのように、これだけ日木に対する偏見の集まる場所があるだろうか。だが、たしかに、ここは北半球の一角なのである。

 彼ら、ヴェネズニフ大にとって「チーノ」とは東洋人の総称であり、それは同時に、頸に豚の尾のような弁髪を垂らせ、アヘンを求めて地上に寝転がる人々を意味した。その印象にある「チーノ」は今日もういない。

 だが彼らは、日本の映両が来た時にそれを思い回す。サムライのちょんまげは弁髪の変種なのであった。

 「僕は日本をよく知つてるよ。チーノとは全然別の国だって」
 こんなことをいいだすのも、決まって映画ファンだった。そして、日本映画といえばサムライ、さもなくばエロ映画ときまっていたし、稀に入ってくる受賞作は悲惨な汚れものに違いはなかった。

 「僕は文明社会は嫌になっているんだよ。日本の自然で、カゴにのってゲイシャと寢たらどんなにいいだろう。」
 「ゲイシャはキモノを着ているから普通のセニョリータと見分けぱつくだろうね」
 「ドクトルも日本じゃ刀をさすのかね」
 「日本じゃ人身売貿があつてゲイシャになるんだってね。ゲイシャつて可哀想なんだそうだよ。逃げられないんだ」
 黙ってきいていれば、彼らの会話には何がでてくるか、わかったものじゃない。
 「でもゲイシャにはきれいな人は少ないのだって、日本占領軍の友人がいってたよ。一番いい方法はポリスにチップをやって、一番きれいなセニョリータの家を教えて貰うんだ。」
 「しかしゲイシャは白人にあこがれるんだってね。みんな、もてて、もてて、帰国する時は泣き叫ぶので困るそうだよ」

 だが、ここで私か怒りだしただけでは問題は終わらない。後日、ニューヨークの場末で、時間まちに見た映画の筋は、たしかにこの会話と同じものであった。不良黒人兵が日本の娘に暴行を加えた。だが、MPが来るまで、日本人の弥次馬は集まるばかりで誰も助けようとはしない。そして、娘は黒人兵を慕うよりになるのである。

 「日本は世界第三位の国だぞ」
 だが、ひとりだけ私の叫びに同調する者がいた。キューバのモンテス研究員である。
 「世界一の強国は、アメリカ合衆国を倒して独立したキューバ。次は引き分けに持ちこんだベトナム。三番目は、四年問持ちこたえた日本だ。日本はゲイシャじゃない。キューバの友達だ」


 ◇差別のなりたち

 ベネズエラ人の東洋蔑視には、かつては旧中国の労務者を奴隷として買いこみ、開拓の人柱として酷使した、非道にも深い歴史のいきさつがある。

 侵略者として入りこんだ白人たちが、インカ帝国とは勝手の違う、気性のはげしいオリノコ高地人と融和して、いかにして支配体制を確立するかという命題につき当ったとき、おあつらえむきに現われたのが中国人であった。

 かつて日本の権力者たちが、同じ命題で民衆にむかった時、一体何をしたかを思い出せば、この関係ははっきりするだろう。権力者たちは、気にいらぬ者を犠牲にして、さまざまな方法で責めると同時に利用を試みた。はじめはキリシタンであるとの容疑をかぶせて、鼻そぎ、一寸刻み、逆吊り、蛇責め、油いため、はりつけなど、天才的な工夫でなぶり殺すと同時に、他への見せしめに利用した。

 後には、えた非人制を発明し、反抗する者を殺さず、家族主義の日本人の精神構造を利用した知恵で、子孫代々を苦しめて、しかも、平常は″切捨てごめん″の町人たちにも、権力の楽しさを味わわせる玩具として利用しつくそうとした。

 だが、ベネズエラの白人たちは、残酷を必要としなかった。ただ、希望する中国人を買えばよかった。弁髪に鼻の丸い、のっぺりした顔立ちの人種を見ただけで、高地人たちは大喜びであった。中国人の出現によって、鼻の高い高地人もまた、白人との共通性を見出したのである。


 ◇日本と中国

 事情がわかってみると「自分は日本人だ。チーノではない」といういいわけは、何と思い上がった差別加担行為であったかがわかるのである。チーノは日本そのものにほかならなかった。

 だが、せっかく仲よくなったパン屋のワンさんと、一夜、盃をかわした時、彼ははっきりと私に告げた。

 「高橋さんは別だ。だが、私が世界で一番嫌いなものは日本人だ」と。

 ワンさんは話を続ける。

 「ベネズエラ人の虐待は耐えられる。彼らには、それなりの歴史と理由がある。それに虐待しても決して排斥はしない。現に私の手になるパンを市民は喜んで食べるし、大学祭の仮装には中国服がいつも貸しだされる。だが、日本人はどんな理由で中国人を差別するのか」

 彼は、カラカスに働いていたとき、日本の旅行者に日本人と見誤られた思い出を語るのであった。

 「残念です。私は一つお隣りの中国です。と答えました。その時の旅行者の、さも汚いものに触れたような不快と軽蔑の目つき。私は、高橋さんには悪いげど、これでも五千年の歴史の中で、中国が日本に敗れたのは、最近の五十年間だけだと信じていますよ。日本人はなぜわれわれを排斥するのでしょう」


 ◇便壺と特攻隊

「日本に対する、すさまじいばかりの無知は一体どこから来るのか」

 だが、実際には、この質問ほど思い上がった島国根性はない。田舎の村会議員の権勢などよその町では通用するものではないのだ。

 第一、ベネズエラの教科書に日本の記事がどれだけあるだろう。
一年生で国内地理、二年生で白米地理、そして三年生になって世界地理に進行中学の・課程で、日本の現われるのはやっと三年生の三学期、北米、ヨーロで(を終えた後の「その他の両々」になる。もっとも、その大部分は中国、インド、オーストラリヤであるが。

 第二に、日本の変化が、地球の裏側のうわさ話を形づくるには激しすぎたということ。ナポリ郊外のポンペイの遺跡が、二千年前、ヴェスヴィヤスの噴火によって埋められた、そのままの姿で発掘されてみても、今日の生活様式とのあいだに目だった違いがないのにくらべて、日本の五十年の差違はどうでおろうか。

 第三に、これはもっとも大切なことなのだが、「誤解とか無知」とか感じるのは、むしろ私たちの方が間違っている場合が多いことである。

 「日木には東京タワーがある」
 「日本の汽車は世界一速い」

 こういってくれたら、もちろん日本人は大喜びするに違いない。しかし、この報告と、

 「日本人は大便小便を何力月か貯えて、そのまわりで寝起きするんだってね」

 といううわさと、どちらが一般的に本当に近いかは、胸に手をあてればわかる筈なのである。

 最後に、誤解そのものが世界的な常識であって、日本の方が狂っている場合もいくらでもある。

 「カミカゼというのは、アヘンを吸って、ふらふらになって飛行機に乗りこむんだね」

 私か真っ赤になって怒ったのはいうまでもない。日本人を馬鹿にするな、と。だが、自分で進んで軽蔑を買ったのが私の怒りであった。世界の人々は、(シラフで)爆弾を抱いて突っ込むというという非人間性を理解することができなかった。

 野蛮人ならいざ知らず、日本人が(本当の)文明人であることを認めるためには、自殺する前に精神錯乱の原囚を作る必要があったのである。


◇感激の夜は果てて

後略


あとで調べたら、この本は当時のベストセラーで、ようやく増え始めた海外生活の指針として重視されたらしい。

ウヨクと思われる人たちが「自虐的」と批判しているが、見当はずれだ。要は世界中の人の相対化、つまり嫌なこともふくめて「十人十色」というあたりまえのこと、そして「人の振り見て我が振り直せ」という自戒だ。

著者を日本人と知って諭したパン屋のワンさんは、チャベスを支持してきた“色付き”の人々と重なるのかもしれない。

581年 楊堅、隋を建国。文帝を名乗る。

587年 蘇我馬子、河内の物部守屋を滅ぼす。継体天皇以来の物部政権が終わり、蘇我政権に移行。

589年 隋が南朝の陳を平定。中国が統一される。三韓諸国は相次いで隋に遣使する。

595年 高句麗人の慧慈、飛鳥寺建設のため派遣される。

598年 高句麗と靺鞨との抗争。隋は高句麗が国境を侵犯したとし、水陸30万の遠征軍を派遣する。

608年 隋の裴世清が来航。

610年 高句麗人の曇徴が来航。

612年 煬帝、100万以上の大軍を率い高句麗に親征。首都平壌の襲撃まで至ったが、最終的に撃退される。

613年 煬帝、再度高句麗に親征。国内に反乱が発生したため挫折。

614年 煬帝、三度高句麗に親征。逃亡兵が続出した上、国内での反乱が相次いだ。高句麗の王が自ら朝貢する条件で和議。

617年 煬帝、4度目の高句麗遠征を企画。各地で大規模な農民反乱が発生し、実施不能となる。

618年 煬帝が近衛軍団によって殺害され、内乱となる。

内乱を勝ち抜いた李淵が高祖を名乗り、唐を建国する。

621年 三韓諸国が揃って唐に朝貢する。

624年 唐の高祖、高句麗と和睦。高句麗王を遼東郡王、百済王を帯方郡王、新羅王を楽浪郡王に冊封する。

627年 百済が新羅を攻撃。新羅は唐に援助を求めるも援助を得られず。

630年 唐は東突厥を滅ぼし、高句麗を次の目標とする。

631年2月 高句麗は国境沿いに長城を築いて唐からの侵攻に備える。

632年 唐使の高表仁、難波津に到着。大和王朝の無礼に怒り、天皇と会わないまま帰国(旧唐書)

633年

8月 百済、新羅西部に侵入。

635年 新羅、唐より柱国・楽浪郡公・新羅王の爵号を受ける。

641年11月 百済で大規模な政変。義慈王が事件を通じて大幅な王権強化を目指す。

642年 高句麗で淵蓋蘇文が、権力の集中を目論んでクーデター。栄留王を殺害し、宝蔵王を王位につける。

ウィキペディアでは淵蓋蘇文、ブリタニカでは泉蓋蘇文を取る。『日本書紀』では「伊梨柯須弥 」(いりかすみ) 

7月 百済、新羅の伽耶地方の40余城を陥落。新羅は高句麗に救援を求めるが果たせず。

642年末 百済王室でも政変が発生。

643年 高句麗と百済の間で和睦が成立する。

643年 百済、皇子扶余豊璋を廃太子し、倭へ人質として送る。

9月 新羅、唐に救援を求める。唐は支援の条件として善徳女王の廃位をもとめる。

643年 舒明天皇が死に皇極天皇が即位。蘇我入鹿が斑鳩宮を急襲。聖徳太子一族が滅亡。

645年

2月 唐の太宗、10万の軍勢を率い高句麗へ親征。新羅と百済に対し闘いに参加するよう求める。

5月 新羅軍3万が高句麗攻撃に参加。激戦の末に撃退される。

645年 乙巳の変。新政権は難波を王都とし、中央集権体制を強化。

647年 高句麗、唐の第2,第3次攻撃を跳ね返す。 

647年 新羅で親唐・廃位派の?曇(ひどん)が反乱。金?信がこれを鎮圧。

648年 唐が新羅支援を約定する。新羅は官制を唐に合わせ変更、独自の年号を廃し、唐の属国となる。

649年 唐の太宗、高句麗制圧を果たせぬまま死去。これに代わった高宗は、百済と高句麗の安堵と引き換えに新羅との和平を命令する。

651年 左大臣巨勢徳陀、中大兄皇子に新羅征討を進言する。中大兄はこれを採用せず。

655年 高句麗、百済と共に新羅に出兵。33城を奪取する。

658年 唐は新羅の要請を受け高句麗を攻撃するが失敗に終わる。このため最初に南の同盟国百済を攻撃する戦略に切り替え。

660年 唐、水陸合わせ13万の軍勢で百済に侵攻。滅亡させる。

百済の残存勢力が反乱を起こす。これを倭国が支援。

661年 唐が高句麗への攻撃を開始。首都平壌は半年の間包囲されたが、唐軍の撃退に成功。

663年 白村江の戦い。百済軍はこれをもって壊滅。

666年 高句麗軍の指導者、淵蓋蘇文が死亡する。長子男生と、弟の男建・男産が対立。

668年 長子男生は唐に内通し、内部から解体。

668年 高句麗、1ヶ月にわたる平壌包囲戦ののち降伏。

668年 唐は新羅の文武王を大都督とし、平壌に安東都護府、旧百済領に熊津都督府をおき管轄した。

670年 新羅、高句麗からの亡命者を「高句麗王」に封じる。

3月 高句麗遺民軍と新羅軍が平壌を制圧。鴨緑江を渡り唐軍を攻撃する。

671年 新羅は高句麗の使者を倭国に朝貢させることで、安東都護府への対抗姿勢を明らかにする。

671年 新羅は、百済地域の唐軍も攻撃。泗?城など82の城を奪う。

10月 唐の水軍、黄海で新羅水軍に敗れる。

672年

7月 唐軍と靺鞨軍が平壌を占領。

12月 白氷山の戦。高句麗復興軍と新羅軍が唐軍に敗れる。

673年 高句麗復興軍、瓠瀘河の戦闘でも唐軍に敗れ、衰退する。

674年 新羅、旧百済領内に高句麗遺民軍の領地「報徳国」を設定。「報徳王」を据える。唐は新羅征討のため軍を派遣。

1月 唐、新羅が旧百済領を蚕食したことを怒り、文武王の冊封を取り消す。

675年

2月 文武王、唐に謝罪使を派遣し、鶏林州大都督に復帰。

9月 泉城の戦と買肖城の戦で新羅軍が唐軍に勝利。

676年 伎伐浦の戦。新羅が唐軍を破り、旧百済領をふくむ朝鮮半島南部を確保する。唐は、熊津都督府と安東都護府を遼東に移し、朝鮮半島から撤退した。

678年 唐、西方の吐蕃の勢力拡張への対応が必要となり、朝鮮半島への介入を断念。

684年 新羅内の亡命政権が取りつぶされる。

「効用」を考える

1.「効用」と使用価値

新古典派の代名詞は「効用」である。「効用」そして「限界効用」は古典派にはない概念だ。

新古典派にあっては価格の源となるのが効用だ。

効用(utility)というのは商品に付帯する性質である。“Goods”の持つ “Worth”であろう。

それは古典派における「使用価値」(value in use)とかなり重複する概念だ。古典派にあって取引というのは基本的には等価であるから、価値(商品に含まれた労働量)によって決まる。

しかし価格は価値によって決まるのではない。売れるものは売れて、場合によってはプレミアが付く。逆に売れなければ割引するが、最悪投げ売りするほかない。

古典派によれば、価格と価値は個別にブレることはあっても一つの市場全体としてはバランスが取れることになっているので。総価格と総価値はイコールになるはずだと言われる。だがそうだろうか。

もう少しいろいろな事情を取り込みながら、価格の決定過程を具体的に探っていくべきではないだろうか。

そう言われると「たしかにそれはそうだよね」という気持ちにならないでもない。

しかし具体的な算定法になると、「完全競争市場」という信じられないほどの単純化と大胆な仮定の連続で、それで出てくる数字に有効性があるとは思えない。

私としては、「長期的には価格は価値を反映する」ことを前提にして、どんなものが価格実現過程を撹乱するかを列挙し、それらに重み付けするのが一番現実的なように思える。

そういう点では、新古典の分析手法を基本的に受容できないのである。

2.心理学的範疇としての「効用」

効用というのは“もの”に即してみれば、その具体的有用性である。ただ人間側から効用を見れば、それはむしろ心理的な欲望を充足させる度合いである。

そして、新古典派ではこちらの意味合いの方が強そうだ。欲望が強ければ満足量も増えるし満足度も高まる。逆に何度も使っていれば飽きてくる可能性もある。

しかし欲望充足の程度というのはあまりにも多変量的であり、その評価についてはほぼ絶望的であろうと思われる。基数的効用とか序数的効用というが、それは結局、供給量を増加させたときの市場の反応だ。
たしかに「効用」が評価されれば需要は高まり、それは二次的に供給量として反映されるであろうが、原因と結果が堂々巡りする同義反復のような気がする。

3.「効用」と欲望の関係

「効用」というのはおそらく欲望との関係でもたらされる関数であろうと思う。欲望のないところに「効用」は生じないが、ひょっとすると使用価値がゼロであっても「効用」は生じる可能性がある。

欲望は生産とどのような関係にあるか。欲望はモノなしには生じない。それはモノを消費することで生まれる。すなわち欲望はモノそのものではないが、モノと同様に生産されるのである。

欲望の生まれる可能性は無限に存在する。つまり一般的欲望は無限大である。しかし具体的な欲望(例えば需要)は物質に依存するので、時・場所・場合により変わってくる。

4.欲望より見た市場

生存要求に基づく欲望は直接的であるが、生産力が上昇すれば社会的・間接的要求の比重が高くなる。その内容も多彩になるため、需要供給曲線に表すこと自体が無意味になるのではないか。

市場の意義は商取引よりも需要喚起、欲望の掘り起こし機能が主要なものとなる。

実需に基づく市場においては、商品需給と労働力需給がほぼパラレルに動くものと思われるが、欲望が多様化し需要構造が複雑化するようになると、両者にズレが見られるようになる。また信用制度が発達するとキャッシュフローの時間差が激しくなり、市場を揺さぶるようになる。

このような状況になっても「市場原理主義」を貫くのか、さまざまな代替案を組み合わせるのか、真剣に考えなければならない時代になっている。
新古典派経済学がそのままで進めないことは明らかである。


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