2019年03月
「自然数直線系」と「ー∞~0~+∞数直線系」を混同しないこと
ペルム紀大量絶滅について
初期には寒冷だったが、末期には激しい気温上昇が起こり、地球の平均気温は23℃にも達した。
5つの大量絶滅事件
アマルティア・センてどんな人?
キウス周堤墓 千歳空港のそばにこんなところが
2号周堤墓周堤断面(上:2012年、下:1965年6月)
人が立っているところが周堤墓の底面
ルディー和子さんの 「経済の不都合な話」を読んで
でもけっこう同感してくれるのではないか、とひそかに心中思っています。
ルディー和子さんの 「経済の不都合な話」が面白い。
労働量が価値を決めるのではなく、顧客の満足度が価値を決めるという「逆転の発想」労働価値説の否定でなく、価格形成過程からの排除という「けたぐり」による、古典派経済学のちゃぶ台返し。価格形成論の除外により、労働者と労働過程を経済学の関心圏外に置くこと。ついで今度はフィクションの積み重ね。「おとぎ話」を数式化することで真実らしく見せる詐欺的手口。
新古典派が生き延びたのは、他ならぬケインズとサムエルソンのおかげである。シュンペーターの発想はケインズとは正反対で、ほぼ正統的な古典派だ。
ルディーさんも、高校の微積分でずっこけた「文化系」の人らしいから、シュンペーターとは相見互いだ。他人事ではない。
江戸と大阪の歴史人口学
実証的な文章で、読み流すにはやや苦しい。しかし数字には説得力があります。
幕末から明治初期にかけてなぜ大阪が地盤沈下したか、それは東西の力関係にどのような影響を及ぼしたか、という問題は、堺市長選挙以来の私の宿題ですが、まだすっきりとした結論は得られていません。
妻との年齢差は上層では10歳を超える。下層でも7歳に達する。子供の数も0.4人にすぎない。
しかし江戸でも人口は停滞した。東京の人口増にドライブがかかるのは明治20年代、松方デフレの収束後のことである。
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6.雑
ベルリン・フィル御三家
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4.指揮者
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古典派と新古典派は“異種”の経済学
年表: アメリカにおけるケインズ受容
不完全雇用時にはケインズ主義的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する
なにか発想が違う。反省がないような気がするが…
異端派のガルブレイズ、「計画化体制」概念を提起。これは千社程度の大企業が国家と固く結合した体制で、企業は国家の一翼となり、国家は計画化体制の道具となっている。(要するに昔の国独資)
貧しい社会には誘惑がないし、公共サービスを厳格にすることができる。しかし豊かな社会はそうは行かないのだ。そこでは消費欲望を満足させる過程自体によって消費欲望が作り出される。それは依存(Addiction) をもたらす。
アメリカのケインジアンは、「財政赤字は無害だ」とし、産軍複合体がそれを利用するままに任せた。雇用問題は解決されたが、「なんのための雇用か」問題は解決されていない。分配問題は経済の問題ではない。それは不平等の容認。放置すればインフレが発生し自由主義の慣行を掘り崩していく。
経済における革新は消費者の側から自発的に現れるものではない。むしろ新たな欲望が生産の側から教え込まれることが普通である。従って革新のイニシアチブは生産の側にある。
1977 ガルブレイズ「不確実性の時代」を出版。
パレート効率性を調べる
議論すべきは労働価値ではなく、私的所有制だ
新古典派によれば、
先に述べたように搾取論は、ロックの労働所有権思想をベースとしている。しかしロックの中核概念こそが私的所有制度なのだ。
新古典派経済学の歴史
https://cruel.org/econthought/essays/margrev/ncintro.html
ヘーゲルが史的唯物論の骨組みを作った
北海道を農業の「逆特区」へ 種子法と北海道
久田徳二さんの講義を聞いた。
「種子法廃止と食と農」と、やや長い題名だが、たしかにこれ以上は切り詰められない中身だ。
「食と農」というのは、政治・経済的に考えれば、食物の消費者と生産者の関係である。
食料というものを巡って、そのまわりに消費者・生産者という社会グループがある。その三角関係が今どう変わってきたのか、これからどう変わろうとしているのか…これが課題の大枠である。
そして、その変化の過程の中で種子法がどのような働きをしているのか、これが具体的な小状況である。
結論からいうと、種子法は生産者から生産の論理を剥奪し、市場の論理でがんじがらめにするものである。一言で言うと生産者が生産者でなくなってしまう、ただの労働者になってしまうのだ。
そうなるとどうなるのか。種子を独占する企業が資本の論理、つまり儲け第一主義を貫徹するのである。消費者の論理は生産者の論理に反映していたが、もはや消費者の論理に対応する生産者はいなくなる。市場経済の存立基盤が根底から失われてしまう。
「嫌なら食うな!」
これが資本の答えである。
遺伝子組換えとか知的財産法とか、各論的にはいろいろあるが、農業のあり方が根底から変わってしまうところに種子法の最大の恐怖があるのではないだろうか。
種子法と北海道
久田さんの講義は、時間制限もあってずいぶん端折ったものになってしまった。主催者側の勝手で、大変申し訳ないことだった。
それで、質疑応答の中で私が考えたことをちょっとまとめておく。
北海道は農業王国だ。ある意味、農業しかない地域にさせられてしまった。だから農業は生命線だ。だから農業のあり方が変わってしまうのは生命の危機をもたらす。
北海道農業が発展していくためには2つある。一つは日本の農業基地として販路を拡大することだ。もう一つは東アジアで特色を持ったアグリ基地として情報を発信していくことだ。
とくに後者の道は前途洋々だろうと思う。
その際の最大のブランドは北方系の食物バリエーション・まさに「北海道ブランド」だ。そして、日本産であるがゆえの安心・安全だ。これが付加価値となって圧倒的な競争力を獲得できることになる。
北海道を農業“逆特区”に
昨今は、各地で「特区」が話題になる。大体において良いことはない。加計学園だとかカジノだとか、独占企業や“お友だち”企業に都合の良いことばかりが「特区」の名目でゴリ押しされる。
私は、そういう状況の中で北海道の「農業特区」化を提案したい。
これは、いままでの規制緩和のための特区とはまったく逆の方向での「特区」だ。
つまり、規制を緩和させないで維持し、場合によっては強化し、儲けのためではなく安全を第一にする方向づけを明確にすることだ。企業のためではなく農業のための法的枠組みを整備することだ。そして農民第一の目線を貫くことだ。
TPPなどの国際枠組み、国内法体系のもとではなかなか困難なことであるが、だからこそ「特区」としてやっていけないのだろうかと考える。
もちろんその前にも北海道庁としてやれることはあるだろうし、議会も条例化の努力でこれを支援するべきであろう。
「北海道の自立へ」というスローガンは、公助と共助の隙間を埋めていく、そのような努力を含んでいるのではないだろうか。
西暦397年は歴史のクロスロード
つまり、順序だけが信用できるが、その他は明らかな嘘である。この嘘の付き方に法則性はあるのか、その目的は何だったのか、それらは永遠の謎である。
ただし、そのヒントとして、日本書紀に何度も繰り返し現れる百済本紀がある。作者はこれと皇統紀をなんとか結べつけようとする。我々も別な立場から関連付けようとする。その付近のせめぎあいが日本書紀の醍醐味であろう。
遠藤慶太さんの「六国史」(中公新書)にその一端が触れられているので紹介しておく。
1.日本書紀の応神紀には百済記が引用される。
(百済で)阿華王の即位にさいし倭への礼を欠いた。倭は百済を攻め、“とむたれ・けんなん・ししん・こくな”の東韓の地を奪った。百済は王子“とき”を倭に遣わし国交を修復した。2.おそらく同内容が三国史記の百済本紀では以下のように記載される。
百済の“あしん”王は倭国に修好し、太子の“てんき”を身代わりとして派遣した。この出来事が日本書紀では西暦277年とされるが、三国史記では397年の出来事とされる。三国史記ははるかに後代になるものではあるが、嘘をつく理由はない。とすれば400年ころに大和を治めていたのは応神ということになる。
これは2つの点できわめて重要なポイントだ。
一つは、倭王朝と大和の諸王の関係を見る上で起点となるからだ。
私は以前から仲哀の筑紫進出と不自然な死がいつ頃なのかが気になっているのだが、もし400年頃が応神の治世だったとすれば、応神の父である仲哀は、その少し前に那の津まで達し、そこで客死したことになる。
そのとき仲哀が請われたのは新羅出兵であり、百済出兵ではない。仲哀はそれを断り、その直後に不審死した。
もう一つは、多分こちらは大和王朝とは関係のない話だが、広開土王の金石文とほぼ時期的に一致するからだ。
百済が先の誓約に背いて倭と通じた。そこで広開土王が平壌まで南下し、戦いに備えた。これが399年のことである。
つまりこういうことだ。高句麗は百済を臣従させるなど朝鮮半島全体で覇を唱えていた。倭(と任那)はこれを快く思わず、介入の機会をうかがっていた。
百済の王が交代し、おそらくはそれに伴って内紛が発生した。これをチャンスと見た倭は百済に出兵し領土の一部を奪った。百済は倭に詫びを入れ、人質を送ることで関係を改善した。
それを見た高句麗の広開土王は、百済に謀反の意ありと断じ、兵を平壌まで進めた。
このときたまたま、中国地方を征服した大和の仲哀天皇が勢いを駆って倭王朝の本拠まで達した。倭国は戦闘参加を呼びかけたが仲哀がこれを受け入れなかったので暗殺した。
倭王朝は寝返った武内宿禰に大和の制圧を命じ、応神を押し立てて難波政権を擁立した。旧仲哀勢力は四散した。
つまり高句麗から百済、倭国、大和王朝にいたるまでのあらゆる流れがこの時期に一点に集中しているのだ。
パドドゥ
下記のキャプションがついています。
Please note the delicacy and elegance of the hardly touched fingers, the synchronicity and the harmony of the ankles in the air, the graceful unison movement while the common theme (the round balloon) lies at their feet. A real "pas de deux".
art football tag 3 2018 World Cup
同性2人による踊りは「デュエット」だが…二人がともに優美な指型を作っているのは、ただの偶然ではないでしょう。
おそらく脊髄性の姿勢反射だろうと思いますが、あるんですかねぇ、教科書には…
ライヒ「交雑する人類」を読んで
ジェノグラフィック・プロジェクトは100万人のサンプルからミトコンドリアDNAとY染色体のデータを集めた。しかしそのデータは従来の説を確認するにとどまった。
このトピックスに典型的に示されたように、「いつ・どこで・どのくらい?」といった問題にはめっぽう強い。ほぼ独壇場である。パラメータの豊富化により、さまざまの事象の相対的前後関係が精緻化されたことが大きい。
① 満州北部松花江以北 このゲノムは8,000年以上にわたり不変である。② チベット高原 独自性を持つが詳細は不明③ 東南アジア北部から中国南部にかけて
中国・日本では、科学以外の諸事情により、DNA革命の最初の数年、その恩恵に浴する機会を失った。
「イスラム正統派」 インドネシアの闘いの教訓
オーソドキシー(正統派)には世界の平和に関わる深刻な疑念がある。①非ムスリムを差別と憎悪の対象とし敵視する。②世界単一のイスラム国家樹立を究極の政治目標にもつ。③国家法・人定法を神の法ではないと否定する。④ムスリムがたたかう紛争に参加することを義務付ける。
ナポレオン戦争とドイツ
なにかテーマのはっきりしない年表になってしまった。いちどナポレオン年表を作ってからにすべきだったのだろう。
ナポレオン戦争に勝利してからのプロシアの近代化は、明治維新から日清・日露に至る日本の近代化に比肩されるだろう。そんなつもりで一度追って見る必要がありそうだ。
Spider Player を試す
2日かけての結論。これは所詮ダメだ。ソフトの方の問題ではなく、音質の問題でもなく、放送局が抱える3つの問題が相変わらず解決されていないことが原因だ。
1.曲間の無音域がなくファイルを区分けできない
2.ファイルのタグが信頼できない
3.曲を勝手にぶった切る
これらはいずれも致命的だ。これがエアチェックをやめてYoutubeに乗り換えた理由だった。それが未だに改善されていない。
放送局は山ほどある。一つくらい三条件を満たす局があるかもしれない。その時このソフトにも使いみちが出てくるだろう。このソフトは良いソフトだ。
「酸蝕歯」(Erosive tooth wear)と食道炎の相関
実は、由緒正しい「酸蝕歯」というのは、工場の酸性ガスの中で働く人や、逆流性食道炎の人などに起きるものと考えられてきたようだ。それが昭和40年代にコカ・コーラがバカ売れしたときに虫歯が大発生し、これが「酸蝕歯」注目のきっかけとなった。
① 酸蝕症の罹患率は26%、そのうち象牙質まで及ぶ重症例は7%とされる。障害者は施設で管理されているものが多いため、少なめになっている。
高天原伝説について
あとで探していれることにしておいて、とりあえず高天原、葦原中津国、スサノオの三者の関係を明らかにしておこうと思う。
別に、新発見というわけではなく、日本書紀を素直に読めばこういう読み方もできるよね、という程度のことだ。
高天原の神様というのはアマテラスの前にたしか3代ほどあるのだが、そのまえが良くわからないのである。出自は明らかにされていないが、前後関係からみて「なんとか朝鮮」王国の落人だろうと思われる。中原に秦に続いて漢が成立し、朝鮮半島にも進出してきた。それまで平壌ー京城周辺を支配していた王国は崩壊し、南に向かって落ちのびてきた。
細かいことは省いて、アリラン峠を越えて洛東江を眼下に臨んだとき、これからは異形の民が住まう、ここ葦原中津国を支配して生きていこうと思ったのだろう。
そうやって建設したのが高天原の要塞だ。一方、洛東江から半島南岸にかけては晩期縄文人と長江流域から流れてきた米作農民が混住していた。これを仕切っていたのがイザナギだ。根拠はないが、九州北部からやってきた可能性もある。さらに風呂敷を広げれば、鹿児島から火山の噴火をさけて避難してきた南部縄文人の末裔の可能性もある。
高天原からみた葦原中津国は、直接は朝鮮半島南岸一帯、後に任那となる地域だが、イザナギ一族は対岸の北九州にも大きな植民地を有していた。
スサノオがアマテラスの舎弟で高天原の一族だったのか、イザナギの後継者がそういう身分を与えられたのか、そのへんはわからない。
しかしスサノオはさまざまなフェイクニュースをでっち上げられ、高天原から追放された。彼は葦原中津国からも追放され出雲へと亡命した。そこがあらたに葦原中国と呼ばれるようになった。
高天原一族はやがて九州側の支配権ももとめるようになり、スサノオから取り上げられた。九州北部の統治のためにニニギノミコトが派遣され「天孫降臨」することになる。「日向」は宮崎ではなく玄界灘を挟んで、高天原に向き合っているからヒムカなのだ。
スサノオはこれに応じ、宗像を割譲し、ついで出雲の支配も受け入れた。スサノオの一族は畿内も支配していたが、ここもやがて「神武東征」により奪われることにな。
だいたいこういう流れで理解しておけばよいのではないか。
思い出した。次の3つの記事だ。
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 2
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 6
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 5
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 4
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 3
弥生時代の記事一覧(D)がすっぽり脱落しました。アップしたつもりがアップを完了しないまま(E)を上書きしてしまったようです。元から再検索しなければなりません。
折れそうですが、まぁこれまでも何度もあったことなので綺麗サッパリ諦めましょう。
1) 日本書紀をどう評価するか
百済三書と日本書紀
「土蜘蛛」 その1
肥前国風土記の性格について
3) 倭の五王と磐井
「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 1
この記事では
A 旧石器人と縄文人、日本人の起源(ゲノム関連)
B 日本人の起源(ゲノム論争)
C 長江文明と黄河文明 4大文明
に関する記事名を掲載しています。
縄文人、旧弥生人、新弥生人に分けて考える
血液型 弥生人はA、縄文人はB
血液型 弥生人はA、縄文人はB
「社会理論(社会主義・哲学をふくむ)」ジャンルの全記事 3
記事見出しをブログ内検索窓に入れてください
「社会理論(社会主義・哲学をふくむ)」ジャンルの全記事 2
以下次号
以下次号
「社会理論(社会主義・哲学をふくむ)」ジャンルの全記事 1
このジャンルだけで約300本あります。あまりに膨大でリンクを貼ることはできません。ブログの検索窓に記事名を突っ込んで検索してください。
記事名だけでも膨大になっているため、3部に分けます。
Ⅲ ヘーゲルの読書ノート
ナポレオン戦争とドイツとヘーゲル
9月 ヘーゲルがチュービンゲン神学校を卒業。スイスのベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。
ヘーゲル、ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。シェリングの助けを借りてカント・フィヒテの影響を脱却。
ヘーゲル、スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。
ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。カント・フィヒテに対する激しい批判を展開。
シェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。ヘーゲルは助教授に昇格。
ヘーゲル、「精神現象学」を完成させる。序文にてシェリングを批判したため、絶縁状態となる。
ヘーゲル、バンベルグ新聞をやめ、ニュルンヘルク・ギムナジウムに就職。
マルクス主義アカデミズムの現状
雑誌「現代の理論」に掲載された論文らしい。「マルクス生誕二百年」と書かれているので、去年に書かれたものであると思われる。
ミクロ経済学の無内容さ
その目次を移させてもらった。
第1章だけで全9節。ここでは省略したが第2~第4章にも同じくらいの節がついている。
ミクロ経済学の「学」としてのエンタイティを考えるならば、かなり空虚な学問という印象は否めない。
もし私が経済学部に入って、何かを学ぼうと意気込んだとき、こんな学習メニューが出されたら、明日から登校拒否だ。こんなことを学びたくて経済学部に来たのではない。
それは「無意味さ」を数式で飾り立てている、学生には無間地獄の世界だ。このようなゾンビ世界はソシュールの言語学以来だ。
「ミクロ経済学」は怪しげな数式で学生を絡みとり、意味不明な「解答」をもとめ、試験で学生を苦しめ、挙句の果てに卒業証書と引き換えに何らかの犠牲を求める。
こんなものは一国の経済を理解するのに何の役にも立たない。学校と教師にいくばくかの月謝を払うのに役立つのみだ。即刻やめるべきだ。
中には本当のバカがいて、「マルクス主義にはこんな世界は理解できないだろう」とふんぞり返っている。「大奥」のお局様の世界だ。大奥の世界のルールなどなんの意味もないのだ。
「だれにもこんな世界は理解できないよ!」
これは男子一生の仕事ではない!
ミクロをやっている人がそうだとは言わないが、正直、半分はそう思っている。
と言いつつ、第一章 市場均衡 だけは一応やって置かなければならないと思う。古典派との論点にならざるを得ないところだから。
ただし私は数式に興味ないし、そもそも市場のイメージ構築という質的な問題を片付けない限り、問題設定そのものに意味がないと思うからだ。
市場とはなにか、均衡(とくに動的均衡)とは何かというそもそも論をもう少し突き詰めていきたい。
さらにいうなら「市場経済」といういい方はやめるべきだと思う。商業が市場を必要とする以上、市場の否定は商業の否定となるが、そんな世界はありえないからだ。
「市場経済」を批判する者の論点は「神の手」を信じるか否か、商業という名の詐欺や強盗を是とするか否か、ということなのだ。
スティグリッツ 最近の言動
常態化した景気停滞。ローレンス・サマーズ元財務長官が2013年のIMF会合で提起した。先進国では少子高齢化などで需要の伸びが止まるため、いわゆる「マイルドな不況」と高い失業率が常態化する。この状況では金融緩和も長期に続く。
リーマン・ショックとケインズとスウィージー
本棚の隅から掘り出した。我が家の本棚は最近ブックオフの本棚と変わりない。みたこともないような本が並んでいる。読んだ本➗買った本の比率がどんどん下がる。主要な原因は読書力がどんどん落ちているのに購買欲がその割に落ちないからである。
こういうのを「無効需要」というのだろう。同じ無効需要でもかみさんのアクセサリは誰かにくれてやるという活かし方があるが、こちらはおそらく最終需要であろう。
面白い一節があったので、メモしておく。
第一章 ハーバードにおけるケインズ の中の 「マルクス主義者のケインズ批判」というくだり。
スウィージーの一言である。
“資本主義的なゲームの規則通りに行動している人間”という役者が、逃れようのないかのように見える窮地に陥るたびに、この「神」が舞台に登場するのである。もちろんのこと、オリンピア劇におけるこのとりなしの神は、著者と、そしておそらくは見物人にも満足のゆくようなやり方で。万事を解決してしまう。これはいつの文章かは知らないが、翻訳・出版は1954年である。(「歴史としての現代」都留重人監訳 岩波書店)
ただ一つここで困ったことにはーマルクス主義者なら誰でも知っているようにー国家は神ではなくて、他のすべての役者たちと同じように、舞台で一役を演ずる役者仲間の一人に過ぎないのである
これを読んでう~むと唸ったのは、去年の9月リーマンショック10周年で、その後の変化をどう捉えるのかということで悩んでいたときの問題意識に、かぎ穴に差し込んだ鍵のようにあてハマったからである。
リーマン・ショック後にEU諸国は長く続く不況と失業に苦しんだ。ユーロ圏では思い切った金融救済策が取られたが、それが相対的に弱小な国に重い負担となってのしかかり、PIGGSでは国家存亡の危機を招き、フランスの屋台骨さえきしみ、揺らいだ。
話は2つだ。
一つはサムエルソンよろしく、ふだんは新古典派やネオリベでやっていて、苦しくなるとケインジアンにやってくる。
そんな気楽な若旦那みたいなことしてちゃいけないよ、というのがジョアン・ロビンソンの言い種だが、スウィージーにとってはそもそもそれがケインズじゃないの? ということになる。
もう一つは、もうリーマン・クライシスはないよということだ。次にこれが来たら世界経済と資本主義国家はすべて底が抜けてしまう。そこんとこを本気で反省しているの?
あとになったら、「ケインズみたいな方法、知らないほうがまだマシだったんじゃないの」ということにもなりかねない。
南海大地震じゃないけど、こういう経済システム、そろそろ根本から変えないとだめなのじゃないかな。それには「民主主義的社会主義」しかないんじゃないかな、ということだ。
ケインズ年譜
1914年8 月,イギリスはドイツに宣戦を布告した。第一次大戦の勃発
市場社会は「似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ」を内包している。市場社会は経済的効率からは便宜的に必要ではあるが、似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在である。
1月 経済諮問会議委員となる。7月にはそのサブ・コミティーである「経済学者委員会」の委員長に就任。
30年 『貨幣論』発表。ハイエクとの間で論争となる。
1930年 100 年後を見越した『孫の世代の経済可能性』を執筆。
雇用の量は、財市場と貨幣市場の相互関係で決定される。それは一般的に不完全雇用均衡に陥りやすい。
7月 ケインズ、大蔵省のアドバイザーに就任。戦時経済統制の立案に当たる。「戦費調達法」(How to pay For the War)を発表。物価インフレ阻止のために「強制貯蓄」や配給策を奨励する。
さらに戦後の世界秩序形成に関する提言活動。国際通貨体制として「清算同盟案」を提唱。またベヴァリッジ案の策定過程で大いなる協力・支援を行う。
前期ヘーゲル とりあえずの感想
…すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。
ここまでスピノザが書いているのに、「暗闇の牛」あつかいするのはまったくフェアーでない。
ただヘーゲルの「精神」はもう少し万物の始源に関わっているのかもしれない。すなわち事物に命を吹き込み、それらを動かすに至ったものはなにか? という問題だ。
これは哲学というよりはむしろ現代自然科学の専門とする分野である。そしてすでに解答は示されている。すなわち万物の根源にあるのはビッグ・バンによって作られた巨大なエネルギーだ。このエネルギーがあるときは事物の形を取り、あるときはさまざまな力となって身の回りに存在し、ネットワークを形成しているのだ。
エネルギーは加速度、すなわち速度の変化を通じて万物を貫く。そういう時間軸のゆらぎが世界中には満ち溢れている。これが「神」だと思う。
そんなことを突き詰めていくと、いわば「精神現象学は逆立ちしたスピノザ主義」とも考えられる。そうすれば、自己意識から絶対知へと登っていく骨組みが見えてくるのかもしれない。
前期ヘーゲル 年表
1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。
「学生時代」
9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。
10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。
またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。
7月 フランス革命が勃発。
8月 フランス革命派が人権宣言を発する。
9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)
11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。
9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。
10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。
11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。
11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。
1792年
夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。
ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。
1793年
6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。
夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。
「ベルン時代」
1793年(23歳)
9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。
10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。
6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。
7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。
12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。
1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」
2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。
7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。
7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。
7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。
8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。
既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。
1796年
1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。
4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。
夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。
宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。
秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。
「フランクフルト時代」(政治の時代)
1797年
1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。
4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。
4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。
ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。
冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。
1998年
4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。
夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)
カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。
10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。
シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。
1月 父の死により遺産を相続。
2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)
イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。
11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。
7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。
1800年(30歳)
9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。
11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる
1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。
10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。
「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)
1802年
1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。
3月 第一巻第二分冊が刊行される。
7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。
「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。
1803年
5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。
冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。
直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。
1804年
冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。
1805年
2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。
5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。
12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。
1806年
2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)
正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。
7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。
9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。
10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。
10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)
11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。
1807年
1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。
3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。
4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。
シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。
11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。
ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。
「ニュルンベルク時代」
1808年(38歳)
5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。
11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。
参考資料
上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書)
武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)
現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978
シェリングについては下記の記事を参照のこと
2018年03月04日 シェリング 年譜
2018年12月21日 「弁証法的実在論者」としてのシェリング
Srec 録音を試してみた
なにせパソコンのスピーカーの音で聞いているのだからどんなものかわかりはしないが、少なくとも高音の抜けは悪くないのである。
そこで考えた。
Youtubeはダウンロードの邪魔をして低音質ファイルしか落とせないようにしてしまった。では昔風にライン出力からとったらどうなのだろうということだ。少なくともクソファイルよりはまともなのではないか、それとこのやり方は「ダウンロード」ではなく「録音」なのだから違法性はゼロだ。
そこでやり方を探してみた。Srecという無料ソフトがあってこれが使えるらしい。
だいぶ古いソフトらしくて「録音したらMP3に変換してファイル保存しなさい」ということになっているのだが、そのエンコーダーが懐かしの「午後のこ~だ」だ。ホームページからダウンロードするのだが、最新バージョンがなんと2004年だ。
イヤな予感がしつつもとりあえず落として、WINDOWSの方もマニュアルのとおりセッティングして、まずは録音してみた。ワオーっ、まさしく2004年の音質だ。とてもじゃないが聞けたものではない。
WAVで落とすこともできるらしいので、まずはWAVで落としてAACの196くらいでエンコードしてみる手もありそうだ。
そのまえに、あのAudacity が使えるのだそうだ。何ということはない、灯台下暗しだ。まずはそちらを試してみよう。ただ、曲を小分けする機能が使えるかどうか。
その前に、とりあえず会議に行ってくる。
3月6日 Srecで録音した結果。
ひどい、到底使い物にならない。音質はそもそも無視されているようだ。最初は「午後のこ~だ」の問題かと思ったが、WAV録音した音源もだめだ。とにかくこれは諦めるしかない。
もう一つ載っていたオーダシティを使う方法、こちらは使えるくらいの音質にはなっている。ただYoutube音源を直接再生して聞くのに比べると劣化は明らかだ。操作も録音専門ソフトではないので煩雑だ。
ということで、とりあえずはこの方法は保留ということにしておく。ただ原理的には有望な方法なので引き続き検索を続けることにする。
考えてみると、むかしはこの方法でネットラジオを流しながら「ストリーミング録音」をやっていたのだから、そこからの再出発と思えば「それはそれでいいか」、ということにする。
森谷尚行先生と「療養権」
この思想は70年~80年代という時代が生んだものだ。戦線が急拡大し、社会運動としての医療実践、医療労働者の運動、医療サービスの改善を求める市民運動などが混然となり、百花斉放の趣を呈してた。さらに介護の分野が浮上していた。
医療戦線の統一が喫緊の課題であろうという視座を私たち二人は共有していた。「国民の生存権」の内容を時代に合わせ具体的に展開し、これを中核にしながら各分野の戦いを整序するという論点整理が求められていると感じていた。そのための哲学的、法学的、経済学的、組織論的考察がこの著作の主題である。
以下のリンク先に全文がアップされています。9.分かりやすい「療養権」の話から入るようおすすめします。
1.国民の療養権と医師の診療権 (英語版) 2.療養活動過程の概念 3.「共同のいとなみ」の組織論 4.「インフォームド・コンセント」論の批判的検討
5.医療「三位一体論」と労働過程論 6.闘病活動の現象学 7. 「療養権の考察」あとがき 8.「療養権の考察」参考文献一覧 9.分かりやすい「療養権」の話
「医療・社会保障がベネズエラを壊した」のだそうだ
1.ベネズエラの戦いを妨害する米国リベラリスト
それは、健康保険業界を国有化し、それを仕事にしたいと思うすべての人を保証し、そして大幅に増税し、経済への政府の介入を増やしました。
3.医療・社会保障は国家を滅ぼす
誰かが進歩的な政策思想に反対するとき、その理由としてベネズエラを引き合いに出します。その人は知らないか、嘘をついているか、またはその両方です。
アメリカは社会主義国になることは決してありません
この文章からはいくつかのことが読み取れる。
1.ベネズエラ野党の反対理由は、反民主主義や独裁よりも医療・社会保障政策への反対にある。
2.米国の民主党やリベラル派も、医療・社会保障政策を強調するが、これは「社会主義」であり許されない。
ということで、日本で報道されている論点とはだいぶ違うことが分かる。そもそも、より人道的なのがマドゥーロ政権なので、彼らはそのゆえに非難されているという側面がある。
私達もロイター、BBC、アムネスティなどのヒステリックな人道攻撃に惑わされないようにしなければならない。
「ホームページ」という知的遺産の保存
柳井さんはあの有名なソフト「メモリー・クリーナー」の作者だという。その柳井さんが知的胃酸を保存しようというのだから皮肉な話だ。
ともかく、そのような専門家でさえ悩んでいるのに、私ごときシロウトが口を挟んでもしようがないが、なんとかならないもんですかねぇ、柳井さん。
例えばトラストみたいなものを募って共同墓地を維持・運営するとかできないものですかねぇ。
それにしても、かつてデジタル化と光媒体は眩しく見えたものだ。それは永遠の輝きを放っているように見えたものだ。しかしそれは紙媒体やレコードなどのアナログ媒体よりよほど儚いものだった。壊れたCDやメモリーのなんと虚しいことか。
何時間もかけて作ったファイルがボタンひと押しで無限の彼方に飛び去ったときの虚しさはどうであろうか。