鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年03月

「辰国」への思い

私の日本神話解釈は下記のようなものである。

後に三韓と呼ばれる朝鮮半島南部一帯は、古来小国の集合体であり、「辰」と呼ばれていた。

箕子朝鮮
  地図上では現在の「大韓民国」にほぼ重なる
これは日本神話で「葦原中津国」と呼ばれる広大な湿原地帯と、「大八洲」と呼ばれる島嶼群に相当する地帯であった。

ここに紀元前100年ころ、漢に滅ぼされた衛氏朝鮮の残党が入り込んできた。衛氏も漢民族系の王朝である。

彼らは山城にこもりながら、葦原中津国への襲撃を繰り返し、やがてこれを支配するようになった。

この山城を高天原、ここに進出した人々を天孫族と呼ぶ。

「辰」の人々は対岸の九州にも進出し植民地を形成していた。天孫族は九州に“天降り”し、倭国を形成した。

こうして衛氏朝鮮系の天孫族が、辰の代わりに作ったのが、三韓の国家群であったのだろうと考える。中でも辰の影響を強く残す地域が辰韓と呼ばれるようになった。

その後さらに北方系(ツングース系)の人々が侵入し百済・新羅を立てると、辰韓諸国は任那あるいは伽倻と名乗るようになった。

という経過で考えているので、その主要な舞台である辰への思いは強いのだ。


「辰国」について

ウィキペディアによれば次のような内容が伝承・記録されている。


「辰国」の出典

1.史記

衛氏朝鮮滅亡後の同時代史料。朝鮮伝の中で「真番旁衆国」として書かれている。

言葉としては“真番郡南方に隣接する小国家群”ということになるだろう。

真番郡は漢朝により朝鮮半島に設置された郡である。

史記の異本の一つは「真番旁辰国」とあり、これらの「衆国」が辰国と呼ばれたとも考えられる。

朝鮮支配の中心地である楽浪郡の南方に位置する。後の百済の版図とほぼ一致する。

2.漢書

史記よりほぼ200年経過している。
「真番辰国」と記載されている。
この間に旧真番郡と旁衆国が一体化したものとみられる。

3.三国志と後漢書

3世紀、卑弥呼の時代の書である三国志では、「辰韓は古えの辰国なり」とされる。

後漢書では「韓に三種あり。一に曰馬韓,二に曰辰韓,三に曰弁韓(略)凡そ七十八国(略)皆古之辰国なり」とある。


「辰国」と衛氏朝鮮

紀元前2世紀 衛満が箕子朝鮮を滅ぼして、衛氏朝鮮を建国した。

魏書三十 烏丸鮮卑東夷傳によると、

衛満の孫の寓居王(衛右渠)が衛氏朝鮮とたもとを分かって族的集團2,000余戸とともに辰国に亡命した。

とある。

ただし「辰国」の解釈には諸説あるようだ。
一番の問題は後漢書の辰国→三韓という記述にありそうだ。

子供の頃、算数でつまづき始めたのは数字の概念からだった。

1+1=2

はよく分かる。(これもよく考えるとわからないのだが)

1X1=1

もまぁ分かる。

ところが

1÷1=1

になると少々怪しくなる。

「割る」という概念と“1で割る”という感覚が一致しないのだ。

“1で割る”というのは独り占めするということであり、“割らない”ということなのだ。

飲み屋の会計を割り勘にしないで、全部自分のおごりにするということなのだ。

これは決して「割り算」ではない。それは「割り算」の放棄あるいは拒否なのだ。

つまり1で割るのと、2で割るのは、言葉にすれば「割るか独り占めするか」という正反対の行いなのだ。

では“割らない”という行為が、どうして“1で割る”と表現されるのだろう。それはどうして“0で割る”ということにならないのだろう。

疑問はさらに広がる。

“0で割る”と、答えは無限大だというのだ。

言葉としてはまったく理解不能だ。しかし÷0.1、÷0.01、÷0.001…と進んでいけばたしかにそうなるのだ。
それは実際には10、100、1000…とかけていくのと同じだからだ。

ということで0で割ると無限大というのは、「気持ちとしてはまったく納得出来ないが、処理上はそういう扱いになるな」ということで理解はする。

しかしそこからさらに問題は紛糾する。

+0で割るのと-0で割るのとは天と地の差があるのだ。便宜上+0と-0と書いたが、限りなく0に近い+と-という意味だ。
つまり0で割ったときの答えは+∞でもあれば-無限大でもあるのだ。
しかもそれは横軸上は連続しているが縦軸上は絶望的な断絶があるのだ。

結局わかったのは、数字には論理的に2つの系列があって、ひとつは1(あえて言えば+1)を中心とする自然数の世界だ。
そしてもう一つは-∞から+∞に続く数直線の世界だ。こちらの数系列は0が中心に来る。

そして-∞から+∞に続く数直線は論理的には、掛け算・割り算の思考に向いていないということdだ。

ペルム紀大量絶滅

ペルム紀は古生代の最後の時代(第6時代)である。3億年前から2億5千万年前とキリが良く覚えやすい。

ペルム紀の最大の特徴は大量絶滅であり、これをもって古生代が終了し、中生代までの長い闇を迎える。

あまり面白くはない時代であるが、こういうときほど生物の進化において重要なエポックとなる。これは生き延びた生物による急激な適応放散がおきるためである。

なおペルム紀という名前は、ウラル山脈西麓のペルミという都市から名付けられている。以前は二畳紀と呼ばれていた。

大陸

赤道付近に存在していたユーラメリカ大陸を中心に、ゴンドワナ大陸が南極地域、北半球にはシベリア大陸があった。

まずユーラメリカ大陸と、南半球から北上してきたゴンドワナ大陸が衝突し、パンゲア大陸と呼ばれる超大陸が形成された。

ついでシベリア大陸もパンゲア大陸と衝突し、ウラル山脈が形成された。

パンゲア大陸は赤道を挟みC字形をとった。

気候

初期には寒冷だったが、末期には激しい気温上昇が起こり、地球の平均気温は23℃にも達した。
超大陸の内部では乾燥化が進んだ。

生物

両生類や爬虫類が繁栄。現生爬虫類の始祖となる双弓類、哺乳類の祖先である単弓類が誕生。
昆虫は完全変態を行うようになる。

植物はシダに加え乾燥に強い裸子植物も登場する。

大量絶滅

ペルム紀の終わりに地球史上最大規模とも言われる大量絶滅が起こった。

地球史上もっとも激しい火山活動が起きた。メタンガスが海底から放出され、海中の酸素が枯渇した。地球温暖化が進行した。

しかしどれが主要な要因かは分かっていない。諸説入り乱れている。

海洋生物のうちの96%。全ての生物種の90%から95%が絶滅した。

ペルム紀末絶滅の特徴は、生命の回復に1000万年という長期間を要していることである。

双弓類、単弓類は姿を消し、生き残った恐竜と哺乳類が次の三畳紀を担うことになる。

ビッグファイブ 顕生代において起こった、特に規模の大きな5回の絶滅イベント。(ワーストファイブというべきではないか)

1.オルドビス紀末(O-S境界)

約4億4400万年前。大陸が南極域となる。三葉虫など生物種の85%が絶滅した。

2.デボン紀末(F-F境界)

F-Fというのは、デボン紀のフラスニアン期とファメニアン期をさす。
海生生物を中心に生物種の82%が絶滅。海洋無酸素事変が発生したと考えられているが、その原因は不明。

3.ペルム紀末(P-T境界)

地球の歴史上最大の大量絶滅といわれる。約2億5100万年前におきた。

スーパープルーム(マントル上昇)で大規模な火山活動が発生。高温と酸素濃度の低下をもたらす。

海生生物の95%、全生物の90%が絶滅。
単弓類の中で横隔膜を持つグループが生き残り、哺乳類の先祖となる(わざわざ取り上げるほどの事象か?)

4.三畳紀末(T-J境界)

約1億9960万年前のTriassic–Jurassic境界である。

中央大西洋のマグマ活動が原因とされるが、隕石の衝突説も有力である。

爬虫類や単弓類の大型動物の多くが絶滅。全ての生物種の76%が絶滅した。小型だった恐竜が急速に発展する。

5.白亜紀末(K-Pg境界)

約6550万年前、直径約10キロの小惑星がユカタン半島に落下。塵埃が太陽の光を遮ることで、全地球規模の気温低下。

全ての生物種の70%が絶滅。現生鳥類につながる種を除く恐竜が消滅した。

ただし以下の疑問は残る。

「なぜ多種多様な恐竜だけ小型種を含む全ての種が滅び、似た生態を持っていた鳥類、哺乳類や爬虫類、両生類は絶滅を免れたのか」

1943年、センのふるさとベンガル州で大飢饉が起きた。この飢饉は200万人を超える餓死者を出した。当時9歳のセン(Amartya Sen)はこれに衝撃を受けたという。

長じたセンは、イギリスで新古典派経済学の研究に入る。ただ新古典派にとどまることはできず、独自の領域を開いてきた。

彼の新古典派に対する最大の不満は、きわめて多様であるはずの欲望を一元的な「効用」概念に収斂してきたことだ。

そこでセンは,「効用」の評価をより多様な方向に拡大し、多様性を許容するアプローチの方法を考え出した。(それは樹によって魚をもとめることになるのだが)

ウィキペディアによればセンの提案は以下のごとくまとめられる。

1.経済学は倫理学と工学から派生していると主張。前者を「モチベーションの倫理」、後者を「それを達成するための手段」とする。

2.途上国の購買力と飢餓の関係を、市場競争における市場の失敗によって説明。飢えを回避しようとする政府が欠如していることの影響を強調。

3.経済学は数字だけを扱うのではなく、「共感性・関わり合い・利他性」(コミットメント)を重視すべきだ。

4.経済成長が達成されるためには、経済改革にたいして教育と国民の健康における改善などが先行しなければならない。それによって国民の潜在能力が確保されなければならない。

5.潜在能力(ケイパビリティ)とは、「人が善い人生を生きるために、どのような行動をとりたいのか」を考え実行する能力群である。

6.人間開発指数(HDI:Human Development Index)はそのための具体的指標だ。しかし平均寿命・教育・国民所得は手段であって、目的そのものではない。

私の感想だが、

センはアダム・スミスとマルクスを愛読していたというが、人間の労働にもっと確固とした価値を置くべきではなかったのか。

かなり苦労して新古典経済学を進歩的な思想と結合させようとしてるが、結局厚生経済学にとどまる限り、樹によって魚をもとめるようなものであろう。

センは良くも悪しくも「厚生経済学」の広告塔であろうと思われる。だからその理論的背景を詮索するよりも、彼の言わんとする所を素直に受け止めることがだいじなのではないかと思う。




史跡 キウス周堤墓群

縄文時代後期後半(紀元前1,200年頃)に造られた8基からなる大規模な集団墓です。

円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げます。そうするとドーナツ状の周堤ができます。

直径は最大75m、周堤上面から竪穴底面までは1~5.4mとなっています。竪穴内部には複数の墓穴があります。多くは穴を掘っただけのものですが、立石が伴うものもあります。
周堤墓断面
      2号周堤墓周堤断面(上:2012年、下:1965年6月)
周堤墓というのは、北海道の縄文時代後期後半にみられる特殊な集団墓地です。北海道から本州北部にみられるストーン・サークルが、特殊な発達を遂げたものとみられます。

経過については、大谷敏三「キウス周堤墓群」にまとめられているので要約紹介します。


1901年 河野常吉が最初の調査。アイヌのチャシとして報告。

1917年 阿部正巳が調査。「キウス土城」として報告。アイヌのチャシではないとしつつ、それ以上の検索は行わず。

1919年 鳥居龍蔵、ツングースの遺跡の一例とする。

1930年 「史蹟キウスのチャシ」として史跡名勝天然記念物保護法の仮指定を受ける。

1936年 原田二郎、キウスの「チャシ」居住の痕跡が認められないことからチャシ説を否定。の調査を行う。

1948年 斜里町の朱円栗沢に縄文後期末の円形墓壙が発見される。発掘により縄文土器、漆器、ヒスイなどが発見される。このことからキウスも同様の墓地と判断。調査を担当したのは河野常吉の長男の広道。

1964年 在野研究者の石川徹が北大の大場講師の指導を受け発掘調査を行う。いくつかの墓壙と人骨を発見。

掘削面の研究で樽前c火山灰層(2500年前)より深かった。

1979年 キウスの周堤墓が国指定の史蹟となる。

一つの周堤墓の築造に約3千立方メートルの土砂が運搬されており、25人x123日の労働量になると計算された。
周堤墓全景
        人が立っているところが周堤墓の底面



最初の見出しは「ルディー和子さんの 『経済の不都合な話』を読む」だったが、変える。ルディーさんの「話」をネタに私がオダを上げているだけで、ルディーさんがそう言っているように書いているのはほぼウソです。まことに申し訳ございません。
でもけっこう同感してくれるのではないか、とひそかに心中思っています。


ルディー和子さんの 「経済の不都合な話」が面白い。
とりわけ腹を抱えてしまうのがこの部分

第3章 科学になりたかった経済学
・経営学やマーケティングに理論などない 
・教科書どおりにインフレにならない理由 
・「日銀の約束」など誰も信用しない 
・経済学者はおろかなのか、それとも… 
・物理学への憧憬 
・定職につけなかった経済学の祖 
・経済学は厳正科学になりたかった 
・「合理的経済人」が感情の産物という皮肉 
・ノーベル経済学賞が逃れられない後ろめたさ 
・「美しい数式」と絵画や音楽の不思議な共通点 
・数式に魅せられ人間社会を誤認する

ルディーさんはまず、ジェボンズ、メンガー、ワルラスら新古典派に共通する議論の特徴をこうまとめる。
労働量が価値を決めるのではなく、顧客の満足度が価値を決めるという「逆転の発想」
労働価値説の否定でなく、価格形成過程からの排除という「けたぐり」による、古典派経済学のちゃぶ台返し。
価格形成論の除外により、労働者と労働過程を経済学の関心圏外に置くこと。
ついで今度はフィクションの積み重ね。「おとぎ話」を数式化することで真実らしく見せる詐欺的手口。
「顧客の満足度」を微分していくとどうなるか。

財の消費で得る満足感、これを効用と呼ぶ。その一単位(しかも最後の消費)を限界効用と呼ぶ。
これが財の価値を決める。したがって価格を決める。

つまり新古典派は「快感」を定量化するという無茶をやって、それを世の中の事象を測定する上での物差しにしようとするわけだ。

「今のはこんなに気持ちよかったから、これを1万円ということにして、世の中決めていきましょう」という話だ。下品な例えで申し訳ないが…

ついで今度はその「限界効用」をさまざまな条件をつけて積分してみようということになる。つまり、一度干して干魚にしたものを、もう一度お湯で戻して食おうという話だ。

困るのはあらゆるパラメーターが「快感」の関数になってしまうことだ。科学的な様相を呈すれば呈するほど、この極端な主観性による歪みがひどくなる。

ルディーさんは、新古典派がここまでのさばってしまったのはシュンペーターのせいだという。
数学が苦手だったことで有名なシュンペーターがワルラスを天まで持ち上げたのは皮肉だが、かといってシュンペーターにそこまでの責任があるかというと、それはちょっとかわいそうだろう。

新古典派が生き延びたのは、他ならぬケインズとサムエルソンのおかげである。シュンペーターの発想はケインズとは正反対で、ほぼ正統的な古典派だ。

ルディーさんも、高校の微積分でずっこけた「文化系」の人らしいから、シュンペーターとは相見互いだ。他人事ではない。

これは斎藤修さんの 「江戸と大阪」(NTT出版 2002)の読書メモです。
実証的な文章で、読み流すにはやや苦しい。しかし数字には説得力があります。
幕末から明治初期にかけてなぜ大阪が地盤沈下したか、それは東西の力関係にどのような影響を及ぼしたか、という問題は、堺市長選挙以来の私の宿題ですが、まだすっきりとした結論は得られていません。

第5章 江戸と大阪の歴史人口学

江戸と大阪は江戸時代はじめの150年間大きな差異はなかった。

1.武家を除けば、地方からの男性単身赴任者の流入によって人口は支えられてきた。

2.都市自体の人口再生産能力は低く、流入者が減るとき人口は停滞した。

3.都市の死亡率は地方より高かった。中世以降、都市は墓場であリ続けた。そして18世紀以降この傾向はより顕著になった。

4.18世紀初め、江戸の男性は女性の1.7~1.8であった。しかし19世紀初頭にはこの男女差は消失していた。

この傾向に変化が現れたのは、1850年ころ、明治維新の直前である。

変化は特に大阪で顕著であった。大阪の人口は年平均0.3%の比率で減少した。市街からの流入者は減りほぼ出生者のみの人口に落ち着いた。理由は大阪への商品入荷の減少であった。大阪を経由した商品流通が直接江戸に流れるようになったためである。
これに伴って文化でも「文運東漸」が起こり、上方文化の多くが流出した。

同じ時期、江戸では人口は0.1%の微増を続けた。

大阪では、後継者育成システムの劣化もあったと言われる。大阪の商家では古い奉公人制度が残存し、丁稚から手代になって独立するのに30年を要した。
鴻池家の手代の家持ち(独立)時の平均年齢は37歳、三井は39歳であった。これではイノベーティブな人材は育たない。
妻との年齢差は上層では10歳を超える。下層でも7歳に達する。子供の数も0.4人にすぎない。

同じ時期、江戸では奉公人制度は崩壊し、大阪のような手代層は消失していた。雇入れは短期で流動的なものとなった。その結果、流入者数が維持され、産業の拡大に伴う人材養成に応じることができた。(正直のところ、あまり納得はできないが…)

しかし江戸でも人口は停滞した。東京の人口増にドライブがかかるのは明治20年代、松方デフレの収束後のことである。

5.室内楽

何やら覚えにくいトリオ(ワタシ的にはメルニコフ・トリオ)
2018-01-27 11:03:37 

パガニーニ弦楽四重奏団について
2017-08-02 23:59:32 

ハーゲン四重奏団の動画が面白い
2014-02-10 00:53:09

イ・ムジチの 「リュートのための古代舞曲とアリア」
2012-04-26 11:09:45


デュメイ・ピレシュとジャン・ワンのブラームス
2017-02-20 00:49:06 

マルツィのドヴォルザークVCがなぜかすばらしい
2017-08-27 23:04:14 

スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲
2017-08-10 00:24:03 

ギレリス・トリオの「偉大な芸術家の思い出」
2016-11-21 00:16:15 

コーガンとギレリスの「春」
2015-01-21 22:26:04 

前橋汀子のパルティータはエクスタシー
2012-10-15 23:47:54

ペイエとカピュソン四重奏団のブラームスは感心しない
2013-03-25 00:20:38
ケルン室内管弦楽団のバッハがいい
2014-11-07 22:18:08

マーラー ピアノ4重奏はプラザーク
2014-04-05 22:48:39

このメンデルスゾーンはレジェンドだ
2014-02-20 23:52:13

エベーヌ四重奏団のシッチャカメッチャカ
2014-02-20 00:27:16

バシュメットの音源
2011-05-08 23:55:25

アマデウスSQの名録音
2011-07-30 23:26:43

Werner Hinkのバッハ
2012-03-28 21:29:16

日本の女性バイオリニスト
2012-03-23 23:59:28
ヒラリー・ハーンが意外に良い
2012-02-29 20:57:49

弦楽四重奏はタカーチとプラジャーク
2012-02-20 23:51:09



6.雑

RCA交響楽団について
2012-01-09 20:52:17

シンフォニア・オブ・ロンドン という楽団
2013-12-07 16:26:58

プロアルテ管弦楽団
2014-02-02 15:20:04
ベルリン・フィル御三家
2013-09-15 23:22:52

ライスターが嫌いになること請け合い
2015-11-12 00:12:16 

レジスタンスの影の指導者 デゾルミエール
2014-05-09 12:42:35

ロジェ・デゾルミエールについて
2014-05-08 10:28:25

クラウディオ・アバド: 筋金入りの左翼ヒューマニスト
2014-01-23 17:04:28
チャイコフスキーから Lover, come back to me へ
2013-12-30 22:32:09

CDの爆買い
2016-01-17 00:38:14 

なぜ、ドイツでは変ロがB、ロがHなのか
2016-10-08 10:29:33 

ブログ記事一覧表 05 音楽
2015-06-25 23:00:13 

「歌える・踊れる」は演奏の二大条件
2018-06-17 22:49:49 

ドイツ局の「バイオリン3人娘」
2017-12-21 14:22:23 

Deucalion Projectというサイト
2017-12-18 22:00:50 

超絶的指揮者を見た
2015-09-07 00:01:27 
YouTube に初アップ
2015-08-30 23:52:52 

池田昭子さんがたっぷり
2014-09-21 21:55:32

レジェンドになった「レジェンド」
2014-03-07 12:05:40
戦後のトスカニーニは呪縛でしかなかった
2014-03-01 21:01:51
ピアノの音色は骨が出す(仮説)
2013-11-21 23:24:37

「25年目の弦楽四重奏」ねぇ…
2013-07-04 11:05:04

シューベルトの肖像画
2014-10-30 23:23:43

カザルスは王党派?
2014-04-30 11:00:12

カザルスは王党派
2014-04-30 00:22:46

「わが祖国」を通しで聞くのも悪くない
2013-04-02 22:32:23

貴志康一のヴァイオリン協奏曲
2013-03-01 11:03:32

ユジャワンのセミヌード
2013-01-12 13:15:17

合わない演奏家
2012-05-26 01:30:50

「ピアノの詩人」になれない人
2016-12-05 00:56:25 

5.ピアニスト

ドイツ系

「ウィーンの三羽烏」とクリーン、ブレンデル
2017-12-02 22:34:53 

ケルナーについて
2012-01-31 11:15:54

ベートーベン後期ピアノソナタはバレンボイム
2012-02-19 01:20:36

ため息の出るクリーンのブラームス
2013-05-16 22:27:18



スラブ系

カティア・ブニアティシュビリというピアニスト
2017-08-18 01:04:29 

若きリヒテルとギレリスの映像
2017-07-04 23:02:09 

ソコロフのバッハが良い
2013-03-20 15:52:21

ウルバロフというピアニスト
2017-07-02 00:36:35 

モニーク・ダフィルのリャードフ
2017-03-05 15:35:57 

チャイコフスキーはヤブロンスカヤ
2016-04-10 22:05:51 

ツィマーマンのショパン協奏曲に驚く
2015-12-07 00:19:56 

ブーニンはスタジオ録音を聞け
2014-10-28 23:11:04

ブーニンはいずれ復活するだろう
2014-10-27 23:07:54
ぬっと突き出されたシェバノヴァのマズルカ
2014-10-27 22:41:15

プレトニョフのワルトシュタインがすごい
2014-08-13 22:30:54

クシュネローバのYoutubography
2014-04-29 20:26:49

クシュネローバのスクリアビンが良い
2014-04-29 12:00:07

Vladimir Bakk を紹介する
2013-10-27 15:38:24
ウラディミル・バックの生涯
2013-10-27 16:48:36

ウラジミル・バックのミニ・ブーム
2017-03-09 22:28:00 

アンデルシェフスキーというピアニスト
2013-11-09 10:38:02

グリゴリ・ギンスブルク小伝
2013-10-07 22:21:50

ギンスブルクというピアニスト
2013-10-06 22:31:49

Viktoria Postnikova は3位
2011-05-22 23:48:28

Viktoria Postnikova が良い
2011-05-22 23:26:26



ラテン系

アラウのシューマン「蝶々」は聴きもの
2018-05-23 23:26:46 

レーヌ・ジャノーリの再紹介
2015-03-25 17:37:18 

レーヌ・ジャノリのシューマンは一聴の価値あり
2013-08-11 17:39:17
ブンダヴォエの感想
2015-03-22 11:13:00 

アニュエル・ブンダヴォエ 小伝
2015-03-21 18:02:31 

快演 ポリーニの平均律
2014-11-01 00:35:54

ポリーニはショパンコンクールが絶頂
2014-06-09 22:00:59

コミナーティのラ・ヴァルスがいい
2014-10-08 20:50:20

コミナーティをまとめ聞き
2014-05-23 11:12:38
ラローチャのフランク・交響変奏曲
2014-08-24 21:00:13

ディノラ・ヴァルシの経歴
2014-06-07 13:47:14
ディノラ・ヴァルシ(Dinorah Varsi)をヨイショする
2014-06-07 12:34:54

ディノラ・ヴァルシのブラームス
2014-05-24 23:13:43

ディノラ・バルシのノクターン
2014-06-08 22:31:02
ディノラ・ヴァルシの全集が出るそうだ
2015-11-16 11:15:21 


アメリカ系

ペライアのボックスセット
2017-08-12 12:04:35 

ペレイラのモーツァルト協奏曲
2013-02-01 00:09:11

ペライアのバッハに戸惑う
2017-02-05 23:34:06 

ペライアを“観て…”
2014-02-14 23:02:23

マレイ・ペライアが素晴らしい
2013-10-22 00:10:14

ペライア=ハイティンク・CSOの23番が良い
2013-06-29 23:14:57

ブロンフマンが良い
2012-02-13 10:17:34
グリモーのブラームスがいい
2013-06-17 21:02:55

ホロヴィッツのチャイ・コン(48年)がすごい
2014-04-13 12:35:23

割れたクリスタル
2012-03-05 21:51:20

ワイセンベルクねぇ、うーむ…
2014-09-06 23:01:07

youtubeで聞くナタン・ブランド
2014-07-14 13:35:29

ナタン・ブランドを聴くことなくしてシューマンを語るなかれ
2014-07-06 23:37:43


その他

井上奈津子さんに関して
2018-01-15 17:59:48 

チョ・ソンジンに度肝を抜かれる
2017-10-20 22:41:15 

Misato Yokoyama は要チェックだ
2014-04-12 23:00:38

Hyekyung Lee について調べた
2013-10-13 11:20:40

内田光子はモーツァルト弾きではない
2013-06-13 22:09:50

内田光子のベートーヴェン第3番
2012-05-02 23:24:25

B 演奏家編

4.指揮者

ジョージ・セル

セルのウィンナ・ワルツ
2016-01-21 23:02:25 

セルへの賛辞
2015-07-08 23:57:02 
セルのエロイカ
2015-02-03 23:36:0

セルとウィーン・フィルの運命
2014-11-23 22:37:42

ジョージ・セルのモーツァルト
2014-07-16 00:29:29

ジョージ・セルの新規アップ
2014-06-05 00:20:11

セルのメタモルフォーゼンがすごい
2013-08-01 22:23:01

セルのイタリアは絶品
2013-02-13 23:17:32

セルのドヴォ8(58年録音)がすごい
2013-04-09 21:29:28

YouTube で聞けるジョージ・セルの高音質音源
2013-04-30 23:44:36

セルはおしゃれ
2013-04-29 00:31:08


ワルター

ワルターのブル7と9は明らかに違う
2015-12-30 17:33:36 
ワルターのブルックナー7番が泣ける
2014-10-08 23:12:10

ワルターと未完成 話を戻そう
2012-06-24 00:22:13

ワルターの未完成 くどいようですが
2012-06-24 00:20:11

ワルターの未完成 いまさらですが
2012-06-23 22:48:07

ワルターのブラームス4番
2012-03-15 22:40:07

イッセルシュテット

HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲がおすすめ
2014-12-09 23:57:53

イッセルシュテットのエロイカがすごい
2012-10-27 00:02:22

HSイッセルシュテットのハンガリー舞曲は幻のレコード?
2014-12-11 10:23:51

日本人はイッセルシュテット好きか
2013-03-21 14:00:38


マゼール

マゼールxクリーブランドがすごい
2017-12-14 23:08:25 

マゼール・NYフィルのブラームス1番が良い
2015-02-20 23:13:05 

「イタリア交響曲」マゼールBPOに唖然
2013-02-23 00:34:02

ヴァント

ヴァントとベルリン・ドイツ交響楽団の93年ライブ録音
2014-11-26 10:27:18

ヴァントのベト7,8がすごい
2012-12-20 23:37:19

クレンペラー

クレンペラーBPOのブル7
2016-01-15 00:45:59 

子供の神様 クレンペラー
2012-12-17 23:51:21

カラヤン

むかし、カラヤンという名指揮者がいた
2015-07-06 00:16:08 
カラヤン・BPOのブル9(ライブ)
2013-12-19 22:12:25

フルトベングラー
フルヴェングラーのモルダウ
2015-12-04 00:13:07 

ウラニア盤のエロイカを初めて聞く
2014-12-09 00:37:25

ブルックナー8番はフルトヴェングラー
2013-09-02 23:32:19



その他

バルビローリ指揮ハレ管弦楽団のマラー3番は聞ける
2014-08-07 00:14:45

シェーンベルク「浄められし夜」はサイトウ・キネン
2017-11-07 23:36:16 
ベルグルンドのシベリウス全曲
2017-08-31 23:57:56 
驚き、ベームのレクイエム
2014-09-30 23:17:50

ベーム・WPOの「未完成」は神がかり
2012-12-07 00:03:46

B級グルメ ホーレンシュタインのブル8
2014-06-04 00:36:09

フリッチャイの「春の祭典」は感激もの
2014-03-13 21:14:49

マッケラスのハイドン
2014-02-01 23:32:41

ガッティ(Gatti) がなかなか良い
2013-12-07 18:35:32
ブロムシュテットのブラームスがひどい
2013-12-01 23:02:38

ブロムステット=N響のブル7がなぜ?
2011-12-06 22:47:11

チェリビダッケの40番がそれなり
2013-09-15 20:31:05

ルネ・レイボウィッツの禿山の一夜
2012-04-10 19:38:09

レイボヴィッツ盤の発売日
2015-07-03 22:58:14 

なつかしのレイボヴィッツ
2012-12-24 15:13:25

オリヴァー・ナッセンの「ローマの噴水」
2012-04-26 11:42:53

ムーティてこんな良かったっけ
2012-04-03 23:20:52

ヤンソンスのマーラー3番が良い
2012-10-01 22:59:33
ライナー=ルビンステインのラフマニノフが良い
2012-08-06 23:48:03
ライナーとベイヌム
2012-10-17 23:55:58

だんだん落ちるクライバー
2012-06-29 22:33:23

クライバー・WPO ブラ4の79ライブって本当だろうか
2012-10-25 22:42:37

ヘルベルト・ケーゲルのブルックナー8番
2012-11-19 22:48:59

フェドセーエフのブル8
2012-12-05 23:02:40

サヴァリッシュが死んだ
2013-02-27 22:51:40
プレヴィン・コストラネッツのラプソディ・イン・ブルー
2012-12-22 23:44:47

デイヴィスのレクイエムが良い
2013-04-08 23:24:54

カンテルリのフランク交響曲がいい
2013-05-08 21:29:34

朝比奈のブル8は「名演」なのかもしれない
2014-12-25 23:04:51

コンセルトヘボウ(RCO)の視覚的特徴
2015-04-21 23:14:08 

YouTubeでオーケストラをランク付けすると
2015-04-10 23:53:47 

好きな指揮者 ベストテン
2013-03-20 21:57:03

ウィーンフィルがひどい
2012-10-14 00:24:31

本気のウィーンフィル
2012-11-20 22:47:44

ジャンル: 音楽/クラシック

Ⅰ 作曲家について

3.ロシア音楽

A) 五人組とチャイコフスキー

グリンカが良い
2011-05-08 23:48:27

アントン・ルビンステインのピアノ曲はつまらない
2016-02-28 21:43:21 

ロシア 音楽家たちの故郷
2017-08-19 16:10:40 

ロシアの作曲家一覧表 生年順
2016-01-27 16:11:15 

19世紀後半のロシア音楽を取り巻く状況
2015-12-14 16:27:39 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選
2016-10-30 21:43:48 

「ロシアのショパンたち」を聞き終えて
2016-08-09 23:08:58 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その3
2017-07-17 15:31:12 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その2
2017-07-15 16:54:08 

「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その1
2017-07-06 23:56:23 

「5人組とチャイコフスキー 文章化」を改訂しました
2017-07-11 11:50:39 

5人組とチャイコフスキー 年表
2015-12-15 00:14:50 
5人組とチャイコフスキー 年表 を増補
2016-11-07 17:23:46 

「5人組とチャイコフスキー」年表の再増補
2017-07-10 09:28:52 

5人組とチャイコフスキー 文章化
2015-12-16 17:30:31 

チャイコフスキーと5人組のねじれ
2015-12-13 23:19:38 
チャイコフスキーは5人組の6人目
2015-12-15 00:31:08 

「五人組の論争」に関するチャイコフスキーの結論
2017-07-08 12:15:53 

批評家 チャイコフスキー
2016-01-25 23:13:27 

チャイコフスキー「こどものためのアルバム」の聴き比べ
2014-04-15 23:48:59

セザール・キュイについて
2012-12-16 13:37:06

キュイの「万華鏡」がすばらしい
2012-09-21 00:11:26
YouTubeで聴けるキュイ
2013-08-18 20:09:56


B) 五人組のあと

ロシアにはショパンが5人いた
2012-01-30 23:46:19

アレンスキーのピアノ小曲を聴く
2017-07-14 00:17:11 

アレンスキーの練習曲集(作品74)を聴く
2017-07-03 00:27:58 

アレンスキーは大河小説家ではない
2016-01-25 21:01:15 

アレンスキーをまとめ聞き
2015-01-04 22:42:54 
日本アレンスキー協会
2016-01-23 01:02:43 

リャードフを根こそぎ聞く
2016-01-31 23:44:33 

リャードフを聞いてください
2016-01-31 01:49:09 

リアードフのピアノ曲
2012-05-04 22:26:16

ミャスコフスキーとリャードフ
2016-02-27 10:21:06 

1893年、リャードフとリャプノフ
2016-02-15 23:26:50 

リャードフとリャプノフの関連年表
2016-02-19 16:32:19 

リャプノフを聴きこむ
2016-07-26 00:04:15 

リャプノフが綺麗だ
2016-02-15 00:23:54 

レビコフの「秋の夢」
2017-09-04 21:33:20 

レビコフという作曲家
2016-02-21 12:52:27 

レビコフの全曲集を買ってしまった
2016-11-05 01:17:00 

ラフマニノフ 前奏曲ト短調
2011-07-15 22:34:54

ラフマニノフの才能は前奏曲7番でプッツンした
2016-07-10 21:07:13 

恐るべし、ニコライ・メトネル
2016-05-19 00:15:39 

アルハンゲルスキー 略伝
2015-08-14 12:13:08 

アルハンゲルスキー ロシア民謡のルーツ
2015-08-01 23:49:40 

4.フランス音楽

オルガン交響曲(サン=サーンス)はTelarc SACD
2017-04-30 00:52:30 

ジャン=バティスト・マリの「詩人と農夫」
2014-05-08 00:07:12

フランクのソナタの聴きまくり
2014-05-12 23:52:33

モントゥーのフランク交響曲がいい
2018-07-05 22:43:24 

ワルトトイフェルの『愛しの彼女』が「春の川で」に
2018-01-20 12:34:11 
デュポンの「砂丘の家」が良い
2018-01-19 15:07:59 

ドビュッシーってパクっていない?
2018-01-06 22:45:08 

ドビュッシーの「版画」が聞けない
2012-02-27 22:55:07

「牧神」はモントゥーが良い
2017-09-20 00:30:54 

ジャンル: 音楽/クラシック

Ⅰ 作曲家について

1.ドイツ音楽(古典)

バッハ

バッハにおけるクラヴィア(キーボード)とチェンバロ
2017-02-06 13:56:11 

バッハ(リスト)前奏曲とフーガ BWV543を聴き比べ
2014-11-29 10:46:51
バッハのパルティータ 3つの演奏
2014-11-06 00:16:40

ハイドン

ハイドンの交響曲、源泉かけ流しと言うか
2012-10-24 22:15:38

クリスタ・ランドンとランドン時代の終わり
2017-11-11 23:06:29 

ハイドンのピアノソナタ ここまでやってしまった
2017-11-11 22:08:57 

ハイドンのピアノソナタを聞くために
2017-11-10 23:10:07 

ハイドンのピアノソナタを聴き比べる
2015-03-11 00:03:36 

モーツァルト

バイオリンソナタK304とピアノ・ソナタK310の関連
2012-02-13 21:13:24

K.304 はタルティーニ作曲?
2012-02-11 12:04:32

モーツァルトの背後霊タルティーニ
2013-05-25 15:31:28

モーツァルトのディヴェルティメント
2017-12-20 13:10:19 

ベートーベン

ワルトシュタインを聴く その2
2014-07-05 00:28:33
ワルトシュタインを聴く
2014-07-04 00:04:51

エグモント序曲の聴き比べ
2014-11-23 23:27:14

2.ドイツ音楽(ロマン派)

シューマン

決定 クライスレリアーナのベスト10
2013-10-12 18:01:47
YouTubeのクライスレリアーナ その2
2013-10-12 17:59:50

YouTubeのクライスレリアーナ その1
2013-10-12 17:58:21

クライスレリアーナ第一曲 Agitatissimo について
2012-02-05 23:06:50

シューマンのストイシズム
2012-06-05 00:36:20

シューマンの交響曲を聴いた
2013-02-01 22:39:26

ブラームス

ブラームスの4番を2日間聞き続ける
2012-05-20 23:50:04

ブラームス・クラ5重奏曲 イン・ザ・ムード
2017-08-12 12:21:46 

ブラームスのシューマン変奏曲
2012-11-05 21:09:08

その他のロマン派

パガニーニのソナタ ホ短調 作品3の6
2014-07-29 00:24:39

シューベルトを聞き続けた
2012-06-03 00:29:26

リストの曲名リスト
2013-10-29 23:13:52

タンホイザー序曲
2011-06-15 23:12:33

ツェムリンスキの名前は憶えておいたほうがよい
2012-12-19 23:31:39

シェーンベルクの弦楽四重奏
2013-09-25 23:10:15

1.「経済学」という言葉の範疇

何度も引用するのだが、三木清が「心理学」を批判したことがある。

以前の心理學は心理批評の學であつた。それは藝術批評などといふ批評の意味における心理批評を目的としてゐた。
人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評價することによつてこれを秩序附けるといふのが心理學の仕事であつた。この仕事において哲學者は文學者と同じであつた。
…かやうな價値批評としての心理學が自然科學的方法に基く心理學によつて破壞されてしまった。

2013年11月09日 三木清「幸福について」を参照されたい。

ようするに、心理学という言葉の剽窃であり、しかも厚かましくも商標登録してしまったみたいな感じである。

どうも新古典派の経済学にも同じ匂いが感じられてならない。

2.「経済学」の研究対象

言うまでもなく近代経済学というのはケネーの再生産表に始まり、スミスによる重商主義からの脱皮、労働価値説と進む中で、「価値論」を中心に展開してきた。

それはリカード、マルクスへと連なっていくわけで、マルクスが政治的に異端であるから異端というわけではなくまさしく経済学の王道なのだ。それはいまでもそうだと思う。

これに対し、新古典派と称されるいくつかの潮流がいずれも需要・供給関係を中軸とする市場メカニズムの探求に集中・特化してきた。

それは流通過程の一局面であるが、決定的に重要な局面でもある。そこで生産者は「命がけの跳躍」をしなければならない。

ただ個別の跳躍は、全体の流れの中では必然的過程として理解される。

それは鮎が瀬を跳び上がって上流に進むのに似て、まさにミクロな行為だ。

3.マル経は近経の一部分になるべきか

たとえ、百歩譲って、新古典派のミクロ経済学を経済学の主流だと認めるとしても、それは経済の諸分野の中の一つだと言うことを主張したい。

「価値論」を中心的関心領域とする「制度経済学」は市場中心志向の「経済学」とは別の分野の学問として独立した扱いを必要としている。

この「価値」志向型経済学は、マル経の閉鎖性のゆえに統一したアイデンティティを持たずに過ごしてきた。

スミスやリカードは「資本論」を書くための踏み台扱いされてはならない。マルクスが最晩年に苦闘した第二部草稿は、まさにスミスとの思想的取っ組み合いだ。

だれかが、一度スミスからマルクスに至るレビューを行い「古典派ミクロ」経済学の骨格を再構築してほしいと思う。

おそらく、「剰余価値学説史」を通読することで、見えてくるものがあるのではないかと思うが…

アメリカにおけるケインズ受容

1935年秋 ロバート・ブライス(カナダ人でケンブリッジに留学)、ハーバード大学で「一般理論」の紹介を開始。

1936年1月 「一般理論」が公刊される。米国へは2ヶ月後に流入。

米国では「一般理論」のうち有効需要論が集中的に取り上げられた。

1937年 ミネソタ大学のハンセンがハーバードに赴任。当初は保守派であったが、まもなくケイインジアンに転向。

ハーバードはケインズ派の牙城となり、サムエルソン、ガルブレイズ、ハリスなどが輩出する。

1948年 サムエルソン経済学が出版される。
不完全雇用時にはケインズ主義的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する
崩れた新古典派のミクロ環境は、インフレターゲットをもつ金融緩和と財政出動によって回復しうるとした。これを「新古典派総合」と名付けた。政策メカニズムはそのとおりだが、これって学問ですか? 
 なにか発想が違う。反省がないような気がするが…

異端派のガルブレイズ、「計画化体制」概念を提起。これは千社程度の大企業が国家と固く結合した体制で、企業は国家の一翼となり、国家は計画化体制の道具となっている。(要するに昔の国独資)

1958年 ガルブレイズ、「豊かな社会」を発表。私的な欲求と公的な必要との不均衡を問題にする。
貧しい社会には誘惑がないし、公共サービスを厳格にすることができる。しかし豊かな社会はそうは行かないのだ。
そこでは消費欲望を満足させる過程自体によって消費欲望が作り出される。それは依存(Addiction) をもたらす。
1971年12月 J.ロビンソン、アメリカ経済学会で「経済学の第二の危機」と題して講演。
アメリカのケインジアンは、「財政赤字は無害だ」とし、産軍複合体がそれを利用するままに任せた。雇用問題は解決されたが、「なんのための雇用か」問題は解決されていない。
分配問題は経済の問題ではない。それは不平等の容認。放置すればインフレが発生し自由主義の慣行を掘り崩していく。
格調高いが、「分配」は経済ではないというのは逃げだ。

シュンペーター 需要の拡大を先頭に置くことへの批判(批判にはなっていないが)
経済における革新は消費者の側から自発的に現れるものではない。むしろ新たな欲望が生産の側から教え込まれることが普通である。従って革新のイニシアチブは生産の側にある。

1977 ガルブレイズ「不確実性の時代」を出版。

さてこのパレート効率性(Pareto efficiency)というのがわからない。

新古典派の常識なのだそうだが、聞いたこともない。

とりあえずはウィキペディアから…

資源配分に関する概念のひとつ。パレート最適ともいう。

イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレート(Pareto)が提唱したのでこう呼ばれる。

ミクロというのはいちいち気にさわる「学問」だが仕方ない。

資源を配分するときに、誰かがシワ寄せされる状況を「パレート効率的」という。要するに犠牲を伴う貧困状況だ。
状況が改善して犠牲者なしとなれば、パレート改善したという。

問題はここからで、パレート改善するということは、誰の効用も犠牲にせずに誰かの効用を改善し得るのだ。

つまりきわめて望ましい状態だが、新古典派にとってこの状況は非効率的で、望ましい社会とは言えない。

彼らにとって、パレート効率的であることは、望ましい社会の十分条件ではないが必要条件である。

つまり、社会が満たされない人を抱える程度に不平等であることがパレート的には「良い社会」なのだ。


厚生経済学の基本定理

パレート効率性と競争均衡配分には2つの関係がある。

第一基本定理: 消費者の選好に一定の幅があるとき、競争均衡によってパレート効率的な配分が行われる。

第二基本定理: 消費者の選好に一定の幅があるとき、パレート効率的配分は競争均衡配分として実現可能である。

ということで「パレート効率性」がわからないままだが、それを知るためには厚生経済学というものを知らないとならないようだ。

の抜書です。


1.なぜマルクス主義は規範理論を探求すべきなのか? 

新古典派経済学は、従来の狭いパースペクティブを超えた問題関心を持ち、分析枠組みを拡張させている。

もはやマルクス主義が「資本論」体系に拘束された展開を続けるのは有効ではない。

マルクス主義者は規範理論にコミットする事が必要だ。事実解明と分析の後に、マルクス主義的な価値観に立脚した独自性を発揮すべきである。

マルクス主義のアイデンティティとは、まず、資本主義を永久不滅なシステムと見ないことである。
ついで、「よりまし」な社会経済システムへの改革の展望を、科学的に基礎付ける事である。
そしてさらには現状からの代替案となりうる新しい社会経済システムの構想を、理論的裏づけをもって提示することである。


2.労働所有権思想と「必要性の原理」

資本主義経済システムは労働搾取のシステムとして理解されている。
その理由は、「労働の搾取」理論がロックの労働所有権思想を起源としているからである。
これでは、「搾取、搾取というけれど、いったい何が悪いの?」という疑問に対して、説得的な返答が出来ない。

しかし、ロック主義は資本主義の真髄であり、本来のマルクスとは異なる。
マルクス主義の分配に関する本来の規範的基準は「必要原理」であり、ロック主義的な労働所有原理ではない。

「必要原理」を将来の人類の課題へと棚上げすることなく、現代の生産水準の下でも実行可能な資源配分に関して言及するべきである。
そういう「必要原理」の定式化がもとめられているのではないか。


3.厚生経済学の基本定理とパレート効率性基準

「パレート効率性基準」は新古典派経済学の「常識」となっている。
これにもとづいて市場経済の資源配分機能が評価される。それは「厚生経済学の基本定理」と呼ばれる。

「厚生経済学の基本定理」に表れる新古典派経済学の市場観は、マルクス主義やケインジアンなどとは著しく異なっている。

新古典派によれば、
市場経済はその競争均衡により、原理的にパレート最適性を保証する。
実存する市場経済システムが「不完全性」であれば、是々非々で対応することになる。

このような市場観が広範に浸透している以上、対抗的な市場観を提示するだけの外在的批判では、今後の生き残る可能性はもはやない。


4.市場経済至上主義と非市場的社会

市場が完全競争市場の条件を満たし、「社会的厚生」の最大化が実現したばあい、非市場経済的社会生活は満足できるものになるだろうか。

地球環境の問題は、深刻な問題を突きつけている。

また、新古典派経済学の標準的議論には、「パレート効率性」の達成をもって市場経済の性能に免罪符を与えかねないような所がある。

実際の経済では、むしろ「市場の失敗」現象が普遍化している。このように人々の間で利害が対立する局面では、パレート効率性基準はほとんど有効な機能を果たさない。


5.価格理論としての労働価値説

資本主義の下での利潤の生成とその資本家による取得という現象は、労働者階級への搾取と対応している。

しかしこれには、別の規範理論的観点からの説明が必要なのではないだろうか。

価値形成機能を有する生産要素は労働力だけであるという労働価値説は、もはや十分な説得力を持たない。


6.問題は搾取ではなく、生産手段の私的所有ではないのか

資本財を所有しない人は、ルンペンとして生きるか、さもなくば労働者となるしか選択可能な道は存在しない。
このような生きる機会の不平等は、生産手段の不均等的私的所有の下で直ちに生じてしまう。
このような社会のあり方は道徳的に許容できるとは言えない。

資本主義的経済システムは、原理的に人生選択の機会の不平等を拡大再生産する。また、こうした不平等の存在を、そのシステムの本質的契機としている。

先に述べたように搾取論は、ロックの労働所有権思想をベースとしている。しかしロックの中核概念こそが私的所有制度なのだ。

私的所有制を個々人の不可侵な自然権の体現であるとするロック主義的社会契約論が問題の根源にあることを理解しなければならない。


近代経済学年表(ミクロ経済学に焦点を当てつつ…)

重商主義の時代

英国は海外植民地を獲得し、貿易を進めて急速に経済システムを発展させた。これらの貿易に関する知見を集約したのが重商主義である。

1662 ペティ『租税貢納論』
1664 マン『外国貿易によるイングランドの財宝』
1688 名誉革命
1689 権利章典制定(議会主権確立)
1690 バーボン『交易論』
1690 ペティ『政治算術』 
1691 ノース『交易論』
1692 ロック『利子論』
1694 イングランド銀行設立(財政革命)
1695 ケアリー『イギリス貿易論』
1728 デフォー『イギリス経済の事情』
1755 ルソー『人間不平等起源論』
1756 七年戦争はじまる

重農主義の時代

フランスで適切な徴税をめぐり、再生産に焦点を当てた農業経済の理論化が試みられた。

1758 ケネー『経済表』
1767 ジェームズ・スチュアート『経済学原理』

古典派経済学の時代

英国で工場生産が発達し始め、貿易と結びついた産業政策(投資)が求められるようになった。

1776 アダム・スミス『国富論』
1776 アメリカ独立
1780ごろ 産業革命はじまる
1789 フランス革命はじまる
1798 マルサス『人口論』
1803 セー『経済学概論』 
1817 リカードウ『経済学および課税の原理』
1821 オウエン『現在の窮乏の原因の解明』
1821 ミル『経済学綱要』

1838 クールノー『富の理論の数学的原理に関する研究』
1840 プルードン『所有とは何か』
1841 リスト『経済学の国民的体系』

1846 穀物法廃止(穀物輸入の自由化)
1848 J.S.ミル『経済学原理』

1861-65 アメリカ南北戦争
1867 マルクス『資本論』(第一巻)
1867 大政奉還


新古典派経済学の時代

新古典派経済学は交換と資源配分に関心が集中している。価値の問題は効用という“現象”に矮小化される。
労働価値説を否定し「価値は効用で決まる」と主張した。さらに効用は欲望が充足されるたびに減っていくとした。これに微分法を応用して数理経済学を打ち立てていく。
これに市場均衡論が付け加えられ、経済の現象を数値化して分析する。まさに形而上学的なニュートン力学の世界である。
基本的にはマーシャルの経済学(ケンブリッジ学派)をさす。これにウィーン学派とワルラス派を加えることもある。
新古典派

1871 ジェボンズ『経済の理論』
1871 C.メンガー『国民経済学原理』
1874 ワルラス『純粋経済学要論』
ワルラスを指導者とするローザンヌ派は、「土地社会主義」を基礎とする完全競争社会の実現を目指した。
1890 マーシャル『経済学原理』
ジェヴォンズ効用価値説を引き継ぎ、アダム・スミスの均衡を結び付け、需要・供給曲線を作り出した。
1893 シュモラー『国民経済、国民経済学および方法』
1896 ベーム=バヴェルク『マルクス主義体系の終結にあたって』
1902 ホブスン『帝国主義』
1904 ヴェブレン『企業の理論』
1905 ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
1910 ヒルファディング『金融資本論』
1912 シュンペーター『経済発展の理論』
1914 第一次世界大戦はじまる
1917 ロシア革命
1917 レーニン『帝国主義論』
1920 ピグー『厚生経済学』
1920 ミーゼス『社会主義国家における経済計算』(独)
1925イギリス金本位制に復帰
1926 スラッファ『競争的条件の下における収益法則』
1929 世界恐慌はじまる
1929 ハイエク『貨幣理論と景気理論』

ケインズ経済学の時代

1936 ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』
ケインズは古典派の第二公準を否定し、商品・労働市場のいずれにおいても、市場の硬直性と情報の非対称性が必然であるとした。非自発的失業が長期化する可能性を強調した。

1938 ランゲ,F.M.テイラー編,『社会主義の経済理論』
1939 スウィージー『寡占状態下の需要』
1939 第二次世界大戦

新古典派総合の時代

1948 サミュエルソン『経済学』

新古典派とケインズのいいとこ取りみたいな“学派”。目的は新古典派と同じであるが、不均衡が強くなれば政策介入を行うというもの。

1956 J.V.ロビンソン『資本蓄積論』
1958 ガルブレイス『ゆたかな社会』
1960 フリードマン『貨幣の安定をめざして』
1960 ロストウ『経済発展の諸段階』
1960 ミュルダール『福祉国家を超えて』
三大経済思想
           https://cruel.org/econthought/essays/margrev/ncintro.html


すみません。孫引きの紹介です。(「ヘーゲル:法の哲学 入門」より)

ヘーゲルの「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」(1801)という本にこんなことが書いてあるそうです。

直観と概念の相互包摂を通して理念(イデー)が展開される。これがヘーゲルの論理形式である。

この論理形式のもとに、人倫の原理が実現される。それは自然的生活からはじまり、自由と共同が自覚的に統一され、その土台の上に国家が成立する。

これと並行して絶対者の運動が語られる。それは実体的統一に始まり、対立差別が発生し、やがて再統一に至る運動である。

ここにヘーゲルの社会倫理(成る展開)は、弁証法の論理(為す展開)と結びついて、その姿を表したのである。

そのうえで、自然的生活から自由と共同への足がかりとして以下の4つを取り上げる。

①労働: 労働により共同生活が歴史的に形成される。
②道具や機械: マルクス風に言えば労働手段。これらの手段により人間と自然との関係が媒介される。
③言語: 言語により人間対人間の関係が媒介される。
④分業と機械化: 生産力は飛躍的に増大するが、全一的な人間性は分裂し毀損される。

市民社会は自然的生活より優れた人倫を保有するが、しかしそれは④の理由により相対的なものである。

それは矛盾を内在しており、その矛盾は国家によって克服されるほかない。


ということで、史的唯物論の骨子はすでにヘーゲルにより語られている、あえて言えば語り尽くされていることがわかる。

種子法と農業

久田徳二さんの講義を聞いた。
「種子法廃止と食と農」と、やや長い題名だが、たしかにこれ以上は切り詰められない中身だ。
「食と農」というのは、政治・経済的に考えれば、食物の消費者と生産者の関係である。
食料というものを巡って、そのまわりに消費者・生産者という社会グループがある。その三角関係が今どう変わってきたのか、これからどう変わろうとしているのか…これが課題の大枠である。
そして、その変化の過程の中で種子法がどのような働きをしているのか、これが具体的な小状況である。

結論からいうと、種子法は生産者から生産の論理を剥奪し、市場の論理でがんじがらめにするものである。一言で言うと生産者が生産者でなくなってしまう、ただの労働者になってしまうのだ。

そうなるとどうなるのか。種子を独占する企業が資本の論理、つまり儲け第一主義を貫徹するのである。消費者の論理は生産者の論理に反映していたが、もはや消費者の論理に対応する生産者はいなくなる。市場経済の存立基盤が根底から失われてしまう。

嫌なら食うな!
これが資本の答えである。

遺伝子組換えとか知的財産法とか、各論的にはいろいろあるが、農業のあり方が根底から変わってしまうところに種子法の最大の恐怖があるのではないだろうか。

種子法と北海道

久田さんの講義は、時間制限もあってずいぶん端折ったものになってしまった。主催者側の勝手で、大変申し訳ないことだった。

それで、質疑応答の中で私が考えたことをちょっとまとめておく。

北海道は農業王国だ。ある意味、農業しかない地域にさせられてしまった。だから農業は生命線だ。だから農業のあり方が変わってしまうのは生命の危機をもたらす。

北海道農業が発展していくためには2つある。一つは日本の農業基地として販路を拡大することだ。もう一つは東アジアで特色を持ったアグリ基地として情報を発信していくことだ。
とくに後者の道は前途洋々だろうと思う。

その際の最大のブランドは北方系の食物バリエーション・まさに「北海道ブランド」だ。そして、日本産であるがゆえの安心・安全だ。これが付加価値となって圧倒的な競争力を獲得できることになる。

北海道を農業“逆特区”に

昨今は、各地で「特区」が話題になる。大体において良いことはない。加計学園だとかカジノだとか、独占企業や“お友だち”企業に都合の良いことばかりが「特区」の名目でゴリ押しされる。

私は、そういう状況の中で北海道の「農業特区」化を提案したい。

これは、いままでの規制緩和のための特区とはまったく逆の方向での「特区」だ。
つまり、規制を緩和させないで維持し、場合によっては強化し、儲けのためではなく安全を第一にする方向づけを明確にすることだ。企業のためではなく農業のための法的枠組みを整備することだ。そして農民第一の目線を貫くことだ。

TPPなどの国際枠組み、国内法体系のもとではなかなか困難なことであるが、だからこそ「特区」としてやっていけないのだろうかと考える。
もちろんその前にも北海道庁としてやれることはあるだろうし、議会も条例化の努力でこれを支援するべきであろう。
「北海道の自立へ」というスローガンは、公助と共助の隙間を埋めていく、そのような努力を含んでいるのではないだろうか。


神武から雄略まで21代の天皇のうち、寿命が明らかになっているものは8人に過ぎない。そのうち100歳を越えるものが6人に及ぶ。
つまり、順序だけが信用できるが、その他は明らかな嘘である。この嘘の付き方に法則性はあるのか、その目的は何だったのか、それらは永遠の謎である。
ただし、そのヒントとして、日本書紀に何度も繰り返し現れる百済本紀がある。作者はこれと皇統紀をなんとか結べつけようとする。我々も別な立場から関連付けようとする。その付近のせめぎあいが日本書紀の醍醐味であろう。

遠藤慶太さんの「六国史」(中公新書)にその一端が触れられているので紹介しておく。

1.日本書紀の応神紀には百済記が引用される。
(百済で)阿華王の即位にさいし倭への礼を欠いた。倭は百済を攻め、“とむたれ・けんなん・ししん・こくな”の東韓の地を奪った。百済は王子“とき”を倭に遣わし国交を修復した。
2.おそらく同内容が三国史記の百済本紀では以下のように記載される。
百済の“あしん”王は倭国に修好し、太子の“てんき”を身代わりとして派遣した。
この出来事が日本書紀では西暦277年とされるが、三国史記では397年の出来事とされる。三国史記ははるかに後代になるものではあるが、嘘をつく理由はない。とすれば400年ころに大和を治めていたのは応神ということになる。

これは2つの点できわめて重要なポイントだ。
一つは、倭王朝と大和の諸王の関係を見る上で起点となるからだ。
私は以前から仲哀の筑紫進出と不自然な死がいつ頃なのかが気になっているのだが、もし400年頃が応神の治世だったとすれば、応神の父である仲哀は、その少し前に那の津まで達し、そこで客死したことになる。
そのとき仲哀が請われたのは新羅出兵であり、百済出兵ではない。仲哀はそれを断り、その直後に不審死した。

もう一つは、多分こちらは大和王朝とは関係のない話だが、広開土王の金石文とほぼ時期的に一致するからだ。
百済が先の誓約に背いて倭と通じた。そこで広開土王が平壌まで南下し、戦いに備えた。
これが399年のことである。

つまりこういうことだ。高句麗は百済を臣従させるなど朝鮮半島全体で覇を唱えていた。倭(と任那)はこれを快く思わず、介入の機会をうかがっていた。
百済の王が交代し、おそらくはそれに伴って内紛が発生した。これをチャンスと見た倭は百済に出兵し領土の一部を奪った。百済は倭に詫びを入れ、人質を送ることで関係を改善した。
それを見た高句麗の広開土王は、百済に謀反の意ありと断じ、兵を平壌まで進めた。
このときたまたま、中国地方を征服した大和の仲哀天皇が勢いを駆って倭王朝の本拠まで達した。倭国は戦闘参加を呼びかけたが仲哀がこれを受け入れなかったので暗殺した。
倭王朝は寝返った武内宿禰に大和の制圧を命じ、応神を押し立てて難波政権を擁立した。旧仲哀勢力は四散した。

つまり高句麗から百済、倭国、大和王朝にいたるまでのあらゆる流れがこの時期に一点に集中しているのだ。

ただのコピペです。
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下記のキャプションがついています。
 

Football · 18 Jul 18

Please note the delicacy and elegance of the hardly touched fingers, the synchronicity and the harmony of the ankles in the air, the graceful unison movement while the common theme (the round balloon) lies at their feet. A real "pas de deux".

同性2人による踊りは「デュエット」だが…

二人がともに優美な指型を作っているのは、ただの偶然ではないでしょう。
おそらく脊髄性の姿勢反射だろうと思いますが、あるんですかねぇ、教科書には…

ゲノム研究の先端を知る本

この間、「日本人のゲノム」にかんする記事があって、たしかに学術的には最先端なのだが、学問的な常識というか基礎学力のところでかなり問題がある文章があった。

きっとこの人は外国の誰かについて技術を学んで、歴史学者というよりは技術者としてのし上がってきた人だろうなと思ったが、この本でおおかた見当がついた。

D.ライヒ著 「交雑する人類――古代DNAが解き明かす新サピエンス史」という本で、去年の夏NHK出版から発行されたものだ。まだ湯気の出ている出来たてのものだ。

ライヒは人類史研究のメッカであるマックス・プランク研究所のスタッフとして頭角を現し、ゲノム研究の第一人者となった。そしてハーバードにヘッドハンティングされた逸材だ。

いまや彼のもとには世界中のヒト・ゲノム情報、そして古代人のゲノム情報が続々と集まる仕掛けになっている。多分先日の日本人研究者はこの人の弟子筋に当たる人なのだろう。


DNAの検討はすでに一段落している

ライヒが冒頭から強調するように、たしかにいまやゲノムの時代だ。ただし、ライヒが言うような意味では「いまやゲノムの時代が始まった」というわけではない。

それどころかいまやすでに一段落の時代を迎えている。
過去30~40年にわたり日本人の祖先を各種血液マーカーで突き止めようとする動きは疾風怒濤の状況を迎えていた。

それまでは骨相学的な分析を主体としていたのが、HLA、HTL、B型肝炎ウィルス、Gm遺伝子など数々のパラメータが導入されてきた。それはよほどのマニアでさえ憶えきれないものだった。

それが最終的にはMとYとに収斂された。だからMとYとにはそれにとどまらないさまざまな思いが込められている。

だから、我々の知りたいのは「人類の起源」一般ではなく、これまでのM・Y 人類学との“差分”なのだ。それが浮き彫りになるような記載があれば、「おお、なるほど」と感動できる。

我々は感動したいのだ。


ライヒのM・Y DNA 批判は的外れ

ライヒは2005年に始まったジェノグラフィック・プロジェクトを次のように述べて否定している。
ジェノグラフィック・プロジェクトは100万人のサンプルからミトコンドリアDNAとY染色体のデータを集めた。しかしそのデータは従来の説を確認するにとどまった。
聞きようによってはかなり失礼な話である。“従来の説”というのは、ミトコンドリアDNAとY染色体のデータによって人類が初めて知り得た事実である。それがもっと大規模な調査によって確認されたということであれば、何も後ろ向きに捉える必要はない。
もしこの調査の意義を否定するのなら、それはこれからのゲノム研究の意義を否定することにも繋がりかねない。

しかしその“気負い”は新技術を担う新鋭の学者には当然のものであろう。少なくともM・Y の情報量を3、4桁上まわる情報がそこには眠っているはずだ。
ぜひこれまでと違う世界を見せてほしいものだ。

いくつかの成果

その成果の一端をライヒは示している。題名のとおり、この10年間世上を騒がせたネアンデルタールとデニソワ人との交雑がこの本の中心の話題だ。

このトピックスに典型的に示されたように、「いつ・どこで・どのくらい?」といった問題にはめっぽう強い。ほぼ独壇場である。パラメータの豊富化により、さまざまの事象の相対的前後関係が精緻化されたことが大きい。

箇条書き風に紹介していきたい。

A) 人類の誕生

アフリカでのサピエンスの誕生は20~30万年前。
サン族の分離は10~20万年前。
ミトコンドリア・イブ(現生人の共通祖先)は16年前。
出アフリカは10万年前を遡らない。
旧石器人(後期)の出現は5万年前。
ネアンデルタール人(ヨーロッパ)の絶滅は4万年前。

ライヒは、ネアンデルタールやデニソワ人とほぼ同時にサピエンスも出アフリカしたのではないかと言う。そしてサピエンスはいったんアフリカに戻り、8万年前に二度目の出アフリカをしたと言う。これはあくまでもひとつの推論である。

出アフリカ後、サピエンスは5万年前まで中東に停滞した。この間に一部が(中東の)ネアンデルタールと交雑している。
その後、4.7万年前までにサピエンスの一部が東方に移動を開始した。このときその一部が(南方の)デニソワ人と交雑している。
4.7万年前にパプア人、アボリジニーが現在の姿で存在していたことが確認されている。
北京近郊で4万年前の人体からDNAが同定され、現生東アジア人と同一であることが確認された。

B) アジアにおける人類の展開

2009年、東アジアのゲノム調査結果が発表された。これは75の民族集団、2,000人のサンプルで、「一塩基多型」(SNP)を観察した研究である。

ヨーロッパにおける人類の拡散のありさまは、ゲノム革命によって格段に明確となった。しかし東アジアにおいては前述の事情があり、さほど進んでいないという印象だ。

C) 中国人のゲノム解析

2015年、中国人400人のゲノムデータを入手し、これに検討を加えた。この結果、漢民族以外の中国人に3つのサブタイプを認めた。
① 満州北部松花江以北 このゲノムは8,000年以上にわたり不変である。
② チベット高原 独自性を持つが詳細は不明
③ 東南アジア北部から中国南部にかけて
③のグループは、長江流域での稲作がタイ・ベトナム・台湾などに拡大するのに伴って南方に進出する傾向がある。また③の地域内に北方から漢民族が進出する傾向がある。

ただしこれらの結果の骨子はすでにM・Y研究で明らかにされており、衝撃的な新知見と言うまでのものではない。中国に関する限り「ゲノム革命が圧倒的な成功を収めている」とは言い難い状況だ。

D) 日本の理研グループの業績

ライヒは日本に関しては理研グループのデータを紹介するにとどめている。
これは2008年の研究で、7,000人の一塩基(SNP)多型を解析したもの。

本土人と沖縄人のゲノムが明確に異なること、東北地方の人々にも関東以西と異なる特徴があることなどが指摘されている。

また、縄文人と渡来人が混合してほぼ単一の弥生人が形成されるのは1600年前まで下るということも報告されている。
これは紀元400年、広開土王の時代ということになる。そのころ縄文文化(竪穴人)が最終的に弥生文化に吸収されたということになるのか。


E) DNA革命に出遅れた日本と中国

どこまで本気にして良いものか迷うのだが、中国・日本の研究体制への批判をふくむ、次のような一節がある。
中国・日本では、科学以外の諸事情により、DNA革命の最初の数年、その恩恵に浴する機会を失った。
中国の場合はよくわからないのだが、日本の場合はたしかにこの10年間ほど研究が足踏みしているような印象がある。

新技術の導入にはそれなりの資本も必要なので、そのへんの手当で遅れをとっているのではないかと気になる。なにせ日本の科学・技術に対する軽視は甚だしい。

基礎データを蓄積するための情報インフラを早急に蓄積してもらいたいものである。これにより古代史の謎や論争がかなり解決される可能性があると思う。


本日の赤旗国際面に「インドネシアの選択」というシリーズの第5回(最終回)が掲載されている。
この中でインドネシア最大のイスラム組織「ナフダトール・ウラマ」(NU)の幹事長に赤旗記者が行ったインタビュー(以下NUと略す)が掲載されている。
ほとんどそのまま載せてもいいくらいの良い記事だが、要点だけを上げておく。
オーソドキシー(正統派)には世界の平和に関わる深刻な疑念がある。
①非ムスリムを差別と憎悪の対象とし敵視する。
②世界単一のイスラム国家樹立を究極の政治目標にもつ。
③国家法・人定法を神の法ではないと否定する。
④ムスリムがたたかう紛争に参加することを義務付ける。
なかなかまとめ方が難しい特徴付けだが、世界最大のムスリム人口を持つ国の最高指導者が、正統派との何十年もの戦いを通じて得た結論であるから、流し読みにはできない。
我々はこれまでともすれば「異なる文明の共存」などと物分りのいい言葉を語ってきたが、結局それは正統派に対する“甘やかし”に過ぎなかったのではないか。
イスラムの現場でこれだけ容赦ない戦いを進めている人たちを知れば、より毅然とした立場に立つ必要があるのではないか。
そんな気持ちにさせられる。
とにかく「ダメなものはダメ!」なのだ。

ナポレオン戦争とドイツ

ヘーゲルの思想遍歴を知る上でナポレオンのドイツ侵略はよけて通れない。

フランス革命がそれ自体は隣の国の事情であったのに比べ、ナポレオンの侵攻はすべてのドイツ人が巻き込まれる一大事であった。

否が応でもフランス革命の必然性、神聖ローマ帝国の行く末、ドイツの近代化についてすべてのドイツ人が思いを致さざるを得なくなった。

そのなかで辺境国プロシアが「近代化」の道を歩みだしたとき、ドイツ人に方向をしめしたのがヘーゲルだったとすれば、その政治姿勢がヘーゲルへの支持を呼び込んだのではないだろうか。
精神現象学もエンチクロペディーもその後に付いてきたのではないのか。

1792年 フランス革命戦争が始まる。市民革命の波及を恐れる周辺諸国のフランス侵攻が引き金となる。
フランスでは農民や都市下層民を中心に50万人規模の志願兵が集まる。

1793年 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成される。

1795年 ポーランド、プロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅。

1796年

3月 第一次イタリア遠征の開始。ナポレオンがイタリア方面軍司令官に就任する。

1797年

10月 北イタリア戦争、フランス側の勝利に終わる。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合。オーストリアの敗退により第一次対仏同盟が解体。


1798年

7月 ナポレオン軍がエジプトを制圧。しかし英国に制海権を奪われ孤立。

12月 イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成される。

1799年

11月 ブリュメールのクーデター。エジプトを脱出したナポレオンが政権を握る。

1801年

2月 オーストリアとの間で二度目の陸戦となるが、ナポレオン軍が勝利。第二次対仏大同盟も崩壊する。

1802年

3月 アミアンの和約。イギリスとフランスが講和。

1803年

5月 イギリスがアミアンの和約を破棄してフランス第一共和政に宣戦。ナポレオン戦争の始まりとされる。

1804年

12月 ナポレオンが戴冠式。第一帝政が発足する。

1805年

イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシアが第三次対仏大同盟を結成し戦争を挑む。プロイセンは中立的立場を取る。

9月 ナポレオン、ウルムの戦闘に勝利しウィーンに入る。

10月 トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊により壊滅される。

12月 アウステルリッツの戦い。ロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑むが敗北。

1806年

神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖でも、ローマでも、帝国ですらない帝国が崩壊する。

7月 西南ドイツ諸邦が親ナポレオンのライン同盟を立ち上げる。

7月 プロイセンは中立を破棄し、イギリス、ロシア、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成。

10月 プロイセン、フランスへの単独宣戦。ナポレオン軍が怒涛の進撃。プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受ける。

10月 ナポレオン軍がベルリンを制圧。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、東プロイセンのケーニヒスベルクへ逃げ込む。

シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽き降伏。

11月 ベルリン入りしたナポレオンが、大陸封鎖令を発布する。

1807年

2月 ナポレオン軍、東プロイセンに入りプロシア・ロシア連合軍と戦闘。吹雪の中、膠着状態に入る。

6月 東プロシアの闘いはナポレオン軍の勝利に終わる。

7月 ティルジットの和約が結ばれる。ポーランド旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復。プロイセンはエルベ川以西の領土を失う。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれナポレオンの弟が即位する。

屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。

1808年

5月 ナポレオン、スペインを併合。スペインで国民的な抵抗が起こり泥沼化。

1809年

4月 オーストリアは、イギリスと第五次対仏大同盟を結びバイエルンへ侵攻。ナポレオンは直ちに反撃しウィーンを制圧。

10月 オーストリアは領土の割譲と巨額の賠償をせまられる。

1810年

ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。

1812年

6月 27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍がロシア国境を渡る。ロシア軍は正面対決を避けつつ、焦土戦術によって食料の補給を断つ。

10月 ナポレオンはモスクワからの撤退を決意。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。故国に帰還したのはわずか5,000であった。

ロシアはドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。プロイセンにも同盟を提起する。

1813年

3月 プロイセンがフランスへ宣戦布告。ドイツではこれを「解放戦争」と呼ぶ。

国軍のみならず義勇軍も組織され、国民意識鼓吹のため「鉄十字勲章」も創設される。

8月 イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立。

10月 ライプツィヒの戦い。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃。フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。ドイツでは「諸国民の戦い」と呼ばれる。

1814年

3月 連合軍はパリに入城。ナポレオンは退位する。ルイ18世が即位し王政復古。

1815年

3月 エルバ島を脱走したナポレオンは、パリに入城して再び帝位に就く。

6月 ワーテルローの戦い。フランス軍は完全に崩壊する。



なにかテーマのはっきりしない年表になってしまった。いちどナポレオン年表を作ってからにすべきだったのだろう。

ナポレオン戦争に勝利してからのプロシアの近代化は、明治維新から日清・日露に至る日本の近代化に比肩されるだろう。そんなつもりで一度追って見る必要がありそうだ。

1.スパイダープレーヤーを見つける

youtubeが96Kbに音質を下げてから、どうにも手持ち無沙汰だ。
この間ひとつ試してみたが、音質は96KbのYoutubeよりさらに落ちる。

Winampを探してみたら、もう閉店していた。それと一緒にネットラジオのソフトも消えていた。
けっきょくすべてYoutubeに負けたのだ。しかし今となってはもう一度、ネットラジオにすがる他あるまい。

と言いながら探していたら、Spider Player というソフトに巡り合った。実はこれも10年近く前に終わっていて、開発者が権利を手放してそれをみんなで共用しているようだ。だからWin10 とは直接のマッチはない。

これが意外に良い。というより良すぎるのだ。
ダウンロードと立ち上げはかんたんだ。どのマニュアルでも分かる。
日本語化とライセンスキーの入力をすませばフルで使える。

2.エラー表示について

bass_ac3.dllとaac.dllのエラー表示だが、風来坊さんが解決法を教えてくれている。
https://freesoft-100.com/review/spider-player.php

ただ分かっている人にありがちな省略があり、ちょっと付け加えておく。

http://www.tc-p.de/?view=1371981600 というURLの行く先は
TC-Programming というドイツ語サイトのSpider Player に関する記事。
右下隅には 
Version: 2.5.3.0 とあり、その右にdownload-buttonVersion: 2.5.3.0veroffentlicht 23.06.2013 - aktualisiert 23.06.2013
がある。
ここをクリックすると、
spider_player という圧縮フォルダーがダウンロードされ、これを解凍すると、2つのプラグインフォルダーが出てくる。
この中に探していたdllが出てくる。

spider playerのプログラムはprogram files(x86)に入っているので、順番に進んでいってプラグイン・フォルダーの中の2つのdllと置換する。

これで再起動すると、余分なものは出なくなる。

3.放送を聞く

foobar という完成された再生装置があるので、それに変えようという気はない。問題はラジオだ。

起動画面から左肩のmain menu→Radioと進む。Radio directory の画面が開いてからしばらくすると“301 Moved Permanently”という吹き出しが出る。Ok にしてこれを消す。

心配しないでよい。これはデフォルトで設定したラジオ検索ツール(Ice Cast というらしい)がなくなってしまったからだ。

一旦検索を止めて、ツールバーのカミナリマークをクリックすると別の検索エンジン(懐かしのシャウトキャスト)が働いて、ドドドッと放送局のリストが出てくる。むかしのWinampそのものだ。

違うのは放送局の音のクオリティが上がっていること、通信速度が格段に向上していることだ。

試しに聞いてみるが、正真正銘のHQ,HiFiだ。やはり世界は進歩しているのだ。みんな不遇の中でも頑張ってきたのだ。

サラサラと聞いていく。どうせならビットレートの高い256か320Kbがよい。

とりあえず
Discoteque という放送局とRondo Classic Klasu Pro というのをお気に入りに入れた。

4.録音する

次は録音。録音そのものはかんたんだ。赤い録音ボタンを押せば良い。Favorite Menu からDiscotequeを選び、録音を開始した。
ところが行きあたりばったりだから、録音したファイルがどこに保存されているかがわからない。

これは左肩の4本バー→オプション→録音→出力ディレクトリに行き、デスクトップを出力先に指定すればよい。

録音に入る。以外にここが難関だ。山のように放送局はあるが、録音するに足る放送局は意外に少ない。
まず録音させないような仕掛けがある。特にポップス系では曲の切れ間を作らない。これで曲は切れても切れ目がずれるひどいのは7,8秒ずれる。

こういう放送局は録音の対象から外さざるを得ない。

2番めは、曲のクレジットが入らない放送だ。そんなモノあるかと思うがあるのだ。クラシックでいうとRondo Classic Klasu Proという局。これでは話にならないがネットから放送局を探せばなんとかなるのかもしれない。


2日かけての結論。これは所詮ダメだ。ソフトの方の問題ではなく、音質の問題でもなく、放送局が抱える3つの問題が相変わらず解決されていないことが原因だ。
1.曲間の無音域がなくファイルを区分けできない
2.ファイルのタグが信頼できない
3.曲を勝手にぶった切る

これらはいずれも致命的だ。これがエアチェックをやめてYoutubeに乗り換えた理由だった。それが未だに改善されていない。
放送局は山ほどある。一つくらい三条件を満たす局があるかもしれない。その時このソフトにも使いみちが出てくるだろう。このソフトは良いソフトだ。



「酸蝕歯」(Erosive tooth wear) というらしい。

どうもこの1年で歯がガタガタになりつつある。

変なのは、どこかが集中して悪化というのではなく、びまん性・多発性に、歯の先や角のところから崩れていくのだ。

どうも細菌感染というよりは蚕食という感じで、日本列島総崩れの様相だ。

この間、歯医者さんに行ったら、一度に4ヶ所も攻められた。まだあと数カ所は要加療という。

その時言われたのが、「胃酸のせいかもしれない」ということだった。

「えっ?」、まさに寝耳に水である。と言いつつ、そう言われてみて思い当たることがある。

この1年ちょっと、夜中の呑酸症状が出現するようになった。下部食道あたりの灼熱感、ときに吐き気を伴う。

就寝後1時間余で症状が出現し目覚める。いったん起きて、水分や牛乳をとってそのまま寝てしまうと翌朝はなんともない。

もちろん深酒をすれば出現頻度は高い。PPIが奏功する。ようするに典型的なGERDである。「歳をとったから」というのは当然だが、経過はやや唐突である。

酒量は確実に落ちている。外で飲む機会も減っているから、そんなに痛飲はしていないはずだ。

思い当たることは、タバコをやめた事、したがって体重が増えたことである。

問題は2つある。体重が増えたことがGERD出現の理由なのか、もう一つは、胃液が果たして口腔内まで上がってきて、歯を溶かしているのだろうかという疑問だ。

前者は心から納得するほどの説明ではないし、後者は相当マユツバである。

とりあえず、GERDとう歯の関係を調べてみよう。

というのがあった。

虫歯、歯周病に次ぐ第3の歯の疾患として、酸蝕歯が問題になっている。酸性の飲食物などで歯が溶けてしまう症状だ。

酸性度の高い飲食物というのは、ワイン、炭酸飲料、栄養ドリンク、かんきつ類、ドレッシングということで、私には関係のないものばかりだ。

ウィキによると、コーラ飲料はpH2.2で胃酸の数値(pH1~2)に近い(レモンのpHは2.1)。栄養ドリンクは2.5、黒酢飲料は3.1、スポーツドリンクは3.5であった。

中には、「夜のチビチビ晩酌は要注意です」という歯医者さんまでいる。酸性飲料と逆食の話を混同しているようだ。

ところが参考図には、こんなものがあった。
sanshokusi
実は、由緒正しい「酸蝕歯」というのは、工場の酸性ガスの中で働く人や、逆流性食道炎の人などに起きるものと考えられてきたようだ。それが昭和40年代にコカ・コーラがバカ売れしたときに虫歯が大発生し、これが「酸蝕歯」注目のきっかけとなった。

今でも、酸蝕歯の重症例の多くは、逆流性食道炎や摂食障害の嘔吐(おうと)などで歯が溶けるケースなのだそうだ。

さらに別の記事では、喉頭炎、咽頭炎、副鼻腔炎、反復性中耳炎、後鼻漏症状などが関係するとされる。「中耳の中に胃酸の成分であるペプシノーゲンがたまり、難治性の中耳炎を起こした例も報告されている」そうだ。

もちろん、記事の性格上、根拠となるデータは示されていない。ある歯医者さんの言葉として紹介されている。記者のよく使う手だ。

というわけで、これ以上啓蒙的なページを探しても、納得できるようなデータは出てきそうにない。

学術論文を探すと、下記のものがあった。


 長崎県口腔保健センターが去年発表したものである。知的障害者など約500名が対象となっている。
「結果」は省略して、「考察」のつまみ食い。

考察

① 酸蝕症の罹患率は26%、そのうち象牙質まで及ぶ重症例は7%とされる。障害者は施設で管理されているものが多いため、少なめになっている。

② 酸蝕症の48%に反芻癖や反復性嘔吐が認められた。これらのほとんどに自称、他害、コダワリなどの問題行動が見られた。

③ 一方、酸蝕症の71%がコーラ、ジュースなどの愛飲者であり、外因性の原因も考えられた。

④ 口腔内pHは全体にやや低値を示したが、多義的であり評価は困難である。

ということで、胃酸の関与についての評価は両義的であるが、少なくとも否定はできないと言える。

あとは以下の確認が待たれる。

1.GERDの側からの疫学調査。特に年齢との相関、除菌療法との相関。

2.ETW(酸蝕症)におけるPPI、SSRIの効果。

これが、今回の一覧表から抜けてしまった。
あとで探していれることにしておいて、とりあえず高天原、葦原中津国、スサノオの三者の関係を明らかにしておこうと思う。
別に、新発見というわけではなく、日本書紀を素直に読めばこういう読み方もできるよね、という程度のことだ。

高天原の神様というのはアマテラスの前にたしか3代ほどあるのだが、そのまえが良くわからないのである。出自は明らかにされていないが、前後関係からみて「なんとか朝鮮」王国の落人だろうと思われる。中原に秦に続いて漢が成立し、朝鮮半島にも進出してきた。それまで平壌ー京城周辺を支配していた王国は崩壊し、南に向かって落ちのびてきた。
細かいことは省いて、アリラン峠を越えて洛東江を眼下に臨んだとき、これからは異形の民が住まう、ここ葦原中津国を支配して生きていこうと思ったのだろう。
そうやって建設したのが高天原の要塞だ。一方、洛東江から半島南岸にかけては晩期縄文人と長江流域から流れてきた米作農民が混住していた。これを仕切っていたのがイザナギだ。根拠はないが、九州北部からやってきた可能性もある。さらに風呂敷を広げれば、鹿児島から火山の噴火をさけて避難してきた南部縄文人の末裔の可能性もある。
高天原からみた葦原中津国は、直接は朝鮮半島南岸一帯、後に任那となる地域だが、イザナギ一族は対岸の北九州にも大きな植民地を有していた。
スサノオがアマテラスの舎弟で高天原の一族だったのか、イザナギの後継者がそういう身分を与えられたのか、そのへんはわからない。
しかしスサノオはさまざまなフェイクニュースをでっち上げられ、高天原から追放された。彼は葦原中津国からも追放され出雲へと亡命した。そこがあらたに葦原中国と呼ばれるようになった。
高天原一族はやがて九州側の支配権ももとめるようになり、スサノオから取り上げられた。九州北部の統治のためにニニギノミコトが派遣され「天孫降臨」することになる。「日向」は宮崎ではなく玄界灘を挟んで、高天原に向き合っているからヒムカなのだ。
スサノオはこれに応じ、宗像を割譲し、ついで出雲の支配も受け入れた。スサノオの一族は畿内も支配していたが、ここもやがて「神武東征」により奪われることにな。

だいたいこういう流れで理解しておけばよいのではないか。


思い出した。次の3つの記事だ。

2019年02月14日

2019年02月13日

2019年02月11日


「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 2

修復したけど、肝心の記事は抜けている。後で補完する。


D 米作り農民と、天孫系集団の相次ぐ渡来

1) 高天原の位置づけ

三韓時代以前の朝鮮半島南部
2013-01-03 23:57:19 

馬韓が天孫族の源流か
2016-07-03 23:47:10 
箕氏朝鮮の馬韓占領がもたらしたもの
2016-07-02 23:29:19 
衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

2) 長江人の渡来

縄文人、旧弥生人、新弥生人に分けて考える
2015-11-28 16:13:28 

縄文VS弥生の枠組みは捨てたほうが良い
2013-01-05 21:08:23 

長江文明→弥生人の系譜
2014-05-21 12:01:03 
Y染色体が語る弥生人と縄文人の出会い
2016-06-18 12:32:54 

弥生人、それから支配者たちが来た
2013-01-12 20:01:50 
日本における米作り 年表
2013-01-01 17:03:36 

気温変化が民族構成の変化を推進
2012-12-31 15:05:27 

「弥生革命」があった?
2012-12-29 23:14:54 
弥生人の大量流入はあった
2016-06-17 15:47:45 

弥生人の増加は「民族の大移動」現象なしに説明できる
2016-06-27 23:34:04 

「水田中心史観批判」の批判 読後感
2016-08-29 00:08:14 
「水田中心史観批判」の批判 その2
2016-08-28 23:29:49 
「水田中心史観批判」の批判 その1
2016-08-28 21:00:59 

弥生土器の分類は九州をベースとすべきだ
2017-04-29 20:54:53 
弥生土器の分類は九州をベースとすべきだ
2017-04-28 18:05:51 
菜畑遺跡はさらに縄文を遡る
2016-06-17 13:39:11 
「板付人」に曖昧さは許されない
2016-06-16 23:51:10 
板付Ⅰ式→Ⅱ式はいつのこと?
2016-06-16 20:53:09 


3) 天孫族の侵入

環日本海文化圏
2013-02-07 22:11:42 
古代出雲のトロイ戦争か
2016-12-06 11:38:13 
「むきばんだ」の人々
2016-12-05 17:29:34 

稲荷山鉄剣の意味
2014-05-05 11:15:17 


4) 銅鐸文化の駆逐と高天原信仰の強制

弥生中期における激動
2016-06-27 17:11:26 

BC400の中国製矢尻が岡山で出土
2013-01-25 12:28:30 

銅鐸を手がかりに歴史を読み解く
2016-12-06 23:56:34 
「銅鐸人」のまとめ
2013-02-28 16:41:31 
銅鐸文明ノート 余話
2013-02-17 17:14:22 
銅鐸文明ノート その3
2013-02-13 16:39:01 
銅鐸文明ノート その1
2013-02-11 22:49:36 


K 日本、敗戦と戦後史

1) 敗戦

見たことのない終戦直後の写真
2018-02-15 15:29:56 

生産設備の空襲による消耗
2015-12-28 22:55:51 
戦後前期を評価する
2015-12-27 20:34:12 

戦後経済復興についての「諸説」
2015-12-27 14:00:49 

戦後日本はゼロからの出発ではなかった
2015-12-23 23:56:32 

浮浪児は戦争という理不尽の、理不尽な結末だ
2014-09-29 23:57:54 

「浮浪児」の数と実態
2014-09-29 17:27:58 

戦災孤児と“浮浪児”
2014-09-23 00:00:5
戦災孤児調査の紹介
2014-09-22 17:34:23 
戦後の日本人慰安婦(パンパン)
2017-04-03 12:11:38 

銀座パンパン娘の言い分
2017-04-05 00:34:20 

昭和24年 東京カンカン娘
2015-04-06 00:05:37 

ララとエスター・ローズ女史
2016-11-25 17:27:07 
「ララ」救援活動の経過
2016-11-25 17:13:45 


2)戦後引揚げ

興安丸について
2015-12-23 22:06:13 
氷川丸と高砂丸
2015-12-23 13:00:14 
引揚者の手続き 佐世保市のホームページから
2015-12-22 16:21:42 
仙崎と引揚船
2015-12-21 17:29:13 
山口放送の「奥底の悲しみ」
2015-12-21 13:15:31 

引揚者は戦後の発展にどのように貢献したか
2015-12-26 17:29:21 
引揚者は祖国にどう受け止められたか
2015-12-25 23:20:31 
戦後引揚事業 年表
2015-12-24 23:07:21 
戦後引き揚げを勉強してみて
2015-12-24 17:29:20 
引揚者の無条件美化に対する山本さんの思い
2017-11-22 10:52:46 
山本めゆさんの論文を紹介します
2017-11-20 22:47:30 


3) GHQと戦後改革

ポツダム宣言の本質は「思想の自由」
2013-10-08 22:08:20 

GHQの戦後改革を増補しました
2015-02-09 00:29:32 

五大改革指令に至る流れ
2013-11-20 15:13:23 
GHQの戦後改革 その3
2013-11-03 11:55:31 

GHQの戦後改革 その2
2013-11-03 11:53:31 
GHQの戦後改革 その1
2013-11-03 11:51:21 
マッカーサーとは何だったのか
2013-11-03 11:43:17 

マッカーサー改革はなぜ成功したのか
2016-05-08 16:35:39 
戦後改革の法的体系
2013-10-08 16:00:38 

シャウプ税制と「一体改革」
2011-09-30 09:47:40 
「シャウプ勧告」を勉強した
2011-09-29 17:28:10 
シャウプ税制の臨終 その2
2011-09-29 13:53:49 
シャウプ税制の臨終 その1
2011-09-29 10:44:42 
4) 戦後復興

三笠の3炭鉱の運命
2017-09-27 18:53:04 
夕張・三笠の炭鉱跡を訪ねて
2017-09-27 00:38:26 

太平洋炭鉱の歴史 年表
2017-04-10 19:36:52 

奄美共産党 年表 その4
2013-12-31 13:41:02 
奄美共産党 年表 その3
2013-12-26 13:46:27 
奄美共産党 年表 その2
2013-12-26 13:45:27 
奄美共産党 年表 その1
2013-12-25 17:32:39 


K ヨーロッパの歴史

1) イギリスの歴史 

アングロ・サクソン人ってなんだろう
2018-12-21 14:03:11 

イギリス人はDNA的にはアングロサクソンではない
2018-12-25 21:32:53 

「清教徒革命」論を整理する
2017-01-31 17:16:22 
清教徒革命年表 今後の課題
2017-01-15 15:37:15 
清教徒革命年表
2017-01-14 15:37:30 
ピューリタン革命の勉強を始める
2017-01-14 00:55:35 
ホッブスが面白い
2017-01-13 16:12:53 
ホッブス、ロック関連の年表
2017-01-11 17:21:30 

田中さんのケルト人論を読んで
2017-08-06 16:48:24 

「ケルト人」は存在したことなどない
2017-08-06 15:42:38 

ケルト人について
2014-01-22 22:47:38 

2) その他

ギリシャ神話 成立経過
2018-02-07 12:01:32 

ローマ帝国の人口
2019-01-03 15:38:18 

ローマ帝国とキリスト教
2018-02-22 17:46:15 

プラハの歴史 年表
2018-07-18 18:40:56 

宗教改革 ルターからアウグスブルクまで
2018-03-25 18:44:10 


L 大阪の歴史

大阪と大大阪の歴史 年表
2017-10-19 12:20:15 

大阪 年表 補遺
2018-08-23 16:43:33 

大阪発展のカギは上海 にあり
2018-08-12 00:47:12 


M 上海の歴史

アメリカ共産党と上海
2018-08-07 22:39:00 
尾崎とゾルゲの出会い いつ?
2018-08-07 20:27:06 

不破倫三について
2018-08-05 19:47:31 

尾崎秀実の上海
2018-07-23 13:57:02 

尾崎秀実、「新聞を読むことだ」
2018-07-20 21:38:23 


N 4大文明

インダス文明と4大文明
2018-01-04 16:54:12 
インダス文明 年表
2018-01-04 16:17:45 
西洋人は4大文明を認めない
2018-01-03 15:47:48 
「4大古代文明」はありだと思う
2018-01-03 14:56:00 


H 中世・近世

山名宗全 年表
2018-09-24 12:23:21 
歴史を引っ掻き回した男 山名宗全
2018-09-23 15:46:15 

剣法の極意は殺されつつ殺すこと
2015-04-20 23:56:43 

洞門禅僧と神人化度の説話
2013-07-29 14:22:56 

禅宗が勝ち組になったわけ
2013-07-29 13:40:46 
仏教の宗派の地域分布
2013-07-28 21:01:37 


I 明治維新

1) 維新の群像

明治維新と史的唯物論
2014-10-05 16:34:00 

維新は「連合新国家」の武力転覆だった
2018-11-27 11:21:20 

長州戦争 その5
2017-06-08 18:16:26 
長州戦争 その4
2017-06-07 15:55:19 
長州戦争 その3
2017-06-06 13:26:00 

長州戦争 その2
2017-06-06 14:28:55 
長州戦争 その1
2017-06-06 14:26:51 
時代を切り開く大久保利通の「宣言」
2015-11-25 17:30:02 

大久保利通の足跡
2014-10-05 14:06:53 
大久保利通政権の人脈的特徴
2014-10-03 23:57:44 

大久保は維新の「書記長」
2014-10-23 21:46:43 

何故、大久保利通だったのか
2014-10-01 23:01:38 

明治維新と薩摩藩の戦略
2014-10-07 12:51:40 

江戸幕府と諸藩の軍事力・経済力バランス
2014-10-02 23:38:58 
「上方の江戸に対する勝利」は間違い
2014-10-02 17:29:46 

江戸と上方の経済力バランス
2014-10-02 12:26:56 

堺市長選の分析
2013-09-30 13:37:19 
初代堺県知事 小河一敏について
2013-09-11 12:16:44 
堺県の歴史 年表
2013-09-10 17:26:32
日本髪のあれこれ
2015-11-11 14:02:58 

「東海大一揆」について
2018-10-23 13:33:58 

2) 明治の諸改革

富岡製糸場を見るもう一つの眼
2014-07-01 16:06:13 
「農談」運動のまとめ
2014-05-01 23:53:15 

農談会運動の意義
2014-04-15 16:34:14 

明治の農業改良運動 年表
2014-04-15 13:58:43 

初めて知った「農談」運動
2014-04-14 12:43:53 
ボアソナードと「連帯保証」
2018-02-18 15:02:27 
「連帯保証」の起源について
2018-02-18 13:07:08 

幕末期のロシア領事館(函館)のはなし
2016-09-11 17:53:19 

日清戦争 年表
2014-06-29 22:46:36 

日露戦争 年表
2014-07-13 00:18:15 
日韓併合条約の実体
2014-07-12 22:17:32 
日清から日露へ 両戦間の経過
2014-07-08 23:37:46 
「アジアを守る」が「日本を守る」に矮小化される過程
2014-07-08 00:38:24 


J 戦前~戦中史

1) 慰安婦・強制労働問題

朝鮮人徴用工への強制労働に関する統計的事実
2018-12-21 22:44:57 

中国人慰霊碑(仁木)と劉連仁記念碑(当別)
2018-07-10 15:49:43 

強制連行を示す証拠があった
2013-06-19 10:21:32 

「慰安婦」制度は存在した
2013-05-17 10:43:02 

慰安婦は売春婦ではない
2013-05-17 09:51:27 

長春旧憲兵隊跡からの発掘資料
2014-05-15 11:59:07 

従軍慰安婦の「不許可写真」
2017-06-15 21:21:20 

漢口特殊慰安所 その規模に驚く
2015-12-04 15:34:37 

慰安婦の高給説はごまかしがある
2013-07-31 23:07:49 

慰安所の確からしい数
2013-04-16 10:55:31 
「従軍慰安婦は問題ではない」か?
2013-07-31 17:25:48 

挺対協の弁護をする必要はない
2017-11-19 21:30:37 

戦前の日本は侵略者である
2013-05-07 11:36:24 

2) 軍が最大の戦争責任

対中侵略と国内政治の流れ 年表
2015-11-10 20:20:54 

戦犯を追跡する 済南事件から満州事変まで
2015-11-10 22:11:15 
戦争を防がなかった責任
2015-11-08 13:03:26 

永田鉄山の評価
2015-08-23 23:41:37 

「東アジア大戦争」と呼ぶべきだろう
2014-07-01 23:39:41 

「満州でやめておけばよかった」のか
2018-01-13 11:08:44 

根底となるのは植民地支配
2017-11-22 11:46:14 

ゴーストップ事件の顛末
2015-11-29 23:20:54 

東南アジアにおける戦争犯罪
2014-07-05 08:39:37 

南京事件と日本軍の捕虜対応
2018-06-02 14:30:38 

南京事件「論争」の経過
2015-12-01 17:07:46 
南京大虐殺の遺産登録はなぜ非難されたか
2015-12-01 13:34:56 

『偕行』加登川氏の謝罪 1985年
2013-12-11 17:40:35 

「戦陣訓」は現場を知らない指導部の押しつけ
2018-01-13 13:18:13 

最悪の置き去り犯は関東軍
2014-04-18 15:58:11 

商船隊全滅の責任は海軍にある
2015-05-06 15:03:04 
戦争になれば民間人も敵だ
2015-05-06 12:34:24 


3) 日米開戦の責任

陸軍秋丸機関の日米経済力分析
2018-06-06 18:41:29 
太平洋戦争から学ぶ 開戦のための3条件
2018-06-05 10:49:43 
東條内閣「国策再検討会議」の顛末
2018-06-03 22:16:33 

日米開戦と軍部
2018-06-03 22:10:25 

「大本営戦争指導日誌」の驚き
2017-11-01 16:01:10 

4) 内務省の責任

なぜ内務省は軍の暴走を後押ししたのか
2015-11-26 22:34:51 
内務省の歴史 年表
2015-11-26 22:05:12 

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)
2015-12-05 15:33:17 

風景写真の正しい撮り方
2014-07-02 16:34:06 

デモクラシーが戦争を招く?
2018-02-05 15:06:35 

エノケンと焼夷弾
2013-12-07 23:10:53 

戦時下の犬猫供出
2018-02-02 22:32:50 

日中歴史共同研究のリンク
2015-12-01 17:28:46 

「学校儀式」はでっち上げられたもの
2017-11-08 11:10:43 


5) 戦死者の数

ソ連の犠牲者数はやはりおかしい
2014-06-15 00:45:07 
ソ連の戦死者数の異常な多さについて
2014-06-14 23:32:22 
戦死者ランキングと太平洋戦争
2014-06-14 11:36:48 
戦死者ランキングを一口解説
2014-06-13 15:03:48 
戦死者数ランキング
2014-06-12 23:22:44 

佳木斯(チャムス)の紹介記事
2014-01-28 15:39:17 
佳木斯医科大学と細菌戦
2014-01-28 10:04:12 

北朝鮮政策 志位さんの解説
2018-04-15 18:16:17 

「包括的軍事指令」について
2018-02-15 11:10:51 

「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事 4

H 東北エミシとアイヌ

1) エミシの制圧

東北エミシの年表 その4
2017-06-23 12:58:36 
東北エミシの年表 その3
2017-06-21 13:05:24 
東北エミシの年表 その2
2017-06-21 12:59:45 
東北エミシの年表 その1
2017-06-21 12:56:22 

年表 津軽安藤(安東)家の盛衰
2018-11-28 16:45:10 
大多鬼丸伝説について
2018-04-04 23:48:41 
福島県人「大多鬼丸」のセリフがすごい
2018-04-02 23:52:52 

ヤマト朝廷が香取をめざした理由
2018-08-01 12:40:39 

ラディーノの視点から見た奥羽エミシ戦争
2017-04-11 14:49:49 

谷は西日本、沢は東日本
2018-08-05 16:38:44 

砂沢遺跡の意味するもの(津軽の弥生時代水田)
2017-04-16 16:29:09 


2) アイヌ人のゲノム

ウィルタ(オロッコ)とニヴフ(ギリヤーク)と“オロチョン”
2017-04-01 22:01:14 

オホーツク人
2017-04-01 21:58:19 
瀬川拓郎さんの縄文・アイヌ論について
2017-03-30 18:00:04 

海部陽介「日本人はどこから来たのか」 感想文
2018-06-09 17:22:11 

アイヌは歴史のはざまで生まれた民族
2017-06-20 17:47:28 
津軽・出羽縄文人の建てた国 北海道アイヌ国
2017-06-20 00:02:52 
エミシ・ルネッサンスとアイヌ民族の形成
2017-06-18 17:42:39 

アイヌ人は縄文人と北方人の混血
2017-01-05 17:39:37 

アイヌ人は奥羽地方から進出した毛人(縄文人)のハイブリッド
2017-03-12 01:24:39 

続縄文人がオホーツク人を征服することでアイヌ文化が生まれた
2017-04-23 23:08:38 

続縄文時代の北海道 経済面から見た4つの特徴
2017-04-16 17:55:57 

アイヌ人は完璧に縄文人だ(ただし男性のみ)
2016-08-28 11:55:58 

北海道の縄文人(続縄文人)は東北まで進出したのか
2017-04-16 19:44:07 

続縄文時代についてのメモ
2017-03-20 21:06:36 

擦文文化論
2017-04-23 16:52:25 

穴居こそ縄文文化の本質的特徴
2017-04-23 23:07:42 
擦文時代ではなく擦文・須恵器併存時代
2017-04-23 20:15:29 

道央低地帯文化の孤立性
2017-03-20 23:07:06 

縄文人は野党共闘だ!
2017-04-16 20:16:54 
3) アイヌの北進

アイヌ史 雑記
2018-04-14 11:54:28 

ジョン・バチェラー 年譜
2017-04-25 13:13:24 

アイヌ民族の歴史年表の改訂を始める
2017-04-24 17:18:07 

「アイヌ民族の歴史年表」 を更新しました
2018-06-24 16:10:33 

アイヌの北限の歴史
2013-06-06 23:29:41 

先アイヌ文化は絶滅した
2011-05-24 22:50:04 

ポイヤウンベの城について
2011-07-07 12:11:42 
ポイヤウンペと骨鬼
2011-07-05 14:35:46 

ポイヤウンペの闘いはアイヌの内戦のようだ
2017-05-18 20:29:43 
日本海アイヌと闘い、滅ぼされたオヤウカムイ
2017-05-18 11:08:26 
ポイヤウンペの城シヌタプカを訪ねる
2017-05-18 09:47:13 
ポイヤウンペに再挑戦
2017-05-18 09:40:19 
元を苦しめたアイヌ
2011-06-30 00:41:12 


4) 日本人の樺太探検

樺太(サハリン)の年表 その2
2015-09-17 20:57:51 
樺太(サハリン)の年表 その1
2015-09-17 20:56:19 

樺太(サハリン)の年表 を二部に分ける
2015-09-17 20:54:50 

最上徳内と間宮林蔵
2015-09-16 00:21:41 
間宮林蔵に関する年表
2015-09-15 22:56:26 

最上徳内に関する年表
2015-09-13 20:37:26 

最上徳内の「国家隠密法」違反
2017-04-24 14:09:09 

間宮図 ここにあります
2018-01-05 09:39:58 

松浦武四郎と樺太 その2
2018-03-27 23:52:06 
松浦武四郎と樺太
2018-03-27 23:08:04 

樺太大泊の過去
2017-01-01 20:50:53 

樺太鳥瞰
2016-12-31 15:02:58 

樺太アイヌに詳しい人はいませんか?
2015-09-08 00:20:37 

E 邪馬台国と「倭王朝」の時代

弥生時代の記事一覧(D)がすっぽり脱落しました。アップしたつもりがアップを完了しないまま(E)を上書きしてしまったようです。元から再検索しなければなりません。
折れそうですが、まぁこれまでも何度もあったことなので綺麗サッパリ諦めましょう。


1) 日本書紀をどう評価するか

記紀をどう評価するか
2015-03-09 12:32:45 

日本書紀を無視すると分かること
2013-01-20 17:32:46 

日本書紀抜きの日本史年表
2013-01-19 23:51:54

百済三書と日本書紀
2014-09-10 13:48:25 

百済本記はものさしとして利用できる
2013-01-05 11:34:32 

日本書紀で百済三書からの転載が想定される部分
2018年12月09日

森博達と音韻分析
2013-01-17 14:44:17 

古代史の“グローバル化”に貢献した外国人
(日本書紀を執筆した中国人)
2013-01-14 22:34:46 

新羅本紀をどう読むか
2013-01-20 21:11:59 

古代史の鍵を握る新羅
2013-01-04 22:43:51 

三韓および倭国年表 増補のお知らせ
2018-11-16 21:14:59 

古代史の時代区分を考える
2017-04-29 20:57:16 

倭国と任那は、英国とノルマンディーの関係
2013-01-20 21:31:33 
卑弥呼を神功皇后に比定した理由
2014-09-17 23:55:15 

神功、180年遅らせたら…
2018-11-22 17:05:05 

三韓征伐は西暦369年前後
2012-12-24 20:19:49 

大和が九州を制圧できたはずがない
2014-09-17 21:15:12 

紀生磐についてもう少し勉強する
2018-11-17 14:02:24 
紀生磐(きのおいわ)のものがたり
2018-11-17 00:32:44 

「刀伊」人の九州侵入
2018-06-27 15:57:15 

2) 景行紀と風土記

「土蜘蛛」 その2 豊後侵攻戦争
2017-04-16 11:40:52 

「土蜘蛛」 その1
2017-04-15 23:14:35 

肥前国風土記の性格について
2017-04-15 13:10:36 

Eテレビの古事記シリーズを見て
2013-09-29 21:05:59 


3) 倭の五王と磐井

武寧王の背後にいた倭国
2015-05-10 15:15:21 

武寧王は決定的な人物の一人だ
2015-05-07 12:02:00 

稲荷山鉄剣の意味
2014-05-05 11:15:17 
毛の君は松浦を支配していた
2015-05-06 23:40:21 
「大伴金村」を名乗らされた人物
2015-03-22 23:58:10
 
大伴磐と筑紫の君磐井は同一人物?
2014-10-09 21:42:01 

近江毛野は近江の人ではない
2014-08-11 17:12:34 

九州王朝を潰したのは百済ではないか
2015-03-02 21:01:09 

筑紫君は物部に騙し討された
2013-01-18 22:51:20 
継体は磐井の乱平定作戦を担ったのか?
2014-08-10 22:45:13 
古代史 空白の半世紀
2014-06-04 13:44:00 

九州王朝は任那滅亡の頃に自壊した
2014-09-18 22:25:11 


F 「神武東征」と初期大和王朝

1) 出雲の国譲りと、畿内への進出

梅原猛氏の出雲王朝論
2018-08-01 08:31:33 

出雲族と大和政権
2016-04-24 11:52:36 

「国譲り」の意味
2014-12-15 11:36:34 

出雲振根は倭国系か
2017-03-19 20:37:34 

倭国大乱から神武東征まで
2014-09-25 15:44:35 
倭国大乱の二つの置き土産
2014-09-18 15:30:14 

2) 纏向遺跡

纏向は大和「古王国」の首都
2014-09-18 12:51:36 

纏向遺跡の歴史研究上の意義
2014-09-15 23:57:46 

纏向の建設者は東瀬戸内地方からの移住民
2017-01-03 23:51:24 

纏向遺跡と箸墓古墳との時代差
2017-03-19 20:14:59 

三角縁神獣鏡は銅鐸を鋳なおして作った
2014-12-14 21:01:50 
大和盆地での権力形成
2014-09-07 21:37:53 
阿蘇ピンク石の畿内への波及
2014-08-15 23:47:30 

国府遺跡 もっと分かることがあるはずだ
2014-12-13 17:03:35 
古墳より生活遺跡を重視したら?
2014-12-13 16:05:05 

葛城は非出雲系天孫族
2014-12-07 23:58:18 


3) 神武東征

ヤマト王権の成立に至る経過を5期に分けて考える
2017-03-04 21:55:34 

大和政治史における4回の暴力革命
2018-09-08 22:50:10 

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代
2018-11-14 16:56:53 
「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国
2018-11-13 22:14:13 
「神武東征」を考える その1 ににぎ王国
2018-11-13 10:05:51 

神武東遷を推理する
2012-01-15 23:39:56 

関裕二 「天皇家誕生の謎」を読んで
2016-05-15 22:53:27 


4) 前方後円墳

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ
2014-12-07 22:57:49 

「前方後円墳」至上主義が間違いの元
2014-09-17 20:39:22 
古墳の大きさで力を評価する愚かさ
2014-09-16 22:50:40 

「古墳は灌漑事業の残土処理」はまんざら独断ではなかった
2017-03-12 20:43:31 

巨大古墳は中心性ではなく辺縁性の象徴
2017-06-03 16:12:00 

古代史を墓守学者から取り返せ
2017-01-09 22:05:41 

前方後円墳は大和オリジンとは言えない
2017-01-03 18:07:31 

「前方後円墳主義者」への挑発
2017-01-03 11:32:06 

「前方後円墳原理主義」への反論
2017-01-01 14:27:33 
九州の前方後円墳
2016-12-31 00:40:22 
「前方後円墳人」を跡づける必要がある
2016-12-30 15:21:14 

古墳時代の遺跡の流れ
2014-12-13 23:48:46 
巨大古墳の変遷
2014-12-09 16:36:49 


5) 崇神王朝
纏向=崇神王朝説は納得できない
2017-02-21 23:48:57 

第二次東征(忍熊王の乱)
2016-04-17 00:51:10 
四道将軍について
2016-04-06 17:10:31 
武埴安彦命の反乱を読み解く
2016-04-04 00:08:36 

仲哀天皇の急死事件の日本史における意味
2016-05-15 14:59:13 
気比神宮に祀られた7人
2016-04-24 19:21:17 
敦賀グループがのし上がった理由
2016-04-18 17:16:39 

武内宿祢の裏切り
2016-04-17 22:07:23 

仲哀天皇は新羅など知らなかった
2016-04-17 17:51:13 


6) 大和王朝の全国支配へ

継体天皇は混乱の入り口か出口か
2018-12-10 21:05:40 

継体天皇紀 その2
2016-01-03 22:41:17 

継体天皇紀 その1
2016-01-03 10:30:34 

継体天皇に関して
2014-05-21 15:54:25 

水谷千秋「継体天皇と朝鮮半島の謎」を読んで
2014-09-11 22:58:36 
蘇我稲目の墓の発見の意味
2016-01-02 16:06:19 
蘇我稲目は倭国の末裔?
2016-01-01 10:50:41 
非日常の部分に権力を崩壊させるエネルギーがある
2017-02-01 17:32:21

G ヤマト民族主義政権
(蘇我支配から壬申の乱まで)

1) 「日出処の天子」

隋書、旧・新唐書の読後感
2013-01-21 17:19:26 

ついでに隋書、唐書まで
2013-01-21 14:32:27 

6世紀末の三度の新羅侵攻作戦
2015-03-08 16:53:26 

大和王朝の世界史への登場 とりあえずの感想
2015-03-02 12:14:47 
大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表
2015-03-01 23:47:51 

飛鳥寺は過去への旅の出発点
2015-03-07 20:59:23 

蘇我氏は倭王朝の末裔?
2018-02-09 00:01:18 

蘇我満智について
2017-04-27 14:32:05 

蘇我韓子 その2
2017-04-27 08:48:58 

2) 大化の改新から白村江まで

大化の改新か乙巳の変か
2017-04-26 17:41:50 

大化の改新~壬申の乱年表
2018-02-09 14:12:45 

7世紀の年表を改訂しました
2015-03-05 16:52:28 

3) 壬申の乱

壬申の乱に関する重大な訂正
2015-03-16 23:03:18 

壬申の乱を勉強して
2017-08-08 15:26:01 

壬申の乱 経過表
2017-08-08 00:07:14 

親百済も親新羅もない。あるのは反唐対決のみ
2018-02-08 13:40:00 

天智から天武へ、そして持統へ
2018-02-06 22:49:25 

藤原 不比等と藤原家の再興
2018-02-10 11:48:16 

「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事

下記が本ブログにおける本日現在での、「歴史(基本的には日本史)」ジャンルの全記事です。2011年5月にこのブログを開始して以来、約8年にわたって書く続けてきたものです。
このジャンルだけで約500本あります。あまりに膨大でリンクを貼ることはできません。ブログの検索窓に記事名を突っ込んで検索してください。

この記事では
A 旧石器人と縄文人、日本人の起源(ゲノム関連)
B 日本人の起源(ゲノム論争)
C 長江文明と黄河文明 4大文明
に関する記事名を掲載しています。


A 旧石器人と縄文人、日本人の起源(ゲノム関連)

「神の手」スキャンダルの経過
2017-01-08 12:48:23 

12万年前の砂原遺跡について
2017-04-25 09:53:08 

古気候学抜きに古生物学は存在しない
2016-09-02 23:43:47 

気温変化が民族構成の変化を推進
2012-12-31 15:05:27 
日本の古代ゾウ
2016-09-03 11:06:42 
ナウマンとマンモスは出自が違う
2016-09-02 23:14:13 

最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か
2018-09-17 11:13:59 

マンモス人とナウマン人が混血して縄文人になった
2018-09-18 22:26:08 

日本のギャートルズたち
2018-09-18 20:19:51 

縄文人の主食は海獣肉
2017-04-14 21:47:51 

日本列島の人口変動から歴史を読み解く
2017-01-22 23:23:56 

人類の能力は今の私たちと同じ
2017-01-08 00:27:11 

白滝遺跡について
2019-01-17 19:14:23 

縄文遺跡(北海道内)
2016-08-20 22:44:43 

大船遺跡 ネット探検
2016-08-07 17:01:52 

南九州の先史時代 年表
2019-02-18 11:24:26 

ガチ1万年前、しかも鹿児島! 上野原遺跡
2018-11-28 23:36:53 

栗栽培を基本とする生産様式
2012-12-31 14:33:49 

栗と雑穀
2012-12-29 00:15:08 

「小山修三説」の研究
2012-12-28 23:13:02 

土偶の歴史
2018-09-27 16:10:49 

朝鮮系縄文人と渡来人
(片岡宏二さんが晩期縄文人に言及)
2018-08-17 16:09:51 


B 日本人の起源(ゲノム論争)

最初は赤旗の解説から入ったので、ミトコンドリアDNA一色。途中、2016年からY染色体派に転向している。日付順にみてもらいたい。

本土人は朝鮮人の末裔?
2012-12-26 17:44:18 

原日本人というべきだろう
2012-12-26 16:49:23 

ゲノム解析で判明: 本土人の成り立ち
2012-12-26 12:08:36 

日本人の起源説が覆された
2012-12-25 23:55:31 
分子生物学的解析法の変遷
2012-12-30 22:31:27 
分子人類学の「日本人起源論」史
2012-12-30 21:14:01 
琉球人=縄文人=北方系?
2012-12-30 12:11:05 

日本人の起源は4段階ある
2012-12-29 17:44:42 

「日本人の起源」 まとめのまとめ
2013-01-01 10:38:23 

「『日本人の起源』 まとめのまとめ」 の訂正
2016-06-30 16:22:49 

縄文人、旧弥生人、新弥生人に分けて考える
2015-11-28 16:13:28 
日本人の起源 ミトコンドリアDNAによる分析
2015-11-23 14:18:20 

縄文人は単一種族なのか
2016-06-17 22:25:56 

もう一つおまけに「南回り説」
2016-08-15 20:32:02 

最後はハプログループ O
2016-08-15 16:59:35 
スティーヴン・オッペンハイマー どんな人か
2016-08-15 09:27:27 
「C1a1先着説」を提唱する
2016-08-14 23:22:19 
ハプログループC と日本人
2016-08-14 20:04:30 
Y染色体による人類の展開史
2016-08-13 12:43:41 
分子人類学の「日本人起源論」 増補版
2016-08-12 16:19:32 
Y染色体とミトコンドリア染色体
2016-08-11 22:53:47 
Y 染色体から見た縄文人
2016-08-11 22:48:40 

日本への渡来の順番
2016-10-23 13:45:23 

Y染色体とミトコンドリアDNAの相互関係
2016-10-23 16:23:39 

崎谷満さんの「Y-オロジー」を勉強する
2016-10-22 19:34:19 

ミトコンドリアDNA 篠田さんの総説
2017-01-06 17:51:16 

佐藤陽一さんらのY染色体ハプロ調査の概要
2017-08-07 13:28:36 
Y染色体ハプロの大規模調査
2017-08-06 23:45:10 

日本人の三層構造は今や常識
2018-09-27 11:31:09 

日本人の起源を考える
2018-11-23 19:39:23 

斎藤成也さんの粗雑な議論
2019-01-12 20:14:27 

慎重さを欠く篠田謙一氏の主張
2019-01-08 23:00:42 
沖縄人はいつ形成されたか
2019-01-13 14:24:31 

篠田さんのM7aハプロ論におもう
2019-02-19 12:49:58 

ミトコンドリア・イブは人類誕生15万年後の人
2016-08-15 19:42:12 
ジェノグラフィック・プロジェクトに期待
2016-08-15 18:00:03

A型は「エデンの東」を目指す (弥生人は血液型A、縄文人はBである)
2012-12-30 22:40:01 



C 長江文明と黄河文明 4大文明

夏・商・周に関する年表
2018-01-03 10:04:49 

龍山文化はハイブリッドである
2013-03-25 15:36:33 
仰韶文化が竜山文化を導入することで夏が誕生した
2013-03-25 10:18:17 
夏は長江系国家か
2013-03-24 20:15:09 
夏はミャオ族を征服して建国された
2013-03-24 17:32:33 
最初の中原の覇者 夏の歴史
2013-03-24 14:23:13 

小麦の中国伝来はいつ?
2016-08-22 20:38:32 

小麦のほうが優れているのかも
2016-07-03 01:08:25 
「イ族」のルーツについて
2017-12-11 13:24:51 

古代史のクロスロードが西暦400年ころにあった (高句麗対4国連合など
2017-03-16 22:37:07 

青銅器時代を学ぶ
2017-03-15 16:46:06 
長江文明 の流れ
2017-03-14 16:51:33 

随分前に下記の記事を書いた。書いたことも忘れていて、なんのことかと読み直してみた。


言いたいことは「日本人に特異的にA型が多いのは、A型だから日本に集まったのではないかと思ったのである」ということで、なかなかの着想だ。

ただ、変なのは、「縄文人はA型は少なかったようだから、A型頻度を上げているのはもっぱら弥生人である」と書いているところだ。

わざわざ古畑の「A型」分布説を取り上げているが、この調査でA型が多いのは東北地方だ。つまり縄文色の強いところだ。

これだけで、この「大胆な仮説」は自己破産する。

しかし、事実として、日本人にA型が多いことも事実で、地域分布としては東北に偏っている(古畑による)とされる。

とすれば「縄文人はA型は少なかった」というのが怪しいことになる。

調べれば分かることなのだから調べてみよう。

キラリというページに親切に数字が取り上げられている。

予想はかなり違っていた。というより真逆だった。

血液型 弥生人はA、縄文人はB

まず事実として、日本人にA型の頻度が高いことは確認できた。しかしそれほどではない。

世界での比率は、O型が約45%、A型が40%、B型が11%、AB型が4%である。日本では、A型の割合が約4割、O型の割合が約3割、B型の割合が約2割、AB型の割合が約1割である。

結論として日本はA型特異国ではない。ポルトガル、フランスは半分がA型である。

ただし、最大の特徴はA型ではなく、B型が多いことである。それに引きずられる形でAB型の頻度も高くなっている。

ただしB型の頻度にだけ注目すれば、もっと高い国もたくさんある。インドは4割がB型だ。ハンガリーやイラン、パキスタンも日本と同じ3割を占める。

次に血液型の国内分布である。

A型の人口が多い都道府県は、徳島、福岡、愛媛、島根、鳥取である。それに対して、青森、岩手、沖縄は、A型の割合が少ない。

つまり間違っていたのは古畑の報告で、私の記事が正しかったのだ。

むしろ注目すべきは、国際平均の2倍に達するB型頻度で、いったい誰がBを押し上げているかというと、秋田、青森、長野、岩手、栃木で、特に秋田がすごい。

Ⅰ~Ⅵ は前号、および前々号

Ⅶ マルクス以後の読書ノート…哲学

Ⅷ マルクス以後の読書ノート…経済学

Ⅸ 日本人著作の読書ノート

Ⅹ 私の試論

記事見出しをブログ内検索窓に入れてください



Ⅶ マルクス以後の読書ノート…哲学

ヴィゴツキーのピアジェ批判は半分正解
2015-06-07 21:50:34

まずヴィゴツキーの限界を抑えておこう
2015-06-06 00:03:48

ヴィゴツキーの経歴と業績
2015-05-25 21:45:06

ヴィゴツキー讃
2014-10-19 13:39:15

マルクスは、あえて物質的な世界に限定している
2015-04-05 22:10:13

「欲求」論の中間総括
2015-04-04 17:05:51

「欲求」雑感 その2
2015-04-02 22:08:19

人間は「欲求」にもとづいて行動しているのだろうか
2015-03-30 00:43:45

脳科学から見た「欲求」の階層性
2015-03-30 00:08:41

「欲求」という言葉の使用法
2015-03-30 00:06:36

ヘラー「マルクスの欲求理論」を読む その2
2015-03-30 00:00:15

ヘラー「マルクスの欲求理論」を読む その1
2015-03-28 17:02:43

アグネス・ヘラーがハンナ・アーレントを批判
2015-03-28 13:18:42

アグネス・ヘラーの消息
2015-03-28 00:00:48

アグネス・ヘラーに再チャレンジ
2015-03-25 23:39:01

フランス構造主義の年表
2015-02-14 22:27:25

構造主義(ポストコロニアリズム)の歴史的役割
2015-02-12 15:49:48
欲望をいかに喚起するか
2014-05-14 00:08:27

言語のヘーゲル的理解
2014-01-22 00:18:23

「言語学くそくらえ」論
2014-01-21 21:01:39

ソシュールは誰に何を対置したのか
2014-01-20 22:57:31

アーレントなんてアホでスカタンだ
2013-12-25 00:22:12

エリート趣味の主観論者アーレント
2013-12-23 19:55:23

人間の価値観の体系
2013-12-22 22:57:29

アーレントはマルクスといかに出会ったか
2013-12-22 22:54:03

ハンナ・アーレントを噛じる
2013-12-22 15:44:43




Ⅷ マルクス以後の読書ノート…経済学

池田さんのピケティ紹介
2014-05-13 22:42:24

トマ・ピケティの『21世紀の資本論』が売れているそうだ
2014-05-13 22:04:27

ピケティ・ブームとネグリ・ブーム
2015-02-12 13:56:40

ピケティとマルクス主義の違い
2015-02-11 23:08:38

ウィキペディアのピケティ
2014-05-14 10:19:17

ピケティ批判と反批判
2014-06-27 11:19:50

ポランニーって誰?
2012-05-21 15:11:11

ポランニーと社会主義計画経済論争 1
2013-08-16 13:46:08

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言
2017-02-19 22:46:15 

計画経済が正しいことに異論はない
2016-08-08 17:23:30 

メガ・キャピタルとメガ・インテレクト
2016-04-09 10:52:41

ミクロ経済学の無内容さ
2019-03-09 21:44:46 

「自転車論」と市場論
2013-04-10 17:53:18

市場がなくても経済は動く
2013-04-07 22:52:09

社会主義計算論争 ノート その3
2013-04-02 20:28:58

社会主義計算論争 ノート その2
2013-04-02 20:26:09
社会主義計算論争 ノート その1
2013-04-02 20:22:12

「経済計算論争」の時代背景
2013-03-30 16:06:26

シュンペーターは一言でいえば俗物である
2013-03-28 23:51:53

カール・ポラニー年表
2013-03-28 14:11:58

中山智香子さんのHPが面白い
2013-03-26 21:53:10

新自由主義者の“異様な倒錯”
2013-03-26 20:27:56

スティグリッツ 最近の言動
2019-03-09 16:06:17 
リーマン・ショックとケインズとスウィージー
2019-03-09 10:38:31 

ケインズ年譜
2019-03-08 22:21:19 

シュンペーター 年譜
2019-01-20 20:49:01 

社会の知的指標としてのリテラシー
2018-10-31 12:47:35 

キューバ新憲法と「共産主義」の削除
2018-10-28 14:17:23 

「労働力の窮迫販売」について
2013-07-02 16:33:42

「契約の下での平等」か「法の下での平等」か
2013-05-20 11:24:11

Social Welfare とニューディール
2012-08-16 17:21:37

福田徳蔵と厚生経済学
2012-08-16 15:35:56

福祉国家論の再評価
2012-08-16 15:33:37

厚生省と Welfare
2012-08-06 17:37:08

タウンゼントの貧民論
2012-07-27 16:44:50




Ⅸ 日本人著作の読書ノート

マルクス主義アカデミズムの現状
2019-03-10 11:05:51 

一ノ瀬秀文さんの「アメリカ帝国主義論」
2019-01-21 22:29:12 

聽濤さんの「共産主義論」を学ぶ その1
2018-09-29 21:11:30 

竹内精一さん、もう一つの死刑反対論
2018-07-09 10:52:57 

「厚みのある知」を求めて
2016-08-19 15:12:57 

「欲望行動」(遊びをふくむ)の役割
2016-08-18 15:32:41 

吉見俊哉さんの「文系の知」論は検討を要する
2016-08-17 12:15:24 

梅川勉さんと昭和20年代の大阪市大
2016-07-05 16:19:01

「自然の弁証法」はある
2016-05-24 00:11:49

「戦争責任論」を勉強して
2015-12-06 13:20:27

丸山真男の「戦争責任」論
2015-12-05 22:53:54

右翼と「戦中派」思想
2014-01-20 12:09:05

ノーマ・フィールド 憲法9条は第3章の精神を基礎に読み込め
2015-11-07 12:24:27

国民総資産 の勉強
2015-10-10 17:33:34

経済マクロの指標を「身体測定」の論理で考える
2015-10-09 17:28:38

三浦つとむの言語論
2015-07-19 16:12:25

「ジェノバの利子率革命」はさほど大仰なものではない
2014-09-19 12:53:03

「経済ジェノサイド」を読む 5
2014-09-12 15:57:56

規制そのものは本質的に善なのである
2014-09-12 14:37:11

「経済ジェノサイド」を読む 4
2014-09-11 17:07:03

「経済ジェノサイド」を読む 1
2014-09-09 16:43:37

「経済ジェノサイド」を読む 2
2014-09-09 16:42:05

「経済ジェノサイド」を読む 3
2014-09-09 16:35:56

「敗者の戦争観」を考える
2014-06-30 23:14:27

「名誉ある地位」を投げ捨てて良いのか
2014-06-28 09:47:03

僕らにとって、マルクス主義は、まず何よりも哲学だった
2013-02-28 23:41:14

加賀乙彦さんの“いじめ論”は首肯しかねる
2013-02-19 13:35:53

加賀乙彦「不幸な国の幸福論」を読む
2013-02-19 00:32:21




Ⅹ 私の試論

市場が欲望をもたらし、労働の体系を形成する
2019-01-12 14:56:24 

自由・平等・博愛から社会主義へ
2019-01-06 20:50:02 

「経済の市場化」は産業資本の前提ではない
2019-01-03 18:49:17 

マルクス主義の本質は欲望の不可逆的発達
2018-07-06 23:17:03 

「ポピュリズム」について 論点の整理
2017-06-15 12:43:18 

「失方向」感覚の無残
2017-06-13 00:53:12 

「一億総懺悔」への後ずさり
2017-06-12 15:09:46 
「風の新兵衛」のセリフ
2017-06-12 00:59:12 

連帯精神の二つの源泉: 利他行動と集団協力
2017-01-17 12:32:44 

人類の欲望も、技術の進歩も無限だ
2015-11-30 23:53:45

「通貨」が分からない
2015-11-28 10:32:54

「欲望」は拡大再生産される物質的過程である
2015-07-14 23:38:55

「帝国主義論」の総括が必要だ
2014-06-13 23:16:16

働きすぎと浪費の悪循環
2013-10-18 16:10:03

4つ目の統治・結合イメージ
2013-09-17 15:58:00

欲望の駆動者としての市場
2013-09-12 17:11:34

叙述的理解の重要性
2013-05-07 00:52:03

時間の絶対性と時間感覚の不確かさ
2013-05-06 12:29:33

アキレスと亀を考える
2013-05-06 12:04:38

「弁証法」という言葉が良くない
2013-05-06 11:46:49

理系的発想との苦闘
2013-04-10 23:32:23

Ⅲ ヘーゲルの読書ノート

Ⅳ ヘーゲル以前の読書ノート…哲学

Ⅴ ヘーゲル以前の読書ノート…経済・社会学

Ⅵ マルクス以後の読書ノート…社会主義

以下次号

Ⅶ マルクス以後の読書ノート…哲学

Ⅷ マルクス以後の読書ノート…経済学

Ⅸ 日本人著作の読書ノート

Ⅹ 私の試論


Ⅲ ヘーゲルの読書ノート

ナポレオン戦争とドイツとヘーゲル
2019-03-13 09:48:18 

前期ヘーゲル とりあえずの感想
2019-03-08 11:59:27 

前期ヘーゲル 年表
2019-03-06 16:45:26 

精神現象学 一夜漬け
2015-08-05 16:35:37

「精神現象学」は「第九」の哲学版
2014-01-06 15:09:09

ヘーゲルはカントをどう乗り越えるか
2013-01-31 16:50:45

「自己意識」はさびしく登場する
2012-08-05 23:44:53

自己意識と欲望の過程
2012-07-26 18:02:02

「自己意識」を勉強してみて
2012-07-26 14:36:40

「自己意識」を勉強する その2
2012-07-26 14:19:27

「自己意識」を勉強する その1
2012-07-25 15:23:30

ヘーゲルの「仕事」論
2018-12-17 14:13:12 

「ヘーゲル語」の置き換え
2015-08-09 23:05:39

絶対知 要約の要約
2015-08-08 23:44:57

ゴリラとヘーゲル
2015-08-07 22:54:02

「弁証法的実在論者」としてのシェリング
2018-12-21 20:48:02 

シェリングの自然哲学 ④
2018-03-19 17:59:57 

シェリングの自然哲学 ③
2018-03-18 11:43:27 

シェリングの自然哲学 ②
2018-03-16 14:02:29 

シェリングの自然哲学 ①
2018-03-16 13:50:39 

シェリング 年譜
2018-03-04 10:52:52 

フィヒテは革命的熱狂の哲学
2018-02-28 23:08:54 


Ⅳ ヘーゲル以前の読書ノート…哲学

スピノザ「エチカ」摘要
2019-02-24 15:56:12 
スピノザ 年譜
2019-02-23 12:44:00 
迷信家を非難するスピノザ
2019-02-22 21:28:11 

カントはスピノザから意味のある何かを受け継いではいない
2019-02-28 22:37:03 
カント『自然哲学原理』解説 の由来
2018-03-21 22:04:20 

カントの先駆者たち 年譜
2018-03-21 16:27:23 

カント論の出発点
2018-03-21 11:08:54 

カント 年譜
2018-03-18 18:05:56 

ルソーはいかにロックを換骨奪胎したか
2017-12-14 12:53:09 

「4原因説」 アリストテレスの議論の前提
2017-07-17 23:23:13 

ポリス的動物であるということ
2017-06-30 15:33:32 

パスカルとデカルト その2
2017-01-12 23:58:05 

パスカルとデカルト その1
2017-01-12 21:55:48 

「主体性」は人間の本質ではない
2016-11-29 20:46:35 

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンを学ぶ 4
2013-11-23 21:53:12

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンを学ぶ 3
2013-11-11 21:48:21

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンを学ぶ 2
2013-11-11 21:46:15

ヒルデガルト・フォン・ビンゲンを学ぶ 1
2013-11-11 21:41:10

「黒色胆汁」はメランコリー
2013-11-12 12:41:24


Ⅴ ヘーゲル以前の読書ノート…経済・社会学

ケネーの年表
2018-12-27 21:43:19 

奥山忠信「アダム・スミスの労働価値論」の抜書き
2017-09-02 15:04:11 

ジェームズ・ミルの「中間層」論
2016-11-24 13:28:36 

ジェームス・ミルについて
2016-03-31 14:42:00

ジェームズ・ミル『経済学要綱』とJ.S.ミル
2016-03-31 00:03:57

J.S.ミルとマルクスとを対比してみると
2016-03-30 13:01:24

ミル親子 年譜
2016-03-29 17:30:16

リカードゥのお手軽なお勉強
2017-09-04 21:12:56 

明日は、リカードゥで
2017-09-03 22:22:43 

ルソーの病蹟学
2012-09-28 15:34:53

ルソー とりあえずのまとめ
2012-09-26 15:47:46

『エミール』のさわりのさわり
2012-09-26 13:44:27

サヴォア助任司祭の信仰告白
2012-09-26 10:17:32

ルソー 主著の要約
2012-09-26 08:06:14

ジャン・ジャック・ルソーの年譜
2012-09-25 17:55:29

プルードン 年表
2018-10-01 15:13:29 

異端ではなかった「異端」
2017-09-09 00:11:55 

資本と資金の違いを考える
2017-08-31 17:50:36 



Ⅵ マルクス以後の読書ノート…社会主義

マッハの思想と業績
2017-10-20 11:36:31 

「経験批判論」というのは、結局マッハ主義だ
2017-10-19 10:24:02 

唯物論と経験批判論』あらすじ その1
2017-10-22 21:01:47 

「唯物論と経験批判論」の古めかしさ
2017-10-18 15:04:46 

不可知論をいかに克服するか
2017-02-09 11:42:04 

望月清司 「カール・マルクス問題」の冒頭
2017-09-09 18:56:06 

私の選んだ「独習指定文献」
2017-09-09 01:45:48 

オーウェル「1984年」を赤旗が評価
2015-08-21 16:07:21

ブハーリンに気持ちが惹かれる
2015-01-16 21:53:31

ブハーリンはレーニンに替わるような人物ではない
2015-02-02 00:14:40

不破哲三「スターリン秘史」の雑感
2016-04-05 15:20:04

スターリンの弾圧に関する3つの統計
2018-09-07 11:07:52 

スターリン批判にかける不破さんの思い
2015-01-18 23:46:33

「仕上げ」としての大テロル
2015-01-15 00:03:44

反ファシズム人民戦線はスターリンの戦術でしかなかった
2015-01-13 17:35:39

ブルジョア独裁にはプロレタリア独裁なのか
2015-01-29 23:32:23

ユートピアについての酒飲み話
2016-08-06 23:37:26 

ソ連はユートピアだった? …中村発言への感想
2016-08-06 09:52:20 

ソ連経済は悪くなかった
2016-08-05 17:24:43 

キューバ新憲法と「共産主義」の削除
2018-10-28 14:17:23 

「赤いウィーン年表」 加筆のお知らせ
2015-01-31 11:36:07

バウアーのボリシェビキ批判
2015-01-30 22:57:13

…というウィーンへの道筋
2015-01-27 00:24:55

オーストリア学派とオーストリア社会民主党
2015-01-25 17:50:29

労働者階級の指導性
2015-01-08 22:57:54

社会主義の完全移行には百年かかる
2014-01-09 17:09:04

マルクス主義の変容と「新しい社会主義」
2018-12-09 00:36:33 

「未来社会論」について思うこと
2018-12-02 12:31:01 

以下次号



下記が本ブログにおける本日現在での、「社会理論(社会主義・哲学をふくむ)」ジャンルの全記事です。2011年5月にこのブログを開始して以来、約8年にわたって書く続けてきたものです。
このジャンルだけで約300本あります。あまりに膨大でリンクを貼ることはできません。ブログの検索窓に記事名を突っ込んで検索してください。
「社会理論(社会主義・哲学をふくむ)」ジャンルの全記事を、とりあえず10項目に分けてみました。
記事名だけでも膨大になっているため、3部に分けます。



Ⅰ マルクスの読書ノート…哲学・運動論

Ⅱ マルクスの読書ノート…経済学


以下は次記事

Ⅲ ヘーゲルの読書ノート

Ⅳ ヘーゲル以前の読書ノート…哲学

Ⅴ ヘーゲル以前の読書ノート…経済・社会学

Ⅵ マルクス以後の読書ノート…社会主義

Ⅶ マルクス以後の読書ノート…哲学

Ⅷ マルクス以後の読書ノート…経済学

Ⅸ 日本人著作の読書ノート

Ⅹ 私の試論





Ⅰ マルクスの読書ノート…哲学・運動論


経済学批判要綱から「労働力能」に関する抜書き
2018-12-17 13:46:15 

弁証法と戦闘的唯物論
2018-11-17 23:13:59 

マルクス主義の本質は欲望の不可逆的発達
2018-07-06 23:17:03 

経哲第三手稿 「ヘーゲル弁証法および哲学一般の批判」を熟読する
2015-08-02 21:20:38

マルクスはヘーゲル弁証法の乗り越えに失敗した?
2015-07-29 23:56:03

あ らゆる哲学の最後の言葉
2015-07-28 20:36:56

エンゲルスの「真理と誤謬」
2015-07-20 17:14:55

「共産党」はマルクスの衣鉢を継ぐ党名
2015-01-18 01:16:26
パリ・コミューン前の政治地図
2015-08-21 23:20:42

パリ・コミューンは一般化できない
2015-08-21 23:05:17

「フランスの内乱」の国家論は鵜呑みにはできない
2015-08-17 22:09:01
パリ・コミューン 経過表
2015-08-15 13:20:22

ザスーリッチへの手紙の“本筋”
2012-08-11 12:17:49

協同組合的生産と共産主義的所有
2012-08-10 16:57:42

「結合した労働」は労働者階級への帰依?
2012-08-03 23:13:35

オウエンの洞察
2012-03-08 17:37:24

結合した社会による生産
2012-02-16 17:12:52

信用制度は未来はどうなるのだろう
2012-01-14 20:10:06

エコノミーは“節約学”の意味
2012-01-14 14:59:07

人間こそが人類にとっての固定資本
2012-01-13 17:00:42

過剰生産を止める方法
2012-01-07 13:23:15

資本主義の歴史的性向
2011-11-29 16:17:11

自由貿易と雇用とはトレードオフしてはならない
2011-11-14 12:48:48

鹿が水を求めて鳴くように
2011-11-08 23:29:45

貨幣恐慌は恐慌の原因ではない
2011-11-08 22:53:49

「純粋な貨幣流通の諸法則」とエネルギー保存の法則
2011-11-08 22:20:43

なつかしの共産党宣言
2011-10-11 22:38:12

資本はブルジョアの富の一部に過ぎない
2011-09-06 17:33:31

対外貿易の文明化作用
2011-08-29 17:39:28

マルクスは「ここから出発するしかないんだ」と言っているだけ
2011-08-26 16:32:17

マルクスの銀行・商人批判
2011-08-22 12:11:12


Ⅱ マルクスの読書ノート…経済学

「労働価値」と「剰余価値」
2018-12-24 20:21:33 

資本論のさらなる展開に向けて…研究者に期待したいこと
2018-12-22 11:06:59 

「剰余価値」という言葉の始まり
2018-12-18 10:36:54 

「資本論」成立史 年表
2018-12-16 22:03:06 
中期マルクスの二つの隘路
2018-12-13 16:46:07 

資本論後のマルクス
2018-12-02 19:54:07 

宮川論文 補遺
2017-08-28 17:37:37 

宮川彰さんの「マルクス再生産論の形成」を読む 5
2017-08-26 22:56:18 

宮川彰さんの「マルクス再生産論の形成」を読む 4
2017-08-26 13:58:43 

宮川彰さんの「マルクス再生産論の形成」を読む 3
2017-08-24 22:02:09 

宮川彰さんの「マルクス再生産論の形成」を読む 2
2017-08-24 13:34:59 

宮川彰さんの「マルクス再生産論の形成」を読む 1
2017-08-23 19:06:49 

市場価格は生産価格をつねに上回るはずだ
2017-08-21 16:37:10 

櫛田さんの「労働力価値内在説」への感想
2017-08-17 21:27:32 

櫛田論文を読む 労働力再生産過程の位置づけ
2017-08-16 20:48:59 

櫛田豊さんの論文を読みはじめる
2017-08-16 11:59:15 

マルクスの恐慌論 不破さんの「新説」 続き
2017-08-04 20:21:48 

マルクスの恐慌論 不破さんの「新説」
2017-08-04 18:23:33 

株式会社 資本機能からの所有の分離の意味
2016-08-09 17:32:55 

初期マルクスが労働価値論を拒否した理由
2016-07-30 12:35:21 

労働価値説 なまかじり
2016-07-29 16:46:36 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その6
2016-07-27 16:00:09 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その5
2016-07-27 15:38:10 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その4
2016-07-27 15:09:05 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その3
2016-07-27 15:07:58 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その2
2016-07-27 15:05:12 

マルクス 「ミル第一評註」 のお勉強 その1
2016-07-26 17:24:18
転形問題論争 櫻井さんの講演から
2015-01-31 16:17:27

「転形問題」の安直な勉強
2015-01-25 23:06:51

大谷さんの最終講義 その5
2014-11-12 16:46:47

大谷さんの最終講義 その4
2014-11-10 17:21:09

大谷さんの最終講義 その3
2014-11-05 16:40:32

大谷さんの最終講義 その2
2014-11-05 12:58:47

大谷さんの最終講義 その1
2014-05-22 16:01:10

大谷さんの資本論草稿関連の初論文(82年)
2014-05-25 21:26:03

貨幣資本を核とする資本論第2部・第3部の結合
2014-05-25 20:45:31

ネットで読める大谷論文一覧
2014-05-25 14:53:00

これまで読んだ資本論第三部の文献
2014-05-25 14:35:36

三宅氏の大谷批判
2014-05-24 12:56:57

貨幣資本と現実資本 その2
2014-05-21 23:30:25

「資本論」第3部第1稿のMEGA版 紹介
2014-04-11 14:41:11

ユダヤ人は低利融資で成功した
2014-04-09 14:56:36

貨幣資本と現実資本 その1
2014-04-07 20:44:56

資本論における理論展開と歴史的考察の関連
2014-04-07 11:18:24

資本論第3巻 異同問題について
2014-04-04 16:14:51

資本論第3巻が分かりにくいわけ
2014-04-03 17:43:33

資本論第3部の斜め読み その5
2013-08-19 23:19:26

資本論第3部の斜め読み その4
2013-08-18 16:02:38

資本論第3部の斜め読み その3
2013-08-17 23:28:02

資本論第三部の斜め読み その2
2013-08-15 21:36:39

資本論第三部の斜め読み その1 
2013-08-14 22:59:38

有り余る生産力は諸個人の合体を欲する
2012-07-24 23:52:45

利潤率低下と労働の疎外
2012-07-24 11:59:38

利潤率低下を防ぐ手立て
2012-07-23 15:30:28

剰余労働がゼロでも利潤は存在?
2012-07-20 16:25:58

利潤率低下の法則は経済学上の大発見?
2012-07-19 17:05:42

剰余価値と利潤: 女性が母となるように
2012-07-19 15:44:20

利潤率低下の法則の「発見」
2012-06-01 18:05:15

生産過程の外部の諸制限
2012-04-12 17:13:12

金融危機は資本主義の「自浄作用」
2012-04-12 09:27:35

「要綱」への序説-経済学の方法
2011-07-13 16:31:59

「要綱」への序説-生産・分配・交換・消費
2011-07-13 11:59:01

「経済学批判要綱」 バスティアとケアリ
2011-07-13 11:06:19





ナポレオン戦争とドイツとヘーゲル

ヘーゲルの思想遍歴を知る上でナポレオンのドイツ侵略はよけて通れない。

フランス革命がそれ自体は隣の国の事情であったのに比べ、ナポレオンの侵攻はすべてのドイツ人が巻き込まれる一大事であった。

否が応でもフランス革命の必然性、神聖ローマ帝国の行く末、ドイツの近代化についてすべてのドイツ人が思いを致さざるを得なくなった。

そのなかで辺境国プロシアが「近代化」の道を歩みだしたとき、ドイツ人に方向をしめしたのがヘーゲルだったとすれば、その政治姿勢がヘーゲルへの支持を呼び込んだのではないだろうか。
精神現象学もエンチクロペディーもその後に付いてきたのではないのか。



1792年 フランス革命戦争が始まる。市民革命の波及を恐れる周辺諸国のフランス侵攻が引き金となる。フランスでは農民や都市下層民を中心に50万人規模の志願兵が集まる。

1793年 イギリス、オーストリア、プロイセン、スペインなどによって第一次対仏大同盟が結成される。

9月 ヘーゲルがチュービンゲン神学校を卒業。スイスのベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。

1795年 ポーランド、プロイセン、オーストリア、ロシアによって分割され国家として消滅。

1796年

3月 第一次イタリア遠征の開始。ナポレオンがイタリア方面軍司令官に就任する。

1797年

10月 北イタリア戦争、フランス側の勝利に終わる。フランスは南ネーデルラントとライン川左岸を併合。オーストリアの敗退により第一次対仏同盟が解体。

ヘーゲル、ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。シェリングの助けを借りてカント・フィヒテの影響を脱却。


1798年

7月 ナポレオン軍がエジプトを制圧。しかし英国に制海権を奪われ孤立。

12月 イギリス、オーストリア、ロシアなどによって第二次対仏大同盟が結成される。

1799年

11月 ブリュメールのクーデター。エジプトを脱出したナポレオンが政権を握る。

ヘーゲル、スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。

1801年

2月 オーストリアとの間で二度目の陸戦となるが、ナポレオン軍が勝利。第二次対仏大同盟も崩壊する。

ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。カント・フィヒテに対する激しい批判を展開。

1802年

3月 アミアンの和約。イギリスとフランスが講和。

1803年

5月 イギリスがアミアンの和約を破棄してフランス第一共和政に宣戦。ナポレオン戦争の始まりとされる。

シェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去る。ヘーゲルは助教授に昇格。

1804年

12月 ナポレオンが戴冠式。第一帝政が発足する。

1805年

イギリス、オーストリア・ハプスブルク、ロシアが第三次対仏大同盟を結成し戦争を挑む。プロイセンは中立的立場を取る。

9月 ナポレオン、ウルムの戦闘に勝利しウィーンに入る。

10月 トラファルガーの海戦。フランス・スペイン連合艦隊がネルソン率いるイギリス艦隊により壊滅される。

12月 アウステルリッツの戦い。ロシア軍がオーストリア軍残存部隊と合流し決戦を挑むが敗北。

ヘーゲル、「精神現象学」を完成させる。序文にてシェリングを批判したため、絶縁状態となる。

1806年

神聖ローマ皇帝フランツ2世が退位し、神聖でも、ローマでも、帝国ですらない帝国が崩壊する。

7月 西南ドイツ諸邦が親ナポレオンのライン同盟を立ち上げる。

7月 プロイセンは中立を破棄し、イギリス、ロシア、スウェーデンなどと第四次対仏大同盟を結成。

10月 プロイセン、フランスへの単独宣戦。ナポレオン軍が怒涛の進撃。プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受ける。

10月 ナポレオン軍がベルリンを制圧。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、東プロイセンのケーニヒスベルクへ逃げ込む。

シャルンホルストはリューベックで、グナイゼナウはマルデブルグで最後まで抗戦し、弾薬が尽き降伏。

11月 ベルリン入りしたナポレオンが、大陸封鎖令を発布する。

1807年

2月 ナポレオン軍、東プロイセンに入りプロシア・ロシア連合軍と戦闘。吹雪の中、膠着状態に入る。

6月 東プロシアの闘いはナポレオン軍の勝利に終わる。

7月 ティルジットの和約が結ばれる。ポーランド旧領の一部がワルシャワ公国として独立を回復。プロイセンはエルベ川以西の領土を失う。プロイセンの旧領にはヴェストファーレン王国が置かれナポレオンの弟が即位する。

屈辱的な敗北を喫したプロイセンでは、哲学者フィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行い、またシャルンホルストとグナイゼナウによる軍制改革が実施された。

1808年

5月 ナポレオン、スペインを併合。スペインで国民的な抵抗が起こり泥沼化。

ヘーゲル、バンベルグ新聞をやめ、ニュルンヘルク・ギムナジウムに就職。

1809年

4月 オーストリアは、イギリスと第五次対仏大同盟を結びバイエルンへ侵攻。ナポレオンは直ちに反撃しウィーンを制圧。

10月 オーストリアは領土の割譲と巨額の賠償をせまられる。

1810年

ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。

1812年

6月 27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍がロシア国境を渡る。ロシア軍は正面対決を避けつつ、焦土戦術によって食料の補給を断つ。

10月 ナポレオンはモスクワからの撤退を決意。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。故国に帰還したのはわずか5,000であった。

ロシアはドイツ諸侯に大同同盟を勧め、「ロシア・ドイツ諸侯軍」を結成。プロイセンにも同盟を提起する。

1813年

3月 プロイセンがフランスへ宣戦布告。ドイツではこれを「解放戦争」と呼ぶ。

国軍のみならず義勇軍も組織され、国民意識鼓吹のため「鉄十字勲章」も創設される。

8月 イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第六次対仏大同盟が成立。

10月 ライプツィヒの戦い。19万のフランス軍に対して36万のロシア・オーストリア・プロイセン・スウェーデン連合軍が包囲攻撃。フランス軍は多くの死傷者を出して敗走した。ドイツでは「諸国民の戦い」と呼ばれる。

1814年

3月 連合軍はパリに入城。ナポレオンは退位する。ルイ18世が即位し王政復古。

1815年

3月 エルバ島を脱走したナポレオンは、パリに入城して再び帝位に就く。

6月 ワーテルローの戦い。フランス軍は完全に崩壊する。

フランス復古王朝が事実上の降服を認める第二次パリ条約に調印。ナポレオン戦争の終焉。


雑誌「現代の理論」に掲載された論文らしい。「マルクス生誕二百年」と書かれているので、去年に書かれたものであると思われる。

やや下世話な話題も含め、私の知らない世界が広がっている。

1.日本アカデミズムのなかのPolitical Economy

60年代までは、「マル経」と「近経」という二つの経済学がはっきりと分かれて対峙していた。

マル経の拠点学会は「経済理論学会」と称し、現在でも800人近い会員を擁している。

この学会は1959年に創立された。マルクス経済学が政治と過剰に結びついたことの反省の上に純学術的な研究学会として位置づけられた。

A) 経済理論学会の現状

学問的立場 
マルクス経済学を経済学の基幹とする。
理論と方法の多様性を尊重する。

『季刊経済理論』(桜井書店)を準機関誌(査読制のオープンジャーナル)とする。

B) 学術会議騒動

2013年に、学術会議の経済学部会が、新古典派的発想のもとに経済学の教育基準を構想した。
素案はミクロ経済学、マクロ経済学、統計学ないし計量経済学を「基礎科目」として重視し、他をその応用と位置づけようとした。

マル経「原論」は不要とみなされ、周辺に追いやられるようになった。

そこで最近では「政治経済学」、「社会経済学」、「制度経済学」などの名称を用いるようになった。
いずれも英語ではPolitical Economy である。


2.1970年代以降の日本のマルクス経済学

A) 1970年代の3つの学派

70年代、「マル経」には宇野学派、正統派、そして市民社会派の3つの潮流があった。

市民社会派というのは高島善哉、水田洋、内田義彦、平田清明などの思想的影響を受けた学派で、『現代の理論』や日本評論社のいくつかの出版シリーズに結集していた。

B) マルクス経済学の数理化と国際化

数理化: 置塩信雄、森嶋通夫らの研究。森嶋はまもなくマルクス批判に転じた。ピエロ・スラッファは新古典派的な資本理論に批判を加えた。

国際化: 70年代になると欧米でも「マルクス・ルネサンス」が起こった。ラディカル・エコノミクスが華々しく登場した。
フランクやアミンの「従属発展論」、ウォラーシュタインの「世界システム論」も登場した。

C) 二つの対応:集中と開放

大学でもマルクス経済学の没落は続いた。そのようななかで対応は二つに分かれたように思われる。

第一は、マルクス主義の問題構成に注意を集中することである。

1984年に「若手マルクス・エンゲルス研究者の会」が結成され、『マルクス・エンゲルス・マルクス主義研究』の継続的刊行を開始した。

新MEGAの編集協力に参加し、『資本論』草稿などの公刊を現在も支え続けている。

第二の対応は、アカデミズム主流派に対抗する多くの異端派との連携である。

スラッファ経済学、カレツキの再評価、「新古典派総合」から解放されたケインズの貨幣・金融論の再発見を通じて、ネオ・リカーディアン、ポスト・ケインジアン、構造的マクロ経済学と連携が生じている。

著者としてはそれらを包括して「制度の経済学」として発展させるべきだと考えている。

後略

の教科書をネット上で見つけた。同志社大学 経済学部の  田中 靖人さんの手になるものだ。

その目次を移させてもらった。

第 1 章 需要と供給 
1.1 財と市場
1.2 需要と需要曲線
1.3 需要の価格弾力性
1.4 代替財と補完財
1.5 供給と供給曲線
1.6 供給の価格弾力性
1.7 市場均衡
1.8 需要•供給曲線のシフト
1.9 市場均衡の安定性

第 2 章 消費者の行動
第 3 章 企業の行動
第 4 章 ゲーム理論入門

第1章だけで全9節。ここでは省略したが第2~第4章にも同じくらいの節がついている。

最初に言っておきたいのだが、この教科書自体は本当に素晴らしいものだ。著者の真摯な態度がひしひしと伝わってくる。だから私としてはミクロ経済の最良の教科書を見た上での感想ということになる。



ミクロ経済学の「学」としてのエンタイティを考えるならば、かなり空虚な学問という印象は否めない。

もし私が経済学部に入って、何かを学ぼうと意気込んだとき、こんな学習メニューが出されたら、明日から登校拒否だ。こんなことを学びたくて経済学部に来たのではない。

それは「無意味さ」を数式で飾り立てている、学生には無間地獄の世界だ。このようなゾンビ世界はソシュールの言語学以来だ。

「ミクロ経済学」は怪しげな数式で学生を絡みとり、意味不明な「解答」をもとめ、試験で学生を苦しめ、挙句の果てに卒業証書と引き換えに何らかの犠牲を求める。

こんなものは一国の経済を理解するのに何の役にも立たない。学校と教師にいくばくかの月謝を払うのに役立つのみだ。即刻やめるべきだ。

中には本当のバカがいて、「マルクス主義にはこんな世界は理解できないだろう」とふんぞり返っている。「大奥」のお局様の世界だ。大奥の世界のルールなどなんの意味もないのだ。

「だれにもこんな世界は理解できないよ!」

これは男子一生の仕事ではない!
ミクロをやっている人がそうだとは言わないが、正直、半分はそう思っている。


と言いつつ、第一章 市場均衡 だけは一応やって置かなければならないと思う。古典派との論点にならざるを得ないところだから。
ただし私は数式に興味ないし、そもそも市場のイメージ構築という質的な問題を片付けない限り、問題設定そのものに意味がないと思うからだ。

市場とはなにか、均衡(とくに動的均衡)とは何かというそもそも論をもう少し突き詰めていきたい。
その際「ミクロ経済学」というようなわけのわからない言葉はやめて、「商業」論の分野の一つとして「市場」論を語り、さらに「市場」論の分野の一つとして「市場力学」を語ることが望ましいと思う。
さらにいうなら「市場経済」といういい方はやめるべきだと思う。商業が市場を必要とする以上、市場の否定は商業の否定となるが、そんな世界はありえないからだ。
「市場経済」を批判する者の論点は「神の手」を信じるか否か、商業という名の詐欺や強盗を是とするか否か、ということなのだ。

欧州危機以来あまり経済の勉強をしていない。ということはあまりスティグリッツを読んでいない。

とりあえず、ここ1年の日本語ソースをさがす。ほとんどが有料版だ。昔はもう少し読めたのだが…グーグルは有料版を除く検索ができないのか。(考えてみればあの頃は英語で読んでいたんだよね。すっかり退歩してしまったようだ)


1.対中貿易摩擦

二国間貿易の赤字に集中するのは愚かだ。

ブードゥー経済学を今さら議論する意味はすくない。
問題は行動パターンの悪質さだ。

トランプが国境の壁の話をし出す前にメキシコからの移民の数はすでにゼロ近くまで減っていた。

中国政府はすでに実際に人民元高を誘導していた。中国の過剰供給力削減努力によって、鉄鋼価格は底値から130%も上昇した。

一縷の望みは米裁判所か議会共和党がトランプを抑え込むことだが、彼らは長年コミットしてきた自由貿易や財政規律を忘れてしまった。

彼の行動は純粋に政治的動機によるものだ。

2.世界の対応

世界が米大統領のツイッターに注目し、崖から突き落とされないようしている。

そのために難しい課題への取り組みがなされないままになっている。

そのしわ寄せが特に新興国に集中している。

新興国は成長し、それとともに世界のバランスが変化した。その結果、西側先進国を中心に作られた国際ルールがうまく機能しえなくなっている。

本当は今こそ「公正な」新たな秩序が必要なのだ。




趨勢的停滞論は The Myth of Secular Stagnation の訳。おそらく機械語翻訳なのだろう。

イミダスではかくのごとし。
常態化した景気停滞。ローレンス・サマーズ元財務長官が2013年のIMF会合で提起した。
先進国では少子高齢化などで需要の伸びが止まるため、いわゆる「マイルドな不況」と高い失業率が常態化する。この状況では金融緩和も長期に続く。
以下が本文。

1.趨勢的停滞論はまちがい

スティグリッツが趨勢的停滞論を厳しく批判した。

リーマン危機後の経済をになった人々は、趨勢的停滞論というアイデアに魅力を感じている。
自分たちが“ぐずつく経済”を立て直せない言い訳になってくれるからだ。

彼らは「私たちのせいじゃない、私たちはやれることをやっている」と言いたいのだ。

なぜスティグリッツがサマーズを批判するのか。それはトランプ大統領と共和党による景気浮揚策のためだ。

2018年1月のトランプによる財政刺激策はそれなりの効果を発揮した。であれば、失業率がはるかに高かった10年前なら、もっと大きな効果を発揮したはずだ。

だから、回復が弱かったのは『趨勢的停滞』の結果ではなかったはずだ。

リーマン危機のあと、オバマ政権は十分な規模と適切な内容の財政政策を講じなかった。それが景気回復の遅さの主因であった。決して趨勢的停滞のためではなかった。


2.リーマン危機への機動的対応が必要だった

リーマン危機の主要な側面は住宅バブル崩壊であった。バブルが弾けたことで多くの人が家を失い、職を失った。米社会の格差は大きく拡大してしまった。

たとえその後GDPが増えたところで、大多数の市民の所得はたいして増えない。

この状態を押し戻すためには、財政政策による需要拡大と金持ちから大多数への再配分を実現する強力な政策が必要だった。

問題を抱えた経済に対して緊縮を強いることには反対だ。趨勢的停滞を認めることは、半ば多くを諦めるようなものだ。



 2018/12/13 幸福とは何か

1.幸福はGDPでは測れない

GDP統計は基本的に金銭的、したがって物質的な豊かさに焦点を当てている。だからGDPに偏った目標をたてると、政治は誤った方向に向かいかねない

2.ベター・ライフ指数(OECD)を用いるべきだ

人々の幸福を11の側面(住宅、所得、雇用、コミュニティ、教育、環境、政治参加、健康、人生への満足度、安全、ワーク・ライフ・バランス)から捉え各項目ごとに幸福度を計測している。

日本は38か国中23位だ。上位にあるのは所得・教育のみで、下位にあるのは住宅、コミュニティ、政治参加、健康、人生への満足度、ワーク・ライフ・バランスだ。

3.なぜトリクルダウンのウソは続くのか

民主主義の国家では、往々にして企業を応援すれば人々が幸福になるとのレトリックが横行する。

それがうまく機能しないのを目にしていながら、それが終わることはない。

アンチテーゼを主張する人たちにも具体性・実現性が乏しいから、国民は議論を行うことすらやめてしまう。


米国の金融政策正常化は危険だ。

金融政策正常化と各国財政のリスクは極めて重大なテーマだ。

過剰債務国では、財政リスクが露呈され、深刻な資金の流出がもたらされる可能性がある。これにより予算編成が困難な事態にも陥りかねない。

特に欧州にとっては、ユーロ圏のさまざまな制限が付け加えられる。

たとえばイタリアのように莫大な政府債務を抱える国では、金利が上昇すれば国の利払い負担が重くなる。

こうした国では、予算を組む上で「莫大な重荷」を負うことになる。

『より正常な金利』に戻すプロセスは慎重でなければならない。

根井雅弘さんの「ケインズ革命の群像」という本を読んでいる。中公新書の一冊でバブル真っ盛り1991年の出版である。
本棚の隅から掘り出した。我が家の本棚は最近ブックオフの本棚と変わりない。みたこともないような本が並んでいる。読んだ本➗買った本の比率がどんどん下がる。主要な原因は読書力がどんどん落ちているのに購買欲がその割に落ちないからである。
こういうのを「無効需要」というのだろう。同じ無効需要でもかみさんのアクセサリは誰かにくれてやるという活かし方があるが、こちらはおそらく最終需要であろう。

面白い一節があったので、メモしておく。
第一章 ハーバードにおけるケインズ の中の 「マルクス主義者のケインズ批判」というくだり。
スウィージーの一言である。
“資本主義的なゲームの規則通りに行動している人間”という役者が、逃れようのないかのように見える窮地に陥るたびに、この「神」が舞台に登場するのである。もちろんのこと、オリンピア劇におけるこのとりなしの神は、著者と、そしておそらくは見物人にも満足のゆくようなやり方で。万事を解決してしまう。
ただ一つここで困ったことにはーマルクス主義者なら誰でも知っているようにー国家は神ではなくて、他のすべての役者たちと同じように、舞台で一役を演ずる役者仲間の一人に過ぎないのである
これはいつの文章かは知らないが、翻訳・出版は1954年である。(「歴史としての現代」都留重人監訳 岩波書店)

これを読んでう~むと唸ったのは、去年の9月リーマンショック10周年で、その後の変化をどう捉えるのかということで悩んでいたときの問題意識に、かぎ穴に差し込んだ鍵のようにあてハマったからである。

リーマン・ショック後にEU諸国は長く続く不況と失業に苦しんだ。ユーロ圏では思い切った金融救済策が取られたが、それが相対的に弱小な国に重い負担となってのしかかり、PIGGSでは国家存亡の危機を招き、フランスの屋台骨さえきしみ、揺らいだ。

話は2つだ。

一つはサムエルソンよろしく、ふだんは新古典派やネオリベでやっていて、苦しくなるとケインジアンにやってくる。
そんな気楽な若旦那みたいなことしてちゃいけないよ、というのがジョアン・ロビンソンの言い種だが、スウィージーにとってはそもそもそれがケインズじゃないの? ということになる。

もう一つは、もうリーマン・クライシスはないよということだ。次にこれが来たら世界経済と資本主義国家はすべて底が抜けてしまう。そこんとこを本気で反省しているの?
あとになったら、「ケインズみたいな方法、知らないほうがまだマシだったんじゃないの」ということにもなりかねない。

南海大地震じゃないけど、こういう経済システム、そろそろ根本から変えないとだめなのじゃないかな。それには「民主主義的社会主義」しかないんじゃないかな、ということだ。


なんの役に立つやらわからないが、とりあえず載せておく。むしろケインズ第2世代へつなげていくためのイントロという位置づけになるのかもしれない。

1883年 ジョン・メイナード・ケインズ、ケンブリッジに生まれる。

1902年 ケンブリッジ大学キングズ・カレッジに入学。G.E.ムーアの主催する「ザ・ソサエティ」に加わる。

1904年 政治問題を討論する学生団体「ユニオン」の会長となる。

1905年 キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)を卒業。数学で学位取得。

1906年 高等文官試験に合格。インド省に勤務。

1908年 インド省を退官しケンブリッジ大学で貨幣論を研究。マーシャルに経済学者になることを勧められた。

1909年 特別研究員として金融論を担当。

1909年 『エコノミック・ジャーナル』に「インドにおける最近の経済事情」を書く。

1913年 インド省での経験に基づき処女作『インドの通貨と金融』 を発行。金本位制の問題点を指摘し、最良の国際通貨システムとして金為替本位制を提唱する。この視点は晩年のバンコール構想へとつながっていく。

1913年 王立経済学会書記長に就任。死亡直前まで務める。

1914年8 月,イギリスはドイツに宣戦を布告した。第一次大戦の勃発

1915年 28歳でエコノミック・ジャーナル誌編集長に就任。

1915年1月 大蔵省に勤務。戦争の金融的管理を扱う第1課に配属、さらにはそこから独立したA課の長に任命され、国際金融問題を担当する。同盟諸国間の戦時借款制度の構築を担当。特に米国からの資金調達に力を発揮する。(まぁ他にはないよね)

1918年 二人の大蔵次官につぐ次官補まで昇任。

1919年 パリ講和会議に省首席代表として参加する。

8月 対独賠償要求に反対して辞任。

「平和の経済的帰結」を発表。報復的な補償要求は、ドイツのみならずヨーロッパを破壊させると主張。ベストセラーになる。

1920年 大蔵省A課の人々と投資会社「A.D」を設立。インサイダーまがいの投資で巨利を得る。この年、ピグー『厚生経済学』を出版。イギリス共産党結成。

1921年 『確率論』発表。中身はよくわかりません。

1922年 ジェノア国際経済会議に「マンチェスター・ガーディアン」紙特派員として参加。

1923年 『貨幣改革論』発表。保守党のデフレ政策批判、ついで金本位制復帰論を批判。

1924年 初の労働党第一次マクドナルド内閣成立。自由党は小選挙区制のため激減。

1924年 ロイド-ジョージの公共事業計画案を支持。『自由放任の終わり』発表。

市場社会は「似而非道徳律と経済的効率性のジレンマ」を内包している。市場社会は経済的効率からは便宜的に必要ではあるが、似而非道徳律に立脚しているから、いずれは否定さるべき存在である。

1925年 『チャーチル氏の経済的帰結』を発表。金本位制を復活させたチャーチル蔵相を徹底批判。

1925年 ロシアのバレリーナ、Lydia Lopokovaと結婚。ただしケインズはホモだったと言われる。

1926年 炭鉱労働者が長期ストに突入、五月ゼネストに発展する。ケインズは、労働者に同情する立場を表明。

「資本主義は、賢明に管理されれば、いかなる制度よりも有効に経済目的を達成するだろう。しかし、多くの点できわめて好ましくない点がある」 

1928年 自由党が『イギリスの産業の将来』を発表。ケインズは執筆の中心となる。

1929年 

5月 労働党がはじめて第一党となり、第二次マクドナルド内閣が成立。ケインズは「マクミラン委員会」委員として参加。

10月 大恐慌が始まる。ケインズは、企業の投資が過小であるとし、失業を減らすために公共事業を増やすよう提案。

1930年

1月 経済諮問会議委員となる。7月にはそのサブ・コミティーである「経済学者委員会」の委員長に就任。

30年 『貨幣論』発表。ハイエクとの間で論争となる。

理論をさらに一般化するためリチャード・カーン、 ジョーン・ロビンソンら若手理論家と共同作業を開始。

1930年 100 年後を見越した『孫の世代の経済可能性』を執筆。

1932年 イギリス、輸入税法を制定。自由貿易政策を放棄する。ポンド=ブロックの結成に動く。

1933年 ドイツでヒトラーが首相となる。アメリカでローズヴェルトが大統領に就任、ニュー・ディール政策を実施。

ケインズの主張: 失業者に生活維持費の一部を費やすよりも、造船工を失業させておくほうが、国富を増加させるのにより経済的だと考える政治家がはたして正気なのだろうか。

ケンブリッジ大学でケインズ革命の動き。ジョーン・ロビンソン『不完全競争の理論』を出版。

6月 ロンドンで世界経済会議。国際金本位制の再建を目指すが失敗。

1934年 ケインズ、アメリカに渡りローズヴェルトと会う。

1936年

1月  『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表。

雇用の量は、財市場と貨幣市場の相互関係で決定される。それは一般的に不完全雇用均衡に陥りやすい。

2月 スペイン、フランスの総選挙で人民戦線が勝利。ケインズは対ドイツ宥和政策を支持する。

1937年 心筋梗塞により一時重体に陥る。

1938年

9月 ミュンヘン会議。チェンバレンは、フランスとともに宥和政策を推し進めた。

38年 グラハム、金本位制に代わる国際「商品準備貨幣」案を提案。ケインズはこれを積極的に受け止める。

1939年

9月 ドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦始まる。

1940年 

7月 ケインズ、大蔵省のアドバイザーに就任。戦時経済統制の立案に当たる。「戦費調達法」(How to pay For the War)を発表。物価インフレ阻止のために「強制貯蓄」や配給策を奨励する。

さらに戦後の世界秩序形成に関する提言活動。国際通貨体制として「清算同盟案」を提唱。またベヴァリッジ案の策定過程で大いなる協力・支援を行う。

1941年

1月 ローズヴェルトが年頭教書で武器貸与法を声明。ケインズがアメリカに渡り、武器貸与法に基づく交渉。

6月 ドイツがソ連に侵攻。

10月 イングランド銀行理事に就任。

1942年 戦後の世界金融体制のため討論が始まる。イギリス案はケインズが、アメリカ案は財務長官モーゲンソーを助けたホワイトが中心となる。

 ケインズ男爵位を受爵。上院議員となり自由党席につく

1943年

3月 戦後世界金融制度のための討議。アメリカに渡ったケインズはホワイトと厳しい交渉。

ケインズは、国際決済連合と国際通貨「バンコール」を提唱。ホワイトは参加国の通貨で保管される国際為替平衡「基金」を提唱する。

1944年

7月 ブレトンウッズ通貨会議が開催。ケインズはイギリス首席代表として出席。各国の通貨が対ドル固定レートを維持し、米国はそれに対応するだけの地金を準備することとなる。

1945年 戦後復興に向け米国との借款交渉に当たる。

1946年

46年 国際通貨基金および世界銀行の創立総会に理事として出席。

4月21日 心臓発作で倒れ、サセックス州の山荘で没する。



前期ヘーゲル とりあえずの感想

かなり等身大のヘーゲルが見えてきた。

キリスト教に首まで浸かった青年がフランス革命に触れて、宗教の改革に乗り出す。
キリスト教から秘義や奇跡を取り除いたときに、フランス革命がギロチンとともに転げ落ちる。
仕方なしに「カントの道徳」に挿げ替えて民族宗教から衣替えしようとするが、そんなときにシェリングから神様なんてもうやめたらと言われ、ショックに陥る。
そこでシェリングから教わったスピノザの汎神論を使ってみたら、非常に使い心地が良い。それでやっているうちに、カントの道徳律とスピノザがどうも相性が悪い。
シェリングを見ると、彼もカントやフィヒテの2元論を使わないで世界を説明する方向でやっている。

そこで、イエナ大学で二人でカントとフィヒテを排除してスピノザ的理論構築をしていこうということになった。
それでシェリングは世話になったフィヒテと面と向かって喧嘩はやりにくいというので、ヘーゲルが汚れ役を引き受けることになった。

ところが、フィヒテを切り刻んでいるうちに、フィヒテの最大の問題意識、物自体への切込みと主体の構築という点で、どうもこの視点は捨ててはいけないなということになったのではないか。
たしかにスピノザのいう根源的実在の自己展開というのは正しいのだが、その根源的実在というのは自己意識ないし精神なのではないか、なぜなら物自体に時代を駆動する力はない、人間の感情が時代を駆動するのだから。

と、ここがすごい一人よがりなのだが、そう思い込んでしまう。
それでシェリングとスピノザを串刺しにして、先験論ということでやっつけてしまう。
ただし、スピノザにおいて先験知は本質的な概念ではない。下記参照のこと

人間は神の精神を表現している。それは人間が自然に抗い、生き延びる努力として示される。精神は自己の「有」に固執する。これが自己保存の努力であり、人間の本質にほかならない。
…すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。

ここまでスピノザが書いているのに、「暗闇の牛」あつかいするのはまったくフェアーでない。

ただヘーゲルの「精神」はもう少し万物の始源に関わっているのかもしれない。すなわち事物に命を吹き込み、それらを動かすに至ったものはなにか? という問題だ。
これは哲学というよりはむしろ現代自然科学の専門とする分野である。そしてすでに解答は示されている。すなわち万物の根源にあるのはビッグ・バンによって作られた巨大なエネルギーだ。このエネルギーがあるときは事物の形を取り、あるときはさまざまな力となって身の回りに存在し、ネットワークを形成しているのだ。
エネルギーは加速度、すなわち速度の変化を通じて万物を貫く。そういう時間軸のゆらぎが世界中には満ち溢れている。これが「神」だと思う。

そんなことを突き詰めていくと、いわば「精神現象学は逆立ちしたスピノザ主義」とも考えられる。そうすれば、自己意識から絶対知へと登っていく骨組みが見えてくるのかもしれない。

ヘーゲル年表(シェリングと袂を分かつまで)

2019.4.21 増補版を作りました。そちらへ移動願います。

ヘーゲルの「前期」とは、1807年に『精神現象学』が刊行されるまでの時期を指す。精神現象学はヘーゲルのシェリングとの決別の辞であった。
前期からさらに初期を分けることもありだ。その境界はフランクフルト行きかイエナ行きか、そのへんが難しい。しかしそれはいずれにせよシェリングとの出会いと別れを以って区切られることになるだろう。
そんな経過を追求すべく足取りを追ってみる。


1770年8月27日 ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)、シュツットガルトに生誕。生地シュトゥットガルトは当時ヴェルテンベルク公国の首都であり、父ヘーゲルは公国の官僚であった。

1778年 小学校2年でシェイクスピア全集を読破。ヘーゲルの才能を愛した学校の教師が、独語訳全集をプレセントしたという。ゲーテやシラーは好まなかったとされる。

1781年 カントの『純粋理性批判』が発表される。

1785年 歴史や法律、道徳などを広く学び、ノートするようになる。

ヘーゲルの心を捉えたのはギリシア悲劇や歴史書であったという。世界における避けがたい矛盾と分裂、そして闘争を主題とする学問路線を形成する基盤となった。

1786年(16歳) 王立カール学院に入学。ギリシア・ローマ古典文化、歴史を学ぶ。


「学生時代」

1788年

9月 カール学院を卒業。卒業にあたり「トルコ人における芸術と学問の萎縮について」と題して講演。

10月 チュービンゲン大学哲学部に入学。この大学はドイツ南西部におけるルター派正統主義の代表的学府であった。哲学部ではキリスト教史に関する研究の傍ら、ギリシア文化に加えてカント哲学を学ぶ。またフランス啓蒙主義の影響を受ける。

またシュティフトの神学院で寮生活をしながら、同級生ヘルダーリンと親密な交友関係を築く。

ヘルダーリンは初期のグループを主導していた。「ヘン・カイ・パン」を唱え、「美的プラトン主義」の弁証法を主張した。ヘンカイパンは「一にして全」という意味で、万能の神は自分の内にすべての要素を備えているという神秘的汎神論。

1788年 カントが『実践理性批判』を公刊、理性に基づく道徳の体系を明示。意志の自由と人格の尊厳を主軸とした道徳理論を提示する。

1789年

7月 フランス革命が勃発。

8月 フランス革命派が人権宣言を発する。

9月 卒業生のニートハンマーが大学を訪れ、学生らと懇談。フランス革命の情報を伝える。ヘーゲルは熱烈に革命を支持しルソーに心酔した。(ニートハンマーはかなり有名な教育哲学者で、ヒューマニズムという言葉を最初に使い始めた人。最後まで残ったヘーゲルの友人)

11月 チュービンゲン公が大学を視察。学生への観察を強化するよう指示する。



1790年(20歳)

9月 哲学部教師にカント主義者のディーツが赴任。この年カントの『判断力批判』が公刊される。美と生物の合目的性を主張。
ヘルダーリンはカントに傾倒。ヘーゲルはカント哲学とキリスト教の両立を試みる。ただヘーゲルは、悟性(神学的宗教)は生きた宗教(主観的宗教)をとらえることができないという実感を持ち続けた。

10月 15才のシェリングが哲学部に入学。2級下でかつ5歳下の仲間ということになる。卒業も2年遅く95年9月まで在学。

11月 ヘーゲル、哲学部を修了し神学部にうつる。

冬 ヘーゲル、ヘルダーリン、シェリングを含む10人が、神学院2階の大部屋で共同生活を送るようになる。部屋は一種の秘密結社となり、フランス革命についての禁書を読みあった(ルカーチ)

1791年

11月 オイゲン公が神学院を視察。学内規律について立腹したという。

1792年

夏 進学院内にも政治クラブが結成される。フランスの新聞を教材に討論を重ねる。ヘーゲルは最も熱心な革命支持者であった。このころ草稿群「民族宗教とキリスト教」の執筆を開始。ルソーの影響を強く受け、宗教は公的で社会的な現象とみなされ、「民族精神」とのかかわりから考察される。

ヘーゲルはキリスト教を「客体的私的宗教」と呼び批判。客体的とは押し付けられたという意味、私的とは俗物的ということ。

1793年

6月 ヘーゲルら、チュービンゲン郊外の牧草地に「自由の木」を植樹。シェリングは「ラ・マルセイエーズ」を独語訳。

夏 カントの『たんなる理性の限界内の宗教』が出版される。これまでルソー派だったヘーゲルは、これを読み抜粋を作るなど、強い影響を受ける。

「ベルン時代」

1793年(23歳)

9月 チュービンゲン神学校を卒業。牧師補の資格を取得したが、キリスト教に対する批判を強め、牧師にはならなかった。

10月 スイスの首都ベルンにシュタイガー家の家庭教師として赴く。草稿群「民族宗教とキリスト教」(第17~26篇)の執筆を継続(94年まで)。

1794年

6月 ジャコバン党のロベスピエール、「最高存在の祭典」を開催。ルソー主義に基づく国家宗教の樹立浸透を図る。

7月 テルミドールの反動。ヘーゲルは恐怖政治期のフランスに批判的な立場を強める。

94年後半 「民族宗教とキリスト教」の後半の執筆が始まる。カントの実践理性の視点からキリスト教批判が展開される。「民族宗教」の試みは事実上放棄される。

94年末 ヘルダーリンやシェリングと文通を通じて交流を再開する。

94年9月 シェリング、神学校を卒業。フィヒテの忠実な紹介者、支持者として頭角を現す。

12月 ヘーゲルからシェリングあての手紙。「ロベスピエールの奴らの破廉恥極まる所業」が裁判で暴かれたと伝える。

1795年

1月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「神の国よ、来たれ!われわれは、何もせずに手をこまねいていてはなりません。・・・ 理性と自由はいまだにわれわれの合言葉だし、われわれの一致点は見えざる教会だからです」

2月 シェリング、「哲学一般の形式の可能性」を執筆。ヘーゲルにも送付する。
シェリングのヘーゲルへの手紙「ともかく人格神という正統派の神概念は我々には存在しない。ぼくはこの間、スピノザ主義者になった」とし、キリストとの関わりを断ち切れないヘーゲルを強烈に批判。

4月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。「カントの体系とその最高の完成から、ドイツに革命が起こることを、僕は期待する」

5月 「イエスの生涯」の執筆に取りかかる。シェリングの批判を受け、“神性とは実践理性(カント)を行使すること”という結論に到達する。

7月 「イエスの生涯」を完成。引き続き「キリスト教の既成性」の執筆にとりかかる。

7月末 シェリング、『自我について』、『哲学書簡』などを発表し、ヘーゲルにも送付する。

7月末 ヘルダーリンが母校を訪れ、シェリングと面談。シェリングからフィヒテを勧められ、研究に着手。

8月末 ヘーゲル、シェリングあての手紙で、自らの孤独な境遇を訴える。

11月 「キリスト教の既成性」がほぼ完成。カントの「実践理性の要請論」の立場は理性の無力の告白に他ならないとし、道徳論の「定言命法」が持つ「既成性」を見るようになる。

既成性はPositivitaet の訳。実定性とも訳すが余計わからない。前向きという意味ではなく「既成政党」の既成。“形骸化”に近いネガティブな言葉。

11月 シェリング、チュービンゲン大学を卒業。「キリスト教の実定性」の執筆に取りかかる。(ヘーゲルの「キリスト教の既成性」との内容的関連は不明)

1796年

1月 ヘルダーリン、大学時代の盟友だったシンクレアの紹介で、フランクフルトで家庭教師の職を得る。

4月 シェリング、家庭教師の職を得、ライプツィヒに転居。ライプツィヒ大学で、3年にわたり自然学の講義を聴講する。

夏 「キリスト教の既成性」を脱稿。

宗教は、本来自由から生まれるべき道徳法則を、我々の外にある存在から与えられたものとして提示している。このような既成的宗教は人間の道徳的自立性の廃棄を意味する。

秋 ベルンの家庭教師の職を辞し、生地シュツットガルトに戻る。軽度のうつ状態に陥る。


「フランクフルト時代」(政治の時代)

1797年

1月 ヘルダーリンの誘いで、フランクフルトに移動。馬市商人ゴーゲル家で家庭教師の職に就く。

4月 ヘルダーリン、「ヒュペーリンオン」第一部を発表。

4月 シェリングが『自然哲学へのイデーン』を発表。ライプツィヒ大学での自然科学の知識を元にして、「有機体」概念を中核に、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。

ヘーゲルはこれを、「シェリングの客観的観念論は、カント・フィヒテの自由の観念論から脱皮し、宇宙を神的力の自然的活動として把握したもの」と評価する。

冬 イェーナ大学哲学部助教授だったニートハンマーがシェリングの招聘を計画。

1998年

4月『カル親書注解』を匿名で刊行。ベルン時代に書かれたもの。カルはベルン出身の民権派弁護士でベルン政府の抑圧を受けていた。

夏 ヘーゲル、カントの「人倫の形而上学」を研究。これに基づいて「キリスト教の精神とその運命」の執筆を開始。「カントと離婚してキリスト教と婚姻」したとされる。(執筆時期には諸説あり)

カントは「分離するという悟性の本性、決して満たされることのない理性の果てしのない努力、思惟の分裂、世界観の超越性」などの化身と、三行半を突きつけられるに至る。義務道徳は、むしろ道徳的自律を妨げる宗教の律法に比せられるようになる。

10月 シェリング、イェーナ大学哲学部の助教授に就任する。このときの教授はフィヒテだったが、無神論論争に巻き込まれていた。

シェリングは、絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力があるとし、フィヒテの顔を立てつつ自説を展開。

1799年

1月 父の死により遺産を相続。

2月 スチュアートの「国民経済学」(独訳)の読書ノートを作成。(5月まで)

イギリス国民経済学の研究から、1.労働が共同生活を歴史的に形成する。2.労働手段(道具や機械)が人間と自然を媒介する。3.言語が人間と人間を媒介する。4.分業と機械化は全一な人間性を分裂させる。などの規定が抽出される。

11月 ブリュメールのクーデター。ナポレオンが権力を握る。

7月 フィヒテは論争に破れイエナ大学を去る。シェリングが教授となる。

1800年(30歳)

9月 シェリング、フィヒテを否定的に受け継ぐ形で『先験的観念論の体系』を発表。「同一哲学」を提唱する。

「産出的な自然」の概念を基礎に、精神と自然との絶対的な同一性を原理とする。超越的な絶対者の自己展開を叙述する学として定式化。

9月 ヘーゲル、この頃「1800年の体系断片」を記述。

11月 ヘーゲルからシェリングへの手紙。仕事と研究のための機会を依頼。同時に自己の思索の体系化を目指す意気込みを語る。二人は、ヘルダーリンのロマン主義より強固な論理を求めることで一致したと言われる


「イエナ時代」

1801年

1月 ヘーゲル、シェリングに招かれイエナ大学の私講師となる。共同研究をおこないカントとフィヒテを批判。「哲学的」協業を開始したといわれる。

5月 シェリング、「私の哲学体系の叙述」を発表。自然と精神との連続性を強調して、自然は眠れる精神であり、精神は目覚めた自然であるとする。これをフィヒテが批判したことから関係決裂。

10月 ヘーゲル、「フィヒテとシェリングとの哲学体系の差異」を発表。フィヒテのいう絶対的自由は抽象的・無規定的だとし、人格同士の共同は自由の制限ではなく自由の拡張であると主張。

「存在は非存在の中へ生成される。有限なものは無限なものの中へ生成される。哲学の課題は、それらの過程を生として定立するところにある」(このくだりは法の哲学の冒頭でも使われている)

1802年

1月 シェリングとヘーゲル、共同で「哲学批判雑誌」第一巻第一分冊を刊行。主なヘーゲル論文に「哲学的批判一般の本質」、「常識は哲学を如何に解するか」、「懐疑論の哲学に対する関係」、など。

3月 第一巻第二分冊が刊行される。

7月 第二巻第一分冊が刊行される。ヘーゲルの「信と知」が掲載される。

「信と知」において、カント,ヤコービ,フイヒテの三者は「反省哲学」の下に一括され、二元論的世界観を批判される。
二人は反省哲学を、「有限なものを絶対化し、その結果、無限なものとの対立を絶対化し、その結果、無限なものを認識不可能として彼岸に置きざりにする」と非難。

1803年

5月 保守派と対立したシェリング、不倫事件を引き金にイェーナ大学を去りヴュルツブルグへと移る。シェリングの転居をもって『哲学批判雑誌』は終刊。翌年、ニートハンマーもヴュルツブルグへと移る。

冬 「思弁哲学体系」の草稿が完成する。

直観と概念の相互包摂を通して、理念(イデー)が展開される。ヘーゲル弁証法の第一論理。絶対者の運動は、実体的統一から対立・差別を通じて再統一に至る。ヘーゲル弁証法の第二論理。

1804年

冬 「思弁哲学(論理学・形而上学)・自然哲学・精神哲学」の草稿が完成。

1805年

2月 ヘーゲル、ゲーテ(イェナ大学のパトロン)への陳情が奏功し、私講師から助教授(員外教授)に任じられる。シェリングとの立場の違いが次第に明らかになる。

5月 シェリング、ミュンヘンに移住し学士院会員となる。

12月 アウステルリッツの戦い。ナポレオンが神聖ローマ帝国軍を撃破。

1806年

2月 『精神現象学』が出版社に回る。歴史意識を概念的に把握することを主題とする。シェリングを厳しく批判する内容となる。(この本が世に出る過程には幅があるようだ。後ほど調べる)

正式題名は“「学の体系」第一部に基づき、精神現象学を序文とする思弁哲学(論理学および形而上学)、自然哲学、および精神哲学、哲学史”という超長ったらしいもの。ヘーゲルは自著紹介で、これは第一巻であり「精神現象学」と呼ばれるもの。このあと第二巻「思弁的哲学としての論理学と、残りの哲学の2部門自然の学と精神の学徒の体系を含む」と告知している。

7月 西南ドイツ諸国がライン連邦を結成、神聖ローマ帝国からの脱退を宣言。間もなく皇帝フランツ2世が退位し、神聖ローマ帝国は消滅。

9月 ヘーゲル、イェーナ大学での実質的な最終講義。

10月13日 イエナ会戦。プロイセン王国がナポレオンに敗北。イエナは占領されイエナ大学は閉鎖される。ヘーゲルは行進中のナポレオンを目撃。「馬上の世界精神」と評する。

10月 ヘーゲルは職を失う。(形式的には1808年まで所属)

11月 バンベルクに避難して「精神現象学」の最終校正を行う。

1807年

1月 ヘーゲル、シェリングに手紙を送りバイエルンでの就職斡旋をもとめる。

3月 ヘーゲル、日刊バンベルク新聞記者となり赴任。

4月 精神現象学(正式には「学の体系・第一部:精神の現象学」)が上梓される。「序言」でシェリングを闇討ち批判する一節。

シェリングの「同一性の哲学」は、絶対者を直観によって把握し、これを始源に置く。ヘーゲルはこれを以って「全ての牛が黒くなる闇夜に、ピストルから発射されでもしたかのように、直接的に、いきなり絶対知から始める」と嘲弄。動因としての主観を強調する。

11月 シェリングより抗議の書簡。返答をもとめるがヘーゲルは無視。このあとヘーゲルとシェリングの文通は終了。

ヘーゲルが批判したのはおそらくシェリングと言うよりスピノザだったのだろう。ただしヘーゲルのスピノザ理解度が問われるという側面もある。

「ニュルンベルク時代」

1808年(38歳)

5月 バイエルンの教育監となったニートハンマーが、ニュルンベルクのギムナジウムの校長の職を斡旋。

11月 バンベルク新聞編集者を辞任。ニュルンヘルクのメランヒトン高等学校の教授兼校長として赴任。上級クラスで哲学的予備学と数学、中級クラスで論理学を教える。



参考資料



上妻 精 他 「ヘーゲル 法の哲学」(有斐閣新書) 

武田趙二郎 「若きヘーゲルの地平」〈行路社)

現代思想「総特集=ヘーゲル」青土社 1978

シェリングについては下記の記事を参照のこと

2018年03月04日  シェリング 年譜
2018年12月21日  「弁証法的実在論者」としてのシェリング

Youtube で音を聞いていると、存外音が良い。というか良さそうに聞こえる。
なにせパソコンのスピーカーの音で聞いているのだからどんなものかわかりはしないが、少なくとも高音の抜けは悪くないのである。
そこで考えた。
Youtubeはダウンロードの邪魔をして低音質ファイルしか落とせないようにしてしまった。では昔風にライン出力からとったらどうなのだろうということだ。少なくともクソファイルよりはまともなのではないか、それとこのやり方は「ダウンロード」ではなく「録音」なのだから違法性はゼロだ。
そこでやり方を探してみた。Srecという無料ソフトがあってこれが使えるらしい。
だいぶ古いソフトらしくて「録音したらMP3に変換してファイル保存しなさい」ということになっているのだが、そのエンコーダーが懐かしの「午後のこ~だ」だ。ホームページからダウンロードするのだが、最新バージョンがなんと2004年だ。
イヤな予感がしつつもとりあえず落として、WINDOWSの方もマニュアルのとおりセッティングして、まずは録音してみた。ワオーっ、まさしく2004年の音質だ。とてもじゃないが聞けたものではない。
WAVで落とすこともできるらしいので、まずはWAVで落としてAACの196くらいでエンコードしてみる手もありそうだ。
そのまえに、あのAudacity が使えるのだそうだ。何ということはない、灯台下暗しだ。まずはそちらを試してみよう。ただ、曲を小分けする機能が使えるかどうか。
その前に、とりあえず会議に行ってくる。

3月6日 Srecで録音した結果。
ひどい、到底使い物にならない。音質はそもそも無視されているようだ。最初は「午後のこ~だ」の問題かと思ったが、WAV録音した音源もだめだ。とにかくこれは諦めるしかない。
もう一つ載っていたオーダシティを使う方法、こちらは使えるくらいの音質にはなっている。ただYoutube音源を直接再生して聞くのに比べると劣化は明らかだ。操作も録音専門ソフトではないので煩雑だ。

ということで、とりあえずはこの方法は保留ということにしておく。ただ原理的には有望な方法なので引き続き検索を続けることにする。
考えてみると、むかしはこの方法でネットラジオを流しながら「ストリーミング録音」をやっていたのだから、そこからの再出発と思えば「それはそれでいいか」、ということにする。


森谷尚行先生が唐突に逝った。3回のガン、頻回の血圧上昇発作、喘息による呼吸困難をしぶとく生き延びたが、最後はあっさりと土俵を割った。

何か西郷ドンがなくなったみたいで、これで全国・北海道の民医連運動が一つ完結したような気がする。

一つ、森谷先生のためにも言っておきたいことがある。

それは私の名で出版した「療養権の考察」が、事実上は私と森谷先生の共作だということである。

私と森谷先生は「療養権の考察」を70年代以降の民医連運動、とりわけ医師集団の実践の理論的総括と考えており、強固な構築物と考えている。

森谷先生は執筆には直接携わっていないが、問題意識を共有し、私に著作を促し、イメージを提供し、普及に尽力してきた。

療養権の核心となるアイデアは、医療が病者と医療者の共同の営みであること、それは教育や福祉・介護など多くの社会的過程に通底するものだということだ。

さらにそれらの活動は病者が主体となる療養活動に付き添う形で展開され、社会がそれを権利(療養権)として擁護する中で発展していくものだ。それが「労働」か否かは社会組織により規定される。

ただ、この考えを理解し主体的に評価できたのは森谷先生と私だけだった。(鈴木篤先生に評価してもらえたのは嬉しかった)

この思想は70年~80年代という時代が生んだものだ。戦線が急拡大し、社会運動としての医療実践、医療労働者の運動、医療サービスの改善を求める市民運動などが混然となり、百花斉放の趣を呈してた。さらに介護の分野が浮上していた。

医療戦線の統一が喫緊の課題であろうという視座を私たち二人は共有していた。「国民の生存権」の内容を時代に合わせ具体的に展開し、これを中核にしながら各分野の戦いを整序するという論点整理が求められていると感じていた。そのための哲学的、法学的、経済学的、組織論的考察がこの著作の主題である。

残念ながら、この著作はもはや歴史的遺産に過ぎなくなり、ほぼ忘却の底に沈みつつある。
森谷先生の遺徳を偲ぶに当たり、この思想はぜひとも一つ押さえておいてほしいものである。

以下の文章は「USAトゥデイ」の論説(Feb. 18, 2019)です。筆者はベネズエラ人のようです。

題名は
ベネズエラは私の家でした、そして社会主義はそれを破壊しました。 それはアメリカもゆっくりと破壊するでしょう


副題もけっこう長い
万人のためのメディケア」も富裕税もアメリカを一晩でベネズエラに変えることはありませんが、こういう一連の壊滅的な政策がベネズエラ化をもたらすでしょう

以下は要約なので、ご不明な箇所は本文を読んでください。

1.ベネズエラの戦いを妨害する米国リベラリスト

私たちベネズエラ人の多くは社会主義の破壊的な結果から逃れるためにアメリカへ逃げてきました。

しかし、アメリカの自由主義者はベネズエラが失敗した社会政策をまたも受け入れようとしています。
それはベネズエラで飢饉、大量流出および高騰のインフレを引き起こしました。

バーニー・サンダース上院議員やホセ・セラノ上院議員のようなリベラルな政治家は、マドゥーロと同じ種類の政策を称賛しています。
さらに悪いことに、最近の数週間で、Ilhan Omar、Ro KhannaおよびTulsi Gabbardの民主党代表は、ベネズエラ人のマドゥーロに対する抗議行動を歪めて伝えています。
加えて、多くの議会民主党員がメディケア・フォー・オールとグリーンニューディールの提案を支持しています。

そして、マドゥーロの独裁政権を終わらせるためにドナルド・トランプ大統領が広く支持している動きを非難しています。

2.医療・社会保障がベネズエラをだめにした

医療・社会保障政策は、キューバとベネズエラなどいくつかの国が行った重点政策です。
それは、健康保険業界を国有化し、それを仕事にしたいと思うすべての人を保証し、そして大幅に増税し、経済への政府の介入を増やしました。

米国の提案者たちは、彼らがすべてのアメリカ人に質の高い医療、住居、その他すべてを無料で提供できると考えています
そしてどういうわけか、政治家は事業主自身よりもうまく事業を運営できると考えています。

これらの提案は、米国の財政赤字と国家債務を急増させるでしょう。すでに債務は記録的な22兆ドルに達しています。

アレクサンドリア・オカシオ - コルテス議員は、「それでも十分でない場合は、連邦準備理事会に金を印刷させ」て、支払うようもとめました。
まさにこのような医療・社会保障こそがベネズエラの悪夢を引き起こしたものです。

3.医療・社会保障は国家を滅ぼす

リベラル経済学者のPaul Krugmanは最近コラムで論じました。
誰かが進歩的な政策思想に反対するとき、その理由としてベネズエラを引き合いに出します。その人は知らないか、嘘をついているか、またはその両方です。
私は知らないわけでも不正直でもないことをKrugman氏に保証することができます。

もちろん国民皆保険も富裕税だけでも、米国を一晩でベネズエラに変えることはできません。
しかし、これらの対策の全部または大部分が実施されれば、それらはベネズエラにもたらしたのと同じ壊滅的な結果をアメリカの人々にもたらす可能性があります。

トランプ大統領は、最近の州の演説で次のように述べています。
  アメリカは社会主義国になることは決してありません
私は大統領が正しいことを心から願っています、

すべてのアメリカ人は、かならず誤った約束の誘惑に抵抗することができるでしょう。
だからこの偉大な国は社会主義の暗い雲の上に常に輝き、そしてベネズエラの運命を避けることができるのです。


この文章からはいくつかのことが読み取れる。
1.ベネズエラ野党の反対理由は、反民主主義や独裁よりも医療・社会保障政策への反対にある。
2.米国の民主党やリベラル派も、医療・社会保障政策を強調するが、これは「社会主義」であり許されない。
3.民主党やリベラル派を支持すると、米国もベネズエラのようになる。
ということで、日本で報道されている論点とはだいぶ違うことが分かる。そもそも、より人道的なのがマドゥーロ政権なので、彼らはそのゆえに非難されているという側面がある。
私達もロイター、BBC、アムネスティなどのヒステリックな人道攻撃に惑わされないようにしなければならない。


柳井政和

という文章を読んで本当に同感した。要旨は以下の通り

「Yahoo!ジオシティーズ」の終了、とうとう終わりが来たのだなという感想だ。

ブログとSNSの台頭により、個人でWebサイトを作るという文化は急速に廃れた。
情報を蓄積するだけで、外へと伝える機能がない個人ホームページは、その価値を大きく落としていった。

サーバー上で、効率的に時系列の情報を発信できる「ブログ」は万人ジャーナリストといった文化を作った。

インターネット上のコンテンツは、ストック型から、情報をニュースのように流して消費するフロー型に変わった。

しかし、サービスの終了によって失われる人類の情報資産は大きい。
様々な分野について、膨大な情報を集積しているホームページが少なからずある。

願わくば、そうした情報が、どこかに保存されて欲しい。そして簡単にアクセスできるようになって欲しい。こうした出来事のたびに、そう考えてしまう。


柳井さんはあの有名なソフト「メモリー・クリーナー」の作者だという。その柳井さんが知的胃酸を保存しようというのだから皮肉な話だ。
ともかく、そのような専門家でさえ悩んでいるのに、私ごときシロウトが口を挟んでもしようがないが、なんとかならないもんですかねぇ、柳井さん。
例えばトラストみたいなものを募って共同墓地を維持・運営するとかできないものですかねぇ。

それにしても、かつてデジタル化と光媒体は眩しく見えたものだ。それは永遠の輝きを放っているように見えたものだ。しかしそれは紙媒体やレコードなどのアナログ媒体よりよほど儚いものだった。壊れたCDやメモリーのなんと虚しいことか。
何時間もかけて作ったファイルがボタンひと押しで無限の彼方に飛び去ったときの虚しさはどうであろうか。

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