鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2019年02月

米朝破談、ファーウェイ事件、ベネズエラ攻撃は一連だ

この間ファーウェイ事件を取り上げたばかりなのに今回は米朝破談だ。

1.何が起きたのか

昼のニュースで米朝破談が報じられた。その背景に本日午前の複数会談の映像が流れた。
その絵を見た途端にすべての疑問が氷解した。ちゃぶ台返しの犯人はボルトンだ。

そもそも昨日の複数会談に出ていないことが奇妙な話だ。ハノイまで来ていて出ないということは考えられなない。
出ろと言われて出ない、出るなと言われて出る、まさに傍若無人である。
前回の米朝会談のときには、シンガポールには行かずに、せっせと会談つぶしに精力をつぎ込んでいた。

今回は会談にあわせてコーエンの公聴会が行われた。これがボルトンが繰り出した「奥の手」だ。彼が何をしゃべるか(ボルトンが何をしゃべらせるか)はトランプの政治的運命に関わる。
だからトランプはボルトンの言うことを聞かざるを得なかった。これがすべてだ。
ボルトンは前回会談のときも会談つぶしに動いた。下記を参照されたい。
2.ボルトンの背後に米軍産複合体

ボルトン個人にそれほどの力があるわけではない。その背後に大統領すらあごで使うような巨大な権力が存在している。彼らがボルトンを政権内に押し込んだのであって、その逆ではない。

かつてその露頭となったのが、イラク戦争のときのチェイニー元副大統領を先頭とするグループである。(いまは誰か知らない)

それは恐ろしく野蛮な勢力であり、イラクに侵攻してフセインを暗殺したり、リビアでカダフィを虐殺したりしてきた。

それが最近息を吹き返して、ファーウエイのトップレディを誘拐したり、ベネズエラの合法政府をねじ伏せたり(まだ死なずに頑張っているが…)と傍若無人ぶりを遺憾なく発揮しているのだ。

いまやトランプの乱暴ぶりは、この軍産グループのたんなるベールに過ぎなくなり、それさえも場合によってはかなぐり捨てんばかりとなっている。

3.世界は束になってもかなわなくなっている

彼らがここ数年で急速に息を吹き返したのには3つの理由がある。

一つは米国の金融力である。リーマン・ショック後世界はとてつもない不況に見舞われた。このとき苦境をともかく救ったのは米国の三次にわたる量的金融緩和(QE)である。
各国は当面の苦境から救われたものの、米国の金融支配に全面的に屈服した。

二つ目は米国の経済制裁力である。とくに輸出入制限に加え金融制裁が課せられた場合、どの国でも致命的影響力を被ることになる。
中国でさえもそうである、そのことが明らかになった。

三つ目は、米国企業の利益力である。現在米国籍の世界企業による租税回避が大きな問題になっているが、問題はそこではない。
問題は脱税額が巨額になるほどそれらの企業が膨大な利潤(超過利潤)を上げていることである。GAFAを始めとする米国籍の巨大企業の競争力は群を抜いている。


4.米軍産複合体は世界の人々の共通の敵

彼らは利益をむさぼることを何ら躊躇しない。
彼らはそのために暴力や不当な制裁、理由のない攻撃をかけること、いわれなく人を脅したり貶めることを何ら躊躇しない。

敵はトランプではなく、その背後にいる人々だ。

米軍産複合体に抗議する世界の人々が、今やお互いに赤い糸で結ばれ、連帯を強めなければならない。

そしてその一つ一つの表れを警戒し注視し警告しあわなければならないだろう。

カントはスピノザから何を受け継いだのか、スピノザ→カントという流れは哲学史の主流なのだろうか。

以上のことが知りたくて、少し文献をあたってみたが、端的に言って状況は絶望的だ。

なにか意味のある教えはほとんどない。しかし情報量だけはものすごい。

二人の関係について書かれた文章は、すべて超難解だ。真剣に知りたいと思う人にとって、説得力のある文章とは思えない。

つまり、早い話が二人に意味のある関係はないということだ。スピノザがカントを知るわけはないから、カントがスピノザからどれくらい影響を受けたかということになる。

これだけ奥歯にモノの挟まった言い方が並べられると、「要するに関係ないんですね」ということになる。

ある人は問わず語りに面白いことをいっている。

大局的に見て、カントとスピノザの間にどのような関係が成立しているか、という点に新しい照明を当てることである。
カントとスピノザの間に「第2スコラ哲学」という共通した背景をおくことで、この問題を考えることができるだろう。

まさにそこにあるのは「スコラ哲学」そのものなのである。

後は哲学者たちの飯のタネみたいなゴシップ話だ。以前言語学でやったソシュールとか構造主義の属と同じだろう。

率直に言って、カントの道徳感(というよりケーニヒスベルクの道徳感)は、スピノザの倫理観よりはるかに古色蒼然としたものだ。スピノザに文句言えるような立場ではない。

もう少し自分でネタ探ししてみたいと思うが、結局スピノザの問題意識は、シェリングとヘーゲルが「カテゴリーの自己展開」を試みる時代まで発展されることはなかったのではないか、という気がしてきている。

とりあえず、「近現代哲学の虚軸としてのスピノザ」を参照のこと

旅行中の暇つぶしにと思って買った本。「50オトコはなぜ劣化したのか」(2016年)
ところどころ面白い。
基本となる気分は、真っ只中の「50オンナ」が、同世代男子に怒りを込めて投げつけた石つぶて。

一生懸命こらえているが、なぜか日本酒片手にウンウンうなりながら、書き飛ばしているさまが目に浮かぶ。一気に書き飛ばしているから底は浅いが流れは良い。精神科の医者にありがちな衒学趣味とか知ったかぶりもなくて、大変心地よい。70オトコには安心して読み、共感できる本である。
ただ、四方の目が気になるから新書版のカバーは一応裏返しにして読んだ。

ちょっと気になるのは小学館の編集部の感性。
作者の思いとか文章のテーマとは微妙にずれている。
フンドシの惹句は「女は変化と生きてきた、オトコは変化に乗り遅れた」とあって、一見文明論もどきにも見えるが、本文はさほど上品なものではない。オブラートの隙間から怒りというより軽蔑と憎しみがほとばしり出ている。

本文では「知の劣化」、「現実感の喪失」、「相対主義への逃げ込み」、「覚悟の欠如」などが挙げられるが少しデータの裏づけが欲しいところ。

最後のシメのセンテンスを拾っておく。
いったい50オトコはどこで何をしているのだろう。彼らはなぜ、社会の中心で混迷する日本の舵取りをしようとしないのだろう。
自分で言うのもなんだが、50オンナはけっこう頑張っている。逆打風にさらされながらもわが道を貫いている。
それなのに、50オトコときたらいったい…
まぁ、なんとかなるだろう」とタカをくくることに慣れている50オトコは、たとえ妻や子供に「安保法が成立したら、戦争ができる国になるかもしれない」と言われても、真剣にそれを考えることができない。
本書は、そんな同級生世代の50オトコたちに、「そのままでいいわけ? 自分も、社会も」と呼びかけるための檄文なのである。

ペルー政府、ベネズエラ大使館職員へのビザを取り消す
27.02.2019 AFP

ペルーは、15日以内にベネズエラ国会議長のJuan Guaidoの自称指導部を支持し、15日以内にベネズエラ大使館職員のビザを取り消すと発表した。

私がイシカワ大使にうかがった話では、一昨日深夜、コスタリカの大使館に「グアイド政府の代表」なる人々が乱入し、明渡しを迫ったそうです。コスタリカは忠実なアメリカのしもべですから、これを黙認したようです。

世界中にいま、無法が罷り通っています。

メキシコとウルグアイはグアイドの承認を拒否し、中立を宣言し、対話を通じた危機の解決を促進している。

グアイド国会議長が代表として認められると、外交関係は済し崩しにされる可能性が出てくる。

すでにその兆候は出ている。

2月20日、エクアドル最大の都市グアヤキルで、ベネズエラ総領事館が武装集団に襲撃された。

武装集団は男4人、女3人の7人だった。彼らは領事館が保持する資金をすべて奪った。そして外交員たちの政治的見解を理由に、外交員を嘲笑し殴打した。

エクアドル政府はベネズエラのグアイドを暫定大統領として承認しており、グアイドが指名した代表を承諾している。

ただし、首都キトにあるベネズエラ大使館は、引き続きマドゥロ政府の任命した外交官らによって業務が続けられている。

私はいま行われている「人道援助」の不条理に心痛めている。
以前から指摘しているように、民衆の生活の困難の最大の原因は、非人道的な経済制裁と金融封鎖にあるのだから、それをやめることがもっとも有効なやり方だ。
しかも一文の金もかからない、命の危険もゼロ、明日からでもできる方法なのだ。
その上で、再選挙でも何でもやればよい。それでマドゥーロが敗れてまったく問題ない。
とにかくそれが最初のアプローチではないか。
ところで、一部の人から「ベネズエラの苦境は制裁のせいではなくマドゥーロ政権の失策のためだ」という意見が出ている。「なぜなら失政の影響のほうが早くから出現しているからだ」というのだ。
たしかにその意見には一理あるのかもしれない。しかし、だからといって経済制裁をそのままにしてよいということにはなるまい。
問題は7月7日に蘆溝橋のたもとで、どちらが先に鉄砲を射ったかではあるまい。それが日本軍ではなかったにせよ、それを機に戦争へと持ち込んだのは間違いなく日本軍だ。このことで侵略軍の行動を合理化してはいけないのではないかと思う。

それにしても、グーグルの検索機能は明らかにおかしい。ベネズエラと入れて100件出てくると、「似たような記事はなんとか」といって、検索を打ち切る。
ずっと「メディア」のせいにばかりしてきたが、どうもそればかりではないのかもしれない。
そろそろ意識的にグーグルに頼らない検索エンジンを育てる運動を始めるべきではないか。

すみません
私のベネズエラ関連ファイルは下記のホームページから
サイト内検索でベネズエラと入れると、ズラズラと出てきます。
検索窓1

ホームページ「ラテンアメリカの政治」ではここから
検索窓2


エチカ(Ethica)の摘要

すみません。原文を読まず解説本をまとめただけのものです。自分の心覚え以上のものではありません。

1.自己原因(causa sui)

エチカは「自己原因」という概念の定義から始まる。

万物に原因がある。これをたどっていくと、それ以上探求することができない究極的な原因につきあたる。これが自己原因である。

この自己原因は、事物・自然・神と等しいとされる。

“Causa” はもともと悪い意味だ。「…のせいだ」みたいな響きがある。破門のことが念頭にあるかもしれない。

同時に“Causa”は「大義」という意味にも発展していく。多分両方かけているのだろう。

それでは事物・自然・神はどのような関係にあるのだろうか。

2.「神即自然」: 自然は神の様態の一種である

神はさまざまな形で論証されてきた。それはそれとして、自分は自分なりに“ユークリッドのように”論証してみたい。

神は無限の属性を備えており、自然も万物も無限の属性を備えている。なぜか。
それは神が備える無限の属性が、自然・万物の様態として表されているからである。

自然のうちには一つの実体しかない。それが神である。それは絶対に無限なものである。
然るがゆえにあらゆる事物は神の属性である。

神の思うままに自然世界は存在する。これがスピノザの「神即自然」という概念だ。

しかし、この断言はただちに疑問を引き起こす。
それは「自然は無限なのか」ということだ。もし無限であるならそれは神である。「自然即神」だ。それはかぎりなく唯物論だ。

スピノザは火炙りになるのが怖くて、「神に規定されるがゆえに自然は有限だ」と、“言い繕った”のかもしれない。

実際、スピノザは、18世紀のドイツでは無神論者として受け取られた。

3.「汎神論」: 万物は“大きな神”の一部である

神は超越的な創造者ではなく、自然の諸物の中に内在している。あらゆる事物にとって、神の内在は必然である。

自然の諸物は相互の関係の中で変化している。事物相互の関係は巨大なネットワークを形成する。このネットワークはその中で完結している限りにおいて、神そのものである。

その故に万物は精神性を具備し、“大きな神”の一部を形成する。これが「汎神論」ということである。

これは八百万の神様に慣れ親しんできた日本人にはまことにわかりやすい論理である。ただスピノザの「神」は、そういう物神崇拝的なアニミズムとは違う。万物を貫くのは唯一神である。

だからいずれは唯一神を論証する方向に収斂しなければならないであろう。

4.人間も神の属性の一つ

人間は精神(=意識)と身体に分離される。故に人間は有限である。故に神の属性の一つとして理解される。

人間は自然の一部ではあるが、自然そのものではなく、自然に規定された存在である。人間は、自然の無限の属性に規定されている。さらに自然は神の無限性から派生する、

5.人間の感覚と精神

エチカ第3部で、スピノザは人間の感情を論じている。

前の段落で明らかにしたように、人間は精神(=意識)と身体に分離される。

感覚は身体活動の表現である。それは自然の必然性、自然の力から生じてくる。したがって感覚には自然的原因がある。

人間の身体は自然によって左右される不完全な存在である。感覚的経験に基づいた認識には妥当でないものが内包される。

一方において人間は神の精神を表現している。それは人間が自然に抗い、生き延びる努力として示される。精神は自己の「有」に固執する。これが自己保存の努力であり、人間の本質にほかならない。

その努力が身体に向かえば、それは衝動となり、それが意識に反映されれば欲望となる。

6.「自己保存」の努力: Conatus sese conservandi

ここから先はちょっとややこしい。原文では「自己保存」の努力(Conatus sese conservandi)とされており、良くわからない。

悲しいことに多くの解説を読むと、さらに分からなくなる。

とくに「自己防衛」が神の精神だというと、ちょっと独断的な自己の押し出しが気になる。デカルト的な匂いもする。

國分功一郎さんがNHKの「100分 de 名著」で、うまく解説している。

すべての事物は常に変化しておリ定まるところがない。しかし事物は、変化すると同時に、変化のなかで自己の存在を維持している。この「同一性維持の傾向」が本質となる。

と、非常に納まりのいい解釈をしている。文章にすると、「私が日々の移ろいの中で私であり続けること」、そのための努力を指す言葉だということになる。

ただしこのコナトゥス=ホメオスターシスという解釈があたっているかどうかは、確信は持てない。


7.「善と悪」の基準

自然のうちには、善悪というものはない。だから善悪の判断は意志、欲望に先立つものではない。何者であれ、自分以外の他者に善悪の基準を委ねるのは間違いだ。

各々の人間が欲望を果たすための行動を取るとき、その行動の基準が、人間にとって善の基準なのだ。そしてそれは欲望の強さとの関係で相対的に規定されるものだ。

さらに言えば、人間の行動は自己保存の本能によって規定されている。それは神の指し示すものだ。

5.理性と直感知(Intuitive knowledge)

人間は理性を獲得できる。理性を獲得すれば自ずから真理を獲得できる。

真理を獲得したことは、「その真理を獲得することにより自分が変わった」、という実感をいだくことによって確認される。そして理性により神を認識する直観知を獲得することができる。

言葉にすると良くわからないのだが、日常生活の中で突然コツを掴んでしまうようなことがあるが、そのことを言っているのだろう。ある動作について論理的・演繹的認識が直感型、パターン型認識に移行する経験を指していると思う。

6.人間が成長するということ

成長するということは直感知を獲得して自由人となることである。

自由というのは、好きなものを選ぶということではない。行為のうちで自己のあり方がよりどれだけ多く表現されるかの度合いだ。

つまりある人がある行為において、どのくらい自己を表現できるか、そのためのスキルをどれだけ獲得したかが、自由であるか否かを規定する。

土曜の朝のテレビの目玉は衛星第一の、ニューヨークだよりである。
日本語の堪能な青年がニューヨーク現地のトピックを伝えてくれる。その独特の切り口、語り口が面白く、毎回愛聴している。
それが23日の朝は「始まった大統領選挙」ということで、ニューヨークの市民の声を拾っていた。画面に流したのは左派、右派、中間派と一通り並べた無難なものだったが、その後にレポーターがとんでもないことを言ってしまった。
「いろいろ意見はあったが、驚いたことに、8割以上が“民主主義的社会主義”を支持していた」と発言してしまったのだ。日本のスタジオでこの発言を受けた二人の女性キャスターはあせった。
「その感想がたまたまの偶然であったのだろう」ということをレポーターに念押しした。向こうも雰囲気を察したらしく、その後は言葉を濁し次の話題に移っていった。

ニューヨークでは先日の下院選挙で27歳の“オネェちゃん候補”オカシオ・コルテスがぶっちぎりの勝利を上げたが、その目玉は皆保険制度と奨学金だった。
この2つでの国民の要求は強烈なものがある。共和党はこれを社会主義の脅威だと攻撃している。民主党の主流派もイマイチ煮え切らない。
そこで多くの市民が「社会主義でもいいんじゃないの」と感じ始めている。
そのことは私も度々指摘してきたが、この度の発言で、その浸透ぶりが想像以上のものだということがわかった。

とりあえずの最大の話題は、「民主的社会主義」の言い出しっぺ、サンダースが大統領候補になれるかどうかということだが、なかなか道程は遠いだろうし、反共攻撃も激化してくるだろう。とくに中西部でトランプに流れた「不安な労働者」層を以下に奪回できるかどうかが鍵になるだろうと思う。今後とも注目していきたい。

スピノザ 年譜

1632年11月24日 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza)、アムステルダムに富裕な貿易商の子として生まれる。

父親はポルトガルを逐われてオランダに住み着いたユダヤ人。スピノザも母語はポルトガル語だった。

ユダヤ人学校でヘブライ語を学び、旧約聖書を研究する。著作はラテン語によるがこれも独学だった。

1656年7月(23歳) アムステルダムのユダヤ人共同体から異端として破門される。

追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆生活を行う。スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたと言われる。

1662年 ボイルと硝石に関して論争した。

1662年 エチカの執筆を開始(30歳)。

1663年 最初の著作『デカルトの哲学原理』が出版される。

スピノザは「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」を、「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈した。

1664年 オランダ共和派のヤン・デ・ウィットと親交を結ぶ。デ・ウィットはオランダの事実上の政治指導者(ホラント州法律顧問)であった。

1670年 匿名で版元も偽って『神学・政治論』を出版した。

超越した存在者を一切認めないと表明。国家の目的は個人の自由にあると主張する。

未完の「国家論」では、国家は専制政治を避け、国民の平和と自由を保持しなければならないとし、そのための方策を論じている。

1672年 盟友ウィット、対英仏戦争で民衆の怒りを買い虐殺される。スピノザの身辺も怪しくなる。

1673年 ハイデルベルク大学教授に招聘されるも辞退。

1674年 『神学・政治論』が禁書となる。

1675年 執筆に15年の歳月をかけた『エチカ-幾何学的秩序によって証明された』が完成。弾圧の恐れから出版を断念。

1676年 ライプニッツの訪問を受けたが、共感するに至らず。

1677年2月21日 スピノザ、肺病のため療養先で死去〈44歳〉。遺骨はその後廃棄され墓は失われる。

1677年 「エチカ」が友人の手により刊行された。

この度の地震で一番怖かったこと、それはブラックアウトの再現だ。
この半年で、致命的打撃の可能性は一挙に現実化した。
それは北電に対する信頼性が地に墜ちたからだ。
この1ヶ月で東区の約10分の停電、北区の停電、夕張の停電と大規模停電が相次いだ。
その挙げ句に今回の地震だ。
電力インフラの脆弱性への不安はますます現実的になっている。
一番怖いのは、9月のブラックアウト以来、これだけの相次ぐ事故に対して、北電が一度も謝罪していないことだ。
悪いと思っていないということは、またやるつもりだということだ。
以前、JR北海道のトンネル火災事故のネット調査をしたことがある。あの時感じたJRの無責任ぶりがそっくりそのまま北電にも映されている。
端的に言えば北海道は内地ではないのだ。囚人労働や朝鮮人・中国人の強制労働で作った土地だ。人の命の値段は内地に比べて8割くらいだろうと思う。

死ぬときは内地で死にたいと思う。
それはともかく、こんな企業に原発は運営できない。これははっきりしている。現に9月の地震で外部電源は全停止したのだ。「自家発電でしのぎましたから、ご安心くだいさい」といっているが、自家発電しかなくなってしまった状況については説明も謝罪もない。
こういう人は性犯罪者と同じで、反省がないから累犯性が高い。
北海道の特殊性からいって、企業としての採算が非常に厳しいのはよく分かる。だから無理を言うつもりはない。しかし身の丈に合わせてやってもらうことは大事だ。
80歳すぎの後期高齢者がジェット機を操縦するのだけは止めてほしいのである。

迷信家たちは、徳を教えるよりはむしろ罪悪を非難することを得意とする。
彼らは人々を恐れによって抑えておこうと努める。
迷信家たちは、その先に何も持っていない。
ただ自分たち以外の人を、
「自分たちと同じようにみじめなものにしておこう」と思い込んでいるだけだ。

(彼を破門したユダヤ教のレビたちへのメッセージ)

デジタルアーカイブ 事始め 1

「デジタルアーカイブ」でグーグル検索すると、以下のような候補窓が開く。

デジタルアーカイブ_Google
「それで、いったい何を知りたいのだ?」と問い返されている気分だ。
私としては、前にも書いた「デジタル位牌」、あるいは「デジタル墓碑銘」みたいな物を作りたいのと、それを社会的に組織してみたいという夢があるのだが、それはいまのところ「夢想」に過ぎない。
まずはもう少し「ノウハウ」を勉強してみたいのだ。(そういえば最近は「ノウハウ」という言葉を使わなくなったなぁ)

まずはウィキペディア。
デジタルアーカイブ(以下DA)とは、博物館・美術館・公文書館や図書館の収蔵品を始め有形・無形の文化資源(文化資材・文化的財)等をデジタル化して記録保存を行うこと。
というのが基本で、つまりは図書館活動の一環ということだ。それは図書館の勝手であり、それだけの話しだ。

が、我々にとっては、文化資源がデジタル化することで、インターネットを経由して情報が得られるようになることのほうがはるかに重要だ。

インターネットでアクセス可能ということは、第一に無料であること、第二に手続き不要であること、言い換えれば匿名で使用できること、第三に複写・複製の制限がないことである。

率直に言えば、ネットで利用できないデジタル化は無意味だ。つまりネットで無制限にアクセス可能な文化資源のみをDAと言うべきだ。それ以外は“アーカイブのデジタル化”として論じるべきだろう。

そこで、現状としてはどこまでDAが広がっているのか、それはリアルアーカイブとの格差を縮小しつつあるのか、「DAリテラシー」のためのミニマムはどういうものか。
…というあたりを、基礎知識として確保したい。

いつまでもグーグルに独占させておくこともあるまい。そろそろ、DAに特化した検索エンジンができても良さそうな気がするが。
(個人的には見出し語にPDFとつけて検索している。これで大抵のものは引っかかるが、HTMLファイルを見逃すという弱点がある)

とりあえずこれで記事1回分にする。


デジタルアーカイブ 事始め 2

つぎはデジタルアーカイブ学会のサイト。

不思議なことに、ここには読むべきアーカイブは存在しない。
ただDAの当事者の抱える問題意識は「第3回研究大会 企画セッション」に示されている。

そのセッション名を列記しておく。

セッション (1) 記憶を集める・公開する―まだ存在しない「アーカイブ」を考える

デジタルアーカイブ構築の議論がさかんだが、技術への関心に先導され、「誰の」「どんな記憶を」「何のために伝承していくのか」という論点が置き去りにされている。
ボトムアップでアーカイブづくりを行う「イメージ」を作り上げたい。

セッション (2) デジタルアーカイブと東アジア研究

そういうセッション

セッション (3) デジタルアーカイブ推進法を意義あるものにするために

多少生臭い話

セッション (4) 災害資料保存とデジタルアーカイブ

大規模災害に際して、被災した資料をレスキューする活動がある。デジタルアーカイブ関係者がその最前線の活動にどのようにコミットするか。
とりあえず行政的課題でしょう。

セッション (5) 日本文化資源としてのMANGAをアーカイブする〜京都/関西における活動と課題

予算が取れそうなプロジェクトですね。

セッション (6) アーカイブの継承

これはデジタルであるか否かを問わず、いちばん大事なセッションです。

「デジタルアーカイブの黎明期から課題になっている、デジタルアーカイブの消滅と継続性、という問題に焦点をあてる」のだそうです。

この、もはや哲学的とも言える問題について、少し考えてみましょう。

アーカイブというのは「情報」という無形の財産を、「記憶遺産」として捉えたときに生まれる考え方です。

このまま滅びさせたくないからアーカイブ作りをするのに、そのアーカイブそのものが消滅してしまうんでは話しになりません。

去年だったか、孫を連れて「リメンバーミー」というアニメ映画を見に行きました。
えらく哲学的な映画で、「人間は二度死ぬ。一度目は肉体的に滅びる。そして二度目は、その人を憶えている人が誰もいなくなったとき、その時に精神を失う」というのです。
これはメキシコの古くからの言い伝えだそうです。

人は死ぬことは受け入れるが、自分が生きていたという証拠は残したいものです。しかしそれも無駄なことかもしれません。


デジタルアーカイブ 事始め 3

こんなことをいくらやっててもらちが明きません。

いま日本にDAと呼ばれる資源がどのくらいあるのか、どんな物があるのか、そのうちで公開されていてアクセス可能なものはどれくらいあるのか。

その話が書かれているのが下記の記事です。



で、国会図書館のリサーチ・ナビに掲載されています。

図書館や美術館・博物館、文書館などの所蔵資料や所蔵品のデジタルデータをデータベース化したものを一般的に「デジタルアーカイブ」と呼んでいます。

ということで「利用がしやすいDA」が一覧表になっているが、これが意外に少ない。

1. 国立国会図書館
2. 公立図書館
青森県立図書館  デジタルアーカイブ
大阪市立図書館デジタルアーカイブ
3. 大学図書館
東京大学 総合図書館
千葉大学 千葉大学附属図書館
九州大学附属図書館
京都大学京都大学図書館機構
島根大学附属図書館デジタル・アーカイブ
4. その他
国立公文書館デジタルアーカイブ
新日本古典籍総合データベース 国文学研究資料館

これだけだ。国会図書館はDAを相当狭く解釈しているようだ。国会図書館に限らず既存の図書館系DAはいわゆる「お宝画像」や「地域史」のアップに集中している。どうも私の考えたDAとは目指す方向が違うようだ。
私が考えているのはグーグルブックスや青空文庫に載るような普通の書物で、かつ「遺産性」の高いものだ。
各大学が力を入れ始めたリポジトリのようなものを、単行本くらいのボリュームで開示してくれるものがほしい。神田の専門書中心の古書店がまるごと収まるようなものだ。これはある程度公的な支えがないと不可能と思う。
現在のところ、「アジ研」(ジェトロ)のサイトがそういう目的に最もかなったサイトだろうと思う。

篠田さんのM7aハプロ論におもう

2019年02月17日 南九州の先史時代 で、蛇足的に付け加えたのだが、やはりもう少し言っておかないと気がすまない。

篠田さんはM7aハプロを使って日本人南方由来論を展開したがっているようだ。

1.ミトコンドリアDNAの方法論的問題

我々は日本人がどこから来たかを巡って議論している。

それは日本人の祖先がどうやって日本にたどり着いたかという問題でもあるが、そうやってたどり着いた人が、どのようにして生き延びて現代までつながってきたかの問題でもある。

後者の問題はゲノムをいじっているだけでは解決できない。だから前者の問題は意味がないと言っているわけではない。
ゲノムだけで分かった気になってはいけないということだ。ゲノム屋さんにはとかくそういうところがある。

もう一つはミトコンドリアDNAは民族の移動を語るには原理的に不向きだということだ。これはY染色体に比べてという相対的なものだ。

この問題は全ゲノム対象の分析においても同じだ。正確といえば正確だが、その分ノイズが入ってくるからむしろ間違いが持ち込まれる危険性もある。

まずはY染色体ハプロがファーストだ。これがもっともシンプルに個体のルーツ、社会グループの傾向と本質を明らかにしてくれる。

ただし、Y染色体には弱点がある。古人骨からの採取がほぼ不可能だということである。この点でミトコンドリアDNAは適応範囲がはるかに広いので有利である。

もう一つは一つの社会グループの男女関係を明らかにしてくれる。

Y染色体が移動するゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは移動したがらないゲノムである。Y染色体が殺し殺されるゲノムとすれば、ミトコンドリアDNAは生き延びるゲノムである。一つの社会グループを構成するY染色体とミトコンドリアには対応関係がある。

これが崩れてきたときは、そのグループに大きな質的変化があたことを示す。その典型が戦争であり、他民族の侵入であり、支配である。

例えばアイヌの男性はほぼ純粋な縄文系であるが、女性の半分はニヴフ系である。つまり3対1の割合で混じったハイブリッドである。

この混血は、縄文人がニヴフの居住地に侵入したことから生じたと判断できる。

これはY染色体を主に、ミトコンドリアを従にして考えれば容易に得られる結論である。

ただY染色体にはサンプル数が少ない、古人骨に遡れないという決定的な欠陥があるため、適用範囲におおきな制限がある。そこはミトコンドリアを上手に組み合わせていく他ないのである。

2.M7aハプロとC1ハプロ

ミトコンドリアDNAのM7aハプロはY染色体のC1ハプロと対応する。

C1の経路はミトコンドリアM7a よりはるかに単純明快である。

C1はアフリカ東部のY染色体アダムから分岐している。AとBはアフリカに残った。CとDは紅海をわたりオマーンにエデンを形成した。その後5万年前ころにともにアジアを目指して出発した。

そのうちでもっとも先陣を切って東アジアに入ったのがC1人であり、その一部は朝鮮半島を経由して4万年前ころに日本にまで到達した。
つまりC1人は現生ホモ・サピエンスの中でもっとも由緒正しい系統のグループである。

それが今なぜ日本にだけいるのか。答えはかんたんで、他が絶滅したからだ。

篠田さんはスンダランドとか島伝いとかいろいろ言うが、そんなのは関係ない。誰もいない大地を、みんなでひたすら東に向かえば、誰かがいつかは日本に着くだろう。それだけの話しだ。

3.ナウマン人のその後

C1・M7a人はナウマンゾウを追って日本に来たものと思われる。以下、便宜上ナウマン人と呼ばせてもらう。

ナウマン人は最終氷期のピーク、2.5万年前まで日本の旧石器人のほぼ全てであった。彼らは九州全土にもまんべんなく分布したが、圧倒的に多かったのは関東平野である。

その関東平野の旧石器人は一旦ほぼ消滅する。理由は今のところわからない。ナウマン象の絶滅、寒冷化による植生の変化、ひょっとすると华山 の噴火などがあったのだろう。

そのかわりに北方からの別の旧石器人が入ってきた。そして彼らが旧石器人→縄文人の主流となっていく。ナウマン人の生き残りは北方からの旧石器人と融合し生き延びた。彼らの罠・落とし穴猟による小動物の確保術は共通化された。

そのときにあっても、南九州のナウマン人は北方人と一体化しなかった。
彼らは種子島、屋久島まで逃げのび、そこで命をつないだ。

やがて最終氷期が終わり、針葉樹林は北方に去り、落葉広葉樹林が広がり、さらに1万年前辺りからそこは照葉樹林帯へと変化していく。

4.ナウマン文化から縄文晩期文化へ

南九州縄文文化は縄文草創期に花開いた後、鬼界カルデラの噴火により消滅する。

以下は妄想である。

海洋民族化していた彼らの一部は北部九州に移動し、北方人の縄文文化と融合して縄文晩期文化へと発展して行った。

さらに北部九州から朝鮮半島南岸へと逆進出し、中国渡来民とともに「葦原中国」の形成に預かった可能性もある。

弥生式土器は、元は南九州縄文人の隆帯文土器の流れを引き継ぐものかもしれない。

隆帯文土器

前置きが未だ長くなりそうなので、年表部分は別扱いとしました。

約3万5千年前 後期旧石器時代初頭 種子島立切(たちきり)遺跡。日本国内最古の調理場跡が発見。礫石器で植物性食物を加工し、炉や礫群で調理をおこなう。

3.1万年前 石蒸し焼きを行った焼土跡・礫群が出土。局部磨製石斧,台形様石器が各地より出土。種子島の大津保畑落とし穴群。
縄文銀座

3.1万年前 後期旧石器時代 最終氷期最寒冷期の直前に姶良カルデラの巨大噴火。
噴出量450 ㎞3の超巨大噴火で、吹き出した火砕流が九州全土を覆い、厚さ最大100mほどのシラス台地(種Ⅳ火山灰層)を形成した。九州の植生は1000年回復しなかったといわれる。(カルデラの噴火時期は文献により相当の違いがある)

26000年前 石刃技法とナイフ形石器が拡大。この頃、北方由来の旧石器人種に交代?

旧石器分布
    旧石器時代の遺跡分布

2.5万年前 最終氷期最寒冷期。(ウルムの表記についてはここを参照のこと)

2.4万年前 姶良カルデラの大爆発・入戸火砕流。(AT火山灰)

2.1万年前 沖縄・港川人の出現。
南九州の早期縄文文化を担った人たちはミトコンドリアDNAのハプログループM7aだった可能性がある(篠田)。またY染色体はC1グループの可能性がある(崎谷)。ということで、港川人と縄文人には血の繋がりなし。
2万年前 帖地遺跡(喜入町)。磨製石器9点。仁田尾遺跡(鹿児島市)の古層よりナイフ形石器。

1.5万年前 細石刃文化が日本列島全体に広がる。

1.5万年前 暖かい黒潮が温暖化とともに日本列島に近づき始める。植生は針葉樹林帯から落葉広葉樹林へと変化。

1.5万年前 旧石器時代末期 上場遺跡(出水)、水迫遺跡(指宿)など。ここまでの旧石器時代末期の各遺跡の年代は相当誤差があり、事実上同一時期として幅を持って見ておいたほうが良い。

1.3万年前 縄文時代草創期第一段階。仁田尾遺跡、加栗山(かくりやま)遺跡、加治屋園(かじやぞの)遺跡、榎崎(えのきさき)遺跡、など。叩き石・麿石を用いた植物食利用、細石刃石器群、大型石斧など。

磨石というのは世界的には新石器の範疇である。日本には新石器時代はなかったとされるがどうなのか。
縄文時代とされるのは、土器が出てくるからであるが、それは「縄文式」土器ではない。本州に縄文式土器が出現するのは1,1万年前以後であり、この間、南九州は隔絶的な進歩を遂げている。

1.2万年前 氷河期が終了し間氷期へ入る。まず種子島、ついで南九州で照葉樹林が現れ、生のまま食べられる木の実も豊富になった。

1.2万年前 縄文時代草創期第二段階。栫ノ原(かこいのはら)遺跡など。縄目文様ではない貝殻文様の土器と木を伐採するための磨製石斧が出現。
栫ノ原遺跡は夏用の定住集落と言われる。煙道付き炉穴と調理跡(石皿・磨石)が有名。

1.15万年前 桜島の大爆発。火山灰層は「薩摩Sz-s」と呼ばれる。これが縄文草創期と縄文早期の境界となる。

1.1万年前 種子島の三角山、奥仁田で隆帯文土器が大量出土。

1.1万年前 東黒土田遺跡(志布志)。どんぐり貯蔵穴の設備、隆帯文土器が出土。

1.1万年 掃除山遺跡で2棟の竪穴住居跡が発見。炉穴、植物食料の製粉具である磨石などが出土する。
鹿児島遺跡地図

9500年前 上野原(4工区)遺跡。日本最古の大規模な集落遺跡。46軒の竪穴式住居。他に加葉山遺跡、前原遺跡など。前平式土器、巨大落とし穴、土偶などを特徴とする。黒曜石は北部九州から移入される。

九州の縄文遺跡で出土する動物の骨は9割以上がイノシシと鹿である。ほかにヤマネコ、狼、カワウソなど小動物である。おそらく住民が食するには不足していたであろう。

9000年前 桜島噴火。このあと上野原3工区遺跡が拓かれる。

9000年前 南九州本土で植生の変化が見られる。それまでの落葉広葉樹から照葉樹林帯へ。

8000年前 縄文早期の中葉 九州北部が東日本の縄文文化の影響圏に入る。

7500年前 縄文早期後半 南日本から竪穴式住居が消失。気候が亜熱帯化したためと言われる。

7500年前 上野原遺跡で 初の壺型土器が作られる。

6300年前 海底火山「鬼界カルデラ」の大噴火。アカホヤとも呼ばれる。噴出量170 ㎞3以上で九州南部の縄文文化は壊滅した(佐原)。日本全土での縄文早期と前期の境界となっている。

南九州の火山
             南九州のカルデラ

南九州の旧石器~早期縄文時代

以前、鹿児島県の上野原遺跡について書いたことがあった。
我が国で最も古い集落遺跡で、九州でも最大級のものだというのが謳い文句で、脇見出しで、「東日本中心の縄文史観に一石」みたいなことが書かれていた。
一応記事は紹介したのだが、なんとなく喉に引っかかる感じで、素直に受け入れるというところまでは行かなかった。

それとともに上野原遺跡がどちらかといえば観光プロパーで取り上げられ、かえってその核心的意義を外してしまっているのではないかと危惧していた。

ところが調べるにつれ、南九州の縄文というのはすごいなということがわかってきた。
下記は種子島における旧石器時代から縄文草創期にかけての遺跡の一覧である。これだけ見ても種子島が日本創生におけるひとつの生誕地であることがわかる。ことほど左様に南日本の歴史上の意義は大きい。

遺跡一覧

この度、南日本新聞社が発行した「発掘!! 上野原遺跡」(平成9年)を読んで、かなりそのもやもやがスッキリした。それだけでなく、鹿児島でこの間に発見された縄文遺跡群が歴史を書き変える程の意義を持っていることを知り、驚かされた。
なかなか手に入りにくい本だと思うが、ネット古書店などで探してみてほしい。

1.南日本文化は日本列島が氷河期を抜け出すにあたって日本最初の人類文化の夜明けを告げた。

日本の旧石器時代は、確認しうる限り4万年ほど前から始まった。それから2万年の間、旧石器人は語るほどの文化を持ちえなかった。
2万年前の遠軽の黒曜石採掘をもって、人類と呼べるほどの歴史遺産をようやく残すようになった。
そんな縄文時代草創期において、南九州は全国に先駆けて、旧石器時代の寒冷乾燥気候から温暖湿潤な気候に変化した。このような生活環境の変化は、南九州に独特な文化をもたらした。

2.南日本文化は本土縄文文化とは異なる発達を遂げ、従来考えられていた草創期縄文文化の枠を超えていた。

それらは縄文時代草創期から早期にかけて,日本列島の他地域より先駆けて、植物質食料に依拠する生活様式を形成した。

3.南日本文化は度重なる火山活動の被害をくぐり抜けてきたが、7千年前の鬼界カルデラの噴火をもって基本的に消滅した。しかしそれは伏流水となって九州北部の縄文晩期文化に引き継がれた可能性がある。

これらの特徴を捉えるならば南日本の先史文化を「縄文時代」と括ることにそもそも無理があるのではないかとも思えてくる。

なお付言すれば、南九州では桜島などの大噴火による火山灰の堆積が、絶対年代研究に重要な手がかりを与えている。
M7a
      篠田さんによるM7aハプロの分布図
もう一つ、これはゲノム屋さんの風呂敷の範囲内の話だが、日本における2つの原縄文人である北方系と南方系(わたしの命名ではマンモス人とナウマン人)の関連についてもいくつかの示唆を与えてくれている。ただしM7a分布の読み方については篠田さんの意見には賛同できない。

ということで、縄文史学は、鹿児島の遺跡群の発掘以前と以後でまったく姿を変えたのである。少なくとも私の認識は一変した。


前置きのつもりが長くなってしまったので

は別記事としました。

葦原中国(あしはらのなかつくに)から豊葦原瑞穂の国へ
高天原グループの態度豹変

天孫降臨に前後してのことだろうが、葦原中国に対する呼称がコロッと変わる。豊葦原瑞穂の国は正確に言うと豊葦原千五百秋瑞穂の国(ちいほあきのみずほのくに)だ。

価値観が180度転換するのだ。

価値観を転換したのは記紀につながる権力者たち、すなわち天孫族(高天原系列)である。けっして葦原中国の住民ではない。
なぜ転換したか? それは他人の土地だったのを自分のものにしたからだ。


葦原中国は蔑称

「葦原」とは海辺に葦が生い茂り、葉がざわざわと無気味にさわぐ未開の湿地を示す。出雲に限定された地名ではない。

日本国の美称とする解説もあるが、もとは美称どころではなく蔑称に近い表現だろう。
この辺の機微を世界大百科事典 第2版の解説がきわめて適切に表現している。
そこは天上界、地下の黄泉国に対する中間の世界、つまり人間界をさす。
そこはまた人間生活の中心地に対する野蛮な周辺部でもあり,死者が住むとされた山や原始林地帯との中間の地でもあった。
そこは荒ぶる「国つ神」が蟠踞する、混沌とした無秩序の世界であった。
つまり、それは天上界が人間界を指す蔑称だった。「葦原中国」は天上界の人間界に対する侮蔑の表現だった。だからこそ天孫たちはそこに干渉し、侵略し、略奪するわけである。

長江からの渡来民が不毛の湿原を美しい稲田に変えた

この地域には紀元前2千年ころから、漁労民族がまばらな集落を形成しながら暮らしていた。後に晩期縄文人となる人々である。人種的由来は今のところ不明である。

そこに山東半島から黄海を越え朝鮮半島に渡った人々が南下してきた。長江流域で稲作文明をになった人々が漢民族に押されるように移動してきたのである。2つのグループの生活テリトリーは競合せず、平和共存が始まった。

これまで不毛としてきた葦原が水田となり辺り一帯が「豊かな瑞穂の国」となった。やがて米作はより環境の適した九州へと広がっていった。


天孫族は美田を奪い、それから褒めそやした

湿原の民を軽蔑していた高天原グループだが、葦原中国の繁栄に注目するようになった。
そしてさまざまな軋轢の末に、葦原中国のすべてを手に入れ支配することとなった。

彼らの心中において貧しい未開の地であった葦原中国は、天孫の統治するにふさわしい五穀豊穣の「水穂国」へと捉え直されるようになる。

衆院予算委員会での志位委員長の質問は胸のすくものであった。
ところで
帰属家賃の問題で、茂木経済財政担当大臣がほぼほぼ横槍答弁といえる不規則発言を行っている。
おそらく志位質問でこの話が出てくるのを知って、事務方で準備したのであろう。
とくとくと喋って、野田委員長から注意を受けている。
中身はまったくの揚げ足取りだ。帰属家賃を家計消費支出から抜いたことについて、質問趣旨と関係ない反論をながながと語るだけだ。

帰属家賃はまったく架空の支出で、国際比較上入れているだけの数字だ。
国内で経年比較する際には、むしろ事実を捻じ曲げる可能性がある。だから入れないほうが良いのである。

世界百科事典ではこう書かれている。
ある財を生産するための費用は,その財を生産したために蒙ったこのような犠牲の大きさではかる。
たとえば自分の持家に住んでいる人は,自分の家を他人に貸した場合に得られるはずの家賃収入(帰属家賃)を犠牲にしているので,その分だけの住居費がかかっている,と考える。これが機会費用の概念である。…
つまり、不況下であっても住宅バブルになれば上がってくる数字なのだ。
したがって、家計支出が下がっているにもかかわらず帰属家賃があっているのなら、それは貧富の差が進み、住宅バブルが進行したことの表現なのだ。

だから質問の趣旨に真摯に答えようとするなら、茂木大臣はこう語るべきだった。もちろん語ろうとはしないだろうが…
家計消費支出が消費税引き上げ後も伸びているように見えるが、これは「帰属家賃」という架空の支出が増えただけであり、消費の実態としては志位さんの言うように縮小している。
「帰属家賃」が増えたのは、内需縮小の結果住宅バブルが進行し、家賃が上昇したからである。それは富の一部階層への集中が進んでいることの反映である。
このことについては一度、茂木大臣を糺しておくべきであろう。


なんとも安直な勉強法で、まことに恥ずかしい限りだが、「日本神話・神社まとめ」というホームページにある「日本書紀」の現代語訳を読ませてもらっている。
そんな勉強で一端の口を利くというのもふざけた話で、年寄の妄想と思いながら読んでもらえるとありがたい。

それにしても我ながら驚いた。
日本書紀の記載を一つ一つ読んでいるだけで、まったく通説と異なるストーリーが浮かび上がってくるのだから…

狡猾で冷酷な独裁者としてのアマテラス、夫婦で作り上げた王国をアマテラスに蹂躙されオロオロするばかりのイザナギ、そして高天原王国に敢然と立ち向かい、最後まで抵抗をやめなかった英雄スサノオ…

舞台は小白山中の高天原、大八洲に囲まれたイザナギ・イザナミの豊葦原の国、さらに海を渡り筑紫、宗像、出雲と展開していく。

1.高天原は智異山だ

「高天原は智異山だ」というのが、私の以前からの考えである。智異山という根拠はあまりない。小白山地の何処かだということだ。つまり楽浪郡と三韓の境界ゾーンだ。
時期としては、おそらく紀元前200年から100年の間だろう。この頃衛氏朝鮮が漢の攻撃を受け滅びた。その残党が三韓側に逃げ込んで亡命政権を建てたのではないか。
彼らは朝鮮半島に影響力を拡大し、支配下においた。

2.高天原伝説とイザナギ伝説

神代説話は明らかに2系統ある。一つは高天原説話で、道教(中国北部)につながる垂直思考だ。
もう一つはイザナギ・イザナミのたゆとうて行く海洋系神話だ。
これまで私は高天原が天孫系のルーツで、イザナギ系が在来系のルーツと考えてきたが、それではどうにも説明がつかないほどに2つの説はもつれ合っている。

この2つの系列はともに渡来人のものであり、2つの渡来人の系統が朝鮮半島南部でからみ合い、絡み合った姿のまま日本に渡来したと見るほうが適当ではないかと思えるようになった。

3.大八洲は朝鮮半島南岸地帯

衛氏朝鮮人が峠を越えて大同江を眼下に臨んだとき、そこには晩期縄文人(日本全土に分布する縄文人とは別人種)と長江文明を引き継ぐ米作人が混住していた。この社会を南岸人と呼んでおくことにする。

そこにはオノコロ島、淡路島、その他の大八洲を形成するだけの島嶼が散在していた。そしてそれらの島々に囲繞されるようにして葦原中国が広がっていた。彼らの一部は渡海し、九州北岸に同種の文化を形成しつつあったが、本体はあくまで半島南岸にあった。
大八洲に日本の島々を当てはめるのは基本的には後知恵であり、実際に作業してみれば分かるようにかなり破たんせざるを得ない。

日本神話で日本の国土と思われてきた多くの地域的広がりは、じつは半島南岸を中心としていたのである。何も日本の地理に無理やり当てはめる必要はないのである。

4.葦原中国こそ原日本人のルーツ

これらのストーリーから生まれてくる原日本人像がある。それは対馬海峡を挟んで両岸に展開した「晩期縄文人」という名の海洋民族、そして山東半島→楽浪→大八洲と流浪の旅を続け米作文化をもたらした長江人、これが奇跡的なほどに混ざりあって出来上がったのが、日本人の原像としての「弥生人」だ。

両者のミキシングがこれほどまでに進行した理由は、高天原グループ=天孫族への共同の抵抗ではなかったのだろうか。たしかに天孫族は日本の政治システムを握り民族を支配した。しかし天孫族は日本人のDNAにほとんど影響を与えていない。何よりも驚くのは日本語という言語の形成過程にすらほとんど影響を与えていないということだ。

5.イギリスでも同様の事態が

最近のイギリス人の研究も同様の傾向を示している。イギリス人(イングランド人)はアングロサクソン人を自称してきたが、そのDNA的骨格から言えばアングロサクソンではなくあえて言えば“ケルト人”なのだ。デーン人やノルマン人の血はほとんど混じっていない。

DNAだけが人類のあり方を規定するわけではないが、アングロサクソンのDNAを誇りにしてきたイングランド人にはかなりショックだったろうと思う。




最初に「いくつかの結論」を書いておきます。
1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。

「神代上」全体の構成

「神代上」は天地開闢から始まり、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)が豊葦原中国に降臨するまでの経過だ。

ここに登場する神々には、大きく言って3つの系列がある。

A)造化三神の系列

B)高天原系列

C)イザナギ・豊葦原系列

肝心なことは、豊葦原中国への降臨が「神代上」の最後だということである。
つまりそれより以前の記載は、すべて朝鮮半島での出来事だということである。人名・地名も朝鮮のものである。
なぜなら、日本書紀・古事記は、基本的には朝鮮半島からやってきた高天原系列の征服譚だからである。国内のあれこれの地名に比定した記述は、すべて後世のものと考えるべきである。
征服者は高天原系列の直系であるが、朝鮮南部でイザナギ系と混交して一つの社会を構成し、その後に日本に侵攻したものと考えられる。
日本に先着したイザナギ系の傍流としてスサノオ系、宗像系がある。

なお古事記との異同をチェックしながら読んでいるが、基本的には違いがない。日本書紀が丹念に「一書」(異説)を汲み取っているので、神代に関する限り、わざわざ古事記を参照する必要はなさそうだ。


A)神代七代: 造化三神の系列

北欧的・形而上学的な三位一体が語られ、それらの所与に照応して3人の神が登場する。
想像するに、これは明らかに漢文化の影響を受けた衛氏伝承であろう。しかしこの天地開闢説話は、その後につながらない。
天が先に生まれ、 次に地が固まりました。その後、その中に神が生まれました。国常立尊(クニノトコタチノミコト)、国狹槌尊(クニノサツチノミコト)、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)の三柱です。
「一書」では、国常立尊に先行する神、可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコヂ)が挙げられる。


C) イザナギ・大八州系列

本来であれば、登場順に高天原系列を記述すべきであろう。
しかし高天原系列は相当後の五段になってから、イザナギの後継として本格登場するのである。

それまでは一段における下記の「一書」の記述のみである。
高天原に生まれた神が天御中主尊(アメノミナカヌシ)です。次に高皇産靈尊(タカミムスビ)。次に神皇産靈尊(カミムスビ)です。 

高天原神話が天地開闢神話と無関係に挿入されるのは、高天原が別系統の口伝であることの表現ではないか。なおアマテラスのところに出てくるタカミムスビとの異同は不明。

それで造化三神に始まる神代七代のあと、系譜は途切れる。これに代わり登場するのがイザナギとイザナミである。
神代七代とは関わりのない別系統で、高天原を含めた神代七代が、北方系・大陸系の印象があるのに比し、海洋系(すなわち別人種)の印象が強い。
「一書」で、イザナギとイザナミの二神は高天原に座って、アメノヌボコでかき回すとオノコロ島が出来ました。
とされているが、このあとイザナギと高天原との直接関係を示唆するような記載はない。無理やりくっつけたものであろう。

解説によると、柱の周囲を回って夫婦となるという話はミャオ族にもあるそうだ。南方系・海洋系と言うだけでなく、長江文明系という言い方もできるのかもしれない。

この夫婦は世界中のあらゆるものを生み続けていく。神代七代ってなんだったんだ? と言いたくなるほどの勢いだ。

1.大八洲

二人の作ったうちで最大のものが大八洲ということになる。
大日本豊秋津洲(おおやまととよあきづしま)、伊予二名洲、筑紫洲、億岐洲(おき)、佐渡洲、越(こしの)洲、大洲(おおしま)、吉備子洲(きびのこじま)とされる。
流石にこれでは辛いので、古事記は都合よく改作しているが、その分無理筋がバレバレだ。

素直に考えれば「そりゃぁ日本列島とは違うでしょう」ということになる。そもそも当時の人に本州を四海海に囲まれた島と考える能力が果たしてあったのか。

率直に言おう。大八洲は朝鮮半島南岸沖に並ぶ島々の主たるものを列挙したものだ。当然オノコロ島も朝鮮だし高天原も朝鮮だ。
大八洲

2.第五段 イザナミの死とイザナギの冥土巡り

第五段の本論はあの冥土巡りの話である
イザナミは火の神を生んだときに、その火に焼かれて死んでしまいました。 イザナギは火の神を切り刻み、そのピースがみんな神になって行きます。
イザナギはイザナミの跡を追って黄泉の国に入りました。イザナミの体にはウジ虫が這いまわり、膿が噴出していました。 
イザナギは大急ぎで走り去りました。
以下の「一書」は地名が気になるが、とりあえずそのまま。
イザナギは黄泉の国から帰ってくると筑紫の日が当たる小戸橘(オトタチバナ)の檍原(アハギハラ)で禊(ミソギ)をしました。 

B) 高天原系列

第五段の主題は上記にあるのだが、ここには見逃せないテーマがもう一つある。それが高天原系列の天照大神の挿入である。

国生み作業の終盤になってから、イザナミはアマテラス3兄弟を生む。アマテラスは「一書」では大日孁貴(オオヒルメノムチ)で、またの名を天照大神ということになっている。

これは明らかにイザナギ系列の神話に高天原系列が挿入されたものであろう。日本書紀の作者の仕業か、それともその前か? これで三度目だ。

1.天下=葦原中国

イザナミが死んだあと、イザナギが3兄弟に指示する。
天照大神は高天原を治めなさい。 月読尊は蒼海原を治めなさい。 スサノオは天下を治めなさい
天下というのは「葦原中国」を指す。これがよくわからない。固有名詞のようでもあるし、一般名詞のようでもある。
ずっと後代に出雲王朝の領土が葦原中国と呼ばれるが、それは彼らが出雲平野を葦原中国と呼んだだけの話である。

天界が高天原,地上界が葦原中国,地下界が黄泉国という3層の神話的世界構造があるとも書かれている。
黄泉の国までふくめるかは別として、世界が2つに分かれていることは間違いないようだ。そしてイザナギ・イザナミが勤しんだのはこの世である地上界を作ることであった。

であればイザナギが指示したのはスサノオに天下=葦原中国を治めることであっただろう。
しかしスサノオはこの指示を受けなかった。イザナギはスサノオを追放した。やがてイザナギも隠居し、死んだ。

これで話は終わるのである。しかし実はイザナギがスサノオを追放したのには理由があった。


2.アマテラスの葦原中国の簒奪・支配

では統治者を失った葦原中国はどうなっていくのであろうか。
結論から言えば、葦原中国は高天原の支配・収奪する地となったのである。

これは「一書」の世界なので議論としては強引だが、保食神(ウケモチ)殺害説話がその例証となる可能性がある。
以下、少々長い引用になる。
アマテラスは葦原中国の保食神(ウケモチ)の話を聞いた。ツキヨミに様子を伺って来るよう命じた。
ツキヨミは葦原中国に行きウケモチと会い、ウケモチの対応に怒り斬り殺した。
アマテラスはツキヨミを怒り、以後は行動をともにしなくなった。
アマテラスは別の神を送り、人民を生かすための食料を手に入れさせた。

アマテラスは粟・稗・麦・豆は畑の種子としました。稲を初めて植えました。 また養蚕の道が開けました。
つまりアマテラスはツキヨミをそそのかしたあと手のひら返しで排除し、スサノオもいなくなったことから、高天原における唯一者となった。そして同時に葦原中国の支配者ともなったことになる。

アマテラスは葦原中国をたんに略奪するのではなく、産業をになわせ、人民を収奪する立場に至ったのである。(ウケモチは独自の人格ではなく一類型とされるが、アマテラスがのし上がるための契機として特殊性を備えている)

わたしたちはこのような2つの民の関係を、鳥取で見ることができる。それが妻木晩田と青屋上寺地だ。妻木晩田が襲ったとは断言できない。しかし繁栄した青谷上寺地は襲われ、皆殺しにされ、廃墟となった。


3.第六段 「天下」派の逆襲

一連の話はずいぶんきれいごとに書かれているが、高天原派が葦原中国に侵攻し支配権を奪ったことは明白だ。部下に叩かせておいて「まぁまぁ」と止めに入るのはヤクザの親分のルーチンだ。

これから先は私の妄想だが、葦原中国を創設したイザナギとしては、高天原派の跳梁跋扈は面白い話ではない。
一度は後継者に指名したスサノオを追放してまで、高天原勢に譲歩したが、高天原派内の武闘派にスサノオのリザーブである保食神(ウケモチ)を殺され、ついに葦原中国そのものを奪われた。

そこに追放したはずのスサノオが戻ってきた。余談だが、スサノオの居たのは筑紫()らしい。すでに九州北部は天下勢力=葦原中国の重要な植民地となっていて、反抗の拠点と化していたものと思われる。

スサノオが言うには、
わたしは今から(父イザナギの言うとおりに)、根の国に行きます。その前に、高天原に向かい、姉であるアマテラスと会います。それから永遠に根の国に退きます
イザナギはこの申し出を許し、すぐにスサノオは天に向かいました。これってヤクザ映画の世界そのものでしょう。あきらかにスサノオは菅原文太だ。


4.姉弟激突とアマテラスの逆転勝利
アマテラスは、粗暴である弟スサノオが天に昇ってくると聞いて、驚きました。
「きっと私の高天原を奪おうとしている」と考えたアマテラスは重武装でスサノオと対峙した。
アマテラスは高天原系とされ、天神・天津神とされます。一方でスサノオは地祇・国津神系となっています。
対決はゲーム仕立てになっていて、その結果がよくわからないが、とにかく手打ちが行われた。
子供ができて、それを二人で分けたということになっているが、そんなに都合良く産めるわけがない。要するに人質交換協定である。

スサノオは六柱の男神を差し出した。日神は三柱の女神を筑紫に降臨させた。三人合わせて「宗像三女神」である。

日神は3人の出発にあたりこう述べたという。
お前たち三柱の神は天より降臨して天孫を助けなさい。そして天孫によって祀られなさい。
アマテラス、相当のワルである。娘を筑紫まで送った上でエージェントとし、ゆくゆくは筑紫を我がものとするつもりだ。

ともかく人質を相互に確保することで、アマテラス・スサノオの連立政権が成立した。これは実質的にスサノオの勝利だった。
この連立においては、スサノオの息子6人が高天原政権の幹部に入ったことを見てもわかるように、かなりスサノオ側の比重が強化された。

そこでアマテラスは陰湿なデマ作戦で巻き返しを図った。下品なフェイクニュースを撒き散らした。そしてスサノオの人気が地に落ちたところを見計らって、ハンガーストに打って出た。
最後にはストリップのアトラクション付きの反スサノオ集会で客を動員してスサノオ政権の転覆に成功したのである。
これはかなりの勝手読みだが、ベネズエラでの米国と反政府勢力との対決を見ると、「ウンコタレ」と攻撃されるスサノオについ同情してしまうのである。


5.高天原(天孫)系の追撃

高天原チームの逆転勝利が実現した。
八百万の神は話し合って、“独裁者”スサノオの髭を切り、手足の爪を抜いて、追放してしまった。神々はスサノオに、千の台座に乗るほどの宝を提出させた。

確認しておきたい。スサノオには巨大な財があった。それは高天原から収奪したものではない。高天原には自力で獲得したような富はなにひとつない。スサノウの宝はおそらく筑紫の植民地から持参したものであろう。高天原チームはそれを奪い、葦原中国を略奪したのだ。

もう一つ、スサノオはふたたび追放された。どこへ? それは日本をおいて他にない。
第八段本文はこうなっている。
スサノオは自ら天から下って、葦原中国へと落とされた。そして出雲の簸之川(ヒノカワ=肥の川)の川上に降り立ちました。 
なぜ葦原中国からさらに出雲に向かったかについての説明はない。しかし「一書」にはこうある。
スサノオは息子の五十猛神(イソタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。 
スサノオが「この土地に、わたしは居たくない」 と言いました。 それで土で船を作って、それに乗って東に渡り、出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上にある鳥上之峯(トリカミノミネ)に辿り着きました。
なぜ、出雲か? それはもはや新羅も筑紫も安住の地ではなくなったからだ。

6.天孫降臨と高天原派の全一支配

実はその前に出雲の国譲りの話があって、スサノオ一族が“出雲の葦原中国”からも駆逐されるのですが、どうも時期的には合いません。ひょっとすると、スサノオは筑紫から出雲までの「葦原中国」の全体を統括していたのかもしれません。
疲れてきたこともあり、とりあえず省略していきます。

葦原中国(おそらく金官伽耶あたりの海洋民社会)を制圧し、さらにその植民地たる対岸の筑紫をも併呑するというのが高天原グループの狙いだろうと思われる。それは葦原中国側の激しい反感を呼び起こす。
彼の地に螢火のように勝手に光る神、及び蠅聲(さばえなす=騒がしい) 邪神が多くいた。また、草木さえもしばしば言語(ものいう)状態であった。
“草木さえもものいう” 状態というのが素敵な表現だ。上から下まで高天原支配を拒否しているというのがよく分かる。倭はポリス連合に対するアテネのような存在であろうか。

アマテラスの息子は正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊という。この人は影の薄い人で覚える必要はないのだが、この人が高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)の娘と結婚して子をもうける。
これが天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)である。面倒なのでニニギとしておく。

タカミムスビはなかなかの策士で、外孫のニニギを葦原中国の君主にしようとはかった。この場合の葦原中国は海の向こう倭の地を指している。
タカミムスビは沢山の神々を集めて、葦原中国の邪神を追い払って、平定したいと呼びかける。倭からスサノオ派を一掃しようということだろう。

提案は認められ、アメノホヒが葦原中国に送られた。しかし3年たっても平定できなかった。アメノホヒの子のタケミクマノウシが送られたが、彼もだめだった。

一書では(古事記も)
アマテラスは天稚彦(アメノワカヒコ)に命令しました。
豊葦原中国はわが子オシホミミが納めるべき土地です。お前がまず行って、平定しなさい。
天稚彦は国津神の娘たちを妻に貰い、八年経っても高天原に報告しなかった。
けっきょく、經津主神(ふつぬし)と武甕槌神(たけみかづち)が出雲を屈服させた。いわゆる国譲りである。相当手こずったということが分かる。

実は私は誤解していたのだが、すでに九州北部の支配権を獲得していた高天原グループが出雲に国譲りを要求したのだと思っていた。日本書紀の記載では、このとき高天原系は倭の地に全く足がかりを持っていなかったことになる。倭の地の全体がスサノオの影響下にあった。ただスサノオは警戒のために出雲に引きこもり、そこに根拠地を形成していたということである。これが史実と適合するかは、他の文章も参照しなくてはならない。

出雲勢力の恭順を見てオシホミミの子、アマテラスの孫であるニニギが倭に赴くことになる。ニニギは天盤座(アマノイワクラ)を出発し、 日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立った。
そして天稚彦を殺し筑紫を平定した。木乃花咲耶媛のエピソードはニニギの人間性を示す宣伝ネタであろう。それだけ高天原軍は非人間的であったのかもしれない。

なお日向はヒムカと読むようである。下記の文がある。
天津彦彦火瓊瓊杵尊は亡くなりました。筑紫(ツクシ)の日向(ヒムカ)の可愛之山(エノヤマ))のお墓に埋葬されました。
朝鮮半島から降臨したとすると、こちらのほうが感じはつかめる。

いくつかの結論(再掲)

1.その昔、朝鮮半島南岸部に海洋民を主体とする社会があった。大八洲と呼ばれる島嶼に囲まれた湿地帯で豊葦原中国と呼ばれた。

2.紀元前1~2世紀に、北方から漢に押し出されるようにして「天孫系」グループが南下してきた。彼らは飢え、山賊と化し、山城を築きながら葦原系と対峙した。

3.経済的には倭(筑紫など)の植民地を持つ葦原系が豊かであったが、軍事的には漢と接触のある高天原系が圧倒していた。「七人の侍」の野盗集団だ。

4.葦原系は首長ウケモチが殺害される事件をきっかけに蜂起し、亡命から戻ったスサノオを司令官に押したて、高天原系と和議に持ち込んだ。

5.高天原系は陰湿な手法でスサノオを放逐し、高額の賠償金をせしめた。スサノオは葦原中国へ下った後、ふたたび倭へと亡命した。

6.高天原系は朝鮮半島南岸のを手中に収め、さらに倭の支配を欲し、数次にわたり攻勢を仕掛けた。スサノオは出雲に拠点を構え、抵抗を続けた。

7.葦原系の最後の拠点であった出雲も高天原系の手に落ちた。これを受けて筑紫の日向にニニギが降臨した。こうして朝鮮海峡を挟んで両側に“ベストミックス”の階級国家が誕生した。






ベネズエラ情勢をウォッチしていて、これだけ系統的な悪意に出会ったことはない。私ごときシロウトが無知に任せて一方的な意見を言うのとは次元が異なる。専門家としての識見が問われる地位にあるのだが、およそそのような節度や公正さが感じられないのである。

2002年の反チャベス・クーデター未遂事件が起こったとき、ベネズエラの高級住宅街から日本語で反チャベスキャンペーンを流し続けた女性がいた。

クーデターが未遂に終わったあと、しばらくネット上では声を潜めていたが、事の真相を知った後もまったく考えを変えることはなかった。

おそらくは駐在員の夫人として上流階級の思考方法にすっかり染め抜かれたのであろう。

それが2010年ころから、別の女性の声がふたたびけたたましくなってきた。それがこの坂口安紀という女性だ。

どうも影としては重なってしまうのだがどうなのだろうか。


ジェトロの紹介ページを見ると1988年にICUを卒業したらしい。計算上は50歳前後ということになる。UCLAで修士をとってアジ研に入ったらしい。

29~31歳でカラカスに研究員として派遣されている。さらに43歳から2年間、調査員としてカラカスに滞在している。

帰ってきてからはラテンアメリカ研究グループ長となり、アジ研を仕切るようになった。

アジ研に入って最初の論文が1993年の『冷戦後ラテンアメリカの再編成』という論文集の中の「ベネズエラの経済改革と民主主義の危機」という論文である。

読んでもらえればわかるように、相当大胆に政治的立場を押し出す人で、その基本は「白い民主主義」である。おそらくはカラカスの高級住宅街のコンセンサスを代表するようなスタンスであろうと思われる。

おそらく1990年前後にUCLA在学中にベネズエラでの生活を体験したものと思われ、まさしくカラカソ(カラカス暴動)やチャベスのクーデター騒ぎと同時代を生きたことになる。そしてその頃日本はバブルの絶頂にあった。
日本が得意絶頂だったときにベネズエラに入った日本人は、雲の上の上流社会で名誉白人としての地位を満喫したのではないか。

彼女の時代にはすでに、我々のになっていたような学生運動は影も形もないから、貧しい人に寄り添うとか社会の進歩に貢献するとかいう考えは希薄なのかもしれない。山裾を埋め尽くすバラック小屋もカラカス固有の光景なのだろう。

ベネズエラの白い人々の差別意識は、石油成金の常としてただならぬものがある。一昔前には日本人もイエローモンキーで、ベネズエラでは差別と侮蔑の対象でしかなかった。だからベネズエラの日系人は数少ないのだということを理解できないのだろう。

たぶん彼女の政治の枠組みは、白いリベラルと白いコンサーバティブの物分りの良い議論に収斂するのだろう。ただ、時々は自分の肌の色、アジア系の顔立ちを鏡で確かめながら議論を組み立ててほしいなと思う。

ベネズエラ ジャーナリズムの“恥ずべき沈黙”

ジャーナリストである以上、ベネズエラ政府にとってどんなに嬉しくないニュースでもどんどん流すべきである。それを流すのがジャーナリストの義務だからだ。

私はそのことを非難しているわけではない。私が非難するのはこのようにベネズエラ政府の失態を激しく非難しながら、世界の平和と民主主義にとって最大の問題、すなわち米国の干渉、経済制裁、民族自決権の侵害、武力介入の脅しについて口をつぐむことだ。

リマグループの動きは逐一報道するが、セラックの動きは報じない。(CELAC: 全ての中南米諸国33カ国が参加し,2011年12月に発足した組織。将来的な中南米統合を長期的な目標に掲げている 日本外務省HP)

ベネズエラカトリックの意見は尊重するが、ローマ法王の平和の呼びかけは無視する。

ベネズエラ国民がいまなぜ苦しんでいるか。それは米国が経済・金融封鎖を行っているからだ。石油生産を妨害し、商品を売り惜しみして価格を吊り上げているからだ。
ベネズエラがいまなぜ内戦の危機にあるのか。それは米国がベネズエラの軍部にクーデターを焚き付けているからだ。

米国は過去100年、そうやってラテンアメリカの数十の政府を潰してきた。どうしてジャーナリズムはその歴史に口をつぐむのか。

ジャーナリズムはチリのクーデターを忘れたのか。合法的な政府が「経済的な失敗」を口実にして踏みにじられた。そのあと数千人の市民・青年・学生が連れ去られ、拷問され、虐殺された。

それがすべて米国の差金だったことは、今では白日のもとに明らかになっている。

その歴史的事実に、どうしてジャーナリズムは口をつぐむのか。

ジャーナリストはいつの日か後悔するだろう。もし市民とともに報道機関の持ち主の横暴に対決しなければ、そのような「騒々しい沈黙」はテロリズムへの加担に等しいからだ。



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霊長類の進化の歴史は、全くバベルの塔状態である。10本、文書を読むと10種の言葉で10色の歴史が説かれる。これだけひどいと勉強する気も起きない。
とりあえず京都大学のページの霊長類の系統樹を紹介しておく。
Clipboard01
第一に、図を見て分かるのは、霊長類はルーツが曖昧な孤立系だということだ。
氏素性もわからないただの馬の骨なのだ。クオバディスだ。
第二に、霊長類は何度も絶滅しかけた危うい生物種だということだ。
点線でかろうじてつながる時代を何度も経過している。
そして中新世に入る2500万年前ころから急に適応放散が展開される。
第三に、ヒトをふくむホミノイドは進化の王道上にはないということだ。
むしろDNA的には環境に適応しそこねた、絶滅しても不思議ではない種であるといえる。
要するに、王位継承権としてはかなり下位に属する生物だったのが、何かの拍子でライバルがみなコケてしまったのだ。
我々は脳の進化を調べる前に、この三度の奇跡を後づけなくてはならない。「優れていたから生き残ったんだ」という幻想を一度捨てなければならない。「優れていない」と言っているわけではない。優れていたのに生き残れなかったものが、世の中には掃いて捨てるほどいるということだ


大脳の起源について一通り勉強してきた。

最近の遺伝子研究によって大脳の起源についての記述は大きく書き換えられつつある。
ただしそれはルーツ探しの旅のようなもので、Y染色体やミトコンドリアDNAのように、現存人類のところから遡っていく旅のようである。
そうやって我々はミトコンドリア・イブやY染色体アダムのところまで行き着く。

それは予想をはるかに越えて、5億年の昔、ナメクジウオを生み出した祖先までたどる旅となる。

ただ、そこで証明されるのは、ナメクジウオがすでに人類の脳を生み出す遺伝的能力を備えていたという事実であって、それが何故に発現してきたかの過程とは異なる。ルーツ探しの旅を決定論的に読み替えるのは有害無益である。

その上で、系統発生的には次のような大脳形成過程が想定できるだろうと思う。
① ナメクジウオのレベルでの三脳構造の確立。
② ヤツメウナギのレベルでの前脳前方への外套の形成
③ 魚類(顎口類)のレベルでの外套の翻転と終脳の形成
ここで脳の分節構造を信じるならば、「外套→終脳」は、前脳が間脳と終脳に割れたのではなく、もともと前脳の前方に“もう一つの分節”の萌芽として内在した終脳原基が発現したものとして捉えるべきだろうということだ。

言葉で表現するなら、終脳は前脳より前方の最先脳(最終脳)であり、間脳は、結果として前から2番目の脳になったから間脳だということになる。

前脳が視床と視床下部という背腹(上下)2階建てになったのと同じく、終脳も大脳皮質(外套)と大脳基底核(腹側外套と外套下部)の2階建てになったのであろう。


山本直之(日本医科大学・第二解剖)

発表年は不明だが、引用文献から判断して2000年前後のものであろう。なお山本さんには下記の論文もある。2008年のシンポジウム講演「魚類の終脳における感覚表現」で、このときは名古屋大学に移られている。

1.魚類脳の発生と基本構築

魚類の大脳は他の動物と簡単に比較できない。その原因は発生過程の特異性にある。

終脳は中枢神経系の吻側端に位置する。そこは他の脊椎動物と同じである。

魚類以外では、神経管の背側領域が下方(腹側)に折れ込む。これを内側反転(Inversion)という。
最終的には、左右の神経管の側壁が脳室腔を取り込んで側脳室を形成する。

神経管側壁は、側脳室の背側を覆う外套palliumと、腹側の外套下部subpalliumにわけられる。

哺乳類の場合、外套は主に大脳皮質に相当し、内側外套、背側外套、外側外套、腹側外套に分けられる。
内側は海馬、背側は新皮質、外側は嗅皮質、腹側は扁桃体となっていく。

外套下部には中隔、線条体などが含まれる。

一方魚類では、側壁が外側に翻転する。これを外翻(Eversion)という。その際、神経管の蓋板は左右に広がるため、側脳室の代わりにT字型の共通脳室が形成される。

このため外見上は他の脊椎動物と大きく異なるが、分子マーカーを用いた発生学的研究によって、背側野は他の脊椎動物の外套に、腹側野は外套下部にほぼ相当することがわかった。


2.魚類に大脳新皮質はあるのか?

四足動物の背側外套(新皮質)へ感覚情報を伝えるのは視床である。魚類にも“視床”領域が存在するが、“視床”は終脳背側野につながる線維はない。
このことから、魚類の終脳は嗅葉olfactory lobeとも呼ばれ、嗅球から受ける嗅覚だけを処理する脳だと見なされていた。

ところが条鰭類の終脳背側野には嗅覚投射をうけない非嗅覚性領域が多数存在する。

間脳には糸球体前核群(preglomerularcomplex)と呼ばれる領域がある。正確には“視床”の腹外側後方に位置する神経核群である。

ぞこで視覚、聴覚、側線感覚、一般体性感覚(触覚や温度覚など)、味覚を中継し、終脳背側野の非嗅覚性領域に送り込んでいる。

これは、哺乳類の視床─皮質路と酷似した回路構築である。ただこの糸球体前核群に関する遺伝子学的検討は行われていないようである。

おわりに

「魚類の終脳=嗅脳」という概念は完全な誤りである。同様に、「間脳から上の経路は独自の進化を遂げた産物である」という概念もまた恐らく誤りである。

哺乳類と異なり層状の皮質構造をとってはいないものの、大脳新皮質に相当すると思われる領域が存在すると考えられる。
共通祖先の段階ですでに新皮質に相当する構造は存在していた可能性が高い。

Eversionの機転、それがInversionへと転換した理由は、シーラカンスやハイギョなどの中間生物の研究がないため、目下のところ不明である。

付録

魚類の終脳における感覚表現」の付図を転載したもの。

金魚の脳
終脳と外套は同じものをさすが、「外套」は前脳を発生学的原基とすることを強調する意味で用いられる。「※」が視床、間脳と書いてあるのが視床下部に相当する。
B は前額面を描いたもので、背側野が外套、腹側野が外套下部となる。将来、外套は大脳皮質、外套下部は大脳基底核に発展していく。

村上安則・倉谷滋

2005年に雑誌に掲載されたレビューであり、若干古いかもしれない。また後脳に興味の中心があり、終脳については多少及び腰かもしれない。しかしこれだけわかりやすく書かれた解説はなかなかない。終脳関連部分だけをかなり端折って紹介させていただく。

要約

脊椎動物の主流から早期に分岐した無顎類ヤツメウナギの脳の理解は、脳形態パターンの進化を推測するにあたってきわめて有用である。

ヤツメウナギの終脳背側部は顎口類と類似するが、腹側部では、神経節隆起やGABA作動性ニューロンも存在しない。それらは、顎口類になってから獲得されたらしい。

脊椎動物の脳にはニューロメアとよばれる分節が現われる。そして特定のニューロメアからは特定のニューロンが分化する。

ヤツメウナギ後脳にもロンボメアとよばれる分節が存在し、分節に沿って網様体神経が発生する。この境界はHox遺伝子の発現境界に一致する。

鰓弓運動神経にも境界があるが、それはロンボメア境界と一致しない。なにか別の神経発生機構があると思われる。

はじめに

脊椎動物はきわめて多彩な形態をもち、地球上のさま
ざまな環境に生息している。形態は行動や生態と密に関係している。
生物の外部形態は、環境からの淘汰圧を受けてゲノムが応答し進化してきた。

形態に見合った特徴的行動を発現させるためには、神経系が整備される必要がある。

たとえば、哺乳類の視覚中枢は終脳(大脳)にあるが、鳥
類のそれは中脳にある。また、モルミルス目魚類の小脳
は脳全体を覆うほどに肥大している。

このような多様化の背景には、発生プログラムの変化がかかわるはずである、

本稿では、神経形態の進化過程を、おもに分子発生学的な見地から考える。

Ⅰ.脊椎動物の脳の起源

脊椎動物の起源については議論が多く、現在でも頭索
類(ナメクジウオ)と尾索類(ホヤ)のいずれが真の祖先に
近いのかは判然としない。
本稿では、頭索類を脊椎動物にもっとも近い動物群とし
て話を進めよう。

ナメクジウオには脊椎動物にみられるような脳は存在
しない。その神経管は前後軸にわたってほぼ均一なチューブ状であり、脊椎動物の前脳、中脳、後脳に相当するふくらみはみられない。
いっぽう、視床下部の雛形がすでに存在するとされる。

Ⅱ.ニューロメア

頭索類ナメクジウオと脊椎動物の脳のあいだに共通の構造は存在するが、ナメクジウオの脳にはニューロメアが存在しない。

ニューロメア(神経分節)とは、脊椎動物の脳の発生期に一過性にみられる分節構造である。1828年に発見されて以来、ニューロメアが特定のニューロンを生み出す基本ユニットと考えられている。

ニューロメアのような発生コンパートメントは、脳の組織化・形態的分化を階層的に組み上げている。

では、系統進化のどの段階で脳原基は分節化したのだ
ろう?

脊椎動物で最初にニューロメアが確認できるのは5億4000万年前に出現した無顎類である。無顎類は脊椎動物が顎をもつ以前に存在していた動物群で、古生代の水中で繁栄していた。

現生の無顎類であるヤツメウナギ胚の脳でもニューロメアが観察される。遺伝子マーカーも顎口類と類似する。

Ⅲ.ヤツメウナギの脳

ヤツメウナギの中枢神経系には、終脳、間脳、中脳、後脳が識別できる。それは顎口類と類似する。中脳、間脳の発生過程も顎口類と比較可能である。
したがって、これらの構造は脊椎動物の共通祖先においてすでに存在していたと考えられる。

一方、ヤツメウナギでは小脳の分化程度がきわめて低く、小脳核やプルキンエ細胞、下オリーブ核など、顎口類の小脳を特徴づける構造もない。

新しい小脳発生プログラムは、顎口類の分岐後に確立
されたと考えられる。

顎口類では中脳と後脳の境界部が小脳のパターン形成にかかわる。下オリーブ核など小脳系を構成する神経細胞は後脳背側にある菱脳唇に由来する。

ヤツメウナギの終脳にも謎が多い。

終脳は脳の最前端にあり、とりわけ哺乳類において著しく肥大している。

硬骨魚類では外翻(eversion)とよばれる独特の発生パターンを経て、蓋板が左右に拡大し反転型の構造をつくる。このため通常とは逆に、海馬が外側に位置する。

(ちょっとあっさりしすぎている。なぜ外翻したのか、なぜそれが外翻をやめて元に戻したのかは、大問題だと思うが…)

羊膜類では層構造が発達し、哺乳類にいたっては6層からなる新皮質が生ずる。

カメ、ワニ、鳥類を含む主竜類では背側脳室隆起(dorsal ventricular ridge)が発達し、視床からの入力を受ける。
鳥類の皮質相当領域では層構造が消失している。

(層構造は「消失」したのか、これについては後ほど検討する)

ナメクジウオには形態学的に終脳とよべるものはない。ヤツメウナギでは形態学的に終脳が確認でき、多くの嗅覚系入力を受ける。

では、無顎類ヤツメウナギと顎口類の終脳はどこまで比較可能なのだろうか?
脊椎動物の共通祖先はどのような終脳をもっていたのだろうか?

1、外套の進化

外套(pallium)とは、終脳の原基となる一区画をさす。ここから新皮質や海馬、嗅球などが形成される。

これをヤツメウナギにあてはめてみると、遺伝子発現ドメインが顎口類と同様のパターンで存在する。

ヤツメウナギの終脳は嗅覚系の情報処理だけを行なうが、視床から感覚入力を受けたり、辺縁系による制御をも行なう可能性がある。

外套をつくる発生プログラムは思いのほか古く、その起源は無顎類と顎口類が分岐する以前にまでさかのぼるといえる。

2、外套下部の進化

外套下部(subpallium)は終脳腹側部の原基となる。そこからは、線条体や淡蒼球など運動を司る領域が発生する。線条体は外側神経節隆起に、淡蒼球は内側神経節隆起に由来する。

ヤツメウナギのサブパリウムには、外側神経節隆起を形成する遺伝子はあるが、内側神経節隆起を生じる遺伝子は存在しない。
つまり、ヤツメウナギが顎口類の終脳最前方の要素を欠くということを意味する。

では、何が顎口類の終脳に内側神経節隆起をもたらしたのだろうか?
筆者らはhedgehog (LjHh)遺伝子の獲得が関係していると推測している。

Ⅳ、脊椎動物の後脳の進化


おわりに

脳は脊椎動物の系統進化においていくつもの大きなイベントを繰り返してきた。

中でも劇的だったのが、顎口類と無顎類の分岐以前、つまり脊椎動物の共通祖先の段階で生じた変化である。

その本質は、神経上皮の分節化というプログラムの獲得にある。同時にプラコードと神経堤細胞のシステムも整理され、末梢神経との関係ができあがった。

ついで、無顎類から顎口類が進化した後にニューロメアとHoxコードの統合が起こった。

さらに小脳と終脳の形態改変がおこなわれ、魚類以降の脳形態が基本的に完成した。


最後に「脊椎動物の脳の進化のシナリオ」という図があり、やや煩雑であるため、要点を文章で示しておく。

1.共通祖先からのナメクジウオの形成
この分岐には9項目の変化が必要であった。
その主なものは、
①神経管の形成
②運動神経の形成
③三脳の分離と確立
④眼の形成

2.ナメクジウオとヤツメウナギの分岐
この分岐には5項目の変化が必要であった。
①ニューロメアの形成
②前脳での外套形成

3.ヤツメウナギと魚類の分岐
この分岐には4項目の変化が必要であった。
①内側神経節隆起の発生
②交感神経幹の発生
③小脳系の発生
④外翻した終脳(ただし魚類のみ)

4.魚類と両生類の分岐
哺乳類、爬虫類、鳥類を含め、本質的な変化はない。

ウォールストリートジャーナル

ベネズエラ政権転覆狙う米国、次の矛先はキューバ
中露イランの影響力抑制も視野

By Jessica Donati, Vivian Salama and Ian Talley

2019 年 2 月 1 日 13:56 JST 更新


 【ワシントン】トランプ米政権によるベネズエラのニコラス・マドゥロ大統領に対する失脚工作は、中南米への米国の影響力拡大に向けた新戦略の幕開けを意味する。米政権当局者が明らかにした。

 その視線の先にいるのはマドゥロ氏だけではない。50年以上も米国が中南米で最も敵視しているキューバのほか、最近同地域に接近しているロシアや中国、イランもだ。

 米政府はチャベス前大統領時代を含め長年ベネズエラを非難してきたが、トランプ政権にはキューバのほうが国家安全保障にとってより深刻な脅威だとみなされている。

以下略

分かることは…
ウォールストリートジャーナルのほうが、ロイターその他の一般メディアよりはるかに正確だ、ということ。

みなさんが、せめてWSJなみの知性をお持ちになるよう望みます。

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オットー・ディクス(Otto Dix) 略歴

1891年12月2日 ゲーラ近郊のウンテルムハウスに生まれる。生家は貧しい労働者の家庭。

1910年 ドレスデン工芸学校に入る。

1914年 第一次世界大戦に機関銃兵として従軍。3年間にわたり西部→東部→西部戦線を転戦、戦争の悲惨さを体感する。

1918年 負傷し軍務を離れる。

1920年 グロスとともにダダ→表現主義を掲げる。

1922年 新即物主義運動が勃興。ディクスとグロスが代表となる。第一次大戦後のドイツの貧困と堕落を赤裸々に描く。

1923年 油彩「塹壕」(Grabenkrieg)を発表。残酷な表現が賛否を呼ぶ。ケルン市長のアデナウアーはディクスを支持する美術館長を罷免。

1924年 「芸術家の両親」と銅版画シリーズ「戦争」(50枚)を相次いで発表。

1925年 マンハイムでディクスを中心とする「新即物主義」展が開かれる。

1927年 ドレスデン美術アカデミー教授となる。

1933年 ナチスが政権を掌握。その後、ディクスはアカデミーを解雇される。その後コンスタンス湖畔へ移り、素朴な風景画に切り替える。

1937年 ナチスがミュンヘンを皮切りに各地で頽廃芸術展(Entartete Kunst)を開催。ディクスの作品が多数展示される。展示理由は「反戦的な気分と兵役拒否を助長する」ため。

1938年 ディクスの作品260点が公的コレクションから押収される。

1939年 ディクス、反ヒトラー陰謀に加担したとして逮捕。

1939年 第二次世界大戦がはじまる。ディクスは国民突撃隊に招集され従軍する。

1942年 フランスのジュ・ド・ポーム国立美術館の庭で、退廃芸術作品600点が焼却される(ピカソ、ダリ、エルンスト、クレー、レジェ、ミロなど)

1945年 ディクス、フランス軍に逮捕され、捕虜となる。

1946年2月 ディクス、フランス軍から解放される。ソ連占領下のドレスデンを中心に活動を再開する。

1949年 シュトゥットガルト州立芸術アカデミーの教員となり移住。西ドイツに活動の場を移す。(英語版では66年までドレスデン在住とされている)

1969年7月25日 ディクス、脳卒中に死去(77歳)

画像は下記より転載

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  伊丹美術館のディクス展ポスター

壕の中で死んでいる歩哨
          壕の中で死んでいる歩哨
負傷兵
                負傷兵
突撃
             突撃
毒ガスの犠牲者たち
             毒ガスの犠牲者たち
マッチ売り
傷痍軍人
               傷痍軍人
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                 銃殺
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               売春婦 1
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       売春婦 2
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        売春婦 3
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        売春婦 4

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