鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年12月

このあいだ書いた「韓国レーダー事件」、アホは安倍首相だった。
赤旗本日付2面の記事をコピーしておく。
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千島問題といい、この人の脳ミソは完全に賞味期限切れだ。というよりこんな男を頭に載せ続けている日本の保守勢力が劣化しきっている。
と言うより、こういう連中を… というところでやめておこうか。

原点に立ち返った冷静な議論を
ちょっと追加しておきたいが、文大統領の意見は大変まっとうなものであり、金で片付くものではないということはとても良くわかる。しかしいろいろな裁判を見てもわかるように、金の問題はゆるがせにできないことも事実なのだ。
端的に言って、元慰安婦の方たちの多くは慰労金をもらえないまま亡くなったわけだ。関係者はこの事実を重く受け止めるべきだ。
その点で、韓国政府がその分を肩代わりして払う決断をしたことは正しい選択だったと言える。
金の問題がこれで一定程度かたがついたら、歴史認識の問題に取りかかれば良い。両者の側に金の問題を人質にとっていたずらに紛糾させる動きがあったが、それは一段落するだろう。たかが5億円、塩漬けにしておけばいい。
逆に言うと、日本政府側はカネで解決を図るという選択肢がなくなったので、とても困ったことになってくるだろう。
挺対協については、以前からアジア女性基金にかかわる、あまり聞きたくない話がある。逆にNHK報道に対する安倍晋三の干渉も呆れたものだ。
しかしそのような話はとりあえず脇において、「日本による朝鮮の植民地支配」という根本的で明白な事実にもとづいて、冷静かつ前向きに歴史認識をすり合わせていく他に、事態解決の道はないだろう。どんなにソフトでマイルドであろうと植民地は植民地なのである。

基本は日本側に非があるのである。聞きづらい意見も我慢して聞く耳を持たなければならない。
私はそれは十分可能だと思う。


2ヶ月前にアップされた技術戦略研究センターレポートからの要約である。とてつもない努力で、精一杯優しく書かれているから、なんとかジジーにもついていける。ありがたい話だ。

1. AI 技術の開発経緯

IoT(Internet of Things)
物事がデジタルデータとして情報化され、インターネットによって結びついてゆく技術
CPS(CyberPhysical Systems)
身の回りの実空間とこれに対応するデータによるサイバー空間とが連結したシステム

を中軸としたAI 技術の開発が進んでいる。中でも注目されるのがディープニューラルである。
2010年頃からディープニューラルネットワークが開発された。“隠れ層” をさらに増やし、ニューロン数を数百万以上にまで高めることで、高い能力を発揮している。

このネットワークによるディープラーニングは、あの「アルファGO」のように名人を打ち負かすほどの能力を持つようになった。

これを可能にしたのはGPU (画像処理チップ) であった。GPUは元々グラフィックス用の演算チップだが、その高並列演算機能が汎用計算にも適用できることが見つかり、応用・改良が進んでいる。

2. ニューロンモデルの説明

現在使われているコンピュータはノイマン型コンピュータと言われ、プロセッサとメモリに分かれている。
メモリ中にプログラムとデータが蓄えられ、プロセッサはそこからプログラムを逐次読み出す。ついでその命令コードにしたがってメモリ中のデータを処理する。

メモリとプロセッサは伝達経路である「バス」によって結合されているが、このバス結合が隘路となってコンピュータの実行速度を落としている。これを “ノイマン・ボトルネック” という。

このボトルネックをどう回避するかが問われてきた。
ニューラルネットワークはメモリ=プロセッサ構造を破棄することで、ボトルネックそのものをなくしてしまうという発想だ。

下の図が概念図で、上段が動物のニューロン、中段がこれを図式化したニューロンモデルだ。そしてこれをネットワークに編み上げたのか下段になる。
ニューラルネットワーク2
説明を読んでもさっぱりわからないが、絵を見ていると感じはつかめる。
「神経細胞はシナプスの結合強度を記憶する」と書いてあるから、むかしの伊東ゆかりの「小指の想い出」♭あなたが嚼んだ、小指が痛い~ ということなのだろう。

その後の経過は省略する。

それで脳型コンピュータへの転換は、一つのゴールなのかと思ったらそうではない。
下の図のように、そのお次には「量子コンピュータ」が控えている。
量子コンピュータは、計算単位として、0または1または量子力学的な重ね合せ状態を確率として持つ量子ビット(Qubit)を用いる。現在、量子コンピュータはその適用範囲を含めて各国で研究開発が進んでいる。
のだそうだが、そんなことは分かる必要はない。さすがに、そこまで生きていることはないだろう。

3.コンピュータの世代区分

歴史区分が何通りもある。西洋史年表と東洋史年表を重ね書きしたみたいなものだ。この図はそこら辺の関係がうまく書き分けられている。覚えておいたほうが良さそうだ。
AIを支えるコンピュータの分類
いまの先端研究の立ち位置は、ノイマン時代を越えて、非ノイマンに入ったところ、脳型コンピュータではあるが、古典ニューラルネットワークとニューロモーフィックの混在する時期にあるようだ。

4.技術開発競争の動向

AIを支えるハードウェアの市場規模は2020年以降から大幅に増加するだろうと言われている。予測では2025年の世界市場が約6.7兆円となるのだそうだ。まさに巨大市場であるが、それ以上に安全保障をふくめて国家の生死を決めるような技術となる可能性がある。
脳型コンピュータの特許
特許争いも熾烈となっており、目下はとくに脳型(ニューロモーフィック)コンピュータが主戦場となっている。2010年ごろから出願数が激増しているが、ただし日本はお呼びではない。
日本の産業トップと経産省がいかに日本をだめにしたかがよく分かる。対米従属と内部留保に血道を上げた結果がこのザマだ。

トランプの、というよりUSプアホワイトのアホさ加減につくづく嫌気が差しているが、日本にも似たようなアホがウジャウジャいるみたいだ。
河野の息子の「次の質問」という切り口上、国際捕鯨機関からの脱退、レーダー照射問題での韓国への侮辱的な反応と、およそ外交にあたる人間とは思えない幼稚ぶり、ほとほとあきれてしまう。
もちろん気持ちはわかるんだよ。でも、そんなことでいちいち切れてたんじゃ話にならない。やられたらやりかえせじゃ、ゲームが成り立たないでしょう。ガキのケンカじゃあるまいし…

おっと、「親の顔が見てみたい」と言われそうだ。
こういうふうに「人間の幼稚化」が進んでいけば、いずれ第三次世界大戦だ。
すまないけど、あと10年か15年、このまま持って欲しい。そうなれば、そこまで頑張れば、こちらも子孫に義理を果たしたことになる。後はあんた方が悪いんだよ。
…と、息子たちが帰省したら言ってやろうと思っている。

重商主義から重農主義へ

ケネーを中心とする年表

1628年 ウィリアム・ハーヴェイ、血液の体系的循環を発見。それまで、血液は心臓から消費器官までの一方的な流れと考えられえていた。

体液の循環説は、経済が再生産を通じて循環しているというケネーの発想を生んだ。

1694年6月4日  フランソワ・ケネー(François Quesnay)が生まれる。

1700年ころ ルイ14世の絶対王政のもとで、コルベールによって重商主義政策が推し進められる。

1718年 病院での修行の末、外科医を開業。

1737年 外科アカデミーの終身事務局長に任命される。(43歳)

1744年 薬学博士の免状を得て、国王の常勤内科医となる。

1749年 ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の侍医となり、ヴェルサイユ宮殿で働く。宮殿の「中2階」に居住し、そこは革新的な科学者,思想家たちの集まる場となった。

1750年ころ フランスの国家財政が破綻に直面する。
重商主義は貨幣を富の形態として考えていた。商品は富の原資だが富そのものとは考えられていなかった。そのため、貨幣を稼ぐことを唯一の目的とする保護貿易に終始した。このため貿易はゆがみ、国内産業は弱体化し、生産は伸び悩んだ。

1750年ころ ケネーは重商主義批判の立場から、経済学の勉強を始める。(56歳)

ケネーは血液循環と同じように富という血液が心臓から送り出され、また戻ってくるという循環を繰り返すと考えた。そして農業こそが心臓にあたると考えた。

1756年 『百科全書』第6巻に「明証性」と「定額小作農」の2つの記事を執筆。

1758年 ケネー、『経済表』(Tableau économique)を出版。(63歳)

コルベールの重商主義を過度の統制として批判。農業生産を基本とした自由な貿易によって経済を発展させる方針を提起した。自由放任主義・重農主義と呼ばれる。
その際に論証の材料として再生産表を発表した。これは社会を生産階級(農民),地主・支配階級,不生産階級(商工業者)にわけ、階級間の取引を分析することで生産と取得の循環を解明しようとするもの。 

1760年代 重農主義思想に影響されて、「穀物取引の自由」や「土地囲い込み」をもとめる運動が盛り上がる。
この運動は富農、産業資本家の経済的自由を後押ししたが、いっぽうで農民層の没落ももたらした。

1765年 アダム・スミス、パリに1年間滞在する。ケネーや信奉者と面識を持つ。

1774年12月16日 フランソワ・ケネーが亡くなる。80歳。

1774年 「財務総監」のテュルゴーが重農主義に基づくプログラムに着手。貴族たちの抵抗で混乱。

1776年 アダム・スミス、国富論を発表。

「経済表は、文字と貨幣と並んで、国家社会の安定に最も寄与した3つの偉大な発明品の1つである」と紹介

蓄積資本の概念,固定資本と運転資本との区別などもケネーの学問的功績とされる。

1776年 テュルゴー、農村の賦役と都市のギルドを撤廃するよう提案。国王はテュルゴーを解任。



ケネーの言葉(ケネー『経済表』より)

土地が富の唯一の源泉である。そして富を増殖させるのは農業である。そこにこそ、王国の行政の成功が依存している。
主権者と国民は、このことをけっして忘れてはいけない。

農業の振興は富の増加をもたらす。そして人口の増加を保証する。
人間と富が増加すれば、農業は繁栄し、交易は拡張し、工業は活気づく。
それは富の増加を永続させるのである。

ニューロチップとは  という記事がとてもわかり易くて手抜きのない文章です。その要約を紹介します。

ニューロチップとは

ニューロチップとは、集積回路を組み込んだ半導体チップ(LSIチップ)のことです。

人の脳や目の情報処理の手法を元に開発されたことから、ニューロチップと呼ばれるようになりました。

ニューロチップは、人間の脳の神経回路網を真似して開発されています。

ニューロチップは、人の脳のように蓄積されたデータをそのまま結果として返すことが出来ます。

ニューロチップは、関連する情報と不要な情報を切り分けることが出来ます。だから情報は整理された上で蓄積されることになります。

このため演算回数が少なくなり負担が減ります。また、消費電力も圧倒的に減ります。

それ自体がニューロコンピュータのために開発されているチップで、二重の意味でニューロなのです。

ニューロコンピュータとは

ニューロチップを使用したニューロコンピュータは、従来のコンピュータとは根本的な原理から違っています。

従来のコンピュータは「ノイマン型」と呼ばれています。そこではメモリが0と1で構成された情報をCPUに送り、CPUが順番に受け取った情報を基に計算を行います。演算結果はメモリに送り返されます。

つまり、「メモリ」と「CPU」は役割を分担しており、計算はCPUのみが行います。

これに対しニューロコンピュータは、ニューロチップ内にあるニューロンそのものが情報を蓄積し、計算を行うのです。

つまり、メモリがAI化するのです。

ニューロチップの開発競争

2012年にインテル社がニューロチップの元型となる独自の設計を公開しました。

2013年にはスイスのチューリヒ大学とスイス連邦工科大学チューリヒ校の研究チームがニューロチップを開発することに成功しました。

2014年になると、IBM社が独自のニューロチップを開発、さらに工場生産が可能な状態にまで精度を高めました。

下の図は去年の日経新聞に載ったものです。ここには清華大学の名は出てきません。当然ながら日本の名前も出てきません。

世界のニューロチップ


ニューロチップの注目される理由

ニューロチップはニューロコンピュータと連動していますが、それはさらにニューロマシン(人の脳を手本とした機械)と連動していきます。それがAIやIoT製品と呼ばれるものです。

「家庭内ロボット」「スマートフォン・タブレット」「車」「産業用ロボット」「産業用ドローン」などでの活躍が期待されています。




イギリス人はDNA的にはアングロサクソンではない。ケルト人でもない。

ブリテン島に住む「ケルト人」は大陸にいたケルト人ではないという話は、前にした。
話をややこしくしたのは一部の考古学者なのだが、彼らが「イギリスの先住民族はフランスから来たケルト人だ」という話を撒き散らしたために、それが定説になってしまっていた。
じつは「イギリスのケルト人」の祖先は、イベリア半島北部から海を渡ってきた人々、早い話が「ニセ・ケルト人」なのだ。

それを承知の上で話をわかりやすくするのに、彼らをケルト人と呼ぶことにする。

問題はそんなところではなく、ケルマンやバイキングやノルマン人の血がどのくらい混じっているかということになる。

これも結構、結論は出ていて、イングランド人はアングロサクソンでもデーンでもなくノルマンでもなく、ケルト人なのだ。
ウェールズ・スコットランド・アイルランド人に対して上から目線で「俺たちはアングロ・サクソンだ。アーサー王の末裔だ」と威張ってきたが、何のことはない同じ「ニセ・ケルト」だ。
しかもローマ人にケツを振り、ゲルマンにこびを売り、デーン人やノルマン人につきしたがった「転びケルト」だ。




唐澤一友さんのページにオクスフォード大学の遺伝学研究のデータ(2006)が紹介されている。

イングランドを含め、イギリス諸島の全域において、アングロ・サクソン、ヴァイキング、ノルマン人などの系統は少数派であり、大多数は先住民族の系統である。

母系のDNAは、ほとんどが先住民族の系統である。
父系のDNAは、ある程度ゲルマン系の割合が高いが、やはり先住民族系が圧倒的である。

ストーンヘンジなどの遺跡を遺したブリテン島の先住民族は、イベリア半島北岸やブルターニュ半島付近からやって来た。彼らはケルト人ではない。

彼らは後にケルト人の影響を強く受けるようになったとされる。しかしゲノム上は、「ケルト人」が大陸から大規模に入った痕跡は全くない。

ということで、最新研究においても依然として「ケルト人」問題はニヤッとしているが、原理的にはブリテン人の万世一系ということでめでたしめでたしだ。

2013年に大規模なゲノム研究が行われ、興味深い知見が出ているようだ。いくつかのブログで訳されているが、正直どうも心もとない。
よく調べると、この研究はハーバードの研究でBBCが大々的に取り上げているようだが、かなりガセネタっぽい。BBCも落ちたものだ。

2014年01月22日 ケルト人について





「富の源泉」を考えるきっかけ
はるか昔のことだが、高校3年生の世界史の授業で、ケネーの農業表というのを習って感心したことを覚えている。
「おお、世界の富というのはこういうふうに作られるのだ」
ところが、次にアダム・スミスの講義になると、すべての富は労働によって作られるのだというふうに発展される。
これも「なるほど、たしかにそうだ」と思ったが、なんとなく眉唾の感じもあった。
農業は春に種をまくと、秋には麦粒が撒いた量の100倍になった戻ってくる。そこにはたしかに富が増えたという実感がある。
ところが工業というのはたしかに形を変えたりして使い勝手は良くするが、原料(元の富)そのものの量が増えたわけではないよね、というトゲが残るのである。
スミスはケネーの弟子筋に当たるようだが、ケネーがこれを聞いたらどう思うだろうかというのが気になる。
別に封建時代の人間ではないのだが、昔からある士農工商という身分制度が気になって、やはり農業が富の根本で、工は補助的な役割で、商は稼ぎもしないで人を騙して暮らしているみたいな気分があったのかもしれない。

剰余価値説はまずもって労働価値説だ

農業以外は価値創造を認めない人というのがいて、これには二通りあって、一つは神様以外に価値の創造者を認めないというウルトラの人たちだ。価値と人間が呼んでいるものは、人間の欲望が「価値」として結実した幻想に過ぎないことになる。
これはたしかに一理あって、富といえば金銀財宝を思い浮かべる人に対して、そんなものは社会が生み出した幻想なのだ、というのは正論である。

もう一つが、農業は神の恵みを価値に転化できるから富の源泉として認めてもよいが、それ以外は手慰みであって価値を創造しているわけではないというのだ。
しかし職人たちの仕事は明らかに価値を創造している。機を織ったり毛皮を鞣したりするのは、ほとんど農業の延長だ。もし農業が富の源泉であるなら、生活必需品に関する生産労働も同じではないかということになる。

価値とは使用価値であり、労働とはモノづくり労働だ

使用価値でない価値はありえない。剰余価値はモノづくり労働で初めて生まれる。

剰余価値を労働価値説の流れで把握するというのは、労働イコール物質的生産活動と定義することだ。ここを外して階級関係の中でのみ捉えると、話がとたんに見えなくなる。

労働の過程で付加された使用価値、これが剰余価値の原型となる。
これは資本主義的生産システムの中で、引き算として示されるようになる。なぜなら労働力もが商品化されるからだ。そういう“擬制”のなかで示された労働価値なのだ。

物質的生産労働以外の労働は別個に検討されるべきだ

剰余価値概念への批判は、物質的労働以外の労働をもふくませることから生じる。今日ではそういう労働のほうがはるかに多くなっている。
非物質的労働の範囲は運輸・建設などから始まって商業・金融まで広がっている。さらに教育・医療・福祉など以前は専門職とされた分野までもふくまれ、現実の労働運動の主人公となりつつある。

これらの分野における剰余価値→搾取の問題は別個に論じるべきだと思う。

資本論第2部の第8項に至る改訂稿の検討がこれだけ進むと、第3部をそのまま読む気がしなくなる。
第1部で第2版とかフランス語版があってかなり当初の分析とは様相を異にしている。第2部についても発行には至らなかったとはいえ、66年時点での草稿とは相当変わってしまった。

この調子で書き換えが進んでいったとすれば、第3部はどう書き換えられることになったろうか、多くの人の気になるところだろう。マルクスもその期待はひしひしと感じていたに違いないが、非常にそれが気の重い仕事になっていたのだろうと思う。一気に書き下ろすのは勢いで行くのだが、それを改定する仕事は書き下ろしの3倍くらい気を使う仕事になる。だから気力の低下したマルクスは、ロシアの古い農業形態とか、別に急ぐ必要のない仕事に“逃げ込んだ”のではないだろうか。

とりあえず研究者に期待したいのは、もしマルクスが後10年元気だったら、第3部をどう書き換えていただろうかという点にある。誰かが旗振りをしてそういうテーマでシンポジウムでもやってくれるといいと思う。

もう一つは資本論に今一度、哲学的な意義を付与して、要綱マルクス的な展開をしてみるべきではないかということである。とくに消費過程・生活過程・欲望の産出過程を物質的生産過程と照応させて、人間的過程を複線化することである。

この思想的遡り作業は、骨の折れるわりに、評価が定まらない論争的なものになるので、誰もあまり手を出そうとはしないだろう。しかし哲学的にはだいじなところだ。

朝鮮人徴用工問題について

私は北海道勤医協の当別診療所に勤務していたときに劉連仁さん(中国人連行労働者)の記念碑を建てる運動に関わったことがある。
そのときに中国人労働者の実情が、朝鮮人労働者の強制連行とは著しく様相を異にしており、決して一緒に論じてはならないと肝に銘じた記憶がある。
そのうえで、朝鮮人労働者の強制連行をタコ部屋労働につながる非人道的労働として糾弾し、今日の外国人労働者の扱いにもつながっていくものとして警鐘を乱打し、「日韓条約」に解消しえない人道犯罪=悪質労働事犯として糾弾すべきものと考えている。

しかもこれが一般的労働事犯ではなく、国家権力が直接関わる「国家的労働事犯」であることを念頭に置くべきだと考える。

以上の前提に立って、少し事実関係を洗い出しておく。



連行労働者の数

戦争中に海をこえて日本に連行され強制労働させられた朝鮮人は約100万人と想定される。

彼らの多くは最初は「労務動員計画」によって「募集」の形式で連行された。やがて戦況悪化に伴い「労務動員計画」は「国民動員計画」となり、「官斡旋」の割当で動員された。
そして最後は徴用令を直接適用して、強権的に日本に連行された。

総数は政府統計で確認されたものが72万4800人いた。これは1939年から終戦までの総計である。そのうち終戦時現在数が36万5400人である。

さらに軍人・軍属として国内各地に連行されたものが明らかな数だけで36万4200人いた。

また朝鮮内で動員されたものは400万人を越えていた。

強制連行され死亡した労働者の数

日本に強制連行された朝鮮人労働者のうち死亡または行方不明の数は6万人。これに軍人・軍属の15万人を加えると20万人以上となる。

強制連行された労働者の労働条件

土建関係、製鋼所でももっともひどい現場が朝鮮人に割り当てられた。かれらの労働条件・生活状態は、奴隷労働と呼ぶにふさわしく、まったく残虐・劣悪を極めたものであった。

朝鮮人労働者の半数近くは、石炭鉱山に配置された。終戦直前には炭鉱労働者総数の3分の1が朝鮮人であった。

宿舎は日本人と区別され、厳重な囲いをつくり、相互のゆききは禁止された。労働時間も長く、平均日収も日本人労働者の半額ていどにすぎなかった。食物も日本人労働者よりずっと悪いものを食べさせられた。
鉱山の運用規則には下記のごとく記された。
病院と連絡し、仮病による欠稼防止、守衛巡回による出勤督励、警察署との協力による逃亡防止に益々意を用うること。集団的不穏行動に備えて部隊組織となすこと…
朝鮮人労働者の反抗
39年から終戦までの6年間で、連行された朝鮮人のうち22万人が逃亡した。朝鮮人労働者の「逃亡の主なる原因は食糧不足、坑内作業の忌避と外部よりの誘惑」であった。

最初の3年間では炭鉱に連行されたもののうち36%が逃亡し、労働者の半数が失われた。
つかまればそれにたいする虐待はひどく、拷問にたえず自殺したり死亡したものも少なくなかった。

中国人に対する虐待はこのような程度ではなく。明らかに最終的には死なせることを前提したものであった。


2018年03月04日  シェリング 年譜 を増補した。

ついでに「弁証法的実在論者」としてのシェリングについての感想

カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。とりわけシェリングの役割はほとんど扱われない。

そもそもシェリングはプレ・ヘーゲルなのだろうか。彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。

二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っていた。ヘーゲルのとりわけ初期著作には、一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしている。

物自体と自我

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提となる。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

物自体へのアプローチは可能だ

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからカントのしもべたるフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智界を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

自然はたんなる対象ではない

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。「非我も自我の芽を内包している」ということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の「実在の原理」において把握しようとした。

勢いの赴くところ、シェリングは絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。ほぼヘーゲルだ。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

「同一」は無様だが「絶対精神」よりはるかに良い

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。


WASPというのを調べていて、そもそもアングロ・サクソン人という人種なんてあるのだろうかと思って、少し調べてみた。
昨日の夜はそれで過ごしたのだが、今朝になったら見事に消えていた。ワードパッドで書いて、アップしないまま終了してしまったらしい。パソコンを使わないでいると電源が自動で切れてしまう仕様になっているようだ。しようのない話だ。
とりあえずはそれほどの話でもないので、記憶をたどりながら書き記しておく。

最初はベタで「ケルト人」が住んでいた

目下のところ、なぜイングランドに住む人々をアングロ・サクソン人というのかはわからない。
イギリスに文化が育つのは意外に遅い。
ストーンサークルを作った旧石器時代人はどんな生活を送っていたかはほとんどわかっていないようだ。
紀元前5世紀にケルト人が大陸からやってきて農耕文明をはじめたことになっている。ところが、前にも書いたとおり、そもそもケルト人という人種が存在したのかということさえ分かっていない。
古代ギリシャの北方に住んでいて、そこからヨーロッパ大陸を西に向かって拡散し、ドーバー海峡を渡ってきたことになっていたが、どうもそんな連中がいたという事実がないかもしれないということになってきた。最近ではイベリア半島の北部から船に乗って渡ってきたという説が有力らしい。それをいわば空想上の民族である「ケルト人」ということが正しいのかどうかも議論になっているようだ。
まぁとにかく日本で言えば稲作民族が朝鮮半島から渡来したのと時期的にはほぼ一致する。
日本の場合はこれら渡来民族が在来の縄文人と混血して日本人の元型が出来上がったのだが、ブリテン島ではどうだったのか、この辺も良くわからない。
まあとにかく、紀元前後には大小のブリテン島に「ケルト人」が広がった。

ローマ人がやってきた

そこにシーザーの率いるローマ軍がやってきた。ローマ軍は現在のイングランドに当たる領土を占領しほぼ5世紀にわたって支配した。この結果、三種類の人種が形成された。一つは従来型のケルト人であり、ローマの支配の及ばないウェールズ、スコットランド、アイルランドに住み続けた。もう一つはローマの支配下に生きたケルト人であり、ブリトン人と呼ばれた。ローマ人の植民も見られたが、人種構成を変えるほどのものではなかった。

これは紀元前後に天孫系の民族がやってきて、渡来人と縄文人を支配したのと時期的には近似する。時期を一致して洋の東西で似たような人種的三層構造が形成されたことは注目に値する。

ローマ人が去りアングロ人やサクソン人がやってきた

5世紀になるとローマ帝国は衰亡期に入り、東西に分裂した。西ローマはゲルマン民族の人口圧に耐えられずブリテン島経営を蜂起した。
イングランドのブリトン人はみずから国を統治しようとしたが、非力のために雇い兵で権力を維持しようとした。ところが雇った兵隊がクーデターを起こして国を乗っ取ってしまった。

最初に入ってきたのがアングロ人で、これはユトランド半島の付け根のあたりからやってきた。アングロ人の土地というのでイングランドと名付けられたらしい。
次に入ってきたのがサクソン人で、これはハンブルクから上流のエルベ川流域、ドイツでは下ザクセンと呼ばれる地域に住んでいた。もうひとつ(早くも名前は忘れた)は今のデンマークの半島部に住んでいたらしい。

ブリトン人は「浄化」されたのか

現代イギリス人(イングランド人)は自らをアンゴルサクソンと名乗る。では在来のブリトン人の生命はどうなったのだろうか。周辺3カ国に逃げ込んだのだろうか。それとも片っ端から虐殺されたのだろうか。
あるいは先祖がローマ人に従ったように、アングロサクソンにも従って、その支配のもとで生きながらえた可能性はないのだろうか。これはゲノム解析すればかなりはっきり結論が出そうな気がするのだが。

デーン人の侵略とアーサー王伝説

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アンゴロサクソン人はイングランドに7つの王国を作って暮らすようになる。その中から統一の動きも出てきてやがて統一するのだが、それはデーン人に対する共同の抵抗という意味も持っていた。

そもそも北ドイツに住んでいたアンゴロ・サクソンがどうしてイングランドに入ってきたかというと、じつはもっと北に住むデーン人に追いやられたためでもある。

デーン人はバイキングの一族であり、命知らずの海賊集団である。最初はアンゴロ・サクソンが束になっても勝てなかった。しかし7王国のリーダーであるウェセックス王国のアーサー王がかろうじてデーンの全面支配を食い止めた。

こうしてアングロ・サクソンとデーンの拮抗関係が数世紀にわたり続いた後、両者ともに消耗し尽くした時、ドーバー海峡を挟んだフランス側のノルマン王国が侵略を開始した。

ノルマン王国の支配

ノルマン王国はフランス語とフランス風の統治スタイルをイングランドに持ち込んだ。ノルマン人以外の人種はデーン人もふくめてイングランド人と一括されるようになった。

ノルマンの血統が絶えた後も、フランスの別の王家プランタジネットが支配を続けたから、北フランスのゲルマン人も一定の割合で混じりこんでいる。

したがってイングランド人が自らをアングロサクソンと呼ぶのは不正確と思う。

結論

民族皆殺しが行われない限り、イングランドでは数回の大規模な人種交配が行われている。

まず旧石器時代人とケルト人の混合。ついでケルト人とローマ人の混合。ついでローマ・ブリトン人とアングロサクソン系三人種の混合。ついでアングロサクソン系とデーン系の混合。最後に北フランス系ゲルマン族との混合ということになる。

これがDNAの上にどのように反映しているかは、別文献を当たる必要がありそうだ。

しかし、このようにして形成された「人種」をアングロ・サクソンの名のもとに一括するのは著しく正確さを欠くものと言わざるを得ない。


日本人の起源論との関係

ただこれは実は出発点なのであって、イギリスは日本人の起源を考えるときの最良の対照なのである。

イングランド人というのは、旧石器時代人とケルト人、ローマ人、ゲルマン人、スカンジナビア人、最後にノルマン人という人種の重なりによって形成された民族なのだということである。

なぜか、それはブリテン島というのが日本列島と同じで行き止まりの国だから、逃げ道がないから、重なっていくしかないという事情を抱えているからである。

問題はそれぞれの民族がどの程度の重味を持って重なっていることである。

歴史を単純に重ねるなら、ストーンヘンジを作ったのが縄文人、そこに渡来したケルト人が弥生人、紀元前後にブリテンにやってきて、支配したのがローマ人ということになる。

ただその後2つの国は別の歴史をたどり始めるのであって、日本にはデーン人やノルマン人に相当するような諸種族の重なりは見られない。

この辺はたとえばY染色体DNAとかミトコンドリアDNAとかで別個に情報を集める他ないのである。

内田弘 『資本論』形成史における『哲学の貧困』
(専修大学社会科学年報第47号)

という論文があって、内田さんの難しいものの言い方にいささか辟易しながら読んだのだが、経哲手稿の冒頭に「剰余価値」の初出があるというのに興味が惹かれた。

じつは、剰余価値の初出があまり良くわからなかったのである。

57年草稿にはまだ出てこないと言われていたので、61年草稿(剰余価値学説史)にいたる2年間の空白の時期に発想されたのか、くらいに思っていた。

ところが内田さんによると、この言葉はすでに経哲手稿に出ているというので、多分違った意味合いで使っているのだろうと思う。

すこし内田さんの文章を引用する。
経哲手稿の冒頭は『国富論』第1編後半の賃金・利潤・地代からの抜書である。
マルクスは、スミスのいう「利潤・利子・地代」を全体として抽象=還元するための概念として、その源泉たるという言葉を導出した。
「剰余価値」はパリノートのなかの「スミス『国富論』ノート」に初出している。
とここまでのところは、スミスを読んでいる間に思い浮かんだ思いつきという書き方だ。

ところが、内田さんの議論はさらに進む。
ただし剰余価値という言葉は、マルクスの創案ではない。すでにヘーゲルが、『法=権利の哲学』で、収入諸形態の総称として「剰余価値」を用いている。
そしてマルクスは、ヘーゲルのこの本を熟読したうえで、「ヘーゲル国法論批判」を執筆しているのである。
つまり内田さんによれば、剰余価値という言葉を最初に使ったのはヘーゲルであり、マルクスの頭にこの言葉が引っかかっていて、スミスを読んでいるうちにふとその言葉が思い浮かんだということになるようだ。

さらに内田さんの説明は続く。
ヘーゲルは「剰余価値」を「収入諸形態の総称」というカテゴリーで用いた。しかしマルクスは、そこにとどまらずさらに深い水準に推し進めた。
「剰余価値」という言葉に「諸収入の源泉」という位置づけを与えているのである。
ヘーゲルの「剰余価値」を受け継いだとしても、マルクスはそれで終わる人ではなかった。

と内田さんは結ぶ。目下のところ確かめるすべはない。

下記も同じく1993年の読書ノートで、ヘーゲルの「法の哲学」からの抜書きである。
労働と欲求の関係が見事に描かれており、労働が「陶冶」という観点からも性格づけされている。
これがおそらく「要綱マルクス」のバックボーンだろうと思う。
今回、「資本論形成史」をまとめてみてわかったのだが、「要綱マルクス」から「資本論マルクス」への変貌は、国際労働者協会との関わりが大きいのではないかと思う。
「経済学批判」ではなく、ある種「組合員学校教科書」的な方向への転化が図られたのではないか。経済の仕組みを解き明かすと同時に、それが労働者にとって持つ意味を考えさせるようなニュアンス、まさに「賃金・価格・利潤」的な方向が目指される。
したがって歴史貫通的な人類共通的な課題、哲学的なテーマはとりあえず控えることになった。だから我々はそこのところを補いながら読み込んでいかなければならないのだと思う。
とくに「未来社会論」を語るときに、この発想は必須のものだと思う。

法の哲学 S187

陶冶としての教養とは,その絶対的規定においては解放であり,より高い解放のための労働である.すなわちそれは,倫理のもはや直接的でも自然的でもなくて精神的であるとともに普遍性の形態へと高められた無限に主体的な実体性へ到達するための,絶対的な通過点なのである.

この解放は,個々の主体においては,動作のたんなる主観性や欲望の直接性だけではなく,感情の主観的なうぬぼれや個人的意向のきまぐれをも克服しようとする厳しい労働である.解放がこのような厳しい労働であるということこそ,それが嫌われる理由の一部である.しかし陶冶としての教養のこの労働によってこそ,主観的意志そのものがおのれのうちに客観性を獲得するのであって,この客観性においてのみ,主観的意志はそれなりに理念の現実性たるに値し,理念の現実性たりうるのである.また特殊性は,労働と陶冶によっておのれを作りあげ高め上げて,この普遍性の形式,すなわち悟性的分別を手に入れてしまうからこそ,同時に個別性の真実の対自存在になるのであり,また普遍性を満たす内容とおのれの無限な自己規定とを普遍的にあたえることによって,それ自身が倫理のうちに,無限に対自的に存在する自由な主体性として存在することになるのである.

S189 欲求の体系

特殊性はまず,総じて意志の普遍的な面に対して規定されたものとして,主観的欲求である.この主観的欲求がそれの客体性すなわち満足に達するのは
(α)いまや同じくまた,他の人々の欲求と意志の所有であり産物であるところの外物という手段によってであり,

(β)欲求と満足を媒介するものとしての活動と労働によってである.

食べること,飲むこと,着ることなどのような,一般的欲求とでも呼ぶべきものがある.恣意のこうしたしゅん動は,それ自身のなかから普遍的な諸規定を生みだすのであって,この一見ばらばらで無思想的に見えるものが,おのずから生じる一個の必然性によって支えられるのである.個々での必然的なものを発見することが国家経済学の目的であって,国家経済学は,大量の偶然事に関してもろもろの法則を見出すのである.この関係は一種太陽系にも似たものである.太陽系はいつも肉眼には不規則な運動しかしめさないが,しかしそれのもろもろの法則は,それでもやはり認識されうるのである.

S190 欲求の仕方と満足の仕方

動物の欲求は制限されており,それを満足させる手段および方法の範囲も同様に制限されている.人間もまたこうした依存状態にあるが,それと同時に人間はこの依存状態を越えていくことを実証し,そしておのれの普遍性を実証する.人間がこれを実証するのは,第一には,欲求と手段とを多様化することによってであり,第二には,具体的欲求を個々の部分と側面とに分割すること(労働の分割),および区別すること(社会的分業)によってである.そしてこれらの部分と側面とは,種々の特殊化された,したがってより抽象的な欲求となる.この欲求の立場では,主題は人間とよばれるところの,表象にとっての具体的存在者である.それゆえここではじめて,そしてまた本来ここでのみ,この意味での人間が問題になる.

S192

欲求と手段とは,実在的現存在としては他人に対する存在となる.欲求と手段の充足は他人の欲求と労働によって制約されており,この制約は自他において相互的であるからである.欲求および手段の一性質となるところの抽象化はまた,諸個人のあいだの相互関係の一規定にもなる.承認されているという意味でのこの普遍性が,個別化され抽象化された欲求と満足の方法を,社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである.

私は欲求を満足させる手段を他人から得るのであり,したがって他人の意見にしたがわざるをえない.しかし同時に私は,他人を満足させるための手段を作り出さざるをえない.だから人々は互いに他人のためになるように行動しているのであり,他人とつながりあっているのであって,そのかぎりにおいて,すべて個人的に特殊なものが社会的なものになるのである.

S196 労働の仕方

もろもろの特殊化された欲求を満たすのに適した,同じく特殊化された手段を作成し獲得する媒介作用が労働である.労働は自然によって直接に提供された材料を,これらの多様な目的のために,きわめて多種多様な過程を通して種別化する.だからこの形成は,手段に価値と合目的性をあたえるのであって,その結果,人間が消費においてかかわるのは主に人間の生産物であり,人間が消費においてかかわるのはこうした努力の産物である.

S197

労働によって得られる実践的教養とは,あらたな欲求の産出と仕事一般の習慣,さらにはおのれの行動を,ひとつには材料の本性にしたがって,またひとつにはとくに他人の恣意にしたがって制御することの習慣であり,またこうした訓練によって身についた客観的活動とどこでも通用する技能との習慣である.

S198

ところで労働における普遍的で客観的な面は,それが抽象化していくことにある.この抽象化は手段と欲求との種別化を引き起こすとともに,生産をも同じく種別化して,労働の分割を生み出す.個々人の労働活動はこの分割によっていっそう単純になり,単純になることによって個々人の抽象的労働における技能もいっそう増大する.

同時に技能と手段とのこの抽象化は,他のもろもろの欲求を満足させるための人間の依存関係と相互関係とを余すところなく完成し,これらの関係をまったくの必然性にする.生産活動の抽象化は,労働活動をさらにますます機械的にし,こうしてついに人間を労働活動から解放して機械をして人間の代わりをさせることを可能にする.

S199 資産(VERMOGEN)

万人の依存関係という全面的からみあいのなかに存するこの必然性がいまや,各人にとって普遍的で持続的な資産(VERMOGEN)なのであり.

下の二つは「美学」の抜書きである。

ヘーゲル美学講義 Ⅰ-51

人間はこの自分についての意識を二つのやり方で手に入れる.すなわち理論的には,人間は自分自身を人間の内面において意識する.…人間は実践的活動によって対自的となる.そして人間は外界の事物を変化させ,これに自分の内面の印章をおす.この欲求は芸術作品でみられるような外的な事物の中における自分自身の生産の仕方にいたるまで,ありとあらゆる形の現象にゆきわたっている.

ヘーゲル美学講義 Ⅱ-213

このような影の国がすなわちイデアールであって,そこにすがたを見せる精たちは,直接的存在には興味を失い,物質的生活の必要を免れ,有限の現象に必ずともなう環境への依存性や,あらゆるゆがみやひずみから解放されている.

 

要綱ノート(ページ数は草稿集①のもの)
多分1993年ころのもの。当然、まだウィンドウズではなく、NEC98の互換機で「松」で打ち込んだものです。


P327

「措定された交換価値としての資本に対立する使用価値は労働(力)である」.これはGーWであり,G→Wであるということ.①G→Wとなるところに資本の使用価値がある.②しかもWは現実的には「労働そのもの」である.

「資本家は労働そのものを,すなわち価値をうみだす活動としての生産的活動そのものとしての労働を手に入れる」.ここでは「労働そのもの」は抽象的一般的人間活動として,価値うみ過程からのみ規定されており,具体的な有用性は捨象されている.したがってこの「労働そのもの」はそれ自身資本の生産力となる.

P329

資本の諸要素,それが労働に対して持つ関係にしたがって分解されたもの(生産物,原料,労働用具).(二)資本の特殊化(a)流動資本,(b)固定資本

P339

彼が提供する使用価値(労働力の使用価値)は,(交換の時点では)彼の身体の能力,力能としてのみ存在するに過ぎず,それ以外には定在しない.彼の労働力能(VERMOGEN)が存在する場である一般的実態,つまり彼自身を肉体的に維持するとともに,この一般的実態(彼自身)を変容させてその特殊的力能を伸ばすようにさせるのに必要な,対象化された労働(諸商品の形を取った生活手段)は,この実体(彼自身)のなかに対象化された労働である(として定着する).

P342

(貯蓄金庫の)本来の目的は富ではなくて,いっそう目的にかなった支出配分でしかなく,したがってそれらは,老後とか,それともまた病気,恐慌などがそのあいだにやってきたときに,救貧院や国家や物乞いに厄介をかけないようにするのが目的である.

P350

なんらかの類推によってなにもかも然るべく配列してしまうこうした三文文士的な空語は,それがはじめて口にされるときは才知ゆたかにもみえるだろうし,またそれがもっとも異質なものを同一化すればするほど,ますます才知ゆたかにみえるであろう.だが何度も口にされると,しかも鼻高々と学問的価値をもつ提言として繰り返されると,それはまったくのところ愚かしい.

P351

 「資本家が望んでいるのは,まさに彼(労働者)が彼のひとり分の生命力(LEBENSKRAFT)をできるだけ多く,中断せずに使い切ることでしかない」.①労働力の再生産過程の合理性,したがって労働力修理工場はまさしくそのかぎりのことである.②生命力が労働力として規定されている.

 

P353

所有(関係)の労働(過程)からの分離は,資本と労働(力)とのこの交換の必然的法則(的結果)として現われる.「非資本そのもの」(資本と向き合っているがゆえに)として措定された労働力はつぎのようなものである.①対象化されていない労働(可能性ではあるがまだ発揮はされていない力能).否定的に把握されたそれ(その消費を目的とする観点からの把握).このようなものとしては労働(力)は非原料,非労働用具,非原料生産物であり,あらゆる労働手段と労働対象から,つまり労働(過程)の全客体性から切り離された労働そのものである.それは労働(過程)の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働そのものであり,このような丸裸の存在,あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働(力)の存在なのである.

P354

「(労働力は)存在する非価値そのもの(であり),媒介なしに存在する純粋に対象的な使用価値(である)」労働力商品の価値はその生産費によって措定されてはいるが,本質的には価値をもたない使用価値である.それは太陽の光,大地の恵みとおなじように一つの自然力である.

(労働力および労働そのもの)の対象性は,人格から切り離されていない対象性,人格の直接的肉体性と一体化した対象性でしかありえない……それは個人そのものの直接的定在性をはなれては存在しえない対象性なのである.

(二)対象化されていない労働(力),肯定的に把握されたそれ(労働能力の主体的発揮としての労働そのもの).すなわち自分自身にかかってくる否定性(認識の発展と成長).それは対象化されていない,したがって非対象的な,すなわち主体的な,労働そのものの存在である.それは対象としての労働(力)ではなく,活動としての労働(過程)であり,それ自体価値としての労働(力)ではなく,価値の生きた源泉としての労働そのものである.それ(労働力能)は,富が対象的に現実性として存在する資本(現実の富としての資本)に相対して,行為(労働過程)のなかで自己をそのものとして確証する.富の一般的可能性としての一般的富である.(現実的・対象的富と一般的富との対置に注目)

(三)(労働能力の発揮は)資本として措定された貨幣に対するその使用価値として,あれやこれやの労働でなく,労働そのもの(ARBEIT SCHLECHTHIN),抽象的労働であり,労働(過程)の特殊的な規定性に対してはまったく無関心である.

ある規定された(個別の)資本を存立させている特殊的な実体には,もちろん特殊的な労働(過程)としての労働(そのもの)が対応しなければならないが,資本そのもの(総資本)は,その実体の総体性としてあるとともに,その実体のあらゆる特殊性の捨象としてもあって,自己の実体の特殊性に対してはいっさい無関心であるから,(総)資本に対する(総)労働(力)のほうも,主体的には同一の総体性と抽象性とを即自的にもっている..(労働力の抽象性は,資本の抽象性によって規定された歴史的概念でもある)

あらゆる労働(力)の総体(総労働力)が可能的に(総)資本に相対するのであって,とくにどの労働(力)が資本に相対するかは偶然的である.

P355

労働(過程)があらゆる技能的性格を失うにつれて,また労働(そのもの)の特殊的な熟練がますます抽象的なもの,無差別的なものとなり,また労働(そのもの)がますます純粋に抽象的な活動に,純粋に機械的な,したがって無差別的な,その特殊的形態には無関心な活動になるにつれて,つまりたんに形式的な活動,あるいはおなじことであるが,たんに素材的な活動一般となるにつれて(抽象性は歴史的に作られたもの),この経済的関係はますます純粋に,ますます適合的に展開されていくのである.(労働そのもの概念は資本によって練り上げられた概念である)

P356

労働(力)は対象化されたものの諸価値の非存在(即自的には無価値)であって,そのようなものとして,対象化されていないもの(可能態)としての諸価値の存在であり,つまり諸価値の観念的存在なのである.つまり労働(力)は諸価値の可能性であり,また活動(労働そのもの)としては価値措定(労働過程で実現されるべき価値)である.

労働(力)は資本に対してあるばあいには,ただ能力や力能としてのみ身体のうちに存在している,(抽象的な)価値措定活動(労働そのもの)のたんなる抽象的な形態(担い手),たんなる可能性に過ぎない.

しかし(労働力は),資本との接触を通じて現実的な活動(労働過程)に導かれることによって,それは現実的な価値措定的,生産的活動となる.

P357

資本が(商品として)対象化された労働(力)のどんな特殊的諸形態のうちにも存在する貨幣として,対象化されていない,生きている労働(そのもの),過程および行為として存在する労働(そのもの)とともに,(生産)過程に歩み入るかぎりでは……

(そこでは)たんなる形態としての労働(力)のたんなる主体性が止揚され,資本の材料のなかに対象化されなければならない.

活動としての労働(そのもの)とのかかわりにおいては,素材すなわち対象化された労働(そのもの)は,つぎのふたつの関連をもつだけである.まず原材料,すなわち形態のない(自然のままの)素材の関連,目的にそって(生産物としての)形態をあたえる労働(過程)の活動にとってのたんなる材料の関連.つぎに労働用具,すなわちそれ自体(原材料と同じように)対象的である(労働)手段の関連がそれである.

P358

たんなる「生産の行為」(単純な生産過程)を即自的(単純)に考察するばあいには,労働用具や原材料は自然のなかにあらかじめあるものとして現われるだろうから,したがってそれらのものはただ領有されさえすれば,すなわち労働(過程)の対象や手段とされさえすればよいのであって,このことはそれ自体労働の過程ではないのである.したがって生産用具や原材料に対比されるばあいには,生産物は質的に別なものとして現われるのであって,用具を使って素材に対して労働した(特殊な形態で労働力を発揮した)結果として生産物だ,というばかりでなく,それらのものとならんで最初の労働の対象化(一般的形態での労働力の消費)としても生産物なのである.

P359

生産過程そのものによって措定されている唯一の分離(歴史貫通的な分離)は,もともとある分離,対象的な労働(生産物)と生きた労働との区別そのものによって措定された分離,すなわち原材料と労働用具のあいだの分離である.

P360

原材料は労働(過程)によって変えられ,形態をあたえられることによって消費され,また労働用具は,この過程のなかで使用され,使いつくされることによって消費される.他方労働(力)もまた用いられ,運動させられ,こうして労働者の一定の分量の筋肉が消耗させられることによって消費されるのであり,それによって彼は疲れはてる.

労働(力)はただ消費されるだけでなく,同時に(労働そのものという)活動の形態から,(生産物という)静止の形態へ固定化され,物質化される.労働(力)は対象の変化として自分自身の姿態を変え,活動(THATIGKEIT)から存在(SEIN)になる(S-T-S).材料,用具,労働(そのもの)という(労働)過程の三つの契機はすべて合体して中性的結果ー生産物となる……

したがって(労働)過程全体が生産的消費として現われる.すなわち無に終わる(個人的消費あるいは消費的消費)のでもなければ,対象的なもののたんなる主体化(SーT)に終わる(だけ)でもなく,それ自身ふたたびひとつの対象として措定されるような消費(SーTーS)として現われる.(すなわち生産的消費とはSーTーSとW…P…Wの統一)

この消費は素材的なものの単純な消費(消費的消費)ではなく消費(生産のために消費されるべき力能,すなわち労働力)の消費であり,素材的なものを使用するなかで,この使用(W…P…W)を使用する(SーTーS)こと,したがってまた,素材的なもの(三つの契機)の措定である.(これこそが三要素定立の根拠)

(対象に対して)形態をあたえる活動(労働過程)は,対象(的諸条件)を消費するとともに,また自分自身(労働力)を消費するが,しかしそれは(労働)対象(となる生産物)をあらたな対象的形態として措定するためにのみ,あたえられた対象の形態を消費するだけなのである.

P361

第一に労働(力)の領有,労働(力)の資本への合体によって,資本は発酵して過程となる.つまり生産過程となる.貨幣,すなわち労働者に対する処分能力を買う行為は,ここでは過程を導きだすためのたんなる手段として現われ,過程それ自体の契機としては現われない.

この過程で資本は,総体としては,生きた労働(力)としての自分自身を,対象化された労働であるだけでなく,対象的であるがゆえに,労働(過程)のたんなる対象でもあるものとしての自分自身と関連させるのである.(過程を導きだす手段と,過程そのものの契機のちがい)

P362

資本を,それが労働(過程)からは区別されて最初に現われる面から考察すれば,資本は過程のなかでたんに受動的な定在,たんに対象的定在(原材料および用具)にすぎず,そこでは資本を資本たらしめている形態規定(WーGーW)ーしたがって対自的に存在する社会的関係ーは完全に消え去っている.資本は,その内容の面からのみーつまりただ対象化された労働一般としてのみー過程に入る.

しかし資本が対象化された労働であるということは,労働(過程)にとってはまったくどうでもよいことである.資本が過程に入り込み,加工されるのは,ただ対象としてだけなのであって,対象化された労働としてではない.……それらのものが,それ自体労働(過程)の生産物であり,対象化された労働であるかぎりは,それらは決して過程に入らないのであって,ただ規定された自然的諸性質をもった物質的な実在としてのみ過程に入るのである.これらの自然的諸性質が,それらのものにどのようにして措定されたのかは,それらのものに対する生きた労働(そのもの)の関連にとってはかかわり知るところではない.

P363

他方,労働者との交換によって労働(力)そのものがすでに資本の対象的諸要素のひとつになってしまっているかぎりでは,資本そのものの対象的諸要素からの労働(そのもの)の区別は,たんにひとつの対象的な区別でしかない.すなわち一方の要素は静止(RUHE)の形態にあり,他方の要素は活動(THATIGKEIT)の形態にある.したがって資本は一方では,あらゆる形態関連が消滅している受動的対象としてのみ現われるが,他方では,資本は単純な生産過程として現われ,この単純な生産過程のなかには,資本としての資本が,すなわち自己の(対象化された労働としての)実態とは異なるものとしての資本が入り込むことはないのである.

この面からみれば,資本の過程は,単純な生産過程そのものと一致しており,そこでは過程の形態において資本の資本としての規定が消滅している.

P364

こうして資本の生産過程は,資本の生産過程としては現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるに過ぎない.

P364

こうして資本の資本の生産過程は,資本の生産過程として現われずに,生産過程そのものとして現われ,また労働(そのもの)と区別された形では,資本は,原材料と労働用具という素材的規定性においてのみ現われるにすぎない.

P366 労働過程と価値増殖過程

(α)労働(力)が資本に合体することによって,資本は生産過程になる.だがさしあたっては,資本は物質的生産過程,生産過程一般となり,その結果資本の生産過程は,物質的生産過程一般と区別されなくなる.資本の形態的規定は完全に消え去っている.

資本がその対象的存在(財貨)を労働(力)と交換したことによって,資本の対象的定在そのものが,対象としての自己(財貨)と,労働(力)としての自己とに二分され,両者の関連が生産過程を,あるいはさらに厳密にいえば(資本の形態規定はそこでは消失しているゆえに)労働過程を形成する.こうして価値に先立って,出発点として(無価値として)措定された労働過程=これはその抽象性,純粋な素材性のゆえに,あらゆる生産過程(資本主義に先行する諸形態をふくめ)に等しく固有なものである=はふたたび資本の内部で,一つの過程として現われ,この過程が資本の素材の内部で進行し,資本の内容を構成するのである.

P367

資本が…素材またはたんなる手段として労働に対する一項として解されるならば,その場合にはまさしく資本は,労働(そのもの)に相対する対象,物質としてしかみなされず,したがってただ受動的なものとしてしか見なされないのだから,資本は生産的ではないといっても誤りではない.

しかし資本は両項(労働力と生産手段)のうちの一項として現われたり,あるいは一つの項それ自体のなかでの再生(労働対象と労働手段)として現われるのでもなく,単純な生産過程そのものとして現われるのであり,この過程がいまや資本の自己運動的内容として現われる.

P372

文明のあらゆる進歩,言い換えるならば社会的生産諸力のあらゆる増大,それに言い方を変えれば,労働そのものの生産諸力のあらゆる増大ーそれは科学,発明,労働(過程)の分割と結合,交通手段の改善,世界市場の創出,機械装置などから生じてくる.

労働(生きた目的にかなった活動としての)の資本への転化は,それが資本家に労働生産物に対する所有権(および労働(過程)に対する支配権)をあたえるかぎり,即自的には資本と労働力との交換の結果である.この転化は,(資本主義的)生産過程そのもののなかではじめて措定される.

資本が生産の基礎をなし,したがって資本が生産者であるところでは,労働そのものは,ただ資本のうちに入りこむものとしてだけ生産的であるに過ぎない(自営業者や自由業者は生産的でない).資本と対立して対自的に労働者という姿をとっている労働(そのもの),つまり資本から切り離されてその直接的規定性のなかにある労働は生産的ではない.労働者の活動としても,この労働は決して生産的にはならない.なぜならそれは単純な形態的にのみ変化する流通過程のなかにだけ入りこむに過ぎないからである(その分業が生産的かどうかが,労働が生産的かどうかを決める).

P374

資本に対して主体として現われるのは労働(力)なのだということ,すなわち労働者はただ労働(力)という規定でのみ現われるに過ぎないのであって,この労働(力)とは労働者自身のことではないのだということ.

P377

(自己増殖過程においては)価値は主体として登場する.労働(そのもの)は,目的にかなった活動であるから,そこで素材的な面から前提されていることは,生産過程においては労働用具がある目的のための手段として実際に使用されたということ,原材料は,化学的な素材転換によるにせよ力学的な変化によるにせよ,それが以前に持っていたよりも高い使用価値を生産物として受け取ったということである.しかしこの側面はそれ自体としてはたんに使用価値にのみ関わるものであるために,いまだに単純な生産過程に属している.

P403

どのようにして資本によって,すなわち現存する諸価値によって剰余価値が労働を媒介として作り出されるのか,ここで彼ら(重農主義者)は(資本の運動の)形態をまったく見落として,単純な生産過程だけを見ている.したがって労働者が労働用具の自然力のおかげで,自分の消費分よりも多くの価値を明らかに生産できるような分野でおこなわれる労働が生産的であると主張することができる.したがって剰余価値は,労働そのものから生じるのではなく,労働によって利用され管理される自然力から生じる.したがって農業だけが唯一の生産的労働である(剰余価値はひとつの物質的生産物で表現されなければならないというのは,A・スミスにもなお現われている未熟な見解である).役者は生産的労働者であるが,それも芝居を生産するかぎりにおいてではなく,彼らの雇主の富を増加させるかぎりにおいてなのである.ところがどんな種類の労働がおこなわれるか,つまりどんな形態で労働が物質化されるのかということは,この関係にとってはまったくどうでもよいことである.他方このことは,後にでてくる諸観点からすればどうでもよいことではない.

P427

つまり労働者は自分の労働能力(ARBEITSFAHIGKEIT)を,つねに一定時間にかぎって,すなわち一定の労働時間にかぎって他人の処分に委ねるのである(労働能力の初出).この場合,労働(力)はその生きた労働力能(VERMOGEN)に対象化された労働時間を表わす.

P456

用具が労働(過程)の用具として用いられ,原材料が労働(過程)の原材料として措定されているという単純な(素材的)関係を通して,すなわちそれらの用具や原材料が労働(そのもの)と接触し,労働(そのもの)の手段および対象として措定されるという単純な過程を通して,それらの用具や原材料は,形態的には保持されないにしても実体的には保持されるのである.そして経済的に見れば,対象化された労働時間(労働時間で計られた価値)がそれらのものの実体なのである.

対象化された労働は,それ自体ふたたび生きた労働(そのもの)の契機として,つまり対象的な材料の形をとった労働(生産物)自身に対する生きた労働(そのもの)の関連として,生きた労働(そのもの)の対象性として措定されているのであるから,それは外的で無関心な形態として,生命なく素材のなかに存在することをやめる.こうして生きた労働(そのもの)が材料のうちに自己を現実化させることによってこの材料そのものを変化させ,したがって労働(過程)の目的によって労働(力)の合目的活動によって規定された変化をもたらす.

P457

労働(そのもの)は生命のある造形的な火であり,生きた(労働)時間による諸物の形成として,(運動であるがゆえに)諸物の無常性,それらの時間性である.

そこでは素材を消費し,素材の形態を使用することが人間の享受となり,素材の変化が素材の使用そのものなのである.

P459

価値増殖過程では,資本の構成諸部分(材料および用具)は,生きた労働(そのもの)にたいして,価値としてではなく生産過程の単純な諸契機として,労働にとっての使用価値として,労働(力)が活動できるための対象的諸条件として,すなわち労働(そのもの)の対象的契機として現われる.

P460

単純な生産過程では,先行した労働(過程)のーそれを通してまた,その労働(過程)が措定されている材料のー質の保持として現われるものが,価値増殖過程ではすでに対象化された労働(そのもの)の分量の保持として現われる.

P461

生産過程では,労働(過程)の対象的な定在的諸契機(用具と材料)からの労働(そのもの)の分離は,止揚されている.資本と賃労働との定在はこの分離にもとづいている.生産過程で現実に生じる分離の止揚ー止揚されなければそもそも労働がおこなわれるわけがないーに対して資本は支払わない.

生産過程そのものにおいて,生きた労働(そのもの)が用具と材料を自己の心にとっての身体とし,それによって(死んだ労働を)死から蘇らせるこの同化作用は,労働(力)が対象をもたず,すなわち直接的な生命力の形でだけ労働者における現実性でありーまた労働材料と用具が対自的に存在するものとして,資本のなかに存在していることと事実上対立している(この点については後でたちかえること).

 

「資本論」成立史 年表

1840年 イェーナ大学に『デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異』と題した学位論文を提出。

1843年10月 マルクス、パリに亡命。経済学の研究を開始。9冊の『パリ・ノート』として存在。「ミル評注」、「アダム・スミス」評注、「リカード評注」などをふくむ。

8月 「経済学・哲学草稿」を執筆。パリ・ノートの中でも、国民経済学の学習を基礎に、出版を意識して書かれた文章。

8月 パリでエンゲルスと同志関係に入る。最初の共著「聖家族」の執筆を開始。

1845年

2月 「聖家族」を出版。

2月 マルクス一家はパリを離れ、ブリュッセルに移る。滞在中に6冊の『ブリュッセル・ノート』を残す。

年末 マルクスとエンゲルス、青年ヘーゲル派の批判を受け、反論として「ドイツ・イデオロギー」を執筆。

1846年夏 「ドイツ・イデオロギー」を脱稿後、エンゲルスとともにマンチェスター滞在。この間図書館通いして「マンチェスター・ノート」5冊を作成。

1847年 『哲学の貧困』を刊行。

1847年 マルクスら、ロンドンで「共産主義者同盟」結成。

1848年

2月 「共産主義者同盟」の綱領として『共産党宣言』を発表。

4月 ドイツ3月革命を受けケルンに移住。『新ライン新聞-民主主義の機関紙』の発行。

1849年

2月 「新ライン新聞」に『賃労働と資本』を連載。

5月 「新ライン新聞」が発行停止となる。

8月 マルクスはロンドン亡命、たけのこ生活を送る。

1850年 ハンブルクで「新ライン新聞」の再刊を企てるも失敗。エンゲルスはマンチェスターで仕事をして、マルクスを支える。

50年9月 ロンドンで経済学研究を再開。53年までの4年間、経済学を中心に『ロンドン・ノート』24冊を書き上げる。

1851年 
1月に貴金属、貨幣、信用。2月には、ヒュームとロック。3月には、リカードとアダム・スミス。4月には再びリカード。5月にはケアリー、マルサス。6月には価値と富の経済学。7月には工場制度と農業収入。8月には人口、植民。秋には銀行業、農耕法、および技術学(マクレラン)

1856年 義母の死により相当額の遺産を獲得。生活が小康を得る。

1857年 

最初の世界恐慌が発生。マルクスはこれを「ブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的総括および暴力的調整」と見る。

7月 マルクス、「57年-58年草稿」の執筆を開始。 商品・貨幣を論じる最初の経済学論文となる。最初の7冊のノートが『経済学批判要綱』と呼ばれる。「経済学批判序説」がふくまれる。

1859年 『経済学批判、第一分冊』が刊行される。「序文」、「第1章 商品」、「第2章 貨幣または単純流通」からなる。最初に構想していたのは全6編であった。

1861年 ふたたび金繰りが悪化。ドイツのおじを金策に訪れる。

1861年 8月からあらたに23冊のノート「61年-63年草稿」が執筆される。最初は経済学批判の第1部第3章 資本一般から始まるが、途中でプランは変更される。

1862年12月28日 マルクス、手紙で「すでに書いたものを推敲・清書して『資本論 - 経済学批判』として刊行する」と明らかにする。

1963年

7月 マルクス、「61年-63年草稿」の執筆を完了。『資本論草稿集』の第4巻から第9巻に相当し、「剰余価値学説史」が主体を占める。

7月 『資本論』草稿の執筆開始。全4部(3部と学説史)構成に変更された。

8月 第1部執筆が完了。

63年 マルクスの実母が死去。遺産相続で小康を得る。

1964年

夏 第2部をスルーして、第3部
の執筆を開始。

9月 ロンドンで「国際労働者協会」(第一インターナショナル)の設立が宣言された。マルクスが宣言を起草。

1965年

この年の前半 第3部第1稿の執筆を中断し、第2部第1草稿の執筆に取り掛かる。

引き続いて第3部第4章が執筆された。さらに第4章執筆の途中にプランの変更が
行われ,それは第4章(貨幣決済)と第5章(信用機能)に分割された(大谷)

この年の後半 第2部第3草稿執筆を完了。引き続き第3部の残りを執筆。

第4章の執筆途中で後半部分が独立した。前半は第4章(貨幣決済)に集中し、後半は第5章(信用機能)にあてられた(大谷)

マルクスは日中は大英博物館で抜粋を作成し、夜間は最後の地代論三章を執筆した。(結局地代論が最後となる)

12月 『資本論』草稿(学説史を除く)の執筆が完了。

1865年 「賃金鉄則」を批判した国際労働者協会中央評議会での講演、『賃金、価格および利潤』を出版。

1866 国際労働者協会第一回大会(ジュネーヴ)

1866年5月 ロンドンの大銀行の破産の破産をきっかけに恐慌が発生。金融恐慌の色彩を強く帯びる。

1866年 「第1巻」の最終稿執筆に着手。このときマルクスは、第1部と第2部を1冊の本に詰め込むつもりだった。

1866年 エンゲルス宛ての手紙。「原稿は、その現在の形では途方もないもので、…出版できるものではない」

1866年10月 「第1巻」を第1部に限定することとした。第2部は第2巻に回される。さらに第2部への移行部となる「第6章」も除外される。

1867年4月 資本論第1部の原稿がマイスナー書店に手渡される。発行は9月。

1867年7月 第2部第4草稿、第3部補足のための諸草稿に着手。この時点でマルクスは、数カ月のうちに第2巻(第二部と第三部)を刊行できると考えていた。

1868年

国際労働者協会のブリュッセル大会。マルクス主義者とブランキストが手を組み、プルードン主義者を圧倒。

エンゲルスがマルクスの負債をすべて精算する。

1868年12月初旬 第2部第2草稿の執筆を開始(第3,4草稿より後)。

1869年1月 第3部第1章の改訂版の執筆を開始。1871年8月より中断。

1870年

1870年半ば 第2部第2草稿の執筆がほぼ終了するが、印刷には回らなかった。

エンゲルス、マンチェスターからロンドン(マルクスの近所)に転居。

1871年 普仏戦争。フランスの敗戦とパリ・コミューン。マルクスは「フランスにおける内乱」を発表。

1872年 国際労働者協会のハーグ大会。バクーニン派の潜入・マヌーバー戦術によりずたずたになる。

1875年 『ゴータ綱領批判』。発表は1891年。

1875年 第3部第1章の改訂版の執筆を再開。何回か中断したあと、1876年2月以降は第3部には着手せず。

1877年3月末 第2部のための補筆・書き直しを開始。第5,6,7草稿が執筆される。

1880年末 第2部第8草稿の執筆が開始される。第3章の新たな書き直しを試みる。1881年に中断。これが最後となる。

1883年3月14日 マルクス死去 
 

不破さんが現綱領を作成して、その後現役を引退してから、もうずいぶんになる。
退役後、ずいぶん本を書いた。最初はこちらもお付き合いしたが、だんだんずるけるようになってしまった。
しかし未だに日本の革新運動史上最高の理論家であると思っている。

それはともかくとして、
「資本論はどのようにして形成されたか」(2011年)という本があって、その中の一節が大変印象的なので紹介しておく。
マルクスー不破

これは「リーマンショックから10年」という年がまもなく終わるにあたって、なかなかふさわしい一文ではないかと思う。

といっても、不破さん自身の発言ではなくマルクスの引用なのだが、不破さんの博識ぶりに感嘆したという話だ。ついで不破さんによる背景説明というかウンチク。
これは、1857年恐慌の終結後の58年10月、マルクスがアメリカの新聞『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』に掲載した経済論説「イギリスの商業と金触」のなかの一節です。
イギリス議会下院委貝会の恐慌問題の報告書が、恐慌の原因は「過度の投機および信用の濫用」にあったと結論したのを読んで、マルクスが、問題はそんなところにあるのではない、「過度の投機および信用の濫用」がなぜ10年ごとに繰り返されるのか、その原因を究明するところに恐慌問題で探究すべき中心問題がある、こういう痛烈な批判の言葉を校げつけたのでした.
それから160年も経って、いまなお先進国の国民が、「きわめて見え透いた幻想に惑わされて、周期的に自分の財産を手放す発作」にとらえられるのはなぜか。しかも10年毎に繰り返されるこっぴどい警告にもかかわらずやられるのは、いったいなぜか。
自己幻惑、過度投機と架空信用を10年おきに再生産する社会的事情ってなんなのだろう。
ということで、マルクスはそれをマインドの面から説明し、しかもそれに合理的な経済的説明を継ぎ足そうとしている。
マルクスの言につづいて、これを引用した不破さんの読解と解釈。
この文章を読んで、私が求めていた問題は、まさにここにあったと直感しました。資本主義的生産はどうして恐慌という破局を周期的な必然とする運動形態をとるのか、恐慌論でいう恐慌の「根拠」――生産と消費との矛盾――が周期的な恐慌を伴う産業循環を生み出すのは、資本主義経済のどういう仕組みによってなのか。
マルクスは、“問題はここにあるのだ”と言って、核心を避けて常識的な一般論に終始したイギリス議会に批判の言集を投げつけたのです。
“そうである以上、この問題にたいするマルクス自身の回答にこそ、マルクスの恐慌論の核心があるはずだ”、私はこう考えて、マルクスが経済論説で提起した問題を「恐慌の運動論」と呼び、その探究を志したのです。
ということで、さらに文章は続いていくのだが、とりあえずは
1.恐慌は投資家のマインドの問題である
2.マインド形成には資本主義のメカニズムの必然性が反映されている
という2段構えの論理を、マルクスが準備していることが分かればよい。
「資本主義システムが直接に恐慌を生み出すメカニズムを内包しているわけではない」、というのはマルクスの成長の証であろう。

いろんなページを見たが、発電機の周波数の説明がどうにもわからない。
私は現在のところ、以下のように考えているが、いかがであろうか。

電気は、「周波数」を一定(50Hz)に保ちながらお届けすることが大切です。
周波数を一定に保つには、電気の消費(需要)と発電所の出力(供給)のバランスをとる必要があります。
そこで、当社は周波数が常に一定となるように需要の変動に応じて、火力発電機や水力発電機の出力を調整しています。
1.機器の使用に不具合
なぜなら、周波数が変動すると産業用機器の使用などに不具合が生じるおそれがあるためです。
2.出力が減ると周波数が下がる
*北電のページでは周波数を「水の重量」に例えているが、これほどひどい例えは例えようがない。まったく連想できない例えである。
3.太陽光や風力は出力変動を大きくする
出力変動が大きくなるため火力発電などによる調整が追いつかず、周波数を一定に保つことができなくなるおそれがあります。
4.火力発電所は「下げ代」が小さい
受容の低下に対応して出力を低下させる調整能力を「下げ代」といいます。
火力発電機は、運転を継続するために最低の出力維持が必要です。したがって発電出力を一定値以下にすることができません。
つまり火力発電所は「下げ代」が小さいのです。
*これは水力と比べたときの相対的なものだ。水力は容易にゼロ稼働からフル稼働まで調整できる。
*同じ火力でも、どのエネルギーを使うかで変わってくる。最新鋭の天然ガス燃焼施設では対応の柔軟性は十分確保されてい。北海道に多い石炭専燃や重油火発は対応が遅い。
*原発の「下げ代」は最悪で、ほぼゼロに近い。

つぎが下記のページ

0. 周波数について
交流の電気の周波数は、電圧とともに電気の良しあしを決める重要な要素です。
さらに、周波数は発電と需要(負荷)とのバランスをみる重要な指標で、発電が需要を上回ると周波数は上昇し、下回れば低下します。

1.2.3.は省略
4.周波数の変動
発電所では、50Hz・60Hzの規格周波数から±0.1Hzから±0.2Hz内になるよう調節しています。
周波数が大きく変化するとモータでは振動や発熱、回転ムラが発生することがあります。

発電機そのものも回転数が変わるために、振動や機械系の疲労が問題になります。
周波数が大幅に変化しますと、運転を続けることができなくなり、次々に発電機が停止して大きな停電になることもあります。
*どうもわからないのだが、周波数の変化は結果であって原因とは言えないのではないか。周波数の著しい増減は需要と供給の著しい乖離の表現であって、だから危険を察知する重要な指標になるということではないのか。

この文章は、本文より脚注のほうが読み応えがある。しかしわかりにくいのは同じだ。
脚注
1 回転数と周波数
発電機はタービンの回転によって起電されます。周波数はタービンの回転数に比例します。
*これが良くわからないのだが、例えば10回転のタービンに、5倍速のギアを噛ませて50回にすることなのか。
タービンの機械的出力よりも大きな電気出力を出すと、タービンの回転数が下がります。
*これも良くわからないのだが、そもそも坂道を登ってエンストを起こすのとは違う話だ。出力ということで mα と1/2mxVの2乗 を混同しているのではないか。
もしわかりやすくいうなら、出血サービスを続けて貧血状態になって、最後にへたって動けなくなる。そのときに究極の疲労症状として回転数が下がってくるのなら、それはあくまで疲労現象の一つに過ぎない。
この回転数(=周波数)の低下は、いろいろな制御も用いてタービンの機械的出力を増加することによって元の回転数へ戻されます。
*供給力低下の続発兆候としてなら当然だ。回転数低下は結果に過ぎないのだから…
*供給力変化と関係のない単純な回転数低下なら、タービンからのギア比を上げれば良いだけの話。
2 飛行機では400Hz
周波数が高いと発電機は小さくてすみます。このため、ある狭い範囲にだけ供給する場合、たとえば、飛行機では400Hzの発電機が使用されています。
* 狭いというより低出力ということではないか。つまりギア比を低くしてトルク比を稼ぐ発想?

3 アンバランスというのは仕事のアンバランス
発電と負荷は電気的には常にバランスしています。それが電気の原理というものです。バランスが崩れるのは発電機を回すための仕事量(素材的には蒸気や水の量)と、発電している電力の大きさとの関係です。
単位時間当たりのエネルギー(仕事量)が発電している大きさよりも大きければ周波数は高くなります。
*ニュートラルでアクセルを踏み込むのとおなじで、
空ぶかしすれば回転数は跳ね上がる。回転数を上げたから空ぶかしになったわけではない。

4 最後はタービン出力の調整
最終的にはタービン出力を調整して回転数を保ちます。太陽光発電や風力発電では調整できません。
* 「オレは太陽光や風力は大キライだ」という姿勢が透けて見えます。



ということで、“周波数” は決して交流電気エネルギーの発生のための本質的要素ではないということがわかった。
それが意義があるのは、タービンの回転数の整数倍だったり、その逆数だったりして、回転数を間接的に反映しているからである。
ただしそれは駆動輪から伝導する際のギア比によって操作可能であり、回転数を反映する仕方は条件的である。

タービンの回転数は角速度である。産出エネルギは“重量✕速度の2乗÷2”だから、回転数は起電力の本質的な要素であるが、起電力そのものではない。

物理屋さんのボキャ不足が起因しているのだろうと思うが、問題は周波数ではなく、発電機のタービンの発生エネルギーなのである。
方程式は電力需要と電力供給量とタービンの出力から構成される。どういうふうに書けるかは知らないが、基本はそうである。
もう一つの方程式がタービンの発生エネルギーを決めるもので、こちらは角速度=回転数とタービンの負荷重量から導き出される。
重量は一定なので、出力は回転数によって決まる。需要量に比してエネルギーが不足すると、結果として回転は落ちてくる。要するにへたってくる。
どうするか。タービンを回すエンジンの出力を上げればいいのである。
出力を上げれば、回転数はふたたび増加し、供給エネルギーは増えるのである。

これら一連の過程はタービンの回転数を見ればわかるのであるが、一定の固定した条件(例えばギアー比) のもとでは発電した交流電気の周波数で代用することもできる。

おそらくはただそれだけの話であろうと思う。


宮尾さんの講演レジメ「検証! 北海道のブラックアウト」
での周波数についての説明は次のようになっています。
自動車で坂道を登ることを想定してください。需要の変化は坂の勾配で、発電はエンジンです。
坂がきつくなればエンジンの回転数が下がり、登る速さが下がります。
エンジンの回転数が周波数で、登る速さが電圧です。
需要と発電の関係は電力の電圧と周波数に関係します。
電圧はトランスで変えることができますが周波数は変えられません。
電力会社は周波数を監視して、周波数が低くなれば発電量を増やし、周波数が高くなれば発電量を減らします。
北電の説明よりはわかりやすいですが、やはりこれを読んだだけではなんの事やらわかりません。
電気屋さんの世界では交流電流の公式があるらしくて、多分それをそのまま、言葉だけ易しくして、いろいろな例えを使って話しているのですが、素人には直流電流におけるオームの法則で説明してもらわないとわからないのです。

オームの法則に周波数は出てこないのです。

消費電力は総抵抗として表現される

電気屋さんの説明で決定的に欠けているのは、「消費電力の増加」が「電気回路の抵抗の増加」と同じ意味だということです。
o-mu2
オームの法則は直流ですが、同じ電圧のもとで抵抗と電流は反比例します。抵抗が増えれば電流は減るのです。
o-mu
電球を直流で2個つなげば、明るさは半分になります。つまり消費電力が増えれば電流は減る、したがって仕事量(W)も減るということです。
交流では抵抗(R)と言わずにインピーダンス(Z)といいますが、単位は同じオーム(Ω)で理屈は同じです。
発電所を出た電気が発電所に戻ってくるまでにたくさんの電気器具が使われれば、その回路の抵抗は増えるわけです。

発電機の発生出力は電流の強さと同じです。電圧が一定の環境のもとでは、抵抗(電力消費)が増えれば電流は下がります。なぜなら抵抗が増えればタービンの馬力が同じでも回転数は下がるからです。

もう一つは問題は、推力としてのタービンの出力(馬力)と、アウトプットとしての発電機の出力(仕事量)の違いが書き分けられていないことにあります。

そして「周波数」がなんの関数なのかが示されていないことです。

ブラックアウトに至る基本の流れは、タービンの出力が低下することにより、発電機からの電力の出力が停止することです。

タービンの出力の低下はタービンの不具合による絶対的な低下と、需要に対し追いつかないための相対的低下があります。

しかし、相対的な低下といえども最後にはタービンがへたって動かなくなるのであり、まずは絶対的低下だけ考えればよいのだろうと思います。

つぎに需要の極端な低下や供給の過剰により、発電機に過剰な負荷がかかったときのことですが、これも最終的にはタービンの暴走→停止ということになるので、最終出口としてはタービンの不具合です。

高血圧で脳卒中を起こそうが、低血圧でショックになろうが、最後は心臓が止まってご臨終になるのです。

そしてブラックアウトを防ぐには、原因が何であろうととりあえずは心臓(タービン)が止まらないように動かすことです。「カギは周波数」ではないのです。

e=Esin(2πft)

というのが交流起電力の公式らしいが、私にはさっぱりわからない。読めば読むほどわからない。目をつぶると目の前をサイン、コサインが乱舞する。

この公式を見れば、起電力は周波数 f の関数だと考えても不思議はない。しかしその本質は角速度の関数だということです。
我々素人から言えば、それが回転速度の関数、つまり運動エネルギーの関数だということが、物の本質です。



昨日、北電のブラックアウトの話を聞いて、自分の電気に関する知識が恐ろしく低いことに気づき、愕然とした。まずは小学生の基礎勉強から。

ネットで「電力 歴史」で検索して見ると、いろいろなサイトが出てくる。これを年表化するところから始めることにする。


紀元前4世紀頃 プラトンは、静電気について記載し、「琥珀が軽いものをひきつける」としている。この電気は琥珀のギリシャ語「エレクトラム」にちなんでエレクトリカと名付けられた。

1746年  ライデン大学のマッシェンブレーケ、静電気を蓄えるライデン瓶を発明。一種のコンデンサーで,金属箔とガラスびんでつくられた容器。


1752年 フランクリンが凧を上げて、雷が電気現象であることを証明した。

はり金をつけたタコをあげ,伝わってきた電気をライデンびんにためた。その後金属棒をつけて花火が出るのを確認した。

1785年  クーロン、磁石には陽極と陰極があり、磁力は極と極との距離の2乗に反比例することを発見。

1791年  ガルバーニが,死んだカエルの足に金属を当て,足がけいれんすることを観察。カエルの体には電気を作る性質があると発表。

1799年 ボルタ、ガルバーニの実験で電気を発生するのは金属であることを発見。2種類の金属に湿った布を組み合わせた「ボルタ電池」を発明する。

1820年 エルステッド、通電した電線の傍の方位磁石が動いたことから、電流の磁気作用を発見。

1820年 アンペールは、電気と磁気に関する理論を発表し電気力学の理論を確立。

アンペールの法則: 磁場の大きさの積分は、経路を貫く電流の和に比例する。

1825年 スタージョンが馬蹄形の鉄にコイルを巻いて電流を流すと磁気を帯びる現象を発見。

1826年 オームは、電流、電圧と抵抗の関係を示す「オームの法則」を発見。

1829年 ヘンリーが電磁石を改良、電信や鉄鉱石の選別に応用した。

1831年 ファラデーは 電流が流れると磁気を生じ、磁気が変化すると電流が流れることを発見。電気と磁気の相互変換が実証された。これを電磁誘導現象と呼ぶ。

1832年 ピクシーが発電機(直流)を発明

1831年 クックとウィートストン、電信機の発明。37年に電信会社を起業。

1834年 ダベンポート、ボルタの電池を利用した実用型直流電動機を発明。レール上を走行する電気機関車の実験に成功。

1840年 ジュール、導体に電流を流して発生する熱量は、電流の2乗と導体の抵抗の積であることを発見。「ジュールの法則」と呼ばれる。

1840年 アームストロングが水力発電機を発明。

1865年 マックスウエル、Maxwellの法則を発表。電磁波(電気と磁気)の存在を予言。電磁波の速度が光の速度と同じだったことから、光も電磁波であることを予言した。

1870年  グラムがダイナモ方式(シーメンス)による実用発電機を完成する。

1876年 ベルが有線電話を発明。

1878 日本初の電灯(アーク灯)が点灯。3月25日の点灯日が電気記念日となる。

1879年 エジソンが、日本の竹をフィラメントに使用した電球を発明。

1881年 シーメンス、水力により交流発電し電灯を点灯

1882年  エジソン,電球普及のため発電所を建設し送電事業を開始する。(小規模な石炭火力発電所)

1888年 ヘルツは、電磁波の存在を実験的に証明した。

1890年 テスラ、交流モータと交流発電システムを発明。その後交流方式が世界中の電力システムに採用されるようになる。

1892年  京都の蹴上で,琵琶湖の水を利用した水力発電所が作られる。

1893年 スタインメッツ、交流電気の特性を数学的に表現する。

1881 シーメンス、水車で駆動する交流発電機で街灯を点灯。

1882 ゴードン、2相交流発電機を開発。

1882 テスラ、回転磁界を考案。多相交流(2相)による誘導電動機の原理(回転磁界)を考案。これに基づき「2相モータ」の設計。

1885 スタンレー、鉄の輪に二つのコイルを絶縁して重ね巻きにした誘導コイルを考案。最初の実用的な変圧器となる。

1887 テスラ、ブラシレスの交流発電機を開発。エジソンとのあいだに「電流戦争」が始まる。

1891 テスラ、高周波発電機(約15000Hz)を開発。無線通信に使用される。

1891 テスラ、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明。最初の長距離送電(距離175km)に成功。

1893 スタインメッツ、交流理論を出版。

1893 カリフォルニア、レッドランドの水力発電所が大規模発送電を開始。

1893年 シカゴでコロンブス博覧会。照明装置をめぐりエジソン+GEとテスラ+WHが競争。テスラがエジソンの半値で入札。これにより交流派の勝利が確定。

1895 ナイアガラ瀑布の水力発電所が発送電開始。60サイクルで運行され、以降この周波数が米国の標準になる。長距離送電開始にあたっては、電圧が11キロボルトに上げられた。



1.電気の利用はまずボルタ電池から始まった。このため多くの装置は直流電気を前提に開発された。

2.1830年にファラデーが電磁誘導を発見した後は、磁界の中で器械的運動(円周運動あるいはピストン運動)を行うことにより電気を導出する方式が主流となる。

3.したがって発生する電気は交流となるため、直流への変換が求められる。しかしそれは余分なコストである。

4.交流電気は変圧が容易なため長距離送電に向いている。このため交流が主流となっていった。

5.交流の最大のネックである電動モーターはテスラの「2相モータ」の開発により突破された。

最終的にテスラの交流発電方式がエジソンの直流式に勝って、世界標準となったらしいのだが、そのあたりの経過は、このたぐいの年表をいくら読んでもわからないようだ。もう少し的を絞って検索してみることにする。


中期マルクスの二つの隘路

佐藤金三郎が内田弘の「要綱」研究にコメントした小文がある。(「中期マルクスとは何か」1987年)

内田の原文が難しいらしく、佐藤もそれにつられて読みにくいものになっている。
佐藤は内田の論文をまとめた上で、「内田は中期マルクスの業績として二つを見出したのではないか」と述べている。
それはマルクスがリカードから相対的剰余価値を学び、会得したということ、アリストテレスから自由時間概念を引き出したことである。
佐藤はどうも内田の見解に対して、とくに自由時間概念についてニュートラルなところがあるようだ。

これらは、研究の成果と言うより、研究の先に立ちはだかる二つの関門であり隘路だったのではないか。

以下は、私の考えるところだが、
相対的剰余価値論は、確かにマルクス経済学の核心を形成しているところであり、恐慌→窮乏化革命を乗り越えていく上での飛躍台になっている。
しかし後年、相対的価値論だけでは進まない問題、価格実現問題が出現するので、よりエレメンタリーな概念の析出が求められるのではないか。
自由時間概念については、これが労働力概念から導き出される関数に過ぎないのではないかという思いを捨て去ることができない。社会的にも、倫理的にも、自由な時間は決してブランクな時間ではない。それを生活過程論と欲望の創出過程論抜きに語っても意味がないと思う。


継体天皇は混乱の入り口か出口か

1.継体天皇崩御の謎

百済本紀の勉強をしていて、ウィキの別項目が心惹かれた。

記事の名は「継体・欽明朝の内乱」で、安閑-宣化系と仁賢系の対立があったのだという説である。

そもそも継体がどこの馬の骨とも分からぬ出自で、即位の後数十年も摂津から山城をウロウロしていたのだが、それが即位して、亡くなってそれからまた内訌になったのだから、シッチャカメッチャカである。

しかもその間に筑紫の君磐井の乱が起き、任那の国が滅び、大和の地に忽然と蘇我氏が姿を現していくのだから、まったく謎の50年である。

しかも継体天皇の没年には諸説あり、百済本紀には「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」となっているのである。

そこにはミステリー小説も真っ青の「謎」がぎっしりと詰まっている。身震いするほど面白い話題なのだ。

2.雲の切れ間

大和王朝には空白の50年がある。雄略天皇が死んでその跡目争いがゴタゴタして、空位になってしまう。これが西暦500年ころだ。
その後物部と大伴という二大豪族が越前から継体というカイライを探してきて皇位に据えるが、からっきし権威がない。
結局、継体は30年を経て大和入りに成功した。そして名実ともに天皇家を担うようになるのだが、それから1年もしないうちに死んでしまう。
その後二人の天皇が後を継ぐが、いずれも超短期政権で終わってしまう。
さいごに欽明天皇が即位して事態は安定に向かうのだが、とはいえそれにはさらに10年を要する。

というのが経過のあらましだが、何よりもまず継体と欽明とが本当につながっているのか、「継体は断体なのではないか?」というのが疑問である。

3.継体天皇の二つの顔

私は九州倭王朝の存在を信じる人間である。少なくとも6世紀初頭の倭王「武」までは、九州北部を根城とする王国が存続していたと思っている。
それがどこまで引っ張れるのかについては分からない。根拠はない。

それはどこかで終わる。多分任那の滅亡と前後して終わったのだろうと思う。
それに代わって日本を代表する勢力として大和王朝が登場する。それは早くとも、欽明天皇の治世の後半からだろうと思う。より端的に言えば蘇我稲目の登場がメルクマールだと考える。

継体はこの2つの時代の接合部に登場する。彼は2つの顔を持っている。

一つは近畿にあって、王の存在しない混乱の時代を終結させ、安定と成長の時代に導いていく「大和政権の最初の王」としての顔だ。
もう一つは「太子・皇子倶に崩薨」し、混乱の時代に突入する「倭王朝の最後の王」としての顔だ。
それは死に顔から後ろ向きに始まるストーリーとなる。それがこの「継体・欽明朝の内乱」なのだ。

4.継体天皇の表の顔

まずはウィキの記載から入る。
生まれが450年、没年が531年3月10日とされる。81歳という年齢は長過ぎるようにも感じるが、ないとは言えない。ただし450年には“?”がついている。
507年に57歳で即位して、在位は24年間ということになる。数字だけならありえない話ではない。今上陛下の御即位は56歳である。しかし考えにくい数ではある。
出身は越前国高向の豪族で男大迹王を名乗っていた。大伴、物部ら反大和系(河内系)豪族に推戴され即位した。
即位19年後の526年に初めて大和国に入り、都を定めた。531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、同日に崩御した。

これが日本書紀の記載である。

この記載を具体的に解釈してみよう。継体を押し上げた勢力は雄略天皇と河内王朝を支えた勢力であることがわかる。そしてなおかつ、河内王朝(大伴・物部連合)は後継者不在に陥っていことがわかる。
河内王朝の権威は失墜した。大和の勢力は河内に従わず別の権力を打ち立てた。
河内と大和の対立は30年にわたり続いたが、最終的には河内側の勝利に終わった。継体は大和入りして都を開く。
基本的にはこの後、大和盆地を根城に万世一系の血筋が続いていくわけだから、継体という王はとても大切な王ということになる。

5.裏の顔 そのA 古事記の顔

古事記は日本書紀よりひと世代前に稗田阿礼位の口述を筆記して作成したと言われる。二つの資料において継体天皇の記載はかけ離れている。
古事記では、継体天皇は生年485年、没年527年5月26日となっている。(注釈文では4月9日)
古事記と日本書紀との間にはあまりにも露骨な対立が見られる。
同時代の作品であるから、たがいに知らないわけはない。とくに日本書紀の作者は必ず古事記に目を通しているはずである。
であれば、日本書紀側が知っていて、あえて虚偽記載した可能性が高いということになる。

もし古事記に従うなら、話はよほど自然になる。即位は22歳だ。大和に凱旋したのが41歳。その翌年には死んだということになる。
では日本書紀はなぜ、古事記を無視してまで生年を35年も遡らせたのか。

そこには理由があるはずだ。それが百済関係だと思われる。

没年についてはさらにミステリアスだ。527年5月26日というと大和入りしてやっと1年、とうてい安定した支配とは言えない。むしろ4面敵の中で暮らしている感じだ。
もし皇位を禅譲してその日に亡くなったのだとしたら、それが平和的なものだったのかという疑いがきわめて強くなる。
継体は前例のない譲位という形で権力を奪われ、死を余儀なくされたのではないかという疑問が沸かざるを得ない。この疑問に古事記は一切答えていない。

もう一つ、磐井の乱だ。このような状況の中で果たして平定作戦を進めるだろうか。それだけの力が地方豪族連合に過ぎない大和(河内)朝廷にあったろうか。

だから日本書紀はこの年を没年にしたくなかったのだ。そこで後ろにずらせて、大和支配が安定し、禅譲のお膳立てが揃うギリギリの531年まで繰り下げたかったのではないか。日本書紀はご丁寧にも534年という異説まで紹介している。


5.裏の顔 そのB 百済本記の顔

これは本当に継体天皇のことなのか分からない。日本書紀の作者(おそらく百済人)が、「これは年代的に言ったら、継体天皇やろな」と思って書いただけのことだ。だから本文には組み込まずに、注釈として挿入してある。

その文章というのは、「辛亥の年(531年)に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」(日本天皇及太子皇子 倶崩薨)というものである。

ただ、百済の亡命者も経過は知らないから、辛亥年というだけの理由で話を作り上げただけだ。それが60年前であっても後であっても「アッ、そう」だけかもしれない。

もしそれが倭王何某と書かれていたとしても、690年に亡命して大和で外国の正史を編纂している人間にとってどんな意味があるか。大和の天皇と書きなおしても何の不思議もないのではないか。

彼らにとって、大和王朝が由緒正しい倭王朝の末裔ではなく、田舎の豪族連合政権の出自なのだとしても、どうでも良いのである。問題なのは、彼らがその時大和朝廷の食客でしかなかったということである。


6.「辛亥の変」で殺されたのは安康天皇?

ウィキでは、60年前の辛亥年、すなわち471年とする説を紹介している。「この年、大和朝廷では安康天皇が眉輪王に殺害された。混乱に乗じた雄略は兄や従兄弟を殺して大王位に即いた」とされている。
しかしこれは「天皇及太子皇子 倶崩薨」というのとは少し違うし、「雄略を倭王武に比定してバリバリ書きまくっている日本書紀の執筆者が、そのような単純な取り違えをするだろうか?」という、別の疑問が浮上する。


7.継体 531年死亡説を前提とする王権継承説話

話がどうしようもなくこんがらがっているが、もともと古事記をオリジナルと考えれば、「継体A」は527年5月26日に亡くなったのである。

皇位を後継者に譲り、その日に亡くなったというのは日本書紀の説明である。古事記にはそのような説明はない。おそらく磐井の乱も知らず、側近の悪巧みも知らず自然死したのであろう。

その後、安閑・宣化が短期政権を担ったあと、欽明へという流れはもっとも素直な政権論である。

ただ526年に大和を制圧し都を立てて、わずか1年後に亡くなるというのはいかにも唐突だが、そもそも古事記には20年にわたるオデッセイアは描かれていないのだから、そんなことはどうでも良いのだ。

これに対し日本書紀はことさらに生涯をドラマ化し、あえて不審死を匂わせ、さらに百済本記の「531年事件」を重ね合わせ、物語を作り上げている。

いずれにしてもここには、日本書紀が密かに重ね合わせたもうひとりの継体天皇がいる。この「継体B」こそは倭王朝を率い百済と交通し、任那を割譲し、磐井の反乱を乗り切り、31年に政変により打倒され、一家皆殺しにされたのである。

それでは、日本書紀はなぜ生年を35年も遡らせたのだろう。それは継体を倭王「武」に比定したかったためではないだろうか。

いまのところ、邪馬台国大和派の人々は雄略を武に比定している。しかし雄略の即位が絶対年代で450年ころであり、どうも合わない。
『梁書』は502年に倭王武を征東将軍に進号しているのである。そうするとこの時期に日本で天皇でありえた人物は継体しかいない。
そのために九州王朝の王であった「継体B」を大和王朝の継体に当てはめなければならないことになる。

しかしこれは相当の無理がある。倭王武が531年まで生き延びたとは考えにくい。おそらく倭王武の次の王、名無しだがとりあえず「継体B」を名乗る王がいたのではないか。


8.安閑・宣化天皇は倭王朝の最後の王

日本書紀はさまざまな問題をはらみつつも、最終的に欽明へのバトンタッチを認めている。しかし本当にそうだろうか。

欽明天皇は宣化天皇の娘婿でしかない。継体天皇の嫡男となっているがこれは怪しい。しかも彼は安閑・宣化系勢力と明らかに対立している。対立というより並行というほうが正確かもしれない。

しかも彼の近親者や支援者は明らかに大和系で、九州系の香りはない(蘇我稲目は元九州系の可能性があるが)。

この2つのグループの対立は最終的に宣化の崩御により解消された。
しかしもう一つの可能性、継体が死んだとき同時に安閑皇太子、宣化皇子も死んでしまい、それでは格好が悪いと言うので2年づつ生きたことにして欽明へとつないだのかもしれない。
なぜそうしたか、それは彼らを殺した連中にとってそのほうが都合よかったからである。

では誰が倭王朝を滅ぼしたか、最初から明らかにしているようにそれは大和王朝によるものではなかった。おそらくは九州王朝そのものの自壊作用ではなかったかと思う。

以前、それは百済によるものではなかったかと書いたことがある。かなり荒唐無稽な推理ではあるが、成り立たないわけではない。

しかしもっと考えやすいのは任那か、加羅か、金官伽耶あたりにいた和人集団である。

朝鮮海峡を挟んだ倭人集団は結局共倒れになり、その結果半島では新羅に国土を制圧されることになり、九州北部では欽明天皇の率いる大和軍に吸収合併されていくことになる。

日本書紀: 百済三書からの転載が想定される部分
(ウィキを見ていて考えついたこと)

1.百済三書をどう見るべきか

『百済記』・『百済新撰』・『百済本記』の3書を百済三書という。いずれもすでに失われているが、『日本書紀』への引用として一部が残されている。
なお「百済本紀」は後世に作成され、『三国史記』に収められたものであり、百済三書とは異なる。

日本書紀に引用されている逸文は、近肖古王から威徳王の15代200年にわたる。

絶対年代はわからない。一つの傍証としては三国史記にも同じ文献からの引用と思われる箇所があり、干支の2周分(120年)ずれて一致することが指摘されている。これは本居宣長、那珂通世以来の通説であり、承認してよいのではないかと思う。(ここからは逆に、その120年のずれがいつから解消されているのかも問題になるが…)

内容についても、人物名など明らかに大和朝廷の事情に合わせている場所を除けば、とりあえず史実とみなせるのではないか。

やって見る価値はあると思う。


2.誰が引用したのか

明示的な引用は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。ということは、引用が示唆される場所、参照したと思われる箇所は、はるかに多いことになる。

これだけ大量の引用を行いえたのは、百済から百済三書を携えて亡命して来た百済の御用学者のみである。

大和朝廷に「皇統記」みたいなものがあって、彼らはそこに適宜百済側の資料を突っ込んでいったのではないだろうか。

もしその皇統記が「古事記」に類するものであったとすれば、
「日本書紀」-「古事記」=「百済本記」
みたいな関係が成り立つのだろうか。



この論文の「序論」はとても面白い。著者の問題意識がとても共感を呼ぶ。
その上で本論に入っていくのだが、徐々に齟齬が生じてきて、この人にはマルクスの問題意識、権力の本質とか量から質への転換という考えが伝わっていないのではないかと思ってしまう。
ただそれはそれなのであって、序論のところは大いに勉強になるし、一生懸命受け止めてみたいと思う。

初期マルクスから革命家マルクスへ
*『ヘーゲル法哲学批判序説』『ユダヤ人問題によせて』および『経哲草稿』等の、いわゆる初期マルクスにおいては、未だ共産主義への移行が成就されていない。
* それに対し、『ドイツ・イデオロギー』および『哲学の貧困』『共産党宣言』等の1840年代後半の文献においては、共産主義者としての視点から「社会主義」リカード派社会主義やプルードンの社会主義等が批判されている。
中期の組織者マルクス
1848年革命は敗北し、ブランキストの革命論を受け継いだマルクスは挫折する。
1850年代から60年代にかけて、マルクスは“恐慌―内乱―革命”の希望を抱きながら、革命の準備と党派の組織に希望を託すが、予測は何度も裏切られる。

後期の理論家マルクス
後期マルクスにおいては、革命情勢はますます遠ざかり、それに伴って長期の革命構想がもとめられるようになった。
過渡的形態、改良的過程を織り込んだ展望の採用、平和的・非権謀的可能性が追求されるようになり、
これにともなって重大な戦略的・戦術的転換がおこなわれる。
それらは、おそくも1860年代半ばには形成され,パリ・コミューンの深刻な教訓を経過し,『ゴータ綱領批判』(1875)において明確な定式化が与えられた。(最後の段落には異論があるが、とりあえず…)

現代世界は、はるかに進んでいる
現在の世界においては、このようなマルクスの時代とはまったく異なった状況が広がっている。それを荒木さんは次のように説明している。

1.ブランキズムは完全に陳旧化した
マルクスが革命家の出発点においてイメージとしたのはブランキズムである。それは一揆主義そのものである。それは決死の覚悟を帯びた少数の革命家集団が、政府との対決を強行的に突破することを前提としていた。それは少数者による政治権力の簒奪を最優先課題としていた。
一揆主義者による暴力革命、そしてプロレタリア独裁を必然的にともなう革命戦略は、しかしながら中期マルクスにおいてさえ、すでに過去のものとなっている。
エンゲルスは「歴史に照らして,われわれもまた誤っていた。当時のわれわれの見解は一つの幻想であった」と自己批判している(「フランスにおける階級闘争」序文)

2.多数者革命と漸進的な所有制改革
21世紀の今日における主要な革命のイメージは、まず第一に、国民の多数が支持し推進する多数者革命である。第二にそれは立憲革命である。革命は民主的なプロセスを経て合法的・平和的に遂行される。第三にそれは高度福祉型の未来社会を目指す“生活第一”革命に収斂していく。
それは「新しい社会主義」の革命であり、抗しがたい理性の流れである。

3.19世紀型革命像から21世紀型革命像への道のり
上記のごとくマルクスが革命家を目指した最初期の革命像と、21世紀に住む我々が思い描く革命像とははるかに懸隔している。
この論文は革命運動が自らの論理をどう変えてきたのかの道筋を、とくに中期から後期マルクスへの変容を通じて描き出そうとしているのだが、それについては目下の関心領域から外れるので仔細には取り上げないでおく。
一言だけ言っておけば、マルクスとエンゲルスは19世紀末にすでにかなりのところまで進んでいたのであり、ボルシェビズムとスターリニズム、第二次大戦後に民族解放を闘った国々では、そこからかなり遡った場所から革命を開始したのである。


私にとって最も印象深かったのは、21世紀型革命の3つの性格付けである。すなわち多数者革命、立憲革命、生活者革命であり、これらを総称して「新しい社会主義」の革命として提唱することである。

ただし、それが「革命」であるということは19世紀来、通底しているのであって、そこには権力の移動が伴うのである。そしてそれが政治的な範疇における質的変化を持って始まり、社会の全分野に拡散するという特徴を持つことである。
そこには政治的、法的、社会的な“押し付け”が伴わざるを得ない。当然ながらそこには反発力も生じ軋轢も発生する。すなわちそこには運動が熱を発するごとく、「闘争」が発生するのである。

もうひとつは、「私有財産制度の否定」という革命の主要目標の一つが、依然として未確定のまま残されているということである。民医連における所有形態論争というのは、それ自身が「目標」ではないが、人民的共同を持続的に発展させる上での最大(というより最低)の制度的保障だということで決着がついた。
ただ、私有財産の否定だけではどうにもならないのではないか?というのが率直な感想である。株式会社制度も、官僚主義制度も個人所有制の否定の上に成り立っている。もう少し社会の形態ではなく社会の目的に即したパラダイム・シフトが必要なのではないかと思う。

岡ノ谷一夫「言語の起源と脳の進化」を読む

まず私見から この分野は百花斉放の状態となっているので、さまざまな用語をきちっ と定義づけた上で使わなければならない。

「言語」を発生学的に構造化しておく必要があると思う。 爬虫類→鳥類の進化はとりあえず脇においておいた上で、両生類→哺 乳類→霊長類→現生人類→視覚性言語(文字)という流れの中に言語 の発生と進化を見ていくことが必要だ。

1.音を発生し信号とする 
実体:
 これが最初の「言語」の萌芽であろう。昆虫の多くは声ではない 、声帯を使わない音を発生させる。
目的:
 それを他者との伝達の手段とすることにおいて、それは信号と なる。
矛盾:
 それは自己の存在を自ら暴露することであり、「捕まえる=逃げ る」行動の集積としての生命活動からすれば大いなる矛盾である。そこ には、「求愛」などなにがしかの理由が存在しなければならない。

2.声が主要な音声発生装置となる
実体:
 「声」は気道の入口部で、食道との分岐部に当たる。元は嚥下 時の誤嚥を防ぐための蓋なのではないだろうか。それが空気の出し入 れの際に笛のリード様に動くことが発見され、それを鍛えることによって 声が生まれたのだろう。 声は両生類以後のすべての陸生動物に共通する生体機能であり、使用法もほぼ共通する。
目的:
 声は高低、強弱、長短という要素を操ることにより、他の音より もはるかに多くの意味をもたせることができる。しかしそれにふさわしい 使い方は、その必要性が発生するまでは生じない(求愛を除いて)
矛盾:
 優れた伝達媒体を持ったが、食物連鎖の下方にいる限りは宝 の持ち腐れ。むしろ退化する可能性もある。

3.声が信号として多様化する
実体:
 ハード的には変化なし。繰り返しや遠吠え用の長音など使い方 に工夫。
目的:
 おそらく、哺乳類の中でも比較的後期、狼とかハイエナのような 集団狩をするグループが出現するまでは無意味であったろう。周囲一 般に対する発信のみならず、群れの内部に対する対自的発信が分離する。言葉の厳密な意味においてのコミュニケーションということになる。 
矛盾:
 他者一般から集団的自己(群れ)の分離、そこにたんなる信号 にとどまらないニュアンスの発生。

4.さまざまな音声信号の言葉→言語への整序
実体:
 霊長類から猿人→原人への進化。頭頸部の直立により発声器官としての声帯の構造が確立する。 母音と子音の組み合わせにより、ほぼ無限の「言葉」体系が出来上がり 、強力な意志伝達手段となる。 猿人→原人→旧人→サピエンスの経過を通じて脳容量は3倍化してい る。その半分はウェルニッケとブローカ中枢、言語活動のための記憶装置の 増大によると思われる。
目的:
 群れより大きな集団(社会)への適応。信号を送るだけでなく受 け取る側にも同等の知能が求められる。
矛盾:
 教育と強制なしに成り立たない信号系。集団の媒介から、集団 の形成へ。

5.読書・書字言語
実体:
 人間の本質的能力を超えたところに存在する超言語。聴覚性言 語の完成後に、それに付随する形で形成される。 読書・書字能力の有無は脳容量と相関がない。読書・書字能力は聴覚 言語とは違い、ありあわせの脳神経を活用する形で形成される。
目的:
 情報量は格段に多く、記録性に優れる。ただしそれを活用でき るか否かは社会の活動力により決まる。
矛盾:
 視覚性言語は著しい社会的不公平を伴う言語である。多分現在も人類の3分の1は事実上の文盲ではないだろうか。この社会的不公平を取り除く活動なしに視覚性言語の発展はありえない。
しかし今日の世界において視覚性言語こそが科学・技術・経済・思想の発展の原動力であることも疑いない。このように二重の意味において、視覚性言語はすぐれて社会的な言語なのである。

言語の出現を巡る深い断絶
言葉が生まれる前段階として、動物界にも声による信号の授受がある。
しかし音声の組み合わせによって新たな意味を作り出すことはできない。
そこには深い断絶がある。
では、なぜこのような深い断絶が生じたのであろうか。人間はどのようにこの断絶を超えたのだろうか。
その問は次のように答えられなければならない。まず人間は喋れるようになった、だからしゃべるようになった。喋れるようになったから、聞くこともできるようになった。


言語と人工知能
 人工知能(AI)はスーパー文字言語と考えられ、膨大な文字情報を活用できる可能性(第6段階?)を秘めて いる。グーグル検索はその初歩的第一歩であろう。が、その力をどう個性化、 特殊化し、具体的成果として引き出すかは未解決だ。それにグーグル検索には強力さと同時にいかがわしさも感じることがある。



と前置きが長くなった。
本文に入る。と言ってもあまり大したものではない。2007年の出版で、すでに古くなっているということもあるのかもしれない。(「脳研究の最前線」というブルーバックスの一章)

最初の「言葉の定義」というのは、次のように記載されている。

「言葉」の簡単な定義:
言葉は一つのシステムであり、
①単語(象徴機能を持つ記号)を、
②文法(限定された単語の順番)で結合し、
③森羅万象との対応をつける
「言葉」は、人間の言葉以外にありえない。
まぁそんなところでしょう。ただこれは実体論的・構造的観点から見た規定であり、目的論的規定や過程としての言語活動論から見た定義は抜けているので、これだけでは不十分と言わざるを得ません。

鳥のさえずりについて
この点について、岡ノ谷さんは大変面白いことを述べておられる。
私なりに解釈すると、鳥は喋る前に歌った。それには2つの理由がある。
一つは歌う能力を獲得したから歌っていること、歌う余裕ができたから歌うようになったということ。野生の鳥が飼育されて歌うことを強制されると見事に名歌手に変貌するそうだ。野生で厳しい食物連鎖の暮らしの中にあっては、歌の名人になる前に襲われてしまうらしい。
もう一つは、鳥は歌ったりしゃべったりする身体的能力は持っているが、喋ることはできないということだ。
彼が歌い喋る能力を発揮するチャンスは、歌う場面でしかない。上にも書いたとおり直立することで獲得した多彩でニュアンスに富む発声能力は、求愛みたいな場面で「無駄遣い」されるだけであり、とりあえずは無駄なものである。
ところが人間においてはいつの日か、歌う・さえずるという「発声能力」が「発語能力」として利用可能だということが「発見」されたのではないか。
さえずる能力はオバサン方の井戸端会議のためだけでなく、世界を進歩させ暮らしを良くするためにも大変重要なツールになるということが「発見」された。それは長年をっけて進歩したのではなく、ある日突然に発見された。脳神経がそれに対応して発達するのはその後の話である。
それを発見したのは人類のみである。

ピーターセンらの実験
2015年06月13日 「言語活動の4つのモードと脳活動部位」という記事で一枚の画像を転載させていただいた。
言語活動と脳
この写真は別の文献からの転載のようだ。それが岡ノ谷さんの文章でわかった。
岡ノ谷さんによれば、これはピーターセンらの行ったPETを用いた思考実験の絵で、その世界ではかなり古典的なものらしい。ただし出典は記されていない。
画像の読みについては、煩雑になるのでここでは触れない。ぜひ記事を参照いただきたい。

韓国現代史年表(ハングル版) とりあえずここへ置きます。
FFFTPでアップロードしているのですが、二階のパソコンで上げているので、ここで無理するとファイルが消えてしまいそうです。
明日、ホームページの方に上げます。

韓国戦後史年表

これは朝鮮戦争終了時から現在までを扱う年表です。グーグルによる機械翻訳なので不正確です。
この10年以上本格的な追補していないので、ご了承ください。

元ページ(日本語)はここです。

容量オーバーで載らないそうです。明日、直接ホームページの方に載せます。
ご一読(日本語の方を)お願いいたします。








やっていくうちに、そもそもCPUってなんなのだということがよくわからなくなってきた。
とりあえず、ウィキで調べることにする。

1.CPUとはなにか

大まかに言うとコンピュータはプロセッサーと記憶装置からなる。記憶装置にはデータとプログラムが搭載されている。

プロセッサーはプログラムを順次起動し、実行し、つなげていく役割をはたす。またプログラムが要求するデータを読み込む役割も担っている。

コンピュータが作動するためには、このほかに補助記憶装置や表示装置、通信装置などが必要だが、これらは外部装置でも代用できる。

CPUはCentral Processing Unitの略。日本語では中央処理装置といわれる。プロセッサーの一種である。

大規模集積回路(LSI)の発達により、少数のチップに全機能が集積されたマイクロプロセッサが誕生した。

ということで、以下面倒くさい定義が並ぶが省略。

2.CPUの構造

CPUは、全体を制御する制御装置、演算装置、データを一時記憶するレジスタ、外部装置とのインタフェースから構成される。

制御装置が命令の解釈とプログラムの流れを制御し、演算装置が演算を実行する。

演算装置のうち、浮動小数点演算を行う専用ユニットをFPU(浮動小数点演算ユニット)、という。このほかDMAコントローラ、タイマーなどがふくまれる。

3.CPUの動作

CPUの最初の動作はプログラムを記憶装置から読み出すことである。これをフェッチと言う。

次の動作はプログラムの諸コードを読み込んで、なすべきことを決める。これをデコードという。以前はデコーダという専用ハードだったが、現在ではそれ自体がマイクロプログラムとなっている。

次は、実行ステップが行われる。このステップではCPUの多くの部分が接続され、指定された操作を実行する。

命令を実行後、同じ流れが繰り返されて次の命令をフェッチする。

今朝のニュースで藤井8段が初解説というのがあって、その中でご本人が「いまZen2にハマっているんです」とのたもうた。
それでグーグル検索してみたが、さぁわからない。
Zen2についてWikiChipが解説」というページを見たが、間違いなく解説の解説が必要だ。
ひまなのでやってみようか。

1.第3世代Ryzenで採用されるAMDの次世代アーキテクチャ

Zen2というのは、そういうことなんだそうだ。
AMDだけはわかる。CPUのメーカーでインテルの後発メーカーだ。安いのが売りのメーカーだ。
その会社が第3世代Ryzenに採用されることを狙った新製品を出した。それがZen2というアーキテクチャなのだ。
ということで文法はまずわかった。アーキテクチャというのは構造物だが、要は堅もの=ハードということらしい。とりあえず“チップ”のようなものと考えておく。
結局、「第3世代Ryzen」というのが何なのだということになる。しかし第3世代Ryzenの話は当分出てこない。とりあえずその事自体はどうでも良く、話の要点は、Zen2というチップがいかにすごいかということらしい。

2.Zen 2 マイクロアーキテクチャ

で、次がこれがどういうものかという解説。
Zen、Zen+に続く第3世代のZenマイクロアーキテクチャだそうだ。
(Ryzenの話は別にして、そもそもこれ自体が第3世代なのだ)
この第3世代ZenであるZen2がいままでと違うところが説明される。
①CPUコアがTSMCの7nmプロセスによって製造されている。
②拡張機能が大幅に強化されていて、とくに分岐予測ユニットが再構築されている。
③データバスが著しく拡大され、AVX命令が1つの256ビット幅のデータパスで実行可能になった。
④帯域幅の拡大で、IPC(クロック当たりの命令実行数)が増加した
⑤脆弱性スペクトルの軽減措置がファームウェアから取り入れられた。
⑥低消費電力で高密度を実現できる7nmプロセスの採用により、半導体の集積密度は2倍になった。

このようにして第3世代Ryzenはシングルコア性能でもIntel CPUに追いついた。
ということで、①~⑥はさっぱりわからないが、少しRyzenとZenの関係が見えてきた。
つまりインテルで言うと Core i7 とか Core i5 は7つ(5つ)のチップの集合なので一つ一つのチップはまた別の名前になるのだろう。それがRyzenとZenの関係になるのではないか。

話はさらに

AMDが7nmプロセス・最大64コアのデータセンター向けCPU「Rome」と7nmプロセスGPU「MI60」を発表 

の記事に進んでいくが、これはまた別次元の話になっていって、パソコンのレベルではないようなので省略する。

ではこのZen2なり第3世代Ryzenが現在主流CPUのインテルに代わるものになっていくのか、これが次の問題になる。

しかし、依然としてなんのことやらわからない。


AMDの7nmプロセス「ZEN 2」CPUコアのマイクロアーキテクチャ拡張」 11月8日
と題されている。これはZen2を組み込んだサーバーCPU「ローマ」の紹介である。

1.次世代AMDサーバーCPU

Romeは、「ZEN 2」マイクロアーキテクチャのCPUコアをベースとし、TSMCの7nmプロセスで製造される。

従来のZENベースのサーバーCPU「ナポリ」もマルチダイ構成だったが、内容は大きく変わる。
CPUコアのダイとI/O系のダイが分割され、パッケージ内に1個のI/Oダイと、8個のCPUダイが収められる。
8個のCPUダイはそれぞれ8個のCPUコアを搭載しており、合計で64個のCPUコアとなる。

個々のCPUコアのマイクロアーキテクチャも拡張された。それがZen、Zen+→Zen2である。

とくに浮動小数点演算のスループットは、CPUコアあたり2倍となった。そのためローマ全体の演算性能はナポリに比べ4倍化している。

マルクスの晩年の動きが今ひとつ見えなかったので、とりあえず年表化してみた。
資本論の第一部出したのが1867年。それから数年間は、国際労働者協会の会長としての仕事がかなり忙しかったようだ。
それが徐々に活動の場が狭まっていく。とくに普仏戦争とパリ・コミューンへの関与が必ずしも大方の支持を得ることができなかったようだ。
ハーグの大会をもって第1インターは事実上の開店休業に入っていく。ドイツで社会民主党(アイゼナッハ)が勢力を増したときは羽振りも良かったのだが、ゴータ大会でのラサール派との合同の後はドイツ国内でも影が薄くなっていく。
理論活動はその後も展開した。
これに宮川彰さんの作成した資本論第2部草稿の執筆年代太字で重ねておく。
エンゲルスによってまとめられた(ゴチャゴチャにされた?)第2部・第3部草稿の他にも、剰余価値学説史や、ザスーリッチ論文などがあるが、今回は調べ切れていない。あまり一生懸命やっている研究者もいないようだ。

1864 第2部草稿 第1稿執筆(65まで)

1865年1月 第3部「主要原稿」の執筆開始(66年12月まで)

1867 『資本論』第1巻ハンブルグで出版 

1867 普墺戦争。勝利したプロオシアはドイツ連邦を解体してオーストリアをドイツから追放。プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦を樹立する。マルクスはこれを「プロレタリア闘争に有利な展望が開けた」と一定の評価。リープクネヒトとベーベルは帝国議会議員に当選。

1968 資本論第二部第2~第4草稿に着手(第2稿は70年まで、第3,第4稿は年内に執筆完了)

1869年 エンゲルスがマルクスの借金(浪費による)を肩代わりする。4年間で1862ポンドに達した。

1969 ベーベル、リープクネヒトらが非ラサール派の労組を組織し、社会民主労働党(アイゼナハ派)を結成。

1870 普仏戦争が始まる。マルクスは「フランス人はぶん殴ってやる必要がある」と(私的に)論評。

1870 エンゲルス、家業から解放されロンドンに居住。

1870 第1インター総務委員会第1宣言を書く

1871年

3月 パリコンミューン。『フランスにおける内乱』を執筆。

6月 パリ・コミューン支持に反発したイギリス人グループがインターナショナルから脱退。

1872年9月 ハーグでインタナショナル大会。マルクスはプルードン派と組んでバクーニン追放に成功。

1873年には肝臓肥大という深刻な診断。鉱泉での湯治を目的にドイツ国内の湯治場を巡る。

1875年2月 ラサール派とアイゼナハ派」(マルクス派)が合同して「ドイツ社会主義労働者党」が結成される。
ゴータ綱領批判(公表は91年): マルクスは「最悪の敵である国家の正当性を受け入れ、小さな要求を平和的に宣伝していれば社会主義に到達できるとしたもの」とこき下ろす。また「未来の共産主義社会の国家組織にも触れず、“自由な国家”を目標と宣言するのはブルジョワ的理想だ」と批判。
1876年 フィラデルフィアでインタナショナルの最後の大会。解散決議を採択。マルクスの公的生活はこれをもってほぼ終了。

1876年 草稿 第5,6,7稿に着手(いずれも80年に執筆完了)
第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿
1877年 草稿 第8稿に着手(81年に執筆完了)

1878 エンゲルス、『反デューリング論』を発表。間もなく抜粋版として「空想から科学へ、社会主義の発展」が発行される。マルクスは第2篇経済学・第10章「批判的歴史から」を執筆。

1878年 チャンネル諸島で湯治。

1881年

3月 ザスーリチへの手紙(ドイツ語版)が出版される。

夏 妻イェニーとともにパリの娘の元を訪問。帰宅後イエニーが死去。

1881年 草稿第8稿を脱稿。その後当初の目的だった第3部の書き直しには着手せず。

1882 この年も旅行を繰り返す。

1883年

3月14日 マルクス、ロンドンの自宅で病死。享年 64 歳。
E・H・カーは
マルクスはインタナショナルのハーグ大会の後も10年余りを生きていたが、その間は大して目立ったことはない。それは老衰の時期であり,不健康と無能力とが増した時期である。
と書いている。それまでの一心不乱の人生に比べれば、それも半分はあたっているのかもしれない。



1885 『資本論第2巻』が発行される。

1886 エンゲルス、『フォイエルバッハ論』

1891 社会民主党『エアフルト綱領』

1894年 『資本論』第 3 巻が出版

1895 年 エンゲルス死去


「未来社会論」 随想

聽濤弘さんの本「200歳のマルクスならどう新しく共産主義を論じるか」の読後感の続きです。

「未来社会論」ときくと、つい私は、大衆社会論とか市民社会論が流行った60年代の議論を思い浮かべてしまいます。

今あまりそういう議論は意味ないんじゃないかという気もするのです。なぜなら、アメリカやイギリスの若者運動が正面から「社会主義」という言葉を掲げて、それが市民権を獲得しようとしているときに、我々の目標を「未来社会」という曖昧な用語に置き換える必要はないのではないかと思うからです。

ということで、社会的正義と福祉が優先される時代・我々の目指すべき社会という意味で「社会主義」論を熱く語るべきかな、と思います。

資本論→賃金・価格・利潤→ゴータ綱領批判のなかに社会主義像はない

実は以前から私はそう思っているのです。

マルクスの中期から後期への一貫した問題意識は、①改良ではなく革命を、②政治闘争で権力を獲得する、③私的所有を否定する、なのだろうと思います。(ただし③は相当揺れがあります)

そして新しい革命の担い手が労働者階級に移行することを確信し、その根拠を産業資本主義の発展そのものの中に捉えようとしたのだろうと思います。

そういう強烈な問題意識のもとに資本論は書かれているわけで、歴史貫通的な人類の進歩との関係で社会主義が論じられているわけではありません。

したがって、「オメェラ、チンタラやってんじゃねぇよ」というゴータ綱領批判の中に、未来社会論を見つけようというのはお門違いなのではないかと思います。

それはマルクスの指導する国際労働者協会が徐々に影響力を失い、いったん幕を閉じる過程でのマルクスの焦りの表現でもあります。そんなにお行儀の良い文章ではないと思います。

もし社会主義社会像を導き出すのであれば、私は「経済学批判序説」に戻らなければならないと思うのです。
消費によって新たに生産の欲望を想像することにおいて、消費は生産の衝動を創り出す。消費は生産者を改めて生産者にする。
 また生産は、「一定の消費の仕方をつくりだすことによって、つぎには消費の刺激を、消費力そのものを、欲望として創造することによて、消費を生産する」
 ここでは、消費という行為が生産を生産たらしめ、生産という行為が、消費を消費たらしめる関係性が、時間を経由して完成されることが示される。
一人ひとりの人間の中に生産力能と消費力能がふくまれています。
消費力能というのは変な言葉だが、“欲望の生産”あるいは“生産力能の生産”という意味での力能です。

資本主義的生産は資本主義的消費を必要とします。それは主体的要求を抱える近代的個人による消費です。

生産と消費は、いわば自転車のペダルを交互に踏むように相補的過程を繰り返します。それによって人は前に進んでいくのです。

資本論は、基本的には経済学の本なので、哲学を平均値に置換している

生産は消費であり消費は生産であるという観点、欲望を持つ諸個人が生産の原点であるという歴史貫通的視点は、資本論の中ではとりあえずは無視されています。
労働力の価値は労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である。…一定の国や時代には必要生活手段の平均範囲は与えられている
しかし、労働する諸人格の価値は、そのような生産コストの集合みたいな惨めなものではないはずだと思います。

価値は価格の集合としてのコストではありません。それは使用価値を根っこに踏まえた抽象なのです。もう一つ、価値は交換によって価格に転化するのではありません。それは仮定された価値・価格関係であり、その使用を通じて価値として実現するのであり、その使用価値に対して後出しで確定されていくのです。
その価値は生産→交換→消費(使用)→欲求→再生産への衝動という循環を経て決まっていくのであって、それが諸商品の平均値となっていく中で価格が歴史的に定まっていくのであろうと思います。

この平均値の決定までの歴史貫通的過程は、資本論の中ではジャンプされています。多分、第2部の第二次草稿がそこに相当するのでしょう。下記をお読みください。


ホームページの方で朝鮮戦後史年表のハングル版を作ってみました。といってもグーグルの機械翻訳です。最初は第5部の北朝鮮戦後史年表 朝鮮戦争以後ハングル版」です。
日本語に再翻訳してみましたが、どうやら読めないことはなさそうです。ただ固有名詞が相当崩れますので、気がついた人はメールいただければと思います。

渡辺 茂 「鳥脳力―小さな頭に秘められた驚異の能力」 の摘要

少し他の論文で補充しています。

はじめに なぜ鳥か

岡ノ谷一夫さんは鳥の脳が注目されるに至った理由を以下のように述べています。      

哺乳類の脳と比較しても、皮質と思われる部位が非常に薄いわけです。その中に丸い構造体があるのでこれはきっと基底核に違いない、線条体に違いないということで、これは全部 “striatum” という名前を昔の解剖学者がつけてしまった。

その人達が、鳥というのは基底核が発達していて上手に空を飛べて本能的な行動はちゃんとできるけれども、皮質が薄い、だから行動の可塑性がないというウソをでっち上げた。
鳥の大脳は、哺乳類の大脳皮質のそれぞれの層に対応した部分が、層をつくらずに固まりをつくって存在している。いままで基底核と考えられてきたのは、そうではなく皮質様神経だという事になってきた。

とても良い文章です。この人は慶応の文学部を出てからこの世界に飛び込んだ文系人なので、物事をざっくり捕まえる力を持っています。私はこの文章から「ユニット型とモジュール型」という分類を考えつきました。

宇都宮大学農学部の杉田昭栄先生は、もっとリアルに鳥(とくにカラス)の脳を研究する理由を述べています。

1.鳥類は人間と同様に昼行性で、視覚を主体に認知活動を行う。(したがって勤務と矛盾が少ない)

2.サルはお金が高いし管理が大変だが、カラスはキャンパスでも捕まえられる。(動物愛護論者の抵抗も比較的少ない)

3.構造的には人間とかなり違っているが、哺乳類よりもはるかに類似した行動をとる。この違いと類似の相反関係が面白い。これを「平行進化」と呼ぶ。 異なった種において、似通った方向の進化が見られることを指す。

4.人間だけの特質と言われたものが鳥にもある。カラスは道具を使うし道具を作ることもできる。鏡に映った自らを認識したり、未来に向けて計画的に動いたりする。だからカラスを調べることは人間を調べることでもある。


鳥―絶滅しなかった恐竜


鳥脳とはどんなものか

鳥の脳 によると、コンゴウインコの脳はクルミくらいです。一方霊長類の中で最も原始的と言われるマカクザルの脳でもレモン程の大きさがあります。「流石に霊長類にはかなわないか」と思うかもしれません。しかし脳神経の密度はインコのほうがはるかに高いのです。霊長類に比べて2倍、ラットやマウスに比べて2~4倍とされます。インコの脳神経細胞はマカクザルを越える数なのです。
鳥の脳

鳥の脳からは哺乳類と同数 (12対) の脳神経が出ています。マクロで見ると平衡感覚や視覚に関係する小脳と中脳がとても大きくなっています。これに対して嗅覚と味覚はあまり発達していません。

鳥の大脳は外套と呼ばれます。以前は線条体と呼ばれていましたが、不正確であることがわかったため、いまは使いません。
カラス脳断面
外套は①本能的な学習能力を司る弓外套,②訓練あるいは経験によって学習する巣外套,③連合野に相当する高度で総合的な知的判断を行うための中外套。総合的な知的判断というのは、たとえば,クルミを車に轢かせるなどの行動です。そして④人間の前頭前野に相当する高外套などに区分されています。
脳の大きさは可塑性である可能性があります。さまざまな鳥を飼育下で繁殖させ、脳の大きさを比較したところ、21種中、16種で脳が小さくなったと報告されています。平均減少率は20~30%に達しました。


鳥の脳力

以下の記述は実験による評価なので、サンプルや環境などの設定法により異なっているかもしれません。

数の理解力: ハトは5まで、セキセイインコは6まで、ワタリガラスは7まで。

記憶力: 記憶には、感覚記憶と短期記憶、長期記憶がある。感覚記憶は数秒で動物による差はない。短期記憶は、人では20秒程度で記憶できる種類は7±2。鳥では数秒~十数秒とされる。長期記憶は、カラスは必要であれば、少なくとも12 ヵ月間は記憶できる。貯食性の鳥は多くの貯蔵場所を長期にわたって記憶する。

識別力: 人の顔の識別と記憶は10人位までは問題なく可能。

道具の制作: カラスは針金を曲げてフックを作り、餌をひっかけて取り出すことができる。

カラスの特殊性

鳥の「脳力」ランキングは下記のようになっています。

1.カラス科 

2.オウム

3.フクロウ・キツツキ

4.スズメ

5.ニワトリ・ハト(劣等)

カラスの脳は他の鳥類の脳とは全くレベルが違うといわれます。カラスのは「羽をもった霊長類」と呼ばれることもあります。

カラスの脳重量は10グラムでニワトリの3倍。脳全体に対する大脳の比率は80%、ニワトリでは50%です。

カラスの神経細胞数は、ニワトリの約3,300個に対し、19,500と約6倍の密度。これは外套の占める割合が高いからです。




鳥脳に「自己」を教える
ハトがビデオ映像に映し出された自分の映像を自分として認知した。



昨日、今日と文章を書く気力が湧いてこない。
とりあえず不正確だが、心覚えとして書いておく。

鳥脳が優れているのはあたりまえ

カラス、とくにハシブトカラスの知能は、鳥類の中でも群を抜いているらしい。
言うなれば人類が霊長類の中でも群を抜いているのと同じだ。

最近わかってきたことだが、鳥というのは「生き残った恐竜」であり、爬虫類の中で頂点を極めた生き物だということだ。

哺乳類→霊長類→人類という系譜は、決して生物進化の本流を歩いてきたわけではない。ジュラ紀の終わりに隕石が落ちて、そのための気候激変により恐竜が絶滅したため、マイナーリーグから呼び戻されたような存在だ。

それはとりあえず置いておいて、鳥というのは生物界の王道を歩み続けてきた存在であって、モノの作り、脳の作りには無理がない。自然の脅威に晒され適応を迫られることに変わりはないが、他の生物種に遠慮する必要はないからだ。端的に言えば追っかける能力は必要だが、逃げ隠れする能力はいらない。

小型化とユニット化

ただ空を飛ぶために、すべての器官が小型・軽量化されなければならなかったから、見かけ上はちゃちに見えるかもしれないが、潜在力は哺乳類よりも上回っていると見るべきだろう。小型カメラといえどもニコンだ、ということだろう。

むしろ人間の側で見なければならないのは、人間にさえ匹敵するほどの脳力をあれだけの重量と容量でどうやって実現できたのかというところだ。

私はそれがユニット化という戦略なのだろうと思う。それに対し人間の脳力強化はモジュール化によって実現されたのだろうと思う。

人間はモジュール化でネットワーク勝負

人間の大脳皮質は前頭前野から鳥距溝に至るまで、基本的にはすべて同一の6層構造からなっている。それにどういう役割を割り振りどう相互連絡していくかは委細面談の世界である。

たしかに汎用性があって融通は効くが、膨大な無駄を生むことも間違いない。コンピュータはテレビやラジオやカメラの役割もこなせるが、それぞれを単体で持ったほうがはるかに能率が良い。パソコンが面倒な理由のほとんどはボタンの使い回しの複雑さに起因している。

人間の脳はそのほとんどが神経線維であり、神経細胞よりも神経線維の発達によって能力を発揮する仕掛けになっている。しかも通信速度を上げるために主要幹線は髄鞘化という舗装工事が施されている。

人間はオギャーと生まれたときから神経細胞そのものは増えていない。むしろ小脳などでは間引きが行われて減っているくらいだ。それにも拘らず脳が容量も重量も増えて、頭蓋骨に納まりきらないくらいまで発達するのは電線が増えるためだ。

これは相当能率の悪い能力アップ戦略なので、それをユニット化して線維性連絡を極力減らせるならば、効率の良い脳になるだろう。それがまさに鳥脳なのだろうと思う。人間の脳が1500グラム、カラスが15グラムとすれば、カラスの脳は人間の100倍の高性能ということになる。

哺乳類の視覚動物化

このような分化・発展の仕方は遺伝子変化を伴わざるを得ないので、相当の年月をかけて実現していくべきものである。そして鳥にはジュラ紀以来、それだけの年月があった。

その間、哺乳類は発達の動きを止め、半ば化石生物化していた。哺乳類の脳が発達したとすれば、それは世を忍び日陰に隠れ住むための能力である。

やがて哺乳類は日の当たる時間に日の当たる場所に出て、樹上に登り身を晒しながら生きるようになった。そのため一度捨てた視力の再獲得が必要となった。必要なことは昼行性視力(色彩をふくめた)、遠近識別(前方視)である。

霊長類と視覚脳の形成

やがて哺乳類から霊長類が分化し、鳥にまさるとも劣らぬ能力を身に着けようとした時、哺乳類固有の能力はなんの役にも立たなかった。しかしそれを捨てることはできなかった。

霊長類は機能を転用したり、大脳皮質を急成長することで補ったりという変則的な発展の途を探るしかなかった。それによって結果的には鳥を上回る視覚脳を実現したのである。

それはこのように電線だらけのブザマな大脳をもたらした。とはいえ、そのやり方で鳥を凌ぐほどの高性能な脳を作り上げたのだから、それをだいじにしなくてはならないのだろう。

大脳の後ろ半分は視覚処理のためにだけ発達した。しかしそれは、聴覚性言語と結びついて読み書き脳力をもたらした。これは鳥脳のとうてい及ぶところではない。

ただしAIの設計思想においては、決して人間脳のアナリーゼにならずに、鳥型脳の構築をモデルとするユニット型デザインを第一選択として考えるべきであろうと思う。


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