鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年11月

上野原遺跡
こんな遺跡あるとは知らなかった。
鹿児島県霧島市国分上野原というのが発見場所だ。「花は霧島、たばこは国分」という歌の文句そのままである。

キャッチフレーズとしてはなかなか難しいのだけれど、十分にユニークな遺跡だ。
ウィキによると、
1、(発見当時において)日本列島で最古の大規模な定住集落跡
2.「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に疑問を呈する遺跡。
3.弥生土器に類似した1組の壺形土器が約7500年前の土層から見つかった。

霧島というのでいいところは、始終噴火があるということだ。時代同定がきわめて容易であらゆる事物がほぼ絶対年代で示される。9500年前なんてのが造作もなく出てくる。
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9500年前というのは最後の氷河期が1万5千年前に終わり、温暖化が進み始める時代である。「南だから住めた」時代だったのかもしれない。

その最古層、9500年前のところから竪穴式住居46軒、石蒸調理のための集石遺構が39基、連穴土坑15基、その他の土抗約125基、道の跡2条が確認された。
uenohara064
連穴土坑というのはシカ・イノシシを燻製にする施設らしい。どちらにしても、東北北海道で9,500年前というとちょっと引いてしまう。

ただ、これだけだと、どうして推定300人の人間がここに定住できたのか、の理由が分からない。縄文人の三本柱狩猟、採集、漁撈の可能性はかなり疑問だ。

当時そのままではないにしても、標高260メートルに住みながら漁撈を営んだとは思えない。鹿児島の丘陵地帯に落葉植物がそれほど茂っていたとも思えない。

こいつはどうしたことだ。

それでネットを探していたら、下記のページに行き着いた。

よくみたら前から時々引っかかっているページだ。
2000.9.16(土)にアップされている。音楽が流れるようになっているのが、何故か懐かしい(今は流れないが…)。
当時としては精一杯頑張ったホームページだ。当時出始めの
ADSLでも相当しんどかっただろうと思う。



年表 津軽安藤(安東)家の盛衰

      アイヌ民族の歴史年表 東北エミシの年表 その4 より該当部を抜粋し、
若干の増補を加えたものです。

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。

1189 幕府は奥州惣奉行を設置。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。

1990年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊の子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1191 頼朝軍に従った南部氏の一部が陸奥九戸、糠部へ移住。元の根拠地が甲斐の南部だったために南部藩と名乗ったらしい。本格的な入植は1334年に国代として赴任してからとされる。

安東家が蝦夷管領に

1217年 鎌倉幕府執権・北条義時、陸奥の守を兼任する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(太郎)を津軽外三郡守護に任命。
安東家はあわせて蝦夷管領(蝦夷沙汰代官)にも任命され、「東夷を守護して津軽に住す」役割も担う。
1229年 津軽外三郡守護の安東氏が、十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放される。

1229年 安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。北海道からの交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する役割も引き継ぐ。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1250年ころ 安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ=アイヌ)と蒙古軍が衝突。骨嵬は朝貢を強いられる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。
1.仏教を夷島に持ち込み強制した。
2.元との講和を巡る方針争い
3.蝦夷に対する苛烈な収奪
4.蒙古との衝突による戦費増大 などが原因に挙げられる。

1274年 元軍が北九州に襲来。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

1300年頃 『吾妻鏡』に、強盗や山賊などを捕えて蝦夷が島に流したとの記載。

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。
十三湊、西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。安藤氏所有の「関東御免」(幕府公認)の津軽船は20隻を数え、若狭や越前まで 蝦夷産の鮭や昆布を運んでいた。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

津軽大乱

1318年 蝦夷への対応をめぐり、惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。実際は蝦夷沙汰職相続を巡る跡目争い。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1318 北条高時、称名寺に蝦夷鎮圧を感謝する書状を奉納。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。津軽大乱が始まる。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年 安藤氏で内紛。季長の退陣を求める従弟の五郎三郎(季久)が対立。岩木川を挟んで季長は西が浜(深浦)に、季久は外が浜(青森市)に拠点を構え対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷管領職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。裁定役の長崎高資が双方から賄賂を受けたため、かえって紛糾。

1324年 鎌倉幕府、蝦夷降伏を願い祈祷を行う。翌25年にも同様の記載あり。

1325年7月 北条得宗家、安藤季長を蝦夷管領から更迭。これに代わり五郎三郎季久が管領となり、又太郎宗季を名乗る。津軽に戻った季長は、鎌倉幕府の裁定に従わず反乱を起こす。

1326年

3月 鎌倉幕府、あらためて宗季(季久)を蝦夷管領に任命する。陸奥蝦夷の鎮圧のため御内侍所の工藤祐貞を派遣。

7月 工藤祐貞、西が浜の合戦で安藤季長を捕縛し鎌倉に帰還。その後、季長の郎従の安藤季兼が「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、宇都宮高貞・小田高知の率いる「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤宗季(季久)は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。この事件をきっかけに幕府の権威は大きく失墜する。

東北地方における覇権争い

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。中身はなにやらさっぱりわからん。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。鎮守府将軍には足利尊氏が任じられる。外浜・糠部郡らの北条氏領を与えられ、蝦夷沙汰に着手。

1335 足利尊氏が建武政府に反旗。南朝側は北畠顕家を陸奥守兼鎮守府将軍に指名。曽我・安藤家は足利につき南部らと戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立し室町幕府を創設。安藤家は北朝に与し、室町将軍に直属する御扶持衆となり、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1340年 興国の大津波。颱風により十三の地が壊滅して、住居地・城郭・寺社なども一挙に流失。十三氏は十三の地を捨てて大光寺に移る。

1356 諏訪大明神絵詞が成立。奥州戦争の従軍兵士の見聞を基にしており、信憑性が高いとされる。
絵詞の要旨: エゾ は日の本、唐子、渡党からなる。日の本、唐子は和人と異なり夜叉の如き様相で、獣や魚を主食とし農耕をまったく知らない。言葉はまったく通じない。住むと ころは外国につながっている。一方、渡党は津軽に頻繁に往来し交易を行う。和人と似ていて言葉も何とか通じる。髭や髪が多く、全身に毛が生えている。乗馬の習慣はなく、骨鏃を使った毒矢を用いた。
1361 青森県東部を支配する曽我氏、南部氏との戦いに敗れる。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続く。このため樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定し、さらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。
西の博多に匹敵する北海交易の中心として西の博多に匹敵するに至る。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。
街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。
1395年 安藤盛季の弟鹿季が足利義満の認可を得て秋田湊家を創設。鹿季は南朝側の秋田城介を駆逐し、支配を確立。これ以後、湊家を上の国安藤氏、そして津軽の安藤氏を下の国安藤氏というようになる。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1410年 南部守行と秋田湊の鹿季、出羽の刈和野で戦火をまじえる。

津軽の安東家(下の国)の滅亡

1418年 南部藩の攻撃により大光寺城と藤崎城が落城。安藤氏は津軽平原の支配権を失う。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423年 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎(ラッコ)皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1430年 南部義政が下国十三湊安藤氏を攻略。義政は和睦の申し出を行い、安藤氏と協議するため城内に入ったあと突然攻撃。安藤盛季は敗れて唐川城に逃れる。
本当は十三湊は1340年の津波の後も健在で、このとき南部氏により焼け去ったとの説もある。
1432年 安東盛季と子康季、唐川城と柴崎城であいついで敗れ、海を渡って松前に逃がれる。 これにともない多くの和人が移住。幕府が調停に乗り出す。

この後の経過についてはさまざまな異説があるが、あまり詮索する意味はないようだ。


下記の記事もご参照ください

2018年04月14日 アイヌ史 雑記

本日の赤旗「文芸時評」。

楜沢健さんという人が「乗っ取りの起源を問う」というタイトルで面白い提起をしている。
少し詳しく内容を紹介したい。

今年2018年は明治150年、維新の正統性が今一度問われた年であった。
維新と明治の美化の風習は今も続く。
しかしその本質は正統な国家を横領簒奪した無法な軍事クーデターではなかったのか。
それ以来、道義なき薩長閥に日本は乗っ取られ続けてきた。
征韓論をめぐって下野した西郷が西南戦争を起こし自死するのは、「維新」の矛盾の結果だったのではないか。

翻って考えれば、江戸幕府は大政を奉還し、日本は連合新国家となった。それは国内外に承認された正統な政権であった。
この政権は雄藩の連合であるというその性格、開国推進というその方向を柱としていた。そして隠されたもう一つの性格、天皇中心主義をとらないという特徴を秘めていた。
我々はこの「連合新国家構想」を、その原点に立ち返って考えてみるべきではないか。

ということだ。

この考えの骨子は昨年なくなった葉室麟という小説家の自説によるものだと言う。(別にあえて葉室さんという人を持ち出すまでもないとは思うが…)

たしかに「うーむ」とうならせる議論ではある。ただ正義がいずれにあったかの議論はこれから開始するとして、旧幕府+雄藩連合に正義を行う権力と意志はあったのだろうか。長州戦争と鳥羽伏見で惨敗するようでは烏合の衆・張子の虎と見くびられてもやむを得ない。「力が正義」というのではないが、「色男、金も力もなかりけり」では国の将来を託す訳にはいかない。そんな気もしてしまう。

おそらく当時には「オールジャパン共闘」を望む雰囲気も大いにあったのだろうし、それらを掘り起こす作業も必要なのだろうと思う。少し自分でも探してみたいと思う。



朝、感心して引用した文章を夜になって否定するのもずいぶんいい加減な話だが、明治維新の性格が何も進歩的なものでもなくて、ただの野蛮なクーデターに過ぎなかったという理屈は、やや引かれ者の小唄みたいな感じもしてきた。

あのとき日本にとって必要だったのは、政体の民主制ではなく、近代的軍事力とそれを支える産業力であった。

それは上海を見てきた高杉にも、洋式軍を見よう見まねで作り上げた大村益次郎にも、はっきりと見えていただろう。

この幕藩体制を超えたナショナリズムの高揚、これこそが明治維新という形での権力交代を支えた真の力だろうと思う。

このナショナリズムは、列強の進出という外圧を得て、当時のドイツよりはるかに強力だった。

次に強力な軍事国家の建設という戦略は、絶対主義的政治システム抜きには不可能であった。

パラドキシカルな言い方になるが、一定の民主主義なしには絶対主義は実現し得ない。一方における極端な権力の集中。一方において集中権力のもとでの平等、既得権益の否定が絶対主義、イデオロギー的には「愛国心」を形成する上での絶対条件になる。



クロムの右上隅にある縦三つ点が辞書登録できない
そもそも読み方がわからない。

調べたら 暮らしとネット というブログに
という記事があった。

記事からコピペして単語登録

正直言って最初の2行で用は済んでしまった。
スマートフォンのアプリやWEBページ上でメニューを表示させるためのボタンとして「≡」や「︙」をよく見かけます。ボタンではなくアイコンと呼ぶ人もいますね。
と書いてあるので「≡」と「︙」を“さんてん”で単語登録すればよい。

記号入力の一覧表から探し出す(一応書いとく)

オーソドックスな方法としては、記号入力の一覧表から探し出すという方法がある。

IMEパッドでは、ユニコードU+22EEに半角の「︙」、U+FE19に全角の「︙」がありそうだ。しかしわたしが探したときには見つからなかった。

Google日本語入力だけの裏技

あと裏技だが、ひらがな入力で「中テン」(“め”のキー)を3回押す。→「・・・」となるので、これをかな変換すると候補に「︙」が出てくる。ただしMS-IMEでは
出てこないらしい。今どきMS-IMEなど使う人もいないだろうが…

「≡」は幾何で出てくる「合同」(イコールのもっとすごいやつ)と同じなので、ひらがな入力で「ごうどう」と入れて変換すると出てくる。

正規の読み方

後は一応正式の読みとか知っておこう。
1.「≡」はハンバーガーボタン(ハンバーガーアイコン)という。
具を挟んだハンバーガーを単純化したようなデザインなのだそうだ。
2.「≡」は幾何の「合同」と同じなので合同と呼ばれることもある。
3.「︙」は、縦の「三点リーダー」という。
語尾につけて余韻を表す「…」を「三点リーダー」と呼ぶ。これの縦バージョンということだ。

最近、ウィンドウズを立ち上げると、自動的にクロームが開く。
どうせ開くのだから別に悪くはないのだが、押し付けがましい。それにクロームが開くのは他のプログラムも立ち上がっている可能性がある。
そのようなおせっかいは止めてほしい。
ということで調べてみた。
グーグルで検索すると最初に出てくるのがNJ-CLUCKERというブログ。
Windows 10 起動時に Chrome や IE が勝手に起動する原因は OS の仕様変更によるもの
という見出しになっている。
つまり悪いのはグーグルではなく、マイクロソフトによるものらしい。
それは2017年秋に実施された Windows 10 の Fall Creators Update というプログラム変更によるものだそうだ。
これにより、
Windows 終了時に起動していたアプリ情報を保存して、再起動時に復元する仕組みに変更された
らしい。そんな前からだったけかな?
レジストリが書き換えられているため、そのレジストリが働かないようにする仕掛けが必要らしい。それは結構難しそうだ。
したがってウィンドウズをいじるのではなく、グーグルクロムの設定を変更することで対応することになる。
方法は2つあって、
1.Windows 10 起動時に Chrome が起動しないようにする
2.Windows 10 終了前に Chrome を完全に終了させる
理屈から言うと2.のほうが良さそうだ。
しかしこれは「シャットダウンのときにタスクトレイ内のアイコンを右クリックして終了」という余分なひと手間で、なにかそのたびに腹が立ちそうだ。
そこで1.を試してみる

右上の  から [設定] 画面を開く
画面最下部にある [詳細設定▼] を開く
[システム] 項目を確認する
「Google Chrome を閉じた際にバックグラウンドアプリの処理を続行する」の設定をOffにする

ということにしてみた。
再起動をかけると、クロム画面が開かなくなった。
まぁ、とりあえずこれでいいか。

ついでながらこのブログには便利な方法がわかりやすく載っているのでお気に入りに入れておいたほうが良い。


国際銀行間通信協会 「SWIFT」(Society for the Worldwide Interbank Financial Telecommunication)
はこの間のハッカーの主要な攻撃対象となっている。

SWIFTの問題点と今後

一番問題なのは、SWIFT自身がハッキングを抑える手段はないと言っていることだ。これは民間の協同組合みたいなものだから強制力は持てない。
もう一つの問題は、信用状をやり取りして然る後に、人手を介した銀行業務を開始するというシステムの問題がある。本質的に偽メッセージが潜り込む危険性を秘めているシステムだ。「支払いのメッセージング」と「決済完了」の間にタイムラグが生じることも深刻な問題だ。
第三に、そもそもこのようなきわめてアナログ的な業務スタイルが、はたして今日の世界においていかがなものかという素朴な疑問がある。
ただこれらの問題が解決され、システム的に洗練された場合は、一種の「国際商業決済銀行」として巨大な力を発揮する可能性もある。それは国際決済銀行(BIS 中銀のみ)もIMF(各国通貨の監視)も果たしえない機能だ。
さまざまな問題にもかかわらず、現に世界の200以上の国で、1万以上の金融機関が加入しているのはその反映なのだろう。
ここに国際的な基金をプールして、その資金を運用することになればアメリカの最大の武器であるドル決済体制を揺るがすことになる可能性もある。だから米NSAがSWIFTの金融取引への監視を強めているのだろう。

この間の経過

1973年 国際銀行間通信協会 「SWIFT」が発足。当初は通信ネットワークサービスを運営するための国際協同組織。ベルギーに本部を置く。15ヶ国の239銀行が参加。

1977年5月 サービスの運用が開始される。金融機関同士のネット通信。暗号化と端末の差別化により守秘性を向上。

1986年 付加価値サービスとして国際決済銀行と提携し欧州通貨単位の決済を手がける

2004年 スイフトネットへの移行を完了。202の国と地域の7800を超える金融機関が接続。

2006年6月23日 ニューヨーク・タイムズ、スイフトのクラウド情報が、中央情報局などにより利用されていたと報道。セキュリティの脆弱性が暴露される。

2013年9月 スノーデンの内部告発。米NSAがSWIFTの金融取引を監視。広範囲の銀行取引とクレジットカード決済をモニターしていることが暴露される。

2015年1月12日 サンフランシスコのウェルズ・ファーゴ銀行、「BDAからの送金依頼」に応じ、1200万ドル(約13.4億円)を送金。この事件は1年以上秘匿される。

2016年
2月5日 バングラデシュ中央銀行で約8100万ドル(約90億円)の不正送金事件が発覚。「銀行を襲った史上最大級の盗難の事例」となる。
ハッカーはニューヨーク連邦準備銀行内のバングラ銀行口座にアクセスし、不正送金させた。犯人が些細なミス(誤字)をしていなければ、約9億5000ドル(約1000億円)に達していたと推測されている。

4月 SWIFTはシステムの包括的なセキュリティ強化を行う。加入者にもソフトウェアのアップデートを促す。

5月 ニューヨーク・タイムズ、「SWIFTに関連した第二のサイバー攻撃」を報道。SWIFTはこれを否定せず。

5月15日 ベトナムの銀行でハッカー攻撃が起きたと報道される。送金は未然に防がれたとされる。NYT報道と同一ケースか。

5月後半 エクアドルの銀行から4つの銀行に約1200万ドルが不正送金されたことが発覚。その後もフィリピン、ウクライナ銀行で不正送金が次々に発覚する。

2017年

11月4日 ネパールの銀行、6ヵ国へ約4億6000万ルピー(約5億円)を不正送金。SWIFTを利用したハッキングとされる。早期発見で4億の回収に成功。

2018年

2月 インドシティユニオン銀行、2億円超のSWIFTハッキングによる流出。

2月16日 ロシア中銀、SWIFTを使って約600万ドルが不正送金されたと発表。事件が起きたのは昨年であり、詳細は発表できないとする。

10月 FireEye(米セキュリティ企業)、北朝鮮のハッカー集団「APT38」が、サイバー攻撃で1億ドルを不正に取得したと発表。これによると4年間で11カ国、16以上の金融機関を攻撃したとされる。

11月5日 SWIFTが国際送金網から、イランの複数銀行を除外する措置。トランプによる追加経済制裁を受けてのもの。イランの銀行は国際間送金ができなくなる。通貨の代替案として自国中銀発行の仮想通貨が注目を集める。

追加: SWIFTはトランプのイラン追加制裁を受けて、国際送金網からイランの銀行を排除した。とんだ腰抜けだ。CIAやNSAにいくら盗聴されてもなんにも言えない。このようなへなちょこに世界経済の将来は到底託せない。こうなれば最後はビットコインだろうか。

「ヘビ検出理論」というのを名古屋大学の河合さんという人が一生懸命推している。

アメリカのイスベルという人が提唱したらしいが、どうも眉唾な感じがする。そこでとりあえず、河合さん以外の人がどう見ているのかを調べてみることにした。

Eeek, Snake! Your Brain Has A Special Corner Just For Them という紹介記事で、一般向けの解説。日本語にすると「“キャー、蛇だ! 人間の脳には特別な領域がある

snake_monkey

イントロ
1992年、人類学者のLynne Isbellを乗せたトラックは、ケニア中部の谷間を走っていた。そのとき突然何かが彼女を凍りつかせた。

「私の目の前にコブラがいました。そいつは鎌首を持ち上げていました」

イスベルはUCデービス校の研究者だった。彼女は20年もの間ケニアで人類学の研究を続けて来た。しかしイスベルは、彼女の覚醒した脳がこのような形でコブラと向き合ってパニックになってしまうなんて考えたこともなかった。

「最初は運が悪いと思ったけど、今は運が良かったと確信しています。それは私の視覚システムが、6000万年の霊長類の進化の歴史を反映しているからです」

その答えは猿たち(霊長類)の視覚の進化とつながっている。またそれは脳の一部、視床枕の進化と結びついている。彼女はそのことを全米科学協会誌の短報で説明している。

彼女はなぜ凍りついたか…イスベルの説明

コブラとの遭遇後数年して、イスベルは次のような理論を考え出した。すなわち、ヘビこそは人間や霊長類が良いビジョンを進化させた主な理由なのだ。

彼女は言う。

「霊長類は前方視する目を持っています。それは優れた奥行き知覚をもたらしています。その他に、霊長類は哺乳類の世界では最高の視力があり、色に対する感覚も優れています。なぜでしょう。それには何らかの説明が必要ではないでしょうか。

有毒なヘビがたくさんいる世界では、霊長類は、他の場所の霊長類よりも視力が発達しています。マダガスカルのキツネザルの視力が霊長類で最悪なのは偶然ではありません。有毒の蛇がいないからです」

ヘビが霊長類の視力を良くしたことの証明

しかし、霊長類の視覚系が実際にヘビを検出するために進化したならば、その脳には生物学的証拠があるはずだ。

そこで彼女は、蛇のいない環境で暮らす日本のマカクザルの脳を研究した。

サルに蛇、顔、手、単純な幾何学的な形を提示し脳細胞の反応を測定した。その結果視床枕のなかで注目すべき変化を発見した(視床枕は脳、視覚系の一部で、人、類人猿、猿に特有のもの)

イスベルは語る。

そこには蛇の画像に非常に敏感で、霊長類の顔を見せたときよりもはるかに強く反応したニューロンがあリました。

サルや他の霊長類は顔にたいして非常に敏感に反応するので、それよりも強く反応するというのは驚くべきことです。

この発見は、以前彼女がケニヤでコブラを見たときの体験を説明しているようだ。

このような反応は、私たちが対象を意識してなくても対応できる迅速かつ自動の視覚システムです。

霊長類のヘビショックは確認済み

この発見は、霊長類のヘビ恐怖を研究する人には驚きではない。ノースウェスタン大学の臨床心理学教授であるスー・ミネカは、「このようなことが起こっていると疑われる人がたくさんいる」と話す。

この研究では、サルの脳反応が本当にヘビを恐れているか、サルが有毒な爬虫類を認識する潜在本能を持っているかどうかは確定できない。

確認されることは、猿と人間が進化の結果ヘビを恐れる脳を持つようになったということだ。

まぁ、まんざら嘘っぱちというのではないが、とりあえずはお話ということで…

だいぶ前、こんなことを書いた。
前脳は中脳、後脳と同様にまずもって感覚情報の集中点だ。中脳が視覚のセンターであるのと同様に、前脳は嗅覚とおそらくは感覚ヒゲのセンターだったのではないかと思う。
これは私の三脳説の肝である。前脳・中脳の背側には何やらいろいろ突起がある。その一つ(一対)がやがてカリフラワー状に増殖していって大脳を形成したのではないかということだ。

それは発生学的には嗅神経に一致するのだが、系統発生から言うともう一つの機能がある。それがヒゲの感覚だ。おそらく振動覚に近いものだろうと思うが、霊長類以前の動物ではきわめてよく発達している。

このヒゲ感覚はどう発達し、どう退化したのか、その中枢はどこにあったのか、きわめて興味あるところである。

それでネットで資料を探し始めたのだが案外ない。そこでまず子供向けみたいな記事から入っていくことにする。

身近にいる犬と猫、どちらにも立派なひげがある。

ひげと言っても人間のひげとは違う。口を中心とする頭部に特に長く突き出したまばらな毛を指す。これは洞毛と言われ被毛よりも2倍から3倍の太さがある。
その毛根には神経と血液が流れていて、鋭敏な触覚器として機能している。
cat-2
猫のヒゲは大体12本ずつある。イヌより発達していて長さも長い。このひげは感覚が非常に鋭く、わずかな空気の動きでも察知するといわれる。

猫のヒゲを切ってしまうと、平衡感覚が鈍るためフラフラして、壁やものにぶつかりやすくなってしまう。

リラックスしている時は少し横に寝ている状態で、何かに興味を示している時は前向きに、鼻や口の前にヒゲが出てくる。怯えているか怒っている時は後ろに引いた状態になっている。

というところで、どうもあんまり本質的な説明はない。

いろいろ探していくと下記の論文にぶつかった。

鳴海 毅亮 「ラットのヒゲ刺激方向情報処理における毛帯路系および毛帯外路系の機能差に関する研究」に刺激伝達回路と感覚中枢が示されている。

これはかなり専門的な研究で、ヒゲの感知した情報が2つの上行経路を伝わって中枢に伝達されるのだが、その2つがいかに使い分けられているのかという研究だ。

それはとりあえずどうでもいいので、基礎的なところだけつまみ食いさせていただく。
ヒゲの物理的刺激は毛根の受容器細胞により検出される。この刺激情報は一時求心性線維の神経線維束を経由して三叉神経核の主知覚核に達する。
三叉神経核からはニューロンを換えて視床核のVPMに伝達され、さらに視床核から大脳の体性感覚野のヒゲの感覚領域につながっている。
これまでの研究によると、ラット大脳皮質の一次体性感覚野で、ヒゲの感覚情報処理に用いられる皮質面積は非常に大きいとされる。
その体性感覚野には、顔面に生える太いヒゲ(洞毛)情報を処理するバレル(樽)と呼ばれるモジュール構造が存在する。
ということだ。以下、ネズミも猫も犬も基本は同じだろうという推測の上で、解説していくことにする。

解説
ヒゲ(洞毛)の毛根には神経叢が絡んでいる。ヒゲに加えられた物理的刺激は、電気信号となって知覚神経を上行する。

これは、基本的にはすべての皮膚表面に加えられた刺激が上行していく機序と変わりない。それが顔面であれば三叉神経(トリゲミナス)ということになる。違いはたんに量的な違いだけである。

まぁ、虫歯のときの歯の神経の知覚過敏を思い起こせばいいのであろう。

sansa

多分人間と同じだと思うが、上顎神経を上行し三叉神経節から頭蓋内に入り脳橋の主知覚核でシナプスを替える。
これは視床に入っていったん終了するのだが、他の情報と突き合わせ高度情報化するために頭頂葉の体性感覚野に送られる。

体性感覚野というのは要はホムンクルスのことであって、それがネズミではヒゲ感覚に多くの領域が当てられているということである。
taiseitikaku
結論

結局わかったのは、ヒゲ感覚はより敏感ではあるものの、所詮は皮膚感覚の延長であり、特殊な仕掛けではないということだ。触覚一般ではない特殊な知覚ではないかという私の予想は、残念だが、外れていた。

嗅神経は自分で好悪を判断すると書いたが、ヒゲ感覚は知覚経路に並走してその刺激の意味を付与する神経が走っているということになる。毛帯系と毛帯外路系というのはそういう意味だろう。

それが統合されるためには、一次感覚野まで行かないとならないみたいだ。なぜならそこには海馬のようなハードウェア(記憶装置)がないからだ。


1948年の南朝鮮議会選挙について
前回の学習会で1948年の南朝鮮で公正な議会選挙が行われたか否かにつて議論がありました。
少し調べたので、報告します。
結論から言うと、カニンガムは不公正だったと言っているようですが、選挙そのものが不正なものというわけではなかったようです。
私はうろ覚えで、第1回目の選挙は日本統治時代の有権者名簿に基づいたもので、事実上普通選挙ではなかったかもしれないと喋ったのですが、後で調べてみると、それは1946年10月の過渡立法議会選挙を指したものでした。
私の韓国戦後史年表では、こうなっています。
10.24 布告第118号が公布される。立法議院の創設を認可する。
10.26 過渡立法議会選挙が実施される.民選議員は総督府時代の選挙法に則り,多額納税者と地主のみに投票権.共産党は選挙をボイコット.呂運亨は落選.多くの朝鮮人は選挙の存在そのものさえ知らずに終わる.
その4日後に第一回国連総会が開催されています.総会は国連監視下に全朝鮮の総選挙を行い,その結果に基づいて統一政府を樹立すると決定しています。米国の提案に沿ったものですが、ソ連は反対していません。
一方、北では金日成を軸とする親ソ連政権が着々と組織されていきます。
その後1年余りの間、南朝鮮では左翼の退潮が進みます。これに伴い南北の復興の有り様は大きく食い違ってきます。
そして47年11月、国連総会は臨時委員会のもとで南北同時総選挙を実施すると決議しました。
この決議の採択にソ連は欠席していますが、総会後直ちに反対の態度を明らかにします。
なぜ欠席したかについてはよくわかっていません。しかしその後の流れを見ると、南に単独選挙を行わせ、それを理由に南北分断の固定化を図ったと見ることもできます。
その後の流れというのは、南側の独立勢力が単独選挙反対闘争を大規模に展開したのに対し、北は口では同じスローガンを語りながら、実際には独自憲法を作り、「朝鮮人民軍」を編成していったからです。
南での単独選挙反対闘争はすでに弱体化した左翼勢力ではなく、金九ら民族主義者によって担われました。彼らは選挙ボイコットを訴え、全国ゼネストを繰り返しました。
その最大の戦いが4月に始まった済州島事件です。
5月11日、選挙が強行されました。選挙そのものは普通選挙ですが、強制はいたるところで認められました。
右翼団体・警察が住民を投票に動員,強制駆り出しを行いました。それでも棄権するものは、「アカ」のレッテルを貼り、
米の配給票を支給しないなどの攻撃を行いました。

結論

1948年の国連管理下における第1回総選挙は、形式だけ見れば普通選挙ですが、およそ民主的に行われたものとは言えません。
最大の政治潮流であった民族派や、左派は単独選挙に反対し、ボイコットしました。これを見たオーストラリアやカナダなどの同盟国も選挙強行に反対しました。
したがってこの選挙はアメリカが単独で強行した選挙でもありました。
また選挙に反対する民衆は暴力や行政権力によって弾圧されました。少なくとも民主的な手続きで実施された選挙と言うには程遠いものでした。
ただし、結果として単独選挙になってしまった理由は、アメリカだけに帰することはできないかもしれません。
南北同時選挙が南の単独選挙となり、結果として北の政権が生き残ることができたのは、北にとっては良い結果でした。もし同時選挙が行われれば、人口の多い南部の世論が大きく反映されることになり、おそらく金日成の政治生命は尽きていたでしょう。
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“For the many, not the few” (一握りでなく、多数のために)
労働党「社会主義者」グループの宣言

2017年6月、イギリス労働党はコービン党首の下、奇跡的な躍進を遂げた。
その後も躍進は止まらない。
17年末現在で党員数が56万4000人を突破。ブレア時代の3倍となった。新たな党員のほとんどが若者で、労働組合と関係ない市民たちだ。

コービン派「モーメンタム」は、新しい社会主義を旗印に掲げている。それはブレア時代の「物分りの良い社会主義」ではなく、公共セクターの社会化を正面から取り上げている。

9月に開かれた労働党大会。コービンの演説を柱にモーメンタムの主張を紹介しておく。


1.保守党政治は何をもたらしたか

保守党政治は緊縮政治により国民を苦しめ、社会に分裂をもたらし、国際紛争に巻き込んだ。いまこそ労働党政権を実現し国家を再建しなければならない。

2.公共事業の民営化路線が破綻

保守党は公共の事業を民営化し、外注化してきた。これが失敗し危機的状況となっている。地方自治体の公共サービスは削減された。
12万人の子どもたちに家がない。保守党政治の8年間で路上生活者は2倍になった。
国民保健サービス(NHS)は劣化した。無料・低額の保育所が減らされ、高齢者年金が切り下げられようとしている。これらの維持が必要だ。

3.欧州金融危機とイギリス

10年前、リーマンショックがヨーロッパに波及し深刻な金融危機をもたらした。この中でサッチャーにより規制緩和された金融資本主義は崩壊した。それはイギリスに破滅的影響を与えた。
銀行資金の95%が投機目的で運用され、金融システムは公共性を失っている。

4.金融資本の救済は正しかったのか

保守党政権はこの破滅した金融資本主義を救済することを優先した。その結果、深刻な景気後退と史上最長期間にわたる賃金の低下が発生した。
一方で金融セクターは危機前よりも強固になり、公的資金で守られている。彼らは相変わらず、国民と実体経済ではなく、多国籍企業と金融セクターのために働いている。

5.人種主義と排外主義

不景気と低賃金は国民の怒りをもたらした。行き場のない憤りは、人種主義と排外主義の温床となった。

6.いわゆる「再国有化」について

これらの危機から脱するには公共の事業における「新しい形の所有形態」を探求しなければならない。水道、エネルギー、郵便、鉄道の大切な産業の公的なコントロールを取り戻す必要がある。
「透明な水」(水道公営化)政策はこの流れに沿ったものだ。

7.トランプ政権の評価

トランプ政権はパリ協定やイラン核合意から離脱し、エルサレムへの米大使館移転を強行した。さらに経済ナショナリズムを推進し貿易戦争を仕掛けている。これらは国際協力に背を向け、国際法を無視する行為である。

8.中東問題の平和解決を

中東における緊張がさらに高まっている。労働党は対立より交渉、脅迫より外交を優先させる。かつてイラクやリビアに対して行ったような干渉戦争は行わない。
労働党が政権を獲得すれば、すぐにパレスチナ国家を承認する。

9.メイ政権主導のブレグジットに反対

保守党はブレグジットを通じて規制をいっそう緩和し、金融資本主義を強化しようと目論んでいる。これは国民にさらなる痛みを押し付けるものであり反対する。
労働党は第2回目の国民投票をふくめすべての選択肢を念頭に置く

10.さいごに

国民は従来のやり方がもはや機能しなくなっていることを知っている。私は、皆の医療、教育、住宅にきちんとお金が使われる社会に住みたい。

労働党が革命的な解決策を提案しない限り、新しいマジョリティが形成されない限り、誰かが非難の言葉で分断の政治を操り、その空隙を埋めることになる。

だから労働党の提案が『時代の空気』をつかんだのだ。
だからこそ昨年の総選挙で労働党の得票増加は戦後最大となったのだ。





日本人の起源を考える
…主としてY染色体ハプロを手がかりとして…

はじめに

1.なぜY染色体ハプロなのか
Y染色体ハプロ以前のさまざまなタイピング
人類移動のトレーサーとしての特異性
ミトコンドリアDNAとの組み合わせ
全ゲノムにおけるホワイトノイズをどう取り除くか
Y染色体ハプロの謎、なぜサンプルが増えないのか

2.Y染色体ハプロによる人類の系統図と移動経路
C系とD系の相互関連
南方ルートと北方ルート
O系のサブタイプの分布はいかに形成されたか

3.日本におけるY染色体ハプロの分布

2つの原日本人: 旧石器人
1.ナウマン人
4万年前に朝鮮半島からナウマンゾウを追ってやってきた。
Y染色体ハプロでいうとC1b系で、現在では日本にしか存在しない故系とみなされる。
北海道以外の全国に均等に分布する。
2018年09月17日 最初の日本人は朝鮮半島からのC1人か

2.マンモス人
2万5千年前にマンモスを追って樺太から北海道へ渡ってきた。マンモスは津軽海峡を渡っていないが、マンモス人は海峡を渡り南進した。マンモス人のY染色体ハプロはD系で、C系と同じく出アフリカのときにすでに形成されていた古いはプロで、現在ではC1系と同じく日本にしか見られない。

3.原日本人から縄文人へ
この2つのハプログループは3対1ないし4対1の割合で混血した。北海道を除きC/D比に地域差がないことから、両者は長期間をかけて平和的に混血を完成させたとみられる。
大動物のハンターであった原日本人たちは、大動物の減少に合わせ、小動物を罠や落とし穴で捉える知能的な狩猟に変わった。
また漁撈が全国で、落葉樹林帯では採集が併用されるようになった。これらが貯蔵・調理用具としての縄文土器の発達を促した。

4.沖縄・先島諸島の人々
港川人その他、南方系とみられる人骨が多数発掘されている。しかし今日の沖縄人のY染色体ハプロには南方由来の要素(C1a系あるいはO1a系)はなく、これらの人類は絶滅したとみられる。

晩期縄文人と渡来人

1.晩期縄文人
紀元前2千年ころから後、九州北部から日本海側に一定の特色を持つ晩期縄文文化が発生している。
晩期縄文人をY染色体ハプロから分けるのは難しい。西日本にわずかに分布するC2系がそれに相当する可能性はある。
その場合はもう一つの縄文人ということになる。
当時の西日本は常緑樹林が広がる地域で、人口密度は疎であった。彼らは漁撈を主たる生活手段とし、海に生きる民であった。明らかに朝鮮半島と交易関係を持ち、陸稲をもたらすなどの足跡を残している。
後期縄文人の最大の歴史的役割は朝鮮半島南部にいた長江文明の流れをくむ人々=渡来人を日本列島に誘導したことである。
同時に渡来人と混血し弥生人を形成したことである。

2.長江人
私は紀元前8世紀ころから渡来してきた人を長江人と呼ぶ。
1万年前から5千年前にかけて長江流域に米作文化を作った人々である。
長江人について語る前に、O系人について語らなければならない。
5万年前ころからアジアにもホモ・サピエンスが浸透し始めた。最初はD系人、その後にC系人が入った。C系人はオーストラリアからシベリアまですべての地域を網羅し、一部はベーリング海峡を渡って北米まで到達した。
D系人は、チベットの山間と日本にわずかに生き延びた。
(新大陸のC系人はいったん絶滅し、1万年前ころ第2波が入り、それが現在の先住民につながる)
2万年前ころから、新たな人類の移動があった。それがN系とO系である。O系人はインドからインドシナを経由して中国大陸に広がった。このうちO1系人は長江流域に広がり、水稲栽培を展開した。O2系人はさらに北進し、華北から南満に展開した。N系人はほぼ同様の動きをしているが少数である。
在来のC系人はモンゴル~北満以北へと圧迫された。
やがて、O2系人はシルクロードを通じて麦栽培と鉄器を獲得し強化された。
長江文明を築いたO1系人は圧迫され、同心円状に拡散した。東側に移動したO1b系人は朝鮮半島南部に移動し、その一部が日本列島へと渡来した。

3.銅鐸人
渡来人と縄文人の混血が弥生人であり、現日本人の骨格をなしているのだが、私はあえてこれを銅鐸人と呼びたい。
なぜなら弥生時代後半にはもう一つの弥生人、すなわち天孫族が流入してくるからだ。
銅鐸人は渡来人と縄文人が平和的に共存(正確には棲み分け)する中で混血していくのだが、天孫族は最初から外在的な征服者として立ち現れる。
銅鐸は長江流域に起源を持ち、青銅器文明を体現している。それは長江文明の西端にあたる四川文明とも照応する。
渡来人の数はそもそもそれほど多くはない。しかしそれはねずみ算的に拡大再生産をしていく。採集民たる縄文人が自然環境に厳しく規定されているのに対し、米作は人手さえあれば収穫は無尽蔵だ。
したがって渡来人の数は等比級数的に増加し、あっという間に縄文人を凌ぐほどに成長する。

4.天孫族
考え方としては江上波夫の騎馬民族説と同じだが、もう少し実態に即して論じたいための命名である。
「新撰姓氏録」でも天照大神などの子孫を「天孫族」としており、私の独創ではない。
倭王朝、出雲王朝、大和王朝はいずれも天孫族により形成された。
彼らは銅鐸人と同じく渡来人であるが、銅鐸信仰とは無縁でこれを強引に廃棄している。
Y染色体ハプロとしては漢民族と同じO2系と思われ、もともとの南朝鮮の種族(おそらくC2系)ではなく、遼東~南満の出自であろう。
もちろんそこから騎馬に乗って直接来たのではない。洛東江流域に拠点を置くO2系集団ではないか。
此処から先は私の当て推量だ。
衛氏朝鮮が紀元前100年ころに漢により滅ぼされた。その残党が帯方郡の南、無主の地に政権を立ち上げた。これが高天原政権だ。その武将の一人瓊瓊杵尊が九州に渡海攻撃(天降り)を仕掛けたのではないか。
彼らは三韓の民が九州に渡って成功しており、金海に交易拠点を建設したのを知っている。とすればこれを支配し、軍資金を獲得して漢相手に反転攻勢をかけるチャンスだと思ってもなんの不思議もない。
天孫族は日本を支配・収奪するためにやってきたのであって、そこに同化しようとは考えていない。したがって、日本の人口構成を変えるほどに子孫を生み育てようとは考えていない。
むしろ血の純潔を保って、原住民と同化しないように心を砕いたはずである。

東北のエミシと北海道のアイヌ

6世紀の末ころまでに、大和朝廷が日本の西半分を支配下に治めたとき、人種構成は次のようになっていた。

国家の頂点を形成するのは、天孫族の武装勢力であった。その下に和人集団が形成された。これは銅鐸信仰を捨て習合した天孫信仰(八百万+天照)をもつ旧渡来集団で、これに旧縄文系がほぼ吸収されつつあった。

一方、関東から北の本州では稲作の導入に伴い、和人文化の選択的受容が続いた。しかしそれは大和朝廷の支配の受け入れとは直接結びつかず、さまざまな抵抗があった。
その結果、縄文人居住地、混住地が帯を形成しそれは次第に北上した。
最終的に、東北には縄文色の濃い和人集団が形成されたが、それは時代とともに混和されつつある。

北海道では和人の入植が気候上の理由から遅れただけでなく、政策的にも制限された。その結果、純粋な縄文人の文化が色濃く残された。
ただし、アイヌ人は7世紀ころから徐々に進出した縄文人で、それまではオホーツク人が居住する土地であった。

東北と道南の縄文人は北海道において「セミ和人」として振る舞い、オホーツク人(粛慎)を圧倒し、女性を娶った。
アイヌ人のY染色体ハプロは縄文人と一致するが、ミトコンドリアDNAはオホーツク人のそれと一致する。これは沖縄人と異なるところである。


その後の人種混合

ということで、日本人というのは、とくに紀元前5世紀から紀元5世紀くらいの1千年間に著しい変容を遂げつつ形成された。
逆にその後は新参者のいない、きわめて安定した人種環境のもとに暮らしており、そのことが人種的閉鎖性を生んでいる可能性もある。

その枠内ではあるが、北海道は最初の百年に著しい人間変動があって、日本の中では珍しく開放的な個人主義が支配している。

東京を中心とする首都圏は、いまもなお人間のるつぼ的な雰囲気が支配している。

それを社会主義と呼ぼうじゃないか  再論

2年半前に「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」という記事を書いて、あまり反響があったわけではないが、実はこのキャッチフレーズを気に入っている。

「社会主義」という思想
記事はバーニー・サンダースの民主的社会主義について語ったものだが、実は「バーニーの言っているのは社会主義じゃないよね」というのが本音だ。
バーニーの主張を聽く限り、彼は「遅れてきたニューディーラー」に過ぎない。
にもかかわらず、彼はあえて自らを社会主義者と規定するのだ。
なぜなら、かつてFDRが社会主義者呼ばわりにひるまずに、改革を成し遂げたように、バーニーも社会改革を目指すからだ。

あえて「社会主義」という意味
アメリカは異常なまでの反共主義の国だ。リベラルとか民主党と言っただけでもアカと同じだとみられる。「9.11」のあと、私たちはこの国の内包する狂気を垣間見せられた。それは強烈な体験だった。
そこであえて社会主義を名乗ることの意義を、我々ももう一度とらえて見る必要があるのではないだろうか。

社会主義と民主主義は表裏一体
社会主義というのは民主主義と裏表の関係にある考えなのだろうと思う。
「国民が主人公」というのを政治的な平等にひきつけて捉えれば民主主義だが、経済的な平等にひきつけて捉えるならそれは社会主義ということになる。

経済的平等と社会主義
もちろん政治的な平等が権利としての平等であるように、経済的な権利も権利としての平等である。所得を平等にということではない。そこには「才能と教育に応じて」平等にとか、「市場原理を勘案して」平等にとか入ってくると思う。何よりも公正と正義が求められる。能力の差を超えた「格差」が忌避される。
要はその辺もふくんでの「同一労働・同一賃金」である。それと同時に社会としての福祉と人間としての尊厳が守られる最低線が引かれる必要がある。

社会主義の本家あらそいは不要
「それを社会主義と呼ぼうじゃないか」というのは、実はもう一つの側面をふくんでいる。
すなわちそれは「それを科学的社会主義と呼ぶのはやめようじゃないか」という呼びかけである。
社会主義を固有名詞にしないで、いくつかのクライテリアを満たすものを社会主義に括ろうというのだ。その最低限の基準は、政治的な民主主義と一体のものとして提起されていることだ。

日本国憲法と社会主義
日本国憲法では国民主権、平和的生存権がうたわれ、13条で表現の自由など政治的自由がうたわれる。さらにそのうえで社会的権利も明記されている。
私は日本国憲法の25,26,27条の尊重を社会主義的性格の表れとして重視したいと考えているが、いかがであろうか。

神功は倭王朝の女帝だろうと思う。しかも卑弥呼=神功とするために二回り、120年早めている。

まずはともかく神功紀をまとめてみよう

354年 仲哀天皇が香椎宮にて急死(おそらく殺害)。その後政権を担う。

354年 仲哀を暗殺した熊襲(羽白熊鷲と山門のタブラツヒメ)を討伐する。

354年 妊娠したまま対馬経由で朝鮮半島にわたり、新羅の国を攻略する。

354年 新羅から戻り筑紫で応神天皇を出産。

354年 仲哀の遺骸と応神天皇を伴い畿内に戻る。嫡子香坂皇子、忍熊皇子らが反乱を起こすが鎮圧。

355年 仲哀天皇を河内の長野陵に葬る。

357年 新羅、人質として差し出した王子を取り戻す。葛城襲津彦、新羅に到り草羅城を落とす。

366年 斯麻宿禰が卓淳国へ遣使される。卓淳国王は百済が朝貢を望んでいると報告。

367年 百済の倭国宛朝貢団、新羅に朝貢品を奪われる。倭国は新羅に真偽を正す。 

368年 倭国軍が卓淳国に到り、ヒジホ・南カラ・トク・アラ・タラ・トクジュ・カラの七国を平定する。新羅への牽制を行う。千熊長彦はクテイを伴い百済に赴く。

382年 葛城襲津彦に新羅を討たせるが、美女に惑わされて討たず、かえって加羅国を攻撃する。百済の木羅斤資を遣って討たせ、加羅を恢復する。

385年 百済王の死。近親者による王位簒奪。

389年 神功の死。

とを合わせてみよう。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌の戦いで高句麗を撃退。

375 百済の近肖古王、倭国に七枝刀を送る。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391 倭が渡海し、百残・?・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397 百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399 新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

というわけで、割符としては合いそうで合わないところがある。思い切って180年ずらすとどうなるだろう。意外と合いそうにも見える。この場合、神功は倭王讃ということになる。

とにかく紀元400年ころに倭王朝と大和王朝の最初のクロスロードがあった。
仲哀はその前にいた。彼は吉備・出雲を支配下に入れた後、長駆筑紫まで攻め込んだ。
彼は新羅など見たことも聞いたことがなかった。そして新羅進攻を拒否し暗殺された。
神功はクロスロードの後にいる。彼女は新羅を知っており、仲哀に新羅侵攻を勧めた。そして仲哀が言うことを聞かないと見るや暗殺した。
彼女は自ら新羅に攻め入り、新羅を制圧し、百済と高麗を屈服させた。

神功は倭王朝のトップとして対高句麗戦に加わったのであろう。そして後の倭の五王に連なっているのであろう。

大和王朝は仲哀以降、継体天皇までの150年は朝鮮問題にはかかわっていない、だから東アジア世界につながるものさしを持っていない。そう私は考えている。

ブックオフで「伽耶」を知れば日本の古代史がわかる」 (ふたばらいふ新書)という本を買ってきた。
1999年の発行であるが、元の単行本は1995年発行。書下ろしの翻訳となっているので、その1年くらい前のものであろう。

著者は高濬煥という人で、経歴には大学教授を歴任とあるが、どうもパッと来ない大学名が続く。

中身は一言で言えば「トンデモ本」である。こういう本を出すから、韓国の歴史学が信用できなくなるのである。日本ではシロウト談義でもこれよりマシだ。みんな好きでやっている人だから、あくまで実事求是だ。変に民族感情を交えたりはしない。

わたしは、本格的な任那史がないか探しているのだが、もう少し日本語で探るしかなさそうだ。

「伽耶」というのは高氏によれば任那のことである。彼は任那という言葉を一切使わない。
なぜかは書かれていない。そのかわりに「任那日本府のウソ」という刺激的な見出しの説がある。それが「任那が存在しない」ことになってしまうようだ。
一応任那と伽耶の用法についてウィキで調べてみた。

三国志の魏書東夷伝倭人条に狗邪韓国の記載あり。現在の慶尚南道金海市付近との見方で一致。また弁辰諸国条の「弥烏邪馬」が任那の前身とする説あり。

紀元前300年ころ 金海市付近で弥生土器の仕様が増加。

414年 広開土王碑文。400年条の「任那加羅」が史料初見。

438年 『宋書』の438年条に「任那」が見える。「弁辰」の記載はなし。

451年 宋書倭国伝。倭王済が「倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国」の支配を認められる。
秦韓は辰韓12国のうち新羅に属さない諸国、慕韓は馬韓52国のうち百済に属さない国を指す。

478年 倭王武の上表文。「任那・加羅・秦韓・慕韓」が百済・新羅に属さない国々として記載される。

500年ころ 全羅南道に前方後円墳が造設される。百済進出とともに消失。慕韓に一致する地域とされる。

500年ころ この後、日本書紀(おそらく百済本紀からの引用)が質量ともに圧倒的な資料となる。

525年 『梁職貢図』の百済条、百済南方の諸小国を挙げる。任那の記載はない。

532年 金官国が新羅に吸収される。(日本書紀、三国史記にて確認)

562年 任那滅亡。すべて新羅に吸収される。

660年 『翰苑』の新羅条に「任那」の記載あり。「加羅と任那は新羅に滅ばされた」

801年 『通典』の新羅の条に「加羅と任那諸国は新羅に滅ぼされた」との記載あり。

1145年 三国史記が成立。「任那」の記載は本文には見られず。

私も「任那日本府」がずいぶん矛盾した表現だと思っている。日本という呼称はおそらく大和朝廷が発した国書「日いづる国」に基づいているのではないだろうか。7世紀に日本に来た百済の亡命学者が書紀編纂に携わるに及び、便利だからつい使ってしまったのではないかと考えている。
それを否定することが任那を否定(というよりネグレクト)することにはならない。
中国の史書を第一基準とするなら、伽耶という総称はきわめて特殊である。さまざまな史書では圧倒的に加羅・任那である。
ウィキによると、広開土王碑文(414)にある「任那加羅」が史料初見で、537年の南齊書では、「加羅國,三韓種也」と記載。その後の中国史書、『南斉書』、『梁書』などでも「任那加羅」が併記される。清代の『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が見られるという。
こうなると「伽耶」呼称は民族主義的な“意地”によるのではないかと思える。しかし学問は意地でやるものではない。


Korea_375
    韓国教科書の古代朝鮮
任那・加羅、百済、新羅
   日本の教科書の古代朝鮮
著作の最初は
第一部「卑弥呼は伽倻王女、そして神功皇后」
もうたまりません。
次が広開土大王碑文は一部偽造という一文。
1995年時点での韓国の古代史研究水準を示すものなのかもしれないが、それにしてもあまりにもおそまつだ。
この人が韓国古代史研究のトップ水準にある人なのか、その後最近ではこのような根拠抜きの断言は否定されるようになってきているのか、そのへんが知りたいところである。
もう一つ、都合の悪いことは「日帝支配の30年」で資料が失われたという口上だ。具体的に言わないと、それはたんなる逃げ口上にしかならない。


昨夜は、「イラクチョコ募金の会」の勉強会に行ってきました。「しばらくイラク情勢も学んでいないな」と思ったのがきっかけでした。
素晴らしい濃密な勉強会でした。私の長年の友である猫塚医師がガザの緊迫した状況を報告しました。
彼は2日前にガザから帰ったばかりとのこと。
「えっ、それじゃあの爆撃合戦に居合わせたの」
「そうなんだ。近くの放送局がピンポイントで爆撃されて、一晩で瓦礫の山になってしまったんだ」
「それであなた、大丈夫だったの」
「大丈夫だったんだけど、翌日にガザを離脱してきた」
という話でした。
その猫塚医師の報告のあと、会の佐藤真紀事務局長のイラクの話、とくにモスル解放後の小児医療の状況についての説明がありました。こちらの方も予想をはるかに超えた凄惨な状況でした。
私はメモ取るのが苦手なので、もっぱら聞いていましたが、二人のいずれ劣らぬ迫力の発言に、かなり脳ミソが豆腐になりました。
休憩なしの2時間余り、「これは今夜は飲んで忘れるところは忘れて、残ったところを明日書こう」ということにしました。
それでいまデスクに向かっているのですが、どうもまだ情報が星雲状況でまとめられません。

そこでトリビアルな話題から入ることにしました。中身は決してトリビアルではないのですが、ここだけなら切り離してお話になりそうです。

それが6月1日、イスラエル軍に殺されたラザン・アルナジャルさんの話です。
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この話は、すでに世界中に知れ渡っており、知らないのは私だけかもしれませんが、分かる範囲で紹介しておきたいと思います。


まずはニュース報道から紹介します。

3月30日、パレスチナで恒例となっている民衆抗議の運動が始まりました。抗議運動は2ヶ月あまりにわたり続きました。

その最中の5月14日、トランプは米大使館をテルアビブからエルサレムに移転しました。このあと抗議運動は例年になく盛り上がり、これに対抗してイスラエル側の武力弾圧も激しさを増しました。その結果住民の犠牲者が激増することとなりました。

毎日デモが行われた境界近くでは、市民の応急処置に走り回るボランティアが活躍しました。その一人がラザン・アルナジャルさんです。
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ラザンさんは21歳、パレスチナ人看護婦として活動していました。そして、6月1日、白衣の彼女は境界の金網の近くでイスラエル兵に狙撃され、帰らぬ人となったのです。
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             狙撃直後の画像
CNNのニュース動画をみると、明らかにラザルさんは狙い撃ちされています。銃撃される10分前、ラザンさんたちは身分証明書を掲げながら、徐々に前へ進んで行きます。フェンスの近くでは男性が『助けてくれ』と叫んでいました。(CNNがトランプに嫌われる理由がよく分かる)

翌日、ガザ全土でラザンさんの死に抗議するデモが行われました。血でそまった白衣をまとったアルナジャルさんの遺体は、パレスチナの国旗で包まれ、街路を埋め尽くした市民たちに見送られました。

ラザンさんの母親はこう語ります。

私は娘のことが心配だった。でもラザンは怖くないと言った。「自分には助ける義務があり、はっきりと分かるように白衣を着ているから」と。ラザンの唯一の武器は白衣だった。

ラザンは標的にされました。それは無作為な弾丸ではなく意図的な弾丸でした。彼らはラザンが医療者であることを知っていました。
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        血染めの白衣を広げる母親
国連人道問題調整事務所(OCHA)、世界保健機関(WHO)、国連人権高等弁務官事務所は連名で声明を発表しました。
「医療ボランティアの殺害に深い懸念をいだき、医療従事者の保護を要求する」と。
ラザルさんが所属したパレスチナ医療支援協会(PMRS)は「医療者への攻撃は人権法侵害である」と非難しています。
「医療」は戦争行為ではありません。そこに治療や手当てを必要とする人がいれば、治療するのが医療者の使命です。医療施設は保護されなくてはならず、意図的な攻撃の対象にしてはなりません。

実は医療スタッフへの攻撃はラザンさんの殺害にとどまるものではないのです。

3月30日以来、1ヶ月半の間に229人の医療スタッフが負傷、32台の救急車が破壊されています。

これは「医療従事者、負傷者や病気の搬送、治療」は保護されなければならないと定めたジュネーブ条約第24条に触れる戦争犯罪です。


取りえず、今ネットで分かる情報はこのくらいです。
すでに半年を過ぎているので、かなり情報は減っているようです。
しかしそれにしても情報が少ない。まともな情報は結局CNNのニュース1本のみです。ロイターもUPもBBCもニューヨークタイムズもない。だからその後のフォローがありません。
改めてイスラエル・ロビーの強力さに舌を巻く思いです。
アルジャジーラが見えないのはやはりムハンマドの影響でしょうか。


それにしてももう少しビオが欲しい。
そうなれば英語情報に飛び込むしかない。
Razan al-Najjar: 21-year-old Palestinian medic who became a symbol in Gaza
という記事

彼女は死亡前にすでにスターだった。ナザル自身もデモ中に2度負傷していた。
写真はネットで広がっていた。白衣に色とりどりのスカーフをまとい、危険な場所でカメラマンに貴重な映像を提供していた。
それは彼女の狙いであったかもしれない。彼女は負傷者の血のついた白衣でしばしば登場し、最前線の医療者であることを印象づけた。

彼女の狙いは女性の役割を認知させることでもあった。ガザの支配者は封建的なイスラム思想を押し付けようとしたが、それはガザ市民によって拒否されてきた、

ナジャールは1996年9月11日、ガザ南部のカーン・ユニス町のクザア村で生まれた。
6人の子供の年長者で、両親とともに親戚のアパートに住んでいた。ナジャルは大学には進学していないが、カーン・ユニス町のナセル病院で2年間のパラメディックコースを終了している。

父、アシュラフは封鎖が厳しくなる前、イスラエル国内のくず鉄業で働いていた。その後ガザ市内でオートバイのパーツ店を経営していたが、2014年に空爆で店が破壊されて以来、失業している。

狙撃時の様子

彼女は医療者用の白衣を着用し、手を高くあげた姿勢でフェンスに近寄っていった。そこには催涙ガス弾があたって負傷した男性一人が倒れていた。

彼女が負傷者に近づいたとき、鉄条網の向こう90メートル足らずのところから、イスラエルの兵士が発砲した。弾丸は彼女の上体にあたり、彼女はそのまま地面に倒れた。

デモ隊の集団が彼女を助け、救急車に乗せた。ナジャールは欧州ガザ病院の手術室に担ぎ込まれたが、そこで死亡が告げられた。

イスラエルの反応

イスラエル当局はナジャルの評判を落とそうと狙っている。彼女はテロリストの仲間だ、ネタニヤフの報道官は細工したナジャルのインタビュー映像を公表し、彼女はハマスの要請を受けて、抗議デモの“人間の盾”となるために参加したのだと述べた。

ナジャルはどう言っているのか

正確にはナジャルは次のように述べている。
私たちは一つの夢を持っています。それは人々の命を救い、ここから抜け出すことです。
もう一つの夢は「私たちは武器などなしに何でも成し遂げることができるのだ」というメッセージを送ることです。

ナジャルの最後の言葉

ナジャルは5月31日にフェースブックに最後の言葉を残しています。
あなたの良心はこれからもずっと癒やされることでしょう。なぜなら神様はいつもあなたの願いをわかってくださっているからです。
お休み、ぐっすりと。元気でね。

2018年02月01日 ムハンマド皇太子とサウジの過激化 という記事が未だに読まれているようだ。
(我ながら、かなりの力作です)
ムハンマドは今日の中東不安定化の戦犯として超A級だが、なかでも最大の問題はイスラエルとの関係だろう。これまでサウジはさまざまな問題はあったにせよ、イスラエルとの関係においてはクリアーでクリーンだった。だからアラブの盟主的な評価を与えられていた。
その求心力を自ら投げ捨てたムハンマドの政策は、アラブ諸国に深刻な混乱をもたらしている。

ムハンマドによる混乱は、同時に、逆説的に中東諸国の団結の方向性を示しているとも言える。それはエジプト、サウジ、トルコのトロイカ体制だ。それはアラブによる枠組みではないが、イスラムのセクトによる枠組みでもない。それは中東・マグレブを抱合する多国間主義的枠組みだ。(シリア・イラク・イランのトロイカは算術的連合に過ぎない)
これが出来上がれば中東の自立性は大きく前進するのではないかと思われる。
すみません。その後勉強していないので、近日中に…

とりあえず下記の記事もご参照ください





弁証法と戦闘的唯物論

最初にマルクス主義に近づいたとき、教えられたのは、「弁証法的唯物論と史的唯物論」であった。
だから、依然として弁証法的唯物論という言葉は脳ミソに焼き付けられている。

これは、結局、世の中の理論は唯物論と観念論に分かれ、これは唯物論が正しい、というのが第一段階。
それから次に、唯物論にも弁証法的唯物論と機械論的唯物論があって、これは弁証法的唯物論が正しい、という二段重ねになっていた。

それで機械論的と呼ばずに形而上学的ということもあったが、機械論と形而上学の違いはよく分からなかった。いまでもよく分からない。

これで、四つ目表ができあがることになる。でもこれって、形而上学そのものじゃァない?

ところが話はこれで終わらない。唯物論と経験批判論という本が出てきて、唯物論と観念論の対立だけではなく、主観的観念論と客観的観念論があってということになる。

そうすると、議論は豆腐を縦横のほかに上下にも切り分けた8象限のカテゴリーに裁断されることになる。

これはもはやスコラ哲学そのものではないか。

その後、50年を経たいま、私は「弁証法的唯物論」などというパラダイムはまったく信仰していない。それは真面目なキリスト者が三位一体など信じないのと同じだ。

強いて言えば弁証法論者だということになる。それはすべての存在を過程の中にとらえる相対論であるとともに、過程の絶対性をエネルギーとして把握する実体論である。
それは時間軸の絶対性を信じるとともに、時間軸を越えた5次元時空があると信じることである。

これは世界のモデルである。これは立場の違いを越えて人類が普遍的に共有できるモデルだと思う。

ただその上で主体の問題は残る。党派性と言っても良いのだろう。その党派性の拠り所が唯物論なのだろうと思う。
だからレーニンが「戦闘的唯物論の意義について」を語ったとき、彼は正しかったのだろうと思う。

レーニンは戦闘的唯物論者が戦うための武器として弁証法の意義をとらえた。それはすべての知識人が、方法論として共有すべきものだ。

ただそれはもっと研ぎ澄ます必要がある。弁証法はヘーゲルの専売特許ではない。エンゲルスの専売特許でもない。もっと独りよがりでない、客観的で筋肉質な体系が必要なのだ。

それは自然弁証法(シェリング)と、認識の弁証法(フィヒテ)と、弁証法的論理学(ヘーゲル)から構成されるだろう。

いっぽう、唯物論に体系はない。それは戦闘的実践の中で研ぎ澄まされるほかない。そうでなければ、常にさまざまな形の観念論に落ち込んでいく他ないのである。マテリアリスムというのは究極的にはリアリズムである。

結論

弁証法的唯物論などというものはありえない。あるとすれば弁証法的唯物論者、あるいは唯物論的弁証法ということになる。
政治運動に引き寄せていうならば、共産主義的社会主義、唯物論的社会主義ということになるのだろう。
「資本論」は唯物論者でなくても理解できる。しかしそれを実現するのは戦闘的唯物論者、すなわち共産主義者以外にありえないのである。

生磐についてもう少し勉強する

生磐についてもう少し勉強すると、違った側面が見えてきました。
まず出典ですが、これは日本書紀の憲宗紀に記載されたものです。

日本神話・神社まとめというサイトの
という箇所にある現代語訳文を転載させてもらいます。
(即位3年)この年、紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)は任那(ミマナ)に越境して立ち寄り、高麗と通いました。
西の三韓(ミツノカラクニ)の王になろうとして、官府(ミヤツカサ)を整え、治めて、神聖(カミ)と自称しました。
任那の左魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たちが策謀して、百済の適莫爾解(チャクマクニゲ)を爾林(ニリム=地名)で殺しました。 
帯山城(シトロモロノサシ=現在の全羅道北道井邑市の泰仁)を築いて、東道を防いで守りました。
すると粮(カテ=食料)を運ぶ津(ツ=港)が断絶して、軍隊は飢え、苦しみました。
百済の王はとても怒り、領軍(イクサ)の古爾解(コニゲ)と内頭莫古解(ナイトウマクコゲ)たちを派遣して、軍隊を率いて帯山に行き、攻めました。
生磐宿禰(オイワノスクネ)は軍隊を進めて逆に迎え撃ちました。胆気益壮(イキオイマスマスサカリ)で向かうところで敵を皆破りました。一人で敵100人に当たりました。しばらくして、武器は尽き枯れました。
それで事が成らないと分かって、任那へと帰りました。
これにより百済国は佐魯(サル)・那奇他甲背(ナカタカフハイ)たち300人あまりを殺しました。
あきらかに百済側から見た史実で、百済本紀からのパクリだということが見て取れます。

訳文でも十分意味は伝わりますが、煩雑なため、要点を箇条書きにします。その際、主体を生磐側にスライドさせて記載します

①487年、紀生磐が任那に越境した。
生磐は任那人ではなく倭人であるということだ。そして倭領から任那に入った。
②彼は高麗と通じた。
百済は高句麗と戦い、苦戦していたから、生磐の行為は裏切りと映った。
③生磐は「西の三韓」の王になろうとして、官府を整え、神と自称した。
「西の三韓」が難しいが、素直に読めば旧三韓の西部すなわち馬韓領域ということになる。
百済も新羅ももともと三韓ではなく、三韓に侵入してきた北部勢力である。任那には馬韓(全羅道)を守る権利と義務がある。
倭国は百済が高句麗と戦う限りそれを支持するが、南に進出しようとするならそれと戦う。
④生磐は全羅北道に帯山城を築き、百済の南下を阻止しようと図った。手勢の主力は佐魯・那奇他甲背らの任那軍だった。
⑤これを見た百済は怒り、攻撃を仕掛けた。
守備隊は果敢に戦ったが、最後に破れ任那軍300人が殺され、生磐は倭に逃げ帰った。

この一連の出来事は、昨日の記事の後半にあたります。前半の部分、小弓の死亡から生磐の参戦、子鹿火や韓子との関係悪化までの前半は雄略紀の方に入れられています。

後半を先に読むとこれらの記載の本質がわかります。生磐と戦いこれを追い出した百済の一種の「言い訳」なのです。

日本と喧嘩はできないが任那の支配する全羅道は欲しい、というのが百済の本音です。

ここには書かれていませんが、この後百済は領土を大きく南にシフトして生き返ります。そして任那をつぶし、これを新羅と分け合います。

一方、朝鮮半島における倭国のプレゼンスは著しく衰退し、任那も国土を百済に剥奪されやがて姿を消していくことになります。

結論から言って一連の出来事は日本書紀の作成に関わった百済亡命者が、百済本紀から適宜コピー&ペーストしたものだろうと思われます。雄略天皇はただの借り物に過ぎないでしょう。
ただし倭の五王との関連は不明です。時期的にはかぶっていますが…

ついでに
倭国と任那の関係ですが、基本的には同根の関係と思います。ただしそれは高天原政権の出自だという点でのみ同根であって、長江文明の後裔である弥生人には関係のない話です。
もう一つ、任那の一部である一定の地域は倭王国と直接の関係を持っていたと思われます。つまり倭国の一部が半島南端部にも存在したということです。
なお、瓊瓊杵王国のルーツとしてタカミムスビを想定しましたが、雄略紀にタカミムスビが任那由来であると語られており、高天原=任那説にいっそう確信を持つこととなりました。




18.11.14 朝日
キューバ大使宿泊、ヒルトン福岡が拒否 米の制裁理由に

在日キューバ大使が10月、米ヒルトングループ系列のホテル「ヒルトン福岡シーホーク」(福岡市中央区)に宿泊しようとしたところ、米国の経済制裁の対象国の外交官であることを理由に、宿泊を拒否されたことが分かった。ヒルトン側は「米国企業として、米国の法律を順守した」と説明しているが、国籍による宿泊拒否は日本の旅館業法に抵触しているとして、福岡市が行政指導をした。

新藤さんからのメールで事件を知りました。

以前にもメキシコのシェラトンで同様の事件が起きており、いわばアメリカ企業としては当然の措置をとったわけです。

問題は日本国憲法に違反した行為を公然と行われたことに対する「日本」の対応です。日本政府というより日本という国家の対応です。

刑法上の罪に問うのは不可能ではありませんが、量刑としてはなかなか難しいでしょう。行政上の不法行為として罰するのもおそらく対応する法律が?でしょう。

結局民法で行くしかありませんが、ここは懲罰的罰金、あるいは慰謝料の請求が可能と思われます。

国家に慰謝料を求める権利はありませんが、最高裁判所の前で立ちションベンを引っ掛けられた屈辱は十分埋め合わせさせるべきです。

メキシコの裁判所は罰金約120万ペソ(約1300万円)の支払いを命じたそうです。その金額を見て「そのくらいなら払ったほうが良い」とホテル側は判断したのでしょう。

したがってこれ以下の額では国際的に許されないでしょう。

多分どのような額が出てもホテル側は争わないでしょうから、最低でも億は行くべきだろうと思います。これで大使館の半年分くらいの運営費にはなるでしょう。

これがうまく行ったら、週に1度位出張して、そのたびにヒルトンとシェラトンに予約すれば良いのです。パソコンのボタンを押すだけでまったく原価はかかりません。

これで日本駐在のキューバ大使館は外貨の稼ぎ頭になれるでしょう。

紀生磐(きのおいわ)のものがたり

紀生磐という人がいて、日本書紀の中で大活躍します。しかしどう考えてもこれは大和の人ではなく、筑紫君磐井と同じく倭国の歴史の中で動いた人です。

読み方からしてかなりいい加減で、例えばウィキペディアでは紀大磐と書いて「きの おおいわ」と読ませています。
ある方のブログでは紀生磐宿禰(キノオイワノスクネ)となっています。

この記事では面倒なので「生磐」(おいわ)で統一します。

この人は生年も没年も不詳ですが、400年代後半に活躍した人です。

父の名が紀小弓。
この父は雄略天皇の命を受けて朝鮮半島にわたり、新羅との闘いを率いていましたが、戦地で病死してしまいます。
これが465年5月のことです。

まぁ雄略天皇というのは嘘っぱちで、実際は倭の五王のもとで戦いに参加していたのだろうと思います。つまり倭王朝の人です。

三韓および倭国年表
http://shosuzki.blog.jp/archives/63212521.html

を見てもらえばわかりますが、このころ高句麗が南に進出し百済に盛んに侵食し始めます。
この10年後には百済の首都、漢城が陥落してしまいます。百済は国王を殺され、残党は南に逃げて国家の再建を始めます。

話は戻ります。父の死に直面した生磐は、矢も盾もたまらずに百済に向かいます。

ここまではよくある美談を予感させますが、とんでもハップン。
オヤジの威光を笠にきた横暴な振る舞いは指弾の的となってしまいます。

ついには小弓の後任の大将、小鹿火(おかい)を怒らせてしまうまでに至りました。小鹿火は蘇我韓子を唆し生磐暗殺を図りましたが、なんと韓子は返り討ちになってしまいます。

実は小鹿火みずからも、小弓の子ということになっています。つまり兄弟喧嘩をはじめたわけで、これでは戦えません。とばっちりを受けた蘇我韓子こそいい面の皮です。

どうしてこんなだらしない話になってしまったのか、それはそもそもこの戦争があまり大義のないものだったからです。

百済が高句麗に攻め込まれている間、新羅も同じように高句麗の攻撃を受けていました。だから倭国政府は半島にわたり両国を助けて高句麗を追い返したのです。

ところが、その後新羅はその恩を忘れ、どうも態度が大きい。それどころかひょっとして高句麗とつながったのではないかと思わせるような素振りです。

そこで雄略天皇は新羅親征を決意しました。ところが、宗像神社の神託は「行くな」というものでした。雄略天皇は自らの出陣を諦め、小弓ら4人の将軍に指揮を委ねました。

たしかに戦う前からなんとなく嫌な気分ですね。

そんなこんなで生磐は戦線を離れ倭国に戻ってきたのですが、一緒に小鹿火まで戻ってきてしまって、「もうやめた」と戦線離脱してしまいました。

これで当初に雄略天皇が指揮を託した4人の将軍はすべていなくなってしまいました。

諍いの元を作ったのは生磐ですから、彼が行かないわけにはいきません。ということで生磐は二度目のお勤めに出かけます。

ところが任那に赴いた生磐はとんでもないことをはじめます。なんとみずから神聖(かみ)を名乗り、任那王国を作り、高句麗と結んで百済人を攻撃し始めたのです。

時期がよくわからないのですが、475年に百済の首都が陥落したのに合わせて、百済を任那のものにしてしまえと考えたのかもしれません。

百済の側は逆に漢城を失った分を全羅道で取り返せと考えたかもしれません。全羅道はもともと任那の地であり、百済が割譲を迫ったという歴史的経過もたしかにあります。

それはともかく、激怒した百済王は生磐のこもる帯山城に猛攻撃をかけました。激しい戦いの末に任那軍の重臣300人が死亡。生磐は戦闘力を失いました。

結局、大磐は487年に倭国に帰国したそうです。これが後の筑紫君磐井だったりすると、できすぎですね。



2016年07月10日 三韓および倭国年表
を増補しました。
もともと、
2013年01月19日 日本書紀抜きの日本史年表
を増補したものですが、衛氏朝鮮の記事はもう少し膨らませなければならないと思います。(前にどこかに書いたつもりしているのですが見当たりません)

「神武東征」を考える その3 神武東征の絶対年代

神武東征の絶対年代は、考古学的資料から比較的容易に推測できる。
それはおそらく紀元300年を挟む前後50年のことであろう。
最大の根拠は銅鐸文明の突然の消滅である。銅鐸文明を担ったのは弥生人のうち長江文明由来の渡来人である。彼らは紀元前300年ころから銅鐸文明を開始した。それは次第に東漸し紀元150年から200年に近畿で最盛期を迎える。しかしその後急速に衰退し、銅鐸は打ち捨てられる。
これが近畿では紀元200年から250年と推定される。ここを挟んで地理的には西から東へと順に消滅していくのである。
銅鐸文明を抹殺し、征服王朝を打ち立てたのは「にぎはやひ王国」である。
彼らは出雲に最初の拠点を築いた後、いづれかのルートを通って近畿に達した。
とすれば纏向遺跡は「にぎはやひ」時代のものと考えられる。彼らが銅鐸を廃棄し、弥生人にスサノオ信仰を押し付けた後、今度はそこに神武が入ってくることになる。
神武にとって「にぎはやひ王国」の建設はそう遠い昔のことではなかった、と想像される。
そこで紀元300年という数字が出てくる。
となると、神武と前方後円墳の関係ということになるが、端的に言えば、前方後円墳はにぎはやひ王国の築いた文化であろうと思われる。
もともと九州に前方後円墳の伝統はない。それは大和・吉備に始まり九州をふくむ全国へと拡散していくのである。
さらにいえば、それは大規模干拓・灌漑事業の副産物であり、それに王権が便乗したに過ぎないと思う。

「神武東征」を考える その2 にぎはやひ王国

東征の決定

東征の決定に至る経過は以下の通り

瓊瓊杵王国は飽和状態に近づき、国々には君があり村々には長がいて、互いにしのぎを削るようになっていた。
その時、塩土の老翁が「東に美しい土地がある」という話を伝えた。その国は青く美しい山が四方を囲んでいる。そこは天の磐船に乗って天から飛び降った(侵入した)饒速日という者が支配している。

饒速日王国を攻めて、自分たちが瓊瓊杵王国の名のもとに支配しようではないか、というのが呼びかけである。

そこで、この饒速日の位置づけであるが、天から飛び降った(朝鮮半島から渡来攻撃)ことは間違いない。
しかしその“天”は高天原系の天である。なぜなら、本来豊葦原瑞穂の国は高天原政権によって。瓊瓊杵王国に属すべきものとされているからである。

東征の発議は彦火火出見がしたことになっている。彼が45歳になってから言い出し、周囲を説得したということになっている。
このくだりは後付けであろう。強引に読み込めば、それは神武王国(瓊瓊杵王国の一支国)を建国した彦火火出見が、45歳になって、往時を回想しつつ王政を意味づけたというふうにも取れる(しかしこれではあまりにも映画のシナリオ風だ)

これらの読解は日本書紀を基盤としているが、古事記ではより簡潔に語られている。本当のところ、彦火火出見は行って戦ってみるまで、相手がどんな集団なのかわかっていなかったのではないだろうか。

私は以前から、高天原政権は紀元前100年ころに洛東江中流に成立した衛氏朝鮮の残党国家だろうと考えている。
天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神という面々が任那(伽倻)を形成した。後に一部は分裂し慶州方面に別政権(スサノヲ系)を立てた。百済は別系統の北方系(扶余族)と考えている。

その慶州グループが本国においては新羅となり、出雲に渡って別の征服王国を立てたのだろう。そして出雲王国の流れが近畿に入って饒速日王国を立てたのではないだろうか。

なお「にぎはやひ王国」を建設した饒速日と神武に降伏した饒速日が同一人物であるかどうかはわからない。また神武に降伏した饒速日と、神武一族と濃厚な血縁関係を結ぶことになる大事主が同一人物であるかどうかもわからない。
ただ瓊瓊杵と饒速日が同じ言語系統、高天原政権由来ではないかという予感はする。とすれば、饒速日説は神武が東征を根拠付けるために、オオコトヌシを瓊瓊杵の兄弟とされる饒速日に擬した可能性である。




「神武東征」を考える その1 ににぎ王国

すみませんが、この文章は入門書「日本神話.com」を読みながらの感想なので、まったく裏付けのない思いつきノートです。そのうち、裏打ちをしていきたいと思います。

神武の出自 (神武紀)

神武の家系を見るとすこぶるいい加減である。
神武の幼名は彦火火出見(ひこほほでみ)
父方は天照大神の子孫、母方は海神の娘とされる。
おそらく邪馬台国の分家筋で、豊前中津あたりの海賊の長と婚姻関係を結んだという筋書きであろう。
祖父の名前も彦火火出見で俗称が山幸彦、祖母も海神の娘というから実にずさんなでっち上げだ。

結局はっきりしているのは母方が一貫して海神の娘であるということで、つまりは良く言えば水軍の長、悪く言えば海賊の頭目ということだ。
それが家系に色を付けるために、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を載せている。これは「ソンジョそこいらの海賊ではない。もとは清和源氏だぞ」というほどの意味であろう。
 
瓊瓊杵尊を担いだ理由

おそらく神武の父が神武4兄弟を送り出すにあたって、派兵の理由を述べた箇所がある。

これについては後で触れるのだが、実はその前に、瓊瓊杵尊に関するに重要な説明が加えられているのである。

瓊瓊杵尊は豊葦原瑞穂の国を征服するよう命令され派遣された。命令したのは高天原政権で、そこには豊葦原瑞穂の国の全土に対する支配権が認められていた。

重要なのは、瓊瓊杵尊が降臨する前にすでに日本=豊葦原瑞穂の国は存在していたということである。彼は日本を作ったのではなく征服したのである。ということは、豊葦原瑞穂の国は被征服国だったということになる。

豊葦原瑞穂の国と「ににぎ王国」

ついで征服王朝たる「瓊瓊杵王国」の経過が総括される。
「日本の事情がわからなかった瓊瓊杵尊は、まず西の外れの地を治めることにした。その子孫は慶事を重ね、支配を強めた。

以上の経過からわかることは、まず豊葦原瑞穂の国があって、そこに瓊瓊杵が侵入してきて「瓊瓊杵王国」を作った。それは当初は豊葦原瑞穂の国の西側の一部を支配するに過ぎなかったが、徐々にその版図を拡大した。

被征服国である豊葦原瑞穂の国の民は、神武の父、の時代には瓊瓊杵王国の支配を受容していた。

そういう経過があるからこそ、どこぞの馬の骨が瓊瓊杵尊の末裔を推しいただいて、自らの箔付けとするということに政治的意味が生じるのである。


久しぶりに映画が見たくなってイオンの映画館へ行った。行ってから時間などと睨みあわせて、「ビブリア古書堂の事件手帖」に決めた。月曜の午後2時というのに7,8人も観客がいた。全員女性だった。
女性監督の作品で、なかなかお金もかけているらしい。
見た感想だが、何かよくわからない映画だった。なぜわかりにくいかというと、サイドストーリーに力を入れすぎたためだ。
なぜそんなになってしまったかというと、おそらく夏帆という女優があまりに魅力的だったからではないか。
監督や脚本家がみんな引っ張られてしまった。編集屋も切れなかった。

原作者は映画を見た感想の中でこう言っている。
また原作で深く描かなかった過去パートがしっかり描かれているので、映像として観るのは私にとっても新鮮でした。
聞きようによってはちょっと嫌味っぽくも聞こえる。
夏帆
こちらの方は、基本的に暇つぶしなので、筋はまぁどうでもいいみたいなものだから、とにかく夏帆さんの美貌にうっとりしていた。
典型的な美人というわけではない。映画向きの顔で、造作としては大口なのがある種アンバランスな魅力だ。多分芝居がとてもうまい人なのだと思う。表情の中にさり気なく自分の魅力を引き出す力がある。
三文小説家が何気なく入った大衆食堂で、何ということない店のお内儀さんに何気なく接触し、どんどん彼女の魅力に引き込まれていく。その心のゆらぎが、こちらまで引き込んでしまう。
写真を見てほしい。普通に、女性にこんな顔をされたら、男性たるもの理性を失います。
ただし女性の方が流れに添うように燃え上がってゆく心境の変化は、正直のところ良くわからない。わからないが納得させられてしまう。多分女性監督の独特の感性なのだろう。
鎌倉の切通しでのラブシーンは、日本映画ではめったに見られない硬質な情感だ。

ベネズエラ大使講演会は大盛況だった。
聴衆が100名を越えた。

最大の成功の理由は、ベネズエラを心配する人が予想以上に世の中にはいるということだ。この講演会はその人達のそういう気分に応える企画になったのではないか、という気がする。

講演の最中に「そのとおり!」という掛け声までかかった。大使も「こんなに反応してもらえるなんて」と感激していた。

覚悟はしていたが、案に相違して、斜に構えた質問とか、メディア報道を鵜呑みにした批判はなかった。

この企画は多くの民主勢力の協力を得て行った。赤旗にもチラシを折り込んでもらった。平和委員会や革新懇にもずいぶんお世話になった。

何よりも私たち連帯委員会には、過去に2度にわたりベネズエラ革命の支援集会を成功させた経験がある。アメリカの覇権主義と闘うキューバ連帯の催しやニカラグア連帯を積み上げてきた伝統がある。

こういう要素がバックにあったから、「北海道AALAがベネズエラ問題を本格的に取り上げるのだから、聞いておかなければ」という雰囲気を生んだのではないだろうかと思っている。

これが「反転攻勢」のきっかけの一つになってくれればと心から願っている。

ベネズエラ大使の講演の抄訳です。日本語訳文章を北海道AALAの責任で要約したものです。



セイコウ・イシカワ大使講演

「ベネズエラのいま~ベネズエラ“危機”の真相と課題~」 
(要約版)

2018年11月10日 札幌

 

ベネズエラ革命への攻撃

親愛なる北海道AALA代表と友人の皆様に心からの連帯の挨拶を送ります。

いまベネズエラ革命への攻撃が続いています。

1998年に公明な選挙によってチャベスが大統領に選ばれてから、革命は絶え間なくさまざまな規模の攻撃にさらされてきました。ベネズエラは米国の干渉の的になってきました。この20年間の米国の政策は、疑いもなく好戦的なものでした。

ここで多くの人に疑問が浮かぶでしょう。なぜベネズエラが攻撃されるのか。

ベネズエラが他国の脅威になっているというのでしょうか。米国のような超大国を脅かしているというのでしょうか。

ベネズエラには大量破壊兵器はありません。他国に軍事基地を持ってもいません。他国を爆撃したことも、侵略したこともありません。ベネズエラは平和主義の国です。憲法には国家間の平和的協力を促進することが明示されています。また原水爆もたらす危機に対する防御法は、唯一つ核兵器撤廃のみという立場に立っています。


ベネズエラ革命とはなにか

ベネズエラ革命は、「ベネズエラ住居計画」を通じて200万以上の家族に家財道具つきの家を提供しました。

ベネズエラ革命は、例外なく全ての国民に初等・中等・大学教育を無償で提供しています。学生を対象に研究を後押しする奨学金を出しています。医療は無料ですし、高齢者への年金額も増額しています。

食料供給と生産を充足させるため、地域共同体が運営する地方評議会がつくられています。政府はこれを強力に支援しています。文化的グループを支援するネットワークが全土に作られ、広がっています。

これがわたしたちのベネズエラ革命です。


チャベスとラテンアメリカの共同体

ウゴ・チャベスは、長い間の夢「私たちのアメリカの統合」のために、文字通り種を蒔きました。

そうして、米州ボリバル同盟(ALBA)やペトロカリベ、南米諸国連合(UNASUR)やラテンアメリカ・カリブ諸国共同体(CELAC)が生まれたのです。これらは一極集中ではなく多中心性の世界の実現に資するものです。


米国のベネズエラ攻撃

米国はベネズエラを攻撃してどんな利益があるのでしょう。それはとりわけ、ベネズエラが世界最大の石油埋蔵量を有しているということと、(米国に近いという)地政学的な位置づけに意味があるのです。この二つの要素をあわせもつ国が、「社会主義」を意識的にめざす愛国的政府に率いられているということが、米国の心配の種となっているのです。

米国はベネズエラを「西半球における主要な敵」と断定し、宣戦布告もなしに我が国に戦争を仕掛けています。

その目的は、ベネズエラ型の民主主義モデルを破壊することであり、国民運動における革命政府の指導的役割を根絶することであります。そして最終的に、ベネズエラの豊かな資源を再び私物化しコントロールしようとすることです。


報道機関が報道しないもの

世界の報道機関は、主に新聞の見出しや社説欄で、競い合うように広い紙面を割いて、日々ベネズエラ国民が直面している困難を書き立てています。記者やコメンテーター、歌手や俳優、有識者や政治家は喜んで、世界の主要メディアでベネズエラについて意見を述べます。そしていつも、それをマドゥロ大統領の責任にしています。

しかし、メディアがどんなに妄想を作り上げ、どんなに厳密性を欠く分析をしても、真実を知るための必要な鍵となる事実を隠しています。それは「封鎖」です。


封鎖の歴史的背景

20年前、チャベスが大統領に就任して間もなくから、米国はベネズエラの「政権交代」を目指し続けています。それは米国の帝国主義的な人々とベネズエラの国民民主主義との共存が不可能であるということを裏付けています。

ベネズエラの国民民主主義は主権・独立・社会正義の考えを包含しています。米国はそこに脅威を見出しているのです。なぜならそれは米国による南米地域の支配と統制の図式と正反対のものだからです。

ブッシュ政権は、2002年の反チャベスのクーデターを支援しました。2015年には、オバマ前大統領が、ベネズエラを「異常で並外れた脅威」と規定した大統領令を出しました。それ以来「政権交代」の政策が加速しました。

米政権はそれまで非公式だった政策を合法化しました。それは財政的、政治的、メディア、軍事的な秘密作戦を柱とするものでした。トランプは「どのような手段を使ってでもベネズエラの合法的政府を打倒したい」と公言しています。

2017年8月には、トランプ自身が、ベネズエラに対して軍事作戦の可能性も含めた「全ての選択肢」を持っていると言明しました。ほかにもポンペオ国務長官、ペンス副大統領、マティス国防長官、ヘイリー国連大使、ジョン・ボルトン大統領補佐官といったトランプ政権の高官たちがベネズエラの政権を引きずり下ろすという言明を繰り返しています。

直近では、ワシントンで最も影響力のあるロビイストの一人ルビオ上院議員が、「ベネズエラに対して軍事的行動を起こす時が来た」と主張しました。これはまったく由々しい発言です。ベネズエラのような小国を米国の軍事攻撃の目標とすることは、明らかに西半球の平和への深刻な脅しです。


経済と金融の分野における攻撃

経済と金融の分野における攻撃は、制裁から封鎖へとエスカレートしてきました。それは一方的な抑圧手段を通じて行われています。

資本主義体制を批判し、国内政策や対外政策を自主的に進めようとする政府がどこかに出現した時、それらの国が乱暴な手段で封鎖されるのは、今に始まったことではありません。それはキューバに対して50年以上前からおこなわれています。チリのアジェンデ政権も同じ目にあっています。

アジェンデ大統領は政権に就いた当初から、米国による金融的・経済的封鎖とたたかわなければなりませんでした。マドゥロ大統領も同じことを迫られています。経済封鎖は国際法に違反する不当で不法なものです。それはベネズエラ政府と提携しているとみなされた個人や企業に対しても適応されます。

トランプ政権はこのような手段はこの国の情勢を改善して「民主主義への回帰」を促進するための措置であると強弁しています。そしてベネズエラ国民に悪影響を及ぼすものではないと主張しています。


経済封鎖は一種の軍事行動だ

いま制裁は、金融管理、石油産業や国際貿易まで、その範囲を広げています。それは米国の敵視政策がエスカレートしているからです。この異常な事態は経済侵犯、経済戦争とも呼ばれるべきものです。

戦争において一番はじめにやるべき軍事的任務は「敵の供給路を遮断する」ことだといわれます。つまりいまの米国の敵視政策は、軍事的観念に完全に当てはまっているということです。このようにして米国は、ベネズエラ経済を行き詰まらせ、大規模な不安定化と国内対立を引き起こそうとしています。そしてその結果、「国際社会が解決策を見出ださ」ざるをえなくなり、力を合わせて「人道的」な行動を起こす、ことを目論んでいるのです。

制裁の目的は、ベネズエラ経済へ打撃を与え、国際貿易の崩壊を引き起こすことです。それはベネズエラの金融活動を妨害し、投資へのアクセスを邪魔し、食料品や医薬品、生活必需品の購入を妨げています。それは国民生活に、とりわけ経済的分野において深刻な混乱をもたらしています。

こうした全てのことは、ベネズエラに経済危機を引き起こす目的でおこなわれています。もし経済危機が起これば、それはベネズエラを政治的に不安定化させる口実に使えるのです。


ベネズエラ政府打倒戦略と「転換期」

トランプ政権は、両国間の緊張をさらにエスカレートさせています。それと並行してベネズエラに対する制裁をこれまでに4度も実施しています。この2つはどういう関係にあるのでしょうか。

それは米国政府にとって受け入れ可能な方針がただひとつ、マドゥロ大統領の解任だということを示しています。米国は「民主主義の回復」を目指しているのではないのです。かれらは合憲的、民主的、選挙に基づく解決の道を正統なものと認めず、「チャベス主義」の降伏のみを求めています。

2017年、ベネズエラ野党は政権交代を目論見ましたが失敗に終わります。米国は野党勢力に「政権交代」を実現させる力がないと判断し、制裁措置を適用しました。これが、米国が言うところの「民主主義への回帰」への「転換期」が意味しているものです。

2017年から2018年にかけてのドミニカ共和国での与野党協議は、ローマ法王などのイニシアチブで政治的正常化への道を開こうとするものでした。米国はこの会談をサボタージュしつつ、大規模な人口移動や市民対立というかたちでベネズエラ国民の対立を煽っています。そうして「人道的介入」に都合のいい状況を生み出そうとしています。

米国政府は制裁は「個人への制裁」であると主張しています。しかし制裁によって引き起こされたすさまじい影響に照らして見ると、「ベネズエラ国民の幸福を気にかけている」という米国の主張は悪意に満ちたものです。

「転換期」の柱は、①外国の銀行にベネズエラが保有する資産の凍結 ②ベネズエラ国債の取引禁止 ③世界的金融システムにおけるベネズエラ口座の閉鎖 ④食糧や医薬品の輸入への妨害 などです。これらの事実から、米国がベネズエラ国民の暮らしなどどうでも良いと考えていることがわかります。

「転換期」は混沌と暴力の状況を推し進めています。ベネズエラの状況に対する憲法に則った平和的な解決の道は、米国により閉ざされています。


ベネズエラを孤立化させる工作

米国政府は米州機構を利用してベネズエラに攻撃を仕掛けました。トランプ大統領は中南米各国に、ベネズエラに対する封鎖と制裁政策への絶対服従を迫ったのです。今年4月にペルーのリマで開かれた米州首脳会議において、その策略は明確に示されました。

ベネズエラ経済を崩壊させる一方的な措置には、カナダのような国も加わっています。さらに米国は、欧州議会も反ベネズエラの国際的同盟に取り込むことに成功しました。欧州議会の圧力のもと、EUは一方的な制裁を採択しました。

これらの措置は、「独裁的で破産した国家」が引き起こした困窮から、ベネズエラを救うための措置であるかのように見えています。しかし実のところ、ベネズエラを「罰する」という名目の下に、その合法的政府を崩壊させるという、トランプの圧力に屈したのです。

これは、“国家同士の共存を支配する原理”への新たな攻撃でもあります。

これは、ベネズエラ国民への犯罪行為であり、人類に対する重罪です。


難民キャンペーンに関して

難民キャンペーンはベネズエラに対するもう一つの「厚かましい攻撃戦略」です。

こうした状況は、国際社会においてベネズエラの状況を「人道的危機」とする根拠になるからです。「人道的危機」と判断されれば、結果として国際社会が「人道的」介入を「せざるをえなくなる」ように仕向けることができるのです。多くのメディアが、人口流出の危機と決めつけられた現象を広めています。それは人道的危機と言われています。たくさんの人がおそらく善意から、この事象に関する懸念を口にしています。

国際移住機関(IOM)の統計で見てみましょう。ベネズエラは絶対数においても人口比率においても移民が多い国ではありませんが、傾向としては移民や難民の受け入れ国であり続けています。最も現状がよく分かるデータは、国内在住外国人の数です。ベネズエラの人口は3千万人ですが、これに加えて510万人のコロンビア人が住んでいます。この比率はコロンビアでの比率の9倍です。

これは中長期の傾向ですが、短期的にはどうでしょうか。

おそらく国際移住機関が出したデータのなかで最も事実を明示するものは、コロンビア外務省の国境における調査結果でしょう。このモニター調査によると、コロンビア方向へ国境を越えた人は224,804人で、ベネズエラ方向へ向かった人は252,565人でした。コロンビアからベネズエラに向かった人の方が多かったのです。

もう一つの項目、コロンビアに向けて国境を越えた人の52%は買い物をするためであり、14%はコロンビアで働いている人たちでした。また69%が、その日のうちにベネズエラに戻ると答えています。

なぜメディアの報道と実態の間にこれほどの格差があるのでしょう。米国とリマ・グループ、国際的マスメディアが、ベネズエラ問題を「人道上の問題」に仕立て上げようとしているからと言わざるをえません、


メディアに溢れる反ベネズエラ報道

報道機関はベネズエラにおける「食糧難と人道上の危機」を報道し、国民の国外流出を驚き嘆いてみせます。一方で、米国などの国や機関が医薬品や食料のベネズエラへの輸入を阻んでいることを無視します。

反ベネズエラの制裁と封鎖作戦は、恥知らずで矛盾に満ちているにも拘らず、思想的には持ちこたえています。それは封鎖作戦のもう一つのオプション、メディアによる封鎖のおかげです。この封鎖もまた、矛盾に満ちています。

メディアは中央アメリカやメキシコから米国への膨大な数の移民を過小評価しながら、ベネズエラの移民問題は大げさに、そして逐一報道するのです。しかし、制裁や封鎖が、ベネズエラの現状の主要な原因となっていることには触れません。

世界中の世論は、多くがこれらのメディアからベネズエラについての情報を得るので、事実に対してバイアスのかかった見方が形成されてしまいます。


まとめ

1.アメリカ帝国主義
帝国主義者たちが、ベネズエラ干渉を強化し、ボリバル革命転覆の条件を作り出そうとしていることは明らかです。 彼らは選挙で選ばれたマドゥロ大統領の正統な政府を揺るがせ、「政権 交代」を狙っています。
2.無慈悲なキャンペーン
政府転覆の手段には、国際世論の前にベネズエラを否定する情報を流すメディア戦略が含まれています。それは帝国主義戦略を正当化するための、まことに無慈悲なキャンペーンでした 。 人道危機のもう一つのシナリオは、ベネズエラ人の近隣諸国への「大規模かつ永続的な移住」の情報宣伝でした。政府転覆の口実はこれによってさらに強化されています。
3.複合的な攻撃
ベネズエラに対する反政府攻撃は、干渉の仕組みが複合的であるという特徴を持っています。そこには政治的、外交的、メディア的、経済的な圧力が組み合わされています。そしてさらに 憂慮されるのは、そこに軍事的選択肢もふくまれつつあることです。
4.いのちの恐怖をともなう攻撃
軍事介入の脅しは、革命を「罰する」という一般的圧力だけにとどまりません。それに加えて、国民の間に生命と安全に関する不安をもたらします。
5.ワシントンは犠牲を恐れない
ワシントンにとって唯一受け入れられる解決策は、ニコラス・マドゥロの解任と「政権交代」しかありません。このオプションは内戦の危険や人的および経済的に大きな犠牲を伴うかもしれま せん。たとえそうであっても米政府の結論は変わりません。イラク、リビア、シリアでも同じ惨事のモデルが適用されました。おなじ悲劇が繰り返されました。そのことを私たちは知っています 。
6.野党強硬派は軍事解決派
ベネズエラの野党の強硬派は軍事的選択肢に固執しています。彼らはマドゥロ大統領が繰り返し述べた対話の呼びかけに応えず、選挙プロセスへの参加を拒否しました。
7.ベネズエラは政治的・思想的回転軸
帝国主義者がベネズエラを攻撃するのは、ベネズエラをアメリカ大陸の政治的・思想的回転軸として捉えているからです。「それは打ち倒すべきものだ -できるだけ速やかに」 なぜなら、彼らは「ベネズエラが新興国や多極共同体などが相互に結びつくためのブリッジとなる存在だ」と考えているからです。 一方トランプ政権は中南米支配の新しい青写真を描き、その中でモンロー・ドクトリンを甦らせ、その思想をベネズエラの紛争につなげようとしています。だからベネズエラは思想と思想の 衝突点となっているのです。
8.中南米右翼政権の“悲しい役割”
脚本家と俳優の間に危険な共鳴作用が起きています。それは右翼政権がこの地域で果たしている“悲しい役” に代表されます。かれらは米国の干渉行為を正当化し支持しようとしていま す。 その戦略はあのときと同じです。彼らは帝国主義に反対する国を政治的かつ経済的に封鎖するのを手助けします。その役割は、封鎖という卑劣な手段とその悲惨な結果をおおい隠し、国 際世論の非難から守ることです。 それはキューバに始まりました。それはチリに続きました。そしてそれはいまベネズエラに起こっているのです。
9.ベネズエラ革命は続く
ベネズエラ革命は帝国主義の攻撃強化と向き合い、社会的挑戦を続けます。「国民が主人公の民主主義」を完成させ、共同体を通じて社会運動の組織を拡大し、変革の道すじで一致した 政治勢力を統一する。そしてそのなかで人々の意識変革を目指します。それはフィデル・カストロが「思想の戦い」と呼んでいた運動です。
10.民族自決と諸国民の連帯
いまベネズエラでは、平和と民主主義、独立、諸民族の主権と自決をめざす戦いが進められています。戦いは決定的な段階を迎えています。 この戦いにおいて、諸国民の連帯は、ベネズエラとボリバル革命が覇権勢力に抵抗できる最強の手段です。いま必要なこと、それは私たちの間で努力を結び合わせることです。独立・主 権・自決の原則を守り、互いの団結を固めましょう。
11.チャベスは予測していた
最後に「我々の永遠の司令官」であるウーゴ・チャベスが私たちに残した言葉をお伝えしたいと思います。
"帝国主義が存在する限り、ずっとボリバル革命は危険にさらされ、脅かされ続けるだろう。なぜなら、もしそれが成功すれば, 帝国主義は溶け去ってしまうからだ"
最後に、みなさんのボリバル革命への一貫した連帯に感謝いたします。

ベネズエラが米国の中間選挙をどう見ているか。それを示す解説記事だ。著者はベネズエラ問題を専門とするジャーナリストという肩書きになっているが、ベネズエラ政府筋の人と見て間違いないだろう。

トランプの中南米いじめは中間選挙の政治戦術だ
by Paul Dobson  
Nov 4th 2018  venezuelanalysis  

1.ボルトンのマイアミでの発言
ジョン・ボルトン米国務次官補は、最近、キューバ、ニカラグア、ベネズエラに対する新たな制裁に関する発表を行った。
これは彼らを米国の敵国として描き出す試みに過ぎない
ボルトン氏は、マイケル・デイド・カレッジのフリーダム・タワーで語った。「ベネズエラ、キューバ、ニカラグアに対し、新たな制裁措置を開始する」と発表した。
そこには米国市民がベネズエラの地金との取引に参加することの禁止を含む。
ボルトンはマイアミの聴衆に語った。
ハバナからカラカス、マナグアに至るこの“暴虐の三角”は、人間の深刻な苦しみの原因であり、地域に巨大な不安定さを引き起こす原動力であり、西半球の共産主義の醜悪な発祥地である。
米国は、トランプ大統領のもとで、3つの政権に対して直接行動を起こしている。それは地域の公正、自由、基本的な人間の尊厳を守るためだ.
ボルトン議長の発言は、米国の中間選挙に向けての共和党の支援キャンペーンで、アメリカ人に恐怖を植え付けようとする“トランプ節”Trumpesqueのひとつである。

2.“暴虐の三角”
ボルトンが使用しているレトリックは、中間選挙の文脈で見ていかなければならない。
ボルトンはアメリカの人々に恐怖を抱かせるために“外部の敵”を描こうとしている。そのために“暴虐の三角”などのフレーズを使っている。
キューバに関する米国の政策は、これまで行われてきた金融制裁の継続に加え、ハバナの米国大使館からの外交官の撤去に焦点を当てている。米国がニカラグアにどのような計画を持っているかは今のところ不明だ。
ボルトン議長は30分間の演説でこう述べた。
ベネズエラが何百人もの政治犯を解放し、自由な選挙を認めない限り、米国は「腐敗したベネズエラ経済を支配するネットワークをターゲットにし、彼らが奪った富へのアクセスを拒否する。
3.米国のベネズエラ制裁は手詰まりになっている
ベネズエラに対する最近の動きは、具体的にはニコラ・マドゥロ大統領に対する動きである。それは9月に中米国家に課されたトランプ政権の制裁措置への追加措置である。
しかしそれはボルトンが信じるほど厳しいものではないし、ベネズエラ社会に大きな影響を与えるものでもない。
それは何らかの厳しい新制裁といったものではない。
もし厳しい新制裁というなら、それは石油禁輸措置とか旅行制限などになるはずだ。しかしそれらは明らかにされていない。
なぜか。それはアメリカの支配階級やビジネス界に本格的な石油輸出禁止令を受け入れる準備ができていないからだ。
アメリカ経済は依然として石油を始めとするベネズエラの産品に大きく依存している。
ボルトンが使用している言葉を見ると、制裁自体の実際の内容よりも、選挙運動で有権者に訴えようとしているようだ。

4.移民キャラバンをどう見るか
話は変わるが、貧困と暴力から逃れようとする移民キャラバンの問題がある。トランプ大統領は彼らを「侵略者」と呼んでいる。
このキャラバンはホンジュラスから米国とメキシコの国境へと移動している。留意すべきは、これらの大半は米国がこの地域に繰り返し介入した結果もたらされたことである。
木曜日にトランプは語った。
私たちは亡命制度の誤った乱用を終わらせる。そのための計画を確定する。
そして、移民キャラバンのメンバーによる暴力行為は軍事的に対応すると誓った。すなわち石が投げられれば銃で応えるということだ。
ボルトンの発言は、フロリダ州の選挙戦「戦場」でのものであり、トランプの反移民の立場に沿ったものだだということに留意する必要がある。
それは、すでにアメリカに拠点を置く移民に対して、さらなる人種的憎悪を煽る手段として働いている。

5.ラテンアメリカの民衆に対する“人種的憎しみ”
ホンジュラスの移民行進と、ニカラグア・ベネズエラ・キューバについての声明の間にははっきりとしたつながりがある。それは“人種的憎しみ”というつながりである。
これらの声明はボルトンとトランプがゲームを再評価し、新たな攻め口を準備していることを示唆する。
それは3つの政府、とりわけベネズエラを、病気や失業や医薬品の不足や、その他もろもろの口実で攻め立てようとするものだ。
そのことは、この間の選挙キャンペーンを通じて、明白な政治戦術として浮かび上がっている。

チャベス政府の経済・社会的成果
ベネズエラ経済の悪いところばかり取り上げられるが、チャベスが政権についたときのベネズエラの状況がどうだったのかを知ってもらいたい。プログラムの要旨に少し余裕があるというので書き込ませてもらった。
そして、チャベス政権の10年余りの間に、それらのパフォーマンスがいかに改善したかを知ってほしい。そのうえでここ数年間に途上国が負わされた経済的重荷をベネズエラも背負わざるを得なかったことに思いを致してほしい。
出所はすべて下記による
The Chávez Administration at 10 Years: The Economy and Social Indicators
February 2009
Center for Economic and Policy Research
ヨーロッパの中立的シンクタンクということである。

1 GDPは実質成長で2倍となった
現在の経済の拡大は、チャベス政権が2003年の第1四半期に国営石油会社の統制権を獲得したときに始まった 。それ以来、実質GDP(物価上昇補正後)はほぼ2倍となっている。すなわち5年余りで94.7パーセント、年間で13.5パーセント成長したことになる。
この経済成長を牽引したのは非石油セクターだった。また、民間部門は公共部門より速く成長した。

2 貧困率は半分以下に低下した
経済成長の成果は一般大衆にもたらされた。貧困率は54%から26%に、すなわち半分以下に低下した。極貧層の減少は72%に達し、さらに著明である。これらの貧困率は、医療や教育へのアクセスの増加は計算に入れられていない。
実質社会消費(Real social spending)は3倍以上に増加している。

3 失業率は低下し、社会格差も低下した
労働市場は著明に改善した。失業率は11%から8%に低下した。労働需要は拡大しており失業率は半分以下になっている。労働環境を示す他の指標でも相当の改善が示されている。
これに伴いジニ・インデックスも48%から41%に低下している。これは社会格差の著しい縮小を意味する。

4 教育・医療・社会福祉の改善
幼児死亡率はこの間に30%以上の減少を示している。特に医療へのアクセスの改善が特記される。公的機関におけるプライマリーケア医師は12倍に増えている。これまで医療を受けることのなかった何百万人もの民衆が医療を受けることが可能となった。これは多くのキューバ人医師の活躍によるものである。
社会保障の受益者の数は2倍以上になっている。
教育の分野でも顕著な前進があった。とくに高等教育の就学率は2倍以上になっている。

5 経済パフォーマンス
GDPが成長しているため、対外債務の対GDP比は半分以下となった。政府の対外累積債務も30%から14%まで低下した。
インフレ率は顕著に抑制されている。物価上昇率は31%で、10年前の水準に復帰した。これは一面では、世界的な通貨収縮の圧力によるものである。



「超インフレ」が非難されていますが、固定相場制でドルの流通が厳しく制限されていることを抑えて置かなければなりません。日本でもむかしは1ドル360円でした。今で言えば300%も割高でしたがそれで困ったことはありません。
為替相場といいますが、ドルの相場は本来存在しません。もしあるとすればそれはヤミ相場であり、IMFが為替価格のように語るのは失礼です。流通量が少なければ高値がつくのは当たり前。アムロの入場券に20万円のプレミアがついても市民生活とは無縁です。
大量の札束で買い物しているのは、高額紙幣を誰かが回収してしまったからです。これはデノミで解決します。通貨は一旦信用を回復すると狂気のように回り始めます。買い占めた人は相当被害を被っているでしょう。


札幌での講演会が4日後に迫りました。
もう一度、お知らせいたします。
当日は、エル・システマの少年交響楽団や、聴覚障害者による「白い手袋」のパフォーマンス、コロンえりか(大使夫人)さん、ベネズエラ音楽などのビデオ紹介も行います。
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Ⅰ.最近のベネズエラ

ここ2,3年のベネズエラ関連記事です。「もう一つのベネズエラ」の本体部分です。

A.2018年前半

2018年01月18日 ベネズエラ共産党の現状分析

2018年01月11日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ③

2018年01月10日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ②

2018年01月10日 2017年、ベネズエラ人民はどう闘ったのか ①

2018年01月05日 ベネズエラ記事の紹介

2018年01月05日  ベネズエラの「ある左翼」

B.2017年後半

①2017年12月25日 ベネズエラ:国連人権専門家の最新報告

②2017年12月25日 大統領選への道は開かれている。

③2017年12月25日 変動相場制が絶対ではない

④2017年12月24日 封鎖されつつあるベネズエラ

2017年12月24日 ベネズエラ ハイパーインフレの原因

2017年12月23日 ベネズエラ側の言い分

2017年12月23日 ベネズエラ経済分析はとりあえず保留 

2017年12月22日 ベネズエラのカトリック教会は恐ろしく下品

2017年12月21日 ニューズウィークのほうがまだマシ

2017年12月21日 ある進歩的な新聞の「反ベネズエラ」報道

C.2017年前半

2017年05月25日 ベネズエラ 野党の行動をどう見るか

2017年05月25日 ベネズエラ 野党の行動記録

2017年05月22日  ベネズエラ野党の大統領辞任要求に道理はない

2017年05月17日 カラカス情報 心得るべきこと

D.2014~2016年

2016年07月21日 ラテンアメリカ人民の闘い: この間の動向

2016年07月20日 ラテンアメリカの方向は人民の戦闘性により規定される

2016年07月23日 ベネズエラの政治危機

2015年12月18日 ベネズエラの選挙結果についての見解 

2015年12月17日 ベネズエラ国会選挙 第二報

2015年12月17日 ベネズエラ国会選挙 第一報

2015年02月04日 原油安 誰が敗者となるか

2014年12月26日 OPEC決定の画期性

2014年11月26日 ラテンアメリカ、最近の動き(2014) その2

2014年11月26日 ラテンアメリカ、最近の動き(2014) その1

2014年06月16日 ラテンアメリカ左翼政権一覧表


Ⅱ.チャベスのベネズエラ

1990年のカラカソ(首都カラカスでの暴動)から、チャベスのクーデター。98年のチャベス当選から、反チャベスのクーデター、ゼネストやリコール作戦の失敗、チャベス改革の開始までがふくまれます。

 

2013年03月12日 石油生産、いらぬ心配はご無用

2013年03月12日 WSJはチャベス革命の死を願う

2013年03月12日 チャベスの死と資本家の大はしゃぎ

2013年03月10日  チャベス革命の道筋 その3

2013年03月10日 チャベス革命の道筋 その2

2013年03月10日 チャベス革命の道筋 その1

2013年03月07日 チャベスに関する私の過去発言

2013年03月06日 チャベス、3つの功績

2013年02月22日 日本はマクロ指標が狂っている

2012年10月06日 ベネズエラ 最終盤の状況

2012年08月18日 チャベス政権の十年: 経済・社会指標の検討

2012年08月15日 ベネズエラ 世論調査の動向

2012年08月13日 赤旗「ベネズエラはいま」を読む

2012年08月13日 チャベスの対抗馬ラドンスキー

2012年08月12日 エコノミストはベネズエラを評価している

2012年08月11日 赤旗の「ベネズエラ特集」について

2012年05月25日 「これが世界だ」2012年版 その6 ラテンアメリカ: リーマンショックからの回復

2011年09月26日 南米を変えたこの十年 その5

2011年09月26日 南米を変えたこの十年 その4

2011年09月23日 ベネズエラ もう少し考えた

2011年09月22日 ベネズエラ経済: 立ち止まって考えた

2011年09月22日  ベネズエラ経済を、ふと考える

2011年05月11日 アメリカとベネズエラ、国民が感じる「幸福感」

10月14日、バイエルン州議会選挙が行われた。
この選挙ではキリスト教社会同盟(CSU)が歴史的大敗を喫した。前回47.7%から37.2%に急落。難民を嫌うCSUの支持層がAfDに流れた。
CSUは難民への強硬姿勢を強調したが、逆に穏健派支持層の離反と緑の党の躍進(前回の2倍以上)を招いた。CSUはもはやシュトラウスの時代のCSUではない。CDUのバイエルン支部でしかないのだ。非CDU色を打ち出したことでそのことを思い知らされることになった。
緑の党は気候変動対策、男女平等、国境管理の削減などを訴えた。要するに、何も言わないことで躍進した。しかしそれとともに本来の存在意義は失われた。
社民党の得票率も9.7%と前回から半減した。
AfDは10.2%となり、初めて議席を獲得した。

続いて10月29日 、ヘッセン州の議会選挙があった。ヘッセン州は金融街として有名なフランクフルトなど大都市を抱える産業州である。ここでもキリスト教民主同盟(CDU)と、連立与党の社会民主党(SPD)が共に大敗した。
SPDは、ヘッセン州の得票率が第2次世界大戦後最悪となったことを受け、連立離脱の可能性をほのめかした。その結果はさらに惨めなものになった。
得票率
    2018年 2013年  変化
CDU 27.2% 38.3% -11.1%
SPD 19.8% 30.7% -10.9%
緑の党 19.6% 11.1% + 8.5%
AfD 13.2% 4.1% + 9.1%
FDP 7.7% 5.0% + 2.7%
左派党 6.1% 5.2% + 0.9%
AfDは、今回の結果を受けて16州すべての議会でも議席を確保した。


選挙の結果を受けてメルケルはCDU党首を辞任すると発表した。首相職は任期いっぱい続けるとしている。
それでメルケル時代は終わるのだろうか。
大方の予想はそうなっている。しかし私にはそう思えないのである。

メルケルのやったのはものすごいことであった。その難民100万人受け入れはすさまじい決断だ。彼女以外の誰にもできなかったろう。
これだけのことをすれば社会の混乱は必至だし、みずからの身にも火の粉が降りかかる。それを百も承知で、やったのだろう。
事実そのとおりになった。しかし彼女の読みでは、バイエルン、ヘッセンでそろそろ出尽くす可能性もあると見ているのではないか。そうすれば中道回帰の可能性は充分ある。メルケルに目立った失政はないこと、メルケルなしにEUの統合が持続できるかという不安がある。
とくに左側にその不安が強い。緑の党に行った人々は雨宿りして、雨が上がればまた戻るのではないか。
右はイギリスのブレグジット派と同じで、どうせいずれはしぼんでいくだろう。
そうなった後、左翼に誰が残るのか。社会民主党か、緑の党か、それとも左翼党かということになる。


今のところはっきりしたことは言えない。しかしホンジュラス難民の情報は気がかりである。
あまりにもタイミングがどんぴしゃりだ。
それに取り立てて今、ホンジュラスが人道的危機にあるとは言えない。厳密な意味での“難民”は存在していないとおもう。

honduran-caravan
第一、こんな難民行列ありえない。こんな集団を米国が受け入れるわけがない。その前に、そもそもメキシコが国境を開放するなどというのも信じがたい。
トランプであろうとなかろうと、だれもこのような行動を支持するわけがない。これを信じてしまうメディアの素直さが信じられない。
メディアではニカラグアやベネズエラの人道危機を書き立てるが、ホンジュラスはそのような「反米」国家ではなく、紛れもない親米反共(…にさせられた)国家だ。なのに、このことにメディアが口を噤んでいるのも頷けない。

以下の動画はMatt Gaetz下院議員の10月17日付の投稿によるものだ。なんと221万回も再生されている。(これはYouTubeでも閲覧できます)
‏この議員が実在かどうかも知らないし、動画そのものの真偽も不明だ。(調べました。この人はフロリダ1区選出の下院議員です。共和党員で、"one of the most pro-gun members“ だそうです
gaetz
gun
Gaetz議員は、民主党系有力者のヤラセだと主張している。しかし状況は「むしろ彼のお仲間ではないか」と思わせる。推理小説ではないが「この報道の最大の受益者は誰か」ということだ。
左翼系のNPOという報道もあるが、ベルトにピストル刺してカネ配りする左翼はあまり見たことはない。
いくつかの人権団体がこのニュースに肯定的なコメントをしているのも気になる(たとえば国連難民高等弁務官事務所)
ただ紹介しておく価値はあると考える。メディアが現地謀略組織をふくめて、ことの真偽を明らかにしてくれることを(かすかに)期待する。

我々にとって、いちばん大事なポイントは、彼らはいつでも好きなところに難民の大群を作り上げることができるということだ。同じやり方で、ピストルとドルの札束で、“ベネズエラの人道危機”も作り上げることができるのだ。

実はドイツ左翼党の政策等はなかなかネットでは利用できません。
とりあえず多少お役に立つかと思い、我々が党本部を訪問したときの担当者のブリーフィングを紹介します。
wegner
    左翼党国際政策部のWegnerさんがレクチャーしてくれました
なにぶんにも、パワーポイントからの写しですので不十分とは思いますが、何かの参考になればと思います。

戦前のドイツ共産党(DKP)からの伝統

みなさんがお出でいただいたこの会館は「カール・リープクネヒトの家」といいます。スパルタクスの反乱で殺された党の指導者カール・リープクネヒトの名をとったものです。戦前からありますが1933年にナチスが政権をとった後、襲撃を受け奪取されました。
これはその前の建物の写真です。
DKP
   SEPTEMBER 14, 1930. PHOTO COURTESY OF THE BUNDESARCHIV

ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが合併した時から、この建物は民主社会主義党(PDS)の所有物となりました。

PDSから左翼党へ
その後、PDSは左翼党PDSと名を変え、2007年にはWASGと合併し左翼党となりましたが、その左翼党のセンターとなっています。

党の影響力の指標として連邦議会選挙での得票率を見ていきます。連邦議会選挙はオリンピックと同じように4年に1回行われ、これまで任期途中での解散はありません。

まずPDS時代ですが、
1990年 2.4%
1994年 4.4%
1998年 5.1%
2002年 4.0%
となっています。ドイツでは5%未満の得票率では議席が与えられないので、2002年には議席を失っています。

このときに私達は大変な危機感を持ちました。このままではドイツの左翼の声を代表する組織はなくなってしまう。
なんとかして西側の組織と連合して5%条項をクリアしなくてはならない。

そこで2005年の連邦議会選挙では、旧西独で作られたWASGと連合することにしたのです。もしこの連合が成立できなかったら、そのまま消えていたかもしれません。

お互いにとって大変難しい選択でした。しかしPDSは大胆に妥協し、WASGはそれを信頼しました。もしそうしなければWASGもそのまま消えていたかもしれません。

こうしてPDSとWASGが選挙協力した最初の連邦議会選挙が闘われました。その選挙ではなんと2倍以上の得票を獲得することができました。

1+1が2ではなく3にも4にもなることが証明されたのです。

それはもはや後戻りすることができないコースでした。この選挙の後、2つの党は単一の党への移行を決定します。これが左翼党、略称リンケです。

先程の表の続きになります。
2005年 8.7%
2009年 11.9%
2013年 8.6%
2017年 9.2%
と、しっかりした基盤をドイツ全土に確立していくことになります。

政党連合から統一政党へ

この中で2013年に一旦得票率を減らしているのがわかります。これは主として旧WASG側の事情によるものです。

WASGはもともと社会民主党の左派が別れて作った組織なので、さまざまな思想潮流がふくまれていました。なかには、旧PDSに対する不信感をあからさまに吹聴しながら、票だけはいただこうというずるい人もいました。
そういう人たちが、さまざまな党内セクトを作って主導権争いをしたのです。

それが世間の不信を買って党勢が後退した時、旧PDSの人は厳しく批判しました。その後、さまざまな意見がかわされても、行動は一致させていこうという動きが強まり、分裂は実践的に克服されつつあります。

リンケ、活動と組織の現況

リンケは62,300人の党員を擁しています。これは昨年12月現在のものです。
これらの党員を組織するために16の州委員会と344の地方委員会が活動しています。
その下に地区委員会と草の根組織が活動しています。
これが基礎組織ですが、この他に青年組織と学生同盟があります。青年同盟には1万人が加盟し、学生同盟は51の大学に組織されています。
左翼党と連携する組織は24団体あります。教育、環境、反ファシズム、地方政治、貧困者、老人、平和運動などです。

党は意識的に女性を重用しています。議員の男女比は欧州議会、連邦議会、州議会のいずれにおいても女性が上回っています。

議員の内訳

欧州議会には欧州左翼という党派があります。これは2004年にローマで結成されたもので、最初は15の政党で構成されていました。
現在では欧州左翼はオブザーバーをふくめて39の政党を結集しています。議員団長はドイツ左翼党のグレゴール・ギジが務めています

左翼党の政策

左翼党の政策の基礎は「社会的正義」の実現にあります。
社会経済的要求としては
最低賃金を12ユーロに
課税最低限制度の導入
連帯を基礎とする国民皆保険制度。
最低年金を1050ユーロに、退職年齢67歳の撤回
万人に対する教育機会の均等。幼稚園から大学まですべての学費の無料化。
高度累進課税と高所得者に対する資産税の導入
などを主要政策として掲げています。
平和については次の要求を掲げています。
すべての紛争の軍事的解決反対。
全欧州レベルでの武器輸出の禁止
核兵器廃絶
生物化学兵器の廃棄
民主主義と公民権に関する要求としては
差別のない寛容な社会
全国レベルでの国民投票権
16歳以上に投票権を
国民監視の制限
公的機関の情報へのアクセス権
顧客保護情報への自由なアクセス
難民問題への基本的態度
難民を歓迎する。
人種主義に反対する。
具体的な政策も書かれているが、かなり難解で専門的なため省略します。

以下は追加情報です。

2017年の連邦議会選挙は、メルケル首相による難民受け入れの決定をめぐり、その是非が問われた。

CDU・CSUは、得票率を8.6%減らしたが、32.9%と第一党を維持した。
SPDは、戦後最低の20.5%となり、5.2%減らした。
AfDが、前回より7.9%増やし12.6%を獲得した。初めて5%条項を上回り、一挙に第三党になった。
緑の党・左翼党は第三党になれなかったが、得票を微増させ健闘した。ただし旧東独部を中心に40万票程度が左翼党からAfDに流れたとみられる。

AfDは、「ドイツのための勇気」をスローガンとし、移民規制と厳密な国境管理を訴えた。またEU離脱を念頭にドイツマルクの再導入を主張した。
難民への反感が噴出したことを契機とするイシュー政党と見られる。

その後もCDUとSPDの退潮は続き、今年8月の世論調査で、CDUはついに3割を割った。SPDは18%、AfDは17%で第2党に迫る勢いである。ついで緑の党15%、左翼党は9%の順となる。




演題 「サンダース・コービンのめざす社会主義」

はじめに
今サンダース議員の唱える「民主的社会主義」が話題になっている。
サンダースの「社会主義」は「社会第一主義」である。「個人第一主義」はやめようということだ。
むかし「健全なる心は健全なる身体に宿る」と言われたが、本当はこう言うべきであろう。
健全なる心は健全なる社会に宿る
この「健全なる社会」を築き上げることを政治の第一目標にしようというのが社会主義である。

格差社会と対決する社会主義
世の中、人の能力や仕事の性質で収入が異なってもおかしくはない。しかし1%の人が99%の富を独占するのは、能力社会ではなく格差社会だ。99%の人がそれなりに暮らしていればいいが、貧困がもたらすさまざまな問題に苦しんでいるのであれば、それは間違った不正な社会だ。
それを治すことから始めようという運動が社会主義だ。

格差社会がもたらしたトランプ現象
世の中は景気が悪くなるとギスギスしてくる。利己的になって、些細なことで喧嘩を始める。それが集団化すると「いじめ」も出現する。トランプ現象はそれが原因だ。ただしトランプは大金持ちであり、貧しい人の心の歪みを利用しているだけだ。
トランプ現象にはもう一つの側面がある。貧しいがまともな人達は、「みんながまとまって格差社会に立ち向かわなければならない」と思うようになる。富裕層は、その人たちの声が大きくならないように、貧しい人の心の歪みを増幅するのだ。そしてこう叫ばせる「社会主義者は出てゆけ!」

格差社会と戦い続けたサンダース
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63年にシカゴ南部の黒人地区で公民権を要求して座り込み、警官に排除される髪ふさふさのバーニー

彼はルーズベルトの崇拝者だ。ルーズベルトが勤労者・中間層を擁護し、大企業と対決したことに共感している。いわば「遅れてきたニューディーラー」だ

サンダース派を支える若者たち
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 私は裕福な家庭ではなく、自宅の郵便番号で運命が決まるような場所に生まれた

28歳のヒスパニック系女性で、タコスの屋台の売り子をしていた。その彼女が民主党のニューヨーク選出下院議員の候補になった。
こんな話が沢山飛び交っている。サンダースブームがふたたびやってきたのだ。
追加: その後マサチューセッツ州でもカシオ・コルテスと同じ傾向の若い黒人女性アヤンナ・プレスリーさんが民主党の予備選に勝利しました。この選挙区では共和党が立候補していないので。自動的に下院議員に当選です。

そんなこと威張っても仕方ないが、習近平が詫びを入れた。私の言った通りになった。
経済通や中国通はみな不思議がっているが、そんなこと当たり前だろう。読めなかったアンタ方の程度が低いということだ。
だいたい、赤旗から日経まで、みんな中国を買いかぶりすぎている。



貿易は決済を以って完了する。決済は決済通貨なしに不可能である。中国が貿易を盛んに行えば行うほどドルの縛りを強く受けることになる。中国がドルという外貨をいくらたくさん持っていようと、それはドル決済システムを補強するだけの話でしかない。
これまで常に、中国の最大の弱点は通貨で、この弱点はまったく克服できていない。それどころかますますドルの罠に絡みとられているように見える。
かつて日本はプラザ合意でドルで累積した外貨を半分に減価された。さらに不均衡の是正ということでいいようにむしられた。ドルを決済通貨にするというのはそういうことだ。
中国にとって最後の手段は、ドル建て債務を踏み倒すかどうかだ。それはありうると見ている。ただしそれは日本とEUをふくめ、世界中で一斉に踏み倒すことができるかどうかにかかっている。その旗振りができるのは中国以外にないだろう。


情勢分析をするときに、つねに念頭に置かなければならないのは、リーマンショック以来の10年間で何が変わったのだろうか、それが政治の世界にどう反映されていくのかという視点であろう。
私はこの10年の力関係の変化を決めたのは、大量の通貨・ドルであろうと思っている。
QE、QE2、QE3という三次にわたる量的緩和策が世界のあり方を変えてしまった。
世界は身の丈に余るぜい肉をつけてしまった。ベッドから動けなくなってしまった超肥満者の状態にある。きわめて不健康な状態であり生命にも関わる。
量的緩和は窮余の策として必要であったに違いない。重病人に点滴をするのと同じである。治ったらやめればよい。しかしやめられなくなったら、どうなるのか。そのことは誰にもわからない。
とにかくそうなってしまっている体にいきなり根治療法をしても、体力が持たないから、できるところから少しづつ手を付けていく以外にはない。
何れにしても世界の通貨の99%を握る1%の人々に、これ以上金が回らないようにすることが一番肝心なことである。米中経済摩擦もその観点から見ていかなければならない。








米国・欧州における進歩派の前進 その2 ヨーロッパ

A) イギリス 「コービン現象」の現在
ブレグジット(EU離脱:ブリテン+エグジット)の着地点は見えない。なぜならそれは英国政治の真の焦点ではないからだ。
問題は長い間に蓄積されてきた社会的危機と、それを進めてきた保守党の政治に対する民衆の拒絶感である。ブレグジットはそれを逸らすための偽りの争点だ。

8年間の保守党政治のもたらしたもの
医療サービス(NHS)や各種行政サービスの切り詰め。公務部門労働者への厳しい賃金抑制。
これらが経済成長を急落へと押しやり、税収を急速に低落させる悪循環を招いた。

これらはミレニアル世代で特に深刻だ。公的住宅が不足し住居費は収入の50%に及んでいる。賃金と労働条件は低劣で、しかもそれらについての保証もない。
交通費、光熱費、娯楽費も高い。その結果多くの若者がローン漬け、カード漬けになっている。

社会的不公平の象徴となったのが、17年7月のグレンフェルタワー火災だ。この火災で70人以上が犠牲となったがその多くは低賃金の移民労働者だった。燃え上がる新建材の炎は、この国の貧困者への態度をあからさまに示すものだった。
musurimタワー住人
        住民の多くはムスリムだった

民衆の心をつかんだ生活改善の訴え
保守党政権はNHSの設備を売り払い、民営化を推進している。
NHSの民営化をやめる。保守党のやりかたにノーといおう。必要に応じて税金を適切に支出する。

政府のケチで、多くの命が犠牲になり、健康の不平等が拡大している。
富裕層が貧困層より26年も長生きしてるなんて受け入れられないよ。
我々は皆の医療、教育、住宅にきちんとお金が使われる社会に住みたい。
英国では123,000人の子供たちに家がない。保守党政権になって路上生活者が2倍以上になった。
10万戸の公的住宅を建設しよう、誰もが自分の住まいを持てるようにしよう。
最低賃金£10を実現する。従業員を正規の労働契約にする。
コービン演説
    ロイターより

17年6月選挙とその後の動き
保守党強化の予想は覆された。自由民主党は議席を激減させ、極右の英国独立党は唯一の議席を失った。
若者たちは、労働党史上もっとも左派の指導者、ジェレミー・コービンの下に結集した。23歳以下の青年の3分の2が労働党に投票した。
労働党の党員数は、ブレア時代の12万から60万以上に跳ね上がり、西欧最大の政党となった。
コービン派の中核組織「モメンタム」グループの組織員も10万を越える。
一方、保守・右翼の反撃も強まりつつある。
ロイター通信は論説で、右のトランプ、極左のコービンを2つの「おろか者政治」(ポピュリズム)と呼びその危険性を訴えてる。

今後、ブレグジットが暗礁に乗り上げた時どうするか。コービンは今年2月「EU離脱・関税同盟維持」の方針を出した。事実上は残留に近い。これで合意が形成されれば、保守党政権は吹っ飛ぶ。その先に「皆の医療、教育、住宅にきちんとお金が使われる社会」というもう一つの社会が作られる展望が開けている。

B) ドイツ左翼党の前進
長くなるので次のページへ

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