鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年10月

米国・欧州における進歩派の前進

4日の日曜日に全道教研集会でしゃべるのに大急ぎで書いています。

A. アメリカ:「民主的社会主義」が前進しつつある

いま米国ではトランプの暴政に対する反撃が強まりつつあります。おそらく1週間後に控えたいわゆる中間選挙で、明確な結果が出るでしょう。

この「中間選挙」というのは、その影響力から見て「中間」などというレベルではありません。上院議席の3分の1、下院の全議席、知事、州議会などが対象となっています。日本で言えば衆議院選挙と参議院選挙と一斉地方選を一度にやってしまうようなものです。日本ではこんなメガ選挙はありません。

いまのところ、各種世論調査を平均すると民主党48・8%、共和党40・5%となり、民主党圧勝の可能性があるようです。

ただし、そこで話題になるのはトランプがどのくらい目減りするか、選挙後にトランプの政策は変化するかどうか、というあたりに集中しています。ほんとうは世界史的に見れば、米国の中で真のリベラル進歩勢力がどれだけ前進するかが最大の焦点です。

ということを念頭に置きながら、とりあえずはサンダース派と呼んでおきます。サンダース派は中間選挙で、国民皆保険・銃規制・最賃引き上げを前面に据えており、これが有権者の支持を集めています。

7月に行われたある調査では、「革新」派と呼ばれる81人が、民主党内の各級予備選で勝利しています。これは3ヶ月前前の31人から急増しています。米国内の予備選では130人の青年・女性候補者が勝利しました。そのうち100人以上が民主党の候補者でした。

ギャラップ社の世論調査では、民主党員のうち57%が社会主義に「肯定的」な印象を持っていると回答しています。資本主義について同じ質問をしたところ、47%にとどまりました。このような結果は調査を始めて以来の10年間で初めてのことです。サンダースはこれを受けて、「社会主義は多くの米国人の支持を集め主流になった」と述べています。

このような情勢の変化の中で、サンダース派にとって最大の勝負となるのがフロリダ州知事選です。予備選を勝ち抜いて民主党の知事候補となったアンドリュー・ギラムは、タラハシーの市長を務める39歳の黒人青年です。非白人層の青年、女性が熱い支持を寄せています。もし勝利すればフロリダの史上初となる黒人知事ということになります。
ギラム
       フロリダ大学構内で演説するギラム候補

B. 民主的社会主義の背景

我々はサンダース派と呼んでいますが、実はそういう人的なつながりというレベルではなく、すでに一つの政治集団が形成されています。「アメリカ民主主義的社会主義者」(DSA)といいます。それは目下のところ民主党の中の派閥を形成していますが、いずれ独自性の高い政治結社へと発展していく可能性を持っています。

オカシオ・コルテスはDSAについてこう語っています。
「モラルある豊かな現代社会において、すべての人が十分に教育を受け、医療の機会や住居を得られること。基本的な経済的社会的尊厳を受けるべきこと、これらを主張する組織はDSA以外にない」
C. 社会主義を志向する労働運動
DSAは青年の自主的組織ですが、さらに米国労働運動の伝統に根ざしたしっかりした組織がその背景にあります。それが社会運動的労働運動(Social Movement Unionism:SMU)という運動です。
これは組織というよりはAFL-CIOがうちだしたキャンペーンですが、明確に社会主義を志向したものです。SMUは、労働組合の目的を組織維持でなく「社会正義の実現」とそのための組織の拡大におきます。
そのため、組織化の対象を従来顧みられなかった女性、マイノリティ、低賃金労働者などに拡大し、企業だけでなく、NGO、地域コミュニティ、宗教コミュニティとの連帯を重視しています。
具体的な取り組みとしては、ビル清掃労働者の組織化、訪問介護ヘルパーの組織化、ホテル・レストラン従業員の組織化、ファストフード労働者の最低賃金獲得要求などの運動などです。
こうした運動が、いざというとき労働者の闘争を支えてくれるのです。
SMUのたたかいの中で、最低賃金要求のたたかいは最も知られたものです。過大な生活負担に苦しむ労働者・国民の切実な要求として多くの支持を得て大きく前進しています。
アメリカの労働者の運動は、そのまま貧困者の運動でもあります。労働運動を担っているのはかつてのような華やかな大工場労働者ではありません。公立学校の教師、公的病院の看護師、消防士、バス運転士など一言で言って貧困者の中のエリートです。自らも厳しい生活に喘ぎながら、もっと苦しくもっと差別されている人たちに、サービスを提供する仕事をしています。
アメリカの労働者の生活は本当に厳しい。都会のアパートの家賃は1LDKで35万円です。さらに過大な医療保険代・医療費はよく知られています。
彼らが「社会正義が最優先される社会」すなわち「社会主義」の社会を志向するのは当然でしょう。


ベネズエラの前国連大使が政府批判を始めたそうだ。
赤旗で大々的に取り上げている。
思い出すのは1984年のニカラグア、私がニカラグアを訪問していた間に、ニカラグアの国連大使クルースが辞任した。
その男はニカラグア革命が成功したときに、3人の最高指導者の一人だった。
彼は大使をやめて政府批判をはじめた。そしてレーガンが作った反革命ゲリラ「コントラ」の政治代表となった。
コントラが10年の内戦の間に7万人の国民を殺し、経済を荒廃させたのは記憶に新しい。あのときのニカラグアも5千%の超インフレだった。しかし多くの国民はそれでもサンディニスタを支持した。
だから20年後に、サンディニスタは選挙を通じて、平和的に政権を取り戻したのだ。

ところで、最近もテレビに筆坂という人物が出演してデマを撒き散らしているようだが、ベネズエラの新聞が彼の言い分を報道したら、礼儀上はあまりいい気分ではないだろう。

人間社会の3つの指標

人間社会が健康的であるかどうかを評価する上で、3つの指標があると思う。
ひとつは豊かであることだ。ひとつは民主的であることだ。そしてもう一つは知的であるということだ。
この3番目の知的であることをめぐって、最近さまざまな議論がある。
いうまでもなく、世界の最高指導者の地位に反知性の代表みたいな人が居座っているからだ。
しかもその人物が、この上なく民主的と言われるプロセスを経てそのポストを獲得した。
これは衆愚政治の悪しき典型だろうか。それとも民主主義の過渡的形態なのか。

社会の知的指標としてのリテラシー

社会が知的であるかどうかを判断するスケールとして、リテラシーという言葉がよく使われる。大変使い勝手の良い言葉であるが、よくわからない言葉でもある。

もともとは識字率の意味であり、文盲率の逆数になる。ぶっちゃけた話、非文盲率と言うだけのことだ。多分文盲というのが、差別的なので使わなくなったのだろう。

一種の和製英語としてのリテラシー

もともとは識字率の意味である「リテラシー」であるが、最近の日本では識字率とは別の意味で使われている。

ウィキペディアでは以下のようなリテラシーが列挙されている。

メディア・リテラシー(Media literacy)
コンピューター・リテラシー
情報リテラシー(Information literacy)
視覚リテラシー
ヘルス・リテラシー(Health literacy)
精神リテラシー
金融リテラシー
科学リテラシー
マルチメディア・リテラシー
統計リテラシー
人種リテラシー
文化リテラシー
環境リテラシー

そのほとんどは勢いで作った言葉だろうし、相手を煙に巻くのが目的というのもある。

一体に具体的な単語を雲をつかむような抽象名詞に訳すのは日本人の悪い癖である。(技術とか健康とか医療とか…)

識字率というのは、別名がアルファベチゼーションというくらいで、もともと文字が読める程度までの知識を指す。さほどのものではない。

ただだいじなのは、これが個人的評価ではなく、一つの地域・社会に対する相対評価だということである。

そういう意味では、環境リテラシーなどと抽象的にいうのではなく、「環境に関してイリテレートな社会」とか「リテレートされた社会」と言うような表現をすべきだろうと思う。

社会をリテレートすること

最初に戻るが、民主主義は知性と反しない。別のものである。

もうひとつ無知はなくさなければならない。知性は育てなければならない。無知は無策の結果であり、知性を育てる努力の放棄の結果である。

知性が育てば民主主義は、その分揺るぎないものになる。ただしいかなる場合も立憲主義の精神は死守すべきだ。

これらは当たり前のことである。しかし中には無知な人々をだいじにして、無知なままにとどめておこうとする人がいる。

ラテンアメリカでは親米の国ほど文盲率が高く、自決派の国ほど識字率が高い。ベネズエラも識字率が上がったので、米国は下げたいのであろう。

1.はじめに
このたび私はユーラス・ツァーズ社が企画したヨーロッパ旅行「ファシズム・スターリン主義と闘った歴史を訪ねる旅」に参加しました。
かんたんにご報告申し上げたいと思います。
いろいろ考えたのですが、旅の概要について写真も交えながらご説明します。後半はとくにドイツ左翼党の紹介に当てたいと思います(これは多分次回になると思います)。
本日の新聞で、ドイツの経済的心臓部である南西部州の選挙で、二大政党であるキリスト教民主同盟と社会民主党が歴史的な大敗を喫し、メルケル首相が辞意を表明したという報道がありました。
これに関してもいささか感じるところはありますが、後日情報を収集してからということにします。

2.ツァーの概要
旅のテーマがかなり異色ですが団塊の世代を中心に23人が参加する大旅行団となりました。
長年、赤旗のモスクワ特派員として勤務された聽濤弘さんが同行・解説してくれるということで、いわば「ジジイの修学旅行」という雰囲気です。
参加者の中には大学の経済学の名誉教授、赤旗の元ワシントン特派員、岩波書店の元編集部員なども参加する顔ぶれとなりました。
訪問先はベルリン、プラハ、ウィーンにそれぞれ2日間でかなりタイトな旅行となりました。
A)ベルリン
ベルリンでは左翼党国際部の方の講演がメイン。ほかにポツダム会議の舞台となった宮殿、ユダヤ人抹殺計画が確定されたヴァンゼー会議の記念館がテーマの訪問先でした。
あいまにサンスーシ宮殿、ペルガモン博物館が入りましたが、こちらは観光です。
ほかに市内めぐりとしてテロのトポグラフィー、ホロコースト記念碑などを回りました。
写真は旧西ベルリン北西部ジーメンス街のSバーンの廃線跡です。冷戦時代の遺物のひとつです。詳しくは東西ベルリン年表をご覧ください。
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B)プラハ
次に向かったのがプラハです。実はモスクワまでの飛行機で隣りに座った方が、プラハ観光のツァーに参加するのだと言っていました。なんと9日間、ひたすらプラハを観光するのだそうです。
それだけプラハが魅力的な町なのだということでしょうが、それにしてもマニアックな旅ですね。
ここでは大きな目的が2つ。ひとつはチェコ共産党の人と懇談すること、もう一つはリディツェ村を訪問することでした。
チェコ共産党の方は大変誠実な印象で、チェコ事件のことを語るときはうっすらと涙を浮かべていました。彼はその頃はまだ小さくて抗議運動に関わったわけではなかったのですが、十数年後にポーランドで「連帯」の民主化運動が起きると、今度はワルシャワ条約軍の一兵士として、ポーランド国境まで迫ったそうです。
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大国に翻弄される小国の悲哀を感ぜずにはいられませんでした。
リディツェ村については、ここでは書ききれないので、私のブログを見てください。検索窓にリディツェと入れると見ることができます。
一言で言うと「チェコ版平頂山」ということになりますが、子どもたちの群像の塑像があまりに見事で、しばし立ち竦むほどでした。
街はきれい、物価は安い、ビールはうまいということで、どなたにもお勧めの街です。ただ物価が安いということは賃金も安いということです。そこは覚えておいたほうが良いでしょう。
お土産にミューシャの絵のチョコレートを買いました。
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C) ウィーン
ウィーンの最大の誤算は社会民主党の関係者と会えなかったことでした。
なにか手違いがあったようです。結局、そのおかげで残りのスケジュールもきわめてタイトとなり、あまり何を見たという記憶がありません。
ベートーベンが暮らしたというハイリゲンシュタットの小径をぞろぞろと歩いて、ウィーンの森というのが藻岩山みたいなものだということが分かったりしました。
ホテルの近くのシェーンブルン宮殿に行ったのですが、すごいなという以上の感想はありません。
ただ翌日、地図を見ながら散歩して、ホテルから1キロくらいなのだということがわかりました。
もうひとつ、その道すがらにスターリンが住んだ家というのを見つけました。
ウィキペディアのスターリンの項目にはスターリンがウィーンにいたということは書いてありません。しかし各種記録から見ると間違いありません。
ひょっとしてウィーン旅行の目的が、レーニンの命令でトロツキーと会うことだったので、それを隠したかったのかもしれません。
こちらも、詳しくはブログに載せましたので、そちらをご参照ください。

ベルリンでの戦闘については、ずいぶんたくさんの記事が掲載されているが、ご多分に漏れずコピペのコピペがほとんど。情報としてはこれくらいでいいんじゃないかと思う。
ベルリン戦記のほとんどは、民衆にとって最大の責任者であるナチスの狂気が書き込まれていず、進駐してきたソ連軍の横暴だけが非難されていることが目につく。
肝心なことは、日本が本土決戦に突き進んでいたらどうなっていたか、という資料として読むことだろう。何よりも沖縄がその教材なのだが…

市街戦の前史としてのベルリン爆撃
43年からの空襲と市街戦により、全市の建物150万戸のうち60万個以上が全壊。非戦闘員の死亡は総計7万8千にのぼったが、うち5万人は空襲によるものだった。

1943年秋 ベルリン動物園が爆撃される。
「私たちは肉を飽食した。特に味が良かったのはワニの尻尾だった。死んだ鹿、水牛は数百回分の食事になった。熊ハムと熊ソーセージはとりわけ美味だった」
44年3月 米軍の参加する最初の大規模なベルリン空襲。B17、B24の730機が、大ベルリン地区に爆弾を投下する。その後の1年で、ベルリンは150回以上の爆撃を受ける。
Bombingvictims1944
     体育館に収容された空襲犠牲者
11月 16歳から60歳までの男性市民から成る「国民突撃隊」Volkssturmが結成される。
ベルリン防衛のかなりは国民突撃隊に委ねられた。これは本土防衛に備えて創設された軍事組織で「普通の市民」が担っていた。ある意味、ナチスにお付き合いして集団自決を迫られたことになる。
m_Volkssturm

ベルリン包囲の完了
4月16日 ゼーロウ高地の戦いが終了。オーデル川に敷かれた東部戦線最終線は崩壊し、ベルリンが裸で残される。ソ連軍は2月初めにはオーデル川まで到達していたが、ベルリン進撃は2ヶ月にわたり遅らされた。
Berlin,_Volkssturm_mit_Panzerabwehrwaffe
  対戦車砲(Panzerabwehrwaffe)を背負って待ち伏せる国民突撃隊の市民

4月20日 ソ連軍が郊外のヴァイセンゼーを確保。ベルリン市中央部に砲撃を開始。

4月23日、ソビエト軍がベルリン市の境界に進入。Sバーンの環状線へ火力を集中。

4月24日 第LVI装甲軍団司令官ヴァイトリング、ベルリン防衛軍の司令官に任命される。

4月27日 ドイツ軍は、東西25キロ、南北に3キロの地帯に閉じ込められる。ヴァイトリングは戦況をヒトラーに報告し、脱出計画を提案するが拒否される。
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4月28日 カイテル国防軍最高司令部総長、ベルリン救援を断念。

4月29日 親衛隊のヒムラー長官が連合国に降伏を申し出る。

4月29日 ソ連軍、モルトケ橋でシュプレー川を渡り、ドア・ツー・ドアで都心部に進む。
ナチス党員は降伏すれば即決裁判で処刑されると確信していた。このため全てを道連れにしようと覚悟を決めていた。
4月30日 都心部で最後の決戦

14時30分 ブランデンブルク門に赤旗が立つ。戦闘は旧国会議事堂に絞られる。決死のSS残兵1万と白兵戦になる。

15時20分 ヒットラー夫妻が自殺。ゲッペルスが首相となる。南部軍のデーニッツが大統領となる。

22時30分 旧国会議事堂の屋上に赤旗が立つ。
ライヒスターグの赤旗
5月1日 ゲッペルス、無条件降伏を要求されるもこれを拒否し、妻と子供6人を道連れに自殺。
ゲッペルスは小男で精力絶倫。ベルリンの女性で彼の手にかからなかったのは勝利の女神だけであった。なぜなら小男の彼には手が届かなかったからである。
5月1日21時25分 ヒトラーの死がラジオで報道される。 

Berlin_Tiergarten_Siegessaeule


5月2日 総統官邸への攻撃が開始される。

5月2日午前6時 ベルリン防衛軍のヴァイトリング司令官が降伏。ドイツ兵にソビエト赤軍へ投降するよう命じることに同意。
ベルリン市街戦ではドイツ軍人2万、民間人2万が犠牲になったとされる。
5月2日 ソ連兵が数週間にわたり婦女暴行(10万人が犠牲となった)、略奪を繰り返す。
ただし、ドイツ軍が不可侵条約を破って、一方的にソ連を侵略し数千万人を死に至らしめたことへの「報復」という側面は決して無視できない。さらに言えば、ドイツ軍のロシア人大量殺害は命令であったが、ソ連軍の野蛮行為は「命令ではなかった」ことにも留意すべきだ。
5月6日 デーニッツ、アイゼンハワーの司令部にヨードルを派遣。降伏交渉に当たらせる。

5月7日 48時間の猶予つきの無条件降伏で合意。ドイツ東部から避難民をうけいれる。

5月9日零時 停戦が発効。

南部戦線(イタリア)については別年表イタリア解放闘争の20ヶ月)を参照のこと。
ドナウ平原の戦いについては、いずれ、まとめてみたい。

新藤さんから「キューバ憲法改正の問題点」というレポートを送ってもらった。
新藤さんのホームページでも原文が読めると思うので、興味のある方はそちらに回っていただきたい。

概要を書いておくと、
① 2018年7月に国会が開催され、現行憲法の改正案が出された。現在各種・各級で審議中である。
② 現在の経済モデルは、過剰な中央集権化と、「マクロ経済にかかわる構造的諸問題」を引き起こしている。
③ 経済の4つの中心要素: 社会主義的所有、計画経済、限定的な市場、非国家所有(私有)
④ 「共産主義」の憲法からの削除
⑤ 首相(閣僚評議会議長)の復活。以前はドルティコス大統領・カストロ首相であった。

このうち、私にとって興味深いのは、「共産主義の削除」ということだろう。
それは共産主義をイデオロギーとして捉え、社会主義をシステムとして捉えるという使い分けなのだろうと思う。
つまり社会主義には共産主義・マルクス主義に基づく社会主義もあるし、そうでない社会民主主義的な社会主義もある。
いろんな社会主義があって良いという相対化がそこにはある。
それとともに、社会主義は人類史の進歩の流れを代表する未来志向型システム・モデルなのだという確信とが並列されている。
さらに言えば、社会主義を空想的社会主義と科学的社会主義に分けるような喋り方はもうやめようということにもなる(心の中でそう思っても構わないが)。サンダースの社会主義も立派な社会主義だ。「人間の顔をした社会主義」も、あり得べき社会主義の一形態だ。(ただし、我々はスターリニズムもファシズムも社会主義の仮面をかぶっていたことを忘れてはならない)
社会主義に関するキューバのモデルは、今のところ「経済の4つの中心要素」に示されたやや古めかしいものだ。もちろんこのように4つの要素に分析したということは、それぞれについて批判的検討を加えていくという姿勢の表れでもあるので、今後キューバの「社会主義」イメージは変わっていく可能性が大いにある。

一時、「共産主義と社会主義は同じだ」と言われたこともあったが、それに対するさまざまな言及の中で、使い分けがなされるようになっているようだ。
マルクスはサン・シモンの系列を引くプルードンの社会主義に対して、「それではだめだ、どう資本主義を否定し、どう次の社会を実現するのか、それが問題だ」と主張し共産主義を訴えた。
聽濤さんが示唆するように、マルクスの心の中で、共産主義は「宣言」なのだ。キューバの憲法改正はそれを示しているのではないだろうか。

ベルリンの地下鉄、国電、路面電車

私は都の西北、シーメンスタウンに泊まったのだが、近くを走る高架鉄道がえらく古ぼけているのが気になった。
聞くとこれはもはや運行していなくって、ゴースト路線らしいのだが、その理由がよくわからない。
この高架鉄道はSバーンと言って、日本では国電に当たるらしい。東西対立がひどかった頃、西ベルリン市民がSバーンをボイコットして、破産に追い込んだらしい。
私のうろ覚えの知識はこの程度なので、すこしネットの記事をあたってみたい。
1.3つの鉄道
という記事からまず引用する。
戦前のベルリンは路面電車にSバーン(国電)、Uバーン(地下鉄)と、電車が市内を縦横無尽に走っていた。
次がだいじなポイントだが、
戦後もそれらは運行を続け、西ベルリンも含めて東ドイツが運行を行っていた。
ということだ。
それが意外なことに1961年のベルリンの壁建設までそのまま続いていたらしい。
元記事に戻る。
1961年にベルリンの壁が築かれると、電車は国境線でストップした。
西ベルリンの駅で地下鉄を待っていた 乗客から「時間になっても電車が来ない」という通報が西ベルリンの警察署に相次いだ。
これが東ドイツが壁を築いたことを知った第一報だった。
まるで映画のファーストシーンのようだ。

2.3つの鉄道の運命
それで、61年以降3つの鉄道は別々の運命をたどることになる。
まず路面電車。これは西ベルリンではほぼ全廃された。増加をたどる自動車に邪魔者扱いされたためで、これは日本と同じだ。
しかしトラバンドとラーダしかない東では、今も主役の座を保っている。今回、ブランデンブルク門を東に入った一帯では重連の電車などずいぶん拝ませてもらった。ウンター・デン・リンデンには路面電車が似合うのである。
次がUバーン。これは技術力・資本力の差からか西ベルリンが圧倒的である。しかし6号線と8号線は一部で東ベルリンを通っているのでそこは黙って通り過ぎるらしい。

3.Sバーンの複雑さはベルリンの象徴
最後に、これが一番の問題だがSバーン。日本語では「都市高速鉄道網」と表記されている。“S”はSchnellらしい。
16系統が設定されており、市街線(Schtadtbahn)と環状線(Ringbahn)に大別される。要するにSバーンは「国電」であり、シュタットバーンは中央線、リングバーンは山手線ということになる。わかりやすい。
S-Bahn_Berlin_-_Netz
西ベルリンのSバーンも戦後は東ドイツ側が運行したのだそうだ。
しかしこれが西ベルリンの市民にとっては癪に障る話となる。以下引用。
西ベルリン市民は「運賃を払うとそれが壁の建設費用に充てられる」と反発し、乗客が 激減してすっかり閑散としてしまい、80年代には路線も縮小されてしまった。
これが先程のシーメンス駅の廃墟話につながっていくのである。ただし、ウィキペディアにはこの話は出てこない。(ウィキペディアの記事はマニアによるものらしく、詳細を極める)
S-Bahn_Berlin_BR481
現在も休止状態にある路線は5つあり、この内ジーメンス線(私たちの見た)は復旧の見込みは非常に少ない。すでにUバーンが並行して営業してるためだそうだ。

Sバーンについての突き放した見方も広がっている。
S バーン東西線の線形は蛇行し、列車の速度低下をもたらし、非効率である。
中央駅も現在の都心からやや外れた不便な場所にある。本来ならまさに都心で利便性のよいポツダム広場に建設されるべきであったろう。
第三軌条による直流800Vという特殊な電化方式も、現状では他の鉄道と相互乗入れできないという不都合を生じている。
ベルリン S・U バーン発達史」渡辺徹 より
多分、ベルリン子はこういわれたら意地でもSバーンを守るだろう。阪神フアンみたいなものだ。

東西ベルリン 年表

1943年 

11月 テヘラン会談。米英はドイツ東部のオーデルナイセ線をポーランド国境とするスターリン提案を了承。

1945年

2月11日 ヤルタ会談。クリミア半島の保養地ヤルタで米英ソの3国会議。ソ連の対日参戦で合意。米英はこの見返りにポーランド問題に目をつぶる。
Yalta_summit_1945
連合国はドイツをフランスを加えた4か国で管理することとなる。ベルリンは人口に基づき3等分され、西側2/3を米英、東1/3をソ連が管轄することになるが、のちに西側の一部を仏の管理とする。
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a イギリス  b フランス  c アメリカ  d ソ連  e ポーランドに編入

4月16日 オーデル川に敷かれた東部戦線最終線は崩壊し、ベルリンが裸で残される。市街戦の経過は別年表とする。

5月9日零時 第2次世界大戦終了、停戦が発効。 ベルリンはソ連の全面占領状態に置かれる。
今のベルリンで辛いのは目ではない。鼻である。巨大な廃墟、かつての地下鉄の駅から流れてくる悪臭は、人間の死臭なのである。(アイザック・ドイチャー)
5月 ソ連軍、ベルリン市長にヴェルナーを任命。ベルリン市参事会と市行政組織を設立する。モスクワからウルブリヒトらが戻り、ドイツ共産党を再建。

6月 四国宣言が発表される。ドイツ全域と、ベルリンの分割管理が示される。

7月 ベルリンで共産党、社会民主党、キリ民同盟、自由民主党からなる反ファシズム民主諸党統一戦線を結成。これが各級行政を担当する。

7月 国外住民・シュレジエン住民への強制移住命令が発せられる。その多くがベルリンに向かう。

8月2日 ポツダム協定が成立。ドイツの4カ国分割占領が確定する。共同の管理機関としてベルリンに管理理事会が設置されることとなる。

8月17日 ベルリンが過飽和状態となったため、国外からの避難民のベルリンへの移入が禁止される。

8月30日 4カ国による分割占領に移行。ソヴィエト軍は駐留していた地域のうち、西側3か国の占領地域から撤退する。

11月 オーストリア、ハンガリーで相次いで国会選挙。オーストリアでは社民党が圧勝し、共産党は4議席にとどまる。ハンガリーでは社共合わせて議席の3分の1にとどまる。

1946年

3月31日 ベルリンの社会民主党、共産党との合同の是非を問う全党員投票。西側党員の82%が反対、半数を占めるソ連側居住の党員は投票を禁じられる。

4月21日 ソ連は「反対が全党員の半数に達しなかった」ことをもって合同が認められたとし、社会主義統一党を結成。西側の社民党はそのまま残る。

6月30日  ソ連の提案で、東西ドイツの境界線が確定。

10月20日 4か国占領地区合同で、“最初で最後”の大ベルリン市議会選挙が行われる。西側のみのSPD が49%を獲得。キリスト教民主同盟 (CDU)22% 、社会主義統一党 (SED)20% に対して勝利する。
ソ連兵の粗暴な振る舞い、厳格な賠償と接収、オーデルナイセ線をめぐるモロトフの強硬路線がベルリン市民の反感を買ったとされる。
10月29日 東西占領地域間の旅行は、30日間有効の地域間パスによってのみ可能となる。


1947年 

2月 トルーマン・ドクトリンが発表される。ソ連の封じ込め、西欧諸国へのテコ入れが図られる。冷戦が始まる。

3月 モスクワでフランスを交えた4カ国外相会議。ザール炭田の領有に失敗したフランスは徹底してドイツ統一阻止に回る。

6月 米国のマーシャル国務長官、ヨーロッパ経済の復興計画を提案。マーシャル・プランと呼ばれる。

6月 ミュンヘンでドイツ各州の首相会議。西側が統一問題の議論を拒否し対立。西側諸州のみの会議となる。

6月24日 社民党(戦前の共産党員)のエルンスト・ロイター、ベルリン市長に就任。このときはソ連から就任を拒否されたが、後に西ベルリン市長となる。

1948年

2月 西側3カ国にベネルクス3国を加え、ロンドン会議が開かれる。「西側3地域の経済的統合を進め、統合された西ドイツを西欧グループの一員に迎える」ことで合意。

3月20日 ドイツ管理4カ国理事会が決裂。ロンドン会議の合意に不満をいだいたソ連代表が退場する。
ドイツ統一を妨げ、西ドイツを反共の防波堤にしようと動いたのは西側である。このことは明白な事実として抑えておくべきである。
6月 米国、西ドイツに別立ての通貨制度を導入。ライヒスマルクの貨幣価値を消滅させる。ドルの信用を背景に新マルクによる流通が爆発的に拡大。退蔵物資が放出され出回る。ソ連も東ドイツで独自の通貨改革を実行。

6月24日 ソヴィエト軍、西ベルリンに入る道路と鉄道を封鎖。ベルリン封鎖が始まる。大ベルリン市庁は東西ベルリンの全市民に食糧配給カードを配布するも西側は使用を拒否。

当初、ドイツ西部から西ベルリンへ向かうアメリカの軍用列車や軍用車の通過を妨害。やがてエスカレートして西ベルリンへの送電も止められる。

6月25日 米政府は、大空輸作戦「空の架け橋」を決定。空輸が開始される。パイロットが窓からレーズンを撒いたことから、空輸作戦に使われる航空機は「レーズン爆撃機」と呼ばれるようになった。
berlin_大空輸
作戦遂行のためテンペルホーフ空港が拡張される。下の地図のテンペルホーファー・フェルトという広場が当時の空港。
テンペルホーフ
西ベルリンにおいても西ドイツ同様の通貨改革が施行される。これによりベルリンは二つの異なった通貨区域に分裂する。

12月5日 大ベルリン市議会の改選。ソ連はこれを認めず、東ベルリンの100名の自称議員で「市議会」を開催。F.エーベルトを市長に選出した。これに伴い警察機構も東西に分裂。

西ベルリンに独自の大学としてベルリン自由大学が創設される。

1949年

5月12日 ベルリン封鎖が解かれる。

5月24日   ドイツ連邦共和国(西ドイツ)成立。基本法第23条では、大ベルリンを連邦州の1つとする。

9月30日  ベルリン大空輸終了

10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立。ドイツ全体を「不可分の共和国」 、首都はベルリンであると規定。

1950年

西ベルリンの基本法(ベルリン州憲法)が発効。国際管理都市となる。

東地区の旧王宮が東ドイツ政府により撤去される。

1951年


1952年ベルリンでのテレビ放送開始。
5月 26日  東西ドイツ国境、東ドイツと西ベルリンの国境が封鎖される。東西ベルリンの境界はなお通行可能な状態が続く。


1953年6月17日 東ドイツで労働ノルマの引き上げに反対する建設労働者60人のデモ。多くの市民がこれに加わる。ソ連軍とのあいだで衝突。武装した労働者との銃撃戦となる。戦車も出動し、少なくとも153人の死者を出す。

この年だけで30万人が西側に逃れたとされるが、都市伝説に属する数字。

11月14日  西側連合国とソ連がともに地域間パスの発行を中止。東西の往来の制限がなくなる。ただし東ドイツ市民は許可証が必要のまま。

1954年

1955年

1956年

1957年12月 11日 東ドイツからの許可なし出国が禁止される。違反者は3年以下の懲役

1958年

1959年
1959年9月8日のブランデンブルク門前
1959年9月8日のブランデンブルク門前
1960年

「ベルリンの壁」の時代
1961年

8月13日午前0時  西ベルリンの占領境界線が閉鎖、ベルリンの壁構築開始。東西ベルリンの完全な分断。
Berlin,_Mauerbau
西ベルリンで働く東ベルリン市民は5万3000人、東ベルリンで働く西ベルリン市民も1万2000人いた。東ドイツは経済や職員が流出する、いわゆる「足による投票」を恐れた。

戦後15年間で約300万人が流出。これは東ドイツの人口の4分の1にあたる。

鉄道の話は複雑で面白い。「寒い国から来たスパイ
にもよく登場する。これは別途掲載する。

8月14日  ブランデンブルク門が閉鎖される。

8月26日  西ベルリン居住者は地上を経由する国境通過が禁止になる。

渡ろうと試みたものは一説に6万人以上。多くは国境警備隊に捕まるか、射殺されるか、無人地帯にある運河などで溺死するか、壁から落下するかの運命をたどった。壁を越えることに成功したのは5000人ほどと言われる。(流石に都市伝説に属するだろうが…)

1962年

1963年6月26日 ケネディ大統領が西ベルリンで演説。「私はベルリ-ナー」と叫ぶ。実質的には西ベルリンの現状固定化による安定化を目指すもの。

12月17日  壁建設以来2年数ヶ月ぶりに、西ベルリン居住者の東ベルリン訪問が許可される。年末年始の17日間に120万人が東ベルリンを訪問。これは
西ベルリン市民の半数に当たる

ベルリン・フィルハーモニーがオープン。設計はH.  シャローン。

1964年

1965年

1966年

1967年6月2日 イラン皇帝の訪問に反対するデモ。参加した学生が私服警官に射殺される。

1968年

1969年アレクサンダー広場のテレビ塔が完成。

1970年


1971年9月3日 占領4か国協定が改定される。西ベルリンはドイツ連邦共和国を構成する領域ではないとされるいっぽう、東側への出入りが簡略化される。


1972年
ブラント首相の東方政策を受けて、東西ドイツ基本条約が成立。

1973年
東西ドイツが同時に国連に加入する。

1974年11月10日 ベルリン高等裁判所長官が極左テロリストに殺害される。

西ベルリンのテーゲル空港が開港


1975年
「ベルリンの壁」の最終形が完成。西ベルリンを取り囲む総延長155キロメートルの壁。高密度の鉄筋コンクリートが二重に立てられた。壁の間は数十メートルの無人地帯で、アラーム付きの金網や多くの監視塔が作られた。

1976年


1977年


1978年


1979年

1980年


1981年


1982年


1983年


1984年


1985年
ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任。ペレストロイカを推進。ソ連、東欧諸国で民主化を求める声が高まる。

1986年


1987年6月12日  レーガン大統領、ブランデンブルク門の前で「ゴルバチョフさん、この壁を取り除いて下さい」と訴える。

1988年


1989年
5月、ハンガリーがオーストリアとの国境線にあった鉄条網を撤去。

6月 ポーランドで自由選挙。非共産党の政権が誕生する。

8月19日 ハンガリーのショプロンで「汎ヨーロッパ・ピクニック」を名乗る集会が開催される。亡命を求める東ドイツ市民参加者1千人が、一斉にオーストリア国境を越える。

9月10日  ハンガリー政府、東ドイツ市民に対してオーストリア国境を開放。6万人がオーストリア経由で西ドイツへ亡命した。

9月 プラハの西ドイツ大使館周辺に詰め掛けた5500人が特別列車で西ドイツへ送られた。

10月 東ベルリンでドイツ民主共和国建国40周年記念式典。来賓のゴルバチョフは、東ドイツ政府の亡命者締め付け政策を認めないと語る。

10月 ゴルバチョフ発言を支持する「ゴルビー、助けて!」のデモが60万人を結集。

10月、ホーネッカーが失脚。エゴン・クレンツが書記長となる。ゴルバチョフは新政権への援助を拒否。

11月4日 東ベルリンで反政府デモの参加者が100万人に達する。

11月9日 ベルリンの壁が崩壊。

シャボウスキー政治報道局長が記者会見。「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる。その際、許可証は不要であり、この政令はただちに、遅滞なく実施される」と発言。

検問所の警備隊は、押し寄せていた市民が西ベルリンに通過することを認める。多くの東ベルリン市民がその夜の内に国境を超えた。旅行の自由は取り消されなかった。berlin_photo89
12月22日 ブランデンブルク門が再び開通する。

1990年

7月 東ベルリン市庁が西ベルリン政府の指揮下に入る。

10月3日 東西ドイツ及び東西ベルリンが統一される。

12月2日:東西ベルリン合同市議会議員選挙。

1991年 ベルリンは再統一されたドイツの首都となる。


実は、ツァーではウィーンでオーストリア社会民主党の専従活動家と懇談するという目玉行事があった。ある意味これが楽しみで参加したのだが、結果的にはすっぽかされてしまったようだ。

私のウィーン行に際しての問題意識は、今考えてみれば下記のようなものだった。若干後出し的なものも含まれるが…

1.世紀末ウィーン像の再構築
趣味の音楽といろいろな解説を通じて得たイメージは下記のようであった。
ハプスブルク帝政は末期となり、ウィーンは世紀末の爛熟を迎えていた。
というものだ。
この時代認識は間違っているのではないか。
たしかに音楽の世界ではブラームスとブルックナー、ヨハン・シュトラウスを挟んでマーラーへと重厚長大で陶酔的な音楽が続き、やがて無調音楽から12音へと“壊れて”行くのだから、そう言えるかもしれない。
しかし経済・社会の面からは、むしろロシアと同様に、ようやくオーストリア・ハンガリー帝国が成長期に入り、もう一つの新たな帝国主義が生まれつつあったのではないか。
オーストリアの世紀末、労働者階級と進歩的知識人が帝都ウィーンにもようやく成長してきたのだ。
オーストリア・ハンガリー帝国というのはウィーンを東端とする辺境国家ではなく、ドナウ平原を中核とする強大な他民族国家の登場を意味する。
このパラダイムシフトを成し遂げないと、歴史は見えてこないと思う。

2. ウィーンのマルクスと社会主義の受容
ウィーンのマルクス受容は意外に遅い。1888年に社会民主党が成立しているが、これはロシアの社会民主党と同じだ。(
学会のマルクス“受容”は、社会民主主義の受容より先んじる。後進国の特徴である。後に大蔵大臣となるベーム・バヴェルクは、大方のマルクス主義者が会得する前に早くも資本論(第三部)批判を行っている。
私は「ベーム・バヴェルクの呪い」と呼んでいるが、価値の価格転形についてぐさっとする批判を投げかけている。エンゲルスは問題の本質がわかっていないところがある。この問題に論理解があるかのように言ったり、歴史過程として主張したりして動揺している(らしい)。
ウィーン大学の経済学部に所属する人々は、マルクス主義に対する本質的な批判を投げかけている。
オーストリア社会民主主義の中核的理論家となる人々は、皮肉なことに彼らの講座で学びながら自らの理論を鍛えていくのである。
その代表がヒルファーディングである。彼はワルラス平衡を持ち込むことによって問題をさらに紛糾させている(と書いてある)。
彼は「金融資本論」を発表し、それはレーニンの帝国主義論の骨子となっていく。後にベルリンに出てワイマール共和国の蔵相を務める。
ヒルファーディングは価格形成論を歴史的に取り扱うべきだと主張した。抽象的だが正しいと思う。
のちにポランニは多ウクラード理論からこれを説明しようとした。これも正しいと思う。ただし論理は複雑で切れ味は悪い。
私は生活過程→物質の消費を通じた欲望の再生産過程との組み合わせ(自転車理論)で説明できるだろうと思っている。つまり自転車の自転車たるゆえんは二輪でありながら倒れないことにあるが、自転車そのものの目的は、左右のペダルを交互に踏みながら前に進むことにある。前に進むことを抜きにバランス論を展開しても意味はないのだ。

3.オーストリア社会民主党の理論形成
オーストリア社会民主党は「オーストロマルクス主義」として理論形成していく。
それはとくに民族問題と農業問題に集中してあらわされた。人脈的には初期のレンナー、中期のバウアーに代表される。
「オーストロマルクス主義」のアイデンティティーは、ボルシェビスムとの対比を巡って鮮明化している。
なお、社会主義経済の計算論争はオーストリア社会民主党は関わっていないが、ウィーン学派とボリシェビキ経済学者の論争として重要であり、今なお原論的課題としては残されていると思う。

4.ウィーンのボリシェビキたち
これは多少余談になるが、亡命したロシア人革命家たちのたむろしたウィーンもまた魅力的である。
第一次大戦後はハンガリーにおける共産主義革命とその敗北の結果、二人のハンガリア人がウィーンに逃げ込む。ルカーチとポランニーである。ともに20年代の「赤いウィーン」と運命をともにした。
個人的思いを言わせてもらうなら、ルカーチこそはボリシェビズムに殉じた「知の巨人」の最高峰である。

5.「赤いウィーン」
広く見れば1919年~1934年まで広がる。
東京の美濃部革新都政と概念的には重なるが、はるかに革命的な性格をはらんでいる。
そこにはパリコミューン的な直接民主主義の課題がふくまれているが、目下のところあまりにも利用可能な資料が少ない。

ということで、ウィーンには私たちの既成概念をご破産にしながら再構築していかなければならない多くの歴史的課題が残されている。

そこにレーニン・スターリン的社会主義世界と異なる一大パースペクティブが広がっている。もっとさまざまな形での洗い直しが必要なのは間違いない。

まずは勉強!であろう。

下記の記事は、先月9月20日に発表されたものであり、駐日ベネズエラ大使館の紹介を通じて入手したものである。筆者の責任で内容を要約してあるため、正確には原文をご参照願いたい(同大使館ホームページにて閲覧可能 20180920 PUNTOS INFORME EXPERTO ALFRED DE ZAYAS)

国連人権委員会  独立専門官・アルフレド・デ・サヤス
「ベネズエラにおける人権状況についての報告」  

1.ベネズエラに対する非人道的制裁

ベネズエラでは経済制裁により、経済危機が深刻化し、食料や医薬品の生産と分配を歪め、死者が発生し、大量の移民が生まれています。
またこのような状況のもとで、人権侵害も発生しています。
とくに2017年11月に、注文された抗マラリア薬の発送・供給をコロンビアが拒んだこと、国際社会がこれを容認したことは危機の深刻さを示しています。
(代替抗マラリア薬はインドから輸入され事なきを得ました)

2.その他の薬剤不足

米国、カナダ、EUはベネズエラに一方的制裁を課しています。その結果、インスリンや抗レトロウイルス薬といった薬剤の不足が直接的・間接的に深刻化しました。

3.新たな追加制裁の動き

米国はベネズエラを締め上げるために、新たな制裁の法令を考えています。そして準備を始めています。

4.一方的制裁が深刻な経済的影響をもたらしている

ベネズエラでは多くの失業が生まれ、その結果、隣国への移民が発生しています。
その主な理由は一方的制裁や金融封鎖にあること、それらが経済危機を深刻にしたためです。このことは十分な証拠を持って証明できます。

5.経済制裁はこれまでも行われてきた

このような一方的制裁は、チリのアジェンデ政権、ニカラグアのサンディニスタ政権などに対して行われてきました。
今回の制裁はそれらに匹敵するものになっています。

6.メディアは慎重でなければならない

メディアは不安を煽るようなキャンペーンを繰り返しています。それを通じて、ベネズエラには「人道危機」が存在するとの先入観が植え付けられています。

このような誇張表現には慎重でなければなリません。

なぜなら「人道危機」は、軍事介入の口実として不適切に使用され得る専門用語だからです。

7.ベネズエラ国民への国際的な連帯

ベネズエラにおける現在の物資不足を軽減するためには、自由な食料品・医薬品の流通が必要です。

そのためには国際的な連帯が必要です。それは人道的な連帯です。政治的なものである必要はありません。

8.ベネズエラ危機は人道危機ではない

ベネズエラは経済的危機にありますが、中東やアフリカ諸国とは異なり人道危機にあるわけではありません。

国連食糧農業機関(FAO)の報告では、世界37カ国で食糧危機が列挙されていますが、ベネズエラは含まれていません。

9.政府は頑張っているが、制裁が足を引っ張っている

ベネズエラ政府は重大な経済危機に立ち向かっています。

国際的な援助を求め、経済を多様化し、負債の再編を試みています。

しかし、一方的制裁はこれを妨げています。医薬品や種子の輸入を妨げるなど、状況を悪化させるのみです。

10.独立専門家サヤスの国連総会への勧告
 
国連総会の名において、キューバ決議とほぼ同様の意味付けで「ベネズエラ制裁は国際法及び人権法に反する」と宣言することを勧告します。



プラハでミューシャの絵の入ったチョコを土産に買った。訪問団の人にはあまり知識はなかったようだが、帰ってきたら、とても喜ばれた。竹久夢二みたいなもので、好きな人にはたまらないようだ。
アルフォンス・ミュシャ
Alphonse Mucha
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アルフォンス・ミュシャ


アルフォンス・マリア・ミュシャ(Alfons Maria Mucha)

日本ではけっこう昔から有名な人で、藤島武二が摸して描いた挿絵が与謝野晶子の歌集「乱れ髪」の表紙になっている(他説あり)。
チェコ人だが活躍したのはパリで、アール・ヌーヴォを牽引した人である。
1910年にチェコに戻り、そこで民族主義の画家となり、1939年、78歳で侵略してきたナチに捕らえられ、拷問を受けて亡くなった。
戦後の社会主義政権にも好かれず、「プラハの春」の中で再発見されたようである。
下記のサイトで主要作品が一覧できる。
アルフォンス・ミュシャ

突如話が戻る。アルコールが入ったせいである。
ドイツ左翼党から学ぶべき最大の問題は何か、それは「合党」である。
「野党は共闘」がそれですむか、それですまなければそこから先に行く決意はできているのか、その場合の基準はどこにあるのか、マルクス主義とか科学的社会主義の看板はどうするのか、一つ一つがズシンと重い思想課題である。

しかし、現実はそれ以上に重い。「イデオロギーよりアイデンティティー」という翁長さんの呼びかけは、聞き流すにはあまりに重い。
毎日のお悔やみ欄を見ればその決断が迫られているのは明白だ。もう見て見ぬふりをしていることはできない。しかしそれは敵も同様なのだ。
進歩陣営全体が限界集落化している。「どちらが先にくたばるか」の闘争でもある。だからギジの実験はすごい貴重なのである。

赤旗に「明治150年を考える」シリーズの第8話として「東海大一揆」のことが載っていた。変な記事で、「東海大一揆」の記事なのに見出しのどこにも「東海大一揆」という言葉が出てこない。
著者の茂木陽一さんの造語なのかとも勘ぐってしまう。
1.一揆の時代背景
事件が起きたのは1876年、明治9年の末のことだった。
当時の日本は新政府の方針をめぐり騒然としており、翌年には西南戦争が起きるなど国家の屋台骨が揺れ動いていた。
動揺の原因は国家財政の財源をめぐる困難にあった。明治政府は藩体制と米物納制で成り立っていた財政をやめ、中央集権と金納制に置換しようとした。しかし年貢額相当の税を金で収納させることには相当の無理があり、中央集権制という新システムが未だ脆弱なことから、深刻な税収の減少をもたらした。これを補うにはさらに税率を引き上げるを得ないという悪循環に陥った。
2.どういう一揆だったのか
これに対し、庶民の間からは税額の引き下げを求める声が上がる。全国どこで起きてもよいのだが、この場合は三重県が狼煙を上げる役割をつとめた。
12月18日、一揆が発生した。さいしょは三重県松阪の南郊だったと言う。一揆はまたたく間に三重全県に拡大した。三重というのは天領、紀州藩領、中小の藩領が複雑に入り組んだところで、あまり絶対的な権力が存在しなかった。また戦国時代に織田信長と張り合った長島の真宗土一揆の伝統もある。
21日にははやくも、木曽川を渡り愛知県へ、さらに岐阜県へと広がったと言う。政府は武力鎮圧の方針を出し、翌日には警察や鎮台兵らが出動、わずか1日でこれを鎮圧した。
処罰者は5万人に登ったと言う。
3.一揆の影響
三日坊主というが、この打ち上げ花火のような一瞬の事件は明治初期の政治改革に大きな影響を与えたと言う。
西郷らの反政府の動きとの結びつきを警戒した大久保利通政府は、地租を減租し、大幅減税を行った。また府県に議会を導入することで民衆に発言の機会を与えた。以来、民衆は一揆という決死の蹶起ではなく自由民権運動へと流れていくことになる。
というのがあらすじのようである。

どうも、いまいち様子がわからないが、とりあえず赤旗の記事の紹介ということで。
なお明治初期の篤農運動とも重なるところがあるので、読み合わせていただければ幸甚である。

2014年05月01日

2014年04月15日

2014年04月15日

2014年04月14日



赤旗に載った「東海大一揆」というのが気になって少し調べてみた。
とにかくまったく聞いたことのない事件であるが、その理由は「そう呼ばれたことがない事件」だからだということが分かった。
ウィキペディアでは「伊勢暴動」と書かれている。
ついでに少しウィキペディアの記載を引用しておくと、
1876年(明治9年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発し、愛知県・岐阜県・堺県まで拡大した地租改正反対一揆である。受刑者は50,773人に上り、当時最大規模の騒擾事件となった。
ということで、なかなかの事件ではある。知らなかった私のほうが馬鹿である。
地図を見るとたしかに一部は県境を越え愛知、岐阜まで進出しているが、基本的には三重県中北部に局限した暴動と言うべきであろう。
ただし、暴動そのものの様相は発信元の中部と波及した北部ではかなり異なっている。中部では農民そのものが蜂起したのに対し、北部では暴徒化した群衆による暴動となっていったようである。
何れにせよこれは地租改正反対運動のひとつの表れと見るべきものであろう。
むしろ私にとって興味深いのは、これに対して大久保政府が実質的な減税政策で対応したということである。
これが巨額の歳入欠陥となったのは間違いないだろう。そのような苦しい財政事情のもとで西南戦争が発生し、莫大な戦費を捻出する必要に迫られたとき、大久保はどうしたのだろうか。

前記記事のごとく、一応歴史的あと付けもした上で、ドイツ左翼党国際部との交流の感想を書いておこうと思う。
多分この交流は、今回の訪問団の最大の成果だったろうと思う。
20数名の訪問団の参加者が一斉に質問を始めたのには驚いた。おかげで私の質問の機会は奪われてしまったが、日本との問題意識の重なりが非常に印象的で、とくに国際部の若い担当者が非常にツボにはまった回答をしてくれたのには嬉しい意外感を抱いた。

1.ギジの功績
一言で言って、この党は完全に「離陸」を果たしたなと思う。少々の風では飛ばされないだけの底力を身に着けたように見える。
もう一つは、あまり個人に功績を集中するのはいけないとは思うが、要所要所でギジの力が大きかったのではないかと思う。
私はこれまでイタリアの共産主義再建運動とスペイン共産党・統一左翼の動きをあとづけてきたが、率直にうまくは行っていない。
イタリアは結局スターリン主義についてほとんど総括をしないまま過去の遺産で突っ走った。遺産を食い尽くしたとき党の運命も終わった。
スペインはこれに比べればはるかにまともな総括をしつつ、左翼の結集に努めた。しかしボルシェビズムを剔抉するところまでは行っていない。党を撹乱したサンチアゴ・カリリョの資質の問題もある。

2.なぜギジは方向転換ができたのだろうか
ドイツの党、というよりギジはそこまで見通していた。シュタージの傷跡が残る東ドイツではたしかにそこまでしなければならなかったのだろう。スペインなら多少の問題はフランコ独裁のせいにして済ましていられる。
シュタージの党、社会主義統一党は、とにかくまず「坊主マル懺悔」をしない限り生き延びることはできなかった。
それはシュタージ関係者にはできなかった。そこで手がきれいなギジにお鉢が回ったのだろう。
ギジは思い切った総括をした。みな心の底では不満でも従った。従わざるを得なかったのだろう。ここから再出発したことが左翼党の運命を決めたのだろうと思う。

3.PDSは旧東ドイツの弱者の受け皿となった
PDSは少なくとも旧東ドイツに居住する社会的弱者を結集できた。それは反スタ総括なしにもある程度はできたかもしれない。しかしそこから出発し、そこから離脱するためには、そういう弱者たちの心からの信頼を勝ち取らなくてはならない。そのためにもシュタージ政治への総括をゆるがせにはできない。
実践を通じて下までその考えを浸透させること、それこそがギジのもっとも力を尽くしたところだっただろうと思う。

4.西側に味方を作ること
ギジは一度手ひどい個人攻撃を受けたことがある。国会議員になってしばらくした頃、マイレージの私的流用疑惑で徹底して叩かれたのである。
国会議員として各地に視察や旅行をした際に、マイレージが貯まる、これで家族旅行をしたのがバレて、議員団長をやめたり党の要職を退いたりしたように覚えている。
同じ頃大蔵省の役人が公用タクシー代のキックバックを私的に使っていたのが問題になったのと似たような話で、「横領」かと言われるとかなりグレーの領域である。
とにかく、この問題を通じてPDSは徹底的に孤立していることがわかった。世の中を変えていくにはまず血路を開かなくてはならない、これがギジの至上命題となったであろう。

5.WASGへの接近
ちょうどこの頃社会民主党の左派が分党してWASGを作った。ギジはこれを千載一遇のチャンスととらえた。彼には党の刷新を図り党の消滅を防いだ功績があるから、思い切った手を打つだけのフリーハンドを確保していた。
PDSはWASGに擦り寄り、WASGの言う事なら何でも聞いた。ラ・フォンテーヌはこれを徹底的に利用して、自分の党の全国政党化を果たした。当選してしまえばいつでも別れるつもりだったかもしれない。
ただギジの方にも自信はあった。シュタージとの関係さえはっきりしてあれば、プロレタリア独裁や国有化問題がスッキリ整理してあれば、一度一緒にやるだけでPDSの市民権は確立する。そうなればPDSの組織票だのみのWASGは離れられなくだろうと考えた。

6.ベルリン市長選挙とギジのケツまくり
PDS+WASG=左翼党の路線は大成功し連邦議会選挙や州議会で大躍進した。
その時ベルリンで市長選挙があって、WASGのなかに「成功したのだからもうPDSとは縁を切ろう」という勢力が優勢になった。その結果分裂選挙が戦われ分離派は惨敗した。
2012年ころ、同じような理由から左翼党は深刻な後退を経験した。外見上はいわゆる四分五裂の状況が出現した。人の褌で相撲を取る連中が勝手なことを言い出して収拾がつかなくなった。
このとき突如ギジが吠えたのである。「俺達は10年間我慢してきた。WASGの言うことなら何でも聞いてきた。それをお前たちは悪しざまにPDSを罵りながら、利用しようというのだ。オレたちにはこういう権利がある。“利用するのなら尊重せよ”」
これで再任を図ったラ・フォンテーヌの首は吹っ飛んだ。ここから真面目な本当の統一がスタートするのである。

7.首から上はWASG、首からは下はPDSの組織が誕生
共同党首は続けられ、今も二重政党の雰囲気を残しているが、「決めたことは守れ」という政党としての組織原則を保持しつつ、社会民主主義への脱皮を図るという困難な作業は基本的に達成されたと思う。
ただかつての東ドイツの政党の持っていた組織の共同体的体質と、西ドイツの声高で知識人的な原理の間に乖離が生まれないかは気がかりである。
ひとつは時間が解決する問題であり、ひとつは次世代活動家づくりが成功するかどうかの問題であろう。その点で、青年組織の拡大はこの党に希望を抱かせる最大の要因となっている。

8.統一には世代を超える時間が必要だ
ベルリンに3日間いて、表面的には完全に再統一されたかのように見える。それはおそらく旧東ベルリン側の経済状況が急速に改善されているためだろう。
格差は依然としてあるが、活気はむしろ東側(郊外)にある感じがした。西側のザラザラ感に対して東側の空気のしっとり感が印象的であった。(もっとも、治安は東のほうが悪いと書いてあるが、貧しいから仕方ないかな)


グレゴール・ギジ(Gregor Florian Gysi, 1948年1月16日 - )
彼の家系(祖母)はユダヤ人の血を引いており、祖先の代から共産主義活動に熱心だった。曾祖母はロシア貴族の家系。
父クラウス・ギージはすごい人だ。1931年にドイツ共産党に入党し、ナチを逃れてフランスに滞在するが、戦争が本格化すると党の命令でベルリンに戻り抵抗を継続したそうだ。命令する方もするほうだが受ける方も受ける方だ。共産党にはこういう人がいるから、最後には離れられない。
第二次世界大戦後、クラウスは東ドイツで大使、文化大臣、教会問題省次官などを歴任した。
グレゴール自身は1971年から弁護士として働き始め、東ドイツの数少ない自由派弁護士として反体制派や西側への亡命希望者の弁護を担当(これは針小棒大・多少眉唾)
1988年、ベルリン弁護士協会及び東ドイツ弁護士協会の会長に就任した。

1989年、東欧革命のさなか、ベルリン・アレクサンダー広場における50万人デモでは群衆の前で演壇に立ち、選挙法改正や憲法裁判所設置を政府に要求した。
それが12月のSED臨時大会では突然議長に選出されてしまった。言ってみれば党幹部とシュタージはギジを隠れ簑にして逃げ出したということになる。
1990年3月の初の自由選挙で人民議会議員に当選。東西ドイツ再統一後はそのままドイツ連邦議会議員となる。
1997年、シュタージの “非公式協力者” 疑惑が浮上し党の役職を離れる。その後も2016年まで繰り返し疑惑報道が繰り返される。当時の東ドイツで “非公式協力者” でなかったものなどいない。
2002年7月に旅客機のマイレージサービスを私有したと批判され、全ての公務を辞職して弁護士業に復帰する。2004年には心臓と脳の大手術を受けた。嫁さんは逃げた。もうボロボロだ。泣ける話だ。
2005年、左翼党・PDSの候補として連邦議会選挙に出馬。不死鳥のごとく当選を果たす。
2012年、連邦憲法擁護庁の監視対象をはずれ、ギジらに関する書類はすべて破棄された。
2015年、ギジは後事を託して党代表を辞任する。この後共同代表制が復活。

ドイツ左翼党(Die Linke) 年表

1989年12月 SED(社会主義統一党)が臨時党大会を開催。SED・PDS(民主的社会主義党)に改組して再出発。無名のギジを党首に選出。

1990年 PDS(民主的社会義党)に改称。綱領を改正してスターリン主義を清算する。

1998年 メクレンブルク・フォアポンメルン州で社会民主党とPDSとの連立政権が成立。

98年 SPDと緑の党の連立であるシュレーダー政権が成立。

2002年 連邦議会選挙。PDS(民主的社会主義党)は得票率4%で2議席を獲得。

02年  ベルリン市(州に相当)でも社会民主党との連立政権が成立。

2003年
10月 PDSが第8回大会。綱領を採択し規約を改正。スターリン主義を徹底的に否定し、西欧社会民主主義政党へ転換。

新綱領の柱 
①社会主義の名において行われた犯罪と対決。いかなる独裁も拒否。②SEDは民主主義や自由への意志も能力も持たなかった。③重要生産手段の国有化、計画経済を柱とする「マルクス・レーニン主義」を放棄する。④社会主義は自由、平等、連帯などの実現過程である。それを非暴力と民主的手段によって実現しなければならない。⑤ドイツ連邦基本法の基本的諸権利を擁護しつつ、適法的抵抗権を行使する。


2004年 シュレーダー政権の自由主義的経済改革に反対する社会民主党左派や労組活動家が一斉離党・独立して「労働と社会的公正-選挙オルタナティブ」を形成。“Arbeit & soziale Gerechtigkeit ? Die Wahlalternative”の頭文字をとってWASGと略称。

04年6月 欧州議会選挙。PDSがドイツに割り当てられた99議席中7議席を獲得。欧州の左派政党で結成した欧州左翼党に加わる。

2005年
1月 WASGが政党を結成。党員5000人で発足する。SPD左派のラフォンテーヌ元財務大臣(元SPD党首)が加わったことで影響力を増す。

7月 PDSが左翼党-民主社会党と改称。合党に備える。WASGのラフォンテーヌが左翼党-民主社会党に入党、逆に左翼党-民主社会党のギジがWASGに入党し、お互いに二重党籍になる

9月18日 連邦議会選挙。「左翼党」が約8%を獲得して54議席を獲得する。内訳はWASG12、左翼党-民主社会党42であった。

9月 左翼党、ビスキー旧PDS党首を副議長候補に指名。その後シュタージ(東ドイツ国家保安省)との関係が浮上し、立候補を断念。

05年 WASGと左翼党-民主社会党(Die Linkspartei.PDS)が、“統一会派よりさらに踏み込んだ連合”としての政党連合「左翼党」を結成。

2006年

9月 ベルリン市(州と同格)議会選挙。ドイツ社会民主党のヴォーヴェライト市政に左翼党-民主社会党が連立与党入りする。WASGのベルリン組織はこれに反対し独自出馬。この結果、WASGは議席を獲得できず、左翼党-民主社会党も大幅に得票を減らした

2007年

5月13日 ブレーメン州議会選挙。左翼党が8.4%の得票率で7議席を獲得。西ドイツ地域の州議会では初めて議席を獲得。

6月 両党の合併を最終的に決める党員投票。左翼党-民主社会党の側はほとんどの党員が賛成したのに対し、WASGからは辛うじて過半数を上回るにとどまる。

6月17日 両党が正式に合併。同名の政党「左翼党」となる。新左翼からも参加者があり、幅広い左翼の統一戦線政党となる。大会でラフォンテーヌとビスキーが共同党首となる。

2008年
1月27日 ヘッセン州、ニーダーザクセン州、ハンブルク特別市(州と同格)における州議会選挙において5%の壁を突破。


 バルチ幹事長は「社会的公正、社会保障、教育の平等で我々に期待が寄せられた」と語る。

ギジは、「根強い反共主義を破った、われわれはもはや旧東ドイツ地域だけの党ではない」と語る

2009年
6月 欧州議会議員選挙。8議席を獲得

8月 ザールラント州の州議会議員選挙。ドイツキリスト教民主同盟・ドイツ社会民主党と三つ巴の接戦となる。この州ではラフォンテーヌ共同党首が州首相を13年間務めた。

9月27日 連邦議会選挙。16州全てで議席阻止線である得票率5%を上回る。改選前を22議席上回る76議席を獲得。

2010年
5月 ドイツ最大の州であるノルトライン=ヴェストファーレン州で州議会選挙。5.6%の得票を得て11議席を獲得。

2010年 共同党首が制度化される。ラフォンテーヌ・ビスキーに代わりエルンスト(WASC)とレッチュ(PDS)が共同党首となる。

2012年

5月15日 ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙。ドイツ海賊党躍進のあおりを受け全議席を失う。

6月 ゲッティンゲンで党大会。ギジの批判を受け、わずか2年で党首が交代。民主社会党出身のキッピングと、WASG出身のリークシンガーが党首となる。

2013年 
連邦議会選挙。8.6%の得票率で64議席を獲得。4年前より得票率と議席を共に後退させるが、全議席を失った自由民主党に代わり第3位政党となる。

13年12月17日 二大政党と地域政党・CSUによる大連立内閣が成立。左翼党は野党第一党となる。

2014年
5月 欧州議会議員選挙。1議席減の7議席を獲得。

9月 テューリンゲン州議会議員選挙で第2党となる。社会民主党、緑の党との2、3、4位連合が成立。州首相とに左翼党のラメロウが選出される。

 社会民主党との合意にあたり、①東独時代の統治は独裁であり、法治国家ではなかった。②秘密警察の耐え難い侵害を批判的に総括する。と踏み込んだ。



14年 ベルリンで赤赤緑連立(左翼党、SPD、緑の党の3党連立)が成立

14年 旧PDS国会議員、憲法擁護庁による監視を解かれる。

2017年

4月 左派党が選挙公約の草案を発表。武器輸出や海外派兵の終了を呼びかける。NATOからの脱退をふくめず。富裕層への課税強化、最低賃金の上昇、医療制度の1本化などを訴える。

9月 連邦議会選挙。得票率9.2%、議席を69議席に増加させ党勢を回復。旧西ドイツで100万票を増やし躍進したが、旧東ドイツでは移民排斥勢力に票が流れる。極右政党「ドイツのための選択肢」は得票率12.6%で94議席を獲得した。

2018年

8月4日 左翼党右派のワーゲンクネヒトら、「立ち上がれ」(アウフシュテーエン)という無党派の運動を組織する。


 派閥は選挙闘争、大衆闘争などを通じて整理されつある。

①改革左翼ネットワーク(Netzwerk Reformlinke):旧PDS ②民主社会主義フォーラム(Forum Demokratischer Sozialismus, fds):旧`PDS ③社会主義左翼(Sozialistische Linke, SL):旧WASG が主要派閥で、これらの間に大きな違いはなくなりつつある。





この半年間のベネズエラ関係記事

ペレイラ・キューバ大使の連帯挨拶(要旨)

ちょっと古い発言(17年10月「私たちは皆ベネズエラ-連帯の集い-」)だが、要点がはっきりしているので、学習会のレジメには使えると思う。
1.マスコミの報道について
マスコミの編集方針は大企業と支配層によって決められる。そのため、概して我々の諸国の政治的社会的現実を操作したり隠したりする傾向がある。

2.富裕層と米国が攻撃を仕掛けている
この間、進歩的政府が社会プログラムや富の再分配をおこなった。これによって富裕層の特権が脅かされた。
この勢力は、正規に樹立された政府を倒し、我々の国々を不安定化させ、内部危機を作り出そうとしている。

3.攻撃の実験場:ベネズエラ
その攻撃の主要な実験場となったのがベネズエラである。ニカラグアもまた、攻撃の的となっている。
キューバにも6月、経済・貿易・金融封鎖を強化することが決定された。

4.真実を知らせる必要がある
国際的な情報封鎖が打開されなければならない。
我々は今後とも引き続き、地域の出来事について真実を語り、知らせる必要がある。

記念碑のことについて旅行者の人がちょっと曖昧なまま印象を書いているので、少し書き込んで置かなければなりません。

この群像にはあまりスッキリした名前はありません。
英語版ウィキペディアでは、“Memorial to the Children Victims of the War”となっています。そのまんまです。
前の記事で詩を紹介した人がこの銅像の作者 Marie Uchytilová です。
ウチティローバは1924年生まれのチェコの彫刻家です。
彼女は終戦後プラハ美術学校に入学し、彫刻を勉強しました。
プラハの春が挫折した後、彼女はリディーツェの子どもたちの記念碑を作ろうと思い立ちました。
リディーツェの子どものうち82人がポーランドにあった強制収容所で殺されたのです。
しかしウチティローバの制作した82人の子どもたちは、殺された子どもたちを正確に映したものではありません。彼女は戦争で犠牲になった1千3百万の子どもたちすべてを描きたかったのだと述べています。
とはいえ、「ガス室(差し迫る、確実な死)へ向かう子どもたち」という作品の切迫感には違いはありません。
1989年、ベルベット革命が始まる前の日、ウチティローバは息を引き取りました。
群像を建てるというウチティローバの願いはまだ叶えられていませんでした。
冷戦が終わった1990年代、デンマークの財団が資金を提供し、82の塑像をブロンズ像に鋳なおすプロジェクトが始まりました。実際の作業にあたったのは夫のイリ・ハンペルでした。
1995年、最初の30体が建立されました。建てられたのは、村の男たちが集団虐殺されたところです。
そして2000年になって82体の銅像が並ぶことになったのです。ゾーンごとに色具合というかサビ具合が違っているのはこのためでしょう。
それはウチティローバが制作を始めて30年、彼女の死から11年を経てのことでした。

前にも述べましたが、撮りためた写真は一瞬で消えました。以下はネットから集めたものです。
全体像2
おそらくこれが現在建っている状態です。

全体像
これはちょっと前のもののようで、82体建っていますが、台座や祭壇は見当たりません。余計リアルですが。

部分6
これが1995年の第一次建立時のものでしょう。ずいぶん高い台座です。この後緑青が吹いてブロンズらしくなっていきます。左半分はまだ見当たりません。
部分1
私の好きな年長組の像です。
部分2
幼児の恐怖の表情が残酷なまでに描きつくされています
部分3
1才児から4才児までの表情が的確に捉えられています。背方の年長児のトルソーも見事な技巧です。
これを見ていると、「人間の顔をした社会主義」というときの「人間の顔」が見えてくるように思います。
…ということで飽きないのです。大したものです。ミュシャやクリムトよりこちらを見るべきです。(といってもミュシャもクリムトも今回は見ていないのですが)

「雨の歌」抄 マリー・ウチティローバ(群像の制作者)

嘆きと、空腹と、恐怖と… それから底知れぬ闇
みんなお墓の石になって。ラヴェンスブリュックに眠っている
何かの弾ける音と、ガチャガチャという音と、大声と…それが止まったとき
リディーツェの母は声もなく囁やく
疼く唇たちがリディーツェの歌を囁やく
囁いた歌は、それから
リディーツェの家まで行って、こだまする

ねんねしな、可愛い子
泣くのをおやめ、静かにおし
くまさん人形の夢を見ましょ
それから、お庭でいっしょにいる夢も…
私の歌でお前は眠る
それは「雨の歌」と溶け合うでしょう
…もし、お前が生きていたら

リディーツェ村は、反ナチ抵抗運動へのみせしめのために攻撃された。男はみな殺された。女や子どもはラヴェンスブリュックの強制収容所へ連れてゆかれ、そこでガス室に送り込まれた。最後に村は形跡もなくなった。


申し訳ないが、世界のいたる処にリディーツェはある。残念ながら相対化せざるを得ないのだ。
ただマリー・ウチティローバが制作した子どもたちの群像は、ここリディーツェにしかない。
これも申し訳ない言い方になるが、ウチティローバの群像のリアリティーと芸術性が半端でないのだ。子どもたちの表情に「嘆きと、空腹と、恐怖と」が恐ろしいまでに具象化されている。それは息苦しいほどの圧力で見るものに迫ってくる。
この群像を見るだけでリディツェまで足を運ぶ価値がある。
でも、邪道かもしれないが、世界中を巡演して、世界中の人に見てもらいたい。あえて高飛車な言い方をすれば、“見てもらわれるべき”なのだと思う。

「人間の顔をした社会主義」の意味

チェコ共産党の人と懇談をして、「いま、“人間の顔をした社会主義”をどうとらえ返すか」と質問もしたのだけど、ぶっちゃけた話、通訳さんがまったくだめで、話が通じなかったみたいだ。
チェコ人の通訳なんだけど、市内観光のときにわかったのだけど、そもそも日本語がよくわかっていない人で、勉強もあまりしていない。
この人がインでわからず、アウトでわからず、したがって相手が質問の意味をわからず、答えはちんぷんかんとなって、それをまた通訳が変な日本語でアウトしてくるから、ほぼ「電信ゲーム」状態。
帰ってからネットで調べようということで帰ってきた。

それはこれからの話しだが、とりあえず、「人間の顔をした社会主義」について考えてみたい。

私はそもそも「人間の顔をした社会主義」というのは否定形の表現なのだろうと思う。
変な話だが、1968年のはじめチェコ人の前にあった社会主義は人間の顔をしていなかった。だから人間の顔を取り戻そうという、いわばルネッサンス運動なのだろうと思う。

では「人間の顔をしていない社会主義」というのはどんな顔なのだろう。
私は、それは3つ考えられると思う。ひとつは非人間の顔、つまり無表情なロボットの顔だ。
ひとつは人の権利を侵害して利益を貪る獣の顔だ。
そしてもう一つはソ連やスターリンの意のままになって、国民を裏切る犬(イヌ)の顔だ。どれも人間の顔ではない。

資本主義というのは何よりも獣の顔をしている。弱肉強食を生活の論理としている以上当然のことだ。
社会主義はこの資本主義の論理に対する対抗倫理として生まれている。
なのにその帰結点がイヌの顔になりロボットの顔になるのはどうしてなのだろう。

私が考えるには、人間の顔が社会主義から失われたのは、運動が気高さと優しさを失ったからではないか。
つまりスターリン主義に代表されるこれまでの社会主義運動は、気高さと優しさを本質的に内包していなかったのではないかという問題意識に突き当たる。もちろん社会主義運動は、気高さと優しさで支えられてきた。しかし「ボリシェビキ型社会主義」はそれらの人間的特質をただ単に利用したに過ぎなかった。

今日、チェコにおいて人間の顔をした社会主義、気高さと優しさを基調とする社会主義は実現できないのだろうか。
少なくともチェコ共産党くらいはそういうことを主張しても良いのではないだろうか。
チャスラフスカの凛とした横顔を見るたびに、そんな気がするのである。

チャスラフスカは東京オリンピックで金メダル3個を獲得した。
tyasurahusuka

     チェコの名花チャスラフスカ死去 より 

彼女はプラハの春に賛同し「二千語宣言」に署名し、ワルシャワ条約軍の侵入に抗議した。
宣言への署名を撤回するようにもとめられても、それを拒否し続け、メキシコオリンピックでは抗議の意味から濃紺のレオタードで競技を行った。
チャスラフスカ

         ベラ・チャスラフスカ

より

帰りに成田に着いたら、空港で「ユーは何しに日本へ?」という番組の取材をやっていた。集合時間までの間、何気なしに眺めていたが、想像を超える悪戦苦闘ぶりで、スタッフの頑張りに敬服した。
それはどうでも良いのだが、「スターリンは何しにウィーンに?」というのはどうでも良くない。
先程はBBCの記事を紹介したが、「ヒトラーが同じ時代にウィーンにいた」というのは良いとして、スターリンがウィーンにいた理由ははっきりしない。
そのあたりを示唆した記事を見つけたので、そちらから紹介する。


第一次大戦前のウィーン
第一次世界大戦の前、ウィーンはボルシェビキにとって住みやすい都市であり、レオ・トロッツキのような人々の住み処となっていた。
1913年1月、ヨセフ・スターリンはレーニンの命令でウィーンにやって来た。彼はオーストリアの社会主義者と接触することになっていた。
不運なことに、スターリンはドイツ語を話せなかった。
彼はウィーンで "マルクス主義と民族問題"というパンフレットを書いた。これは後にペテルスブルクの新聞に掲載された。

トロヤノフスキーの家
スターリンは、ウィーンでは、シェーンブルン宮殿の近くのトロヤノフスキーというロシア人の家に住んでいた。トロヤノフスキーは元ツァーリ軍の砲兵士官。中央委員で理論誌の編集委員をつとめていた。裕福であったので自宅にヨシフを受け入れた。
レーニンの命により、ヨシフはウィーンに缶詰になり、オットー・バウアー、カール・レンナー、カール・カウツキーらの民族問題文献を脳みそに詰め込まれた。外国語が読めないヨシフのために、パニンが翻訳にあたった。
スターリンはそこで数週間過ごした後、ウィーンを去りクラコウへ戻った。
ロシア大革命が成功した後、トロヤノフスキーはロシアの駐米大使となった。トロヤノフスキーはメンシェビキの幹部だったが、ヨシフは一宿一飯の恩義を忘れなかったらしい。
長い間、スターリンはSchlobstrabe 30に住んではいなかったと考えられていた。それはウィーンでの滞在が違法であったことを示唆している。彼の "Meldezettel"(住民票)が発見されたのは1977年のことである。

記念プレートを据え付けたわけ
1949年、KPZRはヨシフの70歳の誕生日を祝って、住居の壁に記念プレートを据え付けた。
「オーストリアはロシアのモニュメントを破壊してはならない」という取り決めがあり、そのため1955年以降もそのプレートは生き残った。
これは別な文章だが
1956年のハンガリー動乱に際して、ナジ政府を支持するデモ隊が押しかけ、プレートを剥がそうとした。官憲がこれを阻止したため失敗したという。
だからウィーン第12区のSchlobstrabe 30番地には、いまも “20世紀における最も有名な犯罪者の一人”スターリンに敬意を表する唯一の記念プレートがあるのです。


これだけ書いてしまうと、もうBBCの記事はどうでも良くなるのだが、以下の条は紹介しておいたほうが良いと思う。(いささか勿体ぶった表現だが)

1913年1月、Stavros Papadopoulosという名のパスポートを携えた一人の男が、クラコウからの列車でウィーン北駅に降り立った。
その男は、薄汚れた服装で大きな農夫髭を生やし、質素な木製のスーツケースを下げていた。
「私は机のところに座っていた」と別の男が書いている。彼はクラコウから来た男と会うためにこの駅までやってきた。書いたのは数年後のことだ。
「ノックとともにドアが開けられた。そこには見知らぬ男がいて、こちらに入ってきた」
「彼は背が低く痩せていて、その灰色がかった茶色の顔は痘瘡の痕跡で覆われていた。見たところ、彼の瞳の中には親愛感のカケラもなかった」
こう書いたのは亡命中のロシア人インテリで、急進的な新聞「プラウダ」(真実)の編集人、レオン・トロツキーだった。
そして、そう書かれたのはPapadopoulosではなく、その本名をIosif Vissarionovich Dzhugashvili、仲間内の通称をコバ、そして後年はスターリンと呼ばれることになる男であった。

かなり胃もたれする表現だが、要するにスターリンはドイツ語も話せずに、トロツキーと会うためにウィーンに乗り込んだのだ。
その理由は先程の年表を見ればわかる。レーニンが純朴な田舎の青年を送り込むことで、トロツキーの“受け”を狙ったのだ。しかしトロツキーの印象を見ればわかるように、あまりこの策は成功したようには思えない。
むしろ、トロツキーの“上から目線”がスターリンにトラウマをもたらした可能性もあるだろう。

とりあえず、このくらいで止めておく。
「スターリンのウィーン」は旅の目的からすればきわめてトリビアルな話題である。鈴木頌という男がどういうふうに首を突っ込んでいくかの見本として読んでいただきたい。

若きスターリン 年譜

1878年12月18日 ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)が生まれる(レーニンより9歳年齢下)。生地はゴリ。父は靴職人でアル中。生活苦から幼少期だけで9回も転居。

ゴリ: グルジアの首都トビリシから西へ約76km、人口は4万7059人。

1886年 痘瘡となる。顔にアバタが残る。さらに馬車の事故から左腕にも障害が残る。

1888年 母の尽力でグルジア正教会の推薦を獲得。ゴリの初等神学校に入る。成績は優秀だった。

1893年(15歳) マルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

1894年 ヨシフ、奨学金を得てチフリス (現Tbilisi) の高等神学校に入学。

1895年 ジョージア独立を目指す秘密政治結社“Messame Dassy”と接触。組織員の一部は社会主義者でもあった。

1898年 党の創立大会がミンスクで開かれる。大会は党名を「ロシア社会民主党」と決定。結党宣言を起草したストルーヴェは独断で党名を「ロシア社会民主労働党」とし、以後この名前が定着する。

98年 ヨシフ、Messame Dassyに加入。マルクスやレーニンの本を読む,

1899年 神学校から追放される。公式には授業料不足のためとなっているが、理由は諸説ある。

1899年 退学後もティフリスに残り革命運動に飛び込む。社会民主労働党に加わり、ティフリス地方委員会の専従となる。生計は家庭教師やティフリス測候所の雇員などで支える。

1900年 レーニン、マルトフ、プレハーノフらのグループが新聞『イスクラ』を創刊する。

1901年 気象台を辞め、地下組織で政治活動を開始。その後、バトゥミに逃れ、精油所の労働者となる。バトゥミは国会に面するジョージア最大の港で、トルコとの国境から約20km。

1902年4月 スターリン、バトゥミ精油所の労働者をストライキに組織。捕らえられ、シベリア送りとなる。

1903年 ブリュッセルで『イスクラ』派を中心に社会民主労働党第二回党大会が開かれる。大会はレーニンの党派とプレハーノフ・マルトフらのメンシェビキに分裂。

1903年 スターリン、シベリアのイルクーツクに送られ、そこでレーニン派に加わる。

1904年1月 列車に乗ってシベリアから逃亡、トビリシに潜伏する。その後常にOkhranka, (ツァーリの秘密警察)に追われる身となる。ヨシフはグルジアのメンシェビキあてに「信条」を提出したらしい。

1905年

1月 レーニン派、「多数派諸委員会ビューロー」を創設し新聞『フペリョード』を発行。ボルシェビキと呼ばれるようになる。

1月22日 「血の日曜日事件」(ユリウス暦)が発生。ロシア第一革命が始まる。
メンシェヴィキは革命の性格をブルジョア革命と規定した上で「急進的な革命的反政府党」にとどまると決定。
ボリシェヴィキは「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを掲げ、武装蜂起の準備を進めた。 ウィキペディアより
4月 ボルシェビキが単独で第3回党大会を開く。ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させた。
彼の主たる仕事は、富裕層から軍資金をゆすりとること、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を挑むことであった。ヨシフは金品強要、現金輸送車の襲撃などを通じ資金活動を展開。
7月 ヨシフがエカテリーナ・スワニーゼと結婚。エカテリーナは産後のチフスで死亡。
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        エカテリーナの葬儀 右端がスターリン

1906年

4月 ストックホルムで統一党大会が開かれる。ボリシェヴィキの観点では第4回党大会となる。この大会ではメンシェヴィキが多数派となる。ヨシフもカフカス代表として参加。レーニンと会い感動を受けたと言う。

1907年 

4月 ロンドンでロシア社会民主労働党第5回大会。ボリシェヴィキが多数派となる。ヨシフはレーニンと並ぶボルシェビキ幹部として出席。このとき大会では「銀行強盗禁止」が可決される。

6月 ヨシフがトビリシで現金輸送隊を待ち伏せ。340万米ドル相当の現金を強奪しレーニンに預ける。
この後のヨシフは悪の帝王さながらの活動である。アゼルバイジャンのイスラム教徒を結集しボリシェヴィキグループの設立を手伝った。黒百人組へのテロを強め、誘拐しては身代金をゆすり取った。贋金造りと強盗を行った。
1908年

4月7日 スターリンが逮捕(二度目)される。2年間のシベリアへの流刑を宣告される。

1908年 トロツキーら、ウィーンで『プラウダ』を創刊。党の統一を回復するよう訴え、多くの支持を結集する。

1909年7月 ヨシフは女装してシベリアの流刑地から逃亡。バクーへと戻る。
ヨシフは、ロシア・ビューローの創設とメンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれを拒んだ。
1910年

1月 トロツキーの呼びかけにより、パリで党中央委員会総会が開かれる。各派の代表が分派の清算で合意するが実行されず。

4月 ヨシフ、三度目の逮捕。シベリア流刑となる。
stalin1911
1911年7月 ヨシフは流刑から解放されヴォログダに移住。

1912年

1月 プラハでボリシェビキ派と党維持派メンシェヴィキによる協議会。解党派を党から追放し新たな中央委員を選出した。

1月 プラハ協議会の直後にロシア国内で一斉逮捕があり、ヨシフは中央委員に繰り上げ選出される。

5月 サンクトペテルブルクで最初のボルシェビキ党の日刊紙「プラウダ」が発行される。ヨシフが編集者となる。

7月 ヨシフが逮捕され、3年間のシベリア送りとなる。38日後に逃亡に成功。

8月 ウィーンのトロツキー・グループ、プラハ協議会に対抗してパリ協議会を開催。レーニン派以外の全グループが参加し「八月ブロック」を形成するが、実質的な成果をもたらすことなく終わる。

年末 ヨシフはボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停を試みた。レーニンはプラウダの編集職を解任するが、その後、クラクフ(現ポーランド)のロシア・ビューローの指導者に指名。

1913年

2月 スターリンがウィーンからサンクトペテルブルクへ戻る。まもなく捕らえられ、シベリア送りとなる。スターリンは収容先から逃亡し、北極圏内の寒村に潜伏。そこで2月革命までを送る。

3月 ヨシフ、レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を発表。「スターリン」という筆名をはじめて使用。「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味する。

1917年3月25日 ヨシフ、2月革命の後解放され、サンクトペテルブルクへ戻る。

ということで、ウィーン滞在はスターリンの最も多忙な時期の一コマだ。そしてこれは、スターリンの生涯における最も長い外国暮らしとなった。
ウィキペディアに掲載されていないということは、公式の年譜にないということだろう。
1ヶ月滞在したというが、前後関係から見ると、おそらくレーニンの命を受けてクラクフからウィーンに来た。次の記事でもわかるように彼はトロツキーと会っている。多分トロツキーと会いに来たのだと思う。隠すほどの話でもなさそうだが、トロツキーとわざわざ会いに来たというのが癪に障ったのだろうか。

ウィーンで泊まったのが市南部メドリング街のルネッサンス・ホテル。超モダンな内装でいささかたじろぐ。
朝、恐る恐る街に散歩に出る。朝と言っても日の出は7時半をすぎるから、まだ薄暗い。
ホテルの南側が堀になっていて、そこを電車が走る。この堀は旧ウィーン市の内外を分ける境界になっていたらしい。地図で見るとここから駅一つ隣がシェンブルン宮殿だ。ぶらりぶらりと通りを歩き始める。駅と宮殿の敷地の中間あたり、通りの南側のアパートにプレートが貼ってあって、何気なしに見上げるとスターリンの住居跡と書いてある。これには流石に驚いた。
stalin
左下の緑がシェーンブルン公園の北東端。ホテルはメドリング駅の北東である。シェーンブルン城壁通りの「」がそのアパートだ。
遠景、近景、パネルと3枚写真を撮ってきたが、パァになったのは前記のとおり。
気を取り直すのに24時間を要した。
ウィキペディアのスターリンに関する記載はきわめて浩瀚だが、ウィーン在留の記録はない。一応次の記事に「年譜」として掲載しておく。
ネットで調べるとたくさんの記事がつかまるが、根っこはすべて同じで、2017年の「BBCマガジン」に記載された下記のもの。これも一応別記事として掲載しておく。
この記事は、アラン・ブロックの著書「対比列伝 ヒトラーとスターリン」(1991年)が出典らしい。この本では第一次大戦前のある時期に、スターリンとヒットラーが同時にウィーンにいたというのがミソになっているようだ。
1200px-Vienna_-_Stalin_Memorial_Tablet

ネットで探していてこの写真を見つけた。建物の外壁はこの色だったが、私の見たプレートは絵はなく文字だけだった。Schönbrunner Schlossstraße 30と書いてあるので同じ場所だろう。


本日、8日間の欧州旅行を終えて帰ってきた。家に電話したら妻が入院していた。
妹に見てもらっていて、訪問看護や介護の支援で無事入院はしていたが、それにしても5日間も知らずに過ごしていた。かなり気が滅入る。
それでも夜、自宅に落ち着いてから資料を整理し始めたが、カメラの写真のTiffファイルを削除しようとしたらJPEGファイルも一緒にやられた。プラハとウィーンの写真は全てアウトとなった。
頭が真っ白になった。しばらく充電が必要だ。

ガルデルについて英語の記事でもよくわからないところがある。
死の直前に作られた曲は4つある。1.下り坂(Cuesta abajo)、2.わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード)、3.帰還(Volver)、4.想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス)
このうち確かなのは「想いの届く日」が最後で、この映画のキャンペーン中に飛行機事故でなくなったことである。「帰還」はその前年34年に作られた映画の主題歌である。「下り坂」(Cuesta abajo)は帰還と同じく34年に作られた映画の主題歌らしい。しかしこれは曖昧である。
一番曖昧なのが「わが懐かしのブエノスアイレス」で、これは34あるいは35年に作られた別人の映画のために、ガルデルがつけた曲らしい。
ただしこの辺は定かでない。ネットでは今のところこれが限界で、後は図書館に行くしかなさそうだ。と言っても北海道の図書館ではあまり期待できないが。

タンゴ名曲百選にあげた曲を作曲年順に並べました。原語も入れるべきでしょう。特に古い曲の場合、作曲時からヒットしたのではなく、後からカバーして大ヒットになった場合もあるので、その年も書き込まなければならないでしょう。
そのうち、少しづつYouTubeにアップしていこうと思います。

19世紀のタンゴ

1890 泣き虫(エル・ジョロン):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)伝アンブロッシオ・ラドリサーニ。
俳優のラドリサーニの作品というが、実際は当時流行した伝承曲らしい。カディカモの歌詞は後年映画主題歌として作られた。

1897 エントレリオの人(エル・エントレリアーノ):(曲)ロセンド・メンディサバル。
古典タンゴの中では最も古い作品。


1898 ドン・ファン:(曲)エルネスト・ポンシオ。


1900年代

1903 エル・チョクロ(とうもろこし):(曲)アンヘル・ビジョルド。
歌詞は1947年にエンリケ・サントス・ディセポロが作った。1953年に「キッス・オブ・ファイアー」と題されて米国のヒット・パレード上位に入った。

1905 混血娘(ラ・モローチャ):(詞)アンヘル・ビジョルド(曲)エンリケ・サボリード。

1906 オテル・ビクトリア:(曲)フェリシアーノ・ラタサ。
アルゼンチン中北部の町コルドバでオテル・ビクトリアというホテルが開かれた。その開業式典の席で初演されたものという。

1907 フェリシア:(曲)エンリケ・サボリード。

1908 7月9日(ヌエベ・デ・フーリオ):(曲)ホセ・ルイ・パドゥラ。
「7月9日」は1816年のこの日、独立宣言が発せられた記念日である。

1910年代

1910 独立(インデペンデンシア):(曲)アルフレド・ベビラクァ。
「革命100年」を祝う祭典(センテナリオ)で初演されたもの。

1910 ロドリゲス・ペーニャ:(曲)ビセンテ・グレコ。
題名はロドリゲス・ペーニャ通りにあるサロン、「サン・マルティン」を冠したもの。

1910 夜明け(エル・アマネセール):(曲)ロベルト・フィルポ。

1915 医学生(エル・インテルナード):(曲)フランシスコ・カナロ。医学部学生のダンスパーティのために作られた。

1916 デレーチョ・ビエホ(わき目もふらず)。(曲)エドアルド・アローラス。
直訳すると「昔の法律」、題名から想像されるように法学部学生に捧げられている。前の年の医学生がヒットしたから柳の下のどじょうを狙ったような気もする。

1916 ラ・クンパルシータ:(曲)G・H・マトス・ロドリゲス。
モンテビデオの無名の学生が作曲。24年にロベルト・フィルポが発掘し、バンドネオン変奏部や対旋律も加えられて大ヒットした。題名は仮装行列の意味で、キューバではコンパルサと言う。

1916 花火(フエゴス・アルティフィシアーレス):(曲)ロベルト・フィルポ&エドアルド・アローラス。

1916 霊感(インスピラシオン):(曲)ペレグリーノ・パウロス。

1916 わが悲しみの夜(ミ・ノーチェ・トリステ):(詞)パスクアル・コントゥルシ(曲)サムエル・カストリオータ。
ガルデルが最初に歌ってヒットさせたタンゴ。捨てられた女への「うらみ節」。それまでガルデルは民謡歌いだった。

1917 エル・マルネ:(曲)エドアルド・アローラス。
第1次世界大戦に於ける激戦地(フランス)を指す。アローラスはフランス系移民だったから祖国の戦勝を祝って書いたのであろう。

1918 バンドネオンの嘆き(ケハス・デ・バンドネオン):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1920年代

1920 気取り屋(チケ):(作曲)リカルド・ルイス・ブリグノロ。

1920 ラ・カチーラ:(曲)エドアルド・アローラス。
「地面に住み昆虫を食べる雀に似た小さな鳥」のことなんだそうですが、想像つきません。

1922 狂女(ロカ):(詞)アントニオ・ビエルゴル(曲)マヌエル・ホベス。
品のいい歌ではないが、百選というと外せない、「そういう曲ってあるよね」という曲

1923 蝶々(ラ・マリポーサ):(曲)ペドロ・マフィア。

1923 五分と五分(マノ・ア・マノ):(詞)C・E・フローレス(曲)C・ガルデル/J・ラサーノ。

1924 ガウチョの嘆き(センティミエント・ガウチョ):(曲)F.カナロ、R.カナロ。
オデオン社のタンゴコンクールで第一位。その時の第三位は「たそがれのオルガニート」であった(うぃき)。

1924 たそがれのオルガニート(オルガニート・デ・ラ・タルデ):(曲)カトゥロ・カスティジョ。

1924 想い出(レクエルド):(曲)オスバルド・プグリエーセ。エドゥアルド・モレーノの歌詞がついている。

1924 淡き光に(A MEDIA LUZ):(作詞)カルロス・セサル・レンシ(作曲)エドガルド・ドナート。
ブエノスアイレスの繁華街「コリエンテス通り348番地」には、扉にこの曲の楽譜が描かれている。

1926 小径(カミニート):(詞)コリア・ペニャローサ(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベ。
ラ・ボカに近い鉄道廃線跡地が「カミニート」公園になっている。

1926 パリのカナロ(カナロ・エン・パリス):(曲)ファン・カルダレーラ+アレハンドロ・スカルピーノ合作。
フランシスコ・カナロ楽団のパリ公演成功を祝う歌。

1927 さらば友よ(アディオス・ムチャーチョス):(作詞)セサル・ベダニ(作曲)フリオ・サンデルス。
アルゼンチンでは、この曲を演奏すると不吉なことが起こるといわれ、最近では余り演奏されない。

1927 ミロンガのすすり泣くとき(クアンド・ジョラ・ラ・ミロンガ):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1927 悪い仲間(マーラ・フンタ):(曲)J・デカロ/P・ラウレンス。

1928 黄金の心(コラソン・デ・オロ):(作曲)フランシスコ・カナロ。

1928 今宵われ酔いしれて(エスタ・ノーチェ・メ・エンボラーチョ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1930年代

1930 ジーラ・ジーラ:(詞・曲)エンリケ・S・ディセポロ。
不況と政治不安の時代でもあり、この曲はこの年最大のヒット曲となる。「俺は河原の枯れすすき」と通じるものがある。

1931 告白(コンフェシオン):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1932 エル・ウラカン(ハリケーン):(曲)エドガルド・ドナート。

1931 交わす盃(トモ・イ・オブリーゴ):(詞)マヌエル・ロメロ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルがフランスで撮影した映画「ブエノスアイレスの灯」で歌われた。

1934 下り坂(クエスタ・アバホ):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。同名のパラマウント映画の主題歌。作曲者ガルデル自身が主演。

1934 わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード):大歌手ガルデルが自ら主演した映画「下り坂」の主題歌。

1935 古道具屋(カンバラーチェ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。映画「バンドネオンの心」の中の1曲。

1935 想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルが主演した米パラマウント映画の主題曲。とうでもよいが、曲名は正式には帰還(ボルベール)。

1936 ナイフで一突き(ラ・プニャラーダ):(曲)ピンティン・カステジャーノス。ミロンガに編曲したダリエンソのレコードはミリオン・セラーとなった。


1936 郷愁(ノスタルヒアス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。
不慮の死を遂げたガルデルを主人公とした「ブエノスアイレスの歌い手」のために作られた。


1940年代
1942 酔いどれたち(ロス・マレアドス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。1922年に発表された古い曲を、トロイロが発掘してフィオレンティーノが歌ったところリバイバル。
1943 人は(ウノ):(詞)エンリケ・S・ディセポロ(曲)マリアノ・モレス。

1945 さらば草原よ(アディオス・パンパ・ミア):(作詞)イボ・ペライ(作曲)マリアノ・モレス/フランシスコ・カナロ。カナロの音楽劇「パリのタンゴ」の挿入歌。

1946 ラ・ジュンバ:(曲)オスバルド・プグリエーセ。

1947 エネ・エネ(何某):(曲)オスバルド・ルジェロ。若くしてオスバルド・プグリエーセ楽団の第1バンドネオン奏者となり、後にセステート・タンゴの中核として活躍したルジェロの作品。

1948 降る星のごとく(ジュビア・デ・エストレージャス):(曲)オスマル・マデルナ。
1948 南(スール):(詞)オメロ・マンシ(曲)アニバル・トロイロ。ブエノスアイレスの南部ヌエバ・ポンページャ地区を題材とした曲。


1950年代
1951 うそつき女(ラ・トランペーラ):(曲)アニバル・トロイロ。

1952 兵隊風のブーツ(タキート・ミリタール):(曲)マリアノ・モレス。以前は「軍靴の響き」と訳されていた。

1953 来るべきもの(ロ・ケ・ベンドゥラ):(曲)アストル・ピアソラ。

1957 バイーア・ブランカ:(作曲)カルロス・ディサルリ。

1959 アディオス・ノニーノ:(作曲)アストル・ピアソラ。父親ビセンテ(愛称ノニーノ)への愛情と愛惜がこめられた名作。

1960年代以降

1965 ブエノスアイレスの夏(ベラーノ・ポルテーニョ):(曲)アストル・ピアソラ。「ブエノスアイレスの四季」4曲中で最初に作られた。舞台劇「黄金の垂れ髪」のためにピアソラが一晩で書き上げたという。

1974 リベルタンゴ:(曲)アストル・ピアソラ。「自由」と「タンゴ」を組み合わせた合成語。


ハードディスクの隅から、10年も前の文章が出てきました。協立病院の総院長だった時代の経営報告です。
今更なんの役に立つものでもありませんが、61歳のときの苦闘の記録です。中小病院つぶしの攻撃に立ち向かっていましたが、いま考えてみると危機は医療よりも介護再編から来たようです。


未曾有の危機をどう乗り越えたのか

要約

私たちは、創立30周年を迎えた2006年度、空前の経営危機に陥りました。そして、職員の団結と奮闘によって、自力でこの困難を突破することができました。その困難はどんなものだったのか、どのようにして困難は克服されたのかを明らかにし、今後の教訓を汲み取りたいと思います。

最初に簡潔に結論を述べます。主要な困難の原因は、2006年4月の診療報酬改悪と7月からの療養病床における医療区分の導入にありました。直前の当てはめ試算では、両者合わせて年間1億3千万の減収=減益と予想されました。

実際には、2006年の減収は7800万円、減益は7500万円(推計)にとどまりました。

経営改善の第一の要因は、一般病棟での大幅収益増にありました。第三四半期には療養病棟の落ち込みを補って、2005年度並みの収益を確保するまでにいたります。第二の要因は、卸部門などの奮闘により大幅な医薬品・材料費の値下げが実現できたことです。収益増に伴い膨らんだ費用が、これにより一気に圧縮されました。

第三の要因は、病棟再編による効果です。4階病棟の一般病棟化によりベッド運用が効率化し、稼働率が改善しました。障害者加算制の導入により、病床単価も向上しています。

これら三つの要因のうちでもっとも大事なのは収益増です。いち早く収益増を実現できたからこそ、医薬品購入価の引き下げやベッド再編が利いてきたのです。医業収益が減少する中で第二、第三の要因が働いたとしても、「焼け石に水」だったでしょう。まさに「量が質を規定する」のです。

今回の危機がもたらした最大の教訓、それは職員のがんばりに徹底的に依拠すること、それなしに経営改善はありえないということです。また、職員ががんばることによって、それを通じて、現場の中から、次の打つ手がおのずから見えてくるということです。「わからなくなったときは、現場に聞け」という鉄則が、いまあらためて確認されたと感じています。

 

危機の中身はなんだったのか

1.未曾有の赤字

「さし迫る危機、それとどう闘うか」 これはロシア革命の直前にレーニンが書いた有名なパンフレットの題名ですが、昨年の今頃、まさに私たちはそのような心境でまなじりを決していました。

 

入院収益

協立病院事業利益

2006年度

15億9400万円

マイナス1億7000万円

2005年度

16億7200万円

マイナス1億5500万円

2006年度会計で、協立病院は未曾有の赤字を経験しました。最終決算では1億7000万円の赤字となっていますが、これは人件費の圧縮などで赤字幅を調整したことによるもので、これらの支出を2005年並みと仮定すれば、赤字額は昨年比7500万円増の2億3000万円に達します。

これまで道東勤医協では、協立病院の入院部門で生じる赤字を他部門で支える経営構造が定着していました。そのプラス・マイナス・バランスはマイナス1億5000万円程度とされてきました。

したがって、8000万円の利益未達状況が続けば、遅くない時期に道東勤医協は破産の危機に直面することになります。

 

2.危機をもたらしたもの

診療報酬の大幅引き下げ(4月)と療養病床における医療区分の導入(7月)

06年4月時点での予測: 年度当初、私たちは、4月からの診療報酬引き下げと、7月からの医療区分導入に伴う影響を試算しました。

まず4月診療報酬の改悪に伴う減収ですが、これは一般病床を中心に、12ヶ月間で3%と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

一般病棟

10億6400万円

10億3300万円

3100万円

3%

ついで7月の医療区分導入に伴う減収ですが、これは療養病床で9ヶ月で16%の減収と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

療養病棟

6億8500万円

6億0300万円

8200万円

16%

これをあわせると1億1300万円の減収となります。これは原理的にはそのまま1億1300万円の減益となります。

 

3.これに対する我々の経営努力は

じっと黙って去年並みの医療をやっていれば、赤字は2億6800万円まで膨らんだことになります。しかし最終結果を2億3000万円とすれば、私たちは2006年度の奮闘により、3800万円の利益を取り返したことになります。そして2007年度の第一四半期で見る限り、残りの利益未達も克服できる展望を持てる地点まで到達しました。

これからの話は二段構えになります。まず第一段は06年の苦闘の内容です。すなわち「我々はいかなる努力をして、3800万円の利益を取り返したか」という話です。第二段は06年3月以降の話です。すなわち「我々はいかなる努力をして、利益をゼロロク改定前の水準まで向上させたか」です。

 

ゼロロク改定への対応

1.診療報酬引き下げの入院医療への影響

①第一四半期における入院収益の実際の推移。

 

05年度第一四半期決算

06年度第一四半期決算

ダウン幅

ダウン率

病棟全体

4億0800万円

4億0400万円

マイナス400万円

1.7%

一般病棟

2億6600万円

2億5900万円

マイナス700万円

2.6%

療養病棟

1億4200万円

1億4500万円

プラス290万円

 

4月診療報酬改悪の影響はもっぱら一般病棟に現れました。二つの表を一つにしたため見にくいのですが、実際のダウン率は1.7%に留まりました。

これは一般病棟の落ち込みが予想を下回ったことに加え、療養病棟が昨年より実績を伸ばしたことによるものです。すでにここでも職員の頑張りが示されています。

しかし、事業利益は残念ながら大幅に悪化しています。昨年同期に比べ利益は1200万円の悪化を示しています(本部経費を除く)。既存の医療・経営構造のままの頑張りでは、展望は切り開けないことが、すでにこの時点で明らかです。

 

2.医療区分導入に伴う収益の減少とその克服

①医療区分導入で収益は劇的に減少した

 

第一四半期(再掲)

第二四半期(前年同期よりのダウン幅)

第三四半期(前年同期よりのダウン幅)

一般病棟(2A、2B)

2億5900万円

2億6200万円(マイナス90万円)

2億7900万円(プラス810万円)

療養病棟(3、4病棟)

1億4500万円

1億3000万円(マイナス2100万円)

1億3400万円(マイナス1600万円)

病棟合計

4億0100万円

3億9400万円(マイナス1800万円)

4億1300万円(マイナス700万円)

第二四半期に入り、恐れていた医療区分の導入効果が現実のものとなりました。療養病棟は第一四半期に比べ収益を1500万円、10%強も減らしました。前年同期に比べ2100万円の減収です。

しかしそれは、16%=2700万円減という予想に比べればはるかに健闘した内容でもありました。さらに第三四半期に入ってからは、医療区分のランクアップやベッド稼働率の向上などの努力などが実を結び、400万円の回復が見られています。

この間、最大の希望は一般病棟にありました。一般病棟の収益は急速に回復し、療養病棟の収入減を補うようになりました。第三四半期では第一四半期を1200万円、診療報酬改悪前の05年第一四半期を810万円も上回る収益を実現しました。

この結果、収益面だけ見れば、12月末の時点で医療区分導入の影響は克服できたことになります。まさに道東勤医協の底力が発揮された驚異的ながんばりです。

一般病棟Aの新規入院患者数は同じベット数で14名増えました。一般病棟Bにおいては新規入院患者中、緊急・即日入院患者の占める割合が53%から64%へと上昇しました。まさに「泣きながらのがんばり」です。

②医療区分導入は利益の悪化に直結した(内は昨年同期比較)

 

第一四半期

第二四半期

第三四半期

入院部門収益(再掲)

4億0100万円

3億9400万円

4億1300万円

事業費用(病院全体)

6億2000万円

6億1400万円

6億2400万円

利益(病院全体)

マイナス200万円

マイナス2000万円

マイナス1300万円

療養病棟の収益減は100%利益減としてかぶってきます。仮に収益を改悪前の状態に復帰させれば、そのための費用は全て赤字の増加となって現れます。経営構造の悪化です。

しかし喘ぎながらでも収益を増加させれば、それはそれなりに利益の改善に結びついていきます。上の表を見れば分かるように、第二四半期と第三四半期を比べると、収益が1900万円増えたことにより、赤字幅が700万円減っています。

 

③我々の努力は医療・経営構造を変えた: 支出構造の変化

 

05年度第一四半期

第一四半期

第二四半期

第三四半期

人件費

3億1600万円

3億1400万円

3億1500万円

3億3100万円

材料費

1億1900万円

1億2400万円

1億2900万円

1億2600万円

経費

9700万円

9900万円

1億0600万

1億0100万円

第二四半期はもっとも困難な時期でした。収益が減る中で費用の三要素がすべて上昇しています。特に材料費は第一四半期を500万円上回り、昨年同期に比べると1000万円も増えています。

第三四半期は、入院の収支構造が変化したことを典型的に示した時期となりました。第二四半期と比べると、収益が1900万の伸びなのに対して、時間外をふくめた人件費は1600万円も伸びています。これに対し医薬品費は価格交渉の成果により800万円も減少しました。診療材料費が700万円上がっていることを考えると、薬品使用量そのものは増えているはずで、実際には1000万円を超える経営効果を上げていると思われます。これが赤字を減少させる原動力となりました。

 

④収益増に関する若干の考察

私たちはここまでのがんばりで、かなり借りを返すことに成功しました。まず一般病棟のがんばりで収益を1900万円改善させました。ついで医薬品・材料費を節減することで利益を300万円改善しました。また療養病棟のアダプト努力により、400万円収益を増やしています。こうして2006年12月末現在で赤字を700万円減少させました。

一見すると、収益が増えれば増えるほど、それを上回る勢いで費用が増えていき、かえって赤字が増えるように見えます。いっそ、がんばらないほうが良い、人減らし合理化が唯一の解決策のようにも見えます。

しかし、私たちはゼロから出発したのではなく、マイナスから出発したのだということを忘れてはなりません。そこから考えれば、私たちは収益を大幅に増やしただけではなく、利益も立派に生み出しているのです。「稼ぐに追いつく貧乏なし」ということです。

収益増がなぜ大事なのでしょう。

第一に、収益が増えれば政策的選択の幅が広がります。これから語る病棟再編も、収益の着実な増加があったからこそ成り立った作戦でした。第二に、収益の増加は、医療と患者結集が順調に機能していることの反映です。すなわち経営インフラが健全であることの証拠です。第三に、収益増は全職員が気持ちをひとつする闘いの目標となりえます。泣きながらでもがんばれば成果が見える目標です。第四に、それは医療を必要としている人々に奉仕しようとする医療者としての実践と一致するからです。少なくともそれは、経営改善のために患者にしわ寄せしたり、切り捨てたりすることをもとめてはいません。

もちろんそれは出発点であり、その上にさまざまな経営上の工夫が必要とされていることは言うまでもありません。地域の患者状況や医師・看護婦事情によっては、長期的にはダウンサイジングや、特定機能への特化が必要となることがあるかもしれません。しかし収益増=職員のがんばりを出発点としない経営上の「対応」は、いずれ大きな壁にぶちあたるでしょう。

考えてみれば、療養病床制度の導入は「医師労働の軽減、医師不足への対応」などを理由としていましたが、いま考えれば、「楽して稼ごう」式の「対応」の側面が否定し切れません。厚労省にだまされたと愚痴るばかりでなく、だまされた私たちも反省しなくてはならないところがあります。

 

 

3.病棟再編による経営の劇的改善

①病棟再編計画の提起

第二四半期から第三四半期へと、職員の奮闘により経営改善の兆しが見えてきましたが、このままではとうてい持続可能な経営は成り立ちません。医療内容の変化までふくむ構造改善が必要です。

そこで管理部はベッド再編計画を打ち出しました。その柱は①4階病棟を療養病棟から一般病棟に変換すること、②2B病棟(急性期)の障害者加算を返上し、代わりに4階病棟に障害者加算制度と導入すること、③急性期をあつかう二つの病棟の病床数を20床減らすこと、減少分は二つの病棟に計4床の緊急ベッドを配置し、4階病棟を機動的に活用することで補うこと、でした。病床減は4階の看護要員を確保するための余儀ない選択でした。

いくつかのプロジェクトが重なる、複雑な課題でした。議論は難航しました。問題は①病床減で収益への影響はどのくらい出るのか、②4階病棟は一般病棟に変換した上に、障害者加算までとって、看護体制としてやっていけるのか、③今でも窮屈な急性期病棟は病床減になって急患に対応できるのか、④一般病棟は医師数の縛りがあるが、標欠になる危険はないのか、などでした。

管理部は、①病床減による収益減は稼働率アップにより取り戻せる、②同じ人件費で医療区分1の患者20人を診れば一日15万円、これは類アップと障害者加算分で取り返せる、③4階看護体制は二交代制度をとることで立ち上げ可能(持続可能とは言えないが)、④急性期病棟の病床減は、2Bが障害者加算を返上することで対応できる、⑤医師数問題は医師数が確保されている今の間に申請してしまい、あとは残った医師でがんばるしかない、と判断しました。

折も折り、内科常勤医の一人が退職の意向を示しました。総院長が内科スタッフ医師を呼び(といっても総院長をふくめ3名)、医師不足の中での入院ベッド「死守」について、膝を交えて懇談しました。「やりましょう、やるしかないでしょう」という結論でした。

 

②病棟再編による収益の変化

1月まで旧体制、2月を移行期とし、3月1日をもって新病棟体制に移行しました。したがって第四四半期は分析の対象となりません。直前の06年度第三四半期と2007年度第一四半期を比較します。また、収支決算が「06ショック」前と比べてどうかを見る場合、05年度同期との比較が必要です。それを下の表にまとめて示します。

 

06年第三四半期

07年第一四半期

05年第一四半期

入院部門収益(再掲)

4億1300万円

3億9500万円

4億0800万円

事業費用(病院全体)

5億8600万円

5億6000万円

5億6100万円

利益(病院全体)

マイナス1300万円

マイナス100万円

プラス1000万円

 (事業費用から本部費は除いてあります)

収益はやはりベッドの20床減が利いて、第三四半期に比べ1800万円落ちています。しかし第二四半期の収益とはほぼ同額です。基本的には、ベッド減の影響は最小限に食い止められてみてよいでしょう。

利益は本部費を除きほぼプラスマイナス・ゼロまで回復しました。第三四半期に比べ1200万円の改善です。05年度に比べるとまだ900万円ほど足りませんが、この年は特殊だった可能性があり、04年度の同期はマイナス300万円となっています。

 

③事業費用の内訳の変化

 

06年度第三四半期

07年度第一四半期

05年度第一四半期

人件費

3億3100万円

3億2500万円

3億1600万円

材料費

1億2600万円

1億1600万円

1億1900万円

経費

1億0100万円

9400万

9700万円

事業費用は第三四半期に比べ2400万円という驚異的な削減です。内訳を見ると、人件費の600万円減、材料費の1000万円減、経費の700万円減というように軒並み大幅にダウンしています。

人件費減を細かく見ると、常勤職員給与はむしろ増加しており、主として非常勤職員給与の700万円減少によるものです。(法定福利費の1200万円減という怪しい項目もある)

材料費減を細かく見ると、診療材料費が1200万円減少しており、医薬品費はむしろ300万円近く増加しています。外注委託費も変化ありません。もう医薬品値引きの影響はありません。経費の細目も満遍なく減っていますが、光熱水費が400万円減っています。

 

④医療内容との関連

これを医療内容と関連付けてみると、変化が見えてきます。

20床ベットが減ったということは、毎日入院患者が20人づつ減ったということを意味しているわけではありません。ベッドの稼働率と患者回転率が向上すれば良いのです。

 

ベット数

 

 

 

急性期病棟(2A、2B)

89⇒70

 

 

 

慢性期病棟(3階,4階)

95⇒95

 

 

 

医薬品費・検査外注費が変化ないことは、内科系急性期患者の数が変わっていないことを意味します。したがってベッド減の影響は療養型患者に振り向けられていることを意味します。そして医師・看護婦など職員がその後もがんばり続けていることを意味します。

診療材料費の著減は、季節変動に加え、整形外科固定が退職し、外科的処置が減少したこと、つまり、外科系患者の比率が減ってることを意味します。それは収益減に直接結びついています。それは間接的には、内科急患の入院の比率が高まったことを意味します。

非常勤職員の減少は、いわゆる介護重患の比率が減ったことを反映しているかもしれません。これについてはあとで別資料で点検します。一般経費の減少は、職員の間に危機意識が浸透したことの表れかもしれません。

まだ四半期を過ぎたばかりの時点で、長期見通しを語るのは慎重でなければなりませんが、第二四半期に入ってからも引き続き同様の傾向が続いていることから、病棟再編による経営改善は定着しつつあるものと見てよさそうです。

 

 

 

   

さすがは赤旗で、沖縄知事選が正確に評価されている。
昨日の段階では見えなかったことが、明らかになった。
まずこの表がとてもありがたい。

得票推移
前回選挙との比較だ
1.オール沖縄は総投票数が減った中で3万6千も得票を増やしている。これは敵失による勝利ではないということだ。翁長県政4年間のゆるぎのない組織的前進の成果と言える。
2.保守層を結集した勝利だ。前回は保守が3つに分裂した。翁長派、仲井眞派、そして下地派だ。分裂しなくても翁長さんは勝てたのだが。今回は翁長派以外の保守が一本化した。しかし前回票にさえ届いていない。
3.公明票効果が見られない。内地から5千人を動員したという公明党はどこへ行ったのか。差し引き数万の票は間違いなく動いたと思う。だとすると、それを上回る保守票の雪崩現象が起きたとしか考えられない。

つまり、今回の選挙の最大の特徴は前回選挙に始まった中央依存保守の地盤の崩壊と「オールオキナワ」体制の構築が一気に進行したことにある、と言えるだろう。

つぎに竹下記者の署名記事
勝利の方程式=争点隠しx公明動員x期日前投票
が今回に限って効かなかった。「不敗神話」が崩れた。
1.争点隠しが成功しなかった理由は、玉城側が「翁長の遺言」という形で辺野古の争点化に成功したこと。政治アパシー化が進む若者に対してアムロの一言は効いたと思う。投票直前の世論調査で辺野古反対が7割に達した。
名護では2月に争点隠しで負けたが、今回選挙では1800票差をつけた。
2.公明動員が成功しなかった。内地からの動員と締め付けが孤立した。地元メディアの出口調査で、公明支持者の3割が玉城に投票した。
3.期日前投票でも負けた。地元メディアの出口調査で、期日前投票でも玉城が圧倒した。
中祖記者は選挙の全国への影響について書いている
1.自民総裁選の「地方の反乱」と関連しているかもしれない。さらにこの流れは加速されるかもしれない。
2.野党共闘と草の根民主主義はさらに前進するだろう。

ただし、この2.については私はこう書き換えたい。
2’.「オールオキナワ方式」の本質はリベラル保守の反乱であり、野党共闘とは分けて考えるべきだ。リベラル保守の反乱は、全国でも「地方の反乱」としてその萌芽が見られる。
保守の反乱と野党共闘が結びつけば、政治の流れが変わってしまう可能性がある。
赤旗以外の論調にも触れておきたい。

1.異常な反共攻撃について
反共攻撃の先頭に立ったのは右翼のデマゴーグだった。
元東京新聞論説副主幹、長谷川幸洋はこう述べている。(MAG2 NEWS2018年10月05日誰が「玉城デニー当選なら沖縄は中国に」というデマを流したのかより)
こんな人物が知事になったら、沖縄の支持者だけでなく、中国や北朝鮮は大喜びだろう。祝電どころか、祝意表明の代表団を送ってくるかもしれない。そうなったら、歓迎の中国国旗(五星紅旗)が沖縄中にはためくのではないか。光景を想像するだけでも、ぞっとする。(9月26日、夕刊フジ)
もっと露骨に反中国デマを煽っているのが元海上自衛官のジャーナリスト、恵隆之介氏。2013年に『中国が沖縄を奪う日』という、センセーショナルな題名の本を刊行した。これらの文献がベースになって有象無象のネット右翼がSNSなどで誹謗・中傷・デマを繰り返し、国会議員や元市長などの肩書きを持つ人物が無批判に拡散した。
もう一つの攻撃、スキャンダル報道の「王道」としての内閣調査室=週刊文春によるネタである。(週刊文春と内閣調査室は前川問題を水に流し、よりを戻したようだ)
「週刊現代」の記事、「週刊文春の“隠し子”報道について週刊現代


2.中国攻撃のもう一つの側面
沖縄は基地に頼らない経済を目指して動き始めている。それは翁長県政が切り開いた道だ。国政は辺野古に関連して沖縄に対して懲罰的な予算配分をしている。
そのしがらみが崩れるようなことになると、沖縄の基地としての安定性は根底から揺らぐことになる。
翁長さんは2015年「沖縄県アジア経済戦略構想」を発表した。アジアの巨大マーケットの中心に位置する地理的優位性を生かし、国際ビジネス都市に飛躍しようというものだ。
これが基地に頼らない沖縄経済をどう作るかについての回答だ。
「基地に頼らない経済」の最大の柱が観光、特に中国・アジアを対象としたインバウンドが重要になる。
県知事選の舞台裏 2018年10月4日琉球新報では次のように報じている。
クルーズ船が次々と寄港し、国際通りは人波が途切れない。「観光立県」をうたう沖縄は昨年、観光客数が過去最多の939万人に達し、初めてハワイを超えた。
我々は原発立地が潤っても、結局、原発関連企業以外はすたれていく経過をみている。それが沖縄という島全体で起きていることだ。
観光で生きていくというなら基地はじゃまになる。基地関係者ばかりがのさばる政治・経済のあり方は否定されることになる。「嫌なものは嫌だ」と発言し始めれば、国にそれを押さえつける力はない。
だからおそらく最大の顧客になる中国との関係強化を警戒しているのだ。
しかし沖縄だけなぜ観光立国してはいけないのだ? それもまた「お国のため」なのか。










1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。

夜帰ってきてテレビでニュースを見た。驚いた。まさかデニーさんが勝利するとは思わなかった。台風がギリギリ投票に間に合うように、去ってくれたからなのだろうか。
事前の見込みでは組織が期日前投票でぎしぎしと囲い込み、公明党も締め付けを強化しているということで、どうしても足りないなぁと思っていた。各種選挙でも此の処負け続きだったからだ。
天気も組織票の強みを加勢しているかのように思えた。
ところが蓋を開けたらこういう事になった。おそらく沖縄県民の投票行動が劇的に変化したのであろう。他に考えようがない。
前回、翁長さんが勝利したときも、オール沖縄という投票行動パターンが出来上がったが、今回はそれをさらに乗り越える新たな投票行動が示された。その半分は、弔い選挙という事情で説明できるかも知れないが、残り半分はそれ以外の理由だろう。
投票率がどうだったのかが気になるが、もしそれが異常に高いものでなかったとすれば、自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか、ということになる。
おそらくそれは日本全国での立憲・平和勢力の勝利に向けた水路を示してくれることになるだろう。
早急な総括が望まれる。

とりあえず、ちょっと、各紙の報道を眺めてみる。
琉球新報
選挙戦そのものは力づくの組織戦だった

今回の県知事選は激戦が予想された。しかしフタを開けてみると玉城氏が予想外の圧勝。なんと過去最多得票の大勝という結果。

当 396,632 玉城デニー 無新

  316,458 佐喜真淳 無新 =自公維希

  開票100%
投票率は63.24%だった。これは前回選を0.89ポイント下回った。ということだ。

投票行動の組織率を示す期日前投票だが、5日前で全体の約2割に当たる1万6千票まで達した。これは4年前の知事選と比べて2.4倍多い。これまでにまして組織選であったことが分かる。

創価学会は本土から約5千人を沖縄入りさせた。彼らは学会員や自民党員を投票所へ連れて行く役割を負わされている。そのため、選挙期間中の沖縄のレンタカー予約はたくさんの学会員で埋まっている (アエラ)

それを考えると、「玉城氏が世論調査などでは終始リードし、そのまま、逃げ切って当選」という経過は非常にわかりにくい。

ガチガチの組織戦で、しかも組織票は自公が圧倒している。なのに終始玉城優勢だったというのはどういうことだ。

キャンペーンが勝敗を分けた?

キャンペーンを見ていると、出足の良さは弔い、タマ良し、アムロ良しということになろうが、これでは息切れするはずだ。

私が選対なら、デニーへの個人攻撃・中傷を徹底してやる。タレント上がりに任せられるか、あとはデニーの特異な生い立ちを使って過去を根掘り葉掘りと陰険に掘り出していく、週刊文春の得意技だ。場合によってはアムロいじりも辞さない。

ところが、この空中戦が功を奏さなかったばかりか、逆効果になった可能性がある。

出口調査の非公式な集計だが、玉城候補は無党派層や女性からの多くの支持を得たという。
また支持政党別の投票先では、無党派層の7割が玉城氏に投票した。
もちろん立憲、共産、社民の各支持層はほとんどが玉城氏に入れていた。

つまり、風は最初から最後まで玉城側に吹いていた。ただの風ではない。国家権力が総掛かりでねじ込んでもかなわないほどの強風である。
そのさい、アムロの一言は強烈なメッセージになった可能性もある。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております
非政治的だが、非政治的であるがゆえに強烈だ。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは翁長さんのキャッチフレーズで、玉城さんも使ったようだ。激烈なイデオロギーを持ち込んでいるのは誰か、非政治的でオールオキナワ的なのはどちらか。それがアムロのメッセージで鮮明にされている。

逆風を招いた自民党のキャンペーン

地元選対の幹部はこう言っているという。
『対立から対話へ』キャンペーンはおかしい。チャレンジする側のスローガンではない。「女性の質の向上」発言も女性票を遠ざけた。菅長官の「携帯電話料金の4割引き」も、沖縄県民をバカにしているのかとの反発を生んだ。
おそらく現地の頭越しに中央でキャンペーン戦略がねられ、それがいちいち逆効果を及ぼした、ということらしい。つまりは中央のおごりと侮りが常につきまとったのである。

ある国会議員は、『沖縄の人たちはよく戦ってくれた』と話した。集団自決を知る沖縄の人は、本土の人がこういう“愛国漫談”をすると、トゲに触れたように敏感に反発する。
そのことがわかって自民・公明の支持者が逃げた。

デニー玉城+翁長一家のタッグ
翁長は死の直前、後事を託したい人物として指名した。翁長は玉城を「戦後沖縄の歴史を背負い、沖縄を象徴する政治家になる」と評した。
県幹部のひとりは、「意表を突く名前でしたが、すぐに『なるほど』と思いました。翁長さんの着眼には唸らされました」と語った。
沖縄タイムスの記者座談会では次のように語られている
小さな子どもたちが「デニー」と駆け寄る場面が印象的だった。ギターを片手に「ロック」音楽を熱唱した。
ラジオDJになる前の玉城さんは、福祉関係の仕事を努めた後、ロック歌手となりライブハウスで歌っていた。琉球放送に自分の番組を持つようになり、人気ラジオパーソナリティーとして活躍していた。その後さらに政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年には衆院議員に初当選している。
デニー
琉球新報は伝えている。
沖縄県知事選で玉城氏ほど、いわれのない多くの罵詈雑言を浴びせられた候補者がかつていただろうか。
ネット上では玉城氏に対する誹謗中傷やデマが拡散された。模範となるべき国会議員までが真偽不明の情報を発信した。
これに対して反撃に立ち上がったのが翁長前知事の妻、樹子さんだった。
政府があらゆる権力を行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。何なんですかこれは。…そんな人たちには負けたくない。私も一緒に戦う
デニー選対の青年局は、翁長知事の息子の雄治くんがしきった。彼の組織したSNS班がネット選挙を盛り上げた。それもデニーさんの勢いにつながった。

琉球新報社説
玉城氏が当選したことで、新基地建設に反対する沖縄県民の強固な意志が改めて鮮明になった。政府は、前回、今回と2度の知事選で明確に示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。
この期に及んで、なおも新基地を押しつけるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない。
自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか
ということで、最初の問いに戻る。もちろんまだ語るだけの材料は出てきていない。
しかし割れたことは間違いなさそうだ。公明党が割れたというのはありえない。ありえないから割れた人がニュースになるのだ。
自民党が割れたのだと考えざるを得ない。それは翁長さんと保守的保守の間にできた亀裂より、さらに右側に亀裂が入ったのであろう。

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