鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年10月

「雨の歌」抄 マリー・ウチティローバ(群像の制作者)

嘆きと、空腹と、恐怖と… それから底知れぬ闇
みんなお墓の石になって。ラヴェンスブリュックに眠っている
何かの弾ける音と、ガチャガチャという音と、大声と…それが止まったとき
リディーツェの母は声もなく囁やく
疼く唇たちがリディーツェの歌を囁やく
囁いた歌は、それから
リディーツェの家まで行って、こだまする

ねんねしな、可愛い子
泣くのをおやめ、静かにおし
くまさん人形の夢を見ましょ
それから、お庭でいっしょにいる夢も…
私の歌でお前は眠る
それは「雨の歌」と溶け合うでしょう
…もし、お前が生きていたら

リディーツェ村は、反ナチ抵抗運動へのみせしめのために攻撃された。男はみな殺された。女や子どもはラヴェンスブリュックの強制収容所へ連れてゆかれ、そこでガス室に送り込まれた。最後に村は形跡もなくなった。


申し訳ないが、世界のいたる処にリディーツェはある。残念ながら相対化せざるを得ないのだ。
ただマリー・ウチティローバが制作した子どもたちの群像は、ここリディーツェにしかない。
これも申し訳ない言い方になるが、ウチティローバの群像のリアリティーと芸術性が半端でないのだ。子どもたちの表情に「嘆きと、空腹と、恐怖と」が恐ろしいまでに具象化されている。それは息苦しいほどの圧力で見るものに迫ってくる。
この群像を見るだけでリディツェまで足を運ぶ価値がある。
でも、邪道かもしれないが、世界中を巡演して、世界中の人に見てもらいたい。あえて高飛車な言い方をすれば、“見てもらわれるべき”なのだと思う。

「人間の顔をした社会主義」の意味

チェコ共産党の人と懇談をして、「いま、“人間の顔をした社会主義”をどうとらえ返すか」と質問もしたのだけど、ぶっちゃけた話、通訳さんがまったくだめで、話が通じなかったみたいだ。
チェコ人の通訳なんだけど、市内観光のときにわかったのだけど、そもそも日本語がよくわかっていない人で、勉強もあまりしていない。
この人がインでわからず、アウトでわからず、したがって相手が質問の意味をわからず、答えはちんぷんかんとなって、それをまた通訳が変な日本語でアウトしてくるから、ほぼ「電信ゲーム」状態。
帰ってからネットで調べようということで帰ってきた。

それはこれからの話しだが、とりあえず、「人間の顔をした社会主義」について考えてみたい。

私はそもそも「人間の顔をした社会主義」というのは否定形の表現なのだろうと思う。
変な話だが、1968年のはじめチェコ人の前にあった社会主義は人間の顔をしていなかった。だから人間の顔を取り戻そうという、いわばルネッサンス運動なのだろうと思う。

では「人間の顔をしていない社会主義」というのはどんな顔なのだろう。
私は、それは3つ考えられると思う。ひとつは非人間の顔、つまり無表情なロボットの顔だ。
ひとつは人の権利を侵害して利益を貪る獣の顔だ。
そしてもう一つはソ連やスターリンの意のままになって、国民を裏切る犬(イヌ)の顔だ。どれも人間の顔ではない。

資本主義というのは何よりも獣の顔をしている。弱肉強食を生活の論理としている以上当然のことだ。
社会主義はこの資本主義の論理に対する対抗倫理として生まれている。
なのにその帰結点がイヌの顔になりロボットの顔になるのはどうしてなのだろう。

私が考えるには、人間の顔が社会主義から失われたのは、運動が気高さと優しさを失ったからではないか。
つまりスターリン主義に代表されるこれまでの社会主義運動は、気高さと優しさを本質的に内包していなかったのではないかという問題意識に突き当たる。もちろん社会主義運動は、気高さと優しさで支えられてきた。しかし「ボリシェビキ型社会主義」はそれらの人間的特質をただ単に利用したに過ぎなかった。

今日、チェコにおいて人間の顔をした社会主義、気高さと優しさを基調とする社会主義は実現できないのだろうか。
少なくともチェコ共産党くらいはそういうことを主張しても良いのではないだろうか。
チャスラフスカの凛とした横顔を見るたびに、そんな気がするのである。

チャスラフスカは東京オリンピックで金メダル3個を獲得した。
tyasurahusuka

     チェコの名花チャスラフスカ死去 より 

彼女はプラハの春に賛同し「二千語宣言」に署名し、ワルシャワ条約軍の侵入に抗議した。
宣言への署名を撤回するようにもとめられても、それを拒否し続け、メキシコオリンピックでは抗議の意味から濃紺のレオタードで競技を行った。
チャスラフスカ

         ベラ・チャスラフスカ

より

帰りに成田に着いたら、空港で「ユーは何しに日本へ?」という番組の取材をやっていた。集合時間までの間、何気なしに眺めていたが、想像を超える悪戦苦闘ぶりで、スタッフの頑張りに敬服した。
それはどうでも良いのだが、「スターリンは何しにウィーンに?」というのはどうでも良くない。
先程はBBCの記事を紹介したが、「ヒトラーが同じ時代にウィーンにいた」というのは良いとして、スターリンがウィーンにいた理由ははっきりしない。
そのあたりを示唆した記事を見つけたので、そちらから紹介する。


第一次大戦前のウィーン
第一次世界大戦の前、ウィーンはボルシェビキにとって住みやすい都市であり、レオ・トロッツキのような人々の住み処となっていた。
1913年1月、ヨセフ・スターリンはレーニンの命令でウィーンにやって来た。彼はオーストリアの社会主義者と接触することになっていた。
不運なことに、スターリンはドイツ語を話せなかった。
彼はウィーンで "マルクス主義と民族問題"というパンフレットを書いた。これは後にペテルスブルクの新聞に掲載された。

トロヤノフスキーの家
スターリンは、ウィーンでは、シェーンブルン宮殿の近くのトロヤノフスキーというロシア人の家に住んでいた。トロヤノフスキーは元ツァーリ軍の砲兵士官。中央委員で理論誌の編集委員をつとめていた。裕福であったので自宅にヨシフを受け入れた。
レーニンの命により、ヨシフはウィーンに缶詰になり、オットー・バウアー、カール・レンナー、カール・カウツキーらの民族問題文献を脳みそに詰め込まれた。外国語が読めないヨシフのために、パニンが翻訳にあたった。
スターリンはそこで数週間過ごした後、ウィーンを去りクラコウへ戻った。
ロシア大革命が成功した後、トロヤノフスキーはロシアの駐米大使となった。トロヤノフスキーはメンシェビキの幹部だったが、ヨシフは一宿一飯の恩義を忘れなかったらしい。
長い間、スターリンはSchlobstrabe 30に住んではいなかったと考えられていた。それはウィーンでの滞在が違法であったことを示唆している。彼の "Meldezettel"(住民票)が発見されたのは1977年のことである。

記念プレートを据え付けたわけ
1949年、KPZRはヨシフの70歳の誕生日を祝って、住居の壁に記念プレートを据え付けた。
「オーストリアはロシアのモニュメントを破壊してはならない」という取り決めがあり、そのため1955年以降もそのプレートは生き残った。
これは別な文章だが
1956年のハンガリー動乱に際して、ナジ政府を支持するデモ隊が押しかけ、プレートを剥がそうとした。官憲がこれを阻止したため失敗したという。
だからウィーン第12区のSchlobstrabe 30番地には、いまも “20世紀における最も有名な犯罪者の一人”スターリンに敬意を表する唯一の記念プレートがあるのです。


これだけ書いてしまうと、もうBBCの記事はどうでも良くなるのだが、以下の条は紹介しておいたほうが良いと思う。(いささか勿体ぶった表現だが)

1913年1月、Stavros Papadopoulosという名のパスポートを携えた一人の男が、クラコウからの列車でウィーン北駅に降り立った。
その男は、薄汚れた服装で大きな農夫髭を生やし、質素な木製のスーツケースを下げていた。
「私は机のところに座っていた」と別の男が書いている。彼はクラコウから来た男と会うためにこの駅までやってきた。書いたのは数年後のことだ。
「ノックとともにドアが開けられた。そこには見知らぬ男がいて、こちらに入ってきた」
「彼は背が低く痩せていて、その灰色がかった茶色の顔は痘瘡の痕跡で覆われていた。見たところ、彼の瞳の中には親愛感のカケラもなかった」
こう書いたのは亡命中のロシア人インテリで、急進的な新聞「プラウダ」(真実)の編集人、レオン・トロツキーだった。
そして、そう書かれたのはPapadopoulosではなく、その本名をIosif Vissarionovich Dzhugashvili、仲間内の通称をコバ、そして後年はスターリンと呼ばれることになる男であった。

かなり胃もたれする表現だが、要するにスターリンはドイツ語も話せずに、トロツキーと会うためにウィーンに乗り込んだのだ。
その理由は先程の年表を見ればわかる。レーニンが純朴な田舎の青年を送り込むことで、トロツキーの“受け”を狙ったのだ。しかしトロツキーの印象を見ればわかるように、あまりこの策は成功したようには思えない。
むしろ、トロツキーの“上から目線”がスターリンにトラウマをもたらした可能性もあるだろう。

とりあえず、このくらいで止めておく。
「スターリンのウィーン」は旅の目的からすればきわめてトリビアルな話題である。鈴木頌という男がどういうふうに首を突っ込んでいくかの見本として読んでいただきたい。

若きスターリン 年譜

1878年12月18日 ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(Iosif Vissarionovich Dzhugashvili)が生まれる(レーニンより9歳年齢下)。生地はゴリ。父は靴職人でアル中。生活苦から幼少期だけで9回も転居。

ゴリ: グルジアの首都トビリシから西へ約76km、人口は4万7059人。

1886年 痘瘡となる。顔にアバタが残る。さらに馬車の事故から左腕にも障害が残る。

1888年 母の尽力でグルジア正教会の推薦を獲得。ゴリの初等神学校に入る。成績は優秀だった。

1893年(15歳) マルクス主義に基づいた革命運動に参加する。

1894年 ヨシフ、奨学金を得てチフリス (現Tbilisi) の高等神学校に入学。

1895年 ジョージア独立を目指す秘密政治結社“Messame Dassy”と接触。組織員の一部は社会主義者でもあった。

1898年 党の創立大会がミンスクで開かれる。大会は党名を「ロシア社会民主党」と決定。結党宣言を起草したストルーヴェは独断で党名を「ロシア社会民主労働党」とし、以後この名前が定着する。

98年 ヨシフ、Messame Dassyに加入。マルクスやレーニンの本を読む,

1899年 神学校から追放される。公式には授業料不足のためとなっているが、理由は諸説ある。

1899年 退学後もティフリスに残り革命運動に飛び込む。社会民主労働党に加わり、ティフリス地方委員会の専従となる。生計は家庭教師やティフリス測候所の雇員などで支える。

1900年 レーニン、マルトフ、プレハーノフらのグループが新聞『イスクラ』を創刊する。

1901年 気象台を辞め、地下組織で政治活動を開始。その後、バトゥミに逃れ、精油所の労働者となる。バトゥミは国会に面するジョージア最大の港で、トルコとの国境から約20km。

1902年4月 スターリン、バトゥミ精油所の労働者をストライキに組織。捕らえられ、シベリア送りとなる。

1903年 ブリュッセルで『イスクラ』派を中心に社会民主労働党第二回党大会が開かれる。大会はレーニンの党派とプレハーノフ・マルトフらのメンシェビキに分裂。

1903年 スターリン、シベリアのイルクーツクに送られ、そこでレーニン派に加わる。

1904年1月 列車に乗ってシベリアから逃亡、トビリシに潜伏する。その後常にOkhranka, (ツァーリの秘密警察)に追われる身となる。ヨシフはグルジアのメンシェビキあてに「信条」を提出したらしい。

1905年

1月 レーニン派、「多数派諸委員会ビューロー」を創設し新聞『フペリョード』を発行。ボルシェビキと呼ばれるようになる。

1月22日 「血の日曜日事件」(ユリウス暦)が発生。ロシア第一革命が始まる。
メンシェヴィキは革命の性格をブルジョア革命と規定した上で「急進的な革命的反政府党」にとどまると決定。
ボリシェヴィキは「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを掲げ、武装蜂起の準備を進めた。 ウィキペディアより
4月 ボルシェビキが単独で第3回党大会を開く。ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させた。
彼の主たる仕事は、富裕層から軍資金をゆすりとること、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を挑むことであった。ヨシフは金品強要、現金輸送車の襲撃などを通じ資金活動を展開。
7月 ヨシフがエカテリーナ・スワニーゼと結婚。エカテリーナは産後のチフスで死亡。
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        エカテリーナの葬儀 右端がスターリン

1906年

4月 ストックホルムで統一党大会が開かれる。ボリシェヴィキの観点では第4回党大会となる。この大会ではメンシェヴィキが多数派となる。ヨシフもカフカス代表として参加。レーニンと会い感動を受けたと言う。

1907年 

4月 ロンドンでロシア社会民主労働党第5回大会。ボリシェヴィキが多数派となる。ヨシフはレーニンと並ぶボルシェビキ幹部として出席。このとき大会では「銀行強盗禁止」が可決される。

6月 ヨシフがトビリシで現金輸送隊を待ち伏せ。340万米ドル相当の現金を強奪しレーニンに預ける。
この後のヨシフは悪の帝王さながらの活動である。アゼルバイジャンのイスラム教徒を結集しボリシェヴィキグループの設立を手伝った。黒百人組へのテロを強め、誘拐しては身代金をゆすり取った。贋金造りと強盗を行った。
1908年

4月7日 スターリンが逮捕(二度目)される。2年間のシベリアへの流刑を宣告される。

1908年 トロツキーら、ウィーンで『プラウダ』を創刊。党の統一を回復するよう訴え、多くの支持を結集する。

1909年7月 ヨシフは女装してシベリアの流刑地から逃亡。バクーへと戻る。
ヨシフは、ロシア・ビューローの創設とメンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれを拒んだ。
1910年

1月 トロツキーの呼びかけにより、パリで党中央委員会総会が開かれる。各派の代表が分派の清算で合意するが実行されず。

4月 ヨシフ、三度目の逮捕。シベリア流刑となる。
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1911年7月 ヨシフは流刑から解放されヴォログダに移住。

1912年

1月 プラハでボリシェビキ派と党維持派メンシェヴィキによる協議会。解党派を党から追放し新たな中央委員を選出した。

1月 プラハ協議会の直後にロシア国内で一斉逮捕があり、ヨシフは中央委員に繰り上げ選出される。

5月 サンクトペテルブルクで最初のボルシェビキ党の日刊紙「プラウダ」が発行される。ヨシフが編集者となる。

7月 ヨシフが逮捕され、3年間のシベリア送りとなる。38日後に逃亡に成功。

8月 ウィーンのトロツキー・グループ、プラハ協議会に対抗してパリ協議会を開催。レーニン派以外の全グループが参加し「八月ブロック」を形成するが、実質的な成果をもたらすことなく終わる。

年末 ヨシフはボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停を試みた。レーニンはプラウダの編集職を解任するが、その後、クラクフ(現ポーランド)のロシア・ビューローの指導者に指名。

1913年

2月 スターリンがウィーンからサンクトペテルブルクへ戻る。まもなく捕らえられ、シベリア送りとなる。スターリンは収容先から逃亡し、北極圏内の寒村に潜伏。そこで2月革命までを送る。

3月 ヨシフ、レーニンの勧めで『マルクス主義と民族問題』を発表。「スターリン」という筆名をはじめて使用。「スターリン」は「鋼鉄の人」を意味する。

1917年3月25日 ヨシフ、2月革命の後解放され、サンクトペテルブルクへ戻る。

ということで、ウィーン滞在はスターリンの最も多忙な時期の一コマだ。そしてこれは、スターリンの生涯における最も長い外国暮らしとなった。
ウィキペディアに掲載されていないということは、公式の年譜にないということだろう。
1ヶ月滞在したというが、前後関係から見ると、おそらくレーニンの命を受けてクラクフからウィーンに来た。次の記事でもわかるように彼はトロツキーと会っている。多分トロツキーと会いに来たのだと思う。隠すほどの話でもなさそうだが、トロツキーとわざわざ会いに来たというのが癪に障ったのだろうか。

ウィーンで泊まったのが市南部メドリング街のルネッサンス・ホテル。超モダンな内装でいささかたじろぐ。
朝、恐る恐る街に散歩に出る。朝と言っても日の出は7時半をすぎるから、まだ薄暗い。
ホテルの南側が堀になっていて、そこを電車が走る。この堀は旧ウィーン市の内外を分ける境界になっていたらしい。地図で見るとここから駅一つ隣がシェンブルン宮殿だ。ぶらりぶらりと通りを歩き始める。駅と宮殿の敷地の中間あたり、通りの南側のアパートにプレートが貼ってあって、何気なしに見上げるとスターリンの住居跡と書いてある。これには流石に驚いた。
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左下の緑がシェーンブルン公園の北東端。ホテルはメドリング駅の北東である。シェーンブルン城壁通りの「」がそのアパートだ。
遠景、近景、パネルと3枚写真を撮ってきたが、パァになったのは前記のとおり。
気を取り直すのに24時間を要した。
ウィキペディアのスターリンに関する記載はきわめて浩瀚だが、ウィーン在留の記録はない。一応次の記事に「年譜」として掲載しておく。
ネットで調べるとたくさんの記事がつかまるが、根っこはすべて同じで、2017年の「BBCマガジン」に記載された下記のもの。これも一応別記事として掲載しておく。
この記事は、アラン・ブロックの著書「対比列伝 ヒトラーとスターリン」(1991年)が出典らしい。この本では第一次大戦前のある時期に、スターリンとヒットラーが同時にウィーンにいたというのがミソになっているようだ。
1200px-Vienna_-_Stalin_Memorial_Tablet

ネットで探していてこの写真を見つけた。建物の外壁はこの色だったが、私の見たプレートは絵はなく文字だけだった。Schönbrunner Schlossstraße 30と書いてあるので同じ場所だろう。


本日、8日間の欧州旅行を終えて帰ってきた。家に電話したら妻が入院していた。
妹に見てもらっていて、訪問看護や介護の支援で無事入院はしていたが、それにしても5日間も知らずに過ごしていた。かなり気が滅入る。
それでも夜、自宅に落ち着いてから資料を整理し始めたが、カメラの写真のTiffファイルを削除しようとしたらJPEGファイルも一緒にやられた。プラハとウィーンの写真は全てアウトとなった。
頭が真っ白になった。しばらく充電が必要だ。

ガルデルについて英語の記事でもよくわからないところがある。
死の直前に作られた曲は4つある。1.下り坂(Cuesta abajo)、2.わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード)、3.帰還(Volver)、4.想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス)
このうち確かなのは「想いの届く日」が最後で、この映画のキャンペーン中に飛行機事故でなくなったことである。「帰還」はその前年34年に作られた映画の主題歌である。「下り坂」(Cuesta abajo)は帰還と同じく34年に作られた映画の主題歌らしい。しかしこれは曖昧である。
一番曖昧なのが「わが懐かしのブエノスアイレス」で、これは34あるいは35年に作られた別人の映画のために、ガルデルがつけた曲らしい。
ただしこの辺は定かでない。ネットでは今のところこれが限界で、後は図書館に行くしかなさそうだ。と言っても北海道の図書館ではあまり期待できないが。

タンゴ名曲百選にあげた曲を作曲年順に並べました。原語も入れるべきでしょう。特に古い曲の場合、作曲時からヒットしたのではなく、後からカバーして大ヒットになった場合もあるので、その年も書き込まなければならないでしょう。
そのうち、少しづつYouTubeにアップしていこうと思います。

19世紀のタンゴ

1890 泣き虫(エル・ジョロン):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)伝アンブロッシオ・ラドリサーニ。
俳優のラドリサーニの作品というが、実際は当時流行した伝承曲らしい。カディカモの歌詞は後年映画主題歌として作られた。

1897 エントレリオの人(エル・エントレリアーノ):(曲)ロセンド・メンディサバル。
古典タンゴの中では最も古い作品。


1898 ドン・ファン:(曲)エルネスト・ポンシオ。


1900年代

1903 エル・チョクロ(とうもろこし):(曲)アンヘル・ビジョルド。
歌詞は1947年にエンリケ・サントス・ディセポロが作った。1953年に「キッス・オブ・ファイアー」と題されて米国のヒット・パレード上位に入った。

1905 混血娘(ラ・モローチャ):(詞)アンヘル・ビジョルド(曲)エンリケ・サボリード。

1906 オテル・ビクトリア:(曲)フェリシアーノ・ラタサ。
アルゼンチン中北部の町コルドバでオテル・ビクトリアというホテルが開かれた。その開業式典の席で初演されたものという。

1907 フェリシア:(曲)エンリケ・サボリード。

1908 7月9日(ヌエベ・デ・フーリオ):(曲)ホセ・ルイ・パドゥラ。
「7月9日」は1816年のこの日、独立宣言が発せられた記念日である。

1910年代

1910 独立(インデペンデンシア):(曲)アルフレド・ベビラクァ。
「革命100年」を祝う祭典(センテナリオ)で初演されたもの。

1910 ロドリゲス・ペーニャ:(曲)ビセンテ・グレコ。
題名はロドリゲス・ペーニャ通りにあるサロン、「サン・マルティン」を冠したもの。

1910 夜明け(エル・アマネセール):(曲)ロベルト・フィルポ。

1915 医学生(エル・インテルナード):(曲)フランシスコ・カナロ。医学部学生のダンスパーティのために作られた。

1916 デレーチョ・ビエホ(わき目もふらず)。(曲)エドアルド・アローラス。
直訳すると「昔の法律」、題名から想像されるように法学部学生に捧げられている。前の年の医学生がヒットしたから柳の下のどじょうを狙ったような気もする。

1916 ラ・クンパルシータ:(曲)G・H・マトス・ロドリゲス。
モンテビデオの無名の学生が作曲。24年にロベルト・フィルポが発掘し、バンドネオン変奏部や対旋律も加えられて大ヒットした。題名は仮装行列の意味で、キューバではコンパルサと言う。

1916 花火(フエゴス・アルティフィシアーレス):(曲)ロベルト・フィルポ&エドアルド・アローラス。

1916 霊感(インスピラシオン):(曲)ペレグリーノ・パウロス。

1916 わが悲しみの夜(ミ・ノーチェ・トリステ):(詞)パスクアル・コントゥルシ(曲)サムエル・カストリオータ。
ガルデルが最初に歌ってヒットさせたタンゴ。捨てられた女への「うらみ節」。それまでガルデルは民謡歌いだった。

1917 エル・マルネ:(曲)エドアルド・アローラス。
第1次世界大戦に於ける激戦地(フランス)を指す。アローラスはフランス系移民だったから祖国の戦勝を祝って書いたのであろう。

1918 バンドネオンの嘆き(ケハス・デ・バンドネオン):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1920年代

1920 気取り屋(チケ):(作曲)リカルド・ルイス・ブリグノロ。

1920 ラ・カチーラ:(曲)エドアルド・アローラス。
「地面に住み昆虫を食べる雀に似た小さな鳥」のことなんだそうですが、想像つきません。

1922 狂女(ロカ):(詞)アントニオ・ビエルゴル(曲)マヌエル・ホベス。
品のいい歌ではないが、百選というと外せない、「そういう曲ってあるよね」という曲

1923 蝶々(ラ・マリポーサ):(曲)ペドロ・マフィア。

1923 五分と五分(マノ・ア・マノ):(詞)C・E・フローレス(曲)C・ガルデル/J・ラサーノ。

1924 ガウチョの嘆き(センティミエント・ガウチョ):(曲)F.カナロ、R.カナロ。
オデオン社のタンゴコンクールで第一位。その時の第三位は「たそがれのオルガニート」であった(うぃき)。

1924 たそがれのオルガニート(オルガニート・デ・ラ・タルデ):(曲)カトゥロ・カスティジョ。

1924 想い出(レクエルド):(曲)オスバルド・プグリエーセ。エドゥアルド・モレーノの歌詞がついている。

1924 淡き光に(A MEDIA LUZ):(作詞)カルロス・セサル・レンシ(作曲)エドガルド・ドナート。
ブエノスアイレスの繁華街「コリエンテス通り348番地」には、扉にこの曲の楽譜が描かれている。

1926 小径(カミニート):(詞)コリア・ペニャローサ(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベ。
ラ・ボカに近い鉄道廃線跡地が「カミニート」公園になっている。

1926 パリのカナロ(カナロ・エン・パリス):(曲)ファン・カルダレーラ+アレハンドロ・スカルピーノ合作。
フランシスコ・カナロ楽団のパリ公演成功を祝う歌。

1927 さらば友よ(アディオス・ムチャーチョス):(作詞)セサル・ベダニ(作曲)フリオ・サンデルス。
アルゼンチンでは、この曲を演奏すると不吉なことが起こるといわれ、最近では余り演奏されない。

1927 ミロンガのすすり泣くとき(クアンド・ジョラ・ラ・ミロンガ):(曲)ファン・デ・ディオス・フィリベルト。

1927 悪い仲間(マーラ・フンタ):(曲)J・デカロ/P・ラウレンス。

1928 黄金の心(コラソン・デ・オロ):(作曲)フランシスコ・カナロ。

1928 今宵われ酔いしれて(エスタ・ノーチェ・メ・エンボラーチョ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1930年代

1930 ジーラ・ジーラ:(詞・曲)エンリケ・S・ディセポロ。
不況と政治不安の時代でもあり、この曲はこの年最大のヒット曲となる。「俺は河原の枯れすすき」と通じるものがある。

1931 告白(コンフェシオン):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。

1932 エル・ウラカン(ハリケーン):(曲)エドガルド・ドナート。

1931 交わす盃(トモ・イ・オブリーゴ):(詞)マヌエル・ロメロ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルがフランスで撮影した映画「ブエノスアイレスの灯」で歌われた。

1934 下り坂(クエスタ・アバホ):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。同名のパラマウント映画の主題歌。作曲者ガルデル自身が主演。

1934 わが懐かしのブエノスアイレス(ミ・ブエノスアイレス・ケリード):大歌手ガルデルが自ら主演した映画「下り坂」の主題歌。

1935 古道具屋(カンバラーチェ):(詞・曲)エンリケ・サントス・ディセポロ。映画「バンドネオンの心」の中の1曲。

1935 想いの届く日(エル・ディア・ケ・メ・キエラス):(詞)アルフレド・レペラ(曲)カルロス・ガルデル。ガルデルが主演した米パラマウント映画の主題曲。とうでもよいが、曲名は正式には帰還(ボルベール)。

1936 ナイフで一突き(ラ・プニャラーダ):(曲)ピンティン・カステジャーノス。ミロンガに編曲したダリエンソのレコードはミリオン・セラーとなった。


1936 郷愁(ノスタルヒアス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。
不慮の死を遂げたガルデルを主人公とした「ブエノスアイレスの歌い手」のために作られた。


1940年代
1942 酔いどれたち(ロス・マレアドス):(詞)エンリケ・カディカモ(曲)ファン・カルロス・コビアン。1922年に発表された古い曲を、トロイロが発掘してフィオレンティーノが歌ったところリバイバル。
1943 人は(ウノ):(詞)エンリケ・S・ディセポロ(曲)マリアノ・モレス。

1945 さらば草原よ(アディオス・パンパ・ミア):(作詞)イボ・ペライ(作曲)マリアノ・モレス/フランシスコ・カナロ。カナロの音楽劇「パリのタンゴ」の挿入歌。

1946 ラ・ジュンバ:(曲)オスバルド・プグリエーセ。

1947 エネ・エネ(何某):(曲)オスバルド・ルジェロ。若くしてオスバルド・プグリエーセ楽団の第1バンドネオン奏者となり、後にセステート・タンゴの中核として活躍したルジェロの作品。

1948 降る星のごとく(ジュビア・デ・エストレージャス):(曲)オスマル・マデルナ。
1948 南(スール):(詞)オメロ・マンシ(曲)アニバル・トロイロ。ブエノスアイレスの南部ヌエバ・ポンページャ地区を題材とした曲。


1950年代
1951 うそつき女(ラ・トランペーラ):(曲)アニバル・トロイロ。

1952 兵隊風のブーツ(タキート・ミリタール):(曲)マリアノ・モレス。以前は「軍靴の響き」と訳されていた。

1953 来るべきもの(ロ・ケ・ベンドゥラ):(曲)アストル・ピアソラ。

1957 バイーア・ブランカ:(作曲)カルロス・ディサルリ。

1959 アディオス・ノニーノ:(作曲)アストル・ピアソラ。父親ビセンテ(愛称ノニーノ)への愛情と愛惜がこめられた名作。

1960年代以降

1965 ブエノスアイレスの夏(ベラーノ・ポルテーニョ):(曲)アストル・ピアソラ。「ブエノスアイレスの四季」4曲中で最初に作られた。舞台劇「黄金の垂れ髪」のためにピアソラが一晩で書き上げたという。

1974 リベルタンゴ:(曲)アストル・ピアソラ。「自由」と「タンゴ」を組み合わせた合成語。


ハードディスクの隅から、10年も前の文章が出てきました。協立病院の総院長だった時代の経営報告です。
今更なんの役に立つものでもありませんが、61歳のときの苦闘の記録です。中小病院つぶしの攻撃に立ち向かっていましたが、いま考えてみると危機は医療よりも介護再編から来たようです。


未曾有の危機をどう乗り越えたのか

要約

私たちは、創立30周年を迎えた2006年度、空前の経営危機に陥りました。そして、職員の団結と奮闘によって、自力でこの困難を突破することができました。その困難はどんなものだったのか、どのようにして困難は克服されたのかを明らかにし、今後の教訓を汲み取りたいと思います。

最初に簡潔に結論を述べます。主要な困難の原因は、2006年4月の診療報酬改悪と7月からの療養病床における医療区分の導入にありました。直前の当てはめ試算では、両者合わせて年間1億3千万の減収=減益と予想されました。

実際には、2006年の減収は7800万円、減益は7500万円(推計)にとどまりました。

経営改善の第一の要因は、一般病棟での大幅収益増にありました。第三四半期には療養病棟の落ち込みを補って、2005年度並みの収益を確保するまでにいたります。第二の要因は、卸部門などの奮闘により大幅な医薬品・材料費の値下げが実現できたことです。収益増に伴い膨らんだ費用が、これにより一気に圧縮されました。

第三の要因は、病棟再編による効果です。4階病棟の一般病棟化によりベッド運用が効率化し、稼働率が改善しました。障害者加算制の導入により、病床単価も向上しています。

これら三つの要因のうちでもっとも大事なのは収益増です。いち早く収益増を実現できたからこそ、医薬品購入価の引き下げやベッド再編が利いてきたのです。医業収益が減少する中で第二、第三の要因が働いたとしても、「焼け石に水」だったでしょう。まさに「量が質を規定する」のです。

今回の危機がもたらした最大の教訓、それは職員のがんばりに徹底的に依拠すること、それなしに経営改善はありえないということです。また、職員ががんばることによって、それを通じて、現場の中から、次の打つ手がおのずから見えてくるということです。「わからなくなったときは、現場に聞け」という鉄則が、いまあらためて確認されたと感じています。

 

危機の中身はなんだったのか

1.未曾有の赤字

「さし迫る危機、それとどう闘うか」 これはロシア革命の直前にレーニンが書いた有名なパンフレットの題名ですが、昨年の今頃、まさに私たちはそのような心境でまなじりを決していました。

 

入院収益

協立病院事業利益

2006年度

15億9400万円

マイナス1億7000万円

2005年度

16億7200万円

マイナス1億5500万円

2006年度会計で、協立病院は未曾有の赤字を経験しました。最終決算では1億7000万円の赤字となっていますが、これは人件費の圧縮などで赤字幅を調整したことによるもので、これらの支出を2005年並みと仮定すれば、赤字額は昨年比7500万円増の2億3000万円に達します。

これまで道東勤医協では、協立病院の入院部門で生じる赤字を他部門で支える経営構造が定着していました。そのプラス・マイナス・バランスはマイナス1億5000万円程度とされてきました。

したがって、8000万円の利益未達状況が続けば、遅くない時期に道東勤医協は破産の危機に直面することになります。

 

2.危機をもたらしたもの

診療報酬の大幅引き下げ(4月)と療養病床における医療区分の導入(7月)

06年4月時点での予測: 年度当初、私たちは、4月からの診療報酬引き下げと、7月からの医療区分導入に伴う影響を試算しました。

まず4月診療報酬の改悪に伴う減収ですが、これは一般病床を中心に、12ヶ月間で3%と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

一般病棟

10億6400万円

10億3300万円

3100万円

3%

ついで7月の医療区分導入に伴う減収ですが、これは療養病床で9ヶ月で16%の減収と試算されました。

 

改定前(05年決算)

改定後(06年度予測)

ダウン幅

ダウン率

療養病棟

6億8500万円

6億0300万円

8200万円

16%

これをあわせると1億1300万円の減収となります。これは原理的にはそのまま1億1300万円の減益となります。

 

3.これに対する我々の経営努力は

じっと黙って去年並みの医療をやっていれば、赤字は2億6800万円まで膨らんだことになります。しかし最終結果を2億3000万円とすれば、私たちは2006年度の奮闘により、3800万円の利益を取り返したことになります。そして2007年度の第一四半期で見る限り、残りの利益未達も克服できる展望を持てる地点まで到達しました。

これからの話は二段構えになります。まず第一段は06年の苦闘の内容です。すなわち「我々はいかなる努力をして、3800万円の利益を取り返したか」という話です。第二段は06年3月以降の話です。すなわち「我々はいかなる努力をして、利益をゼロロク改定前の水準まで向上させたか」です。

 

ゼロロク改定への対応

1.診療報酬引き下げの入院医療への影響

①第一四半期における入院収益の実際の推移。

 

05年度第一四半期決算

06年度第一四半期決算

ダウン幅

ダウン率

病棟全体

4億0800万円

4億0400万円

マイナス400万円

1.7%

一般病棟

2億6600万円

2億5900万円

マイナス700万円

2.6%

療養病棟

1億4200万円

1億4500万円

プラス290万円

 

4月診療報酬改悪の影響はもっぱら一般病棟に現れました。二つの表を一つにしたため見にくいのですが、実際のダウン率は1.7%に留まりました。

これは一般病棟の落ち込みが予想を下回ったことに加え、療養病棟が昨年より実績を伸ばしたことによるものです。すでにここでも職員の頑張りが示されています。

しかし、事業利益は残念ながら大幅に悪化しています。昨年同期に比べ利益は1200万円の悪化を示しています(本部経費を除く)。既存の医療・経営構造のままの頑張りでは、展望は切り開けないことが、すでにこの時点で明らかです。

 

2.医療区分導入に伴う収益の減少とその克服

①医療区分導入で収益は劇的に減少した

 

第一四半期(再掲)

第二四半期(前年同期よりのダウン幅)

第三四半期(前年同期よりのダウン幅)

一般病棟(2A、2B)

2億5900万円

2億6200万円(マイナス90万円)

2億7900万円(プラス810万円)

療養病棟(3、4病棟)

1億4500万円

1億3000万円(マイナス2100万円)

1億3400万円(マイナス1600万円)

病棟合計

4億0100万円

3億9400万円(マイナス1800万円)

4億1300万円(マイナス700万円)

第二四半期に入り、恐れていた医療区分の導入効果が現実のものとなりました。療養病棟は第一四半期に比べ収益を1500万円、10%強も減らしました。前年同期に比べ2100万円の減収です。

しかしそれは、16%=2700万円減という予想に比べればはるかに健闘した内容でもありました。さらに第三四半期に入ってからは、医療区分のランクアップやベッド稼働率の向上などの努力などが実を結び、400万円の回復が見られています。

この間、最大の希望は一般病棟にありました。一般病棟の収益は急速に回復し、療養病棟の収入減を補うようになりました。第三四半期では第一四半期を1200万円、診療報酬改悪前の05年第一四半期を810万円も上回る収益を実現しました。

この結果、収益面だけ見れば、12月末の時点で医療区分導入の影響は克服できたことになります。まさに道東勤医協の底力が発揮された驚異的ながんばりです。

一般病棟Aの新規入院患者数は同じベット数で14名増えました。一般病棟Bにおいては新規入院患者中、緊急・即日入院患者の占める割合が53%から64%へと上昇しました。まさに「泣きながらのがんばり」です。

②医療区分導入は利益の悪化に直結した(内は昨年同期比較)

 

第一四半期

第二四半期

第三四半期

入院部門収益(再掲)

4億0100万円

3億9400万円

4億1300万円

事業費用(病院全体)

6億2000万円

6億1400万円

6億2400万円

利益(病院全体)

マイナス200万円

マイナス2000万円

マイナス1300万円

療養病棟の収益減は100%利益減としてかぶってきます。仮に収益を改悪前の状態に復帰させれば、そのための費用は全て赤字の増加となって現れます。経営構造の悪化です。

しかし喘ぎながらでも収益を増加させれば、それはそれなりに利益の改善に結びついていきます。上の表を見れば分かるように、第二四半期と第三四半期を比べると、収益が1900万円増えたことにより、赤字幅が700万円減っています。

 

③我々の努力は医療・経営構造を変えた: 支出構造の変化

 

05年度第一四半期

第一四半期

第二四半期

第三四半期

人件費

3億1600万円

3億1400万円

3億1500万円

3億3100万円

材料費

1億1900万円

1億2400万円

1億2900万円

1億2600万円

経費

9700万円

9900万円

1億0600万

1億0100万円

第二四半期はもっとも困難な時期でした。収益が減る中で費用の三要素がすべて上昇しています。特に材料費は第一四半期を500万円上回り、昨年同期に比べると1000万円も増えています。

第三四半期は、入院の収支構造が変化したことを典型的に示した時期となりました。第二四半期と比べると、収益が1900万の伸びなのに対して、時間外をふくめた人件費は1600万円も伸びています。これに対し医薬品費は価格交渉の成果により800万円も減少しました。診療材料費が700万円上がっていることを考えると、薬品使用量そのものは増えているはずで、実際には1000万円を超える経営効果を上げていると思われます。これが赤字を減少させる原動力となりました。

 

④収益増に関する若干の考察

私たちはここまでのがんばりで、かなり借りを返すことに成功しました。まず一般病棟のがんばりで収益を1900万円改善させました。ついで医薬品・材料費を節減することで利益を300万円改善しました。また療養病棟のアダプト努力により、400万円収益を増やしています。こうして2006年12月末現在で赤字を700万円減少させました。

一見すると、収益が増えれば増えるほど、それを上回る勢いで費用が増えていき、かえって赤字が増えるように見えます。いっそ、がんばらないほうが良い、人減らし合理化が唯一の解決策のようにも見えます。

しかし、私たちはゼロから出発したのではなく、マイナスから出発したのだということを忘れてはなりません。そこから考えれば、私たちは収益を大幅に増やしただけではなく、利益も立派に生み出しているのです。「稼ぐに追いつく貧乏なし」ということです。

収益増がなぜ大事なのでしょう。

第一に、収益が増えれば政策的選択の幅が広がります。これから語る病棟再編も、収益の着実な増加があったからこそ成り立った作戦でした。第二に、収益の増加は、医療と患者結集が順調に機能していることの反映です。すなわち経営インフラが健全であることの証拠です。第三に、収益増は全職員が気持ちをひとつする闘いの目標となりえます。泣きながらでもがんばれば成果が見える目標です。第四に、それは医療を必要としている人々に奉仕しようとする医療者としての実践と一致するからです。少なくともそれは、経営改善のために患者にしわ寄せしたり、切り捨てたりすることをもとめてはいません。

もちろんそれは出発点であり、その上にさまざまな経営上の工夫が必要とされていることは言うまでもありません。地域の患者状況や医師・看護婦事情によっては、長期的にはダウンサイジングや、特定機能への特化が必要となることがあるかもしれません。しかし収益増=職員のがんばりを出発点としない経営上の「対応」は、いずれ大きな壁にぶちあたるでしょう。

考えてみれば、療養病床制度の導入は「医師労働の軽減、医師不足への対応」などを理由としていましたが、いま考えれば、「楽して稼ごう」式の「対応」の側面が否定し切れません。厚労省にだまされたと愚痴るばかりでなく、だまされた私たちも反省しなくてはならないところがあります。

 

 

3.病棟再編による経営の劇的改善

①病棟再編計画の提起

第二四半期から第三四半期へと、職員の奮闘により経営改善の兆しが見えてきましたが、このままではとうてい持続可能な経営は成り立ちません。医療内容の変化までふくむ構造改善が必要です。

そこで管理部はベッド再編計画を打ち出しました。その柱は①4階病棟を療養病棟から一般病棟に変換すること、②2B病棟(急性期)の障害者加算を返上し、代わりに4階病棟に障害者加算制度と導入すること、③急性期をあつかう二つの病棟の病床数を20床減らすこと、減少分は二つの病棟に計4床の緊急ベッドを配置し、4階病棟を機動的に活用することで補うこと、でした。病床減は4階の看護要員を確保するための余儀ない選択でした。

いくつかのプロジェクトが重なる、複雑な課題でした。議論は難航しました。問題は①病床減で収益への影響はどのくらい出るのか、②4階病棟は一般病棟に変換した上に、障害者加算までとって、看護体制としてやっていけるのか、③今でも窮屈な急性期病棟は病床減になって急患に対応できるのか、④一般病棟は医師数の縛りがあるが、標欠になる危険はないのか、などでした。

管理部は、①病床減による収益減は稼働率アップにより取り戻せる、②同じ人件費で医療区分1の患者20人を診れば一日15万円、これは類アップと障害者加算分で取り返せる、③4階看護体制は二交代制度をとることで立ち上げ可能(持続可能とは言えないが)、④急性期病棟の病床減は、2Bが障害者加算を返上することで対応できる、⑤医師数問題は医師数が確保されている今の間に申請してしまい、あとは残った医師でがんばるしかない、と判断しました。

折も折り、内科常勤医の一人が退職の意向を示しました。総院長が内科スタッフ医師を呼び(といっても総院長をふくめ3名)、医師不足の中での入院ベッド「死守」について、膝を交えて懇談しました。「やりましょう、やるしかないでしょう」という結論でした。

 

②病棟再編による収益の変化

1月まで旧体制、2月を移行期とし、3月1日をもって新病棟体制に移行しました。したがって第四四半期は分析の対象となりません。直前の06年度第三四半期と2007年度第一四半期を比較します。また、収支決算が「06ショック」前と比べてどうかを見る場合、05年度同期との比較が必要です。それを下の表にまとめて示します。

 

06年第三四半期

07年第一四半期

05年第一四半期

入院部門収益(再掲)

4億1300万円

3億9500万円

4億0800万円

事業費用(病院全体)

5億8600万円

5億6000万円

5億6100万円

利益(病院全体)

マイナス1300万円

マイナス100万円

プラス1000万円

 (事業費用から本部費は除いてあります)

収益はやはりベッドの20床減が利いて、第三四半期に比べ1800万円落ちています。しかし第二四半期の収益とはほぼ同額です。基本的には、ベッド減の影響は最小限に食い止められてみてよいでしょう。

利益は本部費を除きほぼプラスマイナス・ゼロまで回復しました。第三四半期に比べ1200万円の改善です。05年度に比べるとまだ900万円ほど足りませんが、この年は特殊だった可能性があり、04年度の同期はマイナス300万円となっています。

 

③事業費用の内訳の変化

 

06年度第三四半期

07年度第一四半期

05年度第一四半期

人件費

3億3100万円

3億2500万円

3億1600万円

材料費

1億2600万円

1億1600万円

1億1900万円

経費

1億0100万円

9400万

9700万円

事業費用は第三四半期に比べ2400万円という驚異的な削減です。内訳を見ると、人件費の600万円減、材料費の1000万円減、経費の700万円減というように軒並み大幅にダウンしています。

人件費減を細かく見ると、常勤職員給与はむしろ増加しており、主として非常勤職員給与の700万円減少によるものです。(法定福利費の1200万円減という怪しい項目もある)

材料費減を細かく見ると、診療材料費が1200万円減少しており、医薬品費はむしろ300万円近く増加しています。外注委託費も変化ありません。もう医薬品値引きの影響はありません。経費の細目も満遍なく減っていますが、光熱水費が400万円減っています。

 

④医療内容との関連

これを医療内容と関連付けてみると、変化が見えてきます。

20床ベットが減ったということは、毎日入院患者が20人づつ減ったということを意味しているわけではありません。ベッドの稼働率と患者回転率が向上すれば良いのです。

 

ベット数

 

 

 

急性期病棟(2A、2B)

89⇒70

 

 

 

慢性期病棟(3階,4階)

95⇒95

 

 

 

医薬品費・検査外注費が変化ないことは、内科系急性期患者の数が変わっていないことを意味します。したがってベッド減の影響は療養型患者に振り向けられていることを意味します。そして医師・看護婦など職員がその後もがんばり続けていることを意味します。

診療材料費の著減は、季節変動に加え、整形外科固定が退職し、外科的処置が減少したこと、つまり、外科系患者の比率が減ってることを意味します。それは収益減に直接結びついています。それは間接的には、内科急患の入院の比率が高まったことを意味します。

非常勤職員の減少は、いわゆる介護重患の比率が減ったことを反映しているかもしれません。これについてはあとで別資料で点検します。一般経費の減少は、職員の間に危機意識が浸透したことの表れかもしれません。

まだ四半期を過ぎたばかりの時点で、長期見通しを語るのは慎重でなければなりませんが、第二四半期に入ってからも引き続き同様の傾向が続いていることから、病棟再編による経営改善は定着しつつあるものと見てよさそうです。

 

 

 

   

さすがは赤旗で、沖縄知事選が正確に評価されている。
昨日の段階では見えなかったことが、明らかになった。
まずこの表がとてもありがたい。

得票推移
前回選挙との比較だ
1.オール沖縄は総投票数が減った中で3万6千も得票を増やしている。これは敵失による勝利ではないということだ。翁長県政4年間のゆるぎのない組織的前進の成果と言える。
2.保守層を結集した勝利だ。前回は保守が3つに分裂した。翁長派、仲井眞派、そして下地派だ。分裂しなくても翁長さんは勝てたのだが。今回は翁長派以外の保守が一本化した。しかし前回票にさえ届いていない。
3.公明票効果が見られない。内地から5千人を動員したという公明党はどこへ行ったのか。差し引き数万の票は間違いなく動いたと思う。だとすると、それを上回る保守票の雪崩現象が起きたとしか考えられない。

つまり、今回の選挙の最大の特徴は前回選挙に始まった中央依存保守の地盤の崩壊と「オールオキナワ」体制の構築が一気に進行したことにある、と言えるだろう。

つぎに竹下記者の署名記事
勝利の方程式=争点隠しx公明動員x期日前投票
が今回に限って効かなかった。「不敗神話」が崩れた。
1.争点隠しが成功しなかった理由は、玉城側が「翁長の遺言」という形で辺野古の争点化に成功したこと。政治アパシー化が進む若者に対してアムロの一言は効いたと思う。投票直前の世論調査で辺野古反対が7割に達した。
名護では2月に争点隠しで負けたが、今回選挙では1800票差をつけた。
2.公明動員が成功しなかった。内地からの動員と締め付けが孤立した。地元メディアの出口調査で、公明支持者の3割が玉城に投票した。
3.期日前投票でも負けた。地元メディアの出口調査で、期日前投票でも玉城が圧倒した。
中祖記者は選挙の全国への影響について書いている
1.自民総裁選の「地方の反乱」と関連しているかもしれない。さらにこの流れは加速されるかもしれない。
2.野党共闘と草の根民主主義はさらに前進するだろう。

ただし、この2.については私はこう書き換えたい。
2’.「オールオキナワ方式」の本質はリベラル保守の反乱であり、野党共闘とは分けて考えるべきだ。リベラル保守の反乱は、全国でも「地方の反乱」としてその萌芽が見られる。
保守の反乱と野党共闘が結びつけば、政治の流れが変わってしまう可能性がある。
赤旗以外の論調にも触れておきたい。

1.異常な反共攻撃について
反共攻撃の先頭に立ったのは右翼のデマゴーグだった。
元東京新聞論説副主幹、長谷川幸洋はこう述べている。(MAG2 NEWS2018年10月05日誰が「玉城デニー当選なら沖縄は中国に」というデマを流したのかより)
こんな人物が知事になったら、沖縄の支持者だけでなく、中国や北朝鮮は大喜びだろう。祝電どころか、祝意表明の代表団を送ってくるかもしれない。そうなったら、歓迎の中国国旗(五星紅旗)が沖縄中にはためくのではないか。光景を想像するだけでも、ぞっとする。(9月26日、夕刊フジ)
もっと露骨に反中国デマを煽っているのが元海上自衛官のジャーナリスト、恵隆之介氏。2013年に『中国が沖縄を奪う日』という、センセーショナルな題名の本を刊行した。これらの文献がベースになって有象無象のネット右翼がSNSなどで誹謗・中傷・デマを繰り返し、国会議員や元市長などの肩書きを持つ人物が無批判に拡散した。
もう一つの攻撃、スキャンダル報道の「王道」としての内閣調査室=週刊文春によるネタである。(週刊文春と内閣調査室は前川問題を水に流し、よりを戻したようだ)
「週刊現代」の記事、「週刊文春の“隠し子”報道について週刊現代


2.中国攻撃のもう一つの側面
沖縄は基地に頼らない経済を目指して動き始めている。それは翁長県政が切り開いた道だ。国政は辺野古に関連して沖縄に対して懲罰的な予算配分をしている。
そのしがらみが崩れるようなことになると、沖縄の基地としての安定性は根底から揺らぐことになる。
翁長さんは2015年「沖縄県アジア経済戦略構想」を発表した。アジアの巨大マーケットの中心に位置する地理的優位性を生かし、国際ビジネス都市に飛躍しようというものだ。
これが基地に頼らない沖縄経済をどう作るかについての回答だ。
「基地に頼らない経済」の最大の柱が観光、特に中国・アジアを対象としたインバウンドが重要になる。
県知事選の舞台裏 2018年10月4日琉球新報では次のように報じている。
クルーズ船が次々と寄港し、国際通りは人波が途切れない。「観光立県」をうたう沖縄は昨年、観光客数が過去最多の939万人に達し、初めてハワイを超えた。
我々は原発立地が潤っても、結局、原発関連企業以外はすたれていく経過をみている。それが沖縄という島全体で起きていることだ。
観光で生きていくというなら基地はじゃまになる。基地関係者ばかりがのさばる政治・経済のあり方は否定されることになる。「嫌なものは嫌だ」と発言し始めれば、国にそれを押さえつける力はない。
だからおそらく最大の顧客になる中国との関係強化を警戒しているのだ。
しかし沖縄だけなぜ観光立国してはいけないのだ? それもまた「お国のため」なのか。










1809年1月15日 ピエール・ジョゼフ・プルードン(Pierre Joseph Proudhon)が生まれる。父は醸造職人。貧困のため学校を中退、印刷所に校正係として勤める。
このあいだにほぼ独学で知識を身につけたという。

1839年 『日曜礼拝論』を発表する。社会改革思想とされ発禁処分を受けた。

1840年6月 『財産とは何か』が出版される。「財産、それは盗奪である」などの過激な表現が話題になる。(財産でなく所有と訳す場合もある)

資本家は「所有」することで「集合的な力」を搾取している。この体制に貧困の原因がある。これに対し自由で平等な協同は、唯一可能で真実の社会形態である。
資本家による搾取の体制は全面的に廃棄しなければいけない。

プルードンはルソー的な一般意志による法律を、「法律的虚構」とする。特に「所有権」については激しく非難。

1842年1月 第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴される。

1844年 マルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けるも保留。
マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」と称賛したが、プルードンはマルクスの教条主義や権威主義的な傾向を危惧したという(ウィキ)

1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。

このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論したという(ウィキ)

1846 プルードンの『貧困の哲学』が刊行される。
Proudhon
  クールベの描いたプルードン
社会再編の形態として、コミュニタリアニズム (共同体優位主義) を提唱。貨幣や国家の放棄を呼びかける。

「哲学者」は、「高慢さをひっこめて」「社会こそが理性であること、そして自分の手を働かせることこそが哲学することなのだと、かれのほうが学ばなければならない。

1847 カール・マルクス、『哲学の貧困』を発表。プルードンを徹底的に批判する。

1848年
2月 二月革命。プルードンはテュイルリー宮殿の無血占領に参加。

6月 プルードン、国民議会議員に選出される。『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊。

プルードンの主張は反政府派の代表的な理論となる。サンディカリスムや無政府主義への道を開く。

1849年 プルードン、人民銀行の創設を図る。貨幣にかわる「交換券」を発行し、自由主義の競争社会を克服しようとはかる。

1849年 プルードン、ルイ・ボナパルトを「反動の権化」と攻撃し、3年の禁固刑となる。

1851年 プルードン、獄中で『革命の一般理念』などを執筆。

『革命の理念』においてアナーキズムの主張が全面展開される。経済的諸力を組織化し、それをもって経済的形態の社会秩序を目指すべきと主張。アソシエーションが意志に基づく約束であり排除すべきものとする。これにより政府は、非意識的な経済的組織の内に解消されることになる。

1858年 プルードン、『革命の正義と教会の正義』を出版。再び禁固3年を宣告され、ブリュッセルに亡命する。

1863年 特赦にて帰国したプルードン、『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』(連合の原理)を執筆。

「社会の指導的な中枢部」を複数化することによって、社会主義と政治的自由の両立を試みる。

1865年1月19日 プルードン、パリ郊外で心臓病により死去。
old proudhon
         高齢期のプルードン
1865 年 マルクス、友人に宛てた書簡でプルードンとの交流を回顧。プルードンはプチブルで、科学的な弁証法を理解できなかったと評価。

婦人参政権を否定し、労働者のストライキ権を認めず犯罪と見做したことはプルードンの弱点と言われる。

夜帰ってきてテレビでニュースを見た。驚いた。まさかデニーさんが勝利するとは思わなかった。台風がギリギリ投票に間に合うように、去ってくれたからなのだろうか。
事前の見込みでは組織が期日前投票でぎしぎしと囲い込み、公明党も締め付けを強化しているということで、どうしても足りないなぁと思っていた。各種選挙でも此の処負け続きだったからだ。
天気も組織票の強みを加勢しているかのように思えた。
ところが蓋を開けたらこういう事になった。おそらく沖縄県民の投票行動が劇的に変化したのであろう。他に考えようがない。
前回、翁長さんが勝利したときも、オール沖縄という投票行動パターンが出来上がったが、今回はそれをさらに乗り越える新たな投票行動が示された。その半分は、弔い選挙という事情で説明できるかも知れないが、残り半分はそれ以外の理由だろう。
投票率がどうだったのかが気になるが、もしそれが異常に高いものでなかったとすれば、自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか、ということになる。
おそらくそれは日本全国での立憲・平和勢力の勝利に向けた水路を示してくれることになるだろう。
早急な総括が望まれる。

とりあえず、ちょっと、各紙の報道を眺めてみる。
琉球新報
選挙戦そのものは力づくの組織戦だった

今回の県知事選は激戦が予想された。しかしフタを開けてみると玉城氏が予想外の圧勝。なんと過去最多得票の大勝という結果。

当 396,632 玉城デニー 無新

  316,458 佐喜真淳 無新 =自公維希

  開票100%
投票率は63.24%だった。これは前回選を0.89ポイント下回った。ということだ。

投票行動の組織率を示す期日前投票だが、5日前で全体の約2割に当たる1万6千票まで達した。これは4年前の知事選と比べて2.4倍多い。これまでにまして組織選であったことが分かる。

創価学会は本土から約5千人を沖縄入りさせた。彼らは学会員や自民党員を投票所へ連れて行く役割を負わされている。そのため、選挙期間中の沖縄のレンタカー予約はたくさんの学会員で埋まっている (アエラ)

それを考えると、「玉城氏が世論調査などでは終始リードし、そのまま、逃げ切って当選」という経過は非常にわかりにくい。

ガチガチの組織戦で、しかも組織票は自公が圧倒している。なのに終始玉城優勢だったというのはどういうことだ。

キャンペーンが勝敗を分けた?

キャンペーンを見ていると、出足の良さは弔い、タマ良し、アムロ良しということになろうが、これでは息切れするはずだ。

私が選対なら、デニーへの個人攻撃・中傷を徹底してやる。タレント上がりに任せられるか、あとはデニーの特異な生い立ちを使って過去を根掘り葉掘りと陰険に掘り出していく、週刊文春の得意技だ。場合によってはアムロいじりも辞さない。

ところが、この空中戦が功を奏さなかったばかりか、逆効果になった可能性がある。

出口調査の非公式な集計だが、玉城候補は無党派層や女性からの多くの支持を得たという。
また支持政党別の投票先では、無党派層の7割が玉城氏に投票した。
もちろん立憲、共産、社民の各支持層はほとんどが玉城氏に入れていた。

つまり、風は最初から最後まで玉城側に吹いていた。ただの風ではない。国家権力が総掛かりでねじ込んでもかなわないほどの強風である。
そのさい、アムロの一言は強烈なメッセージになった可能性もある。
沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた知事のご遺志がこの先も受け継がれ、これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております
非政治的だが、非政治的であるがゆえに強烈だ。
「イデオロギーよりアイデンティティー」というのは翁長さんのキャッチフレーズで、玉城さんも使ったようだ。激烈なイデオロギーを持ち込んでいるのは誰か、非政治的でオールオキナワ的なのはどちらか。それがアムロのメッセージで鮮明にされている。

逆風を招いた自民党のキャンペーン

地元選対の幹部はこう言っているという。
『対立から対話へ』キャンペーンはおかしい。チャレンジする側のスローガンではない。「女性の質の向上」発言も女性票を遠ざけた。菅長官の「携帯電話料金の4割引き」も、沖縄県民をバカにしているのかとの反発を生んだ。
おそらく現地の頭越しに中央でキャンペーン戦略がねられ、それがいちいち逆効果を及ぼした、ということらしい。つまりは中央のおごりと侮りが常につきまとったのである。

ある国会議員は、『沖縄の人たちはよく戦ってくれた』と話した。集団自決を知る沖縄の人は、本土の人がこういう“愛国漫談”をすると、トゲに触れたように敏感に反発する。
そのことがわかって自民・公明の支持者が逃げた。

デニー玉城+翁長一家のタッグ
翁長は死の直前、後事を託したい人物として指名した。翁長は玉城を「戦後沖縄の歴史を背負い、沖縄を象徴する政治家になる」と評した。
県幹部のひとりは、「意表を突く名前でしたが、すぐに『なるほど』と思いました。翁長さんの着眼には唸らされました」と語った。
沖縄タイムスの記者座談会では次のように語られている
小さな子どもたちが「デニー」と駆け寄る場面が印象的だった。ギターを片手に「ロック」音楽を熱唱した。
ラジオDJになる前の玉城さんは、福祉関係の仕事を努めた後、ロック歌手となりライブハウスで歌っていた。琉球放送に自分の番組を持つようになり、人気ラジオパーソナリティーとして活躍していた。その後さらに政治家を志し、2002年に沖縄市議に初当選。09年には衆院議員に初当選している。
デニー
琉球新報は伝えている。
沖縄県知事選で玉城氏ほど、いわれのない多くの罵詈雑言を浴びせられた候補者がかつていただろうか。
ネット上では玉城氏に対する誹謗中傷やデマが拡散された。模範となるべき国会議員までが真偽不明の情報を発信した。
これに対して反撃に立ち上がったのが翁長前知事の妻、樹子さんだった。
政府があらゆる権力を行使して、私たち沖縄県民をまるで愚弄するように押しつぶそうとする。何なんですかこれは。…そんな人たちには負けたくない。私も一緒に戦う
デニー選対の青年局は、翁長知事の息子の雄治くんがしきった。彼の組織したSNS班がネット選挙を盛り上げた。それもデニーさんの勢いにつながった。

琉球新報社説
玉城氏が当選したことで、新基地建設に反対する沖縄県民の強固な意志が改めて鮮明になった。政府は、前回、今回と2度の知事選で明確に示された民意を率直に受け止め、辺野古で進めている建設工事を直ちに中止すべきだ。
この期に及んで、なおも新基地を押しつけるというのなら、民主主義国家を名乗る資格はない。
自民党が割れたか、公明党が割れたか、あるいはその両者であったか
ということで、最初の問いに戻る。もちろんまだ語るだけの材料は出てきていない。
しかし割れたことは間違いなさそうだ。公明党が割れたというのはありえない。ありえないから割れた人がニュースになるのだ。
自民党が割れたのだと考えざるを得ない。それは翁長さんと保守的保守の間にできた亀裂より、さらに右側に亀裂が入ったのであろう。

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