鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年08月


「鳥が飛べるようになった理由」
なんとなく分かってきたような気もするが、まだイメージとして出来上がっていない。
とりあえず、自分流にまとめてみる。
一つは、鳥は翼があるから飛べるのではない。羽ばたくから飛べるのだということである。
羽毛の生えた上肢は、当初は威嚇あるいは求愛行動のために羽ばたき行動をとった。そのうちに羽ばたき行動が一種の浮力を生み出すことに気づいた。それを猛練習の中で磨き上げ、世代を重ねる中で飛翔能力にまで高めた…
というのが「鳥が飛べるようになった理由」である。鳥というのはまさに麻原彰晃だ。
二つ目の理由は、自由に使える上肢があったからである。
ジュラシックパークより一昔前の時代、地上には巨大な草食獣が闊歩していた。100メートル100トンというクラスだ。彼らの足は直径2メートルもあって4足歩行だった。
その後ティラノザウルスのような肉食獣(獣脚類)が登場した。彼らは後脚のみで歩行し手はフリーとなった。だから羽ばたき行動も可能になったのだ。人が猿よりえらいのは直立して手が使えるようになったからだといわれるが、なんのことはない。Tレックスや鳥たちははるか昔にそれを成し遂げていたことになる。
もう一つの理由は、より非本質的だが、
ハネの物理的強度のレベルまでからだの無駄を削ぎ落としたから、飛べるのだということである。
鳥というのはティラノザウルスの直系の子孫らしい。ボクシングの選手でも到底出来ないような命がけの減量を敢行したことになる。小さいということ(軽量化)はそれ自体が進化なのだ。
鳥の脳を考える上でも、そのことを念頭に置かなければならない。

これは人が泳ぎを覚えるのにたとえられる。
水に落ちれば手足をバタバタさせるが、それだけではいつかは溺れる。人はそこで泳ぐ動作を覚えるのである。その結果、泳げるようになる。
泳げる人間と泳げない人間のあいだにDNA上の差はない。「獲得形質の遺伝」とかエピジェネティクスなどを考える必要もない。ただ、不思議なのは泳ぎと自転車乗りは一度覚えたら一生忘れないということである。人間のなかに、なにか特定のスキルに対する鍵穴があるのではないだろうか。

わたしが一番強く「蟷螂の斧」意識を持ったのはフエ大虐殺への反論であった。

『フエ大虐殺』はなかった THE 1968 'HUE MASSACRE'

という文章は、私が書いたものではなくある文章の翻訳である。それまで日本語で「フエ虐殺はデマだ」と主張した記事はなかった。日本語版ウィキの記載もひどいものだった。今でもひどいが当初はもっとひどかった。
「これはあまりにひどい」と言うので、英語版ウィキを見ると内容は全然違っていて、両論が公平に取り上げられていた。
そこで参考文献となっていた論文を拾い上げて、翻訳した。
いまでも、「虐殺はなかった」と主張する日本語記事は私のものだけである。しかしありがたいことに、私の記事はウィキを越えてグーグルのトップで検索されている。
これから見たらベネズエラは余裕だ。大体、ベトナムのときだって最初はそうだったのだ。
気長に、しかし的確にやろうぜ。


今朝の赤旗の潮流に印象的な記事が載った。
夏休みが終わり、2学期が始まるが、この時期は自殺の時期でもあるそうだ。
「自殺対策白書」によれば18歳以下の自殺は、9月1日前後が突出して多いのだそうだ。学校に行くのが辛くなって自殺するらしい。
これまではそういうときに保健室が逃げ場になっていたが、それに代わるもの、あるいは並ぶものとして図書館が名乗りを上げているというのだ。
東京の三鷹図書館は次のような呼びかけを掲げている。
つらい気持ちを抱えているきみへ
友達とうまくいかないきみへ

図書館で待っているよ
たしかに図書館にはそういう機能がある。保健室は緊急の駆け込み寺だが、それでは一刻だ。もう少し中長期、1ヶ月から数ヶ月の逃げ場所がほしい。
そしてもっとポジティブにそういう時期を乗り越えるオプションとなってほしい。
そういう点では、たしかに図書館はうってつけだ。
図書館に友達はいないが、一冊一冊の本には作者の思いがこもっている。
何万人もの知恵と努力の結晶がそこにはあるのだから、十分に学校ではないか。
思春期は人との付き合いがとても難しい時期である。成長痛を感じることなしに成長できない時期なのだ。
「いじめ」という物理的事象だけで裁断しないほうが良い。そっとしてほしいこともたくさんある年なのだ。
図書館は若者が独り立ちするための予備校になりうる。予備校というのは“できれば行かないほうが良い”という意味において予備校だ。
私は図書館が「出席票」を発行すれば良いと思う。0.5日分でもよいのではないか。その代わり図書館で友達と付き合ったら出入り禁止だ。孤独を噛みしめ、知と向き合う場所であるべきだ。

この文章は、下記の文章を私なりに解説したものです。
Mar 15th 2018 ベネズエラ・アナリシス
ベネズエラの「亡命」についての誤解と歪曲

Fallacies and Inaccuracies About Venezuelan Migration

ベネズエラのいわゆる「亡命」について多くの見解がぶつかりあっている。
誰を信じるべきだろうか?


というのですが、日本においてはぶつかりあうどころか一方的に反ベネズエラ情報が垂れ流されています。この文章も蟷螂の斧にすぎませんが、出しておく価値はあるでしょう。

はじめに
この1年あまり、ベネズエラの危機に関する物語がますます強烈に印象付けられている。
最初は警察による野蛮なデモ隊弾圧で多くの死者が出て、ベネズエラが内戦状態に陥っていると報道された。ついでマドゥーロ政権が反民主的な言論弾圧を行い、国内は戒厳令状態に陥っているとされた。そして医薬品がなくなってインシュリンも打てなくなり医療が崩壊していると報道された。その後は、5万%にも上る超インフレで、人々の生活は崩壊していると報道された。最近では難民が大量発生し近隣諸国は大混乱に陥っていると報道されている。
我が国の報道機関は左右を問わずこれらの報道を無批判に受け入れ垂れ流している。しかしこれらがすべて真実であるなら、ベネズエラという国家はとうの昔に消失していなくてはならないだろう。
そろそろこれらの国際報道に疑いの目を向け、常識を働かせて判断すべきときに来ているのではないだろうか。とくに世界のメディアは2002年反チャベスのクーデターに際して、白を黒と言いふくめる重大な間違いを犯している。そのことの反省を忘れないでいただきたいと思う。

「難民」に関するいくつかの信じられない数字
国際メディアの主流と世界的機構によると、200万人以上のベネズエラ人が故国を離れたという。
率直に言えば、まず数字そのものが信じられない。
国連難民委員会の発表(2017)では以下の国が御三家である。
シリア:550万人
アフガニスタン:250万人
南スーダン:140万人
これだとベネズエラは一気に堂々の銅メダルということになる。普通の報道関係者なら、内戦国でもないところで、しかも突然に説明不可能な難民が出現したというのなら、まず情報源を疑うべきであろう。
この200万人という数字は、「ベネズエラ亡命者観測機構」というNGOが提出した報告にもとづいている。ベネズエラはいかなる周囲国とも正常な国交を維持している。したがってこれが出入国管理当局の数字ではないことに十分留意すべきである。
反チャベスの新聞「タル・クアル」は、2017年11月17日から12月4日までのあいだに409万人のベネズエラ人が出国したと報道している。それは“Consultores 21”が組織した2千人のスタッフの調査に基づいているという。
同紙によれば、ベネズエラの家族のうち3割で、少なくとも誰か1人、平均すれば1.97人が国境を越えて生活しているという。
ここまで書きたてると、流石に欧米メディアも手を出さなくなるようだ。ただこの報道から明らかなことは、「亡命」が一種のキャンペーンとして計画的に行われているということだ。

コロンビへの亡命という矛盾
米南部軍司令部のカルト提督は、米上院軍事委員会でベネズエラの亡命の動きについて証言した。証言によると、コロンビアへのベネズエラ移民は50万人に達した。さらにブラジルに40,000人、エクアドルに93,000人が向かっていると述べた。
しかしコロンビアの上げている数字はこれよりはるかに低い。
コロンビア外務省と国際移住機関(IOM)が発表した報告によると、コロンビアとの国境を越えた人の69%は、日常的に国境地域を往来する地域住民、労働者、研究者であった。
残り30%のうち23%は、数ヶ月間コロンビアにとどまる予定と申告、ベネズエラを恒久的に離れるとした人はわずか5%に過ぎなかった。
コロンビアの統計によれば、153,443人のベネズエラ人が法的に許可された滞在を超え、ビザなしで滞在している。彼らは「不法移民」ということになる。社会保障制度の裏付けなしに雇用され、搾取される可能性がある。
この他に合法的に移住手続きを行った人が47,305人いる。あわせて約20万人がベネズエラを離れ、コロンビアに移ったことになる。
これは決して少ない数ではない。
しかし少し長い目で見ると、これはきわめて奇妙な現象であることが分かる。
第一にコロンビアこそ世界有数の難民国である。先ほどの国連難民局の統計でそれより1年前の数字を見ると、2016年末時点でコロンビアでは730万人が難民登録されている。これは世界最多である。これに続くのがシリア(630万人)、スーダン(330万人)、イラク(300万人)、コンゴ民主共和国(220万人)である。銅メダルどころか国歌付きの金メダルなのだ。
和平が実現した後、この難民数は大幅に減少し圏外へと去るのだが、このような国に避難するいわれなどない。
第二に、過去においてコロンビア人の避難先は圧倒的にベネズエラだったのである。国連の難民局の公式発表では、ベネズエラ在住のコロンビア難民数は172,000人に達している。難民だけでなく経済移民や出稼ぎをあわせ、ベネズエラのコロンビア人は約100万人を数える。
ベネズエラは豊かで雇用(下働き)があるからだ。そのかわり、コロンビア人はベネズエラにおいて差別と偏見の対象となってきた。
ベネズエラ人の生活が苦しくなったとき、そのしわ寄せをまっさきに受けるのはコロンビア人のはずだ。おそらく大量にコロンビアに脱出しているのはこういう人々ではないだろうか。

以下は「思想運動」からの引用
ベネズエラ国内には隣国コロンビアからこの20年間に600万人の人びとがベネズエラの出生を差別しない社会保障を求め移住している。
また、コロンビアの法律では国外で生まれたコロンビア人の子どもは自分の意志を法的に宣言すればすぐにコロンビア人として認められる権利を持っている。
コロンビア・ベネズエラ国境を越える人びとの70%はこのコロンビア人のベネズエラ生まれの子どもたちで、残り30%の大半がベネズエラ居住のコロンビア人である。また、その人たちの大半が富裕層に属している

出る人も入る人もいるが…
マイアミのメディアは「150万人以上のベネズエラ人が国外居住しているが、その90%はこの16年間に祖国を去った」と報道する。
下の図は国連の人口統計である。ベネスエラ生まれで外国居住の流出者と、外国生まれでベネズエラ居住の流入者を対照したものだ。
nanmin
イミグレは入国者、エミグレは出国者である。ともに累計である。ざっと倍以上の入超である。
これがまず1つ、もう一つは出国者は16年間の累計で65万人。国外居住者が150万人とすれば43%にすぎない。
国連のデータによれば、このように移入が一貫して移出よりも高くなっている。ただしCIAの発表した世界ファクトブックは異なる状況を示している。「世界各国の移民率」の表では、ベネズエラはー1.2パーミリとなっている。これは僅かな出国過剰を表している。
国連のデータが嘘で、CIAのデータが真実を述べているというのではなく、統計のとり方によるのだろう。
ではこのCIAのランキングををラテンアメリカの他の国と比較してみよう。リマ・グループ諸国(親米諸国)の12カ国のうち9カ国で、ベネズエラと同じマイナスの移民率となっている。
例えばメキシコがー1.80、グアテマラ ー1.90、ペルー  ー2.20などである。

たしかに多くの出国者がおり、その背後に経済困難がある
この間に少なからぬ人が経済困難を理由に国外へ逃避した。その経済困難はどのようにしてもたらされたのか。
その経済困難は封鎖によって強化された、ベネズエラの財政的包囲によって引き起こされた。 その経済封鎖と財政的包囲はトランプ政権が実行し、コロンビア、ペルー、ブラジル、アルゼンチンの大統領が支援しているものだ。
そして国外脱出そのものは、前国会議長のJulio Borgesが煽っているキャンペーンが影響している。先にも述べたとおりである。


鳥の脳の進化を調べることは、マクリーンの爬虫類脳ー哺乳類脳ー霊長類脳という「三段階説」を完膚なく打ち砕く上で、決定的な意味を持つ。
哺乳類は霊長類を生み出すに及んで、ようやく鳥類の脳に追いついだのではないか。
それは霊長類以前の哺乳類、鳥類、そしてその祖先としての恐竜類を比較することにより証明できるのではないだろうか。
現に鳥類の脳を研究している学者からはそういう意見も上がっているようだ。彼らの意見に耳を傾けながら考えてみようではないか。
まずはその前に、始祖鳥から始まる鳥類の進化年表。

長谷川政美さん「鳥とは何か」
①鳥類の最大の特徴は空を飛ぶ能力です。鳥とは「空飛ぶ恐竜」です。
②哺乳類と同様に恒温動物です。変温動物ではないという点で、「恐竜(爬虫類)ではない」ということもできます。
③鳥は哺乳類よりはるかに長い旅を楽々と成し遂げます。それは低酸素に適応した気嚢という呼吸システムを持っているからです。

年表づくりで困難なのは、鳥の定義が変わり、概念が変わり、範疇が変わっていることだ。そのために古い教科書は役に立たず、それどころが混乱をもたらすだけだ。少なくとも権威ある文書で、今世紀以降のものを土台に作らなければならないし、怪しげなところについては出典を明示して臨む必要がある。
爬虫類系統図

地質学をもとにした「…紀」も原理的には相対年代であり、気候年代と完全一致するとは考えにくい。基本としては絶対年代、すなわち「…万年前」を用いるべきであろう。少なくとも分かる限り併記はしていこうと思う。


        チャーリッグ「恐竜は生きている」より

古生代

 石炭紀  地表にシダなどの植物が大繁殖。海面下ではウミユリ類が繁殖し、死後に石灰岩を形成。また海綿,コケ虫,藻類などが礁を作った。

石炭紀前期 3億6千万年前から3億2千万年前 両生類の中から陸生に適応した有羊膜類が出現し、竜弓類(爬虫類)と単弓類(哺乳類)に分かれる。昆虫は巨大化し、全長60cmのウミサソリ、翼長70cmのトンボ、全長2mのムカデなどが現れる。翅を持った昆虫が初めて出現、ゴキブリの祖先となる。

石炭紀後期 3億2千万年前から3億年前 リグニン分解菌が未発達だったために、植物は死後も分解されず炭化水素(石炭)を閉じ込める。このため徐々に低温(低炭酸ガス)と高酸素(最大35%)が進行する。南半球では氷河と針葉樹林帯が広がる。

 ペルム紀(旧 二畳紀) 3億年前~2億5千万年前 
初期は寒冷。低温・高酸素環境のもとで哺乳類型爬虫類(獣弓類)がパンゲア大陸全体に繁栄(リストロサウルス)。

後期は激しい高温。ユーラメリカ大陸とゴンドワナ大陸が衝突し、パンゲア大陸を形成。

ペルム紀末期 2億5千万年前 大絶滅が発生。生物の90%から95%が絶滅する。超大陸の形成と分裂に伴う火山活動が原因とされる。


中生代

 三畳紀
三畳紀前期 2億5千万年前 リグニン分解により酸素は10%にまで減り、炭酸ガスが増え、気温が上昇する。大量絶滅のニッチを埋める如く新たな生物が登場。恐竜の中から気囊を持ち低酸素に強い主竜類(アクロサウルス)が登場。
リグニンを分解するペルオキシダーゼを組み込んだ白色腐朽菌(きのこ)が出現したのは、それより5千万年前、古生代石炭紀末期頃であると推定される。

三畳紀中期 2億3千万年前 主竜類から翼竜類と恐竜、ワニ類が分岐。翼竜類(ランフォリンクス)は飛行制御など知能を働かせるために恒温動物であったとされる。最初の哺乳類が現れる。海中においては硬骨魚類が増生。体長5メートルを越す両生類、マストドンサウルスも出現。

気囊 図

 三畳紀末絶滅 約2億年前 火山活動により、大型爬虫類を中心に生物種の76%が絶滅。巨大な両生類もこのときにほぼ姿を消す。酸素高度依存性の恒温動物(哺乳類型爬虫類)も絶滅に追い込まれる。主竜類・獣弓類が死滅したあと、比較的小型だった恐竜が急速に発展。竜脚類も現れる。
多分覚える必要はないと思うが、一応書いて置く。恐竜は竜盤類と鳥盤類に分かれる。竜盤類は肉食の獣脚類と草食系の竜脚類に分岐する。鳥盤類は全て草食の恐竜である。最近、獣脚類を竜盤類から鳥盤類に移そうという動きがある。
恐竜系統図
                      独創的で挑発的な再評価

 ジュラ紀前期 2億年前 火山活動の結果、現在よりも暖かく、大気中の二酸化炭素濃度は高く、湿度も高かった。
パンゲア大陸の分裂がはじまり、北がローラシア大陸、南がゴンドワナ大陸へと分裂。ゴンドワナ大陸はその後さらに、西ゴンドワナ大陸と東ゴンドワナ大陸へと分裂する。

 ジュラ紀後期 1億6千万年前 西ゴンドワナ大陸がアフリカ大陸と南アメリカ大陸に分裂し、その間に大西洋が生まれる。東ゴンドワナ大陸はインド亜大陸、マダガスカル島、南極大陸、オーストラリア大陸に分裂。

始祖鳥が登場する。鳥群のはじめであるが、鳥類の直接的な祖先ではなく、系統のとぎれた絶滅種とされる。ドイツのバイエルンの化石、遼寧省の化石が始祖鳥に相当。

鳥群(Avialae)は竜盤類獣脚類の一部門であり、現生している鳥類(Aves)を含む。鳥群はダチョウのように二足歩行をしており、“空を飛ぶ能力のある羽毛がある翼を持った恐竜”と定義された。
比較的上空を飛ぶ翼竜との間に競合はなく、両者はともに生きながらえた。

 白亜紀初期 約1億2500万年前 温暖で湿潤な気候が続いた。植物会では被子植物が主流となる。

始祖鳥に続く鳥群が出現。現在の鳥類につながるとされる。鳥類に特有の遺伝子があるわけではなく、遺伝子を使いまわしているだけだという。

始祖鳥逆スキャンダル: 始祖鳥は捏造と批判されたことがある。羽毛恐竜についてはシノサウロプテリクス(中華竜鳥)、カウディプテリクス(尾羽鳥)、プロトアーカエオプテリクス(原始祖鳥)、シノルニトサウルス(中華鳥竜)、ベイピャオサウルスの4種が確認され、アーカエオラプトルは贋作(合成)とされた。

 白亜紀中期 1億年前 酸素濃度がふたたび増加。草食性の竜盤類に代わりティラノサウルス、トリケラトプスなどが恐竜界の主流となる。トカゲ類から蛇が分化。哺乳類は胎生となり有胎盤類が増加する。

 白亜紀後期 7千万年前 翼竜の主流が大型化。プテラノドン、ケツァルコアトルスなど10m級の翼竜が繁栄する。鳥類との棲み分けのためとされる。

 白亜紀絶滅 6千600万年前 小惑星が現在のメキシコ・ユカタン半島の北の海域に衝突。生物種の70%が絶滅。翼竜、真鳥類を除く恐竜が絶滅する。海中でも全てのアンモナイト類が絶滅。「なぜ恐竜だけ?」という問題は未解決である。
ついでに、映画「ジュラシックパーク」に登場する恐竜はすべて白亜紀のものらしい。「なぜ?」


新生代
古第三紀 6500~2400万年前
 暁新世 約6550万年前 霊長類の出現。
 始新世
 斬新世 2500万年前
 ケニヤで最古の類人猿と思われる化石




いま、トルコとベネズエラは世界中で経済危機がスポットライトを浴びる東西の両横綱である。
さまざまな経済指標の中でもとりわけ通貨安が先行しているところに特徴がある。
しかも、アメリカ=トランプ政権による強引な干渉がその引き金になっているところにも共通点がある。金融グローバリゼーションはいまや為替操作という強力な武器を手に入れたことで無敵となりつつある。その国際金融資本の身勝手な投機が途上国を苦しめているという構図も同じである。
さらに言うなら、そのような攻撃をかけるときの口実が民主主義と人権であることも共通している。
その口実は、弱小国を弄ぶための囃子詞として使われる一方、世界の富を独占し99%の人から搾り取る不正には目をつぶる。プーチンのウクライナ侵略にも目をつむる。そういう大変身勝手な「ルール」の上に成り立っている。
読者の皆さんにはぜひ、この大前提に立って物事を見てほしい。
そのうえで、トルコとベネズエラの違いについても理解する必要がある。
ベネズエラでは通貨ボリーバルが大暴落している。しかし、その原因は政府が外貨を放出しないからである。外貨がないわけではない。トルコは経済が発展し離陸段階に入っている。こういう国では原材料やノウハウ・設備を買うために外貨がいくらでもほしい。だから常にインフレ傾向は必然である。
ベネズエラはそこまで行っていないから、石油を売ったお金で、その範囲で生活するだけだ。だからそれほど深刻な外貨不足ではない。石油価格が半分になったら生活を半分にすればよいだけの話だ。だから本来インフレは発生のしようがないのだ。
今までの生活を続けようと思ったら、仮に生活用品の100%を輸入してたとして、物価は2倍になるだろう。それだけだ。それが1万%に物価が跳ね上がるのはドルの国内流通量があまりにも少ないのでとんでもないプレミアが付いてしまうのだ。
国内の流通量が少ないのは政府が市場へのドル流出を妨害しているからだ。いわばドル鎖国をしていることになる。では政府は石油を売った富をどのように国民に還元するか。物とサービスの直接提供だ。つまり配給制度だ。
配給なんで日本でもつい先日まであったのだ。私が昭和40年に札幌に来たとき、母親が私に「お米の通帳」を渡した。「そんな物いらねえよ」と放置しておいたのだが、実はそれが住民票だったのだ。それを市役所に出さなかったばかりに、私は幽霊市民になっていた。選挙になっても投票権が来ないので、いろいろ調べているうちに、やっと配給手帳が住民票と同じだったのだということがわかった。
こういう分配システムのもとではどうなるか。政府の指示通りに働き暮らす限りにおいてはまったく不自由はないのだ。国内通貨は国内では普通に通用する。
別に不思議じゃないでしょう、
ドルが高すぎると言うが、団塊世代以上の人にとっては。あのとき1ドル360円だったのだが、それで困った記憶はありますか?
サザンのコンサートのチケットが50万円になっても別に困ることはない。ただ悪徳ダフ屋は取り締まるべきだろう。コンサート・チケットがドル札になったと思えば良い。ベネズエラのドル市場というのは完全に闇市場だから、闇ドルを禁止し摘発するのに躊躇することはないのである。
IMFが先頭に立って1万%とかいうのもどうかと思う。それは結局ドル換算で見た通貨価値の低下率の逆数である。しかも公定為替相場ではなく、素人が手を出さない闇相場を基準にしている。だから物価が上がってもデノミをすればそれで済むだけの話だ。

ただし経済制裁後は話は違ってきている。ドルがあっても物が買えない、売ってくれないという状況が出てきているからだ。つまりこの1年間におけるベネズエラのハイパーインフレは、経済問題ではなく、優れて政治問題なのだ。

もちろん固定相場制をいつまでも続けるということが、市場原理による資本の再配分、経済の自律的成長の確保に障害となることは間違いない。対立的な政治状況が長引く中で、このような恣意の入り込みやすい経済運営を続ければ、内部腐敗を招く危険は率直に言って高い。

個人的な感想としては、2008年の憲法改正のときがチャンスだったし、それが失敗した時にもっと率直に反省すべきだったと思う。マクロにばかり目を向けたチャベスの責任だ。
妥協というのは上り坂のときにこそできるのであって、マドゥーロに今それをやれというのはかなりきつい。しかしどこかでやらないと、必ずどこかでやられると思う。

大変ありがたいコメントをいただいた。
そのままではもったいないので、あらためて記事として起こさせてもらうことにする。
まずは下記の記事をご参照いただきたい。この手の記事は観光や空港のページのQ&Aにしばしば載るのだが、たちまち潰される。かくして都市伝説のみが残る。
私の元記事は、そういう情報に網を張っていて捕まえたものである。だから、半分はそもそも噂話、半分はかつては真実だったが今ではそうではないというものである。ある意味、そういう情報をたくさん持っていると、ダメ元でそれなりに楽しめることもある。空港での暇つぶし・足慣らしにはもってこいだ。

に付けられた as さんのコメントです。

喫煙者にとってとても助かる情報ありがとうございます! 
先日バルセロナ・パリに行ったので共有させていただきます。 
どなたかの参考になれば。(いずれも制限区域内) 

■バルセロナ(BCN) 
シェンゲン内路線は、ショップエリアの両端(マクドナルドの先とロンシャンの先)に屋外喫煙所あり。 
シェンゲン外への国際線には喫煙所無し。 
(2018/08) 

■パリ(CDG) 
ターミナル2E:搭乗ゲートフロアの下の階に喫煙所あり。(エールフランスラウンジ並び) 
ターミナル2F ホールK:K37ゲート近くの喫煙所は廃止(看板はまだあります)、代わりにゲートの両端(K31、K51/53近く)の半地下に喫煙所あり。但しラウンジからはかなり距離があります(片道5分以上) 
ターミナル2F→2Eのトランジットでの移動通路にも喫煙所あり。 
(2018/08) 

■ローマ(FCO) 
ターミナル1:国内線(シェンゲン内)、国際線共に喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙です。国内線は至る所に、国際線は免税店エリアは1フロア上に、サテライトでなければゲート近くにもあります。(サテライトは不明) 
(2017/12) 

■ミラノ(LIN) 
国内線(シェンゲン内)はillyの傍に喫煙所あり。国際線は不明。 
(2017/12) 

■ミラノ(MXP) 
国際線アリタリアラウンジ近くに喫煙所あり。ラウンジ内は禁煙。国内線は不明。 
(2017/03) 

の続きになります。

Sony というのはつくづく底意地の悪い会社だ。
やっとの思いでOMA(ATRAC)ファイルをパソコンに取り込んだが、これでFoobarで再生しようとすると、フォルダー格納曲の一括再生はできない。
仕方がないのでXアプリでDACに出力して聞こうとすると、何やら訳のわからない「タイトル」名のみが表示される。しかもそのタイトル名の順に並べ替えが行われる。
「ファイル名」で表示させようとしたが、そもそもそういうオプションがない。
タグエディターにつないで、タイトル名のところをファイル名で置換するしかないそうだ。一括変換できるかどうかは不明だが、そもそもそんなことはしたくないのだ。
だから吸い上げた時に、そのままOMAファイルで保存せずにWAV変換してWAVファイルを保存するしかないようだ。
とにかくソニーと接触する場面をできる限り少なくして、それによって生じる面倒は甘受しようということだ。
「美人の嫁さんもらったらとんでもないヒステリーの浪費家だった」みたいな状況なのだ。だまされたお前が悪いのだ。

ということで、ソニー以外のATRAC変換ソフトを探す。しかしない。泣く泣くXアプリへと戻る。
分割してしまったファイルはDelete以外ない。もう一度やり直しだ。

結論
ATRACファイルで残しておこうというスケベ心は捨てるべきだ。どこをどうやってもソニーは食えない。
MDを落としたら、まずはそのままWAVに変換することだ。
WAVも決して使いやすいコーデックではないから、WAVで落としたらなるべく早めにFLACまで持っていく。
Exact Audio Copyでも良いのだが、それだけに特化したソフトのほうがわかりやすい。ただしデザインは前世紀的だ。
ここまでの作業は基本的には音質の劣化を伴わないから、無条件のおすすめだ。
FLACにしたら、それからはどうしようとどうでも良い。ただし保存はFLACのままが良い。今ではハードディスクの容量もたっぷりあるし、CPUの速度も音楽聞くだけなら十分だ。

札幌の配電停止と熱中症死のケースについて、共産党はかなり突っ込んだ報道を行ってきた。
今週の赤旗日曜版に、事件を中心になって取り組んできた畠山和也前衆院議員のレポートが載った。

1.殺したのは北電
前回記事から私が推測したのとほぼ同じ内容だった。
端的に言えば、この女性を殺したのは北電だった。電気という「ライフライン」を切断することは、生命を切断することだ。この簡単なことが彼らには分かっていない。
電気が止まって、しばらくすれば、年寄り・子供は死ぬ。それを通報もせず放置して、死に至らしめることを、日本語ではなんと言うのだろうか。

2.北電は合法だと信じている
彼らは個人情報保護法を盾に自分を合理化していて、反省していない。反省の言葉は一言も発していないようだ。
ということは、彼らは今後もやるということだ。
「法に従って適正に対処させていただきました」ということなのだろう。
これは推測ではない。畠山前議員の質問に市の担当者が答えている。畠山議員によればこうだ。
市によると、電気事業者は個人情報保護を理由に電気を止めたことを市側に知らせてこないと答えました。

3.誰も北電に文句が言えなくなっている
北電が電気を止めた。ライフラインを止めることによって、もって女性を死に至らしめた。
彼らはノーコメントを貫くことで、「これからもやる」と事実上宣言している。
それにもかかわらず、だれも何も言えない。こういう状況が北海道という人口500万の自治体で出現している。
このことも畠山さんの調査で明らかになった。
畠山さんは道庁内の経済産業局に「監督官庁の役割を果たせ」と要請した。道の機構といっても事実上は経産省の出先である。
回答はこうだ。
局としては、①一律に止めず個別に対応を行うべきと考えている。②事業者(北電のこと)にもその方向で指導していた。
これを額面通り受け止めると、北電は監督官庁の指導を拒否する“内規”で動いていることになる。これはきわめて重大なことだ。

4.経産省は無条件で許すつもりだ
ではその北電の内規はどんなものか。どうも経産局はその内容を把握していないようだ。知ろうともしていない。
最後の経産局の回答は「一律に対応しないようにあらためて申し入れる」というものだ。
道・市・経産省をふくめ、いかに各組織が北電に対して及び腰になっているか伺われる回答である。

5.このままだと個人情報保護法が違憲容認立法となる
北電の言い分は、個人情報の保護に例外規定を許さないということである。個人の秘密は個人のいのちにまさるということだ。
それは銃所有の権利を神聖化する全米ライフル協会を彷彿とさせる。ただその裏に算盤勘定が見え隠れするだけ余計に醜悪だ。
「契約法は生存権に優先する」というのがベニスの商人シャイロックの論理である。それは「強者の論理」である。契約の神聖性を強調することによって、人の生命を奪うことを合理化・合法化する論理である。
これは、日本の市民法体系にとって恐ろしいことである。これが認められるなら、「法の精神を遵守するためには人を殺しても構わない」という法律がまかり通ることになる。
この間、行政糾弾に動いたメディア各社に、私は世論誘導の狙いを感じる。どうして北電を糾弾しないのか。
人の命をここまで軽視するこのような会社に、廃墟製造装置・原発を運営させて良いものなのか。

“Turn on” は歯向かうこと

今朝、BS ワールドニュースを見ていてわからない言葉に出会った。
英語を翻訳していると、良くこの手の表現に出くわす。これを真面目に辞書で検索するか否かで翻訳文の出来栄えは俄然変わってくる。
以前、医学書を翻訳して医学書院から出してもらったことがある。その時は「こなれた良い訳だ」とほめられた。
それは半分はあたっているかも知れない。
日本語としてこなれた文章にするには、日本語の能力が問われる。
しかし、本当はその前に、ちょっとした言葉でもしっかりと訳語をパッチすることが大事なのだ。
これをやると翻訳の時間は3倍かかる。しかしこれをやっていくうちに、ネーティブの人よりよく読めるようになることは間違いない。しかし困ったことに、読むスピードはむしろ落ちていくのである。

話が横道に入った。
元の表現は
Turning on Donald Trump?
というので、グーグルの翻訳エンジンでは「オンにする」としかでてこない。
こういうときは、「辞書で探せ」と言っているのと同じだから、辞書で検索するしかない。
といっても、便利なもので、いまでは“turn on”と入れてグーグル辞書を見ればよいだけだ。
turn on
「他9件の翻訳」を左クリックすると候補が出てくる。
9件の候補のうち最後の方に
歯向かう
oppose, bite back, defy, turn on, rise against, strike at
というのが出てくる。
なぜか?
それは書いてない。それを調べ始めたら翻訳の仕事は20分は止まってしまう。

「歯向かう」に相当する英語に、“bite back”というのがあったのには笑った。「あるんだ!」ね。

It is not often that Fox News criticizes President Trump, but the network’s primetime hosts have now criticized Trump twice

というニュース。「歯向かう」を知らないと、どうしようもない。

下記の記事は、いずれ
2017年10月19日 「大阪と大大阪の歴史 年表」のページとドッキングささます。

時期不明 おそらく5世紀初め 仁徳天皇が難波津に難波高津宮を置く。

593(推古元) 厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺を建てる。飛鳥寺とほぼ前後。

595年ころ 最初の遣隋使が住吉津(難波津)を出発。

645(大化元) 大化の改新。孝徳天皇と中大兄皇子ら、都を飛鳥から難波長柄豊崎宮にうつす(前期難波宮)。蘇我残党の反撃を恐れたためか、あるいは西方との連携に活路を見出そうとしたためか。あるいは西方よりきたる蘇我援軍を迎え撃つためか。

740年 聖武天皇、一時難波京(難波宮)に都を移す。

754(天平勝宝6) 鑑真が難波津に到着する

1467 応仁の乱  細川の拠点となった堺が発展。明との交易も盛んとなる。

1496(明応5) 本願寺8世の蓮如が石山本願寺を建立。上町台地に寺内町がつくられる。

1532(天文元) 摂津・河内・和泉で大規模な一向一揆がおきる。この時期、石山本願寺の防御も飛躍的に増強される。

1550(天文19) 宣教師ザビエルが堺に上陸する

1580(天正8) 石山合戦。本願寺が織田信長との戦いに敗れ大坂を退去。寺内町は焼失する

1583(天正11) 天下を掌握した羽柴秀吉が大坂に入り、本願寺跡地に築城開始。上町台地から大阪平野にかけて城下町が開かれる。

上町台地下の低湿地に東横・西横・天満などの堀川を巡らせる。平野や久宝寺などから商人らがよびよせられ、大阪の原型ができあがる。

1615(元和元) 大坂夏の陣で豊臣氏が亡ぶ。

1619(元和5) 徳川秀忠、大坂を直轄地(天領)とし、大坂城を再建。城代・町奉行をおく。市街は北組・南組・天満組の「大坂三郷」に分けられ、町奉行の管轄のもとにおかれる。

江戸幕府は大坂を海運の要衝の地と定め、大規模なインフラ投資を展開した。河川の改修や堀の開削が行われ、水路が発達。さらに西方にも堀川が作られ開発が進んだ。「大坂は八百八橋、水の都」と呼ばれるようになった。

1600年台後半 船場、天満地区に市場が栄える。諸藩が蔵屋敷を置いた。蔵屋敷へは水路で年貢米が運ばれる。堂島米会所では世界で最初の先物取引が行われた。

経済的背景は二つある。一つは海上輸送を柱とする全国流通体系が出来上がったこと、もう一つは「大名貸」を頂点とするスーパー金融システムが出来上がったことである。この2つはいずれも大阪を中心として形成された。

大阪新田
     江戸時代の新田の開発


1688年 元号としての元禄はこの年から1703年までの15年間。

1703(元禄16) 人形浄瑠璃が隆盛期を迎える。近松門左衛門の曽根崎心中が初演される。

歌舞伎・浄瑠璃などの民衆芸能の中心は、京都から大阪に移る。また町人学者が生まれ、多くの私塾が建てられた。

1703年 関東で元禄地震。20万人が死亡。その4年後には東海地方中心に宝永地震、宝永山の噴火があり2万人以上が亡くなる。

1716年 徳川吉宗が8代目将軍となり、「享保の改革」を開始。元禄文化に終止符。

1730(享保15) 堂島の米相場会所が幕府公認となる。現米の受け渡しのない帳簿上の「差金決済取引」が行われる。

堂島の相場が全国の基準となった。今のロンドンのLIBORと同じだ。大阪は「天下の台所」として繁栄するようになった。多くの大名が蔵屋敷をおいて、米や地方の産物を運びこみ、お金にかえていた。

1837(天保8) 元町奉行所与力・大塩平八郎が乱をおこす

大塩は与力をやめて塾をひらき学問を教えていました。天保の大凶作に際し私財をなげうって貧民救済に当たりました。その挙句、「救民(きゅうみん)」を旗じるしに兵をあげました。

1838(天保9) 長崎から戻った緒方洪庵が適塾をひらく。

洪庵は江戸で4年、長崎で2年蘭学を学んだ(だけ…)。7年してから塾を大規模化。大村益次郎は直弟子で塾頭まで務めたが、福澤諭吉は小便程度。

1866年(慶応2年) 将軍家茂が大阪城に入り、長州戦争を指揮。間もなく家茂は死亡。

1868年(慶応4)1月 鳥羽伏見の戦い。敗れた将軍慶喜は船で江戸に脱出。 

1月 天皇が大坂入り。1年余りにわたり政務を執る。

1869年(明治2)3月 天皇が東京に向かう。大久保利通は大坂遷都を主張したとされる。

版籍奉還に伴い各藩の蔵屋敷が廃止される。「大名貸」の貸し倒れや地租改正により豪商の倒産が相次ぎ、大阪は衰退期を迎える。

1871年(明治4年)2月 造幣寮(造幣局)が開業する。

明治政府は兵器工場や兵学寮などを大阪に設置。これらを基礎に近代工業の知識や技術が広がる。

7月 廃藩置県。

1874(明治7) 大阪~神戸間に鉄道開通、大阪府の江之子島庁舎完成

1875年 大久保、木戸、板垣らが大阪で会談。政権運営について協議を行う。

1876 年 堂島の米相場会所が「堂島米穀取引所」と改称され、先物取引を世界に先駆けて開始。

1877年(明治10) 西南戦争。大阪は政府軍の最大の兵站基地となる。

1885(明治18) 大阪初の私鉄が難波~大和川間に開通

1889(明治22) 市町村制がしかれ大阪府管内の大阪市が創設される(堺も同時に市制施行)。この時の人口は47万人。面積は15平方キロ。一方、東京(都部)の人口は135万人。

1895(明治28年) 日清戦争が勝利に終わる。兵站基地の役割を担った大阪は工業都市として発展するようになり、この頃から「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。


1895年 別子銅山会社を基礎に住友銀行が創業。大阪を本拠地として急速に発展、三井・第一・安田・三菱と並ぶ五大銀行となる。

1897(明治30) 大阪市が第1次の市域拡張をおこなう。大阪築港の建設が始まる。

安治川口と木津川口から沖に向かって総延長10キロメートルの2本の防波堤をつくり、築港大桟橋を建設した。

1903(明治36) 大桟橋が完成。第5回内国勧業博覧会がひらかれる、巡航船・市電・民営乗合自動車が営業。

1918(大正7) 米騒動おこる

1920(大正9) 第1回国勢調査、市人口125万人、府人口258万人

1923年(大正12年) 関東大震災が発生。被災者の一部が大阪市など各地に転居。

1923年 大阪松竹座が完成。その後、四ツ橋に文楽座、31年に大阪歌舞伎座が完成。

1925年(大正14年) 第二次市域拡張。周辺の残余44町村全てを編入して大大阪市が成立。東京府東京市を上回り、世界各国の主要都市でも6番目に人口の多い都市となる。

ニューヨーク(597万人)、ロンドン(455万人)、ベルリン(403万人)、シカゴ(310万人)、パリ(290万人)です。この年東京の人口は214万3200人。

1925年 野村財閥の主軸として野村證券が設立される。

1928(昭和3) 大阪商科大学設立

1929 梅田で阪急百貨店が開業。梅田は元は「埋田」、湿地を埋め立てたところであった。

1930年(昭和5) この年の大大阪人口は245万人。世界大恐慌。線維輸出を主体とする大阪の経済は大きな打撃をうける。

1931年(昭和6) 大阪城天守閣再建、中央卸売市場ができる、大阪大学できる

1932年(昭和7年) 東京市は市域拡張(82町村編入)によって35区へ増加。大東京市(面積551平方キロメートル、人口497万人)が誕生。

1933(昭和8) 梅田~心斎橋間に地下鉄ができる

1937(昭和12) 道幅44メートルの御堂筋が完成。11年を要した。

1939 大阪府と東京府の生産額が逆転。以後その差を拡大した。原因は軍需の成長と民需の減少。

県別生産高推移1県別生産高推移sen
     府県別生産額の推移(縦軸は全国比%)


1939年 堂島米穀取引所、戦時統制の強化により廃止される。

1945(昭和20) 大坂空襲。焼夷弾攻撃により約21万戸の家が焼失、1万人以上が死亡、3万5千人が負傷。

10月 市人口は107万人、府人口280万人に激減。

1970(昭和45)  日本万国博覧会が千里丘陵で開かれる。この年泉北ニュータウンが完成。



「ネット墓」の構想がどうも進んでいかない。
最大の問題は技術インフラのほぼ完全な欠如である。
誰かテクニシャンに入ってもらうしかなさそうだ。
葬儀屋さんとまず相談してみよう。
バーチャル墓の一番いいのは、埋葬許可証がいらないことで、場所や広さに制限が不要なことだ。
墓地運営協会を作って、各種サービスを提案し提供することになる。中心になるのは「デジタル位牌」である。要はパソコンが各自一台あれば良い。その部屋で小人数で見るもよし、大きな部屋のスクリーンに映写しても良い。
問題は故人の遺した電子データをいかに利用可能にするかだ。おそらくデータのほとんどは断片的なものであり、どう閲覧可能にするかは検討課題だ。もちろん本人の意志を尊重はするが、本人に任せる言われても途方に暮れるだけだろう。
これはまさにリポジトリの技術であり、インデクシングの技術である。
いちど有志で検討会を開いて見る他ない。

デニソワ人はネアンデルタール人と肩を寄せ合っていた

本日の赤旗科学面の記事
まず3本見出しを並べる
母・ネアンデルタール人、父・デニソワ人
5万年前の人骨は混血の少女
シベリアの洞窟

結論は見出しに尽くされている。
その前に前振り、その後に意味づけがつく
まず前振り
シベリアの南部にデニソワという洞窟がある。2008年に洞窟の中から多くの人骨が見つかった。
調べると大変な人骨であることがわかった。どこが大変かというと、一つはそれが5万年前の人骨であるということ、もうひとつはネアンデルタール人とデニソワ人の混在する居住地だったということだ。
我々はこの発見によって、デニソワ人という第三の旧人の存在を知った。
第1がハイデルベルク人、第2がネアンデルタール人である。
ハイデルベルク人を原人ーホモ・エレクトゥスとする説もある)
いったいデニソワ人とはどんな人種だったのか。それはネアンデルタール人と、どこがどれだけ違うのか。なぜネアンデルタール人と混住していたのか。
謎だらけだ。
そこに持ってきて、今回のニュースだ。「エッ」とも思うし、「それもありかな」とも思う。
ついで今回の研究結果
デニソワ11と名付けられた人骨の一部をゲノム解析したところ、ネアンデルタール人とデニソワ人のゲノムが40%づつ入っていた。
ここからさきがよく分からないのだが、以下のように記載されている。
両者とも(ゲノム内の)比率が高く、しかも同程度の割合を占めている…
このことは遠い昔に混血した人の子孫ではなく、第1世代のハイブリッドであることを示している。(マックス・プランク研究所の発表)
2つの人種はひとつ屋根の下で平和的に共存していた。下世話な言い方すれば、この洞窟は乱交パーティーの会場だったわけである。二つのグループが平等だったのか、一方が支配され家畜化されていたのかはわからない。
意味付け
80万4千年前に、現生人類であるホモ・サピエンスとの共通祖先からネアンデルタール人・デニソワ人の共通祖先が分岐した。さらに、64万年前にネアンデルタール人からデニソワ人が分岐した
とされる。
それが共存した理由は2つ考えられる。
ひとつは生活形態に合わせて人手が必要だった可能性。マンモスハンターであれば狩猟の方法、人命リスクの高さなど、共存したほうが良い場合はたくさんある。もちろん分前が減るということではトラブルの原因にもなりうるのだが…
もう一つは、そこ(シベリア)が当時の人類のフロンティアであり、生存の限界線を構成していた可能性である。デニソワ人は、あとからネアンデルタール人が来て生活が圧迫されようと、そこから先に進めないのであれば、そこにとどまるしかない。そうやって複数の人種が階層を形成しながら積み上がっていく可能性である。
これをさらに布衍していくとホモ・サピエンスとの関連もでてくる。
5万年前といえば、ホモ・サピエンスはとっくに出アフリカを果たし、新大陸を除くすべての大陸に進出している。反対にネアンデルタール人はほぼその歴史を終えようとしていた。
だからデニソワ人もネアンデルタール人も、ホモ・サピエンスに追われ、辺境の地に肩を寄せあっていたというふうにも考えられる。想像力は限りなく広がるのである。


以下の年表は北大大学院法学科の馬場香織さんの論文(メキシコの麻薬紛争に関する予備的考察)から作成したものである。この論文は「なぜ」という側面に迫ったものであるが、かなり話が難しいのでとりあえず端折らせてもらった。興味ある方は当該ページに当たられたい。

1960 年代 ヒッピー・ムーヴメントに乗って米国で麻薬の需要が急速に拡大。これにともないメキシコの麻薬生産も飛躍的に拡大する。

1976年 政府、米麻薬取締局(DEA)の協力を得て「コンドル作戦」を開始する。シナロア州を中心に徹底的な攻撃を加える。

1978 年 コンドル作戦が収束。グアダラハラに潜伏していたギャングが麻薬密輸を再開。

1980 年代 米政府、コロンビアからカリブ海を経てフロリダに至る密輸ルートを壊滅に追い込む。これに代わり、メキシコを経由するルートが主流となる。

1990 年代 コロンビアのカルテルが衰退。メキシコのカルテルがコカインを含む麻薬密輸の中心となる。グアダラハラを拠点としたカルテルと、メキシコ湾を拠点とするカルテルが勢力を伸ばす。

2000 年 大統領選。国民行動党(PAN)が勝利して政権交代が実現。民主化が達成される。

1990 年代 グアダラハラ系のカルテルは、フアレス・カルテル、シナロア・カルテル、ティフアナ・カルテルの3つに分裂する。

1995 年 メキシコで経済・金融危機。失業者の増加は、子分の調達を容易にする。

1996 年 ガルフ・カルテルのリーダーにオシエル・カルデナスが就く。シナロア・カルテルに対抗するため、対諜報活動に精通したメキシコ軍の精鋭メンバーを集め、超強力部隊「セタス」を創設する。

2003 年 ガルフ・カルテルのオシエル・カルデナスが逮捕される。これをチャンスとみたシナロア・カルテルが攻勢。これにセタスが応える。

2006 年 ミチョアカン州でミレニオ・カルテルに代わりファミリア・ミチョアカーナが台頭。住民に対する一定の支援を行う。

2006年 セタスの活躍を見た各カルテルが兵士のリクルートを活発化。6年間で5 万 6000 人が軍務を離脱。

2006 年末 カルデロン PAN 政権が発足。「対麻薬戦争」を宣言。

2007 年 セタスとシナロア・カルテルが休戦協定を結ぶ。

2009 年 フアレスを舞台にシナロア組織の内紛が激化。フアレスは世界でもっとも殺人率の高い街となる。

2011年 セタスはメキシコ湾カルテルから自立。メキシコ各地に支部を拡げる。カルテル間抗争は三つ巴となり、年間死者数が1万6千人を超える。

2011年 ミチョアカンでファミリア・ミチョアカーナが壊滅。住民への暴力を事とする「テンプル騎士団」が勢力を伸ばす。



ベネズエラ革命は勝利できるだろうか


これは今から10年前に書いた記事です。タンスを引っ掻き回していたら出てきました。
あの頃、まだチャベスは健在で、ベネズエラ革命は不抜のように見えました。しかしアメリカは諦めてはいなかった…その事がよく分かる記事です。



いまベネズエラ革命は、数々の困難を乗り越えて大きく前進しつつあります。しかしそれが長期に見て勝利を収めうるのかどうかは、依然として不透明です。

革命そのものが抱える困難は、おおきく言って外部的な困難と内部的な困難に分けられます。このうち内部的な問題については専門的になるし、意見も分かれるところがありますので、ここでは簡単に触れるにとどめます。

言うまでもなく外部的な困難のうち最大のものはアメリカとの関係にあります。というより、ベネズエラ革命が抱える困難の圧倒的な部分は米国の干渉がもたらしたものです。

チャベス下ろしの策動は、これまで大きなものだけでも、すでに3回も実行されました。1回目は2002年4月の失敗したクーデターです。2回目は同じ2002年の12月に始まり、2ヶ月にわたって続いた「ゼネスト」です。そして3回目が2004年8月に行なわれたチャベス解任を求めるリコール投票です。それらのもくろみは、そのたびに失敗してきました。

 

米国はベネズエラをあきらめていない

①ベネズエラ政府転覆の秘密作戦

昨年、調査ジャーナリストのエバ・ゴリンジャーは、情報公開法(FOIA)を通じて最高機密のCIA文書を入手しました。2002年4月のクーデターの2日前のものでした。それはCIAのクーデターへの関わりを証明し、複雑な経路をとった資金援助を明らかにしています。

これによると、クーデター組織への援助は2001年から始まっています。秘密資金は、米国議会の全額拠出する準政府機関の「国家民主主義振興会」(NED)および米国国際開発局(USAID)を通じて行なわれました。

これらの機関の資金は、最終的にチャベス反対派に流れました。それは暴力的な街頭抗議行動の準備・組織に用いられ、クーデター当日の大デモへとつながっていきました。さらに2002年末から翌年初めにかけての石油公社のストライキや、2004年8月のチャベスに対するリコール投票にも用いられました。

ゴリンジャーが入手した文書は、米国国務省、国家安全保障局、そしてホワイトハウスがこれら三つの陰謀を全面的に掌握し、それを是認していたことを、一点の曇りもなく明らかにしています。

②三つの政府打倒計画

2002年4月のクーデターについては私の別著「ベネズエラ…何が起きたのか?」をご参照ください。このときは企業連合が、武力挑発の後「虐殺事件」をデッチあげ、これに連動して軍の反チャベス派がクーデターを起こし、チャベスを逮捕・拘留しました。

しかし市民の反撃にあい、権力が維持できなくなり「新政府」はわずか2日間で崩壊してしまったのです。

二回目の計画は、企業が営業をストップさせ、これと連動して国営石油の操業を停止させる作戦でした。反政府派の労働組合が音頭をとり、表面的にはストライキのように見えますが、実体はアメリカの意を受けた生産サボタージュです。

30年前のチリではトラック運送業や、商店主の波状的なサボタージュがアジェンデ大統領と民主連合政府を痛みつけ、クーデターへとつながっていきました。しかしベネズエラでは軍と政府が石油生産を管理し、銀行などの敵対行為に対しては外国為替の取引を停止するという強硬手段で、押さえ込むことに成功しました。

政府は石油生産と金融機能を抑え、流通機構の統制にも乗り出しました。それがメルカル計画です。これらの措置により反チャベス派企業や労組の力は大幅にダウンしてしまいました。

三つ目の計画は大統領リコール投票です。これは大統領のリコール権を認めた新憲法を逆手にとって、チャベスを追い落とそうという、一見合法的な闘争形態をとりました。

しかし、それはリコール投票をキャンペーンの手段として利用することに目的がありました。反政府派はリコール要求署名を集め、それが法定数に達したとしてリコール投票の実施を求めました。ところが選挙管理委員会で署名をチェックすると、不正な署名が圧倒的に多く、そもそもリコール投票の実施に必要な要件を満たしていないことが明らかになりました。

選挙管理委員会が中間報告の形でそのことを明らかにすると、反政府派は政府と選管の違法な独裁を糾弾し、カラカスを中心に大規模な暴動を引き起こしたのです。この暴動で多くの人が犠牲になり、国際世論はチャベスを批判するようになりました。ここまではメディアを使った反政府キャンペーンが一定の成功を収めたといえます。

政府は、カーター元大統領や米州機構の調停を受け入れ、リコール投票の実施を受け入れることになります。

しかし、その裏にはこの国民投票に勝てるという、チャベスの絶対的な自信がありました。そして結果はそのとおりになりました。

③その後の政府打倒計画

これまで何回かの米国によるチャベス政権転覆策動はことごとく失敗してきました。かといって米国が手をこまねいているわけではありません。むしろ追い詰められれば追い詰められるほど、その凶暴さをむき出しにしてきているといえます。

 

ウーゴ・チャベスは、米国が彼の暗殺計画をもっていると確信しています。彼は、正しいかもしれません。

ニューヨーク州ビンガンプトン大学の名誉教授でラテンアメリカの専門家であるジェームズ・ペトラスは、以下のように述べています。

「米国はチャベスとカストロを軍事的に打倒する戦略を持っている。それは二段階に分かれている。まずチャベス政権を倒す。そしてキューバへのエネルギー供給をとめる。それから経済的締め付けを強め、最後に軍による攻撃へと進む。

チャベスを倒すために 、米国は「三角形の戦略」を使用するだろう。まずコロンビアから反革命軍部隊が侵入する。米国は空と海からベネズエラを攻撃し、さらに特殊部隊が政府幹部を暗殺するなど破壊工作を行なう。そして国内においては、潜入したテロリストと軍内の反チャベス派により反乱を引き起こす。これらの作戦はメディア、銀行界、石油会社幹部によって支持されるだろう。

これに先立ち、米国はコロンビアに軍事援助30億ドルを提供する。おそらく「麻薬戦争」のためという名目がつけられるだろう。この援助によりコロンビア軍の規模は現在の3倍以上、27万人に達するだろう。そして、新しいヘリコプターや爆撃機を加え、「先進的な軍事技術」を獲得するだろう」

②反チャベス宣伝の強化

クーデター、石油スト、リコール投票の全期間を通じて、米国は反チャベス・レトリックを強めました。それは、米国の民衆に、チャベスの除去を何か良い変化が起こったかのように受容させようとするものでした。

そのときと同じレトリックが、次のチャベス追放計画のときにも、それに先立って展開されるでしょう。実際、それはすでに始まっているともいえます。

2005年の初め、CIA長官ポーター・ゴスが上院情報委員会で証言しました。その中でゴスはベネズエラに言及し、「潜在的な不安定地域」であり「発火点」だと表現しました。彼はまた、ウーゴ・チャベスが「合法的な戦術を用いて彼の権力を強化し、敵対者を攻撃し、他の地域に干渉しようとしている」と非難しました。

他にも米政府当局者は、チャベスを「地域への否定的な力」であり、「新しい種類の権威主義である」と攻撃しています。そしていささかのためらいもなく、ベネズエラ政府を「権威主義的民主主義」、「民主主義に対する脅威」、「選ばれた独裁」と呼んでいます(何たる形容矛盾!)。

常に自発的で恥知らずな共謀者である米国メディアは、これらの反チャベス感情を増幅し続けています。それらのキャンペーンは米国の国益に対する脅威としてチャベスを描き出しています。

このタイプのレトリックが新しい年を迎えても続き、強化されるならば、それは何かが起きている鮮明な兆候であるかもしれません。



長年フォローしていると、明らかなのは「理由は後からついてくる」ということです。人権だろうと民主主義であろうと対外債務であろうと経済危機であろうと、とにかく理由はつけられるのです。問題はメディアがそれをあたかも真実のように報道することです。




この夏、北海道はずっと雨ばかりで、たまに晴れるとドライブしたくなる。この間は層雲峡まで行ってきた。お金さえ気にしなければ、今は上川町まで高速で行ける。計時はしなかったが3時間足らずでつくと思う。
上川から一般国道に降りてしばらく走るともう層雲峡だ。下の地図で見て、山に登っていくケーブルカーが見える。その出発点が層雲峡温泉だ。
そこからなんとやらの滝とやらを右手に見ながら進む。滝上の山にはまだ残雪がある。少しづつきつくなる上り勾配に差し掛かってしばらく走った頃、道は二股に分かれる。
両方とも国道で、まっすぐ東に行くと天北峠を越えて北見につながる。右に曲がるとダムの堰堤の上を通って湖沿いに三国峠に伸びていく。三国峠の向こうは十勝平原だ。まぁ北海道の中心と見てよいだろう。
大雪山
ここを三国峠の方向に曲がり、ダムの堰堤を越えトンネルを潜ると、右に登山道が見えてくる。最初の100メートルほどを行くと舗装は切れる。車がすれ違うのも危険を感じる悪路を延々と登っていくと、山の中腹で道そのものが切れる。これが銀泉台である。
なんでこんな半端な道があるかと言うと、登山者のためのアクセスなのである。車は通れないが道は山頂に向かって続いている。多分銀泉なのだろう、蛇口があって、トイレがあって、無人の事務所が置かれている。
私は登山などという無駄な遊びは好きでない、景色だけならテレビ見ていればたくさんだ。ということで早々に退散したのだ。
すみません。ネットしたところ、行き方&現地レポートという詳しいページがあって、動画まで掲載してくれています。
もみじの名所でシーズンには山麓からシャトルバスが運行するそうです。
朝6:00から昼過ぎまで30~45分間隔で運行。運賃は銀泉台まで片道500円。細くて未舗装部分が多い道を、ガタガタ走ること約35分。ようやく銀泉台へ到着します。
復路の最終は16:30です。
その帰りの途中、もう麓に近いあたりで道を歩いている青年を見つけたのだ。およそ登山者には見えない出で立ちで、まちなかを歩くふうに悠々と歩いている。しかも何故か下っている。
流石に気になる。止まって話を聞いた。見た目は日本人風だ。しかし言葉は片言だ。
「いったいどうしたの。みちにまよったの?」
「国道に出ようと思っています」
「国道に出るってゆったって、ずいぶんあるよ」
「大丈夫だと思います」
「第一危険だ。この辺は人はいないがクマが出る。私なら絶対歩かない」
「…」
ということで、とりあえず後部座席に収容する。
車の中で聞いたところ、この青年はマレーシア人。層雲峡温泉のホテルに「研修」に来ているそうだ。今日は非番で、朝の10時過ぎにふらりと宿舎を出て、散歩の延長でここまで歩いてきたらしい。私と同じ道をたどって、途中まで登ったが先が見えないので歩いて戻る途中だったという。
距離測ってないが、ある自転車乗りのブログで、温泉から二股まで11キロと書いてある。
無謀なことをするものだ。熊に襲われなくても大雪の山は夜はしっかり冷える。どうせ携帯など持っていないだろうし、持っていても圏外だ。
「メクラ蛇に怖じず」とはこういうことを言うのだろう。
ともかく層雲峡温泉までは車で送ってやった。さほどありがたい様子は見せなかったが、仕方がない。


それで、すっかり忘れていたのだが、この間の山口県大島の子供の行方不明事件のテレビを見ていてふと思い出した。人間というのは見知らぬところで迷子になると、似たような行動をとるものだなと思った。マレーシアの青年の場合、さすがに「これは戻るべきだ」と判断したのだが、それまでずいぶんと突き進んでいる。
そこには「進む勇気」も「退く勇気」も関係ない。前頭前野が止まるのだ。そして前頭前野が止まったとき、人間というのは無意識下に歩みを続けるものなのだ。なぜなら、前頭前野は「止まれ」という司令も出せなくなるからだ。そして無意識下であっても下位中枢がしっかりと歩行行動を支えるのだ。

この数日間、挫折に次ぐ挫折。
MZ Rh-1
引き出しをかき回していたら、MDウォークマン(MZ Rh-1)がでてきた。最後のMDプレーヤーで、そもそも吸出しのためにだけ買ったものだが、すぐ飽きた。
タグがつかないので入力しなければならなかった。
当時はハードディスクの容量やCPU能力、メモリーの関係で入れてMP3に変換しなければならなかった。
しかしこれらの問題が解決した今、ATRACのままで格納・再生できるのではないかと思ったのである。曲名はコピー機で曲名メモをコピーし、フォルダーにJPGで突っ込んでおけば、とりあえずは良いということだ。
そこで張り切って仕事を始めたのだが、これが悪戦苦闘、挫折に次ぐ挫折。
ずっとそうなのだが、ソニーはコンシューマーいじめに快感を感じているらしい。
離婚した旦那に息子の書類の印鑑貰いに行ったら、難癖つけられて、挙句の果てに断られたようなものだ。「あんたの子でしょ!」
相変わらず、気取って商売している。離縁してよかったなと今しみじみと思う。

多分だめだと思いつつ、本日最後のチャレンジをかける。
問題は
① 多分、今のアプリケーションではMZ Rh-1を作動できないということ。
②より根本的にウィンドウズ10 の64bit バージョンがMZ Rh-1を認識しないこと。
③ バッテリーチャージができないため、単独での立ち上がりが不可能だということ。
の3つだろうと思う。

まずアプリの問題だが、ソニーのサイトではMZ Rh-1を動かすソフトとして使われてきたソフトが配布中止となったと書いてある。
ただしその後継ソフトでも細工をすれば動くようになるという説明があったのでダウンロードして動かしてみた。
動かない、というよりMZ Rh-1を認識しない。USBを差し込んだ時にカチンという音がするのでハード的には認識したのだろうが、それっきりだ。

ついで、配布中止となった旧ソフト(X-アプリ)が手に入るというので、そこのサイトからダウンロードしてきた。すごく時間がかかるので不安になるが、最終的には問題なくダウンローでできるし、インストールもできる。
これは良さそうかなと思ってアプリを始動したが、MZ Rh-1を認識しないというのは同じだ。

ということで、操作アプリの問題ではないということが分かった。ウィンドウズ10がMZ Rh-1を認識しないということが根本問題だ。MZ Rh-1の側から言えば、ウィンドウズ10の上で動くためのドライバーが欠如しているということだ。

実はもう一つの不安がある。MZ Rh-1はUHBからの充電のはずなのに、UHBを差し込んでもまったくうんともすんとも言わない。そこにはもっとハード的な問題があるのかも知れない。

とりあえず不安を抱えながらも、後者の問題は脇においておいて、ウィンドウズにどうやってMZ Rh-1を認識させるかという問題である。
ウィンドウズの旧バージョンでは認識できたのに、バージョンアップしたら認識できなかったと言うなら、ウィンドウズがMZ Rh-1を認識するプログラムを抜いてしまったということになる。(あとになってわかったのだがウィンドウズは認識はしていたのである。しかしドライバーがないから動かせなかった)

問題の“削除”はウィンドウズ7から8へのバージョンアップの時に起きたらしい。したがって7→8の“逆”差分を探してそれを復活させればよいということになる。
とすれば、これはウィンドウズの側の問題だ。それはどこにあるのか。(後からわかったのは、そのドライバーがX-アプリに内蔵されていたということである)

これについての回答がいくつかネット上に挙げられている。
正直言って、ここが難しくてここで挫折している。

というのが8月18日午前10時半の状況だ。

Kyoro's Room Blog というページに「Hi-MD Walkman MZ-RH1をWindows 8で使用する」という記事がある。要旨は以下の通り。
① ウィンドウズ10はHi-MDだけは認識する
MZ-RH1をUSBポートに接続した状態で、最新版のx-アプリ(Ver.5)をインストールする。
Hi-MDモードでは、標準のUSBマスストレージクラスドライバが自動的にインストールされ、PCからはリムーバブルディスクとして認識された。x-アプリの「機器への転送」は可能であった。
② 通常のMD(Net MDモード)は認識しない
しかしHi-MDのディスクを抜いて通常のMDに入れ替えると、まったく認識されなくなった。
デバイスマネージャを開いてみると、ドライバがインストールされていない状態となっていた。
③ ソニーは爆弾を仕掛けた
x-アプリは、ウィンドウズ8以上でNet MDドライバーをインストールさせないようにプログラムを書き換えられている。(8以上と言うより64bit OSを拒否しているのかも知れない)
④ 書き換える前のプログラムは手に入らないか→入る!
爆弾ソフトはウィンドウズ8が開発されたあとに作られたものである。ということは7時代のx-アプリにはこの爆弾は仕掛けられていないはずだ。
であれば、それに戻せばいいことになる。
④ ファイルの抜き出し
まずウィンドウズ7の搭載機を探す。そこからインターネットでx-アプリ(Ver.5)をダウンロードし、インストールする。
つぎにプログラムの一覧を開いて"C:\Program Files(x86)\Sony\x-APPLICATION NetMD Driver\NETMD760\"というフォルダを探す。ここにNet MDのドライバが入っている。
このフォルダを丸ごとコピーする。
⑤ \NETMD760\ の移植
コピーしたフォルダーをマイコンピュータに持ち込む。
デバイスマネージャから「ドライバー ソフトウェアの更新」で読み込ませる。(この部分理解不能)
MZ-RH1をUSBポートに接続し、Net MDモードに設定する。(この部分、理解不能)
⑥ようするに何をしているのか
このKyoroさんのサジェスチョンは、途中まではとても親切だが、最後の肝心の2段階が理解不能だから、結局ものの役には立たない。
エクスプローラーでC:\Program Files(x86)\Sonyまでたどると、そのフォルダーに\x-APPLICATION NetMD Driverはない。当然その先もない。これでは機械が動くはずがない。
だから\x-APPLICATION NetMD Driver\NETMD760という階層を作るしかない。そして\NETMD760フォルダー内にNETMD760.inf というファイルを突っ込むことになるのだろう。

これで朝から4時間を無駄にした。
ただNetMD Driverというのを組み込めるかどうかの問題だというあたりはついてきた。
これからはこれに的を絞って攻めて見ることにする。

きゅうこ かあちゃんの秘密基地 が、もっとも頼りになった。
3つつの難関がある。一つはドライバーを探して置き場所を作ることだ。
次は、デバイスの接続口を探すことだ。そしてもう一つは、ドライバーを組み込むのだがその際にガード破りをすることだ。
これがドライバーだ。きゅうこさんの教えてくれたものだ。

ドライバ
この絵の下の方、“NetMD MZ-RH1 and later”を左クリックすると自動的にダウンロードが始まる。デスクトップに解凍し、フォルダー内のすべてのファイルを、C¥programfiles86¥sony¥x-APPLICATION NetMD Driver ¥NETMD760 ¥  につっこむ。¥x-APPLICATION NetMD Driver ¥NETMD760 ¥は自分で作成することになる。

ついでデバイスの在り処だ。これはデバイスマネージャーの一覧表を開いた状態でMDのUSBを刺すと、デバイスマネージャーに赤く映るのでよく分かる。ここをクリックすればドライバーの更新が可能になる。(ここを写真に落とすのを忘れた。今となってはあまり鮮明には覚えていない。)

3つ目が素人にはすごい難関なのだが、親切なページがあって指示通り進めばスラスラといけてしまう。
ただしウィンドウズ10といえども日進月歩、書いてるとおりには行かないところもある。ネットで変更を検証しながらの作業になる。“スクリーン”のところはまったく変わっているので、ネットの他の記事で見ながらやることになる。
なおパソコンを切る操作もあるので、かならずページを印刷してから作業を開始しなければならない。
この2つのサイトの援助で、ついに2日間の悪戦苦闘が終わりを告げた。

MDは動き始め(電池なしに)、ソフトはMDを認識し、曲を吸い込み始めた。まだこの後も作業は続くが、これから学習会の講師で出かける。その後はお酒が入るから、続きは明日だ。

とりあえず、小さく、自分だけに、「ばんざい!」(18日午後5時)

追加(8月15日)
吸い出した音は、細工をしない限りATRAC ファイルで出てくる。拡張子は .oma となっているが中身はATRACだそうだ。
それでXファイルで聞いても意味はないので、なんとかfoobarで聴きたい。
ネットでfoobarでATRACを聴く方法と入れて検索した。
foo_input_oma.dll というプログラムをfoobarのcomponent フォルダーに入れればいいらしい。foo_output_oma でなくていいのかなと首を傾げつつ入れた。これでしっかりと再生できる。
電脳スピーチ blog(作者)によると、

まず、このコンポーネントを導入すると、起動が遅くなります(他にもいろいろと遅いですが)。 
というのも、このコンポーネントは起動時に SMLE の初期化処理を行いますが、SMLE は初回の初期化に若干時間がかかりますので、導入すると foobar2000 の初回起動に時間がかかるようになるのです。 
ですので OMA を使う予定がないのに、コレクション的に(foobar2000 での再生可能形式を増やすだけの目的で)導入するのは、全くお勧めできません。

となっているので、気になるようならコンポネントから一時的に外してデスクトップにおいておく手もあるかも知れない。

追記 
に続きます。


大変よい本を読むことができた。と言ってもまだ読み始めたばかりなのだが…
題名は
片岡宏二 「弥生時代➖渡来人から倭人社会へ」雄山閣 2006年
というもの
以前から「北九州を語らずして弥生を語ることなかれ」と思っていたので、まことに的確な指摘が続き、心地よい興奮に襲われる。
面白いところを抜書きしていくことにする。

1.朝鮮系縄文人の認識

縄文人は、沖縄までふくめて全国的に均一で、おそらく北から渡ってきた人々(Y染色体ハプログループでいうとD系人)に由来するだろうと思われる。
しかし、朝鮮から縄文時代に渡来した人々(C系人)もかなりの割合でおり(人口の8~10%)、西日本および日本海側では少なからぬ影響を伝えている。
というところまではうすうすと分かっていたが、この本でかなりスッキリしてきた。

2.初期朝鮮系縄文人の遺物

片岡さんによれば朝鮮渡来の縄文人の遺物は少なくとも三種類ある。
① 結合針 これは二種類の骨片を繋ぎ合わせて一つの釣り針にしたものである。これが朝鮮海峡を挟んで両側から出土する。
② 黒曜石: これも海峡を挟んで両側から出土するが、原産地は佐賀県有田町の腰岳という山だそうだ。これが意味するのは、少なくとも縄文時代までは、大陸・半島・日本の関係は双方向性であり、上下関係ではないということだ。
③ 櫛目式土器: ポスト縄文というか縄文晩期というかそのあたりで櫛目式土器が出てきて、縄文土器と併存しているようだ。
これから分かることは、朝鮮系縄文は縄文後期に登場しているが、両者に敵対関係はなくあくまで併存関係だ。

3.朝鮮系縄文人と無文土器

弥生時代に先行する縄文時代後期を生きた人々を、我々は晩期縄文人と呼んできた。
朝鮮系縄文人は、時期的には晩期縄文人と一致する。
とりあえず同一の民と見て話を進めたい。
① 前期
朝鮮系縄文人の痕跡は紀元前1千年(3千年前)ころから出現する。
彼らの生活を象徴する前期無文土器は、半島中部に始まり、その後南に波及し、海を渡り西日本まで広がっている。
ただし日本においては、この無文土器は縄文土器と混在している。
北方系の農耕を営んでいたとみられるが、農耕を主体とするまでに至っていたかどうかは不明。
② 後期
ついで孔列文土器を使用する文化が半島から進入した。この孔列文土器旧型と新型に細分される。
日本における分布は、新型人が南九州(熊本・宮崎)に広く存在し、畑作農業を営んでいた。
一方旧型人は北九州に分布し、米作りを営む渡来人と重なっている可能性がある。
この地理関係は、新型人がまず九州に入り全土に展開。その後旧型人が北九州に入り、新型人を南に追い出したと考えるのが自然であろう。

4.旧型孔列文土器文化は渡来人のもの

紀元前200年から150年にかけて、朝鮮系の人々が急速に増加している。著者はこれを箕子朝鮮の滅亡と結びつけている。
金隈(かねのくま)遺跡の渡来人の墓地(支石墓)から渡来人の遺体136体が発掘された。
これから推計すると、弥生時代中期の福岡平野では、人口の8~9割が渡来人という計算になる。
福岡遺跡からは大量の無文土器が発見されている。その様式は完全な朝鮮式だが、原料の土は日本産である。
したがって同じ孔列文土器であっても、縄文系と弥生系でまったく異なる渡来人だった可能性がある。

かなり初見の事実が展開されており、正直のところ整序しかねている。もう少し同種資料を検索した上でコメントしたい。


「セルフアーカイブ」についての誤解

すみません。セルフアーカイブの意味を誤解していました。セルフアーカイブというのは著作権の関係でかなりスレスレの行為のことを指しているようです。

ウィキによると、

デジタル文書の無料のコピーを、オープンアクセスに供するためにウェブ上に置くことである。
通常セルフアーカイブと呼ばれるのは、学位論文や査読付きの学術雑誌や、国際会議において刊行された学術論文をその著者が所属する機関のリポジトリやオープンアーカイブに登録することである。

ということで、論文の二度出しである。約91%の査読付き雑誌が、論文の著者にプレプリントやポストプリントをセルフアーカイブすることを認めている。

いくつかの条件が整えばOKということになって来てており、最近ではオープンアクセスへの"green road"と呼ばれているようである。

ということで、「自主的アーカイビング」みたいな高尚なものではなく、「勝手にアーカイブ」みたいなちょっと生臭い話である。



リポジトリー について勉強した。
広島大学 学術情報リポジトリ というサイトがあって、そこに学術情報リポジトリとはというページがある。
考え方を整理する上でたいへん役に立つページなので、骨子を紹介する。

1.学術情報リポジトリとは?
論文、報告書、図書、研究データなどの学術成果物を公開するためのプラットフォームです。

これらの成果を保存し、無償で広く公開することを主たる事業とします。

学術情報リポジトリは広島大学の学術成果のショーケースとなります。

2.学術情報リポジトリのメリット

学術成果(雑誌掲載論文など)の可視性が高まります。
ご自身の研究成果一覧を作成することができます。
メタデータ(タイトル、著者名、キーワードなど)を作成すれば、より検索されやすくなります。
各コンテンツにパーマネントリンク(固定URL)を付与し、リンク切れをなくしています。

3.著作権の問題
出版社や学会に著作権が譲渡されていれば、話は複雑なので、各自前もって処理してください。

4.オープンアクセスについて
リポジトリはオープンアクセス(OA)の一種です。
オープンアクセスとは「誰もが、インターネット上で障壁なく、学術研究成果を利用できること」です。
リポジトリーでは既発表資料をOA化することになります。これを「セルフアーカイブ」と言います。

ということで、我々がやりたいことと言うより、それを裏で支える側の“ものの見方”になっているが、そう飲み込んで読めばかえって話はわかりやすい。
この文章では最終ゴールとなっている「セルフアーカイブ」が、私達には出発点であり、セルフアーカイブという行為と、それを公開するという行為がくっつくと「オープン・アクセス」という発想になってくる。
それを“プラットフォーム”(乗り場)の形で社会システム的に支えてくれるのがリポジトリーという受け皿だ。
したがって、この文章の結論になっている、しかし我々の行動の出発点になっている「セルフ・アーカイブ」という考えかたをもう少し突っ込んで置かなければならない。



結局何がしたいかと言うと、
1.ホームページを有効活用したい
ファッションよりも倉庫としての検索の容易さが目的。
毎月それなりの使用料を払っているのだから…
2.ブログ記事をばらしてファイル化し、索引を付けて別保管したい
要は
ブログへのアップロードと、ファイル作成+ホームページへのアップロードが、ワンタッチで行えるようにするということだ。
過去のファイル整理はその後だ。
Chrome Editorというのが役に立つかも知れないので、チャレンジしてみる。
狙いとしては、ブログ記事の作成をこれでやる。
出来上がったらブログにコピペし、ファイルはドキュメントに保存する。保存したファイルをジャンル分けして、ホームページの書棚に格納する。
これで電子書庫が出来上がるが、その索引機能は別途勉強する。図書館に設置されている検索端末のようなものを作る。
グーグルの利用も考える。



前の記事は話が大きくなりすぎたようだ。アマゾンのなんとかというのは大型コンピュータをネット上でシェアーするシステムのことらしい。私ごとき素人がしゃしゃり出るような幕ではない。
素人が手を出すのは、もっとそれっぽい名前のもので、レンタルサーバーとか共用サーバーとか云うものらしい。
ネットカフェとか漫画喫茶みたいな響きがして心地よい。インターネットの出始めの頃のプロバイダーみたいで、ちょっと怪しげな感じが良い。

“共用サーバー ランキング”と入れてグーグル検索してみた。いかにもの秋葉原裏通り的「サーバー屋さん」が並ぶ。

レンタルサーバーおすすめランキング

http://xn--vckta6cvfd6b1d8102edgyc.jp/shared_server/index.html

というサイトに行く。どのサーバーも安いのを最大の売りにしている。なぜか? 
理由ははっきりしていて、あまりに高いからだ。

1位のCPI が月額3800円。年間だと45500円だ。商用でもこれだけ使うのはためらうだろう。
たしかホームページも96年に作った当時は平気で1000円~2000円とっていたが、それにしても高い。
@YMCという会社は入会金10,500円、月謝5,775円となっている。年間8万円だ。歌舞伎町のボッタクリ並みだ。

このページの作者は、比較的リーズナブルな価格として月額900円~1,200円程度、サービス内容がさらに充実しているところだと月額2,800円を勧めています。
さらに法人であれば、もう一段上のセキュリティを確保する必要があるとしている。例えばKDDIのマネージド専用サーバー というのは月額3万円だ。

ということで、とりあえずクラウドも共用もお呼びではない。
ホームページのプロバイダーでひたすら安い業者を探すしかないということだ。それをいかにうまくデザインして、有効に使っていくかということになる。

「思い出倉庫」を作るためには、クラウドサービスというものの知識が必要なようだ。
この年でスマホも使えない人間が手出しするような話ではないが、さりとて身の周りに親切に教えてくれるような人もいなくなった。
仕方ないのでやれるところまでやってみることにする。

Cloud か Crowd か
まず言葉のところから。
ウィキで「クラウド」をひくと、
英語のCloudまたはCrowdから、様々な略語や略称として多用される。
と書いてある。
Crowd の方はソーシングとかファンディングとかでソーシャルな方のクラウドで、私のお目当ての方は雲の Cloud の方らしい。
① クラウドコンピューティング (Cloud Computing) の略称。
② クラウドサービス - クラウドコンピューティングを利用して提供するサービス。
③ クラウドストレージ (Cloud storage、またはオンラインストレージ) - オンラインでファイルを保存するサービス。
が検索対象にあげられている。
つまり概念としてのクラウドコンピューティングをまず知り、その応用としてのクラウドサービスという技術を学び、最終的にクラウドストレージという手法を身につける、というのが学習コースのようだ。
クラウドの項目にはそれしか書いてないので、まずは① クラウドコンピューティングに進むことにする。

クラウドコンピューティング
まず定義
インターネットを経由して、コンピュータ資源をサービスの形で提供する利用形態
とあるが、これってインターネットそのものじゃん。膨大な情報を利用できるサイトというのがあるから(たとえば北大みたいに電子化の進んだ大学図書館とか、YouTubeとか、グーグル翻訳とか、窓の杜とか…)
この文章の後ろの方にもこう書いてある。
ネットワーク経由のコンピュータ資源利用自体は、1950年代のコンピュータ黎明期より行われており基本的には新しい技術ではない。
ただ従来の概念と異なるのは、大規模インフラ(スパコンレベル)の活用機会が個人や小規模グループにも開かれたところにある。グーグルの出現したときに、小さなプロバイダーのちっぽけなサーバーと電話線の遅さに苛ついた我々が驚愕したところである。

定義はさらに進むが、ますますわからなくなるのでとりあえず省略。
クラウドサービスプロバイダーというのがあって、そこでただで提供される諸機能を総称したものらしい。
SaaS と PaaS と HaaS に分類され、SaaS というのはライン上の無料ソフトみたいなものらしい、PaaS というのはそれらのソフトを動かプラットフォームを提供してくれる。HaaSというのはさらに進んで、
ハードウェアやインフラの提供。サーバー仮想化やデスクトップ仮想化や共有ディスクなど。ユーザーが自分でOSなどを含めてシステム導入・構築できる
のだそうだ。Amazon Web ServicesのAmazon EC2 などがこれにあたる。
どうもこれがクラウドの本筋らしいが、まだよくわからない。
クラウドにはパブリッククラウド とプライベートクラウドがある。プライベートというのは企業が自己完結で形成するネットのようで、一般人には無縁の存在。
ということは、現在のところ Amazon EC2 が唯一の開かれたクラウドということになる。したがって面倒なことをいわずに Amazon EC2 のお勉強だけすればよいということになる。

クラウドストレージの用途
それでアマゾンに行く前に
③ ③ クラウドストレージ 勉強。多分これが「思い出倉庫」のためのもっともだいじな資源のようだ。
用途は以下のごとし。
a SDカードの代替 自宅で作成したファイルをアップロードし、会社で作業を再開する。
b メンテナンスが行き届いていることが期待でき、バックアップ先としての信頼性が高い。
c 電子メール受配信時の容量制限を超えるファイルの受け渡しのために使う。
d 共有ディスク - グループで作業するため共有で使用する。
e ローカルの特定フォルダと同期を行うことが出来るものもある。
f アップローダー機能。ファイルを公開することを目的としており、誰でも見ることができる。
ということで、まさにビッグサーバーだ。

何を移植するのか
現在私が用いている媒体は
1.パソコン
lenovo のCore i5 で主として文書作成用。外付けハードディスク(2テラ)
一応ラップトップではあるが、ほぼ据え付け。音楽もこれで再生している。USBは5口ふさがっている。
2.パソコン 
持ち運び用で、Dynabook のCore i7 。ハイブリッドでバッテリーの持ちも良いので、プレゼンなど多用途使用している
3.ホームページ 「ラテンアメリカの政治」と題している
最近はほとんど更新せず、アクセスもほとんどない。
FFFTPでアップしているが、今ではかなり面倒だ。
4.ブログ
このページである。かなりのアクセスを頂いているが、古くなってくると不便この上ない。皆さん、グーグル検索してやってくるようだが、同種記事で併読してもらいたいものが読んでもらえない。
ブログの記事が自分のパソコンに管理できていない。これをなんとかしなくてはならない。ホームページとインテグレートして使おうと思っているのだが、これが意外に面倒だ。
5.これは著作権が絡むから公開はできないが、音楽ファイルが約500ギガある。もちろん画像ファイル(家族写真など)も相当ある。これまでは圧縮をかけてきたが、その必要はなくなるのかも知れない。

ということで、次にAmazon EC2 の話に移ろうと思う。
ただしほんとうにウィキの記載のごとくアマゾンしかネットサーバーはないのか。この辺も調べてみようと思う。

これはふと考えたのだが、これまで道具の使用が人間を作ったのだと言われてきた。
さらに道具の社会的使用という側面まで含めたのが、エンゲルス「猿が人間になるについての労働の役割」だった。
ただ、この考えは2つの点で間違っていると考えられる。
一つは、猿はかなりの点で道具を使いこなしていると言えそうだということだ。おそらく前世紀後半におこなわれた広範なフィールドワークで、それは実証的に説明されるようになった。
いまでは哺乳類から霊長類が進化する過程で成し遂げられた機能ではないかと思われる。しかもそれは哺乳類→霊長類というだけではなく、爬虫類→鳥類という進化の中でも成し遂げられているようだ。
だから我々は哺乳類というレベルではなく、哺乳類→霊長類という巨大なブレイクスルーにもっと注目しなければならない。そしてとくに脳の形態に着目してステップアップを観察しなければならない。またそれだけの進歩をもたらした樹上生活の展開との関連を説明しなくてはならない。
もう一つは、道具の社会的使用というのは、説明すべき社会性の獲得を前提にする過ちを犯しているからだ。社会性の向上を可能にしたものが何なのかを説明しなければ、道具の社会的使用をもたらしたものを説明することはできない。

それでは霊長類からホモ・サピエンスへの進化をもたらしたのは何か。すでに半分答えているのだが、言葉である。おそらく直立することによって舌筋をふくむ顔面筋や顎関節、咽喉頭の動きに大きな自由度が与えられた。その結果非常に多様な音声が操れるようになった。
それは肉体的前提であるが、それを駆使できるようになるためには脳の働きが飛躍的に増強される必要があった。とくに記憶装置の容量拡大がもとめられた。
もう一つは視覚画像のシンボル化である。画像がシンボル化されれないと音声シンボルとの対応はできない。したがって音声機能の拡充と画像シンボル化、そして両者の各々にもとめられる記憶装置、これらが脳の巨大化をもとめた。

したがってこういう事ができる。哺乳類は道具を使うことによって霊長類へと進化した。霊長類は言葉を使うことによって人類へと進化した。
ただ霊長類が哺乳類のトップに立ったということは、動物界のトップに立ったということではないのかも知れない。むしろそれによって先行する鳥類(爬虫類のトップ)にようやく追いついたと見るべきかも知れない。

ともかく、にんげんは言葉を獲得することによって、道具を社会的に使用するようになり、動物界の頂点に間違いなく立った。そしてそれ以来生物学的にはまったく進化していない。
ハード的な機能としての脳の大きさも、発声装置も、記憶装置も10万年前とそっくり同じだ。

文字言語獲得の生物学的意味
前置きが長くなったが、ここからが本番だ。
ただそれにも拘らず、生物が一つの種から他の種に進化するのに匹敵するような巨大な変化が起きている。それが書き言葉の発明だ。これは文字通りエピジェネティックに起きている変化だ。
エピジェネティックというのは、明らかに脳のシステム上の変化を伴っているからだ。書き言葉の獲得は明らかにシステムの生成を伴っている。まったくの一代限りの学習成果とばかりは言えないのである。
不正確な言い方かもしれないが、たしかに書き言葉の獲得は後天的である。いまでも地球上の人類の半数近くは文盲である。しかし失い方は決まっている。誰でも頭頂葉の中心溝後方に書き言葉の中枢が形成されていて、そこが傷害されれば“読み書き”という視覚性言語の二大機能は失われるのである。
つまり視覚性言語の習得の仕掛けは決まっているのである。

興味深いのは、文盲の人が脳のその分野を何に使っているのか。彼らが文字を見るとき、その場所がどういうあり様を示しているのか、などである。もともとなにかに使われていたはずの脳だから、視覚性言語のために取り上げられてしまったとき、元の働きはどこが担っているのかというのも気になる。
聴覚性言語の場合は明らかに利き腕側の優位の右半球に依存するが、視覚性言語はどうなのだろう。

一番気になるのは、テレビやラジオ、漫画という非文字言語に人間が落ちていくときに、人間の知能が落ちていく危険はないのか、考える機能が衰えて情緒的になっていく危険はないのかということだ。
トランプとか安倍晋三とかを眺めていると何かしら、そんな考えに陥ってしまわないでもない。

竜頭蛇尾というか、本番のところで脳みそがへたってしまった。
これから、また機会があったら、考えてみたい。

「ネット霊園」か「思い出倉庫」か

ネーミングは「ネット霊園」だが、実質は「思い出倉庫」だろう。
“人繋がり” が形成できるかどうか、“場” が作れるかどうかなので、
目的を共有する集団が形成できるかどうかがカギになる。

基本活動
故人ロッカー: ハードディスクなど記憶媒体の整理。文書ファイルを図書分類で整理して保存。画像ファイルを年月日順に保存。
閲覧室で鑑賞。
アナログ資料のデジタル化。(これは実費を旨とする)
遺言 遺族・縁者メッセージ 公開
メーリングサービス 死亡広報

オプション活動
ヴァーチャル法事 偲ぶ会(オフ会) 
資料虫干し公開 資料に基づくセミナー

定点活動
遺品・パソコン閲覧スペース

財務活動
維持基金(会費?)の管理・運用
基金運営委員会(税務)


※ 終活援助まで手を出せば一気にビジネス化するが、そこまでやるか。

※ 葬儀屋さんと組んで、葬儀サービスの一環としてやることにすれば、財務・税務は回避できる。

今朝のニュースで「パティシエ・ロワイヤル」というコンクールが行われたと報道されていた。菓子職人のコンテストらしい。
王立菓子職人てなんだろうと思ったが、「バトル・ロワイヤル」のモジリだと薄々わかってきた。
少なくとも日本のある世界では、“ロワイヤル”がコンテスト(勝ち抜き)という意味で、なんの不思議もなく用いられていることがわかった。

「通用するならいいか」と言われると、「ノー」だ。言葉としてあまりにもひどすぎる。

と、思ったら
そもそもまったく関係ない用法が立派に単語化しているのもあるようだ。

ロワイヤル(〈フランス〉royale)
卵とブイヨンを合わせて蒸し、卵豆腐のように固めたもの。トマトやグリンピースなどで色づけしたものもある。スープの浮き実に用いる。
ウィキペディアのロワイヤルの項目にも山程の用例が列挙されている。

とはいえ、これらの名は、いわば景気づけにロワイヤルと名付けられたに過ぎない。
コンテストやコンクールの意味にロワイヤルという言葉を与えるのはあまりに無謀だ。

はバトル・ロワイアルに関する言葉の乱れをあとづけている。
まず「バトルロイヤル」(battle royal)というのがあって、「プロレスリングで、多数のレスラーがリング上で戦う試合方法」なのだそうだ。
これを、おそらくカッコよく言うつもりで「バトル・ロワイアル」と言い換えた人がいて、「1999年に刊行され、後に劇場映画化もされた人気小説のタイトル」なんだそうだ。
これがいわゆる「デス・ゲーム」作品の先駆けとして、後年多くのフォロワーを生み出し…
若者言葉として定着したらしい。
そして最後に、ロワイヤルが「バトル・ロワイヤル」の意味を持たされた、ということなのだ。

という文章を見つけた。

東邦大学医療センター佐倉病院の院内報
「SAKURA Times 2013.11.10 第 67号」
に掲載されたものらしい。
著者は「臨床検査部」となっているので、
お気軽に書かれたもののようである。
安全運転管理者等選任の手引き
というファイル名だから、別のレポートの裏にでも印刷したのであろう。

現在の鳥類・魚類・爬虫類・両生類の赤血球にはすべて核があります。これら脊椎動物の中で赤血球に核がないのは、哺乳類だけなのです。
哺乳類(単弓類)は、なぜ赤血球の核を捨ててしまったのか。
ということで、著者はいくつかの仮説を提出している。
① 核をなくすことで容積が増し、細胞内に酸素と結合するヘモグロビンをより多く含むことができる。
② 赤血球の特徴的な円盤状の形をとることで体積当りの表面積が大きくなり効率的なガス交換が行える。
③ 円盤状になることによって、微細な毛細血管もスムーズに通過できる。

著者は以下のようなコメントも追加している。
ヒトの組織中で一番多くの酸素を必要としているのは脳(全身の酸素使用の約 20%)で、ヒトの脳が発達した一因にこの酸素運搬の獲得があったのかもしれません。
まぁ、それは別の話としよう。

進化と環境適応とは似ていて違うところがある。魚類が地上に上がるのに肺呼吸となった。両生類が水辺から離れて陸生となるために乾燥に耐える必要があった。
かくして爬虫類と哺乳類の共通の祖先となるEarly Reptilesが出現した。
そのうち寒冷適応(恒温化)をした単弓類がまず発達した。当時は十分寒かったし、酸素はたっぷりあったからだ。
そのうちレクチン分解菌が出現して、シダの木を石炭にせずに燃やし始めた。おかげで気温は上昇して炭酸ガスは増えてきた。逆に酸素は減った。
単弓類の長所はすべて欠点となった。単弓類は種の多様性を守るためにだけ生きながらえた。おそらくその雌伏のときに赤血球の無核化を獲得したのであろう。

①,②,③の理由はたしかにその通りだが、それには生物進化史的理解を必要とするのではないだろうか。

哺乳類と爬虫類の関係を示す、大変わかりやすい画像があったので、転載させていただく。
元の絵は、鈴木仁「生物多様性概論II : 爬虫類、鳥類、哺乳類」さんのもの。
Reptiles

隕石が落ちたあの日まで、生物進化の王道を歩いていたのは爬虫類(双弓類)であり、哺乳類は初期の段階で進化(多様化)を終え、限りなく絶滅に近い線をたどっていたのだ。


を大幅増補した。
啄木の晩年の思想的展開に焦点を合わせた年表に絞った。
題名を変えたのは以下の理由である。

大逆事件はきわめて重要なファクターではあるが、事件そのものを正面から扱った年表ではない。あくまでも啄木の最後の数年間、きわめてまともに前向きに送った人生を跡づけるのが目的である。

1908年 明治41年 満22歳

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。


1909年 明治42年 満23歳

1月1日 『スバル』創刊号発行。啄木は発行名義人となる。

2月 盛岡出身の朝日新聞社編集長佐藤真一(北江)に『スバル』と履歴書を送り、就職の依頼をする。佐藤北江の厚意により、校正係としての採用決定。(月給25円)

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

6月16日 家族を上野駅に迎える。この日をもって放蕩の「ローマ字日記」時代は終わる。

10月 妻節子、盛岡の実家に帰る。金田一京助の尽力で帰宅。年末には父一禎も上京し一家5人となる。

1910年 明治43年 満24歳

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

4月 処女歌集『仕事の後』(歌数255首)を書き上げる。春陽堂を訪ね、出版依頼するも断られる。
5月31日 検事総長、宮下、新村らが企てた明科事件が大逆罪に該当すると判断。幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月5日 新聞各社、幸徳秋水等の「陰謀事件」を報道。啄木は事件に衝撃を受け、「予の思想に一大変革」をもたらす。啄木は校正係として事件の詳細を知りうる立場にいた。

6月 最後の小説「我等の一団と彼」を執筆。生前は未発表に終わる。小説家の夢は叶わず。

7月末 啄木、「林中の鳥」の匿名で評論「所謂今度の事」を執筆(未発表)。東京朝日新聞の編集主任に掲載を依頼するも叶わず。

8月9日 魚住折蘆、東京朝日新聞文芸欄に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、折蘆を批判する評論「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月15日 『東京朝日新聞』の「朝日歌壇」の選者となる。(翌年2月28日まで)

10月4日 長男真一、東京帝国大学医科大学附属病院にて誕生(3週後に死亡)。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月1日 『一握の砂』(東雲堂)刊行。一首三行書きの「生活を歌う」その独特の歌風は歌壇内外から注目される。

12月10日 幸徳秋水等被告26名に関する事件の大審院第1回公判(非公開)が開かれる。

12月 啄木、過労から身体の不調を覚え、三日に一度の夜勤は年内でやめる決意をする。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年 明治44年 満25歳

1月3日 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修弁護士を訪問、詳細な経緯を聞く。幸徳秋水が獄中から送った陳述書を借用し書写。

1月10日 アメリカで秘密出版されたクロポトキン『青年に訴ふ』を入手する。

1月18日 幸徳秋水等の特別裁判の判決。被告26名中、24名死刑という判決に、啄木は衝撃を受ける。

1月24日 幸徳秋水等11名の死刑執行。

1月 啄木、陳述書をもとに「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」をまとめる。「幸徳は決して犯人ではない」との確信を得る

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。 

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。  

2月 結核性腹膜炎で東大病院に入院し手術。入院中にクロポトキン自伝『一革命家の思い出』第二巻を読む。

3月 啄木、術後経過不調のまま退院となる。

3月 大逆事件について木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

5月 「ヴ・ナロード: 獄中からの手紙」を執筆。大逆事件の真相を世に伝えんとする。

6月 「はてしなき議論の後」の9編を執筆。「家」(6月25日)、「飛行機」(6月27日)の2編を創作。


1912年 明治45年 満26歳

1月1日 日記に曰く、「暮の三十日から三十八度の上にのぼる熱は、今日も同様だつた」

4月9日 土岐哀果の尽力で、東雲堂書店と第二歌集の出版契約。死後、歌集『悲しき玩具』(歌集の命名は土岐哀果)として出版される。

4月13日 啄木、死去。

石川啄木 年譜に多くを負ったことを付記し謝す

ベネズエラのドローン・テロについて
いつもの通り、新藤ニュースのつまみ食いです。
「マドゥーロ大統領殺害未遂テロ事件とその背景」 8月6日

1.事件の概要
8月4日、カラカスで、国家警察創立81周年記念集会が執り行われた。 マドゥーロ大統領が演説中に、爆薬をしかけたドローンが飛来し爆発した。
ドローンの爆発により、国家警察の隊員7名が軽傷を負ったが、大統領に怪我はなかった。
大統領は演説を続け、「犯行の狙いはベネズエラ国民を分裂させることにある。行動は米国のフロリダにいる過激派集団に支持されている」と述べた。
キューバ、ボリビア、ニカラグア、エルサルバドルの元首は、直ちにこの無法なテロ行為を厳しく糾弾した。同時にベネズエラとの連帯、マドゥーロ大統領への支持を表明した。

2.事件の背景
この卑劣なテロ行為は、ベネズエラの反政府派が手詰まり状態に陥っていることが背景となっている。
反政府派は、昨年10月の一斉地方選挙、6月の大統領選挙で相次いで敗北し、最近の世論調査でも支持を激減させている。
トランプ政権の経済制裁と、マドゥーロ政権への執拗な攻撃もむしろ国民の反感を強めている。 野党連合から脱退する政党も続出している。「経済再建のために対決から対話に移るべきだ」との声も上がっている。
7月末の「Hinterlace世論調査」では野党連合(MUD)の支持率は8%にまで落ち込んでいる。

3.経済困難の打開のために
7月末、IMFはベネズエラの今年度インフレ率が1万倍に達するとの推計を発表した。 これは為替相場への介入が原因と思われる。通貨への売り浴びせにより輸入品価格が上昇している。
しかし輸入品の制限は以前から行われており、食料など基礎生活資料に関しては破綻状態とは言えない。ただしこの1年については「金を払っても売らない」制裁、「銀行決済を禁止する」制裁が課せられている。
対外債務の増加は短期資金ではなく中国からの信用増加によるものであり、原油とのバーターがメインとなっている(松浦さんの情報)。
経済パフォーマンスは原油価格の復調もあり、物価1万倍を説明できる要因がない。
状況は昨年8月のトランプによる経済制裁を契機としており、明らかに政治的要因によるものである。 したがって、経済再建の条件は政治的安定にかかっている。そのためには、破壊的勢力を除く与野党の対話とコンセサス形成が何よりも必要となっている。
米国政府は、ベネズエラの主権を尊重し、干渉や制裁を一日も早くやめなければならない。
(3節は私の意見です)

NHK総合 【NHKスペシャル】 
ホモサピエンス・日本へ!発見!極寒を生きる道具
という番組があって、その中で寒いところに進出した人類が服を作るようになった。「それは縫い針を発明したからだ」という話になって、それはそれで良いのだが、それが突然言語活動との関連の話に移る。
どうも話の筋に無理がある。
というのも、どうもアメリカの研究者()のある研究に持っていきたいらしい。
ディー トリッヒ・スタウト (エモ リー大学)「道具使用 と言語の進化の脳科学的解明」
その研究というのが、道具作りの動画(動物の骨から針を作成する)を見せながらEmission CTとかMRとかとってどこが光るか見たものだ。
それがブローカが光ったからと言って大騒ぎしているのだ。
それって当たり前じゃん。
スマートフォンの取扱説明書を読みながら勉強しているときに、脳のどこが働いているかというのと同じでしょう。
取説を手に取りながら読むか、Youtubeの説明動画で勉強するかの違いじゃないの。
ただ、下図を見ると別の興味も湧いてくる。
道具作り学習.jpg
利き腕側の半球かどうかで多少違うのだろうと思うが、後頭葉の背側路が結構光っていて、まずここで画像の動画化が行われていることがわかる。作業の方法を順序立てているのであろう。
ついで、この連続画像が文字として認識され、側頭葉で言語化され、いったん前頭前野で処理された後、ブローカに送られて、ブローカ近傍で言語記憶として処理され、中心溝前方の一次運動野に蓄えられるのである。
この絵でそこまで読めるかという問題はあるが、この手の絵は他にも結構あるので、そんな感じでいいのだろうと思う。
この図式でもっとも重要なポイントは、後頭葉から頭頂葉につながる背側路での動画化処理である。それは私の提唱するV3→V5の動画化機能仮説を補強するものである。

ふと思いついて、「書いて置かなければ」と書いているがだいぶアルコールも入って、眠気も募ってきている。
思いつきというのは、大阪の繁栄は日本の中国進出を背景としているのではないかということである。
以前、明治維新というのは江戸幕府に対する関西の反攻ではないかと思いついて書いたことがあったが、それがあらゆる面から否定されてしまった、という苦い思い出がある。

たしかに要所要所で大阪は重要な役割を果たしてはいるのだが、長続きはしない。
元禄の頃、日本永代蔵という状況があって、大阪が日本の経済の中心ともてはやされた時代があった。近松とか西鶴、落語も上方優位だ。しかしそれは元禄の一刻であって、1800年代に入ると大阪は寂れ江戸は人口百万、世界最大の都市へとのし上がっていく。ところがそういうことは大阪の人は書かないから、いつまでも大阪が経済の中心地だと思ってしまうのである。

それが分かったのは堺市長選挙のときに、堺の勉強をしたからなのだが、明治の末まで大阪は堺の後塵さえ拝しかねないほどの落魄れであった。
それが大正に入ってから見る間に持ち直し、第一次大戦の後の糸偏景気で一気に日本のマンチェスターに上り詰め、東京と並び立つほどの勢いになったのである。
それを可能にしたのは中国貿易以外に考えられない。そのへんを少し数字で裏付けてみたいと思っている。秘密を解くカギは上海 にあるのではないかと見ている。

“Home sweet home”は反戦歌?

このあいだ、啄木の「時代閉塞」について書いた文章に、大変ありがたいコメントを頂きましたたが、わたしはそれほどのものではなくただの通りすがりです。
ただ、最晩年の啄木の到達点が素通りされているのではないかというのが気になって少し調べただけです。
なにか大変な宿題をもらってしまったので、少し調べ始めました。
といっても気ままな一人旅、あちこち寄り道ばかりです。
ネットでこんな文章を見つけました。
北斗 露草 著 「野口雨情が石川啄木を認めなかった理由(わけ)ー『小樽日報』陰謀事件の顛末」 2011年

ずいぶんと前置きの長い本で、
1.野口雨情の歌
一 歌われなくなった童謡
という節が延々と続くのです。「昔は良かった」風に唱歌や童謡の歌詞が紹介されていきます。
それはそれで楽しいので、読み進んでいきますと、『埴生の宿』の説明がでてきます。

1823年イングランドのH.ローリー・ビショップによって作曲された『ミラノの少女』というオペラの中で歌われたのがはじめである。この歌を『庭の千草』やアニー・ローリー』などの訳詞を手がけた里見義(ただし)が見事な日本の詩に仕上げてくれた。

と紹介されています。これが気になって原曲の「Home sweet home」を聞きに行ったのです。
Youtubeでいくつかの演奏が聞けますが、その中で気になったのが The John McCarthy Chorus というファイルです。

演奏もなかなか優れたものですが、このファイルにつけられたコメントに気になるものがありました。

This song will show what soliders are missing most when they are fighitng on the battlefields during WW1, WW2, Falklands, Afghanistan and Iraq

それで、歌そのものにそういう背景があるのか気になって調べることにしました。といってもウィキペディアを当たるだけの話ですが…
「Home sweet home」の画像検索結果
この曲は、アメリカの俳優兼劇作家ジョン・ハワード・ペインが1823年に上演したオペラ「クラリ」(またはミラノのメイド)で用いられました。
メロディーを作ったのは英国人サー・ヘンリー・ビショップで、これにペインが歌詞を付けたものです。
後にビショップはこの曲がオリジナルではないと告白しました。彼はすでにこの曲を一度発表していたのです。
それは「シチリアのアリア」と題された、もっと洗練されたものでした。
その歌詞にHome! Home! Sweet, sweet home! There's no place like home
が含まれていたのです。
その後、オペラとは別にこの曲が「Home sweet home」として出版されました。
なんと10万部が売れ、2千ポンドもの利益を上げたそうです。
この話にはもう一段あります。1852年にビショップはこの曲をバラード仕立てにして、アメリカに売り込んだのだそうです。その曲は南北戦争前後のアメリカでバカ売れしたようです。
ところが当局にはこの曲がサトゴコロを誘うということで嫌われたようで、歌うことまかりならぬと禁止されたようです。
Opposition to War: An Encyclopedia of U.S. Peace and Antiwar Movements という本にも同様のことが書かれています。
この辺が、“soliders are missing most when they are fighitng on the battlefields” の所以かもしれません。
第一次大戦のとき、Home Sweet Home For You We're Fighting という歌が流行ったそうですが、元歌とは全然関係のないメロディです。
なお英語版ウィキペディアには御丁寧に『ビルマの竪琴』の話まで紹介されています。
「ビルマの竪琴」の画像検索結果
ということで、反戦歌というのにはちょっと…ではあるが、厭戦気分を誘うのには十分ということのようです。


いつもはあまりまじめに読まない赤旗日曜版で、ふと目にしたコラム。日刊の「朝の風」みたいなもののようだ。
二階堂
歌手・僧侶とあるが、本質は詩人であろう。

なんというか磨かれていない原石だ。ありふれた、少しすり減った言葉の中に、キラリと光るものが潜んでいる。
夕方、木洩れ陽のなかにころんと転がった亡骸…

7日の生命を燃やすため、光の中へ出ていった蝉どもと、
あの日、空襲警報の解除とともに、光の中へ出ていった多くのいのちの対比…

自分ではなく、自分の中のいのちに目をやる。
自分中心で固まっている頭と心をほぐし、揺さぶりをかける。
そのことで未来への希望をとりもどす。
ほかのやり方が、私には見当たらない。
解脱とか輪廻とかいわない所がよろしい。

すみません。ネットで調べたらずいぶん有名な方のようです。上から目線のたいそう失礼な物言いで、まことに申し訳ございません。ジジイの酔談だと思ってご容赦ください。

メキシコ大統領選挙について、新藤ニュースが送られてきた。

「メキシコ、左派勢力圧勝の背景」という、いつもながら凝縮されたレポートだが、いささか胃もたれするので、5分読み切りのダイジェスト版にして紹介する。

この記事は「背景」には踏み込まず、「圧勝」がどれほどの圧勝であったかを示すことに絞る。

今回のメキシコ総選挙は、大統領選挙と上下両院、首都メキシコ市などの首長選挙が一度に行われた。日食と月食が一度に来たみたいなことになっている。

大統領選挙でアムロ(ロペス・オブラドール)が勝利したのは既報の通りだが、ほかの3つの選挙でもアムロ派が“地滑り的な勝利を収めた”ようだ。

まず大統領選挙。
大統領選

こうやって並べると、あらためて53%というのがいかに“ありえない数字”であるのかが実感される。
アムロへの支持が半分、残りは「バスタジャン」(もうたくさんだ!)票なのだろう。

次に国会選挙。
上が上院議会選挙
上院
下が下院選挙
下院
(図上で左クリックすると拡大画面が見られます)

略称ばかりで見づらいが、右の3つが中道左派連合の構成政党。
MORENAがアムロの所属する「国家再生運動」で、PTが労働党、PESが社会合流党という。
この与党連合が上下院ともに過半数を握った。

次に地方選挙
これについてはあまり詳しく触れられていない。
地方選挙では、「共に歴史を」連合は、首都メキシコ市をはじめ、8 州のうち4つの州知事選挙で勝利を収めた。
ということである。

ついでに 女性進出も歴史的
国会上院議員の男女比率は63/65、下院議員の比率は男女246/254となり、ともに女性議員数が男性議員数を上回った。これは史上初めてのことである。
メキシコ市長に当選したのも女性であり、初代女性市長となる。
また新政府の閣僚は、男9人、女7人 と発表されている。

なお新藤さんはアムロ躍進の背景としてのメキシコ経済事情にも触れているが、マクロ指標で端的に言えばGDPの低下と激しいインフレが進行しているということだ。それは1984年とか90年の状況を思い起こさせる。
ただしあの頃の保護政策はすでに放棄され、市場開放と変動相場前は全面的に展開されているから、その性格はかなり異なったものであろう。
スタグフレーションと同時に失業率の低下とジニ係数の低下も進んでいると言うからよくわからない。
かなり背景の背景にまで迫らないと評価は難しい。

加藤哲郎さんの 「イラク戦争から見たゾルゲ事件」講演録 (2005年4月、日露歴史研究センター)

という文章が面白い。思わず「なるほど」とうなづけてしまうところがある。
1.コミンテルンとアメリカ共産党
中国・日本におけるアメリカ共産党の影響力はかなりのものだ。かつて党創立者とされていた片山潜はアメリカ共産党を最初のキャリアとしている。野坂参三も一時期はアメリカを根城に対日工作を行っていた。その他にも多くの実例をあげることができる。
「しかしそこには秘密がある」というのが加藤さんの意見である。
30年代のアメリカ共産党というのは、アメリカ政治のなかでは影響力を持たない泡沫政党でした。しかしコミンテルンの中で、一段と重要な存在になっていました。
それがなぜなのか、そこにゾルゲ問題をあつかううえでの勘どころがある。

2.コミンテルンとフロント組織をつなぐ結節点
加藤さんの判断として、アメリカ共産党はアメリカ労働者・人民の前衛政党としての側面の他に、資本主義体制におけるコミンテルンの“偽装出張所”(情報活動組織)としての側面を持っていたのではないかと考える。
この2つの側面を反映して、党内にも国内活動を主体とするフォスター派と国際活動を主たる活動の場とするブラウダー派に分かれ対立していたと言う。
加藤さんは、とくに汎太平洋労働組合(PPTUS)が、アメリカ共産党の東アジア連帯活動の中核を形成していたこと、それが国共合作崩壊後のコミンテルンの中国工作と完全に同調していたことを強調する。アール・ブラウダー書記長自身、党内の前職はPPTUSの上海駐在代表だった。
アメリカ共産党は、まるで人材派遣業みたいに、モスクワの必要と求めに応じて、党員を送り出しました。世界中どこへ行っても活動できる人材を、アメリカ共産党は、即座に供給することができたのです。
ということで、アメリカ共産党が自国の解放運動に責任を持つ階級政党と言うよりは、海外派遣社員のリクルート組織であった。そうなっていった二つの理由を示す。
一つは、現地で行われるどんな秘密活動にも参加できる、現地人と同じ肌の色のバイリンガルを供給できたからです。
30年代にはアメリカ共産党内に、一般細胞の系列とは別に、16の言語別グループがありました。アメリカ共産党日本人部は200人が組織されていました。
いま一つ、30年代米国共産党指導部はブラウダーら国際派が占めていたことです。国際的な人の派遣はニューヨークの党本部が直接タッチしました。
ということで、ブラウダー書記長が上海での国際活動についてコミンテルンと密接な連絡をとっていた証拠を明らかにしている。
「なぜか」という疑問には直接答えていないが、おそらく蒋介石の寝返り反共化の後、コミンテルンの中国での活動が困難になったからだろう。そのため任務のかなりの部分(とくに人脈作り)をアメリカ共産党に依存したのではないだろうか。
ゾルゲの1933年夏日本入国の際も、米国共産党が活動の詳細について指示をして、バンクーバーから横浜に入っている。
ということで、アメリカ共産党の日本・中国の階級闘争への関与はたんなる国際連帯ではなく、アメリカ共産党がコミンテルンに対して負った国際的任務の一つになっていたのであろう。
これが加藤さんの読みだ。

3.コミンテルンの偽装組織
たしかにそうだ。蒋介石の裏切りにより国共合作が失敗してから後のコミンテルンは、完全な手詰まり状態にあった。このときリベラルな装いで上海の政治シーンに登場した左翼外国人は、なんらかの形でアメリカ共産党(プロフィンテルン)の影響を受けていた。
それは蒋介石の恐怖支配、二度の上海事件と日本支配、そして日本軍による「租界」の閉鎖までかろうじて繋がれていく。
加藤さんは、ゾルゲと尾崎の出会いを “いつ、どのように” 問題に矮小化せずに、大きな文脈の中に捉えるべきだと主張しているのであり、たしかにそれは慧眼である。
その大きな文脈とは、コミンテルン→アメリカ共産党による現地ネットワークの形成であり、尾崎はそこに絡め取られた巨大な獲物であったということである。

4.スメドレー説を目の敵にする必要はない
加藤さんは学者だから、スメドレー説を許せないと考えているかも知れないが、ゾルゲが上海に来たときすでにスメドレーと尾崎は知己の関係にあった。それも相当の関係である。スメドレーが味方に引き込もうとしてもなんの不思議もない。
ゾルゲとスメドレーは同じフランクフルター・ツァイトゥングの特派員である。ただしゾルゲが身分を明かしていたかどうかは不明だが、ともにアメリカ共産党系のルートで動いていたと考えるなら、同志関係であることは気づいていたはずだ。
直でスメドレーが動いたのではなく、いったん情報をPPTUSに上げ、そこの判断でゾルゲに話を持ちかけたのではないだろうか。
そこが納得できれば、誰が動いたか、いつどこで会ったのかはどうでも良いことになる。

尾崎とゾルゲの出会いをいつ、だれがセットしたのか?
この問題はいまだ決着がついていないようだ。

1.加藤哲郎説

ウィキペディアのアグネス・スメドレーの項目は加藤哲郎の説を引用し、他説を否定する。
ゾルゲ裁判の判決では「スメドレーがゾルゲに尾崎秀実を紹介した」とされた。
ただし、実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣されていた鬼頭銀一であった。
尾崎は具体的に供述したがゾルゲが鬼頭銀一とのつながりを強硬に否定したために、最初の紹介者はスメドレーということに調書が統一され、裁判でもこれが採用された。
加藤哲郎の説は、『ゾルゲ事件 覆された神話』という本に記載されているらしい。(平凡社新書 2014年)
記事の脚注を見ると、記載のほとんどが同書によっているようである。ここでは加藤哲郎説と呼んでおく。

2.過大評価?
ウィキペディアのリヒャルト・ゾルゲの項目は、上海時代の記述はかなり粗っぽい。(東京時代は詳しい)
1930年に、ソ連の諜報網を強化と指導を目的として上海に派遣される。
半年程度で現地の指導的立場となり、中華民国全土に情報網を持つ。
ゾルゲ諜報団の日本人は、尾崎秀実、鬼頭銀一、川合貞吉、水野成、山上正義、船越寿雄であった。
スメドレーは尾崎秀実とゾルゲの橋渡しをしている。実際に二人の出会いに重要な役割を演じたのは、アメリカ共産党から派遣された鬼頭銀一である。
と、どうにでも取れる文章になっている。

3.いったいどっちなのさ?

両論併記なのはウィキペディアの尾崎秀実の項目も同じだが、もっと盛大にやらかしている。
常盤亭という日本料理店において、スメドレーの紹介で、フランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」ことリヒャルト・ゾルゲと出会う。
南京路にある中華料理店の杏花楼で、二人は会った。ゾルゲはコミンテルンの一員であると告げ、協力を求めた。
実際に尾崎をゾルゲに紹介したのはアメリカ共産党員で当時上海にあった太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸という運送会社に潜り込んでいた鬼頭銀一である。
鬼頭云々の記述の根拠は、スメドレーの記事と同じく加藤説である。
二人が初めて会ったのが常磐亭で、ゾルゲが打ち明けたのが杏花楼ということになるが、どうもちぐはぐだ。どちらかを採用してもう片方は参考情報として注記するというのが引用者のマナーだろう。

4.良い記事だが…
ウィキペディアにはもう一つ、ゾルゲ諜報団という項目の記事がある。こちらの方をゾルゲの記事にしたいくらい良くまとまった記事だ。
ゾルゲは中立国で連絡員として情報や資金の受け渡しに携わっていた。その合間に労働組合やイギリス共産党の内部事情を探り、兵器工場の稼動状況について報告した。
これが労農赤軍本部第4局局長のヤン・ベルジンの目に止まり、1929年にスカウトされ、本格的に諜報員としての訓練を受けた。
ベルジンは、中国共産党と中国国民党の対立構造、内部事情を調査するためゾルゲを中国に派遣した。
このとき「中国共産党との交渉は持つべからず」、「共産主義活動には従事すべからず」の2点を厳守するよう命じられる。
なおラムゼイは暗号名であり、上海での偽名はフランクフルター・ツァイトゥング特派員「ジョンソン」であった。
ゾルゲはもう一つの偽名、フランクフルト・アム・マインの『地政学雑誌』の特派員「ドクトル・ゾルゲ」を用い、蒋介石や何応欽などとの面識を得た。
ゾルゲは32年まで上海に滞在した後、いったんソ連に戻り、33年9月6日に横浜に上陸する。
以上が上海での活動の概要である。内容豊富である。しかし二人の出会いがいつ、どこでかは明らかにされていない。
なおウィキペディアにはゾルゲ事件という項目もあるが、逮捕劇以降に的を絞った内容。

5.鬼頭銀一という人物
グーグルで検索しても、鬼頭銀一の名を冠したファイルは見当たらないが、関連ファイルはいくつか見つかる。その多くが加藤哲郎論文の紹介である。
まず表題である「覆された神話」とは、誤った「伊藤律スパイ説」のことらしい。とりあえずそのことは保留しておく。
ついで鬼頭という人物が紹介される。
鬼頭銀一は1903年に三重県に生まれ25年にアメリカに渡りそこで共産党に入党、31年に上海で日本の特高に検挙されている。
その後は足を洗い、37年にかけて神戸でゴム製品商をしていた。37年には南洋パラオ・ペリリュー島で雑貨店を始める。
38年に訪ねてきた30歳前後の男に“ゆであずき”の缶詰をすすめられ、間もなく苦悶し息絶えた。遺族は、謀殺ではないかと疑っている。
引用はここまで。
結局わからずじまいだ。

不破倫三について

別にどうって言うことはないのかも知れないが、不破倫三という、不破哲三と似た名前の人がゾルゲ事件に(エピソード的に)登場する。

不破倫三も不破哲三同様に筆名であり、本名は増田豊彦と言う。
ウィキペディアによると、文筆家・ジャーナリストで(1900年5月22日 - 1974年7月11日)のあいだ生きていた。

1.増田豊彦の経歴

1924年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業し、設立されたばかりの高松高等商業学校の教授となっている。

1926年、労働農民党結成に参加し調査部長に就任した。1928年に同党が解散すると、ドイツ語文献の翻訳活動に没頭したようだ。
1931年、ベルリンに留学し、1932年、朝日新聞ベルリン特派員に採用され、帰国後に東京朝日新聞に入社する。

1934年、東亜問題調査会に配属され、ここで尾崎秀実と出会うことになる。
ただその後は左翼とは距離をおいたようで、終戦時には軍から委託されたジャワ新聞の社長として現地で終戦を迎えている。
戦後の活動にも取り立てて注目すべきものはない。

2.不破倫三の経歴

不破倫三は増田豊彦が左翼文献を翻訳・発行するにあたって用いた筆名である。由来はかなりはっきりしていて、レーニンの後継者と目されながらスターリンによって粛清されたブハーリンのもじりである。

あまりウィキを見ても判然としないが、翻訳の一覧を見ると、不破の翻訳のほとんどが1927年に集中しており、労農党の調査部長としての仕事をこなしていたものと思われる。

28年にヴァルガの経済学書を出版しているので、この頃から本腰を入れ始めたと思われる。

そのような経過の中で29年にリヒャルト・ゾンテル著「新ドイツ帝国主義」という本を翻訳発表した。ゾンテルというのはゾルゲの筆名である。
本

ドイツ語の原著が発行されたのが28年だから、えらく早い。この本に限らずドイツ語文献の翻訳出版はほとんど同時発表かと思うくらい早い。日本人の食いつきがいかにすごかったかが分かる。

3.ゾルゲとの接点

卒業したばかりで高松高商教授として赴任し、田舎暮らしを強いられた。漱石の坊っちゃんと似ていなくもない境遇だ。
そんなことで4,5年の鬱屈した生活を送ったあと、多分そちらの系統からは足を洗ったのであろう。
1930年ころのベルリンといえば、ドイツ共産党の鼻息がもっとも荒かった頃で、国崎定洞ら日本人学生のグループも活発に活動していたはずだ。
ゾルゲもモスクワを離れベルリンで上海行きの準備としていたのであろう。
しかし、前年まであれ程の翻訳活動をしていた増田が、ウィキで見る限りはまったく音無しとなっている。帰国後は東京で言論人としての活動を続けているが、なにか革新的なアクションを起こしている気配はない。
ゾルゲとは、尾崎秀実という接点があるが、尾崎を介してゾルゲと益田が出会ったという記録は残されていない。ゾルゲとの接触の可能性はあった。しかし、ゾルゲが「新ドイツ帝国主義」の著者リヒャルト・ゾンテルだと気づく可能性は限りなく低かった。
おそらく尾崎でさえ、ゾンテルがゾルゲであることも、同僚の増田が不破であることも知らなかったろうと思われる。

4.不破哲三と不破倫三

不破哲三の本名は上田建二郎である。同じ東大卒ではあるが、二人の間にまったく接点はない。

不破哲三本人は不破倫三の名を意識しているかどうかについて問われ、関係ないと答えている。
これはかなりウソっぽい。戦後、不破哲三が活動を始めた頃、巷間にまともな本はなかった。図書館にはさらになかった。古本屋を回っては戦前の著書を買い揃えるのが日課だった。

古本屋の店先で、絶対に不破哲三は20年前に出版された不破倫三の訳本を見ていたはずだ。

党に入るとみんなペンネームをつけるもので、それで一人前になった気がしたものである。
名前のつけ方はきわめていい加減、本名に似ていなければどうでもよいので、佐藤正とか鈴木一郎みたいにこの上なくありふれた名前をつける人もいれば、香月徹みたいなしゃれた名前にする人もいた(何故か北小路敏は本名)。私は若草薫だったが、これは駅前のパチンコ屋「若草」によるものだ。名字が若草なら名前は薫以外ないだろう、と気に入っていた。
不破さんは前に買った本の訳者のペンネームが気に入って、深い意味もなく拝借したのではなかろうか。

札幌も流石に暑くなり、調べ物をする気がしません。
フラフラと「ネット散歩」をしています。
今回は東京地図研究社のサイトで
というページを見つけました。多分社長さんの趣味のブログではないかと思います。
ざっと紹介していきます。詳しくお知りになりたい方はぜひ本文に回ってください。

1.谷は西日本、沢は東日本
谷状の地形を表す地名には「沢」と「谷」の2通りある。どこが違うかと言うと東と西の違いだ。
1/2.5万地形図に採用されている「沢」「谷」地名を県ごとに集計し、 その比率によって色分けをした。
谷と沢

東日本では「○○沢」が圧倒的に多く、逆に西日本では「○○谷」ばかりだ。
「沢」と「谷」を分ける境は、北アルプスの尾根に沿って引くことができるが、太平洋側では混在帯が存在する。
関東に「谷」の飛び地があることは、弥生人の集団移住があったことを示唆する。
中国以西の地域には「沢」や「谷」の地名がない地域がかなりあり、この地形に対する第三の呼称(渓や峡)があると考えられる。

2.東は縄文、西は弥生
その理由についてはまだ不明な点も多いが、縄文文化の影響を強く残す地域と弥生文化の影響が大きかった地域で 地名に差が出たともいわれる。
縄文文化は、 落葉広葉樹林の多い東日本を中心に発達した。 落葉広葉樹林にはドングリなどの木の実が多く、それが縄文人の主食になった。
また落葉広葉樹林は密林にはならないので、森に入っての猟(漁)がしやすかった。
西日本には照葉樹林(常緑広葉樹林)が広がっており、 密林化して人を寄せ付けない。そのため縄文人の数は東日本に比べはるかに少なかった。

3.弥生人の東方進出で状況は変わった
やがて西日本に稲作とともに弥生人が渡来してきた。彼らは、照葉樹林を切り開いて耕地にしながら、生活圏を広げた。
西日本の縄文人は、少数派として生きるための選択を迫られた。
徐々に弥生人と融合していくか。それとも山奥へと引きこもっていくかである。
一方弥生人にとって、「谷」は危険で近寄りがたい密林であった。


中核的事実は1.であり、2.と3.はその解釈である。
いろいろデータを眺めつつ、いろいろ思いを巡らせてみたが、結局断念した。これ以上分析しても、たいしたものは出てこないと思う。牽強付会になってしまいそうだ。

目からウロコの地名由来 というブログの「谷」と「沢」地名も参考にした。





赤旗の情報だけではいささか心もとないので、他紙も参照することとした。
おそらく出処は警察情報だけなので、継ぎはぎしていくと全貌が浮かび上がってくるはずだが、事実は逆で情報の錯綜が目立つ。
死亡したのが日曜日というのが、ややこしくしたかもしれない。
時系列を整理すると以下のようになる。
29日の朝、亡くなった女性とおなじ住宅に住む「別の女性」が「最近姿を見ない」と110番した。“最近”というのがどのくらいの最近なのかはわからない。
連絡を受けた警察が出動し、午前11時半ころ部屋に入った。このとき女性は室内で倒れており病院に搬送された。
しかし搬送先の病院で死亡が確認された。おそらく発見時すでに心肺停止状態であったろう。
その後「警察が死因を詳しく調べた」とあるので検屍が行われたのだろう。「女性は激しい脱水の症状が見られた」と書かれている。これをもって、「熱中症によって29日の午前に死亡した」と判断された。
29日の午前とアイマイに書かれているのは、明らかに死亡している場合は「不審死」として現場維持対応されるべきだからかもしれない。死亡推定時刻は死後硬直やチアノーゼ、直腸温などで判断されるが、熱中症においてはこれらが教科書通りには行かない可能性があるからだ。
これで事件としては一件落着なのだが、警察発表は何故か火曜日にずれ込んだ。理由は不明であるか、犯罪性は乏しいのでとくに問題はなさそうである。
以下は警察捜査の結果の報道であろう。
警察によりますと、女性は5階建てのアパートの4階の部屋で1人で暮らしていて、部屋にはクーラーや扇風機はありましたが、料金を滞納していたため電気を止められていて使えない状態だったということです。(NHK NEWS WEB)
事件に関して西区保健福祉部が経過を発表したらしい。各紙が報道しているが市側対応の批判に終止している。
そのなかで、読売は5月から電気が止まっていた事実を指摘。「札幌市は女性の健康状態などを踏まえ、訪問は3か月に1回と決めており、担当職員は4~6月に複数回訪問したが会えなかった」という記載もあり、しっかりフォローされている。
なお事件の発表された31日、北海道旭川市でも高齢者の熱中症死が発生した。
31日午前7時すぎ、旭川市東旭川南1条5丁目のアパートの1室で、1人暮らしの79歳の女性がソファーの上で意識を失って倒れているのが見つかりました。
女性は病院に搬送されましたが死亡しました。部屋は閉め切った状態でエアコンもなく、警察は熱中症と見て調べています。
この2つには共通点も多い。高齢女性の孤独死であり、それが熱中症であることも共通している。ただ札幌の女性は電気が止められて熱中症になって死んだという際立った特徴がある。
生活保護の問題は実は副次的だろうと思う。ライフラインが遮断されて命が絶たれたという明確な因果関係がプライマリだ。
いろいろな人がこの事件に触れてコメントを発している。その中で次の2つが問題の本質を言い当てていると思う。
1.【ゆるねとにゅーす】
一般論として、「電気代が払えない状態」になっただけで「生命の危険」が直接的に襲いかかってくる状況というのは、まさしく「異常事態」です。
このままこの状況を放置していると、他でも同じようなケースが次々発生してしまう危険があります。
2.畑理枝さんのツィッター
(たしかに)生活保護費(というのは)かつかつだとは思うけど、光熱費を滞納するのは(そのためだけではありません)。他に借金とか認知症とか身内の経済的虐待とか、いろいろ問題を抱えていることが多いのです。
(だから、逆に)光熱費滞納をシグナルとして支援に結び付ける体制(仕組みづくり)が必要かと…。
(すみません、かなり勝手に修文してしまいました)


事件をフォローする報道では、市役所の怠慢が問題にされているようだが、これはお門違いだと思う。まず電気を止めてしまった北電に最大の直接責任がある。
「光熱費滞納はそれ自体がシグナル」なのだ。それも猶予できないSOS信号なのだということを認識しなければならない。
もちろん北電にただで電気を流し続けろとは言わない。しかし「ただで流し続けることはできない」という言い分は電気を止める口実にはならない。
もう一つ、北電はこのケース行政に連絡すべきなのを怠った。しかもただ怠ったのではなく、意識的にネグレクトしたらしい。
市担当者は、個人情報保護を理由に事業者からは情報を得られていない。市として事業者に協力を願うしかないと答えました。(畠山前国会議員への回答
つまり北電は配電停止を市側に連絡しなかったばかりではなく、個人情報保護をたてに配電停止事例に関する情報提供依頼を拒否しているらしい。
「ゆるねとにゅーす」さんが言う通り、北電は「他でも同じようなケースを次々発生させててしまう危険」があるのだ。

もご参照ください

札幌という街は、民間の優しさは人後に落ちるものではないが、公の優しさにはかなり欠けているのではないかと思う。
20年以上前の母親餓死事件、6年前の姉妹の孤立死に続く第3弾である。
深刻なのは、餓死事件の教訓として、「どんなことがあっても電気と水道だけは止めない」ということが確認されたはずなのに、それがまったく継承されていないことである。
以下赤旗報道を紹介する。
見出しは三本。大きい順に並べる。
電気止められ 熱中症で死亡
札幌市 生活保護利用の60代女性
国の「通知」生かされず

次がリード
札幌市西区の5階建てマンションで、生活保護を受給していた60代の女性が死亡した。
激しい脱水症状が確認され、熱中症と判断された。
部屋にはクーラーや扇風機があったが、使用されていなかった。料金を滞納し、電気を止められていた。(マルクスの「ナイフやフォークを持っての餓死なら許される」という一節が思い出される)

本文は小見出し付きの2つの段落からなる。小見出しは内容と照応していないので、こちらでつけさせてもらう

1.今度の事件をどう捉えるか
共産党はこの事件を“ライフラインが断ち切られて命を落とす事態”として重視した。
2012年に白石区で40代の姉妹が孤立死した。その後も埼玉と大阪で孤立死・孤独死が発生、これらを行政の対応不備がもたらした悲劇と捉える。
2.過去の事件にどう向き合ってきたか
これらの事件に対応して、学者・研究者などが全国調査団を結成。孤立死事件を現地調査した。
調査団は結果を踏まえて事件根絶に向けた提言を発表した。
3.厚生省の対応
提言は世論と運動を巻き起こした。厚生省も重い腰を上げた。
2012年5月、厚生省が通知を発した。「関係部局・機関との連絡・連携を強化し、徹底を図るよう」もとめたものであった。
それは具体的には「行政がライフライン事業者と連携して対応する」ことをもとめたものであった。
畠山前議員はこの「通知」との関係で札幌市の対応がどうだったのか、をただそうとしている。
4.畠山前議員と市担当者とのやりとり
やり取りの中で明らかになったのは、この厚生省通知が事実上無視されていることであった。
記事をそのまま引用する。
市担当者は、個人情報保護を理由に事業者からは情報を得られていない。市として事業者に協力を願うしかないと答えました。
5.畠山前議員の見解
昔なら「ドン」と机の一つも叩こうというところだが、さすがは畠山さん、諭すように自説を述べる。ただし相当端折った記事のようで、つじつまの合わないところもあるので、補いながら紹介する。
① 今回の事件はかけがえのない人命が奪われる重大問題だ。しかも自然災害ではなく、「人災」の可能性も疑われる。真剣な検討が必要だ。
② 熱中症という形の孤立死は初めての経験だ。したがって状況を精査し、よく教訓化しなければならない。
③ 言えることは困窮世帯でライフラインが止まるということが、さまざまな形を取りつつも、命に関わるということだ。
最後に、畠山さんは「こうした事件を二度と起こしてはならない。電力・ガス・水道などの会社・機関と早急に協議してほしい」と求めた。


この記事では直接言及していないのだが、究極の問題が「個人情報保護法」なのだろうと思う。
あえてジャーナリスティックな言い方をすれば「人権か、人命か」という選択である。
ユニバーサルな課題なだけに、あまり制限条項とか例外条項で逃げてほしくない問題で、コンセンサス方式での合意形成が必要になるだろう。
誰かが音頭取りをして、海外の動向も見ながら、非政府系の機関でのイニシアチブがもとめられる。

この絵は四街道市役所のホームページから拝借したものである。
おそらく衛星写真に海抜20~30m位の等高線を重ね合わせたものではないかと思う。
市川=船橋以西はいじってないが、こちらにも同程度の海進があったものと想像される。
香取海
この「地図」を紀元前後の東関東だとすると、次のように言えるだろう。

東関東には鹿島神宮と香取神宮を両端とする巾着型の湾があった。これが香取海である。
これは鹿島側から南に伸びた砂嘴によってせき止められ、潟湖となった。
その時点では、印旛沼、手賀沼を中心に現在の霞ヶ浦・北浦を凌ぐほどの水面があったが、これらは鬼怒川・小貝川の沖積物により徐々に陸地化していった。

これらの陸地は土木技術の開発により新田づくりの対象となる。香取湖は岡山平野、河内湖、大和盆地、巨椋池、琵琶湖南岸、加賀平野につぐ潟湖干拓型モデルの最大のパイロット事業となったであろう。

造田工事には利水が必要で、利水は取水と排水に分かれる。泥状地を水田とするためには、自然利水とはまったくレベルの違う数年がかりの大工事となる。
そのためには一般的共同体ではなく、公費・労力の強制支出をともなう階級的共同体が求められる。
このような共同体を創出できたのは、武装共同を基盤とする天孫族社会のみであった。

初期の天孫族は越後から信濃を経由して群馬に入ってきた。いわゆる毛の君であろう。彼らはさきたま古墳群あたりを拠点にしながら干拓事業に勤しんだのであろう。

二つの可能性がある。彼らは九州王朝の臣下であり、ヤマト王朝の臣下ではなかった可能性がある。
もう一つは彼らは弥生人ではなく、縄文人を直接使役していた可能性がある。銅鐸文明の東端は加賀と遠江を結ぶ線であり、それ以東においては比較的まばらだったかも知れない。

ヤマトタケルの東遷は、さきたまの方角には向かっていない。真間から鹿島川をさかのぼっているのではないかと思わせる。
初期の大和政権の進出先は香取湖から常陸へと向かう。あたかも、さきたまや毛の君を避けているかのようである。
後になってだが防人の動員も常陸に大きく依存しているようである。

梅原猛氏の出雲王朝論
本を買うほどの気もないので、ネットの井沢さんとの対談を読ませてもらうことにした。
週刊ポスト2014年9月19・26日号

Q1 出雲王朝はどのような政権だったか?
A 『記紀』に述べられている神話はヤマト王朝以前に出雲王朝があったことを示している。
出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』によれば、朝鮮半島からやってきた。

Q2 出雲王朝はどのような王朝だったか?
A 銅鐸文化です。銅鐸は朝鮮半島の馬鈴が原型である。それが大きくなって銅鐸となった。

Q3 オオクニヌシの役割は?
A スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシノミコトは、近畿に進出して西日本を統一した。

Q4 ヤマト王朝との関係は?
A 西日本を統一した出雲王朝を、神武一族が滅ぼした。彼らは南九州からやって来て、出雲王朝を滅ぼして大和王朝を建てた。

Q5 銅鐸と銅鏡の関係は?
A 出雲王朝の信仰のシンボルは銅鐸であったが、ヤマト王朝においては銅鏡だった。銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。それにより出雲王朝の権威は否定された。

Q6 出雲大社が存在するわけ
A ヤマト王朝は出雲王朝を滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけない。

これまで梅原さんの文章は読んだことがない。シロウトの言説をシロウトが読んでもろくなことにはならないと考えたからだ。
Q6はどうでもいい話だが、Q1~Q5までの5点はこちらもそう簡単には引き下がれない問題を含んでいる。


Q1については全面的に同意する。
ただし出雲王朝は九州王朝と同じ天孫族(騎馬民族)の末裔だ。衛氏朝鮮の血を引く扶余系民族(非ツングース系)で、おそらく韓半島南部の「高天原」から新羅方面に向かった支族の流れだろう。本隊は任那から対馬、壱岐と渡り唐津から上陸したのではないか。人種としての同質性は、後に神武と長髄彦との遭遇において証明される。

Q2については全面的に否定する。
出雲王朝(スサノオ・オオクニヌシ系)は徹底した反銅鐸原理主義者だった。
鳥取中~西部に2つの遺跡がある。ひとつは青谷上寺地(あおやかみじち)、もう一つは妻木晩田(むきばんだ)遺跡だ。2つは紀元0年から200年のあいだ、ほぼ同時に存在した。しかし遺跡のあり方はまったく対照的だ。
青谷上寺地は海に面し広大な田地を擁し、活発な海上交易を営んでいた。そこに暮らす人々は長江文明に端を発する弥生人であり、銅鐸文化を共有していた。妻木晩田は山城を構え戦闘態勢の中に生活していた。彼らの墓(方墳)は明らかに高句麗につながる北方系の特徴を示していた。銅鐸につながる遺物は見当たらない。両者は時代を共通していた。銅鐸文明圏に方形墓文化人戦闘集団が刺さりこんだと見る他ない。
紀元150年ころ、青谷上寺地は突如滅びた。数百体の虐殺された遺体が残された。妻木晩田はその後100年を繁栄のうちに過ごした後、徐々に力を失った。紀元250年ころにはほぼ生活跡が消滅した。山を降りたのである。
この2つの遺跡をどう読み解くかが、日本の前古代史のカギを握っていると私は思う。大胆に推測するなら、妻木晩田に暮らす出雲王朝系民族が青谷上寺地の銅鐸人(弥生人)を武力により支配するようになったのだと思う。
そのさい、天孫族(シャーマニズム)は銅鐸信仰(アニミズム)を危険視し徹底的に排除した。銅鐸に象徴される青銅器文明は、彼らには危険なほどに美しすぎたのである。この宗教弾圧は全国各地で展開され、「倭国大乱」を構成したのではないかとおもわれる。

Q3については一部について同意する。
スサノオは出雲にやってきて出雲王朝を作った。スサノオの子孫のオオクニヌシは九州王朝との戦いに敗れ、出雲を譲りディアスポラとなった。ただし出出雲と国譲りとの前後関係・因果関係は不確かである。別個に発生した可能性もある。
オオクニヌシ、あるいはその子であるオオモノヌシの時代、オデッセイたちは畿内に到達し、前大和王朝(あるいは後期出雲王朝)を建設した。3世紀後半、纏向王朝がこれである。
先住民である銅鐸人は天孫信仰を強制されるが生存は許された。畿内には銅鐸人とともにかなりの縄文人も暮らしており、これらが三層社会を構成した。
オオモノヌシは岡山・播磨を経由して河内・ヤマトに到達したと思われ、その間に児島湾の干拓事業などで大規模造田土木のノウハウを身につけたとみられる。

Q4については基本的に賛成。
神武一族が出雲王朝を滅ぼした。ただし滅ぼしたというのは正確ではない。支配が3階建てになったというだけの話だ。出雲王朝による現地人支配の枠組みはそのまま生き続けた。
現地人というのは弥生人である。それは長江からのディアスポラと縄文人の混血である。後着の天孫族が彼らの人口を上回ることはなかった。
神武系の支配は根付くことなく絶えた。10代目崇神天皇の出現により出雲系が完全復活し、実質的に九州王朝系の支配は絶えたといえる。ではなぜ九州王朝の後継を名乗ったか。それは九州王朝=倭国が桁違いの格上で、従属関係を継続するほうが得策であったからであろう。

Q5は基本的に否定する。
たしかに銅鐸は破壊されてから埋められ、存在そのものを消された。しかし銅鐸は長江文明の流れをくむものであり、出雲王朝は天孫信仰を旨とする集団である。妻木晩田の人々が青谷上寺地の人々を集団虐殺し、銅鐸文明を否定したように、近畿に進出した出雲王朝は銅鐸文明を葬り去った。そして神武のヤマト王朝はそれを引き継いだのである。
弥生人が銅鐸を信仰の対象としたように、銅鏡が1対1の照応関係にあるか否かは議論が必要だろう。銅鏡は中国文明との対応関係で問われなければならない側面がある。また、並行して銅剣の意味付けも必要になるであろう。いずれにせよ肝心なことは、銅鐸が異教の象徴として破壊され放棄されたことである。

ということで、梅原説は、既存の説に対するチャレンジとしては積極的なものがあるし、古代史学への挑戦の一つとしては評価されるものと思う。
ただ、すでにそういうレベルの話はとうに過ぎ去っている。現在の論争はより複雑かつ全体的な論理構築になっていると思われる。

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