鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年07月

昼飯のあいだにテレビのニュースショーを見る。
本日はボクシング協会のスキャンダルで揃い踏みだ。
ただ当事者にとっては到底許せないだろう。太えやつではあるが、キャラ的にはどことなく憎めないところがある。「仁義なき戦い」で言えば金子信雄くらいのレベルかな。
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         たかしさんのツィートより
少なくとも山口組の司組長のレベルではない。成り上がりの小悪人で、取り巻きとセット価格でなんぼのものだ。チンケな悪人なだけにわかりやすい悪戯をする。
スイート借り切というが、1泊2万円のスイートなんて笑っちゃう。
豪華なおもてなしセットというが、麦焼酎と梅酒ですよ。しかも1日じゃなく4,5日分だ。それも大した銘柄物ではない。「チョウヤのウメッシュで代替可」ってかわいいじゃないですか。カンロ飴と森永ミルクキャラメルとセンベエ盛り合わせがマスト・メニューだそうで、別に目くじら立てるほどのものではない。
日本大学に比べれば、可愛いもんだと思います。メディアにしてみれば叩きやすいでしょうね。こんな小悪人、叩き放題だ。

海水蒸留して真水を得る方法は、かなり昔から知られていて、実験レベルでは行われてきたが、コスト面がネックになり実用化というには至らなかった。
ただ砂漠の中の油田地帯みたいなところだと、石油はほぼ無制限に使えるので蒸発法がかなり普及した。
これの熱効率をどのように改善するかの研究が第二次大戦後から始まっている。ウィキによれば、1950年にアメリカの内務省塩水局(OSW)という機関が海水から安価に真水を得る方法の研究に予算を投入したという。

これとは別に1953年、フロリダ大学のレイドが逆浸透法(RO膜)による脱塩法を提示した。これは酢酸セルロース膜が半透性を有することを利用したもので、逆浸透法と呼ばれる。

逆浸透
半透膜を介在した浸透が平衡に達したとき、両溶液間に生じる圧力差が浸透圧である。濃厚溶液側に浸透圧差よりも大きい圧力をかけると、水は希薄溶液側に「逆浸透」するが溶質はトラップされる。(ニューメディカ・テックより)
この半透膜はその後改良が加えられ、1960年にはカリフォルニア大学のLeobらが100気圧の逆浸透圧をかけ、食塩排除率98.6%、透過水の流速が3μm/secに達する淡水化装置の開発に成功した。

いっぽう、伝統的な蒸発法においても多段フラッシュ蒸発法(MSF)が普及し始めた。これは空気圧を段階的に下げることで蒸発の能率を上げるものだ。これだと動力によって気圧を下げる分、熱量の節約になるのとスピードアップが図れる。

これらを見た当時のケネディ大統領は、「海水淡水化」を国家事業として承認した。当時の総容量は20万トン/日。蒸発法が主体であった。

1965年、デュポン社が酢酸セルロース膜方式の海水淡水化プラントを立ち上げ、本格的に淡水化事業に加わった。さらに1972年には界面重合による薄膜の製法が開発され、酢酸セルロースを凌ぐポリアミド系複合膜が開発された。
この半透膜は当初は、海水の淡水化よりは淡水のろ過膜として開発され、下水処理水や高濃度汚染地域の飲料化として始まった。
海水の淡水化に逆浸透圧方式が取り入れられたのは、日本が先行した。1977年、復帰直後の沖縄で激しい水不足が生じた。給水制限は1年の半分近く、169日に達した。このため沖縄での海水淡水化計画が始まった。
20年後の1997年、ついにこの計画は実現した。沖縄・北谷町にポリアミド重合膜を用いた逆浸透膜方式の海水淡水化プラントが完成。生産水量は 4万立米/日を実現した。2005年には福岡地方で94年大渇水を機に、5万m3/日の淡水が水道水源として供用開始となっている。

2001年には技術開発によりRO膜処理法が多段フラッシュ蒸発法を造水量で追い越すに至った。当時の造水量は2600万トンに達した。ただしこの時点では、産油国の海水淡水化プラントは蒸発法が引き続き優位を占めていた。
2010年 世界の逆浸透膜市場をダウ、日東電工、東レの三社が横並びで担う。ただし東洋紡は中東に特化して高い現地シェアを誇る。
稼働容量
2009年 ユネスコが水不足予測を発表した。世界的に砂漠化が進行し、2030年に世界人口の47%が水不足に陥るとされる。

砂漠化地図

学習不足のため、まだ文章化するには至らないのだが、どうも人類の資源無駄遣いによる地球温暖化と炭酸ガスの蓄積、そして海水面の上昇と一筆書きで描くのはいささか早計ではないかと思えないでもない。
つい20~30年前までは、人口が加速度的に増えて人類は飢餓により死に絶えるのではないかと、ほとんどの人が真面目に考えていた。
だから第二次大戦のような殺し合いも、人類のやむを得ない業として黙認されていたフシがある。
ところが、世界の文明化は明らかに人口の頭打ちをもたらした。むしろ文明の進化が人類の衰退を招くのではないかとさえ考えられるようになっている。
こういう状況の中で、環境問題も一度じっくりと考え直す時期に入ってきているのではないかと思う。人口爆発時代のトレンドを外延させるだけではだめで、一つひとつの課題に技術的に、科学的に、哲学的に向き合っていかなければならない。

と考えたきっかけは、砂漠化の問題である。
砂漠化は結局、この気候帯における水の出し入れの問題だろう。砂漠地帯は寒冷地と違ってまったくの不毛ではない。水さえあれば多くの生命を抱え込むことができるキャパシティーがある。気温も平均すればさほど高いわけではない。カーボ・ベルデなど1年を通じて25度という楽園である。
いま地球全体の気候バランスは、面積的に言えば熱帯雨林などではなく第一に海洋であり、第二に砂漠地帯であり、第三に両極地帯なのではないか。
ところが意外に等閑視されているのがこの乾燥地帯だ。しかも猛烈な勢いで拡大し、地下までふくめた乾燥化も激しい勢いで進んでいる。
ここを何とかするのが地球環境問題の環ではないのだろうか。
なんとかすると言っても、話はきわめて簡単だ。真水を突っ込むこと、それだけである。
論理的にはきわめて簡単だが、経済的にはきわめて困難である。
真水を突っ込むことを、持続可能なサイクルとして作り出さなければならない。水を引っ張ってきて灌漑したり地面深くから水を汲み出して、その水で緑の沃野を作り出しても、水の出し入れは全然改善されていない。
これにはまずグランドデザインが必要で、自助・共助・公助を組み合わせた組織づくりとファンディングが必要だ。もちろん技術の開発が伴わなければならないが、それは「必要は発明の母」ということだろう。ついでコストの軽減化が必要で、そこには経済的な意味も必要だ。

調子に乗ってセザリア・エボラの歌もYou Tubeにアップしてしまった。
世上はセザリア・エボラばかりが有名になってしまったが、実はセザリア・エボラよりも彼女が歌う歌“モルナ”が良いらしい。実はこのモルナ、白人の持ち込んだ音楽で本国のファドを流れをくんでいる。というか演歌で言う“港町ブルース”だ。
カーボベルデ(緑の岬)は、実は対岸のアフリカ大陸の地名だ。たぶん大陸の西端になるのだろう。その沖合にある島だからカーボベルデ諸島ということになった。
地理的にはアフリカそのものだが、600年前にポルトガル人が植民するまでは無住の地だった。だからカーボベルデはまずもって白人国だったことになる。その後黒人が次々に入ってくるようになって、いい具合に混じり合ったカフェオレのクレオール民族になった。しかし文化的にはいまでもポルトガルっぽいものが主流である。
もう一つ、カーボベルデの話で、カーボベルデ諸島が大西洋に浮かぶ島々であるにもかかわらず雨が降らない土地だということがわかった。
緯度・気候的にはサハラ砂漠の流れなのだという。ポルトガル人が植民していろいろ農業を試したが、とにかく木や草が生えない、作物が実らない。旱魃を繰り返すのだそうだ。
おかげで19世紀末ころから住民が逃げ出して、ブラジルやアメリカなどに移住した。
今ではカーボベルデに住む人々より移住先のコロニーの人口のほうが多いという。後から入った連中だから就業条件は悪い。黒人以下の境遇に陥った人も少なくないようだ。
それで思ったのだが、乾燥しているということは日光が照りつけるということだから、これで太陽光発電をして、海水を真水に変えればいいのではないか。
考えてみれは、それは別にカーボベルデ諸島に限ったことではない。
対岸のカーボベルデ岬、マリ、モーリタニアみんなそういうことになる。
一体そういうプロジェクトはないのだろうか。
ということで、淡水化技術、とくに太陽光発電との結合の現状を勉強することにした。
それは次の記事で…

ついに見つけた、YouTube用 動画ソフト。
といっても、正式には動画作成とか動画編集ソフトではない。Bolide という会社の無料ソフトで、
“Slideshow Creator” という。
スマートフォンどころか、がラ携でもなく、ピッチかポケベルかというもの。老人には優しくできている。
まず音を入れて、音の長さに合わせて何枚か写真をアップする。絵の露出時間は数字で何分何秒と入れる。このアナログ感がたまらない。
あとはこのセットをMP4ファイルとしてデスクトップに保存する。そしてYouTubeからアップ画面に行って、そこにこのファイルをドラッグ&ドロップすれば良い。
BOLIDE
動画を入れるのはちょっと難しそうだが、とりあえずそんな気はないのでドントウォリーだ。
サクサクと動かせるようになるのに、少し練習が必要だ。
とりあえず下記をアップしている。
1.アレイデ・コスタ
2.ミ・ビダ・エレス・トゥ エステル・ボルハ(歌)
3.シベリウスをいじる
4.パガニーニのソナタ
5.ハスミン・デ・ルナ
今日中にもう2,3本アップしよう。
とくにリンクはかけてないが、YouTubeの検索窓に“shosuzki” と入れてくれれば、ひと目で出てくる。

「詐欺」と言っても実害はないから、ちょっと言い過ぎかも知れないが、それでもかけた手間ひま考えると「だまされた」というしかない。
2つ3つアップしてようやく使い方に慣れてきたかと思ったら、You Tubeへのアップが不可能になった。なにか最初だけは試用版みたいにして使えて、その後突然アウトということになるようだ。
ネットでいろいろ調べたが、結局ダメらしい。
会社が悪いというよりは、なにかこのソフトをかばうような情報が蔓延していて、地獄への道を誘導しているようだ。→わかった。前はできたのだが、最近できなくなったのだ。「できる」と書いてある文章は全部それより前のものだ。
あいぽったぶる というサイトに詳しく経過が書かれている。
誰が悪いかは別にして、結果的には利用者を追い込んでいく罠みたいなやり口だから、絶対手を出さないほうが良い。そもそもこういう会社は信用ならない。(こういうのを“盗人にも三分の理”という)
それにしてもYouTubeのアップロード用アプリがなくなって、ウィンドウズのソフトが無くなって、みんなYou Tubeにどうやって上げているのだろう。
ネットで調べても、肝心のところはみんな外しているし…

夏だ、ボサノバだ!
ということで、聴き始めてこの曲に引っかかってしまった。
Onde Está Você (Oscar Castro Neves  Luvercy Fiorini)という曲で、歌っているのがアレイデ・コスタという歌手。録音は1965年だからかなり古い。しかも音源の状況が悪い。
これをクレンジングしてYouTubeにアップロードしようというのが本日の魂胆だ。
これに丸一日かかってしまったのだ。
原因はアップロードのためのソフト探しに、とんでもない手間がかかってしまったからだ。
動画作りソフトというのは、ソフト屋さんの最後の聖域らしく、いまだにこれはというフリーソフトが登場しない。わたしもこれで三作目のアップロードだが、すべて違うアプリだ。
ただでさえ面倒な手続きが必要なのに、これだけアプリが変わってしまうとお手上げだ。
今回はVideoPadというソフトだ。一度目は失敗して真っ暗の“音だけファイル”になってしまった。
やり直してなんとか絵が出るようになったが、これだけですでに一日費やしてしまった。
それなのに絵と音が同期していない。もう少し勉強するしかない
とりあえず3つのYouTube音源をリンクしておく。
とにかく努力の跡を味わっていただきたい。

なお Onde Está Você は名曲だから多くの人が演奏している。以下の演奏も聞いてもらいたい。
Onde está você - Renato Braz
Dulce Nunes - ONDE ESTÁ VOCÊ - Luvercy Fiorini e Oscar Castro Neves - Ano de 1965
Bené Nunes - ONDE ESTÁ VOCÊ - Oscar Castro Neves

おそらく「尾崎秀実の上海」を描くことは、上海の果たしたダイナミックな役割から見れば、その泡ぶくの一つを描写にするに過ぎないだろう。
それがいかなるところから、いかにして発生したかを書き始めると実施の筋書きの数倍に膨れ上がり、面白くもない物語になってしまうだろう。
それを面白いものにするためには、尾崎自身の行動に対する綿密な調査が必要であろう。その上で要領のいい刈取りとイメージの膨らませが必要であろう。
岩波新書の尾崎秀樹の「上海1930年」はその視点といい、事実の収集者としての資質といい、文句ないものである。
とりあえず、上海の外国人の動きを1930年を中心に前後数年のスパンで拾ってみよう。前提知識として中国人民族主義者や共産主義者の動きに関する知識、上海そのものの政治的・行政的・軍事的変遷についての知識、日本人の進出と侵略の経過についての知識が必要になるので、関係する年表をあたってもらいたい。

1925年(大正14年)
ウィットフォーゲル、「目覚めつつある支那」を発表。日本資本の紡績工場でのストライキより書き起こし、5.30事件を詳細に記録。
尾崎はこれを読んで中国に注目するようになった。
尾崎、東京帝大法学部から経済学部大学院に進学。唯物論研究会に参加し、大森義太郎に学ぶ。

1926年(大正15年)
尾崎、東京の朝日新聞社に入社。草野源吉の偽名で社会主義の研究会を開催。

1927年(昭和2年)
4月 上海に入った蒋介石のクーデター。国共合作が破綻し、左翼に大弾圧が加えられる。
10月 尾崎秀実、希望して東京朝日新聞の学芸部から大阪朝日新聞の支那部へ転勤。転勤後は大原社会問題研究所の「中国革命研究会」(細川嘉六)に顔を出すようになる。
27年 魯迅、上海に移る。
27年 スメドレー、精神的危機を克服。「女ひとり大地を行く」を著す(発行は29年)
27年 夏衍、帰国後中国共産党に参加、左翼文学芸術運動に従事する。

1928年
6月 蒋介石軍が北京を制圧。北伐が完了。北京を支配していた張作霖は満州に引き揚げる。
11月、尾崎秀実、朝日新聞上海通信部に赴任。3年余り上海に妻とともに在住。
12月 スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥング紙の特派員として中国に赴任。シベリア鉄道で満州に入る。
スメドレーはこの時点ですでに強固な共産主義者であり、なんらかのミッションにもとづいて行動していると思われる。フランクフルター・ツァイトゥングは左翼的な新聞で、共産主義者も多く参加していた。コミンテルンの隠れ蓑になっていた側面もある。

スメドレー旧居
スメドレーの住んだ上海のアパート このアパートの2階で住んでいた。大韓民国臨時政府旧址から西に300メートルほど。

エドガー・スノー、コロンビア大学の新聞学科を卒業した後、汽船のデッキボーイとして世界周遊に出る。上海に上陸し居つく。チャイナ・ウィークリー・レビューに就職する。この時点では共産主義とはまったく無縁の人。
スノーの『極東戦線』は大変な名文で、息も継がずに読み進んでしまう。「赤い星」についてはいろいろ意見もあるが、スノーが文章家であることは認めなければならない。

1929年
1月 スメドレー、張学良の支配する満州に3ヶ月間とどまり、日本の武力干渉の状況を記事にする。

5月ころ スメドレー、上海に移り、茅盾、魯迅、宋慶齢(孫文夫人)、蔡元培、林語堂、胡適などと交友を深める。

8月 尾崎、腸チフスに罹患。日本人の経営する病院で2ヶ月の入院生活を送る。

10月 中国革命互助会が結成され、共産党の支援に当たる。魯迅もこれに参加。左連の母体となる。

29年 スメドレーの自伝的小説「女ひとり大地を行く」が刊行される。表紙には美醜を越えた面構えの肖像写真が飾られる。のちに尾崎が邦訳を担当。

11月 自供によれば、尾崎がパレスホテルのロビーでスメドレーに会う。紹介者のワイテマイヤーは左翼系の「時代精神」書店の経営者。実際に「面白い女性がいる」と紹介したのは新聞連合の大形孝平だったが、尾崎はこれを伏せた。

11月 ゾルゲ、モスクワを発ちベルリンに向かう。その後マルセイユに出て日本行の定期航路に乗り込む。そのしばらく前に、自らの判断でコミンテルンから赤軍第4本部(情報部)に転勤している。

29年 中西功、上海の東亜同文書院に入る。中国共産主義青年同盟などに参加。42年にゾルゲ事件関連で死刑を求刑される。

1930年
1月 ゾルゲ、上海に到着。スメドレーと同じくフランクフルター・ツァイトング紙の特派員「ジョンソン」を名乗る。ゾルゲ・グループを組織したのはスメドレーとされる。

2月15日 中国自由運動大同盟の成立大会が開かれる。魯迅、郁達夫、田漢、夏衍、陶晶孫、鄭伯奇らが指導する。

3月2日 左連が結成される。

7月 李立三の指導する長沙蜂起、南昌蜂起が失敗。この後蒋介石政権の弾圧が強化され、上海での活動は非合法も含め困難となる。

9月17日 フランス租界で魯迅の50歳の記念パーティー。スメドレーは開催に尽力した。初対面ではなかったとされる。

9月 河合貞吉が上海入り。田中忠夫、王学文らと中国問題研究会を組織。尾崎も運営に協力したという。

10月 尾崎によれば、このころ鬼頭銀一が接触を図ってきた。鬼頭はアメリカ共産党員で、太平洋労働組合書記局(PPTUS)に派遣され、満鉄傘下の国際運輸の上海支社に潜入していた。

11月 東亜同文書院で学生ストライキ。処分者を出すことなく要求を実現。

1931年 
1月 左連幹部5人が逮捕、虐殺される。尾崎、犠牲者の作品をふくむ「支那小説集 阿Q正伝]の発行に協力。白川次郎の筆名で翻訳を担当。

尾崎が外国人記者クラブでゾルゲと会見。



尾崎によれば調停役は鬼頭銀一であった。ただしゾルゲは明らかにしていない。

ニム・ウェールズ、ジャーナリストを志して上海に渡る。ユタ州の生まれでソルトレークの州立大学卒。政治的には無色。

1932年(昭和7年)
2月末 尾崎、大阪本社の命令により日本に戻り、外報部に勤務。
ゾルゲ、日本に活動の場を移す。職名はアムステルダム・ハンデルス・フラット紙の記者であった。
6月初め 宮城与徳が仲介し、日本に異動したゾルゲと尾崎が再会。尾崎は諜報活動に従事するよう要請を受け承諾する。コード名は「オットー」。
上海で「民権保障同盟」が発足。魯迅、宋慶齢、蔡元培、林語堂、胡適にくわえ、スメドレーも発起人となる。
エドガー・スノーとニム・ウェールズが上海で結婚。

1933年
5月 イギリス警察が「上海におけるソ連・スパイリスト」を作成。13人の名前にはスメドレーとゾルゲが記されている。スノーの名はなかったということになる。
9月 ゾルゲ、記者として来日。(このあたり引用文献により事実が錯綜している。この文章は相当怪しい。いずれ整理する)
スメドレー、フランクフルター・ツァイトゥングからマンチェスター・ガーディアンに転籍。八路軍ゲリラを体当たり取材。『中国紅軍は前進する』『中国人民の運命』『中国は抵抗する』『中国の歌ご
え』などを立て続けに発表。
スメドレーの長征
     長征参加時のスメドレー
転籍の理由がよくわからないが、コミンテルンの統制を外れたのだろうか。

1934年 
10月 尾崎、東京朝日新聞に転じ東亜問題調査会に勤務。
エドガー・スノー夫妻、北京に拠点を移し中国共産党との関係を深める。
ニム
ニム・ウェールズ(本名ヘレン・フォスター・スノー)

1935年
ゾルゲ、いったん離日する。この間モスクワに戻ったらしい。

1936年
5月 ハロルド・J・ティンパーリ、北京から上海に移り、マンチェスター・ガーディアン紙の専従特派員となる。一時南京へ移動するが上海事変拡大に伴い上海に戻る。南京事件でのマギーの写真を広く流布する。

ゾルゲ、オットー独大使の私設情報官に就任。

鹿地亘、獄中転向の後上海に渡る。第二次上海事件を機に上海を脱出。重慶政府内で「日本人民反戦同盟」を結成。

1937年
4月 長谷川テル 中国人留学生と結婚し上海に渡る。その後重慶政府で対日反戦放送にたずさわる。緑川栄子のペンネームを用いた。夫妻の墓地は佳木斯にある。

1938年
カナダ人医師ノーマン・ベチューン、延安で診療活動を開始。ベチューンは臨床医として労働者の貧困に接し、共産党員として社会変革に参加するようになる。

1941年 

ゾルゲ事件が発覚。尾崎も首謀者の一人として逮捕される。

1944年
11月7日、巣鴨拘置所で両名の死刑が執行。


底本を間違えた。尾崎秀樹の「上海1930年」(岩波新書)という本は、まことにつまらない本で、一定程度の知識を持った人間には何の役にも立たない。その歯がゆったらしさにはイライラする他ない。
少し他の文献もあたった上でもう少しマシな年表にしたいと思う。とりあえず、中国共産党関係の歴史は毛沢東とそのライバルたちの年表を見ておいてほしい。


伊藤美誠・早田ひなは世界一だろう。
ソウル・オープンの中継を見たがとにかくすごい。
おそらく伊藤美誠はシングルでも中国選手を上回りつつあると思うが、これに早田がついたダブルスでは早田のドライブがすごい威力を発揮する。
とにかく早田のドライブはたぶん世界一の回転量だろうと思う。この人がしっかり打ったドライブを返せる人はほとんどいない。野球でいうとチーム打率3割のチームにホームラン40本の外人助人が加わったみたいなものだ。全盛期の内川と絶好調のデスパイネの組み合わせだ。
早田ひなの凄さは身重だとか筋肉だとかとは違うと思う。そのムチのような柔らかさに強さの秘密があるのだろう。だから決まったときの玊ぢからというか破壊力は見た目とはぜんぜん違う。
ダブルスをやったときに早田がドライブを打つ場面が作れれば、そのゲームは間違いなく取れる。相手もそうなったら諦めている。早田がドライブを打ったら、早田にドライブを打たせたら、その時点でとりあえずは終わりだ。
それにシングルプレーヤーとしても、もはや平野美宇を抜いてNo.2、美誠に迫るレベルに達している。
ダブルスというのはメジャーなゲームではないから、なかなかそこまで話を持っていくのは厳しいが、見る分には大変面白い試合なのでぜひ頑張って欲しいと思う。
それにしても早田さん、去年とは別人だ。堂々としていま一気にきれいになってきた。


アルメニア 首相交代劇の背景

最初にパシニャン新首相の紹介。
エレバン在住日本人の長谷川さんが詳しく紹介されている。
パシニャン(Pashinyan)は1975年生まれ。エレバン大学を中退しジャーナリストとなる。
彼はアルメニア国立大学ジャーナリズム学部でトップクラスの優等生でしたが、当時の学長の批判記事を書いて問題になり、その学長から、「記事の内容を否定しないと退学にするぞ!」と脅されても、「これは事実だから否定などしない!」と突っぱねて退学になりました。
06年には、ペトロシャン初代大統領を党首とする野党創設に加わる。
また、長谷川さんからの引用。
政治家になる前は、「アルメニアタイム」というリベラルな新聞紙の編集者を務めていました。在職中は共和党の腐敗政治を激しく批判し続け、10年前の大統領選挙の不正に対する違法な抗議活動を行ったとして、当局から指名手配されました。1年以上の逃亡生活の末、2009年に自ら出頭して逮捕。2年の服役を終えて出所後、野党「アルメニア国民議会」のリーダー的存在になり、2012年に当選して国会議員になりました。
これで4年間活動した後、今度は新党を立ち上げる。
2016年に、他の野党党首と共に、「エルク(アルメニア語で出口・糸口の意味)」という政党を結成。翌年の国会議員選挙で9議席を獲得し、第二野党となりました。
今年になって、反政府活動に本格的なギヤが入ったようだ。
2018年初めにセルジ・サルキシャン(Sarkisian)大統領が首相就任の意思を表明した。背景はよくわからないが、大統領を一人で何代も重ねると人聞きが悪いせいかもしれない。それで憲法を変えて議院内閣制にした。議院内閣制にすると国家のトップは間接選挙制になる。別に任期は必要なくなる、という理屈だ。
これに抗議するため、パシニャンは地方からエレバンに向かって歩きはじめた。歩く先々でサルキシャンに抗議する集会を開く、「マイステップ」運動を展開するためだ。
このあたり、なにかコスタ・ガブラスの「Z」を彷彿とさせる筋書きだ。背景には権力の腐敗と貧富の格差に対する底知れぬ怒りが渦巻いているようだ。
また、長谷川さんの引用。
アルメニアも、そんな厚顔無恥で強欲な人間たちがずっと国を支配してきました…。ただ、その腐敗のレベルがとにかく半端ない
最近、ある大物政治家が不法に大量の武器を所有していた容疑で逮捕されました。彼は、ナゴルノ・カラバフ紛争で大佐を務めた元軍人です。
警察が彼の豪邸を捜査したところ、隠し持っていた武器の他に、何十台もの高級車や水上バイク、虎やライオンなどが飼われたミニ動物園までありました。…驚いたのは、市民らが前線で戦う兵士たちのために送った食料や物資を横領して、何とその食料を自分が飼っている動物の餌にしていたことです。
(すみません、ちょっと文章削りました。長谷川さんの原文でしっかり味わってください)

2ヶ月をかけた政治行脚の中で、国民の怒りが形となって現れてきた。

4月9日 サルキシャン大統領の任期が満了となった。サルキシャンは与党の支持を受け首相にされた。その4日後、パシニャンのキャラバンが膨れ上がって首都エレバン入りした。連日に渡り大規模な集会が開催され、政治的緊張は一気に高まった。
サルキシャン・パシニャン会談が開かれたが、会談の直後、パシニャン議員は違法なデモを扇動したという理由で拘束された。この愚挙は火に油を注ぐ結果となった。最大規模の抗議集会が開かれ、デモ参加者は10万人を超えた。兵士や警察の一部までがデモに参加した。Youtubeに集会を記録した動画がアップされている。昼の映像を見ると10万はちょっと大げさだと思ったが、夜になると広場は群衆で膨れ上がってくる。
これを見たサルキシャンは観念したようだ。23日、サルキシャンは「パシニャンは正しく、私は正しくなかった。私は首相職を去る」との声明を発表し辞任した。
サルキシャンが辞任した後、暫定首相となったのは、サルキシャン政権のもとで首相を務めていたカラペチャン(Karapetyan)という人だ。パシニャンは国民的な人気こそあるが国会内では第二野党の党首に過ぎない。与党としては不人気のサルキシャンでなければ、誰が首相になっても騒ぎは収まるだろうと高をくくっていたのではないか。
ところが与党にさらに追い打ちをかけるような出来事が発生した。ロシア大統領のプーチンがカラペチャン首相代行との電話会談に応じた。そして、「投票は非常に重要だ」と強調したのである。
実はアルメニアは経済困難のもとにあり、ロシアの援助なしにはやっていけない状況になっている。政治混乱になればロシアが介入してくるのは明らかであり、そうなれば国家は持たなくなってしまう。与党は大混乱に陥った。
26日、議会は首相選出の投票を5月1日に行うと決定した。パシニャンは投票そのものは受け入れたが、自身が来週の投票で首相に選出されるべきだと主張した。与党は候補者を出さず、結果として唯一の候補者パシニャンへの信任投票ということになった。
ところが、与党は候補は出さないが、パシニャンを信任もしないという態度に出た。そうなれば政治は空転し議会選挙ということになる。議会選挙で与党がふたたび勝利すれば、「ミソギは済んだ」ということになる。
5月1日、議会で首相選挙が行われ、唯一の候補となったパシニャンへの信任投票は僅差で否決された。パシニャンはただちに市民にゼネストを呼びかけた。ゼネストは成功し首都はマヒ状態となった。
クーデターも考えられたが、ロシアの圧力はそれを許さなかった。プーチンにしてみればシリア、ウクライナに加えてさらなる国際紛争はとても許される状況にはない。
ついに与党共和党は「議員の3分の1以上の支持を得た候補者を首相に任命する」という声明を発表し、事実上パシニャン氏の首相就任を認めた。5月8日、議会はパシニャンを首相に選出。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得した。直後の声明でパシニャンはロシアとの関係継続を表明し、プーチンはパシニャンを祝福した。
共和国広場で雨の中祝賀集会が行われた。パシニャンは「アルメニアに普通の生活をもたらす、汚職と政治的迫害を過去のものにする」と宣言した。

とまあ、一応まとめてみたんですが、誰か追加してください。
ナゴルノ・カラバフ紛争の頃、なんとなく胡散臭さを感じながら読んでいた記憶があるが、調べてみるとやはりこういう経過があったのだ。
ユーゴスラビア内戦も、世上セルビアばかりが悪者扱いされているが、個別の事象を見ていると、むしろクロアチア側に理不尽さを感じる場面も多々ある。まさか第二次大戦時のファシストの伝統が生き残っているというわけでもなかろうが…



先程パーティーで、「ヒマというのはないものだ、しかし気持ちの余裕はできる」としゃべった。
みんながいまだに忙しくしているのを見て、若干肩身の狭い思いをして、しかしそれほど縮こまる必要もないと思って、酒の勢いでそうしゃべった。
その時、「尾崎秀実は“ヒマというのはないものだ。新聞を真面目に読むとヒマはなくなる”と、そう言っている」と付け足したのだが、さて歳のせいか、いつどうやって秀実が言ったのかが思い出せない。
そこで帰ってきてから本棚とにらめっこしていて見つかった。岩波新書の『上海1930年」という本だ。著者は息子の尾崎秀樹。

実は秀実が言ったのではなく、羽仁五郎の言った言葉で、しかもかなり秀樹の思いのこもった引用で、どこまで秀実がそう考えていたかは定かではない。
ただそれはどうでもいいことで、中身がいいから、私の頭の片隅に覚えていたのであろうと思う。
引用のレベルを越える可能性があるが、ご容赦願いたい。
 一高、東大と一緒だった森五郎は、しばらくハイデルベルク大学へ留学し、帰国後東大の国史科に入り直し、歴史研究にたずさわるようになっていたが、森姓から羽仁姓に変わった直後に尾崎は彼と会う機会があり、近く上海に特派されるという話から、中国へ行ったらどういうふうに勉強したらよいか、友達付き合いの気安さからたずねた。
 すると羽仁五郎は「新聞を読むことだ」という。
「もちろん新聞を読むのは、仕事のうちだから…」
「そうするつもりだくらいではだめだ。よく読めるようにならなくてはいけない」
「よく読めるようになるには、二、三年はかかるよ」
「いや二、三ヶ月でよく読めるようにならなければだめだ」
そういわれても、なかなかうまくいくものではない。尾崎は困って、
「じゃ、どうすればよいだろう」とあらためて聞いた。
「一日のうちで、いちばん頭の働きが良い時に新聞を読むことだ。大学を出た連中は、分厚い本を机の上にのせて読むのに、新聞は食事をしながら読んだりする。あれではだめだ。頭脳の冴えている一番良い時に、分厚い本のかわりに、新聞を机の上に広げ、赤と青の鉛筆を使って、一字一句考え、批判し、それが真実か嘘か見分け、前日の新聞や、これまでに知っている知識とも照らし合わせ、ノートをとりながら研究的に読むことだ。
 新聞を通して何が本当か何がウソかをはっきり考えることだ。日本がどう動くか、中国が世界がどう動いていくか、新聞はそれを動かそうとしているか、生きるか死ぬかの真剣な勉強として新聞を研究するのだ。
 こういうふうに新聞を素材として勉強すれば、二、三ヶ月で新聞がよく読めるようになる。そして、こうやって、新聞を読んで考えたことを、同じように新聞を真剣に読んでいる友だちに話し、彼らの考えを聞き、討論してみることだ。そうすれば世界の動きが次第にはっきり分かり、自分がどうすればよいか、明らかになる」
「一日のうちで」から後ろは、後年、羽仁五郎が書き記した「青年にうったう」という書物の中の言葉だ。尾崎秀樹の冴え渡るシームレスの筆運びに思わず引き込まれる。

赤旗の国際面に、ベルギーで開かれたある集会がレポートされていた。
新たにアルメニア首相に選ばれたニコル・パシニャンを歓迎する集会で、参加者はすべてアルメニア人。
おそらくは亡命しベルギー近辺に在住している人々であろう。
日頃、アルメニアに関連するニュースなど耳にすることがないから興味が湧いた。
以前からアルメニア、クルドの両民族は気になる存在であった。ともに過去においてジェノサイドの対象とされてきたからである。さらにユダヤ人も含め、中東の三大ディアスポラとなってる。
赤旗の記者は参加者の一人で元ミス・アルメニアだという女性の方に興味があって取材・報道したらしく、アルメニアにはとんと興味はなさそうだ。
そこで我が「物好き社」が代行して報道することにしようと思う。
まずはニュースを探してみる。

【5月8日 AFP】 
アルメニア議会は野党指導者のニコル・パシニャン(Nikol Pashinyan)を首相に選出した。パシニャンは与党・共和党内からも支持を獲得し、賛成59、反対42で選出された。
パシニャンは、「私の初仕事は、この国に普通の生活をもたらすことだ。アルメニアに汚職はなくなる。アルメニアは政治的迫害を過去のものとする」と述べた。

アルメニアを知るには、アルメニア人の迫害の歴史、ミニ国家としてのアルメニア国の歴史、そしてパシニャンを生み出した民主運動の歴史について知らなければならないだろう。

とりあえず、例のごとく年表で整理していく。

アルメニアは、ハイ族の王アルメナクから来ている。
アルメニア人は自らをハイ、国をハヤスタンと呼ぶ。

アルメニアは、先史時代からその存在が知られていた。

5500年前の革靴



























   アルメニアで発掘された5500年前の革靴
紀元前9世紀 ウラルトゥ王国が成立。紀元前8世紀にはアッシリアまで進出。
紀元前6世紀 ウラルトゥ王国が滅亡。アケメネス支配下のアルメニア人が植民し国際交易に従事。
紀元前331年 アレクサンドロス大王の率いるマケドニア王国の軍勢がペルシアへ侵入
紀元前188年 最初の独立国家「アルメニア王国」を築く。最盛期には黒海からカスピ海までを支配する。
アルメニア王国の最大版図
           アルメニア王国の最大版図
紀元前66年 アルメニア王国はローマに敗れ衰退。ペルシャの支配下に入る。
1世紀頃からキリスト教の布教活動が行われる。
紀元301年 アルメニア、世界で初めてキリスト教を国教とする。
400年頃 アルメニア、ササーン朝の支配下に入る。
その後ペルシャ人、東ローマ、アラブ人、蒙古人、トルコ人が相次いで支配者となった。
10世紀 アルメニアはムスリムと東ローマの境界地帯となり、多くのアルメニア人がキリキアに逃れる。
1198年 キリキアに定着したアルメニア人が、キリキア・アルメニア王国を建設。交易国家として発展。
キリキア・アルメニア王国
          キリキア・アルメニア王国
1375年 マムルーク朝の占領を受け、キリキア王国が滅びる。
1636年 オスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアがアルメニアを分割し支配。
1826年 第二次ロシア・ペルシア戦争。ロシアがペルシア領アルメニアを奪取

1877年 露土戦争。アルメニア人はロシアの進出を歓迎。多くのアルメニア人がロシア領へ流入。
1894年 第一次虐殺。サスーンでアルメニア人が武装蜂起。その後の1年で数万人が犠牲となる。
エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895年
    エルズルム虐殺の犠牲者たち(1895)
1914年 オスマン・トルコが第一次世界大戦に加わる。敵軍であるロシア軍には18万人のアルメニア人正規兵の他、アルメニア人義勇部隊8千人が加わる。
1915年4月24日 アルメニア人政治家・知識人など約600人が逮捕殺害される。その後の1年で60万人~100万人が殺害される。
1918年 ロシア革命が発生。この隙きをついて民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立される。
1920年 赤軍がアルメニアを制圧。アルメニア社会主義ソビエト共和国が成立。隣国とともにザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国を構成する。
1965年 虐殺50周年記念集会。これを機にアルメニア語やアルメニア文化が容認されるようになる。
1988年 ナゴルノ・カラバフ戦争が発生。
アゼルバイジャン共和国のナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニア人が帰属替えを求める。これを機に民族紛争に発展。ソ連政府はアルメニアに対し冷淡な態度を取る。
1988年 大規模な地震が発生。電力需要の40%を生産するメツァモール原子力発電所が6年半に渡って閉鎖される。
1991年9月 ソ連の崩壊に伴い「アルメニア共和国」として独立。反共産党のレヴォン・テル=ペトロシャンが大統領となる。
1994年5月 アルメニア人勢力(ダシュナグ党)がナゴルノ・カラバフを制圧。アルメニア人側に約6000人、アゼルバイジャン人側に約3万人の死者。周辺国はアルメニアに制裁。
1995年7月 新議会選挙と新憲法の国民投票。
1998年 ペトロシャン大統領が辞任。ナゴルノ・カラバフ出身のロベルト・コチャリャンが後継大統領に選出される。
1999年10月 アルメニア議会銃撃事件。元ダシュナク党員のテロにより首相、国会議長など8名が死亡。
2008年 大統領選挙でセルジ・サルキシャンが選出される。対立候補であったペトロシャン元大統領は、不正を訴え大規模な抗議活動。非常事態宣言が発令される。
2009年10月10日 トルコとの国交成立。ダシュナク党はこれに抗議し政権から離脱。
2015年 憲法改正。大統領権限の大半を首相に移し、議院内閣制を導入する。
2018年
4月17日 サルキシャン大統領、退任に伴い首相に鞍替え。
5月1日 議会で首相を選ぶ選挙。最大野党のニコル・パシニャンが当選するが、与党は承認を拒否。

ということで、ほとんどアルメニアの歴史年表になってしまった。
そういう背景のもとで、今回の首相交代劇がどんな意味を持っているのか、別途稿を起こそうと思う。

リーマン・ショック後の動き 金融政策を中心に

2008年

08年9月
9月 AIG国有化。AIGは大量のCDS(倒産保険)を扱っており、破綻すればリーマンとは比べものにならない位の大混乱が起きるところだった。
9月 日欧の中央銀行がFRBとのスワップ協定によりドル資金を供給
9月 米下院、共和党の反対で金融安定化法案を否決。誰もが予期しなかった事で。株式市場が大暴落!
08年10月
10月 欧米当局が金融機関への資本注入,銀行間取引の保証,預金保護の拡大等を実施。欧米主要中銀が協調利下げを実施する。
10月 米議会、共和党の賛成を得て「金融安定化法」が成立
11月 金融サミット(G20緊急首脳会合)の開催
11月 米FRB,事実上のゼロ金利を実施し量的緩和第1弾(QE1)を導入(2010年6月まで)

2009年
3月 10日、日経平均がバブル後最安値を更新(7054円)
4月 米クライスラー、GMが破たん
12月 ギリシャの財政悪化が判明,ギリシャ国債が格下げ

2010年
3月 欧州債務危機が勃発。EUとIMF,ギリシャに金融支援。
5月 欧州中銀,ユーロ圏内の国債買入れを実施。
ギリシャの債務隠し発覚を発端に、スペインやポルトガルやイタリアなどユーロ圏諸国の財務危機へと発展。ユーロの為替レートが暴落する。
7月 米,「金融規制改革法」(ドッド・フランク法)が成立
11月 米FRB,量的緩和第2弾(QE2)を導入
11月 EUとIMF,アイルランド、ポルトガルに金融支援

2011年
3月 東日本大震災が発生
3月 G7が円高阻止で協調介入を実施
4月 欧州中銀,2回にわたり金利引き上げ。1→1.5%に
10月 円相場,対ドルで史上最高値(75円32銭)
12月 欧州中銀が利下げし年初の1%に戻す。

2012年

3月 ギリシャ,事実上の債務不履行
6月 LIBORの不正操作問題が発覚
8月 「消費税増税法」が成立
9月 米FRB,量的緩和第3弾(QE3)を導入
12月 安倍内閣が成立。アベノミクスが開始される。

2013年
3月 キプロスで預金封鎖が勃発
3月 黒田日銀総裁が就任。インフレ目標(前年比2%)を立て、大規模な金融緩和策を発表。長期国債の大量購入に動く。
5月 円が4年ぶりに100円を割り込む。
6月 ユーロ圏、大量資本注入で合意。欧州中銀は0.25%まで利下げ。
2013年 サマーズ元米国財務長官、「長期停滞論」を提唱。世界的な需要不足と貯蓄余剰によって、潜在成長率が低下したと説明。

2014年
1月 新興国で通貨危機
シャドーバンキングの破綻懸念が高まった中国や、政権崩壊のタイ、経済不安のアルゼンチンやトルコなど、新興国の通貨が暴落。
2月 米FRB議長が交代(バーナンキからイエレンへ)。景気回復に伴い、量的緩和を縮小の方向へ
4月 日本で消費税を増税(5%から8%へ)
6月 欧州中銀,預金ファシリティ金利を△0.1%へ切り下げ。主要国では初のマイナス金利となる。
10月 FRBが量的緩和政策を終了。リーマンショック以降続いた金融緩和が終わる
10月 日銀,追加金融緩和を実施。国債購入を30兆円増加
11月 ロシアルーブルが変動相場制へ移行。経済の低迷でルーブルを支えきれなくなり、通貨バスケット制を放棄。

2015年
1月 ECBが量的緩和政策を開始。月額600億ユーロ相当の国債の買い入れを行っていくと宣言。
8月 中国ショック。当局は景気低迷や上海株式市場の暴落を受けて元安誘導へ転換。
12月 FRB、リーマンショック以降、初めて政策金利を利上げ。
12月 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が設立される

2016年

1月 日銀、インフレ目標の達成困難なためマイナス金利導入を決定。
2月 原油安,中国のバブル崩壊,米国の景気減速懸念などから世界同時株安。
3月 中国と欧州中銀が追加緩和。
6月 消費税の10%への引上げを再延期
7月 英国でEU離脱の国民投票が可決。英ポンドは大暴落
12月 FRBが第1回目の利上げ。その後3回にわたり小幅引き上げ。

2017年 米国の成長率は名目で4.1%に回復。

結果的には黒田総裁は正しく、財務省は間違っていたということになる。
しかし黒田総裁さえも異次元緩和すればインフレが来ると思っていたのだから、五十歩百歩というべきかも知れない。
日本の人口減は、高齢者へのいじめと脅しのキャンペーンを伴っているから、団塊世代は財布の紐を縫い付けてしまった。
1億持っていても、2億でも、もうびた一文も出さない。なぜなら、富裕層の意のままとなってしまった日本という国をもはや信頼していないからだ。
藤井財務相が、消費税引き上げのときに「かならず消費水準は戻る」と言ったが、まったくの誤りだった。消費マインドの冷え込みはもはや構造的なものとなっている。
藤井さんに同情していうなら、団塊の世代にとっては「そういう問題ではない」のだ。財務省幹部は土下座して、見通しの甘さを謝るべきだ。
おそらく団塊の世代が持っていた最大の資産は「欲望」であったろう。
今やその「欲望」は霧消した。団塊の世代が持つ莫大な資産は、致富欲以外の「欲望」を持たないゾンビ貨幣となり、成仏できずに世の中をさまよう。市場撹乱因子だ。
「高齢化社会論」で老後の生活に危機煽りした人間が、実は「欲望」の危機に対して一番鈍感だったということだ。
これをまっとうな資産として生き返らせる唯一かつ単純な方法は、社会保障の改善である。老後が保障されれば彼らは金を出す。少なくとも「リスクオン」のポジションをとるはずだ。「だって墓場まで金を持っていっても仕方ないじゃん」からである。



プラハの歴史

6世紀後半 スラヴ民族がヴルタヴァ川河畔に定住。

623年 サモ王国の形成(30年ほどで滅亡)

9世紀前半 大モラビア国が成立

9世紀後半 プラハ城が構築される。

906年 マジャール人の侵入により大モラビア国が滅亡。

10世紀頃 ヴィシェフラト城が建てられる。2つの城に挟まれて街が発達する。

973年 キリスト教の司教座が置かれる。その後、度重なる戦渦により荒廃。

1198年 プシェミスル王朝が始まる。ボヘミアが世襲王国となる。

1346年 ボヘミア王カレル1世(ルクセンブルク家)が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となる。

神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸の整備が行われた。

1348年 プラハに中欧最古のカレル大学(プラハ大学)設立。ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市に発展。「黄金のプラハ」と形容される。

1415年 キリスト教改革派の指導者ヤン・フスが火刑にされる。
ヤン・フスは1370年生まれ、貧農出身でありながら学に優れ、プラハ大学の総長となる。穏健な改革派であったが、「贖罪状」販売に反対し政争に巻き込まれた。

1419年7月 ヤン=ジェリフスキーの「プラハ市庁舎での窓外抛擲事件」が発生。ヤンの組織した暴徒が庁舎に乱入し議員を窓から突き落とす。
ヤンはフス派の神父で、下層市民の立場からカトリックを非難し、実力行動を呼びかけた。

1420年2月 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝が「フス派に対する十字軍」を組織。フス派は貴族や庶民が団結し国民軍を作り上げる。
7月 ジシュコフの戦い。ヤン・ジシュカ将軍は、手銃と装甲馬車を用いて十字軍騎士による突撃戦術を殲滅。フス軍はその後も連勝を重ねる。

1431年 対フス派十字軍が襲来。ポーランド王国からフス派義勇兵6千人が支援に入る。西スラヴ民族がドイツ人に対し優位に立つ。

1433年 ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争。ボヘミアの義勇兵7千名が加わる。

1434年 リパニの戦い。フス派内のターボル派(急進派)がウトラキスト(穏健派)によって壊滅させられる。

1436年 バーゼル公会議。フス戦争が終結。

1439年 ポーランドがフス派への弾圧を開始。壊滅に追い込む。
この後半世紀にわたりハプスブルク家とスラブ・プロテスタント系貴族が覇権を争う。

1490年 ポーランド王家から送られたブラジスラフがボヘミア兼ハンガリー国王となる。

1526年 ポーランド、オスマン・トルコに大敗。ハプスブルク家によるチェコ王国の統治が始まる。

16世紀後半 ルドルフ2世の治世。芸術や科学を愛する王の下、プラハはヨーロッパの文化の中心都市となる。

1618年 プラハ城で「プラハ窓外投擲事件」が発生。三十年戦争に発展。

1620年 ビーラー・ホラ(白山)の戦い。チェコ貴族軍は皇帝軍に敗れ全滅。ハプスブルク(ドイツ人かつカトリック)の支配下に入る。

1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲される。

ヴェストファーレン条約が締結され、三十年戦争が終結する。王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減。
チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧を受け、2世紀以上にわたる「暗黒の時代」を迎える。

1781年 ヨーゼフ2世、チェコ人の人身隷属を廃止。しだいにチェコ人の文化的な再生運動が始まる

1848年 

3月 ドイツ2月革命に並行してプラハ市民による独立運動。

5月29日 プラハに仮政府が樹立。スラブ民族会議を開催する。

6月12日 プラハで急進派の暴動が発生。鎮圧されて革命運動は挫折する。

1867 オーストリア・ハンガリー帝国成立。チェコ人は強い不満をもつ。

1914年 第一次世界大戦勃発。独立派のマサリクが西ヨーロッパ亡命し、独立運動を開始。

1918年 第一次世界大戦終結に伴い、オーストリア=ハンガリー帝国が解体。チェコスロヴァキア共和国が成立する。初代大統領にマサリク。

1935年 総選挙。ズデーテン・ドイツ党が第二党に進出し、チェコ人とドイツ人との対立が深まる。

1938年 ミュンヘン会談。英仏伊独首脳はドイツのズデーテン併合で合意。ベネシュ大統領はロンドンへ亡命。

1939年

3月 ドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体される。

9月1日 第二次世界大戦開始。

1945年5月5日 プラハ蜂起。4日後に解放される。

戦後の動きについては、たぶん膨大になりそうなので、稿を改める。

1968年 プラハの春。

1989年 ビロード革命。共産党政権が崩壊する。

脳神経の解剖学で大脳基底核ほど退屈な領域はない。なぜ退屈か。そもそも「大脳基底核とはなんぞや」ということについて、いっさい触れられていないからである。
かなり教科書を読み込んでも、大脳基底核固有の積極的な働きは書かれていないと言える。

しかし臨床的には、とりわけCT、MRが登場してからはきわめて重要な場所なのだ。脳血管障害の多くはここに集中している。ここがやられた場合の被害も重篤だ。
私の生まれた静岡市用宗というところは東海道本線、新幹線、東名高速という3つの幹線がわずか数百メートルの間隔で並んで走っている。
しかし用宗という町にはなんの重要性もない。高齢化の中で死んだような眠ったような集落に過ぎない。
ついでにいうと私の本籍は三重県鈴鹿郡関町大字沓掛404番地。東海道五十三次でいうと坂下の宿だ。鈴鹿峠にいよいよ登っていくとっつきで、伊賀に逃げる道の分岐点だ。そのT字路がまさに404番地だ。これも土地そのものにはまったく意味はない。
私は、大脳基底核の重要性を終脳の最初の起点という歴史的・文化的重要性に見る。
これまで大脳基底核の重要性を貶める二つの間違った位置づけがされてきた。一つは大脳辺縁系の最外周、下り線最終駅という位置づけであり、一つは錐体外路系という有りもしない経路のターミナルという位置づけだ。
これらの汚れを洗い流してもう一度、終脳の起点、外套の第一ボタンとして位置づけることによって、大脳発達の最初期(古皮質形成)に果たした役割について、もう少し真の姿が見えてくるのではないだろうか。

私の「三脳構造」説は脳の基本はあくまで前脳・中脳・後脳の三要素を基本とするもので、終脳(外套)より先は前脳の背側にある何らかの原基(芽)がいわばポリープ状に増殖したものであるとする考えである。
これはマクリーンの三脳説とは真っ向から対立する概念である。
ただし、終脳の増殖が波状に到来し、基底核、古皮質、新皮質が形成されたことには同意する。それは終脳学の範疇である。
それが大脳に質的変化をもたらす。それはマクリーンの3層構造と見かけ上類似する。

その際肝心なことは、基底核が皮質細胞(ニューロン)の生成工場となっていることである。ここで作られたニューロンが次々と前線に送られ積み重なって皮質を形成していくことが分かってきた。

脳科学辞典の大脳基底核原基の項目

大脳基底核原基は、基底核隆起とも言われる。
終脳(telencephalon)のうち外套 (広義の大脳皮質)の腹側に位置する。
ここで多くの大脳基底核神経細胞と大脳皮質のGABA作動性抑制性神経細胞、オリゴデンドロサイトが産生される。
このうち、GABA作動性抑制性神経細胞は大脳皮質、線条体、淡蒼球、扁桃体、嗅球などの様々な領域に移動する


私が個人的に敬愛する脳解剖学の研究者川村光毅先生が「大脳基底核逍遥」という文章を書かれている。
2010年の発表なので、比較的最近のものと言えるだろう。
情動と音楽の起源―情動の進化と脳機能という若干趣味的な論文の一部である。
口演形式なので、アンバランスを承知の上で、今までどちらかというと関心の低かった、“大脳基底核”について多少詳しく、その重要性に力点を置いた。
とエクスキューズが入っている。

私も気楽につまみ食いさせてもらおうと思う。

大脳基底核の分類
大脳基底核は線条体と淡蒼球、視床下核、黒質に分かれる。
線条体は背側線条体と腹側線条体よりなり、さらに背側線条体は被殻と尾状核に分かれる。

トリの線条体
トリにも線条体がある。これは背側脳室隆起(DVR)を起源とする細胞集団である。
DVRの本態については3つの説があるが、結局の所よくわからない。
2002年にアメリカのデューク大学にトリの研究者が集まって、striatum(線条体)との呼称をpallium(外套)に変更したらしい。
主たる変更理由は、それが哺乳類の線条体ではなく、線条体を覆うような大脳皮質類似の細胞集団であるからということだ。

大脳基底核と遺伝子発現
なぜ呼称が変わったかというと、最大の理由が遺伝子発現の違いだ。
いくつかの遺伝子マーカーで、線条体と大脳皮質との違いをチェックすると、それぞれに特異性が見られる。
面倒なので一つだけあげると、Tbr-1という遺伝子があって、これは哺乳類では皮質のみに発現するのだが、トリでは両方に発現する。
つまりトリの「線条体」は線条体とも言えるし皮質であるとも言えることになる。そこで中をとる形で「外套」ということばを持ち出したらしい。

基底核をふくむ神経回路
ここは面倒なので飛ばす。大脳・基底核・視床がグーチョキパー関係だということ、GABAがブレーキで、グルタミン酸がアクセルだということだけ覚えておく。

ヒトの脳は、1000億個の神経細胞と、1兆個のグリア細胞(神経膠細胞)から成る。

アストロサイト(栄養を運ぶ),オリゴデンドロサイト(ミエリン鞘を作る),ミクログリア(免疫を担う)が主なグリア細胞で,末梢神経系ではシュワン細胞がミエリン鞘を作る。

グリア細胞はグリア同士で情報をやりとりし,ニューロン活動を修飾し、シナプス形成をコントロールしている。
記憶や学習という脳の高次機能は,実はグリア細胞によって支えられているといえる。
グリア細胞の情報伝達には、ATPや神経伝達物質が利用されている。

この神経伝達物質はニューロンと共有されており、これによりニューロンを賦活したり、場合により死に至らしめる可能性が検討されている。

例えば脳虚血が起きると、ストロサイト内のグリコーゲンが分解され、乳酸アシドーシスをきたす。これにより過剰分泌されたグルタミン酸がニューロンを傷害すると言われる。

図 血管とアストロサイトとニューロン(脳科学辞典より)

nyu-rontoguria
アストロサイトの樹状突起は細かく枝分かれして広がる。その突起の一本は細動脈と接触している。ニューロンはアストロサイトが作る空間の中に神経回路を作る。

グリア研究の歴史

1846年 ウイルヒョーが「神経の間を埋める何らかの物質」の存在を主張。ニカワのような物質かと想像した。

1858年 ウイルヒョー、グリアが細胞であることを発見。結合組織細胞と記載する。

レンホサック、ゴルジ染色法によりグリア細胞を観察。グリアの一種にアストロサイト(星状細胞)と命名。

1889年 ヒス、グリア細胞が海綿芽細胞を起源とするグリア幹細胞(glioblast)から発生すると提唱。

1913年 カハール、アストロサイトがニューロンとは異なった第二の脳細胞であることを明らかにする。

1921年 ピオ・デル・リオ-オルテガ、オリゴデンドロサイトとミクログリアの存在を報告。

終脳は前脳ではないと思う

依然としてマクリーン仮説が大手を振って歩いていることに唖然とする。

1.大脳辺縁系について
おそらく辺縁系というのはブローカが大脳の最深部に古皮質からなるひとかたまりの脳神経集団を見つけて辺縁葉と名付けたことに由来するのではないか。
それにマクリーンが三位一体的な意味付けをしたから、順序が逆になってしまったのだろうと思う。
進化論の立場から見ればそれは前能の辺縁系であって、大脳は辺縁系のさらに辺縁を形成しているのである。

2.終脳について
教科書には前脳が終脳と間脳に分かれたと書いてある。
これも間違いだろうと思う。
前脳は前脳である。それは間脳と呼ばれ、視床と呼ばれているところである。
終脳と呼んでいるところは、前脳に付着した外套である。
そこには大脳の芽が埋め込まれている。嗅神経、松果体などである。これが海馬に記憶され、視床の感情が伝えられる。
これは前脳に対して、まさに外套にあたる機能と構造である。

3.外套について
外套というのは大脳全体を指す用語であるが、一般的に使う用法ではない。せいぜい失外套症候群という使い方しかしない。
しかし、トリの大脳皮質が6層構造は取らなくても哺乳類の新皮質と変わらないことが分かった。そこで以前は線条体と呼んでいたものが外套と呼ばれるようになった。
そしてこの外套はヤツメウナギにも存在することが示された。
つまり、発生学的に見れば大脳は前脳の外套であり、前脳ではない。
この概念を貫くならば、もはや大脳辺縁系という誤解を生む言葉はまったく必要なくなるのである。

4.まとめると
ヤツメウナギ以来、前脳・中脳・後脳という三脳構造は変わらない。
前脳には嗅脳を中心に外套が付着し、これが終脳へと発展する。
前脳は視床と呼ばれるようになり、神経内分泌中枢の視床下部と結合し間脳を形成する。
ただし、終脳を前脳の外套由来とするなら、あえて間脳という必要があるかどうかは留保の余地がある。

主として 脳の進化の5億年、発達の38週間、成長の80年 より作成させていただきました。ただ大脳辺縁系の記載についてはいささか疑問があり、少し編集しております。

38億年前 生命が誕生する。RNAとタンパク質の組み合わせがきっかけとなる。その後DNAが形成され、“共通祖先”が誕生する。
10億年前 単細胞生物が、“従来のままの単細胞生物”と“植物・菌類の祖先になる単細胞生物”とに分岐。
9億年前 単細胞生物のグループからカイメンが分岐した。カイメンには、まだ神経系は形成されず。
8億年前 複数の単細胞生物が集まり、多細胞生物が誕生する。紫外線と活性酸素の存在下でDNAが損傷→再生を繰り返し、これにより多様性を増す。
6億年前 刺胞動物の登場。『散在神経系』と呼ばれる網目状の神経系を持つ。
5億4千万年前 カンブリア紀の開始。海中には多様な生物があふれるようになる。これらは『集中神経系』と呼ばれる“神経節”を獲得した。
約5億年前 原索動物であるホヤの幼生に神経管が発生。神経管の内側で神経細胞がつくられる。(真の祖先は頭索類のナメクジウオとする説もある)
5億2千万年前 無顎類(ヤツメウナギ)の登場。ニューロンの活動を補佐するグリア細胞が発生。軸索を覆うミエリン鞘は未形成。
4億6千万年 顎口類の登場。グリアに加えミエリン鞘を獲得。脳の大規模化に伴い、鼻孔と下垂体の位置が移動し、そのスペースに脳が拡大する。
魚類、脳は脳幹よりなり、3つに分かれる。前脳は嗅覚、中脳は視覚,後脳は耳と側線器に対応する。前脳背側部に外套(パリウム)が付着。
3億7千万年前 両生類の登場。大脳と小脳が小さく、脳幹が大部分を占める。ただし嗅球が大きくなる。
3億1千万年前 羊膜を持つ爬虫類の登場。中脳の後にある“視葉”が小さく、古皮質の嗅覚に頼る。 爬虫類から大型の主竜類が分化。背側脳室隆起が発達し、視床からの入力を受ける。
2億5千万年前 哺乳類が羊膜類より分化し発生。脳容量は爬虫類と同じ。
6層からなる大脳皮質(新皮質)が出現。新皮質にしわができ、感覚野、運動野が誕生。
6千万年前 霊長類の登場。連合野が出現し、より高度な認知や行動が可能となる。
400万年前 サバンナに進出する猿人(アルディピテクス・ラミダス)の出現。頭蓋容量は300mlほど。
280万年前 木材や石を加工して道具を作り出す猿人(ホモ・ハビリス)の出現。ブローカー野が発達しており、複雑な音声を用いた。頭蓋容量は700ml。
150万年前 原人(ホモ・エレクトゥス)の登場。直立二足歩行により発声が容易になり、言語の発達が加速する。ウェルニッケ野も形成されるようになる。
20万年前 ホモ・サピエンスの登場。頭蓋容量は1400mlに増大、

ポピュリズムという言い方はやめよう

一部ジャーナリズムで盛んに使い始めたことから、今ではすっかりポピュリズムという言い方が浸透している。

それは社会学的用語としては正しいかも知れない。(それが社会学の弱点であり限界である)

しかし同じ大衆・庶民を基盤とし、その自発性に依拠し、彼らが抱える不満や怒りを代弁している点は似ているが、似ているのはあくまでそこまでである。

政治的スタンスもその最終目標もまったく逆の政治集団を、社会的同質性を根拠にひとくるめにするのは、政治的対決点がどこにあるのかをあいまいにするためのレトリックでしかない。

さらに悪いことはそれが上から目線であり、彼らの要求に対し冷淡で無関心であることの象徴となっている表現だからである。おそらく彼らの目は我々をもポピュリストとして眺めているだろう。

例えば、共産党と公明党・創価学会が底辺層の声を代表すると主張し支持者を奪い合ってきた状況が日本にある。
それをもって「共産党も公明党も貧困層を土台にしたポピュリスト政党だ」と、一絡げにすることは、まともな政治学者にとって自殺行為であると思われる。

ナチスもファシストもみな「社会主義者」を自称した。現在の言葉の使用法からすれば彼らこそ「ポピュリスト」の名にふさわしい。

政治学はさまざまな政治集団の性格を、その目的から規定し分類し評価しなければならない。それが政治学の使命である。

そしていま国民大衆の運動の進歩性を規定するのは、民主主義、平和主義、人権第一主義、立憲主義の4基準である。一言で言えば「リベラル民主派」である。

この4基準のいずれかに反する政治勢力はたとえ民衆に支えられた組織であろうと、反政府的組織であろうと支持することはできない。
社会学的に見て共感する余地があったとしても、政治学的には一線を画さなければならないし、場合によっては対抗関係に立たなければならないのである。

そう得心したとき、ポピュリズムという言葉がいかに民主派を見下して虚しく響くことか…

1.大企業と彼らの政府は「恐慌」には興味がない
リーマン・ショック後の10年を年表にしようと思ったが、とても難しい。ファクトが多すぎて取捨選択が困難である。
当初は金融危機の形をとったが、むしろ「2008年世界恐慌」というべきかも知れない。
だから、年表を作るに際しては戦前の「大恐慌」を念頭に置かなければならない。
あの大恐慌はブラックサーズデーに始まり、ファシズムの世界席巻へと発展し、1945年の枢軸国の無条件降伏をもって終わった。
その間に大量失業と飢餓、労働者の抵抗の増大と不寛容化、国際協定の破棄と国際秩序の崩壊が続いた。金融寡占層とその政府はこれらの動きに策を持たず、そもそも関心がなかった。

2.財務省のノーテンキぶり
いま読んで呆れるのが、財務省が2011年5月18日に発表した「国際金融システム改革の主要課題」というレポートで、およそ危機感がまったく感じられない文章である。
1.透明性の向上、国際的スタンダードの確立
2.金融監督の強化
3.国際的な資本移動への対応
4.安定的な為替相場制度の確立
など8本の課題が列挙されているが、どこが問題か、なぜそれが問題なのかは触れられない。
これが東北大震災の2か月後の財務省の状況である。欧州が金融危機のただ中にあり、アラブで民衆の抗議の声が巻き起こり、世界が羅針盤を失い漂流を始めた時点での財務省の認識段階だ。

前の記事の2つの図で11年5月を眺めてほしい。財政出動は何故か腰砕けに終わり、金利は不況下で高止まりし、要するにポジションがまったく感じられない。

3.国連の認識ははるかに深刻だった
同じ時期、国連に提出された「国際金融システム改革に関する報告書」(スティグリッツ報告 2009年9月)はリーマン・ショック後の世界に対するはるかに厳しい認識を示している。
抄出すると…

第二次大戦後最大の危機であった。
①金融市場の心臓部で発生し、世界に拡散した。
②金融危機として始まり、経済危機、社会危機へと拡散した。
③強者が救われ弱者が切り捨てられ、格差が拡大した。

経済主体の力の「非対称性」の拡大
①情報、技術、資金における圧倒的な格差
②その結果、悪しき「権力の集中」が発生
③ブレトン・ウッズ体制の制度疲労

それは市場原理主義の破綻であった。
①金融機関のガバナンス機能の崩壊
②国際金融組織によるフィードバックの欠如
③誤った政策発動
が被害を拡大した。

スティグリッツは当時を振り返りつつ以下のように述べている(2017.10)
リーマンショックに始まった金融危機・ソブリン危機は、その根底において「過剰生産恐慌」である。恐慌を生み出した原因は市場主義経済にある。
サマーズの「長期停滞論」は半分正しい。「先進国は過剰な設備や貯蓄を抱えており、投資機会が存在しない」というのは正しい。しかし「公共インフラ投資や規制緩和などが必要」というのは間違いだ。なぜなら、設備や貯蓄はそれ自体が過剰ではなく、過小消費がもたらした相対的なものだからである。そして過小消費は、所得格差の拡大により構造的に消費冷却がもたらされたために生じているのである。
標準的な市場経済はもはや不能に陥っている。それが社会にも悪影響を及ぼしている。
市場経済は、それ単独では効率的でもなく、安定したものでもないことが証明された。市場原理主義は、経済上の強者は交通信号を守らなくてもよいという主張にほかならない。(要旨)
これらの発言が資本論の中にあったとしても誰も驚かないだろうと思う。

結局、リーマンショックのあとの10年間というのは、通貨対策と債務対策の10年であった。
それは目下のところ、成功したとは言えない。通貨は落ち着き危機は去ったように見えるが、見えないところでは、そのすべてが債務となって積み上がっているのである。

1.切り札は「量的緩和」だった
日米欧の金融政策 - JA共済総合研究所
古金さんという方のレポートだが、リーマン後の10年というタイムスパンを念頭に置いて分析されているところが参考になる。
2つの図で時間軸がずれていることに注意。
金融政策推移
いづれのエリアに置いても、量的緩和が最後の切り札になっていることがわかる。
3つのエリアを対照すると、ユーロ圏の特異性が目につく。
ECBの政策スタンスは今なお強力な金融緩和になっている。マネタリーベースの伸び率は高水準で、一方、実質政策金利は日米に比べ低くなっている。
古金さんはやりすぎだというが、10年間のマネタリベースで見れば、むしろ証文の出し遅れという感がある。
ユーロ危機のときにECBのPIGGS対応は遅く、助けること自体を躊躇していた。その結果、対応が遅れ、その分過剰な対応を迫られたのではないか。ドイツでの反対世論が強かったことも関係しているが、寄り合い所帯の弱点が露呈したのではないだろうか。
しかし助けると決めてからの判断は果敢である。守るべきものとしてのEU、ユーロ圏というコンセンサスがそれなりに存在しているものと思う。
日本の対応は当初は無策で、相対的金利高も放置されていた。13年から金利低下と量的緩和が同時に施行され、危機を脱出した形になっている。これがアベノミクスだ。

2.そして債務は残った
以下の図はいずれも東洋経済オンラインから拝借したものである。
債務推移
08年9月を境に世界は変わったと言える。それまでは債務は増えていたが、債務の対GDP比は不変であった。つまり、債務の増加は生産規模の増大の枠内で増加していたのである。
ところがその後の10年はGDPの増加なしに債務だけが増えているのである。
これは富の絶対的増加なしに富の偏在だけが進んだということを意味する。債務の増加は二次的なものだということがわかる。
政府債務の推移
政府債務の動向を見ると3つのことが言える。
①先進国では金融危機への対処のため一気に1.5倍ほどの財政出動をしたということ。
②しかし13年以降はほぼ蛇口を締めたこと。減らすところまでは行っていないが…
③新興国では「無い袖は触れない」から民衆に直接被害をかぶせたこと。
民間債務の推移

というブルームバーグの記事が面白い。
これは Four Big Risks to Watch 10 Years After Lehman: Sony Kapoor 
という文章の抄出・和訳らしい。


リーマン・ショック前夜に比べて、世界経済はもっと危険な世界になっているのか、4つのエリアで検証してみた。

1.過去最高の債務水準と質の劣化
世界の債務は過去最高に積み上がっている。質の劣化もある。
ソブリン・民間合わせた債務総額は237兆ドル(約2京6200兆円)となっている。これはリーマン前を70兆ドル上回る。
米国の公的債務は2008年にGDP比65%だったが、今では105%を超える。ユーロ圏の対GDP債務比率も上昇している。
AAA格付けはソブリン11カ国、米企業2社のみで、信用の質は低下を続けている。
各国の財政には景気を下支えする財政投入の余地がほとんどなくなっている。
今後予想される金融政策の正常化が債務コストを押し上げる可能性もある。

2.狭まる金融政策の対応余地
主要各国で量的緩和政策が取られた。それは中央銀行のバランスシートを前代未聞の水準に膨張させた。
政策金利はいまだ過去最低に近い。
ショック再来の場合、金融政策で積極的に対応する余地は限られている。この間取られた“大胆な金融政策”は、もう繰り返すことはできない。
それどころか、金融政策が波乱の原因になる可能性さえある。

3.政治的な混乱
2008年には強固だった政治的安定は、ほとんどの主要国で著しい混乱に陥った。
失われた10年に実質賃金は伸びず、経済面などで不安が強まった。
これまで脇役だった弱小政党が議会で存在感を増し、極右と極左の両方でポピュリズムが台頭した。

4.弱まる国際秩序と信頼の欠如
この10年間に国際的な秩序が弱まり、信頼が失われつつある。
G7やG20といった仕組みが崩れつつある。トランプ政権は、危機対応の枠組みを積極的に破壊しつつある。
常識ある政治センターの存在感が薄れている。とくにEUの求心力低下は深刻だ。


ということで、きれいにまとめられている。
実体経済への影響、失業率の高止まり、途上国経済の失速などは視野の外に置くのか、ポストリーマンの主役となったユーロ危機と円高不況はどう区分けされていくのか、などさらに検討すべき問題がある。
それと量的緩和が当初からとられていたかのような記述には、若干疑問が残る。オーソドックスな対策が成果をあげず、デレバレッジに歯止めがかからない状況の中で、否応なくQEに移行していったように見えるが…
何れにしてもリーマンショックを機に経済漂流の時代が始まり、それは10年を経た現在も着陸することなく続いている。
いわばリーマンショックは漂流元年となっていると言えるだろう。


スティグリッツがビットコインは匿名性が高いのでだめだと言ったそうだ。そうしたらビットコインの相場が見る間に下がってえらいことになっているらしい。
所詮縁なき世界ではあるが、経済学に倫理学を持ち込むのにもなんとなく違和感を感じる。
勉強もしないで言うのもなんだが、紙幣というのはもともと金の代用みたいなものだが、金はまったく匿名の商品であり、「純度X重さ」はどこの国が発行しようと同じはずだ。
汗水流して獲得したお金であろうと、麻薬を売って稼いだ金であろうと金の色に違いはない、まったくユニバーサルなものだ。
ところが現代における貨幣は不換で、その国の信用いかんにより決まる。さらにその信用は為替相場という形で日夜瀬踏みされる。金に比べればフィクションではあるが、逆に色々な規制に熟されて不自由になっている。
そして米ドルが兌換を停止して、世界のほとんどの国が変動相場制になってからは、むしろ為替相場が貨幣の形と働きを規定するようになっている。
であればいっそのこと、国家信用などというものを一切捨てて、相場にすべてを委ねようということになっても不思議はない。
その延長線上にあるのがビットコインではないか。これにより貨幣は匿名性と普遍性を“回復”することになる。
ただしその場合、貨幣の持つ2つの意味が失われる。一つは一定の機関による信用の裏打ちである。もう一つは金が労働により生み出された商品であるのに対し、生産物としての独自性の喪失である。
ただし後者はすでに失われているのだから、いまさら云々すべきものではない。
前者については少し吟味が必要だろうが、一番の問題は信用の裏打ちがなくても持続可能な流通手段となるだろうか。結局はドルという決済手段とどこかでリンクせざるを得ないのではないだろうか。
それは賭場という場所で通用するコインでしかないのだろうと思うが。

現在、問題となっているのはむしろ、取引のたびに常にドル決済を迫られる現在のシステムにあるのではないだろうか。
とくにトランプのような狂人がアメリカの大統領になると、世界の通商・貿易・投資がアメリカの恣意に翻弄されることになる。
その典型がベネズエラで、なんの罪もないのに経済制裁というペナルティーを科され、ドル決済を禁止された。「ドルを持ってこられても、ベネズエラの方とは取引できません。あしからず」という状況が現出されているのだ。同じようなやり方で1年前にアルゼンチンが攻撃され、おかげで政権が転覆されてしまった。
世界で一番米ドルが信頼できるから、みんなが使っているのに、「あんたは気に入らないから使わせません」ということが平気で行われるようになっては困るのだ。
もちろん国際通貨とビットコインとは目的も性格も違う。
しかしビットコインにはドル支配体制に対する風穴という側面もあるのではないか、こんなことも念頭に置きながら、もう少し勉強してみたい。

以下は三井住友銀行の森谷亨さんの談話。森谷さんはリーマンショックをはさむ10年間、ニューヨーク拠点でエコノミストを務めた方である。

07年の初め、サブプライムローンを担保にした「不動産担保証券」と米国債の利回り格差が急拡大した。振り返ると、これがショックの予兆であった。
しかしFRBや米政府もふくめ、みんな事の重大さに気付いていなかった。サブプライムローンの市場規模は実体よりはるかに小さく見積もられていた。
08年3月 ベアー・スターンズが経営破綻。しかしまだ危険は認識されずリスクテイカーの破たんとしてスルーされた。
そして9月、リーマンショックが発生した。その直後、エコノミストはドルの資金繰りをどうするかに集中し、原因の分析は疎かにされた。

1990年代以降の金融資産はデリバティブにより複雑化されている。しかし、ふだんから注意深く眺めていれば必ず見つけられるはずだ。

例えば、問題の一つはサブプライムローンの大量証券化にも拘らず、リスクヘッジがAIGに独占的に集中していたことだ。
この脆弱性は、通常のエコノミストのマクロアプローチだけでは見つけることはできない。

どこで見つけるか。それが金融セクターの収益率だ。金融セクターがボロ儲けし、金融マンの羽振りが異常に良くなるとき、世間で過剰な投機が進んでいる可能性が疑われる。
それは対応するリスクヘッジが行われていないということだ。

リーマン・ショック以降、各国は金融システム規制を強めた。デリバティブ市場も成熟した。しかしこれからも、投資家や金融機関が、未知の世界で過剰なリスクをとる可能性はある。


ということで、リーマンショックの発生要因として、デリバティブ商品が急速に普及したが、隠された商品リスクが実はベラボウに高く、しかも投資家のリスクヘッジが不十分であったということだ。
それをエコノミストが見抜けなかったのは、従来型のマクロアプローチに頼ったからだ。

これらの問題は克服されつつあるが、投資家のリスク志向体質は変わりようがないから、形を変えて再現される危機はなくならない。
これに巻き込まれないようにするためには、賭場としての市場の生態に精通するしかない。

ということになろう。

おそらくその賭場としての生態を解析しているのが「資本論」の第三部なのだろうと思うが、まだそういう視点からは読み込めていない。

重大な訂正 7月13日
松浦さんから御丁寧な挨拶をいただきました。ありがとうございます。
なお「ベネズエラ投資代理業」というのは私の誤解に基づく虚偽情報でした。正確を期すため、松浦さんご自身の文章をそのまま転載します。
お願いしたいカ所は私の現在の仕事でして、投資代理業ではなく「日本企業向けのベネズエラ情報配信業」にご修正をお願いできますでしょうか。
弊社は日本企業にベネズエラの政治経済情勢は情報提供しますが、債券の売り買いの助言あるいは投資代理は行っていません。
投資業は基本的に金融機関での勤務経験や、コンプラ対応を行うことが出来る人員体制、預託金の支払いなど事業を行うにあたり一定の登録要件がございます。
無登録の業者は罰則の対象になってしまいますので、誤解を生むことがないようご修正をお願いできればと存じます。
今回のベネズエラ講演会のメインは松浦健太郎さんのレポートである。
話は2つあって、ひとつは2017年5月に松浦さんが発表したレポート。もうひとつはその後始まったトランプ政権の経済制裁の評価である。
その間に松浦さんの肩書きは変わっていて、17年5月にはジェトロのカラカス事務所勤務であったがが、現在は独立してベネズエラ投資代理業を立ち上げている。
会社名は株式会社 ベネインベストメント で役職名は代表取締役。会社の活動内容は以下の通り

ベネズエラは原油、金、鉄鉱石、ボーキサイトなどあらゆる資源が眠る大国。
極めて高いポテンシャルを秘める国でありながら不安定な政情、信頼できる情報の欠如、複雑な為替制度など先を見通すことが極めて困難な国でもあります。
ベネズエラでのビジネスは中立で客観的な情報を掴むことが何よりも重要です。
ベネインベストメントは現地に駐在し1,000件以上の投資貿易相談に応じてきた専門家の視点を通して現地の報道、法制度、経済統計などビジネスに必要な情報をお届けします。


まずは駐日大使館のホームページに転載された、「外国プレスが報じないベネズエラのもう一つの真実」という文章の摘要をとる。
これは「ラテンアメリカ時報 2017年 春号」に 「時事解説」として掲載されたものである。

はじめに 
ベネズエラの状況は極めて危機的で現政権が崩壊寸前のような印象を与える。
しかし、それについては疑問を感じている。

3重苦を乗り越えたベネズエラ
現在のベネズエラは一年前と比べると改善しつつある。
とくに2016年前期の状況が深刻だった。
1 つ目は原油価格の下落、2 つ目は電力不足、3 つ目は与党内部の混乱である。
1.原油価格の下落
原油市場は14年7月に急落した。そして15年12 月に2度目の急落があった。ベネズエラの原油
価格は1バレル24.25ドルまで下がった。
政府は財・サービスの輸入切りつめを迫られた。
2.電力不足
ベネズエラは電力の6割を水力発電で賄っているが、水不足で電力不足をきたした。
全国で一日 4 時間の計画停電が行われた。保冷設備が停止し食料品が腐った。
カードが使えず決済ができない。工場稼働も自粛を迫られるなどの影響がでた。
3.与党内の混乱
マドゥーロ政権は危機脱出のためアバッド経済担当副大統領に任命した。一連の引き締め政策は与党幹部議員の抵抗を招いた。
議会の2/3を野党がしめていたこともあり、政府の力は弱体化した。
この2016年三重苦は、政府が副大統領を辞任させ、経済緊急事態令という超法規的な措置をとることで終熄に向かった。
CLAP制度が作られ、生活必需品が直接市民へ低価格で販売されるようになった。

与党の権力基盤は強化傾向にある
17年現在、原油価格は1年前に比べ10ドル上昇した。雨量は多く停電の危険はない。与党の
内部分裂は回避された。
しかし一方で、物不足や高インフレは残っている。CLAPは状況を改善したが十分とは言えない。
世論調査では、マドゥロ大統領を評価する意見が増え始めている。その一方、野党統一党(MUD)の支持は激減した。
以下は松浦さんの所感で、おそらく大事なポイントである。
国会議員選挙で議席の 3 分の 2 を獲得しながら何も有効な対応ができなかった野党にする国民の失望は強い。

野党が国民の意見を代表するために
1.野党大勝の原因
2015年12月の国会議員選挙では、野党が大勝した。しかしこれは過大評価できない。
松浦さんの見方では、
チャベス元大統領は好きだが、マドゥロ政権は支持しないという態度がとられた。交代に重なって景気が悪化したためである。
2.野党はエリート集団である
松浦さんの見方では、
現野党はいつまでも一般大衆を代表する組織にはなれない。なぜなら彼らはエリート層の集団だからだ。
野党はリーダーの総入れ替えを含めた抜本的
な改革が必要だろう。
3.与野党間の三すくみ状況
世論調査では与党支持が3割、野党支持も3割、支持政党なしが4割となっている。

2017年のデフォルトは回避可能か
原油が1バレル60ドル以上なら債務危機は生じない。
45ドル以上なら条件付きで回避は可能。
特に必要なのは、外貨管理制度の維持をあきらめ自由相場制に移行することだ。
ただし自由相場制への移行は公共料金の急騰
をもたらし、与党の支持基盤である貧困層を直撃する。
これが現政権に実行できる可能性は薄い。

政局の見通し
省略

結論
短期的な展望は決して明るいものではない。しかし長期的には極めてポテンシャルの高い国だ。
①世界一の原油埋蔵量、天然ガス埋蔵量も世界8位
②金、ダイヤモンド、鉄鉱石、ボーキサイト、石炭など豊富な地下資源
③国民の消費意欲は旺盛で、必要不可欠な投資が山積している。
参入チャンスを逃さないために日本企業も引き続き同国の動きを注視していく必要がある。

両方とも自家用車で行くしかないところですが、意外とネットでもしっかりした地図がありません。
そこで長雨の合間を縫って、行ってきました。

1.中国人慰霊碑(仁木)
nikitizu
   卍印のところが町営墓地でこの墓地の中に慰霊碑があります
国道5号線を余市方面から南下していくと、仁木の市街に入ります。
やがて、ちょっと見落としてしまうかもしれない信号があります。そこに仁木駅方面左折の標識があります。ここを曲がって1丁ほどで駅に突き当たります。この突き当りを右に(南方向)に曲がって1丁ほど行くと左に踏切があります。このとき右前方には仁木町の役場が見えます。ここで左折して、踏切を渡ってそのまま真っすぐ東に向かいます。
300メートルほど進むと交差点があるので、そこを右に曲がります。曲がらないで直進すると鳥居にぶつかります。これが仁木神社になるようです。右折して200メートルするとまた交差点があるので、今度はそこを左折して山の方に入っていきます。ここが仁木の町営墓地の入口でちょっとした高台になっています。要するに神様と仏さんが隣り合っていることになります。
何回も曲がる道筋で面倒に見えるが、途中にランドマークがあるので迷わないと思う。もちろん自信があれば最少の右左折で行っても構わないです。
墓地の中ほど、朽ちかけた廃屋があり、これが地図の卍印の元になったお寺ではないかと思われます。さらに坂を登っていくと、進行方向左側に下記の写真の塔が見えてきます。これが慰霊碑です。郭沫若の文章が彫られた石碑がありますが、読めません。説明板は見当たりません。
中国人慰霊碑
             中国人慰霊碑(仁木)

2.劉連仁記念碑(当別)
劉連仁tizu
             劉連仁記念碑(当別町)
この記念碑は当別の市街から離れて、かなりわかりにくいところにあります。周辺にこれと言ったランドマークもありません。
多分下記のアプローチが一番わかり易いと思います。
札幌から国道275号線で当別に向かう。この国道は市街に入る直前で右折して月形方面に行ってしまうから、右折せずに真っ直ぐ進みます。この道は橋を渡ると市内中心部になり当別駅で行き止まりになります。
そこまで行かず、橋から2つ目の信号を左に曲がって、そのまま市外まで出てしまいます。
札沼線の踏切を越えてしばらく行くと、田んぼの中を一直線に北進する通りがあるので、そこを右折します。
この道は3キロほどでT字路に突き当たる。ここを左折し西北方向にしばらく走るとやがて山麓に到達し、ふたたび三叉路が現れる。ここをまた左折して、しばらく走る。やがて右側(山側)に記念碑が現れる。地図にでマークしたところです。ほかにものらしいものはないので、「劉連仁記念碑」と書かれた道標を見損なうことはないでしょう。
劉連仁記念碑

2つの丘の間のちょっとした幅の沢になっていて、いかにも隠れ住むには格好の場所とうかがわれる。ここで劉連仁を保護したのが共産党員農民の今野さんだ。その今野さんの息子さんが中心になって記念碑建立を発議した。記念碑は仁木の記念碑がそっけないのに比べ、なかなか芸術的だ。
劉連仁記念碑2
中の空洞を覗き込んでみると丸みを帯びたかなり大きな石球が置かれています。おそらく沢の斜面に壕を掘って住んだ生活を象徴したのでしょう。たしかに言葉に勝る造形だと思います。

どちらもあまり人が訪れることもないのだろうが、やはり説明を書いたプレートがほしいね。これからはひょっとして中国人客が来るかも知れないし…

先日、ベネズエラを知る会の勉強会に出席した。会場にたまたま奥様がいて、ご挨拶させてもらった。
イシカワ大使にはもったいないほどの方である。
まずは写真をお見せする。

大使夫人
左の男性は私ではない。日本AALA連帯委員会国際部長の田中靖宏さんである。いつもより少し鼻の下が長く写っているかもしれない。
大使夫人のお名前はコロン えりかさん。エル・システマ・ジャパンのスペシャルアドバイザーを務めている。有名なオペラ歌手なのだそうだ。
11月に大使が来札するとき一緒に来てコンサートをしてもらえないか聞いたが、残念ながらスケジュールが合わなかった。
で、勉強会の方だが、いずれまた報告する。

ついでにネットの画像。
歌う大使夫人
   被爆のマリアに捧げる賛歌 / 相馬子どもコーラス&コロンえりか
から拾ったもの。
石川コロンえりかさん
この歌は原水爆禁止2015年世界大会(la Conferencia Mundial en contra de las Bombas Atómicas e Hidrogeno)に参加したコロンえりかさんが歌い大好評を博した。彼女の挨拶
被爆70年の大切な年に、皆様とともに私もひとつの決意を表明できました。
そのことにくわえ、音楽によって、皆様とこの思いを共有できました。そのことを感謝します。
そして、
私にとってこれからの新たな力にして参りたいと思います
とりあえずはこのくらいにしておく。えりかさんの祖国、心優しきベネズエラに幸多かれと望む。

とても面白いミュージアムを見つけた。
九段下のしょうけい館というところだ。
九段下の駅の6番出口を出たところだと、ホームページには書いてあるが、地図はない。
入ってよいのかと一瞬ためらうほどのオフィス風な外観だ。
しょうけい館は、戦傷病者の労苦を「承継」するということから名付けられたのだそうだ。別名が戦傷病者史料館。平ったくいうと傷痍軍人の会館だ。
こじんまりとしているが立派な国立施設で、委託運営となっているが天降りであろう。創設時は今上天皇も閲覧しているようだ。
現在は「水木しげるの人生」という企画展をやっている。
mizukisigeru
滝平二郎の沖縄戦の逃避行とイメージがダブルが、こちらの戦後は傷痍軍人であり失業者であったからさらにきつい。
漫画のイメージと実際の水木のイメージが付かず離れずに進行していく。戦後の生存のための“あがきも含め、まさに生きた戦争、戦争の血肉化だ。
ただしテレビドラマのゲゲゲの女房とはだいぶイメージのずれがあるようで、そこから入る人には多少戸惑いがあるかもしれない。

日曜だからなのか。館内はガラガラ。おかげで冷房に当たりながらゆったりとしたひとときを過ごすことができた。

それから神保町へ出て一軒だけ開いていた古本屋で、「稲作の起源を探る」という岩波新書と「恐竜は生きている」という翻訳の入門書を買った。前者が98年。後者は87年の出版だから、この手の本としてはアウトオブデートかもしれない。

オウム幹部の集団処刑に関連して、竹内精一さんの談話が赤旗に掲載されている。社会面のトップではあるが、内容的にはその扱いでよいのかという感もある。一面の何処かに囲みで載せるべきではなかったろうか。
もうずいぶん前の事件なので、ちょっと解説を入れておく。
竹内さんは共産党員で、オウムの本部があった富士山麓の上九一色村の村会議員を務めていた。現地で先頭に立って反オウムの運動に取り組んだ。テレビにもしばしば登場したが,共産党議員の肩書きは慎重に避けられた。テレビではずいぶん多くの解説者が登場したが、多くが警察の垂れ流し情報の受け売りで、竹内さんほど適切な評価を下す人はいなかった。

それで、竹内さんの言いたいことは3つある。
1.集団処刑は「事実」隠しではないか
この事件で解き明かされるべき核心的事実は「多くの若者が入信し平気で人を殺す集団になっていったか」である。であれば、処刑は事実隠しになるのではないか。
2.オームの狂気を増長させた一連の責任は問われないのか
処刑後の法相会見では、裁かれるべきものが裁いているという後ろめたさが感じられない。
事件の多くは避けられたはずだ。裁く者の過失は相殺されないのか。処刑を命じる権原は毀損されてはいないだろうか。
3.松本死刑囚以外の人の死刑は正しいのだろうか
「死刑反対」の立場ではなく、やれと命令されて殺った人々に、極刑を与えることが正義に値するのか。戦争中の兵隊と同じで、命令されて敵を殺すことが、悪いことには違いないが、それは果たして極悪者なのだろうか
ここで竹内さんは深刻な告白を行う。
私は戦争に行った最後の世代です。中国で、人としてやらなくてもいいことをやっていました。私は戦争の被害者だが、中国の人民にとっては加害者だ。
あなた達もオウムの被害者かもしれないが、信者としては加害者なんだと伝えてきました
ここで読者は、なるほど竹内さんの生き様にはそういうバックボーンが通っていたんだ、とわかる。
(なおこれは具体的な誰彼の話ではなく、思想の話だと思う)


いま、なにげに教育テレビを見ている。NHKの制作なのか外国から買ったコンテンツなのかよくわからないのだが、AIが進むとホワイトカラー的な仕事がなくなって中間層が貧困化して、社会矛盾が激化するのではないかという番組だ。似たような主張は何度も目にしている。
この主張にはウラがあって、結局は「現状甘受論」と「イノベーションで生き延びろ」とさらなる競争を煽るところに持っていくのだ。
論理の持って行き方は19世紀の産業革命のときと同じだ。基本はジャングルの掟を持ち込む「社会ダーウィン主義」と、これに反対するラダイト(打壊し)という流れの構成になる。AIのところにグローバリゼーションを入れても、金融ビッグバンを入れても後の論理は同じだ。
マルクスはこのような流れに対する批判者として歴史に登場するのだが、その最大の優点は超階級的・超歴史的な視点から生産力論を展開したところにある。
ただしこの生産力理論には2つの異なる基盤がある。一つは「ドイツ・イデオロギー」的な「まず食うことから始めなければならない」という素朴な生産力理論だ。
もう一つは経済学批判序文で展開された徹底的にヘーゲル的な視点、すなわち「消費は欲望の生産である。豊かな欲望こそ社会の生産力だ」に見られる欲望→生産→消費の転換・発展関係だ。
マルクスの理論は常にこの2つの関係を行ったり来たりしながら発展していく。
そしてネオリベに根本的に立ち向かうためには、後者の視点の押し出しが決定的に必要なのだ。
ここはおそらくスティグリッツら有効需要論者とは意見を異にするところがあると思う。大事なのは「需要」ではなく人間的欲望なのであり、欲望の発展こそが人類発展の本質なのだということである。

その時はたしかにそう思ったが、この演奏を聞くとこれもまたいいのだ。どうも人間というのはいい加減なものだ。
この曲のスタンダード演奏となっているクレンペラーの演奏も、クライマックスへ向かっての追い込み感が素晴らしい。まるでワグナーの序曲を聞いているような気がする。
結局、山本富士子と有馬稲子と岸恵子とどっちがいいかみたいなものだ。
モントゥーの演奏のすごいのは音色の多彩さとニュアンスの豊かさだ。そうとう崩して歌うが、演歌っぽくなる寸前で止まっている。
多分、シカゴ交響楽団がすごくうまいのだろう。ただしモントゥーはその楽団さえテンポが怪しくなるほどに振り回している。
RCAビクターのリビング・ステレオの音質も素晴らしい。
とくにフランク嫌いの人におすすめの演奏だ。

追加
この間テレビに有馬稲子が出ていた。山本富士子も姿をさらしている。
頼むから、テレビに出ないでほしい。とくにこういう“見た目いのち”で“性格ブス”の人は、美しさが醜さに転化する。

日本語のネット情報だけで、「メキシコ総選挙」の情報を書いてみました。
1.アムロの勝利は「優しさ」の勝利
のっけからやや感傷的な感想で申し訳ないが、アムロの勝利はこの国の持つ優しさの勝利ではないかという気がする。
毎年何万人という人がカルテルの抗争で殺される殺伐とした国ではあるが、それはこの国の権力を握る者たちの腐敗を示すものであって、人の持つ優しさを否定するものではない。
アムロは30年前に政界入りして以来、一貫して貧しい人々、社会を支えて働く人々、女性や子供、若者たちの目線に自らを置いて闘ってきた。優しさを闘いに変えてきた。所属政党を変えたのでなく所属政党が変わって行ってしまったのであって、アムロは一貫している。
そのようにアムロの姿勢が一貫したものだったとしたら、どうしてその優しさがこれまでは伝わらず、今回突然に国民の圧倒的支持を得ることになったのだろう。
それが、メキシコ総選挙を教訓とする上での最大の眼目である。

2.アムロってどんな人
アムロはタバスコ州出身の政治家で、現在は64歳。1976年に当時の与党「制度的革命党」(PRI)に入党し政治活動をスタートした。
1988年に党内の進歩派が分かれ「民主革命党」PRDを結成すると、アムロもそちらに移りました。2000年から05年までメキシコ市長を務めたあと、2006年にはPRDから大統領選に出馬、このときは僅差で破れた。2012年にも出馬し敗れており、今回は3度目の正直ということになる。
メキシコの大統領は任期6年で、再選は禁止されている。
PRDの右傾化に伴いこれと袂を分かち、自らの主導する政党「国家再生運動」(モレーナ)を立ち上げた。去年、大統領選に立候補するに伴い党首を辞任したが、現在も強い影響力を保持している。
PRIを離れて以降、PRIの汚職腐敗を批判する姿勢は一貫している。メキシコ市長時代も清廉潔白を貫いた。アムロの愛車は日産の小型セダンの「ツル」(サニーの旧モデル)だった。

3.暴力と腐敗根絶に高まる期待
アムロは汚職や免責の撲滅を新政権の最優先課題にすえた。
総選挙の期間中には130人以上の候補・党員が殺害された。「メキシコ近代史上、最も暴力的な選挙」だといわれる。
なお同じ時期、殺人事件による犠牲者の数は2万5000人を超えている。その多くが麻薬組織間の抗争によるもの。今年1~3月も前年同期に比し20%増と絶望的な状況にある。
どこが絶望的なのか。それは2万5千人が殺されたことではなく、殺された分が新たに補充されているという事実である。それはどこからリクルートされているのか。
アムロは治安悪化の根本的な要因として貧困を挙げており、貧困対策や雇用創出を通じて麻薬ビジネスを抑え込もうと主張する。貧困と失業がなくなれば、蛇口を開いてもギャング予備軍は出て来なくなるはずだ。
また犯罪組織との関係では、徹底抗戦よりも対話を重視した解決を目指すと主張している。具体的な内容は不明だが、とりあえずカルテルの内輪もめについては放置し、市民に影響を及ぼさないような一種の協約体制を目指す可能性もある。実のところ、国連・世界銀行データによれば、殺人事件の発生率は複数のラテンアメリカ諸国よりもかなり低いのだ。

4.青年がアムロ勝利の道を切り開いた
アムロ圧勝の道を切り開いたのはサンダースのアメリカ、コービンのイギリス、メランションのフランスと同じく若者の力だった。
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             アムロ支持派の集会
18歳から23歳の有権者約1300万人が今回初めて投票に参加した。彼らは前回選挙後の6年間に新たに有権者となった層である。彼らは少年期を汚職や薬物関連の暴力などにさらされて育った。
彼らは、既成勢力に深く幻滅しており、真の変化をもたらすことのできる道義心を持ったリーダーを切実に求めている。青年がもとめているのは社会正義であり、そのパワーを見誤ってはならない。
世論調査によると、30歳以下の有権者の47%がアムロを支持しており、分厚いアムロ支持層を形成している。アムロ現象はある意味で、サンダース現象が国境を越えて波及したものと言える。

5.経済政策とNAFTAの扱い
経済・通商政策では、アムロは「メキシコ第一主義」をとなえトランプの向こうを張るような大衆迎合政策を掲げた。他の政党はアムロを「ポピュリストで経済の舵取りは任せられない」と非難した。
農業などの国内産業の保護は譲れないが、それ以外では妥協の余地を残している。
選挙戦末期には対米避難の論調を多少緩め、米国との「友好的かつ協力的な関係」を目指すと発言し始めている。
アムロの経済政策をよく見ると、言葉上の過激主義とは異なり、成熟した政策展開が予想される。
彼は無論、市場メカニズム至上主義ともいえる新自由主義(ネオリベラリズム)には反対である。しかし市場メカニズムを完全には否定しているわけではない。民間資本や外資も有効に活用すべきと主張している。
マクロ経済政策については、公的支出の役割に重点を置いた新ケインズ的な計画となっているが、マクロ経済指標は重視し、均衡財政を維持することを大前提においている。
NAFTAについては原則として、「貿易と外国投資に対する法的信頼性を付与し、経済・通商関係の発展にとって有益な手段であった」ことを認めている。そのうえで相対的自立を目指そうとしている。
最大の資源関連イシューとなっている石油売却(ファームアウト)の契約についても、汚職の可能性を指摘し、見直しを訴えている。ただ国際入札自体を否定しているわけではない。ガソリン販売の自由化もそれ自体は否定していない。
(経済分析についてはジェトロの「AMLO氏旋風が舞うメキシコ大統領選挙」を参考にさせていただきました)

6.ラテンアメリカ情勢とアムロの勝利
アムロの当選、メキシコにおける左翼の勝利は中南米の進歩派にとって長年の夢だった。
リオグランデからフエゴ島までラテンアメリカ人の自主的国家が完成したかもしれない。
しかしアムロが当選したいま、中南米の進歩派は著しい退潮ムードの中にある。
おそらく政策的な舵取りはとても難しいものになるだろう。
逆に言えば、そのような政策選択の幅が狭い中でどうしてこれだけ多くの国民の期待が集中したのだろう、という話になる。
メディアの報道にはこの視点が欠如している。

AMLOについては過去に数多く言及しています。サイドバーの検索窓に“AMLO”と入れて検索してみてください。
振り返りをしようと思いましたが、ここ10年近くメキシコ年表が更新されていません。2,3日は更新作業に集中します。


赤旗が2日連続でメキシコの総選挙を報道している。
まずは紹介しておこう。
7月1日 メキシコ大統領選挙
アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドール(AMLO)が過半数を獲得し勝利した。
赤旗の見出しは「新興左派が勝利」となっているが、現地でも使っている言葉なのか。AMLOは10年以上も前に大統領選に出馬して惜敗している(本人は勝ったと主張した)
ただ当時は中道左派のPRDをバックにしての出馬だったが、その後新党を結成して選挙に臨むことになったというのが経過である。

AMLO政権には2つの特徴がある
一つは汚職と治安の悪化が進む中で、清潔で誠実な政治を打ち出したことだ。
これまでの政党PRI もPAN も汚職まみれでカルテルとは骨絡みで癒着している。PRDさえも最近では疑問符がつけられるようになっている。
そのなかで国民の希望が集中したのであろう。
もう一つは反NAFTA・反自由主義の旗である。
ただこちらはそう簡単には行かないだろうと思う。
これは本気かどうかは知らないが、「メキシコは汚職でGDPの9%を失っているからこれを解決すれば財源問題は解決できる」と主張しているらしい。
こういうのは「政策」とは言えない。「汚職」は犯罪であり、それを防ぐのには財源が必要なのであって、少なくとも当面は収入ではなく出費の対象なのである。
まずはできるところから一歩一歩ということになるだろう。

議会・首長選の結果
これが3日付の報道、以下が4日付となる。
見出しがなんともふやけたもの
新興左派が議会・首長選でも躍進
脇見出しが
“民主主義の前進”との声も
だ!
議会選挙では、アムロの与党モレーナが下院で確実に過半数超え、上院も過半数に達する可能性があるとされる。
さらに首長選ではメキシコでモレーナ派の女性市長が当選。州知事選でも4/8州で勝利した。
これですべてだ。これにトランプがアムロ当選を歓迎しているとのワシントン発が添えられている。
見出しもふやけているが、特派員が張り付いているのに現場の生の声はまったく取り上げられていない。
報道各紙を読んでホルナーダの編集長の談話を摘まみ食いして終わりなんです。
それにしても
“民主主義の前進”との声も
ってなんでしょうか
“そうでもないとの声も”という意味でしょうか
それであなたはどうなんでしょうか、松島さん。

大竹昭郎さんという方がなくなったそうで、赤旗に大きく訃報が掲載されている。1951年の入党で、95年には滋賀県知事選にも立候補されているそうだ。
全然存じ上げない方であるが、その足跡に多少なりとも触れておきたい。
学生運動としては「イールズ世代」に属することになるだろう。朝鮮戦争、レッドパージ、全面講和が合言葉だ、山村工作隊に飛び込んだ人もいるかもしれない。
ウィキペディアには掲載されていないが、京都大学農学部を1952年に卒業されている。獣医の資格は持っているらしいが獣医で働いた形跡はない。
農学部の農林生物学科には南窓会という同総会があって、ウェブ同窓会誌というのを発行している。ただし2003年を最後に更新が止まっている。農学部の改組で農林生物学科そのものがなくなってしまったらしい。
目次を見ると結構食欲をそそる題名が並ぶ。農学部というのは、ファーブルみたいな人の集りで、意外と文系かもしれないなと思う。
化学の枠組みを勉強したとき、「あぁこれは応用物理学だな」と思ったのだが、おなじでんでいうと、農学というのは応用生物学なのかもしれない。医学も応用生物学ではあるが、生命を突き放すか、突き放せないかの違いがある。
話が飛んだが(別に飛んで困るというほどのものでもないが)、その同窓会誌に大竹さんの文章が2篇掲載されている。

1.「原爆展」のこと
1951年7月、未だ占領下、京都駅前の丸物百貨店(現近鉄百貨店)で「綜合原爆展」が開かれた。
京大同学会(学生自治会)が主催し、10日間で約3万人が入場した。
以下は原文よりの抜粋
当時、農学部自治会の委員だったわたしも、この原爆展にかかわりました.
農学部の学生ということで、放射線の生物への影響について、会場でパネルの説明係をやりました。
同志社大学の学生がかの女と一緒にやってきました。同志社の角帽は一種独特のあか抜けしたものでした.
それにかれは色白の貴公子で、わざわざ入場料を払って原爆展にくる客種としては珍しく感じられました.
「放射線の影響で4つ葉のクローバの発生頻度が高くなる」と説明した途端、この2人組は顔を見合わせてニヤリとしました.
わたしが顔を赤くしたかどうかは覚えていません.
文章の大筋とは関係ないこのエピソード、たぶんこれが書きたくて、この文章を書いたのでしょうね。

2.架空インタビュー「あれやこれや」
たぶん65歳ころの身辺雑記であろう。
遊びを遊びにできない人の典型である。
退職後に何をしようと考えたら、迷うことなくアブラムシとなりました。
いくつかの種類について試行錯誤の後、自宅近くの歩道の植え込みについたナシミドリオオアブラムシを数年いじりました。
しかし、そのアブラムシはどうも気にいらなくて、いまはセイタカアワダチソウにつくヒゲナガアブラムシの一種を扱っています。
わたしは野外で、あるいはもち帰って、ひたすらアブラムシを数えていますが、「こんなことをして意味があるのか」と、ときどき自己嫌悪に陥ります。
ここでもうひとりの自分が質問を投げかける。
それはセイタカのアブラムシという一種に絞りすぎているからであって、周りの他の生物との関係などを考慮する必要があるのではないでしょうか。
そしてそれに答える。
ごもっともな意見と思います。しかし、対象の種の個体群そのものに、しつこくこだわる人がいてもいいと思います。
これは大事な点で、まずそのものが持つ矛盾を突き詰め、そのものの持つ駆動力を理解することが基本なのであろう。そのことが理解されて初めて、他者との関係で逆規定される存在が理解できるのだろうと思う。

実は、ネットには長大論文が乗っていてなかなか面白そうではあるのだが、いかんせん長い。
とりあえず書名とまとめだけ載せておく。

ダイコンサルハムシの分布一特に成虫の分
、散が次の世代の分布に及ぼす影響について

1958年 島根農業大学応用昆虫学研究室業績  No.22 P107~116

比較的分散能カの弱いダイコンサルハムシの成虫が、畑の中をどのように分散してゆくかについて明らかにするために、野菜畑での観察および,実験圃場での実験を行った。
野菜畑を毎日見廻り,9月14目サルハムシ成虫を初めて発見した。翌日から,畑の申の成虫の分布の定期的な調査を行った。
畑の周りの雑草の申などから移動してきた成虫は,多くは畑の縁の都分に止まっている。
成虫の活動状況は,外部条件(主として気象条
件)によって影響され,非常に不規則であった。

要するに先っパシリの個体はえらい勢いで拡散するが、本隊の拡散は意外に時間がかかり、同心円状の形態を取るということらしい。

これは例えば西部開拓史などを見ると納得がいく。初期の征服者や探検家の行動力には凄まじいものがある。
しかし生活者が鍋釜持って移住するのには意外と時間も掛かるし、一進一退を繰り返すものだ。
生活者の拡散には物理的な障壁は意外に低く、山でも谷でも越えていくが。暑さ寒さなど行動性を左右する因子は相当な影響を与えるようだ。

ただそれを方程式化できるかどうかは、数をこなさなければなさそうだ。


あまり教えたくないけど、もし廃線になってしまったら、それも困る。
ということで、とびっきりの鉄道を紹介する。
それは根室本線で厚岸を出てから根室に向かうところだ。別寒辺牛湿原という。
皆さんは宮崎駿の「千と千尋の神隠し」という映画を見たことがあるだろうか。
あの映画のそろそろ終わる頃に、醜悪でシュールな温泉旅館から海の中を浮かぶように走る列車が登場する。顔なしお化けが横に座って、それが能面のように悲しみを湛えながら列車がしずしずと進むのだが、そんな場面が現実に存在するのだ。


厚岸の駅を出てから数分、突然視界を遮る一切のものが消え去る。360度が湿原となる。線路だけが砂利と枕木の分だけ僅かに高い。生き物はいるのだろうが人という生き物はいない。
こんな世界がおよそ20分は続く。
本当にあるんですよ。花咲線の根室行の列車、絶対に一度は乗ってください。あとせいぜい5年です。

レクサンドリア・オカシオコルテス
Alexandria Ocasio-Cortez

ジャパン・フォーブスに彼女の記事が掲載されている。

選挙活動の映像からの引用。
https://www.youtube.com/watch?v=h-0Tn2cpAH8
“私のような女性は、選挙に出るべきではないとされている。私は裕福な家庭や有力者の家庭ではなく、自宅の郵便番号で運命が決まるような場所に生まれた”
ブロンクスの高校を卒業した後ボストン大学で学ぶが、卒業後はブロンクスでタコスの屋台のウェートレスなどで暮らしていた。(ウィキペディア参照のこと)
ocasiocortez
     当選後NBCニュースに出演したオカシオコルテス
オカシオコルテスは若者、有色人種、英語が第2言語の人、労働者階級の人、2つの仕事を掛け持ちしているため忙し過ぎて投票できない人を対象として働きかけを強めた。
資金はたったの30万ドル。対するクローリーは、335万4370ドルを集めた。
ニューヨーク・タイムズは、オカシオコルテスの選挙活動を報じなかった。
投票が終わる8分前、彼女は次のようにツイートした。
“20歳の有色男性2人がさっき私に近づいてきて、投票したばかりだと教えてくれた”
 勝利演説で彼女はこう語った。
今日、証明されたのは、真夜中の暗闇のような政治の支配する中でも、この国にはまだ希望があるということだ。
okasio
一方で、共和党の予備選ではトランプ派の優勢が目立ち、両極化とエスタブリッシュメントに対する嫌悪感が広がっていることが示唆される。

なお、Single-payer healthcare という言葉が彼女の主張の中に出てくるが、これは全国単一医療保険制度を指すらしい。
Healthcare system financed by taxes that covers the costs of essential healthcare for all residents, with costs covered by a single public system Wikipedia

もご参照ください。

久しぶりに小気味よいニュース
本日の赤旗国際面にワシントンの遠藤特派員がレポートしている。
見出しが正直のところ散漫で、それだけではよくわからないが、「躍進するサンダース派」ということで、11月中間選挙前の民主党予備選挙でサンダースを支持する進歩派の健闘ぶりを報道したものだ。
① 下院ニューヨーク選挙区
28歳の女性新人候補が、民主党全国幹部の大物候補に勝利した。
彼女の名はアレクサンドリア・オカシオコルテス、28歳のヒスパニック系女性である。
彼女はサンダース旋風のときの運動員で、弱者優先の「民主的社会主義」を標榜する。またトランプの「不寛容」政策に反対し、移民関税捜査局(ICE)の解体を訴えた。
okasio

② メリーランド州知事選
安保世代にはなつかしい全米有色人地位向上協会(NAACP)の元会長、ベン・ジュラス(Benjamin Jealous)さんが予備選に勝利した。彼も進歩派候補としてサンダースが押す候補の一人だった。

jealous_obama2.publication
彼の選挙スローガンは「公的医療保険制度の維持拡充」、「最低賃金を15ドルに引き上げ」、「大学学費の無料化」などであった。
ジェラスさんは母親が黒人だが、本人は黒くない。おそらくマライア・キャリーと同じクオーターなのだろう。こちらはオクスフォードとコロンビア大を出た秀才。
③ ジョージア州知事選
アトランタを擁する南部の大州だが、ここでも黒人女性のステイシー・エイブラム(Stacey Abrams)さんが予備選に勝利した。
最終学歴はエール大学の法学校、ウィキペディアによれば肩書きは lawyer, romance novelist, and businesswoman となっている。
stacy abrhams
米国の知事選で主要政党の候補者に指名された黒人女性は初めて。しかしそれ以上に重要なのは、当選すれば南北戦争後の再建期以来ディープサウスで生まれた、初のアフリカ系米国人知事となることだ。
彼女は「有権者に進歩的な政策を正面から訴えた」ことが勝利につながったと語る。逆に言うと正面から訴えても受け止めるだけの有権者の構えが作られているということだろう。
④ ニューヨーク州知事選
進歩派は大物を担いだ。人気テレビドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』に出演した俳優のシンシア・ニクソンさんだ。日本語のウィキペディアにまで記事があるのでかなり有名なのだろう。とはいっても、私はまったく知らない。
投票日は9月に入ってからなので、まだだいぶ先ではあるが、今後の躍進が期待される。
Cynthia Nixon
ということで、ちょっとこれらの情報は深追いする必要がありそうだ。

加藤節さんの「立憲主義論」
あまり馴染みのない名前だが、政治哲学(特にロック)が専門の方で、私より2つ年上。
院生時代に南原繁(曲学阿世の徒で有名)の薫陶を受けたということで、筋金入りの立憲主義者と言ってよい。
今回は赤旗の「焦点・論点」に登場し縦横無尽に語っている。

1.ロックの政治思想
① 固有権
話は固有権の概念から始まる。固有権は英語でProperty。生命権・健康権・自由権・資産権からなる。
それは人間が人間であることの証となる権利であり、これを守るのが近代政治である。
② 法の支配と人の支配
最高裁長官も内閣法制局長官も時の内閣が決めている。結局は人の支配だとも言える。
法を無視する内閣が出てくれば法の支配は崩れる。
それを防ぐ手だてはないのか。それを探るのが立憲主義である。
③ 抵抗権と革命権
ロックは、法の支配が破綻しようとしたとき、唯一の歯止めは抵抗権と革命権だと主張する。
ただそのままでは現代社会には飲み込みにくい。そこで加藤さんは「リベラルな民主主義」と言い換えている。
④ リベラリズムと民主主義
おそらくここが加藤さんの主張の勘所なのだろう。そのままの言葉で引用する。
「法の支配」が「人の支配」(すなわち法の非支配)に転化したとき、それを乗り越える運動としての民主主義が重要になります。
つまり、「人の支配」を打ち破るのは「法」ではなくて、「多数者の支配」なのだということだ。
これが民主主義(デモス+クラシア)であり、ここに立憲主義と民主主義の結合がある。
さらにそこに「行動規範としてのリベラリズム」(解放実践)がインテグレートされ、「リベラルな民主主義」が出来上がるのであろう。

2.南原繁の「全面講和」論
まず加藤さんは「南原繁は非常に面白い意見の持ち主でした」として、南原がオーソソックスな政治的立場ではなかったことを認めている。
そのうえで、現代日本が彼から引き継ぐべきポイントを列挙していく。
① 憲法9条に反対した南原繁
南原は必要最小限の自衛のための兵力は必要だと考えた。
自衛権は次のようにインテグレートされていた。
自衛権を保持し国際社会に復帰するという主権国家の論理と、国際社会に復帰して国連軍の一員として戦争勢力に対抗するという集団的安全保障が統合されたもの。
これは重要な視点で、憲法前文と9条は切り離せるということ、肝心なのは憲法前文の精神であるということだ。
ただし、世界史的スパンで考えれば、この順序は逆になるかもしれない。
② 政治と普遍的「正義」
南原繁は政治の目的として「正義」を重視しました。
この「正義」は、永久平和を実質的な内容とする普遍的な原理であり、世界はこの正義のもとで単一でなければならないと考えた。
ここから2つの「正義」を前提とする片面講和路線は許せないと断罪した。結果、吉田首相から「曲学阿世の徒」と罵られることになる。
③ 憲法9条の精神
これは南原繁ではなく加藤節さんの考え。
日米安保を解消して、多元的な平和条約をあらゆる国と結ぶ、まさに「全面講和」こそが憲法9条の精神だと思っています。
実践的にはそれで良いのだが、南原繁の意に沿うならば、それは9条というより憲法前文の精神なのではないか。

AALA国際部の新藤さんから下記のニュースが送られてきました(6月23日)。
要旨を紹介します。
なお先般、札幌にお越しいただいたアラーナ大使は、日本での勤務を終えられ、現在はチリのサンチャゴでご勤務と伺っております。

はじめに
ニカラグアでは大きな緊張状態が起きています。4月19日にニカラグア政府の年金改革を巡って広範な市民の抗議が生じました。
その後、過激な反政府行動が展開されました。報道では、警官8名を含め173名が死亡し、2,100名(うち警官200名)が負傷しているとされます。
人口630万人、GDP138億ドルのこの小国で何が起きているのでしょうか。

Ⅰ ニカラグア 社会の状況
最近のニカラグアは経済成長が著しく、失業率や貧困者も減少し、貧富の格差も改善しています。
病院・学校・電気・水道・通信などの社会・インフラ投資も順調で、殺人事故は中米中最低となっています。
国内政治では、労働者・資本家政府の協調姿勢が貫かれています。
これはサンディニスタ政府が内戦による損害を取り戻すために、社会の安定を最重視したためだといいます。
このやり方は IMF・世界銀行・米州開発銀行からも高く評価されていました。
外国投資も順調に増大し、ムーディズの格付けでもB2で「ポジティブ」 と評価されています。
オルテガ大統領の率いるサンディニスタ政府は、2006年以来3度の総選挙を勝ち抜いて政権を維持しています。
国際貿易収支は7億ドルの赤字ですが、海外からの家族送金が14 億ドルあります。
財政も比較的健全で、財政赤字は歳入の7%程度です。
要するに経済・社会のマクロ指標はバッチリです。

Ⅱ 何が起きたのか
今年4月、年金財政赤字の改善のため保険料引上げや年金支給額の減額を打ち出しました。
これは各団体との協議を経て提案されたものでしたが、企業団体と労働団体が強硬な反対に回りました。
抗議運動が各地に広がり、一部では暴力的な行動を伴いました。
contra
      グラネード・ランチャーを標準装備した暴力分子
政府は年金改革の撤回を打ち出し、対話をもとめ、司教会議に仲裁を要請しました。
しかし抗議は続けられエスカレートしていきました。火炎瓶、ロケット砲などが用いられ、公的施設、政府派人物の民家の焼き討ち、略奪、人への攻撃、道路封鎖が展開されました。
取締り警官隊への攻撃と挑発が繰り返され、火炎瓶、ロケット砲などが用いられるようになりました。
闘争目標も大統領の辞任、選挙法の改正、前倒し選挙の実施へと移っていきました。
5月に入ると抗議行動は一層エスカレートし、全国14の県で道路封鎖が実行されました。都市では商店の焼き討ち、公共バスの破壊、サンディニスタ事務所の放火などが繰り返された。
FSLN事務所の焼き討ち
            FSLN事務所の焼き討ち
Ⅲ アメリカの干渉
アメリカ政府は反政府勢力を支持して内政に干渉しています。キューバ、ベネズエラにくわえ、ニカラグアも「専制政治」の一員に加えられました。
ペンス副大統領は、「母の日の平和なデモに攻撃が加えられ、恐るべき暴力により数十名が殺され、数百名が負傷した」と非難しています。
今回のニカラグアの問題は、米国の意向が反映されたものであり、トランプ大統領、ペンス副大統領の言動が、大きな影響を及ぼしています。
新藤さんの本文はこの記事の数倍あり、最近の動きまで丹念にフォローされている。ぜひご一読を願いたい。


反政府派の暴力的妄動は、ベネズエラで見られた光景とまったく同じです。
違うのは、ベネズエラではそれが政権による弾圧として描かれ、民衆がそれに対して民主主義をもとめて戦っているように描かれ、アメリカが民主主義を支えるために支援を行っているように描かれていることです。
拉致者を焼殺
            FSLN支持者が焼き殺される
現在のところ、ニカラグアのような小国のケースは見過ごされているようですが、いずれサンディニスタも民主主義の敵として描かれるようになるのでしょうか。(すでにその兆候は現れています)

米朝合意の評価 非核化と非戦化を分けるべきだ
非核化と非戦化という考え方は、孫崎さんの言葉ではなく、孫崎さんの発言を読んでいるうちに私が思いついた言葉だ。

米朝合意の軍事的意味
議論を軍事的側面から整理しておこう。
北朝鮮は核兵器を開発し、大陸間弾道弾を完成させた。
まだ核弾頭として搭載できる保証はないし、誘導システムもないので、核脅威が本格化したわけではない。
これに対して国際世論は核兵器の放棄を強く求め、そのために経済制裁などの圧力を加えてきた。
アメリカ政府とトランプ政権は、これまでも核兵器の放棄を求めてきたが、昨年後半に北朝鮮が大陸間弾道弾の発射に成功してからは、にわかに戦争圧力を強めた。
これに対し危機感を強めたのは韓国政権とアメリカCIAのポンペイオ長官らであった。
当初のポンペイオの提起はミサイル開発停止と経済制裁の見直しであったと思われる。
これに力を得た韓国のムンジェイン政権が積極的な仲裁に乗り出した。
ムンジェインは当面する核・ミサイルと軍事脅迫・経済制裁のバーゲニングに加え、より長期的な、朝鮮戦争の終結と米朝国交回復の工程を結合させることを提起した。
そのなかで、米朝首脳会談による両国の外交関係樹立が生まれてきた。

非核化と非戦化のバーゲニング
以上のような大づかみな把握から導かれる結論は、一連の交渉過程が非核化と非戦化の取引(ディール)だということである。
アメリカも国際世論も北朝鮮の非核化を求めている。
北朝鮮は非核化を約束し、その代わりに自らの安全に関する保証を求めている。それは朝鮮半島の「非戦化」と呼ぶことができる
「自らの安全に関する保証」の内容は具体的には不確かだが、最低レベルでの米韓合同演習の見直しと経済制裁の緩和、長期レベルでは駐韓米軍の撤退であろう。
これが非戦化の内容である。

平行四辺形の取引き
ただし非核化と非戦化のバーゲニングというのは、入口と出口がちがう代替型取引である。
取引は、本質的には相互の非核化、相互の非戦化の二本筋で行われなければならないものである。
それでは相互の非核化とは何か。それはアメリカの核の傘をどうするのかということだ。
核の傘はおそらく米韓軍事同盟の骨格であるはずだ。“非核的”軍事同盟への移行は可能だろうか。
ついで相互の非戦化であるが、ここはそれほど難しくはないと思う。北朝鮮も米韓合同演習の縮小・中止以上に踏み込んで要求することはないとおもう。
米軍の撤退と米韓安保条約の廃止はもう少し先、南北朝鮮の統一議論と並行しながらの話になるのではないか。

中国のバランサーとしての役割
北朝鮮は非核化とミサイル放棄により軍事的プレゼンスを一気に弱めることになる。
短期的であるにせよ、これを補填する役割は中国に期待することになる。
中国はアメリカとの合意の上で、バランサーとしての役割を買ってでた可能性がある。
妄想に属することではあるが、アメリカが韓国に核の革を提供するように、中国が北朝鮮に核の傘を提供する可能性もある。

韓国の非核化・非戦化が今後の鍵
先日紹介したNHKの解説にも明らかなように、米朝合意の今後の動きは、韓国における米韓安保体制の動きに関わってくる。
すでに米韓合同軍事演習を巡って激しい鞘当が始まっており、韓国における平和闘争の役割が重要なものとなっている。
また東北アジアの平和の枠組みを構築していく上で、憲法九条を守る日本の戦いの役割も大きいものがある。
今後も注目していきたい。

6月30日付の赤旗3面で、「米朝関係 歴史どう動く」という特集を組んでいる。特集と言っても識者3人へのインタビューを並べたものだが、もう一つつかめない会談評価について補足学習しておきたい。
 
Ⅰ.安全の保証 突き詰めれば戦争状態終結
これが1つ目の見出し。語るのは孫崎亨さん。
端的にいうと、非核化と非戦化が車の両輪で、
この両輪が動くことによって事態が前に進むということだ。そして、その先に戦争状態の終結、さらに朝鮮半島の平和統一がある。
非戦化=米国の「体制保証」というオプションは、突き詰めると米軍撤退につながる。
これが朝鮮半島平和の3要素だ。(孫崎さんは安全保障と言っているが、体制保証という方が明確だろう)
米国にも日本にもこうした動きを歓迎しない流れがある。
彼らの目的は詰るところ非戦化の阻止だ。そのためには、非核化も戦争状態終結も犠牲にして構わないというところに本音がある。
日本の反対派は、非戦化が進行するとそれが沖縄に波及し、憲法改正の流れを断つのではないかと心配している。

非常にスッキリしているが、駐韓米軍のプレゼンスそのものの否定が、非戦化の決定的条件かどうかについては、もう少し吟味が必要であろう。

2.日本の関わり 冷戦思考から抜け出そう
2つ目のインタビューは山本昭宏さんという方、現代史研究者らしい。
お話は、「よくわかりました」という中身。ただ「冷戦思考から抜け出そう」という見出しは、それが赤旗に堂々と載ること自体に一種の感慨を覚えないでもない。

3.目標の達成へ 首脳会談承け良い動きが
3つ目のインタビューはピーター・カズニックさん。オリヴァー・ストーン監督のパートナーである。
半年前を思い出そう。ある研究者は「50%の確率で戦争になる」と指摘していたことを思い出そう。
板門店から50キロのソウル圏には、2千5百万人が暮らしている。戦争が始まれば初日だけで100万人が死ぬことになっている。核兵器抜きだ。そのことを想起しよう。
会談で工程表も決まらなかった、CVIDの合意はない、非核化の定義も曖昧だ。すべて認める。
しかしそれが何を成し遂げたのかを考えよう。そうすればそれが平和への正面入口だということはわかる。
この観点はとても重要だ。「我々は核と戦争の危機にあったのだ。それをとりあえず回避できたのだ」と喜ばなくてはいけないのだ。「それを喜ばない人って変だよね」と、いぶかしがらなくてはいけないのだ。

別に記事を起こして、孫崎さんの提起をもう少し考えてみたい。

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