鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年06月

先日、夕張鹿鳴館という施設を見てきたが、いろいろと評価が難しい施設だと思う。
夕張ではいくつかの鉱山会社が操業していたが、圧倒的に大きかったのは三井財閥系の北海道炭鉱汽船という会社だった。略して北炭という。
この会社の接待用施設として建てられたのがこの建物で、鹿ノ谷倶楽部といわれていた。鹿鳴館というのは客集めのためのネーミングのようだ。
老朽・閉鎖されてからの動きは、ウィキで見るとあまり幸せではなかったようで、「生きてなきゃよかった」的なところもある。
1913年に建設されてすでに100年余り、昭和天皇が1954年、今上天皇が58年に宿泊したころが絶頂で、石炭が斜陽化して50年、82年に会社が手放して夕張市に押し付けて35年、夕張が財政再建団体となりたてものを閉鎖して10年となる。
見学コースでほぼすべての施設が見学可能だが、第一別館は未開放である。
かつての栄華を偲ぶには相当の想像力が必要で、むしろ一重のガラス窓とか、建付けの緩みは「大金持ちでもこんな暮らしだったんだ」と、同情を感じてしまう。
天皇の宿泊室は「えっ、こんなところに泊めたの」と言いたくなる。
おそらくその頃ははるかに豪勢だったのが、落ちぶれて老いさらばえて、醜態をさらす羽目になっているのだろう。
建物保存の三原則というものがる。
きれいだ、使える、価値があるというものだ。
夕張鹿鳴館の場合、この三原則のどれをとっても疑問符がつく。調度品も正直のところウソっぽい。
関係者には申し訳ないが、いっそ取り壊して公園にするか、あるいはただの更地にしてしまったほうが後腐れなくて良さそうだ。もし保存するのなら、ここだけ一点主義で守る決意を固めなければならない。
率直に言って廃墟観光の客は金など落としませんよ。

建物保存の三原則 “きれいだ、使える、価値がある
これをウェブで探してもヒットしません。オリジナルは下記の一文です。
ラテンアメリカの政治という私のホームページのなかの「更新記録」という不定期日記の中の一文です。これが私のブログの前身になります。
2007.11.15
 教育テレビのN響アワーを見ていたら、芸大の奏楽堂保存運動の話をしていました。運動を率いた教授が「保存運動の三原則」という理論を展開していました。①使えること、②清潔なこと、③価値があること、というのです。運動から導き出された教訓だけに、とてもリアルで面白く、ためになる話です。話のミソは、老朽化した建造物が一般的・抽象的に価値がある、というその前に、クリアしなければならない条件が二つあるということです。「使えること」というのはきわめて即物的で分かりやすいのですが、「清潔なこと」という言葉には多くのニュアンスが含まれています。

2018年1月14-15日、カイロでAAPSOの記念集会が開かれた。

参加者の構成
中東からはバーレーン、イラク、レバノン、モロッコ、パキスタン、パレスチナ、チュニジアの各国代表が参加した。アジアからはインド、ネパール、スリランカが参加しベトナムAALA連帯員会のグエン・ティビン会長がメッセージを寄せた。ヨーロッパからはギリシャとキプロスにとどまった。
ほとんどの国が1,2人の代表であるのに対し、主催国エジプトは書記局含め30人を送り込んだ。ロシアからも4人の代表が送り込まれているのは、会議の性格を予感させるものであった。
中国は代表は送らなかったが駐エジプト中国大使が挨拶を行った。文革時代の経緯を知る者にとっては、それだけでも注目されるものであろうが、内容もかなり踏み込んだものだった(田中)らしい。

議長の開会挨拶
60周年の意義を語るべき主催者挨拶だが、そのような骨太な話はなかったようだ。
一応植民地主義の克服、経済の持続可能な発展、社会正義の実現をあげ、一方で世界経済の危機とともに新たな課題が登場したとする。具体的にはテロと暴力の拡大、地域紛争、国家の解体などが列挙されている。
今後取り組むべきものとして10項目が挙げられたが、そのなかで最後の二項目。⑨組織が消滅した国での委員会の再建と⑩非同盟運動への積極的な参加が組織課題として提起されている。結構泣けるものがある。

中国大使の挨拶
カイロ駐在中国大使の挨拶はバンドン会議以来の中国とAA諸国との連帯の歴史に始まり、中国共産党19回党大会で打ち出されたAA諸国との関係強化の方針で結ぶなど、むしろ主催者挨拶より総括的だったようだ。
なお中国のAA諸国重視の政策は一貫したものであるが、湖錦湯時代には一時弱まった。また南沙問題を巡ってはASEANに対し高圧的な態度で臨むなど方針の揺らぎを感じさせたが、19大会で何らかの修復がなされているのかもしれない。少し勉強してみたい。

書記長の基調報告
「討論資料」が事前配布されていたようだが、これについては省略。
60年間を3つの時期に分けて総括している。
第一は創設以来の反帝、反植民地主義、AA独立運動に中心的役割を果たした時期である。
第二はソ連崩壊後、米国の一国覇権主義の下での闘いの時期とされる。
第三は中国やロシア、BRICSの台頭により新しい情勢が生まれつつある現在ということになる。
そのうえで書記長は現在の課題として、第一にトランプ政権の人種差別的な覇権主義とのたたかいをあげた。国際テロの拡大とエルサレム問題、北朝鮮危機はトランプ覇権主義の象徴とされた。そして無責任なトランプ政権の言動で不測の事態が起こる危険があると警告した。
第二の課題は富の集中と格差の拡大にいかに立ち向かうかということで、世界の人民のたたかいが求められるとした。

集会での討論における注目点
アメリカのベネズエラ干渉について議論になった。討論の議長は、ラテンアメリカが外国干渉に苦しむ事態は、AA諸国の現状と重なるとのべ、連帯を強化しようとのべた。
パレスチナに関しては力のこもった議論が展開されていた。とくにAAPSOがモロッコにパレスチナ人民支援委員会を結成したことが報告され、注目を集めた。

田中さんの発言
1.北朝鮮による挑発と米国による核脅迫の応酬は危険をもたらしている。我々は軍事解決に絶対反対で、対話による解決を求める。
2.憲法9条を守る戦いは北東アジアの平和にとっても重要だと考えている。
3.沖縄における反基地闘争は、いまなお重要な闘争である。
4.平和の課題での提起だが、核兵器禁止条約の批准運動に各国で力を入れるべきだと思う。
5.パレスチナ問題については、なかなか国民の理解が得られず苦戦している。
みたいなことが語られた。(すみません。うまくまとめられません)

先程、志位さんのインタビューを紹介した中で、「内外で米朝首脳会談について批判が多い」ということを前提にして、「決してそんなことはないのだ」という反論を展開していると書いたのだが、実はこの「批判」には二通りあって、一つは善意も含めて北朝鮮の信頼性への疑問が主調となる批判である。これは反トランプの立場からするリベラル勢力のシニシズムも含まれる。
これについては、反論する側にもそれほどの確信があるわけではないから、「まぁ歴史の判断に待ちましょう」というとこともある。
しかしNHKの「批判」にはそのような「率直な疑問」のレベルにとどまらない、好戦勢力の本音が隠されていると見なければならない。
このような勢力とははっきりと対峙して、米朝首脳会談の前進面をはっきりと擁護しなければならないのである。
以下の記事は会談が行われた翌日、6月13日のニュース報道が活字化されたものである。読みやすくするために多少文章をいじってあるので、正確に知りたい方は本文をあたっていただきたい。

2018年6月13日(水)  BSワールドウォッチング「米朝首脳会談 広がる波紋」 という番組の活字起こしだ。
朝のBSニュースは以前ひどいキャスターで、毎朝不快な気分で見ていたものだ。これは夜の番組だが、このキャスターも相当ひどい。NHKの国際政治担当には、静かな水面に石を投げ込んで波紋を広げる度し難い右翼分子が積み重なっているようだ。

① 最初の評価
共同声明では、朝鮮半島の完全な非核化への決意を確認したとする一方、焦点となっていた、非核化に向けた具体的な行動や検証方法、期限は盛り込まれませんでした。
ということで、クール派の代表となった。
② アメリカの反応の一面的紹介
またアメリカの反応は、“いろいろあるよ”という報道スタイルで、登場した人は3人。
「北朝鮮が約束を守らなければ、戦争になる」(共和党)
「これはアメリカにとって危機だ」(民主党)
「新しい内容は何も無かった」(国際政治学者)
これがNHKによる「各界の声」である。いろいろどころではない、攻撃一色だ。
③ 続いてワシントン駐在NHK記者の談話。
ワシントン・ポストは『具体性に欠け、楽観論に影を落としている』と報じた。
ニューヨーク・タイムズも『パフォーマンスとしては、最高得点だ』と皮肉。
特にトランプ大統領が、米韓合同軍事演習を中止する可能性に言及したことは『譲歩しすぎで危険だ』とみられています。
今後の交渉で非核化に向けた具体策を示せなければ、さらに批判が強まる…
という一段は引用元を示さず紹介。
その後、キャスターとの応答の中で批判はさらにヒートアップ。そしてついに米韓軍事演習をめぐって本音があらわにされる。
アメリカでは譲歩しすぎだという声、アメリカ軍の即応能力に影響が出るという懸念が指摘されています。
④ NHKは韓国を盾にしようとしている
その後、明らかに公共性・中立性を疑うとんでも発言までもが飛び出す。
(トランプは)在韓米軍の撤退の可能性まで言及しました。これは日本の安全保障上の大きな懸念となります。日本としては、在韓米軍の問題についてトランプ政権に働きかけを強めていく必要があります。
これは韓国への内政干渉に繋がりかねない重大な逸脱発言である。
北朝鮮が信頼できないというのは日本、韓国、アメリカに共通した不安感であるが、NHK国際部の不安はそこにあるのではない。彼らの不安は、“韓国に駐留する米軍が撤退してしまう危険”にあるのだ。
しかし在韓米軍をどうするかは、米韓が決めるべき事柄であり、日本がとやかく言う理由はないのだ。韓国民が自国の安全と引き換えに米軍駐留による損失や危険を甘受するのは、事の是非は別として有り得る話だ。しかし日本が韓国人に“米軍駐留を甘受し日本の盾となれ”と要求するなどありえない話だ。
さらに言うなら、心の底で密かにそれを期待しようとしまいと、公の場で口に出していい言葉ではないのだ。
こういう人たちが米朝首脳会談の批判者の中に紛れ込んでいるのだから、私達はこのような“ためにする批判”をきっぱりと拒否して、“彼らを政治的に追い詰める”必要がある。そういう点にも首脳会談の意義があるということを、もっともっと強調していかなければならないのだろうと思う。

AAPSOの最近の動向について

読んだきりにしてあったのですがもったいないので要約して掲載します。

AAPSOの説明をしようと思ったらえらく長くなってしまったので、独立した記事にして掲載します。

AAPSOというのは、アジア・アフリカ人民連帯機構の頭文字をとったもので、非同盟運動を非政府レベルで支える組織です。カイロに本部と書記局が常設されています。
AAPSOはその名のごとくアジア・アフリカ諸国を対象としたもので、ラテンアメリカの組織は加入していません。
別にラテンアメリカを排除したのではなく、第二次大戦後にアジアアフリカ諸国が独立を果たした際にその独立をどう守っていくのかを考えたからです。
ラテンアメリカの諸国はすでに19世紀のはじめにスペインやポルトガルからの独立を果たしており、形式的には民族自決権は問題になりませんでした。
1960年代の後半から、新植民地主義の攻撃が強まり、形式的には独立していても、事実上の植民地に逆戻りする例が多く見られるようになりました。
それはアジア・アフリカの新興独立国ばかりではなく、「アメリカの裏庭」となったラテンアメリカの諸国でも同様でした。
そのためにキューバが音頭を取る形でアジア・アフリカ・ラテンアメリカ人民連帯機構が結成されました。スペイン語の頭文字をとって、OSPAAALと呼ばれます。物品販売のコーヒーを「オスパール」というのはここから来ています。
日本のアジア・アフリカ連帯委員会は、新興国が社会体制の違いを乗り越えて相互に連帯することを謳ったバンドン会議の後に、アジア・アフリカの新興国の運動と連帯するということで結成されました。
日本は新興独立国でもなく、非同盟の国でもないので非同盟運動の参加国ではありませんが、日本のアジア・アフリカ連帯委員会はAAPSOの正式オブザーバーとして、当初より関わっています。
また1966年にOSPAAALが設立されると、連帯委員会はハバナの創立大会に二人の代表を送っています。
つまり日本AALA連帯委員会は、2つの組織を通じて非同盟諸国の運動とつながっていることになります。
ただし、OSPAAALは最近は開店休業状態となっており、日本の連帯委員会は個別に関係国の外交機関や非政府組織と連絡をとって連帯を図っているのが実情です。AAPSOについても事情は似たようなものなのですが、今年の1月に「AAPSO創立60周年記年集会」が開かれ、新しい動きがでてきました。
その集会に参加した田中靖宏さんが報告してくれた文章を、このあと要約していきます。


7/7緊急シンポジウムのお知らせ  

     ベネズエラで今、何がおきているのか
            ~経済危機の実情と背景~  

ということでベネズエラ大使館からお知らせが来ている。かなり急な話なので、参加できるかどうか確信が持てないが、皆さんにもお知らせしておく。

シンポジストは松浦健太郎さんというエコノミストの方、西谷修さんという立教大学教授のお二人、私はどちらも存じ上げていない。

<日時> 7月7日(土)13時~17時
<場所> 明治大学お茶の水校舎リバティータワー 1143教室 (14階)

で、完全オープンではないようなので、大使館に連絡入れておいたほうが良いだろう。
surugadai


ベネズエラ・ボリバル共和国大使館
大使秘書 寺山由美子
Tel: 03-3409-1501  ext.1
Fax: 03-3409-1505
e-mail: asistente.embajador@venezuela.or.jp
住所:〒106-0031 東京都港区西麻布4-12-24第38興和ビル703号

となっている。

米朝首脳会談の歴史的意義、今後の展望を語る 
志位委員長インタビュー 

A)新しい米朝関係の確立 
「戦争と敵対」から「平和と繁栄」へというのが、4項目の合意の論理構成だ
第1項 平和と繁栄に向けた新しい米朝関係
第2項 朝鮮半島に永続的で安定した平和体制
第3項 朝鮮半島の完全な非核化に向けて取り組む
つまり、米朝関係を根本から変えることが一番の要になっている。そのために朝鮮半島に平和体制を築くことが必要であり、そのために「完全な非核化」が必要になるという論建てになっている。

B)「具体性に乏しい」のは合意が根本に関わっているから
「具体性に乏しい」などの否定論や懐疑論が流布している。それらはこの合意が非常に根本的だという点を見逃している。
①今回の合意は歴史上初めてのものであり、不可逆的な重みがある。 これは始まりであり、行動して挑戦する人々の、大胆な旅程の始まりである。(文在寅・韓国大統領の発言)
②「過去にも同じような合意があった」というのは間違いである。これは首脳間の初めての合意である。94年の「米朝枠組み合意」も05年の「6カ国協議の共同声明」も実務者合意でしかない。
③核戦争の脅威から抜け出す可能性 文大統領: 戦争の脅威から抜け出したこと以上に重要な外交的成果はない。 いま大事なことは、平和のプロセスを前に進めるために、世界中が協力することだ。

C)米朝合意と日本共産党の立場 
この間、「対話による平和的解決」路線が進んできた。具体的に経過を追ってみたい。 
第一の節目 去年2月、トランプ新政権がオバマの「戦略的忍耐」を見直す。このときから「外交交渉によって北朝鮮に非核化を迫る」戦略を提示。
第二の節目 昨年8月、北朝鮮が核・ミサイル実験。軍事的どう喝の応酬。米朝両国に「無条件で直接対話を」呼びかける。
第三の節目 2月の平昌五輪がらみで平和的解決の歴史的チャンスが生まれる。
「朝鮮半島の非核化と北東アジア地域の平和体制の構築を一体的、段階的に進める」よう提案。

D) 平和のプロセスを成功させるために  
①非核化プロセスと「約束対約束、行動対行動」の原則
②関係各国、国際社会の協調した取り組み、諸国民の世論と運動がだいじ

E) 日本政府のなすべきこと
①「対話否定」「圧力一辺倒」という立場を捨てること。
対話による平和的解決の対応
②日朝平壌宣言(2002年)を基礎に据えること
拉致のみにこだわらず、交渉を続け、包括的解決の道筋を貫くこと
③日朝国交回復をふくむ東アジアの平和の枠組みについて合意を目指すこと。

F) 北東アジアの平和秩序と日本共産党の「北東アジア平和協力構想」
日本共産党は、2014年の第26回党大会で「北東アジア平和協力構想」を提唱している。 これはASEANが創設した、東南アジア友好協力条約(TAC)に学んだものである。
一番中核的な考えは、北東アジア的規模でのTAC(友好協力条約)を結ぼうというものである。対象国は6カ国協議を構成している6カ国である。 (内容は略)

G) 北東アジアTACと日米安保条約
「北東アジア平和協力構想」は、軍事同盟が存在するもとでも平和協力ができるという前提で作られている。 軍事同盟をなくすというのは次の課題になってくる。 しかし大きく展望が開けてくることは間違いないだろう。

H) 21世紀世界における「帝国主義」 
21世紀の世界では、戦争と平和の力関係が大きく変化している。 こういう世界では、もはや独占資本主義国イコール帝国主義とはいえなくなっている。
米国であっても、戦争と平和の力関係が変わるもとで、いつでもどこでも帝国主義的行動をとれなくなっている。
この観点から言うと、アメリカの制作を分析する場合、つねに複眼的に評価しなければならない。
ということで、最後に柳沢協二さんの発言を引用してインタビューを閉じる。
米朝合意は「戦争によらない問題解決という選択肢を世界に提示する世界史的分岐点をはらんでいる」
これだけエポックメイキングな出来事だることを強調しておきながら、なぜこれがエポックメイキングなのかを自分の言葉で語ろうとしない、まことに異例な論理展開である。目下のところは、少し勉強してからでないと、さすがにすんなりとはうなづけないところがある。


志位さんの提起は今回の米朝首脳会議を、“21世紀論の文脈”で読み込めという提起なのだろうと思う。
それはそれとして非常に正しいと思う。
ただ21世紀論として読み込む場合には、どういう21世紀論を念頭に置くかでだいぶイメージが異なってくる可能性がある。
帝国主義論と関連付けるのであれば、まずは帝国主義論のもう少し多角的な展開と検討が行われないと独断の誹りを受けることになるかもしれない。
それにしても各界の反応、鈍いな。一番困るのは言いっぱなしになることだから、一応コメントは上げておくことにする。


刀伊(とい)の入寇

すみません。こんなこと、まったく知らなかった。
たしかに高校時代日本史は選択していなかったのだけど、それにしても、名前さえ聞いたことがなかったという不勉強には、ひたすら頭を下げるほかない。

とにかくまずは年表形式で事実をさらっておく。

1019年 刀伊という海賊集団が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した。

というのが中核的事実である。

出典はそのほとんどが『小右記』によるものである。これは藤原実資という朝廷幹部の日記である。この日記に刀伊の襲撃に一部始終が書き込まれているのだが、その情報は太宰府に在任し戦闘を指揮した藤原隆家という人物の作成した報告書の要旨である。

資料的には裏付けの取りにくい事件であるが、話としてはすなおで無理がなく、ありうる事件だろうと思う。
第一に、当時、高麗と遼(契丹)は戦争関係にあった。女真族は渤海湾沿いに居住し契丹と臣属関係にあった。反高麗の立場から陽動作戦を志向することはあり得た。
第二に、高麗は新羅の後継国であり、日本にとっては馴染みの国である。女真族との見分けは対馬や壱岐の住民にとっては容易なことである。
第三に、一国の軍隊の行動と海賊の行為の差は明白であり、刀伊の行動が野蛮人のそれであることも明白である。

年表ではこれよりもう少しさかのぼって、刀伊を生み出した朝鮮半島の政治情勢を探っていこうと思う。

「とうい」はもともと中国語の「東夷」であり、本体は満洲に住む女真族とされる。これが高麗語に取り込まれ、さらにこの「とい」に日本で文字をてたときに刀伊と表現されたという(Wikipedia)




10世紀 満州のツングース系民族、女真の名が文献に登場。多くの部族に分かれ、国家としては統一されなかった。
当初より遼(契丹)に従っており、中国化の度合いによって熟女真と生女真の2大集団に分かれる。926年 契丹が渤海に侵入し東丹国を立てる。このあと渤海の国域に女真族が進出。(定安国→後渤海国の話は省略)
契丹
           wikipedia より
936年 高麗が、新羅を倒して半島を統一。

993年 契丹が高麗に侵攻。高麗は宋とは断交し、契丹に朝貢することになる。和議の条件として鴨緑江以南の女真族居住地を高麗のものとすることが認められる。

994年 高麗が女真を排除し江東6州(現在の平安北道領域)を占領。(なぜここに女真族がいたかは不明)

1004年 契丹(遼)、北宋の朝貢を受けるようになる。中央アジアまで勢力を伸ばす。

1005年 女真による高麗沿岸部への海賊活動が始まる。

1009年 高麗の内紛。これに契丹が介入し、首都開京を占領。

1018年 契丹、江東6州の割譲を求め高麗侵入。高麗軍はこれを撃退する。

1018年 女真海賊、鬱陵島(于山国)を襲い滅亡に追い込む。海賊は高麗水軍に追われ南下したものとみられる。

1019年

この頃、新羅や高麗の海賊が頻繁に九州を襲っていた。

3月 刀伊、50余隻の船に乗り込んだ約3,000人で対馬海峡をわたる。
賊船の大きさは10~20メートル。一艘の船に漕手が30~40人。乗船員数は30~60人。

3月27日 刀伊が対馬に上陸。島の各地で殺人や放火を繰り返す。国司の対馬守遠晴は脱出し大宰府に逃れる。
対馬で殺害されたものは36人、連行されたもの346人。銀の鉱山が焼き払われた。

4月 刀伊、壱岐を襲撃。国司の壱岐守藤原理忠の部隊と対決し撃滅。

山野を駆け巡り、牛馬家畜を食い荒らし、人家を焼き、穀物を奪った。捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込んだ。
殺害された者365名、拉致された者1,289名。残りとどまった住民が35名に過ぎなかったとされる。

4月7日 襲撃の報を受けた太宰府の権帥藤原隆家は、各所に防衛線を敷く。兵の実体としては九州武士団の連合軍であった。(隆家は反道長派の大物で、大宰府に身を引いていたと言われる)

4月8日 刀伊、九州本土の怡土郡、志麻郡、早良郡を襲う。(福岡市西部から糸島市にかけての地域)防衛隊の反撃にあい、いったん能古島に引き揚げる

4月9日 刀伊、早朝に上陸し筥崎宮の警固所を襲撃。隆家軍本隊の前に撃退される。

4月10日 強風と波浪により海賊の動きが止まる。この間に隆家軍は軍勢を強化。

4月11日 刀伊、三度上陸し博多を攻撃。隆家軍の前に生き残り二人を残し全滅。残存部隊は博多攻撃を断念し撤退。

4月13日 刀伊、肥前国松浦郡を襲う。前肥前介の源知(松浦党の祖)軍が捕虜一人を残し殲滅。

4月17日 朝廷に刀伊襲撃の報が届く。朝廷は厳戒態勢を発令する。

4月 刀伊、日本から撤退したあと、高麗沿岸各地を襲撃。最終的には高麗の水軍に撃滅される。刀伊に拉致された日本人約300人(うち対馬出身者が270名)が高麗に保護され日本に戻る。

6月29日 大宰府が勲功者リストを提出。朝廷は勲功を与える必要なしという判断を下す。

承平・天慶の乱への対応に追われていた朝廷は、魏駅進入の危険に対して何ら具体的な対応を行わなかった。藤原隆家らにも何ら恩賞を与えなかった

7月7日 対馬判官代長嶺諸近、高麗に密入国し情報収集。日本襲撃が刀伊によるものであることが判明。

9月 高麗虜人送使が保護した日本人270人を送り届ける。大宰府はその労をねぎらい、黄金300両を贈った。

1115年 阿骨打、女真の統一を進め金を建国。遼から自立する。やがて金は、遼と北宋を滅ぼし中国の北半分を支配するに至る。

1125年 金が宋と結び遼を挟撃。遼は滅亡し多くが金に取り込まれる。

1220年頃 日本海側沿岸部の女真族集団集落、モンゴル帝国軍によって陥落する。

アイヌ民族の歴史年表 を更新しました。
今回の更新は中路正恒「古代東北と王権 日本書紀の語る蝦夷」(講談社現代新書)から引用した材料です。
年表の最古層を形成しています。量はあまり多くありません。年代も含め史実と思しき部分のみ採用しています。
まだ東北蝦夷の年表と分離できていません。ほぼほぼ紀元1千年くらいまでは東北蝦夷の話と思ってください。
  


「空飛ぶタイヤ」が映画化され、話題になっているようだ。
三菱の事故隠しはまことに呆れたものであるが、最近この事故を技術的に克服するものとして幅広タイヤが開発されているようだ。
名称は会社ごとにいろいろあるようだが、先発メーカーであるミシェランの方ではワイドシングル(X Oneと呼んでいるらしい。後発のブリジストンはスーパーシングルタイヤと名付けたが、完全に腰が引けている。

大型トラックの後輪はダブルタイヤになっている。したがって一軸に4つの車輪がついている。
これを1輪づつ2輪にしてしまおうというのが発想だ。
元々はヨーロッパのトレーラー用タイヤとして採用されてきました。
日本ではここ数年採用するシャーシメーカーが増えてきます。(ワイドシングルタイヤより)
タイヤが減るとその分軽くなり、抵抗が減るから燃費も向上…といいことづくめのようだが、やはりパンク時のリスクが気になるということで普及が進まないという解説になっている。

私には、日本のトラック業界の意気地のなさの表れのように思える。
30年前だったら、こちらがいいとなったら業界全体が雪崩れを打ったものだ。
引っ張った感じは11Rを12本の今までのシャーシより動き出しが軽いです。…タイヤの持ちはかなりいいです。
自分が経営者ならトレーラーのタイヤは全部ワイドシングルにします。ワイドシングルタイヤより)
初期投資は多少かかるにしても、ランで取り返せる。技術革新が進めばコストは急速に下がるだろう。「地球にやさしい」という謳い文句は、クライアントにも宣伝効果を生む。
バーストの際のフェイルセーフが心配だというが、今どき後輪一軸の大型トラックなどないのだから、これは理由にならない。「空飛ぶタイヤ」のリスクはむしろ減少するはずだ。
昔からトレーラーは適当なタイヤで良い。という風潮があります。
トレーラーの方はトレーラーヘッドから外した中古タイヤという事が多いのです。
そういう考えの社長さんは割高なワイドシングルタイヤを履かせるのがもったいないと思うようです。ワイドシングルタイヤより)
何よりもタイヤの安全度を上げてパンクのリスクを減らせばいい。トータルコストはホイールのコストも考えれば原理的には抑えられるはずだ。その分仕業点検を厳しくすればよい。
1輪パンクしても良いからと、古いタイヤで済ますなど、そもそもが以ての外だ。

こういう「改善」は日本人の最も得意なところだ。世界のタイア生産シェアーをさらに増やすことになるだろう。それが未だにミシェランの後塵を拝しているとはまったくもって情けない。

どうして利潤第一主義になって、シェアーを争おうとしないのか、どうして新規投資でなく内部留保と自社株買いにばかり走るのか。どうしてそんな総務畑出資者ばかりを幹部に据えるのか。

どうして経産省は見て見ぬふりを続けているのか。もっとリスクテイクしろよ。

北海道に穂別という町がある。正確に言えばあったということになる。平成の大合併で隣のむかわ町に合併された。

この町に恐竜博物館があって、これも正確に言うと恐竜ではなく水中に暮らした爬虫類らしいのだが、先日そこに見学に行ってきた。

小さな町には不似合いな立派な建物だが、見学者はほとんどいない。いずれ恐竜のように絶滅するのであろうか。

その博物館の受付で古老が語る穂別昔ばなしみたいな本があって、何気なく手にとってパラパラとめくったところ、これが意外と面白い。

つい買ってしまい、家で読み始めた。面白いと言ってもA5(全書版)で400ページの大著だ。途中で流石に飽きてきた。

一体何でこの本が面白いのか、いろいろ考えてみたが、結局これはガルシア・マルケスの「百年の孤独」なのだと思い至った。

1.アイヌ先住民

穂別の町は鵡川という川沿いに長く伸びている。明治に入るまでは川沿いにいくつかのアイヌ人集落があって、半農半漁、自給自足の生活を送っていた。とはいうものの、ほぼ無人の野と言ってよい。

なにせ理由は不明だが江戸中期からアイヌ人の人口はどんどん減って、明治に入ると全道でも数万というくらいだったから、アイヌの社会を征服して植民地化したと言うには程遠いものだった。

2.食い詰め者の群れ

町の歴史の最初はハグレモノの進入に始まる。ほとんどが食い詰め者かダマサれて来た人たちだ。明治40年ころの話だ。

最初は鵡川の下流の方から入ってきた。この人たちは押し出されていやいや入ってきた人たちだから、入り込みのスピードは遅かった。

ついで夕張から峠を越えて入ってきた。夕張がそもそも炭鉱で人が増えた流れ者の街である。山の向こうなら土地も豊かで食っていけるという風のうわさに乗ってしまうものがたくさんいた。夕張からの流れ、食い詰め者の流れが優勢となった。

この本のすごいのは、その人達(1900~1910年ころの生まれ)が健在(1990年現在)で、淡々とその苦労を語っていることだ。

その生き方は、突き放して言ってしまうと、人間と言うよりまるで虫けらのいのちだ。それが土地にしがみついて、黙々と働き続ける。しかしそういういのちは積み上がっていくのではなく、次々と入ってきては、そのほとんどが次々と消耗していくかのようだ。

何年かに1回は冷害がやってくる。その間に日照りがあり、洪水がある。焼畑農業は数年で地面が痩せてダメになる。住居・衛生環境は最悪で医療アクセスもほとんど期待できない。

災厄があり、病気があり、怪我があり、そのたびに人々は食い詰めて、街を出ていくか野垂れ死にしていくのだ。

それでも、しがみついて生きていく人もいる。子供の代には何かしら良くなるのではないかと思って頑張る。しかしその夢が叶うことはない。子供の代にも貧困はつきまとう。

ただ子供の代の人々は初代の獣のような生活に比べればよほど人間らしい。教育の力である。入植者がいかに学校教育を希望の糧としたか、その思いが切々と伝わってくる。そしてこの二代目たちが街の骨格を形成する。

3.町に凄まじい変革の嵐が襲う

鵡川の河口の方から鉄道線が伸びてきた。そうすると移出用の作物づくりが始まる。種子から灌漑設備、肥料・農薬と金もかかるようになる。当然町の中に金持ちが出現し、彼のもとで働く小作人も出現する。

こんな山の中に鉄道がどんどん入り込んできたのは、鉱物資源のためである。線路は国鉄ではなく炭鉱会社ものであった。

穂別の北部・西部は夕張から続く石炭の鉱脈であった。一方東部には日本国内で最大のクロームの鉱脈が連なっていた。石油の油田すらあった。

もちろん木材も伐採されたし、その後の二次林では木炭づくりも行われた。

これにより典型的な北海道の地方都市の体裁が、こじんまりと育ったのである。

4.沈滞から滅亡へ

この繁栄期は大正10年(1921)ころから、第二次大戦を挟んで昭和40年(1965年)ころまで続いた。

穂別は近辺一帯では豊かな街だった。町を鵡川とこれに並走する国鉄線が縦貫していた。穂別炭鉱、茂別炭鉱に新登川炭鉱、富内周辺のいくつかのクロム鉱はほかの街にはないものだった。石油は穂別炭鉱に近いところで採掘され、一時期は灯油として町内に供給されたこともある。
農業も稲里・長和の稲作は豊かな実りを与えた。夏の夜はホタルが乱舞した。豊田から仁和に至る鵡川沿いにも洪水さえなければ実りが期待できた。和泉の河岸段丘ではホワイトアスパラが全道ブランドとなっていった。

北海道はすべて昭和40年が境目である。すでに閉山の動きは始まっていた。農業構造改善と減反の嵐も始まっていた。北洋漁業の減船はもう少しあとのことになる。
すでに出稼ぎは長期化し、挙家離村の動きも始まっていた。

この頃から、私の穂別でのセツルメント活動が始まる。町には古い貧困と新しい貧困が重畳していた。

それまでの貧しさとは違い、先見えないひたすら沈殿していく貧しさがそこにはあった。

戦後生まれが三代目としてあとを継ぐはずであったが、彼らはすべて町を離れた。鉄道が廃止になり炭鉱やクローム鉱がすべて閉鎖され、林業が不採算となった今、そこに生きる縁はなかった。

2代目は跡継ぎを失ったまま齢を重ね、その土に帰る他になくなった。

今その作業がほぼ終了しつつある。


イタリアのレジスタンス闘争について勉強したが、フランスに比べても資料は少ない。
権力関係は上下・左右・南北と入り組んでいて、誰が敵で誰が味方かは見方によって変わってくる。
また最近ではイタリア共産党の消滅によって、歴史修正主義が台頭する傾向にある。
まずはとにかく客観的事実を並べて、その上で第二次大戦の含有する歴史的価値観、すなわち立憲リベラル思想と共和主義、さらに民主主義の視点から大づかみに評価すべきであろう。
以前、フランスのレジスタンスについて学んだ。その前にスペイン人民戦線についてもかなり深く学んだ。これらとの共通性と違いに留意しながら総括することも大事な視点だ。
比較という意味ではチトーに率いられたユーゴスラビアのパルチザン闘争、さらにギリシャの武装闘争も学ばなければならないが、これらに関する資料はさらに少ない。
ということで、とりあえずはフランスのレジスタンスを念頭に置きながら共通性を分析してみたい。
1.反ファシズム闘争
イタリアの戦いこそ文字通りファシズムとの直接対決であり、統一戦線の戦いであった。
ファシズムは反立憲主義であり、反共和主義であり、反民主主義である。エマヌエル国王とバドリオによる反ファシスト政権は反共和主義であり、反民主主義であるが、立憲主義であった。したがって反ファシズム統一戦線は、何よりも立憲思想によるファシズム独裁の政治的包囲であった。
2.外国の支配からの解放の戦い
世界の敵となったナチス・ドイツ。その直接支配を受けたものがこれを排除する、という民族的性格を担った闘争であった。(この性格はユーゴ・ギリシャの闘いではより顕著である)
3.左翼が中核を担う戦い
政治勢力として共産党と急進的労働運動が中心を担った。ファシスト支配下の43年3月、トリノから拡大した労働者の経済要求闘争が展望を指し示した、共産党の闘いなしに情勢は切り開けなかった。ソ連が支持・支援したからというのは、共産党が圧倒的支持を獲得した理由にはならない。(逆の理由にはなっても…)
4.連合軍勢力と結合した戦い
もともと米英両国が民主的な国というわけでもないし、左翼に対してはむしろ敵対的感情を抱く国々である。これらの国に反ファシズムの立場を貫かせることは、それ自体が政治闘争である。
戦争中はこれに成功し、戦後は野合することなく原則を貫いた。と私は評価する。
5.スターリンと一線を画する戦い
フランス共産党のトレーズは「人民の子」というキャッチフレーズで売り出したが、トレーズもトリアッチも紛うことなき「スターリンの子」であり、大粛清時代を生き残ったという“後ろ暗い過去”を引き摺っている。
にも拘らず、大衆の支持に支えられて幾多の政治的判断を自力で行った。スターリンもあえてそれには干渉しなかった。しかしそのような “慣れ合い” がほんとうに良かったのかどうかはわからない。

昨日、上原彩子さんのリサイタルに行ってきました。
どこからどういうふうに金が出ているのかわからないが、とにかくめっぽうコストパフォーマンスのいいリサイタルでした。
札幌の隣町、北広島市で行われた演奏会ですが、土曜のマチネーで3千円です。隣町と言っても私の家からはとても近くて、車で1時間足らずでつきます。おまけに会場入口でスタンプを押してもらうと駐車料金がただなのです。
ふつう札幌中心部のホールに行けばタクシー代だけで往復6千円はかかるので、まことにありがたい話です。
それで演奏のほうですが、ドビュッシーの前奏曲第一と喜びの島、シューマンの子供の情景とリストの愛の夢、そして休憩後にリストの巡礼の年から「ダンテを読んで」とつながっています。
上原さんの売りは日本人初のチャイコフスキー・コンクール優勝者ということにつきます。流石にそれだけのことはあって、指回り、タッチいずれも見事なものでした。
ただ、演奏はあまり面白くはないのです。
なぜだろうと、天井を仰ぎながら考えていました。なにかリズム感がないのです。アンコールにやったくるみ割り人形の「花のワルツ」はおはこなのだろうと思いますが、どうもワルツには聞こえない。一方で「子供の情景」はメロディーラインが和音に埋もれてしまうのです。
私は音楽というのはメロディーがまずあって、それにコードが付いて曲になると思っているので、メロディーが聞こえない演奏は好きになれません。
もう一つリズムですが、こちらは音楽にとって必須ではありませんが、「ノリ」はとても大事だろうと思います。ワルツがワルツに聞こえないというのは、やはり相当問題があるのではないでしょうか。
ロシア人は一般的にリズムがだめな人が多いです。韓国の演奏家は一体にノリが良く、グルーヴ感を持っています。
日本人はどうなんでしょうか。結構いい人もいると思いますが、上原さんは若干問題がありそうな気がします。
もっと歌ってほしいと思います。そして体で踊ってほしいと思います。
そういうわけで、CDのサインセールは申し訳ないが遠慮させていただきました。

「忙しい何日間」という思考単位がある。
色んな人とあって、いろんな事実を知って、いろんなことを経験した。
それを納得するためにはもう一回り勉強しなければならないということがわかって、一方ではそんな経験に打ちのめされてヘトヘトになって、歳のせいで回復力が遅いからズルズルともう何日間という日が過ぎていいく。
若い時なら、こういうことは経験値として積み上げられ肥やしになっていくのだろうが、高齢化して精神的なスタミナと記憶力とが同時に落ちていく時代に入ると、ただの「骨折り損のくたびれ儲け」ということになる。余分なことはしないほうが良いのかもしれない。
ただそれを振り返っておくことだけは間違いなく良いことだろうと思う。そこで、この1週間を書き留めておくことにする。
11日の国際部会での議論。
いろいろな人がいろいろな発言をしたが、私の発言は次のこと。
1.リーマンショックから10周年立ったが、それは終わっていない。ねずみ花火みたいに彼方此方跳ね飛びながら、まだ続いている。これがわからないと、今の世界、これからの世界は読み解けない。
2.トランプの政策はすべて反オバマで貫かれている。だからオバマ政策の吟味が必要だ。オバマドクトリンというのは半分はリベラルな素敵な政策だ。残りの半分はエスタブリッシュメントの政策の焼き直しに過ぎない。トランプはそのうちのどちらに反抗しているのか。
議論の中で、アメリカ・ヨーロッパでのリベラル派の動きについて評価を求める意見があった。なかには「連帯」の相手をそちらにすべきではないかという声もあった。
私は、ずるいことに、あるときは、サンダース・コービン・メランションを一体として論じるべきと行った。別なときには、それぞれの特殊性を踏まえないといけないと言った。
そこをもっと説得力を持って語らなければならない。

じつは他にも話がある。久しぶりに天気が良いので、穂別まで行ってきた。恐竜の骨格が掘り出されたので大変夢のとこ度である穂別は学生時代に農村セツルで何回も入ったところなのでその思いもある。

ということで、ものすごいでかい問題意識が残ってしまった。
まずはとにかく書くだけ書いておこう。







イタリア解放闘争(Combattimento della Resistenza Italiana)
言い方は定まってはいない。パルチザンだけでは意味が狭いので、使われない傾向にある。
ネットで使用できる資料は英語もふくめ限られている。
Flag_of_Italian_Committee_of_National_Liberation
  イタリア民族解放委員会の旗


42年に行動党、社会党、キリスト教民主党が相次いで結成された。(いずれも非合法。社会党は再建)
1943年
3月 北イタリア各地の工場でストライキ闘争に勝利。経済要求に基づくものだったが、共産党の影響力が強まる。

43年7月
7月24日 ファシスト党の評議会が開催される。党幹部グランディによる「統帥権と憲法上の大権の国王への返還」の動議が可決され、ムッソリーニが解任される。

7月25日 ムッソリーニは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に謁見し報告。その場で身柄を拘束され、ティレニア海の島に逮捕・監禁される。

7月25日 エマヌエーレ3世の指名を受け、パドリオ元帥が首相となる。バドリオは欧州大戦参戦に反対し、すべての職を辞していた。

7月26日 バドリオは就任演説で「戦争は依然続く」と述べる。

7月28日 エマヌエーレ3世、バドリオに対して休戦交渉の密勅を下す。国王の意向を受けたバドリオは、圧倒的に優勢な敵軍に対して対等な戦いをこれ以上続ける事は不可能と判断。

7月29日 ドイツはムッソリーニ支持の立場を明らかにする。ヒトラーはバドリオの寝返りを警戒し、オーストリア国境のブレンナー峠にドイツ軍を集結させローマ進駐の準備を進める。

7月31日 バドリオ政府、連合国側に特使を送り、秘密裏の休戦交渉を開始。

43年8月
8月17日 連合軍、シチリア島の解放を完了。島民は「イタリア万歳、国王万歳」を叫び街に繰り出したとされる。

8月17日 ドイツ軍はピサ・リミニの線を最終防衛線に設定。それより南はいざというときは放棄する戦略をとる。防衛線以北をロンメル将軍が統帥し、以南の作戦はケッセルリンクに委ねられる。

8月 連合軍、バドリオに終戦圧力を掛けるためトリノとミラノに激しい空爆。数千人の犠牲者を出し,多くの家屋を居住不能にする。労働者は戦争継続反対のストライキに立ち上がる。

8月 バドリオ政権、共産主義者や無政府主義者をふくむ政治犯を解放。

43年9月
9月3日 連合軍とバドリオ政権との間に秘密休戦協定が結ばれ、ローマはジュネーヴ条約上の「無防備地域」(Non-defended localitiesとされる。発表は適切な時期まで伏せられた。

9月8日 連合軍総司令官アイゼンハワー、「イタリア政府の休戦」と「イタリア国軍の無条件降伏」を公表。バドリオ政権が休戦協定の公表をためらい続けることにしびれを切らしたたためとされる。

9月8日午後7時 バドリオ首相、連合軍と休戦交渉中であることを認めるラジオ演説。

9月9日 連合軍、イタリア本土のサレルノへの上陸作戦を開始。アヴァランチ作戦と呼ばれる。ドイツ軍は6個師団を投入し反撃。

9月9日 ヒトラーは、ドイツ軍派遣司令官ケッセルリンクにイタリア占領を命じる。ドイツ軍はジュネーヴ条約を無視しローマ市内へ進撃。これに対しカドルナ将軍に率いられたイタリア軍が応戦する。

9月9日 バドリオ政権閣僚、国王一族らは密かにローマ脱出。南部のブリンディジまで逃亡。これに代わり、ローマ市民が2日間にわたり激しい抵抗。トスカナのピオンビノ港では港湾当局がドイツ軍艦の入港を拒否。

9月9日 逃亡したバトリオ政府に代わり、「イタリア国民解放委員会」(CLN)が設立される。6つの政党より構成され、ボノミが委員長に就任。

9月10日 ドイツ軍、ローマ制圧を完了。

9月10日 ドイツ軍はサレルノの連合軍上陸部隊を追い詰めるが、激しい砲撃と降下部隊の挟撃により停滞。

9月12日 ドイツ軍、バルレタ(Barletta)に侵入し市民多数を殺害。

9月13日 ドイツ軍、ムッソリーニ救出作戦を実施。ティレニア海からグラン・サッソへと身柄を移されていたムッソリーニの身柄確保に成功。東プロイセン州ラステンブルグの総統大本営に護送する。

9月15日 米戦艦2隻がサレルノ湾に入り、艦砲射撃を開始。またドイツ軍背後を戦略爆撃で壊滅させ、補給を断絶する。ドイツ軍はサレルノ奪還を断念して後退するが、連合軍も進軍できず。

9月18日 ムッソリーニ、イタリア国営放送を通じて声明。「イタリア社会共和国」(RSI) の建国を宣言。行政府をサロに置く。サロはミラノ東方90キロ、ガルダ湖畔の町。連合国は「サロ政権」と蔑称。
サロ共和国には3つの武装組織があった。第一に正規軍、第二に全国警備隊、第三にファシスト党直属の黒色旅団である。
9月27日 ナポリで市民蜂起。4日間にわたる市街戦の末、市民がドイツ軍を撤退させ連合軍を迎え入れる。
これを描いたのが「祖国はだれのものぞ」という映画。63年制作だ。すごく感激してみたのだが、その後まったく日本では上映されず、DVDにもなっていない。Youtubeでは英語の字幕付きで全編が鑑賞可能だ。(The Four Days of Naples/Le Quattro Giornate Di Napoli" (1962) w. English subtitles
43年10月
10月13日 バドリオは日独伊三国同盟を破棄しドイツに宣戦布告する。
軍の半数近くが枢軸側での継戦を訴えるムッソリーニに呼応してRSI軍に参加した。イタリアは南北に分断された形となり内戦状態に突入した
10月 反撃に出たドイツ軍がほぼ全土を制圧。北部ロンメル元帥が、南部はケッセルリンク元帥が指揮。米82空挺師団は作戦を中止しナポリの線まで撤退。

43年11月
11.14 ファシスト共和党、ヴェローナで党大会を開催。

11月 ミラノで「女性援護グループ」が結成される。パルチザン支援を主目的とする。伝令役は捕まれば処刑される危険があった。約3万5千人の女性がパルチザンに協力。2万人が愛国章を受けている。
Italien,_Rom,_erhängte_Frau
         ローマで首を吊られた女性パルチザン

1944年
44年1月
1月 ローマ南部アンツィオ港の解放作戦が始まる。モンテ・カッシーノの戦いが4ヶ月にわたり続く。
アンツィオ大作戦を書き始めると、延々と果てしなく続くので、ここでは省略。イタリア国民の抵抗運動に絞って掲載する。
1月8日 ヴェローナ裁判が開始される。

1月 連合軍支配区を拠点に「イタリア国民解放委員会」が発展。パルチザンやレジスタンスを結集しバドリオ政権と主導権を争う。
イタリア共産党はガリバルディ旅団を組織。ほかに社会党系のマテオッティ旅団、キリスト教民主党系の自治独立旅団などが存在した。
1月31日 ミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。各地の反ファシスト政治家とパルティザンが結集。委員長にはカドルナが就任。行動党からパッリ、共産党からロンゴの二人が軍事委員として支える。

44年3月
3月 ソ連がバドリオ政権を承認。モスクワから戻ったトリアッチ書記長がバドリオ政権への参加の意志を表明する。トリアッチは反ファシズム統一戦線を提唱、政治的ゼネスト→全国民蜂起の路線を提起。

3月23日 ローマ中心部、ラセッラ通りでパルチザンの爆弾テロ。親衛隊33人が即死、70人以上が重傷を負う。ヒトラーは親衛隊員1人につき、イタリア人50人を処刑するよう指示(現地当局は10人に値切った)

3月24日 アルディアティーネ洞窟の虐殺。イタリア人政治囚335人が処刑される(5人は巻き込まれ犠牲者)。犠牲者のうち75人がユダヤ人。さらにローマの収容所内のユダヤ人1千人がドイツの収容所に送られた)

4月22日 「ローマ協定」が締結される。これを受け、国民解放委員会も加わった国民統一政府が樹立。

44年5月
5月 RSI政府の国防相グラツィアーニ、パルチザン数は北部トスカーナからエミリア地方を中心に7万~8万人に達すると語る。
ドイツ軍がパルチザン掃討にのり出した結果、農村はその犠牲となり、反独感情が高まった。国民解放地方委員会に所属しパルチザンの支持を受けるか、独自の武装組織を結成して抵抗を始めた。
5月 ローマの最後の防衛線カイザー線が連合軍により突破される。

44年6月

6月5日 ローマ、連合軍に解放される。
ロッセリーニの「無防備都市」(Roma Citta Aperta)はこの間の戦いを描いたもの、ローマ解放直後から撮影が開始され、1年後に完成・公開された。
6月9日 バドリオ政権がローマ入り。この後、バドリオら政府閣僚が総辞職。ボノーミ臨時政権が樹立される。エマヌエーレ3世も退陣しウンベルト王太子を摂政とする。
イヴァノエ・ボノーミは改良社会主義党総裁で、ムソリーニの前の首相をつとめた。43年7月に国民解放委員会議長に就任している。
6月18日 ボノーミは正式にイタリア王国首相に就任し、内務大臣や外務大臣をも兼任する。

6月19日 正規軍とは別に自由義勇軍が創設され、武装抵抗運動を束ねる。国軍反ファシスト派のラファエレ・カドルナ将軍が司令官となる。

6月 北部の武装パルチザンが「北イタリア国民解放委員会」(ミラノ)に統一され,旧軍人と活動家が合流する。諸政党の協力が進む。(行動党,プロレタリア統一社会党,共産党,キリスト教民主党,自由党,労働民主党の6政党)
北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。
44年7月
7月 連合軍、ピサからフィレンツェにかけてのアルノ・ライン(ゴシックラインより南方30キロの防衛線)に到達。

ゴシック線 イタリア

7月 ボノミ政権内にファシズム粛清高等委員会が設立される。

44年8月
8月11日 フィレンツェが陥落。その後連合軍主力は南フランス上陸作戦にうつり、9月以降ゴシック線を境に戦線は膠着。
Florence,_14_August_1944
   8月14日 フローレンスにて(首に巻いたスカーフの色が自慢だった)
8月11日 カドルナ将軍、パルティザン活動を統括・指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下する。

8月 ミラノのロレート広場で政治犯15名が公開処刑。(後にこの広場にムソリーニの遺体が吊るされる)

8月 ボノミ首相、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡。
戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないと断言。北イタリア委員会を「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」と位置づけ、密接な協調をはかる。「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限」を付与する。
9月26日 米第88歩兵師団の3個中隊とパルチザン250人が、ドイツ第290連隊の守る基地を奇襲攻撃。攻略に成功。

44年9月
9月29日 アペニン山脈内のマルツァボット村でドイツ軍による住民虐殺事件が発生。1,836人が殺害される。(この数字は誇張されている可能性あり、最近の記載ではボローニャ近郊の人口7千人のかなり大きな村だ。犠牲者は771人で、内216人が子どもとされる)
中北部農村では集団虐殺が繰り返された。Sant'Anna di Stazzemaの虐殺では560人、マルツァボット虐殺で770人、サルソーラでは20人のゲリラ兵が拷問の後、報復として虐殺された。
9月 このころポー河の渓谷には、モンテ・フィオーリ、オッソラなど15余りのパルチザン共和国が誕生していた。最大のパルチザン集団はガリバルディ旅団(共産党系)で、都市では「愛国行動隊」の名でゲリラ戦を展開。(YoutubeのBella Ciao - Italian Partisans Songという動画が当時の雰囲気を伝えている)

ガリバルディ旅団
             ガリバルディ旅団
ドイツ軍が青年たちを捕まえてドイツへ送り強制労働に就かせていた。部隊は満足な武器もないのに、平野から来た志願者で膨れ上がっていた。
11月25日 ボノミ政権が総辞職。2週間後に第二次ボノミ政権が発足。

1945年
45年1月
1月 連合軍が攻撃を再開。ゴシック線を突破する。ドイツ軍はあらたに「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続ける。

45年4月
4月 ドイツC軍とムソリーニ軍はポー川ラインにまで戦線を後退。

4月19日 CLNが北部主要都市での総蜂起を呼びかける。 

4月19日 ボローニャで攻撃が開始される。
都市ゲリラ イタリア
都市ゲリラ
              ゲリラによる市街戦
4月21日 ボローニャ解放作戦が完了。連合軍司令部の指示の下にパルチザンとポーランド軍2軍団が加わる。1万7210名がパルチザンに参加し、そのうち2064人が殺される。

4月23日 トリノとミラノでゼネストが始まる。

4月24日  パルマとレッジョエミリアが解放される。

4月25日 ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。ムッソリーニはドイツへの逃亡を図る。
女性戦士
     女性ゲリラ戦士
4月27日 ジェノバのドイツ軍が降伏。14,000人以上が捕虜となる。

4月28日 ドイツに向け逃亡中のムッソリーニを捕え,処刑。ミラノなど北部の主要都市すべて解放されたため、解放記念日とされる。

パルチザン凱旋 イタリア
            山岳パルチザンの凱旋
20ヵ月の解放闘争で参加者は 25万人。そのうち戦死者は3万 5000人をこえる。虐殺された市民は1万5千人に達し、その多くが婦女子であった。
4月29日 ドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホフが連合軍に休戦を申しいれ。最終降伏は5月2日。

「医者のくせに」と言われると困るのだが、いまだに「自閉症」という病気がよくわからない。
一応基礎知識として調べておく。

ウィキペディアより「自閉症」
自閉症(Autism)はDSM-IVでは広汎性発達障害(PDD)の一種の自閉性障害(Autistic Disorder)として記載されていた。DSM-Vでは自閉症という障害名は廃止され、自閉スペクトラム症に一括されたが、WHOではまだ使っている。
自閉症の基本的特徴は、3歳位までに表れる。
1.対人反応の障害
2.意思伝達の障害 
3.興味範囲の限局
自閉症は1000人あたり約1〜2人に出現。男女比は5:1。
正常者との間に段階的移行があり自閉症スペクトラムと呼ばれる。
日本での発症率はきわめて高い。
分類は覚えないほうがいい。始終変わるし、非本質的である。疾患概念を広げる方向での分類法は、より恣意的傾向を強める可能性があると思う。

疫学的特徴
父親が40歳以上の場合、30歳未満の約6倍で〜39歳の1.5倍以上であった。母親の年齢は関係なし。(Arch Gen Psychiatry. 63 (9): 1026-1032)
妊娠中にデパケン、SSRIを使用するとリスクが増大する。
虐待や過保護、「テレビの見せすぎ」が原因との認識は明確に否定されている。水銀などの重金属の蓄積が原因だとする説も否定されている。MMRワクチンが自閉症の原因とする論文は捏造であると発覚した。
自閉症スペクトラム指数テストの10の質問で6項目該当すれば「疑い診断」となる。膨大な鑑別疾患があり、こちらのほうがはるかに難しい。「ゴミ箱病名」の典型である。

病気の本態
目下のところ私の独断ではあるが、「自閉症」という範疇にふくまれる諸疾患は、脳の器質的病変にもとづく発達障害であろう。その原因は出生時あるいは生下後の微細脳損傷にもとづくものではないだろうか。つまりそれは非遺伝性で、したがって遺伝的素因が強く関与する統合失調とは別の病気であると思う。我々内科医が遭遇する脳血管障害にもとづく高次脳機能障害と同じ機序が働いているように思える。自閉症にスペクトラムがあるのではなく、脳障害の表現型にスペクトラムがあるのだ。
私にはどうも脳疾患の気がしてならない。聴覚制失語の一亜型みたいだ。部位的には側頭葉の聴覚性言語と頭頂葉の時間感覚の統合野辺りの皮質下だろう。
微細脳損傷や脳発育過程の障害、あるいは遺伝子損傷など要するに器質的疾患の可能性が拭えない印象だが、どうなのだろうか。

なぜ自閉症と呼ばなくてはならないのか
この病名の不幸な生い立ちのことも考えると、また統合失調との密かな混同も考えると、アメリカ精神医学会が「この病名は捨てたほうがいい」と考えていることに同感する。
日本語で「自閉症」といえば、世間的には「引きこもり」のように聞こえる。しかしこれはまったく違う病気である。混同を我慢してまで、あえて使う用語とも思えない。
にもかかわらず、これだけ広範に国内外に流布しているのは、この病名をつけられた母親の必死の思いが反映しているからだ。そして需要のあるところ「科学」が生まれ、それで食っていく輩がいるからだ。私はソシュール言語学やフロイトの精神分析学で同じようなメカニズムを観察した経験がある。

そんな「自閉症」の生い立ちを、例によって年表方式で見ていくことにする。


1943年 アメリカの児童精神科医レオ・カナー(Leo Kanner)が早期幼児自閉症」として報告。統合失調が幼児期に発症したものと考えた。「自閉」という言葉は、もともと統合失調の一症状を表す用語である。

1943年 レオ・カナー、自閉症児の母親に温かさや愛情が欠けていると発言。

1949年 レオ・カナー、自閉症が「生来的な母親の愛情の欠如」に関係している可能性があると示唆。

1944年 オーストリアの小児科医ハンス・アスペルガー、現在の高機能自閉症に当たる症例を報告。
この論文は79年に発掘されるまでずっと埋もれていた。

1950年代 ブルーノ・ベッテルハイム、自閉症は母親の愛情不足によるものだと非難。「冷蔵庫マザー」理論と呼ばれる。
ベッテルハイムはユダヤ人収容所にいたあと、アメリカに亡命。小児心理学の専門家という経歴詐称でシカゴ大学の精神分析の教授に上り詰めた。後年セクハラをきっかけに経歴がばれ自殺。
1960年 レオ・カナー、『タイム』のインタビューで、自閉症児の親たちは「たまたま子供を産むのに十分な温かみがあっただけ」と中傷。

1962年 ローナ・ウィングら、英国自閉症協会を設立。娘が自閉症だった。

1964年 バーナード・リムランド(Rimland)が『小児自閉症-行動神経理論に対するその症候群と暗示』を発表。「冷蔵庫マザー」の仮説を批判。リムランドは自閉症の息子を持つ心理学者であった。

1965年 リムランド、アメリカ自閉症協会を設立。

1967年 ベッテルハイムは『うつろな砦-小児自閉症と自己の起源』を発表。自閉症児と強制収容所に入れられた囚人を比較し、「子供には過去に人格を十分に発達する機会がまったくなかった」という結論を引き出す。

1967年 リムランド、自閉症研究学会を創設し、会長に就任。
リムランドの家系調査はかなりの逆偏見に満ちている。①第一子が多い ②男児が多い ③ユダヤ人の子どもに出現率が高い ④両親は専門的管理的職業が多い ⑤家族には精神疾患の発生率が非常に低い ⑥傑出した親戚が多い ⑦外見が魅惑的である
1968年 イギリスの児童精神科医マイケル・ラターが事変症の主体を言語認知障害と主張。自閉症理論の主役となる。

1969年 「アメリカ自閉症協会」の最初の年次大会。来賓として出席したカナーは、「私は自閉症が『先天的なもの』だと言ってきたが、『全ては親のせいだ』と引用されてしまった」と弁解し、事実上「冷蔵庫マザー」を否定。

1979年 ローナ・ウィング、自閉症の人が持つ特徴として「ウィングの3つ組」を提唱。(社会性、交流、想像力)

1981年 アスペルガーの論文がローナ・ウィングの手で英訳・再発表される。高機能自閉症の存在が周知される。(アスペルガーは80年に死去)

1986 社会学者の上野千鶴子、「マザコン少年の末路 : 女と男の未来」を発表。母子密着の病理として自閉症を取り上げ、批判を浴びる。

1988年 映画「レインマン」が制作される。リムランド親子はアドバイザーとなる。(ただし彼が次々と振りまいた網様体病変説や水銀・重金属・ワクチン原因説は証明されていない)


とにかく「自閉症論」の世界は、非学問的な非平和的な党派的な戦士で満ちているのである。


「日本人はどこから来たのか」
海部陽介著 文藝春秋社 2016年

この手の本としてはきわめて新しい。ほとんどの本が2003~2005年に集中して出版されて、その後はほとんど新たなものが出てこない。
そういう意味では干天の慈雨的なありがたみを感じる。
文章はきわめて明快で割り切った書き方になっている。分かりやすいといえば分かりやすいのだが、「そこまで言って委員会」的な雰囲気も漂う。
とくにY染色体ハプロについてまったく触れられないのは奇妙な感じがする。この分野の蓄積がこの15年間、まったく止まっているのも気がかりである。

問題意識は日本人だけでなく、アジア人がどこから来たのかにあるという。
とくに欧米での通説が南方由来説一辺倒になっていて、ゲノム分析以前の日本での研究蓄積が示す北方由来説を無視することに異議を唱えている。

第二には、4万8千年~4万5千年前にペルシャ湾岸から西方、北方、東方へ一斉に人々が進出したというビッグバン説と、それに1万年遅れで日本をふくむ東アジアへの人口進出があったという説とを一連のセットとして見る考えだ。

これについては同感である。

さらに2万年前ころにおそらく南方から漢民族や長江人につながる人々が進出したこと、その中でより北方に進出した漢民族が長江人を駆逐し中原を支配したこと、追われた長江人が日本に逃れ縄文人と混血して日本人を形成したこともおそらく同感できるのではないか。

次に日本人の3つの源流ということだが、海部さんが力を入れていると思われる南方ルートは、港川人などが現代沖縄人とつながっている根拠が乏しいので、現時点では「かつて住んでいた人」という扱いになるのではないか。

海部さんの説では最初に列島入りしたのは朝鮮半島経由の人々で、3万8千年前。そのあと北から入ってきたということになっているが根拠は不明。

3ルート

ツングース系(YハプロのC1系)の人々が対馬海峡を越えて西日本と日本海沿いに分布したことは間違いないのだが、それが樺太経由の縄文人(D2系)に先んじていたかどうかはわからない。

海部さんの本では根拠が示されていないと思う。


教育テレビの「サイエンス・アイ」は私のお好み番組で、毎回ビデオにとって楽しんでいる。
(現在はビデオにとるとは言わないだろうが、何というのだろう)
4月から構成やスタッフが変わり、一層面白くなった。女性ナビゲータの感度が良くなったのが魅力である。
最近の番組でテヅルモヅルの話があって、非常に面白そうなのに、途中からクラウド・ファンディングの話になってしまった。
仕方がないのでネットでテヅルモヅルを検索したが、昭和天皇がコレクターだったという話ばかりでさほど面白いわけではない。
結局、テヅルモヅルの話を面白くさせているのは、この岡西さんという研究者のキャラなのだろうと思い当たる。もちろんファンディングを集めるのだから、自分の研究の意義とかユニークさとか面白さをアピールしなければならないのだが、そのアピールの仕方、“目の付け所”が面白いのである。
岡西さんはテヅルモヅルの研究を風変わりな研究ではなく、“基礎研究”と位置づける。そのことによって、“基礎研究とはなにか”という問いかけをしている。
医者の世界では医学というのは臨床と基礎に分かれる。人間を扱い、病気の診断と治療をするのが臨床医学で、人体の仕組みや働きを研究するのが基礎医学だと考えてきた。
しかし研究の方法論という観点から見ると、そういう構造的な観点からだけ基礎科学を見るのが正しいのだろうかと思える。
むしろ認識過程の問題として事実を収集整理することこそが基礎科学ではないのだろうか、とも思えるのである。
科学はリンネより始まる。
収集し、整理し、統合する過程というのはある意味でひらめきなど必要ない世界である。飽くなき興味と愚鈍な執念とが織りなす世界である。たぶんそれに加えてカネとヒマが必要であろう。
ひらめきはこの作業の中で生まれてくる。このひらめきは膨大な作業の中から生まれてくるから、重要で応用が効くものである。
ということで、少し岡西さんの弁に耳を傾けるとしよう。


『ヴァーチャル生物学入門』というサイトの掲示板に質問が書き込まれていて、回答者が一生懸命各分野の専門家の意見を聞いて答えている。
ゾウリムシの走電性について知りたいのですが・・・。どうして電気を流すとマイナスに移動するのですか?繊毛の動きから 考えたらくるくる回りそうなのに。…どうも納得いかなくて…
みんな一生懸命答えているようなのだが、要領を得ない答えばかりだ。
私ごときに答えられるわけはないのだが、回答者が見落としているポイントが一つありそうに思える。
それは、繊毛運動が発生史的にはまず先行しているということだ。
繊毛の自動性と自立性
繊毛は細胞膜から外に突き出し、おそらくは細胞周囲の化学的環境に合わせて自発的に運動しているのだろうと思う。それを仲介しているのはケミカル・メディエータやホルモンだろう。
後から細胞膜のナトリウムチャネルなどが生まれ、脱分極現象が生まれるようになった。これはスピードが圧倒的に早いので、必要があればしばしば繊毛の自律運動に介入する。
ただし繊毛運動を支配するわけではないし、監視するわけでもない。必要なときにアラームを鳴らすだけだ。
方向転換や逃避反応は電流により起こるのではなく、両者の合成力として、たまさか起こるのであろう。
「一定の刺激を与えると一定の方向へ動く」ことが勘所
この質問でいうと「電気を流すとマイナスに移動する」のではなく「一定の刺激を与えると一定の方向へと動くこと、動く際にもそこに一定の安定性が自動的に担保されていること」が勘所なのではないかと思う。
だから回答にあった、脱分極と過分極というのにはちょっと疑問があって、脱分極だけで十分話しが通じるのではないかと思う。

以下は、「JT生命誌」に掲載された西川 伸一「動物と神経の誕生」の抄録である。
短文ながら非常に深い弁証法をふくんでおり感銘した。

神経細胞はいつから?

神経細胞は動物、すなわち動く能力を持った多細胞生物の誕生とともに生まれてきた。(「動く」というのは「移動する」と言うべきだろう)

現存の多細胞生物のうち、海綿動物とセンモウヒラムシには、いわゆる神経細胞は存在しない。

ただし、ゲノム系統樹から見ると、ヒラムシや海綿にも最初は神経細胞が存在し、その後神経細胞を退化させた可能性がある。

神経細胞に必須であるナトリウムチャンネルは、クシクラゲと左右相称動物がそれぞれ独自に発生させた可能性もある。

想定される神経細胞の始源

最初の神経の形態は、現代の神経細胞よりは、もっと普通の細胞に近かったのではないか。ただそれは、外界からの刺激に反応し、その興奮を他の細胞に伝達する能力を備えていたのであろう。
つまりそれは①刺激反応性、②刺激→情報(電流)転換系、③情報伝達力の三点セットである

“興奮性の細胞”は筋細胞と近い関係にある。興奮性細胞系列は一部が神経細胞となり、一部が興奮を力に変える筋肉細胞へと発展した。
神経と筋肉は動物の誕生とほぼ同時に出現している。

その共通の特徴は、細胞の興奮に必要なイオン勾配の維持機能、そのイオンを選択的に通過させ膜電位を発生させるイオンチャンネル、そして興奮を他の細胞へ伝える化学システムにある。

光受容システム

以上は興奮伝達システムの発生学だが、これとは別に別種の情報をいかに神経に乗る情報に変換するかという問題がある。先程の三点セットで言うと、①と②の部分に相当する。

そのひとつが、光受容システムだ。これは必ずしも動物に限らずすべての生物に必要な機能である。
ゴカイの幼生では、
①色素細胞で吸収された光エネルギーが、
②それに結合する神経細胞により神経興奮として受容され、
③その神経細胞が、繊毛上皮とコリン作動性のコンタクトを形成し、
④これにより繊毛の動きを調節する。
Jekely et al, Nature 456, 395, 2008
光や温度、あるいは圧力などの物理変化に素早く対応することは、動物にとって死活条件となる。その際化学的シグナル分子だけでは到底追いつかない。
この神経細胞を獲得したことが動物の生物一般からの旅立ちを可能にした。

神経細胞の入口と出口
ただし、神経細胞の登場というのは、色素細胞・神経細胞のセットがゴカイの幼生で発生するということである。

入り口、つまり色素細胞における物理刺激の感知システムは、すでに単細胞生物でも見られる。
それはクラミドモナス(単細胞生物)のもつイオンチャンネルであり、チャンネルロドプシンと呼ばれる。

“④繊毛の動きを調節する”という問題は、本来は出口議論としてやらなければならない。なぜなら繊毛運動はもともと、単細胞生物にも存在する自律的なものであるからだ。それに神経細胞が干渉し、それを繊毛が受け入れることになる。

神経・筋肉の誕生の進化論的意義

神経・筋肉の誕生をふくむ生体の発達は、生物を多様な環境変化にすばやく対応できるようにした。
このことで生存する個体数は増え、生息可能な環境は多様となる。

神経や筋肉によって、動物の運動性が質及び量の面で大きく高まった。そのことで、動物は急速に地球上の様々な環境へと拡大できた。
ゲノム情報による自然選択が回避可能となり、種の選択圧は下がり、多様性が維持できるようになった。

これが神経誕生の進化論的意義である。

ナトリウム・チャンネル、つまり脱分極メカニズムが神経細胞の本態だというのは説得力がある。またそれが筋細胞においても同様であり、それらは細胞膜上のレセプターが特殊に進化した結果なのだろうと予想される。
チャネル・ロドプシンは色素タンパク質で、光が当たるとナトリウムイオンを取り込むと言われている。とりあえず飛ばしていく。

陸軍秋丸機関による経済研究の結論」 牧野邦昭(摂南大学)

1.秋丸機関の結成
太平洋戦争前、「陸軍秋丸機関」と呼ばれた組織が存在した。正式名称は「陸軍省戦争経済研究班」である。

陸軍省軍務局軍事課長の岩畔豪雄大佐を中心に組織された。

ノモンハン事件での敗戦をきっかけに、英米との戦争の経済的分析と研究を進めることを目的とした。

運営にあたったのは秋丸次朗主計中佐である。東京帝国大学経済学部に聴講生として派遣された陸軍主計官が主体となった。

秋丸中佐はブレーンとして経済学者を集め、「仮想敵国の経済戦力を詳細に分析・総合すると共に、わが方の経済的持久度を見極め」ることを目標とした。

学者グループの中心となったのは有沢広巳で、他に武村忠雄、中山伊知郎、宮川実などが集められた。

有沢や中山らにとって秋丸機関での研究は戦後に大きく役に立つものとなった。


2.秋丸機関の活動 

1940 年冬、参謀本部は 1941 年春季の対英米開戦を想定した物的国力の検討を要求した。

1941年1月、陸軍省整備局戦備課は秋丸機関の研究をもとに、

「短期戦でかつ対ソ戦を回避し得れば、対南方武力行使は可能である。しかしその後の国力は弾発力を欠き、大なる危険を伴う」と回答する。

6月6日には秋丸機関や三菱経済研究所の研究をもとに「対南方施策要綱」を策定。「綜合国防力ヲ拡充」することを目的とする。

7月に入って陸軍首脳への説明会が逐次開かれた。報告書は『英米合作経済抗戦力調査』と題されている。
『其一』、『其二』に分かれ、前者はマクロ経済分析、後者は対外関係、地理的条件、人口、各種資源、交通力や輸入力、経済構造と戦争準備、生活資料自給力、軍事費負担力、消費規正与件などの各論となっている。


3.秋丸機関の出した結論 

①アメリカの生産能力

米国の石油供給は英国の不足を補つて尚ほ余りある。
軍事物資全体で見ても、一年後にはイギリスの供給を賄い、さらに第三国向けに80億ドルの供給余力を獲得する。

②イギリスの戦闘力
イギリスは海上輸送力が致命的弱点となり「抗戦力ハ急激ニ低下スヘキコト必定」とされる。
またアメリカを速かに対独戦へ追い込み、経済力を消耗させるのも有効である。

③ドイツの戦闘力
この部分は非常に面白いので、後ほど改めて紹介する。

4.秋丸機関の歴史的性格
秋丸機関の結論は国策に沿ったものであり、進歩的性格はまったくない。
秋丸機関の研究は目的合理性を徹底的に追求するものであったが、戦争という目的そのものを疑う存在ではなかった。

5.ドイツの戦闘力

判決一

独逸の経済抗戦力は四二年より次第に低下する。
ナチス政権誕生時には多くの失業者と豊富な在庫品が存在し、企業の操業率は低かったが、…遊休生産力を活用したことで生産力は急速に拡充し、完全雇用に達し生産
力は増強されなくなった。
現在は過去の生産による軍需品ストックに頼っているが、来年からは枯渇し、経済抗戦力は低下せざるを得ない。

判決二

独逸は今後対英米長期戦に耐え得る為にはソ連の生産力を利用することが絶対に必要である。
従つて独軍部が予定する如く、対ソ戦が二ヶ月間位の短期
戦で終了し、直ちにソ連の生産力利用が可能となることが求められる。
もしそれが叶わずに長期戦となり、その利用が短期間になし得ざるならば、今次大戦の運命もおのずから決定される。
対ソ戦は徒に独逸の経済抗戦力消耗を来たし、来年度以後低下せんとする抗戦力は、一層加速度的に低下する。
その結果、、対英米長期戦遂行が全く不可能となり、世界新秩序建設の希望は失はれる。

「判決三

もしソ連生産力の利用に成功したとしても、未だそれだけでは自給態勢が完成するものではない。
南阿への進出と東亜貿易の再開、維持を必要とす。



日米開戦に至る経過を日大のアメフト騒動と重ね合わせながら考えている。
暴力が発生し容認されるには3つの段階が必要だと思う。
①まず最初は、民主主義の否定。異論の封殺による批判の自由の喪失である。
②ついで、権力構造が変質する。リテラシーが低下し人脈支配がはびこる。
③そして最後に、歯止めを失った権力者が暴走し、暴力へと国民を導く。

①異論の封殺による批判の自由の喪失
おそらく1933年が画期となろう。多喜二の虐殺に始まり宮本顕治ら共産党の幹部がほぼ一網打尽になった。その後もリベラル派の人々による抵抗は続くが、罰せられないテロにより容赦なく潰された。
②軍(統制派)の唯我独尊化
多少なりとも自由な発言は36年の2・26事件で不可能となった。軍の統制派が戒厳令のもとに参謀本部独裁体制を敷いた。永田戦略は中国進出であったから、戦線は停止するどころか一層拡大した。天皇の名のもとに権力を握ったゆえに、皇道派を上回る「皇道派」となった。
③軍の狂気化と常識派の壊滅
39年9月の欧州大戦勃発、三国同盟などありつつも常識派(民主派でもなければリベラル派でもない)が2年にわたり対米非戦の線を死守した。しかしその間に軍部の「狂気化」はますます進行し、誰にも手がつけられなくなった。そして8月の南部仏印進駐とアメリカの石油禁輸が引き金となり、9月御前会議での「国家の狂気化」に結びついた。狂気化過程での海軍の跳ね上がりは火に油を注いだが、火元ではない。
④常識派の最後の抵抗
10月、東條新政権での9月決定の見直しは、常識派の最後の抵抗(天皇の意向を背にした可能性がある)であったが完璧にスルーされた。ハル・ノートはその結果であり原因ではない。最後の可能性があったとすれば東條による粛軍であったろうが、東條自身の思想からは到底考えられない。
⑤日米戦争回避の3条件
中国人民からは到底認められるものではないにせよ、蒋介石政権は満州国を容認した。欧米列強も黙認の方向へ動いていた。ノモンハン後のソ連との関係が残ったが、満州は戦争の火種とはならなかったであろう。
しかし上海事変から南京政府に至る過程は、列強にとって看過しがたいものであった。したがって中支からの日本軍の撤退、重慶政府の承認は日本にとって避けがたいものであった。
南部仏印進駐に至ってはまさに狂気の沙汰である。援蒋ルートの遮断という理屈はもはやない。ここにいたり、日本の戦略は一変し暴走を始めた。
海を超えインドネシアに進出しその石油を確保するのが狙いということは猿でもわかる。その際打倒すべき敵はオランダということになる。これは南シナ海を挟んだフィリピンを領土とするアメリカにとって決して対岸の火事ではない。
したがって緊急度順に並べて
①南部仏印撤退(これはほぼ無条件)
②中国本土(満州を除く)からの撤退(少なくとも撤退の意思と時刻表の提示)
③重慶政府との交渉開始(南京政府との“統合”をふくめ)
はどうしても決断しなければならないのである。

どうもまことに不思議な事件だ。
事件の経過
総武線の幕張本郷駅で、痴漢が捕まり、その置換が取り調べのすきをついて逃げ出し、架線を支える電柱によじ登って立てこもった。
結局2時間後に“保護”されたのだが、なんとズボン、靴下を脱いで下半身はパンツ一丁という、中途半端にハレンチな状態で2時間も頑張ったのだと言う。
男の立てこもった電柱は、電車に電気を送る電線がむき出しではりめぐされ、触れば即死という環境。助かったのは何よりだった。被害者には申し訳ないが死んで許しを請うほどの罪ではない。
よじ登ったのが土曜の夜10時、“保護”されたのが12時と言うから、居合わせた人には大迷惑ではあるが、仕事に差し支える時間ではないから、「まぁ、飲み直そうか」ということかな。
推定される発症機序
発症の機序はおそらくパニック障害で、逃避反応として説明できる。ベースのメンタルには解離性人格障害(むかしで言うヒステリー)があったのだろう。
しかしそれだけで済ませられるかというところが大問題だ。
第一に、「痴漢として捕まった」ことが、瞬間に人格を崩壊させるような強烈なストレッサーになりうるということを示す症例だ。
非常に珍しいケースで、しかも社会病理の一現象の可能性があって、「東京という大環境」抜きには現れない反応ではないか。
第二に、無意識のうちに下着を脱いでしまうというのは、20年くらい前に有名な男性タレントが酩酊して公園で裸になり、警察のお世話になったという事件があった。 別に露出狂というのではなく、人に見せるというのでなく、脱いでみたくなるという意識下の欲望というのがあるのかもしれない。
考察されるべき事件の特殊性
ということで、今回の事件の興味は痴漢行為で捕まった時の心理状態に、他の状況とは異なる特殊性があるのかということ。 もう一つは脱衣行為というのが逃避反応(憑依)の一型としてあり得るのかということである。
これからワイドショーでやるだろうから、少し注意してみておこう。


文献を探していて、面白いサイトにぶつかった。
その中の一編「第34回 日米開戦へ ハル・ノート」と題されている。


もちろん原著にあたってもらえべよいのだが、このページのなかの一部、
東條内閣が発足して、「国策再検討会議」が開かれたというくだりに興味がそそられる。
この会議は「大本営政府連絡会議」という形で10月23日から30日までぶっ通しで開かれたらしい。
ここは別途紹介する価値があると思い、引用させていただく次第である。

1.なぜ会議が組織されたか
東條は開戦派の一員と目されていた。木戸は東條に組閣させるにあたり、9月6日の御前会議の再考を促した。そしてそれが天皇の意向によるものであることを強調した。
いわば「毒をもって毒を制する」以外に日米開戦の回避策はないと考えたようである。

2.会議の始まり
第1回会議(23日)
永野(海軍軍令部総長)は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」と発言。
杉山元(陸軍参謀総長)も「4日も5日も、研究ばかりして費や
せない。今すぐ前進しなければならない」と語った。
ここで東條が統帥部を抑える発言。「統帥部が急いでいるのはわかるが、政府はもっと慎重に、責任ある態度で決定したい。統帥部はこれに反対するのか」

これで会議は本題に入っていくことになる。

3.会議の最初は欧州戦局の見通し
6月の独ソ戦勃発当時の判断は楽観的すぎた。修正が必要だ。
との提起があり「欧州戦線は当初見込みより長期戦になる。独軍の英本土上陸作戦も当分は行われないだろう」と修正された。
しかし「独軍優勢」は変わらず「ドイツ不敗」とされた。

4.日本の石油受給の判断
まず石油受給見通し。
石油貯蔵量は840万トンに達している。
海軍が作戦行動をすると2年間でストックを使い切る見通し。
それに対する対策がひどい。思わずため息が出る。
「スマトラ、ボルネオの蘭印油田地帯を確保する以外に対策はない。それには即時開戦するしかない」
これはかっぱらい・強盗の論理だ。論理破綻を破綻とも思わないほどに愚昧化している。

5.悲惨な輸送力見通し
ついで企画院が輸送力に関する報告を行った。
民需用として最低300万トンの船舶があれば、供給量を確保出来る。
船舶消耗を年間100万トンから80万トンと推定する場合、60万トンの造船能力があれば、300万トン保有は維持可能だ。
緒戦の確実な戦果を活用すれば、座て相手方の圧迫に耐えるのに比べ有利と確信する。
海軍はこれに勝る楽観的見通しを述べた。
船舶消耗は1年目で70万トン、2年目60万トン、3年目40万トン、これに対し造船能力は各40万、60万、80万トンと増加、ゆえに「戦争に耐える国力の維持は可能」なのだそうだ。
「米国は潜水艦を大量に建造して広範囲に活動するだろうから、戦争が進むに連れて被害は増えていくと思われるが…」
「米潜水艦に対しては、十分手当の方法を考えているから心配はない」東郷もそれ以上追及の方法もなく、そのままとなった。
実際には戦争1年目から130万トンが消耗、2年目には179万トン、3年目には378万トンに達した。
南方の石油は1700万トン採掘したが、内地に輸送できたのは550万トンにとどまった。
この実績は、実は海軍自身が予測していたものだ。
10月6日の陸海軍局部長会議で、海軍軍令部の福留作戦部長はつぎのようにかたっている。
南方作戦二自信ナシ。船舶ノ消耗ニツキ戦争第1年度ハ140万トン撃沈サレ、戦争第3年ニハ民需用船舶皆無トナル。自信ナシ。

6.東郷外相の感想
東郷が驚いたのは正確な統計資料の不足。作戦上のことも兵力量など一切秘密。仮定の上に立って検討を進めることになり、それも軍部から「大丈夫」と言われれば反論する材料もなく、沈黙するしかなかった。

危機管理では「マイナス情報重視」が鉄則だが、主観的な数字や甘い判断が混在したのではないか。
精神主義的な開戦論が幅をきかし、物的国力は真剣な論議にはならなかった

日米開戦と軍部

右翼系の人が日米開戦論を書くと、かならずこの3点が引っかかる。
開戦に至るプロセスを詳細に見ても、人の顔が見えてこない。いつ、誰が、どういう理由で、何を目的として開戦を決めたのかは、いまだに不明のままだ。
第一は戦争に突入した理由をあれこれ並べ立てるが、それらの理由によってメリカとの戦争を始めた理由を合理化できるのか、ここが最後までウヤムヤなのだ。
それらは戦争に至った言い訳にしか聞こえず、戦争をやってはならない理由にしか聞こえない。
もう一つは、誰それは実は戦争回避派であったというのが延々と続くが、それじゃ開戦を推進したのは誰かと言うと、これもまた最後までウヤムヤなのだ。
三番目には東京裁判が間違いだというのはルル述べられるが、東京裁判が間違いだとして、それでは日本を悲惨な戦争に追いやった責任は誰がとるべきなのか、この点についてもさっぱりわからない。
やはり自分なりに事実を点検していかないとだめだなと思っている。
それにはあまり長いスパンは必要なく、昭和16年の初頭からで十分ではないかと思う。
それと、陸軍の動きを中心に据えない議論は参考にすべきではない。戦争に突っ込んでいく先頭に立ったのが陸軍であるのは間違いないからだ。
どうも余分なトリビアル情報が多すぎる。しかも「こちらが正しければあちらが間違い」と言うような情報が飛び交っている。それなのに軍の大本営や参謀本部、陸軍省で何がどう決まっていったのかはさっぱりわからない。思ったより手強い仕事になりそうだ。


昭和16年における日本経済
1940年の実質GDPは、日本が2017億ドルで、米国は9308億ドル。特に軍事力に直結する粗鋼生産量は日本の685万トンに対し、米国は約9倍の6076万トン
石油 日米比

主要輸出品は生糸だったが、96%が米国向けだった。代わりに輸入した米国産綿花を織物などに仕立て、英領インドやオーストラリアなどに輸出。その利益を重工業化に必要な機械類、鉄鋼などの購入に充てていた。

2月11日  野村吉三郎元外相が駐米大使として着任。近衛首相は野村大使を中心に日米交渉に動く。
日本案は
①三国同盟にもとづく参戦はドイツが米国に攻撃された場合のみ
②中国が満州国を承認すれば日本軍は撤退
③米国の仲介による日中和平の実現
アメリカ側は『内政不干渉・領土主権尊重・市場経済の機会均等・現状維持』のハル四原則を示したと言う
4月12日 松岡外相とスターリンとの会談が実現。日ソ不可侵条約の締結。
二正面作戦を避けたいソ連と、南進のために二正面作戦を避けたい日本との奇妙な妥協といわれる。
4月16日 日米諒解案が作られる。この前提でアメリカが日華関係の斡旋に乗り出すとされる。
1.日華協定による日本軍の中国撤退、2.中国の満州国承認、3.蒋政権と汪政権合体を骨子とする。アメリカ国内の論調は諒解案よりはるかに厳しいものだった。
4月 松岡外相、三国同盟の堅持を表明。日米諒解案を批判。(批判の論調は正しいものだった)
5月 「国防保安法」が施行される。政府の発表以外は報道することができなくなる。
5月 ABCD包囲網が完成。
まず英米豪の間に太平洋共同防衛諒解が成立(AB網)。ついでこの協定に蘭印(D)が加わり、英米は、豪州と中国に飛行機を譲渡する。
5月 海軍、「米英の全面(石油)禁輸を受けた場合、半年以内に南方武力行使を行わなければ燃料の関係上戦争遂行ができなくなる」と主張。

6月 ドイツがソ連領内に侵攻。天皇は三国同盟を廃棄し日米交渉に重点を移すよう指示。木戸幸一内大臣はこれを無視したと言う。

6月 駐米大使館付武官補佐官の岩畔豪雄(現役大佐)が帰国、各界に警告活動を展開する。
日米の物的戦力は、以下の比率で明らかです。
鋼鉄は1対20、石炭は1対10、石油1対500、電力は1対6、アルミ1対6、工業労働力1対5、飛行機生産力1対5、自動車生産力1対450であります。もし日米が戦えば大和魂をふるっても勝てる見込みはありません。

7月2日 御前会議。「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を承認。援蒋ルート遮断、自存自衛のための南方進出、結果としての英米戦の覚悟、独ソ戦不介入と対ソ武力発動準備が決定される。

7月28日 南部仏印への無血進駐を実施。米領フィリピンが航空機の射程に入る。米英の対日感情は一挙に悪化。

8月1日 アメリカ、日本の在米資産を凍結し、対日石油輸出を全面禁止。イギリスとオランダも同調。
日本軍は米国が南部仏印支柱を黙認するだろうと観測していたという。
ただし40年7月の軍令部研究報告では、仏印を占領すれば米国が石油禁輸で応じ、日本が蘭印の油田を制圧しようとすれば日米は戦争に突入すると予測していた。(角田順)
8月 首相直属の「総力戦研究所」が、「国力的に開戦は不可能、開戦すれば日本は必敗」との結論に達する。「総力戦研究所」の報告について、東條陸相は「実際の戦争では…意外裡なことが勝利につながっていく」と反論。

8月 陸軍省の戦争経済研究班が日米決戦に関して研究報告(林千勝による)。
1)極東の米英蘭根拠地を攻撃。 2)援蒋ルートを攻撃、支配し、蒋政権を屈服させる。 3)まず英国の屈服を図る。の三段階戦略を打ち出す。
米国とは極力戦わず、戦闘となれば日本近海にひきつけて行う(だからハワイ攻撃などはしない)

9月6日 御前会議。海軍側から提示された「帝国国策遂行方針」をたたき台とした議論となり、「要求貫徹の目途なき場合は直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と両論併記。天皇は外交優先主義を支持する。
天皇「どのくらいで作戦を完遂するのか?」
杉山「太平洋方面は3ヶ月の見込みでございます」
天皇「支那事変のとき2ヶ月程度で片付くと申したのに、まだ終わっていないではないか」
杉山「支那は奥地が広うございまして…」
天皇「支那の奥地が広いというなら太平洋はなお広いではないか」(近衛日記)
10月2日 アメリカ国務省、近衛首相の提案した日米首脳会談を拒否。
10月13日 野村大使が情勢報告。「アメリカは4原則で突っ張るだろう。交渉の一般的見通しは悲観的だ」
10月14日 陸軍の武藤軍務局長、「海軍が本当に戦争を欲しないのなら陸軍も考える」とし、海軍に下駄を預ける。
10月14日 近衛・東条会談。東条陸相は「9月6日の御前会議を御破算にするなら、陸海軍を抑えるために皇室が首班を担うべき」と主張。東久邇宮内閣論を唱える。
10月16日 近衛内閣は総辞職。近衛は対中撤兵による交渉を図ったが、陸軍大臣東條は一切の撤兵オプションを拒否。国策要綱に基づく開戦を主張。
10月16日 木戸内大臣が東条陸相と会談。木戸は「海軍が自重の方針で一致しなければ皇室は出ない。和平で一致するなら皇室は出る必要がない」と主張。(要は逃げたということ)
10月17日 後継首班推薦のための重臣会議。木戸は「海軍は戦争に乗り気でないため9月6日の御前会議決定は白紙還元」と述べる。そして開戦を主張して来た東条陸相に首相をやらせることで情勢を切り開くという奇策を打ち出す。
10月18日 大命降下。木戸の推挙を受け、後継の東條内閣が成立。外相には交渉派の東郷茂徳を起用。
東郷には「内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考究を加うる」ように、陸海両相に対しては「9月6日の御前会議の決定を情勢に合わせ再検討せよ」との天皇の意思が伝えられる。
10月18日 東條が首相に就任。承詔必謹の精神で即時開戦決意を翻し9月6日御前会議の決定を覆す。
陸軍省・参謀本部の主戦論を抑えるために陸相を兼務し、さらに右翼クーデターに備えて、内相も兼務する。外相には反枢軸派の東郷茂徳をあてる。

10月22日 軍省局長会議で武藤軍務局長が発言。北支・蒙彊の駐兵維持は絶対に譲れないとする。また海軍軍令部の永野総長は「9月御前会議決定を変更する余地はない」と語る。
10月23日 各省統帥部に11項目の検討項目を示し、国策再検討を指示。これを受けて大本営政府連絡会議が1週間連続でひらかれる。(詳細は東條内閣「国策再検討会議」の顛末で)
初日の会議では次のような発言があった。永野修身は「海軍は1時間当たり400トンの油を無為に消費している。検討会議は簡単明瞭に」杉山元は「研究ばかりして費やせない。今すぐ前進しなければならない」
塚田参謀次長が嶋田海相を「黙れ」と叱りつける場面もあった(杉山元のメモ)
11月5日 御前会議。英米蘭戦を決意する。外交は12月1日零時までとし、武力発動の時期を12月初頭と定める「帝国国策遂行要領」が決定される。
11月5日 東郷、野村らによる最後の外交努力が始まる。東条首相、杉山総長、塚田参謀次長、武藤軍務局長は、「支那を条件に加える”案は検討に値せず」と拒否。
11月6日 南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令される。
11月13日 野村大使の現状報告。
戦争に対する準備は着々と進め居れり。原則を譲り妥協する位ならば寧ろ戦争を辞せざる覚悟である。
対独戦には若干の異論あるが、太平洋戦には反対少なきゆえ、この方面より参戦することも充分あり得べし。
11月15日 大本営政府連絡会議、「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」を決定する。イギリスを経済封鎖等により屈伏させ、イギリスにアメリカを誘導させて講和に持ち込むとする。
11月17日 東郷外相が国会演説。「太平洋の平和を維持せんがために日米会談を継続するに決定、交渉の成立に向けて最善の努力」と述べる。
東郷は以下の腹案を持っていたとされる。 ①中国駐兵5年以内に全部撤兵する ②通商自由の原則を中国にも適用する ③南部仏印から撤兵する
11月20日 大本営政府連絡会議は、作戦対象となる南方諸国について「南方占領地行政実施要領」を決定。重要国防資源の急速獲得のため軍政を敷くこととなる。
11月20日 東郷外相、仏印撤退と石油供給再開を交換条件とする「最終案」を送付。野村、来栖の両大使がアメリカ国防省にて手交。
11月22日 ハルが乙案に対する暫定協定案を提示。英国、中国、豪州、オランダの各国大使と協議。
「南方進出の停止を約束すれば、経済制裁を緩め、日中戦争の解決には干渉しない」とする。有効期間は3ヶ月とする。これは日本の戦争突入必死と見たアメリカが時間稼ぎのためにダミー提案したとみられる。
11月24日 ハル提案に蒋介石政府が猛反発。取り消しを求める。
11月26日 海軍、真珠湾攻撃部隊に出動命令。
11月26日、1万トン級の10~13隻の日本輸送船団が台湾南方を通過中、米軍機により目撃される。
11月26日 ハル国務長官、4原則に従った「ハル・ノート」を通知。4月16日の日米諒解案にさかのぼって否認したもの。
①多角的不可侵条約の提案 ②仏印の領土主権尊重 ③日本の中国及び仏印からの全面撤兵 の代わりに
④通商条約再締結のための交渉の開始 ⑤日本の資産凍結を解除 ⑥為替レート安定に関する協定締結
⑦太平洋地域における平和維持を提供するというもの。
後に極東裁判時にバール判事は“モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えるほどのもの”と表現するが、それほどではない。
11月26日 日本側はハル・ノートを「最後通牒」として受け取る。ただしハル・ノートには「極秘、暫定かつ拘束力が無い」と記されていた。
参謀本部は、満州放棄を認めれば「日本の対ソ、対米国防体制も根本的に崩壊する」と反発。ただし中国からの撤退に「満州」がふくまれるかについては不明。
11月26日 マーシャル参謀総長は、サンフランシスコ、マニラ、ハワイ、カリブ海の各司令部に日本の奇襲攻撃を警告。
もし敵対行動を避けることが出来なければ米国は日本が最初の明白な行動に出ることを希望している。
敵対行動が発生した場合はレインボー第五修正計画に基き任務を遂行されたい。
11月27日 ハル・ノートの提示を知った東条首相は、もしこれを受け入れれば一時小康を得るかも知れないが、それは重症患者に対するモルヒネの小康でしかないと語る。
11.30 海軍内ではまだ和平派が高松宮を通じて工作していたが、嶋田海相と永野軍令部総長はすでに開戦準備を開始していた。
12月1日 御前会議、12月8日の開戦を最終決定する。


この論文は戦時下の日本軍の捕虜対応を総括的に扱ったものであるが、この中に日支事変のさいの捕虜対応についても触れられていて、これが南京事件を招く要因の一つではないかと思えた。
とりあえず関連箇所のみ紹介しておく。

1 「俘虜」観のゆれ
日本軍の捕虜取扱方針は当初より矛盾したものであった。その最大の理由は日本軍に捕虜という概念は存在していないということである。「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓は、敗残の将兵に自死を迫るものであった。
それにもかかわらず諸外国と国際的戦争を行うようになると、近代戦のルールを守るように迫られる。それは本来、日本軍内部にも捕虜という選択肢を導入すべきものとなるはずであったが、その方向には動かなかった。

2.捕虜の取り扱いをめぐる国際法
捕虜の取扱いに関する国際条約には陸戦条約(ハーグ条約)と俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)という2つのものがあった。
陸戦条約は捕虜の取り扱いのみならず、戦争のルールを包括的・概略的に述べたものである。ジュネーブ条約は捕虜の取扱についてより詳細な内容をもち、前者を補完するものと位置づけられる。
後者は
日本は両条約に署名したが、俘虜待遇条約の批准は軍部の反対によって見送られた

3.俘虜待遇条約は批准されなかった
ハーグ陸戦条約は国内において批准されたが、俘虜待遇条約は調印はされたが、批准はされなかった。これは軍部からの強い反対によるものであった。
批准反対の理由は次の4つである。
①日本軍では、捕虜にならないよう教育しているため、日本人捕虜は発生しない。だから日本だけが捕虜を待遇する負担を負うことになる。
②敵国の航空機は帰還を考えずに日本を空襲できるから、攻撃距離が2倍になる。
③捕虜が立会人なしに外部の者と面談すれば、何でも話せ、軍事情報が漏れる恐れもある。
④俘虜待遇条約よりも日本軍の懲罰規定のほうが厳格なので、日本軍の罰則を軽減しなければならず、軍紀が緩む恐れがある。

4.俘虜待遇条約(ジュネーブ条約)はどう扱われたか
1942年 1 月 29 日米国、太平洋戦争が始まって間もなく、英国など交戦相手国から、ジュネーブ条約の扱いについて問い合わせがあった。
日本政府はこれについて「批准しないが準用する」という方針をうちだした。そして俘虜待遇条約を「準用」(apply mutatis mutandis)すると回答した。また赤十字条約についても「嚴重ニ遵守」すると回答している。
交戦相手国はこの「準用」回答を、事実上の適用と解した。しかし日本の受け止めは相当異なっていた。
(この後論文は、とくにフィリピンにおける大量の米軍捕虜の発生を機に、日本軍の捕虜取り扱いがジュネーブ条約から乖離していく経過の分析に入っていくが、ここでは省略する)

5.「準用」の例外としての支那事変
支那事変においては、ジュネーブ条約は「準用」どころか完全に無視されている。なぜなら日本は支那事変は国際法に言う戦争ではないと考えていたからである。したがって、陸戦条約は適応されず、国際法を無視した対応が行われた。
この方針は中国軍将兵に対する酷薄な対応をもたらした。
東京裁判時の武藤章(当時、参謀本部第1部第3課長)の証言によれば、陸軍では「中国人ノ捕ヘラレタル者ハ、俘虜トシテ取扱ハレナイトイフ事ガ決定」された。
つまり、陸軍は「戦争ではないのだから陸戦条約には従わず、捕虜そのものを捕らない」という方針を採用した。したがって、正式の捕虜収容所も設けなかった。

6.南京事件をもたらした「捕虜非適用」
南京事件では、内輪に見積もっても数万の中国人が殺されている。その多くが民間人に紛れ込んだ中華民国軍の敗残兵、ないしそれと誤認された中国人市民である。
これが一番問題になるのは、敗残兵が投降して捕虜となる道はなかったのかということであろう。国際的に見てこれは明らかに日中両国間の戦争であり、そこには捕虜取り扱いをふくめた戦時ルールが適用、せめて準用されるべきである。
武藤章の言う「捕虜非適用」が「皆殺し」方針なのか、「宣誓解放」方針なのかは判然としないが、「戦陣訓」の敵将兵への適用と見るなら結論は明らかだ。日清戦争時に旅順市内でも、索敵を理由として同様の大量虐殺が発生しており、日本軍の傾向からは偶発的事件とは言えない。
中国各地での戦闘の中で、実際には中国人捕虜はいたし、収容施設も存在した。また現地軍が一定の取扱い規則を定めている事実もある。
しかしこのプリンシプルは動かないのである。ゆえに南京虐殺は「捕虜非適用」の論理の必然的帰結だと見ることができる。

「省エネルック」キャンペーンはブサイクだがよく分かる
いま朝飯を食いながらテレビを見ていたら、
「省エネルック」というかつてのムーブメントを紹介していた。
実は私はあまり覚えていないのだが、大平首相の頃にオイルショックが襲って、街のネオンサインが消えて大変なことになったようだ。これは多分第一次ではなく、80年ころの第二次オイルショックだろうと思う。
そのときに大平首相が率先して「省エネルック」というモードを提唱したらしい。背広にネクタイで、袖が七分丈になり、当然ワイシャツも半袖になった。
翌年に大平首相が突然死してしまったので、この運動も頓挫してしまったらしい。
まぁ、どうでもよいことではあるのだが、キャンペーンを始めるにあたって大平首相が意義を述べたのだが、妙にそれが気になった。
正確には覚えていないのだが、多分こういったのだろう。
日本は資源に乏しい貧しい国です。石油も鉄も外国から買うしかないのです。
みんなが一生懸命働いて、資源を節約して、外国との貿易を盛んにしなければやっていけないのです。

大東亜共栄圏の戦後型バージョン

これは実は私達世代が子供の頃、学校でさんざん教え込まれたレトリックなのだ。
戦前はそれが朝鮮や満州を侵略して、中国に進出する理屈へと横滑りしていった。戦争に負けてしまって徒手空拳の小国になってしまったから、とにかく世界の国々と仲良くして行こうというのが国策になった。
国連に加盟し、ソ連と国交回復した頃は「東洋のスイス」という言葉が真剣に語られたものだ。私達は「世界中が仲よく、ほがらかに暮らしましょう」という呼びかけをなんの躊躇も感じずに信じて、なんのてらいもなく語っていた。多分、日本人がいちばん謙虚だった時代だろう。

それが、1980年(昭和55年)の日本国首相の口から語られていたということに、いささか感動を覚える。

受け継ぐべき「昭和イズム」

戦争を、というより戦後を当事者として知る世代は、20世紀の終わりくらいまではがんばり続けていたと思う。
いまさすがに「資源のない貧しい国」という日本イメージを墨守することは、アナクロであるかもしれない。

「刻苦精励」にすべての実践を落とし込むのは、「昭和イズム」の悪しき側面なのかもしれない。しかし、それと引き換えに謙虚さと平和主義まで流し去るのも、あまりに惜しいと言うべきではなかろうか。

今の安倍や麻生らボンクラ集団を見ていると、右と左とを問わず、残すべき共通のものを確認していくべきではないかと思う。

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