鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2018年03月

今シーズンを占う開幕戦、まさに不安が的中しつつある。
一番のリスク、それは栗山監督のセオリー外しがますます深刻化していることだ。フロントとうまく行っていないのだろうと思う。横尾の2番というのはあまりにひどい。キャッチャーも「ウソでしょう!」というキャストだ。
中田は1ヶ月だ。それでダメなら終わりだ。大田も結局鵜久森と同じで、それで終わりの人だ。2軍のホームラン王というのは、むかしからそれで終わりと相場が決まっている。
だいたいどういう野球をやろうとしているんだろう。守って、後半逆転して、1点差で逃げ切るヒルマン野球やるしかないんじゃないだろうか。弱い貧乏チームなんだから、勝つにはそれしかないでしょう。
 1番西川、2番松本、3番田中、4番近藤、5番レアード、6番岡、7番杉谷、8番鶴岡、9番中島
つまり近藤をファーストで、田中をDHで使うということ。あとは小谷野を拾ってくるくらいかな。我慢していればそのうち糸井や陽岱鋼クラスは育ってくる。あとはそこまで経営陣が頑張ってくれるかどうかだ。


2018年03月16日 
「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と財務省は考えているはずだ

で、「このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない」と書いた。

しかしメディアは早くも「佐川疲れ」の様相を呈している。このままでは「築地移転」の二の舞にもなりかねない。改ざん問題が麻生の首もとれないで終わるのなら、むしろその方が立憲主義と民主主義にとっては深刻だ。

きっちりと取れるものはとっておこう。

この問題は国税局長が辞任するのなら、財務大臣も連帯責任を取らなければならない、そういう性質の問題だ。「佐川だ、佐川だ!」と叫ぶのは、人としてあまりにも卑怯未練だ。

「政治主導」という言葉は、そういう意味も持っているのではないだろうか。そこに頬っかぶりしてしまう人には「政治主導」を語る権利はないのではないだろうか。

下記のWebページに松浦武四郎の樺太文書が紹介されている。
ここから抜粋、引用させて頂く。

樺太については、松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に詳しく述べられている。しかし難しくて解読が困難であるので、更科源蔵・吉田豊共訳による「アイヌ人物誌」より抜粋してみたい。

松浦武四郎の時代、和人は樺太を北蝦夷と呼んでいた。
樺太(カラフト)というのはアイヌ人の呼び方である。カラフトとは唐(カラ)人の意味である。
唐人というのは外人の総称であり、中国人というわけではない。
全国樺太連盟のページでは、樺太の語源はアイヌ語で、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)と記されている。松浦武四郎説は現在は否定されているが、当時の和人がそう解釈していた可能性はある。
カラフトのうち、ロシア人はよく赤い衣服を着ているので赤人(アカフト)と呼ばれる。
むかしアイヌは樺太には住んでいず、山丹人とウィルタの世界だった。
山丹人というのは間宮海峡の両側に住むニブフ族のことで、そのむかしは粛慎(オホーツク人)として北海道北部まで住んでいたのが、次第にアイヌに追いやられたものとされる。
山丹人が蝦夷地に来て大陸産の品物を持ちこみ、カワウソ、狐、黄テンの毛皮などと交易した。
その後、アイヌが樺太に進出するようになった。1809年(文化6年)から松前藩はアイヌの居住区を北蝦夷と呼ぶよう指示した。(それまでは北海道と一括して蝦夷地)
北蝦夷を樺太と呼ぶようになったのは明治になってからで、北海道と同じく松浦武四郎の提案による。

松浦による樺太地図(松浦武四郎記念館  蔵
樺太北部
樺太南部

ということで、長い前振りが終わって、ここから
梅木孝昭「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」(道新選書 1997)のノートを開始する。
かなり細かい地図が必要になるが、順次紹介していきたい。

余談だが、松浦のアイヌよりの姿勢がしばしば強調されているが、私の印象としてはむしろ松前藩の悪政と人権無視に対する怒りがまず最初ではないかと思う。
それは津における最初の師、平松楽斎の影響があったと思う。平松は多彩な能力を持ち、民衆の立場に立った知識人であった。大塩平八郎とも接触を持っていたようだ。
松浦の遍歴の時代は天保の大飢饉が日本中を襲った時代だ。それに対して、従来型の武士ではない民衆指向性と科学精神を併せ持った人材が各地に輩出した時代でもある。
おそらくその一部は維新運動の志士ともなったであろうが、それよりもっと広範に草莽の士として分散していたのではないだろうか。松浦は彼のヴィルヘルム・マイスターの時代を経て各地でその息吹きに触れたのではないだろうか。
そういう全国レベルでの人の上に立つものの誠意に引き換え、松前藩のおさめる蝦夷地はあまりにひどかった。人間のクズ共がいかにもクズらしく利を貪っていた。それが許せなかったのが最大の理由であろうと思う。
だから、松浦の抗議とか運動とかの根は意外に浅い。場面場面では闘っているように見えても、意外と権力そのものとの闘いにはなっていかない。全国を歩き回る執念に比べれば、それはずいぶんと淡白なものであった。

もう一つ、松浦という人がスーパーマンであることにまったく異論はないのだが、若干話をふくらませる傾向がある人物であることも疑いなさそうで、まぁ悪気はないのだからいちいち目くじら立てる必要はないのだが、すべてを史実と断じるのではなく一種の「ドキュメンタリ」として見ておくのが良いと思う。ということは、もし客観的事実と合わない記述があれば、そこは一種の創作と判断すべきだろうということだ。

2015年09月16日 


松浦武四郎と樺太
これまで最上徳内と間宮林蔵による樺太探検を勉強してきたが、ここまでやっておいて松浦武四郎の探検を触れないのは片手落ちであろう。
松浦の樺太をふくむ蝦夷地探検は全6回に及ぶが、そのうち2回、樺太まで足を伸ばしている。
これらについて詳しくレビューしているのが梅木孝昭さんの「サハリン 松浦武四郎の道を歩く」である。
梅木さんはたんなる回顧の旅ではなく、ほとんど松浦武四郎に匹敵するような探検を試みている。
この本は1997年に道新選書の一冊として発行されている。
この本をもとに例によって年表化してみたい。といっても松浦武四郎の日誌は微に入り細に渡るので、メリハリをつけなければなるまい。それは作業しながらおいおい考えることにする。
まず、松浦武四郎の全体像を知るために彼の年譜もあわせて載せておく。(記述の多くを松浦武四郎記念館資料による)。印象としてはこの年表記載がもっとも正確であり、梅木さんの年表には若干の潤色があるかも知れない。
なお樺太全体の年表については私の作成した下記の年表をご参照いただきたい

1818年3月 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて出生。父親は紀州藩地士で庄屋を営む豪農であった。
出生地は須川村となっているが、なかなか探すのは難しい。
伊勢国一志郡は松坂と津に挟まれた農村地帯であるが、江戸時代は紀州藩と津藩の所領が混在していた。
ウィキペディアで調べると、須川村という村名はない。紀州藩領として森須川村というのがあり、これが明治7年に改称して小野江村となっている。改称の理由は不明だが合併とか分割とかではない。
ただし小野江村はその後、肥留村、西肥留村、舞出村、甚目村などを併合している。
昭和30年の第一次合併の際に、小野江村は米ノ庄村・天白村・鵲村と合併し三雲村を形成した。これにより小野江は三雲村内の字名となった。
平成17年の第二次大合併により、三雲町(旧三雲村)は松阪市と合併し、消失した。
大正13年の三重県地図が参照できる。
onoe

1818年 この年伊能忠敬が死亡。
1824年 真学寺で読み書きを習う。(真学寺は曹洞宗の寺で、今も真覚寺として現存している)
1831年(13歳) 津藩平松楽斎の塾で学ぶ。平松は藩校を創設した学者。本草学に秀で、天保飢饉に際し「救荒粥」を案出。ほとんど餓死者をださなかった。神明流剣術の遣い手でもあり、大塩平八郎とも交流があった。
天保の大飢饉: 1833年に始まり、1835年から1837年にかけて最大規模化、全国で100万人以上の死者を出した。
1833年 手紙を残して突然家出。江戸で篆刻を学ぶが、見つかり連れ戻される。その後も「遊歴の志ざし止まず」(この項は脚色されているかも)
1834年(16歳) 京都、大阪で見聞。その後北陸・東北の諸国をめぐる。
1835年 江戸に戻り、水野忠邦邸に奉公。その後思いあって出家(真言宗)し文桂を名乗る。(長崎で出家したときに文珪と名乗ったという記載もある)
1836年 ふたたび諸国巡歴。瀬戸内海周辺をめぐり周防に達する。
武四郎は篆刻により旅費を稼いでいた。「是に於て発奮し自ら一本の鉄筆と一冊の印譜とを懐に瓢然として浪華の街に下り…」と述べている。
1837年 九州にわたり諸国を遍歴。入国の取締りが厳しい薩摩には曹洞宗の僧形となって入っている。
1837年 天保飢饉の影響が広がる。大塩平八郎の乱が発生。大阪では毎日約200人を超える餓死者。
1838年(20歳) 長崎で大病を患う。これを機に禅僧となり文桂と名乗る。九州の見聞を記した「西海雑志」を著す。
1839年 平戸の田助在曲村の宝曲寺の住職となる。天桂寺も兼務。この年五島列島を旅する。
平戸は松浦武四郎の祖先とされる松浦水軍の発祥の地であり、平戸定着への思いはあったとみられる。
1843年(25歳) 平戸村木引(粉引)免の千光寺に移転。
9月 田助のいか釣り船に便乗して壱岐・対馬に渡り、朝鮮入りを目指す。半月後に「其国禁の厳しければ行くことも難く」断念する。
hiratomura
 松浦市 福島町 伊万里市 佐々町 武雄市 有田町 新上五島町 ... - 西肥バス
1843年 平戸光明寺(真宗の名門)の了縁に師事。詩歌・画を学ぶ。
1843年 長崎でロシア(赤蝦夷)南下の危機を知り、一転蝦夷地を目指す。
1844年(27歳)
2月 伊勢で父母の供養をすませたあと還俗。伊勢神宮に参拝して蝦夷地へ向かう。
9月 津軽半島の港町鯵ケ沢に到着。便が得られず天候悪化のため年内の渡海を断念。仙台藩領唐仁村に達し、そこで越年する。
1845年
1月 いったん江戸に戻り、準備作業。
4月 鯵ケ沢に着き、江差の商人の持舟に便乗。待望の蝦夷地入りを果たす。
4月 江差に人別を入れて身分証明を得、箱舘の商人和賀屋孫兵衛の手代という名目で、東蝦夷地に向かう。海岸線沿いに根室(歯舞諸島および知床岬)までを往復。
10月 箱舘にもどる。
1846年(29歳)
2回目1846
4月10日 第2回調査に向け江差を出発。樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行。名は雲平、法被姿の草履取りとして付き従う。
5月17日 宗谷港に到着。
5月25日 風待ちの後、西ノトロ岬南端の白主を目指すが、「出し風」が強くベシトモナイ(菱苦)まで流される。このため徒歩にて白主にたどり着く。
閏5月1日 白主を出発しアニワ湾内の久春古丹に達する。
番人らが三、四十人おり役人も六人ほど詰めている。アイヌの戸数は二十戸ほど。春二シンで賑わっており、アイヌの漁夫が千人ほども集められていた。
閏5月20日 久春古丹からチベサニ(長浜)に行き、ワワイ(和愛)・チベサの湖を経由して半島の付け根を横断、東海岸のトンナイチャ(富内)に出る。東海岸を北上し、マーヌイ(真縫)の南隣のシララオロ(白浦)へ着いた。
ここまでの通過地名を列挙しておくと、
クシュンコタン→トウブチ(遠淵)→シラリウトル→トンナイチャ(富内)→オチョホカ(落帆)→イヌヌシナイ→ヲショヱコン→ナイフツ(栄浜)→オタサン(小田寒)→マトマナイ(真苫)→シララオロ
白浦にはノテカリマという「全島を統率する」長老(エカシ)が住んでいた。滞在中、たまたまオロッコ人とタライカ人総勢十八人が四艘の船で挨拶にやってきた。
閏5月28日 シララオ口から西海岸クシュナイ(久春内)ヘ出た。これより南に戻る。
ここからの通過地名を列挙しておくと、
シララオロ→マーヌイ(真縫)→山越えで西海岸へ→クシュンナイ(久春内)→ナヨロ(名寄)→ノタシャム(野田寒)→ヒロチタラントマリ(広地)→トコンボ→モイレトマリ→ショウニ→ベシトモナイ(菱苦)→シラヌシ
6月28日 シラヌシに戻る。
7月16日 宗谷へ渡る。この後松浦武四郎は単独で、宗谷-知床岬間のオホーツク海岸を往復。利尻・礼文に渡る。
9月 江差へ帰着する。
1847年 箱館に滞在。松前藩の内情を探る。
1849年(32歳) 第3回目の蝦夷地調査。船で国後島、択捉島に渡り調査。ここまで3回の調査はすべて個人の意志によるもの。
1849年 わが国初の北海道図として「蝦夷大概図」を発行。
1850年 「初航蝦夷日誌」全12冊・「再航蝦夷日誌」全14冊・「三航蝦夷日誌」全8冊が完成。
1854年(安政元年) 日米、日露などの和親条約が締結される。
1854年(安政2年) 宗谷場所、再び天領となる。秋田藩が宗谷警備を行う。翌年には箱館奉行所支配組頭が宗谷場所を引き継ぐ。
1854年 蝦夷、樺太、千島の地図を作成し幕府に提出。松前藩は松浦を幕府のスパイと見て活動を妨害する。
1855年(38歳) 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢される。(正式官名は蝦夷地受け取り渡差図役頭取)
1856年 (39歳) 第4回目の調査。向山源太夫(箱館奉行支配組頭)を隊長とする調査隊の一行に加わる。
4回目1856
3月 箱館を出発。西海岸を北上する。
5月22日 宗谷を出帆し白主に上陸。
前回北限のマーヌイからさらに北上。カシホ、マグンコタン(浜馬郡譚)、シルトル(知取)、トマリケシ(泊岸)、ナヨロを経てタライカ湖畔のシリマヲカ(敷香)に至る。マーヌイまで 引返して西岸の久春内に出たあと、ライチシカまで北上しその後白主に帰還。
8月7日 白主を出帆して宗谷に帰着。その後知床に周り箱館に戻る。

1857年(安政4年)
4月 第5回目の調査 石狩川や天塩川を河口から上流部まで遡る調査。
8月 箱館に戻る。
1857年 松浦武四郎、「蝦夷山川地理取調方」となり「東西蝦夷山川地理取り調べ日誌」を作成。
1858年 (41歳) 
第6回目の調査。蝦夷地のほぼすべての海岸線と日高地方の河川、十勝、道東地域の内陸部の調査
三回の調査をもとに「東西蝦夷山川地理取調図」を出版。探検の体験をもとに、アイヌ民族の人口が激減していることを憂い、アイヌの命と文化を守ることを訴える。
1859年 安政の大獄。知己の吉田松陰、頼三樹三郎らが死刑となる。
1861年 「後方羊蹄日誌」・「石狩日誌」・「久摺日誌」・「十勝日誌」があいついで出版される。
1869年 開拓判官となり、蝦夷地を「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した。
1888年 東京の自宅で脳溢血により死去。

明日は佐川さんの国会証言。そこで以前の記事を再掲する。
2017年07月25日 佐川宣寿氏の「着任インタビュー」で転載した
着任インタビュー」である。
2013年に大阪国税局長に就任した際に、納税協会のインタビューに答えたもの。

我々の使命は、「納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する」ことであります。租税回避や悪質な脱税を行っている納税者に対しては、毅然として厳正に対処していきます。
そのために、我々は厳正に調査・徴収を行って、公平な課税の把握をしていくとともに、悪質な納税者に対しては厳格な態度で制度上可能なあらゆる手段を使って是正させていくことが必要であります。
我々に与えられた使命を着実に果たしていくためには、何よりも国民の皆様に信頼される組織であることが不可欠であります。
国税職員は、納税者に対して法令の遵守を求めるわけでありますので、職員一人一人が高い倫理観を持って、綱紀の厳正な保持に努め、基本を忠実に守って職務に専念しなければならないと考えています。
座右の銘というものは特にありませんが、仕事をする上では、平常心で誠実に取り組むことが大切だと思っております。なかなかいつもそのとおりにはいかないのですが、心がけるようにしております。

下記の文章は私による要約ですので、引用はお控えください。本来の見出しは「制裁非難声明」とすべきであることをお断りいたします。
元の文章は
3月12日付の venezuelanalysis.com 掲載記事 を独立ジャーナリストの加治康男さんが訳したもので、駐日ベネズエラ大使館のホームページにアップされていると思います。
チョムスキーと並んで書かれている Danny Glover は映画俳優でリーサルウェポンでおなじみの人です。
ダニー・グローヴァー
   ウィキペディアより
ノーム・チョムスキーら150人がベネズエラ制裁を非難する声明
Noam Chomsky, Danny Glover & 150 Other Activists Slam US-Canadian Sanctions on Venezuela

<記事のリード部分>
米国とカナダの市民活動家が、ベネズエラに対する制裁措置に反対の声を上げました。
制裁はベネズエラの貧しい弱者を苦しめる、違法かつ威圧的な措置です。
私たちは、ベネズエラの心ある人たちとともに、トランプ大統領と議会に要請します。ベネズエラの諸勢力のあいだで行われている対話を支持し、制裁を解除してください。
この対話はサパテロ元スペイン首相、メディーナ・ドミニカ大統領、チリ、メキシコ、ボリビア、ニカラグアの外相が仲裁にあたっています。フランシスコ・ローマ教皇もこの協議を支持しています。
マドゥロ現大統領と4人の大統領候補は、5月20日に大統領選挙を実施することで合意しました。
米国、カナダ両政府はこのプロセスを支持してください。ベネズエラ国民が民主的に、外国から脅威を受けることなく投票するために協力してください。
オバマ米政権下での制裁措置に加え、トランプ政権による追加制裁措置は、ベネズエラの一般民衆に負担を強いています。この一方的制裁は国際法に違反しています。
150人を超える米国とカナダの活動家は国会議員に次のような手紙を送っています。


【公開書簡: 私たちは制裁ではなく、仲裁を支持します】

私たちは、米国とカナダの政府にもとめます。
ベネズエラに対する違法な制裁を直ちに解除してください。ベネズエラ政府と非暴力派の野党勢力とを仲裁する取り組みを支持してください。
私たちは南北アメリカのすべての国の人々が、主権の尊重に基づく関係を維持することをもとめます。
私たちは違法な制裁措置に深刻な懸念を抱いています。制裁の結果は貧しい、ぎりぎりの生活を送っている人々に最も重くのしかかります。
そしてその国の政治的及び経済的なあり方に、好ましくない変化を強要することになります。
ベネズエラの世論調査によると、大多数の人々が制裁に反対しています。それはマドゥーロを支持しようとしまいと同じです。
いまバチカン、ドミニカ共和国などの国が仲介し、ベネズエラの現状を解決しようと取り組んでいます。しかし制裁は深く分断された状況をより複雑にするだけです。
また制裁は、政府と制憲議会が危機的な経済課題に対処しようとする取り組みを壊しかねません。
アメリカとカナダの政府幹部は、「高尚な」言葉遣いにもかかわらず、ベネズエラ政府に対する好戦的な干渉姿勢を取り続けています。それは民主主義、人権および社会正義を本心では軽視しているからでしょう。
オバマ前大統領は「ベネズエラは米国を脅かす国家安全保障上の脅威である」との発言を残しました。
ニッキー・ヘイリー米国連大使は「ベネズエラは世界を脅かし、ますます暴力のはびこる麻薬国家である」と語りました。
これらの国際舞台での発言は、平和的な紛争解決にはほとんど寄与することがないでしょう。
ベネズエラの政治指導者は新自由主義モデルをきらっています。米国の覇権に異を唱え、米国がラテンアメリカに新自由主義モデルを導入しようとすることに抵抗しています。
だからこそ、ベネズエラは周知の通り、米国の体制転換に向けての努力の主要な対象になっています
もちろん、ベネズエラが世界最大の石油埋蔵国であることも、ワシントンから望まぬ注目を浴びる原因となっています。。
米州機構(OAS)の事務総長ルイス・アルマグロはならず者としか言いようがありません。彼はベネズエラの野党勢力によって任命された「対抗最高裁判所」を公然と支持しました。
この「裁判所」が宣誓式を行うのに、ワシントンDCのOAS本部を提供しました。
アルマグロはベネズエラで最も過激な勢力、暴力を是認する野党勢力をつけあがらせています。それは仲裁の取り組みを妨害するだけでなく、OASの合法的権威を失墜させています。
米国のベネズエラ経済制裁は、ベネズエラの主権を犯し人々の基本的人権を侵害しています。ベネズエラはハイパーインフレと基本物資の不足を解決しようと取り組んでいます。
そういう国に対して経済的な圧力を威圧的で鼻持ちならないやり方で押し付けています。民主主義と自由を前進させるとの名目はウソっぱちです。
私たちは米国の指導者に冷静な発言をもとめます。ベネズエラの政治、経済問題の本当の解決策を探してください。
経済制裁を取り下げ、ドミニカ共和国やスペインのサパテロ元首相、バチカンが主導する仲裁の取り組みを支援してください。

付属: 「米州機構憲章第4章第19条」
いずれの国家または国の集団も、理由の如何を問わず、直接または間接に、いかなる他国の国内または対外の事項に干渉する権利を有しない。この原則は、武力のみならず、国の人格または政治的、経済的および文化的要素に対する他のいかなる形態による干渉または脅威の企てをも禁止するものである。

署名者

米国
ノーム・チョムスキー 
ダニー・グローバー 市民アーティスト
エステラ・バスケス 「医療従事者労組」副議長
トーマス・ジャムブルン デトロイト大司教区司教
ジル・スタイン 米緑の党
ピーター・ノールトン 全米電気労組議長
アルフレド・デ・サヤス博士 元国連高等弁務官事務所 国連の独立調査官
メデア・ベンジャミン 「コード・ピンク」共同設立者
ダン・コヴァリック 連邦鉄鋼労働組合・顧問弁護士
クラレンス・トーマス ILWU(在サンフランシスコ労働組合)元専従職員
ナターシャ・リシア・オラ・バナン 全米弁護士会会長
チャック・カウフマン グローバル正義同盟・共同コーディネーター
ジェームス・アーリー ラテンアメリカ及びカリブ海諸国におけるアフリカ系人アーティキュレイション
グロリア・ラ・リーバ キューバ・ベネズエラ連帯委員会
カレン・ベルナル カリフォルニア州民主党・革新議員団議長
ケビン・ゼーズ、マーガレット・フラワー 「人民の抵抗」共同議長
クリス・ベンダー 在カリフォルニア州労組
メアリー・ハンソン・ハリソン 「平和と自由のための女性国際連盟」・米国支部長
アルフレッド・L・マーダー 米国平和評議会会長
タミー・ドラマー カリフォルニア州民主党執行委員
グレッグ・ウィルパルト ジャーナリスト
ジェリー・コンドン 「平和のための退役軍人」理事長
チアナ・オカシオ ラテンアメリカ・アドバンスメント・コネチカット州委員会委員長
レア・ボルジャー 「戦争を越えた世界」コーディネーター 
アレクサンダー・マイン 「経済政策研究センター」・上級研究員
ケビン・マーティン 「平和活動及び平和アクション教育基金」議長
ロバート・W・マッケスニー博士 イリノイ大学アーバナシャンペーン校 
バーソニー・デュポン 「ハイチ・リベルテ」取締役
フレデリック・B・ミルズ博士 (米メリーランド州)ボウイー州立大学哲学部
マルシャ・ルンメル (米ウィスコンシン州)マディソン市会議員
モニカ・ムーアヘッド 「労働者世界党」
キム・アイヴス 「ハイチ・リベルテ」記者
シンディ・シーハン Cindy's Soapbox
(聞き覚えのある名のこの人は、息子をイラクで失い、ブッシュの農場前で座り込みをやって有名になった活動家です)
クラウディア・ルセロ 「中南米問題シカゴ宗教指導者ネットワーク」議長
ウィリアム・カマカロ ベネズエラ活動家 ボルティモアフィル・ベリガン
デイヴィッド・W・キャンベル、USWカリフォルニア州カーソン事務局長
アリス・ブッシュ SEIU北西インディアナ支部ディレクター
テレサ・グティエレス 国際アクションセンター共同ディレクター
クレア・デロチェ ニューヨーク拷問に反対する異教徒間キャンペーン
エヴァ・ゴリンジャー ジャーナリスト兼作家 クロスボーダーネットワーク(カンザスシティ)
(ベネズエラ通の弁護士で、チャベス時代から活躍している人です)
アントニア・ドミンゴ ピッツバーク・ラテンアメリカ進出協議会
デイヴィッド・スワンソン 「戦争を克服した世界」ディレクター
(左翼のブロガーとして有名な人)
マットマイヤー 「和解フェローシップ」全米共同議長、
ダニエル・デール牧師 ディサイプルス派キリスト教教会CLRN理事会
キャスリーン・デスセルズ 「八日目の裁きセンター(8th Day Center for Justice)」
マイケル・アイゼンシュチャー 「戦争に反対する米国労組(USLAW)」全国連絡委員会
ポール・ドルダル博士 「解放と公平のためのキリスト教ネットワーク」ディレクター
ダラス・フリードマン博士 チャールストン大学国際学部理事
チャールズ・ダーム司教 「ドメスティック・バイオレンス・アウトリーチ」大司教区理事
ブラス・ボンペイン 南北アメリカ事務所理事長
ラリー・バーンズ 西半球問題評議会南北アメリカタスクフォース理事
シャラット・G・リン博士 「サンノゼ平和・司法センター」元議長
ダニエル・チャベス トランスナショナル・インスティテュート
スタンツフィールド・スミス シカゴALBA連帯
アリシア・ジャッココ 「キューバ平和、正義、尊厳ナショナルネットワーク国際委員会」米国コーディネーター
ディアナ・ボーン「地域行動ニカラグアセンター」コーディネーター
ジョー・ジャミソン クイーンズ・ニューヨーク平和評議会
ジェリー・ハリス 「北米グローバル研究協会」書記
チャーリー・ハーディ 「カラカスのカウボーイ」著者
ダン・シェア 「平和のための退役軍人」全国委員会
クリスティ・ソーントン博士 ハーバード大学ウェザーヘッド国際問題研究所フェロー
 以下略

カナダ
ジェリー・ディアス UNIFOR会長
(UNIFORは運輸、自動車、通信業界などを網羅した一般労組。組織人員30万でカナダ最大の一般労組となっている)
マイク・パレセック カナダ郵便労働者組合議長
ハーベイ・ビスショフ オンタリオ州中学校教員組合連盟議長
マーク・ハンコック カナダ公務員労組連合議長
ステファニー・スミス ブリティッシュコロンビア州政府職員労組委員長
リンダ・マックイグ ジャーナリスト・作家 トロント
ラウル・ブーバノ 「共通のフロンティア」計画ディレクター 
ミゲル・フィゲロア 「カナダ平和会議」議長
 以下略

1517年
春 教皇・レオ10世、サン=ピエトロ大聖堂修築資金を集めるため、「免罪符」の販売を指示。
10月31日 ルター(34)、教会の改革を促す「95箇条の論題」を発表。免罪符について「売る人も買う人も永遠の罪を受ける」と非難。
マルチン・ルター: 1483年に鉱夫の息子として生まれる。ウィッテンベルク大学で神学を教えていた。
1518年
3月 ルター、教皇庁への批判を旺盛に展開。要約はドイツ語に訳され、活版印刷技術により全国に広まる。
4月 ドミニコ会がルター糾弾のキャンペーンを開始。
6月 ルターに対する異端審問が始まる。
10月 ローマ教皇は特使を派遣しルターに出頭をもとめる。ルターはこれを拒否。
1519年
1月 ルター、教皇特使と妥協。双方共に意見を公的に発表しないことで合意(アルテンブルク協定)。事態はこれでいったん沈静化。
6月 ライプツィヒでルターとエックの公開神学論争。ルターはウィクリフやフスの説にも真理があると主張した。ウィクリフとフスは異端として処刑されていた。
19年 神聖ローマ皇帝選挙。カール5世が皇帝に選ばれる。
1520年
6月 教皇、勅書にてルターに破門を警告。
12月 ルターはヴィッテンベルクの公開の場で教皇の回勅を焼き払う。
20年 ルターの門弟ミュンツァーがツウィッカウへ布教に入る。
トマス・ミュンツァー: 「神の国」の建設を訴えるなど、ルターより急進的だった。その後プラハ、ザクセン、アルシュテットなどを流浪する。

1521年
1月5日 教皇庁がルター(38)を正式に破門する。ルター(38)は異端者と宣告される。
4月 神聖ローマ帝国、ヴォルムス国会を招集。ルターの一切の法的権利を剥奪する帝国追放令を発する。
5月3日 ザクセン選帝侯フリードリヒ3世、ルターをヴァルトブルク城にかくまう。
フリードリヒはルターが何者かに誘拐されたように見せかけたと言う。ルターには「騎士ゲオルグ」という偽名が与えられた。
1522年
3月 ルターがザクセン選帝侯の止めるのを押し切り、ウィッテンブルク大学に戻る。この後現地で宗教改革を進める。ルターはヴァルトブルク滞在中に新約聖書を古代ギリシア語から翻訳し、大量に頒布した。
9月 帝国騎士の乱(Ritterkrieg)が始まる。ジッキンゲン(41歳)、フッテン(34歳)らの率いる騎士団が、トリエル大司教兼選帝侯を襲撃。間もなく鎮圧される。
ジッキンゲン: 神聖ローマ帝国で帝国侍従・顧問官を務める幹部。
フッテン: 精神面の指導者。神聖ローマの桂冠詩人に叙せられた人物。
1524年
2月 フランス王フランソワ1世は、北イタリアに進軍。神聖ローマ帝国も大軍を動員し反撃にでる。
2月 軍の不在をついてドイツ国内各地で農民戦争(Bauernkrieg)が始まる。
1525年
北イタリア戦争が終結。神聖ローマ軍が快勝し、フランソワ1世を捕虜にする。
5月15日 神聖ローマの正規軍を投入することで、農民軍は瓦解。農民戦争が終結する。“首謀者”のミュンツァーは拷問の末斬首となる。ルター派は無傷で残る。
1526年
シュパイエルで神聖ローマ帝国議会が開催される。第1時シュパイエル国会と呼ばれる。ヴォルムス国会のルター追放令を凍結。
1527年
ヘッセン伯フィリップがルター派を熱心に支持。ザクセンも引き続きルター派を支持。
フィリップ(23): 市民階級の人々を起用し、一種の啓蒙専制政治を行う。首都マルブルクに最初のルター派大学を設立。
1529年
第2シュパイエル国会、教会改革の中止を指示。6人の諸侯と14の自由都市が良心の自由を求め抗議書(Protest)を提出する。
1531年
1月 シュマルカルデン同盟が結成される。ヘッセン伯フィリップとザクセン選帝侯ヨハン公を軸に、新教派諸侯とマクデブルク、ブレーメン、南ドイツの自由都市が参加。

1546年 
カール5世(46歳)とカトリック派諸侯がシュマルカルデン同盟への武力攻撃を開始。

1547年
4月 ミュールベルクの戦いで皇帝軍が勝利。プロテスタント派のヘッセン伯やザクセン選帝侯は捕虜となる。
1548年 
カール5世、「アウクスブルクの暫定取り決め」を発表。新旧両教会の合同を定める。北部ではほとんど実施されず。
1551年 
モーリッツ・フォン・ザクセンがフランス王の援助を取り付け、ヘッセン伯、ブランデンブルク辺境伯などとともに神聖ローマに反抗。「君主戦争」と呼ばれる。
1552年 
両者が停戦し、パッサウ条約が結ばれる。捕虜となっていたプロテスタント諸侯は解放される。
1555年 
アウクスブルクにて帝国議会。アウクスブルクの宗教和議が成立。ルター派の存在を公式に認め、各諸侯にはカトリックとプロテスタントを選択する権利が認められる。

青空文庫に下記名の文章があった。


まことにありがたい文章である。

文章の由来は少々面倒だが、こういうことだ。

昭和のはじめころ、岩波書店で「カント著作集」というセットを発売した。
その第11巻に『自然哲学原理』が収載された。その翻訳を担当したのが戸坂潤であった。
翻訳が完了したのが1928年(昭和3年)のことであった。戸坂はこの第11巻のために解説を書いた。この解説が脱稿したのが7月のことであった。
文頭あいさつのところに、「読者は「解説」に依頼するべきではないであろう」と書いているが、大きなお世話である。
この『自然哲学原理』をふくむカント著作集・第11巻は翌1929年の7月に発売になっている。
そしてこの解説は、40年後にカント著作集から抜き出され、1966年に戸坂潤全集の第1巻の一部として勁草書房から出版された。
この戸坂潤全集から、青空文庫のボランティアの方が拾い出し、インターネットにアップしてくれたという経過である。
戸坂潤全集の第1巻というのはたしか持っているはずだと思って探してみたらあった。ただしこの文章は巻末付録みたいな扱いで載っているので、気が付かなかった。と偉そうに書いたが、そもそもこの本、ほとんど読んだ形跡がない。多分、古本屋の軒先の均一本で出ていたのを「あぁいたわしや」と買ったのではないかと思う。

カントの先駆者たち 
<ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)>
1646年7月 ザクセンの首都ライプツィヒに生まれる。父はライプツィヒ大学哲学教授のフリードリッヒ・ライプニッツ。
1661年 ニコライ学院を卒業し、ライプツィヒ大学に入学し、数学や哲学を学ぶ。
1663年6月 哲学の学士論文をライプツィヒ大学に提出。
1664年 哲学の修士論文をライプツィヒ大学に提出。
1666年 ライプニッツ(20歳)、ニュルンベルクのアルトドルフ大学に法学の博士論文を提出。
1673年 庇護者のマインツ選帝侯の死。ライプニッツはパリで求職活動を行う。この間に多くのフランス人学者と交流。
1675年 微積分法を発見する。
1676年 バールーフ・デ・スピノザを訪問。『エチカ』の草稿を提示される。
1676年 30歳。ハノーファー選帝侯の宮廷に仕える。
1700年 54歳。ベルリンに招かれ、ベルリン科学アカデミーの設立に尽力。初代総裁に就任する。ハノーファーからプロイセンに嫁した王妃ゾフィーの招きによるもの。
1704年 ロック思想を批判的に検討する「人間知性新論」を執筆。脱稿直後にロックが亡くなったため発刊中止、出版は死後となる。
1710年 アムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表
1714年 『モナドロジー』の草稿を書きあげる。発表は没後となる。
モナド(単子)は単純実体である。表象と欲求とを有する。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはない。神が設けた「予定調和」によって、他のモナドと調和しながら自己を展開する。
1714年 選帝侯妃ゾフィーが死去。息子が即位し同時にイギリス国王を兼任。ライプニッツは家史編纂の閑職に追いやられる。
1716年 70歳。ハノーファーにて死去。その著作の大半は未完で、現在も全集は完結していない。

<クリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff)>
1679年1月 パン屋の息子としてブレスラウに生まれる。
1700年 イェーナ大学で哲学と数学を修める。
1702年 ライプツィヒ大学に移る。
1703年 論文『数学的方法で書かれた一般実践哲学について』を発表。教授資格を得る。この論文をライプニッツに送り高い評価を受ける。
1706年11月(27歳)ライプニッツのの推薦で、ハレ大学の数学・自然学教授となる。
ハレ大学はブランデンブルク選帝侯により創設され、「敬虔主義の牙城」であった。敬虔主義はプロテスタント内の原理派。
1709年 哲学科の教授も兼任。論理学、形而上学、倫理学を教える。 一部の学生が神学や聖書について定義や証明の改善を求めるようになった。このためヴォルフは「神学嫌悪」を引き起こしてると非難される。
1711年 ライプニッツの推薦によってベルリン・アカデミーの会員となる。
1712年 ヴォルフ、最初の体系的著作「ドイツ語による論理学」を発表。
1715年 プロイセン国王から宮廷顧問官(Hofrat)の称号を授与される。
1719年 第2作目の体系書「ドイツ語による形而上学」が刊行される。
ヴォルフの代表作と言われる。第二章は存在論(事物論)、第三章は経験的心理学、第四章は宇宙論(世界論)、第五章は合理的心理学、第六章は自然神学を扱う。 存在論は事物を一般的に考察し、他は特定の対象を弁証する。
1721年 ハレ大学の副学長を退任。記念講演で「中国人の実践哲学について」を語り、孔子を称賛する。
1723年11月(44歳) ヴォルフ、無神論の罪でプロイセンを追放される。プロイセンではヴォルフの哲学を重罰をもって禁止する。
1723年 ヴォルフ、ヘッセン=カッセル方伯の招請を受け、マールブルク大学の哲学科主任教授となる。
1733年6月 パリの王立学術協会の外国人会員に選ばれる。この後、プロシアでのヴォルフの研究はなし崩しに容認される。
1735年 ヴォルフの書籍がハレで刊行される。
1740 年、ヴォルフを追放したフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世が死亡。フリードリッヒ二世(大王)が即位。
1740年(61歳) ハレ大学に返り咲く。5年後には学長となる。
1754年4月 死去。

<バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten>
1714年7月 ベルリンで7人兄弟の5男として生誕。父は軍営教会の牧師。
1727年(13歳) 両親が早世し、里子としてハレに移り住む。 12 歳年上の長男ジークムント(のちにハレ大学教授)が指導した。 
1730年(16歳) 飛び級でハレ大学に進む。
このときすでにヴォルフ追放後7年を経過している。彼の教師となったのはヴォルフを追放したランゲであった。
1735年(21歳) 哲学でマギスターの学位を取得。
1735年 論文「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」を発表。教授資格を得る。
この論文で「美学」(aesthetica)の概念を提唱した。 可知的なものは論理学の対象であり、可感的なものは感性の学としての美学の対象である。
1737年 ハレ大学の員外教授となる。
1739年(24 歳) バウムガルテン、『形而上学』を公刊する。
1740年 ハレを去り、フランクフルト・アン・デル・オーデル大学教授。ヴォルフとはすれ違いとなる。
1750年 「美学」(aesthetica)を発表。(未完に終わっている)
1757年 『形而上学』を発表。「エステティカ」の訳語に「美しいものの学」を充てる。

カントとヘーゲルを繋ぐ橋がだいぶ見えてきた。
とくにシェリングの果たした自然哲学での理論的貢献がヒトカタならぬものであったことが実感された。
ただ、その多くがひらめきによるものであり、理論的な詰めが甘かったから、手柄をヘーゲルに横取りされてしまった感がある。
それでも、これまでヘーゲルの弁証法哲学の成果と思い込んでいたことの多くが、実はシェリングの直感に基づいていたということが分かった。
翻って、カントに遡行して行くと、カントが必死になって解き明かそうとしたことの核心が見えてくる。
それは「物自体」概念なのではないだろうか。
以下は作業仮説であって、学習する中でまったく違ったものになるかも知れないが、「予想屋」の工場と思っていてください。
1.カントはライプニッツを批判し、デカルトとヒュームを取り入れて理論を構築したと物の本には書いてある。
これは多分ウソだろう。
理論構築の仕方はどう見てもライプニッツ・ヴォルフのそれだ。じゃがいもと酢キャベツで出来上がっている。
2.モナドを起点に構築されたライプニッツ哲学は、不可知論と主観論によって危機にさらされた。認識論・現象論のダイナミックな過程を念頭に置かなければ体系そのものが崩壊する。
3.そこで一方では「物自体」概念を作って、外界を不可知のものとして遮断し、一方では「理性」概念を作って主観を伴う知性を主体とすることで、物自体への接近を可能にするという道を作った。
というのがあらあらの流れではないかと想像している。

3. シェリング自然哲学からみた人間と自然との関係
「力動的過程あるいは自然学の諸カテゴリーの普遍的演繹」(1800年)より

①可視化の過程
自我はその能動性を、産物を通じて可視的にする。可視化するというのは、時間軸を取り去って3次元の静的世界に構造化することである。
これに対し自然は、その能動性を、産物を通じて可視的にしている。だから自我はそれを構造的に認識することが可能となるのである。
認識の一歩としての視認は、可視的対象を挟んだ自然と主体の分離→結合過程である。
シェリングはその後で「自然の限界において観念論が出現する」と結論する。しかしそれは可視化できない自然が自我の外側に広がっていることを表現しているに過ぎない。それはむしろ実在論であって、それが観念においてしか捉えられないということである。
確率的存在の世界は非在ではない。そこでは物質はエネルギーとして(確率論的に)存在している。
だから、シェリングの立場は、骨の髄まで紛れもなく実在論だ。
②自然過程の頂点における人間の出現
シェリングにおいては、自然過程がその頂点において人間を生み出したのである。
“主体としての自然”は、自己を見るという潜勢的志向を実現するために、自分の有機的部分を人間理性として分離したのである。
ところが超越論的観念論(フィヒテ)は自己意識において成立する“自我”を絶対化する。その場合には“自我”の存立の根拠、すなわち自らと自然との連関が忘却されてしまう。
人間は意識的に「自然から身をもぎ離」そうとする。しかしそれは根底的には「自然自身の志向」なのである。
そこを押さえずに、人間と世界との現実的連関を分断するような観念論は、結局のところ主観的なものに転落する。その絶対性も見せかけのもの、「仮象」となる。
③フィヒテの反発
フィヒテは1801年5月にでシェリング宛に手紙を書いた。この中で「感性の世界すなわち自然は、意識というこの小さな領域の内に存在する」ものでしかないと主張した。
その後フィヒテは極端な汎生命論まで行き着く(1806 年の通俗講義『学者の本質』第二講義)
フィヒテの結論は「絶対的なものは生命であり、生命は絶対的なものである」と語られる。そこでは自然は「死んで自己のうちに閉じこめられ硬直したもの」としてのみ登場する。
自然は、人間的生命を制限し脅かし束縛するものであり、人間的生命によって「廃棄されるべきもの」である。
これに対しシェリングはフィヒテを切り捨てる。
理性的生命による自然の賦活とは、実際は自然の殺害にほかならない。
そこからは「全面的な精神の死」が帰結せざるをえない。
④自然哲学の営み
この節には名文句が並ぶ。“てにをは”をいじるだけでそのまま転載する。
自然哲学は、自然全体がその潜勢的指向を実現して意識にまで高まってくる際の諸段階を跡づける。それは諸段階に残された“記念碑”をたどる作業である。
理性はいっさいの自己創造者としてみずからを誇るが、自分の後には、みずからの存立根拠としての有機体を引きずっている。
人間は自然存在者であるからこそ、主体としての自然そのものから主体としての力を付与され、主体でありうる。主体として、自然にかかわり、自然との相互作用の中で生き、活動できる。


ちょっと感想
えらい難しい内容だが、言葉の使い方にある程度慣れればきわめて説得力のある議論だ。
一番共感するのは、現代物理学や生物学の到達水準によく照合していることだ。

これまでカントがフィヒテからヘーゲルへ発展したと言うことで説明されてきた。
とくにマルクス主義哲学の分野ではそれが主流だった。
ところが勉強してみると、なかなか状況はカンタンではない。それどころか私にはカント→シェリング→ヘーゲルと書きたくなる内容だ。
もう一つは、観念論対唯物論という図式がずっと強調されてきたが、果たしてそうなのだろうかということだ。
むしろ実在論対経験論というか主観論の対抗という側面が主要なのではないかと思う。

シェリングにおける3つの発展
非常に雑駁な感想だが、シェリングには3つの哲学上の発展があったと思う。
それは、自然を自己の根源に据える実在的唯物論の視点、自然と自己を発展の過程のうちにとらえる弁証法の視点、カントの「物自体」の生き生きとした復権と自己との一体化である。
カントが不十分ながらも「物自体」を定式化することによって、宗教と科学精神を分けた。理神論的な曖昧さを残そつつも実在論に向かって大きく踏み出した。
それをフィヒテが、実践概念を持ち込むことによって、ふたたび主観論に引き戻した。
ただしフィヒテの主体論はカントの静的二元論に動きを持ち込み、発展の概念をもたらした。
そしてシェリングがカント的世界にコペルニクス的転回をもたらした。天体が動くのではなく私と私を乗せた大地こそが回転しているのである。
それは、ある意味でカントの「物自体」の復権でもあった。しかも生き生きとした、みずから発展するものとしての自然の復権でもあった。

イマヌエル・カント 年譜
森本誠一さんのサイトその他を参考にさせていただきました。より詳しく知りたい方はそちらにお進みください。

1724年4月 カント、ケーニヒスベルクに生まれる。馬具職人の四男(9人兄弟)であった。
1732年(8歳) ラテン語学校のフリードリヒ学院に進む。この学校は当時プロシアで優勢であったプロテスタント敬虔主義の教育方針をとっていた
1740年(16歳) ケーニヒスベルク大学に入学。当初、神学をこころざす。のちにライプニッツやニュートンの自然学を研究。
1746年(22歳) 父の死去にともない大学を去る。正式な卒業ではなく中途退学に近いものであったとされる。その後は家庭教師をして生計をたてる。

前「批判」期
1749年(25歳) 卒業論文『活力の真の測定に関する考察』が出版される。『引力斥力論』などニュートン力学や天文学を受容。
1755年(31歳) 最初の論文「天界の一般的自然史と理論」を発表。
銀河系は多くの恒星が重力により集まった円盤状の天体であると推論。さらに太陽系は星雲から生成されたと論証した(カント‐ラプラスの星雲説)。
1755年 ケーニヒスベルク大学哲学部の私講師として採用される。論理学、数学、物理学、形而上学を講義。私講師就職論文『形而上学的認識の第一原理の新解明』が出版される。
1756年(32歳) 『物理的単子論』をあらわす。公開討議の第1回目の素材となる。これにより教授資格を獲得。(就任したわけではない)
1758年(34歳) ケーニヒスベルクがロシア軍によって占領される(62年まで)。
1762年(38歳) 『神の現存在の論証の唯一可能な証明根拠』を出版。初めて学界の注目をひくが、ウィーンでは禁書扱いになる。
1762年 ルソーの『エミール』が出版される。カントはこの本から強い感銘を受けた。
1764年(40歳) ベルリン・アカデミーの懸賞論文に応募。『自然神学と道徳の諸原則の判明性』が次席に入る。
1764年 『美と崇高の感情に関する考察』を出版。大学側からの詩学教授職への就任要請を辞退する。
1766年(42歳) 『視霊者の夢(形而上学の夢によって解明された)』を出版。ライプニッツの形而上学を否定的に総括。
「別の世界とは別の場所ではなく、別種の直感にすぎない。この世界と別の世界を同時に往することはできない。それは理性の必然的な仮説である。」

「批判」期
1770年(46歳) ケーニヒスベルク大学哲学部論理学・形而上学の正教授に就任。前年よりエアランゲン大学、イェナ大学の招聘を受けたがいづれも辞退。
1770年 就任論文として『可感(感性)界と可想(知性)界の形式と原理』を発表。ルソーの肯定的な人間観に影響を受け、ふたつの領域での人間理性の働きを分析した。この論文の増補改訂の計画が、おその後の『純粋理性批判』の構想に発展した。
1772年(48歳) ポーランド分割にともない、ケーニヒスベルクがプロシアに返還される。その後7千人の軍を含め人口は6万人となり、ドイツ屈指の都市となる。
1776年(52歳) カント、哲学部の学部長に就任。教育学の講義を開講する。
1781年(57歳) 『純粋理性批判』第一版を出版。当初はバークリーの観念論と同一視された。
認識(経験)を感性と悟性(理解)に分け、認識できないものを理念(物自体)とした。悟性は現象の文字化されたもので、直観(時間軸)は失われている。
1783年(59歳) カント、『プロレゴーメナ』(形而上学は可能か)を出版。純粋理性批判にまつわる誤解を解くための解説本と言われる。ヒュームに影響を受けたが、不可知論ではないと強調。
1784年(60歳) 「世界市民的見地における一般史の理念」、「啓蒙とは何かという問いに対する回答」を発表。
1785年 『人倫の形而上学の基礎づけ』を発表。
1786年(62歳) ケーニヒスベルク大学学長に就任。ベルリン・アカデミーの会員に選ばれる。
1787年(63歳) 『純粋理性批判』第二版を出版。
1787年 「実践理性批判」が発表される。当初は『純粋理性批判』再版にあたっての付録として構想されていた。
物自体の秩序を「叡智界」とし、叡智界の因果性の法則を道徳として規定する。この法則に従うことで、「現象界」の純粋理性が実践的に実在化される。
1789年 フランス革命が勃発。その後革命の波及を警戒する政府の勅令により、出版物の検閲が厳しくなる。
1790年(66歳) 三批判最後の著作「判断力批判」が発表される。
判断力は「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」であり、美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種よりなるとされる。

後「批判」期
1791年(67歳) フィヒテが経済的支援を求める。カントは『あらゆる啓示の批判の試み』の出版先の紹介という形で援助する。
1793年 カント、既成宗教への批判をふくむ『単なる理性の限界内における宗教』をあらわす。プロイセン政府は出版を禁止。
1794年 勅書により、宗教に関して公に語ることを禁じられる。カントは「陛下の忠実な臣下として」勅令を甘受すると表明。
1795年(71歳) 『永遠平和のために』を発表。国家にとっての自然状態(戦争状態)を脱して恒久的な平和をもたらすことを訴える。
1797年 『人倫の形而上学』を発表。ロック的な社会契約説を展開する。
1799年(75歳) 「フィヒテの知識学に関する声明」を発表。
1802年(78歳) 認知症が進行。約40年間カントに仕えた召使のマルティン・ランペを解雇する。
1804年2月(80歳) カントが逝去。16日間かけて町中の市民がカントに別れを告げ、数千人以上が葬儀の列に参加した。

より

2. 個別有機体と環境
①環境について
環境という概念は近代の産物である。したがってシェリングの文章には登場しない。しかしシェリングは環境という発想を最初にした人物である。
環境は、主体の内と外を区分する境界領域を意味する。環境は肉体にとって自然の一部ではあるが、訓化された自然、一種の膜である。
②普遍的有機体から個別有機体へ
根源的産出的能動性が単一の肯定的原理として働くこと、それを受容する否定的諸原理が差異性を持つという関係。
「生命と有機体の肯定的原理は、絶対的に一である以上、有機諸組織は本来ただその否定的諸原理によってのみ異なる」
③個別有機体のありよう
自然の個体は、普遍的有機体に同化されず自己を存立しなければならない。
同化されないためには、いっさいを自分に同化しなければならない。有機組織化されないためには自分を有機組織化しなければならない。
この、閉じたシステムとしての有機的物体の内には、外界に抗して均衡を維持するような対立的能動性が働く。
その営為は、たんなる外的刺激に対する反応(因果的受容)ではない。
その行為によって内的なものが外的なものから区分される。その境をなすのが環境(訓化された外界)である。
分かりにくいので噛み砕くと、普遍的有機体というのは環境(自然)と生命主体(個別有機体)をふくんだ全体であり、個別性というのは普遍性への反抗ないし抵抗として存在する。
ただし直接的な抵抗はたちまちのうちに粉砕・吸収されてしまうから、反抗する主体が永らおうとすれば、その周囲に外皮(膜)をまとう必要がある。
生命というのは持続性(持続する反抗)を必要とするからこの環境という外皮は生命にとって必須(特殊な反抗形態としての生命)である。
こう読み解けば、シェリングの自然哲学の素晴らしさが分かってくる。
④個別有機体の発展
個体的有機体は受容と能動性との相互作用、交互限定を通じてみずからを有機組織化する。この二重性を介して外界との交互限定関係も形成される。この二重性は無機的自然の二重性の反映である。
有機的個体は栄養摂取、成長の過程をとおして、二重性としての自分を不断に維持、再生産する。

変な記事があった。
日付は去年の7月30日、立憲議会の投票当日、混乱の極にあった日である。
記事が載ったのは長者番付で有名な財界紙「フォーブス」である。
Congratulations To Venezuela - The Human Development Index Is Up
というもの。訳すと「おめでとうベネズエラ 人間開発指数が上がったよ」ということか。


ベネズエラは、いまや経済的ににっちもさっちもいかない状態だと考えられている。
ハイパーインフレが襲っている。この1ヶ月で物価は50%上昇した。すべての人の体重が食料不足で減少した。子供は医薬品の不足から死にかけている。トイレットペーパー、ビール、ビッグマックは使い果たされた。

しかし、「国民よ心配するな。人間開発指数は上昇したのだ!」 そう報道されている。
いや、違う。これははるか遠いヨーロッパの左翼の連中の所業だ。
ベネズエラはその歴史において最も重要な時代にあります。
私は最初から、ボリバルの革命を重視し、連帯してきました。
過去20年間の社会的成果は疑う余地がありません。
これを証明するためには、「人間開発指数の進歩」に関する2016年版国連報告書を参照するだけで十分です。
レポートは続く。
2015年のベネズエラの人間開発指数は0.767でした。これは188の国と地域のうち71位、トルコと同格にランクされます。人間開発の分野で高開発国に位置する数字です。
1990年代から2015年にかけて、ベネズエラのHDIは0.634から0.767へと増加しました。増加率は20.9%にあたります。
1990年から2015年にかけて、出生時平均余命(平均寿命)は4.6年増加しました。平均教育水準は4.8年に上昇しました。一般教育年数は平均値で3.8年増加しました。
1人当たり国内総生産(GDP)は1990年から2015年の間に5.4%増加しました。
もちろん、この報告はいろいろな読みかたができる。

私の場合、最初は、それが本当に真実であったのか、今も真実なのかをチェックすることから始まった。
(しかしそれは事実だった)
つぎに私のしたことは、HDIはライフスタイルや経済管理を評価するために果たして適当な方法なのか、ひょっとして違うのではないかという違うことだった。
なぜなら、もし経済が誤操作の結果、自由落下している状況のもとでも、HDIが「状況は良好だ」というのなら、それは社会状況の測定システムとしては使えないことになるのではないか?
(しかしそれも事実だった)
HDIは「状況は良好だ」と言っている。
GDPがこれだけ明らかに失敗を示している以上、HDI指標はすべてたんなる憐憫にしか過ぎない。もしHDIが「ベネズエラはうまくやっている」というデータを出すのなら、その測定システムに誤りがあるとしか考えられない。

エディターさん、ご苦労さま。ご同情申し上げます。紛れもない事実を前に思い悩む姿が目に浮かぶようです。もう少し事実に対して素直になれば、楽になると思うのですが。

去年の後半あたりからずっと、国際連帯運動の結集点をもとめる試みが続いている。
ラテンアメリカも後退している。東アジアも先が見えにくくなっている。かろうじてヨーロッパ・アメリカでサンダース・コービン・メランションの運動が希望の星となっているが、国内事情を聞くとそう明るいばかりの話でもなさそうだ。
多分仕方がないのだろう。景気が悪くなると、どうしても目の前の話ばかりになってしまって、明日の世界を語るほどの高揚感は消え勝ちになる。
しかしこういうときこそ夢を語らなければならない。肝心なことは人々が夢で団結することだ。方法で団結する必要はない。

そう考えたのは、たまたまイタリア左翼の話が話題になったからだ。実は、戦後イタリアに行って居着いてしまって、左翼になった日本人というのは結構いるらしい。
実はそういう人とコンタクトがとれるというのでツァーを計画したのだ。しかしいろいろ検討していくうちに、果たしてそういう人たちと今でも思いを共有できるのかということになって、すこし情報を修してからにしよう。日本とイタリアのボルシェビストが傷口をなめ合うようなツァーをしても生産性ゼロだ。

数年前にイタリア共産主義再生運動の歴史をたぐったことがある。それはプッツンしていた。いま確認するとプッツンしたきりである。組織はずたずたになり活動家は四分五裂した。一方で民主党(旧共産党)の方はさらに右転落している。
一番はっきりしているのは、イタリア左翼はボルシェビズムに代わる新たな社会主義像を築き上げられなかったということだ。
おそらくそれはフランスにもスペインにもイギリスにも言えることであろう。だから私達がサンダース・コービン・メランション運動を語る際にはヨーロッパ・マルクス主義の再生、あるいはヨーロッパ社会民主運動の再構築と結びつけて語る以外にないのである。
さらに言うなら、我々みずからが日本での活動の経験をもとに社会主義運動構築へのプログラムを持ち、それと照合しながらヨーロッパの人々と語り合うことが必要なのだろうと思う。

このところ、夜は嫁さんのビデオ鑑賞にお付き合いと書いたが、昼はとなると、朝9時のテレ朝、昼のTBSと釘付けになっている。
“仕事”はまったく手につかない。
森友の話が一気に進んだが、「佐川問題」とは笑止千万だ。
「佐川問題」は突き詰めれば(突き詰めなくても)財務局問題であり、財務省問題だ。そういうことでいいのかね。
基本的には財務省は被害者だ。やばい橋を渡らされ、地雷を踏むことになったが、見返りは一つもない。加害者は誰か?
とりあえず「加害者」として見えているのは安倍首相夫人だ。そういう意味ではこの事件は「昭恵夫人問題」だ。今のところは…
解明が進めば(進むとしての話だが)、昭恵夫人の背後で財務省を動かしたものが見えてくるだろう。財務省を詰める力があるのは経産省だけだ。財務局のどこをどう突けば落ちるか、それは官僚にしか分からない。もっとも、正面からの切り込みはできないから、官邸サイドの裏に回って知恵を貸し手を貸したのだろう。(なぜ昭恵夫人“秘書”が経産省から派遣されていたかは不明)
財務省はどこまでこの屈辱に耐えるのだろうか。
この点で特に気になるのがこの間の麻生財務相の言動だ。佐川叩きに加わるというより、その先頭に立っているのはまったく解せない。長期にわたり財務大臣を勤め今も現職である人間としては、立ち位置という感覚が感じられない。この人には財務省サイドの情報より官邸サイドの情報が注ぎ込まれているのだろうか。
もちろん佐川が麻生財相にはからず、独断でやった可能性はある。大臣は知らないほうが良い場合もある。問題は麻生財相がそういうふくみも念頭に置きつつ、事務方幹部を信頼して動いていたかどうかだろう。
現在権力内部でのねじれの回転軸は、この財務省と財務大臣とのねじれにある。
財務省幹部は「佐川問題ではなく昭恵問題だ」と考えているはずだ。財務省が被害者であることを印象づけたいと考えているはずだ。反撃が必要だとも感じているはずだ。
今後、財務省サイドから麻生追い落としのための情報(「麻生は知っていた」)がリークされてくる可能性もある。公卿集団がどのくらい闘えるかは疑問だが、闘えなければ舐められて終わりだろう。
まだまだ第2ラウンドは終わっていない。
このラウンドは麻生の首をとって一段落となるかもしれない。
その後は加計問題だ。本丸(安倍と経産省)はこちらにいる。

1. 普遍的有機体 
A) 1797年「自然哲学考」(Ideen)より「序論」

精神としての人間は自然の一部である。
自然とは現実の生きた相互連関が織りなす総体である。
「人間と世界とはたえず接触と相互作用が可能でなければならない。いかなる裂け目もあってはならない。ただそのようにしてのみ、人間は人間になる」

(哲学的)自然状態においては、人間は自分をとり まく世界と一体であった。
「哲学」が誕生すると、人間は外界に対して独立し、自由への道を歩み始める。 だから哲学の基本問題となるのは「外の世界(自然)がどのようにして可能か、どのようにして経験可能か」ということである。

人間の意識性と自由な能動性は、自然との現実的連関を前提とする。
したがって自然は、人間精神と同様に能動的主体でなければならない。自然は精神と同じく、自由な生命的なものとして捉えられる。
この自然という主体は、個別の人間を意識主体たらしめ、その自由を可能にする根拠である。それは自然の内的展開を通して行われるのである。

④精神と自然の絶対的同一性
以上の経過は、精神と自然の絶対的同一性をしめす。すなわち「自然は目に見える精神であり、精神は目に見えない自然である」というテーゼである。

⑤この絶対的同一性をふくんだものが普遍的有機体である。
それは自分自身で存立し、自分自身を産出し、自己自身を有機組織化する。

⑥自然の根源的産出性は無限な能動性である。
そのため自然の産物も「無形態的」で流動的である。したがってそれが発展するためには無限に阻止されなければならない。 事物は無限に阻止される結果として現象する。

⑦無限に阻止する能動性は、産物として把握された経験的自然である。
(この詳細は展開されない)

⑧二つの能動性の衝突により、根源の能動性は一定の点に収斂するようになる。
この点は繰り返し充実させられ、自分の「領域」を形成する。 これが客体としての自然となる。

B) 普遍的有機体が内包する二つの問題点

これは普遍的有機体としての全体的自然の内部構造の問題である。 第一は、形態的にも質的にも多様な有機体が類としてどのように存立しうるのか。 第二は、普遍的有機体の内部で、個体的有機体と外界をなす物質的自然がどのような関係にあるのか。 これらは以下に述べる第二の課題と大きく関わってくる。

の学習ノートです

はじめに

シェリングは生きた創造的自然という見方を提起した。
それは自然を能動的な主体として捉えた。
そして自然そのものを生成し、形態化する力を備えた主体として把握しようとした。
彼の自然哲学は、その自然の産出過程を描き出そうという試みであった。

シェリングの「主体としての自然」という表現は、ロマン主義的な擬人観ではないかと考えられてきた。
しかし今日では自然を主体として捉える発想は一定の支持を受けるようになっている。

今日、シェリング自然哲学は環境学の立場から3つの点で注目される。
(1)普遍的有機体
前期自然哲学で提示された「精神と自然との根源的同一性」の考えは普遍的有機体という概念を生み出した。
これは「総体としての自然」を一つの有機組織ととらえる考えである。
そして、その中に自我・意識・精神もふくまれる。
(2)個別的有機体
自然が普遍的有機体としてとらえられるとき、その全体的自然のうちで、個別的有機体は規定されるのか。
個別的有機体(例えば人類)は普遍的有機体(環境)の中で、どのようにして存立できるか。
(3)客観的観念論
自然哲学は、主観的なものに一面化された観念論(フィヒテ)に対する批判である。
それは客観的存在の自立性と主観に対する規定性を意味している。
その際に、自我・主観は自然に対してどのように再措定されるのであろうか。

と、ここまでが短い序論。ついで(1)、(2)、(3)について検討に入る。

ベネズエラのアレアサ外相、国連で米国の干渉を非難
Venezuela's Arreaza Condemns 'US Interventionism' in UN Speech

2018年2月26日 teleSUR

「20年近くにわたり、我々チャベス主義者は外国人の介入勢力に嫌われてきた。我々が石油、ガス、金、希少金属、ダイヤモンド、水、肥沃な土地の主権を取り戻すことを熱望し続けているからだ」

ベネズエラの外交トップは、スイスで人権理事会会議に出席し各国高官に語りかけた。

アレアサ外相は言った。ボリーバルの言葉を引用した。「アメリカ合衆国は自由の名のもとに、南北アメリカ大陸に悲惨を広げることを望んでいる」と。

アレアサは述べた。「トランプ米国大統領がベネズエラを脅かしている、そして我が国への制裁を課し、マドゥロ大統領を打倒しようとしている」と。

「この人権理事会が戦争を起こしたい人にハイジャックされることは許されない」

アレアサはティラーソン米国務長官の最近のコメントを指摘した。その中で彼は公然と、ベネズエラの民主党政権の打倒を提案し、次の選挙の結果を認めないと述べた。

アレアサ外相は、「それはベネズエラが今年受けた105の国際的な言葉による攻撃のほんの一部に過ぎない」と付け加えた。

マドゥロは、野党が「平和のための対話」に参加するよう400回以上も呼びかけている。しかし、彼らはそうしなかった。そうしたくないからだ。
アレアサは強調した。
野党は、4月22日の選挙に参加することにも同意しなかった。その日は彼らの提案した日だ。

彼はさらに、米国政府を非難した
「ベネズエラに人道的危機がある」という話を世界に信じさせたこと。それは南米諸国への介入を意図したものだということ。
一方で、国連の独立人権調査官アルフレド・デ・サヤスの最近のコメントの意味を強調した。

先週、サヤスは「ベネズエラに人道危機はなかった」と述べた。
「もちろん欠乏、不安、不足はある。しかし何十年も国連で働いて、アジア、アフリカ、中南米の国々の状況を知っている人なら誰でもわかる。ベネズエラの状況は人道的危機ではない」
サヤ発言の詳細は下記をご参照ください
2017年12月25日 ベネズエラ:国連人権専門家の最新報告

アレアサはこう付け加えた。「にも拘らず、メディアの報道がベネズエラは破滅の危機にあると報道するのは、なぜか。それは、ベネズエラが経済戦争を仕掛けられているからだ」

そして「さらにベネズエラは金融封鎖、法外な密貿易などに苦しめられている。これらの問題を解決するために国際連帯が必要・不可欠だ」と述べた。

アレアサはまた指摘した。
「ベネズエラの人々は給与増や年金制度などの社会計画の恩恵を受けている。障害者には奨学金が渡され、失業率は6%に低下した。600万人以上の家族が“供給・生産地方委員会”の恩恵を受け、200万の家が分配された」

「ベネズエラは、人権擁護のために国連と協調している。他の国々は人権を軽視し違反している。
人権は神聖でなければならない。私たちはそれらに違反することはできない。なぜならそれは人類の防衛にとって不可欠なものだからだ」

多分、いつまでも続くわけはないし、病気が病気だから、終わればそれで終わりだと思うから、毎晩嫁さんと付き合ってビデオを見ている。
仕事はしない、活動もしない、頭は使わない、体も使わない、こんな生活は相当フラストが貯まるが、それに慣れてきた自分にもっとフラストがたまる。
難しいビデオはダメだから、テレビドラマのシリーズのビデオ化されたものを片っ端から見るということになる。
名前をあげようと思ったら殆ど憶えていないことに気がついた。そこでメモ代わりに見たものを書いておく。
まずは「結婚しない男」という連続ドラマだ。主演が阿部寛と夏川結衣の組み合わせのラブコメディだ。全15作くらいある。これが終わってから、嫁さんが阿部寛をリクエストするようになった。こんなの何処が良いのかと思うが、まぁ好き好きだから仕方ない。
落ちこぼれ高校生を東大に入学させる高校教師の連続ドラマというのを借りてきた。実にバカバカしくて見る気になれないが、嫁さんが見たがる以上付き合わざるを得ない。
次が阿部寛がCM作家をクビになって専業主婦をやるという設定のドラマ。いささか飽きた。
その次がヤクザが介護ヘルパーになるという荒唐無稽のドラマ。草彅たけしの主演で、ここにも夏川結衣が顔を出す。これも嫁さんが食いついて強引にご相伴させられた。
それが終わるのを待って、夏川結衣の「結婚前夜」というのを見た。これはNHKの5話完結のドラマで、マイフェアレディが下敷きになっている。脚本が素晴らしい。さすがNHKだ。
こういう映画は嫁さんと並んで見るのがいささかしんどい。お互いそこそこ心当たりはあるであろうから、横眼でちらっと見られる瞬間がけっこうズキッと来る。
夏川結衣という俳優は美人じゃない。少なくとも一目惚れするようなご面相ではないが、なにか変に魅力的だ。どちらかといえば嫌いではないが、人前で、とくに女性に「この女優さん良いね」というのが下心をさらけ出して言うようで、ひょっとはばかられてしまう女優だ。
「あら、こんな人がいいの?」と言われそうな感じ、「あれっ、俺の最初に付き合った彼女みたい」とふと過去を振り返ってしまいそうな感じ、とにかく何か気になってしまう女優さんである。
あと面白かったのが「ナニワ金融道」で、途中からはけっこうコメディーになってしまったが、1、2作目は相当迫力あった。コメディではあるが、いしだあゆみがゲストで出た番組はロードムービーの趣もあり、単作としても最高だった。
吉永小百合の「母と暮せば」は泣きの涙、嫁さんと代わる代わるにティッシュの箱に手を伸ばしていた。
私の母は4人兄弟。母以外はすべて男で、すべて医者になった。長兄が大学でセツルメントもどきにはまったらしい。当局に赤色分子として目をつけられたようだが、とにかく昭和5年ころに無事に医者になって、なった途端にコレラもどきで死んじまったようだ。
次兄は静岡で開業し金持ちになった、末弟は北大に行って学者になった。母はこの弟のようになってほしかったようだが、後年になってからは「長兄の血なんだね」と言って諦めた。父は「歯医者でも良いんじゃないの」と密かに思っていたが、そのような道は母の念頭にはなかった。


変なサイトを見つけてしまった。
76京大過激派の人権破壊;作詞・作曲集:反戦絵画:エッセイ
最近のブログ記事を見ると、作者はどうも統合失調の世界に入っているようだ。
ただその記録を読む限り、70年代後半の京大過激派が完全に思想崩壊していることはわかる。そして周りが息を潜めて、過激派が自壊するのを見守っている状況も分かる。
みんな逃げたのだ。民青に任せて。
しかし民青は権力ではないからそこまで仕切れない。だから最後は機動隊が出てきて言うとおりにさせられた。
過激派をおだて上げた「朝日ジャーナル」は沈黙し権力支配へ道を明け渡した。民青に対しあれ程までに居丈高だった新左翼は、権力には羊のように温和であった。全共闘を天まで持ち上げ、民青を悪しざまに罵った人々は、今はそのことにはなかったかのように口をつぐんでいる。

いま野党共闘を語るとき、我々にはあのときの思い出が滓のようにたゆたっている。「野党共闘」は、あのときバリケードの外にいた人間と、内にいた人間のあいだの共闘という意味を内包している。
そこをあいまいにする言葉として立憲主義が用いられるのなら、それは拒否しなくてはならない。民主という概念は決して捨ててはならないものだろうと思う。
だから全共闘思想の誤りは折に触れて突き出していかざるを得ない。「戦後民主主義」は虚妄ではなく野党共闘の出発点なのだ。


割り箸から見た環境問題 2006」というファイルがあって非常に面白い。
環境三四郎というペンネームで書かれているが、東大駒場の教員と思われる。
面白いと言いつつもPDFファイルで43ページにわたる。5分で読めるように要約して紹介する。興味ある方は本文をどうぞ。

はじめに
1 章 割り箸の生産
2 章 割り箸の流通
3 章 割り箸の消費
4 章 割り箸の廃棄
5 章 割り箸論争の整理
6 章 考察
7 章 資料・参考文献

という構成で、言うまでもなく第5章が主題部分、そこまではいわば序論ということになる。
そんなつもりで取りかかって欲しい。

はじめに
1.我が国において割り箸の「存在感」はきわめて大きい。
それは割り箸問題への市民の関心の深さとして現れている。
2.それは外食文化の発展とともに市民にとって馴染み深いものとなっている。
それと同時に、有用期間の短さ、使い捨て率の高さ、代替箸の存在などが、実際以上に「もったいない」感を刺激する。
3.2005年、中国から日本に輸出される割り箸が一斉に値上げされた。また、これを機会に割り箸が純粋に(中国の)森林を破壊していることが明らかになった。 
これにより割り箸を止める方向のインセンティブが働いている。


1 章 割り箸の生産 
原材料: 主にエゾマツ・アスペン・シラカバである。高級料理店ではスギ・ヒノキも使われる。タケは割り箸より串としての用途が広い。
高級割り箸はさほどの環境負荷になるとも思えないので割愛する。
主たる生産地: 98%は中国(旧満州)で生産されている。もともと生産性が低く放置されてきた木材を伐採するため、植生破壊負荷はシビアである。
なお日本の割り箸生産は80年代に激減し90年代に崩壊した。
間伐材の利用: 間伐材といえども国産で、高価格。間伐材ゆえの品質不良。しかし企業PRにはなる。

2 章 割り箸の流通
年間消費は250 億膳。一人あたり200膳と言われる。その 98%を輸入割り箸が担っている。事実上中国が独占しているが、2005年には様々な措置により価格が5割増しとなった。(あまり実感はないが…)

3 章 割り箸の消費 
最初に日本における割り箸の歴史がかんたんに触れられている。
江戸時代中頃から竹製の割り箸が使われ初め、そば屋などで利用されていた。
1877(明治10)年に、奈良県の寺子屋教師である島本忠雄によって、木製割り箸が開発された
大正時代には衛生箸という名で食堂などにおいて広く利用されるようになった。
太平洋戦争直前には50億膳に達したが、戦時中割り箸は禁止された。敗戦時はほぼゼロに落込み、回復には15年を要している。
順調に消費を拡大したが、80年代後半から消費が伸び悩みジグザグ傾向が現れているのは割り箸論争の影響であろう。
ついで割り箸の最大の長所である、清潔・衛生についていくつかの保留点が触れられる。
最初の報告が1994 年度の東京都立衛生研究所によるもの。43 点のうち製造国不明の割り箸6点などからら防かび剤が検出されている。
また、2002 年度の検疫所における検査で、中国産割り箸 32 件中 7 件から二酸化硫黄が検出された。漂白用に用いられたものであろう。

4 章 割り箸の廃棄 
申し訳ないが、読んでも暗澹たる心持ちにさせられるばかりなので省略。
率直に言えば紙おむつの再利用を考えたほうがはるかに生産的だ。

5 章 割り箸論争の整理 
ということで、ここからが勝負どころになる。すこし詳しく紹介しておきたい。
著者によれば、主な割り箸論争には3つあるという。
割り箸論争の口火を切った 1984 年の論争、特に自然保護との関係から論争がさらに過熱した 1989・1990 年の論争、そして割り箸業界側からの反論が強く押し出された 2000 年の論争の 3 つである。
さすがは割り箸問題専門家である。

5.1 1984 年論争 
発端は林野庁林産課長の発言である。
朝日新聞の「論壇」欄において、三沢毅林産課長が「割り箸は木材資源の有効利用法」と主張した。

原材料が低利用材であること、地域経済に貢献、森林資源の育成に貢献を挙げている。

2週間後に同じ「論壇」欄で日本自然保護協会の金田平理事が反論した。

反論骨子は、自然林の採伐であり、主力が輸入材であることを挙げているが、もっとも強いインパクトとなったのが「森食い虫」という呼称であった。

この議論への判断は、実態の把握を必要とする。そこで朝日新聞が実態調査を行った。

結果、割り箸の用材は低利用材ではない、インドネシアの割り箸は森林危機の一端を担っているなど、全体として「緑」浪費論を支持する論調であった。

5.2 1989・90 年論争
第1段階
1989年 「世界自然保護基金」が、日本の割り箸使用は熱帯雨林破壊の要因の1 つだと声明した。
日本環境保護国際交流会が塗り箸キャンペーンを展開。英文テキストを発刊する。
第1章「割り箸という無駄使い」、第2章「ペナン族の苦難」、第3章「消滅する熱帯林」と題されている。
役所の食堂などで割り箸廃止の動きが広がる。
第2段階
林野庁と業者は対抗キャンペーンを張る。議論は熱帯林との関係に集中。南洋材に占める割合は0.02%にすぎない、用材はもともとマッチやパルプとして使い捨てられるものと主張。
業者の危機感を背景に、反論はやや感情的になり、「使い捨てが問題ならティッシュこそ問題だ。OA 用紙を大量に消費している役所や企業によるキャンペンは偽善だ」と拡散する。
第3段階
市民グループによる再反論も展開されるようになった。市民感情に寄り添う表現になったのが最大の特徴。
「熱帯林、森林破壊だから全廃せよ、といっているわけではない。…モノを使い捨てて顧みなくなった日本人の習慣を、その気になれば使わずに済む割り箸を通じて見直そうというのが、運動の趣旨」(市民グループ「割りばし問
題を考える会」)
ダイエーが間伐材の割り箸を開発し、予想外の売れ行きを見せた。
これは議論が「良い」割り箸と「悪い」割り箸があるという形で収斂しつつあることを示した。
「割り箸文化」問題では、割り箸が日本の伝統文化の一環でもあり、高度成長期に5倍も増えたという「使い捨て文化」の象徴でもあることの認識が共有された。

5.3 2000 年論争
これは私も知らなかった論争である。
石川県の輪島市が「ノー割りばし運動」に取り組んだ。これに対し奈良県の吉野製箸工業協同組合(以下組合)が危機感を擁き、公開質問状を発した。

組合は「吉野割りばしは、スギ、ヒノキの間伐材を使っており、環境にやさしい製品だ」と主張。
これに対し、輪島市は「使用を自粛しているのは外国材が大半を占める安いはし。吉野の高級箸を敵視しているわけではない」と回答。
最終的には、伝統の「はし文化」の共存共栄で合意。

6 章 考察
割り箸をめぐる論点を整理すると以下のようになる。
①割り箸と森林破壊との関係
これについては、厳密には割り箸の是非ではなく、割り箸の用材として何を使うかの選択をめぐる問題である。
熱帯雨林の破壊につながるような用材選択は非であり、国内の間伐材を用いるなら是である。
ただし後者はほぼゼロ、というのが実態である。
なお、中国の割り箸企業が国内資源の劣化を受けてロシアからの木材輸入を増加させているという報道は注目すべきである。
②割り箸と地域経済との関係
割り箸産業には一定の経済効果があるが、それを以て割り箸は必要であるとまでいえない。
極端な例で言えばコカやケシの栽培は地域に経済効果があってもアウトである。
③割り箸と文化との関係
割り箸が批判されるのはムダ使い文化に根ざすと考えられるからである。
資源の無駄づかいが批判されるのは、資源の有限性が論拠となっている。無限に使える資源、ある程度の持続可能性を持つものであれば、無駄使いとの批判は当たらないかもしれない。
石油という有限の資源を原料とするプラスチック箸より割り箸の方が自然に優しい、という理屈が成り立つかも知れない。

6.4 まとめ

割り箸について考えていく際には、議論の論点は何なのか明確にした上で議論していく必要がある。そうでなければ、お互いの主張が繰り返されるだけで、すれ違うままに終わってしまう。
このことは環境問題全般に通じるものである。


「理論化学」(ウィキペディア)

高校で学ぶ化学を理論化学、無機化学、有機化学の3つの分野に大きく分類している。 この場合の理論化学は物理化学にほぼ対応する。物質の構造、物質の状態、物質の反応の3分野に大きく分類される。

ということで、受験産業の世界での一種の業界用語らしい。

物質の構造、物質の状態、物質の反応と言われても何のことか分からないが、以下のごとく分類されているそうだ。

物質の構造
1.原子 - 分子 - 電子
2.アボガドロ定数 - 物質量 - 分子量
物質の状態
1.相 - 気体 - 液体 - 固体
2.体積 - 密度
3.濃度(質量パーセント濃度、モル濃度、質量モル濃度) - 溶解度
4.状態方程式 - 分圧 - ヘンリーの法則
5.溶液
物質の反応
1.熱化学
2.反応速度
3.化学平衡
4.酸と塩基
5.酸化還元
6.電気化学 - 電池 - 電気分解

ほとんど目のくらむ世界だ。これってウソでしょう。大学でやるものだ。第一、これって化学? まるっきり物理じゃん。物理のつまみ食いしておいて、それを「理論化学」だなんて恥ずかしくないだろうかね。自分の理論パーぶりをさらしてるとしか見えないが…
化学というのは「物質とは何か」を追求する学問なのだと思う。ただし、物理学もおなじように「物質とは何か」を追求する学問だ。その名の通り、まさに「物のことわり」を探る学問である。そこへ行くと「化学」は、名前からして物の科学ではなくて化物の科学である。
生徒を化かして挫折させるための学問としか言いようがない。

高校化学の廃止を提案する
高校化学は無用だけでなく、理系嫌いを増加させ有害だ。

化学というのは「物質とは何か」を追求する学問なのだと思う。
ただし、物理学もおなじように「物質とは何か」を追求する学問だ。その名の通り、まさに「物のことわり」を探る学問である。そこへ行くと「化学」は、名前からして物の科学ではなくて化物の科学である。
中世の錬金術の延長の上に考えるとすれば、化学は物質をいじるためのノウハウの積み上げと言えるかもしれない。
ウィキで「化学」を引くと、ものすごい量の「…化学」が出てくる。つまり、化学は自然科学の一分野というよりは「化学的な視点」というふうな、いわば心構えの問題なのかではないかとも思われる。

問題はここから先で、このようにとらえどころのない、間口だけがだだっ広い「学問」を高校の授業で教える必要があるのだろうかという問題である。

率直なところ日常生活に必要な知識は酸と塩基くらいのものだ。
基本的にはそれ自体が応用学問だから、それほどエレメンタリーなものでもない。
例えば有機化学はむしろ有機物に引きつけて生物学で教えたほうがよい。
熱力学はエネルギー不滅の法則と結びつけて物理学として学んだほうが理解が容易である。
電子については素粒子論として物理学であつかうべきだ。
ということで、私の提案としては高校理科の選択項目から化学は外すべきだということになる。
その分、物理と生物を増やすべきだ。とりわけ人間生物学(医学)の分野を大幅に拡充すべきと考える。

(ベネズエラ連帯キャンペーン 18年3月1日)

「フェイク・ニュース」という言葉はドナルド・トランプのおかげで2017年に有名になりました。

しかしミスリードし、ミスインフォームし、アンダーインフォームする企業メディアのパワーはもっと深い根っこを持っています。
それはメディア自身とその強力な同盟者の利益を守るために発揮されています。

それがラテンアメリカに適用される時には、一般市民により深刻な影響を与えます。それが3つの国の事例で示されています。

ブラジル

ブラジルでは、民間ニュースメディアが、ディルマ・ルセフ大統領に対する2016年の反政府ラリーをことこまかに報道しました。

これには、世界で2番目に大きな商用TVネットワークであるO Gl​​oboも含まれています。

民間メディアと右翼は、「ブラジルの腐敗」という蛇の頭にルセフ大統領を乗せました。腐敗の疑いや捜査が行われていないにもかかわらず、彼女に「予算操作」というレッテルを貼ったのです。

大規模なデモンストレーションは、ルセフを解任するための不正な弾劾行為に対して強力な政治的支援を提供しました。

テメル副大統領は選挙の洗礼を受けることなく大統領に就任しました。そして大衆の支持がない強硬な緊縮策が迅速に設定されました。

ルセフ糾弾デモとは対照的に、何百万人もの労働者の支援を受けて、2017年4月に全面緊縮策に対するゼネラル・ストライキが発生したとき、メディアの報道態度は変わりようがありませんでした。

報道されたことは、ストの規模の大きさではなく、むしろ「デモンストレーション、抗議、破壊行為」でした。

労働総同盟のスポークスパーソンは語っています。
「ストライカーとデモ参加者は決してインタビューを受けることはなかった。ゼネラルストライキの目的についての議論は決して聞かされなかった。主流メディアは、明らかにストライキは信用できないという報道傾向を持っていた」

同時に、ブラジルの私営メディアは、2016年9月にテメルがルセフの解任を承認した理由を無視しました。

テメルは、米国のビジネスリーダーや外交政策の専門家との会合に向けて語っています。

それは民営化へのルーゼフの反対と、彼の党とその大企業の支持者によって強要された弾劾でした。「予算犯罪」とはおよそ無関係の理由でした。

最近これらのメディアと右翼勢力は、10月の次期大統領選挙でルーラ元大統領の再立候補を阻止しようと必死です。

ルーラの顧問弁護士はこう語ります。

「ルーラや支持グループに関する報道には、根拠のない情報漏れが絶え間なく続いている。これらの情報はどれも証明することはできませんが、その人が有罪になるまで、報道に何度も繰り返し現れます」

ホンジュラス

ホンジュラスでは、2009年に、軍事クーデターでマヌエル・ゼラヤ大統領の進歩的民主主義政権が覆されました。

大資本所有のメディアは、クーデターと結合し好意的な広報とサポートを提供しました。

このクーデターは、ラテンアメリカ、EU、米州機構その他の地域ブロック、各国政府によって広く非難されました。

対照的に、米国では、バラク・オバマとヒラリー・クリントンはこの政治危機を軍事クーデターと呼びませんでした。

その後の選挙では、メディアの沈黙と、野党指導者を対象とした投票前の暗殺が実行されました。

国際機関は選挙を監視していません。

今日のホンジュラスのニュースメディアは、依然として強力なビジネスエリートの手に集中しています。

コミュニティのラジオ局の地位はあいまいで、特に野党の意見を報道するときにはみずからを危険に晒すことになります。

国境なき記者団は次のように報告しています。

「ホンジュラスではさらにプレスの自由度が低下している。
 ジャーナリストは、2014年1月以来、フアン・オーランド・ヘルナンデス大統領の下で恐怖と自己検閲の雰囲気が強まり、不法捜査、暴力、殺人の対象となり続けている」

昨年12月、ドナルド・トランプ氏は、選挙詐欺の多くの疑惑にもかかわらず、勝者として、保守派で親米のヘルナンデスを承認しました。

そうした中で、彼は選挙監視団の調査結果を無視し、米議会有志議員と「独裁政権に反対するホンジュラス同盟」によるやり直し選挙の求めを無視します。

言うまでもなく、フォックス・ニュースはエルナンデスを支持する物語を提供しました。

しかし「エコノミスト」誌(保守系)さえも、選挙前の投票談合計画とヘルナンデス賛成票の積み増しの両方を報道しました。

「エコノミスト」はこう書いています。
「国の最高選挙裁判所(TSE)が公表した結果には、依然として説明できないほどの投票終了の遅れがあった」

ベネズエラ

ベネズエラでは、強力な民間企業が報道メディアを支配し、ニコラス・マドゥロが率いる現政権に対して積極的に政治介入を行い、将来のクーデターのための条件を作り出そうとしている。

1998年のウーゴ・チャベス選挙の4年後、アメリカと同盟関係にあるビジネス・エリートの敵意が激化。2002年にはクーデターを開始した。民営メディアは全面的に支持した。

国際的な報道機関は、情報源を地元ジャーナリストに依存していた。そのため、世界中のメディア報道が歪曲させられた。

英国では、主流メディアが1998年以来のチャベスの成果についてはほとんど報告しておらず、抑圧された人々が権威主義的な軍事指導者に立ち向かう物語として安易に受け止められた。

英国の企業メディア報道には、チャベスに「民主主義者というよりは独裁者」とか「遊び場のいじめっこ」というレッテルを貼るなど、不正確で誤った特徴づけが数多く含まれていました。

クーデターの2日後、民衆的に選出された大統領として人気のある蜂起がチャベスを元通りにしたが、右派野党の物語は持続し、国際メディア、特に米国で増幅されました。

過激な野党の指導による暴力的な抗議は、2014年には40人、2017年には120人以上が死に至りました。

主流の国際メディアの多くの特徴は、犯罪的な放火、バリケード封鎖、看護師や病院への攻撃などを無視しており、これらの死者は非常に多くなっています。

すべて人生の喪失は悲劇です。責任者は説明する必要があります。ベネズエラ政府は、治安部隊員が不法殺人犯の加害者と疑われたり、積極的に特定された例を認定しており、逮捕や起訴は既に行われています。

それにもかかわらず、国際メディアが提示した印象は、ベネズエラの暴力は、極端に偏った政治的格差の片側のみに由来しているように描き出します。
国際的な非難を何ら受けずに暴力を使うベネズエラの右翼の過激派分子には青信号が灯されています。

ニュースのストーリーは、各派の利害を理解しつつ注意深く読む必要があります。

主流メディアの歪んだ抑圧的な物語は、ベネズエラ、ブラジル、ホンジュラスなどのラテンアメリカ諸国の社会正義のために苦労している人々を傷つけ、強力な人々の特権を維持しようとしています。

したがって、これらの闘争の実態を理解し、それに根ざした国際連帯の構築がより重要でしょう。

大阪AALAでのベネズエラ大使の講演内容です。新藤さんの配信を転載します。


大阪アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(Osaka AALA)主催

「ラテンアメリカとカリブ:危機の時代の機会と課題」シンポジウム

セイコウ・イシカワ大使講演

大阪 2018224

 

敬愛する大阪AALA理事長及び友人の皆さま、

カルロス・ミゲル・ペレイラ、キューバ大使及び私を、この貴重なシンポジウムにお招きいただき、ラテンアメリカの最近の情勢を共に語りあい、友好と連帯を祝うことを主催者の皆さんに感謝します。このシンポジウムは、特にベネズエラと日本の国交樹立80周年と、わが国への日本人移民開始90周年の機会に行われています。

 

来る35日は、ベネズエラにおいてはわれわれの最高司令官のウーゴ・チャベス・フリアス没後5周年を記念して祝います。したがって、今日のこの集会は、人類と社会的正義の遺産を思い出し、祝福するための絶好の機会となります。

 

ボリーバル革命に対して継続される攻撃

l  ウーゴ・チャベス・フリアス(Hugo Chávez Frías)司令官が、1998年に政権につき、その後透明性のあるいろいろな選挙に勝利して以来、ボリーバル革命は政治的・外交的・経済的、そして特にメディア、といったあらゆる角度から絶えず計画的で、系統的かつ継続的な攻撃にさらされてきています。

 

l  長年、一連の事件が起きてきました。アメリカ帝国が、米国を支配するグローバル企業グループの指示のもとに行動し、当初は隠蔽されたあらゆる干渉行動を実施してきたことの全容と詳細は、恐らく世界中で知られておりません。その目的は、ベネズエラ・ボリーバル共和国の合法的かつ主権ある政権を打倒することであります。最初は2002年にウーゴ・チャベス・フリアス大統領を拉致し、2013年以降は継続的にニコラス・マドゥーロ大統領の合法的政権に対して、そうした行為を行っています。

 

ベネズエラは脅威なのか?

l  多くの人が、同じ疑問を頭に浮かべます。「なぜベネズエラを攻撃するのか?」。オバマ大統領行政命令は、ベネズエラは、アメリカ合衆国にとって異常で異例の脅威であるとしていますが、ベネズエラは他の国々にとって脅威なのでしょうか。ベネズエラのような国が米国のような余大国を脅すなどというばかげたことが、信じられるでしょうか?

 

l  ベネズエラには大量破壊兵器はないし、どこの国にも軍事基地を所有していませんし、どの国も爆撃したことも侵略したこともありません。19世紀に解放者シモン・ボリーバルが率いる部隊がスペイン植民地帝国から独立するために戦っていたコロンビア、ペルー、エクアドルとボリビアの国民とともに闘うために赴いたことがありますが、歴史を見てもベネズエラの軍は、兄弟国を守るためにしか国外に出たことはありません。ベネズエラは、平和主義の国であり、憲法は、目的の中に国家間の平和協力と核軍縮を明白に定めています。ベネズエラは原爆と水爆の存在が意味する危険に対する唯一の保障である核軍縮を擁護しています。

 

l  さて、米国の利害について語る際には、中でもベネズエラが持つ世界有数の石油埋蔵量とベネズエラの地政学的位置に触れることになります。最重要な2つの戦略的ファクターであり、社会主義国であると明確に認識していること、愛国的政権であることが、アメリカ帝国の懸念するところになっているのです。愛国者であるウーゴ・チャベスとニコラス・マドゥーロは、わが国の主要な天然資源である石油の所有権を行使するにあたり民族的な政策を維持してきました。しかし、それだけでなく、OPEC(石油輸出国機構)と団結する政策を推進してきました。ヘンリ―・キッシンジャーの時代からエネルギーの大量消費国は、OPECを破壊しようと策略を図ってきました。そして、もうすぐ目的を達成できる、という時期にウーゴ・チャベスが、世界の石油舞台に登場し、大量消費国に追従する諸国が奉仕していた計画を挫折させたのでした。

 

l  一貫した社会主義者であるチャベスとマドゥーロは、所得の分配に関するいろいろな政策を適用しました。それは、もはやベネズエラの特権層を豊かにするのではなく、ベネズエラ国民の生活条件を継続的に改善するためのものでした。

 

l  ボリーバル革命は、ベネズエラ住宅計画(Misión Vivienda Venezuela)によって立派で設備を備えた家を与え、約200万世帯の尊厳を回復しました。市民の治安組織を強化し、全国民に対して例外なく推進してきました。すなわち、無料の初等、中等、大学教育、キューバ共和国との二国間協定に基づいた支援を得ての無料医療、研究奨励策としての奨学金、高齢者に対して物価スライド制による年金の増額、国の機関や国営企業での市民の労働賃金の増加、共同体が主導しての食料供給・生産についての地域共同体評議会制度の導入、そのための中央政府の確固とした支援、ベネズエラ全国に及ぶ住民自治組織と住民自治評議会のネットワークの拡大、様々な文化集団に対する支援など、国民の過半数の条件改善を目指す、枚挙にいとまがないほどの活動を実行してきました。しかし、エリートや経済力のある人々の集団は、こういう活動をよく思わず、食料と医薬品のテーマについては、特にコロンビア共和国との国境地帯において一時的な供給不足や危機を作り出して、頓挫させようとしてきました。

 

l  ベネズエラ政府の特徴である、ベネズエラ国民の物質的条件の改善と主権を重視する政策によって、ベネズエラは、国の富によるのではなく、ボリーバル的不屈の精神によって強い国になりました。

 

l  しかし、ベネズエラの国の利益に関わる政策の他に、ウーゴ・チャベス司令官は、アメリカ大陸統合の種を文字通り蒔き、水を与えました。アメリカ大陸の統合は、ボリーバルの時代以降、休眠状態になっていました。こうして多中核的・多極的世界の実現に貢献するためにALBA(米州ボリーバル同盟)、Petrocaribe(ペトロカリブ)、UNASUR(南米諸国連合)、CELAC(中南米・カリブ海諸国諸共同体)が生まれました。チャベスの指導力のもとで、ボリーバルは、崇拝対象の遺物ではなくなり、新たに現実の命を獲得しました。これらの計画は、的確で非常に示唆に富んだ計画であったと同時に、具体的な行動でもありました。「われわれのアメリカ」は、再び孤立した個別の国、存在するだけで満足する国ではなく、団結が代表する巨大な潜在能力を益々自覚し、またみずからの国土も、また主として国民の想像力も宿している印象的な富を益々自覚した国と変わりつつあるのです。

 

反ベネズエラの同じ戦略の中での様々な戦術、

l  1999年以来ベネズエラが被っている様々なハラスメントは、ウーゴ・チャベスが死去した2013年以降、またその後2015年に野党が立法府で勝利してから激しくなっています。ここ20年間にベネズエラは、様々な形で攻撃を受けました。それらは、クーデター、石油スト、殺人と絡めた暴力的過激行動、政治裁判の試み、組織的な品物の供給不足と買占め、OAS(米州機構)やメルコスール原加盟国(メルコスールをベネズエラ迫害組織に換えた)など多国家機関の絶えざる干渉的表明、また米国による制裁や干渉的な脅迫です。

 

l  問題は、南米地域の他の政権と違って、エネルギー資源をものにすることが大国の行動日程に入っているという地政学的状況下で、外国企業による石油産業の全面的管理(おまけに世界有数の確認済み石油資源を不法に占有しようとしている)を受け入れない政権を終焉させようとしていることです。

 

l  米国政府の政治・情報機関が、在カラカス大使館を隠れ蓑に、NGO(非政府組織)を通じて種々の行動に資金を提供し、指導してきたことは火を見るより明らかです。こうした地政学的行動からは、カリブ・南米・ラテンアメリカの国であるベネズエラ(「われわれのアメリカ」における典型的な地政学的性質です)を再び自国の権力下におこうという絶望的かつ誤った意図が垣間見えます。天然資源、特に石油・石炭エネルギーやウラニウムに加え鉄、ボーキサイト、コルタン、金その他ほぼ無尽蔵の既存資源に対する覇権を維持しようとしているのです。

 

l  レックス・ティラーソン米国国務長官は、20171月にシンクタンクLatin America Goes Globalのインタビューで、ベネズエラの体制転換への支援を確認しました。同長官は、マドウーロ大統領のチャベス派政権を交代させるたに地域の右翼政権や組織とともに努力する、と語りました。

 

l  南方軍司令官のカート・ティッド提督は、20174月の米国上院軍事委員会に対してベネズエラの深まりゆく「人道的危機」が「最終的に地域レベルでの対応を要求するかもしれない」と断言したことを忘れてはなりません。

 

l  2017年ベネズエラの野党が招集し、鼓舞した抗議行動の間に無責任な野党のせいで100名を余える死者が出ました。暴力が激化し、経済戦争が相当数の国民の苦しめていたなか、組織的な集団が連続的テロの状況を作り出し、統治不能で人道的支援と介入を必要としている状況を世界に見せようとしました。

 

l  ベネズエラの変革プロセスに対する国際的圧力が強まる中、米国の南方軍は、ベネズエラ周辺地域で様々な「活動」を展開しました。中でも際立ったのがTradewinds 2017(ベネズエラ沿岸の正面で行った軍事作戦)、最近ペルー、ブラジル、コロンビア三カ国のアマゾン三地域国境地帯で行った「Operación América Unida」(統一アメリカ・オペレーション)と称する軍事演習、また、20162月にホンジュラスにあるPalmerola(パルメロラ)基地からベネズエラを進攻する目的で準備したFreedom II作戦です。

 

l  南方軍のカート・ティッド提督は、10月にはっきりと、こういいました。「10年間挑戦をしてきた反米体制は崩壊しつつある。ベネズエラにおける民主主義に対する継続的な攻撃は、われわれの共有する価値を防衛する国々を結束させた」。ベネズエラの問題は「反米」の立場であることが明らかなのです。換言すれば、世界最大の石油埋蔵量を持つ国において社会・経済・政治秩序が提起している変革の過程は、米国と「西側社会」が推進する自由市場の民主主義に合わないと考えているのです。

 

l  しかし、米国がベネズエラ周辺地域で軍事的プレゼンスを持ち、常時監視しているだけでは不十分なのです。したがって、1113日にEU加盟国の外相たちは、ニコラス・マドゥーロ政権に「法の支配と民主主義」を強化するよう圧力をかける「規制手段」と考えるものの一環として、ベネズエラに対する武器輸出禁止策を承認したのです。

 

l  実際には物質的・象徴的に見てこの禁輸措置は、ベネズエラが「孤立し」、「包囲されて」おり、変革過程は「失敗した」という誤った印象を与えようと国際社会が講じて来た一連の政策に新たに加わったものです。具体的な例としては、マドゥーロ大統領に対して米州民主主義憲章を適用しようという強迫観念に駆られたOAS(米州機構)のルイス・アルマグロ事務総長主導でベネズエラに対して長年行ってきた運動があげられます。これらの「手段」は、経済戦争においては、包囲という不可欠の手段なのです。

 

l  このことは、むしろOASのいくつかの加盟国によるOAS民主主義憲章の原則の違反にあたります。不思議なことにこれらの国々は、いかなる加盟国の国土が侵害された場合にも適用されるべきTIAR(米州相互援助条約)の精神に違反しようとしているのです。これは、OASの最高責任者による法律上、また、客観的にもあらゆる法的秩序からOASが外れた行為なのです。

 

l  ティラーソン国務長官は、2月のラテンアメリカ諸国歴訪の際、この地域におけるベネズエラの役割を崩そうと願って、当面の地政学的目標を探しました。歴訪中にティラーソンが、「リマグループとOAS を通じてベネズエラに民主主義を復活させるために」、地域の諸国で行った会談について述べたことを考慮すると、もし仮に民主主義憲章適用の是非を問う投票が行われたならば、OAS内でベネズエラを制裁するのに必要な票数を確保する上で基本的に重要なのがカリブ諸国であることが理解されます。昨年OASにおいて、正にカリブ海の同盟国がベネズエラを援護して、米国は敗北したことを思い出すべきです。

 

l  ティラーソン国務長官が、右翼政権諸国のカルテル、自称リマグループを利用してベネズエラに対し、来る4月にリマで開催される米州首脳会議において、ベネズエラ政府を孤立化させ、連携して圧力をかけることを期待していると結論づける証拠が多数あります。

 

l  213日に米国と密接な同盟関係を形成している国々が合意した米州首脳会議における反民主的なベネズエラ排除は、各国元首と政府首班による議論や決定の水準まで上げられていないので、現在有効な基準には違反しており、失敗する方向に向かっています。

 

l  ティラーソン長官は、更にベネズエラ紛争で道が開かれるような新たな図式の中でモンロー主義を蘇らせようとしています。この主義を蘇らせたティラーソンによれば、ラテンアメリカにおける中国とロシアのプレゼンスが「欧州植民地主義」を思い出させ、それを口実に米国政府は、膨張政策を用いて西半球を米国の地政学的・軍事的・経済的後衛にしようとしています。ティラーソンは、中国とロシアが、彼の基準では「警戒すべき」「憂慮される」影響力を、有名な「裏庭」にたいして一層行使するのではないかという懸念を表明しています。

 

l  一部の覇権的メディアにより、ベネズエラが債務不履行(デフォルト)に陥るという推測が流されました。これを後押ししたのはStandard & Poor’sのような国際的格付け会社の表明でした。しかしながら、ベネズエラ政府は、すべての金融債務を債権者に返済し、2017年と2020年までの国債を保障しましたので、2017年現在のすべての債務は返済されています。更にベネズエラ政府は、債務のリスケを予定しています。2018年には他の約90億ドルの国債の支払いをしなければならないからです。米国が科した最近の経済制裁は、ベネズエラでは大統領選挙が行われる年であることから、国際機関が米国の圧力のもとで債務のリスケを阻止、あるいは少なくとも邪魔をするかもしれないことを示しています。

 

制裁、さらに制裁

l  国務省ができる範囲内で「ベネズエラの状況に対処する」ために、「あらゆる経済的・政治的・外交的手段」を駆使する論理で、ベネズエラ経済に「悲鳴をあげさせる」目的で、米国による経済制裁は位置付けられています(サルバドル・アジェンデが率いる人民連合政権を懲らしめるためニクソンは、チリ経済に対して制裁を行うよう頼んだのでした)。このように、15日米国財務省は、海外資産管理局(OFAC)を通して、ベネズエラの4名の高官に新たな制裁を科しました。

 

l  数週間後の122日、EUが米国の政策に加わり、ベネズエラ社会主義統一党(PSUV)副党首デイオスダド・カベジョ、最高裁判所長官マイケル・モレノ、内務・司法・平和大臣ネストル・ㇾベロ、ベネズエラ・ボリーバル国家情報局長官グスタボ・エンリケ・ゴンサレス、全国選挙評議委員長テイビサイ・ルセナ、検事総長タレク・ウィリアム・サアブ及びベネズエラ国家警備隊元長官アントニオ・ホセ・べナビデス・トレス、といったベネズエラ政府のその他の高官に対して制裁を科しました。

 

l  制裁内容は、これらの人物の資産凍結及びEU の全加盟国への入国禁止です。これらの制裁に加えて、201711月以降EU が課した武器輸出禁止、「国内の抑圧に使用」できるかもしれないあらゆる物質の輸出禁止が加わりました。更に米国政府がPDVSA CITGOといったベネズエラの石油会社と米国におけるその子会社の役員と企業に対して、以前述べた制裁も加わります。

 

l  最近、マイク・ポンぺオCIA長官が、トランプ宛に政治的、経済的面について多数の報告書を作成したことを明かしました。それらの報告書が、ベネズエラ中央銀行(BCV)や国営石油公社(PDVSA)が新規に発行する債券所有を禁止した制裁のベースになりました。

 

l  ラテンアメリカについては、太平洋同盟加盟国の大統領たちが、カルテル、リマグループを結成して、ベネズエラ政府に対する執拗なハラスメントが継続しています。リマグループとして、あるいは個人として、メディアを通じて、ベネズエラが「自由、民主主義、法の支配と人権の尊重を回復し、ベネズエラ国民に悪影響を及ぼし、苦しめている深刻な経済的・人道的危機を克服する」必要性について、繰り返し公言しています。また、アルゼンチンのマウリシオ・マクリ大統領も、最近行ったEU歴訪中に同様の意味の声明を出しました。この筋書きは、ラテンアメリカやヨーロッパの著名な元大統領たちが参加し、これらの声明を補強し、OAS に対し米州民主主義憲章を適用するよう執拗に申し立てるというものです。

 

l  今述べたあらゆる行動や声明と並行して、Human Rights Watchのような一見進歩的な人権擁護団体やシンクタンクの報告書が、「中立性」を装って刊行されています。これらのアナリスト達は、以前に述べた内容と軌を一にして、「体制転換」に向けて圧力をかけるためにベネズエラにおける「人道的危機」、「人権」の弱体や「民主主義」の不在を議論しています。数か月前にベネズエラの選挙の前倒しを要求していた人々が、今度は2018422日の大統領選挙実施を拒否しているのです。 

 

l  ドナルド・トランプ大統領は、最近の一般教書で「私の政権もキューバとベネズエラで共産主義と社会主義の独裁に厳しい制裁を加えた」と断言しました。

 

l  ドナルド・トランプは、ベネズエラ経済を攻撃目標にした行政命令(オバマ大統領が前に出した条例を継続して)を発令しました。詳細に読めば、ベネズエラが、米国にいるベネズエラの友人と関わりを持つことを阻止すると同時に、対外債務の返済や対外債務への新たな資金供給の可能性を規制しようという意図した、明白な妨害行為であることが分かります。

 

l  国際金融システムの大半は、近年ベネズエラの金融活動に対する封鎖体制を進めてきました。つまり、いろいろなベネズエラ国内機関(公的及び私的)によるベネズエラへの輸出業者への支払い、入金、送金、投資案内の管理、債務返済、国際的な資金源へのアクセスを制限しているのです。ベネズエラに反対して銀行のコルレス(代理支払い)契約が、一方的に相次いでキャンセルされました。PDVSAが発行した債券の支払い代理店であるデラウェアは、20177月から同銀行の米国にあるコルレス(代理支払い)銀行が、PDVSAからの資金の受け入れを拒否すると連絡しました。一方ポルトガルのノボ銀行(Novo Banco)は、20178月に仲介業者が封鎖しているためベネズエラの公的機関によるドル建ての業務はできない、と通知してきました。ベネズエラ債権のかなりの部分を保管しているベネズエラの国債のかなりの部分を管理しているユーロ・クリアー(Euroclear)社は、「見直し」の過程にあるかなりの額の保留国債の取引を留保しています。それは、OFAC の圧力によるもので、12億ドル余となります。ベネズエラと提携しているチャイナ・フランクフルト銀行(Bank of China Frankfurt)は、カナダの鉱業会社Gold Reserveに対する1500万ドルに上る債務を支払を履行することができませんでした。

 

l  食料及びその他の基本物資の輸入支払いが、封鎖を受けています。例えば11月の第三週には食料の代金支払いに向けた23余の業務で3,900万ドの支払いが返金されました。といいますのは、輸出業者の仲介銀行が、ベネズエラからの資金を受け入れようとしなかったからです。似たような状況が、クリスマス用品の買物、医薬品(インシュリン、マラリア治療薬)、種子、ベネズエラのスポーツ選手の移動(ウエルズ・ファーゴ銀行Wells Fargoが業務を阻止しました)、通信(オランダ・ラボ銀行Rabobankが、送金名義人がOFACの制裁対象であるとして国際通信社テレスルTelesurの運営のための支払いを拒否しました)でも起きました。

 

l  トランプ政権は、ベネズエラ経済にとって石油輸出が戦略的価値を持つことを認識して、ベネズエラに対し石油禁輸措置の適用を考えています。公式には最初この考えは、昨年9月に米国の国連常任代表、ニッキー・ヘイリー大使から出されました。2月、ティラーソン国務長官がアルゼンチン訪問時に、「米国における石油の販売やベネズエラ製品の精製に制裁を加えることをわが国は考えている」と述べました。

 

カリブ海においてベネズエラの石油に対抗する米国

l  経済戦争は、エネルギー分野に対する圧力も含まれます。周知のように、ベネズエラは、2005年にペトロカリブ(Petrocaribeカリブ石油供給協定)の創設を推進しました。このイニシアティブには、カリブ15カ国余が加盟し、ベネズエラがこれら加盟国に助成価格で石油を販売し、支払いにも便宜を図る、という形で協力しています。問題は、ベネズエラから見れば、同盟国のエネルギー安全保障を確固なものにして、その発展を保障し、それまでとは異なる地政学上の協力の基礎を築いていることです。

 

l  米国は、伝統的に米国の影響下にあったこれらの小さく経済力が脆弱な国にとって、関係を多角化し、より自由に行動できるようになる通商協定を実現することは戦略的な意味をもつことを認識していました。それゆえ、バラク・オバマ大統領の政権時からPetrocaribeから石油を調達するのを止めて米国との新しい同盟国から調達するよう、カリブ海諸国に対し圧力をかけました。米国は、ベネズエラの対外政策の支柱の一つを壊そうとしたのです。このようなことから、20151月に米国は、CELAC(中南米・カリブ海諸国諸国共同体)の第三回首脳会議開催に合わせて、カリブ諸国を招集して会議を行いました。その会議の後、4月にCESI(カリブ・エネルギー安全保障イニシアティブ)が、設立されました。米国は、石油価格下落後ベネズエラが、経済危機に陥ったことを、またそれがペトロカリブの協力関係に影響を及ぼし得ることを利用して、カリブ海の島嶼国を自らにひきつけようとしました。Petrocaribeが不安定である、という考えは、Atlantic Councilのような米国のエスタブリッシュメントの複数のシンクタンクが事前に研究しており、2014年にはUncertain Energy: The Caribbean’s Gamble with Venezuela(不確実なエネルギー:カリブ海によるベネズエラへの賭け)というタイトルの報告書が公表されました。

 

l  米国の更なる戦略は、エネルギーの代替をアピールするものでした。表面的に環境保護を唱える議論の裏には、カリブ海のような米国にとって地政学戦略的に重要な地域において、ベネズエラの影響力をくつがえそうとする地政学的な議論が隠されています。この文脈において、昨年1115日に米国国務省は、「カリブのエネルギー多角化を支援する」ために430万ドルを供出すると発表したことが理解されます。この発表が、「米国・カリブ海の繁栄に関する円卓会議」の枠組みでなされ、資金は、CESIの推進とカリブのための2020年戦略のために役立てる、といっていることを強調することは、重要です。この計画には、国務省のエネルギー資源局、米国開発庁(USAID、近年類似の諸計画を既に持っている)と海外個人投資会社(OPIC)が参加しています。国務省自体の説明によると、その仕事は「エネルギーに関する技術援助、計画準備のための補助金、企業にとって新規機会並びに世界で競合できる米国エネルギー輸出」をもたらすことです。

 

 

干渉の可能性

l  こうして、都合により合同で、または単独で実行する様々な規模や戦略が、明らかになりました。すなわち、国際機関や外交を通じた政治的圧力、経済的圧力、破壊活動、市街での暴力的なシナリオの構築、軍部による決起の誘い、「不安定性が高度になった」場合での介入の脅迫(これは南方軍の役割でしょう)です。これらすべてに、国際報道が付け加わります。実際、英語メディアや、スペインにある大手メディアでベネズエラに関して偏った(悪い方に)報道をしないものはありません。世界の世論に干渉者側の表現(「人道的危機」「警察国家」「麻薬独裁体制」)を売り込むのは、報道企業のできあがった確認されている戦略なのです。ますます、追いつめられた無法の、破産した国家であると語るのです。すべては、ベネズエラが直面している「人道的危機」について、同意を得るためであり、そのことにより、様々な種類の干渉を正当化できるからです。

 

l  今述べたことに、ラテンアメリカ地域における米国軍のプレゼンスが増していること、最近カート・ティッド提督がコロンビアを訪問したこと、コロンビアとブラジルに駐屯していた複数の部隊がベネズエラとの国境地帯に移動したこと、他方ではベネズエラ移民の問題で悪印象を与えようとしていることを勘案しますと、最小限の口実でベネズエラに軍事介入するための完璧なシナリオが作られつつあるように思われます。後は挑発することで、虚偽であってもいいのです。コロンビアからの偶然の攻撃か、ベネズエラ国内での何らかの暴力行為か、それが、ラテンアメリカの1カ国または複数の国の軍隊の干渉を正当化する、というもので、そのことにより、米国南方軍が何らかの形で介入する状況が作られることになるのです。

 

l  先週、ベネズエラのネストル・ㇾベロル(Néstor Reverol)内務・司法大臣は、コロンビア陸軍が150名以上のベネズエラ人を徴兵したことを非難しました。これは、彼らにコロンビアの身分証明書を迅速に供与して、彼らに反コロンビア行動を行わせ、ベネズエラ=コロンビア国境地帯で偽の身分証明書であることが暴露される事件(虚偽の身分証明書をもった行動)をでっちあげるためです。 

 

制憲議会

l  国内外の構成員を使った帝国主義の攻撃が、強まるなか、ニコラス・マドゥーロ大統領は、201751日に国の平和と対話のための制憲議会選挙を招集しました。大統領直属の委員会が設立され、選挙基準案を策定し、地域別と分野別の投票を決定しました。制憲議会を招集する決定は、ベネズエラのテロリスト野党が引き起こした紛争と暴力のただ中で、高級の対話を行うことを提起したものです。日常的な厳しい批判という困難を解決し、わが国における経済、政治、社会モデルにおいて構造的な矯正を実現するために、制憲議会は必要な場なのです。

 

l  昨年730日に制憲議会の選挙当日、多数の国民の投票行動を困難にしたのは、暴力行動でした。問われていたのは、マドゥーロ大統領の政権が、2015年に投票しなかった200万人の一部のチャベス派を取り戻せるかどうかでした。しかしながら、攻撃と暴力が、チャベス派=マドゥーロ派及び批判派を制憲議会に関わって団結させるにいたったのでした。その時、選挙キャンペーンは、平和の呼びかけが設定されました。制憲議会により、議員たちが属する分野や地域に基づいた提案をもった、新たな基礎的指導層が出現したのです。

 

l  制憲議会が成立して以来、ベネズエラは、平和への道のりに戻ることができました。われわれは、国に対する極右分子が行う暴力による不安定化キャンペーンを打ち破りました。それは、彼らが外国の介入とニコラス・マドゥーロ共和国大統領に対するクーデターを正当化する計画を、再活性化しようとするものでした。

 

l  制憲議会は、本来、国民に存する権力を解き放ち、今やベネズエラ社会の重要な仲介者としての役割を果たす構えでいます。制憲議会は、最も多様な民主主義を現実的に行使するという精神を常に持ちつつ、論争に終止符を打つためには、欠かせない場なのです。国は、引き続き、他の各権力とその機関の権限と相互依存性を尊重しつつ、これまでの道を進んでいます。

 

l  全国選挙評議会の規定に沿って、選挙日程が決められました。ベネズエラでは7月末から1210日までの間の140日間に3つの選挙が実施されました。制憲議会選挙、県知事選挙及び基礎行政区選挙です。これらの三つの選挙で、チャベス派は、再評価され、再び選挙での力を増し、明白な勝利をおさめました。

 

l  10月におこなわれた県知事選挙は、投票率は54%で、チャベス派は54%の得票率を確保しましたが、野党は得票率45%でした。国内23県のうち18県でボリーバル革命が認められました。

 

l  基礎行政区選挙には、70余の政党が参加し、チャベス派は、6,517,605票(得票率70%)を獲得したのに、野党は2,749,778票(得票率29%)を得票しただけでした。ボリーバル革命は、305の基礎行政区長(92%)を獲得、野党は25の基礎行政区長(7%)、その他の政党が5の基礎行政区長(1%)を獲得しました。

 

l  同様に、来る422日に大統領選挙が招集され、12政党が候補者を出します(224日現在)。ニコラス・マドゥーロ大統領は、最近開催されたPSUV(ベネズエラ社会主義統一党)の全国大会においてチャベス派の候補者に任命されました。

政府と野党の対話

l  前述した判断材料を見れば、ドミニカ共和国における野党とベネズエラ政府の対話の場を崩そうと急いだ、米国とコロンビアの寡頭政治支配者の行動を理解できます。もし、両者が既に用意し、双方が承認していた合意書に署名していたならば、ベネズエラに対する介入の陰謀が少なくともしばらくの間は停止することになるはずですから。

 

l  2017年末、マドゥーロ大統領が推し進め、ダニロ・メディーナ(Danilo Medina)ドミニカ共和国大統領が後援者となり、スペインのホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテーロ(José Luis Rodríguez Zapatero)元首相が仲介者となり、ドミニカ共和国で政府と野党間の対話が行われました。フリオ・ボルヘス(Julio Borges)を団長とするベネズエラ野党代表団が、合意書の作成を作業しました。いつものように、ボルヘスは、様々な国や国際機関に対して、一方で対話を肯定しながら、他方で経済封鎖を更に厳しくし、制裁を拡大し、ベネズエラの内政に外国が介入するよう求めました。

 

l  このような状況を前に、サパテーロ元首相は、公開書簡によって、マドゥーロ大統領側は既に合意を果たしており、野党には最後の瞬間に態度を変えて攻撃するのではなく、これまで形成してきた合意を尊重するよう主張しました。結果として、ボルヘスは、何度も矛盾する表明を行ったあと、ベネズエラ全国選挙評議会により行われた選挙の呼びかけを拒否しました。ところが、この同じ評議会が、数度の選挙で野党が勝利したことを承認しているのです。

 

ベネズエラの同盟国

l  ベネズエラが国際的に孤立しているという考え方を押し付けるのは、基本的に、強力な経済権力に結びついたメディアによるプロパガンダによるものです。これらのメディアにとって、国際システムは、西側の中心的な大国の存在に限定され、中華人民共和国、ロシア連邦、インド、ブラジルなどのすべての新興国は無視されているようです。しかし、これはBRICSに限ったことではありません。ウーゴ・チャベス元大統領は、ベネズエラの外交政策を、ベネズエラの二国間関係においても多国間関係においても、また、影響範囲の多様化においても、それまではベネズエラ外交が開拓していなかった国や地方まで展望を広げました。その結果、ベネズエラ国家は、過去10数年間、国際的に第一級の積極的で精力的な国になりました。OPECの交渉においては、世界の確認済石油資源の主要な保有国として中心的な役割を果たし、国際的な反帝国主義の基準にもなっているという特徴からも、国際的孤立という図式は、偽りであることが分かります。

 

l  事実20169月から2019年までベネズエラは、NAM(非同盟諸国運動)の議長国を務めています。ベネズエラは、初めてこの国際組織の責任を負っていますが、海外で国が、大いに問題視されている時期だけに、大きな象徴的意味があります。また、ベネズエラは、2017年からカリブ諸国連合の議長国でもあります。

 

l  ボリーバル革命に対して虚偽の証言がなされたり、国内政治に不安定化が誘引されたりしても、それにもかかわらず、ベネズエラは、ここ重要な数カ月間に中国やロシアといった大国と通商協定に調印しましたし、これらの国の政治的支援を受けています。ロシア企業は、米国による制裁が行われているさなかに、PDVSAに前払いをして支援しています。

 

l  ベネズエラの変革プロセスに対して、日々軍事・政治・経済及びメディアによる包囲が行われており、包囲の当面の目的は、ベネズエラは孤立しており、強力な同盟国がなく、「出口が無い」という考え方を植え付けることです。しかしながら、ベネズエラ国民は、強さと自尊心があることを見せています。それは、去る7月の制憲議会選挙と2017年の県知事選、基礎行政区選での国民の参加に示されました。一方ベネズエラ政府も、引き続き、国際的な同盟を強化しています。包囲は現実にありますが、失敗しています。新自由主義のメディアの予測に反して、ベネズエラ国民が変革プロセスの強化を目指しているという「想定外」の現実がありますが、そのことは、来る422日の大統領選挙で再び示されることでしょう。

 

結論

l  帝国主義はベネズエラに対する干渉の水準を高め、ボリーバル革命への攻撃を強化するための条件を作り出そうとし、合法的なマドゥーロ大統領政権を不安定にし、「体制の転換」を招こうと企図しています。

l  この条件には、国際世論の前で、ベネズエラを否定的に画き、帝国主義の戦略を正当化する容赦ないメディア操作が含まれています。ベネズエラ人の近隣諸国への「想像上の大量の恒常的な移民」による人道的危機という場面が強調されています。

l  かくして、干渉の仕組みは、政治的、外交的、メディア的、経済的圧力を含むまでに拡大され、最も懸念されることは、軍事的オプションとなっています。

l  軍事介入の脅迫は、この恒常的な増大している強力な圧力に加えて、革命の過程に「制裁」を科すために、より不安定化を招く要因として使われています。

l  ワシントンにとって、唯一の解決は、今や、ニコラス・マドゥーロの交代及び「体制の転換」となっています。このオプションは、内戦と甚大な人的・経済的損失の危険を内包するもので、最近イラク、リビア及びシリアで適用された荒廃と悲惨なモデルと同じものです。

l  そして、ベネズエラの反政府派は、このオプションを支持して、ドミニカ共和国での対話で到達していた合意に署名することを拒否しました。この合意は、内部の政治的紛争を減少させるためには必要な一歩となっていました。この反政府派による拒否でもって、ベネズエラに対し金融的、経済的に最大限の包囲を進めるための必要な口実を作り出そうとしたのです。

l  帝国主義の攻撃は、ベネズエラを米州の政治的に重大な問題点と認識し、転覆する―それも急速に―必要性があるとするものです。というのは、ベネズエラは、米州において新興の多国間ブロック(中国、ロシア、2018年の国家安全保障戦略の地政戦略の視点に従えば)の導入のために地政学上の橋渡しとなっているからです。米国は、米州を専一的な地政学上の後衛と考えているのです。

l  日程と要因が組み合わされており、危険で憂慮されるものとなっています。こうした干渉行為を合法化することを支持し、推進している地域の右翼政府が果たしてきた悲しむべき役割がそれを代表しています。

l  帝国主義の増大する攻撃に対決するために、ボリーバル革命は、引き続き社会的成果を前進させ、参加型、国民が主人公の民主主義を改善し、住民共同体を通じた社会運動組織を拡大し、変革の過程を支持する政治勢力と団結し、疲れを知らぬほど努力しています。これは、フィデル・カストロ司令官が「思想の戦い」と呼んだ、国民の意識改革です。

l  ベネズエラにおいては、平和、民主主義、独立、主権、民族自決権を擁護する決定的な戦いが展開されています。

l  連帯は、ベネズエラ及びボリーバル革命が覇権主義大国に抵抗できるための道具です。独立、主権、民族自決権の擁護のために闘う人々の努力を結集し、相互の連帯を強化することが必要です。

 

終わりに当たり、永遠の司令官、ウーゴ・チャベスがわれわれに残したことば、皆さんとともに共有したいと思います。「帝国主義が存在するかぎり、ボリーバル革命は、危険、脅迫にみまわれる。というのは、われわれは、彼らの代替モデルを建設しており、もしわれわれが成功するなら、資本主義が一掃されるからである」。

 

ボリーバル革命との一貫した連帯に感謝いたします。

 

フリードリヒ・シェリング 年譜
(シェリングの資質はエンゲルスと非常に近い印象を受ける。シェリングは、エンゲルスが初期マルクスに対して果たしたのと似たような役割を、ヘーゲルに対して果たしたのではないだろうか)

1775年 シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling)、ヴュルテンベルク公国にルター派神学者の子として生まれる。
ヴュルテンベルク公国はシュツットガルトを中心とし、神聖ローマ帝国の一部をなす小国である。紆余曲折を経つつ第一次大戦終了まで存在した。
1790年 テュービンゲン神学校に入学。特例により15歳で入学し、5歳年上のヘーゲル、ヘルダーリンと同級・同寮となる。
彼らは、フランス革命に熱狂し、カント哲学に集中した。シェリングがとりわけ学んだのはフィヒテとスピノザであった。
1794年 神学校を卒業。神職を選ばず、家庭教師をしながら著作に勤しむ。
1794年 シェリング、フィヒテの忠実な紹介者、支持者として文壇に登場。
雑誌に『哲学の諸形式』(1794年)、『自我について』(1795年)、『哲学的書簡』などの論文を発表。
1796年 ライプツィヒ大学に移り、自然学の講義を聴講する。
生物学や化学、物理学の最新知見に刺激されたシェリングは、『イデーン』(1797年)を発表。自然の哲学的把握に力を注ぐ。
ライプニッツの理論を引き継ぎ、自然の全現象を動的な過程として把握しようと試みた。(Wikipedia)
1796年 シェリングとヘーゲルら、『ドイツ観念論の最古の体系計画』の共著を計画。意識を超越した先験的観念論の構築に踏み出す。
1798年 「世界霊について」を発表。ゲーテに認められる。
自然の目標を生命におき、自然の根源を世界霊(宇宙霊)であるとした。自然と精神との最高の統一形態が芸術であるとする。
1798年 イェーナ大学の助教授に就任する(23歳)。
すでにフィヒテとの見解の相違は明らかだった。フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。
しかし自然科学に触れる中でスピノザ・ライプニッツ主義者となっていたシェリングはそれでは納得出来ない。絶対我の向こうには、自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」がある。そして非我にも自我と同じように駆動力がある。
1799年 フィヒテがイェーナ大学を辞職。シェリングは哲学の正教授となる。
1800年 シェリング、『先験的観念論の体系』を発表。独自の自然哲学は「同一哲学」と名づけられた。
自然と精神は絶対者の二つの現象である。主観と客観とは同一であり、自然と精神はその現れである。「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」
1800年 シェリング、ヘーゲルをイェーナ大学の私講師として推挙する。
1800年 ヘーゲル、『フィヒテ哲学とシェリング哲学の差異』を発表。
1801年 フィヒテの転居を機に始まったシェリングとの文通が止まる。
1802年 シェリングとヘーゲル、共同で雑誌『哲学批判雑誌』を刊行。主に自然哲学を扱う。シェリングの転居をもって終刊。二人の協力関係も止まる。
1803年 シェリング、イェーナで保守派と対立。イェーナ大学を去る。
1806年 シェリング、いったんヴュルツブルクに移った後、ミュンヘンに移住。バイエルン科学アカデミー総裁に就任する(31歳)。
1807年 ヘーゲルの『精神現象学』が刊行される。シェリングの同一哲学が批判される。
シェリングは絶対者を直観によって把握する。ヘーゲルはその無媒介性を批判した。
1809年 「人間的自由の本質」についての哲学的考察を発表。
人間の存在根拠たる神には、「神のうちの自然」があり、神自身と対立している。自然は、自らを現そうとする神自身にとっての「根底」である。被造物の頂点である人間のなかには、対立は自由の可能性として再び現れる。
1813年 シェリングの妻カロリーネが病死(09年)。ゲーテの紹介で再婚する。
1814年 フィヒテがチフスにて急死。ヘーゲルがベルリン大学の後継教授となる。
1820年 シェリング、ベルリンのエアランゲン大学哲学教授となる。(45歳)エアランゲン大学にはフィヒテが05年から勤めていた。
1827年 シェリング、ミュンヘン大学創立に伴い哲学教授に就任。バイエルン王国への貢献をもって貴族に叙せられる。
1831年 ヘーゲルが死亡。
1830年代 シェリング、積極哲学を提唱。
消極哲学は "das Was"「あるものがなんであるか」にのみかかわっており、"das Dass"「あるとはどのような事態であるか」について答えていないとする。(ウィキ)
1841年 ベルリン大学哲学教授に就任(66歳)。4年間在職。
ヘーゲル左派の急進的思想に対する防壁となることを期待されたという。
就任講義には、エンゲルス、バクーニン、ブルクハルト、キルケゴールなどの錚々たるメンバーが聴講した。しかしその後の講義は閑散としていたと言う。
1854年 スイスの療養先で死亡。


カントからヘーゲルというのがドイツ古典哲学の流れで、フィヒテとシェリングは刺身のツマ扱いになっている。
フィヒテからヘーゲルが何を引き継いだかは、ほとんど論及されない。またシェリングの役割はほとんど扱われない。
一番の問題はシェリングがポスト・フィヒテなのか、プレ・ヘーゲルなのかの位置づけがはっきりしない。多分両方なのだろうが、彼は早熟であったためにフィヒテの後継として登場しているが、実際にはヘーゲルとは年下の同級生の関係にある。
二人とヘルダーリンは1790年代末には共同の理論構築作業を行っており、そこには一歩を先行していたシェリングの論及がかなり影響を及ぼしていると思われる。

フィヒテによれば、自然を認識するためには、自我という人間精神が前提である。
フィヒテは自我と非我を対立物と捉え、自我が非我を乗り越え、取り込むことで絶対我に向かうと考えた。

なぜフィヒテが哲学を認識論として提起したか。それはカントが、物自体を認識不可能なのものと裁断したからである。
カントは人間の認識能力の限界を示して、物自体を認識不可能なのものとし、現象界と叡智界とを厳然と区別した。
だからフィヒテの出発点となる問題意識は、物自体の壁を押し広げ、叡智感を拡大することにあった。それはカントが密かに企んでいたことでもあっただろう。

シェリングの論理も、出発点においてはフィヒテと同じく自我と考えられる。しかし彼はライプツィヒで自然哲学を学んできたために、自然をたんなる認識の対象(非我)としては捉えなくなっている。
非我にも駆動力はあるということだ。非我も自我の芽を内包しているということになる。

フィヒテは自然を、意識から「排除すべきもの」と考えていた。シェリングはそれを精神と同一の原理において把握しようとした。

シェリングは、絶対我の代わりに自我(精神)と非我(自然)とをともに駆動する「絶対者」を想定した。彼はこれを「同一哲学」と名づけた。
「自然は目に見える精神,精神は目に見えない自然である」

それでは、自然と精神とのこの相互転換はどのようにして起こるのか。自然はどのように知として意識に取り込まれるか、自然が精神として内実化される過程はいかなるものか。

世界を統一的な視点から説明するという問題意識は、ヘーゲルの精神現象学に連なる。ヘーゲルは絶対我の代わりに「絶対精神」の諸事象への展開として考察する。

認識論の動画を逆回しすれば現象論になるというのがシェリングが提示しヘーゲルが引き継いだ論理である。
それは世界を観念の世界から逆立ちして描き出すことになる。
しかしそれは静止画ではなく動画である。その故に機械的唯物論よりはるかにリアルである。

まだ語るべきほどのものを持ち合わせていないが、シェリングの自然哲学の弁証法的な優位性は注目すべきものがあり、誰かエンゲルスの自然弁証法と突き合わせながら展開してくれるのを待ちたい。

グーグル入力で登録文字が候補に出てこなくて困っていた。
我々をで、で、…をで、ラテンアメリカをで入れていて(これは一太郎・松以来の私の習慣)、以前は出ていたのに最近はさっぱりだ。IMEではしっかり出てくれるが、今さらクソIMEには戻りたくないし…
と考えていたら、Q&Aに答えがあった。

Google 日本語入力 ヘルプ フォーラム
ユーザー辞書が変換候補に現れない、学習機能が働かない

ジジ さんから: 

もしかして、日本語入力プロパティ一般タブのプライバシーで【シークレットモードを有効にする】にチェックが入っていませんか?
私も学習機能が機能しなくて困っていました。シークレットモードを無効にしたら、学習機能が有効になりました。
というので、やってみたら見事に治った。
しかし、なぜシークレットモードが有効になったのか分からない。これも不気味な話だ。
PS ひょっとすると、サジェスチョン窓が出ないようにしたときにいじったのかもしれない。あの窓が邪魔で再変換ができないので削った記憶がある。


北海道AALAの理事をつとめる柿沢宏昭さんの講演がある。
バイオマス利用に関するシンポジウムの演者ということだ。入場は無料というものの、事前予約が必要とやや敷居が高い。
そこでとりあえずネットで勉強させてもらうことにした。
柿沢さんは北大農学部教授、いろいろの著書から判断するに、「森林管理学」という分野を専門とされているようだ。
今回の講演の予定演題は「北海道における持続可能な木質バイオマス利用」となっているが、究極の問題意識は「持続可能な森林管理」というべきかもしれない。
「持続可能」というのは、至れり尽くせり、償いを求めない森林管理ではなく、経営的にもペイし、自前で管理を続け人材も育成できるシステムを指すのだろう。
だがそれは可能だろうか。木質バイオマスは救世主となれるのだろうか。
まずは 「北海道の森林・林業・山村の再生に向けて」というレビューから。

日本の森林は伐り時
柿沢さんはなかなか商売上手で、最初の言葉が「日本の森林は伐り時」というキャッチフレーズである。
どういうことかというと、「日本の人工林は1,000万haにのぼり、年間成長量は6,000万㎥を超える」のだそうである。
私達が子供の頃、山は禿山で河川は荒れ、人々を苦しめた。私たちは木は貴重な資源、森林こそ大事な財産と教えられ、植林に励んだ。「緑の羽根」募金はその象徴である。
ところがある時を境に木材は売れなくなり、山は荒れ始めた。「割り箸論争」というのがあり、使うな、使えと両方から迫られて困惑したものだ。
ここにエコロジストが割り込んでくるから余計話が難しくなる。
だから私は前から主張していた。「世界の森林を守るのは環境の問題だ。しかし日本の森林を守るのは経済の問題だ。日本の森は人工林なのだから。手入れしなければ森林がなくなるのではなく、自然林になるだけだ」
すぐ話が飛んでしまう。
「伐り時」の話に戻ろう。柿沢さんの提起は「この資源を有効に活用することが課題となっている」ということだ。
これと関係するのだが、森林管理を林業再生と結びつけて考えようというのがもう一つの提起だ。
「これまでの森林管理は植えて育てることが中心課題であり、補助金の投入によって」支えられてきたが、果たしてそれでよかったのだろうか。
そういう赤字慣れが現場を無気力にし、林業の危機を増幅してきたのではないか…
そういう問題意識が根っこにあるのだろうと思う。
ここから柿沢さんの議論が本格的に始まる。

林業再生のための2つの前提と2つの課題
第一前提は持続的な森林維持体制の確立
第二前提は林業の人的母体(農山村)の持続性確保
課題の第一は林業コストの低下である。これにより価格競争力を確保するとともに就業意欲を高める必要がある。
課題の第二は需要の掘り起こしである。これまでは補助金にあぐらをかいた殿様商売を続けて販路を失ってきた。
①どこで、どのような材が求められているのかについてきちんと素材の供給側と需要側で情報を交換・共有し、両者がともに便益を得られるような取引をつくっていくことが重要
②品質のそろった材を大量かつ安定的に供給する能力も必要だ。
ということだが、これらは斜陽産業に共通の特徴である。アタリマエのことで、おそらくこれまでに語り尽くされてきただろう。問題はその先だ。

林業再生に向けて 下川町などの取り組み
下川町では森林認証を取得し、森林を活用するまちづくりとして木質バイオマス利用に力を入れ、エネルギー自給を目指した取り組みを行っている。
森林ツーリズムや森林療法など
森林の多面的な利用や環境教育などへの広がりを見せている。
黒松内町ではブナ北限のまちづくりに取り組んでおり、道東の標津町では河畔林の保護をルール化している。
これには専門的な人材と、多様な関係者の協力が欠かせない。まず重要なのは森林・林業の専門家の役割である。特に市町村など現場レベルでの人材育成に力を入れる必要がある。
最後に、「森づくりの基礎は人づくりであり、人のつながりづくりなのである」とあるが、混ぜっ返すようだが「人が欲しくなる」ような「必要づくり」が必要なので、これは林業の専門家が経営的センスをもって立案する他ない。
ただし計画が良ければなんでも成功するわけではない。天の利、地の利、人の利というものが必要になるだろう。
頑張っても成功するとは限らないが、頑張らなければ成功しないのは確実である。

↑このページのトップヘ