意識を事物ではなく実践として措定。カント哲学に能動的性格を与える。「自我は根源的に端的に自己自身の存在を措定する」ところから出発して、それが成立するための条件として自然の認識を演繹する。「知識学」というのはWissenschafts のことであり、「諸科学」と訳してもなんの問題もない。「諸知識」は一つの体系であるが、認識過程の諸結果でもある。
哲学体系は観念論と独断論の二つだけである。観念論は経験を「自我」から説明する。「物」から説明するのは独断論である。しかし自我の自立性と物の自立性は両立し得ない。ゆえに独断を拒否する限り、我々は観念論に立たざるをえない。ということで、現状容認の論理(唯物論)に対して、「否定の論理の積み上げ」というラディカルな理屈を持ち込む。
「普遍的な思考」は共同体が生み出す。この思考は、共同体を存在可能とする基底的な条件を考察する。普遍的思考は共同体を志向するが、共同体が思考の主体とはならず、あくまで諸個人の思考にとどまる。なぜなら共同体は、経験的には常に限定された所与に過ぎないからである。
この間、フィヒテは「物自体の考え」を否定、カントが、物自体を認めて、世界を二元論として解釈することを強く批判する。(ただし彼は「カントは二元論みたいなことは言っていない」と主張している)フィヒテは、二元論者は「物質から精神への、もしくは精神から物質への絶えざる移行、あるいは同じことだが、必然性から自由への絶えざる移行を前提とするような、こうした結合の可能性を証明しなければならない」とし、「自我の実践性」(事行)を理論的認識にまで広げた。これは現象学の漫画化だが、逆説的に弁証法の必然性を示唆しているともいえる。
決断を行うとされる個人が、ここでは本来的な知の担い手ではなくなっている。個人の自由もまた「普遍的自由」の内部でのみ成立する
フィヒテ哲学の全体像を求めて -- 知識学の変転とその理由--入江幸男
という文章を参考にさせていただいた。これだけでも結構ごちそうさまだが、もっとすごい文章もある。ただそこまでやっていくと、肝心の時代性が見えなくなる。
私としては1789年のバスチーユをヨーイドンの出発点に、「自由・平等・博愛」の旗印、ジャコバンとダントンとギロチンの世界、そしてナポレオンの登場までのかけっこを見物するのが目的だ。
2007年6月30日 日本ディルタイ協会2007年関西研究大会