鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年12月

以前こんな文章を書いていて、誰かさんが読みに来たようだ。

あらためてYou Tubeで「パガニーニのソナタ」を開いてみると、ずいぶん曲数が増えている。
そのうちに訳が分からなくなってきた。以前の記事にも書いたのだが曲の分類がメチャクチャである。
おそらく書いたのがめちゃくちゃで、管理の仕方もメチャクチャだったから、ゴミ屋敷状態になるのも無理はない。

とにかくウィキの曲名一覧を手がかりに、分かる範囲で整理ししてみた。
paganini

そもそもソナタ ホ短調という曲を作品3の6という言い方が良くない。
パガニーニはおそらく死後に次々に曲が発掘されたらしく、作品番号の付いた曲の数倍にのぼる。
ことにギター伴奏付きのバイオリンソナタは膨大な数に上っており、作品番号のついているのは氷山の一角にすぎないのである。

幸いなことにM.S.分類というのが出来上がっていて、これでほぼ全曲がカバーできている。なおありがたいことに、ハイドンのソナタと違ってウィーン原典版というやっかいな分類もないので、これに従えば基本的には整理できるはずだ。
ただマイナーな録音では作品番号しか書いてないものもあり、こういうのに限って作品番号が間違っていたりする。

ヴァイオリン・ソナタ第10番が分からない
最大の問題がヴァイオリン・ソナタ第10番と、第12番というファイルである。
これはたぶん、パガニーニの生前に発表されたのが作品2と作品3の二つのソナタ集(各6曲)で、これを通算したために第10番とか12番という言い方が生まれたのだろうと思った。
12番というのはYou Tubeではエリコ・スミという人が弾いているのだが、まさしく作品3の6である。
10番はレオニード・コーガンが弾いている。なかなかの名曲名演である。しからばこれは作品3の4かと思いきや違う。作品3の4はニ長調である。

作品3というので困るのはM.S.133のソナタ集「Sonate Di Lucca」にも作品3の番号が振られていることである。
おなじ作品3の1とか2でも、M.S.27のものとは全く異なる。
どうもこれはMS133につけられた作品3というのは、変な話だが作品番号ではなく、ルッカソナタ集の第3集という意味らしい。
というのも、MS9のバイオリンソナタ集がルッカソナタの第1番と名付けられているからだ。そしてMS10が2番で、MS11がどういうわけか4番なのである。そこにMS133のルッカソナタ第3番がハマるとするとぴったりだ。
ルッカ・ソナタについて
それにしてもルッカソナタというのがどういうソナタなのかの説明がどこにもない。これも困ったことだ。
ホームページ作成会社のホームペーじの「息抜き」というところをクリックすると「のぶながわが人生」というホームページが現れる。この中の一つにパガニーニの紹介がある。
ここにルッカの説明があった。
パガニーニは1805年から4年間公式演奏活動を停止して愛人のところにこもっている。20歳前後のことらしい。そこがルッカというところでその間に作曲したソナタが30曲あり、これらを総括してルッカ・ソナタと言っているようだ。
 Frassinet 夫人に捧げられた12曲
 Felice Baciocchi に捧げられた6曲
 T. 夫人に捧げられた6曲
 Princess Napoleone に捧げられた6曲
で30曲。曲名としては
 作品3 6曲(MS-133)
    作品8 6曲(MS-134)
 Duetto Amoroso(MS-111)
なのだそうだ。ツェントーネのように一つにまとまってはいない。

てなこともあるので、当面はMS番号がついているもの以外の曲は、とりあえず不明曲に分類しておくしかなさそうだ。
M.S.だからといって安心はできない
MSも完全ではない。例えばMS112(作品64)はチェントーネソナタと言われるが、この中には18曲のソナタがふくまれているから、おそらく6曲セットのソナタ集が三つふくまれているのだろう。とにかくそういうものだとおぼえておくしかない。
これらの整理はジュノバのダイナミック社が出した9枚のCDによる影響が強いようで、今後まだ変わっていく可能性も十分ありそうだ。なんとなくダイナミック社がM.S.を軽んじているのではないかという雰囲気も伝わってくる。
このところ、随分ソナタ集が出ているようだ。ソナタ集となっているものだけで10集ある。一つの集に6曲ふくまれるからこれだけで60になる。

困るのは、けっこう名曲だらけで、聞くしかないことだ。以前チャレンジしたタルティーニ全集は、玉石混交とはいうものの実のところほとんど石だらけで、途中でやめてしまった。

パガニーニの方はどうもそうは行かないようだ。この文章はもう一回くらい追補が必要かもしれないが、それほどの意義があるかも疑問の余地がある。
まずは少し聴き込んでみつことだろう。

国連人権専門家のアルフレッド・デ・サヤス氏が最近(11~12月)ベネズエラを訪問し、国家危機の政治化の危険性、政府に対する「心配なメディアキャンペーン」についてコメントしています。

要約を紹介します

私たちの仕事は、政府を非難することではない

民主的かつ公平な国際秩序の促進に関する人権理事会の専門家として、私は1か月にわたり現地調査し、総会のための6つの報告書を作成しました。

私たちは人権をより良く実現するために来ています。そうするために、私たちは政府にアドバイザリーサービスと技術支援を提供します。

一部のオブザーバーや市民社会の活動家は、わたしたちを特別な特使や弁護士として誤って捉えているようですが、私たちの仕事は政府を非難することではありません。

私たちのミッションは人権侵害の告発ではなく、人権の確保と発展です。社会の進歩とより一貫した生活水準を促進するための共同努力の検討に焦点をあてています。

権限の範囲内で実行可能なソリューションを推奨することであり、私のアプローチは常に結果指向です。

今回の訪問には、両国の大臣、大使、外交官、教会指導者、学者、経済学者、教授、学生、市民団体とあいました。

ま私は、NGO、先住民、個人たちと会いました。市民社会組織は非常に有用な文書を提供してくれました。た拘留中の人の親戚との多くの会合が含まれています。 適切な担当者に向け請願書を送付しました。

私はたんなる情報の受け取り役ではありません。異なるグループ間のバランスをとり、真実の探求と目標とする積極的な情報収集を行いました。

民主主義に関する総論部分は省略

民主主義にとって、国際的な経済問題は避けて通れない

通貨投機は、目標とする経済を不安定化させるためのツールの1つです。

民主的正当性を持たない信用格付け機関の活動も、債券を発行し資金を調達する財務能力に重大な影響を及ぼします。

税回避は、それぞれの国の資源が不法に持ち出されたものです。それは国家の財政義務の履行能力に悪影響を及ぼします。

また国際的な犯罪グループは、公的資金、食料品、医薬品の盗難、人権の享受に影響を及ぼします。

ベネズエラでは、公共財産の破壊、公共建物、病院やその他の施設に対する放火、電気や電話回線の破壊など公共暴力が続いている問題があります。

私への中傷キャンペーン

残念なことに、カラカスに到着する数週間前に、私の使命に反対するキャンペーンが開始されたようです。私の任務を「偽の調査」と呼んでいる人もいます。

ソーシャルメディアでは、私の人間的信用度が疑問視されました。メディアが私を攻撃しました。あらゆる種類の侮辱や告発を含んでいました。それがジャーナリストと話したり、記者会見をしたりする前から始まったのです。

オブザーバーに先入観を強いる心配なメディアキャンペーンがあります。例えば ベネズエラに「人道的危機」があること、「人道危機」は終末であると言ったことです。私たちは、それが軍事介入と政権交代のための口実として誤用される可能性があることを念頭に置いて、誇張や過激さに注意する必要があります。

「人道危機」とその対応

ベネズエラの状況は人道危機の限界に達していません。しかし いくつかの分野では栄養不足、不安、苦悩がみられます。政府がこれらの問題に取り組んでいますが、改善策を提案しました。

食糧や医薬品の現在の不足を緩和するために、ベネズエラへの食料や医薬品の自由な流れが必要です。そのような援助は本当に人道的なものでなければならず、政治的目的を持つべきではありません。国際赤十字委員会および他の組織は、援助の輸入と分配を調整する上で確実に手助けをすることができます。

いくつかのセクターで受け入れがたいレベルの苦しみがありますが、そのことを繰り返すだけでは役に立たない。重要なことは建設的な提案をすることです。そのためには、問題の原因を多角的に研究することが重要です。

とくにサボタージュ、退蔵、闇市場の活動、誘発されたインフレ、食品や医薬品の封鎖の影響を知ることは重要です。

(米国のように)国を孤立させてボイコットしてはいけません。

重要なことは、包括的措置を通じて国際的な連帯のレベルを立証することである。UNDP、ユニセフ、FAO、UNAIDSなどの国際機関を通じた協力の努力を支援します。

私は特に、ベネズエラに国連からの助言や技術援助を求めるよう要請しましたが、この呼び出しは耳を傾けられています。


エクアドル関連記述は略


答えはノー

Venezuelanalysis.com Dec 22nd 2017

ベネズエラは、野党が来年の大統領選挙に出るのを正式に禁止している。少なくとも西側のメディアによると間違いない。ニュースはどこにでもあり、見出しはすべてそう言っている。

The Independent: ベネズエラ大統領選挙:ニコラス・マドゥロ政権が野党候補の出馬を阻止

ABC News: ベネズエラの3野党、出馬を阻止される

The Economist: 民主主義の名において、ベネズエラは野党を禁止

DW: ニコラス・マドゥロ大統領、野党の大統領選出馬を阻止

ニューヨークタイムズ紙とワシントンポスト紙も同じ話をしていたので、それは真実に違いない。確かに読めばそうだ。
「ベネズエラの国会議会は、水曜日、来年の大統領選挙に参加する最も影響力の強い野党の3人を効果的に取り除いた」
ニューヨークタイムズ紙の見出しににはそう書いてある。

しかし記事の本文は最初から食い違っている。記者(AP)は説明し始める。
「議会は、12月初旬の市長選挙をボイコットした野党が法的地位(立候補のための)を獲得するために再申請することを要求する声明を採択した」
のである。

したがって、問題は「法的地位のために再申請する」ことを強制されたことが、事実上の「禁止」を意味するのか、ということである。

制憲議会がどう言っているのか見てみよう

「国家または地方の選挙に参加するためには、政治組織は、憲法の定める直前の国家または地方の選挙に参加していなければならない」

これは野党よりの「エルナシオナル」紙から転載したものだから、間違いないだろう。

一体どうなっているのだ?

つまり、基本的な考え方はこういうことである。一般的に言えば、各当事者は各選挙に際して基本的な要件のセットを登録し、満たすことが求められるということである。

ただし、このプロセスは、前回の選挙に参加し投票の少なくとも1%を得た当事者に対しては免除される。しかし「直前の」選挙に参加しなかった場合、当事者は再申請プロセスを経なければならない。

だから、前回の選挙(一斉地方選)をボイコットした場合、次の投票に出馬するためには、大量の書類を通す必要がある。

明らかに、この動きは地方選挙をボイコットした野党を対象としている。

これには、民主円卓連合(MUD)の主要三政党、すなわち民主行動党(AD)、「人民の意志」(VP)、そして「正義第一」(PJ)が含まれる。

「彼らが選挙に参加することを拒否したのだから、彼らは再び検証されなければならない」と、制憲議会の議長は語る。
「これが合理的な措置であるかどうかは、あなたが決定することです。議論があるでしょう。
有権者であろうと候補者であろうと、民主主義への参加行動に対するいかなる障害も非難されるべきであるかもしれません。
反対に、野党は勝てる選挙にしか出馬しない、負ける選挙はボイコットするという習慣が悪いと考える人もいます。
しかし、これはただの「負け犬戦略」ではありません。むしろ、ベネズエラの民主主義を非合法化し攻撃することを目的としたシニカル・ショーです」
いずれにせよ、問題はこのことに尽きる。この決議は、主流のメディアが主張しているように、野党の出馬を事実上禁止しているのだろうか?

検証要件はどれぐらい厳しいのか?
ANCの決定が、事実上野党の出馬禁止を構成するほどに厳しいものなのか。それを理解するためには、申請プロセスをより詳細に見る必要があります。
まず、選挙活動を再開するためには、少なくとも0.5%の有権者の支持を得ていることを示す必要があります。
これは政党・政治活動法の第2章、第10条に記載されています。
この要件は、米国に比べて特に煩わしいものではない。例えばカリフォルニアでは、政党資格を得るには登録された有権者の0.33%の支持が必要です。
しかしフロリダでは、閾値は5%とかなり高いです。 それにもかかわらず、フロリダは独裁者だと主張する人はいないでしょうか?

登録プロセスの本当の問題

以上のごとく、制憲議会の決定を「野党」当事者の「禁止」と表現したすべてのメディアは、基本的な事実レベルでは間違っていた。
野党にとっては、新しい要件は、少なくとも今のところは彼らに何の影響も与えてはいないようです。
選挙が近づくにつれ、ANCやマドゥロ政権がいくつかの障害を投げつけようとする可能性を否定するわけではない。たしかに2018年の投票では、両派の中に多くの不届き者を見るかもしれない。

左派の小政党にとっては再登録は非民主的に見える可能性がある。これが登録法の本当の問題だ。

共産党は、かつてPSUVの密接な同盟者であったが、制憲議会の要件は、プライバシーに対する攻撃であると主張している。
オスカー・フィゲラ書記長は「将来の政治的迫害の基礎を築く可能性がある」と批判する。
登録プロセスは、大規模な野党に対する包括的禁止ではなく、実際には革命家や草の根の候補者が立ち向かうのを困難にする可能性がある。

後略

2000年に書いた金融グローバリゼーションの行方の一部です。北海道AALAの2000年版情勢報告から抜粋しています。
金融危機のもとでは、変動相場制絶対論でヘッジファンドのなすがままにされるのではなく、条件的に固定相場制の採用もありうるという経験です。

マハティールの「勝利」

 おおかたの東アジア諸国がIMFの指導に従うなかで,マレーシアはこれとは逆の方向に出ました.

 それまでマレーシアを支配してきたマハティール首相は,腹心のアンワルに(私のパソコンは「案悪」という素晴らしい宛て字を用意した)経済運営を委ねていました.マレーシアを金融危機が襲ったとき、アンワルはIMFの政策を導入して危機の乗り切りを計ろうとしました.
このやり方を不満とするマハティールは,強引にアンワルを更迭し、自ら危機対策に乗り出しました.

 マハティールの対応は「ヘッジファンドの行き過ぎた活動を規制すること」でした.彼は国際投機家ジョージ・ソロスを名指しで批判し、ソロスとアメリカ当局が裏でつながって、アジアを危機におとしめていると主張しました.

 当時,この非難は荒唐無稽と思われましたが,その後ブラジル金融危機に際し,IMFとアメリカ財務省,ソロスが一心同体であることが立証されました.
ブラジルの金融危機に際し,IMFはソロスの大番頭を経済相に就けるよう推薦し,その就任を待って融資を開始したのです.マハティールに言わせれば、「泥棒を金庫番に就けた」ようなものです。

 マハティールはまず為替取引きを停止しました。ついで株式・債権の短期売買を禁止しました.マレーシアの通貨リンギットは国外での取引きを禁止され、海外持ち出しを制限されることになりました.国内では1ドル=3.8リンギットの固定相場となりました.

 これらの政策はIMFの指導と真っ向から対決するものでした.

 マスコミの多くはマハティールのやり方を痛烈に批判しました。そして強引なアンワル下ろしと相まって,その独裁ぶりが書き立てられました.「マハティールはインドネシアのスハルト前大統領と同様、国民の怒りを受けて失脚するだろう」と噂されるようになりました.

 しかし大方の予想を裏切って,98年度のGDPは1%前後のマイナスにとどまりました.さらにその後は大幅なプラス成長に転じたのです.相場師たちはマレーシアを離れましたが,逆に半導体と家電関係の新規投資は急激に増加しました.

 99年9月1日,この措置の1年間の期限が切れました.世界が固唾を呑んで見守りました.マレーシア政府は50億~60億米ドルの流出を覚悟していました。しかし実際に国外に流出した資金は10億ドルに留まったのです.マハティールの大バクチは成功したと見ることができるでしょう.

 その後もマレーシア経済は順調な足どりを続けています.GDPは前年比で二桁を上回る増加を記録しています.外貨準備高は15億ドル前後増え、ビジネスも順調に伸びています。外国からの直接投資にも悪影響はみられません。

 マハティールは「先進国を中心とする国際社会は,経済の混乱がアジア各国の国内に波及するのを食い止めることができなかった」(それができたのは私だけだった)と胸を張りました.

ベネズエラ封鎖の4つの効果

金融封鎖は、財やサービスの日常的な国際支払いに直接影響を与える

By Misión Verdad

Dec 4th 2017

1.インスリンの輸入資金が凍結される

8月に、ドナルド・トランプ大統領が金融制裁を課してから、ベネズエラは、国内で生産されていない医薬品や食料品の輸入の際にさまざまな困難に直面しています。

金融封鎖は、財やサービスへの日常的な国際決済に直接影響を与えています。

ベネズエラ政府はこれを繰り返し非難しています。ニコラス・マドゥロ大統領は、「ドナルド・トランプ=フリオ・ボルゲス条約」のおかげで、30万単位を超えるインスリン貨物が国際港湾で動けなくなっていると非難しました。

米国の金融機関シティバンクが、糖尿病患者のインシュリン貨物を輸入するために入金した資金を受け取ることを拒否したためです。

その結果、インスリンの輸送は何日間も港湾で待たされました。マドゥロ大統領は、「私たちがお金を支払っても、彼らはそれを受け取らない」と説明しました。

マドゥロ大統領は、「今週から、私はトランプとボルジスが薬の封鎖の責任者だと非難する」と述べました。そして今年はじめの「正義第一党」によるボイコットの要請を引用した。ボルジスはこの党の代表者としてトランプにベネズエラ制裁をもとめたのです。

2.コロンビアによるマラリア薬の封鎖

11月3日、タレク・エル・アイサミ副大統領が非難しました。

ベネズエラは、コロンビアで抗マラリア薬であるプリマキン(Primaquine)を購入しました。しかし、「製薬会社が最終目的地はベネズエラ保健省と知ったとき、コロンビア大統領の命令でこの薬の配送が意識的に阻止された」と述べました。

マドゥロ大統領は、「すでに薬を購入するためのお金があり、それを支払うために行くとき、コロンビア政府はこれらの抗マラリア薬のベネズエラ国民への販売を禁止した」ことを明らかにしました。

同時に「これらの薬はどこかで買うことができる。ベネズエラの人々は、これらの疾病と戦うための医薬品が不足していない」と述べました。とはいうものの、実際には、プリマキンおよび慢性疾患のための他の薬は、インドで購入しなければなりませんでした


3.食糧購入資金の停止

地元産品供給委員会のフレディ・ベルナル事務総長は、1年前から、ベネズエラは食糧輸入の激しい封鎖に苦しんでいると述べました。

国際的な銀行は、ベネズエラで食品を加工して生産するのに必要な備品を運ぶコンテナ船の到着を遅らせました。その結果29隻の輸送船が3ヶ月にわたり到着が遅れました。その間銀行から輸送業者への支払いは行われませんでした。

これがベネズエラとの金融戦争の一環です。

ベルナルは「私たちは業者に経費を支払う方法を探して68日もかかりました。もちろん、現在の深刻な食糧配給に影響を与えていることを国に伝えなければなりませんでした」

ついに私たちは支払い方法を見つけました。

ベネズエラの当局は、食品をベネズエラに持ち込むために、さまざまな同盟国と協力して三角貿易の支払い方式を生み出す必要がありました。

この方式は通貨に対する攻撃と経済的な攻勢によるインフレとモノ不足を劇的に縮小させました。

しかし、この9月には、またも支払いがブロックされたため、1800万のパッケージを配布することができませんでした。

さらに、支払い契約が成立したとしても、今度は運輸契約が困難になっています。出荷ボイコットが組織されました。600個のコンテナが、一回の出荷ではなく6度に分けられなければなりませんでした。

これらの障害は明らかに、ベネズエラに反対する強力で覇権主義的な国家によってもたらされたものです。

4.ベネズエラのスポーツチームによる旅費支払いの妨害

しかし、ベネズエラの人々に課せられた封鎖の主要な表現は、医薬品や食品だけではありません。スポーツも影響を受けます。

9月6日、某国際的銀行が、ベネズエラから米国の金融機関への支払いが「不可能」であるとボリビア政府に通知してきました

ベネズエラの様々なアスリートの航空券、宿泊施設などのために、スポーツ省から150万ドルを譲渡することを拒否したのです。

マドゥロ大統領は、選手団の処分に政府航空機を配置することを決定しました。特に、ベネズエラの女子バレーボールチームは、2017年の南米選手権への参加が危うくなった。


ベネズエラは、米国の覇権争いに挑んでいる国との国際連合によりアメリカに対抗しようとしている。それなしにはチャベス主義政府の維持を図るのは困難である。


とりあえずリンクを貼っているヒマがないので、検索窓に「ベネズエラ」と入れてください。20篇くらいは出てくると思います。

ハイパーインフレの原因についてはベネズエラ大使館は下記のように説明している。正確には下記のように説明した論文を紹介している。

日本語訳がややわかりにくいが、英語を読むよりはまだ良いかと思って読み始める。

1.おおっぴらなダフ行為

ベネズエラは為替相場は固定されている。昔の日本のように1ドルが360円なのだ。ところが公定レートあるところかならず闇レートが存在する。

闇レートは、行列に横入りするようなもので、そもそも犯罪であるが、強烈な需要がある場合は必要悪ともなる。

闇レートはその成り立ちからして、それほど大きな規模ではない。したがって乱高下はするがだからといって表経済にはさほどの影響はないはずである。

たぶん、そういう常識はもはや通じなくなっているのであろう。

文章は最初から意味がわからないが、

政府はGDPの35%を年間輸入可能量とし、これに相当する外貨を輸入業者に割り当ててきたらしい。ところが輸入業者が輸入した商品をいくらで売るかは輸入業者に委ねられている。

そこで輸入業者はこういうことをする。

輸入に必要なドルを確保するときは、公定レートで政府から受け取る。しかしそれを販売するときは闇レートに換算して値付けして、販売するということである。

ごく普通に聞けば、これは犯罪である。どのような価格設定をしようと売れなければ仕方ないので、そのへんは普通には(ルイビトンを百ドルで売ろうが千ドルで売ろうが)市場の論理であるが、ドルの割当というのは誰でも獲得できるわけではないので、そこには競争原理は働いていない。

これだと、許認可をめぐる関係の不透明性が強く疑われ、元売りから小売に至る流通のいたるところに恣意的契機が存在するであろう。

ついで論文は、状況をわかりやすくするために例を上げているが、そこにはありえない話が展開されている。

自動車のスペアを輸入する会社が、国から公定ルート、つまり1ドル=10ボリバルで外貨を受け取って製品を購入したとする。(文章では公定ルートではなく「優先的な為替レート」と書かれている)これを国内で販売するときには、闇ルートである1ドル=1,000ボリバルを使用する。

もうこれだけで唖然とする話だ。

しかし話はこれで終わらない。話はさらに進む。


2.ヤミ社会が金融を仕切る

これは以前より続く状況である。しかし2006年以降、事情は変わった。

ブラックマーケットでの推定為替レートが一般社会に拡散されるようになった。3つから4つのウェブ・サイトが毎日、ヤミ為替レートを公表するようになったのだ。

このレートは、実体経済の動向にも、外貨準備の水準にも、通貨ボリバルの供給量にも応じていない。それは恣意的で、操作された、不均衡なレートである。

論者はこう言って嘆く

2006年以降、為替レートの変動理由とされてきたのは、変わりやすい政治である。ベネズエラで何らかの選挙プロセスの日程が示されただけで、この種の為替レートは急騰し始める。選挙が終わると、変動はまだ収まりはしないものの緩やかとなる。同様の動きが、政治情勢に合わせて観測される。

3.ちょっと私の意見

私はここまでの論者の為替相場論には賛成できない。気持ちとしては分かるが、為替相場というのはそういうものだからである。方程式の解ではなく生き物として扱わなければならない。それがどう動くのかをよく研究して対応していくしかないものだ。

固定レートなど一時の杭にしか過ぎないので、それを永久的なものと捉えるのは許せない間違いである。

ただし、投機資本の介入による売り浴びせなどに対しては、国際協調のもとで一定期間の為替レートの凍結も必要となる。ただしそれは97年のマハティールのごとく、国家主権をかけた大勝負となる。

ベネズエラにはそのような選択肢はないから、いずれデノミと変動相場への移行が必要になるだろう。

4.為替レートとインフレ

為替レートの変動を経時的に見たグラフがある。以下の説明がある。

次のグラフを見ると、「違法な対ドル闇レート」の政治的なサイクルがわかる。2012年から変動が激しくなっており、さらに2015年12月の国会議員選挙直前にはさらに大きく動いている。

これらの影響とダメージがインフレ率に及んでおり、2012年8月から現在までで14,640%と犯罪的に上昇している。

 161205_01

この為替操作は、物価上昇を引き起こすだけではない。生産水準、したがって雇用水準にも影響する。

5.べつに「供給ショック」でも何でもない

著者はこのあと、次のような議論を展開していく。

この為替操作が経済を歪めるメカニズムは、供給ショックとして知られており、次のように起こる。

1.違法なマーケットで為替レートを不均衡に操作する。

2.輸入を行う大規模な独占企業や寡占企業が、操作され違法にウェブ公開された為替レートを参照して国内価格を決定する。

3.経済の中で生産・輸入されるあらゆる財やサービスのコストが上昇する。

4.コスト上昇に伴い物価が上昇する。つまり誘導されたコスト増による、誘導されたインフレである。

5.労働者の実質的な給与が減少する。つまり、家庭の購買力が低下する。

6.家庭は家計の見直しを余儀なくされ、優先順位がさほど高くないもの(娯楽、衣服、靴等)から順に、多くの財やサービスの需要を縮小させる。インフレの程度と場合によっては、生活必需品の必要量まで縮小する。

7.需要の縮小により中小規模の事業者、特に生活で優先順位があまり高くない財・サービスを提供する事業者が影響を受ける。

8.これら事業者は従業員者数を減らす必要に迫られ、雇用水準に影響が出る。

9.家庭の購買力はさらに低下する。これはインフレ率の誘導された上昇だけでなく、失業にも起因するものである。

10.経済に多大な影響を与える悪循環が始まる。違法な為替レートの犯罪的操作により、物価が急騰し、生産が減少し、中小規模事業者の損失、ひいては失業に繋がるサイクルである。

わかったようなわからないような話である。

たぶん、こんな「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話は意味がない。

要するに新手の犯罪なのだ。経済学的事象ではないのだ。主犯は大手輸入業者であり、闇レートの作成者ではない。
大手輸入業者は、金融官僚のおろかさにつけ入り、固定レート制度の弱点を利用し、闇レートの作成者に値を吊り上げさせ、その値段で商品を売りまくっているのだ。にも関わらず財務警察も独禁制の運用者も知らぬふりしているのだ。こんなにひどい犯罪はないのだ。
6.犯罪は罰せられなくてはならない

基本的に相互の善意に基づいて成立している商契約を、一方が明らかに悪意を持って裏切っているのだから、契約は破棄されるべきだ。他に代替業者がいないのなら、仕方がないので条件をつけて再契約するしか無いだろうが、その際にはいったん預けたドルをドルのまま返却させるべきだ。あるいは闇レートの現在の時価(ボリーバル)で返納させるべきだ。

わからないのだが、生活必需品の海外での購買と国内での販売を業者に託す時点で、入札は行われているのだろうか。契約内容は公開されているのだろうか。

論者も最後にこう書いている。

国、つまり政府だけでなく国が、外貨割り当てを受けている大規模な輸入業の独占企業に対してより大きな統制と管理を敷くことが急務である。国民が外貨割り当てに関する情報について、どの企業が割り当てを受け、どのような製品を輸入するのにどれだけ費やしたのか、どのレートで外貨を受け取ったのか、知ることが重要である。輸入事業者に対して、国からどのレートで外貨を受け取ったのかを包装に明記することを課した公正価格法第6条を守らせる必要がある。緊急に独占禁止命令を適用しなければならない。

この記載は十分正しい。だから以下の結論は逆に納得がいかないのである。

ベネズエラ国民に対する大規模かつ犯罪となる違法為替レートの操作と戦うことは、今日では単なる経済課題ではない。平和と民主主義の安定を確保する手段であり、平等と社会的正義のモデルに向けて歩み続けられるという希望である。

私にいわせれば、「違法為替レートの操作と戦うこと」は、実はどうでも良いことなのだ。むしろ大規模輸入業者の不正を取り除いたあとでは、「必要な悪」だとさえ言える。このような不正の土壌を形成したのが、不自然・不必要かつ長期にわたる固定為替制度なのだから、経済担当者はそのことを肝に銘じるべきである。

「ベネズエラ: 隠された動機」というビデオがある。
大使館ご推薦のものだ。
全部で37分、政府側の言い分を一通り網羅している。
ただし全部を見ろというのは一般の方にはしんどいだろう。
とりあえず、紙上ダイジェストみたいな形で紹介しておく。画像はビデオの静止画像を読み込んだものなのできわめて低クオリティーであることをお断りしておく。

最初がベネズエラの石油専門家のインタビュー。ここでは1980年までベネズエラが世界一の産油国だったことが語られる。彼はベネズエラが今なお世界の埋蔵量の17%をしめると言うが、それはどうでも良い。
ついで歴史学者が歴史から語り始めるが、ここは省略。
いろいろ語られたあと、チャベスによるクーデター未遂事件が語られる。
ついでロック歌手が登場し、なぜチャベスが嫌われるのかを語る。ここからが見どころだ。

チャベスは貧者(国民の8割)の英雄
チャベスは影の人々に光を当てました。8割の人が貧しく、4割は極貧でした。
チャベスは彼らに発言権や投票権を与えました。
それが彼らには我慢ならなかったのです。
チャベス漫画
これがベネズエラ政治を考える上での一番の基本だ。そこを分かっていない人は討論の場からは外れてほしい。(これは私の独り言)

反政府デモと暴力
ついで、反政府派のデモの実態を告発する。
野党は直接暴力に訴え、軍隊にクーデターを呼びかけています。それが祖国への愛だと若者を洗脳しています。
反対派のデモは憎しみや叫び、侮辱・破壊行為、焼き討ちばかりです。以前はこんな狂気の沙汰はありませんでした。
クリニック襲撃

反政府派は犯罪者の武装集団にお金を払って混乱状態を作り出しています。
若者や仲間までもが自家製の武器で殺されています。
バス焼き討ち
地下鉄や学校が攻撃され、大学が破壊されました。

メディアとでっち上げ
画面は代わって、国内外のメディアに対する批判に移る。メディア関係者の女性の発言。
すべての情報源の中に偽のベネズエラ像があります。多くの「ベネズエラ専門家」が誕生しました。
メディア批判
新聞記者たちはこう指示されます。「ベネズエラに行って、飢餓や食料品をもとめる人々の列、医薬品の不足を記事しなさい。
メディア批判2
外国人特派員は命じられた記事を書くために来るのです。高速道路やカラカスの幹線道路で、反対派が行っているデモ行進の映像もそうです。メディア批判4

国際メディアの報道しないこと
でも国際メディアの報道しない多くのことが起きています。報道されない理由は特派員たちの能力不足ではありません。彼らは別の指示を受けてベネズエラに来ているからです。
でもこの国で唯一のことを見逃しています。それは底辺に生きる人々のエンパワーメントです。
だからこそ、マドゥーロ政権やチャベス前政権は転覆されなかったのです。
今の政治になってからの変化で、もっとも重要な点は、人々が政治について理解するようになったことです。
ベネズエラ周辺の他の国で、人々が政治について議論することはありません。
国際メディアがそのことについて報じないのは、明確な意図があるからです。
この国への攻撃あるいは介入の次の段階のための世論を構築するためです。
それはもう始まっています。

モノ不足と人道問題
ついで別の人物とのインタビューで人道問題について語られる。
反対派が人道危機のテーマに固執する理由は、人道国際法には人道的介入という概念があるからです。
つまり深刻な飢餓やテロ災害に苦しんでいる国には、「人道介入」という名の介入が許されるからです。
モノ不足
ボリーバル大学の経済学者は語る
ただしいくつかの基礎食糧についてはその生産の8割が2~3社の手に委ねられています。とうもろこしの粉、米,コーヒー、砂糖などです。
1980年代や90年代に比べてベネズエラの生産レベルは向上しました。
食料品をもとめる列や価格高騰の原因は生産量が減ったからではありません。
もし生産量が問題ならなぜ闇市場では手に入るのでしょう。誰かがそれを生産したか、輸入したかでしょう。
国は外貨の95%を石油の輸出から得ています。
そして民間部門の輸入用に外貨を優遇レートで提供しています。
しかし民間部門は輸入価格を国内通貨に変える際に、優遇レートではなく、一番高い闇市場のレートを使用します。
闇市場の相場は不正に操作され、選挙など重要な政治日程に連動して動きます。
医薬品の話をしよう
国は2014年に医薬品業界に対して医薬品の輸入費用として25億ドルを提供しました。その前の年から医薬品が不足していたからです。
その10年前、2004年の提供額は9億ドルでした。医療予算は3倍近くに膨張しましたが、10年間で病人がそれだけ増えたわけではありません。これは外貨の割当の問題でも外貨不足の問題でもありません。
2012年以降、石油価格の下落により外貨は減っていますが、民間への外貨割当はずっと高いレベルに維持されています。つまりモノ不足の原因は別なのです。
モノ不足2
こうした経済攻撃は国民に向けられたものです。経済にではありません。政治的意図が込められています。
薬が入手できないと人々を不安にさせ、社会を不安定化するのです。

モノ不足3
まず「事実」を作り上げる
この経済戦争は心理的な戦争と情報による戦争を伴っています。まず「事実」をつくりあげ、次にその責任を転嫁します。
社会主義モデルが失敗したからだと心理的に訴える情報を流すのです。その際、市場を操作したことは隠したままです。
おなじことがアジェンデ政権下のチリでも、1970~73年に起きました。生活必需品をもとめる長蛇の列。
しかし生産も輸入も滞ってはいませんでした。アジェンデ政権が倒されるとモノ不足は解消されたのです。
ニクソン大統領自身がこう語っていました。「政権を弱体化するために経済を破壊する」と。
資本主義とは異なる体制の政府が強化され、成果を上げることを拒むためでした。

次のインタビューはスペイン人で欧州議会議員の人。
反チャベス勢力は「失敗した国家」というイメージだけでなく、暴力的な反対勢力を支援しました。経済戦争も仕掛けました。
わたしたちの主張は「陰謀妄想論」ではありません。彼らはアジェンデ政権に行ったのと同じ経済戦争を仕掛けています。
ベネズエラはキチンと代価を払ってきています。しかし製薬業界や大企業は国民に医薬品を供給していません。
高血圧症など国民が必要な薬がなくなっています。
それは「失敗した国家」だと烙印を推して介入するための準備です。地域統合という、ベネズエラの政治計画を拒むためです。

このあと反米宣伝が続くが、ここは省略する。

ゴールはチャベス政治の破壊
そして、謎の人物が出てきて政権打倒の計画を明かす。
政権を内部から倒せなければ、「人道的な危機」を作るのです。
これ以上の流血や隣国への拡大を防ぐため、善良な人々はこういうでしょう。「広域の安全に関わる問題だ。すぐに行動しなくては!」

最後はチャベスの演説の一説。
「もうたくさんだ。我々はいかなる犠牲を払っても自由になると決めたのだ」

ベネズエラ関連のレポートを2本並行して書いていたのだが、お釈迦になった。
どうも実態がよくわからない。とくに突如起こったハイパーインフレが解明できない。実体経済のパフォーマンスとあまりにもかけ離れている。

そこから振り返ってみると、そもそもベネズエラ危機の理由がうまく説明できていない。
何ごとも原因があって結果があるものだが、ベネズエラ危機にはどうもはっきりした原因が見当たらない。
原因というのは普通経済的なもので、景気が悪くなったり生活が苦しくなったりすると国民が苛立ってきて何かと諍いが起きて、それが政情不安へと結びついていくわけだ。
ベネズエラの場合、とんでもないインフレが起きてこれが国民の不満に結びついているのは良く分かる。
しかし、そこから先がよくわからない。
一番わからないのは、どうしてこんなインフレが起きたのだろうということだ。インフレが起きる最大の理由は物不足だ。
たしかに物不足はある。原油価格が下がって外貨が手に入らなくなったからだ。しかしそれだけなら、やがて需要が縮小してそれなりに均衡が取れるようになる。どうしてベネズエラが南スーダンに次ぐ世界第2位のインフレ国になったかの理由にはならない。
政府が通貨を乱発すれば、供給過多になりインフレを起こす。これはかなりインフレを起こす理由になったようだ。ひょっとして債務危機を通貨乱発でしのごうとしたのであろうか。

もう一つは時相のズレだ。
はっきりしたハイパーインフレは2017年になってからのものだ。経済・政治危機はそれより1,2年早く発生している。
どうも、このハイパーインフレには人為的な匂いがする。誰が、なぜ、どうやって引き起こしたのだろうか。このことがわからないとそもそも記事が書けないことになる。
日本語で、この辺に触れた記事があるだろうか。まずはそこから探してみよう。
あとは、ベネズエラ政府側の言い分がほとんど報道されていないのが気になる。ひょっとするとハイパーインフレにはベネズエラ政府側の意図が隠されているかもしれない。
例えばキューバのような「二重通貨制」への移行だ。



ベネズエラのカトリック教会は恐ろしく下品だ。
2016.12.6 の「Crux」紙の紙面に、バチカン特派員の記事としてこんな記事がある。
「大量虐殺を終わらせて!」ベネズエラの人々、バチカンで和平実現訴え
以下、要点を転載する。
ベネズエラでは毎12分から18分に一人が殺されている。何年も続く独裁政治と経済失政から、絶望的な人道危機が起きている。
レオポルド・ロペスを含む政治家、活動家、学生たち107人は、政府に対する平和的な抗議デモを指導したあと、2014年2月に収監された。国連人権高等弁務官事務所やアムネスティー・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウオッチなど国際的な人権保護機関、団体が彼らの釈放を求めている。
「彼らは餓死寸前です。病院には資材がなにもない。がん患者は、政府が薬の輸入を港で止めているために、救われるはずの命を落としている。そうしている間に、12分か18分おきに、1人の命が失われているのです」と、レオポルド・ロペスの母親は窮状を説明した。
ベネズエラのカトリック司教団の「正義と平和委員会」は、12人の若者がマドゥロ大統領が作った人民解放軍によって殺害されたことを明らかにした。
12人は人民解放軍の手で拉致されていたが、11月28日に遺体となって発見された。

(バチカンは複雑なようだ。アルゼンチン出身の教皇フランシスコはチャベスたちと結びつきがあった。いっぽう、ベネズエラの最高位にあるカルドーゾ枢機卿は徹底した反チャベスで知られている。もちろんフランシスコは国内問題には口を出せない)

「12分から18分に一人が殺されている」とか、「マドゥロ大統領が作った人民解放軍」が大量虐殺しているなどという途方もない情報が、根拠もなしに世界中に発信されているのだ。
まずはこの事実を認識しなくてはならない。世界のメディアは2002年4月に世紀の大デマの中で実行されたクーデターについて、いまだ何の反省もしていないのだということを、心に留めなければならない。

ニューズウィークというアメリカの雑誌があって、タイムスよりは多少マシだが、決して親ベネズエラでも進歩的でもない雑誌だ。

しかし、日本の某進歩紙よりははるかに筋の通った議論を展開している。ちょっと紹介しておこう。
8月6日の記事で、某進歩紙がこう表現した時期に書かれている。
マドゥロ大統領が8月に発足させた制憲議会は、野党主導の国会の立法権を剥奪。大統領は事実上、全権掌握を宣言し、野党リーダーの迫害や与党内の政敵の排除を続けています。
この文章を念頭に置いて読んで下さい。

現在の経済危機の原因は?
単純な答えを言うなら、チャベスとマドゥロ両政権の浪費だ。行政に抑制と均衡の仕組みが存在しない。
しかしこうした問題点は、全て、民主主義時代(1960~2000年)のベネズエラにも存在していた。
チャベス以前にも存在したこうした問題点が、経済危機の結果とあいまって、二大政党制を崩壊させた。
それはなぜ起きたか。私に言わせれば、二大政党が貧困層のために何もしなかったからだ。二大政党制は非常に腐敗していた。予算もないのにカネを使い、多くの問題を引き起こした。
インフレの原因は?
今の政府が紙幣を乱発したからだ。それでインフレが発生した。今年のインフレ率は720%に達すると予測されている。
チャベスは正当な選挙で勝利するというプロセスなしに行動したことはない。新憲法を制定した際には、国民投票で圧倒的な支持を取り付けた。そして憲法を拠り所として政治を進めてきた。
今の政府はそういうプロセスを軽視している。それは確かだ。
しかしチャベス以前の政府はそんなプロセスなど無視した。軽視ではなく無視だ。
内戦の危険は?
ベネズエラに内戦の恐れがあるのは銃所有率が高いからでもある。しかし問題はそういうレベルではない。そこには全く異なる主張がぶつかり合っているからだ。
反対派には二つある。
ひとつは「二大政党制」の古き良き時代の復活、市場経済制度の完全な再現をめざし、政府への徹底抗戦を唱える人々だ。彼らとチャベス派のあいだに妥協の余地はない。だから彼らは強硬派を形成する。
もうひとつは、憲法や制度の枠組みの中で解決策を探ろうと主張する穏健派の人々だ。
問題は、強硬派がアメリカとより強く結び付き、そのことによって強い影響力を保持していることだ。
彼らは「社会主義vs資本主義」という構図ですべてを割り切ろうとしている。彼らは古いイデオロギーにしがみついている。
アメリカがとるべき態度
まずアメリカは一方的な行動を避けるべきだ。アメリカが政府を倒すために介入したと、ベネズエラ国民に思われてはならない。
ベネズエラ産の石油の輸入を制限することは非常に危険だ。石油以外に外貨を獲得する手段がない国に対して、その蛇口を締めてしまえば大変なことになる。食糧も医薬品もないベネズエラで、人道危機が大幅に悪化することになりかねない。
デフォールトを避けなければならない
ベネズエラの最大のリスクはドル建て債務だ。このまま行くとデフォルト(債務不履行)に陥る可能性が高い。これは非常に懸念すべき事態だ。デフォルトは他国にも連鎖するし中南米全体にとって好ましい事態ではない。
「つなぎ」が可能であれば、原油価格の安定にともない債務の返済は可能となる。長期的に為替体系の安定化に向けて努力が必要だ。

問題の歴史的評価、解決の基本的道筋など、評論としての最低の構成は踏まえている。進歩的な新聞であれば、せめてこのくらいの格式は踏まえてほしい。

ある進歩的な新聞が、またも反ベネズエラのキャンペーンを行っている。ますますエスカレートしている。

要約を紹介する。

今年の中南米はベネズエラの政治、経済危機に焦点が当てられた年でした。

この危機は、控えめに見てもその半分は「作られた危機」であろうと私は感じているのであるが、この記者はそうは考えていないようだ。

用語の使いかたが非常に荒っぽいのが気になるのだが、

まずは「経済危機」の評価。

① 国民はますます困窮している。それは「人道支援」が必要なレベルに達している。

② 直接の原因は「物不足とインフレ」によるものである。
この書き方は曖昧だが、物不足によりインフレになっていると読むことにする。

③ インフレをもたらしたモノ不足の原因は「巨額の対外債務と石油価格低迷」による。
この書き方も曖昧だが、石油価格低迷により対外債務が巨額となり、購買力が低下したと読むことにする。

④ 月50%を超えるインフレをハイパーインフレと言う。ベネズエラはこの水準を突破した。インフレ率は「すでに1000%を超えたと言われます」と書かれているのは、おそらく2017年度の予測インフレ率が1000%を超えるだろう」という意味だろう。

いずれにせよ、激しい言葉遣いのわりに定義は曖昧である。

私のこれまでの研究からみて、明らかに不正確な記述がいくつかある。

①,③については不正確だ。④については吟味が必要だ。②については基本的に正しい。これは産油国のほとんどが直面する危機である。産油国の多くは基礎生活物資の多くを輸入に頼っており、石油価格の低下は即、輸入可能額の低下をもたらし、物不足と物価の上昇をもたらす。

問題は、どこを切り詰め、どこを頑張って保障するかである。かつての政府は貧困者や大衆の苦しみなど全く顧みなかった。だから人々は貧困者のための政府を立ち上げたのである。

対外債務については石油価格低下のみが原因ではなく、この国の為替政策が結果的に悪影響を及ぼしている。長期的には通貨切り下げは必至であり、それは即、対外債務の膨大化を意味する。

しかし通貨を変動相場制のもとに放置することは、投機資本の思うままに翻弄されることである。それは97年のアジア通貨危機の際に痛感したことである。

いずれにせよ、ベネズエラにおけるインフレは購買量低下→物不足による物価騰貴ではない。際限なく続く性格のものではない。記事では悪性インフレが今なお止まることなく、進行しつつある。もはやそれは人道レベルでの支援が必要なほどに悪化していると書かれているが、根拠を示すべきであろう。

ついで「政治危機」の評価

① 反政府デモで120人が死んだが、これは治安当局の弾圧によるものだ。なぜなら国連人権高等弁務官事務所がそう指摘しているからだ。

② ベネズエラの「民主主義は瀕死状態」にある。なぜなら国連人権高等弁務官事務所がそう断じているからだ。

③ 大統領は全権掌握を宣言した。これについては根拠は示されず、「事実上」という記者の判断に基づいている。

④ 大統領は野党リーダーの迫害や与党内の政敵の排除を続けている。「迫害」や「排除」という用語についても、「事実上」という記者の判断に基づいている。

⑤ ブラジル、コロンビアなど周辺諸国は数十万規模のベネズエラ難民の流入に直面している。
これについては具体的な情報が必要だ。一般的にはありえない人の流れである。長年在留した特派員であれば「デマではないか?」と疑うのが当然だろうと思う。
なお、国連人権委員会については 2017年11月19日  を参照のこと。

「ベネズエラは北朝鮮だ」というのだろうか
某進歩紙記事の一番困るのは、主体的な態度表明がまったくないことである。
わたしたちとしては、2002年のクーデター未遂事件以来チャベスをずっと支持し続けてきた。それはキューバ・ニカラグア支援の延長線上にあったし、非同盟運動や中南米の進歩運動の流れにあったからだ。
しかし某進歩紙の論調から言えば、わたしたちがこのような「事実上の独裁者」や、「迫害者」への連帯活動を展開すること自体、民主主義の自殺行為になってしまうことになる。
とってつけたように「軍事力で問題は解決しない」という中南米諸国の声を強調しているが、これは「北朝鮮はひどい国だけど、軍事的解決はいけない」というのと同じ論理である。
ベネズエラが北朝鮮だという議論にはとうていついていけるものではない。最低でも、「ここまでは正しかったが、そこから先は間違っている」とか、言ってもらわないと話にならない。

取材に当たっての3つのタブー
中南米の取材に当たって進歩性を担保するためにやってはいけない3つのタブーがある。
金持ちと付き合うな。大手通信社と付き合うな。日本人駐在員と付き合うな。
もちろん例外もあるし、取材のためにはあえて踏み込まなくてはならない場合もあるだろう。が、それは事情がある程度わかり、敵と味方がある程度分かってからにしたほうが良い。昔はこちらの肩書を言っただけで相手にされなかったから、こんなタブーは不要だったのだが…

Violin Summit with Baiba Skride, Alina Pogostkina and Lisa Batiashvili

というTV番組があって、バイオリン3人娘として売り出そうという狙いらしい。

かなり酷な番組で、否が応でも三人を比較せざるを得ないことになる。

腕前から言ってもキャリア・知名度から言ってもバティアシュビリが抜きん出ているのは分かる。彼女から見れば、こんな三人組で売り出されるのはいささか心外ではなかろうか。

アリナ・ポゴストキナは器量が良くて愛想が良いから人気はある。腕は三人の中ではちょっと落ちる(と思う)。
2

バイバ・スクリーデはラトビア人。日本ではまったく無名だが、ドイツではそれなりの人気のようだ。田村俊彦と近藤真彦と、もう一人誰だっけ、の人である。

腕はしっかりしている。顔はそれほどでもない。「美人ヴァイオリニスト ☆ バイバ・スクリデ」という日本語のファイル(衛星放送のエアチェック)があるが、どちらかと言えば肉体美と言うべきか。

やっぱりそうだった。

2001年のエリザベート・コンクールで、第1位がバイバ・スクリーデ(ラトビア)、第4位がアリーナ・ポゴストキーナ(ロシア)となっている。
営業とは言え、腕と顔でヒト様と比べられるのは辛いところがありますね。

ーツァルトのディヴェルティメント

すみません。まったく自分の心おぼえだけのために、このファイルをアップします。

しかも、中味は森下未知世さんのサイト「Mozart con grazia」の抜粋にすぎません。

このサイトはとても親切で、ダウンロードした曲を整理するのにとても役に立ちます。「個人的な好みを語ることは野暮である」と考える方らしく、要点をきちっと教えてくれるのがありがたいところです。

こういう方の個人的な好みを」お聞かせ願えればとも考えますが…


ディヴェルティメントは「喜遊曲」と訳されている。ヴァラエティに富んだジャンルで、楽器編成も様々だった。

セレナードは編成がかなり大きく、8楽章が典型である。ディヴェルティメントの方は室内楽的で、6楽章が多い。

「新モーツァルト全集」ではディヴェルティメントを3つのグループに分類している。

  1. オーケストラのためのディヴェルティメント、カッサシオン
  2. 管楽器のためのディヴェルティメント
  3. 弦楽器と管楽器のためのディヴェルティメント

しかしモーツァルトがそのような区分を意識していたとは思えず、そのときどきの事情に応じて考えていただけではないか、と思われる。

 1. ディヴェルティメント 第1番 変ホ長調 K.113

    1771年11月 ミラノ [A] クラリネットが使われた最初の管弦楽作品

 2. ディヴェルティメント 第2番 ニ長調 K.131

    1772年6月 ザルツブルク [A] 作曲の動機や目的は不明

 3. ディヴェルティメント ニ長調 K.136 (125a)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第24番

 4. ディヴェルティメント 変ロ長調 K.137 (125b)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第25番

 5. ディヴェルティメント ヘ長調 K.138 (125c)

    1772年1?3月 ザルツブルク [A] 旧全集では弦楽四重奏曲第26番

 6. ディヴェルティメント 第3番 変ホ長調 K.166 (159d)

    1773年3月24日 ザルツブルク [B]

 7. ディヴェルティメント 第4番 変ロ長調 K.186 (159b)

    1773年3月 ミラノ [B] 作曲の目的は不明。

 8. ディヴェルティメント 第5番 変ロ長調 K.187 (Anh.C17.12)

  モーツァルト本人の作品ではない。

 9. ディヴェルティメント 第6番 ハ長調 K.188      1773年夏 ザルツブルク [B]

10. ディヴェルティメント 第7番 ニ長調 K.205 (167A)    1773年7月 ザルツブルク [C] 

11. ディヴェルティメント 第8番 ヘ長調 K.213      1775年7月 ザルツブルク [B]

12. ディヴェルティメント 第9番 変ロ長調 K.240

    1776年1月 ザルツブルク [B] 大司教のための食卓音楽

13. ディヴェルティメント 第10番 ヘ長調 「ロドロン・セレナード第1」     K.247

14. ディヴェルティメント 第11番 ニ長調 K.251     1776年7月 ザルツブルク [C] 

15. ディヴェルティメント 第12番 変ホ長調 K.252 (240a)

    1776年1?8月 ザルツブルク [B] 舞曲風4楽章。大司教の食卓音楽。

16. ディヴェルティメント 第13番 ヘ長調 K.253

    1776年8月 ザルツブルク [B] ディヴェルティメントの中で唯一の3楽章作品。 

17. ディヴェルティメント 第14番 変ロ長調 K.270

    1777年1月 ザルツブルク [B] 大司教の食卓音楽として

18. ディヴェルティメント 第15番 変ロ長調 「ロドロン・セレナード第2」 

    K.287 (271H)    1777年6月? ザルツブルク [C] 

19. ディヴェルティメント ヘ長調 未完 K.288 (246c)    76年6月 ザルツブルク [A]

20. ディヴェルティメント 第17番 ニ長調 「ロビニッヒ」 K.334 (320b)

    1779年?80年 ザルツブルク [C] モーツァルトのディヴェルティメントの中で最も有名な作品。 第3楽章のメヌエットはよく単独で演奏されるほどポピュラー。

このページには他にも12曲の断片が収録されているが、とりあえず省略する。

ということで、ディベルティメント…番とよんでも良いのだが、K136~138が抜けてしまうのが以下のも癪なので、ケッヘルで呼ぶのが一番いいのでしょう。
ということで、管楽合奏を除いたラインアップは以下の通り。
divertiment
弦楽合奏を主体とするものはK131の第2番が最初。You Tubeではセルの凛とした演奏と、マリナーのしっとりとした演奏が聞ける

K136~K138の三曲は元の「旧分類」では弦楽四重奏曲に分類されていたため、ディヴェルティメントとしての番号がついていないのだそうだ。
You Tubeではニューヨーク・クラシカル・プレーヤーズというグループの颯爽とした演奏が聞ける。
K136はモーツァルトの曲の中でももっともポピュラーなものの一つだ。
小沢と水戸室内管弦楽団の演奏が抜群だ。水戸は指揮者なしの演奏もアップされているが、聴き比べるといかに指揮者が必要かがわかる。
K247、K251、K287、K334 の4曲は立派な管弦楽曲で、4楽章にまとめればそのまま交響曲となるほどである。You Tubeではカラヤンの名演奏が聞ける。胃もたれするという向きの方にはマリナーの演奏がスッキリするかもしれない。
K563 は異質のディヴェルティメントだ。昔からグリュミオー・トリオが定番だが、Veronika Eberle, Sol Gabettaらの演奏が素晴らしい音質で迫る。
veronikasol
  Veronika Eberle
       Sol Gabetta


あまりYou Tubeの特定のサイトを宣伝して良いことはないだろうし、ひょっとして迷惑かもしれないが、素敵なサイトを見つけると一言感謝したくなる。

それがDeucalion Projectというサイトだ。日本人のサイトらしくファイル名が日本語で入っている。2016/12/30 日に登録となっているのでまだ1年未満だ。

にも関わらず膨大なリストを抱えているのは、誰かのサイトをそっくりそのまま譲り受けたかららしい。
デュカリオンというのはプロメテウスの息子だから、世のために「悪事」を引き継いだということなのか。ありがたい話だ。

再生リストにはクラシック曲が作曲家別に多数並んでいる。特徴的なのはかなり地味目の曲が拾われていること、古めの音源が多いこと、音質がブラッシュアップされていること、だ。特に最後のポイントはだいじで、かつての新潮文庫的な匂いがする。岩波でも角川でもなくてクリーム色の新潮ですよ。わかります?

これから少し潜り込んで、よさ気なものをピックアップします。
まずはモーツァルトで、196本のファイルが並ぶ。

出て来る順に紹介するとセルのクラ協。ついでカサドシュとセルのP協が21~27と続く。つぎがチッコリーニの初期ソナタで15番まで。V協はオークレールで揃える。これは泣ける。音質もみごとに磨きあげられている。

後期交響曲は誰で揃えるというわけではないが、イッセルシュテットのプラハ(59年)とジュピター(61年)は聞きものだ。Fl協はモイーズのSPだが、さすがに辛いところがある。ハスキルのP協20盤はご存知の名盤。音質は最高だ。カザルスがいくつかあるが好みの分かれるところ。

弦楽五重奏をバリリで揃えた。いまあえてという感もあるが、音は素晴らしい。フルベンがP協20の伴奏をしているが54年5月のものらしい。ひどいものだ。グリュミオーとコリン・デイビスのV協は定番。音質も素晴らしい。

ユーディナとペルルミュテールのピアノは趣味の世界。タックウェルのHr協はステレオというのが強みだが、私はブレインでよい。

25番以降の交響曲がワルターでまとめてアプロードされている。おなじみで、音質も良いのでCD持っていない人はダウンロードしておいたほうが良い。

以降は特記するものはないので端折らせてもらう。


朝日新聞11月19日付記事は、貴重な情報だが読み込みが必要だと思う。

要旨を紹介しておくと、

1.9月26日深夜 帝国ホテルで前原=小池の秘密会談が行われた。同席者は神津連合会長、ジャーナリストの上杉隆であった。

2.憲法改正と安保は小池の方針で合意する。

3.「三権の長」経験者を排除する。

出席者が4人であるとすれば、記事は小池氏のエージェントである上杉氏のリークによるものであろう。相当バイアスがかかっているので、どこまでが事実化を同定するのはむずかしいが

まず、経過のつきあわせから。

下記は2017年10月02日 に掲載したものである。

25日 「希望の党」の結党。小池知事がみずから代表に就任。

26日夜 前原・小池会談

27日午後 日テレ系が「合流」の報道を開始。

27日 連合の神津会長が記者会見。希望の党一本化を歓迎。

28日両院議員総会への常任幹事会の提案。

1.今回の総選挙における民進党の後任内定は取り消す。

2.民進党の立候補予定者は「希望の党」に公認を申請する。

3.民進党は「希望の党」を全力で支援する。

討論の中で、「合流ではない。それぞれの候補者に公認を与えるかどうかは、希望の党側が判断する」(NHK)ということで、合流ではなく解党が正しい。

28日の前原代表の記者会見。

 1.どうすれば小選挙区の一対一の構図に持ち込めるか。これが第一の選択肢だ。

 2.4党での協力ということも選択肢だが、政策理念、方向性で一致しない。

 3.解党ではなく、アウフヘーベンだ。

 質疑応答の中で、「私は民進党代表をやめるつもりはない。党籍を残したまま、『希望の党』の公認候補になることは法律上問題はない」と発言。

29日 小池が記者会見。リベラル派を「排除する」と明言する。枝野派30人強が対象とみられる。さらに維新と提携する大阪では候補を出さないとする。

30日 民進党の全国幹事会。地方組織や連合が「話が違う」と不満を爆発させる。北海道連は民進党公認の道を開くよう求めたが拒否される。

30日 希望の党若狭議員、50人以上の1次公認者を選定したと語る。多くが自派メンバーで、民進党現職とぶつかることになる。

30日 赤松広隆議員、「新しい政党も選択肢の一つ」と語る。

30日 連合の神津里季生会長が党本部で前原と会談。「排除はおかしい。要望が受け入れられなければ希望の党の候補に推薦は出さない」と語る。

9月30日 前原・小池会談。前原が希望者全員を受け入れるよう求めたが、小池氏は安全保障政策などの一致が必要だと譲らなかった。

10月1日朝 枝野と前原が電話会談。枝野は「あの時の話と違うではないか。自分は希望の党には行かない等の声も上がってきている」と追及。(時事ドットコム)

10月1日午前 枝野代行が記者会見。希望の党に合流しない民進党前衆院議員らを集めて、新党を結成する考えを明らかにする。新党を作るには国会議員5人以上が必要で、参院議員5人の賛同を狙う。

10月1日午後 民進党の玄葉選挙本部長代行と希望の党の若狭が候補者調整を行う。玄葉は100人の民進党出身者の公認を要請。

10月1日夕 枝野と前原が党本部で会談。希望の党の若狭勝前衆院議員と玄葉光一郎総合選対本部長代行も同席。枝野は希望の党に参加できるメンバーのリストを明示するよう要求。玄葉代行は「立候補予定者のうち60人ほどが公認を得られない」と説明。

10月1日 民進党北海道連、逢坂氏を含む道内候補全員について「希望」に公認を求めない方針を確認。

10月2日午前 枝野氏、連合本部で神津里季生会長と会談。「現状を説明し、私の考えている方向性を話した」と語る。公認漏れの救済を前面に振りかざすと、連合も断りにくいと見たのだろう。


26日の会談は秘密でもなんでもない。10月2日の時点でしっかり記録されている。神津会長が同席していたことも別に秘密ではなかったかもしれない。

合意内容もほぼ予想通りだが、2点ほどだいじなことがある。大量虐殺の話はなかったこと、誓約書の話はなかったことだ。

いずれも微妙なところだ。どちらかと言えば小池側に瑕疵があるようだが、「本当のことは言わなかったが、嘘はついていない」というレベルの話だ。

上杉氏の言葉を信じるとすれば、上杉氏の「排除対象は「三権の長」経験者」ということで合意した。少なくとも小池氏以外は合意したと信じた。もしこれに小池氏が異を唱えなかったとしたら、小池氏の誠意が疑われる。

しかし、そのような雰囲気にまでに詰まっていたのかどうかは分からない。小池氏は前日も「排除する」発言を行っているし、10月1日には誓約書を一斉配布している。

「だから小池氏は合意していなかった、合意したというのは民進側の勝手読みだった」と見るほうが自然なのかもしれない。


こうなると、だいぶ話は見えてくる。

小池氏は民進党との合併を迫られた。これは連合の背後にいる勢力を考えれば問答無用だ。

しかし小池氏には個人的な関係にとどまるにせよ、連合・経団連とはことなる独自の人脈やルートが有るはずだ。

「そうなんでも連合の言うことばかり聞いてもいられないよ」ということになれば、それだけのフリーハンドは与えられている。

そこで、ちょっとばかし突っ張ってみたら、あれよあれよという間に楼閣が崩れてしまった。

これで小池の側は説明できた。

では前原はどうして引き返さなかったのだろうか。結局、引き返せなかった、もう時間がなかったというのが真相であろう。インパールの牟田口司令官みたいなものだ。面の皮の厚さも似たようなものだ。


屠殺の責任者は連合の神津会長ではないか
1.小池氏に「罪」はない

そもそも小池百合子の側には民進党と合同しなければならない必然性はなかった。地盤とカネは魅力だが、負のイメージまで背負い込むことになる。

下記の記事があって、小池没落の瞬間を捉えた描写はそれなりに面白い。
2017.10.24 横田一

「排除」発言を引き出した記者が見た「小池百合子の400日」 なぜジャンヌ・ダルクは墜ちたのか 副題は

希望の星、改革の旗手が一転、リベラル派の「大量虐殺」に手を下す「詐欺師」に豹変した

とかなりどぎついものになっている。

以下が記事の要約

9月29日午後2時の都知事会見で横田さんはこのように質問した。(横田さんは小池氏の「天敵」とされるフリー記者)

前原代表が昨日、「希望の党に公認申請をすれば、排除されない」という説明をした。

一方で(小池)知事、(希望)代表は「安保、改憲を考慮して一致しない人は公認しない」と(報道機関に話している)。

(前原代表と)言っていることが違うと思うのですが、前原代表を騙したのでしょうか。それとも(それともリベラル派排除のために、前原氏と)共謀して、そういうことを言ったのでしょうか。

横田さんは質問の真意を明らかにするためにかなり()で発言を補足している。したがって質問の真意が小池さんに十分伝わったかどうかはいささか疑問がある。

このとき小池さんはいったん答えを保留し、しばらく時間が経ってから横田さんが再質問をしている。

まぁ相当どぎつい表現も使い、質問という形で意図的に挑発している、と取れないこともない。

前原代表が昨日(28日)「(希望の党に)公認申請をすれば、排除されない」と発言した。

そのことについて、小池知事・代表は、安保・改憲で一致する人のみを公認すると発言している。

前原代表を騙したのでしょうか。

それとも共謀して「リベラル派大量虐殺、公認拒否」(を企てた)のですか。

それに対する答えが、以下の通り。

前原代表がどういう発言をしたのか、承知をいたしていません。

『排除されない』ということはございませんで、排除いたします。取捨(選択)というか、絞らせていただきます。

(なぜなら次のように考えているからだ)

安全保障、そして憲法観といった根幹の部分で一致していることが政党としての、政党を構成する構成員としての必要最低限のことではないかと思っております。

この記者会見に同席した週刊朝日の小泉記者は、以下のごとく振り返っている。

油断から思わず出たホンネだったのか。結果的には〝笑いごと〟では済まない発言となったのである。…

メディア戦術に長けた勝負師が見せた、一瞬の油断だった。

たしかに希望の党をめちゃくちゃにしたのは、「排除します」と言い放った小池氏の責任だろうと思う。

それはそれでいい。むしろありがたい話だと思う。
2.前原氏を動かしたものの責任は問われなくても良いのか

しかしこの一言が民進党を崩壊に追い込んだのではない。時間経過を見れば、武装解除して白旗を掲げて屠殺されたのは、民進党上官の責任だ。

9月27日、希望の党の結党を宣言した小池氏は、BSフジの番組に出演した。そこで質問に答えて次のように語っている。

民進党からの合流希望者については、自動的に受け入れることはない。一人一人、こちらが仲間として戦えるかということで決めます。

そして判断材料として、憲法改正と安全保障政策を挙げ「本当にリアルな対応ができる安保政策を共有したい」と語っているのである。

つまり、小池氏の側は最初から「排除する」といっているのであり、何らぶれていないのである。

なのに、翌日になって前原氏は議員を集め白紙委任を取り付けているのである。

前原氏は「小池氏はそうは言っているが、最後は全員受け入れの方向で動く」という強い感触を持ったから動いたに違いない。

その感触をどこから得たか、神津会長以外に考えられない。小沢一郎氏ではないかという噂もあるが、ありえない。今や彼にそれほどの力はない。

では神津会長はその感触をどこから得たか。それは経団連に違いないとは思うが、それらしい徴候はまったく示されていない。
3.小池氏の真意は「排除する」ことにあったわけではない

小池氏の発言は決して軽はずみなものではなかった。むしろ、ひょっとすると、舞台効果も狙って小池氏が仕組んだ可能性も否定できない。それはそれで一つの話だ。

彼女はその後に民進党議員一人ひとりに誓約書への署名を突きつけた。公にはならなくても、むしろそちらのほうがはるかに重大な内容をふくんでいる。それは「政策協定書」という名の踏み絵であった。

主な内容は以下のとおりだ。

1、希望の党の綱領を支持し、「寛容な改革保守政党」を目指すこと。

2、現下の厳しい国際情勢に鑑み、現行の安全保障法制については、憲法にのっとり適切に運用する。

その上で不断の見直しを行い、現実的な安全保障政策を支持する。

3、憲法改正を支持し、憲法改正論議を幅広く進めること。

4、選挙協力の協定を交わしている政党への批判は一切行わない(最終段階で付加)

一言で言えば、民進党の国会議員であればとうてい飲めない中身だ。
ジャーナリストの田中稔さんはこう語っている。

国会前で市民と共に戦争法反対を訴えた多くの民進党の前議員がこの踏み絵を踏み、サインをしたという裏切りを絶対に許せない。

まさに議員たちは神(民主主義への信仰)を裏切り、国民を裏切り、自分を裏切ったのである。

4.まだ死んでいない神津会長
毎日新聞にこんな記事が載った。

連合の神津里季生会長は5日、東京都内で開いた中央委員会で、立憲民主、希望、民進、自由、社民の野党5党の国会議員が参加して政策を議論する「連合フォーラム」を来年早々にも設立する意向を表明した。2019年の参院選や統一地方選をにらんで野党連携を促す狙いがある。

とにかくこの男、民進党をバラバラにし国会議員を虐殺に追い込んだのに、そのことにまったく責任を感じていないのである。本来なら「東京裁判」で絞首刑のはずだが、このヌケヌケぶり尋常ではない。

今後もまた、「旧民進三派」を中心にさまざまな形で「野党再編」の動きが出てくると思う。そのときにそれらをどう捉え、どう対応すべきだろうか。

そのことを考えると、この「大惨事」がいかに仕掛けられ、いかに失敗したかを明らかにするのはメディアにとって大きな責任となるのではないだろうか。


赤旗でイブラヒム・アブ・スラヤ氏の葬儀を伝えている。短いがかなり中身の濃い記事(カイロ駐在の小玉記者発)なので、そのままコピーして転載する。
スラヤ記事
この事件については、インターネットでも多くの記事と写真が掲載されている。
下の写真は赤旗記事のおそらく元写真であろうと思う。
ibraheem-abu-thuraya
緊迫した様子が伝わってくる。
次の写真は、残酷ではあるが、スラヤ氏の思いを考えると掲載すべきかと考えた。
RIP-Ibrahim-Abu-Thuraya2
「主な扇動者を選んで発砲」したことが適切だったかどうか、よく考えてほしいと思う。

The Israeli Military First Took His Legs, Then His Life

Ibrahim Abu Thuraya: Disabled Palestinian activist shot dead by Israeli ...


Ibrahim Abu Thuraya: A symbol of Gaza's resilience

要旨
根本的なミスは…「安倍一強体制」に対する有権者の批判が…「一強体制」そのものに向けられているという認識に欠け…ていたことである。
「友達優遇」や「忖度」を小池代表は「しがらみ」と称して批判を加えたが、それらは「一強体制」の結果として生み出され…たにすぎない。
「安倍一強体制」から「小池一強体制」に「一強」の主役を変えるかのような訴えは…有権者は望んでいない。
「小池一強体制」が、「安倍一強体制」よりも強い印象を与え、「一強体制」に疑問を感じている有権者…に敬遠された。

いっぽうで「小池劇場」は、具体的には次の2つの貢献をもたらした。
1つは、「保守」「リベラル」の分類を明確にしたことである。
2つ目は、バッジを付け続けるために自分を売る可能性がある議員の仕分けをしてくれたことである。

この2点目は辛辣この上なく、これだけでこのレポートに二重丸をつけたいくらいだ。
1点目は、保守二党論の可能性へと話が進むが、これについては不同意である。保守の側にそれほどの余裕はない。
また保守とリベラルという区分けも賛成できない。リベラル保守というスペクトラムも存在しうると思う。うまい言い方が見当たらないが、きつい言葉になるが、「反近代」ないし「反動」と言うべきであろう。

「私の選ぶ今年の十大ニュース」と言いつつそれは一番最後。まず世間の選んだ十大ニュースから紹介する。

what's @DIME

1000人が選んだ「2017年の重大ニュース」ランキング(2017.12.12)

【1】スポーツ編ランキング

2位 横綱・日馬富士が弟子力士に暴行 傷害容疑で捜査(40.3%)

5位 プロ野球 大谷翔平が日本ラスト登板、来年からメジャーへ(22.6%)

7位 プロ野球ドラフト会議 清宮幸太郎内野手との交渉権を日本ハムが獲得(21.7%)

【2】芸能編ランキング

3位 元SMAP 香取、草なぎ、稲垣がジャニーズ退社(47.8%)

4位 松居一代と船越英一郎の泥沼離婚騒動(31.0%)

【3】政治編ランキング

1位 豊田真由子議員による騒動。「このハゲーーーー!!!」(64.4%)

2位 北朝鮮が弾道ミサイル発射、日本上空を通過、Jアラート発令(44.8%)

3位 森友学園、加計学園問題(44.4%)

7位 第48回衆院選、自民党が圧勝(22.5%)

8位 小池都知事が「都民ファーストの会」代表に就任(20.2%)

【4】海外編ランキング

1位 トランプ大統領就任(67.5%)

2位 金正男氏殺害事件(64.9%)

5位 ラスベガスで史上最悪規模の銃乱射事件、死傷者500人以上(31.0%)

6位 朴前大統領を逮捕(24.7%)

9位 カタルーニャ独立騒動(9.8%)

10位 トランプ大統領がメキシコ国境への壁建造の大統領令(8.8%)

【5】明るいニュース編ランキング

1位 将棋 藤井4段が29連勝、最多連勝記録を30年ぶりに更新(56.1%)

5位 「インスタ映え」が流行(19.3%)

【6】悲しいニュース編ランキング

1位 フリーアナウンサー 小林麻央さん 死去(55.3%)

2位 座間市9人バラバラ遺体事件で、白石容疑者逮捕(46.8%)

5位 横綱・日馬富士が弟子力士に暴行 傷害容疑で捜査(24.4%)

7位 九州北部豪雨(23.2%)

【7】怒りのニュース編ランキング

1位 座間市9人バラバラ遺体事件で、白石容疑者逮捕(51.1%)

5位 森友学園、加計学園問題(29.5%)

10位 神戸製鋼でデータ偽装(17.6%)
全部書くと大変なことになるので、私でも知ってそうなニュースだけ選んだ。全文はwhat's @DIMEへ

Yomiuri Online

こちらは読売新聞の「読者が選ぶ10大ニュース」投票のための資料情報なので使いやすい。しかし記事の選択にはいかにも読売新聞的なバイアスがかかっている。(もちろん前川さんのマの字も触れていない)

国内編

【1月】

韓国・釜山の日本総領事館前に慰安婦を象徴する少女像が設置る。政府は長嶺安政・駐韓大使と森本康敬・釜山日本総領事を一時帰国させた。

【2月】

安倍首相は10日、トランプ米大統領とワシントンで初の首脳会談を行った。沖縄県の尖閣諸島が日米安全保障条約5条の適用対象であることなどを共同声明に明記し、同盟強化の方針を確認した。

東芝、連結決算が4999億円の赤字になったと発表。8月に17年3月期の連結決算を公表し、最終赤字が9656億円に達したことが分かった。

【4月】

名護市辺野古沿岸部で埋め立て区域を囲む護岸の建設に着手した。県は7月、移設工事の差し止めを求め、国を相手取って提訴した。

宅配便最大手のヤマト運輸、個人向け宅配便の基本運賃を荷物一つあたり140~180円(税抜き)値上げすると発表。

【5月】

安倍首相、読売新聞紙上のインタビューで、自民党総裁として憲法改正を実現し、2020年の施行を目指す方針を表明した。

【6月】

テロ等準備罪創設を柱とした改正組織犯罪処罰法が15日、参院本会議で可決、成立した。

安倍内閣の支持率が前月比12ポイント減の49%に急落した。学校法人「森友学園」や「加計かけ学園」を巡る問題が響いた。

【7月】

東京都議選、「都民ファーストの会」が55議席を獲得し、都議会第1党となった。自民党は過去最低の23議席となり、歴史的惨敗を喫した。

稲田朋美防衛相、南スーダンPKOに派遣された陸上自衛隊部隊の日報を巡る問題の監督責任を取り、辞任した。

森友学園前理事長と妻を逮捕。補助金詐取容疑

【9月】

日産で無資格社員が検査。その後、スバル、神戸製鋼所、三菱マテリアルの子会社、東レの子会社で検査データの改ざんも次々と明らかになった。

【10月】

原子力規制委員会、柏崎原子力発電所6、7号機が新規制基準に適合していると判断し、事実上の合格証となる「審査書案」を了承した。

衆院選が22日投開票され、自民党が圧勝した。自民、公明の与党では計313議席となり、憲法改正の国会発議に必要な3分の2以上の議席を維持した。解散直前、小池百合子・東京都知事が希望の党を結成し、民進党は希望への合流を決定。小池氏が「排除」しようとした民進党内のリベラル系を中心に立憲民主党が結成され、民進党は分裂した。衆院選で立憲民主が野党第1党となり、小池氏は11月に希望の党代表を辞任した。

神奈川・座間のアパートで切断9遺体

【11月】

トランプ米大統領が初めて来日した。トランプ氏は安倍首相との会談で、北朝鮮への圧力を最大限まで高めることで一致。対日貿易赤字の是正に強い意欲を示した。

内閣府が9月の景気動向指数を発表。2012年12月に始まった景気の拡大期間が58か月になる。これは戦後2番目の「いざなぎ景気」(1965年11月~70年7月)の57か月を抜くもの。

みずほフィナンシャルグループ、26年度末までに従業員数を約1万9000人減らすなどの構造改革案を発表した。三菱東京UFJ銀行や三井住友FGも業務量を減らす方針。



国際編

【1月】

ドナルド・トランプ氏が第45代米大統領に就任した。環太平洋経済連携協定(TPP)からの離脱、イスラム圏7か国からの入国制限の大統領令に署名。2月にフリン大統領補佐官が辞任するなど政権幹部の辞任も相次いた。

ニューヨーク株式市場でダウ平均株価(30種)の終値が、史上初めて2万ドルを突破した。

【2月】

北朝鮮の金正恩委員長の異母兄、キムジョンナム氏がクアラルンプール国際空港で、神経剤VXで殺害された。

【3月】

韓国憲法裁判所、朴槿恵大統領の罷免を決定。韓国検察は31日、朴容疑者を収賄などの容疑で逮捕した。朴容疑者側への贈賄容疑などでサムスン電子のイジェヨン副会長が逮捕された。

英政府は欧州連合(EU)離脱を正式通知した。離脱日時は「2019年3月29日午後11時」と発表した。

【5月】

仏大統領選で、中道のエマニュエル・マクロン前経済相が、極右・国民戦線のマリーヌ・ルペン氏を破り当選。6月の国民議会(下院)選もマクロン新党が圧勝した。

韓国大統領選で左派の最大野党「共に民主党」のムンジェインが勝利した。9年ぶりに保守から左派に政権交代した。

トランプがFBIのコミー長官を解任。コミー氏はトランプからロシア疑惑の捜査中止を指示されたと述べる。米司法省はモラー元連邦捜査局(FBI)長官を特別検察官に任命した。

英中部マンチェスターのコンサート会場で「イスラム国」による自爆テロ。ロンドン中心部では車が歩行者に突っ込むテロが相次ぎ、3月には英議会議事堂付近で5人が死亡、6月にはロンドン橋で8人が犠牲となった。

【6月】

トランプ米大統領は1日、中国などに有利な内容で「不公平」だとして、地球温暖化対策の国際的枠組み「パリ協定」から離脱すると表明した。

英国の下院選が8日、投開票され、メイ首相率いる与党・保守党が過半数割れし、事実上の敗北となった。

ロンドン西部の24階建て高層公営住宅で火災が発生し、死者は71人に達した。

【7月】

核兵器の使用や開発などを初めて法的に禁じた「核兵器禁止条約」が採択された。122か国が賛成、米英仏中露の核保有国や日本などは採決に不参加。採択に貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」は10月、ノーベル平和賞の受賞が決まった。

【8月】

ベネズエラでマドゥロ政権が新憲法制定に向けて立法機関の制憲議会を発足させた。7月末の制憲議会選は野党勢力が棄権し、マドゥロ氏派が全議席を独占。国会から立法権を奪った

ミャンマー西部ラカイン州で、バングラから流入したロヒンギャ人問題、難民60万人超に達する。ロヒンギャの過激派集団が警察拠点を襲撃したことが発端となる。

【9月】

北朝鮮が6回目の核実験。弾道ミサイル発射も相次ぎ強行

【10月】

米ラスベガスで銃乱射、58人死亡

米がユネスコ脱退方針通知。ユネスコの「反イスラエル的な姿勢」などを理由とする。

米軍が支援するシリアの民兵組織「シリア民主軍」が、「イスラム国」が「首都」とするラッカを完全制圧した。7月10日にはイラク政府軍がモスルの奪還を宣言した。

【11月】

ジンバブエで事実上のクーデター。37年「独裁」を続けたムガペ大統領が辞任
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それで私の選ぶ十大ニュース(というよりトレンド)は

1.トランプの大統領就任 イギリスのEU離脱などポピュリズムの伸長

2.サンダース・コービン・メランション現象

3.耐え抜いた野党共闘路線 連合の策動の失敗

4.東京都議選での怒り 政治劣化の進行 

5.「好景気」の下、相対的貧困化と絶対的貧困化の同時進行

6.神戸製鋼などものづくり産業のモラル低下

7.内部留保の際限のない積み上げと租税回避への怒り

8.資源価格の低下と途上国の苦境

9.原子力規制委員会の堕落

10.核兵器禁止条約の採択






1.1年間の政局
今年の政局は、結局「値戻し」に終わった。
6月から片やモリカケ、片や築地で政局は大いに揺れた。都議会選挙で針は大きくリベラルに動いた。
直後の仙台市長選はその象徴で、「野党は共闘」が前面に飛び出した。
野党共闘の一番の弱点は民進党にあり、これをどうするかが政局の焦点になった。共産党との切り離しを狙う連合は、希望への吸収合併という奇策に打って出た。これが成功したかに見えたその瞬間、「排除はします」発言が飛び出した。
この突然の発言に連合はうろたえた。自民党は喜んだ。
しかし一番の受益者は「市民連合」だった。市民連合は息を吹き返し強烈な逆ねじを食らわせた。
「野党は連合」がふたたび息を吹き返した。「希望」は月足らずのままで死んでしまった。
肝心なことは、「野党は共闘」というときの「野党」の中身が問われ、「中身がなければ野党じゃない」というのが国民の共通認識になったことだ。
残念だったのは「野党は共闘」のあとに続くはずだった「比例は共産」までは風が届かなかったことだが、これは次の楽しみにしよう。
もう一つ、これまでずっと語られずに来てしまっているのだが、「労働戦線の統一」がそろそろ正面から取り上げられなければならないのではないか。とにかく労働センターの共闘が、課題別、地域別、産業別に語られ、積み上げられるべきであろう。

2.「排除する」発言がいかにだいじか
「排除する」発言の重要性は、さまざまなスペクトラムを持つ政治諸潮流をどこで裁断すべきかを鮮やかに示したところにある。
それは戦後政治の流れの中でもっとも右側に引かれた境界線であった。
それは今後の政治の基本線を反リベラリズム、反立憲主義に置くという宣言であった。
ここで、リベラリズム、立憲主義という政治的ポジションがいかなるものであるのかが真剣に問われることになった。
これまで「野党は共闘」をスローガンに掲げてきた市民連合や無党派の活動家にとって、そのスローガンの意味が真剣に問われることになった。
果たして「野党は共闘」の先に「希望の党」はあるのか。その際にリベラリズム、立憲主義の旗は捨ててもよいのか。
そういう議論が不意打ち的に投げかけられたし、その答えは寸時の暇もなくもとめられた。
今回の政党再編劇の仕掛け人は言うまでもなく「連合」であった。
だから「排除します」発言から「どうぞ」という決意に移行するまでの議論は、各地での連合幹部と市民活動家の議論の結果であった。
その結果は両者の力関係によって決まった。しかし連合そのものも、「リベラリズムを捨てよ」という上級からの指示には抵抗を感じたに違いない。
その辺のせめぎあいが、投票行動となって現れているのだろうと思う。

たぶん、選挙結果は日本における戦後70年、リベラリズムの定着度が表現されていると思う。
政治学者を名乗る人であれば、ぜひそういう観点から今回の総選挙を分析してほしい。

すみません。このところあまり勉強していないものだから。認知症の新しい治療が出てきたなんてことは知らなかった。

それで、新しい治療というのが抗血小板薬とインスリンのスプレー。

抗血小板薬は、実際にはかなりの人が併用しているので、ある意味では統計処理の問題。

脳動脈硬化と脳虚血の進展は予防できるので、一般には認知症の進行予防には有効であると思われる。また認知症の患者には多くの脳血管性痴呆のケースが混入しており、そういうひとには効くと思われる。

これだけでも十分に有効なのだから、それにどの程度上乗せできるかという推計だから、えらくむずかしい判断だ。

現に私も、結果的に多くの認知症患者にアスピリン、パナルジン、プレタールを使ってきたが効いたという手応えはほとんどない。

もう一つはもし効くとして、それは抗血小板(抗プロスタグランジン)作用のためなのか、もともとの売り文句であるサイクリックAMP絡みか、シロスタゾールにほかに未知の作用があるのかということになる。

多分ないだろうと思うが…。ただ抗血小板薬に、アミロイド蓄積を妨げる働きがあるとされており、その抗アミロイド効果が抗血小板薬の種類によって強弱はあるかもしれない。

もう一つのインスリン噴霧の方はかなり怪しい話だ。大体、糖尿病やインシュリン感受性の低下が認知症に悪さをするというはっきりしたエビデンスがない。
インシュリンがニオイとして認識される?

むしろ面白いのは噴霧によって、神経線維を通して脳内に化学物質を送り込んでやるという発想である。インスリンは脈管を一切介さずに、ニオイ物質として認知され、その情報が神経線維を介して送られ、何らかの情報転換を介して生理活性を発揮することになる。


嗅覚の先にあるのは嗅脳であり、ここはほぼ海馬と同じ場所と考えられる。したがって海馬を標的として短期記憶の刺激を与えようとするときかなり有効なルートとなるかもしれない。

ということで、まず少し論文を読んでから考えることにしたい、

宮沢りえの『湯を沸かすほどの熱い愛』がテレビで放映されるようです。 20日水曜日の昼にテレビ東京系でやるそうですから、ぜひ録画をしてはいかがでしょうか。大してたくさん見ているわけじゃありませんが、ワタシ的には今年最高の映画です。 注意! 一人で見ること、首にタオルを巻いておくとよい。 宮沢りえというのは本当に映画俳優ですね。普通の人ではないんです。原節子みたいですね。 多分テレビで見てもそれほど感激しないと思います。暗闇の中で銀幕に浮かび上がると最高のキャパを発揮する人です。 「必見」と言いながら変な話になってしまいましたが、映画というのは「盗み撮り防止」の動画とセットで見るものだということです。

毎年末にNHK教育テレビで「クラシック音楽今年の回顧」みたいな番組をやっていて、毎年それを見るのが楽しみだった。
何か8ミリ映画にとった映像を流すみたいで、絵柄も音質も「良くもこんな絵を流すな」と感動するほどのものだった。
今でも覚えているのがヴィンシャーマンとバッハ・ゾリステンのリサイタルでバイオリンとオーボエの協奏曲の第3楽章を流した場面だった。多分大阪万博ころだったと思うが、まさに鳥肌モノだった。
それからだいぶ経っていたと思うが、クリーブランドがマゼールと一緒にやってきたときの演奏会の触りをやっていた。何かロシアの管弦楽曲ではなかったかと思うが、文字通り光彩陸離たるもので、クリーブランドからこんな音が出るんだ、と感心した覚えがある。
しかしどうもこの組み合わせは長続きしなかったようで、その後いろんな人が指揮者になって、そのたびにどんどんクリーブランドの音も落ちていった。だいたい街そのものが落ち目なのだからしょうがない。ということで、音的にはマゼールの時代がクリーブランドのピークだったのではないかと思う。
そんなことがあったことも忘れていたが、本日たまたまYou Tubeでこの組み合わせのベートーベンの第1交響曲を聞いて、あまりの腕前に腰を抜かしてしまった。
もともとマゼールはこの世代でピカイチの指揮者だと思っていたが、このオケからこれだけの音を引き出すのはやはりこの人しかいなかったのではないか。ただしもう少し禁欲的でも良かったか、という気もする。極彩色だが薄っぺらい。
すこしこの組み合わせの音源を探してみて、また報告する。

1.名誉革命とロック

ロックは17世紀のイギリス思想を集大成しただけではなく、それに自然法と社会契約という骨組みを与えた。

一言で言えば、人間には資産(Property)がある。資産を持つのは自然に与えられた権利である。これを社会の中で守るためには相互の契約が必要である。この契約を安定したものとするためには社会による保全が必要であり、このために国家(という社会形態)が設立されている。

これは国家形成の歴史から見れば、ほとんど空論であるが、出来上がった国家を主体的かつ合理的に運営するためには有効な議論である。

ただこれだけであったら、「そういうふうにも言えるね」程度の話であるが、こういう「契約社会国家」を壊すことは、契約で成り立つ社会そのものを壊すことになるのだから許せない、というところに話を持っていくのだから、俄然説得力を帯びてくるのである。

いずれにせよ、これは富裕層の論理であり、契約を旨とするリバタニアン・ビジネスマンの論理である。「必要なときはこちらから頼むから、お願いだから放っといてくれ。あまり目障りなら潰しちゃうよ」という上から目線の話だ。
2.ルソーによるロックの改作と「一般意思」

このままでは貧民が権利を要求する際の論理建てとしては使えない。そこでルソーが頭をひねった。

ルソーも人間は自然権を持つとし、それを守るために社会契約を結んだとする。ただ自然権というのは資産ではなく、「自由と平等」という抽象である。ここにはすり替えがある。

次に社会契約を結ぶのは人間同士ではなく、人間と社会とされる。社会というのは「全人民の団体たる国家」である。その社会には「一般意思」が形成され法律として体系化される。これが自然法であり、人はこの自然法に従わなくてはならない。つまり、政府・国家は一般意志に従わなくてはならないということだ。

ということで、ロックの自然法思想は換骨奪胎され、詭弁もどきの論理展開により、ほとんどその反対物に転化する。

そこには「一般意思」に名を借りた政府乗っ取りの狙いをはらんでおり、ロックの用心棒国家的思想とは様相を異にする「危険な思想」と化している。

本日は外で飲んで帰ってきて、テレビを見ながらそろそろ寝ようかと思っていたところだった。
とつぜんNHKニュースでとんでもないことを喋り始めた。
ネパールで選挙が行われ、いづれも中国派であるネパール共産党統一派と、ネパール共産党の毛沢東派が連合して政権を担当することになった。
正義の代表である国民会議派は過半数を取れずに政権から離れることになった。

ちょっと待てよ、どこからの情報なんだ。NHKにはカトマンズにもカルカッタにも特派員はいないのか、2000年からの20年間NHKはネパールをフォローしていなかったのか。
とにかくあまりにもひどい報道に唖然とし、ついで憤然とし、受信料支払い義務を認めた昨日の最高裁大法廷の判決は何だったのかと叫んでしまった。
私は、苦汁を飲みこむ気分で最高裁判決を支持する。崩れかけたNHKに対する呼びかけとして、叱咤として、それを支持する。
記者さんよ! とにかくあなたはそういう“受信料”で飯を食っているはずだ。そのためにインドまで派遣されているはずだ。
だから、この私でさえ唖然とするようなおとぎ話は流さないでほしい。人間(知識人)として情けないではないか。
社会としては通用するかもしれないが、こんなニュースを配信したあなたを、私は許せない。

ワイマール共和国の成立史を勉強するうち、もう一つの政治カテゴリーに気づきました。

それが「議会主義」です。

実はこれが議論の焦点ではないかと考えるようになりました。

1.議会主義という言葉を覚悟して使おう

この議会主義は民主主義の意味にもなるし、寡占主義の意味にもなります。そして左翼、とくに戦闘的左翼のあいだでは議会主義の評価が、いまだふらつきがあるように思えるのです。

これまでの勉強でわかったのは、さまざまなイデオロギーが実体的な土台を政治・法律の中においていることです。

言ってしまうと当たり前みたいな話で、「だからイデオロギーなんだよ」といわれてそれでおしまいみたいな話ですが、意外と奥深いのです。

2.リベラリズムと立憲主義の同義性

真っ先にこの事に気づいたのは、リベラリズムと立憲主義の同義性でした。ものの本には「リベラリズムの法的表現が立憲主義である」と書いてあるんですね。

「リベラリズム」というのは自由主義であり、自由を何よりも重要な価値観とする考えです。それは「自由とは何か」という考えを根底に含みますから、まず何よりも倫理学であり実践哲学です。

ただそれはきわめて根底的な問いであり、なかなかはっきりした答えが出せるものではありません。ところが政治・法律の観点から見るとそれはきわめてスッキリしているんですね。

それは人間が社会の中で暮らすしか無いのだから、社会はできるだけ個人の自由を尊重しなければならないというのが原点で、これが「社会は…すべからず」という規範集となって集大成されている。これが法律であり、憲法であり、その具体的適用としての各種施策なんですね。

というより「そうあるべきだ」というのが自由主義の主張であり、それは法律的には「立憲主義」ということになるのです。

以上より、こう言えます。

自由主義・リベラリズムというのは色々な考え方ができるけれど、その中核・実質となるのは立憲主義だということです。

3.デモクラシーと「議会主義」の同義性

同じような論立てで言うと

民主主義・デモクラシーというのは、その中核は「議会主義」なのかもしれない、ということになります。

ということは議会制民主主義、人民的議会主義などという言葉がそもそも変なので、非議会制民主主義というのはありえないのではないでしょうか。

民主主義の反対は寡占政治です。貴族政治とも言いますが、別に貴族でなくとも良いわけで、国民の代表ではないのです。

寡占政治には幅があって究極の寡占は独裁制とか王政ということになります。議員の数があ多くても、被選挙権にいろいろ条件がついて、エリートでなければ議員になれない場合は、厳密な意味で国民を代表していないので、寡占制ということになります。

だから議会主義は代議制であるために一見寡占制にも見えますが、本質的には寡占制の対立物なのです。

こう見てくると、民主主義の根本精神は「法のもとでの平等」主義にあるということがわかります。平ったく言えば「一票民主主義」なのです。

3.政治的平等の持つ意味

そう言ってしまえば身もふたもないようですが、実はこれが妖刀村正的な効果を持っているのです。なぜなら抑圧者、搾取者、収奪者、支配者はつねに国民の少数だからです。

民主主義は大多数の国民が、いざという時には国の主人公となる「可能性」を意味します。その可能性を追求するのが「民主運動」ということになるのでしょう。

話を戻しますが、民主主義というのは巨大な可能性を秘めてはいますが、さしあたっては議会主義だと思います。

大変革期に議会主義が果たして有効な変革手段になるか、それは課題の緊急性にもよると思います。ただ議会主義を放棄すればそれは民主主義という統治手段を一時的にせよ放棄することになります。そういう覚悟を保つ必要があります。

直接民主主義という、条件的にしか存在しない合意形態を持ち出すのは詭弁です。ソヴェートとかレーテとかは主体の“あり方”でしかなく、議会に代わるものとして提示するのはすり替えです。

4.「思想の自由」は民主主義の課題ではない

いずれにしても民主主義は議会主義を中核とするものであり、立憲主義と直接の規定関係はありません。我々がこれまで民主主義と言ってきたものの中には、かなり「リベラリズム」の範疇で捉えなければならないものがありそうです。

例えば「思想の自由」をめぐる問題は、まさに自由の問題であり、民主主義一般よりはるかに根底的な問題として捉え返されなければなりません。


以前あげていた年表からワイマール共和国成立史年表を外した残り部分です。
多分、同じ理屈で後半部分がヒトラー政権成立史として分離していくことになるでしょう。
とりあえず、それまでのつなぎとして…

1919年


19年2月

3.02 モスクワで第3インター(コミンテルン)創立大会が開かれる。

4.07 ミュンヘンでバイエルン州政府が倒され、スパルタクス団によるバイエルン・レーテ共和国が成立した。

5.01 ノスケ国防相がミュンヘンにフライコールを派遣し弾圧。レーテ共和国は崩壊する。このあとバイエルンは右翼の拠点となっていく。

6.20 ヴェルサイユ条約受諾をめぐり、民主党が連立を離脱。シャイデマン内閣は崩壊しバウアー内閣が発足。

6.28 ヴェルサイユ条約調印。その後多額の賠償金がドイツを苦しめる。

7.31 ヴァイマル憲法可決:賛成262票、反対75票、棄権1票

8.11 ヴァイマル憲法が公布される。大統領の権限の強い共和制、州(ラント)による連邦制、基本的人権の尊重が定められた。

11月 ヒンデンブルク前参謀総長が国民議会で証言。「敗戦は背後からの匕首のせい」と述べ、軍は敗北していなかったと主張。

 

1920年

20年3月

3月13日午前 カップ一揆が発生。ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始する。

3月13日午前 エーベルト大統領は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍統帥部長官ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」として出動命令を拒否した。

3月13日午後 カップは新政府樹立を宣言した。エーベルトはシュトゥットガルトに避難。ゼネストを呼びかける。

3月17日午前 カップが亡命して一揆は終結した。ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰等を求め、ゼネストを続行。

3月17日午後 バウアー首相が退陣。ノスケも国防相を解任された。総司令官に就任したゼークトが軍の全権を掌握。

3月 ルール地方で暴動が発生。

6.06 最初の国会選挙。ヴァイマル連合勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が議席を伸ばす。

6月 社会民主党が政権を離脱。中央党と民主党と人民党の3党による中道右派連立内閣が成立。

10月 独立社会民主党、コミンテルンへの参加をめぐって分裂。左派は共産党に合流、右派は翌年社会民主党に復帰。

12月4日 ドイツ共産党がコミンテルンに加盟。コミンテルンは絶対服従を要求。指導者パウル・レヴィは更迭され、ハインリヒ・ブランドラーが書記長に就任。

 

1921年

3.08 連合国軍がデュイスブルク、ルールオルト、デュッセルドルフを占領。

3.20 ポーランドとの係争地帯であるオーバーシュレジエン地方の帰属をめぐる住民投票が行われる。ドイツ帰属派が多数を占めたが、ポーランド帰属派の「蜂起」を受けた国際調停により、ドイツ側に不利な分割が行われる。

3.23 ドイツ共産党、ザクセンやハンブルクで「中部ドイツ3月蜂起行動」を展開。コミンテルンのクン・ベーラ(ラーコシ・マチャーシュ)が指導し、中部ドイツのマンスフェルトを占領。軍によって数日後に鎮圧される。

3月 連合国によるロンドン会議。賠償額を1320億金マルクとするロンドン最後通牒を発する。支払い方式は、30年間にわたり年間20億マルクを払い、さらに輸出額の26%を天引きするという過酷なもの。

4.16 独ソ会談で、ソビエト政権の承認、独ソ双方の賠償・債務の放棄を定める。また軍同士による秘密協定も結ばれる。国内右派は一斉に反発。

5.10 ドイツ政府、ロンドン最後通牒を受諾。

6.24 独ソ協定に努力したラテナウ外相がコンスルによって暗殺される。政府は「敵は右側にいる」とし反政府活動への対処を始めた。

7.21 「共和国保護法」が成立。左右の過激派活動への取締りは強化され治安が回復。

7.29 ヒトラー、DNDAP党首となる。

8.29 バイエルンと政府との紛争。非常事態の布告。

10月 社会民主党に独立社会民主党の右派が合流した。

 

1922年

8月 インフレーション加速。

9月 ムソリーニのローマ進軍。

1923年

1.11 フランス・ベルギー連合軍、ドイツの賠償不履行を理由にルール地方に進軍。石炭やコークス・木材等の物資を接収して賠償にあてる。

1.11 ドイツ政府はフランスへの協力を禁止し、ストライキやサボタージュなどによる「消極的抵抗」を呼びかける。

8.12 「消極的抵抗」が、多大な犠牲を生む中で中止に追い込まれる。インフレは天文学的な規模になり、28%が完全失業者となり、42%が不完全就労状態となる。

8.13 シュトレーゼマンを首班とする大連合内閣が発足。「消極的抵抗」の打切りを宣言。全国に非常事態宣言。

10.10 ザクセンとチューリンゲンで社会主義政権樹立。ザクセンの社会民主党・共産党政府に対する中央政府の武力介入。バイエルンでも中央政府との紛争。

11.03 社会民主党、ザクセン、バイエルンでの中央政府の対応を不満とし、政府から離脱。

11.8 ヒトラーと国家社会主義ドイツ労働者党など極右派がドイツ闘争連盟を結成。ミュンヘン一揆を起こした。エーベルトは全執行権力をゼークト将軍に委任。

11.15 国有地を担保としたレンテンマルクへの通貨切り替え(デノミネーション)を行う。1兆紙幣マルクが1レンテンマルクとなる。これによりインフレの沈静化に成功した。

12月 イギリスとアメリカが賠償問題の解決に乗り出す。ドーズ委員会が設置された。

1924年

2.13 非常事態終結を宣言。

4.09 ドーズ委員会、連合国賠償委員会にドーズ案を提出。ドイツに8億マルクの借款を与え、一年あたりの支払い金額も緩和するもの。ドイツはこれを受諾。

5.04 第2回帝国議会選挙。社会民主党が敗北し、ドーズ案を「第二のヴェルサイユ条約」と批判する国家人民党と共産党が躍進。

12.07 第3回帝国議会選挙。ドーズ案の受け入れ後に景気は好転し、失業者もほとんど消滅したことから、ナチ、共産党ともに後退。

1925年

2月28日 エーベルトが死去、大統領選挙が行われる。右派の推すヒンデンブルク元参謀総長が160万票差で当選

7.14 フランス軍、ルール地区から撤退開始。連合国軍、デュッセルドルフ、デュイスブルク、ルールオルトからの撤兵。

10.5 ロカルノ会議が始まる。ヨーロッパにおける安全保障体制の構築を目指すもの。

 

1926年

4.24 独ソ両国の不可侵と局外中立を定めたベルリン条約が締結される。

9.08 国際連盟への加盟が満場一致で承認され、常任理事国となる。

12.10 シュトレーゼマン、ノーベル平和賞を受賞。

 

1927年

1.31 連合国軍事委員会、ドイツから撤収。

1928年

5.20 第4回帝国議会選挙:SPD、KPDの躍進。DNVPの議席大幅減少。

6.20 ミュラーを首班とする大連合内閣が発足。

8.27 不戦条約(ケロッグ-ブリアン条約)、15カ国がパリに集まり署名。

1929年

6.23 NSDAPがコーブルク市の政権を獲得。

6月 オーウェン・D・ヤングを委員長とする賠償金委員会、実質的な賠償金額の削減となるヤング案を提示する。

7.09 フーゲンベルクの指導下に「ドイツ国民請願全国委員会」(DNVP、鉄兜団、ナチ党の連合)が設立される。

11.25 ウォール街で株価大暴落。アメリカ資本の一斉引き揚げが始まる。

 

1930年

6.30 フランス・ベルギー連合軍、ラインラントから期限前に撤兵完了。

7.16 経済財政緊急令公布。帝国議会は緊急令を否決。大統領、議会を解散。

9.14 第5回帝国議会選挙。ヴェルサイユ体制の破棄を訴えるナチ党が第2党へ大躍進(12→107議席)

12.01 ブリューニング、緊急令によって財政経済政策を実施。

 

1931年

2月 失業者ほぼ500万人。

3.21 ブリューニング、ドイツとオーストリアとの関税同盟案を発表するが、フランスにより阻止される。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット-アンシュタルト(Kredit-Anstalt)倒産。フランスがオーストリアの資本を引き揚げたためとされる。これを機にヨーロッパ全土の経済に打撃。

6.05 第2次経済財政緊急令:公務員給与の引下げ、社会保障費と州地方交付金の削減。

6.20 フーバー大統領、西欧諸国とドイツに対する賠償と債務の支払いを一年間猶予すると宣言(フーバー・モラトリアム)。

7.13 ダルムシュタット・ナツィオナール銀行が倒産。政府はすべての金融機関の業務停止。

11月 バート・ハルツブルクで「国民的反対派」の集会が開かれる。

12.08 「鉄戦線」の編成(社会民主党、労働組合総同盟、労働者スポーツ協会、国旗団、黒・赤・金グループ)。

1932年

1月 コミンテルンから派遣されたドミトリー・マヌイルスキーは、「ナチスは社会民主党の組織を破壊するがゆえにプロレタリア独裁の先駆である」と述べる。共産党のヘルマン・レンメレは「ナチスの政権掌握は必至であり、その時共産党は静観するであろう」と述べる。

4月 大統領選挙。ヒンデンブルクは最多得票を獲得、2位にヒットラーが入る。

4月13日 国防相兼内相のヴィルヘルム・グレーナー、ナチの突撃隊と親衛隊に対し禁止命令。その後シュライヒャーの策動で失脚する。

4.24 各州選挙でナチ党上昇。

5.20 オーストリアでドルフス政権誕生。

5.30 グレーナーに代わり国防相となったシュライヒャー、ヒトラーと組んでブリューニング内閣を辞任に追い込み、盟友のパーペンを首相に据える。

7.20 プロイセン・クーデタ。パーペン首相はプロイセン州政府を解任して国家総督を置く。

7.31 第6回帝国議会選挙。ナチスが230議席を獲得し第1党となる。ブルジョワ政党の壊滅的後退。

8.13 ヒトラーが首相任命を要求するが、ヒンデンブルクは拒否する。

9.12 パーペン内閣不信任決議が可決、帝国議会解散。

11.06 第7回帝国議会選挙。ナチ党は後退(196議席)するが、依然として最大政党にとどまる。共産党がベルリンで投票総数の31%を獲得して単独第一党となる。

12.03 シュライヒャーはパーペンを辞職させ、自ら首相となる。パーペンはシュライヒャー打倒を目指すようになり、ヒトラーと組んでヒンデンブルグを説得。

1933年

1.04 ケルンでヒトラーとパーペンの会談。

1.30 ヒトラー内閣発足。

 

NHKスペシャルで「サルの大移動」という番組を見た。まことに面白く、想像力をかき立てる番組であった。
それは、番組の本筋の話とは少々ずれているところがある。
実は、系統進化の話を調べているうちに、爬虫類の時代から哺乳類の時代への移行というのは意外と遅いのではないかという感じがしてきたのである。
大まかに言うとこういうことだ。
哺乳類は爬虫類全盛の時代には日陰の存在であったが、しかし結構したたかに生き延びて、それなりに分化発展していた。
そこに環境激変が来て恐竜類など大型爬虫類が絶滅した。
だから、そのときすでに哺乳類はそれ自身の体系を持って自然史に登場し、その後“それなりの”発展を遂げたのではないだろうか。
というのは、サル以外の哺乳類が、日陰の身だった頃と比べてそれほど生き様を変化させたようには思えないからだ。
動物というのは逃げる生活と捕まえる生活の上に成り立っている。これにさすらうという生活が加わる。哺乳類は爬虫類の辺縁で生活していたから、夜行性であり、高速であり、したがって恒温性である。
しかしこれらの性格は食物連鎖のトップに立った瞬間に不要となる。むしろトップにふさわしい爬虫類性・恐竜性がもとめられることになる。それは聴力や嗅覚、触覚という身の周り的感覚ではなく、視覚中心の感覚系の再構築であろう。
そしてそれに対応できたのは、結局のところ霊長類のみではなかったのか。象や河馬はただ体を大きくするという対応で動物界の頂点に立ったが、その代わりに居場所は制限され、動物としての普遍性を失った。
なぜそうなったか、爬虫類絶滅以来の歴史があまりに短かったからである。生物学的・DNA的進化をするにはあまりにも短い。
しかしサルはそこを、非DNA的な手法で乗り越えた。それが“さすらい”である。
だからサル以降の系統進化は、より非DNA的な手法で解析していかなければならない。
つまり進化学の方法は、爬虫類→哺乳類→霊長類という段階論ではなく、爬虫類+哺乳類→霊長類という観点から構築されなければならないということだ。プレ霊長類とポスト霊長類のあいだに分水嶺を設けることだ。(飛び、渡ることによる、トリと恐竜の分離に類するのか?)
その際のあらたなパラダイムがどんなものなのか、これがこれからの手探り課題となるだろう。

当初ワイマール共和国15年史という形で年表を作成し始めましたが、やっていくうちに興味が拡散してしまいました。ドイツの反戦からスパルタクスの反乱、そしてワイマール共和国の成立に至る過程が、それだけでめまぐるしいもので、とても単一の年表では語り尽くせなくなってしまうからです。

そこでこの間約3ヶ月間を「ワイマール共和国成立年表」として別建てすることにしました。

かつて学生時代は、これを「ドイツ革命史年表」として学んだものですが、今では「ソヴェート」とか「ボルシェビキ」に対する感覚が相当変わっていることもあって、「善・悪」の基準をできるだけ混じえずに俯瞰していくよう心がけたいと思います。

もちろん、歴史に対する進歩の思想は持っているので、ベタに事実を描きだすのではなく、ワイマールの進歩性、歴史的限界、さらにナチス支配を生み出したモノへの批判的分析はきっちりと踏まえていきたいと思います。

1918年

1月8日 ウィルソン大統領が14カ条を発表。大戦の講和原則と大戦後の国際秩序の構想を示す。

1.28 ベルリンで1月ストライキ始まる

3月3日 ブレスト・リトフスク条約が締結される。(ブレスト・リトフスクは一つの地名で、現在のベラルーシのブレスト) ヴェルサイユ条約締結によって消滅する。

3月21日 ドイツ軍が西部戦線に兵力・火力を集中し、一斉攻撃に出る。「カイザー攻勢」と呼ばれる。当初の1ヶ月で防衛線を突破しパリに迫るが、27万人の死傷を出し補給が困難となる。

8月8日 連合国軍が西部戦線で反撃に出る。総勢210万人のアメリカ軍が投入されたことで兵力バランスが崩れ、第2次マルヌ会戦とアミアン会戦によりドイツ軍が劣勢に陥る。

9月29日 ドイツ軍大本営(在ベルギー)のパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀総長と参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフが連名で、ウィルソン休戦提案の受諾を求めた書簡を提出。

10月3日 マクシミリアン(バーデン卿マックス)、帝国宰相に任命され、ウィルソンとの休戦交渉開始。

10月 マクシミリアン、アメリカ側の意向を受け、議院内閣制や普通選挙など専制政治からの脱却を目論む。交渉継続に反対したルーデンドルフを解任。議会多数派の社会民主党はマクシミリアン工作を支持。

10.29 マクシミリアン、カイザーの退位を求める。カイザーはこれを拒否しベルギーのドイツ軍大本営に立てこもる。

10.28 ヴィルヘルムスハーフェンの海洋艦隊で「提督の叛乱」が発生。イギリス艦隊への攻撃を企図する。これに抗議する水兵の叛乱始まる。

10.29 出撃命令を拒絶した水兵1千名が逮捕され、キール軍港に送られる。

18年11月

11.03 オーストリア・ハンガリー帝国が連合国と休戦。

11.03 キールで水兵の釈放を求めるデモと官憲が衝突。暴動状態となる。

11.04 キールで「労働者・兵士レーテ」が結成され、4万人の水兵・兵士・労働者が市と港湾を制圧する。レーテは政府が派遣したグスタフ・ノスケ(社会民主党員)を総督として認め、反乱は鎮静化する。

11.05 キールから出動した活動家により蜂起が拡大。リューベック、ハンブルク、ブレーメン、ヴィルヘルムスハーフェン、ハノーファー、ケルンがレーテの支配下に入る。

11.07 ミュンヘンで革命政権が成立してバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位する。独立社会民主党のクルト・アイスナーが首相に就任。他にザクセン、テューリンゲンで社会主義政権が成立。

11月09日

午前 マクシミリアン首相、皇帝ヴィルヘルム2世の退位を独断で宣言。みずからも首相を辞し、社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに禅譲する。ヴィルヘルムはオランダに亡命。

午前 ヴィルヘルムの退位を知ったカール・リープクネヒトが王宮に乗り込む。バルコニーから演説し、「社会主義共和国」の宣言(一種の決意表明であろう)をした。

午後 社会民主党の幹部フィリップ・シャイデマン、議会前に集まった群衆にドイツ共和国の成立を宣言。シャイデマン発言はリープクネヒトによる「社会主義共和国宣言」を防ぐための独断であったと言う。

午後 ベルリンで終戦を祝うデモ。ローザ・ルクセンブルクなどの政治犯も釈放される。

夕方 社会民主党、臨時共和政府の樹立に向け独立社会民主党への連立を呼びかける。「革命的オプロイテ」も議会に結集し、同意形成のための大衆的働きかけを強める。

革命的オプロイテ: ベルリン市内の職場や工場の組合指導者のグループ。約100名で構成され、12の中核組織を持っていた。政治的には独立社会民主党の左派に属しており、スパルタカス団とも親戚づきあいしていた。

夜10時 社会民主党の呼びかけを受けた独立社会民主党、シャイデマン評議会への参加を決める。

11月10日

午前 社会民主党と独立社会民主党の両党から3名づつの委員からなる「人民委員評議会」が成立。共同議長(首相)にエーベルトと独立社会民主党のハーゼが就任。

午後5時 「政府合意」を受けて労働者・兵士評議会(レーテ)の大会が招集される。3千名近くの代表を結集。会議を主導した「革命的オプロイテ」は、シャイデマン評議会を承認しつつ、いっぽうで「大ベルリン労兵レーテ執行評議会」の結成とレーテによる権力掌握へと動く。

大ベルリン労兵レーテ執行評議会: 労働者レーテから社会民主党、独立社会民主党、半数ずつの12名。兵士レーテから12名の構成とされた。「人民委員評議会」との権限の境界は曖昧なまま残された。

午後 リープクネヒトがレーテの大会で挨拶。軍とエーベルト政府による反革命の危機を訴えたが、統一と団結の声にかき消されたという。

夜 エーベルトと参謀次長ヴィルヘルム・グレーナー(ルーデンドルフの後任)とのあいだに合意が成立。軍は新政府に協力することになる。

合意事項: 革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供すること、政府は旧来の将校組織を温存すること。(おそらく会談そのものも合意事項も極秘であろう)

11.11 パリ北東コンピエーニュの森で連合軍とドイツの休戦協定が調印される。戦死者180万人、戦傷者425万人。

11月15日 労働組合と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容とする。

11月 評議会政府、首都・王宮の治安部隊として「人民海兵団」を組織。クックスハーフェンから召集した水兵とベルリンの水兵部隊より編成される。組織内に急速にレーテが浸透する。

18年12月

12.06 ベルリンで共和国兵士がスパルタクス団のデモ行進に発砲し、16名の死者を出す。

12.16 全国労働者・兵士協議会の第1回全国大会がベルリンで開催される。ベルリンのレーテを掌握した急進派は、政治権力をレーテに集中するよう提案する。しかし全国レベルではレーテ集中派は100票にすぎず、国民議会を支持する社会民主党の代議員が350票を握っていた。

12.16 ハンブルク代表団、叛乱水兵の意志を代表して軍制の徹底的改革を要求。この改革案は圧倒的多数で決議された。

1.統帥権は文民のコントロールの下に置く(具体的には臨時政府かレーテ)
2.懲戒権は兵士評議会のもとに置かれる。
3.将校の選出権は将兵全員にある。階級章は廃止される。勤務外の上下関係は否定される。
水兵たちは将校団こそが反革命の脅威であることを熟知しており、ここでは譲らなかった。

グレーナー参謀次長との交渉に入るが、軍が難色を示したため先送りとなる。エーベルト・グレーナー同盟の存在は誰も知らなかった。

12月21日 レーテの全国大会、急進派の提案を否決。社会民主党と共和政府のもとめる国民議会の選挙を受け入れる。レーテの決定を受けた「人民委員会会議」政府は国民議会の選挙実施を決定。

12.23 王宮に居座った「人民海兵団」に対し臨時政府が退去を求める。海兵団はこれを拒否したため、政府は給料の支払いを停止。抗議のデモに軍が発砲しにらみ合いとなる。

12.24 政府軍が海兵団宿舎を砲撃、市街戦となる。海兵団と政府の間に和解が成立し戦闘は停止されるが、一連の事態を通じて政府と軍との密約が明らかとなる。

これとは別にベルリン警視総監エミール・アイヒホルン(独立社会民主党)が「保安隊」を組織するなど、ベルリンの権力構造は各派がしのぎを削る状況となる。

12.29 独立社会民主党、人民海兵団の弾圧に抗議し人民委員政府から脱退。ただし国民議会への参加は前提とする。

12.30 ローザ・ルクセンブルクらのスパルタクス団を主体にドイツ共産党(KPD)が結成される。「全権力をレーテへ」を掲げ、国会選挙のボイコットを決定。「革命的オプロイテ」派はボイコット戦術に反対し、共産党に加わらず。

モスクワから潜入したボルシェビキのカール・ラデックが、ためらうローザ・ルクセンブルクを説き伏せ、ドイツ共産党の結成に踏み切らせたと言われる。

 

1919年

19年1月

1.05 アイヒホルンが解任される。アイヒホルンはこれを不当としてベルリン警視庁に籠城する。

1.05 共産党とオプロイテは、アイヒホルンの罷免に抗議する大規模なデモを展開。武装した共産党系労働者が主要施設などを占拠した。

1.05 ミュンヘンでドイツ労働者党(ナチ党の前身)が結成される。

1.06 社会民主党、弾圧を知らせるビラ「決着の時が近付く」を配布する。

1.06 リープクネヒトやゲオルク・レーデブール(独立社会民主党委員長)は、政府打倒を目的とする「革命委員会」を設立。ルクセンブルクやオプロイテの指導者リヒャルト・ミュラーは蜂起に反対。

1.06 エーベルトはグスタフ・ノスケ国防相に最高指揮権を与えた。ノスケは旧軍人により「ドイツ義勇軍」(フライコール)を組織。

1.08 独立社会民主党の右派が、エーベルトと「革命委員会」との調停に乗り出す。話し合いは不調に終わり、多くの活動家は戦線を離脱する。

1.09 フライコールがベルリン市内で武力行動を開始。12日に武力対峙は終わり、スパルタクスの残党狩りに移行。

1.12 バイエルンで議会選挙。与党独立社会民主党は180議席中3議席にとどまる惨敗。

1.15 ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが虐殺される。

1.18 パリ講和会議が始まる。

1.19 国民議会選挙。投票率は82.7%に達する。社会民主党163、中央党91、民主党75、という議席配分となる。この3党で「ヴァイマル連合」を結成し、政権を握る。

19年2月

2.06 ヴァイマル国民議会が始まる。人民委員会議長のエーベルトが(暫定)大統領に選出。

2.10 国民議会、「暫定的ライヒ権力法」を採択する。国家の政体を議会制民主主義共和国とすることが確認される。帝国時代の支配層である軍部、独占資本家、ユンカーなどは温存され

2.13 3党連合によるワイマル連合内閣が成立。社会民主党のシャイデマンが首相に選出される。

この記事についての修正を下記に掲載しています。併読ください。

1.「イ族」のルーツについて
昨日見たNHKのドキュメンタリー「イ族」はまことに興味深いものであった。
map_yi

番組は四川省の山奥(大涼山)に暮らすイ族を成都三星堆遺跡の青銅器文明人の後裔だと断じていたが、もう少し科学的に証明してほしかった。
とにかく顔立ちがあまりにも日本人であることに驚く。かつて雲南・昆明の少数民族や、北ベトナムの少数民族を見た時の驚きをさらに超えるものがある。Y染色体をぜひ調べてほしいものだ。
断崖で隔絶された尾根に沿って、厳しい気候と痩せた土地にしがみつきながら暮らす人々が、意外なまでの技術・文化を持ち、気品を失わずに生活しているのは感激を抱かせる。
日本で言う「平家の落人部落」そのものである。
観光会社風に言えば「東洋のマチュピチュ」だが、マチュピチュよりすごいところが二つある。一つは生活があることで、一つは文字があることだ。
yizoku
中国まるごと百科事典には下記のごとく記されている。
彜族はプライドが高く、人情、信義と義理を重んじ、客を大切にする礼儀正しい民族。来客があると、さっと駆けつけて出迎えの歌を歌いながら酒を勧め、囲炉裏端の上座に座らせる。
また、彜族の男性は女性をののしったり殴ったりしてはいけないという決まりがあり、“立派な男なら妻を殴らない”ということわざもあり、たとえ敵でも女性は殺さない、という掟がある
ただし、これは一部の人々の話で、「涼山イ族自治州」の州都である西昌は人口57万人、イ族をはじめ28の民族が暮らしているそうだ。いろんな少数民族が混住しているので、「これがイ族の特徴だ」と断定はできない。
西昌
              西昌の下町

2.長江人の基礎史実
これまでの私の記事の中で確認してきた事実を並べてみよう。
南方経由でインド方面から東進してきた人々の集団があった。これはY染色体のハプログループで言うとOの1型に属する人々であった。O型人は先着のC型人を押しのけながら中国大陸南部に定着した。ここから派生したO1b人は、長江流域に広がった。O1人からはさらにO2人が派生し北方へと進出した。
長江流域に定住したO1b人は、1万年前ころに稲作栽培と水田農法を獲得した。それは湖北・湖南に始まり、下流および上流へと拡大した。

長江からさらに北方に進出したO2人は黄河を越えたところでC型人との拮抗関係に入った。

モンゴル~満州に先住するC2人は北方ルートで東方に進出してきた人々と思われ、中央アジアとの接触を保っていた。
5千年前、すなわち紀元前3千年というのは北方諸民族にとってエポックであったと思われる。
まず小麦の栽培が、続いて青銅器文明がメソポタミアからもたらされた。
直接の伝承者であるC型人も、それから技術を引き継いだO2人も、生活スタイルを根本的に変えることとなる。
O2人は小麦を栽培する農耕民に姿を変え、南をうかがうようになる。
青銅器に続いて、紀元前2500年ころには鉄器が伝播した。
黄河と長江が接近する中原では、紀元前2千年ころから鉄器を獲得した黄河文明が長江文明を征服・支配する時代が始まった。圧迫された長江人(O1b人)は、O1b1(一部O1b2)が南下した。残りのO1b2は西方及び北方へと拡散した。西に進んだ長江人は四川省三星堆に青銅器の一大文明を築いたが、これもやがて北方人により滅ぼされる。
番組ではイ族がこの「三星堆」人の末裔であることが「最近の研究により判明した」と断定するが、大変魅力的な提起ではあるにせよ、あまりにも大胆だ。率直のところこれには保留せざるを得ない。
下流域の長江人は北方人の支配を逃れ、山東省から朝鮮半島、北九州へと渡り、弥生文化(とりわけ銅鐸文化)を花開かせることになる。
ただし弥生文化の後半は、長江人(銅鐸人)ではなく征服者(天孫族)の文化であるが…

 2016年10月22日 


3.イ族の民俗学的特徴
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html
もとは蛮族を意味する「夷族」と表記された。
ウィキでは「南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきた」とされているが、この説は否定されつつある。
人は黒イ(武士)と白イに分けられる。黒イは人口の7%。白イがさらに3階層(平民・農奴・奴婢)に分かれるなど複雑な奴隷制度をもつ。
父子連名制によってつながる父系親族集団である。(これらの社会システムは彼らの現状にはまったく似つかわしくない)
言葉は六方言に大別される。互いにほとんど通じない。
彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。約1000年前に創作されたという。象形文字を母体とする音節文字である。日本の「神代文字」とは違いかなりの量で現存し、使用されている。

4.民族の伝承
格言および祭祀などが、祭文の形で蓄積されている。叙事詩『阿詩瑪』もその一つ。
イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とする。その後南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達した。つまり、秦と同じ征服王朝であった可能性がある。
漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称され、強勢を誇った。
大涼山一帯の黒イ集団は、中華民国時代になっても支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれた。
ただ、今回の「天頂に生きる」の引用している文献は既出のものとは違うのかもしれない。


高木正道さんのDigital Essays より
民主主義と自由主義は相互に結びつく傾向が見られるが、これらはもともと別個の原理であって、自由主義的であって民主(主義)的でないことも可能であるし、民主(主義)的であって自由主義的でないことも可能である。
ここで自由主義と呼んでいるものは、憲法学の分野で立憲主義と称されているものとほぼ同じものである。つまり、「立憲主義は自由主義を制度的に実現したものである」
そこで、デモクラシーとリベラリズムの関係を突き詰めていくと、究極的にはこういう粗暴な問題提起が可能となる。
粗暴な民衆支配か優雅な寡頭支配か
答えははっきりしているわけで、優雅な寡頭支配の方がいいに決まっている。
いいか悪いかというより、真のデモクラシーに到達するためにはその道を通っていくしかないのである。
真のデモクラシーに到達する路は、粗暴な民衆支配の先には開けていない。だから一度寡頭支配の路に戻るしかないのである。
ただ、粗暴な民衆支配の時期を経過することが、優雅な寡頭支配、そして真のデモクラシーへの歩みを早めるか否かについては議論が分かれるところであろう。その可能性はいささかなりとも期待したい。


②王権の制限された寡占支配

④近代民主主義(共和制)

①専制支配

③粗暴な「民衆」支配

生産力の拡大にともない、社会システムが進化し、統治システムは①から④へ向かうのであるが、次の3点が必然的傾向となる。

1.①から④の流れは必然である。

2.①から②に向かうが、ときに①から③に向かうこともある。

3.②と③との相互転換はありうる。

4.①から④へ向かうために②を経由するのが必須である。③から④への道はない。


「憲法と人権」という本の一節。

デモクラシーを主張する人の中に、リベラリズムをデモクラシーに収斂させてしまう傾向があったのではないか。

国民が政治における自らの運命の決定者となることがデモクラシーの真髄であるが、それは国民が人間個人として自らの運命の決定者であることを抜きに語ることは出来ない。

これを敷衍すると、
つまりデモクラシーはリベラリズムを前提にして語らなければ、真のデモクラシーとはなりえない。民主主義者は民主主義者である前にまず自由主義者でなければならない。
ということになる。

これを憲法の条文にひきつけてみると、
憲法第13条冒頭 「全て国民は、個人として尊重されなければならない
ということが出発点となる、のだそうだ。
なお原案では、「その人類たることに依り」(by virtue of their humanity)という一節が付けられていた。

そこでは抽象的な政治主体としての「国民」ではなく、個性を持つ諸個人の集合としての「国民」が主権者となるデモクラシーがうたわれている。

幼児性健忘というのがあるそうだ、というより、幼児性健忘というのだそうだ。

例えば自分の記憶を手繰っていくと、それ以上先には遡れないところがある。多分3歳前後らしいのだが、実際にはもっと後のようにも思える。

それより前の記憶は、一度は覚えたはずなのだが、忘れてしまったということになるので、これはまさに健忘症だ。

「覚えたはず」と何故言えるか、それは幼児の行動を観察すれば分かる。幼児は体験したことを体験した片っ端から忘れているわけではない。むしろ鮮明に覚えていると言ってもよい。それは心理実験でも確認されているので間違いない。

だから短期記憶は残されるが、長期記憶が残されないということになる。これは老人性痴呆で短期記憶がまるで駄目になってしまうが、長期記憶は意外と残っていたりするのと逆のパターンだ。

このことは2つの意味を持つ。

まず、短期記憶の装置と長期記憶の装置とは違うものだということだ。短期記憶はとりあえずの記憶装置で必要がなくなれば消えていく。長期記憶の装置はとりあえずの記憶には役に立たないが、一度覚えれば一生モノだ。

おそらく短期記憶は海馬=古皮質で、長期記憶は前頭葉の何処か=新皮質だ。

もう一つは、長期記憶装置が出来上がり、通常営業を開始するのは3歳以後のことだということだ。つまり、人間は大脳皮質が未だ建設途中のまま生まれてくるということだ。健忘症(Amnesia)というと何か病気のように思われるが、そもそも未だ装置が作動していないのだ。

我々は、幼児というと大人のコピーのように考えがちだが、それは間違っている。人間として生まれてきて、それが成長/発達していく過程として幼児期を捉えるのは、正確ではない。
これは発達心理学の第一段階ではなく、むしろ個体発生の過程の最終コーナーの話として理解すべきであろう。

厳密に言えば、幼児はDNA的には人類ではあっても、生物学的には未だ人間ではないのだ。他の霊長類以下かもしれない。

ここのところを勘違いすると「幼児性健忘」という発想が生まれ、言葉が生まれてくる。もちろん、この言葉を用いた人もその辺のことはよくわかっていて、冗談交じりの面白い表現として用いただけだと思うが、言葉が独り歩きすると結構怖い。

こういう仲間内の隠語みたいなものが一般向けの本で使われると、文章全体を読みにくいものにしてしまうので、注意してもらいたいものだ。

「ウィーンの三羽烏」という言葉が以前から気になっている。

いろいろネットで調べるのだが、英語記事をふくめて満足な答えは載っていない。

この世界のことだから、かならずとんでもない物知りがいて、「それはこういうことなんだ」と微に入り細にわたり説明してくれるものだと思っていたが、もうそういうおじさん方は死んでしまったのかもしれない。

三羽烏の由来

まずは、名前の由来だが、これがよく分からない。

「三羽烏」というのはいかにも日本の言葉である。この言葉のいわれも不詳のようだが、一番納得がいきそうな説明は有馬温泉の発見の由来にカラスが登場してきて、どうもこれが語源らしい。なかなか由緒ある言葉である。

しかしこんな言葉をウィーンの人々が知るわけがない。英語で言うと「ウィーンのトロイカ」(Viennnese Troika)と言うらしい。

トロイカというのは三頭建ての馬車のことだから、日本語としてはぴったりだ。ただいまの語感だとさすがに「三羽ガラス」は古い。「トリオ」くらいで済ますのではないだろうか。

ただ、いつ、誰が名付けたのかなど、そのいわれについては英語版でも説明はない。
なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダなのか

つぎに、なぜバドゥラ・スコダ、デムス、グルダの3人が三羽烏なのか。なぜワルター・クリーンやブレンデルが入らないのかということだが、これについてもはっきりした答えはない。

考えられる理由はいくつかある。

ひとつは生粋のウィーンっ子かどうかという問題だ。

まずは5人の生まれと生地を表示する。

パウル・バドゥラ=スコダ

1927

ウィーン

イェルク・デムス

1928

ザンクト・ペルテン

ヴァルター・クリーン

1928

グラーツ

フリードリヒ・グルダ

1930

ウィーン

アルフレッド・ブレンデル

1931

モラヴィア

ザンクト・ペルテンは田舎だが、文化的にはウィーンである。

austria-map

https://jp.depositphotos.com/31778515/stock-photo-austria-map.html

これでみると、バドゥラ・スコダ、デムス、グルダを括るのは理にかなっている。しかしクリーンは生まれはグラーツだが学んだのはウィーン音楽院だ。ブレンデルはグラーツの音楽院ではあるが、卒業後はウィーンに出てそこで勉強している。

だから、どうも生まれや育ちを詮索するのはあまり意味があるとも思えないのである。たとえばウェルナー・ハースは31年の生まれだが、彼はシュツットガルトで生まれてらい、ずっと西向きで暮らしている。ウィーンには見向きもしていない。これなら三羽烏に入れないという判断は良く分かる。

5人の音楽家への道

このあと、この文章ではあまり分け隔てせずに、「5人組」としてみていくことにしようかと思う。

彼らはいずれも辛い少年時代を送っている。物心ついたとき、ウィーンは大恐慌の中で疲弊しきっていた。労働者よりの政策をとってきたウィーン市政は転覆させられ、失業者5割におよぶ厳しい引き締め政策がもたらされた。

彼らがウィーン音楽院に入る頃、世間はもう音楽どころではなくなっていた。1939年になるとナチがやってきてオーストリアは併合される。保守派や富裕層は喜んでナチの前に身を投げ出した。

彼らはユダヤ人の排斥にも積極的に加担した。ウィーンフィルの楽団員のうち11人が馘首された。そのうち9人が強制収容所で死亡した。

その5年後に敗北の日がやってきた。1945年3月、ウィーン中心部にも空襲があり国立歌劇場やシュテファン大寺院などが破壊された。フルトベングラーはベルリンからやってきて、エロイカの放送録音を残したあとスイスに逃げ出した。

1ヶ月後、ソ連軍がウィーンに入った。彼らは市内で略奪を繰り返したが、ドイツ人は文句を言えない。ドイツ人はソ連に攻め入り数千万人を殺害したからだ。ナチに追随したものは口をつぐんだ。

1945年、オーストリアは二度目の敗戦を味わうこととなった。以後10年にわたり4カ国占領軍に分割支配されることとなる。

キャリアのスタート

戦争に敗けたときバドゥラ・スコダが18歳、デムスとクリーンが17歳、グルダが15歳で、いずれもウィーン音楽院の生徒であった。ブレンデルはまだ14歳でグラーツの音楽院に在籍していた。ここから5人はキャリアをスタートさせることになる。

もっとも目覚ましい功績を上げたのはグルダだった。かれは46年のジュネーヴ国際コンクールに優勝する。と言うよりこれが5人組で唯一のメダルだ。

年長のバドゥラ・スコダは、47年のオーストリア音楽コンクールに優勝した。毎日コンクールに優勝するみたいなもので、「だから何さ」というレベルだ。

ウィーン音学院のピアノ科のボスはエドウィン・フィッシャー、どういうわけかミケランジェリも指導スタッフの一人だったらしい。あまりコンクールには熱心でなかったのかもしれない。

49年のブゾーニ国際コンクールではブレンデルが4位に入賞している。51年にはクリーンがおなじブゾーニで3位、何か期するところがあったのか翌年も出場するが、結局おなじ3位。

この二人は、ブゾーニ・コンクールでの4位とか3位とかがキャリアハイになっている。いまなら考えられない出発点だ。

ということで、ブゾーニ・コンクールがウィーン音学院のピアノ科にとってはトラウマになってしまったのかもしれない。最後はデームスがブゾーニに挑戦し優勝している。なんと56年になってからの話で、小学生のコンクールに高校生が参加するようなものだ。

デームスのキャリアもそれほどのものではない。ウィーン音楽院を出たあとパリに行き、マルグリット・ロンの指導を受ける。そしてロン・チボー・コンクールに出るのだが、優勝はしていない。ほかのノミニーの顔ぶれを見れば到底勝てそうもないライバルばかりだ。

三羽烏はウェストミンスター社の宣伝?

キャリア的にもそれほどの差はない

コンクールの実績から言うと、グルダを除けば50歩100歩である。クリーンとブレンデルは明らかに落ちるが、ほかの二人にそれを笑うほどのテクニックがあるわけでもない。

つまり、「ウィーンのトロイカ」はレコード会社のキャンペーンではないかということだ。

ここから先は、裏付けなしの推測なので「間違っていたらごめんなさい」の世界。

 アメリカにウェストミンスターというレコード会社があった。タワーレコードの宣伝文句にこんなのがある。

1949年にニューヨークで創設され、短期間に綺羅星のごとく名録音の数々を残したウエストミンスター・レーベルは、創設の中心メンバーであったジェイムズ・グレイソンがイギリス人で、もともとロンドンのウエストミンスターのそばに住んでいたことにより、「ウエストミンスター」と命名されました。

これは別の会社の宣伝。

このレーベルは49年、ミッシャ・ネイダ,ジェイムズ・グレイソン,ヘンリー・ゲイジ、そしてチェコ出身の指揮者のヘンリー・スヴォボダによりニューヨークで設立されました。

ワルター・バリリとその四重奏団,ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団,パウル・バドゥラ=スコダ,エリカ・モリーニ,レオポルド・ウラッハ,イェルク・デムスら、ウィーンを中心とした名演奏家たちを始めとして…

この会社がいわば経済苦境に苦しむウィーンの音楽界に、言葉は悪いが底地買いに入ったわけだ。

よく「音楽の都 ウィーン」と言うが、「音楽だけは」という皮肉にも聞こえる。20世紀の初頭ウィーンは決して音楽の都ではなく、すべてにおいて都であった。

それが第一次大戦に敗れ、国土が切り刻まれる中でメトロポリスの実体を失った。借金生活が成り立たなくなり、ナチスドイツに吸収され、ふたたび第2次大戦で残されたすべてを失った。

「音楽の都」というが、音楽を聞くにも演奏するのにもお金は要る。商売できなければ音楽家もみな逃げ出す。残ったのは年老いた二流の演奏家か、駆け出しのチンピラしかいない。

しかしそこはハプスブルク以来200年の音楽の歴史と伝統がある。掘り起こして火をかき起こせば、タダ同然で「お宝」が手に入る。それが上記に掲げられた演奏家たちであろう。

成功したとは言えない「トロイカ」キャンペーン

おそらくトロイカと言っても中心はグルダだったのではないだろうか。コンクール歴を見ても、16歳でジュネーブ国際コンクール優勝というのは相当のものである。

これに比べれば、バドゥラ・スコダは「毎日コンクール」優勝くらいの経歴で、デームスはロン・チボーに出たというくらいの経歴だ。

そこでウェストミンスターは、1950年にカーネギー・ホールにグルダをデビューさせたあと、三人組のセットで若手を売り出した。「たのきん・トリオ」みたいなものだ。しかし成功したとはいえない。やがてロシアからとんでもないピアノ弾きが続出するようになると、彼らのテクニックではとても太刀打ち出来ない。

ただピアニストが一流になっていくのはコンクール向けのテクニックばかりではないので、デームスもバドゥラ・スコダも長年かかって少しづつキャリアを積み上げ、一流ピアニストに成長していく。これが伝統の力だと思う。

ウェストミンスターの計算違いは、グルダがデッカに行ってしまったことだ。1954年にグルダはデッカにベートーベンのソナタ全曲を録音している。

Vox社で実績を積み上げたブレンデルとクリーン
底地買いと言っても、ウェストミンスターはそれほどアコギな仕事をしたわけではない。むしろ高級感さえ漂わせた。商売上手である。LPの値段も決して安くはなかった。高城さんのブログで昭和28年に3200円だったと書いてある。私はまだ小学校低学年で価格など知らなかったが、中卒の初任給くらいだろうか。
米Voxは安物レコードの象徴的存在である。貧しいヨーロッパで音楽家を一山いくらで買って、安物の録音機で録音しては売りまくるという下品な商売をしていた。とは言え、こういう会社があるからこそ我々ごときもレコードに接することができたのだから、足を向けて寝られるものではない。
「レコード芸術」で曲を知って、Vox盤、あるいはソノシートで我慢するというのが青春であった。二人の連弾のハンガリー舞曲とか、パツァークの独唱にクリーンが伴奏した「水車小屋の娘」なんかを聞いた記憶がある。購入の動機は曲ではなく、その時の財布の中身と価格のバランスと勇気のあるなしであった。
とにかくそこで二人は拾われた。表通りのクラブではないが、裏通りのキャバレーで華々しく活動した。
ここからブレンデルは羽ばたいて、フィリップスのエースに成長していく。クリーンはその後は鳴かず飛ばずで、70年代の末からようやくモーツァルトを中心に評価され始めた。アマデウス四重奏団との四重奏曲は驚くべき名演だ。
NHKテレビのピアノ教室の講師になってからは、日本でも名前が売れ始めたらしい。
You TubeにN響とやったモーツァルトの23番のライブビデオが残されている。あの澄んだ美しい音がどういうタッチから紡ぎされているかが分かる。蛇足ながら若杉弘の指揮も懐かしい。

とにかく5人が5人とも録音機会や発表機会に大変恵まれていたことは間違いない。あの時期にその場所でしか生まれ得なかったチャンスであった。それを一概に幸運とはいえない、不幸と裏合わせの機会であったが、彼らが懸命に活躍し、その機会をモノにしたことは間違いないだろう。


の作成中に、何度か国際人権規約の条文に関連して発言してきた。「三つの権利」に即した運動として世界の流れを把握する以上、その拠り所としての世界人権宣言と国際人権規約にも触れなければならない。
まずはその形成過程を具体的に振り返ることから、その分析を開始したい。そして国際連帯の中心的理論課題に据えた日本国憲法、すなわち憲法25条の形成過程とその歴史的意義、国際的貢献の可能性についても探っていきたい。

まず年表であるが、主として下記論文により作成した。
まず、あらあらのターミノロジー
国連で定められた人権に関する法体系は国際人権章典(International Bill of Human Rights)とよばれる。これは世界人権宣言2つの国際人権規約、市民的、政治的権利に関する国際規約への第一及び二選択議定書より構成する。
さらに人種差別撤廃条約、国際人権規約、女性差別撤廃条約、子どもの権利条約など23の人権関連条約が人権体系を構成する


1941年 ルーズベルト大統領、年頭教書で「4つの自由」を主張。言論の自由・信教の自由・欠乏からの自由・恐怖からの自由の四つ。大西洋憲章・国際連合憲章の基礎となった。第2次大戦に参戦するための論理建てとなる。
1944 大西洋憲章が締結される。1.全体主義国家における人権の抑圧が戦争に繋がったとの反省に立ち、2.「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うできる平和の確立」をうたう。
1945  国際連合が発足。同時に発効した国連憲章は、前文と第1条で基本的人権および基本的自由をうたう。

前文: 「われらの一生のうちに二度までの言語に絶する悲哀」を前提に、基本的人権と人間の尊厳及び価値と、男女の同権…をあらためて確認

第1条: 人種、性、言語、宗教による差別なく、すべての者の人権および基本的自由を尊重する
1946 国連経済社会理事会内に人権委員会が設立される。国連憲章の具体化のため、単一の国際人権章典の作成を目指す。
1947年 第 4 回経済社会理事会、国際人権章典起草のための委員会を設け、5大国+豪、チリ、蘭を委員国に選出。
1948.12.10 国連第3回総会で「世界人権宣言」(Universal Declaration of Human Rights)が先行・採択される。条約ではなく,「人権に関し諸国家が達成すべき共通の基準」を示したもので、法的拘束力を持たない。東側諸国とサウジ、南アが棄権。

 「すべての人間は、生まれながらにして尊厳と権利とについて平等である」(第1条)

「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位によるいかなる差別」も認められない(第2条)
3条~21条: 市民的、政治的権利
22条~27条: 経済的、社会的、文化的権利

1950年 第5回国連総会、規約草案には市民的及び政治的権利に加え社会権と男女平等の規定を含めることを決定する。また「世界人権宣言」の発表された12月10日を国際人権デーに指定する。
1951年 第6回国連総会、人権規約内容の膨大化に対応するため、A規約(経済的、社会的及び文化的権利)とB規約(自由権)に分割することで合意。ソ連などの諸国は、社会権と自由権に分けず1つの条約とするよう主張。
1954 第10回人権委員会、A、B両規約からなる第一次案の起草を終える。草案は国連第10回総会に提出される。その後国連総会第3委員会での逐条審議が続く。
1959年 児童の権利宣言が採択される。
1961年 世界人権宣言の趣旨を広げる国際民間団体としてアムネスティ・インタナショナルが結成される。
1965年 「人種差別撤廃条約」が締結される。
1966年12.16 第21回国連総会、国際人権規約を採択。

規約は

(1) 経済的社会的及び文化的権利に関する国際規約,
(2) 市民的及び政治的権利に関する国際規約,
からなる。
(1) はA規約、あるいは社会権規約と略される。
(2) はB規約、あるいは自由権規約と略される。
第1条は両規約共通で「人民の自決権」規定を置く。
自由権規約に関連する選択議定書がある。
1976年 国際人権規約が発効。
1979年 女性差別撤廃条約が締結される。
1979年 日本、国際人権規約を批准。ただしA規約中、公休日の給与支払い、スト権、高等教育の無償化の3点を留保。自由権規約の個人通報制度を定めた第1議定書を先進国で唯一批准していない。
1989年 子どもの権利条約が採択される。

第6条: すべての子どもは、生きる権利をもっています。国はその権利を守るために、できるかぎりのことをしなければなりません。

1989年 死刑廃止を目指す第2選択議定書が採択される。
2006年 国連人権委員会が人権理事会に改組される。
2012年 社会権規約第13条「中等教育及び高等教育の漸進的無償化について」の留保の撤回を閣議決定。(この時点で留保国は日本、マダガスカル、ルワンダの3カ国)


参考
1) 人権宣言(1948)の社会権(第22条から27条まで)の一覧
社会保障を受ける権利
働く権利、同等の勤労に対し同等の報酬を受ける権利、労働組合を組織し、これに参加する権利
休息および余暇を持つ権利
健康と福祉に十分な生活水準を保持する権利
教育を受ける権利
社会の文化生活に参加する権利
2) A規約(社会権)の第6条から15条
①労働に関する権利 第6条~第8条
②社会保障などに関する権利 第9条~12条
③教育・文化に関する権利 第13条~15条
この中の第11条が「相当な生活水準の享受に関する権利」となっている。
社会権には生存権(より基本的な)はふくまれない。市民的権利(自由権)のトップに「生存、自由、身体の安全に対する権利」が掲げられているが、ここでは生存権は自由権としてあつかわれる。

3) ワイマール憲法第151条第1項(1919年)「経済生活の秩序、経済的自由」
経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない。各人の経済的自由は、この限界内においてこれを確保するものとする。
4)憲法草案 GHQ案(46年2月)第24条 
法律は、生活のすべての面につき、社会の福祉並びに自由、正義および民主主義の増進と伸張を目指すべきである
5)憲法草案 政府案 第23条
法律は、すべての生活部面について、社会の福祉、生活の保障、及び公衆衛生の向上及び増進のために立案されなければならない

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