鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年08月

なぜ、ダウンロードをそんなに頑張ったかというと、ベルグルンドのシベリウス全曲を見つけたからだ。
しかも音が素晴らしい。
パーボ・ベルグルンド指揮ボーンマス交響楽団のシベリウス交響曲全集は、極めつけというほかない名盤だ。まったくもって奇跡の演奏であり録音だ。イギリスの片田舎の素人に毛が生えたような楽団のはずだが、これがベルグルンドの薫陶よろしきを得て、名指揮者と有名楽団の演奏をはるかに凌駕する世紀の名演を行ったのだ。
1970年台の録音だから、アナログだし古い。しかしアップロードするに際してすごいリマスターが加えられている。
ハムとランブルを除いて、S/N比が72dbまで向上したそうだ。聞いていると最近のDDDに勝るとも劣らない。
残念ながらビットレートは最近のYou Tubeのしばりで、AAC可変レートで128kbまでに押さえられているが、大型装置で聞いても十分耐えられる音質だ。
ついでにもう一つの演奏も紹介しておく。
同じパーヴォだが、こちらはパーヴォ・ヤルヴィ、ネーメではなくて息子の方だ。オヤジもずいぶん北欧モノを振っているが、息子もその薫陶を受けたのであろう、密かに得意としているようだ。
そのパーヴォ・ヤルヴィとパリ交響楽団との第一交響曲だ。「もういくつ寝るとお正月」が第2楽章に出てくる曲だ。冒頭のクラリネットがなんともいえずとろける。バーンステインとウィーン・フィルの演奏のときもクラリネットが素晴らしかったが、こちらは甘いショコラの風味だ。ヤルヴィはタクトを胸に押し当てたままである。
第3楽章の明快でおしゃれな感覚は、終楽章のゴージャスな音色とともに、これがシベリウスであることを忘れさせてしまうほどだ。音質も良い。ぜひご一聴をお勧めする。
なおヤルヴィの演奏にはフランクフルト放送交響楽団とのものもアップされているが、こちらは凡庸で録音のクオリティーも低い。

5月、6月のトラブル続きですでにファイアーフォックスとはおさらばしているが、グーグル・クロームにまともなYou Tubeのダウンローダーがないため、You Tubeに限ってファイアーフォックスを使っていた。いっときのダウンロード用 Craving Explorer みたいなものである。
ところが、今日になったら、そのアドオンも効かなくなってしまった。しかもファイアーフォックスが自分からアドオンを拒否してしまったのだ。「旧式」というハンがペタンと押してある。
本当に、半年くらい前のファイアーフォックスに戻りたい気分だが、多分そのようなことはできないだろう。「何とかを無効にすれば良い」と書いてあったので試してみたがだめだった。
結局、「アドオンを入手する」というページから新規格対応の「1-Click Downloader」というアドオンソフトを拾ってきた。
なんということはない。3rd party site (www.knowyourvid.com) につながっていて、その機能をただ借りすることになる。しかもなかなかじっくりとやってくれる。ファイル名変更もできないから、じっくり待っているしかない。
とはいえ、結果的にはなんとか落としてくれる。いまのところダンロードの失敗はないから、なんとか当面はしのげそうだ。そのうちもう少しマシなのが出てくるだろう。そもそもクロームにもう少しまともなソフトがあればこんな苦労はしなくていいのだが…

この記事をご参照ください

知っている人にはつまらないことでしょうが、私には今まであまりスッキリしていなかったので…

資本論をわかりやすく説明するために、資本というのを資金と言い換えてはどうかなと思ったんです。

「元手」という言葉がある。これは「おカネ」だが、「商売に使えるおカネ」という意味だ。

これがかなり「資本」や「資金」に近い言葉だと思う。

「資」というのはきっと動詞なのだろう。「…に資する」というから「力を与える」みたいな言葉なのかなぁ、それは株であっても預金であっても、換金可能なものだから結局は資金ということになるんではないか、と思ったんですね。

そしたら、全然違っていた。そもそも考え方が全然違っていた。

同じような言葉に「資産」というのがあるが、資本はどうもそちらに近いらしい。

「流動資産」というのに近いらしい。要するに生産の「因」、あるいは「元」をなすものだ。流動しないと「因」にはなれない。

流動資産というのは、資産家がその一部を流動化させているわけだが、それは資産を生産に回そうとしているためである。そうでなければ財産をわざわざ不安定化させる必要はない。

これにたいして「資金」というのは、あくまで、まずもって「カネ」である。流れる力を持つカネと言うより、現に流れているカネそのものである。

というわけで片やストック(資本)であり、片やフロー(資金)である、とも言える。

となんとなくわかった気になるが、「じゃぁ元手というのはどっちなんだい」と聞かれると、たちまちしどろもどろになってしまう。

何かそこには言葉が足りないのである。

「それじゃ、これならどうだ」というのが自己資本という言葉で、会社を経営するのには自己資本と借金が必要だ。両方合わせて運転資金となる。

自己資本というのも変な話で、そもそも他己資本というのはない。それは借金だ。金融機関等からの融資と、有期・有利子の債券発行によるものだ。

つまり、自己資本というのはまさに資本そのものであり、借金であろうと何であろうと、当座自分のために使えるものが資金なのだ、とは考えられないだろうか。

これは貸借対照表の世界になる。資金の方はキャッシュフローの世界になる。

もちろん借金には担保が必要なので、それはいわば固定資産の(書類の上での)強制的な流動化でもある。

株式の話は面倒なので省略。

ということで結論。

① 資本と資金とは違う。

② 資本というのは営利という目的をもつ資産

③ 資金というのは営利のために使えるキャッシュ

③ 資金には自己資本の他に借金もふくまれる。

④ 「元手」は、本人の気持ちとしては自己資本を指すが、客観的には借金もふくめた資金を指している。この気持ちのズレが「連帯保証人」の悲劇を生み出す。

昨日は天気が良いので、ちょっと遠出してみた。

ある町のある喫茶店に入った。シャッター通りの商店街の一角、「英国屋」という。かなり傷んでいるが、かつてはブイブイいわせたであろう店だ。なにせ二階席まである。

おばさんが一人でやっているが、よく見るともはやおばさんではない。薄暗い店内で厚化粧だが、10分もして目が慣れてくると、私といいとこドッコイだ。

カウンター席の片隅に座るが、目の前に灰皿。喫茶店というのはこうでなくちゃいけない。

かれこれ小一時間も座っていたろうか、その間に来るはくるは、おばあちゃんの団体だ。

あとで指折り数えてみると、17,8人は来ている。ちょっとおめかしして、むかしの気分だ。

ここは完全におばあちゃんの社交場だ。

だんだん騒々しくなって、鶏小屋のようになってきたので退散した。

人通りの絶えた商店街、どこからこれらの人々は湧いてくるのであろうか。バスに乗ってやってくるのであろうか、人恋しくて。

しかしこののような残り火もあと数年であろう。

アーケード通りを歩いてみた。かどかどには拓銀や道銀の支店だった建物がそびえている.そして3~4階建ての立派な商家が軒を連ねている。もちろんほとんどが空き家だ。

函館の十字街はもうまったくの住宅街だ。小樽の駅前通りは崩れ落ちた商家が残骸を晒している。

江戸時代の宿場は街並み保存されているが、こういう建物は保存してもらえないのだろうか。
それより、地方の町並み、文化をここまで零落させた中央政治の冷酷さに胸が痛む。

 2006/02/20(月)の2チャン記事


競馬客目当て 路上賭博開帳 
京都府警、容疑で9人逮捕 

  京都競馬場に通う客目当てに、キャラメル箱を使って賭博を開張したとして、 
  京都府警組対二課と伏見署などは19日、常習賭博の疑いで、大阪市住之江区浜口西1丁目、 
  工務店経営伊藤剛容疑者(63)ら男8人と女性1人を現行犯逮捕した。 

  調べでは、伊藤容疑者らは、19日午前10時55分ごろ、 
  京阪淀駅から競馬場に向かう途中の京都市伏見区淀池上町路上で、 
  大阪府枚方市の自営業男性(55)を相手に、キャラメル箱3箱を巧みに置き換え、 
  裏に印をつけた箱を当てさせる賭博を開いた疑い。 

  同署によると、競馬の開催日に合わせて路上に机を設置、 
  客が勝てば賭け金の3倍を返す条件で賭博を開いていた。 
  伊藤容疑者ら男4人が交代で胴元を務め、残り5人はサクラや見張り役だったという。 

京都新聞 

 というわけで、未だにデンスケ賭博はなくなったわけではない。

だまされたことがないからいうのだが、非常に大掛かりで組織的だが、リスクの割には見返りの少ない詐欺で、一種の伝統芸能であり「文化遺産」である。

主犯の職業が工務店経営というのも、いかにもそれらしい。

ところでデンスケの語源となった増田伝助であるが、どうも氏素性がはっきりしない。

多くの記事では栃木県足利警察署の刑事で、一説では署長となっている。

彼が1935年に宇都宮競馬場の場外で行われたいたルーレットもどきの賭博を見抜き摘発したことからその名がつけられたというが、どの記事も伝聞であり、真偽の確かめようがない。

2ちゃんの発言にこんなのがあった。

増田伝助は、1990年か91年頃に亡くなったはず。 
新聞に死亡記事が出てて、デンスケ賭博の語源がわかった記憶がある。

もう少し調べると、

増田美正隊長は長身のキリリとした美青年。 父君は増田伝助氏という栃木県警の名捜査官。 親子二代の警察官だ。

というのもある。

そこで増田美正で検索すると、

警視庁第六機動隊長・増田美正警視(東北大・昭和35年組)

秦野人事により新設された上級職の増田美正隊長指揮のミニ機動隊・六機」

と、いずれも佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』に名が出てくる。

ということで、誰かその記事を探し出して紹介してくれると良いのだが…



一応、宮川論文は読み終えたが、感想すらも述べることができない。

肝心なことが何一つ分かっていない。

とにかく調べなければならないことが山ほどある。

とりあえずはそれを書き出しておこう。

第8稿について初めて日本で論じたのが、大谷之介さんで、その論文は1984年の発表である。

2014年05月25日 ネットで読める大谷論文一覧 を参照のこと

そして2008年に第2部準備草稿が刊行された。

しかし、大谷さんの論文から30年経った2014年でも、宮川さんの論文を見る限りまだ決着はついていないようだ。


わからない用語集(主にウィキから拾ったもの)

資本の循環 過程論

ウィキでは、資本の循環とは

①資本家が貨幣で商品を購買する購買の段階(これも流通過程)

②資本家が商品を生産する生産過程

③資本家が商品を販売する流通過程

三つの過程を循環するという資本の運動を指す。

と説明されている。

かっこよく書くと次の通り

G(貨幣)─W(商品)…P(生産)…W’─G’

G―W が①、W…P…W' が②、W’―G’ が③に相当する。

うむ、そうか。②と③は問題ないが、①は世間一般から見れば流通過程の一風景ではあっても、資本家にとっては生産過程というか生産準備過程みたいなものだ。

だから①も流通過程だとするウィキの説明は間違い(一面的)なのだ。

これから起業しようとする資本家にとっては会社の看板を掲げた日が創業記念日だ。

「資本論」というのは富の生産を論ずる本なのだから、基本的には資本家の目で論じなければならない。世間(商人)飲めで論じてはいけないのだ。

ただ1回目の投資と再生産の投資とは変わってくるだろうがそのへんはよく分からない。

商品資本の循環図式

別に難しい話ではない。

最初の貨幣の循環過程は①から始まって②,③を経て①に戻る。

これを商品の立場から見ると、まず③から始まり①、②を経て③に戻るだけの話である。

貨幣から始まるのを「形態Ⅰ」、商品から始まるのを「形態Ⅲ」という。生産からだと「形態Ⅱ」ということになる。

ただし詳しく話せば大変なようだ。なぜならそこには生産と次の生産のあいだの継ぎ目部分(生産物と生産物の交換)がふくまれているからだ。

その継ぎ目部分を説明するために、第2部第三章が「商品資本の循環」(形態Ⅲ)にあてられている。

いずれにしてもここまでは「言葉」だけだ。

結局言いたいのは、生産品が別の生産品と交換されそれが生産資本となる「継ぎ目」となるゆえに出てくる特徴だ。

それは①一般流通過程(総流通)の中で、②貨幣(非資本財)を仲立ちとして、③一般的(消費的)売買と混在しながら、④商品対商品として、すなわち剰余価値をふくむものとして相対する。

これを全体として見れば、流通過程が再生産過程の媒介として機能していることになる。


「貨幣=ヴェール」観

この見出しはウィキにはない。

コトバンクに世界大百科事典からの引用がある。

A.スミスからリカードへと,価値論にもとづく分配論の体系化が進むにつれて,貨幣に関する議論は経済システムにとって本質的でないような扱いとなった。

貨幣は単に実物の交換取引を容易にするための手段であり、雇用や生産、消費などの経済行動に影響を与えることはないとされた。

そして実体経済をおおうベールのようなものにすぎないということになった。これを「貨幣ヴェール観」と呼ぶ。(世界大百科事典)

これではさっぱりわからない。

同じコトバンクの「貨幣ベール説」には、以下の説明がある。

貨幣は実物経済のうえにかけたベールのようなものにすぎず,実物経済の動きを円滑にはするが,その本質にはなんの影響を与えるものでもない。

経済現象の本質を明らかにするには貨幣というベールを取去って,実物経済それ自体を分析しなければならないという考え方。

貴金属ないし貨幣こそが富と考えた重商主義に対する反動の強かった古典学派の時代からケインズ革命にいたる頃まで有力な貨幣説であった。 

何という分かりやすい解説! vもmも使わなくても、ちゃんと説明できるのだ。ブリタニカ国際大百科事典からの引用だそうだ。

これはについてはマルクスもその通り考えていたと思う。

そこまで言いながら、貨幣資本が生産資本となっていく「変態」の場面では、実物経済学者たちが貨幣と流通過程にしばられてしまっているという矛盾も、浮き彫りになってくる。

スミスのドグマ

この言葉はウィキにもコトバンクにも出てこない。経済学一般に知られた言葉ではなく、資本論研究者のあいだの「業界用語」のようだ。

宮川さんがアダム・スミスのドグマというのには価値「分解」説と価格「構成」説がふくまれているようだ。

このうち価格構成説については当初よりマルクスは批判的であるが、価値「分解」説については第8稿で初めて克服できたというのが宮川論文のキモである。

これによって初めて再生産論が十全なものとなったということらしいが、いま考えると、とんでもない論文を読んでしまったことになる。


その他、宮川論文には

循環-再生産論

資本循環と一般的商品流通との重層性

生産物の“転態

可変資本-労賃関係把握

個人的消費の循環

貨幣還流法則

資本-収入の相互転化とその把握

資本の費消

などの「術語」が並んでいるが、ネットでこれらの言葉を探すのは困難であり、言葉として熟しているとは言い難い。

業界内部の言葉を「常識」のごとく使われるのには参る。しかしそもそも出処が「業界誌」なのだから文句を言っても仕方ないか。

とりあえず、宮川論文はこれで一旦おしまい。


ドヴォルザークのバイオリン協奏曲ですごい演奏を見つけた。

スーク・ノイマン・チェコフィルの演奏がとにかくひどい音で、聞くに堪えない。諏訪内さんの演奏も良いのだが、古いアップのためか音がくぐもる。

何かもう少し良いものがないかと探してみた。

Johanna Martzy

という、聞いたこともない女流奏者の演奏で、フリッチャイとRIASがバックをつとめている。1953年の録音らしい。

dvorak

DGGの正規盤だからそれなりに由緒ある録音なのだろうが、かなり聴き込んだLP(モノ)からの盤起こしで、かなりスクラッチ・ノイズが気になる。オケの音はかわいそうなくらい貧弱だ。

SERIOSO SERIOSO さんも流石に気になったのか、同じ演奏を2ヶ月後に再アップしている。こちらは同じDGGでもヘリオドール・レーベルで違う盤のようだ。ステレオと銘打っているがもちろん疑似ステだ。

もちろん、ヌヴーよりはるかに音質は良い。たぶんリマスターして出してくれれば相当の音質で聞けると思う。

とにかくバイオリンの音色に酔いしれるべき演奏だ。どこまでが演奏家の腕で、どこまでが楽器の良さなのかは分からないが、低音での繊細さと高音での天まで伸びていく輝きが有無を言わせずに迫ってくる。

クレモナの名器を使用してたらしいがさもありなんと思わせる。

気になってヨハンナ・マルツィの音源をいろいろ探してみた。一世を風靡したらしく結構な音源がある。しかし結局のところこの演奏一発の人のようだ。結局名器に足を引っぱられてしまったのか

悪くはないがちょいと臭い。ヌヴーとはレベルが違う。この人でなければという人でもない。ブルッフあたりを入れていればもう少し人気が長持ちしたのではないかと思うが。

P.S. Beulah さんという方がものすごい音質でリマスターしている。これはリマスターが専門の会社のようで、デモンストレーションとして抜粋(約10分間)がアップされている。


Ⅳ どこからマルクスの考えが変わったか

やっと最終章までたどり着いた。

「拡大された視野」への転換時点はテキスト文脈上どこであろうか? というようなことだから、ここはあまり難しい話はなさそうだ。

1.旧来の認識層から「分水嶺」へ

文学的な標題だが、「どこから変わり始めたか」という話らしい。

宮川さんはここだと断定している。

第8稿第3篇第19章第2節「アダム・スミス」の4項「A.スミスによる資本と収入」の記述が終わったところ。そして「5.総括」が始まる時点。

ここでマルクスはこう書いている。

ばかげた」価格「構成」説が「よりもっともらしい」価値「分解」説定式から生まれてくる。しかしこの価値「分解」説もまた誤りである。

これを宮川さんは以下のごとく解説する。

価値分解説というのは(生産物の)交換価値のうち、成分 v を労賃に「分解」する操作そのものである。

これがよく分からない。たしかにいきなり労賃が出てくるのはおかしいといえばおかしい。貨幣資本は剰余価値を生む商品である労働力商品と交換されたのであり、貨幣資本という資本形態が労働力という資本形態に“変態”されたのである。

ただ現象的にはたいした違いはなさそうだが…

とにかく、宮川さんは第3篇第19章第2節の第4項と第5項の間に明確な切断面があると強調する。

第19章第2節の「1.」〜「4.」までは,第1稿以来踏襲されてきた価値「分解」説の受容もしくは留保的立場に止まっていた。

しかし同節「5.総括」にいたると,評価の決定的転換が起こる。そして価値「分解」説および資本-収入転化命題にたいする踏み込んだ批判がくだされる。

果たしてこの「分水嶺」がどれほどまでに重要なものなのか、このへんはとりあえず宮川さんの意見を拝聴する他ない。

2 線分分割の比喩

3 編集手入れによる異なった認識層の混交

このあと、エンゲルスの編集がいかにこの切断面を覆い隠したが語られるが、ややこしい話なので省略する。


まとめに代えて

ここから宮川さんはかなり大胆な議論を始める。

ここまでの議論にまったく同感というわけではなので、と言うより良く理解できていないので、御説拝聴にとどまるが。

A. 第8稿は古典派スミス・ドグマ再生産論に対する反逆であり、マルクス独自の再生産論樹立の歩みである

つまり、第8稿以前の再生産論は第8稿に照らし合わせて再構築しなければならないということである。

B. 1861-63年草稿は、ケネー経済表研究とスミス・ドグマ(v+m)の批判的摂取を中核としていた。

C. 資本論第1部刊行のあと着手された第2稿 (1868 - 70 年)では、第1稿の考察を継承しつつ再生産過程の把握を試みた。

それはスミス・ドグマの枠組みに制約されていた。すなわち

①消費手段部門から始まる社会の3大取引

②貨幣ヴェール観に基づく貨幣還流運動で締め括る構想

③それを支える資本-収入転化把握および価値「分解」説の受容と適用

がそれである。

D. 第5稿〜第7稿 (1876 - 1878年) では、第1篇資本循環論の彫琢と仕上げがなされた。

これは古典派スミス・ドグマ再生産論への反逆の準備であった。

資本循環と一般的流通との連繫が「同時重層的」関係として確定された。

これにより貨幣資本や商品資本をめぐる貨幣・商品機能と資本性格とのあいだの区別・関連づけが明瞭になった。

この宮川論文でもっとも力を入れているところである。同時にもっとも難解な部分である。

あらためて読み直してみても核心は良くわからず、挑戦的で無内容な形容詞だけが踊る。

E. 宮川さんの最終的結論ということになるが、スミス・ドグマの否定は第5稿〜第7稿における資本循環論の仕上げと,第8稿における価値「分解」説の決定的払拭という三段跳びでなし遂げれられた。

ただこの論文では、第5稿〜第7稿で資本循環論をゴシゴシやった理由とか、きっかけについては触れられていない。

最後に宮川さんはいろいろな理由を上げて、“混乱の責任を編集者エンゲルスに負わすことはできない”としているが、内容的には間違いなくエンゲルスに負わせている。


Ⅲ 資本循環論の仕上げ

1. 資本-収入転化関係の論点化

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

3.貨幣を資本にするもの

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

ここまでが前回記事。今回はⅢ章の後半部分。

5.第2稿の再生産論 その限界と混迷

次に第2稿の「再生産論」についての記述だ。

再生産論は資本-収入転化関係論から導き出されるらしい。したがって資本-収入転化関係論が誤っていれば、その誤りが再生産論にも持ち込まれることになる。
ところで、「資本-収入転化関係論」というのが分からない。しかしそこが分かっていないと、この先の議論はさっぱり見えなくなってしまう。
これについての説明はないのだが、前後の文脈から判断すると、資本家が貨幣資本を使って生産のための仕込みを行う過程のようだ。平ったくいえば労働者を雇い、原材料を揃えることだ。
これは購買活動であり流通過程の一部だ。それと同時に生産と次の生産の継ぎ目だ。これがないとピストンの上下運動は回転運動にならない。
ここは資本論の要諦をなすところだけに非常に難しいが、なんとかかじりついていこう。


宮川さんは、第1稿の再生産論にふくまれる問題(誤り)を次の二つにまとめている。

(a)「資本の費消」という不条理きわまる表記

(b)固定vs流動状態という機械的対立での資本・収入規定の認識

まず「資本の費消」について

第2稿第1章では、資本循環について触れられる。ここでマルクスは、資本循環G-Wが一般的商品流通と「絡み合う」ことを明らかにする。

これに続く第2,3章では,流通手段についていくつかの規定をおこなう。そこでは第1稿を引き継いで、スミスらの資本-収入転化把握を受け入れる。

その結果,以下にみるようにひどい混迷に陥った。

「貸し前された£5000の資本は,消費されている。それはもはや実存しない」(第2稿第2章) 

「可変資本として前貸しされた貨幣資本は、労働者たちによって収入の流通手段として投じられる」(第2稿第3章)

つまり資本が転化するところの労賃収入によって、(資本が)費消ないし消尽されてなくなる

ということである。

貨幣形態の固定vs流動状態という機械的対立 について

「貨幣はそれが流通するあいだには機能しつつある流通手段でしかない。貨幣がそれ以外の機能を発揮するのは貨幣が流通していない期間のみである」(第2稿第3章)

宮川さんはこの記述を以下のように批評する。

資本・収入規定と流通手段とが,固定と流動状態という排他的な対立関連で捉えられてしまった。

貨幣通流の感性的動きにとらわれた偏った一面的理解というほかない。

分かるような気もするが、今ひとつスッキリしない説明である。もう少し単純に言えるのではないか。つまり仕入れ活動により貨幣資本は非貨幣資本(労働力商品をふくむ商品資本)に姿を変える。しかし非貨幣資本といえども購入された商品であり、商品としての流動性は持っている。
だから資本(貨幣資本をふくむ)において流動性で分類するのは間違いである。本質的な特徴は、再生産過程においては過去の生産物が資本であるということであろう。
どう表現すればよいのかは、またあとで説明があるだろう。

宮川さんはこれらの誤ちがどこに起因し、どう修正しなければならないかを下記のごとく述べる。

その克服には,古典派の貨幣ヴェール観を払拭し循環-再生産論の視点からの再構成が求められる。

しかしこれが分からない。

貨幣ヴェール観とは何か、循環-再生産論とは何か、「再生産論」一般とどこが違うのか…

宮川さんはさらに言葉を続けるが、ほとんどおまじないにしか聞こえない。

社会の諸資本の種々な規定(不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など)での独自な自立的循環過程が相互に絡み合い条件付け合いつつどのように進行するか,ならびにこれと絡み合いこれを条件づける収入循環がどのように成就されるか,これらを明らかにする課題が,浮上する。

なんとか読み解くと、再生産論の主題としては

①社会の諸資本の独自な自立的循環過程の全体像

②諸資本の循環過程を規定するものとしての、不変資本・可変資本,流動資本・固定資本,貨幣資本・商品資本,また貨幣の種々な諸機能など

③諸資本の絡み合いと条件付け合い

④資本循環過程への収入循環の関与

などがあげられるらしいが…

たしかに、ここまで行くとこの論文の主題ではないな。

6.資本循環論 第5稿〜第7稿での3つの到達

第1,第2稿での資本循環論の誤りがどう克服されていったか。それがこの説では取り上げられる。

A) 貨幣と貨幣資本との取り違え錯誤の批判

マルクスは資本循環と一般的商品流通とのあいだにある重層性を把握した。

これによって,「貨幣資本」を構成する成分,すなわち「貨幣」と「資本」という二つの要素が、それぞれ独自の性格を持つことが明確に区別された。

そのことから、二つの要素を有機的に関連づけることが可能になったという。そう言われても分からない。

「貨幣機能を資本機能に転化することができるのは,この〔資本・賃労働の階級〕関係の定在である」(第7稿)

宮川さんはこう説明する。

これにより、「貨幣資本」にまつわる「二つの誤解」、すなわち貨幣機能を資本性格に起因させ,またはその逆に資本性格を貨幣機能に由来させる誤りが明らかにされた。

私ならこう書く。

賃労働と資本という社会関係が発生し、この中で貨幣に流通手段だけでなく、価値生み機能という「使用価値」が与えられた。

価値生みの働き(資本契機)をになう限りにおいて、貨幣は貨幣資本となる。(ただしこの表現が正確かどうかは保証の限りではない)

B) 商品資本循環図式の確立

資本と商品流通とを重層的に把握すると,それによって資本循環と個人的消費との絡み合いを適切に組み入れることが可能となる。

重層的、重層的というがどうやれば重層的把握になるのかが明らかにされない。

商品資本循環とは:

商品資本W’が再生産的消費および個人的消費の契機をみいだすことから出発する。

この循環図式においては、商品資本循環を社会的な総資本の運動形態として考察するよう求められる。

ここまではよいがその後のセンテンスが分からない。


こうして形態III (商品資本循環図式)が社会的再生産の考察のための唯一の図式として確定された。

説明はこれで終わりである。

C) 貨幣還流法則の成立

資本循環理解の前進によって貨幣還流運動が法則としてつかみ出された。

ふーん、そうですか

ケネーやマルクス自身の「経済表」の考察の際には,形態的循環を表す還流と通流で描かれる還流とが即自的に一体をなしていたのに対して,資本・収入の形態的循環とそれらを媒介する貨幣の通流運動とが再配置される。

ふーん、そうですか

出発点への貨幣の還流運動は,第8稿第3篇においてはじめて「法則」として示される。

「商品流通の正常な経過のもとでは,流通に貨幣を前貸しする商品生産者の手もとに貨幣が帰ってくる」(第8稿)

これが一般的法則である。

とうことは、資本家は労賃、設備・光熱費、原材料費に加えて、流通にも貨幣を前貸ししているということになるのかな。

ここでは,貨幣の通流が形態的復帰とは切り離された上で,商品流通の正常経過の反映としての貨幣の形態的復帰=還流法則が,単純な商品流通場裏に復元,定着させられている。

再生産過程では,社会的取引の大流れの枠組み(閉鎖体系)のもとで,階級間を媒介する貨幣個片の通流が貨幣の出発点への復帰として,すなわち貨幣還流を描いて現れるという関係として,明確に把握されるのである。

ここもさっぱりわからない。かなり宮川さん、すっ飛ばしている。ほとんど見出しだけの文章だ。まぁ、あとで説明があるのかもしれない。とにかくついていこう。

以上のごとく資本循環論の確立の諸指標を紹介した。

これまでの資本の循環運動は貨幣流通を媒介とせざるを得ない、したがって貨幣流通量に規定されざるをえなかった。

しかし第8稿で示された資本循環論は,このような制約から解き放たれた。

新しい資本循環論は、自立した循環運動としての資本循環の意義と地位を確定した。

これをもって、資本循環論は「再生産論」の範疇の中にしっかりと据えられることになった,

…なんだそうです。

7. 再生産論を資本循環論で基礎づけることの意義

まだこの節は続くのだが、「資本循環論の確立の3つの指標」についての説明が終わったので、新たに節を起こす。

さっぱりわからなかったが、とにかく新たな資本循環論は3つの発見によって完成した。

それでこの資本循環論を使うと再生産論がいかにスッキリするかという話に入る。

まずはマルクスの少々長い引用から。

「生産物の“転態”は生産物の流通を意味する。この流通は、同時に資本の再生産を包括する。

資本の再生産は不変資本、可変資本、固定資本、流動資本、貨幣資本、商品資本への資本の再形成をも包括する。

この生産物の“転態”は、たんなる商品の売買(貨幣による)を前提とはしていない。

重農主義者たちとアダム・スミス以来の自由貿易学派は、商品と商品との転態だけが資本の再生産の前提だとしたが、決してそれにとどまるものではないのである」(第8稿)

このへんでおぼろげながら見えてきたのは、生産物は商品ではないということ、生産物が資本になるためには貨幣を直接の仲立ちとする必要はないということである。

生産物の“転態”といえば、“W’-G”ということになる。ただし資本主義の初期であればW’は商品であり、Gは貨幣ないし貨幣資本ということになっていたのだが、今やその枠に収まるものではなくなった。

だから、再生産と資本の回転の立場から見れば、W’はあくまでも生産物であり、Gは資本ということになる。

“転態”は売買や貨幣が介在してもいいが、なくても十分やっていける。貨幣資本という形態を介在させる必要はないのである。

肝心なことはどういう経路をとったとしても、生産物が最終的に資本になればいい。あえていえば“W'-W"”である。

それでは貨幣資本はどうやって獲得するか、とりあえずであれば蓄蔵貨幣を動員したり、信用を利用するなどいくらでも方法はある。

これらは再生産過程の繰り返しの中では、半ば自明のことであるが、資本循環そのものを単独で取り扱う場合には見過ごされる可能性がある。

その結果、宮川さんの言葉によれば、

資本循環の運動がまさに流通手段(貨幣媒介)や他の資本循環・収入規定などとの絡み合いの関連として問われるときに,これまでの資本循環論の認識の不備や未熟があらわになる。

ということになる。

ということでよろしいでしょうか。
それにしてもマルクスの原文より解説文のほうが難しいというのも困ったものだ。

Ⅲ 資本循環論の仕上げ

例によって、宮川さんの本文に入る前に、私の感想を入れておく。

もう一度、第1稿~第8稿までの執筆年代表を載せる。

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868年執筆

第4稿

1868年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

執筆時期は3期に分かれている。

第1稿は第2部、第3部をふくみ、資本論第1部の刊行前にすでに書き終えている。

第1部の刊行後に、第2部、第3部の清書稿に取り掛かったものと思われる。

ところが2,3,4稿と修正を加えているうちに、部分的修正では追いつかないことに気づいた。

そこから10年間、資本論には手を加えていない。かなり悪戦苦闘したのであろう。あるいは第1インタナショナルの実践活動のほうが多忙であったのかもしれない。

とにかく、76年になってようやく執筆を再開した。それから5年後、マルクスは資本論を未完成のままこの世を去ることになる。

おそらく、本心では第1部でさえ改訂したかったに違いない。

ということで、宮川さんの本文に戻る。ここでは第5稿〜第7稿(1876 - 1880 年があつかわれる。

この章の見出しを「資本循環論の仕上げ」としたが、もともとの題は「資本循環論の仕上げと貨幣ヴェール観の脱却」となっている。

おそらく、貨幣ヴェール観からの脱却が不十分だったから、貨幣循環論に混乱があったということだろう。

そして古典派の資本-収入転化把握と決別したから、貨幣ヴェール観からの脱却が可能となった(ここは逆かもしれない)

その結果、正しい資本循環論が仕上げられた、と宮川さんは判断したから、このような表題を付けたのではないかと想像する。

まず本論の前に前フリがある。

1870年代後半に,マルクスは最終第8稿に先立ってあるいは並行しながら,第5稿〜第7稿に取り組んだ。

これは第2部第1篇 「資本循環論」の改訂稿に相当する。

ここはマルクス循環-再生産論形成史をみるうえで核心的論点であるから,立ち入ってみておく。

ということで、議論はここからいよいよ本題に入るようだ。思わずゾッとする。ここまででも十分ごちそうさまなのに…

1. 資本-収入転化関係の論点化

まず、読者を怖気づかせるさまざまな脅し文句が並ぶ。

資本-収入転化把握こそは,諸成分の「構成」または「分解」の連関の「経済学」表現にほかならない。

ドグマ命題は古典派の価値論である。

それは同時に,資本(・収入)の循環-再生産論,収入分配論でもある。

それは経済学上もっとも解けがたく輻輳した難問をかたちづくってきたのである。

2.マルクスの資本-収入転化論への取り組み

宮川さんの原文にはないが1節を起こす。

マルクスは早くからこの問題に取り組んできた。

① 1857-58年「経済学批判要綱」

「要綱」においては、それは流動資本の考察の文脈で、再生産の連関問題として登場する。

マルクスは賃金=「給養品」説をもとに、「可変資本と労賃との循環」として考察した。

ここでのマルクスはまさに俗流経済学者そのものである。

② 1861-63年 『剰余価値学説史』

「資本と収入との交換」の分析(ノートIX)において資本と労賃の相互関係についてコメントされている。

「労賃が同時に資本家の流通資本部分として現れる」問題は、蓄積とならぶ「なお解決すべき問題」として留意されている。

③ 資本論草稿の第1,第2稿

これについては前述のごとし

宮川さんはこう述懐している。

このように,マルクスは「経済学批判」研究の始めから晩年とくに最晩年の資本循環-再生産論の仕上げ局面にいたるまで,これらの諸命題につきまとわれそしてそれと格闘し続けた,といって過言でなかろう。

3.貨幣を資本にするもの

これまで、価値分解論と資本-収入転化論との関係が不明なまま進んできたが、どうやらここで解明されそうな雰囲気だ。

そのキーワードが「資本循環の重層的関係」ということらしい。また分からない言葉が出てきた。

第7稿では、まず貨幣資本循環の第1段階(G-W)が解明される。

商品流通の第一過程は、簡単に言えば貨幣資本の生産資本への転化である。

より一般的にいえば、貨幣形態から生産的形態への資本価値の転化である。

それは同時に,資本の自立的循環過程にいたる段階でもある。

貨幣機能を資本機能にするものは,資本の運動のなかでの貨幣機能の一定の役割である。

マルクス独特の持って回った言い方だが、貨幣が資本になるのは貨幣そのものが力を持っているからではない、ということだろうな。

貨幣は自動的に資本になることはできず、資本の運動のなかで他の諸因子と複合して資本になるということだろう。

私が考えるには、これはマルクスが第1部の冒頭で展開した使用価値と交換価値の関係と同じ論理(弁証法)だろうと思う。

厳密に言えば弁証法的論理の特殊形式としての「二項対立」の弁証法である。弁証法のより根本的な原理はエネルギーと存在(定在)との矛盾、時間軸の絶対性と相対性(発展性)との矛盾にある

商品は流通過程においては交換価値として現れ、生産・生活過程では使用価値として現れる。

それはまず使用価値(グッズ)として現れ、のちに交換価値の衣を身にまとう。

同じように貨幣は流通過程では裏返しの交換価値として現れ、生産・生活の場面では価値生み過程の触媒として現れる。

貨幣は商品と鏡像関係にあり、鏡の国の商品として捉えられる。

それはまず交換価値として現れ、ついで使用価値(価値増殖機能)を身にまとう。それは資本主義的社会関係の中で付与された「具体的有用性」である。

それは逆説的な裏返しの弁証法的関係なのだろう。

このような論理建てが、ある日マルクスの頭にひらめいたのではないだろうか。

ただその時のマルクスには、「そうだ、貨幣の二面性は商品の二面性と同じなんだ」というところまで得心できていない気もする。

4.貨幣を資本にするもの 宮川さんの説明

と私は読んだが、宮川さんは次のように説明する。

このように一般的商品流通と資本循環とのあいだの関連が,同一の過程をめぐる二つの形態の重層的な関係として概括された。

というから、さあ分からない。

「二つの形態の重層的な 関係」と端折ったが、宮川さんはここのところをもっと御大層な言い方で表現している。

異なった形態規定性の―並列的でもなく継起的でもない―同時重層的な( zugleich oder gleichzeitig ) 関係

これだけ並べられると、分かるものまで分からなくなってしまう。

ただ宮川さんの記述は有力な示唆を提供してくれてはいると思う。

このあと、宮川さんの記述はいっそう難解になる。私の評価基準として、記述が難解なところは筆者がよく理解していないところ、というのがある。

だいたいマルクスがそうだ。「要綱」を読んでいてわからないところは、だいたいマルクスが解答を求めようとして悪戦苦闘しているところだ。

と言いつつ、本文に戻ろう。

(こうして)資本の独自な自立的循環と,単純な規定での商品循環とのあいだの,区別と関連づけを見通す道が切り開かれた。

以下、いささか文学的な表現が連ねられる。

感性的な商品交換のもとで、それに担われつつ「同時に」資本独自の自立的な超感性的 循環(変態)を遂行する過程

流通手段(または商品の持ち手転換)を仲立ちとした資本と収入とのそれぞれ独自の循環諸規定が絡み合って進行するという相互依存関係…

これは,古典派の感性的な交換観 ではけっして 把捉されえなかったし,貨幣通流に偏った貨幣ヴェール観では一面的に歪めてみることしかできなかった 関係である。

こうした資本循環の理解の前進によって,資本-収入転化関係に感性的にまとわりついていた 資本循環と商品流通との諸環が解きほぐされ,それらの再構成が可能になる,つまりは資本-収入転化把握からの脱却に,見通しがつくのである。

まぁ、たしかにそういうことでしょうが、これで反対派が説得しうるかどうかは別の話でしょう。


Ⅱ 「価格構成説」評価の転換の真相

あらかじめ断っておく。私は宮川さんの言う「スミスドグマ」を「価格構成説」と置き換えている。

この置き換えがただしいかどうかは分からない。

いちおう、スミスドグマというのを価値分解説→“その逆は逆”という論理→価格構成説という筋立てだと理解して、この論理全体を「価格構成説」と勝手読みしただけである。この読みが正しいか間違っているかは、読み進みながら検討していきたい。

本文に入ろう。

現行版の第2部では、価値「分解」説が厳しく批判されている。ところが第3部ではその原理が受容擁護されている。

だから、『資本論』を順次読みすすめると,第2部で「誤り」と批判されていた命題が,第3部では「正しい」と唐突によみがえることになる。

この不整合は,マルクスの理論発展史をたどることによって氷解する。

1.「価格構成説」評価の転換はいかに起こったか

『資本論』第3部の材料となったのは、1865年執筆の第1稿である。

ここでマルクスは俗流収入論への誘因となった価格「構成」説を徹底批判して退けた。

その一方で,価値「分解」説を「まったく正しい」と評価して積極的に受け入れた。

そして「分解」説を「構成」説批判の後ろ楯として利用した。

しかし、15年後執筆された第8稿では,「分解」説もまた誤りである、という結論に達した。

そして価値分解説と価格構成説からなる「資本-収入転化」論の全体を否定した。

なぜなら、「商品価値は,それ以上のものには分解されず,それ以外のものから成り立ちはしない」からである。

その真意については後ほど触れるそうなので、わからないままで進むことにする。

2.マルクスの評価転換の実証

しばらく理解しがたい言葉が並ぶので自分なりに読み下す。

スミス古典派をはじめ従来の経済学(J.B.セー,シスモンディ,プルードンら)は,資本と労賃収入とのあいだの関連づけをめぐって、共通する理解を示した。

それを宮川さんは「資本-収入転化命題」と呼んでいる。言葉なのでどうでもよいのだが…

その特徴は、「分配関連の貨幣媒介現象を皮相的に写し取ったにすぎない」のだそうだ。

ある者にとって収入であるものは他の者にとっては資本であるという考えは,部分的には正しいが,一般的に提起されるやいなや,まったくの誤りとなる。(第8稿)

のだそうだが、その理由はここでは触れられていない。

このあと論旨が少し跳んでいるが、マルクスは当初、この「資本-収入転化把握」を受け入れている。

宮川さんは、その証拠として

第3部第7篇草稿(すなわち1864~65年執筆の第1稿)で、「資本-収入転化把握」の受容を表出した章句が17箇所みとめられる。

第2稿(第2部第2篇)でも同様の所見が認められる。

と数えている。えらいものだ。

第8稿での批判は、先に引用した如し。

3.エンゲルスによる混乱の助長

また私の感想から入る。

考えてみれば、第1稿をそのまま第2部、第3部にして発刊してしまえばよかったのだ。

そのうえで、「第2部については後年このように書き直している」と断った上で、補巻として発表すべきだったのだ。断絶があるかないかは読んだ人が判断すればよい。

そうすれば、第8稿の線に沿っていずれ第3部も書き直されるはずだっただろうと、誰しも理解できる。

そしてそのことを念頭に置きながら第3部を読み込むことになっただろう。

ということで本文に戻る。

まずは第3篇第19章「対象についての従来の叙述」

ここでなにかエンゲルスは細工をして、古いテキストの中に第8稿を入れこんだり、順序を変えたりしているらしい。

その結果,異なる認識水準層の章句が入れまじり、ジグザグにまだら模様に叙述文脈を形づくることになってしまった。

そしてその後に宮川さんの中間結論が述べられる。

かたちを顕してくるのは,

① 第8稿冒頭まで払拭できずに受け入れてきた古典派の「資本-収入転化把握」との決別であり、

② その批判による価値「分解」説の終局的批判である。

こうしてマルクスは価格「構成」説だけでなく、それを「もっともらしく」支えている価値「分解」説の誤りをも摘出した。

そして価値-再生産論の認識の新しい「拡大した視野」を切り開いた。

ただしこの最後の段落でいう「拡大した視野」は目下不分明である。


宮川 彰 『資本論』第2部について―スミス・ドグマ批判によるマルクス再生産論の形成  2014年

の読書ノート

Japan Sciety of Political Economy の特集論文である。

はじめに

MEGA第Ⅱ部第11巻が2008年に刊行された。ここには第2部準備草稿がふくまれる。

ついで第4.3巻が2012年に刊行された。

これにより未公表だったマルクスの最晩年の資本論 準備草稿が出揃った。

これにより。第2部をめぐる議論が再燃して いる。

本稿では課題を 限定して,『資本論』第2部形成史に絞り込む。

断続説と継承説

マルクスは晩年の十数年間、第2巻に関連して1868-1881年の第2稿から最終第8稿にいたる諸草稿を書き連ねた。

これらの草稿の相互関連については、「断絶・飛躍」ととるか「継承・拡充」ととるかで多くの議論がある。

最初の火付け役は大谷禎之介であった。彼は当該メガ巻 の編集分担責任者であった。

彼は11巻の『解題』を共同執筆しただけでなく、独自の視点で『資本論』第2部仕上げのための苦闘の軌跡―メガ第II部門第11巻の刊行によせて―』(2009)を発表した。

大谷は

① 2巻補筆の契機は資本循環論もし くは可変資本-労賃関係把握の仕上げであった

② その際、「貨幣=ヴェール」観に基づく貨幣媒介の組入れ処置の克服が課題となった。

③ 資本循環は個人的消費の循環と絡み合い条件づけ合いつつ、独自の自立的循環=再生産過程を繰りひろげるのだが、それはいかにして達成されるのか

が主要な問題意識となったと言う。

そしてその考察の過程で、第2稿から第8稿(再生産論)への飛躍があったと考える。

これは宮川彰、伊藤武ら形成史学者と意見を同じくするものである。

これに対して谷野勝明は「再生産論形成をめぐる諸問題について―第2稿・ 第8稿断絶説批判―」(2011)を発表し、包括的な批判を行った。

その主要な論点は

① 資本-収入の絡み合いの分析が変わっていない

② 再生産論分析基準・貨幣媒介の捉え方に抜 本的な前進がない

③ 第2稿第三章「再生産の実態的諸条件」と第8稿第三章『社会的総資本の再生産と流通」とを比較すると、再生産論の課題の転換があったとはいえない。

以上より、第2稿 から第8稿への連続継承性が存在すると主張した。

この意見には水谷謙治、早川啓造、富塚良三らが賛同している。

 

Ⅰ 問題の所在

1.エンゲルスの編集者「序言」

『資本論』第2部と第3部の材料は,第1稿から第8稿まで8つの草稿である。
 

第1稿

1864~65年執筆

第2稿

1868~70年執筆

第3稿

1868 年執筆

第4稿

1868 年執筆

第5稿

1876~80年執筆

第6稿

1876~80年執筆

第7稿

1876~80年執筆

第8稿

1877~81年執筆

エンゲルスはこの草稿を次のように割り振った。

第2部

第1篇(資本循環) 第4稿と第5,6,7稿

第2篇 第 4 稿と第 2 稿

第3篇(再生産) 第2稿と第8稿

「編集者」エンゲルスは次のように語る

「第3篇は,マルクスにはどうしても書き直しが必要 だと思われた」

そのことを知っているので第8稿を主体としたのである。エンゲルスは、諸知見の吸収があまりにも膨大で、未消化に終わっており、そのために理論展開に齟齬が発生していることを告白している。

2.資本論第2部と第3部との矛盾と不整合

齟齬の理由は執筆年代を見れば明らかである。第2部が書かれたのは3つの時期に分かれる。

第1稿は1864~65年執筆に執筆されている。第1部が書き終わり、自動的に第2部の執筆に入ったのであろう。

1867年に資本論第1部が出版され、いよいよ本格的な執筆に入ったのが68年から70年にかけての第2~4稿であろう。

ところが順調に行っていたはずの第2部出版は突如ストップする。

おそらく、並行して進められていた第3部の執筆が壁にぶち当たり、そこを突破するには第2部から書き直す必要に迫られたためであろう。

いろいろ考えて、第2部から書き直さないと第3部は書けないと悟ったマルクスは、第2部の書き直しに着手する。それが第5~第8稿の草稿となる。

と、ここまでは私の説明。ここから宮川さんの文章に戻る。

3.アダム・スミスの価格「構成」説の否定がきっかけ

宮川さんによれば、流通過程に関するマルクスの考えが転換したのは、スミスの価格「構成」説に対する評価が変わったためである。

この先の話は難しすぎて理解困難であるが、宮川さんの文章を引用しておく。

マルクスは(当初)「スミスのドグマ」をスミス言説に忠実に以下のように定式化した。

「すべての商品の,したがってまた年々の商品生産物の価格は,労賃,利潤,および地代という三つの成分から構成され,またそれら三つの成分に分解される」

しかしマルクスは第8稿において、価値「分解」説は容認するが価格「構成」説は批判している。(らしい)

さらにマルクスは、以下のごとくスミスを批判する。

スミスの価格「構成」説は現象皮相的で 不合理である。 これにくらべて価値「分解」説は“より、もっともらしい”。

スミスの価格「構成」説は価値「分解」説に由来しているが、導出の方法は「その逆は逆」という古典派の「決まり文句」に過ぎない。

これを「資本-収入相互転化」の関係といい、最終的な古典派批判の仕上げの要をなしている。

宮川さんによれば、

マルクスは第1稿および第2稿では価値「分解」説と資本-収入転化把握とを受け入れたが,第8稿では,「まったく誤りである」,とそれを批判した。

そして、この最初の受容と、のちの否定が第2部形成史の歩みの軸線をかたちづくっている。

とし、彼が「断絶」説に立つ所以としている。

「おぉ、大変だ!」とため息が出る。

続きは明日。


息子が偉そうにいう。
年寄りは良いよな、年金が満度にもらえるし…
俺達は年寄りに尽くすだけで、取り分はなくなってしまうし…
バカ野郎
年金は俺達のものだ。
俺達が頑張って積み上げたものだ。
あんたがたが年金の積み上げに何か貢献してきたの?
俺達が積み上げた年金は、俺達が使う。それであなたに何の迷惑をかける事になる?

考えてご覧、
この年金を維持するのは不可能だってことは誰だってわかるでしょう。
引き出す人間のほうが預ける人間よりはるかに多いんだから
こういう時は原資を減らすのが当然でしょう
それで年金体制が維持できなくなるわけじゃないんです
困るのは年金を食い物にしている役人たちだけでしょう
彼らは年金制度そのものではなくて、現在の年金規模が縮小することが問題なのです

だから彼らは年金規模を絶対に縮小させない。そしてそのつけをあなた方に回しているんです。
そして給付額を減らそうとして、あんた方を焚き付けているんです。

「払える掛け金」で年金を運用せよと、なぜ言わないんですか。
それで足りなかったら原資を取り崩せば良いんです。あなた方は官僚に踊らされてるだけなんです。

ただし、公務員(議員をふくむ)のど外れた恩給と職業軍人への恩給はやめるべきです。途上国では財政赤字の半分は公務員の年金だ。正当な掛け金を払っていないのに不当に受給するいわれはない。

資本論第三巻第9章はえらく難しい。えらく難しいというのは記述が難しいだけでなく、そもそもそう言えるかどうかが未確定だからである。結論としては、

社会のすべての生産部門を総体としてみると、生産された諸商品の生産価格の総計は、諸商品の価値の総計に等しい

ということになる。

ただこの断言は、実のところ確証されているとは言い難い。あまりにも多くの変数がありすぎる。

これに流通費・金利などさまざまな費用が上乗せされた上で売買価格になるのだが、剰余価値の視点で大づかみにいえばそう言っても間違いないのかもしれない。

ただ私にはマルクスが重要な事項を忘れているように思える。それは労働者が消費者として立ち現れるまでの時差である。

労働者は原則として前もって賃金を受け取る。そして生産過程に入るのだが、生産過程を送るあいだも労働者は生活過程において消費している。

この消費過程において労働者は発展し、より多くの欲望を持つようになる。

したがって前渡しされた賃金(労働力の価格)以上の欲望を伴って市場に消費者として登場することになる。

したがって、需要と供給の関係においては、つねに需要が供給を上回っていることになる。

したがって市場価格は生産価格をつねに上回るはずだ

問題は市場価格と「諸商品の価値」(交換価値)との関係が、マルクスの文脈上で不分明なことだ。


いずれにしても偉そうなことを言うにはまだ早すぎる。もう少し勉強が必要だ。


ロシア音楽の年表でいろいろ地名が出てきますが、どうもピンときません。
少し勉強してみました。
江戸時代もそうなのですが、俗に「偉人」という人の多くは地方出身です。地方の小エリートが都会に出て勉強し偉くなっていくというのが、この時代(封建時代)の特徴のようです。なぜそうなのか、よくわかりませんが、地方には独自の文化があってその土壌が「偉人」たちを育んだのかもしれません。地方の疲弊は国の文化の多様性を失わせ、国を衰退に導いていくのかもしれません。

それはともかく、地名を地図で探すのですが、著作権の関係なのかまともな地図にヒットしません。グーグル地図は美しくないのですが、地名検索にはこれを使うしかありません。

とりあえず全体が分かる地図を掲載します。(画面上をクリックすると拡大されます)

Russiamap

RUSSIA - EUROPEAN REALM

というサイトからの転載です。

19世紀の地図も探しています。

ありました。

Russland und Scandinavien (Russia in Europe and Scandinavia), 1873

という地図で、ありがたいことにラテン文字表記です。

15 Mb  9345x7606 px

というすごい画像で、光通信でもダウンロードに数分を要します。(ロシアのサイトなので、向こうの問題かもしれない)

こちらは細切れにして紹介します。

1.ヴォトキンスク

まずはチャイコフスキーの生まれたヴォトキンスク。ウィキには次のように紹介されています。

ウドムルト共和国の首都イジェフスクの北東50キロメートルに位置する。カマ川の支流ヴォトカ川が流れることからヴォトキンスクという。

これって分かりますか。

ヴォトキンスク

これがグーグル地図です。ボルガ河畔のカザンから東北東に直線で300キロ、東京―名古屋くらいです。

道路事情にもよりますが、馬車でも5日間でしょうか。

このヴォトキンスク、1873年の地図には名前すら載っていません。相当山奥の田舎町だったようです。

もともとこのあたりはウラルの山の中で、フィン人系の先住民が住んでいましたが、鉱山が発見され、18世紀末からロシア人が入り始めたようです。

チャイコフスキーが生まれた1840年ころには文化のブの字もなかったと思います。

現在ヴォトキンスクは人口10万を数えますが、これは第二次大戦中に重工業がウラル山中に疎開したことがきっかけになっています。戦後は弾道ミサイルの生産拠点となっており、アメリカの監視要員が駐在していたこともあったようですが、その後追放されたとの報道もあります。

最近は人口減少の兆しもあり、前途はなかなか多難と思われます。


いろんなページからチャイコフスキーのボトキンスクでの生活を辿ってみます。

ボトキンスクは鉱山の町で、父イリヤは鉱山で政府の監督官をつとめる貴族でした。といっても、家系的にはウクライナ・コサックの出で、医師であった祖父の努力によって、貴族に叙せられた家系です。

母アレクサンドラはフランス人の血をひく女性で、先妻が死別したための後妻です。アレクサンドラの祖父はフランス革命をさけて亡命してきたフランス人の貴族でした。

母はチャイコフスキー自身が近寄りがたいと思うほどの美人で、フランス語とドイツ語が達者な教養のある女性でした。ピアノも弾き、プロの歌手ではないけれど素晴らしい美声の持ち主だったといいます。

チャイコフスキーが幼い頃は父の稼ぎも良く、彼が4才の時フランス人女性を住み込みの家庭教師として迎えます。ファニー先生は勉強を教えるだけでなく、世界の歴史や童話や易しい小説を読んで聞かせ、いつも側にいて優しく見守ってくれていました。

モーツァルトのオペラやシュトラウスのワルツが大好きで、覚えた節を自分なりにピアノで弾いたりするなど音楽的才能はあったようですが、特別教育を受けた様子はありません。

彼は7歳でフランス語による詩を作り、オルゴールを聞いて一人泣いているような子どもだった。(Rimshotさん

8歳のときに一家でモスクワに出たあと、ボトキンスクに戻ることはなかったようです。

0~8歳までの時期というのは、強烈な印象を残しているものと思いますが、直接ボトキンスクの思い出を題材にした曲というのはないようです。





カティア・ブニアティシュビリというピアニストがいる。名前を憶えるのにだいぶ時間がかかった。
グルジア出身でおよそ30歳くらい。ヨーロッパでは大変な人気らしい。
たいしたコンクール歴もないが、ルックスが良い。豊かなバストでたまらないお色気だ。ムター人気と似通ったところがある。しかしこの人の見せ場はルックスではなく、ハリウッド女優も真っ青のパフォーマンスにある。
独奏は大したことはないが、コンチェルトになると俄然すごい。管楽器奏者の独奏場面では口には笑みをたたえ、目では睨みつける。「にっこり笑って人を斬る」眠狂四郎の趣きだ。
要するに“あんみつ姫”さながらのスーパーわがまま姉ちゃんなのだが、大きな瞳で見つめられてニッコリ微笑まれると、ついその気になってしまうというあんばい。これには男女の差はなさそうだ。
もちろん毎日一緒に暮らしたくはない。Never and Neverだ。

グリークをお勧めする。とくに終楽章はホロビッツの爆演を思い起こさせる。


「労働力価値内在説」なるもの

ここに至って突然論理が晦渋になる。

晦渋なのは著者自身がこんがらかっているからみたいだ。「金子ハルオ氏とのあいだで論争になっている」とか言っているが、金子先生を前に少々態度がデカい。こんなものは論争でもなんでもない。

櫛田さんは、“労働力商品が労働者の身体と不可分な存在形態をもつ”ことを強調する。

それは、私がかつて批判したある言葉を思い起こさせる。「患者は医療の労働主体でもあり労働手段でもあり労働対象でもある」という三位一体説だ。なぜなら、“患者はその身体と不可分な存在形態をもつ”からだ。

やはり「身体と不可分な存在形態をもつ労働力商品」というだけでは不十分だろう、奴隷(人間商品)と同じことになってしまう。無理やり身体と勤労能力を切り離して「ケガと弁当は自分持ち」というのが近代労働者の姿ではないだろうか。


以下、面倒なので論点を微細にわたって検討することはしない。結論部分だけ引用する。

① 労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”、その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

② これは経済学として許容される理論化である。

「…し得る」とか「許容される」と言われれば、まぁ仕方ないが…ということになる。

直接の批判にはならないが、このあたりの話題に関して私の考えを述べておきたい。

動物というのは植物と違って、みずから栄養物を作り出すことはできない。

「生きる」というのは、基本的には消費することである。ただし人類は社会を形成することによって、生産することが可能になった。

ただしそのためには働かなくてはならない。最初は生きる時間のほとんどが働くことだったが、だんだん労働時間は短くなった。そして余暇、すなわち「幸せ追求時間」が生まれた。

最初は余暇のほとんどは支配者のものだった。しかし生産力が拡大するにつれて徐々に余暇は普通の人にも広がるようになった。

余暇というのは労働時間以外のすべてではない。そこから睡眠・食事・通勤などが差っ引かれる。これらは純粋な労働力商品の再生産の時間だ。さらに勉強・子育ての時間も広義の労働力商品の再生産のためのものだ。

それ以外の時間が純粋な余暇である。それを純粋な消費活動(消費的消費)だといってもよい。

この労働力商品の再生産をふくまない「純粋な消費活動」から生まれるもの、たとえ量は少くても本質的な生産物は、衝動にとどまらない人間的「欲望」である。それは希望、意欲であったり、愛や情熱であったり、具体的な物欲であったりする。
たしかに余暇を“労働力商品の生産過程”と規定することも経済学的には許容されるかも知れない。

しかしそのようなワルラス均衡的「経済学」のいかに貧しいことか。

申し訳ないが、以後の文章については省略させて頂く。
最初にも書いたように、以下の記述は卓抜である。

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

できれば、それを生産対消費、労働対享受、充足対欲望、それらを抱合した「生活過程」という枠組みの中でとらえていただきたい。
そして、大きな人類的活動のサイクルの中で、これらを社会発展史的に特徴づけていただきたいと願っている。かならずや経済学(とりわけ剰余価値論)はそのための不可欠なツールとなるだろうと思う。



論文の目次は下記のようになっている。

1 本稿の課題

2 賃金労働者の消費生活過程における価値法則の作用

(1)賃金変動と労働力商品供給構造の変化

(2)労働力商品への価値法則適用の実体的根拠

3 労働力商品の生産過程と労働力商品価値の実在性

(1)耐久消費財・休日の価値村象化問題

① 耐久消費財の価値村象化

② 休日の価値村象化問題

(1)サービス商品と社会的間接賃金

(2)妻子・高齢者の生活費の価値対象化

この内、「1.本稿の課題」 というのが最初の4ページを占め、問題意識が尽くされているので、そこを読んでみたい。

次に進むかどうかはそこを読んでの感想次第ということにしておく。



まったく段落がないので、こちらで小見出しを付けていく。

1.労働力は人間的諸能力の統合体

まず櫛田さんは「労働力は人間的諸能力の統合体」であると定義する。

そして、二つの特徴を上げる。

A) 人間の身体と不可分な存在形態を有する非有体物であって、物質的財貨とは異なる存在形態を有している。しかしながら、労働力は実在的な範疇である。

B) 労働力は十全なものとして生まれながらに人間に備わっているわけではなく、人間の消費活動をつうじて主体的につくりだされる。

前の記事に書いた私の感想からすると、この定義はもはやアウトである。労働力は人間的諸能力のほんの一部でしかない。

しかしながら、あまりこの問題に拘泥するつもりはない。マルクスは資本論執筆の時点では労働力についてはかなり割り切って考えている。

一言で言えば職務遂行能力(Arbeitskraft)である。決められた仕事を、決められた方法で、決められた時間内に遂行する能力である。資本家がもとめている商品はそれである。

2.消費生活過程は“労働力商品の生産過程”

労働力商品は消費生活過程というそれ自身の特殊な生産過程を有している。

賃金労働者の消費生活過程は“労働力商品の生産過程”である。その消費活動は“労働力商品の生産活動”として規定し得る。

この点についてはまったく同感である。

ただし、前段で「労働」の枠組みが人間的諸能力の発揮とイコールになっているので、消費活動が労働力の再生産とイコールになってしまう。

もしそうであれば、ここでいう労働力の再生産過程は、まさに「疎外された労働」とその再生産にすぎない。
人間は食うために働くのであるが、働くために食うのではない。キリストも言うではないか、「人はパンのみにて生きるにあらず」

3.余談: 消費生活過程の最大の生産物は「欲望」

櫛田さんは、労働と享受についての概念を未整理なまま展開するきらいがある。

これは日本のマルクス主義哲学に共通する傾向なのだが、労働の度外れの強調である。例えば芝田進午さんは教育の場には二つの労働があると指摘する。一つは教育労働であり、もう一つは「学習」労働である。そして教育の場とは教育労働と「学習労働」が貼り合わさったものだと主張する。

教育労働はともかくとして、学習することまで労働にふくめるのは明らかな間違いである。

マルクスは労働と享受を2つの人間的活動として対置している。社会的に生産と消費として現れる活動は、諸個人においては労働と享受として現象する。学習は享受する活動なのだ。

享受はただたんに消費するだけではなく、それを喜びとして受け取り、みずからの内的発展・成長の糧とするのである。

単純な享受の過程の中では、欲望は解決され消滅するかのように見えるが、繰り返す営みの中で欲望は多様化し、ゆたかに発展するのである。「豊かさ」とは何よりもまず欲望のゆたかさであり、「豊かな社会」とは欲望に満ち溢れグイグイと成長していく世界なのである。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。(2017年02月19日 カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

これらのことは「経済学批判」に展開されている。「経済学批判」(要綱)は「資本論」の準備稿として軽視される傾向にあるが、経済学の原論的枠組みを確定した重要な文章だ。

まだいいたいことはあるが、このくらいにしておく。


櫛田豊 「労働力商品への価値法則の適用と 労働力価値内在説の展開」 を読みはじめる

森谷尚行先生にそれとなく急かされて、読むはめになった。

まずは題名を見ての第一印象。

正直のところ、のっけからうっとうしい。
1.人間的諸活動と人間的諸能力

経済学的な概念操作としては、労働力も労働力商品も正しいのだが、それら人間まるごとの生活を表現するものではない。

より豊かに、より幸せになろうとする諸活動は、そのすべてが労働の枠にくくれるものではない。そしてそれらの諸活動に対応して養われる人間的諸能力も、労働力の枠にくくれるものではない。

人間的能力のうち勤労能力(戦闘能力と並んで)が取り出され対象とされるのは、社会の誕生、とりわけ階級社会の誕生以来である。
2.人間商品から労働力商品へ

当初、勤労能力はそれが属する諸個人をまるごと含めた「人間商品」(奴隷)として売買された。「労働力」が商品化されるためには、勤労能力をふくめて抽象的なものへの価値付け、数量化が必要である。そのためには、ありとあらゆるものが商品化され莫大な量を持って取引される市場が必要である。

このようなユニバーサルな諸市場、潤沢な通貨供給(とくに新大陸から)、そして経済社会構成体内部での分業の発展の3つを基礎に、産業資本が自立的に登場していくのである。
3.「価値法則の適用」はすでに行われている

前置きが長くなったが、「労働力商品の価値法則の適用」はすでに行われているのである。「人間商品」(奴隷)から労働力商品への転換は、価値法則の適用無くして実現しないと思う。
「価値法則」についての私の理解が不十分かもしれないが、歴史的に考えれば、生産過程に価値法則が適用されたからこそ人間的諸能力から勤労能力が取り出され、労働力として措定され、さらに商品化されると見ても良いのではないか。

浅学ながら、私にはそう思えてしまうのである。

後段の「労働力価値内在説」はよく分からない。おそらく前段の「労働力商品への価値法則の適用」によってもたらされる結論なのだろうが、前段について不承知だから多分読んでもわからないだろう。

最初から分からないだろうと思っている論文を読むのは「いささか辛いな」と考えているところである。


ブラームスのクラリネット5重奏曲といえば、ある意味“暗さ”が売りの曲だ。
それをムード音楽のように演奏している人がいる。
邪道とはいえ、これが意外に良いのだ。
Clarinet Quintet in B minor, Op. 115 - Autumn mood, Johannes Brahms

というYou Tubeのファイル。
Chamber Music Society of Lincoln Center
という団体の演奏で、ライブ録音らしく終わりに拍手が入る。
クラリネットは、一瞬耳を疑うような音を出す。

しかし、それでも良いのだ。
第一楽章の第一主題はスローなワルツだ。「うーむ、そうか」と納得してしまう。

だいたいこの曲の演奏はクラリネット奏者の名で呼ぶことが多い。ウラッハ盤とかライスター盤という具合だ。しかし、この演奏ではクラリネットは5重奏の1メンバーで、タクトは第一バイオリンが握っている。
それが良いのだろう。こちらはブラームスを聞きたいので、ライスターを聞きたいわけではない。
この線で、もう少し上手いグループが演奏してくれないだろうか。






マレー・ペライアのゴールドベルク変奏曲を聞いている。

ずいぶん色々聞いてきたつもりだが、やっぱりこれしかない。

と思って、ついに買う決意をした。

と思ったら、アマゾンで三種類も出ている。

① MURRAY PERAHIA THE FIRST 40 YEARS Box set

これがなんとCD73枚組で2万6千円。

流石に「うーむ」と唸る。生きているあいだに全部聞けるだろうか。

MURRAY Perahia AWARDS Collection Box set

これはCD15枚。なんとかなりそう。値段は4234円という中途半端なお値段だ。タワーレコードでは3622円になっている

MURRAY PERAHIA PLAYS BACH CD, Import, Limited Edition

これがCD 8枚。もちろんゴールドベルクも入っている。3369円。

これは②で決まりだね。

長年、ソニーで録音していたペライアがグラモフォンに移籍して、腹いせにソニーが投げ売りしているらしい。

 

 

2015年04月18日 世界の空港 喫煙スペース一覧 その2
に多くのアクセスをいただいております。

みんな見てくれるのになにもしないのでは申し訳ないので、少し増補します(2017年8月)

というよりも、下記のサイトを見つけたので、そこからのコピーです。別に難しい英語ではないので、そちらに行ってみてください。

Smoking areas at airports

生物の系統樹を見ると、生物の進化には二つのフェイズがあることが分かる。

一つは文字通りの進化で、一つの種が多様化と大型化を伴い、一世を風靡する。

もう一つは種の変化・交代を伴う進化である。
一つの流れが行き着くところまで行き着いて、爛熟するとともに、進化の壁を超えられなくなってしまい頭打ちになる。いわば進化なき多様化である。

そのときに、これまで傍流だった種類の生き物がまったく新たな形で登場し、これまでにない仕組みで状況に適合し、先行者を押しのける形で発展する場合である。

それは個別の種ではなく、「統合的生態系」の進化と言えるかもしれない。生物界全体を一つの概念として捉える観点からの「生物の進化」である。

これが進化の基本であるが、それとは別に地球環境の激変に対する適応という課題がある。

生物はこれまで数次にわたる絶滅の危機を迎えている。もっとも劇的だったのは恐竜の絶滅であるが、それより以前、数次にわたり全球凍結の時代があったとされる。

それは内的必然に伴った発展・進化ではないが、ある意味で、生物・無機物をも抱合した「地球という天体の46億年にわたる成長の歴史」であるのかもしれない。

そこで、種の交代を伴う変化の時代をあとづけてみよう。

1.原始生命体(プロトビオント)→共通祖先

ここの転化は分からないが、細胞膜の完成、解糖系の完成、RNA→DNA、セントラルドグマの完成、…などが継起したものと思われる。

2.共通祖先→真性細菌

とくに葉緑体を取り込んだ藍藻が大繁殖することにより地球の大気組成を大きく変化させた。いま流行りのM&Aである。

3.古細菌(アーキア)の復活

真性細菌の繁殖により傍流と化した古細菌が、核膜を作り出すことにより、真核生物となる。アーキアは細胞内に真正細菌を取り込み、ふたたび主流となる。

これには気象学的変化が背景となっていたかもしれない。

4.多細胞生物の出現

葉緑体を持つ多細胞生物は植物となり、独立生物として発展する。

この時点では従属栄養の多細胞生物は少数で、寄生的な存在であった。

5.肉食動物の出現

従属栄養の多細胞生物は、寄生的存在から独立し、「動物」となり、植物・植物プランクトンをみずからのものとすることで生活するようになった。

それは海綿から発達して三葉虫、甲殻類となるに及んで大繁殖を遂げた。

これに応じて動物をエサとする動物が出現した。軟体動物である。彼らは発達した神経・運動系を持つことで、動物を獲得できるようになった。

6.陸上への進出

海藻が発生する大量の酸素がオゾン層を形成し紫外線を遮るようになった。

この結果地上での生活が可能となり、まず植物が地上に進出した。

ついで甲殻類が気門を獲得し地上に進出する。いち早く上陸した彼らは昆虫類となり、天敵のいないもとで大繁殖する。

7.魚類(脊椎動物)の出現

海中動物の世界では甲殻類、軟体動物の反映の陰で脊索動物が発生する。

幼生時のみ脊索動物の形をとるホヤから、一生変態せずに生きるナメクジウオが生まれ、さらに脊椎動物に近づいたヤツメウナギ、サメの仲間、そしてついに魚類が登場する。

8.脊椎動物の上陸

魚類はその並外れた運動能力によって海中の王者となった。甲殻類は隙間で生き延びる存在に過ぎなくなった。

そして、陸に上がった昆虫を追って脊椎動物も陸上に上がることになる。5億年前に植物が上陸して以来、この3つの出来事はわずか1億年で成し遂げられた。そして「食物連鎖」あるいは「弱肉強食」という、まことに一方的で理不尽な世界がこの世に出現することになる。

昆虫と脊椎動物は同じ動物、同じ生命維持機構でありながら、支持構造も神経システムも陸上への適応過程も、まったく異なっている。

何よりも両者は否応なしに“追うもの”と“追われるもの”の関係に立つ。したがって追うものは圧倒的な大きさを欲するし、追われるものは逃げるスピード(とりわけ飛翔能力)、圧倒的な種の生産力を欲する。

以降の動きは省略するが、言いたいことは、生物の進化は一直線ではなくかなりのジグザグを経ていることであり、むしろジグザグこそが進化の本質だということである。

エンゲルスはこれらの現象を「量から質への転化」、あるいは「否定の否定」という言い方で表現している。基本的には正しい表現ではあるが、何かもう一つ物足りない。乗り越えるという感じが出てこないのである。
というか、ヌーベル・バーグNouvelle Vague

(エンゲルスのいう“量から質への転化”はこの事象のヘーゲル的単純化である)

いわばイノベーションでなく主客の交代を伴うレボリューションということになる。“破壊的イノベーション”という言葉もあるが、自分勝手な自家撞着である。必要なのは“新しい革袋”なのだ。


スメタナSQ の3つのドヴォルザーク:ピアノ5重奏曲

それほどの曲とも思わないが、たまたまYou Tube で現役盤以外の二つの演奏を聞くことができた。

みんなピアニストが違うので、しゃべるには分かりやすい。

最初がシュテパンというピアニスト。これは60年代に出たスプラフォン盤らしい。

次が、1978年にヨセフ・ハラのピアノによる演奏。これは1978年11月18日、新宿厚生年金会館でのライブ録音。最後に拍手が入る。

この2枚目については「私のクラシック」というブログに経過が詳しく書かれている。

そして現在現役盤となっているのがパネンカとの共演。1996年日本でのスタジオ録音らしい。

なぜこんなことを書くかというと、私はあまりスメタナ四重奏団の演奏が余り好きでないからだ。

ゲスの趣味だが、どちらかと言えば私は朗々と歌ってほしい。

靴下の上からくすぐられても、余り感じないのである。

最初の頃、「スメタナは録音に恵まれていない」と思っていたが、そればかりでもないようだ。

それになんと言ったって、結成が1942年。ナチス支配下のプラハである。

正直言って結成(96-42=)54年を経たロートル軍団に緊張感など求めようがない。

というわけで、このやや冗長な5重奏曲を緊張感をたたえながら弾ききるのは無理だろうと思う。

聞けばわかると思うが、You Tubeでしか聞けないだろうが、60年代のシュテパンとの演奏が一番良いのだ。

シュテパンというピアニストがよいのだ。節度を保っているが、決して伴奏者の位置に留まってはいない。

どうせすぐ消えるだろうが、一応リンクはしておく。

Dvořák - Piano quintet n°2 - Smetana SQ / Stepan

Dvořák - Piano quintet op.81 - Smetana SQ / Hála

ついでに、私の好きな演奏はこちら

Dvorak, Piano Quintet No 2, Op 81, Juilliard Quartet, Rudolf Firkusny, Piano

フィルクスニーは好きなピアニストで、ドヴォルザークのピアノ協奏曲が良い。

つまりは、新世界交響曲をチェコフィルで聞くかニューヨークフィルで聞くかという趣味の問題。



1.度肝を抜く生々しさ

1500年前の事件なのに、えらく生々しい。日本書紀は事細かに描いている。

しかし書かれた時点からは50年も経っていない。おそらく関係者の何人かは現存していた状況で書かれたものであろう。

細部の精密さに目を奪われて、「壬申の乱」とは一体何だったのかが、ともすれば見失われ勝ちになる危険がある。

2.本質がまったく語られない記述

形態は内乱だが、本質的にはクーデター、ないし宮廷革命であろう。権力の形態はまったく変わっていない。新たな支配層が登場したわけでもない。

大半の人にはどちらでも良い戦いだ。

かといって、家督争いとか、現政権の不満が本筋だということになならないと思う。

もしそうであれば、権力交代は多少の自由化をもたらすであろうが、実際には権力の極端な集中化と軍事化がこのクーデターの帰結だ。

3.危機感を背景にしたクーデターではないか

統制経済、地方への官僚支配の浸透などはまさに戦時体制を思わせるものだ。

戦争に備えるとはどういうことか。それは唐との対決をおいて他に考えられない。

百済が滅亡し、高句麗が滅亡した。次は日本だという恐怖感はおそらく強烈なものであったに違いない。

そして唐の砲艦外交に屈することになれば、属国化は避けられない。天智の変節、そして大友皇子の弱腰外交は許されない、というのが天武を突き動かした最大の動機ではないか。

4.白村江の評価

多くの著書には白村江の敗北とその後の防衛強化が重税をもたらし人々の不満を高めたという風に書かれているが、はたしてそうであろうか。

例えば、朝廷から反天武の戦争に動員をもとめられた九州の大宰府は、日本防衛に手一杯で兵は割けないと断っている。

「そんなことやっている場合かよ!」という怒りの声が聞こえてきそうだ。

ただしそれが正しかったかは判断の限りではない。


最初に地図を転載します。関ケ原町歴史民俗資料館からのものです。
jinsinnnoran


「飛鳥の扉」さんのページから多くを引用させていただきました。
日付は陰暦表記(のようです)

671年

11月23日 天智、自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せる。

11月末? 大海人皇子(以後天武で統一)、大友皇子を皇太子として推挙、天智はこれを受諾。天武は皇太子を辞し出家。吉野に下る。

671年12月7日 天智、近江宮の近隣山科において崩御。大友皇子が跡を継ぐ。このとき天智は46歳、大友皇子は24歳。

672年

5月 天武、「大友が天智の陵墓建設を口実に美濃・尾張の農民を集め武装させている」との情報を入手。さらに吉野攻撃の動きも察知。

このあと天武は反乱を決意。高市皇子,大津皇子の都からの脱出を促す。東国に挙兵を呼びかける。

6月

6月22日 天武、美濃へ3人の使者を送り、①安八磨郡(あはちまのこおり、大垣近郊)の兵を徴発すること、②「不破道」を閉塞することを命じる。3人の使者は、村国男依(むらくにのおより)・身毛君広(むげつのきみひろ)・和珥部臣君手)(わにべのおみきみて)

6月24日 深夜、20人ほどの従者と女官とともに吉野を脱出。

6月24日 天武軍、伊賀国名張に入り隠駅家を焼き兵を募る。名張郡司は大友の出兵命令を拒否するが、天武軍には加わらず。

6月24日 天武、伊賀に進む。ここで阿拝郡司(あえ 現在の伊賀市北部)が兵約500で戦列に加わる。

6月25日 天武の長男、高市皇子が近江脱出に成功し、積殖(つみえ、現在の伊賀市柘植)で合流。加太(かぶと)越えで伊勢の関に入る。

6月25日 伊勢国司の三宅連石床(みやけのむらじいしとこ)が天武軍に参加。500 の兵をもって山道を防ぎ、敵の追撃に備える。高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 天武軍、朝明の郡家を経て桑名(吉野より140キロ)に着く。天武は桑名に本営を構えるが、高市はそのまま美濃軍の待つ不破に向かう。

6月26日 飛鳥古京の高坂王が天武の謀反を大津京に伝える。朝廷は大混乱に陥る。

6月26日 安八磨郡の多品治(おおのほむじ 太安万侶の父)3千が挙兵。不破の関を封鎖。通過を図った大友軍部隊が美濃軍に拘束される。

安八磨郡は大海人皇子の生計を支えるために設定された封戸であった。
多品治(おおのほむじ)は太安万侶の父にあたる。当時は安八磨郡で封戸を管理する湯沐令であった。


6月26日 大友軍、全国に動員令を発す。東国への使者は美濃軍に妨げれ動けず。筑紫は九州防衛を口実に命令を拒否。

6月27日 尾張の国司小子部連さひち(ちいさこべのむらじ)が挙兵。2万の兵を率い不破に結集。東海道、東山道の支配権獲得に成功。
小子部連は「御陵造営」の名目で朝廷から動員されたのであろう。旧暦6月下旬といえば田植えを終え農家は多少暇になる。それが不破の関で足止めを喰らい、天武側に寝返ったものと思われる。
それにしても美濃の3千に比べ尾張2万は誇大である。戦後の処遇を見てもさほどの働きはしていないと思われる。天武側からすれば中立化できただけでも御の字であったろう。

6月27日 天武、家族を桑名において不破に向かう。野上に行宮(本営)が置かれ、ワザミガハラに前線本部が置かれる。

東国からの関門である不破の関の美濃側(安八磨郡)は天武の所領であった。おそらく天武はこの地理的条件にすべての戦略をかけたと思われる。


6月30日 天武軍は兵数万を確保。伊賀→大和方面軍が出発。軍長は多品治、将軍は紀阿閉麻呂(あへまろ)、三輪子首、置始菟(おきそめのうさぎ)ら。

7月

7月1日 玉倉部(たまくらべ-不破郡関ヶ原町玉)で最初の戦闘。大友側が奇襲を仕掛けたが撃退される。

7月2日 3~4万人からなる天武軍本隊が近江に向け進軍開始。指揮は高市皇子がとる。

7月2日 大伴吹負(ふけい)が倭京(飛鳥)で挙兵。乃楽山(ならやま 奈良市北部)まで進出し陣を構える。

7月2日 朝廷軍が犬上川に進出。不破攻撃を目指す。しかし戦闘をめぐり山部王、蘇我臣果安、巨勢臣比等ら将軍連が内紛。

7月4日? 大和進攻軍の一部が大和・伊勢ルート確保のため伊賀に残留することとなる。多品治が3千の兵とともに萩野(たらの)に駐屯。また伊賀と近江を結ぶ倉歴(くらふ)道の防衛には田中足麻呂があたる。

7月4日 吹負軍の坂本財の部隊が生駒山系の高安城(たかやすのき)を確保。

7月4日 坂本財の部隊が大阪側に進出するが、壹伎史韓国(いきのふひとからくに)の率いる朝廷軍に敗れ飛鳥に撤退。

7月4日 大伴吹負軍、乃楽山(ならやま 奈良市北部)で大野君果安(はたやす)の率いる朝廷軍と激突。惨敗し四散。朝廷軍は一気に飛鳥まで進出する。

7月4日 大伴吹負は落ち延びた先の宇陀で紀阿閉麻呂軍の先鋒、置始菟の部隊1千人と合流。

7月5日 大伴吹負軍、二上山のふもとの当麻(たぎま)で壹伎史韓国の朝廷軍と対戦。2日間の戦闘の上勝利。韓国は軍を離れて逃亡。

7月5日 倉歴の戦い。大友軍の田辺小隅が近江から伊賀への攻勢をかける。夜襲にあった足麻呂部隊は敗走。

7月6日 天武軍を追走した田邊小隅の朝廷軍、「たらの」で多臣品治軍3千人の迎撃を受け敗退。

7月7日 箸墓(はしはか)の戦い。大野君果安の朝廷軍と大伴吹負・置始菟連合軍による最終決戦。朝廷軍は敗走し、大和地方の闘いは終了。

7月8日 村国男依(むらくにのおより)らが率いる天武軍の本隊、息長の横河(米原市内)で朝廷軍を撃破。以後進撃を続ける。

7月9日 村国軍、鳥籠山(とこのやま 彦根)の戦いで勝利。

7月13日 天武軍本隊、安河(現野洲川)の戦いで勝利。

7月17日 天武軍本隊、栗太(くるもと 栗東町)の戦いで勝利。このあと最終決戦に備える。

7月22日 天武軍の西岸部隊、朝廷軍最後の防壁となった三尾城(高島町)を陥落。

7月22日 瀬田橋の戦い。近江朝廷軍が大敗し壊滅。

7月22日 大伴吹負軍、奈良から山を越え大阪へ進出。難波を制圧する。

7月23日 長等山へ敗走した大友皇子は首を吊って自決し、乱は収束。

7月24日 大友の首級が不破(野上)の天武のもとにもたらされる。

8月

8月25日 近江の重臣のうち右大臣中臣金(なかとみのかね)ら8名が死罪となる。

9月8日 天武は不破を出発し飛鳥に向かう。

673年

2月 大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位する。天武天皇から「大王」を「天皇」と呼ぶようになる。皇親(こうしん)政治が行われ、「大君は神にしませば」と神格化が行われる。





AnthropologicAl S cience Vol. 122(3), 131–136, 2014

Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males

Youichi Satoら、

共同研究ではなく、基本的には徳島大学のスタッフの単独調査のようである。(聖マリアンナも一部参加)

アブストラクトでは以下の問題意識が示される。

However, the data of Y chromosome haplogroup frequencies in modern Japanese males is still limited.

そこで彼らは立ち上がった。

We recruited 2390 males from nine populations in seven cities in mainland Japan and typed their Y chromosome haplogroups.

結論としてはこういうことだ。

modern Japanese males appear to be genetically homogenized in mainland Japan

それはそれでけっこうなことだ。

対象及び方法

日本国内7都市の男性住民2390人を対象とした。

内訳は

college students (S) from

①Nagasaki (n = 300)

②Tokushima (n = 388)

③Kanazawa (n = 298)

④Kawasaki (n = 321)

⑤Sapporo (n = 302)

adult males (A) from

⑥Fukuoka (n = 102)

⑦Osaka (n = 241)

⑧Kanazawa (n = 232)

⑨Sapporo (n = 206)

である。

末梢血サンプルを用いてQIAamp DNA Blood kitにより測定した。

都市間差の判定は pairwise FST values による。

結果及び考察

Japanese males belong to 16 haplogroups (Table 1)

頻度はO2b1 (22.0%), D2a1 (17.4%) D2* (14.7%)の順であった。

we did not detect any marked variability among the populations.

ハプロCの内訳を見たところ、

C1 and C3 displayed frequencies of 6.1% and 4.9%, respectively,

であった。

ハプロC(C1 and C3)は福岡のみにやや多い傾向が見られた。

ハプロD は D1, D2, andD3よりなるが、今回の調査ではD1が0.1% D2が 32.1%でD3は皆無であった。

今回の研究では、the frequency of haplogroup D2* peaked in the Fukuoka and Kawasaki students. だった。

haplogroup D2 males are equally spread throughout Japan.である可能性がある。

ハプロOは非常に細かく変異している。

O2b1 frequency in the Fukuoka adults tended to be higherだった。逆にO3a3c and O3a4 frequencies tended to be lowerだった。そもそも福岡ではハプロOそのものが少ない。

O3a3c and O3a4は福岡成人をのぞいて全国に平均して分布している。ハプロOが九州に多いという以前の報告(Hammerら 2006)は否定される。(沖縄も少ない)

結語

 we did not detect any marked variability in the frequency distribution of Y chromosome haplogroups in mainland Japan,

ミトコンドリアDNAの解析 (Shinoda, 2007; Umetsu et al., 2001)によれば、haplogroup M7の南日本優位、haplogroup N9b の北日本優位が示されている。

男性が全国ほぼ均一であることを考えると、男性の移動がより頻繁であることが推測される。

謝辞

Ministry of Health and Welfare, Japan and the Japan Society for the Promotion of Science

あとは下の図の“メタ解析”というか感想

日本人ハプロ

1.ハプロC

これだけ全国が均質化している中でも、ハプロCの地域差は鮮明である。

北からD2人が入ってきた頃、朝鮮半島からも少数のC人が入ってきて、西部にとどまったことを示していると見て良いだろう。

ただC1、C3の比率はどこでも同様だ。日本固有のC1が最初に、ついで同じ朝鮮半島経由で、いわゆる“ツングース”系のC3人が入ってきたと考えられる。

弥生時代前期に渡来人(長江人)を受け入れた縄文晩期人はこれらC人だったのかもしれない。

北海道の一般成人のC3高値はオホーツク人→アイヌ人の流れかもしれないが、それほどまでの影響があるかと言われると…

北海道民500万のうちアイヌ人はたかだか10万人。2%にとどまる。

2.ハプロD

これまで東日本優位と思われていたが、意外にもまったく地域差を認めなかった。サブタイプに分けても差は見いだせない。今のところどう判断してよいのか分からない。

3.ハプロO

ハプロOはO2系とO3系でまったく意味が違う。

O2は弥生人だ。長江文明を原産とし漢人に逐われて、朝鮮半島そして日本へと渡ってきた人々だ。

九州を除けばそれぞれがほぼ均一に分布しており、偏りは見られない。

O3はいわゆる“騎馬民族”だ。満州南部から南下し、先住民(おそらくC3人およびC3人と共生していたO2人)を支配し、あるいは駆逐し最後に九州北部に到達したのがO3aであろう。

それとは別系統(新羅系)がさみだれ式に山陰地方に到達し、この一族が大和・畿内にまで到達したのではないかと思われる。

なおこれら一連の図で、長崎と福岡にかなりいちじるしい差が見られるが、一方が学生であり他方が一般成人であるところからも、その解釈には慎重さが必要であろう。

とにかくこれで一応のベースとなる数字が出たことになる。その意義は非常に大きいと思う。

あとは人口移動が少ない農村地帯で、三代以上継続して居住している人のデータをコツコツと集積すべきであろう。


全ゲノム解析でもよいのだが、その際にY染色体ハプロのデータは引き出せるので、とにかく数万単位のデータが欲しいものである。


以前から気になっているのだが、Y染色体ハプロの内訳を調べるのに、基礎となるサンプル数があまりにも少ないことが気になっている。

しかも古い。

2005年前後の数年間に調査が行われたきり、その後大規模なデータ集積が行われていない。要するに崎田さんが先駆的にとりあげ分析した時点から、我々は一歩も前進していない。

あたかも「魏志倭人伝」のように同じデータをいろいろいじっているに過ぎない。

赤旗に時々載る遺伝子がらみの記事を見ていると、どうもミトコンドリアDNAの人も頑張っているし、全ゲノム解析の人が「これからは私達に任せて」みたいなでしゃばり方をしている。

しかしこれだけクリアカットに人種の歴史的動きが辿れる指標は他にないのである。全ゲノムはそれはそれとしてやっていけば良いのだが、現段階ではただ情報にホワイトノイズを追加しているに過ぎない。

なんとか文科省でもう少しこの研究に力を入れてもらえないのだろうか。

と、思っていたところ、やはり世間にはそう考える人がいて、データベースづくりをコツコツとやってくれている。

それが“ちべたん さんの「日本とはなんぞや?」というブログだ。

題名だけ聞くとちょっと引いてしまうが、別に「日本会議」の御用達ではない、普通に真面目なサイトである。

この参考文献のところを見てみると、最初の報告からほぼ10年、まったく研究が止まっていることが分かる。

Tajimaらの2004年の論文。

Senguptaらの2006年の論文。対象日本人は23人。

Nonakaらの2007年の論文。対象日本人は263人。

などのきわめて少数例を対象としたプレリミナリな報告に過ぎず、これで日本人の祖先を云々するのは流石にちょっとおこがましい。

ところが2014年に桁外れの多数例を対象にした調査が行われているらしいのだ。

我々は今後はこのデータ(のみ)を対象にして物を言わなかればならないだろう。

いま、このSatoの2014年調査のデータを探しているのだが、英語の報告は探せるのだが、日本語の原著が見つからない。ちべたん さんはきっとそれを読んでいるのだろうが、ブログではリンク先を明らかにしていない。

…と言いつつ日本語の原著を探したが、みごとにない。

仕方がない、英語の原著を読むことにするか。



赤旗日曜版に載った藤井裕久さんのインタビューが面白い。

残念ながらネットでは読めない。ご購読をお勧めする。

昭和32年、岸内閣で「国防の基本方針」を定めました。

そこには国防の4本柱が打ち出されている。

1番目は国連だ。これには外交も含まれる。

2番めは民生の安定だ。これは国民生活が不安定で格差社会になると、一部の人たちが戦争、武力で事態打開をしようとするからだ。

3番めは自衛権としての自衛隊だ。

そして4番目が日米安保だ。

ということで、現在のアベ政治と順番が真逆になっている。

当時の官房長官、椎名悦三郎は大蔵官僚だった私に、こう言いました。

「この順番が正しいのだ」

平和のために一番大事なことは外交であり、国民生活が安定することだというのです。日米安保は補完で、最後だというのです。

藤井さんは、消費税だけはどうにもならない考えに取り憑かれているが、それ以外は非常に的確な人だと思う。

それにしても安倍晋三、まことに不肖の子・不肖の孫である。



田中美保さんの論文はかなりの衝撃だった。

以前作成したケルト人の歴史年表(2014年01月22日 ケルト人について)が全面否定されたことになる。もっともそれは私の責任ではないが。

「ケルト人について」は主としてウィキペディアからの知識によって書かれているが、

(イギリスでは)そもそもケルトという区分け自体を疑問視する声も挙がりつつある。

こうした批判は古代ブリテン史をいわば自国の歴史に書き換えようとする動きとしてフランスなどの学者からは批判に晒されている。

それに対してイギリスの学者からは古代ケルトを統合欧州の象徴に据える作為だとする反駁がなされるなど、国家間の政治問題と化している感がある。

と引用している。

ウィキは明らかに「ケルト人存在説」だ。イギリス人がごねているようにみえる。

しかし実情はそんなものではない。Y染色体ハプロタイプが明らかに中央ヨーロッパ由来説を否定しているのだ。
さらに衝撃的なのは、アングロサクソン人を自称するイングランド人さえ、遺伝学的には「ケルト人」なのだということ。アングロサクソンは先住民を虐殺したり駆逐したのではなく、その上に君臨したに過ぎないということになる。

問題は、「Y染色体ハプロタイプ」を信じるか否かにかかってる。私には「もはや勝負はついた」としか思えないが。

なおスペイン北部と聞いてバスクを思い起こす人もいるだろうが、バスクと「ケルト」は明らかに異なる。


この話を知って、私はすぐに縄文人のことを思い起こした。

Y染色体の示すところ、縄文人が北から日本列島に入り、沖縄をふくむ全土に分布したように、「ケルト人」はスペイン北部から海岸沿いに北上しブリテン諸島をふくむ西ヨーロッパの海岸沿いに分布した。

時期は縄文人より遅れ、新石器時代に入ろうとする頃であった。それ以前にそれらの土地に旧石器時代人が先住していたとも言われる。

Y染色体で見る限り中央ヨーロッパ人とは違う人種である。ケルトという人々が

紀元前の時代のギリシア人が、アルプスの北側に住む人々をさして、そう呼んだ

のだとすれば、スペインから北上した人々は、語源的には「ケルト人」ではない。

多分、19世紀の時代の物知りが、ギリシャの古い書物から見つけ出したのであろう、と想像される。

いずれにせよ、非アングロサクソン系の「大西洋型ハプロタイプ」人が紀元前後までは広く居住していて、そこに最初はローマ帝国、ついでゲルマン系の人々が侵入してきたわけだ。

数々の侵入を受けたあとも、「大西洋型ハプロタイプ」は現在に至るまでブリテン諸島人のY染色体の多数派を占めている。

これも縄文人の血が濃く受け継がれる日本と共通するものがある。

イングランドでさえ、64%が「大西洋型ハプロタイプ」であるにもかかわらず、彼らはみずからをアンゴロ・サクソンと信じている。

これは東北縄文人(エミシ)が大和文化に完全に同化して、みずからを生粋の日本人と思っているのと似ている。

そして同化しなかった(しえなかった?)人々がアイルランド人、ウェールズ人、スコットランド人として取り残された。これもアイヌ人の運命と一種似通ったものがある。 

以前にもケルト人の歴史を勉強したが、あまりにも資料が少なく“ポジティブな全体像”を描き出すことはできなかった。

多くの資料は、ギリシャ人に逐われローマ帝国に逐われ、最後はノルマン人に占領され、ブリテン諸島の片隅に逼塞する民としか描かれず、他者にとっての歴史でしかなかった。

今回田中美保さんの論文「アイルランド人の起源をめぐる諸研究と“ケルト”問題」を発見し、その書き出しに大いに期待しノートを作成する。

1.「ケルト人」は創造された人種である

田中さんの問題意識は私にとっては鮮烈であった。

「ケルト」とは実は現代の問題でもある.

アイルランド, スコットランド,ウェールズ,コーンウォール,ブルター ニュなどは,本来,非英語圏・非フランス語圏であり,イ ングランドないしブリテンやフランスといった大国に支 配されてきた歴史をもつ.
当然,彼ら固有の文化も言語も 否定されてきた.それゆえ,言語や文化の復興・振興の名 のもとにこれらの地域が集い,その際,「ケルト」という 看板が付けられるという事情もある。

このような「ケルト」神話は,近代に,各地域のナショナリズムの高揚などの影響を受けて創造されたものである.

しかし,その「ケルト」観が,歴史的事実として誤用されてきたのである.

…いまだに商業ベースでは「ケルト」という言葉が踊っている.経済効果があるからか,「ケルト」神話はなかなか消えないのである.

…本稿では,とくに分子遺伝学者たちの研究に注目しつつ,アイルランド人の起源について考えていきたい.

ということで、「そもそもケルト人という言い方が間違いである」と断言している。

2.分子遺伝学者たちの研究

(1) ブライアン・サイクスの研究

サイクスの研究は,①アイルランド人、②スコットランド人とピクト人、③ウェールズ人、④イングランド人とサクソン人・デーン人・ヴァイキング・ノルマン人に分けて,それぞれの歴史やDNAについて論じている.

アイルランドの男性の圧倒的多数は「大西洋型ハプロタイプ」と呼ばれるY染色体を持っている。

「大西洋型ハプロタイプ」の比率は、アイルランドで80~95%、スコットランドが72.9%,ウェールズが83.2%,イングランドでさえ64%を占める。

さらにスペインのバスク地方やガリシア地方でも見られる。

サイクスは,ミトコンドリアDNAなども合わせて検討し、次のような結論を出している.

中央ヨーロッパからアイルランドやブリテン諸島への大規模な移住の証拠は何もない。ゲノムのレベルでは,アイルラ ンド人は中央ヨーロッパの人々との特別に近い類似性は ない。

いわゆる「島のケルト人」と「大陸のケルト人」とは遺伝学的に見て無関係である。

これは従来のケルト由来説の否定である。
それまでは、中央ヨーロッパの いわゆる「ケルト人」の中心地から鉄器時代に大量の移住 があったとされていた。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々の大部分は,農耕が始まった頃にイベリア半島から移住した。

このとき、ブリテン諸島にはヨーロッパ大陸から来ていた中石器時代(約1万1500年前~約6000年前)の人たちが先住していた。
(2)その他の研究

重複する部分や曖昧な論争部分を避けて、付加的事実をあげておく。

「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、新石器時代(約6000年前~約4000年前)にイベリア半島北部から大西洋側に沿ってブリテンとア イルランドに入植した。(スティーヴン・オッペンハイマー)

つまり、「ケルト人」を鉄器時代に中央ヨーロッパから渡来した人衆と定義するならば、そのような「ケルト人」は実際には存在しなかったということになる。

したがって、ブリテン諸島人の骨格をなす「大西洋型ハプロタイプ」の人々は、「ケルト人」ではない、ということになる。


ただ、その上で「大西洋型ハプロタイプ」人を「ケルト人」と称することにしようという人(例えばサックス)もいる。

3.アイルランド人研究者の発言

(3) P・マロリー『アイルランド人の起源』2013年

アイルランド人自身による研究の代表としてマロリーを上げる。

マロリーによれば、アイルランド島が今日の形や大きさになったのは,1万2 千年前から1万年前で非常に遅い。アイル ランドはユーラシアで最も人の定住が遅かった地の一つ である。

ア イルランドの多くの起源がブリテンにある。最初の入植者はスコットランド,マン島,ウェ ールズなどであろう。

11世紀後半にアイルランドで編纂された 起 源 伝説 『ア イル ラン ド来 寇の 書』はアイルランド人自身による起源伝説である.

物語では、最後にアイルランドに来寇したとさ れるのが,「スペインのミール(Míl Espáinne)」である.

多くの研究者がスペイン由来説の傍証としてこの物語を上げるが、肝心のマロリーは、中世アイルランド の学者たちによって,古典研究にもとづいて創造されたも のであり,決して「記憶」によるものではないと主張している。

同じように分子遺伝学的所見に対しても、「未だ不確実なもの」として批判的なスタンスを取っている。



最近、メールを開くといろいろな人のツイッターが飛び込んでくる。

面白いものも中にはある。全体的にツィッターだと、一言だけだから勢いが良い。本音むき出しになる。

1.孫崎さんのツィッター

細野氏離党意向、どうぞどうぞ。即実行して下さい。慰留しなくていいよ。

…細野氏、離党決意、大歓迎。決意を揺るがすことなく決行して下さい。

気持ちはわかるが、もうすこし民進党の動き注意深く見守る必要があると思う。

やはり、まだ当分、日本を変える上で民進党という党の全体像を見ていかなくてはならない。

1年前、民進党が野党共闘の方向にこんなに近づくとは想像できなかったのだ。民進党は野党共闘の方向に決定的に動くのかの瀬戸際にある。逡巡したり抗ったりする気持ちはひとりひとりの党員の胸中にあるだろう。

それは日本国民の揺れる気持ちをある意味で代弁しているのだろうと思う。

揺れるということがある意味ではすごいことなのだ。

2.小池書記局長の発言

内閣改造があったが、革命という言葉をね、軽々しく使わないでほしいと思います。人づくり革命(担当相)と。革命っていうのはもう政治権力が変わるわけですよ。ある階級からある階級に政治権力が変わるような重い言葉だと思う。

私も気持ちとしてはよく分かる。「共産党は革命政党だ」と叩かれ続けて、頑固に守り続けてきたその言葉を大事にするのは当然だ。

だけど、「革命」は本来共産党の専売特許じゃない。ある意味で人民主権を端的に表した言葉だ。「人民は反人民の政権を打倒する権利がある」ということで、ある意味では憲法の精神だ。もっと日常的に使われてほしいという気もする。


不破さんの文章が赤旗のオンライン版にないか探したが、今のところなさそうだ。やはり日刊「赤旗」を購読せよということか。

ところが、グーグル検索で、ほぼ同じ内容をもっとくわしく説明した文章が見つかった。

2014年7月10日の紙面に掲載された「理論活動教室」第2講「マルクスの読み方」(2) 追跡 マルクス「恐慌の運動論」

という記事である。

読み飛ばしていたようで、そんな記事があったことは記憶しているが、中身には憶えがない。以下、紹介していく。

草稿のなかで65年の恐慌論の転換を知ったときは「衝撃でした」と力を込めた不破さん。何回も草稿を読み返して確かめるうち、「それまでなかなか理解できなかった記述が、発見前の“前史的”部分と発見後の“本史的”部分を分けて読むと、はっきり分かり、理論的発展の裏付けになりました」と語りました。

ということで、不破さんはこれをみずからの“大発見”と自負しているようだ。

マルクスの65年以前の考え

①恐慌の根拠
資本家は、できるだけたくさん利潤を得るために労働者の賃金を抑えようとします。一方、商品の買い手としての労働者にはできるだけ大きな消費者であることを望みます――マルクスはこの矛盾に恐慌の根拠を見ました。

②恐慌の運動論

利潤率が資本主義の発展とともに低下してゆくことは、スミスやリカードウも気がついていました。

マルクスは、利潤率の低下が、「不変資本」の比率が「可変資本」に比べて大きくなることに伴う当然の現象であることを解明しました。

マルクスはこの発見を「恐慌=革命」説と結びつけ、恐慌の反復をこの法則の作用によって説明しようとしました。


マルクスの65年の大発見

マルクスの発見した運動形態は、「流通過程の短縮」と呼ばれるものです。

資本家の商品を消費者ではなく商人資本に販売すると、商品が貨幣に転化される時間が先取りされ、それによって「流通過程が短縮」され、再生産が加速・拡大されるというのです。

これによって、「架空の需要」による生産がすすみ、恐慌が準備されます。

(もう一つは信用制度です)信用制度によって商人資本 は、銀行から貨幣を借り入れて、買った商品を「売ってしまうまえに、自分の購入を繰り返すことができ」、「架空の需要」が拡大されます。

こうして、消費の制限を超えて生産が拡大し、ついには恐慌に至る(のです)

ということで、産業資本家、商人資本、銀行が三位一体となって流通過程を高速度回転させるのが恐慌の原因だということになる。

うーむ、それだけでは「世紀の大発見」と言うにはちょっと物足りないな。やはり剰余価値生産という生産様式がそれらを必然的に帰結するという論証がないと…

うろ覚えだが、大谷さんによると、たしか第3部のこの部分を書いていて、マルクスが何かに気づいたことは間違いないようだ。第3部の清書を一時中断して、第二部の該当部分(流通過程)のところにマルクスは戻っている。
第1部以来、剰余価値説を中核概念としながらこの概念が弁証法的に発展して総過程へとつながっていくはずなのに、いきなり「流通過程の短縮」という外来的な概念が混入してしまった(混入させてしまった)ために、首尾一貫性が途絶してしまう。このままでは「流通過程の短縮」は超時代的なメカニズムになってしまう。このためにマルクスは論理構築過程の再検討を迫られたのではないだろうか。
それにもかかわらず、論理の再構築に向かわせるほどに、このアイデアは強烈だったといえるのかもしれない。

ただ私としては、マルクスが “需要(欲望)の再生産” 過程を一貫して自然成長的なものとしてみていることに無理を感じる。ここが分析されないと、結局二つの命題は接ぎ木状態のままだし、最終的な価格の実現も説明できないのではないかと感じている。ケインズ的、ないし福祉経済学的な知見を資本論の論理の中に繰り入れる作業が必要ではないだろうか。

不破さんの連載が始まった。きっとまた長いだろう。

というのは、本日の4回目に至って、突然、本題が飛び出したからである。連載というのは、前置きが長いといつの間にか真面目に読まなくなる。

こちらもうろたえて数日前の新聞を引っ張り出してみたが、やはりどうということは書かれていなかった。

ひと安心して本日の記事を読む。

連載の名前は「資本論刊行150年に寄せて」、本日の記事名は「現代に光るマルクスの資本主義批判(3)」となっている。

不破さんによれば、恐慌論が初めて展開されたのは1865年のことだと言う。

57年草稿(経済学批判要綱)以来、マルクスは利潤率低下の法則を恐慌の原因としてたが、このときに考えを変えたのだそうだ。不破さんは、恐慌に関するマルクスの「新テーゼ」を次のように説明する。

新展開の眼目は商人資本の役割に注目したところにありました。それが再生産過程を現実の受容から離れた「架空の軌道」に導き、生産と消費の矛盾を恐慌の激発にまで深刻化させるという資本主義独自の運動形態…


不破さんはこの発見を「資本論の転換点とも言える劇的な瞬間でした」とやや大げさな書き方で表している。

言葉通りに信じると、私が読み飛ばしていたところに大発見があって、それを不破さんが掘り出したということになる。

それで、それがどこかというと

資本論草稿の第3部の第18章の一部だそうだ。

あれっ、ここは結構熟読しているところだよなぁ。

不破さんはこう書いている。

特別に恐慌論らしい標題がついているわけではないので、読み過ごされがちのところですが、ここでは商人資本の役割に焦点をあてながら、新しい理論展開の筋道が詳しく説明されています。

資本論全巻の中で、マルクスの恐慌論にせまる唯一の貴重な文章ですから、ぜひ目を通していただきたいと思います。

不破さんによる新説ということなのか、ある程度学者の共通認識となっているところなのか。


山田規畝子「壊れた脳 生存する知」を読む
と題したがどこまで続くか分からない。本を読むのは簡単だが、しかし忘れるのはもっと簡単だ。味わい尽くすというのはとても困難なことだ。

とにかく始めよう。

この女医さんはチャラチャラした人ではない。整形外科医として研修を積み、親の跡を継ぎ、民間病院の若手院長として経営にも携わった人だ。

この本は、そういう人が30歳そこそこで脳出血となり、悪戦苦闘しながら新たな道を探していくという、一種の冒険ファンタジーだ。

その中で、自分と自分の症状を見つめ正確に描き出していく病状レポート・症例報告でもある。

私としてはとくに、三度目の発作すなわち非利き腕側の頭頂葉出血が、ゲルストマン徴候との関連で非常に興味深かった。これに比べると4度目の発作はあまりにも被害甚大で、脳CT画像を見ると思わず息を呑んでしまう。

ここまでなると巣症状(欠落症状)も、高次脳機能障害もへったくれもないので、むしろ残存機能をどう鍛え上げていくか、生活にどうハビリテートしていくかが主要な問題となる。そして山田さんは見事にそれを達成していくのだ。ただしそれは別の興味(というより感動)の対象だ。

1. 時計(アナログ)が読めないということ

この本の書き出しは、アナログ時計の読み間違いから始まる。

症状は大変具体的だ。午前4時を午前8時と読み間違いしてしまうことだ。

左右失認だ。情景は全て見えている。時計の読み方もわかっている。右と左も基本的には分かっている。しかしパッと見たときの左右の判断がつかない状態である。

物事を理解するには最初は大脳をフル回転させて対象を認識し、記憶装置にしまい込む。最初の2,3度はそうやって理解するのだが、繰り返すうちに思考・記憶回路のかなりの部分がマクロ化され、Batch File として別の作業用記憶装置に記載される。この作業用記憶装置は、事の性格上、感覚処理中枢の近くにあるはずだ。

と、ここまでは以前のおさらい。ただしその時は視覚情報の最終処理はすべて利き腕側脳半球で行われると思っていた。現に彼女は何の支障もなく時計を眺め、時計として理解している。しかし左右性については「頭では分かっているのに」とっさに判断できないのである。

つまり視認機能の基本はすべて利き腕側でやるにしても、左右差の認識だけは本質的に非利き腕側の視認機能が必要なのだ。もちろん利き腕側がやられても同じ結果にはなるのだが、その時は視認機能そのものに重大な支障が出てくるので、それにマスクされてしまうのであろう。

この左右性というのは意外に重要なので、多少大げさに言えば物事の意味性にも関わることがある。アナログ時計は右左が「似ているけれど違うんだ」というところに意味がある。差異性が認識できなければただの壁飾りだ。
2.時計は文明の凶器

考えてみれば、時計というのはとても不親切な機械だ。

針は2本あるのに(秒針を入れれば3本、目覚ましの針を入れれば4本)、長針についての表示はない。ひどいものは数字すらなく、頂点に目盛りが一つあるだけというものすらある。ただそのほうが厚労省の論理だと「公平」ということになるかもしれない。もし「親切な時計」と言うものを作るとすれば、長針用の文字盤はもう一つ作って、1,2,3…のかわりに5,10,15…と書くべきだろう。子どもに時計を教えるにはそのほうが良いかもしれない。

子どもが時計を覚えるためには、まず時計のいくつかの約束事を憶えなければならない。しかもこれらの約束事は非論理的で、したがって暴力的である。したがって子どもに非合理的な屈従をもとめる。「なぜ?秒と分だけが60進法なのだ」、「なぜ?時計には12までしか数字がないのだ」、「なぜ?1日は60時間ではなくて24時間なのだ」

「なぜもへったくれもない。昔からそうなっているのだ」
4.左右視と立体視
話を戻す。
眼がどうして二つあるかというと、それは立体視のためだ。わずかな視覚野の差異を利用して立体視できるように頭のなかで計算しているのだ。
これはアナログ画像からはできない。情報量が多すぎるからだ。そこで網膜に映された信号を後頭葉第1野でデジタル化する。それを第2野で圧縮した上で第3野で立体化する。この立体化情報は以後利き腕側の脳で処理されるので、非利き腕側の第三野以降は遊んでいることになる。
画像そのものはそれで終わるが、画像の意味というものは画像とは別に残る。なぜなら視認に基づいて何かの行動を起こす場合にはそれがもう一度必要になるからだ。
この辺は曖昧な形でしかいえないが、事物の意味論的な認識には両眼が必要なのではないかと思う。
それを示したのが以下の段落だ。

倒れた直後はまったく時計が読めなかった。それが時計であることは分かっていたが、その針がどういう約束で動いているのかが分からなかった。

私には時針は短すぎた。あんなに離れたところから数字を示されてもよく分からない。

もう一つ、目は本来位置や方角には強いはずであるのに、立体視のために使うようになったことで逆に混乱を招いていることである。

…ずいぶん楽に読めるようになったいまでも、なぜか4時を8時、5時を7時と読み違えることはしょっちゅうある。

例えば片目だけで対象を見ればこのような間違いはないのではないか。視認の主座である利き腕側の頭頂葉に、意味付け情報を与えるための非利き腕視認中枢が、誤った情報を伝えたための混乱なのではないか。
もともと片目が失明している人の場合はどうなのだろうか。




「パガニーニ弦楽四重奏団」というアンサンブルがあったようだ。恥ずかしながら、いままで知らなかった。
名前からしてちょっと怪しげだ。安売りCDの発行元が適当につけた名前かと思わせる。
それがベートーベンの四重奏曲を録音している。
聞きはじめの音からしてひどい。くぐもった音を人工的にいじって、強音はハウリングしまくりだ。
しかししばらく我慢して聞いていくと、「おやっ?」ということになる。
まずとにかく技巧がすごい。第1バイオリンがすごいのだが、他のパートがそれを支えるのではなく、逆に押し込んでくる。ジャズで言うグルーヴ感である。
歌心があって、こんな曲(失礼)でも面白く聞かせる。「ブッシュやブタペストでないと」、という人が聞いたら目をむくだろう。線香の匂いの代わりに艶っぽい香水の匂いがする。
解説文(発売元の自賛)から引用する。
1940-60年代のアメリカで活躍した名門アンサンブル団体、
1946年にベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集をリリースしたことを皮切りに、RCAVictorレーベルの下で弦楽四重奏曲の録音を数多く残した。
アンリ・テミアンカ(ベルギー生まれ)によって1946年に結成された。
ブッシュSQ、カルヴェSQ、レナーSQ、ブダペストSQといった戦前の歴史的な弦楽四重奏団と、ジュリアードSQといった戦後のアンサンブル団体のちょうど間にあたる。
団体名の由来はパガニーニが選んだ4つのストラディヴァリ(2Vn,Vla,Vc/通称パガニーニ・カルテット)に由来しています(現在、このパガニーニ・カルテットの楽器は東京クヮルテットが日本音楽財団の貸与で使用)。
芯の通った溌溂とした音色が素晴らしく、激しいパッセージにおいても揺るがぬ堅固なアンサンブルに圧倒されます。
別の情報によると、
1935年のヴィエニャフスキ国際コンクールで、ヌヴーがオイストラフを抜いて優勝した時、テミアンカは3位だったみたいです。
とのこと。
ヌヴーがオイストラフに勝った話は耳タコですが、一発勝負で勝っても、そりゃオイストラフが上でしょう、と、個人的には思っています。
まぁとにかくテミアンカがそういうレベルの人だったということ。

追補
パガニーニSQの演奏はリマスターされてCDで聞ける。You Tubeではベートーベンの1番がアップされている。音はすばらしくなっている。
135を初めて聞いたときの印象は多少薄まるが、グルーブ感の濃厚さは相変わらずである。どうしても時代的にはチャーリー・パーカーのビバップを連想してしまう。クラシックでいえばブタペストとジュリアードのあいだ、ジャズでいえばベニー・グッドマンとマイルス・デイビスのあいだである。
国際政治でいえば、終戦直後から冷戦・赤狩りが始まるまでの、世界中がワクワクしたつかの間の数年間、その遺産として受け止めたい。

追補
パガニーニSQの演奏はリマスターされてCDで聞ける。You Tubeではベートーベンの1番がアップされている。音はすばらしくなっている。
と書いたが、間違いであった。
全曲が聞ける。
ただしいつまで聞けるかは保証の限りではない。
もしブッシュSQとブタペストSQを持っているなら、どちらかを捨ててこちらに乗り換えるようお勧めする。
ついでに
著作権切れのせいか、最近スメタナSQの音源が出回るようになっている。こちらも見つけ次第ゲットするようお勧めする。「違法と知りつつダウンロードする」のでなければ違法ではない。

YAHOO 知恵袋で、核小体への疑問が解けた。 核小体というのは、それ自体が小器官ではないということだ。 それは製造中のリボゾームらしい。 細胞核の中のDNAにはリボゾームを作るサイト(遺伝子)があって 、それはrDNAと呼ばれる。
つまり以前疑問に思っていたrDNAとい うのは、自立したものではなくて、大DNAの一部なのだ。
回答ではこう書かれている。
① rDNAはrRNAをコードしているゲノムDNA上の遺伝子。通常、一 単位のrDNAが多数、連続して繰り返している。
② 核小体の正体は、転写されたrRNAとリボソームを構成するタン パク質が集合したものです。完成したリボゾームは核外に運ばれ ます。
③ 核小体はrRNAを盛んに転写するrDNA付近にありますが、核小 体そのもの構成にはrDNAは加わっていないといっていいと思いま す。
つまり、呉の軍港(DNA)の一部に造船所(rDNA)があって、そこで 戦艦大和が作られていて、その建造中の船体が「核小体」の正体 なのだ。 出来上がると瀬戸内海(核)の外に出ていって、リボゾームと命名 されることになる。
実に簡潔でわかり易い回答をありがとう。

「生命の起源」をめぐる学説史

オパーリンを中心に

1861年 パストゥール、「自然発生説の検討」を発表。これまでの「生命の自然発生説」を否定。“生命は生命からのみ生まれる”ことが確認される。

1903年 スエーデンのスバンテ・アレニウス、地球外から飛んできた生命の胚種がもとになって地球生命が誕生したと主張。パンスペルミア説と呼ばれる。

2013年頃 アレクサンドル・イヴァノヴィッチ・オパーリン、モスクワ大学に入学。植物生理学を学ぶ。

1917年 オパーリン、第一次世界大戦中は製菓工業の化学技師として働き、ロシア革命においては化学工業労働者の組合運動に参加した。

1917年 オパーリン、革命後にスイス亡命から戻った生化学者バッハに師事。植物の呼吸や酵素を研究。

1922年頃 オパーリン,生命の起源について自説の本質部分を発表。「化学進化」説と呼ばれる。発表当時は評価されなかった。

地球生成初期は還元状態で、簡単な有機物が生成し、それから生物を構成する複雑な有機物、アミノ酸、糖などが生成した可能性を指摘した。

1924年 オパーリン、自説の要約を小冊子「生命の起源」にして刊行。

1926年 オパーリン、生命の起源論の要旨を発表。

それまでの生命起源説は、自家栄養的好気性細菌とされていた。これは遊離酸素を使って無機物を酸化することでエネルギーを得、これを利用して二酸化炭素を還元して有機物を合成し、増殖していく微生物と定義される。
オパーリンはこれに対し、従属栄養を営む嫌気性細菌が先行すると主張。(卓見)

1928年 イギリスの遺伝学者 ホールデン(John Burdon Sanderson Haldane)、ソ連を訪問。熱烈な共産主義者となる。(ホールデンの生涯は興味深い。いずれ別記事で検討する)

1929年 ホールデン、化学進化による生命の発生説を独自に主張。(ウィキのホールデンの項目には記述なし)

1929年 オランダの化学者デ・ヨングがコアセルベート(coacervate)を発見。コアセルベートは疎水性を持つ液滴内に有機物が封入されたもの。

1930年頃 オパーリン、コアセルベート に関する実証的研究。オパーリンは液滴内に酵素を封じ込めたときに酵素の働きがより盛んになることを発見。生体膜形成による濃縮を生命発生の本質と考えた。(ただしコアセルベートは一つのモデルにすぎない)

1936年 オパーリン、天文学・地学・生化学の研究成果を取り入れ、より充実した『地球上における生命の起源』を出版した。

①原始地球内部で金属の炭化物が生じる。それが噴出して大気中の過熱水蒸気と反応し、水素が炭化される。
②これとは別にアンモニアと過熱水蒸気との反応により低次の有機物質群が生成される。
③これら低次有機物質を含む海が形成され、海洋中でタンパク質を含む有機物が生成される。(有機物スープ)
④有機物が集積してコロイド粒子ができ、周囲の媒質から独立する。これをコアセルベート液滴という。
⑤コアセルベートの進化と自然淘汰とによってやがて原始的有機栄養生物が発生する。

1950年 オパーリン、世界平和評議会の委員となる。

1953年 S.ミラー,始原の大気に相当するメタン,水素,アンモニア,水蒸気の混合ガスを入れたフラスコ内で火花放電をさせ,簡単なアミノ酸をつくりだすことに成功。オパーリン学説が注目されるようになる。

ただし原始地球大気はメタンやアンモニアを高濃度に含む「強還元型」ではなく,二酸化炭素を主とし,窒素・水蒸気などから構成されていたことが、その後明らかになる。

1955年 オパーリン、最初の訪日。以後4回にわたり訪日する。

57年 オパーリン、第1回生命の起原国際会議を主催。これに合わせて研究成果を集大成した『地球上の生命の起源』を発表。

1966年 オパ―リン、『生命の起源-生命の生成と初期の発展』を出版。コアセルベートよりも複雑で整った機構を持つが、原始的生物よりは簡単な系「プロトビオント」を提唱。

1969年 オーストラリアに「マーチソン隕石」が落下。100 種近いアミノ酸が同定される。

1980年頃 「海底熱水噴出孔」が発見される。超好熱菌がここから発生したとの主張が広がる。

1980年 化学反応を触媒することができるRNA分子が発見される。RNA触媒(リボザイム)と名付けられる。その後、リボソームの触媒中心もRNAにより構成されていることが確認される。

1986年 ウォルター・ギルバート、リボザイムの発見を元にRNAワールド仮説を提唱。

1. まず原始の地球に自己複製を行うリボザイムが出現した
2. リボザイムの中にリン脂質の合成を促進するものが現れ,RNAが細胞膜に包まれた。
3. さらにタンパク質の合成を触媒するリボザイムも出現し,細胞膜の中は多量のタンパク質で満たされるようになった。
4. タンパク質の中にDNAを合成できるものが現れ,遺伝情報はより安定なDNAに移された。

1999年 フリーマン・ダイソン、「ゴミ袋ワールド仮説」(Garbage-bag model) を提唱。原始海洋中で,オパーリンのコアセルベートのような原始細胞状構造体が多数でき,そのような「袋」の中に触媒をふくむさまざまな有機分子が取り込まれた。このゴミ袋には自己複製機能を持つRNAが取り込まれ、共生するようになった。(ホールデンもそうだが、ダイソンというのも面白い人物のようで、一度じっくり勉強してみたい)




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