鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年07月

サンダース・コービン・メランション現象と連帯運動

以下は日本AALA総会での発言を補強したものである。

1.3つの選挙に共通する3つの流れ
この1年の間に欧米では大きな動きがありました。アメリカの大統領選挙、イギリスの国会議員選挙、フランスの大統領選挙の3つです。イギリスの国会選挙はその前のEU離脱国民投票がセットになっています。

選挙の結果は多くの識者により論じられていますが、私はAALA連帯運動の立場から考えてみたいと思います。

選挙には3つの大きな流れがありました。

一つはアメリカのトランプやフランスのルペンなど反動的な扇動政治の台頭です。これらはメディアによってポピュリストと一括されます。イギリスの離脱派にも似たような傾向がありました。

もう一つはアメリカのサンダース、イギリスのコービン、フランスのメランションらが打ち出した、富裕層の支配に反対し国民主権の政治を目指す流れです。

第三は、富裕層を地盤とし、“1%のためのグローバリズム”を標榜する既成政党が急激に弱体化するという流れです。
3つの流れはいずれも重要なものですが、長期的に見れば、一番は富裕層の政党が影響力を失いつつあることでしょう。

これらの流れが全体として意味するのは、富裕層の超国家的支配を拒否し、もういちど国民本位の政治に立ち帰ろうという国民の意識変化です。

それは国家・国民の復権と経済主権の回復を意味するので、反グローバリズム、新しい民族主義とも言うべき動きです。そして、途上国の民族的要求と根本において通じているものです。
2.良い民族主義と悪い民族主義

民族主義には良い民族主義と悪い民族主義があります。悪い民族主義は「排除する民族主義」です。彼らは植民地帝国だった「古き良き世界」に戻ろうとします。世界の人々を除け者にし、弱者をいけにえにしてみずからの地位を守ろうとします。
しかしそれは正しくないだけでなく実現不可能です。その先には未来はありません。だから一時的にそれに従った人々も、いまでは急速に離れつつあります。イギリスでEU離脱をシングルイシューとして躍進した政党はもはや影も形もありません。

これに対して、良い民族主義は国民主権、とりわけ経済主権を侵しているのが富裕層の超国家的支配であることを知っています。弱者も同じ被害者であり、彼らと敵対しても問題は解決しないことを理解しています。

また当面する困難の多くが、自国のみの力では解決できないことを知っており、諸国民との共同が必要であることを知っています。

それは連帯する民族主義であります。その流れが急速に先進諸国で力を得つつあることが、今回の3つの選挙で示されたのではないでしょうか。
3.選挙が指し示す今後の方向
富裕層のためのグローバリゼーション反対、国家と国民の経済主権を守れ、国際経済関係に公正なルールを、平等互恵・貧困と無知を撲滅する国内及び諸国関係の構築を!

というスローガンが今後打ち出されていく必要があるのではないでしょうか。

“もう一つの世界は可能だ”

正義と友愛にもとづく諸国民の連帯万歳!

三大選挙の評価については、下記の記事を参照されたい。


アベノミクスを裏切った安倍首相

アベノミクスの1本目の矢=量的緩和は「成功」したと言うべきであろう。率直に認めるべきだと思う。成功を「」付きにしたのは、日本経済の再生に成功したわけではないからである。
それではアベノミクスの何が成功したのか。そのために何がしわ寄せされたのか、の分析をしてようと思う

1.円高不況と産業空洞化、労働力の過剰流動化
アベノミクス開始時の状況は惨憺たるものであった。
リーマンショック以来、日本は不況と円高に苦しめられていた。
主要な原因は、リーマンショックに先立つ5,6年間、経済成長が企業側に取り込まれるばかりで、内需拡大に向かわなかったためである。

97年ショックから数年間については、たしかにそれなりの理由があった。バブル崩壊のあと企業は軒並み深刻な不良資産を抱えていたからである。

しかしそれは2008年の初頭で基本的には解決した。輸出は引き続き好調で、不良債権や累積債務は急速に解消された。

しかし企業は利益を還元しないまま突っ走った。労働法規は改悪され非正規就業がさらに拡大した。

そこにリーマン・ショックが襲った。企業はさらにガードを固くした。不況下の円高はさらに企業の海外逃避を加速した。

この時期には、財政出動以外に脱出口はなかった。しかし従来型の大型土木建設工事による財政出動はすでに無効となっていた。

今日につながる「出口戦略の欠如」がすでに露呈していたのである。

2.「流動性の罠」を脱出するために

残る手段は赤字国債の発行による内需の拡大しかなかった。しかしこれは財界、財務省、日銀の三位一体となった強力な抵抗の前に実現困難であった。
アベノミクスはそのかわりに金融の量的緩和という奇策に打って出た。日銀券の大量発行というインフレ政策である。
これにより一気に為替相場は、円安に振れた。

輸出企業を中心に円安利益が集中し、庶民の財産価値が大幅に目減りしそれが企業のもとに流れ込んだ。

疲弊した企業は業績を持ち直し、経済成長はプラス方向に向いた。

量的緩和自体は一つの賭けであり、財政基盤の弱体化をもたらす危険があるが、経済成長があればそれは相殺される。

だからスティグリッツも量的緩和そのものは支持したのである。しかしそれは国民に還元されない限り、最悪の結果を招く。

おそらく政策担当者は悪性インフレの出現を恐れたのであろう。だからインフレ・ターゲットを設定したのであろう。

しかしインフレどころか物価の上昇はまったく見られない。なぜか。企業が利益を還元しないからである。

もっとも企業というのはそういうものであり、そこから利益を吐き出させるのは政府の責任である。

政府が「世界一企業に優しい国」を目指すのは、アベノミクスの本来の目的に著しく反している。

持続的な経済成長まで持って行って初めてアベノミクスは成就するものである。このままの状況を放置することは、アベノミクスの成功をスポイルするだけでなく、今後の政策選択幅を著しく毀損する。

とにかくここまでやった以上は、社会保障、地方経済の復活に有効な投資を行い、有効需要を喚起する以外にないのだ。

もしそれをやらないのなら、安倍政権は一刻も早く退陣すべきであろう。

そして野党連合の政権が、第二の矢の実行を担うべきであろう。


DNAをやっているうちにわからないことが出てきた。

まず核というのが分からない。そういえば、むかし核の中に仁というのがあったと覚えているが、多分核小体のことだろう。

核膜は真核生物のときにできたのだが、できた理由はおぼろげながら分かるのだが、How が分からない。細胞膜との違い、それが真核の維持という目的にどう関わるのか。

核膜内液は細胞内液とは違うのだろうか。違うとすれば、何か出し入れの機能が働いているのだろうか。

核膜が細胞分裂の際に一時消失するというのは、多分世代帰りをするのだろうが、DNAはどうして核膜なしに生きて行けるのだろうか。

核膜もよく分からないが、実はリボゾームもよく分からない。ミトコンドリアはATP産生工場だが、他社を吸収合併したものだ。これに対してリボゾームは生え抜きのようだ。なぜか。その違いはどこから来るのだろうか。

「よく知らない」どころかまったく無知である。「何も知らないくせに大口叩くな」と言われそうなので、ちょっとかじっておく。


ウィキに「細胞核の概要」という模式図がある。まずはこれを眺めての感想。


細胞核の概要
(1) 核膜 (2) リボソーム (3) 核膜孔(4) 核小体 (5) クロマチン (6) 細胞核 (7) 小胞体(8) 核質

という説明がついている。それぞれについて知りたければリンクをたどればよいということで、まことに親切である。

例えば、ドライブしてどこかの公園に行ったとすると、大抵は入り口に公園案内図という大きな絵看板がある。それを眺めている気分だ。

ところがこの案内図、意外に不親切である

1. 核というのは丸いんじゃなくて、帆立貝のように貝柱とウロからできているものだ、と見える。

2. 絵を見たら⑥が核の境目のように見えるが、そこには「細胞核」と書かれている。そのまんまだ。

3. 紫のゾーンは何か分からないが、核であって核でない。本当の核は核膜の中にある。

4.つまり核というのは三層構造になっていて核膜で囲まれた本丸、その周囲の外丸、そして細胞内に張り出した三の丸という構造になっている。核小体は天守閣だ。

5. 核膜と言い、核膜孔と言うが、実はけっこう「ダダ漏れ」のところがある。それが三の丸=小胞体につながっている。

ということで、この案内図核膜に包まれた本丸以外の部分についての定義がはっきりしない欠点がある。

ウィキの「細胞核」の項目はみごとに私の関心事項を素通りしている。


ピッタリのサイトを見つけた。理化学研究所 今本細胞核機能研究室 の運営するものだ。和光市と言うからホンダの近くだろうか。

私たちの研究」というところを読む。

真核細胞では遺伝子機能の場「核」が、タンパク質合成の場「細胞質」から核膜によって仕切られています。

タンパク質やRNAなどの機能分子が、核膜孔複合体を介して核と細胞質の間を絶え間なく往来しています。

核—細胞質間輸送を1つのシステムとして捉えること…を目指しています。

とここまでが前置き。次が核膜の形成過程。

核膜孔複合体因子、核内膜因子、核膜前駆体小胞がクロマチンに集積します。それらは異なるクロマチン部位に局在していきます。

クロマチンと核膜は強い共依存関係にあるということだ。ところでクロマチンてなんだ。

このあと突如話は難しくなる。

importinα/βは、低分子GTPase Ranと協調してクロモキネシンKidを染色体にローディングする働きをもつ。

と言われても食いつきようがない。そもそも間期と分裂期の比較話なので、あまり興味はない。

核ー細胞質間輸送

という項目があるので、そちらに手を伸ばす。

真核生物には、核内で何らかの機能を果たす「核タンパク質」が一万種近く存在します。

これら核タンパク質は、細胞質で翻訳されたあと必要に応じて核内へ侵入します。その際、すべての核タンパク質が核膜孔を通路にしています。

「タンパク質が通過できる膜って、膜でないじゃん」と思ったら、それが罠だった。なかなかの名文家である。

細胞には、核膜孔を通過できない分子に、核膜孔を通過させる核輸送システムが備わっています。それがImportinファミリーと呼ばれる輸送運搬体群です。

ヒトでは21種類のImportinβファミリー運搬体分子が数千種類のタンパク質の核輸送を分担しています。

そしてImportinファミリーを制御して輸送の流れを作り出すのがRanというシステムです。

ということで以下は我が田に水を引くことになる。

もう一つのクロマチン分配・複製という記事はのっけから歯がたたないので省略。

ということで、細胞核を専門でやっている研究室があるということがわかったのが、最大の収穫。

ウィキの核小体の項目から

細胞核の中に存在する、分子密度の高い領域で、生体膜によって明確に区分される構造ではない。

電顕による観察では、繊維状中心部、高密度繊維状部の二層よりなり、その周辺部に顆粒部が散在する。

rRNAの転写やリボソームの構築が行われる。

と書いたあと、その過程についての説明が記載されるが、さっぱりわからない。

ここまでmRNAとtRNAは出てきたがrRNAは知らない。rDNAというのも、RNAポリメラーゼというのも聞いたことが無い。

rRNAにリボソーム蛋白質が会合して形成されたリボソームは核膜孔を経て細胞質に運ばれ翻訳装置として機能する。

という記載は衝撃的だ。いままでのリボゾーム理解がまったくの誤りだったことになる。

核小体の勉強をする前に、リボゾームの再学習が緊急に必要だ。

それにしても、こちらの概念図、さっきの公園掲示板とはまったく様相を異にする。いったいどちらを信じたら良いのか。



ウィキのリボゾームの記載は最初から脅しが入る。

リボソームは、RNAの情報からタンパク質を合成するという容易ならざる作業を正確に行うため、大きく複雑な構造体となっている。

リボソームはリボソームRNA(rRNA)とリボソームタンパク質の複合体である。えらく不細工な形をしている。

rRNA は核内で様々な修飾を受けた後、リボソームのある細胞質へと移行する。そして主として粗面小胞体上に付着してmRNAを待機する。

リボゾームはやってきたmRNAの連鎖にいろいろな場所で噛み付く。このような状態のmRNAをポリリボソームと言う。

mRNAの周りにはtRNA(運び屋RNA)が集まり、コドンの情報に応じてそれに合わせたアミノ酸をもってくるのだが、それはリボゾームが付着している部分に限局される。

リボゾームの中の暗号解読センターがmRNAのコドン情報を読み取り、それをtRNAに指令するからである。

集まってきたアミノ酸をポリペプチドの形に結合するのもリボゾームの働きとされる。

ということで、少し全体像が見えてきた。

リボゾームは細胞内小器官と言うには小さいが、それににた働きをしている。リボソームは核小体内でrRNAを核として形成される。そして核外に放出される。

それは無様な形のはだか単騎の小器官であり、タンパクがrRNAの衣の役割を果たしている。

それはリボゾームRNAとタンパクの複合体であり、次のような過程でタンパクを合成する。

① 核の近傍の粗面小胞体の表面に付着し、mRNAを待ち構える。

② mRNAがやってくると遺伝子情報部分に食らいつく

③ リボゾームRNAが情報を解読し、コドン情報にまで分解する。

④ tRNAに命令してコドンに対応したアミノ酸を収集させる。

⑤ tRNAが所定のコドンにはめ込まれると、その背中にはコドンに対応したアミノ酸が連続する。

⑥ 連続したアミノ酸のあいだにペプチド結合を行わせ、これによりタンパク質が出来上がる。

というわけで、「いままでのリボゾーム理解がまったくの誤りだった」わけではない。良かった。

ただ不足していたのは、それがミトコンドリアのような小器官ではなく、むき出しの核酸+タンパクの複合体であることだ。




それにしても、核膜の外に出てきたmRNAをたちまち見つけ、噛みつき情報を吸い取るというこの生き様は、異様の形相と相まって、細胞界のアンチヒーローと呼ぶにふさわしい。


DNA-RNA-リボゾームのおさらい

どうもこの辺が一知半解のところがあって、意外とあとで混乱する。

カチッとポイントを押さえておこう。

A. DNAとヌクレオチド(DNAの最小単位)の構造

1.マクロで見たDNAの構造

とにかくカタカナ名詞がたくさん出てくるので整理する。

最初は大づかみに見ておく。マクロと言っても目に見えるほどのものではないが。光学顕微鏡なら見える大きさだ。

普段は細胞核の中に核膜に包まれている。二本の紐の形で折りたたまれている。

長い紐だが遺伝子部分はその一部にすぎない。DNAを鉄道だとすれば、駅の部分以外はただの線路である。

厳密には二本鎖構造の紐をDNAと呼ぶ。1本の鎖は厳密にはポリ・ヌクレオチドであるが、便宜上これもDNAと呼んでいる。。

2.ヌクレオチドの構造

ポリ・ヌクレオチドというのはヌクレオチドがたくさんつながっているという意味である。

超長い真珠の首飾りのようなもので、一つ一つの真珠がヌクレオチドである。

今度は一番小さい分子レベルの話に一挙に変わる。映画で言うと画面が急にかすんで、子供の頃の回想シーンに変わった感じだと思ってください。

ヌクレオチドは5角形に炭素が結合した五炭糖になっている。これをデオキシリボースという。

五炭糖には二本の腕があり、片手にはリン酸塩を持っているが片手は空いている。デオキシリボースにはもう一つの腕がありこれが核酸と結合する。

リン酸塩は接着剤の役割としている。リン酸塩の遊離末端は隣の人の空いた手とつながる。

こうしてリン酸塩・五炭糖・リン酸塩・五炭糖・リン酸塩…という紐が出来上がる。それぞれの五炭糖には核酸がぶら下がっている。

3.二重鎖の形成

そこにもう一本のポリヌクレオチドがやってくる。どこからやってきたのかは、ここでは問わない。

そうするとお互いの核酸の遊離端が接合し、結合する。

接合する相手は決まっているので、これが狂うことはない。かくして数珠つなぎのポリヌクレオチドがはしご状に結合した二本鎖DNAが完成する。

B.DNAの基本的な働き

1. DNAからm-RNAへ
DNAの基本的な働きは蛋白の合成にある。といっても自分でタンパクを作るのではなくタンパク合成に必要な情報を伝えることだ。

製造工場はリボゾームであり、そこにメッセンジャーを派遣して命令を伝えるのがDNAの役割だ。

社長はある生産ラインを稼働させるために直接現場に赴くわけではない。伝令を通じて指示を出す。

あるタンパクを作ろうとした時は、mRNAを呼んで必要な情報を渡す。そして対応する遺伝子部分の核酸結合を外し、mRNAに読み取らせる。これを行うのがRNA合成酵素である。

mRNAはDNAと同じポリヌクレオチドだが、DNAほど大きくはない。駅の長さだけあれば十分である。

2. mRNAからtRNAへ

はじめに覚えておかなければならないのはタンパク質はアミノ酸の集合であり、タンパク合成はアミノ酸づくりから始めなければならないということである。

アミノ酸は嫌になるくらい乱雑なグループで、そういう意味ではヌクレオチドに比べて野性的とも言える。

ヌクレオチドの五炭糖に相当する炭素の構造があり、リン酸塩と核酸の代わりにアミノ基(HN)がついている、と言えなくもない。

どういうわけか生体が利用するのはこの内の20種だけだ。この20種がくっついて蛋白になる。

なお分子量が5000以下のものはポリペプチドと呼ぶが、蛋白とのあいだに本質的な違いはない。したがってポリペプチドという言葉を使わなくても作業は説明できる。

ということでリボゾームはアミノ酸を作るのだが、mRNAの情報のおかげで、それはタンパクの構成成分となる。

ここではmRNAが各現場主任(tRNA)にアミノ酸の設計図を与える。その設計図がコドンというものである

コドンは3種類の塩基の組み合わせセットである。3種類の塩基の組み合わせで27種類の信号ができるから20種類のアミノ酸を作るには十分だ。

こうやって数百人から時には数千~数万人のtRNAを使って、mRNAはタンパク質を合成するのである。

後半をかなりとなばしたが、とにかくこうやってタンパク質が合成されていくことになる。

C. 細胞分裂とDNA

本来はここまで語ってから、特殊な DNAの働きとして細胞分裂と増殖、生殖について語るべきだ。

「染色体屋」さんは出番でもないのに。しゃしゃり出てくる。彼らのお陰で何人の受験生が泣いたことか。

これは蛋白の合成という日常の作業とはまったく異なるシークエンスであり、DNA本体が命がけで携わる一世一代の大勝負である。

普段は核膜の中でmRNAを相手にご託宣を述べていれば済むのだが、細胞分裂時にはみずから矢面に立ってパフォーマンスを展開しなければならない。その間はRNAはただそれを眺めるだけだ。

DNAは23の染色体にみずからを分割する。ヒストンという巻き芯が登場し、これに巻き付くことで体積を縮小させる。この状態をヌクレオソームという。

ヌクレオソームが幾重にも重なったものがクロマチンと呼ばれ、それがさらに体積を縮小させたものが染色体と呼ばれる。

この時核膜は消失し、染色体は細胞質内で裸で分裂過程を進行させなくてはならない。

しかしこれらの話は、ヌクレオソームやクロマチンなどという紛らわしい名前は覚えないほうが良い。

遺伝の話とゲノムの話を行動させるのは、生物学の教師の悪い癖だ。


前に書いたと思ったが、探してもない。
RNAワールド論についてもそういうのがあるとは書いたが、どういうものかは書いていない。
いずれ調べて書くことにする。
リボゾームの起源とリボザイムの起源についての話が中心になると思う。
発表後すでに百年近くを経過しているが、オパーリンのテーゼは依然として有効である。これは奇跡と言ってもよい。まずはオパーリン以前の学説と対比しながら、オパーリン説を学習することが必要だろう。

もう一度、地体構造のおさらいをしておく。

20 世紀後半ではプレートテクトニクス的地質観のもとで,分類や定義が大きく改訂された。しかし潜在的な問題が未解決のまま現在に至っている。

本稿では,現状の混乱を改めるには具体的にどのように対処すべきかを論じる。

と、明確に「プレートテクトニクス的地質観」、その典型としての「観音開き論」との対決を打ち出している。

2.東アジアの中での日本列島の位置づけ

東アジアと日本列島との地質学関連に関する最近の知識を整理する。

その前に技術的な問題について一言触れておくと、現代の地質学研究の主流は微化石抽出法と呼ばれる。

さらに21世紀に入って砕屑性ジルコン年代学が導入された。これは岩石形成後に高圧変成作用を被った試料からでも原岩形成年代を推定できることから、古年代地質学の飛躍的進歩をもたらしつつある。

…らしいがよく分からない。とにかく地質学も、、もはやハンマーで叩くだけの牧歌的時代ではないということだ。

1) 古生代初頭の日本の地層

地質学的に見て、日本が形成されはじめたのは古生代初頭である。
その頃の日本列島(九州から南西諸島)の基盤は、東シナ海底,そして南中国東縁の大陸地殻に連続している。

2) 南北中国地塊の衝突

この時期の特徴は、南中国地塊と北中国地塊の衝突である。

南中国が北中国の下に沈み込むことで北中国の南端に造山帯が形成された。

これは地質学的には衝突型変成帯の形成として示される。

それでもって、中国の衝突型変成帯と同じもの(砕屑性ジルコン)が飛騨山地と北関東の日立地域に存在する、ということだ。

そしてその変成帯は中国本土の秦嶺から山東半島へ,黄海を渡って朝鮮半島の臨津江帯へと連続する。ひょっとするとハバロフスクもつながっているかもしれない。

3) 中間結論

古生代の地層は中国南部地塊のそれと一致しており、その後の南北中国の衝突による造山帯の形成も、北中国地塊南縁のそれと一致している。

日本列島は最初中国南部につながる付加体として形成され、南北中国地塊の衝突による造山帯として中央山岳地帯が形成された

4)日本海の形成

日本海の開裂は中新世である。観音開き(回転)の地質学的証拠はない。地質学者は横ずれ(南北に走る断層線を境とした)があったのであろうとしている。

日本海の拡大は日本列島の中央にフォッサマグナをもたらした。西端の崖をなした断層が糸魚川—静岡構造線,東端の崖が関東構造線(柏崎—銚子線)にあたる。

フォッサマグナは日本列島の大構造が形成された後にできた副次的な構造の1 つであり,古生代以来の主要な大構造の成立にはほとんど貢献していない。

しかしあらためて読み直してみても、難しい論文だ。

佐川宣寿氏の「着任インタビュー」が大変面白い。

2013年に大阪国税局長に就任した際に、納税協会のインタビューに答えたもの。

我々の使命は、「納税者の自発的な納税義務の履行を適正かつ円滑に実現する」ことであります。

租税回避や悪質な脱税を行っている納税者に対しては、毅然として厳正に対処していきます。

そのために、我々は厳正に調査・徴収を行って、公平な課税の把握をしていくとともに、悪質な納税者に対しては厳格な態度で制度上可能なあらゆる手段を使って是正させていくことが必要であります。

我々に与えられた使命を着実に果たしていくためには、何よりも国民の皆様に信頼される組織であることが不可欠であります。

国税職員は、納税者に対して法令の遵守を求めるわけでありますので、職員一人一人が高い倫理観を持って、綱紀の厳正な保持に努め、基本を忠実に守って職務に専念しなければならないと考えています。

座右の銘というものは特にありませんが、仕事をする上では、平常心で誠実に取り組むことが大切だと思っております。なかなかいつもそのとおりにはいかないのですが、心がけるようにしております。

今度のご栄転には次のようなコメントもある。

正義を顧慮することなく 安倍首相のポチに徹した佐川さん!!
栄転おめでとうございます!

あなたこそが 安倍首相の人事権行使の最高の証拠です!(平川勝則氏

基本法では文書保存期間は5年であるものを、勝手に細則を作って1年にし、証拠を隠滅した。

「近畿財務局の管理にかかる公用文書である一連の書類を、不法に廃棄・隠匿するなどし、もって公用文書を毀棄し」(森友事件の告発書)たこと、さらにそのことについて国会で「知らぬ、存ぜぬ」でつっぱり続けたことへの論功行賞だ。

22日付の毎日新聞で、柳田邦男さんが「安倍政権の高慢さ。噴出」という文章を書いている。

一言で言えば「怒っているぞ」という心がひたひたと伝わってくる文章である。

いちいちごもっともである。

この中で以下の一説が面白い。

森友学園への国有地売却をめぐり、答弁に立つ度に「記録がないので経過は分かりません」と、録音テープを再生するかのように全く同じ言葉を繰り返したのは、後に国税庁長官に栄転した財務省の佐川宣寿理財局長だ。

「権力者に仕え、出世コースを歩む高級官僚の精神性」という点で、私はすぐにある人物を想起した。ナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストの責任者だったアイヒマンである。彼はイスラエルの法廷で「私は上官の命令に従っただけだ」と証言し、無罪を主張した。


そのとおりだ。だから私はアイヒマンを認めるハンナ・アーレントを認めることはできない。

昨日のNHKテレビには目を疑った。

NHKスペシャル 列島誕生ジオ・ジャパン 第1集「奇跡の島はこうして生まれた」

というかなり長ったらしい名前の番組だ。

ネットの番組紹介から、リード部分を引用する。

シリーズ第1集は、奇跡の島の誕生物語。もともと今の日本列島の位置には、陸地はなかった。そこから3000万年に及ぶ日本誕生という「想像を超えた大地のドラマ」が始まる。

ということで、日本列島の誕生には4つの奇跡があったというのだが…

その最初があの「観音開き」セオリーだ。

「えっ、もうあれは過去のブームじゃなかったの?」と思ったが、なにせ数年前の勉強だから中身はとんと覚えていない。

画面を見ていると、ある地学者が岐阜で見つけた頁岩層とハバロフスクの頁岩露頭がそっくりだというのだ。走査電顕の画像が出てきて貝殻の化石も非常によく類似していると、押してくる。

そして「これは日本列島が大陸から割れて観音開きになった証拠だ」との結論に持っていく。しかし頁岩層などどこにもあるし、調べればどこでも貝殻くらいは出てくる。

ちょっとそれは強引ではないか。日本海の開裂は事実としてもそれが即「観音開き」の証明になるわけではない。

大和堆の形がウラジオ湾とぴったり嵌るというジグゾーパズルのような話は、大和堆をおちゃらかしているようにしか聞こえない。

まずは過去の勉強をおさらいしてみる。
まずはちょっと下世話な話題から。
日本列島形成論には二つの大きな流れがある。一つはプレートテクトニクスを基礎に、大づかみに日本列島を構造化する理論だ。そこではさまざまなモデルや仮説が飛び交う。どちらかと言えば華やかな世界だ。もう一つは岩石採取、ボーリング調査、人工地震などを使って岩石の組成を実証的に把握し、その積み上げから日本列島形成論を組み立てようとする世界だ。地味ではあるが、確認されたことは有無を言わさず積み上がっていく。地質屋さんに否定されれば、あれこれのモデルは崩壊する。
前者は東大地震研などのプレート屋さんが展開している。後者は地質学会の主流と目される。
そして観音開きは、確か地質屋さんによって否定されたのではなかったか?

とりあえず過去記事の一覧を提示しておく。

2012年09月27日 

2012年09月27日 

2014年03月07日 


仙台まで勝ってしまった。

参議院選、都議会選と続いて、ついに仙台まで野党共闘で勝ってしまった。

このまま勝ち続けるとどうなるのか、真剣に考えないとならなくなった。

民主党が潰れるのと自民党が潰れるのとではわけが違う。自民党にはオルタナティブがなくなってしまっている。首相官邸に権限を集中しすぎたことが、いまとなっては裏目に出ている。

かと言って野党共闘に確固とした軸足があるわけではない。政策を基本とした政権構想がますます焦眉のものとなっている。

とりあえず共産・自由・社民あたりで叩き台的な政策協定が必要であろう。その原案は市民勢力がひねり出さなくてはならない。民進党は、いまなら最後は乗ってくる。

生き延びようと思えば、もうそれしか選択肢はなくなっている。

おそらくサンダース、コービン、メランションらの政策を参考にしながら日本の状況に合わせたものが打ち出されるべきであろう。

反格差、平和憲法擁護、立憲主義、環境あたりが政策の柱になると思う。

民進党の都議選敗北についての報道は少ない。中身もお座なりで ある。 しかし民進党がこれをどう受け止めるかは、「野党共闘」の将来を 見ていく上ではきわめて重要である。 都議選での敗北自体はそれほど深刻な問題ではない。勢いで闘 った選挙だから、それに乗れなければ埋没してしまうのはある程 度仕方がない。 責任を問われるとすれば、選挙前に11人の離党者を出した都連 であろう。 それに民進党の東京都連というのは伝統的に連合の別働隊で、 ダラ幹の巣窟であるから、負けたのは自業自得である。今回の敗 北は基本的には都連・連合の敗北である。 だから党中央の執行部を責めてみたところでせせらわらわれるく らいが関の山だ。「二重国籍問題」などやればやるほど、騒ぐ方の 人気が落ちるだけだ。 問題は「野党共闘」路線を取る執行部が今後とも主導権を確保で きるかどうかだ。あるいは党と連合の関係が最終的な決裂に向か うかどうかだ。 これまで連合は民進党を手足のように使ってきた。しかし今後は 等の主体性を尊重せざるを得なくなるかもしれない。小選挙区制 のもとで民主党と絶縁することは、みずからの政治的発言権を失 うに等しいからだ。 民進党がここまで国民の信頼を失ったのは政権担当時に連合が 鳩山・小沢下ろしをして党を私物化し、経団連に売り渡したからだ 。
みずから敷いた健全野党論・二大政党制の路線をみずから破壊してしまった。今後とも私物化路線を続けるならば、それは連合=経団連にとっても自殺 行為となるであろう。 今後の党の主導権争いは、そういう点からも注目の的となるであ ろう。

志位講演を読む
講演の大半は核兵器禁止条約にあてられているが、こちらはいずれまとめて検討する。
あいさつ代わりに都議選の話があるが、当然のことながら面白い。日本ハムが勝った翌日の「道新スポーツ」みたいなもので、面白くないわけがない。
まず面白かったのが、
「都民ファーストの会」という「受け皿」勢力が登場しました。この勢力は総定数の4割を超える議席を獲得しました。いわば、東京都議会の議員定数が一挙に4割減るようなものです。
というところ。「なるほどそうも言えるな」と感心してしまった。
もう一つ、「都民ファーストの会」はフアっとした雰囲気の受け皿にはなったが、もっとゴリッとした怒りの受け皿になったのが共産党だったということだ。
選挙戦が進むにつれて、安倍・自民党に対する批判の質が変わりました。政策に対する批判だけでなく、その体質への批判、もっと言えば嫌悪感が広がっていったのではないでしょうか(拍手)。こうなるともうだめですね(笑い)。
…どこでも寄せられた声は、「早く安倍さんを辞めさせてほしい」「もうテレビであの顔を見たくない」というものでした。
こういう怒りはもはや「都民ファーストの会」では受け止めきれない。こうして溢れた怒りが共産党へと向かったということになる。
傑作なのは目黒区でのエピソード。
(共産党候補が)高級住宅地で訴えると、ベンツの車中から次々に『必ず入れる』と声がかかる(笑い、拍手)。つかつかと歩みよってきた男性が、ほとんど怒った声で『自民党を落とせ。がんばれ』と声をかけてくる。これまで全く反応がなかった中高年のサラリーマン層が変化した」(拍手)

この変化をどう受け止めるか。志位さんはある政治学者のコメントを引用している。
特定秘密保護法から安保法制、共謀罪、さらに原発、これらの課題で一貫して極めて強い批判勢力があり、それが日本全国で確固として存在している。この人たちの受け皿になり得たのは、都民ファーストでなく共産党だった
そして次のようにまとめた。
“怒れる有権者”は共産党に投じた
今回の選挙では野党共闘がかなり進んだ。自由党や社民党が本気で共産党を応援した。これは政治算術の結果ではなく、他党の活動家がまさに“怒れる有権者”へと変化したことを示しているのだろう。


共産党創立95周年記念講演会での不破講演が赤旗に掲載された。
相変わらずの頭脳明晰ぶりに頭が下がる。ただ冒頭の軍国少年の思い出がやや長くなり、後半、とくに綱領の話題が端折られてしまったのは残念だ。
講演内容はほぼ既出の内容だが、マルクス・エンゲルス全集の話は初耳だった。
…ソ連においてさえ、全集の刊行が最初の部分だけで中断していたときに、「マルクス・エンゲルス全集」全32冊、「資本論」をふくめると37冊になりましたが、これが世界で初めて刊行されたのであります。
…これは、多くの研究者がマルクス・エンゲルスの文献をヨーロッパ方面で収集しながら刊行したもので、科学的社会主義の研究への大きな貢献となりました。

政治反動化の構図の中では、「共産党を除く」という共産党外しの戦略を、自らの体験を踏まえて非常に重視している。
我々はこれまで社公合意、小選挙区制、二大政党制を反動化の3点セットとしてとらえていたが、「共産党を除く」路線は社公合意にとどまらず、小選挙区、二大政党制を貫く権力側の方針の底流であったと強調している。そして「共産党を除く」がまかり通った34年間を歴史的な一時期として捉えるようもとめている。
ただ「共産党外し」だけを取り上げるのは、いささか一面的な気もする。たしかにそれは「主要な側面」ではあったが、彼らにとっては、共産党を除く政党の中から「健全野党」を形成しようという展望も併せ持っていたのではないかと思う。ただその「健全野党」の枠組みはかなり右寄りにシフトされており(例えば読売vs日経みたいな感じか)、国民の常識に沿うものではなかったがゆえに、その後も軋轢を生み続けてきたのであろう。
それはさておき、不破さんは「共産党外し」という基本戦略の上に、安倍政権の特徴的な政治手法として3つを上げている。
1.候補者の指名権の最大限利用による首相の支配権強化。(これは小泉首相以来だが、安倍首相ははるかに高度なものにした)
2.国政の密室化。国政の真相を国民の目から隠す秘密主義が一気に拡大強化された。
3.内閣人事室の設置(2014年) 官庁から上級幹部の任命権を奪った。官僚機構が首相官邸の絶対的支配下におかれることになった。
不破さんは、これらの手法が一体化されて首相官邸の国会と官庁の独裁的支配に繋がったと見ている。そして官邸独裁システムの完成により、「ウルトラ右翼の潮流による国政私物化」が一段と深刻な段階に入ったと見る。
長年国会運営に関わってきた人の、重みのある発言であろう。

伊藤大一さんによる「アメリカ労働運動の新潮流とサンダース現象」という講演の要旨が紹介されていて、面白い。
http://www.minpokyo.org/journal/2017/03/5060/

2 大統領選挙が示したもの
新自由主義路線に対抗する道は、サンダースの社会民主主義路線か、トランプの「ネオ・ナショナリズム」かのふたつの道しかないことが示された。

3 アメリカの労働運動の新潮流
労働組合の組織率は、全体で11%、民間部門は6%で、長期衰退傾向は変わらない。
しかしその内容は大きく変わっている。1980年代に始まり、1995年にAFL―CIOが採択した社会運動的労働運動(Social Movement Unionism:SMU)がその中心となっている。
SMUは、労働組合の目的を、組織維持でなく、「社会正義の実現」とそのための組織の拡大におく。
そのため、組織化の対象を従来顧みられなかった女性、マイノリティ、低賃金労働者などに拡大し、企業だけでなく、NGO、地域コミュニティ、宗教コミュニティとの連帯を重視する。
その先進的な取り組みとして、農業労働組合、ビル清掃労働者の組織化、訪問介護ヘルパーの組織化、ホテル・レストラン従業員国際組合、ファストフード労働者の最低賃金獲得要求などの運動がある。
最低賃金要求のたたかいは、過大な生活負担に苦しむ労働者・国民の切実な要求として多くの支持を得ている。そして多くの州・都市において実現を見つつある。

4 アメリカの労働者の窮状
アメリカの労働者の生活は本当に厳しい。都会のアパートの家賃は1LDKで月額3500ドル(約35万円)である。ほかに過大な学費もある。公立であるニューヨーク州立大学でさえ年間学費約180万円、私立の名門スタンフォード大学では約480万円に達する。また過大な医療保険代・医療費はよく知られている。

5 SMUとサンダース
SMUが掲げる要求はサンダースの政策とよく一致している。

*我々はすでにオキュパイ運動の影にその片鱗を垣間見ている。以下の記事を参照されたい。


Ⅰ 三人の老政治家が注目される理由

この1年の間にアメリカ大統領選挙、イギリス総選挙、フランス大統領選挙という注目すべき選挙戦が展開された。

この3つの選挙で、3人の老政治家が大活躍して注目を受けた。それはアメリカのサンダース、イギリスのコービン、そしてフランスのメランションである。

それぞれの個別の特徴は別にして、眼につく共通点は、彼らが一貫して左派リベラルの立場を守ってきたこと、彼ら自身は老人であるにも関わらず、若者の熱狂的支持を受けたことである。

彼らを支えたのは左派連合であると同時に老青連合でもあった。とくに青年のイニシアチブが際立っている。

青年層が老政治家を支えて立ち上がった理由には大きく言って3つあると思う。

A) 貧困化と格差拡大

「格差問題」は、富裕層への富の集中、中間層の疲弊、貧困層の拡大という3つの状況の複合である。さらに「板子一枚下は地獄」という不安感が社会的緊張(ゆとりのなさ)を招いている。

これは決して昔からのものではない。80年代にレーガン大統領が独占資本優位の経済政策を取り始めたからだ。最高税率を28%まで引き下げられた。最低賃金を抑え続けた。最低賃金はインフレによって目減りした。「69年は時給11ドル近かったが、2016年は7ドルだ」(ピケティ)

新自由主義は決して経済の必然ではない。アメリカの独占資本が利益を上げるために、国内外の人々に押し付けたルールの結果なのだ。だから変更することは可能なのだ。

B) 青少年の未来の喪失

格差問題が政治化する最大の理由は、中間層の疲弊と没落である。それは能力がある多くの青少年から未来を奪っている。

高すぎる奨学金、高学歴でも就職できない悩みが青年のあいだに広がっている。

「人口の1%の最富裕層のための政治ではなく、99%のための政治」はウォール街占拠運動のスローガンであるが、いまや世界の青年の共通のスローガンとなっている。

C) 民主主義の危機

格差の拡大の中で、政治的平等、法のもとでの平等の原則は大きく揺らぎつつある。その結果、民主主義に対する信頼が損なわれ、言論に訴えるよりも一過性の情緒に流される傾向が強まっている。

ヨーロッパでは深刻な経済危機のもとで、移民排斥を主張する極右派の台頭という事態も起こっている。

これに対し、民主主義を守る闘いが格差問題と結びつ来つつある。それは今回のフランス大統領選挙でもっとも典型的に示された。メランションは言う。「どんな問題でも解決策はある。それは民主主義だ」

すなわち格差問題も貧困問題も、「民主主義」を通じてしか解決できない。だから民主主義は何よりも大切なのだということを示している。

これらの論点について、三人の老政治家の認識は共通すると言ってよい。


Ⅱ なぜ老政治家が若者の心を捉えたか

A) 今の世の間違いが分かる世代

とはいえ、若者の心を政治に反映させるのには、若者自身が立候補するのが一番良いはずだ。なぜ老いぼれ政治家に自分たちの夢を託すのか。

率直に言えばよく分からない。例えばスペインやギリシャではみずからの世代の代表を議会や政府に送り込んでいるからだ。

ただ若者たちだけで戦えば、勢いだけで行けるあいだはいいが、高齢者や組織労働者などへの食い込みは難しい。ただ戦闘的なだけでなく安心感を与えることも必要だ。
選挙戦が白熱すれば、他党派との切り結びや戦略的思考が不可欠となるが、若者にはそれだけの修羅場経験がない。

そういう色々なことがあって戦略的に判断したのではないかと思われる。逆に言えば、青年の政治意識がそこまで熟度を増しているということだと思う。

その際の最大の選択基準が「ぶれない政治家」ということだろう。

B) 老青連合がお互い必要という事情

その他にも特徴がある。非エリートであること、党派性が薄いことなど、いずれも若者にとって「お神輿として担ぎやすい」要素を持っている。コービンの場合は2大政党の一つである労働党の党首ではあるが、議会内では少数派であり、一般労働党員の力のみが頼りである。これは逆に言えば政策的フリーハンドを握りやすいという利点にもなっている。

こういった戦略はおそらくサンダース陣営に乗り込んだ若者たちの発想であろうと思われる。しかしそれは巧まずして、世の中の空気にぴったりマッチした。

老青連合路線は教訓化され、それがイギリスにも持ち込まれた。そしてコービンの成功は、教訓としてフランスにも持ち込まれたのであろう。

日本においても、老青連合の凄まじい推進力とc破壊力はこの間試されずみの教訓となっている。


最近ポピュリストないしポピュリスムという言葉をよく耳にする。
ルペンまでふくめてポピュリストと一括する表現は、ラテンアメリカの歴史をやってきた人間としては、ひどい違和感を覚える。
20世紀の前半、ラテンアメリカをポプリスモが席巻した。それはカリスマによって歪められているとは言え、民衆の要求と抗議を反映したものだった。そこには激しい階級闘争があった。それがドイツ、イタリアではニセのポピュリスト=ファシストによって騙し取られたのだ。
その違いは言っていることにあるのではなく、「やっていること」にある。というより「やろうとしないこと」にある。それは、激しい言葉を使えば、「収奪者を収奪すること」である。
所得の再分配なしに財源を生み出すことはできない。内需が拡大しなければ再投資→経済成長へのインセンティブも生まれない。それを行わずにばら撒き経済を行えば、やがて財政は破綻し経済成長は停滞し雇用は失われる。
その時彼らは、海外市場への強引な進出と経済の軍事化(浪費の構造化)へとスイッチを入れ替えるのである。
ポピュリズムは、個別には破綻すればそれで一巻の終わりだが、ファシズムには財界がついている。必要とあれば暴力を使ってでも反抗勢力を押さえ込む。ファシズムにとっては独裁制が必然の帰結となる。
ポピュリスムは空文句で煽るだけだが、ファシズムは思想を押し付ける。カラ文句にだまされない人を排除し抹殺する。こうしてファシズムは愛国思想と選良思想、好戦思想を柱とする「原理主義」となる。

これがファシズムである。

なぜファシストをファシストと呼ばないのか。なぜ「極左」と並列するのか。そこには民主主義への軽蔑と、ファシズムへの警戒感の鈍化があるのではないか。自戒せよ。

この1年間、国際政治面はこの3人の老人で埋められてきた。
アメリカのバーニー・サンダース、イギリスのジェレミー・コービン、そしてフランスのジャンリュク・メランションである。
おそらくはこの3人を結ぶ糸が、世界の明日へとつながる赤い糸なのだろうと思う。
それにしてもこんなことがいままでの世界であったろうか。こんな爺さまがデジタル時代の若者のカリスマになったことなどあったろうか。
そこには何か時代の特徴があるのかもしれない。「三題噺」としてはかっこうの話題だ。
これまでサンダースはコービンについては少し紹介してきたので、まずはメランションの紹介から始める。
1.ジャンリュク・メランションとはどんな人か
Jean-Luc Mélenchon の発音はここにある。メノンションとしかきこえない。
まずwikiの記載から紹介する。
1951年の生まれで65歳。他の二人よりは少し若い。フランス人だがモロッコ生まれ。父は郵便局員だと言うから少なくとも有産階級ではないようだ。哲学を学び教員となった。83年にマシーという街の市長となり政治家としてのキャリアを始める。86年に35歳で元老院(上院)議員となる。書かれていないがおそらく社会党に所属していと思われる。
2008年に社会党を離党し左翼党を結成した。欧州議会選挙に「左翼戦線」の一員として立候補し当選した。「左翼戦線」はフランス共産党・左翼党・統一左翼党の合同組織である。
2012年の大統領選挙では、「左翼戦線」の統一候補として立候補した。結果としては4位で得票率は11%にとどまったが、左翼陣営に社会党以外の現実的な選択肢を示した。
彼は共産主義者ではないが資本論を理解する社会主義者である。中南米のALBA諸国の経験を念頭に、民衆の立場に立った社会変革を目指す。

メランションはテレビ討論でペロンに対し、「この場にいるべきではない、国民の恐怖を無駄に煽っている」と批判し人気を博したとされる。これで社会党支持層の多くを取り込んだ。

富裕層への課税強化や最低賃金の大幅増も訴え、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。

集会の雰囲気は次のビデオで伺うことができる。
ただし言葉の分からない人は、24分位から再生したほうが良い。「銀行家ノー、人種主義者ノー」のシュプレヒコールが聞かれる。

2.メランションは極左か

当初は多くの報道が「極右のルペン、極左のメランション」と表現していた。
経過から言えば、社会党が中道左派、メランションが左派である。別に急進的ではないし、ましてや極左でもない。フランス人はそう考えているだろう。
さらに言えば、社会党のオランド政権のとった政策はむしろ中道右派である。経済相がマクロンだったのだからこれほどたしかなことはない。
かつて社会党は左派と見られ、共産党と統一戦線を組んだこともあった。それがミッテラン時代に右転換し、中道左派のポジションに変わった。
現在では中道左派と呼ぶことさえ難しい。党内左派と目されるボノワ・アモンですらせいぜい中道左派だ。
メランションは社会党が左派であった頃の党員である。社会党が右傾化を強めたときに、党を離れた。
彼はマルクスの理論にも共感を示すが、基本的には骨の髄からの社会党員である。そういう点から言えば、むしろ中道左派と言っても過言ではない。
座標軸がぶれているのは、極右の安倍晋三に優しい日本のメディアなのである。

3.メランションの政策
率直に言って、日本のメディアでメランションの政策を系統的に報道したものはない。
ほとんどが片言隻句を取り出したもので、半ばデマに近い。本当に日本のメディアも落ちたものだと感心する。
断片的な情報をつなぎ合わせると、メランションの政策の柱は平和と格差問題の解決だ。
「赤旗」の4月14日号では、島崎特派員の記事が掲載されている。とくに平和政策に焦点をあてている。


中東・シリア問題では「戦争ではなく対話と交渉、外交にこそ力を注ぐべきだ」と訴えた。
難民問題では全ての難民への全面的な支援を主張した。彼は「難民を生む根本問題」に取り組むと語った。そして発展途上国に不利な貿易協定の見直しを提起した。
また核問題では、核兵器禁止条約の交渉推進や非核地帯の拡大を訴えた。
この赤旗の記事では他候補のメランション批判も載せていて面白い。
マクロン候補は、「テロとのたたかいにおける非武装宣言」だと非難した。これはまさにそのとおりだ。テロに対して武装しても何の意味もないのだから。
緑の党は、「メランション氏は反米しか口にせず、ロシアの領土拡張主義を認めている」と述べた。事実とすれば少々気になるところである。
ついで経済政策だが、その柱は失業問題の解決と、貧困の撲滅からなる。
最低賃金の15%引き上げ、労働時間の短縮、労働法規の厳格化を行う。
このために総額30兆円の追加支出を行う。この内10兆円が景気刺激にあてられる。これは当面国債によって賄われるが、その多くは経済成長(とくに内需の拡大)が実現すれば減額される。長期的には富裕層の増税(とくに相続税の強化)によって財政は健全化される。
これらの政策が、高失業率に苦しむ若者、特に教育水準の高い層の支持を集めるに至った。これも、サンダース氏と似通う。


残念ながら、日本語のテキストが圧倒的に不足している。

目下のところは乏しい資料の中から読み解いていく他ない。

1.オランド「左派政権」の自壊と極右の伸長

リベラル勢力の希望を担って船出したオランド政権だったが、就任していきなりのリーマンショックはあまりにも過酷だった。

結局のところ、オランド政権はEUとECBの言うなりに、厳しい経済引き締め策を担わざるを得なかった。政権の実行したことはすべて就任時の公約と逆方向であった。そして逆コースの先頭に立ったのがほかならぬマクロンであった。

政権末期、オランド政権の人気は地に落ちた。昨年の10月行われた世論調査ではオランドの支持率はなんと4%に過ぎなかった。メディアは「4%の人」と揶揄した。

一方で不満層を取り込んだ極右、ネオファシストの人気はうなぎ昇りとなった。

14年の欧州議会選挙は衝撃的だった。国民戦線は25%の得票を獲得し首位となった。その後も各種選挙で25%前後の得票を維持し続けた。左翼はもっとも依拠すべき人たちの支持を失った。

貧困層、労働者・農民などかつて左翼の強固な地盤だった階層が極右に雪崩を打って流れ込んだ。それはアメリカ中西部の「錆びたベルト」地帯の労働者が、一転してトランプの強固な支持者となったのと同じだった。

彼らは絶望のあまり敵を味方と取り違えたのである。

オーストリアでもオランダでも、極右が政権獲得の勢いを示した。今や欧州を極右、トランプ派が席巻しようとしていた。

2.「野党共闘」の兆し

16年11月、大統領選挙を半年後に控えて共産党のロラン党首は思い切った方針を打ち出した。社会党を離れ独自会派「屈しないフランス」(ラ・フランス・アンスミーズ)を結成したメランションを推すことを提起したのである。

それはファシズムの再来に対する深刻な危機意識の表現であったが、現場活動家にはそれは浸透しなかった。これまで通り一次選挙は独自候補で戦い、決選投票で社会党を支持すればよいという経験主義が未だ多数を占めていた。

ロランは統一の提案が全国活動者会議で否定されたあと、活動者会議の頭越しに全国討論を呼びかけ、最後は全党員投票を経てメランション支持を実現した。

これを元に共産党はメランション派と交渉し、大統領選での協力が実現した。これはファシズムを瀬戸際で食い止める上で大変重要な役割を果たしたと思う。メランションが第一次投票で20数%を獲得することがなければ、マクロンを国民的候補として決選投票に臨むことはできなかったろうし、もしそれができなければ今頃ファシズム政権が誕生していたかもしれない。

今年1月 オランド政権の与党、社会党が大統領候補の予備選を行った。ここでは党内左派のアモンが勝利した。ここで社会党は恥の上塗りをした。党首のヴァルスがマクロンを支持すると発表したのである。

アモンはメランションとの1本化の話し合いを試みたが不調に終わった。如何に党内左派といえど、さすがにA級戦犯である社会党と組むのは不可能である。

共産党とメランション派は、オランドが投げ捨てた国民の要求を実現するために、統一して闘った。メランションと野党共闘は若者の受け皿となった。しかし左派政権の裏切りに対する国民の幻滅は深く、その多くが極右へと流れた。

3.大統領選挙

4月に大統領選挙の第一次投票が行われた。財界を代表する共和党のフィヨンは本命と目されたが、スキャンダルが祟り票を伸ばすことができなかった。これに代わり保守系無党派の新人エマニュエル・マクロンが1位を占めた。

マクロンは若いだけではなく超富裕層でもあった。社会党政権で経済相(非党員)として抜擢され、グローバリズム政策を推進した。オランド政権変質の張本人である。富裕層は不安を持ちつつもマクロンに期待した。

これについで極右の国民戦線のルペン候補が2位につけた。得票率はマクロン24%に対しルペン21%と接近していた。恐れは現実となりつつあった。

注目すべきは、左翼に圧倒的な逆風が吹く中で「左派統一候補」のメランションが19%を獲得したことである。フィヨンに僅差の4位ではあったが、ルペン・フィヨン・メランションが20%前後の得票率で肩を並べたことは大きな意味がある。一方社会党のアモンは6%という惨敗であった。これにより左派を代表する勢力が社会党から左派統一に交代しつつあることが示された。


支持率推移

今年1月から第1次投票までの支持率の推移。NHKのサイトから転載。
メランション(赤)が社会党(黄)を追い抜いたのは3月下旬のことである。左派の共闘が大きく情勢を切り開いたことが分かる。
4月下旬になってマクロン人気が落ちた時、危機感からメランション支持がマクロン(橙)に移ったことが示されている。

決選投票での最大の問題事はファシストの政権獲得の可能性である。彼らは「保守主義者」のポーズでファシストとしての顔を隠した。選挙演説では「右も左も結集しよう」とさえ呼びかけた。

しかし多くの国民はそれを見逃そうとはしなかった。それが決選投票での圧倒的な票差となって示された。「ルペンに対する防御壁」となったマクロンは、第一次投票での24%から66%にまで跳ね上がった。これに対しルペンの得票は35%に留まる。

フランス共産党からサルコジ元大統領まで、左派労組の労働総同盟から財界団体まで反極右では一致した。マクロンに投票した有権者の43%は、ルペンの大統領選出を阻止するためだけに投票したという。

おそらくファシストを撃退したと言っても有権者のあいだに勝利感はないだろう。それが政治を良くする引き金になるわけではないし、ルペンの掲げた「反移民・反EU」のスローガンにはかなり同感する余地もあるからだ。

不気味なのは、ルペンが逆風の中で第一次投票から15%も上乗せしたことである。これはコアーなファシズム支持者の他にそれと同じくらいの消極的支持者がいることを示している。投票前の世論調査では最大41%を叩き出している。

4.国会議員選挙

今回、フランス国民は4回も投票しなければならない。大統領選挙の第一次投票と決選投票、それに国会議員選挙の第一次投票と決選投票である。

国会選挙が2回の投票とあるのは小選挙区制のためで、一回目が各政党で順位を競う。そして第1位と第2位の間で決選投票を争うのである。ただし1回目の投票で誰かが圧倒的な支持を集めれば、2回目は行われない。

共産党は第一次大統領選の結果をみて、強い危機感を抱いた。このままでは決選投票にも進めないと危惧したのである。

しかしこれにはメランションは応じなかった。1本化は2次選挙のときにやれば良いと主張したのである。たしかにこれには一理ある。もちろんメランション派が決選投票に残れると踏んだからではあろう。しかし「野党は共闘」こそがメランションの力の背景だということを、メランションは過小評価したのではないだろうか。

6月11日に国会議員選挙の第一次投票が行われた。ほとんどの議席は第一次投票では決せず、j決選投票に持ち込まれた。国会議員選挙はマクロンの一人勝ちであった。

マクロン旋風の原因は、①極右に勝利したヒーローとして期待されたこと。②二大政党制への不信が浸透したことである。ただし小選挙区制のマジックで増幅されたこともある。

左派陣営ではメランション派が多数を占めたが、それでも得票率は11%にとどまった。得票率30%に圧したマクロン旋風に太刀打ちすることはできなかった。共産党は2.7%にとどまった。

大統領選挙でメランションに吹いた風は止まってしまった。記録的な低投票率(棄権が51%)は、とりわけ若者を中心とするメランション派に“選挙疲れ”が出たことを示している。

国会議員は小選挙区であり、伝統や個人的人気なども無視し得ない。大統領選では惨敗した社会党も7.4%を確保している。状況はより困難だからこそ、風頼みではなく政策をしっかりと示し、野党共闘をイメージアップすることがより求められるのではないか。

6月18日に第二次投票が行われメランション派の17議席、共産党の10議席が確定した。

マクロン派     361議席

共和党       126議席

社会党        46議席

メランション派    16議席

共産党        10議席

国民戦線        8議席

国民戦線の議席数は、もともとドブ板選挙を不得意とする上に、大統領選挙での敗北の痛手が大きかったのではないか。共産党の得票率と議席数が乖離してるのは、相当選挙区を絞り込んだためではないだろうか。(情報なしの推測)

5.投票傾向の分析

選挙結果に関するおもしろい分析が提示されているので、紹介しておく。

階層別支持

 

 階級における政治からの「肉離れ」、ないし「原理派」化が見られる。国の民主主義の構造が下から崩れ液状化しつつある。比較的社会保障や労働者保護が浸透しているとされるフランスですらこういう危機的状況になっている。今や格差の進行は文明を揺るがしかねないところにまで進んでいると見るべきであろう。

これを食い止めるにはイギリス総選挙終盤での闘い方、弱者を保護し教育、医療などでポジティブな政策を明確に打ち出すこと。格差是正への方策を、国際的な協力での解決もふくめ明確に打ち出すことであろう。

今回のイギリス・フランスでの選挙はいずれもEU問題が俎上に上げられたが、ルペンの終盤での発言でも明らかなように、逆にこの問題で後戻りはできないことが明確になったと思う。

同時に、リーマンショック→欧州金融・財政危機で反人民的性格を強めたEUを、どうやって諸国民の立場に立つように変革していくかがもとめられることになるだろう。


ロシア音楽にハマってしまい、ある意味で無駄な1週間が過ぎた。

今週末にはAALAの学習会でサンダース→コービン→フランスという三題噺をしなければならない。

材料は一応は揃っているのだがレシピが出来上がっていない。

と言いつつ、とりあえず気になっているアリストテレスの「4原因」を整理したくなった。

日本語の解説はたくさんあるが、我田引水が多いので、サラリと読んでいくことにする。わからないところはどれを読んでもわからないのが普通だ。

「宿題」を探し出すのが作業目的ということになるだろう。

まずは

“what & why”4つの原因説

という河合昭男さんの解説から

はじめに

アリストテレスは師であるプラトンのイデア論を認めようとしませんでした。鶏は卵から生まれるものであり、鶏のイデアから生まれるなどということはとうてい認められませんでした。

ものの本質は目に見えないイデアの世界にあるのではなく、そのものの中にこそ存在すると彼は考えました。

ということで、のっけから話は難しい。

もちろんアリストテレスのほうが正しいのだが、プラトンも間違っているとはいえない。卵のDNAにはにわとりとなるためのすべての情報が詰め込まれているのだ。

ニワトリの話はさておいて、我々が物事の本質を探っていく時、まずは現象的事実から出発する。武谷三段階説の言うごとく、現象の底には実体(構造)があり、その奥には本質がある。それをイデアと呼んでも差し支えない。

本質というのは、方程式みたいなもので、一種の抽象的な事実だが、それがより深くにあるものの現象形態だったりするわけで、人間の認識というのはそうやってネジをぐるぐると差し込むような形で進んでいく。

これは人間界から見れば認識論の世界である。逆に物事の方から見れば現象論の世界である。同じことだが順序は逆になる。

ただし実在論としては物事の本質はモノそのものから離れることはないわけで、本質が物事そのものから離れることはありえないのである。

こういういくつかの問題がごたまぜにされているのが、プラトンとアリストテレスのすれ違いの原因になっている。

このことはカント(理性批判)によって提起され、フィヒテ(主観論)とヘーゲル(弁証法)によって展開されたものだ。

ただプラトンとアリストテレスの論争を個別問題として考えると、プラトンは本質有を認識論にすり替え、現実性を剥奪してしまっているわけで、アリストテレスの批判は現実性の取り戻しであり、それ自体としては正しい。

次に進もう。

本質はどこにある?

(プラトンは)イデアなるものは目に見える形で取り出すことができないものであると(主張しました)

この点にアリストテレスは納得がいきません。

(アリストテレスは)むしろ「実体が先にあって、それらを基にして人間が頭の中で抽象化して創りだしたものをイデアと呼んでいるにすぎない」と(考えました)

(その方)が自然な考え方である、というのが(アリストテレスの)主張です。

これは最初の論争とは異なるイシューである。にも関わらず同じ「イデア」という言葉を用いることによって議論が混乱してしまっている。

たしかにプラトンの「見える形で取り出すことができないもの」という表現は微妙である。抽象的であることが認識不可能性と同義で語られる可能性があるからだ。

物事の本質は抽象的な形でしか示されない。しかし人間は物事を抽象的な形で把握することもできる。

物事の本質は無限の彼方にあるものではなく、認識し越えることができる。そういうものだ。しかもそれは段階的なものだ。

その諸段階の先はたしかに無限に続いているかもしれないが、モノの持つ現実性から遊離することはない。それは一歩づつ進んでいく我々の認識の進歩の過程から確信できる。

ということで、アリストテレスは正しい。ただしプラトンのイデアを曲解しているきらいが無きにしもあらず。

しかし、プラトンとアリストテレスの議論はあたかも二人が対話しているようで面白い。

デカルトに対するパスカルの批判、ヒュームに対するカントの批判にも同じようなものを感じる。

ものとは?

という長い前置きがあって(私が長くしてるだけだが)、いよいよ本題に入る。

4大原因というのはいかにも羅列的だと思っていたが、河合さんによると、基本的には二つのようだ。

「もの」はその本質である「形相」とその材料である「質料」から成立しているとアリストテレスは考えました。

口幅ったい言い方になるが、これは私が以前提起した「実体論的規定」と「目的論的規定」という物事の二つの側面と重なる。

当然そのものの本質的規定は目的論的内容にあるわけで、それを前提に話を進めなくてはいけない。

それは「民主主義とは何か」論で口を酸っぱくして言ってきたことだ。

ただし、「形相」というのは合目的性そのものではない。この辺は河合さんの解説ではよく分からない。

とりあえず次に進もう。

目的因と始動因

ここからは河合さんの主観がかなり入ってくる。

上の2つは“What”をめぐる規定であるが、物事には“Why”をめぐる規定が必要である、ということで

物事が“そこにある”目的、すなわち目的因

物事が“そこにある”原因、すなわち始動因

の二つが加えられる。

これは“Why”を満足させるための規定だということになる。

哲学者たちは、そもそも「もの」とは何であるかを議論していたわけですがそれは形相と質料です。

多くの哲学者たちが“what”を静的にとらえようとしていたときにアリストテレスはなぜそれがあるか“why”を時間軸で考えたわけです。

と、非常に前向きにとらえている。

しかしそれは違うでしょう。アリストテレスの勇み足と読むべきだろう。

原因も目的も「形相」に内包されたものだ。

ものは我々から離れてものとして自立している。しかし我々との関係においてそれは意味を持たされる。

ヘーゲル流に言えば「ものとして対象化される」のだ。その時初めて「ものとしての時間軸」を与えられ、原因や目的を付与されるのだ。(あえて「意識」という言葉は使わない)

このあとの「情報システムの4原因説」は河合さん独自のもので、本論とは外れるので省略する。


とりあえずの感想としては、

1.4原因説はアリストテレスのプラトンへの反抗として打ち出されたものだ。

2.アリストテレスの一番言いたかったのは、本質内在論だ。それはプラトンの観念論に対する反論であり、その限りにおいて唯物論的である。

3.しかしそこには自己矛盾が多くふくまれている。基本的には「宣言」として読むべきものである。

4.目的論と始動因は言わずもがなの感がある。むしろ意味論としての「形相」論をもっと深めるべきであった。

5.物事にはすべからく内的な能動的な本質があること、それは人間(主体)との関わりにおいて意味を持つこと、この二つがアリストテレスの主張の核心である。

後段については、「事物に対して観照的であってはならない」という議論と直結するだけに、プラトンの反論がほしいところである。

私なら、「結局、客観的なイデアの代わりに人間の主観を対置し、真理を実践と取り替えたただけではないか」と反論するだろう。


「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その3

2017年07月15日

カリンニコフ 1866年~1901年 

カリンニコフはこれまでの作曲家とは異なり、無産階級の出身(父親は田舎巡査)である。

1884年にモスクワ音楽院に進むが、学費を納入できずに数ヶ月で退学した。

その後モスクワ・フィルハーモニー協会の音楽学校で勉学を続けた。食うために忙しかったらしい。卒業したのは8年後のことだった。

92年にチャイコフスキーに認められ歌劇場の指揮者に抜擢されるが、ほどなく結核が悪化し断念。その後は死ぬまで保養地を転々とした。

ラフマニノフも出版を斡旋するなど生活維持に貢献したと言う。

以下の3曲はいずれも療養中のものである。

67 悲しい歌 1893

5拍子の短い歌。カリンニコフのピアノ曲としては最も知られているかもしれない。「雨降りお月さん、雲の上」と同じメロディである。

68 エレジー 変ロ短調 1894

この人はおそらく上流階級が持ち合わせない、ロシア的なメロディーを体に染み込ませていたのではないか。

それをうまく使いこなす技法を音楽学校で学んだのだろう。何分にも情報が少なく、感想的なことしか書けないが。

69 ワルツ イ長調 1894

しゃれたワルツだが、中間部はちょっと泥臭い。この曲まで入れる必要はなかったかと、ちょっと後悔している。

 

レビコフ 1866年~1920年

70 Op8_9 マズルカ イ短調 

おそらく毀誉褒貶、相半ばする人だと思う。私はたとえスベニール曲の作家であるにせよ、もっと位の高い人だと思うが。

モスクワ大学哲学科を卒業。モスクワ音楽院にも通ったことがあるらしいが、主たる勉強の場はベルリンとウィーンで、国内の作曲家の人脈とはあまり接していない。これが人気の上がらない原因かも知れない。

メロディーは大変美しい。ただ曲作りがきわめてシンプルなだけに、演奏する人の思いや手腕によってまったく印象が変わってくる。旅回り一座の台本みたいなものだ。

この曲は強弱とルバート、テンポの揺らし方が命の曲である。

71 Op10_8 ワルツ 小さなワルツ ロ短調

これも同様のことが言える。とにかくメロディーの美しさには心奪われるものがある。

72 Op10_10 ワルツ ロ短調

上に同じ。

シェルデャコフ盤をお勧めする。ソメロは勧めない。金正日顔が気に食わない(と言うのは冗談)。レビコフは無調音楽の方に興味があり、先駆的な試みをしている。ソメロはその種の曲の方に興味が向いているようだ。

73 Op21 クリスマスツリーよりワルツ 嬰ヘ短調

レビコフの同様の曲の中ではもっとも有名な曲で、比較的演奏される機会も多い。

74 Op29_3 秋の綴りから コン・アフィリツィオーネ

この曲はモスクワ室内楽団の弦楽合奏版が良い。

まぁ、この5曲を続けて聞いたら、理屈は不要になる。

75 秋の花々_1 モデラート

この曲集には作品番号がない。

76 秋の花々 アンダンテ

最後の2曲は多少落ちる。しかし雰囲気はある。

本来ならValse Mélancoliqueを入れなければならないのだが、どうも住所がよく分からない。作品2説と作品30説がある。

シェルデャコフのCDは、3枚組のくせに作品2も作品10も作品30もふくまれない。クソ欠陥品であるのか、真偽に疑いが持たれているのか。

当面真偽がはっきりするまではベスト100入りは保留する。

 

スクリアビン 1872年~1915年

77 Op1 ワルツ ヘ短調 1985

作品番号1をこの単品のワルツにつけた理由はよく分からない。

84年(12歳)からズヴェーレフの音楽寄宿学校でラフマニノフらと共に学ぶ。モスクワ音楽院への正式入学は88年だから、習作に近いものだろう。

これと言ったひらめきは感じられないが、よくできたきれいな曲である。

78 ワルツ 嬰ト短調 1886年

作品番号はついていないが作品1の翌年の曲である。はるかに魅力的である。こんな曲は一生のあいだに何曲も作れるものではない。

79 Op2 3つの小品 第1番 練習曲 嬰ハ短調 1887

これはスクリアビンの最高傑作(の一つ)であり、ロシア・ピアノ音楽の最高傑作の一つである。すでにショパンを越えている。

この時スクリアビンは未だ15歳。モスクワ音楽院にも入っていない。もうやることがないではないか。

80 Op3 10のマズルカ 第1番 変ロ短調 1988

作品3は音楽院に入った年から翌年にかけて作られた。すべてが良いのだが、ここでは3曲をえらんでおく。

81 Op3 10のマズルカ 第3番 ト短調

ショパンのマズルカの基準をしっかり守り、マズルカとは何かというところまで踏み込んでいく。

どうでもいいが、スクリアビンが信頼したと言われるフェインバーグの演奏はかなりマズっている。この人のバッハ・平均律を聞けば、羽目をはずしたロシア人が何をするか良く分かる。

82 Op3 10のマズルカ 第6番 嬰ハ短調

リャードフもショパンの真似は非常にうまいが、しかしスクリアビンはモノマネではなく。ショパンになりきり、それをどう発展させるかと考えているように見える。

ある意味怖いところがある。

83 Op8 12の練習曲 第1番 1894

作品3からいきなり6年跳ぶ。

この間いろいろあった。もう音楽院は卒業している。Rコルサコフやベリャーエフの知遇を得たと言うから、ペテルブルクに出たのか。

そして92年に猛練習の結果、右手首を傷める。

相変わらず音はクリアーなのだが、どうもピアニズムの方に行ってしまったようだ。

音はさらに多彩になり、リズムは細かく刻まれる。はたしてそれがショパンの本質なのか。

84 Op8 12の練習曲 第12番 嬰ヘ短調 悲愴

12の練習曲の最後は、ショパンなら「革命のエチュード」である。スクリアビンもそれに従って、それっぽい曲を作った。

85 Op9 2つの左手のための小品 第1番 前奏曲 嬰ハ短調 1894

右手首を故障したスクリアビンは左手で練習を続けた。

その時の作品がこれである。

86 Op9 2つの左手のための小品 第2番 ノクターン 変ニ長調 1894

作品9はたんなるゲテモノではなく、スクリアビンを代表する作品の一つとなっている。

87 Op11 24の前奏曲から第11番 ロ長調 1895

24の前奏曲は数年がかりで書き溜められて97年に発表されているが、この曲は95年のもの。

美しく屈託がないが、このような雰囲気はその後影を潜める。

88 Op12_2 即興曲 アンダンテ・カンタービレ ロ短調

アンダンテ・カンタービレとは言うものの、あまりカンタービレしない。

この曲のあと、次第にスクリアビンは非ショパン化、断片化、無調化していく。そして奇しくも、喧嘩別れした師アレンスキーと同じ43歳で死んでしまう。以降は割愛する。

スクリアビンの病跡学についての和文献はネット上には見つからない。多分統合失調絡みと思うが。
もう少し探してみる。

 

ラフマニノフ 1873年~1943年

89 Op.3 幻想的小品集 第1番エレジー 変ホ短調

ラフマニノフは没落貴族の息子で、父親とは生き別れた。ペテルブルクの音楽院の予科に入るが、素行不良で放校となり、モスクワ音楽院に横滑りした。

そこでも、ピアノ教師がスパルタ式だったことからケンカ別れしている。優等生のスクリアビンとは対象的である。

幻想小曲集は1892年、19歳の作品である。この人が作品番号を付けるのは割りと遅く、卒業制作のピアノ協奏曲第1番が作品1となっている。

それより前からかなりの作品があるようだが未聴である。ただ、スクリアビンが統合失調なら、この人は典型的な双極性障害であり、だめな時はだめだから、意外と大したものはないかもしれない。

この曲はのっけからラフマニノフ節炸裂である。冗舌なのも最初からのようである。

90 Op.3 幻想的小品集 第2番 前奏曲 嬰ハ短調

ピアノ曲の中でもっとも有名な曲。クレムリン宮殿の鐘の音がモチーフになっている。

ヨーロッパやアメリカでラフマニノフの名を一気に高めたと言う。

まぁショパンではないな。

91 Op.5 組曲第1番「幻想的絵画」 第4曲 ロシアの復活祭 ト短調

これまたド派手な曲で、2台のピアノから繰り出される音量は凄まじい。アックスとブロンフマンという肉体はコンビで聴くと、その迫力に圧倒される。

93年の初演で、チャイコフスキーに捧げられている。しかしその直前にチャイコフスキーは急死している。

本筋とは外れるが、チャイコフスキーの死を悼んで作られたピアノ三重奏曲は、ラフマニノフ最高の傑作である(と思う)。

92 Op.16_3 楽興の時 アンダンテ・カンタービレ ロ短調

もろにロシア人の叙情で、ブレスの長さはいささか持て余す。

「幻想的絵画」から3年経った96年の作で、すでに少し落ち込んできているのかもしれない。

93 Op.16_4 楽興の時 ホ短調

ショパンの作品25の練習曲みたいだが、こちらは左手でとんでもないスピードの分散和音を弾き続ける。

94 Op.23 前奏曲第2番 変ロ長調

いったん落ち込んだラフマニノフがふたたびハイになった1903年の作品で、低音部の連打が迫力満点である。

これはリヒテルの59年録音にまさるものはない。

95  Op.23 前奏曲第3番Op23 ニ短調

こちらはちょっと野卑な感じがあるので、「ショパンたち」に入れるのをためらったのだが、ワイセンベルクの演奏があまりにも見事なため、つい入れてしまった。

本当は4番を入れたかったが、100曲に余る。

96  Op.23 前奏曲第5番 ト短調

これも上と同じ理由。59年のリヒテル盤に脱帽。

リサイタルのライブ録音がたくさんあるが、ミスタッチなしに弾ききった人を見たことがない。なかには終盤惨めに自爆した人もいる。

なおこの曲だけは1901年の作曲。

97 Op.34 No14 ヴォカリーズ 嬰ハ短調

ここから先はだんだん、ラフマニノフのうざったさが鼻についてくる。2曲だけ拾っておく。

これはラフマニノフのオリジナルではなく、管弦楽付きのソプラノ独唱を編曲したものである。

98 Op.39 「音の絵」No_2 イ短調「海とかもめ」

後期ラフマニノフには珍しく、お茶漬け風味。鉛色の空を飛ぶかもめ。

私はなんとなく中野重治の「さよなら女の李」を連想してしまう。


グリエール 1875年~1956年

99 悲しきワルツ 作品41の2

最後の2曲となった。はじめはグリエール。長生きした人だが、基本的には最後のロシア・ロマン派である。

スクリアビン。ラフマニノフと聞いた後だとほっとする。

写真を見るとブレジネフ顔だが、人種的にはロシア人ではない。ドイツ人とポーランド人の間に生まれた。生地もキエフである。ついでに言えば平民の出身でプロテスタントであった。

しかしその作風は強烈なロシア主義だ。この曲もいかにもロシア風だ。2台のピアノのための6つの小品の第2曲となっている。


スタンチンスキー 1888年~1914年

100 夜想曲 1907

26歳で死んだ人で、作風からすればもうロシアロマン派を外れるのだが、そういう曲もあるということで…



ということで、かんたんなコメントを入れるだけで1週間もかかってしまった。

しかも、欲求不満が溜まってしまう。事実の不足が感情的表現に補われている。まず上げておいて、あとで編集することにする。

ひょっとすると曲目変更があるかもしれない。


「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選  改訂増補版 その2

2017年07月15日

アレンスキー 1861~1906

34 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

何と言ってもアレンスキーの代表曲である。4本の手20本の指が必然性をもって動いていて、無駄がない。

アレンスキーについては前の原稿で目一杯書いたので、詳しい紹介はしない。

35 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

前の原稿では2曲めのワルツをとってこちらを捨てたが、その前は3曲めになっていた。面倒なのでそのままにする。

皆さんには3曲通しで聞いていただきたい。

36 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 1.学者

学者(音楽学者)をからかっているような題だが、実は真面目に対位法を展開している。ジュノバとディミトロフというブルガリア出身のドゥオが真面目に演奏していてこれがいい。

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

この曲ではクームス盤のほうが華やかで軽やかだ。ジュノバとディミトロフは逆に重い。しかし立派な演奏だ。

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

クームスのCDでは「バレリーナ」(La Danseuse)となっているが、曲の作りは「ホタ」だから「踊り子」のほうがいいと思う。ズシズシと床がきしむような曲である。

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

アンダンテ・ソステヌートでロ長調となっている。楽譜を見たわけではないが、黒鍵だらけだろう。

40 Op.25 4つの小曲から No.2 夢想

アンダンティーノでハ長調となっている。演奏家にとってはずいぶん感じが違うだろう。

この2つはピアノ独奏曲としてはアレンスキー最良の曲と思う。

作品19の1と作品24の2は、良い音源がないため割愛した。

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード(Logaèdes)

この小品集ではこの曲だけが良い。アレンスキーの曲でいいのは、こういうふわふわの曲だ。

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

この曲はほとんどショパンだ。

41と42のあいだで2台のピアノのための組曲(作品33)の第6変奏スケルツォをパスしている。作品36の「24の性格的作品」以降のピアノ作品のほとんどをスルーしている。

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

この時期アレンスキーは絶不調である。この第8曲だけがかろうじて精気を保っている。

この曲にするか、作品53の5曲目「ロマンス」にするか迷ったが、取り替えるのも面倒なのでそのままにする。

44 練習曲集 Op74_6 プレスト(ニ短調)

結局アレンスキーからの選曲が難しくなったのは、作品74を聴いてしまったからである。

最近奇特な人が現れて、作品74の12曲を完全アップロードしてくれた。お陰で、100曲ギチギチに詰まっていた中から3曲も削らなくてはならなくなった。

本当はもっと入れたいのだが。

45 練習曲集 Op74_7 アンダンティーノ(変ホ長調)

とにかく音の響きが分厚く、まったく別人である。ソノリティーは完全にラフマニノフのものだ。

46 練習曲集 Op74_12 アレグロ・モデラート(嬰ト短調)

これがアレンスキーの「白鳥の歌」だ。売れなくなったアイドルが裸になるのとは違う。

もう少し生きていればという感じがする。

リャードフ  1855年~1914年

47 Op.9 2つの小品 1ワルツ ヘ短調 1884

アレンスキーより6つ年上で、活躍を始めたのも少し早いが、息の長い作曲家で、全盛期は少し後ろになる。

これは83年の作品で1曲めがワルツ、2曲めがマズルカとなっている。完全にショパン書法で書かれている。

5人組の後継者とされているがそのような雰囲気はない。なお、アレンスキーもリャードフもRコルサコフの「不肖の弟子」とされている。

48 Op10_1 前奏曲 変ニ長調 1885

この人の曲はとにかく短い。あっという間に終わる。この曲が1分45秒。俳句みたいなものだ。音も割りと節約している。

これがあのトルストイやドストエフスキーを生んだ同じ国の人とは信じがたい。名前まで簡素である。

49 Op.11_1 前奏曲 ロ短調 1886

これがリャードフの代表作。今度は完全にロシア音楽の世界だ。職人技を体得している。

50 Op.23 小品「湿地にて」ヘ長調 1890

ちょっと制作背景は分からないが、ロシア民謡を主題にした舞踊音楽のようである。

51 Op.32 ワルツ「音楽の玉手箱」1893

リャードフでもっとも有名な曲だ。そのためにその手の作曲家と見られている側面もある。

どうでも良いが、Snuff Boxというのは「嗅ぎタバコ入れ」のことで、おそらくオルゴールが内蔵されているのだろう。

ゼンマイが止まってしまう、という演出もある。プレトニョフがアンコールで派手にやっている。

ピティナによると親指酷使曲だそうだ。

52 Op.36 3つの前奏曲 第2番 変ロ短調 1895

またもショパンもどきだ。本物よりうまい、というところがすごい。しかしわずか1分だ。

53 Op.37 練習曲 ヘ長調 1895

「ロシアのショパンたち」にふさわしい曲が続く。これもショパンそのものだ。この人はひょっとすると贋作作家になれるのではないか。

54 Op.38 マズルカ ヘ長調 1895

フランスの香りさえ漂う。しかし終わりにかけてはロシアっぽさが顔を覗かせる。

意外に長いと思うが、これでも3分20秒。

55 Op.44 舟歌 嬰ヘ長調 1898

5分30秒というリャードフにすれば超大作。展開部の盛り上げ方は見事なものだ。やればできる。

youtubeではニコラーエバの名演が聴ける。

56 Op.57-1 前奏曲 変ニ長調 1900

作品57の3つの小曲は1前奏曲 2ワルツ 3マズルカよりなる。ベリャーエフから出版されている。

この頃は作れば売れるという恵まれた環境にいたはずだが、それでこんなもの。これが2分30秒で、次のマズルカは1分20秒。

57 Op.57-2 マズルカ ヘ短調 1905

ひどい話で、1曲めを書いたのが1900年、3曲めがそれから5年後、発表されるのがさらに1年後だ。

58 サラバンド ト短調 1899

作品11とほぼ同じ頃作曲された。作品番号はついていないがちゃんと発表されているようだ。

見事なバッハだが、さすがに恥ずかしかったのだろうか。

こうやって書いていると、リャードフは寡作家だったように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。

ラペッティの「リャードフ・ピアノ曲全集」はCDで5枚組だ。チャイコフスキーの7枚組には負けるが、かなりの量である。

買うには買ったが、聴き切ったという自信はない。ひょっとすると未だ掘り出し物があるかもしれない。

前も書いたが、キキモーラは必聴です。ストラビンスキーがリャードフをパクったということがよくわかる。リャードフもRコルサコフのパクリと言えなくもないが。とにかく器用な人だ。

リャプノフ  1859年~1924年

59 Op.1 No.2 間奏曲 変ホ短調 1887

この人は世間的には超絶技巧練習曲をのぞいてほとんど知られていない。

モスクワ出身者はみな和音が分厚く、曲が長い傾向がある。

つまりやや野暮ったいということだが、この人の特徴は多彩でありながら透明度を失わない和音の美しさにある。

ここまでで初めて登場するモスクワ音楽院の出身者である。しかし卒業後はペテルブルクに出て、そちらの教授になっている。

バラキレフの追随者と目され、最後までバラキレフの面倒を見た。たしかにバラキレフっぽい作風だ。

この曲は作品番号は1番だが、この時すでに29歳になっている。かなり遅いスタートだ。それまでモスクワにくすぶっていたようだ。

60 Op.1 No.3  ワルツ 変イ長調

ショパンというよりチャイコフスキーのワルツかもしれない。そこはかとない暗さがある。

61 Op.6_6 前奏曲 ヘ短調 Andantino Mosso 1895

1分38秒という短い曲だが、ロシア風の感傷に満ちている。

62 Op.8 ノクターン 変ニ長調

単体で発表されている。それだけ力を入れたということであろう。演奏時間も7分に達する。コンサート会場で聞けば映えるのであろう。

出だしのメロディーは美しいが、展開部がやや胃もたれする。そういうところはラフマニノフ風である。コンチェルトでも書く気分なのかもしれない。

リャードフなら3分の1に縮めるだろう。

63 Op.11 超絶技巧練習曲 第3番 鐘 1901

誰が聞いてもラフマニノフの鐘を思うかべるだろう。ラフマニノフの曲は1892年の作曲。それから9年後だからリャプノフが知らないわけはない。

しかしそれを承知で書きたかったのだろう。

64 Op.11 超絶技巧練習曲 第6番 嵐

この曲は第3番より3年も早く完成されている。そのまんまの情景である。

まぁ、超絶技巧の練習が目的なんだからしょうがないか。ロシアのショパンと言いながらだんだんかけ離れてきたようだ。

65 Op.36 マズルカ 第8番 ト短調

同じマズルカでもおよそショパンらしくないマズルカだ。リャプノフはバラキレフとともに地方に採譜に出かけたりしており、ナマのマズルカを耳にしたかもしれない。

そのイメージをそのまま膨らませて曲に仕上げたのであろう。これはこれでよい。

66 Op.57 3つの小品 第2曲 春の歌 イ長調

あとはズルズルと創作力が落ちていく。それが人生の最後近くになって、なんともしみじみとした曲を残した。

それが1913年に発表された3つの小品の一つ、「春の歌」である。あの重々しい左手の低音は消え、サラサラと曲が流れる。

それに乗せてなんとも懐かしいメロディーが小川のように流れていく。私としてはリャプノフ最高の曲にランクしたい。


アレンスキーのピアノ小曲を聴く

かなりの数がある。聴くことのできない曲も多い。
曲そのものは平易で、スクリアビンと違って聴くのに苦労することはない。

作品1はカノン形式の6つの小品 (1882)と題されている。コウドリアコフの演奏で聞ける。この中では1曲めの「同情」、3曲めの「行進」が良い。

彼はこの年にペテルブルク音楽院を卒業し翌年にはモスクワ音楽院の講師となっている。

作品8はスケルツォ 変ホ長調の単曲となっている。珍しくチッコリーニの演奏で聞けるが、別に面白いものでもない。

そして1890年に作品15のピアノ組曲が誕生する。29歳というのは比較的遅咲きにも見えるが、その前はかなり長い精神的な落ち込みがあったらしい。

作品15は2台のピアノのための組曲で、これが第1番。第1曲ロマンスはアレンスキーの代表作の一つ。第2曲ワルツもシャレている。第3曲ポロネーズは2台のピアノが大活躍する壮大な曲だが、一人で書斎で聴くには少々うっとうしい。

作品19の3つの小品は、第1番の練習曲のみが聞ける。ショパンの「革命のエチュード」を思わせる佳曲である。もっと演奏されてもよいのではないか。

作品20の前奏曲集は1番のみが聞ける。Bigarruresと題されているが意味が分からない。英語圏の人も苦労しているようだが、とりあえず「極彩色」としておく。ラベルの水の戯れを思わせる曲だが、あえて聞くほどのものではない。

作品23は2台のピアノの組曲第2番。「シルエット」と題されている。作品15の成功に味をしめて作ったものだろう。第1曲は「学者」と題されバロック風の雰囲気でまとめられている。ジュノバとディミトロフの演奏がよい。
3曲め「道化」はこの組曲で一番の佳曲。第5曲「踊り子」はホタのリズムが続いたあと、曲集のフィナーレとなる。

作品24の2つのスケッチは2曲めが良い。まどろむようなメロディーから始まり、悲しみをたたえた第二主題に移行する。良い音の音源がないのが残念だ。

作品25の4つの小曲は1曲めの即興曲がアレンスキーお得意の癒し系音楽だ。2曲めの夢想も出だしの旋律がしびれる。3曲めの練習曲は、曲の最後に「あれっ?」という節が出てくるが、それだけ。4曲目はつまらない。

作品28の小曲集は「忘れられたリズムに寄せて」という副題が付けられている。古いロシアのリズムを集めたものらしい。全部で6曲からなるが、1曲めのLogaèdesはソフトなせんりつで、リズムは普通の4拍子だ。2曲めのPeonは8分の6拍子の速いテンポ。あとの4曲は面白くない。

作品33は、2台のピアノの演奏だ。今度は変奏曲仕立てになっていて主題と9つの変奏から構成される。しかもそれぞれの変奏が舞曲になっているという凝った仕掛けだ。
そのわりには面白くない。面白いのは第6変奏のスケルツォくらいだ。最後の三曲は明らかにショパンのもじりだ。

この曲の前が有名なピアノ三重奏曲だ。エネルギーを使い果たした感じもする。

作品34は子供向けの連弾曲集である。2本の手でも弾けてしまうほど容易な曲だが、意外と面白い。1曲め「おとぎ話」と2曲め「かっこう」終曲「ロシアの主題によるフーガ」が良い。

それにしてもアレンスキー、1894年は書きまくっている。ぐうたらリャードフに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。

作品36、24の性格的作品も94年のものだ。ただし、この曲集はスカが多い。16曲目のエレジーまで聴く気がしない。エレジーもアレンスキーらしくないできだと思う。17曲「夢」、18曲「不安」もよどみ感がある。20番「マズルカ」に至ってようよう乗ってくる。しかし22曲タランテラは出だしはいいのに変な方に行ってしまう。お疲れのようだ。

このあとは96年に練習曲、98年に3つの小品くらいでほとんど作曲はストップしてしまう。

作品41の練習曲は4曲からなる。アレンスキーらしさが戻っている。1曲目の変ホ長調は柔らかく美しい。2曲めも美しいがひらめきはない。3曲めの変ホ短調はベートーベンの悲愴を思わせる佳曲である。4曲目はどうでも良い曲である。

作品42の3つの小品は音源がない。

作品43の6つのカプリースはクームスの演奏で聞ける。第1曲イ短調は作品36のタランテラと同じで、着想は良いのだが発展力が落ちている。第2曲イ長調もとりとめがない。ほかも同断である。

作品46「バフチサライの泉」は特段面白いものでもない。

世紀が変わって1901年、作品52の「海の近くで」という6つのスケッチが発表されている。これも面白くない。同じ年作品53の6つの小品も書かれた。この中では第5曲ロマンスが(だけが)良い。ニコラエーバの演奏がさすがである。
ただアレンスキーの持つ軽やかさが感じられずラフマニノフっぽい。

作品62は2台のピアノのための組曲(第4番)である。第4曲目は「フィナーレ」と題されゴージャスな作りである。

アレンスキーは1861年の生まれだから、20世紀を迎えた時点で40歳。すでにラフマニノフとスクリアビンの時代に移っている。そしてその6年後には亡くなる。

作品63の前奏曲は全12曲だが、そのうちいくつかをYou Tubeで聴くことができる。1曲め(イ短調)は短いが緊迫感のある曲である。12曲め(変ニ長調)もアレンスキーらしさが出ている。しかし取り立てて言うほどのものでもない。

作品65は2台のピアノのための組曲(第5番)である。子どものための組曲と題され、簡素な作りとなっている。子供のためとはいえまったくひらめきがない。どういうわけか最終曲の「ポーランド風に」だけがキラキラ光っている。

作品66はピアノ連弾のための小品集で全12曲からなる。小粒でシンプルだが、1曲めのプレリュード、4曲目のメヌエット、5曲目のエレジー、8曲目の行進曲など往年の面影が戻っている感がある。

作品67の6つのアラベスクは、第2曲ビバーチェや第6曲アレグロリソルートなど新たな響きが持ち込まれている。必ずしも成功しているとは言い難いが。

そして最後が死の半年前の作品74、12の練習曲である。これはまったくの謎である。どうしてこんな曲を書いたのか、書けたのかが分からない。

ここでのアレンスキーはまったくの別人である。第1曲でいきなり完全復活が告げられる。和音は新味が感じられる。第2曲、第3曲はくっきりした旋律線と優しさが印象的である。第4曲は信じられないくらいの分厚いスクリアビン風和音。第5曲のラベル風のアルペジオ、6曲目プレストの調性外し、第7曲アンダンティーノの美しい旋律とこれまでにない和音進行、第9曲のシューマン風、第10曲の推進力、11曲、12曲の力強い旋律線…、まさしく奇跡の12曲だ。

これまできれいごとでやってきたアレンスキーが、初めて自分をモロに出して、意志的な音楽を作り出した。

その瞬間に早すぎる死を迎えたのはまことに痛ましいことだが、死を目前にして初めて意志を明らかにしたとも言えるし、元気だったら相変わらずつまんない曲を書き続けていたかもしれない。そのへんはなんとも言えないのだが、せめてあと1年あればあと一つ書けたのではないかと思う。

ということで、アレンスキーを作曲順に眺めてみると、これだけピアノ曲を書いているにも関わらず、この人は管弦楽・室内楽志向の人だということがあらためて感じられる。
やはり最高傑作はピアノトリオだろう。弦楽四重奏も欠かせない。この人にとってピアノは息抜きないし営業用という感じがする。







昼から暇だから、テレビのワイドショーを見ている。
松居一代の話題で持ちきりだ。
どう見てもおかしい。まともではない。
そんなことは最初からわかっているのだが、テレビは最初は松居一代の発言を「事実」として追っていた。そんなところにもメディアの衰弱を感じてしまう。
今日は臨床心理士だとか心理学者だとか精神科医などがいろいろ出てきて、聞いたような解釈を加えていた。
それは要するに「はい松井さんの病気は何丁目何番地です」というだけの話だ。しかしそれがコメンテーターそれぞれに違うのだかたら、困ったものだ。
多分臨床的に一番問題になるのは、それが統合障害(昔の言い方だと精神分裂病)なのかどうかの判断だ。
そう言ってもおかしくないような徴候はたしかにふくまれている。しかしどうも違うような気がする。典型的な破瓜病に見られる思い詰めたような深刻感がない。
全体として受ける印象は乖離性障害(昔の言い方だとヒステリーあるいは憑依)だ。しかも発作性というより持続性だから、何らかの器質的脳障害がベースにある可能性が高い。例えば認知症の周辺症状としての被害(物盗られ)妄想だ。年齢から見ればまっさきに思いつくのはアルコール症だ。女性のアルコール症には何度もだまされた経験がある。
ただ明らかな攻撃性と自己防衛機転の脱落(離人症)を伴っており、健忘症の合理化のような現実に対する受身的な開き直りのレベルではすまないところがある。視床ないし視床下部の器質的・機能的障害が伴っていると見るべきかもしれない。

をさらに増補します。

今回のネタ本は

1.ヴェ・ヴェ・ウスタソフ 「国民音楽論…ロシア楽派の歴史」という本で、1883年の出版です。スターソフは5人組のイデオローグとして活躍した理論家です。ムソルグスキーの死を契機に書かれたもので、ムソルグスキー以外はみんな体制派になってしまったと嘆いています。

この本は1955年に三一書房から邦訳出版されています。はたしてこんな本が売れたのでしょうか。

同時代性は面白く、あんなに過激な論客だったキュイが最近は体制に妥協してしまったと嘆いたりしています。

その一方、キュイの音楽作品は最近ずっと良くなって来た。スケルツォと間奏曲はなかなかのものだと評価しています。これは作品20の「12の小曲」と作品21のピアノのための組曲(全4曲)を指しているのでしょう。これについては私も同感です。

2.ジェームス・バクスト(森田稔訳)「ロシア・ソヴィエト音楽史」はずっと新しい本で、1971年に音楽之友社から発行されています。

今回の増補分は主にこちらからのものです。

いつもこうなのですが、引用文献の数が重なってくると相互の齟齬が出てきます。1~2年位の幅で前後関係があります。
そうするとこの間に起きたできごとについて、相対的な前後関係を明らかにすることが困難になります。それは原因と結果という関係のこともあるので、けっこう悩んでしまいます。
とりあえず年表ではそのままにして「文章化」の方で調整をかけたいと思います。




アカデミー賞というのにつられて「セールスマン」という映画を見た。途中から抜け出したくなる感覚を抑えながらの2時間であった。
映画の拠って立つ日常生活の過程への漠然とした違和感とともに、ザラッとした後味が残る。
劇の展開よりも、主人公たる男性の心が犯人への怒りと、前の住人(おそらく売春婦)への八つ当たり、妻へのそこはかとない疑惑を抱えながら、「私刑」へと人格を崩壊させていく過程を描いているのだが、それを描くことにどんな意味があるのか、どういう意味をもたせようとしているのかが分からない。
「復讐」という病的心理過程のダイナミクスは、それはそれとして正面から取り上げるべきでろうと思う。下手なサスペンスじかけにしたら、かえって人を混乱させるだけではないか。
アカデミー賞はこの監督の過去の業績に対して送られたのかもしれない。
映画というのはかなり訴求力の強い媒体なだけに、作品そのものに筋が通っていないと、観衆を混乱におとしいれるだけのものになってしまう。
「性犯罪と復讐」というのはイスラムでなくてもどこにでもある事件である。インドならいまでも日常茶飯事だ。作者には、ガルシア・マルケスのように、それを時代の流れに位置づける俯瞰の立場をもとめたい。そうすれば「セールスマンの死」とも重なるのではないか。


五人組とルビンシュテインの論争に関する、チャイコフスキーの結論。

「無題の器楽曲を作るのは、純粋に叙情的な過程です。それは抒情詩人が詩によって自己を表現するように、音によって心中を打ち明けることです」

みごとに音楽的過程を言い当てていると思う。彼はこの結論を得たあと、標題音楽についても論を及ぼす。

「すべての音楽は標題的です。叙情的作品の場合は作曲家の喜びや苦しみの感情が標題です。しかしその標題は(あえて掲げる)必要がないし、不可能でもあります。これに対し作曲家が外的な刺激を受けて、その霊感を音楽によって表現する場合は標題が必要です。どちらも存在理由を持っています。どちらかを排他的に認めることなどできません」

これも素晴らしい。「標題」を視覚的刺激に留めることなく、より本質的に規定することで、論理の色を抜け出す。

結局、「叙情的な過程」というものが作曲の核心に存在し、それは音楽以外のすべての芸術的過程と共通するものだということになる。

「情」というものを、たんなる刺激の反映ではなく、内的に湧き起こる能動的な力だと理解すれば、叙情か標題かという対立は無意味なものになる。

では内的な力がすべてで、外的な刺激はたんなるきっかけにすぎないのか。そうではない。外的な刺激はそのものが力を持っている。だから外的な力が強い時は、内的な力との合作になる。

これで作曲過程における叙情と標題性の性格は構造化された。ただそれで話は済むわけではない。相争う両派からは折衷派と非難されるかもしれない。

そこでチャイコフスキーは「何のための叙情性であり標題性なのか」を押し出す。

「私の音楽を愛し、そこに慰めと支えを見出してくれる人々の数が増えることを、私は心から願っています」

つまり、出来上がった作品は他の人々にとって「外的刺激」なのであり、その人々の内心に働きかける力なのである。美しい景色や優れた詩のように、心に感動を与え、内的な力を産ましめるように、作品に魂を与え命を吹き込まなくてはならない。

ただ、論争としてはこれで決着がつくのだろうけれど、バッハやビバルディーのような「職人技」の音楽については別な議論が必要になるかもしれない。

(引用はバクスト「ロシア・ソヴィエト音楽史」より)

2017年07月15日


2016年10月30日に 「ロシアのショパンたち」 ピアノ小曲百選 を投稿した。

それから1年も経たずに改訂版を投稿する。前回の時点ではスクリアビンがしっかり聞けてなかった。また同時代のリムスキー・コルサコフ、グラズーノフなどなどもカヴァーしていなかった。

一応それらも聞いてみたが、結局カリンニコフ、グリエール、スタンチンスキーのほかは取り上げるほどのものはなかった。管弦楽や室内楽の才能とピアノの才能は少し違うらしい。

作曲家別に、おおよそ古い順に並べていく。とは言っても、ほとんどが1885年から2005年にかけての20年間の間にほとんどの作品がかたまっているので、あくまで便宜上のものと考えてほしい。

無調(に近い)の作品は除外した。楽典とか演奏には素人なので、難しいか平易かはいっさい配慮していない。「メロディーいのち」である。

今回は、曲目紹介に私的な感想は入れないと心に決めている。多くはPTNA(ピティナ)の解説の要約であるが、これでは足りないので英語の文献からかなり補充した。

 

グリンカ 1804~1857

1 ノクターン「別れ」 ヘ短調

ミハイル・グリンカは「ロシア音楽の父」と呼ばれる。歌劇「ルスランとリュドミラ」(1842年)の序曲が有名である。

この曲は1939年に作られている。紛らわしいがロシア語では別れのことをラズルカという。石原裕次郎の持ち歌で「別離(ラズルカ)」というのがあるそうだ。

2 マズルカ ハ短調

グリンカが作った6曲のマズルカのうち5番目の作品で、グリンカが39歳のときに作られている。

マズルカはポーランドの舞曲だが、ロシア人も大好きで、この時期ほとんどの作曲家がマズルカを作曲している。

 

バラキレフ 1837年~1910年

3 1864 ひばり (原曲はグリンカ)

バラキレフは18歳でペテルブルクに出て、たちまち頭角を現した。5年ほどのあいだに「5人組」を組織し、国民音楽を唱導した。

この曲は敬愛するグリンカの歌曲をピアノ用に編曲したものだが、内容的にはグリンカの曲を主題にした作曲といえる。(原曲もYou Tubeで聞けます)

4 1859 ポルカ嬰へ短調

ポルカは1830年代にボヘミアで作られ、ドイツに広がった。普通は陽気な2拍子だが、ここでは短調の曲となっている。

スメタナグリンカも短調のポルカを作っている。これはボヘミアからポーランドに広がったポレチュカの影響かもしれない。ショパンはポルカを書いていない。

5 1902 トッカータ 嬰ハ短調

バラキレフは何度も失敗しては立ち直っている。彼は死の前年、72歳の時まで曲づくりしている。これは65歳のときの曲だ。

ただし作品目録を見ると、この年に書いたというより書き溜めた楽譜を在庫一掃的に整理出版したのではないか。

32歳のときの難曲「イスラメイ」と通じるものがある

6 1902 ノクターン No.3 ニ短調

これもトッカータと同様だ。

なおYou Tubeにはあまりめぼしい音源がない。バラキレフのピアノ曲集はCD6枚組と膨大である。多分まだ知られざる歌曲が眠っているだろうと思う。

 

ムソルグスキー 1839年~1881年

7 1859 子供の遊び スケルツォ

ムソルグスキー初期の単品出版曲。展覧会の絵の「チュイリュリーの庭」をしのばせる。

8 1865 子供の頃の思い出 第2曲 最初の罰

ピアノ曲集「子供の頃の思い出」は5曲からなる。1曲めがスケルツォで、子供の遊び・スケルツォとは同名異曲。2曲めが「乳母と私」で、3曲めがこれ。

副題は「乳母は私を暗い部屋に閉じ込めた」となっている。

9 1865 ロギノフの主題による「夢」

日本語の説明は探せなかった。All Music というサイトに短い説明があった。

この頃ムソルグスキーは多くの仲間とともにペテルブルクのアパートを借り、共同生活を送っていた。仲間の一人にロギノフ(V.A. Loginov)という詩人がいた。この曲は彼のために作られ捧げられている。

10 1880 涙の一滴 ト短調

ムソルグスキーの小品の中では最もよく知られた曲。「涙」とも題されているが、原題がUne larmeなので、「涙のひとしずく」とした。

死の前年ということになるが、この時まだ41歳である。年表を参照いただきたいが、この頃彼は仕事を失い、クリミアを演奏旅行していた。「クリミア南岸にて」、「村にて」などの曲があり、最初は100選に入れていたが、今回は割愛した。

 

ボロディン 1833年~1887年

11 「小組曲」より 1.修道院で 嬰ハ短調

小組曲は1985年の発表で、ボロディンの唯一のまとまったピアノ曲集。ベルギーのアルジャントー伯爵夫人に捧げられている。正式な名前はマリー=クロティルド=エリザベト・ルイズ・ド・リケ。

アルジャントーはキュイの作品にも登場する。おそらく5人組のパトロンだったのだろう。

修道院とCDの日本語で書いたが、クヴォンと読む。英語ではnunnery で修道尼の方である。

小組曲は全7曲からなり、それぞれに副題が付けられている。この曲には「大聖堂の円天井の下で少女は神を思うことはない」と題されている。

12 「小組曲」より 2.間奏曲

ボロディンお得意のオリエンタル・ムードである。副題は「彼女は外の世界を夢見る」となっている。

貴族の子女が幼少時に修道院で育てられるのは、よくあることである。少女にとって「外の世界」は夢の世界である。

13 「小組曲」より 7.夜想曲 変ト長調

副題は「少女は満ち足りた愛によって眠りにつく」となっている。

有名な弦楽四重奏曲のノクターンを連想させる、同一フレーズの執拗な繰り返し。

 

キュイ 1835年~1918年

14 Op.20 12の小曲 第8番 子守歌

血筋で言うとキュイはロシア人ではない。

父親はフランス人でありリトアニアに住み着き、リトアニア人を妻とした。当時リトアニアはロシア領だったが、その昔はポーランドと並ぶ大国であった。

最初は土木学者としてキャリアをスタートさせ、1855年クリミア戦争で軍務についたあとは築城術の専門家となった。

音楽ではオペラ作家を目指したが成功せず、「余技」のピアノ曲が名を残すことになった。

キュイは作曲家としては類のない遅咲きである。とくにピアノ曲のスタートは遅い。作品番号1のスケルツォが1857年、22歳である。その後の作品は声楽、合唱、管弦楽曲が主体で、作品1もピアノ連弾曲である。

純粋なピアノ独奏曲は1877年の「3つの小品」(作品8)が最初である。作曲家デビューの20年後、42歳のことである。金沢摂さんの演奏を聞いても分かるように、この作品で左手のパッセージはほとんど何もしていない。

15 Op.21 組曲 1 即興曲 変イ短調

さらにその5年後、47歳の作品20で、初めて売り物になるピアノ曲を書いたことになる。もっともピアノ連弾曲ではあるが。

そして次の作品21でピアノ曲作家としての才能が花開いた。この曲は4曲からなる組曲の冒頭であるが、なぜ短調なのか分からない。
1885年に出版され、リストに献呈されている。世の「大作曲家」たちが寿命を終えることである。

16 Op.21 組曲 2 Tenebres et lueurs 嬰ト短調

フランス語で「暗闇と光」というらしいが詳細は不明。いかにもそれらしい曲である。

対位法を築城術のごとくに用いているのが印象的。

17 Op.21 組曲 3 間奏曲 変イ長調

これも短いパッセージを積みげていく築城術型作曲法の実例ということになるのか。

18 Op.22_3 ノクターン 嬰ヘ短調

とにかくキュイに関しては日本語文献が皆無にちかい。ソ連時代に軽視された影響もあると思う。

この「4つの小品」も85年、作品21と同時に出版されている。

19 Op.31 3つのワルツより 第2番 ホ短調

1886年の作曲で、第1番 アレグロ イ長調。第2番 アレグレット ホ短調。第3番 アレグレット・モッソ ニ長調からなる。

20 Op.40 ピアノ曲集「アルジャントーにて」 第5番 セレナーデ

キュイは1887年、ベルギーのアルジャントー(Argenteau)を訪れる。ベルギーと言ってもアントワープ周辺のフランス語地域である。

パトロンである伯爵夫人に会うのが目的だったろうが、とにかくこの訪問にあわせて9曲のピアノ小曲集を作った。「9つの性格的小品」と題されており、

1. 西洋より、2. 閑暇、3. 気まぐれに、4. 小さな戦争、5. セレナーデ、6. 談話、7. マズルカ、8. 礼拝堂にて、9. バラードをふくむ。

どことなく聞き覚えのあるスペイン風の曲である。

21 Op.40 「アルジャントーにて」第6番

練習曲“Causerie”(おしゃべり)と題されている。女性のおしゃべりに男性が相槌を打っている。

残念ながらYou Tubeでは以上の2曲しか聞けない。全曲を聴いてみたいものである。

22 Op.64 前奏曲集 第2番 ホ短調

ここからは前奏曲集からの抜粋。

何度も年のことを言うが、この曲集が発表されたのは1903年、すでに68歳である。もちろん書き溜めたものもふくまれているのだろうが、そのみずみずしさは特筆に値する。

You Tubeではいろんな演奏が聞けるが、ビーゲルの演奏した全曲盤はぜひとも買うべきである。アマゾンはとんでもない値段がついているが、タワーレコードならセール価格1142円だ。フィンガーハット盤は他の曲との抱き合わせだが、いずれも情緒たっぷり。こちらも絶対のお薦めだ。

2番は短い舟歌風の曲。メンデルスゾーンの無言歌を連想させる。

23 Op.64 前奏曲集 第4番 ロ短調

魅力的なテーマが提示されるが、展開は比較的簡潔。

24 Op.64 前奏曲集 第6番 嬰ヘ短調 Andante

同じテーマが最初は重々しいマーチ、ついでバラード風に、舞曲を挟んで、最後はエレジーで終わる。映画音楽のような構成。

25 Op.64 前奏曲集 第7番 イ長調

これもメンデルスゾーンの「春の歌」を思わせる簡素な曲。

26 Op.64 前奏曲集 第8番 嬰ハ短調

劇的なテーマの曲。強奏の連続は練習曲に近い。

27 Op.64 前奏曲集 第9番 ホ長調

夜想曲風のゆったりした曲想。もっともショパンに近い。

28 Op.64 前奏曲集 第10番 嬰ト長調

これもショパンのバラードを思わせる曲。

29 Op.64 前奏曲集 第16番 ヘ短調

スクリアビンの真似をしてみました。

30 Op.64 前奏曲集 第18番 ハ短調 Allegretto

メロディーは一番キュイらしさが出ている。

これで一応前奏曲は締切だが、入れなかった曲の中にも良い曲はある。

31 Op92 3つの旋律スケッチ 第1番 モデラート ハ長調

あえて作品92(3 Esquisses mélodiques)の3曲を全て100選に入れてしまった。

この作品は「ピティナ音楽辞典」にも載っていない。IMSLPは真偽を疑っているようだ。

The edition by the Art Publication Society would appear to be the only one to date. The details of how this work was acquired and issued by the Society, and how it was rendered in English, are subject to further investigation.

と書いている。

また英語版ウィキの「作品リスト」の項目ではこう書かれている。

Many individual compositions by Cui have been published over the years, especially in English and French editions, without information as to opus number

私はYou Tubeから拾った。演奏者・アップロード者はルイス・アンヘル・マルティネスという人だ。

発行元のクレジットによれば、1913年の作曲で同年にミズーリ州セントルイス(!)で出版されているとのことだ。実物がアップロードされている。

あとは“Believe or not”の世界だ。

32 Op92 3つの旋律スケッチ 第2番 モデラート ニ長調

1番と2番はロシア民謡風のメロディーに簡潔な左手が添えられている。

33 Op92 3つの旋律スケッチ 第3番

これは明らかに聞き覚えのあるキュイの曲だ。キュイの最高の曲の一つと言ってよい。おそらく真相は、キュイが鼻紙を捨てるようにメロディーを撒き散らしたということだろう。

とりあえず100選に入れてしまったが、いずれ番外編に突っ込むべきかもしれない。佳曲であることは間違いないのだが。


You Tubeには時々とんでもない掘り出し物がある。

リヒテルの1959年の録音で、ラフマニノフの前奏曲作品23の2番というのがそれだ。

まさに「奇跡の演奏」だ。野球で言うと大谷の165キロだ。

ほかに4番も5番もない。

リヒテル年表で調べてみると、リヒテルはこの年に東欧を旅している。

まず4月にワルシャワに行き、5日間連続で演奏会を開いている。録音をしに行ったのかもしれない。ヴィスロッキ指揮ワルシャワ・フィルとモーツァルトの20番、ラフマニノフの2番を入れている。

我々にとっておなじみのラフマニノフがこの時録音されたのかもしれない。

その他にラフマニノフの前奏曲23の2,4,5と32の1,2も入れているようで、この時の録音かもしれない。

6月末に一度ソ連に戻ったあと、10月には東ドイツで2週間、その後11月にはプラハで3日間仕事をしている。この時スメタナホールでラフマニノフの前奏曲を13曲も演奏しているから、こちらかもしれない。

正直言って、新世界=メロディア盤のピアノ協奏曲(ワルシャワ)の録音はひどかった。スプートニクを飛ばした国の録音とは思えない。

こちらの音源はかなりしっかりした音で入っているから、チェコ(スプラフォン)の録音かもしれない。

探してみたが今はもうないようだ。

その代わりに、すごいお宝映像がアップされている

Sviatoslav Richter - Rachmaninoff Prelude op 23 N 2

リヒテルにまだ髪の毛があった時代だ。風前の灯ではあるが。

こいつもすごい映像だ。

ギレリスが空軍の飛行場で、出動前の飛行士たちを前に前奏曲23_5を演奏している。これぞまさしく「戦場のピアニスト」だ。ギレリスは相当必死に「音楽」の意味を考えたであろう。

Gilels - Prelude Op 23 No 5 - Rachmaninoff

「たしかに音的にはあり得るな」、と変に納得してしまう。


アレンスキーを聞いていて、びっくりした。

作品74というおそらく最後に近い番号のピアノ練習曲集だ。

全12曲ということで練習曲集としてのルーチンは踏んでいる。

物の本によると、この人は将来を嘱望されながら酒とバクチで身をもち崩し、最後は結核となり45歳でなくなったらしい。

それが1905年のことであるが、この曲集はその年に作られている。

アレンスキーの作風は保守的で、ミニ・チャイコフスキーみたいな路線を走っていた。最初から交響曲とか協奏曲で売り出した。

ピアノ独奏曲には大したものはなく、2台のピアノのための組曲が5つもある。売れ線狙いであろう。

練習曲というのはかなりピアノ弾きの証しみたいなところがある。みんな結構書いているが、この人は盛りの時期にはほとんど練習曲は書いていないし、書いても面白くもないものだ。

それが死ぬ直前になってとつぜん練習曲集を、しかも完全な形で残した。ある意味で信仰告白とも遺書ともとれる。

そんな曲がなぜかYou Tubeで聞ける。

この人はムラっ気があって、だめな曲はだめなのだが、どういうわけか、ウィキにもとりあげられないようなこの練習曲集が12曲全部素晴らしいのだ。

1番で「えっ」と驚いて、2,3,4、5と進む。6番がすごいデモーニッシュな曲で、ショパンの葬送ソナタの第3楽章みたいだ。

7番が最高で、シンプルな旋律だが和音は世紀末だ。しかし無調の世界へは踏みとどまる。最後の12番は宗教的な香りさえ漂わせる。

参考までに私の「ロシアのショパンたち」100曲にランキンしたアレンスキーの曲は以下の通り。

34 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

35 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

36 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 1.学者

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

40 Op.25 4つの小曲から No.2 夢想

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

44 練習曲集 Op74_6 プレスト(ニ短調)

45 練習曲集 Op74_7 アンダンティーノ(変ホ長調)

46 練習曲集 Op74_12 アレグロ・モデラート(嬰ト短調)



ロシアにはまだとんでもないピアニストがひそんでいる。

とにかく後から後から出て来る。

ソコロフのあとはウラジミル・バック、コロリオフ、クシュネローヴァとなるのだが、今回驚いたのがアレクサンダー・ウルヴァロフ。

You Tubeでロシア小曲の演奏家として出てくる。見た目普通のおっちゃんなのだが演奏はすごい。

それで調べたのだが、インターネットには英語の紹介さえない。ドイツ語のサイトにかんたんな紹介があった。

1954年、ペテルスブルクの生まれ。まぁ生まれた時はレニングラードだ。

ペテルブルク音楽院でピアノを学んだ。ショパンコンクールにも参加しているらしい。卒業後は82年からノボシビルスクで教鞭をとった。

1001年にドイツに移住した。ドレスデンの音楽学校でピエノを教えている。









ソ連崩壊のときには相当数のロシア人がドイツに移住しているようだ。東ドイツだけでも大変なのに、ずいぶん頑張って受け入れたものだ。

それが今になって生きているとも言える。苦労は買ってでもせよということか。

ロシアにはまだとんでもないピアニストがひそんでいる。

とにかく後から後から出て来る。

ソコロフのあとはコロリオフ、クシュネローヴァ、ヴォルドスとなるのだが、今回驚いたのがアレクサンダー・ウルヴァロフ。

You Tubeでロシア小曲の演奏家として出てくる。見た目普通のおっちゃんなのだが演奏はすごい。

それで調べたのだが、インターネットには英語の紹介さえない。ドイツ語のサイトにかんたんな紹介があった。

1954年、ペテルスブルクの生まれ。まぁ生まれた時はレニングラードだ。

ペテルブルク音楽院でピアノを学んだ。ショパンコンクールにも参加しているらしい。卒業後は82年からノボシビルスクで教鞭をとった。

1001年にドイツに移住した。ドレスデンの音楽学校でピエノを教えている。

ソ連崩壊のときには相当数のロシア人がドイツに移住しているようだ。東ドイツだけでも大変なのに、ずいぶん頑張って受け入れたものだ。

それが今になって生きているとも言える。苦労は買ってでもせよということか。

どこがすごいかと言われても困るのだが、とにかく小曲を録音しているマイナー・レーベルの演奏家たちとはまったくレベルが違うのである。

論より証拠、

Alexander Urvalov, A. Borodin, Vier Stücke aus "Petite suite"

Alexander Urvalov, C. Cui, Präludium op. 64, Nr. 16, Serenade op. 40, Nr. 5, Walzer op. 31,

Alexander Urvalov, M. Balakirew, Islame


あたりを聞いてもらえば、そのすごさが分かってもらえるだろう。



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