鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年06月

民主主義とファシズム、ポピュリズムの関係を議論するときに、アリストテレスの「ポリス国家」論を勉強しないとだめだということがわかり、いつものごとくニワカ勉強です。

グールで「ポリス国家+アリストテレス」と入れても、ウィキには「ポリス」でしか出てきません。

最初にヒットするのが アリストテレス『政治学』を解読する Philosophy Guides というページです。すごく読みやすそうにレイアウトされているので、早速トライします。

なお、著者は平原卓さんという哲学者のようです。

最初のところに、

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → 「アリストテレス『政治学』を超コンパクトに要約する

とある。

もちろん、いますぐ概要を知りたいから、そちらに回ることにする。

最初にこう書かれている。

アリストテレスの『政治学』をコンパクトにまとめました。

一番大事なのはポリス(国家)の本質論。その他は実践論でやたらに細かいだけなので、ポイントだけ押さえておけば十分です。

とあるから、まことにありがたい。


目的: ポリスの本質を規定すること。

結論: 人間は善を目的因とする存在。ポリスは最高善を目的因とする存在。なのでポリスは人間にとって本質的なもの。

わかりやすい。ただし「(目的)因」というのが分からない。これは後で調べることにする。

ポリスの本質: 

共同体は家族→村落→ポリスと発展する。ポリスは最終的共同体。

ポリスは「市民」から構成される。(「市民」は実質的にはエリート。だからアリストクラシーというのかな?)

ポリスはたんなる生活共同体ではない。なぜならポリスは最高善を目的因とするから。

共和制:

「市民」による共和制が一番良い。

無産者に支配される民主制はだめ。僭主制、寡頭制ももちろんだめ。

徳治ではなく法治:

徳治は「反徳」治になる危険がある。

望ましい生活:

幸福は「よく」行うことにある。ただし、観照や思考のほうが行動的である。


これで終わりだ。

流石にこれではよく分からない。もう少し詳しく見ていく必要がある。

ということで、 アリストテレス『政治学』を解読する に戻ることにする。

1.ポリスの本質

国家は一つの共同体である。

共同体は「よきこと」のために出来ている。

なぜなら、すべての人間は自分がよいと思うことのために活動するからである。

国家(ポリス)すべての共同体を自己のうちに包括するから、最高最上の共同体である。

<平原さんの解説>

どんな事物も何かしらの目的(目的因)をもっている。

なかでもポリスは「最高善」を目指す本性をもっている。なぜなら「よさ」をめがける共同体の最終段階であるからだ。

それは「ただいっしょに生活するため」のものではない。

2.人間はポリス的動物

国家は(まったくの人為ではなくて)自然にもとづく存在の一つである。

また人間は、その自然の本性において国家をもつ(ポリス的)動物である。

人間は、完成されれば動物のうちでも最善のものだだ。

しかし、法律や法的秩序から離れてしまうと、あらゆるもののうち最悪者となる。

これに関して、 「人間はポリス的動物である」の意味は? という文章が別にあるそうだ。あとで見に行こう

3.よき市民とは?

4.正しい国家体制は?

アリストテレスによれば、国家体制には、王制、貴族制、共和制、僭主制、寡頭制、民主制があり、特に最初の3つの体制が正しい。王制、貴族制、共和制のなかでも、大衆が参加する共和制が国家体制のスタンダードだ。

これは「つかみ」の文章から前進はしていない

5.行動的生活

「行動的生活」とは、ポリスの政治に関わる生活のことだ。

アリストテレスは、実際の政治行動よりも「行動を目的とした観照」(テオーリア)のほうが行動的だと主張する。

6.プラトンとアリストテレス

プラトンは「国家」の中で「哲人政治」を主張した。哲学者がポリスの王となって統治するのが最も幸福なのだという。

アリストテレスはこれを否定したといえる。


どうもあまり前進したとは言えない。

まぁとりあえず、先程の文章に行ってみますか。

[Q&A]「人間はポリス的動物である」の意味は?

1.「ポリス的動物」は「社会的動物」ではない

市民国家は、きわめて同質的な人間から構成される市民社会と定式化される。

しかし、アリストテレスは「ポリス=社会」と考えていたわけではありません。

2.4原因説

アリストテレスは、存在するものは必ず素材因、形相因、始動因、目的因という4つの「因」を備えていると考えていました。

素材因  とは、事物がそこから生成するところのもの。

形相因  とは、事物の形相(本質、概念)または原型のこと。

作用因  とは、物事を始動または停止させる第一の始まりのこと。

目的因  とは、物事がそのためにあるところのもの。

これは私の考えだが、

今日では次のように言うことができるだろう。

①事物は存在であると同時に過程であること。

②したがって、全てのものには歴史があり未来があり、

③固有のエネルギーがあること。

しかし当面は目的因 が大事である。それは事物と“私”あるいは“私たち”との関係を規定している。

事物を実体論的にだけではなく、目的論的に捉えることが大事だということだ。

3.ポリスの目的因

家族が集まると村落ができる。それは日々の必要だけに限定されない共同である。同じように村落が集まって国家(ポリス)となる。

村落の生成理由はわれわれが生存するための必要によるものであるが、ポリスの存在理由はわれわれの生活をよくすることにあるのである。

自足性というものは、共同体にとっての一つの目的であるが、それは究極的に善として求められる。

その究極的目的(最高善)は国家において実現されるのである。なぜなら人間の目的因も「善」だからです。

4.政治学の目的

ポリスはそこに住む自由市民がポリス的動物として、徳を積むことめざす。

それを可能とする条件を探すのが政治学である。



とてもわかり易くてよかったが、「本当にこんなものかいな」という疑問も若干よぎる。

ポリス国家というのは、二面性を持つということ。下に対しては寡頭政治であり、上に対しては共和政治だということ。

結果として人は押し出すが、自分は追い出されたくないというところに帰結する。その口実として衆愚政治の危険が持ち出される。

下層階級の声が高まれば、それは引かれ者の小唄となる。

ただし、現代国家の無機質性に対し、「善」の考えを押し出していることは注目に値する。現代政治の抱えるさまざまなジレンマを乗り越えるためには、大なり小なり前向きの倫理観(たんに悪いことをしないというだけにとどまらない)というものが要求される。私はそれを「思想としての民主主義」と呼びたいが…)

ここに「立憲主義」の素材因  としてのヒントが隠されている可能性はある。


mp3Directcut AAC再生の悩みはみな同じ

2013年06月11日 

2017年04月24日 

ですでに書いてあるが、悩みは世界中同じというお話。

MPeX というドイツのサイトにあるフォーラム。次のような記事があった。

Can't play AAC - can't find MSVC90

When trying to play AAC, I got "The specified module could not be found.", followed by "libfaad2.dll needed etc etc". With libfaad2.dll downloaded and put in the mp3DirectCut folder, I still get the two error popups, except the first one doesn't contain any text.

The second popup says "Runtime Library MSVC90 may also be needed", so perhaps that's what I have to do. But I can't find msvc90.dll anywhere on the internet. I tried with msvc90r.dll but that didn't do anything.

There is no "msvc90.dll". The MSVC lib consists of at least 3 DLLs. There may be more. On Windows 7 and newer the lib should be already present.

Turns out I just had a shitty libfaad2.dll. I downloaded it from http://originaldll.com/file/libfaad2.dll/20662.html and now it works.

君、それは32ビット版のリブファードだよ。

もう一度書いておこう。

mp3Directcut を動かすにはふたつのことが必要だ。

1.ダウンロードしたら、一度デスクトップに移すこと、それから右クリックして管理者権限で実行することだ。

2.AACのファイルはMP3同様にサクサク切れるが、再生はできない。同じフォルダー内にデコーダー(リブファード)を置く必要がある。ダウンロードサイトから落とす時は必ず32ビットで。64ビットでは動かない仕組みになっている。

mp3Directcutは何故か恥ずかしがりのソフトで、立ち上がりソフトの一覧にも入らないし、コントロールパネルのプログラム一覧にも入らない。


本日は夕方から伊藤真(伊藤塾塾長)さんの講義を聞きに行ってきた。
「立憲主義って何?」という題で100分。
まさに立て板に水という感じでさらさらと流れていく。まことに見事な水際だった講義だった。
終わるなり、「はい、本日は質疑応答はございません」ということで、そそくさと会場をあとにした。その足で東京に帰るのだという。
しかし決してつまらなかったというのではない。いくつかの聞き逃せないポイントもあって、きわめて充実した100分であった。正直言うと、歳のせいか最後の15分位は頭が回らなくなるほどであった。
予備校などで東京の人気講師が出張で特別講義をすることもあるようだが、まさにそういう感じだった。
ただし、ただしである。
「立憲主義ってなに?」という演題にもかかわらず、立憲主義ってなんなのか、結局わからなかった。
講義が終わって、「はい、それでは “立憲主義とは何か” レポートを書いてください」と言われるとはたと困ってしまうのである。
話の中身のほとんどは「憲法とは何か」みたいな話であり、憲法改悪を狙う安倍政権の行動は、立憲主義の破壊でもある。したがって憲法改悪策動に反対して闘うことが「立憲主義を守る」戦いである、という一種の循環論法になっているように聞こえてしまう。
主催が「東区9条の会」であり、聴衆のほとんどがおじさん、おばさんばかりだったから、そういう話になったのかもしれない。専門家が集まる会合であればもう少し違った話になったのかもしれない、というのがとりあえずの感想だ。
もう頭も回らなくなってきているので、かんたんに議論の骨組みというか問題の所在について書き留めておきたい。
立憲主義をマグナカルタの思想にもとめるというのは、根本となる考えである。主権在民の意志を憲法という形で定式化し、それで権力の手を縛るというのが立憲主義だ。
これについては一握りの御用学者を覗いて誰しも一致するだろう。
もう一つは「民主主義」が暴走する際に、歯止めとして憲法を位置づけるという考えである。これがなかなか難しい。ナチスを生み出したのもトランプを大統領に押し上げたのも「民主主義」だ、という前提がある。
もちろんその民主主義は真の民主主義ではなく「手続き民主主義」にすぎないので、我々が目指すべきものとしての民主主義そのものではない。
しかし立憲主義を唱える人の中には民主主義に対するペシミズムと密かな貴族趣味への郷愁を忍ばせている向きもある。それはハンナ・アーレントに通じるものがある。
民衆の自律的運動を右でも左でもポピュリストとして一括し、よりあからさまに民主主義への蔑視を公現する人もいる。彼らから見れば、「地獄への道は善意で敷き詰められている」のである。
しかし考えても見てほしい。マグナカルタはすでに千年近い昔の話である。それだけの時間をかけて人類社会はようやくここまで来たのだ。そうかんたんに民主主義に絶望しないでほしい。
「天国への道もそれ以上に善意で敷き詰められている」のである。
社会の進歩は積み重ねだ。最初は法治主義、ついで立憲主義が積み重なって、その上に民主主義の地層が出来上がろうとしているのだ。こういう階層的な構造の構成部分として立憲主義を見ていく視点が必要なのではなかろうか。

コンビニに行ったら、こんな雑誌が出ていて、つい買ってしまった。
10年くらい前まではよく買っていた雑誌だ。おまけのCDにフリーソフトがずいぶん載っていて、大半は何の役にも立たないのだが、なんとなく使ってみるのが楽しかった。
ここ最近は手にはとってみるものの、別にそそられるものもなく、そのまま書棚に戻していた。考えてみればよく持ったものだというべきかもしれない。
最終号らしく全編が「裏と表のパソコン20年史」という特集で埋め尽くされている。その世界の先頭を走ってきた老舗雑誌だけに、ツボを押さえた書きぶりである。つい3時間かけて読み通してしまった。
ぜひお読みになるようお勧めする。CDが2枚もついているが、別に必要なものはない。
考えてみれば、これはネットが繋がりにくく高価だった時代の代替物である。
ダウンロードするだけでも大変で、その上ソフトの使い方の説明もなかった。もっと昔、NECの頃はソフトというのは買うものであった。そして教科書と首っ引きで操作を覚えるものであった。一太郎や松も、桐や花子もそうやって憶えたものだ。
書棚にはウィンドウズ関係の説明書が5,6冊は並んでいた。
今やネットは光で瞬速、説明書もネットでいくらでも手に入る。
もっとも私が学術・研究活動から離れ、趣味の世界でしかパソコンを使わなくなったためでもある。
もはやエクセルを使って統計処理したり、それをパワーポイントで仕上げたりしなくなって久しい。今使えと言われても、MS-DOSを使うより難しい。
パソコンの世界はたしかに驚異的に進歩した。しかし案外変わっていないと言えば変わっていないのかもしれない。
パソコン操作の基本はすでにNEC98シリーズで完成している。Windowsの出現というのは端的に言えばインターネットとの連動だろう。それさえなければ案外今でもNECを使っていたかもしれない。
私がホームページをはじめたのは97年の5月ころだと思う。初めて買ったウィンドウズのパソコンで「簡単ホームページ接続」というのがあって、富士通のプロバイダーにつながるセットが組み込まれていた。それを使って立ち上げたのである。いまでもその頃のhttpアドレスにリンクしている人がいる。
その前にはマックを使っていて、Niftyのサイトにつながってからインターネットに再接続する仕組みになっていたが、人にセットしてもらってもすぐ切れてしまう。
話が横道にそれた。
最初のネットは遅かった。コンテンツも乏しかった。もっぱら英語のサイトを検索していた。そのうちADSLというのが出てきて10倍位のスピードになった。ただこれは特殊な仕掛けが必要で自宅では利用できなかったから、休みの日に医局のパソコンで落としまくって、それを自宅で処理するという日々であった。
それが2003年になって光が使えるようになって、インターネット環境が激変した。通信速度の飛躍的な増加がパソコンのあり方を一変させたのである。
多分あとは量的な増大であろう。CPUの高速化、記憶容量のギガ→テラ化、ネット情報の巨大化だ。あまり革命的な変化があったとはいえない。
ということで、パソコン=インターネットの進化は
1.OSの進化とGUIの普及…NEC98
2.インターネットとの連動…Windows95
3.光通信の普及…Windows XP
の3つがエポックといえるのではないだろうか。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

郷原さんの記事で、出会い系バーの実体について下記の文章がしばしば引用されている。
何もそこまでも、と思いつつもやはり気になって読んでしまった。

【前川前文科次官「出会い系バーで貧困調査」報道に必要なのは、事実の検証であり人格評価ではない/『彼女たちの売春』著者・荻上チキさんに聞く】

というページだ。6月2日のアップロードとなっている。
最初に荻上さんの著書の表紙を転載しておく。
出会い系

ものすごく話題が豊富なので、要点をまとめるのに苦労するが、狙いを前川問題に絞る(ように努力する)

1.出会い系バーは「売春」の交渉の場か
間違ってはいませんが一面的です。
出会い系バーは18歳未満は入れません。児童買春はできません。
多くの女性や男性は売買春が目的です。半数以上がワリキリをやっていると思います。
しかし全員ではありません。ご飯に行ったりお茶をしたり、カラオケに行く人もいます。
女性側が「ワリキリやってないです」と断わることもある。
社会科見学的にくるような人、調査や取材に来る人もいますね。
2.出会い系バーは管理売春ではない
出会い系バーは、業者が女性を囲って行われる「管理売春」ではありません。
だから外形的に判断はできません。めぼしいマッチングに恵まれずただ帰ることもあります。店に行った=買売春した、とはなりません。
出会いがあると、トークルームに入り、そこで交渉をします。「売春交渉はやめてください」と書いてありますが、それは警察への言い訳です。
女性は最初のうちは茶飯だけで稼ごうとお店に通うものの、「あの子は茶飯だけだよ」と噂になると声をかけられなくなり、ワリキリます。
3.出会い系バーのメリット
女性にとっては営業努力が軽減できる、誰かがいて安全だなどのメリットがある。
ハウジングプアの女性が1割近くいて、家のない女の子の場合、雨風がしのげます。
「JK見学」系とは、まったく異なる形態のものです。(またJKが出てきた)
4.出会い系バーと貧困の結びつき
女性の全員が貧困とは限りません。ただ、貧困状態にある人は割合的に多いです。
住処の貧困であったり、DV被害者だったりする人が平均よりも多い。
24時以降に居場所がない場合、出会い系バーは選択肢となる。
5.「小遣いを渡す」ということ
ちょっと説明がわかりにくいが、「小遣いを渡す」というのは独特の業界用語らしい。セックスの代価ではない。
昔は忘年会の帰りにタクシーに乗ると、「近くですまないが、二千円上乗せするから」と言って乗せてもらったことがある。
その上乗せ分が「小遣い」に相当するようだ。
6.調査にしては回数が多すぎる?
菅官房長官は「調査だったら1回か2回じゃないですか」という。
本気でやるなら、1、2回で調査は終わりません。それはただの「見物」「見学」です。
ぼくは前川さんを擁護しているのではなく、調査を擁護しているんです。
7.前川さんは清廉潔白だという主張について
良い人アピールも、悪い人アピールも議論の本質ではないでしょう。
だから、読売新聞が「出会い系バー通い」という情報だけで、(前川さんの)説得力を奪おうとしたことに驚きました。

まぁ、とにかくいろいろ勉強になります。前川さんが偉い人だということもよくわかりました。

下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

検索していくうちにいろいろな文章が引っかかってくる。よく経験するのだが、グーグルの検索は最初の2,3ページは似たような記事が多くて「こんなものか」と思うのだが、それを越えると石混じりの中にところどころ玉が混じっている。

今回はこれがそうだ。

「郷原信郎が斬る」というブログの読売新聞は死んだに等しいという記事だ。6月5日付となっている。

相当ごつい文章で、いささか胃もたれがするが、この問題に正面から取り組んでいる。

まず、問題の読売記事の全文が紹介されているが、これが前出の記事とだいぶ違う。

こちらが全文のようなので、あらためて紹介する。

文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ(ア)。

関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある(イ)。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる(ウ)。

複数の店の関係者によると、前川前次官は、文部科学審議官だった約2年前からこの店に通っていた。平日の午後9時頃にスーツ姿で来店することが多く、店では偽名を使っていた(エ)という。同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった。店に出入りする女性の一人は「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」と証言した(オ)。

昨年6月に次官に就いた後も来店していたといい、店の関係者は「2~3年前から週に1回は店に来る常連だったが、昨年末頃から急に来なくなった」と話している。

読売新聞は前川前次官に取材を申し込んだが、取材には応じなかった。

「出会い系バー」や「出会い系喫茶」は売春の温床とも指摘されるが、女性と店の間の雇用関係が不明確なため、摘発は難しいとされる(カ)。売春の客になる行為は売春防止法で禁じられているが、罰則はない(キ)。

前川前次官は1979年、東大法学部を卒業後、旧文部省に入省。小中学校や高校を所管する初等中等教育局長、文部科学審議官などを経て、昨年6月、次官に就任したが、天下りのあっせん問題で1月に引責辞任した。

郷原さんの理論は次のような組み立てになっている。

1.記事の中で直接的事実は二つだけ

記事の中で、前川氏の行為そのものを報じているのは二つに留まる。

それ以外は、出会い系バーの実態等に関する一般論だ。それは「援助交際が目的」と“推認”させようとする伏線になっている。

二つの事実とは

①前川氏が出会い系バーに頻繁に出入りしていたこと。「同席した女性と交渉し、連れ立って店外に出たこともあった」ことである。

②店に出入りする女性の一人の発言。「しょっちゅう来ていた時期もあった。値段の交渉をしていた女の子もいるし、私も誘われたことがある」

ということで①は紛れもない事実だが、それが買春目的であるとする根拠は、②の女性の「値段の交渉をしていた。私も誘われた」という発言のみである。

すなわち、この記事の核心的事実は一女性の発言によってのみ成り立っていることになる。

ただし「何の値段」の交渉をしていたのかは不明瞭である。前川氏に肉体交渉の意図がなかったことは各社の証言に明らかである。

2..どうしてこんな記事が掲載されたのか

読売記事については、二つの可能性が考えられる。

一つは、官邸サイドから情報を入手しただけで、何の取材も行わずに、「関係者証言」をでっち上げた可能性である。

もう一つは、前川氏が「交渉」「値段の交渉」を行っていたという曖昧な表現で誤った「印象」を与えようとした可能性である。なぜなら関係者取材をすれば、前川氏の目的は明らかだからだ。

前者であれば、「関係者証言のねつ造」という重大な問題となる。

後者であれば、曖昧な言葉で事実とは逆の誤った印象を与えるものである。

どちらも、新聞報道として到底許されることではない。

実は、1と2のあいだに長い論証部分がふくまれているのだが、いささか骨っぽくて要約するのは困難である。直接ご一読いただければよろしいかと思う。


下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

読売新聞の論建てで、気になる点が二つある。

一つは出会い系バーを「汚らわしい」と見るところから議論を出発させているのではないかという懸念である。

もう一つはプライバシーを侵害することについての基準の曖昧さである。

1.売買春は「汚らわしい」から悪いのではない

これまでの議論の中で置き去りにされているが、読売新聞の三段論法の最初におかれているのが、「売買春」=違法という考えの基礎のところである。

売買春が違法であることは言うまでもないのだが、それは「汚らわしい」からではない。

ここに「汚らわしい」という価値基準を持ち込むと、とたんに話は怪しくなる。以前は「娼婦狩り」と称して売春婦(街娼)が牢屋にぶち込まれたこともあった。

途上国では「美観を損ねる」と言ってスラムが壊され、浮浪児が投獄される(「保護」ともいう)事態がしばしば起きている。

2.売春を違法とする根拠

売春を違法とする大本の原理は、女性の人間としての尊厳を保護することにある。

現代において女性の尊厳は二重に損なわれている。一つは愛情の表現(人間性の発露)としての性交渉が商品化されることで、人間の尊厳が損なわれるからであり、一つはそれが性産業による収奪の手段となるからである。

ただし最初の点は時代や社会状況によっても色々なので、厳密な線引は難しい。

したがって外形的には性産業の関与するいわゆる「管理売春」が違法性の対象となる。売春することではなく、売春させることが犯罪となるわけだ。

もちろん性産業の方も色々手は打ってくるわけで、グレーゾーンが幅広く存在する。

いろいろ情報を集めてみると、出会い系バーの営業者は出会いの場所を提供しているにすぎないとも言える。しかし出会い系バーの女性の多くが売春を行っていることは間違いないようだ。

問題は営業者が女性を何らかの形で管理しているかどうかにかかっている。

この点は事実に即して判断するしかない。

これが売春に関する現代的常識であろう。

3.「買春」について

買春の違法性を措定するのは難しい。第一の規定からすれば、女性の尊厳を直接的に侵害する行為であり、容認されるものではない。

しかし線引は困難である。むしろバーの女性を強引に口説いてホテルに行くほうがはるかに犯罪性は高い。

第二の規定からすれば、おそらく買春は売春の幇助ということになるのであろう。

管理売春が違法であるがゆえに、それを幇助することも違法となる。

結局これも「出会い系バー」が管理売春かどうかで決まってくると思われる。

4.プライバシーの権利について

個人の権利の中の重要な柱の一つとして「私事権」がある。プライバシーというと、日本語では個人の秘密を保護する権利ということになっているが、実はもっと広い。

これは他人に迷惑をかけない限り、法律に違反しない限り、自分の好きなように生きる権利である。そしてそれを邪魔されないように保護して貰う権利である。

もっとぶっちゃけて言うと目障りでいる権利であり、目障りであり続ける権利である。

これは「せめて私のことは私の好きにさせて頂戴」という消極的な権利であるが、根源的な要求である。

それはしばしば「良くないこと」であったり、社会規範と衝突するために、社会的バッシングを受ける。

目につくところでは、服装に関する私事権、作法に関する私事権、TPOに関する私事権などがある。

服務規程や校則で実質的に禁止されているものもあるが、これらについては本来違法・違憲性が問われる可能性がある。

新聞ネタでは、ゲイの問題、君が代拒否問題、ゴミ屋敷問題などがある。

本来は私事のはずだが法律で禁止されているものもある。オートバイのヘルメット、運転手のシートベルトは罰金刑である。

私の経験では思想に関する私事権侵害が大きかったが、最近では喫煙に関する私事権が深刻である。

5.読売新聞の三重の過ち

今回の読売新聞の報道は、どこをどう押しても、まごうことなき私事権の侵害である。

当の読売新聞が「報道は公益目的にかなう」と、社会的バッシングであることを宣言しているのだから間違いない。

しかもその根拠は「違法行為が疑われるような店」に出入りしたことであり、違法行為を行ったわけではない。それどころか、女性を救わんとして赴いた可能性が高い。

のであれば、読売新聞は誣告と私事権の侵害という二重の過ちを犯したことになる。

さらにそれが政治権力や公安と結びついた謀略の一環として行われたとすれば、読売新聞は三重の罪に問われることになる。


下記もご参照ください
出会い系バーの基礎知識

昨日行われた前川喜平(前文部事務次官)氏の記者会見で、はっきりさせなければならない問題がある。

前川氏の「出会い系バー」通いを報じた読売新聞の記事について、「個人的には官邸の関与があったと考えている」と指摘したことだ。

前川氏は切羽詰まっている。このままでは「文部事務次官にあるまじき行動」とのそしりを黙認してしまうことになるが、「官邸の関与」まで指弾するとなると、これもまた自身の将来に少なからぬ不利益をもたらす危険がある。

いわば「前門の虎、後門の狼」という状況にあるわけで、前川氏の必死の思いが伝わってくる。

ということで、経過をおさらいしていく。なにせこの手のニュースは消えるのが早い。せっせと情報を集めておくと、きっといつか役に立つ。これがこのブログの真骨頂である。

この事件に関する報道の中ではネットメディアのリテラが出色である。ご参照いただきたい。


1.「出会い系バー」記事への伏線

5月22日の読売新聞の「出会い系バー」記事には伏線がある。

政府と読売新聞との密着ぶりはつとに知られている。それは安倍首相とナベツネの強い関係によってもたらされているが、その関係がこのところさらに強まっている。

4月24日 渡邉恒雄主筆(いわゆるナベツネ)が、安倍首相と都内の高級日本料理店で会食。

5月3日 読売新聞が安倍晋三首相の憲法改正についての単独インタビューを掲載した。この中で、安倍首相は「2020年に新憲法の施行を目指す」と宣言した。

安倍首相は国会で「読売新聞に書いてある。ぜひ熟読していただいてもいい」と発言し、物議を醸した。

5月13日 読売新聞、東京本社編集局長名の記事を掲載。首相の考えを報道することは「国民の関心に応えることであり、本紙の大きな使命」と説明する。

この「使命感」が22日の記事に結びついていると考えるのが自然だろう。

5月15日 「フライデー」誌があるパーティーでのナベツネと安倍首相の仲睦まじいツーショットを撮影している。
nabetunetoabe
2.「前川前次官、出会い系バー通い」の報道

5月17日 朝日新聞、「総理のご意向」などと記した文書文書が存在すると報道。

おそらく前川氏のリークによるものであろう。それは官邸側も気づいた。

5月22日 読売新聞朝刊に記事が掲載される。主見出しは「前川前次官、出会い系バー通い」脇見出しは「文科省在職中、平日夜」

①前川氏は東京・歌舞伎町の出会い系バーに出入りしていた。

②この店は「売春や援助交際の交渉の場になっている」

③店の関係者は、前川氏が女性と店外に出たこともあったと証言した。

この記事の全文を探しているがまだつかめていない。

→見つけました。(あとでわかったが、これは全文ではない)

文部科学省による再就職あっせん問題で引責辞任した同省の前川喜平・前次官(62)が在職中、売春や援助交際の交渉の場になっている東京都新宿区歌舞伎町の出会い系バーに、頻繁に出入りしていたことが関係者への取材でわかった。

教育行政のトップとして不適切な行動に対し、批判が上がりそうだ。

関係者によると、同店では男性客が数千円の料金を払って入店。気に入った女性がいれば、店員を通じて声をかけ、同席する。

女性らは、「割り切り」と称して、売春や援助交際を男性客に持ちかけることが多い。報酬が折り合えば店を出て、ホテルやレンタルルームに向かうこともある。店は直接、こうした交渉には関与しないとされる。

記事の大半が出会い系バーの「いかがわしさ」の説明に当てられるという異例さが、いかにも異常だ。

ということで、最初の要約で書かれている「③店の関係者は、前川氏が女性と店外に出たこともあったと証言した」という段落が見当たらない。

経過から見ると、前川氏のインタビューを察知して、官邸筋・読売集団が先手を打って、前川氏を貶めようとしたことが明白である。恐るべき情報収集力であるが、情報源が問われてくる。

この記事は「小笠原政治の経済ニュースゼミ」というブログから転載させていただいた。

ついでに小笠原さんのコメントも紹介しておく。

善良な一市民が、自分の趣味でどのような店に出入りしていたといって、それが刑法などで禁じられていない以上、誰が責めることができるのでしょう?

出会い系バーで接待されていたわけでもなく、勤務時間中に仕事をさぼって行ったのでもないのに、それを固有名詞を挙げて記事にする理由が分かりません。

考えられるのは、加計学園の例の文書が流出したのは、この前次官がリークしたからと思っているからでしょう。

出会い系のバーに出入りするようなふしだらな男の流す情報が信用するに値するのか、

まさに印象操作。

ズバリなのだが、この時点ではまだ「なぜ前川氏が出会い系バーなどに行ったのか」という理由が語られていない。実はそれがこの話の焦点なのだが。

3.報道への最初の反応

5月25日 民進党の蓮舫代表が記者会見。

①すでに退職した人が、まだ摘発もされていない店舗に出入りしていたことが報じられることへは違和感を覚える。

②時の権力者に不都合なこと、あるいは侮辱をするようなことを言うことによって、きわめてプライベートな情報が、どこからか漏れるというのが事態の本質だ。

③このリスクは相当怖い。ある意味、萎縮効果につながりかねないと思っている。

5月26日 菅義偉官房長官が記者会見。「出会い系バー」問題で記者の質問に答えた。

女性の貧困問題の調査のために、いわゆる出会い系バーに出入りし、かつ、女性に小遣いまで与えたということだが、そこはさすがに強い違和感を覚えた。常識的に言って、教育行政の最高の責任者がそうした店に出入りし小遣いを渡すことは到底考えられない。


ここまでは読売と官邸筋の見事な連携プレーである。前川発言の正当性をチャラにし、無力化させることに見事に成功した。


5月28日 極めつけは系列の読売テレビの「そこまで言って委員会」である。

須田慎一郎がレポート役となっている。なお彼のラジオ番組には安倍首相がみずから出演するほどの親密ぶりである。

行ってきましたよ、私もその歌舞伎町の出会いバー。入場料6000円も取るんですよ。で、前川さんが連れ出したっていう女の子、私も取材しましたよ!

ここで司会の辛坊治郎氏が「で、何ができるの?」と、あきらかに買春を前提としたようなゲスな茶々を入れたのだが、須田氏は声高にこんなことを言い出したのだ。

(ピー音)とか行けるらしいんだけど、私はこういう立場ですから、やっぱり行かなかったんですけどね〜。前川さんは行ったらしい! 行ったらしいよ。

裏取りした。だって(ピー音)ちゃんに聞いたもん。前川前次官と一緒に(ピー音)に行った(ピー音)ちゃんに聞いたもん。

スタジオは大爆笑に包まれた。

これが読売の一番やりたかったことであろう。
しかし「週刊文春」「週刊新潮」「FLASH」など各社が取材したが、前川氏がホテルなどに行ったという裏は取れていない。「(ピー音)ちゃん」は存在していない可能性が高い

このあと、官邸サイドの暴走と読売の下劣な報道に批判が吹き上がる。

5月26日 前川記者会見の翌日、ネットメディアのリテラが、「前川前次官問題で“官邸の謀略丸乗り”の事実が満天下に! 読売新聞の“政権広報紙”ぶりを徹底検証」という記事を掲載した。この記事は必見である。
読売OBの大谷昭宏氏が面白いことを指摘してる。

東京、大阪、西部(福岡)各本社の紙面での扱いが同じだった。これは(各本社の編集部の頭越しに)会社の上層部から指示が出た可能性が高い


4.狂い始めた官邸・読売の筋書き

このえげつない攻撃のさなかに、前川氏が記者会見を行い、重大発言を行ったというのが事態の真相である。そのことが徐々に明らかになっていく。
5月25日 読売報道の3日後、朝日新聞や週刊文春が「行政がゆがめられた」などと証言するインタビューを掲載した。週刊文春は前川氏の独占インタビューを掲載。記者会見の発言内容を詳細に報じる。

本筋の問題はここではあえてとりあげない。

質疑応答の中で出会い系バー問題について質問が出た。
前川氏は(バーに)行ったのは事実と認めたうえで、「女性の貧困を扱う報道番組を見て、話を聞いてみたくなった」と理由を説明した。(具体的にはバーの外で「カウンセリング」的な行動をとっていたことが後日の報道で明らかになっている)

前川氏は続けて、行為の違法性を否定し「個人的行動をなぜあの時点で報じたのか、まったく分からない」と述べた。この時点では、前川氏はボランティアの教師をしていたことは明らかにしなかった。

5月25日 山井和則・民進党国会対策委員長、「前川氏のスキャンダル的なものが首相官邸からリークされ、口封じを官邸がしようとしたのではないかという疑惑が出ている。背筋が凍るような思いがする」と述べる。

では読売新聞は5月26日、前川会見をどう伝えたか。

1面の見出は、「総理の意向文書“存在”と文科前次官」1字空けて「加計学園巡り」である。さらにそのあとに「政府は否定」と付け加える

前川会見は3面でもとりあげられる。ここでの見出しは「政府“法的な問題なし”」、脇見出しは「文科省“忖度の余地なし”」の見出し。

社会面では、会見の中身を使うかたちで、例の「出会い系バー」通いに言及。発言者である前川の人格を問う。

5月31日 萩生田光一官房副長官が国会で、「政府として情報を収集し、マスコミにリークしたという事実はない」と答弁した。読売報道の効果が浸透したと見計らってのことであろう。

しかし彼らの意に反して、周囲の状況はどんどん不利になっていく。
6月1日 週刊文春が「出会い系バー相手女性」と題する記事を掲載。女性がいろいろ親身なあつかいを受けたこと、性交渉などはなかったことを明らかにした。

生活や就職の相談に乗ってもらい、「前川さんに救われた」と話す。この女性は、父と話した上で前川氏のことを話すことにした。

週刊文春はこの「出会い系バー」問題で毎回特集を組んで、読売報道の偽りを暴露する報道を連打し続けた。だいたいこの手の話で週刊誌と全国紙がケンカしたら週刊誌のほうが強いに決まっている。おまけに今度は「正義の味方」だから張り切る。

女性の周囲からの聞き取りも次々に掲載される。

前川氏と3年間で3、40回会った「A子さん」だけでなく、「A子さんから前川氏を紹介された女性」、「前川氏とA子さんが通っていたダーツバーの当時の店員」も、前川氏と女性達との間に売春、援助交際など全くなく、生活や就職等の相談に乗り、小遣いを渡していただけであったことを証言している。

週刊FLASH6月13日号の記事でも、前川氏と「店外交際」した複数の女性を取材し、「お小遣いを渡されただけで、大人のおつき合いはなし」との証言が書かれている。前川派の機関誌となった週刊文春だけでなく、週刊新潮や週刊FLASHが次々と証言を集めたことで、「事実」問題については決着がつく

6月3日 読売新聞サイトから「出会い系通い」の記事が削除された。記事の多くは時間が起てば順次削除されていくのだが、注目記事はこの限りではない。やや早いのではないかという印象は残る。とくに削除した翌日に釈明記事を掲載するのは、仁義に反すると思う。おかげで私はたいそう困っている。

6月3日 読売が釈明記事を掲載した。読売新聞東京本社の原口隆則社会部長の署名入りである。

見出しは2本が並列。1本は「次官時代の不適切な行動」、もう1本が「報道すべき公共の関心事」となっている。

①「不公正な報道であるかのような批判が出ている」とし、記事掲載の目的が批判への回答であることを明示。

②「こうした批判は全く当たらない」とし、批判を全面的に拒否。「独自の取材でウラをつかみ、裏付け取材を行った」と主張。

③その理由として

a. 「違法行為が疑われるような店」に出入りすることは不適切である。「公人の行為として見過ごすことができない」

b. ゆえにそれは「公共の関心事」であり、

c. それを報道することは「公益目的にかなう」

と説明する。

原口部長の論理は、「出会い系通い」の記事が前川氏の社会的バッシングを意図したものであることを明らかにしている。

6月4日 「ワイドナショー」(フジテレビ系)でこの問題を取り上げる。

調査を目的とした出会い系バー通い、という前川氏の説明に対し、松本人志さんは「苦しいなぁ」と感想を述べる。森昌子さんは「(前川氏が妻子持ちであることから)自分のことだけしか考えていない」と批判。泉谷しげるさんは前川氏がボランティアとして貧困家庭の子供に勉強を教えるなどの活動をしていたことをあげ、「志の高い官僚さん」と肯定的な評価を下した。

まぁワイドショーなどどうでもいいけど、フジ・産経系の読売との距離感が意外である。

ついでのついで、

森昌子の発言は前後関係で見ておく必要がある。信頼できる口コミというあまり信頼できないブログの記事が、ワイドショーの顛末を詳しく伝えている。事実関係のみを抜き出してみる。

あるコメンテーターが「JKを買うのは犯罪だけど、JKと付き合った上での性行為は別に悪いことじゃない」と語ったのに対し、森昌子が「女子高生と付き合うなんて許せない。謹慎解くの早すぎ。永遠に謹慎してろ」と発言した。(JKが何なのかは不明)

ゲスト女子高生「私は純愛だったら良いと思う」、森昌子「あなた何言ってるの?そんなの絶対だめ」

てなやり取りがあったあと、前川元事務次官の話に移る。

森昌子「前川氏を攻撃する為にあんな報道を出して子供と奥さんが可哀想」、他コメンテーター「政府のやり方がえぐい」


と続いたあと、くだんの発言に至るのである。

5.メディアの総攻撃

「泉谷しげるさんは前川氏がボランティアとして貧困家庭の子供に勉強を教えるなどの活動をしていたことをあげ」と書かれているが、おそらくどこかに情報があるのだろう。まだ見つけていない。

見つけた。

キッズドア 渡辺由美子 オフィシャルブログ(すべての子どもたちに夢と希望を)

というブログ(5月27日付)である。

ブログそのものを見ていただければ、何も付け加えることはない。

あえて言えば、「隠し玉」などと失礼なことを言ったことをお詫びするしかない。

少々長いので要点を紹介しておく。

最初の数段落はすべて転載する

前川氏は、文部科学省を辞めた後、「キッズドア」で、低所得の子どもたちのためにボランティアをしてくださっていた。

素性を明かさずにボランティア説明会に申し込み、その後、活動にも参加してくださっていた。

現場のスタッフから「この方は前文部科学省事務次官ではないか」という報告は受けていたが、特別扱いを好まない方なのだろう、と推測していた。

説明会や研修でも非常に熱心な態度で、ボランティア活動でも生徒たちに一生懸命に教えてくださったそうだ。

報道との関係で肝心なのは次のところだ。

今回の騒動で「ご迷惑をおかけするから、しばらく伺えなくなります」と連絡くださった。


基本的には、貧困児童教育に対するボランティア活動を隠すつもりでいたのだ。美談仕立てにされるのを嫌ったのだろう。

だから「女性の貧困を扱う報道番組を見て、話を聞いてみたくなった」というトンチンカンな答えをするしかなかったのだ。
渡辺さんは前川氏の気持ちを以下のように忖度している。(これが忖度の正しい使い方)

前川氏が、自分には何の得もなく逆に大きなリスクがあり、さらに自分の家族やお世話になった人たちに迷惑をかけると分かった上で、それでもこの記者会見をしたのは、

「正義はある」

ということを、子どもたちに見せたかったのではないだろうか?

週刊文春と産経の予想外の反応に続いて、週刊新潮も読売の官邸丸乗りを暴露する記事を掲載し反旗を翻した。

安倍官邸は警察当局などに前川前次官の醜聞情報を集めさせ、友好的なメディアを使って取材させ、彼に報復するとともに口封じに動いたという。事実、前川前次官を貶めようと、取材を進めるメディアがあった。

「あなたが来る2日前から、読売新聞の2人組がここに来ていた」と前川氏は語った。

安倍首相・官邸=ナベツネ=NHK(政治部)のトロイカは、反共メディアからさえも攻撃されるようになった。

6月13日 読売新聞、朝日新聞の取材に「一部報道等の誤った情報に基づいたご批判の声も寄せられていますが、支持する声は数多く届いています」と答える。
6月21日 週刊文春が、読売新聞の読者センターなどに寄せられた意見を集計した内部文書を暴露した。

これは5月30日付の「東京・読者センター週報」というものである。

週刊文春によれば、“出会い系バー”報道以降、加計学園問題で寄せられた意見は2000件に達した。その大半が批判的なものだった。解約に言及した読者の声は300件を超えた。

またこの記事では、“出会い系バー”報道が社内のチェック機関である「適正報道委員会」の審査を通していなかったことも明らかにされる。

まぁ、通せばボツになったでしょうね。そういうヨタ記事が大谷氏に言わせれば「社のトップ筋」から発せられて、ドカンと載ったのだから、いざとなれば社のトップの責任が問われることになるでしょう。

6月25日 前川氏が日本記者クラブで記者会見。

6月25日 リテラ が、前川氏の示唆したコメンテーターの実名を報道。

NHKの黒塗り報道は、安倍首相に忖度する報道局長と、安倍首相にもっとも近い記者と呼ばれる岩田明子が幅を利かせる政治部によって断行されたもの。

コメンテーターとは田崎史郎、「森友学園のとき」のコメンテーターとは田崎と並ぶ御用ジャーナリストである山口敬之をさす。(ただしどちらが性犯罪者であるかは不明)

その後の調べで、山口敬之氏が強姦容疑で告発されていることが判明した。しっかりした複数の証言があって、かなり容疑は濃いようだ。岩田明子氏についてはこちらを。
メディア論の論客である服部孝章さんは。「十分な裏付けなしに、前川氏に違法行為があったかのような印象を与えており、名誉毀損が成立する可能性があると指摘、民事(場合により刑事裁判)での戦いの方向を明確にした。

官邸の逃げ切りも許さないが、読売の逃げ切りも許せない。土下座でもしてもらわないと、こちらの気持ちは収まらない。

この際、前川氏の「出会い系バー」通いの問題について詳らかにしていきたい。たしかに本線は「加計学園問題」ではある。しかしそこから派生した読売記事問題(前川氏のいう「もう一つの問題」)は、「アベ政治」の権力構造の奥底につながる点でむしろこちらが本線ではないかとの印象を持っている。
しかも前川氏の逆襲により権力の強さだった側面(メディア支配と闇の情報収集)が弱点につながっていく可能性を秘めている。

1.読売報道の背景について

会見の重要な柱となったのが「出会い系バー」通いの問題だ。
要旨を箇条書きにすると

①「出会い系バー」通いを報じた読売新聞の記事についてこれはもちろん私としては不愉快な話だ。
② 背後に何があったのかということは、これはきっちりとメディアの関係者の中で検証されるべきだ。
③「個人的には官邸の関与があったと考えている」

とりわけ③の問題は、きわめて重大かつ深刻な内容をふくんでいるので、そう考えるに至った経過をかなり立ち至って説明している。

2.官邸関与の経過

① 事務次官在職中、「出会い系バー」通いについて杉田和博官房副長官(官邸筋)から「そういう場所には行くな」と注意を受けた。
② 5月20日、21日 2回にわたって読売新聞から取材を申し込まれた。これには応じなかった。「正直申し上げて、読売新聞がそんな記事を書くとは思いませんでした」
③ 5月21日 文科省の後輩にあたる幹部から「和泉さん(和泉洋人首相補佐官)が話をしたいと言ったら、応じるつもりがあるか」
と打診があった。これにも応じなかった。

3.NHKの奇怪な動き
「加計文書」をめぐって最初に取材に応じたのはNHKだったが、「その映像はなぜか、放送されないままになっている。いまだに報じられていない」

4.「民放コメンテーター」の不思議
民放に出演するコメンテーターのあり方も言がおよんだ。
「名前を出すことは控えるが、森友問題で官邸を擁護し続けた中には、ご本人の性犯罪が検察、警察にもみ消されたという疑惑を受けている方もいる。警察・検察によって(疑惑が)もみ消されたのではないか」
もちろん、それ以上のえげつない発言はせず、「こういったことを踏まえて考えると、私は今の日本の国の国家権力とメディアの関係については、非常に不安を覚える」と持っていく。

5.国家と民主主義のあり方
最後はこう締めくくられる。
これが私以外にも起きているのとするならば、大変なことだと思います。監視社会化、警察国家化ということが進行していく危険性があるのではないか。
権力が私物化されて、『第4の権力』と言われるメディアまで私物化されたら日本の民主主義は死んでしまうと、その入り口に我々が立っているのではという危機意識を持ちました。

さすが前事務次官、なかなかの「知能犯」である。おそらく西山事件の教訓も踏まえ、プロットA、B、C…とあらゆる筋書きを読み切っているのだろう。何か心理ドラマを見ているような気さえする。

すでにこの時点で、エミシの用法はなくなっている。津軽・北海道をふくめエゾで統一されており、アイヌ語を喋るアイヌ人と考えて良いだろう。ただし津軽のエゾが狩猟・採集民族であったかどうかは疑問である。


安藤家の歴史

骨嵬と元との戦争

1216年、鎌倉幕府が、強盗海賊の類50余名を蝦夷島に追放する。

1217年 鎌倉幕府、藤代の安東堯秀(五郎)を津軽外三郡守護に任命。あわせて「東夷を守護して津軽に住す」蝦夷管領に任命する。安東家が交易船からの収益を徴税し、それを北条得宗家に上納する仕組み。安東氏は出羽の湊(土崎)と能代川流域の檜山、宇曾利(下北)および萬堂満犬(まつまえ)も勢力下に納めた。

1229 安藤堯秀が十三湊を支配する十三左衛門尉藤原秀直(奥州藤原氏の末裔)を萩野台合戦で破る。藤原秀直は渡島に追放され、安東氏が十三湊に移り港湾の整備や街路の建設を行う。

1246 幕府、陸奥国糠部五戸の地頭代職に甲斐の御家人南部氏を指名。安藤家の支配地は津軽半島一帯の3郡に狭められる。

1264年 樺太で骨嵬(くぎ・くい)が吉烈迷(ぎれみ)を攻撃。吉烈迷は蒙古に救援を求める。3千の蒙古軍が骨嵬を攻撃し樺太を占領。骨嵬は蒙古への朝貢を約束。骨嵬は樺太アイヌ、吉烈迷はギリヤーク(ニブフ)人と言われる。

1268年 津軽で仏教の押しつけに反発した蝦夷が蜂起。蝦夷代官の安藤五郎が殺害される。背景には蝦夷に対する苛烈な収奪があったとされる。樺太での蒙古との衝突が戦費増大をもたらした可能性もある。

1274年 元軍が北九州に襲来(文永の役・弘安の役)。

1281年 元軍が北九州に二度目の襲来(弘安の役)。

1283年 元、骨嵬に対して兵糧用の租税を免除。阿塔海が日本を攻撃するための造船を進める。

1284年 骨嵬は元に反旗を翻す。戦いは86年まで続き、元は1万以上の兵力を投入。

1295年 日持上人が日蓮宗の布教活動の為に樺太南西部へ渡り、布教活動を行ったとされる。

1297年 瓦英・玉不廉古らが指揮する骨鬼軍が反乱。海を渡りアムール川下流域のキジ湖付近で元軍と衝突。(安東氏がアイヌを率いて侵攻したものとされるが証拠はない)

津軽大乱

1300年頃 鎌倉幕府の衰退に伴い、京都とをつなぐ日本海航路の重要性が増す。日本海ルートの拠点、十三湊が急成長。昆布と鮭の交易により財を成す。

1308年、骨嵬が元に降伏。これ以後、樺太アイヌは元に安堵され、臣属・朝貢する関係となる。

1318年 津軽大乱が発生。惣領の安藤季長(又太郎)と従兄弟の安藤季久(五郎三郎)との間の内紛。蝦夷沙汰職相続を巡る争いが続く。両者が幕府要人に贈賄合戦。

1320年 出羽の蝦夷が蜂起。戦いは2年におよぶ。蝦夷代官・安東季長が鎮圧に乗り出すが、蝦夷に撃退される。

1322年、津軽大乱が始まる。両軍は岩木川を挟んで外が浜(青森市)と西が浜(現深浦)に対峙する。

1322年 得宗家公文所が仲裁裁定。出羽のエゾ蜂起に対する鎮圧作戦の失敗を咎め、蝦夷代官職を季長から季久に替える。季長は裁定に服さず戦乱は収まらず。

1326年、鎌倉幕府、陸奥蝦夷の鎮圧のため工藤祐貞を派遣 。西が浜の合戦で安藤季長を捕える。季長郎従の季兼は「悪党」を集めて抵抗を続ける。

1327年 鎌倉幕府、「蝦夷追討使」軍を再び派遣。安藤季兼軍は西浜で幕府軍を迎え撃ち、小部隊による奇襲戦術で甚大な被害を与える。

1328年 幕府と安藤季兼軍とのあいだに和談が成立。季兼一族に安堵を与える。安藤季久は支配地の他に「蝦夷の沙汰」を確保するなど既得権を守る。幕府の権威は大きく失墜する。

1331年 元弘の乱。津軽で大光寺・石川・持寄等の合戦起こる。十三湊の下の国安東氏(宗家)と大光寺城に拠点を置く上の国安東氏(分家)に分かれる。

1333年 鎌倉幕府が滅亡。建武中興。北畠顕家が奥州に下向。このあと安藤家は新政府(朝廷)側に与し旧勢力側と対峙。

(このへんよくわからないので、調べて書き足します。あまり本筋とは関係ないのだが…)

1335年、足利尊氏が建武政府に反旗。南北朝の対立がはじまる。曽我・安藤家は足利につき南部師行・政長・成田泰二と戦う。

1336 足利尊氏が光明天皇を擁立、北朝を掌握する。安藤家は北朝方(足利尊氏)に与し、津軽合戦奉行(北奥一方検断奉行)を命じられる。

1356年、「諏訪大明神絵詞」のなかでアイヌのことに言及。

1368年、元が中国大陸の支配権を失い北走、満州方面を巡って新興の明を交えての戦乱と混乱が続き、樺太への干渉は霧消する。 

1395 安藤氏、北海の夷賊を平定しさらなる領地を獲得、再び将軍(日之本将軍)の称号を得る。

1400年頃 政権の交代に伴い、十三湊が全盛期を迎える。

西の博多に匹敵する北海交易の中心となる。アイヌの交易舟や京からの交易船などが多数往来した。廻船式目によれば、十三湊は「三津七湊」の一つに数えられる。「夷船京船群集し、へ先を並べ舳(とも)を調え、湊市をなす」賑わいを見せる。街は南北約2キロ、東西最大500m。幅4~5mの直線的道路が走り、安藤家の居館跡や板塀で囲われた武家屋敷跡、短冊形で区分けされた町屋、寺院墓地、鍛冶・製銅などの工房、井戸跡などが発見されている。中国製の陶磁器、高麗製の青磁器、京都産と思われる遺物も発見されている。

室町幕府が成立。北朝=足利側についた安藤氏は、鎌倉府や奥州探題を飛び越えて室町将軍に直属する(御扶持衆)。

1409 三戸南部氏が津軽に侵入。津軽の西半分は秋田・安東氏、東半分は三戸南部氏、浪岡周辺は浪岡氏が支配する。

1418 南部氏が上洛、将軍足利義持に金や馬を献上。津軽国司に任ぜられる。

1423 安藤陸奥守、足利義量の将軍就任に際し馬・鷲羽・海虎皮等を献上。室町幕府より陸奥守の称号を得る。さらに後柏原天皇から「奥州十三湊日之本将軍安倍康季」の称号を賜る。日本(ひのもと)将軍は北海道の管理職を意味する。

1432 安藤盛季・康季、南部氏に敗れ蝦夷島に撤退、幕府が調停に乗り出す

1442 安藤盛季・康季、南部義政に敗れ、十三湊を追われ再び蝦夷島に渡る

1452 安藤義季、南部勢に攻められ自害 安藤氏嫡流の断絶

 

フランスの大統領選挙は、結局白か黒かの決着なので、その意味を探るのは難しい。だからポピュリスト対リベラルみたいな括りも出てきてしまうのだが、議会選挙の結果と合わせて読むともう少し分かってくる。
フランス議会選挙の総括はもう少し勉強してからのことにして、アメリカ、イギリス、フランスの選挙を通じて見えてくる世界の動きについて、感想を述べておきたい。
1.“国栄え、民栄える”思考の後退
最大のトレンドは、“国栄え、民栄える”思考の明らかな後退だ。
19世紀後半から、世界中が“国栄え、民栄える”思考の中にズッポリはまってきた。その結果として二度にわたる世界大戦がもたらされ、その副産物として原水爆という悪魔的兵器が生み出された。
第二次大戦後に作られた自由貿易体制は、本来は世界は平等なひとつの家族という考えを表現したものである。
そこで“世界栄え、民栄える”という画期的な考えが初めて打ち出された。
しかしそれはアメリカの圧倒的な経済的・軍事的な優位を背景にもたらされたものであった。だから表面的には世界平等主義であっても、アメリカの許す範囲での世界主義であった。
この矛盾は当初より緊張をはらんだものであったが、ベトナム戦争を経てアメリカの全一的支配が破綻すると、複雑でぎくしゃくとしたものとなった。
アメリカ自身が「強いアメリカ」を主張するようになると各国もそれに倣い、“国栄え、民栄える”思考が復活しつつあるようにみえる。
2.“国栄え、民栄える”思考のもたらしたもの
しかしこの時代遅れの思考は、それを主張する国家(アメリカをふくめ)にとって利益を生み出さなかった。そしてますますその弊害が誰の眼にも明らかになっている。国が栄えて栄えるのは超富裕層であり、民はますます衰えるのが現実の姿だからだ。
“世界栄え、民栄える”という考えが、あらためて見直されている。
世界中の人々は国がどうであろうと、世界がどうであろうと、民が栄えることを望んでいる。同時に民を不幸におとしいれるような国も、世界も望んでいない。
人々は、国が栄えることを前提とした民の繁栄という路線に疑問をいだき始めている。そして民が栄えるような国の、別のあり方を求めている。それは“世界栄え、民栄える”型の国家への移行だ。
3.“超富裕層栄えて民栄える”か?
いま超国家的な超富裕層が国を屈服させ、民を不幸へと追いやっている。国家はかつての植民地の現地機構のように、超富裕層に隷属し国民収奪の道具となっている。
「強いアメリカ」、「強いイギリス」、「強いフランス」のスローガンはもはや人々の心に響かない。それらは、国家よりもっと強い超国家企業・超富裕層をどうするかという問題に答えていないからである。
この21世紀的枠組みに立ち向かっていく政府が、民を栄えさせる政府(いまは可能態にすぎないが)である。それが世界で同時多発的に立ち上げられる必要がある。
そしてその可能性がこの3つの選挙でしめされた。ここに最大の意義があると、私は思う。

今世紀の初頭、世界の人々が高らかに宣言した「もう一つの世界は可能だ」のスローガンを、我々は想起すべきだ。そして共通する目標として、“世界栄え、民栄える”を掲げるべきだ 

前九年後三年の役

前九年の役

1000年頃 安倍忠頼、衣川以北の陸奥国奥六郡に半独立的な勢力を形成。

1050年 多賀城の国司、陸奥守藤原登任は朝廷に安倍氏討伐をもとめる。安倍頼良(忠頼の孫)は役務を怠り、税金も納めず、衣川を越えて南に支配を拡げようとしていたと非難される。

1051年 前九年の役が始まる。藤原登任、数千の兵を陸奥国奥六郡に派遣。秋田城介の平繁成も国司軍に加勢する。

11月 玉造郡鬼切部(おにきりべ)で朝廷軍と安倍軍が衝突。安倍頼良の圧勝に終わる。官軍は散を乱して壊走。大和朝廷は藤原登任を解任し、河内源氏の源頼義を陸奥守に任命。

1052年 朝廷、上東門院の病気快癒祈願の為に大赦をおこなう。安倍頼良は朝廷に逆らった罪を赦される。

1052年 源頼義が陸奥に着任。安倍頼良は、頼義と同音であることを遠慮して名を頼時と改める。

1053年 源頼義、陸奥守のまま鎮守府将軍を兼任。鎮守府の場所は不明だが、奥六郡に境を接する衣川あたりと思われる。

1056年2月 阿久利川事件が発生する。源頼義の支隊を安倍貞任(頼時の嫡子)が攻撃したとされる。ふたたび戦闘が再開される。

1056年 安倍頼時の女婿でありながら源頼義の重臣であった藤原経清は、頼義の粛清を恐れ安倍側に寝返る。

藤原経清の話はややこしいが大事なので、ここにまとめて書いておく。
経清は安倍氏と同じ俘囚の身分で、朝廷に協力し亘理の権大夫の官名を受けていた。藤原の名は下総からの流人の流れを引いているためとされる。
妻は安倍頼時の娘であり、息子が清衡である。自らは厨川で朝廷軍に捕らえられ斬罪となるが、妻は安倍氏に代わる清原氏に嫁し、清衡は清原家養子となった。これは前九年の役が最終的には安倍氏と清原氏の出来レースであったためである。
清衡は後三年の役で源義家に就き、清原家の権力を一身に集めた。その上で、実父の藤原の家名を復活させ、奥州藤原氏の始祖となった。

1057年
5月 源頼義、安倍富忠ら津軽の俘囚と結び、頼時軍の挟撃を図る。頼時は津軽説得に向かうが、富忠の伏兵に攻撃を受け横死。安部貞任が後継者となる。

11月 源頼義、兵隊1800余りを率いて国府より出撃。北上川沿いに北上。貞任は川崎柵(現一関市)に4000名の兵を集め待機。

11月 川崎の柵近くの黄海(きのみ)で両軍が衝突。頼義軍は寡兵の上に食料不足で惨敗。戦死者は数百人に達する。源頼義・義家父子はわずか7騎になって、貞任軍の重囲に陥るが、かろうじて隙をついて脱出

1062年春 源頼義の陸奥守の任期が切れる。高階経重が着任したが、郡司らは経重に従わなかったため、再び頼義が陸奥守に任ぜられる。

7月 源頼義、出羽国仙北(秋田県)の狄賊の清原光頼を味方に引き入れ、安倍一族に再挑戦。朝廷側の兵力はおよそ1万人と推定され、うち源頼義の軍は3千人ほどであった。

8月 頼義軍、小松の柵の戦いで安倍軍に大勝。さらに北上。衣川柵、鳥海柵を撃破する。

9月17日 安倍氏の最後の拠点、厨川柵、嫗戸柵(いずれも盛岡市内)が陥落する。安倍貞任の遺児高星は津軽藤代に逃れて安東太郎と称する。

今昔物語集』第31巻第11「陸奥国の安倍頼時胡国へ行きて空しく返ること」の説話は、筑紫に流された貞任の弟宗任が語った物語とされる。誰かが行ったことは間違いないが、頼時本人ではなかったと思われる。

1063年 源頼義は伊予守に転じ、源頼俊が陸奥守後任となる。奥六郡は清原氏に与えられる。1065年 「衣曾別嶋」(えぞのわけしま)の荒夷(あらえびす)と、閉伊7村の山徒が反乱。源頼俊の命を受けた清原貞衡が制圧に向かう。延久蝦夷合戦と呼ばれる。

衣曾別嶋は青森から下北あたりを指すといわれるが、下北と関係の深い胆振・千歳のエミシが加勢に来たとしても不思議はない。ただ渡党ほど強くはなかっただろう。荒夷は縄文語を話すエミシを指すのではないだろうか。

1070年 清原氏が閉伊7村を制圧。清原貞衡は鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥も支配することになる。建郡が行われ、久慈郡、糠部郡などが置かれた。同時に陸奥鎮守府と出羽秋田城に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化された。

いずれにしても肝心なことは、和風化したエミシが初めて同胞に向かって刃を向けたということである。当初はおなじ和人化エミシである安倍一族に刃が向けられ、ついで朝廷にまつろわぬエミシにまでそれがおよんだことになる。その後清原氏が空中分解するのは当然のことであろう。しかし「大和政権の走狗」としての伝統は松前氏にまで受け継がれることになる。


後三年の役

1083年 源頼義の嫡男の源義家が陸奥守を拝命し、着任。

頼義・義家の親子は悶着を起こすのをこととしてるようにみえる。きっと多賀城・鎮守府内の好戦派集団に担がれて、その気になったのだろう。しかし朝廷にこれを抑える力はないから、実質的に関東軍化している。

1083年 清原家の相続をめぐり内紛。後三年の役が始まる。

1086年 源義家、分裂した一方に味方し、出羽に侵攻する。沼柵(横手市)の戦いに敗れ撤退。

1087年12月 義家軍がふたたび出羽に侵攻。金沢柵(横手市金沢)の戦いに勝利する。これにより後三年の役が終結。

朝廷はこれを頼家の私戦と判断。戦費の支払いを拒否し、義家の陸奥守職を解任する。義家は自らの裁量で私財をもって将士に恩賞したため、関東における源氏の名声を高める結果となった。

平泉王権の栄華

1087年 義家についた清原清衡は、実父藤原経清に従い藤原姓を名乗る。奥州藤原氏の統治が始まる。清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物を続け、信頼を勝ち取る。

義家がいなくなっても多賀城・鎮守府内の好戦派は残り、再戦の機会をうかがっている。これに対抗するには、多賀城の頭越しに朝廷と直接関係を結ぶしかないと考えたのだろう。錦の御旗を失った多賀城は凋落し、平泉王国は絶頂の時を迎える。

1094 藤原清衡、平泉より外ヶ浜(現青森市)につながる「奥の大道」を整備する。また津軽に立郡が行われ、大和朝廷の直括支配下に編入される。

もちろん主目的はロジスティックスだろうが、この道を通って蝦夷の産品が持ち込まれ、それが京都の公家への鼻薬になれば、黙認されるであろう。
かくして京の街には大量の蝦夷産品が流れ込み、ブームを形成した。

1099年 藤原清衡、盛岡より南進し平泉を開府。

1110 この頃成立した「今昔物語」に「今昔、陸奥の国に阿部頼時という兵ありけり。その国の奥にエゾというものあり」と記載。「エゾ」の初出とされる。陸奥の奥はツカロ(津軽)と呼ばれる。

1111 出羽国で反乱。守護源光国は任務を放棄。このころ、鎮守府将軍の藤原基頼、北国の凶賊を討つという。

1124年 清衡によって中尊寺金色堂が建立される。平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となる。

1126年、藤原氏(清衡)の支配が津軽にも及ぶ(推定)。外の浜まで一町ごとに笠卒都婆を建てる

1131 藤原氏はアイヌの物産を京に運ぶことで財を成す。京都の朝廷は清衡を「獄長」と表現。「奥六郡」における「俘囚の長」としての扱いを貫く。

1143 琵琶の袋としてエゾ錦が用いられるなど、エゾとの交易が文献上で確認されるようになる。

和人化したエミシは日本人として認識されるようになる。これに対し津軽・北海道のエミシは依然として異人とみなされ、エゾと呼ばれるようになる。

1150 藤原親隆、歌の中に「えそがすむつかろ」(蝦夷が住む津軽)と表現。

1153 平泉政権の二代藤原基衡、年貢としてアザラシの皮5枚ほかを上納する。北海道まで交易・支配が及んでいたことが示唆される。その後秀衡の時には鎮守府将軍・陸奥の守に任官される。その兵は奥羽17万騎と称される。

奥州藤原氏の滅亡

1185年 奥州藤原家、源頼朝に追われた義経を秘匿。後、頼朝の圧力を受け殺害。

1189年7月 頼朝軍が奥州に侵攻。藤原氏を滅ぼす。泰衡は糠部郡に脱出。出羽方面から夷狄島を目指すが、肥内郡贄柵(現大館市仁井田)で討たれる。秀衡の弟藤原秀栄は十三湊藤原氏の継承を許される。
1189 幕府は奥州惣奉行を設置。御家人(東国武士)を旧藤原領に配置し奥州の支配を強化。一方で朝廷の多賀城国府も存続し、出羽国内陸部では旧来の在地豪族が勢力を保持。東国武士と在地勢力の軋轢が強まる。

1189年12月 安平の郎党で八郎潟の豪族だった大河兼任が反乱。

1190年1月 大河、津軽に入り鎌倉軍を撃破したあと平泉を奪還。藤原氏の残党を配下に加えて一万騎に達する。

3月 大河軍、栗原郡一迫で鎌倉軍と対決するが、壊滅的打撃を受け敗走。兼任は敗死。

1190年 安藤季信が、津軽外三郡(興法・馬・江流末)守護・蝦夷官領を命ぜられる。季信は安倍氏の末裔で、頼朝の奥州攻めで先導をつとめた安藤小太郎季俊子。(実体的支配は1217年以降と思われる)

鎌倉幕府は、経済的収奪はしっかりしたが、朝廷とは異なり人種的偏見は見られない。時代が変わったためであろうか、彼らも縄文の血を色濃く受け継いでいたためであろうか。

1191 頼朝軍の代官南部氏が、甲斐の南部から陸奥九戸、糠部へ移住。



第一次エミシ戦争

エミシによる最初の抵抗

720年 渡島津軽の津の司の諸君鞍男(もろのきみくらお)ら6人を靺鞨に派遣し、その風俗を観察させる。(渤海国のことか?)

720年(養老4年)9月 蝦夷(えみし)の叛乱。按察使の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。

721年4月 征討軍、蝦夷を1400人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。

721年 出羽の国が陸奥按察使の管轄下に置かれる。

724年3月(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡(国司の三等官)の佐伯宿祢児屋麻呂(こやまろ)を殺害する。勢力範囲は気仙・桃生地方や牡鹿地方とされる。

724年 朝廷は藤原宇合(うまかい)を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。

724年 大野東人(あずまひと)により陸奥鎮所が設営される。東人は鎮守将軍(東北地方の最高責任者)として、郡山に駐在していたものと思われる(石碑によって確認される)。陸奥鎮所はのちに多賀柵と改名される。

724年 出羽の蝦狄の叛乱。小野朝臣牛養が鎮狄将軍として派遣される。

725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷が数千人規模で諸国に配流される。

727年 渤海より最初の使者が派遣される。出羽の海岸に漂着。蝦夷に殺害されるが生存者8名が聖武天皇との会見。その後200年にわたり使者を交流する。

733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。蝦夷との境界となる出羽柵が、山形庄内地方から秋田村高清水岡(現秋田市)に移設される(続日本紀)。

736年 朝廷は、出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東6国から騎兵1千人が配備されるなど大規模な征討軍を編成する。

736年 陸奥の国では出羽出陣後の保安のために色麻柵、新田柵、牡鹿柵などが造営される。また田夷で遠田郡領の遠田君雄人(とおだのきみおひと)を海道に、帰服の狄である和賀君計安塁(けあるい)を山道に派遣し、住民慰撫を計る。

737年早春 大野東人がみずから大軍を率い、多賀城を出発。日本海側の出羽柵(秋田)にいたるルート確立を目指す。騎兵196人、鎮兵499人、陸奥の国の兵5千人、帰服した蝦夷249人の陣容。

737年早春 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅(現在の尾花沢近く?)に至る。ここで出羽国守の田辺難破の軍と合流。田辺軍は兵500人、帰服した蝦夷140人の陣容。

737年春 討伐軍、雄勝峠(有屋峠?)を越え比羅保許(ひらほこ)山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退を決断。出羽の国司が撤退を勧め、討伐軍がこれを受け入れたことになっている。

740年 大野東人、九州の藤原広嗣の乱に際し持節大将軍として出兵。

大規模な砂金鉱の発見

749年 百済王敬福が涌谷町の黄金山で黄金を発見。その後陸奥の国に複数の金山が発見される。朝廷は「多賀郡よりも北の地方からは、税金として黄金を納める」よう命令。

750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。桃生柵は現在の桃生郡河北町飯野。

757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。

757年 桃生柵でさらに本格的な築城が始まる。

760年 雄勝城(おかちのき)が藤原朝獦(朝狩)により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸として送られる(現横手市雄物川町)。雄勝城の後身である払田柵の規模は多賀城を遥かに凌ぐとされる。

760年 出羽柵は秋田城へと改変される。

762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。

767年 伊治城の建設が完了する。伊治は現在の栗原郡築館町。

東北大戦争(38年戦争)

宇漢迷公(ウカンメノキミ)・宇屈波宇(ウクハウ)の反乱

770年(宝亀元年) 海道の蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、城柵を襲うと宣言。「賊地」は登米郡遠山村とされる。

772年 下野国から「課役」を逃れるため、農民870人が陸奥へ逃げ込む。

774 宇屈波宇が反乱。蝦夷・俘囚を結集し桃生城を攻略。

774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。遠山村(登米郡)を攻撃。東北地方全土を巻き込む「38年戦争」が始まる。

776年 大伴駿河麻呂、海道を制圧しさらに山道に進出。出羽国志波(岩手県紫波郡)で蝦夷軍と対決。蝦夷軍は一時これを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員してこれを撃破。胆沢(水沢市付近)までを確保する。(岩手県は陸奥ではなく出羽に属していたようです)

776年 出羽国の俘囚358人が、大宰管内と讃岐國に配流される。うち78人が諸司と参議に献上され、賤の身分におとされる。

778年 出羽の蝦夷が大和朝廷軍を打ち破る。朝廷軍は俘囚から編成した俘軍を編制し蝦夷軍と対抗。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵の司令官となる。

780(宝亀11) 呰麻呂が蜂起。伊治柵の参議で陸奥国按察使(あぜち)の紀広純(きのひろずみ)らを殺害。さらに多賀城を略奪し焼き落とす。同僚の道嶋大楯(みちしまのおおだて)からの差別や、城作の造営への地域住民の酷使への反感から決起したといわれる。

780年 朝廷は藤原継縄(つぐただ)を征東大使に、大伴益立・ 紀古佐美(紀広純のいとこ)を征東副使とする討伐隊を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、伊治公呰麻呂は1年にわたり抵抗を続ける。主な指導者として伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代らの名が残されている。

780年 反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。出羽国司に渡嶋蝦夷への饗応を指示する。

784 大伴家持、征東将軍として陸奥に派遣される。高齢の為にまもなく死亡。

アテルイの奮戦

786 桓武天皇、蝦夷征伐と東北平定を命じる。

788年7月 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・板東から兵員を集める。日高見国のえみしは、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。

789年3月 5万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。エミシの集落14村・家800戸を焼き払いながら侵攻。アテルイは遅滞攻撃をかけながら徐々に後退。(以下は紀古佐美の報告にもとづいた「続日本紀」の記載による)

3月 紀古佐美軍、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯。賊軍の激しい抵抗の前に前進を阻まれる。

5月末 紀古佐美軍、桓武天皇の叱責を受けて行動を再開。中軍と後軍の4千人が北上川西岸の三ヶ所の駐屯地から、川を渡って東岸を進む。

5月末 中軍と後軍は、「賊帥夷、阿弖流爲居」を過ぎたところでアテルイ軍約300人を見て交戦を開始。アテルイ軍を追いながら巣伏村に至る。

5月末 アテルイ軍、巣伏村で渡河を試みた前軍を撃退。前線に800人の増援部隊を送り込む一方、後方の東山に400名を送り、紀古佐美軍の退路を断つ。

5月末 朝廷軍は急襲にあい惨敗。部隊の半分が死傷。このうち別将の丈部善理ら戦死者25人・矢にあたったもの245人・河で溺死したもの1036人・河を泳ぎ逃げたもの1217人とされる。アテルイ側の兵力はわずか1500名、戦死者は89人だったとされる。

9月19日 帰京した紀古佐美は喚問され、征夷大将軍の位を剥奪される。

791年7月 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となる。侵攻に備え10万の大軍が編制され、26万石の食料が準備される。(この年と794年の2回征討作戦があったとは考えにくいので、とりあえずあいまいに書いておきます)

792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃をかけるが制圧に失敗。(794年の攻勢との異同は不明)

792年 斯波村の蝦夷の胆沢公阿奴志己らが朝廷に帰順。伊治村の俘に遮られて王化に帰することが出来ないので、これと闘って陸路を開きたいと申し出る。

794年4月 朝廷軍10万が日高見へ侵攻開始。蝦夷側は75の村を焼かれ、馬85匹を奪われた。朝廷軍は首457級を上げ1501人を捕虜とする。アテルイは攻撃をしのぎ生き延びる。

6月 副将軍坂上田村麻呂ら、蝦夷を征すと報告。

11月 大伴弟麻呂が帰京して戦果を奏上。

795年11月 渤海の国使が蝦夷の志理波村に漂着。現地で略奪されるが出羽国の出先に保護される。志理波村は余市のシリパ岬周辺とみられる。

796年 この年だけで関東一円を中心に、9000人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。おそらく日高見侵攻作戦の参加者が褒賞として与えられたものと思われる。

日高見国の滅亡

797年11月 蝦夷征伐で戦功を上げた田村麻呂が征夷大将軍に任命される。田村麻呂は各族長に対する「懐柔工作」によって抵抗力を削ぐ。
800年頃 奥州から青森(外ヶ浜)に通じる交易路がこの頃に開かれたとされる。

801年2月 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。4万の軍が胆沢のアテルイ軍を破る。アテルイとモレイは度重なる物量作戦により弱体化。

801年9月 坂上田村麿、「遠く閉伊村を極めて」夷賊を討伏したと報告。

802年1月 田村麻呂、アテルイの本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。住民を追放した土地に、関東・甲信越から4000人が胆沢城下におくり込まれ、柵戸(きのへ)として警備にあたる。

4月15日 アテルイとモレ、生命の安全を条件とし、500余人を率いて田村麻呂に降伏。二人は平安京に連行される(日本紀略)。

7月10日 アテルイとモレ、田村麻呂に従って平安京に入る。田村麻呂は、願いに任せて2人を返し、仲間を降伏させるよう提言する。

8月13日 朝廷、「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」とし、アテルイとモレを河内国杜山で斬刑に処す。(写本により椙山、植山、杜山との記載があるが、どの地名も現在の旧河内国内には存在しない)

征夷作戦の中止へ

802年 律令政府は三次にわたる戦役で捕虜となった蝦夷を、夷俘として各地に移配する。風俗習慣に慣れていないという理由で田租の納入を免除されるなど一定の配慮。

802年6月 朝廷の出羽太政官、渡島蝦夷との私交易を禁止。熊やアシカの皮の品質確保を狙ったものとされる。

803年3月 坂上田村麻呂、造志波(しわ)城使に任じられ、造設にあたる。志波城は北上盆地のほぼ北端に位置し、それから北は奥深い山林となる。

804年 第4次の征夷作戦が計画される。目標は岩手県の北から青森県にかけて。坂上田村麻呂は再び征夷大将軍に任じられる。板東・陸奥7カ国に動員令がだされ、兵糧が小田郡中山柵に運び込まれる。

805年12月 桓武天皇の御前で「天下徳政」相論。北進継続を主張する菅野眞道に対し、藤原緒嗣は「方今、天下の苦しむ所、軍事と造作なり。この 両方の事を停(とど)めれば百姓安んぜん」と主張。帝は藤原緒嗣の意見を採り、第4次の征夷作戦が中止になる。「衆の推服する所のもの一人を撰び之が長と せよ」との触れが出される。

度重なる大規模出兵にもかかわらず、エミシの抵抗が収まらないことから、朝廷のトップにまで厭戦気分が広がったものと思われる。

805年 播磨国に配されたアイヌ人俘囚が反抗。吉弥侯部兼麻呂・吉弥侯部色雄ら十人が、「野心を改めず、しばしば朝憲に背く」ため、遠島に流される。

806年 近江國の夷俘の六百册人が大宰府に派遣され防人となる。「平民と同じくするなかれ」とされ、一段低い身分を押し付けられる。

809年 藤原緒嗣、東山道顴察使に加えて陸奥出羽按察使に任命され多賀国府に赴任。緒嗣は三度に渡って「自分の任ではない」と辞退したという。

811年(弘仁2年)の平定作戦

2月5日 文室(ふんや 文屋とも書く)綿麻呂、紫波城より北方の爾薩体(にさったい)、弊伊(へい)の2村の蝦夷を攻撃することを上申。「出羽国の夷が邑良志閇村を攻撃。同村の降俘の代表、吉弥侯部都留岐が国府に救援を要請」したとされる。

綿麻呂は810年の薬子(くすこ)の変に巻き込まれ幽囚の身となるが、坂上田村麻呂の助命嘆願により救われ、藤原緒嗣に代わる陸奥・出羽按察使に任命される。

4月17日 綿麻呂は征夷将軍に任ぜられる。2万5千の兵力を要請するが、実際には1万人足らずにとどまる。現地の俘囚の同盟軍を加え2万の軍を編制。爾薩体、弊伊、都母の村を侵略。

10月13日 文室綿麻呂の38年戦争終結宣言。戦功が認められ征夷将軍に任命される。陸奥國の公民の内、征夷の戦いに参加した者に対しては調庸(税金または使役)を免除。

812年 陸奥国胆澤に鎮守府を設置。和我(和賀)・稗縫(稗貫)・斯波(紫波) の三郡を設置。占領地を律令政府の行政区画に組み入れる。盛岡には志波城を移転した徳丹城を建設。

エミシ虜囚の反乱

813年5月13日  陸奥で止波須可牟多知(トヒスカムタチ)の反乱。トヒスカムタチは帰順した蝦夷で吉弥侯部の姓を持つ。綿麻呂がふたたび征夷将軍に任ぜられる。津軽の狄俘の反乱に備え胆沢・徳丹城に糒や塩を備蓄させる。

津軽は常に容易ならざる敵として認識されている。津軽に朝廷の手がおよばなかったのは、遠隔であったからではないようだ。一番美味しい北海道都の取引を考えれば、むしろ喉から手が出るほど欲しかったのが津軽であったろう。

814年 出雲国意宇でエミシ俘囚の乱。この反乱で米が奪われたため、神門三郡の未納稲は十六万束になる。甲斐國でエミシ俘囚の乱。賊首とされた吉弥侯部井出麿ら男女13人が伊豆に流される。

815年 文室綿麻呂、按察使を離任し京に戻る。これに代わり、小野岑守が陸奥守に任ぜられる。

最後のタカ派が更迭されることにより、朝廷は守りの体制に入った。これは戦略としては最悪である。俘囚が次々に殺害されていることが知られれば、前線基地は怒りと恨みの中に取り残されることになる。
任務を果たした後は、停戦に持ち込み撤退すべきであろう。

815年 小野篁、父・岑守に従って陸奥国へ下る。その詩に「反覆は単干(匈奴の王)の性にして、辺城いまだ兵を解かず」と、従軍のきびしさを託す。(827年作成の「経国集」に掲載)

830年 大地震により秋田城が損壊。

847年 日向国の記録に「俘囚死に尽くし、存するもの少なし」との記載。

848年 上総国でエミシ俘囚の乱。丸子廻毛らが反乱。まもなく当局により57人が捕らえられ処刑される。

エミシによる反撃の開始

反乱のきざし

855年 陸奥国の奥地で俘囚が互いに殺傷しあったため、非常に備えるために援助の兵2千人を発し、さらに近くの城の兵1千人を選んで危急に備える。

当初は、朝廷側が再攻撃のための口実かと考えたが、力関係から言えば逆のようだ。抑圧された側の反撃はまず恭順派の排除から始まるわけで、それが内紛と見えたのだろう。内紛としか捉えられなかった情報収集能力が問われる。

875年 渡島の荒狄(あらえびす)が水軍80隻で秋田・飽海(酒田)地方に襲来、百姓21名を殺害。

これは重要な内容をふくんでいる。百姓というのは和人入植者であり、稲作最前線が秋田まで到達していることを意味する。
百姓に対する攻撃は、和人・農民を敵とする考えに基づく行動である。その考えが渡島までふくめたエミシ共通のものとなっていることが分かる。
渡島から80隻が船団を組んで来襲した事実は、エミシ側の並々ならぬ動員力を物語る。
北海道のエミシは「渡党」と呼ばれ、この頃はオホーツク人と海上覇権をめぐる争いの只中にあったから、戦闘は慣れたものでっただろう。

875年 下総国でエミシ俘囚の乱。「官寺を焼き討ちし、良民を殺戮」する。 朝廷は「官兵を発して以って鋒鋭を止め」よう指示。さらに武蔵・上總・常陸・下野の国に各三百人の兵を派遣するよう命じる。まもなく反乱は鎮圧され、 100人以上が処刑される。朝廷は行過ぎた弾圧を批判。

元慶の反乱

878年(元慶2年)

東北地方に飢饉。出羽の国では苛政に対し不満が高まる。

2月 元慶の乱が発生。秋田の蝦夷が反乱。秋田城を攻める。出羽国守の藤原興世は城を捨てて逃げ走る。城司の良岑近は「身を脱れて草莽(く さむら)の間に伏し竄(かく)れ」たという。逆徒(げきと)は蟻のごとくに聚り、兵営や要塞を囲み、城と周辺の民家に火を放つ。

3月 朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう指令。陸奥の守は精騎千人歩兵二千人を編制し、藤原梶長を押領使とする軍を派遣。

4月 陸奥の軍勢と出羽軍2千が、秋田川のほとりに達する。このとき霧にまぎれて、賊徒千余人が早船で奇襲攻撃。同時に数百人が背後より攻める。官軍は狼狽して散じ走った。
 

戦闘の顛末: この戦闘で500余人が殺され虜となる。逃げ道では互いに踏み敷かれて、死するもの数え切れず。軍実甲冑は悉くに鹵獲される。
文室有房(副官)は瀕死の重傷を負い、小野春泉(副官)は死せる人の中に潜伏してかろうじて死を免れる。藤原梶長は深草の間に隠れ、5日間も飲まず食わずに送り、賊去りし後、徒歩で陸奥まで逃れた。

5月 陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に任命。小野春風を朝廷軍指令官とする。陸奥・上野・下野に動員をかけ、4000人の兵で秋田に入る。陸奥権介の坂上当道(坂上田村麻呂の曾孫)も討伐軍に加わる。(一説に孫の坂上好蔭)

5月 秋田の北東12か村が反乱。秋田城が急襲され、朝廷軍は大敗。食料・軍備を奪われる。「賊虜強く盛にして、官軍頻に敗れ、城或は守を失ひて群隊陥没」する。

6月 小野春風の率いる陸奥=俘囚の軍、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」する。その証として、帰順を拒否する首長二人の首を斬って献上する。秋田城を包囲して攻撃。反乱軍2000人が逃亡。

12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏。元慶の乱が終結。

879年1月 渡島の蝦夷の首103人が3千人を率いて秋田城に詣でた。朝廷はこれを歓迎する(日本三代実録)。この頃のものとみられる夷の印入りの土師器の杯が札幌、余市から出土している。

渡島蝦夷の態度がいまいちはっきりしない。津軽・出羽のエミシを飛び越え、中央政権とチョクで交易を望んだのか、津軽・出羽と連携して武力を誇示すべく大軍団を組んだのか。
いずれにしても渡島蝦夷の強さが際立つ印象的な場面である。彼らは札幌、余市までも勢力範囲とし、これを秋田まで船上輸送する力を持っていた。朝廷はこれを「歓迎」せざるを得なかった。少なくとも北海道については一目置いたことになる。
なお津軽についても同様の扱いとなっている。出羽国司は「津軽の夷俘は、その党多種にして幾千人なるを知らず、天性勇壮にして常に習戦を事とす。もし逆賊に招かば、その鋒当り難し」と報告している。(901年の「三代実録」に記載)かなりビビっていることが分かる。

883年 上総国市原郡で俘囚の乱。40人あまりの集団が「官物を盗み取り、 人民を殺略。民家を焼き、山中に逃げ入」る。当局は「国内の兵千人で追討」する許可をもとめる。朝廷は「群盗の罪を懼れて逃鼠した」に過ぎず、人夫による 捜索・逮捕で十分であるとし、国当局の申請を棄却する。

883年 結局、俘囚は全員が処刑される。太政官は討伐隊の戦功をたたえつつも、①渠魁を滅ぼし、梟性を悛めることがあれば務めて撫育せよ。②事態が急変したのでなければ、律令に勘據し太政官に上奏せよ、と注文。

893年 出羽でふたたび反乱が発生。国司は中央には「出羽の俘囚と渡島の狄との戦い」が発生したと報告。城塞を固めて万一に備える。
900年 この頃から津軽で製鉄・須恵器の生産が盛んとなる。製品は主として北海道に持ち込まれる。津軽では人口が激増。逆に出羽以南では人口が激減する。出羽のエミシが大量に津軽へ移入した可能性あり。北海道でも松前から桧山一帯に津軽型文化の遺跡が急増する。

900年 この頃から陸奥国奥六郡の俘囚長、安倍氏が力をつける。厨川柵(現盛岡市)を築く。

939年 天慶の乱

4月 出羽国で、俘囚による反乱。秋田城軍と合戦。天慶の乱と呼ばれる。

938年に朝鮮の白頭山が噴火し、世界的な冷害をもたらした。

5月6日 賊徒が秋田郡に到来し、官舎を占拠し官稲を掠め取り、百姓の財物を焼き亡くす。朝廷は陸奥の守に鎮圧を指示。

6月 平将門の謀反。平将門が兵1万3千人を引き連れて陸奥・出羽を襲撃するとのうわさが流れる。将門の父良将は征夷大将軍として陸奥国に出征している。
940年2月 将門追討の官符を受けた平貞盛、下野の豪族藤原秀郷を味方につけ平将門軍を破る。

関東武士集団は対エミシ強硬派を代表していた。それは直接彼らの利権(入植)にも絡んでいた。彼らには朝廷の弱腰が我慢できなかったのであろう。このあと、東北の争いは関東武士とエミシとの争いに様相を変えていく。

947年 陸奥国の狄坂丸の一党が鎮守府の使者並茂を殺害。

950年 この頃、鹿角経由で奥州と津軽(油川)を結ぶ奥の大道が作られる。また安代で分岐して糠部に向かう「馬の道」も形成される。

久しぶりにアイヌ年表を見て、東北エミシの歴史が思ったほど書き込まれていないことに気づいた。

たしかかなり勉強したつもりだったが、年表化しなかったのか、あるいは他の年表にしまいこんだんか定かでない。いずれにしても死んだ子の歳を数えても始まらない。

どうせ暇なのだから、東北エミシの年表を作ってみようかと思う。終わりは十三湊の安東氏拠点の陥落だ。結構ドラマチックである。ただし南部氏を駆逐した津軽氏がエミシ系でなかったという保証はないので、状況次第によってはそこまで降るかもしれない。

アイヌ年表ではアイヌとして一括したが、“若気の至り”だったかもしれない。とりあえず東北の縄文人を「エミシ」の名で一括したい。当然そこには和人化したエミシと、縄文文化(言語をふくむ)を保持するエミシがあるが、律令国家の側から見れば程度の差こそあれ毛人・夷狄として一括されていた。

わたしもその分類に従うことにしたい。

 

阿倍比羅夫による蝦夷地域への遠征

「蝦夷」は初期においては東北の毛人(縄文人)を指した。蘇我蝦夷のエミシである。東北地方の聘定が一段落すると、津軽・陸奥に残存する縄文人を指す言葉となり、そこも和風化すると北海道の縄文人を指す言葉となった。この場合は蝦夷と読むようになる。

比羅夫以前の蝦夷

400年頃 東北北部に続縄文文化が広がる。

年代不詳400年ころ? 日本書紀の景行天皇条。「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と記される。

関東甲信越地方は縄文時代にもっとも人口稠密な地域であった。この縄文人が「熟夷」として大和勢力に服属するのは400年前後のことと思われる。したがって日高見は関東より北、すなわち東北地方であろう。

年代不詳450年頃? 田道将軍、蝦夷(エミシ)の為に敗られて、伊寺水門(イシノミナト)に死(ミマカリ)ぬ(『日本書紀』巻十一仁徳天皇の条)

488年 中国の史書「宋書」、478年に送られた倭王武の上奏文に触れる。倭王武はこの上奏文のなかで、「東は毛人55国を征し」たと述べる。また「旧唐書」では、「東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」 述べる。大山は箱根を指すといわれる。

544年 日本書紀の記事に粛慎(あしはせ)が佐渡島に来着し、漁撈を営んだとの記載あり。
581年 蝦夷が辺境で反乱を起こす。その首長綾糟らが朝廷に服する。

586年 蘇我蝦夷が誕生。東国に住む「えみし」の名は強者の象徴であったとされる。神武東征記にも「愛瀰詩」の名で登場する。
637年 蝦夷が反乱し。上毛野の形名将軍が討伐する。

645年 大化の改新。道奥国が置かれ、東国国司が派遣される。

647年 大和朝廷、日本海側の海岸線沿いに渟足柵(ぬたり)を造営する。渟足は現在の新潟市阿賀野川河口付近。

648年 渟足柵に続いて磐船柵(いわふね)が造られる。磐船は新潟県村上市岩船。「蝦夷に備え、越と信濃の民を選んではじめて柵戸を置く」(日本書紀)またその後の10年のあいだに、都岐沙羅柵(つきさら)が設置されている。都岐沙羅は念球ヶ関説、最上川河口説、秋田県南部説などがある。

649年 高志(北陸)の豪族である阿倍氏の当主、内麻呂が死亡。傍系の引田系の阿倍比羅夫が後を引き継ぐ。引田臣比羅夫は越(高志)国の国司に任じられ、北方警護の責任者となる。

650年頃 評、国が設定され、陸奥の国が置かれる。

650年ころ 唐の史料に、流鬼(オホーツク人?)が黒テンの毛皮を献上したとの記載あり。

655年 難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応する。北蝦夷は出羽、東蝦夷は陸奥を指すとされる。-『日本書紀』斉明天皇元年柵養蝦夷と津軽蝦夷を叙位。

阿倍比羅夫の遠征

658年(斉明4年)4月 第一回目の北征。軍船180隻を率い日本海を北上。

658年 齶田浦(あぎたのうら)(飽田)に達する。当地の蝦夷の首長の恩荷(オガ)を恭順させる。小乙上(せうおつじやう)の位を授け、渟代(ヌシロ)と津軽(ツカル)の郡領に任命。津軽郡大領・少領に冠位・武具を授ける。

658年 陸奥の蝦夷を連れて有間浜に至り、渡島蝦夷(わたりしまのえみし)を招集して饗応する。有間浜は①深浦から鰺ヶ沢付近、②岩木川の河口、十三湖中島付近説がある。

658年7月 ツカル・ヌシロの蝦夷200余人が、飛鳥の朝廷に朝貢。

658年11月 阿倍比羅夫、渡島蝦夷の北方に住む粛慎(ミシハセ)を討ち帰還。熊二頭とクマの皮70枚を献上。(日本書紀 斉明天皇4年)

粛慎に関しては諸説あり。読み方もミセハシ、アシハセ、ミシハセなどまちまち。南下したオホーツク人(現ウィルタ人)であろうと思われる。

659年3月 二回目の北征。飽田・渟代・ツカルを制圧。これら三郡のほか胆振鉏(いふりさへ)の蝦夷20人を集めて饗応。

659年 その後肉入籠(シシリコ)に渡る。先住民の勧めにしたがい、後方羊蹄(しりべし)に郡領(コオリノミヤッコ)を置いたとの記述。(58年と59年の北征は、同じ出来事を別々の原典から取った可能性もあるとされる)

659年 日本書紀では「ある本にいわく」として、この年も粛慎と戦い、捕虜49人を連れ帰ったとする。

659年 中国の史書「新唐書」の「通典」、日本から「使者与蝦夷(夷)人偕朝」と述べる。このとき使者は、「蝦夷(エミシ)には都加留(つがる)・アラ蝦夷(あらえみし)、そして熟蝦夷(にぎえみし)の三種類の蝦夷がいる」と説明したという。

遠い順に並べたとすれば津軽が縄文語を話すエミシで、アラエミシが出羽と陸奥のエミシ(おそらくバイリンガル)であり、ニギエミシは関東甲信越の先住民であったと想像される。ニギエミシは倭王武の時代に征服された「東は毛人を征すること五十五国」の人々であり、この頃にはほぼ和人化されていると思われる。

659年 日本書紀ではこれに対応して、遣唐使が「道奥の蝦夷(エミシ)の男女2人を唐の天子(当時は高宗の時代)に貢した」とある。

660年3月 三回目の北方遠征。200艘の船で日本海を北上。大河のほとりで、渡島(ワタリシマ)の蝦夷の要請を受け粛慎と戦い、これを殲滅する。

海の畔に渡嶋の蝦夷一千余の集落があり、そこに粛慎の船団が攻撃して来る。阿倍比羅夫は絹や武器などを差し出し、相手の出方を探る。粛慎からは長老が出てきて、それらのものをいったん拾い上げるが、そのまま返し、和睦の意思がないことを示す。
その後粛慎は
弊賂弁嶋(へろべのしま)に戻って「柵」に立てこもる。比羅夫はもう一度「和を請う」たあと攻撃を開始。激戦の末、粛慎は敗れ、自分の妻子を殺したのち降伏する。比羅夫の側でも能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)が戦死。

5月 阿倍比羅夫、朝廷に粛慎など50人を献上。

瀬川さんは弊賂弁嶋を奥尻としている。青苗にオホーツク人の遺跡があることから、この説は説得力がある。この際、大河は瀬棚に注ぐ後志利別川に比定される。

大和長征の北進が一時停滞

660年 百済、唐=新羅連合軍の攻撃を受け滅亡。朝廷は北方進出を中断し、すべての水軍を百済復興に振り向ける。

661年 阿倍比羅夫、百済救援軍の後将軍に任じられる。

663年 阿倍比羅夫、新羅征討軍の後将軍に任じられる。ほぼ同じ頃、筑紫大宰府帥にも任命される。

663年 日本水軍、白村江の戦いで唐・新羅連合軍の水軍に惨敗。壊滅状態となる。このあと、船団を組んでの蝦夷征伐はなくなる。

668年(天智7年) 天智天皇が即位する。

672年 壬申の乱。北方への進出は一時停滞。

689年 優嗜曇柵(うきたみ)が設置される。優嗜曇柵は米沢盆地のある置賜郡。同じ頃仙台市郡山にも柵が形成された。

696年 大和朝廷、渡島蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)、粛慎の志良守叡草(シラスエソウ)らに錦、斧などを送る。(日本書紀 持統天皇10年)

698年 靺鞨の一族である震国が唐朝の冊封を受け、渤海国と称する。一説では高句麗の末裔で豆満江流域を中心に交易国家を建設。

7世紀末 陸奥国から石城国と石背国(福島県の浜通と中通)が分立。陸奥の国は仙台平野と大崎平野だけからなる小国となる。仙台市南部の第二期郡山官衙遺跡は寺院を付設し、多賀城建設までのあいだの旧国府と目される。

和人の東北地方への本格的進出

越から出羽への陸上進出

700年頃 大臣武内宿禰の東国巡視の報告(日本書紀)。「東の夷の中、日高見国がある。男女ともに入れ墨をし、勇敢である。土地は肥沃で広大である。征服してとるべき」である。現在の仙台平野から北上川流域に広がっていたと思われる。

700年 越後北部に石船柵(イワフネ)を造営。越後國は出羽郡の新設を申請し、北方進出策を強める。(岩船の柵はすでに648年に建設されており、出羽の柵の間違いではないか。709年に「諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬」したとの記載があり、出羽の柵の建設はそれより以前ということになり、年代的には符合する)

701年 大宝律令が制定される。

708年 越後の国の一部として新たに出羽郡が造られる。出羽郡以北は日本海側もふくめすべて陸奥の国の管轄。

709年3月 朝廷、陸奥への進出を本格化。鎮東将軍に巨勢(コセ)朝臣麻呂を任命。遠江、駿河、甲斐、信濃、上野から兵士を徴発し派遣。

709年 蝦夷の越後侵入に対し征討のため、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯(イワユ)を任命。越前、越中、越後、佐渡の4国から100艘の 船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに拠点として出羽柵(イデハノキ)を造設。「陸奥・越後二国の蝦夷は、野心ありて馴れ難」いとされ、大規模な反 乱があったことが示唆される。

710年 都が飛鳥から平城京に遷される。

712年 越後の国出羽郡、陸奥ノ國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽の国が設立される。渡嶋(蝦夷が島)は出羽国の管轄となる。このあと、太平洋側(海道)のエミシは蝦夷、日本海側(北道)のエミシは蝦狄と表記されるようになる。(ただしそれほど厳密な使い分けはしていない)

これについて太政官は、「國を建て、領土を拡げることは武功として貴ぶ所である。官軍は雷のように撃ち、北道の凶賊蝦狄(エミシ)は霧のように消えた。狄部は晏然(アンゼン)になり、皇民はもう憂えることはない」とし、これを承認。

713年 古川を中心とする大崎平野に丹取郡が置かれる。玉造の柵が造設される。玉造の柵は現在の古川市名生館(みょうだて)遺跡と目される。

714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民200戸が、出羽柵にはいる。このあと諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計で3千戸におよんだ。

715年 陸奥の蝦夷、邑良志別君宇蘇弥奈と須賀君古麻比留の要請により、香河村(不明)と閇村(宮古市付近)に郡家を立てる。

718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。

18年 渡度島蝦夷87人が大和朝廷に馬千匹を贈る。(信じがたい!)

720 渡嶋津軽津司諸鞍男らを靺鞨国に派遣

780 出羽国司に渡嶋蝦夷への饗応を指示

これまで勉強してきて、アイヌ民族観がかなり変わりました。
1.縄文人がアイヌ人と日本人(和人化)に分岐した

非常に誤解を招く言い方ではありますが、アイヌ人というのは案外日本人なのではないかということです。

雑駁に言えば、日本人というのは縄文人と渡来人のハイブリッドです。

アイヌ民族は渡来民と混血しなかった縄文人ということになります。

日本人=混血民+渡来民+縄文人と広く捉えれば、アイヌ人も日本人の範疇に入ることになります。琉球人が琉球民族ではなく日本人であるなら、同じ論理が適用されても不思議ではありません。
2.アイヌ人は縄文語を母語とする縄文人

ではどこが決定的に違うのか。言語です。日本語は基本的に渡来人の母語です。そして琉球言葉も完全に日本語です。

琉球弁がさっぱりわからないのは、薩摩弁や津軽弁がさっぱりわからないのと同じです。なのに同じ日本語だと分かるのは、書けば理解できるからです。

アイヌ民族の謎は、尽きるところ言語をめぐる謎です。

何故北海道のエミシは縄文語を使い続けたのかということです。

東北のエミシとの対比で言えば、なぜ縄文語を母語とし続けることが出来たのかというふうに言い換えることも可能でしょう。
3.なぜ縄文語が残ったのか

最大の理由は、和人が青函海峡を越えて北進しなかったことでしょう。幕末にかなりの武士団や、入植団が北海道に入りましたが、そのほとんどは寒さに耐えきれず撤退します。

また日本人は基本的に農耕民族ですから、農業(稲作)が不適な場所では生活できません。

もっと直接的な理由は、東北北部のエミシ勢力の衰退です。安倍氏の滅亡、安東氏の衰退により、本州とのパイプ(血の繋がり)が切断されてしまいます。

とりわけエゾ宗主である安東氏(日の本)の衰退は、権力関係の空白をもたらしたのだろうと思います。もっと津軽エミシの圧力が強力にかかり続ければ、北海道にも和人化の波が押し寄せたのではないでしょうか。

その前に安東氏の支配下で、津軽エミシそのものの脱エミシ・和人化が進んでいます。縄文語に変わり日本語が母語となり、安東氏は「和人」として北海道のエミシ(渡党)に相対するようになります。

4.東北(津軽・出羽・陸奥)を知らないとアイヌは分からない

こうやっていくつもの事象が重なったことから、北海道のエミシ+自生的縄文人は独自の文化を形成するようになったのではないでしょうか。そのエポックとしてコシャマインの戦いをあげても良いのかもしれません。
とりあえず、アイヌは松前藩との力関係において、和人化せずに済んだとも言えるし、和人化しそこねたと言えなくもありません。

その和人化強制が明治維新を機に一気に進んだために、多くの軋轢が生まれたのはご承知のとおりです。
いずれにしても、北海道の中だけで見るのではなく、「東北北部と一体となった動きの中で、アイヌ民族の形成過程を見ていかなければならない」ことだけは間違いなさそうです。


瀬川さんが折りに触れ強調するのが「縦割り交流」である。

これは私が勝手に名付けたものだが、北海道と東北の経済・文化交流には二通りの流れがあるというもので、一つは秋田・津軽と松前・檜山につながる日本海側ルート、もう一つは陸奥(八戸)から恵山・胆振・千歳線地域につながる太平洋ルートである。

とくに後者は、これまで注目されて来なかったが、擦文文化時代にはむしろ主流ではなかったのか、というのが瀬川さんの主張である。

これは考古学的事実の積み上げによって得られた推論ではあるが、歴史学的にも説得力があると思う。

アテルイが日本語で喋っていたのか縄文語だったのかは興味のあるところではあるが、この時点で津軽の人々は間違いなく縄文語で生活していた。津軽は和人化を拒否していたのである。

だから日本海側では秋田と津軽が縄文人と和人の境界だった。朝廷が秋田を事実上放棄して以降は、秋田も縄文人の勢力範囲だった可能性もある。

しかしそのような俊絶的な境界は太平洋側には存在しなかった。

和風化とバイリンガルな世界は徐々に北上し、やがて海を渡って胆振から千歳線領域まで拡大したのではないかと考えられる。

これが西暦900年前後の擦文世界だ。

ところが津軽の縄文人が農耕生活を開始し、富強化することによって状況は一変する。

津軽・出羽の縄文人は日本海沿いに北上し宗谷まで及ぶ縄文語世界を形成する。そして陸奥側への進出を図る。

それがポイヤウンペの英雄譚であったのだろう。

ポイヤウンペをめぐるユーカラは二つのセクションからなる。

一つは海獣の漁場をめぐる争いである。彼はハンターの最前線である浜益で石狩の既得権層と争い、礼文のオホーツク人とも共闘しながら勝利する。

もう一つは、胆振のアイヌ人集団との戦いである。この場合胆振・支笏のアイヌ人は化物とみなされていることだ。

ポイヤウンペはこの戦いでは敗北し、ほうほうの体で逃げ帰ったことになっているが、最終的には勝利したことが示唆される。

大事なことは、このポイヤウンペの戦いが胆振アイヌの本拠地たるべき平取で語り継がれていることだ。平取がこの神話を受け入れたということは、胆振アイヌが日本海アイヌに敗れ、屈服し、その神話を受け入れたと言うことになる。

このことから何が分かるか。

アイヌ人は津軽・出羽縄文人の末裔であるということだ。そして道央に発展しつつあった陸奥関連の縄文文化は、それに従属・吸収されてしまったということだ。
それは考古学的にも確認できる。擦文文化の象徴は深い竪穴住居だ。これは東北北部でも共通して見られた。しかし11世紀になると東北北部に平地住居に代わり、それが11世紀末には北海道にも波及する。ただしその交代は日本海側でのみ出現し、太平洋側で平地化が始まるのはさらに100年ほど遅れる。

諏訪大明神絵詞では、「蝦夷カ千島」には日の本、唐子、渡党の三種が暮らすとされる。日の本は津軽秋田の和人化したエミシであり、渡党は髭が濃く多毛であるが和人に似て言葉が通じたとあるから、バイリンガル化した縄文人であろう。とすれば唐子は何か。この絵詞が書かれたのは1356年であり、もはオホーツク人とは考えられない。ひょっとすると、これが胆振・千歳の擦文人であったかもしれない。

なお、「東日流外三郡誌」なるものがあるが、内容的にみれば2チャン並みの「偽書」である。

エミシの復活とアイヌ民族の形成

瀬川さんの「アイヌと縄文」がまだ半分残っている。なにか一度読んでしまうと、また読み直す気がしなくなるのだが、整理しておかないと後々困るので、気を取り直して再開する。

瀬川さんの記述で勘所となっているのが、時期としては西暦900年から1100年までの200年間だ。

すでに北海道では後期縄文から擦文時代に入っており、その中にアイヌ文化が育ち始める。

その経過は謎に包まれているが、ことはアイヌのアイデンティに関わるので、ゆるがせには出来ない。

これまでの瀬川さんの所論をまとめると、アイヌ人は多少のオホーツク人の血を混じているとはいえ、基本的には縄文人の流れだ。アイヌ語は縄文語の嫡流だ。

一方、東北のエミシは和人と混血し和風化した縄文人だ。にも関わらず彼らは和人から「異人」とみなされ、その社会形態は暴力的に破壊された。

しかし、エミシ独自の政治形態が消滅するや、彼らは和人として遇されるようになった。

にも関わらず、北海道の縄文人は同化を拒否し、独自の言語を守ることによって“アイヌ人となった”のである。

この差は何なのか、それを生み出したものは何なのか。その謎を解く鍵が9世紀後半にある、というのが瀬川さんの主張である。

Ⅰ 東北エミシの復活と一体化

まず瀬川さんの論建てを紹介する。

1.9世紀後半になると気候が温暖化する。この傾向は出羽(秋田県域)を除く東北全域に見られる。これに伴い東北各地で人口が急増している。

2.とくに津軽(大和朝廷の支配がおよばないエミシの地)で水田、鉄器、塩、窯業(須恵器)が一斉に始まる。これらはエミシの自発的な農耕民化とこれによる富強化を意味する。いわばエミシ・ルネッサンスだ。

3.津軽の自発的成長が顕著になると、北海道にも津軽産の須恵器、鉄器が見られるようになる。コメも出てくる。

つまり、津軽に農耕をこととする縄文(エミシ)文化が勃興し、東北全体に影響力を広げる一方、北海道は自足自給を基礎としつつ、貿易相手として津軽と相対することにより漁労・狩猟生活に特化・発展していく、という経過になる。

その証拠として、瀬川さんは、縄文時代に比較的均等に分布していた集落がいくつかの生産点に集中し、他は無人の野となっていく考古学的事実を上げている。

B 大和朝廷の弱体化

これとは逆に律令国家・大和朝廷の力が弱体化したこともある。
私の勉強したところでは田村麻呂のような軍人はもはや存在しなくなり、政治は内向きとなり摂関政治へと移行する。

各地で俘囚(エミシ)の反乱が相次ぎ、大和朝廷は出羽を放棄するに至る。正面戦を互角に戦える力を得たエミシ豪族らは自らの統治を朝廷に承認させる。

朝廷に代わって、関東で組織された武装集団が東北に介入するようになる。和人支配の弱体化は、征夷大将軍として幕府を開いた源頼朝が、奥州討伐を行う1189年まで続く。

この頃日本国内の勢力分布は東北・関東に偏っていたのである。律令国家のもとでは勇猛な防人として使役された関東の人々が東夷(あずまえびす)として、第一級国民としてみずからを承認させる。

これらの事情が、北海道にアイヌ人国を生む背景となっていったということであろう。


本日は天気がいいのでドライブ。

前から気になっていた美流渡に行ってきました。美流渡と書いてミルト、なんとなく素敵な名前でしょう。

岩見沢の街に入るちょっと手前を右に曲がります。三井グリーンランド(遊園地)を左に見ながら進んでいくとだんだん両側の山が迫ってきます。この沢を登りきると、その向こうが夕張になります。

とりあえず地図を載せておきましょう。

これが現在の地図。何もないのっぺらぼうです。

美流渡
これが昭和29年測量の地図ではこうなります。(上の地図の東半分)

美流渡2

美流渡の市街地の他、二つの沢に集落が認められます。奥の方の集落が万字炭鉱です。昔はそこまで鉄道が延びていて、万字線と呼ばれました。もう一つの沢が上美流渡炭鉱で、美流渡駅から軽便鉄道が延びていたそうです。

wikiより

北海道岩見沢市の志文駅で室蘭本線から分岐し、空知郡栗沢町(現在の岩見沢市栗沢町)の万字炭山駅まで23.8kmを結んでいた

上志文、朝日、美流渡、万字、万字炭山の5駅があった。



 1914年(大正3年)に万字軽便線として全線が開業した。1985年(昭和60年)3月31日限りで廃線となった。万字はかつての鉱区所有者朝吹英二の家紋「卍」に由来する。昭和51年に閉山となった。



滝平二郎の展覧会をまだ語っていない。

実は、この日まで、滝平二郎はどう読むのか知らなかった。滝さんなのか滝平さんなのかもわからなかった。

皆さんわかりますか。この人は滝さんでもタキヒラさんでもなく、タキダイラさんなんです。


もちろん目玉は朝日新聞に連り絵」の連作であるが、「滝平の真骨頂はその前にあった」、ということがわかった。この人は「漫画家」だ。絵描きにしては語るべきストーリーが有りすぎる。版画家にしては色彩への欲がありすぎる。だから芸術家の範疇にとどまれない、だから漫画家になるのだ。

「切り絵」の方は「あぁ、きれいだね」というくらいのもので、それでも十分目の保養にはなるのだが、例えば宮﨑駿などの原画展と比べてとくに出色というわけではない。

ということで、とにかく圧倒されるのは初期の「戦争敗走記」という連作。

どれもすごいのだが、とくにこれは食いつかれる感じがする。皆さん、展覧会に行ったら逆回りした方がいいです。とにかく最初から疲れちゃう。
猿

「猿」と題されている。

おそらく自画像(24歳の)であろう。

異形である。人間とは思えない凄まじい形相であるが、眼は完璧なまでに虚ろである。「失感情」よりもっと高度の「失外套」に近い状況だ。この状態で突かれたり切られたり撃たれたりしても、あるいは食われても、苦しみの表情さえ浮かべることなく死んでいくだろうと思われる。しかしその前に、およばずとも噛み付くくらいはするかもしれない。

大岡昇平の「俘虜記」にも「猿」の話が出てくる。人肉を「猿」と称して食う話である。本当に猿と思ったのかもしれない。


滝平は1921年生まれ、新進の版画家として活動を始めた42年(昭和17年)に召集された。最後の任地が沖縄だった。

滝平の手記「山中彷徨」から引用する。

硫黄島玉砕、東京大空襲―あれよあれよという間に、米軍機動部隊が私たちの沖縄本島をとり囲んだ。

およそ1週間の間断ない砲爆撃の後、こともあろうに私の誕生日の4月1日に米軍が上陸した。

6月の終わりに沖縄守備軍玉砕。そのことも知らずに私は、なおも山中を逃げ回った。疲労の果てに仲間からはぐれてしまってからも、一人ぼっちで彷徨い続けた。

奥深い山中の、小さな泉のほとりには、たいてい誰かが仰向けに寝て落命していた。

…いきなり鳥の大群が不気味に鳴いて飛び立ったあとに、兵隊服の白骨が散乱している光景にも、しばしば出会った。

…それは、一匹の虫けらのように自分が縮んでいく瞬間でもあった。

…昼間は何よりもひと目を恐れた。たえず誰かに見つかりはしまいかと落ちつかなかった。

なるべく深い繁みをえらんで、その下に身を横たえて時たま通過する米軍機の音をぼんやりきいていたとき、とつぜん頭上の木の枝を、薄緑色の尻尾の長い動物が、梢の方へつつっと走って、ゆっくり首をまわして私を見おろした。大きな目が「見つけたぞ!」というように私を直視していた。

私はバネ仕掛けのように飛び起きて逃げ出した。あの小動物がなんであったか、今もってはっきりしない。

雨上がりの赤土の小道を握りこぶしほどの亀の子がゆっくり歩いていた。はっとたじろいだ私の目の前で、みるみるうちにひと抱えもある怪物のように大きくなった。太いしわしわの首を伸ばして、じろっと私を見た。私は奇声をあげて土くれと言わず石くれといわず怪物めがけて投げ続けた。

…こうなると、一人芝居も凄愴味を帯びて私は完全なノイローゼになっていた。

8月3日の夜半、生け捕られて俘虜となった時は、もうすっかり癒えていた。


「もうすっかり癒えていた」と言うが、この絵を見ると明らかに「癒える」どころかさらにひどい状態に陥っている。

その表情は、前頭葉への回路を完全に遮断した状況を示している。考えることを止め、感じることもやめ、無理やり脳を冬眠状態に陥れることによって、かろうじて心のバランスを取り戻したのだ、そうやって大脳機能を守ったのだ、と察する。

「反省だけなら猿でもできる」と言うが、この状態ではそれも出来なかったろう。つまり「猿以下」だ。

それにしては、釈放後1年でこれだけの絵をかけるのだから、この人はとんでもなく丈夫な神経をしている。

向き合ううち、この絵から怒りが噴き出していることに気づく。滝平さんは怒りの感情が溢れてくるから、この絵がかけたのだと思う。
許せないから、尋常の生理的反応に逆らって記憶の回路をこじ開け、凄惨な体験を呼び起こし、この凄まじい作品を残さずにはいられなかったのだろう。

手記の最後はこう締めくくられている。

戦争体験は、それを語る人の思想によって、さまざまに形を変え、命を吹き込まれて伝えられる。

私には、悲惨さ以外に伝えるものは何もない。

絵もすごいが、文章も隙きがない名文だ。表現は控えめだが、間然としたところはない。なんとかこれを「紙芝居」に出来ないだろうか。



高円寺の古本屋で見つけた写真雑誌。
「1億人の昭和史 10 不許可写真史」というものだ。毎日新聞の発行で昭和52年1月の発行日となっている。
著作権に触れる恐れがあるが、このまま廃棄処分となるのも惜しいので、何枚か転載する。クレームがあれば直ちにおろしますので、よろしく。

解説記事から、長めの引用。
従軍慰安婦が初めて生まれたのは昭和13年1月13日か14日とされているが、はっきりした日時は不明である。
ただ第1号慰安所の場所が上海の楊家宅だったことだけははっきりしている。兵站司令部、すなわち軍がそこで売春所を直轄で開業したのである。
では何故こうしたものを設けたのか。それは日本軍将兵が強姦略奪し放題に進撃していったからだ。
…「日本兵の去ったあと処女なし」と言われ、東京裁判では一人の女性を30人で輪姦した証言もある。
…この日本軍の暴行ぶりは上海や年金の外交機関に通報され、海外に打電された。
…これに困惑した軍最高幹部は、軍が管理する清潔な売春婦を与え、“鎮める”ことを考えた。すなわち“従軍慰安婦”である。
…彼女らの大半が朝鮮から強制的に連れてこられた女性であった。
…従軍慰安婦は兵隊40名につき1名の割で配属され、総数は8万余名だった。
…昭和13年4月から軍直営は好ましくないと、すべて御用商人に経営させることになるが、検診と管理はすべて軍が担当した。
慰安所や従軍慰安婦のことは内地には秘密で、彼女たちの存在が分かる記事も写真もすべて検閲で止められた。
…敗戦後、彼女らの大半は現地でボロ屑のように捨てられた。東南アジアでは、いま年老いた幾人かの元従軍慰安婦が、皿洗いや靴磨きをしているのを見ることがある。


慰安婦4
昭和13年1月に開設された軍直営の慰安所。女性は120名いた。数カ月経って、民営に移管された。

慰安婦5

兵站司令部で考えた慰安所規則。

慰安婦6

朝鮮人女性には性病経験者なく健康体が多かったため歓迎された。このため朝鮮半島から強制的に集めてくるようになった。

慰安婦7
昭和12年12月16日 南京城内中山路にて。撮影した特派員は「避難民に紛れ逃亡を企てた約5~6千名の正規兵」と説明をつけている。捕虜の最後がどうなったかは不明。(後ろの方にはYシャツ・ネクタイ姿などどう見ても一般市民という人々がかなりいる)


「ポピュリズム」について 論点の整理

今回、東京へ行った理由は日本AALAの講演会を聞きに行くためである。とくにベネズエラ大使セイコウ・イシカワの講演が主目的である。

講演は二本立てになっており、最初が「ブラジルとペルーの政権交代から」と題する山崎圭一さんの講義。後半がイシカワ大使の講演であった。

山崎さん(横浜国大教授)の講演は1時間でやるようなレベルのものではなく、かなり消化不良感が残った。とくに少ない講義時間の多くがポピュリズム論に費やされたため、聞きたいことが聞けなかったという心残りがある。

ポピュリズム論が世界中で流行っていることはわかった。

ただ、ポピュリズムという概念自体はきわめて多義的で、最低でもトランプ現象やヨーロッパでの政治的激動を分けておかないと、混乱の元になる。

とりあえず、私は以下のように提案したい。

1.19世紀末の米国におけるポピュリスト・パーティーを始源とし、それに影響を受けたラテンアメリカのポプリスモ運動を一括して古典的ポピュリスムと呼ぶ。

2.トランプ現象に象徴される民衆の漠然とした気分・不満を基調とするいくつかの運動をモダン・ポピュリズムと呼ぶ。

3.モダン・ポピュリズムにおいてはファシズムとの異同の吟味が必要である。すなわち、何故それらをファシズムあるいはネオ・ファシズムと呼ばずポピュリズムと呼ばなければならないのか、それを明らかにしていく実証的な検討が必要である。

最後に、水島によるポピュリズムの分類を下に示す。山崎さんが作図したものである。

21世紀の欧州のポピュリズム(右派)

21世紀のラテンアメリカのポピュリズム(中道~左派)

抑圧型

移民排斥

支配的政治・文化・価値観への挑戦

解放型

財政政策の拡充による貧困対策の拡充

社会・経済開発の促進

これを見るとはっきりするのは、ポピュリズムという概念が、政治的にはほとんど無意味だということである。ただたんに見かけ上のスタイルというに過ぎない。

要するに、21世紀型の下からの変革というのは、大なり小なりポピュリスト的手法を取らざるをえないということを言っているにすぎない。
それが間違いだということは、サンダース旋風、イギリス労働党の躍進で確かめられているのではないか。

それにしても、右も左もごっちゃにしてポピュリストと一括する人々の存在こそが、実は一番の問題なのではないか。「おろかな民衆」とそれに迎合し、それを煽る政治家というのなら、おそらくそのような発想からは何も生まれないだろう。
それは知的エリート主義の形をとる保守・現状維持主義であり、その枠組を破ろうとするものへの嫌悪感と恐怖感である。それは知的エリートの知的退廃の告白でしかない。
トランプが勝利した時、サンダースはこう言った。

トランプ大統領に投票した人々は人種差別主義者、性差別主義者、同性愛憎悪者、嘆かわしい人々だと考える人たちがいる。私はそうした考えに同意しない。なぜなら私はトランプ大統領に投票した人々と一緒にいたからだ。

…有権者のほとんどは、右翼的な主張ではなく、進歩的な主張を持っているのだ。

虐げられた人とともにあることは、神とともにあることだ。そのことをサンダースは雄弁に語っていると思う。

イギリスの総選挙とほぼ並行してフランスの大統領選挙も戦われた。これについて本日の赤旗に興味深い記事が載った。

興味深いというのは、イギリスの総選挙との比較だ。イギリスはポスト離脱の展望をめぐる選挙であったし、フランスは離脱の是非そのものが問われている選挙だった。

しかし、イギリスの選挙を見た後で、フランスの選挙を見てみると、ことはもっと根の深いものなのだろうと思う。

そこをどう捉えるのか、

遠藤 乾(けん)さんという方は私より二回り若い。運動圏の人ではなさそうで、どうして赤旗に登場したのかは分からない。

北大教授ということで、ひょっとするとお世話になるかもしれない人だ。文章を紹介させて頂く。

1.フランス大統領選挙と反EU感情

大統領選挙の結果、EU残留派のマクロンが当選した。ただ投票の半分は反EU派に流れた。すなわち国民戦線+急進左派+泡沫候補の得票合計である。(ということは、EU問題は左右両派の真の対立点ではなかったということになる。それはイギリスも同じだ)

2.国民戦線の強さ

国民戦線は反自由主義的なポピュリスト政党である。「伝統的フランスへの回帰」のスローガンと反移民、反イスラムなど敵を作り出すことで雑多な民衆をまとめている。

それにラストベルトの民衆が取り込まれている。彼らの多くは元はリベラルだった。共産党員ですらあった。急進左派は、彼らには遠いものと映っている。彼らには異質なものである。

3.グローバル化のしわ寄せ

これはグローバル化の恩恵が富裕層に傾き、労働者にしわ寄せされている結果である。

EUの指導者は、こうした痛みに分け入って、真剣に取り組むのをおろそかにしてきた。これが反EU感情を生み出している。労働者の生活改善のために手を打たない限り、EUの危機は続くだろう。

4.政治学のトリレンマ

①グローバル化、②国家主権、③民主主義の3つの理想は同時に実現できないという概念。

これについては後で検討する。

5.国際協調で解決を

具体的には、投機資本の規制、租税回避対策、貿易ルール問題、環境などで国際協調が必要である。


EUからは国民投票をやって抜けようと思えば抜けられる。しかしグローバリゼーションという大きな流れからはそう簡単には抜けられない。

こういう言い方は、マルクス主義らしからぬようにも見えるが、グローバリゼーションは必然の流れであり、それをどうみんなにウィンウィンとなるようなものにしていくかを語るしかないのではないかとも思う。

そしてその方向での共通認識はすでに出来ていると思う。なぜなら今日の事態は、レーガン以来、アメリカが世界経済を強引に捻じ曲げ続けて来た結果起きたことであり、アメリカの勝手放題を止めさせれば済むことなのだから。

問題はそれをどうやって実現していくか、誰がアメリカの首に鈴をつけるかという話なのだろうと思う。

もう一つはアメリカの好き勝手をやめさせるのは結構だが、それまでのあいだ各国はどうしたら良いのかという問題だ。前提条件がすでに規定されている以上、各国がやれることには自ずから限界がある。とはいえ、国家としてやらなければならないことはある。


「政治のトリレンマ」について

私には初耳であった。政治学については素人ではあるが、初心者ではない。「…という疑念がある」と言われると「えっ?」と思ってしまう。

いずれ詳しく勉強した上で語りたいと思うが、この「不可能の三角形」は少々おかしいと思う。「3つの理想」と言われるが、国家主権と民主主義はともかくとしてグローバリゼーションを「理想」と呼ばれるのには抵抗がある。

グローバリゼーション自体を悪というわけではないが、それは政策を立てる上での「所与」である。それはとくに経済の開発を計画する上で、重い前提条件としてのしかかってくる。

これは、とくに発展途上国において、すでに1960年の初頭から懸案となっている事項である。国連開発会議(UNCTAD)などで議論が積み重ねられているが、いまだにスッキリとした結論は出ていない。正直に言えば、ネオリベラリズムが登場してからはぐじゃぐじゃになっている。

たかが金貸し風情が出過ぎたまねをするんじゃないよ

をご参照ください。
とりあえず、国家政策の三本柱としては以下のものが考えられている。

自主: 民族国家としての主権を守ることである。なんでもかんでも100%自由化という訳にはいかない。それは「食われる自由・飢える自由」しか残されないことを意味する。それは一見グローバリゼーションと矛盾するようだが、実はグローバリゼーションのための必須条件なのである。

民主: 国民生活を守ることである。論争の中で、ともすれば内需拡大と関連付けて語られがちだが、決して内需拡大のために国民生活を底上げするのではない。国民生活、生活権を守るのは手段ではなく目的である。

発展: 経済成長・財の蓄積を確保することである。それは豊かな心と豊かな人間を作っていくために必須の事柄である。その枠組みや方法についてはいろいろ議論があるだろうが、その重要性の認識は共有しなければならないだろう。

金融・通貨政策でのトリレンマは97年のアジア通貨危機を通じて、頻用された概念である。① 自由な資本移動、 ② 為替相場の安定、③ 独立した金融政策 の3つが同時に成立することは不可能であるというものだ。

それはすでに大方の関係者から承認されており、「公理」のごとく用いられている。金融の世界が無機質な数字の世界であり、しかも比較的短期で結論を出していかざるを得ない世界だからであろう。

政治の世界ではもう少し不確定要素が入ってきそうな気がする。同じ状況に置かれてもトランプを支持したり、労働党を支持したり、ルペンを支持したり反応は異なってくる。

イギリス総選挙 教訓とすべきこと

この度のイギリス総選挙でもっとも印象的なことは、労働党、あえて言えばコービンへの支持が驚くべきスピードで積み上げられたことである。若者を中心に「イギリスのサンダース現象」とも言える現象が出現した。

一方で、過半数を割るに至った保守党の後退は、メディアからは「オウンゴール」と表現されているが、それに尽きるとは思えない。そこにはより深刻な長期低落のトレンドがふくまれていると思う。

世界的な枠組みの中で見ると、EU 離脱の国民投票でイギリス国民は「トランプ支持」に類似した反応を示した。EU 残留を今日こに主張する保守党政権は吹き飛ばされた。

そこで保守党政権の接ぎ木とされたのが「ミニ・サッチャー」を気取るメイ首相だ。彼女は強硬離脱路線に衣を着替えて、離脱派国民の心をつなぎとめようとした。
(EU離脱は、Brexit と呼ばれる。これは British + exit をかけ合わせた造語。これに着陸のときの hard/soft を形容詞としてつけて表現する。アメリカ人ならHBEですますだろう)
この思い切った作戦が奏功した。国民は不満の吐け口を失ってしまったかに見える。しかし国民の不満が解消されたわけではない。

トランプ派がヒラリー派になるわけがないのである。そして、そもそも離脱派の本音はEUノーではなく、富裕層の支配ノーなのだ。その本質は、国民本位の政治を求めてさまよう「革新派」なのである。

それが収まるところに収まった瞬間、保守党の命運は尽きることになる。これが政治の流れの本流であろう。

まずは少し経過をおさらいしてみよう。


1.保守党の敗北とメイの登場
2016年7月、EU離脱の国民投票が行われ、提案者キャメロン首相は予想外の敗北を喫した。キャメロンは首相を辞職、内相だったテレサ・メイが後継首相となった。したがってメイは首相として選挙を闘ったわけではない。

メイは当初はキャメロンと同じ残留派であったが、そのご強硬離脱派に立場を変えた。

周囲の反対を押し切って離脱に踏み切った党派は、目標を失ってあっというまに衰退した。党内を離脱論で押さえ込んだメイに政敵はいなくなった。労働党は残留を主張していたが、党首コービンはEUに対する厳しい見方を貫いた。このため労働党は離脱論争の蚊帳の外にいた。
2.総選挙に打って出たメイ

今年になって4月18日、メイ首相は電撃的に総選挙の実施を表明した。本来であれば2020年実施予定であったが、これを前倒ししたのである。

彼女は記者会見でこう述べた。「議会は一体となるべきですが、現在は分断しています。国はまとまりつつありますが、政治家はそうではありません。総選挙が必要であり、ただちに実施する必要があります」

この時保守党は330議席を有し、単独過半数を超えていた。しかしEUとの離脱交渉を前に、自らの政治的な基盤を盤石にしたいとの狙いがあったとみられる。

メイは2019年3月末までにEU離脱の大枠を定める離脱協定の合意を目指していた。2020年では遅すぎるのである。しかし2020年が遅すぎるといっても、今すぐやる必要もない。それは「いまやれば圧勝する」という読みがあったからである。
3.選挙前半の情勢

保守党の支持率は、一時は最大野党・労働党を24% 引き離していた。メイ首相の支持率は44%。これに対し労働党のコービン党首の支持率は23%に過ぎなかった。

選挙戦半ばまではたしかに保守党の「歴史的大勝」を思わせる状況だった。

5月はじめに行われた地方選挙では、88の地方議会で合わせて4851議席が改選された。保守党は支持基盤の弱い中部や北部スコットランドでも支持を伸ばし、改選前を563議席上回る1899議席を獲得した。 これに対し労働党は382議席を失った。

多分、この大勝利が政権のおごりを生んだのであろう。メイは「強く安定したリーダーシップ」といった決まり文句をひたすら繰り返し、「メイ・ボット(自動応答プログラム)」とまで言われるに至った。
4.保守党政治への不満が噴出

このような選挙状況を一転させたのが、5月18日に両党から発表されたマニフェストである。投票日のわずか3週間前だ。

保守党のマニフェストは、国民から意外なほどに強い反発を受けた。一番の批判の的となったのが「認知症税」である。

要は高齢要介護者の介護費用なのだが、生きているあいだはとりあえず給付するのだが、死んだときには払ってもらう。その原資として持ち家を手放させることによって、ケア費用を捻出するという提案である。したがって家族は本人死亡によりホームレスとなる。実に悪魔的なアイデアだと感心してしまう。

この他にも、マニフェストには「高齢者の冬の暖房費補助のカット」など高齢者に負担増を強いる政策案が盛り込まれていた。

これが国民の怒りに一気に火をつけた。

「保守党は子供の貧困に取り組む姿勢を失った」との声もでた。NGO調査では、イギリスでは4人に1人の子供が貧困状態にあるとされる。子どもや高齢者の生活悪化は、それだけが切り離されてあるのではない。OECDによれば、英国の実質賃金の落ち込みは先進諸国の中で最悪になっている(ギリシャを除けば)

要するに、映画「私はダニエル・ブレイク」の世界が全土に蔓延しているのだ。

つまり、メタンガスで充満した倉庫にマッチを投げ込んだようなものだ。
無風かと思われた情勢は一転した。メイ政権の支持率は急落した。メイは急きょ「認知症税」案を取り下げた。
5.コービンの反撃

労働党はどうだったか。

2015年5月、労働党は歴史的大敗を喫した。出直しのため9月に党首選が行われた。

ただの位置議員だったジェレミー・コービンが名乗りを上げた。コービンは「時代遅れの社会主義者」と呼ばれ、泡沫候補と見られていた。

党首選に立候補するための議員35名以上の推薦も集められなかった。しかし同情する人もいて、ギリギリに立候補が可能になった。

ところがフタを開けるとコービンの圧勝だった。上位2名の得票率は、

1位: コービン  59.5%

2位: バーナム 19%

コービンの率いる労働党は、国営の医療制度、NHSの拡充を訴えた。全ての小学生に給食を無償提供すると訴えた。教育予算の大幅な増額を盛り込んだ。

マニフェストで正面からの勝負を挑んだ。

それが、国民の希望と奇跡的な結びつきを実現した。とくに大学授業料再無料化の政策が、若者たちから絶大な支持を集め始めて来た。

労働党不人気の象徴と見られていたコービンがにわかに輝きを帯びてきた。サンダースは三日間の全国講演旅行で、コービンを支持するよう訴えた。

サンダースが、青年たちのカリスマとなったように、コービンも青年たちの希望の星となった。


6.コービンの選挙スタイル

コービンの選挙運動はメイとは対照的だった。

イギリスで保育士として働くブレイディみかこさんのレポートによると、

…屋外での数千人規模の集会も数多く組まれた。リラックスした雰囲気がそこでは支配した。熱狂的な支持者から「コービン、コービン」の大合唱を浴び「ロックスターが受けるような歓迎」を受けた。

…息子の学校の前でPTAが労働党のチラシを配っていた。息子のクラスメートの母親が、「労働党よ。お願いね」とチラシを渡してくれた。国立病院に行くと、外の舗道で人々が労働党のチラシを配っていた。「私たちの病院を守るために労働党に投票しましょう」入院したときに良くしてくれた看護師がチラシを配っていた。今年で英国に住んで21年目になるが、こんな選挙前の光景は見たこともない。

…誰かがバッシングされている姿を見て気晴らししながら自分も我慢するような、いびつな緊縮マインドの政治にこそ人々は飽き飽きしていた。それではいつまでたっても我慢大会は終わらないからだ。
7.イスラム過激派テロの選挙利用は失敗した

選挙中にあたかもリベラル政治に対する恐怖を植え付けるように、多くのテロが起きた。ロンドンでは3月と6月、2回のテロが発生した。マンチェスターでは人気歌手アリアナ・グランデさんのコンサート会場で爆弾テロが起き、22人が死亡した。

メイ首相は「イギリスは過激思想に寛容すぎた」として、対テロ戦略の見直しやインターネットの規制強化など治安強化を全面に押し立てた。しかし相次ぐテロを防げなかった責任、警察官の待遇悪化を厳しく追求されるなど、逆に窮地に追い込まれる結果となった。
8.互角勝負に持ち込んだコービン

投票日を1週間後に控えた6月はじめには形勢はほぼ互角となった。

6月6日の世論調査では労働党が4ポイント差に迫った。調査によっては労働党のほうが上回っているものも出てきた。24歳以下の世代では73%が労働党を支持、逆に65歳以上の高齢者では保守党支持が64%となった。

大手メディアの多くは保守党支持に回った。しかしデイリー・ミラー紙と高級紙ガーディアン、インディペンデントは労働党支持を打ち出した。

9.投票の結果をどう読むか

保守党が議席数を330から318に減らした。過半数(326)に8議席およばず、選挙前情勢を考えれば完敗といって良い。最大野党の労働党は261議席に躍進した。

EU離脱を主導したイギリス独立党は0議席に終わり、ナットル党首は辞任を表明。ツイッターとフェイスブックのアカウントを削除した

イギリスは小選挙区制のため、議席数だけでなく得票率も見ないと評価することは出来ない。保守党の得票率は42%、労働党は40%で、その差はわずかに2%である。選挙期間があと1週間長ければ労働党が逆転していた可能性が高い。

メディアの予想は大きく外れた。選挙結果は世論調査にかなり接近したものとなった。つまりメディアは青年の投票率を低く見すぎていたことになる。また地方選結果との乖離は青年層の政治関心の差を示す。

つまり、イギリスの青年たちは既存の労働党とは異なる魅力をコービンに感じただけでなく、コービンが何か変えてくれると感じ、具体的な行動に出たのである。ここがこの度の選挙の最大の特徴だ。
10.これからの政治の動きを予測する

かくして議会はハング・パーラメント(宙ぶらりんの議会)となった。

メイ首相は、「現段階で、この国は安定の時期を必要としている」と強調した。そして引き続き政権運営を担う意向を示した。ただし北アイルランドの保守政党、民主統一党(DUP)の連携協議が前提である。それが不調に終われば再選挙の可能性も否定できない。

ジェレミー・コービンは、「国民はもはや緊縮に背を向けた。そして未来への希望に投票した」と述べ、メイ首相の辞任を求めた。

追記

注目されるのが、「赤旗」特派員のレポート。伝えるところでは、サンダース躍進を担ったアメリカの青年が、大挙してイギリスにわたり、戸別訪問や電話かけなどを指導したと言われる。

体験上、若者の組織と確実な票の積み上げには組織された若者の力が不可欠だと思う。そうでないと線香花火のようにぷつんと途切れてしまう。

ここに的を絞ったフォロー記事があるとありがたいのだが…

この青年哲学者の「失方向」には暗澹とさせられる。
結局、これはポストモダンの共通の特質なのだろうか。「方向感覚」が失われているのだ。
「方向感覚」というのは時間軸を組み込んだ位置感覚、すなわちベクトル感覚だ。だからそれは「時間間隔」、より長い目で言えば「歴史感覚」に裏打ちされている。(2017年02月09日  2016年05月24日 2014年11月17日 を参照されたい)
戦後の時代には進歩と社会主義を目指す共通のベクトルがあった。それがスターリンの専制により無残にも打ち砕かれた。青年たちはそれに幻滅しつつも、ヒューマニズム・人間的自由という言葉を手がかりに、新たな社会を目指しさまざまに模索した。そこには共有する歴史感覚とともに明確なベクトルが存在した。
しかしスターリンなきスターリニスト体制は、その後も害毒を流し続けた。その結果、ついには進歩的オルタナティブをもとめる動きまでもが、スターリニスト亜流として攻撃されるようになった。その先頭に立ったのが未来社会論であり、構造主義であり、変化球としてのハンナ・アーレントである。
口角泡を飛ばす議論ではなく、「ダサい」というより隠微な攻撃が主流となり、ポストモダンの空虚なきらびやかさと、商業主義が青年を幻惑した。しかしそれも間もなく枯渇し飽きられた。(ポストモダンと言ってもお好み焼きのメニューではない。昔から「近代の超克」などと通底する。最近流行りのポスト・トゥルースとも響き合う)
そこに何が登場したか、ハンナ・アーレントを借り、マルクスとハイエクをミキサーに掛けて、結局は体制に寄り添う貧弱なセコハン文化である。ピラミッドの前のラクダのレンタル業者みたいなものだ。
ラクダの背中に敷くカーペットの柄が今様かどうかが彼らの最大の興味だ。
「書を捨てよ、街に出よう」という呼びかけが必要なのかもしれない。だが「書を捨てた若者」が漂流する「街」にそれがあるかどうかは保証できない。「街に出よう」ではなく、愚直ながら「生産点・生活点、ひっくるめて現場におもむけ」という呼びかけが必要なのかもしれない。
「方向感」はそこにあるだろう。だが、とりあえずは「赤旗を読め」だ。

前の記事で、「風の新兵衛」のことを書いたのは、私の視点を整理しておきたかったためである。

何故そんな気になったかというと、東京に行く飛行機のなかでふと、カバンの中に、この間買ったブックレットが入っているのに気づいたからである。

「遊」ブックレット第10号、「現代日本の公共性と全体主義を考える・・・・ハンナ・アレントから」というワンコイン・ブックレットである。

著者は古賀徹さんという人。題名の「拡散ぶり」にうんざりしつつも、「まぁ、あのハンナ・アレントだから読まなきゃならないな」と思い読み始めた。

著書と言っても素人相手の講義の速記録だから、さほど読みにくいわけではない。しかし話題の拡散ぶりは予想通りである。

ハンナ・アレントについては、以前私なりに一応の決着はつけている。ただそれが自由学校「遊」の演題として登場するとなると、立場を再確認しておかなくてはならないと思う。

前にも書いたのだが、ハンナ・アレントの考察の内容と、彼女の政治的立場はある程度分けて考えておかなければならない。

2013年12月22日 2013年12月22日 2013年12月23日 2013年12月24日 2013年12月24日 2013年12月25日 2015年03月28日 

1.ハンナ・アレントの基本的立場…孤高のアリストクラシー

多くの「ハンナ・アレントもの」の紹介本では、意識的にぼかされているが、彼女の政治的立場は何よりも反ボルシェビズムである。

それはスターリン時代の末期に書き起こされ、スターリン批判の時代を通じて書き継がれた。

それは「善意」に包まれた組織が何故に「悪の組織」へと変貌していくかを考察し、その底に「民主主義」→「衆愚主義」という社会の組織形態を探る。

「衆愚」政治がおろかで狂信的な官僚制を熱心に支えることによって、民主主義の反対物へと転化していく、というお定まりの黒神話である。

おそらく彼女はナチの政権獲得を念頭に置いているのであろうが、そのような「瓢箪から駒」みたいな全体主義ではなく、ナチズムのもっと意図的で組織的な形態として、完成形としてボルシェビズムを描き出すことになる。

これだけでは反共・反民主のウルトラ右翼思想になってしまうので、民主主義という思想のパラダイム変換へと進んでいく。

それから先はとりあえず保留しておくことにするが、とにかく彼女がリベラルな思想の持ち主でないことは確かであり、リベラル派が学ぶべき対象でもない。

どうしてこのような思想が、リベラル派の議論の中に何度も何度も持ち込まれてくるのか、不思議でならない。

2.演者はのっけから挑発する

私がこの講演を聞いていたら、憤然として席を立ったかもしれない。

少し紹介しておく。

「足元から作り出す民主主義」という講座全体のテーマは、ちょっと古風というか、札幌らしいと思います。

札幌は、私が住んでいた20年くらい前ですら、本州の思想状況から15年くらい遅れていると言われていて、そもそも思想的に古風な土地柄でした。

2014年の今日ですら、このテーマから、戦後民主主義の息吹のようなものを依然として感じてしまうわけです。

たしかに講義風景の写真を見ると、受講者はジジイばかりだ。ジジイがジジイと呼ばれても腹は立たないが、このように上から目線でせせら笑われると、猛然とアドレナリンが吹き出してくる。

立場の違いだろうが、我々からすれば、ハンナ・アレントの本質は民主主義と民主主義のために闘う人々への「あざけり」にあるということが、これほどまでに鮮やかに示されたシーンは、滅多にないのではないだろうかと思う。

しかもそう嘲っている本人が、嘲っているという意識なしというのも、いかにもの話だ。
実は我々は学生時代に「戦後民主主義は虚妄だ」と主張する全共闘諸君と論争したことがあり、ずいぶん勉強したものだ。ひたすら「戦後」から「戦前」へと後ずさりしている人から「遅れている」と言われる筋合いはない。

3.あまりに粗雑な「哲学者」

本題は次のようにして始まる。

民主主義の反対は何かというと、さしあたり全体主義だと思います。戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた。アレントによればこういう図式は成立しない。

書いてみれば分かるように、「戦後民主主義は民主主義=善、全体主義=悪としてきた」というセンテンスがまったく余分なのだ。

非常に印象操作的な言い方で、アレントが民主主義vs全体主義という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるし、民主主義=善、全体主義=悪という図式が成立しないと言っているようにも聞こえるのだ。

しかも「民主主義vs全体主義」という図式は、演者が勝手に仮設しただけのものだ。

つまり演者は肝心なことは一言も喋らずに、戦後民主主義という民主主義を勝手に持ちこんで、それをアレントを口実に俎上に載せたことになる。

ここまでのこの人の心情は、戦後民主主義へのあざけりで一貫しており、まともに批判しようとする気配も、まして評価しようという気配もまったく感じられない。

4.民主主義の反対は、普通は「全体主義」とは言わない

我々が民主主義について学ぶ場合、「民主主義」というのは人類社会の進歩の中で登場した歴史的枠組みだ。

階級社会が誕生して以来、すべての社会は基本的には非民主的だった。皇帝をいただく大国も、諸侯の乱立する戦国社会も、非民主的である点においては共通していた。

ロックの思想的展開、フランス大革命などを通じて、「自由・平等・博愛」の精神が社会の全構成員に承認され、初めて民主国家が成立した。

こうして階級は依然として存在するが、法の下の平等と個人の自由が尊重されるという特殊な、過渡期的性格を帯びた資本主義社会というものが出来上がり、今我々はそういう社会のもとに暮らしていることになる。

これが教科書的な民主主義の内容だ。

したがって、この社会は生まれたばかりの民主主義をめぐり、絶えまない緊張を孕みながら推移している。歴史的概念としての「全体主義」は非民主社会へ引き戻そうと絶えず生まれる逆流の一形態だ。
これが大掴みな民主主義の把握である。

これに対し、「全体主義」の概念は今のところ流動的であり、多分に恣意的に用いられる。社会科学の対象とするには漠然としているのではないだろうか。
我々が「全体主義」と言われてまず思い浮かぶのはファシズム独裁だ。しかしその他にも非民主的な社会形態は様々にある。スターリンの恐怖・専制社会(アレントはこれも全体主義という)、サウジアラビアのような時代錯誤的な専制、北朝鮮のような支配者の神格化その他もろもろだ。

これらを当然の前提とする「老いぼれ聴衆」たちに対して、「さしあたり全体主義」とする演者の軽さが苦々しい。「とりあえずビール」とは次元が違うのである。

5.だったら言うなよ!

演者の「軽さ」は度を越している。

民主主義の反対はさしあたり全体主義だと言っておきながら、すぐその後に「この図式は必ずしも成立しない」と平気で喋る。

だったら言うなよ!
我々のだれも、「民主主義の反対はさしあたり全体主義だ」とは思っていないんだから。
6.もっと民主主義の中身を語れ

演者が想定する民主主義は、たんなる「手続き民主主義」にすぎない。そもそも民主主義というのは「形式」において語るようなものではない。
民主主義とは第一に、自由・平等・博愛を旨とし、人権の無差別性を主張する思想である。第二に、それは人類がついに社会の盲目性を脱却しそれをコントロールするために獲得したツールである。日本人は第二次大戦後の悲惨な状況の中でそれを知り、熱狂的に歓迎した。絶対主義天皇制と軍部の愚劣さを骨身に感じた日本人の目に、民主主義の理想はまばゆいほどに輝いていたのである。
7.「一億総懺悔」への後ずさり

このあと恐ろしくなるほどの戦後民主主義への悪口雑言が並べ立てられる。
もはやコメントする気もしないので、大意の引用だけしておく。
(過ぐる大戦は)独裁者が人々に無理やり強制したという全体主義理解がいまだに信じられています。抵抗する人たちを投獄し、一般の人達を徴兵して悲劇が生じたという戦後民主主義の図式です。
しかしこれは一般大衆を戦犯から除外して免罪する政治的意図によって築かれたものです。その上に戦後民主主義が乗っかった。だから戦後民主主義は徹底的に自己検証することがなかった。
ということで、「一般大衆=戦犯」論とも言うべきトンデモ論が展開される。
思うに、いまの人達は戦後史をまともに勉強していないようだ。
戦後いち早く、政府は一億総懺悔論を出して保身(とくに天皇の)を図った。「みんな悪かったんだ、誰が悪いというわけではなかったんだ」という理屈で居座りを図った。それに対してGHQが真っ向から攻撃して、戦犯を公職から追放した。これに力づけられて、国民の間からも真相究明、戦争責任追及の声が上がった。これが「戦後民主化」である。
しかし冷戦が始まってロイヤル陸軍長官が反共声明を出すと、その声はしぼんでいった。三鷹・松川などの謀略事件が相次ぎ、レッドパージが断行され、共産党が非合法化され、いっぽうで戦犯が次々と復活する。こうして戦後民主化は挫折したかに見えた。
しかしその後の逆コースを日本の国民はある程度は阻止した。そして曲がりなりにも平和国家日本を作り上げてきたのである。これがもう一つの「戦後民主主義」である。我々にとっての戦後民主主義はストックホルム・アピールであり、原水爆禁止であり、砂川であり、勤評であり、安保であった。
最低でもこの2つは分けて論じてほしい。そしてそれらは「虚妄」ではなく歴史的「事実」であったことを認めてほしい。そしてそれは「国民総懺悔イニシアチブ」の拒否から始まったということを認識してほしいのだ。
8.解同思想への横滑り
演者は、さらに「一般民衆も戦犯」論を進めて「排除」の論理を持ち出す。「体制の敵」作りこそが全体主義の本質だというのだ。
演者はそれをクラスのいじめやハンセン病患者の隔離へと結びつけている。それらはいずれも大事な問題ではあるが、ファシズムの階級的本質や独占資本との関係はそこでは捨象されてしまう。
「差別」こそが支配の本質であるとし、人々の「差別意識」をえぐり出すことで物言えぬ雰囲気を作り出し、それによってなにがしかの利権にありつこうとする解同集団の論理に接近する。
ただし、この辺になると論旨がふらついてきて、一体何をいいたいのかわからなくなってくる。

まだまだ「戦後民主主義」への漫罵は続くが、辛抱して読んで下さい。最後の質疑応答が面白い。

ジジイどもが慎み深く逆襲している。「遅れているのはあなたじゃないんですか?」と


滝沢修の「風の新兵衛」

あまり見たことのない「大河ドラマ」だが、奇妙に滝沢修の次のようなセリフだけは憶えている。

「風の新兵衛」は町人でありながら討幕運動に関わっている人物なのだが、「なぜか」と問われる。

いまの世の中をまっとうなものにしたいからでございます。そういう運動がいま目の前にある、それを見過ごすことは出来ません。

もちろんそれがお武家の運動であることは承知しているし、もしその運動が成功しても、また別のお武家さまの世になるやも知れぬ、それも承知しております。

その時は、もう一度考えを改めて、今度は町人も分け隔てなく暮らせるように運動するまでです。なんにもしないのでは、なんにもなりません。

何かをすれば、たとえお武家の運動であっても、その中に次の世の芽が育つのではありませんか。それがいつかは花開く、それを信じたいのです。

もちろん、セリフそのままではない。うろ覚えの記憶を元に私が創作したものである。

変なもので、こんなテレビドラマのただのセリフだが、私にとってはマルクスやレーニンの言葉よりも大事な信条になっている。
ところが、このセリフがいつ頃のなんという大河ドラマのものだったかが思い出せない。

例によってネットで調べてみた。以下のようなことがわかった。

この番組は「三姉妹」という67年に放映された大河ドラマだ。このドラマは視聴率から見れば、ほとんど失敗作と言って良い結果だったらしい。フェミニスト路線の走りだったのだろう。私は、こういう歴史改ざん的フィクションをあまり好まない。
三姉妹が岡田茉莉子、藤村志保、栗原小巻という顔合わせ。前二者については、控えめに言ってテレビ向きの人ではなかった。当時は「コマキスト」という言葉が流行ったくらいの人気だったが、私は「サユリスト」だった(もっと言えば芦川いづみだった)。
出演陣を見ると民芸と俳優座ばかり、左翼総出演だ。民芸でさえ右翼に見えた。


それにしても、67年だったのかと感慨を抱く。下宿の部屋にはテレビはなかったから、おそらく晩飯を食いに入った食堂で見たのだろう。セツルメントに誘われて、いつの間にかいっぱしの活動家になって入党し、民青の北大全学委員になって運動野の真っ只中にいた。
すねかじりでありながら、親の思いとは真っ向から反対の方向に突き進んでいくのだから、世間並みの言葉(論理)を欲していたのかもしれない。
asikawa

裕次郎映画の時はどうということなかったけど、この映画一発で参りました

そこに大河ドラマのセリフがはまり、芦川いづみの凛とした美しさがハマったのではないか、そうも思えてくる。

昨日から1泊2日で東京まで行ってきました。
一度に書ききれないほどたくさんの経験をしてきました。
とりあえず、忘れないように書き込みだけしておきます。
1.三鷹まで行って滝平次郎の展覧会を見てきました。大枚はたいてプログラムも買ってきました。いろいろ感想はあるが、いずれ作品も紹介しながら感想を書いてみたいと思います。
2.帰りに駅前通りの喫茶店によってきました。昭和53年に何回か入ったところで、まだやっていることに感心しました。女子医大研修のときに何回か、三鷹中央病院の外来をやりに行ったことがあります。三鷹の駅からバスに乗って4つ目か5つ目かの駅だったかな。それで仕事の帰りに寄りました。一度、隣のテーブルに手塚治虫が座って、編集者と話し込んでいるのに耳をそばだてた思い出があります。
3.夕方からは日本AALAの主催の勉強会が中野サンプラザであって、それに出ました。第一演題が横浜国立大の先生の「ラテンアメリカの政治状況」みたいな話でした。いろいろ言い分もありましたが、おとなしく聞いていました。これも後で紹介します。
4.第2演題が、今回の旅行の主目的だったベネズエラ大使の講演です。時間がないせいもあって米州機構(OAS)からの脱退の問題に集中して話しされました。大使の深刻感は大変なものがあって、60年代のキューバのように明日にでもアメリカが戦争を仕掛けてくるのでは、という感じで話されていました。これについても2,3日のうちに文章を上げたいと思っています。
5.講演の最中に見覚えのある人が入ってきました。いろいろ考えているうちにニカラグアの大使だと気づきました。これにはちょっと感激しました。そしてベネズエラ問題はラテンアメリカ全体の問題なのだとあらためて気付かされました。もちろん講演の後は大使と交歓を深めました。聞くところによると、あのドゥルセ・マリアはニカラグア大使館の館員になっているようです。ちゃんと給料もらっているかな?
6.会議の後、吉田万三さんたちと繰り出しました。中野の街は大変賑やかでなかなか開いている店がなかったのですが、なんとか腰を落ち着かせることが出来て、総勢6人でワイワイと語り合いました。私はベネズエラに運動を集中させるよう力説しましたが、どう反応してくれるのかな。7月末の総会が楽しみです。
7.結構飲んだと見えて、次の日起きたらもう8時でした。中野サンプラザの上がホテルになっていて割りと感じのよいところでした。16階から19階までがホテルになっているのですが、18階のみが喫煙可になっています。
外から見ても分かるように、中野サンプラザは上のほうが、多分日照権の関係で細くなっています。その分、見晴らしはよい。快適な環境でした。そちら方面に仕事の方にはおすすめです。朝飯はかなり貧弱なので素泊まりのほうが良いかもしれません。
8.朝は阿佐ヶ谷まで行って、多喜二宅のあった馬橋の探索です。北口で降りて線路際の細い道を行くと、予想通りに「The踏切」に出ました。といっても今は高架ですからその下をくぐるのですが。そこから道は車もすれ違えないほどに細く、緩やかにうねりながらどこまでも続いてゆきます。
東京とは思えないほどに静かで、どこかで大工仕事をやっている音が響くくらいです。横に入る道はさらに車も通れないほどに狭く、そのほとんどが行き止まりです。たまにお屋敷もありますが、ほとんどは庭もないような小家が立ち並んでいます。多喜二が住むにはふさわしい環境と言えなくもありません。
大きな稲荷神社があって、その先に杉並第6小学校があって、そこから道は東へと向かっていきます。結局多喜二の家はわかりませんでしたが、街の雰囲気はわかりました。古地図にあった馬橋の風情が未だ残っているということもわかりました。
時計はすでに11時をまわり、6月の直射日光は流石に体にきつい。そこから阿佐ヶ谷駅まで戻りましたが、駅前商店街にたどり着いた頃には体中から汗が吹き出してきました。
9.最後の目的地、高円寺の古書店です。2年前に来て憶えていたと思ったが迷いました。20分ほど道草をしてようやく見つけました。
買った本の題名だけ、とりあえず。
「1億人の昭和史10―不許可写真史」 毎日新聞 1977年
「騎馬民族の道はるか」森浩一 NHK出版 1994年
「古代史  津々浦々」 森浩一 小学館 1993年
10.帰りは結構危うかった。高円寺を出たのが12時半。中野で快速に乗り換えて神田で乗り換えて、あとは浜松町まで快速、と思ったら京浜東北が「信号確認のため」と称してストップ。どうなるかと思ったが、浜松町でモノレールの快速に滑り込みセーフ。
出発1時間前に羽田についた。お陰で靴磨きまで出来た。とは言うものの、崎陽軒のシュウマイは品切れで買い損ね、お土産無しで帰る羽目となった。
11.羽田からの飛行機は乗客確認で20分の遅れ、千歳からの快速は15分待ち、ということで札幌駅に着いたのが18時ちょっと前。ということは飲み屋はもう開いている。それじゃ、というわけで帰宅前にいっぱい引っ掛けてということになる。フクラギのキモとヒモと刺し身をサカナに八海山を、結局三杯も飲んでしまって、我が家についたのが8時半という1日であった。
体のあちこちが近藤選手並みに痛い。明日は起きれるだろうか。

1866年
6月はじめの両軍の布陣
幕府は第一次の時と同じく15万の兵を招集した。それに対し、長州の兵力は4500。
石州では、長州1千人に対して幕府3万。芸州(小瀬川口)では、長州2千人に対し幕府5万。大島でも長州500人ほどに対して幕府は2千人。小倉では、長州1千人に対し幕府2万人だった。(佐賀藩は開戦前より出兵を拒否)
6月5日 幕府軍が長州軍に対し宣戦布告。
6月7日 幕府の軍艦「富士山丸」の周防大島への砲撃が始まる。
6月8日 松山藩兵と幕府軍陸兵部隊が大島に上陸。長州軍は大島をいったん放棄。
6月12日 下関の高杉は、丙寅(へいいん)丸に乗り込み、大島に夜襲をかける。
6月13日 幕府軍の先鋒となる彦根藩部隊が国境に到達。本来先鋒を務めるべき広島藩はこれを辞退していた。

芸州口

山口県ホームページより

広島から来た山陽道は、小方で二つのルートに分かれます。苦の坂口(中津原口)と大竹口です。一つは旧山陽道で、苦の坂を越えて木野村の中津原から小瀬村へ船で渡り関戸を越えて山中を行く道です。もう一つは海岸ルートで、油見・大竹を経て小瀬川下流を渡り和木村から新港を通って岩国に到るものです。征長軍は、大竹口を追手(大手)と定め、彦根井伊家の軍勢を配置。苦の坂口を搦め手とし、越後高田榊原家の軍勢が配置された。

6月14日 芸州口から侵入した彦根藩部隊が小瀬川で長州軍狙撃隊の待ち伏せ攻撃を受け潰走。後続の与板藩兵も撤退する。

6月14日 苦の坂を進んだ高田藩1千の部隊が長州軍の奇襲を受け撤退。そのまま戦線を離脱。
6月15日 第二奇兵隊・浩武隊が大島に上陸奪回s苦戦を開始。
6月16日 長州軍、反攻作戦の開始を決定。
6月16日 長州藩の軍艦が対岸に夜襲をかける。高杉の丙寅丸が田野浦、乙丑(いっちゅう)丸が門司浦を攻撃。乙丑丸には坂本龍馬も乗り込んでいた。
6月16日 石州部隊は盟約に基づき津和野藩を無害通過、一気に浜田藩に入る。
6月17日 高杉軍、門司に渡海攻撃。砲台を破壊して引き揚げる。
6月17日 大島の幕府軍は撤退。長州軍の第二奇兵隊が大島を奪回。
6月18日 益田の銃撃戦。福山藩兵が抵抗するが、圧倒的な火力差の前に敗退。
6月19日 芸州口では彦根藩に代わり前線に出た紀州軍と長州軍との激戦となる。
6月22日 芸州口の長州軍が大野に向け進軍開始。その後決着がつかないまま、にらみ合い状態にはいる。広島藩は長州藩と休戦協定を結び、中立の立場をとる。

7月3日 長州軍、門司に上陸した後、大里(だいり)の小倉藩基地を襲撃。他藩は攻撃に対応せず、小倉藩は孤立。長州軍は大里制圧に成功するが、かなりの犠牲を出したため、ふたたび撤退。
7月15日 益田から浜田に向かう長州軍を紀州藩が迎え撃つ。銃撃戦の末、装備に劣る紀州藩部隊は壊滅。
7月17日 鳥取藩、松江藩が浜田から兵を撤退させる。
7月18日 浜田藩主は城に火を放って松江へと逃亡。

7月20日 徳川家茂が大阪城内で死去。一橋慶喜が将軍職を預かる。慶喜は自ら出陣して巻き返すと宣言。
7月27日 石州部隊を加えた長州軍は、本格的な上陸作戦を開始。800名の兵が大里に結集。その後海側部隊と山側部隊に分かれ小倉を目指す。
7月27日 小倉平野への最後の関門の赤坂口で肥後藩兵と衝突。長州軍は4波にわたる攻撃がことごとく失敗。大きな被害を蒙る。海からの艦砲射撃もあり、長州軍はいったん大里まで下がる。
7月28日 熊本軍、小笠原総督と衝突し、兵を引き揚げる。これを知った久留米藩や柳河藩も一斉に撤兵・帰国。

7月29日 家茂死去の報を受けた小笠原総督は戦線を離脱。富士山丸に乗り大阪に引き揚げる。
8月1日 小倉藩は小倉城に火を放ち、南東部の山岳地帯香春(かわら)に退却。その後半年にわたりゲリラ戦を続ける。
8月4日 小倉城陥落の報を受けた慶喜は休戦に動く。

8月21日 家茂の病死を理由に休戦の勅命が下る。長州戦争の終結。
9月2日 慶喜の意を受けた勝海舟が宮島で長州と会談。停戦合意が成立する。小倉藩との戦闘は翌年はじめまで続く。

第一次長州征討作戦が総督の優柔不断によって流産に終わった後、1965年~66年の間はじれったいような日々が続く。江戸表がどう動いたか、慶喜・容保ラインがどう動いたか、朝廷がどう動いたか、薩摩がどう動いたか、個々の動きは事細かくわかっているが、全体の流れが見えないのである。
百人の歴史家や評論家が百の意見を持ち出すから、知れば知るほど混迷に陥るのである。
とにかく慶喜という蝶がひらひら舞うので、目障りだ。
この部分は第二次長州討伐をめぐる動き以外はすべて捨象して眺めることにする。そのことで権力抗争の骨組みが見えてくる。

1965年(慶応元年)
2月7日 薩摩藩、公武合体論から朝廷のもとでの雄藩連合政権論に転換。大久保、小松が上京し、朝廷側近と相次いで会談。長州藩降伏条件のうち、藩主父子及び五卿の江戸拘引を猶予することを提案。
3月2日 朝廷より幕府に薩摩提案に沿った「お沙汰書」が渡る。
3月16日 諸隊が藩軍として承認される。
3月22日 幕府大目付が大阪に入り、諸藩に毛利父子の江戸勾引をもとめる。広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩は協力を断わる。
4月1日 江戸幕府、藩主父子の江戸拘引が行われない場合は将軍が進発すると諸藩へ伝達。尾張藩前藩主の徳川茂徳を先手総督、紀州藩を副総督に任命。
5月13日 桂小五郎が長州に戻り、国政顧問となる。村田蔵六が中心となり近代方式軍隊の編成を開始。
諸隊を整理統合し10隊(奇兵隊・第二奇兵隊・遊撃隊・御楯隊など)編成とする。総督-軍監-小隊長-兵士の位階制度に統一。藩の主力部隊とする。
閏5月16日 将軍家茂は江戸を出発し25日には大阪城に入る。大阪より藩主の来阪を命じるが、長州藩は病気を理由に謝絶。
閏5月16日 将軍家茂は京に入り、長州征討の趣旨を奏上。朝廷は即時進攻を裁可せず。
8月 坂本龍馬の斡旋により、井上・伊藤が長崎でグラバーと面会。薩摩藩の名義でミニエー銃4,300挺、ゲーベル銃3,000挺を購入。
8月18日 大阪の家茂将軍がふたたび長州に督促、本人が病気なら嫡子も可と条件を下げるが、長州はこれも拒否。
9月21日 家茂が京に入り、朝議にて再征勅許を得る。
11月20日 国泰寺で長州藩の使節と幕府側の会談。
12月7日 幕府、31藩に長州征伐の出兵を命じる。

1866年(慶応2年)
1月21日 薩長同盟が結ばれる。薩摩藩代人の坂本竜馬と、長州藩代人の中岡慎太郎(共に土佐藩脱藩)が仲立ちする。
2月7日 幕府老中の小笠原長行が広島に到着。召喚命令を発する。長州藩はこれを拒絶。
3月26日 幕府、改めて長州藩主父子・重臣に広島に出頭するよう命令。
4月14日 大久保利通、薩摩藩は第二次長州討伐への出兵を拒否すると表明。幕府軍の攻め口の一つである萩口は担当藩であった薩摩の撤退により消滅する

なかなか脱がないストリップ嬢の趣である。「太閤は10斗の米を買いかねて、今日も五斗買い(御渡海)明日も五斗買い」という戯れ歌も思い起こさせる。
最後は仕方なくて始めた戦争という感じだ。国泰寺の会議を傍聴した近藤勇も「これじゃ、やったって勝ち目はない。何処かで手打ちするしかないんじゃない?」と報告しているらしい。
幕府はそこまで追い込まれていたのである。

「トランプ減税」という赤旗記事が要領よく内容をまとめてくれている。

合田寛さんの談話によるもので、見出しは「財政基盤の掘り崩し」となっている。

まずは中身の紹介。読み込んでいくと、

1.巨大多国籍企業への優遇

2.富裕層への優遇

3.法人税概念の放棄

の3つに分かれるようだ。

1.巨大多国籍企業への優遇

まず、巨大多国籍企業への優遇としては、

A) タックスホリデー構想

タックスヘブンには現在2兆ドルが溜め込まれていると言われる。これを国内に還流させるために、1回限りの低率課税を行うというもの。

税金泥棒に恩赦を与えて、返さなくてもいいよという仕掛けだ。

法の意味は根本的に失われる。

合田さんは、

資金は還流しても、それは自己株の買い取りに向かい、国内投資には向かわない。したがって経済効果はない。

としている。

B) 国外所得免除方式

現在は「全世界所得課税」と言って、会社の全利益に対する課税方式になっているが、この内、海外子会社からの配当には課税しないようにするというもの。

ちょっとややこしいが、海外の子会社の利益をそのまま送金すれば税金を取られるが、タックスヘブンのダミーに送金して、親会社はダミーからの配当を受ける、と言うかたちにすれば税金はかからないということだ。

企業がどうするか、猿でもわかる。これは「国外所得への課税免除」そのものだ。

その結果どうなるか、ますますタックスヘブンに所得を留保することになる。

2.富裕層への優遇

大企業の利益は最終的には個人=富裕層に還元される。直接税中心主義の思想からすれば、そこからしっかり取ればいいという理屈も成り立つ。

しかしトランプ減税はここにもしっかり手を打っている。

A) 個人所得税

個人所得税の税率は、最高税率39%を35%に引き下げる。税率7段階を3段階に「簡素化」するというもの。

「代替ミニマム税」の廃止についても書かれているが、内容がわからないので省略。

B) 遺産税の廃止

日本でいう相続税だ。

これは大きい。直接税思想の根幹に触れるものだ。世襲制が公認され、社会が固定化される。これは社会の自殺行為だ。

アメリカの遺産税の税率は最高で40%、これでも低すぎると思うが…。

3.法人税概念の放棄

トランプは法人税を現在の35%から15%に引き下げると言っている。半分以下だ。これは引き下げというより、そもそも法人税という概念の放棄を意味する。

率直に言って、これは国際問題だ。世界各国が法人税の引き下げ競争をやっている。行き着く先は全世界のタックスヘブン化だ。

もちろん各国は法人税減税以外にも各種の優遇策により企業の税率を抑えている。

トヨタの社長が告白したように、5年間1文の税金も払わないで済ましている会社もある。

それはそれで大問題だが、法人税減税という正面からの攻撃は、税制の根幹に関わってくる大問題だ。

いったい、国家の財政基盤はそれで成り立つのか、国家というものを「夜警国家」に変質させるのか、という根本的な疑問がある。


テレビを見ていたら、「なんとか先生の熱烈討論」とかいうアメリカの討論番組をやっていて、トランプ支持派の人が一生懸命に「アメリカ・ファースト」論を擁護する論陣を張っていた。

司会者のなんとか先生は、かなり意図的にトランプ支持派の意見を引き出し、「アメリカ・ファーストで何が悪い?」みたいな雰囲気を作り出そうとしていた。

不愉快で途中でやめてしまったが、「アメリカ・ファースト」論の擁護者は一つも間違っていないのである。だからそこを論点にしてもしょうがないのだ。

問題は、①アメリカ・ファーストが、アメリカン・ピープル・ファーストにはなっていないことだ。②それはアメリカン・エンタープライズ・ファーストであり、③いますでに世界はアメリカン・エンタープライズ・ファーストであり、そのためにアメリカン・ピープルが苦しめられていることだ。

そしてトランプがやろうとしていることは、アメリカン・ピープルの犠牲の上にアメリカン・エンタープライズ・ファーストの世界をさらに広げようとしていることだ。

ということを、事実を持って具体的に明らかにしていくことだ。おそらくアメリカ・ファーストを支持している人たちは、「99%の人たち」であり、本来我々のもっとも心強い味方の人たちのはずだ。

彼らは反ヒラリーであり、反富裕層であった。本来はバーニー・サンダースと心を通わせ合うべき人たちであった。

問題はむしろ、彼らを見る我々の目線の問題にあるのかもしれない。我々はバーニーが彼らを見るように、彼らを見なければならないのだろうと思う。


1863年

京都では、尊王攘夷運動がピークを迎える。各地で農民一揆や都市騒擾が多発。幕藩意識が急速に解体。

5月10日 「攘夷決行の日」を機に、長州藩が馬関海峡を封鎖。アメリカ商船を砲撃する。


7月8日 薩英戦争。生麦事件の補償をもとめる英艦隊が鹿児島を攻撃。薩摩は甚大な被害を出しつつも撃退に成功。力の差を痛感した薩摩は、その後イギリスと修好を結び技術導入を進める。

8月18日(新暦では9月30日) 「八月十八日の政変」が起こる。孝明天皇の意を受けた会津藩と薩摩藩が長州藩及び三条実美ら尊攘派公家(五卿)を京都から追放する。

1864年(元治元年)

6月 池田屋事件。攘夷派志士多数が殺害捕縛される。
7月19日(新暦では8月20日) 蛤御門の変(禁門の変)。会津藩・薩摩藩との衝突で約3万戸が焼失。(この蜂起に対して、桂小五郎、周布政之助、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重論を唱えたと言われる)

7月23日 朝廷、幕府へ対して長州藩主、毛利敬親への追討の勅命を発す。
7月 幕府は尾張藩・越前藩および西国諸藩よりなる征長軍(35藩、総勢15万人)を編成する。征長総督は尾張藩、副総督は越前藩が務める。

7月27日 三田尻(現防府)で毛利藩幹部会議。藩主父子、三支藩藩主、老臣が善後策を協議する。岩国藩の吉川経幹に対外交渉を集中させる。

8月5日 イギリスを中心とする連合国艦隊17隻が下関の砲台を破壊。この後長州藩は武力での攘夷を放棄。海外技術を積極的に導入し軍を近代化する。

8月13日 幕府の戦略が決定。五道(芸州口、石州口、大島口、小倉口、萩口)より藩主父子のいる山口を目指すこととなる。

9月06日 吉川経幹が山口に入る。奇兵隊ら正義派は幕府への武備恭順を迫る。これに対し萩側(俗論派)は謝罪恭順を主張。

9月25日 山口で君前会議。藩主敬親は武備恭順を国是とすると言明。

9月25日 会議終了後に俗論派が君主派要人を襲撃。藩論をひっくり返す。

井上馨(聞多)は襲撃により重傷。その後の弾圧により周布は自殺、清水親知(清太郎)も蟄居となる。俗論派は藩主を取り込む。

9月30日 薩摩藩の密使が岩国に入り、岩国藩(支藩)と交渉開始。

10月15日 奇兵隊を含む諸隊(750人)が山口より長府に移動。五卿を奉じて立てこもる。(五卿は長府の功山寺に逗留していた)

10月21日 薩摩藩(密使)は長州藩の所領安堵のために尽力すると書状で意思表明。独自の降伏条件を示す。

10月22日 大阪城に各軍指導部が集結し軍議を開催。広島の国泰寺に総督府、豊前の小倉城に副総督府を置く。18日に五道より攻撃を開始することとなる。

10月24日 薩摩藩の軍代表、西郷隆盛が総督の尾張藩主徳川慶勝と会談。薩摩藩の和平案を提示する。慶勝はこの提案を受け入れ、西郷を全軍の参謀格に据える。(これにより幕府の戦争突入戦略は事実上反故にされた)

10月24日 高杉晋作が萩より脱走。福岡に潜伏。

11月04日 征長総督の命を受けた西郷が岩国に入る。岩国藩主の吉川経幹と会談。三家老切腹、四参謀斬首、五卿の追放で合意。直ちに執行される。

11月16日 岩国藩主が三家老の首を持参し国泰寺に出頭。事情を知らない幕府大目付は強硬な立場で臨んだが、西郷のとりなしで妥協に応じたとされる。(この辺はかなり眉唾)

11月18日 国泰寺の総督府、山口城破却と五卿追放で矛を収める。小倉の副総督府(越前藩)はこの妥協に不満を表明。

11月23日 西郷、国泰寺から小倉に赴き副総督府を説得。

11月25日 高杉が長府に潜入。諸隊に危機感を煽り挙兵を説く。

12月1日 薩摩藩の密使が五卿と面接。九州の五藩による身柄預かりを提示。五卿側は奇兵隊などとともに戦う姿勢を見せ抵抗。

12月08日 奇兵隊総督の赤禰武人、萩派の説得を受け恭順策を提起。軍監の山縣有朋はこれを拒否。

12月11日 西郷、小倉より長府に赴き諸隊(奇兵隊、遊撃隊、御楯隊など)の慰撫を図る。奇兵隊はこれに応じるが、高杉晋作は反対した。

12月15日 高杉が長府で挙兵。元治の内乱が始まる。力士隊(総督は伊藤俊輔)、遊撃隊(総督は石川小五郎)がこれに従う。間もなく奇兵隊も合流。赤禰は隊を離脱する。

12月27日 征長軍の徳川慶勝総督は解兵令を発する。幕府は不満を表明したが、解兵後のためそれ以上の手立ては取れず。

1865年(元治2年→慶応元年)

1月6日 萩の討伐軍と諸隊が大田街道沿いで激突。

1月16日 10日間にわたる戦闘の末、討伐隊は進撃を断念する。 

1月23日 藩内中立派の斡旋により停戦協定が成立。討伐軍は撤退する。

2月10日 俗論派が中立派要人を暗殺。諸隊の犯行とでっち上げるが、逆に藩内で孤立。

2月14日 俗論派の首領、椋梨藤太が捕縛され、藩は諸隊支配のもとにおかれる。

京都では孝明天皇の信任を得た徳川慶喜(禁裏御守衛総督)、松平容保(京都守護職)、松平定敬(京都所司代・容保の実弟で桑名藩主)のトロイカ体制が権力を握る。江戸の幕閣の意向には全面的に従わず独自の行政を行う。

第二次征長論が幕府と朝廷のあいだで進む。大久保は「至当の筋を得、天下万民ごもっとも」の義を求める。「非義の勅命は勅命に非ず」とし作戦に反対。

明治維新というのは不思議な革命である。

革命という言葉を使ったが、異論もあろうかと思う。

しかしクーデターと言うにははるかに長期かつ大規模である。そして最後には戊辰戦争という国を二分する内戦を経過して初めて成し遂げられた政治権力の交代である。

これが革命でなくして何を革命と呼ぶか。マルクス様にお伺いを立ててもせんのないことだ。

最初から話が横道にそれた。

「明治維新革命」は三段階に分けて語ることができる。最初は攘夷運動だ。これを通じて幕府の権威は大きく揺らぎ、天皇の権威が高まった。しかしこの高揚はイギリスに戦いを挑んだ長州、薩摩の惨敗により幕を閉じる。

第二幕は、京都の動きに目を奪われると複雑だが、軍事的に見れば長州の孤立した戦いの局面だ。それは蛤御門の変から第一次長州戦争、第二次長州戦争と続く。これで負けていたらその後の動きはなかったろう。

第三幕は長州討伐の失敗で権威失墜した幕府が自壊し、戊辰戦争へと追い込まれていく過程で、イギリスの動向も絡んで、かなり陰謀的な様相が強く評価もバラバラだ。

明治維新がなかったら、日本の近代化は10年は遅れていたかもしれないし、逆にもっとスムーズに進んでいたかもしれない。ひょっとすればイギリスの植民地になっていたかもしれない。

しかし肝心なことは、もはや幕藩体制では「明治グローバリゼーション」を乗り切ることはできなかったということである。

これらの内紛を通じてイギリスに「日本には迂闊に手を出さない方がいい」という印象を与えたことであろう。

中国に比べれば日本からのリターンはたかが知れている。しかもやたらと好戦的で事を構えれば相当厄介なことになる、となればとりあえず好きなようにやらせて自壊を待つ、というのが妥当な戦略となる。

ということで、明治維新革命は国内評価においても国際評価においても軍事的動向抜きには語れないのである。

その中でも歴史の変曲点となった第二次長州戦争についてより詳しい分析が必要であろうと思う。

ということで、前置きが長くなったが、第二次長州戦争の年表。色々な呼び名があるが、ここでは長州戦争で統一しておく。

その前に、長州戦争の序曲となった第一次長州征討事件の年表。

第一次長州征討についての感想。
とりあえずウィキから拾っただけなので、ウィキ氏の主観が色濃く投影されていると思う。
まずは第一印象ということで。

1.幕府の圧勝だったはず
蛤御門の乱は江戸幕府にとって、絶好のチャンスであった。
はっきりした敵は攘夷派の志士たち、朝廷内の五卿を中心とする尊皇派、そして軍事集団としての長州藩であった。
中間派として孝明天皇の側近集団、親藩並みの地位をもとめる薩摩藩がいた。
この中間派は蛤御門の乱を機に、反攘夷・反長州へとなびいた。
江戸幕府はこの機を逃さず、長州征討の大号令をかけた。
そして武力で長州藩支配地を占領するつもりでいた。和解するつもりなどないから、長州藩へ厳しい講和条件を出した。
そして御三家筆頭の尾張藩を総督とし、戦争計画を着々と進行させた。

2.薩摩の密かな介入
そこに忍び込んだのが薩摩藩(西郷)で、長州藩に密使を送り込んで妥協の可能性を探り、幕府要求を値切った腹案を総督の下に提案した。
諸藩連合の実現と、外様大名の発言力強化を目指していた薩摩にとっては、幕府独裁体制の強化につながる動きは避けなければならなかったろうと思う。
しかし薩摩藩にどのような思惑があったにせよ、これは抜け駆け行為であり、厳しく言えば通敵行為である。

3.徳川慶勝の独断的計画変更
総督はこの提案を受け入れたのみならず、西郷を全軍の参謀格に据えた。
つまり徳川慶勝総督は戦争をしたくなかったのである。そのために当初の目的を曲げてまで、組織規律に逆らってまで戦争回避に動いたのである。
西郷を参謀格に据えるまではかろうじて専権事項といえるが、幕府を代表する幕閣にも、小倉の副総督にも事前に「ホウレンソウ」したとは思えない。

4.自前の軍を持たない江戸幕府の脆弱さ
何よりも不思議なのは、江戸幕府軍が自ら攻撃の先頭に立たなかったことである。
その気になれば、江戸幕府軍単独で長州戦争を戦うことも出来たはずだ。
その代わりに諸藩には戦費を負担させればよい。
もちろん戦争というのはキャンペーンでもあるから、諸藩がこぞって戦争に参加したという形を取ることも大切である。
しかし戦争というのは形でやるものではない。
割当制で戦争をやろうとするなら、諸藩は前を向かずに隣を見る。そこそこお付き合いしましょうということだ。
これが「敵は幾万ありとても、すべて烏合の衆なるぞ」というものだ。


 

前の記事に水をかけるような記事がある。

m3.comというサイトの

SGLT2i「理想的な利尿薬」の可能性

という記事。

サブ見出しは「心疾患治療薬として既存利尿薬にない優位性と”併用禁忌薬”」

日本高血圧学会総会での旭労災病院の木村玄次郎院長のレポートを要約したものらしい。

いかにも期待させる見出しだが、中身は逆。

* 謳い文句はいろいろあるが、それは一次的な作用であり、二次的には低用量のサイアザイド系利尿薬(フルイトラン1/2錠)と同等と考えられる。

* 利尿剤が効くのはループと遠位尿細管、集合管だけだ。近位尿細管に働いてもそれより川下でキャンセルされてしまう。

* 心不全患者のうちRA系薬、β遮断薬が投与されている群に追加するときのみ有効。利尿剤、抗アルドステロン薬使用群への追加は無効。

* 利尿剤との併用は禁忌。したがって中等・重症例には適用なし。利尿剤が心不全の第一選択となっている日本では使い道なし。ただし利尿剤をガンガン使うのが趣味でないという医師には居酒屋の突き出し程度にはなる。

ということで「体には優しいが非力」という結論になりそうだ。

なんとなく心不全の治療の情報が生煮えで、スッキリしていなかったところに、また新たな情報が入った。

糖尿病の治療薬でSGLT2阻害薬(EMPA)というのがあるらしいのだが、これを使った糖尿病患者で、心血管死が38%減少したというのだ。

血糖降下薬なので糖尿病のない人には使えない。しかしそれだけ効くのなら低血糖に注意しつつ使うという手もあるかもしれない。

以下は

 EMPA-REG OUTCOME試験がもたらす 糖尿病治療の新時代 ・・・・・・・・・・ 片山 茂裕  Online DITN 第456号 2016年(平成28年)3月5日

という記事の要約。

下の図は、これまでの血糖降下剤との比較だ。

enpa
右の列がEMPAだ。いろんなデータがあるが下から3行目の心不全の発症率というのが明らかに低い。他剤で3.0~3.5%程度なのがEMPAでは2.7%にとどまっている。ただし心不全の既往歴という行を見ると、このスタディーの対象患者の心機能は比較的良さそうだ。

もともと、これはEMPAの副作用によって心血管合併症を増加させる危険がないことを実証するためのプロトコールであり、非劣性試験と呼ばれるものである。

なお層別解析で、

65歳以上、アジア人、HbA1c<8.5%、BMI<30でエンパはより有効であった。

というくだりが嬉しい。つまりEMPAはDMの改善を通じてではなく、直接心機能に好影響を及ぼしているらしいのである。



それで「SGLT2阻害薬」と言うのは一体何だということになる。

糖尿病リソースガイド」というサイトから拾ってみる。

SGLTとは、sodium glucose cotransporter(sodium glucose transporter)の略で、「ナトリウム・グルコース共役輸送体」と呼ばれるタンパク質の一種のことです。

と言われても何やら分からない。

SGLTの種類はいろいろあるが、SGLT2は腎臓の近位尿細管に限定的に存在している。

ということで腎臓からの水の出し入れに関係するらしい。ラシックスの逆みたいな働きになるのか。

SGLT2は、グルコースを栄養分として細胞内に再吸収する働きがあります。

普通の人では、グルコースのほとんどは再吸収されます。血糖が異常に上昇すると、SGLT2の再吸収能を超えてしまい、これが尿糖として排泄されます。

糖尿病患者では血糖が上がるに従いSGLT2も増えてきます。これは高血糖を維持させ、糖尿病を悪化させる悪循環をもたらします。

そこで開発されたのがSGLT2の働きを阻害する薬剤です。この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、結果だけ見れば「尿糖排泄促進剤」ということになる。

これは痛風の薬と同じで、尿酸の産生を抑えるザイロリックに対して、尿酸の排泄を促進するユリノームということになる。

もちろん効く薬にはそれなりの副作用もあるわけだが、作用部位が限局していて、作用機序がはっきりしているから、対処の仕方もはっきりしている。

発売されたのが2014年。最初がスーグラ(アステラス)、次がフォシーガ(ブリストル・マイヤーズ)、さらにルセフィ、アブルウェイ、デベルザ、カナグル、ジャディアンスと続く。薬価は200円から300円だが、最後のジャディアンス(ベーリンガー)だけは356円とお高い。これだけでも1万円を超える。

たいてい多剤併用だから薬代だけで月2万円は飛んで行く。老健では絶対に受け入れられない。まぁ来ないだろうが。

副作用の欄には

多尿による脱水。特に腎機能が低下している患者、高齢者には注意

と書いてある。

これが、心不全に効く理由であろう。副作用どころかまさに主作用である。


ここから先は感想になるが、病態生理的に見てとても面白い薬である。

1.ラシックスとの類推

結果的にはラシックスを投与したのと同等の効果をもたらすのであるが、ラシックスのようにヤミクモに近位尿細管をひっぱたくのではなく、水分を溜め込む物質を見つけ、その働きを調整することで適切な利尿を得るという点では、よりソフィスティケートされた手段である。

2.「ナトリウム・グルコース共役体」という概念

いままでのさまざまな臨床経験が、「なるほど、これだったのか」と何か解き明かされそうな感覚が湧いてくる。

いままでは、Na・水 という2者で考えていたが、そこにグルコースという物質を加えることでスッキリ説明できるような現象がありそうだ。

近位尿細管という部位は必ずしも本質的なものではないのかもしれない。ある意味では近位尿細管というのは「ナトリウム・グルコース共役体」の網の目からなるフィルターと考えたほうがいいのかもしれない。

3.「浸透圧利尿」の範疇も再吟味が必要だ

経験的に、開心術後の患者で10%糖液(フィジオゾール3号)が非常に有効なことは知っていた。

手術を終えてICUに入ってきた時点で、患者はいちじるしい脱水に陥っている。急速に体液を補充しなければならない。

その際には肺水腫に注意しつつかなりのスピードでフィジオ3号を入れていた。ある程度入ってくると利尿がつき始める。

利尿がついたら一安心と思うが、実はそれからがやばいので、とにかく追っかけなければならない。利尿が補液量を上回ると血圧がすっと下がって心臓がパタンと停まる。

さりとて入れ過ぎれば、ナースが「ラ音です」と叫ぶ。

さじ加減としてはフィジオ3号で5千くらい入ったら、少しづつハルトマンを加えていく。そうすると利尿も落ち着いてくる。これで7,8時間だ。

エコーで壁運動を見て、ガス分析でBEが安定すればあとはちょっと一息ということになる。

あの頃はそれらをすべて浸透圧で説明していたが、私には10%糖液が浸透圧以外の効き方をしているように思えたものだ。「ひょっとして脳(視床)を介しているんではないか」とか「糖そのものに利尿があるのではないか」である。

4.糖尿病性昏睡の機序

いまはずいぶん減ったと思うが、昔は年に1人位糖尿病性昏睡の患者が担ぎ込まれたものだ。

こっちの対応はDM医がやるから、私は脇から見ているだけだが、一応心臓の評価はしなくてはならないから、「それじゃお先に」というわけにも行かない。

それとDM屋さんはデータばかり見ていて、患者をあまり見ないので心配なところもある。

また余分なことを言ってしまった。

いま考えると、高血糖でおしっこがジョンジョン出ている状態っていうのは、そのSGLTっていうのはどうなっているんだろう。

きっとノックアウトされているのだろうね。

そうすると、ひょっとすると糖尿病性昏睡というのは病態生理学的にはSGLTがノックアウトされた状態を指しているのかな。

となれば、SGLTはどのような理由で、どのような機序でノックアウトされるのだろうか。多分それはクライシスを脱した後で息を吹き返すのだろうけど、どういう風にして立ち直るのだろうか。

5.ラシックスとの相乗効果はあるのだろうか

ここが一番知りたいところだ。

ラシックス・トラップみたいなものがあって、どっかでラシックスが効かなくなってくる。

ForresterⅢのどん詰まりだ。40→80と増やしていっても聞かない。低ナトリウムと全身浮腫だけが進行していく。

FFバイパスで除水するが、焼け石に水で、下手をすれば心停止を招きかねない。

「入れて出す」のが基本だが、これでは入れられない。

多くの心不全患者はこういう形で雪隠詰めになるか、どこかで突然死するかでお陀仏となる。

この段階で有効かどうか、ラシックスやANPとの相乗効果はあるのか。しょせん延命にすぎないかもしれないが…

6.川下は対応できるのだろうか

この薬を使用すると、近位尿細管でのグルコース再吸収が抑えられ、尿糖の排泄が増えます。その結果、高血糖が改善されます。

ということで、ダムの嵩上げをやめてグルコースを下流に放流すれば、川上の洪水は解消される。

しかし放流された川下の住民はどうなるのか。ちょっと心配だ。

まぁ、いままでの排泄促進剤や利尿剤でも大した副作用はなかったからそれほど心配する必要はないだろう。何かあったとしても命に比べれば大したものではない。



本日の赤旗文化面には西谷敏さんの「労基法の精神」を述べた文章が掲載されている。
労基法は以前にも一度勉強したことがあったが、どちらかと言えば条文の内容についてのものであった。そして労基法(労働基準法)が如何に骨抜きにされてきたかを学んだ。
しかし、「労基法の骨」とは何だったのかまでは触れられていなかった。そこを西谷さんが解説してくれている。
1.「人たるに値する労働条件」
労基法の目的は(目標といったほうが適切かもしれないが)、1条1項にある「人たるに値する労働条件」という言葉に尽くされている。
「人たるに値する条件」というのはいろいろあるが、それはまず日本国憲法の精神である。25条の生存権、27条の労働権、13条の個人の尊重を根っこに据えた「人間の条件」である。
西谷さんは「労基法の根底には一種の理想主義があった」と書いている。
2.「労働条件」を守らないのは犯罪
西谷さんの言葉を少々いじらしてもらうと、こういうことになる。
労基法の最も重要な特徴は、「人たるに値する労働」の最低基準を決め、これに違反するものを犯罪として罰しようとしていることである。
ただしこれは予定してはいたが、実施されるには至らなかったらしい。
この後、西谷さんは労基法の辿った運命を書き記している。
*労基法の掲げた理念は実現には程遠い。
*その原因は労基法が時代の変化に応じて適切に改正されなかったこと、労基法違反が相次ぐ中で実質的に骨抜きにされたこと、労働運動が期待に反して大きく停滞してきたことなどによる。(これらの論点については素直には首肯できない)
*「働き方改革」は憲法と労基法の理念を現実化するものでなければならない。しかし現実の動きは逆である。
*制定から70年、労基法はいま現実化と空洞化の岐路に立たされている。
最後の論点は重要だ。空洞化の岐路はとっくに過ぎていたと思っていたが、労基法そのものが、満身創痍とはいえ生き残っていることを、我々はもっと重視すべきなのかもしれない。

2016年04月10日 イーグルスのゲット・オーバー・イット(Get over it)の「訳詞」

が意外と好評なようなので、もう1曲やっちまいました。

Kansas Dust in the Wind 1978

こちらはメロディーとアレンジが売りの曲で、「続ホテル・カリフォルニア」みたいな感じですかね。歌詞はナイーブなものなので、別に訳すまでもないのですが。

You Tubeだと「オフィシャル」版よりオリジナル版のほうがおすすめです。

風に舞う塵

僕は眼を閉じる。

ほんの一瞬なのに

その瞬間は行ってしまう。

僕の夢のすべてが

目の前を過ぎ去っていく。

おかしな話だ。


風に舞う塵だ。

僕の夢は

ただ風に舞う塵だ。


いつもの古い歌が聞こえる。

果てしない海の

一粒の雫のように。


僕らがやっていることと言ったら

ぼろぼろになって

地面に落ちるだけのこと。

そんなこと知りたくもないが。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


さあ、くよくよするな。

大地と大空

ほかに永遠のものなんかないんだ。


時間は脇をすり抜けていく。

有り金はたいても、

たとえ1分でも買えやしない。


風に舞う塵。そう、

僕らはみんな風に舞う塵なんだ。


風に舞う塵。そう、

すべてのものが風に舞う塵なんだ。


2016年11月01日 「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

もご参照ください。


いま書いとかないと忘れてしまうと思うので、とりとめないが書いておくことにする。
朝はNHKテレビで南スーダンの問題をやっていた。現地で長年NGOをやってきた何とかさん、NHKの解説委員、元国連職員という肩書が売り物の某大学教授がコメンテーターを務めていた。内容はかなり不満であった。元国連職員氏は日本外務省の出向みたいな人で、国際貢献と「普通の国」論で押してくる。NHK解説委員は「されど憲法があり…」といかにもの口調。これに対してNGO氏の歯切れが意外に悪い。
ディンガ族となんとか族の対立で情勢は厳しい、だから自衛隊は行くなという話で、後半部分はたしかに正しいのだが、前半の情勢評価部分はのっぺらぼうだ。
政府を形成している解放戦線が、何十年も独立闘争を続けてきた民族の代表で、選挙でも圧倒的な支持を受けているということについての申し立てはない。
政府と対立する党派が、長年スーダン側に立って反独立側で動いてきたことについても言及はない。スーダンが独立後も南スーダンへの干渉を続けていることも、その背後に石油の利権をあさる中国がいることも言及されない。
さらに援助とPKOの軍事圧力を背景に政治に容喙する国連の行き過ぎた干渉、OAUと周辺諸国の排除についても言及しない。
私は事の本質は国連の過剰介入と、PKOの権限逸脱にあると思う。「ルワンダの再現」を危惧する人に対しては、大虐殺の主要な危険は反政府側にあり、副次的には政府の治安機能の弱体化にあると主張したい。
治安維持と平和維持という国連本来の機能から考えれば、一番必要なのは政府機能、とりわけ治安維持機能の強化にあるのではないか。
南スーダンを第二のエチオピア、第二のメンギスツ政権にしてしまうのか否か、それが問われているのだろうと思う。
もう一つは先ほどまで行われた石川文洋さんの講演。講演そのものはやや散漫だったが、質疑応答で「シリア、南スーダンなどの現状をどう思うか」との質問に対し、質問の内容を「シリア、南スーダンなどの人々をどう支援すべきか」と修正した上で、こう答えていた。
日本の人々はシリア、南スーダンなどの人々をさまざまな形で支援すべきだ。そこには自衛隊派遣という選択肢はないだろう。人民同士の連帯には武器は必要ない。具体的にはNGOへの支援という形であるべきだ。私たちがそういう姿勢を示し、具体的に形で表せば、それはシリア、南スーダンなどの人々にも国際機関にも評価される」
たしかにそれが憲法前文にいう国際社会での「名誉ある地位」を示すことだ。

またもしつこく、古代史の時代区分についての批判と自説展開。(先史時代についての話なので「古代史」は不正確です)

トムソン区分への敬意を払え

西洋史では石器時代→青銅器時代→鉄器時代である。何故この時代区分が日本史では用いられないかというと、実用面からの理由であろうと思う。つまり青銅器時代が短すぎるからである。

ただそれにしても、世界的な基準への敬意がなさすぎる。さらに言えば、弥生時代というククリはすでに完全に破綻している。前期と後期はまったく社会の構成が異なっている。少なくとも青銅器時代と鉄器時代には分けるべきである。もう一つ、この「長すぎる弥生」に固執する意味がつぎの「古墳時代」への序章になっているとするならば、それはまさしく「皇国史観」そのものだ。

朝鮮の史学は吐き気がするほどのイデオロギー偏重で、学ぶ気が起きないが、それでもトムソン区分を受け入れているところは正しい。日本の考古学や史学は、この点だけで、朝鮮史学の後塵を拝している。


東洋では青銅器時代が短い

理由は青銅器も鉄器も中東からの輸入であり、青銅器と鉄器がほとんど間を置かずに入ってきたからである。
紀元前3千年ころにシルクロードを経由して青銅器が入り、その500年ほど後に同じルートで鉄が入ってきた。つまり中東が1500年をかけて青銅器から鉄器への移行を果たしたのに対して、中国はそれを3分の1の期間で済ませてしまったのである。

ところが日本では様相が異なる。
長江人は中国北部に青銅器が入った後も、なおしばらくは石器時代のままであった。青銅器文明が四川省を中心に花を咲かせた頃、中国北部ではすでに鉄器時代に突入していた。
鉄器はおろか青銅器さえ十分に持たないまま、長江下流の民は山東半島→朝鮮半島を経て日本にやってきたのである。

強力な鉄器を持つ中国北方の民が朝鮮半島に進出し日本に影響をあたえるのは紀元前200ないし100年頃、漢が楽浪郡を創設する前後のことだ。
したがって晩期縄文時代との並立期をふくみつつ、日本の青銅器時代は紀元前7世紀ころに始まり、九州北部では紀元前後、その他の地域では銅鐸文明が圧殺される西暦200年ころまで続いたと考えられる。この800年ほどの期間、弥生時代のほぼすべてをふくむ時代を青銅器時代と呼ぶのはきわめて自然だと思う。それは銅鐸の時代と完全に重なる。

銅鐸の時代は、西日本で長江人と縄文人のミックスが進み「日本人」が生まれる過程でもある。そして紀元前後から進出した半島の北方人が鉄製武器により支配の手を伸ばしていく時期でもある。
鳥取の二つの遺跡はその過程を鮮やかに示している。

前方後円墳の意味

さてこの青銅器に続く時代であるが、基本的には稲作のフロンティアを拡大していく過程である。そして大和朝廷の全国支配の達成を一つの区切りとして有史時代へと移行していく。
この間に九州北部の倭王朝は没落し、「同盟」関係にあった任那は新羅と百済の支配下に降り、半島とのつながりは絶たれた。

大和の天孫系集団は「日本人」と同化し、ここに“単一民族国家”としての「日本」が登場する。この後、北方のエミシ(縄文人)は大和朝廷との闘いに敗れ同化していくが、北海道に渡った(戻った?)エミシは現地の後期縄文人と結び、オホーツク人を征服しつつ、縄文の文化的・言語的アイデンティティを守ることになるが、それは「別史」である。

そういう時代を「古墳時代」と名付けるのは正しいとはいえない。正しくなくても「弥生」は極めて無意味な命名だから実害はないが、古墳時代は時代に誤った印象を与える有害な命名であるから止めたほうがいい。せめて「土師器・須恵器時代」のほうがまだいい。

なぜなら古墳(前方後円墳)は文化の中心性の象徴ではなく、フロンティア性の証だからである。それは時々の水田耕作の前線に沿って形成されている。沼沢地帯が大規模工事によって水田と化していく過程でそれらは形成され、水田開発が終わると大規模古墳のブームは廃れ、さらに東へ北へと移動していくのである。

地図を見れば分かるように、それは吉備古墳群(児島湾の干拓)、大和古墳群(大和湖の干拓)、河内古墳群(河内湖の干拓)、さきたま古墳群(関東平野の干拓)と続き、宮城北部古川の水田開発をもって時代を終えるのである。詳しくは知らないが濃尾平野や中越平野でも同様なできごとがあったのではないだろうか。

干拓を終えた後には整然と区画された美田が広がり、人が張り付いただろう、米作というのはとにかくめちゃくちゃに労働力を必要とする商売だから、人口は急速に増えたであろう。そしてそれぞれが強国となっていっただろう。
これが日本の政治・経済の重心を九州北部から東に向かって移動させたことは疑いない。それを考古学的に象徴するものは何か。それを私は問うているのだ。



ゲノム研究 年表 がグーグル検索で上位にヒットする。

恥ずかしいので少し増補した。

わからないのは相変わらずだが、わからないなりに耳が慣れてきたのか拒否反応は軽くなってきた。

サンガー(70年代)という人とヴェンター(90年代)という人がキーパーソンになっているようだ。この二人の人脈辺りから辿っていくと、もうすこし雰囲気が分かるかもしれない。

文献探しのコツは、生物学者、とくに遺伝屋さんの書いた文章は読まずに弾くこと。脳が乱視状態となる。遺伝子工学の人の話というのは、1本釣りの漁師がトロール漁法を解説しているようなものだ。

むしろ企業関係のページに面白いものがたくさんある。

 韓国の民主・進歩運動の中には、80年代学生運動の潮流が今もなお受け継がれている。

それらの運動の中でNLとPDという2大潮流があった。これからは主要な対立ではなくなっていくのだろうが、それでも折にふれて顔を覗かせるので、知識としては憶えておかなくてはならない。
(ただし、この問題については個々人の古傷に触れることにもなりかねないので、人前でひけらかすような真似はしないほうが良い)

1.「民族解放・人民民主主義革命」論への流れ

1980年代、光州事件以降、学生運動の中に「民族解放派」が広がる。“National Liberation People's Democracy Revolution”の頭文字をとってNLと呼ばれる。

85年末、「科学的学生運動」を唱導した高麗大・ソウル大グループが、「民族解放・人民民主主義革命」を標榜し、急速に全国に勢力を拡大した。

「民族解放・人民民主主義革命」は基本的視点としては日本共産党の60年綱領(旧綱領)の骨子と似通ったところがある。

韓国社会はアメリカ帝国主義の半植民地であり、同時に半資本主義でもあると評価し、当面する革命の性格を民族解放の性格を持つ闘いと規定する。

そこでは植民地半封建社会論と植民地半資本社論が対となった植民地半資本主義論」が土台となっている。しかしこの課題は十分には展開されない。とくに60年後半からの高度成長で、離陸を遂げた韓国経済への評価が蓄積されていない。

アメリカの半植民地とする評価はこれまでの闘いの中から学生たちの共通認識となってきた。それはすでに60年代学生運動にも表されていたが、70年代の反朴政権、民生学連の闘いの中で次第に明らかになった。

そして光州民主化運動への武力弾圧をアメリカが黙認したことから、反米なくして解放なしの声が一気に広がった。これが「民族解放・人民民主主義革命」論に結びついていく。

この新しい潮流は韓国民主運動にとって画期的な意味を持っていた。それはいままでの反軍事独裁、民主化という即自的受け身な対応から、運動全体を革命運動と捉えていく能動的姿勢への転換である。

しかし、この路線は二つの問題を内包していた。

一つは科学的社会主義の軽視である。軽視というより無知であると言わなければならないかも知れない。科学的社会主義に関する文献は制限され入手困難であった。したがって目の前の社会矛盾を解明し、その因って来るところを分析する視角が不足していた。だからすべてを反米の路線に流し込むきらいがあった。

民族解放派は、半植民地・半資本主義という韓国の特殊な状況においては、民族矛盾が階級矛盾に優先するとみなし、学生運動と変革運動の焦点を反米主義と南北問題に集中させた。

レーニンの「帝国主義論」を除けば、科学的社会主義の理論とはかなり縁が遠い思考であった。(韓国版ウィキより)

もう一つは革命の「戦略」に関わる問題である。これにはおそらく75年のサイゴン解放、南北ベトナムの統一という世界史的事件が関係したであろう。これにより民族の悲願である「南北統一」の課題が、革命戦略の中に無媒介的に組み込まれてしまう。

その悲劇的表現が「主体思想」である。

2.NL・PD論争

NLは「自主・民主・統一」(ジャミントン)という大衆組織を立ち上げる。共産党が民青を、革共同が社学同を立ち上げたようなものだ。学生自治会の組織が続き、全大協と韓総連が結成された。さらに社会各方面までふくむ汎民連も結成される。

これに対し、「人民民主派」(PD)が対抗馬として登場した。PDは資本家と労働者の階級矛盾を強調し、マルクス主義の伝統に忠実にしようと考えるグループである。NLが自主派、PDが平等派と呼ばれることもある。

NLは単一の指導理念に基づいて、統一された中央集権的な組織を形成しているが、PDは本来単一政派はなく、いくつかの政派が独立して形成されたものである。組織的にも分立されている。

彼らは韓国社会を「独占資本主義段階にある新植民地主義国家」と規定した。また光州民主化運動についてはまずもって民衆の蜂起と見て、韓国労働者階級の闘いの幕開けと評価した。(韓国版ウィキ)

ようするに評価の視角がまったく異なっているから、議論はすれ違う可能性がある。PDは階級的視点からNLを批判し続けたが、所詮は批判者であって、それが両者の力関係を覆すには至らなかった。

この論争は韓国が抱える問題を、萌芽的には網羅していただけに、いまだに組み尽くすことの出来ない教訓をふくんでいる。ただ時代的制約もあり、両者の問題意識はやや図式的である。

権威主義的工業化の過程で発生した強力な反共権威主義国家にどう立ち向かうかという視点が不十分である。これらの新たな問題を民族と労働者階級の両方の視点で再度検討しなければならないであろう。(崔章集

3.主体思想派

これについては話し始めるとキリがないのだが、要点だけ触れておこう。

主体思想は北朝鮮の国家理念であり、朝鮮労働党の指導理念でもある。

主体思想がNL派の中に最初に持ち込まれたのは、民主化の始まる直前、1986年のことである。金永煥(ヨンファン)が「鋼鉄通信」という文書シリーズを次々と発表し、「首領論」、「品性論」などの主体思想を大学街や労働界に広げた。

NL派の多くはこれに影響を受け「主体思想派」に変わっていく。韓国版ウィキは簡潔に経過を書き記している。

主体思想派は自生的な親北主義者で、北朝鮮の短波放送を密かに聞くことによって、その情勢分析と理論を受容した。

金永煥は自ら民主革命党(ミンヒョクダン)を組織し、北朝鮮の指導を受け、韓国の進歩運動に介入した。

1995年頃からは、学生運動の全体的な衰退と北朝鮮の実状認識、主体思想の創設者である黄長の亡命などで徐々に力を失った。

しかしいまも、もっとも厳しい時期を経験した不屈の闘士たちは健在である。民主革命党の流れをくむ集団は東部連合、蔚山連合の活動家集団などに影響を与えていると言われる。

なおNLの全部が主体思想派に移動したわけではなく、一部は「民族民主革命論」(ND)を主張し、別グループを形成した。彼らは「民族解放左派」を自称したらしいが、その後の経過は不明である。

3.NLのフロント組織

NLイコール主体思想派と断定するには躊躇を覚える。また87年民主化以降は非公然中核組織とフロント組織という分類も意味がなくなりつつあるが、存在そのものが違法とされる主体思想派にとっては、まだこういう色分けも必要であろう。

フロント組織は次々と登場しては消えていく。憶える必要もないが、一応名前はあげておこう。

まず89年1月に全国民族民主運動連合(全民連)が結成された。これは当局の厳しい弾圧により間もなく消滅した。

ついで91年末には、全民連を再建する形で民主主義民族統一全国連合 (全国連合)が発足した。NLが指導する在野運動勢力14団体のアンブレラ組織である。

97年、民革党事件を機に「全国連合」は公然活動を停止し、事実上の解散に追い込まれた。

2007年、NLは全国連合を解消し、あらたに「韓国進歩連帯」を結成した。韓米FTA阻止、非正規職撤廃、平和協定の締結と駐韓米軍撤収、国家保安法撤廃など4大課題を掲げているが、南北統一の課題は避けられている。

いっぽう、NL活動家の多くは、民主労総が中心となって結成された合法政党「民主労働党」に集団入党した。彼らは組織的力量にものを言わせ民主労働党の多数派となった。

民主労働党の流れは統合進歩党へと続いたが、現在では統合進歩党そのものが消滅している。

これに対し、PDは単一組織としてのまとまりは強力ではないが、今日その主力は労働党に結集しているとみられる。

民主労働党が結成されたとき、PDの多くはこれに結集しPD派を形成した。2008年には民労党から分かれ「進歩新党」を結成した。12年には総選挙での得票率が規定に届かず解散、翌年「労働党」として再発足した。

その間、多くの活動家がリベラル派の正義党に鞍替えしている。



97年9月、初めて韓国を訪れたとき、まだ韓総連は元気だった。街頭で機動隊と「激突」していた。

その2年後に梅香里を訪れたとき、団結小屋には機動隊から奪ったヘルメットや盾などの「戦利品」がうず高く積まれていたが、すでにそれは過去のものだった。

「民革党事件」以来、NLはおとなしくなった。しかしその残党は民労党内に潜り込んで多数派を形成していたのである。

それやこれやも、ここ10年位ですっかりおとなしくなった。パククネを大統領の座から追い落としたとしても、国家保安院の牙城はいささかも揺らいではいない。

かえすがえすも、「主体思想」がいかに韓国の民主運動に暗い影を落としたか、その戦闘性を知るだけに悔やまれてならない。


もう一度1985年の時点に立って、問題点をおさらいすることも必要かと思う。そんな思いもふくめながら、この文章を書いてみた。
下記もご参照ください

「北」の影響:カンチョル・グループの場合
(付)韓総連の自己紹介
韓国の労働運動(1998年)


まさに寿命という感じだ。
最後は、立ち上げただけで「メモリーが不足」でアウトになる。この間、メモリーを8ギガに増設し、「Free Memory」というアドオンも積んでみたが、結局立ち直ることはできなかった。
「Flush Player]との相性の悪さもあったし、なにか「Windows 10」に負けたという感じなのかもしれない。

実は私はいま、パソコンを3台も持っている。いろいろ経過があるのだが、買ったのは1台だけで後の2つは頂いたものだ。そのうちの1台は職場で貸与されて使っていたものを退職時にいただいたものだ。これはすでに2010年から使い込んでいる。いまも日常使用しているのがこの機械で、新品はそのまま眠っている状況だ。
これはネイティブのWindows10ではなく、7からバージョンアップしたもので、しかもそのときに32ビットから64ビットにあげている。何もそこまでしなくても良かったのだが、行きがかり上やってしまった。多分それがパソコンにいろいろ負荷を与えているのだろうと思う。

マイクロソフトに負けたという話だが、
むかしインターネットが始まった頃は灯台がマークされた「Netscape」というブラウザーが主流だった。ところが「Microsoft」が「Internet Explorer」(IE)というブラウザーを出して割り込んできた。最初は「Netscape」もだいぶ抵抗していたが、「Windows」がバージョン・アップするたびに追い詰められて最後は消えていった。きっと対抗アプリが使いにくくなるような細工を施すのだろう。
同じやり方で、松茸や一太郎も「Microsoft IME」の前に屈していった。

数年前から、あらたにブラウザーでは「Firefox」、日本語入力ソフト(昔はFEPと言っていた)では「グーグル日本語入力」が登場し、Microsoft 製品を圧倒するようになった。Windows 7からWindows 10 へのバージョン・アップはこのようなライバルを蹴落とす狙いを秘めているのではないだろうか。
しかしグーグルはこれまでの弱小・独立系企業とはわけが違う。「Microsoft」のバージョン・アップにもしっかりと対応し、さらにシェアを広げつつある。
ぎゃくにIEをやめて新しく開発したという「Microsoft Edge」は、IEをも下回る粗悪ブラウザーである。「Microsoft」の開発者にはユーザー・ファーストという発想が欠如しているようだ。

というわけで「Microsoft Edge」の使い勝手の悪さにも辟易だし、どうしようかと考えていたが、結局「グーグル・クロム」でしばらく様子を見ることにした。
変な話だが、「Firefox」から引っ越してみて、反応の速さにちょっと感激した。と言うより「Firefox」の遅いことに気付かされたという感じか。
クロムだが、操作法はやはり一種独特のものがある。メニューバーがないのは便利そうで一手間煩わしい。もっともこれは慣れの問題かも知れない。
あとは、以前からの問題だが、You Tubeのダウンロードが制限されることはかなり辛い。積み込み可能のアドオンがかなり弾かれてしまうのである。
You Tube の閲覧に関してはこれまで通り「Firefox」を使うことになりそうだ。
結論から言うと、「Firefox」はかつての「Netscape」の道をたどることになりそうな気がする。

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