鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年05月

 

「7月3日体制」下のエジプト

シリーズ「混迷する中東・北アフリカ諸国」の5回目。今回は長沢栄治さんの執筆である。2015年初頭の頃の文章で、新しいといえば新しいが、すでにそれから2年余りが流れており、すでに現状とのあいだに若干の違いは出てきているかもしれない。

 

はじめに

(この「はじめに」がえらく長い)

2011 年 1 月 25 日にタハリール広場での大集会が行われ、2月11日にはムバラク大統領を宮殿から退去させた。

それから約1年半後の2013年6月に民衆は再び蜂起し、ムルシー大統領とムスリム同胞団の政権を打倒した。

それで、蜂起に立ち上がった人々が望んだ「革命」は進展しているのか。革命などといっても一時の興奮に過ぎず、混乱をもたらしただけで何の結果も残さなかったのか。

長沢さんはいくつかの判断材料を提出する。

①ムバラクの逆転無罪判決

2012年6月、ムバラクはデモ隊への発砲による殺害の罪での無期懲役判決を受けていた。

2013年1月に再審理が決定され、2014年11月にムバーラク元大統領に無罪判決が出された。抗議の声は押しつぶされた。

②軍部による統治の「正常化」

2014年6月、「6月30日革命」を唱えるシーシーが大統領に就任した。

表面的に見る限り、シーシー大統領は国民の政府に対する信頼を回復し、安定した「統治」に成功している。

スンナ派を指導するアズハル機構と、人口の10%以上を占めるコプト派の政権支持には強固なものがある。

③ムスリム同胞団への怒り

一方、ムスリム同胞団は国民の指弾の的となっている。ムルフィ政権下のコプト派教徒襲撃や、シーア派住民殺害などの非道行為、経済危機を強権で乗り切ろうとしたことへの恨みは深く刻み込まれている。

長沢さんはこの3つの流れを基礎に、情勢を分析しようとしているようだ。

1. 軍が提示した2度目の行程表

2013年6月30日の民衆蜂起、 「6月30日革命」を受けて、軍は翌日7月1日に声明を発表し、全ての政治勢力が48時間以内に和解するように求めた。ムルシーはこれを拒否した。

7月3日、軍トップのシーシー国防相は、軍の用意した工程表を発表した。それは①憲法改正→②議会選挙→③大統領選挙よりなる。これは後に①→③→②となった。

このあと長々と「1月革命」の経過が語られていく。長沢さんの文章はきわめて入り組んでいて、文章そのものの要旨ではない注釈部分に重要な事実が書き込まれており、実に読みにくい文章となっている。

「1月革命」の経過は、論旨からいうと枝葉なのだが、読み手からすれば、革命の総括が書かれたもっとも重要な箇所だ。とりあえず従いて行くしかない。

一度目の工程表: 2011年革命の総括

2011年革命において、軍が決めた行程表は、「②議会選挙→③大統領選挙→①憲法改正」であった。

左派勢力は、まず革命の理念を体現した新憲法の制定を最初に行うべきだと主張した。しかし、軍はこれに従わなかった。内心では現体制の大幅な変更を望んではいなかったからである。

同胞団は選挙を先に行うことで、理念よりも組織力による主導権確保を狙った。これに軍は乗り、3月の「暫定的な憲法改正」を国民投票で押し切った。つまり憲法改正は先延ばしにされたのである。

ついで行われた議会選挙で、同胞団は総議席の3分の2を超える地滑り的勝利を収めた。革命の勝利の果実は同胞団により掠め取られてしまった。

大統領選挙と同胞団の心変わり

革命後に2勝を収めた同胞団は、3勝目も狙うようになる。

当初は、同胞団候補は出さず、世俗派に大統領職を委ねる意向であった。これが何故心変わりしたかについて、真相は未だ不明である。

長沢さんはいくつかの可能性を上げている。次なる最終戦、新憲法制定で勝利を収めるために、どうすべきかという議論があっただろうという。

新憲法における勝利とはどういうことか、それは「同胞団が掲げてきた理想であるイスラーム国家体制の建設」を保障する憲法である。

大統領選挙は同胞団と軍の支持するシャフィークとの決選投票となった。軍は同胞団と断絶し、真っ向から対立するようになった。そして同胞団が勝利した。

議会選挙の結果から見ても、同胞団の勝利は当然だった。だから大統領選挙に勝利したということより、大統領職も自らの手に収めるという判断をしたことが重要である。その結果、軍を敵に回すことも覚悟の判断である。

そして軍との対決は8月にやってきた。ムルシー政権は大統領と議会の3分の2の議席という力を背景に、軍最高幹部の更迭という「荒業」に踏み切ったのである。

これはいったん成功したかに見えた。同胞団にとって左翼・リベラルを抑え込み、軍の統制を確保することは、自らの独裁権力の確立であるかのように思えたのであろう。

そこから同胞団政権はイスラム原理主義にもとづく憲法制定とイスラム国家づくりに突進していくことになる。

彼らは勝利に過信し、軍の実力と意思を見誤っていた。

米国の同胞団へのスタンス

米国は従来からポスト・ムバーラク期を見越して同胞団と接触していた。米国は同胞団を穏健派イスラーム主義勢力と見ていた。そして同胞団政権の未来を「トルコ・モデル」の図式の上にとらえていた。

7月政変が起きると、米国はエジプトの民主化改革に遅延をもたらすものと批判。米議会は対エジプト援助の供与中止を決議した。

このような米国の見通しの甘さも、同胞団の強硬姿勢をもたらしたといえる。

新工程表の意味

今回の工程表では、まず新憲法の制定が先行した。

新憲法の意味は若者・リベラル勢力が2011年当時に求めたように1月25日革命の理念を実現するためではない。

新憲法の制定が目指したのは、2012年憲法に見られる「同胞団色」の一掃であり、軍をはじめとする既存の諸勢力(司法エリート、アズハルやコプト派教徒など)の権益や地位の再確認であった。

また、大統領選挙を議会選挙に先行させたのは、議会政治の軽視、あるいは不信である。そこには議会政治の重視が同胞団の進出をもたらし、政治混乱を生み出したという思いがある。

つまり、軍が目指すのはある意味で「ムバラクなきムバラク体制」といえるかもしれない。

6月30日革命、すなわち反同胞団政権運動の主体であったリベラル勢力や若者運動への態度はたんなるリップサービスに終わっている。

2.新憲法の内容

3.大統領選挙とその結果

4.議会選挙制度改革

5.同胞団の弾圧とテロの激化、そして若者運動の抑圧

権力を握った軍政権は同胞団に過酷な弾圧を加えた。

2013年8月14日、軍はムルシー復職をもとめる同胞団デモに対し強制排除を行った。ラーバア・アダウィーヤ広場での衝突では約千名が殺された。

12月に同胞団による警察襲撃事件が起こると、政府は同胞団をテロ組織に指定した。同胞団の資産は凍結され、幹部の資産は没収された。

2014年に入ると、弾圧はさらに苛烈さを増した。3月に同胞団員529名に死刑判決が下され、4月にはさらに683名に死刑判決が下された。

テロ事件の頻発と政府の弾圧強化の中で、「4月6日運動」などの若者活動家も多くが逮捕・勾留されている。青年運動は事実上不可能な状況に追い込まれている。

6.外交政策

2月革命以降、多彩な動きを見せていた外交活動は、ムバラク時代の姿勢にほぼ戻った。

とくにガザのハマスに対しては同胞団がらみで態度を硬化させている。シーシー政権は、ガザ地区につながる物資搬入のトンネルの破壊を徹底して実施してきた。

これはシナイ地区の反政府ゲリラが同時にガザへの密貿易グループでもあることから、資金源を絶つ目的もあるようだ。

石油・天然ガス資源情報」というサイトに地味に面白い記事が載っている。

マスコミの国際情報というのは、普通は必要な情報は載らず、むしろ本質を覆い隠すような情報のみが載せられることになっている。

このページは半ば情報誌とも呼べるものだが、意外に本当の情報が載っている。

中でも面白かったのが「アラブの春から4年…混迷する中東・北アフリカ諸国」という連載だ。全6回から構成され、執筆者がそれぞれ異なる。

ネットでは2~6回が読める。順次紹介しておく。


第2回 アラブの政変とイスラエル 中島 勇

はじめに

「中東については予想をしてはいけない」という格言がある。現状は、この格言のとおりである。

そこには多様な要素が複合的に絡んでおり、分析や評価の視点も当然ながら多数ある。

その中で、イスラエルの「アラブの春」評価は特異だがリアルでもあり、注目に値する。

①アラブの政変をイスラエルは全く予測していなかった。

②イスラエルとの和平を維持してきた独裁者が追放されたことに驚き、未知の政治勢力が出現することを警戒している。

③イスラエルは、戦略的資産と見なすエジプト・ヨルダンとの和平を順守することを最大の目標にしている。

1.エジプト政変の意味

政変が起きた国の民衆は、独裁政権に怒りの声を上げたが、イスラエル非難の声はほとんどなかった。イスラエルという国やその社会には関心がないのかもしれない。

エジプト政変で、イスラエルの過去30年の努力は無に帰した。エジプトとの和平は、イスラエルの安全保障戦略上の最も重要な基盤であった。

イスラエルが昔も今もそして今後も、最も警戒する相手はエジプトである。エジプトはイスラエルと25年間の間に4回も戦った。

第4次中東戦争(ヨム・キプール戦争)では、シナイ半島で本格的な近代戦に突入し、激しい消耗戦を行った。劣勢に立ったイスラエルは機甲部隊によるスエズ運河の逆渡河作戦を強行、エジプト軍の補給路を絶つことでようやく挽回した。

1979年の和平条約で、イスラエルはシナイ半島をエジプトに返還した。反対する入植者らをイスラエル軍は力ずくで排除した。こうして獲得したのがエジプトとの和平である。

第4次中東戦争の後、現在まで約40年間戦争はない。両国間には1件の和平協定違反もない。スエズ運河が戦争のために閉鎖されることはなくなった。

米国はエジプトとイスラエルの和平を維持するために、外国援助総額の半分近くの支援を両国に対して行った。「米国は和平を金で買った」と言われた。

ムバーラク体制が崩壊した時、イスラエルはその冷たい和平が破綻するかもしれないと恐れた。

2013年7月の第二革命でムルスィー大統領が、エジプト軍によって解任された。2014年1月に新憲法が国民投票で承認された。そして国防相・参謀総長のシーシーが大統領に選出された。

シーシー政権はガザのハマースを国内のムスリム同胞団と同じと見なし、厳しい対応を開始した。エジプトとガザの間にある密輸用の地下トンネルのほとんどが封鎖された。

シナイ半島では、エジプト治安部隊と武装勢力(密輸貿易の担い手)との衝突が増加した。イスラエルは、エジプト軍が治安作戦で戦車や装甲車を使用することを認可した。

この結果、ガザへの物資の約95%が停止している。ガザ経済は、今や過去最大の危機に瀕している。

2.イスラエル国内体制の変化

テルアビブでも若者の占拠運動が行われた。そのデモは11年9月には約40万人規模に拡大した。

デモ隊は、少数の財閥が国民経済の30%を支配している状況に抗議し、より平等な富の分配や社会的正義の実現などを要求した。

デモ参加者らは貧困層ではなく、学生や若者、教師や技術職など専門職の中間層が主体だった。左派も右派も抗議行動に合流した。

イスラエルは建国以来、「社会主義」的な経済形態を取っていた。しかし1980年代末から民営化を進めた。

軍需企業が蓄積した知識と経験が、民営化によって市場に出た。その結果、イスラエルはハイテク国家に変貌した。

毎年約5%の経済成長を維持した。国民1人あたりの収入は、1990年の約1万5,000ドルから2009年には2万8,100ドルとなり、ほぼ倍増した。

しかし、国内の貧富の格差も同じテンポで拡大した。それに対する不満が表面化したのである。

3.イスラエルとパレスチナ問題

1993年、イスラエルはパレスチナと政治交渉を決断した。パレスチナの反占領運動は戦車に石で立ち向かった。パレスチナの若者に対してイスラエル軍は銃撃を加えた。その映像は世界中で報道された。

イスラエルは国際的な非難にさらされた。米国のユダヤ人社会でさえ厳しく批判した。イスラエルは、パレスチナ人の反占領運動を力で鎮圧できないことを明確に知った。

1994年に成立したパレスチナ自治政府はすでに実体を整えた。イスラエルは、パレスチナ国家が新たな脅威となることを警戒している。その一方、PAを解体して、パレスチナ人を再び統治する意図もない。

イスラエル人の多くが政治に無関心になった。その結果、組織票を持つ宗教政党の得票の相対的な比率が上昇した。それにつれイスラエル社会の宗教化・右翼化・内向き志向が増大した。

「民主国家イスラエル」が、非西欧的な宗教国家に変質する危険性が高まっている。イスラエルを批判するイスラエル人やユダヤ人は「自虐的イスラエル人、ユダヤ人」として非難されるようになった。

4.国政に変化の兆し

民衆の不満は2013年の国会選挙で鮮明となった。中道派政党の新党イェーシュ・アティド(未来がある党)が、初めての選挙で19議席を獲得して第2党になった。

これは世俗派の中産階級の有権者の投票が増加したためとされる。

これは安全保障コストへの無言の問いかけとなっている。東エルサレムやヨルダン川西岸を維持するために、国民生活の安定を犠牲にして、国家の予算を使うべきかという問いである。

ネタニヤフ首相は、決定を先延ばししている。

最近、韓国の政治動向をフォローしていなかったので、今回の大統領選挙の結果を聞いて、「韓国左翼が変わったな」と実感した。
1.社会労働党の躍進と没落
とにかく韓国の世論は右へ、左へと激しく揺れるので、底流を見据えながら個々の動きを評価するのは大変だ。
国民的与望を担って登場したノムヒョン政権だったはずなのが、大した失政を繰り返したのでもなくどんどん支持率を落として、最後には議会に弾劾されるまでに至る。
ところがノムヒョンの応援団がウリ党を起て、総選挙をやったら圧勝する。それなのに半年もしたら、支持率が30%を切る。それが美容整形で二重まぶたにした途端に50%にまで回復する。
そんな中で、民主労働党は一時期は議会第三党にまで上り詰めたが、一心会(親北派)をめぐるスキャンダルであっという間に崩壊していく。
2.主体思想の清算
「親北派」キャンペーンは権力による一大攻撃ではあるが、金日成カルトともいうべき集団が存在したことも間違いない。韓国民主運動はさまざまな困難を抱えているが、「主体思想」との関係を清算し、南北統一へのロードマップを再構築することは中でも最大かつ緊急の課題であった。
思えば2006年以後、今日まで10年間の道のりはそのために費やされたと言っても過言ではない。
そのなかで、もっとも原則的かつ果敢に「自主派」とのたたかいを進めてきたのが、進歩新党であった。私はそう思っている。
3.進歩新党のもつ意味
進歩新党の闘いには二つの側面がある。
第一には親北派との呵責なき戦いである。親北派と対立してきた「平等派」の古参活動家は動揺を繰り返した。一つは自分をより高く売り込むための取引であり、一つは民主労働党のパトロンである民主労総の動向である。もちろん、底流には、民主化運動以来ともに闘ってきた「主体派」の仲間への絶ち難い信頼と友情の関係もあっただろう。
しかし、いまは直近の動向ではなく、真の未来を目指さなければならないのだ。そこには揺らぐことのない一貫性が必要だ。
第二には、資本からの真の独立である。進歩勢力と言ってもさまざまなスペクトラムがあるが、資本からの真の独立と科学的社会主義の視点の確立がなければ、原則と現実的妥協との境目が見えなくなってしまう。
政党である以上、選挙での勝利はもっとも重要なイシューであることは間違いない。とくに韓国では選挙で一定の数を獲得しないと政党要件が消失してしまうという厳しい状況を抱えている。しかし階級政党の意義と任務はそれに尽きるものではない。綱領的立場が選挙戦術に矮小化されてはならないのである。
3.統合進歩党から正義党へ
この二つの立場をもっとも原則に守ったのが進歩新党だった。
そしてその立場を貫けずに民主労働党とのなし崩しの再統一、「統合進歩党」の結成に向かっていったのがシム・サンジョン(沈相奵)らだった。(シムが尊敬すべき人物であることは疑いないが、彼女の方向が金大中2世であることは冷静に見ておくべきだと思う。求められているのは「揺るぎない党」である)
統合進歩党は民主労総の強力なイニシアチブのもとで創設された。さまざまな政治潮流が「統合」されないままにくっついた。「多様性こそが新党の特徴」と公然と述べる国民参与党まで入ってきた。
こういう雑然さこそ民主労働党主流派(親北派)の意図するところであった。党の骨格人事は彼らがガッチリと握っていたからである。
それから半年もしないうちに、統合進歩党の実体は暴露された。親北派は表立っては一言も喋ることなく、実力で議席やポストを抑えてしまったのだ。
激怒したシム・サンジョンらはふたたび党を飛び出して、「正義党」を結成することになる。このドタバタ劇の最大の成果は、民主労働党に代えて自らを民主労総のお抱え政党とすることに成功したことである。
逆に民主労総の後ろ盾を失った民主労働党→統合進歩党は坂道を転げ落ちるように転落していく。機を見るに敏な連中は次々と正義党に鞍替えした。残された親北派は体制の立て直しを図るが、2013年8月に2回めの情報院の攻撃を受け瓦解していく。こうして民主運動の全戦線において親北派は市民権を失うに至った。
4.進歩新党の苦闘
進歩新党も、何度も滅亡の危機に陥った。
最初は社会党との合併で自力強化を図った。しかしこの「社会党」は言っている言葉の割にはへなちょこで、どこか強い力との連合で自分を売り込もうというオポチュニスト集団だったようだ。つぎは環境主義者との連合を図ったが、こんなもの最初からうまくいくわけがない。正義党が結成されると、かつて同じ思いを共有した政党であるがゆえに、かなりのメンバーがそちらに移っていく。
そのなかで進歩新党は未組織労働者の中にかなりの拠点を形成したようだ。彼らはいま労働党と名を変え活動を継続している。弱小とはいえ、活動を継続していけるだけの確かな力を蓄えたようだ。
5.金世均の予言
最後に2008年1月にソウル大の金世均教授が書いた文章を引用しておく。私は韓国政治の基本をついた文章としていまだに正確だと思う。

民主労働党は究極的な政治的目標を持たないまま、議会主義と合法主義、代理主義と官僚主義の道に堕ちた。民主労働党は、民族主義と社民主義の不幸な結婚が誕生させた政党であり、社会的関係の根本的な変革を望む多くのヒラ党員の社会主義的あるいは社会主義指向的な熱望を、民族主義的、社民主義的、議会主義的展望の中に閉じ込める政党だった。
党に未来がないだけではなく、既成の派閥のいずれにも未来はない。NL派は、民族問題を、階級問題や反帝・反戦問題などすべての問題に優先する左派民族主義勢力である。これに対しPD派は、当初は社会主義的な指向を持つ単一の勢力だったが、その後、体制内的改革を追求する社民主義勢力との寄り合い状態となり拡散した。
新しい進歩政党は民主労働党の内部革新や第二の創党運動の中にはない。「資本主義の克服を公に明言し、その克服のために闘う社会主義的労働者階級政党」が展望されなければならない。民主労働党内のすべての階級的左派勢力が、組織的な所属と路線の違いを越え、進歩政党運動の全面的な再構成のために、共に力を合わせていくべきだ。

それから10年の後、いま金世均さんがどう言っているのかを知りたいところである。

科学ニュースの森」というブログに下記の記事があった。

2012年03月14日の発信で、「生物の発生‐RNAワールド仮説は間違いか?」と題されている。

Early Evolution of Life: Study of Ribosome Evolution Challenges 'RNA World' Hypothesis

という記事の抄出のようだ。この記事はScience Daily という生物学情報サイトに掲載されたもので、原著となっているのは下記のもの。

Ajith Harish, Gustavo Caetano-Anollés. Ribosomal History Reveals Origins of Modern Protein Synthesis. PLoS ONE, 2012; 7 (3):

原著には下記の写真が掲載されている。渾身の1枚であろう。

リボゾームの進化

リボゾームのRNAと蛋白コンポーネントを進化の順に色分けしたもの。古いコンポーネントを赤、より新しいものを青で示している。
「二つの行程は深く共進(congruence)していることがわかる。これはリボゾーム蛋白がrRNAとともに進化したことを示唆する」とのコメントが添えられている。(画面の体裁上90度回転した)

以下が記事の紹介。

サマリー

イリノイ大学のGustavo Caetano-Anollesら、核酸のみからなるRNAワールドは、タンパク質の存在なしにはありえなかったと主張。リボソームの発生は、タンパク質とRNAが同時に進化することで起こったとする。

議論

RNAワールドをめぐる議論の中心は、リボゾームの成立過程にある。

RNAワールド論者は、

1) タンパク質を合成するリボソームの核心はペプチジルトランスフェラーゼ中心(PTC)である。

2) PTCの活性部位はrRNAからなっている。

3) したがってリボゾームの核心はRNAワールドの内部にある。

と主張している。

カエタノ・アノジェスらは、リボゾームの発展・進化の過程を時系列的に分析してみた。その結果、とりわけ2)のポイントについて、RNAワールド論者とは異なる結論に達した。

すなわち、

1) リボソームの基本構造はrRNAが入り込む前に形成されていた。

2) rRNAはタンパク質合成に関わる前には他の役割があった。

3) タンパク合成の萌芽期においては、まずリボソームやRNAを必要としない、リボソーム非依存性の「ペプチド合成酵素」があった。

4) RNAは、まずペプチド合成の補酵素として働くようになり、その後リボソームの機能に組み込まれた。


“Congruence”という言葉に、著者の気持ちが込められているように思える。その気持ちは共感されるべきものと思う。


RNAワールドは難しい。読んでもほとんど分からない。ということが分かった。

並列的に並べられた多くの学説をレビューしていくと、この学問が進歩のただ中にあるということが分かる。

前の記事に書いた私の感想はそのまま置き去りにされている。もう1,2年経ってから読み返すのが利口なようだ。

一応感想だけ書いておく。

とにかく生命というのはものすごく複雑なもので、いくつもの関門を経てDNAワールドが誕生する。しかしそれだけではだめで、きわめて複雑なエネルギー生成・蓄積・解糖経路、高度に集積されたアミノ酸の統合体・触媒系としてのタンパク質、これらの過程を設計図・工程表として記憶する巨大な核酸統合体としてのDNA、これらが揃わなければ生命の発生は準備されないということだ。しかもここにはまだ生体膜の構造問題が抜けている。

RNAワールド仮説はそのための一つの糸口を提供しているに過ぎない。

鍵となる概念は三つある。

一つは、量が質を規定することであり、量的増加(多様化)がどこかでブレイクスルーを成し遂げ、量から質への転化がなされることだ。逆に言えば、質的変化の背後には無数の進化の試みがあり、それが「多様化」として示されていることだ。ヌクレオチド→ポリヌクレオチド→RNAという流れも、アミノ酸→ポリペプタイド→蛋白という流れも、そのような進化の階段のどこかに位置づけなければならない。

一つは、生命が欲するのはなによりもタンパクなのだと言うことだ。タンパクが他の方法で作れるのなら、核酸などなくてもよいのである。だからアミノ酸はペプチドを作りポリペプチドを作り、おそらくは低級なタンパクも作ったと考えるべきだろう。RNAが自らを触媒とし得たようにタンパクも、自己を複製する機序を初歩的には獲得した可能性がある。しかし生命が必要とするようなタンパクを構築するにはRNAの助けを借りるしかなかったのだろう。「天は自らを助くものを助く」のである。

もう一つは、地球の発生直後の過酷な環境やジャイアントインパクト、後期重爆撃期という環境激変の只中に生命を誕生させた地球の持つエネルギーの凄まじさである。なんというか「時代がそうさせたのだ」という感じだ。生命というのは形ではなくほとばしるエネルギーである。地球の持つ熱力学的エネルギーが、相対的なエントロピーの低下をもとめる中で「生命エネルギー」という形で生命を生み出した。これが地球の誕生後、相対的には短期間のあいだに生命が生まれた理由ではないだろうか。

生命は何度も危機に晒されたし、初期の頃は皆殺し的な場面もしばしばあったのだろうと思う。荒れ狂う修羅の如きエネルギーが、相対的に安定した定在的エネルギーとして、生命の存在を許すようになったのはカンブリア紀に入ってからのことであろうと思う。

生命を地球エネルギーの定在(構造化)として把握するならば、それは地球の命の終わる日まで「構造的発展」を遂げることになるであろう。その範囲内において我々は安んじて「進化と発展」という言葉を使い続けてよいのだろうと思う。そして、その頃までに我々は宇宙的エネルギーの体現者としての様相を整えることになるだろう。

昨日酔っ払って書いた核酸→RNA→DNAというのが、実は大変な問題らしい。

老人が間違えてアクセルを踏んでしまって、えれぇところに突っ込んでしまったようだ。

どこがどうしてえれぇところかというと、「RNAワールド」と言って「かつて原始地球上にRNAで出来た世界が存在していて、それが生命世界へと発展していった」という仮説がある。

これはこれで良いのだが、これに対して「プロテイン・ワールド」という仮説があって、核酸よりも蛋白のほうが生命にとって本質的なのだという。

目下この二つが大論争の最中らしい。当然のことながら、両者の論争はきわめて専門的であり、最新の情報を駆使したものであり、かつ根本のところではきわめて党派的なのだ。

「核酸党」と「蛋白党」の対決を少し眺めることにしたい。

RNAワールド

我々が学校で習ったのは、DNA→RNA→蛋白であり、DNAが基本である。これを「セントラル・ドグマ」という。

ただ発生学的に考えれば、RNAが最初にできて、DNAは“種の保存に特化したRNA”として出来てきたのではないかとも考えられる。

これは昨日、私が酔った頭で考えだした“思いつき的ドグマ”である。

しかし、シラフでしっかり考えて、必要な実験もやった人がいて、それが「RNAワールド」仮説として流布されているらしい。ただ「RNAワールド」論者の主張はRNA→DNAにとどまらない。

プロテインワールド

「セントラル・ドグマ」は現実に行われているタンパク合成の機序を示したものにすぎない。しかし「RNA ワールド」は、そもそも核酸がまずあり核酸がタンパクを作り出したとする、

それは核酸主義だ。生命にとって蛋白よりも核酸のほうが本質的だという観点を内包している。「RNAワールド」はDNAワールドをイデオロギーにしてしまった。「神々による天地の創造」の誕生だ

これに対して昔からの蛋白党が装いを新たに登場し、公然と異議を唱えた。

たしかに蛋白は生活の現場を動かしている。起源がどちらかは別にして生命活動においては蛋白のほうがはるかに本質的である。RNAなどなくても低級のポリペプチドならいくらでもできる。

いっぽう核酸の方は奥の院であれこれと人を動かしているだけだ。たかがお神輿ではないか。再利用するとしても、燐という資源に拘束されている。

RNAワールド論への疑問

RNAワールド論の弱点はいろいろ指摘されているが、私には「なぜRNA・DNAは蛋白を作り出さなければならなかったのか」という疑問が決定的なように思える。そこには必然的な理由がないのだ。人間は必要だからコンピュータを作リ出した。おなじようにコンピュータは人間を作ることを必要とするのか。

ある日、RNAが「あぁ、核酸ばかりじゃ何も出来やしない。蛋白みたいなものがあったら便利だなぁ」と思いついて作り始めた。これは「ドラえもん」に出てくるのび太のセリフである。

核酸を介さない蛋白の合成、アミノ酸の重合というものがまずあって、それを交通整理するために核酸が介入するようになった。あるいはさらに、生命活動を営むにふさわしい高級蛋白を作るためにRNAの情報管理能力がもとめられた。

とするのが素直な考え方ではないか、と思われてしまうのである。


何れにせよ勉強だ。

ブログというのは便利なもので、ふと思いついたことをサラサラと書き留めておくと、いつの間にかインスピレーションになったりする。大抵は風呂の中で放った屁みたいなもので、臭いだけだ。
今時分、いい加減アルコールが回った頃に浮かんでくるのだが、次の日にシラフで読み返すとがっくり来ることがほとんどだ。
といいつつ、本日の思いつき。

誰かさんが「生命の本質」として5点か6点あげていた。それは多分正しいだろう。それは時系列的に並んでいるのだろうと思う。
そこには「半生命」的な段階があるのだろうと思う。
屁のあぶくみたいなものが何回も出現して、それがひとつながりになり、回り始めたときが生命の誕生だろう。
それは種としての持続性なのではないだろうか。つまり個体を越えた生命の維持である。しかも拡大的な維持である。
ということで、想像するにRNAからDNAへの転化、すなわち再生・増殖能力の持続的維持こそが生命の誕生の瞬間なのではないか。
現在、この世界にはRNAウィルスというものが存在する。これは生涯のほとんどを「物質」として暮らす。「生涯」というものがあればの話だが。RNAにもなっていないプリオンみたいなものもある。
これらはDNAに取り付く一種の寄生虫で、DNAに取り付いてその一部を修飾し、自分を複製させる。その時だけはあたかも生物であるかのように存在し活動する。しかし自分に見合うDNAが自分を取り込んでくれない限りは塵や埃の一部でしかない。
こういうパートタイマー的生命が、生命の最初を形成したとのではないか。
いまのRNAウィルスのほとんどはもともとRNAだったのではなく、DNAに寄生する中で余分なコンポーネントを削ぎ落とし、RNAに「進化」した存在である。これを我々の祖先とすることは出来ない。
しかし太古の昔には「自立したRNA」が存在したのではないか。
この「自立したRNA」は、m,t,mRNA的なものやdsRNA的なものなど幾つかの形で発展し、ある日DNAとなって自律的な増殖能力を獲得したのではないだろうか。
パートタイマー的生命がより持続的な臨時社員的な生命に発展し、さらに世代を超えて自らの種を持続・増殖させるようになったときが「生命」の始まりと見てよいのだろう。

エンゲルスが「生命とはタンパク質の存在の仕方である」というのは正しい。そのテーゼはここまで展開できるのである。
マルクスが資本主義的生産を、単純な生産→単純な再生産→拡大再生産という3つの段階を見据えながら論じているのは示唆的である。まさしく、「生命」は拡大再生産の可能性を手に入れたことによって本格的な生命となるのである。



Oscar Schémel  “It Takes a Lot More Than Votes to Govern 

venezuelanalysis.com April14, 2017 より

最近の世論調査によると、76%のベネズエラ人は、マドゥロ大統領を辞任させるために国際的介入を認めていない。わが国への国際的な軍事介入には87%が反対している。

一方、9割が暴力行為を拒否し、グアリンバ(反政府集団の道路封鎖)を拒否している。

同様に、3人のうち2人は、アメリカ国家機構(OAS)の動きに対して否定的意見を持っている。

この調査は、84%のベネズエラ人が、政府と野党間の対話を促進する国際調停に同意していることを明らかにしている。

ベネズエラ人の83%が対話を支持している。そして67%は対話の優先順位が経済問題を解決することだと考えている。

確かに、今日、ベネズエラは平和、安定と進歩を望んでいる。大多数のベネズエラ人は妥協、均衡、合意、和解​​の気風を望んでいる。

疑いなく野党は「出口」政策を主張している。これはマドゥロに辞任を要求して、公然と反旗を翻す路線である。

国会では、国際機関や他の国が内政に介入し、我が国に対して制裁を課すようもとめている。

立憲制度の崩壊を推進し、街頭を抗議の暴動で燃え上がらせ、軍事的な蜂起を誘発し、政府の経済政策を妨害し、なすべき対話を押しつぶし、よってもって政府の破滅の条件を作り出そうとしている。

この国は解答と解決策をもとめている。その前で、野党は「今すぐマドゥロを取り除く」以外の提案を提示していない。それは彼らがチャベスに行った行為と変わらない。それが無力であるのは試され済みである。

国内外の極右勢力は、政権との併存も政権の交代も提案していない。コンセンサスなど念頭にない。

彼らがもくろんでいるのは、カオスを作り出し、ベネズエラ社会の中にノイローゼをもたらし、チャベス主義を根底から破壊することなのだ。そして国家と民衆の文化を作り直し、人々に絶望を課すことなのだ。

過激な反政府派は、国際社会や国際報道でボリバル政府を弱体化させ、侵食し、評価を下げることには成功するかもしれない。

しかし、そのことで良好なガバナンスと安定のために必要な条件を構築することはできないのだ。彼らにはそれが理解できないでいる。


Oscar Schémel はベネズエラの独立系世論調査会社の社長。このインタビューは暴力的な抗議デモで7人が死んだ日に行われている。

政府への批判はいろいろあるが、野党の抗議デモにはまったく、政権退陣以外の主張が見られないこと、外国の干渉を促していること、道路封鎖など行動に倫理性が見られないことについて、多くの国民が反感を抱いていることが分かる。

話を聞いていると、ますますタイでのタクシン親子政権への、無道な抗議行動が思い浮かぶ。それはまっすぐ軍事クーデターへと結びついていった。

最近のベネズエラの動き(BBCニュースとWkikiをもとに作成。ただしWikiは明確に野党側の立場)

2012年

10月 大統領選挙。チャベスが4選を果たす。投票率81%、チャベスの得票率は54%

2013年

3月 チャベスがガンで死亡。58歳。

4月 大統領選挙。チャベスの後継者マドゥーロ(Nicolas Maduro)が大統領に就任。選挙は僅差であり、野党は不正選挙と糾弾。

9月 大規模な停電。カラカスをふくめ全土の70%が影響を受ける。マドゥーロは「右翼のサボタージュによるもの」と非難。

11月 年間50%にのぼる物価上昇。国会はマドゥーロに1年間の非常大権を与える。マドゥーロは企業の利益率の制限を図る。

12月 地方選挙。与党勢力が10%の差で勝利。政府の経済政策への期待を表す。

2014年

2月~3月 ベネズエラ西部で治安の悪化(poor security)に抗議するデモ。これに呼応して、カラカスでも野党の支援する反政府デモが始まる。警察との衝突で28人が死亡。

11月 政府、石油価格補償を4年間の期限付きで削減すると発表。(これについては記事を参照のこと)

12月 ベネズエラ検事総長(chief prosecutor)、野党指導者マリア・コリーナ・マチャドがマドゥーロ大統領の暗殺計画に関わったと非難。

2015年

2月 政府、カラカス市長レデスマ(野党)が米国の支持するクーデター計画に関わったと非難。レデスマは否定。

12月 国会議員選挙。野党連合が議席の2/3を超える圧勝。最高裁が野党の3議員の当選を無効としたため、マドゥーロの提出する法案を拒否するための議席は割り込む。

2016年

2月 マドゥーロ、経済危機対策を発表。通貨の引き下げ、ガソリン価格の値上げ(20年ぶり)を柱とする。

5月 野党勢力、マドゥーロのリコールをもとめる署名180万筆を集めたと発表。以後、中央選挙委員会への「要請デモ」が繰り返される。

6月 スクレ州でガソリン値上げに抗議する暴動・略奪事件が発生。

9月 野党が数十万人をカラカスの抗議行動に動員。経済危機対策に失敗したとしてマドゥーロの退陣を求める。

10月 中央選挙委員会、署名180万筆は不正の疑いが強いため、国民投票の実施は当面見送ると発表。

10月 国会、「現状はマドゥーロによる事実上のクーデター状態である」と宣言。

10月 野党が提起したマドゥーロ退陣を求める全国行動。主催者発表で120万人が参加。同時に行われた全国ゼネストは低調に留まる。

11月 野党が呼びかけた大統領官邸へのデモは、2002年4月の再現が予想される中で、中止される。

12月 バチカンの調停による政府と野党との対話が決裂する。野党はマドゥーロが立憲体制と民主秩序を侵犯し、人権を侵害し、経済社会的基礎を台無しにしたとし、退陣を要求。

2017年

1月 野党指導者数人が政府転覆を呼びかけたとして逮捕される。与党・野党間の対話の窓口は消失する。

3月 ベネズエラ最高裁(TSJ)、国会議員の不逮捕特権を剥奪すると決定。野党側の言う「憲法危機」が始まる。

4月4日 野党のデモに対し、親政府派の「コレクティボ」が対抗し衝突。警察の他に国家警備隊(GN)が動員される。

4月8日 野党のデモ隊が裁判所を襲撃。野党デモが暴力的となる。

4月12日 ベネズエラのカトリック教会が、警察側の自重を呼びかける。(ベネズエラのカトリックは野党側の政治的拠点)

4月19日 野党勢力、全国動員でカラカス大集会を呼びかける。警察と警備隊は市街からのアクセスを遮断、市内各所で衝突が発生。少なくとも12人が死亡。集会そのものは成立せず。各種報道は数十万ないし6百万人が抗議に参加したと報道。

5月1日 マドゥーロ、制憲議会の設置を提案。全社会セクターの結集をもとめる。

5月 デモ隊と警察との衝突がますます暴力的になり、連日のように死者が発生。

心不全の新治療基準」への補足

NT-proBNPについて

bnp

見てもらえば分かるように、NT-ProBNPはBNPの前駆体からBNPを抜き出した搾りかすの方だ。

したがってBNPを測れば、それに加えてNT-ProBNPを測る必要はない。では何故NT-ProBNPもはかるのか? これについての説明はない。

日本心不全学会のページに「留意点」が載っている。

とにかく失敬なほどに、何も書いてない「留意点」だ。

日経メディカルに「NT-proBNPは心不全検査として有用」という記事がある。2006年の記事で相当古い。

ポスターセッションで、デンマークFrederiksberg 大病院のJens Rosenberg が発表したもの、とされている。

これはNT-ProBNPと心エコーの左心機能との関連を見たもので、LVEF40% をカットオフ・レベルとして上か下かと分けるという、相当荒っぽい調査。

結果としては、感度100%でOKということになった。つまりNT-ProBNPが127ng/L以下ならEF40%以下の心不全はないということだ。

これをコストから考えると、心エコー検査が150ユーロ、NT-proBNP検査が22.50ユーロで、患者1人当たりの診断費用を21ユーロ減らせる。

ということで、別にBNPと比べて優れているとかいう報告ではない。

よくある検査のご質問 というページがあって、「ANPとBNPの使い分けを教えてください。また新しい検査NT-proBNPとの違いは?」という質問に対する答え。

端的に言えば

NT-ProBNPの長所は診断における特異性ではなく、血清で測れることや凍結保存が不要なことなどである。

まぁ、そういうことのようだ。

多分両方調べたら間違いなく査定されるだろう。NT-ProBNPなどという言葉、忘れたほうがいい。脳みそがもったいない。

トロポニンと高感度トロポニンについて

私の循環器専門医としての歴史は10年ほど前に終わっている。その頃の最先端がトロポニンTだった。MB・CPKより早いと言われた。

10年後の今もあまり変わっていないようだ。ただ心筋梗塞だけではなく心不全でもそのときに心筋が傷めば、トロポニンは出てくるだろう、ということは予想できる。実際にMB・CPKはケースによっては著増する。

CHFの予後を見る上でたしかに心筋がどれだけ壊れたかを見ておくことは大事だというのは分かる。多分そのへんはデータが蓄積しているのだろうと思う。

ただ、心不全ではそれ以外にも重要な予後規定因子はたくさんあるから、そのうちの一つということになる。とくに心不全の発症あるいは遷延に心筋の炎症(とくに自己免疫)が絡んでいるかどうかは大事な話だ。

その点で、高感度トロポニンは注目される指標となるかもしれない。であれば、高感度CRPも大事になるかもしれないし、場合によっては何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない。

またACE、ARB、β遮断剤などの効果(あるいは不応例)を見る指標としても使える可能性がある。

心筋線維化指標について

これがどの程度役立つのかは、私には分からない。この10年の間に進歩しているのかも分からない。

ここで挙げられているのは可溶性ST2受容体、ガレクチン_3である。

まず「可溶性ST2受容体」だが、これが説明を読んでもさっぱりわからない。

まず言葉通りの「可溶性ST2受容体」という用語は検索に引っかかっては来ない。

あるのは「可溶性ST2」だ。これは可溶性タイプの「ST2」という意味で、「ST2」というのは「インターロイキンⅠ」に対する受容体のライブラリーの中の一つということらしい。

といってもなんだか分からない、という事情には変わりはない。免疫屋さんの世界だ。

「ガレクチン3」というのも似たようなものらしい。

新語シャワーをバイパスして、結論だけ読みたい人はここがいい。「大日本住友製薬」の「医療関係者さまサイト」に下記のアブストラクトがある。

長期心不全リスクの層別化を目的とした2つの心筋線維化バイオマーカーの直接比較…ST2 対 ガレクチン-3

面倒なことは一切飛ばして結論だけいうと、

ST2 は心不全の予後判定に関して独立した因子となりうる。一方、ガレクチンはまったく役立たない。

ST2は心筋線維化およびリモデリングの有望なバイオマーカーとなっているが、それが多変量解析で立証されたということであろう。

先ほど、「何か適当な抗心筋抗体も見つけられるかもしれない」と書いたのがこれにあたるようだ。

女子医大で研修していた頃、心筋炎のチームと多少関わっていたので、「すべての病気は炎症だ」という気風にいくらか染まっているかもしれない。

「胃炎も炎症だ」と、胃が痛い人にロキソニンを処方して、薬局のひんしゅくを買っている。自験では二日酔いの特効薬はロキソニンである。

ARNIについて

久しぶりの新薬である。薬屋さんはワクワクであろう。

アメリカでも承認されてまだ2年も経っていない。日本ではフェイズⅢの段階だ。

我が国ではARBが圧倒的だが、これは薬屋のキャンペーンのおかげで、老健ではすべて自動的にACE(エナラプリル)に切り替えていた。それでなんの痛痒も感じなかった。

多分、薬価差だけでスタッフ2人分くらいの差額は稼げたのではないかと思う。

今度の薬は「標準治療薬であるエナラプリルをついに超えた薬剤」と宣伝されている。

47カ国985施設が参加した国際共同臨床試験 で、「エナラプリル群に比べてLCZ696群で20%有意に低下」との成績を叩き出した。

しかし内容をよく見ると、率直に言って革命的な薬ではない。悪く言えば、副作用のために発売中止になった薬をARBと抱き合わせて売り出したに過ぎない。つまりは副作用の出ない範囲に減らしただけであって、長期に使えば副作用が出ないとは限らないのだ。

副作用で中止になった薬というのがネプリライシン阻害薬omapatrilatという薬だ。副作用というのはアダラートやα遮断薬に似ていて、血管浮腫や顔面紅潮、起立性低血圧などだ。

これは素人考えでいうと、ARBやβ、アルダクトンを満度に使ってもうまくいかない人にアムロジンをちょっと足してみたらというオプションではないかと思う。

普通アムロジンは1日5ミリまでだが、これを10ミリ、15ミリまで増やしたらなんとかなるかもしれないという選択である。あるいはカルデナリンを5ミリとか10ミリに増やして、とにかく後負荷(アフターロード)を下げてみましょうということだ。

私はこの先に未来はないと思う。

イバプラジンについて

心不全の薬となっているが、紛れもなく抗不整脈薬(Ⅰf ブロッカー)である。しかもフランス発の薬である。

フランスと言えばリスモダンである。これはⅠaだが、使いはじめて40年、いまも日常的に頻用されている。

余談だが女子医大心研の広沢元所長はキニジン大好き人間で、私もその薫陶を受けてかずいぶんキニジンを使った。キニジンとジギを併用して頻脈発作を止めるという、かなり恐ろしいこともやった。

慣れるとキニジンほど強力で安全な薬はない。VTにもばっちりである。難は在庫がないことである。そして薬剤師が怖がることである。

それはさておき、イバプラジンはいまや心不全の標準薬として世界に承認されつつある。

おそらく陰性変時作用に往々にしてつきまとう陰性変力作用がないのであろう。しかしそういう人間が平気でベータを使うのが不思議でならない。

こういうのを事大主義者という。何故ジギではだめなのかの説明はない。もちろんキニジンについても説明はない。

だから私はこの薬は使わないだろう。使うなとは言わないが…


シアノバクテリアと葉緑体の関係

1.わからず屋の教師たち

前にも染色体とDNAとの関係について書いたのだけど、生物学屋さんというのはどうしてこうも分からず屋が多いのか不思議だ。

染色体イコールDNAと書いて平気でいる。生徒が悩んで聞いても質問には答えないでけむにまく。

染色体というのはただの入れ物にすぎないのだ。しかも細胞分裂をするときにだけ現れる引越し屋の梱包のようなものだ。

普段はDNAはぞろぞろと二本鎖のまま核内に折りたたまれている。

その昔、木原さんという遺伝学の大家がいて「染色体こそ遺伝の本質だ」と言った。DNAの存在すら知られていなかったその頃は、それで正しかったのだが、いまは過去の遺物だ。

DNAは生殖の場面での遺伝情報の伝達に留まるものではない。むしろ本態は、蛋白の生成のための情報センターと言うところにある。

旧来の「遺伝子、ジーン、ゲノム」という言葉は使っているが、いまや遺伝とは関係のない話なのだ。遺伝屋さんや染色体屋さんが出張ってくる幕はないのだ。

2.生徒は本当に悩んでいる、教師は本当に分かっていない

シアノ 質問

YAHOO知恵袋に寄せられた質問の一覧である。

検索結果をもっと見る

をクリックするとさらにぞろぞろと出てくる。
要するに、まともに分かるような教え方をしていないということだ。それで回答者も同じような連中だから、質問の意味がわかっていない。


3.問題の本質は何故シアノバクテリアが光合成できるようになったかだ

ここをしっかり説明すれば、他の問題はささいな、どうでも良い話になる。

じつは、シアノバクテリアは光合成を行う唯一の細菌ではないし、最初の細菌でもない。

シアノバクテリア型光合成の前に幾つかの試行例があった。名前は覚えなくてもいいが、緑色無硫黄細菌、緑色硫黄細菌、ヘリオバクテリア、紅色光合成細菌などがある。

それらの能力はいずれも弱く、酸素を発生することもなかった。なぜかというと、光合成の二つの段階(Ⅰ型複合体とⅡ型複合体)のうちどちらかひとつづつしか持っていなかったのである。

シアノバクターはこの二つをⅡ段式ロケットにして一気にエネルギー発生効率を高めたのである。同時に凄まじい量の酸素を発生し始めた。

その革新的なプラントが、シアノバクターの細胞の中に詰め込まれている。いま葉緑体の中に詰まっている諸要素でもある。

4.シアノバクターはこのプラントを自分一人で作ったのだろうか

生徒たちは、こう考えるに違いない。真核生物がシアノバクターを細胞内に住まわせたように、シアノバクターも葉緑体(クロロブラスト)を食ったに違いないと。

実はそういう説もあるのである。

たとえば、緑色硫黄細菌はⅠ型複合体のみをもっている。紅色光合成細菌はⅡ型複合体のみを持っている。

これが合体したらどうなるだろう、とおたがいに思ったとしても不思議はない。

ただ原核生物同士の合体なので、垂直統合とかM&Aとは違って、DNAの問題が絡んでくる。みずほ銀行のようになっては困るのだ。

「運転手は君だ、車掌は僕だ、後の2人は電車のお客」と折り合いをつけなければならない。

まったくの与太話なのだが、何度も失敗した末に「奇跡の大逆転」が起きて、シアノバクターが誕生し、このハイブリッドがプリウスも真っ青の大成功を収めたのでは? と想像するだけでも楽しい。

5.ドジョウが出てきてこんにちは

実証はされていないが、理論的には40億年ほど前に海底の熱水噴出孔に原始生命が誕生したと考えられている。

原始生命にとっては、この暗黒、高圧、灼熱と極低温の世界がエデンの園であったわけだ。

地表の環境が徐々に変わってくると、ソロリソロリと出エデンを図るものも出てくる。

彼らにとってはエネルギーの確保がすべてである。メタンや硫黄などをもとめてさすらう。その中で「どうせここまで来たんだ。太陽光も使おうじゃないか」という連中が現れて、光合成もやるようになる。

これが真性細菌と呼ばれるようになる。海底に残った連中は古細菌(アーキア)と呼ばれる。

地表近くでシアノバクターが大成功をおさめると、古細菌の中からも「ちょっとあちらも覗いてみようか」という連中も出てくる。それがシアノバクターの方からすれば、「ドジョウが出てきてこんにちは」の場面となる。

ドジョウはシアノバクターと遊ぶふりをして、食べてしまう。食べられたシアノバクターは「あなたのために一生懸命働きますから、どうか堪忍してください」ということで、生殺与奪の権を譲り渡して奴隷生活をおくることになる。

というのが筋書きだ。

もっとも古細菌の方から頭を下げて、婿養子に入ってもらった可能性もあるが、そんなことはどうでもいい。

6.共同生活のルール

共同生活は難しい。嫁さんと50年も暮せば身にしみて分かる。心を通わせるとか慈しみ合うなんてぇのは嘘っぱちで、かろうじて折り合いをつけながら、相手を空気のように考えられるようになるのが究極の目標だ。

殺し合わないこと(免疫学的寛容)、助け合うこと、歩調を合わせること、共通の敵に立ち向かうこと、などが思い浮かぶ。

とくに歩調を合わせることが重要だ。成長・増殖の際には1対1の対応が厳密に求められる。そうでないとシアノなしの空細胞や、シアノだらけの過密状況が生まれることになる。

だからシアノバクターは自らのDNAの中から、増殖の扉を開ける鍵(遺伝子)を真核細胞に預けることになる。増殖するための遺伝子は持っているから、真核の方から増殖を開始せよといえば増殖できるが、自分の判断で増殖することは出来ないのである。

 

ミトコンドリアと親細胞の力関係について

真核生物の記載を見ると、古細胞がシアノバクテリアを取り込んで自分のいいように使っているという感じが浮かび上がってくる。

だが果たしてそうなのだろうか。実はシアノバクテリアが古細胞の体に入り込んで、古細胞をいいように使っているという可能性はないのだろうか。

私たちのからだは古細胞を起源とする真核細胞からなっている、と、私達はそう思っている、というか思い込んでいる。

だが私は実は真核生物ではなくてミトコンドリアなのではないか、と思い始めると寝付けなくなった。


そう思い始めたのは、ウィキのミトコンドリアの説明を読んだからだ。

そこにはこう書いてある。

(ミトコンドリアは)酸素呼吸(好気呼吸)の場として知られている。

全身で体重の10%を占めている。

肝臓、腎臓、筋肉、脳などの代謝の活発な細胞には数百、数千個のミトコンドリアが存在し、細胞質の約40%を占めている。

つまり人間の体を動かしているのはミトコンドリアであり、重量からいってもほとんど主役なのである。


一つの企業がある。工場の敷地やインフラは親細胞のものだ。ミトコンドリアはそこで働く労働者にすぎない。

しかし社会主義者はそうは考えない。

工場はそこで富を作り出す労働者のものだ。親細胞は月に一度家賃を取り立てに来る大家みたいなものだ。

そういう考えも成り立たないわけではない。むしろそちらのほうが世の常識に合致している。

たしかに土地は大家のものだ。細胞核という邸宅に住み、土地の登記書はしっかり握っている。自分が死ねばその登記書はその子に渡される。しかし労働者は定年になったらそれで終わりだ。

それで俺はどっちなんだ。あんたはどっちなんだ。

2016年12月20日 を作成。2017年02月03日 に1回増補している。

今回、2回めの増補を行うことにする。

柴正博「はじめての古生物学」(東海大学出版部 2016)とポール・デーヴィス「生命の起源」(明石書店)、ピーター・ウィード他「生物はなぜ誕生したのか」(河出書房新社 2016)を読んだことが理由である。ただし3冊目はまだ読みかけで、読み終わればさらに追補が必要となるかもしれない。

それにしても、この1,2年でずいぶん本が出ているということで、おそらくかなり急速に知見が集まりつつあるのではないか。そのために一種の星雲状況となっているようだ。

前回も書いたのだが、「アミノ酸から始まって生命に至る過程と、LUCAのあいだになお深い断絶がある」

この断絶感は新知見が集まるほど逆に強まってくる。

話の焦点は核酸の形成とRNAからDNAへの情報機能の積み上げにある。しかし、これについて触れた文献はほぼゼロだ。

いろいろな書物からつまみ食いしたせいで、相互に矛盾する記載もあり、何が何やらわからなくなっている。いずれ何かの本で一本化した上で、矛盾するものについては「異説」として掲載する方向で考えている。

ただ所詮、絶対年代の時間軸を作成すること自体が不可能なので、やはり字句で書き連ねるしかないのかもしれない。

ポール・デーヴィスは「生命の起源」の中で生物の本質機能を次の6点にまとめている。

1.代謝機能 ATPを頂点とする合成と消費の三角形

2.「複雑さ」の組織 そう難しく言わんくても生体構造の構築くらいでも良いんじゃないか

3.複製 普通に言えば生殖機能でしょう

4.発達 個体レベルでの進化

5.進化 種のレベルでの進化

6.自律 「自己」の保持ということでしょうか

そして生命とはこれらの機能を付与された「特殊な化学物質」だとしている。

いささか衒学的かつ還元主義的な嫌いはあるが、内容としてはこんなものかもしれない。

ただ、「生物を物質としてみれば」の話であって、これだけでは生物をAIに見立てた「生物機械論」の世界だ。

一方で、生物を「エネルギーの持続的存在のあり方」として見る観点も可能であり、むしろそのほうが本質をついているのではないかとも思う。



1.ベネズエラを日本の国政システムに当てはめてはいけない

たしかにベネズエラ問題は難しい。問題そのものが難しいというより問題の枠組みが難しいのだ。

大統領を頭にいただく共和政治というのがピンと来ないことが最大の難所である。

とくに大統領の権力が強大な国の政治は、我々にはわかりにくい。

アメリカ然り、韓国然りである。そしてラテンアメリカのすべての国も基本的にはこのタイプである。

いっぽうヨーロッパの多くの国は大統領は置くものの、儀礼的なものであり、実質的には議院内閣制である。

したがって、三権分立とはいうものの、実体としての最高権力は議会にある。

日本もほぼこれに近い政体であるといえる。

なぜそうなったかというと、大本は戦後の天皇制廃止に伴う元首の位置づけにあるのだが、これはこれで大問題なので、とりあえずおいておく。

ところが地方自治体においてはアメリカ型のシステムが直輸入されているから、どことなくぎこちない。

2.ベネズエラを東京都政と比較する

とにかくベネズエラの政治システムを考える場合は、日本の国政を考えるよりは例えば東京都政を考えたほうがわかりやすい。

この間、東京都知事は石原から、猪瀬、舛添、小池と目まぐるしく動いてきた。

しかし、いずれも保守系の知事であるから都議会との軋轢はそれほどのものではなかった。小池都知事になってからいろいろスッタモンダがあるが、本質的なものではない。

しかしこれが例えば美濃部さんのような革新都政だと状況はガラッと変わる。

美濃部さんが出す施政方針はことごとく都議会の反対にあった。では美濃部さんは都議会が反対して法案が成立しなかったら、辞職すべきだったのか。あるいは議会を解散し選挙に打って出るべきだったのか。

美濃部さんはそうは考えなかった。彼は辞任もせず、都議会も解散しなかった。そして都議会の反対にも関わらず次々と革新的な施策を打ち出し、それを都知事の権限をもって実現していった。そうなると、都議会というのは存在意義を失ってしまう。

そこでいろいろとイチャモンをつけて、あわよくば辞任あるいは弾劾にまで持って行こうとする。

こういう行政と議会とのせめぎ合いになったとき、最後に決めるのは都民の世論である。

いずれにしても都政の進め方について、議会と知事はイーブンの関係にあるのだ。

3.ベネズエラをオバマと比較する

オバマは米国の政治史上もっとも進歩的な大統領だった。そう私は思う。やったことがトータルとしてもっとも進歩的だったとはいえないかもしれない。

核廃絶の思いも、医療保障への思いも、中東和平も、所得格差の是正も、キューバとの国交回復もすべて中途半端のままで終わらざるを得なかった。

ものの考え方はとても進歩的だった。しかし8年間の任期中、オバマはずっと議会内少数与党として行動する以外になかった。

議会、とくに下院は一貫してオバマを拒否し続けた。ではオバマは下院の支持が得られなかったら辞職すべきだったのか?

辞職せずに8年間も大統領の座に居座りつづけたことは、民主主義の破棄行為だったのか。

そうじゃないでしょう。逆でしょう。少なくとも米国の世論はそう考えた。「議会こそ最低」という世論が多数を占めた。だからオバマは8年間も大統領を務め続けることが出来たたのではないか。

ベネズエラのマドゥーロだって、議会で選ばれたのではない。国民の直接投票で選ばれたのです。議会に攻撃されたからといって辞める必要はないのです。

議会から攻撃されても、市民デモで攻撃されても、それが破廉恥な罪によるものでない限り、あらゆる手練手管を使って生き延びる権利もあるし、選んでくれた国民への義務もあるのです。

ここをまず押さえる必要があるのではないでしょうか。

4.議会と行政が対立したときの司法権の重要性

強い大統領制を敷く国においては、議会と行政との対立・ねじれはしばしば起こります。

下手をすれば、大統領の任期中ねじれ現象は続くことになります。

しかし行政を中断することは出来ません。だから世論を二分するような施策は別にして日常の行政は継続されなければならないし、場合によっては事実上の法改正となるような一定の判断もくださなければなりません。これは行政命令の形でくだされます。

こういうときが司法の出番となります。まず行政命令の適法性の判断です。これはさほど難しい話ではありません。過去の判例が事実上の法律となるケースは、日本でもよくあります。もっと大きな変更を加える場合は、既存法体系から言えば厳密な意味で適法ではなくなってしまいます。

その際は合憲性が問われることになります。

もう一つは、大統領が立候補にあたって掲げた公約です。これはある意味で国民の支持を受けた政策提案ということになるので、憲法判断において妥当であれば尊重されることになります。

これらの場合においては、「厳密に言えば適法ではないが、憲法の精神に照らして合法である」という判断がくだされれば、行政はその措置を実行することができるわけです。これはネガティブな意味での立憲主義といえるかもしれません。

それがもっとも極端な形で現れているのが、ベネズエラの状況です。

議会は、少なくとも多数派は、政府提案を一切承認するつもりはありません。ただひたすらに政権打倒に向けて動いています。こういう状況のもとでは議会は実質的に無意味なものになってしまいます。その際は、国の政治は政府が提案し、司法が承認し、これを受けて政府が動くという形にならざるをえないのです。

三権分立というのは議会が寝転べば、他の二権でやりくりするという内容もふくんでいることになります。

このような法原理を踏まえた上で、ベネズエラの政治情勢を見ていくことが必要かと思います。

心不全の治療・管理法が変わるようで、Medical Tribune にその概要が載っている。
簡略に過ぎて実態がよく分からないが、バイオマーカーの統一が図られているようだ。
バイオマーカーとしては従来のBNPの他にNT-proBNPの導入が推薦されている。(いろいろ調べると、NT-ProBNPはBNPの代替にすぎないようで、無視して構わないようだ)
また急性期にはこれに加えて心筋壊死の指標である心筋トロポニンの測定が勧められている。
さらに長期化した際には予後判定に心筋線維化を示すバイオマーカーの測定が推薦されているが、これについてはとくにマーカーの指定は行われていない。(候補として可溶性ST2受容体、ガレクチン_3、高感度トロポニンが挙げられている)
治療の方では以下の点が追加されている。
1.低拍出量型心不全の治療の標準としてβ遮断薬が推薦されている。一部の症例では、抗アルドステロン薬の併用も勧められている。またレニン・アンジオテンシン系が賦活された状況ではACE阻害薬あるいはARBの併用も勧められている。…これは今までと大きな違いはない。
2.ARNI が治療戦略へ追加された。中等症の慢性心不全でACEあるいはARBにトレラントとなったケースで、ANRIへの切り替えが推薦されている。
3.イバプラジンも新たに追加された。低拍出量(LVEF<35%)の心不全で洞頻拍を示すケースでは、積極的使用が勧められている。これはおそらく、「もうジギタリスは使うな」ということであろう。
4.心不全の患者の積極的高圧が勧められている。目標としては<130/80 に設定されている。降圧自体はこれまでも勧められているので、数値目標が目新しいといえば目新しいと言えなくもない。
新聞に載ったのはここまで

ウィキのポイヤウンペの説明は、どうも正直のところ、ぱっとしない。何か他にないかと探していて見つけたのが下記の文献。

中世日本の北方社会とラッコ皮交易 : アイヌ民族との関わりで (改訂版) 関口明(2013)

いつもお世話になるHUSCAPのデジタル書籍である。この中の第三章がポイヤウンペを取り扱っている。

3.ラッコとユーカラ「虎杖丸の曲」…アイヌ民族の成立との関わりで

A. ユーカラの位置づけ

知里真志保はアイヌの物語文学を下図のように分類した(知里

1973a)。

bunrui

普通ユーカラという場合,「人間のユーカラ」に当たる。これをアイヌ史研究の資料として本格的に位置づけたのが知里である。

知里は1973年、ヤウンクルを擦文人、レプンクルをオホーツク人に見立て、ユーカラは民族的な戦争の物語と解釈した。

榎森進は知里の見解を受け継ぎ、ヤウンクルは,人名の語葉表現上の特質から,一筋の河川を中心に形成された河川共同体のひとびとであるとした。

B. 「虎杖丸の曲」が標準

研究のための一次資料は、平取の鍋沢ワカルパ翁から採録した「虎杖丸の曲…変怪の憑依、恐怖の憑依」である。虎杖と書いてイタドリと読む。山野にはびこる猛々しい雑草である。

これは金田一京助が大正2年に採録したものである。

「虎杖丸の曲」は全9段からなり、ヤウンクル同士の戦い,ヤウンクルとレプンクルの戦いなど様々な戦いが語られている。そのうち5段までがラッコの争奪を主因とした戦いである。

主人公(われ)はポイヤウンペである。

C. 「虎杖丸の曲」の構成

第1段 浜益の「シヌタプカ」の山城に生まれ、兄と姉に育てられた。

第2段 石狩の河口に黄金のラッコが出没する。石狩彦(石狩のボス)は捕獲者を募った。褒美には妹を差し出すとした。他の人は失敗し、最後にポイヤウンベが成功する。しかしポイヤウンペは捕らえたラッコを、石狩彦に渡さずに浜益に持ち帰ってしまう。

これを知った兄はこう予言する。

こうなっては自分たちの郷も無事ではすむまい,さらに昔起こったことと同じようなことが新たに起ころう。必ず戦乱が起こるであろう。

第3段 石狩彦の妹,石狩媛はポイヤウンペに嫁ごうと思ったが、ポイヤウンペは無視した。顔に泥を塗られた石狩彦は、シスタプカ(浜益)に戦いを仕掛けた。「黄金ラッコ戦争」が始まった。

闘いは殺戮戦となった。ポイヤウンペは攻めてきたチュプカ人、レプンシリ人、ポンモシリ人を撃退した。

さらにレプンクル・モシリ(樺太)の味方を得たポイヤウンペは石狩に乗り込み、石狩援やチュプカ媛を斬り殺した。

その後ポイヤウンベは苦難を潜り披け,ついにシヌタプカの山城に生還し,手創を負って寝ていた養兄・養姉・カムイオトプシなどと勝鬨をあげた。

第4段 シヌタプカではポイヤウンペを迎えて祝勝会が開かれた。岩鎧のシララベツン人,金鎧のカネペツ人が奇襲をかけた。シヌタプカの諸々が倒されたが,最後にポイヤウンベがその仇を討つ。ここで初めて虎杖丸と呼ばれる怪刀がその威力を発揮する。

第5段以降は石狩とのラッコ騒動をめぐる話とは別になるということで省略されている。

D. ラッコが石狩に来ることはありえない

関口さんはラッコは寒流系の動物であり、石狩に来ることはありえないとしている。

つまり,ラッコが登場するそれなりの必然性があった。すなわち、どこからかもってきて放たれたということになる。

ポイヤウンペはそれを捕獲し、シヌタプカに持ち帰り、毛皮とした上で飾ったということになる。手っ取り早く言えば、かっぱらったということだ。

以上


なお最後に関口さんはレプンクル・モシリ(樺太)をウィルタ系と解している。しかしこれはいくつもの推論を重ねて出された仮説であり、そのまま受け取ることは出来ない。

まず、ポイヤウンペの時代が絶対年代としてはあまりに漠然としている。阿倍比羅夫が粛慎を退治した頃の話なのか、北海道からオホーツク人が駆逐されていく8~9世紀の話なのか、樺太からアムール河口まで進出していく時代なのかによって、話は変わってくる。

それから、浜益の人には申し訳ないが、ポイヤウンペの闘いをモヨロ民族とアイヌ民族の戦争だと書いた浜益村史の記述には、かなりの疑問符が突きつけられたことになりそうだ。


その後の検索で、英雄叙事詩の比較研究論— 荻原 眞子

という文書を見つけた。「虎杖丸の曲」のほぼ全文が紹介されている。

もう疲れたので内容の紹介早めるが、是非目を通しておいていただきたい。


次が龍学というサイトの「日本の龍神譚…オヤウカムイ」というページ。

アイヌは相争うこともあった。ポイヤウンペが洞爺湖の竜神オヤウカムイを襲う話は両者に確執があったこと、どちらかと言えば日本海側の勢力が攻撃的であったことを示唆している。

ポイヤウンペが洞爺湖に来ると、オヤウカムイという羽の生えた毒蛇がポイヤウンペを苦しめる。ポイヤウンペは滝の神様にかくまってもらうが、オヤウカムイは羽のある蛇六十匹、ただの蛇六十匹をかり集めて攻める。
滝の神は攻め殺され、ポイヤウンペも全身焼けただれて石狩におもむき、トミサンペッ・コンカニヤマ・カニチセ(トミサンペッの黄金山の金の家)に難を逃れた。(龍学より重複引用)

これは日本海アイヌが胆振のアイヌを攻めた話だ。結局撃退され、ポイヤウンペはほうほうの体で浜益に逃げ帰っている。

注意すべきは胆振アイヌが化け物扱いされていることだ。戦う相手を人間扱いしないのは侵略者に共通する心理機転であり、相手がウィルタであろうと同じアイヌであろうと関係ない。

日高でもオヤウカムイに関する言い伝えがあるらしい。

日高から西部の湖に怪物がいた。全身淡黒色で目の縁と口のまわりが赤く、ひどい悪臭があって、これの棲んでいる近くに行っても、またその通った跡を歩いてもその悪臭のために、皮膚がはれたり全身の毛が脱けおちてしまう。うっかり近寄ると焼け死んでしまう。

のだそうだ。したがって、彼らは退治されて当然ということになる。おそらくオヤウカムイの一族は結局は滅ぼされた。滅ぼしたのはオキクルミということになっている。

アイヌの黎明の英雄神オキクルミは、天上の神々に祈り、大みぞれを降らせ、寒さで動けなくなったオヤウカムイを斬った。

オヤウカムイのために、僅かに次のような挿話が残されている。

アプタ(虻田)の酋長の妻が病み、尋常の加持祈祷では験がなく、蛇神を憑神に持つ特別な巫女に頼んだ所、オヤウカムイが神懸かり、託宣を始めた。

ユーカラの語り口は明らかに侵略者の視点に立っている。このユーカラがアイヌ全体の物語となっているということは、胆振~日高の先住アイヌ人が最終的に征服され、その文化を圧殺されたことを意味しているのではないか。

本日は久しぶりの快晴、上着がいらないくらいの暖かさ。気候に誘われてポイヤウンペの故郷、浜益まで出かけてきた。

以前から気になっていたとことで、スリバチ山の現地を見てみたいと思っていた。

行く前にネットで博物館か、せめて資料館みたいなものがないか調べたのだが、現地には皆無。地元の関心の薄さがうかがえた。

山を崩してしまった明治時代の切通というところを通ったが、切通というレベルではなく、山の3分2をアイスクリームをスプーンでそぎ取ったように、見事に削られている。

切り通したというより、残土を何処かにもっていったのではないかと思わせる。

もう一つ意外だったのは、この浜益の川沿いに平野と行ってよいほどの広々とした田園が広がっていることである。これだけの後背地があれば、一つの国ができる。

それにしても浜益町舎の立派なのには驚き呆れた。4階建てで一部は5階まで達している。今は町ではなく、石狩市の支所にすぎない。


本日前項のブログを再見した。いい写真があったので転載させてもらう。

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平野に突き出した三角の山がスリバチ山の名残。雪の積もった割れ目が切り通し。切通しというよりは土砂採取だったのだろうと思える。

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これが海側から見たスリバチ山。いずれにしても山砦としては絶好のロケーションだ。

 

もう一度ポイヤウンペについておさらいしておこう。と言うより、以前の記事を書いた後、ネット文献もかなり充実してきており、書き直しが必要になった。

以前の記事とは、この2つである。

そこに書かれていたのはごく簡単な紹介で、ユーカラの英雄の一人ポイヤウンベが浜益を拠点としていたということだった。

それだけならそれで済んだのだが、キタムコさんのページで、浜益には巨大が砦があって、それがポイヤウンペの城だったということ、その城が明治時代の開発で跡形なく壊されてしまった、ということを知るにおよんで俄然興味が湧いたのである。

キタムコさんによると、

この山は明治30年まではシヌタプカと呼ばれ、高さは200メートル。頂上は平地となっており、その広さは200x150メートルにおよんだそうだ。

覇者たるに相応しい城ではないか。


ということで、あらためてユーカラとポイヤウンベのお勉強。

まずはウィキペディア

ユーカラに登場する英雄。表記は、ポンヤウンペ、ポンヤンペとも記される。意味は、「小さい・本土の者」。

ポイヤウンペ伝説には2つの系統がある。一つは超能力を持つ神の一人で、分身の術を使って一度に6人の首を切り落としたと言われる。

もう一つの系統が、我々の聞きたい話しである。

① トミサンベツのシヌタプカの大きな城(チャシ)で生まれた。父は樺太方面に交易に出かけ、そこで亡くなった。このため兄と姉に育てられた。

② 「黄金のラッコ」がいて、皆が欲しがった。石狩・川尻のイシカリ彦は「退治したものには自分の妹と宝を与える」と勇者を募った。

③ 東方の人・ポンチュプカ彦、礼文島の人・レブンシチ彦、小島の人・ポンモシリ彦などがこがねのラッコに挑むがいずれもやられてしまった。

④ ポイヤウンペは苦戦の末、名刀「クツネシリカ」の力を借りて「黄金のラッコ」の退治に成功する。

⑤ 彼はそのままラッコの首をつかみ、天空へと去り、真っ直ぐにシヌタプカの城へと逃げ込んだ。

⑥ このことが原因となって大戦となり、それは繰り返された。ポイヤウンペは何度も危機に見舞われたが、そのたびにさまざまな憑神に守られて勝利した。

⑦ 最後は敵方の女性呪術者がポイヤウンペと結ばれて平和が実現する。

⑧ ポイヤウンペに味方したものは「ヤ・ウン・クル」(丘の人)と総称され、敵側の総称は「レプン・クル」(沖の人)といわれた。(戦闘メカ ザブングルとは関係ないようだ)

ただこれは一つの読解であり、ユーカラの記述そのものではないようだ。

カンナカムイとポイヤウンペの闘い

を読むと、2つのことが分かる

まずポイヤウンペは英雄ではあるが殺人鬼だ。オタサムという村の争奪戦では、敵対国に乗り込んで村人を狂人のように切って切って切りまくっている。

ポイヤウンペは神を恐れず、神と闘い、神を打ちのめしている。すなわち既存の権威を打ち壊している。彼は兄がとりなしに入るまでそれをやめようとしない。

彼はレブンクルが支配する体制の破壊者であったのだろう。だからその凶暴性はヤウンクルからは許されたのである。

第二に、彼の英雄譚は浜益を越えて日高の人にまで語り継がれたということである。日高の人と浜益の人の縦帯を共通の英雄譚として結びつけるとすれば、それはアイヌ民族のオホーツク民族に対する反抗心の表象であったのかもしれない。

ただ、それはオホーツク人に対する逆恨みであるかもしれず、オホーツク人を殺し駆逐する行為を合理化するためのイデオロギーであったのかもしれない。

知里真志保「ユーカラの人々とその生活」では次のように語られている。

この戦争の相手である異民族を一括してユーカラではレプンクル(沖の人)と云うのでありますが,それはつまり「海の彼方の連中」ということ
で, その連中の中には「サンタ」と称していわゆる山丹人が出て来るし, その山丹人の仲間には「ツイマ・サンタ」(Tuyma-Santa)すなわち「遠い・山丹人」と称する中国人も出て来ます。

アイヌ物語 というページがネット上では出色である。ページそのものはリンク切れになっているが、グーグル・キャッシュで読むことができる。

ユーカラにはポイヤウンペ、アイヌラックル、オキクルミ・サマイユンクルなどの英雄が出てくる。いずれもアイヌたちの生活や文化を拓いたものだ。この英雄神たちは半神半人であったり、神であったりさまざまである。

1.ポイヤウンペ

ポイヤウンペは両親がおらず、両親以外の人に育てられている。このような生い立ちは英雄たちに共通する。

彼はある日、自分の憑神に両親のかたきの事を知らされ、かたき討に出陣します。

敵討に行く途中に敵であるものとも、敵でないものとも戦いますが、兄や姉の協力を仰ぎ倒していきます。

敵の首領の妹は巫女であり、未来を読んで主人公の味方になります。その後主人公は勝利し、そのまま首領の妹と結婚し、物語は終わりとなります。

ポイヤウンペが使う刀はクトゥネシリカと呼ばれる名刀で、刀に彫りこまれた夏狐の化神、雷神の雌神・雄神、狼神などが憑き神となっており、それらの神獣が現れ持ち主を救います。

とされており、ウィキペディアの説明とはだいぶ異なる。「ファイナル・ファンタジー」の感覚そのままだ。

ただ、深読みにすぎるが、男どもを皆殺しにし、女どもを妻とするという構図は、アイヌ人のY染色体が縄文の色を強く残し、ミトコンドリアDNAがウィルタやカムチャッカの少数民族と共通するという事実と一致しているようにも見える。

2.アイヌラックル

ポイヤウンペはその弱点もふくめ、一番人間臭い英雄であるが、アイヌラックルはもう少し超人的である。

アイヌラックルという名前がそもそも「人間くさい神・人間と変わらぬ神」という意味らしい。

雷神であるカンナカムイとハルニレの木の精霊でもあるチサニキ姫との間の子で、燃えさかる火の中から誕生したという。

彼は神の子でありながら、地上で人間同様に暮した。人間を襲う鹿を退治したり、魔女ウエソヨマを始めとする魔神や悪魔たちを倒し、雷神の力を持った宝剣で暗黒の国を焼き滅ぼした。

しかし晩年は人間たちに嫌気がさし、どこかへと行ってしまった。

これは乃木大将が軍神に祭り上げられた経過と同じではないか。いずれにしても血生臭さがウリの英雄である。世の中が落ち着いてくると居場所がなくなって何処かに引きこもってしまうというのも、そぞろあわれではある。

いずれにしても、アイヌ人には血を血で争うような過去があり、その闘いの中からアイヌ人という民族が誕生したのだということだ。大和・出雲神話とはまったく異なる世界である。

3.オキクルミ・サマイユンクル兄弟

オキクルミは道央~道南、サマイユンクルはサハリン(樺太)南部~道北・道東にかけて活躍した英雄神です。天から降り、人々に農耕や狩猟などの生活の知恵を授けて回りました。

彼らは兄弟とされており、信仰されているところでどちらかが優位に立ち、どちらかが損な役割になっています。

オキクルミは多くの英雄譚と習合していて、オリジナルのキャラが見えにくいようだ。

この神様たちはかなり和人の匂いがする。

なおこのページには、ほかにヌプリコロカムイ、チロンヌプカムイ、コタンコロカムイ、カムイフチ、カンナカムイ、ウバシチロンヌプカムイなどの名前がリンクされているがたどることは出来ない。

ベネズエラ情勢がかなり緊迫しているようだ。
いまは「…ようだ」としか書けない。情報が不足している。
ただし、過去の経験から言って、ポイントは二つある。
1.ベネズエラの闘いは単純な政治戦ではない。これは階級戦だ。
2.駐在員情報はデマ以外の何物でもない。
ベネズエラは中南米の中でも特殊な国で、中間階級というものはまったく存在しない。駐在員は抑圧階級の中に身を置くしかない。もし中立的な情報を得たければバリオ(スラム)に拠点を構えなければならない。しかしそれではビジネスは成り立たない。
かつて2002年のクーデターのとき、日本では「駐在員の妻」が系統的にデマ情報を流し続けた。多分悪気はなかったと思うが、彼女の流した情報は徹底して反民衆的なものであった。
赤旗の特派員が現地に行ってやっと間違いに気づき、論調を改めた。それまでチャベス擁護の旗を振っていたのは、日本では私だけだった。
APもロイターも白人地区に住んで情報を集めている。駐在員も同じだ。
もっとひどいのがハイチで、このときはJornadaさえも反アリスティードの大合唱に加わった。
ハイチ政府擁護の立場に立ったのは日本では私だけだった。
いま考えれば、59年にカストロが農地革命を決意したとき、「人民裁判」を利用して反カストロのキャンペーンを張ったのも同じ手口だ。
赤旗の特派員はわざわざカラカスまで行く必要はない。ピストレーロが怖いからと言って、カラカスの高級ホテルに泊まって、在留邦人から情報をもらって垂れ流すのなら、赤旗ではなく白旗だ。行かないほうが良い。メキシコでJornadaを読んでいれば十分だ。もし行くならせめてカラカスの西部に宿を取り、スラムの住民と対話せよ。政府関係者や“まともな共産党活動家”から情報をとれ。

「キューバの教育」を主題として大使が講演するというので、にわか仕立ての勉強を始めたが、早くも捕まってしまった。
以前からこの人の文章が気になるのだが、以前は有機農業の分野だったから、「まあそれはそれとして積極的な受け止めなのだから」と見ていたが、最近では医療や教育の分野にまで手を広げて、「キューバこそ理想郷」みたいな話になってきているようで、早い話が、いっときの早乙女勝元さんの「コスタリカ讃歌」みたいな様相になっている。
かなりの人達が、この人の理論に心酔している。私が話すと、そういう結論にはなかなかなりにくいわけで、皆さん何か不満そうである。
とくに統計的な数字をいいとこ取りして、それを寄せ集めていくと実態とはかなりかけ離れたイメージが出来上がってしまう。これは注意しなければならないところだ。
私はこの間、逆の攻撃と相対してきた。
悪い数字だけを積み上げて、たとえばエクアドルはもうだめだとか、ベネズエラは破滅的状態にあるとかいうキャンペーンだ。
わたしは、「共通のマクロ指標で勝負しよう、世銀の数字で勝負しよう」と主張してきた。そして彼らがしばしば労働諸指標、雇用諸指標、貧困諸指標を分析の視野から欠落させることを、発展の持続性の観点から批判してきた。
経済の発展は生産の発展、消費の発展、欲望の発展の三者が揃って初めて持続的発展に至る。途上国の場合は収奪にとどまらない資本蓄積の発展がこれに加わる。

教育の問題は経済よりはるかに難しい。そこには振り出しからイデオロギーが介在するし、産業の発展段階や発展方向に規定されて教育の重点が異なってくるために、教育をどう見るかという国民的・時代的風土の違いがある。そして経済、政治、文化という3つの裾野を持つ複合的分野であるからだ。
できれば、教育学者・教育行政学者のコンセンサスとして、「教育マクロ」ともいうべきガイドラインを設定していただきたい。

キューバに関して私の感想を言うとすれば、小国として、貧困国としては、実によくやっているということだ。
いくつかの指標においては間違いなく先進国と比肩する水準にあるし、凌駕するものさえある。それはいくつかの国際機関によっても確認されている。日本の文部省のホームページでさえ認めている。
だが、それはやせ我慢してのつっぱり=米百俵の精神であることも間違いない。私はむしろそこにキューバの偉さを感じるのであるが、やはりいろいろ無理をしていることも間違いのないところで、教育を実体的にも国家目標としても支える経済的土台を作り上げていくことが、本当の改善につながるのだろうと思う。

キューバの大使がドレメ学院で講演するとのこと。質問が出たらどうしようと、とりあえず準備したのがこの記事。

やっつけ仕事なので、詳しくはそれぞれのリンク先に行ってください。

本当かどうかは知らないが、人生よありがとう というブログ

女と名のつく(赤ちゃんからおばあちゃんまで)90%の女性が、ピアスをしています。ネックレスや指輪、そして綺麗な髪と髪飾り。
マニキュア、ペディキュアは当たり前。

キューバの子どもは、お出かけの時、思いっきりのお洒落をします。
綺麗で可愛らしいお人形さんのようです。見ていても、楽しくなります。

キューバの女性たちのファッション、これは、凄い!
ボリュームいっぱいの女らしさを、飛び切り強調しています。
ピッタリ体のラインを見せた洋服や、スリットがどこまでも(?)入ったスカート、ほとんど着てないに等しいタンクトップ、競うように、セクシー満載です。

厳しいおしゃれ事情

ウェブマガジン「キューバ倶楽部」によると

不思議なのは、洋服もファッション雑貨も売っている店がほとんどなく、ファッション雑誌が一つもないのに、「どうしておしゃれなのか?」ということだ。

キューバは洋服や靴などを、ほぼ外国からの輸入に頼っている。医療や教育、家賃などが無料と社会保障が整っているとはいえ、生活物資の中でもとりわけファッションに回せるお金は少なそうだ。

キューバの人たちに聞いてみると、それぞれ「闇のルート」でやりくりをしているらしい。

おしゃれなキューバさんのこと

というブログの方はハバナでただただ感激しているようです。

買い物なのかパーティーなのか。

老若男にょ、道行く人皆とにかくおしゃれ。体にピタッと合ったキャミソール、新品みたいにキリっとしたシャツ、黄赤青紫オレンジ、原色たっぷりのワンピース…

パラソル

子供の写真。ブログ主さんは感激しているが、私にはよくわかりません。

子ども

 

サンチアゴの子どもたち(バックパッカー記より)

サンチアゴの子ども

バラコアの子どもたち(バックパッカー記より)

パラコアの子どもたち

これが中学生の制服。まあ制服だ。それ以上でも以下でもない。

中学制服

これはウェブマガジン「キューバ倶楽部」から

中学生の踊り

大学生かと思うが

大学生


 

 


この記事はすでに改訂済みであり、興味ある方は下記に移動願いたい。




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以前、昭和8年2月21日の動きを時刻表にしたことがあり、探したが、どこやらわからぬ。いろいろ探して、ここにあるのを発見した。

2月20日

正午 多喜二、赤坂で街頭連絡中に捕らえられ、築地署に連行きれる。

午後5時 多喜二、“取調中に急変”。署の近くの前田病院の往診を仰ぐ。(江口によれば午後4時ころ死亡)

午後7時 前田病院に収容したが既に死亡していることが確認される。“心蔵マヒで絶命”とされる。

2月21日

正午ころ 東京検事局が前田病院に出張検視し、死亡を確認。

午後3時 警視庁と検事局、「多喜二が心臓マヒにより死亡した」と発表。ラジオの臨時ニュースと各紙夕刊で報じられた。ラジオ放送の直後に動いた人々は…

築地署: 大宅壮一、貴司山治、笹本が築地署にいち早く駆けつけ、当局との交渉にあたる。

前田病院: 築地小劇場で事件を知った原泉が前田病院にかけつけた。「遺体に会わせろ」ともとめた。警察は面会を拒否し、原とはげしくもみ合う。警察が拘束の動きを見せたため、大宅壮一と貴司山治が仲裁に入る。救出された原泉と大宅らは築地小劇場を基地とし、各関係者と連絡を取る。

馬橋: 多喜二の母セキは杉並区馬橋の自宅にいた。ラジオを聞いた隣家の主婦から知らされた。セキは預かっていた二歳の孫(多喜二の姉の子)をネンネコでおぶると、築地署へかけつけた。

夕方 セキが築地署に到着。この時遺体は署の近くの前田病院に安置されていた。当初、警察はセキを二階の特高室に閉じ込め、なかなか会わそうとしなかった。

夕方 

都内各所に夕刊が配達される。配達の直後に動いた人々は…

築地署: 青柳盛雄弁護士らが築地署に赴き、遺体の引渡しを要求。さらに連絡を受けた安田徳太郎医師がやってきて警察と交渉。

馬橋: 江口は吉祥寺の自宅にいて、配達された夕刊で多喜二の死を知った。大宅壮一からの電話があり、「馬橋のセキさんを伴れて築地署へ来い」と言われた。ただちに馬橋に向かうが留守のため、阿佐ヶ谷から省線でそのまま築地署に向かう。

百合子グループ: 上落合の中条百合子宅で窪川稲子も同席して夕食の最中、夕刊で事件を知った。推測では、東中野在住の壺井栄と連絡を取り、中央線中野駅で集結し阿佐ヶ谷に向かったものと思われる。

当初の記載で、中条家を下落合としていたが、上落合の間違い。土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い。したがって歩いて東中野に出るのがもっとも早い。

午後9時

築地: 在京中の秋田の親戚の小林さんが築地署に駆けつける。彼が身元引受人となり、遺体の引き取りが決まる。

推測だが、三吾はこの時点で行方がつかめなかったのではないか。遺体の引き取りには身元引受人が必要であり、それには戸主(男性)であることがもとめられていたのかもしれない。そこで弁護士がセキから根掘り葉掘り聞いて、秋田の親類を見つけ出したと考えられる。

午後9時30分 孫をおぶったセキが特高室を出され、前田病院で遺体と対面。この時セキと同行したのは、作家同盟の佐々木孝丸、江口渙、大宅壮一。青柳盛雄ら3人の弁護士。医師の安田徳太郎。

午後9時40分  大宅らの雇った寝台車が。遺体とセキ+孫、親戚の小林さんを載せ前田病院を出発。

午後9時40分 江口らがタクシーで寝台車の後を追った。同乗者は藤川美代子、安田博士、染谷ら4人。

午後10時

百合子グループ: 阿佐ヶ谷に着いた3人は、若杉鳥子(窪川は「同盟員」と書いている)の家に落ち着いて情報収集にあたった。前田病院から、すでに寝台車が出発したとの情報を受け、多喜二宅に向かう。

稲子は「すでに多喜二宅前には10人ほどが集まっていた」と書いてあるから、そちらにも視察に行ったのであろう。鳥子家を利用するという「良案」を誰が考え出したのかは不明。
前田病院に電話したのは稲子で、彼女はわざわざ西武線の沿線(鷺ノ宮駅?)まで行って街頭から電話したという。警察の張り込みを避けての行動かもしれない。
「すでに出た」というからには、その電話は早くとも9時40分過ぎのことであろう。もしそれが10時と仮定すれば、それから歩いて鳥子家まで戻るのに30分は見なくてはならないから、それから多喜二宅に向かうとすれば、到着は10時40分ころということになる。

10時ころ 遺体が小林家に到着した。ほぼ同時に江口、安田らのタクシーも到着。小林家では近親や友人達が遺体を待ち受けていた。

出発及び到着時刻は川西の記載によるものであるが、築地から阿佐ヶ谷までわずか20分で着くとは到底思えない。築地の時間が正確だとすれば、到着は早くとも10時30分ころと思われる。

小坂多喜子: 小坂多喜子と夫の上野壮夫は車に僅かに遅れて到着した。(小坂多喜子の回想)

どこからか連絡があって、いま小林多喜二の死体が戻ってくるという。
息せききって…走っている時、幌をかけ た不気味な大きな自動車が私たちを追い越していった。…あの車に多喜二がいる、そのことを直感的に知った。
私たちはその車のあとを必死に追いかけていく。 車は両側の檜葉の垣根のある、行き止まりの露地の手前で止まっていた。奥に面した一間に小林多喜二がもはや布団のなかに寝かされていた

小坂と上野
        小坂と上野

セキの「ああ、いたましい…」のシーンがあった後、セキが服を脱がせ安田が検視を開始する。

午後11時

午後11時 百合子グループが多喜二宅に到着。以下、稲子の文章を長めに引用する。

我々六人(内訳不明) は阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。家近くなると、私は思わず駆け出した。
玄関を上がると左手の八畳の部屋の床の間の前に、蒲団の上に多喜二は横たえられていた。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。
我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。
お母さんがうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながらお母さんに声をかけた。

午後11時 安田医師の死体検案開始。検視の介助には窪川稲子と中条百合子があたる。検視の後、壺井栄らが遺体を清拭した。

死体検案は当事者には長く感じるが、見るポイントは決まっていて意外に短時間で終わる。すでに死後24時間を経過していれば、筋の緊張は緩み仏顔になってくる。死後硬直は取れ扱いは容易だが、出血と脱糞の匂いは相当強烈で、清拭が骨折りであろう。それでも前後15分もあれば片付く。

闇の中の1時間

このあと約1時間のあいだの経過は、まったく私の推論だ。

11時30分 百合子グループと安田医師が多喜二宅を出る。江口によれば、この間に多くの人が駆け込んできた。(このあたり江口の記憶はごちゃごちゃになっている)

おそらく安田医師が帰ると言ったのに、「それじゃ私たちも」と同行することになったのではないか。医師は明日の仕事があるのと、基本的には診察先に長くいたくはないという真理が働く。女性たちにも子供のことやら家のことやら明日のことやら、いろいろ事情があるものだ。何れにせよ稲子の「午前2時」は間違いなく誤解だ。

11時30分 百合子グルームが多喜二宅を離れて間もなく、ふじ子が駆け込んでくる。この後、多喜子の文章の「愁嘆場」が出現する。

ふじ子は築地小劇場を訪れて、原泉に「多喜二の妻です」と打ち明け多喜二の遺体にひと目会いたいと懇願した。これは多喜二の遺体を送り出した9時40分以後のこと、おそらく午後10時頃のことである。
その時まで4時間のあいだ、ふじ子には、行くべきかどうか逡巡する時間もあったろうし、築地署前の群衆に紛れて右往左往していた時間もあったろう。
原泉はこの「女優」に見覚えがあって、「女の勘」が働いて、瞬時に事情を察した。そしてこれから多喜二宅に向かうという新聞記者を見つけ同行させた。クルマに乗ること1時間ちょっと、登場時間としては妥当である。

12時頃 江口の文章の「接吻の場面」が登場。まもなくふじ子は多喜二宅を退去する。(小坂多喜子は「いつの間にかいなくなった」と表現している)

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

12時頃 稲子の文章によれば、「…踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った」

当時の阿佐ヶ谷駅は正面が北口で、多喜二宅からはいったん踏切を渡って線路の北側に出なければならなかったのだろうと思う。
一方築地小劇場組は、怪しまれないように踏切の北側で降りて歩くことにしたのだろう。原泉とふじ子は、論理的にはどこかで交錯しているはずである。ふじ子が避けたか、原泉が沈黙を守ったかのいずれであろう。

2月22日

午前0時 千田是也, 岡本唐貴、原泉らが多喜二宅に到着。 「時事新報」 社のカメラマンが多喜二の丸裸の写真をとり、佐土(国木田)が多喜二のデス ・ マスクをとった。岡本唐貴が8号でスケッチを描いた。(時事新報の写真撮影はもっと前、検視時だと思う)

デスマスクについては、築地小劇場組の一小隊が別行動で動いたらしい。佐土という人はデスマスクの専門家だが、活動家ではない。彼に依頼して材料の石膏を仕入れるのにずいぶん時間を食ったという情報もある。

午前1時 小林家の6畳の書斎で人々は遺体を囲んだ。この時貴司山治により2枚の写真が撮られた。この後の記録はないので、写真撮影の後まもなく解散したのだろうと思う。

ひょっとすると1マイメノ写真を撮った直後に三吾が現れたのかもしれない。2枚の写真はそういうストーリーを感じさせる。

江口によれば以下の如し。
多喜二宅で葬式の手順が話し合われた。告別式は翌日午後一時から三時まで。全体的な責任者江口渙、財政責任者淀野隆三、プロット代表世話役佐々木孝丸となる。
「通夜の第一夜は何時か寒む寒むと明け放れていた」

午後1時 告別式。会葬しよう と した32名が拘束される。若杉鳥子も捕らえられる。この結果、セキ、三吾、姉佐藤夫妻、江口と佐々木孝丸だけで葬儀を執り行う。

ということで、

貴志山治の2枚の写真をもう一度見返す。

伊藤さんの読み込みについては、まず後列の女性が窪川稲子ではありえないことが指摘される。

もう一つは2枚の写真の前後関係である。二つの写真は明らかなライティングの違いがある。

成功作は天井からのライティングであたかも電球が照らすように映し出されている。

これに対し失敗作ではライトは横向きに当てられ、光源が近すぎるために多喜二の顔はハレーションを起こしてしまっている。

率直に言えば、「決め写真」ではなく、ついでに撮った写真ということになるだろう。

なぜついでに撮ったかといえば、三吾とセキが入ってきたからだ。

画面右側の人物群はほとんど動いていない。真ん中に三吾とセキが割り込んだ。

しかし入りこんだのはそれだけではない。サンゴを割り込ませた江口の後ろに男女一人ずつ、そして左端には小父さんと小母さんが入っている。右端にも男性二人が入った。

カメラの位置は5,6センチ低くなり近接している。山田清三郎と千田是也は視界から外れてしまった。

この新たに入った4人に関して、情報を発見した。

川西政明さんの「新・日本文壇史」という本の第4巻に、1933年2月20日の動きについてかなり詳しく触れられている。

この中で遺骸の引き取りの経緯が初めてわかった。

6時にはすでにセキは築地署につき小谷特高主任から経過説明を受けている。なのに遺体に会わそうともしないし、引き取りも認めない。

おそらく理由はセキが戸主ではないからであろう。そして戸主たる三吾はなかなか連絡が取れない。

なんだかんだと時間が過ぎていくうちに、セキは秋田の小林の親戚が上京中であることに気づいた。

この小林さんが9時近くに築地署に着き、ようやく引き取りが決まったのである。

セキは前田病院に入り遺体と対面。その後、寝台車で馬橋の自宅に向かうことになる。寝台車に乗ったのはセキ(と背中の孫)、親戚の小林さん。随走するタクシーに江口と安田医師らである。

おそらくこのちょび髭は秋田の親戚の「小林さん」であろう。この人と江口はすでに式服に着替えている。

とすれば、田口たきと比定された女性はその妻の可能性が高い。そして江口の後ろに割り込んだ男女が姉夫婦ということになるのではないか。

そして、三吾さんが到着したのを機に、今にいた親戚が揃って遺体とあらためてご対面したところなのだろうと思う。

三吾さんがなぜこんなに遅くなったのか(おそらく12時を回った時刻)は不明である。

なお、おなじ川西政明さんの本にはその夜の参加者が列記されている。

このうち写真で特定できているのが

岡本唐貴、池田寿夫、岩松淳、立野信之、田辺耕一郎、原泉、鹿地亘、山田清三郎、千田是也、それに直接自宅から来た上野杜夫と小坂多喜子。それに撮影者の貴志山治である。

この他に本庄陸男、川口、千田、淀野、大宅壮一、笹本、佐々木孝丸の名が挙げられている。

ただし大宅、笹本は築地署には現れているが、馬橋まで行ったかどうかは不明。

稲子らはいつ帰ったか。

午前2時は論外だが、ではいつ帰ったのかということで、一つの仮説として省線の終電時刻を考えてみた。

稲子は子供を置きっぱなしにしている。翌日は収監中の夫、鶴次郎と面接がある。もちろん面接のとき、監視の目をかいくぐってなんとか他記事虐殺の報を伝えたいから、行かない訳にはいかない。

一行は安田徳太郎を入れて4人だから、阿佐ヶ谷から円タクで相乗りして帰るという方法もないではない。しかし終電で帰れるなら帰りたいのが人情ではないだろうか。

そこでネットで当時の終電の時間を調べてみた。

格好の解説があった。

2015年12月22日付の東洋経済オンラインの記事

JR中央線の「終電時刻」は、どうして遅いのか
昔はもっと遅かった「深夜の足」の意外な歴史

というもの。著者は小佐野記者。

東京ネタだから、札幌の人間にはどうでも良いことだが、現地の人間には面白いだろう。

中央線の終電時刻はなぜ遅いのか。

「特に遅くできる理由があるわけではなく、ご利用されるお客様が多いため」だそうだ。

中央線が遅くまで走るようになったのはいつからなのだろうか。

1934(昭和9)年12月の時刻表を見てみると、最終電車の新宿発は午後11時50分となっている。

ただし、これは浅川(現高尾)行の話で、立川行きは午前0時52分、三鷹行きは午前1時8分、中野行きはなんと午前1時27分まであった。

近距離でいえば、戦前のほうが今よりも遅かったことになる。

理由は、当時は鉄道以外の交通手段、要するに車が少なかったからではないかと記者は推測している。


稲子らの電車は逆方向になるので、本数は少ないにしても同じ時刻くらいまでは走っていたと思われる。。

三鷹発の電車が午前1時頃に阿佐ヶ谷に停まる。これに乗れば東中野、さらに上落合に帰ることは可能なのだ。

実際には終電よりももっと前、11時半ころには家を出たと思われる。

女性陣の介助のもとに安田医師の検屍が行われ、写真が撮影された。その後湯かんして服を着替え、書斎に安置した。そこには稲子の描写した如く10人ほどがすでに集まっていた。

どうしようかと思案してたところに、安田医師が帰るというので、「それでは私たちも」ということになったのではないか。だからもっと早いのかもしれない。

ただ、江口渙の「十一時近くになると、多喜二のまくらもとに残ったのは彼女と私だけになる」という時刻はやや早すぎる印象がある。

それにしても、彼女たちの帰った時刻とふじ子の来訪は、本当に一足違いだったようだ。

そして、阿佐ヶ谷駅近くの踏切で彼女たちと入れ違った「同盟」の一団が多喜二宅に到着したとき、すでに彼女の姿はなかった。

本当に、“恋の猫、ふじ子の接吻”は江口渙のみが居合わせた、奇跡的な時空間だったのだ。(江口の創作でなければの話だが…)

連休前に、図書館に行って現物にあたった。それで書いたのが下の記事だ。

本日は、佐多稲子の「2月20日のあと」だ。全集の第1巻にふくまれている。ただし執筆当時は窪川を名乗っていた。
これが、前から一番気になっていた文献だ。
気になるのは2点、
1.稲子らが多喜二宅を辞したのが午前2時ということ。そんなに遅くまでいたはずがない。
2.ふじ子についての記載がまったくないこと。これは書きたくないから伏せたのか、知らなかったのか、ということが判断できない。
この2点とも、原文を読んでもわからないだろうと思っていたが、やはり全文を読んでみないと雰囲気はわからない。
それに加え、紹介した文章に書き漏らした事実の中に何か隠されているものはないだろうか、というのも気になる。
ということで、読み始めた。

稲子はいつ多喜二の死を知ったのか
これは時刻として正確には記載されていないが、おそらく午後6時ちょっと前のことではないだろうかと推察される。
当時、稲子は中央線東中野駅の近くに住んでいたらしい。しかしその時は自宅にはおらず、上落合の中条百合子家にいた。(土地勘がなくて誤解していたが、上落合というのは西武線の下落合とはだいぶ離れていて、どちらかと言えば中央線の東中野に近い)
稲子は中条家で晩飯をゴチになるつもりでいた。
その時、中条家の誰かが着いたばかりの夕刊を読んで、「多喜二死す」の報を知った。
すでにラジオでは4時のニュースで事件が報道されていたが、稲子も百合子もそのことは知らずにいた。仲間からの連絡もなかったようだ。
この状況については、細部の記載までふくめて正確だろうと思われる。裏返すと、それからあとの記載については、秘匿されたか記憶が曖昧なのか分からないが、断片的になってくる。大脳生理というのはそういうものかもしれない。
多喜二宅に入るに至る経過
文章は、ここから先は相当曖昧だ。このあと推理を相当膨らませなければならなくなる。
稲子は百合子とともに家を出て馬橋の多喜二宅に向かう。
経路は不明だが、おそらく歩いて東中野まで出て、中央線に乗ったのだろうと思う。
途中で一人の女性と合流して三人になる。名前が伏せられているが、これはおそらく壺井栄であろう。栄も東中野近辺に住んでいたようだ。
三人は阿佐ヶ谷の「同盟員」の家に入った。
これは若杉鳥子のことであろう。
鳥子については下記の記事を参照されたい。(2012年05月10日
若杉邸での情報収集
多喜二宅はがら空き状態だったから、百合子、稲子、栄は鳥子の家を拠点として情報収集にあたったのであろう。
鳥子の夫は庶子とはいえ備中松山藩主板倉子爵の血を引いている。それなりのお屋敷であったはずである。
しかし防衛上の理由であろうか、稲子は西武線沿線の街頭電話から築地署や前田病院に電話して情報を収集した(と書かれている)。

阿佐ヶ谷から鷺ノ宮辺りまでカラコロと歩いたことになるが、集まったメンバーから見れば、稲子がこういう「パシリ」的役回りになるのは当然のことであろう。

この辺から、稲子の記憶は曖昧になってくる。「すでに10人近く集まっていた。まだ遺体到着せず」という記載があるが、これは多喜二宅の状況であろう。鳥子邸に10人も人が集まるわけがない。

多喜二宅に向かう

稲子の文章によれば、いろいろ電話した挙句、前田病院の看護婦から、多喜二の遺体がすでに病院を出て自宅に向かったことを知る。他の情報から推しはかると、これは午後9時頃のことであろうと思われる。それから急いで鳥子邸に向かうが、女の夜道だ。到着するのにどう見ても30分はかかる。

ここから先は、文章はさらりとしてほとんど時間の糊しろがないようになっているが、実際には相当の時間が経過しているはずだ。

それから4人で協議して、鳥子は残る、他の3人は多喜二宅に向かうと決めて家を出る。若杉邸から多喜二宅まではさほど遠くはない。間近と言ってもよい。

稲子によれば、

それからみんなで自宅へ向かう。そこにはすでに江口がいた。そのとき母が多喜二の服を脱がせていた。

ということになる。

これで午後10時位で、みんなの時計が合うことになる。

稲子の文章には時計がない

ということで、稲子の文章には時計がない。他の証言と照らし合わせることによって初めて稲子の行動がわかるという仕掛けになっている。

稲子は、行動するにあたって脳内時計とか絶対時間を持たない“時刻音痴”人間なのだ。良く言えば、徹底した現場型、実践優位型人間なのだ。

なのに多喜二宅を退去した「夜中の2時」という時刻だけが、突如、確定的に出現する。これは後着組の話に影響されて、あとから刷り込まれたものではないだろうか。

方向音痴の人に道を聞くことが無駄であるのと同様、時刻音痴の人に時刻を聞くのも無駄である。このことは念頭に置くべきだろう。


下記の記事を見つけた。

出処は日本貿易振興機構(ジェトロ) 海外調査部米州課、日付は2017年4月、最新の情報である。ビジネスの視点から見たキューバの現状がよく分かる。これを要約・紹介しながら、自説を展開してみようと思う。


1.キューバ経済の実力

わかりやすい絵なので引用させて頂く。

出処はECLAなので確実だが、キューバ側がまともな数値を報告しているかが問題。

これが正味のキューバ経済である。ドミニカ並みの貧困国だ。ただしメキシコは石油でもうけている。パナマは運河でもうけている。ドミニカは出稼ぎでもうけている。キューバは何もない。

アメリカの禁輸は以前続いている。ソ連崩壊時のどん底から見ればよくぞここまで這い上がってきたという感じだ。

GDP推移

2.「経済とは何か」を考えてみよう

人々の生活は決して楽ではない。同じように政府の財政も大変厳しい。

ただ、そんな中でも医療・教育の無償はいまだに続けているのだ。耳にタコができるくらい何度も聞いているだろうが繰り返しておく。無料なのだ。

キューバの医療

教育と治安

これは社会主義だからというだけではない。中国では医療費は全額自己負担だ。昔は無料だったが経済が厳しくなったときにやめてしまった。

キューバはどんなに苦しくてもやめなかった。

あまつさえ、チェルノブイリの子どもたちを養育し、世界の若者に医師への道を開き続けてきた。ハイチやインドネシアの大災害のときは率先して医療チームを派遣した。

これは政治の根っこにヒューマニズムを据えて来たからだ。「キューバの社会主義はまず何よりもヒューマニズムなのだ」ということは、頭に入れておいてほしい。

3.貿易と経済の厳しい実情

そうは言ってもカスミを食って生きていくわけにも行かない。率直に現状を見ておくことも必要だ。

貿易

率直に言って、ベネズエラにおんぶにだっこの状況だ。原油が1バレル100ドルのときはベネズエラも鼻息が荒かった。

キューバはベネズエラから潤沢な原油の供給を受けた。その代わりに医療教育のために人的資源を送り貢献した。

このバーターが成功した結果、キューバはふたケタの経済成長を続けることが出来た。キューバの経済規模はソ連崩壊前の水準に復した。

一方、80年代に500万トン以上の生産を上げた砂糖産業は見る影もなく衰退してしまった。その代わりに観光産業が発達し、砂糖の目減りを補っている。

観光

観光客はここ10年足らずで3倍化し、観光収入も1.5倍化している。ただこのままではキャパの不足が足かせとなりかねない。

キューバ経済のもう一つの柱となっているのが、在米キューバ人の家族送金だ。これは今まで厳しく制限されてきたのだが、国交正常化に伴いほぼ自由化された。

家族送金

まだ急増というほどには至っていないが、それでもこの10年間で送金額はほぼ3倍化している。2015年実績では330億ドル、3兆6千億円というからすごいものだ。

ただしこの金には多少なりとも反政府的な色がついており、貰った人間にしてみれば不労所得であるわけだから、いろいろトラブルを生じかねない金でもある。

幸いなことに、米国内の反カストロムードは弱まりつつあり、送金の政治的意図はあまり気にしなくても良くなってきてはいる。

米世論

ギャラップ社の調査では2015年を境に、「キューバ・シー」の声が上回るようになった。在米キューバ人社会でも反カストロ・共和党よりも親カストロ・民主党の割合のほうが高くなっている。時代は変わりつつあるのだ。

キューバの経済改革

ソ連崩壊とその後の経済危機のあいだ、キューバは自立経済を模索した。中国風に言えば改革・開放と市場経済の導入である。

率直に言えばこれらの「改革」が順調に推移しているとは言い難い。それは「改革」がジャングルの掟の導入であり、キューバが目指してきた「ヒューマニズムにもとづく政治」とは根本的に相容れないところがあるからだ。

しかしこの「苦痛を伴う改革」が避けて通れないものであることは、施政者の一致した認識となっている。

それにしても、私などが見れば、もうすこし大胆にやってもいいのではないかと思うが…。

経済改革

キューバ経済の今後

ということで、ジェトロが描く明日のキューバ経済。と言うより短期見通し。

今後の経済

ご覧のようにかなりショートレンジの経済見通しとなっているから、本当はもう少し長期的・構造的な経済開発の視点で論じなければならないのだが、ジェトロという組織の性格上やむを得ないのであろう。

経済構造から言えば、一つは外資導入をどこまで進めるか。もう一つは第三次産業を如何に民間に委ねるか、ひっくるめて言えば資本の論理・市場の論理・多ウクラード社会の論理をいかにヒューマニズムの論理のもとに包摂するかが勝負の分かれ目であろう。

「ディーセント・ワーク」の基準をどこに置くかがポイントになると思う。

蛇足ながら、キューバと北朝鮮の違い

キューバは北朝鮮と似ていなくもない。まず第一に破産国家だ。金を貸してくれる国はない。第二にキューバ革命以来、アメリカの経済封鎖が続いている。アメリカに逆らいたくなければ、キューバとの貿易は遠慮するに越したことはない。第三に、それでもアメリカに逆らい続けている。強烈なイデオロギー国家だと言ってもいい。

しかし似ているのはここまでだ。

キューバは公然と、あるいはひそかに支援する国家に囲まれている。ラテンアメリカ諸国の真の思いはキューバと同じだ。強烈なイデオロギーではあるが、それはラテンアメリカの共通のイデオロギーだ。

もう一つ、アメリカの経済封鎖は今や世界中から非難されている。日本さえその合唱の輪に加わっている。

北朝鮮は政治的にもイデオロギー的にも世界から孤立しているが、キューバはそうではない。孤立しているのはアメリカだ。

最後に、繰り返しになるが、キューバの社会主義イデオロギーは、まず何よりもヒューマニズムに根拠をおいている。たしかに民主主義とか政治的自由とかに問題はあるかも知れないが、「弱者に目をやる優しさ」、ヒューマニズムこそが政治にもっとも必要とされているのではないか、そんな気がする。

毎日、毎日、テレビでは北朝鮮ばかりだ。
そろそろ分かってもらえてもいいと思うのだが、この異常な北朝鮮攻撃には未来がない。
まず第一に強調しておきたいのは、北朝鮮は我々の隣人であるということだ。これは日本の歴史が続く限りずっとそうなのだ。だから、我々は隣人としてこの問題を考えなくてはならないということだ。
まず、我々は隣人としての北朝鮮に“どうあって欲しいかのか”のイメージを持つことだ。
第二には、北朝鮮の将来像に「ベルリンの壁崩壊」の姿を想像してはならないことだ。それは論理的にはありうるオプションではある。しかしそれはもっとも避けたい事態だ。ミサイルの飛来を予想して電車を止めるなと愚の骨頂だ。そんなことがないように交渉することこそ政府の責任ではないか。「原発が止まると電気が止まる」キャンペーンと同じで、いたずらに危機を煽る政府の無責任さは目に余る。
では、もっと平和的なオプションはないのか。これについても我々のイメージを持つことが必要だ。
この二つがとりあえず強調しておきたい議論のポイントである。あとは、本質的ではないが、反北キャンペーン・反慰安婦キャンペーンが森友隠しの一環であることも指摘しておかなくてはなるまい。
とくに「反慰安婦」をもって「反日」であるとする韓国大統領選挙への干渉は独断・独善であり、必ず将来に禍根を残すであろうと思う。
アメリカにはいつくばりながら、その力をカサに来た日本政府の居丈高な態度は、東アジア人にはつばを吐きたくなるほどに不快であり、「醜い日本」への反発は日を追って強まるであろう。
私もニュースで安倍晋三の顔を見た瞬間にチャンネルを変える「安倍過敏症」の一人である。

いよいよ追い込まれてから、付け焼き刃のキューバの勉強。

20日の大使の講演までにはなんとかしないと。

最初は東洋経済オンライン 2015年1月の2本の記事

「レアメタル王・中村繁夫の「スレスレ発言録」というコラム記事の一つで、

1.米国はキューバを再び「属国」にできるか…かの国は、したたかな「赤いレアメタル大国」

2.キューバは、激しい変化の波に耐えられるか…米国との国交回復で何を失い何を得るのか

と題されている。

最初にハバナのホセ・マルティ国際空港の写真が載っている。30年このから変わっていないことが分かる。相変わらず貧弱だ。ただ自転車の代わりに車が走っているのが違っている。

国交が回復されれば、米国とキューバのとの交流は一気に進みそう。ハバナの「対岸」のフロリダ州は200キロ足らずだ(フロリダ州・タンパからのチャーター便でハバナに到着した人々、ロイター/アフロ)

最初のニッケルとのバーターをめぐる話は、かなりリスキーなものをふくんでおり、評価が難しいので省略する。「埋蔵金」話ではないが、実際には対米関係が大きな障壁となる。

貿易予算のかなりの比率をニッケル資源がまかなっているのは周知の事実であるが、資源ブームが過ぎ去った現在、ニッケルの国際市況も弱含みで…鉱山も老朽化で生産性は上がらない。

キューバ政府は、経済的困窮解決の切り札を観光産業に求めており、ここ数年は毎年約20%ずつ、観光客が増加している。年間の観光客は約200万人。…日本の観光客はまだ年間7000人ほどだ。

と書いた後で、筆者はキューバの意外な底力を提示する。

①医療・教育・文化大国 識字率世界一、教育指数世界5位。

②国際連帯「力」

そして、もう一つの潜在力としてマイアミの亡命キューバ人を上げる。

かつて亡命キューバ人は強力な反共・反キューバ勢力で、共和党の強固な地盤だった。しかし今や彼らの主流は民主党支持者であり、オバマの国交正常化を支持している。

著者の観測では

海外からの送金が自由化されることで、海外に離散した「キューバのディアスポラ」が帰国して、経済の立て直しを担うだろう。50年前にフロリダに脱出してアメリカで成功した200万人ともいわれる豊かなキューバ人が祖国の再構築に励む

と読んでいる。

そして最後は

私個人の意見としては、「最後の楽園、トロピカルキューバ」は今のままで残って欲しいと思っているのだが。

と結んでいる。

「文化で食べていく国」へ

キューバ経済の今後は広義の「観光」にかかっている

経済危機を目の当たりにした私は、この国の行く末を真剣に考えたことがある。

なんとか耐えなくてはならない。だがその先にあるのは何か?

おそらく両手を上げてしまったら、この国はブルドーザーでなぎ倒され、さら地にされてしまうだろう。

ふたたびサトウキビの農場や果樹園だけがひたすら続く国になってしまうだろう。

おそらくそれは成功するはずだ。肥沃な土地はみのりを待っている。しかしそこには革命前のような貧しいコロノや農業労働者の住む余地はない。

すでに農業のハイテク化は完成し、もはや労働力など必要としないからだ。

農業地帯に人がいなくなれば、地方都市は破綻する。ひたすらハバナへの一極集中が進む。それは巨大なスラムの出現を意味する。

片手を上げるとしたら、どちらの手を上げるのか。それは雇用を守ることに尽きる。

実は現在も、キューバは膨大な潜在失業者を抱えている。なぜか、産業がないからだ。

この国は投資を必要としている。しかしその金が利益を生まない限り、投資はありえない。

経済が収縮しても失業者が生まれる。だが経済が成長しても、利益第一主義を取る限り、失業者は減るどころか増える。主要には農村人口の「余剰化」による。

これはある程度はやむを得ないことだ。ではその余剰人口をどこで吸収するか。これについてはきっぱり言おう、第三次産業しかない。

それも広い意味での観光産業しかない。

これは1992年以降の、政策実績がはっきりと物語っている。

ただ、「観光しかない」というのはネガティブな表現ではない。世界には観光を売り物に出来ない国がたくさんある。

現代社会は、一方において深刻な飢餓を抱えつつも、ある意味で物質的には飽和された社会である。

動物的欲望は飽和され、それに代わって文化的欲望、すなわち真の人間的欲望が広がっていく時代となっている。その欲望実現のとば口が観光という行動なのである。

この大きな流れが18世紀の前半、イギリスにもあった。グランド・ツァーの時代である。

それまで続いたヨーロッパの戦乱が落ち着きを見せ、宿や駅馬車、交通網など旅行に必要な環境が整ってきた。

当時文化的な先進国であったフランスとイタリアが主な目的地で、一種の修学旅行ともいえる。

旅行は数年に及ぶこともあった。

同行の家庭教師が付くのが一般的で、旅行の間、若者は近隣の諸国の政治、文化、芸術、そして考古学などを同行の家庭教師から学んだ。(ウィキペディアより)

こういう高級なものばかりでもなさそうで、ケネディは議員になる前ハバナに数ヶ月滞在し、日夜女色に勤しんだという。

余談になってしまった。

観光する者にとって観光とは知り、学ぶことなのだ。そしてそれは欲求なのだ。

とは言いつつも、生理学的快楽もそこには必要なのだ。「飲む、打つ、買う」の三要素は必要だし、そこで儲けさせてもらうことも必要なのだ。

ここは大いに民間に開発してもらう。ここに多くの労働力を吸収してもらう。そのためには多少のことには目をつぶる。肝心なことは利益が再投資されることであり、雇用が増えることである。

率直に言って、今のキューバ人にはあまり働く気がない。労働市場での競争が成り立つには、しばらくは時間が必要である。

観光業は付加価値率がきわめて高い業種である。しかし陳腐化すればクズである。

それ自体が競争にさらされている。これは「水商売」と心得るべきである。今日持っている優位性をさらに活かすべく、イノベーション努力が必要である。

同時に、その優位性を大いに広げる営業努力がいっそう必要である。これもキューバ人の最も苦手とする分野である。

最後に、キューバ観光の優位点を上げておこう。

1.自然がそのままに観光資源である。長い海岸線、サンゴ礁とサンゴの作った白い砂。亜熱帯特有の環境。ただしカリブ海には似たような環境はたくさんある。

2.安全性は何物にも変えられらない社会資源である。ただしこれがいつまでも守られるかどうかは定かではない。それでも近隣国に比べれば比較的安全である状況は続くであろう。

3.アメリカに近いという地理的利点は同時に危険因子でもあるが、これは動かしようがない。「真夜中のカウボーイ」のラストシーンはマイアミ行のバスであったが、これがハバナ行の飛行機に変わる日は遠くない。島中アメリカ人だらけになるだろう。

4.非自然的な観光資源は、文化の多様性にある。何段階にもわたる白人文化と黒人文化の融合からキューバ文化は生まれた。キューバ音楽にとくに顕著だ。それが魅力となり、多くの観光客がリピーターとなる。

5.キューバ革命の精神もそれ自体が文化であり、キューバという国を輝かしている観光資源だ。フィデルとゲバラの精神は、キューバの美しい風土以上に美しく気高い。

6.観光インフラとロジスティクスには相当不安を抱えているが、対応策はこの文章の主意ではない。

ネットを見ていたら、「キューバの音楽おすすめ曲10選」というページがあった。

「すげぇことをするもんだ」と眺めていたら、私も「独断と偏見」で選んでみようと思い立った。

むしろ「思い出の10曲」というべきか。自分なりの思い出が絡んでいるからかなり他の人とは違うと思う。順位はつけない。

1. エレーナ・ブルケ 「ノスタルヒア」

もう20年も前の話になるが、エレーナ・ブルケが北海道にやってきた。

私は滝川まで追っかけをやって、聞いてきた。ダンソン系の楽団と帯同しての公演だったが、彼女の歌は数曲だった。しかも彼女の得意とするフィーリンはまったく歌わなかった。

札幌での公演の後、「ノスタルヒアを聞きたかった」と声をかけたが、笑っただけだった。その後1年もしないうちに死んだと聞いた。

いうまでもなく「ノスタルヒア」はアルゼンチンタンゴの名曲で、フィーリンでもなんでもないが、彼女の歌唱が一番良い。(「タンゴ名曲百選」を参照されたい)

2.シルビオ・ロドリゲス 「プラヤ・ヒロン号」

2回めのキューバは1993年、経済危機の只中。サンチアゴの街は灯火もなく真っ暗だった。

革命広場の一角にソンを聞かせるバーが有る。たしかカサ・デ・マタモロといった。外国人を相手に営業している店だ。

そこでトリオ・マタモロスのコピーバンドが演奏していた。一通り終わって、リクエストタイムになったのでこの曲を注文した。

マスターは首を横に振って「出来ない」と言っている。するとギターを弾いていたアンチャンが「なんとかできると思う」と言って、弾き語りを始めた。

「なんとかできる」どころではない、頗る付きの名演で、私は終わるなり彼に飛びついた。

開け放たれた窓の外には、黒山の人だかり。みんな押し黙って眼だけが輝いていたのを思い出す。

3.ベニー・モレ 「BONITO Y SABROSO」

別にそれほどの曲ではない、普通のマンボだが、思い出がある。カマグエイの国営ホテルはソ連の建てたもので、いろいろ泊まったホテルでも最低だった。野外のディスコ・パーティの音が夜中まで部屋中鳴り響いた。

朝食堂に行くと、革命前からのものと思われるジュークボックスがおいてある。中のドーナツ盤も相当の時代ものだ。ところがコインを入れるとなんと動くのだ。

さあ何をかけるかと言われても分からない。適当に押したのがこの曲だ。この曲が流れると渋面のウェイターの顔がとたんににこやかになる。なんと歩きながら腰を振る。ガイドさんに「これは一体何」ときくとベニー・モレだそうだ。

彼は革命後も逃げなかった。そして63年にアル中で死んだ。ひょっとして逃げ出す体力がなかったのではないかとも思う。

結局、彼はいまだに人気がある。なにが幸いするかはわからないものだ。

4.グルポ・モンカダ 「Caiman no come Caiman」

グルポ・モンカダは私の大好きなバンドで、いろいろ探すのだが見つからない。どうして日本ではやらないのか不思議だ。

もともとはチリのヌエバ・カンシオンみたいなグループだったようだ。道理でコーラスが美しい。それが途中からサルサバンドみたいになって、ノリの良いリズムでやっている。

演奏者も観客も白っぽいが、なるほどと頷ける。

この曲は経済危機の頃のヒット曲で、旅行中にガイドさんが「カイマン、カイマン」と口ずさんでいたのを覚えている。

5.エステル・ボルハ 「Mi vida eres tu」

キューバで買ったCDの一つが、レクオーナの曲を歌ったもので、伴奏はレクオーナ本人。

音はひどいものだ。相当お化粧して、You Tubeにアップロードした。もうボルハ自身も盛りを過ぎているようで、昔のような声のハリはないが、その分しみじみとしてうまい。

この曲の他の演奏を探していて出会ったのがヨハナ・シモンというソプラノ。声も顔もよいが、とにかく歌が素晴らしくうまい。

6.パブロ・ミラネス 「チャン・チャン

93年にキューバでCDを手に入れて以来のお気に入り。バラクーダよりさきに発見したというのが密かな自慢だ。

とにかくあの頃は見つけたら買わないと、いつ買えるかわからないという状態だった。このCDもサンチアゴのホテルのプールサイドの売店で買ったものだ。

ちなみにハバナクラブの21年ものは、プラヤヒロンに行く途中のワニ園の売店で手に入れた。

7.パブロ・ミラネス 「El Breve Espacio en Que No Estás」

これもパブロの曲。キューバ人で知らない人はいない。コンサートの最後に歌うと、聴衆の合唱となる。「トダビア」という歌だと思ったら、難しい題名がついている。日本語だと「あなたがいない隙き間」くらいなところか。

パブロについては 2014年10月15日 を参照されたい。

8.ロス・バンバン 「Aquí el que Baila Gana

キューバでいちばん有名な楽団といえばロス・バンバンで、そのいちばん有名な曲といえばこの曲でしょう。しかし題名の意味がわからない。「ダンスを踊りたい人はここへ」なんでしょうか?

9.レオ・ブローウェル 「11月のある日」

綴りは“Brouwer”だが、ブローウェルと読むらしい。レオ・ブラウアーと書くとガンダムのキャラになる。

ギターの独奏で、76年にウンベルト・ソラスが作った同名映画の付随曲らしい。いかにもそれっぽい。

「Un día de noviembre」の画像検索結果

http://www.penultimosdias.com/wp-content/uploads/2010/11/eslinda.jpg

何か、「ルシア」の映像が思い浮かびます。高倉健と倍賞千恵子よりはだいぶ濃ゆい。

10.

最後の1曲になってはたと困った。一つはゴンサロ・ルバルカバの82年ころの録音で、コンサートのライブだ。そのLPが見当たらない。

20年位前、ヒステリーを起こした嫁さんがレコードをすべて無断で捨ててしまった。あれは1984年にハバナに行ったとき、もらったものだ。

1曲めがチャポティーンで2曲めがルバルカバを中心とするバンドだった。15分位の熱演で、ジャズというよりファンキーだったように憶えている。

10年くらいしてからルバルカバが有名になって、ジャケットを見てみたらルバルカバの名前があった、というくらいレアな盤だった。

MDに落とした気もするがいまさら探す気にもならない。

ゲバラを歌ったカルロス・プエブラの「アスタ・シエンプレ」は93年に初めて聞いて、良いなと思ったが、今やすっかり観光ずれしてしまった。

オルケスタ・アラゴンのチャチャチャはなかなか1曲に絞りきれない。有名なのはエル・ボデゲーロだがBaile del Suavecitoの美しさも捨てきれない。

おお、そうだこれでいいんではないか

10.セステート・アバネーロ 「エレナ・ラ・クンバンチェラ」

そこそこヒットしたし、もろにソンなのは他に1曲もないし。グルポ・シェラマエストラのカバーも良いものです。テクニック的にははるかに上ですが、いちおうオリジナリティを尊重して。

最後はちょっと雑だったね。

キューバの音楽 歴史

Cuban Music History より

SHORT HISTORY OF CUBAN MUSIC と言いながら結構長い。おそらくウィキのMusic of Cubaを抄出したものであろう。そちらは本1冊分くらいある。
かなり不正確な記述が多く、そのままでは使えない。取捨選択して前の記事に取り込んである。しかしそのまま捨てるのももったいないので、アップしておく。

1910年代まで

民俗音楽

キューバの先住民はタイノ、アラワク、シボネイ人である。彼らはアレイートと呼ばれる独自の音楽を持っていた。

たくさんのアフリカ奴隷とヨーロッパからの植民者に飲み込まれそれらの音楽は姿を消した。

ヨーロッパのダンスと歌とは、最初はサパテーロ、ファンダンゴ、サンパド、レタンビコ、カンシオンであり、後にはワルツ、メヌエット、ガボット、マズルカなのである。

後者はあとから来た裕福な白人層に好まれた。

キューバ音楽の発展は、砂糖農場に持ち込まれたアフリカ人奴隷とスペイン本国あるいはカナリア諸島から植民した小規模自営農の混合がもたらした。

アフリカ人は大規模な打楽器集団とこれによる複雑なリズムをもたらした。もっとも重要な打楽器はクラーベ、コンガ、バタ(太鼓)であった。

この2つの民族集団のほか、中国人がもたらしたチャルメラは、今もサンチアゴのカルナバルで用いられている。

グアヒーラ

グアヒーラの起源は泥臭い田舎の音楽である。20世紀のはじめに登場した。多分それはプエルトリコのヒバロのような農民の音楽であろう。

その代表的な楽器が12弦のトレスと呼ばれるギターである。その調弦も独特である。

農民音楽(Música campesina)

農民音楽はセリナ・ゴンサレスにより広く知られるようになった。即興の歌と踊りであるデシマとヴェルソからなる。現代ソンの直接の先行者と言われる。

ダンソン

ダンソンのルーツはヨーロッパの舞踏である。それは1870年ころにマタンサスを中心に発展した。そこは大規模なサトウキビ栽培が営まれ多くの黒人奴隷が働いていた。

1879年、はじめてオルケスタ・ティピカによる完全な形でのダンソンが発表されている。作曲者はミゲル・ファイルデであった。

オルケスタティピカというのは軍楽隊の非公式な形態である。

音楽家たちはハバネラを発展させてアフリカ的要素を取り入れた。ダンソンは20世紀に入ってからJosé Urfe, Enrique Jorrín and Antonio María Romeuらによりさらに発展させられた。

チャランガ(ハイチからの音楽)

他にもキューバの民俗音楽の源流がある。例えばサンチアゴのボレロである。これはフランス領のクレオールがもたらした。一種のバラードで、チャランガという小さな編成で演奏された。

チャランガは1791年から始まったハイチ革命がもたらしたものである。ハイチから亡命した黒人たちはオリエンテに住み着き、独自の社会を構成した。そして独自のスタイルのダンソンを生み出した。

これはトゥンバ・フランセーサと呼ばれた。それは後にコンパルサ、マンボ、チャチャチャなどの源流となった。

チャングイ(Changuí)

ソンより速いリズムで、サンチアゴからさらに東のグアンタナモにかけて広がった音楽である。チャングイの起源はよくわかっていない。ソンとの前後関係も不明である。おそらく両者は並行して発達したのではないか。

チャングイの特徴はスピード、打楽器メイン、ダウンビートの強調にある。

エリオ・レベのチャングイ再発見に始まり、最近ではカンディド・ファブレやロス・ダンデンらによる現代的演奏もある。

もっとも重要なできごとはフアン・フォルメルとロス・バンバンによるチャングイの引き揚げである。彼らはトロンボーンとシンセサイザーを加え、打楽器群をさらに厚くして「ソンゴ」というジャンルを開拓した。

ソン

ソンはキューバ音楽のもっとも主要なジャンルである。そしてキューバ音楽のほとんどの基礎となっている。

その起源は東部である。スペイン人農民、チャングイの流れの合わさったものとされる。楽器編成的にはスペインのギターとアフリカの打楽器の混合である。

ソンの特徴は、今日ではきわめて幅広く、一言で語ることは出来ない。

リズム的には、バスの打撃がダウンビートの前に来ることが特徴となっている(前置きバス)。これはソンの派生リズムもふくめてきわめて特異的である。

ソンは伝統的に愛を歌い故郷を歌ってきた。最近では社会的・政治的志向を持つようになっている。

ソンの歌詞は典型的には10行(デシマ)、8音節(オクトシラビック)で、4分の2拍子で演奏される。

ソンのクラーベは裏打ち(tresillo)であったり前打ちだったりする。要するに調子っぱずれで、そのハズレ具合が、慣れてくると心地よいのである。

バタ(batá)とジュカ(yuka)

黒人共同社会の音楽でもっとも有名なのがルクミ(Lukumí)グループである。ルクミの音楽はバタというひょうたん製の打楽器群からなり、伝統的儀式に先立って演奏される。

1950年代、ハバナ地区のバタ奏者グループ「センテーロ」がルクミをキューバ音楽のメインストリームに押し上げた。そのあとメスクラやラサロ・ロスなどのグループ、マルティニクのズークもこの流れに加わった。

コンゴ系黒人はジュカという打楽器群を使っていた。これはブラジルのカポエイラと共通する。このジュカがルンバへと発展する。

ルンバ

ルンバはハバナとマタンサスの港湾労働者から発生した。さまざまな打楽器、歌手とコーラスからなる演奏は、民衆の踊りのためのものだった。

ルンバという言葉は、楽しい時を過ごすという動詞から来ているらしい。いずれにしても踊りのための演奏だ。

ルンバには3つの種類がある。columbia, guaganco そして yambúだ。

コルンビアは8分の6拍子、男性の一人踊りですごいスピードだ。攻撃的でアクロバティックな動きだ。

グアガンコは4分の2拍子。男女の踊りでもう少しゆったりとしている。男性は女性に対して一物を突き立てる動きを示す。

ジャンブーはグアガンコの前踊りで「年寄りのルンバ」と言われる。この踊りはすでに廃れてしまった。

1920~30年代

多様化と大衆化 

今日の形態のソンは1920年にトリオ・マタモロスがハバナに持ち込んだと言われる。

ソンはまもなく都会化された。トランペットや新たな楽器が持ち込まれた。そしてハバナの音楽シーンにとてつもない影響を与えた。

ソンははじめのトリオから7重奏団にまで発展した。

ときとともに音楽家はソンの漂白をはじめた。ハバナのナイトクラブを訪れる観光客に、難しいアフリカのリズムを伝える必要はないからだ。クラーベは固有のソンのビートを打つのをやめた。

キューバ音楽のアメリカ上陸

1930年代、レクオナ・キューバン・ボーイズとデシ・アルナスがコンガのリズムをアメリカに普及した。ドン・アスピアスがソン・モントゥーノを、アルセニオ・ロドリゲスがコンフント楽団を広げた。

ルンバはアメリカでますますポピュラーなものとなった。海外組のうちでもErnesto Lecuona, Chano Pozo, Bola de Nieve, Mario Bauza, などが有名である。

マンボが最初にアメリカに入ったのは40年代初めのことだった。最初のマンボ、その名も「マンボ」は、1938年カチャオ・ロペスによって作曲されたものだった。

それから5年後、ペレス・プラドがハバナのナイトクラブ、「トロピカーナ」の観衆にマンボ・ダンスを披露した。

マンボはそれまでのダンソンの形とはまったく違っていた。それはソン・モントゥーノとジャズの要素を取り入れていた。

1947年までにマンボは全米に広がった。しかしその熱狂はわずか2,3年で終わった。

革命の急進化 音楽家の亡命

66年から68年にかけて政府は極端に急進化した。残されたナイトクラブやレコード産業はすべて国有化された。

数多くの音楽家が仕事を失い、アメリカに去った。その一人にセリア・クルスがいる。彼女はグアラーチャの歌手で、亡命後はサルサの興隆に加わった。

イラケレのメンバー何人かも亡命し、パキート・リベラとアルトゥーロ・サンドバルは成功を収めた。

ハバネラ

19世紀後半、ハバネラはコントラダンサの枠を越えて発展し始めた。リズムは単純明瞭となり、スペインやアフリカの曲をレパートリに加えることで、より多彩なジャンルとなった。

1930年代、アルカノとマラビリョス楽団はコンガに触発され、ハバネラにモントゥーノを加えた。それはチャランガと呼ばれ、庶民のあいだに根強い人気を誇った。

1940年代と50年代

アルセニオ・ロドリゲスはキューバでもっとも有名なソネーロである。彼はソンのルーツをもとめ、アフリカのリズムを積極的に取り入れた。

中でもグアガンコの摂取が特筆される。また彼はリズムセクションの中にカウベルとコンガを取り入れた。また独奏楽器としてトレスをフィーチャーした。

さらにあるせニオはモントゥーノをメロディーの要素としてソロ楽器に受け持たせた。このスタイルはソン・モントゥーノと呼ばれるようになった。

1940年代、チャノ・ポソはニューヨーク・ジャズのビーバップ革命の一翼を形成した。ジャズにコンガなどアフロ・キューバンの楽器が取り入れられた。

米国におけるキューバ音楽

エンリケ・ホリンが率いるチャランガ、オルケスタ・アメリカはチャチャチャを生み出した。それは50年代に世界的なブームとなった。ティト・プエンテやペレス・プラドなどの超有名楽団もチャチャチャを演奏するようになった。

1960年代と70年代

モダンキューバ音楽は、これらの要素を絶えず撹拌し新たなものを生み出すゆりかごとして注目されるようになった。

例えばイラケレは大楽団編成にバタを用いたことで注目された。さらにキューバの音楽家は「モザンビケ」を生み出した。これはルンバやバタのドラム音楽を取り入れたもので、バタルンバとも呼ばれる。

カストロと亡命者たち

カストロ政権の音楽活動への強制は徐々に強まった。初期の支持者たちも次々と亡命した。

しかしソ連の崩壊とともに、音楽への圧力も弱まり、外国での演奏が自由になっている。

サルサ

1970年代に始まったソン・モントゥーノと他のラテンアメリカ音楽との融合は、サルサを誕生させた。それは今でもラテンアメリカでもっともポピュラーな音楽となっている。

ヌエバ・トローバ

ヌエバ・トローバは社会的メッセージを込めた歌のジャンルで、南米のヌエバ・カンシオンと響き合っている。

トローバは、シンド・ガライ、ニコ・サキート、カルロス・プエブラなど20世紀初頭に活躍したトロバドールの歌った曲を指す。

ソ連の崩壊後、ヌエバ・トローバも新たな方向を目指すようになった。例えばリウバ・マリア・エビアは高い詩的水準を保ちながらも、非政治的な方向を目指している。

カルロス・バレラは明らかに政府批判の立場に立って活動を行っている。

1890年代と90年代

ソンとヌエバ・トローバは現在のクーバにおいてももっともポピュラーな音楽ジャンルとなっている。

ソンは1985年に再結成されたセプテート・ナシオナル、オルケスタ・アラゴンなどむかしからの楽団がいまも担っている。彼らの主な活動は古いキューバの曲を発掘し、それを洗練させる方向に向かっている。

これに対しイラケレ、エネへ―・ラバンダ、ソン・カトルセなどはソンに新たな要素を加えようとしている。

エネへ―・ラバンダはヒップホップやファンクの要素を加え、「ティンバ」として売り出した。オルケスタ・アラゴンもティンバに取り組んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

キューバ音楽の歴史……ソンを中心に

 砂糖ブーム以前のキューバ

1492年、コロンブスがキューバに上陸したとき、そこにはシボネイやタイノなどの先住民が暮らしていました。

彼らは奴隷狩りや征服者が持ち込んだ疫病によりわずか50年ほどで絶滅してしまいます。

征服者にとってキューバは魅力のない土地でした。最初は僅かに金が取れましたがたちまち枯渇してしまいます。そのうちメキシコのアステカ帝国やペルーのインカ帝国が知られるようになり、ほとんどの征服者はそちらに行ってしまい、後には無人の土地が残されました。

わずかに新大陸とスペインを結ぶ中継点としてハバナとサンチアゴの港だけが残されました。この状態で250年が過ぎていったのです。

砂糖産業の勃興と黒人奴隷の流入

新大陸諸国は母国スペインとの貿易しか許されていませんでしたが、イギリスが介入してきたことで新たな市場(と言っても密貿易)が開拓されるようになりました。

1762年、イギリスは短期間ハバナを占領。その後も経済的進出を強めました。

イギリスは大量の砂糖を買うようになりました。そのために砂糖農園が次々に開かれ、労働者として多くの黒人がつぎ込まれました。1800年には、白人人口29万人に対し黒人が34万人に達しました。ハバナの人口は10万を超え、新大陸でメキシコ、ニューヨークに次ぐ街となりました。

イギリス人は管楽器、弦楽器、鍵盤楽器などを持ち込みました。1776年にはハバナに最初の劇場「テアトロ・プリンシパル」がオープンしています。当時の裕福な白人が好んだのはメヌエットやガヴォットだったそうです。

奴隷の一部は解放され自由黒人となりましたが、食うためにはハバナに出て船乗りや職人相手の怪しげな仕事にありつくしかありませんでした。黒人の大道芸人が数多く生まれました。

彼らは白人の好むヨーロッパの音楽を黒人風にアレンジして演奏しました。黒人風というのは、音楽的に言えば3拍子を2拍子に変え、シンコペーションを加えることでした。

この「ロボット風」のぎくしゃくした演奏が、ハバナを訪れたヨーロッパ人には存外モテたようです。

ハイチ独立とフランス人農園主の流入

ハバナ近郊にサトウキビ農園が広がっていった頃、世界最大の砂糖産地ハイチでも大きな変化が起こりました。1790年、当時サン・ドマングと呼ばれたハイチの黒人奴隷が反乱を起こし、10年に渡る戦いの末フランス人を追い出して、黒人共和国を立ち上げたのです。

この結果ハイチを逐われた白人や黒人数千人が対岸のサンチアゴに流れ込みました。彼らは質の高いフランス文化を持ち込みました。その一つが音楽です。

フランス系ハイチ人の音楽はブルターニュ地方由来と言われます。それはコントルダンスという舞曲でした。このコントルダンスというのはもともとイギリスの田舎舞踊(カントリー・ダンス)がフランスに持ち込まれたものといわれます。

これがスペイン語に変わってコントラダンサと呼ばれるようになりました。

1830年頃、サンチアゴのコントラダンサはハバナにも広がりました。そこで黒人的な修飾を受けてコントラダンサ・アバネーラとなり、さらにリズミックな短い反復パターンのシンプルなアパネーラヘと変わっていきます。

外国との音楽的交流

1840年 スペインの作曲家イラディエールがキューバにやってきました。その滞在中にハバネラを知った彼は,そのスタイルをもちいて「ラ・パローマ」を作ります。You Tubeではビクトリア・デ・ロス・アンヘレスの素晴らしい歌唱が聞けます。

この曲はヨーロッパで大流行したばかりでなく、アルゼンチンにも拡散し、タンゴの源流の一つになったそうです。

なお一説ではボレロもコントラダンサから派生したと言われますが、これはれっきとしたスペイン音楽です。ダンス音楽ですが、コントラダンサよりも歌の要素が強いものです。

1900年頃ハバナに広がったボレロは、3拍子から2拍子となり、その後メキシコに伝播しました。

ボレロは1950年代にメキシコからラテンアメリカ全土に広まりました。トリオ・ロス・パンチョスなどメキシコの男性トリオが歌う甘い曲は、ひとからげにボレロと呼ばれています。

逆にメキシコから持ち込まれたのがグァラーチャです。これは本来メキシコ起源のアップ・テンポのリズムで、主にハバナの黒人街の淫売宿で流行したといいます。情交の際に男性が腰を前後に振る卑猥な仕草が踊りになったという下品者です。

今日ではグァラーチャ特有の形式というものは残っていないそうです。むかし「イカした」という男性の褒め言葉があって、これは情交の際に「女性をイカせる」というのが語源だそうなので、そういう風なトッポイ感じの曲ということなのでしょう。

あまりキューバの匂いはせず、むしろメキシコのマリアッチという感じです。

キューバ音楽を形成する3つの要素

19世紀後半にキューバ音楽を形成する3つの要素が出揃います。それがダンソンとソンとルンバです。色で言うならダンソンが白、ソンが褐色、ルンバがクロということになるでしょう。

まずダンソン。これは1880年にミケール・ファイルデが売り出したものです。1870年ころにマタンサス地方を中心に発展したといわれます。

スペインの舞曲を引き継いだと言われますが、ロボットのようなシンコペーションは黒人音楽の影響を受けたキューバ特有のものです。拍子も1/2から6/8と変化しています。

コントラダンサと異なりカップルで踊りますが、きわめて健全なおとなしいものです。これは白人上流社会で流行しました。

初期は軍楽隊が公務のあいだに演奏したようです。この編成はオルケスタ・ティピカと呼ばれます。これでは流石に無骨なので、後からは二本のバイオリンと1本のフルート、ピアノ・打楽器で編成されるようになりました。

白人農民音楽との融合によるソンの成立

次がソン。これはコントラダンサを根っこに発展したもので、東部のサンチアゴが起源です。

ソンの成立過程については十人十色で、定まったものはありませんが、アフロ=キューバン音楽とスペイン起源の田舎の音楽を受け継いでいるとされています。

そもそも混血音楽であることについては、大方の意見が一致しているようです。サンチアゴでは、「山の人のソン」が街に広がり、ソンが生まれたと言われています。

「山の人」というのは白人です。なぜなら黒人は農場を脱出しない限り「山の人」にはなれないからです。後から入植した白人はどうしても条件の悪いところに入らざるをえません。プエルトリコでいう「ヒバロ」です。カマグエイからオリエンテにかけては、そういうプアーホワイトが今でもたくさんいます。

そういうスペイン人移民がもたらしたのが、サパテーオというダンス音楽、デシマという歌詞を重視した音楽ジャンルです。デシマはほとんどソンそのものです。ギター、トレス、ボティーハ(あるいはマリンブラ)のトリオが基本となっています。

ただ東部地方は米西戦争後に大規模な砂糖農場の開発が進み、これに伴いハイチの黒人が多数入ってきました。したがって黒人の音楽も色濃く投影されています。サンチアゴよりさらに東、グアンタナモあたりでは、より黒人音楽のリズムをとどめたチャングイというスタイルが残っています。

ソンが芸術的レベルに達したのにはトローバ(ミンストレル)という旅芸人の存在が大きく関わっていました。彼らはギターの伴奏で時事ネタ、下世話ネタや、センティメンタルなバラードを歌い、人気を博しました。彼らによりソンは技巧的にも洗練された物となっていきます。代表的な歌手がシンド・ガライとぺぺ・サンチェスです。日本で言うと高橋竹山ということになるのでしょうか。

黒人の自立化とルンバ

最後がルンバ。これは我々が普通に言うルンバではなく黒人社会の打楽器音楽を指します。これには少し背景説明が必要でしょう。

キューバが世界一の砂糖産出国となるについては膨大な労働力が必要でした。他のラテンアメリカ諸国が独立した後もキューバは依然スペインの植民地にとどまりました。

スペインは国の総力を上げ砂糖増産に力を注ぎました。奴隷制度はラテンアメリカ諸国で最も遅く1873年まで続いたのです。

大規模農場が島の中西部に集中したことから、黒人社会もハバナやマタンサスなど西部を中心に形成されました。

膨大な黒人人口は、出身地によっていくつかの集団に分かれました。なかでもナイジェリア西部から来たヨルバ族は最大の集団を擁し、独自の文化・習慣を現在まで残しています。その典型がサンテリーア(ヴードゥー)と呼ばれる宗教儀式、コンパルサと呼ばれるカーニバルの仮装行列などです。

大規模な打楽器集団による複雑なリズムが特徴で、クラーベ、コンガ、バタ(太鼓)の複雑な掛け合いは黒人以外には真似出来ないものです。

ルンバはヨルバの文化の中では世俗的なジャンルにあたります。各種打楽器の合奏がモチーフとなり、独唱歌手とコーラスがコール・アンド・レスポンスで掛け合います。ルンバにはヤンブー、コルンピア、グァグァンコーなどの種類がありますが、いずれも限りなくアフリカンです。

独立戦争の終結と東西文化の混じり合い

キューバでは1867年から1900年まで30年にわたり独立戦争が戦われました。結果としてスペインからの独立は実現しましたが。今度はアメリカに従属した半独立状態になります。

一方で、国の東部と西部が一体となり、相互の交流が進みました。兵士によりハバナにソンが持ち込まれ、ハバナで流行していたダンソンと相互に影響し融合していきます。

ダンソンの演奏家が哀愁を帯びたソンの曲を演奏するようになりました。ソンの演奏家はダンソンの楽器編成を取り入れ、あらたな音色を獲得します。

ソンの元の編成はギター、トレスのほか、リズム楽器としてボティーハ(Botija)が加わっていました。これは詰まるところただの壺です。マリンブラ(Marimbula)というのを使うこともありましたが、これも木箱にブリキの短冊を釘で打ち付けたものに過ぎません。

花の都ハバナに出てきて、この「楽器」では流石に恥ずかしい。ということで、マリンブラとボティーハの代わりにアップライト・べ-スが導入されました。

marimbula-ma840

マリンブラ 今では立派な楽器として販売されている

サンチアゴのカサ・デ・マタモロでは今でもマリンブラが使われていますが、さすがにボティハはありませんでした。

Botija (cantir) de terrissa negra catalana, Museu Soler Blasco de Xabia.JPG
Botija (Botijo, Botijuela, Bunga)

 さらにリズム楽器としてボンゴが加わりました。これとギター、トレス、ベースの4人でバンドとしての基本は出来上がります。これに専属の歌手が、どういうわけか男性二人が加わります。この二人はただ歌うだけではなくクラベスとマラカスを担当しました。

こういうセステートの形が出来たのが1920年頃で、セステート・アパネーロ、セステート・ナシォナールがその代表となります。セステート・ナシォナールはさらにその後、トランペットを加えたセプテートの編成を確立します。

ソンのグループがブレイクした理由

1920年は第一次世界大戦が終わってアメリカが空前の好況を迎えた年でした。(多少憶え違いがあるかな)

アメリカの半植民地であるキューバも、そのオコボレで景気が良くなります。とくに観光業は空前の発展を遂げました。

何と言ってもアメリカの禁酒法が後押ししました。日頃つらい日々を送っている飲ん兵衛には、ハバナに行けば自由に酒が飲めるということはそれだけですばらしいことです。キューバの政府は賄賂次第でいくらでも融通が効きました。賭博も自由なら、売春も自由。不埒な連中には天国となったのです。

マフィアの息の掛かったカジノ付きホテルが続々と建ち、ダンス・ボールにはソンの楽団が進出しました。

1922年にはラジオ放送が開始されました。ちなみに日本では25年のことです。これでソンがブームにならないわけがありません。

ソンがアメリカにも進出

1928年、アメリカの興行会社がルンバを大々的にプロモートしました。ところでルンバというのは、黒人社会のかなり特殊な音楽ですが、ソン (son) がソング (song) と混同されないように、ルンバの名で売り出したとされています。つまりアメリカ資本がソンを勝手にルンバと名付けたわけです。

このキャンペーンの中で空前の大ヒットとなったのが「南京豆売り」です。これはドン・アスピアスとハバナ・カシノ楽団というグループの演奏でした。

楽団の編成はさらに大きくなり、ホーンセクション、ギター、ベース、シンガー、ピアノ、ボンゴにコンガが加わるようになります。これらの楽団はもうオクテットではなくコンフントと呼ばれるようになりました。

盲目のギタリスト、アルセニオ・ロドリゲスがニューヨークで活躍を開始。その楽団は第ニトランペット、サクソフォンなどをくわえホーンセクションも強化されました。これが現在のラテンバンドの標準編成となっています。

マチートはアフロ・キューバン・ジャズというジャンルを開拓し、米国で大活躍します。逆にジャズ畑のディジー・ギャレスピーがカーネギー・ホールでラテン・ジャズコンサートを開き大成功させるなどの現象も起きています。

もともとクラシック畑のエルネスト・レクォーナもレクオーナ・キューバン・ボーイズを結成して欧米を演奏旅行。シボネイ,ラ・コンパルサなどのヒットを飛ばしました。

マンボの爆発

ソンの楽団の成功を見てダンソンのグループもソンを演奏して成功をもとめるようになります。それが1938年のカチャオ・ロペス作曲「マンボ」でした。

ダンソンのリズムセクションを強化し、シンコペーションとしたことで、特有の「ダサさ」が一掃されています。しかし音の響きはいかにもダンソン風でした。

第二次大戦が終わって間もなく、ダンス音楽のジャンルとして「マンボ」が誕生します。

物の本には、ソンのモントゥーノ部分を膨らませたものとなっています。考案者は自称他称で5,6人はいるようです。

プエルトリコ生まれのティト・プエンテはニューヨークで楽団を組織し、最初にマンボの演奏をはじめました。カチャオ・ロペスもみずからのコンフントを結成し米国内を巡演しています。

しかし、なんと言おうとマンボはペレス・プラードのものです。

彼はキューバ生まれですがメキシコで実績を積み、ホーンを中心とするフルバンド・ジャズの編成を取り入れ、ド派手な演奏スタイルを作り上げました。

52年のマンボ・ナンバーファイブで成功したペレス・プラドはその勢いで米国に乗り込みます。

1955年、セレソ・ローサが全米ヒットチャートで10週連続第1位を記録し、マンボ人気は頂点に達します。日本でもこの頃からマンボ人気が広がり、菊池容子が大時代な歌詞でカバーしています。マンボズボン(裾広がりのジーンズ)がアンチャンたちの風俗になりました。

ペレス・プラードだけではありません。ラテンのリズムは全米を席巻しました。キューバ国内ではソノーラ・マタンセーラ、ベニー・モレー、フェリクス・チャポティーンらが活躍しました。ニューヨークではマチート、ティト・プエンテ、ティト・ロドリゲスら非キューバ人も含めたラテン系バンドが人気を博しました。

50年代はソンの黄金時代と言えるでしょう。

ジャズとの交流

ソンの黄金時代はジャズの黄金時代、ハリウッド映画の黄金時代とも重なっています。それらのキューバへの影響は大きいものでした。

特に戦後になってから、ジェームス・ムーディらによりアフロ・キューバン・ジャズの分野が開かれました。好事家にとってはかなり面白い曲があるようです。

ただジャズのリズムはソンやダンソンのものとは基本的に合わないため、融合という点では成功せず、共存という形を取ったように思えます。

一方ジャズ・バラードに影響を受けたロマンチック歌唱のジャンルでは、このリズムの矛盾が比較的少ないため、とくにクラブ・シーンを通じて普及していきました。

センティミエント(Sentimiento)と言ったりフィーリン(Filin)と言ったりするようです。現在はオマーラ・ポルトゥオンド、エレーナ・ブルケがその代表格になっています。パブロ・ミラネスも前から積極的に取り上げています。

チャチャチャ ダンソンの復活

こういう流れに背を向けて、ダンソンの伝統を守る人々もいました。良質な家庭音楽といった雰囲気を持つダンソンは、ラジオの普及のお陰で命を永らえました。ロメウの楽団とバルバリート・ディエスの歌はそんな古き良き時代を感じさせます。

そんな中で、53年にエンリケ・ホリンが発表したのがチャチャチャです。ダンソーンよりリズムの強いチャチャチャが演奏されると、みんな腰を振って踊り始めたといいます。メキシコ風のアブラギッシュなマンボは、淡白なキューバ人の口には合わないようです。

エンリケ・ホリンのチャチャチャはアメリカでもヒットしました。日本でも江利チエミが歌っていました。(この人は進駐軍のキャンプから売り出した人で、シシカバブからサザエさんまでなんでも歌う)

そのあと、チャチャチャがさらにアップテンポになったパチャンガが流行を迎えますが、これは突如中断します。

キューバ革命とアメリカとの断交

59年1月にキューバ革命が成功すると一気に状況は変わります。アメリカはカストロ政権を一貫して敵視し、キューバはそれと対抗してソ連との関係を強めました。

キューバはアメリカ文化を嫌い、ジャズやロック、ビートルズまで敵視しました。外国との交流が絶たれたなか、ヨルバ族の伝統などアフロ系文化が見直され、モザンビーケというリズムが流行します。

しかし率直に言えば多様な音楽文化は沈滞を余儀なくされることになります。シルビオ・ロドリゲスでさえビートルズを評価したという理由でポストを外され、調査船(表向きは漁船)に乗り込むことになります。この船旅の経験を元に作られたのが名曲「エル・プラヤ・ヒロン」だと言われます。

一方、ニューヨークのラテン音楽シーンもその影響を蒙りました。プエルトリコ人たちはパチャンガをさらに発展させる方向で、他の非キューバ系ラティーノはジャズ、とくにR&Bやロックをラテン系に解釈する方向で動きました。

63年にはアフロキューバン・ジャズのモンゴー・サンタマリアによる「ウォータ―・メロンマン」がヒット。ブガルーのさきがけとなりました。ほとんどロックのノリです。初期にはレイ・バレット、ルベン・ブラデスなどもこの流れに加わっていましたが、結局ブガルーはアメリカのポップスに吸収されるかたちで消滅していきます。

様々な傾向のミュージシャンがデスカルガと呼ばれるジャム・セッションを試みました。このなかでドミニカ出身のジョニー・パチェーコらによりファニア・レーベルが発足。一連の試みがサルサと名付けられました。

ニューヨーク・サルサについてはキューバの話と離れるため省略します。

キューバにおける音楽政策の見直し

キューバの急進政策は60年代後半の深刻な経済的困難を招きました。また極端な平等化を嫌う多くのキューバ人が脱出していきました。

この結果、急進政策の全面的な見直しが進められ、この中でキューバ音楽も息を吹き返していきました。

まず66年、ヌエーバ・トローバ運動が始まります。米国のフォークソング運動やチリなどのヌエバ・カンシオン運動と共鳴し、メッセージ性の高い歌が作られていきます。この運動の代表がシルビオ・ロドリゲスやパブロ・ミラネースでした。

つぎにロス・バンバンなどチャランガ(ダンソン系の楽団)が、「ソンゴ」というウラ打ちのノリの良さを強調した演奏で人気を獲得しました。中には1940年創立のオルケスタ・アラゴンみたいな団体も復活してきます。

オルケスタ・レベはネグロ系の音色を強く押し出したコンフントとして人気を博しました。より正調ルンバに近いのがロス・パピネスです。これに追随するように多くのコンフントが登場してきました。

政府はこの動きを後押しするように国内の腕っこきを集め、「イラケレ」を作ります。正直に言えば外貨獲得の目論見がミエミエですが、その腕前は各国で驚嘆されました。ただし何人かは海外旅行中に逃げ出しました。

70年代なかばには、若手音楽家がサルサのモダンな響きを取り入れ、新たなソンを作り出し、若者の共感を呼びます。代表的なものとしてグルポ・シエラ・マエストラ、アダルベルト・アルバレスなどが挙げられます。

最近の動き

最近と言っても、この20年ほどの動きですが、政府の「音楽立国」的な動きが加速されました。

ジャズもビートルズもお構いなしということになりました。売れ線と思えば音楽学校からどんどん逸材を突っ込んできます。

この結果、国内経済の苦境とは裏腹に音楽市場はかつてないほどの活況を呈しています。

ソンの世界ではNGラバンダを先頭にバンボレオ、パウロ・イ・ス・エリテ、チャランガ・アバネーラ、メディコ・デ・ラ・サルサなどの若い世代が競い合っています。

彼らの演奏の特徴はティンバと呼ばれます。ニューヨークサルサとの違いを強調するためサルサ・ドゥーラと呼ばれることもあります。高度なテクニックに裏打ちされているが、演奏はダンサブルで内容は平易です。

音色的な特徴はジャズ・ドラムの導入にあり、これによりはるかに複雑なリズムが刻まれるようになりました。サルサといえばティト・プエンテでおなじみのティンバレスですが、キューバのティンバはドラムにあると言ってもいいかもしれません。

ジャズではローカル色でなく世界標準の技術で勝負をかけ、多くのミュージシャンが輩出されています。ピアノでは大御所となったチューチョ・バルデスの他ゴンサロ・ルバルカバ、ロベルト・フォンセカ、ルイス・ルーゴ、アルフレッド・ロドリゲス、アロルド・ロペス・ヌッサなど枚挙にいとまありません。

他にもサックスのセサル・ロペスなどがいます。

総じて、見た目の特徴は白いことです。キューバにこんなに白人がいたかと思うほど、多くの白人音楽家が登場してきます。それも揃ってエリート顔です。

かと思うと、97年には老人ホームの年寄り演奏家を集めた「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、グラミー賞を獲得しました。これがキューバの底力です。

キューバ音楽の行方

そんなことわかりません。語る資格もありません。しかしキューバ音楽の水準が技術的には革命後最高のレベルに達していることは間違いなさそうです。

それ自体は大変結構なことですが、手放しで喜んで良いものかというといささか複雑なところもあります。

キューバ国民みんなの生活が豊かになって、本当に喜んで、こういう音楽を聞ける日がくればいいなと思います。

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