鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年04月

図書館というのはすごいところで、澤地久枝の「昭和史のおんな」を頼んだら5分で出てきました。

実物を拝むのは初めてです。

さまざまな題材がずいぶん広く深く扱われていて、さすがプロはすごいなと思いました。

この本では16人の「昭和史のおんな」がとりあげられ、ふじ子はその中のひとりに過ぎません。

それでも、ざっと読むのに1時間かかりました。中身がそれだけぎっしりと詰まっているのです。

これだけでも十分な情報量があるので、結局これからの作業はこの本の落穂ひろいみたいなことになるのではないでしょうか。

本を借りることは出来たのですが、本日は良しにしました。ちょっと借りても1週間で消化できる自信はありません。

最近、変に精読癖が身についてしまったので、新書判一冊読むのにも1週間はかかります。

年取って記憶力が落ちてくると、速読・乱読はかえって時間がもったいない気がしてくるのです。10年先の肥やしを作ってなんになる。今この場でしゃぶり尽くせ、という気合です。

脳みそのスタミナも落ちているので、1時間連続で読むと回路がバーストしてしまいます。

とりあえず、メモしたところを文章に起こしておきます。

表題は「小林多喜二への愛」

副題というかリードとして、以下のように書かれている。

戦後、歴史論争を呼んだ「党生活者」の笠原のモデル・伊藤ふじ子の歩んだ70年の歳月

嫌なリードだが、こうするしかなかった必然性も痛いほどよく分かる。

これ自身が“闘い”なのだ。

伊藤ふじ子の死

伊藤ふじ子は昭和56年4月26日、自宅で突然死した。激しい頭痛を訴えた後意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となった。享年70歳、今日から考えれば比較的若い死であった。

ただならぬ死の予感を伴い、片麻痺症状や痙攣発作、脳圧亢進などなかったようだから、脳幹部の出血を考えたい経過である。相当でかい脳動脈瘤があったのだろう。

澤地は2つの訃報を紹介している。

赤旗の訃報

戦前、治安維持法下の特高警察の過酷な弾圧の下、貧困と闘いながら、作家・小林多喜二の創作活動を献身的に支えました…

北海道新聞の訃報

旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した、地下生活を描いたとされる「党生活者」にハウスキーパーとして登場。これをめぐり「伊藤は小林多喜二の妻であった」とする日本共産党と、「ハウスキーパーだった」とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある…

訃報の筆者への憤り

誰が書いたかは知らないが、こういう愚劣で醜悪な議論を当時のマスコミはやっていたのだということが分かる。

朝日新聞の記事からすでに14年を経過していてさえ、死者を容赦なく鞭打つ、この有様なのだ。

ここに、手塚がひたすらにふじ子の動静を秘匿した最大の理由がある。

過ぐる戦争への歴史を見通すならば、本当は、岩田と多喜二の虐殺は、日本の戦前メディアが虐殺され、息の根を止められた日なのだ。

まずそのことに思いを致し、自らを恥ずる念から、悲劇の一つのけじめとして記事を起こさなければならない。ゴシップもどきの「訃報」で凶暴な権力による弾圧の犠牲者を辱めてはならない。

それは権力者の免罪につながり、ひいてはメディア自らの免罪へとつながる。かつて臆病者だったメディアは、今や卑怯者となるのだ。

ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。

むかし、高校生の頃だから、東京オリンピックの前、レコード屋に行ってため息を付きながら眺めていたレコードがある。

ライナーのバルトーク弦・打・チェレスタ、ライナーのローマの松、ミュンシュのオルガン交響曲と海、コンドラシンとRCAのイアリア綺想曲だ。これにアンセルメのダッタン人の踊り、オーマンディの山人の歌も加わる。

陳腐な言い方だが、めくるめく音の洪水に脳みそが方向感覚を失うのだ。

どうせ買ったって、家の貧弱な再生装置じゃレコード屋の試聴室で聞く音は出ないよなと、あきらめて帰ったものだ。

と言いつつバルトークだけは廉価版が出たときに買ったが、他はいつの間にか忘れていた。

今回久しぶりにようつべでミュンシュのサン=サーンスを見つけて聞いてみた。

相変わらずびっくりするほど音は良い。59年の録音とはとても思えないほどだ。とくにダイナミックレンジの広さには驚く。強音でも音が団子にならずに、各パートの音が明瞭に分離されている。

この頃のRCAの録音は世界最高レベルだったのだなあということがあらためてわかる。

ただし高音はざらつき艶はない。強音では折り返しがある。おそらくリマスターされた音源だろうが、原音の限界であろう。

もう少し新しい録音でいい演奏はないだろうかと探してみた。デュトワ、メータ、マゼール、バレンボイム、パーボ・ヤルヴィ…と一通り聞ける。良い時代になったものだ。

中で意外に良いのがジョルジュ・プレートル指揮ウィーン交響楽団の演奏だ。見た目の派手さはないが、目の積んだ演奏をしていて、普通にシンフォニックだ。とくに木管の美しさは印象的だ。

しかしミュンシュの刷り込みがひどくて、どんちゃか鳴ってくれないとどうも聞いた気がしない。「おうっ、はええとこどんちゃかやってくれ」という気分になる。

やはり、ミュンシュは空前絶後と言うべきか。

おっと、とんでもないものが出てきた。

オーマンディ・フィラデルフィアだが、こちらはFebruary 6, 1980の録音だ。その頃オーマンディーって生きていたっけ? Telarc SACD と書かれている。80年代にCDで発売されたもののリマスターらしい。

とにかくすごい音だ。

コメント欄がすごい。

Fuck, this Pipe Organ blow out my head and my speakers...

* This is why subwoofers were invented

むかし、ステレオが出始めの頃、ド派手な音のさわりだけ集めたサンプル盤みたいなものがあった。最初がツァラストラで、夜の女王のアリアだったり、最後がホルストのジュピターだったりする感じ。

この曲ってそれでいいんじゃない。プレートルには申し訳ないけど。

それで余白にオルガン独奏曲が入っているけど、「これで、オタクのコンソール使えるかしら?」という感じで響き渡る。

お早目のダウンロードを


朝の頭の冴えているうちに、議論を整理しておこうと思う。

1.日本の紀元ゼロ年は西暦600年だ

疑いのない文字資料や事物で日本国が成立したといえるのは、飛鳥寺の建立と、隋への国書「日出処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」の堂々たる登場宣言である。

これより以前、欽明天皇の治世以前は、にわかに闇に包まれる。欽明の即位は540年と言われるが、これすらも怪しい。

もう一つ、540年の時点ではいまだに倭王朝は存在している。

三国史記によれば、561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。

これで倭王朝は滅亡し、その勢力は蘇我氏を通じて大和政権に組み込まれていく、というのが大筋ではないかと考えている。

ただいずれにしてもそのような重大な仮定を含むような議論は到底歴史とは成し得ない。結局、大和政権を主軸とする日本国は550年ころからようやく、主体的な「歴史」として扱えうることになる。

それ以前の「日本」像は、街角の監視カメラで捉えられた犯人みたいなもので、生々しいが静止画像にすぎない。

それ以外は、考古学的方法で歴史の過程を積み上げていく他ないのである。もちろん様々な伝承情報もあるが、実証するものがない以上、それは神話の世界、すなわち先史時代なのである。

2.飛鳥時代前の時代区分

そうすると飛鳥時代前の時代区分は、基本的には考古学的知見に依拠することになる。

考古学的時代区分とは何か。世界共通のものとしては新旧の石器時代、青銅器時代、鉄器時代となる。この内新旧の石器時代が先史時代と呼ばれ、青銅器時代以降は文明時代と呼ばれる。

その後文明が拡大してくれば、とくに文字が登場すれば、これらの分類は必要なくなり、したがって用いられなくなる。

これが時代区分の基本的な論理である。

日本では縄文時代は旧石器時代である。弥生時代に新石器時代が到来した。しかし弥生時代の比較的早期に青銅器、そして鉄器が入ってくる。

かくして、弥生時代は新石器時代、青銅器時代、鉄器時代の3つの時代を含み、それらが駆け足でやってきた時代というべきであろう。

3.なぜ世界標準区分を用いないのか

なぜ世界標準区分を用いないのか。それは日本における文明進歩の後進性に基づく。それが世界標準区分のいちじるしい伸び縮みをもたらす。

このままでは旧石器時代が長すぎて、尺度にならない。逆に新石器時代、青銅器時代、鉄器時代が短すぎて、尺度としてはあまりに煩雑になるからだ。

そういう言い訳は成り立ちうる。だから旧石器時代の亜紀として縄文土器に特色づけられた一時代を提唱するのは大いに意味がある。

なお、日本では縄文時代を新石器時代にふくめるのが一般的だが、新石器時代の3つの特徴、磨製石器・土器の使用・農耕の開始のうち土器の使用を除けば、むしろ旧石器時代に入れるべきではないかと思う。(細石刃の出現を指標とし中石器時代とする説もあるらしい)

同じように弥生時代という時代区分も、とくに初期~前期段階では有効な概念だと思う。

それと気持ちの問題もある。縄文時代という時期区分があまりにも堅牢なために、「土器には土器で」対応しようという気持はよく分かる。

しかし、本来は旧石器時代から新石器時代への移行として何ら問題はないはずだ。世界の考古学者ならそう思うだろう。

弥生時代は渡来人が切り開いた文化だ。彼らは専業農家であり、然るがゆえに新石器人だ。水田・稲作という農業の形態は本質ではない。

同時に彼らは初期段階においては金属器を持たずに渡来している。だから新石器人なのでもある。


「弥生土器」(最近は弥生式とは言わないらしい)の相対年代を憶えるのはかなり面倒で、考古学屋さんの独壇場である。

しかも彼らは絶対年代を語ることにはきわめて慎重だから、そして慎重でなくモノを言う人は信用ならないから、こちらで読み解く他ない。

しかし、朝鮮半島で出土した弥生土器を考察する上では必須の知識となる。なぜなら朝鮮の歴史家が基本的に信頼できないからだ。

もう少し向こうが実事求是でやってくれれば、こんな苦労はしなくて済むのだが、何から何まで嘘っぱちだと言うんでは取り付く島がない。

小林分類

近畿地方の弥生土器を第I~第Vの5様式に分けたものがある。戦前に小林さんという人が提唱したものらしいが、現在も基本的には引き継がれている。
絶対年代も念頭に置いて、第I様式の時期を前期、第II~第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期としている。

これに加え、弥生時代終末期に対応して庄内式、古墳時代前期に対応して布留式土器が提唱されるという極めて煩雑なものだ。

2017年01月27日弥生時代の絶対年代区分

もご参照ください。

しかも、これと絶対年代との照合は学者によってずいぶん違っている。これを指摘したのが安本美典さんで、安本さんが作ったのが下の表である。

近畿分類
              「邪馬台国の会」のサイトより転載

こうなると、こと近畿の弥生土器については、絶対年代はあてにならないと見て良さそうだ。考古学屋さんの独壇場であるということは、恣意がきわめて入りやすい分野だということでもある。


なお、安本さんの文章は徹底的に批判的であり戦闘的である。したがって、いささか読み解くのはしんどい。

弥生土器の時期分類は九州北部をベースに行うべきだ

ただ、そもそもこの時代において近畿は弥生文化の後進地であり発信地ではない。土器の分析をいくらやっても、それが九州や吉備から持ち込まれたという可能性は否定できない。かなり虚しいのだ。

純粋に自らの技術で生み出したといえるのは庄内式と布留式、つまり「古墳時代」の土器のみだ。したがって、近畿の土器の編年は庄内式・布留式土器の出現を除けば部外者にはほとんど意味がない。

それと、前から言っていることだが、近畿には銅鐸文化というものがあり、これが消滅・廃棄されるという考古学的大事件がある。客観的に見て銅鐸文化を破壊し葬り去った勢力があり、それが前方後円墳を建設しているのである。

これを組み込まない編年表づくりは、片端としか言いようがない。

弥生土器の経年変化を見ようとすれば、やはりその発信地である九州北部の時代変化を追うべきであろう。

とくに九州北部ではもう一つの考古学的メルクマールである銅鏡があるので、銅鏡の経年変化と撚り合わせながら絶対年代の検討を行うことが可能である。(近畿で不可能とは言えないが…)

さらに、九州北部においては朝鮮半島南部、とくに任那地域との比較ができるという優位点もある。

だから、まず九州北部で基本となるタイムテーブルを作って、その波及的変化として近畿の弥生式についても検討すべきであろう。


濱田延充さんの「弥生土器様式概念の形成と日本考古学」という文章を読むと、なぜこのような晦渋な議論が延々と続いているかがわかってくる。

考古学界は一種の土器フェティシズムに陥っているようだ。それは言語学でソシュールの解釈「学」がいまだに続いているのと似ている。

有力教授が就職口を握っていて、それに逆らっていては飯の種も発表の機会も閉ざされる。だから戦前からの無意味な分類が100年も生きながらえていくのである。

この閉塞社会を学生・院生・若手研究者が打破しない限り、物言えぬ世界は続くし、第二の旧石器スキャンダルは必発であろう。

「弥生土器」(最近は弥生式とは言わないらしい)の相対年代を憶えるのはかなり面倒で、考古学屋さんの独壇場である。

しかも彼らは絶対年代を語ることにはきわめて慎重だから、そして慎重でなくモノを言う人は信用ならないから、こちらで読み解く他ない。

しかし、朝鮮半島で出土した弥生土器を考察する上では必須の知識となる。なぜなら朝鮮の歴史家が基本的に信頼できないからだ。

もう少し向こうが実事求是でやってくれれば、こんな苦労はしなくて済むのだが、何から何まで嘘っぱちだと言うんでは取り付く島がない。

小林分類

近畿地方の弥生土器を第I~第Vの5様式に分けたものがある。随分前に小林さんという人が提唱したものらしいが、現在も基本的には引き継がれている。
絶対年代も念頭に置いて、第I様式の時期を前期、第II~第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期としている。

これに加え、弥生時代終末期に対応して庄内式、古墳時代前期に対応して布留式土器が提唱されるという極めて煩雑なものだ。

もご参照ください。

しかも、これと絶対年代との照合は学者によってずいぶん違っている。これを指摘したのが安本美典さんで、安本さんが作ったのが下の表である。

近畿分類
              「邪馬台国の会」のサイトより転載

こうなると、こと近畿の弥生土器については、絶対年代はあてにならないと見て良さそうだ。考古学屋さんの独壇場であるということは、恣意がきわめて入りやすい分野だということでもある。

なお、安本さんの文章は徹底的に批判的であり戦闘的である。したがって、いささか読み解くのはしんどい。

弥生土器の時期分類は九州北部をベースに行うべきだ

ただ、そもそもこの時代において近畿は弥生文化の後進地であり発信地ではない。それが役立つのは近畿に起きた諸事象の相対的前後関係を明らかにすることのみである。

それと、前から言っていることだが、近畿には銅鐸文化というものがあり、これが消滅・廃棄されるという考古学的大事件がある。これを組み込まない編年表づくりは、片端としか言いようがない。

弥生土器の経年変化を見ようとすれば、やはりその発信地である九州北部の時代変化を追うべきであろう。

とくに九州北部ではもう一つの考古学的メルクマールである銅鏡があるので、銅鏡の経年変化と撚り合わせながら絶対年代の検討を行うことが可能である。(近畿で不可能とは言えないが…)

さらに、九州北部においては朝鮮半島南部、とくに任那地域との比較ができるという優位点もある。

だから、まず九州北部で基本となるタイムテーブルを作って、その波及的変化として近畿の弥生式についても検討すべきであろう。

朝鮮半島情勢と日本:  大化の改新と壬申の乱を国際関係で読む

1.7世紀日本の大まかな把握

7世紀は中国に出現した巨大帝国隋・唐が朝鮮支配を狙い、攻撃を仕掛けた時代である。唐は百済を滅亡させ、その5年後に高句麗も崩壊させた。新羅は目下の同盟国としてこれに乗じ、朝鮮半島の盟主となった。

しかし次に狙われるのは新羅である。このことは明白であり、新羅は唐との直接対決を覚悟した。

たまたま唐の北方(東突厥)、西方(吐蕃)でも異民族の蜂起があり、唐はそちらに力を集中するため朝鮮半島の兵力を割かざるを得なくなった。この機に新羅は打って出た。旧百済、旧高句麗勢力もこれを支援、日本も新羅に支持を与えた。結果、唐は朝鮮半島の直接支配を断念した。

この結果、朝鮮半島の主部は新羅が単一支配することとなった。新羅はあらためて唐に臣従の誓いを行い安堵された。

日本は562年に任那を失った後もなお百済との親交を深め、新羅とは冷たい関係にあったが、663年の百済滅亡に関わって大打撃を被ったあとは路線の大転換を図った。

それには事情があった。唐は新羅の反乱に際し日本の対新羅参戦をもとめ、さらに言を左右する日本に対し水軍の派遣をちらつかせたのである。

その中で日本は親新羅・反中国の姿勢を明確にした。

①唐の攻撃の脅威を正面から受け止め、自らの生き残りのために新羅の戦いを支援するという路線である。

②それは同時に専守防衛路線への転換でもあった。旧任那と言わず、旧百済と言わず朝鮮半島への派兵は一切行わない。対馬海峡を国境線としてこちら側にハリネズミの如き防衛線を設営して、ひたすら守りに専念する

これが情勢の激変の中で日本が定めた政治・軍事路線である。

これら2つのオプションは、天武が壬申の乱を経て政権を獲得する中で定式化されたものである。

そして最終的にこの「反帝国主義」の基本路線で一本化するまでのさまざまな動揺が、7世紀日本の政治を規定しているのである。

典型的なのが天智天皇で、

663年に白村江の戦いの戦いに敗れた後、百済駐留の唐軍が大和王朝に使節を送るが、天智は回答を拒否している。そして大規模な国土防衛計画を発動した。

なのに、665年に高宗の勅使が来訪したときは、送唐客使(実質遣唐使)を派遣し、国交回復に乗り出した。668年に高句麗が滅亡すると、天智は遣唐使を派遣し、「高麗を平定したことを賀す」に至る。なおこれは「新唐書」には記載されているが、記紀にはない事実である。

天智が勇猛果断な人物であることは論をまたない。しかし政治の根本を揺るがせにすると、結果として民族自決とマキャベリズム・ミニ覇権主義の狭間を右往左往することになる。

ホーチミンの言葉を今一度思い起こす。これは哲学上の真理ではなく、政治学の根本原理である。

「独立ほど尊いものはない」

* 2.以降は日を改めます。7世紀の経過をより深く知りたい方は、とりあえず7世紀の年表を御覧ください。


安倍武彦 「蘇我氏とその同族についての一考察」(1964)という論文がある。例によって北大の文献だ。

蘇我満智(宿禰)は書紀履中二年条に、平群木蒐宿禰・物部伊百弗大連・円大臣と共に国事をとる(日本書紀 履中2年条)

諸国貢朝年々盈溢し、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめ(古語拾遺 雄略朝)

韓子、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小毘火宿禰を大将軍として新羅を討つ(日本書紀雄略9年条)

大伴金村、物部食鹿火を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とし…(日本書紀 宣化元年の条)

以上が日本書紀に出てくる万智、韓子、稲目の引用だ。韓子については、この後に先程の朝鮮での戦いが載せられている。安倍さんはしょうもないフォークロアだと一蹴している。


次が星野良作(法政大学) 「蘇我石川両氏系図成立の時期について」という論文。こちらはの星野さんという人の文章だ。

「蘇我石川両氏系図」というのは、続群書類従巻一六七の一巻らしい。ウィキの系図の根拠になっている。

 星野さんは、この系譜が奇異なものだと指摘する。

武内宿禰の後裔氏族を巨細に及んで拾載し、また蘇我氏同族とされる平群・葛城両氏まで立入っておりながら、石川氏については、彼の仕えた天皇の名と達し得た官位名を記すに過ぎない。

「系図」のこの様な外見的特徴は、彼の造作に際しての態度あるいは方針等の在り方に疑いを生じさせる。

ということでるる史料検討を行い。

「系図」の原型は、やはり10~11世紀の交に成り、その後何らかの事情で放置され、14世紀の末頃ふたたび取り出されて補注が施されたのであろう。

と結論づけている。

まぁその辺はこの論文のテーマではあっても、こちらの主目的ではないので、読み飛ばす。


どちらにしても蘇我高麗は登場してこない。「馬の骨」扱いである。満智は「検校」止まりの人で、とうてい王に連なる存在としては扱えない。どうしても我々は韓子を「蘇我家」の血筋の本貫として考えざるをえないのである。


 

蘇我韓子(そがのからこ)の戦いぶりが日本書紀に示されている。

4人の将軍は朝鮮半島へ渡り、新羅王を一時敗走させるほど奮戦した。紀小弓は渡海後間もなく戦死する。代わりに小弓の息子紀大磐が参戦する。

この紀大磐が大変困った人物だった。

かれは父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、戦闘の指導権を求めた。そして小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めようとして、小鹿火宿禰と対立した。

小鹿火宿禰は韓子に、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると警告した。状況を知った韓子も大磐と対立するようになった。倭軍の内紛を知った百済の王は、二人の仲を保とうと調停に乗り出した。

百済の王は大磐と韓子を(任那と)百済との国境まで呼び出した。二人はなぜか連れ立って、会見場所の国境に向かった。

その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、大磐に傷を与えることはなかった。

射撃を受けた大磐がとっさに射返したところ、その矢が韓子に当たった。韓子は落馬して河でおぼれ死んだ。

ということで、たいへん冴えない結末に終わっている。

しかしこの記事は大変重要な内容をふくんでいる。

1.465年3月という記載

ここまでしっかりした絶対年代の特定は、大和政権のよく成しうるものではない。河内王朝の天皇家の記述ははるかにおおらかで大雑把なものだ。

直接の出典は百済本紀ではないだろうか。ただし稲目の年齢を考えれば、465年という年はもう一回り降るのではないか。すなわち525年である。

歴史的に見て、465年当時の新羅には百済に対抗するほどの力はない。新羅が三強の一角を占めるのはようやく500年すぎ(智証王・法興王)からである。

そうするとこれは百済の武寧王の死、筑紫の君磐井の乱、継体天皇の即位と死という波乱の時代に直接つながる事件となる。

平仄は全てあってくるのである。

2.朝鮮出兵を命じたのは倭王武か?

この事件を525年とすると、倭王武(日本書紀では雄略に比定)が存命だったとは考えにくい。

倭王武は、かなり長期政権だった。最初の遣使が478年、最後が502年である。中国側文書で確認できるだけで24年だ。

逆に465年とすると、最初の遣使を遡ること13年前に、朝鮮侵攻を指示する立場にあったかどうか、これはかなりの疑問である。

3.4人の将軍

彼らは「四道将軍」と同じく、おそらく王族に属する人物であろう。なかでも紀小弓の軍が最精鋭であったようだ。

彼らは勇猛に戦ったが、紀小弓が戦死するにおよんで、内部に不団結が生まれた。おそらく戦線が膠着し、ロジスティックが齟齬をきたしたのではないか。

4.紀大磐は九州王朝の意向を反映していた

紀大磐はトップリーダーの後継者として、九州王朝の意向を担って着任したと思われる。

したがって兵器、兵糧で優位に立つと同時に、お上をバックにした権威を持って着任したことになる。

彼の主張は戦線の統一と自らの最高司令権だった。だが残りの三人の将軍は面白くない。自分の息子のような若造に命を預けろというのだ。

そこで韓子が大磐の暗殺を企むのだが、返り討ちにあってしまう。

5.韓子死後の国内外情勢

それで倭軍が統一され勢いを盛り返すのなら良いのだが、その後の状況を見るとどうもそうはならない。盟友たるべき百済も、武寧王の死後とんと勢いがない。

倭王朝は兵力の逐次投入という軍事上最悪の事態に追い込まれる。

そして明けて526年 新羅が南加羅を占領した。これに対し倭国は全国に動員をかけ、渡海攻撃の準備に入る。

このとき筑紫の君磐井は「新羅と通じ」、渡海攻撃に反対した。「新羅と通じた」かどうかは問題ではない。おそらく「もう戦争はやめよう」と言っただけだろうと思う。しかしそれは主戦派から言えば「利敵行為」そのものだ。

こうして527年、筑紫の君磐井の乱が発生する。多分乱を起こしたのは磐井の方ではなく主戦派の連中だったろう。

筑紫と言っても主たる勢力範囲は今の筑後だろうと思う。戦争が始まれば一方的に食糧基地として徴発される立場の地域だ。

6.蘇我高麗はどうしただろうか

韓子は戦団の司令官として朝鮮半島に出向し、そのまま死んでしまったわけだから、比較的若くして亡くなったのだろうと思う。

つまり490年代の生まれと思われる。これに対し、稲目は生年不詳(一説に506年)で没年が570年だ。享年64歳ということになる。

よく分からないが、20で娘をもうけ40で娘を天皇家に嫁がせ、権力を得て生涯を終えたというなら、この歳数はまぁ妥当なところではないだろうか。

そうすると、高麗が入り込む余地が無い。とすれば、三人のうちどれかは親子ではなく兄弟だったのではないかという推察が浮かんでくる。

ただこれは韓子の死を勝手に60年間降らせた上での推察だから、推察というよりは妄想に近い。あまり深みにはまらないようにしなければならない。

1.大化の改新か乙巳の変か

最近の日本史の教科書には、大化の改新という言葉はない。乙巳の変という呼び方に統一されつつある。

その場合は、本格的な改革は壬申の乱に勝利した天武によって行われたというニュアンスが強く打ち出されているようである。

以前書いたように、私は天智・天武というのはタッグを組んで蘇我を滅ぼしたのだろうと思うし、それは壬申の乱の直前まで一貫していたと思う。

そして、天智の周囲が天武を排斥しようとしたとき、天武は天智の考えを引き継いで反乱を起こしたと考える。その理由は対百済・新羅というよりは対唐関係にあり、難波津にとどまって強談判を迫る唐の使節との対応にあったと思う。

2.今までの教科書では対唐強硬主義が説明できない

大和政権には百済との浅からぬつながりはある。しかし朝鮮南部の利権に関しては関係ない。

今はなき九州王朝には経緯はあったにせよ、それは過ぎた話だ。新羅とも基本的な敵対関係はない。

とすれば船・兵を送ってまで朝鮮の戦いに介入したのはなぜか、それは唐が侵略してきたからである。新羅は唐に服従したからこそ問題になるのであって、そうでなければ新羅と百済がどう戦おうと、どちらが勝とうと関係ない話なのだ。

大和政府が防人を動員し、北九州海岸の防御を固めたのも、唐が攻めてくるという恐怖感のなせる業であったろう。

3.天武はポスト天智政権に怒ったのだ

となれば、唐の使節が難波津に押しかけて、対新羅同盟を迫ったとき、どうすべきかという選択はあまりにも明白なはずだ。

それなのに、天智天皇の周囲は唐の使節を恐れ何も出来ないまま固まってしまった。

これでは、百済を抑えた唐がその勢いで日本にも屈従を強いるのは明らかだ。

だから天武は対唐自主路線を主張したのだ。

以上のように考えてくると、大化の改新から白村江の戦い、そして壬申の乱という流れは、対中国路線を巡る対立という図式で説明できる部分があるのではないか。

以上のような視点から大化の改新前後の状況を見直してみたい。

4.過去記事について

去年の今ごろ、私は壬申の乱絡みで3つの記事を書いている。これが今回の勉強の出発点だ。

最初が 7世紀の年表で、これは一度書いた後3月に増補している。

この時点では、まず勉強という程度で、深く考えていたわけではなかった。

増補の作業を終えた時点で書いたのが、 2015年03月16日 であり、これは天智・天武一体説ともいうべき視点の打ち出しだ。

そしてその後、 2016年05月15日 で、さらに考えが変わった、というか深まった。

5.天智・天武路線の本質

天智・天武路線というのが何かといえば、それは一言で言えば中国主敵論である。そのための「国家動員・統制計画」として大化の改新が位置づけられる。

なぜなら、朝鮮半島で起こった事態の本質は中国による百済支配であったからだ。新羅は戦いの場面で唐と結託することにより生き残りを図ったに過ぎない。

だから唐の力が強大であればあるほど、次に狙われるのが日本であるのは明白だった。

だから、日本は命をかけて国を守らなければならない、というのは天武の思いであった。しかるにポスト天智政権は右往左往するばかりで、ひょっとすると主戦派の天武を売ることで生き残ろうとするかもしれない。

というのが天武の反乱の動機であろう。

6.いわゆる「2つの戦線」での闘い

同時に、政府部内には対中国恭順派の他に、依然として百済再興派や新羅主敵派も根強い。多くの百済からの亡命者を抱えて、その傾向は一層強まる。

「この連中は戦いの妨げになる。もうそういうレベルではないのだ。百済や任那はもう忘れろ、新羅を敵に回すな、新羅を味方にしろ」、というのが正しい戦略だ。

ということで、天武の基本戦略は対中戦争準備論にもとづく新羅との同盟、返す刀で「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのか。



ジョン・バチェラー 年譜

John Batchelor

1854年3月20日 サセックス州アクフィールドに生まれる。

1876年 ケンブリッジ大学神学部を卒業。東洋伝道の志を持ちイギリス教会宣教会に入会。香港のセント・ポール学院に入学。

1877年(明治10年) 勉学中に熱帯病にて健康を害し、静養のために横浜に来る。北方の地を勧められ函館に来た。アイヌ民族を知り、アイヌ伝道を志す。

78年 札幌に2ヶ月ほど滞在。対雁のアイヌ(デンベ)からアイヌ語を習得。

1879年(明治12年) 信徒伝道者に任命され、函館を拠点にアイヌへの伝道活動を始める。

函館でアイヌ青年と会い、その差別と悲惨な生活の実態を知った。

1879年 胆振の有珠と日高の平取を訪問。平取ではアイヌの長老ペンリウクの家に3ヶ月滞在して、アイヌ語を学んだ。

1881 平取に半年間滞在。伝道にあたる。

1882年(明治15年) イギリスに一時帰国。ケンブリッジなどで再研修を受ける。

1883年(明治16年) 再び函館に帰任した。1884年(明治17年) 同僚宣教師の娘ルイザ・アンザレスと結婚した。

1884 「蝦夷今昔物語」を発表。アイヌの生活・風習・文化などを広く紹介する。

85 平取で禁酒をめぐりアイヌとの関係がこじれ、離村。その後全道各地で伝道。

1886年(明治19年) 幌別村(現在の登別市)に定住、キリスト教教育のほか、アイヌ語教育をはじめる。

1888年(明治21年) 幌別で私塾の愛隣学校(相愛学校)を設立する。キリスト教教育を行なうアイヌ学校への発展を目指す。

1888年(明治21年) 札幌にアイヌの小学校『愛隣学校』を開設。アイヌ語の読み書きをローマ字で教える。(その後愛隣学校は道内各地に作られたようである)

89 道庁の依頼を受け、「蝦和英三対辞書」を発刊。

90 バチェラー夫妻、英国に半年間滞在。この間にヨハネ福音書、マルコ福音書などのアイヌ語訳を出版。

91 平取アイヌとの関係修復。平取のキリスト教信者は100名以上に達する。

1891年(明治24年) バチェラー、北海道禁酒会の招聘に応え函館から札幌に移転した。

1891年 自宅でバイブルクラスと日曜礼拝を始めた。並行してアイヌ伝道を展開した。

活動は樺太までおよび、樺太アイヌ、ニヴフ、ウィルタにも布教活動を行う。

1892年(明治25年) アイヌを対象とする無料施療病室を開設する。札幌市立病院の関場院長もボランティアとして診療に加わる。

1892年(明治25年) 札幌聖公会が正式に創設される。

1895年(明治28年) 平取と有珠で教会堂を建設した。

96 英国聖公会からエディス・ブライアント看護婦が派遣される。13年間にわたり平取でアイヌの伝道・医療・教育にあたる。

1903年 北海道の聖公会信徒2895人中アイヌ人が2595人であった。

06年 「アイヌ・ガールズ・ホーム」の教え子の向井八重子を養子とする。

18年 八重子の弟の山雄、立教大学神学部を卒業しバチェラーの後継者となる。

1922年(大正11年) アイヌ保護学園を設立する。

1923年(大正12年) バチェラーは70歳になり宣教師を退職した。その後も札幌に留まり、北海道庁の社会課嘱託となる。

1924年アイヌの青少年育成の為に『バチェラー学園』(寄宿舎)を設立する。有島武郎、新渡戸稲造らが財政支援。

28 自叙伝「わが記憶を辿りて」を発表。

1932年 スコットランド人医師ニール・マンロー、平取町二風谷に定住。アイヌの診療に携わる。二風谷の共同墓地に葬られる。

1941年(昭和16年) 太平洋戦争が始まる。バチェラーは敵性外国人として追放させられた。

砂原遺跡をどう見るか

砂原遺跡: 成瀬敏郎論文の抄録によれば、

2009年8月8日に、島根県出雲市多伎町に発達する海成段丘堆積層を覆う古土壌から、玉髄製の剥片1点を発見した.

さらに同年8月22日からの予備調査において露頭面に表れた同層中から5点の人工的に打ち欠いた石片が確認された。

これを受けて,同年9月16日~29日にトレンチ掘削による本調査が実施れた.

この結果,約12万年前に形成された古層中から流紋岩や石英製の石器,石核,砕片,破砕礫など15点が出土した.

これらは日本で最も古い石器である可能性がある.

Clipboard01

2009年といえばポスト藤村の時代である。

砂原遺跡に関する報道や「論評」はかなりの数にのぼる。その多くが眉にベッタリと唾を付けたものである。 

日経ビジネスの2009年10月の「武田ジャーナル」というコラム

砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)が、中期旧石器時代の約12万年前の地層から、旧石器20点を発見したと報告。

最古とされてきた金取遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)を約3万年さかのぼる可能性がある。

産経新聞は「捏造問題以降、3万5000年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」との松藤和人教授のコメントを載せた。

1949年に群馬県で行われた岩宿遺跡の発掘で2万5000年前のものとされるローム層から遺物が見つかった。

その後、旧石器時代の遺跡が全国各地で見つかるようになったが、いずれも後期旧石器時代(約3万から1万年前)のものだった。

その後、東北大学の芹沢長介氏は、大分県の早水台遺跡で10万年前の石器を発見したと1964年に発表。「前期石器時代はあった」と主張した。

彼の下には志を同じくする弟子たちが集まった。アマチュア考古学研究者だった藤村氏もその1人だった。

と、無料で読めるのはここまで。

自費出版のリブ パブリのブログ 09年10月

今回は、出土した地層の年代が分かりやすいことが特徴だ。年代の根拠は、まず確かだろう。

しかし、石片を観察した稲田孝司・岡山大名誉教授は、接合資料がなく、剥離面が不明瞭などと、石器と認定するのを保留している。

さらに「石器」がまとまりのない散漫な出方をしているのも、問題点の1つだ。石器屑の随伴もないので、人類がここで何をしていたか不明確なのも、大きな弱点である。

東アフリカでは、260万年前の初歩的石器が見つかっており、それは元の石塊にまで復元できるほど、多数の石器が接合する。

もしこれが本物なら、それを残したのは、我々ホモ・サピエンスではなく、おそらくホモ・エレクトスであったということになる。

黒く光る石と黒く動く虫 09年10月

「白石先生のコメント」を紹介している。

私は日本考古学協会で、後期旧石器時代をさかのぼる石器群の評価は次の点の確認が必要と提示しています。

①石器に残された明確な加工痕 人為的な二次加工により石器が製作されていること。

②遺跡が、礫層や崖錐性堆積物などでない場所に存在すること。

③確実な層位的な出土 上下に由来の明らかな火山灰があり、層位的な位置づけが明確であること。

④石器が単独ではなく複数の資料によって確認でき、なおかつ接合資料によって同時性が認められること。

そのうえで、

我々がまず行なうべきことは、誰もが認める後期旧石器時代開始期の石器群の多角的・総合的な研究を蓄積することであろう。

と結論づけている。

日経新聞 2013年6月

砂原遺跡の学術発掘調査団が、石器36点について、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた。

層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることから、約11万年前と判断したという。

松藤和人さんという人だが、芹沢さんの失脚の後、こちら方面の第一人者になっているようだ。

砂原遺跡での快挙に続き、2016年5月には松藤教授率いる学術調査団が長野県大町市平の木崎湖畔の小丸山で、約8万年前の地層から石器と見られる流紋岩を発掘した

という記事がある。発見のきっかけは、

日本旧石器学会の会員である杉原保幸さんが、木崎湖畔で採集した石が石器ではないかと松藤教授に鑑定を依頼したことから始まった。

とあるので、これもどこかで聞いたことがある経緯だ。

アイヌ民族の歴史年表 の改訂を始める


2005年11月作成
アイヌ民族は北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)先住民族をさす。「アイヌ」、あるいは「アイヌモシリ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。し かしさまざまな他称は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
「蝦夷」は日本人(和人)による他称である。古くエミシ、平安末期からはエゾと呼ばれるようになった。さらに古くは毛人と書いてエミシと読まれていた。ここでは広くアイヌ民族と同根の縄文系人として扱っている。
エミシは関東から東北にかけて住み、和人に征服され、同化した縄文系人であるが、当時から北海道の南部地方にも分布していた。

2017年4月 改訂
この年表はあまりに雑多で無思想であり、史料としてすら使えないということがわかってきた。やはりエミシの歴史とは分けなければならない。さらに遡るならば、縄文人が単一民族として日本列島全般(とくに東日本)に分布していた時代と、縄文人が弥生人との接触で「半倭人」化した東北のエミシと北海道の続縄文人に分離した時代とは分けなければならない。
アイヌ人は縄文人の血を濃く残した末裔である。その後朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血により「日本人」が形成されたが、アイヌ人は渡来人と混血せず、北海道に存在した。しかし北海道の北部・東部に居住したオホーツク人とは強く混血しており、この点で縄文人とは異なる。
ということで、第一部・アイヌ民族の形成(擦文時代のおわりまで) 第二部・アイヌ民族抑圧と戦いの歴史 第三部・東北エミシの戦いと同化の過程 みたいな感じに分けていきたいと思う。

「国家隠密法」違反

幕末の頃、最上徳内という探検家がいた。千島や樺太探検で名を馳せた人で、間宮林蔵の兄弟子格だ。

1789年に、根室と対岸の国後島でアイヌの大規模な反乱が発生した。松前藩は酋長たちに言い含めて、首謀者を自首させた。

その上で討伐隊を送り、詮議の上37名を打ち首とした。首は松前に持ち帰られ晒された。

ときあたかもロシアが北海道進出を狙う不穏事態にあり、幕府は事件に驚愕し、松前藩の統治能力を疑った。

かねてより蝦夷の事情に詳しい最上徳内らを派遣し調査にあたらせた。最上徳内は国後・択捉に渡り聞き取り調査を行った。

アイヌ人に日頃より親近感を覚えていた最上は、和人の横暴に激しく怒った。そして報告書の中で承認ばかりでなく松前藩まで断罪した。

幕府としては大いに感じるところがあったと思われる。それはその後の行動で明らかだ。10年後には東蝦夷地を直轄とし、その後さらに松前藩の北海道支配権を奪い、奥州梁川に転封している。

しかし、最上はその激しい糾弾のゆえに危険人物とみなされた。その結果つけられたのが「国家隠密法違反」という名目である。

最上は公儀で情報収集しながら、幕府に裏切られる形で入牢する羽目となった。このエピソードが、何か今日の共謀罪法案と結びついているように思われてし

擦文時代のもう一つの特徴が、オホーツク文化のアイヌ文化への吸収である。

これがどういう吸収であったかはY染色体ハプログループとミトコンドリアDNAの分布からある程度想像できる。

男性においてはオホーツク人の痕跡はほとんど認められず、女性の半分をオホーツク系が占めるということは、明らかに縄文系人がオホーツク人の居住域を征服したということを示す。

男性は駆逐され、女性は縄文人の妻となった。そしてオホーツク人と結婚しなかった約半数の縄文人男性は、縄文人女性を呼び寄せ結婚したということになる。

したがってアイヌ人は4分の3が縄文人で4分の1がオホーツク人という混血民族になる。

生産様式は完全な縄文人形式で、生活様式の一部(とくに女性の生活)にオホーツク系の伝統が残されるという形式ではないだろうか。

もちろん地域的な濃淡(例えばコロボックルの扱いとか)はあるだろうが、そこまでの知識はない。

穴居こそ縄文文化の本質的特徴

ふと思う。「縄文」という言葉を使うのがそもそも矛盾しているのだが、「穴居」こそ縄文文化のより本質的な特徴ではないか。

穴居(竪穴住居)そのものは、北方系民族にはよく見られる住宅形式であるが、弥生人と遭遇し、その文化を吸収する過程でいち早く失われていく習慣である。

ブナ林と古代史」というブログに、江戸時代樺太アイヌの住居について以下のような記載がある。(何の事はない、瀬川さんの文章だ)

地面を深さ1m前後四角に掘り下げ、屋外に通じる煙道を壁に堀崩してカマドを設けるとともに、4本の柱の外周にムシロなどを敷いて寝床とし、その内側を土間とするものであった。

…北海道では擦文文化以降平地住居が普及し、竪穴住居の伝統が中世の間には絶えてしまった。

なぜ住居にこだわるかというと、続縄文までは良いとしても、擦文土器を時代区分の象徴とすることに無理があるように思えるからである。

大和政権の歴史においても、弥生時代を最後にもはや土器による時代分類は用いられず、古墳・飛鳥・奈良時代と続いていくのである。(これ自体ずいぶんご都合主義的な区分だが)

北海道南部の縄文遺跡を見ても、背丈を超えるほどの巨大な竪穴こそが最大の特徴である。

また、肥前風土記などでも、王朝側に抵抗した先住者が穴居生活を行っていたことが示唆される。

擦文土器にこだわらずに擦文時代を眺めると、平地型住居のフロンティアが上陸し、徐々に北上し、やがて北海道全土を占めるに至る時代ということに本質があるように思える。

そして、平地型住居に住む縄文人というのがアイヌ文化の本質であるように思える。

擦文文化における住居はきわめて折衷的である。竪穴住居だが、中央の炉に代わり壁際にかまどがすえられている。この時期に一致して「北海道式古墳」も出現している。

先日、江別市郷土資料館を訪ねたが、縄文式土器の威圧的なまでの激しい押し出しと比べ、擦文式というのはなんとなく精気がない。東北エミシの落ち武者がひっそりと暮らしていたのであろうか、しょぼくれた印象が拭えない。900年ころを境に自然消滅していくということだが、さもありなんと納得させられる。

それは、江別・札幌の擦文土器文化を中核としてこの時代を擦文時代とすることが果たして適当だろうかという議論に発展する。

結局、奥州の安倍一族の没落を最後に岩手➖八戸➖道央低地帯という交易ルートは表向き消滅し、秋田を拠点とする日本海側交易ルートに一本化されていったのではないだろうか。

そうすると、道央低地帯の擦文文化が衰退消滅していく過程が理解しやすいように思える。そして「エミシ+続縄文人の拡散」という事態は、道央低地帯の没落を乗り越えて、遥かに大規模に全道・樺太・千島へと広がっていく。

そしてそれを追いかけるように和人の東北北部・北海道への進出が進んでいく。

後者を須恵器文化と呼ぶなら、この時代は擦文・須恵器併存時代と呼ぶほうが適当ではないだろうか。そして最終的には須恵器文化に擦文文化が吸収され、さらにオホーツク文化の一部も取り込むことでアイヌ文化が成立していくのはなかろうか。

擦文文化

瀬川さんは独特な擦文文化論を展開する。

擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「弥生化した縄文人」がもたらしたものだとされる。

彼らは大和国家の側からはエミシと呼ばれ差別されていた。

擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

擦文文化

瀬川さんは独自の擦文文化論を展開する。

1.擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「和人化した縄文人」がもたらしたものだ。

2.彼らは和人の側からは「エミシ」の名のもとに差別され、圧迫されていた。

3.擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

土器の特徴から見た時代区分

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

「古墳人」について

瀬川さんの「古墳人」という規定について、どうも誤解していたようだ。

それは、大和系の歴史で用いられる古墳時代とか前方後円墳という言葉から来ているのではない。

もちろん、それとのつながりはあるにしても、直接的には東北地方北部の群集墳を象徴とする文化を指しているようだ。

復元された江別古墳群

江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。(江別市郷土資料館)


ということで、

ウィキペディアの解説を通説としてみれば、瀬川さんの論建ては続縄文人の東北進出をふくめ、今のところは「大胆な仮説」にとどまっていると思われる。


カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

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