鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年04月

図書館というのはすごいところで、澤地久枝の「昭和史のおんな」を頼んだら5分で出てきました。

実物を拝むのは初めてです。

さまざまな題材がずいぶん広く深く扱われていて、さすがプロはすごいなと思いました。

この本では16人の「昭和史のおんな」がとりあげられ、ふじ子はその中のひとりに過ぎません。

それでも、ざっと読むのに1時間かかりました。中身がそれだけぎっしりと詰まっているのです。

これだけでも十分な情報量があるので、結局これからの作業はこの本の落穂ひろいみたいなことになるのではないでしょうか。

とりあえず、メモしたところを文章に起こしておきます。

題名と内容の乖離

表題は「小林多喜二への愛

副題というかリードとして、以下のように書かれている。

戦後、歴史論争を呼んだ「党生活者」の笠原のモデル・伊藤ふじ子の歩んだ70年の歳月

ただし、この“センセーショナル”な題名にもかかわらず、その後の文章の中で、澤地は伊藤ふじ子は「ハウスキーパー笠原」ではなかったことを証明している。

伊藤ふじ子の死

伊藤ふじ子は昭和56年4月26日、自宅で突然死した。激しい頭痛を訴えた後意識がなくなり、そのまま帰らぬ人となった。享年70歳、今日から考えれば比較的若い死であった。

澤地はふじ子の死を伝える2つの訃報を紹介している。

赤旗の訃報

戦前、治安維持法下の特高警察の過酷な弾圧の下、貧困と闘いながら、作家・小林多喜二の創作活動を献身的に支えました…

北海道新聞の訃報

旧姓は伊藤ふじ子。昭和8年、小林多喜二が中央公論に発表した、地下生活を描いたとされる「党生活者」にハウスキーパーとして登場。これをめぐり「伊藤は小林多喜二の妻であった」とする日本共産党と、「ハウスキーパーだった」とする平野謙氏ら評論家グループが歴史論争したことがある…

平野の党攻撃とふじ子の躊躇

そこで出て来る「平野謙氏ら評論家グループ」という人たちの言い分が紹介されている。

「新潮」という雑誌の昭和21年10月号に掲載されたものらしい。

目的のために手段を選ばぬ人間蔑視が、「伊藤」という女性との見よがし的な対比のもとに、運動の名において平然と肯定されている。そこには作者のひとかけらの苦悶さえ浮かんでこない。

これは「党生活者」という小説中で、地下活動家の偽装妻となった「笠原」という表象への「文学」的批判などであるが、これが伊藤ふじ子と重ね合わされて北海道新聞の「訃報」へとつながっていくわけだ。

戦後、伊藤ふじ子の内心は、こういう「下衆の勘ぐり」によって苦しめられたであろう。

ふじ子の死の少し前、澤地は夫の森熊氏を通じて直接取材を申し込んでいる。

森熊氏は結局これを拒否した。

老女に50年前のショックを思い出させることは、いささか残酷なような気もするわけです。

というのが理由である。「50年前のショック」ということばに万感の思いが込められているようだ。

浮かび上がる等身大のふじ子像

澤地は森熊氏をふくむ周辺の人々から聞き取りを行うことによって、ふじ子という人物をあぶり出していく。それはふじ子の等身大の全体を知るには、むしろ好ましい方法であったかもしれない。

取材によって、「笠原」とは別の存在である「伊藤ふじ子」が少しづつ姿を見せ始めた。

それは澤地にとって意外とも言える人物像であった。そのあたりの気持ちを澤地は正直に吐露している。

仮説などという言葉は適当ではないかもしれないが、伊藤ふじ子は「笠原」のモデルであるよりも、むしろ「伊藤」のモデルだったのではないか。

おっしゃるとおり、適当ではないが、実感としてはよく分かる。

いくつかの証言は本人を彷彿とさせる貴重なものであり、その一部はこれまでも紹介してきた。

それ以外のところから2つほど。

高野といえば、多喜二からのラブレターを盗み読みして、あまつさえコピーしたふてぇ古本屋だが、戦後高野と会ったふじ子がこう語っている。

高野ちゃん、苦しくって死のうと思っていたのを彼(猪熊)に救われたのよ

(良いですね、こういうちょっととっぽい山の手弁。こういうセリフを聞いただけで道産子は夢中になる)

もう一つはちょっと若い時期、芝居にハマっていた頃の監督、金子洋文の証言

うまくもない女優だったけど、可愛い娘だったよ。美人じゃないけどね…

ふと思い出して、前から気になっていた「多喜二の妻」の記事を探してきた。
朝日新聞 昭和42年6月9日(金曜日) の夕刊 文化面のコラム記事である。
多喜二の妻
縮刷版のコピーをスキャナーで落としているので大変見にくい。
要旨を書き出しておく。
基本的には、この文章は手塚英孝著 「小林多喜二」の紹介と読後感である。と言っても、文章全体ではなく伊藤ふじ子を扱った部分に焦点を絞ったものである。
(眠)子は、この本を最近読んで多喜二が結婚していたのを初めて知ったと書き出している。
そして事の要点を以下のごとく書き出している。
* 多喜二は地下生活に入って間もなく、このふじ子と結婚して同棲した。
* ふじ子は銀座の図案社に勤め、そのわずかな給料で多喜二の地下生活を支えていた。
* だが間もなくふじ子が検挙され、、そのアジトが警察に襲われ、多喜二は辛くも逃げ延びた。
* ふじ子は2週間後に保釈されたが、勤め先はクビになった。その退職金を人づてに多喜二に送っている。
* 二人はその後一切近づかなかった。これは当時の状況ではやむを得ないことであった。
* 1ヶ月後に多喜二が虐殺された。同士や田口たきは連絡を受け、集まっているのに、ふじ子は通夜にも葬式にも見えていない。
ここからは(眠)子の感想になる。
* 自分の退職金まで送るというしおらしい女性だったけれど、党活動に参加していなかったから、多喜二の友人や崇拝者によって無視されてしまったのだろうか。
* 私はこの忘れられた多喜二の妻、伊藤ふじ子に最も関心を持つ。あわれではないか?

一言言っておくと、手塚も、通夜にも葬式にも参加していない。著者手塚は伊藤ふじ子を知るほとんど唯一の人だった。会場に闖入した半狂乱の女性が妻伊藤ふじ子であることを知るものは誰一人いなかった。
もちろん手塚は後で聞いて、それがふじ子であったと知ったはずだ。ふじ子が終生抱いていた多喜二の遺骨は、もしそれが本物であったとすれば、手塚以外に渡せる人物はいないはずだ。
しかし(眠)子が読んだ 「小林多喜二」の中で、そのことは触れられていなかったようだ。

むかし、高校生の頃だから、東京オリンピックの前、レコード屋に行ってため息を付きながら眺めていたレコードがある。

ライナーのバルトーク弦・打・チェレスタ、ライナーのローマの松、ミュンシュのオルガン交響曲と海、コンドラシンとRCAのイアリア綺想曲だ。これにアンセルメのダッタン人の踊り、オーマンディの山人の歌も加わる。

陳腐な言い方だが、めくるめく音の洪水に脳みそが方向感覚を失うのだ。

どうせ買ったって、家の貧弱な再生装置じゃレコード屋の試聴室で聞く音は出ないよなと、あきらめて帰ったものだ。

と言いつつバルトークだけは廉価版が出たときに買ったが、他はいつの間にか忘れていた。

今回久しぶりにようつべでミュンシュのサン=サーンスを見つけて聞いてみた。

相変わらずびっくりするほど音は良い。59年の録音とはとても思えないほどだ。とくにダイナミックレンジの広さには驚く。強音でも音が団子にならずに、各パートの音が明瞭に分離されている。

この頃のRCAの録音は世界最高レベルだったのだなあということがあらためてわかる。

ただし高音はざらつき艶はない。強音では折り返しがある。おそらくリマスターされた音源だろうが、原音の限界であろう。

もう少し新しい録音でいい演奏はないだろうかと探してみた。デュトワ、メータ、マゼール、バレンボイム、パーボ・ヤルヴィ…と一通り聞ける。良い時代になったものだ。

中で意外に良いのがジョルジュ・プレートル指揮ウィーン交響楽団の演奏だ。見た目の派手さはないが、目の積んだ演奏をしていて、普通にシンフォニックだ。とくに木管の美しさは印象的だ。

しかしミュンシュの刷り込みがひどくて、どんちゃか鳴ってくれないとどうも聞いた気がしない。「おうっ、はええとこどんちゃかやってくれ」という気分になる。

やはり、ミュンシュは空前絶後と言うべきか。

おっと、とんでもないものが出てきた。

オーマンディ・フィラデルフィアだが、こちらはFebruary 6, 1980の録音だ。その頃オーマンディーって生きていたっけ? Telarc SACD と書かれている。80年代にCDで発売されたもののリマスターらしい。

とにかくすごい音だ。

コメント欄がすごい。

Fuck, this Pipe Organ blow out my head and my speakers...

* This is why subwoofers were invented

むかし、ステレオが出始めの頃、ド派手な音のさわりだけ集めたサンプル盤みたいなものがあった。最初がツァラストラで、夜の女王のアリアだったり、最後がホルストのジュピターだったりする感じ。

この曲ってそれでいいんじゃない。プレートルには申し訳ないけど。

それで余白にオルガン独奏曲が入っているけど、「これで、オタクのコンソール使えるかしら?」という感じで響き渡る。

お早目のダウンロードを


朝の頭の冴えているうちに、議論を整理しておこうと思う。

1.日本の紀元ゼロ年は西暦600年だ

疑いのない文字資料や事物で日本国が成立したといえるのは、飛鳥寺の建立と、隋への国書「日出処の天子、書を日没する 処の天子に致す、恙なきや」の堂々たる登場宣言である。

これより以前、欽明天皇の治世以前は、にわかに闇に包まれる。欽明の即位は540年と言われるが、これすらも怪しい。

もう一つ、540年の時点ではいまだに倭王朝は存在している。

三国史記によれば、561年7月 百済、倭国の支援を受け新羅と戦うが、敗北し撤退。このあと任那は滅亡し諸国は新羅の支配下に入る。このあと、三国史記に倭国は登場せず。

これで倭王朝は滅亡し、その勢力は蘇我氏を通じて大和政権に組み込まれていく、というのが大筋ではないかと考えている。

ただいずれにしてもそのような重大な仮定を含むような議論は到底歴史とは成し得ない。結局、大和政権を主軸とする日本国は550年ころからようやく、主体的な「歴史」として扱えうることになる。

それ以前の「日本」像は、街角の監視カメラで捉えられた犯人みたいなもので、生々しいが静止画像にすぎない。

それ以外は、考古学的方法で歴史の過程を積み上げていく他ないのである。もちろん様々な伝承情報もあるが、実証するものがない以上、それは神話の世界、すなわち先史時代なのである。

2.飛鳥時代前の時代区分

そうすると飛鳥時代前の時代区分は、基本的には考古学的知見に依拠することになる。

考古学的時代区分とは何か。世界共通のものとしては新旧の石器時代、青銅器時代、鉄器時代となる。この内新旧の石器時代が先史時代と呼ばれ、青銅器時代以降は文明時代と呼ばれる。

その後文明が拡大してくれば、とくに文字が登場すれば、これらの分類は必要なくなり、したがって用いられなくなる。

これが時代区分の基本的な論理である。

日本では縄文時代は旧石器時代である。弥生時代に新石器時代が到来した。しかし弥生時代の比較的早期に青銅器、そして鉄器が入ってくる。

かくして、弥生時代は新石器時代、青銅器時代、鉄器時代の3つの時代を含み、それらが駆け足でやってきた時代というべきであろう。

3.なぜ世界標準区分を用いないのか

なぜ世界標準区分を用いないのか。それは日本における文明進歩の後進性に基づく。それが世界標準区分のいちじるしい伸び縮みをもたらす。

このままでは旧石器時代が長すぎて、尺度にならない。逆に新石器時代、青銅器時代、鉄器時代が短すぎて、尺度としてはあまりに煩雑になるからだ。

そういう言い訳は成り立ちうる。だから旧石器時代の亜紀として縄文土器に特色づけられた一時代を提唱するのは大いに意味がある。

なお、日本では縄文時代を新石器時代にふくめるのが一般的だが、新石器時代の3つの特徴、磨製石器・土器の使用・農耕の開始のうち土器の使用を除けば、むしろ旧石器時代に入れるべきではないかと思う。(細石刃の出現を指標とし中石器時代とする説もあるらしい)

同じように弥生時代という時代区分も、とくに初期~前期段階では有効な概念だと思う。

それと気持ちの問題もある。縄文時代という時期区分があまりにも堅牢なために、「土器には土器で」対応しようという気持はよく分かる。

しかし、本来は旧石器時代から新石器時代への移行として何ら問題はないはずだ。世界の考古学者ならそう思うだろう。

弥生時代は渡来人が切り開いた文化だ。彼らは専業農家であり、然るがゆえに新石器人だ。水田・稲作という農業の形態は本質ではない。

同時に彼らは初期段階においては金属器を持たずに渡来している。だから新石器人なのでもある。


「弥生土器」(最近は弥生式とは言わないらしい)の相対年代を憶えるのはかなり面倒で、考古学屋さんの独壇場である。

しかも彼らは絶対年代を語ることにはきわめて慎重だから、そして慎重でなくモノを言う人は信用ならないから、こちらで読み解く他ない。

しかし、朝鮮半島で出土した弥生土器を考察する上では必須の知識となる。なぜなら朝鮮の歴史家が基本的に信頼できないからだ。

もう少し向こうが実事求是でやってくれれば、こんな苦労はしなくて済むのだが、何から何まで嘘っぱちだと言うんでは取り付く島がない。

小林分類

近畿地方の弥生土器を第I~第Vの5様式に分けたものがある。戦前に小林さんという人が提唱したものらしいが、現在も基本的には引き継がれている。
絶対年代も念頭に置いて、第I様式の時期を前期、第II~第IV様式の時期を中期、第V様式の時期を後期としている。

これに加え、弥生時代終末期に対応して庄内式、古墳時代前期に対応して布留式土器が提唱されるという極めて煩雑なものだ。

2017年01月27日弥生時代の絶対年代区分

もご参照ください。

しかも、これと絶対年代との照合は学者によってずいぶん違っている。これを指摘したのが安本美典さんで、安本さんが作ったのが下の表である。

近畿分類
              「邪馬台国の会」のサイトより転載

こうなると、こと近畿の弥生土器については、絶対年代はあてにならないと見て良さそうだ。考古学屋さんの独壇場であるということは、恣意がきわめて入りやすい分野だということでもある。


なお、安本さんの文章は徹底的に批判的であり戦闘的である。したがって、いささか読み解くのはしんどい。

弥生土器の時期分類は九州北部をベースに行うべきだ

ただ、そもそもこの時代において近畿は弥生文化の後進地であり発信地ではない。土器の分析をいくらやっても、それが九州や吉備から持ち込まれたという可能性は否定できない。かなり虚しいのだ。

純粋に自らの技術で生み出したといえるのは庄内式と布留式、つまり「古墳時代」の土器のみだ。したがって、近畿の土器の編年は庄内式・布留式土器の出現を除けば部外者にはほとんど意味がない。

それと、前から言っていることだが、近畿には銅鐸文化というものがあり、これが消滅・廃棄されるという考古学的大事件がある。客観的に見て銅鐸文化を破壊し葬り去った勢力があり、それが前方後円墳を建設しているのである。

これを組み込まない編年表づくりは、片端としか言いようがない。

弥生土器の経年変化を見ようとすれば、やはりその発信地である九州北部の時代変化を追うべきであろう。

とくに九州北部ではもう一つの考古学的メルクマールである銅鏡があるので、銅鏡の経年変化と撚り合わせながら絶対年代の検討を行うことが可能である。(近畿で不可能とは言えないが…)

さらに、九州北部においては朝鮮半島南部、とくに任那地域との比較ができるという優位点もある。

だから、まず九州北部で基本となるタイムテーブルを作って、その波及的変化として近畿の弥生式についても検討すべきであろう。


濱田延充さんの「弥生土器様式概念の形成と日本考古学」という文章を読むと、なぜこのような晦渋な議論が延々と続いているかがわかってくる。

考古学界は一種の土器フェティシズムに陥っているようだ。それは言語学でソシュールの解釈「学」がいまだに続いているのと似ている。

有力教授が就職口を握っていて、それに逆らっていては飯の種も発表の機会も閉ざされる。だから戦前からの無意味な分類が100年も生きながらえていくのである。

この閉塞社会を学生・院生・若手研究者が打破しない限り、物言えぬ世界は続くし、第二の旧石器スキャンダルは必発であろう。

朝鮮半島情勢と日本:  大化の改新と壬申の乱を国際関係で読む

1.7世紀日本の大まかな把握

7世紀は中国に出現した巨大帝国隋・唐が朝鮮支配を狙い、攻撃を仕掛けた時代である。唐は百済を滅亡させ、その5年後に高句麗も崩壊させた。新羅は目下の同盟国としてこれに乗じ、朝鮮半島の盟主となった。

しかし次に狙われるのは新羅である。このことは明白であり、新羅は唐との直接対決を覚悟した。

たまたま唐の北方(東突厥)、西方(吐蕃)でも異民族の蜂起があり、唐はそちらに力を集中するため朝鮮半島の兵力を割かざるを得なくなった。この機に新羅は打って出た。旧百済、旧高句麗勢力もこれを支援、日本も新羅に支持を与えた。結果、唐は朝鮮半島の直接支配を断念した。

この結果、朝鮮半島の主部は新羅が単一支配することとなった。新羅はあらためて唐に臣従の誓いを行い安堵された。

日本は562年に任那を失った後もなお百済との親交を深め、新羅とは冷たい関係にあったが、663年の百済滅亡に関わって大打撃を被ったあとは路線の大転換を図った。

それには事情があった。唐は新羅の反乱に際し日本の対新羅参戦をもとめ、さらに言を左右する日本に対し水軍の派遣をちらつかせたのである。

その中で日本は親新羅・反中国の姿勢を明確にした。

①唐の攻撃の脅威を正面から受け止め、自らの生き残りのために新羅の戦いを支援するという路線である。

②それは同時に専守防衛路線への転換でもあった。旧任那と言わず、旧百済と言わず朝鮮半島への派兵は一切行わない。対馬海峡を国境線としてこちら側にハリネズミの如き防衛線を設営して、ひたすら守りに専念する

これが情勢の激変の中で日本が定めた政治・軍事路線である。

これら2つのオプションは、天武が壬申の乱を経て政権を獲得する中で定式化されたものである。

そして最終的にこの「反帝国主義」の基本路線で一本化するまでのさまざまな動揺が、7世紀日本の政治を規定しているのである。

典型的なのが天智天皇で、

663年に白村江の戦いの戦いに敗れた後、百済駐留の唐軍が大和王朝に使節を送るが、天智は回答を拒否している。そして大規模な国土防衛計画を発動した。

なのに、665年に高宗の勅使が来訪したときは、送唐客使(実質遣唐使)を派遣し、国交回復に乗り出した。668年に高句麗が滅亡すると、天智は遣唐使を派遣し、「高麗を平定したことを賀す」に至る。なおこれは「新唐書」には記載されているが、記紀にはない事実である。

天智が勇猛果断な人物であることは論をまたない。しかし政治の根本を揺るがせにすると、結果として民族自決とマキャベリズム・ミニ覇権主義の狭間を右往左往することになる。

ホーチミンの言葉を今一度思い起こす。これは哲学上の真理ではなく、政治学の根本原理である。

「独立ほど尊いものはない」

* 2.以降は日を改めます。7世紀の経過をより深く知りたい方は、とりあえず7世紀の年表を御覧ください。


安倍武彦 「蘇我氏とその同族についての一考察」(1964)という論文がある。例によって北大の文献だ。

蘇我満智(宿禰)は書紀履中二年条に、平群木蒐宿禰・物部伊百弗大連・円大臣と共に国事をとる(日本書紀 履中2年条)

諸国貢朝年々盈溢し、更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を検校せしめ(古語拾遺 雄略朝)

韓子、紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小毘火宿禰を大将軍として新羅を討つ(日本書紀雄略9年条)

大伴金村、物部食鹿火を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣とし…(日本書紀 宣化元年の条)

以上が日本書紀に出てくる万智、韓子、稲目の引用だ。韓子については、この後に先程の朝鮮での戦いが載せられている。安倍さんはしょうもないフォークロアだと一蹴している。


次が星野良作(法政大学) 「蘇我石川両氏系図成立の時期について」という論文。こちらはの星野さんという人の文章だ。

「蘇我石川両氏系図」というのは、続群書類従巻一六七の一巻らしい。ウィキの系図の根拠になっている。

 星野さんは、この系譜が奇異なものだと指摘する。

武内宿禰の後裔氏族を巨細に及んで拾載し、また蘇我氏同族とされる平群・葛城両氏まで立入っておりながら、石川氏については、彼の仕えた天皇の名と達し得た官位名を記すに過ぎない。

「系図」のこの様な外見的特徴は、彼の造作に際しての態度あるいは方針等の在り方に疑いを生じさせる。

ということでるる史料検討を行い。

「系図」の原型は、やはり10~11世紀の交に成り、その後何らかの事情で放置され、14世紀の末頃ふたたび取り出されて補注が施されたのであろう。

と結論づけている。

まぁその辺はこの論文のテーマではあっても、こちらの主目的ではないので、読み飛ばす。


どちらにしても蘇我高麗は登場してこない。「馬の骨」扱いである。満智は「検校」止まりの人で、とうてい王に連なる存在としては扱えない。どうしても我々は韓子を「蘇我家」の血筋の本貫として考えざるをえないのである。


 

蘇我韓子(そがのからこ)の戦いぶりが日本書紀に示されている。

4人の将軍は朝鮮半島へ渡り、新羅王を一時敗走させるほど奮戦した。紀小弓は渡海後間もなく戦死する。代わりに小弓の息子紀大磐が参戦する。

この紀大磐が大変困った人物だった。

かれは父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、戦闘の指導権を求めた。そして小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めようとして、小鹿火宿禰と対立した。

小鹿火宿禰は韓子に、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると警告した。状況を知った韓子も大磐と対立するようになった。倭軍の内紛を知った百済の王は、二人の仲を保とうと調停に乗り出した。

百済の王は大磐と韓子を(任那と)百済との国境まで呼び出した。二人はなぜか連れ立って、会見場所の国境に向かった。

その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、大磐に傷を与えることはなかった。

射撃を受けた大磐がとっさに射返したところ、その矢が韓子に当たった。韓子は落馬して河でおぼれ死んだ。

ということで、たいへん冴えない結末に終わっている。

しかしこの記事は大変重要な内容をふくんでいる。

1.465年3月という記載

ここまでしっかりした絶対年代の特定は、大和政権のよく成しうるものではない。河内王朝の天皇家の記述ははるかにおおらかで大雑把なものだ。

直接の出典は百済本紀ではないだろうか。ただし稲目の年齢を考えれば、465年という年はもう一回り降るのではないか。すなわち525年である。

歴史的に見て、465年当時の新羅には百済に対抗するほどの力はない。新羅が三強の一角を占めるのはようやく500年すぎ(智証王・法興王)からである。

そうするとこれは百済の武寧王の死、筑紫の君磐井の乱、継体天皇の即位と死という波乱の時代に直接つながる事件となる。

平仄は全てあってくるのである。

2.朝鮮出兵を命じたのは倭王武か?

この事件を525年とすると、倭王武(日本書紀では雄略に比定)が存命だったとは考えにくい。

倭王武は、かなり長期政権だった。最初の遣使が478年、最後が502年である。中国側文書で確認できるだけで24年だ。

逆に465年とすると、最初の遣使を遡ること13年前に、朝鮮侵攻を指示する立場にあったかどうか、これはかなりの疑問である。

3.4人の将軍

彼らは「四道将軍」と同じく、おそらく王族に属する人物であろう。なかでも紀小弓の軍が最精鋭であったようだ。

彼らは勇猛に戦ったが、紀小弓が戦死するにおよんで、内部に不団結が生まれた。おそらく戦線が膠着し、ロジスティックが齟齬をきたしたのではないか。

4.紀大磐は九州王朝の意向を反映していた

紀大磐はトップリーダーの後継者として、九州王朝の意向を担って着任したと思われる。

したがって兵器、兵糧で優位に立つと同時に、お上をバックにした権威を持って着任したことになる。

彼の主張は戦線の統一と自らの最高司令権だった。だが残りの三人の将軍は面白くない。自分の息子のような若造に命を預けろというのだ。

そこで韓子が大磐の暗殺を企むのだが、返り討ちにあってしまう。

5.韓子死後の国内外情勢

それで倭軍が統一され勢いを盛り返すのなら良いのだが、その後の状況を見るとどうもそうはならない。盟友たるべき百済も、武寧王の死後とんと勢いがない。

倭王朝は兵力の逐次投入という軍事上最悪の事態に追い込まれる。

そして明けて526年 新羅が南加羅を占領した。これに対し倭国は全国に動員をかけ、渡海攻撃の準備に入る。

このとき筑紫の君磐井は「新羅と通じ」、渡海攻撃に反対した。「新羅と通じた」かどうかは問題ではない。おそらく「もう戦争はやめよう」と言っただけだろうと思う。しかしそれは主戦派から言えば「利敵行為」そのものだ。

こうして527年、筑紫の君磐井の乱が発生する。多分乱を起こしたのは磐井の方ではなく主戦派の連中だったろう。

筑紫と言っても主たる勢力範囲は今の筑後だろうと思う。戦争が始まれば一方的に食糧基地として徴発される立場の地域だ。

6.蘇我高麗はどうしただろうか

韓子は戦団の司令官として朝鮮半島に出向し、そのまま死んでしまったわけだから、比較的若くして亡くなったのだろうと思う。

つまり490年代の生まれと思われる。これに対し、稲目は生年不詳(一説に506年)で没年が570年だ。享年64歳ということになる。

よく分からないが、20で娘をもうけ40で娘を天皇家に嫁がせ、権力を得て生涯を終えたというなら、この歳数はまぁ妥当なところではないだろうか。

そうすると、高麗が入り込む余地が無い。とすれば、三人のうちどれかは親子ではなく兄弟だったのではないかという推察が浮かんでくる。

ただこれは韓子の死を勝手に60年間降らせた上での推察だから、推察というよりは妄想に近い。あまり深みにはまらないようにしなければならない。

2018年11月17日 紀生磐(きのおいわ)のものがたり


2017年04月27日 蘇我満智について



1.大化の改新か乙巳の変か

最近の日本史の教科書には、大化の改新という言葉はない。乙巳の変という呼び方に統一されつつある。

その場合は、本格的な改革は壬申の乱に勝利した天武によって行われたというニュアンスが強く打ち出されているようである。

以前書いたように、私は天智・天武というのはタッグを組んで蘇我を滅ぼしたのだろうと思うし、それは壬申の乱の直前まで一貫していたと思う。

そして、天智の周囲が天武を排斥しようとしたとき、天武は天智の考えを引き継いで反乱を起こしたと考える。その理由は対百済・新羅というよりは対唐関係にあり、難波津にとどまって強談判を迫る唐の使節との対応にあったと思う。

2.今までの教科書では対唐強硬主義が説明できない

大和政権には百済との浅からぬつながりはある。しかし朝鮮南部の利権に関しては関係ない。

今はなき九州王朝には経緯はあったにせよ、それは過ぎた話だ。新羅とも基本的な敵対関係はない。

とすれば船・兵を送ってまで朝鮮の戦いに介入したのはなぜか、それは唐が侵略してきたからである。新羅は唐に服従したからこそ問題になるのであって、そうでなければ新羅と百済がどう戦おうと、どちらが勝とうと関係ない話なのだ。

大和政府が防人を動員し、北九州海岸の防御を固めたのも、唐が攻めてくるという恐怖感のなせる業であったろう。

3.天武はポスト天智政権に怒ったのだ

となれば、唐の使節が難波津に押しかけて、対新羅同盟を迫ったとき、どうすべきかという選択はあまりにも明白なはずだ。

それなのに、天智天皇の周囲は唐の使節を恐れ何も出来ないまま固まってしまった。

これでは、百済を抑えた唐がその勢いで日本にも屈従を強いるのは明らかだ。

だから天武は対唐自主路線を主張したのだ。

以上のように考えてくると、大化の改新から白村江の戦い、そして壬申の乱という流れは、対中国路線を巡る対立という図式で説明できる部分があるのではないか。

以上のような視点から大化の改新前後の状況を見直してみたい。

4.過去記事について

去年の今ごろ、私は壬申の乱絡みで3つの記事を書いている。これが今回の勉強の出発点だ。

最初が 7世紀の年表で、これは一度書いた後3月に増補している。

この時点では、まず勉強という程度で、深く考えていたわけではなかった。

増補の作業を終えた時点で書いたのが、 2015年03月16日 であり、これは天智・天武一体説ともいうべき視点の打ち出しだ。

そしてその後、 2016年05月15日 で、さらに考えが変わった、というか深まった。

5.天智・天武路線の本質

天智・天武路線というのが何かといえば、それは一言で言えば中国主敵論である。そのための「国家動員・統制計画」として大化の改新が位置づけられる。

なぜなら、朝鮮半島で起こった事態の本質は中国による百済支配であったからだ。新羅は戦いの場面で唐と結託することにより生き残りを図ったに過ぎない。

だから唐の力が強大であればあるほど、次に狙われるのが日本であるのは明白だった。

だから、日本は命をかけて国を守らなければならない、というのは天武の思いであった。しかるにポスト天智政権は右往左往するばかりで、ひょっとすると主戦派の天武を売ることで生き残ろうとするかもしれない。

というのが天武の反乱の動機であろう。

6.いわゆる「2つの戦線」での闘い

同時に、政府部内には対中国恭順派の他に、依然として百済再興派や新羅主敵派も根強い。多くの百済からの亡命者を抱えて、その傾向は一層強まる。

「この連中は戦いの妨げになる。もうそういうレベルではないのだ。百済や任那はもう忘れろ、新羅を敵に回すな、新羅を味方にしろ」、というのが正しい戦略だ。

ということで、天武の基本戦略は対中戦争準備論にもとづく新羅との同盟、返す刀で「百済・任那マフィア切り」ということではなかったのか。



砂原遺跡をどう見るか


砂原遺跡: 成瀬敏郎論文の抄録によれば、

2009年8月8日に、島根県出雲市多伎町に発達する海成段丘堆積層を覆う古土壌から、玉髄製の剥片1点を発見した.

さらに同年8月22日からの予備調査において露頭面に表れた同層中から5点の人工的に打ち欠いた石片が確認された。

これを受けて,同年9月16日~29日にトレンチ掘削による本調査が実施れた.

この結果,約12万年前に形成された古層中から流紋岩や石英製の石器,石核,砕片,破砕礫など15点が出土した.

これらは日本で最も古い石器である可能性がある.

Clipboard01

2009年といえばポスト藤村の時代である。

砂原遺跡に関する報道や「論評」はかなりの数にのぼる。その多くが眉にベッタリと唾を付けたものである。 

日経ビジネスの2009年10月の「武田ジャーナル」というコラム

砂原遺跡の学術発掘調査団(団長・松藤和人同志社大教授)が、中期旧石器時代の約12万年前の地層から、旧石器20点を発見したと報告。

最古とされてきた金取遺跡(岩手県遠野市、約9万年前)を約3万年さかのぼる可能性がある。

産経新聞は「捏造問題以降、3万5000年前より古い旧石器研究はタブーになった。今回の調査は、及び腰だった研究者を励ますことになるはず」との松藤和人教授のコメントを載せた。

1949年に群馬県で行われた岩宿遺跡の発掘で2万5000年前のものとされるローム層から遺物が見つかった。

その後、旧石器時代の遺跡が全国各地で見つかるようになったが、いずれも後期旧石器時代(約3万から1万年前)のものだった。

その後、東北大学の芹沢長介氏は、大分県の早水台遺跡で10万年前の石器を発見したと1964年に発表。「前期石器時代はあった」と主張した。

彼の下には志を同じくする弟子たちが集まった。アマチュア考古学研究者だった藤村氏もその1人だった。

と、無料で読めるのはここまで。

自費出版のリブ パブリのブログ 09年10月

今回は、出土した地層の年代が分かりやすいことが特徴だ。年代の根拠は、まず確かだろう。

しかし、石片を観察した稲田孝司・岡山大名誉教授は、接合資料がなく、剥離面が不明瞭などと、石器と認定するのを保留している。

さらに「石器」がまとまりのない散漫な出方をしているのも、問題点の1つだ。石器屑の随伴もないので、人類がここで何をしていたか不明確なのも、大きな弱点である。

東アフリカでは、260万年前の初歩的石器が見つかっており、それは元の石塊にまで復元できるほど、多数の石器が接合する。

もしこれが本物なら、それを残したのは、我々ホモ・サピエンスではなく、おそらくホモ・エレクトスであったということになる。

黒く光る石と黒く動く虫 09年10月

「白石先生のコメント」を紹介している。

私は日本考古学協会で、後期旧石器時代をさかのぼる石器群の評価は次の点の確認が必要と提示しています。

①石器に残された明確な加工痕 人為的な二次加工により石器が製作されていること。

②遺跡が、礫層や崖錐性堆積物などでない場所に存在すること。

③確実な層位的な出土 上下に由来の明らかな火山灰があり、層位的な位置づけが明確であること。

④石器が単独ではなく複数の資料によって確認でき、なおかつ接合資料によって同時性が認められること。

そのうえで、

我々がまず行なうべきことは、誰もが認める後期旧石器時代開始期の石器群の多角的・総合的な研究を蓄積することであろう。

と結論づけている。

日経新聞 2013年6月

砂原遺跡の学術発掘調査団が、石器36点について、11万~12万年前の「国内最古」と結論づけた。

層の中に三瓶木次火山灰が含まれていることから、約11万年前と判断したという。

松藤和人さんという人だが、芹沢さんの失脚の後、こちら方面の第一人者になっているようだ。

砂原遺跡での快挙に続き、2016年5月には松藤教授率いる学術調査団が長野県大町市平の木崎湖畔の小丸山で、約8万年前の地層から石器と見られる流紋岩を発掘した

という記事がある。発見のきっかけは、

日本旧石器学会の会員である杉原保幸さんが、木崎湖畔で採集した石が石器ではないかと松藤教授に鑑定を依頼したことから始まった。

とあるので、これもどこかで聞いたことがある経緯だ。

アイヌ民族の歴史年表 の改訂を始める


2005年11月作成
アイヌ民族は北海道、千島、樺太に住んでいた(現在も北海道に住んでいる)先住民族をさす。「アイヌ」、あるいは「アイヌモシリ」という言葉はアイヌ民族の自称であるが、そのように呼んでいたのは北海道のアイヌ(特に南西部)であり、他がどうだったかは分からない。し かしさまざまな他称は、アイヌ民族を否定的に評価するニュアンスが強いため、ここでは基本的に用いない。
「蝦夷」は日本人(和人)による他称である。古くエミシ、平安末期からはエゾと呼ばれるようになった。さらに古くは毛人と書いてエミシと読まれていた。ここでは広くアイヌ民族と同根の縄文系人として扱っている。
エミシは関東から東北にかけて住み、和人に征服され、同化した縄文系人であるが、当時から北海道の南部地方にも分布していた。

2017年4月 改訂
この年表はあまりに雑多で無思想であり、史料としてすら使えないということがわかってきた。やはりエミシの歴史とは分けなければならない。さらに遡るならば、縄文人が単一民族として日本列島全般(とくに東日本)に分布していた時代と、縄文人が弥生人との接触で「半倭人」化した東北のエミシと北海道の続縄文人に分離した時代とは分けなければならない。
アイヌ人は縄文人の血を濃く残した末裔である。その後朝鮮半島から渡来した人々と縄文人との混血により「日本人」が形成されたが、アイヌ人は渡来人と混血せず、北海道に存在した。しかし北海道の北部・東部に居住したオホーツク人とは強く混血しており、この点で縄文人とは異なる。
ということで、第一部・アイヌ民族の形成(擦文時代のおわりまで) 第二部・アイヌ民族抑圧と戦いの歴史 第三部・東北エミシの戦いと同化の過程 みたいな感じに分けていきたいと思う。

「国家隠密法」違反

幕末の頃、最上徳内という探検家がいた。千島や樺太探検で名を馳せた人で、間宮林蔵の兄弟子格だ。

1789年に、根室と対岸の国後島でアイヌの大規模な反乱が発生した。松前藩は酋長たちに言い含めて、首謀者を自首させた。

その上で討伐隊を送り、詮議の上37名を打ち首とした。首は松前に持ち帰られ晒された。

ときあたかもロシアが北海道進出を狙う不穏事態にあり、幕府は事件に驚愕し、松前藩の統治能力を疑った。

かねてより蝦夷の事情に詳しい最上徳内らを派遣し調査にあたらせた。最上徳内は国後・択捉に渡り聞き取り調査を行った。

アイヌ人に日頃より親近感を覚えていた最上は、和人の横暴に激しく怒った。そして報告書の中で承認ばかりでなく松前藩まで断罪した。

幕府としては大いに感じるところがあったと思われる。それはその後の行動で明らかだ。10年後には東蝦夷地を直轄とし、その後さらに松前藩の北海道支配権を奪い、奥州梁川に転封している。

しかし、最上はその激しい糾弾のゆえに危険人物とみなされた。その結果つけられたのが「国家隠密法違反」という名目である。

最上は公儀で情報収集しながら、幕府に裏切られる形で入牢する羽目となった。このエピソードが、何か今日の共謀罪法案と結びついているように思われてし

擦文時代のもう一つの特徴が、オホーツク文化のアイヌ文化への吸収である。

これがどういう吸収であったかはY染色体ハプログループとミトコンドリアDNAの分布からある程度想像できる。

男性においてはオホーツク人の痕跡はほとんど認められず、女性の半分をオホーツク系が占めるということは、明らかに縄文系人がオホーツク人の居住域を征服したということを示す。

男性は駆逐され、女性は縄文人の妻となった。そしてオホーツク人と結婚しなかった約半数の縄文人男性は、縄文人女性を呼び寄せ結婚したということになる。

したがってアイヌ人は4分の3が縄文人で4分の1がオホーツク人という混血民族になる。

生産様式は完全な縄文人形式で、生活様式の一部(とくに女性の生活)にオホーツク系の伝統が残されるという形式ではないだろうか。

もちろん地域的な濃淡(例えばコロボックルの扱いとか)はあるだろうが、そこまでの知識はない。

穴居こそ縄文文化の本質的特徴

ふと思う。「縄文」という言葉を使うのがそもそも矛盾しているのだが、「穴居」こそ縄文文化のより本質的な特徴ではないか。

穴居(竪穴住居)そのものは、北方系民族にはよく見られる住宅形式であるが、弥生人と遭遇し、その文化を吸収する過程でいち早く失われていく習慣である。

ブナ林と古代史」というブログに、江戸時代樺太アイヌの住居について以下のような記載がある。(何の事はない、瀬川さんの文章だ)

地面を深さ1m前後四角に掘り下げ、屋外に通じる煙道を壁に堀崩してカマドを設けるとともに、4本の柱の外周にムシロなどを敷いて寝床とし、その内側を土間とするものであった。

…北海道では擦文文化以降平地住居が普及し、竪穴住居の伝統が中世の間には絶えてしまった。

なぜ住居にこだわるかというと、続縄文までは良いとしても、擦文土器を時代区分の象徴とすることに無理があるように思えるからである。

大和政権の歴史においても、弥生時代を最後にもはや土器による時代分類は用いられず、古墳・飛鳥・奈良時代と続いていくのである。(これ自体ずいぶんご都合主義的な区分だが)

北海道南部の縄文遺跡を見ても、背丈を超えるほどの巨大な竪穴こそが最大の特徴である。

また、肥前風土記などでも、王朝側に抵抗した先住者が穴居生活を行っていたことが示唆される。

擦文土器にこだわらずに擦文時代を眺めると、平地型住居のフロンティアが上陸し、徐々に北上し、やがて北海道全土を占めるに至る時代ということに本質があるように思える。

そして、平地型住居に住む縄文人というのがアイヌ文化の本質であるように思える。

擦文文化における住居はきわめて折衷的である。竪穴住居だが、中央の炉に代わり壁際にかまどがすえられている。この時期に一致して「北海道式古墳」も出現している。

先日、江別市郷土資料館を訪ねたが、縄文式土器の威圧的なまでの激しい押し出しと比べ、擦文式というのはなんとなく精気がない。東北エミシの落ち武者がひっそりと暮らしていたのであろうか、しょぼくれた印象が拭えない。900年ころを境に自然消滅していくということだが、さもありなんと納得させられる。

それは、江別・札幌の擦文土器文化を中核としてこの時代を擦文時代とすることが果たして適当だろうかという議論に発展する。

結局、奥州の安倍一族の没落を最後に岩手➖八戸➖道央低地帯という交易ルートは表向き消滅し、秋田を拠点とする日本海側交易ルートに一本化されていったのではないだろうか。

そうすると、道央低地帯の擦文文化が衰退消滅していく過程が理解しやすいように思える。そして「エミシ+続縄文人の拡散」という事態は、道央低地帯の没落を乗り越えて、遥かに大規模に全道・樺太・千島へと広がっていく。

そしてそれを追いかけるように和人の東北北部・北海道への進出が進んでいく。

後者を須恵器文化と呼ぶなら、この時代は擦文・須恵器併存時代と呼ぶほうが適当ではないだろうか。そして最終的には須恵器文化に擦文文化が吸収され、さらにオホーツク文化の一部も取り込むことでアイヌ文化が成立していくのはなかろうか。

擦文文化

瀬川さんは独特な擦文文化論を展開する。

擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「弥生化した縄文人」がもたらしたものだとされる。

彼らは大和国家の側からはエミシと呼ばれ差別されていた。

擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

擦文文化

瀬川さんは独自の擦文文化論を展開する。

1.擦文文化は、650年ころから海を渡り道央低地帯に進出した太平洋岸の「和人化した縄文人」がもたらしたものだ。

2.彼らは和人の側からは「エミシ」の名のもとに差別され、圧迫されていた。

3.擦文文化は道央圏を中心に広がったが、日本海側は秋田城の支配のもとにあり、独自の文化は生まれず、青森県で作られた須恵器が流通していた。


非常に説得力がある文章ではあるが、まずはその前に、現在主流をなす擦文文化論をおさらいしておかなければならないだろう。

ウィキペディアから入ることにする。

土器の特徴から見た時代区分

擦文式土器の流布するのは6世紀後葉から7世紀はじめである。これは大和朝廷で言えば飛鳥時代に相当する。

擦文式土器の技法は、土師器からの強い影響を受けている。擦文式時はその様式から4期にわけられる。

前期 西暦500~650年 続縄文土器の影響が残る時期

中期 西暦650~800年 東北地方の土師器に酷似する時期

後期 西暦800~900年 擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期

終期 西暦900~1300年 遺跡や土器が次第に減少して編年が困難になった時期

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、終期には青森を中心とする東北北部にも広がったとする意見もある。

擦文人の生活

基本は狩猟・採集社会であった。サケ、マスなどの収穫期には、河口の丘陵上に竪穴住居の大集落を構え、他の時期には、中流より奥に狩猟のための集落を作った。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。これら金属器は主に本州との交易で入手した。製鉄は行われていない。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。

墳墓は東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

「古墳人」について

瀬川さんの「古墳人」という規定について、どうも誤解していたようだ。

それは、大和系の歴史で用いられる古墳時代とか前方後円墳という言葉から来ているのではない。

もちろん、それとのつながりはあるにしても、直接的には東北地方北部の群集墳を象徴とする文化を指しているようだ。

復元された江別古墳群

江別古墳群は東北地方北部に分布する群集墳と同じ系譜と考えられ、その北限を示す唯一の現存する遺跡です。(江別市郷土資料館)


ということで、

ウィキペディアの解説を通説としてみれば、瀬川さんの論建ては続縄文人の東北進出をふくめ、今のところは「大胆な仮説」にとどまっていると思われる。


カテゴリー再分類がいったん完了した。なんだかんだと5日間かかった。

時間がかかった最大の理由は、見出しが不適切で、見出しだけ読んでもなんの記事やらわからないというところにある。

日記であれば前後の関係で想像がつくこともあるが、もう5年以上前のものもあるので、それだけではわからない。

仕方がないので本文を読む。そして見出しだけで記事の内容が想像がつくくらいまで、補足する。

子供の頃、大掃除という風習があった。年に一度は畳を剥がして、天日干しする。その間に古い新聞紙を剥がして新しいのに取り替える。

それからDDTを撒いて、畳を敷き直すということになる。その間にふすまや障子を拭いたり洗ったりする。

親戚の家に手伝いを頼み、子供も動員しての大作戦となるのだが、この時作業が止まってしまう最大の理由は、古新聞を読み始めてしまうことだ。

「温故知新」というが、まるっきり今でもニュースだ。普段、新聞というのは一面からではなく逆から読んでいるので、目が届かないところがあって、そこに案外面白い記事があるものだ。

親父に「コラッ」と怒鳴られて、しぶしぶ作業に戻る。

今回もそれをやってしまった。だから、途中で疲れてくる。見出しだけでなく中身にも手を入れだす。そうするとわからないことが出てきて、それをまたウィキなどで調べだす。

そんなこんなで5日間が過ぎていったのである。

一応、出来上がったのか下の表である。多分行き先間違いもあるだろう。気づき次第訂正していくつもりである。

カテゴリ別アーカイブ

極端に多いジャンルもなく、少ないジャンルもなく、ほぼ良い具合にバラけたと思う。

境界領域の記事がこちらに入ったり、あちらに入ったりという混乱はあるが、ある程度は仕方あるまい。

“右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします”というセリフをある程度胸を張って言えそうだ。

ついでに、なんでも年表集のあり場所をリンクしておく。

現在のカテゴリー分類
01 国際政治/経済 (668)
11 日々雑感 (239)

新カテゴリー分類
ワンボタン・ワンプッシュで済むことが原則である。
無駄な作業を増やしたくないので、現在の分類をなるべく活かす。
項目は少し絞り込む。現在大小のカテゴリー合わせて49の項目があり、30程度には減らしたい。
ということで、以下のごとし。

10 国際政治・経済
11 東アジア
12 アジア(11諸国以外)
13 中東(マグレブ諸国含む)
14 ヨーロッパ
15 米国(カナダ含む)
16 ラテンアメリカ
17 その他(ほぼアフリカ)

20 歴史(基本的には日本史)

30 国内政治(財政含む)
31 対米従属(国家・経済構造の分析含む)
32 政治革新(各種の運動課題含む)
33 原発(東北大震災含む臨時的項目)
34 国内経済
35 社会問題(労働・福祉など)
36 社会理論(社会主義・哲学を含む)

40 自然科学
41 臨床医学(一部医療問題を含む)

70 芸術・文学
71 音楽(クラシック)
72 音楽(クラシック以外)
73 オーディオ・パソコン操作

80 日々雑感

ということで全23カテゴリー。これで始めてみよう。

最近、カテゴリーがうまく機能していないと感じるようになった。

最大の理由は

  • ブログをはじめた日

    2014/03/16 (開始日から1130日目)

  • これまでの投稿数

    4033

となっていることである。1130日というのはライブドアに引っ越してからの日にちで、ブログそのものを始めたのは2011年5月であるから、すでに6年を経過している。

とはいえ、問題はそれだけではない。

一つは、2段階のカテゴリーをフル活用しようとしたのがあだになっていること、10x10で100くらいに分類しようとしていたが、これでは煩雑すぎる。

一段階だけで済ますやり方に変えなければならない。(実際にはすでにそうしているのだが)

もう一つは関心領域が大分変わってきて、多少趣味的な様相を呈してきている。もう少し社会に向き合わなければならないのだが。

それで、経済・金融分野の記事が激減し、政治分野もかなり減った。らの話題はほとんどタッチしなくなっている。目下は音楽、古代史と生物学的なところに集中している。

これはカテゴリー分けの問題以前の話だ。読者にも不満を感じさせているかと思う。

まぁ、それはそれとして、とりあえずカテゴリー分けを検討しようかと思う。

そこで日本十進分類法を勉強してみることとした。

十進法は10X10で百項目にわかれる。これをそのまま使うことはありえないだろう。

自分のこれまでの記事と照らし合わせながら、20カテゴリーくらいに整理してみたい。

00

ここには必要なカテゴリーはない。

10

これは哲学だけで十分だ。心理学は医学の一分野と受け止めているので、哲学的心理学は興味の範囲外だ。

20


これは私の主たる興味分野だ。ただ政治史というのは多くは現代史であり、現代政治と深く関わる。現代政治経済を把握しようとするなら、歴史的視点から認識しなければなならないというのが、私の主義だ。

どのように分けるかとなれば、政治のカテゴリーの一分野として扱うことになるだろう。

とは言いつつも、世界の各国の社会状況は350統計という項目しかないので、各国の歴史カテゴリー内の「現代史」として突っ込むしかなさそうだ。

30

このカテゴリーは、取り付く島がない。いかんともしがたい。私も細かく分けすぎていて、それが失敗のもとになっている。

平和という項目も民主主義という項目も対米従属という項目もない。仕方がないのでこれを一応政治として括る。

ただ政治を語る場合、2つの問題がはみ出す。

一つは超十進分類的に安保体制が覆いかぶさるので、この問題は別途項目を立てなければならない。強いて言えば313「国家の形態、政治体制」にふくまれる。

もう一つは政治闘争の主体に係る課題である。むかしは統一戦線と言い、今は野党共闘と言う。これも強いて言えば315「政党、政治結社」にふくまれる。それ以外が310「政治」ということになる。

「憲法守れ」や、「言論の自由を守れ」は320法律のカテゴリーではなく310政治のカテゴリーにふくまれるものであろう。

330経済は一つのカテゴリーでよい。金融問題も経済一般としてそれほど矛盾はない。340財政(アベノミクスや消費税)は基本的には310政治の枠組みで語る。

経済的な対米従属は、安保体制=313国家の形態で語ったほうが良い。

国際的な経済情勢の分析(リーマンショック、欧州債務危機、租税回避など)は、国際政治・経済の枠組みで語ることになる。これは333経済政策・国際経済ではなく、十進分類を超えたとことに設定すべきであろう。

またマルクス主義経済学については経済もふくめた社会理論として、362社会史・社会体制の項目を当てるのが良いかもしれない。

非正規、過労死、貧困、医療介護などはひっくるめて社会問題として368社会病理に括っておく。

原発は基本的には政治課題ではあるが、多面的な要素を抱えているので、臨時的に項を起こしておいた方が良いであろう。

40自然科学は一つのカテゴリーで十分であるが、医学は医療と関わるだけに線引が難しい。一応臨床医学は臨床薬学や医療と合わせて別項目を立てておく。

50技術・工学と60産業は不要である。何処かに収まるはずだ。

70芸術・美術は、記事の量から見て76音楽は別にせざるを得ない。直接ここに入るわけではないが、オーディオを中心としてパソコン・アプリの遍歴がかなりの量を占める。成り行き上、音楽の項目の付帯項目としてパソコンのプログラム関連の記事もここに突っ込んでおく。

80言語の項目は当面不要である。90文学は芸術に突っ込んでいるが、当面不自由はないのでこのまま行く。


こんな感じで外観がつかめてきたので、明日は一定の成案を立ててみようと思っている。

おやすみなさい。

なんでも年表 一覧

 

膨大かつ雑多な年表が溜まりました。こちらにまとめて掲載します。同じものをホームページの方にも置きます。
ジャンル分けは、とりあえず話題別年表、地域別年表に大別しますが、話題と言ってもどんなものがあるのかわからないので、とりあえずアップの日付順に載せ、順次括っていきたいと思います。これを作るのにマル2日かかりました。


話題別年表
政治的できごと(世界)
ケネディ暗殺事件
キューバ・ミサイル危機
ゲバラの死

ウォーターゲート事件
イラン・コントラゲート事件







南シナ海と南沙諸島をめぐる紛争年表ブログに分割掲載していたものを増補・一本化しました。

南沙諸島関連年表 1

南沙諸島関連年表 2

南沙諸島関連年表 3


政治的できごと(日本)

大久保利通の足跡 (大久保個人をかなり越えてしまっている

日清戦争 年表

日露戦争 年表

GHQの戦後改革 タイムテーブル  戦後改革をGHQからの目線で整理してみました。

GHQの戦後改革 その1

GHQの戦後改革 その2

GHQの戦後改革 その3

GHQ年表 補遺分

GHQ年表 補遺 その2

満州事変と一夕会 年表

対中侵略と国内政治の流れ 年表

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)

内務省の歴史 年表

戦後引揚事業 年表

経済的できごと

トービン税・金融取引税に関する年表

FATCAとCRS 経時記録

1997年論 まずは年表から (1997年、消費税引き上げで惹起された経済危機を時系列にしたもの)

アジア通貨危機年表 (増補版)

98年のルーブル危機

金融自由化、プラザ合意、バブル景気の三題噺 レーガン就任からバブルに至る10年間の時系列

日米構造協議年表 その1

日米構造協議年表 その2

日米構造協議年表 その3

みずほ 迷走の15年 (みずほ銀行の合併後の内部混乱の経過)

弁護士CM乱発のわけ その2

ギリシャ危機年表

 

世界史的なできごと

カリブの海賊の年表

“インディアン”抵抗史 (米国の先住民、いわゆる“インディアン”の歴史です)

青銅器時代を学ぶ

ケルト人について (文章の後半が簡単な年表になっています

清教徒革命年表 今後の課題

清教徒革命年表

赤いウィーン 年表  第一次世界大戦後、10年以上にわたって続いたウィーン「革新都政」の年表です。

「赤いウィーン」前史

大恐慌からニューディールへ 政治年表

ナチス・ドイツ「経済奇跡」年表

日本で知られていないドイツの反ナチ闘争

「仕上げ」としての大テロル

フランスのレジスタンス 年表

1946年、イランで原爆使用計画? (WW2の直後に起こったイラン紛争の経過です)

ハンガリー事件年表 その1 (解禁文書で見る経過)

ハンガリー事件年表 その2

ハンガリー事件年表 その3

大躍進運動 年表

東アジア共同体とASEAN 年表

ブラジル、民主化の闘い 略年表

 

日本のできごと

明治の農業改良運動 年表

太平洋炭鉱の歴史 年表 

堺県の歴史 年表

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

バプテスト 年表 (日本におけるバプテスト教会の活動の歴史)

奄美共産党 年表 その1

奄美共産党 年表 その2

奄美共産党 年表 その3

奄美共産党 年表 その4

山口組内紛の背景

ビキニ核実験 被爆年表

ビキニ年表 増補版

イラク問題と山崎拓

APF・昭和ゴム 関連年表

脱原発年表 2011年

脱原発年表 2012年

脱原発年表 2013年

 

自然科学的なできごと


先カンブリア紀 年表 を増補

先カンブリア紀 年表

始生代への旅

原生代と古生代 年表

うつ病年表が挫折した

ワニの進化と直立歩行の真偽について

ゲノム研究 年表

素粒子物理学 年表

電子からレプトンへ

ニュートリノに関する年表 

iPS細胞 年表

 

思想的なできごと

カール・ポラニー年表

カール・ポラニー年表の増補 ついでに一言

ホッブス、ロック関連の年表

ミル親子 年譜

オーストリア学派とオーストリア社会民主党 「論争」の年表

フランス構造主義の年表 

ソシュールは誰に何を対置したのか (文章の一部が、いわゆる「ソシュール言語学」の成立をめぐる簡単な年表になっています

戦争責任論の系譜

武谷関連年表(自分流)

 

芸術上のできごと

5人組とチャイコフスキー 年表

リャードフとリャプノフの関連年表

剣道歴史年表

自然主義文学 年表的理解

大逆事件と啄木 年表

ボサ・ノヴァ年表
ボサノヴァ年表の解説というか…
地域別年表
日本
樺太(サハリン)の年表 その1

樺太(サハリン)の年表 その2

最上徳内と間宮林蔵

間宮林蔵に関する年表

最上徳内に関する年表

アイヌの北限の歴史

アイヌ民族年表

古代出雲のトロイ戦争か

分子人類学の「日本人起源論」 増補版

青銅器時代を学ぶ

長江文明 の流れ

三韓および倭国年表

日本書紀抜きの日本史年表  

衛氏朝鮮は天孫系の源流ではなさそう

三韓時代以前の朝鮮半島南部

蘇我稲目は倭国の末裔?

大和王朝の世界史への登場(7世紀の日本) 年表

古墳時代ではなく倭王朝時代と呼ぶべきだ (古墳時代の簡単な年表)

渡来人は現代朝鮮人と同一なのか (内容はほとんど米作り年表)


世界
米 国 340kb


#1米国史1,123kb カボットのニューファウンドランド探検から「門戸開放」まで

#2米国史2,65kb  フィリピンの反乱からケネディの当選まで

#3米国史3,116kb  対キューバ断交からクリントン弾劾まで

#4ケネディ暗殺,73kb

#5ウォータゲイト事件の経過,13kb

#5イラン・コントラゲイト事件の経過,38kb

#6インディアン抵抗史,37kb


ヨーロッパ (332 kb)
        
#1 スペイン年表~1930  150 kb レコンキスタから人民戦争前まで
#2 スペイン年表~現在まで  99kb スペイン人民戦争を中心に現在まで
#4 ポルトガル年表  122kb  19世紀以降を扱う。それ以前はスペイン年表内に格納。リスボンの春・カーネーション革命を中心に

ポーランドについてのかんたんなお勉強

スペイン統一左翼の歴史 その1

スペイン統一左翼の歴史 その2

スペイン統一左翼の歴史 その3

イタリア共産主義再建党の歴史 その1

イタリア共産主義再建党の歴史 その2

イタリア共産主義再建党の歴史 その3

 

朝鮮半島戦後史(1469 kb)
インドシナ戦争・ベトナム戦争(675 kb)
中国革命関連

毛沢東のライヴァルたち (下記の8+1本をまとめ、増補したものです。長征以前が対象です)

魔都上海年表

上海年表 補遺

内山完造の動き

 

中東関連

中東現代史年表 その1  86kb  イランとイラクが中心です

中東現代史年表 その2 (というより,ここ2年余りのイラク問題経過表) 118kb

パレスチナ(イスラエル)年表  105kb

エジプト 2013年  「7月4日事件」の8月末での整理です。

 

第三世界(440 kb)
ネパールの年表

バングラデシュ 年表 

ルワンダ史  大虐殺を挟んだルワンダの歴史。

西サハラの闘い その2

西サハラの闘い その3

南部アフリカ(南アフリカ,ナミビア,アンゴラ,モザンビーク,ジンバブエ,ボツワナ,ザンビア)  157kb

おそらく、ほとんど何の役にも立たない年表ですが…

 

 

 

 

“藤沢敦”で検索していたら、あるブログに次のような一節があった。面白いので引用させて頂く。 失礼ながら、ブ ログ名がどれなのか、よくわからないブログなので、リンクだけ貼ら せてもらうことにする。
先の参議院選挙と直接比較することはできないし、その根拠も全くない のだが、安倍政権に対し、野党共闘で勝利した地域が、明治維新勢力 に対する奥羽越列藩同盟を結んだ地方とその地続きであったことによ く類似し、また、古代蝦夷の居住域とその交流地帯とも類似していたこ とに驚きを持った。
これと、琉球・沖縄地方の国家との関係もそうだが、「これらの地方には 、中央集権や、国家に抗する、古代・中世史を貫通する、1500年を越 えた歴史的記憶・身体性を蔵しているのでは?」と、ふと夢想してしまった のである。
うーんとマスコミ風に膨らますと、「縄文人は野党共闘だ!」ということに なろうか。

瀬川さんの本で一番ビックリしたのが以下の記述である。

東北は、紀元前1世紀ころから寒冷化により人口密度が希薄化した。それは良いのだが、

4世紀、北海道では続縄文時代後期のはじめ、本州では古墳時代が本格化しつつある頃、

北海道の人々は東北北部に南下していきます。彼らは古墳社会の前線地帯である仙台平野と新潟平野と結ぶラインまで南下しました。
この前線地帯には、幅数十キロにわたって古墳社会の人々と続縄文人が混在する「中間地帯」が形成されました。両者は排他的・敵対的な関係ではありませんでした。

注意しなければならないのは、本州(東北)に住んでいた縄文人は、続縄文人にはふくまれないということだ。彼らがなんと呼ばれるかについては、この文脈上では明示されていない。

おそらく彼らは瀬川さんの言う「古墳人」に抱合されているのだろうと思われる。やはりこの唐突な「古墳人」よりは以前からの言い方である「和人」のほうが、私にはぴったり来る。

つまり「和人」には人種(DNA)としての弥生人、内地縄文人がふくまれているのであろう。そしてそもそも弥生人(現日本人)が渡来人と縄文人の混血なのである。

それはともかく、引用した部分、えらくものの言い方が断定的なのに驚く。「そこまで言って委員会」である。

この引用部分、実は瀬川さんも藤沢さんという方の文章からの引用らしい。

ネット上で藤沢さんの文章を探してみることにする。

瀬川さんの引用元は藤沢敦「古代史の舞台…東北」という文章で、2006年に岩波書店から出された「列島の古代史Ⅰ 古代史の舞台」という本の一節のようである。

急に権威主義になってしまうが、岩波と聞くとさすがに恐れ入ってしまう。

藤沢敦さん。 東北大学のサイトでは55歳にもなっていまだに助手ということで、「教員エレジー」かと思ったが、別のサイトでは東北大学総合学術博物館教授となっていて、「まずまず良かったなぁ」とホッとしている。

倭国の形成と東北

これが近著で、目次を見るとなかなか論争的で面白そうだ。古墳人という言葉を使いたい理由が、東北人の心情としてわかるような気がする。

国立歴史民俗博物館の紀要(2009年)に、「墳墓から見た古代の本州東北部と北海道」という論文の要旨が載っている。

古墳時代並行期においては、南東北の古墳に対して北東北・北海道では続縄文系の墓が作られる。

7世紀以降は、南東北の終末期の古墳と、北東北の「末期古墳」、そして北海道の続縄文系の墓という3つに大別される墳墓が展開される。

つまり、南東北は古墳が終末期古墳になるだけで本質的変化はない。北海道はそのまんまである。

北東北だけが続縄文系から「末期古墳」という異文化に変わるのである。

末期と終末期の違いは分からないが、とりあえず本質的な問題ではない。

北東北でお墓の文化が変わるとき、中に葬られている人も変わるのかどうか、これが最大の問題だろう。ついでに言えば、それがなぜ7世紀なのかも興味ある。

しかしこの「要約」にはそれに対する解答は示されていない。これじゃ要約じゃないじゃん。

最後のフレーズ。

異なる文化間の境界は截然としたラインで区分できない。このことは、文化の違いが人間集団の違いに簡単に対応するものではないことを示している。

よく分からないが、この文章をもって「北海道の続縄文人が津軽海峡を越えて、北東北まで進出した」ということの論拠にはならない。ひょっとすると、瀬川さん言い過ぎているのかもしれない。


墳墓から見た古代の 本州島北部と北海道 の原文が見つかりました。

1.古墳築造域の変遷

《古墳時代前期》

太平洋側では,前方後円(方)墳の分布は,宮城県北部の大崎平野が北限となる。ただし,小規模方墳・円墳は,更に北の迫川流域まで分布し,宮城県域のほぼ全域まで分布する。

《古墳時代中期から後期初頭》

太平洋側では,岩手県奥州市(旧胆沢町)角塚古墳が造られ,分布域が拡大する。

ただし,同時に続縄文文化に由来する,黒曜石製石器の製作とそれを用いた生産活動も活発化しており,古墳分布域の拡大が,続縄文文化の後退を伴う訳ではない。

《古墳時代後期》

6世紀に入ると,古墳築造域は大きく後退する。太平洋側では,宮城県南部の阿武隈川下流域まで古墳分布は後退する。

仙台平野と大崎平野では古墳と続縄文系の墓との,折衷形式の墓が出現する。

《終末期》

7世紀に入ると,古墳築造域は再度拡大する。同時に,竪穴系埋葬施設は姿を消し,横穴形埋葬施設だけとなる。

太平洋側では,前期と同じく,宮城県のほぼ全域に古墳築造域が拡大する。

古墳築造域の広がりは,角塚古墳を除くと前期が最も広い。古墳築造域が拡大していく訳でもなければ,一度確立した古墳築造域が安定して維持され続ける訳ではない。

border

何やら複雑な絵でよく分からないが、境界線が宮城県でずっとウロウロしていること、日本海側はなかなか曖昧なことがわかる。

2. 続縄文系の墓

《初期の例》

弥生時代末に北東北に続縄文文化が拡大した。

古墳時代前期(西暦200~250)には、続縄文文化に由来する,平面形が楕円形を基調とする墓が,北東北にも見られるようになる。

そうなんだ。つまり東北の縄文人には続縄文文化はなかったのだ。それが西暦200年ころから出現するようになったのだ。それは少なくとも、続縄文文化を担う北海道の縄文人が影響を与えたとする以外には考えられないのだ。

《古墳時代中期》

副葬される土器に占める土師器・須恵器の割合が増大し、北海道系の土器はほとんど見られなくなる。

《7世紀以降》

続縄文系の墓は見られなくなる。代わりに「末期古墳」が造られる。

北海道では,7世紀以降も,続縄文系の墓の系譜に連なる墓が造られ続ける。しかし8世紀には,「末期古墳」に類似する周溝をめぐらすようになる。

3.末期古墳

「末期古墳」は,7世紀初頭に出現し,9世紀まで造られ続ける。北東北3県に普遍的に分布するほか,宮城県最北部の迫川流域・北上川下流域にも分布している。

さらに,北海道の道央部の石狩低地帯に分布し,「北海道式古墳」と呼ばれてきたものは,北東北の「末期古墳」と基本的に共通する。

「末期古墳」の様相は,倭における後期から終末期の小規模円墳との共通性が強い。そのため「末期古墳」は,倭の古墳の強い影響のもとに成立したと考えられる

しかし倭の古墳に顕著な,被葬者相互の階層的関係を表現するという社会的機能が,「末期古墳」ではほとんど見出せない。

4. 墳墓を中心に見た異文化間関係と境界 

《古墳時代前期》

北上川中流域から大崎平野に至る南北約60kmの範囲で,古墳文化と続縄文文化の考古資料が相互に入り組んで分布する。

混住帯の幅広さは両者は排他的な関係にはないことを示す。

《古墳時代中期から後期初頭》

角塚古墳が北上川中流域に造られ,古墳分布が拡大する。土師器を伴う方形竪穴住居が,大崎平野や角塚古墳周辺に出現する。

古墳文化と続縄文文化の境界はさらに不明確となる。

角塚古墳に示される政治的関係は,続縄文文化に伴う経済的関係を組み込み,それに支えられていたと考えられる。

《古墳時代後期》

古墳分布域は後退する。仙台平野や大崎平野では,古墳と続縄文系の墓の折衷型式の墓が出現する。

《7世紀初頭以降》

北東北が農耕を基盤とする社会へ転換していった。ただし,大崎平野から仙台平野にかけての地域では,南東北と北東北の様相は混在し,その中でも北へ行くほど,北東北の様相が強い。

そこに刺さりこんで、差別をもたらしたのが大和王朝である。

大和政権から律令国家へ至る中央政権は,仙台平野以北の人々を蝦夷として異族視していく。そして,蝦夷に対する支配機構である城柵が,仙台平野以北に造られていく

最も違いが不明確なところに,倭人と蝦夷の境界が置かれた。これが北東北の「末期古墳」と北海道の続縄文系の墓という違いを生み出した最大の理由である。

「末期古墳」は北海道にも分布する(北海道式古墳)。道央部においては,続縄文系の墓と「末期古墳」が,地域においてのみならず,同じ遺跡の中でも混在している。両者を截然と区分できる境界は存在しない。

5.おわりに

古代律令国家は、「蝦夷」や「粛慎」を截然として“他者”と認識した。その結果として、これら人間集団を他人視する傾向が生まれ、続けられてきた。

しかし、異なる文化間の境界を截然としたラインで区分できないことは明らかである。文化の違いは人間集団のDNAの違いに簡単に対応するものではない。

そもそも「蝦夷」や「粛慎」という他者認識と表裏一体の関係にある,「倭人」あるいは「日本人」という自己認識が、鋭く逆照射されなければならない。

最後の指摘はきわめて重要である。

続縄文時代の北海道は、瀬川さんによれば、以下のように特徴づけられる。

1.交易拡大による宝物の流入

希少な交易産品を独占保有することで、独占的な権益を得た。彼らは和人社会が拡大すればするほど豊かになる仕組みを享受した。

現代で言えば産油国の王様が豊かになるのと同じ経済メカニズムだ。このように豊かな国が、苦労して稲作などする必要があるだろうか、と瀬川さんは問いかけている。

2.狩猟への特化

続縄文人は、農業に携わる努力を狩猟の大型化へと集中した。

瀬棚では、数十の工房跡、数千点のメノウ製のドリルが発掘され、毛皮やなめし革製造のための専門工房の存在が確認されている。

いっぽうで寒冷化は進み、生業的な集落の維持は困難となった。道央・道北の広大な地域が無人の野と化し、そこにオホーツク人が進出してくることになる。

3.「海民」の発達

貿易を担う海上輸送インフラが大いに発達した。北海道の産品は西は秋田、東は八戸あたりに持ち込まれ、和人(バイリンガル)化したエミシとの間で「取引」され、「商品」となった。

「商品」の和人地域への輸送を担ったのは、主として北部九州の「海民」だったと言われる。

それは朝鮮半島から北九州にかけての風習であった「卜骨」が、道内各地で発見されていることから裏付けられる。(しかしY染色体のC1ハプロは青森止まりだ)

このあと話は少し脱線する。

この北九州の「海民」は、東北・北海道の縄文人とも、渡来した弥生人とも異なる特徴を持つ「縄文」人であった。(C1ハプロや、ATLウイルス抗体の分布との相関はあるだろうか?)

4.生産・輸送手段の大型化に伴う階層分化

墓の副葬品を見ると、この時代、首長が富のほぼすべてを独占している。

砂沢遺跡の意味するもの

砂沢遺跡は弘前市の北はずれ、岩木山の東麓にあたる。昭和62年に弥生時代前期(2300年前)の水田跡が見つかった。

近隣の田舎館村垂柳遺跡からは、弥生時代中期の水田跡が発見されており、この時代に津軽平野で水田耕作が行われていたことは確実となった。

これら水田は紀元前1世紀には寒冷化のため放棄された。弘前で水田が復活するのは6世紀まで下る。

同時に出土した遺物は「砂沢式」と呼ばれ、弥生式のスタイルを受け入れつつも、基本的に縄文後期の様式を示している。
このことから縄文人が渡来人の技術を受け継ぎ水田耕作を行ったことは確実である。


   砂沢の土器、縄文と弥生の両方の様式が混合する

砂沢土偶
  砂沢で発掘された中空土偶はもろに縄文


つまりだ。

縄文人が弥生人に同化せず、服従もせず、彼らの文化をそっくり保持しながら、水田耕作を行ったということだ。

これを敷衍すれば、

縄文人が縄文人でありつつ、和人の支配を受けずに前方後円墳を作るのもまったく可能だということだ。

さらに敷衍すれば、弥生時代とか、古墳時代とかいう時代区分は、こと縄文人にとっては意味が無いということだ。

日本書紀の景行紀に肥後(熊襲?)討伐作戦が延々と展開されている。豊後の国風土記にも、それの簡略化された事項が記載されている。
日本書紀の編纂と風土記はほぼ並行して進められており、豊後の国風土記の史実としての先行性は認めがたい。
風土記の編纂は太宰府の指示の下に進行されたと言われており、日本書紀の記録も豊後の国風土記の記載も、大宰府に存在した資料に基づいているものと思われる。大宰府の役人がそれを用いて九州を景行天皇一色に染めようとしたのであろう。
これは九州王朝による火の国征討作戦である。大和政権が景行天皇の時代に豊後に上陸して阿蘇の山並みを超えて肥後を目指したという蓋然性は低い。
筑紫王朝が肥後を征討するため豊後周りの迂回→側面攻撃作戦を取るというなら理由はよく分かる。
まずは日本書紀の記載を見ていこう。


碩田國の速見邑に入った天皇の一行を村長の速津媛(はやつひめ)が迎える。彼女は近くの「鼠の石窟」に白と青という土蜘蛛が潜んでいると讒言。また直入郡禰疑野(ねぎの)にも打猿(うちざる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)という3人の土蜘蛛がいる。是の五人は強力で、また衆類も多く、皇命に従おうとしない。

進軍を妨げられた天皇は、来田見邑に留り陣を設営した。群臣と議りていわく「今多に兵衆を動かして、土蜘蛛を討たむ」と宣言した。

そして民兵を募り武装させ、掃討作戦に乗り出した。

山を穿ち草を排ひて、石室の土蜘蛛を襲いて、稲葉の川上でこれを破った。

「山野に隠れてば、必に後の愁いを為さむ」として、其の輩を殺す。血流れてつぶなきに至る。

と、これが「鼠の石窟」の戦い。次が禰疑野の戦い。

復、打猿を討たむとして、ただに禰疑山を渡る。時に賊虜の矢、横に山より射る官軍の前に流ること雨の如し。天皇、更に城原に返りまして、水上に卜す。

便ち兵を整えて、先ず八田を禰疑野に撃ちて破りつ。ここに打猿え勝つまじと謂いて「服はむ」と請す。然れども許したまはず。皆自ら谷に投りて死ぬ。(まぁ突き落とされたんでしょうね)



という状況で、いずれにしても「流ること雨の如」き矢が浴びせられたというから相当大規模な戦闘だ。天皇軍も一時退却を余儀なくされるほどの激しさだったことが伺える。それとともに、敗残兵を掃討しようとしなかった土蜘蛛側のツメの甘さが印象的だ。
そしてこの戦闘でも、敗れた土蜘蛛は全員が虐殺されている。天皇軍の民衆に対する冷酷さもきわめて印象的だ。

1.土蜘蛛とは何か

日本古代の「土蜘蛛」アンソロジー というページが面白い。

『肥前国風土記』「賀周の里」の項に以下の一節があるという。
昔、この里に土蜘蛛あり、名を海松橿(みるかし)姫といひき。天皇、国巡りしましし時、陪従、大屋田子をやりて、誅(つみな)ひ滅ぼさしめたまひき。時に、霞、四方をこめて物の色見えざりき。因りて霞の里といひき。

この「土蜘蛛」は肥前だけのものではなく、記紀や全国各地の風土記に登場する「一般名詞」である。

「つねに穴の中に居り。故、賤しき號(名)を賜ひて土蛛といふ」(摂津国風土記 逸文)

都知久母(つちくも)、夜都賀波岐(やつかはぎ)などの反乱勢力があり、指導者は「國巣」(くず)と呼ばれた。「狼の性、梟の情」だったため、茨を穴に仕掛けた罠で殺した。(常陸国風土記)

5世紀末ころから九州で横穴式住居(墓?)が始まり全国に広がっているということで、それとの関係もあるのだろうか?

2.天皇に逆らえばすべて土蜘蛛

そもそも神武東征に逆らって殺された八十建(やそたける)も「尾ある土雲」と呼ばれ、だまし討された。

ブログ主は「各地の先住勢力」と言っている。もともとどうかは分からない。縄文人だという説もあるが、明らかに弥生系、天孫系と思われる土蜘蛛もある。

が、何れにせよ叛徒である。そしてその殆どが大和朝廷の勢力によって皆殺しにあっている。いったい「狼の性、梟の情」なのはどちらなのか。

3.土蜘蛛は強力な武装集団だった

「徒衆百八十餘りの人を率い、皇命に逆らいて、降服(まつ ろ)ひざりき」(肥前国風土記)

「土知朱(つちくも)らは力を合せて防ぎ、かつ津軽の蝦夷とはかって、多くの猪鹿弓・矢を城壁に連ねて、官兵(みいくさ)を射つ。このため官兵は進めず」(陸奥國風土記 逸文)

ボスは八握脛(やつかはぎ)と呼ばれた。「其の脛の長さは八つかもあり、力多くはなはだ強し。…その属類多し」(越後國風土記 逸文)
4.土蜘蛛はシャーマン系が多い

また九州、とくに肥前では女性のリーダーが多いのも特徴だ。女性=シャーマンと決めつける訳にはいかないだろうが、小卑弥呼の如き存在なのか。

肥前国・佐嘉の郡・・・・大山田女、狭山田女

肥前国・賀周の郷(唐津市見借)・・・・海松橿姫(みるかしひめ)

肥前国・嬢子山(多久市両子山)・・・・八十女(やそめ)

肥前国・彼杵の郡(大村市)・・・・速来津姫

肥前国・浮穴の郷・・・・浮穴沫姫(うきあなわひめ)


釧路まで医師支援に行ってきた。
夜は当然、飲みに出たが、3日目の夜は流石に飲み疲れて宿で本を読んでいた。今はまともな本屋といえば新本でなく古本屋だ。釧路にも立派な古本屋があって、そこに行くのは出張中のマストのコースとなっている。
古本屋の悪いところは売れない本がいつまでも場所ふさぎをしていることで、3年たっても同じ本が並んでいる。したがって少しづつ探索スポットを変えながら本を漁ることになる。今回は、文庫本のコーナーを眺めてきた。
上海モノがたまたま2冊並んでいて、その並び具合が良くて、高くもないから2冊とも買った。ひとつはちくま文庫の「上海コレクション」、もう一つが福武文庫の「上海読本」、いづれもアンソロジーものである。
読んでいるうちに次第に胸が悪くなってきた。
「魔都上海」というのは、当時の日本人にとっては猥雑な街という意味でしかない。軽いのである。
意外だったのは、芥川龍之介までもがその一員に加わっているということだ。まともな文章は武田泰淳のみである。もっともこれは昭和19年、敗戦間近の上海という特殊事情があるからで、日本人もすっかりおとなしくなってバッサリ首を切られるのを覚悟した状況の上海である。

上海はイギリスを頂点とする列強支配時代の上海(1927年まで)、蒋介石時代の上海(第二次支那事変まで)、日帝が支配を確立するまでの時代(およそ1940年まで)の3つの時代からなる。その後も共産党が48年に上海を解放するまでの時代があるが、この時すでに上海は「魔都」ではなくなっている。
これを1期、2期、3期、と呼ぼう。
1期においては、上海は「魔都」と呼ぶよりは中国革命の希望の星であった。2期においても徐々に力は衰えつつあったとはいえ、そこには中国を変革するための地下水が流れ込んでいた。3期に至って変革勢力は根こそぎにされたが、かろうじて残された列強の影響力を背景に、日帝支配に対する地下の反発は残存していた。テロが頻発し、列強がたがいの出方を探る陰謀が渦巻いていた。これが文字通りの「魔都」の時代である。
だが、日本の文士たちはそんな時代にはお構いなしに、ひたすらつかの間の快楽にのめり込んでいた。彼らにとって「魔都」の意味するものは「色魔のパラダイス」である。それは戦前における浅草六区であり、終戦後の新宿であり、要するにいくばくかの「危険」を伴った猥雑なエロ・グロ・ナンセンスの世界であった。それと背中合わせに想像を絶するような貧困があることを薄々と知りつつも、それには目をつぶるか、ちょっとした調味料くらいに見ていた。
だから彼らは上海の時代背景が1期であろうと、2期であろうと、3期だろうと一向に頓着しなかったのである。肝心なのは時代の流れで没落し、苦海に身を落とした絶世の美女が目の前に現れてくれることだけだった。そんな彼らの心情を最もうまくすくい取ったのが金子光晴だ。金子は村松のように軽佻浮薄ではない。地べたに近い目線から状況を見据えている。だからといって金子に同感するものではないが。
唯一内山書店の店主(金子は内山を先生と呼んでいる)だけが時代を真正面から捉えていたと言っていいだろう。

すみません。あとから読んだ鹿地亘の「上海戦役の中より」が出色でした。この人は戦後民主主義文学の中では少しも評価されていないけど、不思議です。いずれ追跡してみたい人です。



ついで肥前国風土記の話。

瀬川さんは肥前国風土記の中に縄文語(≒アイヌ語)があるといい、それがヴォヴィンの研究の最大の功績だとしている。

もう一つついでに上げるなら、記紀にない景行天皇の九州征服譚が詳述されていることも、肥前国風土記の特徴としてあげられれることが多い。

いずれにしても、いくつか残存する風土記の中でもかなり特異な位置を占める風土記といえるだろう。

まずいちど、「風土記」というものを整理しておこう。

ウィキによると、和銅6年5月(713年)の『続日本紀』に各地の由来をまとめるよう指示した文書が掲載されているという。平城京遷都、古事記完成の直後である。日本書紀の完成はその14年後であるから、風土記の編纂は日本書紀の編纂と平行して行われたことになる。

写本として5つが現存し、『出雲国風土記』がほぼ完本、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損して残る。

ほかに後世の書物に逸文として引用された一部が残るが、信頼できないものもふくまれるようだ。

ということで、肥前風土記の記載に入る。

現存「肥前国風土記」の特徴

1.現存の本を簡略版とする見方が有力

2.『日本書紀』などの先行史料の影響を強く受けている

3.景行天皇や神功皇后の伝説と密接な関係にある説話や土蜘蛛・女性賊長にまつわる説話が多く、国名や郡名の由来については簡略に記されているに過ぎない。

ということで、かなりイデオロギー的なバイアスが強いことに注意が必要だ。景行天皇の件については先行する征服譚との習合とも考えられるが、読み方は難しい。

肥前国風土記では景行天皇となっているが、肥後国風土記(逸文)では崇神天皇となっていて、より嘘っぽい。
そこでは、「崇神天皇の頃、益城郡の朝来名峰で土蜘蛛の首魁、打猴・頸猴が180人余りを率いて天皇に背いたので、天皇は健緒組に命じてこれを討たせた。健緒組が八代郡の白髪山に着いたとき、夕暮れ空に火が燃え上がるのを見て、驚いて天皇に報告したところ、天皇は火の国と名付けた」となっている。(仮称リアス式
これだと、天皇は大和から出張ってきたというより、筑紫あたりにましましている感じである。

風土記に頻出する「土蜘蛛」は縄文人との関係で面白い。

おそらく弥生人が水田、縄文人が海と山という形で住み分けしてきたのが、権力による集中支配という形に移行する際に、縄文人が抵抗を試みたのではないかとされる。

しかし、女性(シャーマン?)が族長を務める場合が多いということから、邪馬台国型権力と大和朝廷型政府の衝突の可能性も考えておく必要がある。

以下、脱線して土蜘蛛の勉強に移ろうと思う。

出雲と東北のエミシ

瀬川さんの本でわかりにくい部分がある。

現代日本人のゲノム分析に触れた部分である。

東北北部の人は、本土人からはやや偏った遺伝子的特徴を見せています。ただしそれはアイヌとの関係を示すものではなく、むしろ出雲地方の人々と似ています。
斎藤成也は東北地方と出雲方言の共通性に注目し、この2つは弥生時代の一時期にかけて渡来した人々ではないかとしています。

むかし松本清張の「点と線」だったか「ゼロの焦点」だったかに「出雲ズーズー弁」のことが載っていのを覚えている。

「しかし、そこまで話を持っていくか?」という気もして、瀬川さんも岩波ジュニア新書『日本列島人の歴史』の記載をなんとなく紹介しているだけなので、紛らわしい記載になっている。


斎藤成也さんは57年生まれだから、米田さんより一回り上。同じ東大の生物を卒業され、米田さんのボスという関係にあるようだ。

ゲノム屋さんで一家をなした人らしく、それで啓蒙本にも手を出しているようだ。

「みんなの縄文」という膨大なサイトがあって、そこに斎藤さんのインタビュー記事がある(。テーマは「最新DNA研究と縄文人」というもの。

対談だから少々言い過ぎの傾向もあるが、要約を紹介する。

1.日本列島人の三段階形成モデル

現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるというのが「二重構造説」である。

私は、これを改変した「三段階形成モデル」を提示したい。つまり渡来民を第二段階と三段階に分けたものである。

三段階説

これは私のC系人説ないし第2縄文人説とそっくりだ。経路は朝鮮半島、時期は紀元前3~2千年ころ。

ただし、縄文人を駆逐して日本人の基層をなしたというのは“?”だ。Yハプロで見る限り、そこまでの影響力はない。拡散範囲は九州北部から瀬戸内海沿岸、そして北陸にかけての日本海沿岸というところではないか。

もうひとつ、C系人はもっと早く、場合によっては縄文人より先着していた可能性も否定はできない。これは古代朝鮮の歴史がもう少しはっきりしないと迂闊なことは言えない。

これについては稿を改めたい。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。

という一節があるが、斎藤さんの議論の特徴(大風呂敷)を示唆している。「核心」となる専門分野での発言は注目に値するが、辺縁分野での発言は相当眉に唾して聞かないと危ないということだ。

2.出雲方言に関して

第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されています。

さすがに、

言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

と語尾は濁しているが、“人類学における梅原猛”の素質は十分あると見た。医者によくいるタイプだ。いずれにしても、明確な根拠が示せない都市伝説的な「言語学」の迷宮にはあまり深入りしないほうがいいと思う。

引き続き瀬川さんの本から、抜き読み。 北海道の縄文人の主食は海棲哺乳類(アザラシ、オットセイ)だったそうだ。 米田穣さんという人が2012年に「縄文時代における環境と食生態の関係」という論文の中で発 表しているそうだ。 これは「同位体食性分析」という方法で明らかになったもので、古人骨のコラーゲンの分析を するとわかるらしい。 亡くなる前の10年間、主として食べていたものの成分が反映されるようだ。 ある意味で意外である。
モヨロ貝塚とか大森貝塚というから、わたしはてっきり魚や貝を食べ ていたのかと思っていたが、それはおかずみたいなものということだ。
縄文人はやることがでかい。 米田さんは、「北海道の縄文人が肉食主体であったのは、彼らがマンモスやオオツノシカに依 存していた旧石器時代人の伝統を受け継いでいたからではないか」と推測している。
なにか縄文人に対するイメージが変わった。縄文の暮らしは結構ダイナミックかつ戦闘的なのだ。むかし「 ギャートルズ」という漫画があったのが思い出される。

ネットで調べたところ、米田穣(みのる)さんは1970年生まれ。東大理学部生物学科を卒業し人類学を専攻されている。

「古人骨の同位体分析による食性復元」と「放射性炭素年代の高精度化」が研究分野で、前者については下記のごとく記載されている。

過去の人びとが環境にどのように適応してきたのかを、骨にのこされた化学的指標から復元する研究を行っている。とくに、タンパク質コラーゲンの炭素・窒素安定同位体比から、日本列島に暮らしていた人類集団を中心について研究を行っている。

「新しい分析手法でこれまで知られていなかった過去の人々の生活ぶりを明らかにしていきたい」というのが目標である。
ということで、2001年度の科研業績が以下の通り
噴火湾沿岸から出土した縄文時代人骨のタンパク質を抽出し、その炭素・窒素安定同位体比および放射性炭素の含有率を測定した。
その結果、北海道の先史時代人骨では炭素および窒素の安定同位体比が非常に高いことが示された。これは海産物から多くの割合のタンパク質を摂取しているためと考えられる。
同時に、放射性炭素年代でも陸上の哺乳類と比べて600年程度、見かけ上古い年代値が示された。これは海獣による海洋リザーバー効果が食物を通じて、古人骨に反映していると考えられる。
…内陸の縄文時代遺跡の人骨を分析したところ、個体によっては数十%のタンパク質が海洋リザーバーに由来している可能性が示され、サケなどの遡上性淡水魚の利用が示唆された。
放射性炭素年代の高精度化は土器の編年変化に比べると、はるかに大きな情報が得られる可能性もあり、成果に期待したいところです。
日本人の起源 5 北海道に暮らした人びとの食生活―北海道の続縄文文化と本州の弥生文化―
日本人への旅 食生態にみる縄文文化の多様性―北海道と琉球諸島から考える
縄文中期末の「人口激減」に関する同位体地球化学と形質人類学による総合的研究
などの論文(題名がいかにも“科研費狙い”っぽい)があるようだが、目下のところネットでの閲覧不能。

以前グアテマラの勉強をしたことがあったが、グアテマラでは依然人口の4割を先住民が占めている。人々は棲み分けを行っていて、先住民の地域ではほとんどスペイン語が通じない。

しかし純粋な先住民生活を送る先住民と同じくらい、スペイン風の生活に馴染んだ民衆がいる。彼らはラディーノと呼ばれる。メスティソ(混血)とほぼ同じ範疇となるが、もう少し複雑な感情の入り混じった表現である。

純粋な先住民はラディーノを通じて交易を行い、必要なものを手に入れる。だから、直接先住民を騙すのはラディーノである。しかし影にはラディーノにノルマを課す白人支配層がいる。ゲリラ戦争のときには、白人に雇われたラディーノ兵士が住民大虐殺の下手人となった。

このスペイン人・ラディーノ・先住民という構図が東北・北海道の縄文人社会にも当てはまるのであろう。

こういう視点でながめると、アテルイで有名な奥羽のエミシの反逆は、スペイン人vsラディーノという構図で見るべきであろう。

ふつうラディーノは支配者とは戦わない。飼い犬が手を噛むようなもので、飼い犬が飼い犬でなくなってしまう。

世上、奥羽戦争は大和朝廷による東北侵略と見られている。だがそうだろうか?

エミシといっても。自分の墓を前方後円墳で立てるような人々だ。既得権のいくばくかを奪われたからといって、自分の存立基盤を崩すような戦いをするだろうか。

ひょっとして、奥羽戦争はエミシの首長の方から仕掛けた戦争ではないか?

バイリンガルであることを活かして北方交易を一手に独占していた彼らには、長年の間に相当の財力が備わってきていたはずである。

であればその財力に見合った相応の地位も欲しくなろうというものであろう。とくに「日本人として平等に扱え、二級国民として見下ろすな」という要求は絶対出てくるはずだ。

奥羽戦争が敗北に終わると、こんどはもっとおとなしく自治要求みたいな形の運動に変わってくる。それが奥州安倍氏のような形に結実していくという流れで捉えると、話がずっと見えやすくなってくる。

あるいは平将門の反乱や、関東源氏の勢力拡大も同じ流れで説明できるのかもしれない。

これはラテンアメリカの歴史ではクリオージョの反乱として知られている。スペイン人が支配者であることは変わりないのだが、その中でも現地で代を重ねたスペイン人はイベリア半島から交代でやってくる代官の支配に飽き飽きしていた。

そして本国で政変が起きたのをきっかけに、一斉に反乱に立ち上がっていく。この「独立運動」は成功を収め、新大陸の殆どが共和国として独立していくのである。

鎌倉幕府で頼朝を支えた御家人の坂東武者が、あるいはこのクリオージョ、あるいはラディーノに相当するのかもしれない。

年表作成にあたり 釧路散策 - 石炭列車のある風景 

というページから貴重な図表を拝借させていただきました。ほかに釧路市のホームページ方も転載させていただいております。ぜひそちらもご覧いただくようお願い致します。


1856年に北海道で初めて、益浦岩見ヶ浜のオソツナイ海岸に露出している石炭が掘られる。当初は釧路炭田と呼ばれる。石炭に海水が混じるためまもなく採掘中止。

1871年(明治4) 工部省は、オソツナイの石炭坑を官営事業として再開。翌年廃止。

coal
釧路は石炭の上に乗った街。掘ればどこでも石炭が出てくる。日本における石炭採掘技術の現状より

1857 白糠町の石炭岬で採掘が始まる。外国船の燃料にするためといわれる。

1888年(明治21年) 春採湖南岸の春鳥炭山(大成坑)が開設。川湯の硫黄の精錬や輸送に用いられた。石炭は坑口から駄馬によって丘を越えて久寿里橋付近の船着場まで運び、川舟に積み替えて標茶へと運搬されました。

春採炭鉱

1890年(明治23) 春採炭鉱に大安坑が開かれる。明治43年に小成坑が開かれる。

1891年 『北海道鉱床調査報告』が発表される。釧路炭田の臨海部に位置する別保炭山に注目が集まる。

1893年(明治26) 春採湖の西岸の沼尻から米町(米町本通)を経て貯炭場に至る「米町公道貫通軌道」(約2Km)を敷設。“安田の馬鉄”と呼ばれる。

馬鉄
          
釧路散策 - 石炭列車のある風景より

1894年 函館~釧路~霧多布間に定期航路が開設。

1896年(明治29) 川湯の硫黄の輸出事業が停止。春採の炭鉱事業も停滞。

1897年(明治30) 日本郵船と春採炭鉱との間に納炭契約が結ばれる。

1901年 春鳥炭山が安田炭礦と改称し発足。

1906年 昆布森炭鉱が開業。(昭和41年に再開?)

1906年(明治39) 別保川沿いに別保炭山が開発される。シュムスカルベツ川沿い(別保一鉱)で山形炭鉱(後に釧勝興業)が操業開始。

1907年 クッタクンペ川沿いの二鉱は大阪炭礦が開発。こちらは当初より不振が続いたという。

別保炭山

1914年(大正3年) 春採の安田炭礦が販売不振から休山に至る。

1916年 三井鉱山、釧路~厚岸間の官設鉄道が開通することを受け、別保の大阪炭礦を買収。三井鉱山釧路炭鉱と改称。

1917年(大正6) 大阪の資産家、木村久太郎が安田炭鉱を買収。木村組釧路炭礦が操業を開始。折からの第一次世界大戦景気の中、一気に業績を回復。蒸気で動かす巻揚げ機を取り入れるなどで生産性を上げる。

1919年 木村組釧路炭礦、輸送ルートを変更。春採湖南岸を開削して馬車軌道を敷設。「米町公道貫通軌道」を撤廃し、米町裏の海岸沿いに複線の馬車軌道を敷設。知人の貯炭場に搬入する。ここから船着き場に行かず、はしけで直接船に積み込む。

木村組

1920(大正9) 別保の三井鉱山が春採の木村組炭鉱を引き継ぎ、太平洋炭礦株式会社(三井系)が創業。

1923年 春採第一斜坑開坑。翌年には別保坑でも斜坑開坑。

1923年 太平洋炭礦(初代)が桂恋炭砿を買収。

1923年 入舟町-東釧路間をつなぐ釧路臨港鉄道株式会社が設立される。25年より営業開始。

1925年 太平洋炭礦別保坑、地表近くの採炭を終え斜坑を開く。

臨港鉄道

1938年(昭和13) 太平洋炭鉱が新尾幌炭鉱で増産体制に入る。八千代炭礦、旭炭礦を買収。6年ほどで資源枯渇し閉山となる。

1939年 武佐斜坑が開かれる。低品質で産炭量が少なく4年後に廃止。

1940年 太平洋炭鉱の出炭量が年間100万トンを超える。

1944年 政府の方針で別保坑は休坑となり、鉱員は朝鮮人労働者と共に九州の三井炭鉱へ強制配転される。

1947年 太平洋炭鉱、カッター、ローダー、シャトルカーを配備した興津坑を開設。社運をかけ海底炭の開発に着手。

1849年(昭和24) 別保坑が枯渇し廃止される。設備・スタッフは興津へ移動。

1954年 坑内ガス爆発が発生し、39人が死亡。

1955年(昭和30) この頃から、掘削の主体は海底に移る。南北に走る斜坑「春採坑本卸」の東西に坑道が広がる。

1959年 別保坑周囲の小炭鉱も閉山。双河辺一帯は新興住宅地となる。

1960年 太平洋炭鉱の出炭量、20年ぶりに年間100万トンを達成。

1962年 太平洋炭鉱がビルド炭鉱に指定される。

1963年 臨港鉄道が旅客、手荷物、小荷物の運輸営業を廃止。

1965年 春採~知人間の石炭専用列車に「石炭排出扉自動開閉装置取付セキ号車」編成による「シャットル・トレイン方式」を採用。

1965年 益浦斜坑の開発が始まる。益浦海岸は最初に石炭露頭が発見されたところ。

1965年 栄和炭鉱の深山新坑(昆布森)が操業開始。7年後に閉鎖。

1968年 東益浦部内で機械化のシンボルとも言うべき「SD採炭」が始まる。年間の石炭産出量(出炭量)が200万トンを越える
1966-1970

1060年 太平洋スカイランド本館が開業。

1970年代 第5本坑道に沿って東から西へ採炭現場が転ずる。「第8本坑道」の開削に着手、採炭機械にダブル・シールド・ドラムカッターが導入される。産出量は250万トンに達し黄金期を迎える。

1977年 太平洋炭鉱が最大規模となる。

従業員約5,000人を数え、年間261万トンの石炭を出荷した。鉱域は東西約12キロメートル、南北約10キロメートルの広さで、採炭現場は、海面下-585m、海岸線から沖合6km。坑道の総延長は約240キロメートルにもなりました。

1985年 太平洋炭鉱が国内唯一の稼働炭鉱となる。

1991年 「第8本坑道」が開通。東益浦部内と南益浦部内での採炭は終了。中央西部内と知人部内に採炭の中心が移る。

1996年 社員を500人解雇。東京本社を閉鎖する。

2001年1月 知人部内の旧切羽で自然発火。これを機に炭鉱は閉山の方向に動く。この時点で採掘現場は海面下-684m、海岸線から沖合8kmまで達する。

2001年12月 国内最後の太平洋炭鉱が閉山。第6本坑道(海面下580m)と第8本坑道(海面下675m)は密封され、比較的浅い第5本坑道が残される。

2002年1月 地元企業出資の新会社「釧路コールマイン株式会社」が発足。太平洋炭鉱を引き継ぐ。国の事業を受託し、中国、ベトナム等の海外産炭国を対象として、技術者の受け入れや、技術者を現地に派遣する炭鉱技術の研修事業を実施

2015年 釧路コールマイン株式会社の石炭を活用した釧路火力発電所が設立される。2019年の運転開始を目指す。

2017年04月08日 縄文語、弥生語、現日本語、現アイヌ語の関係

の記事で下記のごとく書いた。

弥生人はそもそも縄文人と長江人の混血である。それは紀元前800年ころ、北九州から始まり徐々に全国に拡散していく。その過程の中で弥生語も形成されていく。

しかし、これは単純すぎる。たしかに稲作技術を持って日本に流入したのは長江人(O2人)であるが、彼らが渡来したとき長江語をしゃべっていたかというと、かなり疑問がある。

同じ長江人の後裔である苗族(モン族)と言語的特徴が全く異なることがその理由である。

また彼らは、直接には朝鮮半島からの移住者として渡来したのであり、当時の朝鮮半島南部で流通していた言語を母語としていた可能性が否定出来ないことである。

第二には、その際に朝鮮南部で流通していたのが古朝鮮語系なのか、扶余語系なのかという問題である。

第三に、対馬海峡の両側に住み長江人の渡来を受け入れた第二縄文人(Y染色体分類上のC系人)が弥生語の形成に関与した可能性はないのかという問題である。

これらは、私にとっては謎に包まれたままである。

これらを検討するには古朝鮮語、扶余語、さらには例の「ツングース語」との関連を分析することが必須となっている。

どっちに転んでも日本語が「孤立語」であるのは間違いなさそうだが、縄文語の孤立性に比べれば、まだ何らかの関連は探し出すことが可能ではないだろうか。

以下は、ヴォーヴィンという研究者による論文の抜書である。

萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布_AlexanderVovin

はじめに

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑である。

ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点ににある。

今回は主にアイヌ語から日本語への借用語を検討する。さらに上代日本列島におけるアイヌ語の分布について考える。

伝統的な意見は、「上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どない」というものである。

 しかし、以下で示すように、アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたということは、もう定説になったと言ってもいいであろう。

地名はいうまでもなく、東北の方言には「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある。


①武蔵

ムサシは万葉集の東国歌では「牟射志」として登場する。発音は“munzasi”である。これはアイヌ語で mún「草」、sa「野原」 、-hi 三人称所有接尾辞(日本語では -hi は -si になる)である。

②足柄

東国歌では「阿之賀利」/asiŋgari または「安思我良」/asiŋgara として登場する。áskar-i は「清い所」である。

③能登

「能登」(上代日本語 nötö)は日本語では解釈でき ないが、アイヌ語の not「岬」である。上代日本語には閉音節がなかったので反響母音ö が付いたと思われる。

こう考えていくと、我が故郷静岡は縄文地名だらけだ。ゆい(由比)、そでし(袖師)、えじり(江尻)、くさなぎ(草薙)、するが(駿河)、てごし(手越)、わらしな(藁科)、もちむね(用宗)、とうめ(当目)、やいづ(焼津)、しだ(志太)などいかにも当て字の意味不明地名がオンパレードだ。
そのど真ん中に「日本坂」があるのが、いかにもだ。

このあとさらに地名考が続くが、“とんでも韓国人”も真っ青の牽強付会も混じってくるので飛ばすことにする。

Windows10 を64ビットにして見えてきたことがある。
最大のものは、恥ずかしながら、増設メモリーが外れていたことだ。
32ビットではメモリーを増設しても4ギガまでしか使えないと言われていたので、4ギガと表示されてもそういうことなのだろうと納得していた。
しかし実はとうの昔にメモリーを4+4=8ギガまで増設していたのである。昨日は64ビットにバージョンアップしたところで疲れ果てて、そのまま寝てしまったのだが、今日パソコンを調べると相変わらずメモリーは4ギガのままだ。Firefoxがフリーズするのも以前のままだ。
「これは変だな」と思いつつも、「それじゃメモリを買ってこなくちゃ」という方に話が行ってしまい、まさかメモリが刺さっていなかったとは思いもよらなかった。
ところが裏ぶたを開けてみてびっくり。なんと2枚買ったメモリのうちの1枚が容器の中で遊んでいたのである。
「これはだめだ」と笑ってしまった。
ということで抑え金具が折れてしまうのではと思うくらいメモリを思いっきり差し込んだ。
そこで再起動してコントロールパネルと見るとなんとしっかりとメモリ8ギガと表示されている。これで一つは片付いた。
ところが8ギガにメモリを上げたにもかかわらず、Firefoxは相変わらずハングアップする.そこで今度はFirefoxの6ビット版をダウンロードして立ち上げた。ありがたいことに32ビット版の属性はすべてそのまま引き継がれた。
これがどうなるかは明日のお楽しみとしよう。

Why isn't there a 64 bit version of Foobar2000 ?
という掲示板があって、46通も意見が寄せられているのだが、会社からのリプライは無し。ただしこれは2008年のスレッドで、その頃のパソコンのレベルとはだいぶ話が違うので、参考にはならない。
英語の壁とテクノ・タームの壁でよく分からないが、圧縮ファイルの再生のときはデコーダーというのを使うが、これは32ビットで十分だそうだ。「64ビットのWindows10にもちゃんと対応できているからそれでいいじゃん」ということらしい。ただしEncoding には64ビットがそれなりに力を発揮するようで、とくにWAVをFLACに変えるときはあると重宝するらしい。それで、64bit wavpack in foobar2000 for encodingというのがあるらしいのだが、これがトラブル続きらしい。まぁ素人が手を出す世界ではなさそうだ。

2017年03月30日に「瀬川拓郎さんの縄文・アイヌ論について」という記事を書いた。あれは1回目のつもりで2,3と続くつもりだったが、多忙に紛れてそのままになっている。

これから読後感を少しづつ書き込んでいくことにする。

1.縄文語、弥生語、現日本語、現アイヌ語の関係

言語学というより、民族の構成の変遷から見て、言語はこう変わって行っただろうという予測が立てられる。

まず1万数千年前に北方から旧石器時代人が進入した。これが縄文人となり、北海道から沖縄まで広く分布する。

縄文人の単一構成であるから、言葉も方言という範囲での多様性はあっても、基本的には縄文語が日本全国の共通語であっただろう。

しかし縄文時代に日本に進入したのは北方からの縄文人ばかりではなかった。紀元前3千年ころに、朝鮮半島から進入した人々(第2縄文人)もいた可能性がある。

彼らはY染色体ハプロはC系の人々であり、ハプロD系である先住縄文人とは異なり、オホーツク人に近い。ただし彼らの人数は少なく(約1割)、言語的には縄文語に吸収されたと思われる。

紀元前800年ころから長江人の流入が始まる。彼らの最初の定着地は北九州を中心とする同心円状の地域であり、水田耕作の拡大に伴い、急速に人口を増し、言語学的影響も強めたと思われる。

そのハイブリッドが弥生語であり、これが現代日本語の原型となっていったのであろう。ただし今の私にとって、長江人がどのような言葉を喋っていたのかは不明である。また第2縄文人(ツングース語系)の影響についても不明である。

続いて、紀元前100年ころから、扶余系(天孫族)が進入を開始する。Yハプロで言えばO-2系人である。彼らは支配者として君臨したが数としては多くなかった。

おそらくは弥生語に多少の変化を加えて現代日本語を完成させたのであろう(現代と言っても万葉語であるが)。

いずれにしてもその後は民族構成の変化をもたらすほどの激変はなかったはずであるから、多少の音韻変化はあるにせよ、日本語としての言語構造は変わっていないはずである。


と、まぁ、ここまでは復習半分である。

縄文語から日本語への転換が東北北海道でどう展開されていったのか、どうしてアイヌ語がアイヌ語として残ったのかというのが、今回の主題だ。

これも、いきなり言語学的に行くよりは人種的に見ていくほうが良いだろう。

弥生人はそもそも縄文人と長江人の混血である。それは紀元前800年ころ、北九州から始まり徐々に全国に拡散していく。その過程の中で弥生語も形成されていく。

形成された弥生語の拡散は縄文人との混血化のスピードより早い。生産技術がより高いから縄文人もそれを学ぶ。

したがって一定の時間が経つと、3つのゾーンが形成されることになる。まずは弥生語を話す弥生人の世界である。ついでその外側に弥生語を話す、すなわち弥生化された縄文人の世界が形成される。そしてさらにその外縁に縄文文化を守る縄文人の世界が広がる。

さらに外側には、北方(オホーツク)文化との接触を持つ縄文人の世界も形成されていくのだが、それはいずれ語ることになるだろう。

瀬川さんはこの中間帯を混住地帯という。混住はしているが別言語の別文化だ。しかしこれはいずれ強いものに同化されていく。関東甲信越以北は基本的にはこのやり方で弥生化され、和人化されていく。

その際、言語の転化は最終的・決定的な役割を果たすだろう。

それでは民族の同化はどのような過程をたどるのであろうか。

多分、それについては専門的な研究があるであろうが、とりあえず自分なりに考えておきたい。

用具は最も早くから変わっていくだろう。

東北・北海道の弥生式土器はかなり遅れた。北海道では続縄文式と呼ばれる時代が長く続いた。それが弥生式を一気に飛び越して須恵器・土師器の時代に入る。これが擦文式に相当する。これと同時に多量の鉄器が流入し始める。この遅れと、その後のジャンプアップについてはいろいろ理由があろうが、それはとりあえずおいておく。

次に生活物資の生産様式が変わっていくだろう。

ここで東北と北海道には明らかな違いが生じる。東北は農耕社会に移行し、北海道は基本的には狩猟・採集社会に残されたのである。

生産システムの違いは社会システムの違いを生み出す。東北は階級社会に移行し、北海道は基本的には氏族社会にとどまったのである。

社会システムの変更が社会の隅々にまで行き渡れば、すでに同化したのも同じであるが、残された政治・経済体同士の対立は残る。その総決算として東北におけるエミシの抵抗戦争が起こったのであろう。

かくして東北の縄文人は完全な和人化を遂げ、北海道のアイヌは半和人化の状態に留まったのである。おそらく東北の縄文人はそのご弥生人との混血を遂げ、外見的にも和人そのものになっていく(そもそも和人そのものが長江人と縄文人のハイブリッドである)が、北海道の縄文人は遺伝子的には縄文人そのままに生きながらえることになったのであろう。またアイヌ語は縄文語の古形を色濃く残していることになるだろう。


以上の仮定からすれば、日本語の中にも縄文語の遺残が濃く残されているだろうし、特に古くからの名前が残りやすい地名などでは、縄文以来のものが残されている可能性は十分あるだろう。

それらをアイヌ語を手がかりにチェックしていく作業はなかなか面白いものになりそうだが、いずれなんかの機会に検討してみたい。

「私はダニエル・ブレイク」を観てきた、という事実だけを書いておく。
ちょっと設定がウソっぽいのと、展開の必然性が書き込めていないような気がするのだ。
最後のシーンも、いかにもありきたりだ。
私はイギリス映画がちょっと苦手で、イギリス人のユーモア精神の塩っ辛さがどこか合わない。ふと20年位前に見たハービー・カイテルのブルックリンのタバコ屋の映画を思い出した。アングロ・サクソンの感性がピンとこないところが似ている。
ヘイリ・スキアーズという女優がキリッとして魅力的だ。見せ所もいくつかあって、なかなかうまい。娘役の子もいい感じだ。ドレッドヘアーだが、目鼻立ちは東洋風にも見える。
一番の主役は窓口の役人たちかもしれない。それにしては、描き方があまりにも類型的だ。個性をもう少し書き分けると、その上にいるものたちの影がもう少し見えてくるのだろうが。

ブルックリンのタバコ屋の映画というのが気になったが、「スモーク」という映画があって、そのあらすじを読んでもどうも心当たりがない。たしかちらっとマドンナが出てくるので、それを手がかりに探してみると、「スモーク」の続編みたいな映画で、「ブルー・イン・ザ・フェイス」というのがあったようだ。多分2本立てで、何かのついでに見たのだろうか、そちらについてはまるで覚えがない。

本日はパソコンいじりの第二弾。Epson のプリンターを買ってきた。
いつも思うのだが、プリンターというのはどうしてこんなに安いのだろう。複写ができて画像ファイルとして保存できるだけでも、もう一つ機械を買ったような気がするのに、ハードコピーまで出来てしまって7,8千円で揃ってしまうというのは実に不思議なものだ。
ただしインク代はべらぼうに高い。結局インク代で元をとっているのだろうなと想像してしまう。しかも使い終わったら捨てるしかないというのが、いかにももったいない。
PX-049Aというのにしたのだが、20台買ってもパソコン1台分だから、気に入らなければ買い換えればいいやという感じ。
そのわりには色々とアヤがついていて、WiFiを使えとしつこく迫ってくる。コード1本つなげればいいだけの話で、A4を2,3枚印刷するだけの話だから、手を伸ばせばプリントが見られるのが一番だ。そんなところに無線など必要ない。たしかに電線が増えて見た目は煩わしいが、所詮はプリンターの存在そのものが煩わしいのだ。
画像処理ソフトとか、いろんな付録がついてくるが、それこそ煩わしい。しかしエプソンについてくるOCRソフトは意外といいのだ。前からそう思っている。
話を戻す。
私がプリンターを買った主要な目的は印刷機能ではない。スキャナーが欲しかったのだ。このブログでは以前から赤旗の切り抜きを直接画像にして記事内に挿入している。
これは勤め先でプリンターがあったから出来たことで、これから自宅で記事づくりをやるとなると、どうしてもこれが必要になる。
さらに記事を写真として取り込んだあと、輝度の調整コントラストや色度の調整をしないと読みにくくなる。だから画像処理ソフトはどうしても必要なのだ。ただし機能はきわめてシンプルのものであることが求められる。
むかしから使っていたのがirfanviewだ。それ以外のソフトは面倒で手が出ない。当面は(多分死ぬまで)これでやっていく。(IrfanViewを使いこなそうは素敵なページだ)
mildseven
これが新プリンターによる第1号写真。

退職して6日、早くも怠惰モードというか引きこもりモードに突入している。
最大の理由は、退職の記念品としていただいたパソコンの稼働に四苦八苦しているからである。
このパソコンはThinkPad Edge という。私が就職するときに貸与されたものである。キーボードの脇にシールが貼ってあって、「H22.7.12」納品と書いてある。思えば7年近く酷使してきた「愛器」である。
昔なら5年も使えば“Out of Date”なのだが、昨今は世の中停滞しているから平気で現役だ。
これにLANケーブルを接続してネット環境としていたが、家に持って帰るとさすがに今どき有線LANではない。WiFi環境に適合してもらわなければならない。
ところがこれがからっきしだめで、Deviceを見るとつながるはずなのにまったくうんともすんとも言わない。Lenovoのサイトからダウンロードしたりいろいろ試してみたが、にっちもさっちもいかなくなった。パソコンに強いお兄さんの所に行って頭を下げたが結局駄目だった。
火曜日に決意して電気屋さんに行って修理を頼んだ。おそらく2,3万はかかるものと覚悟していた。ところが電気屋の兄さん、ちょっといじってみて「これはだめだ」とのご託宣。すると「お客さん、修理に出すなら外付けでしのいだほうがいいですよ」ということになった。
売り場からみそ汁の豆腐を半分にしたくらいのツールを持ってきてUSBにつないだ。「バッティングしなければ良いが」と言いつつ再起動すると、みごとにWiFiの候補が並ぶ。
「無線LANの子機」というのだそうだ。定価わずか2500円。「あまり早くはないんですけどね」というのだが、これまでの有線LANよりはるかに速い。今までがいかに劣悪なLAN環境であったかが実感される。
「これで良さそうですね。あとは家に帰ってつなげてみてください。だめならまた考えましょう」と家に帰って、パスワードを入れるとみごとにつながった。2日間かけた難題はこうやってあっけなく解決した。

本番はそのあとだった。
次が32ビットから64ビットへのバージョン・アップ。このために本日朝8時から夜の11時まで15時間を費やした。Output48さんのページを参考にして作業を開始したが、難関が何箇所かある。
①まずWindows10の32ビット版にアップグレードして、それから64ビット版へとアップグレードしなくてはならない。
後になって64bit版でアップグレードできた事を知り、パソコンを確認したら64bit OSに対応していたので、早速、Windows 10 32bitをWindows 10 64bitに変更してみた。
結果オーライだが、Windows7を10にアップグレードしてからでなければ、32を64にはできないということだ。ただというのは、「ただほど高いものはない」というほどではないが、決してただではないのだ。
②起動ディスクを作るのに3時間かかった。SDカードでもよいと思うのだが、USBメモリースティックでなければだめだというのだ。少なくとも4ギガ以上の容量がないとだめだということで、それから電気屋さんに走って、買ってきた。
「他のPC用にインストール メディアを作る」を選択する。
というのが、実は曲者で、アップグレードしようとしているパソコンで作った起動ファイルはうまく動かないのだ。もう一台のパソコンで作るというのが、肝である。これが分かるのに2時間を要した。
③どうやら起動ディスクができたが、今度は起動ディスクを立ち上げるためのBIOSの変更に戸惑った。各種のレポートはそれこそ千差万別であり、機種が変われば品変わる、ということだ。一言でいえば「参考にはならないが気にはなる」という具合である。
私のパソコンのBIOSは買った時のままであり、いろんな説明を見てもBIOSの操作法が全く違う。「今浦島」の心境になった。
しかしBIOSの更新は下手をすれば機械が壊れるというリスクをしょっている。どうしようかと悩んだとき、たまたまどこかの大学のホームページで古いBIOSでブートする方法が載っていて、それで起動ディスクによる起動ができた。
ただし今になって考えると、それはBIOSの問題というよりは、起動ディスクの作り方が間違っていたせいのようだ。
④もう日は沈み、あたりは暗くなっている。起動ディスクによる立ち上げは順調に進み、あと一歩でWindows10-64ビット版がインストールというところまで行った。
だが、ここでどんでん返しが待っていた。Output48さんのページでいうと、OSインストールの手順の8から9の間のところだ。
「ディレクトリーが作れません」ときたものだ。コラムは三択になっていて、ドライバー0のパーテーション1,2,3のどれかを選ぶ仕掛けになっているのだが、どれを選んでも結果は同じ。
ほとんどあきらめかけたところに、どこかのページで「パーテーションは全部つぶしてのっぺらぼうのディスクに書き込まなければならない」と書いてあったのをみつけた。
これは相当怖い話で、三つに分かれていたプログラムを全部フォーマットしなければならない。もし失敗すれば、このパソコンは全く空っぽの箱になってしまう。「まあその時は製品版のWindows10を買うまでだ」と心に決めて全部消した。そして起動ディスクを「えいっ」と走らせた。
なんと動いたのである。
⑤Windows10 64ビット版のインストールが始まった。「あとは治まるところにおさまるだろう」と嫁さんの夕食介助に取り掛かり、ついでに自分の飯(といっても肉まん1個)も済ませて再びパソコンの前に座ると、何たることか、立ち上げプログラムがハングアップしているのである。
それもつまんない話で、マイクロソフトのサインアップ画面がフリーズしているのだ。「キー番号を入れろ」というのだが、そもそもそんな話聞いたことないし、前にも後へも進めない。
とにかく強制終了して再起動してもその画面に戻るので、さすがにこれには参った。もうこのパソコンを捨てるしかない、とあきらめてシャットダウンした。これが夜の10時。
これまで使ってきたパソコンを持ち出してまたセッティングして仕事を始めた。そして30分ほどしてから、未練がましくもう一度スイッチを入れてみた。
なぜか動くのである。そして何回か「次へ」とかなんとか押してるうちに、突然Windowsが立ち上がってしまったのである。
「まさか」と思いつつ、コントロールパネルからWindowsのバージョンを調べてみた。なんとすごいことに、まさにWindows10の64ビット版が立ち上がっているのだ。
いまだにどうしてこのようなことになったのか、自分でもわからない。きっと神様が私のことを不憫に思ったのだろう。
さすがに早い。メモリー増設の効果が初めて体験できた。
Output48さんのページに書かれていない四つの教訓
1.起動ディスクはほかのパソコンで作成すること。
2.BIOSは怖くはない。
3.パーテーションはすべてチャラにすること。
4.マイクロソフトのサインアップは1回電源を落として機械を冷やすと回避できる。
こうやって教訓を垂れることができるのも、成功したおかげだ。もし敗北のまま終わっていたら2,3日は立ち直れなかったろう。
ただ、これだけの苦労する意味が本当にあったのだろうか、とも思う。

「銀座カンカン娘」は昭和24年に上映された同名の映画の主題歌だ。歌がヒットしてそれをネタに映画が作られるというのはよくある話だが、こちらは正統な主題歌だ。

監督は山本嘉次郎、話の泉だったかトンチ教室だったかの常連だった記憶はある。

「カンカン娘」につてはよく知られた逸話がある。これは山本嘉次郎の造語であり、当時の売春婦の蔑称「パンパン」に対して「カンカンに怒っている」という意味だそうだ。

つまり体を売る女性を非難しているのではなく、そうしないと生きられない戦後の世情に対して腹を立てている気持ちを表現したものだそうである。

最初はパンパンというのは米兵相手の売春婦である。それが売春婦一般にまで広がっていくのだが、24年という年がどういう年であったのかはよく分からない。

チリチリのパーマに真っ赤な口紅、派手なカーディガンを羽織って、素足にサンダルというのがお定まりであった。

それが昼日中に銀座の街を闊歩するというのだから、たしかに異形である。皆が眉をひそめるときに銀座生まれの銀座育ちという山本嘉次郎が、「いいんじゃない」と声を上げる、それが銀座のカンカン娘である。

そこには「あんた、そんなこと言えた義理かい」という鋭い切り返しがある。

私は前稿で挙げた賀川豊彦のセリフが頭に浮かぶ。それは「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」と言い放つ賀川への痛烈なしっぺ返しであろう。

この歌の三番には密かにその刃が忍び込まれている。

指をさされて カンカン娘
  ちょいと啖呵も 切りたくなるわ
家がなくても お金がなくても
  男なんかに だまされまいぞよ
これが銀座の カンカン娘

家がなく、お金がなく、人に指を差されて、ナニクソと虚勢を張って、それでも「あの子可愛や」と言われたくて、というのがカンカン娘(数年前まで大和撫子だった)の心の中である。

家がなくお金もないのは私のせいではない。人を戦争に巻き込んで無一文にして置きながら、頬っかぶりしているあんたたち世間のせいだよ。

「男なんかに、だまされまいぞよ」と言うのは「もう二度と」という意味で、騙されたからこうなってしまったのであって、騙したのは他ならぬ日本政府である。

もっと直截に、そこを非難したのが、「ブラウスの腕をまくり 卑屈な町をのし歩いた」茨木のり子の、わたしが一番きれいだったときだったのだろう。

それにしても、家もお金もなくて「雨に降られて カンカン娘 傘もささずに 靴までぬいで」この娘はどうしたのだろう。

2015年04月06日  もご参照ください。


多分、リンクを辿ってくれる人はそう多くはないだろうから、茨木の歌を再掲しておく。

わたしが一番きれいだったとき

…わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

ついでに

jibunnnokanjusei

戦後の日本人慰安婦(パンパン)

引き揚げ、浮浪児と扱ってくれば売春婦の問題もどうしても扱わなければならない。

比べてはいけないのだが、それは韓国の従軍慰安婦の数よりはるかに大規模で深刻な社会問題だった。にも関わらず、そこには同情よりも反感を含んだ沈黙が支配していて、今や闇の底に沈んでいこうとしている。

客観的な事実をしっかり踏まえた上で、安易な感情に流されず、かつ目を背けないようにしなければならない。

まずは例によって年表形式で(差別用語とされているものも使うことになる)

1945年

8月18日 内務省が「外国駐屯軍慰安設備に関する整備要項」を各県に行政通達。

9月 特殊慰安施設協会が朝日・毎日新聞・東京新聞に連日の募集広告。「国家的事業ニ挺身セントスル大和撫子ノ奮起ヲ確ム」との内容。

公的指定を受けたRAA(Recreation and Amusement Association)では5万3000人の女性が働いていたとされる。(非公式の推計)

1946年(昭和21年)

1月 東京でMPが「狩り込み」(売春女性の検挙)をはじめる。

3月 連合国軍東京憲兵司令官が「オフリミッツ令」を発する。RAAが廃止される。

その後も1947年に283人、1948年に265人、1949年に312人の占領軍兵士による日本人女性の被害届けがだされている。

11月 板橋事件が発生。MPと日本の警察が通行中の女性を無差別に逮捕して膣検査を行う。

1947年 田村泰次郎の小説『肉体の門』が発表される。

8月 賀川豊彦、『婦人公論』に寄稿。「闇の女に堕ちる女性は、多くの欠陥を持っている」とし、パンパンは「一種の変成社会における精神分裂病患者である」と書く。

1948年 溝口健二監督の映画『夜の女たち』が上映される。

1950年 朝鮮戦争が始まる。日本人慰安婦も朝鮮半島へ連れて行かれたとされる。在日米軍将兵を相手とする街娼は15万人に及ぶ。


ここまで書いただけでも、問題は相当複雑だということがわかる。

1.きっかけは内務省筋で、婦女が危険な目に合わないように、占領軍に前もって女をあてがえという考えだ。

2.しかしその手の女性では到底足りないだろうと、素人女性を騙してその務めに当たらせようとした。ここにすでに階級的視点が露骨に示されている。守るべきは「良家の子女」であり、普通の市民はそのための「醜の御楯」でしかない。

3.占領軍はそれを黙認するどころか督励さえした。そして黒人用、一般兵士用、高級将校用(すなわち自分オンリー用)に分けるようもとめた。内務省は得々としてそれに従った。最近の流行り言葉で言えば“忖度”したのである。

4.にも拘らず、米軍兵士の性欲はそれで押しとどめられるものではなかった。各地で目を覆うような性犯罪が続発した。そして民衆は目を覆ったのである。事件の殆どは闇に葬られた。

5.MPはこれらの暴行に対して見て見ぬふりをした。そして兵士が性病にならないようにのみ意を尽くした。板橋事件は日本人女性をすべからく潜在的性病患者と見ていたからこそ発生した。イスラム教徒ならテロリストだと見る昨今の風潮に通じる。瑞穂の国に性病を持ち込んだテロリストはお前だ!

6.国の施策として、米兵士相手のセックス・ビジネスを展開しながら、日本政府は「醜の御楯」となった大和撫子に対してはきわめて冷淡であった。彼女たちは捨て駒として扱われた。

7.日米両者の密かな育成政策の結果、「需給関係」は徐々に平衡に達するようになった。朝鮮戦争の最中、米兵士相手の女性は10万を超えるほどになった。

8.開き直った彼女たちは、社会のアウトサイダーとして一種の「パンパン文化」を形成した。彼女たちの財力とノンシャランさ、アメリカ文化の威光とは庶民にとってタブーの破壊であり、ある種眩しいものであった。戦後日本の庶民文化を語る上で、彼女たちの存在は避けて通れないだろう。


とここまではいいのだが、肝心の記事が見つからない。肝心というのは、ニヴフ以外にも物の本には色々な北方民族の呼び名が出てきて、それらがとりとめもなく垂れ流され散ることである。

一度これらの呼び名を整理したいと思うのだが、まとめて論じたものが見つからない。

仕方がないので、思いつくままに呼び名を羅列して、その名前でグーグル検索していくことから始めたい。

ウィルタ、ギリヤーク、オロッコ、ニヴフ、オロチョン


1.ウィルタ

Uilta_People

ウィキによれば、下記の通り

ウィルタ(Uilta): 樺太の中部以北に住むツングース系の少数民族でウィルタ語を話す。

「ウラァ(トナカイ)と一緒に生活する人」を意味する自称。

アイヌはウィルタを指してオロッコ(Orokko)と呼ぶ。ただしオホーツク人をまとめてオロッコと呼んでいた可能性もある。ウィルタ協会はこの呼称は蔑称だと非難している。

2002年(平成14年)のロシア国勢調査によると、346人がオホーツク海沿岸の樺太北部および南部のポロナイスク(旧敷香町)近郊に居住している。

もうひとつの日本文化(アイヌ文化)徒然ブログというブログによると

南樺太に居住して日本国籍をもっていた者は、敗戦後に北海道(主に網走市)へ移住した。ソ連が日本に協力した民族として追放したためである。1978年の時点では網走市に6世帯13人いた。

1975年に「オロッコの人権と文化を守る会」が設立、翌年12月にウィルタ協会が設立された(高教組が一生懸命応援していた。会の中心だった故北川ゲンダーヌさんの名前は私も憶えている)

genda-nu
 inevergiveupさんのブログから


2.オロチョン

先程のもうひとつの日本文化(アイヌ文化)徒然ブログに由来が書かれている。

一言で言えばオロチョンは「架空の民族」だ。

昭和25年に、網走市の観光行事として「オロチョンの火祭り」という催しが始められた。27年には伊藤久男が「オロチョンの火祭り」を歌ってヒットしている。奇妙キテレツな歌詞だが、ウィルタを念頭に置いているようだ。

ところがオロチョン族というのが、実際に存在するのだから話はややこしい。

本来オロチョン族は黒竜江、内蒙古地域に住む人口7000人ほどの少数民族。関東軍の特務機関が対ソ情報収集に当たらせた。特務機関は阿片を用いて工作したと言われる。

観光協会は「アジア地域の北方系民族を総称することばとして使われたことがあるため使用している」と語っているが、実際にオロチョン族とは無関係である。


3.ニヴフ

オホーツク人の後裔と目されている民族である。ニヴフが自称であるが、かつてロシア人によりギリヤークと呼ばれていた。ギリヤークは蒙古帝国以来の古称であるギリミ(吉里迷)の訛ったものとされる。

間宮林蔵はニヴフを「スメレンクル夷」と記している。これはアイヌ人の呼称で、「キツネびと」を意味する。

現在は間宮海峡を挟む両岸に居住する。人口は約5000人。うち半数強2700人ほどがサハリン島に居住する。

ニヴフ語は同系統の言語がない孤立した言語であり、アイヌ語ともツングース諸語とも全く異なる。

南樺太に住んでいたニヴフ人は、敗戦後にウィルタと同じく網走に移住した(させられた)。菅原幸助によれば、1966年時点で網走3世帯、函館2世帯、札幌3世帯で30人いたとされる。


4.ツングース系語族

ツングースも本来の意味を離れて嫌韓派御用達の用語となっている。

ツングースという呼称はヤクート人がエヴェンキ人を「トングース」と呼んでいたことに由来するという。

シベリア・極東にかけての北東アジア地域に住み、ツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族を指すとされている。DNA的にはモンゴル系とほぼ相似である。

したがってウィルタはツングースに含まれるが、言語系統の異なるニヴフは含まれないということになる。

もともと、満州北部の民族が黒竜江沿いに北上し、各地に拡散したといわれる。しかしこれには多くの異説(珍説)があり、Y染色体ハプロ(C2系)との突き合わせが必要である。

オホーツク人

アイヌを語る上で欠かせないのがオホーツク人だが、あまり知られていない。というか、私は勉強してこなかった。

Y染色体から見れば、アイヌ人はかなり純系の縄文人だが、ミトコンドリアDNAからすれば、縄文人とオホーツク人の中間に位置するというのが特徴だ。

両者の差は、縄文人がオホーツク人を征服したことを意味する。駆逐したのでもなく、混住したのでもない。

文字には残っていないが、ここが決定的な勘どころだ。


まずはウィキで「オホーツク文化」の記事を読む。

1.「オホーツク文化」の定義

5世紀から9世紀までオホーツク海沿岸に栄えた古代文化。

人骨の遺伝子調査は、ニヴフ人やコリヤーク人との近似性を示す。

『日本書紀』に現れる粛慎と考える見方が有力である。

2.時期区分

土器の特徴にもとづいて初期、前期、中期、後期、終末期の5期に区分される。さらにオホーツク文化に先行するものとして、樺太南西端の「鈴谷文化」(紀元前1世紀~)があった。

前期 5世紀から6世紀。オホーツク海沿岸、樺太の南半分におよぶ。十和田式土器を特徴とする。

中期 7世紀から8世紀。東は国後島、南は奥尻島、北は樺太全域に及ぶ。

後期 9世紀から10世紀。土器の様相が各地で異なる。北海道北部のオホーツク文化は消滅。13世紀には樺太でも消滅。

3.生活

北海道北部と樺太では漁業に、北海道東部では海獣を対象とした狩猟に重点があった。熊などを狩り交易用の毛皮を入手した。

この生活スタイルから考えると、たしかにアイヌとの平和共存は難しい。

4.遺伝子

樺太北部やシベリアのアムール川河口一帯に住むニブフ族に最も近い。

アムール川下流域のウリチ、カムチャツカ半島のイテリメン族、コリヤーク族とも祖先を共有する。

ミトコンドリアDNAのハプログループY遺伝子をもつ。この遺伝子はアイヌ民族の2割に存在するが、縄文人や和人にはない。

人骨の形質学的研究によると、続縄文人や擦文人とは非常に異なった顔かたちをしていたとされる。

5.オホーツク人がいた頃の気候

400年頃~ 恵山グループが急に消失し、後北・江別文化のものが全道に広がってゆく。気候の変化(寒冷化)に伴うと考えられる。

600年頃~ 寒冷期が終わり、徐々に温暖化に向かう。

900年頃~ 温暖期が始まる。東北地方の稲作化が一気に拡大。エミシは狩猟民に特化し、大和政権との交易を拡大。

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