鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2017年03月

光合成の仕組み

いよいよ、ということになるのだが、ご本人がおっしゃるとおり、“「さわり」を少しだけ”で、肝心なところはモザイクとボカシがバッチリでなんにも見えない。その割にはビラビラの小物が満載でイライラさせることうけあいである。

光合成の仕組み1:二酸化炭素を糖やデンプン(有機物)に変える

ということで、まず第二段階(炭酸固定反応)の説明から入る。いわゆる「暗反応」だ。

この説明が業界用語のオンパレードで、外国語を聞いているようだ。

1.PGAの作成

炭酸ガスを取り込んだあと、これをPGAという形で固定するのが第一段階のようです。

このPGAというのは、葉緑体が持っているRuBPという「担体」に炭酸ガスが吸着されてできるようだ。

2.トリオースリン酸の作成

PGAは何かしらの過程を経てトリオースリン酸という物質に変化する。これがどんなものかは説明はない。

3.NADPHとATP

それでトリオースリン酸の話は突然終わり、炭酸ガスの炭素についているO2を外してH20に置換する話になる。

炭素1個あたりでは、二酸化炭素から酸素を1個はずして、水素を2個くっつけると炭水化物になることになります。

まぁたしかにそういう計算だ。

この作業を担当するのがNADPHで、NADPHにエネルギーを与えて回転させるのがATPだという話になる。

ただ率直に言わせてもらえば、これはエネルギー伝達系の話で、“二酸化炭素から酸素を1個はずして、水素を2個くっつける”現場の話ではない。

そんなことで二酸化炭素を糖やデンプン(有機物)に変えることなんぞできやしないのである。

ということで、以上の説明は「おさわり」どころか「のぞき」にもなっていない。「入場料返せ!」の世界である。

光合成の仕組み2:光エネルギーの吸収と変換

しかし、まぁそちらはどうでも良い世界である。

光合成の話は光エネルギーを電気エネルギーに変換して、水素の発生という形でエネルギーにするところにあるのだから、そちらがはっきりすれば、あとはどう保存するかという話である。

1.光合成色素による光エネルギーの受け止め

光エネルギーを使うためには、まず光を吸収しなくてはなりません。それを行なうのが、光合成色素です。

その代表が葉緑素(クロロフィル)ということになる。

うん、よしよし、それで…

クロロフィルがたくさん集まってタンパク質に結合し、光を集めるアンテナを形成しています。

うん、そうだ。それで…

アンテナのどれかの色素分子が光を吸収すると、色素は励起されます。励起された色素は隣の色素にエネルギーを渡します。こうして最終的に反応中心 という特別の光合成色素にエネルギーが渡ると、そこで、酸化還元の反応が起こります。

えーと、どっちなの。酸化なの還元なの? まぁとにかく電子伝達系スイッチが入るんだ。

2.2種類の「反応中心」

高等植物では、この反応中心には二種類あり、それぞれ光化学系Ⅰ、光化学系Ⅱと呼ばれています。

前に聞いた話とはちょっと違うけど、とりあえずもう少し話を聞いてみよう。

始まりは、水が酸化されて電子を放出して酸素になる反応です。

ずいぶん荒っぽい言い方だが、二つのH2Oが壊れてO2ができるとき、4つの荷電されたHが生成されることを言うのだろう。

放出された電子は、光化学系Ⅱを通り、次にシトクロムb/f複合体という酸化還元成分を通り、さらに光化学系Ⅰを通って、最終的にNADP+という物質に渡されてNADPHが生成します。

これもずいぶんひどい言い方だ。

とりあえず、それで良いことにして電子の最終受け取り手はNADPHだというところに進もう。

光合成の仕組み3:ATPの合成

つまり、これまでのところせっせと書き込んできたのはNADPHが水素イオンを抱いて炭化水素の生成回路に入り、炭酸ガスから酸素を飛ばして水素を押し付けるということだ。

そしてNADPHが光エネルギーを源とし、ややこしい電子伝達系回路を経由して最終産物となることが、遡って説明される。

このパート3では、このNADPHを炭酸ガスにくっつけて水素イオンを伝達するためのエネルギーがATPと呼ばれ、これも光エネルギーを源としているということだ。


これで「光合成の仕組み」の話はおしまい。光合成の仕組みについてはほとんど書かれておらず、ひたすらカルビン回路の説明ばかりだ。カルビン回路について知りたければもっとまともな説明がたくさんある。電子伝達系の説明も恐ろしく下手くそだ。

私も医者の端くれとして、NADP→NADPHとADP→ATPの共役とか、プロトンポンプの話は一応は聞きかじっているが、これほど的外れの説明は見たことがない。


読んで損したというのが第一印象だ。

「端折って書いたので分かりにくいかもしれないが、もっと詳しく書いたものがあるのでそちらを見て欲しい」と書いているが、絶対に見ないぞ。



その前に、前項のまとめをしておく。

1.光合成の概念

ここではまだ光合成の仕組みはわからない。概念だけ教えてもらった。

それによると、光合成は二つの装置を通じて行われる。それは今のところブラックボックスだ。入っていくものは光エネルギーであり、出てくるものは炭水化物(炭素と水素の結合したもの)だ。

第一の装置はさらに二つの仕掛けからなっている。A段階では光エネルギーが電子エネルギー、すなわち電流に変えられる。B段階ではこの電流により水が電気分解され酸素と水素に変えられる。

酸素は放出され、荷電した水素がエネルギーとして第二装置に送り込まれる。

第二段階では空中から取り込まれた二酸化炭素が原料として用いられる。水素は二酸化炭素から酸素を取り外す還元力として働き、みずから炭素と結合して炭化水素(有機物)を形成する。

2.工学的発想から見た光合成

自然界では炭素は水素よりはるかに酸素との親和性が高いから、酸素があれば水素を離して酸素と結合する。この時引き離された水素からエネルギーが発生する。

いわば炭化水素は水素エネルギーの貯蔵形態の一つだということになる。

この過程については水素発電の原理と同じだから馴染み深い。

つまり光合成はエネルギーを持つ水素を単離したことで、基本的な任務を完了しているのだ。

なんとなれば、その水素を液体化してボンベに詰めて輸送してやれば済むことなのだ。

ただし自然界にはそのような装置はないから、常温・常圧でそのエネルギーを保存する方法を見つける必要がある。そして生物はその方法を見つけたのだ。それが「水素を炭化させる」という方法であり、それを可能にしたのが自然界に大量に存在する炭酸ガスという物質だったのだ。

3.光エネルギーの水素エネルギーへの転化

とすれば、光合成の本質は第1段階にある。第二段階は蓄電装置でしかない。

これについては、太陽光発電などの再生エネルギーと比較しながら検討していくのが分かりやすいだろう。

ということで、次の講義へ進むことにする。

以前、光化学系Ⅰの勉強をしたが、ちんぷんかんぷんだった。
それが何故か、いくらかのアクセスを頂いているので、やはりもう少し本格的に勉強しなければだめだなと思っていた。
なにせ、目の疲れが激しくて一冊の本がまともに読めない。
何かネットで読める文献がないかなと探しているうちに、このサイトに当たった。
早稲田の先生で園池公毅さんという方の浩瀚な文章だ。
それでは「光合成の森」に分け入るとするか。

光合成とは?

小中学校レベル:  光合成とは「植物が光によってデンプンなどを作る働き」である
高校レベル: 光合成とは「植物が光によって水を分解して酸素を発生し、二酸化炭素を有機物に固定する反応」である。
つまり、「光が電気になり水を電気分解する過程」と、「二酸化炭素を還元して炭素を有機物として固定する過程」の二つの過程の複合として理解することになる。
これで話は一気に難しくなる。なぜそうなのかが全く述べられていないからだ。大学受験のときは、仕方がないから「そういうものだ」と割り切って、暗記するしかない。
大学レベル: 光合成とは「光によって環境中の物質から還元力を取り出し、その還元力とエネルギーによって二酸化炭素を有機物に固定する反応」である。
1.高校レベルの理解ができないうちに、話はもう一段飛んでしまう。これで大抵の人は学習障害をきたし、逃げ出してしまうだろう。
肝心なことは、光合成が二つの段階から構成されていることを認識し続けることだ。
問題が東京・名古屋間で起きているのか名古屋・大阪間で起きているのかを把握することだ。
2.新たに出た話は光合成細菌の話で、「硫化水素H2Sを分解して硫黄Sを作ります」というのは東名間の話だ。そして東名間を東海道線ばかりでなく中央本線で行く方法もあるということだ。
3.そして名古屋駅で一旦乗り換えるとき、駅員に渡すのが酸素であったり、硫黄であったりするのだが、残された半券はH2という共通券だ。

「その還元力とエネルギーによって二酸化炭素を有機物に固定する反応」という言い方は不正確だ。
H2と言うのはまずもってエネルギーだ。そのエネルギーで二酸化炭素を還元し、よってもって炭素と水素の化合物を生成することだ。

この説明でよくわからないことがある。それは酸素の出処だ。水を電気分解しても酸素が生じる。さらに二酸化炭素から酸素を追い出し、そこに水素がくっつくときにもフリーの酸素が生成されることになる。
しかるに「高校レベル」の認識では後半の過程についての説明がない。実際には酸素は生じないのだろうか。炭素から切り離された酸素はどこへ行くのだろうか。
大学院レベル: 「光合成とは、光のエネルギーによって環境中から還元力を取り出し、その還元力とエネルギーを用いて行なう代謝系を全て含む反応」である
線路の話を続けるとわかりやすい。
「名古屋から先もいろんな行き方があるよ」ということだ。東海道線、関西本線、近鉄を使ってもよい。さらに言えば行く先は大阪だけではないということになる。
ただしこの定義には抵抗がある。やはり大阪行きだけを光合成と定義すべきではないだろうか。窒素固定などは、大阪から福岡へ行く話として論じるべきだと思う。
定義には実体論的定義と目的論的定義がある。形態的多様性を前提とする定義の場合は、目的論的な一致が定義の中核をなすことになる。
形態もバラバラなら、目的もバラバラというのでは、そもそも「定義」にならず、「開かれたままの定義」になってしまう。これでは論理が崩壊する。

光合成の仕組み
これについては稿を改める。

4月からの生活設計
3月を以て、老健・特養での勤務も満了となる。
あとは悠々自適と行きたいが、「自適」の意味がわからない。かと言って事業を起こすほどの馬力もない。
いろいろ考えているが目下のプランは下記のごとし。
まずオフィスを持つ。
名称は「老人医療問題相談所」くらいにしておく。
売り込みは2枚看板だ。
A)老人医療問題相談事業
1枚目は「老人医療に関わる医学的助言」だ。主に在宅の介護スタッフやソーシャルワーカーを念頭に置いたものだ。
現場ではスタッフが医学的情報の断片化、医療側との意思疎通の困難に頭を抱えている。専門知識を踏まえた統合プランを求めている。
これのお手伝いがなんとかできないだろうか。
もちろん医学的知識だけではなんともならないのだが、それがないと一歩が踏み出せないのである。
そのために具体的にはどうしたら良いのだろうか。
① まずは電話あるいはメールでの相談に応じる。
② 話が複雑な場合(たいてい複雑だから相談するのだが)、依頼者との面接からはじまり、家族や介護役との相談、施設系担当者との連携が必要になる。
③ 場合によってはケアの対象に直接会う、担当医との連絡なども必要になるかもしれない。
④ 最終的にはあらあらのレポートを作成した上で関係者会議を開いて、合意を形成していくことになる。
⑤ このためにはこちらにも専門的知識の引き出しが必要になるから、他団体・専門医の間に人脈を形成しなければならない。
⑥ これらの経験を通じて得た教訓を公にし、ノウハウの積み上げを図り、多くの人々と共有していきたい。
といったあたりが、とりあえず頭に浮かんでくる。
よく考えてみれば、これらの実践はまさしく“Medical Social Work”そのものである。
B)老人医療問題研究会
どちらが手段でどちらが目的かはわからないのだが、どちらかと言えば、こちらのほうがやりたい方。
学生時代にやっていたセツルメントや社医研活動をもう一度やってみたいという思いである。
研究そのものが目的というより、お互いに知恵を持ち寄っての「勉強会」だ。「同好の士よ集まれ」というサークル活動に近い。会議そのものよりも「アフターアワー」を楽しみたいという密かな希望もある。
こちらの方は会員制になるだろう。その場所を提供できればいいなと思っている。
① 事例検討と講義、討論という例会。
② みんなの意見を載せる会報の定期発行。
③ できれば調査活動などのキャンペーンも組みたいが、そこまで馬力があるか。
C) スローガン
運動だからスローガンが必要だ。
思いつくままに上げておく。
①医療に学びを、現場に知恵を
②現場の悩みを受け止め、整理する
③現場の悩みを医療につなげ、展望を与える
④現場の問題を掘り下げ、みんなのものにする
お、まぁこんなところか。後は経営担当者と営業担当者を見つけなければならないな。

この間、札幌近郊の博物館をいくつか訪れた。

江別市郷土資料館

北海道立埋蔵文化財センター

恵庭市郷土資料館

北海道博物館

道立図書館内の北方資料室もふくまれる。

もちろん展示物をサラッと見ただけの印象だが、

道央低地帯の文化は歴史的・地理的に孤立している。

というのが感想である。

北海道の縄文文化の本拠地は内浦湾一帯を含む道南だろうと思う。それは東北の縄文文化と一体となったものだった。これについては以前にも書いた。

それは紀元前2千年から1千年をピークに繁栄を極めた。

そしてその後は徐々に勢いを失い、恵山文化を最後に一旦途絶えてしまうような印象を受ける。

私はそれは日本列島を襲った寒冷化によるものだろうと考えていた。いくら「エコだ、現代に通じる生き方だ」などと言ってみても、その日暮らしの生活では気象の激変にかなうべくもない。

本州でも関東を中心に縄文人の人口が激減したという論文があった。あまり定かな記憶ではないが、浅間山の噴火+寒冷化と説明されていたように覚えている。

ところが道南の縄文式文化が衰えを見せ始めた頃、道央低地帯はそのピークを迎えるのである。

「これはなんだろう」と考えていて、ふと思いついたことがある。それは鮭の遡上である。

今でこそ、鮭漁の大半は沖合の定置網で行われるが、それは主として商品価値の問題である。

とれさえすれば良いのなら、川に上ってくる鮭の頭を殴って手づかみするのが一番手っ取り早い。

だから鮭漁を中心とする生活は海岸よりむしろ内陸部で盛んになったとしても不思議ではない。

第二に鮭は寒流系の魚であるから、むしろ気候の寒冷化が遡上の増加をもたらす可能性がある。

そうなると、寒冷化が始まってから道央の、しかも内陸部の江別や恵庭で集落が発展したと見てもよいのではないか。

これが縄文時代の末期に、他の場所が衰退に向かっているにもかかわらず、道央低地帯に文化が発展した理由である。彼らはある意味で「逃げ遅れた人々」である

にも関わらず、やがて道央低地帯文化が衰退していくのは、それをも凌ぐ寒冷化の進行であったのかもしれない。

こうして縄文人は北海道を撤退し東北から関東・北陸へと進出していくことになる。そしてその間隙を埋めるように北方系のオホーツク人(粛慎人)が進出する。

これが7世紀になると、今度は南からの大和民族に押されふたたび北を目指すことになる(北帰行)。これが擦文文化→アイヌ文化の始まりではないかというのが目下の推量である。

最近日本人のゲノム分析に関する文章に「アイヌ人こそ生粋の縄文人」みたいいな表現が目につく。
Y染色体ハプロはたしかにそれを示しているようにみえる。
しかし、ミトコンドリアDNAだけを見ていれば、到底そのような結論はでてこない。
むしろ「アイヌ人はオホーツク人である」と言うほうが適当かもしれない。
この点について学者の皆さんはニヤッとしたことしかいわない。
しかし、これを歴史の流れの中で見ていけば、次の結論しかでてこないのではないか。
すなわち
①アイヌ人は寒冷期に東北~渡島に下った縄文人、すなわちエミシが再び北上したものである。
②アイヌ人が南下した後の北海道には、北方のオホーツク人、カムチャッカ人が到来し定着した。
③エミシは沿岸部に侵食し、ついで奥地へと分け入った。先住民たるオホーツク人は駆逐されあるいは制圧され、エミシの支配下におかれた。
このような関係においてのみ、Y染色体ハプロにおける縄文系の優越、ミトコンドリアDNAにおけるオホーツク系の優越が説明できる。ともに漁労・採集を事とする生活を営む限り、弥生人(長江人)と縄文人が示したような「異業種間」の共存関係は成立し得なかった。

そう考えたとき、その流れを考古学的に証明できるかどうかが問われてくる。
すなわち
①続縄文時代をになったのは誰か。とくに前期と後期の間の変化をどう捉えるか
②擦文土器の時代を担ったのは誰か。それはアイヌ人の時代との間に文化的断絶があるのかどうか
これらをオホーツク文化の栄枯の流れと読み合わせながら解き明かす必要があるのではないか。

とりあえず、続縄文時代の変遷をメモしておく。
続縄文時代は紀元前5世紀に始まり、紀元6世紀の末まで続く。約千年の期間である。
相対年代としては前半期と後半期に分けられる。
前半 3つの文化が一定の時差をもって出現する。
①恵山文化: 道南から石狩低地帯にかけて展開
②江別太文化: 石狩低地帯文化。恵山文化の後退に伴い出現?。
③道東圏文化: ただしオホーツク文化の影響あり。
後半
江別太文化を基礎に後北文化が出現。東北~北陸地方まで拡大する。

これについての解釈は別記事を起こすこととする。

崇神王朝の後半になると、大和政権は吉備の国を制圧し、さらに出雲に進出する。
最初は貢納の要求から始まったが、ときの支配者であった出雲振根はこれを拒絶した。
この時の経緯が興味深い。
大和政権が使者を送り貢納を要求したとき、振根は九州に行っていて留守だった。そのため振根の弟が対応したのだが、彼は大和政権の圧力に屈してしまう。吉備国を征服した大和政権の力を考えれば当然の対応であったのかもしれない。
しかし九州から戻った振根はこれを聞いて烈火のごとく怒った。そしてその弟を殺してしまう。さすればと大和政権が軍を差し向け、振根を忙殺してしまう。こうして出雲の国も吉備に続いて滅亡することになる。
この「出雲国」はオオクニヌシや大物主が支配していた頃の出雲ではない。彼らから「国を譲られた」側、大御神系の人々の支配する国だった。すなわち九州王朝の属領であったわけだ。
そこに手を出したのだから、大和政権も相当の覚悟であったろうと思う。吉備の国をやっつけるとはわけがちがう。それは出雲の国そのものではなく、その背後にいる九州王朝への反逆であるからだ。
しかし九州王朝は反撃をしなかった。それどころか仲哀の軍が下関まで到達し陣を張っても動かなかった。そして仲哀を九州王朝の都たる博多まで招き入れた。
なぜだろうか。朝鮮半島での高句麗との激しい戦闘に消耗していたのであろうか。




纏向遺跡と箸墓古墳

纏向遺跡が3世紀後半に始まったことについて異論はない。

しかし箸墓古墳が纏向の歴史の初期に作られたものかどうかは、そう話はかんたんではないと思う。

つまりこういうことだ。これまで発掘された範囲ではかなり大規模な、巨大と言ってもいいくらいの遺跡である。かといってそれが都城であったことを示すようなものもない。

印象としては「飯場」なのだ。生活の臭いがない、農業との関わりが感じられない。かといって壮大・美麗な建築物を想像することもできない。

大規模土木工事に駆り出された人々が寝泊まりし、その周囲に工事に必要な物資や、食料が保管されていたという感じが強いのである。

そして3世紀中頃には放棄されてしまう。なぜなら開発すべき対象がなくなってしまったからである。

ただ、そこに都市としての景観が徐々に備わっていくのなら、それはそれとしてわかるのだが、どうもそのような積み上げが感じられない。

箸墓古墳は記紀では倭迹々日百襲姫命の墓所とされている。この姫はシャーマンで、崇神天皇の婆さん筋の人だ。

私は崇神は4世紀前半から半ばくらいの人だと思っているので、もし言い伝えのとおりだとすると、箸墓古墳は西暦300年以降のものでないと都合が悪い。

そしてその古墳は纏向近辺で最後に築かれたものでないと具合がわるいのである。

このあと近辺にめぼしい開拓適地はなくなる。最初は無から有が生み出されるのだから、人口が増えてもそれは賄える。しかし新田開発が止まった途端、人口圧は重圧となって押し寄せてくる。

どこであろうと開拓適地を探して版図を拡大することを迫られることになる。

私は以前は崇神一族は越前からやってきた雇兵集団ではないかと想像していた。

しかし欠史八代が実際にはかなり短い期間のものだったとすれば、神武の率いた武装集団がまだそのまま残っていた可能性もあるのかもしれない。

崇神は若き当主だが、その周囲を叔父や大叔父などが固めていた。彼らは出雲系の中の大物主直系を味方につけ、葛城を中立化させ、河内と山城を制圧した。そこには大和盆地に勝るとも劣らぬ河内湖や小椋の池という開拓適地があった。

ここから崇神王朝の血塗られた征服譚が始まるのであろう。それとともに纏向の開拓基地も忘れられた存在となっていったのであろう。

この時刻表は前に作ったものの増補版となるものです。

2016年05月09日

日本ではパナマ文書の追及もあまりされず、相変わらず「世界一企業に優しい」政治が続いていますが、海外では租税回避への厳しい対応がどんどん進んでいます。

そこで表題を上のように付けなおしたものです。なおFATCAとCRSの成立過程に的を絞ったものとして、以前の経過表はそのまま残しておきます。




2012年

2月8日 米国と欧州5か国(フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、英国)が共同声明。欧州5か国の税務当局が米国人口座の個別情報を取得し、まとめて提供することとなる。

6月 OECD 租税委員会、BEPSプロジェクトを立ち上げ。多国籍企業等の租税回避に対応するため、国際課税ルールの抜本的見直しを開始。

10月 ロイターが喫茶店チェーンのスターバックスの租税回避を暴露。2010年以降、英国に一文も払っていないことが明らかになる。

スターバックスは英国で過去30億ポンド以上の売上があったのに対して、わずか860万ポンドほどの税を納税したのみ。ここ3年間においては12億ポンドの売上に対して税を納付していない。
法人税の安いオランダに所得移転し、差し引き8%の“節税”。イギリスは税収をまるまる失い、オランダは濡れ手に粟のぼろ儲けをした。

11月 英議会がスターバックスを呼び公聴会を開催。

12月 不買運動に直面したスターバックス、法人税の自発的納付で英当局と合意。欧州の本社機能を英国に移し、租税回避をやめる。

11月 英・独の財務大臣が租税回避を非難する共同声明を発表。仏の財務大臣も賛同する。


2013年

2月 OECD、「税源浸食と利益移転(BEPS)への対応に関する報告書」を作成。G20 財務大臣・中央銀行総裁会議(ロシア・モスクワ)に提出。

3月 英国、ドイツ、フランスの3カ国は他のG20諸国に対し、多国籍企業の租税回避を阻止するよう求めた。G20はこれを受け、OECDに租税回避防止に関する研究報告を求めた。

5月 米上院、アップルを呼び租税回避を追及する。

6月 G8首脳会議、課税逃れ対策の支持で合意。

6月 OECD 租税委員会、15 項目からなるBEPS 行動計画を採択。FATCAのモデル1をひな形として、金融口座情報等の「自動的情報交換」を多国間に拡大するもの。

7月 OECD、G20財相会議にBEPS 行動計画を提案。

7月 アメリカの消費者団体(pirg)が米巨大企業の多くが5年間納税ゼロであったと発表。またトップ100社がタックスヘイブンに保有しているお金は、1.2兆ドルに達するとする。

8月 ジェトロ、日本の対外直接投資残高が1兆ドルを超えたと報告。96年に比し4倍となる。ケイマンとオランダへの投資が突出する。

9月 サンクトペテルブルクでG20 サミット。BEPS 行動計画を全面的に支持。次年度末を目途に国内の法整備を進めることで合意。OECDによる国際基準の策定が支持される。

10月1日 OECDの発議した「税務行政執行共助条約」が日本において発効。①締約国における自動的な 情報交換、②租税債権の徴収の支援(徴収共助)、③要請による文書送達(送達共助)を定める。

10月 フランス議会、国内書店の保護を目的とする「反アマゾン法」を可決。

12月 イタリア議会、グーグル法を可決。多国籍企業がネット広告などを掲載する場合、国内事業者を通さなければならないと定める。イタリア政府は税導入を延期する措置。


2014年

1月 OECD租税委員会、自動的情報交換の共通報告基準(CRS)を承認。

2月 OECD、「課税における自動的な情報交換に関する基準」の草案を発表。

3月6日 米国財務省とIRS、最終暫定規則を発表。50以上の修正が加えられる。

4月 アップルのCEOティム・クックが上院で証人喚問を受ける。利益の多くをアイルランドで計上していることについて説明を求められた。

5月 クレディ・スイス、「米国人顧客の脱税を意図的にほう助した」と有罪を認め、米政府などに28 億1,500万ドルの罰金を支払う。

7月1日 FATCAによる規制が日本及び世界で施行される。登録金融機関は世界中で10万以上、日本の金融機関は3,624にのぼる。

日本の金融機関は、米国人対象者を特定し、同意を取得した上で、米国内国歳入庁(IRS)へ直接報告を行う
不同意口座についてはIRSが租税条約に基づく情報交換要請を日本の国税庁にする。国税庁は金融機関から情報を入手し、IRSへ提供する

7月 OECD、CRSのフルバージョンとコメンタリーを公表。金融機関の非居住者口座を政府間で自動交換するためのマニュアルとされる。

この「完全版」は「金融口座の自動情報交換のための新国際基準」(Standard for the Automatic Exchange of Financial Account Information in Tax Matters)と題されている。

9月 G20 財務大臣・中央銀行総裁会議(ケアンズ)で、BEPS報告書第一弾公表。

11月 ブリスベンのG20サミット、CRSを承認。その後97の国・地域が「税に関する自動的情報交換制度」(OECD制度)への参加を表明。日本の参加は遅れる見通し。アメリカは不参加の意向。

全国銀行協会は「OECD の枠組みは、FATCA よりもさらに負荷が大きい。実務面での配慮が必要」とコメント。

12月 この時点で、欧州各国を中心に112の国・地域が米国とIGAを結ぶ。

14年 イギリスが「UK FATCA」制度を導入。「海外領土」と呼ばれるジャージー、英領バージン諸島、ケイマン諸島、バミューダなど10カ国の金融機関に対し、英国居住者の口座情報の提供を義務付けた。これにより税金上のメリットは失われ、場合によってはHMRC(英歳入関税庁)の調査対象となる。

2015年

1月16日 欧州委員会、ルクセンブルグ政府の優遇税制措置を、EU法に定められた「違法な国家補助」に当たるとの判断。

アマゾンが税率の低いルクセンブルクの子会社にウェブサイト運営のための知的財産権を移し、同社の世界全体の売り上げの5分の1を占めるEUでの売り上げを集めていた問題がきっかけとなる。

3月 欧州委員会、「課税の透明性に対する取り組み」を発表。EU加盟国間の税務情報を、自動的に交換する仕組みを導入するよう提案。

3月31日 FATCAに関する国内法が発効。「租税条約等の実施に伴う所得税法、法人税法及び地方税法の特例等に関する法律の一部改正(租税条約実施特例法の一部改正)という長たらしい名前。

4月 イギリス政府、Google税(Diverted Profit Tax)を施行。租税回避された広告料所得などに対しても課税。スペインではグーグル社が徴税に対抗してグーグルニュースのスペイン版を閉鎖。

5月 米上院小委員会がアップル社からヒアリング。アメリカの法人税率は35%であるのに、アップル社は、実質2%以下の税率だったことが明らかになる。

6月 欧州委員会、公正かつ効率的な課税を目指す「法人課税に関する行動計画」を発表。

10月 G20アンタルヤ・サミット、「BEPSプロジェクト」の「最終報告書」を支持することで合意。

15年 イギリスは、企業がタックスヘイブンを利用して逃れた利益に25%の税金を課す制度を導入。

15年 イギリスのタックス・ジャスティス・ネットワーク、タックスヘイブン全体で21~32兆ドルの資産が隠されているとの試算を発表。その半分がメガバンクの保有であるとする。


2016年

1月1日 イギリスやドイツなどの早期適用国(56カ国)で、CRSが実施される。2016年の口座情報が2017年9月に交換されることになる。日本2018年適用国(41カ国)となる。

1月 欧州委員会、多国籍企業の租税回避に対する規制方針をまとめた「租税回避対策パッケージ」を提案。

①効果的な課税: 利益が発生した場所で税を支払う原則
②課税の透明性: 課税を確実にするため、加盟国が情報を共有する。具体的には多国籍企業に関する「国別報告書」(CbCR)の提出を義務化。第三国にも実施を求める。
③二重課税のリスクの回避: EU域内市場を活用する企業が二重課税を受けないように保護。

1月22日 イギリス税務当局、米グーグルとの合意に達し、210億円を追加課税した。グーグルはイギリス国内で170億ポンドも稼ぎながら、バミューダ諸島などに利益を移して5200万ポンドしか納税していなかった。

7月12日 EU理事会、「租税回避対策パッケージ」の核となる「租税回避対策指令」(Anti-Tax Avoidance Directive)を採択。利子損金算入制限、出国課税、一般的租税回避防止、外国子会社合算税制、ハイブリッド・ミスマッチの5つの規定で構成される。

8月 欧州委員会、アップルのアイルランドでの事業に対しEUの定める国家補助(state aid)法違反だと認定。アイルランド政府に対し130億ユーロの追徴税を命じる。

アップルはEU諸国での売り上げすべてを、アイルランドのペーパーカンパニーで申告している。アイルランドの法人税率は12.5%と圧倒的に低く、納税回避目的であることは明白とする。

8月 米財務省、欧州委員会が「超国家税当局」になっていると批判。アップルへの追徴金に対し「深い懸念」を示す。

9月 G20首脳会議(杭州)において、BEPSプロジェクトとCRSの進捗状況が報告される。85の国や地域が、BEPSパッケージの実施に賛同。CRS参加国の追加税収は550億ユーロに達する見込み。100の国・地域が「税務上の自動的情報交換」(AEOI)への参加を表明。

9月 オーストリアのケルン首相が「スタバなどの多国籍企業の納税額は屋台より少ない」と批判

9月 デンマーク、パナマ文書の一部を購入。税逃れをした、数百人のデンマーク人についての脱税調査を行うとする。

16年 イタリア政府はアップルがアイルランドに利益を移して不当に法人税を逃れたとして、3億1800万ユーロ(約398億円)の追加課税をした。

2017年



西暦400年前後というのは、古代史のクロスロードになっている。

1.朝鮮半島における高句麗対4国連合の戦いはその頃最も厳しかった。

4カ国とは百済・新羅・任那・倭国である。この中で倭国をどう性格づけるかが最大の焦点である。

これについては、中国情報が途絶えた時期なだけに、好太王の碑をどう読むかしかないが、

アマテラス系天孫族の出自(高天原))は任那であり、九州はその植民地であったと思う。しかし両者の比重が変わり、すでに魏志倭人伝では別個の国と認識されている。

しかし対馬海峡を挟んで両者の一体意識はずっと後まで残っている。それはノルマンジーに対するイングランドの領土意識と似ている。それが高句麗戦争を招いたのだろうと思う。

2.一方で九州王朝の後背地では畿内を中心に農業革命が起こり、巨大な生産力と急増した人口を背景に大和政権が版図を拡大した。

大和政権は九州王朝の流れを汲む地方政権であったが、やがて本州の西端までその支配下に収めた。その一部は豊後から日向にまで進出する。

大和政権の諸国制圧は、ヤマトタケルの伝説を見ても決して平和的なものではなかった。しかしその農業革命は積極的に受け入れられた可能性がある。

3.崇神系の最後の王であった仲哀はみずから九州王朝の都である博多に乗り込んだ。おそらく彼は臣下の礼を尽くしたと思われるが、朝鮮出兵の要請は拒否した。

その結果仲哀はおそらく暗殺され、その愛妾の神功皇后とその息子を押し立てた九州王朝軍が大和に向かった。

仲哀の息子たちは九州王朝の受け入れを拒否し戦ったが全滅した。征服軍の将軍であった大伴氏が畿内政権の実権を握り、崇神朝のもとで冷や飯を食わされた物部氏と結んで威勢を張った。

御用済みとなった武内宿禰はお払い箱となった。大和盆地に代わって河内湖を囲む一帯が新政権の経済活動の中心となった。そこには九州王朝を通じて鉄器、朝鮮半島の事物が奔流のように流れ込んだ。しかし九州王朝は本格的な植民地経営をする気はない。あくまでも朝鮮戦争のためのロジスティックな後背地の確保だ。だからいずれは破綻するだろうし、実際に破綻した。

これが二つの王朝の出逢いとその顛末だ。

ここまでは確認できるのではないだろうか。

そしてその結果、畿内政権がどのような変貌を遂げるのか。このあたりが見どころだ。これから勉強しなくてはならない。

赤旗のラ・テ欄の片隅の記事。
意外な事実が記されていたので転載する。

永六輔
ファクトとしては
1.永六輔は60年の安保で毎日のようにデモに参加した。
2.安保後の挫折感の中で、反戦歌「上を向いて歩こう」が作られた。
3.しかし坂本九の“ふにゃふにゃ”歌唱は永六輔をがっかりさせた。
4.そのため、永六輔は葛藤の末に引退を宣言した。
初めて聞いた話ばかりだ。
生前は明らかにしにくかったのか?

私にとってはかなりの大ニュースだ。もう少し詳しく知りたいと探してみた。
WOOM-song.clubというサイトに
永六輔の生き方に学べ!『上を向いて歩こう』作詞秘話
という話が載っていた。著者は野口義修さんという方。
ここに経過がかなり詳しく説明されている。
読んでいただければよいのだが、かいつまんで紹介しておく。

1961年7月21日、第三回中村八大リサイタルにおいて「上を向いて歩こう」が発表されました。
このとき永六輔は28歳、中村八大が30歳、そして坂本九は19歳だった。
どうも坂本九というより中村八大の曲に対する不満が先にあったようだ。
自分の思いを込めた歌詞を、メロディーと歌い方で台無しになされた! こんな下手な歌と歌詞に対するメロディーの組み立ても許せない!  と烈火のごとく怒り心頭だったそうです。
なぜそこまで怒ったのかという背景が、60年安保闘争だ。
永さんは、実際に自分もデモに参加した1960年の安保闘争での敗北をテーマに歌詞を書きました。それが、「上を向いて歩こう」です。デモの帰り道、泣きながら夜空を見上げた思い出の歌詞だったのです。
…永さんは、安保デモに出るために、自分が台本を担当していた番組を降板しています。プロデューサーから、「君は、番組をとるかデモをとるか?」と詰問され……「デモをとります」と
これには後日談があって、

いろんな仲間や歌手から、あの歌はヒットするわ! と太鼓判を押されて、素直に「自分が分かっていなかった!」と認めたそうです。

とは言え、いい時代だったのだと思う。1960年代というのが、理由はどうであれ「上を向いて歩く時代」だった。大人はけじめと責任を自覚していた。

青銅器時代(the Bronze Age)
三時代区分法
青銅器時代、鉄器時代は先古代の区分として用いられる名称である。
1836年にデンマークの考古学者トムセンが、「北方古代文化入門」を発表。この中で石器時代・青銅器時代・鉄器時代の「三時代区分法」を提示した。
トムセンは、この区分はスカンジナビアとその周辺地域に適用できるとしたが、その後、世界的にこの指標が持ちいられるようになった。
もちろん国家形成の段階と青銅器の導入は一義的に一致するものではなく、導入の時期も地域により異なるが、ユニバーサルな指標として依然有用である。

青銅とは何か
本来、「青銅」は10%前後の錫を含む銅合金の意味である。しかし天然の状態で錫と共存し、「青銅」として採掘される場合もある。
本来の青銅は光沢ある金属で、錫の量が少なければ純銅に近い赤銅色、中等量であれば黄金色、大量の場合は白銀色となる。
「青銅」の名前は、表面が錆びた状態を指している。表面に緑青が形成されるとサビの浸透が防がれ、劣化しない。
硬度は錫の添加量が多いほど上がるが、同時にもろくもなる。

金石併用時代
人類は石器時代から一気に青銅器時代に移行したわけではない。その間に金石併用時代があった。最も多く使われたのが自然銅であったから銅器時代とも言う。
銅は硬度が不足しており、石器を完全に駆逐することはできなかった。
この時代の後半には冶金技術(銅の溶解温度は約1100度)が発生した。これにより自然鉱物だけでなく金属鉱石を精錬するようになり、対象金属が拡大した。
その一つであるスズは、融点が低く、錫石からの精練が容易であるため、早くから実用化された。
そしてスズと銅の同時溶融法で青銅が開発された。

青銅器は何をもたらしたか
生産技術への貢献、軍事力への貢献については別に考察するが、それとは別に以下の波及効果が挙げられる。
持てるものと持たざる者への差別の拡大。農民に並ぶ新たな社会分業(鉱工業、商業)の出現、したがって都市(非農村としての)の出現。原料・製品の確保、あるいは輸送による交通・交易の拡大。祭祀用具の発達による宗教の変容(偶像崇拝・物神崇拝)。
さらに持てる国家の版図拡大も見られた。モンゴルにおいて青銅器時代にコーカソイドの進出が認められたという(松村ら


青銅が鉄に代わった理由
青銅は銅に比べて硬く、研磨や鋳造・圧延などの加工ができる。しかし硬さと強度で鉄に劣る。
何より鉄に比べて採掘可能な量が少なく資源が偏在しており、コストが高い。
青銅は兵士の実戦武装にも各種の農具にも用いられることはなかった。その変革的役割は鉄よりにはるかに劣る(角田文衛)


青銅器時代年表(完全な形で青銅器時代が全うしたのはメソポタミアのみである)

紀元前3500年 メソポタミア・エジプトで青銅器時代がはじまる。

紀元前3100~2700年 黄河最上流部に馬家窯文化が興隆。青銅器の使用が確認されている。

紀元前3000年 中国で金石併用時代が始まる。実用品を中心に青銅器の流通も始まる。

紀元前2350年 アッカド王サルゴンがメソポタミアを最初に統一。その後、バビロニア、カッシートなどの広域王朝が交代を繰り返す。

紀元前1500年 アナトリア高原にヒッタイト王国が出現。

紀元前1500年 中国で殷・周時代が始まる。この間が中国における青銅器時代とされる。青銅製の武器は春秋戦国時代を通じて主流であった。

紀元前1500年 エジプトでは原料確保が困難だったため、展開不十分のまま鉄器時代へ移行。

紀元前1200年 ヒッタイトが滅亡。製鉄技術がオリエント全域に流出する。これを機に中東での青銅器文化は一気に終焉。

紀元前300年 西方の新興国である秦が、鉄製武器を背景に全国を統一。

紀元前2世紀 本格的に青銅器が日本に流入。鏡・矛・剣・戈の武器、銅鐸、やりがんななど。間もなく鉄器も伝来したため、青銅器は主として祭器として使われ、実用品としての青銅器時代を経過することなく終わる。

長江文明 の流れ
まず長江人がどういう人種なのかを抑えておきたい。
2016年10月22日の一部を再掲しておく

5.O1、O2人とO3人

O3人は現代の漢民族で、他種族を圧倒している。しかし長江文明の担い手はO1、O2人だった。

3つの遺跡から発掘された人骨のY染色体を分析した研究が紹介されている。

龍山文化(黄河文明)

BC2000頃

O3、O3a

長江中流

BC1000頃

O2a、O3

長江下流

BC3000頃

O1a、O2b

年代を見ても、漢民族がO1、O2人を駆逐した様がありありと分かる。


3万年前 ハプログループK2からNOが分岐。南方ルートで東南アジアに進出。

ハプログループOがO1とO2に分かれる。O2はOグループ中最大の人口を持ち、中国北部に特に多い。

(2015年11月にISOGG系統樹が改訂され、旧O1と旧O2は現在はいずれもハプログループO1のaとbとなっており要注意。O2は旧O3)

2万5千年前 ハプログループO1がO1aとO1bに分かれる。O1aは中国南部、台湾先住民に多い。

ということで、長江流域に入り長江文明を作ったのはO1b人だ。O2人(旧分類のO3人)はその間にもっと北へと進んだ。

O1bはやがてO1b1とO1b2に分かれる。

O1b1は東南アジア、中国南部に多い。O1b2が朝鮮半島に渡った長江人と見られ、日本列島、朝鮮半島に多い。

長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島へ渡った(崎谷)という説得力のある主張がある。

O1b2にはa1aとa1bという2つのサブタイプが見られ、a1bは朝鮮半島にも存在するが、 a1aは日本国内のみである。


続いて、ウィキペディアの年表を転載する。

長江文明年表

上記表を基準としながら、経過を説明する。なお中国先史時代年表の絶対年代は、学術文献もふくめて相当誤差があり、盲信しないこと。

60万年 山西省で頭骨の化石が発掘される(1963年)    
40万年 北京原人(1923年発掘)    
5万年 - 紀元前35,000年 石器時代後期

1万4千~1万2千年 湖南省玉蟾岩(ぎょくせんがん)で稲の籾殻が発見。野生種と栽培種の特徴を、またジャポニカ米とインディカ米の特徴のいずれも併せ持つ。
1万2千年 “栽培された稲”が発見(江西省 仙人洞)。焼畑による陸稲栽培とされる。その後、1.9〜2万年前とみられる土器片280点が発見される。
8千年 湖南省八十垱(だん)に最古級の環濠集落。
7~6千年 湖南省 彭頭山で最古の水稲栽培(散播農法)が確認される。
7~5千年 最初の黄河文明となる裴李崗文化(河南省)。アワなどの雑穀を中心とした定住農業が行われていた。
6~5千年 陝西省に老官台文化。粟作などの畑作農業。
6~5.5千年 河北省に磁山文化。粟作などの畑作農業。
6~5.4千年 遼寧省に興隆窪文化。環濠内部が2万平方mもある大集落。
5~4千年 長江下流域の河姆渡(かぼと)で大量の稲モミ(ジャポニカ)が発見される。高床式建物も確認される。ほぼ同時期に長江河口から杭州にかけて馬家浜(まかほう)文化。
5~3千年 黄河中流域(河南省)に仰韶文化。裴李崗文化と老官台文化が融合したものとされる。農村の階層化も始まる。非常に経過の長い文化で後期には4種の文化を取り入れ発展。(別項を要す)
4~3千年 長江中流域(重慶)に大渓文化。灌漑農法が確立され、住居地が平野部へ移動
3.5~2千年 浙江省に良渚(りょうしょ)文化。貯蔵穴や井戸など安定した定住生活
3~2.5千年 長江中流域に屈家嶺(くつかれい)文化が登場。この頃に長江文明は最盛期となり、分業や階層化も進んだ。
3~2千年 山東省に龍山文化。城壁がある集落の跡
2.5~1.8千年 湖北省 石家河(せっかが) に大規模な都城。黄河流域の部族と抗争したと考えられる。
石家河の終焉をもって長江文明は消滅。(黄帝と神農や蚩尤の対立などの伝説は、黄河文明と長江文明の争いを表しているとされる)
2100     夏王朝が建国される。考古学的には二里頭文化と一致。
歴史的には夏が最も古い。それ以前の三皇五帝(伏義、神農、黄帝、堯・舜)は先史時代とされる。
1700 黄河流域に青銅器が登場。小麦と同じ北方ルートを通じて製造技術が流入した。
1600     夏が滅亡。殷(商)が興る。考古学的には二里岡文化と一致。
1600~1000 四川省に三星堆(さんせいたい)文化。仮面・人像・神樹などの大型青銅器が製造される。(鳥飼行博研究室のサイトを参照のこと
四川の銅鐸
三星堆の銅鐸
四川人頭
三星堆で出土した人面(青銅)

中国まるごと百科事典 > 中国歴史 > 中国各種年表 > 中国先史時代から秦までの年表が内容豊富で素晴らしい。いま読みながら年表に落としているところである。

20170228 離乳と断乳

「古墳は灌漑事業の残土処理にすぎない」というのは、私の「大発見」かと思ったが、調べてみると同じような考えの人がいるということがわかった。

いささかしゅんとしている。

それらの文献を当たってみた。

関東の前期古墳 - 東海大学文学部

著者は北條芳隆(東海大学文学部歴史学科)さん。

まず最初に以下の断りが入る。

私の見解は当面のところほとんど孤立的であり、いわゆる定説とは大きく異なる。

ということで本文へ。

この時代には集団移住や大規模耕地開拓が各地で活発におこなわれた。古墳時代の地域首長は灌漑・農耕技術を携えた開発指導者でもあった。

古市古墳群では古市大溝の掘削年代が5世紀にさかのぼる。遺存条里地割と前方後円墳の主軸方位が一致していることから、古墳群建設には方格地割りにもとづく耕地開発が伴ったことを示す。纏向も同断である。

各地の耕地開拓は、奈良盆地での成功例を基礎に、それを模倣し同形的に拡散させるものでもあった。

考察部分では次の記述が注目される。

弥生時代後期に、各地でどの程度の鉄器が出土するかをみた。一定量の鉄器の出土がある地帯は、確固たる地域社会が成立していたと考えられる。

しかし大型前方後円(方)墳が築かれるのは、むしろ鉄器化の恩恵に浴さず未開発で、「無住の地」が広がっていた場所であった。

倭王権の本拠地である奈良盆地自体、弥生時代までは道具の鉄器化という点でまったくの後進地であった。

このことは、社会経済的な発展段階と古墳の規模との間に照応関係がないことを示唆する。


ということで、私よりはるかに実証的に論じられている。

ほかに随想風の文章が二つある。ちょっと困ったことに内容が酷似しているのだ。

グーグル検索でトップに来るのが 巨大古墳は公共工事の跡!?というブログ記事。越智社長さんの「おちゃめ日記」で2014/07/18 の日付がある。

古墳がいったい何のために作られたのかと言えば、ズバリ「水田開墾のための土木工事のため」だったのではないでしょうか。

昔はダンプカーなんてありませんから、開墾地のすぐ近くに計画的に盛り土することにより廃棄処理をすることになります。その時にちょっとした遊び心が芽生えて、円墳や方墳、八角墳や前方後円墳といったその時の流行に合わせて様々な形状に盛ってみた。これが今の時代まで残り、『古墳』と呼ばれるものになったのではないでしょうか。

…仁徳天皇は広く知られている「竈(かまど)のお話」の天皇というよりも、むしろ「土木天皇」と言ってもいいくらい、民のために広大な土木事業を営んだ天皇、「偉大なプロジェクトリーダー」だったということのようです。

…『古墳』を単純に権力者の墓だとする先入観がそれ以上の思考を停止させているように思います。

次が「ねづさんのひとりごと」というブログの「古墳のお話」という記事(2015年07月10日および2016年03月13日)で細かい所の表現の違いはあるが、骨組みはほぼ同じだ。ねづさんのブログには仁徳天皇陵に関する大切なお話 (2014/10/24) という記事もあり、ほぼ同様の内容となっている。

次に「るいネット」に「“日本の古墳は権力の象徴ではなく、開墾の残土の盛り土であった”は、戦前の常識であった」という記事があるが、これはねづさんの記事のコピペのようだ。

それで4番目に引っかかったのがmixiユーザーさんの「パクリ? 古墳は公共事業である説」という記事で、「一体どちらが元ネタなのか? それともどこかに元ネタがあるのか?」と嘆いている。

私の疑問とそっくり同じ。なまじグーグルで1番と2番で引っかかっちゃうから困るんだよね。

次が「古墳は土石流対策の灌漑施設?」という記事。純丘曜彰 教授博士 大阪芸術大学 哲学教授 という肩書が怪しげだが、ウィキにはしっかり名前が掲載されている。五輪オリンピックのエンブレム問題で「論客」として名を馳せたらしい。

土石流対策への思いはなみなみならぬものがあるが、「だから何さ」という気がしないでもない。肝心なポイントは越智社長さんの言葉に尽くされているようだ。

アイヌ人は北から来たのではなく奥羽地方から進出した毛人ではないか。

なぜ思いついたかというと、ずっと縄文人とアイヌ人のDNAの差について悩んできたからだ。

アイヌ人はY染色体で言うと縄文人と同じD型のハプロをもっていて、その頻度は東北地方以南のどの地域より高い。しかし女系の血統を示すミトコンドリアDNAから見ると、縄文人というよりは明らかに環オホーツク海種族の遺伝子を強く引いている。ニブフなど樺太系ばかりではなく、カムチャッカ系の遺伝子も交えている。

とても縄文人の末裔と呼べるようなものではない。

つまりアイヌ人は縄文人とオホーツク人のハイブリッドということになる。しかも明らかにオホーツク人社会に縄文人が侵入して、有り体に言えば侵略して、男を皆殺しにして、女を娶ってできた人種だということになる。

これまで私は、樺太経由で何波かにわたって北からの移民の集団があり、その最後の集団がアイヌではないかと思っていたが、そのような推測には根拠がないことが分かってきた。

アイヌという「民族」が登場するのはそんなに古いことではない。少なくとも紀元前ではない。しかしD型ハプロタイプは遅くとも紀元前3000年ころまでに、日本(とチベット)を除く地域には存在しなくなっている。

北海道で言う擦文土器文化の時代以降に、あらたにD系の集団が北から入ってくることはありえない。

であれば東北・道南の縄文人が全道に拡散してアイヌ民族を形成したとしか考えられない。

紀元0年を中心として前後1千年ほど、日本列島の気候変化は非常に大きなものがあった。これに伴い縄文人生活圏で著しい人口変化があったと考えられる。とくに限界地域である北海道ではその影響は大きかったと考えられるから、北海道における縄文人はほぼ絶滅した可能性もある。

その間隙を埋めるように樺太や千島からオホーツク人が進出し、寒地に適応した独自の文化を形成したと考える。

これから先は推測になるが、阿部比羅夫が戦った「粛慎」はオホーツク人ではないか。戦闘の場所は石狩川の河口付近ではないかと想像している。

秋田の毛人は海岸沿いに北へ進出し、石狩川河口あたりでオホーツク人と勢力争いをしていた。そこに毛人に加勢する形で阿倍比羅夫軍が乗り込んだというのが事の真相であろう。

出羽の毛人はその後も北方への進出を続け、紀元1千年ころにはほぼ北海道の全体を支配下に収め、さらに樺太から黒竜江流域まで版図を広げようとした。彼らは鉄を持っていた。自分で作ったのではなく、大和勢との交易により入手したものだ。石器時代を生きているような種族との戦闘がどういう帰趨をたどるかは火を見るより明らかである。

そのなかで現地民と集簇して形成されたのがアイヌ人だということになる。だとすれば男性が縄文人系、女性がオホーツク人系という遺伝学的特性が矛盾なく説明できるのではないかと思う。

岡野さんの「最高の戦術は友情」というのが、心に引っかかるのは、憲法前文と9条の関係をどう捉えるかというのがずっと宿題になっているからである。

基本的には9条は前文を前提にして成り立っている条項だろうと思う。そして前文は過ぐる大戦への痛切な反省を前提にして成り立っているのだろうと思う。

過ぐる大戦は我が国にも深刻な傷跡を残した。とはいえ、それ以上の苦痛を近隣国に与えている。それは間違いなく侵略戦争であった。それは近隣国との友好を一方的に破壊し、その結果として無謀な大戦に突入し、みずからにも多くの犠牲を出した。

それは民主主義の破壊を伴って進行し、ものも言えなくなった国民は、盲いたまま戦争に協力した。

こういうことが二度とあってはならないのである。

だからこそ平和を誠実に希求し、その最大の保障となる「主権在民」の立憲国家を建設した。そして国際的には、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。

そこに語られる「平和」は受け身のものではない。たんに守るものとしての「平和」ではなく、築き上げるべきものとしての平和である。「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去」する実践の上の「平和」である。

だから、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」するのであって、そのために「国際紛争を解決する手段として」は「武力による威嚇又は武力の行使」という手段を用いないと決めたのである。

いちばん大事なのはこの「精神」である。国家戦略オプションとしての「非武装」ではない。

現実には、自衛隊という実質的な軍隊が強力な装備を備えている。「交戦権の否認」はほとんど危機に瀕している。さらに日米安保条約というまごうことなき軍事同盟に、がんじがらめに絡め取られている。

しかし肝心なことは、「オプションとしての非武装」が揺らいでいることではない。平和国家としての精神が依然として国民の間に強固に存在し続けていることである。

そして我々が何よりもだいじにしなければならないことは、この平和国家としての精神である。

それが岡野さんの「最高の戦術は友情」というスタンスではないか。

赤旗のスポーツ面に、大住良之さん(サッカー・ジャーナリスト)という方の書いた岡野俊一郎さんへの追悼文が掲載された。
大変格調の高い文章で、印象深いので紹介しておく。
岡野さんは、第二次世界大戦後の日本のサッカーで最大の「知性」でした。
これが書き出し。これだけでも身を乗り出させる。
しばらく経歴紹介があった後、次のエピソードが語られる。
むかし、岡野さんが書いた2枚の色紙、
1枚には「考え、鍛え、そして燃えよう 」という言葉が書いてありました。
岡野さんのイメージそのものです。
もう1枚には「友情こそ最高の戦術 」という言葉が書いてありました。
当時あまりよく理解できませんでしたが、社会人になり、組織の中で働くようになってからです。
岡野さんは常にフェアプレーの大切さを口にしていました。そのベースは、試合相手をふくむ周囲の人々の「友情」にあったに違いありません。(文章は一部編集してあります)
たしかにこの2枚をもらったら、1枚めがわかりやすい分だけ2枚めがわかりにくくなるかもしれない。
2枚めはいわば戦略論だ。「友情」はそれ自体がスポーツの目的・目標であるだけでなく、個別の試合においても力となるものだということだ。勝負は時の運、しかし「良い試合」をメークするのには、「友情こそ最高の戦術」だということか。
しかし私はもう少し生臭く考えたい。試合というのを国際試合、さらに国際紛争というふうに広げて考えれば、ルールの尊重とフェアプレーの精神が必要だ。しかし時にはラフプレーが飛び出すこともある。
そういうときにはルールとかフェアプレー精神をいうだけでなく、その根っこにあるお互いの「友情」をだいじにしていくことが、何よりも重要なことだろうということだ。
いずれにしても、たいへん示唆に富む発言であることは間違いない。岡野さん、大変素晴らしいい遺言をありがとう。

共産党がふたたび長時間労働に関する緊急提案を行っている。
今回の題名は「長時間労働を解消し、過労死を根絶するために」となっている。
特徴としては
前回(ブラック企業規制法案)が、悪質経営者を相手にした取り締まり中心の提案だったのに対し、今回は電通など大企業、「長時間労働を是とする社会風土」をも念頭に置いた、より包括的なものとなっている。
もう一つは過労死という事件を受けて、より労働内容の吟味に踏み込んだものとなっている。
第三には、ホワイトカラー・エグゼンプションへの断固たる拒否という視点を組み入れたものとなっている。

前回のブラック企業政策で打ち出した斬新な提案とキレの良さはそのまま残されており、至る所に「雇用のヨーコ」が顔をのぞかせている。若い人にも読んでもらえる政策となっている。
1.インターバル規制の導入。勤務と勤務の間に最低11時間の連続休息時間を確保する。
2.いちじるしい長時間労働は残業代を5割増しにする
3.違法なサービス残業が摘発されたら10割増しにする。つまり「倍返し」である。

政策はこれらの規制を実のあるものにするために、追加的に二つの政策を打ち出している。
一つは、長時間労働の最大の基盤となっている「職場でのパワハラ」を規制することである。まず長時間労働そのものをパワハラと位置づける。
その根拠は厚生労働省が示している「パワハラの6類型」という指針にあるらしい。志位さんの言葉を借りれば、企業社会は、人々を長時間労働に向けて「追い詰める」のである。
政策はこういう指針があるにも関わらず、現行の労働法制にそれを裏打ちをするものがないとして、立法化を要求している。
これは斬新な視点であるし、今後重要な視点でもある。
もう一つの政策が、労基署の抜本的強化である。これにはスタッフの大幅増など現場力の強化と、労働法令の整備による権限の強化がふくまれている。「悪いことをするとおまわりさんが来るよ」というのと同様に、「悪いことをすると労基署が来るよ」という社会を作らないといけないということだ。
「パワハラの6類型」についてはいずれ勉強して報告したい。

youtubeの世界では、ウラジミル・バックがちょっとしたブームになっているようだ。


一気に大量のファイルがアップロードされている。

圧巻はショパンのバラード第1番だ。亡命前の1988年に録音されたもの。こういうのを完璧というのだろう。ナマの音が一つもない。すべての音が周りと溶け込みながら紡ぎ出される。一つひとつの音にニュアンスがある。

消えないうちにダウンロードして下さい。できるだけ良い装置で音量をギリギリまで上げて、眼をつぶって聞いてください。2つのマズルカ(Op17-4と68-4)のなんと寂しげなことか。消え入るような美しさだ。

サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」は何度聞いても3本めの手があるとしか思えない。リストのハンガリア狂詩曲などシフラも真っ青だ。


そもそも、世にどれほどの音源があるのか。グーグルで“bakk discography” といれてみた。

dicogs というサイトにそれに相当するページがあった。

1) Владимир Бакк* - И. Гайдн* / Ф. Шуберт* / Ф. Лист* / С. Рахманинов* - Соната № 10 / Экспромт / Венгерская Рапсодия № 6 / Соната № 2 ‎(LP)    Мелодия  33 С 10—04837-8        1974            

2) Владимир Бакк*, Д. Cкapлaтти*, В. А. Моцарт*, А. Скрябин*, С. Прокофьев* - Untitled ‎(LP, Album)    Мелодия  С 10—10151-52  1978            

3) J. Brahms, R. Schumann, F. Chopin, A. Scriabin ‎(LP, Album)     Мелодия  C10 28871 001   1989  ブラームス後期小曲から5曲、シューマンのアラベスク、ショパンのバラード第3、スクリャービンのソナタ9番。

bakk1989

4) Frédéric Chopin, Владимир Бакк* - Ballade No. 1 / Fantasia / Sonata No. 2 Мелодия  1989

ということで、LPが4枚。いずれもソ連時代のもので、15年間も暮らした米国での録音は皆無である。

これにモスクワでのテレビ放送のエアチェック、ブエノスアイレスでの惨めな、しかし素晴らしい演奏というのがすべてである。

ロシア語はてんでダメだが、

1)はハイドン、モーツァルト、リスト、ラフマニノフと書いてあるようだ。

2)はスカルラッティ、モーツァルト、スクリアビン、プロコフィエフ、

3)、4)は英語でえす。

ただこのリストにはドビュッシーやフォーレ、サン=サーンスなどフランスものがないので、ひょっとするとそれは米国録音かもしれない。とすれば、この写真だが…

living legend

ここに中古が出品されている。2枚組で80ドルだ。


一つのコンサートのライブ録画がアップされている。

1993年6月12日、ブエノスアイレスのテアトロ・アルヘンティノ・デ・ラプラタでのコンサートの録画だ。名前はすごいが、実際は相当チンケだ。ピアノもフルコンサートではないし、椅子ときたらそのへんの折りたたみ椅子だ。念のいったことには、椅子がフロアーを傷つけないようにボードが敷いてある。

以前の年譜で行くと、ロシアから亡命してイスラエルに行ったあと、現地のユダヤ人コミュニティーの引きでアルゼンチンに渡って演奏活動を始めているから、その最初の頃の演奏であろう。

何とも言えないが、どうも盗み撮りかもしれない。カメラは最初から最後まで1台だ。しかし場所は特等席で、画面も最初は揺れるが、途中からはしっかり固定される。三脚を立てている可能性が高い。

変な言い方だが公認の盗み撮りかもしれない。音質は最低だ。覚悟して欲しい。

おそらく最初の曲目がモーツァルトのきらきら星だ。始まってしばらくしても会場のざわつきは収まらない。その中で第なんとか変奏のところで、突然度肝を抜く腕前が披露される。

多分その後がフランクのコラール前奏曲だ。会場はざわついたままだがバックは集中していく。

スカルラッティのソナタはすごい。

演奏は最初は緊張気味でミスタッチも多い。しかしどんどん演奏が白熱してくる。それとともにざわついていた会場が、水を打ったように静まり返っていく。

バックは数曲のソナタを続けて演奏している。何番と言い当てるほどスカルラッティを聴き込んでいないが、すべて一度は耳にした有名職である。

バックのスカルラッティはまるでベートーヴェンのソナタのようだ。荒っぽいといえばそれまでだが、辛気臭さはどこにもない。

最後がスクリャービンか。鬼神の如き演奏だ。この曲はソ連時代のまともな録音が聴けるのだが、全然迫力が違う。「死んでもいい」くらいの気持ちで弾いている。

この演奏のコメント欄に身内と思しき人が書き込みしている。
Thank you so much for posting his works. I also have the tapes/dvd's of them.

So happy the world can now see.  My heart to you. B

My genius boy.

実はこの身内の人は同じ演奏を楽屋裏の方から撮影していた。そのもう一つの音源はさらにひどい。しかし演奏を終えたあとのバックの深い溜め息がなまなましく伝わってくる。

アンコール曲がシューマンのアラベスク。(ひょっとすると順番違っているかもしれない)


最後に今回探し当てた音源の一覧。前よりは増えていると思う。

bakk01
bakk02
こんな記事がありました。

GUILD FOR INTERNATIONAL PIANO COMPETITIONS

3 piano scholarships awarded

June 27, 2001

The Guild for International Piano Competitions has awarded its first three scholarships. Yoko Sata Kothari of Palm Beach Gardens received the “Kathleen McGowan Thousand Dollar Key.” Carl DiCasoli of Palm Beach Gardens received the “Lillian Abraham Thousand Dollar Key.” Gregg Taylor of Miami received the “Annette Megaro Thousand Dollar Key.”

The three namesakes are members of the guild.

The amount of each grant is decided by guild master pianist-in-residence Vladimir Bakk of West Palm Beach. Each scholarship entitles the recipient to 10 hours of coaching by Bakk.

“The financial value of the grant is $1,000, but its artistic value is priceless and could be life-altering,” guild president John Bryan said.


晩年を知る手がかりかもしれません。

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