鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2017年02月

どうも最近の「母乳原理主義」を煽っている元凶が、WHOの「母乳育児を成功させるための10か条」というご託宣のようだ。さらにその根っこには「母乳栄養に関するWHO勧告」というものがある。これはWHOが2011年に“Exclusive breastfeeding”(母乳原理主義)として発表したものらしい。

「固形物を食べられる兆候が現れてくるまでの最初の6か月間は、母乳のみで育てる。母親と子供が望めば、少なくとも2歳までは推奨される」
というのが結論である。

*十分な量の母乳が生産できないことは稀であり、栄養状態の良くない発展途上国の母親も、先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産していることが示されている。

*吸引がより頻繁であるほど、母乳の生産量は多くなる。時間帯を決めて授乳するよりは、赤ちゃんが飲みたい時に授乳する方が望ましい。

*母乳栄養は出産前の体重の復旧、出産後の子宮の復旧、乳癌のリスクの低下など母親にとっても有益である。

*母乳の生産量を増やすために、ドンペリドンやメトクロプラミドが処方される。ただしアメリカ小児科学会は、「メトクロプラミドの副作用は考慮されるべき」としている。

など「母乳原理主義」の驚くべき記述が続く。(ウィキペディアによる)

「栄養状態が悪い母親も先進国の母親とほぼ同質同量の母乳を生産する」という行りは、聞くだけでもおぞましい。どう考えても我が身を切り縮めているということにしかならないのだ。それを是とするのか? それは「医学」なのか?

中でも、常識はずれとして批判を浴びているのが「カンガルーケア」という項目らしい。カンガルーケアとは、育児の手法の一つである。生後30分以内にお母さんのおなかに赤ちゃんをのせて自然に乳首を吸わせる。それがカンガルーのやり方らしい。コロンビアの病院で保育器不足を補うために導入されたのが、「エコロジスト」によって拡散された。

カンガルー・ケアは母乳分泌を促し母子の絆を強化することを目的にしている。いわば完全母乳哺育の第一歩であり,完全母乳主義の一環をなす考えである 

これは出産直後の授乳開始を義務付けたもので、さらに母乳以外の栄養や水分を与えてはいけないという条件がつく。これが第6条というものだ。

一つ間違えば、殺人につながりかねないマニュアルであるが、現在我が国においては、これを「完全母乳栄養」と称し広げようとする動きが広がっているのだそうだ。


以下、「『母乳育児を成功させるための10か条』の解釈について」(2009年)という論文から紹介する。著者は仲井宏充さんと濱崎美津子さん。いづれも佐賀県内の保健所のスタッフのようだ。ネットで調べると、仲井さんは県内各地の保健所を歴任したあと、現在は唐津で開業され、「食と健康」をスローガンに掲げ奮闘されているようだ。

まず抄録から引用する。

現在我が国においてはカンガルーケアが当たり前となり,母乳以外の糖水・人工乳を与えない完全母乳栄養法が“赤ちゃんに優しい”と考えられるようになった.

これは1989年にWHOとUNICEFが共同で発表した「母乳育児を成功させるための十か条 Ten Steps to Successful Breastfeeding」という勧告に基づくものである。

その第四条および第六条を根拠とした「完全母乳栄養法」が国内に普及している。

これに対し筆者は,

1.第四条が言う「母親の授乳開始への援助」がカンガルーケアを指すものではないことを明確にすること,

2.第六条の「新生児には母乳以外の栄養や水分を与えない」は,第四条にある「分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられる」が満たされることを条件とすべきだ。

と提唱する.

第四条 Help mothers initiate breastfeeding within half an hour of birth. お母さんを助けて,分娩後30分以内に赤ちゃんに母乳をあげられるようにしましょう
第六条 Give newborn infants no food or drink other than breastmilk, unless medically indicated. 医学的に必要でないかぎり,新生児には母乳以外の栄養や水分を与えないようにしましょう

この理由として,

1.十分な母乳分泌がないお母さんの赤ちゃんに低血糖が起こる結果,特に脳に重大な影響を及ぼすことを強く示唆する報告が多数あること,

2.カンガルーケアは完全母乳主義の一環をなす考えであるが、科学的根拠に基づく標準的な方法が確立されておらず,カンガルーケアによって危篤状態に陥る児が多数報告されていること

が挙げられる.

以上のことから我々は,

1.新生児の神経発達に影響を及ぼさない血糖レベルが定まっていない現状においては,母乳分泌が十分でない場合には補足的栄養補給を躊躇すべきでない.

2.カンガルーケアには危険が伴うことを認識し,新生児にとって快適な環境温度に調整されてない我国の分娩室においては,カンガルーケアを行うべきではない

ことを強調したい.


以下本論に入る。

Ⅱ 注目すべき報告

山形大学のチームが「症候性低血糖を来たした完全母乳栄養児の1例」を報告した。このケースは正規産新生児で、完全母乳栄養管理下に低血糖による痙攣及び脳障害を来たした。MRIでは後頭部に限局した病変を認めた。

これに対し、WHOは「母乳保育の満期の健康な赤ちゃんでの低血糖が有害であるというエビデンスはまったくない」とし、第6条の堅持を主張した。さらに新生児の低血糖スクリーニングも無意味だとして拒否した。

この意見の対立をめぐり、米国小児科学会は「有効な経験的研究の不足のために、臨床診療のための提言は出せない」と逃げた。

Ⅲ 日本でカンガルーケアを行うことの危険性

これについては確定的な論文による批判はないが、長野県立こども病院総合周産期母子センターの中村友彦医師による問題提起がある。

これは「正常産児生後早期の母子接触(通称:カンガルーケア)中に心肺蘇生を必要とした症例」を提示した上で、「カンガルーケアの留意点」として以下を挙げている。

1.日本のほとんどの産科施設において,正常産児のカンガルーケアが生後30分以内に行われている.ところがカンガルーケア中に,赤ちゃんが全身蒼白,筋緊張低下,徐脈,全身硬直性痙攣,という非常に危険な状態でNICUに緊急入院するケースがあり,他の施設でもこれと似た症例がある。

2.正常産児の生後早期のカンガルーケアに関する文献では,その安全性については議論されていない.また日本では正常分娩の分娩室での母子ケアについては,科学的根拠に基づく標準的な方法が無い.

3.したがって、生後早期のカンガルーケアについて様々な側面から検討する事が必要である.

以上のごとく引用した上で、著者らは次のようにコメントする。

日本では,分娩室の室温は大人に快適な温度、赤ちゃんには低めの温度に調節されている.

このような環境でカンガルーケアを実行すると赤ちゃんは低体温に陥る。その補正のために熱産生を行い,その結果血糖を消費し低血糖に陥る。その結果脳障害の危険が高まる。すなわちカンガルーケアは児に不利益である可能性がある.

Ⅵ 我が国における排他的母乳主義の歴史

学術論文らしからぬ、主観の入り混じった考察ではあるが、それとして見事な文章なので、著作権侵害を恐れず全文を転載する。

我が国における完全母乳主義は国立岡山病院の院長であった故山内先生が推進された運動である.

その当時の日本では,美容的理由や就労の都合,新生児黄疸の予防,さらには乳業メーカーの力などで粉乳哺育が主流となっていた.

山内先生は感染が少ないなど母乳の優位を示すEvidenceにもとづいて母乳推進運動を推進されていたが,森永砒素ミルク事件がきっかけとなり助産師を巻き込んだ社会運動へと発展していった.

「出ない乳房はない,母乳が出ないのは乳房管理が悪いからだ,粉乳を与えるので児は母乳を求めなくなるのである」というロジックで、この運動は昭和50年代から今に至るまで全国を席巻している.

そしていつの間にか,足りないときに適切な糖水や人工乳を足すことをあたかも犯罪であるような言い方をする,偏った母乳主義が台頭することとなった.

今日では,完全母乳主義が乳汁分泌不全の褥婦を精神的に追い詰める結果となっている.

…元来,母乳以外のものを足さないのは,「足せない」低開発国向けのことで,母乳バンク,もらい乳が出来ない日本ではとうてい無理な話ではないかと思う.

むしろ今後は,…乳汁分泌不全の患者さんを完全母乳主義の強迫観念から解放して,「母乳哺育をしたくても出来ない人にどう対処するか」という視点を持つことが是非とも必要だと考える 

率直に言えば、「あぁ言っちゃった。スッキリした」という斬り捨て御免的なきらいはあるが、それはお互いさまだ。こっちは所詮蟷螂の斧だから、このくらい言わないと相手に伝わらない。

そういえば、うちの嫁さんも「桶谷式」とか言って一生懸命揉んでいたが、「痛くなかった」という話も「湯水のごとく母乳が出た」という話も聞いたことはない。そしてしっかりと乳がんになった。

「がん保険」の給付金は、東洋医学とかDHCとかブロポリスなどという怪しげな民間療法で泡と消えた。その金がなんとかテレビの反共デマに使われている。哀れなエコロジー原理主義者の末路であるが、それで納得しているところが怖いところである。

離乳というのがよく分からない。

子供の問題にも関わるし、母体の問題にも関わる。

この問題は育児・子供の成長の問題として語られることが多い。しかし私としては、離乳をふくむ育児という実践は、基本的には母親側の問題だと思う。

女性は、あたり前のことだが、母性である前に女性である。子供を産むことによって初めて母性となる。

子供が成長するように、女性も母親として成長しなければならない。スキンシップを主体とする母性から、見守りを主体とする母性へと育っていかなければならない。

離乳はその重要な過程の一つとして考えるべきだ。

ここまでは多分議論の余地のないところと思うが、問題は母乳を母性の絶対的内容として主張する昨今の風潮だ。どうもこれが問題を複雑にしている気がしてならない。

母乳がベターであることは言うまでも無いし、あえてベストと言ってもよい。しかしオンリーではないはずだ。私はたぶんほぼ母乳なしに育っている。70を過ぎて人並みに暮らしている。タバコさえ吸わなければもっと元気だろうが、これは私の死神との取引だ。

母親が母乳が出なかったことに対し文句を言う気はサラサラないし、むしろ母乳なしでここまで育ててくれたことに感謝している。

そういうのが根っこにあるせいか、1歳半を過ぎてまだ授乳をしている母親に対して、イラッと来てしまう。

「いまはもう、あなたの体のほうがだいじですよ。母性の示し方が違うでしょう。けじめを付けなさい」


この文章を思いついたのは、赤旗の文化面に載った「文化時評」の、あるところが気になったからである。

山崎ナオコーラ「父乳の夢」の紹介の所を引用する。

現在乳児を育てている著者の「母ではなく親になる」という決意が込められ、ユーモアに満ちていて小気味よい。

一般論や雰囲気を「信じるな」が口癖の今日子と、手ずから子育てをしたい哲夫。生後間もない薫への授乳をめぐって、時に行き違う。

母乳絶対の風潮に流されがちな哲夫に対して、無理してまで母乳に固執したくないと考える今日子は、「そんなに母乳が好きなら、哲夫が母乳を出したら良い」と言い放つ。

社会の成熟に伴って体も進化したらしい哲夫からは、溢れんばかりの母乳、もとい、父乳が出てきて…。

あらゆる先入観と決めつけを排し、多様性の尊重をテーマにしてきた著者が、性別役割分業と母乳神話を暴いた快作である。

と、これだけでも名文である。

なお、ついでだが、その記事の隣、「歌壇」にも女性が自分を「僕」と呼び、歌を詠む最近の動向が触れられていて、その例としてあげた歌がなかなかいい。筆者は沖ななもさんという歌人。

目があって
君を見てたと気づく僕
君のうしろに 輝く青空
(中学生 伊藤麻衣)


噴水が
上へ上へと登っていく
夢へと進む 僕らのように
(中学生 石川玲奈)


満月の
明かりたよりにすぶりする
次こそきっと ヒットを打つぞ
(小学生 斎藤歩和)

これらは千葉県山武市主催の「左千夫短歌大会」に応募したものだそうだ。山武市というのは知らなかったが、「野菊の墓」の舞台なのだろうか。

女性と母性の問題はこれからも学んでいく必要がありそうだ。


以前、「特養を出たい」という相談を受けたことがある。
特別養護老人ホーム(通称特養)はある意味で人生の終着駅(の一つ)だ。病気で具合が悪くなって入院して、ある程度落ち着くと、慢性期の施設に移る。
例えば脳卒中の後遺症みたいなものが残ると回復期病棟というところに行く、ただしここには期限があってそれを過ぎたら出なければならない。
それが後遺症どころでなく重い障害を残すと、療養型病棟というところに移る。例えば中心静脈栄養(IVH)とか胃ろう栄養(PEG)とか人工呼吸器とかである。だいたいこのような人は長くは持たないで、療養病棟で命を終えることになる。
それで話が戻るが、回復期病棟の期限がすぎると、あるいはリハの必要がない人の場合なら、老人保健施設(老健)という施設に入る。老健で経過を見ながら自宅復帰の準備を進めて、「大丈夫」ということになったら家に帰ることになる。
ところが、家に帰れないほどの後遺症が残ってしまう人も少なくない。私の経験ではほとんどの入所者が帰れる展望はない。そうなると、終の棲家を探さなければならなくなる。それが特養である。
だから特養は「療養放浪記」の最終章なのだ。
ここから出るのには二つある。一つは病気が悪くなって病院に送られる道である。それでどうなるかというと、ざっと見て半分はそのまま病院で帰らぬ人となり、残りの半分は戻ってくる。しかしそういう人は必ずと言っていいほどまた悪くなる。そしてまた病院に送られる。それで帰ってくる人は殆どいない。
もう一つの道は、病気というより老衰であって、生命機能が落ちてきて、生きようという意欲がなくなる。もちろんその殆どは認知症を伴っている。この場合、家族ともお話した上で、静かに看取らせていただくということになる。
早い話が救急車で出ていくか霊柩車で出ていくかという選択になる。
どちらにしても特養をそれ以外の方法で出ていくことはありえない。そう思っていた。
ところが突然「特養を出たい」といわれたから驚いた。
担当者から話を聞くと、聞くも涙の物語だ。
個人情報になるので詳しくは話せないが、つまりは特養に入所していくだけのお金がなというのだ。
特養にも自己負担があって、もちろん以前からあるのだが、去年の改定で一部負担料がドーンと上がったというのだ。
旦那が入居していて、その旦那の年金で夫婦二人が生活していた。いままでもカツカツの生活で、それでもなんとか頑張っていたのだが、毎年年金は下がるは一部負担は上がるはで、「もうとても切り詰められません」という話になった。
それで「療養型ならもっと安いのでそちらに移りたい」のだという。おそらくどこかで小耳に挟んだか、誰かに吹き込まれたのだろう。
「紹介するのはやぶさかでありません。しかし受けてくれるような病院があるかなぁ」とその場は受け流して、なんとか制度活用や、資産処分とかでもう少ししのげないか、最後は福祉の方でということで、ケースワーカーの方に話を持っていった。その後話しは沙汰止みになったようなので、それなりに落ち着いたとは思うが、なんとなく後味の悪い話であった。

と、ここまでが話しの前段。
本日の赤旗に、「全国施設長アンケート」の結果が紹介されている。
まずアンケート調査の主体だが、老人福祉施設の運営者らで作る「21世紀・老人福祉の向上を目指す施設連絡会」という組織。略称を「21・老福連」という。民間の有志組織のようだ。
この「21・老福連」が、全国の特養の施設長にアンケートを取った。この内回答があったのが1,589施設。特養そのものは全国に7,708施設あり、その20.6%であるから、かなりバイアスがかかっている可能性はあるが、事例を見ていく上では説得力のある調査だと思う。
調査そのものの主眼は、15年の介護保険制度改定の影響を、施行後1年の時点で調べることにあった。しかし、いわば副次的に、入所者への影響が浮かび上がってきている。そこに赤旗が注目して記事にしたというのが話の筋道だ。

記事の見出しは「支払い困難 理由に退所――100超す特養で」 脇見出しが「自公強行 介護改悪ずしり――低所得者の入居 厳しく」

記事ではいくつかの結果が列挙されている。
1.約半数が介護保険制度改定が「入居者に何らかの影響があった」と回答した。
2.101の施設で「支払いの困難を理由に退所したものがあった」と回答した。(人数は調査していない)
3.311の施設で「配偶者の生活苦が強まった」と回答した。
4.その他の影響として、「個室から多床室への移動」が222回答、「利用料支払いの滞納」が206回答あった。
アンケート調査ではこれらの影響が何故生まれたかを問うている。施設側の評価を尋ねたものである。
5.408施設では「低所得者への部屋代の補助、食事代の補助を定めた『補足給付』の要件が変更されたため」と回答している。また367施設では「利用者負担が1割から2割に増えたため」と回答している。

ここまでが調査結果の紹介。以下は『補足給付』についての説明。
元々は14年6月の「医療・介護総合法」によって方向付けられたもので、それを具体化した15年の介護保険制度改定で給付の要件が厳しくなった。
1.預貯金などの資産が一定額を超える場合は補助の対象外となった。
2.一定以上の所得があれば利用料負担は1割から2割に引き上げ。
でこれがダブルで来るとボーダーライン層には、相当きつくなるだろうと予測されたが、今回それが事実として明らかになったということだ。

特養というのは、いわば老人にとって最後のセーフティ・ネットのようなものだ。だから困窮者には補足給付などの方法で「排除されない仕組み」を作ってきたのだが、これでは崖っぷちの下流老人を後押しすることになりかねない。
特養に対するそもそもの考えを、原点に立ち返って今一度検討すべきではないだろうか。

北海道AALA大会

情勢報告 「当面する闘いと国際連帯の課題」


はじめに

第一次議案の討議の中でいろいろ意見が出たので、表現上の修正と若干の補足をした。今回の議案の特徴は題名の通り「当面する闘いと国際連帯の課題」であり、国内課題と連帯課題の関連に焦点を当てたところにある。

これまでは中東・中南米など、ときどきの話題に焦点を当てて情報を提供してきたが、今回はまず私たち自身の闘いを振り返り、それがどのような国際的意義を持つのかを考えてみた。そしてそれとの関連で世界の人々の闘いをとらえ直してみた。そのなかで闘いの目標の共通性、今日的な「連帯」の必要性を検討してみた。

いわば「足元からの連帯」を主要な柱とした課題提起型・行動提起型の文章となっている。これが「情勢討議」の環である。議論のなかで飜えってAALA連帯委員会の固有の役割が浮き彫りになればいいなと思っている。それが「連帯運動ルネッサンス」の土台になっていくのではないかと期待している。


1.反戦・平和構築のための闘争(核廃絶の課題をふくむ)

A) 平和国家から戦争国家への変貌を許さない

この間、日本では「一人も殺さない、殺されない」という平和国家の理念を守る闘争が大きな盛り上がりを見せた。戦後の70年間、日本国民は平和憲法を守り抜き、非戦を貫いてきた。それは「国際社会において名誉ある地位」(憲法前文)を守るという国際的な意味を持つ闘いでもあった。

戦争国家づくりを阻止するためには、憲法9条を守る、戦争法を廃棄するという闘いに加えて、戦争予算の拡大を許さない、武器輸出を許さない、軍学共同を許さないなど具体的な分野の取り組みも必要だ。これらについて世界の現状を学び広げることも大事な課題だ。

B) 平和地帯、「新しい北東アジア」の構想を推進する

日本AALAでは「北東アジア平和協力構想」への賛同署名を行い、大きな成果を上げた。

この「平和構想」は対話の中で諸問題(北朝鮮、尖閣・南沙諸島など)を解決していこうという姿勢であり、ASEAN(東南アジア諸国連合)とCELAC(中南米・カリブ共同体)の経験に学んだものである。またそれは「平和5原則」(1954年)や「バンドン平和10原則」(1955年)など、国際政治の重要な民主的原則を踏まえたものでもある。

引き続き署名活動を推進するとともに、「新しい北東アジア」の構想をさまざまな方法で広げていくことが大事な課題だ。

16年7月、常設仲裁裁判所は、南シナ海問題での中国の主張を、国際法上「根拠がない」と退け、紛争の平和的解決を促す裁定を下した。この裁定を受け、9月のASEAN首脳会談は「法的および外交プロセスの全面尊重」による平和的解決を確認した。これは尖閣問題を考える上でも貴重な教訓である。「法の支配」を貫くためにも裁定の意義を広げていく必要がある。

16年10月、CELACは平和のイニシアチブを発揮し、コロンビア内戦を終わらせた。15年7月に米国とキューバが国交を回復したが、CELACは一貫してキューバ封鎖政策を批判し、国交回復を支援してきた。これらを通じて、ラテンアメリカは「アメリカの裏庭」から脱却しつつある。日米同盟のもとに従属させられている日本が学ぶべき点は多い。

いま、中南米諸国は国際不況のもとで経済不安が広がっており、親米政策への回帰の動きも見られるが、それは決して長続きするものではない。

C) 核禁条約の締結交渉の開始をうながした連帯

16年12月、国連総会で「核兵器禁止条約の締結交渉を開始する決議」が採択された。核兵器禁止条約が締結されれば、核兵器は「違法化」されることになる。世界は新しい段階に入る。核保有国は、法的拘束は受けなくても政治的・道義的拘束を受けることになる。

決議の採択に至ったのは、一つは、圧倒的多数の途上国、先進国の一部を含めた諸政府の共同であり、いま一つは、「核兵器のない世界」を求める世界の反核平和運動…市民社会の運動である。

核廃絶運動こそは国際連帯活動の典型である。世界を動かす二つの流れが連帯したことで決議が成立した、という事実を深く噛みしめる必要がある。

D) 「平和の秩序」を取り戻すための4つの緊急課題

9.11事件とリーマンショックを引き金に、世界の平和の秩序が脅かされている。平和と安定を実現するために、以下の4点が緊急にもとめられている。この方向で国内外の人々と対話を開始し、進める必要がある。

1.国際テロ根絶: このために、①国際的な機構、国際法などを用いて“法による裁き”をくだすことを基本にすえる。②貧困、無知、格差などテロが生まれる根源を除去する。③異なる諸文明間の対話と共存
2.貧困の削減: 「2030年までに極貧や飢餓を根絶」する(15年国連首脳会議)ために、途上国への支援を強める。
3.難民支援: 世界の難民・国内避難民は6530万人に達している。日本をふくむ先進国は積極的にこれを受け入れるべきだ。
4.人道的危機への対応: 国連PKOは変質している。武力を用いる「住民保護」ではなく、非軍事の人道支援を主任務とするべきだ。

より根本的には、国際的な富裕層の横暴を抑え、大小の覇権主義の芽を摘み取り、極右・反動勢力の台頭と闘い、人々の人権を擁護することがもとめられていることは言うまでもない。

2.反格差・反貧困・経済民主主義を目指す闘争

A) 格差問題は世界で深刻化している

格差の問題は、世界的には80年代はじめからの新自由主義的な経済政策(ネオリベラリズム)がもたらした現象である。日本では97年の消費税・金融危機以降顕在化し現在に至っている。

「格差問題」は、富裕層への富の集中、中間層の疲弊、貧困層の拡大という3つの状況の複合である。さらに「板子一枚下は地獄」という不安感が社会的緊張(ゆとりのなさ)を招いている。

これは社会と経済の持続可能な発展にとって重大な障害となっており、AALAとしてもこの問題に国際的視点から取り組むことが必要である。

B) 欧米の社会変革の動きとの響き合い

今日、欧米では深刻な経済危機のもとで、移民排斥を主張する右翼排外主義の潮流の台頭という事態も起こっている。イギリスのEU離脱は「EUの崩壊」として大々的に報道された。しかし、あまり報道されないが、格差と貧困の拡大に反対する幅広い市民運動もそれ以上の勢いで発展していることを見逃してはならない。

最近の動きを見てみよう。

米国では、バーニー・サンダース上院議員が、大統領選挙の民主党予備選で大健闘した。サンダースは「人口の1%の最富裕層のための政治ではなく、99%のための政治」を主張し、青年層の大きな支持を集めた。このスローガンは5年前に「ウォール街占拠運動」を展開した若者たちの主張と同じものである。

米国におけるもう一つの重要な前進は、最低賃金引き上げを求める闘いである。サービス産業を主体とする不安定就業者は日本と同じように過酷な労働に追い込まれてきた。国民の多くに支持されたこの闘いで、昨年、ニューヨーク州とカリフォルニア州では「時給15ドル」が実現した。

2015年のギリシャ、ポルトガル、スペインの総選挙では、「反緊縮」をかかげる市民運動・政党が相次いで勝利・躍進し、ギリシャとポルトガルでは新政権樹立につながった。

イギリスでは2015年9月、労働党の党首選挙が行われ、長年「戦争阻止連合」の全国議長を務めたベテラン闘士ジェレミー・コービンが党首に選出された。躍進の基盤は米国のサンダース旋風と共通しており、緊縮政策、失業、格差と貧困の拡大などへの抗議の声が結集されたもの。青年層が積極的に政治参加しコービン勝利の立役者となった。

これらは、いま日本で発展しつつある野党と市民の共闘と響きあうものとなっている。欧米の経験を学び我々の力としていくことがもとめられている。

C) 格差問題是正のために何をなすべきか

深刻な格差をもたらした新自由主義政策は、日本では「構造改革」として進められた。したがって「構造改革」の根本的な見直しが必要であるが、当面必要な施策は以下のようにまとめられるだろう。

1.税制改革: 税制を改革し、所得再配分をすすめる。「能力に応じて負担する、公正・公平な税制」の原則。①間接税から直接税へのシフト、②大企業優遇税制の抑制、③租税回避を許さない、④世界的な「法人税引き下げ競争」の見直し。
2.財政改革: 積極的な公的社会支出(社会保障、教育・研究、子育て)で格差と貧困を是正する。
3.働き方改革: ①労働規制の強化、②非正規から正規へ、「均等待遇」「同一労働同一賃金」の原則を打ち立てる。③大幅賃上げと最賃引き上げなどによりワーキングプアをなくす。

これらの方向は世界の人々とも共通するものであろう。「強固な分厚い中間層」を擁する「格差なき社会」に向けて何が求められるのか、お互い知恵を出し合う対話を進めることが必要だ。

D) 貿易と投資のルール作り

ネオリベラリズムがおしつけたルールではなく、民主的な相互促進的な貿易と投資のルールを作り上げていくことは、

いま問われているのは、「自由貿易か、保護主義か」ではない。

「自由貿易」の名で、多国籍企業の利潤を最大化するためのルールをつくるのか、人々の暮らしを向上させる相互促進的な貿易と投資のルールをつくるのか、という二つの道の選択である。

TPPが破産したいま、それに代わる包括的な貿易と投資のルールを打ち立てることは、これまでにまして重要な課題となっている。とくに途上国との経済関係を考える上での原則を共有する努力がもとめられるであろう。

なお貿易・投資問題で国際的協力を深めるためには、先進国・途上国の双方ともにILO(国際労働機構)を一層重視する必要があることを付け加えておきたい。

3.原発ゼロの世界を日本から

フクシマは日本の体験であるが、世界の体験でもある。

2年近い「稼働原発ゼロ」の体験を通じて、日本社会は原発なしでもやっていけることが国民的認識となった。 この体験はおおいに世界に向かって普及する必要がある。

処理方法のない「核のゴミ」という点からも、原発再稼働路線の行き詰まりは明瞭である。さらに、原発というのは「自主・民主・公開」の原子力三原則どころか、本質的に何重もの軍事機密に守られた暗闇の軍事技術であることを踏まえておく必要がある(東芝事件)。

4.沖縄基地問題は世界の反基地闘争の焦点

今沖縄でやられていることは、沖縄海兵隊基地を世界への「殴り込み」の一大拠点として抜本的に強化・固定化することである。さらに本土でも出撃基地化が進んでいる。

日本は世界最強の「米軍基地国家」となりつつある。これは日本よりも世界にとっての問題である。

反基地闘争はアメリカの軍事支配との闘争の中でも特殊な鋭さを持つ闘いである。一般的には米軍の軍事基地は縮小再編の傾向にある。その中で沖縄だけが突出している意味を見つめていく必要がある。

さらに選挙で明白に示された民意の無視、度重なる制度的手続きの蹂躙という点で、一国の立憲制度に対する最大の脅威ともなっている。

これらの脅威を世界の人々と共有していく必要がある。これは日本AALAの固有の任務であろう。 

5.立憲主義と民主主義を守る闘争(人権尊重の闘い)

A) 立憲主義(法治思想)への攻撃

今日の世界において一つの著しい傾向がある。それはトランプのツィッター政治に示されているように、立憲主義の思想と基本的人権の原則に対する甚だしい侵害である。

日本における憲法改正の動きはまず何よりも「戦争をする国」作りを目標としているが、同時に「緊急事態条項」など立憲主義の無視をもふくんでいる。

それは憲法を改正するだけではなく、「憲法を憲法でなくしてしまう」攻撃となっている。立憲主義と法治思想を擁護する声を世界中で上げなければならない。

B) 憲法で規定された人権

近代国家の憲法ではさまざまな人権が保証されている。さらにそれは「世界人権宣言」としても定式化されている。

基本的人権の柱は、①個人の尊厳とその尊重、②思想及び良心・表現・学問の自由などの自由権、③法の下の平等・両性の平等などの平等権、④生活・教育・勤労などの社会的生存権、④「人身の自由」と公正な手続き、などから構成される。

なおこれらはの人権枠組みは、国際的な議論を通じてさらに豊かなものとする努力が必要であろう。

また人類共通の普遍的権利を掘り崩そうとする動きは、諸国民が一致して阻止しなければならない。

6.ファシズム・反動思想との闘い

A) 反動思想の諸形態との闘い

反動思想は往々にして「復古思想」として登場する。それは必ず「排外思想」を伴う。安倍首相の「美しい日本」も、トランプがメインスローガンに掲げた"Make America Great Again"も同様である。

安倍政権の「戦争する国」への暴走は、過去の侵略戦争を肯定・美化する歴史逆行の政治と一体のものである。

それは近隣諸国との関係を著しく悪化させる一方、日本の右翼勢力や排外主義勢力を勢いづかせている。

B) 政治にもとめられるもの

これらの流れを断つためには、政治が断固たる立場に立つことが必要である。さらに司法が法的枠組みを厳正に守る必要がある。決定的に重要なのは国民が声を上げ、その力で彼らを孤立に追い込むことである。

同時に「歴史の偽造」に対し徹底的な批判をくわえ、歴史の真実を明らかにする努力がもとめられる。

そのために諸国の進歩勢力とも共同し、歴史の真相を掘り起こし、事実をつき合わせるなどの作業が必要となっている。

7.リベラル・ウィングの形成をめぐる試み

A) 市民と野党の共闘が始まった

アメリカのサンダース現象など、世界の各国で無党派市民の立ち上がりが見られる。

これは一面ではかつて統一戦線を形成した労働組合・社会党・共産党という「既存組織」の衰退の結果であるが、一面では第二次大戦後に世界各国に形成されてきた分厚いリベラル無党派層の活性化でもある。

日本では新しい市民運動による「市民革命」的な動きが沸き起こり、それに背中を押されて国会内外で野党間の共闘が発展し、さらに選挙共闘にまで進んだ。

これを従来型の「統一戦線」という呼称で呼ぶべきかは、検討の余地がある。ここでは「リベラル・ウィングの形成」と呼んでおく。

B) リベラル・ウィング形成のための課題

「リベラル・ウィングの形成」のためには、3つの基本姿勢がもとめられる。

① 「本気の共闘」: 互いに違いを認め合い、互いを信頼し、敬意をもち、心一つにたたかうことの重要性。それは「リスペクト」という言葉に示される。

② 各組織の独自活動の強化: 共闘の一致点をともにしつつも、それ以外ではおおいに独自性を発揮すること、「金太郎アメ」にならないことが、共闘を尻すぼみにさせない保障だ。

③ それぞれの組織が、組織内外の緊張関係を忌避することなく、不断に自己改革をすすめ、唯我独尊になることなく成長していく課題が欠かせない。

これらは日本での「共闘」実践から導き出された教訓であるが、各国でのリベラル・ウィングの形成は、エスニックな要素や宗教的要素などはるかに複雑であり、そこにはさまざまな道筋がある。旧来型「統一戦線」の枠組みにとらわれることなく、事実に即して検討を加え、共通のものを汲み出していかなければならない。

実は小沼さんの文章に注目したのは、あまり本筋ではないところにある。それは次の一節だ。

日本学術会議も加入しているICSU(国際科学会議)は、65年に「ICSUとその傘下組織はいかなる目的であっても、国家のいかなる軍事組織からも、資金を受け入れ、あるいは仲介すべきではない」と、申し合わせをしています。

私が学術会議の倉庫から掘り起こしたICSUの資料によれば、この申し合わせの提案者は日本学術会議であり、物理学者の藤岡由夫が出席して提案したのでした。

と、思わぬところから藤岡由夫の名が飛び出した。

失礼ながら、藤岡由夫が進歩的陣営の一員だったという記憶はない。そこで藤岡由夫の略歴を探し出した。

日本理学会(JPS)雑誌の「談話室」という読み物欄に、瀬谷正男さんの「藤岡由夫先生のこと」という追悼文が載せられている。

おそらく藤岡が76年に亡くなって、間もなくのものと思われる。

25年(大正14)に東大理学部物理学科を卒業。すぐ理研に入り、分光学を専攻した。29年にヨーロッパにわたりオランダとライプツィヒで分光学を深めた。

34年(昭和9)に帰朝し、東京文理大の助教授を兼務するようになった。核物理学の研究に手を染めるようになったのはこれ以降のことらしい。

45年に戦争が終わると、彼は思わぬことをはじめる。模造真珠の開発と赤外分光光度計の製造である。

模造真珠は従来魚の鱗から製造していたものであるが無機物から製造できる ようになり模造真珠工業は非常な発展を遂げ一時は雑貨輸出の第一位を占めるようになり,外貨獲得に大きな貢献をした.

赤外分光光度計は専ら輸入に頼っていたものであるが、光研にて製作技術を完成してからは、輸入を防遏し得たのみでなく輸出されるようにすらなってきた.

なぜこのような商売を始めたか。瀬谷さんはこう書いている。

国民を飢餓から救うには、食糧を輸入するための外貨を獲得しなければならぬ.科学者にできることは、産業と深いつながりのある研究所を創設し,科学者に相応しい輸出用製品の製造抜術を確立することである。

49年 藤岡は創設されたばかりの学術会議会員になった。間を挟みつつ65年まで務めている。先程話題となったICSU申し合わせは65年(昭和40)とされており、彼の任期の最後に当たる。

53年 学術会議会員の任期中に、藤岡は学術会議原子力特別委員会の議長を務めた。

当時世間・一般の空気は原子兵器と関係のある原子エネルギーの研究には批判的であったが、政府は原子炉予算を閣議決定した.
科学者の間からは様々な意見がだされ議論は沸騰した。
このとき藤岡先生ば政府と学者の問に立って非常な努力を重ねられ、原子力平和利用三原則を確立することによりこの難局を切り抜けられた.

ということで、なかなかの政治家であるが、「平和利用三原則」は原発推進派の言葉上のエクスキューズとして挿入されたかのようなニュアンスも、瀬谷さんの文章からは伝わってくる。

伏見康治さんは中曽根・正力のための「いちじくの葉」であり、「原子力にシロウトの年寄り教授たち」と酷評している。(自らも池田大作のいちじくの葉になったんだが、晩節は全うした)

それが、今回の小沼さんの「発見」である程度、藤岡さんの名誉が回復されたような気もする。

本日の赤旗文化面には小沼通二さんが登場し、インタビューに答えている。

小沼さんと言っても話は通じないかもしれない。31年生まれの物理学者で、物理学会の会長も務めている。現在も世界平和アピール七人委員会の委員を務められている。

話を簡単にまとめると、

学術会議の前身である「学術研究会議」が戦争に協力し、深く関与した歴史があり、戦後はその反省から「学術会議」が組織された。

その「設立の誓い」は振り返るに値する。

そこにはこう書かれている。

これまで我が国の科学者がとり来たった態度について強く反省し、…我が国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓う。

45年に国連が結成され、紛争の平和的解決を原則とした。冷戦が始まった48年、ユネスコに結集した8人の社会科学者が、「戦争はやめられる」という声明を出した。

これを日本の科学者50余人が熱心に分析し、翌年の49年、戦争を完全否定した「戦争と平和に関する日本の科学者の声明」を出した。

ほかにも、物理や地質学など、さまざまな学会や研究グループが平和声明を出した。

戦争はついこの間のことで、反省は多くの人にとって具体的経験と感覚に基づくものだった。

こうした動きを汲み取る形で、49年の日本学術会議の設立と「設立の誓い」、50年の「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない声明」が出来上がった。

ということで、大変に格調の高いお話だ。


この記事で私が注目したのは、まず平和反戦ということでの広範な科学者の決意である。

以前、「武谷光男が親ソ・親中の立場から核開発を推進しようとした」という批判に、検討を加えたことがある。

たしかに武谷が戦後の初期に核の平和利用の推進論者であったことを否定はできない。しかしそのことをもって反戦平和の戦闘的実践者であった事実をチャラにすることはできない。

批判者にもしそういう底意があるのなら、それは戦後の反戦平和運動への侮辱になりかねないと思う。

そこにはまず平和運動があり、核兵器への警戒感は薄かった。今日我々が考えるように反戦と反核はイコールのものではなかった。また、アインシュタインら進歩的な科学者が反ファシズムの立場から核兵器の開発を促し、協力さえしたという事実が、反核の意見をためらわせた可能性も否定できない。

しかしそれ以上に彼らは熱烈な平和愛好家だった。だからこそ、その後の動きの中で急速に態度を明らかにし、反核・反戦・平和の一体となった闘いに立ち上がっていくことになるのではないか。

それが50年代前半の動きだ。詳細は年表を参照いただきたい。ただし本家の日本共産党は6全協以降の再建過程で、(一時的ではあるが)明らかにこの到達点から退歩を示している。そして武谷はそういう共産党から徐々に距離を置くようになっていく。


反核と反戦平和の課題を分けて論じるのは、我々の核兵器特殊論の最後の残渣かもしれない。

通常兵器(大量破壊兵器)と核兵器は区別して考えなければならない。それはいままでもそうだったし、これからも間違いなくそうであろう。

ただ運動論としては反戦平和運動と本質的に変わるところはない。通常兵器も核兵器も同じように、究極的には廃棄されるべきものだ。ただ緊急性においてははるかに異なっているわけで、そのために各論的には形態の違いが出てくる。

通常戦争については反対しない人であっても、その緊急性に鑑みて「共闘」することは大いに有り得るし、現にそういう形で運動は進んできた。

同じことは核の軍事使用と平和利用の関係についても言える。福島の原発事故で反核運動家は衝撃を受けた。

「平和利用については安全面で許容できるものなら容認する」という従来の考えは70年代のスリーマイル、80年代のチェルノブイリで根本的変更をせまられた。また、その出自から言って「純粋な平和利用などありえない」ことについての認識も深まっていた。

つまり実質的には「平和利用をふくめすべての(純粋研究目的以外の)核の使用反対」の立場に移ってきてはいたのだが、「平和利用容認論」を面と向かって、自己批判もふくめて否認したことはなかった。

とくに歴史的に遡って、「なぜ」の問題をふくめての自己批判は未だ行われていないように思える。

この問題での真摯な取り組みが必要ではないだろうか。

半端に時間が余って、他に行くところもなくて本屋に入った。最近は買ってもほとんど読まずに終わるので、よほどでないと買わないのだが、つい一冊買ってしまった。

肩のこらない歴史物の新書で、若井敏明さんという人の書いた「『神話』から読み直す古代天皇史」というもの。

中身には素直に承服する。同感する所も多い。ただ結局は時代比定のところで引っかかってしまう。

若井さんは、「纏向遺跡=崇神王朝の都」というところから始める。ここがどうしても納得いかないのだ。

これでは崇神の8代前に起きた神武東征が説明つかない。

倭国(九州王朝)系の神武が瀬戸内ルートを開拓しつつ東進し、難波津に到達したとき、そこには一つの王国(非倭国系)がすでに存在していたのだ。

その王国は河内湖北岸の淀川河口から紀の川の河口までを支配していた。内陸部では大和盆地の全域を支配していた。

もし纏向が非倭国系天孫族による近畿王国の発祥の地であるとすれば、神武東征はそれから数代を経ての話ということになる。

素直に考えれば、神武東征は西暦300年ころの話で、崇神の登場はさらに8代を経過した時代ということになる。

私は纏向を開いた人たちは出雲・吉備方面から進出した天孫族ではないかと考える。その軍組織の頂点にいたのが長脛彦に代表される物部氏ではないかと想像する。

そして、崇神は350年ころの人で、崇神王朝の最後となる仲哀は西暦400年ころの人ではないかと想像している。彼らは物部系とも神武系とも違う北陸(敦賀)からの進出者ではないだろうか。

崇神朝は版図をおおいに拡大した。その間倭王朝は半島にわたり好太王との戦いに明け暮れていた。

いずれにしても、それは倭国と三韓、高句麗、中国とは無縁の存在であろう。

おそらく毎日新聞の特ダネだろうが、17日付の東芝関連記事で、「WH社から撤退するなら違約金8000億円」という裏契約があったと報道された。(「撤退なら違約金8000億円」米原発やめられない東芝

それが、「ウェスチングハウスに対する親会社保証」という文書だ。これは14日に公表された東芝の資料の一番最後にあったものだ。

記事によると、概要は以下の通り

東芝は購入時契約で「ウェスチングハウスに対する親会社保証」を織り込んでいる。

それが偶発債務及び保証類似行為というものだ。 

そこには新型原子炉AP1000 の支払保証が約8千億円あると記載されている。

支払保証というのは、WH社が納入契約を履行できなかった場合に、納入先に払う損害賠償を東芝が保証するということらしい。

いまWH社は米国の原発4基の建設を受注している。もしこれが完成できなかった場合、そしてWH社が頬被りした場合、東芝は電力会社に8千億円の違約金を払わなければならなくなる。

ということだ。

毎日新聞はこう書いている。

東芝はこの2年間でほぼ1兆円という莫大な損失を計上した。しかし、いまここで退けば(マイナス8千億円という)さらなる地獄が待っている。

いまや毎日新聞の見出しはどぎつい言葉が連打される。

決算延期で信用消滅 東芝 “暗黒のバレンタインデー”

東芝債務超過で解体カウントダウン

東芝半導体新会社に群がるファンドの百鬼夜行

しかしもっと恐ろしいのは、東芝が潰れてWH社の行方が宙に浮いたとき、WH社とその奥にいる米軍・米政府がどういう態度に出てくるかだ。

「俺達は日本政府の紹介と仲介があったからWH社を日本の企業に委ねたのだ。これでWH社を潰されたのでは俺達の顔が立たない。それなりの落とし前は着けてもらわなくてはならない」と凄んでくることは容易に予想される。

その時、日本政府は連帯保証責任を回避できるのだろうか。ここがこれからの最大の問題であろう。

本日は音楽鑑賞三昧。
最初はオーギュスタン・デュメイというフランス人のバイオリニスト。以前にも書いたことがあると思うが、もう6,7年も前、釧路時代にテレビで度肝を抜かれたことがある。
関西フィルの演奏会が放送されて、この人がいきなりラヴェルのツィガーヌを弾いて、それがすごかったのだ。多分ホールの音響がよく響いたのも関係しているだろう。
その時はそれで終わったのだが、しばらくしてからベートーヴェンのバイオリン・ソナタを聞いて、この人はただのフランス物のスペシャリストではないなと感じた。私はむかしからコーガン・ギレリスの親子コンビが好きだったのだが、録音も考えるといまやこちらが上だ。あの入れ墨おばさんのピレシュが洒落っ気を入れて、それをデュメイが受け止めるという演奏スタイルだ。
ここまでが既報。
本日はデュメイとピレシュに中国人のチェロ弾きが加わったブラームスのピアノトリオ第1番。二人の掛け合いもさることながら、中国人のチェロの美音に心奪われた。Jian Wangというらしい。
ウィキペディアで調べると、ジャン・ワン(王健)という。68年、西安の生まれ。文化大革命の只中だ。かなり苦労したらしいがアイザック・スターンの引きでアメリカに留学し頭角を現したらしい。
とにかく音が明るく伸びやかで、バイオリンでも弾くように良く鳴る。ピレシュがまた良くて、ガンガン押さえつけるのではなく、要所要所に刺さりこんできて味の効いたフレーズを奏でる。第2楽章ではヤマハ・ピアノの弱音の抜けの良さが堪能できる。
これを受け止めるデュメイの貫禄が聞きどころだ。
この曲ではカッチェン・スーク・シュタルケルの名演があってどうしようもないみたいなところもあるが、ブラームスらしくないブラームスを聞きたいときは一番のおすすめと思う。

2013年03月28日 を増補しました。
赤いウィーンに暮らし、元ハンガリー共産党員で熱烈な活動家である女性を妻としたことで、かなりマルクス主義に接近したこ とは間違いありませんが、中核的な信念としては一種のサンディカリズムに立脚していたように思えます。

私が思うに、この時代のウィーンの左翼は反動派経済学者の「価格転形過程」論にかなり参っていたのではないでしょうか。バウアーもヒルファーディングもこれをうまく突破できていないように思えます。

物質的富というのは具体的有用性においても規定されるし、抽象的な労働生産物としても規定されます。しかしそれはいずれも富の素材的(即自的)規定でしかありません。富は目的として、あるいは手段として対自的にも規定されなければなりません。
富は欲望の物質化(対象化)されたものとして、あらためて措定されなければなりません。マルクスは「経済学批判」では繰り返し欲望の再生産と、物質的富の再生産の照応を語っています。その上で物質的富の源泉について語りますが、それは経済活動という人間的活動の片面でしかありません。

富を消費し、欲望を生産する、もう一つの人間的活動=文化活動がその先に語られなければ、人間的活動の円環は閉じないのです。

マルクスはこの問題を先送りしました。資本論全三部では終わらせられない、もう片側の議論を持ち越しにしました。持ち越しにしただけではなく、ひょっとするといつのまにか等閑視するようになっていたのかもしれません。

「経済学批判」(とくに「要綱」)から「資本論」(とくに「賃金・価格・利潤」)への流れを見ていくと、「労働力」が人間的能力(Arbeits -Vermehrung)の表れとしての労働能力の疎外された姿だという観点が徐々に薄れていくような感じがします。

「価値の価格への転形」は、経済活動として見ただけでは不完全な把握にとどまるでしょう。目下のところ上手く言えないのですが、それは文化活動の開始点としても見ていかなければならないのではないでしょうか。

購買行動を起点とする消費活動は社会的文化活動でもあります。“もの”として凝縮されたエネルギーがその具体的有用性を発揮し、それを生きとし生けるものとしての人間が受け取り、みずからを生物的制約から解放し、より人間的に文化的に発展していくこと、それこそが消費活動です。

この辺がこれからの理論課題なのだろうと思いますが、ポラニーは「多ウクラードの併存」、あるいは「社会の多元性」という形で、形而上学的な乗り切りを図りました。これは一種の問題回避であり「政治的解決」です。

本日の赤旗文芸欄は萩原朔太郎の評論である。

なんでこんな男を赤旗で取り上げなけりゃならないのか、不思議である。

基本的には金持ちの道楽息子で、生活能力がからっきしないから詩人にしかなれなくて、それがたまたまうまく行ってしまった、だけの話ではないか。

だから中身はなんにもない。表現の鮮やかさが人目を引くだけだ。優しさとか、逆に憤りとか、生身の人間が社会との関わりの中で持つ感情がすっぽり欠落している。

彼はまず何よりも評論家であり、それも中身に対する評論でなくそのファッションに関する評論家である。

評論をやっているうちに、そこそこに技法を学び、自分でも書いてみたら存外に評判をとってしまった。

というのが私の萩原朔太郎観であるが、やはりこのようなレッテル貼り、外在的批判は大方のひんしゅくを買うだろうから、すこし青空文庫で「月に吠える」を読むことにしよう。


かなしい遠景
かなしい薄暮になれば、
労働者にて東京市中が満員なり、
それらの憔悴した帽子のかげが、
市街(まち)中いちめんにひろがり、
…なやましい薄暮のかげで、
しなびきつた心臓がシャベルを光らしてゐる。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
…犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

田舎を恐る
わたしは田舎をおそれる、
…くらい家屋の中に住むまづしい人間のむれをおそれる。
…土壌のくさつたにほひが私の皮膚をくろずませる、
…田舎の空気は陰鬱で重くるしい、
田舎の手触りはざらざらして気もちがわるい、
わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物の皮膚のにほひに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、

かろうじてこれだけ拾い上げた。一言で言えば、「冬の時代」に咲いた東京モダンのあだ花だ。J-ポップのプロモーションビデオを見ている気分。情景は背景にすぎない。

酒精中毒者の死」、「蛙の死」は愚劣で不愉快な詩だ。
何かデジャブーを感じた。
これである。
番組の終盤、彼がグロテスクで・クソリアルな動画を見て激怒したのは、作品そのものというより、つかみかけたCGの将来イメージに真っ向から泥を投げつけられたからに違いない。

その動画は、たしかに画面は動いているが、思考法としては止まっているのである。そこに吹き込まれているのがいのちではなく「死」だからである。いのちとの交わりではなく、いのちのあまりにも無造作なモノ化だからである。

宮崎さんが欲しているのはいのちが紡ぎ出す物語であり、CG屋さんにも、かくあれと欲しているのである。

 

 

1.反戦・平和構築のための闘争(核廃絶の課題をふくむ)

A) 平和国家から戦争国家への変貌を許さない

日本では「一人も殺さない、殺されない」という平和国家の理念を守る闘争が大きな盛り上がりを見せた。それは「国際社会の中で名誉ある地位」を守るという国際的な意味を持つ闘いでもあった。

戦争国家づくりを阻止するためには、戦争予算の拡大を許さない、武器輸出を許さない、軍学共同を許さないなど具体的な個別の取り組みも必要だ。

B) 平和地帯の構想を推進する

日本AALAでは「北東アジア平和協力構想」への賛同署名を行い、大きな成果を上げた。

これは対話の中で諸問題(北朝鮮、尖閣・南沙諸島など)を解決していこうという姿勢であり、ASEAN(東南アジア諸国連合)とCELAC(中南米・カリブ共同体)の経験に学んだものである。

またそれは「平和5原則」(1954年)や「バンドン平和10原則」(1955年)など、国際政治の重要な民主的原則を踏まえたものでもある。

16年7月、常設仲裁裁判所は、南シナ海問題での中国の主張を、国際法上「根拠がない」と退け、紛争の平和的解決を促す裁定を下した。

この裁定を受け、9月のASEAN首脳会談は「法的および外交プロセスの全面尊重」による平和的解決を確認した。

16年10月、CELACは平和のイニシアチブを発揮し、コロンビア内戦を終わらせた。15年7月に米国とキューバが国交を回復したが、CELACは一貫してキューバ封鎖政策を批判し、国交回復を支援してきた。

C) 核禁条約の締結交渉の開始をうながした連帯

16年12月、国連総会で「核兵器禁止条約の締結交渉を開始する決議」が採択された。核兵器禁止条約が締結されれば、核兵器は「違法化」されることになる。

世界は新しい段階に入る。核保有国は、法的拘束は受けなくても政治的・道義的拘束を受けることになる。

決議の採択に至ったのは、一つは、圧倒的多数の途上国、先進国の一部を含めた諸政府の共同であり、いま一つは、「核兵器のない世界」を求める世界の反核平和運動…市民社会の運動である。

この二つが連帯したことで決議が成立したという事実を深く噛みしめる必要がある。

D) 世界平和実現へ向けた努力

党大会は4項目の提案を行っている。なお共産党の提案には5項目目として環境問題がふくまれているが、これは別項で扱うことにする。この提案の方向で世界の人々と対話を進める。

1.国際テロ根絶: このために、①国際的な機構、国際法などを用いて“法による裁き”をくだすことを基本にすえる。②貧困、無知、格差などテロが生まれる根源を除去する。③異なる諸文明間の対話と共存
2.貧困の削減: 「2030年までに極貧や飢餓を根絶」する(15年国連首脳会議)ために、途上国への支援を強める。
3.難民支援: 世界の難民・国内避難民は6530万人に達している。日本をふくむ先進国は積極的にこれを受け入れるべきだ。
4.人道的危機への対応: 国連PKOは変質している。武力を用いる「住民保護」ではなく、非軍事の人道支援を主任務とするべきだ。

2.反格差・反貧困・経済民主主義を目指す闘争

この節は相当幅広い課題をあつかうため、多くの項に分かれている。第(1)節はアベノミクスの総括なので省略する。

A) 格差問題の深刻化した背景

格差の問題は、90年代後半以降(世界的には80年代はじめから)の新自由主義的な経済政策がもたらした現象である。

それは、富裕層への富の集中、中間層の疲弊、貧困層の拡大という3つの状況の複合である。さらに「板子一枚下は地獄」という状況が社会不安を招いている。

社会と経済の持続可能な発展にとって、この問題に真正面から取り組むことが必要である。

B) 欧米の社会変革の動きとの響き合い

今日、欧米では深刻な経済危機のもとで、移民排斥を主張する右翼排外主義の潮流の台頭という事態も起こっている。

同時に、格差と貧困の拡大に反対する幅広い市民運動が発展している。

2015年のギリシャ、ポルトガル、スペインの総選挙では、緊縮政策の転換を求める市民運動と連携した政党が相次いで勝利・躍進し、ギリシャとポルトガルでは新政権樹立につながった。

イギリスでは2015年9月、労働党の党首選挙で、「戦争阻止連合」のジェレミー・コービン全国議長が党首に選出された。緊縮政策、失業、格差と貧困の拡大などに抗議する青年層がコービン勝利の立役者となった。

米国では、「人口の1%の最富裕層のための政治ではなく、99%のための政治」を主張するバーニー・サンダース上院議員が、大統領選挙の民主党予備選で、青年層の大きな支持を集め、大健闘した。

いま一つは「時給15ドル」への最低賃金引き上げを求める運動である。昨年、ニューヨーク州とカリフォルニア州で「時給15ドル」が実現するなど大きな成果を勝ち取った。

これらは、いま日本で発展しつつある野党と市民の共闘と響きあうものとなっている。

C) 格差問題是正のために

共産党は3つの課題を提起している。この提案の方向で世界の人々と対話を進める。なお共産党の提案には4つ目の課題として産業構造の改革が含まれるが、日本の特殊事情がふくまれるため省略する。

1.税制改革: 税制を改革し、所得再配分をすすめる。「能力に応じて負担する、公正・公平な税制」の原則。①間接税から直接税へのシフト、②大企業優遇税制の抑制、③租税回避を許さない、④世界的な「法人税引き下げ競争」の見直し。
2.財政改革: 積極的な公的社会支出(社会保障、教育・研究、子育て)で格差と貧困を是正する。
3.働き方改革: ①労働規制の強化、②非正規から正規へ、「均等待遇」「同一労働同一賃金」の原則を打ち立てる。③大幅賃上げと最賃引き上げなどによりワーキングプアをなくす。

D) 貿易と投資のルール作り

ネオリベラリズムによるルール作りではなく、民主的な相互促進的な貿易と投資のルールを作り上げていくことは、重要な課題である。

今回の大会決議では以下のように記載されている。

いま問われているのは、「自由貿易か、保護主義か」ではない。「自由貿易」の名で、多国籍企業の利潤を最大化するためのルールをつくるのか、各国国民の暮らし、経済主権を互いに尊重する公正・平等な貿易と投資のルールをつくるのかである。

しかし残念ながら具体的内容には触れられておらず、宿題として残されている。

なお貿易・投資問題で国際的協力を深めるためには、ILO(国際労働機構)を一層重視する必要があることを付け加えておきたい。

3.原発ゼロの世界を(地球環境課題もふくむ

以下は日本の体験であるが、世界の体験でもある。

2年近い「稼働原発ゼロ」の体験を通じて、日本社会は原発なしでもやっていけることが国民的認識となった。

処理方法のない「核のゴミ」という点からも、原発再稼働路線の行き詰まりは明瞭である。

この体験はおおいに世界に向かって普及する必要がある。

一方、再生可能エネルギーの普及は国民の生命と安全を守り、エネルギー自給率を向上させ、経済の発展にとっても大きな効果がある。

このへんは、なかなか実証が難しい。リアルな数字に基づく検証と相互の交流が必要である。

大会決議には触れられていないが、原発というのは本質的に何重もの軍事機密に守られた軍事技術であることを踏まえておく必要がある。

4.沖縄基地問題は世界の反基地闘争の焦点

今沖縄でやられていることは、沖縄海兵隊基地を世界への「殴り込み」の一大拠点として抜本的に強化・固定化することである。さらに本土でも出撃基地化が進んでいる。

日本は世界最強の「基地国家」となりつつある。これは日本よりも世界にとっての問題である。

反基地闘争はアメリカの軍事支配との闘争の中でも特殊な鋭さを持つ闘いである。一般的には米軍の軍事基地は縮小再編の傾向にある。その中で沖縄だけが突出している意味を見つめていく必要がある。

さらに選挙を通じた民意の無視、度重なる制度的手続きの蹂躙という点で、一国の立憲制度に対する最大の脅威ともなっている。

これらの脅威を世界の人々と共有していく必要がある。これは日本AALAの固有の任務であろう。 

5.立憲主義と民主主義を守る闘争(人権尊重の闘い)

A) 立憲主義(法治思想)への攻撃

今日の世界において一つの著しい傾向がある。それは立憲主義の思想と基本的人権の原則に対する攻撃である。

日本における憲法改正の動きはまず何よりも「戦争をする国」作りを目標としているが、同時に「緊急事態条項」など立憲主義の無視をもふくんでいる。

それは憲法を改正するだけではなく、「憲法を憲法でなくしてしまう」攻撃となっている。

B) 憲法で規定された人権

近代国家の憲法ではさまざまな人権が保証されている。さらにそれは「世界人権宣言」としても定式化されている。

基本的人権の柱は、①個人の尊厳とその尊重、②思想及び良心・表現・学問の自由などの自由権、③法の下の平等・両性の平等などの平等権、④生活・教育・勤労などの社会的生存権、④「人身の自由」と公正な手続き、などから構成される。

なおこれらはの人権枠組みは、国際的な議論を通じてさらに豊かなものとする努力が必要であろう。

また人類共通の普遍的権利を掘り崩そうとする動きは、諸国民が一致して阻止しなければならない。

6.ファシズム・反動思想との闘い

A) 反動思想の諸形態との闘い

反動思想は往々にして「復古思想」として登場する。それは必ず「排外思想」を伴う。安倍首相の「美しい日本」も、トランプがメインスローガンに掲げた"Make America Great Again"も同様である。

安倍政権の「戦争する国」への暴走は、過去の侵略戦争を肯定・美化する歴史逆行の政治と一体のものである。

それは近隣諸国との関係を著しく悪化させる一方、日本の右翼勢力や排外主義勢力を勢いづかせている。

B) 政治にもとめられるもの

これらの流れを断つためには、政治が断固たる立場に立つことが必要である。また国民の力で彼らを孤立に追い込むことが必要である。

同時に「歴史の偽造」に対し、徹底的な批判をくわえ、歴史の真実を明らかにする努力がもとめられる。

そのために諸国の進歩勢力とも共同し、歴史の真相を掘り起こし、事実をつき合わせるなどの作業が必要となっている。

7.リベラル・ウィングの形成をめぐる試み

A) 市民と野党の共闘が始まった

アメリカのサンダース現象など、世界の各国で無党派市民の立ち上がりが見られる。

これは一面ではかつて統一戦線を形成した労働組合・社会党・共産党という「既存組織」の衰退の結果であるが、一面では第二次大戦後に世界各国に形成されてきた分厚いリベラル無党派層の活性化でもある。

日本では新しい市民運動による「市民革命」的な動きが沸き起こり、それに背中を押されて、国会内外で野党間の共闘が発展し、さらに選挙共闘にまで進んだ。

これを従来型の「統一戦線」という呼称で呼ぶべきかは、検討の余地がある。ここでは「リベラル・ウィングの形成」と呼んでおく。

B) リベラル・ウィング形成のための課題

「リベラル・ウィングの形成」のためには、3つの基本姿勢がもとめられる。

① 「本気の共闘」: 互いに違いを認め合い、互いを信頼し、敬意をもち、心一つにたたかうことの重要性。それは「リスペクト」という言葉に示される。

② 各組織の独自活動の強化: 共闘の一致点をともにしつつも、それ以外ではおおいに独自性を発揮すること、「金太郎アメ」にならないことが、共闘を尻すぼみにさせない保障だ。

③ それぞれの組織が、組織内外の緊張関係を忌避することなく、不断に自己改革をすすめ、唯我独尊になることなく成長していく課題が欠かせない。

これらは日本での「共闘」実践から導き出された教訓であるが、各国でのリベラル・ウィングの形成にはさまざまな道筋がある。これらの道筋からは異なった教訓が得られるかもしれない。


今宮さんの記事の隣に、「経済コラム」という囲み記事があって、これは記者が交替で書くいわば経済面の「潮流」みたいなものだ。
本日は金子記者の署名で「表の主役と裏の主役」というもの。この場合安保条約第5条が表方で、第2条が裏方だということになる。
今回の安倍首相の訪米は、表が尖閣諸島で、安倍首相はこのために経済協力という名の手土産を差し出したという評価であるが、これを安保条約と結びつけた発想が新鮮だ。金子記者のオリジナルかどうかは知らないが。
以下引用
今回の首脳会談では、米国の「日本防衛」を定めた安保条約第5条の適用範囲に尖閣諸島が含まれる、とトランプが表明したことが注目されました。
これと並んで、「互いに利益をもたらす経済関係の構築」と、「(アジア太平洋地域での)市場障壁の削除」との文言も書き込まれました。
これは安保条約の第2条、「国際経済政策における食い違いを除くことに務め、両国間の経済的協力を推進する」との条文に照応するものです。
安保条約の条文を今一度おさらいしておこう。
第二条: 締約国は、その自由な諸制度を強化することにより、これらの制度の基礎をなす原則の理解を促進することにより、並びに安定及び福祉の条件を助長することによって、平和的かつ友好的な国際関係の一層の発展に貢献する。締約国は、その国際経済政策におけるくい違いを除くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する
第五条: 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する。(後段 略)

5条と2条のバーゲンという図式はレーガン政権発足時の「ロン・ヤス関係」に似ている。ともに癒着と従属を深める政策であることには変わりないが、どちらを売ってどちらを買うかという中身が逆になっている。
「ロン・ヤス関係」では日米貿易摩擦の中で5条を売って2条を買った。日本国憲法第9条に抵触することを知りながら、武力による貢献に一歩踏み出した。中曽根首相の「不沈空母」発言はこの時のものだ。これによって貿易摩擦を軽減しようと図ったが、それがムダだったことは歴史が証明している。
今回の安倍内閣は逆に2条を売ることで5条を買おうとしている。尖閣を安保の枠組みに組み込むことによって対中対決姿勢を確かなものにしようとしている。思えばそのためのTPPであった。そしてTPPでは不足だと蹴っ飛ばしたのがトランプ政権だ。
日米経済交渉という名の経済主権侵害が繰り返されてきた、その背景に安保条約第2条があることを、我々は忘れてはならない。日米同盟に追随することは、これまでにもまして屈服をもたらすことだ。それは日本経済の沈没へとつながっていく。それも過去の経験が明示するところだ。

今宮謙二さんが赤旗経済面に「経済の劣化示す消費低迷」という短評を書いている。
中身は中身として面白いのだが、この中で下記のような一節が心に残った。
基本は資本主義の行き詰まりです。
第一に、大企業や富裕層が自らに有利な流れを作っています。
第二に、その結果として格差が拡大し、国民の間に不安が広がっています。
第三に、その中でトランプ政権のようなむき出しのナショナリズムが広がっています。
第四に、平和と民主主義の危機に対する市民の運動が広がっています。
これらが世界的な新しい局面です。
たしかにこの4つの流れに分けて考えると、物事が整理されてくるような気がする。
その際に、対立軸が第一の流れと第四の流れとの対抗としてあることも、おさえておくべきだろう。同時にほかの3つの流れは嫌でも目に入ってくるが、第四の流れは調べて掘り起こしていかないと分からない。
この構図を踏まえながら、第四の流れ「平和と民主主義の危機に対する市民の運動」を少し肉付けしてみたいと思う。
その際、共産党の大会決定から国内の闘争の到達状況をピックアップしながら、それらの闘争は世界でどう闘われているかを探ってみたい。読者の共感をより得られるのではないかと考えている。

日本における諸闘争の到達状況

第27回共産党大会の決議では、第3章に諸課題での闘争の状況と課題が展開されている。(13)から(21)までの9節に分けられ記述されている。

(13) 安倍政権の危険と、それを打ち破る可能性

(14) 「戦争する国」づくりを許さない――日本共産党の平和の提案

(15) 格差と貧困をただす経済民主主義の改革を

(16) 原発再稼働を許さず、「原発ゼロの日本」を

(17) 沖縄をはじめとする米軍基地問題――全国の連帯を訴える

(18) 憲法改悪を許さず、憲法を生かした新しい日本を

(19) 侵略戦争を肯定・美化する歴史逆行、排外主義を許さない

(20) 日米安保条約、自衛隊――日本共産党の立場

(21) 統一戦線の画期的発展と今後の展望について

この内、(13)節は序論部分、(20)節は理論課題となるため、以下のように番号付けしておく。

1.反戦・平和構築のための闘争(核廃絶の課題をふくむ)

2.反貧困・生活防衛と経済民主主義を目指す闘争

3.反原発の闘争(地球環境課題もふくむ)

4.反基地の闘争(アメリカの軍事支配との闘争)

5.立憲主義と民主主義を守る闘争(人権尊重の闘い)

6.反ファシズム・反動思想との闘い

7.リベラル・ウィングの形成をめぐる試み

これらの闘いは現在進行形で、世界の様々な場所で闘われており、それらを知ることが国際連帯運動の第一歩につながるであろう。

テロリストという言い方にはいつも抵抗がある。
善悪は別として少なくとも白色テロと赤色テロ、あるいは黒色テロとは区別する必要がある。白色テロは権力の弾圧の一環であり、いかなる意味においても糾弾の対象である。黒色テロはテロリズム思想の発露であり、無政府主義の一部を形成している。これについては個別に議論しなければならない。赤色テロは本来ありえない概念であるが、実際には存在する。
狭義のテロは、どの形態においては「暗殺」とほぼ同義である。大変グレーゾーンの広い領域であるが、「窮鼠ネコをかむ」行為であることにおいて共通する。問題はそのテロリストが「窮鼠」であったかによる。
いずれにしても、ここまでが本来の古典的なテロの範疇である。それは法治国家においては明確に刑法上の犯罪を構成する。あとはどのくらい情状酌量の余地があるかということだけだ。
かつてテロリストはいくばくかの美意識を持って語られていた。「弱者の英雄」としての側面を持っていた。テロで歴史が変わるものでは決してないが、「及ばずともせめて一太刀」の思いが感じられた。
秦の始皇帝を暗殺しようとした荊軻は、「壮士ひとたび去ってまた還らず」と歌った。2千有余年を経て、未だに英雄である。
兵営の襲撃に失敗したカストロは、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と叫んだ。
「われは知る、テロリストの かなしき心を」の石川啄木についてはいずれ、もう少し調べてから論及したい。

4つめがいま流行りの「テロもどき」である。
この「テロもどき」には2つの特徴がある。ひとつは命をかけるに値するターゲットがないこと、したがって大義がないことである。大量・無差別で、実行犯の倫理性とか思想性がまったく感じられない。
二つ目にはイサギがない事である。「自爆」テロと言うが、自爆するのはテロリストではなくその手下だ。特攻隊で突っ込んでいったのは特攻の指揮者ではない。女子供を騙しこんで自爆させる卑劣な手口には憎しみしか感じない。口先で何を言おうと、それはただの「臆病な愉快犯」だ。


4.サンフランシスコ条約と韓国

A) 終戦と「解放」

日韓関係の食い違いは、サンフランシスコ条約で決定的なものとなった。

この辺はたしかに曖昧にしてきたところだ。と言うより、「えっ、韓国とサンフランシスコ条約なんて関係あるの?」くらいの気持ちだった。しかし南さんは朝鮮における日本の責任を曖昧にしたものとして、あらためて見直す。

南さんはこう書いている。

日本と朝鮮は脱植民地課題について一対一で直面する機会が与えられなかった。したがって脱植民地の課題は連合国のアジア政策の中に解消されてしまった。日本帝国主義に起源を置く課題が温存され、隠蔽されてしまった。

ただ私の感想としては、温存・隠蔽というよりは主要な問題ではなくなってしまったということではないかと思う。それと、この時点で韓国が当面していたのは、日韓関係よりももっと根本的な朝鮮という国家の形成のあり方の問題ではないだろうか。

たしかにサンフランシスコ講和は問題を整理すべき大事なチャンスではあったのだが、実際問題としては、朝鮮戦争真っ只中の韓国にとってはそれどころではなかった。

私はまず、終戦処理の問題でアメリカがあいまいなままに終始したことをまず問題にすべきだろうと思う。

まず、朝鮮は日本帝国から解放された国家ではあったが、戦勝国としても連合国の一員としてもカウントされていない。その「解放」は勝ち取られたものではなかった。

第二に、朝鮮は日韓併合により政府や国家機構を失っており、終戦の時点では「無政府国家」であった。

もちろん独立国家の樹立を目指す勢力がいなかったわけではない。それどころか国民の圧倒的支持を受けた独立勢力が臨時政府を樹立し、終戦直後の混乱を抑え統制を実現していた。

しかしアメリカもソ連もこの独立勢力を無視して、独自の体制づくりを目指した。

その中で南北の傀儡勢力が対立を深め、朝鮮戦争へと突入していく。

これが第二次大戦の終了から朝鮮戦争へと至る国家形成の主要な経過だ。そこには日本のにの字もない。たしかに親日派との闘いは部分的に展開されたが、それは「旧親日派」であって、その時点で日本とつながっていたわけではない。

その結果として、日本の責任が曖昧にされたということだ。

B) サンフランシスコ条約で韓国が得たもの、得られなかったもの

日本の残留資産は韓国に移譲された(第4条B項)。これは特殊な条項で、日本は他の非侵略国に対しては賠償責任が課されたが(第14条)、韓国にはこの条項は適応されなかった。これは韓国が第2次大戦によって占領・併合された国ではないからではないからであるが、直接には日本側の強い主張によるものであった。(委細は原文をお読みいただきたい)

得られなかったものは他のすべてである。

連合国は韓国を連合国と認めなかった。サ条約に署名国として参加することもできなかった。

これらの挫折が過剰な戦場国家意識を生み、これが独裁体制の正当化につながるという連鎖が生まれる。これは非常に大きな問題で、日韓関係の根底のところにこの問題があります。

3.韓国のナショナリズム 近代化と自由化

A) ナショナリズムの定義

前の章までがいわば総論と言うか枠組み設定だったのに対し、ここからは韓国政治の各論となる。

まずナショナリズムを定義するために次の文を提示する。

ナショナリズムとは、国内において近代化を確立する、そして対外関係においては自主、平等を確保する、こういう二つの目標を同時に追求する運動です。

一般的なナショナリズムは近代化を追求する努力と自主化を追求する努力が相乗の関係にある。

次いで旧植民地諸国におけるナショナリズムの定義に移る。

旧植民地においては、近代化と自主化は相殺関係になる

というのが、南さんの考えだ。これもあまりにも単純で素直には首肯できない。

とにかく話をすすめる。

さらに旧植民地の中でも韓国には歴史的特殊性がある。朝鮮王国時代は清国への臣従状態があり、その後は日本の植民地となる。戦後は国土が分断され、永続的な戦争状態に置かれ、アメリカの軍事的・政治的・経済的隷属を余儀なくされる。

このあと、独特の言い回しがしばらく続くが、うんと図式的に言うと

①李承晩時代 自主性↑、近代化↓

②朴正熙時代 自主性↓、近代化↑

③金泳三時代 自主性↑、近代化↓

④金大中時代 自主性↑、近代化↑

ということで、金大中の時代に初めて自主化と近代化が結合して捉えられるようになった、ということらしい。

南さんはこういう。

日本との不平等条約によって自主の国となり、植民地の下での日本による近代化を経験したことによって、韓国のナショナリズムは両車輪が逆回りになってしまい、前進出来ずグルグル回ることになってしまった。

韓国のナショナリズムはどうしても日本との関係で語られます。戦後においては米に対するナショナリズムも大きな意味を持つようになりましたが、基本的に韓国のナショナリズムは日本絡みのものです。

ただこれをもって日韓関係の基軸概念とするのには抵抗を覚える。

日本の植民地支配はわずか30年足らずであった(その前10年間の属国時代を入れれば40年)。それが如何に理不尽なものであったとしても、それは70年以上も前に終わった。朝鮮は爆撃の被害もほとんどなく、日本人資産は無傷で残され無償で接収された。

終戦以来の20年間、日韓関係はほとんど断絶していた。朝鮮戦争への出動も日米同盟の枠内の行動であり、韓国という国家そのものとは縁がなかった。

朝鮮戦争後も李承晩政権とは没交渉の時代が長く続いた。私の朝鮮現代史年表でも李承晩時代に日本絡みの項目はほぼ皆無である。

私の子供の頃の韓国といえば、李承晩ラインを設定して日本の漁船を拿捕する報道しか知らない。民間レベルではむしろ北との関係のほうが重視されるくらいだった。

アメリカからの強力な後押しがなかったら日韓条約にも積極的に応じたとは思えない。

つまり、ここまで説明された範囲では対日ナショナリズムの強力さ(執拗さ?)は理解できないのである。

2.戦場国家と基地国家

A) 韓国は戦場国家

南さんの議論は「戦場国家」論へと及んでいく。それは朝鮮戦争後の朝鮮半島が冷戦体制に入ったのではなく、いまだに「休戦状態」のままだという把握である。そのために韓国のナショナリズムは、しばしば国のあり方や日韓関係のあり方をひっくり返すほどの熱狂性を帯びている、という理解につながっていく。

どこが違うか、それを南さんは展開していく。

戦場国家は戦時であることを理由に民主主義を許さない。同時に対外的には戦場であることを理由に特別な配慮を要求する。

以下は私の感想的意見であるが

戦場国家は一種のレトリックではあるが、国民はそれを許容し、国家を支持した。現に68年の青瓦台襲撃事件、87年の大韓航空機撃墜事件、97年の潜水艦潜入事件、08年の国境の島砲撃事件と、ほぼ10年おきに北朝鮮による大規模な攻撃があった。日本の拉致問題もその流れの中に捉えることができるだろう。

「戦場国家」としての認識を韓国国民は繰り返し叩き込まれているのである。

ただしこの「戦場国家」には二面性があって、一面ではたしかに戦時体制国家ではあるが、もう一面ではレトリックによって成立している「幻想共同体」でもある。

B) 日本は基地国家

次いで南さんは、「韓国が戦場国家だとしたら日本は何なのだろう」という方向に議論の矛先を向ける。

日本は「基地国家」だ、というのが南さんの結論である。

日本は植民地として搾取されているというよりも、日本も基地国家としてそこから利益を得ている。

…日本は軍隊を持たずに同盟国の要塞として基地を提供することで自国の安全を図ろうとした。

私の考えるに、これは一種の「安保タダ乗り論」であろう。その当否はさておいて、韓国人の日本観にはこの感情が抜き難く染み込んでいることは理解しておいて良いだろう。

C) 休戦体制からの脱却

ここまでやや飲み込みにくい議論であったが、そこからの実践的結論はわかりやすい。

いずれにせよ休戦体制という不安定な関係が続いていることが、日韓関係にも影を落としているのだから、この休戦体制から脱却してより安定的な南北関係に移行しなければならない。

またも思いつきだが、
弁証法の基本矛盾は存在と過程の二重性にあるのだろうと思う。
この時、存在は一時的・相対的なものであり、過程は絶対的なものである。
これはもちろん4次元時空内での話だが。
で、それから先の話だが、虚無主義者は過程の絶対性を強調するあまり、「色即是空」、方丈記の世界に入ってしまう。
ここで一切の論理はストップしてしまう。
しかし存在の相対性は個別の存在の中にあるのであって、その総体としての「全存在」の相対性を否定したことにはならない。それどころか、存在抜きに過程は規定し得ないのである。
ただ存在は純粋な質量の形態では存在し得ず、つねに過程と結びついて、すなわちエネルギーとベクトルをもったものとしてしか存在し得ない。
すなわち存在と過程はエネルギーという形態で結合しているのである。時空の基本的エレメントとしてエネルギーを承認することは存在を承認することとなる。
この認識が客観的観念論と唯物論を分ける分水嶺となるのではないだろうか。
私たちが時間軸をも相対化できる5次元の尺度を持っていれば、この問題は容易に解決できるだろうが、誰かそのような「超アインシュタイン物理学」を展開してくれないだろうか。

現実の存在は個別的・相対的なものであるだけに、存在論は認識論としての側面を持つ。存在をのっぺらぼうの質量としてとらえると不可知論の世界に飛び込むことになる。エネルギーとして、あるいは加速度として質量をとらえることで、(回り道ではあるが)不可知論は克服できる。すなわち存在の発するエネルギーを、将来展望もふくめて人間は感知・受容できるし、そのことによって事物の存在を確信しうるのである。
このことが「唯物論と経験批判論」の前段に書き込まれなければならないのではないか。

1.日韓関係を見る視点

日韓関係には二国間関係一般に解消されない特殊性がある

A) 旧帝国と旧植民地の関係

B) 分断された一方(戦争当事国)との関係

C) 「6カ国の枠組み」の中の関係


日本ではともすればA) の関係が強調されがちであるが、むしろその特殊性はB) によって規定されている。

それはさらに日米同盟、米韓同盟の盟主である米国のアジア政策(外在要因)に大きく左右される。

朝鮮半島を中心とする東アジアは、依然として朝鮮戦争以来の「冷戦構造」の枠組みにとらえられており、朝鮮戦争に参加した南北朝鮮、米、中、日、ロシアの角逐という状況は変わっていない。

この中で、日韓の関係も時に尖鋭化されざるをえないのである。

日韓関係はこういう構造の中で考察されなければならない。


と、ここまではある程度は分かったつもりでいた。しかし、B) の意味がこれまで深く吟味されてこなかった。そのことが南さんの指摘するところである。

南さんはこう語る。

こうした理解はだいたい合っているんですけど、そこには少し欠落したものがあるんじゃないか。


読んでいるときにはスラスラと読み進んだが、いざノートを取ってみると、やはり以下の一節は飲み込み難い。

韓国は戦場国家という状況にあります。それは冷戦でなく、戦争でもなく、だからといってもちろん平和でもない曖昧な状況、すなわち休戦という状況です。

これは、いつでも戦争になれるような、しかし戦争はしていない状況です。そしてその状況のもとで日本では基地国家という形の国家が出来上がっており、これがいまだに続いている、というのが私の基本的認識です。

果たしてそうだろうか。

たしかに深層にはこれらの地政学的事実は貫かれている。だからこれらの冷厳な事実を直視せよという論理もわかる。

しかし政治のリアリズムというのは果たしてそのようなジャングルの掟にのみ規定されているのであろうか。

むしろ人類が持つ野獣性を否定する過程の上に近代国家が乗っかっているのであって、近代社会というのはたとえ薄皮一枚であってもジャングルの掟を否定するところに存在するのである、

たしかにこの議論は、韓国の日本に対する異常なまでの民族主義的気分を説明するのに有効な根拠になる。しかし我々は基地国家としてみずからを位置づけるつもりなどサラサラない。



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