鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2017年01月

と書いたが、このソフトにもついに最後の日が来たようだ。
360でしかダウンロードできず、720のHD規格のダウンロードは変なページに行ってフリーズしてそれまでだ。
考えてみれば3年間も良く持ったものだ。
また脱法ソフトを探さなければ…

ピューリタン革命の経過についてよくまとまった文献があるので紹介しておく。

石井裕二さんの「イングランド・ピューリタン派の『信仰告白』について」という論文。「キリスト教研究」という雑誌の第48巻第1号に掲載されたもののようである。

副題が「『ウェストミンスター信仰告白』、『サヴォイ宣言』、『第二ロンドン信仰告白』の概観」となっており、新教内部でのイデオロギー的な力関係の変化に焦点が合わされている。一番知りたかったところである。

1.3つの告白の主体

『ウェストミンスター信仰告白』は長老派によるもの、『サヴォイ宣言』は独立派(会衆派)によるもの、『第二ロンドン信仰告白』はバプティスト派によるものである。

2.3つの告白の背景

ピューリタン革命は「大内乱」(1642年から49年まで)と「共和国」(1649年から60年まで)に区分される。

A) 大内乱の時代

二つの時期を区分する内乱は二度起きた。

第一次内乱は王党派と議会派の争いであったが、議会派をスコットランドが支援して参戦した。

第一次内乱が議会派+スコットランドの勝利に終わった後、議会派の内部で二つの勢力が対立した。

一つは多数派である長老派であり、スコットランドの支援を受けていた。もう一方は少数派の独立派であり、内戦を闘った議会軍の主力を占めていた。

この対立を見た王党派が長老派を支援して戦闘を開始した。これにより第二次内乱が始まった。長老派が支配するスコットランドは今度は王党派と連合を組んだ。

第二次内乱の結果、議会軍(独立派)が王党派+長老派+スコットランドの連合軍を打ち負かした。

B) 共和国の時代

勝利した独立派と議会軍は、議会から長老派を追放し国王を処刑した。そして「イングランド共和国」を宣言した。

共和国の時代は前半と後半に分かれる。

前半において支配者となったのは独立派を主体とする「残存(ランプ)議会」であった。

53年に議会軍の指導者であったクロムウェルが護国卿となり、残存議会は閉鎖された。ここから後半の時代に入る。

58年にクロムウェルが病死すると、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿となるが、混乱はさらに深まった。

そして、議会軍の一部が権力を掌握し、チャールズ二世に政権を譲り渡すことによりピューリタン革命は終焉を迎える。

3.ピューリタンとは何か

ピューリタンの概念と範疇は革命の進行とともに変わっていく。

A) エリザベス王朝期のピューリタン

元々ピューリタンとは、イングランド教会の国教主義を批判するプロテスタントの急進派を指す言葉であった。国教主義批判には絶対主義王政への批判が萌芽的に含まれていた。

エリザベスの死とチューダー王朝の断絶の後、ピューリタンの中には本来の宗教的領域だけではなく政治・社会の全領域にわたり改革を主張する勢力が増大した。

その中にはかなり傾向の違う人々が含まれていた。

宗教的にいえば、その大多数はイングランド国教会にとどまりつつ、その中で長老制の実現を目指した。しかし一部には信仰を貫徹するために国教会を離脱する集団もあった。

彼らはいろいろな名前で呼ばれる。国教会から分かれるということで「分離派」と呼ばれたが、自らは「独立派」と名乗ることもあった。彼らの教会は長老制ではなく会衆制をとったため会衆派とも呼ばれた。

分離派: Separatists
独立派: Independents
会衆派: Congregationalists

B) 長老派 広義のピューリタン

1640年に国王チャールズ1世が議会を招集した。議会は当初、国王の専横を糾弾することで一致していたが、やがて国王の権威尊重をめぐり王党派と議会派とにわかれ対立した。しかし数においては議会派が圧倒していた。

宗教的にいえば、王党派は国教派であり議会派は「広義のピューリタン」であった。しかし必ずしも1対1の対応をしていたわけではない。

42年に内乱が始まると、議会から王党派はいなくなった。

残された議会派は、「ウェストミンスター宗教会議」を招集した。会議は『ウェストミンスター信仰告白』を起草し、議会に提出した。

これが長老派による「広義のピューリタニズム」の宣言となる。その経過については原著を参照されたい(それ自体が大変興味ある内容だ)。

戦闘が激化すると、議会派の中に完全な共和制を主張する急進派が生まれ「独立派」を称した。これに対し主流派は「長老派」と呼ばれるようになった。

C) 独立派 狭義のピューリタン

政治派閥である独立派と、宗教的セクトである独立派(会衆派)は同じではない。それは「独立」の概念がかなり曖昧だからである。

ニューイングランドに移住したピルグリム・ファーザーズなどの会衆派は、独立派の名を忌避した。

独立派には元々の会衆派に加え、グッドウィン、ナイらの聖職者が加わった。彼らは国教会の主教制にも、長老派の教会会規にも反対した。しかし会衆派がイングランド国教会を背教であると糾弾することには同調しなかった。

クロムウェルは戦略上の立場から独立派を支持した。彼は最初は議会派軍から長老派を排除した。そして強い信仰心を持つ独立派の信徒を募って無敵の騎兵軍団を組織した。

ついでクロムウェルは議会にも容喙するようになり、その圧力のもとで長老派は排除された。

D) 独立派内部での会衆派の独走

議会を握った独立派は、『ウェストミンスター信仰告白』に代わる会衆派の信仰告白を欲した。これが『サヴォイ宣言』である。

そして『サヴォイ宣言』への同意が国内における宗教活動を保護する上での条件となるよう求めた。

それがクリアーされれば、礼拝や教会の会規に相違があってもまったく同等に活動が保護され、身分が保証されるとした。

つまり独立派の踏み絵を踏めば、後は自由だというのである。これは社会組織の間ではありうる提起ではあるが、宗派間の対立の解決の手段としては、贔屓目に見ても拙劣である。

石井さんによれば、

クロムウェルは気乗りがしなかった。彼は信条的には独立派を支持してきたが、それ以上にプロテスタントの信仰の多様性を重視していた。とくに長老派と独立派との融和は彼がもっとも心を砕いたところであった。

という。

E) 共和制の崩壊と独立派

石井さんによると

独立派はクロムウェル政府から大きな好意を受けた。かなりの人は政府の手から教育および教会の聖職禄を受け取った。

彼らはその頃になると以前よりも保守的な態度を取り、どんな源泉からも喜んで援助を受け取るようになった。

という。

クロムウェルがなくなり、息子リチャードが護国卿を辞任する頃には、イングランドは絶望的な混乱と財政の急迫に陥った。

共和制が崩壊し王政が復古すると、長老派は国教会派と妥協しながら政治・宗教上の地位を保持し続けた。

独立派は共和国時代の地位と権益を剥奪され、政治的・社会的に没落したが、教会の合法性は保たれた。

しかし1年後に寛容政策は議会によって放棄された。長老派をふくめピューリタン派はすべて公的身分を失い、その活動は非合法化された。


この後の部分は専門的になるので省略するが、本文への注釈にも幾つかの興味深い記述が見られる。一読をおすすめする。

分かったことはこれが清教徒革命であり、まずもって宗教革命であることだ。だから清教徒革命イコール近代化革命というのは、あまりにも「史的唯物論」的にすぎる。

宗教革命であるならば、各宗派が何を考えどう行動したのかをしっかり描くべきだ。ジェントリーとかヨーマンを持ち出しても戦争の説明にはならず、混乱を招くだけだ。

中身を事実に従って吟味していけばこんなに話がこんぐらからなくても済んだのではないだろうか。これはラテンアメリカの歴史を編集したときにも強く感じたことだ。

何か物差しを持ってきて、物差しに合わせて裁断すると、結局肝心なものがするっと抜けてしまう。

「実事求是」、これが歴史を学ぶ上での絶対基準だ。

以前一、二度は泊まったことがあるアパホテル。そんな本がおいてあったかどうかは記憶に無い。

今回、中国政府の強硬な抗議にもどこ吹く風で、「イヤなら泊まって貰わなくていいよ」というふう。

「こういう客商売ってありなんだ」と、時代の変化を痛感している。もっともJR東海も「ウィッシュ」という反共雑誌を座席の網掛けに挟んでいるようだが、グリーン車に縁のない輩には関わりのないことであった。

ここのオーナーが元谷外志雄という人。このような人物は昔は世の片隅の特殊な世界に生きていたものだが、いまはなんと一国の首相の副後援会長だというから、イヤなご時世になったものだ。

ウィキペディアから経歴を拾ってみる。

1943年の生まれ。「慶応の通信制に入学するが中退」というから、まぁ高卒だ。(慶応大学卒業と書いてあるものがある)

地元の小松信金に入社するが、9年後に退社し不動産屋に転向した。その後はトントン拍子でアパート・マンションを次々と建設し、「現在、マンションやホテル、レストラン事業などを中核とする14の企業から成るアパグループの代表

となっている。

ということでウィキでは肝心のトントン拍子の中身が分からない。

アパグループのホームページに「沿革」が載っている。

1971年  石川県小松市において、アパ株式会社の前身である、信金開発株式会社を設立。

1972年 信開荒屋ホームプラザ〈全87区画〉造成。ついで73年にアパ建設株式会社を設立。74年にアパ住宅株式会社を設立。(誰が資金を提供したのか?)

1975年 金沢に進出し、金沢支店を開設。

1976年 マンション・ビル建設に進出。商業複合ビル・パオス〈小松〉、複合分譲マンション〈2+4〉などを竣工。

1978年 アパ総研株式会社を設立。福井・富山など県外にも進出。

1984年 ホテル事業も開始。第一号ホテル、アパホテル〈金沢片町〉がオープン。

1985年 東京支店を開設。

1990年 日本開発ファイナンス株式会社を設立。住宅金融部門にも進出。

1994年 アパホテル株式会社社長に妻の元谷芙美子が就任。派手な宣伝を展開。

1997年 社名をアパグループに変更。各地に開設。この年だけで富山、東京板橋、大阪天満、軽井沢にアパホテルを新規開業。その後年3店の割合で新規開業。

2001年 「私が社長です」を出版。4年後には「続・私が社長です。元谷芙美子の幸せ開運術!」を発売。自己宣伝を開始する。

2008年 右翼と接近。「メセナ活動」として歴史論文顕彰制度を創設。

2012年 アパホテル、3万室を達成。

2016年 アパホテル、6万室を達成。アパカード会員1,200万名達成。

アパホテルの推移

創業以来の連続黒字を重ね、売上高900億円、利益率が30%に達する。なんと非上場なのである。金繰りに困ったことはなさそうだ。

という経過で、資金調達面から見れば、2010年あたりを境に一気に潤沢化しているようだ。それまでは風変わりな「成功者」でしかないが、この数年間で「財界人」の一翼を担うまでになっている。どこか太いパイプと繋がったように思えるがいかがであろうか。


チラチラとスキャンダル絡みの報道があるが、深追いはされていない。

1.耐震偽装 疑惑 (東京新聞)

「イーホームズ」元社長が名指しで耐震偽装を指摘している。「姉歯事件」と類似している。

イーホームズはアパグループの3物件の偽装を確認し、国交省に通報してアパの物件を調査するように要請したが、アパは工事を止めず、国には「関知しない」と言われた。

元谷代表は「全く事実無根であり、弊社の社会的信用を著しく失墜させるものであり、同氏を名誉毀損で告訴することを検討」とコメントした。

メディアは取り上げず、ウヤムヤになったらしい。しかしこれだけのホテル群で耐震偽装があると、一発アウトであろう。

J-CASTニュース(2006年10月)が Livedoor News で読める。お早めに。

2.自衛隊との癒着疑惑 (朝日新聞

航空自衛隊小松基地が民間宿舎を借り上げたが、その1/3がアパグループであった。(石川県小松はアパグループ発祥の地)

田母神俊雄・前航空幕僚長は同基地トップの司令を98年から99年まで務め、本谷会長と顔見知りだった。

しかし知りたいのはそんな細かい話ではない。バブル崩壊もリーマンショックもどこ吹く風でどうやって成長したのか。上場せず融資だけでどうやって資金を調達できたのかということだ。

北九州市議選の結果を見ると、「衆議院小選挙区は原則無党派で」という方向がますます明らかになっていると思う。
北九州
低得票率のため、公明が伸びた。後はちょぼちょぼという結果だが、維新が全滅したのは明るいニュースだ。共産党が4議席減の中で1議席増を勝ち取ったのも大きい。
全体として、政治の流れが変わるような大きな変化はなく、保革ががっぷり四つで力比べという印象を受ける。お互い胸突き八丁だ。
自公対野党共闘は31対18で、これに無所属の多くが全国選挙では保守の側につくとすれば、改憲議席数は依然握られている。
西日本新聞は
共産は改選前に議席のなかった八幡東区で新人が当選し、10議席に伸ばした。次期衆院選で野党共闘を協議している民進に差をつけた形になり、衆院福岡9、10区の候補者一本化調整に影響を与える可能性がある。
と書いているが、そういう問題ではない。
問題は改憲阻止勢力を増やせるか否かにあり、そのために民進党・連合が党派性を我慢できるかどうかにかかっている。そのためには無党派市民勢力の頑張りに期待する他ない。「野党共闘で改憲阻止」の叫びが民進党を包囲する状況をこの数ヶ月で切り開けるかどうか、そのために共産党が無党派市民勢力とどれだけ心を響かせ合えるかが問われていると言えよう。

日本AALA連帯委員会から秋庭稔男さんの『私と日本AALAの60年』という本が出た。

かなり中身の詰まった本であるが、その注がすごい1ポイント小さい字で書かれていて、年寄りには辛い本である。

その中でとんでもない資料が載せられている。

1955年(昭和30年)10月31日に日本アジア連帯委員会の設立総会が開かれた。そのときに記念講演が行われ、その記録が残されていたらしい。それが全文掲載されている。

演者は一橋大学教授(当時)の上原専禄さん、演題は『アジアは一つか、世界史における現代のアジア

秋庭さんはこの講演を次のように紹介している。

この講演は『設立の言葉』に凝縮された日本アジア連帯委員会の設立の背景と意義を深く掘り下げた内容で、私はこの講演録を読んで深く感動し、その後も折に触れて学習をしたものです。

ということだが読み始めると半端でなく難しい。読んでいると周期的に睡魔が襲ってくる。しかし考えさせる中身をたくさんふくんでいる(だから余計に読書が進まない)

まずは段落を切って見出しをつけるところから始めよう。


はじめに 1955年という年

世界とアジアと日本にとって重大な会議が開かれた。それがアジア諸国会議(ニューデリー)とアジア・アフリカ会議(いわゆるバンドン会議)である。そしてこれらを受けて設立されたこのアジア連帯委員会・日本委員会である。

以下に『世界史における現代アジア』を考える上での手がかりを提示したい。

1.アジアというものがあるのか

ある学者(白人)が「アジアというものがあるのか」と問題提起をしている。それは「一つのアジアというものがあるのか。それは一つのものとみなす意味があるのか」ということをふくんでいる。

たしかにアジアはヨーロッパのような単一性を持たない。しかし一体性を持とうとしている、一つのアジアになろうとしている。いわば「アジア・ナショナリズム」のような形で一体感が形成されつつあるのではないか。

つまり現在の態様の問題としての一体性ではなく、その置かれた状況、したがって課せられた課題、それを実現していくという意識の問題として共通性をもっていると考えるべきであろう。

2.現代アジアの歴史的共通性

アジア(およびアフリカ)は共通の「思い出」を持っている。それは世界でもっとも古い文化と宗教を作り出したという「思い出」である。

文化も宗教もかつては共通性としては自覚されてこなかったが、ヨーロッパの進出と植民地化に伴い、「思い出」として共通されるようになった。

それは非ヨーロッパ性において共通性を認識することである。非ヨーロッパ的な文化の中に、それだけにとどまらない共通性を発見することである。

そして、失われた過去を取り戻すだけでなく、さらに自主的な発展を目指す営みにおける共通性を見出すことである。

3.ヨーロッパの支配は何をもたらしたか

ヨーロッパ人はまずアジアを政治的・経済的に支配し、搾取した。これに続発して、文化的な隷属と伝統の破壊がもたらされた。

さらに、アジア地域の間に存在していた経済・文化の交流が断ち切られた。

したがって民族解放を成し遂げた人々は自国の文化を興隆させるだけではなく諸国民との交流を通じて絆を回復し、さらに「一つのアジア」の実現に向けて努力しなければならない。

4.「一つのアジア」を実現するための2つの課題

アジア・アフリカ会議に出席した人の多くはこれらの問題意識を共有している。しかしそのためには2つの課題がある。

一つはそういう心構えが、どうすればアジア・アフリカ14億の人々(当時の人口)の本当の意識になるだろうかという課題。もう一つは他の世界の人々がそれを妨害する動きに出ないかということ、さらに言えば他の世界が「一つのアジア」を積極的に是認してくれるかということ、是認してもらうためにはどうしたら良いのかということだ。

この2つの課題は、アジア諸国が一つにならなければ実現不可能な課題である。アジアが一つだというのはまさにこの大事な問題意識においてである。

5.アジア諸国の協力 4つの柱

第一の柱が経済協力である。まず二つの前提がある。一つはアジアが経済的に大変遅れているという事実である。もう一つはアジアには資本も技術も不足しており、ヨーロッパなどからの協力が不可欠だということである。

しかしそれがアジアの主体性、自主性を壊すようなものであっては元も子もない。そのような国際協力を引き出すためには、まずアジア自身の相互協力が実現しなければならない。

それはわかるのだが、ではどう協力すればよいのか、その具体的な処方箋が見えてこない。そのような処方箋があるのかどうかさえわからない。いろいろな調査・研究が必要である。

第二の柱が文化交流である。ただし文化交流については以下の点を踏まえておく必要がある。

「古い時代にアジアには共通の文化があった」ということはない。少なくとも中国、インド、中東の文明は別なものであった。少なくともヨーロッパ文明のような一体性はなかった。このことは押さえておいたほうが良い。

第三の柱が独立の支持・支援である。ただし時代の性格上は独立の課題が全面に出るが、これは本質的には人権と自由の確立の課題である。

第四の柱は世界平和への貢献である。当時は第二次大戦が終わってからまだ十年、朝鮮戦争と第一次インドシナ戦争が終結した直後であり、2つの戦争の舞台となったアジアにとって平和の課題は有無を言わせぬ課題であった。そのことに留意しておく必要があるだろう。

こういうような問題の共通性によって、アジア・アフリカは一つに結び付けられている、というのが「一つのアジア」の具体的中身なのだろうと思う。

6.現代アジアの動きの世界史における位置づけ

このような現代アジアの動きは世界史の歩みの中でどういう位置を持っているのだろうか。それにはいままでのアジアの動きを見ていかなければならない。

この場をお借りして私の最近の勉強の一端を介する。

それは東芝問題。すでに2、3年前から大問題になっているが、私の調べたところでは東芝はだまされたといえる。(しかしそれは欲の皮が突っ張ったからで、同情の余地はない)

ウェスチングハウス社というのは、1970年代まではゼネラル・エレクトリックと肩を並べる総合家電メーカーだった。それが斜陽になり21世紀を迎えることなく消滅してしまった。しかしこの会社は軍事産業としてのもう一つの顔を持っていた。世界初の原子力潜水艦ノーチラス号から始まって、原子力空母エンタープライズなどすべての原子力艦の原子炉を生産している。この部門がいま問題になっているウェスチング原子力会社である。一応軍事産業部門は独立しているが、基本のノウハウは同じである。

この会社はえらく金食い虫で、単体での経営は困難だ。そこでイギリスの電力公社が買い取ったのだが、イギリスそのものがなかなかうまくいっていないこともあり、売りに出したのが事の始まりだ。

これに東芝が跳びついた。東芝としてはこれまでの軽水炉に加え加圧水型原子炉の技術も手に入るから、原発の一手販売が可能になる。その頃は『原発ルネッサンス』と言われ原発が成長部門と考えられていたこともある。買い取りの条件はウェスチングハウス社の持つコア技術には一切手を付けないということだ。東芝は経営責任を持つが、営業権のみの権限しかない、という誠に奇妙な合弁が成立した。

これには裏がある。米軍にすれば現代戦の最強の兵器である原潜や原子力空母の心臓部が他国のものとなるのは非常に困るのだが、維持するだけの金もない。そこで最初はイギリスに押し付けたが、イギリスが蹴ってしまった。そこで仕方なく日本に押し付けることにした。『金は出せ、しかしコア技術は渡さないぞ』ということだ。そこで経産省が乗り出した。『アメリカの要求を丸呑みしてもなおかつお釣りが出ますよ』という話で日本の各社に当たった。各社といっても原発に関して実績があるのは三菱重工、日立電機、東芝の3社しかない。

ここで登場するのがゼネラル・エレクトリックだ。実は一番WH社を欲しかったのはGEである。GE自体も決してただの電機メーカーではなく、原潜や原子力空母の原子炉を作っている。以前は軽水炉しか作れなかったのが最近では加圧水型の技術も身に着け、いまや原潜の原子炉はすべてGE製となった。しかし原子力空母では未だにWH社の後塵を拝している。だからWHは喉から手が出るほど欲しいのだが、米国の独占禁止法がそれを許さない。そこでダミーとして東芝を利用しようと考えた。東芝は軽水炉技術を通じて自分の子分になっていると考えたからだ。

此処から先は当て推量になるが、どうも東芝はGEに逆らったのではないか。さらに言えばGEの意向は米軍の意向だということを理解していなかったのではないか。

頭にきたGEは日立も巻き込んで価格操作した。これを当時のブッシュ大統領も後押しした。お陰で買取価格は数倍に膨れ上がりとてつもない『のれん料』を支払わされる羽目になった。

そこへもってきて福島原発だ。天井に登って梯子を外されて真っ逆さまに墜落してしまった。これが東芝の経営破綻の本質である。アメリカの軍産複合体の力をなめたのが命取りになったといえるだろう。

結局ヤクザな商売に手を出したのが東芝の命取りとなった、日本の電機産業のある意味では最後の砦と思われた東芝が潰れる場面を、我々は目前に見ている。ソニーもナショナルもシャープもすでにガタガタだ。今回の事件がなくても、いずれ遅かれ早かれ東芝も同じ道を辿ったかもしれない。それは日本電機産業の最後のあがきであったかもしれない。

だがそれで良いのだろうか。日米軍事同盟路線が日本経済を奈落の底に貶めるのを、我々は傍観していてよいのだろうか。いまや独立・平和の政治・経済路線を真剣に考えるべきときなのではないだろうか。

赤旗のワシントン特派員の遠藤誠二さんが素敵な写真を掲載してくれた。
記事の題は「反トランプで満員」という囲みもの。
週末の午前中、ワシントンに向かう地下鉄はいつもガラガラですが、この日は違いました。
郊外の駅にはピンクのいでたちの人だかりができ、来た電車も満員でした。
利用者はすべて、トランプ政権に抗議して開かれる「女性の行進」参加者。郊外のホテルに宿泊し、「いざ出陣」となった面々です。
…8両編成の車両は「反トランプの貸切列車」といったところか…
女性の行進
クレアモントというネオンがついていますが、これはマンションの広告だと思います。このマンションは市街中心部から北に向かうウェブスター街に沿って散らばっているので、おそらくそちら方面の駅だろうと思います。
間違っていたら教えて下さい。
この集会には50万人が参加して夕方まで続いたといいます。全米では100万人が立ち上がったそうです。ウーマン・パワーはすごいエネルギーですね。男どもは株価の動きにあたふたしているだけです。これからは女性が世界を支えることになるでしょう。(ただし写真を見るとカラード・ピープルの少なさが気になるが)

騎馬民族がやってきた時代

『天孫族』の考えはまだ私の独りよがりにすぎない。学会では、渡来系はすべて弥生系で一括されている。稲作を持ち込んだのも弥生系だし、倭の那の国王も弥生系だし、邪馬台国や卑弥呼も弥生系だし、纏向に大和政権を作ったのも弥生系だ。

しかしそこには二種類の弥生人が区別される。

①Y染色体でも長江系のO1に対して後発漢民族系のO2が区別される。

②青銅器文化に対して鉄器文化は後から持ち込まれた。

③彼らは北方系の天孫信仰を持ち込んだ。銅鐸を信仰の象徴とする長江人には異質のものである。

④彼らは銅鐸信仰を徹底的に排斥した。そのため銅鐸信仰は忽然として消滅した。

⑤彼らは人口の上では少数派にとどまった。O2人はO1人の人口を凌駕することはなかった。彼らは長江人の信仰を破壊したが、生産システムには手を付けなかった。

⑥彼らは天孫族の末裔を僭称する弥生人(出雲人)勢力の前に支配権を譲渡した。この結果、大和朝廷が全国を制覇した。

というのがその論理の筋道だ。

ふと思いついたのだが、これはまさしく江上波夫の言う『騎馬民族』だ。鉄製の強力な武器、騎馬戦という戦闘スタイル、これが天孫族の基本だ。これは長江文明を墨守する弥生人とはあきらかに異なる。

ただ縄文人、弥生人、天孫族という三層構造を確認するためには、天孫族がいつ日本に来たか、その時先行する弥生人とどういう関係にあったのかという点が明らかにされなければならない。

それは間違いなく弥生前期から中期にかけての時代だ。

当たり前だが、彼らは稲作民族ではないから、生産に直接携わるグループとして登場したわけではない。九州北部に出来上がった生産システムに対してはよそ者として登場したに違いない。

そのとき彼らはどういう身なりで登場したのだろう。征服者としてか、押しかけ用心棒なのか、それとも傭兵隊なのか。要するにそれは武士集団ではないのだろうか。

このあたりは両者の力関係によって変わってくると思う。流入者の力が圧倒的に強ければ百済型、あまり大したことがなければ任那型(部族連合)になっていく。

それが日本では、紀元前後に那の国を盟主とする天孫族の諸国連合という形でまとまっていくのではないだろうか。

弥生時代の絶対年代区分

前回に続き、星野さんの論文の学習ノートです。

1.弥生時代の概念

当初は縄文式土器に代わり弥生式土器が優勢になった時代と理解されていた。

しかし水稲栽培が同じ頃から始まったことから、水稲栽培の時代とひとまとめにされた。ところが水稲栽培が弥生式土器の普及よりかなり先行していることが分かり、「水稲栽培+縄文式土器」という移行期を弥生時代早期と呼ぶようになった。

2.前期・中期・後期の区分の根拠

「水稲栽培+弥生式土器」が本来の弥生時代であり、これは前・中・後の三期に分かれる。

本来はC14による絶対年代分類が最も良いのだが、今のところC14の推定はかなりの誤差をふくんでいる。年輪年代法やY染色体ハプロの研究も相対的な判断である。

弥生式土器の形態による編年も基本的には相対年代にとどまるが、出土数がきわめて多いために、ある程度絶対年代の尺度として利用しうる。

というのが星野さんの主張で、以下の表がその根拠となっている

土器編年

やや面倒くさい表だが、要は4人の専門家がだいたい一致しているから使えんるんじゃない?

というものだ。

その上で、星野さんは以下のように提唱している。

弥生前期 紀元前300年~紀元前200年頃
弥生中期 紀元前200年~紀元0年頃(約200年間)
弥生後期 紀元0年~紀元280年頃(約250年間)
古墳時代 紀元280年~ 
(ただし紀元200~280年は「大型古墳+弥生式土器」の移行期)

九州の場合も大差はない。ただ弥生前期に先立つ弥生早期は九州にのみ存在する。

弥生早期を形成したのが渡来系であったことに異議はない。ただしものすごい大量の移民があったという主張は少し保留しておきたい。

一組の夫婦が4人子供を生んで死亡するとすれば、20年で人口は倍になる。狩猟民族では資源との関係で増加には限界があるが、農業では新田さえ開発できればこのねずみ算には制限がない。事実、九州北部には急速な水田面積の増加が見られている。

例えば100人が渡来すれば、100年後には1,000x2の5乗で3,200人となる。200年後には10万人を超える。問題はそれを食わせるだけの可耕地があるかどうかということだが、それを問うなら、むしろそれだけの人が一気に渡来した場合のほうが矛盾は深刻だろう。

田を切り、水を引き、稲を植えて食べられるようになるには2年が必要だ。最初の渡来人は、その間業態の異なる縄文人の支援をあてにできたが、後から渡来した人々は先着グループと争って、経営基盤を確保しなければならない。

そうなるとむしろ自然増をメインに考えたほうが素直ではないだろうか。そして最後にやってきたのが天孫族・C2人であろう。彼らは鉄と馬によって日本を制圧した。

津久井やまゆり園での殺傷事件から半年、報道機関で特集が組まれている。

一方ネット(2ちゃん)では怒りを感じる不快発言が相次いでいる。


「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。事件を起こしたのは不幸を減らすため」

「障害者は不幸を作ることしかできません」

「不幸を生み出す障害者を代わりに殺してあげた」

「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と言明する一方で、被害者に対する言葉はない。


というのが、犯人の供述。ただし「警察筋によると」の発言ばかりで、この発言を受け止めてよいのか、ためらう。

論理があまりに飛躍しており、どう手を付けてよいのか分からない。イラクの人質事件のときの「自己責任」論と同じだ。あの時もウンウン言いながら考えたのだが、うまい結論は出せなかった。

今回も、「障害者蔑視」や「差別」というある意味普遍的な「世間の風」というものに、真っ向から切り込む課題が重くのしかかる。

それは理論というよりも情緒であるから反論のしようがない。「あんたのいうことは分かるよ。だけどねぇ…」となると暖簾に腕押しで、お手上げのところがある。

やはり未来志向で、共通点を確認しつつ、それを一歩づつ積み上げながらやっていくしかないのだろう。

1.すべての人は生きなければならないし、生かされなければならない

原則として、すべての人は生きなければならない。自殺してはならない。すべての人は生かされなければならない。見殺しにしてはならない。人間は人類の誕生以来そうやって身を守ってきた。

これは原則(おきて)であるから、例外はあるだろう。我々の施設などけっこう「看取り」をやっていて、ご家族の同意を得て、積極的な治療を手控えることがある。

これは医療側の客観的指標に基づく判断が必須条件である。

この例外つきの原則については大方の同意は得られるのではないか。

2.障害者は例外になるだろうか

障害者というだけでは例外にはならない。しかし筋萎縮性側索硬化症など進行性の疾患で予後がきわめて不良の場合、最終盤で人工呼吸器をつけるかどうかなどの判断が迫られる場合がある。

進行癌でホスピス治療に切り替える場合もある。ただしこれらは障害というよりは病気なので、医療側の高い立場からの判断が前提となる。もちろん本人の意志も確認されなければならない。

この例外つきの原則についても大方の同意は得られるのではないか。

したがって、生命予後に不安がない場合、医療の側で是とする判断が下せない限り障害者は生きなければならないし、社会は生かさなければならない。

これは人情の話ではなく、「民主社会の原則」の話である。

3.なぜそれが原則なのだろうか

うんと消極的にいえば、人間には殺す権利はないからである。「生かそうとしない」ということは見殺しにすることだからである。たとえば「育児放棄」は立派な犯罪だし、結果、死に至らしめれば重罪だ。

ただしこれにも例外はある。独居老人、共倒れになりかねない介護状況、専門的介護を要する場合などは、個々人ではなく社会が介入しなければならない。

なぜなら他に方法はないからである。

4.障害者と家族が障害のゆえに不幸にならなければ、それが一番良い

ここまでは連帯精神の二つの基盤のうち、集団協力の観点から論じてみた。しかしもう一つの大事な要素、利他心が残っている。これについても、大げさな博愛心は必要ない。「みんなが不幸にならなければ、それが一番良い」ということだ。チンパンジーのような、ささやかな利他心だ。

障害だけでも不幸なことだが、障害のゆえに罵られ、排除され、日陰暮らしをしなければならないのも不幸なことだ。

障害者のほとんどは、元々は普通の人だ。いまでも障害を除けば普通の人だ。ハンディを背負いながらも、精一杯頑張って生きている人たちなのだ。

生活保護をもらって酒とパチンコに明け暮れている人たちではないのだ(複数の報道で、容疑者Aは「生活保護を受給しそれを遊興費として浪費していた」とされる)。死ななくても良いような仕組みをなんとか作ってあげられないだろうか。

* いわゆる「アファーマティブ・アクション」は、人種差別に絡んだ歴史的措置なので、障害者問題とは混同するべきではないと思う。あえてここでは触れない。


への追記です。


案の定、右翼が使い始めた。右翼の代表安倍晋三が国会の場でぬけぬけと語っている。
衆院本会議での志位委員長の代表質問に対する答弁。

相対的貧困率については、昨年公表された全国消費実態調査では、集計開始以来初めて低下しています。子供の相対的貧困率は5年前の9.9%から今回7.9%へと2ポイント改善しています。
これはアベノミクスの成果により雇用が大きく増加するなど経済が好転し、子育て世帯の収入が増加したことによるものです。
前段は数字のマジックによるものであり、後半はウソである。

OECDの相対的貧困率とはなんぞや?軽く調べて簡単に説明します

というページに分かりやすい例えが載っていました。(若干手を加えています)

例えば独裁国家のC国では、所得はすべて独裁階級に独占され、他の国民は全員貧乏。

所得の配分は「1ドル、1ドル、1ドル、1ドル、3兆ドル」だとします。

この場合、国民の総所得は3兆4ドルです。これを5で割ったのが国民一人あたりの平均所得で6千億ドルとなります。

ところが、あ~ら不思議、相対的貧困率の算出のもとになる「中央値」は1ドルです。その半分(貧困ライン)は0.5ドルとなります。

0.5ドル以下の収入の世代はさすがにありません…生きていけませんので。

従ってこの国の「相対的貧困率」はなんとゼロ…になるんだよね。

客観的にどう見ても全ての国民が貧困…、餓死する人が多い…だとしても、「相対的貧困率」という特定のインデックスで見たら、貧困層は1人もいなく、結構幸せ…という結論に至ってしまいます。

私の前の記事にも書いたように、所得の中央値そのものが十分に貧困の程度を語っているのです。だから子供の貧困を語るには何も手を加えない「中央値」そのものを提出すべきなのです。
相対的貧困を語るのなら平均値(6千億ドル)と中央値(1ドル)の乖離の程度を語るべきなのです。
いわゆる「相対的貧困率」は、富裕層など存在しないかのように見せかけるための「マジック」なのだということがわかります。


60年前のミスコン狂騒曲

最近もAKB48の「選挙」とかでCDを買わされたとかいう話があるが、昔はもっと壮絶だ。

余市町で昭和33年に起きた出来事。余市町のホームページに「ミス観光余市」と題する記事が掲載されている。

直接ご覧になっていただくほうが手っ取り早いが、ちょっと蛇足ながら余市に関する周辺情報を。

余市は元々アイヌ人の大きな集落があったところで、余市川の河口を港とし、鮭漁やニシン漁を営んでいたようだ。江戸時代になって松前藩が交易場所を作り、近辺のセンターとなった。幕末に入ると幕府の直轄するところとなり、遠山の金さんも視察に訪れている。明治に入ると日本人の入植が盛んになり、黒川町と山田村には会津藩の武士、登町や仁木町に阿波の人々が入植している。港町にはニシン漁を営む網元が軒を並べた。

多彩な出身地と農業、漁業、さらにマンガン鉱山の開発、ニッカウィスキーの進出などにより余市町は発展した。市街地そのものが港町(浜中・沢町)、国鉄駅周辺の黒川町、浜沿いの大川町に分かれ、町内でも部落ごとの拮抗関係が見られた。郊外の登町、豊丘町、さらに古平方面に向かって白岩、潮見、豊浜の部落もそれなりに威勢を張っていた。

ついでながら私も昭和50年から2年間、勤医協余市診療所の所長を務めたが、この診療所は全道で最初の勤医協診療所であった。

選挙になると、共産党でさえ揉める。私が赴任したとき町議は二人だったが、任期中に選挙があり、これまで候補を立てていなかった黒川町から3人目を出すということになった。

ところがどうも情勢は利あらず、3人目の出馬を断念することになった。黒川町の連中がかっかと来たことは言うまでもない。会議は数時間に及びすったもんだした。

てなことを念頭に置いて読んでもらうと一段と面白いと思う。


ということで、読み終えた人に追加情報。

町民一人あたり6.5個というが、当時、一家6人が相場だから、6.5X6=40箱だ。

戦後昭和史というサイトによると、昭和33年の消費者物価指数は現在の6分の1である。20万票X10円X6=1200万円となる。

トップの人はすごい。10月1日の中間発表を見て発奮して1ヶ月で2,205票から2万890票まで一気に積み上げた。もちろん自腹ということではないだろうが、3位から急上昇で逆転ということだから、それ相当の支出(軽自動車1台分くらい)はしたに違いない。

投票用紙がえげつない。①余市町内限定で、②製造工程で投票用紙を封入したのだから、町内で買うしかない。たちまち売り切れるはずだ。

それを20万箱も作ったのだから、最初から狙い目どおりだ。しかし欲しい人はどうしてもほしいから、投票用紙には闇値がついたことであろう。まさに狂騒曲だ。

10円のキャラメルは今の感覚では60円となる。そんなものだろう。

フルヤのウィンター・キャラメルは昔は全国で売られていた。静岡でも売っていて食べた記憶もある。味も全国レベルだった。グリコやカバヤよりは1クラス上だった。横長のレイアウトで箱いっぱいにスキーヤーの写真が印刷された、キャラメル界の常識を破る斬新なデザインだった。

フルヤ1

ただ、余市で一箱10円で売られていたのはこちらの方かもしれない。

フルヤ2

古谷製菓は札幌駅の東北、サッポロビールの工場に隣接していた。こういうアコギな商売をしていたからか、昭和40年代には姿を消し、工場だった廃屋も20年位前に取り壊された。

さぞや歯医者も儲かったのではないかと想像する。


北大でもミスコンをしているそうだ。

しかも北大祭の実行委員会の主催行事のようだ。

女性蔑視とか、差別だとかいうつもりはない。私も美人は好きだ。人一倍好きだ。「雨夜の品定め」も学生時代にはやったものだ。

ただミスコンとなると、教養ある人物が表立ってなすべきことではない。品性の問題だ。卒業生として「情けない」という気持ちは抑えることができない。恥ずかしげもなく、おったったペニスを人前にさらけている。

小学校から高校にかけて、ここまで教育が劣化しているのだ。おとなになるための教育が放棄されているのだ。

その結果として、北大はもはや文化的知性の象徴ではなくなったということだ。

「恥を知れ!」


星野盛久さんの「難民がつくった国『邪馬台国』」という文章があって大変良くまとまっている。星野さんという方は在野の研究者らしく、まったく肩書等不明である。

以下紹介させてもらう。

「まえがき」

今まで出尽くした感のある資料をもう一度見直し、整理し、論理的かつ客観的に推論を進めてみることによって、何が見えるのかを明らかにしてみたいと思います。

難民の作った国「邪馬台国」その1 ―弥生人は渡来人だった―

「弥生人の渡来による日本列島の人口増加」

弥生時代を考えるときに、出発点とすべきデータがあります。

(ということで、私も前に引用した小山修三さんの人口分布とその経過が引用される。)

詳細な表が掲載されているが、特徴点を箇条書きにしておく。

1.縄文早期から晩期に至るまで、人口はあきらかに東高西低で、縄文人が北方由来であることを示す。ただし縄文中期に九州に限局した人口の増加があり、朝鮮半島からの一定の人口流入があったことを示す。弥生人を受け入れた九州の縄文晩期人はこれらの人だった(Yハプロで言うC1aかもしれない)

2.縄文人というと東北・北海道を想像するのだが、実際には最大の居住地帯は北関東から信州にかけての一帯であった。しかしこの地帯は縄文後期から晩期にかけて壊滅的な状況を迎える。むしろ東北のほうが持ちこたえているので、寒さだけではないようだ。浅間山の噴火でもあったのか?

3.弥生時代に入って第一次の人口爆発が起きるのだが、これは東日本と西日本では様相が異なっている。関東を中心とした人口増加はある意味では元の勢いを取り戻したということであり、縄文中期に戻った形である。しかし近畿と九州では明らかに人口爆発が起きている。

4.とりわけ近畿の人口増加には注目しなくてはならない。すでに弥生時代において九州の人口を凌駕している。この2つは水稲栽培という点では共通しているが、九州はすでに鉄器時代に入っており、近畿では依然として青銅器時代である。近畿は私の考えでは銅鐸人の生活圏であったと思う。

5.弥生時代日本には九州生活圏(天孫系)、近畿生活圏(長江系)、関東生活圏(縄文系)が鼎立しており、人口ということで見れば、それらは拮抗していた。

6.青銅器から鉄器へという移行の時代として弥生時代をとらえるならば、西暦ゼロ年よりちょっと前までが青銅器時代、弥生後半が九州=鉄器、近畿=青銅器という並立時代。そして鉄器文化が近畿と関東を併合するに及んで、弥生時代が終了するというつかみ方になるのではないか。

7.たしかに九州勢は戦争に強かったから勝利し支配することになったのだが、人口に示される生産力はむしろ近畿のほうが強力であった。武器の優越は次第に失われ、近畿勢が政治的支配権も獲得するようになる。

8.古墳時代(星野さんはあえて土師器時代と称している)に起きた第二次人口爆発は、弥生期の三者鼎立体制を近畿中心体制に置き換えていく。近畿が唯一のビッグパワーとなり、関東に信州をあわせた勢力がかろうじてこれに拮抗する。九州は関東や中国地方にすら抜かれ斜陽の道を歩むことになる。

9.古墳時代の人口爆発は水田耕作のみでは説明できない。水田そのものは弥生期の第一次人口爆発を説明するものでしかない。近畿を中心とした人口爆発は、干拓や排水工事による新田開発抜きに説明つかない。その最初の舞台が大和湖であり河内湖であった。これにより水田面積は一気に増え、それに応じて人口も急増したのである。

10.大規模土木工事による耕地の拡大は水田のみにとどまらなかった。関東平野の中央部に存在した巨大な湿地帯も、同様の方法で耕地に変えられた。これが関東における人口爆発の理由であろう。それは関東平野の主人公(支配者)を縄文人から弥生人に変えた可能性がある。

11.このような経済バランスの変化にも関わらず、九州王朝はかなりのちまで軍事的優位を保ち続けていたと思う。ケンカは絶対ケンカ慣れしているやつが強いのである。九州は鉄器における優位を保ち続けただけでなく、朝鮮半島における北方勢力との闘いで絶えず戦闘技術を高め続けてきた。天孫系の分家を権力の頂点にいただく近畿の田舎者にはなかなか手強い相手である。

12.しかしそのような軍事的優位は自然に縮まってくる。すでに倭の5王の時代には政権交代が差し迫っていた可能性がある。そして西暦500年から550年の間に倭王朝は滅び、権力は次第に大和朝廷へと移っていったのではないだろうか。

(11と12はオミキが入ったための蛇足)

生活保護の不正受給

実態についてあまり良く知らないので、まず客観的な数字を見ておきたい。

まずはウィキペディアの「生活保護の不正受給」の記事

概説に数字がある。

2010年時点における不正受給は、件数ベースで見ると2万5355件で、全体に占める率は1.8%であり、金額ベースで見ると不正受給額は128億7425万円で、全体に占める率は0.38%であった。

内訳としては、「賃金の無申告」が不正の中で約45%を占め最も多く、次いで「年金の無申告」が約25%、「収入を少なく申告したケース」が約10%であった。

これは厚生労働省「社会・援護局関係主管課長会議資料に基づくもののようである。

以下、不正受給の実例が上げられている。見ていくと、それらのほとんどがマスコミによって大々的に報じられたものであり、けっこう覚えがある。

これらは不正受給という範疇を超えた明らかな刑法犯罪・詐欺罪である。

貧困が犯罪の温床である以上、生活保護をめぐる犯罪率が高いのは当然である。

しかし福祉事務所や、生活保護課がそのことに責任を取る必要はない。相手が騙すつもりで「虚偽申請」して来る以上、騙されるのはある程度仕方がない。それは「経営リスク」である。

事後的に警察に通報して、そちらの判断に委ねる他ない。

ただそもそも「憲法の生存権を保障する」という性格を持つ生活保護が、その運営を地方自治体に委ねることが適切かどうか、という問題は問われるのではないか。

名合わせとか前歴照会などは全国で統一すべきものと考える。いまのコンピュータシステムの力から見れば造作ないことと思えるが。

不正就労と賃金の無申告は一番煩わしい問題である。いずれ生活保護を外れて自活の道を取ろうとしたとき、一定の資金は必要である。なんとか貯金のような形で許容できないものだろうか。

パート従業員として月12万-13万円の収入がありながら、無収入であるように装って生活保護費を不正受給していた女性が捕まった。市生活福祉課の職員らが交代で約2週間に亘り張り込んで現場を捕まえた。(生活保護不正、執念の見破り…張り込み2週間 読売新聞 2012年10月3日

まさに「生活保護 なめんな」精神であるが、なぜかむなしい。

よく分からないのだけど、相対的貧困率というのでいろいろ検討がされているみたいだ。

それで相対的貧困率のもとめ方だけど、国民所得の中央値の2分の1以下というのが定義のようだ。

そうすると、中央値が下がってしまうと、相対的貧困率が見かけ上は下がってしまう可能性はないだろうか。

たしか以前赤旗で、所得格差が広がると平均所得は同じでも中央値は下がるという記事があった。

たしか引用した記憶があるのだが、いま思い出せない。

いずれにしても所得格差がどんどん広がっている社会で、相対的貧困率で勝負しても始まらないような気がする。

右翼あたりなら、「相対的貧困率は下がっているぞ」と宣伝の種にしかねない。


これですね
2013年07月10日


生活保護「なめんな」事件への感想

マスコミやネットでは職員バッシングか、「そうだそうだ」の右翼の対応が目立つが、どうもすっきりしない。

彼らの本音は「生活保護課をなめんなよ」ということではないのか。もちろんそれは歪んだ形の反映になっていることも間違いないので、決して褒められたものではないのだが。

むかし、(ひょっとすると今も)共産党系の人はいじめられた。有形無形の差別、嫌がらせが横行していた。

北大を卒業して、本来なら主任・課長と進むべき実績を持ちながら、ヒラのままだったり、地方や外局に飛ばされたりしたものだ。

その最たる部署が生活保護課だったりした。

そこで水を得た魚のように一生懸命やる人もいれば、「落伍者」として生きる人もいた。

生活保護課は本来、生活困窮者を救済し社会復帰の道を開くことが仕事だ。医者と同じ「人助け」の商売なのだ。だから誇りを持って当たるべき職であり、敬意をもって遇されるべき職業なのだ。しかし、現状はどちらかと言えば「人斬り稼業」のようになってしまった。

なぜなら、自治体が生活保護の増加を恥と考え、保護率を減らすように押し付ける傾向さえあるからだ。

それが積み重なると、生活保護課がその名とは裏腹に生活困窮者の切り捨てを目標に掲げるようになる。中には公然と「適正化」を旗印に掲げたところもあった。

そういう職場では、生活保護を受理すれば上司は顔をしかめ、拒否すれば上司の覚えはめでたくなる。ヤバ筋のケースでもつかもうものなら、泣きの涙となる。

だから生活保護課の職員は、一般職員から冷ややかな目で見られるのと同時に、本来の目的からかけ離れた業務を遂行されることで、ますますやる気を失っていくことになる。

いろいろな統計を見ても分かるように、この国では、本来受給対象となるべき人の数に比べて実際の受給者ははるかに少ないのである。「生保以下の生活」を余儀なくされている人は受給者の数倍にのぼる。

つまり対象者の多くが捕捉されていないのであり、それは行政の不作為であり怠慢である。この逆転現象が問題の根っこにはある。問題にされるべきは「不正受給」ではなく「不正不支給」なのだ。

行政は生活保護をなめている。憲法第25条をなめている。それは犯罪と言ってもよい。

「生活保護 なめんな」は、むしろ私たち市民の叫ぶべきスローガンなのだろう。

今回の事件で生活保護課が掲げたスローガンは、いかにも弱気で屈折している。それは受給者に向かってではなく市役所の本庁舎に向けて叫ぶべきスローガンであり、さらには政府・厚労省や世間に向けて叫ぶべきスローガンである。

それならきわめて正しいスローガンだと思う。

たしかに生活保護はアリ地獄的構造になっており、一度ハマると脱出は困難だ。だから滞留し、果てしなく増えていく可能性はある。しかし、ここだけははっきりさせておこう。アリ地獄的構造を変革するのは政治(それも中央政府)の責任であって、生活保護課の任務ではないのだ。


生活保護の総合情報(条件 申請 基準 他)サイト生活保護の捕捉率というページに、あらあらの数字が載っています。

国民生活基礎調査など各種の統計からの推計で9.9%~19.7%という数字が出されている。

最近、厚労省と総務省で別個に捕捉率調査が行われており、厚労省では32%、総務省調査では68%という結果になっている。

厚労省の統計が低値を示すのは、住宅ローンのある世帯が除外されていないためであり、それを調整すれば総務省並みの数字になると思われる。

各種統計からの推計と「実測」にかなりの開きがある原因は、この文章からは不明である。ただ同じ方法で各国の捕捉率を比較すると、ドイツやイギリスはいずれも85%以上となっている。したがって日本の官庁統計には相当の操作が加えられていると見るべきであろう。

とりあえず、一番高い数字を示した総務省の調査を基準とすると、3世帯に一つは、生活保護の受給権を放棄させられていることになる。これをしっかり補足することが生活保護課の業務の第一目的だろう。

最近、特養で数人ほど、何か分からないCRP陽性と貧血の方がいる。症状もない(認知はある)がそのままというわけにも行かず、なんとなくプレドニンを使ってしまった。

1日5ミリだから、べつに副作用もないが、当然のことながらCRPは改善し、遅れて貧血も改善してきた。

結果的にリウマチ性多発筋痛(PMR)でよかったのかなと思っている。ただRFも陽性に出たので困ってしまった。

むかし研修医だった頃は「リウマチにステロイドは使うな」と堅く戒められていた。骨がぼろぼろになった患者の写真を見せられたりして、刷り込まれている。

「もしリウマチならそっちの治療しなければいけないのかな」と思って、雑誌をめくってみると、「とにかくリウマチなら高齢者であろうとなかろうと、リウマトレックス」と書かれている。

しかし副作用のところには恐ろしげなことが書かれている。とても特養で認知+超高齢の、しかも無症状の人に使えるような代物ではない。

だいたいメソトレキセートといえば、私らの世代には抗がん剤だ。使うんなら家族にムンテラして承諾書もらう必要がある。

ところがPMRならプレドニンを使っていれば済む。それも少量で済む。

じつは、私の研修医時代はリウマチ性多発筋痛そのものがあまり知られていなかった時代で、地方会で「PMRの2例」と題して報告した記憶がある。

そのとき文献集めをしたのだが、国内文献で5,6題。洋文献も1ダース程度だった。北大の図書館で巻紙のコピー用紙を一巻き使った記憶はあるが、不思議なことに読んだ記憶がない。

外国ではむしろ側頭動脈炎が注目されていて、スカンジナビアの何処かから「巨細胞がどうの」とかいうレビューがあった。

治療はアスピリンの大量療法で、日本人の胃袋には到底耐えられないような量だった。どこかで「少量のプレドニンが奏功する」という報告があった。その後はプレドニンが標準治療のようになっている。

昔話はさておき、「それではリウマチでないという証拠はあるのか」、と言われるとない。鑑別法を探したが、結論は「鑑別はできない」ということだった。後からリウマチの所見が出てくれば「やっぱりリウマチだったんだね」ということになる。

問題はプレドニンをダラダラと使うか、リウマチの治療に切り替えるかである。リウマチの治療にはやぶさかではないが、リウマトレックス以外の方法はないのか、これが目下一番悩ましいところだ。

むかし小耳に挟んだリマチルとかリドーラとかサラゾピリンはどうなんだろう。しかしこれらはぱっとしないような話しか書いていない。

どうも結論としては、「そうだ、これはPMRなんだ。だからプレドニンで良いのだ」と割り切るのが一番かんたんなようだ。悪性腫瘍が隠れていようと、歌の文句じゃないが「#そんなことなど知りたくないの」だ。そうなればどのみち助かりようはない。

だいたいプレドニンほど有効域が広い安全なクスリはないのだ。副作用は熟知されている。それに5ミリとか2.5ミリなんていうのは鼻くそみたいなもんだ。チラージンやインシュリンと同じで補充療法だと思えばいい。

ということで、CRPと血糖値見ながらダラダラと使うことにした。ひょっとすると低ナトリウムにも効くかもしれんなぁ。


本日のまんまる団地は傑作。著作権無視で転載。
manmaru

1万5千回とはすごい。
14669 ÷ 365=40年となる。休刊日とか入れたらもっと長くなるだろう。
オダ シゲさん、本当にご苦労さま。

連帯精神の二つの源泉: 利他行動と集団協力

先日、「機微」の問題に触れた。人それぞれに想いと行動を結びつけるものとして「機微」というものがあって、そこを互いに掴みながら連帯していくことで、「真の共闘」が形成されるという話だった。

そしてこの「機微」というのは。ことの性格上積極的で能動的なものだから、そこさえつかめばあとは勢いだ、と書いた。

ただこれは連帯精神の一面、「おもんばかり」という作業である。そこには、その前提となる「思いやり」の心が前提となっている。

共闘という作業は「おもんばかり」だけでもけっこう進むだろうと思う。そこにはある程度の共通の思いが存在していて、課題はその思いを探り出すことになるからだ。

しかし共闘は出発点であり、そこから先には砂のような大衆が待ち受けている。我々は砂の一粒一粒を思いやりの心で満たしていかなければならない。

そこで「思いやりの心」だが、実はこれは二つの要素からできている。

ひとつは利他の心であり、もう一つは集団協力の精神である。

この二つの要素は、実はボノボとチンパンジーの比較研究から導き出されたものである。

をご参照いただきたいのだが、実はこれは山本真也(京都大学霊長類研究所ヒト科3種比較研究プロジェクト特定助教)さんの文章チンパンジー・ボノボにみる「徳」の起源の丸写しである。

詳しくはそちらをご覧いただきたいのだが、ボノボにもチンパンジーにも利他行動はある。ただチンパンジー社会では集団協力の傾向が著しく発達しているために、利他行動のほうが見えにくくなっているだけなのだ。

集団協力を中心とする社会関係(群れの掟)の中でも、連帯心とか社会規範は発達する。それは一見利他の心と似ている。しかし、集団という囲い込みを前提とするところに決定的な違いがある。それは本質的に排他的で選別的である。

しかしそれ以前に、自発的で無差別な「利他の心」は生得的に存在するのである。あまり手垢のついた言葉にしたくはないが、エトスとパトスの生物学的説明と言えないでもない。無論この二つは絡みあっている。高次の利他行動は、社会集団の中で習得され、昇華されなければならない。

砂粒に見える人々にも、いわばDNAとして利他的な思いやりの心は潜んでいるのである。それを掘り出して、アパシーという汚れを取り払って、息を吹き返させることが大事なのだ。

これは文学とか芸術とかが担う作業になるのかもしれない。

「赤旗」の書評欄からの重複引用で、いささか気が引けますが、下記の一節が極めて衝撃的でした。

85万人の難民と聞くと大変な数に思えるかもしれない。しかしそれは約5億人の欧州連合(EU)の人口の0.2%程度で、世界一豊かな大陸が現実に吸収できる数だ。

人口450万人の隣国レバノンは120万人のシリア難民を受け入れている。ヨーロッパの指導者たちは恥じ入るべきだろう。

「難民危機」というが、それはそもそも難民が引き起こしたものではない。

難民を生み出した政治危機は、ヨーロッパの対応が引き起こしたのだ。欧州の政治家の怠慢こそが大混乱を生み出しているのだ。

 パトリック・キングスレー『シリア難民』(ダイヤモンド社)より

最後の段落についてはいろいろ意見もお有りでしょうが、最初の3連についてはまことにお説ごもっともです。

「数の問題ではなく“こころ持ち”の問題なのだ」、これはメルケル首相も盛んに強調しています。

ただそうは言っても問題は解決しないので、このささくれだった自己主張が横行する世の中をなんとかしなければならないのでしょう。

「トランプ現象」が世界を跋扈しています。身の回りになんと「小トランプ」の多いことでしょう。こういう人たちの「こころの機微」に触れ、凍りついた「優しさ」バルブを開け放つのには、どうしたらいいのでしょう。

2016年に我々が背負わなければならない、最大の課題でしょう。

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