北海道における酒造業のおいたち というページがあった。
北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。
かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。
1.明治維新前の酒造業
一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。
2.明治初期
函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。
札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。
しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。
3.北の誉 御三家
最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。
4.旭川の酒造業
旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。
最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。
5.栗山の小林酒造
旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。
小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。
6.意外に伸びない北海道の清酒生産
コピペのコピペなので少々見づらいと思う。
これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。
解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。
この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。
2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。
これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。
日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。
理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。
だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。
北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。
その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。