鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年11月

北海道における酒造業のおいたち というページがあった。

北海道酒造組合の業界誌の第64巻第1号とある。日付けが入っていないが、図表や(注)を見るとおそらく昭和43年ころのものと思われる。

かんたんなものであるが、概要は分かるので、すこし内容を紹介しておく。

1.明治維新前の酒造業

一般には内地酒を移入していた。小規模な酒造は行われており、 200年くらい前、明和の頃に函館の逢坂七兵衛が酒造を営んだという記録が残されている。

2.明治初期

函館と道南地区の清酒 業者は、明治12年には19場を数えたという。

札幌では石川県出身の柴田与次右衛門氏が明治5年に酒造をはじめた。最初は濁酒、ついで清酒も手がけるようになる。そのご相次いで開業者があらわれ、明治25年には業者37人があわせて11,227石を生産した。

しかし北海道の酒造業が一気に拡大するのは日露戦争のあとからである。多くの酒造りが内地から進出、明治34年にはその数150に達した。

3.北の誉 御三家

最初に創業したのは小樽北の誉酒造で、明治34年。社長は野口吉次郎。ついで明治40年に旭川北の誉が創業となった。札幌北の誉は遅れ、大正3年の創業となっている。

4.旭川の酒造業

旭川には陸軍旭川師団があったことが理由であろう。

最初は明治32年、高砂酒造、塩野谷酒造が相次いで創業。翌明治33年には山崎酒造が札幌から移転開業している。

5.栗山の小林酒造

旭川が陸軍相手の商売とすれば、栗山は夕張炭鉱が商売相手だった。

小林酒造は明治12年に札幌で創業したが、時流を見て明治43年に栗山に移った。酒より他に楽しみのない1万の荒くれ男たちに独占販売するのだから、儲からない訳がない。

6.意外に伸びない北海道の清酒生産

清酒生産

コピペのコピペなので少々見づらいと思う。

これを見ると分かるように、北海道の清酒生産はほとんど増えていない。最新が昭和40年で、このあとはさらに下がっている筈だ。

解説によると、昭和14年の生産減少は、値崩れを防ぐために生産者組合が自主規制と生産 統制を実施したためだとされる。

この間人口は大幅に増えているので、道内の清酒消費に対する道内産のシェアが落ちているものと考えられる。内地物に押されているのだろう。

2016年現在の酒造蔵は11ヶ所まで減少している。道南には一つも残っていない。

これは分かる。学生時代ビラの原稿を書いて、カッティング、スッティングして、窓から忍び込んで教室に撒いて、それから飯を食いに行った。食堂でかじかんだ手で「アチチ」と言いながら徳利の首をつまんで湯呑み茶碗についでぐいっと行くと、生き返った心持ちになったものだった。しかし翌日つけはきた。激しい頭痛と吐き気、いわゆる二日酔いである。

日本酒というのは二日酔いするものだと思っていたが、おとなになってから良い酒を飲むと不思議と二日酔いしない。

理由は直感的にわかった。むかしの日本酒は、学生が飲むような安酒はとくに、混ぜ物が入っていた。飲んだ後にサッカリンと味の素のエグミが残るのである。良い酒にはそのような後味はない。

だから千歳鶴を飲んだあとの二日酔いは、実はチャイナレストラン・シンドロームではなかったかと思っている。

北海道の酒、あえて言わせてもらえば千歳鶴と北の誉はほとんど毒液のような酒だった。このような植民地の流れ者相手の商売がいつまでも続くわけがない。

その頃の小林酒造の酒は札幌では流通していなかったが、夕張の流れもの炭鉱夫に飲ませる酒が千歳鶴よりまともだったとは想像し難い。

これも本日の赤旗、文化面

坪内稔典という俳人が「文学のある日々」というエッセーを連載している。いつもちょっとツボにはまらないもどかしさがあるのだが、今回の「子供と言葉」というエッセーには素晴らしい俳句が載せられている。

俳句と言っていいのか分からないが、俳人が自ら俳句だと言っているのだから、俳句で良いのだろう。

※ ※ 

私はときどき、小学生たちと俳句を作る。その際、自己紹介代わりに自作を音読してもらう。

三月の 甘納豆の うふふふふ

たんぽぽの ぽぽのあたりが 火事ですよ

春の風 ルンルンけんけん あんぽんたん

これら私の句をいっしょに音読すると、子どもたちの緊張感がたちまちほぐれ…

とまぁ、そんな文章なのだが、

一人でもぐもぐと口のなかで音読しても、たしかに うふふふふ だ。

三句とも語頭にアクセントがあって、「の」の字が多くて、「の」つながりの言葉の電車だ。

意味は基本的に否定されているが、春の野焼きのような浮き浮きした気分が満載だ。

“あんぽんたん” も甘納豆も、かすかに古めかしい。

とにかく、とってもチャーミングだ。

甘納豆の うふふふふ」はおそらく一生耳の奥に残るだろう。


電力村の横暴がこの国を貶めている 石炭火発 推進の背景

香港 雨傘運動の経過

ワレンバーグ スエーデン外交官 ハンガリー ユダヤ人救出 ソ連による逮捕と殺害

医療・介護 改悪 工程表

本日の国際面の囲み記事。
コピペで紹介する。
交通マナー
「してやったり」の表情を浮かべる島崎さんは描かれていない。

もちろん、ファシズムは交通マナーとは関係ないが、そもそも日本をドイツやイタリアのファシズムと同一視するのもおかしいのだ。
日本は絶対主義天皇制が攻撃性を強めただけで、見かけは同じでも周回遅れである。
ヨーロッパのファシズムは民主主義の上に、民主主義の方法で、民主主義を否定するようにして生まれた。日本にはそもそも民主主義はなかった。
民主主義というと語弊があるかもしれないが、ファシズムは君主制(帝政)に代わるべきはずの共和制が産んだ奇形児である。
「見かけは同じでも周回遅れ」というのは、逆に言うと、「周回遅れだが見かけは似ている」ことになる。
日・独・伊三国の見かけ上の特徴は反動主義政治、独占資本擁護、軍国主義、対外侵略である。
それぞれが正反対と言うほどに異なる伝統・国民気質を持ちながら、同じような政治形態に至ったところに枢軸国家の歴史的本質を見なければいけない。言っちゃ悪いかもしれないが、フランスだって紙一重だったのである。それはアランさんのほうがよく知っているはずだ。ディエンビエンフーだってアルジェーだって、ベイルートだってルワンダだってフランスじゃん。今じゃフランスがファシストの世界最強の拠点だ。
この囲み記事は、そういうことを教えてくれる。それは、21世紀初頭の今の世界にこそ求められている視点である。

本日もぶらりとドライブ。旧夕鉄線沿いに栗山まで足を伸ばした。みぞれが降ったりやんだりの、ひたすら寒い初頭の一日であった。道路が夕張川をわたるとすぐ、右手に小林酒造の酒蔵が見えてくる。市民に開放されてなかなかの観光名所になっているようだ。

とくにあてと行ってないし、そろそろ昼時だ。どうせ見るものもないだろうが、ちょっと食べるくらいのところはあるだろうと、寄ってみた。

この天気で、みな行くところはないと見えて、意外と混んでいる。

本店の建物が北海道の有形文化財になっているということだ。小樽の銀行に真似て作ったとされ、道理で馬鹿でかい金庫が鎮座ましましている。たしかに色内の日本郵船の作りと似ている。しかし規模は大分小さい。

並んでいるものは小林酒造の製品がほとんどで、あとはちょっとした日用品とかが並べられている。所詮は栗山町だ、こんなもんでしょうと、外へ出た。

出た脇に「小林家」と看板があって通路がある。見学自由のようだ。

入っていくと2階建て木造の堂々としたお屋敷が立っている。とは言え、和風の民家であり、人を威圧するような厳めしさは感じられない。

小林家 正面

ホームページより)

これが中にはいって驚いた。入ってすぐの2、3部屋しか見ることはできないのだが、なんと部屋数が30ある(公式には23)という。

私の子供の頃、お屋敷といわれる家を何軒か知っているが、指折り数えると10部屋ちょっとがせいぜいだったように思う。我が家でも数だけなら6DKだ(6部屋目は無駄だったと後悔している)

部屋数が多いのにも驚いたが、築120年というのに、手入れもしていたのだろうが、実にしっかりした作りだ。これだけの大工を良くも揃えたものだと思う。

家のぐるりを回ろうとしたが道路側に面した塀だけ見て10分もかかった。最後には迷子になってしまい、慌てて地図を便りに右往左往というみっともない仕儀になってしまった。

おそらく施主が造作道楽(と言うより造作狂)でひたすら間数を増やしていったのだろう。普通は洋館風の別邸を建てるとか、子どもたちには離れを設えるとかするものだろうと思う。宿泊客が多いのなら、いっそ母屋ごと明け渡して、自分たちはもう少しこじんまりと暮らしたいとは思わないのだろうか。

案内係の人(小林家のご家族らしい)の、最近の通信が泣かせる。

「春夏秋冬、外より寒い小林家」です。

スタッフは、2月のご案内のお客様を「チャレンジャー」と呼んでいます。

…家屋の見学には厚手の靴下が2枚必要です。ストッキングなんて裸足に氷水をかけた感じになります。ホント、どんなウチなんでしょ・・。

とにかく、公的な性格はまったくない(最初は多少あったようである)、まったくの私邸である。本店の方に仕事に必要な施設、設備は全て揃っている。常識はずれの無駄な贅沢としか思えない。とは言いつつも、貧乏人には「いかにも田舎の富豪がやることだ」と、せいぜい嫌味を言うくらいが関の山。

この間数への異様なこだわり、一見の価値はある。店などあまり見ずに、まっすぐお屋敷に行ってみたほうが良い。

「風に吹かれて」ってそんなにいい詩なのかね?

うんと意訳しながら辿ってみると、

あいつはどのくらい苦労したらいいんだい

君があいつを「男だ」って言う前に、

大砲の弾は何発飛んだら禁止されるんだい

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

これが一番だ。

二番はもっと嘲りのニュアンスが強い

山があるだろう

それが全部雨で流されて消えるのに何年かかる?

人々が自由になるのに何年かかるだろう

それまで生きていられるかな

それまで見て見ぬふりをするために、

何回首を傾げるかな

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

三番はそれまでより少しまともである

話によると、最初は三番が二番で、二番は後から突っ込んだものらしい。

人は何度見上げたら空が見えるようになるのだろう

人はいくつの耳を持たなければならないのだろう

人々の悲鳴を聞けるようになるのに

一体何人が殺されたら、彼は

あまりにも多くの人が死んでしまったと悟るのか

ねえ君、そんなことなんかわかりっこないよ

風の向くままさ

ボブ・ディランは仲間と議論していて、急にこの歌詞を思いついたそうである。

結局彼の言いたいことは、「そんなことなんかわかりっこないよ」ということだ。彼が議論からそろそろと後ずさりしているさまが目に浮かぶ。

何かしら、嫌な苦味の残る歌詞である。

同じボブでも、ボブ・マーレーはいいぞ。

すみません。私は柴田トヨさんという人をぜんぜん知りません。なので「詩人柴田トヨ」と呼び捨てにするのはちょっと抵抗があります。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

といわれると、「ほお、そうか」というしかありません。

ちょっとグーグル検索してみました。

ウィキによると

1911年(明治44年)生まれ 2013年の死亡とあり、3年前に101才で亡くなった人だと分かります。

いろいろ辛い人生を送った後、92歳から詩作を始め、産経新聞の投稿詩人となった。テレビやラジオでたびたび取り上げられ、詩集『くじけないで』が160万部を記録した。

プロフィール

ということで、けっこうな人気だったようです。産経系だったので私の目には触れなかったのかもしれません。

それで実際の作品はどんなものだったのか。著作権侵害を恐れずに拾ってみる。

以下は柴田トヨさんさんの詩の頁から転載

くじけないで

ねえ 不幸だなんて
溜息をつかないで

陽射しやそよ風は
えこひいきしない

夢は
平等に見られるのよ

私 辛いことが
あったけれど
生きていてよかった

あなたもくじけずに

神様

お国のために と
死にいそいだ
若者たちがいた

いじめを苦にして
自殺していく
子供たちがいる

神様

生きる勇気を
どうして
あたえてあげなかったの

戦争の仕掛け人
いじめる人たちを
貴方の力で
跪かせて

化粧

倅が小学生の時
お前の母ちゃん
綺麗だなって
友達に言われたと
うれしそうに
言ったことがあった

それから丹念に
九十七の今も
おつくりをしている

誰かに ほめられたくて

先生に

私を
おばあちゃん と
呼ばないで

「今日は何曜日?」
「9+9は幾つ?」
そんな バカな質問も
しないでほしい

「柴田さん
西条八十の詩は
好きですか?
小泉内閣を
どう思います?」

こんな質問なら
うれしいわ

と、まぁ、技法的には小学生の作文である。

ただテクニックというのはその気になれば急速に向上するものであるから、本当は最初の詩から順に並べながら、その流れを評価しなければならないだろうが、そこまでの気持ちは起きない。

正直言えば陳腐である。「100歳でよくおできになりましたね」と言う言葉が咽喉まで出掛かる。

以前に柳原白蓮の歌を観賞したときの凛とした感動はそこにはない。むかし山形の小学生の綴り方を詠んだ時の泣けるような感動もない。

「ある現代詩人」の感想は、それはそれとしてうなづけるのである。ノーベル賞のアカデミーが「それをいっちゃあおしまいだよ」なのと同じように、「現代詩人たるもの、それは禁句だぞ」といわれると、「現代詩人ってそんなご大層なものかい」と絡みたくなる気がしないでもない。

どうも木島章さんの腹の底が見えず、なんとなし、いやな感じである。

どうも昨日の赤旗の記事が気になってしかたがない。

文化面の「詩壇」というコラムで、題名は「社会と乖離する危機」、著者は木島章さんという人で、肩書きは詩人。

短い記事だがいくつかの内容が含まれる。

最初がボブ・ディランのノーベル賞受賞の話。

ノーベル賞の主催団体がボブ・ディランに連絡をとろうとしたが、当初、ボブ・ディランが態度表明をしなかった問題。これはいまだに真相が分からないので評価のしようがない。

ついで、ノーベル賞のアカデミーがボブ・ディランを「無礼で傲慢だ」と発言したという話。これも真偽のほどはたしかでない。しかしそれが世界中に波紋を呼び、ノーベル賞団体こそ傲慢だと批判を浴びてしまった話。これも、「どうでもいいじゃん」という感じだ。

ただノーベル賞側が不愉快に感じても不思議ではないと思う。たしかにボブ・ディラン側の対応は失礼だ。同時にそれを表に出すのも大人気ないかなとは思う。そんなことを表に出せば、どうせ「傲慢だ」と切り返されるのは当たり前だ。

そこで木島さんの見解は次のようなものだ

ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーは傲慢である。(正確な引用は後出)

これは、やはり一方的な断罪といわざるを得ない。とにかく一連の経過を評価する上で、「なぜ」という事実が一つも明らかにされていないからだ。

この段階で木島さんの言うことに「そうだ、そうだ」と同感することは出来ない。ただ、木島さんがボブ・ディランをきわめて高く評価していることは実感できる。

ただボブ・ディランの話はここでの主題ではないのでこれ以上の議論はしないで置く。

次が、詩人柴田トヨをめぐる議論。

ボブ・ディランのときと同じように、いくつかの事実が並べられる。

90歳を過ぎて詩作を始めた。

第一詩集は160万部のベストセラーになった。

詩壇は柴田のことを無視し続けた。

柴田を詩人ともてはやすマスコミに苦言を呈する“現代詩人”がいた。

これらの事実から木島さんはつぎの結論を引き出す。

現代詩を高みに置き、彼女を見下すように排除する詩人たちに、ノーベル賞の権威にひれ伏さないディランをののしったアカデミーと同様、傲慢さしか感じられないのは私だけだろうか。

「私だけ」かどうかは別にしても、ボブ・ディランと柴田を同列に扱い、一方でノーベル賞のアカデミーと、現代詩のしがない「詩壇」とを同列に置く視点というか論理はかなり特殊なものと見てよいだろう。

そしてこの文章の最終的結論はこうなる。

柴田の人気の陰で、現代詩がますます社会と乖離していく危機感を抱かずにはいられない。

こうなると、あたかも現代詩が柴田を評価しないことと、現代詩が社会から乖離していることが、因果関係にあるかのように思えてしまう。そう読めてしまうのは私だけであろうか。


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