鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2016年11月

以前、パタゴニアで風力発電をやって、それを水素にして日本に運ぶというプロジェクトを紹介した。

このプロジェクトは軍事産業の代表である三菱重工のものだったから、紹介をためらったが、あまりにも気宇壮大で痛快だったので度肝を抜かれた。

このプロジェクトの発案者が勝呂幸男さんという方で、三菱の社員であるとともに、日本風力エネルギー協会の会長も務めている。元々はタービン屋さんのようだ。

その後、石油もガスも安くなり、電力各社が原発に執念を燃やし続けるため、話題にはなりにくくなった。しかしいつも心の片隅には残っている。

風力が話題に上らなくなったのは外的環境のせいだけではない。日本での風力発電が極めて多くの問題を抱えているためだ。この点についても以前書いた。「日本では風力はお呼びではない」とまで書いた。

そんなとき、勝呂さんの文章が目に止まった。題名は「風車導入拡大へ向けて課題を克服しよう」というもの。

ある意味では、執念の一文だ。

勝呂さんによれば、風力発電の課題は風車の信頼性に尽きる。

まず風車の信頼性に関わる事件がいくつか紹介される。

1.カリフォルニア風車ブームの挫折

かつてPURPA法を適用した風車が所謂カリフォルニア風車ブームを起こした。しかし運転後に多くの故障が発生し評価は失墜した。

故障の原因は、つきるところ風力変化の評価が不十分だったためだ。

2.国際電機会議(IEC)の技術標準

カリフォルニアの総括の中から標準設計基準が提唱され、これがIEC技術標準として固められた。

3.宮古島の風車倒壊

日本では宮古島に立てた風力発電の風車が転倒した事件が衝撃を与えた。

宮古島は80m/secの強風番付一位の実績があり、IEC標準からは到底,標準風車を設置出来ない所である。

なのに建ててしまったという問題がひとつ。そして建てられた風車の最大耐強風設計が60m/secだったということ。

つまり建ててはいけないところに、建ててはいけないものを建ててしまったということである。

4.「日本製だから安全」と言われるように

勝呂さんは、「この話がわが国の風車導入の実際を象徴的に表している」と嘆く。

このような気象条件に対する無理解ばかりではなく、落雷への配慮もなされていない。

そもそもIEC標準の基礎データとなっているのはヨーロッパのもので、後から米国のデータも取り入られたが、日本やアジアのデータは反映されていない。

個別の気象条件に合わせた日本発の建築基準を作り上げることが、今後の課題だ。


とまぁ、こんな具合だ。

厳しい言い方をすれば、これまでの日本の風力発電はなんのデータもなしに、外国仕様の風車を建てているだけだ、ということになる。

つまり、「これからは基準を作ってやっていきましょう」ということだ。会長さんがそう言っているのだから間違いない。

そこには相次ぐ風車事故への深刻な反省は見られない。「とんでもないことをしてしまった。二度とこのような間違いを繰り返さないためにどうしたら良いのだろう」という発想が窺われない。

どうも勝呂さんという人、攻めのタイプのようだ。

勝呂さんの専門であるタービン・ボイラー技術の歴史というのは、安全性構築の歴史と言ってもよい。ものすごい威力はもっているが、そのぶん危険性も高く、それがネックとなって伸び悩んだ時期がある。産業革命の頃だ。それが内燃機関として発展するのは、まさに安全性問題が解決したからだ。ソロバン勘定はその後だ。パタゴニアの風力発電も、足元の安全が確保されなければ夢物語だ。

三菱といえばゼロ戦を作った会社。世界トップの性能を誇ったが、それは防御や安全性、居住性などを一切無視したものでもあった。軍事産業を主軸に成長したこの会社には、伝統的に安全軽視の風潮があるのかもしれない。

いずれにせよ日本では当分、安全性を最重要課題とする技術構築という視点は生まれそうにない。日本の気象条件に合わせた、安全で安定した風力発電は期待できないということだ。

「主体性」は人間の本質ではない

いじめ、過労死、ストレスなどいろいろ並べてくると、人間の主体性という問題がどうしても避けて通れなくなる。そこで「主体性こそ人間の高次脳機能の本質」だという議論が出てくることになる。

しかし生物学的に見て、主体性の形成というのはそんなに高等な作業なのか、というと必ずしもそうではない。

むしろ、動物は大なり小なり主体性を持っている、という方が正確だろう。

そうすると、人間としての人間的な主体性というのは何なのかと、問題を置き換えなければ生産的な議論とはならないのではないか、とふとそう思う。

我々が生き物というとき、それは実際には動物のことである。もし「じゃぁ植物は生き物ではないのか」と問われると、「まぁそれも生き物ではあるな」と答えるが、心の底では「何をアホなこと言っているんだ」と舌打ちすることになる。

しかし食物連鎖を全体として考えてみれば分かるように、動物の例えば1千倍とか1万倍とかのオーダーで植物生命体があるはずだ。理屈から言えば、そういうレベルで生物界のバランスはとれているはずだ。

よく言えば、動物は生命界のエリートであり、悪く言えば寄生虫である。

生化学的に言えば、植物は炭素と水からできている。動物はそれに窒素を加えることでより複雑な構造を作り出している。何よりも大きな違いは、窒素が加わることで能動性が生み出されている。(あくまでも基本的な特徴付けだが)

栄養学的に言えば植物は独立栄養であり、水を分解することで炭水化物を作り、一方でこれをエネルギー源としつつ他方で炭化水素を高級化し体の構成成分ともする。

動物は従属栄養であり、植物の成長に自らの生命を託している。そして動物界の中にも食物連鎖のヒエラルキーを形成する。


動物は生まれながらに2つの世界に身をおくことになる。

一つは植物の世界に従属して、それに寄生しながら自らの生命を維持する世界である。

そしてもう一つは、食物連鎖の中にあってある時は捕らえ食し、ある時は捕食者から逃れ、生きながらえる弱肉強食の世界である。

もちろん、動物も植物も決して優しくはない自然環境の中に暮らすわけだから、全体としては自然の摂理に翻弄されながら一生を送る存在である。

その2つの世界のそれぞれにおいて、その生命体が動物であること、「動く生き物」であることはどのような意味を持つのだろうか。

それはまずもって、「判断」し「行動」することではないか。超短期的に言えば、自分以外のあるものを見たとき逃げるか捕まえるかの判断である。もう少し長期的に見れば、果実をもとめてさまようときに北に行くか南に行くかの判断は自ら下すしかない。ある程度はDNAやエピジェネティックに準備されているにせよ、最後は自己責任という厳しさを伴っている。

動物が群れを作るとき、それはそういう主体性を(部分的に)放棄することを意味する。そのほうが楽だからというのもある。「自由からの闘争」である。しかし今度は社会のしがらみが襲ってくる。ひどい時は「一億玉砕」などと死を強制される。

戦後流行した「主体性論争」はこの経験が下敷きにある。だから「ローン・ウルフ」であれという主張が導き出される。

このような「主体性」は相当屈折した複雑な心理状況を意味するが、それを「人間のみが主体性を持つ」というところまで敷衍してはならない。主体性と社会性(客観性)の関係は、動物がこの世に現れてからのいくつもの弁証法的過程を踏まえて議論しなければならないのである。

動物の生きるしくみ事典

「動物の生きるしくみ事典は、日本比較生理生化学会が進めるプロジェクトです」とあって、基本的には私の関心にピッタリ当てはまるようだ。

神経系の起源と進化

ニューロンの出現

記載にかなり枝葉が多く、話をわかりにくくし、誤解を生む。刈り取って引用する。

系統樹の最初に腔腸動物がいる。体中を網目状の神経網が走り、脳や神経節をもたない散在神経系をもつ。

腔腸動物以前の海綿動物門では、まだ、神経細胞は見られず、個体性も明確でない。

最初の特殊化した細胞、ニューロン(神経細胞)が現れるのは、腔腸動物の刺胞動物門である。


知らない言葉が出てくるので、ウィキで補う。

腔腸動物: クラゲやサンゴ、イソギンチャクを含む刺胞動物と、有櫛動物(クシクラゲ)をまとめたグループ。クシクラゲを除けば、腔腸動物=刺胞動物=クラゲ・サンゴ・イソギンチャクと考えてよい。

海綿動物: 最も原始的な多細胞動物。襟鞭毛虫の群体が起源であるとも考えられている。

多細胞でありながら明瞭な器官の分化が見られない。最初は腔腸動物にふくまれていたが、現在はより原始的な海綿動物として別扱いされている。

襟鞭毛虫: 従属栄養(捕食型)の単細胞生物。最も発達した単細胞生物と言われる。しばしば巨大なコロニーを形成し、コロニー内の細胞形態に分化が見られる。


ということで、多細胞動物には最初から神経がある。ないのは単細胞動物から多細胞動物への移行期だけだ。

つまり、神経は動物の本質(のひとつ)なのだ。

そして神経とは電気刺激、シナプス結合、受け手細胞の活動電位発現の3つの過程の連鎖なのだ。故に、うつ病はシナプス病として解消はできない。もしシナプス病であるとすれば、それはきわめて限られた領域の、きわめて特殊な形態のシナプス病でしかない。


神経系の変貌


次の「神経系の変貌」という段落には、注目すべき記述がある。(それにしても雑然として読みにくい文章だ)

神経細胞をもたない単細胞動物においてもすでに、神経細胞と同様の機能が見られる。
ゾウリムシは物体に衝突して方向変換する。捕食者に襲われれば遊泳速度を速めて逃避する。
これらの行動は、細胞内の生体電位を利用して引き起こされる。
すなわち機械刺激に対する脱分極、体内のCaイオンによる繊毛打の制御などが起きる。
これは神経系の神経細胞・感覚器・効果器と同じ仕組みだ。

ここでは機械刺激とのみ書かれているが、化学刺激に反応してもおかしくはないだろう。


つまり単細胞生物は、それ自体がシナプス後細胞としての条件を備えているわけだ。であれば「なんでもござれ」で多種多様な刺激に反応して活動電位を発生してもなんの不思議もない。

前の記事でも書いたように、神経伝達の本質的能力はシナプス後細胞にあるのであり、前細胞はそれをくすぐるだけなのだ。だから神経伝達物質がなんであっても、相手が悶えてくれさえすればいいのだ。

その点から考えると、シナプスの機能不全を神経伝達物質の枯渇というところから説明するのは的はずれな気もする。むしろレセプターの側の感度低下なり、細胞内カルシウム代謝の異常なりを攻めていくべきではないかとも思う。

日銀ではないが、量的緩和策には自ずから限界があるのである。求められるは後細胞の内需拡大である。

シナプスにおける情報伝達のシークエンス

えらく面倒だが、やはりここが勘所だから頑張ろう。

肝心なのは化学伝達物質が“泳ぐ”しぐさ、向こう岸にたどり着いて上陸する過程、上陸した後ふたたび活動電位に姿を変えて、旅支度を整える過程だ。

トライアスロンの選手が泳ぎを終えて、陸に着くとまず足で歩く。それから自分の自転車を探して乗る。それから今度はペダルを漕いで走り始める。

いわば2つのポイントで区切られた3つの運動形態の変容が、全体として捕まえられなくてはならない。

もう一つはトライアスロンの選手はそれをまったく独力でやるわけではないということだ。泳ぐときにはそれなりのガイドが必要だ。上陸地点には上陸しやすい環境が作られなければならない。着いたところが断崖絶壁では困る。そして濡れた体を拭くタオルも、シューズも揃えられていなければならない。

ということで、シナプス伝達の成否の殆どは受け手の細胞に関わっている わけだ。

ここの部分、教科書では

①情報伝達物質は、シナプス後部で受容体と結合する

②イオン透過型受容体の口を広げて、イオンを通りやすくする。

③イオンが後細胞にどっと入り、細胞内電位を上げる。

④これによってシナプス後部が興奮する

というのが基本コースである。

つまり伝達物質はトライアスロンの選手とは異なり、接岸はするが上陸はしないのである。特殊部隊のごとく城壁(細胞膜)に張り付いて、鍵穴を開けるまでが仕事である。そこから飛び込んだカルシウムやカリウムなどの陸戦部隊が実際の戦闘に当たるのである。


前神経へのフィードバック

城壁の鍵穴を開けて雪崩を打って飛び込んでいくのだから、結構ヤバイ作戦だ。きちっと制御しないと後細胞を破壊してしまう危険もある。

そこで全細胞にどう情報をフィードバックし、伝達物質の放出を調整するかが勘所になる。

この部分の記載はもっと面倒くさい。

シナプス後部ではNitric oxide synthase(NOS; 一酸化窒素合成酵素)がセカンドメッセンジャーである一酸化窒素や2-アラキドノイルグリセロール(2-AG)などをはじめとするエンドカンナビノイドが産生されることで、活動依存的にシナプス前終末の情報伝達物質の放出を調節している。

この文章は文法的にもあやふやで、何がどうしたのかわからない。

うろ覚えだが、NO(一酸化窒素)というのは血管内皮にあって、血管を弛緩する“いいやつ”だったと思う。それを作る酵素だから、多分“いいやつ”だ。

文章を一生懸命読むと、後細胞の中にその酵素があって、イオンの急速流入に反応して活性が高まる、そこでNOが産生されてシナプス間隙に放出され、それが前細胞に「未だだよ」とか「もう良いよ」とか言うんではないだろうか。

 

シナプスの勉強 その1 神経伝達物質

何か巨大迷路に入ったようで、何を勉強しているのか、それが脳の勉強のどの場所に位置するのかわからなくなっている。

最後は一つの哲学にならなければならないのだが、その山の頂が見えない。

ブログのいいところは徹底的に自分勝手に書いていけることだ。読者の皆さんには多少迷惑だろうが、ブログをメモ帳代わりに使わせてもらうことにする。

神経伝達物質の一覧表

モノアミン

人間の神経伝達物質ではドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリン、セロトニン、ヒスタミンが相当する。

言葉の由来はアミノ基(アミン)が一つだけ(モノ)という構造上の特徴のようだ。

これらの物質はドーパミン、ノルアドレナリン、アドレナリンは普通は3つ並べてカテコールアミンという。3兄弟だ。セロトニンとヒスタミンはちょっと毛色が違う親戚筋だ。

定義の問題でこだわっておきたいのは、これはケミカルメディエーター(化学伝達物質)一般ではなく、神経伝達物質としての種類であるということだ。つまり神経細胞が産生し放出するケミカルメディエーターだということだ。副腎や肥満細胞が放出するカテコールアミンやヒスタミンは、定義上ふくまれていない。

モノアミン含有神経細胞の細胞体は脳幹部にあり、ほぼ脳全体に神経軸索を投射する。

アセチルコリン

α運動ニューロン、自律神経節前線維、副交感神経節後線維に分布

骨格筋の運動、副交感神経機能、記憶・学習にかかわる

アルツハイマーと関連

ノルアドレナリン

交感神経節後線維、青斑核に分布

交感神経機能、大脳賦活系の機能、

躁鬱病と関連

ドーパミン

中脳-辺縁系、黒質-線条体系に分布

報酬系調整機能

薬物依存、快感、精神分裂病、パーキンソン病と関連

セロトニン

延髄の縫線核に分布

睡眠調整機能、

鬱病と関連

グルタミン酸

興奮性神経伝達物質

記憶・学習機能、

てんかん、ハンチントン氏舞踏病と関連

GABA(γ-アミノ酪酸)

脳全般に分布、

抑制性神経伝達物質として働く

alcohol中毒、不安、睡眠、麻酔、てんかんと関連


ということで、シッチャカメッチャカの手当たり次第だ。こうなると、神経伝達物質の各論をやるのは骨折り損のようだ。

問題はむしろ、使えるものなら何を使ってでも、神経は何かを伝えようとしているということなのだ。何を伝えようとしているのかを考察するのが先決だろう。

ところが諸論文を見てもそこが見えてこない。これは結局系統発生学をやらないと出てこないのではないか。しかも神経が出来始めた初期の頃の発生学だ。





最近、と言うよりだいぶ前からだが、ソバをズルズルと吸い込んで食べるのが流行りのようだ。
流行りというより、それが「由緒」正しい食べ方のように押し付けられている。
元々田舎じゃ、そうやって食っていたかもしれない。米も食えなかった貧しい人たちの食い物だ。
それが江戸の出稼ぎ労働者に広がって、「江戸っ子」気取りの変な作法になったんじゃないかと思う。
だいたい「江戸っ子」というのが上品だと思うのがいけない。彼らは「下品さ」を開き直って、「貧乏なのが粋なんでぇ、無作法なのが粋なんでぇ」と強情を張っているにすぎない。
鮨だって素手でつまんで一気に頬張るし、鮨屋だって最初っからそのつもりで握っている。

昔だったら話は分かるんだ。そういう場末のこ汚い店に、上品な客が現れて鮨を箸で摘んで食べたりすりゃ、「そんな食い方するもんじゃねえ、鮨ってぇもんはこうやってつまんでポーンと口に放り込むもんだ」と言いたい気持はよく分かる。
しかし、これだけ国中に広がった食い物だ。どう食べたって文句はない。私は箸を使う。いちいちタオルで指を拭くのが面倒だし、第一、タオルがネチョネチョで不愉快だが、タオルを代えてくれる寿司屋にお目にかかったことはない。

落語にあるように、江戸っ子だってソバはたっぷりつゆにつけて食べたかったのだ。ただ江戸っ子の流儀からすれば、「そいつは粋じゃない」からやせ我慢していたに過ぎない。

蕎麦屋の講釈は不愉快なほどに理屈っぽい。そのほうが空気が絡むとか、なんだとか真顔で平気で喋る。理屈っぽいのは信州人の山家の血だ。江戸っ子から見れば、そういうのを「無粋」というのが分からないのか。

私は、断固噛み切る。つゆが絡むというのなら、ソバをズボッとつゆに漬ければ済む話だ。噛み切った残りがまた椀に戻るのが不潔だというが、マイつゆだ。串かつのソース二度漬けとは違う。
昔、小学校には必ずあおっぱな垂らしたやつがいたもんだ。昔はティシューなどという気の利いたものはないから、いい加減垂れてくると、思いっきり鼻を吸うと青い二本の紐がジュルジュルっと鼻の穴におさまる。
あの光景が思い出されてならない。
「おいおい、つゆが飛び散るではないか」

勤務先の江別市で「まんまる新聞」というタウン紙が無料で配られている。紙面の半分以上は広告で、「新聞仕立てにしたチラシ」みたいなものだが、存外市民には人気がある。
その理由は編集者の熱心さにあるようだ。
以下は、この間配られた「まんまる新聞」の一面下、天声人語みたいなコラム。この新聞には「社説」などという気張ったものはないから、けっこう編集者の「ジャーナリスト魂」が顔を覗かせる。

▼あ~あ、当選しちゃったよ。オレ政治やった経験ないし、困っちゃったなあ……
米次期大統領に“仮当選”(12月19日に今回選ばれた選挙人による正式投票で本決定)したドナルド・トランプ氏の心中をこんな思いがよぎったかも知れない。ほとんどのメディア・研究機関が予測していた大本命の前国務長官、ヒラリー・クリントン氏が敗れたアメリカの大統領選挙。この番狂わせの衝撃は世界中を慌てさせた

▼でも、一番慌てたのは当のトランプさんだったなんてことも…。トランプ政権の政策や人事・体制を決める政権移行チームに、長男、長女やその婿、次男など4人ものファミリーが名を連ねるというトンデモぶり。何だかドタバタしている。
旧態依然とした政治勢力とは一線を画して、アメリカを牛耳る支配者層に口出しさせない深謀遠慮なのか、それとも「父ちゃん困った。お前ら来て手伝ってくれ」つて家族を集めたのか。どちらにしても、芸能人めいた家族がぞろぞろ出てくるワイドショー的成り行きに、これが世界一番のアメリカか、とアッケにとられた

▼ヒラリーは、昔は豊かだったのに今は没落してしまった白人中産階級の支持を集めたトランプに敗れたといわれる。1%のスーパーリッチ(超富裕層)が99%の国民を支配しているというアメリカ。ヒラリーも莫大な献金を受けていて、金融会社のひとつ、ゴールドマン・サックス社で「御社からの支援を決して忘れません。どんな時も皆さんの要望を最優先します」などと講演したことが暴露されている。
政治が大資本にカネで買われてしまっている現実。トランプはそれを国民の手に取り戻す、富裕層からの献金も受けていないと言った。政治を買った大資本は人間を軽視し人々への分配を忘れ、利益だけを追って世界中に戦争とテロリズムを引き起こし、貧富の格差を広げた…

▼とはいえ、トランプも成金の大金持ち。白人にはいいが、さまざまに苦しむ人々の味方かと言えば問題が多い。いつ、本性を現すかも知れず、どちらにしても、鬼か蛇か…

なかなかの文章でしょう。
大手メディアの狼狽ぶりや投資家のはしゃぎぶりとはまったく違う、草の根ジャーナリズムの気骨が読み取れるんじゃありませんか。

1888年 ラッサール派のグループとマルクス派のグループが再統合され、オーストリア社会民主労働党(Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs)が結成される。結党時の党員数は15,000人とされる。

1893年 社会民主党と協調する自由労働組合連合が結成される。90年代に急速に発展した産業革命と結びついて勢力を拡大。

1890年代 ウィーン大学の社会主義学生グループが学習サークルを形成。カール・レンナーが指導し、マックス・アドラー、ルドルフ・ヒルファーディング、遅れてバウアーらが参加。オーストリア・マルクス主義の拠点となる。

1897年 総選挙。普通選挙が一部導入された結果、議会に14議席を獲得。

1897年6月 社会民主党が改組。5つの民族別(ドイツ系・チェコ系・ポーランド=ウクライナ系・イタリア系・南スラヴ系)に組織された党の連合組織となる。

1907年6月 初の普通平等直接選挙が実施される。社会民主党は87議席を獲得する。

1907年 月刊『闘争』(Der Kampf )が発行を開始。オーストリア社会民主党の理論機関誌となる。バウアーら、次世代の「オーストロ=マルクス主義者」の理論家たちの活動拠点となる。

1911年 社会民主党のチェコ人組織が分離し、チェコ社会民主党として独立する。

1914年 第一次世界大戦が勃発。V・アドラー、レンナーらの主流派は、「祖国防衛戦争」として戦争遂行政策を支持する。これに対しF.アドラーらの左派は反戦活動を展開。

1914年11月 バウアー、戦争に加わりロシア軍に捕らえられる。シベリアで3年間の捕虜生活を送り、17年9月に捕虜交換によりウィーンに戻る。

1918年4月 バウアー、民族自決権を承認しレンナーら主流派と決別。社会民主党左派に移る。

1918年 ボルシェビズムを唱えるオーストリア共産党が創立。その後一貫して弱小勢力にとどまる。

1918年11月 オーストリア帝国が崩壊し、オーストリア共和国が発足。社会民主党とキリスト教社会党の連立政権が国政を担う。社会民主党右派のレンナーが首相に就任。バウアーが外相となる。

1919年3月 レンナーはグラーツ大学教授シュンペーターを財務大臣に招聘。当初は熱心な社会化論者であったが、生産性原理と効率性原理を強調するようになり政権と袂を分かつ。

バウアーはこう評している。「彼は、革命の初期にはボルシェヴィズムに媚を呈し、社会民主党の社会化政策が積極的かつ急進的でないとしてしばしば反対した。しかし、やがて彼は完全に方向転換した」

1919年 バウアー、『社会主義への道―社会化の実践』を発表。政治革命ではなく、産業の社会化=社会革命が未来への道だとする。

1920年 キリスト教社会党との対立が表面化。社会民主党は政権を離脱する。

1920年 バウアー、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か』を発表。ボリシェヴィキを「専制的社会主義」と批判。全人民の経済的自治を基盤とする民主的な社会主義を訴える。

1921年 オーストリア社会民主党を中心にウィーン・インターナショナル(第二半インターナショナル)が設立、社会主義者の国際組織の再統一をめざす。

1923年 ウィーン・インターナショナル、第二インターに吸収され消滅。

1923年 党の防衛組織として「防衛同盟」が発足する。

1926年 社会民主党大会、リンツ綱領を採択。「赤いウィーン」での実践をもとに、議会主義戦略を定式化。

*民主制に依拠して則法的に政権を獲得する
*「破局的なカタストローフの結果としてではなく、目標を意識した労働者の収穫として」社会主義の実現を目指そう
ただしブルジョワジーが反革命を起こした場合、国内戦により国家権力を掌握することも確認される。

1927年7月 労働者デモと警官隊の衝突事件。この後の弾圧で社会民主党は後退を余儀なくされる。

1933年1月 ドイツでナチスが政権を握る。間もなく共産党に対する大弾圧が始まる。

1934年2月 社会民主党と防衛同盟が蜂起。「2月反乱」と呼ばれる。ドルフス政権と「護国団」による挑発が引き金となる。

2月 社会民主党に解散処分がくだされる。バウアーら指導部の一部は国外に亡命して活動を続けた。

 2016年10月08日 南スーダン 年表 が思いもよらず膨らんでしまった。

最初はこれを配って学習会の資料としようと思ったのだが、とてもそんなことをしていたのでは間尺に合わない。

そこで年表をつらつら眺めながら思いついたことを、「南スーダンの歴史 10のポイント」としてレジメ化しようということにした。(結局17になってしまった)

さぁ、毎度のことながら、当日までに間に合うかどうか不安だが始めることにしよう。

1.もともとは牧畜民の氏族社会

少数からなる集団が牧畜生活を送っていた。そのような原始的な共同体は今も残されている。

縄張りをめぐる争いも繰り返されて生きた。

2.北から来た奴隷狩り

18世紀になると、アラブ人がナイル川を遡ってきた。彼らはハルツームを拠点とし、周辺の先住民を捕まえては奴隷として送り出した。

やがてスーダン北部はエジプト王国に併合された。ハルツームのアラブ人はエジプト王国に対抗して自分たちの国を作るが、イギリスの支援を受けたエジプト王国に潰される。

3.南から来たイギリス

その後、19世紀の後半になると、今度はナイルの源ビクトリア湖からイギリスの征服者がやってきた。

イギリスは今の南スーダンを征服したが、領土としての魅力に乏しい地域だったため、エジプトの支配に委ねた。

なぜならエジプト王国そのものがイギリスの属領だったからである。

こうして1898年に「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)が成立した。これが南スーダンが国家という枠の中に取り込まれた最初である。

南スーダンは誕生の時から北(アラブ人)と南(イギリス人)の二重支配のもとにあったのである。このことは憶えておいて良い。

4.スーダンの地政学的重要性

英埃領スーダンの成立にはフランスとドイツが絡んでいた。フランスは西アフリカから進出しインド洋への出口を欲していた。イギリスにとってはカイロからケープタウンへのラインを確保することは戦略目標であった。

その交差点にスーダンがあったため、イギリスはスーダンを確保する必要に迫られた。

またドイツはタンガニーカを植民地とし、ルワンダ・ブルンジなど内陸への進出を虎視眈々と狙っていた。

これらの事情は第一次世界大戦を経て大きく変化していく。

5.英領東アフリカの辺境としての南スーダン

ドイツがアフリカから立ち去った後、タンガニーカはイギリス領となり東アフリカのほぼ全てがイギリス領となった。

イギリスは南スーダンをエジプト支配から切り離し、東アフリカの勢力圏に置く方針に切り替えた。

アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリスト教を受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

しかしかつての大英帝国の力は失われており、南スーダンは低開発状態で放置された。逆に言えば南スーダンには元通りの平和な環境が生まれたのである。

7.北スーダンでのアラブ民族主義の高揚

第二次大戦の終結とともに民族自決をもとめる運動がアフリカ各地で高揚した。

スーダンでもハルツームのアラブ人を中心に独立運動が広がった。イギリスにはもはやこれを抑えるだけの力はなかったから、ケニア以外の国はほとんど流れに任せる展開となった。

しかし北部の民族主義者は南部に対して苛烈であった。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部人が進出し政治・経済の権限を得るようになった。

8.第一次内戦の開始

1956年、スーダンが正式独立した。南スーダンもスーダンに統合された。

スーダン政府は連邦制をとるとしたイギリスとの約束を保護にし、単一国家制度をとった。南スーダンは北の直接支配下に置かれることになった。

スーダンが独立して2年後、軍事クーデターが発生し。スーダンは軍事独裁国家へ移行した。軍事政権は南部への軍事的抑圧を強化。その結果多くの政治家がウガンダに亡命した。

1963年、これらの亡命政治家がスーダン・アフリカ民族同盟(SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張した。SANUは武装組織「アニャニャ」(Anya Nya)を結成しゲリラ闘争を開始した。

SANUは主導権争いで四分五裂するが、現地のアニャニャは民衆の支持を受け独立を目指す。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)が形成される。

9.南北和平の実現

紛争が内戦化し泥沼化しつつあった1969年、北スーダン政権内にクーデターが起きた。

権力を握ったヌメイリ大佐はエジプトのナセルに倣い民族主義左派を標榜した。そして南スーダンとの関係改善に乗り出した。

1972年にヌメイリ政権とSSLMとの間に和解が成立、アジスアベバ協定が結ばれた。

南部は自治を許され、独自の議会と行政機関を持つことになった。将来、南部が住民投票で分離独立する可能性も残された。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれることになった。

10.ヌメイリ政権の反動化

この後約10年にわたり南北スーダンは比較的平穏な関係を続けるのであるが、1983年に入ると突然大荒れの状況に入っていく。

この激変をもたらしたのは北スーダン側の事情である。この間アラブ世界ではナセル主義の退潮が起きた。

第三次中東戦争でのアラブ側の惨敗、ナセルの死とサダトの変質、イラン革命とソ連のアフガン侵攻などでアラブ世界は共通目標を見失った。

追い詰められたヌメイリは非常事態宣言を発動し強圧的な政治に転換した。そこにイスラム原理主義が忍び込んできた。

ヌメイリは国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言した。

憲法上の権利は停止された。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが日常と化した。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。

南部への弾圧にはもう一つの理由があった。南スーダン北部に石油油田が発見されたのである。

南部の石油資源独占を狙うスーダン政府は、アジスアベバ合意をご破産にし、南部の自治権や将来の分離独立の要求を拒否するに至った。

11.立ち上がる南スーダン人

第2回めの反乱は最初から大規模なものだった。なぜならそれは政府軍内の旧アニャニャ派の反乱として始まったからである。

この反乱を指揮したのはジョン・ガラン、当時ハルツームの幕僚大学の学長であった。

南スーダンの解放運動の性格を語る上で、ガランの経歴紹介は避けて通れない。

ガランは1945年、貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦った。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位を得た。

12.SPLAの結成

ガランのもとに立ち上がった南スーダン人は「スーダン人民解放軍」 (SPLA) を結成した。形としては「スーダン人民解放運動」(SPLM)の軍事部門ということになる。

ガランが政治・外交面を担ったのに対し、軍事面を担当したのが現大統領のサルバ・キールである。

南スーダンには60以上の種族が混住する。当初、SPLAの中心となったのは最大の種族であるディンカ人であったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになった。

1985年に入ると、SPLAは勢いを増し南部の大半を支配下におさめた。これをリビア、ウガンダ、エチオピアが支援した。

北スーダン政権内では強硬派と妥協派が抗争を繰り返したが、1989年に強硬派のバシルがクーデターで政権を握ると、イスラム原理派と結びついて南への抑圧を強めた。さらに西部のダルフール地方へも攻撃の手を伸ばした。

ダルフール問題については下記を参照のこと。 

ダルフール紛争

13. 両者の妥協と完全独立

90年代に入ると情勢は複雑さを増す。ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失った。内部分裂が起き、ヌエル人分派によるディンカ人襲撃が相次いだ。マチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、北スーダン政府の南部駐留軍司令官に就任する。

いっぽう、イスラム原理主義を強めるバシル政権への国際的な風あたりも強くなった。アメリカはスーダンをテロ支援国家に指定し、97年には経済制裁を開始した。98年にはケニアの米大使館襲撃事件への報復としてスーダンの製薬工場にミサイル攻撃を行った。

こうして2002年にアメリカの調停のもとで、政府とSPLAが和平の枠組みに合意することになる。この合意により、6年後に南部の帰属をめぐる住民投票が約束された。

2005年には南部スーダン自治政府が成立した。初代大統領にガラン、サルバ・キールが副大統領となる。これにより22年間に及ぶ第二次内戦は終結した。

内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は400万人、国外難民は40万人にも上る。

この年、SPLA指導者ガランが就任後わずか半年で、ヘリコプター事故により死亡する。しかし大きな混乱もなくキールがあとを引き継いだ。この時副大統領にマチャルを指名したことが後に禍根を残すことになる。

2010年に行われた大統領選挙では、キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選された。翌年1月、南スーダンで住民投票が行われ、完全独立を望む票が98.8%を占めた。

その年の7月9日、スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」が創設された。

14 北からの干渉

北スーダンは決してこの独立を祝福していたわけではない。それどころか南スーダンの弱体化とあわよくば属国化を狙っていた。

ここからは私の個人的見解になるが、

ひとつは国境地帯の黒人・非イスラムの民衆を駆逐することである。

この地域は元々「ナイル・サハラ語」系の黒人の居住地であった。そこに来たからナイル川沿いにアラブ人が進出したのである。したがって川沿いの都市部にアラブ人、それ以外は黒人先住民という住み分けになっているのであり、東西に線を引いて「ここから北はアラブ・イスラムの国」という訳にはいかない。

スーダン側での紛争は北部SPLAの武装反乱だという報道が一般的だが、事実は逆だと思う。それは紛争の結果何が起きたかを見れば明らかだ。結局は数十万の北側居住者が難民となって南に逃げ込んだという事実だ。

もう一つは国境地帯に集中する石油資源を、ひとつでも多く確保するということでもあろう。

南スーダンは北からどんなに野蛮な干渉を受けても、北と対決することはできない。それは石油の輸送ルートと販路を北に握られているからである。

1年間の石油生産停止は、そのことを明らかにした。生産の減退、物不足、物価の騰貴の上に膨大な戦費、そして大量の北からの難民。この危機を凌ぐには当面は北の意のままに従い、石油生産で外貨を手に入れるしかない。

15 キールの内政改革が内戦を呼んだ

2012年9月、キール大統領は北に頭を下げ、とりあえずの平和を実現した。その後、内政の引き締めにかかった。

今井さん(NGO関係者)の講演から引用する。

SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。

これがどの程度の真実性を含んでいるのかは判断できないが、マチャルが最も油断のならない人物であることは疑いないであろう。

解任されたマチャルは2013年12月にクーデターを企てた。政権奪取には失敗したものの、根拠地では一定の支配区を確保した。マチャルに呼応して各地で不満分子が反乱を起こした。

スーダンの干渉による国境紛争、石油生産停止、北からの大量難民。これに加え内戦勃発ということで、南スーダン政府は大きな痛手を受けた。

そのすべてにスーダンの影が浮かび上がってくる。

2014年6月には国連安保理も「南スーダンの食糧危機は世界最悪」と発表した。「世界で最も脆弱な国家ランキング」でも、南スーダンは首位となった。

16 気がかりな国連の対応

今年11月の初め、バンギムン事務総長は国連南スーダン派遣団の司令官を更迭した。7月事態のとき国連職員を保護しなかったというのである。

司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させた。

よく分からない。司令官の統括責任を否定するわけではないが、国連南スーダン派遣団が南スーダンの治安を守るためであれば、そのために一番必要な手段を取るのは司令官の務めであるが、「何を置いても国連職員の安全を守れ」というなら、その目的に特化した部隊を別途編成すべきであろう。

バンギムン事務総長は、11月17日には国連安保理あての状況報告を行っている。

治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

というのが骨子である。

まっさきに感じるのは、「なぜ?」がないことだ。「なぜ?」がなければ、解決の方向は見いだせない。

もう一つは、政府への支援についてきわめてニュートラルであることだ。パンギムン報告を受けた安保理では、アメリカから武器禁輸の決議案が提出された。アメリカはさらに、和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめたという。

これはもう明らかに反政府側にスタンスを置いた発言である。

これでは、国民の98%の支持を受けて成立した政権が野垂れ死にするまで戦闘を続けることにしかならない。

とにかくまずは、南スーダン政府の主体性を尊重することではないか。そして北からの不当な干渉を監視すること、中長期には原油輸出のための南方ルートを確保して、北への依存を終わらせることではないだろうか。

17 自衛隊派遣について

これはもちろん憲法に係る問題であるから、直ちに撤退するというのが当然の選択である。

それとともに、南スーダンの自立と発展のために何が必要なのか、日本にとって何がもとめられているかをじっくり考えることである。

現在の国連やNGOの活動は基本的には緊急避難的なものである。内政にかかわるべきものではない。明らかにやり過ぎと思われるところも見えないではない。

南スーダンにはケニア、ウガンダ、エチオピアをふくむ南側周辺諸国との連帯が必要である。もっとこれらの国の協力を引き出す方向での国際的な見守りが必要であろう。

エスター・ローズ 62年、日本に尽くして

という記事がある。2013年1125日の福祉新聞Web版に掲載されたもので、おそらくは追悼文と思われる。

人となりがかなり詳しく紹介されているのでご参照いただきたい。

写真だけ転載させて頂く。

rhodes
関西が好きだったミス・ローズ(中央)。妹キャロライン(左)、菊地勝子さん(右)と京都で=1975年

というキャプションがついている。

本日の赤旗家庭面で、「昭和とパンの話」という連載の4回目が気になった。

著者は「昭和のくらし博物館」の小泉和子さんという方。

今回の内容は戦後の食糧援助について。気になったのは

初期の援助は米政府からのガリオア・エロア資金、在米日系人を中心とした救援活動によるララ物資、NGOによるケア物資、ユニセフからの援助など…

ただしララ物資についてはGHQの意向で日系人の関与が秘匿され、外国からの援助物資として配布されました。

この時代は私にとては物心のつく以前のこと、ほとんど記憶はない。ただ本当に静岡の田舎までララ物資の恩恵が行き渡ったのかは、その実感はない。きっと都会の飢えた子どもたちに吸い取られたのではないかと思っている。

それはともかくとして、「日系人の関与が秘匿され」たというのは初耳だ。

少し経過を調べてみることにする。

いくつかの文献があったので、そこから膨らませていくことにする。

昭和20年

http://www.a50.gr.jp/jp/lara.html より

11月 サンフランシスコ在住の日系人浅野七之助、「日本難民救済有志集会」を開催。邦字紙「ロッキー新報」に「故国の食糧危機重大」と題する記事を載せ、「一食を分かち、一日の小遣いを割いても、援助することは、良心的な義務」と運動を呼びかける。

岩崎美智子「ララの記憶」より

10月 東京・上野駅における餓死者は 1 日平均 2.5 人で、11 月の数字では、8 月以降の餓死者は京都 300 人、大阪196 人、名古屋 72 人であった。戦災浮浪児、孤児、非行児など 18 歳未満の要保護児童の数は 40 万人とされる。

餓死者続出の情報が海外でも知られるようになり、次期大統領を狙うマッカーサーは焦ったと言われる。

昭和21年

1月22日 浅野七之助が中心となって「日本難民救済会」が設立される。大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするように陳情。

当時、各種宗教団体を中心とする海外事業篤志団アメリカ協議会(American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad)が対外的な慈善活動を担っていた。しかしその対象地域は欧州のみであり日本は含まれていなかった。

4月 海外事業篤志団の傘下組織(特別委員会)としてLARAが結成される。「日本難民救済会」を母体とする。

正式名称は「アジア救援公認団体」(Licensed Agencies for Relief in Asia)。加盟団体は教会世界奉仕団、アメリカ・フレンズ奉仕団、カソリック戦時救済奉仕団、ルーテル世界救済団、メノナイト中央委員会、カナダ教会会議、アメリカ労働総同盟、産業別組合会議、ブレズレン奉仕委員会、ユニテリアン奉仕委員会、クリスチャン・サイエンス奉仕委員会、アメリカ・ガール・スカウト、救世軍、YMCA、YWCAである。

6月 アメリカ合衆国救済統制委員会、日本向け援助団体の設置を認可。

6月 ララ代表が来日。日本政府およびGHQと、運営についての交渉を開始する。ララは「公平・効果的・迅速」を物資配分の「三大モットー」として主張。

9月30日 三者の交渉が完了。ララはGHQの統制のもとに救援物資を送り、日本政府がGHQの指示の下に「受領及配分」を行うこととなる。

ララの駐日代表部は、マキロップ神父(カソリック戦時救済奉仕団)、ローズ女史(アメリカ・フレンズ奉仕団)、バット博士(教会世界奉仕団)が担当する。
ローズは戦前20年以上にわたる在日経験を持つ。バイニング夫人の後任として皇族の英語教師を務めた

11月 「学校給食実施の普及、奨励について」の次官通達。全国の児童を対象にした学校給食の方針を正式に決定する。

11月30日 第一便 (ハワード・スタンズペリー号) が横浜に到着。ララの支援物資(大型トラック100台分)が届き始める。支援は全458便。27年の講和条約まで続く。

全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%。推定で1100万ドル=400億円(当時価)に達した。乳牛や2000頭を越える山羊などもふくまれた。救援物資の20%は米、加、伯、亜などの日系人が集めたとされる。

12月24日 東京の永田町小学校で贈呈式を実施。最初の物資は東京都内の486施設5万人に分配される。

昭和22年 

1月 第二回目の救援物資。最も戦災被害が大きかった8都府県に配布される。その後3月、5月に支援物資が届き、全都道府県に物資が入る。

1月20日 永田町小学校でララ物資による給食が開始。その後全国の主要都市の学童 300 万人に週2回の給食。

7月31日 衆議院本会議において感謝決議を全会一致で可決。

昭和23年 東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の6大都市の約300ヶ所の保育所でララ物資による給食が開始。

昭和24年 全米23の教会諸団体、7万6千の教会が「ゴール1,000万ドル 難民救済の催し」を実施。「日本の子供たちを救おう」と募金活動。

昭和25年 「ララ物資への感謝と日米の友好親善のために女性親善大使の選出する」ことを目的にミス日本コンテストが行われる。第一回目の受賞者は山本富士子。(このコンテストは第2回をもって廃止)

昭和27年

6月 講和条約発効とともにララ物資も終了となる。1,400万人以上、即ち当時の日本人の6人に1人の割合でその恩恵を受けたと言われる。


GHQが日系人のイニシアチブを隠蔽したという経過は確認できなかった。もちろんGHQの日本統治の手段の一つとしてララが利用されたという側面は否定できない。

ただ、それが主要な側面だったというのは、GHQ内の「民政派」の努力(手練手管)を否定することにもつながりかねず、賛成はしかねる。

とにかく「アジア救援公認団体」の構成メンバーを見れば、マッカーサーならずともひれ伏す以外にない「葵の御紋」である。この「権威」を使ったことが、いかにその後の措置をスピーディかつ円滑に進めたかは想像に難くない。ここが勘所である。


アフリカにおける人種分布

アフリカの国境はいい加減なものであり、ヨーロッパ諸国の勢力争いの結果として形成されたものである。

ほとんどすべての国が多民族国家・多言語国家であり、これらを全体として理解するには19世紀以前からの自然的分布を知ることが必須である。

自然分布を知る方法として有力なものが、言語系統(自然言語)の分布とY染色体(表現型)による分布である。

人種的な差ではないが、基本的生活スタイルとして牧畜なのか農耕なのかも大きな違いを生んでいる。

サブサハラにおいては北から順にサハラ砂漠、ステップ気候(サヘルあるいはサバンナ)、熱帯雨林というスペクトルがあり、とくにサヘルと熱帯雨林の境界が気候変動に伴って南北に変化する。これが絶えず軋轢を生んできた。

近代に入ると、イスラム教の浸透、白人とアラブ人の奴隷狩り、ヨーロッパ列強による植民地化、東西冷戦下での帰属などが加わり、事態は一層の複雑化を招いている。

上の図はウィキペディアの「アフリカの諸言語」からの転載である。

青がアフロ・アジア系言語、黄色がナイル・サハラ系、オレンジがニグロイド系、緑がコイサンである。

コイサンは最古のアフリカ住民とされY染色体はハプロAをしめす。ピグミーは北日本人と同じB、ネグロイド系はE1型を示す。ナイルサハラ系は多種多様だが、チャドではR系が優越しているようだ。


ナイル上流域の人々

私が一番知りたいのは、ナイル川上流で主として牧畜を営む人々の由来だ。ブラックではあるが、熱帯雨林域のネグロイド語族とは明らかに様相を異にしている。

私にとって典型として思い浮かぶのはケニアの牧畜民、マサイ族(Maasai)だ。またルワンダがドイツの植民地だった時代のとんでもないのっぽの国王(ツチ族)の写真は、いまだにまぶたに焼き付いている。

人種的には、北からのアラブ人、コンゴとタンザニアを結ぶ線より南の純粋なネグロイド(バンツー人)との間にもう一つ人種があって、その三つ巴で理解しないと南スーダン問題は理解できないのではないかと、ふと思っている。

というのは、ディンカ人とヌエル人との係争を見ると、マサイ族の生活スタイルときわめて類似しているからである。

ウィキペディアのマサイ族の記事を引用する。

本来は定住せず、伝統的な牛・羊・ヤギ等の家畜の遊牧で生計を立てる遊牧民であった。

主食は牛乳と牛の生血。牛はマサイ族にとって最も重要な財産である。

それぞれの村ごとに長老がいて物事を決定する原始的な長老制をとる。戦士階級であるモランはこの長老の下に属する。

かつては他部族からの略奪もモランの仕事であったが、現在では行われていない。


遊牧民もネグロイドだ

次に、人種的なところに関わっていこう。

ナイル系の遊牧民は人種的な操作の対象となり易く、地中海人種に属するとされたり、黒人とされたりし、ハム族神話 (hamitic) により「黒人より高貴である」等として植民地支配の際に分断の道具にされた。

しかし、都市に暮らすスーツに身を固めたビジネスマンのマーサイ族は他の部族と見分けることはできない。

ということで、ウィキペディアの記述では、遊牧生活に適応したネグロイドという見解に近い。

たしかに南スーダンの指導者たちの写真を見ると、ネグロイドそのものである。

このウィキの見解についてコメントするだけのものは持っていない。

一応、Y染色体ハプロで、ネグロイドにおけるE1の卓越性に相当する特徴がないことをもって差異とする主張はできるかもしれない。あるいはチャドで卓越するR系の基盤の上に南北からの侵入と混血があって、ナイル・サハラ語圏が形成されたと主張できるかもしれない。

とりあえず、この話はこれで打ち切りにしよう。


言語・文化集団としての「ナイル・サハラ語」人

人種の問題はとりあえず置くとして、最初の図の通り、言語的には明らかに「ナイル・サハラ語人」が存在する。それはニジェール川流域からコンゴにかけて分布するネグロイド語系とは系統を異にしており、両者は歴史を遡って分岐していたことも間違いないようだ。そして東アフリカのかなり広い範囲で「ナイル・サハラ語」系領域をカバーしている。

そういう点では「ナイル・サハラ人」というサブクラスを設定することは、必ずしも人種偏見に基づく「伝説」とはいえないのではないか。


「中間層」論を最初に提起したのは、ジェームズ・ミルである。

以前書いた 2016年03月31日 から、『統治論』(An Essay on Government)の紹介の一節を再掲しておく。

 略奪者の抑制が統治の目的: 

欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。

中間階級の賛美: 

1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)

2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。

2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している。

3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。

4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。

以上の主張から、ミルが「中産階級」をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく、中間「階層」として捉えていることが分かる。

「民衆の…精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろ(逆説的に)その命題の正しさを証明」しているというくだりは、政治感覚として卓越していると思う。

どう謝ったら良いのかわからないが、とにかく謝っておきます。
以前、「バグヘッド・エンペラーなどクズだ」と書いたら、ずいぶんおしかりのコメントをいただきました。
「ASIOで聞いたらそんなに悪くない」と言われて、やってみたところたしかにそれなりの音がしまして、これについては後ほど「バグヘッド・エンペラー+ASIOは悪くない」という別記事をアップしまして、最初の記事にもリンクを張っているのですが、なかなかそっちには行ってくれないようです。
ただ一度言ってしまったことは責任を取るべきだと考えて、あえて最初の記事を消さずにいるわけです。
お願いですから、前後の事情も察してあまり居丈高にならないでください。

と、ここまで言ってから、またケンカを売ることになるのかもしれませんが、目下の考えは(あくまでも目下ですが)、再生ソフトで音をいじるということそのものがいかがなものか、ということです。
それはあくまでもお化粧であって、田舎出のイモ姉ちゃんが「無茶メイク」して化物みたいになって、それでもそれなりに垢抜けてきれいになるのと、本当の美人とは違うでしょう。

同じ目的で開発されたものなのに、豪胆なWASAPI色と艶っぽいASIO色はずいぶん違います。WASAPIそのものも出はじめと今ではずいぶん暖かみが違います。おそらく両者とも音色をいじっているのでしょう。名前は忘れたけど、ASIOっぽさをさらに強調した有料ソフトもあるようです。

これはもう仕方がないので、当分の間は両者で競り合ってもらうしかないのでしょう。そういう選択肢がまずあるとすれば、バグヘッド・エンペラーはASIOをもっと良くするという線上の「上塗り化粧」ソフトということになると思います。

とにかく一番大事なことは、自分のすっぴんの「モニターサウンド」を持つことだと思います。お化粧はその後でよい。なんなら自己責任でAudacityでいじればよい。
そして私のモニターサウンドはファイルを作業用メモリーに移設して、foobarのWASAPI(event)モードでDACにつなげて聞くことです。その分良さげなDAC、プリメイン・アンプ、スピーカーに後を委ねることになります。

これはTPP、とりわけISDS(投資家対国家紛争解決条項)の解釈をめぐっては死活的な課題となる。
この点に関して共産党の山添参院議員が鋭い質問を行っている。
TPP ISDS訴訟・損害賠償の実例  山添拓
11月16日でやり取りが視聴できる。(ただし、このYou Tubeには下記のやり取りはない)
条約だから、国内の司法を越える部分があるのは当然ではあるが、利害が真っ向からガチンコしたときどうなるか。
これが大問題になっているのがエクアドルで起きた出来事。
エクアドルで石油採掘を行っていたシェブロン社が不採算を理由に撤退した。それまでアマゾンのジャングル地帯で原油を垂れ流し続けていた。いまも環境汚染は続いている。これに対しエクアドルの地方裁判所が損害賠償を命じる判決をくだした。
シェブロンはこれを不服として国際仲裁裁判所に提訴した。仲裁裁判所はシェブロンの訴えを認めエクアドルの地裁判決を無効とし、効力の停止を命じた。これが認められると、エクアドル政府はシェブロンの撒き散らした環境汚染の尻拭いをしなければならなくなる。それどころか、シェブロンは不当に訴えられたことに対する高額の賠償金をエクアドル政府に要求している。
なんとも理不尽な話だ。
山添議員は日本において同様の事態が起きた場合、政府としてどうするのかを問いただした。
石原TPP担当相の答弁は明確だ。
条約を遵守する立場から、仲裁判断に従う
ということだ。つまり日本の司法権は国際仲裁裁判所の判断に対して劣位に位置づけられるということだ。これが最高裁の判決であっても原則は変わらない。
金田法務大臣は、異なる見解を、控えめに述べた。
日本政府が仲裁判断に従わず、投資家が強制執行をもとめた場合、国内裁判所が「公序良俗違反」などを理由に仲裁判断を覆すこともありうる。
間に立った岸田外相は次のような見解を述べた。
国際仲裁裁判所の仲裁裁定の趣旨と、国内裁判所の判断の双方を踏まえた代替的な対応を図る。これにより、ISDS手続きを無意味にしないようにする。
一見、中立的な意見のようだが、最後の結論は「ISDS手続きを無意味にしない」ことであり、そのために「代替的な対応を図る」ということだ。つまり石原担当相と基本的な立場は変わらないことになる。

この見解がもたらすのは多国籍企業の乱訴だ。現に世界中で起きている。そのうちのいくつかは彼らの勝利に終わっている。
これに対して国内の司法判断は無視され、国家の独立の柱である司法の独立は否定されることになる。
きわめて重大な発言であり、しかも閣内不一致である。統一見解が必要だ。

奨学金の改善をもとめる若者集会での発言。赤旗からの転載です。
平川さん

すみません。実情を知らなくて、利子がこんなに取られるとは知りませんでした。
どういう計算になるのか。
4年間で総額456万円を借りた。これを20年ローンで返済することになる。
例えば住宅ローンだと、住宅保証機構のサイトのシミュレーションに入れると。
500万円借り入れの20年償却で、均等割で返済すると返済総額は5,518,620円と出てくる。
利子は52万円だ。奨学金の利子の半分ということになる。
三菱UFJの住宅ローンの試算だと、約 5,702,420 円と出てくる。それでも利子は70万円どまり。
貸し倒れリスクが上乗せされているのだろうか。たしかに返済率は相当悪そうだが。
無償給付する本来の奨学金制度がすぐに実現できないのなら、まずは住宅ローン並み(できればその半分くらい)に金利を下げてやることが必要だろう。
そのうえで、「悪質滞納者」については、審査の上で、裁判に出るとか債権を競売にかけるなどの強硬手段も必要かもしれない。
とにかく景気の良かった時代とは違う。仕送りも親のスネもやせ細っている。ホンキで考えないと、この国の明日は真っ暗だ。

11月17日付のWSJに以下のニュースが掲載された。

無言で帰国する兵士 南スーダンで中国が気付いた大国の代償
習主席の野望がもたらす過酷な現実とは

ニュースの中身は南スーダンに派遣された中国軍PKO部隊の兵士が、戦死したというものだ。

事件の発生そのものは相当前のものである。

報道によると、事件が起きたのは7月10日。中国軍部隊の装甲車両が何者かによる携行式ロケット砲の攻撃を受けた。

この砲撃で兵士が負傷。うち一人は2時間後に死亡、もう一人も翌日死亡した。

首都ジュバで政府軍と反乱部隊による激しい戦争が起きた時の話のようだ。

WSJではこう書いている。

自国を世界の強国にするという習近平国家主席の野望がもたらす過酷な現実に、中国は初めて向き合うことになった。

…国営テレビが放送した映像に国民は衝撃を受けた。そこには、ジュバで攻撃を受けた中国人の兵士たちが、血を流している仲間を助けようと必死になっている姿が映っていた。部隊を派遣することのリスクを理解していた国民はほとんどいなかった。

と、中国の人々にはかなりの衝撃だったようだ。

リーさん葬儀
リーさんの葬儀(WSJより)


しかし今のところ、政府は兵士たちの死を受けて政策を変えたようには見えない。

メディアは反戦・厭戦の世論が起こることを警戒し、一斉に戦士を合理化する論調を流し始めた。

世界平和を守るために中国の兵士は最前線に向かっているのであり、流血と戦争の試練に直面する機会がこれから増えていく。これは中国の大国としての責任であり、中国が新たに大国としての地位についたことの代償だ。

WSJはこれらの論調に対して疑問を投げかけている。

中国が世界の大国になる目的は、いったい何なのか

中国を日本に、習近平を安倍晋三に置き換えれば、これらのシーンは明日の日本そのものではないだろうか。

それにしても、このニュース、日本のメディアで取り上げたのかな?


南スーダンについては、以下の記事をご参照ください


たしか前にも書いたが、ギレリスとコーガンは義理の親子で、コーガンはギレリスに心酔していたという話だ。
ギレリスというのは謙遜な人で、ソ連の演奏家としては最初に西欧にエクスポーズしたのだが、「世界一のピアニスト」と賞賛された時にマジに否定したそうだ。
「ソ連には私よりはるかに上手い人がいる」とコメントしたのだが、それがリヒテルだった。
しかし「そうだろうか」と私は思う。テクニックと言うだけならたしかにそうなのかもしれない。しかし聞いて「良いな」と思うのは、私ならギレリスだ。
リヒテルなら、どの曲を演奏しても曲の中にぎりぎりと切り込んでいく、そういう凄さがある。それを傍で感じる時はすごいなと思う(だがいつもそうではない)。
ギレリスの演奏は鍵盤をオーケストラのようにあやつる指揮者のように聞こえる。それがどう違うかというと、多分リズム感と響きなのだろうと思う。
ギレリスの演奏はどっしりと安定して、優しい。ギレリスの演奏は気持ちいいのである。リヒテルは時として不機嫌でそっけなく、人の心を不安定にさせる。音色は綺麗とは言い難い。ベートーベンのソナタで、その違いは顕著だ。
シューマンやドビュッシーはギレリスには合わない。ところがブラームスのピアノ協奏曲第2番はギレリスの不朽の名演だ。グリークの叙情小曲集は珠玉の一枚だ。
いま、アシュケナージやプレトニョフが指揮者として大をなしている。私が思うにはギレリスこそ大指揮者になったのではないかと思う。彼には大谷選手並みの素質があったと思う。惜しいことだ。
そのギレリスが娘婿のレオニード・コーガンと組んでベートーベンのバイオリンソナタを出している。これはこの曲のベストだと思う。学生時代、FONTANAという廉価版シリーズでグリュミオーとハスキルのレコードを買ったが、音のバランスが悪かったせいかもしれないが、この曲へのマイナス・イメージが焼き付けられた。それがこの演奏で払拭できたのである。
たしかにコーガンのバイオリンは線が細く硬質で、オイストラフと比べての話であるが、きまじめだ。しかしそれがギレリスのバックを得て生き生きと踊り始めるようになる。(この話は以前書いたよね)
さて、話がようやく本題に入る。
このギレリスとコーガン親子にロストロポーヴィッチが加わったのがこのトリオである。名前はついていないが、どう考えてもギレリスを中心にしたトリオだ。だからこれから先はギレリス・トリオと読んでおく。
このギレリス・トリオが演奏したのがチャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出に」だ。

このあと、つらつらと書き連ねた文章があっという間に消えた。
もうやめた。
これだけあれば、一応は足りている。
You Tubeでは同じ年の同じ演奏でモーツァルトのピアノトリオ第一番が聞ける。おそらく同じレコードの裏面なのだろう。こちらのほうがピアノの大音量がかぶさらない分聞きやすくなっている。ただしロストロポーヴィッチの出番は殆どない。目立ちたがり屋だから無理やりしゃしゃりこんでくるが、そもそも音符がないのだからどうしょうもない。

それはSAMのおかげである。

当時崩壊寸前のシリア政府軍にとって、制空権が最後の頼みの綱であった。それによって反政府軍の根拠を叩くことで、かろうじて軍事力バランスが維持されていた。

しかしその時、反政府軍は地対空ミサイルを手に入れたのである。これでシリア軍機がバタバタと落ち始めた。私はこれで決まったと思った。

しかしSAMの供給は突然途絶えたのである。

それ以後、反政府軍はやられ放題だ。そして大量の難民が発生しそれが西洋諸国に押し寄せ、今日のごとく各国の右翼の台頭を招いているのだ。

なぜSAMの供給が途絶えたのか。

それはSAMの供給国であるトルコの政治状況が変わったからだ。

トルコの国内政治状況については以下の記事に書いた。




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