鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年10月

この映画の恐ろしさは映画会社の宣伝しているような中身ではない。映画を見た人たちが抱いた恐怖感の中にあるのではない。

真の恐怖は、エル・クランの人々の行いが“非合法ではなかった”社会の恐ろしさにあるのである。彼らが平然と一般市民の生活を送っていたのは、かれらが狂気の人だったからではなく、ビジネスとして誘拐と殺害業を営んでいたからである。このような極悪ファミリーが、取り立てて罪悪感を抱かずに平然と社会生活を送ることができる、そのような社会の異常ぶりこそが恐怖の対象なのだ。

少し時代背景の説明が必要だろう。

記憶が曖昧になっているので、細部の間違いはご容赦願いたい。

1970年代の初頭、アルゼンチンではペロン大統領のもとで民主運動が高揚していた。しかし経済的には苦しさが募っていた。この中で軍部がクーデターを行い、親米・新自由主義の政策を強引に実行した。反対派は左翼といわずリベラルといわず片っ端から弾圧の対象となった。学生の一部は都市ゲリラ作戦を展開したが、それはカウンターテロの絶好の口実となった。

公然活動家には暗殺の恐怖が襲いかかった。地下に潜った活動家を軍・警察とグルになった「死の軍団」が追い詰め、誘拐し、拷問し、殺害した。遺体はヘリコプターで海上投棄されるか、見せしめのために街路に放り出された。子どもたちは取引の対象となった。

「死の軍団」のメンバーの多くは元軍人だったり、元警官だったり、場合によっては現職の警官だったりした。彼らは半ば公務としてこれらの任務を粛々とこなしたのである。昼は善良な警察官や市民、夜は覆面をした誘拐・暗殺犯、というシーンはある意味で日常茶飯事であったのである。

そのようにして人々を恐怖のどん底に貶める役割を「エル・クランの人々」も担っていた。つまり左翼もしくは左翼に同情的な人々を誘拐し暗殺し口をつぐませるのが商売だったわけだ。それは軍事独裁政府によって指示されていたから、その限りで“合法”だった。

内戦の頃は,夜間の外出は禁止されていました.夜,クリケットの応援歌は,しばしば男たちや女たちの絶叫で中断されました.軍隊に捕まった人たちです.彼らは拷問されたり体を切り刻まれたりしているあいだ,そして生きているあいだ,そのような叫びをあげていたのです.それは,決して罰せられることのない「死の軍団」のしわざでした.

朝になって,子供たちが住宅街の埃っぽい道を学校に向けて歩いていると,しばしば道ばたの死体と遭遇しました.それは昨日の晩,夜の闇の中で悲痛な叫び声をあげていた人たちのものでした.

J.P.Bone エルサルバドルからの便り

しかし軍政が終わり民主化運動が進むにつれそのような“ビジネス”は許されなくなった。収入の道も断たれた。だから彼らは誘拐ビジネスに手を染めたのである。軍部もこのような闇組織を維持したいから、これらの行動=殺しの民営化を黙認していたと考えられる。

彼らが左翼を誘拐し殺害することは軍部の公認であり、罪ではない。だから罪の意識は持ちようがない。彼らが間違ったのは、そのやり方は金持ちを相手にして使ってはならない手段だということを理解できなかったことである。

彼らに罪の意識はない。彼は自分を“普通の市民”だと思っている。極悪犯罪者が平然と社会生活を送っていたのではなく、彼らはちょっとやばいけれども、一つのビジネスを行っていると考えていた。

繰り返すが、軍政時代、彼らにとって左翼を誘拐し殺害することは、中身は別として、法形式的には極悪非道のことではなかった。現にそれを実行し、あるいは指示した軍の上層部はすべて恩赦法により免訴された。(後にキルチネル大統領によって厳しく指弾されることになるのであるが)

誘拐業はルーチンの政府業務代行であった。彼らの気分の中では、それがちょっとスライドして金持ちが対象に変わっただけのことである。だからパパは軍が保護してくれると確信し、逮捕されたときも平然としていたのである。

彼は人質を誘拐するとおもむろにタイプライターに向かいブラックメールを打ち始める。その用紙には左翼ゲリラMLNの名が刷り込まれている。こういうシーンが有ったことを覚えておられるだろうか。

これがまさに事件の本質であり、この映画の本質なのである。

この映画はアルゼンチンで大ヒットを達成したという。アルゼンチン国民はこの映画を見て、タイプライターの用紙にMLNの名が刷り込まれているのを見て、事件の本質を捉えたのであり、軍部をそこに見たのであり、なぜ秘密のテロリスト集団が富豪の誘拐を行うに至ったのかを理解した。

だからこの映画に熱狂し、恐怖したのである。

何故か、突然、「今日は映画に行こう」と心に決めた。

日曜の朝には、いろいろお勤めがある。まずはシャワーを浴びて、洗濯を始める。トーストとハムエッグを作って、コーヒーを沸かして魔法瓶に入れる。

関口宏のモーニングショーを見ながら、「ファイターズが日本一!」の新聞を読む。「信じられないくらい、皆よくやった。しかしシーズンを通してみれば、最大のヒーローは栗山だな」

と独り言を言いつつ、「そうだ、今日は映画日和だ」と思いついたのである。とにかくひたすら寒い。風は冷たい。カーディガンにジャケットではいけない。コートが必要だ。しかしマフラーと手袋はまだ早い。

映画館を出た時、風花のような雪がちらほら、地面をプラタナスの枯れ葉がカサカサという景色が、最初からイメージとして固まる。

ネットで調べたら、それなりに食指の動く映画がたくさんある。その中で「エル・クラン」というのが目に止まった。アルゼンチンの映画で、一家で誘拐ビジネスに当たったという連中の実話に基づくクライム・ストーリーだ。

「これはマストだ」と、瞬間確信した。

映画館は前から3列目、スクリーンに向かってやや右よりというのが生理的にあっている。一般の好みからするとかなり前だが、画面が大きくないと何故か損した気分になる。

映画館は昔と違ってそう大きくはないから後ろでも良いのだが、それなら家で大型液晶で見たほうが良い。いまの映画はそもそもDVDをプロジェクターで写しているだけだ。

映画館の良いところは非日常にある。「大衆の中の孤独」感を満喫しつつ、いつの間にか映画に没入するところにある。家で同じものを見ていたら気が疲れてしまって途中で抜け出したくなる。そのくらい映画は臭いを発する。その臭いに慣れて鼻がバカになってしまうところから映画の醍醐味は始まる。逆にそれが嫌で、映画館から足が遠のいてしまうところもあるのだが…

「エル・クラン」という映画は面白かったかといわれると、さほど面白くはなかった。衝撃的だったかといわれると、さほどでもなかった。

実話を題材にしているが、それをストーリーにまで消化しきれていない。普遍的なものにまで昇華されていないから、衝撃的な事実が乱雑に投げ出されるだけだ。

配給会社のホームページにはいろいろな人の感想が載せられている。「普通の家族にしか見えない人々が冷酷な犯罪を実行していくその落差と、平然としたヌケヌケぶりに恐怖感を覚える」というのだが、私はそれは違うと思う。

彼らの感想を読んでいると、何故かメキシコの麻薬カルテルの大量殺人を「恐ろしいことだ」と騒ぎ立てる人を白々しく思ってしまったときと同じような感慨が湧いてくるのだ。

(以下、私のこの映画に対する感想を書いたのだが、読み返すと、まったく乱雑だ。次の記事でもう少し分かるように述べることにする)


すみません。たくさんのアクセスいただいているようですが、実は勝手に改訂してしまいました。下記をご覧ください。
2017年07月06日2017年07月15日2017年07月17日

ジャ~ン! 自分でファンファーレ

1年をかけて、やっと終わった。

「ロシアのショパンたち」

一応、100曲を選び終えた。

作曲家別に、おおよそ古い順に並べていく。

グリンカ

1 ノクターン「別れ」 ヘ短調

2 マズルカ ハ短調

バラキレフ

3 1864 ひばり (原曲はグリンカ)

4 1859 ポルカ嬰へ短調

5 1902 トッカータ 嬰ハ短調

6 1902 ノクターン No.3 ニ短調

ムソルグスキー

7 1859 子供の遊び スケルツォ

8 1865 子供の頃の思い出 第2曲 最初の罰

9 1865 ロギノフの主題による「夢」

10 1879 クリミアの南岸にて 第1曲アユダク山麓グルズフ

11 1880 村にて

12 1880 涙の一滴

ボロディン

13 「小組曲」より 1.修道院で

14 「小組曲」より 2.間奏曲

15 「小組曲」より 7.夜想曲

キュイ

16 Op.20 2台のピアノによる8つの小曲 第8番子守歌

17 Op.21 組曲_1-即興曲

18 Op.21 組曲_2-Tenebres_et_lueurs

19 Op.21 組曲_3-間奏曲

20 Op.22 ノクターン

21 Op.31 3つのワルツより 第2番 ホ短調

22 Op.40 「アルジャントーにて」no 6 「おしゃべり」練習曲

23 Op.64 前奏曲集 第2番 ホ短調

24 Op.64 前奏曲集 第4番 ロ短調

25 Op.64 前奏曲集 第6番 嬰ヘ短調 Andante

26 Op.64 前奏曲集 第7番 イ長調

27 Op.64 前奏曲集 第8番 嬰ハ短調

28 Op.64 前奏曲集 第9番 ホ長調

29 Op.64 前奏曲集 第10番 嬰ト長調

30 Op.64 前奏曲集 第16番 ヘ短調

31 Op.64 前奏曲集 第18番 ハ短調 Allegretto

32 Op92 3つの旋律スケッチ 第1番

33 Op92 3つの旋律スケッチ 第2番

34 Op92 3つの旋律スケッチ 第3番

アレンスキー

35 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

36 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

40 Op.25 4つの小曲から No.3 練習曲 (中国の主題による)

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

リャードフ

44 Op.3a 6つの小品 3 フーガ ト短調

45 Op.4 4つのアラベスク No. 2 イ長調 アレグレット

46 Op.9 2つの小品 1ワルツ ヘ短調

47 Op.11 3つの小品 第1番 前奏曲 ロ短調

48 Op.23 小品「湿地にて」ヘ長調

49 Op.31 バラード“古い時代から”第1曲 マズルカ ト長調

50 Op.32 ワルツ「音楽の玉手箱」

51 Op.36 3つの前奏曲 第2番 変ロ短調

52 Op.37 練習曲 ヘ長調

53 Op.38 マズルカ ヘ長調

54 Op.44 舟歌 嬰ヘ長調

リャプノフ

55 Op.1 No.1 練習曲 変二長調

56 Op.1 No.2 間奏曲 変ホ短調

57 Op.1 No.3  ワルツ 変イ長調

58 Op.6 7つの前奏曲 第6番 ヘ短調

59 Op.8 ノクターン 変ニ長調

60 Op.11 超絶技巧練習曲 第3番 鐘

61 Op.11 超絶技巧練習曲 第6番 嵐

62 Op.36 マズルカ 第8番 ト短調

63 Op.41 降誕祭 第1曲 クリスマスの夜

64 Op.41 降誕祭 第3曲 クリスマスの歌

65 Op.41 降誕祭 第4曲 クリスマスの歌手たち

66 Op.57 3つの小品 第2曲 春の歌

レビコフ

67 Op2_3 メランコリックなワルツ ロ短調

68 Op8_9 マズルカ イ短調

69 Op10_8 ワルツ 小さなワルツ ロ短調

70 Op10_10 ワルツ ロ短調

71 Op15_2 悪魔の楽しみ

72 Op21 クリスマスツリーよりワルツ 嬰ヘ短調

73 Op23_2 冬の歌

74 Op23_4 エスペランサ(希望)

75 Op23_5 スヴェニール

76 Op28_3 羊飼いの踊り

77 Op29_3 モデラート・コン・アフィリツィオーネ

78 ワルツ ヘ短調

79 秋の花々 モデラート

80 秋の花々 アンダンテ

81 小さな鐘の踊り

スクリアビン

82 Op1 ワルツ ヘ短調 1985

83 Op2 3つの小品 第1番 練習曲 嬰ハ短調 1887

84 Op3 10のマズルカ 第1番 変ロ短調

85 Op3 10のマズルカ 第3番 ト短調.flac

86 Op3 10のマズルカ 第6番 嬰ハ短調

87 Op8 12の練習曲 第12番 嬰ヘ短調 悲愴

88 Op9 2つの左手のための小品 第1番 前奏曲 嬰ハ短調 1894

89 Op9 2つの左手のための小品 第2番 ノクターン 変ニ長調 1894

90 ワルツ 嬰ト短調 1886年

ラフマニノフ

91 Op.3 幻想的小品集 第1番エレジー 変ホ短調

92 Op.3 幻想的小品集 第2番 前奏曲 嬰ハ短調

93 Op.5 組曲第1番「幻想的絵画」 第4曲 ロシアの復活祭 ト短調

94 Op.16 楽興の時 第3曲

95 Op.16 楽興の時 第4曲

96 Op.23 前奏曲第2番

97 Op.23 前奏曲第3番

98 Op.23 前奏曲第5番

99 Op.34 No14 ヴォカリーズ

100 Op.39 絵画的練習曲《音の絵》No_2 イ短調

基本的にはすべてYou Tubeで聞けるものばかりである。リンクはすぐ切れる。しかしそのうちまた出てくる。あえてリンクはしなかったので、自分で検索してほしい。

選曲の基準はショパンっぽいこと、聞きやすいことである。必然的に大音響のうざったい曲は少ないが、入ってはいる。彼らのお手本はショパンとリストだったから、どうしてもリストっぽさが混じるのであろう。あのブラームスだって初期の曲はバリバリだ。

もちろんいつまでもショパンの真似ばかりもしていられないから、経歴を重ねるとともに独自の音作りに移行していく。だから基本的にはキャリアの浅い時期の曲が多くなる。いわゆる「初期の習作」である。

したがって音源探しは意外に難しい。見つけた曲以外にも佳曲はたくさんあるだろうと思う。また聴き込んでいくうちに味が出てくるブラームスの間奏曲みたいのものもあるだろう。

結局なんだかんだとCDも買ってしまった。挙げておくと、

1.Lyadov Complete piano works: Marco Rapetti (5枚組)

2.Vladimir Rebikov Piano works: Jouni Somero (1枚)

3.Cesar Cui Complete works for piano solo:  Osamu Nakamura (1枚目のみ)

4.Cesar Cui 25 Preludes: Jefrey Biegel (1枚)

5.Borodin Complete piano music: Marco Rapetti (1枚)

6.Sergei Lyapunov Piano music: Margarita Glebov (1枚)

とりあえず、これでアップロードしておくことにする。後はチャイコフスキーが第一次候補で40曲ばかり残っている。これを絞り込んで30曲位にすれば完全に終わる。チャイコフスキーを「ロシアのショパンたち」に括るのは、いささか無理があるが、そこは勢いだ。

なんとはなしに、音楽再生ソフトは気になる。

1.foobar 2000 が定番になる

PCで音楽を再生し始めた最初の頃、音源はもっぱらウェブ・ラジオのものだった。それを拾うために重宝したのが Winamp のストリーミング機能だった。これの素晴らしいのが、曲ごとに別ファイルで曲情報も込みで溜め込んでくれることだった。

ラジオ・タンゴという局があって、ここから24時間ひたすらダウンロードして、4千曲も溜まった。そのほとんどは未だに聞けないままになっている。

Winamp で集めた曲だからWinamp で聞いていれば良いのだが、どうせ聞くのなら音楽再生ソフトでもっと良い音で聞きたくなる。そこで探してみると、foobar 2000 というソフトが良いらしいということになった。

たしかに foobar 2000 というのはとても良くできたソフトで、なんでもしてくれるし、音もそこそこに良い。正妻としてこれほどのソフトはない。

だから何回浮気しても、結局また戻ってくるのである。しかししばらくするとまた浮気の虫がうごめいてくる。困ったものだ。

おそらくこういう変遷は、ほとんどの音楽フアンが経験していることであろう。

2.You Tube が主要音源に

ウェブ・ラジオのストリーミング録音はさまざまな音楽へのアクセスという点で飛躍的な変化をもたらした。

ただ視聴の仕方としては受け身なものだ。どの曲をいつ流すかは放送局次第だ。それをそのまま受け止めて、それから自分なりにジャンル分けして、取捨選択するということになる。

ところがYou Tube がさまざまな曲にタイトルを付けてファイルにしてくれるようになってからは俄然景色が変わってきた。

最初は曲数も限られていたし、音質もかなり粗悪だった。それが2009年ころから変わってきた。最初は処女のごとく最後は脱兎のごとくで、いきなり音源が噴出し始めた。なかにはCD音質に近いものが現れた。

その多くはアップされて間もなく消えていった。だからとにかく必死になってダウンロードした。今ではそれが1テラにのぼるファイルとなってハードディスクに収まっている。人生3回くらいやらないと追いつかない量だ。

You Tubeのファイルはそのまま落とすとMP4という形式になる。そこから音声情報だけを取り出すとAACという形式のファイルになる。当時の音楽再生ソフトのほとんどは「MP3プレーヤー」だったから、AACの再生が可能なfoobar2000 はそれだけで絶対優位だった。

3.DACとの相性

多分2005年ころのことだろうと思うが、DACが流行り始めた。パソコン内でもDA変換はできるし音も出る。それをライン出力してオーディオに接続していた。

それを、デジタル出力にして外付けのDACで処理させる。それからオーディオに繋ぐということで音はずいぶんと良くなった。

といっても最初に買ったONKYOのSEなんとかというDACは外付けというだけが取り柄で、音響的にはなんの改善も感じられなかった。

当時はASIOの出初めで、このDACはASIOを受け付けなかった。仕方がないので疑似ASIOみたいなソフトで出力していたが、この疑似ASIO用に特化したリリスという再生ソフトはMP3形式しか対応していなかった。

そのうち、foobar に擬似ASIO用のアドオンができて、AACファイルも疑似ASIOからDACへというルートができるようになった。ただしfoobar はASIOが嫌いらしく、「一応出しては見ますけどね」という冷たい態度。

4.ASIOの“思想”とWASAPI

たしかにASIOを通すと音に艶が出てくる。とくにリリスで利くとその特徴は一段と鮮やかだ。ただ聞き続けていると、その独特の“ASIO色”が気になりだす。明らかに何かいじっているのだということが分かる。

そのうちに次々と“音の良い”再生ソフトが登場するようになった。フリーブ・オーディオとか、熱烈な信者のいる某ソフトなどである。その秘訣はオーバー・サンプリングという仕掛けにあるらしい。わがfoobar もさまざまなリサンプラーのアドオンが出始めた。

音になる前のデジタル信号にさまざまなアルゴリズムでお化粧を施すようだ。これをASIOで仕上げするというのが流行の行き方になった。結局すべての発端はASIOにあるようだ。

WASAPI が出てくると、世はASIO派とWASAPI派に分裂した。foobar の開発者はWASAPIを強力に推薦した。WASAPIは固く、芯がある。低音が濁らず厚くなる。しかし音色は端的に言えばモニター・サウンドである。

音楽フアンの多くは依然としてASIO派であったようだ。しかしへそ曲がりのクラシック好きにはfoobar の開設者のほうが正しいように思えた。

お互いにヴァージョンアップしていくし、foobar そのものも進化していくわけで、数年のうちに見違えるように音質は改善した。率直に言えばCDプレーヤーよりも良くなった。

5.高品質DACの進歩と再生ソフトの見直し

2.3年前から高級DACが登場し始めた。手持ちのONKYO SEなんとかは1万数千円、チャラいものでスリットから向こうが透けて見える。振れば音がするような感じだ。

そこに登場した高級DACは、何が入っているのやらズシリと重い。気のせいか、音もずしりと重い。重くなった分が何かというと結局ここでもお化粧を施すのだ。ただその中身はブラックボックスだ。

そしてそこを出たアナログの音はプリメイン・アンプで最終のお化粧をしてスピーカーに送られることになる。

これはやりすぎだ。かぶっている。何らかの役割分担が必要だ。音楽再生ソフトの役割を見直すべきだ。

6.お化粧の3つのステージ

お化粧など興味がないし、ましてやったこともないのだが、少し勉強してみた。

「メイク」というのはファンデーションと、狭義のメイクからなるようだが、私はその前に皮膚のクレンジングと欠陥補正など、スキンケアが重要だと思う。それは半分は皮膚科学の領域に入っている。

文字情報の形で蓄えられたファイルをカレントと言うかフローの形態に変換するのが再生ソフトだから、もっとも重要な部分を担っていることになる。

そこにはほとんど芸術的なセンスは必要ない。ひたすら正確であることが求められる。一回フローに換わってしまえば後はすべて一瞬の遅滞も許されない流れ作業になっていくわけで、ここだけ読み取り時間が許される。

7.PlayPcnWin

開発者である yamamoto2002 さんはまさにそういう発想で再生ソフトを開発したようである。

私の手持ちのDACと同じFostex を使用していて、「この時代に見合った再生ソフトはいかなるものか」という疑問が開発のきっかけらしい。

FSTEX のHPA8 のドライバーはデフォールトでASIO経由の信号を受け取ることになっている。機械屋さんが言うのだからそれが一番良いのだろうとおもって、その仕様でそのままやってきた。yamamoto2002 さんは、それは違うと言っている。

やっていることは、原理的にはかんたんだ。WASAPIでDACとつなぐということ、メモリにファイルをいったんコピーしてそこから読み取るようにしたこと、この2つである。

そして私に嬉しいのはものすごい操作がかんたんなことである。実に高齢者にマッチしている。最新の技術で「ガラ携」を作ってくれたようなものだ。

音には満足だ。foobar より良い。ただこれは以前にも実感済みだ。前の忌々しいDACに悪戦苦闘していた時、メモリー上に仮想RAMを作ってそこにファイルを入れたらすごい音がしたのである。HDから情報を拾うのとメモリから直接吸うのでは時間差があって、それが音質の向上につながるのだと実感した。

と言いつつ、手続きがあまりにも煩雑で、頻繁にハングアップを繰り返すので、やめてしまった経験がある。このソフトの高音質にもそれが効いているのではないかと思う。

もう一つは非可逆圧縮のファイル再生をやめたことだ。私は以前から思っているのだが、ビット数を可変にして圧縮する技術は容量を小さくするのには役立つが、読み取りには決して良い影響を与えないのではないだろうか。

その読み取り処理にはおそらくいくばくかの時間が取られる。それらを一切省略することでジッター補正時間はかなり稼げるのではないだろうか。

どうせ時代はWAV=FLACになっている。記憶装置が二桁から三桁くらい大容量化・小型化しているから、もうこれ一本で良いのかもしれない。

馬鹿馬鹿しいが、MP3やAACファイルもFLACに逆変換して保存したほうが良いかもしれない。(多少オーダシティで化粧して)


それにしても、ついにfoobar の時代が終わるのだろうか?

杉江栄一さんがなくなった。本日の赤旗で報道された。1960年の入党とある。32歳で比較的遅い。
50年問題での葛藤は味わっていない人かもしれない。同志社大学を出て、長年中京大学で教鞭をとられた。どちらかと言えばローカルな活動である。反核活動で活発に動かれていたので、我々にも馴染みはある。
中京大学のレポジトリーでいくつかの論文が閲読できる。ただ紹介しようと思うと、鍵がかかっていてコピペができない。縦書きの論文なのでパソコンで読むには上下がはみ出して読みづらい。
アドベにはテキスト・ファイルに書き出ししてくれるオプションがあるのだが、1ヶ月数千円の会費をとると言う。アコギで実に不愉快だ。
ただアドベと言えども、秘密のキーがあってテキストがこっそり隠されているというのではなく、結局はOCRのエンジンで読み取るらしい。鍵のかかっていないファイルなら読み出してくれるが、結構間違いはある。
とすれば、OCRのソフトで読み取るほうが安いだろうと考えた。
それでフリーのOCRソフトを探したが、まぁ以前から分かっていることだが、ろくなものはない。結局、パナソニックの「読取革命」という有料ソフトを買う以外の選択はない、という結論に至った。
今アマゾンでセールをやっていて、定価の半額(7千円ちょっと)で買えるらしいので注文しようと思う。
まずはそれからだ。それがうまく行けば、グーグル・ブックスもいったんPDFに落としてファイル変換できるかもしれない。もちろん著作権侵害の疑いがあるなので、想像してみただけだが。
杉江さんの論文は、反核関係は既におなじみのものが多いが、若書きの「フランス人民戦線とその外交」が面白そうなので読み始めた所。
てなことで、一日終わってしまった。非生産的な一日だった。

あの新潟県知事戦からわずか1週間、野党共闘は燃えに燃えて補選も勝ち抜くかと思われたが、そうは問屋が卸さなかった。
しかしよく考えれば東京は連合の最大・最後の拠点だ。民進党都連は悪の巣窟だ。
彼らは負けることに全力を傾けた。負けることによってこそ、彼らの身の安泰が図れるからだ。もし勝ちでもすれば共闘派が一気に力をつけ、民進党を乗っ取ってしまうからもしれないからだ。
過去数回の都知事選挙で東京の民進党の立場はきわめて明らかだ。野党共闘の立場に立ったことなど一度もない。それどころか自民党との連合で民主勢力に対抗する道しか選んだことはない。
これは自民党も同じで、東京都の持つ豊かな財政基盤にしゃぶりつくことしか考えていない。つまりは「都庁たかり」党として、都庁マシーンの歯車のひとつなのだ。
民進党は「連合党」=経団連マシーンでもある。連合がどんな役割を果たしているかは、新潟県知事選で白日のもとに晒されたが、実はその前の参議院選挙でも徹底して野党連合潰しに回っていたのである。それは関西より西では成功した。
民進党の基盤が弱い地域では、なかば公然と野党共闘は否定された。たとえ民進党が一定の基盤を持っているところでも、都道府県の利権がらみのしがらみに絡め取られているところでは同様の現象が起きた。
以前革新勢力が強いと言われていた大都市圏で、意外に野党共闘が伸びないのはこれによるものであろう。
総じて言えば、民進党が野党共闘の側に一方踏み出せないでいるのは、経団連=連合の縛りと各自治体での利権の縛りがあるからだろうといえる。
ここにヒビを入れ、裂け目を広げ民進党の本体をこちらに持ってくるのは容易な仕事ではない。しかし参議院選挙や新潟県知事選挙でも示されたように、決して不可能な仕事ではないのである。
目下野田幹事長を先頭に仕立て、猛烈な反共闘勢力の巻き返しが始まっている。しばらくは強烈な綱引きが続くのであろう。
ただ、権力がいつまでも民進党を自らの下に引き止めておく訳にはいかない。彼らは一度は二大政党制を構築しようとして断念したのである。それが不可能であること、可能であるにしてもきわめて危険なことを悟ったからである。
彼らは民進党を捨てた。民進党は捨てられたことを知っている。真面目な中核党員は、経団連の後ろについて言っても、その先に未来はないことを悟ったはずだ。
我々はもう少し耐えなければならない。野党共闘の側に民進党を持ってこようとする人々を支援しなければならない。同時にその思いを市民集団と共有しなければならない。



鬱陶しい作業だが、誰もやってくれないからやるしかない。

さもないと、動物園の動物みたいに、「ゾウはどこに住んでいます、キリンはどこに住んでいます」という事実の列記に過ぎなくなってしまう。

ミトコンドリアDNAのハプロタイプは大きく言ってL系、M系、N系、R系がある。

L系はアフリカにしかいない。Yで言えばA、Bに相当する。

L系からM系とN系が分岐するが、アジアへの渡来はM系が先行するようである。そもそもM系はアジアにしか存在しない。

ということで、まずは大胆な仮定から。M系はY染色体のB、Cに照応する。N系はO系その他に相当すると考える。

もちろん本当はY染色体のC系とD系に照応する、M系の亜型までわかればなお良いのだが、ミトコンドリアDNAの研究はそこまでは行っていないようだ。

もう一つの仮定としては、先住者のいる地域に後発者が入って主流となる場合、男性は後発者が多くでも、女性は先発者の割合が高いだろうということ。逆に先発者のいない無住の地に入ったグループはY染色体とミトコンドリアDNAの一致率が高くなるだろうということだ。

これはスペインが征服した新大陸で確認済みの事実だ。

それで調べてみると、

本土日本人では

M系統が約60% N系統が約15% R系統が約25%となった。

これがアイヌ人では

M系統が70% N系統が25% R系統が5%となった。

沖縄では

M系統が70% N系統が15% R系統が15%となっている。

これで分かるのはM系統がY染色体のD2に照応するのだろうということである。そして後発者を受け入れた側の人々だろうということである。

驚くべきことに山東・遼寧地方、韓国でもM系統(とくにD亜型)が6割を占めていて他者を圧倒していることである。

こうなるとM系統=D2とは言えない。C、D全体をふくめている可能性もある。

分からないのは

①アイヌ人のY亜型がなんだろうということ、北海道にはオホーツク系のC3人しか入っていないから、Y亜型はC3人の女性なのか。だとすれば、なぜY亜型はN系統にふくまれなくてはならないのか。

②本土ではN系統があまりに少ない。O人はN系統に属さないのか。

③C1人が最初の定住者とすれば、C1の女性はかなり高い比率でいるはずだ。それはどこにふくまれるのか。ひょっとするとD4の主体を形成しているのかも。

④さまざまな亜型についてはそのとおりだろうが、M系統とN系統に分ける系統樹は果たして正しいのだろうか。

ということで、とにかくミトコンドリアDNAは解釈が難しく、恣意的になるおそれがある。素人はあまり近づかないほうが身のためだ。

日本への渡来の順番。

メモ代わりに書き留めておく。

1.C1人

おそらく、この人達が最初に日本に入った人たちだろう。北方ルートで中央アジアから入ってきたC系人のうち、先発隊に属する人たちだ。

この人達は朝鮮半島経由で九州に入り、北は青森から南は沖縄まであまねく分布した。津軽海峡は渡っていない。

当然、C1人は満州から朝鮮半島にも分布していたと考えられるが、現在では痕跡を残しておらず、後発のC3人に淘汰されたものと考えられる。

*C1人先着説は、今のところ学説的根拠がない思いつきである。証明のためにはミトコンドリアDNAとの突き合わせが必要である。

2.D2人

そのあと、樺太からD2人が南下してきた。彼らもあまねく日本に分布した。

D2人はC1人を排除せず共存した。その際、C1人の持つ朝鮮半島とのコネクションは活用されたと思われる。

したがってD2人が朝鮮半島という第二のルートを経由して西日本に入ったという仮説は必要ないのである。

人口比率で言えばD2人がC1人を圧倒しているが、女性では先住したC1人の比率が高くなるであろう。ただ、現在のところY染色体のD系とC系の違いに照応するミトコンドリアDNAのサプタイプは同定されていないため、確認はできない。

3.C3人

本州以南で、D2人とC1人の共存体制ができた後、C3人が入ってくる。

C3人は中国北部から蒙古にかけて広く分布しており、武力的に優位であったとも考えられる。

北からはD2人の居住域に侵入する形で、九州からはC1人を駆逐する形で入ってくる。

あまり共存を好まない勢力であったようで(後発人種はどうしてもそうならざるをえないのだが)、C1人は本来一番多いはずの九州から消えている。

したがってC3人女性のミトコンドリアDNAは少数に留まっているはずであるが、これもハプロタイプとしては確認できない。

4.O2b人

最終氷河期が終え、O系人が東方に進出してくる(どちらから?)。彼らは中国北部のC3人を回避しつつ長江流域に拠点を形成する。O1人O2人である。

これに対し後発のO3人(漢民族)は中国北部に進出し、黄河流域を占拠する、彼らはC3人を北に押しやり、長江流域にも進出する。

当時朝鮮半島はC3人の居住するところであったが、南岸地帯にはD1人と共存するC1人が残存していた可能性がある。

O3人の圧力のもと、朝鮮半島に渡ったO2人のうち、O2b人がC1人の庇護のもとに九州へと渡った可能性がある。

これが弥生人であり、D2人との共存関係のもとで、人口を増やしていった。

5.O3人

そして最後に登場するのが漢民族系のO3人である。同じO3でも満州の方から下ってきた連中かもしれない。

定義にもよるのだが、弥生人が水稲栽培を行い弥生式土器を使用した人々だとすれば、O3人は弥生人ではない。

私は「天孫族」と呼んでいる。すでに人が住んでいるところに進出するのだから、進出形態は先住者の抵抗を暴力的に排除する他ない。

したがって、その密度には同心円状の勾配差がある。九州ではD2人、O2b人と比肩するほどの密度があるが、青森ではその6割程度にとどまる。

おそらく漢民族のミトコンドリアDNAの分布とは相当の乖離があるはずだ。

なおHammerらのデータにはN系人の出現も見られるが、技術的な問題もあると見られ、この際は無視する。

16.12.27 コメントを頂いた。とりあえずC1人に関する見解については、を参照されたい 

崎谷満さんの

『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年) 

を通読した。

といっても、前半のハプロタイプについての概説部分のみで、後半は関心が文化、言語、歴史など多岐にわたっており、省略させていただいた。

とても要約できるヴォリュームではないが、感想的にいくつかつまみ食いしておく。

1.Y染色体ハプロタイプは以下のように大別できる

<AB人> アフリカ残留人

<DE人> 最先発人 ただしEのほとんどはアフリカに戻る。北方ルートのみ。C人に押しのけられ、日本とチベットにのみ健在。

<C人>  第二陣。南方、北方ルートの両者を通じて世界のほとんどに拡散。

<FT人> F人からT人まで、第三陣以降のすべて。

直接指摘はされていないが、2.2万年前~1.8万年前の4千年間、最終氷河期最盛期となり、この間は人類の拡散が足踏み状態にあったとされている。
このことから、FT人の拡散はその後のことか?と想像される。

2.ミトコンドリアDNAの大別

<L人> アフリカ残留組

<M人> 比較的古い時期に拡散した群。ハプロタイプでいうとMCDEGQZが相当する。 

<N人> 比較的最近に拡散した群。上記以外のすべてが相当する。ミトコンドリアの系統はどうもいまいちよく分からない。

3.北方系C人と南方系C人

南方系C人はインドから東南アジア、インドネシア、オーストラリア、オセアニアへと拡散した。

東南アジアから北方への進出はなく、インドシナ南部とフィリピンまでにとどまっている。

北方系C人はD人の後を追い東アジアに進出した。D人を駆逐し、中国まで進出。さらに台湾や南方へも拡散している。

4.北方系O人と南方系O人

O人も南方ルートおよび北方ルートで拡散している。東アジアに来たのは北方ルートである。

ここは以前勉強した説とは異なる。以前は南方ルートのO人が北方に向けて拡散したと書いた(英米で流布)が、崎谷さんはこの説に明確に反対だ。

この辺は両者がそれなりに根拠を持って書いているので、素人には判断がつかない。

ただ南方由来説は、O3人(漢民族)のUターンを前提とする不自然さが拭えない。O1、O2人が南方由来でO3人が北方由来とする折衷案も成立しうるが。

5.O1、O2人とO3人

O3人は現代の漢民族で、他種族を圧倒している。しかし長江文明の担い手はO1、O2人だった。

3つの遺跡から発掘された人骨のY染色体を分析した研究が紹介されている。

龍山文化(黄河文明)

BC2000頃

O3、O3a

長江中流

BC1000頃

O2a、O3

長江下流

BC3000頃

O1a、O2b

年代を見ても、漢民族がO1、O2人を駆逐した様がありありとする。

6.D人は樺太由来と朝鮮半島由来の二流がある

このあたりから、崎田さんの論理が少々荒っぽくなる。

周知の通りアイヌ人と琉球人はD人の要素が非常に強い。そこでもともと日本列島にはあまねくD人が住んでいて、後からO人が入ったために分断されたという考えがある。

これは間違いで、もともとD人は2つのルートで日本に入り、中抜け状態だったというのが崎田さんの主張になる。

その根拠として4点を挙げている。

*ミトコンドリアDNAのハプロタイプが異なっている。琉球のそれは朝鮮半島~九州の流れの上にある。

*細石刃文化はあるが、それを担うべきY染色体のハプロC3は存在しない。

*言語が違う

*T細胞白血病ウィルスの亜型も異なっている

率直に言ってY染色体そのもので勝負していないのが不満である。ミトコンドリアDNAの話は、Y染色体とのペアリングの問題があまりにも複雑であり、混乱を招く。

細石刃文化や言語の話は「学際研究」のいいとこ取りになりかねない。むかしのタミール語論争を想起させる。

結局、崎田さんがこの道に入り込むきっかけとなったT細胞白血病ウィルスの種差がかなり強い印象を与えているのではないかと勘ぐってしまう。

7.二経路論に対する感想

学説としては二経路論は十分に魅力的であるが、それが中抜け論になってくると、次の事実と齟齬を来す可能性はないだろうか。

すなわち、被征服(被同化)民族であるD人が、それにもかかわらず日本人人口の4割以上を占めているという厳然たる事実である。

「学際」的な考えを持ち込まずにDNAレベルだけで考えるとすれば、北方から入ったD人がじわじわと西に向かって進出して、日本列島を覆い尽くした。

西日本や琉球、さらに朝鮮半島には先住者(C1人?)がいて、これを圧倒し通婚した。それがY染色体とミトコンドリアDNAの組み合わせに変則性を与えた、と見るのが素直なのではないだろうか。

過労自殺に至る心的機転は雨宮さんの説明でよく分かる。

ただ、天下の大企業である電通の事件であり、東大卒の超エリート社員の話である。ある意味、私らごときが悩んでどうなるようなレベルではない。

ある程度の忙しさ・ストレスは承知の上で、彼女は就職したはずだ。それに、なんとなれば電通をやめたとて食うに困るような境遇ではないはずだ。

そこには、やりがいのなさ、給料の安さ、失業の恐怖に悩みながら働く居酒屋チェーン青年のストレスとは異質のストレスがあるはずだ。

しかもこの会社、以前にも同じような事件を起こしており、基本的に反省していないことが窺われる。

やはり業種・職種の特殊性とか、企業風土みたいなものを念頭に置かないと理解はできないのではないだろうか。

あるツイッターでどこかの大学教授(元ビジネスマン)が「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」と書き込んで大問題になったそうだ。さらに「自死はプロ意識の欠如だ」と追い打ちをかけている。(BLOGOSより重複引用)

時と所をわきまえない無神経な発言には腹が立つが、一番問題なのは「月100時間で自殺するとは変だ」と思わないことだ。その思考停止ぶりが非常に気になる。

「愛する部下」だったかもししれない人の自死に、これほど無頓着な人物には、管理職は務まるまい。だから大学教授になったのかもしれない。

まず月100時間という数字の怪しさだ。

月25日勤務として、超勤100時間は1日4時間になる。たしかに異常に多いとはいえないかもしれない。私も若手の頃には10時前に帰ったことはなかった。

おそらく実際はそれをはるかに超えていたろうと思われる。

本人のTwitterでは「誰もが朝の4時退勤とか徹夜とかしている中で新入社員が眠いとか疲れたとか言えない」と書かれている。

この言葉が実情であれば、うちわに見ても150時間は越える。

もし自殺するかしないかの分かれ目が某教授の言うように労働時間により規定されるのなら、たしかにこの女性の労働時間はその一線を越えていた可能性がある。某教授はまずそのことに気づくべきだった。

もう一つ。

この教授が「自殺するのはプロ意識の欠如」と断じている点である。前段が「思い違い」として許せるにしても、これはプロ意識の重大な履き違えがあり、教授としての資質が問われると思う。

むかし、稲尾という名投手がいた。日本シリーズでは7試合中6試合を投げ優勝に貢献した。「この時神様、仏様、稲尾様」と名付けられた。弱冠19歳のことだ。

その後も鉄腕稲尾の名をほしいままにしたが、結局10年で肩を壊し選手生命を絶たれた。

某教授はこういうのを「プロ意識」というのだろう。それはそのまま「特攻隊精神」だ。

これが「マイウエイ」だと、彼がこだわるのなら構わない。しかしそれを人に押し付けてその結果人が死んだとしたら、その死はあんたの責任である。


エリート社員と過労自殺とをつなぐものは「プロ意識」である。なぜなら「プロ意識」は「撃ちてしやまん」精神に置き換えられてしまっているからである。

しかし電通のような業界にあって、エリートとはどのようなものなのだろう。私たち世代にとってCMというのは三木トリローだったり柳原良平であったり、野坂昭如であったりする。どちらかと言えばアイデア勝負のヤクザな連中である。片足でそういう連中をうまいこと使いながら、もう片方の足で業界にはめ込んでいくのがエリートなのであろう。

であればその人には、片足ヤクザ的なキャラクターが求められるだろう。どっちにしても「特攻隊」にはそぐわない。そんな仕事からは良い作品は生まれない。良い作品を生み出せない人は「プロ」ではないのだ。




雨宮処凛さんが19日の日付で、ブログに書いている。

電通過労死認定から、この国の非常識な「普通」を考える という題だ。

たいへん良い文章で、いちいち納得してしまう。

ハラスメントは、過労死・過労自殺に必ずと言っていいほどつきまとう。

と切り出して、次のようなインタビューを紹介している。

本当は、はっきり言えば上司なんですよ。かならず過労死って3人くらい、上司がかかわっているんですよ。ダメな上司が3人いると死んじゃう。

もう一つは周囲が関わらないことだ。

私に投げかけられたのは、「正社員だったら今時それくらい普通だよ」という妙に冷たい言葉だった。

これで彼あるいは彼女は周囲から切り離され、自分を責めるしかなくなる。

雨宮さんは、ここでもう一つ追い打ちをかける。

ギリギリのところで踏ん張っているからこそ、「辛い」という人が許せない。弱音を吐く人が癪に障る。「ついていけない」とか「無理」なんて、一番の禁句だと信じ込まされているから。

そして生き留まった人は、その代償として心が「壊れて」行き、生贄を求めていくようになる。

こういう集団的な力動過程のもとで、「過労死」が生み出されていく。

おそらく雨宮さんの事例は、自殺した電通社員のことが念頭にあっての、パワハラ自殺にやや偏った過労死分析ではあろうが、実際にはその比率が圧倒的に高いことも事実である

雨宮さんによれば、15年度に過労死で労災認定された人は96人。未遂も含む過労自殺は93人となっている。

日本の過労死統計のほとんどは過労自殺が占めているのである。逆に言えば自殺以外の過労死はいまだ闇から闇へと流されていることになる。

とすれば、過労自殺を過労死に含めることが逆の意味で正しいかどうかも疑問になってくる。

過労自殺の本質は過労そのものより過労を強いているものにありそうで、そこへの対処が問題になりそうだ。

電通過労死問題は大変ずっしり来る課題である。

しかし、どう切っていったらいいのか、切り口の見えにくい問題だ。

根底にあるのは不況と就職難だろう。さらに労働規制の緩和も拍車をかけている。

景気のいいときにも過労死問題はあった。しかし、それは「やめりゃいいじゃん」の世界でもあった。いまの過労死は働きすぎるほど働いても、その先が見えない過労死だ。しかも簡単にドロップ・アウトする訳にはいかない状況のもとでの過労だ。

ただ、以前の過労死がクモ膜下出血だとか、心筋梗塞だとかいう病気だったのに、最近はほとんどがウツ→自殺という形態を取っていることに注意が必要だ。

ウツというのは何もなくてもなる病気で、だからうつ病なのだが、過労が引き金になってのウツというのは、正確にはウツではなく神経症ないし心因反応ではないか。

そしてその原因は過労という宙に浮いたような抽象的なものではなく、過労を強いていた周囲の圧力にあるのではないかと思う。

その辺の精神力動的状況をチェックすることが、医学的には必要かと思う。いささか過激な言葉を使うならば、彼もしくは彼女は「殺された」のであり、「殺した犯人」を見つけ出さなければならないのではないか。

時として過労やストレスは人を襲う。それは避けようがない。しかしそれが死に至る結末へとつながらないようにするには、「二次予防」が必要であろう。

中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。

平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

代わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上泉伊勢守、愛洲移香より陰流を授かる。新影流を開く。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳、上泉より一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

文禄 3 (1594) 徳川家康、柳生石舟斎・宗矩父子に起請文を差し出す。徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

朝日新聞に面白いくだりがあった。

経産省にとっては、柏崎刈羽の再稼働こそ東電再建の「前提」と考えていただけに衝撃は大きい。

経済産業省の幹部は16日夜、「新潟県民にここまで原発再稼働アレルギーがあるとは」と嘆いた。

我々も嘆こうではないか

経産省や経団連にここまで原発再稼働アレルギーがないとは!

あたかも、そんなことなどなかったかのように


そもそもアレルギーというのは免疫反応です。2つの特徴があって、一つは即時型反応だということです。全身の粘膜や皮膚が総毛立って、粘膜が浮腫を起こします。

もう一つは病的な過剰反応だということです。もともと人間には防衛反応と学習反応があります。痛い思いをすると次からはそれがトラウマになって過敏に反応するのです。

大変困った反応なのですが、考えようによっては無いよりましなのです。バクチに負けて、あるいはサラ金に手を出してひどい目にあったら二度と手を出さないでしょう。顔を見ただけでもゾッとするはずです。

ところがまったく免疫ができない人もいるのです。アネルギーといいます。こちらのほうがはるかに怖い。

そういう人は懲りることなく同じ過ちを繰り返して、ついには破綻に追い込まれるのです。そういう欠陥人間が自分の連れ合いだったらどうします?


それにしても、今だから言うけど、この米山という人、顔で判断しちゃいけないけど、「我が方」にはいない顔だね。別世界の人ということでは大谷と同じだけど、大谷は良い星から来た異星人だけど、この人はどうなんだろう。とにかく「いい人」で有り続けることを願うのみだな。

反原発知事の当選の意味

これは大谷の165キロ以上の意味がある。なぜなら、勝ったのはファイターズではなく我々だからだ。

米山候補は「反原発」をうたったわけではない。しかしその勝利は柏崎原発を事実上不可能にするほどの力を持っている。

この選挙を「原発再稼働」の是非を問う県民投票にしてしまったのは、自民党だ。

途中から「ヤバイ」と見て、原発隠しに懸命となったが、そもそも再稼働に向けたロードマップの最終仕上げに位置づけた選挙だから、方向転換が効く性格のものではなかった。

そもそも自民党県連に闘う気がない。泉田知事を担いでいたのはほかならぬ自民党県連である。

その県連の幹事長を力づくで引きずり下ろして、「さあ闘え」と言っても無理がある。しかもそのやり口が「謀略」に近い世論操作であるから、とても戦う気にはなれない。

敗北の責任を問われるのは菅官房長官であろう。「電力業界などオール日本で対抗する」という「オール日本体制」は自民党、財界、それに首相官邸なのだろう。

今後菅官房長官の責任を問う形で、首相官邸の横暴に対する批判が吹き出さないとも限らない。

菅官房長官は記者会見で「地方の首長の選挙であって、政府としてコメントは差し控えたい」と語った。そうなんだ。そもそも政府は介入してはいけないんだ。

「今後の国政選挙への影響について「そこは全く考えていない。ないと思っている」と述べたが、ないわけがない。第一、行政担当の官房長官が答えるべき質問ではない。


各界からの反応が報道されている。かなりニュアンスの違いが浮き彫りになっている。

泉田追放→新知事→柏崎再稼働の策動の震源地である経団連の榊原会長は、頭に血が昇ったか、この選挙が原発選挙だったことを公然と明らかにしたうえで、不届き千万な干渉発言を言っている。

新潟県民が選択されたことだが、…原子力発電所はエネルギー政策や地域振興などいろいろな意味で意義がある。東京電力は、しっかり安全対策を行い、そのうえで県民に理解を求めることになると思う。
新しい知事は再稼働に慎重な姿勢だが、冷静な判断をしていただき、原発の安全性が確信できれば稼働の方向で進めてほしい。

ということで、論理もへったくれもないハチャメチャ戦闘継続宣言だ。「必要だ、安全だ」の掛け声ばかりが虚しく響く。後は「アメが欲しいか、ほらやるぞ」でしょ。

ただ、政府・自民党としても原子力ムラの再稼働原理主義者には今後距離を置かざるを得なくなるだろうし、経団連内の力関係にも影響がおよぶ可能性はある。

前の米倉同様、榊原も外様で成り上がりだ。日米同盟路線をゴリゴリと推し進めることで会長の座を確保しているに過ぎない。強面経団連が内外の批判を浴びるようになったとき、彼らの命脈も尽きるだろう。

今度の勝利の一番の意味は、菅官房長官が呼号した「オールニッポン」体制への国民の強烈なカウンターパンチだ。この効果は、これからしばらくのうちにさまざまなひび割れとして出てくるだろう。注目だ。


なお、民進党と連合のひび割れは今に始まったことではないし、それほどの重要性もないが、気持ちのよいものだ。

野田佳彦幹事長は周囲に「(蓮舫氏が)行くと言っても止める」と語っていた(毎日新聞

らしいが、連合から派遣されたお目付け役らしい、いかにもの風景である。

いくつか写真を転載しておこう。

最初が野幌駅。昭和43年の撮影とある。

この写真は情報量が多く大変楽しめる。(写真の上でダブルクリックしてください)

野幌駅

写真の奥の方向が札幌である。夕鉄独自の駅舎はなく国鉄に乗り換えるだけのホームのようだ。

解説を読むと、ターミナル機能を果たしていたのは一駅隣りの「北海鋼機前」で、ここでバスに乗り換えてしまう人も多かったらしい。


*線路際の道は駅裏通りということになるのであろうが、結構人通りがある。

*ホルモン焼き「京城園」は、北海道では少数派だった民団系の店だろう。我々が行くのは「平壌園」とか「千里馬」という名前だった。しかし店主の出身は大抵が南だった。梅割りで悪酔いして「汽車は行くー、汽車は行くー、南を目指してー」と統一列車の歌を歌ったものだ。

*その隣はマーケットだ。新築らしく、フードサプライと気取っている。シャッターが降りているのは日曜日だからか。あの頃は平気で日曜休業だった。お陰で正月3が日サトウの切り餅とインスタントラーメンで過ごしたこともある。スーパーや生協が進出するのはもう少し後だ。もちろんコンビニはない。

*向こうからくる女性は当時の標準的モード。ミニの流行り始めで、真冬でも膝上スカートだ。パンストやパンタロンが流行るのはその次の年くらい。スラックスやジーパンはほとんどいなかった。

*一応道路は除雪されているようで、二人がすれ違うのに苦労はなさそうだ。その奥にたくさんの荷を積んだ日通のトラックが走っているから、その分の道幅はある。しかし真知子巻きのおばさんが道端に立って車をやり過ごしているところを見ると、それ以上の幅はなさそうである。

*酒井建築設計事務所の看板があって、その向こうのガラス戸にはカーテンがかかっていて、いかにも日曜日の雰囲気だ。屋根の雪は30センチは積もっていて、とりあえず落ちそうなところだけ雪下ろししている。しばらく雪は降っておらず、少し暖かいせいか解けかかって汚い。真冬というより早春、3月末という感じの雪だ。

*いかにも寒そうな曇天で、向こう向きの若い衆は黒いオーバーのポケットに両手を突っ込んで前かがみに歩いている。項(うなじ)の刈り上げがいかにも寒そうだ。

*その向こうが「サッポロパン」の店だ。じつは「サッポロパン」という会社はあまり聞いたことが無い。グーグルでもまったくヒットしない。その一軒おいて向こうが北海道新聞の販売店。戸口に一人立っているようだがはっきりしない。

*列車は2両連結の気動車。湘南型で連結器は昭和20年代のもの。この頃函館本線は電化されたばかり。夕鉄の上にも架線が張られているが、無用の長物。すでに彼我の差は明らかだ。

*ひとり、乗車口で荷物を積み込んでいるが、このあたりのホームは屋根もなく除雪されていない。一方階段の出口からこちらはそれなりに除雪されている。おそらくそこで車内整備をしてからこちら側に進んで、乗車を開始するのではないだろうか。

*3月末とすれば、この明るさは夕方5時ころ。用事を済ませた人々がこれに乗って夕張に着くのは8時ころになるのだろうか。

*上方を右に展開してみよう。跨線橋は木製ではあるが、相当の力作である。なぜなら一番線と二番線の間に二本も線路があるからだ。つまりこの跨線橋は線路4本分の幅を両側だけで支えなければならない。
なぜ駅構内に2本もなければいけないのか、よく分からない。函館本線(と言っても小樽旭川間だが)は電化と同時に複線化されている。

本日は気持ちのよい晴天で、暑ささえ感じるほどだった。

出不精の私だが、思い切ってドライブに出かけた。

前から気になっていた「きらら街道」を走ってみたくなったのである。

この街道、野幌駅の南側からほぼ東に向けて走っている。東に向けて、といえば当たり前のように思われるかもしれないが、実は江別の東側に広がる広大な石狩平野、いかにも開拓地らしく道は完全な碁盤目を形成している。

その方角は、なぜかは知らないが北西を向いているのである。これは札幌も同じである。

その中できらら街道だけは秩序を無視するかのように、あくまで斜めに突っ切っていくのである。

しかも真っ直ぐではない。なよなよと左右にカーブを描きながら、しかし全体としてはまっすぐに東を指して走っていくのである。

私はこれがかの北炭夕張鉄道の線路跡ではないかと思っていた。

地図ではどこまでというのがはっきりしないが、南幌町を越えて北長沼、中央農業試験場のあたりまでは特徴的な曲線美が追える。

ナビという便利なものがあるので、大体の見当はつくのだが、何ヶ所かで突然道が切れる。とくに南幌市街は団子の串のように見えなくなってしまう。

ただ、切れた方向をナビでたどるとまた復活しているのである。

夕鉄線路跡

なんだかんだと言いながら中央農業試験場まで行ってそこから引き返してきた。

ここからが普通の人と違うところで、帰ってきてから調べ物を始める。


一番頼りになったのが、ooyubari9201のblog というサイト。石炭最盛期の頃夕張にクモの巣のように張り巡らされた鉄道網を回顧するサイトだ。

これを見ると、夕張鉄道がニューロンのような構造をしていることに気づく。夕張の最大手であった北炭(北海道炭鉱汽船)は市内各地の炭鉱に樹状突起のように触手を伸ばし石炭をかき集める。それが夕張鉄道という軸索を通って次のニューロへと送られる。そして野幌駅という軸索末端で、国鉄とシナプス接合するという仕掛けである。

昭和35年ころ夕張は最盛期で12万人も住んでいた。夕張だけではない。石狩炭田を抱える空知支庁には82万人も住んでいたのである。そのとき札幌は50万人である。

要するに、夕張鉄道は北海道経済の中心をなす大動脈の一つであったのである。定山渓鉄道や天北線とはレベルが違う。

とは言え、この鉄道が夕張のためにだけ作られた盲腸線であることは間違いないし、石炭輸送が主目的である以上、途中の景色が割と寒々としたものとならざるをえないのも当然である。


下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

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こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

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