鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年10月

この映画の恐ろしさは映画会社の宣伝しているような中身ではない。映画を見た人たちが抱いた恐怖感の中にあるのではない。

真の恐怖は、エル・クランの人々の行いが“非合法ではなかった”社会の恐ろしさにあるのである。彼らが平然と一般市民の生活を送っていたのは、かれらが狂気の人だったからではなく、ビジネスとして誘拐と殺害業を営んでいたからである。このような極悪ファミリーが、取り立てて罪悪感を抱かずに平然と社会生活を送ることができる、そのような社会の異常ぶりこそが恐怖の対象なのだ。

少し時代背景の説明が必要だろう。

記憶が曖昧になっているので、細部の間違いはご容赦願いたい。

1970年代の初頭、アルゼンチンではペロン大統領のもとで民主運動が高揚していた。しかし経済的には苦しさが募っていた。この中で軍部がクーデターを行い、親米・新自由主義の政策を強引に実行した。反対派は左翼といわずリベラルといわず片っ端から弾圧の対象となった。学生の一部は都市ゲリラ作戦を展開したが、それはカウンターテロの絶好の口実となった。

公然活動家には暗殺の恐怖が襲いかかった。地下に潜った活動家を軍・警察とグルになった「死の軍団」が追い詰め、誘拐し、拷問し、殺害した。遺体はヘリコプターで海上投棄されるか、見せしめのために街路に放り出された。子どもたちは取引の対象となった。

「死の軍団」のメンバーの多くは元軍人だったり、元警官だったり、場合によっては現職の警官だったりした。彼らは半ば公務としてこれらの任務を粛々とこなしたのである。昼は善良な警察官や市民、夜は覆面をした誘拐・暗殺犯、というシーンはある意味で日常茶飯事であったのである。

そのようにして人々を恐怖のどん底に貶める役割を「エル・クランの人々」も担っていた。つまり左翼もしくは左翼に同情的な人々を誘拐し暗殺し口をつぐませるのが商売だったわけだ。それは軍事独裁政府によって指示されていたから、その限りで“合法”だった。

内戦の頃は,夜間の外出は禁止されていました.夜,クリケットの応援歌は,しばしば男たちや女たちの絶叫で中断されました.軍隊に捕まった人たちです.彼らは拷問されたり体を切り刻まれたりしているあいだ,そして生きているあいだ,そのような叫びをあげていたのです.それは,決して罰せられることのない「死の軍団」のしわざでした.

朝になって,子供たちが住宅街の埃っぽい道を学校に向けて歩いていると,しばしば道ばたの死体と遭遇しました.それは昨日の晩,夜の闇の中で悲痛な叫び声をあげていた人たちのものでした.

J.P.Bone エルサルバドルからの便り

しかし軍政が終わり民主化運動が進むにつれそのような“ビジネス”は許されなくなった。収入の道も断たれた。だから彼らは誘拐ビジネスに手を染めたのである。軍部もこのような闇組織を維持したいから、これらの行動=殺しの民営化を黙認していたと考えられる。

彼らが左翼を誘拐し殺害することは軍部の公認であり、罪ではない。だから罪の意識は持ちようがない。彼らが間違ったのは、そのやり方は金持ちを相手にして使ってはならない手段だということを理解できなかったことである。

彼らに罪の意識はない。彼は自分を“普通の市民”だと思っている。極悪犯罪者が平然と社会生活を送っていたのではなく、彼らはちょっとやばいけれども、一つのビジネスを行っていると考えていた。

繰り返すが、軍政時代、彼らにとって左翼を誘拐し殺害することは、中身は別として、法形式的には極悪非道のことではなかった。現にそれを実行し、あるいは指示した軍の上層部はすべて恩赦法により免訴された。(後にキルチネル大統領によって厳しく指弾されることになるのであるが)

誘拐業はルーチンの政府業務代行であった。彼らの気分の中では、それがちょっとスライドして金持ちが対象に変わっただけのことである。だからパパは軍が保護してくれると確信し、逮捕されたときも平然としていたのである。

彼は人質を誘拐するとおもむろにタイプライターに向かいブラックメールを打ち始める。その用紙には左翼ゲリラMLNの名が刷り込まれている。こういうシーンが有ったことを覚えておられるだろうか。

これがまさに事件の本質であり、この映画の本質なのである。

この映画はアルゼンチンで大ヒットを達成したという。アルゼンチン国民はこの映画を見て、タイプライターの用紙にMLNの名が刷り込まれているのを見て、事件の本質を捉えたのであり、軍部をそこに見たのであり、なぜ秘密のテロリスト集団が富豪の誘拐を行うに至ったのかを理解した。

だからこの映画に熱狂し、恐怖したのである。

何故か、突然、「今日は映画に行こう」と心に決めた。

日曜の朝には、いろいろお勤めがある。まずはシャワーを浴びて、洗濯を始める。トーストとハムエッグを作って、コーヒーを沸かして魔法瓶に入れる。

関口宏のモーニングショーを見ながら、「ファイターズが日本一!」の新聞を読む。「信じられないくらい、皆よくやった。しかしシーズンを通してみれば、最大のヒーローは栗山だな」

と独り言を言いつつ、「そうだ、今日は映画日和だ」と思いついたのである。とにかくひたすら寒い。風は冷たい。カーディガンにジャケットではいけない。コートが必要だ。しかしマフラーと手袋はまだ早い。

映画館を出た時、風花のような雪がちらほら、地面をプラタナスの枯れ葉がカサカサという景色が、最初からイメージとして固まる。

ネットで調べたら、それなりに食指の動く映画がたくさんある。その中で「エル・クラン」というのが目に止まった。アルゼンチンの映画で、一家で誘拐ビジネスに当たったという連中の実話に基づくクライム・ストーリーだ。

「これはマストだ」と、瞬間確信した。

映画館は前から3列目、スクリーンに向かってやや右よりというのが生理的にあっている。一般の好みからするとかなり前だが、画面が大きくないと何故か損した気分になる。

映画館は昔と違ってそう大きくはないから後ろでも良いのだが、それなら家で大型液晶で見たほうが良い。いまの映画はそもそもDVDをプロジェクターで写しているだけだ。

映画館の良いところは非日常にある。「大衆の中の孤独」感を満喫しつつ、いつの間にか映画に没入するところにある。家で同じものを見ていたら気が疲れてしまって途中で抜け出したくなる。そのくらい映画は臭いを発する。その臭いに慣れて鼻がバカになってしまうところから映画の醍醐味は始まる。逆にそれが嫌で、映画館から足が遠のいてしまうところもあるのだが…

「エル・クラン」という映画は面白かったかといわれると、さほど面白くはなかった。衝撃的だったかといわれると、さほどでもなかった。

実話を題材にしているが、それをストーリーにまで消化しきれていない。普遍的なものにまで昇華されていないから、衝撃的な事実が乱雑に投げ出されるだけだ。

配給会社のホームページにはいろいろな人の感想が載せられている。「普通の家族にしか見えない人々が冷酷な犯罪を実行していくその落差と、平然としたヌケヌケぶりに恐怖感を覚える」というのだが、私はそれは違うと思う。

彼らの感想を読んでいると、何故かメキシコの麻薬カルテルの大量殺人を「恐ろしいことだ」と騒ぎ立てる人を白々しく思ってしまったときと同じような感慨が湧いてくるのだ。

(以下、私のこの映画に対する感想を書いたのだが、読み返すと、まったく乱雑だ。次の記事でもう少し分かるように述べることにする)


すみません。たくさんのアクセスいただいているようですが、実は勝手に改訂してしまいました。下記をご覧ください。
2017年07月06日2017年07月15日2017年07月17日

ジャ~ン! 自分でファンファーレ

1年をかけて、やっと終わった。

「ロシアのショパンたち」

一応、100曲を選び終えた。

作曲家別に、おおよそ古い順に並べていく。

グリンカ

1 ノクターン「別れ」 ヘ短調

2 マズルカ ハ短調

バラキレフ

3 1864 ひばり (原曲はグリンカ)

4 1859 ポルカ嬰へ短調

5 1902 トッカータ 嬰ハ短調

6 1902 ノクターン No.3 ニ短調

ムソルグスキー

7 1859 子供の遊び スケルツォ

8 1865 子供の頃の思い出 第2曲 最初の罰

9 1865 ロギノフの主題による「夢」

10 1879 クリミアの南岸にて 第1曲アユダク山麓グルズフ

11 1880 村にて

12 1880 涙の一滴

ボロディン

13 「小組曲」より 1.修道院で

14 「小組曲」より 2.間奏曲

15 「小組曲」より 7.夜想曲

キュイ

16 Op.20 2台のピアノによる8つの小曲 第8番子守歌

17 Op.21 組曲_1-即興曲

18 Op.21 組曲_2-Tenebres_et_lueurs

19 Op.21 組曲_3-間奏曲

20 Op.22 ノクターン

21 Op.31 3つのワルツより 第2番 ホ短調

22 Op.40 「アルジャントーにて」no 6 「おしゃべり」練習曲

23 Op.64 前奏曲集 第2番 ホ短調

24 Op.64 前奏曲集 第4番 ロ短調

25 Op.64 前奏曲集 第6番 嬰ヘ短調 Andante

26 Op.64 前奏曲集 第7番 イ長調

27 Op.64 前奏曲集 第8番 嬰ハ短調

28 Op.64 前奏曲集 第9番 ホ長調

29 Op.64 前奏曲集 第10番 嬰ト長調

30 Op.64 前奏曲集 第16番 ヘ短調

31 Op.64 前奏曲集 第18番 ハ短調 Allegretto

32 Op92 3つの旋律スケッチ 第1番

33 Op92 3つの旋律スケッチ 第2番

34 Op92 3つの旋律スケッチ 第3番

アレンスキー

35 Op.15 2台のピアノの組曲から I. ロマンス

36 Op.15 2台のピアノの組曲から III. ポロネーズ

37 Op.23 2台のピアノの組曲「影」から 3.道化

38 Op.23 2台のピアノ組曲「影」から 5.バレリーナ

39 Op.25 4つの小曲から No.1 即興曲

40 Op.25 4つの小曲から No.3 練習曲 (中国の主題による)

41 Op.28 「忘れられたリズムによる試み」から 1-ロガエード

42 Op.41 4つの練習曲から No.3 変ホ短調

43 Op.65 2台のピアノ組曲「子どもたちの組曲」から 8. ポーランド風に

リャードフ

44 Op.3a 6つの小品 3 フーガ ト短調

45 Op.4 4つのアラベスク No. 2 イ長調 アレグレット

46 Op.9 2つの小品 1ワルツ ヘ短調

47 Op.11 3つの小品 第1番 前奏曲 ロ短調

48 Op.23 小品「湿地にて」ヘ長調

49 Op.31 バラード“古い時代から”第1曲 マズルカ ト長調

50 Op.32 ワルツ「音楽の玉手箱」

51 Op.36 3つの前奏曲 第2番 変ロ短調

52 Op.37 練習曲 ヘ長調

53 Op.38 マズルカ ヘ長調

54 Op.44 舟歌 嬰ヘ長調

リャプノフ

55 Op.1 No.1 練習曲 変二長調

56 Op.1 No.2 間奏曲 変ホ短調

57 Op.1 No.3  ワルツ 変イ長調

58 Op.6 7つの前奏曲 第6番 ヘ短調

59 Op.8 ノクターン 変ニ長調

60 Op.11 超絶技巧練習曲 第3番 鐘

61 Op.11 超絶技巧練習曲 第6番 嵐

62 Op.36 マズルカ 第8番 ト短調

63 Op.41 降誕祭 第1曲 クリスマスの夜

64 Op.41 降誕祭 第3曲 クリスマスの歌

65 Op.41 降誕祭 第4曲 クリスマスの歌手たち

66 Op.57 3つの小品 第2曲 春の歌

レビコフ

67 Op2_3 メランコリックなワルツ ロ短調

68 Op8_9 マズルカ イ短調

69 Op10_8 ワルツ 小さなワルツ ロ短調

70 Op10_10 ワルツ ロ短調

71 Op15_2 悪魔の楽しみ

72 Op21 クリスマスツリーよりワルツ 嬰ヘ短調

73 Op23_2 冬の歌

74 Op23_4 エスペランサ(希望)

75 Op23_5 スヴェニール

76 Op28_3 羊飼いの踊り

77 Op29_3 モデラート・コン・アフィリツィオーネ

78 ワルツ ヘ短調

79 秋の花々 モデラート

80 秋の花々 アンダンテ

81 小さな鐘の踊り

スクリアビン

82 Op1 ワルツ ヘ短調 1985

83 Op2 3つの小品 第1番 練習曲 嬰ハ短調 1887

84 Op3 10のマズルカ 第1番 変ロ短調

85 Op3 10のマズルカ 第3番 ト短調.flac

86 Op3 10のマズルカ 第6番 嬰ハ短調

87 Op8 12の練習曲 第12番 嬰ヘ短調 悲愴

88 Op9 2つの左手のための小品 第1番 前奏曲 嬰ハ短調 1894

89 Op9 2つの左手のための小品 第2番 ノクターン 変ニ長調 1894

90 ワルツ 嬰ト短調 1886年

ラフマニノフ

91 Op.3 幻想的小品集 第1番エレジー 変ホ短調

92 Op.3 幻想的小品集 第2番 前奏曲 嬰ハ短調

93 Op.5 組曲第1番「幻想的絵画」 第4曲 ロシアの復活祭 ト短調

94 Op.16 楽興の時 第3曲

95 Op.16 楽興の時 第4曲

96 Op.23 前奏曲第2番

97 Op.23 前奏曲第3番

98 Op.23 前奏曲第5番

99 Op.34 No14 ヴォカリーズ

100 Op.39 絵画的練習曲《音の絵》No_2 イ短調

基本的にはすべてYou Tubeで聞けるものばかりである。リンクはすぐ切れる。しかしそのうちまた出てくる。あえてリンクはしなかったので、自分で検索してほしい。

選曲の基準はショパンっぽいこと、聞きやすいことである。必然的に大音響のうざったい曲は少ないが、入ってはいる。彼らのお手本はショパンとリストだったから、どうしてもリストっぽさが混じるのであろう。あのブラームスだって初期の曲はバリバリだ。

もちろんいつまでもショパンの真似ばかりもしていられないから、経歴を重ねるとともに独自の音作りに移行していく。だから基本的にはキャリアの浅い時期の曲が多くなる。いわゆる「初期の習作」である。

したがって音源探しは意外に難しい。見つけた曲以外にも佳曲はたくさんあるだろうと思う。また聴き込んでいくうちに味が出てくるブラームスの間奏曲みたいのものもあるだろう。

結局なんだかんだとCDも買ってしまった。挙げておくと、

1.Lyadov Complete piano works: Marco Rapetti (5枚組)

2.Vladimir Rebikov Piano works: Jouni Somero (1枚)

3.Cesar Cui Complete works for piano solo:  Osamu Nakamura (1枚目のみ)

4.Cesar Cui 25 Preludes: Jefrey Biegel (1枚)

5.Borodin Complete piano music: Marco Rapetti (1枚)

6.Sergei Lyapunov Piano music: Margarita Glebov (1枚)

とりあえず、これでアップロードしておくことにする。後はチャイコフスキーが第一次候補で40曲ばかり残っている。これを絞り込んで30曲位にすれば完全に終わる。チャイコフスキーを「ロシアのショパンたち」に括るのは、いささか無理があるが、そこは勢いだ。

なんとはなしに、音楽再生ソフトは気になる。

1.foobar 2000 が定番になる

PCで音楽を再生し始めた最初の頃、音源はもっぱらウェブ・ラジオのものだった。それを拾うために重宝したのが Winamp のストリーミング機能だった。これの素晴らしいのが、曲ごとに別ファイルで曲情報も込みで溜め込んでくれることだった。

ラジオ・タンゴという局があって、ここから24時間ひたすらダウンロードして、4千曲も溜まった。そのほとんどは未だに聞けないままになっている。

Winamp で集めた曲だからWinamp で聞いていれば良いのだが、どうせ聞くのなら音楽再生ソフトでもっと良い音で聞きたくなる。そこで探してみると、foobar 2000 というソフトが良いらしいということになった。

たしかに foobar 2000 というのはとても良くできたソフトで、なんでもしてくれるし、音もそこそこに良い。正妻としてこれほどのソフトはない。

だから何回浮気しても、結局また戻ってくるのである。しかししばらくするとまた浮気の虫がうごめいてくる。困ったものだ。

おそらくこういう変遷は、ほとんどの音楽フアンが経験していることであろう。

2.You Tube が主要音源に

ウェブ・ラジオのストリーミング録音はさまざまな音楽へのアクセスという点で飛躍的な変化をもたらした。

ただ視聴の仕方としては受け身なものだ。どの曲をいつ流すかは放送局次第だ。それをそのまま受け止めて、それから自分なりにジャンル分けして、取捨選択するということになる。

ところがYou Tube がさまざまな曲にタイトルを付けてファイルにしてくれるようになってからは俄然景色が変わってきた。

最初は曲数も限られていたし、音質もかなり粗悪だった。それが2009年ころから変わってきた。最初は処女のごとく最後は脱兎のごとくで、いきなり音源が噴出し始めた。なかにはCD音質に近いものが現れた。

その多くはアップされて間もなく消えていった。だからとにかく必死になってダウンロードした。今ではそれが1テラにのぼるファイルとなってハードディスクに収まっている。人生3回くらいやらないと追いつかない量だ。

You Tubeのファイルはそのまま落とすとMP4という形式になる。そこから音声情報だけを取り出すとAACという形式のファイルになる。当時の音楽再生ソフトのほとんどは「MP3プレーヤー」だったから、AACの再生が可能なfoobar2000 はそれだけで絶対優位だった。

3.DACとの相性

多分2005年ころのことだろうと思うが、DACが流行り始めた。パソコン内でもDA変換はできるし音も出る。それをライン出力してオーディオに接続していた。

それを、デジタル出力にして外付けのDACで処理させる。それからオーディオに繋ぐということで音はずいぶんと良くなった。

といっても最初に買ったONKYOのSEなんとかというDACは外付けというだけが取り柄で、音響的にはなんの改善も感じられなかった。

当時はASIOの出初めで、このDACはASIOを受け付けなかった。仕方がないので疑似ASIOみたいなソフトで出力していたが、この疑似ASIO用に特化したリリスという再生ソフトはMP3形式しか対応していなかった。

そのうち、foobar に擬似ASIO用のアドオンができて、AACファイルも疑似ASIOからDACへというルートができるようになった。ただしfoobar はASIOが嫌いらしく、「一応出しては見ますけどね」という冷たい態度。

4.ASIOの“思想”とWASAPI

たしかにASIOを通すと音に艶が出てくる。とくにリリスで利くとその特徴は一段と鮮やかだ。ただ聞き続けていると、その独特の“ASIO色”が気になりだす。明らかに何かいじっているのだということが分かる。

そのうちに次々と“音の良い”再生ソフトが登場するようになった。フリーブ・オーディオとか、熱烈な信者のいる某ソフトなどである。その秘訣はオーバー・サンプリングという仕掛けにあるらしい。わがfoobar もさまざまなリサンプラーのアドオンが出始めた。

音になる前のデジタル信号にさまざまなアルゴリズムでお化粧を施すようだ。これをASIOで仕上げするというのが流行の行き方になった。結局すべての発端はASIOにあるようだ。

WASAPI が出てくると、世はASIO派とWASAPI派に分裂した。foobar の開発者はWASAPIを強力に推薦した。WASAPIは固く、芯がある。低音が濁らず厚くなる。しかし音色は端的に言えばモニター・サウンドである。

音楽フアンの多くは依然としてASIO派であったようだ。しかしへそ曲がりのクラシック好きにはfoobar の開設者のほうが正しいように思えた。

お互いにヴァージョンアップしていくし、foobar そのものも進化していくわけで、数年のうちに見違えるように音質は改善した。率直に言えばCDプレーヤーよりも良くなった。

5.高品質DACの進歩と再生ソフトの見直し

2.3年前から高級DACが登場し始めた。手持ちのONKYO SEなんとかは1万数千円、チャラいものでスリットから向こうが透けて見える。振れば音がするような感じだ。

そこに登場した高級DACは、何が入っているのやらズシリと重い。気のせいか、音もずしりと重い。重くなった分が何かというと結局ここでもお化粧を施すのだ。ただその中身はブラックボックスだ。

そしてそこを出たアナログの音はプリメイン・アンプで最終のお化粧をしてスピーカーに送られることになる。

これはやりすぎだ。かぶっている。何らかの役割分担が必要だ。音楽再生ソフトの役割を見直すべきだ。

6.お化粧の3つのステージ

お化粧など興味がないし、ましてやったこともないのだが、少し勉強してみた。

「メイク」というのはファンデーションと、狭義のメイクからなるようだが、私はその前に皮膚のクレンジングと欠陥補正など、スキンケアが重要だと思う。それは半分は皮膚科学の領域に入っている。

文字情報の形で蓄えられたファイルをカレントと言うかフローの形態に変換するのが再生ソフトだから、もっとも重要な部分を担っていることになる。

そこにはほとんど芸術的なセンスは必要ない。ひたすら正確であることが求められる。一回フローに換わってしまえば後はすべて一瞬の遅滞も許されない流れ作業になっていくわけで、ここだけ読み取り時間が許される。

7.PlayPcnWin

開発者である yamamoto2002 さんはまさにそういう発想で再生ソフトを開発したようである。

私の手持ちのDACと同じFostex を使用していて、「この時代に見合った再生ソフトはいかなるものか」という疑問が開発のきっかけらしい。

FSTEX のHPA8 のドライバーはデフォールトでASIO経由の信号を受け取ることになっている。機械屋さんが言うのだからそれが一番良いのだろうとおもって、その仕様でそのままやってきた。yamamoto2002 さんは、それは違うと言っている。

やっていることは、原理的にはかんたんだ。WASAPIでDACとつなぐということ、メモリにファイルをいったんコピーしてそこから読み取るようにしたこと、この2つである。

そして私に嬉しいのはものすごい操作がかんたんなことである。実に高齢者にマッチしている。最新の技術で「ガラ携」を作ってくれたようなものだ。

音には満足だ。foobar より良い。ただこれは以前にも実感済みだ。前の忌々しいDACに悪戦苦闘していた時、メモリー上に仮想RAMを作ってそこにファイルを入れたらすごい音がしたのである。HDから情報を拾うのとメモリから直接吸うのでは時間差があって、それが音質の向上につながるのだと実感した。

と言いつつ、手続きがあまりにも煩雑で、頻繁にハングアップを繰り返すので、やめてしまった経験がある。このソフトの高音質にもそれが効いているのではないかと思う。

もう一つは非可逆圧縮のファイル再生をやめたことだ。私は以前から思っているのだが、ビット数を可変にして圧縮する技術は容量を小さくするのには役立つが、読み取りには決して良い影響を与えないのではないだろうか。

その読み取り処理にはおそらくいくばくかの時間が取られる。それらを一切省略することでジッター補正時間はかなり稼げるのではないだろうか。

どうせ時代はWAV=FLACになっている。記憶装置が二桁から三桁くらい大容量化・小型化しているから、もうこれ一本で良いのかもしれない。

馬鹿馬鹿しいが、MP3やAACファイルもFLACに逆変換して保存したほうが良いかもしれない。(多少オーダシティで化粧して)


それにしても、ついにfoobar の時代が終わるのだろうか?

杉江栄一さんがなくなった。本日の赤旗で報道された。1960年の入党とある。32歳で比較的遅い。
50年問題での葛藤は味わっていない人かもしれない。同志社大学を出て、長年中京大学で教鞭をとられた。どちらかと言えばローカルな活動である。反核活動で活発に動かれていたので、我々にも馴染みはある。
中京大学のレポジトリーでいくつかの論文が閲読できる。ただ紹介しようと思うと、鍵がかかっていてコピペができない。縦書きの論文なのでパソコンで読むには上下がはみ出して読みづらい。
アドベにはテキスト・ファイルに書き出ししてくれるオプションがあるのだが、1ヶ月数千円の会費をとると言う。アコギで実に不愉快だ。
ただアドベと言えども、秘密のキーがあってテキストがこっそり隠されているというのではなく、結局はOCRのエンジンで読み取るらしい。鍵のかかっていないファイルなら読み出してくれるが、結構間違いはある。
とすれば、OCRのソフトで読み取るほうが安いだろうと考えた。
それでフリーのOCRソフトを探したが、まぁ以前から分かっていることだが、ろくなものはない。結局、パナソニックの「読取革命」という有料ソフトを買う以外の選択はない、という結論に至った。
今アマゾンでセールをやっていて、定価の半額(7千円ちょっと)で買えるらしいので注文しようと思う。
まずはそれからだ。それがうまく行けば、グーグル・ブックスもいったんPDFに落としてファイル変換できるかもしれない。もちろん著作権侵害の疑いがあるなので、想像してみただけだが。
杉江さんの論文は、反核関係は既におなじみのものが多いが、若書きの「フランス人民戦線とその外交」が面白そうなので読み始めた所。
てなことで、一日終わってしまった。非生産的な一日だった。

あの新潟県知事戦からわずか1週間、野党共闘は燃えに燃えて補選も勝ち抜くかと思われたが、そうは問屋が卸さなかった。
しかしよく考えれば東京は連合の最大・最後の拠点だ。民進党都連は悪の巣窟だ。
彼らは負けることに全力を傾けた。負けることによってこそ、彼らの身の安泰が図れるからだ。もし勝ちでもすれば共闘派が一気に力をつけ、民進党を乗っ取ってしまうからもしれないからだ。
過去数回の都知事選挙で東京の民進党の立場はきわめて明らかだ。野党共闘の立場に立ったことなど一度もない。それどころか自民党との連合で民主勢力に対抗する道しか選んだことはない。
これは自民党も同じで、東京都の持つ豊かな財政基盤にしゃぶりつくことしか考えていない。つまりは「都庁たかり」党として、都庁マシーンの歯車のひとつなのだ。
民進党は「連合党」=経団連マシーンでもある。連合がどんな役割を果たしているかは、新潟県知事選で白日のもとに晒されたが、実はその前の参議院選挙でも徹底して野党連合潰しに回っていたのである。それは関西より西では成功した。
民進党の基盤が弱い地域では、なかば公然と野党共闘は否定された。たとえ民進党が一定の基盤を持っているところでも、都道府県の利権がらみのしがらみに絡め取られているところでは同様の現象が起きた。
以前革新勢力が強いと言われていた大都市圏で、意外に野党共闘が伸びないのはこれによるものであろう。
総じて言えば、民進党が野党共闘の側に一方踏み出せないでいるのは、経団連=連合の縛りと各自治体での利権の縛りがあるからだろうといえる。
ここにヒビを入れ、裂け目を広げ民進党の本体をこちらに持ってくるのは容易な仕事ではない。しかし参議院選挙や新潟県知事選挙でも示されたように、決して不可能な仕事ではないのである。
目下野田幹事長を先頭に仕立て、猛烈な反共闘勢力の巻き返しが始まっている。しばらくは強烈な綱引きが続くのであろう。
ただ、権力がいつまでも民進党を自らの下に引き止めておく訳にはいかない。彼らは一度は二大政党制を構築しようとして断念したのである。それが不可能であること、可能であるにしてもきわめて危険なことを悟ったからである。
彼らは民進党を捨てた。民進党は捨てられたことを知っている。真面目な中核党員は、経団連の後ろについて言っても、その先に未来はないことを悟ったはずだ。
我々はもう少し耐えなければならない。野党共闘の側に民進党を持ってこようとする人々を支援しなければならない。同時にその思いを市民集団と共有しなければならない。



鬱陶しい作業だが、誰もやってくれないからやるしかない。

さもないと、動物園の動物みたいに、「ゾウはどこに住んでいます、キリンはどこに住んでいます」という事実の列記に過ぎなくなってしまう。

ミトコンドリアDNAのハプロタイプは大きく言ってL系、M系、N系、R系がある。

L系はアフリカにしかいない。Yで言えばA、Bに相当する。

L系からM系とN系が分岐するが、アジアへの渡来はM系が先行するようである。そもそもM系はアジアにしか存在しない。

ということで、まずは大胆な仮定から。M系はY染色体のB、Cに照応する。N系はO系その他に相当すると考える。

もちろん本当はY染色体のC系とD系に照応する、M系の亜型までわかればなお良いのだが、ミトコンドリアDNAの研究はそこまでは行っていないようだ。

もう一つの仮定としては、先住者のいる地域に後発者が入って主流となる場合、男性は後発者が多くでも、女性は先発者の割合が高いだろうということ。逆に先発者のいない無住の地に入ったグループはY染色体とミトコンドリアDNAの一致率が高くなるだろうということだ。

これはスペインが征服した新大陸で確認済みの事実だ。

それで調べてみると、

本土日本人では

M系統が約60% N系統が約15% R系統が約25%となった。

これがアイヌ人では

M系統が70% N系統が25% R系統が5%となった。

沖縄では

M系統が70% N系統が15% R系統が15%となっている。

これで分かるのはM系統がY染色体のD2に照応するのだろうということである。そして後発者を受け入れた側の人々だろうということである。

驚くべきことに山東・遼寧地方、韓国でもM系統(とくにD亜型)が6割を占めていて他者を圧倒していることである。

こうなるとM系統=D2とは言えない。C、D全体をふくめている可能性もある。

分からないのは

①アイヌ人のY亜型がなんだろうということ、北海道にはオホーツク系のC3人しか入っていないから、Y亜型はC3人の女性なのか。だとすれば、なぜY亜型はN系統にふくまれなくてはならないのか。

②本土ではN系統があまりに少ない。O人はN系統に属さないのか。

③C1人が最初の定住者とすれば、C1の女性はかなり高い比率でいるはずだ。それはどこにふくまれるのか。ひょっとするとD4の主体を形成しているのかも。

④さまざまな亜型についてはそのとおりだろうが、M系統とN系統に分ける系統樹は果たして正しいのだろうか。

ということで、とにかくミトコンドリアDNAは解釈が難しく、恣意的になるおそれがある。素人はあまり近づかないほうが身のためだ。

日本への渡来の順番。

メモ代わりに書き留めておく。

1.C1人

おそらく、この人達が最初に日本に入った人たちだろう。北方ルートで中央アジアから入ってきたC系人のうち、先発隊に属する人たちだ。

この人達は朝鮮半島経由で九州に入り、北は青森から南は沖縄まであまねく分布した。津軽海峡は渡っていない。

当然、C1人は満州から朝鮮半島にも分布していたと考えられるが、現在では痕跡を残しておらず、後発のC3人に淘汰されたものと考えられる。

*C1人先着説は、今のところ学説的根拠がない思いつきである。証明のためにはミトコンドリアDNAとの突き合わせが必要である。

2.D2人

そのあと、樺太からD2人が南下してきた。彼らもあまねく日本に分布した。

D2人はC1人を排除せず共存した。その際、C1人の持つ朝鮮半島とのコネクションは活用されたと思われる。

したがってD2人が朝鮮半島という第二のルートを経由して西日本に入ったという仮説は必要ないのである。

人口比率で言えばD2人がC1人を圧倒しているが、女性では先住したC1人の比率が高くなるであろう。ただ、現在のところY染色体のD系とC系の違いに照応するミトコンドリアDNAのサプタイプは同定されていないため、確認はできない。

3.C3人

本州以南で、D2人とC1人の共存体制ができた後、C3人が入ってくる。

C3人は中国北部から蒙古にかけて広く分布しており、武力的に優位であったとも考えられる。

北からはD2人の居住域に侵入する形で、九州からはC1人を駆逐する形で入ってくる。

あまり共存を好まない勢力であったようで(後発人種はどうしてもそうならざるをえないのだが)、C1人は本来一番多いはずの九州から消えている。

したがってC3人女性のミトコンドリアDNAは少数に留まっているはずであるが、これもハプロタイプとしては確認できない。

4.O2b人

最終氷河期が終え、O系人が東方に進出してくる(どちらから?)。彼らは中国北部のC3人を回避しつつ長江流域に拠点を形成する。O1人O2人である。

これに対し後発のO3人(漢民族)は中国北部に進出し、黄河流域を占拠する、彼らはC3人を北に押しやり、長江流域にも進出する。

当時朝鮮半島はC3人の居住するところであったが、南岸地帯にはD1人と共存するC1人が残存していた可能性がある。

O3人の圧力のもと、朝鮮半島に渡ったO2人のうち、O2b人がC1人の庇護のもとに九州へと渡った可能性がある。

これが弥生人であり、D2人との共存関係のもとで、人口を増やしていった。

5.O3人

そして最後に登場するのが漢民族系のO3人である。同じO3でも満州の方から下ってきた連中かもしれない。

定義にもよるのだが、弥生人が水稲栽培を行い弥生式土器を使用した人々だとすれば、O3人は弥生人ではない。

私は「天孫族」と呼んでいる。すでに人が住んでいるところに進出するのだから、進出形態は先住者の抵抗を暴力的に排除する他ない。

したがって、その密度には同心円状の勾配差がある。九州ではD2人、O2b人と比肩するほどの密度があるが、青森ではその6割程度にとどまる。

おそらく漢民族のミトコンドリアDNAの分布とは相当の乖離があるはずだ。

なおHammerらのデータにはN系人の出現も見られるが、技術的な問題もあると見られ、この際は無視する。

16.12.27 コメントを頂いた。とりあえずC1人に関する見解については、を参照されたい 

崎谷満さんの

『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年) 

を通読した。

といっても、前半のハプロタイプについての概説部分のみで、後半は関心が文化、言語、歴史など多岐にわたっており、省略させていただいた。

とても要約できるヴォリュームではないが、感想的にいくつかつまみ食いしておく。

1.Y染色体ハプロタイプは以下のように大別できる

<AB人> アフリカ残留人

<DE人> 最先発人 ただしEのほとんどはアフリカに戻る。北方ルートのみ。C人に押しのけられ、日本とチベットにのみ健在。

<C人>  第二陣。南方、北方ルートの両者を通じて世界のほとんどに拡散。

<FT人> F人からT人まで、第三陣以降のすべて。

直接指摘はされていないが、2.2万年前~1.8万年前の4千年間、最終氷河期最盛期となり、この間は人類の拡散が足踏み状態にあったとされている。
このことから、FT人の拡散はその後のことか?と想像される。

2.ミトコンドリアDNAの大別

<L人> アフリカ残留組

<M人> 比較的古い時期に拡散した群。ハプロタイプでいうとMCDEGQZが相当する。 

<N人> 比較的最近に拡散した群。上記以外のすべてが相当する。ミトコンドリアの系統はどうもいまいちよく分からない。

3.北方系C人と南方系C人

南方系C人はインドから東南アジア、インドネシア、オーストラリア、オセアニアへと拡散した。

東南アジアから北方への進出はなく、インドシナ南部とフィリピンまでにとどまっている。

北方系C人はD人の後を追い東アジアに進出した。D人を駆逐し、中国まで進出。さらに台湾や南方へも拡散している。

4.北方系O人と南方系O人

O人も南方ルートおよび北方ルートで拡散している。東アジアに来たのは北方ルートである。

ここは以前勉強した説とは異なる。以前は南方ルートのO人が北方に向けて拡散したと書いた(英米で流布)が、崎谷さんはこの説に明確に反対だ。

この辺は両者がそれなりに根拠を持って書いているので、素人には判断がつかない。

ただ南方由来説は、O3人(漢民族)のUターンを前提とする不自然さが拭えない。O1、O2人が南方由来でO3人が北方由来とする折衷案も成立しうるが。

5.O1、O2人とO3人

O3人は現代の漢民族で、他種族を圧倒している。しかし長江文明の担い手はO1、O2人だった。

3つの遺跡から発掘された人骨のY染色体を分析した研究が紹介されている。

龍山文化(黄河文明)

BC2000頃

O3、O3a

長江中流

BC1000頃

O2a、O3

長江下流

BC3000頃

O1a、O2b

年代を見ても、漢民族がO1、O2人を駆逐した様がありありとする。

6.D人は樺太由来と朝鮮半島由来の二流がある

このあたりから、崎田さんの論理が少々荒っぽくなる。

周知の通りアイヌ人と琉球人はD人の要素が非常に強い。そこでもともと日本列島にはあまねくD人が住んでいて、後からO人が入ったために分断されたという考えがある。

これは間違いで、もともとD人は2つのルートで日本に入り、中抜け状態だったというのが崎田さんの主張になる。

その根拠として4点を挙げている。

*ミトコンドリアDNAのハプロタイプが異なっている。琉球のそれは朝鮮半島~九州の流れの上にある。

*細石刃文化はあるが、それを担うべきY染色体のハプロC3は存在しない。

*言語が違う

*T細胞白血病ウィルスの亜型も異なっている

率直に言ってY染色体そのもので勝負していないのが不満である。ミトコンドリアDNAの話は、Y染色体とのペアリングの問題があまりにも複雑であり、混乱を招く。

細石刃文化や言語の話は「学際研究」のいいとこ取りになりかねない。むかしのタミール語論争を想起させる。

結局、崎田さんがこの道に入り込むきっかけとなったT細胞白血病ウィルスの種差がかなり強い印象を与えているのではないかと勘ぐってしまう。

7.二経路論に対する感想

学説としては二経路論は十分に魅力的であるが、それが中抜け論になってくると、次の事実と齟齬を来す可能性はないだろうか。

すなわち、被征服(被同化)民族であるD人が、それにもかかわらず日本人人口の4割以上を占めているという厳然たる事実である。

「学際」的な考えを持ち込まずにDNAレベルだけで考えるとすれば、北方から入ったD人がじわじわと西に向かって進出して、日本列島を覆い尽くした。

西日本や琉球、さらに朝鮮半島には先住者(C1人?)がいて、これを圧倒し通婚した。それがY染色体とミトコンドリアDNAの組み合わせに変則性を与えた、と見るのが素直なのではないだろうか。

過労自殺に至る心的機転は雨宮さんの説明でよく分かる。

ただ、天下の大企業である電通の事件であり、東大卒の超エリート社員の話である。ある意味、私らごときが悩んでどうなるようなレベルではない。

ある程度の忙しさ・ストレスは承知の上で、彼女は就職したはずだ。それに、なんとなれば電通をやめたとて食うに困るような境遇ではないはずだ。

そこには、やりがいのなさ、給料の安さ、失業の恐怖に悩みながら働く居酒屋チェーン青年のストレスとは異質のストレスがあるはずだ。

しかもこの会社、以前にも同じような事件を起こしており、基本的に反省していないことが窺われる。

やはり業種・職種の特殊性とか、企業風土みたいなものを念頭に置かないと理解はできないのではないだろうか。

あるツイッターでどこかの大学教授(元ビジネスマン)が「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」と書き込んで大問題になったそうだ。さらに「自死はプロ意識の欠如だ」と追い打ちをかけている。(BLOGOSより重複引用)

時と所をわきまえない無神経な発言には腹が立つが、一番問題なのは「月100時間で自殺するとは変だ」と思わないことだ。その思考停止ぶりが非常に気になる。

「愛する部下」だったかもししれない人の自死に、これほど無頓着な人物には、管理職は務まるまい。だから大学教授になったのかもしれない。

まず月100時間という数字の怪しさだ。

月25日勤務として、超勤100時間は1日4時間になる。たしかに異常に多いとはいえないかもしれない。私も若手の頃には10時前に帰ったことはなかった。

おそらく実際はそれをはるかに超えていたろうと思われる。

本人のTwitterでは「誰もが朝の4時退勤とか徹夜とかしている中で新入社員が眠いとか疲れたとか言えない」と書かれている。

この言葉が実情であれば、うちわに見ても150時間は越える。

もし自殺するかしないかの分かれ目が某教授の言うように労働時間により規定されるのなら、たしかにこの女性の労働時間はその一線を越えていた可能性がある。某教授はまずそのことに気づくべきだった。

もう一つ。

この教授が「自殺するのはプロ意識の欠如」と断じている点である。前段が「思い違い」として許せるにしても、これはプロ意識の重大な履き違えがあり、教授としての資質が問われると思う。

むかし、稲尾という名投手がいた。日本シリーズでは7試合中6試合を投げ優勝に貢献した。「この時神様、仏様、稲尾様」と名付けられた。弱冠19歳のことだ。

その後も鉄腕稲尾の名をほしいままにしたが、結局10年で肩を壊し選手生命を絶たれた。

某教授はこういうのを「プロ意識」というのだろう。それはそのまま「特攻隊精神」だ。

これが「マイウエイ」だと、彼がこだわるのなら構わない。しかしそれを人に押し付けてその結果人が死んだとしたら、その死はあんたの責任である。


エリート社員と過労自殺とをつなぐものは「プロ意識」である。なぜなら「プロ意識」は「撃ちてしやまん」精神に置き換えられてしまっているからである。

しかし電通のような業界にあって、エリートとはどのようなものなのだろう。私たち世代にとってCMというのは三木トリローだったり柳原良平であったり、野坂昭如であったりする。どちらかと言えばアイデア勝負のヤクザな連中である。片足でそういう連中をうまいこと使いながら、もう片方の足で業界にはめ込んでいくのがエリートなのであろう。

であればその人には、片足ヤクザ的なキャラクターが求められるだろう。どっちにしても「特攻隊」にはそぐわない。そんな仕事からは良い作品は生まれない。良い作品を生み出せない人は「プロ」ではないのだ。




雨宮処凛さんが19日の日付で、ブログに書いている。

電通過労死認定から、この国の非常識な「普通」を考える という題だ。

たいへん良い文章で、いちいち納得してしまう。

ハラスメントは、過労死・過労自殺に必ずと言っていいほどつきまとう。

と切り出して、次のようなインタビューを紹介している。

本当は、はっきり言えば上司なんですよ。かならず過労死って3人くらい、上司がかかわっているんですよ。ダメな上司が3人いると死んじゃう。

もう一つは周囲が関わらないことだ。

私に投げかけられたのは、「正社員だったら今時それくらい普通だよ」という妙に冷たい言葉だった。

これで彼あるいは彼女は周囲から切り離され、自分を責めるしかなくなる。

雨宮さんは、ここでもう一つ追い打ちをかける。

ギリギリのところで踏ん張っているからこそ、「辛い」という人が許せない。弱音を吐く人が癪に障る。「ついていけない」とか「無理」なんて、一番の禁句だと信じ込まされているから。

そして生き留まった人は、その代償として心が「壊れて」行き、生贄を求めていくようになる。

こういう集団的な力動過程のもとで、「過労死」が生み出されていく。

おそらく雨宮さんの事例は、自殺した電通社員のことが念頭にあっての、パワハラ自殺にやや偏った過労死分析ではあろうが、実際にはその比率が圧倒的に高いことも事実である

雨宮さんによれば、15年度に過労死で労災認定された人は96人。未遂も含む過労自殺は93人となっている。

日本の過労死統計のほとんどは過労自殺が占めているのである。逆に言えば自殺以外の過労死はいまだ闇から闇へと流されていることになる。

とすれば、過労自殺を過労死に含めることが逆の意味で正しいかどうかも疑問になってくる。

過労自殺の本質は過労そのものより過労を強いているものにありそうで、そこへの対処が問題になりそうだ。

電通過労死問題は大変ずっしり来る課題である。

しかし、どう切っていったらいいのか、切り口の見えにくい問題だ。

根底にあるのは不況と就職難だろう。さらに労働規制の緩和も拍車をかけている。

景気のいいときにも過労死問題はあった。しかし、それは「やめりゃいいじゃん」の世界でもあった。いまの過労死は働きすぎるほど働いても、その先が見えない過労死だ。しかも簡単にドロップ・アウトする訳にはいかない状況のもとでの過労だ。

ただ、以前の過労死がクモ膜下出血だとか、心筋梗塞だとかいう病気だったのに、最近はほとんどがウツ→自殺という形態を取っていることに注意が必要だ。

ウツというのは何もなくてもなる病気で、だからうつ病なのだが、過労が引き金になってのウツというのは、正確にはウツではなく神経症ないし心因反応ではないか。

そしてその原因は過労という宙に浮いたような抽象的なものではなく、過労を強いていた周囲の圧力にあるのではないかと思う。

その辺の精神力動的状況をチェックすることが、医学的には必要かと思う。いささか過激な言葉を使うならば、彼もしくは彼女は「殺された」のであり、「殺した犯人」を見つけ出さなければならないのではないか。

時として過労やストレスは人を襲う。それは避けようがない。しかしそれが死に至る結末へとつながらないようにするには、「二次予防」が必要であろう。

中国共産党の歴史は決して毛沢東の歴史ではありません。
むしろ毛沢東は傍流であり、一地方活動家に過ぎませんでした。
共産党の活動が弾圧の中で追い詰められ、瑞金の「解放区」に逃げ込まざるを得なくなったことで、党内の力関係が変わっていったのです。
といっても長征が成功しなければ、上海の党中央も毛沢東の農村ゲリラも共倒れに終わっていたに違いありません。
そういう意味では中国共産党が蒋介石軍の攻撃を受けながらも生きながらえることができた点で、毛沢東の功績(とくに軍事的な功績)は大きいものがあると言っていいでしょう。
これらの経過については「毛沢東のライヴァルたち」という題名で年表を作成しています。このブログで数回に分けて掲載していますが、最終的には一本化してホームページの方に収録しているのでご参照ください。
この年表は増補に増補を重ねてずいぶん膨大なものになっています。「毛沢東のライヴァルたち」と言いながら、実際には辛亥革命から国共合作までが盛り込まれています。ここまで分厚くなると、余分なものを独立させて、別年表を起こしたくなります。
毛沢東のライヴァルたちの活躍は上海を舞台としています。そして31年で事実上は終わっています。彼らの多くは瑞金に逃れ「中央ソヴィエト」に参加しています。しかしそのイニシアチブは程なく失われ、その後は毛沢東の子分となっていきます。
だから瑞金以後は別年表にしなければなりません。そのためには、どう党内の力関係が変わっていったのかを跡付けなければならないし、それは「瑞金・長征年表」みたいな形で総括しなければなりません。
今その作業の真っ最中なので、とりあえずはごたまぜで「毛沢東のライヴァルたち」年表に突っ込んでおきますので、興味ある方はご覧ください。

『武道論集』という文章があった。

2008年に国際武道大学附属武道・スポーツ科学研究所が発行したもので、ありがたいことにPDFファイルで読める。

目次を見ると、実に総括的な力作で、ただで読むのがもったいないくらいだ。

とりあえず、第二章の章末の剣道歴史年表から始めようか。すべてを転載するのも煩わしいので、項目を絞ることにする。そのかわりウィキなどから解説を拾い、読み物になるようにした。

《剣道歴史年表》

10 世紀後半 反りと鎬(しのぎ)をもつ日本刀が出現。刀の柄が長くなり、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わる。

本来、諸刃のものが剣で片刃が刀であるが、日本では諸刃の使用は定着しなかったため、混同が見られる。平安時代後期から武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達する。通常これ以降の物を日本刀とする。(ウィキ)

刀

         日本刀の種類や構造・描き方 より転載

平治 1 (1159) 源義経、鞍馬山で鬼一法眼に剣を学んだといわれる。

鬼一法眼は京・鞍馬の陰陽師で、京八流(鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法)の祖とされる。剣術の担い手は武士ではなく僧であったといわれる。

鬼一法眼

弘和4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。(この記載については

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。(この記載については

15世紀後半 剣術・槍術・柔術などの流派が誕生し始める。

文正 1 (1466) 伊勢の剣客、愛洲移香斎久忠(あいすいこうさい)、各地を流浪の末、日向で陰流を開く。(ウィキによれば移香斎は法名で本名は太郎)

変わった名前だが、これは伊勢の豪族(水軍)愛洲氏の流れをくむ。愛洲氏は遣明貿易にも携わっていた。移香斎も明を始め各地を旅していたという。

1467年 応仁の乱。戦国時代の始まり。弱肉強食と下克上が支配的思想となる。

それまで剣術は武術のひとつに過ぎなかった。
武芸十八般: 弓術・馬術・剣術・短刀術・居合術・槍術・薙刀術・棒術・杖術・柔術・捕縄術・三つ道具・手裏剣術・十手術・鎖鎌術・忍術・水泳術・砲術

大永 2 (1522) 香取神道流の流れをくむ塚原ト伝、新当流を開く。

享禄 2 (1529) 上州の上泉伊勢守秀綱、陰流や神道流、念流などに学び「新陰流」を編みだす。愛洲移香より陰流奥義を授かったとの説あり。

天文3年(1543) 鉄砲の伝来。急速に戦闘の主役となる。

鉄砲による先制攻撃と、軽装備の武者による白兵戦が普及。合戦の場における剣術の意味が重視されるようになる。

永禄 8 (1565) 柳生但馬守宗厳(むねよし)、諸国巡遊中の上泉伊勢守を招聘。一国一人印可を授かり、柳生新陰流を創始。宗厳は大和の国柳生の豪族。後に入道して石舟斎を名乗る。
永禄11(1568年) 上泉秀綱、天覧試合で演武を披露。

天正 4 (1576) 念流の流れをくむ伊藤一刀斎景久、小野派一刀流を創始。

慶長元(1596)柳生石舟斎と宗矩、徳川家康の前で「無刀取り」を披露し召し抱えられる。のちに徳川幕府は小野派一刀流と柳生新陰流を公式流派とする。

寛永 9 (1632) 柳生但馬守宗矩、「兵法家伝書」を著す。

正保 2 (1645) 二刀流の宮本武蔵、「五輪書」を著す。

天和 2 (1682) 伊庭是水軒、心形刀流を開く。

正徳年間(1710 年代) 直心影流の長沼四郎左衛門国郷、防具を工夫改良、面・小手を用いた稽古を始め、これが大いに流行。

宝暦年間(1750 年代)

一刀流の中西忠蔵、防具をさらに改良し、ほぼ現代剣道の防具の原型が完成。竹刀防具を用いた試合剣術を始める。これが「撃剣」と呼ばれるものである。

寛政 4 (1792) 幕府は武芸奨励の令を発布。

文政 5 (1822) 北辰一刀流、千葉周作が神田お玉ヶ池に「玄武館」を開設。他に神道無念流(斎藤弥九郎)の「練兵館」、鏡新明智流(桃井春蔵)の「士学館」が、江戸の三大道場と呼ばれる。

他にも鏡新明智流、神道無念流、心形刀流、天然理心流など、各地で新興の試合稽古重視の流派が隆盛。幕末期の剣術流派の総数は、200以上あった

1848年 黒船来航後、尊王攘夷論や倒幕運動が盛んになる。各地で斬り合いや暗殺が発生し、剣術が最大の隆盛を迎える。

安政 3 (1856) 築地に幕臣とその子弟を対象とする講武所が創設。剣術師範として男谷精一郎(直心影流)が就任。

明治 4 (1871) 廃藩置県、散髪脱刀勝手の令発布。

明治 6 (1873) 江戸幕府の講武所剣術教授方だった榊原鍵吉、剣術を興行として、その木戸銭で収入を得させることを考案。

撃剣興行は浅草左衛門河岸(現浅草橋)で行われ、大成功した。その数は東京府内で37か所に上り、名古屋、久留米、大阪など全国各地に広まった。

明治 7 (1874) 警視庁設置。佐賀の乱。

明治 9 (1876) 廃刀令の公布。剣術は不要なものであるとされ衰退した。

明治 9 (1876) 神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)など不平士族の反乱が相次ぐ。

明治10(1877) 西南の役。警視庁抜刀隊の活躍でこれを鎮圧。剣術が再認識される。

明治12(1879) 警視庁大警視川路利良、「撃剣再興論」を発表。巡査の撃剣稽古が奨励されるようになる。榊原鍵吉ら撃剣興行の剣客たちは警察に登用される。これに伴い撃剣興行は衰退。

明治13(1880) 京都府知事槇村正直、「撃剣無用」の諭達。剣術を稽古する者は国事犯とみなして監禁した。

明治16(1883) 文部省、体操伝習所に対して、「撃剣・柔術の教育上における利害適否」の調査を諮問。

明治17(1884) 体操伝習所は、撃剣・柔術の学校採用は時期尚早との答申を出す。

明治28(1895) 日清戦争による尚武の気風の高まりを受け、大日本武徳会が創立され、武術の復興と普及が図られる。

明治29(1896) 文部省、学校衛生顧問会に「剣術及び柔術の衛生上における利害適否」の調査を諮問。同会議は、15 歳以上の強壮者に対する課外運動としてのみ可と認める。小沢一郎・柴田克己など、第10 帝国議会に「撃剣を各学校の正課に加ふるの件」請願。その後、度々国会への請願は繰り返される。

明治35(1902) 大日本武徳会、「武術家優遇例」を定め、範士・教士の制を設ける。

明治38(1905) 大日本武徳会、武術教員養成所を開設。その後、武徳学校・武術専門学校・武道専門学校と改称。

明治39(1906) 大日本武徳会剣術形を制定。

明治44(1911)「中学校令施行規則」一部改正により、撃剣及び柔術が正課として体操科の中に加えられる。

大正 1 (1912) 大日本帝国剣道形が制定される。

大正 2 (1913) 京都帝国大学主催、第1 回全国高等専門学校剣道大会が開催される。このころより、大学主催の剣道大会が盛んに行なわれる。

大正 7 (1918) 武術家優遇例を武道家表彰例と改称。

大正13(1924) 第1 回明治神宮競技大会において、剣道大会も開催。

大正14(1925) 第50 議会において、武道が中学校の必修独立科目として可決される。この後撃剣は「剣道」と呼ばれることになる。

かなり不十分で、視点が絞りきれていない年表ですが、とりあえず載せます。いずれその気になったら増補したいと思います。

朝日新聞に面白いくだりがあった。

経産省にとっては、柏崎刈羽の再稼働こそ東電再建の「前提」と考えていただけに衝撃は大きい。

経済産業省の幹部は16日夜、「新潟県民にここまで原発再稼働アレルギーがあるとは」と嘆いた。

我々も嘆こうではないか

経産省や経団連にここまで原発再稼働アレルギーがないとは!

あたかも、そんなことなどなかったかのように


そもそもアレルギーというのは免疫反応です。2つの特徴があって、一つは即時型反応だということです。全身の粘膜や皮膚が総毛立って、粘膜が浮腫を起こします。

もう一つは病的な過剰反応だということです。もともと人間には防衛反応と学習反応があります。痛い思いをすると次からはそれがトラウマになって過敏に反応するのです。

大変困った反応なのですが、考えようによっては無いよりましなのです。バクチに負けて、あるいはサラ金に手を出してひどい目にあったら二度と手を出さないでしょう。顔を見ただけでもゾッとするはずです。

ところがまったく免疫ができない人もいるのです。アネルギーといいます。こちらのほうがはるかに怖い。

そういう人は懲りることなく同じ過ちを繰り返して、ついには破綻に追い込まれるのです。そういう欠陥人間が自分の連れ合いだったらどうします?


それにしても、今だから言うけど、この米山という人、顔で判断しちゃいけないけど、「我が方」にはいない顔だね。別世界の人ということでは大谷と同じだけど、大谷は良い星から来た異星人だけど、この人はどうなんだろう。とにかく「いい人」で有り続けることを願うのみだな。

反原発知事の当選の意味

これは大谷の165キロ以上の意味がある。なぜなら、勝ったのはファイターズではなく我々だからだ。

米山候補は「反原発」をうたったわけではない。しかしその勝利は柏崎原発を事実上不可能にするほどの力を持っている。

この選挙を「原発再稼働」の是非を問う県民投票にしてしまったのは、自民党だ。

途中から「ヤバイ」と見て、原発隠しに懸命となったが、そもそも再稼働に向けたロードマップの最終仕上げに位置づけた選挙だから、方向転換が効く性格のものではなかった。

そもそも自民党県連に闘う気がない。泉田知事を担いでいたのはほかならぬ自民党県連である。

その県連の幹事長を力づくで引きずり下ろして、「さあ闘え」と言っても無理がある。しかもそのやり口が「謀略」に近い世論操作であるから、とても戦う気にはなれない。

敗北の責任を問われるのは菅官房長官であろう。「電力業界などオール日本で対抗する」という「オール日本体制」は自民党、財界、それに首相官邸なのだろう。

今後菅官房長官の責任を問う形で、首相官邸の横暴に対する批判が吹き出さないとも限らない。

菅官房長官は記者会見で「地方の首長の選挙であって、政府としてコメントは差し控えたい」と語った。そうなんだ。そもそも政府は介入してはいけないんだ。

「今後の国政選挙への影響について「そこは全く考えていない。ないと思っている」と述べたが、ないわけがない。第一、行政担当の官房長官が答えるべき質問ではない。


各界からの反応が報道されている。かなりニュアンスの違いが浮き彫りになっている。

泉田追放→新知事→柏崎再稼働の策動の震源地である経団連の榊原会長は、頭に血が昇ったか、この選挙が原発選挙だったことを公然と明らかにしたうえで、不届き千万な干渉発言を言っている。

新潟県民が選択されたことだが、…原子力発電所はエネルギー政策や地域振興などいろいろな意味で意義がある。東京電力は、しっかり安全対策を行い、そのうえで県民に理解を求めることになると思う。
新しい知事は再稼働に慎重な姿勢だが、冷静な判断をしていただき、原発の安全性が確信できれば稼働の方向で進めてほしい。

ということで、論理もへったくれもないハチャメチャ戦闘継続宣言だ。「必要だ、安全だ」の掛け声ばかりが虚しく響く。後は「アメが欲しいか、ほらやるぞ」でしょ。

ただ、政府・自民党としても原子力ムラの再稼働原理主義者には今後距離を置かざるを得なくなるだろうし、経団連内の力関係にも影響がおよぶ可能性はある。

前の米倉同様、榊原も外様で成り上がりだ。日米同盟路線をゴリゴリと推し進めることで会長の座を確保しているに過ぎない。強面経団連が内外の批判を浴びるようになったとき、彼らの命脈も尽きるだろう。

今度の勝利の一番の意味は、菅官房長官が呼号した「オールニッポン」体制への国民の強烈なカウンターパンチだ。この効果は、これからしばらくのうちにさまざまなひび割れとして出てくるだろう。注目だ。


なお、民進党と連合のひび割れは今に始まったことではないし、それほどの重要性もないが、気持ちのよいものだ。

野田佳彦幹事長は周囲に「(蓮舫氏が)行くと言っても止める」と語っていた(毎日新聞

らしいが、連合から派遣されたお目付け役らしい、いかにもの風景である。

いくつか写真を転載しておこう。

最初が野幌駅。昭和43年の撮影とある。

この写真は情報量が多く大変楽しめる。(写真の上でダブルクリックしてください)

野幌駅

写真の奥の方向が札幌である。夕鉄独自の駅舎はなく国鉄に乗り換えるだけのホームのようだ。

解説を読むと、ターミナル機能を果たしていたのは一駅隣りの「北海鋼機前」で、ここでバスに乗り換えてしまう人も多かったらしい。


*線路際の道は駅裏通りということになるのであろうが、結構人通りがある。

*ホルモン焼き「京城園」は、北海道では少数派だった民団系の店だろう。我々が行くのは「平壌園」とか「千里馬」という名前だった。しかし店主の出身は大抵が南だった。梅割りで悪酔いして「汽車は行くー、汽車は行くー、南を目指してー」と統一列車の歌を歌ったものだ。

*その隣はマーケットだ。新築らしく、フードサプライと気取っている。シャッターが降りているのは日曜日だからか。あの頃は平気で日曜休業だった。お陰で正月3が日サトウの切り餅とインスタントラーメンで過ごしたこともある。スーパーや生協が進出するのはもう少し後だ。もちろんコンビニはない。

*向こうからくる女性は当時の標準的モード。ミニの流行り始めで、真冬でも膝上スカートだ。パンストやパンタロンが流行るのはその次の年くらい。スラックスやジーパンはほとんどいなかった。

*一応道路は除雪されているようで、二人がすれ違うのに苦労はなさそうだ。その奥にたくさんの荷を積んだ日通のトラックが走っているから、その分の道幅はある。しかし真知子巻きのおばさんが道端に立って車をやり過ごしているところを見ると、それ以上の幅はなさそうである。

*酒井建築設計事務所の看板があって、その向こうのガラス戸にはカーテンがかかっていて、いかにも日曜日の雰囲気だ。屋根の雪は30センチは積もっていて、とりあえず落ちそうなところだけ雪下ろししている。しばらく雪は降っておらず、少し暖かいせいか解けかかって汚い。真冬というより早春、3月末という感じの雪だ。

*いかにも寒そうな曇天で、向こう向きの若い衆は黒いオーバーのポケットに両手を突っ込んで前かがみに歩いている。項(うなじ)の刈り上げがいかにも寒そうだ。

*その向こうが「サッポロパン」の店だ。じつは「サッポロパン」という会社はあまり聞いたことが無い。グーグルでもまったくヒットしない。その一軒おいて向こうが北海道新聞の販売店。戸口に一人立っているようだがはっきりしない。

*列車は2両連結の気動車。湘南型で連結器は昭和20年代のもの。この頃函館本線は電化されたばかり。夕鉄の上にも架線が張られているが、無用の長物。すでに彼我の差は明らかだ。

*ひとり、乗車口で荷物を積み込んでいるが、このあたりのホームは屋根もなく除雪されていない。一方階段の出口からこちらはそれなりに除雪されている。おそらくそこで車内整備をしてからこちら側に進んで、乗車を開始するのではないだろうか。

*3月末とすれば、この明るさは夕方5時ころ。用事を済ませた人々がこれに乗って夕張に着くのは8時ころになるのだろうか。

*上方を右に展開してみよう。跨線橋は木製ではあるが、相当の力作である。なぜなら一番線と二番線の間に二本も線路があるからだ。つまりこの跨線橋は線路4本分の幅を両側だけで支えなければならない。
なぜ駅構内に2本もなければいけないのか、よく分からない。函館本線(と言っても小樽旭川間だが)は電化と同時に複線化されている。

本日は気持ちのよい晴天で、暑ささえ感じるほどだった。

出不精の私だが、思い切ってドライブに出かけた。

前から気になっていた「きらら街道」を走ってみたくなったのである。

この街道、野幌駅の南側からほぼ東に向けて走っている。東に向けて、といえば当たり前のように思われるかもしれないが、実は江別の東側に広がる広大な石狩平野、いかにも開拓地らしく道は完全な碁盤目を形成している。

その方角は、なぜかは知らないが北西を向いているのである。これは札幌も同じである。

その中できらら街道だけは秩序を無視するかのように、あくまで斜めに突っ切っていくのである。

しかも真っ直ぐではない。なよなよと左右にカーブを描きながら、しかし全体としてはまっすぐに東を指して走っていくのである。

私はこれがかの北炭夕張鉄道の線路跡ではないかと思っていた。

地図ではどこまでというのがはっきりしないが、南幌町を越えて北長沼、中央農業試験場のあたりまでは特徴的な曲線美が追える。

ナビという便利なものがあるので、大体の見当はつくのだが、何ヶ所かで突然道が切れる。とくに南幌市街は団子の串のように見えなくなってしまう。

ただ、切れた方向をナビでたどるとまた復活しているのである。

夕鉄線路跡

なんだかんだと言いながら中央農業試験場まで行ってそこから引き返してきた。

ここからが普通の人と違うところで、帰ってきてから調べ物を始める。


一番頼りになったのが、ooyubari9201のblog というサイト。石炭最盛期の頃夕張にクモの巣のように張り巡らされた鉄道網を回顧するサイトだ。

これを見ると、夕張鉄道がニューロンのような構造をしていることに気づく。夕張の最大手であった北炭(北海道炭鉱汽船)は市内各地の炭鉱に樹状突起のように触手を伸ばし石炭をかき集める。それが夕張鉄道という軸索を通って次のニューロへと送られる。そして野幌駅という軸索末端で、国鉄とシナプス接合するという仕掛けである。

昭和35年ころ夕張は最盛期で12万人も住んでいた。夕張だけではない。石狩炭田を抱える空知支庁には82万人も住んでいたのである。そのとき札幌は50万人である。

要するに、夕張鉄道は北海道経済の中心をなす大動脈の一つであったのである。定山渓鉄道や天北線とはレベルが違う。

とは言え、この鉄道が夕張のためにだけ作られた盲腸線であることは間違いないし、石炭輸送が主目的である以上、途中の景色が割と寒々としたものとならざるをえないのも当然である。


下の図は全日本戸山流居合道連盟のページから拝借したものである。見事に人の首が飛んでいる。

21shopkp01.jpg

こうしてみると、いまの剣道というのは、剣術の出がらしみたいなものではないかと思えてくる。

たまにテレビで全日本選手権の中継をやっているが、あれを見ているとどちらが勝ったのか素人目には分からない。

もし両者が真剣で立ち会っていれば、両方とも間違いなく死ぬであろう。決闘としては無意味だ。あれならチャンバラごっこのほうがはるかにリアルだ。

それはそれとして、この首切り写真、どう見ても野球のバッティングと同じである。

スポーツ紙によく載るホームランの瞬間とまったく同じで、左足に重心を残しつつ、手首を固めて、刀に載せるように、腰の回転でボールを切っている。

 「さらば故郷」から吉丸の話に移り、それが撃剣術の話になって、どうも話がとりとめなくなっているが、それが酒飲みばなしの面白さというもので、こうなれば行くところまで行こうという勢いになっている。

基本的には剣術・撃剣術・剣道は同じもので、時代によって呼び名が違っているというに過ぎない。

こう言うとその道の人には怒られそうだが、しかしそれらの人たちも実際はこれらを一くるみで語っているから、まんざら間違いとはいえないだろう。


「撃剣術」という言葉はウィキには登場しない。ぽかぽか春庭「撃剣術」

というブログに、詳しい説明があるので紹介する。

「刀で切る技」である剣術に対して、刀剣・木刀・竹刀(しない)で相手をうち、自分を守る武術を撃剣(げきけん)といいます。武術の十四事においては、剣術と撃剣は別々の武術として並べられています。

そしてブログ主は

江戸時代の剣道道場などでも、ふたつはともに刀剣木刀の術として扱われ、剣術家と撃剣家がまったく別種の人とは認識されていなかった

と想像しています。

明治になって、武士の身分がなくなると、各地の道場で稽古を続けてきた武芸者にとって、剣の技は無用のものとなってしまいました。

ということで、榊原鍵吉の撃剣興行の話につながっていく。


剣術と言い剣道と言い、つまりは文化的位置づけの違いである。時代の流れである。

それでは、その流れの中で撃剣術はどう位置づけられるであろうか。

一夜漬けの勉強の結果辿り着いた結論は、撃剣術は元の意を無視して狭義に言えば、見世物としての剣術であり、ご一新と廃刀令で侍が落ち目になっていく時代に始まり、権力に剣術が見直され、やがて教練の対象となり、剣道と名付けられるまでの短期間に用いられた名称であろうということだ。

つまり武士(戦士)の生活の思想的基本としての剣術=人を殺すための技術が無用なものとなり、それが、富国強兵モードの中で、「剣道=哲学を持つ体育」の一つとして復興していくまでの過渡期に、剣術に対して与えられた文化的枠組みと考えられるべきだということだ。

それはまさに明治維新と、軍国主義の興隆という2つの時代の間に生まれた概念だ。そこでは天地が2回ひっくり返っている。

一度目の転倒は言うまでもなく戊辰戦争と、廃刀令、廃藩置県、身分制度の廃止だ。ここで剣術は徹底して否定された。

これに対して二度目の転倒ははっきりしない。幾つかのエポックがある。

一つは西南戦争と抜刀隊の活躍だ。これにより刀剣による闘いの部分的な有用性が再認識された。警視庁が剣術を重視し在野の剣士を召し抱え、剣術の保護・育成に力を注いだ。

もう一つは日清・日露の戦争で勝利したことで、軍国主義が一世を風靡し、その中で「武士道」精神が称揚されるようになった。この中で剣の道が美化され、「大和魂」の中核となった。

これに対し、剣術の中から「美学」を中核として取り出したのが撃剣術となっていくのではないか。それが凝縮したのが「型」であろう。居合術もその一つであろう。戸山流居合術というのは陸軍の戸山学校で教えた「軍刀の使い方」教室みたいなところから発展したらしい。

「型」とはいえ、「こうやれば人を殺せる」という方法を示している点では、むしろ剣道よりも実戦的だ。


ただそれは柔術が講道館柔道となったのとは若干様相を異にし、在野の辺縁的存在にとどまり、剣道はあくまでも警察剣術を中心に発展していく。

こういう流れの中で、撃剣術を考えていくのが妥当ではなかろうかと思う。

陰流と中条流の関係がどうも怪しい。剣術の世界は相互批判の気風があまりないようだ。

むかし、「わさび漬」というのが静岡の名物で、同じような商品を売っているのだが、かたや本家、片や元祖という具合でなんともいい加減なものだった。剣術の世界でも似たようなものなのか。

探していたら下記の文献に巡り合った。

山嵜正美「平法中條流の傅系について」と言うもので、武道学研究という雑誌に掲載されたもの。発表は2006年となっている。武道の長い歴史から見れば最新と言ってもいいかもしれない。

書き出しは

平法中條流の傅系について誤認論述がまり通っている。より厳しい研究が望まれている

と言うものである。具体的には「本朝武芸正傳」という書物の批判のようである。

伝書の記載は数のごとくである。

中条家系

しかし中条長秀は足利幕府の評定衆であり、いくつかの文書に名が残されている。

初見は貞和2年(1346年)足利尊氏の歌会の参加者として名を残す。ただしこのときは藤原長秀を名乗っている。

長秀はたしかに1384年になくなっているが、法名は長興寺殿秋峯元威である。ある著書に「法名は実田源秀」となっているが、これは長秀の裔孫、中条左馬助信之である。

実田源秀こと中条左馬助は、応永33年(1426)に弟子に単傅を授けたことが確認されている。

伝書の人名が混乱したのは、口伝による簡略化のためであろう。

平法中條流に念流の刀術が取り入れられたのは、左馬助の父である中條判官満平であろう。

念流慈恩の京都における弟子の中に中條判官の名が記載されているが、当時都に居住した中条一族のうち判官職にあったのは満平のみである。

ということで、中条長秀はずっと前の人で、当然武家社会の幹部であるからそれなりの兵法は身につけていたであろうが、どちらかと言えば文官として名を残した人物と考えられる。その子孫に当たる中条判官満平が、京都に出向いた慈恩に念流を学び、それを家伝の中条流に取り入れた、ということになる。

この論文は、さらに、冨田と中条流の関係にも触れ、冨田は中条流を引き継いだものの、冨田流を起こしたわけではないということも明らかにしているが、詳細は略す。

最後の結論は大変厳しい。

冨田流は存在しない。後世の御伝となる元凶は「本朝武芸正傳」の富田流との誤認記述である。

ということで、年表についての疑問が氷解した。

慈恩と念流

剣道年表に疑問があり調べてみた。疑問を生じた項目は以下の通り。

弘和 4 (1384) 中条兵庫助長秀、将軍足利義満に召され剣道師範となる。

応永15(1408) 念阿弥慈音、摩利支天のお告げにより念流を創立。信州波合に長福寺を建立。

第一の疑問は念流の流れを引くと言われる中条兵庫助が足利義満の剣道師範になったのが、念流創始より20年も前になっていること。「剣道師範」という表現も怪しい。

第二の疑問は、信州の長福寺となっているが、鎌倉だとする別記事があること。

どうでもいいことだが、行きがかり上こだわってしまった。そこでウィキで慈恩と中条を調べることにする。

まずは念阿弥慈恩について

慈恩は1350年の生まれ。南北朝時代の人である。これで行くと念流を創始したのは58歳のことになる。ありえないわけではないが、不自然な感はある。

奥州相馬の生まれ。俗名は相馬四郎。新田義貞に仕えていた父が殺された。総門に入った慈恩は敵討ちを目指して剣の修業を積んだと言う。とんだ坊主だ。

各地を武者修行した後、念流を編み出した。これには多くの異名があるが省略。

慈恩はいったん還俗して相馬に戻り、奥州で父の仇を取った。それからふたたび出家して念阿弥慈恩を名乗った。

諸国をめぐり剣法を指南した後、1408年に信州波合村に長福寺を建立、念大和尚と称した。没年は不明である。

ということで、鎌倉や京都で弟子を取って念流を伝授したらしい。1408年は慈恩の隠退した年で、信州は隠居地なのである。波合村というのは相当の僻地で、隠遁のような生活だったのではないか。そこでの最後の弟子が樋口某と称する地元の豪族で、樋口は後上州に移り馬庭念流と称したようである。

慈恩の門人たち

慈恩には板東8名、京6名、計14名の優れた門弟があったとし、「十四哲」と称される。

その中に念首座流、中条流、富田流、陰流などの開祖がふくまれる。

ついで中条兵庫助長秀について

この人は慈恩とは逆に生年不明で没年、1384年のみ明らかである。

ウィキによれば、たしかに

念流開祖の念阿弥慈恩の門に入り、慈恩の高弟である「念流十四哲」の一人となる。

となっている。

中条が死んだ年、慈恩はまだ34歳だから、本当に中条を教えたのだろうかと疑問が湧く。ひょっとすると年上の弟子だった可能性もある。

三川の挙母(現トヨタ市)の城主であり、かなりのインテリである。

どちらかと言えば太刀筋がどうのこうのというより、剣術に哲学を導入したことが功績なのかもしれない。

彼の武術の体系は兵法ではなく「平法」と称される。

平らかに一生事なきを以って第一とする也。戦を好むは道にあらず。止事(やむこと)を得ず時の太刀の手たるべき也。

ということで、平たく言えば護身術なのだが、これを「夢想剣」と名付けるセンスは只者ではない。

「足利義満の剣術指南役を務めた剣豪」ということになっているが、彼は同時に室町幕府の評定衆でもあり、また歌人としても名を馳せたということだ。

何か大河ドラマの主人公にでもなりそうな人だ。

ウィキ以外のファイル

しかし以上のウィキの記載では、二人の接点が生まれてこないし、陰流と中条流の関係も見えてこない。

こだわりついでに、もう少し他の文献も当たってみる。

葛飾杖道会のページには、下記の記載がある。

中条兵庫助長秀は代々剣術の家に生れ、鎌倉の評定衆であり、足利義満に召されてその師範となった。鎌倉寿福寺の僧慈音という者について剣道を修めた

というかなり異なる記載がある。「鎌倉の評定衆」は明らかに間違いで、鎌倉幕府はとうに崩壊している。それにしても困ったものだ。

マイペディアの記載はひどい

応仁のころ中条兵庫之助長秀が鎌倉地福寺の僧慈恩に刀槍の術を学び,中条流を創始した。

100年ずれている。

答えは次の記事中条長秀は慈恩と無関係で。

「故郷を離るる歌」について という記事に崎山言世さんという方からコメントが有りました。

読み返してみると、あまり真面目な文章ではなかったようで反省しています。

一応、撃剣術問題と、軍国主義者問題について意見を申し述べます。

1.撃剣術問題

崎山さんもご覧になったかと思いますが、撃剣術の引用は琴月と冷光の時代というサイトからのものです。

ここにはネット文献としては型破りなほどに詳しく吉丸の経歴が書かれており、ほとんどごちそうさまの世界です。

そこに次のように書かれています。

一昌は文武両道をめざした。学業は大学予科の文科志望、部活動は撃剣部に入った。撃剣は剣道に近いものだが当時は撃剣と言った。10月10日の紀念会で竹刀で試合をしたことが記録されている。撃剣部の部長は、教授の秋月悌次郎(1824―1900)だった。秋月は元会津藩士でこのとき既に70歳、翌年秋に退職するまで倫理・国語・漢文を教えていた。

なお撃剣術というのは、剣道とは違いはるかに実戦的な武術ですが、明治に入ってからは廃れる一方だったようです。

吉丸の名誉のために言い添えておくなら、下記のごとくヒューマンな面も持ち合わせていたようです。

一昌は東京帝国大学を卒業した直後の明治34年秋、修養塾という私塾を開き、苦学生とともに質素な生活をしていたとされる。ほぼ同じころ法学士だった土屋禎二と川添信敬が小学校の校舎を借りて私立の下谷中等夜学校を開設し、一昌は校長となり、経営にあたった。修養塾は夜学に学ぶ苦学生の寄宿舎となった。

2.軍国主義者問題

軍国主義者問題は、不正確だったかもしれません。我が静岡高校の校歌は現在一番しか歌われておりません。それは二番、三番があまりに軍国主義的であるとのことで、戦後に校歌から排除されたのです。

そのことのみをもって吉丸が軍国主義者であったとは断言できませんが、少なくともそのような精神を内包していたことも間違いのないところでしょう。五十歩百歩ですが、より正確には「皇国主義者」と呼ぶべきかもしれません。

他にもたくさん例示できますが、省略します。

3.小学唱歌の位置づけ

ついでに彼の作成した小学唱歌の歴史的運命について、この文章にはこう書き記されています。

一昌が成しえた最も大きな仕事はまちがいなく『尋常小学唱歌』である。…『尋常小学唱歌』は約20年間の長きにわたって教育現場で使用された。昭和7年に『新訂尋常小学唱歌』が編纂されるが、118曲のうち87.3%にあたる103曲、つまりほとんどそのまま引き継がれた。さらに主要な歌は戦時下においても音楽教科書に掲載された。

ただし、いわゆる童謡運動が起き、学校唱歌への批判が高まったあたりから、吉丸は東京音楽学校内でも忘れられるような存在になっていったようである。

…時代を下るにしたがって見過ごされるようになったのは、一昌が厳しい生徒監として一部に反感を買ったことや、「楽壇時評」の厳しい評論活動が敵をつくったことが影響したからであろう。

「内部留保論」の混乱について

いま日本では巨大な内部留保が積み上がる一方、国民の暮らしはますます悪化し、将来不安が増大しつつある。

このような状況を打開するためには、内部留保の過剰な積み上げをやめ、内需の拡大に向けて財を移さなければなりません。

これは社会・経済的な視点から見れば当然の視点です。しかもこの2つが一つのトレンド(新自由主義)というコインの両面をなしていること、両者にはトレードオフの関係があることも明らかです。

しかし、この間大企業側からの執拗な論争により、これらの当然の主張が途方もない妄想であるかのような雰囲気が形成されてきています。

とくにそれが「因果関係論」であるような論点のはぐらかし、企業論理が社会の論理であるかのようなすり替え、定義をあいまいにした上で正反対の結論を導き出すような詭弁が相次いでいます。

そのスペクトルは、「必要悪」的な慎ましいものから「必要>>悪」になり、最悪の場合は「必要だから即ち善」と開き直るものまでさまざまです。

そして「論争」を公正に判断する第三者のふりをした、事実上の内部留保弁護論という変化球も投げつけられています。

もちろん、肝心なのは内部留保そのものではなく、野放図に内部留保が積み上がっていく仕掛けなのであって、これにメスを入れない限り、問題は解決しません。

しかし、そのためには、国民経済的に見て内部留保の異常な積み増しが決して良いことではない、「必要<<悪」という、当たり前のことから出発しなければならないでしょう。

論争にあたっては内部留保の中核をなす当座預金・普通預金から出発するべきです。マネーゲーム的な投資である株、債券、不動産についても基本的には同様の判断をとるべきです。ファンド的展開については具体的・個別的な判断が必要でしょう。

海外資産については、租税回避問題と絡んでくるので、今後の理論展開が待たれるところです。私はこの点に関してはリバタリアン的・原理主義的な所得税・直接税論者なので、納得できる主張を期待しています。


この記事はどうも出処がはっきりしない記事で、記事の内容もほとんど憶測ばかりなので、ためらうが、記事の内容はしっかりしており、執筆者の名も明らかにされている。

一応紹介しておくことにする。

LIERAX というサイトの

新潟県知事“出馬撤回”の真相はやはり再稼働狙う原発ムラの圧力?
新潟日報ではなく官邸が揺さぶり説

という記事。9月14日のアップとなっている。

1.新潟日報の陰謀説

原子力ムラが新潟日報に広告を出し、その見返りに泉田知事の再選を阻止するためにフェリー購入問題を仕掛けてきた

というのが泉田側の見方だ。

2.真相はスキャンダルではないか

新潟日報が08年に原発追及キャンペーンで新聞協会賞を受賞するなど、もともと原発に批判的な報道を展開していること。

原発ムラに利用されて泉田バッシングを仕掛けるとは考えにくい。

永田町では、泉田知事の出馬撤回はフェリー問題とは別の理由があったのではないか、という見方がささやかれている。

昨年くらいから、原発再稼働をもくろむ自民党、官邸、地元財界、東京電力が一体となって、泉田氏に知事選に出馬をさせないように“泉田おろし”に動いていた

「それも、新聞や週刊誌が取材に動いたということでなく、官邸もしくは自民党が6月ごろ、関係者を通じて泉田知事にスキャンダルの存在をほのめかしたのではないか、と言われています」(前出・全国紙政治部記者)

たしかに過去にそういう事例もある。

福島第一原発をめぐっては、プルサーマル導入に強硬に反対していた当時の福島県知事・佐藤栄佐久氏が、東京地検特捜部に収賄容疑であまりに不自然なかたちで逮捕され、司法記者の間でも“明らかな国策逮捕”という声が上がった。

3.メディア包囲網の形成

原発ムラは検察や警察にもネットワークをのばしている。原発に批判的な研究者やメディアへのこれまでのさまざまな圧力を考えれば、今回もこうした工作が行われた可能性は非常に高い。

東京電力は、15 年4月に「東京電力新潟本社」を設立し、東京本社からメディア担当を集結させた。

新潟で放送される民放各社に複数のCMを復活させている。雑誌や広報誌、そして全国紙の新潟県版にも広告を出稿するなど原発マネーをバラまき、“メディア包囲網”を着々と築いている。

泉田氏の出馬撤回で森民夫長岡市長に一本化され、森氏が知事に当選すれば、ほどなく柏崎刈羽原発が再稼働されることになるだろう。原発ムラの巨大な闇の前に我々はなす術がないのだろうか。

と、まぁ、憶測ですな。佐藤栄佐久知事の逮捕事件との類推が柱になっている。しかし、「殺される話」は泉田氏本人が語っているのだから、まんざらありえなくもない。しかしこれも目下のところは憶測にすぎない。

とにかく選挙に勝つことの重要性は、原発の他にもいろいろあるということだ。

次が10月11日付、つまり本日の記事

出処はなんと勇名を馳せた「新潟日報」だ。

見出しは

連合新潟 黒岩氏の会合出席認めず 知事選対応を問題視 

というもの

連合新潟は、民進党県連の黒岩宇洋代表を連合新潟の会合に出席させないことを決めた。

県連が「自主投票」を決めたにもかかわらず、民進党衆院新潟5区総支部長だった米山隆一氏が他の野党3党に擁立されて出馬する事態を問題視した。

新潟日報は残念がっている。

県連の対応次第では、米山氏を民進党主導で擁立できる可能性もあっただけに、県連執行部の不手際が際立つ形となった。

何をおバカなこと言っているんでしょう。この期に及んで。

しかし事態は新潟日報の思いとは逆方向に進行している。

民進党は自主投票ということで、議員が勝手に米山で動き始めた。自主投票だから止められない。だから連合は組織として森支持の旗幟を明らかにした。これって連合内の民進党員にとっては党議違反じゃないのだろうか。

日刊ゲンダイではこう書かれている(日刊ゲンダイですけどね)

なりふり構わぬ慌てっぷりは、野党共闘に砂をかけ、自公と一緒に森氏を支持した連合新潟も同様で、後方支援のはずが、会長自ら応援演説でマイクを握っている。

週明けは「赤旗」のまとめ読みから始まる。

新潟県知事選挙が佳境を迎えたようだ。

志位さんが新潟駅前で応援演説を行っている。

その中で注目されたのが、自民党の新潟県連が「原発の再稼働を求める決議」を上げたという発言だ。

これは大変深刻かつ重大なものであり、事実関係を調べておく必要がある。なぜなら、自民党の森候補は「(再稼働には)毅然とした態度で臨む」、「安全に確信がなければ反対と言う覚悟はある」と言っているからだ。これは完全な食言になる。

もう一つ、これは月曜の一面記事だが

危機感を強めた自民党の二階幹事長は、日本経団連との会合で「電力業界などオール日本で対抗する」と表明。

したとのことである。

これは政府と経団連、電力村(連合もふくむ)が一体となって柏崎再稼働に全力をあげるという宣言である。これも大変深刻な問題だ。

私も大した仕事はできないが、この点で警鐘を鳴らすことくらいはやっておこうと思う。


みんなで決める会」のページに、新聞の切り抜きが転載されてある。

どこの新聞なのか、いつの新聞なのかがわからない、大変困った記事なのだが、一応引用させてもらう。(多分8月中旬、どこかの新聞の新潟地方版)

niigatakenrenn

自民党県連は12日の県連大会で、原子力規制委員会の審査を前提に東京電力柏崎刈羽原発の再稼働を求めていくことを決議した。
再稼働へのスタンスをはっきり示したのは東電福島第1原発事故後初めてだ。

12日の大会では決議案が読み上げられ、異議はなかった。

ベテラン県議は「県連は、原発の再稼働を語らない知事と一線を画しているんだと、国や党本部に対してアピールすることにもなる」と語る。

ただ、所属県議の思いはなお複雑だ。ある県魏は「まだ県連内で意見がまとまっていないのに突然すぎる。党本部と地方では事情が違う」…と危機感を募らせる。

ということで、「自民党新潟県連が組織を上げて再稼働を求めた」というのは紛れもない事実だ。さらに底には、自民党の党本部が決議の採択を押し込んだ事情が見え隠れしている。

で、新潟県連はというと、これも相当厳しい攻撃を受けたようだ。県連大会の10日前という時点で、新潟市議会の自民党が県連に申し入れを行った。内容は1.県知事選で泉田知事を推薦しない、2.星野県連会長は参院選敗北の責任を取り辞任せよ、というものだ。

泉田非推薦の理由は「日本海横断航路」問題で、新潟日報と平仄を合わせている。これが県連大会を念頭に置いた攻撃であることは明らかだ。

森ゆうこ参院議員はこう演説している。

私たちは泉田知事を守り切れなかった。泉田抹殺計画があった。・・・自民党新潟県連幹部に官邸が『まず知事を変えろよ』と迫った。

こうして点と天とを結び合わせていくと、見事な「泉田追い落とし+原発再稼働」の行程表が浮かび上がってくる。そのウラには「オール日本」派の意向が透けて見えるというものだ。

この背景のもとで泉田知事の謎の発言も解釈される。

僕は自殺しませんから!
遺書が残っていても自殺ではない!
命をかけて国・東電と対峙する!
自殺なんて事になったら
絶対に違うので調べてください!


「南スーダン」問題を勉強して

以下の記事は、限られた情報に基づく予断がふくまれているので、「そういう見方もできる」のかという程度に考えておいてください。

1.SPLAへの支持は圧倒的である。

どのくらい民主的に選挙が行われているかは分からないが、国会議員のほとんどはSPLAである。永年にわたる解放闘争を戦い抜いたSPLAへの国民の支持は揺るぎない。

勇将がいれば軍は強い。道義があれば軍は強い。民衆の支持があれば軍は強い。マチャルの部隊には武器はあっても士気がない。マチャルの反乱は程なく解決するだろう。

2.キール大統領への支持も厚いと見るべきだろう

キールについて悪い評判はない。腐敗をしていない、温厚だという評価は、この手の指導者としては稀有な資質である。ブッシュからもらったというテンガロンハットはいただけないが、「親米」であることの象徴なのだろう。

彼が有能であるかどうかは不明である。(翻ってガランの優秀さが際立つ)

ただSPLAはキールの党ではない。彼はもともと現場の人である。私が各国の革命運動を研究してきた経験から言うと、数十年の苦難を乗り越えてきたSPLAの幹部集団は相当の高水準で団結し、人民と結びついていると思う。彼らは、少なくとも短期的には大きな間違いはしないと思う。

3.現状は国内の民族対立ではないと思う

闘争が勝利に近づくと独立運動は急速に拡大し、有象無象が飛び込んでくる。しかし国家の建設は一時の熱狂で進められるものではないから、必ずそういう連中とのいざこざが飛び出してくる。

今回の問題もそういう感じがする。彼らが最初から石油の利権を狙っていたことは明らかだ。背後にスーダンがいるかもしれない。年表から見ればコルドファン紛争とマチャルの反乱は一連ととらえられる。

「これでウミを出し切って、国内は固まっていく」という楽観的な見方もできるのではないか。

4.人権屋さんの情報を鵜呑みにしないほうが良い

何人も虐殺されたとか、数十万人が難民化しているとか報道されるが、彼らは60年前から難民なのだ。

長いこと戦争しているから、殺伐としてみんな気が立っている。肝心なことは「時代のベクトル」を見失わないことである。


5.ヌエル族 はあまり品行方正な部族ではない

ヌエル族とディンカ族というが、住む場所も同じで生活スタイルも同じで、どちらも牧畜民だ。農耕民ではない。ケニアのマサイ族を思い起こしてもらうと分かりやすい。ヌエル族が20万人、ディンカ族が100万人くらいのようだ。民族というよりは氏族(クラン)だろう。

ヌエルとディンカ

ライマネ・マガジン(http://raimane.com/world/his/211/)というサイトにヌエル族の紹介がある。

人口は約20万人。隣接する同じナイロート系のディンカ族をしばしば襲撃し,居住範囲をディンカの土地へと拡大しつづけてきた。強奪が成功した暁には、ぶんどった牛の配分をめぐって、今度はヌエル族の内部で、血で血を洗う抗争が繰り広げられます。

…ヌエルはディンカを一方的に略奪してきた。ヌエルは数多くの部族の集合で、ヌエル全体をまとめる人物も制度も存在していない。このためヌエルの政治体制はしばしば「秩序ある無政府状態」とよばれ…

たしかに地図を見ると、ディンカ人社会にヌエルが侵食している様子が一目瞭然だ。

つまり、本来ヌエルの人々というのは近隣から見ると、ロシア人のように「困った連中」なのだと思う。これを予見としてマチャルを評価するのは間違いだとは思うが…

1983年、ディンカ人が主体になってSPLAが結成されると、ディンカ人以外の諸民族もこれに結集した。ヌエル族も協力した。しかしソ連とエチオピアが相次いで倒れSPLAの台所が苦しくなると、離反者が相次ぐことになる。

なかでもヌエル人の分派(SPLAナシル派)は凶暴で、1991年には有名な「ホワイト・アーミー」虐殺事件を起こしている。これはヌエル人兵士が体に虫よけの白石灰を塗ってボルの街を襲撃したもので、ディンカ人2千名を虐殺したとされる。私はこの手の報告は大体10分の1に見積もっているが、それにしても非道である。

「これを機に両民族は血みどろの抗争へと突入する」のだが、ヌエル人には道義も金もないから、やがて下火になっていく。

6.マチャルは糾弾されるべきだと思う

そこで、登場したのがヌエル人政治屋のマチャルで、ナシル派を離れSPLA「統一派」を形成する。この「統一」というのが曲者で、まずSPLAの見解である統一を維持した「新スーダン」路線を否定し、南部スーダン住民の民族自決権が合法であることを宣言した。そしてSPLAを脱退し、手兵を南スーダン防衛軍(SSDF)と称し独自行動を開始した。

このような戦闘的言動にも関わらず、1997年に南スーダンの民族自決を合法化する内容を包括したハルツーム協定が締結されると、いち早くこれに乗っていく。こうしてマチャルは武装闘争派から抜け駆けし、ハルツームの政権に加わった。

マチャルはハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官となり、南部スーダン調整評議会議長兼スーダン共和国大統領補佐官を務めた。しかしスーダン政府の先行きが暗いと見ると、またもや豹変しSPLAと「統一」したのである。

2005年に包括合意が成立し南部スーダン自治政府が成立すると、またもやマチャルはするりと自治政府の副大統領に滑り込んだ。

と、ここまではバルカン政治家の経路を辿って生き延びてきたわけで、ボルの集団虐殺への加担を除けば糾弾されるほどのことはなさそうだ。信用されることはないだろうが。

しかし、彼はハルツーム政府の南部スーダン国防軍司令官だったから、武器は腐るほど持っている。2013年に副大統領を逐われると、軍事行動に打って出た。12月にジュバで反乱を起こした後、翌年の1月には各地で武力行使を行い、主要な油田地帯である北部の国境地帯ユニティ州を制圧した。これが彼一人の策略になるものか、スーダンの手引があったものかは分からない。
彼は独立前にスーダンから派遣された南部軍の司令官であり、武器は豊富にある。短期戦ならかなりやれるだろう。しかし2年とは持たないだろう。旧日本軍と同じだ。

当初政府側の対応は遅れた。「国際監視」という名の干渉を嫌でも念頭に置かなければならなかったからでもあろう。ケニアと同じように、今の南スーダンは残念ながら国際援助なしに生きてはいけない。

国際世論は傲慢にも「民族間対立」という図式を煽り立て、大岡裁きをやろうとした。私はさまざまな国の革命運動でで同じような経過を見ている。

SPLAは実に粘り強く行動したと思う。ニカラグアのサンディニスタを思わせる。主要地域を奪還した上で、「耐え難きを耐え」ふたたびマチャルを政府に迎え入れた。しかし結果はなおひどいことになった。

今年7月末、キール大統領はふたたびマチャルを更迭した。前回と違うのはマチャル派の主力がマチャルとたもとを分かったことだ。マチャルは去ったが組織の幹部タバン・デンは残った。

マチャルは首都ジュバで最後っ屁を放った。270人以上が死亡する戦闘が発生した。戦闘は止まり、マチャル派はジュバを去った。(政府軍が市内で検問しヌエル人を拘束したとの情報がある。これは当然のことと思う。ジュバはバリ人の住む街であり、ディンカ人の街でもヌエル人の街でもないからだ)

もはやマチャルは国内で策動する余地を失い、スーダンに去った。(コンゴに行ったのはスーダン側の配慮であろう)

7.南スーダンは「失敗国家」とはいえない

NGOをふくめ、「南スーダンは失敗国家だ、ソマリア化する」という宣伝が行われている。

しかしニュースを注意深く読む限り、そのような結論は出てこない。

私には、南スーダンの今後が決して平坦な道ではないにせよ、スーダンとの懸案が解決され、進むべき方向がようやく明らかになりつつあるという感じを持つ。

とにかく彼らは60年間も闘い続けてきたのだ。もう少し長期のスパンで情勢判断することも必要なのではないだろうか。

願うらくは「国際機関」がパトロン風を吹かせて、国の進路を誤らせるようなことにならないことだ。ウガンダを見よ、ルワンダを見よ、立派にやっているではないか。


*だからといって自衛隊が南スーダンに居続けて良いと言っているのではない。それとこれとは別問題だ。誤解なきよう。


なぜ、ドイツでは変ロがBなのか

かねがね疑問に思っていたが、あるQ&Aのページにこんな記載があった。

ドイツ音名ではBは変ロで、ロはHですが、これについては(うろ覚えですが)こんな話を読んだ記憶があります。

ヘ長調の属七の和音はハ-ホ-ト-変ロになります。古典的な転調ではよく登場する和音です。

理論書などでロと変ロを書き分けるとき、角張った書体のbを本位のロに、丸さのある書体のbを変ロに宛てる習慣ができたのだそうです。

そのうち、角張ったbがhと混同されるようになって、ドイツ語の世界ではロ=H、変ロ=Bとなったのだそうです。

ということで、かなりいい加減な習慣のようだ。

fraktur
下段の小文字、左から二つ目が“b”,8つめが“h”である。

ドイツ語の勉強の時は、イヤでもドイツ文字を読まなければならなかった。これはフラクトゥールというらしい。第二次大戦後は使われなくなった。ご同慶の至りである。





               「英埃(えいあい)領スーダン」(Anglo-Egyptian Sudan)の時代

1821年 エジプトがスーダン北部(現スーダン)を征服。ナイル流域に植民するとともに黒人先住民の奴隷狩りが行われる。

1877年 イギリスがウガンダより進出し、現南スーダン地域を占領する。この頃、ハルツームを中心とする北部は、エジプト王国の版図の下にあった。

1885年 ムハンマド・アフマドを指導者とするマフディ運動が起こり、北部スーダンに国家を建設。

1898年 マフディ戦争が始まる。イギリスとエジプトの連合軍がマフディ国家を滅ぼす。両者がスーダンの共同統治で合意。「英埃(えいあい)領スーダン」(
Anglo-Egyptian Sudan)の歴史が始まる。実態としては北部をエジプト、南部をイギリスが支配する二重支配であった


1930年 英国当局が南部政策を実施。南部地域は意図的に低開発状態に置かれる。アラブ・イスラーム要素を徹底して排除。部族の法や慣習、固有の言語が重視されるとともに、共通言語として英語の使用が奨励される。エリート層は英語やキリストを受け入れ、親ヨーロッパ的になる。

sudan map

「岐路に立つスーダン」 ―南部独立と和平の狭間で より転載
なおこの今井高樹(JVC スーダン現地代表)さんの報告は大変水準の高いもので、南スーダンをウォッチしていく上で確実な座標軸を提供してくれる。

1947年 「ジュバ会議」が開かれる。南北スーダンの統合が決められた。イギリスは南部のウガンダとの統合を望んでいたが北部勢力に押し切られる。南部でもアラビア語が公用語とされ、北部が権限を得るようになった。

1952年10月 スーダンが自治権を獲得。独立に向け動き始める。ハルツーム政府の北部中心主義に対する南部の不満が広がる。

第一次内戦の時代

1955年 南スーダン南部のエカトリア地方の町ヌザラで、労働者のデモに警察隊が発砲し20人の犠牲者が出た。これをきっかけに南部人の部隊が反乱。第一次スーダン内戦が始まる。

1956年1月 単一国家「スーダン共和国」が独立する。北部主体の新政権が政治的・経済的支配を握る。連邦制を構築するとのイギリスにした約束を反古にし、北部中心主義を制度化したため南部の不満が高まる。

1958年 ハルツームで軍事クーデター。イブラヒム・アブード将軍が政権を掌握した。南部州への軍事的抑圧を強化。南部スーダンの政治家は、ウガンダに亡命。

1963年 ウガンダ亡命中の南部州人が、スーダン・アフリカ民族同盟(Sudan African National Union、SANU)を創設。連邦制に基づく南スーダンの自治権拡大を主張。
その後南部州の政治勢力(亡命組織)は北との関係をめぐり離散集合を繰り返す。
1963年 SANUが武装組織「アニャニャ」
Anya Nyaを結成。赤道州で小規模なゲリラ闘争を開始する。
まもなくアニャニャ戦線は、SANUに対し独自路線を主張するようになる。
周辺国の支援を受け、民衆の支持をかちとる。アニャニャを中心に南部の諸勢力が結集し、「南部スーダン解放運動」(SSLM)を結成。タンザニア留学中のガランもこれに加わる。

ジョン・ガラン・デ・マビオル (John Garang de Mabior, 1945年)ボル近郊の農村で貧農の子として生まれ、幼少時に孤児となる。第一次スーダン内戦に参加した後、勧められてアイオワ州のグリネル大学で経済学 を修めた。その後タンザニアで研修を続ける一方、大学生アフリカ革命戦線のメンバーとして活動。アニャニャに加わり、第一次内戦を戦う。

1969年5月 ハルツームでクーデター。民族主義左派のヌメイリ政権(
Col. Jaafar Muhammad Numeiri)が成立。親ソ容共のナセル路線を選択。南部との関係修復に乗り出す。

1971年 ヌメイリが親米反共路線に切り替え。軍左派によるクーデターが企てられるが失敗に終わる。

1972年2月27日 ヌメイリ政権とアニャニャを中心とする南部スーダン解放運動(SSLM)との間に「アディス・アベバ合意」が成立。南北の内戦はいったん終結する。

アジスアベバ協定: 南部は自治を許され、独自の地域議会と高等行政評議会を設置する。将来の南部の分離独立を問う住民投票も認められる。アニャニャ兵士は政府軍に組み込まれる。しかし財政的には北部への依存状況が続く。

1974年 シェブロンが油田を発見(操業開始は78年)。その多くが南スーダン(ユニティー州)に分布していた。

第二次内戦の時代

1983年3月 ハルツームのヌメイリ政権、原理主義派の「民族イスラム戦線」(NIF)の圧力を受け政策を転換。① 国政にイスラム法(シャリーア)を導入、スーダンを「ムスリム・アラブ国家」にすると宣言。② 南部の石油資源独占を狙い、南部を3つの地域に分割し支配する。③ これに伴い、アジスアベバ合意を事実上破棄。南部の自治権や将来の分離独立の住民投票を拒否。

4月23日 ヌメイリ政権、非常事態宣言を発動。シャリーアの適用を拡大する。

憲法上で最も保障された権利が停止され、非常時法廷が設置される。窃盗に対する切断やアルコール所持に対する公開鞭打ちが広範に行われた。南部人と他の非イスラム教徒も、これらの罰を受けさせられた。(南部人の多くは伝統的な精霊信仰、一部にキリスト教徒)

5月 南部自治政府のもとに配置された第105大隊の将兵500人が、北への転属を拒否し地方都市ボルに立てこもる。この部隊はもともとアニャニャのゲリラを中核とする組織であり、スーダン軍への編入後は冷遇されていた。

5月 ガランは反乱兵の説得ために派遣されたが反乱側に寝返る。

内戦終結後はスーダン軍で経歴を積み、フォート・ベニングのア メリカ陸軍米州学校で上級歩兵将校コースを修めた。またこの間にアイオワ州立大学で南部スーダンの農業開発に関する論文で農業経済学修士および博士の学位 を得た。帰国後1983年までガランは幕僚大学の学長であった。

7月 反乱勢力がエチオピア領内に結集し、
「スーダン人民解放軍/運動」 (SPLA/M) を結成。ガランが指導者となる。南部最大の民族であるディンカ人を中心に組織され、兵士3千人を擁する。当初の主要メンバーはジョン・ガラン、サルバ・キール・マヤルディ、ウィリアム・ニュオン・バニ、ケルビノ・クアニン・ボルら。

SPLAは”New Sudan” というビジョンを掲げ、南北問題を含む諸問題を、統一スーダンとして解決を目指した。そのため地方分権と南北格差の是正、民主主義の実現を求めた。
当初はディンカ人主体の組織だったが、やがてヌエル人など他種族も結集するようになり、SPLAが内戦の主体となる。南スーダンには他にもザンテ人など60以上の民族が混住する。


キール(
Salva Kiir Mayardiit)がSPLAに参加。キールもガランと同じディンカであるが、多少出自が違うらしい。第一次内戦をアニャニャ戦線の一員として闘い、第二次スーダン内戦では実戦経験の乏しいガランに代わって戦場での指揮をとるようになり、SPLAの参謀長として活躍した。

同じ頃、ヌエル族出身のマチャル(Riek Machar Teny)もSPLAに参加している。

1983年 SPLAがエチオピア(メンギスツ軍事政権)の支援を受け反乱開始。これをソ連が援助。第二次スーダン内戦が始まる。

1984年9月、ヌメイリは非常事態の終了を宣言し、非常時裁判所を閉鎖したが、シャリアの多くを引継ぐ新たな刑法を施行した。

1985年初め、ハルツームは旱魃と飢饉の中、燃料とパンの深刻な不足に見舞われる。南部では戦闘が拡大し、難民が増加。SPLAがリビア、ウガンダ、エチオピアの支援を得て、南部の大半を支配下に治める。

4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。

4月6日 ザハブ将軍が、反ヌメイリのクーデターを起こした。1983年憲法の無効化と、イスラーム国家化の停止、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散を宣言する。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。

1986年4月 選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のマフディーを首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF)と、いくつかの南部の政党が連立した。SPLAは選挙への参加を拒否。

5月 ウンマ党政権は SPLA と和平交渉を始めた。その年、SPLA と他の政党のメンバーはエチオピアで会合し、シャリーアの廃止を求めるコカダム宣言に合意していた。

1988年11月 SPLA とDUP(ウンマ党政権の連立与党) は、エジプトとリビアとの軍の協定の廃止、シャリーアの凍結、非常事態の終了、停戦を求める和平案を共同提案した。しかしマフディー首相はこの和平案を拒否し、このためDUPは政権を離脱した。新政権はウンマ党とイスラム原理主義の NIF で構成された。

1989年

2月 スーダン軍軍部はマフディーに南部州との和平を進めるよう最後通告を示した。マフディはあらためてDUP との連立政権を作り、SPLAとDUPとの合意を承認した。

6月30日 主戦派の下級将校が、オマル・アル=バシール大佐をかつぎクーデターを決行。救国革命指導評議会を創設する。バシールが大統領と首相、最高司令官を兼任した。イスラム原理派の「民族イスラム戦線」(NIF) はバシール政権を支持し非イスラム派との戦闘を煽る。

バシール政権は労働組合や政党その他「非宗教」組織を禁止した。その結果、7万8千人の軍人・警察官・行政官が追放された。追放された政治勢力はエリトリアに亡命・結集し多党派連合「国民民主同盟」 (NDA)を結成。国民民主同盟にはSPLAも参加。

1991年


5月 ソ連・東欧の崩壊に伴い、エチオピアでもメンギスツ政権が倒れる。SPLAは後ろ盾を失い分裂した。1.トリット派 ジョン・ガランの率いる主流派、2.バハル・エル=ガザル派 ケルビノ・クアニン・ボルの率いる反主流派、3.ナシル派 ヌエル族を主体としマチャルが率いる。後に統一派を名乗る。
1991年 バシール政権、切断と石打ちを含む残酷な刑を全国的に導入する新刑法を施行する。
11月15日 マチャルの率いる部隊、ジョングレイ州ボルでディンカ族を虐殺する。
1993年 バシール政権がシャリーアによる司法改革を断行。南部の非ムスリムの裁判官を北部へ転任させ、全てムスリムに置換える。またハルツームに住む南部人や非ムスリムをシャリーアに基づき逮捕する。
1993年 スーダンがアメリカにテロ支援国家に指定される。アメリカからの武器輸入は途絶え、シ ェブロン社は操業を停止。油田の権利を格安でスーダン政府に売り渡す。中国が大量の武器を供給し油田開発に乗り出す。
1995年3月に、米国のカーター元大統領の仲介で一時停戦が実現
1996年に、SPLAとエリトリアに拠点を置いた多党派連合国民民主同盟 (NDA) が、政府に対する共闘を開始し、内戦がさらに拡大した。
1997年 アメリカによる経済制裁が開始される。アメリカはスーダン政府に軍事圧力をかけるため、エチオピア、エリトリア、ウガンダを通じてSPLAを支援。これによりSPLA(とジョン・ガラン)は息を吹き返す。
1997年4月 反政府勢力4派と政府が和平協定に調印。統一民主救済戦線 (UDSF) を結成しハルツームに復帰する。SPLAは引き続き敵対関係を続ける。このときマチャルの部隊は単独でハルツームと講和し、南部軍司令官に就任する。

1998年

5月4日、政府とSPLAの代表がケニアのナイロビで約半年ぶりに和平交渉を再開。この間も東南部では戦闘が継続していた。
8月20日 アメリカによるミサイル攻撃で、スーダンの製薬工場が破壊される。アメリカ大使館爆破事件への報復とされる。
1999年 南部のヘグリグ油田とポート・スーダンをつなぐパイプライン敷設が完了、石油輸出を開始する。スーダンは中規模の産油国となる。
1999年 バシール政権、NIFの指導者トゥラビ(
Hassan Al-Turabi)を政権から追放。強硬なイスラーム化政策から修正し、アメリカとの関係改善を試みる。
2001年 
トゥラビ、SPLAと単独交渉し、SPLAの存在を容認。バシールは発表の翌日にトゥラビを逮捕。

2002年

1月 アメリカが特使を派遣し、積極的な調停に乗り出す。これを受けて、スーダン政府とSPLAが、
ケニアのマチャコスで会談。6ヶ月間の停戦に合意。
7月20日、政府とSPLAが
和平の枠組み(Machakos Protocol)に合意。南部の帰属をめぐる住民投票を6年後(2008年)に実施することなどを柱とする。
7月27日 バシール大統領とSPLAのジョン・ガラン最高司令官が、ウガンダのカンパラで初会談。
8月12日 包括的和平合意を目指した交渉が再開される。周辺国で構成された政府間開発機構(IGAD)の和平プロセスが進展。

2003年

ダルフール地方の反政府勢力が武力闘争を開始。 政府からの支援を受けたアラブ系民兵組織ジャンジャウィードが大規模な虐殺と破壊を繰り返す。約 20 万人の死者、約 200 万人の難民・国内避難民が発生

2004 年 11 月 ルンベックでSPLAの会議。キールはガランをはじめ SPLA内部の腐敗について批判。ガランの個人支配についても批判。

今井さんによれば、SPLA 内部には腐敗もあり、ガランを筆頭に幹部の多数が豪邸に住み、豪勢な生活を営んでいた。キールは幹部の多くと異なり、腐敗とは無縁な人物として知られていた。


南北和平交渉と独立への過程
2005年

1月9日 ケニアのナイバシャで、第二次スーダン内戦の包括的な暫定和平合意が締結され、南北包括和平合意 (CPA) が実現。合意の主な内容は

1. 自治権を有する南部スーダン政府の成立
2. アル=バシールを大統領、ジョン・ガランを第一副大統領とするスーダン暫定政府の発足
3. 大統領選挙、議会議員選挙の実施(5年後)
4. 南部スーダンの独立を問う住民投票の実施(6年後)
5. 南部の宗教的自由(シャリーアの不適用)
6. 南部スーダンで産出される石油収入の南北原則均等配分


1月9日 南部スーダン自治政府が成立する。初代大統領にジョン・ガランが就任。サルバ・キールが副大統領となる。22 年間に及ぶ内戦は終結。内戦による死者は約250万人、発生した国内避難民は 400 万人、国外難民は 40 万人にも上る。
2月 SPLA、北部軍の拠点であったジュバに入る。臨時首都のルンベクに代わり南部スーダンの恒久的首都と宣言。(ジュバは、21年間にわたりSPLAの包囲を受けながら北部軍が確保し続けた)
7月 新スーダン政府が発足。SPLAのガランが第一副大統領に就任。南スーダンの大幅な自治を認めた新憲法が公布される。
8月11日 ガラン、ウガンダでの会談の帰路、ヘリコプターの墜落により事故死する。北部人と南部人の衝突が相次ぎ、内戦再発の危機を迎える。
9月 キールがスーダン共和国第一副大統領及び南部スーダン自治政府第2代大統領に就任。キールの大統領昇格に伴い、SPLAに復帰したマチャルが副大統領に就任。
10月 
南部スーダン自治政府が発足。SPLAが自治政府の主導権を握る。

脆弱な平和

このあとの記事は、BBCニュースから主として拾っている。

2006年


11月 スーダン政府軍とSPLAがマラカルで衝突。数百人の死者を出す。
2006年 
合同統合任務軍「アフリカの角」が創設される。中国のスーダン進出に対し、米国が軍事的プレゼンスを確保するためとされる。
2007年 SPLA、南北境界紛争とダルフール問題(イスラム教徒民兵)でのハルツーム政府の不誠実を理由に国民統一戦線内閣から離脱。2ヶ月後に復帰。

2008年
5月 産油地域のアビエイ(Abyei)で、南北両軍の戦闘が激化。
6月 バシルとキールの会談。アビエイ問題で国際的調停を仰ぐことで合意。

2009年

6月  国際刑事裁判所(ICC)は、バシール大統領に対して、ダルフールにおける人道に対する罪により逮捕状を発行する。
6月 ハルトゥーム政権が南スーダンの少数民族に武器を渡し内紛を煽っているとの情報が流れる。ハルトゥームはこれを否定。
12月 南北スーダンの指導者が会談。独立を問う国民投票を11年3月に実施することで合意。

2010年

1月20日 
南北の内戦終結5周年を祝う式典が開かれる。これに出席したバシール大統領は、「住民が選択(分離独立を)した場合にはスーダン政府は南部の(完全)独立を承認する」と発言した。

1月 南スーダンで住民投票。完全独立を望む票が圧倒的多数を占める。

2月 ジョングレイ州アビエイで治安部隊と独立派の衝突。100人以上の死者を出す。

3月 南スーダン政府、北によるクーデターの企てがあったと非難。南北対話を停止。

4月 南スーダン自治政府の大統領選挙。キールが得票率92.99%という圧倒的大差で再選される。

南スーダンの完全独立

2011年

1月9日 独立か自治かを問う住民投票が実施。分離独立票が圧倒的多数 (98.83%) を占めた。

5月 北スーダン、アビエイの係争地域を占領。
6月 南北政府、アビエイの係争地域を非軍事化し、エチオピアのPKOに委ねる協定に調印する。
7月9日 スーダン共和国の南部10州が、アフリカ大陸54番目の国家として分離独立し、「南スーダン共和国」(The Republic of South Sudan)になった。SPLMは政権与党となり、SPLAは正規軍(南スーダン軍)に再編成された
7月13日 国連安保理決議1999により国際連合総会に対し国際連合への加盟が勧告され、翌日の総会にて加盟が承認され193番目の加盟国となった。
8月 国連、ジョングレイ州で人種間の衝突により少なくとも600人が死亡と発表。
9月 南スーダン政府、ラムシェル(計画のみ)を将来の首都とすると決定。
10月 キール大統領、独立以後最初のハルツーム訪問。懸案を解決するためにいくつかの委員会を設置することで合意。
10月 SPLAがユニティ州のマヨムを攻撃。少なくとも75人の死者を出す。このあと国境地帯で武力衝突が相次ぐ。明らかになったのは氷山の一角とみられる。

11月02日、北スーダン管轄下の南コルドファン州タロディで、スーダン政府軍と「スーダン人民解放運動・北」が激しい戦闘。
「スーダン人民解放運動・北」(SPLM・N)は合意された南北国境より北に住む黒人系住民の武装組織。北スーダン政府の黒人系住民排除の動きに抵抗して組織された。
11月03日 
北スーダンの青ナイル州クルムクで、SPLM・Nの拠点がスーダン政府軍に攻撃される。約2万8700人の難民がエチオピアに脱出。
11月 南スーダン政府、北軍機がユニティ州Yida の難民キャンプを空襲したと非難。北スーダン軍は空襲の事実を否定。


2013年

1月 
スーダン政府との石油に関する交渉が停滞,南スーダンは,原油生産停止を決定
1月 ジョングレイ州で人種抗争のため10万人が難民となる。南スーダン政府はジョングレイ州に非常事態を宣言。
2月 南北スーダン政府、相互不可侵協定に調印。その後パイプラインの使用量をめぐる交渉が決裂し、北スーダンは南からの石油パイプラインを閉鎖。南スーダンはこの結果公務員給与以外の支出の半減を迫られる。
4月 南スーダン軍、数週間にわたる国境紛争の末、北スーダンのコルドファンにあるヘグリグ油田を一時占拠。スーダン国民会議は南スーダンを敵とみなす決議を採択、スーダン軍が南スーダンのベンティウを報復空爆する。国際連合安全保障理事会は、両国に即時停戦を強く求める。
5月 南北両軍がともにアビエイから一方的撤退。
6月 南スーダン、経済的悪化の中で最初の独立1周年式典。
8月 国境地帯のスーダン側で北軍とSPLA-Nとの武力衝突。戦闘地帯から20万人が南スーダンに逃げ込む。
9月 南北大統領がエチオピアで会談。
通商、石油、軍事に関する9つの合意文書に署名。国境に非軍事緩衝地帯を設定すること、石油販売を再開することで合意。アビエイ地域の帰属など領土問題では合意に至らず。

2013年

4月 南北間の厳しい価格交渉の末、原油生産が1年ぶりに再開される。また国境地帯に非武装地帯を作ることでも合意。
5月31日、安倍晋三首相とサルバ・キール・マヤルディ大統領の会談。南スーダンに日本大使館を設置することが決定

内戦の開始

6月 キール大統領、マニべ財務相とアロール外相を罷免。免訴特権も取り上げる。両者には数百万ドル以上の金融スキャンダルがあった。

7月 キール、内閣の全閣僚とSPLAの主要幹部を全て解任する。マチャル副大統領も解任される。SPLA内部の権力争いが背景にあったとされる。

12月14日、首都ジュバにおいて軍の一部と大統領警護隊が衝突。

12月16日 サルバ・キール大統領は、衝突がマチャル前副大統領によるクーデターであったことを公表し、前閣僚を含めた関係者を逮捕。

12月 マチャル派部隊がボルを占拠。他にもいくつかの町がマチャル派の手に落ちる。ユニティ州を防衛していた指揮官がマチャル派に寝返り、北部の国境地帯(油田地帯)がマチャル派の手に落ちる。

12月 ウガンダ軍部隊、南スーダン政府軍の立場に立ち戦闘に参加。


2014年

1月23日 両派間で停戦合意が結ばれる。2月まで数回にわたり停戦合意が成立するが、戦闘はおさまらず。

2月17日 ボルで国連派遣団(UNMISS)の施設が武装グループに襲撃される。避難していた民間人ら少なくとも20人が死亡、70人以上が負傷した。報道では誰がやったかを明らかにしていないが、明らかにマチャル派であろう。

4月 マチャル派が油田地帯の主要な町ベンティウを占拠。200人以上の民間人が殺害され、400人以上が負傷。

6月 国連安保理、南スーダンの食糧危機は世界最悪と発表。4月までに数千人が殺され、避難民は100万人以上にのぼる。さらに500万人が人道援助を必要としている。NGO「平和基金会」が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となる。

8月 政府間開発機構(IGAD)による調停により、アジスアベバで政府と反政府勢力との和平交渉が始まる。


2015年


2月 6月に予定された総選挙は紛争が続くため中止となる。

3月 反乱軍、ユニセフの要請に応じ少年兵250人を解放。ユニセフの観測によれば、この戦闘で少年兵1万2千名が動員されているという。

8月 キール大統領、国連の圧力に屈し平和提案に応じる。マチャルは副大統領に返り咲く。

8月 キール大統領派とマシャール派が合意。無期限衝突停止宣言や国民統一暫定政府設立などを定める。この間の衝突で5万人が死亡、避難民は230万人以上と推定される。経済はインフレ率295%に達する。


2016年

9月23日 タバン・デン・ガイ第1副大統領が国連総会で演説。情勢は安定しているとし、国連の地域防護部隊の配備に反対を表明。

11月1日 バン・キムン事務総長、7月事態を受け、国連南スーダン派遣団の司令官を更迭。司令官の出身母体であるケニアはこの措置に抗議し、駐留軍全部を撤退させる。

11月17日 AFP バン・キムン事務総長、安保理あての報告。治安状況は悪化しており、混沌とした状態。①大規模な残虐行為が発生する非常に現実的な危険がある。②国連の平和維持部隊は大量殺りくを阻止できない。

11.17 国連安全保障理事会が開かれる。米国は武器禁輸の決議案を提出。和平実現の「元凶」となっている政府指導者らの資産凍結や渡航制限ももとめる。



ずっと気になってはいたが着手しないままになっていた。

内部の力関係はおそらくケニアやルワンダと似たようなものだろうと思っていた。アフリカにおけるナショナリズムの目覚めは1960年ころだ。

この頃から域内先進国の中心部では植民地支配を排撃する運動が、種族や部族を越えた「民族」という求心力のもとで語られるようになった。

しかしそれはあくまでも都市部の知識人や組織労働者などに限られており、それが周辺部まで行き渡るのにはなお数十年の月日を要した。それは今もなお進行中であり、都市部における資本主義的(むしろ商業的と言うべきか)生産システムがいかに発展するかにかかっている。

この歩みを強引に進めようとしていくつかの社会主義的実験が試みられたが、それらはいずれも失敗に終わった。しかし精神としての進歩主義、パン・アフリカニズムはある程度は受け継がれている。

サブサハラの中では、東部の大地溝地帯はむしろ先進地帯に属する。エチオピアからウガンダ・ルワンダへと続くゾーンは比較的人口稠密な高原地帯であり、粗放ながら農業を基盤とする社会が成立していた。

ただし南スーダンはその中では激しく落ち込んだ地帯であり、ナイルの氾濫原が酷暑の中に広がる農業不適地帯である。

そこは北のアラブ世界と南の高原地帯をつなぐ結節点として意義を持っているところだと考えてよいのではないか。
率直に言えば、ネーション・ステートとしての「塊」はそこには感じられない。突き放して言えば、ルアンダ・ブルンジ並みに細切れ国家にならないと、民族国家としてのスタートは切れないのではないか、とさえ思ってしまう。 

そんな感じで、年表づくりに入ってみたい。

猫のヒゲというのが気になる。どうもただのアクセサリーではなく知覚に係る機能を有しているようなのだが、人間とどこが違うのかが定かでない。

猫だけではなく霊長類を除く哺乳類にはみなあるようだが、霊長類になって「退化」したのはなぜか。その機能は何か他の器官によって代償されているのか。

SWEETCAT 子猫のへや 

というサイトに少し解説が載っていた。

1.学問的には「触毛」(Vibrissa)と呼ばれる。

猫のひげは通常の体毛よりも2倍太く、また通常の3倍も深く体内に埋め込まれている。

2.猫のヒゲはこんな所に生えている

ヒゲの位置と名前

上唇毛

鼻下のヒゲ

12~14本

口角毛

上唇毛の後ろ

1~2本

頬骨毛

上唇毛の後ろ

1~2本

上毛

眉の上

約6本

頭下毛

顎ヒゲ

短毛数本

2.猫のヒゲには神経が集中している

猫のヒゲの根元は液が入った袋のようになっていて、ヒゲはここに浮いた格好になっている。

ヒゲの根元にはたくさんの神経が集中していて、微妙な振動でも敏感にわかる

と書いてるが、この記述は少々不正確なようで、別の記事にはこう書いてあります。

毛根部(毛包)には環状洞という感覚受容器がある。洞内は血液で満たされており、ひげの振動を増幅して近くに分布している知覚神経へと信号を伝える。

kanjoudou

3.ヒゲで空気の流れを感じとる

猫はヒゲで空間を認識することができる。ただし“空間認識能力に長けている”とか、“動く物の動きを読み取る感知型センサー機能という表現は言いすぎでしょう。

「光線を利用せずに周囲を知覚する」ということでは、下記の表現が適切だと思います。

空気の揺れとか振動という意味では、音波(低周波)を感じているかもしれません。

猫が物に近づくと空気の流れが乱れる。その変化をヒゲが感じとる。そのため暗闇の中でもぶつからないように歩ける

以下も多少眉唾ですが、一応転記しておきます

猫は人間の約10分の1しか視力がないといわれるほど、とっても目が悪いから、その分、ひげで情報をキャッチしている

4.ヒゲで感情も読み取れる

リラックス時には垂れ、緊張時はピンピン伸ばす。恐怖に遭遇したときは、頬にペタッとくっつくそうです。(ただ、これについては書き手が違うと記述が違うので、鵜呑みにはできません)

まぁ、一般的にはこんなもの。しかし当然誰か詳しく研究しているでしょう。


ということで、ウィキに行く

ネコそのものの記載が延々と続くが、その中で名キャッチコピーがあった。

「待ち伏せ型の肉食獣」

である。

すなわち相手にさとられずに相手を補足することが死活的に重要なのだ。いわば潜水艦的機能ですな。

海の底だから視野は限られる。だいいち、目で獲物を見つけるのなら、獲物の方も見つけるだろう。だから視覚・聴覚以外の機能を鍛えなければならない。

あらゆる生体機能がそのために特化している。潜水艦のソナーを考えれば分かりやすいが、そのようなものとしてネコのヒゲもとらえることができるのではないか。

視力・聴力・嗅覚について

「猫は人間の約10分の1しか視力がない」と書かれていたが、ウィキには視力についての記載はない。

「8m位の距離ならば人間の顔を識別する」と書いてあるから、優秀とはいえないが、それほど悪くはなさそうだ。そのくらいの近眼なら世の中ザラに居る。
それと猫の目は昼間使うわけではない。もとめられるのは暗闇で明視できる能力だ。こちらの方は人間よりはるかに優れているようだ。ただし色盲らしい。たしかに夜向けの赤外線カメラ的な目だ。

だから暗闇で車のライトを浴びると一瞬見えなくなってしまうのかもしれない。

聴力は良いのは良いのだが、特徴的なのは高音に強いことで、ネズミの鳴き声を聞き取るために特化したらしい。

嗅覚も良いが、犬とは違ってそれを狩りに利用することはないとされる。むしろ縄張りの確認に用いられるらしい。

ヒゲについて

ウィキでは触毛ではなく洞毛と記載されている。ただし英語は同じVibrissa である。

細かい記載はほとんどなく、洞毛の項目へ行けと指示されている。

以下は省略するが、何と言っても「待ち伏せ型の肉食獣」という規定は魅力的である。人間だとどう言うのだろう。

とりあえず「可変集団型・追跡型の雑食獣」だろうか。

昨日のテレビでパーボ・ヤルビと武満徹の娘が対談していた。といっても武満の娘が一方的に喋って、それをヤルヴィが一生懸命聞いているのだが、とても面白かった。
武満は作曲家=芸術家というより作曲屋さんで、とにかく朝起きてはせっせと曲作りをして、それが午前中で終わると後はフリータイム。あえて言えば「充電時間」に当てていたという。
こういうのが「勤勉」というのだろうな、と思った。
確かに「勤勉」は美徳だが、1日10時間以上も働くのが勤勉ではない。
野球のピッチャーなら成功しようが失敗しようが1週間に一度しか投げない。だからといって決して残りの6日間を遊んでいるのではない。脳ミソを絞って、体力を一気に発散できる時間はせいぜい4,5時間なのである。それがサステイナブルな生産スタイルなのである。
労働スタイルではない。労働なら1日10時間、それを週に5日間なら十分働ける。
労働と創造にはそれだけの違いがある。しかし逆に言うと週に50時間労働できる体力と経験なしに週に10時間の創造は維持できないのである。



 

1週間いない間に世界は動いていた。

ドイツ銀行の経営危機の報道は目を疑った。それとともにメディアがこの情報をほとんど扱わないことにも驚いた。

ドイツ銀行といえば、以前より素行不良の噂が後を絶たず、いつかは何かが起こるだろうとは思っていたが、まずは状況がよく飲み込めない。

BLOGOSに以下の記事があったので斜め読みしてみる。

My Big Apple NY2016年10月02日 

バロンズ:ドイツ銀行問題は、リーマン・ショックの再来か

という恐ろしい見出し

A) 事件の顛末

1.ドイツ銀行の株価と債券価格は前週に急落した。すでにヘッジファンドはデリバティブの担保として預けていた資産を引き揚げた。

2.急落の原因は、米司法省が住宅ローン担保証券をめぐり140億ドルの和解金支払いをもとめたことだ。

3.ドイツ政府はドイツ銀行を救済しないとの報道が飛び出し、事態は深刻化した。

4.9月30日、ドイツ銀行経営者はヘッジファンドの資金引き揚げを認めた。そのうえで、その懸念には正当性がないと非難した。

5.同じ日、米司法省が和解金を54億ドルへ引き下げ、両者が合意したと報道された。これに市場は反応し、株価と債券価格は値を戻した。

というのが顛末。

B) 事件の背景

しかしその背景を見ると、決してめでたしめでたしではない。

1.ドイツ銀行の時価総額は200億ドルたらずで、身売りが囁かれているツイッターをやや上回る程度だ。

2.ドイツ銀行は60兆ドルものデリバティブを抱える。金融危機が発生すればカウンターバーティーが契約を履行できない恐れがある。

3.簿価の大幅な欠損によって必要な増資が困難となり、バランスシートを支えられない。

4.ドイツ政府は財政健全化を訴えてきただけに、大手銀行の救済には及び腰となるだろう。

C) 事件の波及効果

記事はアメリカと世界金融への影響についても触れている。

1.ヘッジファンドの欧州銀行からの資金引き揚げは、LIBOR(ドル3ヵ月物ロンドン銀行間取引金利)を押し上げるだろう

2.LIBORは米国内のローンの基準金利となり、住宅ローン金利を規定している。住宅建設にブレーキをかけるには十分だ。

3.金融市場に緊張が走れば、FOMC(米連邦公開市場委員会)の利上げペースにもブレーキが掛かるだろう。

D) 事件の裏側

記事は、以上のような背景を踏まえ、司法省が和解金を割り引いたのではないかと見ている。

逆に、140億ドルというのはブラフだったとも考えられる。EUのグーグル提訴への対抗措置だったとの観測もある。

それがヘッジファンドの素早い動きを見て、急激に方針転換した可能性もある。その背景としてはアメリカ大統領選があり、トランプを利するような情勢激変を避けたいとの判断が働いたのかもしれない。

というのがこの記事の骨子。

新潟県知事選挙の怪

民進党が新潟県知事選挙で自主投票に回ったそうだ。

理由がさっぱりわからない。候補の米山隆一さんはれっきとした民進党員だ。

それでもって、いったんは米山さんは立候補を断念したか、他の野党や市民勢力からの強い要請を受けて立候補の決意を固めたという。

とにかく戦えば勝てる見込みがある選挙だ。先日の参議院選挙でもそうやって勝利している。つまり民進党は勝つのが嫌だということだ。

さらに記事を読み込んでいくと、民進党県連は棄権という形で事実上自民党候補の当選を欲しているようだ。だから米山さんは離党しての立候補という形になった。

この選挙は民進党が新執行部になって初めての重要な選挙になる。最初から不戦敗と自民党の不戦勝を選択するようでは新執行部の鼎の軽重が問われる。


とにかく情報を収集して見る必要がある。

最初はIWJ independent Web Journalの記事から。

*今回の判断は県連のものだとされている。新執行部は結果としてそれを追認したらしい。

*路線変更の理由は詰まるところは原発のようだ

*民進党執行部の基本は「原発再稼働については、再稼働はしつつ、国も責任を持って避難計画を提示するという中で再稼働を考えていく」というものなのだそうだ。

地方独自の特性もありますし、事情もある。国会の中では、安倍自民党と対峙しながら、各地方においては実情を踏まえながら対応する。

*新執行部は県連の意向を尊重する。東京都知事選では旧執行部が候補を差し替えたが、その路線はとらない。

同じサイトの別の記事 前回統一候補として参議院選挙で当選した森ゆうこさんが語っている。

参院選では野党連携の選対の一体感がすごかった。その選対の強いきずなと一体感で、このたびの知事選に臨む

ということなので、おそらく民進党は割れるだろう。

そもそも泉田知事が任期半ばで辞任した理由がわからない。どうもウラで動く勢力がありそうだ

同じサイトの別の記事 8月末のものである。

新潟県の泉田裕彦知事が8月30日、新潟日報の報道への不満を理由に知事選への出馬取りやめを発表した。

 泉田知事は知事選への出馬を取りやめた理由として、「日本海横断航路問題」(県の第3セクターの船購入トラブルをめぐり、県の関与を追及する新潟日報の報道)を挙げ、「憶測記事や事実に反する報道」と指摘。「このような環境の中では、十分に訴えを県民にお届けすることは難しい」と説明した。

これではさっぱりわからない。泉田さんの説明は辞める理由になっていない。

この記事には続きがある。ただ正直、噂話の域を出ない。一応いくつかの説を挙げておく。

地元紙からの攻撃だけでなく、新潟県内では“泉田包囲網”が出来上がっていた。今月には泉田さんと近い自民党県議が県連会長を辞任している。泉田さんは嫌気が差したようです

*東電は新潟日報に最近全面広告を5回も出しているそうです。一回1000万円とか。知事の撤退が発表されて東京電力の株価が上がっている(テレビ新潟)

*私が引くことで新潟をどうするか、原発にどう向き合うのかという純粋な議論ができる(引退記者会見)

なおこの記者会見での、泉田知事の最後の発言は非常に感動的である。ぜひ全文をお読みいただきたい。(このサイトはそのために紙面を無償公開してくれています)

ということで、泉田さんがやめた理由は薄々見えてきた。

1.まず自民党県連の外堀を埋めた(夏の陣)。それが8月末の県連会長の辞任という形で完了した。

2.その上で泉田知事への直接攻撃を開始した。これは2つのねらいがあって、ひとつはスキャンダルに仕立てることによって泉田の首を取ろうということ、もう一つはこれを争点化することによって原発を背景化しようというものだ。

3.そこで泉田知事は死に体となった自分の首を差し出すことで、攻撃の芽を摘み取り、原発そらしを回避しようとした。

ということになる。

話は前段までだが、いったん文章は閉じる。

ただここまで分かると、東電の圧力がここまで来ているとすれば連合にも同じ圧力がかかっていると見なければならないだろうと思う。




豊洲新市場 共産党が明らかにしたこと

連日テレビで豊洲問題を大々的に扱っている。これ自体は大変良いことで、世論は大きく変わりつつある。

ただテレビを見ていて「ちょっと問題が矮小化されているのではないか」という感じはある。

共産党が明らかにしたことは次の点である。

1.地下空間の区域は新市場全体の面積の3割を越える。「そこだけ使わないで済ます」という逃げを打てる状況ではない。

2.地下空間のある5つの建物のうち4つで地下水が溜まっている。この内、青果棟地下には、強アルカリ性の地下水があり、ヒ素が検出(ただし環境基準以下)

3.地下空間に向けて6箇所の重機搬入口があり、土壌汚染の可能性を想定したものであること。(水位上昇時は盛り土まで汚染される可能性があること)

ということで、もはや議論の余地はない。
とりあえずメモ書きしておく。
10日分溜まった赤旗の圧力は凄まじい。 

25日の日曜から本日まで、釧路に旅行してきました。
 この間、パソコンには指一本触れない生活を送りました。
もちろん毎晩のごとく飲み歩いていたのですが、それでもずいぶん本が読めてしまいました。
行くに際しては「多分これ一冊あれば足りるだろう。ページを開けただけで眠くなるだろうという確信のもと、薮下史郎さんという人の書いた「教養としてのマクロ経済学」という本だけ持っていったのですが、なんと4日間で読んでしまいました。
ハードカバーで360ページ、これがなんと2千円というのですから、教科書用に大量印刷したのでしょう。数式のところはさっぱりですが、「これがマクロか」という感じはつかめました。
ただ一番知りたかったこと、「資産とは何か」というのはやっぱり書いてありませんでした。
マクロ経済と言っても、結局GDPから始まってしまうのですが、GDPというのは1年間の富の生産量ですから
 

↑このページのトップヘ