鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

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2016年08月

田岡嶺雲について調べてみた。

朱琳(ZHU Lin)「田岡嶺雲とその時代 ―ある明治の青春―」という格好の読み物があった。

そこから抜書きしておく(一部仮名遣い改編)。興味のある方は直接原文にあたって欲しい。

1.田岡の階級意識

十九世紀の所謂文明開化なるものは、富者に厚きの文明なり。自由の名の下に貴賎の階級を打破せりといえども、貧富の隔絶はこれによりて益々甚だしくなった。

唯物文明の進歩に伴ふ器械の精巧は、ますます労働者より職を奪った。文華の発達に伴ふ奢侈の風は、ますます窮乏者を塗炭の苦みに追い込んでいる。

今の文明は中流以上の徒を悪徳の風に陥めると共に、下流社会のものを悲惨の谷に突き落している。

下流民の大半は、優勝劣敗の社会の大勢に敗れて至りたるものである。彼等が罪悪を犯すに至ったとしても、寧ろ当然ともいうべきところがある。

あぁ文明といふなかれ、開化といふなかれ!

2.文化人のとるべき立場

詩人・文士同情を欠く可からず。

わたしは、天下の文士がおおいに社会の罪悪を暴露するべきだと考える。それだけでなく、同情の涙をもって人の道のために泣き、道義のために憤り、みずから警世の暁鐘、懲悪の震雷となることを望む。

ああ、この世で最も悲惨な運命、最も憫むべき生涯は、下流社会の徒のそれではなかろうか。そしてこの憫むべき民の生涯を描くことこそが、詩人文士のなすべきことではないだろうか。

世は既に才子佳人相思の繊細巧みな小説に飽けり、侠客烈婦の講談めきたる物語に倦めり。今日、作家たるものは満腔の同情を下流民に注ぎ、渾身の熱血を筆にそそぎて、「不告の民」のために奮って天下に訴えるべきではないか。

ちなみに同じ頃、嶺雲の対極にいた高山樗牛は以下のごとく主張している。“障害児18人虐殺犯”も真っ青の暴論である。

いわゆる社会主義の如きは天理人道に背馳せるものなり。国家事業として社会の劣者・弱者を保護すべき何等の理由も見い出せない。それどころか、社会進化の必然なる結果として、国家的活動の担い手となり得ない不能者 に余分な利益を与えるのは、「国家全体の幸福」において断然有害無益 なりと考えるものなり。

3.明治維新に続く「第二革命」の提起

嶺雲は明治維新に次ぐ「第二革命」の必要を提起した。

朱琳はそれを次のように紹介している。

維新の革命によって、「貴賎の門閥的階級」が打破されたが、現状ではさらに「第二の革命」を起こして「貧富の生計的階級」を打破しなければならない。ここで嶺雲は「富閥」の打倒を「第二の革命」の任務の一つとして提起し内容を具体的に示している。

以下が嶺雲からの引用

今日我が国において、富豪が勢力を増長し来らんとするはおおいに憂ふべきことだ。貧富の懸絶が大ならんとするはおおいに憂ふべきことだ。門閥が自由の敵ならば、富閥もまた自由の敵だ。門閥が平民の権利の敵ならば、富閥もまた平民の敵だ。

維新の革命をなしたる我が国民は、さらに第二の革命を富閥の上に加へるべきではないか。かの同盟罷工の如きは、もとより挙動不穏ではあるが、それも富者の専横に打撃を加ふるの一法だ。私は罷工者に同情する。日本鉄道機関方の同盟罷工においては、たしかに会社の非は言をまたざるものがある。

4.嶺雲と社会主義

嶺雲自らも言う通り、彼は社会主義者ではない。

朱琳は次のように述べている。

1893年に、彼はスペインからの解放を求めた第二次キューバ独立戦争にも参加しようと準備した。嶺雲は社会主義の先駆者というよりも、激動の明治時代の生んだ、反体制的な、東洋豪傑流の、志士タイプの文人であろう。

彼の思想には、大陸雄飛的アジア主義と人道主義を基礎として社会主義的思想へと繋がる流れがある。あるいは萌芽的な国家社会主義と呼ぶべきかもしれない。

そして嶺雲の言葉を引用する。

私の主義は科学から入つた者では無い、小説から注入せられた芸術的社会主義とでも謂ふべき者である。私は開戦論者で、この点に於て既に私は社会主義者たる資格を缺いてゐた。

これに対し幸徳秋水らは正統的な社会主義であつた、故に彼等はその主義として非戦論を唱へた。

奇しくも嶺雲は、大逆事件で幸徳秋水が捕らえられたとき、病気療養のため同じ旅館に寄寓していた。そして幸徳秋水の追悼者に名を連ねている。

年表を作ってみて分かったのだが、日本文学史における「自然主義」というのは実に微々たるもので、線香花火のように短命だったということだ。
明治39年という1年にすべてが集中しており、その前数年間にゾラの手法を真似た小説がいくらか書かれ、39年に洋行帰りの島村抱月が大々的に打ち出し、島崎藤村の「破戒」が発表されて、次の年には田山花袋が「布団」を書いて一気に時代を風靡した。そしてその数年後には文学の表舞台からおずおずと引き下がり、書き手の連中は「私小説」作家として生き延びていく。それが第二次大戦後は「純文学」作家としてえばり散らすという経過だ。
「日本型」自然主義の特徴は手法としての「赤裸々主義」でしかなく、四畳半的広がりしか持たない。
日本文学の革新性は田岡嶺雲の志向のもとにあった。彼は尾崎紅葉の戯作趣味を排撃し、階級性を打ち出した。これに対し高山樗牛があからさまな資本家の利害を持ちだした。
こういう真っ向勝負の中で、自然主義派は芸術の独自性を打ち出すことで抜け道を探った。その際こしゃくにも「社会的」傾向を持ち込むことによって科学派・進歩派のような装いを凝らした。
日露戦争後の社会的反動は、そのようなヌエ的な一派にも進歩の思想を紛れ込ませざるをえないような状況を現出した。
これら諸々の事情が、魚住折蘆の「自己主張の思想としての自然主義」に反映されている。だから、今の我々がこの論文を読んでもさっぱり分からなくさせているのである。「自然主義」は明治40年代、大逆事件直前の日本の文学状況のメタファである。「自然主義」が論理的ににっちもさっちもゆかなくなっている現状を、啄木は「時代閉塞の現状」と見ぬいた。
「自然主義」は意気地のない個人主義に過ぎない。日露戦争後の排外主義、軍国主義の跋扈という状況に対するへ迎合と後ずさりしながらの個人主義であり、それも大逆事件で後を絶たれる。
このような時代閉塞の状況を打破したのは、文化人ではなく、大正7年に富山から始まった「米騒動」という民衆の決起であった。

それを見ぬいた啄木の直感は「慧眼」と呼ぶにふさわしいと思う。

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