鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2016年08月

ウィキペディアの「記憶装置」の項目をお勉強。

定義

コンピュータが処理すべきデジタルデータを保持するのに使う、部品、装置、電子媒体の総称。

「記憶装置」は「メモリ」と呼ばれ、キャッシュメモリや主記憶装置などに用いられる。これに対し、補助記憶装置は「記録装置」として扱われ、「ストレージ」と呼ばれる。

万能記憶装置は現在のところ存在せず、用途が限定された数種類の記憶装置が組み合わせで用いられている。

記憶装置の階層構造

1.一次記憶装置(または主記憶装置)

CPUが直接アクセスできる唯一の記憶装置である。CPUはそこに格納されている命令を読み取り、実行する。

Computer_hierarchy

(パソコンの裏蓋開けて「メモリ増設」するときのメモリというのが「メインメモリ」なんですね)

これから先、急に説明が入り組んできて、最初の定義そのものが怪しくなってくる。

(これはなぜかというと、「一次記憶装置」は英語では primary storage だからだ。つまり英語ではメモリとストレージは使い分けていないということだ。だから一生懸命言葉を覚えても、アメリカではその用語では通用しないということになる。あほらしくなってきた)

本文を整理して書くと次のようになるかと思う。

Ⅰ CPU内のメモリ

これはレジスタとキャッシュメモリからなる。レジスタというの記憶装置なのだそうだ。ただしメモリとは呼ばないようだ。これが一番高速の記憶装置。

キャッシュメモリというのは説明を読んでも良く分からないが、こう書いてある。

システムの性能を強化するためだけに存在する層。レジスタより遅いがメインメモリより早い。

「ためだけに」というのが思わせぶりだが、

メインメモリ内の頻繁に使う情報をより高速なキャッシュメモリにコピーしておくことで処理速度を向上させる

ということだから、要するにメインメモリーが銀行口座の預金で、キャッシュというのはゲンナマの入った財布ということだろう。

ということはレジスターというのは、スーパーの会計のところにあるレジスターみたいなものか。

Ⅱ メインメモリ

メインというのは前の2つより圧倒的に容量が大きいからメインというのだろうが、「どこがメインか?」というのは人によって考えが違うから、少々誤解を招く言葉である。

計算過程が行われるのはレジスターであり、そういう意味ではレジスターこそメインであろう。

メインメモリとCPUのやり取りはキャッシュカードで金を引き出すのに似ているようだ。

言葉はえらく難しい。

CPUはまず、アドレスバスにメモリアドレスと呼ばれる数値を送り、アクセスしたいデータの位置を指定する。次にデータ本体の読み書きをデータバスで行う。

まぁ、暗証番号と口座番号を入れて金を引き出すようなものだろうか。

Ⅲ RAMとROM

A) 仮想RAMの思い出

これで一応一次記憶装置は終わりだが、その後に何やらわからない言葉が飛び出してくる。

RAM というのは、私には「仮想RAM」というソフトでおなじみだ。ネットで拾ってきたソフトで、メインメモリの一部を切り離して、ディレクトリを作成する。

例えば¥E: と名付ける。それからソフトの指示するままにいろいろ入力していくと。例えばFoobarのようなソフトが移植され、立ち上がり、起動可能になる。

これでハードディスクに置いたプログラムで再生するより音が良くなるし、音飛びとかエンストがなくなる。計算速度が速いらしい。

ただ、新しいパソコンに変えて、DACも交換したらほとんど要らなくなったので(結構トラブルも多かったので)、いまは使っていない。

その時思ったのだが、「これが仮想RAMならリアルRAMってなんだ?」ということで、それが未だもってわからない。

RAMという記憶媒体は電源を消すたびに記憶が「揮発」してしまうらしいのだが、実際にはどこかに避難するようにプログラムされているらしく、電源をつければ、見かけ上は「残っている」のと同じだ。

B) CD-ROM ってなにさ

むかし一度憶えた記憶があるが、内容の記憶は飛んでいる。私の脳は超揮発性だ。

テレビの「少年少女新聞」のCMではないが、「ウム、それはなにだ…」と絶句する。

CD-ROMなら二次記憶装置だが、ROMという装置はコンピュータにも内蔵されているらしい。ハードディスクよりは速いがメインメモリーよりは格段に遅く、BIOSだけ置いてあるらしい。

だけどBIOSって書き換え可能だよな…と思っていたら、ちゃんと書いてあった。

ROMは、実際には「リードオンリー」ではないことが多く、更新が可能である。しかし、書き込みは遅く、再書き込みの前に消去する必要がある。

二次記憶装置については稿を改める。

20時30分現在、室温32度。これは北海道ではない。熱帯夜そのものだ。昨夜は12時過ぎまで30度超えだった。雨が降ってはやんで、しかも雨が止むと風も止まる。生温かい風がそよぎ始めると雨が降り出して、吹き込むから窓を締めるしかない。
眠れないからアルコールが進む。次の日にはテキメンに応える。昼ごろに脱水症状が消失するが、たっぷり水分をとってしまったから食欲が進まない。シャワーをあびると瞬間気持ちが良いが、やがて汗が噴き出してきて元の木阿弥、湯疲れしたぶんかえってだるい。ビールを飲むと若干気持ちが持ち直す。
しかしアルコール・ハイというのは歯止めが効かない。
まぁ、こんなのは数年に1回、しかもたったの2日だけだ。クーバに行ったと思え。しかもただだぞ。
飲め飲め、クーバの夜を満喫しよう。(とエンジンが入ったのはアルコールが回ってきた証拠)
グルポ・シエラ・マエストラのCDはどこだったかな。

などとやっているうちに、突然強風が吹き始めた。ついに台風が来たようだ。

「“海馬”を究める」より「海馬の基礎知識」

池谷裕二さんという方が教室員とともに英語の教科書を翻訳したもののようです。ありがたい話です。

8-1 海馬と記憶・学習

1953年 HMという男性のてんかん患者が、両半球の海馬体とその周辺の脳部位を切除する手術を受けた。術後、HMは新しい情報を長いあいだ保持しておくことができなくなった。それ以外の点においては、彼の精神状態はおおむね正常であった。(Scoville et al 1957)

1986年 患者RBは冠動脈バイパス手術の最中、脳虚血に陥った。RBは顕著な順向性の記憶障害を生じたが、手術前の記憶に関しては、ほとんど、あるいはまったく記憶障害が見られなかった。

RBの死後、脳を解剖したところ、記憶障害に関係していそうな病理的な変異は、海馬CA1野の錐体細胞の完全な脱落のみであった。

海馬に限局された脳障害のみで、臨床上ひどい健忘症を引き起こすのに十分であることは明らかである。

海馬体の破壊でヒトと類似した記憶障害が生じることが知られている。

多くの実験結果から明らかになったことは、海馬が“イベントの順番”を記憶するのに重要な部位であることである。

外の世界を認識する地図が海馬の中に形成されているものと推測されている。この地図は動的で、様々に活性化されるユニットの組み合わせとして働く。

こうした海馬の内部表象が、徐波睡眠中に海馬で内部再生され、大脳皮質にあるより詳細な経験情報が相互作用することによって、長期的な記憶が形成される。

8-2 海馬と疾患

てんかん

海馬は脳の中でもっともてんかん発作の閾値が低い。てんかん動物モデルでは、発作に関連する電気活動の多くが海馬から記録される。

海馬がてんかん様活動を起こしやすいのは、錐体細胞同士が興奮性の再帰回路を形成しているからである。

アルツハイマー病

海馬は記憶・学習に重要であるから、アルツハイマー病で海馬が障害されたとしてもおかしくない。

アルツハイマー性の病理が最初に現れるのが嗅内皮質である。海馬以外の脳部位も影響を受けるだろうが、能力が劇的に奪われてしまうのは、なによりも海馬であろう。

低酸素障害

虚血や無酸素症によって細胞脱落がおきる。NMDA受容体を介した興奮毒性によるものと考えられている。

このように海馬はかなり不安定な脳部位であるが、これは海馬が新しい情報を素早くコード化するために海馬が払った代償であろう。

統合失調症

統合失調症患者では海馬の大きさが有意に小さく、形態学的にも異常が観察される。

しかし、それらの異常がどうして幻覚や精神異常を引き起こすのかはまだ謎である。

ということで、「海馬イコール人間の記憶装置」という割り切りにはかなり抵抗を覚えつつ、とりあえず海馬の勉強に入る。

まずは素人向けの解説から

日本学術会議 おもしろ情報館  というページ

最初の部分は、マクリーンの三位一体説がそのままなぞられている。


真ん中にある「大脳辺縁系」は「馬の脳」といわれ、喜怒哀楽などの感情をつかさどる部分です。これがないと豊かな感情がなくなる。

などと、きわめて粗野な形で述べられている。

これに対し脳幹は「爬虫類の脳」とされ、「これがなければ死んでしまう」と書かれている。

いいかい、爬虫類は「ただ生きているだけ」の存在じゃないよ。馬が爬虫類より高級か? そんなことは簡単には言えない。
鳥(現存する爬虫類)にも馬並みに豊かな感情はあるし、烏の学習能力は到底馬ごときの及ぶものではない。

(1)新しい記憶の箱

大脳辺縁系の一部である

とさらっと書いてある。これはしかし重大なことではないか。「海馬病」は大脳の病気ではないのだ。
もう一つは、海馬は発生学的には古皮質であり、新皮質としての頭頂葉や側頭葉とは別途扱わなければならないはずだ。血管系も違うのではないか?
古皮質はもともと前脳に付属する装置であって、前脳+古皮質で脳機能は完成しているはずだ。そこに後から新皮質が加わって脳機能が精緻化したのだ。少なくとも大脳新皮質の要望に応えて後から出来たとか、機能を変えたということはありえない。


海馬はタツノオトシゴ(海馬)のような形をしています。

日常的な出来事や、勉強して覚えた情報は、海馬の中で一度ファイルされて整理整頓され、その後、大脳皮質にためられていく。

つまり、「新しい記憶」は海馬に、「古い記憶」は大脳皮質にファイルされているのです。

海馬は、とてもデリケートで壊れやすい

例えば酸素不足で脳がダメージを受けるとき、最初に海馬あたりから死んでいく。

強いストレスにさらされたときにも、海馬は壊れてしまう。PTSDでは極端な恐怖やストレスで海馬に異常が現れる。

(2)消えない記憶の箱

記憶には、頭で覚える「陳述的記憶」と、体で覚える「手続き記憶」(技の記憶)の2種類があります。

「海馬」は、「陳述的記憶」をするときに、大切な役割をはたしています。

「手続き記憶」(技の記憶)では、大脳基底核と小脳が主座となる。大脳基底核は大雑把な動きを記憶し、小脳はそれを細かく調整する。

この記憶は認知症になっても消えない。

(3)心の黒板

前頭連合野は、脳のあちこちにファイルされている情報を集めて、一時的に保存する(ワーキングメモリー)。

そして集めた情報を組み合わせて、プランを立てる。

「ワーキングメモリー」こそ、もっとも人間特有の記憶といえる

アルツハイマーと記憶障害

アルツハイマーと記憶障害

まずはアルツハイマー病で記憶障害が起こるメカニズムについておさらいしておく。

から、記憶障害に関する事項を拾っておく。
1901年 精神科医でクレペリンの門弟アルツハイマーが、嫉妬妄想、記憶力低下などを主訴とする患者アウグステ・Dを症例報告。
1910年に師匠のクレペリンが教科書を発表。この中で「アルツハイマー病」として大々的に取り上げる。

1911年にアルツハイマー患者の剖検脳を、鍍銀染色で検討した結果が発表される。病理所見は次の3つにまとめられる。

1.大脳の萎縮,皮質の神経細胞の減少,

2.老人斑(シミのような異常構造)の多発,

3.神経原線維変化(神経細胞中の繊維状の塊)

これは50年後に電子顕微鏡で更に詳しく検討され、老人斑の本態はアミロイドであること、神経原線維の変化は神経細胞の成分であるタウが過剰リン酸化により変性したもの、というところまで進んだ。

アミロイドについてはその後の検討で、アミロイド・ベータ蛋白であることが分かった。この蛋白は細胞膜を構成するAPPという蛋白の壊れた残骸で、脳で常に産生されており、これが排出されずに細胞内にとどまり蓄積していることが分かった。

このアミロイド・ベータ蛋白が細胞内の過剰リン酸化をもたらし、これによりタウが変性を起こし、最終的に脳細胞の死をもたらすようだが、どうもこの辺の機序は良く分からない。

次はは素人向けのやさしい解説。

認知症ネットというサイトの「記憶障害とは」というページ。

認知症に関する記憶の種類には、短期記憶、長期記憶、エピソード記憶、手続き記憶、意味記憶の5つがある。

(1)短期記憶障害

海馬に格納される記憶。時間の経過とともに忘れ去られるか長期記憶に移行される。

認知症の記憶障害の主徴候を成す。

(2)長期記憶障害

普段は考えていなくても、何かのキッカケで記憶の底から思い出すことのできる記憶(分かりやすそうで分かりにくい説明)

(3)エピソード記憶の障害

体験したこと(エピソード)そのものを忘れてしまう障害(これも分かりにくい説明)

(4)手続き記憶の障害

身体で覚えたことを忘れてしまう障害。

(5)意味記憶の障害

言葉の意味を忘れてしまう障害

ということで、素人向けに端折っているので、かえって分かりにくい。まぁ5種類あるということが分かればよいか。

それにしても非論理的な分類だな。いかにもアメリカ心理学風だ。

 


次は「アットホーム介護」というサイトの「なぜアルツハイマー型認知症は記憶障害から始まる?その謎に迫る」というページ

 

人間が物事を記憶し、思い出すには3つのプロセスが必要です。

まず、新しい物事を覚えること「記銘」し、次に、それを脳の中にしっかりと「保持」し、次に必要な時に取り出す「想起」というプロセスを経て、初めて物事を記憶し、思い出すというプロセスが成立します。

ウーム、前のが現象的分類だとすれば、今度はメカニズムによる分類だな。

アルツハイマ―型認知症を発症すると、この記憶の中枢的存在の海馬付近に病変が発生します。

アルツハイマ―型認知症の始まりは、海馬近辺です。その、海馬から側頭連合野や頭頂連合野といった別の脳の部位に移された記憶には、初期段階のアルツハイマー型認知症の影響が及んでいないのです。

というが、本当にそうか。認知症は「海馬病」なのか? そこが知りたいのだが…

別のページにもこう書いてあった。

アルツハイマー病では、学習に関連する海馬の脳細胞が最初に損傷を受けることがよくあります。そのため、特に最近学習した情報を思い出すことができなくなるといった物忘れが、しばしばこの疾病の初発症状となっています。

もう一つ別のページ

アルツハイマー型認知症の特徴として、大脳の後半部(側頭葉、頭頂葉、後頭葉)の萎縮が次第に進むことです。

まず、脳の側頭葉と呼ばれる部分の海馬の脳神経細胞が減るところからはじまります。


理研のプレスリリースにこんなのがあった(2016年3月17日)。何かスタップ細胞を思い出してしまう。

アルツハイマー病で記憶は失われていない可能性 -アルツハイマー病モデルマウスの失われた記憶の復元に成功-」 

ADでは、記憶の形成、保存、想起に重要な海馬の周辺で神経細胞の変性が始まることから、海馬の異常が記憶障害を引き起こす可能性が指摘されていました。

その記憶障害が記銘障害なのか想起障害なのかは不明である。

今回はモデルマウスに嫌な思いをさせ、その最中の「記憶エングラム細胞」というところを遺伝学的標識でマークした。

翌日ふたたび嫌な思いをした環境に突っ込んだが、認知症マウスはたじろがなかった。ところが「記憶エングラム細胞」に青色光線を当てて活性化してやると、マウスは明らかに嫌がって、たじろいだ。

ということで、研究者は記憶障害は記銘障害ではなく想起障害だと推量しています。

ただこれも、アルツハイマーの主座が海馬であるという前提です。

なお、このニュースを「アルツハイマー病になって失われた記憶は復元できる可能性が示される」と報道しているサイトがありますが、この研究はあくまでもリサーチです。

 

ということで、どうも記憶障害は「海馬病」ということだ。

しかしアルツハイマーと「海馬病」は同じ病気ではない。アルツハイマーは遥かに広範な変化である。

ある説明ではアルツハイマーは海馬から始まって全体に及ぶようなニュアンスで記載されているが、果たして本当であろうか。

第二に、病理学的変化はさておくとして、臨床症状が海馬障害から始まるのにはなにか理由があるのか、これも良く分からない。

第三に、記憶といえば海馬と戻ってくるが、本当に海馬がすべてであろうか。むしろ判断する中枢のそばにそれぞれに特化した記憶装置があると考えるべきではないか。例えば (4)手続き記憶と書いてあるのは、かなり頭頂葉・小脳に属する記憶ではないだろうか。

いずれにしてもアルツハイマーにおける記憶障害を概念付けるためには、まずは海馬の構造と記憶の過程から始めて、脳の記憶システムの全体像へと進んでいくしかなさそうだ。

 どうも、齢70歳(1946年9月生まれ)にしてもう一つチャンスが巡ってきたようだ。

とりあえずお世話になった老健で、相棒の医者が病気で倒れたために、いろいろ責任が生じてしまったのが、来年3月でお役御免になりそうだ。

これを機会に色々と勉強をしたいと思ったが、考えてみるとまだ五体は動く。スタミナはないが多少の金はある。もう厚生年金は払わなくてよい。

嫁さんの病気はますます進行しているが、介護の皆さんが頑張ってくれるおかげでなんとか日中のまとまった時間はとれる。

であれば、少し大江風に「遅れてきた青年」をやってみるべきではないかと考えている。学生時代のセツルメント活動を思い出して、社会貢献ができないかと思っている。

一番心残りなのは「無料・低額診療」だ。ココらへんは勤医協でしっかりやってはくれるだろうが、とりあえず前線で損はかぶってでもファーストエイドをやって後方に送る医療が必要だろうと思う。

こういう場所が街のど真ん中に必要だ。やばい人は郊外の住宅地にはいない。街の真ん中の十字街でウロウロしているはずだ。

都心の雑居ビルの2階にクリニックを作る。名前は「ゆうあい」だ。英語ならソリダリテ、“You & I” でも良い。しかしこれはどうでもよい、というか、みんなで決めることになる。

タレントのスカウトのように目が利く人が、そういう人を探しだして連れ込んでくる。まさに貧困ビジネスだ。悪徳業者との競り合いだ。

外国人も視野に入れている。もちろん金髪碧眼の外人ではない。AALAの人々だ。

これが経営的にペイするかどうかはわからない。どこまで持ちこたえられるかどうかも分からない。しかし人一人なんとか生きてはいけるだろうと思う。

なんとか仲間づくりをしなくてはならないな。

胸のすくような小気味良い論文である。
著者の言いたいことは、「考古学屋さんも今やノンポリでいてはダメなんだよ」ということであろう。
「全共闘」みたいな連中が考古学の都合の良い所だけ切り取って我田引水の議論を展開していて、「勝手にやっていて頂戴」と知らんぷりしていたら、いつの間にか身内にまでそういう「理論」にかぶれる奴が出てきて、連中の思想に合わせて考古学の体系をひん曲げてしまうようになった。
そこでその誤ちを正そうと思うのだが、なにせ相手は科学ではなく情緒(科学的装いを凝らしたデマ)で攻めてくるから、たちが悪い。
著者は真っ向勝負で反撃しているが、イスラム原理主義者に「イスラムの原理」を教え込もうとするのと同じで、かなり絶望的なこころみだ。ただ間違いなく反論のための基本線は提示されているから、後はそれにどれだけ肉づけいていくかの問題だろう。
多分、この論文の趣旨ではないのだろうが、事の性質上触れている部分がかなり面白い。
それは天武以来の律令国家体制がコメ栽培文化と生産力の発展の上に乗っかっているのではなく、むしろその文化の危機によって登場してきた強権的な権力だということだ。
とくにコメが寒冷に弱いということで、その北限地帯が否応なしに畑作に取り組まざるを得なかったということ。逆に新技術としての畑作が急速に発展した結果、農業前線の北進が進み、それが陸奥の縄文人との闘いを引き起こし
という経過が非常に歴史の弁証法を感じさせる。

さて、ここからが本論部分だ。思えばずいぶん長い前置きだ。

❹……………「水田中心史観批判」の問題点②               

―考古学の研究成果をめぐる諸問題

(1)栽培植物種子の分析方法に関する問題点

現在では,厳密な方法に基づく信頼性の高い栽培植物種子のデータが蓄積されてきている。

しかしながら,その一方で,依然,問題のある分析方法や,確実性が担保されない資料に基づく議論が繰り返されている。

コンタミネーションの危険性がきわめて高いと判断される事例を平然と集めて分析している例が後を絶たない。

と、著者は本気で怒っている。

(2)確実性の高い資料に基づく縄文文化・弥生文化の栽培植物の変遷

縄文時代に栽培されていた可能性のある植物はイヌビエ(縄文ヒエ),ダイズ属(ツルマメ),アズキ亜属,アサ,エゴマ(シソ属),ヒョウタン,アブラナ属,ゴボウなどである。クリを中心とする堅果類も人為的な管理が行われていた可能性がある。

マメ類がメジャーフードになっていたとする意見もあるが、それは嘘だ。(本文はもう少し上品に言っているが同じことだ)

「批判」者たちはイネ科の穀類栽培が定説になっているかのように語ってきたが、それは嘘だ。

中部地方の縄文時代晩期後葉の土器からは,多数のアワやキビ圧痕と,わずかなコメやオオムギの圧痕が検出されているが,これももっと後の時代だ。

弥生文化の水田稲作技術とアワ・キビ畠作技術は,北部九州地域の弥生文化成立期あるいは揺籃期に,ほぼ同時に朝鮮半島南部からもたらされた可能性が高い。

北部九州地域では刻目突帯文土器の夜臼式期から,近畿・中国では概ね遠賀川式土器が展開する時期から,急速にコメが食料の主体になっていく。関東では,弥生時代中期において,コメが他のイネ科穀類を圧倒する

アワ・キビはいずれの地域でもいずれの時期でも穀物栽培の主流となることはなかった。

オオムギ,コムギに関しては,そのほとんどが発掘前後の混入である。ムギ類は弥生文化においてほとんど定着しなかった。

(3)「水田中心史観批判」における縄文文化・弥生文化の農耕のイメージとの齟齬

著者は「批判者」にさらに追い打ちをかける。

当たり前のことであるが,仮に問題のある資料が100 あろうと1000 あろうと,決して「確実」にはならないし,確実性の高い1つの資料にも遠く及ばない。

不確実な資料の「可能性」にかけるのではなく,潔く議論から除外するのが責任ある科学的な態度であろう。

こうした主張をされる方々には,是非ともその根拠を明確に示していただきたい。

(朝鮮半島の)櫛目文土器文化でイネ科穀類が生産されていたことは間違いない。

しかし種子の存在=農耕技術の存在ではない。いたずらに諸分野の「水田中心史観批判」を過熱させることがないよう,冷静な評価を行っていくことが考古学者の努めだろう。

(4)前方後円墳時代~古代における農耕技術の展開をめぐる問題

前方後円墳時代では,中期以降コメ以外のイネ科穀類が増加する傾向がある。

この時期は渡来集団による新しい技術の導入が進んだ時期であり,深耕を可能にするU字形鋤鍬刃先や,牛馬飼養と組み合わさった畠作技術が定着した。

関東地方を中心に,水田に不適な丘陵や台地で集落遺跡が増加する。そこに畑作技術が導入されたことは間違いない。

紀元700年から800年代には寒冷化が進行し、飢饉があいついだと思われ、それが畑作の拡大を後押ししたと考えられる。

結論

律令国家は,水田中心の生業の起点ではなく,むしろ古代・中世以降の多様な生業の展開の起点,あるいは発展期として評価すべきだ。

安藤広道『「水田中心史観批判」の功罪

というレビューが面白い。入り組んだ題名であるが、これまでの主流的歴史観が「水田中心主義」だったこと、それを批判する形で雑穀栽培に光を当てようというのが「水田中心史観批判」という流れとして台頭したこと、しかし「それにもいろいろ問題があるぞ」という反批判も出ている。それがこの文章だ。

内容を要約紹介しておく。

[論文要旨]

「水田中心史観批判」(以下「批判」)は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。

その論点は,もともとの日本文化を複数の文化の複合体とし,律令期以降に水田中心の価値体系に一本化されたというものだ。

しかしその土台となった縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果がかなり怪しいということが分かってきた。

「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。

1.問題の所在

「批判」は1970 年前後から活発になった。まず文化人類学と日本民俗学において水田稲作中心の歴史や「文化」の解釈に対する問題提起が活発化した。

具体的には「畑作文化」や「照葉樹林文化」「ナラ林文化」などだ。

それだけなら勝手にレッテル貼りしていれば良いだけのお気楽な世界だが、縄文「文化」と弥生「文化」のところまで話が進むと、「ちょっと待て」ということになる。

「批判」は多様であるが以下の点で共通している。

*「稲作文化」と,縄文文化以来の畑作を含む多様な「(畑作)文化」を対立的構図で捉える。

*水田稲作が中心となる現象を,律令期以降の国家権力との関係で理解する。

「批判」の問題点は2つある。ひとつは「文化」の概念をめぐる問題であり、もう一つは考古学の研究成果との関係である。

考古学の方にも「批判」に呼応した動きがあった。ひとつはプラント・オパール分析による縄文期のイネを含む穀類生産の確認であり、もう一つは弥生期の水田稲作の比重の下方修正である。

しかし実は縄文のイネについては、考古学的に見て確実な証拠は見つかっていないのである。

縄文文化の農耕技術をめぐっては,現在までのところクリやマメ類,イヌビエなどのいくつかの植物に栽培されていた可能性が認められるに過ぎない。

中略

(3)「考古学的文化」の概念と縄文文化・弥生文化の枠組み

先史時代における時間軸・空間軸の設定は,型式による編年体系によってのみ可能となる。

それは地域的な「考古学的文化」の設定のみならず,縄文文化・縄文時代,弥生文化・弥生時代といった大きな枠組みにおいても同様である。

「日本列島」というアプリオリな地域区分は不要なだけでなく,排除すべきものとなる。

型式は,生物の種とは異なり,時間軸に連鎖する型式の系統と,空間軸に連鎖する型式相互の関係性のなかで存在する。

形式には画期(時間的断絶)と境界(空間的断絶)がある。それは相対的なものであるから、「歴史観」次第で変化する可能性がある。

縄文時代はほぼ純粋に考古学的な学的構造の中で構築されている。しかし弥生時代については必ずしも考古学的構造のみに基づいて構築されているわけではない。

しかし弥生時代を縄文時代と比較するのであれば、同じ方法(純粋に考古学的な学的構造)で規定しなければならない。

弥生時代の考古学的規定

弥生時代の考古学的構築は、純粋に土器の様式にもとづいて行われる。その際縄文式土器がどう変化するかは二義的である。

1.弥生時代の始まり

縄文土器の系統の一部に,弥生式文化を反映した何らかの変化が認められた時点。

2.弥生式文化の拡大

1.で端緒として見られた変化が各地で継起的に生じることで、弥生式文化の拡散が確認される。

3.弥生時代に終点はない

なぜなら縄文が弥生に変わったように、別の土器の時代に移行したわけではないからだ。

4.弥生文化はより細分化されるべきだ

弥生時代には、縄文文化には見られなかったほどの急激な社会的,経済的,文化的変化が生じていた。

これを弥生の一言で括るには無理がある。弥生文化を複数の「考古学的文化」に分割する必要性がある。

例えば、型式学的研究の厚い蓄積のある青銅器を時代区分の物差しに使うことは十分可能である。

長くなるので、ここで一旦切ります。

昨日、北海道立埋蔵文化財センターというところに行ってきました。

ほとんど隠れ家的な場所で、探すのに苦労しました。その代わり環境は素晴らしく、建物の裏がそのまま野幌原生林の遊歩道になっています。入館せずにそのまま原生林の散歩に行ってしまいたい気分です。

1時間ちょっとの見学でしたが、入館者は他に一組のみ、完全な貸切状態でした。入館料はなんとただ。美麗なパンフレットもただ。テータという広報誌を10号分せしめてきました。

黒曜石の展示が大変充実していて、黒曜石については日本一じゃないかと思いました。遺物の展示の方も充実しているのですが、あくまで考古館ということで、歴史を知るためにはちょっと説明が不足しているようです。その代わり開架の図書室があってかなり多くの書籍が参照できます。

百年記念塔の方に開拓博物館、野幌よりに道立図書館があるので、はしごするつもりで行けば充実した週末が送れるでしょう。

とりあえずの感想

1.アイヌ人は縄文人だ

1万年前の旧石器人、2千年前までの縄文人、そして擦文人、アイヌ人との間に欠落や断絶はまるでない。基本的な生活スタイルはまったく同じように見える。もしアイヌ人が縄文の世界に迷い込んだとしても、そのまま「お隣さん」として暮らしていけるのはないかと思えるくらいだ。

今までいろいろ論争があったし、私も一時はアイヌ人は縄文人ではなくポスト縄文人だと思っていたこともあったが、Y染色体の研究でアイヌ人が縄文人そのものだということが分かった。発掘された展示物をずっと見ていって、それが心から納得できる。

2.縄文人は農業を知らなかった

出土品をずっと眺めてみて、ついに穀物栽培の形跡を認めることができなかった。これは相当きついことではないか。魚貝とくるみやクリ、時々鹿という食糧構成はおよそ不安定だ。これではヒグマの暮らしと大同小異だ。とくに冬場の暮らしは冬眠でもしなければ到底立ちゆかない。

アイヌの場合は、おそらく和人との交易が生活の確保に結びついていたろうと思われるし、多少の農業も行われていたのかもしれない。しかし縄文人にはそのような農耕を営む隣人はいなかった。

定住し人口が増えれば、やがて周囲の資源は枯渇する。そうしてある日、冬の寒波とシケ続きの日が続けば人々はバタバタと死んでいく。残された人は消耗を上回る勢いで繁殖に勤しんだのだろうか。

1844年 パティキュラー・バプテスト派、奴隷問題をめぐり決裂。奴隷制を支持する南部バプテスト信者が分離する。残された北部のグループが「米国バプテスト宣教連合」を組織。(バプテストにはジェネラル派とパティキュラー派があるらしいが良く分からない)

1873(明治6年) 「北部バプテスト」、横浜で布教活動を開始。

1889(明治22年) 「南部バプテスト連盟」(Southern Baptist Convention)が宣教師を派遣。九州を中心とした伝道が始まる。(九州を地盤としたのは北部バプテストとの縄張り協定による)

1895 黒人のバプティスト組織が「全国バプテスト連盟」を結成。

1903年 日本バプティスト西部組合が北九州の若松市で結成されました。

1907年 米国のバプテストの諸教団が合同し「北部バプテスト大会」を開催。「北部バプテスト同盟→米国バプテスト同盟」の母体となる。

1916 宣教師C. K. ドージャーが、福岡に「西南学院」を設立。

1940 西部組合が日本バプテスト東部組合と合同。日本バプテスト基督教団を結成する。

1941 日本バプテスト基督教団は日本基督教団に合同。

1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、福岡・西南学院教会で「日本バプテスト連盟」結成総会。旧西部組合系の16教会が日本基督教団から離脱して参加。

1958 旧東部組合系教会の一部が、日本基督教団を離れて「日本バプテスト同盟」を結成。教団残留組は教団内の一グループとして「教団新生会」を結成。ともに「北部バプテスト同盟」(現アメリカ・バプテスト同盟)をバックとする。

1962 反ヤスクニ宣言を発表。

1963年 「新生運動」が展開される。福岡を拠点に全国への開拓伝道に取り組む。SBCの牧師・信徒が来日し、伝道協力。

1970年、世界バプテスト大会が東京で開催される。

1970 神学校や各教会において、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こりました。靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題などに取り組む。

1976年には米国・SBCからの支援を打ち切り、経常費自給化を達成。

1979年に「信仰宣言」を採択。その後“Cooperative Baptist Fellowship”(CBF)との連携を強める。

1992 「日本バプテスト同盟」が「戦争責任に関する悔い改め」を総会で採択し発表。

1988年に「戦争責任に関する信仰宣言」(戦争責任告白)を採択

1995 阪神淡路大震災で、兵庫県内の諸教会が甚大な被害

2002年総会では「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を採択

2004 南部バプテスト連盟、世界バプテスト連盟からの脱退を正式に決定。

2006 南部バプテスト連盟からの脱退者がCBFを中核に新バプテスト連盟を結成。カーター元大統領らも加わる。

2013年1月現在、全国283の教会、43の伝道所が加盟(九州が75教会)

2016年7月 日本パプテスト連盟理事会声明「なおも希望を持ち続けるために」を発表。参議院選の結果を踏まえ、立憲主義の堅持を訴える。


こうやって、バプティストの歴史を見ていくと、西南学院の宣言はごく自然なものと考えられる。内部事情的に言えば、南部バプティスト連盟との絶縁がかなり効いているように思える。


赤旗の8月15日号に掲載された「西南学院の平和宣言」は大きな反響を呼んでいる。この「宣言」はそもそも4月1日付で発表されたものだが、当時はまったく知られていなかった。

発掘した赤旗は偉い。

文章そのものはそれほど長いものではなく、全文が読めるのでそちらをご参照いただきたい。

と言いつつ、要約を箇条書きにしておく。

宣言の表題は「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―」

1.西南学院は、創立百周年を迎え創立者C・K・ドージャーの示した方向を確認する。私たちは、敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると信じている。

2.西南学院は、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまった。

3.戦後もそのような過去への責任を明らかにせず謝罪してこなかった。天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々の怒り、苦しみ、悲しみを受け止め、「加害責任」を心に刻み込んでこなかった。

4.西南学院は、天皇皇后の御真影の下賜を願い出、「奉安殿」を建設し、宮城遥拝、君が代斉唱を行った。宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、苦悩・悲しみを共有できなかった。体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認した。

5.私たちは、創立百周年のこの時に過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳 を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、今その決意をここに表明します。


ということで、いささかきつい文章だが、これを西南学院のおかれた位置とつき合わせることによって、真意が見えてくる。

西南学院の歴史

1906年(明治39年)にアメリカから「南部バプテスト連盟」の宣教師C.K.ドージャーらが赴任。福岡バプテスト神学校を開校。10年後に西南学院を設立。以後は全国各地のミッション系学校とほぼ同様の経過をたどる。

かつては「南部バプテスト連盟」より多額の補助を受け、宣教師の派遣も受けていた。学院長もこれら宣教師が就任することが通例であった。

西南学院と日本バプテスト連盟との関係は現在も深く、神学部は日本バプテスト連盟の教派神学校としての使命も負っている。

ウィキペディアの「西南学院大学」などには、2000年以降の信仰をめぐる混乱が若干触れられている。

1970年代より、「南部バプテスト連盟」の保守化が進んだ。79年には原理主義者による南部バプテスト連盟占拠が行われた。

元々、南部バプティストは人種差別を内包していた。1939年アトランタで開かれたバプテスト世界同盟大会では、白人と黒人のゲストは異なったホテルを提供され、会場の座席も分けられた。(アメリカ南部バプテスト連盟

この傾向は60年代後半に一定の是正がなされたが、70年代にふたたび保守派が巻き返した。

2000年に、米本国の「南部バプテスト連盟」がキリスト教原理主義に転向し、信仰宣言を改訂した。

「妻は夫に恭しく従うべきだ」と家父長制を強調、女性が牧師になることを制限する文言などを加えた。「連盟」は宣教師に宣言への同意署名を求め、拒否した宣教師は絶縁になった。

またブッシュ・ドクトリンを積極的に支持するなど、政治的右傾化を強めた。

「南部バプテスト連盟」は、2004年には世界バプテスト連盟を離脱するに至った。

この動きが西南学院にも波及し、宣言への署名を拒否した多くの宣教師が解雇され、帰国した。学院長も任期が終わると同時に離日した。

学院にとどまった4人の元宣教師は「南部バプテスト連盟」を離れ、学院の専任教員として採用された。

というような経過を経て、本国の「連盟」とは絶縁しこれまでの方向を一層強化する方針が確立された。「創立者C・K・ドージャーの示した方向」というのはそのことを指す。


ということで、状況としては一知半解なのだ。

結局下記のことが分からなければ、状況は理解できないということが分かった。

1.バプティスト派の由来

2.バプティスト派と南部バプティスト連盟の関係

3.日本におけるバプティスト派の動き

4.日本バプティスト連盟と西南学院の関係

思わぬ深みにハマりそうな予感がする。

 

バカチョンカメラで診察室の窓から撮った麦畑です(写真の上でダブルクリックしてください)。雲は手前から奥へと進んでいきます。ここは広い野原で落雷の名所です。数年前に右側の電柱に雷が落ちて燃え上がる瞬間を、私はしっかりみました。
R0012216

この後1週間ほどで刈り取られました。
二階建てくらいの巨大なトラクターが入ってなぎ倒していくのですが、落ち穂を拾って驚きました。
穂の中の実が見事にこそぎとられているのです。脱穀作業なんてのはいまや昔話なんですね。
とにかく、子供の頃から持っていた農業に対するイメージがひっくり返りました。
「お百姓さんが丹精込めて育てた作物」というような神話はまったく通用しない世界が、目の前で展開されたのです。呆れるほどの「粗放な」農業ですが、それは有無を言わせぬ「豪快さ」でもあります。
そこは「やっぱ、サッポロ黒ラベル」でしょう。
こんなクリニック+老健+特養で働いてみたいという人、ご一報ください。なんと札幌市内から車で20分足らずです。

いよいよ記憶の問題に入ろうと思うのだが、ためらってしまうのは記憶というのが心理学的に、あるいは哲学的に扱われており、ともすれば課題が散漫になってしまうことだ。

それはこれまでの「記憶」の探究が、いわば五里霧中の中で行われており、群盲象を撫でるのたぐいの議論が横行しているからだ。

そして哲学者(むしろ心理学者というべきか)は一冊のパンフレットから「記憶」を分類し、体系づけ、なにか深遠であるかのような言葉を用いて、おのれの「体系」に意味付けを与えるマジックの天才だ。

もちろん、中には乏しい治験の中から鋭い洞察力によって議論を前進させてきたものもあるだろうが、まずは脳科学的事実の収集から始めたほうが良いだろう。

私の興味の焦点は認知症にある。その中核症状としての記憶障害をどう把握するかを議論の中心に据えながら、少し勉強してみようと思う。

記憶障害を語るには、まずは認知症のおさらいが必要だろう。

言うまでもなく認知症は記憶障害を中核症状とする症候群である。そしてそれに続発する怒り、拒否、嘆き、合理化、錯乱、うつ、妄想などの周辺症状を大なり小なり伴う。

脳機能がさらに荒廃すれば自発性の低下、内的世界への引きこもり、意思疎通の途絶、生命意欲の喪失へとつながっていく。

後者は認知症ばかりではなく、不可逆的かつ全般的な人生の晩期症状ともとらえられ、認知症の枠組みからは外れるようにも思える。

当初はいろいろ異論もあったが、今日では認知症のほとんどがアルツハイマー病という病理学的変化に関連付けて捉えられている。したがって、少なくとも将来的には治療可能な疾患となっている。

現在では記憶障害の主役はアルツハイマーということになり、その病理学的主座を特定することで、記憶のメカニズムのキーポイントを我々は把握できた。

これが一番大事なところで、後はその他の記憶障害を特殊型ないしヴァリアントとして把握することで、人間の脳の記憶機構を立体的に構築できることになる。

だから「記憶」のシステムについて意味の有ることを語ろうとするなら、まずは記憶障害から、そしてアルツハイマーのことから語り始めなければならない。

「下げりゃいいじゃん」という糖尿病治療

もう十年も前になるか、循環器学会で「糖尿病と冠疾患」みたいなシンポがあった。そのとき、糖尿病の専門の先生がこう言ってくれた。

「下げりゃいいんですよ」

これを聞いて、溜飲が下がった。

自分の病院では糖尿病の先生が何十種類ものクスリやインシュリン製剤を使って治療していて、素人には手が出せない雰囲気だった。

もちろん血糖は90~110くらいHbA1cは6以下にしなければならない。そのために患者はがんじがらめに縛られて、ひっきりなしに勉強させられていた。

困るのはナースがやたらとダメ出しをすることである。「先生、それはダメですよ」とか、「そんな指示じゃ受けられません」とくる。

研修医の時代ならともかく、こちらも専門領域の仕事で忙しいから、DM患者が受け持ちになるとそれだけで気が重くなったものだ。

いまも相変わらず糖尿病の世界はそういうたぐいの連中が幅を利かせているようだが、私は老人保健施設に移ってからはこれで決めている。

1.経口薬はアマリール一筋

2.ばらつくようなら、他剤追加も検討(とは言うものの、現実には使えるものは使っちゃうのだが)

3.アマリール6ミリでもコントロールできなければインスリン(ランタス)追加

ということでいる。

昔はインスリンと経口薬を併用すると叱られたものだが、最近はBOTとか言ってむしろ勧められているようだ。

のだが、最近1日40単位もインスリンを使わなければならない人がいて困っている。急に悪くなったのなら送ってしまえばいいのだが、1日20単位のレベルで病院から送られてきた人だから、もう少し頑張るしかない。

聞くところによると、最近「ビクトーザ」の注射という手があるらしい。これが4.になるのか?

理屈はよう分からん。ただ臨床データは良さそうだから、「溺れるものの藁」位のつもりで検討してみようかと思っている。


ちなみに糖尿病の経口薬一覧表

スルホニル尿素薬 第1世代

ジメリン錠 デアメリンS錠

 スルホニル尿素薬 第2世代

オイグルコン(ダオニール) グリミクロン

 スルホニル尿素薬 第3世代

アマリール

速効型インスリン分泌促進薬

スターシス グルファスト

α-グルコシダーゼ阻害薬

グルコバイ ベイスン セイブル

ビグアナイド薬

メトグルコ ジベトス

チアゾリジン薬

アクトス

SGLT2阻害薬

いろいろ

DPP-4阻害薬

グラクティブ ジャヌビアなどいろいろ

GLP-1受容体作動薬

ビクトーザ(注射用のDPP-4)

DPP-4阻害薬とSGLT2阻害薬が流行りのようで、薬屋さんが入れ替わり来ては効能を語っていくが、馬の耳に念仏

「ガイドライン」は山ほどあるが、結局何かの宣伝だ。しかもこういうエライさんはこういうところで言うことと、現場でやっていることが結構違う。もっとゴリゴリだ。平気でカンカンノウを踊らせる。俺は知ってるぞ。


前の前の記事で、初歩的な疑問として3つあげた。
狩野さんの主張(実験データではなく)は、その疑問を強めさせる。

オギャーと生まれて1週間から2週間の間というのは、ほとんどプログラム行動であろうと思う。
「強者が唯一生き残る」というのも、所詮はそのDNAプログラムの一部にすぎない。
胎生期にし残した仕事というのはたくさんあるはずだ。いくら母体の血流を通じて豊富な酸素を取り入れることができると行っても、自力で呼吸してありったけの酸素を使いながらする作業ははるかに濃厚だ。
出生後の数週間というのは、その時までやらなかった、あるいは宿題にしていた作業を一気にやり遂げるチャンスだ。
「個体発生が系統発生を繰り返す」とすれば、狩野さんの言うようなパフォーマンスは進化の何処かの段階でリアルに存在していたかもしれない。しかしいまやそれは粛々と進行していくほかないのである。

鉄は熱いうちに打たなくてはいけない。初期の段階に方向付けしなくてはいけない。「刈り込み」は神経線維を一定の方向に向かわせるための通過儀礼でなくてはならないのだと思う。

私は大脳(小脳もふくめ)という組織が前脳・中脳・後脳からなる基幹脳(脳幹)に発生した腫瘍のようなものではないかと考える。その原基は嗅脳(触覚脳を含めた)である。
その組織はきわめてモノトーナスであり、どこからどこまでがどういう働きなのかは、見た目からは判断つかない。最初から合目的的に形成されたのではなく、後から任務分担されたのだと考えるべきだ。

主要だから、とにかく無目的的に増殖しようとする。とくに生後数週間は大量の酸素を得てとにかく必死に接続を増やそうとする。大脳を構成する神経細胞にとってはとにかく接続こそ命だからだ。
それをどう抑制していくかがプログラムされた遺伝情報の力の見せ所だ。
それによって、無限増殖を繰り返そうとする脳ミソは「大脳」になっていくのだ。
ちょっとでもプログラムを実行ミスすれば、へんちくりんな脳が出来上がることになる。

プログラムされた腫瘍は腫瘍ではなく臓器である。しかし一歩間違えば文字通りの腫瘍になってしまう。それが生まれて好気性の生命となるに及んで、わずか数週間の間に勝負しなければならないという点では本当に大変なことであろう。心から同情する。

前項の記事で東大の上阪さんと狩野さんと書いたが、

東大の「記者発表一覧」というサイトに「小脳のシナプス刈り込みの仕組み解明」という記事があって、発表者が東大医学部神経生理学教授(昔風に言うと)狩野方伸となっているから狩野教授のご指導のもと上阪さんという人が執筆したらしい。

小脳について詳しく書いていたのもそのためと思われる。

この記事も前項とほぼ同じ内容が書かれているが、記者発表らしく、自閉症やADHDにも目配せしている。

文章にも、「たった一本の強力な登上線維が…“勝者の席”を占める」など文学的表現が見られる。

絵も脳科学辞典のものよりリファインされている。

図1

ただその分だけ論理の危うさが目立つようになり、A→Bという時間的継起にすぎないものを、「AだからBになる」という因果関係にしてはいないか? という不安もつきまとう。

もうすこし「刈り込み」論の適否やメカニズムに関しては議論が出揃ってからでも遅くはなさそうだ。

原著は下記の通り

Translocation of the “Winner” Climbing Fiber to Purkinje Cell Dendrite Followed by Removal of the “Losers” from the Soma during Cerebellar Development :Neuron July 16

レファレンス協同データベースというサイトがあって、小麦の中国からの伝来について説明されている。

かなり詳しく説明されているので、抜粋して紹介する。

1.小麦の起源

コムギはイネ科のコムギ属。コーカサス地方からイラクにかけてが原産地とされる。野生種は中央アジアから中近東にかけて分布している。

1万5千年前ころ、古代オリエントで、狩猟生活をする先住民たちは草原に繁茂する雑草のなかから、野生種のオオムギ、コムギ(一粒系)をみつけて採取するようになった。

当初は大麦の栽培が先行したが、小麦粉にしてから調理するようになると小麦が重要になる。(石臼で小麦を挽き、それに水を加え捏ね生地にして焼く)

紀元前7000年ごろになると南西アジアの肥沃な三日月地帯でコムギの栽培が始まった。この頃クサビコムギと交雑し2粒コムギになる。

さらに紀元前5000年ごろトランスコーカサス地域で二粒系コムギとタルホコムギの交雑によりパンコムギ(普通コムギ)が誕生した。

2.小麦の伝播

紀元前5000年から4000年に、ドナウ河とライン河流域に到達し、紀元前3000年ごろにはヨーロッパ全域、アフリカ北岸に広がる。

紀元前3000年には中国でコムギの栽培が始まったとされる。それは最初からパン小麦として完成された小麦だった。

3.中国への伝播

紀元前2000年には、石臼が考案され白いコムギ粉の採取か可能となる。ただし石臼の発明は中国ではなく西方から伝来したとされる

4.日本への伝播

日本へのコムギの伝来は、オオムギより1世紀ほど後の4~5世紀ごろとされる。ただし紀元ころにはおおくのちいきでしょくされていた。

鎌倉時代にはいって二毛作がはじまると、稲の裏作作物として急速に普及するが製粉技術は未開拓のままであった。

 

ということで、小麦の栽培は明らかにコメの栽培に遅れている。コメのほうが1~2千年先行している。中国での栽培はずっと近年になってからだ。

中国で小麦栽培を始めたのはO2人だ。それもすでに殷・周の時代に入っている。つまりO2人は小麦も知らない時代に長江文明を駆逐していることになる。

もう一つ、稲作文化と小麦文化とは背反するはずだ。両者が重なって伝播することはありえない。

O人が南から来たのだとすればO2人はコメは知っていても小麦は知らなかったはずだ。それは北方ルートを経由して拡散したに違いないからだ。とすればO2人は北部a/o西部のC2人を通じて小麦づくりを学んだはずだ。

赤旗の科学面に「シナプス刈り込み」に関わる記事が2つも掲載された。

「シナプス刈り込み」などというのはまるっきりお初。どんなものかとグーグル検索してみたら、あるわあるわ5千件以上もヒットする。

これだけ記事があると、例によって時系列で整理しなければならない。ほんとうは昨日聞いたNHK第二の日曜講演会「認知症のメカニズムと創薬」を調べるつもりだったが、とりあえず後回しにする。

まずはウィキペディアから入るのが通例なのだが、ウィキには該当記事がない。ある意味、ちょっと安心。

シナプス刈り込み - 脳科学辞典

から入ることにする。原稿完成日:2016年6月4日だからまず最新情報と言っていいだろう。著者は東大の上阪さんと狩野さんという方。

まずは要約

シナプス刈り込み(synapse elimination)とは、必要なシナプス結合だけが強められ、不要なシナプス結合は除去される現象である。

発達期の動物の脳内では、ある段階になると神経結合(シナプス)が形成される。

このシナプス形成は、生後間もない時期には過剰に行われる。

その後、必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。

このシナプス刈り込みは、発達期の神経回路に見られる普遍的な現象である。

大変要領よくまとめられた要約で、「よし分かった」と本文を読むのを飛ばしたくなるほどのまとめである。

逆に、目次を眺めても「ごちそうさま」と言いたくなるほどのフルコースだ。

刈り込み

これを10分で読めるようにまとめてみる。

1.シナプス刈り込みとは何か

最初に、小脳のプルキンエ細胞の刈り込みの絵が載っている。

シナプス刈り込み1

この絵を見ると、刈りこみと言っても、芝刈り機みたいに刈るのではなく、いくつかのまとまりに束ねるのだということがわかる。

一番左、生まれたばかりでは、5本以上の線維がプルキンエ細胞に接合している。それが2番めの絵では接合線維が7本に増えている。一方で左の3つは一本の繊維にまとまっている。3番めの絵ではまとまった側の接合は5ヶ所に増える一方で、単独で接合する線維は脱落している。

こうして最後には団結した側の一方的勝利に終わる。敗者は取り残され、やがて脱落する。

勝利した線維連合軍は、球状の細胞体からとんがり帽子の樹状突起に移動し神経接合を実現する。

この後、さまざまな神経におけるシナプス刈り込みが説明されているが、煩雑なため省略。

以上で、目次の 1 様々な神経系でのシナプス刈り込み は終わり。

2.何が刈りこみを規定しているのか

いろいろ書いてあるが、決定的な説明はない。GABAとかCaなど挙げられているが、いま一生懸命憶えるのは記憶力の無駄遣いになる。


ということで、いまはプルキンエの絵だけ憶えておけば良さそうだ。

本当の問題はなぜかということだが、今のところ研究はそこまでは進んでいない。

1.なぜ神経線維が過剰生産されるのか

2.なぜみんな生き残るように出来ないのか

3.まとまれる線維と仲間はずれ線維はどこが違うのか

4.淘汰が必然として、その選択は正しく行われているのか

あたりが、初歩的な疑問として残る。



2009年の時点で、北海道には旧石器時代以来の3万年間にわたる遺跡が11,801カ所確認されている。その8割は縄文時代に関わるものである。

縄文遺跡のうち、特に学術的価値が高いものは、国指定の11史跡(集落跡2、貝塚4、墳墓2、環状列石3)と、道指定の6史跡である。

道遺跡

                   北の縄文 道民会議 より

縄文時代 

草創期(BC1万3千年) 土器や石鏃の使用が始まる。ムラが出現。

青森県大平山元遺跡(北海道にはなし)

早期(BC9千年) 気候の温暖化が進む(縄文海進)

函館市臼尻町垣ノ島遺跡、千歳市イカベツ2遺跡、千歳市トプシナイ2遺跡、木古内町泉沢5,6遺跡

垣ノ島遺跡: 北海道で最大規模の縄文遺跡。縄文早期から後期に至る。20万点以上が出土。
トプシナイ2遺跡: 縄文時代早期から擦文まで至る息の長い遺跡。25,000点が出土。

前期(BC7千年) 円筒土器文化。三内丸山など拠点集落の出現。漆の利用。

洞爺湖町入江・高砂貝塚、

前期後半 木古内町幸連4遺跡、厚真町オコッコ1遺跡(屈葬人骨)、

幸連4遺跡: 標高20 ~28mの海岸段丘上に位置し、竪穴住居跡24軒、土坑47基が発掘。

中期(BC5千年) 大規模な拠点集落。ヒスイや黒曜石等の交易。

木古内町遺跡群(幸連3、幸連4C、大平4)、千歳市根志越5遺跡、根室市別当賀一番沢川遺跡、厚真町遺跡群(上幌内4、上幌内5、厚幌1、厚幌2、富里3、幌内7)

大平4遺跡: 前期後半期の50軒を超える住居址。土器100万点近くがみつかる。また墓地からは漆塗りの縦櫛やサメの歯などが出土。

中期後半 函館市大船遺跡、長沼町南9号線遺跡(平地遺跡で石器製作に特化。黒曜石剥片や石斧など)、

大船遺跡: 600軒におよぶ住居跡、とくに壁の高さが2m以上もある大型の竪穴住居。遺物は20万点。クジラ、オットセイ、シカ、マグロなどの骨。

後期(BC2千年) 東北では集落が分散化するが、北海道では拡大。

後期前半

森町鷲ノ木遺跡(ストーンサークルと集団墓)、木古内町札苅7遺跡、幸連3遺跡(琥珀玉)、八雲町野田生1 遺跡(赤彩微隆線土器)、千歳市遺跡群(キウス4周堤墓群,トプシナイ2、イカベツ2)、厚真町(オニキシベ3、上幌内4、上幌内5、厚幌1)

キウス周堤墓群: 円形の竪穴を掘り、周囲に土手を築いたもの。最大の周堤は、外径75m、内径35m、高さ5.4mに達する。周辺は大きな村だった。


後期中葉 忍路環状列石

晩期(BC1千年) 亀ヶ岡文化が栄える。祭祀の道具、装身具類が多様となる。

恵庭市カリンバ遺跡(漆塗の櫛などの副葬品)、千歳市キウス5遺跡(高さ43センチの大壷が発見)、根室市別当賀一番沢川遺跡、厚真町オニキシベ3遺跡

続縄文時代 

オコッコ1遺跡、イカベツ2遺跡、別当賀一番沢川遺跡

擦文文化期

厚真町遺跡群(オコッコ1(鉄器)、厚幌1、幌内7、幌内6)、千歳遺跡群(イカベツ2、トプシナイ2)

アイヌ文化期

厚真町遺跡群(幌内6、厚幌2、富里3 獣骨の集中、赤色漆塗椀)、千歳市根志越5遺跡

↑このページのトップヘ