鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年08月

ウィキペディアの「記憶装置」の項目をお勉強。

定義

コンピュータが処理すべきデジタルデータを保持するのに使う、部品、装置、電子媒体の総称。

「記憶装置」は「メモリ」と呼ばれ、キャッシュメモリや主記憶装置などに用いられる。これに対し、補助記憶装置は「記録装置」として扱われ、「ストレージ」と呼ばれる。

万能記憶装置は現在のところ存在せず、用途が限定された数種類の記憶装置が組み合わせで用いられている。

記憶装置の階層構造

1.一次記憶装置(または主記憶装置)

CPUが直接アクセスできる唯一の記憶装置である。CPUはそこに格納されている命令を読み取り、実行する。

Computer_hierarchy

(パソコンの裏蓋開けて「メモリ増設」するときのメモリというのが「メインメモリ」なんですね)

これから先、急に説明が入り組んできて、最初の定義そのものが怪しくなってくる。

(これはなぜかというと、「一次記憶装置」は英語では primary storage だからだ。つまり英語ではメモリとストレージは使い分けていないということだ。だから一生懸命言葉を覚えても、アメリカではその用語では通用しないということになる。あほらしくなってきた)

本文を整理して書くと次のようになるかと思う。

Ⅰ CPU内のメモリ

これはレジスタとキャッシュメモリからなる。レジスタというの記憶装置なのだそうだ。ただしメモリとは呼ばないようだ。これが一番高速の記憶装置。

キャッシュメモリというのは説明を読んでも良く分からないが、こう書いてある。

システムの性能を強化するためだけに存在する層。レジスタより遅いがメインメモリより早い。

「ためだけに」というのが思わせぶりだが、

メインメモリ内の頻繁に使う情報をより高速なキャッシュメモリにコピーしておくことで処理速度を向上させる

ということだから、要するにメインメモリーが銀行口座の預金で、キャッシュというのはゲンナマの入った財布ということだろう。

ということはレジスターというのは、スーパーの会計のところにあるレジスターみたいなものか。

Ⅱ メインメモリ

メインというのは前の2つより圧倒的に容量が大きいからメインというのだろうが、「どこがメインか?」というのは人によって考えが違うから、少々誤解を招く言葉である。

計算過程が行われるのはレジスターであり、そういう意味ではレジスターこそメインであろう。

メインメモリとCPUのやり取りはキャッシュカードで金を引き出すのに似ているようだ。

言葉はえらく難しい。

CPUはまず、アドレスバスにメモリアドレスと呼ばれる数値を送り、アクセスしたいデータの位置を指定する。次にデータ本体の読み書きをデータバスで行う。

まぁ、暗証番号と口座番号を入れて金を引き出すようなものだろうか。

Ⅲ RAMとROM

A) 仮想RAMの思い出

これで一応一次記憶装置は終わりだが、その後に何やらわからない言葉が飛び出してくる。

RAM というのは、私には「仮想RAM」というソフトでおなじみだ。ネットで拾ってきたソフトで、メインメモリの一部を切り離して、ディレクトリを作成する。

例えば¥E: と名付ける。それからソフトの指示するままにいろいろ入力していくと。例えばFoobarのようなソフトが移植され、立ち上がり、起動可能になる。

これでハードディスクに置いたプログラムで再生するより音が良くなるし、音飛びとかエンストがなくなる。計算速度が速いらしい。

ただ、新しいパソコンに変えて、DACも交換したらほとんど要らなくなったので(結構トラブルも多かったので)、いまは使っていない。

その時思ったのだが、「これが仮想RAMならリアルRAMってなんだ?」ということで、それが未だもってわからない。

RAMという記憶媒体は電源を消すたびに記憶が「揮発」してしまうらしいのだが、実際にはどこかに避難するようにプログラムされているらしく、電源をつければ、見かけ上は「残っている」のと同じだ。

B) CD-ROM ってなにさ

むかし一度憶えた記憶があるが、内容の記憶は飛んでいる。私の脳は超揮発性だ。

テレビの「少年少女新聞」のCMではないが、「ウム、それはなにだ…」と絶句する。

CD-ROMなら二次記憶装置だが、ROMという装置はコンピュータにも内蔵されているらしい。ハードディスクよりは速いがメインメモリーよりは格段に遅く、BIOSだけ置いてあるらしい。

だけどBIOSって書き換え可能だよな…と思っていたら、ちゃんと書いてあった。

ROMは、実際には「リードオンリー」ではないことが多く、更新が可能である。しかし、書き込みは遅く、再書き込みの前に消去する必要がある。

二次記憶装置については稿を改める。

20時30分現在、室温32度。これは北海道ではない。熱帯夜そのものだ。昨夜は12時過ぎまで30度超えだった。雨が降ってはやんで、しかも雨が止むと風も止まる。生温かい風がそよぎ始めると雨が降り出して、吹き込むから窓を締めるしかない。
眠れないからアルコールが進む。次の日にはテキメンに応える。昼ごろに脱水症状が消失するが、たっぷり水分をとってしまったから食欲が進まない。シャワーをあびると瞬間気持ちが良いが、やがて汗が噴き出してきて元の木阿弥、湯疲れしたぶんかえってだるい。ビールを飲むと若干気持ちが持ち直す。
しかしアルコール・ハイというのは歯止めが効かない。
まぁ、こんなのは数年に1回、しかもたったの2日だけだ。クーバに行ったと思え。しかもただだぞ。
飲め飲め、クーバの夜を満喫しよう。(とエンジンが入ったのはアルコールが回ってきた証拠)
グルポ・シエラ・マエストラのCDはどこだったかな。

などとやっているうちに、突然強風が吹き始めた。ついに台風が来たようだ。

「“海馬”を究める」より「海馬の基礎知識」

池谷裕二さんという方が教室員とともに英語の教科書を翻訳したもののようです。ありがたい話です。

8-1 海馬と記憶・学習

1953年 HMという男性のてんかん患者が、両半球の海馬体とその周辺の脳部位を切除する手術を受けた。術後、HMは新しい情報を長いあいだ保持しておくことができなくなった。それ以外の点においては、彼の精神状態はおおむね正常であった。(Scoville et al 1957)

1986年 患者RBは冠動脈バイパス手術の最中、脳虚血に陥った。RBは顕著な順向性の記憶障害を生じたが、手術前の記憶に関しては、ほとんど、あるいはまったく記憶障害が見られなかった。

RBの死後、脳を解剖したところ、記憶障害に関係していそうな病理的な変異は、海馬CA1野の錐体細胞の完全な脱落のみであった。

海馬に限局された脳障害のみで、臨床上ひどい健忘症を引き起こすのに十分であることは明らかである。

海馬体の破壊でヒトと類似した記憶障害が生じることが知られている。

多くの実験結果から明らかになったことは、海馬が“イベントの順番”を記憶するのに重要な部位であることである。

外の世界を認識する地図が海馬の中に形成されているものと推測されている。この地図は動的で、様々に活性化されるユニットの組み合わせとして働く。

こうした海馬の内部表象が、徐波睡眠中に海馬で内部再生され、大脳皮質にあるより詳細な経験情報が相互作用することによって、長期的な記憶が形成される。

8-2 海馬と疾患

てんかん

海馬は脳の中でもっともてんかん発作の閾値が低い。てんかん動物モデルでは、発作に関連する電気活動の多くが海馬から記録される。

海馬がてんかん様活動を起こしやすいのは、錐体細胞同士が興奮性の再帰回路を形成しているからである。

アルツハイマー病

海馬は記憶・学習に重要であるから、アルツハイマー病で海馬が障害されたとしてもおかしくない。

アルツハイマー性の病理が最初に現れるのが嗅内皮質である。海馬以外の脳部位も影響を受けるだろうが、能力が劇的に奪われてしまうのは、なによりも海馬であろう。

低酸素障害

虚血や無酸素症によって細胞脱落がおきる。NMDA受容体を介した興奮毒性によるものと考えられている。

このように海馬はかなり不安定な脳部位であるが、これは海馬が新しい情報を素早くコード化するために海馬が払った代償であろう。

統合失調症

統合失調症患者では海馬の大きさが有意に小さく、形態学的にも異常が観察される。

しかし、それらの異常がどうして幻覚や精神異常を引き起こすのかはまだ謎である。

ということで、「海馬イコール人間の記憶装置」という割り切りにはかなり抵抗を覚えつつ、とりあえず海馬の勉強に入る。

まずは素人向けの解説から

日本学術会議 おもしろ情報館  というページ

最初の部分は、マクリーンの三位一体説がそのままなぞられている。


真ん中にある「大脳辺縁系」は「馬の脳」といわれ、喜怒哀楽などの感情をつかさどる部分です。これがないと豊かな感情がなくなる。

などと、きわめて粗野な形で述べられている。

これに対し脳幹は「爬虫類の脳」とされ、「これがなければ死んでしまう」と書かれている。

いいかい、爬虫類は「ただ生きているだけ」の存在じゃないよ。馬が爬虫類より高級か? そんなことは簡単には言えない。
鳥(現存する爬虫類)にも馬並みに豊かな感情はあるし、烏の学習能力は到底馬ごときの及ぶものではない。

(1)新しい記憶の箱

大脳辺縁系の一部である

とさらっと書いてある。これはしかし重大なことではないか。「海馬病」は大脳の病気ではないのだ。
もう一つは、海馬は発生学的には古皮質であり、新皮質としての頭頂葉や側頭葉とは別途扱わなければならないはずだ。血管系も違うのではないか?
古皮質はもともと前脳に付属する装置であって、前脳+古皮質で脳機能は完成しているはずだ。そこに後から新皮質が加わって脳機能が精緻化したのだ。少なくとも大脳新皮質の要望に応えて後から出来たとか、機能を変えたということはありえない。


海馬はタツノオトシゴ(海馬)のような形をしています。

日常的な出来事や、勉強して覚えた情報は、海馬の中で一度ファイルされて整理整頓され、その後、大脳皮質にためられていく。

つまり、「新しい記憶」は海馬に、「古い記憶」は大脳皮質にファイルされているのです。

海馬は、とてもデリケートで壊れやすい

例えば酸素不足で脳がダメージを受けるとき、最初に海馬あたりから死んでいく。

強いストレスにさらされたときにも、海馬は壊れてしまう。PTSDでは極端な恐怖やストレスで海馬に異常が現れる。

(2)消えない記憶の箱

記憶には、頭で覚える「陳述的記憶」と、体で覚える「手続き記憶」(技の記憶)の2種類があります。

「海馬」は、「陳述的記憶」をするときに、大切な役割をはたしています。

「手続き記憶」(技の記憶)では、大脳基底核と小脳が主座となる。大脳基底核は大雑把な動きを記憶し、小脳はそれを細かく調整する。

この記憶は認知症になっても消えない。

(3)心の黒板

前頭連合野は、脳のあちこちにファイルされている情報を集めて、一時的に保存する(ワーキングメモリー)。

そして集めた情報を組み合わせて、プランを立てる。

「ワーキングメモリー」こそ、もっとも人間特有の記憶といえる

アルツハイマーと記憶障害

アルツハイマーと記憶障害

まずはアルツハイマー病で記憶障害が起こるメカニズムについておさらいしておく。

から、記憶障害に関する事項を拾っておく。
1901年 精神科医でクレペリンの門弟アルツハイマーが、嫉妬妄想、記憶力低下などを主訴とする患者アウグステ・Dを症例報告。
1910年に師匠のクレペリンが教科書を発表。この中で「アルツハイマー病」として大々的に取り上げる。

1911年にアルツハイマー患者の剖検脳を、鍍銀染色で検討した結果が発表される。病理所見は次の3つにまとめられる。

1.大脳の萎縮,皮質の神経細胞の減少,

2.老人斑(シミのような異常構造)の多発,

3.神経原線維変化(神経細胞中の繊維状の塊)

これは50年後に電子顕微鏡で更に詳しく検討され、老人斑の本態はアミロイドであること、神経原線維の変化は神経細胞の成分であるタウが過剰リン酸化により変性したもの、というところまで進んだ。

アミロイドについてはその後の検討で、アミロイド・ベータ蛋白であることが分かった。この蛋白は細胞膜を構成するAPPという蛋白の壊れた残骸で、脳で常に産生されており、これが排出されずに細胞内にとどまり蓄積していることが分かった。

このアミロイド・ベータ蛋白が細胞内の過剰リン酸化をもたらし、これによりタウが変性を起こし、最終的に脳細胞の死をもたらすようだが、どうもこの辺の機序は良く分からない。

次はは素人向けのやさしい解説。

認知症ネットというサイトの「記憶障害とは」というページ。

認知症に関する記憶の種類には、短期記憶、長期記憶、エピソード記憶、手続き記憶、意味記憶の5つがある。

(1)短期記憶障害

海馬に格納される記憶。時間の経過とともに忘れ去られるか長期記憶に移行される。

認知症の記憶障害の主徴候を成す。

(2)長期記憶障害

普段は考えていなくても、何かのキッカケで記憶の底から思い出すことのできる記憶(分かりやすそうで分かりにくい説明)

(3)エピソード記憶の障害

体験したこと(エピソード)そのものを忘れてしまう障害(これも分かりにくい説明)

(4)手続き記憶の障害

身体で覚えたことを忘れてしまう障害。

(5)意味記憶の障害

言葉の意味を忘れてしまう障害

ということで、素人向けに端折っているので、かえって分かりにくい。まぁ5種類あるということが分かればよいか。

それにしても非論理的な分類だな。いかにもアメリカ心理学風だ。

 


次は「アットホーム介護」というサイトの「なぜアルツハイマー型認知症は記憶障害から始まる?その謎に迫る」というページ

 

人間が物事を記憶し、思い出すには3つのプロセスが必要です。

まず、新しい物事を覚えること「記銘」し、次に、それを脳の中にしっかりと「保持」し、次に必要な時に取り出す「想起」というプロセスを経て、初めて物事を記憶し、思い出すというプロセスが成立します。

ウーム、前のが現象的分類だとすれば、今度はメカニズムによる分類だな。

アルツハイマ―型認知症を発症すると、この記憶の中枢的存在の海馬付近に病変が発生します。

アルツハイマ―型認知症の始まりは、海馬近辺です。その、海馬から側頭連合野や頭頂連合野といった別の脳の部位に移された記憶には、初期段階のアルツハイマー型認知症の影響が及んでいないのです。

というが、本当にそうか。認知症は「海馬病」なのか? そこが知りたいのだが…

別のページにもこう書いてあった。

アルツハイマー病では、学習に関連する海馬の脳細胞が最初に損傷を受けることがよくあります。そのため、特に最近学習した情報を思い出すことができなくなるといった物忘れが、しばしばこの疾病の初発症状となっています。

もう一つ別のページ

アルツハイマー型認知症の特徴として、大脳の後半部(側頭葉、頭頂葉、後頭葉)の萎縮が次第に進むことです。

まず、脳の側頭葉と呼ばれる部分の海馬の脳神経細胞が減るところからはじまります。


理研のプレスリリースにこんなのがあった(2016年3月17日)。何かスタップ細胞を思い出してしまう。

アルツハイマー病で記憶は失われていない可能性 -アルツハイマー病モデルマウスの失われた記憶の復元に成功-」 

ADでは、記憶の形成、保存、想起に重要な海馬の周辺で神経細胞の変性が始まることから、海馬の異常が記憶障害を引き起こす可能性が指摘されていました。

その記憶障害が記銘障害なのか想起障害なのかは不明である。

今回はモデルマウスに嫌な思いをさせ、その最中の「記憶エングラム細胞」というところを遺伝学的標識でマークした。

翌日ふたたび嫌な思いをした環境に突っ込んだが、認知症マウスはたじろがなかった。ところが「記憶エングラム細胞」に青色光線を当てて活性化してやると、マウスは明らかに嫌がって、たじろいだ。

ということで、研究者は記憶障害は記銘障害ではなく想起障害だと推量しています。

ただこれも、アルツハイマーの主座が海馬であるという前提です。

なお、このニュースを「アルツハイマー病になって失われた記憶は復元できる可能性が示される」と報道しているサイトがありますが、この研究はあくまでもリサーチです。

 

ということで、どうも記憶障害は「海馬病」ということだ。

しかしアルツハイマーと「海馬病」は同じ病気ではない。アルツハイマーは遥かに広範な変化である。

ある説明ではアルツハイマーは海馬から始まって全体に及ぶようなニュアンスで記載されているが、果たして本当であろうか。

第二に、病理学的変化はさておくとして、臨床症状が海馬障害から始まるのにはなにか理由があるのか、これも良く分からない。

第三に、記憶といえば海馬と戻ってくるが、本当に海馬がすべてであろうか。むしろ判断する中枢のそばにそれぞれに特化した記憶装置があると考えるべきではないか。例えば (4)手続き記憶と書いてあるのは、かなり頭頂葉・小脳に属する記憶ではないだろうか。

いずれにしてもアルツハイマーにおける記憶障害を概念付けるためには、まずは海馬の構造と記憶の過程から始めて、脳の記憶システムの全体像へと進んでいくしかなさそうだ。

 どうも、齢70歳(1946年9月生まれ)にしてもう一つチャンスが巡ってきたようだ。

とりあえずお世話になった老健で、相棒の医者が病気で倒れたために、いろいろ責任が生じてしまったのが、来年3月でお役御免になりそうだ。

これを機会に色々と勉強をしたいと思ったが、考えてみるとまだ五体は動く。スタミナはないが多少の金はある。もう厚生年金は払わなくてよい。

嫁さんの病気はますます進行しているが、介護の皆さんが頑張ってくれるおかげでなんとか日中のまとまった時間はとれる。

であれば、少し大江風に「遅れてきた青年」をやってみるべきではないかと考えている。学生時代のセツルメント活動を思い出して、社会貢献ができないかと思っている。

一番心残りなのは「無料・低額診療」だ。ココらへんは勤医協でしっかりやってはくれるだろうが、とりあえず前線で損はかぶってでもファーストエイドをやって後方に送る医療が必要だろうと思う。

こういう場所が街のど真ん中に必要だ。やばい人は郊外の住宅地にはいない。街の真ん中の十字街でウロウロしているはずだ。

都心の雑居ビルの2階にクリニックを作る。名前は「ゆうあい」だ。英語ならソリダリテ、“You & I” でも良い。しかしこれはどうでもよい、というか、みんなで決めることになる。

タレントのスカウトのように目が利く人が、そういう人を探しだして連れ込んでくる。まさに貧困ビジネスだ。悪徳業者との競り合いだ。

外国人も視野に入れている。もちろん金髪碧眼の外人ではない。AALAの人々だ。

これが経営的にペイするかどうかはわからない。どこまで持ちこたえられるかどうかも分からない。しかし人一人なんとか生きてはいけるだろうと思う。

なんとか仲間づくりをしなくてはならないな。

胸のすくような小気味良い論文である。
著者の言いたいことは、「考古学屋さんも今やノンポリでいてはダメなんだよ」ということであろう。
「全共闘」みたいな連中が考古学の都合の良い所だけ切り取って我田引水の議論を展開していて、「勝手にやっていて頂戴」と知らんぷりしていたら、いつの間にか身内にまでそういう「理論」にかぶれる奴が出てきて、連中の思想に合わせて考古学の体系をひん曲げてしまうようになった。
そこでその誤ちを正そうと思うのだが、なにせ相手は科学ではなく情緒(科学的装いを凝らしたデマ)で攻めてくるから、たちが悪い。
著者は真っ向勝負で反撃しているが、イスラム原理主義者に「イスラムの原理」を教え込もうとするのと同じで、かなり絶望的なこころみだ。ただ間違いなく反論のための基本線は提示されているから、後はそれにどれだけ肉づけいていくかの問題だろう。
多分、この論文の趣旨ではないのだろうが、事の性質上触れている部分がかなり面白い。
それは天武以来の律令国家体制がコメ栽培文化と生産力の発展の上に乗っかっているのではなく、むしろその文化の危機によって登場してきた強権的な権力だということだ。
とくにコメが寒冷に弱いということで、その北限地帯が否応なしに畑作に取り組まざるを得なかったということ。逆に新技術としての畑作が急速に発展した結果、農業前線の北進が進み、それが陸奥の縄文人との闘いを引き起こし
という経過が非常に歴史の弁証法を感じさせる。

さて、ここからが本論部分だ。思えばずいぶん長い前置きだ。

❹……………「水田中心史観批判」の問題点②               

―考古学の研究成果をめぐる諸問題

(1)栽培植物種子の分析方法に関する問題点

現在では,厳密な方法に基づく信頼性の高い栽培植物種子のデータが蓄積されてきている。

しかしながら,その一方で,依然,問題のある分析方法や,確実性が担保されない資料に基づく議論が繰り返されている。

コンタミネーションの危険性がきわめて高いと判断される事例を平然と集めて分析している例が後を絶たない。

と、著者は本気で怒っている。

(2)確実性の高い資料に基づく縄文文化・弥生文化の栽培植物の変遷

縄文時代に栽培されていた可能性のある植物はイヌビエ(縄文ヒエ),ダイズ属(ツルマメ),アズキ亜属,アサ,エゴマ(シソ属),ヒョウタン,アブラナ属,ゴボウなどである。クリを中心とする堅果類も人為的な管理が行われていた可能性がある。

マメ類がメジャーフードになっていたとする意見もあるが、それは嘘だ。(本文はもう少し上品に言っているが同じことだ)

「批判」者たちはイネ科の穀類栽培が定説になっているかのように語ってきたが、それは嘘だ。

中部地方の縄文時代晩期後葉の土器からは,多数のアワやキビ圧痕と,わずかなコメやオオムギの圧痕が検出されているが,これももっと後の時代だ。

弥生文化の水田稲作技術とアワ・キビ畠作技術は,北部九州地域の弥生文化成立期あるいは揺籃期に,ほぼ同時に朝鮮半島南部からもたらされた可能性が高い。

北部九州地域では刻目突帯文土器の夜臼式期から,近畿・中国では概ね遠賀川式土器が展開する時期から,急速にコメが食料の主体になっていく。関東では,弥生時代中期において,コメが他のイネ科穀類を圧倒する

アワ・キビはいずれの地域でもいずれの時期でも穀物栽培の主流となることはなかった。

オオムギ,コムギに関しては,そのほとんどが発掘前後の混入である。ムギ類は弥生文化においてほとんど定着しなかった。

(3)「水田中心史観批判」における縄文文化・弥生文化の農耕のイメージとの齟齬

著者は「批判者」にさらに追い打ちをかける。

当たり前のことであるが,仮に問題のある資料が100 あろうと1000 あろうと,決して「確実」にはならないし,確実性の高い1つの資料にも遠く及ばない。

不確実な資料の「可能性」にかけるのではなく,潔く議論から除外するのが責任ある科学的な態度であろう。

こうした主張をされる方々には,是非ともその根拠を明確に示していただきたい。

(朝鮮半島の)櫛目文土器文化でイネ科穀類が生産されていたことは間違いない。

しかし種子の存在=農耕技術の存在ではない。いたずらに諸分野の「水田中心史観批判」を過熱させることがないよう,冷静な評価を行っていくことが考古学者の努めだろう。

(4)前方後円墳時代~古代における農耕技術の展開をめぐる問題

前方後円墳時代では,中期以降コメ以外のイネ科穀類が増加する傾向がある。

この時期は渡来集団による新しい技術の導入が進んだ時期であり,深耕を可能にするU字形鋤鍬刃先や,牛馬飼養と組み合わさった畠作技術が定着した。

関東地方を中心に,水田に不適な丘陵や台地で集落遺跡が増加する。そこに畑作技術が導入されたことは間違いない。

紀元700年から800年代には寒冷化が進行し、飢饉があいついだと思われ、それが畑作の拡大を後押ししたと考えられる。

結論

律令国家は,水田中心の生業の起点ではなく,むしろ古代・中世以降の多様な生業の展開の起点,あるいは発展期として評価すべきだ。

安藤広道『「水田中心史観批判」の功罪

というレビューが面白い。入り組んだ題名であるが、これまでの主流的歴史観が「水田中心主義」だったこと、それを批判する形で雑穀栽培に光を当てようというのが「水田中心史観批判」という流れとして台頭したこと、しかし「それにもいろいろ問題があるぞ」という反批判も出ている。それがこの文章だ。

内容を要約紹介しておく。

[論文要旨]

「水田中心史観批判」(以下「批判」)は,過去四半世紀における日本史学のひとつのトレンドであった。

その論点は,もともとの日本文化を複数の文化の複合体とし,律令期以降に水田中心の価値体系に一本化されたというものだ。

しかしその土台となった縄文文化や弥生文化の農耕をめぐる研究成果がかなり怪しいということが分かってきた。

「水田中心史観批判」が構築してきた歴史は,抜本的な見直しが必要であることが明らかになった。

1.問題の所在

「批判」は1970 年前後から活発になった。まず文化人類学と日本民俗学において水田稲作中心の歴史や「文化」の解釈に対する問題提起が活発化した。

具体的には「畑作文化」や「照葉樹林文化」「ナラ林文化」などだ。

それだけなら勝手にレッテル貼りしていれば良いだけのお気楽な世界だが、縄文「文化」と弥生「文化」のところまで話が進むと、「ちょっと待て」ということになる。

「批判」は多様であるが以下の点で共通している。

*「稲作文化」と,縄文文化以来の畑作を含む多様な「(畑作)文化」を対立的構図で捉える。

*水田稲作が中心となる現象を,律令期以降の国家権力との関係で理解する。

「批判」の問題点は2つある。ひとつは「文化」の概念をめぐる問題であり、もう一つは考古学の研究成果との関係である。

考古学の方にも「批判」に呼応した動きがあった。ひとつはプラント・オパール分析による縄文期のイネを含む穀類生産の確認であり、もう一つは弥生期の水田稲作の比重の下方修正である。

しかし実は縄文のイネについては、考古学的に見て確実な証拠は見つかっていないのである。

縄文文化の農耕技術をめぐっては,現在までのところクリやマメ類,イヌビエなどのいくつかの植物に栽培されていた可能性が認められるに過ぎない。

中略

(3)「考古学的文化」の概念と縄文文化・弥生文化の枠組み

先史時代における時間軸・空間軸の設定は,型式による編年体系によってのみ可能となる。

それは地域的な「考古学的文化」の設定のみならず,縄文文化・縄文時代,弥生文化・弥生時代といった大きな枠組みにおいても同様である。

「日本列島」というアプリオリな地域区分は不要なだけでなく,排除すべきものとなる。

型式は,生物の種とは異なり,時間軸に連鎖する型式の系統と,空間軸に連鎖する型式相互の関係性のなかで存在する。

形式には画期(時間的断絶)と境界(空間的断絶)がある。それは相対的なものであるから、「歴史観」次第で変化する可能性がある。

縄文時代はほぼ純粋に考古学的な学的構造の中で構築されている。しかし弥生時代については必ずしも考古学的構造のみに基づいて構築されているわけではない。

しかし弥生時代を縄文時代と比較するのであれば、同じ方法(純粋に考古学的な学的構造)で規定しなければならない。

弥生時代の考古学的規定

弥生時代の考古学的構築は、純粋に土器の様式にもとづいて行われる。その際縄文式土器がどう変化するかは二義的である。

1.弥生時代の始まり

縄文土器の系統の一部に,弥生式文化を反映した何らかの変化が認められた時点。

2.弥生式文化の拡大

1.で端緒として見られた変化が各地で継起的に生じることで、弥生式文化の拡散が確認される。

3.弥生時代に終点はない

なぜなら縄文が弥生に変わったように、別の土器の時代に移行したわけではないからだ。

4.弥生文化はより細分化されるべきだ

弥生時代には、縄文文化には見られなかったほどの急激な社会的,経済的,文化的変化が生じていた。

これを弥生の一言で括るには無理がある。弥生文化を複数の「考古学的文化」に分割する必要性がある。

例えば、型式学的研究の厚い蓄積のある青銅器を時代区分の物差しに使うことは十分可能である。

長くなるので、ここで一旦切ります。

昨日、北海道立埋蔵文化財センターというところに行ってきました。

ほとんど隠れ家的な場所で、探すのに苦労しました。その代わり環境は素晴らしく、建物の裏がそのまま野幌原生林の遊歩道になっています。入館せずにそのまま原生林の散歩に行ってしまいたい気分です。

1時間ちょっとの見学でしたが、入館者は他に一組のみ、完全な貸切状態でした。入館料はなんとただ。美麗なパンフレットもただ。テータという広報誌を10号分せしめてきました。

黒曜石の展示が大変充実していて、黒曜石については日本一じゃないかと思いました。遺物の展示の方も充実しているのですが、あくまで考古館ということで、歴史を知るためにはちょっと説明が不足しているようです。その代わり開架の図書室があってかなり多くの書籍が参照できます。

百年記念塔の方に開拓博物館、野幌よりに道立図書館があるので、はしごするつもりで行けば充実した週末が送れるでしょう。

とりあえずの感想

1.アイヌ人は縄文人だ

1万年前の旧石器人、2千年前までの縄文人、そして擦文人、アイヌ人との間に欠落や断絶はまるでない。基本的な生活スタイルはまったく同じように見える。もしアイヌ人が縄文の世界に迷い込んだとしても、そのまま「お隣さん」として暮らしていけるのはないかと思えるくらいだ。

今までいろいろ論争があったし、私も一時はアイヌ人は縄文人ではなくポスト縄文人だと思っていたこともあったが、Y染色体の研究でアイヌ人が縄文人そのものだということが分かった。発掘された展示物をずっと見ていって、それが心から納得できる。

2.縄文人は農業を知らなかった

出土品をずっと眺めてみて、ついに穀物栽培の形跡を認めることができなかった。これは相当きついことではないか。魚貝とくるみやクリ、時々鹿という食糧構成はおよそ不安定だ。これではヒグマの暮らしと大同小異だ。とくに冬場の暮らしは冬眠でもしなければ到底立ちゆかない。

アイヌの場合は、おそらく和人との交易が生活の確保に結びついていたろうと思われるし、多少の農業も行われていたのかもしれない。しかし縄文人にはそのような農耕を営む隣人はいなかった。

定住し人口が増えれば、やがて周囲の資源は枯渇する。そうしてある日、冬の寒波とシケ続きの日が続けば人々はバタバタと死んでいく。残された人は消耗を上回る勢いで繁殖に勤しんだのだろうか。

1844年 パティキュラー・バプテスト派、奴隷問題をめぐり決裂。奴隷制を支持する南部バプテスト信者が分離する。残された北部のグループが「米国バプテスト宣教連合」を組織。(バプテストにはジェネラル派とパティキュラー派があるらしいが良く分からない)

1873(明治6年) 「北部バプテスト」、横浜で布教活動を開始。

1889(明治22年) 「南部バプテスト連盟」(Southern Baptist Convention)が宣教師を派遣。九州を中心とした伝道が始まる。(九州を地盤としたのは北部バプテストとの縄張り協定による)

1895 黒人のバプティスト組織が「全国バプテスト連盟」を結成。

1903年 日本バプティスト西部組合が北九州の若松市で結成されました。

1907年 米国のバプテストの諸教団が合同し「北部バプテスト大会」を開催。「北部バプテスト同盟→米国バプテスト同盟」の母体となる。

1916 宣教師C. K. ドージャーが、福岡に「西南学院」を設立。

1940 西部組合が日本バプテスト東部組合と合同。日本バプテスト基督教団を結成する。

1941 日本バプテスト基督教団は日本基督教団に合同。

1947年4月、E.B.ドージャー宣教師の呼びかけにより、福岡・西南学院教会で「日本バプテスト連盟」結成総会。旧西部組合系の16教会が日本基督教団から離脱して参加。

1958 旧東部組合系教会の一部が、日本基督教団を離れて「日本バプテスト同盟」を結成。教団残留組は教団内の一グループとして「教団新生会」を結成。ともに「北部バプテスト同盟」(現アメリカ・バプテスト同盟)をバックとする。

1962 反ヤスクニ宣言を発表。

1963年 「新生運動」が展開される。福岡を拠点に全国への開拓伝道に取り組む。SBCの牧師・信徒が来日し、伝道協力。

1970年、世界バプテスト大会が東京で開催される。

1970 神学校や各教会において、教会の存在意義・宣教を問う教会闘争が起こりました。靖国神社問題、日韓・在日連帯問題、公害問題、部落問題などに取り組む。

1976年には米国・SBCからの支援を打ち切り、経常費自給化を達成。

1979年に「信仰宣言」を採択。その後“Cooperative Baptist Fellowship”(CBF)との連携を強める。

1992 「日本バプテスト同盟」が「戦争責任に関する悔い改め」を総会で採択し発表。

1988年に「戦争責任に関する信仰宣言」(戦争責任告白)を採択

1995 阪神淡路大震災で、兵庫県内の諸教会が甚大な被害

2002年総会では「平和に関する信仰的宣言」(平和宣言)を採択

2004 南部バプテスト連盟、世界バプテスト連盟からの脱退を正式に決定。

2006 南部バプテスト連盟からの脱退者がCBFを中核に新バプテスト連盟を結成。カーター元大統領らも加わる。

2013年1月現在、全国283の教会、43の伝道所が加盟(九州が75教会)

2016年7月 日本パプテスト連盟理事会声明「なおも希望を持ち続けるために」を発表。参議院選の結果を踏まえ、立憲主義の堅持を訴える。


こうやって、バプティストの歴史を見ていくと、西南学院の宣言はごく自然なものと考えられる。内部事情的に言えば、南部バプティスト連盟との絶縁がかなり効いているように思える。


赤旗の8月15日号に掲載された「西南学院の平和宣言」は大きな反響を呼んでいる。この「宣言」はそもそも4月1日付で発表されたものだが、当時はまったく知られていなかった。

発掘した赤旗は偉い。

文章そのものはそれほど長いものではなく、全文が読めるのでそちらをご参照いただきたい。

と言いつつ、要約を箇条書きにしておく。

宣言の表題は「西南学院創立百周年に当たっての平和宣言―西南学院の戦争責任・戦後責任の告白を踏まえて―」

1.西南学院は、創立百周年を迎え創立者C・K・ドージャーの示した方向を確認する。私たちは、敵対する異質な他者にさえ、しっかりと向き合い、問い合い、愛し合うことこそが人としての普遍的価値であると信じている。

2.西南学院は、先のアジア・太平洋戦争ではこれに加担し、諸外国の人々をはじめ多くの人々に多大な苦しみを与えてしまった。

3.戦後もそのような過去への責任を明らかにせず謝罪してこなかった。天皇の名による侵略戦争によって傷つき、殺された人々の怒り、苦しみ、悲しみを受け止め、「加害責任」を心に刻み込んでこなかった。

4.西南学院は、天皇皇后の御真影の下賜を願い出、「奉安殿」を建設し、宮城遥拝、君が代斉唱を行った。宣教師たちが敵国人として帰米を余儀なくされた時にも、苦悩・悲しみを共有できなかった。体育教育を「軍事教練」の場とし、学院の名で学生を出陣させ、彼らのいのちを死に至らしめ、他国の人々を殺すことを是認した。

5.私たちは、創立百周年のこの時に過去と将来に想いを馳せ、自国本位の価値観を絶対視し、武力・暴力の行使によって人々の尊厳 を抑圧するという過ちを二度と繰り返すことのないよう、今その決意をここに表明します。


ということで、いささかきつい文章だが、これを西南学院のおかれた位置とつき合わせることによって、真意が見えてくる。

西南学院の歴史

1906年(明治39年)にアメリカから「南部バプテスト連盟」の宣教師C.K.ドージャーらが赴任。福岡バプテスト神学校を開校。10年後に西南学院を設立。以後は全国各地のミッション系学校とほぼ同様の経過をたどる。

かつては「南部バプテスト連盟」より多額の補助を受け、宣教師の派遣も受けていた。学院長もこれら宣教師が就任することが通例であった。

西南学院と日本バプテスト連盟との関係は現在も深く、神学部は日本バプテスト連盟の教派神学校としての使命も負っている。

ウィキペディアの「西南学院大学」などには、2000年以降の信仰をめぐる混乱が若干触れられている。

1970年代より、「南部バプテスト連盟」の保守化が進んだ。79年には原理主義者による南部バプテスト連盟占拠が行われた。

元々、南部バプティストは人種差別を内包していた。1939年アトランタで開かれたバプテスト世界同盟大会では、白人と黒人のゲストは異なったホテルを提供され、会場の座席も分けられた。(アメリカ南部バプテスト連盟

この傾向は60年代後半に一定の是正がなされたが、70年代にふたたび保守派が巻き返した。

2000年に、米本国の「南部バプテスト連盟」がキリスト教原理主義に転向し、信仰宣言を改訂した。

「妻は夫に恭しく従うべきだ」と家父長制を強調、女性が牧師になることを制限する文言などを加えた。「連盟」は宣教師に宣言への同意署名を求め、拒否した宣教師は絶縁になった。

またブッシュ・ドクトリンを積極的に支持するなど、政治的右傾化を強めた。

「南部バプテスト連盟」は、2004年には世界バプテスト連盟を離脱するに至った。

この動きが西南学院にも波及し、宣言への署名を拒否した多くの宣教師が解雇され、帰国した。学院長も任期が終わると同時に離日した。

学院にとどまった4人の元宣教師は「南部バプテスト連盟」を離れ、学院の専任教員として採用された。

というような経過を経て、本国の「連盟」とは絶縁しこれまでの方向を一層強化する方針が確立された。「創立者C・K・ドージャーの示した方向」というのはそのことを指す。


ということで、状況としては一知半解なのだ。

結局下記のことが分からなければ、状況は理解できないということが分かった。

1.バプティスト派の由来

2.バプティスト派と南部バプティスト連盟の関係

3.日本におけるバプティスト派の動き

4.日本バプティスト連盟と西南学院の関係

思わぬ深みにハマりそうな予感がする。

 

バカチョンカメラで診察室の窓から撮った麦畑です(写真の上でダブルクリックしてください)。雲は手前から奥へと進んでいきます。ここは広い野原で落雷の名所です。数年前に右側の電柱に雷が落ちて燃え上がる瞬間を、私はしっかりみました。
R0012216

この後1週間ほどで刈り取られました。
二階建てくらいの巨大なトラクターが入ってなぎ倒していくのですが、落ち穂を拾って驚きました。
穂の中の実が見事にこそぎとられているのです。脱穀作業なんてのはいまや昔話なんですね。
とにかく、子供の頃から持っていた農業に対するイメージがひっくり返りました。
「お百姓さんが丹精込めて育てた作物」というような神話はまったく通用しない世界が、目の前で展開されたのです。呆れるほどの「粗放な」農業ですが、それは有無を言わせぬ「豪快さ」でもあります。
そこは「やっぱ、サッポロ黒ラベル」でしょう。
こんなクリニック+老健+特養で働いてみたいという人、ご一報ください。なんと札幌市内から車で20分足らずです。

いよいよ記憶の問題に入ろうと思うのだが、ためらってしまうのは記憶というのが心理学的に、あるいは哲学的に扱われており、ともすれば課題が散漫になってしまうことだ。

それはこれまでの「記憶」の探究が、いわば五里霧中の中で行われており、群盲象を撫でるのたぐいの議論が横行しているからだ。

そして哲学者(むしろ心理学者というべきか)は一冊のパンフレットから「記憶」を分類し、体系づけ、なにか深遠であるかのような言葉を用いて、おのれの「体系」に意味付けを与えるマジックの天才だ。

もちろん、中には乏しい治験の中から鋭い洞察力によって議論を前進させてきたものもあるだろうが、まずは脳科学的事実の収集から始めたほうが良いだろう。

私の興味の焦点は認知症にある。その中核症状としての記憶障害をどう把握するかを議論の中心に据えながら、少し勉強してみようと思う。

記憶障害を語るには、まずは認知症のおさらいが必要だろう。

言うまでもなく認知症は記憶障害を中核症状とする症候群である。そしてそれに続発する怒り、拒否、嘆き、合理化、錯乱、うつ、妄想などの周辺症状を大なり小なり伴う。

脳機能がさらに荒廃すれば自発性の低下、内的世界への引きこもり、意思疎通の途絶、生命意欲の喪失へとつながっていく。

後者は認知症ばかりではなく、不可逆的かつ全般的な人生の晩期症状ともとらえられ、認知症の枠組みからは外れるようにも思える。

当初はいろいろ異論もあったが、今日では認知症のほとんどがアルツハイマー病という病理学的変化に関連付けて捉えられている。したがって、少なくとも将来的には治療可能な疾患となっている。

現在では記憶障害の主役はアルツハイマーということになり、その病理学的主座を特定することで、記憶のメカニズムのキーポイントを我々は把握できた。

これが一番大事なところで、後はその他の記憶障害を特殊型ないしヴァリアントとして把握することで、人間の脳の記憶機構を立体的に構築できることになる。

だから「記憶」のシステムについて意味の有ることを語ろうとするなら、まずは記憶障害から、そしてアルツハイマーのことから語り始めなければならない。

「下げりゃいいじゃん」という糖尿病治療

もう十年も前になるか、循環器学会で「糖尿病と冠疾患」みたいなシンポがあった。そのとき、糖尿病の専門の先生がこう言ってくれた。

「下げりゃいいんですよ」

これを聞いて、溜飲が下がった。

自分の病院では糖尿病の先生が何十種類ものクスリやインシュリン製剤を使って治療していて、素人には手が出せない雰囲気だった。

もちろん血糖は90~110くらいHbA1cは6以下にしなければならない。そのために患者はがんじがらめに縛られて、ひっきりなしに勉強させられていた。

困るのはナースがやたらとダメ出しをすることである。「先生、それはダメですよ」とか、「そんな指示じゃ受けられません」とくる。

研修医の時代ならともかく、こちらも専門領域の仕事で忙しいから、DM患者が受け持ちになるとそれだけで気が重くなったものだ。

いまも相変わらず糖尿病の世界はそういうたぐいの連中が幅を利かせているようだが、私は老人保健施設に移ってからはこれで決めている。

1.経口薬はアマリール一筋

2.ばらつくようなら、他剤追加も検討(とは言うものの、現実には使えるものは使っちゃうのだが)

3.アマリール6ミリでもコントロールできなければインスリン(ランタス)追加

ということでいる。

昔はインスリンと経口薬を併用すると叱られたものだが、最近はBOTとか言ってむしろ勧められているようだ。

のだが、最近1日40単位もインスリンを使わなければならない人がいて困っている。急に悪くなったのなら送ってしまえばいいのだが、1日20単位のレベルで病院から送られてきた人だから、もう少し頑張るしかない。

聞くところによると、最近「ビクトーザ」の注射という手があるらしい。これが4.になるのか?

理屈はよう分からん。ただ臨床データは良さそうだから、「溺れるものの藁」位のつもりで検討してみようかと思っている。


ちなみに糖尿病の経口薬一覧表

スルホニル尿素薬 第1世代

ジメリン錠 デアメリンS錠

 スルホニル尿素薬 第2世代

オイグルコン(ダオニール) グリミクロン

 スルホニル尿素薬 第3世代

アマリール

速効型インスリン分泌促進薬

スターシス グルファスト

α-グルコシダーゼ阻害薬

グルコバイ ベイスン セイブル

ビグアナイド薬

メトグルコ ジベトス

チアゾリジン薬

アクトス

SGLT2阻害薬

いろいろ

DPP-4阻害薬

グラクティブ ジャヌビアなどいろいろ

GLP-1受容体作動薬

ビクトーザ(注射用のDPP-4)

DPP-4阻害薬とSGLT2阻害薬が流行りのようで、薬屋さんが入れ替わり来ては効能を語っていくが、馬の耳に念仏

「ガイドライン」は山ほどあるが、結局何かの宣伝だ。しかもこういうエライさんはこういうところで言うことと、現場でやっていることが結構違う。もっとゴリゴリだ。平気でカンカンノウを踊らせる。俺は知ってるぞ。


前の前の記事で、初歩的な疑問として3つあげた。
狩野さんの主張(実験データではなく)は、その疑問を強めさせる。

オギャーと生まれて1週間から2週間の間というのは、ほとんどプログラム行動であろうと思う。
「強者が唯一生き残る」というのも、所詮はそのDNAプログラムの一部にすぎない。
胎生期にし残した仕事というのはたくさんあるはずだ。いくら母体の血流を通じて豊富な酸素を取り入れることができると行っても、自力で呼吸してありったけの酸素を使いながらする作業ははるかに濃厚だ。
出生後の数週間というのは、その時までやらなかった、あるいは宿題にしていた作業を一気にやり遂げるチャンスだ。
「個体発生が系統発生を繰り返す」とすれば、狩野さんの言うようなパフォーマンスは進化の何処かの段階でリアルに存在していたかもしれない。しかしいまやそれは粛々と進行していくほかないのである。

鉄は熱いうちに打たなくてはいけない。初期の段階に方向付けしなくてはいけない。「刈り込み」は神経線維を一定の方向に向かわせるための通過儀礼でなくてはならないのだと思う。

私は大脳(小脳もふくめ)という組織が前脳・中脳・後脳からなる基幹脳(脳幹)に発生した腫瘍のようなものではないかと考える。その原基は嗅脳(触覚脳を含めた)である。
その組織はきわめてモノトーナスであり、どこからどこまでがどういう働きなのかは、見た目からは判断つかない。最初から合目的的に形成されたのではなく、後から任務分担されたのだと考えるべきだ。

主要だから、とにかく無目的的に増殖しようとする。とくに生後数週間は大量の酸素を得てとにかく必死に接続を増やそうとする。大脳を構成する神経細胞にとってはとにかく接続こそ命だからだ。
それをどう抑制していくかがプログラムされた遺伝情報の力の見せ所だ。
それによって、無限増殖を繰り返そうとする脳ミソは「大脳」になっていくのだ。
ちょっとでもプログラムを実行ミスすれば、へんちくりんな脳が出来上がることになる。

プログラムされた腫瘍は腫瘍ではなく臓器である。しかし一歩間違えば文字通りの腫瘍になってしまう。それが生まれて好気性の生命となるに及んで、わずか数週間の間に勝負しなければならないという点では本当に大変なことであろう。心から同情する。

前項の記事で東大の上阪さんと狩野さんと書いたが、

東大の「記者発表一覧」というサイトに「小脳のシナプス刈り込みの仕組み解明」という記事があって、発表者が東大医学部神経生理学教授(昔風に言うと)狩野方伸となっているから狩野教授のご指導のもと上阪さんという人が執筆したらしい。

小脳について詳しく書いていたのもそのためと思われる。

この記事も前項とほぼ同じ内容が書かれているが、記者発表らしく、自閉症やADHDにも目配せしている。

文章にも、「たった一本の強力な登上線維が…“勝者の席”を占める」など文学的表現が見られる。

絵も脳科学辞典のものよりリファインされている。

図1

ただその分だけ論理の危うさが目立つようになり、A→Bという時間的継起にすぎないものを、「AだからBになる」という因果関係にしてはいないか? という不安もつきまとう。

もうすこし「刈り込み」論の適否やメカニズムに関しては議論が出揃ってからでも遅くはなさそうだ。

原著は下記の通り

Translocation of the “Winner” Climbing Fiber to Purkinje Cell Dendrite Followed by Removal of the “Losers” from the Soma during Cerebellar Development :Neuron July 16

レファレンス協同データベースというサイトがあって、小麦の中国からの伝来について説明されている。

かなり詳しく説明されているので、抜粋して紹介する。

1.小麦の起源

コムギはイネ科のコムギ属。コーカサス地方からイラクにかけてが原産地とされる。野生種は中央アジアから中近東にかけて分布している。

1万5千年前ころ、古代オリエントで、狩猟生活をする先住民たちは草原に繁茂する雑草のなかから、野生種のオオムギ、コムギ(一粒系)をみつけて採取するようになった。

当初は大麦の栽培が先行したが、小麦粉にしてから調理するようになると小麦が重要になる。(石臼で小麦を挽き、それに水を加え捏ね生地にして焼く)

紀元前7000年ごろになると南西アジアの肥沃な三日月地帯でコムギの栽培が始まった。この頃クサビコムギと交雑し2粒コムギになる。

さらに紀元前5000年ごろトランスコーカサス地域で二粒系コムギとタルホコムギの交雑によりパンコムギ(普通コムギ)が誕生した。

2.小麦の伝播

紀元前5000年から4000年に、ドナウ河とライン河流域に到達し、紀元前3000年ごろにはヨーロッパ全域、アフリカ北岸に広がる。

紀元前3000年には中国でコムギの栽培が始まったとされる。それは最初からパン小麦として完成された小麦だった。

3.中国への伝播

紀元前2000年には、石臼が考案され白いコムギ粉の採取か可能となる。ただし石臼の発明は中国ではなく西方から伝来したとされる

4.日本への伝播

日本へのコムギの伝来は、オオムギより1世紀ほど後の4~5世紀ごろとされる。ただし紀元ころにはおおくのちいきでしょくされていた。

鎌倉時代にはいって二毛作がはじまると、稲の裏作作物として急速に普及するが製粉技術は未開拓のままであった。

 

ということで、小麦の栽培は明らかにコメの栽培に遅れている。コメのほうが1~2千年先行している。中国での栽培はずっと近年になってからだ。

中国で小麦栽培を始めたのはO2人だ。それもすでに殷・周の時代に入っている。つまりO2人は小麦も知らない時代に長江文明を駆逐していることになる。

もう一つ、稲作文化と小麦文化とは背反するはずだ。両者が重なって伝播することはありえない。

O人が南から来たのだとすればO2人はコメは知っていても小麦は知らなかったはずだ。それは北方ルートを経由して拡散したに違いないからだ。とすればO2人は北部a/o西部のC2人を通じて小麦づくりを学んだはずだ。

赤旗の科学面に「シナプス刈り込み」に関わる記事が2つも掲載された。

「シナプス刈り込み」などというのはまるっきりお初。どんなものかとグーグル検索してみたら、あるわあるわ5千件以上もヒットする。

これだけ記事があると、例によって時系列で整理しなければならない。ほんとうは昨日聞いたNHK第二の日曜講演会「認知症のメカニズムと創薬」を調べるつもりだったが、とりあえず後回しにする。

まずはウィキペディアから入るのが通例なのだが、ウィキには該当記事がない。ある意味、ちょっと安心。

シナプス刈り込み - 脳科学辞典

から入ることにする。原稿完成日:2016年6月4日だからまず最新情報と言っていいだろう。著者は東大の上阪さんと狩野さんという方。

まずは要約

シナプス刈り込み(synapse elimination)とは、必要なシナプス結合だけが強められ、不要なシナプス結合は除去される現象である。

発達期の動物の脳内では、ある段階になると神経結合(シナプス)が形成される。

このシナプス形成は、生後間もない時期には過剰に行われる。

その後、必要な結合だけが強められ、不要な結合は除去されて、成熟した機能的な神経回路が完成する。

このシナプス刈り込みは、発達期の神経回路に見られる普遍的な現象である。

大変要領よくまとめられた要約で、「よし分かった」と本文を読むのを飛ばしたくなるほどのまとめである。

逆に、目次を眺めても「ごちそうさま」と言いたくなるほどのフルコースだ。

刈り込み

これを10分で読めるようにまとめてみる。

1.シナプス刈り込みとは何か

最初に、小脳のプルキンエ細胞の刈り込みの絵が載っている。

シナプス刈り込み1

この絵を見ると、刈りこみと言っても、芝刈り機みたいに刈るのではなく、いくつかのまとまりに束ねるのだということがわかる。

一番左、生まれたばかりでは、5本以上の線維がプルキンエ細胞に接合している。それが2番めの絵では接合線維が7本に増えている。一方で左の3つは一本の繊維にまとまっている。3番めの絵ではまとまった側の接合は5ヶ所に増える一方で、単独で接合する線維は脱落している。

こうして最後には団結した側の一方的勝利に終わる。敗者は取り残され、やがて脱落する。

勝利した線維連合軍は、球状の細胞体からとんがり帽子の樹状突起に移動し神経接合を実現する。

この後、さまざまな神経におけるシナプス刈り込みが説明されているが、煩雑なため省略。

以上で、目次の 1 様々な神経系でのシナプス刈り込み は終わり。

2.何が刈りこみを規定しているのか

いろいろ書いてあるが、決定的な説明はない。GABAとかCaなど挙げられているが、いま一生懸命憶えるのは記憶力の無駄遣いになる。


ということで、いまはプルキンエの絵だけ憶えておけば良さそうだ。

本当の問題はなぜかということだが、今のところ研究はそこまでは進んでいない。

1.なぜ神経線維が過剰生産されるのか

2.なぜみんな生き残るように出来ないのか

3.まとまれる線維と仲間はずれ線維はどこが違うのか

4.淘汰が必然として、その選択は正しく行われているのか

あたりが、初歩的な疑問として残る。



2009年の時点で、北海道には旧石器時代以来の3万年間にわたる遺跡が11,801カ所確認されている。その8割は縄文時代に関わるものである。

縄文遺跡のうち、特に学術的価値が高いものは、国指定の11史跡(集落跡2、貝塚4、墳墓2、環状列石3)と、道指定の6史跡である。

道遺跡

                   北の縄文 道民会議 より

縄文時代 

草創期(BC1万3千年) 土器や石鏃の使用が始まる。ムラが出現。

青森県大平山元遺跡(北海道にはなし)

早期(BC9千年) 気候の温暖化が進む(縄文海進)

函館市臼尻町垣ノ島遺跡、千歳市イカベツ2遺跡、千歳市トプシナイ2遺跡、木古内町泉沢5,6遺跡

垣ノ島遺跡: 北海道で最大規模の縄文遺跡。縄文早期から後期に至る。20万点以上が出土。
トプシナイ2遺跡: 縄文時代早期から擦文まで至る息の長い遺跡。25,000点が出土。

前期(BC7千年) 円筒土器文化。三内丸山など拠点集落の出現。漆の利用。

洞爺湖町入江・高砂貝塚、

前期後半 木古内町幸連4遺跡、厚真町オコッコ1遺跡(屈葬人骨)、

幸連4遺跡: 標高20 ~28mの海岸段丘上に位置し、竪穴住居跡24軒、土坑47基が発掘。

中期(BC5千年) 大規模な拠点集落。ヒスイや黒曜石等の交易。

木古内町遺跡群(幸連3、幸連4C、大平4)、千歳市根志越5遺跡、根室市別当賀一番沢川遺跡、厚真町遺跡群(上幌内4、上幌内5、厚幌1、厚幌2、富里3、幌内7)

大平4遺跡: 前期後半期の50軒を超える住居址。土器100万点近くがみつかる。また墓地からは漆塗りの縦櫛やサメの歯などが出土。

中期後半 函館市大船遺跡、長沼町南9号線遺跡(平地遺跡で石器製作に特化。黒曜石剥片や石斧など)、

大船遺跡: 600軒におよぶ住居跡、とくに壁の高さが2m以上もある大型の竪穴住居。遺物は20万点。クジラ、オットセイ、シカ、マグロなどの骨。

後期(BC2千年) 東北では集落が分散化するが、北海道では拡大。

後期前半

森町鷲ノ木遺跡(ストーンサークルと集団墓)、木古内町札苅7遺跡、幸連3遺跡(琥珀玉)、八雲町野田生1 遺跡(赤彩微隆線土器)、千歳市遺跡群(キウス4周堤墓群,トプシナイ2、イカベツ2)、厚真町(オニキシベ3、上幌内4、上幌内5、厚幌1)

キウス周堤墓群: 円形の竪穴を掘り、周囲に土手を築いたもの。最大の周堤は、外径75m、内径35m、高さ5.4mに達する。周辺は大きな村だった。


後期中葉 忍路環状列石

晩期(BC1千年) 亀ヶ岡文化が栄える。祭祀の道具、装身具類が多様となる。

恵庭市カリンバ遺跡(漆塗の櫛などの副葬品)、千歳市キウス5遺跡(高さ43センチの大壷が発見)、根室市別当賀一番沢川遺跡、厚真町オニキシベ3遺跡

続縄文時代 

オコッコ1遺跡、イカベツ2遺跡、別当賀一番沢川遺跡

擦文文化期

厚真町遺跡群(オコッコ1(鉄器)、厚幌1、幌内7、幌内6)、千歳遺跡群(イカベツ2、トプシナイ2)

アイヌ文化期

厚真町遺跡群(幌内6、厚幌2、富里3 獣骨の集中、赤色漆塗椀)、千歳市根志越5遺跡

「広義の失業率」統計が始まる

昨日の赤旗の記事。

例によって読みにくい記事だが、整理して紹介する。

これまでの失業率は完全失業率で、さまざまな問題が指摘されてきた。

これに対し米国では、「広義の失業率」が用いられてきた。

今回は、内閣府が米国の「広義の失業率」を元に試算した結果である。

というのが、記事のホネ。

1.計算の方法

完全失業率では、失業者のうち①仕事があってもすぐに就業できない人、②求職活動をしなかった人や断念した人、③1ヶ月に何日かでも仕事をした人、④正社員になれず、やむなく非正規として就職した人、は除外されている。

「広義の失業率」はある程度これらを取り込んだものとなっている。

とくに④の人が問題とされている。

安倍首相は就業者数が増加したと強調するが、実際には低賃金の非正規ばかりが増えているからである。

2.試算の結果

今年の1~3月期で8.4%。同期で完全失業率は3.2%だった。

計算方法の細部はよく分からず、前後の比較もできず、国際比較も困難であるが、とにかく政府の試算でも8.4÷3.2=2.6倍の顕在+潜在失業者がいることが分かった。

一応、この2.6倍という数字は憶えておいたほうが良いだろう。

すみません。吉見俊哉さん、どんな人かも知らずに批判していました。

ウィキペディアで肩書だけ見ると専攻の分野しか記載されていません。著書の題名を見ると、周回遅れのポストモダンみたいで正直ゾッとしません。本屋の書棚で背表紙を見ても、食指が動くことはないでしょう。
ところが東洋経済ONLINE の対談記事を見ると、東大の大学改革のコーディネータとしての活躍がメインとなっており(本人は不本意かもしれないが)、むしろそちらでの専門家として評価していくべきだということがわかりました。

もう一つ、主要な問題ではないのですが、吉見さんは最初理科1類に入学され、その後教養学部に移籍されたということで、モロ文系の人ではないということです。

以下、その対談からめぼしいところを拾っておきます。

私は副学長という立場ですが、「組長のパシリ」と自分では言っています。東大は、教育改革を進めるにも、さまざまな学部、研究科と、数多くの調整をしないと全体がまとまらない。だからこそ、誰かが調整役としていくのです…

ここ10年くらいは、大学で研究ができる生活なんて全然していません

という中で書かれたのが2011年の『大学とは何か』(2011年 岩波新書)という本だそうだ。

そういう点では「組織内調整学」の専門家という肩書が最もふさわしいようだ。赤旗での発言も、そのように受け止めるべきかもしれない。

以下は対談での発言から

1.大学は二度目の死に向かいつつある

大学は、中世に誕生して近世に一度死んで、19世紀になってもう一度誕生しています。その19世紀に再生した大学が、今、二度目の死に向かいつつある…

三度目の大学の誕生があるとすれば、それは中世の大学に似たものになるかもしれない。

2.日本の大学が抱える3つの困難

a)数的増加への疑問

終戦時、大学数は50未満であった。現在は800校近くに増えた(16倍)。若者は減りつつあるので、大学卒業者の比率はさらに高くなっている。

世間では、「この規模で高学歴人材を輩出する必要があるか」という疑問がある。

b)大学のグローバルな生き残り競争

大学は世界的にも増えています。アメリカでは4年制だけで2500校。短期も含めれば4000校といわれます。中国でも1600校近くある。

世界全体の大学数は、たぶん1万校以上ある。大学の大競争時代が始まっている。

c)学問の流動化と複雑化

知の仕組みそのものが流動化し複雑化する中で、大学という組織の定義「そもそも大学とは何なのか」が問い返されていると思います。

3.文部省の大学改革が問題を複雑にした

1990年代を通じて、文部省主導で行われた大学改革が問題を複雑化した。

大学院重点化により大学院生の数は数倍増えたが、就職先は増えていない。高学歴の専門家の専門職能が確立していないからだ。

これにより大学院のレベルが低下して来る、という負のスパイラルが起きている。

4.いま、大学の役割は

いま大学はとても重要だと思っているんです。…社会全体が方向性を見失っている中で、厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間 が必要です。

そういう人間をたくさん生み出す上で、大学の役割は大きい。

“厚みのある「知」を身に付けて考え抜く人間”が、その中で議論しながら、可能性や課題、解決法を見つけていくことが求められています。

間違いなく、大学はその基盤になります。

以上が私にとってはだいじなポイントだが、吉見さんはその先を見つめる。

そのために、大学は今のカタチから変わっていくことが不可欠です。問題点は、誰が大学を変えてく力になるのか、“なり手”がいなく、難しいですね。

(ネットで読めるのはここまで)


ということで、たいへん骨太な議論を展開されておられ、傾聴措くあたわざるものがある。

こういう文脈の上で、「文系廃止」問題が語られているのである。

率直に言って大学の抱える困難については理解の外だが、最後の「大学の役割」についての言葉は印象的だ。

細かく言うと3つに分かれる。

A 厚みのある「知」を身につけること

B その「知」を用いてあらゆることを考えぬくこと

C それらの人々が互いに議論すること。

これらの作業によって社会全体に方向性を指し示す

というのが現代知識人(集団)の歴史的使命だ

それを前提とするとき、大学こそがその条件を備えているのではないか、

というのが吉見さんの主張だ。

これはおそらく吉見さんの独自の見解ではないだろう。彼の大学におけるコーディネーター兼ネゴシエーターという役割から考えて、無数の人々との対話から生み出された、「知の役割」に対する見解の最大公約数なのではないか。

この主張の素晴らしいのは、大学を考える前に大学人=知識人の役割を考えていることである。そして知識人を諸個人・専門家ではなく「考えぬく集団的知識人」として把握することである。

そしてそのような「集団的知識人」を育成することが、高等教育の目標となる。

彼はその延長線上に“灯台”としての東大をイメージする。

以上のように考えた場合、「文系廃止」という発想がそもそも間違っている。知識人というのはたんなる才能(タレント)の担い手ではないからである。


それから見ると、赤旗の記事は隣の的を狙っているかのように見える。おそらくインタビュアーの力量の問題だろうと思う。

たしかに言われてみると面白い。「その通り」と叫びたいほどだ。
日本における反米運動の中核をなす人々(私を含めて)は例外なく親米だ。
建国の精神であるメイフラワー号とピューリタニズムに限りない共感を抱く。
アメリカの独立宣言と合衆国憲法を素晴らしいと思う。
アメリカの人々の地域コミュニティ尊重、個人の不羈に我々は大きな敬意を抱く。
その大きな高まりとしてのニューディール精神は戦後日本の、戦後民主主義の旗印であった。
おそらくそれは奇怪な日本型ファシズムの時代でさえも、日本人の憧れの象徴で在り続けた。
日本国憲法への日本国民の支持は、このアメリカ流民主主義への日本国民の憧憬なしには語れないだろう。
そのくらいアメリカの“良質な”民主主義思想は、今上天皇を先頭とする日本人の心を捉えている。それは思い出すさえ不快な戦前日本の非合理主義に対する対決軸を形成しているのだ。
それは日本だけではない。ベトナムが戦後直ちにフランスからの独立を宣言した時、独立宣言の文句はアメリカの独立宣言を引き写しにしたものだった。独立ベトナムほど親米思想の塊みたいな国はなかった。

現代日本の親米派は、これらの思想を毛嫌いしている。そしてこれらの思想と闘った戦前日本の非合理主義を支持し、その復活を狙っている。
戦前非合理主義とは何か。それは中国をはじめとする近隣同胞を力で服従せしめ、なにかといえば武力で解決を図り、コンツェルンのための政治を国のための政治と強弁し、貧富の差を身分の差として国民の全面的な屈服を強い、個人の尊厳などテンから無視する政治だ。
それに反抗するものには国賊の汚名を浴びせ、死罪や拷問などおよそ理不尽なやり方で抑えこむ政治だ。
これらの政治手法はアメリカ流の政治スタイルとは著しく異なる。

今アメリカの支配者たちはその非合理主義者たちを密かに支持している。なぜなら彼らは民主主義の本家であるアメリカでそっくり同じことを繰り返しているからだ。

前項の続きになるのだが、中途半端な「文系“遊び”論」は論理建てとしては危険だ。

「遊ぶ」ことをいろいろ考えるのはいいのだが、普通の日本人にとって「遊ぶ」という言葉はあまりポジティブな語感がない。だからどうしても比喩的なものの言い方になってしまう。そうすると結果的には論理的自殺行為になりかねない。

まずはもっと価値中立的な言葉を選びとるべきであろう。

1.「遊び」の外形的・社会的規定

ここではとりあえず、「欲望行動」としておく。いかにも硬いが、とりあえず浮かんでこないので。

すべての行動は究極的には生存するための欲望にもとづいているので、「欲望行動」である。だから遊びは厳密に言えば「辺縁的欲望行動」となるかもしれない。

しかし近代社会では食うために稼ぐ。つまり労働することと余暇を使って自らの欲望を充足するために行動することは、かなり截然と分けられているので、「欲望行動」という概念は、外形的には鮮明である。

したがって、「欲望行動」は「余暇行動」と言い換えることもできる(あくまでも外形的に)。

2.「遊び」の内在的規定

世の中の行動は「生産行動」と「消費行動」にわけられる。「生産行動」も生産の過程でずいぶん原料とか、燃料とか、労働とかを消費しているが、それ以上に生産している。それに対して余暇行動は純粋な消費行動である。

欲望行動は、総じて「金にならない行動」である。なぜなら金を目的としていないからだ。

つまり、仕事以外の行動は、主観的にはどうあれ「遊び」みたいなものである。失業中の人がどんなに社会に貢献しようと、「なにをされていますか?」と問われれば「今は遊んでいます」と答えるほかない。

「文系無駄論」にはこの発想が色濃く潜り込んでいる。「そんなこと言ったって、つまりは遊んでいるんでしょう」という嘲りだ。

3.余暇と欲望行動

余暇行動には広い意味と狭い意味がある。広い意味では労働時間以外のすべての私事だ。掃除・洗濯から買い物、食事までふくまれる。睡眠でさえ余暇行動だ。それは動物的・必然的欲望にもとづいている。

狭い意味では、それらを除いた時間が余暇であり、「欲望行動」の出番だ。そこに初めて個人の欲望が顔を出し、人間として生きている意味が明らかになる。

その意味において、「遊び」は欲望の発露であると同時に、個性や人格の発露でもあり、生きていることの意味でもあるのだ。(「…でもある」というに過ぎないのだが)

欲望には下品な欲望と高級な欲望がある。高級と言っても高額というわけではない。啄木が言うように淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔に違いはないのだ。

4.ヘーゲルとマルクスは欲望行動をどうとらえたか

ヘーゲルは「欲望行動」の中でも高級な欲望行動として「陶冶」を挙げている。自分を成長させていきたいという欲望が人間にはあり、この欲望に基づいて人間というのは学ぶ。たんに学ぶだけではなく、ときには刻苦勉励する。

マルクスはこれを普遍化した。そんなに刻苦勉励しなくても、家に帰ってぐーたらしているだけでも、明日への英気は養われるではないか。そして明日の労働に備えて労働能力を再生産しているではないか。

ということで、「欲望行動」の総体を広い意味での労働能力の生産行動ととらえ、それを日々の行動の積み重ね、「再生産過程」ととらえた。

5.消費過程の論理

マルクスは最終的にこの考えを「あらゆる生産は消費であり、あらゆる消費は生産である」という言葉にまとめた。

そのうえで、彼は近代(彼にとっては現代)資本主義における生産過程の分析を行っていくのだが、それはいまは関係ない。

肝心なことは彼の言葉の後半、「あらゆる消費は生産である」というところにある。ただこれについてマルクスはほとんど展開していない。

そんなことをしているヒマがなかったからだが、生産過程をしっかり分析すれば消費過程は自ずから明らかになると考えていたのではないか、と私は思う。

6.欲望行動の真の意義は欲望の拡大にある

ちょっとややこしくてすみません。

消費過程を突き動かすのは人間の欲望である。人間は消費の対象に対してさまざまな方法で変更を加え、そのことによって生まれるエネルギーを我が物とする。

対象物はなくなったが、それは我が身に同化されたのである。生産過程では我が身の持つ能力が異化され対象物に付加されたのであるが、今度はその逆である。

これは単純な物質的消費過程だが、その繰り返し=営みは「生活過程」を形成する。そこでは労働により失われた労働能力を回復するにとどまらず、人間の能力の向上・発展がもたらされる。つまり人間の能力の拡大再生産が実現するのである。

かなり端折った言い方になるが、拡大再生産された人間の能力は欲望を拡大再生産する。

欲望は実現することで漸減・消滅するのではなく、充足が新たな欲望を生むのである。それが人間の生産活動の最大の動因である。

7.欲望行動の社会的拡大

以上に上げたのは単純な欲望行動の過程だが、これだけでは自然成長に任せるだけの存在でしかない。

近代文明社会は欲望を飛躍的に増加させることによって飛躍を遂げたのである。

これについては到底書ききれるものではないが、早い話、資本論を紙の裏側から読めばいいのである。

商業の発展、貨幣の普及、産業革命などすべての資本主義的生産システムの拡大は資本主義的消費システムの拡大でもあった。

生産の飛躍的増加は消費の飛躍的増加抜きにはありえなかったし、それらを消費し尽くす欲望の拡大と消費の仕方の多様化以外には出現しえなかった。

これらの欲望行動の質的・量的拡大は生活の質の向上をもたらすだけではない。それ自体、「自然の摂理」に反しないかぎりにおいては、人類社会にとって生産的事象である。

「大量生産・大量消費」時代がともすれば悪者扱いされるのだが、モノの大量生産と混同している。

もっと高能率の生産、労働時間の短縮による余暇の拡大、一言で言えば「人に優しい社会、地球にやさしい社会」の実現により、人間にはもっといっぱいやることがあるはずだ。人はアリのように働くのではなく、キリギリスのように歌わなければなららないのだ。

人間の欲望(物質的であると否とを問わず)には限りがない。それどころか、制約がない情況の下では加速度的に拡大する。それは「限界効用論」への決定的な反論でもある。

8.欲望の社会的創出と文系学部の必要性

欲望の社会的創出こそは社会が発展し人類が発達していく上で不可欠の課題である。

欲望の社会的創出のための最大の源泉は「市場」である。そこにはおよそ欲望の対象となりそうなものがすべて突っ込まれる。そしてモノと直接に結びついて需要を喚起するのだ。

しかし市場は多様な機能を持っており、そこにとどまるものではない。いっぽう消費者は完全なる博物学者ではありえない。そこで様々な装置が欲望の創出に関連して特化している。それは広い意味での「メディア」(情報媒体)であり、そのシンクタンクとして情報の意味付けに当たる各種研究機関であり、教育機関である。

それらの欲望創出機能は理系学部の能く成せるところではない。

 

赤旗に吉見俊哉さんという人が登場した。初耳の人だ。

東大の教授で、副学長を務めている。1957年生まれというから、私とはひと回り違う。

専攻が社会学、都市論、メディア論。主著が「都市のドラマトゥルギー」というから、「そっち」系の学者のようだ。日頃共産党とはご縁のない世界の人であろう。

ところが、インタビューには意外とまともで平易な言葉で答えている。

最初に感想から言えば、つまらない。

彼は学問の有用性を二つに分ける。

1.目的遂行的な有用性

まぁこれが普通考える有用性だ。

2.価値創造的な有用性

ここが吉見さんの言いたいところである。

彼の言葉を引用すると

自明とされる価値を反省したり、新たに価値を創造したりする有用性です。

うーむ、分からんなぁ。反省するのと創造するのとは違うし、新たに価値を想像する有用性というのは「そのまんま」だ。

これは、むしろ文系の知が得意とするものです。

そうかねぇ、あなたがそういうだけじゃないの。

(社会の価値観が)変わることは歴史を見れば必ずあります。(かつてはモノ第一主義だったが)、現代はサステイナビリティやレジリエンス、コンビビアリティをデザインしていくことが大切です。
このような価値の転換を促すのが文系の大きな役割です。

そういうのって、ただの流行(ニューモード)じゃないの。横文字がずらずらと並ぶと、むかしあった「モーレツからビューティフルへ」のキャッチコピーを思い出してしまう。

ということで前半はさっぱり面白くもないし役にも立たない。

後半は「遊び」に焦点が移る。

文系の学問は「遊び」だという主張だ。

人類は遊び心を出発点にして、既存の価値を相対化し、新しい価値の創造や転換をやってきました。

…文系の知の根幹にはこの遊戯性があり、それが価値創造の源です。

これも言ってみただけの「ご高説」だ。その限りにおいては「ごもっとも」だが、「そんなものくそくらえ」と言われればそれまでだ。

ここで突如ホイジンガーが持ちだされる。

じつはこのホイジンガーの本、むかし読んだのだ。拙息の誕生にあたり「遊」と命名したが、この由来を構築する作業として読んだので邪念が入っている。この他にカイヨワの「遊びと人間」というのも読んだ。

どちらもつまらなかった。

なるほどホイジンガーをそういう目から見る視点もあるのか、と感心はしたが、「だから何さ」という感じもある。


1.文系は「素養」を磨くところ

私は文系の学問は「素養」だと思っている。素養というのは「教養のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。あるいは「ちょっと専門的なもの」という方がよいかもしれない。

「教養」というのは「常識のちょっと高級なもの」くらいの感じだ。そこには「社会人としての常識」とか「大学生の常識」とかいう知識レベルの枠組みではなく、人として生きていく上での叡智、とか物事に向き合う態度とかの倫理的なニュアンスもふくまれると思う。

それは一種の体系であり、知識人たるもの、人生の何処かでその「とば口」くらいまでは接近しておくべきだというものだ。

それは人にとって大事な知恵だから、素質がある人がかならず受け継がなければならない。そうでないと人は「専門バカ」や「エコノミック・アニマル」になってしまう。

2.大学が就職の窓口であることが問題

たしかに世界のどこでも大学は就職の窓口となっている。しかしそれは企業の側の勝手だ。大学は本来は(というより当初は)、国の最高学府として「国家のための」人材を育成する機関であった。

だから夏目漱石も滝廉太郎も国費で留学したのだ。

「国家」の概念はその後変遷を遂げたが、少なくとも企業のための機関であったことはなかった。

それが就職の窓口の比重がどんどん重くなって、その結果企業の論理が優先するようになった。これが最大の問題ではないか。


これからは「国民」を視座においた、その知的要求に根ざした「開かれた学府」としての位置づけが必要だろう。
そのことを念頭に置けば、大学の再建は可能だと思う。

3.遊びは理系にも必要だ

「遊びがなければ学問はない」というが、それはむしろ理系の自然科学にこそ当てはまる。

物づくりは現場でやればよい。

大学を職業訓練所か企業の研究所にするのは、大企業の研究開発費を節約するためにしか役立たず、目先の成果によって大学を駄目にする。

繰返すが、遊びは理系・文系を問わずすべての学問に必要だ。

いまやレアード選手は日本ハム切っての人気者である。
大谷選手というバケモノがいるから一番にはなれないが、人気では引けをとらない。
この間の“レアード・デーでは”顔写真のお面が入場者に配られた。
日本ハムは外人では泣かされてきたが、今度はとんでもない拾い物をした。
彼は守備の人として雇われた。グラブさばきは並としても三塁手としての強肩はそれだけで魅力である。それに引き換え当初の打撃はひどかった。1割8分くらいで大野奨太と肩を並べていた。外角低めに変化球を投げれば面白いように空振りしてくれた。ところが去年の夏くらいからそこに手を出さなくなった。相手は仕方がないからストライクコースに投げるようになる。そここそはレアードの一番大好きなコースだった。
今やレアードはすべての数字で中田を上回り、チームの頼みの綱になっている。
レアードのすしポーズはもうおなじみだが、ヒーローになった時のお立ち台での第一声が冴えている。
“ソーデスネー”だ。実によく見ていると思う。たしかにいわれてみると、日本人のヒーロー・インタビューの第一声がことごく“ソーデスネー”なのだ。
いわば合いの手なのだが、言葉通りに訳せば“I think so too”なのだが、こういう場合英語では“You see”となる。結構みんな乱発している。“You are right”ではちょっときついのだ。
こういう言葉の感じをつかめる人は「耳が良い」のだろう。見事なギャグだ。
こういう人はますます人気が高まるし、やめてもみんなの心に残るだろうと思う。

逆に落ち目の中田だが、昨日のバント処理は「カミ」だった。ホームラン2本分くらいの価値はある。久しぶりに中田の悪口を言わないで睡れた。

もう一つおまけに「南回り説」
崎谷さんの所説で気になるといった、ハプログループOが東南アジアから中国に入ったというところ。
これは2009年に言い出されたことのようで、それまではやはり北回り説が有力だったという。
言い出したのは“Human Genome Organization”というスイスの研究施設。
その後、南回り説を支持する所見がいくつか提唱されている。
Tomのスペース というブログから引用させてもらう。
1、民族学・言語学的関係および地理学的関係とよく対応している。
2、東南アジア集団ほうがゲノムの多様性が高い(経過が長い)ことと照応する。
このことから、アジア系集団の先祖はまず東南アジアに到達、そこから東アジア、北アジア、オセアニアへ拡散したと考えるのが妥当。
研究参加者の菅野純夫氏は「遺伝子の大きな流れからみると、日本人を含む東アジア集団の起源は東南アジアにあると推定される。ただし、今回の解析にはアイヌなど北方の民族が含まれていないので、反論の余地もあるだろう」と、イラッとするコメントを出している。(「その位のもんでしょう」ってな感じ)

Oグループについては、北回りに固執する意図はないが、イラッとしたついでに
1.については長江文明を南からきた人々が担ったという点では説明しやすいが、O2集団がなおも北を目指したことは説明しにくくなる。言語学的関係については、前から気になるのだが、遺跡や石器などと違い、言語比較研究には独自の“臭い”を持つ世界(人というべきか)があるので、安易な突き合わせは避けるべきだ。
2.については、ゲノムの多様性では日本は世界に冠たるものがある。多様性だけに着目すれば、「O集団は日本から出発した」というギャグが成立することになる。一般的にはゲノムの多様性は、そこが行き止まりの吹き溜まりであることを示す指標にすぎない。

「何でもかんでも北上説」についてはTomさんが詳細な反論をしており、説得力がある。スペンサー・ウェルズという人が(前の記事もふくめ)、アブラギッシュな言い過ぎ傾向があることも分かった。

2008.04.24 15万年前、絶滅の危機に陥っていた人類

ウェルズらは、アフリカのサハラ以南の先住民族624人を対象に、ミトコンドリアDNAを調べた。


人類はおよそ20万年前に1つの独立した種として出現した。しかし15万年前に絶滅の危機に陥った。それはおよそ10万年間続いた。

その間人類は南へ移動したグループと北東へ移動したグループに分岐し、別々の営みを続けていた。

人類の個体数は2000程度、各集団の規模は数百人程度となり、絶滅寸前に至った。気候条件が穏やかになると、それぞれの集団は個体数を増やした。

そして6万年前に再集結してアフリカを脱出する。

Y染色体の研究は未だ黎明期ということができるだろう。

あれこれ言うにはあまりにもサンプル数が少ない。その点で現在進行中のジェノグラフィック・プロジェクトが数多くの論争に決着をつけることになるだろう。

ところが、ネットの文献にはこれに関わった文章があまりにも少なく、有名人の受け売りがあまりにも多い。

これから少しそちらの文献をあたってみようかと思う。

というわけで、とりあえずY染色体の勉強はおしまい。


どうもよく分からないが、このプロジェクト、止まっているような気配だ。「帝国主義だ」と反対している人もいるようだ。2005年に始まって5年で終わるというのが当初の計画だったようだが、ナショナル・ジオグラフィックのサイトを見ても要領を得ない。始まったのかも終わったのかも分からない。「参加しましょう」というPRだけが目につく。

結局「お金(99.95ドル、送料/手数料別)を払って、頬粘膜を送ったらDNA解析してあげます」というビジネスみたいだ。

その一方で会社の側には個人情報がどんどん積み上げられるという寸法。


あまり近寄らないほうが良いかもしれない。


Y染色体ハプログループの話は、やはりハプログループOまで行かないと完結しない。

とくに長江文明と北方人の関係を知るにはO人の細かい前後関係が不可欠だ。

将棋の香車のように前にしか行かないというY染色体の性格はまことにありがたい。

ウィキペディア「ハプログループO」の項目から


     ウィキペディアより

3万年前 ハプログループK2からNOが分岐。南方ルートで東南アジアに進出。

ハプログループOがO1とO2に分かれる。O2はOグループ中最大の人口を持ち、中国北部に特に多い。

(2015年11月にISOGG系統樹が改訂され、旧O1と旧O2は現在はいずれもハプログループO1のaとbとなっており要注意。O2は旧O3)

2万5千年前 ハプログループO1がO1aとO1bに分かれる。O1aは中国南部、台湾先住民に多い。

これについては、もっとずっと最近のことだとする主張がある。崎谷はいくつかの論文を引いて、NOからのOの分岐が1万7千年前としている。またO系の発生地は東南アジア南部だとしている。そしてO系人が中国に入ったのは8100年前としている。ちょっと遅すぎるように思えるが。

2万年前 ここに「スンダランド水没」の説話が入る。最終氷期の終了に伴い海面が140メートル上昇したというもの。

6300年前 ハプログループO1bがO1b1とO1b2に分かれる。O1b1は東南アジア、中国南部に多い。

O1b2が朝鮮半島に渡った長江人と見られ、日本列島、朝鮮半島に多い。

O1b2にはa1aとa1bという2つのサブタイプが見られ、a1bは朝鮮半島にも存在するが、 a1aは日本国内のみである。

ウィキペディア「ハプログループO1b2」の項目から

崎谷満はO1b2に属す集団は2800年前に中国江南から山東半島、朝鮮半島から日本列島へ水稲栽培をもたらしたとしている。

考古要素では、中国浙江省から中国東北部、朝鮮半島、日本の九州などにみられる東アジア型の支石墓の分布とほぼ一致している。

ウィキペディア「ハプログループO2」の項目から

漢民族(65.7%)やビルマ族(86.7%)、朝鮮人(50.9%)に高頻度であり、東南アジア人で中頻度で見られる。

日本人にも約20%に観察される。西日本で高い。大部分は弥生時代以降の中国大陸及び朝鮮半島からの流入であろう。

ウィキペディア「ハプログループO1b」の項目から

東南アジアおよびインド東部に多いO1b1と日本列島や朝鮮半島に多いO1b2の分布の中間に中国が位置していることから、O1b系統がもともと中国で発生し、そのサブグループたちが中国から拡散したという仮説がある。

O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、日本列島、山東省、朝鮮半島へ渡った(崎谷)


ハプログループ O の話はほとんどすべて崎谷ネタだ。

色んな話の出処は結局崎谷氏の所説に行きつく。あたかもアジアY染色体のアダムの如き様相を呈している。

崎谷さんの本は旧分類の時代だから、O2の扱いをめぐって、大混乱している。もちろん訂正している人もいるが、間違いを元に喧嘩を売る人もいるから要注意だ。

平ったく言うと、NO人はインド経由でやってきて、東南アジアでN人とO人に分かれた。O人は中国大陸を北上し、C人の住むモンゴル近くまで行った。一部はそこまで行かずに長江文明を築いた。北まで行ったのがO2人で、彼らは南に引き返して残っていたO1人を駆逐した。駆逐された方のO1人は南に逃げてO1aになり、東に逃げたものがO1b人(弥生人)になった。

N人の行方は分からないが、日本にも少数のN人がいることから、同じようなルートを辿ったのではないかと思われる。

おそらく最大の問題はO人が南方由来か否かということだろう。私はなんとなく北方経路かと思っていたが、考えてみればなんの根拠もない。

ただ南方説の最大の難点は、O人の多数派がなぜ長江にとどまらずに、さらに北に向かったのかということ、それなのに舞い戻ってきたのはなぜかということが説明できないことだ。

南方由来のO人は決してマンモスハンターではなかったはずだ。小動物を狩ることはあっても漁労・採集がかなりのウエイトを占めていたはずだから、北を目指す理由がよく分からない。

もう一つは、O人にとって中国は無人の野ではなかったということだ。そこにはC人が先住していた。彼らとの関係はどのように変化したのだろうか。




テレビを見ていたら、「しおり」というFEPがいいと言っていたので調べてみた。
どうも携帯の文字入力ソフトらしい。未だガラ携の私には縁なきソフトだ。
そもそもFEPなどという言い方が古いので、今はIMEというのだそうだ。Windowsに負けたみたいで、使いたくない言葉だ。
ついでにその“IME”のでものはないか調べたところ、あるサイトで「Google入力+一太郎」を勧めていた。つまりマイクロソフトをGoogle入力に置き換えて、そのプロパティ画面でキー設定を「ATOK」すれば良いということだ。
キー操作はこれまでのマイクロソフトとずいぶん違う。指が覚えこむまでには相当時間がかかりそうだ。しかしこれまでよりずいぶん合理的であることは間違いない。少しこれで頑張ってみようかと思う。
思えば「一太郎」など20年ぶりだ。
最初は「Word太郎」ではなかったか。パソコンが70万円だった。8インチの磁気ディスクを差し込んで使っていた。
始めの頃はワープロを使う最大の目的は、学会発表用のスライド作りだった。
それまではレタリングで1枚のスライドの原図を作るのに2,3時間かかっていた。そのうち和文タイプと英文タイプの良いのが出てきて、ずいぶん仕事が捗るようになった。
そしてワープロでもかなりの字が出せるようになり、学会シーズンともなれば医局のワープロは順番待ちだった。
瞬く間にパソコンは進化し、安くなった。
その頃出始めたのが「Word太郎」の改良版の「一太郎」だった。多分その頃のキー操作とあまり変わっていないだろうと思う。ただ私はその後「松」党に転向してしまったので、下向き矢印を多用する一太郎は、あまり指に馴染みはない。
NEC9800がWindows95に変わってしまってからは、一太郎も松もとんとご無沙汰だ。「確定後再変換」ができない、バカなIMEにずっと付き合わされてきたから、IMEと聞いて、未だにいい印象は持てない。
そのうち「コントロール+*」の操作も思い出せば、使いやすくなるだろう。



さて、Y染色体に関するさまざまな記述は下記の本を下敷きにしているようだ。

『人類の足跡10万年全史』 スティーヴン・オッペンハイマー (草思社)

人類の足跡10万年全史

このオッペンハイマーというのがどういう人物か、日本語ではあまり紹介が見当たらない。ウィキペディアにも見当たらない。

しかたがないので英語のサイトを当たる。

Wikipediaの紹介

Stephen Oppenheimer (born 1947) is a British paediatrician, geneticist, and writer. He is a graduate of Green Templeton College, Oxford and an honorary fellow of the Liverpool School of Tropical Medicine. In addition to his work in medicine and tropical diseases, he has published popular works in the fields of genetics and human prehistory. This latter work has been the subject of a number of television and film projects.

ということで、もとは小児科の医者だ。結構な歳だ。

医者になってから東南アジアに行った。熱帯医学の研究もしている。Y染色体の方はどちらかと言えば余技で、マラリア遺伝子の研究をやっているうちに、アマチュア・ライターから本気になってしまったようだ。(本当にマラリアの突然変異は厄介だ)

本の原題は「出エデン」(2004)、これがアメリカでは「本当のイブ」と改題されている。売れ線狙いの題名だ。それもそのはず、これらは彼が監修したテレビ番組の題名なのだ。

要するにレビュー本であり通俗書なのだ。しかもかなり古い。多分、反論だけで一冊の本になるだろう。「オッペンハイマーはこう言っている」と振りかざすほどのものではない。だから日本語版ではさらに大げさな題名になったわけだ。

なお最初に発表した本が「東洋のエデン」(1999)、これはスンダランドについて書いたものだ。


C1a1先着説を提唱する

1.C1a1スルスル説には無理がありすぎる

C1a1が単独で中央アジアを飛び出して、途中下車することなくそのまま日本にいたり、定着してしまった。

「そんなことはありえない」と多くの論者がそう思っていることは間違いない。しかしそう考えないと理論は成り立たない。その途中にはぺんぺん草も生えていないのだ。

では理論の前提条件、ハプロC後発というところが問題なのではないか。

2.「Y染色体系統樹」に騙されるな

Y染色体セオリーは、まずアフリカにアダムがいて、6万年前に出アフリカしてペルシャ湾のエデンに行き、そこからDEが分家してCFはユーラシア・アダムとして残留し、しばしの後にCが動き始めた、という絵を描く。

この絵を一旦忘れなくてはいけない。

このアダムたちは今を生きる人間に遺伝子上つながるというだけの存在であり、おそらく実際の出アフリカは、それより数万年を遡って行われていたに違いないからである。

誰しも、自分が王様だとか神様だとは思っていなかったに違いないし、DEグループだけではなく、とにかくみんな前進することを急かされていたと考えるべきだろう。

2.東アジアへのデュアルパスウェイ

最初から道は2本あったのだ。そうは考えられないだろうか。

そもそも出アフリカの時からDEとCFは別行動だった。それがたまたま似たようなルートをとって似たような場所に出たというだけの話だ。

DEがそのまま放浪を続け、CFがエデンに残ったというのは相対的な話で、数年後か数十年後か数百年後にCFが動き出すのは当然だろうと思う。

人類史の長いスパンの中で考えればほぼ同時期に、DEグループもCFグループも東西南北へ向けて旅を始めたに違いない。

似たような、しかし独自の道を辿って彼らはほぼ同時に東アジアに達した。

当然目の前の世界はすべて無人の野であり、D人とC人(C1)の間に縄張り競争は起きようはなかった。

ただ進行方向を考えればR人はマンモスハンターとして北部に行動範囲を広げた。C1人は南に進んでインドシナ方向に向かうか、朝鮮半島・日本列島に進出するかした。

ただしC1b人はインド経由に東南アジアに達したとされており、それを覆すだけの根拠はなにもない。ただの思いつきである。

3.日本に先着したのはC1a人

D人はシベリアでマンモスや虎を追っていたのではないか。ただこの種の資源は穫りつくせば終わりだし、向こうも学習するから、どんどん進んでいくしかない。

いっぽうで朝鮮半島から日本に渡ったC1a人は西日本を中心に広くまばらに分布した。

4.そこにC2人がやってきた

C2人はハプロCの本隊だった。東アジアへの道はC1人により掃き清められていた。しかしそこにすでに獲物はなかった。C1人により採り尽くされていた。

C2人は怒った。そしてD人とC2人を追い詰めた。D人とC1人は日本に逃げ込んだ。D人は間宮海峡からC1人は朝鮮海峡をわたって西日本に分布した。

人口的にはD人が圧倒的に多かったから、日本はD人の国になったが、C1人もこれと共存した。

こんなストーリーではないか。O人の話はいずれまた勉強してから。

まずはウィキペディアから「ハプログループC」の記事

UEPs M130/RPS4Y711, P184, P255, およびP260によって定義されるグループである。

と、のっけからわからない記述。

分類

C群はC1とC2に分かれる。

C1群がC1aとC1bに分かれる。

C1aはさらにC1a1とC1a2に分かれるが、C1a2はヨーロッパに僅かに見られるということなので無視して構わない。

そしてC1a1が日本固有のハプロタイプとなっている。

C1bはいくつかのタイプに分かれるが、パプア、オーストラリア先住民の多数派を形成するようだ。

C2群は中央アジア、北東アジア、北アメリカに多い。

なおC2群には別項記事があるので、あとでまた検討する。

拡散経路

崎谷満が下記の経路を推定している。

    南ルート:C1b2(パプア、オーストラリア)

    北ルート:C2(モンゴル、北米)、C1a1(日本)

    西ルート:C1a2(ヨーロッパ)


次が「ハプログループC1a1」の記事。

日本列島固有のハプログループで、誕生は約1万年ちょっと前 と推定される。日本列島で誕生したと考えられる。

ハプログループC1aとしては、アジアで唯一の存在。C1a2がヨーロッパに僅かに存在するという。

国内での分布は、青森7.7%、徳島10%、沖縄6.8%でほぼ均一だが、九州に少ない(3.8%)のが特徴。(異なる調査をまとめたものであり、有意の差かどうかは不明)

*Hammerらの研究にWiki氏が九州を付け加えたもので、正規のメタ解析ではないようだ。Hammerらの原著では、青森C1 8%-C2 0% 静岡C1 5%-C2 2% 徳島C1 10%-C2 3% 沖縄C1 4%-C2 0%で、C1の普遍性とC2の偏在性、微少性が明らかである。(頌)

*Tajimaらの研究はアイヌと九州を対象にしたもので、Wiki氏はこの九州データを持ってきたようだ。

アイヌC1 0%-C2 13% 九州C1 4%-C2 8%となっている。これから明らかなのは①C1a1は津軽海峡を渡って北進していないこと、沖縄にも南進していないこと、それは彼らが朝鮮から渡来し拡散したことを示す。②アイヌには沿海州からのC2がかなり混入したこと、にも関わらず断然正統縄文人である。(頌)

*数字は挙げないがN系人もC1a1人と同様の傾向を示している。

移動経路

次の説は、ハプログループC1の不確実性を逆に裏付けている。

(祖型の)渡来年代は1.約4万年前、2.約1万年前の2つの説があるが、前者であれば日本列島最古層、後者であれば日本に縄文文化をもたらした集団かもしれない。

日本列島で誕生したことは確実と思われるが、その祖型の移動ルートは謎に包まれている。

イラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達した都の説(崎谷)がある。

ただ、むしろ大事なことは固有種となるほどに長期間孤立して日本国内に存在したということである。これは次の記事のC2aにも共通している。

ということで、これらの事実はC群がD群に先立って渡来していた可能性を示唆する。これはC群がD群と同じくらい古いハプログループであることを考えてみれば充分ある話だ。むしろこちらのほうが筋が通るかもしれない。


次が「ハプログループC2」の記事

かつてはハプログループC3と呼ばれていた。 約32,600年前に中央アジアまたはシベリアで発生した。

C1が四方八方に散らばったのに比べると、シベリア・モンゴルを中心にまとまった集団を維持し続けている。

樺太~沿海州の少数民族もC2を主体としており、D人であるアイヌとは著しく異なる。

日本人には6%ほど観察されている。C1a1とは別だが、同じく固有種C2aとなって分岐している。朝鮮半島では15%程度の存在が確認されている。

次が「ハプログループC2」の記事の元になった論文。

Overview of genetic variation in the Y chromosome of modern Japanese males   J-STAGE 2014/12/23

全国大学の共同研究である。

図表を転載する。

haplo_c

haplo_c2

横軸は意味は無い。各大学のデータを西から順に並べただけである。

D、Oについての図は省略した。

一番左が長崎、次が福岡である。九州に少ないというのはサンプリング誤差だったようだ。

著者らは、日本人はすでに“highly homogenized” されており地域差は認められなかったというが、一番右が札幌でそのとなりが金沢であるから、関東・東北は反映されていない。

それはさておき、C型の日本人は10%。C1とC3(C2)が各々5%というところだろう。

ハプログループC1a1」の記事では青森7.7%、徳島10%、沖縄6.8%だったが、C2まで読み込んだ可能性もある。

感想だが、

1.それにしても10%は決して無視しうる比率ではない。私の血液型はABだが、頻度は9%だ。だからといって無視されては困るのである。

2.もう一つはC1a1が日本固有だからといって、それがC型のすべてではないということである。C型日本人の由来の半分はモンゴル系なのだ。

3.C2からC1に移ることは絶対に有り得ない。おなじCでもC1a1とモンゴル系はまったく異なる。

4.C1a1は、中央アジアでヨーロッパ組と別れた後、まっすぐ、かなりのスピードで日本を目指したということになる。(ちょっとウソっぽい話だが)

5.全国的に均一な分布をしているとすれば、彼らは朝鮮半島経由で全国に分布し、後から北のD系人がやってきて日本列島を覆ったとも考えられる。

yahoo知恵袋を見ていたら、日本人のハプロCは南方由来だという説があった。「なるほど」と思ったが、南方のCはCib系で、日本に見つかっているのはC1aかC2なのでハズレだ。

こんな一見もっともな説がたくさんあるので、自分の学習水準を点検するためにはとても勉強になる。

 

Y染色体によるアダムからの展開を文章にしてみた。「系統樹」を見ていると目が疲れていけないので、平文に翻訳したというだけの話。

おそらくこれらの事項に「何万年前」という記載を加えることが可能と思うが、まだそのあたりの文献を探し当てていない。年表にしないと気がすまないというのが悪い癖で…

Y tree
             真史 人類史探求 より転載

ユーラシア・アダムとDグループ

20万年前頃? 大地溝帯で現生人類が誕生。ミトコンドリア・イブは16万年前、Y染色体アダムは6万年前とされるが、その間くらいの誕生であろう。男のほうが消耗が激しいのかもしれない。

約6万5千年前 アフリカ大陸の北東部(現在のスーダンからエチオピア高原の辺り)において、ハプログループDEが分岐したといわれる。

その後A、Bはアフリカに残留し、CFとDEはアフリカ大陸を脱出。紅海を渡り、アラビア半島の南海岸沿いにイラン付近に至った。

CFとDEをあわせCTと呼び、その共通祖先をユーラシアン・アダムと呼ぶことがある。またペルシャ湾岸沿いの一帯をY染色体のエデンということもあるが、少々乗り過ぎか。

CFはエデンに残り、Dは北東に向かい、Eはアフリカに戻ったとされる。

Dグループのアジア進出

6万年前、Dは中央アジアに達しアルタイ-チベット近くに分布した。ここでグループは残留組と東進組の2つに別れ、チベットに残留したグループはD1aとなった。

5万年前、D1bが第一次東アジア進出組として分岐し、さらに東方へと向かった。

4万5千年前 中東にとどまったユーラシアン・アダムからCが分岐し東に向かい、残留組はFとなる。

謎の多いCグループ
Cはなぞの多いグループである。その分類はずいぶん変遷していて戸惑うが、最近のものを書いておく。
CはC1とC2に分かれC1が北方ルートのC1aと南方ルートのC1bに別れる。C2というのはどうもよく分からないがその一部が東シベリアを経て北アメリカに至った。(フロリダからC2と目される7000年前の遺体が見つかっている)
C1aは第二次の東アジア進出組となった。モンゴル、朝鮮半島から日本にかけて少数派として痕跡を残している。C1bはオーストラリア先住民やオセアニア先住民となる。
要するにCグループは、一時はアジア各地に拡散したが、Dを駆逐するほどの勢いはなく、後発のOに押されて辺縁化してしまったような印象なのだ。日本人の源流論を展開するときも、どうもこの二次グループが軽視されているように思える。
一次進出のD、二次進出のCをあわせて古モンゴロイドと呼ぶ。
エデンの危機と分裂

エデンに残留したFのうち、2つのグループが分岐する。Gはコーカサスに進出。ついでHがインドに進出する(現生ドラヴィダ人の主流)。

これらを分岐した残りの中東人はIJKグループと呼ばれ、さらにIとJを分岐する。

Iは第一次ヨーロッパ進出組で、バルカン半島からヨーロッパに進出。このIグループには有名なクロマニョン人もふくまれる。Jは中東に残りアラビア半島を中心に分布。

残されたKは二つに分裂する。

K1はインド・パキスタンのLグループとなる。この他、Tという順番違いのグループもできるが文字通り四散している。

現代アジア人と現代ヨーロッパ人の分岐

K2はさらに3つのグループに分かれる。NOはアジアへ、Pは西へ、MSはパプアニューギニアへと進む。つまり中東はJグループを除いて空になるのである。

NOグループのうちNは北西部に向かっている。フィン人、エストニア人、ヤクート人がNグループの末裔に当たるようだ。

2万5千年前ころ、第三次アジア進出組たるOグループは、O1とO2に分かれるが、見た目は殆ど変わらず東アジア全体に分布する。強いて言えばO1のほうがやや北東寄りの傾向がある。

PグループはQグループを分岐した後インド・ヨーロッパ語族となっていく。このうちR1aが東ヨーロッパ、北インド、中央アジアに、R1bが西ヨーロッパに分布する。

アメリカ先住民の大移動

Pハプログループのうち北東に進んだのがQグループである。Qの出エデンの時期は、3万年前と2万年前の2つの説がある。アフガニスタンにもかなりのQが存在するという。

彼らはおそらくはOグループと競合しなら北進し、北シベリアのステップでマンモスなど大型哺乳類を狩りながら急速に移動。1万5千年前にベーリング海峡に達し、そこから第二次のアメリカ進出を果たすことになる。


作っていていくつかの疑問が湧いてくる。

1.K1→K2は何故四散したのか。たんなる分家ではないようだ。分布図を見ても中東ではR→Jの変化が明らかである。この時何が起きたのだろうか?どうもこの頃の中東に生きにくい事情があったのか。

2.OとP→Rのこれだけの見た目の違い、白色人種と黄色人種の種差はどうして生まれたのか。これだけ違うのなら縄文系と弥生系の違いのほうが遥かにすごいと思うが…

3.同じく印象論だが、アメリカ先住民がP系というのがわからない。アメリカ先住民が分子生物学的にはアジア人よりヨーロッパ人に近いというのは、印象としては納得できない。どう見てもアジア系だと思うが。


Y染色体は旅するDNA、ミトコンドリアDNAは定住するDNAだ。まずはY染色体で議論を組み立て、「うーむ」というところはミトコンドリアDNAでウラを取っていくという手法で、尺取り虫型の議論を展開するよう心がけるべきだ。


1962年 古畑種基、血液型A遺伝子の分布頻度が南西部に高く、東北に進むほど段階的に低下することを明らかにする。(日本は東アジアの中でA遺伝子の出現率が突出して高いことが知られている。)

1963年 マーギット・ナス、ミトコンドリアが核本来のDNAと異なるDNAを持っていることを発見。ミトコンドリアDNAと名づける。

1980年 日沼頼夫ら、成人T細胞白血病(ATL)ウィルスのキャリアの分布を調査。九州で7.8%に達するのに対し、他地域では1%以下に留まること。中国・朝鮮では存在しないと発表。さらに琉球人では34%、アイヌ人では45%に達することも明らかになる。

1981年 分子人類学の分野でミトコンドリアDNAに注目が集まる。

ミトコンドリアDNAの特徴: ①1細胞中に数千個あり、化石となっても残りやすい。②塩基置換は通常のDNAと比べると5~10倍早いとされ、個体間差が出やすい。③母方のみを継承するので朔及が容易。④核DNAの20万分の1で無駄な記述がないとされる。

1985年 松本秀雄、Gm遺伝子(血液型の一種を決定する遺伝子)による解析を行ない、日本人・アイヌ・琉球人の共通性を指摘。縄文人・弥生人のいずれもが北方系に属することを明らかにする。

1986年 ベーボら、アメリカ先住民ミイラの脳組織からミトコンドリアDNAの抽出に成功。その一部(Dループ)について塩基配列を解析する。

ベーボら、現代インディアンとは異なる塩基配列と発表。彼らが後発人により駆逐されたことを示唆する。

宝来はこれと塩基配列が一致する日本人が存在することを発見。発見されたミイラが古モンゴロイド人である可能性を示す

1986年 宝来、浦和で発見された5900年前(縄文前期)の人骨からミトコンドリアDNAの検出に成功。現代日本人との完全一致例はなく、マレーシア人とインドネシア人に完全一致が見られた。一時は南方起源説の有力な根拠となる。

1986年 宝来、2体の縄文人、アイヌ人6体、各国現代人128人のミトコンドリアDNA(超可変領域の190塩基のみ)を分析し系統樹を作成。縄文人が古モンゴロイドに属することが明らかになる。

1986年 篠田謙一ら、取手市中妻遺跡の縄文人101体のミトコンドリアDNA(全塩基配列)を解析。現代本土日本人やアイヌ人、沖縄人と同一配 列が存在することを確認。逆に東南アジア人との共通性は確認できず。宝来の分析した浦和人がむしろ特殊ケースであったことが確認される。

1987年 アラン・ウイルソンら、「すべての現代人は15万年前から20万年前にアフリカにいた一人の女性の子孫だ」とするミトコンドリア・イブ説を発表。(嘘ではないが限りなく詭弁に近い表現)

1994年 ルヴォロ、すべての人類の生物学的構成は近似していていることを、遺伝子解析を通じて立証する。これにより「人類は民族や人種で進化の度合いが異なる」という「多地域進化説」を否定。

1995年 徳永勝士、「HLA遺伝子群から見た日本人のなりたち」を発表。HLAがきわめて多様なため、読み取りに主観性が入る危険が高いことから、注目されずに終わる。

2000年 イングマン、世界のいくつかの人種についてミトコンドリアDNAの全文字解析を施行。人類展開の系統樹を提唱する。

2000年 突然変異の起きにくい「遺伝子コード」を指標とするハプログループ概念が提示される。この部分の突然変異は数万年に1回発生するとされるので、1か所の配列の違いが数万年前の分岐を示すことになる。

2003年 ゲノム・プロジェクトが完成。人類の全遺伝子情報が解読され公開された。

2006年 HammerらがY染色体のゲノム解析により、mtDNAとほぼ同様の結果を得る。


  

Y 染色体による解析はきわめてクリアカットであり、強い説得力を持つ。

これから明らかになったことは以下の三点である。

1.現世人類は10万年前ころに出アフリカを果たし中近東に拠点を形成した。その一部はそのままアジアに進出し東アジア全体を覆い、数万年にわたってアジアの覇者となった。これが古モンゴロイド人である。(南方路線は省略)

2.4万年前に、中近東を生誕の地とするO系、C系、N系、R系統が相次いで発生した。R系は西へ、N系は北へ、O系・C系は東へと進んだ。

3.古モンゴロイドであるD系、E系はアジア主部から駆逐され、チベットと日本に逃げ込んだ。彼らはマンモスを追って日本に渡ったのではなく、新人類に逐われて日本に渡ったのである。


Y染色体は残酷である。共存を許さない。朝鮮半島や中国人(漢民族)にD系が全く見られないということは、追放されるか皆殺しにされたということである。

日本のようにY染色体が混在するというのは人類史的に稀有の体験ではないか。


これに比べるとミトコンドリアDNA解析の方はだいぶ不利である。

1.ミトコンドリアDNAは動かないものの象徴である。差異性の判断にはもっとも不向きなツールだ。

ミトコンドリアDNAは支配者がどう変わろうとそこでしぶとく生き残っていく力の象徴だ。

2.したがってミトコンドリアDNAの変化で世の中の動きを跡づけることはできない。それは変化せず重なっていくのである。

3.そのかさぶたの重なりを層ごとに解析できれば、有力な方法となるかもしれない。


ただし、動かないということは、弥生人を迎え入れた時にどうやって縄文の血が残ったのかを説明する上では役に立つ。「どう動いたのか」ではなく、「どう動かなかったのか」を考える上では決定的なポイントとなるかもしれない。



Y 染色体ハプログループから見た縄文人

1.Y 染色体ハプログループとは何か

Y 染色体のDNA配列を調べることにより、数万年にわたる父系のルーツを辿ることができる。

DNA配列を、特徴的な配列によりいくつかのグループに分類することができ、これらをハプログループと呼ぶ。

アジア人のハプログループはO、C、E、Dなどに分けられる。このうち主流をなすのはO系とC系である。更に詳しく解析すると、これらがいつごろ、いかに分岐したかが推定できる。

2.YAPハプロタイプと古モンゴロイド

YAP型(YAPハプロタイプ)はもっとも古く分岐したとされ、分岐の時期は7万年以上前とされる。逆に言うと現世人類の出アフリカから2,3万年後のことである。

このことより、YAP型人は7万年前に初めてアジアに進出した現世人類と考えられる。彼らは現在「古モンゴロイド」と呼ばれている。

3.O系、C系人は遅れてアジアにきた

そしてそれから数万年を経て現代アジア人主流をなすO系、C系人がアジアに進出したものと考えられる。

O系、C系はウラル系のN系統やコーカソイド系のR系統などと近縁であり、その分岐は4万年前とされる。

4.D系ハプログループ

YAPハプロタイプは6.5万年前にE型とD型に分岐した。以後はD系について検討する。

D系の亜型の一つD1bが縄文人のY染色体の主流をなすと考えられる。

D1bはアイヌ人の88%に見られる。アイヌ人・沖縄人・本土日本人の3集団に多く出現する。朝鮮半島や中国人(漢民族)には全く見られない。

チベット人も50%の頻度でこのD系統ハプログループ(D1a)が存在するという報告がある。D1aとD1bの分岐は4万年前とされる。すなわち古モンゴロイド人は4万年前にチベットと日本に分断されたと考えられる。

これはC系のアジア進出とほぼ期を同じくしている。

5.日本に縄文人の来た時

「D1b人」が日本列島に到達したのは3.5-3.7万年前とされる。これはD1bとD1aが別れた直後であり、東アジアに広範に居住したD系人が日本列島に押し込められたことを示唆する。

その根拠となっているのがSNPという突然変異現象である。遺伝子上のマイナーな突然変異は、確率的に100年に一度程度の割合で発生するとされている。したがって「D1b人」のY遺伝子上の変異の数を調べ、それに100をかければ、「D1b人」がどのくらい日本列島にいたかが推測できる。

中村平八 「ソ連を殺したのは誰か」

の全文がネットで読める。同志社商学 第52巻(2001年3月)というページでPDFになっている。

91年の事態は民衆とは関係のない宮廷革命であった

91年の時点で、ソ連の国家体制と民衆の間に決定的かつ敵対的な矛盾は存在しなかった。

バルト3国を覗く各共和国の民衆の大多数は、最後まで緩やかな連峰国家体制の維持と、改善された社会主義経済の存続を支持していた。

ソ連の民衆は次々に生まれる新党のいかなる党にも積極的関心を示すことはなかった。

ソ連を殺したのはロシア共和国のノメンクラトゥーラのなかの体制転換派(急進改革派)であった。

ソ連の「成功」を再確認する

ソ連は70年間失敗続きであったわけではない。それどころか、初期の40年間は大成功したとさえ言える。

だから、ソ連を批判する際には、まず、なぜソ連が成功したのかを分析し、それがなぜ成功因子を失い、右肩上がりの経済がどのようにして壁にぶつかり、ついに崩壊していったのかを明らかにしなければならない。

まずは経済的成功の場面から。

①スターリンの下でソ連は急速な工業化に成功した。第二次大戦後にはヨーロッパ第一位の工業国に到達した。

②第二次大戦では参戦国中最大の人的物的被害を被ったが、短期間で経済復興し、アメリカに次ぐ経済力(85年GNPでアメリカの55%)に達した。

③平均寿命、栄養摂取量、医療水準、識字率、普通中等教育終了率でソ連は西側先進諸国と肩を並べた。

④失業の恐怖、老後の心配、住宅・教育・医療費負担はなくなった。

これらを生み出したのが計画経済(著者によれば軍事共産主義供給制)であった。しかしそれは恐怖政治と非能率を伴っていた。(ただし非能率といえば、恐慌と失業ほど非能率なものはない)

ソ連型計画経済の特徴

①「不足の経済」の外延化

革命時の絶対貧困と、その後の国内戦のもとで、量産計画が全てであり、需要との照応は必要なかった。

党の独裁体制のもとで、立憲体制を乗り越え、人命まで含めた過度の収奪が可能となった。

②計画経済の負の成果

生産効率や生産物の質は二の次にされ、無駄の体系が作り上げられた。

行政機構の肥大と非能率化、官僚主義と腐敗。

主人公たるべき労働者・農民の疎外。労働資源化。



感想は、この記事の表題通り。不足だったから「不足の経済」が成功し、それが一定程度充足されることにより壁に突き当たる。問題はその次になにをするべきだったのかがはっきりしていないことだ。

60年代始めにリーベルマン構想が打ち出され、利益の出る構造への変革が打ち出されたが、結局うまく行かなかった。

私が思うには、自由な購買者の出現がないと、生産サイドの改革だけではうまく行かないのではないか。

生産の増大は消費の増大を伴う。消費の増大は欲望の増大をもたらす。増大した欲望が実需となり生産を刺激する。

この螺旋形構造が創りあげられないと経済のそれ以上の進展はない。

「不足の経済」のシステムは循環システムになっていないから、この問題に対応できない。利潤の導入は生産側のインセンティブにはなっても消費者には関係ない。

実はここに市場の最大の価値がある、と私は思う。市場の最大の役割、それは需要の創出にある。

なぜなら市場こそは貨幣経済の最大の実現の場だからだ。人々は職場においては奴隷として扱われる。しかし貨幣を持った一生活者として市場に登場したとき、彼は「王様」にだってなれるのである。

したがって市場は人々の「自由な真の需要」を表現する場になるのである。生産者は市場を見て生産を調整するだけでなく、需要を掘り起こし生産拡大に結びつける。

このような需要の拡大が、生産の増大をもたらし経済の発展へと結びつけていくのである。また労働者・農民の自由をもたらし、当局者の全面的圧政の軛からの解放へと繋がる。

市場の真の機能は競争にあるのではないし、需要と供給のバランスにあるのでもない。それは「欲望の見本市」であるところに最大の機能があるとみるべきだ。

この辺は稿を改めてもう少し検討してみたいと思う。


落ち穂拾いのついでに、レーニンとスターリンの対立点が二つ挙げられた箇所がある。ともに初耳の話なので紹介しておく。

1.国号問題

レーニンは国号問題で、国号に「社会主義」を入れたからといって、われわれの国が社会主義であるとは言えない、と主張しました。

これはロシア革命の性格規定の問題に関わっている。

旧ソ連史学では「社会主義革命」としていますが、レーニンは「社会主義をめざす」革命と言っております。

この論争は、国名に地名を入れないで「評議会社会主義」共和国とすることで妥協が成立したそうだ。

2.連邦か連合か

ソ連の英語表記はUSSR。UはUnion(Союз)である。アメリカはUnited States で諸国連合ということになる。アメリカの場合、州の独自性は日本の県よりは遥かに強いが、外国から見れば単一国家に近い。むしろ諸州連合と呼ぶほうがふさわしい。こういうのを連邦制(Federation)と呼ぶ。

一方、欧州連合(EU)は、今のところは未だ構成国の独自性がほぼそのまま生かされていて、諸国連合、ないし目的を限定した諸国同盟の形になっている。こういうのを連合制(Confederation )と呼ぶ。

というのを前提として、引用に移る。

1922年当時、複数のソヴェト共和国の結合形態をめぐって、ロシア共産党内には鋭い意見の対立がありました。それは諸ソヴェト国家の連合もしくは同盟を主張するレーニン派と、諸国家の連邦を主張するスターリン派の対立です。

スターリンは「軍事・外交・外国貿易その他の業務を統合する単一の連邦国家」を主張しました。

論争はスターリン派の勝利に終わった。病床のレーニンはほとんど発言の機会がなかった。

帝国主義国の強大な軍隊に包囲されている。だから、ウクライナなどの国が独自に外交権を持つならば、ソ連政権は存続できないというのが理屈でした。


むかしは、「ソ連というのは」ブルジョアの呼称で、正確には「ソ同盟」と呼ぶべきだと言われたことがあるような気がするが、それはレーニンの名残だったわけだ。


ロシアの作曲家たちのピアノ小曲を、この半年間聞き続けてきた。当初の目標は「タンゴ名曲百選」みたいに良さげな曲をコンピレートすることだった。しかし結構分厚い。
最初はYou Tubeだけで済ますつもりだったが、CDを買い足したりして、どんどん膨らんでしまった。
同じ曲を違う演奏で聞いていくと、つまんない曲だと思ったのがキラキラと光ったりするから、なかなか油断がならない。
ここまでの感想で次のようになった。
shopantati

作曲家の数は13人だ。曲数は217になる。随分と偏った選曲だが、ピアノ小曲というジャンルに絞っているので、こうなるのも仕方ない。ラフマニノフとスクリアビンはすべて聞いてはいないので(この二人は夏には鬱陶しい)、もう少し増えるかもしれない、
まあこれは中間発表ということで、最終的には百曲に絞り込むことになる。



マルクスの株式会社論と社会主義

安井修

1.課題設定

マルクスは,株式会社に「資本所有の潜在的な廃止」という位置づけを与えている。「資本所有の廃止」であるが,あくまでも「潜在的」である。

この意味内容の検討を通して,社会主義に株式会社制度を導入することの原理論的な意味を考えてみることとしよう。

2. 『資本論』第3 巻第5 篇第27 章の位置づけ

周知のように,『資本論』第3巻のオリジナノレ原稿を調査し,マルクスのオリジナルとエンゲルスによる編集版との差を明確にしたのが,佐藤金三郎や大谷禎之助の仕事であった。

大谷によると, まず,第5篇の「第28章から第32章までの部分は内容的に繋がりのあるもの」とみることができる。それに対して,第25章の「種々の特殊な信用機関は, また銀行そのものの特殊な諸形態も,われわれの目的のためにはこれ以上詳しく考察する必要はない」 という文章のあとから「エンゲルス版第26章の最後の行までの部分は,すべて本文への注ないし雑録にあたると考えられる」とする。そこで「本文への注ないし雑録にあたる」ものを除いて考えると,本文は,第25章の上の引用文までと第27章から成り立っていることとなる。

これらの考察から「第25章の本文部分とこの第27主主部分とが内容的に明確に区別されるものであることを考え合わせるならば,第5章「5)」の総論ないし序論は,視角を異にする2つの部分,すなわち,その前半である第25章本文部分と,その後半である第27章部分とから成っているのだということができるであろう」とする。

そして,第25章本文部分が「信用制度という新たな対象についての表象を整理し, とりあえず信用制度とはどのようなものか を示すことである」のに対し,第27章は「そのような信用制度が資本主義的生産様式の発展のなかで果たす役割を述べている」。

この調査によって,第5篇の第25章から第27章までのマルクスの草稿の構成がだいたい理解できたといってよいだろう。

そのことを前提として,第27章の内容をもう少し具体的にみてみよう。

第27章では,信用制度が資本主義的生産様式に果たす役割として,

Ⅰ.利潤率均等化の媒介, Ⅱ 流通費の節約のニつを説明したあと, IIIで,株式会社の形成を説明している。

ここでの説明は,信用制度が株式会社の形成にいかなる役割を果たすかという観点から与えられているから,形成された株式会社という「社会資本」が, 「個人資本」というそれまでの資本形態といかに異なるものかを明らかにする。それは株式会社のポジティブな側面である。

その上で,それは信用制度が媒介するものであるから架空性をもったものであるにすぎないことを明らかにしようとしている。

だからこそ「生産規模の非常な拡張」といった株式会社形成の理由は最初に少し述べられているだけである。もしマルクスが株式会社論そのものをテーマにしていたら,株式会社形成の理由といった論点が中心になっていたかもしれない。

社会主義と株式会社といった問題を考える場合には,逆にこうしたマルクスの論が参考となるのではないだろうか。本稿で「資本論』のこの箇所を取り上げる理由もそこにある。

ところで,大谷によれば,第27章の内容はほぽマルクスの草稿と一致しており,第5篇のなかでも,エンゲルスによる加工が総体的に少ない部分に属している。したがって,ほぽ現行『資本論』を前提として,マルクスの株式会社論の検討を進めることができるだろう。

3. マルクスの株式会社論

マルクスの「株式会社の形成」の内容は,以下の3点に要約されよう。

1. 株式会社は「私的所有としての資本の廃止」である。それ故,それは,社会資本(直接に結合した諸個人の資本)という新しい形態であり,個人資本に対立する。

2. とはいえ,株式会社が資本主義的生産様式のなかであらわれるため,資本主義的な現象(独占,国家の干渉,金融ー貴族の再生産,寄生虫の再生産,投機や詐欺の再生産等)を生み出すこととなる。このあたりの叙述は,信用制度が持つ架空性を強調する第25章の本文部分と重なってくることとなる。

3. かくして,株式会社は,結合された生産者たちの直接的社会的所有 への必然的な通過点である。資本主義的生産様式のなかでは,そこに到達するものではないからこそ,最終的に,資本所有の廃止へと進む、あくまでも「潜在的」であるという規定が登場してくることとなる。

「私的所有としての資本の廃止」

まず,上述の1の論点からみてみよう。

マルクスが株式会社を社会資本という新しい形態であるという場合,<資本機能が資本所有から分離されている>ことがその中心的な論点となっている。いわゆる所有と経営の分離である。

個人資本では,資本所有と資本機能は一体化していたが,株式会社では,それが分離されている。といっても,分離された資本機能は,資本主義的生産様式である以上は当然結合された生産者たちの機能に転化していない。だからこそ,結合された生産者たちの直接的社会的所有へ到達していないことになる。

が,それがマルクスが扱う中心的な問題ではない。

ここでは,分離された資本所有の位置づけこそが問題である。それが,株式会社の下では,個々別々のものではなく,結合されたという意味で社会資本に転化している。

しかしながら,そこでは資本所有の意味 も変化してきている。というのは、資本所有者は単なる所有者,単なる貨幣資本家に転化するからである。そもそも,所有とは法律的な関係ではなく,誰が生産に関する決定を把握しているのかという問題 であったはずである。したがって,資本所有と資本機能が分離し,資本所有が配当を受け取るだけの関係に変化するならば、すなわち資本所有者が単なる貨幣資本家に転化するとすれば,それは資本所有の廃止なのである。

したがって,資本所有の廃止というのは,資本所有がなくなったという意味ではなく、たぶん所有の本来的な意味が喪失してしまっている という意味であろう。 (配当等を受け取る権利は,依然として保有しているのであるから)

これが1の論点でマルクスが主張したいことである。

「株式会社が生み出す資本主義的な現象」

それを受けて, 2の説明では,資本主義的生産様式の枠内での資本所有の変化は,ただ資本主義的なマイナス面を生み出すだけであると位置づける。

「株式会社は社会主義への必然的な通過点」

マルクスは, 3の論点では,到達すべきゴールを示しており,それは,結合された生産者たちの直接的社会的所有であり,そのためには,もう一方の資本機能の方が変化しなげればならない

マルクスは,この章の後半部分で,労働者たち自身の協同組合工場に言及している。そこでは、資本主義的株式企業も,協同組合工場と同じに,資本主義的生産様式から結合生産様式への過渡形態とみなしてよいのであって,ただ,一方では対立が消極的に,他方では積極的に廃止されているだけである」としている。

おそらく資本所有の変化(不在地主化)は資本機能の変化(資本の集中)とセットで考えられていたのであろう。

以上のマルクスの議論をいわゆる「否定の否定」といった論理で説明すれば,次のようになるだろう。

個人資本の下では,資本所有と資本機能は一体化していた。株式会社の形成によって,そうした一体化が否定され,資本所有と資本機能は分離された。

それがもう一度否定されるとすれば,資本所有と資本機能は再び一体化することとなる。しかし,否定の否定は決して元の状態に戻ることを意味しない。資本機能は,結合された生産者たちの機能になっている。つまり,資本家の機能ではなく,働く者自身の機能に転化しているのである。

そして,資本所有も (たとえば協同組合の出資形態のように) 働く者自身の所有に転化しており,そこでは,株式会社のように資本所有と資本機能が分離された形態は当然止揚されていなければならない。

しかし,同時に,個人資本的な所有形態は止揚されていなければならないから,そこでは,株式会社が到達した社会資本的な所有形態が貫徹することとなる。以上のような意味で,以前より高い次元で資本所有と資本機能は一体化しているのである。

「株式会社はより高い次元で再び一体化するための一通過点にすぎない」というのはそういう意味だろう。


この後は「クーポン論」という独特の構想に入っていくが、私の関心からは外れるので省略する。「生産協同組合」論に関しては異論がある。


株式会社論の立論の大骨はこういうことだろうか。

1.資本所有が資本機能から分離される。いわゆる所有と経営の分離である。

2.分離された資本所有は、結合された諸資本という意味では、社会資本に転化している。しかし直接生産者からはますます遠ざかる。

3.資本所有者は“生きた”生産資本の所有者ではなく、単なる諸所有者,単なる貨幣資本家たちであり、配当を受け取るだけの寄生者となる。

4.この関係において、分離された資本所有は所有の本来的な意味が喪失し、“生きた”資本所有の性格を廃止されたことになる。

マルクスの信用論の一番わかりにくいところをうまく表現してくれていて説得力がある。しかし正解かどうかは分からない。

マルクスはわからないところを、こういう形でヘーゲル的表現で「自問」するかのように残していくことがある。いつも閉口させられるのだが、「こっちがわからないような表現は、マルクスもわかっていないのだ」と割りきって進むしかない。この頃はまだ株式会社そのものが端緒状態なのだ。


「資本所有の変化は資本機能の変化とセットで考えられていたのであろう」というくだりは同感する。

農地の問題と比べるとよく分かるのだが、資本所有の変化というのは地主の不在地主化だ。資本機能の変化というのは、土地の集中と農業の大規模化だ。マルクスの念頭にはコルホーズ的なものがあるのだろうが、はたしてそれが正しいのだろうか。いまだに解答が出ていない問題である。


昨日の続きになるが、

1.レーニン・スターリンが間違っていたからソ連は崩壊した

2.計画・統制経済が間違っていたからソ連は崩壊した

という非難のうち、2.の主張はかなり危うさをふくんでいる。計画経済は間違っていないという主張は今なお相当の説得力を持っているし、市場経済か計画経済かという二項対立が虚構めいていることも指摘されている。

私の印象としては、資本主義の立場に立っている人よりも社会主義を奉じていた人たちのほうがこの図式に乗ってしまった傾向が強いと思う。

とくに民医連の幹部の皆さんは、「国家の失敗、市場の失敗」というキャッチフレーズにズボッとハマって、「第三セクター」とか「非営利」論に飛びつき、なんと民医連の「綱領」にまで組み込もうとしたのである。

今日ではこの問題は既に、実践的には解決されている。両者はそもそも別のカテゴリーなのであり、両立することはまったく可能なのである。

貨幣経済を前提とする限り、さまざまな使用価値をいったん貨幣の共通尺度の上に載せた上で「等価」交換をしなければならない。

つまり、物々交換の時代に戻らないかぎり、日常の消費生活は完全に市場システムに乗っかって動いていくのである。

その上で使用価値の生産は、どこかのレベルで計画的に行われなければならないことも言うまでもない。

どこの工場でも「本日はなにを何個作ります」と決めないで仕事を始めることはない。上は政府から、下は一戸の農家に至るまで、予算と計画は必ず立てるものだ。

その際どこの企業も需要予測を立てて生産するのだが、予測通りにゆかないことがある。大抵の場合は過剰生産と売れ残りである。

もちろん天変地異で物がなくなってしまうこともあるが、これは計画のせいでも市場のせいでもない。

過剰生産になってしまう理由の多くは、生産者間の競争があるからだ。このため場合によっては需要予測を上回って生産してしまう。

ここまではごくシンプルな話だ。企業は談合によって生産を調整したり、価格を高止まりさせたりするが、それはフィクションであり、いつまでも持つものではない。

さらに相場が乱高下するならば、政府が財政出動して生産を調整し価格を安定化させる。そうして生産過剰は沈静化される。投資家は次の投資先を探し始めることになる。

こうやって「姿勢制御」システムと「フェール・セーフ」のシステムにより、生産の計画性は維持されることになる。全てをひっくるめて一つのシステムであり、それは十分計算可能であり調整可能なのだ。

大船遺跡 ネット探検

はずかしながら、まさか北海道にこれだけの文明があったとは知らなかった。とりあえず、ネットで当たれる限りの資料にあたってみることにする。

どんな遺跡か

驚いた。ウィキペディアに大船遺跡の項目がないのだ。ちょっとホッとする。「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の項目はあるが、とりあえず後回しにする。とにかくやたらと関連サイトがあるのだ。

コトバンクの説明から入る。

縄文時代前期後半から中期後半(紀元前3,200年~紀元前2,000年頃)の大規模な集落遺跡である。

大船川左岸の標高45m前後の広い段丘上に形成されている。南東側に100棟以上の竪穴住居、南西の山側には土坑群が広がる。

1996年(平成8)に町営墓地の造成にともなう発掘調査で大規模な集落跡が確認された。

ますます安心した。私は80年代までの函館しか知らないから、知識がなくても当然なのだ。

どこにあるのか

函館市と言っても、ずいぶん離れていて、以前は南茅部町と言っていた。昆布とりの漁民が狭い海岸線にへばりつくようにして暮らしている。

道南勤医協が熱心に漁民検診をやったため、勤医協フアンが多い。協力会の寄り合いで話したこともある。

次が函館市のホームページ

ここにはちょっとホッとするような地図がある。

大船遺跡マップ_H28.png

普通は南茅部線で川汲(かっくみ)に出るのだが、豊崎線という道路もあるらしい。

川汲という集落に町役場があり、温泉もある。国道278号線に突き当たって左に曲がると安浦があって、次が臼尻で、ちょっとした市街を形成している。そこから先、短いトンネルを抜けた豊崎というところで道道函館豊崎線が合流する。そこから大舟川を渡ると大船地区になる。

しばらく行くと道路の山側に大船小学校があり、そこの角を曲がるとすぐに上り坂となる。標高45メートルというから結構な上りだ。内浦湾沿いの海岸は大抵が段丘になっていて、登り切るといきなり視界がひらける。

下の写真が航空写真なのだが、どうも見通しが悪い。

oohune1.jpg

真ん中の白っぽい平地に目が行くが、これは遺跡ではない。その手前の黒っぽい四角が遺跡だ。その左上が青い屋根と白いグラウンドの大船小学校だ。

「人」の字型になった道路の右足が道道函館豊崎線。白っぽい平地は臼尻中学校のグラウンド、その右が校舎だ。なお臼尻中学というが臼尻町にあるわけではなく、ここは豊崎町になると思う。

「人」の字の頭がぶつかるところが臼尻漁港。山に隠れて見えないが海岸沿いに278が伸びていって、画面上一番右側に海が入るところが川汲だ。その途中の小さなササクレが安浦の漁港。

バイパスは画面中央右端にちらっと見える。その辺りが臼尻小学校と垣ノ島遺跡だろう。

どこがすごいのか

oohune12.jpg

まず、この写真で度肝を抜かれる。深さ2.4メートルだそうだ。8つの柱穴の直径もすごい。これだと地上3~4階、地下一階のビルが容易に建つ。

oohune14.jpg

この写真も、よく見るとすごい。上の写真のような建物が所狭しと立ち並んでいるのだ。全部で100棟を超えるという。ほとんど丸の内のビル街ではないか。

この建物の建造年は紀元前2500~2000年、つまり4000年以上前なのだ。

10年ほど前、我々は吉野ケ里の遺跡発見で驚いたものだが、大船遺跡はそれよりさらに2000年を遡る。我々が吉野ケ里を見る目で吉野ケ里の人は大船に思いを致すことになるわけだ。(ただ、正直、年代については素直には信用出来ない)

なぜ標高45メートルか

遺跡で見つかった食糧はサケ・タラ・マグロなどの魚類をはじめウニ・カキ・オットセイ・クジラといった海産物や,クリ・クルミ・トチ・ブドウといった植物種子などということだ。

oohune15.jpg
 出土したクジラの椎骨(体長15mのクジラのもの)

中でも目を引くのはクジラだろう。どうやって捕ったのか。「マンモスハンターとしての血だろう」といわれているが、その時代からはすでに1万年を過ぎている。人間の血などせいぜい2,3代だろう。

それよりもクジラをなぜ、どうやって山の上まで運んだのだろうという疑問がある。45メートルは結構高い。

縄文人同士の敵対があったのだろうか、温暖な気候により海進があったのだろうか、その後の地殻変動で隆起したのだろうか。

3つの可能性を上げたが、いずれも決定力に欠ける。

南茅部がすごい

isekimap2.gif大船遺跡だけではなく、南茅部そのものが遺跡の村だ。今までに92ヶ所の遺跡が確認され、出土遺物は400万点を超えているそうだ。

南茅部が縄文文化の一大中心地であったことは間違いなく、遺跡の年代も数千年に渡っている。

もちろんあの国宝の中空土偶もある。これは川汲から右に曲がってしばらく行った尾札部集落近くの著保内遺跡から出土したもので、高さが41センチもある。焼き物技術の確かさがしのばれる。(昭和50年、尾札部の小板アエさんが農作業中に偶然発見した。道の駅隣の縄文文化交流センターにホンモノが常設展示されているそうだが、正直やばくないのか?)

また出土品からは黒部の翡翠、秋田のピッチが見つかっており、少なくとも東日本各地との交易があったことが伺える。

ユートピアとディストピアというのは親戚筋みたいなところがあって、二項対立図式を持ち込まれるみたいなところがあるから、遊民的人物にはどちらも住みにくさでは似たところがあるかもしれない。

世の中には三種類の人間が居るのであって、一つはまじめに額に汗して働く人々、一つは彼らを搾取し贅沢をしている人々、そしてもう一つは搾取も贅沢もしていないが、さりとてまじめに働いているわけでもないキリギリスみたいな連中である。

私は第Ⅰ人種に属していると思うが、根はぐうたらである。搾取をしようとは思わないが贅沢はしたい。

考えてみれば学生時代、長い夏休み、それなりの冬休み、変に長い春休みを何をして過ごしたか、とんと記憶が無い。

バイトをしたわけでもないし、大旅行をしたわけでもないし、部活に情熱を燃やしたというわけでもない。長い本を読もうと思った記憶はあるが読み通した記憶はない。

穀潰しの非国民だ。

そういう人間は、「ユートピアが実現するとすごく良いな」とは思わないだろう。「流した汗が報われると良いな」とは思うが、できれば汗を流さずに良い暮らしをしたい。

そういう人間の理想郷はユートピアではなくて「桃源郷」かもしれない。しかしそれではあまりに現実逃避だ。引きこもりの世界だ。

一番近いのは「酒池肉林」とか「放蕩三昧」という世界だろうが、もうじき古希という歳になると体がついて行かない。

そうなるとそこそこの心地良い対人関係というのが一番大事なことに思えてくる。むかし日本がまだ豊かだった頃、「豊かさとは何か」という本がずいぶん売れた。

その頃私が考えたのは「欲求の豊かさ」が真の豊かさではないかということだった。そして欲求の豊かさは「人間関係の豊かさ」によって規定されるということだ。

途上国ではそうは行かないだろう。そのような余裕はない。だから「ユートピア実現」の夢は即物的かつ原理主義的色彩を帯びてくる。

トマス・モアのユートピアは自給自足に近い。「食っていければ幸せ」みたいなレベルでの理想郷だとすれば、それは我々の目指す理想郷ではないだろう。

ということで、非常に評価の難しい発言である。

ただ従来の我々の紋切り型ストーリーに厳しい、説得力に富んだ反論を行っていることは間違いない。

1.レーニン・スターリンが間違っていたからソ連は崩壊したのか?

2.計画・統制経済が間違っていたからソ連は崩壊したのか?

3.1と2を丸呑みしたうえで、「マルクス主義はそれとは別だ」と澄ましていられるのか?

中村さんはこの3つの設問に対して、いずれも「ノー」を突きつけている。

「ノー」というのはいささか不正確かもしれない。ただ長年研究の現場にいた人間として、そのような皮相な発言は許せないのである。

ソ連はユートピアだった?

議論としてはまず3.から入ったほうが分かりやすいかもしれない。

我々が今掲げているスローガンは「国民が主人公」の日本である。

言葉はどんどん変わっていくので、ニュアンスのズレはあるかもしれないが、20世紀の初頭において「国民」とは労働者・農民であった。

それから百年を経た今でも、「国民が主人公の国」というのは我々にとって「ユートピア」である。それが100年前のロシアにおいて現実のものとなったのだ。

ソ連においてはそれが結果的に「ディストピア」に変わってしまったのであるが、それは人類史の長い道のりの中で考えればひとつの挫折に過ぎない。次には同じ間違いを繰り返さないように教訓化することが一番大事なことである。

1万年の人類の歴史の中で、とにもかくにも資本主義に代わるものを(可能態として)生み出すまでに成長した人類の到達を、我々はまず評価すべきなのかもしれない。

ソ連がユートピアだったことは一度もなかった

ソ連は「国民が主人公」という理想を実現したユートピアではあったが、その現実の姿において「ユートピア」であったことはただの一度もなかった。客観的にはむしろもっとも不幸な国で在り続けた。「ユートピア」(社会主義の祖国)であるがゆえに絶えず列強に苦しめられ続け、第2次大戦では数千万の犠牲者を出した。

その結果成立したのが、スターリニズム国家という奇形的社会であり、その形態においてかろうじて生存を許された。そのようにしてかろうじて許された生存に何らかの意味があったのか、それが問われている。

ソ連がユートピアを目指したという歴史的事実は消せない

そして中村さんは、少なくとも人類史的には意味があったと考えている。

なぜならソ連がユートピアを目指し、人類史上初めて、その一歩を踏み出そうとしたことは間違いないからだ。

ソ連の失敗は対岸の火事ではない

以上から出てくる結論は、「ソ連の失敗は対岸の火事ではない」ということだ。

「国民が主人公」の政治を目指す世界の人々にとって、ソ連は兄貴分と見るべきではないか、と中村さんは問うている。「巨悪の崩壊、バンザイ」では済まされないと思うし、済ますべきではないと思う。

ただし、「方法」が間違っていたから失敗してしまった。しかもその間違いはボルシェビキとメンシェビキの分裂に遡る、というのが中村さんの見立てだが、それに関しては2.と関わるので留保しておく。

つまり、一方においてはロシア革命とソ連の歩みを社会発展の歴史の一コマとして突き放してみることである。そして倫理とか審問の対象とせず、余分な肩入れしないで没価値的に検討する姿勢だ。

一方においては人類社会を一歩前に進めようとした貴重な試みとして、主体的に評価する構えの必要を訴えているのだろうと思う。科学の目と変革主体の目の複眼で見る、この主張には納得させられるものがある。

それにしても大変重い問いかけです。

 

中村平八さんというソ連研究者が、「ロシア革命、ソ連社会主義とは何であったか」と題して語っている。

不破さんの論文で、「スターリン主義」としていわば投げ棄てられた形になっている「ソ連」評価を、それにもかかわらず歴史上厳として存在した「挫折したユートピア」としてもう一度見なおしてみようということである。

いわば「ソ連の歴史学 的再評価」ということになる。

長いインタビューで、生い立ちから始まる自らの活動と研究の歩みを語っていくので、読み物としては面白いが、要点をまとめるのには結構苦労しなければならない。

この手の文章は、後ろから読むというのが一つの手である。そして気になる言葉を拾い出して箇条書きにし、後から自分流の順番付け、見出し付けをするということになる。

ぼちぼち始めますか。

最初(最後)がインタビュアーの感想。

ともすれば歴史の彼方に葬り去られたかのような、ロシア・ソ連社会主義歴史に新たな視点から光をあててもらいました。

私も改めてソヴェト史を勉強し直そうと思います。

その前に中村さんの最後の言葉がある。

社会主義という遺産は、人類の貴重な遺産の一つです。

資本主義が最善の社会経済システムである、と考えている人は少数です。

資本主義以前にもさまざまな形態の社会主義はあった。キリスト教の修道院や共同体づくりは社会主義(共同体主義)の実践であった。

資本主義のもとで生まれた近代杜会主義は、それ以前の時代の社会主義と質的に区別される発展を遂げました。

ロシア革命の客観的・歴史的意義

ロシア革命の客観的・歴史的意義は二つある。

社会主義の実現をめざす政治結社、つまりロシア共産党が国家権力を握ったこと

②実際に、発展途上社会主義(従属的社会主義)の建設が始まったこと

その前の発言は中国に関するもので、この際省略。

中村さんの本で「ソ連を殺したのは誰か」という本があるらしい。その本のさわりに触れた部分がある。多分このインタビューの核心部分であろう。

経済システム(計画経済)から見たソ連崩壊

ソ連が潰れたことは間違いないし、「それは体制が行き詰まったからだ」というのも間違いない。

しかしその「体制」というのは何か、政治的なものか経済メカニズムを指すのか、そのあたりは混同されているのではないか。

もし政治的なものであるなら、ソ連が崩壊し中国が生き残った理由は説明できない。同じように専制的なものだからだ。

経済システム(計画経済)から見れば、ソ連体制の崩壊は明らかにゴルバチョフ時代の改革が引き金になっている。

プレジネフ体制、スタ-リン体制下での生産力(経済パフォーマンス)は決して悪くない。したがって「ソ連を殺したのはゴルバチョフ(改革派)だ」ということになる。

したがって、中央計画経済や統制・指令経済の是非についてはソ連とか社会主義とかをいったん離れて、「そもそも論」として議論しておかなければならないだろう。

計画経済と統制・指令経済

計画経済と統制・指令経済は切り離しがたく結びついている。統制なしの計画経済はありえない。計画なしの統制経済もありえない。

鞭で殴りつけて、奴隷などの強制無償労働で、ピラミッドの建設ができるなどとは、とうてい考えられません。

計画経済(指令経済)はマルクスが考えたものではない。20世紀のソ連や中国で初めて実施されたものでもない。資本主義以前からさまざまな形で実施されてきた。

計画経済についての筆者の見解

計画経済は十分に実施可能だ。それは数多くのビッグ・プロジェクトで実証されている。ランゲ=ハイエク論争で理論的にも確認されている。

ただし経過中のデータの繰り込みと微調整(とくに欲望の創出)は必要で、その限りにおいて市場メカニズムも有効である。しかしそれを社会主義計算の不可能性の論拠にするのは間違っている。

ソ連経済70年の実績

ついで話はソ連経済の実績に移る。

ソ連経済は、革命直後の国内戦、第二次大戦期間を除きすべてプラス成長です。計画的指令経済の長所であり、成果です。

80年代に入って成長速度は鈍化したが、アメリカの公式発表で年平均2パーセント、ソ連の発表で2.5パーセントでした。マイナス成長に転化したのは90年と91年だけです。

ソ連経済崩壊の要因

どうしてマイナスになったか。

ゴルバチョフ時代末期、連邦が何を言っても資源はウクライナのものだ、 連邦の憲法よりロシア共和国の憲法が優越する、こういった分裂が起こり、連邦全体の産業運関が共和国ごとに分断され、生産の停止あるいは縮小が起こりまし た。そこで各共和国の経済はすべてマイナス成長となり、その総計のソ連経済もマイナスになったのです。

中村さんは、その背景としてゴルバチョフの「行き過ぎた政治の自由化」、「急ぎすぎた市場経済の自由化」をあげる。

ゴルバチヨフは、「規制された市場経済」を導入し、経済成長の回復をはかるべきでした。同時ににノメンクラトゥーラ(党国家官僚)、とりわけ経済官僚の力を削ぎ落すべきでした。その後に言論・集会・結杜の自由、市民的自由、政治的自由などを実現すべきでした。

これについては、判断を留保する。

政治の崩壊が先

もう一つ、中村さんの強調するのは、経済が悪くなったから崩壊したのではなく、崩壊したから悪くなったということだ。この辺は、「まぁたしかにそうも言えるが」というレベルではあるが、事実としてはそうであったことも間違いなさそうだ。何から何まで社会主義のせいにするのは、ためにする議論かもしれない。

ソ連邦が消滅すると、各共和国の経済は、「粗野な市場経済」のもとでますます悪化して行きます。ロシア連邦の大統領エリ ツィンは、市場経済への移行を目指して若い新古典派の経済学者を登用しますが、経済は悪化するばかりでした。

ロシアの場合、89年を100として99年には50くらいまでGDPが落ちました。国民経済の規模が半分になったのです。これは大変なことです。

以前の記事

自然主義文学 年表的理解

にくっつけようと思いましたが、ちょっとあまりにも無関係なので、別建てとしました。一応後編として読んでいただければと思います。
この年表を作ったときの感想が次の記事です。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。


ということで、いよいよ啄木の「時代閉塞の現状」に入ることにする。
(ということというのは前の記事 のことです)

すでに我々には日本型自然主義の輪郭がおぼろげながら出来上がっている。

一方には急成長しつつある強欲な日本主義の姿と、そのあからさまな擁護者としての高山樗牛がいる。一方で戦闘的民主主義(平民主義)者の田岡嶺雲がいる。さらにその先に微かに行方を照らす幸徳秋水ら社会主義者のグループがある。

その中で間隙を縫うように登場するのが意気地のない個人主義としての「自然主義」 だ。

あらためて読みなおしてみると、魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」は、その“とりとめなさ”をかなり正確にすくい取っているようだ。論旨が不透明なのは、元々の日本型自然主義が逃げ腰で自家撞着しているからである。

それにもかかわらず、魚住氏が「とにかくまぁ、頑張んなさいよ」というかたちで文章を締めくくっているのは、大逆事件というでっち上げが明治43年という時点で同時進行しているからであり、どのような形でも抵抗を続けるしかないという重苦しい雰囲気があたりを支配していたからかも知れない。

それらの事情がわかってくると、これまで通り一遍で読み過ごしてきたこの評論の重みがズシンと伝わってくる。これは心して読むべき文章である。

 


時代閉塞の現状

(強権、純粋自然主義の最後および明日の考察)

石川啄木

青空文庫より

 

第一節

1.魚住論文について

今日における我々日本の青年の思索的生活の半面――閑却されている半面を比較的明瞭に指摘した点において、注意に値するものであった。

まずは一応評価する。なぜなら「半面」を指摘したものであり、論旨が「比較的に明瞭」だからだ。したがって、称賛に値する論文ではないが「注意に値する」ものである。

2.自然主義の論理的破産とその意味

けだし我々がいちがいに自然主義という名の下に呼んできたところの思潮には、最初からしていくたの矛盾が雑然として混在している。

それにもかかわらず、今日までまだ何らの厳密なる検かくがそれに対して加えられずにいる。

この「主義」はすでに五年の間間断なき論争を続けられてきたにかかわらず、今日なおその最も一般的なる定義をさえ与えられずにいる。

事実においてすでに純粋自然主義はその理論上の最後を告げている。にもかかわらず、熱心を失ったままいつまでも虚しい議論が継続されている。

次が啄木の論点だ。

これらの混乱の渦中にあって、今や我々の多くはその心内において自己分裂のいたましき悲劇に際会し、思想の中心を失っている。

つまり啄木はこの混迷を社会の混迷、青年の混迷としてとらえようとしているのだ。

3.魚住氏における自己主張と自己否定の奇妙な結合

自然主義においては、自己主張的傾向がそれと矛盾する科学的、運命論的、自己否定的傾向(純粋自然主義)と結合していた。

そこでは自己主張は自然主義の一つの属性のごとく取扱われてきた。

しかし純粋自然主義が実人生を観照的立場で見ると決めてからは、この問題は解決した。自然主義は自己主張的傾向を放棄したのである。

これで問題は解決したのに、魚住氏はまたぞろ「自己主張の思想としての自然主義」を持ちだす。

しかもその根拠として、「両者共通の怨敵たるオオソリテイ――国家というものに対抗するため」の共棲だという。これはまったくの捏造だ。

(残念ながら)日本の青年はいまだかつて権力と確執をも醸したことがない。したがって国家が敵となるべき機会もなかった。

第二節

1.青年を取り巻く社会問題

徴兵、教育、税金などさまざまな問題があり、権力との関係を問わざるをえない環境がある。

にもかかわらず実際においては、幸か不幸か我々の理解はまだそこまで進んでいない。

2.「富国強兵」の論理と青年による歪曲

父兄の論理は「富国強兵」である。その論理は我々の父兄の手にある間はその国家を保護し、発達さする最重要の武器だ。

しかし青年はそれを歪めて解釈する。

「国家は強大でなければならぬという。それを阻害する理由はないが、お手伝いするのはごめんだ!」

「国家が強大になっていくのはけっこうだが、我々も一生懸命儲けなければならぬ。正義だの人道だの国のためだの考える暇はない」

哲学的虚無主義のごときも同類である。それは強権への不服従のようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。

彼らはさまざまな人間の活動を白眼視するごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである。

敵が敵たる性質をもっていないということでない。我々がそれを敵にしていないということである。事態はそれだけ絶望的なのだ。

3.自然主義者は「不徹底」か

魚住氏は、自然主義者の一部が国家主義との間に妥協を試みたのを見て、「不徹底」だと咎めた。

私は論者の心持だけは充分了解することができる。しかし、たとい論者のいわゆる自己主張の思想からいっては不徹底であるにしても、自然主義としての不徹底ではかならずしもない。

そもそも不徹底だから自然主義なのであり。不徹底であることは自然主義を徹底して実行していることだ。

魚住氏はいっさいの近代的傾向を自然主義という名によって呼ぼうとする。それは笑うべき「ローマ帝国」的妄想だ。それは今日自然主義という名を口にするほとんどすべての人の無定見なのである。

第三節

この節は目一杯自然主義の悪口を並べ立てているが、あまり興味ない部分のため省略。

ただし次の一句は秀抜。

近き過去において自然主義者から攻撃を享けた享楽主義と観照論(当時の自然主義)との間に、一方がやや贅沢で他方がややつつましやかだという以外に、どれだけの間隔があるだろうか。

新浪漫主義を唱える人と主観の苦悶を説く自然主義者との心境にどれだけの扞格があるだろうか。

淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。

第四節

1.時代閉塞と青年

我々には自己主張の強烈な欲求が残っている。理想を失い、方向を失い、出口を失った状態において、自身の力を独りで持て余している。

今日の我々青年がもっている内訌的、自滅的傾向は、じつに「時代閉塞」の結果なのである。

青年を囲繞する空気は、今やもうすこしも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行わたっている。現代社会組織はその隅々まで発達している。

2.「敵」の存在を意識せよ

かくて今や我々青年は、この自滅の状態から脱出するために、ついにその「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達している。

我々はいっせいに起って、まずこの時代閉塞現状に宣戦しなければならぬ。自然主義を捨て、盲目的反抗を罷めるべきだ。

そして全精神を明日、すなわち我々自身の時代に対する組織的考察に傾注しなければならない。

このくだりはかなり唐突であり、抽象的で言葉が空回りしている。これも大逆事件直後という時代背景から汲み取らなければならないのかもしれない。

問題は「明日の考察」ということだが、骨組みだけなので、見通しは良い。

①このままでは青年は自滅だ、このような状況から脱出しなければならない

②脱出するためには(自己実現をさまたげる)「敵」の存在に気づき、その姿を認識すべきだ、

③「敵」との闘いを宣言するということは、自然主義を捨て、盲目的反抗を罷め、闘いの真の構えを形成することだ、

④明日を我々の時代にするため、計画を立て、闘いの組織に着手すべきだ、

という段取りになるのだろう。おそらく理論作業としては③の自然主義の残渣克服を念頭に置いているのだろうと思う。

第五節

1.自己主張の系譜

「明日の考察」のためには過去における自己主張の系譜をたどるのが良いだろう。

青年が過去においていかにその「自己」を主張し、いかにそれを失敗してきたかを考えれば、今後の方向が予測されるのではないか。

以下の啄木による歴史のスケッチは私にはちんぷんかんぷんである。

2.日清戦争の意義

明治新社会の成立: 明治の青年は新社会の完成のために有用な人物となるべく教育されてきた。同時に青年自体の権利を認識し、自発的に自己を主張し始めた。

日清戦争: 大国清への勝利という結果によって国民全体がその国民的自覚の勃興を示した。

3.高山樗牛の個人主義とその破滅

明治の青年の最初の自己主張は高山樗牛の「個人主義」であった。しかし樗牛の個人主義は既成強権に対して第二者(対抗者)たる意識を持ちえなかった。

彼の「個人主義」は、「既成」と青年との間の関係に対する理解がはるかに局限的だった。ニイチェや日蓮はその局限性を糊塗するものでしかなかった。

樗牛の失敗は、いっさいの「既成」をそのままにしておいて、その中に我々の天地を建設するのは不可能だという教訓を示している。

青年の心は、彼の永眠を待つまでもなく、早くすでに彼を離れ始めた。

4.宗教的欲求の時代

ついで第二の時代、宗教的欲求の時代に移った。

宗教的欲求の時代は前者の反動として現れたとされる。しかしそうではない。自力によって既成の中に自己を主張せんとしたのが、他力によって既成のほかに同じことをなさんとしたまでである。

だから第二の経験もみごとに失敗した。

5.純粋自然主義の最大の教訓

かくして時代は第三の時代に移る。それが純粋自然主義との結合時代である。

宗教的欲求の時代には敵であった科学はかえって我々の味方となった。

自然主義運動の前半、彼らによる「真実」の発見と承認は、「批評」として刺戟をもっていた。

純粋自然主義の与えた最大の教訓は、「いっさいの美しき理想は皆虚偽である!」ということだ。我々の理想はもはや「善」や「美」に対する空想であるわけはない。

6.「必要」という真実が残された

いっさいの空想を峻拒して、そこに残るただ一つの真実――「必要」! これじつに我々が未来に向って求むべきいっさいである。

我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこに我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければならぬ。必要は最も確実なる理想である。

ここで啄木が言う「必要」とは、今風に言えば「欲求」ということではないか。日用目的の品々でもなく、自然主義者の本能的欲求でもなく、明日に繋がる青年の欲求(Demand)ということを指すのだろうと思われる。


正直言えば、啄木の時代認識は「世代論」に傾き、やや皮相の感を免れ得ない。

しかし第5節の個人主義の系譜を回顧する場面は、当事者意識満載で面白い。大抵の近代文学史には載ってこない切り口である。

また閉塞の時代突破のカギを、ある意味で自然主義者(初期)を受け継ぐ形で自然科学的「真実」を問い、それに「必要」と応えるところもさっそうとしている。

いろいろ読んできてどうやら感じがつかめてきた。
自然主義派というのは軟派なのだ。左派でも右派でもなく軟派なのだ。左翼運動が高揚すればそれに潜り込んできて、過激だが訳のわからないことを言って、情勢が厳しくなればさっと消えていく連中だ。
運動の最初から居る人間にはそんなことはお見通しだが、後からくる人にはよくわからないから、目立ちたがりのそっちの方が左翼の主流であるかのように勘違いしてしまう。口だけは達者だから中には中枢にまで上り詰める人も出てくる。
それが大逆事件に至る日露戦争後の反動のなかで左翼扱いされて弾圧の的になると、「ごめんなさい。悪気はないのですから」とひたすらかしこまってしまう。
しかし真の左翼はとうの間に弾圧され消え去っているから、不満を持つ若者はそれにしがみつくしかない。しからばそれらの若者を含めた自然主義派を、それなりにカヴァーしていくのも大事なことなのかもしれない。
それが魚住さんの立場で、啄木はそれに異議を唱えたわけだ。
啄木の議論はかなり生硬だが、自然主義をどう評価するかなんて議論はもうやめて、「青年の未来をどう切り開くか」という本筋の議論をしようと呼びかけている。その限りではまっとうだ。
おそらくその点では魚住さんも異議のないところであろう。
ただ残念なことに啄木も魚住さんもみんな30前後で早死してしまっている。いたずらに馬齢を重ねて古希にならんとしている私には、半ば慚愧の思いである。

↑このページのトップヘ