鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年07月

結局、前項で紹介した文章は、「自然主義論争」という議論を踏まえないとわからないようだ。

まずは、例によって年表化してみる。題して「自然主義論争史 年表」ということになるか。

1880年 ゾラの『実験小説論』が発表される。生理学者ベルナールの『実験医学序説』をそのまま文学の理論に適用した。

1885年(明治18年) 坪内逍遥が小説神髄を発表。「芸術であるためには、小説は写実的でなければならない。人間とその心理を写実的に描くべき」と主張。

1886年 二葉亭四迷が『小説総論』を発表。翌年には「浮雲」を発表。

1889年(明治22年) 森鴎外、「小説論」にてゾラの自然主義を紹介。その意気込みは評価するも作品そのものは評価せず。その上で坪内逍遙をゾラのそれとは別物の、「ありのまま主義」だと批判。没却理想など意味ありげな概念語を無限定に駆使する逍遥をクソミソにする。

1895年(明治28年) 田岡嶺雲が「下流細民と文士」や「小説と社会の隠微」で硯友社文学を批判。「富む者は彌々富み、貧き者は彌々貧す」社会の中で貧しい人間の苦しみを代弁することによって醜悪な現実を是正することを文学の目的と規定した。

高山樗牛はこれに抗して国民文学論を唱える。「社会生活は多数劣者の幸福を犠牲にするに非ざれば、其進歩の過程を継続する能はざる」という露骨な開き直り。

1900年(明治33年) 鴎外、『審美新説』の中でゾラ以降の自然主義の動向を紹介。運動を二期に分け、前期は客観に偏して枯淡に傾き、後期は逆に主観に傾き、深秘・象徴の趣を呈したとする。(鴎外にしてみれば、抱月など一知半解、笑止千万であったろう)

1901年(明治34年) 田山花袋が「作者の主観」を発表。写実の奥に「大自然の主観」がなければならぬと主張。正宗白鳥との間に「主観・客観論争」が交わされる。

1902年(明治35年) 長谷川天渓、「論理的遊戯を排す」を発表。抱月とともに自然主義擁護の論陣を張る。

木下杢太郎、「太陽記者長谷川天渓氏に問ふ」で、「理想は動力である。故に理想は決して夢幻ではない」と主張。

永井荷風がゾラの『実験小説論』を紹介。森鴎外の客観的紹介とは異なり、人間の動物性の一面にふれて、「暗黒なる幾多の欲情、腕力、暴行等の事実を憚りなく活写せんと欲す」と述べる。

1902年(明治35年) 小杉天外、田山花袋、永井荷風らがゾラの手法をまねた作品を相次いで発表。強い自我意識が独自の芸風を作り上げる。

1904年(明治37年) 田山花袋、「露骨なる描写」を発表。「何事をも隠さない大胆な露骨な描写」を主張。

1906年(明治39年) 洋行から戻った島村抱月、『囚はれたる文芸』を発表。自然主義の理論的指導者となるゾラの文学を智に偏した「囚はれた文芸」と名づける。「フランスの自然主義は知に囚われた文芸」であり、我々の目指すは「正しく日本的文芸の発揮といふことならんか。時は国興り、国民的自覚生ずるの秋なり」という雑然ぶり。

田中王堂が抱月を批判。主体の問題抜きに客観は語れないと批判。「自然主義を弁護し且つ鼓吹するが、自然主義を囚はれたる文芸と見るのか、放たれたる文芸と見るのか」を問う。

1906年(明治39年) 天渓が「幻滅時代の芸術」を発表。現実への判断を排し、ただ傍観的態度で無理想・無解決に客観」すること。これにより「あらゆる幻想・虚飾がはぎとられ、現実が暴露されたとき、真実其の物に基礎を定めた無飾芸術が生まれる」とする。

1906年(明治39年) 島崎藤村の『破戒』が発表される。抱月は「破壊」を自然主義文学の範とし、この作によって日本の自然主義運動を前期と後期とに分かつ。

1907年 田山花袋の『布団』が発表される。『布団』は私小説の出発点ともされる。

1908年(明治41年) 自然主義は社会の秩序を破壊する危険思想として排撃される。抱月は自然主義に観照の立場を持ち込み、傍観的態度に徹するよう提唱。このあと運動としての自然主義は衰退。

私小説を中核とする「純文学」の世界が成立。自然主義派の作者の多くが移動する。


1908年(明治41年)

4月 啄木、北海道での流浪を終え東京に出る。金田一京助に頼り糊口をしのぐ。一方芸者遊びで借金を重ねる。

6月 22日 赤旗事件が発生。大杉栄ら無政府主義の青年グループが革命歌を歌いデモ行進。警官隊との乱闘の末,幹部16人が一網打尽となる。

7月 西園寺内閣、赤旗事件の責任を問われ総辞職。代わった桂内閣は社会主義取り締まりを強化。検挙者のうち10人に重禁錮の実刑が下る。

9月 第三次平民社の開設。獄中の幹部に代わり、高知から再上京した秋水が中心となる。

1909年

5月 幸徳秋水、管野スガらの創刊した『自由思想』が発売禁止処分となる。

1910年(明治43年)

3月 第三次平民社が解散。秋水は湯河原にこもる。

5月25日 「明科事件」で宮下、新村らが逮捕される。

5月31日 検事総長、明科事件が大逆罪に該当すると判断。社会主義者・無政府主義者の逮捕・検挙が始まる。

6月1日 秋水、管野らが湯河原で逮捕される。

6月 啄木、評論「所謂今度の事」を執筆(未発表) この頃から堅気になった啄木は、仕事柄事件を比較的知りうる立場にいた。

8月9日 魚住折蘆、朝日新聞に「自己主張の思想としての自然主義」を寄稿。

8月下旬 啄木、「時代閉塞の現状」を執筆。朝日新聞に掲載予定であったが、未発表に終わる。

8月 朝鮮併合。「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」を書く(未収録)

9月 朝日新聞に「朝日歌壇」が作られ、その選者となる。

11月 米英仏で大逆事件裁判に抗議する運動が起こる。

12月10日 大審院第1回公判(非公開)

12月 啄木、歌集「一握の砂」を発表。

堺利彦、売文社を設立。「冬の時代」の中で社会主義者たちの生活を守り、運動を持続するために経営する代筆屋兼出版社。

1911年(明治44年)

1月18日 大逆事件の判決。死刑24名、有期刑2名。

1月24日 幸徳秋水ら11名が処刑。

1月 啄木、友人で大逆事件の弁護士だった平出修から詳細な経緯を聞く。

2月 秋水救援活動を続けた徳富蘆花、一高内で「謀叛論」を講演。

幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。
 我等は生きねばならぬ。生きる為に謀叛しなければならぬ。

3月 木下杢太郎、森鴎外や永井荷風も作品で風刺する。

1912年(明治45年)

4月13日 石川啄木が病死。

「時代閉塞の現状」を理解するためには、この文章で批評の対象となっている「自己主張の思想としての自然主義」という文章を読まないとならないということがわかった。

このふたつを対にして理解して、なおかつ当時の時代背景を知ることが必要のようだ。

幸いなことに、こちらの文章も忍者ツールズというサイトで読むことができるので、まずはこちらから始めることとする。

魚住折蘆「自己主張の思想としての自然主義」(明治43年8月9日 朝日新聞)

見出しがないので私が勝手につける。

1.「自然主義」は自己主張ではないか

「自然主義」はある種の決定論的傾向を持つ。本来、自己主張とは対極にある。

しかし最近いわれる「自然主義」はむしろ一種の自己主張ともとれなくはない。

2.近代思潮は反抗精神を持っている

すべからく近代思潮は反抗精神を持っている。それは自己拡充の精神の消極的表現と捉えられる。

3.近代思潮における自然主義

自然主義はそもそもは科学的決定論であるが、それが近代思潮の中に位置づけられた時には、2つの方向で表現される。

ある時は自暴的な意気地のない泣き言や愚痴になる。ある時はそういうだらしない自己を居丈高に主張することもある。

(どうもこの辺の論理構築はよく分からない。証明すべきことを前提に議論を組み立てている傾向がある)

4.現実的精神と反抗の精神

超現実的な中世に対して立ち向かったのは「現実的な精神」であった。

現実的な精神は、ふつうは“立ち向かう”などというバカな真似はしないのだが、そのときに限って「反抗的精神」と共同した。

ルネッサンスの精神と宗教改革の勢力は、共同の敵たる教会という権威に挑戦した。相容れざる2つの運動が一時的に連合したのである。

(着想は面白いが、やや雑駁の感を免れ得ない)

5.近代社会における現実的精神と反抗精神

現実的な世界が実現して、予想を超えて進歩してきた。2つの精神も発展し、それにしたがって互いに相容れざる矛盾を生ずるようになっている。

にも関わらず、今日においても、両者は離れることを好まないのである。

6.奇妙な結合体としての自然主義

自然主義は現実的で科学的である。その故に「平凡」を旨とし、運命論的な思想である。

が、それは、意志の力をもつて自己を拡充せんとする自意識の盛んな思想と結合して居る。此の奇なる結合が自然主義と名付けられている。

7.現実的精神と反抗精神が連合する今日的理由

両者が今もなお連合するのは、教会に代わる新たな権威(レヴァイアサン)に対抗するためである。

自己拡充の念に燃えて居る青年に取つて最大なる重荷は、これらの権威である。

(どうもこの人の本意がさっぱり読めない。検閲を前提に自己韜晦しているのかもしれない。石川啄木がこれに対する反論を書いているということは、当時の知識人はこれを読んで論旨がストンと落ちたということであろう)

8.日本における「権威」のありよう

日本人にはも一つ「家族」と云ふ権威がある。それは国家の歴史の権威と結合しており、個人の独立と発展とを妨害して居る。

キリスト教は本来個人主義だが、抑圧に抗するために唯物論たる社会主義と結合したりするのもこのためだ。

9.芸術と個人主義

芸術は其内生活の忌憚なき発現であるから、国家の元気がどうの、東洋の運命がどうのと云つて今更始まらない。

自然主義の自然といふ事は有りふれた平凡なと云ふ意味で、っそれはヒロイズムの対極にある。

淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社会は結構な社会でないに違ひない。 

 けれども此の小説によって自己拡充の結果を発表し、或は反撥的にオーソリティに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母しとする処である。


要するに何を言いたいかさっぱりわからぬ雑文である。最後のところだけ読むと、「自然主義、大いに結構。若いんだからせいぜいおやんなさい」ということのようだ。

「初期マルクスにおける労働価値論の拒否について」 大澤 健

という面白そうな文献があったので読んでみた。

初期マルクスの労働価値論の形成過程を考察する上で最も大きなトピックスは,当初マルクスがこの理論を拒否していた点にある。

のだそうだ。具体的には、「経済学・哲学手稿」と「ミル評注」で、ここでは労働価値論は拒否されている(あるいは受容されていない)

労働価値論の明確な受容が確認されるのは1847 年の著作である『哲学の貧困』段階である。

すみません。知りませんでした。

大沢さんはいくつかの例証を上げているが、ここでは省略。

ここまでは「周知の事実」らしいが、ここから大沢さんの議論が始まる。

労働価値論の受容を「未精通→精通」として解釈することにはいくつかの問題点が存在している。

というのが大沢さんの言い分。大沢さんは以下の三点を「問題点」として指摘する。

1) マルクスはすでにこの時点で「国民経済学」を評価している

マルクスは国民経済学が「富の主体的本質」としての労働を発見したことを「開明的」であると高く評価している。

にも関わらず、古典派の労働価値論を採用しなかった理由は「未精通→精通」解釈では明確にはならない。

2)受容に至る時期と他の思想変容との相互連関が説明できない

フォイエルバッハの賞賛から批判へ、疎外概念の辺縁化、唯物史観の確立という3つの思想的激変と関連付けることができない。

3)マルクスの労働価値論の独自性が説明できない

「未精通→精通」論では、マルクスが古典派理論をどのように「批判的摂取」したのかが明らかにならず、マルクス労働価値論の独自の意義が明確にならない。

初めて知ったのに偉そうなことは言えないが(といいつつ、言ってしまうのだが)、感じは分かる。

アダム・スミス的な言い方であれは文句無しに受容できるのだが、リカードが変にいじって労働価値を相対的なものにしてしまうことに違和感を感じたのだろう。

この辺については、前の記事で書いたとおりだ。たしかに私も違和感を感じる。

この違和感を、積極的な方向でふくらませていく中でドイツ・イデオロギーが生まれたと解釈することもできる。

そこから生まれた確信は「労働こそすべての価値の源である」という歴史貫通的な原理である。

この確信は、実はリカードには意外とないのだ。だからリカードは価値論をめぐって結構揺れる。例外が出てくるとそれを原理にもとづいて処理するのではなく原理を変えてしまう。

あまり語るとボロが出るので、原文に戻る。

労働価値論の拒否から受容への転回は,古典派への精通の結果として生じた単純な受容なのではなく,マルクス自身の社会把握の方法の発展によって生じていると考えるのが本稿の基本的な立場である。

というのが結論。

ついでもう一つの問題が提示される。疎外論の辺縁化と労働価値論受容の関係である。これが鏡の両面なのか、並行して行われた別作業なのか。両者に因果関係はあるのか、という話題である。

これについては別記事とするほうが良さそうだ。

1662年 ウィリアム・ペティ、『租税貢納論』を発表。「すべての物は、二つの自然的単位名称、すなわち土地および労働によって価値づけられなければならない」とする。労働価値説の走りとされる。

アダム・スミス、『国富論』を発表。

①「労働こそは、すべての物にたいして支払われた最初の代価、本来の購買代金であった」(本源的購買貨幣)とし、労働価値を逆説的に説明。

さらに

②商品の価値は「その商品でかれが購買または支配できる他人の労働の量に等しい」と置き換える。これは支配労働価値説と呼ばれる。

「その商品」というのは貨幣と考えると分かりやすい。

リカードは①の定義を洗練させた。「商品の価値はそれを生産するために投下した労働量で決まる」ということである。

これは投下労働価値説を呼ばれる。

ただスミスが「労働はすべてのものの価値の尺度になる」と言っているのとは微妙な違いがある。

一方でリカードは支配労働価値については否定した。同じお金でどのくらいの労働を買えるかは可変だというのである。

これは変な話で、投下労働価値の逆を言っただけなのだから、イコールにならないのなら、その理由を探すのが筋であろう。(流通過程の生産過程からの相対的独立性、とくに市場が高度に発達した下での独自性であろうと思う)

多分、原理的には労働価値説はこれでよいと思う。ただ価値や価格が変動していく場合は、この等式は成立しなくなる。市場を介して需要と相対するようになると、話はすんなりとは行かなくなる。

スミスは「資本の蓄積と土地の占有にさきだつ初期未開の社会状態」でのみ、この等式は成立すると言っている。

私はこの原則はそのままに生かすべきだろうと思う。リカードが変にいじってこの原則を相対的なものにしてしまったのではないか。

まず言いたいことを定性的に言う。その本質をしっかりと定立する。しかるのちにそれを定量的に解析する。これが論理の手順としては必要だ。1エレのリンネル云々はその後だと思う。

さまざまな変動は、この原理がさまざまな条件によって修飾されただけの話であり、それはそれとして分析すればいいだけの話であろう。

ついでに言えば「限界効用」もそうなので、まず人間の欲求の一般的特性を提示し、それが需要として市場に登場する過程を定性的に描き出すことが必要なのに、いきなり各論に入るからわけがわからなくなる。

労働における労働時間のような物差しがないから、どうしても議論は恣意的な「限界」に対する相対的なものにならざるをえない。

理工系の人がよくやる概念なしのモデル先行手法だ。(悔しいがそれでうまくいくことも多々ある)

ネットを検索していて面白い文章にあたった。

中国領海法制定過程についての再検証 

副題が-「尖閣諸島」明記をめぐる内部対立-

という論文で、著者は西倉一喜さんという人。当時、共同通信の北京特派員として現地で取材し報道した人である。

「龍法 '15」となっているので、おそらく2015年に龍谷大学の学術誌に発表したものであろう。

長い文章なので出だし部分だけ紹介する。小見出しは私のつけたもの。

はじめに

この論文は1992年2月に中国で成立した「中華人民共和国領海および接続水域法」の成立過程を再検証したものである。

事実関係の骨格

中国の外務省と軍部の間で尖閤諸島(釣魚島)の明記をめぐって対立があった。

国務院(日本の内閣に相当)の外務省の草案には尖閤諸島は明記されていなかった。これに対し軍部は島名の明記を要求した。

最終的に軍部の主張が通り、外務省作成の草案が修正された。

また領海法は、領海を侵犯する者に対し、実力行使に訴えても排除する権限を軍当局に与えた。

以上の経過を把握した筆者は記事として発表したが、これが現在も唯一の情報となっている。

取材の経緯

1992年はどういう年だったか

1992年2月25日、全人代常務委員会は領海法を全会一致で採択した。1992年はどういう年だったか。

①天安門事件を契機とする対中制裁包囲網の突破の試み、

②鄧小平の南巡講話による改革・開放路線の再加速への撒、

③冷戦崩壊にともなう共産主義イデオロギーの効果消失とナショナリズムの台頭、

④中ソ(ロ)和解による中国の軍事政策の内陸から海洋への重点移動、

(と、筆者は書いているが、一般的には、これらは未だ兆しに過ぎなかったと考えるべきであろう。時代には文革と天安門後の挫折感、沈滞感が色濃く漂っていた。この中で、上の4つの方向を目指して模索し呻吟していた年だったと私は考える)

黄順興・全人代常務委員の情報

西倉さんは領海法の背景を知るために全人代常務委員の黄順興と接触した。黄は台湾で統一派として活躍した後大陸に移り、台湾を代表する全人代常務委員に選ばれた人物である。

西倉さんは黄から内部文書を提供された。

これは「領海法(草案)に関する中央関係部門と地方の意見」と題されたもので、全人代常務委員会弁公室秘書局が作成したとされる。

作成の日付は92年2月18日となっており、機密扱いに指定されている。

西倉記事の見出し

この文書と黄の説明を元に、西倉さんは記事を作成し、2月27日付で発信した。見出しは下記の通り。

主見出し

尖閣諸島は中国固有の領土、中国政府が領海法に明記、

脇見出し

侵犯には武力行使も辞さず、日本との紛争発生の恐れも

サイド記事見出し

対日政策の運営困難、尖閣で軍と外務省が対立

解説記事見出し

保守、改革派の対立表面化

開放路線への反発か、中国領海法

というものであった。ほとんど見出しだけで言い尽くしている感もある。
これだけ見ても、いかに西島さんと共同通信本社がこの記事を重要視したかが分かる。

内部議論の動向

以下内部文書の細部の検討に入る。

草案2条(台湾の付属諸島)をめぐる議論

草案第2条は台湾の付属諸島を列記した箇所。草案では釣魚島が抜けていた。東沙群島、西沙群島、南沙群島は草案段階でしっかり入っている。

この草案に軍事委員会法制局が噛み付いた。これに総参謀部弁公庁、海軍司令部が同調した。各地方の一部代表も加わった。

法制局は「この問題で少しでも暖昧なところがあってはならない。立法化を通じて問題を明らかにすれば、今後の日本側との談判の中で、われわれは主導権を握ることができる」と主張した。

外務省は、「釣魚島は台湾の付属諸島とみなされる」としつつ、領海法には明記せず、「その他の方法」で釣魚島に対する主権を主張すべきだとした。

その理由として、「われわれは一面で領土主権を防衛するとともに、もう一面で外交上の摩擦をできるだけ減らさなければならない」と主張。

とりあえず日本との矛盾衝突を避け、有利な国際環境の確保に努めるよう提起した。

孤立した外務省

こういう論争で、外務省が勝てるわけがない。外務省はこう言うべきだったのだろう。「尖閣=釣魚島の帰属については日本とのあいだで係争中であり、互いに言い分がある。中国固有の領土と明文化するのは、両国関係から見ても好ましくない」

外務省は孤立し、軍部の要求に全面的に屈した。

以下略


この文章から分かること

1.政務院・外務省と軍は対立の構図にある

2.軍の志向は開放路線にタガを嵌めることにある

3.軍は排外主義のラインで動いている

4.本気でケンカすれば軍の方が強い

ということだ。

ただ、むしろ重要なのはこの「対立」が生まれたのが、91年から92年の初めにかけてだったということであろう。

中国は国のあり方をめぐって重大な分岐点にあった。それは天安門事件により先鋭化し指導部の中にすら亀裂が走った。

それが鄧小平のプラグマティックな路線でいわば糊塗されるのだが、深部の亀裂はそのままに残された。

軍は治安出動により「国を守った」という自負があるのだろうが、それで「中国革命は守られたのか、社会主義は守られたのか?」という深い問いがある。

天安門事件後の経過の中で、軍はますます強権への信仰と排外主義への傾斜を深め、それを社会主義と強弁することにより自らの存在価値を主張してきた。

つまり領土・領海の議論は、軍の“歪んだナショナリズム”の露頭なのである。軍にとってそれは天安門の評価に遡って、原理的に譲れない一線となっている。

党指導部は、軍の規律強化という形で整頓を図っているようだが、それは“歪んだナショナリズム”を一層強化する方向で働く可能性もある。

向こうが「原則」で来るなら、こちらも原則で対抗しなくてはならない。大事なことは、中国共産党が「万国の労働者・被抑圧民族は団結せよ」というプロレタリア国際主義の旗を一層高く掲げ、目指すべき社会主義の実を示すことではないだろうか。(もちろん天安門の評価そのものはいずれ避けて通れないだろうが)


G 貨幣による人間の支配

第21→25パラでは、「活動の相互補完関係」の国民経済的現れが考察される。

交換の発展に応じて、労働は「営利労働」に転化する。

営利労働は人間の社会性が喪失することを意味する。それは私的所有下における社会的力の増大に比例して進行する。

私的所有下においては、生産物の相互補完が交換取引として現象する。これに応じて、活動それ自体の相互補完は、労働の分割(分業)として現れる。すなわち人間の労働の統一性が分割として反対物として現象する。

それは正に「社会的本質存在」がその反対物としてしか定在していないからである。

生産物はますます等価物という意味を持ち、等価物は等価物としての自己の実存を 貨幣という形で獲得し、遂に貨幣が交換の仲介者となる。最後に、この交換の仲介者としての貨幣において、疎外された事物の人間に対する完全な支配が出現する

読 解: このあたり、マルクスは概念が固まっていないために言葉が踊りもがいている。言葉は難しいが、それ自体は別に難しい話ではない。要するに生産物の相 互補完が私的所有の出現にともなって交換取引という行為に形態を変える。交換取引は分業をもたらす。ところで分業というのは活動の相互補完(平ったく言え ば任務分担)ではなく、労働の取引(計り売り)であり労働の商品化である。

H 資本の研究に向けてのスケッチ

第27パラ第一評注の最後のパラフレーズである。ここでは範疇展開に関するスケッチが示されている。

労働の自己自身からの分裂=労働者の資本家からの分裂=労働と資本との分裂。これは同じ現象の3つの側面である。

資本の本源的形態は、土地所有と動産とに分割される。

私的所有の本源的規定は独占である。それ故、私的所有は独占の政治的憲法である。

独占(私的所有)は競争でもある。それは様々な個人の間での、亦同一の 個人の中での生産と消費の分裂、活動と享受との分裂である。それは労働の対象並びに享受としての「労働それ自体」からの、「労働」の分裂を意味している。

これらの分裂(賃金と利潤の分裂)は、自己疎外をして自己疎外の姿態で現象させると共に、相互的疎外の姿態で現象させる。

読解: 下から2番目の段落がやや難しい。「労働それ自体」からの、「労 働」の分裂というのは労働過程論を念頭に置けば分かりやすい。「生きた労働」というのは二重構造である。ひとつは目的意識である。あるものを別のあるもの に作りけることによって、そこから果実が得られる。そのための目的を持つのが「生きた労働」である。もう一つは労働の三要素と言って、労働には労働対象と 労働手段が必要でこれに「労働そのもの」を付け加えることで成り立っている。

だから目的を剥奪され、対象も手段も失った「労働そのもの」は丸裸ののっぺらぼうの労働なのである。

I 大石高久さんによる第一評注の総括

ミルの『経済学綱要』は、生産-分配-交換-消費の篇別構成になっている。生産論で考察されているのは事実上生産一般である。そして分配論で賃金、利潤、地代が論じられる。

従って、その分配論は生産論から内的、必然的に展開されたものではない。

これに対してマルクスは、生産の必然的帰結として分配を展開・説明しなければならないと考えた。

マルクスは「分配は私的所有の力である」と考えた。そのため、「疎外された労働」(労働の対象並びに享受としての労働それ自体からの、労働の分裂)によって「生産と消費の分裂」が生まれること、そこから「分配」問題が生じることを説明しようとした。

つまり、マルクスはミルの生産-分配の篇別構成に対して、資本の生産過程-資本制的分配(=交換)過程という編別構成を考えついたといえる。


F 私的所有が交換を生む

①生産物の相互補完行為 「交換」の本質

私的所有(という行為)は、それは人間の(疎外された)類的活動のひとつである。

現実の運動(交換)は私的所有者の私的所有者に対する関係から出発する。

現代社会は私的所有を、所有者の人格のあり方と看做し、この私的所有者間の関係を、「真に人間的な相互補完関係」と看做している。しかし「私的所有」そのものが、既に人間の外化された類的活動である。

交換は、私的所有の外化であると同時に、人間の外化でもある。交換によって、そのものは私の所有物ではなくなる。従って私の人格の定在ではなくなる。(この場合の外化は部分的な剥奪という意味だろう)

私的所有者がこの外化を自発的に行うのは、「必要、欲求から」である。そして人間が社会的存在であり、生産物を相互に補完する関係にあるからである。

読解: ヘーゲル特有の難解語が散りばめられている。類的活動というのは人類固有の活動ということで、「ものを私のものとする」のが人間の特有の行動であるということだ。

しかしこの「私的に所有する」ということは、結果としては他者を排除することになる。それは共同的存在である人間性の否定という面を持つ。

現実の交換は物々交換から始まるが、それは私的所有があるから成立する。「わたしのものではない」ものを他人に譲渡はできないからだ。つまり交換は人間が「疎外」されることにより発生する。

とマルクスは言いたかったのだが、それは本来の交換ではない。もともと交換は「必要、欲求から」行われていたわけで、それは人間が社会的動物である以上当然である。

後の段落でマルクスは、「私的所有下においては、生産物の相互補完が交換取引として現象する」と言い直している。

おそらくマルクスはあとからそのことに気づいて書き加えたのだが、結果として何を言いたいのかわからなくなっている。ボタンを掛け違えないよう注意が必要だ。

ただ、その上で、「現実の交換は私的所有があるから成立する」という“気づき”はきわめて示唆的である。おそらくそこには意識の転倒があるのだろう。そしてその意識の転倒こそが今の社会を成り立たせているのであろう。

これらのことから次のような哲学的な意味が引き出される。

1.ある事物を欲求するということは、その事物が私の本質に関係していることである。それを私が所有することは、それが私の本質に固有な属性である

2.交換は私的所有の相互的外化である。だから私的所有者間の関係は、外化の相互規定性に基づいている。

3.交換は外化された私的所有であり、他の私的所有一般と対置される。交換によって私的所有は「同等物」、「等価物」となる。こうして、「私的所有」は価値に、直接的には交換価値になっていく。

読解: 1と2は大したことは言っていない。3も、言ってみただけみたい なところがあるが、こういうことだ。交換することで、ものは第三の特性を獲得する。ものは第一に使用価値であり、第二に所有物であるが、もう一つの特性が 加えられる。それが価値(とりあえずは交換価値)である。

ただマルクスは私的所有に引き寄せて語りたいのでこういう表現になるが、話としてこういうことだろう。ものは直接には使用価値として質的規定を与えられるが、交換過程を通して、量的規定を付加されるということだ。だとすれば、それはミルにとってもイロハの問題だろう。


E 共同的存在と、その疎外された形態

第9パラで、マルクスはいったん経済学を離れて原点(人間の哲学)に立ち帰る。そして今の世を人間的本質が疎外された社会だとしたうえで、そこからの克服を「みずからの経済学」の基本任務と定める。

マルクスは言う。

人間の本質は共同的存在である。そのあり方は社会的である。

生産の過程での人間活動も、その生産物の相互交換も類的(共同的)活動である。その現実的なあり方は社会的活動であり、社会的享受である。

②人類の前史(今もなお前史)にあっては、人間が自己を人間として認識しておらず、従って世界を人間的に組織していない。

その間は、共同的存在は、疎外の形態で現れる。何故なら、人間が今もなお自己疎外された存在であるからである。

人間が自己を疎外し、疎外された人間が社会を形成することは、真の人間的生活のカリカチュアである。

読解: ①は正しい。②は突き放して言えば「信仰告白」にすぎない。唯物論的に言えば人間の世界に前史もへったくれもない。すべて本史である。便宜的に前史ということはあるが、それは我々が歴史として認識するだけの材料を持ち合わせていないからだ。

とりあえずは「共同的存在は、疎外の形態で現れる」という言葉について、「原始共同体」(正確に言えばその理念)との対比において受け入れた上で話を進めよう。


C マルクスの考える「貨幣の本質」 その1

マルクスは第2-25パラでミルの「貨幣の本質」規定を批判し、自らの貨幣論を展開するのだが、第2~5パラがその要約に当たる。そして第6パラ以降で詳論に移る。

ここではその「要約」の要約。

貨幣の本質: まず、人間が生産物を相互に補完し合う活動がある。やがてそれらの活動は疎外される。
②こうした状態の下では、人間は「自己を喪失した人間」として活動しているに過きない。そこでは人間は、人間の外に存在する貨幣の属性になっている。
③人間の奴隷状態は頂点に達し、貨幣が現世の神となる。

読解: まずマルクスはミルから離れて、市民社会論と疎外論から入る。これらは「ヘーゲル法哲学批判」で展開した到達点であろう。そして人間が市民社会の中で疎外されていくに際しての回転軸として「貨幣」を当てる。率直に言ってこれはドグマであるが、作業仮説でもある。

D 「貨幣の本質」 その2 私的所有の貨幣態への発展

第6-8パラでは私的所有の貨幣態への、更に信用制度への発展が展開される。

①人間は社会的な存在として交換に入る。私的所有の場合には、交換は価値(の交換)にまで進まざるを得ない。

②したがって価値とは私的所有同士の関係が抽象化されたものである。そしてその関係が現実的な実存となったものが貨幣である。

③貨幣は素材的内容に無関心である。それは使用価値の捨象である。その故に抽象的な価値である。

④貨幣は「市民社会の生産や運動に潜む貨幣魂」が「感性的」に現れたものである。

読解: 人間は交換する生き物である。それが社会的存在ということである。私的所有の場合(今の時代と読んでおく)、人間関係は「価値の交換」(お金の交換と読んでおく)に進む。

その際、お金は交換に向き合う人々の関係の象徴となる。象徴としてのお金はモノのあれこれの有用性とは関係なくなる。そして市民社会の魂となる。

これから先、マルクスはおそらくヘーゲル法哲学批判の論理を重ねあわせることで、国民経済学への批判を一気に展開していく。

マルクスの主張をまとめると:

近代の国民経済学による重金主義批判は不徹底である。所詮は「同じ穴のムジナ」に過ぎない。

金銀財宝を信仰する迷信からは逃れたが、商品の現実の価値はそれの交換価値であり、それは結局貨幣の価値だとする点では進歩していない。

むしろ、近代の国民経済学は完成化された重金主義にすぎない。なぜなら貨幣がより抽象的であるほど、それはより完成した貨幣だからである。

紙製の貨幣および代理物(手形、為替、債券等)は、貨幣としてのより完全な定在であり、貨幣制度の発展をうながす必然的な契機である。

読解: これも字面を読む限りではマルクスのいちゃもんにすぎない。「同じ穴のムジナ」とか「完成化された重金主義」というのは誹謗に近い。

紙幣や代理物を「貨幣制度の発展をうながす必然的な契機」と評価するなら、前言と矛盾することは明らかだ。なぜならそれは重金主義の否定の上に成り立つからだ。

ただ先にも述べたように、マルクスには「うまく言えない思い」がある。国民経済学は原論部分では「剰余価値」を認めている。人間の労働こそが価値を生み出すのだ。それが貨幣としての「金の延べ棒」の価値だ。

にも関わらず、いったん貨幣論に入ると、それはあっさりと「生産費」にくくられてしまう。この矛盾をマルクスは問いたいのだと思う。

もっと価値論(人間的労働)の立場で生産物を評価して、生産物の交換という社会関係の全体を把握して、その関係の「あくまでも表象にすぎない」貨幣を概念化すべきだ、と言いたいのではないか。



B ミルの貨幣法則把握は抽象的だ

ミルの規定: 貨幣量の増減が自由に行われていれば、貨幣量はその金属価値によって規定される。そして貨幣の金属価値は生産費によって規定される。

読解: 貨幣量の増減が自由に行なわれるということは、貨幣、すなわち金の生産が無尽蔵に可能だということだ。実際にはそんなことはありえないが、そう仮定するということだ。

貨幣の素材としての金はそれ自体価値を持っている。金相場で1トロイオンスあたりいくらという値段が付いている。

この価格はいかにして決まるか。もちろん需要と供給の関係で価格は上下するのだが、基本的には生産費によって決まる。競争があるのだからバカ高ければ売れないので、適正利潤の範囲に収まる。

ということで、金資源の相対的有限性の無視を除けば、きわめて当然のことを言っているのだが、マルクスはこれに噛みつく。

マルクスの批判: ミルは抽象的な法則を述べるだけだ。この法則の変動には触れない。生産費は究極において価値を規定するというのは、決して不変の法則ではない。生産費は一要素に過ぎない。
その法則が如何にして私的所有の本質から生じるかを確証しなければ、本質的な把握とはいえない。

読解: これは筋違いの議論でほとんど言いがかりだ。ただこれは自己への問いかけなのであろうと思う。マルクスは身悶えしている。

ミルが生産費というのは剰余価値を含んでいるわけで、金山に眠る金鉱石と商品として完成し市場にかけられたた金の延べ棒の間には明らかに価値の差がある。これはいわゆる生産コストを遥かに上回る。そこに付け加えられたのは、ざっくりまとめて言えば人間の労働である。

ただそれは資本家にとってはすべて合計した「生産費」なので、その限りにおいては別に間違っているわけではない。マルクスの言わんとするのはその次の段階、いわゆる「生産費」とは何かということであろう。

なお、大石さんは
この部分から、マルクスがリカードウ労働価値説を拒否したと考えるのは間違いである。ただ、競争や市場価格をも考慮に入れなければならないと言っているにすぎない。
と言っているが、どうであろうか。



 『ミル第一評註』のお勉強

原著では歯が立ちそうもないので、大石高久さんの紹介文で勉強する。正直、この文章もしっかり難しい。

前に紹介したジェームス・ミル(親父の方)の本「経済学綱要」をマルクスが読んだ時のノートの一部である。

以前勉強した知識によると、ジェームス・ミルは、1823年に書いたこの本で、リカードの経済学の解説を試みている。ただジェームス・ミルはたんなるリカード解説にとどまらず、ジェームス・ミル=リカード学派としての教科書を書きたかったらしく、結構自分の考えを織り込んでいるのだそうだ。

この本は最初の経済学教科書として各国で売れたらしい。多少はジェームス・ミルの懐を潤したかもしれない。

そのフランス語訳を入手したマルクスが、1942年ころから読み始めたらしい。

基本的には学習ノートだから、原著からの抜き書きが多いのだが、感想を集中的に書き留めた箇所があり、「第一評注」及び「第二評注」と呼ばれている。

この内の「第一評注」のところだけかじってみる。

A 「第一評註」の主内容

ジェームズ・ミルの経済学綱要は、生産-分配-交換-消費という章別構成になっている。

このうち、「第三章 交換について」で、 ミルは貨幣と金属価値の相殺関係 を論じている。この箇所に付せられたものが「第一評註」である。

「第一評註」は次の三つの部分から成っている。

第1パラグラフ: ミルにおける法則把握の抽象性を批判している。

第2-25パラ: ミルによる「貨幣の本質」規定を批判している。

第27パラ: 範疇展開に関するスケッチを試みている。(なお第26パラは全文、MEGA編集者による補充)

さて行くぞ!


リャプノフを聴きこんでみた。
とても良い。
以前にもリャプノフについて書いたことがある。あの時はやや突き放した書き方になってしまったが、聴きこんでみるとなみなみならぬ力量に改めて驚く。
作品1の3つの小品(練習曲、間奏曲、ワルツ)がすべて良い。メロディーにあふれていて、音が透き通っている。鮮やかなデビューである。作品3の「昨夜の夢想」もメンデルスゾーンの無言歌のようで、エレガントこの上ない。
作品6の7つの前奏曲のアンダンティーノ・モッソとレントは限りなく美しい。作品8の夜想曲は間違いなくショパンに比肩される。
作品9に始まる8曲のマズルカは、ショパンのレベルを超えて大規模で内容豊かなものとなっている。
そしてリャプノフの代表作である作品11の12曲の超絶技巧練習曲である。全12曲のどれもが聴き応えのあるものであるが、私としては3,5,6,7,9,10をとる。トランンセンダントであるか否かは分からないが、リストの超絶技巧練習曲とはまったく異なり技巧のひけらかしはなく、あくまでトランスペアレント(透明)である。
作品23の即興的ワルツになると多少モッタリ感が出てくるが、相変わらず美しい。作品25のタランテラも最後まで疾走感が途切れない。作品27のピアノソナタは超絶技巧練習曲とならぶリャプノフの代表作である。
ところが作品29の即興的ワルツでは何か曲想が走らず疲れが見える。作品31のマズルカ第7番もどことなく緩みが見える。これが08年の作品だ。
作品36の最後のマズルカ(第8番)では歩みは少々途切れがちになるが、まだ十分に美しい。
これが1910年の作品40の前奏曲集になると、曲の展開力は失われ、つぶやき風の内省的な音楽に変わっていく。主旋律は借り物風のテーマになり、ドビュッシーもどきの短い細切れ風のものとなる。あの光彩陸離たるリャプノフの姿は消え、貸衣装姿のリャプノフが浮かび上がる。
作品41の降誕祭も作品45のスケルツォも少しも面白くない。作品46の舟歌はリャプノフの代表作の一つとされるが、華やかさにはかける。作品49の「ロシアの主題による変奏曲とフーガ」、作品57-2のプランタンの歌はさすがにリャプノフと思わせるが、それにしても一体どうしたんだ。同じ変奏曲でも1915年の作品60のグルジアの主題による変奏曲は無惨ですらある。
この後のリャプノフには良く言えば渋みみたいなものが出てくる。多分もっと聴きこめばそれなりの味わいは出てくるのだろうが、とりあえずは作品36まででよい。我々の聞きたいのはショパン風リャプノフであって、ブラームス風味ではない。
それにしても、ロシアの作曲家が揃いもそろってみんな途中からちょん切れてしまうのはなぜか。これまではそれぞれの作曲家の特性と思ってきたが、これだけ揃うと、それだけではなく時代背景があったのかとも考えてしまう。
はっきりと断言はできないが、1910年を挟む数年間にそれらは集中しているようにも思える。第一次世界大戦が14年からで、ロシア革命が1917年だから、それよりちょっと前だ。
ちょっと思いつくのはフランスにおける印象派音楽の隆盛、ウィーンにおける無調派音楽の登場の影響である。
こういう風潮が風靡すると、曲の善し悪しよりも新しいかどうかが評価の基準になりがちだ。頑迷牢固とか因循姑息とか旧態依然とか言われると、結構みんな参ってしまうのかもしれない。
音楽かというのは芸術家だから世事に疎いかと思いがちだが、人気稼業でもあるから世間の評判は気になるものである。とくにクラシック音楽の場合は「評論家」という存在がランク付けして、それが人気にも収入にも直結する「いやな世界」だから、これで葬り去られてしまうことがしばしば起きた可能性もある。
だって、リャプノフという稀代の作曲家が、いまはすっかり埋もれてしまっているんだから…
ということは、20世紀初頭に活躍していまはすっかり無名になっている作曲家の中には、発掘するに足るタレントがまだまだいるということだ。少なくともその可能性はある。

ベネズエラの政治危機

これまでのかんたんな経過

2002年のクーデターとその失敗、2003年の資本家スト、2005年のリコール投票と相次ぐ資本家の攻撃に耐え、民主主義を達成したチャベス政権は、その後の原油高を背景に中南米変革の旗頭となった。

南米諸国連合(ウナスール)は、各国での度重なるクーデター策動を封じ込め、アメリカを孤立させてきた。

しかしベネズエラ国内では反チャベス派の勢いがおさまらず、政権内の腐敗も発生したことから政権基盤は徐々に脆弱化し、ついに議会では野党が優位を占めるに至った。

チャベスが前立腺癌で死んだ後、副大統領のマドゥーロが後継者となりチャベス路線を継承してきたが、原油安不況の状況は政治環境を激変させた。

これを機にネオリベ派は一気に政府転覆を狙い、一方では生産サボや物資隠匿などの経済闘争、他方では大統領リコール投票の実施要求により政権を追い詰めようとしている。

国外ではアメリカがベネズエラを米州機構から追いだそうと画策し、事務総長はその先頭に立って反政府派と手を結んでいる。

危機の経済的背景

ベネズエラの経済が楽なわけはない。原油はベネズエラの輸出額の96%だ。原油価格が半分になれば、歳入は半分になる。格付けが下がれば為替価格は低下し購買力はさらに落ち込む。

基礎生活物資のほとんどを輸入に頼るこの国では、それはそのまま物価の上昇に繋がる。生産原料の輸入が止まれば生産は減退する。

これに異常な降雨不足が拍車をかけた。水力発電が止まり、厳しい停電を余儀なくされた。

世論調査でマドゥロ政権への支持率は20%、不支持率は67%となっている。不況の中での国民の怒りをマドゥロが一身に背負っている感がある。

マドゥロ政権は必死に活路を見出そうとしているが、通貨ボリーバルが三通りもある為替相場のもとで、ベネズエラ経済は国際的信頼を失っており、長期の維持は不可能となっている。

ただ、ひとつコメントしておきたいのは、悪名高きガソリン補助金の廃止に着手したのは、マドゥロ政権が最初だということである。

厳しい実力闘争

米国の支持を受けた反政府勢力は、ふたたび大統領リコール運動をはじめた。そして大企業による生産サボタージュを強化した。生活必需物資の9割は民間企業が支配しており、物流阻止、物資隠匿などが横行している。

政府は軍を出動し、主要5港を管理下に置いた。倉庫からは大量の食料品や薬品が発見され、供給に回された。

政府はさらに生産を停止させている工場を接収し、産業活動を止めている企業経営者の逮捕を命令した。しかし状況の好転は見られない。

アメリカではベネスエラ中央銀行の支払い用口座(シティバンク)が閉鎖された。「ベネスエラ経済の危機によるリスク増大」としている。

反政府デモは暴力性を強めつつある。指導者カブリーレスは軍に対し「憲法と政府のどちらの味方をするのか」と問いかけた。これはクーデターの呼びかけとも取れる。

米州機構は人権を口実にした攻撃を強め、12月までにリコール投票を実施なければ「米州民主憲章」に基づいて加盟資格を停止すると脅している。

アルマグロ事務総長は「(リコール投票は)12月以前に実施されるべきだ。実施されないと、ベネスエラ人民が意志表示する可能性が出てくる」と発言している。

かつてチャベスの下でラテンアメリカの変革を主導したベネズエラは、今や満身創痍の状態となっている。だが、依然として耐えている。

  

アルゼンチン マクリ政権のやったこと

これまでのかんたんな経過

2002年、アルゼンチンは奈落の底に沈んだ。国家として破産してしまったのだ。人々は食べるものさえなくなり、ネズミまで食べたという。

この時登場したのがキルチネルだ。彼は国際債務の支払を拒否し、最終的には7割の債務軽減に成功した。

それ以来、アルゼンチンは国債を発行せず、自らの努力とメルコスール諸国(とくにブラジル)との関係強化の中で経済を再建してきた。

おりからの資源・農産物価格の上昇の中でアルゼンチンは息を吹き返し、好調な経済を維持してきた。

キルチネルが2期大統領を務めた後、妻のフェルナンデスが引き続き大統領を務めた。キルチネル時代は13年にわたり続いた。

アルゼンチンはこの時の経過から強烈な反米意識を持ち続けてきたが、そのことはアメリカの金融支配層には不愉快なことだった。

ハイエナファンドが紙くずとなった債券をかき集め、額面通りの返済を迫った。これを米連邦裁が支持し、軍の練習船を接収しようとしたり、代理店銀行の口座を閉鎖させるなどの攻撃を行ってきた。

アルゼンチンはこれを中国との関係強化で乗り切ってきたが、経済が回復すればするほど外貨不足が重くのしかかってきた。

リーマン・ショック後の農産物不況と中国経済の減速により、この矛盾が一気に表面化した。

15年12月、不況下で正義党政権は支持を失い、保守派のマクリが勝利した。

マクリのやったこと

マクリというのは一言で言えばアルゼンチンのベルルスコーニ。ボカ・ジュニアーズのオーナーという大金持ちだ。

マクリの行ったことは不正義としか言いようが無い。

マクリは就任早々、為替相場を自由化した。結果は約4割のペソ切り下げとなった。これに伴い電気代を5倍、ガスを3倍化した。

マクリもひどいが閣僚もひどい。エネルギー相(シェルの元重役)は「もしこのレベルの価格で消費者が高いと思うのならば、消費するのをやめたらどうか」と言い放った。文化相は軍事独裁時代に3万人の人が行方不明になったという事実を否定した。

新政府は真っ先にハイエナファンドへの債務返還を約束した。そのために02年入りの国際を発行するという。これに応じて米国企業は計23億ドルの投資を決めた。あの悪夢への道を再開することになる。

最初の数ヶ月で、解雇が16万人にのぼった。政府も公務員3万人の解雇でこの動きを助長した。労働者たちは、警官たちと公証人によって、職場に入ることを阻止された。書類を読み上げることによって、かれらは解雇されたことを知らされた。

毎日のようにレストランが閉店に追い込まれ、大学、劇場、そのほかの場所は麻痺状態となり、無数の零細企業が廃業となっている。

マクリへの反感が広がっている

世論調査では65%の人がこの半年で貧しくなったと感じており、新政権への支持は減少している。

前政権派が多数を占める議会は、これを抑えるために解雇条件を厳しくする緊急法を採択した。しかしこれは大統領の拒否権発動で不発に終わった。

半年を経た現在、新政権の評判は芳しくない。マクリ大統領一族の名がパナマ文書に登場したのである。当時彼はフェルナンデス・キルチネル前大統領の汚職を見つけ出そうと懸命のキャンペーンを張っていたが、釣り上げたのは自分の体だったというお粗末だ。

たしかに中南米の革新政府とそれを支えた勢力は苦境に陥っている。人々はそこからの脱出を求めて、目新しさを訴えるネオリベ派に投票した。

しかしその先に待ち構えているものがなんなのか。アルゼンチンの姿はそれを鮮やかに示している。

ラテンアメリカ人民の闘い ハイライト編

前の記事 2016年07月21日

は、とりあえず記事をざっとめくったが、少しトピックスを絞って深読み。

ブラジル

これまでのザットしたあらすじ

ブラジルが60年代から70年代にかけて軍部独裁下にあったことは、ご承知と思う。

軍事独裁からの民主化を勝ち取る中で労働組合が先進的な役割を果たした。労働者は民主化の後に労働党という政党を結成した。

それが資本家の政党との長い間の角逐を続けた後に、2003年に大統領選挙に勝利した。これがルーラ政権であった。

これは民主勢力にとって大きな前進ではあったが、完全な勝利とは程遠いものだった。アメリカは資本回収の脅しをかけてルーラにIMF路線の踏襲を押し付けた。

当初ルーラ政権にとってできることは限られていた。アメリカの縛りだけではなく、議会においても少数与党としてさまざまな妨害を受けた。

ただその後の世界的な好況の中で、財政にも一定の余裕が生まれ、それを貧困層に振り向けることによって国内需要が生まれ、景気の好循環を実現した。

経済面では南米諸国間との交易を重視し、メルコスールという経済共同体を形成した。その中でブラジルは分別ある兄貴分として振る舞い、南米共同体構想の実現に向けて大きな役割を果たした。

国際的にも「ブラジルの奇跡」は大きな反響を呼び、その中でワールドカップやオリンピックの招聘に成功するなど華々しいパフォーマンスを実現した。

しかし国内においてはその後も少数与党の壁を破ることはできず、資本家政党との連合を余儀なくされてきた。

それらの溜まっていたツケがリーマン・ショックと中国経済の沈滞により、一気に吹き出した。

昨年のGDPはマイナス3.5%に達した。生産、労働、福祉の各方面で矛盾が噴出した。メディアはそれをルセウの失政として攻撃し、大規模な資本家ストを展開した。

しかし民主勢力が「軍事独裁に戻すな、民主主義を守れ」と立ち上がった。ルセウは辛くも大統領選に勝利し二期目の大統領に就任した。

ここまでが今年初めまでの状況である。


ペトロブラスをめぐるスキャンダル

従来ブラジルは石油の取れない輸入国であった。しかし相次いで海底油田が発掘され、現在はほぼ自給状態となっている。

石油事業を一手に引き受けるペトロブラスは国営会社であるが、現在は政府の意向と独立した独自の戦略のもとに運営されている。

急成長を遂げた会社だけに原油安の影響は甚大で、経済の低迷と相まって巨額の赤字を出すに至っている。

贈収賄の生まれるための条件が全て揃っていると言っても良いだろう。

このスキャンダルは単発ではない。与党の絡んだものもあるし、各州政府のたかりもある。

これはこれで解決しなければならない問題だが、それがルセウのところに向かうのは筋違いである。


ルセウの職務停止まで

野党と資本家たちはこれをルセウ弾劾と政府転覆に結びつけようと一気に力を発揮した。

それが3月のサンパウロでの数百万のデモである。有産者を中心に組織されたデモは、タイの軍事クーデター前のデモやベネズエラの野党デモと共通する。

これで政界に脅しをかけた。これで労働党と連立を組むブラジル民主労働党(PMDB)がビビってしまった。そして党がまるごと反大統領に寝返って弾劾裁判の開始に賛成してしまったのである。

5月にはルセウ大統領の職務が停止された。国会における採決はわずか1票差であった。そして副大統領のテメルが職務を代行することとなった。テメルはPMDBの議員であり、裏切りの中心にいた人物である。


ルセウは戦い続ける

ルセウ弾劾の容疑は「予算支出について粉飾があった」と言うものである。ルセウも労働党もこれを認めていない。

上院の調査委員会は「粉飾決算」にルセフが関与した証拠はない、との結論に達した。

本来、大統領弾劾審議は、大統領が直接関与した例外的に重大な過失がある場合に限って認められており、粉飾決算などを弾劾審議開始の理由にするのは違憲である。

「彼女は現在までのところ、一般犯罪との関連で、一つの責任も問われてはいない」(エクアドルのコレア大統領)のである。

ルセウは職務停止を「議会におるクーデター」と呼んでいる。連立与党であったPMDBが財界側に寝返り、ルセウを追い落としたとされる。最近わかったのは、ペトロブラス汚職に絡んだPMDB幹部が自らの訴追を避けるために芝居を打ったということだ。

議会採決の直前、PMDB党首がペトロブラス重役と会い、「捜査を止める唯一の方法は、大統領をルセフからテメルに替えることだ。国軍高官らもルセウ打倒を了解している」と発言。このテープが新聞にすっぱ抜かれている。

首謀者のクーニャ下院議長は、その後汚職によりその座を追われた。共謀者とされるテメル副大統領にも収賄疑惑が浮上している。

ルセウの与党は少数与党であるから、国会が支持しなければ政局運営がにっちもさっちも行かなくなる。

しかしルセウは国会議員に選ばれたのではない。全国民の投票で選出され国民の信託を受けたのであるから、三権分立の建前からすれば職務停止は越権行為である。

「新政権」は選挙の洗礼を受けないまま、社会保障の削減と労働者の権利剥奪に動き始めている。労働組合は全国行動などにより反撃を強めている。ブラジル共産党のフェガリは、「このゲームを変える民衆の能力をみくびっている」と語る。

 

ラテンアメリカ人民の闘い

ラテンアメリカの政治経済

現代ラテンアメリカ情勢 (伊高浩昭さん)

というサイトがあって、新しい情報を提供してくれている。
すこし、今回は日本語でお勉強。

はじめに

エクアドルのコレア大統領は経済不況の原因について、①原油の持続的な価格低迷、②中国経済の減速にともなうマーケットの縮小、③国際制裁に伴うロシア市場の縮小、④一次産品の国際価格低下による輸出額の減少、⑤国際的な投資額の減少に伴う外資導入の縮小を、ラテンアメリカ経済共通の困難として挙げている。

これに各国の特殊性に応じた特殊な困難が加わることになるので、実際上は7重苦、八重苦となる。

この中で、アルゼンチン、ブラジルの両大国が相次いで親米派の手に移り、UNASURは事実上解体状況となっている。これに勢いを得た親米勢力はベネズエラつぶしにすべての力を集中しつつある。

しかしことはさほど簡単なものではない。ブラジルのルセウ大統領を陥れた親米派の策略が暴露されつつある。ルセウの復権もありうる。一方で政権をとった親米政権が何をやるのかということもアルゼンチンで示されつつある。

ラテンアメリカは、まるで一つの国であるかのように情報が素早く広がる。親米派の情報管理の壁が崩れたとき、人民の大きな反撃はありうる。そのことを確信したい。

ボリビア

かつてボリビアは中南米最貧国の一つだった。豊かな地下資源があるが、それは一握りの富裕層に独占され、欧米の多国籍企業の支配のもとにあった。

ボリビアの国民は「宝の山の上の乞食」と呼ばれていた。

それが2006年にエボ・モラレスが政権について風向きが変わってきた。

彼は反米親キューバを唱え、民族衣装で国際会議に臨むなど派手な政治パフォーマンスで話題を呼んだが、それだけではなく10年にわたる内政でも着実に成果を上げている。

それが6月に発表された経済白書である。その内容を少し紹介する。

極貧率の減少: 10年前、この国の極貧率は38%であった。現在では半分以下の17%に減少している。ボリビアにおける極貧率の減少はラテンアメリカのなかでもっとも大きい。

極貧率減少をもたらしたもの: エボ・モラレス政権は天然ガス資源を国有化した。これにより国庫が潤うようになった。

政府は財源を救貧対策に集中した。具体的には

①子供(通学児童)、老人、女性(妊娠・出産後)への社会交付金を増額した。

額は子供で年29ドル、老人で平均300ドル、女性で260ドルだから大したものではない。

②最低賃金の段階的引き上げ。10年間にわたり平均5~10%の引き上げ。累積で2倍化したことになる(単純計算の場合)。

以上のような社会的前進にもかかわらず、モラレス政権は政治的には重大な後退を余儀なくされている。2月の国民投票で再選を可能にする憲法改正を図ったが、48%の賛成しか得られず、野党勢力に敗れたのだ。

モラレスは、この間のラテンアメリカの政治的後退を、経済的理由ではなくエディアとの闘いの不十分さに求めている。

これには理由がある。投票直前にモラレスの愛人問題、とりわけ二人の間に子供が一人いたという情報が流されたのだ。現在ではこれがデマだったことが確認されている。

 

コロンビア

6月23日、ハバナで政府とFARCの和平協定が調印された。その後タイムテールの詰めが進み、9月25日に国民投票が施行される運びとなった。今度こそ恒久的な平和の始まりとなることを祈るばかりである。

そもそもこんなに長引いたのは、元FARC活動家の身の安全を政府が保証できなかったからだ。80年代なかばFARCは和平に合意し、武器を捨て山から出てきた。そして政党を結成し選挙に臨んだのだが、その間に数千の活動家がテロの犠牲となった。

彼らはふたたび山に閉じこもった。それは深いトラウマになっている。だから和平が成功するかどうかの勝負はこれからというところがある。

根本にはコロンビアが農業国であり、オリガルキー(寡占層)が支配する構造が改められていはいないことにある。そしてオリガルキーの手先としてのコロンビア軍の残虐性が反省されていないことにある。

ガルシア・マルケスの小説にもあるように、この国は100年以上も血を血で洗うような戦争が続いてきた。第二次産業が安定的に発展するような経済・社会の変革が不可欠であろう。

 

アルゼンチン

15年12月、不況下でアルゼンチン前政権は支持を失い、保守派のマクリが勝利した。

マクリの行ったことはひどいとしか言いようが無い。

マクリは就任早々、電気代を5倍、ガスを3倍化した。おりからのドル高の中で食料品も値上げされた。

これについてエネルギー相(シェルの元重役)は「もしこのレベルの価格で消費者が高いと思うのならば、消費するのをやめたらどうか」と言い放った。

最初の数ヶ月で、解雇が16万人にのぼった。政府も公務員3万人の解雇でこの動きを助長した。労働者たちは、警官たちと公証人によって、職場に入ることを阻止された。書類を読み上げることによって、かれらは解雇されたことを知らされた。

毎日のようにレストランが閉店に追い込まれ、大学、劇場、そのほかの場所は麻痺状態となり、無数の零細企業が廃業となった。

半年を経た現在、新政権の評判は芳しくない。マクリ大統領一族の名がパナマ文書に登場したのである。当時彼はフェルナンデス・キルチネル前大統領の汚職を見つけ出そうと懸命のキャンペーンを張っていたが、釣り上げたのは自分の体だったというお粗末だ。

ただしキルチネルの不正蓄財額は半端ではない。900万ドルの隠匿金のほか、未申告の600万ドルも摘発されている。

世論調査では65%の人がこの半年で貧しくなったと感じており、新政権への支持は減少している。

前政権派が多数を占める議会は、これを抑えるために解雇条件を厳しくする緊急法を採択した。しかしこれは大統領の拒否権発動で不発に終わった。

さらに文化相は軍事独裁時代に3万人の人が行方不明になったという事実を否定した。

 

ブラジル

5月、予算支出について「粉飾」があったとして、ルセウ大統領の職務が停止された。国会における採決はわずか1票差であった。副大統領のテメルが職務を代行するが、ルセウも労働党もこれを認めていない。

上院の調査委員会は「粉飾決算」にルセフが関与した証拠はない、との結論に達した。

本来、大統領弾劾審議は、大統領が直接関与した例外的に重大な過失がある場合に限って認められており、粉飾決算などを弾劾審議開始の理由にするのは違憲である。

「彼女は現在までのところ、一般犯罪との関連で、一つの責任も問われてはいない」(エクアドルのコレア大統領)のである。

ルセウは職務停止を「議会におるクーデター」と呼んでいる。連立与党であったPMDBが財界側に寝返り、ルセウを追い落としたとされる。最近わかったのは、ペトロブラス汚職に絡んだPMDB幹部が自らの訴追を避けるために芝居を打ったということだ。

議会採決の直前、PMDB党首がペトロブラス重役と会い、「捜査を止める唯一の方法は、大統領をルセフからテメルに替えることだ。国軍高官らもルセウ打倒を了解している」と発言。このテープが新聞にすっぱ抜かれている。

首謀者のクーニャ下院議長は、その後汚職によりその座を追われた。共謀者とされるテメル副大統領にも収賄疑惑が浮上している。

少数与党のために国会が支持しなければ政局運営がにっちもさっちも行かなくなるのは当然だが、ルセウは国会議員に選ばれたのではない。全国民の投票で選出され国民の信託を受けたのであるから、三権分立の建前からすれば職務停止は越権行為である。

「新政権」は選挙の洗礼を受けないまま、社会保障の削減と労働者の権利剥奪に動き始めている。労働組合は全国行動などにより反撃を強めている。ブラジル共産党のフェガリは、「このゲームを変える民衆の能力をみくびっている」と語る。

 

ペルー

6月の大統領選挙でクチンスキーがケイコ・フジモリを僅差で破り勝利した。左翼「拡大戦線」(FP)が選挙最終盤でクチンスキー支持に回ったためだ。

前回の選挙もそうだったが、ケイコ・フジモリの主張はつまるところフジモリ政治をもういちど評価せよというものだ。現に国会の過半数(73/130)はフジモリ派が握っている。国民はフジモリを評価しているじゃないかということだ。

フジモリが弾圧を指示し、その結果多くの人が虐殺されたというのが罪状になっている。しからば、そこは問わないで「その代わりに娘が出てきたら、どうなんだ」と問うている。フジモリ政策の本体の評価だ。

リベラル系の論調にはそれが見いだせない。「独裁時代に戻る」というだけだ。

我々はかつて、それに対する答えとしてジャンタ・ウマラに期待した。しかし彼の行った政策はネオリベそのものだった。そしてクチンスキーは金融資本のテクノクラートであるから、さらに右に向かうであろう。

キューバ

米国との国交は回復したものの、50年間に蓄積されたキューバいじめのさまざまな法体系は、自由化の歩みを遅らせている。オバマは再三キューバ封鎖の解除を議会に要請しているが議会にはこれに応える動きはない。

それどころか、米連邦下院の共和党は経済封鎖強化策を予算に押し込んだ。そこには交流の制限、輸入の制限、送金・融資の制限が盛り込まれている。

経済成長はベネズエラ政情不安を受けて鈍化しており、観光産業の隆盛にもかかわらずGDPの伸びは1~2%に留まると予想されている。

キューバでは引き続き企業活動の自由化が進められている。理髪店からレストランに至るまで開業が相次いでいる。外交関係を再開して以来、ワシントンは私企業の発展を優先させており、今後も注意深い観察が必要である。

最後に6月のカリブ首脳会議でのラウル・カストロの開会演説を引用しておく。

ラテンアメリカにおける帝国主義と寡頭勢力による反転攻勢に無関心であってはならない。

米州諸国機構(OAS)は過去も未来も帝国主義の道具だ。キューバはOASに復帰する意志は毛頭ない。

 

ベネズエラ

ベネズエラの経済が楽なわけはない。原油はベネズエラの輸出額の96%だ。原油価格が半分になれば、歳入は半分になる。格付けが下がれば為替価格は低下し購買力はさらに落ち込む。

基礎生活物資のほとんどを輸入に頼るこの国では、それはそのまま物価の上昇に繋がる。生産原料の輸入が止まれば生産は減退する。

これに異常な降雨不足が拍車をかけた。水力発電が止まり、厳しい停電を余儀なくされた。

世論調査でマドゥロ政権への支持率は20%、不支持率は67%となっている。不況の中での国民の怒りをマドゥロが一身に背負っている感がある。

マドゥロ政権は必死に活路を見出そうとしているが、通貨ボリーバルが三通りもある為替相場のもとで、ベネズエラ経済は国際的信頼を失っており、長期の維持は不可能となっている。

ただ、ひとつコメントしておきたいのは、悪名高きガソリン補助金の廃止に着手したのは、マドゥロ政権が最初だということである。

米国の支持を受けた反政府勢力は、ふたたび大統領リコール運動をはじめた。そして大企業による生産サボタージュを強化した。生活必需物資の9割は民間企業が支配しており、物流阻止、物資隠匿などが横行している。

政府は軍を出動し、主要5港を管理下に置いた。倉庫からは大量の食料品や薬品が発見され、供給に回された。

政府はさらに生産を停止させている工場を接収し、産業活動を止めている企業経営者の逮捕を命令した。しかし状況の好転は見られない。

アメリカではベネスエラ中央銀行の支払い用口座(シティバンク)が閉鎖された。「ベネスエラ経済の危機によるリスク増大」としている。

反政府デモは暴力性を強めつつある。指導者カブリーレスは軍に対し「憲法と政府のどちらの味方をするのか」と問いかけた。これはクーデターの呼びかけとも取れる。

米州機構は人権を口実にした攻撃を強め、12月までにリコール投票を実施なければ「米州民主憲章」に基づいて加盟資格を停止すると脅している。

アルマグロ事務総長は「(リコール投票は)12月以前に実施されるべきだ。実施されないと、ベネスエラ人民が意志表示する可能性が出てくる」と発言している。

かつてチャベスの下でラテンアメリカの変革を主導したベネズエラは、今や満身創痍の状態となっている。だが、依然として耐えている。

 

ニカラグア

資源輸出国ではないことから、国際不況の影響もあまりなく着実な成長を遂げている。

3期目(85年にも一度当選)を目指すオルテガ大統領の人気は依然として高く、世論調査では44%が三選を支持。有力な対抗馬もいない。

別の世論調査では、与党サンディニスタへの支持率は89%にのぼっている。

ただ、ニカラグア大運河構想は香港側の事情でかなり遅れる見込みとなっている。そんなものなどないほうが幸せな気もするが…

 

エルサルバドル

映画「サルバドル」でもおなじみの大量虐殺の国エルサルバドルでも、ようやく虐殺者への追及が始まろうとしている。

和平後の93年にいったん恩赦法が制定されたが、サンチェス大統領がこれに異議を唱えた。これにもとづいて最高裁で審議が行われ、この程、恩赦法を違憲と判断した。

背景には和平後も政治全体に睨みを効かせていた軍部の影響力が減退したこと、FMLN政権の安定化があげられる。

従来、法廷と検察は内戦中の事件が問題になった場合、加害者に有利な姿勢をとっていた。無処罰・免罪の見直しが期待される。

 

 

 

 

 

 

やや古いが、昨年10月の世銀報告ではラテンアメリカ経済の全体傾向が示されている。

これによれば

商品相場の上昇と対中国貿易の伸びを基礎に順調な成長を遂げていたラテンアメリカ経済は、08年のリーマン・ショック、その後の中国経済の原則、原油価格など一次産品の暴落を背景に厳しい局面を迎えている。

一次産品輸出への依存度により各国の影響は様々であるが、全般的にゼロ成長ないしマイナス成長で推移することは間違いない。そして途上国には内需拡大により景気浮揚を図るという選択肢はない。

問題は各国の左翼政権がこの経済調整局面を乗りきれるかどうかである。

左翼的であろうと右翼的だろうと、ポピュリスムが今のラテンアメリカで成り立つ基盤はない。今バラマキをすればハイパーインフレになる。それは「失われた10年」で確かめ済みだ。

あるとすれば“民主的な引き締め”か、ネオリベ的な資産移動しかない。

引き締めにあたって保護すべきものが2つある。一つは生産組織だ。大企業と資本家を保護するのは悔しいが、これが潰れては元も子もない。

もう一つは貧困にあえぐ低所得者層だ。子供、老人、女性の生きる権利は最低限保障しなければならない。そうでなければ国家というものの存在意義が失われる。

そうすれば当然中間層、とくに官公庁に働く労働者にしわ寄せが行くしかない。しかしこの人達こそが左翼運動を支え文化を築き民主主義を守り育ててきた人たちである。

まずはこの人達が退路を断たなくてはならない。そのことによって富裕層を倫理的影響下に置き、貧困者の信頼を引き寄せることができるのである。

これができなければたちまちにして弱肉強食のジャングルが出現する。このことは「失われた10年」と「絶望の10年」を経て、ラテンアメリカ人民の体得した痛切な教訓である。

ベネズエラやエクアドル、ボリビアについてはいろいろな見方があるようだが、一番見なければならないのは10数年の闘いを経て、こういう層がどれだけ分厚く積み上げられてきたかである。


中国の南沙問題、尖閣問題は軍隊まで繰り出しての衝突のためにメディアにも大々的に扱われているが、基本的にはローカルな問題である。

しかし鉄鋼のダンピング輸出は、世界経済を撹乱しかねない由々しい問題となっており、世界各国が批判を繰り返すなど国際問題に発展している。

あまりニュースに取り上げられないので、紹介しておくことにする。

勝又壽良の経済時評 が手頃で読みやすい。

1.米国国際貿易委員会(ITC)は、米国最大の鉄鋼メーカー「USスチール」の提訴を受け入れ、中国製の鉄鋼製品に対する全面的な禁輸措置を執ることができる法的根拠について正式に検討を始めた。

2.米国のルー財務長官は、中国の産業政策について批判。中国の過剰生産能力が、世界の市場を歪め悪影響をもたらしていると指摘した。そして供給過剰の目立っている鉄鋼やアルミニウムなどの生産を削減するよう強く求めた。

3.WTOは中国を「非市場経済国」に指定している。中国が過剰生産を規制しなければ、「非市場経済国」のまま据え置かれる可能性がある。

4.G7志摩サミットは中国の鉄鋼問題で、「市場を歪曲する」政府や支援機関への懸念を表明した。さらに対抗措置の可能性まで示唆した。

5.これを受けたOECDは、、対中包囲網の強化を打ち出そうとしている。

というのが現下の状況で、勝又さんは以下のコメントを添えている。

中国による鉄鋼の過剰生産は、各国にとって死活的な問題になっている。各国は、中国の野放図な経済成長の尻ぬぐいをさせられている

さらに、高い経済成長率を背景にした軍事費拡大で、中国が周辺国を威嚇している構図になっている。

しかし「なぜか?」という疑問には必ずしも答えになっていない。

スクリアビンというのはとんでもない野郎で、とてつもない量のピアノ曲を書き記している。とてもすべてを聞くことなどできない。

と言いつつ、作品48までは来た。

といっても、スカルラッティはもっとたくさん書いている。

K: Ralph Kirkpatrick (1953; sometimes Kk.) で 555曲

L: Alessandro Longo (1906) で 500+21曲

P: Giorgio Pestelli (1967) で 559曲だ。

CD だとK だったり、L だったりしてもうさっぱりわからない。ハイドンの交響曲を全部聞いたという人は時々いるが、スカルラッティを全曲聞いたという人はそうはおるまい。

スクリアビンに戻ろう。以下の表がYou Tubeで聞けるスクリアビンのピアノ曲の一覧。ソナタは抜いてある。

一見して分かるのは、作品8の「12の練習曲」が1984年、作品49の「3つの小品」が1905年。この12年間の間にほとんどの作品が収まっていることである。

そのあと、10年ほどスクリアビンは生きているが、ピアノ曲には、さほどめぼしい作品はない。

だからスクリアビンの作曲家としての生涯は、3つに分けることができる。1904年に猛然と曲を書き始めるまでの時代、猛然と書いた時代、そして書き疲れたか書き飽きた時代の3つである。

Scriabin1

scriabin2

ここまで聞いたうえでの暫定評価だが、まず前奏曲は全て跳ばしてよい。ラフマニノフは結構前奏曲を看板にして一生懸命書いているが、スクリアビンにとっての前奏曲はメモ書きみたいなものだ。

これといった旋律はなく分散和音とムードだけだ。聞くのなら全曲をBGMで流すことになる。

と書いておくと、後の仕事がだいぶやりやすくなる。

順番に行こう。

作品1のワルツと作品番号なしのワルツは同じ頃の作品だ。なぜ嬰ト短調のほうが発表されなかったのかは、聞いてみれば分かる。同じ時期にもう一曲ワルツがあるようだが、こちらはYou Tubeで聞くことはできない。

作品2の第1曲は、スクリアビンの一番有名な曲になっている。私としては韓国の女流 Hyo Jee Kang がお気に入りである。ギレリスも優しさがあって好きだ。

他の2曲は飛ばして構わない。

作品3の10のマズルカはみんな良いのだが1,3,6あたりを入れておく。スクリアビンの曲はぼんやりした曲が多いので、どうメリハリを付けるかで印象が変わってくる。

その後作品7まではめぼしい物はない。

作品8の12の練習曲については以前書いたとおりである。

これまでソコロフとマガロフで聞いてきたのだが、どうも流れが悪くて面白いとは思わなかった。クシュネローバの演奏はリズムがしっかりしていて、テクスチャーが良く見える。よく弾きこなしているのだろう。この人の演奏で初めて、良い曲だということが分かった。

作品9の2曲はいずれも佳曲である。左手のみという制限がついたために嫌でも旋律線を重視するほかなくなったのであろう。シンプル・イズ・ベストである。溢れるようなメロディーはこれを最後に影を潜める。

作品11の前奏曲集もクシュネローバの演奏が聞ける。この曲はズーコフ、プレトニョフ、レトベルクなど多くの全曲演奏がアップされているが、私にはクシュネローバが一番心地よい。

いろんなロシアの作曲家を聞いてきたが、ピアノ独奏というジャンルは厳しいものだと思う。ほとんどの作曲家が30歳ころを境にメロディーの泉が枯れる。

最初の主題はどうでもいい、民謡とかの借り物でも良い。それは神様のものである。それにどういう対旋律を噛ませれば主旋律を浮き立たせることができるか、自分の曲になるかである。

これはセットアッパーと似ている。セットアッパーは一球一球が勝負である。だからストレートとフォークボールしかない。回転のよく効いたストレートで高めをえぐり、低めに落ちるフォークでの三振を狙う。

大抵はそれができないから、そのまま終わってしまうのだが、何人かだけがその後もメロディーを生み出し続ける。

知るかぎり、それはチャイコフスキー、リャードフ、キュイの3人である。後の二人は他に仕事があったりグータラだったりして使い惜しみしたから長持ちしたのである。

これがソナタだといろいろごまかしも効くし、全然関係のないメロディーを第二主題にしてそこまでなんとか繋げば良いのだから、ある意味話は楽だ。

アレンスキーなどはそうやって選手寿命を伸ばした。

そろそろ、アルコールも回ってきて、頭は回らない。とりあえず、スクリアビンの前巻は終了。



エフィナコナゾールは何故滲み込みやすいのか

日薬理誌の145号(2015)に巽さん(科研製薬株式会社 新薬創生センター 薬理部)という人の書いた総説がある。その下の本文PDF [944K] というところにリンクすると文章が読める。

その説明に従ってチェックしていこう。

要約: これまでのトリアゾール系薬剤より強いらしい。しかしそんなことはどうでもよい。

「爪の主成分であるケラチンに対する親和性が既存治療薬よりも低いため、一つ目を良好に透過し、ケラチン存在下でも高い抗真菌活性を保持した」

ここが一番の環だ。

これは以下の形で確認されている。

①インビトロで、有効濃度の薬剤が爪下層および爪床に到達することが示された。

②第Ⅰ相臨床試験で、高い爪中濃度と爪貯留性が確認された。

③第Ⅲ相臨床試験で、17.8%の完全治癒率が得られた。日本人患者では28.8%に達した。これは対照薬と有意差があった。

1.はじめに

これまで欧米ではシクロプロクスやアモロルフィンのネイル・ラッカーが10年以上にわたり用いられてきたが、臨床効果は低く、日本では承認されてこなかった。

外用薬が効かない理由は次のように考えられている。

①白癬菌は爪甲下の爪床に存在するが、薬剤は厚い爪甲を透過できない。

②薬剤は爪の主成分であるケラチンに強く吸着する性質を持っている。このため薬剤は爪表層に滞留してしまう。

そこで科研製薬では、ケラチン親和性が低い抗白癬薬の検索を行った。その結果、エフィナコナゾールを発見した。

この薬は既存の薬と同じトリアゾール系であるが、構造的にはメチレンピペリジン基を持っていることが特徴である。

2.薬理学的特性

In vitro での高真菌活性は高く、スペクトラムも広かったと書かれているが、“そこそこ”と判断しておく。

ケラチン親和性に関する実験

一般に抗真菌薬の多くはケラチンに吸着することで活性が低下する。薬物が効果を発揮するためには遊離型の形で存在する必要がある。

①In vitro の実験でケラチンからの遊離率を測定し、他剤と比較した。既存薬が0.5~1.9% であったのに対し、エフィナコナゾールは14.3%が遊離したままであった。

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②また5回の洗浄操作による累積遊離率は、他剤が1.7~6.9%であったのに対し46%で有意差を認めた。ケラチンでなくヒト爪を用いた実験でも同様の結果を得た。

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③ケラチン添加によるMICの変化を調べたところ、他剤は低下したが、エフィナコナゾールはほとんど影響を受けなかった。

ついで欧米で使用されているラッカー剤との比較検討を行っている。

①ヒト爪を用いて累積透過量と透過速度を測定した。エフィナコナゾールはシクロピロクスと同程度で、アモロルフィンより優れていた。爪透過が定常状態に達するまでの時間はエフィナコナゾールがもっとも優れていた。

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②透過した薬剤の爪甲下(現地)での発育阻止作用を測定した。ラッカー剤では発育阻止作用は認められず、エフィナコナゾールのみが発育阻止作用を示した。

③モルモット実験でも1日1回4週間の爪塗布で生菌数を減少させた。これはラッカー剤に比べ有意であった。

このあと臨床試験の成績も提示されているが、透過性が一番の問題なので、詳細は省略する。

結論として、イトラコナゾール経口剤とほぼ同等の臨床効果を示すとされる。もしそうであれば、経口剤の出番はほぼなくなるものと予想されるが…


見出しを見てここに来た人には申し訳ないが、

結局、何故滲み込みやすいのか、なぜケラチンとの親和性が低いのか、という問題は分からなかった。

「いろいろ掘っていたら、タマタマ当たった」というだけみたいだ。

「滲みるんだからしょうがないじゃん」ということである。多分、これからその機序を巡りいろいろ検討が行われ、同じ発想で新薬が開発されていくだろう。

おそらく メチレンピペリジン基 というのが鍵を握っているのだろうが、これに関しては特許権はないだろう科研製薬はメチレンピペリジン基を発見しただけで、構造に組み込む技術を発明したわけではない。だからエフィナコナゾールの優位はつかの間に終わるかもしれない。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

旭川皮フ形成外科クリニック の水野寿子先生の記事はもっとわかりやすいです。ご参照ください。

ここまでの話では、爪白癬に効くツケ薬だということ、かなりお高い薬だということがわかった。

しかしなぜ効くのかの説明はない。

なぜ効くのかを説明するためには、

1.一般的な抗白癬薬の作用機序。

2.従来型の抗白癬薬ではなぜ経皮的使用が無効なのか、その理由。

3.クレナフィンの従来型抗白癬薬との構造的違い(特異性)

4.クレナフィンの経皮使用が有効な理由(作用機序)

を説明してもらわないとならない。

今ひとつ納得がいかないのは、いままでの抗菌剤が効かないのが、ケラチンとくっつくと失活してしまうということなのか、それとも別の理由によるものなのか、そのあたりが説明されていないことだ。


まず順を追って勉強していこう。

1.白癬菌はどのように繁殖するのか

皮膚の角質はケラチンという硬い物質で保護されている。ケラチンの本態は蛋白である。普通は固くて消化できないのだが、白癬菌はケラチナーゼという酵素を持っているために、ケラチンを消化できる。そして、それを栄養として繁殖するのである。

したがって栄養源を立って兵糧攻めにすることはできない。殺すしかないのである。

抗白癬薬と言われるものはすべて殺菌作用を持つ。それ以外の民間療法は効かないと考えるべきである。

2.一般的な抗白癬薬の作用機序

これまで、有効とされてきた抗白癬薬はすべて、白癬菌の細胞膜を壊すことで白癬菌を殺す働きを持っている。

此処から先はケラチンもケラチナーゼも関係ないので、せっかく覚えたばかりで恐縮だが、一旦忘れてほしい。

3.細胞膜はこうして作られる

細胞膜の成分は、大ざっぱに言うとリン脂質で出来ている。リン脂質というのは、大ざっぱに言うとコレステロールにコリン、リン酸、炭水化物が結合したものである。

リン脂質の種類は動物により異なっている。その違いは、リン脂質のボディーを形成するコレステロールの種類の違いによるものである。

それ以上の話は、それだけで何冊もの本になるので省略する。

白癬菌の細胞膜を構成するリン脂質は、下図のような流れで作られていく。

水虫酵素

  http://for-guests.com/neticonazole-8034/ より転載


この経路の最初はコレステロールの生成過程と共通であり、経路の途中までは人間の細胞膜を構成するコレステロールと共通である。

ラノステロールという物質から白癬菌特有のコレステロールとなり、最終的にはエルゴステロールという物資に至る。

これにコリン、リン酸、炭水化物が結合することによってリン脂質になり、白癬菌の細胞膜を構成する。

4.抗白癬薬は細胞膜合成を阻害する

この経路を何処かで切断すればエルゴステロールができなくなり、エルゴステロールがなくなれば、細胞膜ができなくなり、白癬菌は死んでしまう、という仕掛けである。

このようなまどろっこしい兵糧攻めでなく、直接細胞膜のエルゴステロールに取り付いて細胞膜を壊すというプーチン型抗菌剤もある。これは命を脅かすような真菌の殺し方で、たかが水虫にそこまでやることはない。

経路を切断するには、その経路を推進している一連の酵素のどれかを不活化させてやればよい。

安全のことを考えればできるだけ下流で切ったほうが良い。

目下狙われているターゲットは、ラノステロールを“むにゃむにゃトリエンオール”に変換する酵素で、「ラノステロールC-14脱メチル化酵素」と呼ばれる。

5.抗白癬薬はどうやって効くのか

やっと2番めの話題に移ることになった。薬がどうやって効くかはわかった。しかしアセチルCoAからエルゴステロールまでの経路が進行するのは白癬菌の細胞の中だから(小胞体)、細胞膜に接するまで薬が行かなくてはならない。

そこまで行ったら、今度は細胞膜を通過して細胞内に入らなければならない。つまり2つのバリアーがあることになる。

ところが、はっきりしないが、印象としては後者のバリアは意外とかんたんに通過できるようだ。そして菌の細胞内に入ってしまえば、菌を殺すことも意外にかんたんなようだ。だから普通の皮膚白癬は薬を塗っておけば結構良くなってしまう。

結局、爪そのものというバリアを薬剤が滲み通して菌のところまで行けるかどうかが最大の問題になる。

テロリストが入国するためには、入国審査よりその国にたどり着く飛行機や船の手配のほうが大変だということだろう。

だから「抗白癬薬はどうやって効くのか」という問題は、どうやって白癬菌のところまでたどり着けるかという問題に帰すことになる。

クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか


クレナフィンは何故滲み込みやすいのか

水虫の薬はどのようにして効くのか
爪白癬の付け薬 ほんとうに効くのか

ニキビをやったので、次は水虫、とくに爪白癬。

老健や特養では白くカサカサと盛り上がった爪白癬をよく見かける。

実際上何もしていない。もう20年も前から爪白癬の飲み薬はある。たしかに効く。しかし何か起きた場合のことを考えるときわめて使いづらいのだ。

これが高血圧、糖尿病、高脂血症などであると、多少のリスクはあってもベネフィットと秤にかければ使える。しかしたかが水虫である。それで死ぬことはない。

ずらずらとならぶ副作用のリスト、併用禁忌薬のオンパレードを見ると、それだけで萎えてしまう。我々のような施設では重篤な副作用が出れば、患者ではなく施設の方がやられてしまう。職員数百人が路頭に迷うことになる。

そこにツケグスリが出てきたという朗報。こちらも食指が動く。しかし高い。1本、およそ1ヶ月分で6千円というから老健では手が出せない。

しかし特養でなら保険が効くから使えないでもない。そこで少し調べてみることにした。

まずは白癬症治療の最近の動向。

素人向けのページから入ることにする。(私も素人みたいなもんですから)

グーグルで最初に引っかるのが 皮膚科Q&A というページ。日本皮膚科学会のサイトらしい。

最初の辺は飛ばして、

Q6 患者数。

日本では1千万人以上の爪白癬患者がいる。60歳以上の高齢者の4割がかかっている(米国の調査)

足白癬はその2倍もいるというから憲法改正はらくらくクリアーする。

Q20 塗り薬の使い方

塗り薬を毎日つければ、約2週間程度で良くなります。再発を防ぐには自覚症状があるところだけでなく、指の間から足裏全体に最低1カ月毎日塗り続けることが大切です。

治っても、またうつされることがあるので、家族全員が治す必要があります。

Q24 爪白癬の治療

爪が厚くなり、黄~白色に濁る爪白癬は飲み薬でないと治りません。

この後に()して次のように書かれている。

但し2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定です。

ウムこれだな。

飲み薬にはイトラコナゾールとラミシールがあり、前者は他の薬剤との飲み合わせの問題が多く、後者は肝機能障害などの重篤な副作用をおこす事があります。

ジェネリック薬は臨床試験で有効性と安全性が確かめられていないので、効きが悪いものがあるかもしれません。

まぁ、素人は手を出すなということだな。

Q29 予防法

浴場では、足ふきマットにはほぼ100%白癬菌がいます。家にかえってからすぐに足を洗いましょう。

あとは他人の家にむやみに上がらないことも大切で、他人の家に上った場合は、家に帰ったらすぐに、足を洗うか水虫の薬をつけること。

と、いうことで「他人の家にむやみに上がらない」は笑えてしまう。

水虫の話はとりあえずおしまい。

皮膚科学会の説明書に、「2014年には、あまりひどくない爪白癬に有効な塗り薬が発売される予定」というのがこのクスリ。「クレナフィン」という。

実際に使ってみてどうかという話に進む。

クレナフィンの用法・用量と薬価について

用法・用量は1日1回罹患爪全体に塗布となっている。端がハケのようになっており塗りやすくなっている。足の爪の生え変わりは約1年かかります。そのため48週の使用が基本となる。

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1本(1ヶ月分)で、なんと5900.7円です。

あとは、軽症の爪白癬に限定されていることも念頭に置いて置かなければならない。爪ごと剥がしてしまいたくなるような立派な爪白癬には効かないということになっている。

その後、同じような謳い文句でルリコナゾールという外用剤も発売された(2016年1月22日承認)


選挙は人を変える  参議院選挙福島選挙区

1.福島選挙区というところ

福島選挙区というのはずっと二人区であったが、3年前から一人区になった。それまでは自民・民主で議席を分けあってきたが、民主は議席を失った。

今回の選挙では民進党が議席回復を狙う形になった。それを野党共闘が後押しする形である。

民進党の候補は増子輝彦さん。2007年補欠選挙で初当選し、その後2010年の選挙でも当選し、今回は現職として「共食い選挙」を闘うことになった。

福島というのは全国にも珍しい社会党王国で、参議院選挙でもこれまで首位の座を保持してきたが、2013年には民主党の逆風の中で、自民党のマドンナ候補にダブルスコアーで敗れるという屈辱を味わった。

ここではかつて下田京子さんを押し出すなど共産党もかなりの力があり、前回参議院選では、今回比例区で当選した岩渕友さんが8万票近くを獲得している。また社会民主党も3万5千をとっている。逆に言えばこれまで民主党に入れていた人たちがそちらに流れたとも言える。

したがって、福島の民主党にとっては野党協力は至上命題でもあった。

2.増子輝彦という人

この候補は、経過から見れば共産党とともに天をいだくなど考えられなかった人だ。

47年生まれで私より一つ下。早稲田の商学部を出てそのまま参議院議員の秘書となっている。学園紛争などどこ吹く風の人だ。

福島県議会議員を経て90年の総選挙で無所属で当選し自民党に入党。その後所属政党は自民党→新党みらい→新進党→民主党とめまぐるしく変わっている。その間に何回か当選、落選を重ねている。いわゆる政界ジプシーだ。

ただ、東日本大震災と福島原発事故の後は明らかに立ち位置を変えている。参議院の震災復興特別委員長となり、翌年には民主党副代表(原発・復興特命担当)に起用された。

ただこれはたんなる選挙目当てではなく、これまでの積み重ねがある。14年の原子力協定(原発輸出の解禁)承認案には、党議に反して棄権した。これで党の副代表の地位を失った。

それに先立つ2月には、除染廃棄物の最終処分場を、安倍晋三首相の地元である山口県に設置するよう求める方針を作成した。

15年の民主党代表選挙では長妻昭の推薦人に名を連ねている。

いっぽうでマルチ業者の監査役として月20万円の報酬を得ていたというダーティーな側面も報道されている。(ウィキペディア)

3.野党共闘に至る経過

野党共闘を推進したのは「安全保障関連法の廃止を求めるふくしま県市民連合」だった。

市民連合の呼びかけで、5月6日に三党会談がもたれ、①安保関連法廃止、②集団的自衛権の行使を容認する閣議決定の取り消し、③県内全ての原発の廃炉−−などの基本政策を3党が確認し、増子候補一本化で合意した。

しかし民進党内や支持者には、共産との選挙協力についての抵抗感も強い。選対本部長の玄葉光一郎氏も自民党に所属した経歴があり、繰り返し共産党との連携を否定してきた。野党共闘が成立した今も、「福島では共産党からの推薦はありえない」と強調する。

県連の幹部(おそらく玄葉氏)は「各党が主体性を持って独自に考えることになる」と語った。(毎日新聞) 「口出し無用、票だけよこせ」ということだ。

福島方式は必ずしも先進的なものではない。増子氏は民進党のまま統一候補となった。政策協定はなく、統一的な選対本部もなく、共産党の推薦も受けない。共産、社民両党は自主応援にとどまっている。(福島民報河北新報

私の分類で言えば野党共闘の縄文時代である。

4.増子候補の変身?

ところが、その後増子候補が共産党との距離を縮めていくことになる。産経新聞の長文記事(5月28日)がその間の事情を明らかにしている。

見出しからして愉快だ。

【参院選・福島】 民進党・増子輝彦氏は元々保守系ではなかったのか? 共産党とすっかり蜜月となり「県内の原発廃炉」を訴えるが…

共産党は増子氏を支援する演説会を開いた。穀田恵二国会対策委員長が約1400人の支援者らに野党共闘の意義を訴えた。

演説会では、恒例の選挙募金を呼びかけた。共産党は政党助成金を受け取らない代わりに、個人に寄付金を募り選挙や政治活動費に充てている。久保田仁福島県委員長によれば、「いつもの2、3倍の選挙募金が集まった」そうだ。

増子氏の事務所開きには、久保田県委員長が「飛び入り」参加し、蜜月関係をアピールした。

産経新聞は

増子氏は原発政策の是非は巧みに避けつつ、野党共闘で合意した「福島県内原発の全基廃炉の実現」のみを訴える。

とし、

増子氏の姿勢は票目当てが先行し、肝心の政策を置き去りにしたままのようにも受け取れる。

と、批判する。産経新聞の焦りが手にとるようだ。

5.増子候補の発言

民の声新聞というブログにはこう記されている。

自民党も、福島を最重点区として位置づけていた。

安倍晋三首相や菅義偉官房長官、小泉進次郎党農林部会長など〝大物〟が続々と応援に駆け付け、公共事業一辺倒の「復興」をアピールした。

「常磐道は約束通り、全面開通した。今度は4車線化に取り組む」、「風評被害を吹っ飛ばす。中通りでつくられたお米を毎日、首相官邸で食べている」…。郡山駅前で、安倍首相はこうアピールした。

白河市内で開かれた集会には、西郷村や矢吹町、天栄村など西白河郡一帯の首長が一堂に会し、道路の拡幅など「復興」を語った。同じような光景は県内の各地で見られた。私には、原発被害など関係なしで、人の不幸でもうけようというたかり集団に見える。

こういう「権力」の利権攻勢を前に、増子候補の腹も決まっていったのではないかと思う。なにせ「配慮」していた相手が、金につられてぞろぞろと行ってしまったのだ。

問題は「野党連合」がどうのこうのではなく、まずもって権力の横暴と対決するしかないという原点なのだ。福島事故を党利党略で悪用する、それに擦り寄る不届きな県民がいる、こんなことを許していいのかという怒りだ。

6月22日の第一声は、原発に対するこれまでの態度に対する異例の「お詫び」から始まった。4党合意をはるかに超えて、原発そのものの批判にまで踏み込んだ。

増子候補はこういう。「基地問題がある沖縄と原発事故災害があった福島は、安倍総理にとって大変なある意味でのアキレス腱ではないか」

また日本の政治の真の争点は、改憲による緊急事態条項の導入であるとし、改憲派による参院議席3分の2を許すなと叫んだ。

もちろんそれなりの計算もあるだろうが、玄葉氏ら民主党県連首脳の度肝を抜いたことであろう。

30日には、福島の中心部で、「市民と野党の合同街宣」が行われた。民進党、社民党、共産党が壇上に並んだ。自民党が連日大物をつぎ込み、「野党は野合」と口汚い攻撃をする中での集会である。

7月1日、最終盤での決起集会での演説は IWJ Independent Web Journal で御覧ください(2/2 の51:30より本人演説が始まる)

帳票日直前になると、あの玄葉氏さえ、「平和などの実現に向け、県民の良識を示す選挙だ」と演説するようになった。

6.とりあえずの感想

野党共闘が偉大だと思うのは、しぶしぶそれに乗った人々をもふくめ、人の心を変える可能性があることだ.

もちろん増子氏の今の心境を内視鏡で覗くことはできないが、発言の内容がぐんぐんと変わっていくのが分かる。

それは、権力がそうさせているという面が強い。権力は金と脅し、アメとムチで市町村にローラーをかけていく。しかもその目的は福島の救済ではなく、「復興」という土建政治の押し付けだ。

かつては自らもその一翼を担ったにせよ、やはり許せない。このやり方には未来がない。

そもそも野党連合そのものが、市民の素朴な怒りの結晶だ。だから怒れば怒るほど、野党連合の趣旨そのものと一致していく。そして最後に勝ったのは、野党連合でも共産党でもなく、なによりも民進党自身に湧きでたその力なのだろうと思う。騎馬戦で勝つには、馬役の3人の力も必要だが、最後に必要なのは、上に乗った武者の戦闘力だ。

それが今回の選挙の結果なのではないか。

今後はこういう面からも野党連合の役割を見つめていく必要があるだろう。


赤旗に、大阪維新の幹部(足立政調会長代行)の発言が載っていた。

ネット番組「アベマプライム」で政党討論の中で飛び出したもの。

市民との共同というが、市民団体じゃない。野党4党が市民と言っているのは3分の1だ。“市民の力を集めて”とか言っているが、全部嘘っぱちだ。

これは、テレビ討論の中で出てきた発言だから、あまり突っついても仕方ないのだが、まず大阪維新の知性の程度が問題だ。

一体、市民というのは何なのか。政治的な扱いとしては、市民とは政党に組織された人以外の全てである。

「無党派」を掲げた運動は、隠しているのでないかぎり、あるいは営利を目的としているのでないかぎり、全て市民運動だ。違うか?

あんた方も、いまは政党・政治団体として組織されているが、もとは市民運動だった。違うか?

これは常識の問題だ。

「3分の1」だったら市民じゃないのか。少数の市民は市民としては認めないのか?

次に「市民団体」の定義だが、無党派の市民といえども、ロビンソン・クルーソーではないのだから必要に応じて、あるいは思想・信条によってさまざまな団体に入る。

それが政党によって組織されたものでなければ市民団体だ。NPOやNGOと同じで、あくまでも外形によって定義されるものだ。それが政治団体として登録すれば政治団体になる。

その目的が原発反対であろうと、戦争反対であろうと関係ない。

もし目的によって、「これは市民ではない。これは市民団体ではない」と定義していけばどうなるか。政党がその定義をしていくなら、市民はそういう団体に入った途端に市民ではなくなってしまう。

違うか?

07/13-18:55 の時事通信の記事には流石に驚いた。

連合は自主投票=民進と対応分かれる【都知事選】

民進党最大の支援団体である連合は、13日の執行委員会で、東京都知事選で特定候補を支援せず、自主投票で臨む方針を正式決定した。

連合東京の岡田啓会長は記者会見で、「1人を選ぶのは困難と判断した」と説明した。 

民進党本部は鳥越氏への推薦を要請したが、岡田会長は要請に応じなかった。

前回選挙でも、民主党が細川護熙元首相を実質支援したのに対し、連合東京は舛添要一氏を支持している。

今回も自公両党が推す増田寛也元総務相が「政策的に近い」として、民進党に「相乗り」を促した。しかし、同党執行部は他の野党と共に鳥越氏を擁立。連合側は民進党と真っ向から対立するのを避けた。

「連合」はここまで崩れているのだ。もはや組合費を反組合活動に使う「泥棒連合」だ。

安東直樹さんのツイッターに下記のような書き込みがあった。

先の東京都知事選で、「脱原発候補は支持できない」として舛添候補への支持を表明した「連合東京」の大野会長(東電労組出身)が退任したとのニュース。

「連合東京」の後任の新会長は「東電労組出身」ではないらしい。

「反共」で凝り固まっていた「連合東京」が今後、変わっていくのか、それとも変わらないのか、今後「連合東京」の展開に注目したいニュースだ。

「連合東京」の新会長は「UAゼンセン」の岡田啓氏とのこと。岡田氏は「京王百貨店労組」の出身。「百貨店」出身の会長は初めてのことのようだ。どんな人物かは未知数。

「連合東京」新会長の岡田啓氏が、どのような手腕を発揮するかまったくわからないが、少なくとも今回の「連合東京」の会長人事で、「民主党東京都連」の現 会長松原仁、現幹事長長島昭久。そして「連合東京」会長が大野博という最悪の「反共トライアングル」の一角が崩れたことは確かなことだ。

ということなので、“まだまし”会長のようだ。下には下があるものだ。

大阪人のアホぶりは異常だ

大阪における改憲派の4議席独占という結果にはさすがに衝撃を受ける。我々の若いころは自民党が4議席独占というと九州の南部や西部くらいだった。これに対して京都は革新を代表し、大阪は多様性を代表した。

いまや大阪は日本における政治反動の最大の拠点となった。かつて大阪は日本経済の原点であったし、文化的にも、東京に対してもう一つの日本像を提示する発信地であった。その大阪と大阪府民の政治精神がここまで劣化したことに背筋の寒くなる思いがする。

大阪の文化は「面白い」ということに最大の価値を置くことによって形作られてきた。「面白い」ということは直感的であり、人間的であり、したがって反権力的であり革新的であった。多少泥臭くても虚飾のない率直さが共感を呼んだ。それが大阪文化の真骨頂であった。

それを支えたのは大阪人の旺盛な食欲であり、好奇心であり、進取の気性であった。与謝野晶子も小松左京もそうやって人々の支持を得た。

それがどんどん地盤沈下し、東京に絡め取られて支店経済化していく中で「面白さ」の有り様は歪められ、薄っぺらなものとなり、から騒ぎの刹那的な「面白さ」に取って代わられるようになった。黒田革新府政の後は西川きよしが国会議員に、横山ノックが府知事に連続当選する。多分「面白い」からであり、府民が「面白い」と思ったからであろう。

そして最後にたどり着いたのがルンペン的なヤクザなギスギスした「面白さ」である。それが維新であり、橋下であり、関西テレビの「そこまで行って委員会」である。朝鮮人をいじめることを面白く感じ、世間の良識に反抗して日の丸を掲げて右翼のふりをすることを面白いと感じ、橋本流の無茶苦茶の論理で府政を引き回すことを「面白い」と感じるようになっていくのである。

トランプにはトランプを支える愚民がいるように、橋下には橋下を支える愚民がいるのだ。

彼らの「面白さ」はきわめてブラックである。強いものには逆らわず、生活保護者や宿なし生活者、老人や女性などの弱いものをいじめることで得られる快感である。そのことで一時、彼らは自らが強者であるかのような幻想を抱くことができ、それが快感につながっているのである。

この「面白さ」は明らかに異常な精神的土壌に根ざす快感である。物事をまじめに正面視することができなくなり、万事が「お笑いネタ」となり、正邪の判断ができなくなっているがゆえの快感である。そして悲惨なことに、そうすることで彼らは自分自身が「お笑いネタ」となっていることに気づけなくなっている。彼らの「ハシズム」は大阪の県境を越えた向こうでは通用しない。「六甲おろし」はトラキチの微笑ましい乱痴気騒ぎ以上のものではないのである。

タイガースとバファローズが両リーグの最下位をひた走るのもそのせいではないか、と思う。 もののあわれを感じる今日このごろである。

毎度のことだが、選挙の評価は一般紙を読んでも分からない(いまだに「商業紙」と書いてしまうスターリン主義が抜けない)。
ということで、火曜日の赤旗を見てから考えることにしている。
一般紙は書かないが、今回の最大のサプライズは、東北地方における野党共闘の圧勝だ。秋田を除いて総なめだ。東北に加えて新潟、長野、山梨…。これらのほとんどは、野党共闘なしには絶対に勝てなかった選挙だ。
もう一つの特徴は、…にも関わらず西日本では不振に終わったことだが、これは参院選挙そのものへの無関心の反映であり、メディアの参院選への無関心の反映という側面もある。
全体としてみれば、流石に勝利とまで強弁はできないが、日本の変革に向けて貴重な反転攻勢の経験だったと言って良いのではないかと思う。

結果として、改憲派の3分の2確保は阻止できなかったわけだが、ある意味で予想されたことではあったので、さほどの驚きはない。
日本の政治の流れで言えば、これが最初の「野党共闘選挙」であり、それが貴重な勝利を獲得したということがキモなのである。
その恩恵は現象的には民進党に回ったが、正確には、それは民進党の「野党共闘」派に回ったと見るべきだろう。
しかし最大の恩恵をうけたのは自覚的市民である。福島原発、機密保護法、そして戦争法反対闘争を通じて運動に参加してきた市民は、「野党共闘は間違っていない。やれば勝てる」という手応えを感じたであろう。同時にそれは、市民グループがひと回りふた回り大きくなり野党共闘を支えなければ、ただの員数合わせに終わるという厳しい結果も突きつけている。
当面の政治課題は東京都知事選であるが、この三つの力、民進党内の「野党共闘」派の前進と、進歩的人士の実践的な能動性、それを支える共産党の本気度がどう相乗効果を発揮するかが、今後の見ものである。
進軍を告げるドラムロールは今もなお鳴り響いている。だから小林節さんよ、ジタバタするな。3割打てれば強打者だ。それがフォア・ザ・チームに徹すれば一気にビッグ・イニングだ。それが政治戦というものだ。
(民主党都連というのは前時代的組合ゴロの支配する腐りきった組織だ。この連中を乗り越えて野党共闘が進むことを期待する。  をご参照ください)

7月7日の赤旗に注目すべき記事が掲載された。

見出しはこうなっている。

反共・反野党の攻撃に答える
甲府・横浜 不破前議長の街頭演説(要旨)

藤野発言で逆ねじを食らって、自衛隊をどうするのかの議論が避けて通れなくなった時点で、発表されたものだ。

この記事のリードはこうなっている。

不破哲三前議長は、甲府市(5日)と横浜市(6日)での街頭演説で、安倍晋三首相と自民党の反共・反野党の攻撃に痛烈な批判を加えました。その要旨を紹介します。

こんなことは普通はしない。二つの演説の報道記事そのものでは、こんなことは喋っていない。これは間違いなく不破さん自身が筆を入れて整理した文章だろう。「前議長」という肩書もあまり聞いたことがない。

最大の論点は自衛隊問題だ。基本的にはこれまでの見解を踏襲したものだが、いくつかの注目する論点がある。

1.自衛隊と憲法9条との矛盾の問題は、もっとも大きな問題の一つである。

なぜならアメリカとの軍事同盟という9条に背く道に踏み出して半世紀が経ってしまったからだ。

このほかにも、長く自民党政治が続いてきた結果、憲法に合わない現実が多くある。

将来、革新的政府ができた際は、こうした現実をただすことが、大きな課題となる。

2.問題は一気に解決はできない

一つにはそれが軍事同盟という国家機構のあり方そのものに関わっているからだ。

もう一つはアジアの情勢が軍事的対決の危険もはらむ中で、対応しなければならないからだ。

したがって、まずは積極的な平和外交を進め、平和で安定した国際環境を自らつくり出していくことが必要だ。

その上で、日本自身が憲法9条を真剣に守る立場を明らかにすることが基本であり、これらの点については国民が一致しうる方向だろう。

3.自衛隊の段階的縮小から廃止へ

以下は、不破さんの言葉をそのまま書き写したものである。

そのなかで、国民の合意のもとに、自衛隊を段階的に縮小して憲法の完全実施に向かってゆく。

率直に言えば、「国民の合意のもとに」はいらない。当たり前だ。

「段階的」もいらない。一度にできるわけはない。「憲法の完全実施に向かう」というのはどういうことか。文脈で見れば、「自衛隊をなくす」ということになる。

これは現実の国民の中での「自衛隊=役立ち」評価の姿勢とは、やはり平仄が合わない。「役立ち」を評価するなら、その方向での自衛隊再構築という流れにならないと論理が詰まる。

そこで「自衛隊をなくす」と言わないで、「憲法の完全実施に向かう」と含みをもたせているのが、不破さんの発言の最大のポイントであろう。


4.個別自衛権の問題が避けて通れない

ここから先は、不破さんとはまったく関係のない私の個人的な思いつきである。大した根拠もないから、あまり気にしないでください。

A.個別自衛権と正当防衛権との関係

自衛隊というのはたしかに戦力であり、いざとなれば闘い、殺しあうことになる。

ただそれは文字通り「敵の出方」次第である。敵がむやみに撃ちまくってくるならば、正当防衛権を行使してこれに対応するのは人権に属する問題だ。

歴史的には難しい問題もあるのだが、戦後70年の中で国民大多数が個別自衛権を憲法違反とはせず、裁判所も事実上それを追認して来たという経過がある。

それをすべて米日反動のなせる工作としていても、事は進まない。

B.個別自衛権と安保体制との関係

もう一つ、個別自衛権を認めないということが安保とセットになっており、米国の軍事力の下に留まる最大の根拠になっている。これは今の憲法が成り立つ国際法的基盤でもある。

護憲・平和を貫けば貫くほどに日米安保は不可避のものとなる。これは平和運動のジレンマである。

それは60年安保の時は「戸締まり論」として議論の焦点となった。しかしその例え話は米国における銃砲規制の議論とガチンコするわけで、おたがい違う次元のことを想定しているから、すれ違ってしまう。

立憲的原理として個別自衛権は認めた上で、とりわけ憲法前文の精神と突き合わせながら、憲法9条の扱いを決めていくしかないのではないだろうか。

5.自衛隊の現状は違憲状態

専守防衛、自衛権の確保という自衛隊創設の理念を認めたとしても、それとはあまりにかけ離れた自衛隊の実態がある。

まずもって、自衛隊の違憲状態への厳しい指摘が必要である。現在の自衛隊は決して専守防衛に徹した立憲主義的な組織とはなっていない。ハード的に言えば、専守防衛という枠を越えた装備、指揮系統が日本政府と米国統合参謀本部の二系統にわたる問題がある。過去の大日本帝国陸海軍への傾倒は目に余るものがあるし、政治的中立の原則、人権尊重も順守されているとは言いがたい。エトセトラだ。

これらを考えれば、現在の自衛隊を理念的にポジティブに捉えることはきわめて厳しい。理念としての個別防衛権の是認と、現実の自衛隊の受容ということの間には、なお大きな隔たりがあると言わざるをえない。

自衛隊のまるごと承認を踏み絵とするなら、それには断固拒否の姿勢を貫かざるをえないだろう。

6.国政変革の大目標と自衛隊評価問題との関係

以上を踏まえて、自衛隊問題の解決方向をスローガンとして掲げるなら、次のようになるだろう。

自衛隊は憲法の趣旨に従って専守防衛とし、それと同時に安保条約を非軍事的なものに変えていく

このように考えると、当然9条への抵触が問題となる。「国権の発動たる」という表現、「国際紛争を解決する手段としては」という表現を最大限に読み込むことになるが、「抑止力の保持」はぎりぎりクリアーするのではないだろうか。「憲法の趣旨」というのは前文のことだ。憲法前文との適合性が吟味されるべきであろう。

とは言いつつも、一般論としての憲法の枠内での個別自衛権の確認ということが、結局現実への妥協ということになってしまう一面を持っていることは否めない。率直に言えば、「国民的定着」という現実を無視はできないのである。それは正直に言って良いし、言うべきだ。

議論のポイントは二つある。

A. 個別自衛権の原点から見た、あるべき自衛隊の姿

個別自衛権の確認は、自衛隊の現状の丸呑み承認ではない。個別自衛権の確保にふさわしい組織のあり方が、より根本的に議論されなければならない。

B. 憲法前文に示された国際平和構築の任務

しかし、この個別自衛権問題が「国民連合政府」の実現への足かせとなるものではない。その最大の理由は、日本が51年の警察予備隊に始まり、戦力を事実上保持しながらも、平和国家としての歩みを続けてきたという事実である。

歴史の歩みが示しているものは、平和日本への歩みは、自衛隊のあるなしに縛り付けられているものではないということである。それこそが憲法前文の「国際社会での名誉ある地位」の精神なのである。

こういう議論もふくめながらの「国民連合政府」の政策課題が積み上げられていくことが望まれている。

そのうえで、我々の本来の主張は少数意見としては留保すべきであり、国民連合政府から民主連合政府への展望をめぐる一つの道筋としては明確にされるべきだろうと思う。これは既に、象徴天皇制をめぐる綱領議論の中で確認された論理である。


選挙後の総括の中でこれらの理論・実践課題は浮上してくるだろうと思う。「野党は共闘」で突っ走ってきた様々な人々が、今一度立ち止まって議論すべき時がやってくるだろうと思う。不破さんのことだから、そのくらいのことは見通していると思う。


BC108 前漢の武帝、衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪、真番、臨屯、玄菟の4郡を東北に置く。

BC82 前漢、行政区画を変更。真番郡を楽浪郡に併合、臨屯郡は廃止。臨屯郡も事実上廃止され、吉林省方面に改めて設置。その後遼東郡に吸収される。

0年頃 楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国となる。歳時をもって来りて献見す。各々が楽浪郡と通交。(後漢書)

25 後漢の光武帝が即位する。

30 漢の支配力が弱体化する。中国人系の豪族が楽浪郡で反乱、半年以上にわたり占拠。

49 倭・韓が漢王朝に朝貢。(この「倭」は文脈から見て朝鮮南部の国との説あり)

57 倭の奴国、後漢の光武帝より「漢委奴国王」の金印を賜る。

107 倭国王帥升、後漢の安帝に生口160人を献上。

132 高句麗、遼東郡で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害。

168前後 倭国の大乱(後漢の桓霊間とされる。桓帝から霊帝への交代が168年)。

180頃 和平が成立し、卑弥呼が擁立される。(霊帝の治世は189年までであり、それを降ることはない)

204 遼東太守公孫度、後漢の放棄した楽浪郡に進出。その南方に帯方郡を開設。「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」と布告する。公孫度は元は嶺東玄菟郡の太守であった。

楽浪郡が平壌を中心とした平安南道にあたることはほぼ確定。帯方郡は前漢時代の真番郡に相当し、開城を中心とする黄海道一帯を指すとされる。

220 曹操の子曹丕、魏を興す。遼東太守は魏へ恭順。

234年 百済が帯方郡南方に国家形成。(三国史記で、百済の古爾王が即位したとの記載あり)

当初の根拠地はソウル周辺と考えられる。公孫淵からは自立した一国家としては認められていない。百済の支配者は、もともと高句麗北方の扶余からの流れ者だった。

237 遼東太守の公孫淵、独立を宣言。燕王を自称する。帯方郡も楽浪郡も燕に属する。

237 新羅本紀に倭女王卑弥呼が新羅に遣使したとの記載あり。

238 魏が高句麗の支援を得て遼東の燕を滅ぼす。帯方郡は魏の直轄地となる。太守は東濊・韓族の首長との支配関係を確認。

238 魏、遼東に遠征し公孫淵を誅殺。さらに海上から楽浪、帯方を攻撃し制圧。東夷の民たちは中国の支配下に入る。

239 卑弥呼が魏(帯方郡)に朝貢使の難升米を派遣。難升米はさらに洛陽まで派遣される。卑弥呼には「親魏倭王」(倭の親魏派の王)の称号が贈られる。

240 帯方郡太守、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送る。

244 卑弥呼、二度目の朝貢。

245 帯方郡太守、嶺東へ遠征して東濊を討つ。これに伴い、嶺東地方一帯の管轄権が一括して楽浪郡に移動。帯方郡が所管していた辰韓八国が楽浪郡へ編入される。

245 これに抗議する辰韓が反乱。帯方郡太守を誅するが、反乱は敗北に終わる。(このとき生じた環日本海地域の“反魏感情”は、親魏を公称する馬韓・倭国との関係にも影響を及ぼしたかもしれない)

247 帯方郡太守、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受ける。太守自ら上洛して官の決裁を仰ぐ。魏朝政府は張政邪馬台国に派遣し、少帝の詔書と黄幢を渡す。

248 卑弥呼が没する。倭国再び乱れ、台与を女王となす。台与は即位当時13歳とされる。(としても、卑弥呼の治世は最短でも60年を超えることになり、同一人物ではない可能性あり)

248 国中遂に定まる。壱與は使者を遣わし張政らの還るを送らしむ。

265 魏の禅譲を受け晋(西晋)が起こる。

266 晋に倭の壹与が朝貢。

274 晋、平州5郡(昌黎・遼東・楽浪・玄菟・帯方)を設置。

300 晋王朝、内紛から混迷状態に入る。混乱に乗じて匈奴が洛陽を占領。

313 高句麗が楽浪郡を占領。これに伴い帯方郡も崩壊(晋派の政権そのものは400年頃まで存続)。

316 五胡十六国時代が開始。記録のない「謎の4世紀」へ。

317 江南地方に晋(東晋)が再建される。

340 百済王は太子を倭国に送って人質とする。

356 奈勿尼師今が新羅国王に即位。新羅の実質上の建国。

369 高句麗、百済を攻める。倭の支援を得た百済は雉壌の戦いで高句麗を撃退。

375 百済の近肖古王、倭国に七枝刀を送る。

377 新羅が前秦に朝貢。新羅の前身が辰韓のひとつ斯盧国であると陳述。

384 百済、東晋から僧侶を迎え仏教導入。

391年 倭が渡海し、百残・○○・新羅を破り、以って臣民と為しぬ。(広開土王碑)

391年 倭国が百済北方まで進出し高句麗と戦う。(好太王の碑文)

391年 高句麗、百済の關彌城を落とす。(百済本記)

392 新羅、高句麗の求めに応じ同盟を結ぶ。

393年 高句麗、百済を征伐して10城を陥落

394 倭大王崩御。倭の将軍一部の将兵を残し、帰国する。高句麗は百済を攻め、帯方を奪回。百済を臣下とする。

396年 高句麗が百済を撃破。8千余を捕虜とした。

397年、百済は王子を人質として倭に送り通好する。

397 百済王、倭に従わず。倭は百済領土を侵す。百済は王子直支を倭におくり和を講う。

399年、新羅が倭の侵攻を受ける。王は倭の臣下となる。(広開土王碑)

399 百残、誓いに違い倭と和通す。王、平壌に巡化す。(広開土王碑)

400 高句麗が新羅反倭派の求めに応じ、歩騎五万を派遣する。新羅城を制圧した後、倭軍を任那・加羅まで追撃する。

400 倭は百済と連合して新羅に侵入。高句麗はこれと対抗し、新羅から倭軍を撃退。

404 倭軍が帯方界に進入するが、高句麗軍の前に多大の犠牲を出し敗退する。(広開土王碑)

406 後燕王、自ら遼東に侵攻したが、勝てずに帰った。

413 広開土王が死去。

413年 東晋は高句麗王を「高句麗王・楽浪郡公」に封じる。

413年 高句麗・倭国および西南夷の銅頭大師が、東晋(安帝)に貢物を献ずる(普書)。南史倭国伝では倭王讃が使いを遣わして、朝貢したとされる。

414 倭、百済に援軍を送り、高句麗に侵攻す。(広開土王の碑文)

416 百済王、東晋に使者をおくり、「使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王」の称号を下付さる。

420 東晋の政権禅譲を受け、宋が興こる。南北朝時代開始。

421 倭王讃、宋に遣使、武帝より「安東将軍倭国王」の位を除授される (『宋書』倭国伝)

425 倭王讃、司馬曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(百済の宋への朝貢は457年、高句麗の朝貢は463年)

427 高句麗、南方に進出。平壌へ遷都。

430 倭国、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(『宋書』文帝紀)

438 倭王讃が没し、弟の珍が即位。この年、宋に朝献し、自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める。

438 4月 宋文帝、倭王珍を安東将軍倭国王とする(珍の自称を認めず)。倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍に任命することは許される。(こちらは『宋書』倭国伝あるいは夷蛮伝となっているが詳細不明)

439 北方民族の鮮卑が華北を統一。北魏を建てる。

443 倭王済が即位。宋に朝献して、安東将軍倭国王とされる。(『宋書』倭国伝)

450 高句麗、新羅を攻撃。

451 倭王済、宋に朝貢。朝鮮半島における失地の回復を所望する。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・倭国王」と加号される。

451年7月 宋の文帝、倭国からの朝貢に対し、「安東将軍」から「安東大将軍」への進号を認可。さらに一行23人に対し軍・郡に関する称号を与えられる。(『宋書』倭国伝)

460 倭国、宋の孝武帝に遣使して貢物を献ずる。

462 百済武寧王、九州の島で生誕。(この記事は日本書紀にも記載)

462 倭王済没し世子興たつ。興、宋に朝貢。宋の孝武帝、済の世子の興を(格下げして?)安東将軍倭国王とする。(『宋書』孝武帝紀、倭国伝)

475 高句麗が百済の首都、漢城を占領。蓋鹵王を殺害。百済は熊津まで後退し,新たに都とする。

477 百済で佐平、解仇が反乱。文周王を殺して三斤王を擁立。翌年にはさらに三斤王に対しても反乱を起こすが失敗、鎮圧される。

477 倭国、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)。これより先、倭王興没。弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する。(『宋書』倭国伝)

478 後継者の武が、宋の順帝に遣使。「昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し寧所にいとまあらず」の書き出しの上表文を送る。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。

478 順帝、「持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭王」の称号を賜る。(百済を含むか否かについては諸説あり)

479 宋の政権禅譲を受け、南斉が起こる。

479 倭王「武」南斉建国を祝って使いを遣わす。南斉の高帝は倭王武を安東大将軍から鎮東大将軍に進める。(『南斉書』倭国伝)

481 高句麗軍がさらに南進。百済・伽耶・新羅の連合軍は泥川の闘いで撃退する。

491 高句麗軍、新羅に攻めこむ。百済は新羅に加勢して高句麗軍を撃退。

496 伽耶が新羅に白雉を送る。

498 百済が済州島(耽羅)を支配下に入れる。(これは日本書紀では継体2年とされる)

501 百済、新羅に対する警戒を強め、国境に柵を設ける。

502 南朝に斉に代わり梁が成立。北魏の混乱・衰退に乗じて華北に進攻。

502 倭王武、梁王朝樹立にともない朝貢。鎮東大将軍から征東大将軍に進号される。(『梁書』武帝紀)

502 伽耶諸国の荷知王、梁に遣使。

502 倭国、任那4国を百済に割譲(百済本紀に基づく記述とされる)。

503 麻立干、智証王を名乗り新羅を正式国名とする。

503 伴跛(はへ)国、百済の一地方を奪取。伴跛は任那の一国であり、4国の百済割譲を肯んじなかったとみられる。

505 伴跛国、倭国と敵対し戦火を交えるに至る。

517 近江毛野臣の軍が派遣される。(継体21年の事項。継体初年を497と仮定した場合)

521 新羅が梁に初の遣使。

522 新羅が伽耶を影響下に置く。新羅貴族の娘が伽耶国王に嫁す。

523 新羅の法興王、南方の支配域を巡行。伽耶国王はこれに出向き拝謁。

524 新羅、北方の蔚珍(悉直国)を併呑し悉直州を置く。(金石文あり)

553 新羅、百済の東北部を奪取。新州を置く。554,556年にも百済、伽耶の領土を侵食。

532 金官国(金官伽耶)が新羅に投降。

554 百済と加良が新羅の管山城を攻撃するが敗退。百済の聖王が戦死する。

554 倭国、百済救援のため新羅に出兵する。

562 加羅(任那)が新羅に滅ぼされる。伽耶諸国全域を新羅が征服。

589 隋が中国を統一。

ラフマニノフのピアノ曲を流して聞いてみた。
ラフマニノフの後半はまことにつまらないのだが、一体なぜなのかを知ろうと思ったわけだ。
感じたのは作品23の「10の前奏曲」の7番までは、良い悪いは別にして感じは出ているのだが、8番から後にはまったく歌がないということだ。
とにかくストライクが入らないのだ。いかにも置きに来るストライクはあるのだが、まるっきりの棒球だ。
ふつう前奏曲といえば24曲と相場は決まっている。しかしこの人は10曲で一旦やめちまって、残りは仕切り直ししている。おそらく仕切り直しせざるを得なかったのだろう。これが1901年のことだ。
それで9年もしてから残り13曲を発表している。どれもこれもさっぱりだ。9年間にぼちぼち書き溜めたのだろうが、インスピレーションは完全に枯渇している。ラフマニノフという人は頑張り屋で、そうなっても一生懸命曲を吐き出すだが、ほとんど黒色胆汁だ。
同じ年に「音の絵」と題して8曲、6年後に同じ「音の絵」作品39という名前で9曲をまとめているが、これも随所にかすかな残り香を感じさせるものの、かえって哀れを感じていしまうという具合。派手な和音ばかりが耳につく。
ロシアの演奏家は偉大な作曲家に敬意を払ってこれらの曲もせっせと弾いているが、こちらは義理もないので、以後は願い下げにしたい。
作曲家にはこういう人がいるようで、リャプノフも超絶技巧練習曲とソナタを書いた後、突然止まってしまう。そこへ行くと我がリャードフはぐーたらを続けていたせいか、50歳過ぎても才能は落ちない。むしろ冴えてくる。
すごいのはチャイコフスキーで、若い時からすごくて年取ってもまったく落ちない。もう少し長生きして欲しかった。
参考までに私のラフマニノフ・ベスト
rachmaninov
演奏家については別にこだわっているわけではない。たまたまあった音源という程度。






年表づくりという形でバングラデシュの状況を整理してみて、あらためて佐藤宏さんの見解に深く頷くものがある。

とにかく、たった40年前に数百万の人々が殺されたのである。この事実をまずもって私達は深く認識しなければならないだろう。

関係者がまだ生きているから、100万人を殺した血まみれのおぞましい虐殺者たちにも生きていく権利は認めざるを得ないのだから、とりあえず、そのことには蓋をして、バングラデシュは経済的自立への道を歩んでいるのである。

しかし往々にして虐殺者への憎しみは火を噴く。なぜなら、虐殺者たちはいまだ虐殺を反省せず、平然と公職につき、イスラムの名において自らの行動を合理化し続けているのである。

だから、彼らは攻撃されればされるほど原理主義的にならざるをえない。「俺のどこが悪い。イスラムの原理に従って行動しただけだ。やれるものならやってみろ、こちらも容赦しないからな」と開き直ることだ。

だから、バングラデシュの原理主義はイスラム原理主義一般よりさらにカルト的で、後ろ暗いものがある。はっきり言えば、身を隠すために「原理主義者」を装った薄汚いイスラム同胞虐殺者の末裔の集団だ。

しかし彼らをここまでのさばらせた最大の原因は、前与党のBNPにあるのだろう。

現与党のアワミ連盟とBNPの支持率は拮抗している。バングラデシュは小選挙区制だから、1,2%の得票率の差で圧倒的勝利か惨敗かということになる。

そこで、一定の底堅い支持率を持つJI の票は魅力的だ。そこでBNPは悪魔と取引し、JIを認めてしまった。これで死に体だったJIは一気に息を吹き返し、そのコマンド組織であるJMBも力を得たのだ。

もともと、BNPも独立戦争を戦った集団であり、JI に対する反感は強いはずなのだが、それ以上に目の前の票には魅力があったのだ。

こういうのを「野合」というのだろう。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

一つのベンガルの時代

 8世紀 中葉にパーラ朝がなり、仏教王朝が繁栄した。

12世紀 ヒンドゥー教のセーナ朝にとってかわられた。

16世紀 イスラムが多数派となる。ムガル帝国の下で商工業の中心地へと発展する。

1651 イギリスの東インド会社、コルコタに商館を設け、ベンガル、ビハール内陸部との交易に乗り出す。

1757  プラッシーの戦い。東インド会社がベンガルのナワブ軍に大勝。ベンガルに対する植民地支配が開始される。

1765 イギリスがディワニーと呼ばれる徴税行政権を獲得。その後イギリスはベンガルからインド全域に支配を拡大した。ベンガルはその中心となり「黄金のベンガル」と称された。しかし織物をはじめとする伝統産業は英国の商品により壊滅。

ベンガル人の誇る文豪タゴールの詩「ショナール・バングラ」(黄金のベンガル)が下敷きとなっている。「おぁ黄金のベンガルよ。我は汝(なんじ)を愛す…」という詩は、バングラ・デシュの国歌となっている。

1905年 イギリスはインド人の分断を意図し、ベンガル分割令を発布。ヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラム教徒中心の東ベンガルとに分割する。(梅干しを二つに分けるとき、カルカッタという種が入っている方が西ベンガルで、入っていないほうが東ベンガル)

1929年 ムスリム上層農民を基盤とする「全ベンガル・プロジャ党」が結成される。ベンガル人意識が後退し、ムスリムとしての意識が高揚。

1943年 ベンガルで大飢饉。150万~300万人の死者を出す。

1946年8月 コルカタ(旧カルカッタ)暴動。ムスリムとヒンドゥーの衝突で4千人の死者を出す。

東パキスタンの時代

1947年8月 英領インドがインドとパキスタンに分かれ独立。東ベンガルはパキスタンへの参加を決定。パキスタンは「回教徒の清らかな国」を自称した。宗教はインド亜大陸の最高の掟となった。

1949 年 東西パキスタンはベンガル語とウルドゥー語という言語の違い、西パキスタンの政治的優位などから矛盾が拡大。アワミ連盟の前身である「東パキスタン・モスリム・アワミ連盟」が設立される。

1952年2月21日 パキスタン中央政府、ウルドゥ語を公用語に強制。これに抗議するダッカの学生デモに警官が発砲、軍隊が出動し多数の死傷者を出す。後に「犠牲者の日」と呼ばれ、最初の独立への運動とされる。

1955 年 アワミ連盟、政教分離の観点から党名中の「モスリム」を削除する。

1966年 アワミ連盟が6項目綱領を提案。国防・外交・通貨以外を州管轄事項とするよう求める。中央政府はムジブルを「インドと結託した反国家分子」として逮捕。

1970年12月 パキスタンで初めての総選挙。人口に勝る東パキスタンに基盤を有するアワミ連盟が第一党となる(アワミ連盟は東パキスタンで162議席中160議席を獲得)。中央政府は国会を開催せず、アワミ連盟を無視しさまざまな妨害工作。

バングラデシュ独立の闘い

1971年
3月1日 パキスタン中央政府、憲法制定会議の無期延期を発表。
3月2日 ムジブル・ラフマンがパキスタン政府への非協力を宣言。パキスタン中央政府は軍を空輸しアワミ連盟幹部を拘束。ムジブル・ラーマン総裁は西パキスタンに連行される。国家反逆罪に問われ、死刑を求刑される。

3月25日11PM パキスタン軍がダッカ市内の攻撃を開始。大学の構内などで大量殺戮がはじまる。新聞社や警察署なども攻撃され破壊され、数多くのスラムも焼き払われた。

3 月26 日 東パキスタンは独立を宣言。パキスタン軍を離れた東ベンガル部隊、国境警備隊が中心となり、ムクチ・バヒニ軍(バングラ・デシュ解放軍)が形成され、パキスタン軍に対抗する。

東の部隊は東ベンガル連隊6千人のみであった。そのため、当初、解放軍の実質は国境警備隊の1万5千人、武装警察隊の4万5千人が担った。ムクチ・バヒニは終盤では志願兵を含め10万人以上に達した。

4.09 イスラム協会やムスリム連盟などが「平和委員会」を結成。実際は独立解放派の肉体的抹殺を目的とする。イスラム協会は実力部隊として「ラザカル」を創設。その学生は「アル・バタル」を組織。ムスリム連盟は「アル・シャムス」を組織する。

パキスタン軍は各地で大量虐殺を行った。死亡者は9ヶ月で300万人に達する。
ジェノサイドにはバングラデシュに住む少数民族ビハリが手先になった。ビハリは東パキスタン独立時にインドのビハール州から移民したイスラム教徒。非ベンガル系で、何故か西パキスタンと同じウルドゥー語を話す。
パキスタン軍はビハリを武装し、「ラザカル」(民警)という名で呼ばれる現地傭兵とした。ベンガル人を殺したのはこのラザカルだった。ラザカルはベンガル人の捕虜を一人もつくらなかったといわれる。全部殺した、という意味だ。

12月3日 インド政府が東パキスタンの内戦に介入(第三次印パ戦争)。

12月16日 西パキスタンの派遣軍がインド軍に降伏し撤退。東パキスタンは「バングラデシュ」として独立を果たす。

西パキスタン軍は多くの置き土産を残した。狂信的な極右回教徒組織「アル ・バド」は、ダッカ陥落の直前に知識人、学者、ジャーナリストを惨殺した。
また、大量の武器をラザカルの手に残した。解放直後、クチ・バヒニは各地で ビハール人、「ラザカール」、ベンガルトの敵対協力者に「目には目を」式の報復を行なった。ラザカルの残党とビハリは、文字通り必死の戦闘を繰り返したという。 

ムジブルとアワミ連盟の時代

1972年1月 ムジブル、パキスタンから戻り首相に就任。「3年待って欲しい。3年たったら我々はこの国をショナール・バングラ(黄金のベンガル)にするだろう」と呼びかける。

3万7,471人がコラボレータ(パキスタン協力者)として逮捕される。起訴されたのは2千人程度で、実際に有罪となったのは752人だった。

1972年8月 独立戦争におけるゲリラ闘争の指導者として国内闘争を主導したタヘル大佐、「人民の軍隊」を主張し、ナジブル首相に解任される。この後タヘルは地下に潜入,武装活動を続ける。

12月 憲法が公布される。「社会主義」、「民族主義」、「政教分離主義」、「民主主義」を国家の基本原則とする。

1974年

9月 バングラデシュを大洪水が襲う。被災地では3万人が餓死。これまでの経済の疲弊、オイルショックによる不況に拍車がかかる。買占め,売おしみが横行,ダッカ市内の米価は2.6倍となる。

12月 ムジブル・ラーマン、汚職・密輸の蔓延、治安の悪化に対処するため非常事態宣言を公布。

二つのクーデター

1975 年

1 月 ムジブル・ラーマン首相、憲法を改正。議院内閣制から大統領が実権を有する大統領制に変更。大統領の権限を大幅強化、自ら大統領に就任。綱紀粛正の訴えとは逆に身内の重用、大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)の強化などに批判が強まる。

ロッキ・バヒニ(国家安全保障部隊)はアワミ連盟内の急進派約6,000人を殺害、ほぼ同数を逮捕、拷問したとされる。

1月 東ベンガル・プロ レタリア党(ナクサライト)の委員長シラジ・シクダルが逮捕される。タヘル大佐の人民革命軍と共同行動をとっていた。

8月 7人の少佐(いずれもムクチ・ビハニ出身)による反乱計画が実施される。ファルーク・ラーマン少佐(戦車連隊大隊長)は自分が首謀者だったと主張している。CIAが裏で策動したとも言われる。

15日未明 約300人の兵士と戦車・装甲車などが大統領親衛隊(ロッキ・バヒニ)司令部を攻撃。同時に別部隊がムジブル一族の邸宅を襲い、皆殺しにする。

午前5時30分 反乱軍のダリム少佐(前ダッカ守備隊長)がバングラデシュ放送を通じ演説。「ムジブル大統領は殺害され,新大統領に就任したアーメド前商相の指揮の下に,軍が権力を握った」と発表,同時に全土に戒厳令を発布。

午前10時30分 アーメド前商相が放送を行ない,大統領就任を告げる。前政権の腐敗を強調。

8月20日 アーメド大統領声明。腐敗政治家・官僚を一掃。単一政党BAKSALの解散、大統領親衛隊ロッキ・バヒ二の解散、価格統制の廃止、銃・弾薬の回収を行う。

9月9日 アーメード政権,「国防軍に関する政府の見解」を発表,その中で,「過去3年半の国防軍に対する無視・軽視を考え,政府は独立戦争を戦った人々を相応しい,名誉ある地位につけること」を明らかにする。

9月 青年将校らは大統領官邸内に陣取り,中央コントロールセンターを通して軍の支配を図る。ジアウルら陸軍首脳部は青年将校に原隊復帰を命じるが無視される。

11月3日 アワミ派のムシャラフ准将による対抗クーデター勃発。ムシャラフ・クーデターの背後には、既得権益の確保を狙うインドが存在していたとされる。

11月3日午前2時 カリド・ムシャラフ将軍に率いられたダッカ駐屯第46歩兵旅団3大隊が大統領官邸を包囲,放送局を占拠した。青年将校の身柄引渡し,ジアウル陸軍総参謀長の解任,権力の引渡しを要求する。

午後10時 政府と反乱部隊が合意。政府側は青年将校とその家族29人の国外退去,ジアウル陸軍総参謀長の解任とムシャラフ准将の少将昇格・陸軍総参謀長就任,アーメド大統領の辞任を受け入れる。

ジアウル将軍は兵営内に監禁される。青年将校らは行きがけの駄賃に前副大統領、前首相、前蔵相、前工業相を殺害。

11月4日 前政権幹部4人を失ったことから、ムシャラフ派の権力構築が難航。急拠計画を変更,軍革命評議会を結成して,軍政を敷くこととなる。カリルル・ラーマン軍統合総参謀長はムシャラフの就任要請を拒否。

カリルル・ラーマンはパキスタンから帰国した正規軍グループを代表する人物。軍内パキスタン派は一連の事態に対して一貫して中立を保った。

11月5日 人民革命軍がダッカに出現。兵営内で大量の反軍ビラをまくなど宣伝行動。

上級将校が「自己の利己的・野心的権力欲」のためにクーデターを繰りかえし,下級兵士を利用収奪しているとして,兵士 たちに対してムシャラフ派将校の指令に従わず,「人民の軍隊」のために彼等の上級将校と闘争するよう呼びかけた。

11月5日 人民革命軍に呼応した下級兵士たちは「12項目要求」を掲げ, 各地の軍隊内部で将校との闘争を開始する。

12項目要求: 給与の引上げを含む経済的諸要求,政治犯の釈放,汚職,腐敗分子の財産没収,将官と兵士の差別撤廃,将校当番制度の廃止など。さらに軍を支配階級のためのものから人民に奉仕する軍とする。そのために真の革命的兵士により中央革命軍事会議を設置、軍最高司令官もこれに従えというものであった。

11月7日 民族社会党(JSD)に属する左翼軍人グループが決起。「セポイの革命」と呼ばれる。

独立達成後、「ムクチ・バヒニ」の左翼は民族社会党(JSD)に結集し、その軍事組織であるPRA・RSOとして活動した。これらは「人民革命軍」と呼ばれ、アブ・タヘル大佐(退役)に指導されていた。
セポイの乱については、いずれ稿を改めて紹介する。

1時30分 「人民革命軍」が監禁されていたジアウルを救出。1時間余の交戦の末,ムシャラフ少将ら34人を殺害する。

4時30分 放送局を占拠した兵士は、「セポイの革命によりムシャラフ派が追放され,ジアウル・ラーマンが陸軍総参謀長に復帰,戒厳令総司令官に就任した」と放送。

5時 ジアウルが放送演説。「陸海空軍,BDR,警察その他多くの人々の要請により,わたしが暫定的に戒厳令総司令官についた」と発表する。

夜 アーメド前大統領がテレビ演説。「バングラデシュの独立と主権を守るための兵士たちの比類なき革命に心から感謝する」と述べる。

人民革命軍はジアウルを通して「軍の革命的改組」をはかろうとした。ジアウル革命軍事会議の設置に反対し、サエム大統領を戒厳令総司令官とし,三軍総参謀長・文民による諮問委員会の設置を提案。両者の押し合いが続く。

兵営内では将官と下級兵士のきびしい対立。ダッカだけで40人以上の将官が殺される。

7日夜 ムシャラフ派に擁立されたサエム大統領は,自ら戒厳令総司令官に就任すると共に,三軍総参謀長を戒厳令副司令官に任命した。

8日 サエム大統領、国会の解散 と閣僚の解任,総選挙の1977年2月までの実施を発表。

11月9日 JSDと人民革命軍がダッカで集会を開こうとするが、ジアウルは実力で阻止。このあと軍内統制を強化する。

11月11日夜 ジアウルが全国放送で演説。①現政権はいかなる政党にも関与しない中立暫定政権である,②軍は国民の間に不安と不満をつくり出す動きと対決する,③軍の最大課題は軍人の利益と福祉を守り,国軍を近代的で有能な軍隊にすることである,とのべる。

15日 戒厳令規則が改定。軍・BDR・警察の名を騙り,反国家的活動を教唆・煽動したものは厳罰に処すと発表。

11月25日 タヘルとJSD指導者たちは反国家的活動を行なったとの理由で再逮捕される。

11月26日 サエム大統領、民間から4人の諮問委員を任命,三軍参謀長と共に諮問委員会を創設。事実上の軍政に移行。

11月25日 軍統制派は、アブ・タヘル大佐らセポイの革命指導者を半国家活動の容疑で逮捕。タヘルが死刑、その他も重刑に処せられる。

12月28日 軍統合総参謀長のポストを廃止。カリルル・ラーマン統合参謀長の事実上の解任となる。

ジアウルの時代

1976年

1月 ジアウル、陸軍の再編・強化に着手。4個師団を9個師団編成とする。兵力はパキスタン帰還兵約1万人を含め,約3万5000人に達する。

4月30日 空軍総参謀長のタワブ少将が解任され、国外に追放される。タワブは回教徒指導者を使って各地で大規模な「祈りの集会」を開かせる一方、8月クーデターの首謀者ファルーク大佐を国内に導き入れた。

タワブはバングラデシュ回教共和国への改名、パキスタンとの連邦制を主張。ファルークはジアウルへの反乱を呼びかけた

11月 サエム大統領、総選挙の無期延期を発表。戒厳令総司令官の任務をジアウルに移譲する。これにより軍政が継続されることとなる。

11月29日 ジアウルが戒厳令司令官に就任し、実権を掌握。

12月 ジアウル・ラーマンが全国放送で演説。民族主義,自力更生,国民参加の3つの基本原理を掲げる。民主主義・社会主義については触れず。

1977 年4 月 サエムに代わり、ジアウル・ラーマンが大統領に就任。憲法を改正し「政教分離主義」が削除される。さらに憲法冒頭に「恵み深く慈悲に溢れた神の名にお いて」とのコーランの文言が追加される。さらに独立戦争中に大量虐殺を繰り返したJI の政治活動再開が認められる。

1978年4月 ジアウル大統領、民政移行に備えバングラデシュ民族主義党(BNP)を設立。資本主義化政策をとる。

1979年 議会選。BNPが、議席の3分の2を獲得する。戒厳令が解除される。

1981 年5 月 ジアウル、軍人グループにより暗殺される。夫人のカレダ・ジアがBNP党首に就任。

エルシャドの時代

1982 年3 月 エルシャド陸軍参謀長が無血クーデター。戒厳令司令官となる。

1983年12月 エルシャド、大統領に就任。エルシャドは2年後に議会制に戻すと誓約したが守られなかった。

1986 年1月 エルシャド大統領、権力の受け皿として国民党(JP)を設立。(現在は3派に分裂し弱体化)

1987年  パキスタン協力者たちの軍政下での復権を描いた『71年の殺人者と手先たちの消息』が刊行され、1 年間で1 万部売れる。

1988 年5月 憲法改正によりイスラム教は国家宗教とされた。

1990年12月 エルシャド政権、民主化運動の高揚の中で退陣を迫られる。軍事政権の時代が終わる。

バングラデシュ民族主義党 (BNP)の時代

1991年2月 総選挙。ジアウル派のバングラデシュ民族主義党 (BNP) が民間実業家、退役軍人などの支持を集めアワミ連盟 (AL) を破る。ジアウル未亡人のカレダ・ジアが初の女性首相に就任。

7月 憲法改正。大統領による独裁を防ぐため、再び議院内閣制に復帰する。

95年2月 総選挙の実施(野党はボイコット)。カレダ・ジア政権の再発足。

3月 憲法改正により、暫定選挙管理内閣制度を導入。BNP政権は直ちに退陣。

6月 やり直し総選挙でアワミ連盟が勝利。ムジブル・ラーマンの長女シェイフ・ハシナが首相に就任。

2001年10月 第3回総選挙。バングラデシュ民族主義党(BNP)はイスラム協会(JI)、国民党(ナジウル・フィロズ派)、イスラム統一連合(IOJ)と4党連立を組み政権を握る。

2003年,JMBのアジトで爆発事件が発生し,大量の爆発物などが発見される。

2004 年4月 チッタゴンの国営肥料工場にて、AK47 ライフル銃690 丁、手榴弾25,020 個、銃弾180万発をなどトラック10 台分の武器が押収される。

8 月 アワミ連盟事務所前での集会に手榴弾。20名が死亡。この他アワミ連盟への襲撃が相次ぐ。

2005年8月 JMBが非合法化される。JMBはダッカを含む63県で爆弾テロを実行。

2006年 軍が政治介入。BNP・JI 政権を退陣させ、選挙管理内閣に移行。

2007年3月,JMBの指導者及びナンバー2を含む最高幹部6人が,2005年の爆弾テロで死刑を執行される。


アワミ連盟の時代

2008年12月 総選挙でアワミ連盟などからなる「大連合」が300議席中262議席を獲得し圧勝。ハシナがふたたび首相に選出される。BNPを中心とする4党連合は、汚職への批判などから大惨敗を喫し32議席に激減。

2010年5月 再建されたJMB指導部がふたたび摘発される。

2013年 ハシナ政権、JI の独立時の戦争犯罪への追及を開始。

1月21日、パキスタン兵による残虐行為に加担した罪で、JIのアブル・カラム・アザド、デルワール・ホサイン・サイディ、アブドルカデル・モラーに死刑判決。

2月 判決を支持する人々がダッカ中心部の広場で座り込み。まもなく中心人物が暗殺される。

4月6日 JIが組織した20万人のデモ。「政府も無神論者の仲間だ」と主張し、厳格なイスラム法に基づく憲法改正などを要求。JIと連立するBNPはJI支持の態度を表明。

7月 高裁、JI の選挙管理委員会への登録を違法とする。この間、イスラム主義者らと警察との衝突などにより約500人が死亡し、数千人が逮捕される。

12月 モラーが処刑される。

モッラは民兵を率い、学者や医師、作家やジャーナリストを殺害した。レイプや350人以上の非武装の民間人の集団虐殺も指揮した。その残虐行為の大半が行われた地名から「ミルプールの虐殺者」と呼ばれていた。

2016年

5月 JI幹部モティウル・ラーマン・ニザミが処刑される。

6月 ハシナ政権によるJI の取り締まり作戦。武装グループや野党関係者らを合わせ計1万1千人を一斉に逮捕。背景にイスラム過激派による相次ぐテロ事件(宗教的マイノリティ、無神論者、世俗主義者、与党幹部などへの襲撃)





引かなければよかった。とんでもないものを引いてしまった。

グーグルで “佐藤宏+バングラデシュ”で検索したら、こんなものが引っかかってしまった。

アジ研(今はJetroの部局)の研究双書のNo.393「バングラデシュ:低開発の政治構造」の編者が佐藤さんなのだ。しかも全編読めてしまう。

昔は市ヶ谷のアジ研の図書館に行って、ノートに書き写すしかなかったのだが、今はタバコを吸いながらグラスを片手に読めてしまうのだ。時代の進歩を恨めしく思う。

全部で400ページもあるから、そう簡単に読めるものではない。鍵がかかっていてコピペができない。老い先短い私としては当面あきらめるほかない。

その代わりに、コピペ可能な資料を使って年表づくりに入ることにする。まずその前にウィキで地理のお勉強。

バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。インド西ベンガル州とともにベンガル語圏に属す。

人口1億5,250万人で世界第7位。、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国である。

1971年にパキスタンから独立。かつて「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、インフラの未整備や行政の非能率から、現在はアジアの最貧国に属する。


7月8日 「かんたんな経過」のつもりが思いのほか長くなりました。とくに独立戦争から独立直後の数年間については知らないことばかりです。

バングラデシュ年表として別記事にしますので、そちらに移動してください。



ということで、とりあえずの印象としては

1.旧支配層の度を超えた暴力性

2.民衆の主権者意識の希薄性

3.宗教を超えられない民族意識の未成熟。

4.裏返せば、民族意識を閉じ込めるほどに強烈なイデオロギー的アイデンティティー。

があり、それらがいずれもこの国の成り立ちの特殊性に起因している、ということだ。

一言で言えば、自立した国家イメージと一貫した国家戦略が描けない「従属国家」で、インドとパキスタンとの絶縁後の展望が見いだせない「漂流国家」であったことが、支配層の姿勢を頑ななものとしているのだろうと感じる。

とは言うものの、パキスタンとしての建国後すでに70年、バングラデシュとしての独立後50年を経過しており、すでに「普通の国」への脱皮を終えつつあると見てよい。

それだけに追いつめられた旧支配層(BNP-JI-JMB)が、イデオロギー性と凶暴性をさらに増すことはありうるのかもしれない。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

梅川勉さんがなくなった。まぁ私には縁がなかった理論家だが、すこしグーグルをあたってみることにした。

最初に出てくるのが佐久間昇二さんという方のエッセイで、「研究者志望からビジネス界へ」という題。副題は「1950年代前半の経済学部・経営学研究科」となっている。大阪市大の雑誌に寄稿されたものらしい。

佐久間さんは松下電器の副社長、WOWOW社長などを歴任されたビジネスマンだが、昭和25年(1950)に大阪市大の経済学部に入学され、修士ふくめて6年間をそこで「ノンポリ」として過ごしたという体験の持ち主。

当時「アカの巣窟」と言われた大阪市大の内側が切り取られていて面白い。そしてそこに梅川さんも登場するのである。

抜粋、紹介しておく。なお2011年の執筆で、まだ存命の人も多いこともあって多少遠慮はしているとのことだ。


…一回の運動場で学生大会をやっていると、突如警官隊が高い塀を乗り越えて突入してきた。学生は散り、私もゲタを脱ぎ捨てて逃げた。警官に棍棒で殴られてもいた。

…警察に行き、捕らえられた学友の無実を訴えたが相手にしてもらえない。そこに学生運動の幹部がやってきたので、援助をもとめたが、「変に動くと我々が捕まる」と言って行ってしまった。

これがマルクス主義を信奉する急進派の人たちに不信感を抱いた最初の経験であった。

学生大会がよく開かれた。そこには若き気鋭の教官が登場し強烈なメッセージを発した。とくに林直道先生が印象に残る。

…農業経済論のゼミに進んだが、助手の梅川勉先生の存在に違和感を感じた。梅川先生は講座派のバリバリ。ゼミの中でも梅川先生の発言は顔をしかめられることが度々だった。

この頃、共産党は極左冒険主義の路線を突走っていた。大阪市大はその先頭を走っていた。まさにその中に私は在学していたことになる。

梅川先生は山村工作や農村調査について、折りに触れ私達に話しかけられる。私たち普通の学生は良い民間の会社に就職したいと思っているから、そこへ入り込むのは危険と思っている。

もちろん梅川先生は無理強いはされない。しかしそこには我々こそ正しい真理の信奉者であり、それに異を唱えるものはブルジョア的、右翼的立場と位置づけられる。この独善的態度、非科学的態度に私自身はついて行けないものを感じた。

その間の大阪市大の雰囲気は、急進派の学生、上林貞治郎教授、岡本博之教授などを筆頭に若きエリートたちが闊歩し、学究肌の先生たちはそれを静観されているように思われた。

昭和30年、日本共産党は武装闘争方針の放棄を決議した。あわせて全学連は従来の路線から180度の転換を迫られた。

これらの方針転換は大阪市大の中にも大きな影響を及ぼした。大学教員の動揺は一部学生にも強く反応した。それは昭和31年のフルシチョフによるスターリン批判によって極限に達する。

とくに大学院で学ぶ急進派に属する学生の憔悴ぶりはきつかった。同級生の一人は「急な変化に自分と自分の道を見失ってしまう」と受けたショックの大きさを隠さなかった。

後略

バングラデシュのテロはその後の情報で、ISとかアルカイダというより、国内の従前型テロ組織の犯行であることが明らかになってきた。

この点について、本日の赤旗に『南アジア研究者』という怪しげな肩書の佐藤宏さんが解説してる。

肩書は怪しいが、内容は的確で、たしかに専門家である。72歳という年齢がベテランぶりを物語っている。佐藤さんの指摘は今回のテロが『国内産』だということに尽きる。

以下、概要を示しておく。

1.犯行はJMBによるもの

JMBの正式名称は「バングラデシュ聖戦戦士団」である。

JMBは「イスラム協会」の学生組織のメンバーが90年代末に創設したテロ組織である。08年にも同時爆破テロを行っている。

2.背景にはバングラデシュ独立以来の角逐がある

バングラデシュは西パキスタンとの独立戦争を闘った後、71年に独立を実現した。(独立というべきか、分離というべきか、定義には面倒なものがある)

独立戦争の期間、独立(分離)反対派のうち、「イスラム協会」(JI)は武装闘争に走り、同胞の虐殺も厭わなかった

3.軍部はJIを泳がせた

独立を達成した「アワミ連盟」はムジブル・ラーマン政権を樹立したが、4年後に軍事クーデターにより打倒される。

軍部は政権居座りを図り、「アワミ連盟」を弾圧した。一方で「バングラデシュ民族主義党」(BNP)を立ち上げ、JIを登用した。

4.なぜテロに訴えるのか

09年以来、アワミ連盟が政権に復帰した。宗教分離(セクラリズム)とインドとの善隣外交を進めている。

旧軍部(BNP)はインドとの緊張緩和に反対し、JIを利用して政権の転覆を企んでいる。その尖兵としてイスラム協会(JI)が用いられている。

テロはバングラの悪しき伝統となっている。

独立戦争中、JIのテロ組織は独立派、知識人、ヒンズー教徒の多くを虐殺した。今もなお各地に多くの遺体が埋められたままである。

最近、活動を強めたJMBもその伝統に従い、ヒンズー教徒、キリスト教徒、民主活動家へのテロを繰り返している。

今回のテロもその一環としてとらえるべきである。

バングラのかんたんな経過

バングラデシュ 年表

バングラデシュにおける「野合」 その結果としてのテロ

どうも頭のなかがパンク状態になっていて、文章が書けない。

とにかく骨組みだけ書いておく。

1.馬韓が天孫族の源流

いまの結論は、天孫系というのは馬韓そのものではないかということだ。

そして馬韓というクニの権力は、弥生式生産様式を受け容れた北方系種族ではないかということだ。

北方系は一般的には畑作で、麦+雑穀である。しかしそれを押し付けたのでは経済システムが成り立たないから、やむを得ず水田耕作を認めたうえで、その上に北方型の統治形態を重ねたのだろうと思う。

史的唯物論で言うと、土台と上部構造が食い違っていることになる。それを上部構造をモデファイすることでなんとか国の形にしたのではないか。

それは一定の時間をかけて行われたのだろうと思う。箕氏朝鮮は少なくとも数百年続いたのであり、その間に何度も南方への進出が図られただろう。

当時は北方の文明のほうが間違いなく優れており、武器も比較にならないくらい優秀だった。しかし米作社会に進出はできても、米作社会を経営することはできなかった。軍を送るコストに見合うパフォーマンスは期待できなかった。だから放置したのである。

しかし中には米作社会を許容することで、統治を図ろうとする試みもあったであろう。それがハイブリッド国家としての馬韓ではないか。

2.辰は長江人の国

辻本武 tsujimoto blog で韓国のウィキ百科事典の「辰国」記事が紹介されている。

①辰は紀元前4世紀から紀元前2世紀頃、青銅器および初期鉄器文化を基礎として朝鮮半島漢江以南に存在した。

②この頃から金属文化が伝わって原始社会が崩壊し、新しい政治的社会が成立した。

③辰国は辰王勢力の部族連合体である。それは古朝鮮と共存し、後に馬韓、弁韓、辰韓の三韓として鼎立した。

これは魏志東夷伝とその後の後漢書を読み解いたものである。しかし辻本さんも言うように読み込み過ぎであろう。

魏志をどう読むかはいずれ検討したいが、肝心なことは以下の点である。

①辰は韓ではない。いまは辰韓として取り込まれているが、元は「韓」ではなく「辰国」であった。

②辰人は韓人ではない。中国人の異種、すなわち長江人である。文法的には中国語っぽいがさっぱりわからない言葉をしゃべる人々である。だから中国人は、「これはいにしえの秦である」とか、もっと西域の人々であるとか考えたのであろう。ただし辰は秦ではなく馬韓から見て東(辰)の方角ということではないか。

③辰国が三韓に分かれたのではない。范曄の『後漢書』韓伝は三韓がいずれも古の辰国であったとしているが、魏志の「解釈」であろう。それは「諸国の王の始祖は、すべて馬韓種族の人だった」という記載と矛盾する。

④長江人は最初から辰韓地域(現在の慶尚南道)に集中して生活していた。それは弥生早期に弥生人が唐津から板付までの地域に集中していたのと同じであろう。

3.倭国の政治的モデルとしての馬韓・辰複合体国家

馬韓は辰を保護国化した。辰韓は自らの王さえ選べない保護国と化した。同じことが、ほぼ同時に、日本でも起こった可能性はある。

このような「天孫族・弥生人複合体」あるいは「馬韓・辰韓型国家」が倭国の国家的骨組みを形成しているのではないだろうか。

その際に、「諸国の王の始祖は、すべて馬韓種族の人だった」という「馬韓神話」が、日本においても「高天原神話」として通底していた可能性はないだろうか

つまり、辰国の弥生人がまずやってきて北九州に水稲社会を構築し、その後馬韓が、支配者としてやってきて、「諸国の王の始祖は、すべて馬韓種族の人だった」というでっち上げイデオロギーのもとに北九州諸国をも支配下に置くという構図である。

これには韓国の歴史学世界とは独立した考古学的作業による裏付けが必要だが。

小麦を知る

わたしの勤務する「はるにれ」は、ロケーションとしてはまことにいいところである。

札幌に隣接する江別の高台にある。札幌市内の自宅から車で20分足らずの場所だが、何よりも良いのは見晴らしである。眼前に札幌の街が広がる。JRホテルをはじめとする高層ビルが一望だ。そのビル街の街越しに藻岩のスキー場、大倉山のジャンプ台、三角山が連なり、その向こうに手稲山が見晴るかされる。

そこから右に目を移すと、小樽に至る山並みが赤岩のあたりで一旦沈んで、最後に祝津の山で終わる。左に戻すと無意根、札幌岳と続いて山並みの切れた奥に猛々しい恵庭岳、風不死、さらにかすかに噴煙を上げる樽前までが一望できる。

振り返ると、太美のスエーデン村の丘の向こうに暑寒別の雪山、さらに東には夕張岳、芦別岳が一望される。

近辺は市街化調整区域なので一軒も家がない。向かいの中学校を除けば周囲の四方は畑ばかりだ。クリニックの営業環境としては最悪なのだが…

で、隣の畑、診察室の真ん前は今年は小麦が植えられている。そして今や麦秋なのだ。


子供の頃、日本は食糧不足だったから、田んぼは裏作をやっていた。夏の田んぼは冬の麦畑だったのである。

霜柱が立つ頃、息を白く吐きながら麦踏みをするのが子供の仕事だった。

麦は麦踏みすることで分ケツするからだいじなのだと教えられた気がする。あれは大麦だった。

別に麦飯がまずかったという思い出はないが、コメだけの「銀シャリ」がうまかったことは憶えている。

そんなことを思い出しながら、麦畑を見ている。


実はわたしは、こういう一面に広がる麦畑というのを見たことがなかった。

とにかく1キロ先までずっと麦畑だ。トラクターが2日がかりで往復してやっと種まきが終わる。

この畑、去年は何も作っていない。その前は2年続けてとうきび畑だった。つまり小麦はオリンピックと同じで4年に1回しか作れないのだ。実に贅沢なものだ。

そのかわり、小麦づくりはまったく手間なしだ。秋に耕して肥料をいれて、種を撒いてそれっきりだ。なのにしっかりと小麦は育っている。雑草はほとんど生えない。

これが麦というものだ。私は内地に育って、米作りばかり見てきたから、農業というのは大変なものだと思っていた。毎日、あぜをまわり水の深さから水温まで管理しなければならない。草取りも二度三度ではない。おまけに日照りだ水害だと気が気ではない。

ところがどうだ。小麦は撒いたら最後、刈り入れを待つばかりなのだ。こんなずぼらな仕事、農業といえるのか。


私たちは子供の頃から水田栽培の生産性の高さというのを頭に叩きこまれてきた。

アジアのモンスーン気候の中で水田耕作が発達し、それは単位面積あたりの収量がとても高い。だからアジアは多くの人々を養えるし、世界の中でも発展してきたのだ、と習った。

しかしそれは土地の生産性を最大限に上げるための技術であって、人間の労働あたりの生産性は決して高くはない。いつもかつかつ暮らしていくしかない。

麦は畑が作るが、コメは額の汗が作るのだ。肥えた土地が豊富にあるのなら、こんなことで一生終わるのは愚の骨頂ではないか。

麦の世界の人々は一坪でも多くの土地を獲得しようと命をかけるが、コメの世界の人は「そんなことするひまがあったら田作りせぇ」ということになる。


北方系文化と長江文明などの南方系生産様式を比較して思う。4大文明をもたらしたのは小麦栽培だろう。水田地帯は4大文明など関係なくあくせく生きてきただけではないか。

そんなことで、「ちょっといろんなことを考えなおしてみてはどうか」というのが、この2,3日思うところです。

前の記事(衛氏朝鮮の歴史)を見ると、我が日本にとって衛氏朝鮮の滅亡(BC100頃)より遥かにインパクトが強いのが箕氏朝鮮の馬韓占領(BC190頃)だ。

これに関してはほとんど資料がなく、漢書のみと言って良い。ビリーブ・オア・ノットの世界だ。

この時期、北九州ではやっと板付2から中期に入ろうかという時代だ。直接的な影響はほとんどなかったと言っていいだろう。しかしその後の弥生社会の形成には少なからぬ影響を与えているはずで、注意深い考察が必要だろうと思う。

朝鮮四郡
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/topics_17.htmlより

1.「韓」はなぜ生き残ったのか

上記の地図がBC100年の朝鮮半島だ。

問題は「韓」地方だ。のちに三韓に分離するが、結局任那が滅亡する572年まで韓は韓として、朝鮮に併合されずに残る。これが不思議だ。

北方の軍勢が手をこまねいたわけではない。

衛満に追われた箕子朝鮮王が攻め込み、一旦は支配権を握っている。しかしその次の代になって、馬韓人は箕子朝鮮勢力を駆逐している。

その後、衛氏朝鮮は三代100年にわたり「韓」に直接手出しをしなかった。衛氏に代わり朝鮮の支配権を握った漢帝国も「韓」を温存した。

なぜなのか?

とりあえず、疑問のままおいておく。

2.箕準はなぜ海から攻めたのか

「後漢書」によれば、平壌を逐われた箕準は、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻略し「韓王」となった。

どうして陸路をとらなかったのか。これが分からない。平壌の南がすでに衛満に確保されていたためかもしれない。

はっきりしているのは海路をとれたということだ。それは数千人の兵士と攻撃に必要な海上輸送手段を持っていたことを意味する。

とにかくそうやって馬韓に攻めこみ制圧した。勝利の理由ははっきりしている。彼らは鉄を持っていた。青銅器と鉄器では勝負にならない。

もう一つの理由は、彼らには帰るところがなかったからである。勝たなければ野垂れ死にするしかない、こういう闘いでは人間は強い。

3.「韓」は数千のむだめし食いをどうやって養ったのか

当時の「韓」社会は北九州と殆ど変わりのない生産システムであったであろう。晩期縄文人は多少の陸稲栽培のノウハウはあったものの、基本的には採集・漁労の生活であった。生産性はきわめて低く、自然任せであったと思われる。

長江人の持ち込んだ水田栽培は将来性のきわめて高いものではあったが、現実には手間ばかりかかって、労多く実り少ない生産モードである。

一方で、おそらくメソポタミアで生まれた小麦+雑穀の畑作は、手間いらずで生産性の高いものであった。それは数千のむだめし食いを養うにあまりあるものであった。

輪作の条件さえしっかり守れば、耕して種を撒いて、後は戦争に出掛けても良かったのである。帰ってくる頃には麦はしっかりと穂をつけて食糧を保証してくれる。

春蒔きと秋蒔きを組み合わせることで天変地異にも対応できる。これが畑作のありがたいところだ。

逆に水田栽培でかつかつ生きているような場所は生活の余裕が全く無い。毎日毎日コメツキバッタのようにひたすら働くしかないのだ。こんな場所には漢帝国も箕氏も衛氏も興味はない。

4.箕準侵入の馬韓側から見たメリット

結論としては、彼らは食っていけなかったろうし、だから一代で潰れてしまったのである。

しかしそれを受け入れた馬韓側のインパクトは極めて強いものであったろうと想像される。

先進国のエリートが数千人もの数で一気に飛び込んできたのだ。鉄製武器も手に入った。民衆を支配するノウハウも獲得した。これだけの技術導入が北九州にまで波及しないわけがないと、私は考える。

 

衛氏朝鮮(衛満朝鮮)は天孫系の源流か

件のごとく年表形式で

なお 2013年01月03日 及び 2013年01月19日 は不十分であるため、こちらに含ませることにする。


BC1046年 周が殷を滅ぼす。このとき周が殷の重臣、箕子を朝鮮侯に封じたとされる。朝鮮半島に関する最古の記述。韓国側は檀君朝鮮がこれに先行していたと主張する。

BC334 『史記』蘇秦列伝では、この年の記載として燕が遼東と朝鮮(朝鮮半島北部)を領有すると伝える

BC284 燕が全盛期を迎える。朝鮮と真番は燕の配下に入る。要地には砦を築き官吏を駐在させる。

朝鮮朝の南は真番と呼ばれた。後の4郡の内、真番郡は京幾道・忠清道あたりを指すと思われる。
その南には、「
真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者ら」が住んでいたとされている。

BC214 箕子朝鮮の王「否」、中国を統一した秦帝国に服属を誓う。

箕子はもともと朝鮮侯として封じられたが、のちに朝鮮王を僭称することになる。箕子が800年も続いたとは考えにくいが、中国の間接的な影響下にあったとは言えるだろう。

BC209 陳勝呉広の乱。秦帝国が乱れる。燕国は機に乗じ再び独立。

BC206 秦が滅ぶ。燕王の韓広は項羽により滅ぼされる。

BC202 前漢が成立。燕の旧領を直轄化する。このとき燕の部将、衛満は千人余りの徒党と共に朝鮮半島に亡命。朝鮮王朝より官職・封地を賜る。

BC194 衛満が朝鮮王朝を簒奪。自ら王となる。漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認。衛氏朝鮮の勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域におよぶ。満は中国の鉄器文化を背景にこの地方を支配したとされる

BC194 朝鮮王「箕準」は数千人を率いて逃亡し、馬韓を攻略し「韓王」となる。『後漢書』弁辰伝。

朝鮮王準、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破る。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になる。

BC191 漢朝、衛満を遼東太守の外臣に任じ、東方からの異民族の侵入に備える。衛氏朝鮮の勢力圏は満州にも拡大。

BC108 漢の武帝、水陸合わせ5万の討伐軍を派遣し衛氏朝鮮を滅ぼす。

BC108 漢帝国、朝鮮に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡を置く。

臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。玄菟郡は北東部。現在の慶尚道と全羅道南部は“韓”として管轄外に置かれる。

BC82 真番・臨屯が廃止され楽浪郡に編入される。玄菟郡もその後段階的に縮小され、事実上楽浪郡のみとなる。

BC45 「楽浪郡初元四年県別戸口簿」によると、楽浪郡25県の戸数は4万3251戸、人口は28万0361人であった。


ということで、どうも衛氏朝鮮は天孫族の直接の祖先とは言いがたいという印象だ。あるとすれば、むしろ箕子朝鮮の流れをくみ弥生人や縄文人と習合した末流という感じではないだろうか。

自公連合ってこんなものだ。

2014.12.6 の産経ニュース

党首インタビュー 公明・山口代表

質問: 公明党の連立政権での役割は何か。公明党は「ゲタの雪」とも揶揄(やゆ)されるが

答え: 公明党の役割をゲタに例えれば、鼻緒の役目を負っていると思う。鼻緒が切れれば、ゲタは使い物にならない。単なるゲタの雪というのは極めて実態を見ない言い方だ。

漫才のセリフではない。ほかならぬ代表の発言で、しかも泣く子も黙る産経新聞のインタビューだ。

それにしても、たしかに本音ではあろうが、なんとも情けない答えだ。

ゲタなら、使えなくなったら捨てて、新しいのに履き替えれば良い、それだけの話だ。しょせんはゲタでしょう、ということになる。

『戦争するな、憲法守れ』の合言葉のもとに共闘している野党連合とは、だいぶ連合の水準が違う。

ゲタごときに『野合』と言われたくはないのだ(失礼、正確に言えばゲタの鼻緒ですね)。


なお、下駄の雪というのは都々逸の一節なのだそうだ。

「踏まれても 蹴られても ついていきます下駄の雪」

自民党と公明党は、理念で結び付いたわけではないのです。笑止なことに野党共闘は野合だと自民党と公明党が言っていますが、自民党と公明党以上の野合はありません。1994年の自民党の公明党批判を読み返してみれば、「自民党と公明党以上の野合はない」ことがよく分かります。    佐高信

自民・公明連合こそ「野合」の名にふさわしいと思う。あまり資料はないが、ネットから情報を拾って時系列で並べておきたいと思う。

それこそ吐き気を催すような噂話のオンパレードだが、はっきりした根拠のないものは省略する。肝心なのはそこではなく、これらのキャンペーンで創価学会がねじ伏せられ、「野合」させられ、自民党の(と言うより権力の)いうがままの存在となってしまったことだ。ここから「下駄の鼻緒」の歩みが始まる。

公明党歴史
http://www.nippon.com/ja/currents/d00145/?pnum=2 より

1992年(平成4年) 竹下派(経世会)の分裂。小沢派が自民党を出る。

1993年(平成5年) 総選挙で自民党が大敗し過半数割れ。これに代わり細川連立内閣が成立。公明党は小沢新党とともに細川連立政権へ参画する。

10月 自民党、予算委員会で創価学会幹部の証人喚問を求める。

11月 自民党内に「民主政治研究会」が作られ、集中的に創価学会攻撃計画を検討。

選挙の前後から自民党は反創価学会キャンペーンを開始する。

矢野元公明党委員長が文藝春秋に手記を発表。創価学会の脱税を指摘。これに合わせ、渡辺美智雄が、「自民党はかつて国会で法案を通すために創価学会の脱税もみ消しをした」と発言。

1994年(平成6年)

2月 自民党内の勉強会として「憲法20条を考える会」が設立される。細川連立内閣と創価学会の関係を政教一致であると批判。

会長には亀井静香(のちに白川勝彦に交代)、幹事長に島村宜伸、事務局には安倍晋三も加わる。

5月 自民党「憲法20条を考える会」のイニシアチブで「信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会」(略称:四月会)が設立される。公明党に批判的な宗教団体や有識者が結集。

設立総会には、自民党の河野洋平総裁・社会党の村山富市委員長・新党さきがけの武村正義代表の3人が出席。
代表幹事に俵孝太郎。宗派としては霊友会、神社本庁、立正佼成会などが加わる。

細川政権のもとで小選挙区比例代表並立制が導入される。自民党もこれに賛成。

7月 細川政権が佐川急便問題で崩壊。これに代わり村山を首班とする自社さ連立政権がスタート。

12月 新進党が創設される。公明党は解散し「公明新党」と「公明」に分党。このうち公明新党が新進党に合流。

1995年(平成7年)

4月の地方選、7月の参議院選挙で自社さ勢力は後退。新進党は参院比例区で第1党となる。

危機感を抱いた自民党は池田大作の証人喚問、池田のレイプ疑惑を追及するなどのキャンペーン。

1996年(平成8年)

1月 自由新報での「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を開始する。

連載は内藤国男と俵孝太郎が交代で執筆。97年10月まで都合82回にわたる。
「権力の中枢に巣食う宗教家至上主義集団」、「宗教の〝衣〟で隠す悪徳商法」、「使命忘れ沈黙続ける〝大〟新聞」など過激な題の記事が相次いだ。

1月 自社さ政権、首相を社会党の村山から自民党の橋本に交代。

2月 『週刊新潮』が女性信者の手記を掲載。

4月 自由新報、「池田会長の女性信者レイプ疑惑」を4号連続で掲載。池田会長の証人喚問を要求。一般メディアでも相次いで創価学会批判が展開される。

信平裁判: 創価学会北海道婦人部の幹部女性が、3度にわたり池田大作に暴行されたと訴える。率直に言えば眉唾訴訟。

総選挙で自民党が勝利する。選挙に敗れた新進党は権力争いや自民党からの引き抜き工作で混乱。

「信教の自由を守る」会が作成した創価学会批判のビラが、5千万部を超えて配布された。作者は内藤国夫であった。

1997年(平成9年)

密会ビデオ問題が浮上。創価学会幹部が山口組系暴力団に「亀井静香を黙らせて欲しい」と依頼したとされるが、その『ビデオ』そのものは表には出ていない。

社会党も選挙で後退したことから、自民党は公明党との連立に向け工作を開始。

9月 自民党都連と公明が会談。狛江市、足立区などの共産党首長打倒で共闘していくことで一致。

10月 社会党の連立離脱の動きに合わせ、自民党は「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を休止。憲法20条を考える会、四月会が活動を停止。

1998年(平成10年)

4月 創価学会、自由新報の「池田レイプ疑惑」報道について、2年後に突如自民党に抗議。自民党はただちに謝罪。

7月 参議院選挙。消費税増税で大敗した自民党は、橋本内閣が総辞職。公明党は新進党と分かれ独自で臨む事を決定。この後新進党は小沢VS反小沢の抗争で勢いを失う。

8月 竹下元首相が創価学会会長の秋谷栄之助と密かに会談。創価学会との連携に動く。

11月 分裂していた「公明」と「新党平和」などが合流し、「公明党」を再結成。このとき公明党は「自公連携、自公連立は考えていない」と表明。

11月 自自連立が成立。

11月 自民と公明が手打ち。公明は沖縄知事選で革新支持をうたいながら、密かに自民候補に票を集める。

1999年(平成11年)

6月 小渕首相、公明党との連立への意向を表明する。これを受けた公明党は、党大会において連立政権への加入を決定。

9月 自民党総裁選。公明との連立に反対する加藤、山崎が立候補するが、大差で敗れる。

10月 公明党、小渕内閣との自自連立に正式参加。自自公連立政権が成立する。

2000年(平成12年)

4月 自由党が連立を離脱(扇千景派は政権に留まる)、自公連立政権が成立。

「憲法20条を考える会」が活動を停止。会員の一部が「政教分離を貫く会」を結成。白川勝彦らが代表となる。

2001年

「4月会」が正式解散。


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