鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年06月

という記事で、下記のごとく記載していた。

一応、日本人起源論はこのくらいで打ち止めにしておこう。
1.縄文人・弥生人・渡来人のうち、弥生人=渡来人という判断には、依然として疑問が残るが、基本的には受け入れる。
2.埴原の縄文人=南方系説は、その後の知見によりほぼ否定された。縄文人は樺太方面から南下した人々だ。
3.縄文人と同じ北方由来の人々が、揚子江流域に広く分布していた。
4.BC1000年以降、弥生系と同じ新たな北方系が東アジア全土に南下した。旧北方系の人々は辺境に追いやられた。
5.日本においては一方的に駆逐されるのではなく、かなり多くの縄文人が弥生系と混交した。
6.米作りの伝播は、これらの流れとは別に考えなければならない。

これについてはいまの知識からすると、相当誤りがある。

書き換えをご容赦願いたい。


1.縄文人・弥生人・渡来人という分類は誤解を生むので、渡来人を「天孫系」と表現する。「天孫系」についてはその存在もふくめて未確認であるが、作業仮説としては有効である。この「天孫系」は弥生人とは明らかに異なる。

2.縄文人の南方起源説はあらゆる証拠が否定する。縄文人(東北出土)のDNAに南方系と共通の要素がふくまれるのは、それが南方系と分かれて間もない古い時期(数万年前)に日本に来たためとされる。

なお沖縄で出土した港川人は南方から北上したものの可能性が高いが、それは縄文人には繋がっていない。

3.縄文人はマンモス・ハンターたる旧石器人と直接つながっており、それは日本海を取り巻くように広範に生息していた。

前期・中期の縄文人はサハリン経由で南下したと思われ、少なくとも関東甲信越まで進出した。

この縄文人は大和政権以後徐々に制圧され駆逐されていったが、なお東北地方の人々のDNAに痕跡を残している。

4.これとは別に朝鮮半島に住む縄文人が、海を渡り九州から近畿にかけて広がった。これを、北方から渡来した縄文人と分けて晩期縄文人と呼ぶ。約4千年前のことである。

晩期縄文人は海洋民族であリ、朝鮮半島との交易ルートを確立するいっぽう、西日本各地に陸稲づくりの技術を持ち込んだが、にも関わらず基本的には漁労・採集の生活様式を維持していた。

5.東シベリアには縄文人に続く第二波の移住があった。彼らはバイカル湖周辺より南下し長江流域まで達した。そしてそこに水田耕作を基礎とする長江文明を築いた。これが1万年前のことである。

この文明は西は四川省、南は昆明省から北ベトナムまで広がった。彼らの一部は山東半島から黄海をわたり朝鮮半島に達した。彼らは先住していた晩期縄文人と混住し、後の三韓地域に水田耕作を広げた。

さらにその一部は晩期縄文人の手引で北九州にわたり水田耕作を開始した。これが3000年前、紀元前10世紀のことである。

これが弥生人であり、その起源は長江流域である。また晩期縄文人との混住という点では、朝鮮半島南部と同じ人種構成であった。

6.5千年前に東シベリアに第三波の民族流入があった。彼らは黄河上流から、また満州から南下し黄河流域を確保した。そして長江文明を取り入れつつ、武力的にはこれを圧迫し、中原全体へと支配域を広げた。

かつて長江文明を担った長江人は、南方、西方、そして東方へと追いやられた。いま長江人が生息するのは昆明、山西、トンキンデルタ、そして日本である。

7.中原に進出した北方系第三世代とはやや位相を異にする人種が南満州から朝鮮半島北部に進出した。彼らは縄文系の朝鮮先住民を駆逐し、弥生人を半島の南端に追い詰め、これを支配した。

これを天孫系という。百済を支配したのは遼東出身の扶余族であるが、いくつかの系統に分かれていたであろうと思われる。

彼らはかつて縄文人や弥生人が渡ったのと同じように海を渡り、九州を支配した。これが紀元前後のことと考えられる。もし兵士集団たる彼らのDNAが解析できれば、それはY染色体に強く現れ、ミトコンドリアDNAには反映されないだろう。

以上の経過をまとめると、日本人の主流派の起源は晩期縄文人と弥生人の混血であり、さらにこれに天孫系の血が混じっているものと考えられる。

北東部においては、蝦夷と呼ばれた中期縄文人が主流派の日本人に呑み込まれたが、DNAのなかにその痕跡を残しているものと思われる。

沖縄も北東部とほぼ同様と思われるが、先住者と流入者の割合は異なるのかもしれない。

アイヌはこれらの概念とはまったく異なり、かなり遅くなってから、寒冷のために無住の地となった北海道に流入してきた種族である。北海道の一部を除けば、日本人の遺伝子の形成には関与していないものと思われる。

随分と違う結論になってしまったが、これが現在の私の見解である。2年くらいしたらまたころっと変わるかもしれない。

「えっ?」と思ったがたしかに同級生の高原くんだ。
「だから比例は共産党」という連載インタビューに堂々と写真入りで載っている。
尼崎の医師会長だそうだ。もっとも「前」だが。
談話を見ると、「正直言って共産党を改めて見直しました」と言っている。
この人、優しい顔しているが、学生時代はメットかぶっていた人だ。
2年前に久しぶりに同窓会に顔を出して、どういうわけか二次会は彼と堺の荒木君と3人で飲むことになった。
荒木君はバリバリの活動家で、いつもツメツメされる関係だった。だから相変わらずだったのだが、高原くんは意外だった。
至極まじめに日本の医療のこととか政治のこととか考えていて、話がどんどん弾んだ。
今回の赤旗談話も、生真面目なほどに語りたいことを語り尽くしていて、「もうちょっと話題を絞ったら」と言いたくなるほどだが、多分性格だろう。
記事を読むほどに同窓会の時のことが思い出されて、何気なしに愉快な気分だ。そして今日も酒が進む。

昨日の朝日の記事「野党共闘、距離手探り 1人区、民進と共産の態勢に温度差 参院選」を見ると、野党共闘が実現して行った過程がよく分かる。

1.当初、民進党は共産党と共闘など眼中になかった

それが、最後まで共同が難航した佐賀の例で明らかだ。これが共闘における縄文期の遺跡だ。

県連は共産党との共闘に反対だった。5月になって、ようやく候補が決まったが、共産党との共闘は拒否した。共産党の推薦も拒否した。

面目丸つぶれの共産党は、しかし市民グループの仲介で独自候補を取り下げた。しかし出陣式には、共産関係者は出席せず、祝電などもなかった。

共産党の出馬辞退を辛くも実現した市民団体は、24日に民進、共産議員の揃い立ちの街頭演説を行った。しかしこれについても県連は「あくまで市民連合の呼びかけに応じたもの」と共産党排除の方針を崩していない。

ある意味で、野党共闘はこういう出発点から始まったのだといえる。

2.市民の圧力で、やむを得ず推薦を受けるようになった

これが野党共闘の弥生時代段階でその遺跡が岐阜県である。

岐阜では民進党と連合が肉離れを起こした。民進現職候補を推すことで民進・共産・社民3党が合意し、市民団体を立ち上げた。

ところが連合岐阜が共産党の推薦に反発。告示の間際になって推薦だけは受けることが決まった。しかし選挙運動は連合も加わる選挙対策本部と、共産が参加する市民団体が別々に展開することになった。

連合はいまも、「一緒に選挙をやる県民というだけだ」と共産党を突き放している。

3.推薦を拒否したが、その後選挙協力を受け入れるようになった

山形県選挙区は推薦なしという点では岐阜より遅れていたが、その後の展開の中で岐阜を追い越してしまった、これは古墳時代の遺跡に相当する。

ここでも民進党と連合との肉離れが起きている。4月に民進・社民・共産が選挙協力を確認した。ところが連合山形が「自民支持層からも支持を得ないと勝てない」と言って、共産党の推薦を拒否した。共産党は外からの「全面支援」に留まることを余儀なくされた。

ところが、与党から「野合」との批判が強まったことが逆に野党連携を促した。

公示翌日には民進や共産など野党4党が、24項目の政策確認書を締結するという本格的な共闘に乗り出したのである。

4.民進候補を共産党が推薦し、政策協定を結ぶ

共産党が独自候補を下ろす大義名分を民進党側が与える

民進党は共産党の推薦を受け入れ、県レベルで安保法廃止や安倍政権の打倒などを盛り込んだ政策協定を結んだ。

まだ統一候補には至っていないものの、両者が車の両輪となって選挙運動を展開する仕掛けが実現した。これは律令制時代の遺跡である。

ここから野党共闘の名にふさわしい野党連合の時代が始まっていく。奇しくもそれは「国のまほろば」たる奈良県であった。

5.統一候補を擁立し政策協定を結んで各党が平等の立場で参加する

これが近代の姿である。

それは岩手、山口、熊本などで実現している。とくに熊本での統一候補擁立の経験は全国の「野党は共闘」の動きを大いに励ますものであった。

「野党は共闘」の運動は半年の間にこれだけの行程を駆け抜けたのである。振り替えてみるとすごいものだと思う。

共産党がベタで折れたのではない。民進党以外の政党、市民団体が一丸になって地方の隅々まで「野党は共闘」の風をふかせ、民進党と、とりわけ連合幹部の激しい抵抗を鎮めつつ前進してきたのである。

この経験はいずれぜひ教訓化してほしいものだ。


いつやるか? 今でしょ」の林修さんのブログに

「野合」でいいの?

という記事があった。面白いので抜粋紹介しておく。

林修

…どこぞの宰相殿が、結集した反対勢力を表して

「野合だ」

とかおっしゃったとか。思わず辞書を確認しましたよ。

広辞苑には「男女が婚儀を経ずに通ずること。密かに結びつくこと」とあります。原義は男女が「野原で会合すること」です。ディープでしょ?

いろいろ調べてみると、「バラバラの集団の寄せ集め」といった意味を認めているものもあるにはありましたが、基本的には広辞苑に示されたような意味で用いる言葉です。

飲み屋で愚痴っているときに、思わず口から出てしまったというならともかく、公の場で言う言葉としては、いかがなものでしょうかねえ。もともと、豊かな品性を感じさせる方ではないにしても、さすがにこれはどうでしょう。

これが「烏合」なら、カラスの集まるように規律もなく、統一もなく集まること(広辞苑)であって、特に品の悪い言葉でもありません。

しかし、もし誤用であれば、今度は知性の問題ということになって、いずれにしてもあの方の資質に疑問を感じざるを得ないという結論になってしまいます。(もっとも、そんな結論はとっくに出ているという声も聞こえてきそうですが)


流石に有名人でタレントでもあるので、抑えたタッチで表現している。

もっと露骨に言えば、野原でマグワイ(青カン)することであり、しかも集団で誰かれ構わずやる(乱交)ことだ。

野党共闘=野合論を野党の宣伝として利用するべきだ

自民党はたいへん良い問題提起をしてくれている。

今回の選挙は憲法と戦争法を問う選挙だ。それなのに自民党は憲法など争点ではないと話をそらし、野党共闘は憲法を口実にした野合だと叫ぶ。

ところで「野党連合が野合だ」というのは、「野党は共闘してはいけない」と言いたいからだろう。これに我々が反論するということは、我々に[野党共闘とは何なのか」を説明させてもらうための絶好の機会を与えてくれるものだと思う。

これは大いに「売られた喧嘩を買って」いかなければならない。


ただしそれは、いまの自民党政治をなんとかしたいと思っている人向けの議論だ。(「野合」という下品な罵り言葉の大合唱については、すでに厳しい批判が相次いでいる)

それは「いま自民党は野党連合が野合だと批判していますが、あなたはどう思いますか」という問いかけから始まるべきだろう。

まずは冷静に現状を見るべきだ。与党が圧倒的だ。なんだってできる。現に何だってしている。

誰かが「野党共闘は緊急避難」と言っているが、たしかにそういう面はある。とりあえず憲法改悪という災難を避けるために体育館に集まったとすれば分かりやすい。

私たちをいま支配しているのは、一方では危機感であり、一方では無力感だ。しかし今は危機感が無力感を上回っている。だから、なんとかなるならなんとかしたいと考えている。こういう時は保守も革新もなくおたがい助け合うものだ。そうやって危機感を共有し、無力感を克服するのだ。


これが議論の出発点だろう。

そこから「野党は共闘」という叫びが生まれてきた。なぜならどう考えてもそれ以外に道はないからである。

最初、それは到底実現不可能と考えられてきた。民進党の中にきわめて右翼的な部分がいて、さまざまな形で妨害するだろうと見られていたからである。

それが当初の枠組みとはずいぶん違うとはいえ、選挙協力まで持ち込んでしまった。それは市民(「市民連合」)の圧力以外の何物でもない。

シールズの奥田君はいみじくも、「市民が野党共闘を呼びかけても無理だって言われたけど、でも、できちゃった」と言っている。市民の圧力以外に何かあったろうか。

それがなければ、共産党が土下座して頼み込んだとしても、民進党は首を立てにらなかったろう。なぜなら民進党は共産党と組めば票が減るくらいにしか考えないからだ。それがこれまでの常識でもあったのだ。

民進党右派もそれなりの計算はしたはずだ。そして今回の選挙に限っては、野党連合の枠組みで闘ったほうが票が増えると判断したはずだ。

こうして成立したのが野党連合だ。

だからそれは政党連合であって政党連合ではない。それは野党連合という形を借りた市民連合でもあるのだ。

しかし野党が連合したからといっても、それだけでは勝てるわけがない。そこには勢いが必要だ。今のところまだ、さほどの勢いは感じられない。

自民党から、野党連合は野合だと言われた時は、少々時間はかかっても、上記の経過をるる説明するしかない。

それは巧まずして野党連合の正しい宣伝となる。だから「野党連合は野合だ」と言われたら、「しめた」と思わなくてはいけない。

それにしても自民党は、政権党としてもっと鷹揚に構えていてもいいはずだ。恐れすぎているのか、それともそれが安倍首相のやり方なのか。「野合」という言葉が下品だということさえ知らないのか、吐き気がするくらい下品だ。

クニの発生の問題に入る前に、一つ算数の問題として片付けて置かなければならないことがある。

弥生人は朝鮮半島南部に渡来した長江文明人と考えられる。それがどのくらい日本に渡来すれば日本人のゲノムの2/3を占めるまでに増加できるのか、それは「自然増」で説明できるのかということである。

急速な増加は多数の渡来人を予想させるが、その場合おそらくは先住民である晩期縄文人との生き残りをかけた闘いが引き起こされるであろう。しかし考古学的には弥生VS縄文の闘いの痕跡は証明できない。

それは弥生人が平和的であったというような「神話」では説明できない。歴史はむしろ弥生時代が弥生人同士の戦乱に継ぐ戦乱であった可能性を示唆している。とすれば、弥生人の渡来はそれほど多くはなく、比較的少数の弥生人が定着する中でその人口をねずみ算的に増加させ、縄文人との住み分けを行いつつ、日本全土に拡散していったと考えるべきではないだろうか。

晩期縄文人の数は多くても10万人前後と考えられるから、紀元前500年辺りから渡来し始めた弥生人がどのくらいの数で、どのくらいの年数をかければそれと拮抗する、あるいは上回るほどの人口になるかを推計すればよいわけである。それで説明が可能なら、朝鮮半島側のプッシュ要因をあえて強調する必要はなくなる。

渡来者の数をX人とする。一つの夫婦が40年生きるとする。そしてその間に6人の子が生まれ、4人の子供が育つとする。40年経った時、夫婦は死ぬが4人が育ち結婚する。つまり40年で人口は2倍になる。80年で4倍、120年で8倍になる。弥生中期のトバ口は紀元前200年ころ、つまり300年の間この関係が続けはどうなるかという計算である。300÷40=7.5だから2の7.5乗、イコール200倍である。逆算すると10万人の200分の1,すなわちX=500人が渡来すればOKである。

自信がないので40年周期にしたが、生殖可能年齢を20歳とするなら、この倍のスピードで人口が増加するよう設定するべきかもしれない。

水田栽培は採集生活に比べればきわめて労働集約型生産システムであるから、人口の著増を必要とするが、自然の運命に対しより高い自立を可能ともする。まさに「産めよ、増やせよ、地に満てよ」の世界であり、縄文の生活とはまったく異なる次元にある。

2つのウクラード社会が並行して進展すれば、人口的には弥生式生産様式が凌駕するのは当然であり、そこに戦闘とか民族浄化などの概念をあえて差し挟む必要はないのである。

ということで、大規模な民族の移動なしに弥生人の大規模進出を説明するのは、算術的にはまったく困難ではない。

弥生時代の王墓(北九州)

考えるほど変な名前だと思うのだが、大和に巨大な前方後円墳が建設された時代を「古墳時代」と呼んでいる。

それは決して「古く」はない。すでに弥生時代の前半、紀元前200年ころから墳墓は出現しているのだ。北九州の墳墓こそ「古墳」というべきで、近畿の墳墓は「新墳」と言うべきだと思うが。

しかも北九州の古墳は紀元ゼロ年前後の話なのに、考古学的な考察が進んでいて、50年刻みくらいで発展の経過が追えるという。

ただ、武末純一さんの文章は、初心者にはかなり読みにくい。

1.考古学者の時代区分と西暦年数の対応

まず考古学者が使う時代区分を覚えないと、時間感覚が頭に入ってこない。これをまず頭に叩き込んでおこう。

弥生時代の大区分は前期、中期、後期である。前期がいつから始まるか、縄文晩期とどう重なるかは前の記事で触れた。しかし国の成立に関してはこれは関係ない。視野に入ってくるのは前期の末からである。

大体のところであるが、紀元前150年が前期末と中期初頭を分ける目安とみられるようだ。したがって紀元前200年から150年までの50年間が前期の末期と考えられる。

次に中期と後期を分ける目安は西暦0年とみられる。ただもう少し後ろに持ってくる人もいるようだ。一応、中期は紀元前150年に始まり、紀元0年までの150年間と考えられる。これが、期前半、中期後半分けられる。中期の前半と後半の境は紀元前100年となるが、これももう少し後になるかもしれない。

後期は前半と後半にわけられ、その境は紀元100年ころと考えられるが、クニの成立の話の視野からは遠ざかる。

以上を表にしておくとこうなる。

BC400~BC200

弥生早期

BC200~BC150

弥生前期前半


BC150~BC100

弥生前期後半

多鈕細文鏡、銅剣・短鋒の細形銅矛・銅戈

BC100~BC50

弥生中期前半

大型甕棺の出現、長鋒の細形銅矛・銅戈

BC50~AD0

弥生中期後半

楽浪郡由来の前漢鏡

AD0~AD100

弥生後期前半

新~後漢前期の鏡

AD100~200

弥生後期後半

 

AD200~250

弥生終末期


これだけ時期が細分化できるのは、主として墳墓の規模と様式、副葬品の変遷、さらに墳墓を取り巻く周辺集落の考察によるのであり、これらの評価は考古学的推論のもたらしたものである。ただこれは一つ一つの墳墓の相対的な前後比較の積み上げから構築されたものなので、積み上げた積み木細工のようなもろさがある。

とにかく2千年も前の墓が、50年刻みで順序立てられるというのはすごいことだ。これは裏返せばこの時期(とくに紀元前200年から紀元0年の間)に墓=権力者の支配のあり方が激変したことを意味することになる。

弁証法的に言えば、量的変化が質の変化をもたらしたと言えるし、史的唯物論的に言えば、生産力の発展がそれにふさわしい上部構造を欲したとも言える。それを分析していかなければならない。


途中ですが、以下は伊東義彰さんのページからの抜粋です。

1.北九州 主要王墓の一覧(古い順)

時期

遺跡・王墓名

BC200前後(前期末~中期初) 吉武高木(早良川)

BC150前後(中期前半)

宇木汲田(唐津市宇木)

BC50前後(中期後半)

三雲南小路(前原市三雲)

AD0前後(中期後半~末)

須玖岡本(春日市岡本)

AD100前後(後期中頃)

井原鑓溝(前原市井原)

AD200前後(後期後半~末期)

平原(前原市有田)

なお、追記では須玖岡本がもう少し時代を下る可能性を示唆している。

2.紀元前100年ころに大変革

一覧を示した上で伊東さんは次のようにコメントしています。

この代表的な六つの王墓の副葬品を比べてみたとき、吉武高木、宇木汲田とそれ以外の王墓との間にはっきりと違いのあることがわかります。
その違いは、銅鏡 の生産地と数において特に顕著に現れています。吉武高木と宇木汲田が、朝鮮系の多鈕細文鏡一面ずつしか副葬していないのに対し、その他の王墓は中国鏡を20面~40面も副葬しているのです。

そしてこの大変革が紀元前100年ころを画期としていることを強調している。

伊東さんはそのことによって、この大変革が朝鮮半島の激動にともなって生じた可能性を示している。すなわち、紀元前108年の漢の進出による衛氏朝鮮の滅亡と楽浪郡設置である。

つまりこの時期に朝鮮半島から逃れた、衛氏朝鮮系かそれに類する北方系の集団が弥生社会の支配権を握ったのではないかとするのである。

そうなると(つまり汲田と南小路の断絶を絶対的なものとすると)、話はこうなる。

紀元前2千年ころに朝鮮半島からの第一次渡来があって、これが晩期縄文人社会を形成する。これに紀元前千年ころから第二次渡来としての長江文明人が水田耕作をはじめ、やがて晩期縄文人を圧倒して弥生式の農耕社会を形成する。

そして、紀元前100年から50年にかけて第三次の渡来があって、弥生社会の上に君臨する。朝鮮北部出身の第三次渡来人は、長江人に対して漢の影響を強く押し出すことで支配者としてのアイデンティティーを示した。

ここまでは私も積極的に受け入れる。それは私の考える「天孫族」と大筋で一致すると思う。ただ、これはあくまで楽しい空想の世界である。

「天孫族」の出自については、その存在そのものをふくめて依然として客観的な確証に乏しい。さらにそれがニニギノミコトとか海彦・山彦の話にスライドしてくると、それまでの論証が説得力を持つだけに、「ちょっと待った」を掛けたくなる。

まずはもう少し丁寧に、王墓だけではなく遺跡全体を評価しながら議論を詰めていくべきだろうと思う。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

しかし現実の姿としては、EUはそのようにかっこいいものではない。むしろ債務国にとっては「EU帝国主義」というか、諸悪の根源とすら映るところがある。

そのへんも書いておかないと不公平だろう。

EUの“PIGS”対応の諸問題についてはすでに明らかにしているので、そちらをご覧頂きたい。

総括すると以下のとおり

1.言うまでもなく現在の社会・経済システムの最大の問題は2つである。一つは国民の貧困化であり、その直接の原因は果てしなく続く緊縮財政政策である。もう一つは国民が貧困化する一方で所得格差が拡大し、超富裕層が世界の富を独り占めしていることである。

2.EUはこれに対してどういう態度をとってきたか、そのいずれをも推進する方向ではなかったか。企業側の利益を優先し、環境・安全基準や労働者の権利を二の次にしてきた。金融・財政危機にあたってはPIGS諸国の民衆に犠牲を強いることをためらわなかった。

3.そうやってドイツだけが一人勝ちするようなシステムは、他の国が掛け金を払えなくなったとき瓦解する。結局は共倒れに終わるのではないか。

4.そのようなEUであるが、それを民衆目線で変革するような展望を持ちつつ残留するのであれば、残留には意味がある。

5.イギリスでは(そしてEU加盟国の殆どで)、「EU」は緊縮財政と富裕層優遇政策を合理化するための外圧として利用され、錦の御旗となった。これではEUが民衆いじめの象徴と受け止められても仕方ない。

6.「脱ければこんなに恐ろしい未来が待っている」と散々脅されつ続けてきた民衆は、「残ればさらに恐ろしい未来が待っている」と考えるようになった。

こんなところではないか。

なお離脱の世論にはTTIP交渉の動向も関わっているようだが、今のところコメントするだけの資料を持ち合わせていない。


明日の東証では株価暴落は必至だ。政府系ファンドは必死で買い支えるだろうが、怒涛の売りにはかなうわけがない。
前から言っていたが、株価1万4千円がギリギリだ。ここを切ると株価は崩壊する。
「こういう時こそ自民党」と言っているバカが居る。
「こういうふうにした」のは自民党ではないか。アベノミクスこそ最大戦犯だ。
株価が崩壊するのは別に構わない。それで損するのは富裕層だ。ドル建てでケイマンに溜め込んでいる連中も莫大な為替損を被るだろう。それも知ったことではない。「ザマァ見ろ」の世界だ。
しかし一番泣きを見るのは、年金を相場に突っ込まれてパァになった草の根の日本国民だ。「年金モラトリアム」もありえない話ではない。
いっぽうで、内需に焦点を当ててコツコツとやってきた企業にはチャンスかもしれない。シャープも買い戻されるかもしれない。
いづれにせよ間近に迫った参議院選挙、日米同盟一辺倒、大企業本位の思考停止状態から一歩ぬけ出すチャンスとしなければならない。

トイレの男女別がなくなる?

別に差別主義者ではないと思っている私だが、流石にこのニュースには驚いた。

単独のトイレ、男女の区別は禁止-NYが制度化 2016 年 6 月 22 日のWSJ

というもの。

ニューヨーク市では来年1月1日から、共有スペースのないトイレはすべて「ジェンダーニュートラル(性別不問)」にすることが義務づけられることになった。市議会が21日、共有スペースのないトイレに男女別の表示を禁止する条例を47対2の賛成多数で可決したためだ。

デブラシオ市長は“自己の性認識に基づいた公衆トイレ利用”のため、2200カ所の公衆トイレに対して必要な対応を行うことを義務付けた。

「からだと心の性が一致しないトランスジェンダーの人たちにとって好ましい環境を作る簡単な方法だ」とされているが、ポリティカル・コレクトネス(政治的・社会的に差別や偏見がないこと)が度を超した一例だとの批判の声も出ている。

これだけでは良く分からないが、WSJは相当気合を入れてこの問題を報道している。

例えばノースカロライナ州では、出生証明書に記載された性別に応じて公衆トイレを使うよう義務付けるという「反動」的な法律が、成立している。

何故この法律が成立したかというと、この州法に先立って、同州最大の都市シャーロットの議会が、男性用あるいは女性用を自己の性認識に基づいて利用できるとする条例を可決したからである。

一方で明らかに憲法に違反すると思われるような例も出てきた。

テキサス州ヒューストン市の住民投票では、性別による差別の禁止をゲイ(同性愛者)やトランスジェンダーにも広げる条例を圧倒的多数の反対で否決している。

言い方はややこしいが、つまるところ、ゲイやトランスジェンダーに対する差別は許される、差別しても構わないということだ。この論理を拡大していけばリベラルもムスリムにも差別が許されることになる。

しかしこれは、そもそも住民投票にかけること自身がおかしいので、これでは下からの民主主義破壊になってしまう。

また、いくつかの州では「宗教の自由」法の制定が検討されている。これは宗教の自由を口実にして、企業が宗教上の観点から同性愛者と働くのを拒否することを可能にしようというもので、もはや憲法もへったくれもない。

学生の頃、学校には女子トイレが圧倒的に少なく、女子トイレを作れという女子学生の運動が盛んだった。

トランスジェンダーの選択の自由は、その先の段階にある話なのだろうが、やはりピンと来ないところはある。

むくつけき男が「私は女よ」と言って女子トイレに入ってきたとき、他の女性にはそれを拒む権利はないのか。

答えは「ない」ということだ。そもそも女子トイレという概念がなくなってしまうからだ(ただし共有スペースのないトイレの場合)。

こういう独善と押し付け倫理の傾向はアングロサクソンに特有なもので、かつての禁酒法、いまが盛りの禁煙運動などと軌を一にするものだ。(と、密かに私は思う)


EU離脱論に関して、日経新聞(2016/2/20)に比較的まともな解説が載っていたので紹介する。

1.EU離脱論の2つの背景

ひとつは2004年にEUに新規加盟したポーランドなど東欧諸国から英国へ流入した移民の急増だ。

08年のリーマン危機後に雇用低迷が深刻になると、低賃金で働く移民が雇用を奪っているとの不満が蓄積した。昨年以降の難民危機もEU批判に拍車を掛けている。

もうひとつはユーロ危機への対応に英国が巻き込まれたことへの不満だ。EUは危機の再発防止のために、金融監督の一元化など統合強化の動きをみせてきた。

以下略


というわけで、2つの背景はまったく異なっている。ひとつ目は国民大衆の不満と不安だ。

ふたつ目は、シティの投機家たちにとっての不満だ。EUが金融資本への規制を強化するのは、ロンドンのシティー(ユーロマネー市場)を生命線とする投機家にとっては大変危険な兆候である。

1.国民大衆の不満と不安

ひとつ目の理由については大変よく理解できるし、同情もする。ただその選択肢は正しいとはいえない。なぜなら敵を間違っているからである。

資本の流通のみ自由化していけば、先進国には富が途上国には貧困が蓄積する。そうすれば途上国からの人の移動が起きるのは当たり前である。

先進国は富を輸出し途上国は貧困を輸出するのである。これが難民問題(とくに経済難民)問題の本質である。

ただ、この傾向があながち悪いとばかりは言い切れないので、長い目で見ればそうやって世界の富は平均化し、世界の人々があまねく豊かになっていけるのだ。

問題は2つある。

一つはそのテンポだ。資本の移動は今日のハイテク社会ではほとんど瞬時に行われる。しかし人の移動には文化や習慣、社会の柔軟性の問題もあるから一朝一夕には行かない。場合によっては複数世代をまたいで初めて可能になる。

そこにはコンセンサスを基礎とした非商業的な息の長い計画が必要となる。

もう一つは今のグローバリゼーションが貧富の差の拡大を伴って進行していることである。それは投機資本や金融資本の横暴がまかり通っているためである。

労働問題や雇用問題は、すべて大衆の貧困問題に関係している。それは生産力が低下したためでなく、生産の果実をごく一部の富裕層が吸い取っているためである。

彼らから、奪われた金を取り戻さなければならない。EUから離脱するとかポーランド人労働者を追い出すことで済む話ではないのである。

2.ユーロマネー市場の不満

この記事で学んだこと、それはイギリスの支配層(の一部)が離脱の動きの陰にいることだ。

彼らサッチャリストがどのくらい本気で離脱を考えたかは知らないが、EU当局の動き、とくに規制強化を狙う動きには強い不快感を抱いている、このことは間違いないようだ。

この記事は2月20日のものだ。キャメロン首相が首脳会議で離脱不安を煽って見事成果をかっさらった時の記事だ。今や彼らは慌てふためき、声を潜めているだろうが、4ヶ月前までは離脱を囃し立てて、火に油を注いでいた可能性がある。

離脱の動きの背景にある、規制強化への嫌悪感。この問題はもう少しえぐりだしてもらいたいものだと思う。この点について、その後の日経の記事はどうなっているのだろうか。八十島記者に伺ってみたい。

下記もご覧ください


 上海年表を作ったが、それだけは面白く無い。やはり一度読み物の形にして置かなければならないだろう。

上海租界の成立

1842年にアヘン戦争が終わった。新帝国は屈辱的な敗北を被った。その結果華中・華南の5つの港を開き、欧米列強との交易を迫られた。

同時に5つの港に租借地を置くことを認めさせられた。

当時上海は県庁が置かれただけの田舎町であったが、長江の河口に位置することから列強によって特別な重要性が置かれた。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な居留地であった。ただし、その後拡張を繰り返し約10倍に拡大している他にアメリカ、フランスも租借地をおいた。

上海は列強の中国本土への進出拠点であるだけでなく、中国の海外に向けられた貴重な門戸となった。

太平天国の乱と治外法権の確立

開港後10年目に、太平天国の乱が起き、上海に迫る中で上海租界はその性格を大きく変えていく。

太平天国も、その一派で上海を包囲した小刀会も、租借地首脳に安堵を保証した。しかし清国の庇護が受けられないもとでは、租借地を自ら守るべく武装自衛が必要となった。

英・米・仏は共同した統治機構を作り、武装部隊を組織した。それぞれの国の租借地は「共同の租界」として自立した。これにより租借地の自治権は大いに高まった。(フランスはイギリス人の支配を嫌い後に離脱し、独自の租界を形成)

また戦争を避けて難民が一挙に流入したため、当初は長崎の出島のような外国人居留地に過ぎなかった上海租界は、中国人の混住する一つの街のような存在となった。

国際都市「上海」の誕生である。

20年後の1862年、今度は太平天国の本隊が上海を攻めてきた。これは事実上の戦争であったが、上海の共同租界軍は半年に我々たる攻撃を持ちこたえただけでなく、逆に太平天国に甚大な損害を与えた。敗れた太平天国は2年後に崩壊する。

上海が東洋一の大都市に

滅亡した太平天国に代わり北京の清朝政府が戻ってきた。上海の責任者となったのが日清戦争の談判でも有名な李鴻章である。

李鴻章は上海を窓口として文明開化と富国強兵策(洋務運動)に乗り出した。上海租界は列強の窓口として温存されただけではなく、富国強兵のための技術導入の門戸として重視された。

中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設されるなど、急速に上海は中国の最先端都市として発展を遂げる。

これに呼応して列強も本格的な資本注入を開始する。まず香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設し、欧米の金融機関が追随した。

郵便、電報、定期便、鉄道などの交通・通信インフラが整備された。電気が通じ水道が給水を開始した。それらは常に日本の文明開化に一歩先んじていた。東洋初、東洋一などの形容詞は上海のためにあったといえる。

日本の維新政府も列強の東洋における最大拠点たる上海にさまざまなアクセスを試みている。

すでに太平天国との戦闘さなかの62年6月、江戸幕府の雇った千歳丸が上海に来航している。この船には薩摩藩の五代友厚や長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が乗り込んでいた。

維新直後の明治6年には、岩倉使節団が米欧歴訪の後、上海の市内を見学している。定期船が運行されるようになり、三井・三菱が上海に支店を開設した。

ライバル日本は官民挙げての文明開化と富国強兵であった。千歳丸も、いま考えれば幕府も随分太っ腹だが、“オールジャパン”みたいな空気があったことの証だろう。

中国の場合はあくまでも封建的な北京の清帝国の枠内の改革に過ぎず、常に反発と揺り戻しがあり、決してスムーズなものではなかった。そこが上海が特殊な都市にとどまった最大の理由であろう。

サンクチュアリとしての上海

上海の統治を行っていたのは、いわば“居留民の自治会組織”である。ビジネスマンの自治組織としての性格を残したまま、それは軍隊・警察を持ち司法機構を持つようになった。

そして戦争のドサクサで混住が認められるようになってからは、中国人という“異民族”支配をも行うようになった。

それらを法文的に整理したのが69年の第三次土地章程である。それは①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②工部局の行政機能強化、③租界在住の中国人に対する代理裁判権を柱としている。

これにより工部局という、名前のとおりビジネスライクな、きわめて風通しの良い行政府が形成されたのである。

租界の行政府は去る者は追わず、来る者は拒まず、人間は氏素性を問われれず、他所で何をしたかではなく、ここで何をしたかで評価される。租界の存立基盤にかかわらないかぎり、ずべての人が「善良な市民」なのである。

日清戦争敗北の衝撃

清帝国はその後も負け続けた。アロー号戦争でイギリスに敗れ、清仏戦争ではフランスに敗れた。

それでも遅ればせながら軍の近代化に着手し、東洋の覇者としての意地を見せようとした。しかし94年の日清戦争は最後の誇りすら無残に打ち砕いた。

も体制内改革派の立場に立った皇帝が西太后のクーデターにより幽閉されると、はや頑迷固陋の北京政府に頼むものなしとの声が上がった。義和団の乱が起こり、北京に攻め込んだ。

義和団の乱が列強の介入により挫折すると、反北京の動きは華中、華南に拡大した。上海はその中心となった。

その運動はいまから見るとかなり奇妙なものだった。日本の幕末の運動は尊皇攘夷として始まりやがて倒幕・王政復古と富国強兵に収斂して行ったが、中国の革命運動はとにかくまずもって異人種である清王朝を打倒し漢民族の自立を勝ち取ることに主眼が置かれた。

攘夷はとりあえずは脇に置かれ、まずは自彊が目標となった。そこには反封建の思想も強く盛り込まれた。広い意味では反帝反封建であるが、かなり脇の甘いものであったといえる。

そしてそのモデルとされたのが、戦争の相手である日本であった。日露戦争に日本が勝利するにいたり、日本への幻想はますます広がった。知識人はこぞって日本へとわたり、日本を通して西欧思想に触れることになった。

30年後に始まる日中戦争のことを考えるとき、これは中国人民にとってある意味で不幸な出会いであったかもしれない。

秋瑾 反乱の狼煙

1907年、秋瑾は光復軍を組織し武装反乱を企てたが、捕らえられ斬首されている。

秋瑾は武田泰淳の筆により著しく異なるイメージで伝えられている。秋瑾は馬賊の頭目ではなく中国革命と女性解放のヘラルドとして正当に評価されるべきである。

彼女は清朝の名門の生まれであり、当時としては最高級の知識を身につけている。彼女は上海とその周辺の開放的雰囲気で育ち、北京で義和団の闘争を目撃し、婦人運動に目覚め、解放運動の戦士たらんと決意し、日本にわたり当時最高の女子教育の洗礼を受けた。

当時、東京は中国改革運動の震源地であった。そこで留学生運動の一方の旗頭として、武装蜂起もふくめ最も断固たる立場をとった。

たしかに当時の中国でとりうる唯一の戦略は武装蜂起以外になかった。それはその後の歴史が証明している。

果てしない議論を繰り返す留学生たちに突きつけた匕首の切っ先は、その象徴としての意味を持っていた。

学半ばにして上海に戻った秋瑾は旺盛な文筆活動を開始する。その一方で戦士の結集と教育に意を注ぎ、浙江省に武装組織「光復軍」を組織するに至る。

秋瑾は決してたんなる一揆主義者ではないし、孤立した陰謀主義者でもなかった。

時を同じくして東京の孫文は中国革命同盟会を組織して武装革命の準備にとりかかっている。そして秋瑾の死後5年後の1912年には、武漢の武装蜂起を引き金に辛亥革命が成立する。そういう怒涛の時代なのである。

残念ながら機が熟せぬままに陰謀が発覚し、刑場の露と消えていくのであるが、その思いはまさに中国の近代化を目指す流れの本流にある。

ここで押さえておきたいのは、秋瑾の運動にせよ辛亥革命にせよ、すべからく清朝末期の革命運動は上海を揺籃の地としていることである。それこそが上海が「魔都」となる所以であろう。

東洋一の大都会への成長

そのような中国の革命運動など知らぬげに、上海はますます殷賑を極め、東洋一の大都会へと成長していく。

共同租界中心部では建築ラッシュが始まった。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並ぶ。絵葉書でお馴染みの光景である。バンドに直角に交わる南京路には路面電車が走り、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

フランス租界の表通りは高級住宅街となる一方、裏通りには茶館、妓館、アヘン窟が集中する。まさに「魔窟」である。

 

辛亥革命と上海

秋瑾の死後4年にして清帝国に対する本格的反乱が始まった。11年の11月、武装蜂起が武漢で成功した。ほぼ同時に上海でも軍の反乱が発生した。陳其美将軍の率いる反乱軍はたちまちのうちに上海の華界を支配下に置いた。租界当局(工部局)はこれに呼応して租界内の司法権を全面掌握した。

12年の1月、東京の孫文が上海を経由して南京に入り、中華民国臨時政府の臨時大総統に就任した。しかし革命軍の勢いもここまでであった。上海軍は孫文の言うことに従わず、革命派を弾圧、要人を次々と粛清した。いっぽうで北京の軍部との間合いを図った。

2月には清朝皇帝が退位し袁世凱将軍が臨時大総統に就任した。皇帝は退位したものの、これまでの統治機構はそのまま温存された。

中国のもっとも重要な軍事拠点は上海華界の軍事工場軍「江南製造総局」であった。袁世凱はこの拠点を手放すつもりはなかった。

半年にわたるにらみ合いと小競り合いの後、陳其美は上海独立を宣言し、江南製造総局を攻撃した。攻撃は跳ね返され、陳其美は日本に亡命する。

こうして上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる事になり、孫文もまた南京を去った。

1920年前後の上海

辛亥革命の流産後、革命派にとってはしばらく雌伏の時が続く。反清闘争のスローガンは「討袁」へと変わった。

孫文や陳其美はひそかに上海に入り、反乱を企てテロを繰り返したが、17年に陳其美が暗殺されるにおよび、こうした革命活動は困難となった。

もう一つが日本資本の急速な進出である。上海在留外国人の多くを日本人が占めるようになった。日本資本の繊維工場が相次いで建てられ、多くの中国人を使用した。

日本は第一次大戦に乗じて、「21ヶ条要求」を強要した。これにより中国人の反日感情が高まり、それは19年の北京での「五四運動」につながっていく。この闘争は北京政府の弾圧により弾圧されたが、遠く離れた上海では大規模な抗議行動に発展していった。

それは工場労働者、学生、商店の3つの勢力が合体したものであり、近代都市上海の階級的性格を反映したものとなった。そしてその闘争は共産主義運動と結びつく定めにあった。

共産党の設立経過などについては「毛沢東以前の共産党」に詳述してあるため、ここでは割愛する。

企業の上海進出に伴い、日本の文筆家も相次いで上海を訪れるようになる。その嚆矢となったのが21年に新聞社特派員として派遣された芥川龍之介である。

芥川自身はあまり作品を残さなかたようであるが、文士仲間には相当吹聴したらしい。まもなく村松梢風が上海に来訪。2ヶ月にわたり滞在した。帰国後発表したのが『魔都』である。ここから「魔都上海」の名が広がるようになった。

これについては「上海年表 補遺」をご参照いただきたい。また内山書店もこの頃から営業を開始し、文化の窓口として、また中国文化人の庇護役として貴重な役割を果たした。これについては「内山完造の動き」をご参照いただきたい。

この文章は、目下の感想的意見であり、ほとんど根拠はありません。

はっきり言って、メディアでは分離派の要求をまともに報道しません。イギリスの支配層をふくめ、世界中がイギリスの離脱派を馬鹿にしています。

確かに算盤勘定では離脱して得になるようなことはないでしょう。

しかし

これだけ国を二分するような激しい議論を数カ月にわたって続けてきて、今もなお国民の半数が分離を要求し続けている理由は、そんなかんたんなことことではないと思います。

とすれば、議論はもう少し長期のことを見据えてのことだろうと思います。

このままEU残留を続けてもいいことはない。損得勘定で、国のあり方を考えるのはやめよう。

これが離脱派の提起している問題なのだろうと思います。ことはEUに限らず、何事につけそろばんだけで政策を決めてきた歴代政権への不信です。そして損得勘定だけでやってきたはずなのに、国民の生活は貧しく苦しくなっているのです。なぜなら「メリット」のほとんどを富裕層が享受しているからです。

だから残留のメリットも明確にできない連中が離脱のデメリットを語っても、「それはあんた方のデメリットでしょう」ということになります。そして残留派がそれに対する答えを打ち出せないから、議論が果てしなく続いているのだろうと思います。


現代資本主義の抱える問題がそこには集約されているのでしょう。一般的には経済・社会のグローバル化は必然です。しかし、そのことと貧富の差の拡大、大金持ちだけがいい目を見るような世界とは別の話です。

だから離脱派の究極の結論は、そんなグローバル化など糞食らえだということでしょう。

残留派はグローバル化は必然だといいますが、だったら貧民が飢えて死ぬのも必然なのでしょうか。

その質問が、さまざまな変奏曲の形で、まっとうな方向にも歪んだ方向にも噴出してきている、この流れを押さえていかなければならないと思います。

私の結論は、

グローバル化が必然だとしても、それを急ぐ必然性はない。国民が豊かになるグローバル化が出てきてから考えてもいいのではないか。

ということです。そしておそらくはそのスピードがいま議論の分かれ目になっているのだと思います。

いまの金融資本はそのスピードをさらに上げるか、少なくともそのスピードを維持するかを必然的な条件としています。

そのスピードが落ちた時、速度を失った自転車が立っていられなくなるのと同じように、彼らは深刻な矛盾に直面するでしょう。

それはいずれ遅かれ早かれやってきます。世界の人々が収奪に耐えかねて、逆さにしても鼻血も出なくなったとき、国家は破綻します。国家が破綻したとき、国家の寄生虫たる金融資本は、リーマンが一夜で消えたようにあっという間に消滅します。

イギリスは、おそらくEUを離脱してもいいのだろう。「青信号、渡らなくても怖くない」のだろう。

と思います。離脱しても、それなりの手も打つだろうし、たちまち奈落の底に沈むというわけでもないと思います。離脱して困るのは、案外ロンドン金融市場(シティー)の金の亡者たちだけかもしれません。

それぞれの国民がいったんグローバル化のスピードをシフトダウンして、国民国家たる国をもっと大事にすること自体は決して間違ったことではないと思います。

ただ、離脱派の主張は必ずしも理念的なものではなく、やはり損得勘定でもあります。離脱を支持するサン紙は

EUは無駄遣いの金食い虫だ。この間の危機対応でも無能さを暴露したではないか、と批判。有害無益な政策の押しつけを繰り返すEUから出れば、「より豊かで安全で自由になり、運命を自分で決められるようになる、

と主張しています。言うことは当たっていないではありません。


ただ、EUというのは決して経済オンリーの共同体ではなく、千年に及んだ欧州戦争からの脱却と平和の構築を目指す共同体でもあります。しかしイギリス政府は(そして国民も)一貫してそのような関わり方はしてきませんでした。だからこんな有様になってしまったのです。

EUの最大のメリットは「平和」と「福祉」です。

残念ながら、今は大企業と金融資本のための共同体になってしまっていますが、この本来の理想とどう向き合うかというのもだいじな論点であろうかと思います。


それなりにしても、日本のネットの世界、掘り下げないなぁ。


ニキビの薬はベピオゲル

なんだコレ。。薬局がめっちゃアピってる謎の化粧水

というページがあった。「オードムーゲ」という付け薬で、なんでも薬局の前にのぼりが立つほどに売れているそうだ。

オードムーゲ

しかし、「いまさらなんだろう」とも思う。

すでに医療保険でニキビの薬もらえるのに、そんなものにこだわる必要ないのにな。

ただ顔につける薬だからやはり怖いのだろう。

我々にはロドデノールというイヤな思い出がある。

絶対に!ニキビを治す,そんなブログです というブログで、微に入り細にわたり、懇切丁寧に説明してくれているので、ご参照ください。

私の感想だが、「効く薬」というのは結果的に病気の本質を明らかにしてくれる。

ニキビについては、これまであまり効く薬がなかったから、いろいろ能書きがたれ放題で、半ば「業病」のような趣さえ漂わせていた。

この薬の登場で明らかになったのは本質が皮脂の過剰に伴うアクネ菌の繁殖であることだ。したがってアクネ菌の繁殖を抑えればニキビの悪化は阻止できるということだ。

ペピオゲルのいいところは抗生剤ではなく酸化剤であるために、アクネ菌(嫌気性菌)の活発なところにだけ効くターゲット効果を持つことだ。薬剤耐性もできない。

ニキビのもう一つの面は炎症後の反応性の角質増殖だ。これは自然寛解するので何もしなくて良いのだが、ひどい場合にはピーリング(薬剤による角質剥離)を補助的に使用すれば良いということだ。

ただそれには、ヒルドイドとか昔からの軟膏で対処したほうが安心かもしれない。くれぐれもやり過ぎないようにすることだ。

輸入薬についての私の経験から言うと、日本人の適量というのはもっと少ないのかも知れない可能性がある。当面はおっかなびっくりペピオゲルを使っていたほうが無難かもしれない。

最初に使うときはアクティブな病巣に限局して“チョン付けして使ってみてはどうだろうか

pepi2

ペピオゲルの薬価は15グラム入りで1800円。保険を使えばその3割で540円ちょっとになる。まあ他に診察料もかかるから最初はもうちょっと高い。

オードムーゲは価格.comで調べると500mlで2500円位だ。まぁ値段ではなく効くか効かないかだが…

本日の赤旗から、安倍首相就任以来の経済指標の変化がまとめてある。
この中で憶えておいたほうが良い数字を上げておく。
年をとると記憶力が落ちてしまうが、これくらいは憶えておいても良いのではないか。
1.内部留保 265兆から300兆へ。40兆円増加。
2.法人実効税率 37%から30%へ7%削減。
3.上位40人の資産合計 7兆円から15兆円へ2.1倍化。
4.金融資産ゼロ世帯 26%から31%に、5%の増加。
とくに3.はあまりにひどい。消費税の3%引きげ分を40人で食ってしまった計算だ。
これでは内需は落ち込む一方だ。アベノミクスの本質が逆噴射にあることが、これほどはっきりする数字はないだろう。

グーグルで「縄文人」と入れて、上から眺めていくうちに、面白い記事にあたった。

渡来人と縄文人の末裔 - 朝日新聞GLOBE というもの。要約を紹介する。

[Part1] 渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ

①弥生人は初期から縄文人と混血していた

最初が山口県土井ケ浜遺跡の紹介。渡来系弥生人の骨が300体以上も出たのだそうだ。ついでに以下の一文もある。

長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。

つまり当初から縄文人と混血しているということだ。

②約千年で縄文人はいなくなった

弥生時代中期(紀元0年ころ)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割となった。

理由はいろいろ考えられるが、結論は出ていない。

③弥生人は弥生人と闘った

北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨だ。縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性がある。

これは国立科学博物館の篠田謙一が、DNA分析をもとに出した推論だ。

根拠はY染色体のDNA(父から息子へ)で、現代人に縄文人由来のY染色体がかなり残っているということ。戦争で負ければ男は皆殺し、勝った方はやり放題だから、Y染色体が残るということはありえないというのだ。

なるほど!説得力あるなぁ

残りの記事はつまらないので略。

縄文人は単一種族なのか

どうもやっているうちにわからなくなってきたのだが、縄文人というのは本当に単一種族で、ベタで日本列島に定着していたのだろうか。

今はゲノム解析が花盛りだが、解析の前提として縄文人イコール単一種族だと考えている。そしてどこから来たのかという起源を探っている。

しかしこの前提が果たして正しいのか、考えなおさなければならないようだ。それを曖昧にしたままゲノム解析を行っても砂上に楼閣を建てるのに等しい。


例えば三内丸山は北方系の色彩が強いが、北九州で弥生人を迎え入れた晩期縄文人はたんなる環境適応と言うにはあまりにもそれと異なっている。

この北九州の晩期縄文人は、関東・東北・北海道とは時期的に断絶している。ある説では、彼らはサハリン経由ではなく、弥生人同様に半島から渡ってきた違う人種だという。


弥生時代が当初考えられていたよりも早く、紀元前10世紀には始まっていたことが明らかになった。

それとともに明らかになったのは、弥生人の大量流入に先立って西日本にコメを栽培する縄文文化が存在したことである。彼らは陸稲ばかりではなく原始的な水田耕作まで至っていたとみられる。

彼らは晩期縄文人と呼ばれる。彼らは海上交通を確立し、朝鮮半島と交易し、水田耕作を導入した。

その海の道があったからこそ、弥生人は大量流入を果たすことができたのである。


しかしその晩期縄文人にさらに先立って後期縄文人がいた。おそらく彼らは紀元前2千年ころに朝鮮からわたり、稲を食料とする知識を持っていた。彼らは「古朝鮮人」ともいうべき人々ではなかったか。そして晩期縄文人へと直接つながっていったのではないか。



弥生人の大量流入に前後して、北九州では両者がオーバーラップしていた時代がある。どのくらいオーバーラップして、いつ消えていったのかは不明。なぜ消えていったのかも不明である。


ただ、北方系の縄文人と西部の縄文人が異なるとすれば、それはゲノム構成の差異として確認されなければならない。そこには同時に、新石器時代人としての共通性もあるだろう。

もし後期縄文人が半島からやってきたのだとすれば、半島にも縄文人(古朝鮮人)の痕跡がなければならない。しかしそのような話は聞いたことがない。


少し勉強してみなければならないようだ。


日本人の源流を探してというサイトを読んでいくうちに次の事実を知った。

これらの遺跡から掘り出されたのは縄文人だというのだ。一瞬パニックになる。

糸島半島の西側に新町遺跡という支石墓を伴う遺跡がある。そこから被葬者の骨が発見された。

支石墓は中国の山東半島や東北部、朝鮮半島に広く分布している。とくに朝鮮半島南西部に集中している。支石墓が造られた時期は無文土器時代、まさに弥生早期から前期の時代である。

日本では支石墓は西北九州に偏在しており、出現時期も弥生早期の夜臼式土器段階である。

しかし新町遺跡から出土したのは縄文人の骨だった。

14体の遺骨のうち、弥生前期初頭の熟年男性2体から頭蓋形態が判明した。その特徴は予想に反し渡来形質の片鱗さえ認められず、ほぼ全員に施されている抜歯の様式も西日本縄文人の様式を踏襲していた。

これについて著者(伊藤俊幸さん)は次のような見解を述べているが、正しいと思う。

最初期の段階での水田農耕は、縄文系が主体的役割をつとめ、南朝鮮系は従的存在に止まった。

来往した稲作農耕民の数は微々たるもので、最大限見積もっても数百人のオーダーを超えるものではなかった。この最初期の弥生人の到来は、西北九州の縄文人に大きな遺伝的影響を与えなかった。そう考えた方が妥当だろう。

最初期というのは山の寺式から夜臼式にかけての時代を指し、板付Ⅰ式に先行する時代である。

この後に、板付Ⅰ→Ⅱの弥生人大量流入と人口爆発があるわけで、辻褄は合う話になる。

ただ絶対年代はかなり遡るようで、菜畑(山ノ寺式)が従来紀元前600年と考えられていたのが、現在は紀元前1千年とされている。また、夜臼式に代わる板付Ⅰ式の出現はこれまで紀元前3世紀とされていたのが、現在では紀元前5世紀とされているようである。

結局、縄文人は弥生人に庇を貸して母屋を取られる形になったようだ。ただしそれが非平和的経過をとったのかどうかは定かではない。

伊藤さんは大量流入の可能性を主張している点で、私とは同意見であるが、民族の大移動の原因については若干異なっている。しかしそれはあまり主要な問題ではない。いづれさらに考古学的事実(とくに半島側での進展)が明らかにしてくれるだろうと思う。

ウィキペディアで菜畑遺跡の方をあたってみる。下記の記述が目に止まった。

遺構は16層から成っており、水田の遺構が確認されたのは縄文時代晩期後半の12層からである。それより上層にも弥生時代中期までの水田遺構が検出された。

イネ属の花粉は夜臼式土器(柏崎式土器)以前から出現し、第12層の上部で突発的に増加する。このような突発的増加は人間が搬入したものと考えられる。

これは従来縄文時代晩期末とされた今から2930年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。 

第12層(人口爆発)というのがいつ頃のものなのか、3千年も前のことなのか、そこが知りたいポイントだと思う。

次は日本人の源流を探してというサイト。

菜畑遺跡は1979年12月、唐津市の都市計画街路事業の事前調査で発見され、1年後の1980年12月から本調査が実施された。

遺跡は16の層からなる。

上から8層目からは、板付Ⅰ式と同じ夜臼式突帯文土器と共に、水田址10枚が発見された。

9~12層からは、縄文晩期後半の突帯文土器、夜臼式よりも古い山ノ寺式といわれる土器、水田址4枚や「水田稲作」に必要な道具がセットで発見された。

菜畑遺跡

ただし、種子・花粉の解析では、その上の層(突帯文土器・・夜臼式期)になると、組成が急激に変わり、畑雑草が減少し水田雑草が急に増大する。

すなわち、水田稲作は山の寺式期(縄文晩期後半)に小規模に導入され、夜臼式期(縄文晩期末)になって、本格的になったと考えられる。

板付遺跡の研究史

1916年(大正5年) 板付遺跡の甕棺内から青銅製の矛や剣が出土。弥生式土器に金属器がともなうことの初めての報告であった。

1950年(昭和25年) 板付遺跡で、縄文土器と弥生土器が同時に採集される。これにより板付遺跡が弥生時代最古の遺跡である可能性が浮上した。

縄文土器とされたのは、「刻目突帯文土器」であり、晩期の夜臼式(柏崎式)土器とと鑑定された。弥生土器とされたのは板付Ⅰ式土器で、弥生前期のものとみなされた。

1954年 日本考古学協会の共同発掘調査が4年間にわたり行われ、詳細が明らかになる。

断面V字形の環濠や貯蔵穴、竪穴住居などが検出された。板付式土器などと共に石包丁などの大陸系磨製石器が出土した。日本最古の環濠集落であることが確実となった。炭化米や籾圧痕の付いた土器などが出土した。

1978年(昭和53年) これまで発掘された弥生I層(弥生時代前期)より下に縄文時代晩期末の遺跡が存在することが明らかになる。

大区画の水田跡と木製農機具、石包丁などが出土。用水路に設けられた井堰などの灌漑施設が確認される。
この結果、水稲農耕は弥生前期よりも溯ることが確認される。

(弥生時代の層の下層から、縄文時代早期(約9,000~6,000年前)の押型文土器が出土、さらに古層からは旧石器も出土)


結局、板付Ⅰ式は弥生早期という区分を作ってそこに収まっているが、「弥生早期は弥生時代か?」と言われるとニヤッとしています。

縄文晩期なんだけれども弥生っぽい時代、みたいな感じで言われているようです。

結局視点が定まっていないのです。

私ならこう尋ねます。「それを担ったのは縄文人なのか、弥生人なのか」

そして人骨を探してゲノム解析(ミトコンドリアDNAでもよい)をします。これは決定的に重要な事なので、考古学屋さんのような曖昧な言い方は本来許されないのです。

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