鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

AALA関連記事は「aala_newsの編集日記」http://blog.livedoor.jp/aala_news/ に移りました(6Nov.2023) 中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 「ラテンアメリカの政治」(http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ )がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年05月

 オバマ演説に対する論評がそろそろ出揃ってきた。
グーグルで検索して、ヒット順にレビューしておきたい。
1.ケート・ハドソンの主張
最初はケート・ハドソンというイギリス人。核軍縮キャンペーン(CND)事務局長と
いう肩書だ。(ハフィントン・ポスト 31日)
見出しは「それでも、謝罪は必要だ」という論争的なもの
まず、オバマ演説を積極的に評価するが、これは前振り。
第一に、原爆は、ただ空から落ちてきたのではなく、アメリカによって民間人の頭
上に落とされた。
第二に、原爆は戦争終結に不可欠ではなかった。
という二つの認識を押し出す。そして、この二つは謝罪の是非を超えた本質的な
事実だとする。ここから議論が組み立てられ始める。
彼女の議論展開は、第二点を中心とする。
そして、「アメリカは日本を舞台に、原爆で地政学上の駆け引きを演じた」との結
論を引き出す。
その故に、「アメリカは謝罪しなければならない」と主張する。
かなり飲み込みにくい議論だ。議論の拠り所に論争的な「事実けーと・はどそn」
がおかれているためである。一番気になるのは、戦争終結に不可欠であったらそ
れは許されることになるのかということである。
「これがリベラルなイギリス人の見方なのかな?」、と思ってしまうところがある。

2.被団協事務局長の「我慢」

朝日新聞デジタル5月26日づけ、貞国さんという記者の署名入りだが、被団協の考えを紹介したもの。

「朝日風」の書き方が鼻につくが、ここは我慢。

A. 被団協は謝罪を求めない。求めたいが我慢する。

B. その理由は、被団協は何よりも核廃絶の前進を求めるからである。

C. 全国から集まった約20人の代表理事の全員が、この判断を認めた。

日本被団協の田中熙巳事務局長は、こう語る。

第一に、親世代は謝罪を強く求めていた。しかし被爆者の平均年齢は80歳を超えた。被爆者が生きていられる年月にも限りがある。焦りがある。

第二に、謝罪を求めれば、米国の世論が反発し、オバマ大統領は訪問できなくなるかもしれない。そういう判断が共有された。

第三に、「責めてばかりでもいけない」という声もある。

第四に、オバマ大統領が被爆地で被爆者の話を聞けば、何をすべきかわかってくれるという確信もある。

そのうえで、「オバマ大統領が核廃絶の道をつくることが、被爆者にとっての謝罪になる」という共通理解に達した。

3.原稿は変更されたのか?

5月10日、ワシントンの記者会見でアーネスト大統領報道官はこう語った。

A. 広島訪問を謝罪と受け止めるのは「間違った解釈だ」と強調した。

B. 平和記念公園でのオバマ演説は、敵国同士が強固な同盟関係を築いた戦後の日米の歩みについて、短い談話を出すのにとどめる。

C. トルーマンは死傷者を考慮に入れつつ、安全保障のために原爆を投下した。オバマ大統領はそう認識している。

D. オバマ大統領が広島を訪問するのは、米国が「核廃絶に向けて世界を主導する特別な責任があると理解している」ためである。

E. これを機会に「核兵器なき世界」の実現や、日米同盟のさらなる深化を目指したい。

これを聞いた世界の人々は、まさかオバマがこのような演説をするとは思わなかったのではないか。

それはオバマにしてみればギリギリの踏み込みだったといえるだろう。

4.英語版2チャンの反応

面白いサイトがあって、アメリカ版2チャンの対話を翻訳してくれている。

その中の5月28日の記事

訳者の見出しは「【広島・米大統領スピーチ】海外「謝罪しやがった・・・」【海外反応】 となっている。


* 民間人が住む二つの都市に投下なんて事自体がオカシイでしょ?
あなた方は常に、「善悪の二択」でしか物事を考えてない
で、常に出される結論は、「合衆国は正しかった」だ・・

* オバマはこう謝るべきだった
「あと二個くらい落とせばよかったのにゴメンね」
Tokyoにも落すべきだったんだよ
中国や韓国、そしてフィリピンに対してやった残虐行為・・・
充分それに値する

これは流石にひどいが、米国が中国や韓国、そしベトナムに対して原爆を使うつもりだったことを、同じ論理で説明できるかな。もう一つ、マッカーサーの親父がフィリピン独立派数万人を虐殺した歴史を知るべきだろう。

* (パールハーバーに関して) あのね、日本が攻撃したのは軍事拠点だよ
一方で合衆国が攻撃したのは、民間人が住む普通の都市・・・
合衆国の上層部は事前に知っていた。しかもその事を教えていなかった・・・(これはイギリス人がアメリカ人を皮肉ったもの)

* そう
謝るべきは日本政府の方
日本国民に対して謝罪するべき (これはある意味正論)

* 原子爆弾の被害は、当時被爆した人の子や孫の世代にまで影響してるんだよ・・・
そんな爆弾を正当化するとか・・・
凄いね、みんな(これはイギリス人)

* 現実として、原子爆弾は一般の民間人の頭上に落されたんだぞ?
お前らはどいつもこいつも、その現実を無視して「良かった」だの「思いやりが有った」だの・・・
なんなんだよ一体#(これもイギリス人)

* 一つだけ確かな事
それはアメリカが無実の市民を大虐殺したという事実
そう、合衆国がやった事は間違いだった(オーストラリア人)

* 一般市民を攻撃した事実
誰もがこの事を忘れちゃってるのスルーしてるのか・・・
殺された人の大部分は女性や幼い子供達だよ
戦争犯罪とは一切関係の無い人々(イギリス人)

* 素敵なスピーチだと思った
彼の言ってる事は正しいよ
我々は、決してこの過ちを繰り返してはいけないんだ
悲惨な思いをしたのは、関係の無い一般国民だけだった(イギリス人)

 

どこの国にもいるネトウヨの発言の中に、まともな反論が紛れこんでいる。

面白いのはアメリカ人がパールハーバーと騒ぐのに、イギリス人がたしなめているということ、しかし共通して言えるのは原爆が未来破壊兵器であること、それを使用したことが「人類に対する罪」であることへの言及が見受けられないことである。

核保有国の論理が市民レベルに浸透していることが窺われる。

 

ハフィントン・ポストのサイトに多くの写真が掲載されているが、その中の1枚は私がこれまで見たことがないものだった。

以下に無断転載する

ヒロシマ俯瞰

キャプションはこうなっている

この写真は1945年7月16日撮影されたものである。最初の原爆実験後の空撮で、ニューメキシコ州トリニティーの実験場が写っている。

付近の住民はオバマのヒロシマ訪問を賞賛した。それと同時に、彼らはオバマに、こちらにも来て欲しいと願っている。なぜなら、ここでも何世代にもわたって子孫がガンや健康障害に悩んでいるからだ。

縮尺がわからないのだが、この写真とヒロシマの写真とを重ねるとどうなるか。中心のへそは何を意味するのか、その外側の黒い円と黒い棘は何を意味するのか、その外側の白身は何を意味するのか、それを知りたい。


ノークラッチ車とかオートマ車なんて言葉が死語になって久しい。
それと並行してクルマの暴走事故が増えている。そのほとんどが高齢者だ。
私は以前の記事で、アクセルを右足・ブレーキを左足と分けてはどうかと提案したことがある。数年前までマニュアル車に乗っていたので、左手・左足がいかにももったいない。
しかしこれは世界中を走っている何億台という車の基本構造にかかわることなので、そう簡単には行かないのかもしれない。
そこで教習の時に、左足のフットレストのさらに左側にあるよう提案したい。
ブレーキとアクセルの踏み間違いは、とくにバックの時に起こりやすい。バック走行時は足もペダルも完全に視野の外にあり、全身走行時の記憶と足先の感覚のみが頼りである。
パニック的状況が起きた瞬間、自分の右足の下にあるのがアクセルなのかブレーキなのかの感覚は失われる。失われたまま何もしなければ、そのままそれは事故へと繋がる。思い切って踏んだとして、それがアクセルであったとすれば、さらに悲惨な状況になる。
この時に左足を移動させて手動ブレーキ(昔はハンドブレーキといったが今はパーキング・ブレーキというらしい)を踏む訓練をしておけば、事故は防げるのである。また駐車中は必ずパーキング・ブレーキをかける習慣を身につけることである。
それにしても自動車はどうして危険な方向に進化していくのかがわからない。
ハンドブレーキもなくなってしまった。エンジンブレーキもなくなってしまった。サイドミラーはドアーに着けられるようになって視界は狭くなり、前方との同時視も不可能になった。
そのくせ、それで危険になった分どうして安全性を高めるかという変な方向に技術が走っている。エアバッグの前に考えるべきことはたくさんあるはずだと思うが。
人はなぜ「ブレーキとアクセルを踏み間違える」のか!?を参照しました。

赤旗労働面に面白い記事があった。

「最賃アップ 俗説 退治  米労働省HP」というもの。

外信の紹介ではなく、自社記事のようだが署名はない。

これは米国の労働省の公式ホームページの記事を紹介したもので、元の題名は「最低賃金伝説バスターズ」となっている。見出しとしてはこちらのほうがキャッチーである。(元ネタは日弁連貧困問題対策本部の訪米調査団が米労働省で発掘してきたパンフレットらしい)


とりあえず記事の紹介。

米国の労働省はオバマ政権の最低賃金引き上げ政策を支援している。運動をすすめるために、最賃の引き上げに反対する「俗説」(デマ宣伝)を否定する解説を掲載している。これが「最低賃金伝説バスターズ」というコーナーだ。

一問一答形式になっているようで、そのいくつかが引用されている。

最賃引き上げは10代の若者だけの利益になる?

事実ではない。最賃引き上げで利益を得る人の9割は20歳以上だ。

最賃を上げると人々が失業する?

事実ではない。最賃が上がっても、雇用には全くマイナス影響はない。事実は需要が増え、雇用が成長し収益が増えることを示している。

中小企業には最賃引き上げの余裕が無い?

事実ではない。最賃引き上げは商品やサービスの需要増加に役立ち、ビジネスチャンスを作る。

最賃引き上げは失業を増やす?

事実ではない。カリフォルニア州では最賃を引き上げたが、カリフォルニアのレストランの売上高はほとんどの数を上回っている。

サンフランシスコでは最賃を時給1360円に引き上げたが、サービス業の雇用は伸びている。

最賃引き上げは企業にとって良くない?

事実ではない。より高い賃金により離職率が激減する。その結果採用と教育訓練のコストが削減される。これは企業に好結果をもたらす。

最賃引き上げは経済に悪影響になる?

事実ではない。この80年間で最賃は25セントから7ドルまで引き上げられた。しかしその間に一人あたりGDPは着実に増加している。

というところ。

一番肝心なところ、それは日本の政府とは逆の宣伝を行っていることだ。


とりあえず、記事の紹介は以上のとおり。

ということで現物を見に行こう。

Department of Labor のサイトにMinimum Wage Mythbustersというページがある。ディスカバリーチャンネルで放送されている番組『怪しい伝説』(MythBusters)をもじったものらしい。

“Myth”が15項目並べられていて、これに対する回答はすべてNot true: で始まる。

解答はきわめて簡潔なもので、これを読んで使用者との交渉に臨めば勝利は疑いなし、という虎の巻だ。

オバマ演説は「謝罪論争」への総括的結論

まずオバマの広島訪問について、私の正直な感想をいくつか上げておこう。

1.それは素晴らしいことであった。現職大統領として訪問したこと自体が大きな意義を持っていると思う。

2.演説は少々長ったらしく、少々抽象的なものだった。しかし後からいろいろ考えると、その必然性が見えてきた。

3.横でニヤニヤとする安倍首相の姿はたいへん目障りであった。いつもなら、彼の姿を見ただけでチャンネルを切り替えるのだが、今回はそうも行かず、こみ上げる不快感をこらえるのが辛かった。

4.メディアはアホな韓国人しか映さないから、そして私はまともな韓国人を知っているから、それはメディアのアホさ加減の投影にすぎない。

5.中国には困ったものだ。日本と同じようにアホが政治を仕切っている。王毅外相はこんな人ではないはずだが。

と、ここまでなら酒飲み話で、なんの苦労もなくスラスラと思い浮かぶことだ。

しかし一連の経過の中で、何故か「謝罪問題」が大きく浮かび上がってきた。

そしてメディアは広島に来たオバマが「謝罪」するかどうかに関心を集中させた。日頃これだけ核問題に無関心だった連中が、突然「謝罪」を求めるのはいかにも不自然だ。

なぜか? 誰がそうさせたのか?


「謝罪」問題では数年前にこういう事件があった。

オバマは大統領就任後の2009年に初来日した。当初、オバマは広島を訪問し原爆投下に対して謝罪するつもりで、その可能性を打診してきた。

ルース駐日大使を通じて打診を受けた藪中外務事務次官は、これを断った。断った理由が「時期尚早」というのだから分からない。

察するに、日本政府が原爆にとんと無関心で知らんぷりをしていたから、オバマにそんなことされると立場がなくなる、ということではなかっただろうか。

そういえば、日本政府が原爆投下をもたらしてしまったことについて「謝罪」したとは聞いてないなぁ。

これがウィキリークスで暴露されてしまったのだ。

the idea of President Obama visiting Hiroshima to apologize for the atomic bombing during World War II is a "non-starter." it is premature to include such program

これが藪中発言の骨子だ。

この時の首相は安倍ではなく麻生だ。しかし安倍晋三がオバマの広島訪問を快く思っていないことは明らかだろう。それでいてちゃっかりパフォーマンスとしては利用する、その心根は見上げたものだ。

おぉ嫌だ。こうやって書いているだけでも身震いがする。


となれば、「謝罪要求」が日本政府側から出たとは考えにくい。

では、それは広島市民の要求だったのか?

オバマ訪問の直前に共同通信が実施した被爆者へのアンケートで、謝罪することをもとめたのは16%だった。78%は謝罪は不要と答えている。

もちろん被爆後70年を超えて、今も8人に1人が謝罪を求めているという事実は重い。残りの7人にもその気持は投影されていると見るべきだろう。

しかし肝心なのはそこではない。「三度許すまじ」の気持ちを理解し共有してもらうことだ。だから「謝罪」云々で袂を分かつような事にはなってほしくないのだ。だから涙を呑み、恨みを含んでいるのだ。

原爆碑の銘文はこうなっている。「安らかに眠ってください。過ちは繰返しませぬから」

これについては当時からいろいろな議論があった。「あやまちを犯したのは自分たちなのか?」

絶対にそうではない!

しかしあやまちを繰り返さぬ責任、繰り返させない責任はある。死者に対して生残ったものにはその責任がある。そう読むべきだということで決着は付いている。

そのことで広島市民は死者に対して「謝罪」しているのである。

そして、その「凛とした思い」を日本政府、アメリカ政府、全世界の人々に共有して欲しいのである。

そこにオバマ演説は応えている。それが演説が長くなり抽象的になった理由なのだ、そう思う。

伊藤ふじ子 私の二大発見

二大発見というとマルクスの史的唯物論と剰余価値ということになるが、私のはそんなに大げさなものではない。

一つは、「空白の一時間」というもので、密かに自慢している。

これは窪川稲子のレポートが細部にわたってかなり正確であるにもかかわらず、時間の記載が誤っていることだ。これは以前書いたとおり、人間の記憶というのは静止画像として保存されているからである。その場面が目の前にあるかのようにまざまざと想起されるのに、それがいつの事だったかと言われるととんと分からない。そういうものなのだ。古事記の世界もそういうふうに理解すべきだ。時間感覚があやふやだからと言って、それが嘘だとはいえないのである。

窪川は中条百合子の家で晩飯をゴチになっていた。そこに多喜二虐殺のニュースが飛び込んできた。多分壺井栄からの連絡ではないか。それから前田病院に電話したら「もう出た」という。とるものもとりあえず馬橋の多喜二宅に向かう。

おそらく、その時点では遺体を載せた車はまだ出発していないはずだ。下落合の中条宅から西武新宿線、中央線と乗り継いで阿佐ヶ谷の駅まで行き、そこから馬橋の多喜二宅まで歩いた。どう見ても2時間はかかる。

そして10時半ころに多喜二の遺体が到着した直後に、多喜二宅に入る。中条、壺井らとともに死体の検案を介助した。

検案を担当した安田徳太郎と中条らとともに多喜二宅を辞したのは夜の11時半過ぎであったろうと思われる。

当時、終電が何時ころかは知らないが、省線電車に間に合わせようと家を出たのかも知れない。

肝心なのがここからで、稲子らは「踏切の向こう」で、多喜二宅に向かう原泉、貴志山治らと行き逢っているのである。

この「踏切の向こう」というのがずっと分からずに居たが、馬橋の地図を知ったことから、話が見えてきた。

当時の馬橋は新興住宅地であり、道は昔の野道がそのままであった。多喜二宅に行くには阿佐ヶ谷の駅の北口に一旦出て、そこから東南に進む道を通って、線路を横切って行くことになる。

だから稲子のグループは踏切を越えたところで、貴志らのグループと行き会うことになるのである。

稲子らがいなくなって、貴志・原らが到着するまでの間、短ければ30分、最大で60分位の「空白」があった。

もちろん完全な空白ではない。母セキら家族はずっといたし、小坂多喜子の夫婦も居たはずだ。

あるとすれば、突然の闖入者であるふじ子に圧倒されて座を外したのであろうということになる。そして見も知らぬふじ子と遺体だけにしておくわけにも行かず、江口が立ち会っていたのであろうと想像される。

これが第一の発見である。

第二の発見は、ふじ子の句集の中の2首である。

句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。

恋猫の 一途 人影 眼に入れず
ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫

技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。

以上二点については、私のいささかの自慢である。

これまでの文章もご参照いただければ幸甚です。

ふじ子の句集「寒椿」と「恋の猫」

伊藤論文への感想

伊藤純さんの考察

ついに見つけた、空白の1時間

多喜二の通夜で、新たに発見された写真の解読

大月源二「走る男」とふじ子

上海歴史地図 その他より作成

1840年


8月 アヘン戦争が勃発。イギリス海軍は天津沖へ進出し北京政府に圧力。その後揚子江へ進入し京杭大運河を止める。清国軍は圧倒的な火力の差を目に為す術なし。

1842年

6月 アヘン戦争が終結。南京条約が締結される。上海、広州、福州、厦門、寧波の5港の開港と香港の割譲を認める。上海は対外通商港として開港する。

44年 イギリスに続き、アメリカ・フランスが清と条約を締結。上海を対外通商港とする。

44年  黄浦江流域にまずイギリス領事およびイギリス人の居留地が設けられる。初代イギリス領事としてジョージ・バルフォアが赴任。

1845年
11月 上海長官とバルフォア領事のあいだで第一次土地章程(Land Regulations)が締結される。

イギリス商人の居留のため黄浦江河畔(バンド地区)に租借地が認められる。当初の区画は幅500メートル長さ1キロの小規模な帯状地帯で、長崎の出島のレベルであった。その後拡張を繰り返し約10倍に拡大。

49年 アメリカ租界、フランス租界が認められる。アメリカ租界はイギリス租界の北側、フランス租界は南側に設定される。

49年 上海—ロンドン間の定期航路の運行が開始される。


1851年
1月11日  華南の新興宗教結社「拝上帝会」が武装蜂起。教祖の洪秀全はキリスト教に帰依し自身を天王と名乗る。国家を名乗り、国号を「太平天国」と称す。


1853年

1月 太平天国軍、武昌を陥落させる。

3月 太平天国軍、江寧(南京)を陥落させ、ここを天京(てんけい)と改名し、太平天国の王朝を立てる。太平天国軍は20万以上の兵力にふくれあがる。纏足の禁止や売春の禁止、女性向けの科挙などを実施。

4.27 英国公使ボンハムが天京を訪問。太平天国にも清国にも中立であることを告げる。

5月 太平天国軍が上海に迫る。イギリス、フランス、アメリカは共同し上海地方義勇隊を組織。義勇隊はのちの万国商団(Shanghai Volunteer Corps)となる。

5月 福建省の秘密結社「小刀会」が太平天国の影響を受けて蜂起。廈門に政権を樹立するに至る。税の免除を宣言。

9月 農民軍「小刀会」が上海でも蜂起。「反清復明」を掲げ上海知県の袁祖徳を殺害。1年半にわたり上海県城(フランス租界の南側)と周辺の嘉定・青浦を占領する。租界を攻撃せずの言明があり、アメリカ・イギリス・フランスは中立の姿勢をとる。

9月 小刀会の蜂起の結果、2万人を超える中国人難民が租界に流入し、上海は無国籍地帯と化す。清朝行政の機能はマヒし、各租界は自衛のための武装を固め、関税徴収も行なう。

1854年

4月 清軍が租界を攻撃。工部局は米英人居住者による義勇団(Shanghai Volunteer Corps )を組織し、これに対抗。泥城浜で激戦となる。小刀会が自警団側に加勢したため、清側は300人の死者を出し撤退する。

7月 イギリス領事オールコックは、米仏領事と協議し第二次土地章程を公布する。7名の選挙で選ばれた参事が、すべての自治権と行政権を握る。参事会のもとに「工部局」が創設され、関税徴収をふくむ行政一般の実務を担う。中国側には事後通告のみ。
内容としては①イギリス租界の拡張、②中国人の雑居の黙認、③三国領事の協議による運営・工部局(執行機関)と巡捕(警察)の設置である。工部局は後に租界の行政管理機構となる。

12月 小刀会追放を狙う清は、上海の税関と租界の権益を条件にアメリカ・イギリス・フランスの支持をもとめる。英米はこれに応じず。

1855年

2月 清軍と清側の提案に応じたフランス軍とが共闘し、小刀会のこもる県城を攻略。残党は太平天国領に逃れる。

2月 中国人の租界での居住が許可され、「華洋雑居」が始まる。

1856年

6月 一旦劣勢に陥った太平天国軍がふたたび攻勢に出て、江北・江南に基盤を確立。

10月8日 アロー号事件が発生。第二次阿片戦争が始まる。広州の官憲がイギリス船籍の中国船アロー号を臨検し船員12名を拘束。イギリスはこれに難癖をつけ、フランスを誘って武力干渉した。

10月 英国、上海における治外法権を拡大強化。領事法廷、監獄などが設置される。フランスもこれに続く。

1859年

6月17日 英仏の艦隊は天津で清軍の待ち伏せ攻撃を受けいったん撤退。

1860年

8月 李自成の率いる太平天国軍が江南地方に進出。第1次の上海攻撃を開始する。上海の官僚と商人は、西洋式の銃・大砲を整え租界にいた外国人を兵として雇用する。アメリカ人ウォードを指揮官とする「洋槍隊」が創設される。
10月、北京条約が締結される。英仏軍は大艦隊と約1万7千人の兵隊という大軍で北京を占領。天津の開港、九竜半島の割譲、苦力貿易の公認などを飲ませる。キリスト教の布教活動が自由化され広がる。
10月 欧米諸国は、北京条約を受け清朝につき、太平天国に敵対するようになる。

1861年

「洋槍隊」が「常勝軍」と改名。中国人を5千人ほど徴兵。

1862年

1月 太平天国軍の第二次上海攻撃。半年にわたる。

5月 英仏海軍が太平天国軍の拠点であった寧波を砲撃。山側から迫った清軍が市内に突入。この一連の戦闘で常勝軍隊長のウォードが戦死。イギリス人チャールズ・ゴードンが指揮官に就任する。

5月 イギリス主導を嫌うフランスは独自の執行機関「公董局」を設立。

6月2日 江戸幕府の御用船千歳丸が上海に到着。長州藩の高杉晋作ら各藩の俊秀が、2ヶ月にわたり情報収集にあたる。薩摩藩の五代才助(後の友厚)も水夫として乗り組む。

 高杉の『航海日録』:
5月6日 上海は外国船が停泊するもの常に三四百隻、その他軍艦十余隻という。支那人、外国人に使役されている。憐れ。わが国もついにこうならねばなるないのだろうか、そうならぬことを祈るばかり

5月10日 長髪族(太平天国軍)が上海から三里の地に来ている。明朝は砲声が聞こえるだろう

5月21日 つらつら情況を観るに、支那人はことごとく外国人の使役である。外人が街を歩くと、清人はみな傍らに道を譲る。上海の地は支那に属すというものの、実に英仏の属領なり

6月 曽国藩の軍が太平天国の首都天京を攻撃。これにより上海包囲軍はいったん天京に引き上げる。
7月5日 千歳丸、上海を立ち長崎に向かう。高杉は翌年に奇兵隊を組織し、馬関で挙兵。
8月 太平天国軍の第三次上海攻撃。11月まで続く。
62年 英租界の「工部局」会議が、南北道路に省名、東西道路に市名をつけることを提案。

1863年

3月 江蘇巡撫の李鴻章、洋務運動を展開。外国語学校の上海同文館を創設。

9月 英米租界が工部局のもとで正式に合併し、名前も「共同租界」と変更する。この時点で租界部の外国人人口は6千6百人。

1864年

7月 天京(現南京)が陥落し太平天国の乱は終結。この時城内の20万人が虐殺されたという。

1865年 

4月 香港上海銀行(イギリス系)がバンドに上海支店を開設する。この後、欧米の金融機関が本格的に上海進出を果たす。

5月 中国最初の近代的軍事工場「江南機器製造総局」が虹口に建設される。
1868年
戊辰戦争。日本が絶対主義天皇制に移行。

1969年
4月 『第三次土地章程』を発布する。一方的に決め中国側に押し付けたもの。工部局の機能を強化。警察、消防、衛生、教育、財務などあらゆる機能を果たす、完全な行政システムを成立させる。

①協議機関を居留外人の評議会とし、予算審議、執行部の選挙権を持たせる、②租界在住の中国人に対し租界内で裁く代理裁判権を実現する。フランス租界もこの制度を追随。

70年

パシフィック・メール社、上海—長崎—横浜間の航路を開設。

71年 

大北電報公司が上海—香港間、上海—長崎—ウラジオストック間の海底ケーブルを敷設。香港経由でロンドンまで電信が開通する。

72年

1月 日本が領事館を開設。

73年 日本の岩倉使節団が米欧遍歴の帰路に上海に立ち寄り、市内を見学。

74年

5月 日本から人力車(東洋車)300台が輸入され営業開始。

75年

2月 三菱汽船がフランス租界で開業。2年後には三井洋行(三井物産)が福州路に支店を開設。

76年

7月 上海—呉淞間に最初の鉄道が開業。住民の反対運動が起こり、清朝政府が買い上げて撤去。

81年

上海—天津間に電信線が開通。

82年

2月 大北電話公司が中国最初の電話交換所を設立。

7月 イギリス資本の電気会社、上海電光公司が発電を開始。大馬路、黄浦公園などに電灯が点灯。

83年

5月 イギリス資本の水道会社が公共租界と虹口地区に給水を開始。

84年

8月 清朝政府がフランスに宣戦布告(清仏戦争)。フランス租界の管轄をロシア領事が代行。

85年

日本郵船、三井洋行が支店を開設。

90年

6月 最初の日本語新聞、『上海新報』(週刊)が創刊。1年で停刊。

8月 江南製造局で労働時間延長に反対して約2000人の労働者が上海最初のストライキを行う。

* 共同租界中心部の建築ラッシュが始まる。フランス租界には茶館、妓館、アヘン窟が集中する。中央区と西区(旧イギリス租界)では、バンド地区に各国の領事館や銀行、商館が並び、これに直角に交わる南京路には、ビック・フォーと呼ばれる百貨店が立ち並ぶ。

93年

5月 貿易金融を専門とする「横浜正金銀行」が上海に支店を開設。

94年

3月 朝鮮開化党の指導者金玉均、市内で暗殺される。

8月 清朝が日本に宣戦布告。日清戦争が始まる。上海の領事団は中立を宣言。

1896年

1月 康有為が主催する上海強学会が発足。維新派の政治団体として活動するが3週間で清朝政府により閉鎖。
96年 露清銀行が上海に出店。ロシア帝国の中国(清王朝)における権益を代表するために設立されたフランスの銀行。
下関条約の賠償金を払うために清国が借款を募集した際、それを露仏銀行団が引受けた。その後香港のユダヤ資本が上海に向かって全面的に移転。

97年

5月 中国最初の民間銀行、「中国通商銀行」が開業する。

1898年

6月 北京の清朝政府、変法維新の詔勅を発布。「戊戌変法」と呼ばれる。3ヶ月後に西太后がクーデターを起こし、皇帝を幽閉。

7月 フランスの道路建設に反対する住民のデモにフランス軍水兵が発砲。17名の死者が出る。清朝政府はこれを罰せず。

8月 上海—呉淞間に鉄道が開通。

20世紀

00年

9月 華北で義和団の反乱が起こる。列強は8カ国連合軍を形成。

00年 上海の万国商団、海関隊を組織。日本人も加入。

01年 上海に初めて自動車が登場。香港からフォード車を2台搬入する。

1902年

4月 上海で中国教育会が成立。蔡元培、章炳麟、蒋智由らが発起人、蔡元培が会長をつとめる。200名余りの学生を集め愛国学社を設立。

1903年

4月 ロシア軍が東北三省へ侵入。これに抗議して愛国学社の師弟96名が「拒俄義勇軍」を組織。

6月 鄒容、章炳麟ら、革命を鼓吹する文章を発表し逮捕される。鄒容は1905年に獄死。

04年

2月 日露戦争が開始。上海道台は上海を中立区とすることを宣言。

11月 浙江省出身者を中心に光復会が結成される。会長は蔡元培、副会長は陶成章。蔡元培は秋瑾の入会を認めなかったという。

1905年

8月 中国革命同盟会(孫文)が日本東京で成立し、蔡元培が上海分会会長となる。アメリカの中国人移民制限法に抗議してアメリカ製品ボイコット運動を展開。

11月 上海・横浜・米国間の海底ケーブルが開通。

12月 「会審公廨事件」発生。イギリス副領事兼陪審官のトィーマンの横暴への抗議運動に対し警官が発砲。死者11人を出す。

05年 北四川路方面の開発が進む。虹口公園が北四川路奥に完成。

06年 パレスホテルが落成。

上海1906
               1906年の上海 

1907年

1月 『中国女報』(月刊)が創刊。秋瑾が主筆を務める。秋瑾は「光復軍」の組織と武装蜂起の準備を進めたが、7月に紹興で逮捕、処刑された。遺句「秋風秋雨、人を愁殺す」

4月 『神州日報』が創刊。革命派の主張を展開。

6月 上海城内の阿片館が政府の禁令に従って一斉に営業停止。各国領事も公共租界内の阿片館を段階的に閉鎖することを決定。
07年(明治40年) 虹口の入り口のガーデンブリッジが鉄骨橋になる。橋の北側にはロシア領事館とアスターハウス・ホテルが並ぶ。 

1908年

路面電車が公共租界、フランス租界で営業開始。最初の鉄筋コンクリート建築。電話の通話業務を開始。上海—南京間に鉄道が開通。
9月 タクシー(出租汽車)の営業が始まる。上海最初の映画館(虹口影戯院)が落成。東本願寺が建立。

1909年 

10月 革命派の文学団体「南社」が結成される。翌年には革命派の新聞『民立報』(日刊)が創刊。宋教仁らが筆を振るう。

1911年
辛亥革命

1月 黄浦江に浦東とを結ぶ官営フェリーの運航が始まる。

1月 断髪会が挙行され、1,000人余りが弁髪を切る。

2月 フランス人ファロンの操縦する飛行機が初めて上海の空を飛ぶ。

7月 中国革命同盟会の中部総会が上海に成立。

8月 江亢が社会主義研究会を組織。

10月 武昌で武装蜂起に成功。11回目の蜂起となる。その後全国に蜂起が拡大。24省中15省が清からの独立を宣言。辛亥革命が勃発。

10月 日本の内外棉株式会社が最初の工場を開設。

11月03日 上海でも革命軍が武装蜂起。閘北を制圧後、城内に侵攻し警察を占拠。翌朝までに上海の華界を支配下に置く。

11月03日 革命軍、滬軍都督府を開く。陳基美が滬軍都督に就任。

11月12日 工部局(列強機関)が会審公廨を管理することを宣言。清朝政府は租界内の司法権を失う。

11月 中国革命同盟会の会員だった北一輝が上海に渡る。

12月25日 孫文が上海に到着。自宅に同盟会の幹部を召集し臨時政府方案を策定。

孫文は蜂起を扇動して、敗れると海外亡命。そのたびに華僑から資金を獲得し再起する。このため「孫のホラ吹き」(孫大砲)とあだ名される。 

1912年

1月1日 南京で中華民国臨時政府が成立。孫文が臨時大総統に就任。

1月14日 光復会の領袖、陶成章が暗殺される。陳其美が蒋介石に暗殺を指示したとされる。

2月12日 北京で清帝(宣統帝)が退位。清朝が滅亡。上海は引き続き北京政府の支配下に置かれる。
3月 孫文、皇帝の退位を実現させた北京側の代表、袁世凱へ大総統の座を譲る。

3月20日 上海の革命派指導者の宋教仁が暗殺される。宋教仁は同盟会の領袖の一人で、新政府の内閣総理の有力候補者だった。追悼会の参列者は3万人にのぼる。

5月29日 徐企文に率いられた中華民国工党の武装部隊がを襲うが失敗に終わる。

7月18日 陳其美が上海独立を宣言。討袁軍が南市、龍華一帯を制圧後、江南製造総局を攻撃するが失敗。陳其美は租界に逃げ込み、日本に亡命。

11月 梅蘭芳が初めて上海で公演。上海中の評判となる。

1914年

4月 劉師培、無政府共産主義同志会を結成。

8月 第一次世界大戦勃発。中国政府は中立を宣言。

1915年

3月 日本が「21ヶ条要求」を強要。袁世凱はこれを受諾。日本に抗議する国民大会が開かれ3万人が参加。上海の埠頭労働者は日本郵船の仕事を拒否。

9月15日 陳独秀ら、『新青年』(原名は『青年雑誌』)を創刊。「文学革命」を牽引する。

10.29 陳其美が密かに日本から帰国。フランス租界に中華革命党の組織総機関部を設ける。

11.10 上海鎮守の鄭汝成、中華革命党員に暗殺される。

12. 5 陳其美率いる中華革命党が武装蜂起するが、失敗に終わる。

12.12 袁世凱が北京で皇帝即位を宣布。孫文は「討袁宣言」を発表。

15年 栄宗敬、栄徳生兄弟が申新紡績公司を設立。最大の民族資本の紡績会社となる。

1916年

5. 孫文が日本から帰国し、上海(フランス租界)で「第二次討袁宣言」を発表。

5.18 陳其美が暗殺される。北京政府の弾圧のため上海での活動は困難となる。

6. 7 北京で袁世凱が死去。黎元洪が大総統に就任。各地に軍閥が割拠する状態となる。

1917年

1. 『新青年』が胡適の「文学改良芻義」を発表。「文学革命」の嚆矢。『新青年』の編集部は陳独秀の北京大学文化学長就任にともない北京に移ったが、印刷発行は上海で行われた。

7. 3 孫文、章炳麟、唐紹儀らが協議。上海から広州へ南下し、護法運動を展開することを決定。

11月 ロシア革命が成立。

内山完造が四川路魏盛里に内山書店を開店

1918年

6.26 孫文が上海に戻る。

7.16 日本水兵の暴力沙汰に端を発し、日本人居留民が中国人警官と衝突、日本人2人が死亡、中国人警官4人が負傷。日本居留民団は日本総領事に日本人警官の配備強化をもとめる。

1919年

3.17 フランスへの勤工倹学留学生の第一陣89人が船で出発。毛沢東が胡南出身学生の見送りのために初めて上海に来る。

4.11 大韓民国臨時政府がフランス租界に成立。「三一独立運動」後に上海に亡命した29人が臨時議会と臨時政府の樹立を宣言。

5. 7 北京で「五四運動」が発生。学生の愛国運動を支援する集会に2万人が参加。商店が日本製品ボイコット運動を始め(罷市)、学生が授業を放棄して反日の宣伝活動を展開(罷課)。

6. 5 上海の労働者が北洋政府の学生弾圧に抗議してストライキに入る(罷工)。「罷市」「罷課」「罷工」の「三罷」闘争が展開される。

6.16 全国21地区の学生代表50数人が上海に集まり全国学生連合会が成立。

7. 1 ベルサイユ条約に中国政府代表が署名。市民約11万人が抗議大会を開く。

9.  『新青年』が「マルクス主義専号」を出す。

10.10 孫文、中華革命党を改組し中国国民党とする。

1920年

1.  公共租界の中国人商店の組織、上海各路商界連合会が参政権を要求して納税拒否。

4.  コミンテルンの派遣したヴォイチンスキー(維金斯基)が上海に入る。中俄通信社の看板を掲げ、北京から移転した陳独秀と会見するなど活動を開始。

5. 5 毛沢東が二度目の上海来訪。約二ヶ月滞在。

8.  上海共産主義小組が成立。本部を陳独秀の家に置く。『新青年』の編集部も兼ねる。

8.22 上海社会主義青年団が成立。

8.  『共産党宣言』中国語版が新青年出版社から出版。陳望道が日本語版から翻訳。

9.「新青年」、上海共産主義小組の機関誌となる。

11.21 上海機器工会が成立。上海共産主義小組の指導の下に組織された最初の労働組合。

* 日本人の大量進出が始まる。共同租界の北区(虹口地区)と東区(旧アメリカ租界)は、ほとんどが日本人に占められた。

Shanghai1920s
       1920年代の上海

1921年

1.  茅盾が『小説月報』の編集主任となり、「改革宣言」を発表。

3.30 芥川龍之介が大阪朝日新聞の特派員として上海に来訪し、5月17日まで市内各所を遊歴。

7.23 中国共産党第一回全国代表大会(~30日)。会場は李漢俊の家。

8.11 中国労働組合書記部が成立。中国共産党が組織した労働運動の指導機関。

12.13 『婦女声』(半月刊)を上海中華女界連合会が創刊。共産党の女性向け雑誌。

1922年

2.  平民女校が設立される。共産党の女性幹部養成のための学校。校長は李達。陳独秀、陳望道、茅盾などが教師をつとめる。年末には閉校。

7.16 中国共産党第二回全国代表大会(~23日)。会場は李達の家

8.13 上海最初のバスの運行が始まる。

8.23 李大創、孫文宅を訪れ会談。共産党員として初めて国民党に加入(二重党籍)。

10.23 上海大学が成立。共産党の運営による大学。于右仁が校長、履中夏が校務長、瞿秋白が教務長を務める。
* 上海工部局交響楽団(Shanghai Municipal Orchestra)が発足する。メンバーは租界に住む外国人とマニラからの呼び寄せ。

1923年

1.23 上海で中国最初のラジオ放送。3ヶ月で停業。

1.26 孫文とソ連大使ヨッフェが孫文宅で会見。「孫文・ヨッフェ共同宣言」を発表。

10.20 『中国青年』(週刊)が創刊。中国社会主義青年団の機関誌。履中夏、@代英などが編集。

11. 1 上海書店が開業。中国共産党の出版機構。

*  日本郵船が上海—長崎間の定期運航を開始。最強速力21ノットの快速客船長崎丸・上海丸が投入される。

* 芥川龍之介、毎日新聞記者として上海に渡る。村松梢風が2ヶ月にわたり上海に滞在。翌年、『魔都』を発表。

1924年

1  国民党が国共合作を決定。

6 毛沢東が上海での生活を始める。

9  江浙戦争勃発。斉燮元・孫伝芳軍が上海に進駐。

12  旧ロシア領事館にソ連領事館が開設される。
* 第5回コミンテルン大会。地域別書記局としてコミンテルン東方部が設定される。近東・中東・極東に分かれる。極東部がヴォイチンスキーの任務を引き継ぐ。

1925年
5.30事件

1.11 中国共産党第4回全国代表大会(~22日)。

2. 9 日本の内外棉工場で争議が発生。現場監督の暴力に抗議して9千人の労働者がストライキに突入。他の日系の21工場に波及し、約4万人が参加。工場側が要求の一部を受け入れて終結(~31日)。

3.12 孫文が北京の停戦会議に出席中に急死。4.12の追悼大会に10万人が参加。

5.15 内外棉工場で警備員の発砲により労働者代表の顧正紅が死亡、10数人が負傷。

5.30 「五・三〇事件」発生。公共租界各所で反日の宣伝活動を行った学生100人余りが逮捕される。

5.30 学生逮捕に抗議して押しかけた学生、市民に警官が発砲、13人が死亡、多数が負傷。

5.31 抗議運動の中で上海総工会が成立。執行委員長李立三の指揮の下に全市20万人の労働者のストライキを行う。

6. 4 中国共産党が『熱血日報』を発行。瞿秋白が編集を担当。鄭振鐸、葉聖陶、胡愈之などは『公理日報』を発行し、反帝闘争を呼びかける。

6.12 五・三〇死難烈士追悼大会に20万人が参加。

6.22 奉天軍が上海に進駐。戒厳令を敷き、集会、デモを禁止し、総工会などを封鎖。

7.  広州に国民政府が成立。

10.16 奉天軍が撤退し、孫伝芳軍が上海に進駐。戒厳令が解かれる。

1926年

3月 北京で「三・一八事件」が発生。

3.  金子光晴が初めて上海に来る。

10.24 上海第一次武装蜂起が失敗に終わる。

11.  南国電影劇社がソ連映画『戦艦ポチョムキン』の試写会を開催。ソ連映画が初めて紹介される。

1927年
蒋介石のクーデター

1. 1 公共租界の会審公廨の閉鎖が決定。上海公共租界臨時法院が成立
2月10日 周建人(魯迅)が上海に辿り着き、虹口地区に居を構える。

2.19 上海の労働者がゼネストに突入。ついで第二次武装蜂起を決行するが、失敗に終わる。

3.21 第三次武装蜂起。激闘の末に孫伝芳軍を駆逐、白崇禧率いる北伐軍を迎え入れ、上海臨時特別市政府を樹立。

4.12 蒋介石が「四・一二クーデター」を発動、各所の総工会、工人糾察隊の拠点を襲撃して労働者の武装を解除する。

社会主義的労働運動の台頭を懸念した浙江財閥が、蒋介石と提携し「上海クーデター」を決行したとされる。

4.13 工人糾察隊を中心とするデモ隊に蒋介石軍が発砲、多数の死傷者が出る。

4.18 蒋介石が南京に国民政府を樹立。以後、共産党とその支持者に対する弾圧(清党)を行う。諸外国や資本家、青幇の首領・杜月笙の援助を受けながら、共産党員300人以上を処刑する

4月 茅盾が虹口に隠れ住み、中編小説『幻滅』を書く。その後葉聖陶も虹口に移ってくる。

7.07 上海、中華民国(北京政府)の特別市となる。 人口は360万人に達する。工部局職員は7千名、租界警察も5千人に達する。日本人数は2万6千人に達し、外国人中最多となる。虹口(ホンキュウ)が最大の拠点として日本人街化する。

10. 5 魯迅が初めて内山書店を訪れる。

10.24 共産党機関誌として「ボルシェビキ」が創刊される。編集委員会主任は瞿秋白。32年まで存続する。

12.01 蒋介石と宋美麗が結婚。マジェスティックホテル(大華飯店)で披露宴。

当時下野していた蒋介石を支援するために、上海で秘密結社「中央倶楽部」(Central Club)が結成される。陳果夫、陳立夫兄弟が指導。のちにCC団と呼ばれるようになる。


1928年

4.  横光利一が上海を訪問。帰国後、長編小説『上海』を執筆。

5. 3 「済南事件」が発生。日本軍が山東省済南を占領。これに抗議して学生、市民、労働者が反日運動を展開。

5.22 約200人の日本軍兵士が在留日本人の保護を理由に虹口を武装行進。

5.30 「五・三〇運動」三周年を記念して南京路で約1万人の反日デモが行われる。
6月 中華民国の首都が北京市から南京市に移される。上海が事実上の首都となる。

8.  中国共産党中央政治局、商店を装って開設。周恩来が執務する。1931まで存続。

11月  尾崎秀実が大阪朝日新聞上海支局に着任。

尾崎、スメドレー、ゾルゲ関係は「2018年07月23日  尾崎秀実の上海」を参照されたい。

* 中国人納税者会の運動の結果、参事会に中国人枠(定員9名中3名)が認められる。租界税収の55パーセントは中国人によるものであった。また共同租界内とフランス租界内の公園が中国人にも開放される。

1929年

4.28 国民党政府、上海総商会を閉鎖。新たに上海市特別総商会を作る。のちに上海市商会と改称。

7. 8 上海—南京の航空路線が運行開始。中国最初の航空路線。

7月 蒋介石政権、租界の東北部に新しい市街地の建設を計画。「大上海都市計画」と呼ばれる。

8.24 彭湃が上海市内で逮捕される。30日に処刑。

1930年

2.16 魯迅、馮雪峰、田漢、夏衍、鄭伯奇、蒋光慈など12人が左翼作家連盟の準備委員会を立ち上げ。

3. 2 中国左翼作家連盟(略称:左連)が中華芸術大学で成立大会を開く。

5. 6 @代英が上海市内で逮捕される。翌年に処刑。

7. 1 上海特別市が直轄市となり上海市に改称。

上海1930
            上海 1930年

10. 4 魯迅と内山完造、世界版画展覧会を開催。

10. 9 国産品ファッションショーがマジェスティックホテルで開かれる。

10.  中国左翼文化界総同盟(略称:文総)が成立。総書記は潘漢年。

11. 8 「日支闘争同盟」が市内の建物に反戦スローガンを書く。「日支闘争同盟」は日本人記者、学生、中国人同志からなる反戦組織。

* 青幇(チンバン)、杜月笙の下で最盛期を迎える。杜月笙は「夜の帝王」と呼ばれる。

1931年

1.17 左連のメンバー36人が逮捕される。その内の24人が処刑される。

1.  鹿地亘が剣劇団にまぎれこんで上海に渡る。

6.  瞿秋白が上海市内に潜入。

6月15日 ヌーラン(牛蘭)事件が発生。プロフィンテルンの上海支部のイレール・ヌーランが共同租界警察により逮捕される。このあとコミンテルン極東部のアジトが摘発される。極東部は東方部の一部を形成し、30年にイルクーツクから移設された。ゾルゲはこれらとの接触を避けていたと言う。

8.17 @寅達が上海市内で逮捕され、処刑される。@寅達は中国国民党臨時行動委員会(別称:第三党)の領袖であった。

9.18 満州事変が勃発。

9.20 湖風書局が開業。左連の雑誌を刊行。

9.22 5千人参加の反日市民大会、「上海抗日救国連合会」の結成を宣言。日本軍の駆逐と占領地の回復、救国義勇軍の組織、対日経済断絶を決議する。

9.24 3万人の港湾労働者が反日ストライキに突入。約10万人の学生が授業をボイコットして反日運動を展開。上海全市で反日・抗日運動が展開される。

9.26 800の団体の20万人が抗日救国大会を開く。郵便、水道、電気、紡績、皮革など約100の労働組合がストライキに入る。

10.13 上海抗日救国連合会、日本および日本人との関係断絶を決議。日貨検査隊が組織され、日貨を扱った中国商人は容赦なく処罰される。

10月 『支那小説集阿Q正伝』が日本で出版される。

10.27 南京、広州両国民政府が上海で「南北和平統一会議」を開催。

12. 6 北上して抗日軍に加わる280人余りの青年が出発。1万人が見送る。

* ニム・ウェールズ(寧謨・韋爾斯 Nym Wales)が上海に来る。ニム・ウェールズの本名はヘレン・フォスター・スノーでエドガー・スノーの妻。上海でジャーナリストとして活動中、招請を受け37年に延安入りした。

1932年

1. 1 蒋介石と汪精衛の合議により新国民政府が成立。1月5日に広州政府を解消。

第一次上海事変

1.18 日蓮宗(妙法寺)の托鉢寒行の僧侶が楊樹浦で中国人に襲撃され、1人が死亡、2人が重傷を負う。この事件をきっかけに日中両軍が臨戦態勢に入る。

上海公使館附陸軍武官補田中隆吉の証言: 板垣大佐に列国の注意を逸らすため上海で事件を起こすよう依頼された。これに従って自分が中国人を買収し僧侶を襲わせた。

1.22 日本は巡洋艦2隻、空母1隻、駆逐艦12隻、925名の陸戦隊員を上海に派遣。駐留部隊1千に加え増援部隊1700名を上陸させる。

1.28 第一次上海事変が勃発。日本海軍陸戦隊、虹口から北四川路に進出し、閘北一帯で19路軍と戦火を交える。市民の支援を受けた第78師が、国民政府の戦闘回避の指令を無視して抗戦。市街戦が始まる。

1.31 日本軍は、巡洋艦4隻、駆逐艦4隻、航空母艦2隻、陸戦隊約7000人を追加派遣。

2.02 予想外の苦戦に驚いた日本政府は、陸軍第9師団と混成第24旅団の派遣を決定。国民政府も第5軍(第87師、第88師など)を作戦に加える。

2.22 総攻撃が開始される。作戦は多大な犠牲者を出し難航。このため新たに上海派遣軍(第11師団、第14師団その他)が編成される。

3.01 満州国建国宣言。

3.02 日本軍増派を受けて、第十九路軍は後方に総退却、事実上の終戦。 日本人在留民自警団による暴行・虐殺が非難を浴びる。中国人難民が租界へ流入。路上には病死・凍死者が屍を晒す。

3.06 国民政府、停戦声明を発表。

3.24 上海市内のイギリス領事館で日中停戦談判が始まる。

3.  藍衣社が成立。正式名は中華民族復興社。ファシストの黒シャツに真似た青シャツを制服としたことから藍衣社と呼ばれる。

戴笠(たいりゅう)が中心となり、黄埔軍官学校出身者を組織化。蒋介石の親衛隊と位置づけられた。政治結社であるCC団とは異なり準軍事組織としての性格が強い。
在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの指導を受け、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行う。
南京に本部を置く。上海支部は南市、閘北、フランス租界、公共租界の四つの情報班と一つの行動班で構成された。

3.  丁玲、田漢ら、瞿秋白の立ち会いのもとに共産党に入党。

4.29 朝鮮「愛国団」の尹奉吉、虹口公園で挙行された天長節式典に爆弾を投擲。出席していた白川義則上海派遣軍司令官が死亡、第九師団長植田謙吉、日本公使重光葵などが重傷を負う。

5.05 英米仏の勧告のもと、上海停戦協定が調印される。日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限(非武装地帯の設置)で合意。

7.17 共産党が反帝抗日大会を開く。参加者95人が逮捕される。

8.19 抗日映画『共赴国難』が公開される。

10.15 陳独秀が逮捕され、5年間にわたり勾留される。

12.17 中国民権保障同盟が発足。宋慶齢、蔡元培、楊杏仏などが発起人となる。

* 蒋介石は共産党への弾圧を強化。陳兄弟の率いる「特工総部」(特務工作総部)が先頭に立つ。

* パラマウント(百楽門舞庁)が開業。当時最も豪華なダンスホール。

1933年

2. 9 中国電影文化協会が成立。夏衍、田漢、洪深、鄭正秋、蔡楚生、孫瑜などが執行委員となる。

3. 6 魯迅と瞿秋白は共同作業を開始する。

3. 故宮の文物総計19557箱25万件が上海に運ばれ、フランス租界の某所に厳重に保管される。日本軍の手に渡るのを恐れて移送したもの。

5.14 左翼作家の丁玲が自宅から国民党特務機関に拉致される。南京に護送され、約3年間軟禁される。

5.  上海華商証券交易所が上海証券交易所を合併吸収し、極東最大の証券取引所となる。

6.18 中国民権保障同盟副会長の楊杏仏が国民党特務によって中央研究院前で暗殺される。

7.  何凝(瞿秋白の偽名)編の『魯迅雑感選集』が出版される。

8.  日本の上海海軍特別陸戦隊本部の建物が完成

33年 福建革命が起きる。第十九路軍の便衣隊は、中国共産党とともに上海で反蒋介石暴動を企画するが発覚。

1934年

1.15 張学良(当時上海在住)が談話を発表し、和平統一を主張。

2.19 国民党上海市党部が149種の新文芸と社会科学の書籍、76種の刊行物の出版・発行を禁止。

3.  電通影片公司が開設。左翼映画運動の拠点となる。

4. 1 上海に二階建てバスが初めて走る。

9.27 梅蘭芳、馬連良出演の歴史愛国劇『抗金兵』が初演。

11.13 申報館総支配人の史量才が国民党特務に暗殺される。史量才は「一・二八事変」では第十九路軍を積極的に支援し、その後も民権保証同盟の活動を支援していた。

11.30 魯迅が内山書店で初めて蕭軍、蕭紅(北東部出身の小説家夫婦)と会い、以後の生活を援助。蕭軍の中編小説『八月的郷村』と蕭紅の中編小説『生死場』の出版を実現する。

12. 1 パークホテルが落成。当時、上海で最も高い建物となる。ブロードウェイマンションが落成。外国人用のアパート兼ホテル。

12.05 ベーブ・ルース一行が来訪。中国チームと対戦し、22対1で大勝。

12.14 日本海軍陸戦隊2,500名が虹口の蘇州河両岸で実戦演習を強行。1ヶ月後には虹口、楊樹浦一帯で市街戦の演習を行う。

* 日本が全国的な凶作となる。

1935年

2.19 共産党上海中央局書記黄文傑をはじめ、田漢、陽翰笙など36人の共産党員が逮捕される。

5. 1 ラジオ放送が全国一斉に国語(北京語)になる。上海の各放送局も国語による放送を開始。

5.24 『風雲児女』(電通影片公司、監督:許広之)が公開。その主題歌『義勇軍行進曲』(作詞:田漢、作曲:聶耳)は広く歌われるようになり、新中国成立時に中華人民共和国国歌に制定された。

6.24 雑誌『新生』(週刊)が日本の天皇を侮辱する文章を載せたとして停刊処分を受け、総編集者兼発行人の杜重遠が懲役1年2ヶ月の判決を受ける。

8.  上海体育場が完成。その規模と施設は東アジアで一番といわれた。

11月9日 上海共同租界で、日本海軍陸戦隊の中山秀雄一等水兵が中国人により殺害される。第十九路軍の便衣隊による犯行とされる。事件後には、日本人が経営する商店が襲撃される。この後日本人居留者の暗殺事件が相次ぐ。

11.16 『大衆生活』(週刊)が創刊される。抗日統一戦線の主張を展開して読者を獲得し、毎期20万部発行という記録を作る。

12. 9 北京で抗日を要求する学生が弾圧される。上海でも各界に救国運動が広がる。

12.12 上海文化界の283人 が連名で「上海文化界救国運動宣言」を発表。

12.14 上海各大学学生救国連合会が成立。

21日 上海婦女救国会が成立。

12.23 復旦大学の学生約1,000名の請願団、首都南京に向かおうとする。上海北駅に押しかけ、列車が全線ストップ。さらに他の大学の約2,000名も加わる。

12.25 学生たちが列車に分乗して南京に向かうが、途中で阻止される。

12.27 上海文化界の約300人が集会を開き、上海文化界救国会が成立。

1936年

2.14 中国航空公司が上海—ハノイ間の航空路線を開設。中国最初の海外航空路線。広州経由でハノイに飛び、ハノイからフランス航空公司の欧州路線に接続。

2.17 国民党政府が「緊急治安法令」を公布。

3. 8 上海婦女救国会、上海女青年会など七つの団体が国際婦人デー拡大記念大会を開き、抗日救国を主張。

4. 22 張学良が西安から上海に来て潘漢年と会談。

4.  馮雪峰が解放区から上海に着き、地下の共産党組織との連絡を回復。

5. 5 映画スターの唐納と藍萍(江青)が結婚。他のスターたちと、合同結婚披露宴を行う。

5.31 全国各界救国連合会が結成される。華北、華中、華南と長江流域60数地区から救亡会の代表70数人が結集し、「抗日救国初歩政策」を策定。内戦を停止し一致団結して抗日にあたるよう主張。

5.  上海の文学界で「国防文学論争」が展開される

7.15 救国会の沈鈞儒、陶行知、章乃器、鄒韜奮の四人が抗日救国を要求する公開書簡を発表。

9.20 魯迅、茅盾、郭沫若、林語堂、包天笑、周痩鵑など21人が連名で「文芸界の団結と言論の自由のための宣言」を発表。抗日救国に向けて文芸界の統一戦線の成立を促す。

10.19 魯迅が自宅で死去。数万人が告別に訪れる。「民族魂」と書かれた錦の旗で覆われた棺が沿道を埋めた市民に見送られる。

11. 8 日本系の紡績工場で労働者が賃上げ、労働条件の改善などを要求して大規模なストライキを行う。日本海軍陸戦隊、工部局警察などが出動し、双方に負傷者 が出る。

11.28 紡績工場のストライキ、上海地方協会と総工会の調停により、工場側が労働者の要求をほぼ認めて妥結。

11.22 全国各界救国連合会の指導者、沈鈞儒、鄒韜奮、章乃器、李公樸、王造時、史良、沙千里が逮捕・投獄される(「七君子事件」)。翌年7月に釈放。

12.12 「西安事変」発生。

* エドガー・スノーの「中国の赤い星」が出版される。F.D.ルーズベルトは『赤い星』の愛読者だったが、当時のスターリニストからは批判の対象となった。

1937年

1. 1 上海—南京間に特急列車「首都特快」が運行。座席数378、時速80キロ。

6. 3 日独合作映画『新しき土地』が公開。日本軍の中国侵略を正当化している場面があると上海文化界が抗議し、上映中止となる。

7.07 盧溝橋事件が勃発。華北で全面戦争が始まる。上海各界抗敵後援会、中国婦女抗敵後援会、上海文化界救亡協会など各種の抗敵救亡団体が結成され、激しい抗日運動が展開される。

7.18 魯迅記念委員会が創設。宋慶齢、蔡元培、茅盾、許広平、スメドレー、内山完三、秋田雨雀など70数人が参加。

7月 虹口地区でふたたび緊張が高まり、数十万の市民が租界地区に逃れる。

8. 7 上海劇作家協会が完成した大型演劇『盧溝橋を守れ』が上演され、連日満員となる。

第二次上海事変

8.09 日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉らが虹橋飛行場でピストルを乱射。中国兵が反撃して射殺。この事件をきっかけに日中両軍間の緊張が高まり、双方が臨戦態勢に入る。

8.13 日本軍が閘北に侵攻し、中国軍が応戦。第二次上海事変が勃発。緒戦は数で勝る中国軍が優勢だったが、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍が呉淞口などに上陸してから、戦況は日本側に傾く。

8.14 中国空軍機が誤って落とした爆弾が、共同租界中心部の繁華街で爆発。約二千人の死傷者がでる。

8月15日 蒋介石が陸海空の総司令官に就任。中国全国に総動員令が発せられる。

8.23 日本軍機の爆撃で市民173人が死亡、549人が負傷。

8.29 日本軍機が上海南駅を爆撃、市民約250人が死亡、500人余りが負傷。

8.24 『救亡日報』が創刊。郭沫若が社長。統一戦線的な編集委員会によって編集・発行され、11月22日まで上海での発行を続ける。

9. 7 宝山の中国軍守備隊が全滅。日本軍の上海包囲網が狭まる。

9. 9 蔡元培、宋慶齢、胡適など中国文化界の著名人が連名で世界各国の文化界に中国の抗戦に対する援助を呼びかける。

9.22 緑川英子が抗戦活動に参加し、日本のエスペランチストに反戦を訴える公開書簡を送る。

10.31 謝晋元率いる第85師団524連隊の「八百壮士」、倉庫に立てこもり、四昼夜にわたって日本軍の猛攻を撃退。その後撤退して租界に入る。

11.11 相次ぐ増派の末、日本軍が浦東を制圧。租界内に撤退した中国軍は工部局により武装解除される。南市守備軍が撤退。上海の華界が全て陥落し、租界が「孤島」となる。

11.21 租界内で中国人が行使していた行政権を代行することを日本が宣布。

11月 参謀本部第2部(情報部)に第8課(宣伝謀略課)を設置。影佐が初代課長に就任。民間人里見甫を指導し中国の地下組織・青幇(チンパン)や、紅幇(ホンパン)と連携し、アヘン売買を行う里見機関を設立。阿片権益による資金は関東軍へ流れたという。

12. 3 日本軍約6,000人が租界を示威行進。沿道から手榴弾が投げ込まれ、日本兵3人ほか市民数人が負傷。犯人は巡査に撃たれて死亡。

12. 5 日本が上海大道市政府設立。

12.13 2週間の攻防戦の末、国民政府の首都南京が陥落。蒋介石は南京を脱出し武漢に政府を樹立。

12.14 日本軍報道部が租界内の中国語新聞に対して検閲を実施することを宣布。これに抗議して『申報』『大公報』『時事新報』『国聞周報』などが自ら停刊。

12.  南京大虐殺事件が発生。日本軍が兵士、市民を殺戮する。

12月末 王克敏を首班とする南京臨時政府が樹立される。

1938年

1.25 『文匯報』(日刊)が創刊。抗日の姿勢を堅持し、39年5月10日まで発行を続ける。

1月 近衛内閣、「爾後国民政府を対手にせず」と声明。トラウトマン和平工作は流産。国民党、共産党系のテロ組織が上海市内での抗日テロ、漢奸狩りを一斉に開始。

CC団 陳其美の指導のもとに甥の陳果夫、陳立夫の兄弟が設立。国民党中央執行委員会付属の調査統計局の傘下に入ったことから「中統」の略称でも知られる。
藍衣社 ムソリーニの親衛隊に真似て藍色の中国服を制服としたことから俗称された。正式名称は中華民族復興社。後に軍事委員会調査統計局に属したこ とから「軍統」の名でも知られる。軍統の戴笠副局長が直接指導し、CC団とは異なり、独自のビジョンを持たないテロ組織である。
杜月笙ら青幇(ちんぱん)を引き入れて「蘇浙行動委員会」を組織、その下部に「忠義旧国軍」を置く。組織員数は1万人にのぼったとされる。知日、親日派の軍人・政治家をターゲットとするテロに集中。残虐な手口で恐れられた。

2.26 日系テロ集団黄道会、『社会晩報』社長の蔡鈞徒、滬江大学校長劉湛恩らを暗殺し、首を電柱に吊るす。

3. 1 エドガー・スノーの『Red Star Over China(中国の赤い星)』の中国語訳が書名を『西行漫記』として復社から出版。

3月 南京臨時政府に代わり、梁鴻志を首班とする維新政府が成立。国民の支持は皆無。

4.  日本軍による放送監督所の設置に反発して23の民間ラジオ局が登録を拒否し放送を停止する。

6.15 魯迅記念委員会編纂の『魯迅全集』全20巻が復社から出版。

7.07 盧溝橋事件1周年。上海各区の憲兵隊詰め所に手榴弾のプレゼント。

7月 満州国建国で暗躍した土肥原機関が上海の重光堂に居を構え、傀儡政権樹立に備え政治工作を開始。

9.30 藍衣社が唐紹儀を暗殺。唐紹儀は国民党の要人で、日本軍が傀儡政権に担ぎ出そうとしていた。

10.10 八路軍駐滬弁事処が『文献』(月刊)を創刊。主編は銭杏邨(阿英)。

10.19 ユダヤ難民援助委員会が成立。ナチスの迫害を逃れて上海に着いたユダヤ難民を受け入れる。

10 参謀本部ロシア課の小野寺信中佐が上海に「小野寺機関」を設立。独自に蒋介石との直接和平の可能性を探る。この時点で和平工作は土肥原機関の傀儡政権づくり、影佐らの汪兆銘擁立、小野寺機関という3つのオプションが並行していた。

11.20 汪精衛の密使と日本側代表今井武夫らが「重光堂会談」。カイライ政権の樹立をめぐり協議。2年以内の日本軍の撤兵を引き換えに様々な要求が突きつけられる。

11月 御前会議では「重光堂会談」とはまったく異なる方針「日支新関係調整方針」が定められる。①日本軍の駐屯、②中国人による中央政府の否認、③撤兵時期は明示しない

12.18 汪兆銘が国民政府から離反。重慶を脱出し空路ハノイに向かう。CC団幹部の周仏海、梅思平らが汪兆銘に従う。

12月 上海各界救亡協会が民衆慰労団を組織。その第一陣が皖南(安徽省南部)の新四軍の駐屯地に向けて出発。

* 蒋介石は軍事委員会調査統計局を改組し、CC団系の中央調査統計局(中統)と藍衣社系の軍事委員会弁公庁調査統計局(軍統)に分割する。

* ナチスに追われたユダヤ人難民が上海に大量流入。2万人に達する。

1939年

1. 4 『申報』が皖南の新四軍を紹介する記事を連載(~15日)。『大美晩報』特派員ジャック・ベルデンが提供したもの。

2月 国民政府の軍統幹部、丁黙邨(ていもくそん)と李士群が土肥原機関の晴気慶胤少佐に接触。和平救国のために重慶テロへの対策を進言。支援をもとめる。李士群は元共産党員。

2月10日 参謀本部の影佐軍務課長はただちに丁黙邨らの計画を承認。同時に汪兆銘擁立と土肥原機関の解体を指示。

3月 参謀本部の承認を受け特別工作がスタート。共同租界のイタリア警備区域に接する越界路区であるジェスフィールド路76号(極司非爾路76號)に本部を確保する。工部局の警官を引きぬき、チンピラをかき集め300名の部隊を確保。


   ジェスフィールド七六号跡 

4.15 ニム・ウェールズの「赤い中国の内側」が、『続西行漫記』として復社から出版される。

5.06 重慶を脱出してハノイに逃れていた汪精衛が日本船北光丸で上海に着く。

5.08 汪精衛と丁黙邨・李士群が会見。76号を汪政権の特務工作総司令部(特工総部)とすることで合意。丁黙邨が上海の国民党の懐柔、李士群がテロ組織の弾圧に当たる。

丁黙邨は中央執行委員・常務委員に任命される。「76号」は正式な政府機関となり、国民党中央委員会特務委員会特工総部と称する。

6.06 閣議で汪兆銘擁立工作が正式に承認される。これを機に小野寺機関は解体される。

8.22 影佐禎昭、支那派遣軍総司令部付となる。汪精衛政権の擁立に向け工作機関を組織する。本部を梅花堂に設けたので「梅機関」と呼ばれる。

8.28 汪兆銘が招集した国民党第6次全国国民代表大会が開催される。76号が会場に当てられた。

9. 5 汪精衛が国民党第6期1中全会を召集、国民党カイライ派の中央が成立。

10.19 抗日軍支援の活動を行った中国仏教会会長円瑛法師が、日本憲兵隊本部に連行される。

12.12 中国職業婦女倶楽部主席の茅麗瑛、「76号」の特務に暗殺される。

12.15 日本軍が租界への米の搬入を禁止。米の価格が高騰し、市内各所で米騒動が起きる。

12.23 丁黙邨、鄭蘋茹に誘われ、市内の毛皮店に入る。暗殺者に気づき防弾車で逃亡。これを機に丁黙邨は失脚。

12.30 汪精衛と「梅機関」との間で「日汪密約」が調印される。

1940年

2月 鄭蘋如、銃殺刑に処せられる。「顔は撃たないで」と懇願し、後頭部に銃弾を受けたという。

3.29 汪精衛政府と横浜正金銀行が4000万元の「政治借款契約書」を交わす。

3.30 汪兆銘新政権が南京で成立。重慶からの「遷都」を称する。

3月 「梅機関」が解散。影佐は汪政府の軍事最高顧問に就任する。

6.14 7人の外国人記者が汪精衛政府から国外退去を命ぜられる。

7.25 女性実業家方液仙が「76号」の特務に暗殺される。汪精衛政権成立時に実業部長への就任要請を拒絶したためとされる。

8. 2 上海白ロシア僑民委員会主席メツラー、日本軍特務機関により暗殺される。

8.14 日本軍と関係を深めていた張嘯林が暗殺される。

8.19 上海駐留イギリス陸軍の撤退が宣布される。

10.11 上海市長傅筱安が虹口施高塔路の自宅で暗殺される。

1941年

3.21 中国銀行職員宿舎が「76号」の特務に襲われ、約200人が連行される。重慶側特務のテロ活動の停止を釈放の条件とし、4月8日までに全員が釈放。

4.24 「八百壮士」の残軍の指揮官謝晋元が刺殺される。弔問者は約13万人にのぼる。

5.10 日本海軍陸戦隊、蘇州河の小型運搬船約250艘を沈める。抗日分子の捜索を理由とする。

6.17 工部局警察特別警視副総監赤木親之が重慶側の特務に狙撃され死亡

8.28 日本軍が租界の外周に鉄条網をめぐらし、中国人の夜間の虹口、楊樹浦への通行を禁止する。

11.28 アメリカ海兵隊が上海から撤退。

12. 8 太平洋戦争が勃発。日本軍は公共租界を占領し、市内各所に歩哨所を設ける。

12.15 許広平(魯迅夫人)が日本憲兵隊本部に連行される。何度も拷問を受けるが内山完造の尽力により3月1日に釈放。

1942年

1.  日本軍が公共租界のイギリス、アメリカの7つの公共事業関係の企業を接収。3月までに82の外資系企業と15の外資系銀行を接収・管理。永安、先施、新新、大新の四大デパートも日本の軍事管理下に置かれる。

6.  上海のすべての地区のラジオ所有者が登録を義務づけられる。

8.12 日本陸海軍防空司令部が灯火管制を敷き、広告や装飾用のネオンが消える。

9. 3 警務処に音楽検査科が開設され、ダンスホール、ナイトクラブなどで演奏される曲の検査を始める。アメリカ、イギリスの曲や「何日君再来」などが禁止される。

10.16 日本軍が「敵性国」居留民の娯楽施設への立ち入りを禁止する条例を発布。このため映画館、ダンスホール、ナイトクラブなどが次々と営業停止に追い込まれる。

11.  日本陸海軍司令部が「敵性国」居留民の短波ラジオ、カメラ、望遠鏡を没収。

1943年

1. 9 汪精衛政府がイギリス、アメリカ両国に宣戦布告し、日本と「日華共同宣言」を発表。

1.  汪精衛政府がイギリス、アメリカの映画の上映を禁止。

7.30 汪精衛政府が仏租界を接収。続いて 8月 1日に公共租界を接収。この時点で上海在留日本人は10万人に達する。

9.9 特工総部の権力を独占した李士群、反対派の手にかかり毒殺される。腐敗堕落した特工総部への怒りのためとされる。

1944年

2月 英中友好条約が締結。イギリスは中国に租界を「返還」する。

3. 3 日本陸海軍防空司令部が市内に戦時灯火管制を敷く。

6.12 米軍機が初めて上海上空に飛来。

6.  武田泰淳が上海に来て中日文化協会に着任。

11.10 汪精衛、銃創の悪化により日本の名古屋で病没。12日、陳公博が代理政府主席兼行政院院長に就任。

1945年

1.15 周仏海が上海市長兼警察局長に就任。

5.  李香蘭(山口淑子)のリサイタルが開かれる。

7.17 米軍機約60機が滬東を空襲。23,24日には約100機が市内を空襲。

8. 1 ソ連映画『スターリングラードの戦い』が公開される。

8.11 日本が降伏するとのニュースが伝わり、パークホテル【3-C3】の屋上に青天白日旗が翻る。

8.15 日本が無条件降伏。上海全市が歓喜に沸き返る。

8.18 米軍が上海に上陸。20日、米軍陸軍使節団が上海に到着。

9.初 湯恩伯率いる国民党政府軍第三方面軍が上海に入る。

9.12 日本の降伏調印式が行われる。14日から日本軍の武装解除が始まり、約15万の将兵が江湾と浦東の集中営に収容される。

* 工業消費電力はピーク時(36年)の4割に低下。中国人経営の工場の生産は事実上停止。

1946年

4.  中国共産党中央上海局が成立。劉暁が書記、劉長勝が副書記。

8.20 ミス上海のコンテストが開催される。

10. 2 ブロードウェイ・マンションが国防部に接収され、右翼団体励志社の上海本部となる。

1947年

1.  輸入品販売店が急増し、アメリカ商品が市場を独占。

2. 9 「国産品愛用・アメリカ商品規制運動」の大会に国民党特務が乱入し死者1名、負傷者数十名。

5.19 上海の14の大学の学生約7000人が「反内戦、反飢餓」の集会を開き、デモ行進を行う。

5.末 国民党が軍隊、警察を大量動員して市内の各大学を捜査し、多数の学生を逮捕。これに対して学生、教師が授業をボイコットし、市民の支援も得て抗議運動を展開。

7月 丁黙邨、死刑となる。

10月 川島芳子、国民党政府により処刑される。

1948年

1.末 申新棉紡績廠で7千人の労働者がストライキに入り、警官隊と衝突し、200人余りが逮捕される

8.  蒋経国が経済管制委員会の督導員として着任し経済管制を敷く。物価の凍結、隠匿物資の摘発、汚職官吏の処罰などの「打虎運動」を実行するが、11月に南京に召還。

12. 7 中央銀行に金銀への兌換を求める群衆が押しかけ大混乱となる。蒋介石は中央銀行の現金を台湾に移させる。

1949年

2.25 国民党の最新型巡洋艦重慶号が艦長以下574名の将兵ともに解放区へ亡命。

2月 各大学に「応変委員会」が作られ、糾察隊、儲糧隊、救護隊、宣伝隊が組織される。

4.14 上海市長呉国禎が台湾に逃亡。

4.22 人民解放軍が南京に入城。国民政府の機関と要員が上海に移る。淞滬警備司令部が上海が戦時状態に入ったことを宣布し、全面軍事管制を敷く。

5.12 陳毅率いる人民解放軍第三野戦軍が上海攻略作戦を開始。

5.27 人民解放軍が上海全市を「解放」し、上海市軍事管制委員会が成立。

5.28 上海市人民政府が成立。陳毅が市長に就任。

7. 6 百万人を超える兵士、市民が上海の「解放」を祝って市内を行進。

10.10 中華人民共和国が成立。外国資本は香港に撤収する。数10万人の資本家や秘密結社の構成員、文化人、技術者、熟練工が香港にうつる。「魔都上海」の終焉。

 
 

 

 

 

 

 

 

 

自然の弁証法について

以前、フランクフルト学派の哲学者でシュミットとかいう人の本を読んだことがあって、エンゲルス批判をしていたのが、ずっと頭の片隅に引っかかっている。

要するに、シュミットは弁証法というのは認識論・実践論に関わる理論なのであって、主体と客体との関係なのだと言っている。

客体そのものは我々の理論の及ばぬ範囲で動いているのであって、我々のできるのはただその客観的存在を承認するのみなのだということだ。

だから自然の弁証法という考えは、あれこれと都合の良い現象を並べ立て、賢しらに述べ立てているにすぎない。我々は我々と自然の関係のみについて、我々の認識の発展形式のみについて論じるべきだという主張になる。

実はこれは日本でも同じような議論があって、戦前の唯研でも加藤なんとかという人が客観的唯物論と言われて批判されていたような気がする。

どうもまったくあやふやな記憶を頼りに述べているので、お恥ずかしい限りだが、私もその時はシュミットの側に軍配が上がるなと感じていたのであった。

なぜかというと、実はその時の議論はスターリン哲学が背景にあったからである。

しかも今考えるに、そのスターリン哲学たるやきわめて程度の低いものだったのである。

その批判の切り口の一つとして、主体性の強調論があったから、論者の思いとしてはきわめて説得力があったのである。

しかし今やスターリン主義はもはや昔話となった。だからこの問題はもう一度考えなおしても良いのではないだろうか。

弁証法に過剰な能動性を与えるのではなく、自然の理解の仕方として弁証法はゆるぎのない地位を占めていることを確認しても良いのではないかと思う。

確かに自然は弁証法的に動いているのである。

私はそう思うのだが、それは弁証法という言葉の理解が違っているからだと思う。

私の考える弁証法とは以下の様なものである。

1.唯一の絶対的なものは時間である。

我々は4次元の世界(時空間)に住んでいる。そのうち縦・横・高さについては我々は可視化できる。したがって相対化できる。しかし時間については可視化できない。人間は現時点しか経験できないし、操作もできない。

想像では、時間軸を相対化できるような5次元の世界を想像できる。その世界ではビッグバンなど、アキレスと亀の笑い話になるだろう。

2.すべての事物は時間によって規定されている。

1.のテーゼを現実世界に当てはめたものである。我々が相対的に可視化できる「時間」は、時間軸の微分形態である。

どこかを起点に仮定(措定)し、それとの相対的な前後関係に事物を位置づける。そうすると事物は相対的に固定化され、可視化できるのである。

これが事物である。

3.事物は過程である

2.のテーゼを認識という側面から見たものである。これが弁証法の最初の規定、したがって最も根底的な規定になるのかもしれない。

ここで「過程」としたのは運動一般とエネルギーの違いがよくわからないからである。

よくわからないが、エネルギーというのは運動が積分されたもののように思える。しかし運動が積分されればエネルギーになるのかはよく分からない。

誰かおしえてください。

4.過程にはベクトルがある

それはさておいて、事物というのが過程であるということは、例えば超々高速で超々拡大の撮影ができるとすると、そこには何も映らないということになる。

その代わりに物質の発するエネルギーが感板に跡(飛線)を残すということになる。

私は事物の認識には実体論的認識と目的論的認識が必要だと考えているが、その中でも目的論的認識が本質であり、それは飛線の示すベクトルを捉えることにあると思う。

5.同伴者としての「事物」

事物というのは我々と運動ベクトルを同じくしているがゆえに安定した事物として認識される。逆に言えば事物は我々の安定した同伴者なのである。

より不安定なものはハイゼンベルグ的にしか存在しないし、他の全てのエネルギーは、我々には事物として定立されない。

これらの全体から見ればきわめて少数のエネルギーは、我々人類の同伴者なのである。それは我々との運命共同体であり、同じエネルギーから派生した兄弟たちである。

だから此処から先はそういう事物に「」をつけなければならない。

6.自然は学習するのだ……事物間の相互作用と「発展」

ここまでは自然科学の発展をなぞっていけば、ある程度は辿れる話だ。

しかし弁証法の真髄はたんなる変化にあるのではなく、発展的変化にある。

「自然弁証法」の否定論は究極的にはここに行きつく。「進化論」は表向きは誰も否定しないが、その大本となっている「発展」論は拒否する。

私はこのポイントを相互作用論、すなわち弁証法で乗りきれるのではないかと考えている。

最初にお断りですが、たいへん読みにくい記事になってしまいました。
ウィキペディアの抜粋から初めて、最後はウィキペディアのほぼ全否定になってしまいました。
ただ、結果的には、世上流布された秋瑾像を見直すのには役立つだろうと思います。


上海の歴史を勉強していて、とんでもない人物に出くわした。

多分知らない私が世間知らずなのであろうが、勉強したことを書き出してみる。

彼女の名は秋瑾(チウ・チン)。今風に言えば武闘派女子である。山崎厚子は著書の表題を「秋瑾 火焔の女」としている。

懐に短剣、背にモーゼル銃、鹿毛の馬に跨(またが)って駆ける男装の麗人。秋瑾(しゅうきん)は、今もって、中国女性の胸に燦然(さんぜん)と輝く革命家である。

さすがにひどい。これではまるで満州の女馬賊だ。

まず有名な写真

秋瑾

写真館で撮らせたものだろうが、なかなかの美人で、お金ならいくらでもありそうな身なりだ。

当時の秋瑾は清服を嫌って和服を着用し、好んで短刀を身につけていた。(日本大百科全書)

それにしてもドスをこれみよがしにかざすとは相当に物騒な女性である。間違っても褥を共にしたくはない。

しかし、どうもこのオドロオドロしい写真だけでは、エキセントリックな面が誇張されてしまいそうだ。

もう1枚の写真がある。おそらく、平凡な若奥様の時代であろう。

秋瑾2
   互動百科からの転載

これを見ると多少おてんばではあるが、品行方正な若奥様が、北京での政治状況に心を動かし、革命に目覚め、変身を遂げていくというストーリーのほうがすっきりする。

毎度おなじみの年表形式で、資料を整理していくことにする。ウィキから始めて周辺資料でふくらませていくやり方もいつものとおり。

まずは人名録的なところから。

姓が秋で、名が瑾。元の名は秋閨瑾(けいきん)、競雄あるいは鑑湖女侠と号した。

瑾は玉(硬玉)の意味。余分なことだが「瑕瑾」(玉に瑕)ということばが日本で知られている。あの「瑾」である。(ただしこれは和製漢語)

 

1875年11月8日 福建省の厦門で生まれた。日本で言えば明治8年である。(77,78,79年の諸説)

本籍は浙江省の紹興府である。厦門は祖父の赴任先であり、これに一家が帯同したためである。

祖父・秋嘉禾は廈門府の長官であった。当時厦門はイギリスの実質的支配下にあり、横暴なイギリス人に苦汁をなめさせられたようである。

すでに幼少の頃より男勝りの気性は発揮されていたようで、乗馬や撃剣・走り幅跳び・走り高跳びなどで体を鍛えた。男装して町を闊歩したとの話もある。

ただこれらの逸話も、異端性を強調する結果になっている。むしろ強調すべきは、女性には不要とされていた学問や詩作を、それこそ「男勝り」の高度なレベルで習得していたことであろう。

1899年、24歳のときに父の勧めに従い結婚。北京に住み二人の子が生まれる。しかし結婚生活には満足できなかった。

このウィキの記載は、少し省略がある。

1894年、秋瑾の父は税務署長として湖南省に赴任した。赴任先の豪商の息子が秋瑾に一目惚れ、手練手管で両親を籠絡し、秋瑾はいやいや嫁ぐこととなった。これが99年のことになる。

互動百科には姑がいびったと書いてあるが、これは眉唾。上海から見れば湖南はど田舎、気性激しき秋瑾の事ゆえ、いやいや嫁入りした先の姑やしきたりなど心中見下していたに違いない。

この夫は買官に成功し、家族ともども北京に移住することになった。この時までに秋瑾は二人の娘を生んでいる。

世界大百科事典によれば

そのときの北京は義和団の運動が敗北し,ヨーロッパ列強に対してなすすべを失い、狼狽ただならぬ清朝政府の中央でしかなかった。

武田によれば、「居常(いつも)、即ち酒に逃る。しかして沈酣(酔っぱらって)もって往き、覚えず悲歌撃節、剣を払って起ちて舞い、気また壮んなること甚だし」という状態になってしまう。

これは明らかに病的な躁状態である。この結果、結婚状態は破綻した。直接には義和団の運動に感化されたと言われるが、家庭環境も悪化していただろう。

1904年、秋瑾は家族を置き、単身日本に留学することになる。日本では明治37年、日露戦争後の軍国主義高揚期である。それが彼女の躁状態に火に油を注ぐ結果となったことは想像に難くない。

どうも、このあたりウィキ(ということはおそらく武田泰淳)は書き過ぎのようである。

秋瑾が運動へ傾斜していくのは、フェミニズム運動を通じてのようである。

秋瑾は、女性を「三寸金蓮」の纏足から解放しようと「天足会」の運動に加わった。自らは背広・洋靴・帽子という姿の男装をしてみせた。

秋瑾3
      1904年始,秋瑾开始着男装

運動の中で京師大学堂の日本人教師と知り合い、その縁で日本留学を決意した。教師は実践女学校の校長である下田歌子に秋瑾を推薦した。

夫は二人の子供もあるので引き留めようとしたが、秋瑾は「子供を連れて留学する」と言いはった。夫は仕方なくそれを認め、息子を自分が引き取り娘を秋瑾に押し付けた。

6月28日、秋瑾はまだ三歳になっていない娘を抱いて、日本の客船に乗り、7月24日に東京に着いた。

先ず中国留学生会館の日本語講座に入り、翌05年8月、実践女学校の特別科に入学した。

ここで教育・工芸・看護学などを学んだが、何よりも下田歌子の「男女の学問の平等」という精神に最も強く感銘を受けたという。

なおウィキによると、

来日後は日本語を勉強するかたわら、麹町神楽坂の武術会にも通った。射撃を練習したほか、爆薬の製法まで学んでいる。

深夜まで読書と執筆にふけり、感極まると胸を打って痛哭するという日常を送った。

と、記載されている。「別の一面があったのか」とも思われるが、どうも他の資料も読み進めるうちに、いささか疑念の湧くところである。

したがって、最初に書いた次の一節はいずれ書き改めなければならないかとも思っている。

ここまでだけでも結構なエクセントリックぶりだが、その後はこれに民族主義の方向性が与えられていく。

浙江同郷会の週1回の会合には必ず出席した。横浜の洪門天地会(三合会)には来日直後に入会し「白扇」(軍師)になっている。

そして同郷志向に飽きたらない秋瑾は革命運動にまで首を突っ込んでいくようになる。

ここで、当時の中国の革命組織の流れを見ておく。これには2つの流れがあり、一つは05年8月に孫文らが東京で結成した「中国同盟会」、もう一つが上海の「光復会」であった。

「光復会」は浙江省の出身者を中心に組織され、秋瑾の郷里紹興府もこれに統合されていた。のちに「中国同盟会」に加わることになるが、当時は別組織である。

秋瑾はまず「光復会」の東京の責任者・陶成章に会い入会をもとめた。ウィキによれば、彼女の依頼は「執拗」だったらしい。

陶成章は根負けしたのであろう。紹介状を書くという形で、上海の蔡元培会長と紹興の指導者・徐錫麟へ下駄を預けた。

1905年2月、一時帰国した秋瑾は「光復会」との接触を図る。蔡元培は入会を認めなかったが、紹興の徐錫麟(しゃくりん)は入会を認めるに至る。

東京に戻った秋瑾は勇躍活動家の組織に乗り出した。

浙江の人間はそれまで団結心がないといわれていた。それを「光復会」に結集させたのは、強い説得力と彼女が培ってきた人的関係のなせるわざであろう。

また女子留学生を「共愛会」に組織し、自ら会長に収まった。留学生の組織で実績を上げた秋瑾は、孫文が率いる革命団体「中国同盟会」への加入を認められる。そして浙江省の責任者となった。1905年(明治38年)9月のことである。

そして11月2日、秋瑾の最初の見せ場がやってくる。

清国の要請を受けた日本政府が、清国留学生に対する取締規定を発した。これに反発した学生が授業のボイコット運動(同盟休校)をおこす。

強硬派学生(秋瑾を含む)はさらに同盟休校にとどまらず一斉退学と全員帰国を主張した。

中国留学生会館で浙江同郷会の集会が開かれた。一斉退学に反対する学生達との議論が白熱した。秋瑾は興奮し、いつも身に付けていた短刀を演台に突き刺し、彼らに「死刑」を宣告した。

その中には同じ紹興の出身、魯迅も含まれていた。

魯迅の弟である周作人は、その様子を著書『魯迅の故家』で次の様に書いている。(ウィキペディアより)

秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味でないことを知っていたから、賛成しない人が多かったが、この人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳もその中に入っていた。魯迅は彼女が一ふりの短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している

大見得を切った秋瑾は12月に故郷紹興に戻る。その時、「私は帰国後、革命に尽力し、皆様と中原で会うことを臨んでいる」と同級生に語ったという。

ウィキでは1906年の生活についての記載はない。

他資料での検索の結果は以下のごとくである。

1906年はじめ、紹興の「光復会」は彼女を受け容れた。彼女は徐锡麟の紹介により光復会に加入した。互動百科

崔淑芬によれば、

紹興に戻った秋瑾は明道女学校、浙江省の潯渓女学校の教員を歴任した。あわせて紹興で『中国時報』を発刊、女権、女子革命を主張した。

女性の自立手段として、習ったばかりの日本の看護学の教科書を中国語に翻訳した。(永田圭介

06年の夏になって、秋瑾は上海に出て『中国女報』を創刊した。

秋瑾らは上海に革命機関を设立し、「中国女報」を発行した。最初に提案したのが「婦人協会」創建の主張だった。彼女は近代女性の解放のために第一声のラッパを吹き鳴らした。-互動百科

したがってウィキで1907年とされている『中国女報』の記載はあやまちである。

崔淑芬は「中国女報」における秋瑾の主張を、秋瑾の活動の真髄として重視し、丁寧に紹介している。

まず発刊の辞から。

本報の発刊の目的は、女学を振興し、女性を解放するためであり、団体化するためである。

とし、「将来は中国の婦人協会もつくろう」と提起している。

次に「警告妹妹們」という文章。

多くの女同胞はまだ真っ暗地獄にいるようだ。一人の人間として志を持たなければならない。志を持っているなら、自立することができる。‥‥女子は教育を受けるべきだ。そうすれば家業が興隆、男子に敬重される。

また日本を例に上げ、

女子教育の発展と国家の発展との関係は切っても切れない関係にあり、その重要性を認識すべきだ

と強調した。

その年の冬、秋瑾は紹興に戻って大通学堂を指導することになる。

大通学堂はもともと徐锡麟、陶成章らが始めたもので、光復会の幹部、大衆を組織する革命の拠点となるものだった。

おそらく以下のウィキの記載は1906年の初頭のことであろう。

正月、紹興に光復会幹部の養成を目指す大通学堂が開かれた。

光復会の幹部は「会党」と呼ばれる秘密結社に二重加盟した。それは明確に革命を目指す政治結社だった。紹興においては竜華会(りゆうげかい)と呼ばれた。

そして以下の記載は06年後半の出来事だろうと思う。

秋瑾が大通学堂の代表となった。しかし秋瑾の目標は幹部の育成にとどまらなかった。

秋瑾はここを拠点として「体育会」を組織し、会党のメンバーや革命青年を集めて軍事訓練を行った。

また、浙江省各地の会党と連携して「光復軍」を結成し、武装蜂起に向けた準備を進めて行ったのである。

そして1907年、秋瑾の最後の半年が始まる。

ウィキによれば

5月 武装蜂起の計画が確定した。徐錫麟が安徽省安慶で武装蜂起。秋瑾がこれに呼応して浙江で蜂起するという筋書きだった。

7月6日、安慶で徐錫麟が行動を起こした。清朝政府の安徽巡撫を刺殺したものの、たちまち鎮圧・処刑されてしまう。

当局は秋瑾の浙江での蜂起計画も察知。紹興に押し寄せた。

7月13日、大通学堂の秋瑾は、短刀を抜くことも一発のピストルを撃つこともなく逮捕された。

そして2日後の15日、紹興市内で斬首された。享年31歳。辞世の辞は「秋風秋雨、人を愁殺す」

なお「6月5日」とあるのは旧暦表記である。

正直に言えば、秋瑾が武装蜂起をセッティングしたというウィキの記載は疑わしい。武装蜂起の覚悟はあったにせよ、具体的な決行の意図があったかどうかは疑問もある。

処刑の様子については永田圭介さんのエッセイがある。

7月14日、秋瑾は最初に知県(県知事)の尋問を受けた。このとき、「秋風秋雨人を愁殺す」の絶唱を書き遺した。

その後取り調べを拒否し、火煉瓦、火鎖などの虐殺的拷問を受けたが、「革命党員は死を恐れない。 殺したければ殺せ」と叫んだのみで、目を閉じ、歯を食いしばって遂に一言も吐かなかった。

官側は、衰弱死を恐れて拷問を打ちきり、贋造した供述書に力ずくで拇印を押させ、死刑宣告の体裁を作った。

7月15日、午前3時に監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けた。知県は袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)と梟首(さらし首)をせぬことを約束した。

秋瑾は足に鎖枷をつけられ、腕は背後に縛り上げられて刑場に向かった。極度の疲労でよろめく秋瑾を支えようとした護送兵に、彼女は一喝した。「自分で歩く!手出し無用」

処刑は公開で執行された。場所は市内繁華街の軒亭口である。

午前3時に山陰県監獄から曳き出された彼女は、県衙門で即刻死刑の宣告を受けたとき、動じる色もなく知県(県 知事)の李宗嶽に訣別の遺書を書かせよ、袒衣(斬首前に衣服を剥ぐこと)をするな、梟首(さらし首)をするな、と三つの要求をした。

知県は時間がかかる遺書を除き、袒衣と梟首をせぬことを約束した。


ウィキペディアの記事は、武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す・秋瑾女士伝』(1968年)を下敷きにしたものらしく、名文である。しかしその分彼女の異端性を強調する方向での脚色があるようだ。

調べていくうちに、どうも武田泰淳によって作られたイメージは実態とは相当かけ離れているのではないかと思うようになった。山崎厚子さんはその傾向をさらに強めている。

崔淑芬 秋瑾と日本 を読んでその疑念は確信に変わりつつある。

秋瑾は女盗賊のような野蛮な人間ではない。その戦闘性は高い知性と貶められた女性への深い共感に裏付けられている。

私はマヤコフスキーの詩の一節「議論はもうたくさんだ。同志モーゼルよ!」を想起する。

19世紀末から20世紀初頭における理性のあり方の一つの典型として、もう一度本当の秋瑾像を構築しなければならないのではないかと思う。(誰かさん、お願いします)


恐るべし、ニコライ・メトネル

リャードフ、リャプコフ、レビコフと聞き進んできてニコライ・メトネルに入った。

レベルが違うと感じた。一番の特徴は「駄作」がないということである。それだけで驚異だ。

もちろんYou Tubeで全曲が聞けるわけではないから、「駄作」率は分からない。

しかしリャードフ、リャプコフの場合少なくとも半分は聞く必要のない曲である。レビコフだと8割は無意味な曲だ。アントン・ルビンシュテインはほぼすべてが駄作だ。

スクリアビンもラフマニノフも、ロシア革命の頃で終わっている。後期の曲は聞くだけ無駄だ。(スクリアビンは革命前に死んでしまったが)

ドイツの「楽聖」と呼ばれる人たちでさえ、かなりの駄作が混じっている。シューベルトなど駄作の山だ。

そこへ行くとメトネルの歩留まりは7割を超えている。誇張して言えば、メトネルには駄作がない。

すこしメトネルのBiography を述べておこう。

Nikolai Karlovich Medtner

1880年、モスクワの生まれ。ロシア人と言っても父方・母方とも祖先はドイツ人。モスクワ音楽院でピアノを専攻する。

スクリャービン,ラフマニノフに次第三のスターと注目され、若手ピアニスト兼作曲家として売りだした。

ロシア革命の4年後(41歳)に亡命。各地を転々とした後パリに居を構える。しかしパリでは花咲かず、35年(55歳!)にロンドンに移住し、ここで成功する。遅咲きの極である。

51年にロンドンで死亡。この時71歳。下の写真が1947年、死の4年前である。「心臓死」は当然であろう。

作曲の腕は学生の頃から認められていた。タネーエフは「メトネルはソナタ形式とともに生まれてきた」と言って絶賛した。

曲は「超保守的」で、和音はリストはおろかブラームスより古い。折り目の付け方はバッハ的でさえある。

「スクリャービンの芳醇な香り漂う和声から,ラヴェルの目も眩むようなオーケストレーションへとさまよい,リヒャルト・シュトラウスの耳を劈くような大音響から,ドビュッシーの繊細きわまる微妙な陰影へとさまよっている」(ミャスコフスキー)時代にあって、メトネルの曲は色彩感に乏しい、ドイツ的な音楽と批判されたようだ。

その中で、ミャスコフスキーが一貫してメトネルを擁護した。またラフマニノフは、メトネルを「現代最高の作曲家」と賞賛したそうだ。

(高橋健一郎「ロシア文化史におけるニコライ・メトネルの音楽」より引用)

以下がとりあえずYoutubeで集めた範囲の曲目。

Medtner

アメリカの資本主義とリーマン破綻 小島 秀樹 (実業界2009年1月号所収)

という文章がたいへん良い。

短い文章なので直接お読みいただきたい。以下は私の読後感。

1.グラス・スティーガル法の廃止の背景

この法律は32年、ルーズベルトの大統領就任直後のいわゆる「百日議会」で成立したものなので、ニューディールの一環と見られているが、実際にはフーバー政権末期に上院に提出されたものである。

正式には「銀行法」(Banking Act of 1933)と呼ばれる。①銀行と証券(投資銀行)の分離。②連邦預金保険公社の設立、を柱とする。

というのが私の予備知識。

小島さんによると、

1929年の大暴落を受けて米国議会が出した有名なペコラ委員会報告書に基づく。

フーバー大統領の要請で上院銀行 通貨委員会を設置した。ニューヨーク州検事ペコラはこの委員会の法律顧問として大恐慌の原因をなした不正、政策責任者の間違い、株価操縦、インサイダー取引などを1万2千頁に及ぶ調査報告書であぶり出した。

のだそうだ。

日本の戦後改革でも、この制度は受け継がれてきた。しかし99年に本家米国が規制撤廃すると、日本もこれに倣った。

そこで小島さんが指摘するのは、規制撤廃の是非ではなく、「横並びの競争にするならそのルールをしっかりさせるべきではなかったか」という点である。

2.脱法を恥じないモラル感覚の欠如

小島さんが何故ルールの必要性を強調するのは、自らの弁護士体験にも基づいている。

弁護士としてリーマンブラザーズと対決したり交渉したりして感じたことを一言で言えば、モラル感覚の欠如である。

と切り捨てる。

SOX法というのができて、経営者に財務書類の正確性について責任が求められるようになったが、彼らは実質的な脱法行為をますます強めたそうだ。

小島さんは、「弁護士としてかかる脱法行為に抗議して米大手IT 企業と一触即発の対決をし」たという。そして「SOX法なるものの欺瞞性」を痛感したそうだ。

小島さんの舌鋒は厳しい。

サブプライムローン問題は、そもそも証券化できないものを証券化してリスクを認識できなくしたものを売った。それはまさしくモラルに反する行為である。

米国経済はそうやって道義的に許せない金融ビジネスに走った。その成れの果てが、リーマン破綻である。さらにそれに続く米国発の世界金融不況である。

つまり小島さんの言いたいのは、モラルの破綻(経営の無法化)が経済の破綻をもたらしたということである。

「経営モラルの破綻」というのは客観的に言えば「経営の無法化」ということになるだろう。

3.経営の無法化はいかにもたらされたか

小島さんは、経営者の物づくりからの離脱が背景にあるという。

1960年代から80年代にわたって「日米貿易戦争」が繰り広げられた。しかし95年ころを境に「貿易戦争」は論議とならなくなった。

なぜか。

それは米国自身が物づくりから撤退してしまったからである。

米国経済はITや金融等サービス業に特化していった。デリバティブなどの複雑な証券ビジネスに多くの金融機関が参加するようになった。

この後、小島さんは証券ビジネスの実態を厳しく指弾する。

私が接したデリバティブ証券は、完全なマネーゲームの世界であった。あつかう商品の多くは、公序に反するバクチのようなものだった。

ビジネススクールで教えるのは ROE(株主資本利益率)優先の経営であった。そして「小さな自己資本で大きな利益を短期間にもたらす」のが優れた経営者であると教えた。

そうだとすると、どうなるか。

物づくりは原材料の仕入があり利 益率はどうしても低い。結果、彼らが選んだのは仕入がない金融を筆頭とするサービス業である。

こうして米国経済は益々物づくりから離れ、実体経済と何の関係もないバクチのようなマネーゲームに邁進していった。

4.結論

もう一度、小島さんは米国の金融資本主義を厳しく断罪する。

…、という意味でレベレッジ(一種の信用取引)とかの手法の問題以前に、実体経済との関係が希薄となったマネーゲームが醸成する、モラルを著しく欠いた米国の金融資本主義が問われるべき問題なのである。

ということで、私の感想としては、「ルール無き無法状態」を一刻も早く解決して金融資本を厳しく規制することが、混迷に陥った現在の世界経済を救う唯一の道だということである。

それは85年前のペコラ委員会の結論と同じだ。「85年前から進歩していないじゃないか」と言われそうだが、そうではない。

第二次世界大戦の惨禍をくぐり抜けて、人類はいったん進歩したのだが、一時的な退歩を今繰り返しているということだ。

道ははっきりしている、経験もある。今はただ、ふたたび進歩への道を歩み始めるのみだ

ソロスが「中国が危ない」としゃべって、それをみんなではやしているようだ。どうもみな軽佻浮薄でいけない。つい1,2年前まで「これからは中国が世界の王者だ」とか「中国脅威論」を騒いでいたのは誰か。

少し頭を冷やして考えてみよう。

中国が急成長を開始したのは1990年代の後半からだ。その理由は日本がガンガン資本を突っ込んだからだ。

だから中国は発展すればするほど「日本型」経済機構(日本にではない)に組み込まれる。それは対米輸出を中軸とする輸出志向型経済だ。したがってますますアメリカの政策に依存するようになる。

いわば「普通の国」になってしまっているわけで、世界の経済の動きから隔絶した「社会主義経済の優位性」などもはや存在していないのである。人並みに「なべ底不況」も味わなければならないのだ。

また、これから減少するであろう日本からの資本輸出の影響も深刻となる。コストアップや少子化の影響も急速に現れるだろう。

したがって2000年代のふた桁成長は今後は望めない。

という中長期的状況から見て、そろそろ成長率を下方修正しなければならない時期だった。その時にアクセルを踏んだのではクラッシュは必然である。

ふたつ目にはリーマン・ショック時の異常な公共投資だ。

深刻なリセッションを公共投資・内需の拡大で凌ぐというのは正しいやり方だ。日本のように全て国民に押し付けたのでは、景気後退は長期化せざるを得ない。

ただし、その目標はGDP成長率をゼロ、あるいはゼロに近いマイナスに調整することであったはずである。しかしまだ中国国民の爆買い需要は旺盛であるから、厳格なゼロではなくプラス数%乗せても持つかもしれない。

それでも今までの差額分はどこかで払わなければならない。要するにこの際の財政出動はハードランディングを避けるためのものであり、ランディングはしなければならないのである。

外貨が潤沢だから韓国のような事にはならないだろうと言われるが、外貨のほとんどは米国国債という形で、すなわち売り掛け金の形であるにすぎない。アメリカが返すと思いますか? 絶対に返しません。

欲しいのはそういう塩水ではなく真水(投資資金)だ。今までなら日本資本が頼みの綱だったが、日本はもう以前のようには貸せないし貸さないだろう。

だから、中国はインフラなどへの公共投資による景気の維持という方針から、ある程度のハードランディングは覚悟して、社会政策によって貧困者を救済し、公共事業は失業対策的な投資に的を絞るべきであろう。

それと感情的には煮えくりかえる思いであるにしても、日本に頭を下げる道を探らなくてはならないだろう。ずいぶんか細くなったといえども、頼りにできるカネの出所はそこしかない。

日本のバブル崩壊の時とはだいぶ状況が違う。まだ発展の伸びしろはある。4,5年のうちには経済は回復するだろう。金融界には相当の後遺症は残るであろうが。

一番心配なのは、それによって生じる社会不安だが、多分大したことはないだろう。たかだか10年ちょっと、世間がまだ「いい夢を見た」と笑って過ごせるくらいの日にちしか経っていないからだ。

関裕二 「天皇家誕生の謎」を読んだ。

非常に面白かったが、疲れる本でもある。

基本的には「言いたい放題」の本だが、示唆に富む部分もたくさんある。

主要には蘇我氏と天武天皇に焦点があたっていて、私が目下興味をもつ部分より少し後の時代が中心となる。

多分一番大変な部分であろう。これといった物差しがないので、ひたすら記紀を読み込んでいくことになる。

1.壬申の乱について

関さんの結論としては壬申の乱は天武=隠れ蘇我によるクーデターということだが、これはなかなか受け入れるには厳しい。

私はあくまで外圧誘発説で、白村江の敗北、唐が乗り込んでの直談判という緊迫した情勢の中での路線選択が問われたのだろうと思っている。

天武がとったのは唐との対決辞せずの路線だった。それは天智と同じ路線だ。天智・天武の兄弟は大和政権内の武闘派の代表だ。だから跡目争いという見方はおかしい。天智は病床にあり、死を迎えようとしていた。難波には唐の使節団が居座り恫喝を加え、大和政権の主流派はすっかり怯えきっていた。天智が死ねば彼らはただちに唐に屈服するだろう。そうすれば唐は恭順の証に天武の首を差し出せというに決まっている。だから彼は逃げたのだ。そして武闘派の根拠地である東国へと向かったのだ。

したがって天武がとったのは、軍事動員体制の確立と、天皇制のもとでの愛国精神の発揚だった。決して生産力が発展し国力が増強したからそういう路線をとったわけではない。むしろ逆の状況だったから、独裁制のもとで強硬路線をとったのだ。律令制度も記紀の編纂もその路線の上にあった。

こういう政権の動揺は、新羅ではもっと激しかった。新羅を見れば壬申の乱は了解可能なのである。

その緊張関係は唐の朝鮮半島からの撤退とともに薄らぎ、それとともに旧体制が復活し、その間隙を縫って藤原が権力を握っていく、という経過をとったのではないか。

隠れ蘇我や東国の影響というものは、やや人脈的な事柄に拘泥しすぎていると思う。

2.旧出雲系の評価について

基本的な視点はかなりうなづけることが多い。事実問題では、流石に専門家だけあって随分勉強になった。

旧出雲系が枝垂れ柳的に日本海側の色々なルートから近畿に入ったことについては同感である。このうち大和に入ったのは出雲政権主流の大物主の一派であり、彼らは吉備を経て海路紀伊に達し、そこから大和に入った。他に物部、葛城、平群などのグループもそれぞれの居場所を見つけた。

出雲系の一部はそのまま日本海を東進し、丹後・敦賀・越前・越後などに植民地を形成した。彼らは敦賀から近江・東海へ進み、越後から信州・関東北部に進出した。信州・関東北部ではすでに弥生人の先住地域を越え、縄文人と直接接触した可能性がある。


3.崇神王朝について

神武東征と神武以下8代を空想の産物とするのには抵抗がある。崇神王朝はまじりっけなしの敦賀系政権であり、神武を皇祖に立てるいわれなどないからである。

神武を皇祖に担ぐには、それなりの理由なりメリットがあるはずだ。それ以前に神武系の皇統があってそれを継ぐ形をとったからこそ、田舎者の軍事政権にすぎない崇神系が王朝として成立したのではないだろうか。

大和の権力の4層構造は私が主張するところである。すなわち先住民族としての縄文人(国栖)、水田耕作を持ち込んだ弥生人(銅鐸人)、出雲系天孫族(纏向人、物部族、葛城族など)、そして神武一族(倭王国系)の4つである。

その後神武一族の支配は形だけのものとなり、出雲系集団の実質的支配が確立した。その後に、後発の敦賀系出雲族が進出してきた。そして崇神のときにクーデター的に権力を掌握した。

したがって4.5層ともいうべき積み重ねで大和政権は構築されているのである。

4.河内王朝について

関さんは雄略の事績について詳細に検討されているが、そもそも河内王朝の出自と性格についてはあまり触れられていない。

たしかに倭王朝の関与についてはほとんど文献では触れられていない。しかし倭国・大和政権の歴史を学ぶ上では、この問題はきわめて大きい。

ここを看過すると日本の成り立ちは見えてこないのではないかと思う。

5.蘇我氏について

蘇我氏は謎の多いグループである。関さんの本でだいぶ学ばせてもらった。

継体を支え、継体とともに発展した、というのはわかるが、継体を擁立したのは大伴金村と物部一族、すなわち河内王朝勢力である。

私としては継体の大和入りを妨げた勢力は一体誰だったのかを知りたい。(旧崇神グループではないかと想像する)

それとの関連で(多分旧崇神勢力を裏切り、継体に内通したグループとして)蘇我が浮かび上がってきたのではないかと考えている。

これだと、蘇我氏の急浮上がうまく説明つくが、所詮は仮説である。

6.倭王朝について

この本には殆ど書かれていないのだが、大和政権が成立するにあたっては倭王朝の性格が随分関係しているのではないかと思う。

倭王朝は日本国内の版図拡大についてはほとんど興味がなかった。関心はあくまで海峡の向こう朝鮮半島の動向にあった。

出雲を攻略したのも、領土の拡大というよりも日本国内の親新羅勢力を駆逐することにあったのではなかったろうか。スサノオは高天原から追放され新羅に降り、渡海して出雲に至ったとされる。日本に新羅系のグループがいることが目障りなのである。だから出雲から彼らを追放した後、倭王朝はそれ以上東方に進出しようとはしなかった。

思うに、倭王朝は部族連合ではなく、一種の基地群だったのではなかろうか。それは第一戦隊が有田、第二戦隊が糸島、第三戦隊が那の津という具合に配備されたのではないだろうか。もちろん相対的な問題だが。

領土的欲望はあまりなかったから出雲族が近畿や北陸に拡散し、大和政権を作っても興味を示さなかった。結局日本にとっては外在的な権力に過ぎなかったから、いずれは任那とともに滅亡し駆逐される運命にあったのではないかと思う。

以前、2013年01月19日 というのを作成していて、AD500以前に関しては、これが今でも私の基本的な時刻表になっている。

この年表のどこに仲哀天皇の闖入記が挿入されるのか、というのがとりあえずの問題だ。

3千年ほど前から朝鮮半島南部の長江文明人が日本に入ってきた時、日本の西部はほとんど無住の地だった。僅かな縄文人は必ずしも常緑樹の密林に適応出来ては居なかった。

紀元0年ころにはすでに長江文明人(弥生人)は尾張から越前加賀くらいまでは(縄文人と棲み分けしつつ)進出していたと思われる。

そしてそこへ新たに満洲南部の「騎馬民族」(扶余族)が侵入し、百済、新羅、任那などと同様に倭王国を形成した。

強調しておきたいが、この王国は決して内発的な権力形成によるものではない。むしろ外在的な武力支配であった。したがって当初より一体的な権力であったと思う。

高天原が智異山辺りだとシチュエーション的にはぴったり来る、スサノオは高天原を追放され、新羅を経由して出雲にやってくる。出雲神話には新羅との親近性が強く感じられる。

高天原の本流はそれが気に入らなくて日向に降臨し、出雲をやっつける。出雲の指導者である大物主は漂泊を続けた後、大和盆地に第二の王国(おそらくは纏向王国)を建設する。

この王国は、一旦は神武東征により九州王朝の傘下に入るものの、内発的な発展を遂げていく。

同じ出雲系ではあるが、遅れて機内に入った敦賀系の支配のもとに軍事国家として急膨張を遂げる。

一方九州王朝は高天原一族の植民地としての性格を抜け出すことなく、南朝鮮の支配のための後背地としての任務を負わせ続けられる。

ところで、地中海の東側を地図で見てもらいたい。トルコのエーゲ海沿岸はその多くがギリシャ領である。歴史的に見てもトロイ戦争はまさにギリシャ人の植民地トロイの支配権を巡る争いであった。

相争ういずれの側もギリシャ系である。土着の住民はひたすら収奪される一方で、トロイ戦争においても基本的には蚊帳の外であった。

一方で、北九州の海岸沿いに植民地国家を形成した倭国も、それ以上内陸に進出して、単一国家を形成するつもりはなかった可能性がある。当面は圧倒的武力と天孫信仰の押し付けという「海賊国家」で十分だった。

そういう外在型の植民地国家である倭国と、内発型の発展を遂げた大和との最初の接触が仲哀の香椎進出と死(おそらくは暗殺)であった。

この事件は、倭王朝にとってはさほどの意味を持たないかもしれないが、大和政権側には巨大な意味を持つ。

まず第一に、大和政権の勢力圏が本州の西端にまで達したことである。吉備を目下の同盟者として抱え、瀬戸内海の制海権を掌握した大和政権は、さらに倭王朝の領土たるべき出雲も征服し、日本最大の領土を持つに至った。

第二に、両者は戦闘関係にはなかったことである。上下関係については想像であるが、大和政権はもともと神武以来の九州王朝の子分筋だから、一応臣下の礼は尽くしたのではないか。

仲哀が出向いたのだから、大和政権側から何らかの提案がされたであろう。2つのオプションが考えられる。一つは大和政権の支配下に入れという提起であり、一つは関門海峡を境にして、以東の瀬戸内沿岸の支配権を承認させることである。あるいは九州南部の支配権も要求したかもしれない。

第三に、倭王朝は新羅との戦闘のさなかにあったことである。その戦闘は朝鮮半島南部で展開されていた。おそらく任那と新羅の間の戦闘であったであろう。

さらに想像をたくましくすれば、闘いは劣勢であった。もはや高句麗との直接対決ではなく、その手先となった新羅を相手にして苦戦するというのはこれまでになかった事態である。いずれにしてもこれは倭王朝の戦争である。

第四に、倭王朝は仲哀に新羅との戦闘に参加するよう促したことである。これは明らかに上から目線ではないか。

仲哀はそもそも朝鮮半島の存在すら知らなかった。そんなところに行って闘う気など毛頭ない。だからこの提案を一蹴した。これにより倭王朝と大和政権は決裂した。

第五に、仲哀は倭王国により暗殺された可能性がある。いずれにせよ彼は香椎で急死し、遺骸は下関まで運ばれ、仮のもがりが行われた。しかし仲哀の軍は反撃も抵抗もしなかった。

倭王朝の軍事力は大和政権を遥かに凌駕していたはずだ。何十年も朝鮮半島で高句麗や新羅と戦い続けてきたから、武器・用兵のいずれをとっても高度化していただろうし、兵士は人を殺すのに慣れている。

第六に、仲哀の死後、倭王国は大和政権の支配権を握った。仲哀の幼子を後継者(応神天皇)に指名し、大和に送り込んだ。本来の皇位継承者たちはこれに抵抗したが、結局押しつぶされた。

これが倭王朝の側から見た、「仲哀事件」の顛末である。この後大和政権はふたたび記紀の世界に閉じこもっていく。しかし倭王朝には大和政権を全面支配する意思も国力もなかった。玄界灘に面した港湾とその背後地を守るのが精一杯だったように思われる。

大和政権にとって最大の教訓は、「倭王朝には手を出すな」ということであろう。

なお下記の記事は、いまとなっては明らかに間違いです。
 

多分、読者の皆さんより少し前に行き過ぎたようだと思います。

FATCAについてわかりやすく言うと、「外国の銀行の口座の金にも税金をかけますよ」ということだ。

と言っても、これは米国の話。

「アメリカ人が世界中に持っている口座をすべてチェックして、アメリカの財務省が把握します」という法律がFATCA法ということになる。

こういう法律が数年前に可決されて、いろいろ準備した後、14年の7月からすでに実施されている。

これで、世界中どこにも金を隠しておくことはできなくなったわけで、実に画期的なシステムなのである。

ただしこれはアメリカ政府が強引にやったことで、日本がそうしようと思ってもできるものではない。

どこがどう強引か。

米国の法律を諸外国に勝手に適用することはできない。だからアメリカ政府は各国政府と交渉して協定を結ぶことになる。というより否応なしに結ばせるわけだ。

この手の押し付けは、これまでもスーパー301条とか、キューバ禁輸法とかいろいろやってきた。米国というのはそもそも勝手な国なのだ。

これに対して、世界には3つの対応があった。ひとつはこの法律の積極面を受け止め、双方向の情報提供システムとする方向だ。

FATCAを使えば、ドイツ政府は米国にあるドイツ人の口座を知ることができる。他の国とも同じような協定を結べば、すべての外国口座を知ることができる。

FATCAを一つの基準にして、各国がお互いに情報交換をすることで、脱税の抜け道を塞ごうという考え方だ。これはヨーロッパを中心に世界の主流となっている。

ふたつ目は日本だ。報告義務は果たすが、相互主義は要求しない。つまり米国にある日本人口座の情報は頂かなくて結構。変にもらってしまうと、かえってややこしくなるということだ。

そして三つ目が、米国政府の要求を拒否するという態度だ。パナマはこれを選択した。その結果がこの度の「パナマ文書」事件だ。ICIJに悪気があるわけではないが、米国がこれを利用していることも間違いない。

実は、こういう暴露方式はスイスやルクセンブルグでも繰り返されてきた。その結果、両国は屈服し、アメリカに従うようになっている。

これからどうなるか

まずFATCAがこれからの世界基準となることは間違いない。やり方は強引だが、中身自体は間違っていないからだ。

ヨーロッパ諸国は、いまやFATCAの世界基準化に乗り出した。それがOECD(先進国機構)の提唱するCRSだ。

この徴税方式の良い所は、取引とか外形資産への課税ではなく、あくまで所得(現ナマ)への課税であることだ。ブンブン飛び回っているところを捕まえるのではなく、ねぐらを襲うのである。

そのかわり、投機資本とか高速取引などには無力だ。また、ビジネスを行い稼いだ対象国に税が還元されるとは限らない。多国籍企業の本拠の国(すなわち米国)に優しい税金となる可能性がある。

CRSのスキームはそこをなんとかしようとしているが、アメリカはそれには反対だ。「どこの国でどう稼ごうと関係ない。自分の国の会社が稼いだ金だから、その税金は自分のものだ」というのだろう。だからCRSには入ろうとしない。

ここが、これから最大の問題になっていくだろう。日本はFATCAにさえいやいや同意しているくらいで、「世界一企業に優しい国」の面目躍如といったところ。世界標準から見れば周回遅れとなっている。

菅官房長官が「パナマ文書のことなど調べるつもりはない」といったのにはそういう背景があるのだ。

という前の記事の題名は思いつきでつけたんだけど、

どうやらとりあえず、FATCA・CRS以外の道はなさそうだ、というのが現在の感想。


そもそも税というのはなんだろうか、というところから出発しないとならんなぁと、そういう感じです。

というのを作成していて、今回のFATCA年表と、特に後半部分は完全にかぶっています。

つまり、トービン税・金融取引税は失敗して、FATCA・CRSが成功したのです。

なぜかということです。

すごく悲観的に言えば、アメリカがその気になれば話は進むし、アメリカがその気にならなければドンキホーテだということでしょうか。

現象的にはわかりやすい解釈ですが、もっと基本的な問題もあるのではないかと思います。

それは、売上に対して税金を取るのか、利益に対して税金を取るのか、それとも所得に対して税金を取るのかという選択です。

こうやって3つ並べてしまえば、それだけで結論ははっきりしています。所得に対して徴収するべきなのです。

税金というのはそもそも所得の再分配であり、自由競争とか市場経済とは別の論理だからです。これが近代税制の基本理念です。

「消費税」と我々が呼んでいるものは実は売上税です。売上税というのは古代の慣習です。ショバ代みたいなものです。これと対応するのが「関税」で、これは関所代です。これに人頭税が揃えば、三役揃い踏みです。

いずれにしてもヤクザのやり方であり、独裁政治の産物です。たしかに捕捉は簡単ですが、抜け道はたくさんあります。したがって政治的民主主義とはなじまないものです。

以前、シャウプ税制を勉強していて感銘をうけたのですが、近代民主社会においては、税金というのは民主主義を支える拠金だという考えです。

したがって、税金は社会の構成員のポケットマネーから形成されなければならないのです。

その辺りを書いたのが、2012年06月11日の記事  です。

この観点からすれば、ヨーロッパで展開されたトービン税・金融取引税は問題があり、FATCAのほうが合理性があります。

合理性の観点からだけではなく、捕捉可能性の観点から見ても、発生源方式は限界があります。なんとかサンドウィッチという租税回避スキームあたりになると、売上でやっていく徴税はほとんど不可能だろうと思います。

すべてのビジネスが終わって秘密金庫に資金が入る瞬間を狙い撃ちする他ないと思います。虫を殺そうとすれば空中を飛び回っている時ではなく蛹になって羽化を待っている時こそが狙いめです。

問題は、富が金になってどこかの金庫にしまわれた時、その金はほとんどがアメリカ人(正確に言えば米国の大企業と富裕層)の金だということです。

だからこの金をいくら摘発し徴税したとしても、それはアメリカ政府の国庫に入ってしまうことになります。ある意味ではアメリカの思う壺です。

だからこうやって挑発した税金を各国間でどのように分配するのかが次の困難な課題になるでしょう。そのときに発生源の問題も出てくることになると思います。

アメリカはFATCAの言い出しっぺでありながら、CRSには加入しようとしません。そこにはこういう問題があるのです。

いずれにしても、世界は租税回避という自滅的な道から一歩抜けだそうとしています。ここが大事なことです。

2016年04月25日

大和総研の下記のレビューがとても分かりやすい。ご一読をおすすめする。

国際租税回避への対応と 金融証券取引 - 大和総研

国際租税回避への対応と金融証券取引

~金融口座の自動的情報交換とBEPSプロジェクトを中心に~

2015/03/02 
吉井 一洋/是枝 俊悟

1章 国際課税における問題点 (国際的租税回避の観点で)

1.国外における資産秘匿と脱税ほう助

A) UBS事件

UBSはスイスに本拠を置き、世界最大規模の富裕層向けのプライベートバンキング業務を行っていた。

つまり世界有数の脱税コンサルタントである。

2000 年から07年にかけて、米国の顧客獲得キャンペーンを展開した。やり方が少々えげつない。行員が観光旅行を名目としてスイスから米国に送り込まれ、スイス口座を利用した脱税を積極的に提案していたのだ。

やがてこれが発覚し(こんなやり方がばれないわけがない)、UBSは司法取引で7億8,000 万ドルの罰金を支払う羽目になった。

クレディ・スイスでも同様の事件があり、合計で28億1,500万ドルの罰金を支払わされた。

B) スイスの銀行業務見直し

スイスは歴史的に銀行法において、銀行に対し顧客情報の守秘義務が厳しく課されている。このため、かねてよりダーティーマネーの世界最大の保管場所の一つと指摘されていた。(ゴルゴ13の世界です)

二つの事件の後、スイスは、銀行の守秘義務について見直しを行った。この結果、2009 年には銀行の守秘義務を制限し、

3月に閣議決定により見直し、租税詐欺(tax fraud)だけでなく租税回避(tax evasion)の場合でも口座情報を他国の税務当局等に提供できることとした。(しかし日本の税務当局が情報提供を依頼したという話は聞いたことがない)

2.海外事業の納税額を極小化する戦略

上記の事件は明らかに法律を犯す脱税である。しかし脱税すれすれだが違法ではない「節税」法がある。

とくにグローバル企業の海外事業においてそれが甚だしくなっている。(これについては既述のため省略)

3.ハイブリッド金融商品

近年、資本と負債の中間的な性質を持つハイブリッド金融商品の発行が増加している。ハイブリッド金融商品は、ある国の法律では「債券」、他の国の法律では「株式」と定義が分かれる可能性がある。(よく分からないので省略)

2章 クロスボーダーの金融証券取引の把握

1.米国FATCA

A) 米国FATCAの本則

FATCAそのものは外国に対して直接の法的強制力はない。

しかし、口座情報の提供を行わない外国金融機関(FFI)に対しては米国源泉所得について懲罰的源泉課税(税率30%)が課される。このためFFIはFATCAに対応せざるを得ない。

2)協定の3類型と締結国

FATCAは原則的には個別のFFIと対応するが、米国と協定(声明)を結んだ国については政府による代行が許される。国内のFFIは懲罰的課税を免れることとなっている。

協定のモデルには大きく分けて3種類がある。

Model 1協定 各国が国内法を整備し、FFIが各国税務当局を通じてIRSに間接的に米国口座情報を提供する。

Model 1協定はさらに2種類がある。

a 米国から各税務当局に対する情報提供も行うもの(互恵あり)

b 米国から各税務当局に対する情報提供は行わないもの(互恵なし)

Model 2協定 FFIは「協力米国人」(情報提供について同意した人物)の口座情報をIRSに直接提供する。非協力口座)の情報についてはその総件数・総額をIRSに提供する。

OECD加盟国(米国を除く33 カ国)のうち、29 カ国はModel 1協定を締結した。そのすべてが「互恵あり」である。Model 2協定を締結したのは日本、オーストリア、チリ、スイスの4カ国だけである。(日本がModel 2協定となったのは、銀行業界の強い圧力によるものである)

3)二つのモデルがある理由

もっとも大きな違いは、「非協力口座」の情報の扱いである。Model 1では、「非協力口座」の情報も、FFIから自国の税務当局に提供する。

この場合、個人情報の保護に反するおそれがあるので、この種の情報を提供させる根拠法を整備する必要がある。

Model 2では、米国要請があった時のみ、各国の税務当局が口座情報を入手し、IRSに提供する形をとる。

私の感想だが、これは「互恵」関係を結んだ時に大問題となる。日本人の米国口座に関する情報を、日本政府は受け取らずに済むのである。アメリカにとっては、それはどうでもいいことだから、「いいよ」といったのだろうし、日本の富裕層は胸をなでおろしたのだろう。
「知りたくないの」という歌の文句そのままである。

2.自動的情報交換

1)わが国のこれまでの取り組み

2013 年10 月に改正が発効された税務行政執行共助条約では、締結国が自動的情報交換を行う旨が明確に定められた。

2)OECDのCRS(共通報告基準)への発展

他国の口座を利用した脱税の防止のため、OECDが金融口座情報の自動的情報交換を行う共通報告基準(Common Reporting Standard:CRS)を策定した。

2014年11月までに52の国・地域がCRS導入に署名。この時点で日本および米国は未署名のまま。

(中略)

3章 OECDのBEPS(税源浸食と利益移転)対応PJ

1.経緯

多国籍企業などが、合法的な法的技術を駆使し、二重非課税の状況などを作り出し、租税回避を図る例が増えてきた。

他方で、各国の財政状況の悪化と所得格差の拡大が見られる中で、各国ともより公平で適正な課税を実現する要請が高まって来た。

これを背景にOECDの租税委員会では、2012 年6月にBEPSプロジェクトを立ち上げた。

(以下、かなり専門的になるので略)

いろいろあるにしても、FATCAはすごいと思う。
初めて富裕層に網がかかった、そんな気がする。
これから見れば、「金融取引税」などちゃちなものだ。
やはりアメリカがやってもらわなければ困る。
CRSもアメリカが言い出しっぺだからこそ迫力がある。
もちろんアメリカは自分がかけた網に自分がかかってしまっては元も子もないから、いろいろ策動はしてくるだろう。これを機会にアングラマネーまで含めて自分が一括管理したいという願いもあるだろう。
しかし事態はそういう一国の願望を超えて進んでいる。
オバマは核兵器の究極的廃絶を叫んでノーベル賞をもらった。しかしそれはかなわなかった。
その代わりに、苦し紛れの法律が、意外に富裕層の急所を突いた可能性はある。
「パナマ文書」もいずれアメリカ(そして日本)の支配層に向かう突風となるだろう。
アメリカが自縄自縛に陥ってくれればこれ以上の僥倖はない。
それにしても日本のメディアの沈滞、目を覆わんばかりである。

FATCA(米国外国口座税務コンプライアンス法)とCRS(OECD自動的情報交換の共通報告基準)の経過

主として重田正美さんの「米国の外国口座税務コンプライアンス法と我が国の対応」を参考にさせていただきました。

2009年10月 Foreign Account Tax Compliance Act(外国口座税務コンプライアンス法)が成立。

2010年3月18日 「追加雇用対策法」(HIRE法)が成立。FATCAはHIRE法の一部として組み込まれる。

米国外の金融機関(FFI)が内国歳入庁(IRS)と契約(FFI 契約)を結ぶことで、当該FFI の米国人口座情報をIRS に提供することを規定

2012年2月8日 米国と欧州5か国(フランス、ドイツ、イタリア、スペイン、英国)が共同声明。欧州5か国の税務当局が米国人口座の個別情報を取得し、まとめて提供することとなる。

2012年6月 OECD 租税委員会、BEPSプロジェクトを立ち上げ。多国籍企業等の租税回避に対応するため、国際課税ルールの抜本的見直しを開始。

BEPS: 多国籍企業や富裕層の租税回避行為(Base Erosion and Profit Shifting )を指す。
スターバックス、グーグル、アマゾン、アップルなどの租税回避が政治問題化したのを受けたもの。

2012年11月 英・独の財務大臣が租税回避を非難する共同声明を発表。仏の財務大臣も賛同する。

2013年

2013年1月17日 米国財務省規則が公表される。「特定保険会社」もFFI の対象とされることが明らかとなる。

財務省規則: ①米国人口座を特定する。②IRSが定める手続に従い、米国当局に毎年報告する。③非協力口座保有者などへの支払に30%の源泉徴収課税を行い、その額をIRS に納付する。

2013年2月 OECD、「BEPS」問題報告書を作成。G20 財務大臣・中央銀行総裁会議(ロシア・
モスクワ)に提出。

2013年6月 「国際的な税務コンプライアンスの向上及びFATCA実施の円滑化のための米国財務省と日本当局の間の相互協力及び理解に関する声明」が発表される。

FFAとして米財務省の直接監査を受けるのは煩雑なため、米国と各国が政府間協定(IGA)を締結する動きが広がった。
IGAには自動型のⅠと要請時型のⅡがあり、日本はスイス、オーストリア、バミューダ諸島、香港とともにⅡを選択した。
全国銀行協会は、Ⅱを許してもらったことに「強く賛意を表明」し感謝している。

2013年7月 OECD 租税委員会、15 項目からなるBEPS 行動計画を採択。FATCAのモデル1をひな形として、金融口座情報等の「自動的情報交換」を多国間に拡大するもの。

2013年9月 サンクトペテルブルクでG20 サミット。BEPS 行動計画をうけ、2015 年末を目途に国内の法整備を進めることで合意。OECDによる国際基準の策定が支持される。

2013年10月1日 OECDの発議した「税務行政執行共助条約」が日本において発効。①締約国における自動的な 情報交換、②租税債権の徴収の支援(徴収共助)、③要請による文書送達(送達共助)を定める。

2014年

2014年1月 OECD租税委員会、自動的情報交換の共通報告基準(CRS)を承認。

2014年2月 OECD、「課税における自動的な情報交換に関する基準」の草案を発表。

2014 年3月6日 米国財務省とIRS、最終暫定規則を発表。50以上の修正が加えられる。

2014年5月 クレディ・スイス、「米国人顧客の脱税を意図的にほう助した」と有罪を認め、米政府などに28 億1,500万ドルの罰金を支払う。

2014年7月1日 FATCAによる規制が日本及び世界で施行される。登録金融機関は世界中で10万以上、日本の金融機関は3,624にのぼる。

日本の金融機関は、米国人対象者を特定し、同意を取得した上で、米国内国歳入庁(IRS)へ直接報告を行う
不同意口座についてはIRSが租税条約に基づく情報交換要請を日本の国税庁にする。国税庁は金融機関から情報を入手し、IRSへ提供する

2014年7月 OECD、CRSのフルバージョンとコメンタリーを公表。金融機関の非居住者口座を政府間で自動交換するためのマニュアルとされる。

この「完全版」は「金融口座の自動情報交換のための新国際基準」(Standard for the Automatic Exchange of Financial Account Information in Tax Matters)と題されている。

2014年9月 G20 財務大臣・中央銀行総裁会議(ケアンズ)で、BEPS報告書第一弾公表。

2014年11月 ブリスベンのG20サミット、CRSを承認。その後97の国・地域が「税に関する自動的情報交換制度」(OECD制度)への参加を表明。日本の参加は遅れる見通し。アメリカは不参加の意向。

全国銀行協会は「OECD の枠組みは、FATCA よりもさらに負荷が大きい。実務面での配慮が必要」とコメント。

2014年12月 この時点で、欧州各国を中心に112の国・地域が米国とIGAを結ぶ。



パナマ文書問題で一番衝撃的だったのは、実は菅官房長官の「調査する意思はない」発言ではなかったろうか。
世界中の政府が真剣に考え、調査に着手するとの発言を繰り返す中で、菅官房長官の発言は国際的に見ても、いかにも奇異で唐突だった。
しかしそこをつく報道はほぼ皆無である。ネット世界の口さがない連中が罵詈雑言を浴びせてはいるが、すべて感情的なものでしかない。
しかしこれは、日本政府の首尾一貫した態度であり、それはOECDとG20の合意とはまったく逆の方向であることを見なくてはならない。
これを理解するにはFATCAと、各国の対応スキームであるIGAを知らなくてはならない。
話は長くなるので省略するが、結論としては、日本は預金者(大口の)保護を最大の眼目においており、そのためには租税回避の黙認をも厭わない態度を貫いている。情けないほどに、骨の髄から階級的だ。
「世界で最も金持ちに優しい国」が彼らのスローガンである。そしてそのために「個人情報保護法」が最大限に利用されているのである。
アメリカとの二国間交渉で、日本はFATCAに関するアメリカの要求を丸呑みにした。「アメリカ人の情報はそっくりそのまま提供します。しかし日本人のアメリカ資産については公表しないでください。なぜなら、そんなことは知りたくないからです」
これが日米共同声明(2012年)の精神だ。これが受け入れられると、日本銀行協会は随喜の涙を流して感激した。そして「日本政府よ、よくやった!」と褒め称えた。
私から言わせれば、「日本政府よ、なんてことをしてくれたんだ!」である。
超富裕層の蓄財は税金逃れによって加速されている。ここを突っ込まなければ税収は出てこない。超富裕層の手先になって資産隠しと税金逃れに血道をあげる国、それが日本だ。
個人情報法保護法についてはいろいろ考えもお有りでしょうが、超富裕層の財産隠しの隠れ蓑になっては行けない。泥棒の金の隠し場所は摘発こそすれ、保護されてはならないのだ。このことだけははっきりさせて置かなければならないだろう。


JBプレスの2011年6月の記事で、下記のものがあった。

FATCAの危険な賭け 谷口 智彦

法成立前後のもので、「うまく行きっこない」というニュアンスの、やや醒めた見方となっている。

その中に、「The Banker 5月1日号」の「FATCA法案の解説」が紹介されている。

1.FATCAの法的構造

FATCAは単体の法律として存在しているわけではなく、「雇用促進法」(the Hiring Incentives to Restore Employment Act)の一部として法制化されている(11年3月成立)

2.FATCAの内容

外国金融機関に対し米国人預金の実態を報告するようもとめる。

具体的には、米国人の口座に関わる情報を、年に1度ずつ米内国歳入庁(IRS、日本でいう国税庁)へ報告せよというもの。

もちろん法的に強制する訳にはいかないから、もし順守しなければ制裁措置を発動することになる。

制裁対象となった金融機関に対しては、ドル建て金融商品へ投資して得た所得に対し、一律30%の源泉税を課す。

(3割もピンはねされてはやっていけないから、外国金融機関は従わざるをえない。基軸通貨の強みである)

3.FATCAの適用範囲

外国金融機関の定義は広く、投資顧問会社や保険会社が含まれるのはもちろん、異業種企業がもつ金融子会社も対象となる。

4.「米国人」の定義

一番きついのは「外国系企業」だ。まず、米国でドル建て商品に投資し収益を得ている企業がすべて対象となる。

この中で10%以上の持ち株比率を持つ米国人株主がいれば報告の対象となる。しかもそれについて「具体的な説明」がもとめられる。

とにかく抜け穴がない。


後は有料だそうで読めない。まぁここまで分かればよいか。

谷口さんはうまくいかないだろうと考えており、その理由をいくつか上げている。

* 外国金融機関に膨大な実務を強いることになり、外国金融機関を米国離れへ追い込む。

* 米国内にも反対は根強く、「外国資本を遠ざける規制は経済的自殺だ」という意見もある。

どうもFATCA外国口座税務コンプライアンス法)が分からないと、事件としての「パナマ文書」の意義はわからないようだ。

そこでFATCAと入れてグーグル検索をかけてみる。

出てくる出てくる。すさまじいほどのファイルが引っかかってくる。上の方に出てくるのはほとんどが銀行のサイトだ。半分は問い合わせに対するお知らせだが、抜け目なくFATCAをクリアーする貯蓄法の指南とか、自社商品の売り込みが取り混ぜられている。

察するところ、国内外の富裕層はFATCAに慌てふためいているようだ。

一応代表的な文例を幾つか示しておく。

最初に出てくるのが「生命保険協会」のお知らせ。

2014年7月から、米国法「FATCA(外国口座税務コンプライアンス法)」による確認手続きが開始されています。

FATCAは、米国への納税義務を持つ者が 米国外の金融口座を利用して租税回避を図るのを防ぐ目的で制定されました。

この法律は、米国外の金融機関に対し、顧客が米国納税義務者かどうか確認するよう求めています。

日本政府は、国際的な税務コンプライアンスの向上を理解し、FATCAを円滑に実施するため相互に協力することで合意しています。

日本の生命保険会社では、米国財務省と日本当局との合意に基づき、お客さまが米国納税義務者であるかを確認します。

もし米国納税義務者である場合は、米国内国歳入庁宛にご契約情報等の報告を行っております。

対象となる米国納税義務者

①特定米国人 (これは要するに米国人ということ)

②米国人所有の外国事業体

実質的米国人所有者が一人以上いる外国法人・事業体をいいます。例えば、特定米国人が25%を超える議決権を有する場合をいいます。

(以下いろいろ但し書きや例外規定があるが省略)

脅し

新規の場合: 報告に同意いただけない場合、生命保険会社は、生命保険契約の締結を行いません。

継続の場合: 契約締結後において、確認手続きに応じていただけない場合には、米国内国歳入庁の要請に基づき、該当のご契約情報等を日米当局間で交換することになります。

ということで、いわば超法規的な条項であり、合衆国憲法で保障された財産権の実質的侵害となっている。

FATCAは基本的に米国人が対象であるが、米国はこれを各国が互いに合意しあうように求めている。すると日本政府も日本人に対して同様の措置をもとめることになる。

はたしてそれがどうなるか。少し勉強してみないと結論は出せない。

半藤さんの本の「マッカーサーと日本占領」の一節

マッカーサーの圧倒的とも言える強い信念のもと、GHQの民主化は稲妻のように敗戦日本の上を走り抜けていく。

マッカーサーを支持するアメリカ本土の保守派やウルトラ右派は、マッカーサーのあまりの進歩性に唖然として見守るだけであった。

彼を反動的と唾棄していたニューディール改革派は、困惑どころか、いったい日本では何事が起こっているのかと混乱するばかりだった。

そして歴史にその名を刻みこむというマッカーサーの思いは遂げられた。(大統領になるという願いは叶えられなかったが)

たしかに、「なぜマッカーサー改革は成功したのか」を解き明かす上では、ここが味噌だなと思う。

そしてその神通力は23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言で終幕を迎える。


パナマ文書の重大性はどこにあるか

今回、最初に書いた「パナマ文書を打ち上げ花火に終わらせないために」の冒頭にこう書いた。

最初にこのニュースを聞いたとき、正直、またかという感想で見ていた。

これまでもウィキリークスで何回かのスッパ抜きがあって、脱税の規模・手口についてはおおよその見当がついていたからだ。

それで調べてみて、今もなおその感想が払拭されたとはいえない。

それはそれなりに、分からないけど分からないなりに、どうも「問題はそういうところにはないのではないか」という感覚が芽生えてきた。

「そういうところ」というのは、タックス・ヘイブンとか租税回避という分野である。

1.巨大かつ匿名性の高い資金プール

それでいま感じているのは、むしろこれだけの金が匿名で動いているという事実である。さらに言えば匿名性のもとにこれだけの金が貯蔵され、いつでも引き出し可能な形態で積み上げられつつあるという事実である。

それは投機性の高い金融市場のための一つのアセットとして存在している。そしてその市場とタックスヘイブンをつなぐ「導管」(Conduit)の役割を持っている。

租税回避とか節税という場合は、もっぱら関心は秘匿することにある。もちろんどこかの独裁者や麻薬王や超富裕層などはそういう目的で利用するのであろう。

しかしタックスヘイブンを使った資金プールの形成は、むしろ集めた資金の再利用にあるのではないか。だからこそ問題が深刻になっているのではないか。

2.ユーロ市場との強い関連

この点で、AFPの「租税回避の中心はロンドン」という記事は面白い。世界中のオフショア・ネットワークはロンドンを中心に形成されているというのだ。

モサック・フォンセカ社はロンドンから資金を受け入れ、それを英国領バージン諸島を中心に秘匿し、さらにロンドン市内の不動産へ投資している。

つまりシティーのユーロマネーを中心とする投機的市場のファシリティーとして存在しているものと思われるのだ。

ご承知のようにユーロマネーの市場は非常に匿名性の高い、無国籍的なオフショア市場だ。だから匿名性の高いマネーであっても、自由に市場に参加し、捌くことができる。

泥棒に故買屋が必要なように、匿名マネーには投資できる市場が必要だ。逆に言えばユーロ市場には金を自由に、しかも秘密裏に出し入れできるヤミ金庫が必要なのだ。

つまり匿名ネットワークはユーロ市場と表裏一体のシステムだということになる。

それがオフショアマネーの本質なのではないか。

3.金融市場の主導権を握りたいアメリカ

2,3年前にLIBOR事件というのがあった。私も調べて記事にしたことがある。しかしさっぱり思い出せない。

たしかユーロ市場の標準金利を決めるコール金利で、イギリスの大銀行が談合して決めている。これに世界のドル運用が規定されている。

それが不正をやって、それがバレて大問題になったが、どうも火付け役はアメリカ財務省ではないかということだったように記憶する。

あのモルガンでさえ、シティーの一角を借りて店子商売しているくらいだ。ドルはアメリカの通貨だというのに、その金利をイギリスが決めるというのは気に入らないに違いない。

そこでユーロ市場つぶしにいろいろ策を弄していることは間違いない。

此処から先は想像だが、いろいろ実情を調べていくうちに、ユーロ市場に流れ込む資金の出処が分かってきた。

それがスイスやルクセンブルグの信託銀行の匿名口座であり、あるいはシティーからパナマのエージェントを経由したバージン諸島などの裏口座である。

であれば、この流れを締めあげてやれば良いという理屈になる。口実は後からいくらでもつく。ある時は麻薬カルテルの資金洗浄だったり、ある時は中国やロシアなどの独裁者だったり、アラブのテロリストだったり種はゴマンとあるし、なければでっち上げるだけの話だ。

またタックスヘイブンを使った脱税への世論の反発も追い風になる。今回などその典型だろう。

4.アメリカは自らタックスヘイブンになるつもり?

こうやってタックスヘイブンを炙りだすと、巨大な秘匿マネーは居所がなくなる。この巨大金融資産を管理したくなるのも人情だろう。

ただ、これを積極的に呼び寄せようとしているかというと、私にはまだ確信が持てない。

状況証拠としては、外国口座税務コンプライアンス法(FATCA)を成立させ各国にそのスキームを押し付けたにもかかわらず、自らはOECD合意に加入しようとしないこと、国内の幾つかの州に「タックスヘイブン特区」を設け、そこでの匿名口座の設置を容認していることがあげられる。

ブルームバーグの記事によれば、いままさに、カリブ海からネバダ州への顧客資金の地滑り的大移動が起きているという。

こういう流れの中で今回の「パナマ文書」問題を考えれば、告発者の思いは別として、それがどういう結末をたどるかはある程度予想がつこうというものだ。

ブログを書いていると、ときに身辺些事に筆及ぶことがある。
きわめて話が具体的なだけに、迂闊には書けないが、どうしても書いておきたいことがある。
今日の話はあまりに見事だったが、どう書けばよいのだろう。
例えば、長年の恋を実らせた、そろそろ世間的には“若い”とはいえない女性がいたとする。そこそこの美人だ、とわたしは密かに思っている、とする。
わたし的にはそれを聞いて素直に喜ぶんだが、あるおばさん、ふと、ため息のようにつぶやいた。
「居なかったんだねぇ…」
言ったそばから、慌てて取り繕ったが、そいつは後の祭りというもんだ。

どうやら少し事情が飲み込めてきた。

租税回避について、結局アメリカが本気になり始めて、タックスヘイブンつぶしに本腰を入れ始めたこと。

それはテロリスト対策や麻薬カルテルの資金洗浄対策を名目として行われていること。したがって超法規的なやばいやり口をとっている可能性があること。

そして、違法に入手した情報を“ディープ・スロート”として垂れ流している可能性があること。

同じやり方でスイスとルクセンブルクの脱税エージェントを潰してきて、今度はそれがパナマだった、という可能性もあること。

プーチンと習近平を狙い撃ちしている裏側に、政治的意図も感じられること。

ICIJがナンボのものかは知らないが、「10日午前3時に史上最大の発表をする」という胡散臭さが少々鼻につくこと。(これについてはWSJも繰り返し指摘している)

したがって、情報の全面可視化がいま何よりも求められていること。正確なコメントはそれ以降の話になるだろう。

無論、パナマ文書が暴露された事自体は悪いことではないし、大いに評価するものであるが、一定の警戒心も持っておく必要があるだろう。

肝心なことは、富裕層による租税回避の動きが今や世界の指弾の的となり、富裕層が世界経済を破壊することに警戒の目が強まっていることである。

おそらくトービン税や金融取引税などの立法以前に解決すべき問題であろう。

「パナマ文書」、何が重要か?

ニューディールをやっているうちに、「パナマ文書」に関わる材料を消してしまったようだ。

この種のネタはスピードが命だ。ニュース記事は日にちが経つとどんどん消えていく。とくに日本の新聞はスピードが早い。まだ間に合うか?

ウィキリークスに始まって、タックスヘイブンのリーク情報はこれまでも繰り返し報道されてきた。有名人や政治家の名がチラチラと浮かんでは消えていく。たしかに情報量としては膨大だが、どこがこれまでのリーク情報より重要なのかがよく分からない。

少なくとも日本での報道では、まったく差が見えて来ない。率直に言って、日本の新聞は、この手の情報では、あまり役に立たないことが多い。

幸いなことに、最近では海外紙の日本語サイトがかなり充実していて、そこである程度の感触はつかめる。日本の有力紙と違って、情報の出し惜しみはしない。



WSJ

4月6日 「パナマ文書」とは何か

パナマは長年、オフショア会社の設立場所となってきた。以前のスイスの銀行による脱税幇助も、パナマ企業を使うスキームが多く用いられてきた。

パナマを代表する法律事務所モサック・フォンセカは、富裕な依頼人がペーパーカンパニーを設立する手助けをしていた。パナマはいまだに銀行をめぐる機密のとりでである。

その「モサック・フォンセカ」の内部資料が流出した。それは最初、南ドイツ新聞に流出した。

南ドイツ新聞は国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)に協力を仰ぎ、文書の解析に取り組んだ。

ICIJはこれを分析して、4月3日、一連の記事を発表した。

今回のリークを受けて(日本を除く)各国政府が調査に乗り出している。G20会議でも注目が集まる公算が大きい。


4月7日 「パナマ文書」が示す資金隠しビジネスの衰退

2月初め、スイスの検察は、マレーシアの複数の国有企業から40億ドルもの資金が不正流用された可能性があると発表した。

かつてスイス当局は、「スーツケースの中の現金が正当な手段で得られたものか、それとも不当なものかを判断するのは難しい」と考えていた。

スイスの司法長官がこの件を公表したこと自体が時代の流れを表している。

世界の規制当局は、オフショア租税回避地や資金洗浄を厳しく取り締まるようになった。

モサック・フォンセカのようなオフショア会社の利用は急激に減っている。米政府が巨額の罰金を科すようになったからだ。また内国歳入庁(IRS)の調査も厳しくなり、資産を隠すのは一層困難になっている。

モサック・フォンセカは無記名株式を利用することで儲けていた。この制度のもとでは、株券の所有者が企業の保有者となり、企業は登録名義人なしで存在することが可能になる。

人々はプライバシーのためや課税を逃れるため、不正利得を隠すためにこの業務を利用してきた。

米同時多発テロが起きた後、米国政府はテロ組織への資金供与を絶つための取り組みを強めた。一連の内部告発を受けて租税回避の取り締まりが強化された。これに(日本を除く)各国も追随した。

OECDによると、金融取引に関する情報交換や共通の報告基準の採用に今や96カ国が合意している。

モサック・フォンセカは、2005年には1万3287ものオフショア会社の設立をサポートし、企業6000社近くの代理人を務めた。これまで設立したオフショア企業は約24万に達する。

しかし15年には新規設立数が3分の1以下の4341社にまで減少し、代理する企業数は170社にまで減少した。


4月7日 租税回避の取り締まり、もぐらたたきの様相

課税逃れとマネーロンダリング(資金洗浄)を取り締まるための国際的な取り組みが強まっている。

(日本を除く)先進諸国政府は、2008年の金融危機と世界同時不況を受け、課税逃れの取り締まりを強化した。

2010年、米政府は外国口座税務コンプライアンス法(FATCA)を成立させた。

これは「外国の金融機関に米国人顧客の身元とその保有資産に関する報告を義務付ける」というかなり乱暴な法律だ。これでスイスの各銀行がビビった。

EU もこれに追随し、スイスやルクセンブルクなどに圧力をかけた。その結果、EU市民が保有する口座の情報を共有できるようになった。

ここ数年で、HSBCホールディングス傘下のスイスのプライベートバンクによる課税逃れ、ルクセンブルク政府による多国籍企業の節税対策支援がリークされた。

その結果、利用者は伝統的なタックスヘイブン(租税回避地)から、より「エキゾチックな場所」に向かっている。それがパナマであり、バヌアツである。

OECD加盟国ではないパナマは、何とかして秘密性の高い管轄地域にとどまることを決意している。例えば、銀行口座情報を各国当局がやりとりすることや、税務問題での相互協力などを拒否することである。

(したがって今回のパナマ文書の暴露は、パナマ当局への脅しという側面を持っている)


ル・モンド=朝日

ウォール・ストリート・ジャーナルのあまりにも楽観的な見通しには、ピケティが異議を唱えている。

各国間で金融資産情報を自動的に交換することは悪いことではない。

しかしそれが始まるのは2018年からのことだ。財団などの保有株には適用されないし、違反へのペナルティーも一切設定されていない。

貿易制裁と金融制裁を科すことなしに、「お行儀よくしてください」と頼むだけのことだ。

そして真の問題は、経済危機に対して中央銀行が十分な貨幣を発行することで乗り切ったという経過から、そしてその後も金融緩和を続けているという経過から、世界が完全な金余り状況に陥っているということだ。

公的セクターと民間とが持っている金融資産は全体で、GDPのおよそ10倍に達している。

そして、とりわけ民間部門のバランスシートが膨張し続けており、システム全体が極めて脆弱なものになっているということだ。


以下はAFPから

4月8日AFP 米国の著名人なぜ少ない?

さすがはAFP(L'Agence France-Presse)、この疑問に切り込んでいる。ただ「米情報機関関与説」までは踏み込めていない。

要旨を紹介しておく。

理由の第一は、資産隠しやオフショア取引をしたい米国民にとって、スペイン語圏のパナマはタックスヘイブンとして魅力的ではないからだ。

米国人は、資産隠しや匿名で会社のために外国に行く必要はない。いくつかの州では、数百ドルでペーパーカンパニーを設立できる。

第二に、アメリカ政府の取り締まり強化だ。例えばクレディ・スイスは、米市民の資産隠しに協力したために26億ドルの罰金を科された。これは企業の生死に関わる。

このため、タックスヘイブンは米国人顧客を非常に恐れている。

と書いたうえで、「これは噂だが」として、ロシアなど他国の不安定化を狙うCIAによるもの、とするリーク陰謀説を紹介している。

4月7日AFP 「パナマ文書」が暴いた租税回避の中心はロンドン

「パナマ文書」問題で、ロンドンが世界中のオフショア・ネットワークを結びつける「心臓」の役割を果たしていたことが明らかになった。

ロンドンの金融街シティーの英法律事務所、英会計事務所、英金融機関がモサック・フォンセカのような会社を操作している。

英国は海外領内にあるモサック・フォンセカの仲介企業数で世界第3位を占め、3万2682人の顧問を有する。

カリブ海の英領バージン諸島には、モサック・フォンセカの顧客企業が11万社も存在していた。

モサック・フォンセカは、世界各地のタックスヘイブンに設立された数千の企業をつうじて、英国と何らかのつながりを持っていた。

その多くが英国内、特にロンドン市内の不動産に投資されていた。

4月7日AFP 流出元の法律事務所、最大市場は中国

内部文書流出元のモサック・フォンセカの活動の3分の1近くが、中国本土と香港に置かれている同事務所の支所で行われていた。

現在活動中のペーパーカンパニー1万6300社以上が、同事務所の香港と中国本土の支所を通じて設立されていた。

中国共産党の最高指導部に当たる政治局常務委員会のうち、現職または元委員少なくとも8人の親族が、オフショア企業の利用に関与していた。

複数のメディアの報じたもの。

アジアの大国中国が、腐敗と資本逃避問題で大きく揺れている。

フォンセカ中国

                          モサック・フォンセカの上海事務所(AFP)

4月12日AFP 各国のスパイも利用 独紙報道

南ドイツ新聞は、複数の国の情報員がモサック・フォンセカを情報活動の「隠れみの」として利用していたと報じた。

事務所の顧客には、1980年代のイラン・コントラ事件に際して、CIAの「仲介役」として密接に協力していた人物も複数含まれていた。


世界一のタックスヘイブンはアメリカ

パナマ文書の発表前の記事ですが、1月27日のブルームバーグの「世界一のタックスヘイブンはアメリカ」というのが面白い。

ロスチャイルド銀行やトライデント信託は、ネバダ州のリノに信託銀行を開き、バミューダなどのタックスヘブンに隠し持っていた海外顧客の資金を移動させています。

これは、OECDによる新しい情報交換基準に対抗するためと言われます。

なぜリノの信託銀行に資金を移せば安全なのか、それはアメリカがOECDの新しい情報交換基準が適用外となる地域なためです。

ロスチャイルド社の代表は、「顧客の資金をアメリカに移動させれば良い。そうすれば無課税となり、政府からも隠すことができる」と語っている。

現在多くの富裕層がアメリカの口座が最も安全と感じているというわけです。

2,010年にアメリカで、外国金融機関を利用した租税回避行為を防止するため、FATCAが施行されました。

OECDはこれに刺激されて新しい情報交換基準を作り、2014年に97の加盟地域が賛同する形で合意に至りました。

しかしこの基準を受け入ない国が3っつあります。バーレーン・ナウル共和国・バヌアツ共和国、そしてアメリカです。

財務省は「OECDの新基準はFATCAをベースに作られたものであるので同意する必要はない」と述べている。

しかしアメリカの金融アドバイザーは、「アメリカがOECDの新基準に同意しなかったことは、我々のビジネスを強く支持することにつながるのは明らかだ」と語っている。

The Four Freedoms(1941) Franklin D. Roosevelt

1.前置き 「すべての国の権利への敬意」が土台

国内問題について…と全く同じように、国際問題に関する我が国の政策は、大小を問わずすべての国の権利と尊厳(the rights and dignity)に対する decent respect に基づいている。

そして道義的な正義(the justice of morality)は、最後には勝たなくてはならないし、必ず勝つだろう

2.「人類の普遍的な自由」

第1は、世界のあらゆる場所での言論と表現の自由(freedom of speech and expression)である。

第2は、世界のあらゆる場所で、すべての個人がそれぞれの方法で、神を礼拝する自由である。

第3は、欠乏からの自由(freedom from want)である。それは、世界的な観点で言えば次のような経済的合意を意味する。(直訳では、“世界語に訳すなら、次のような経済的理解を意味する”)、

すなわち、あらゆる国で、その住民のために健全で平和時の生活を保障することである。

第4は、恐怖からの自由(freedom from fear)である。それは世界的な観点で言えば、世界規模で軍備を削減することを意味する。

一つのポイントまで削減すべきだ。すなわち、いかなる国も、いかなる隣人に対しても、武力攻撃の行動を起こす立場をとらなくなる、そういうポイントまでだ。それも全面的なやり方でだ。

3.独裁者たちと4つの自由

独裁者たちは爆弾の衝撃によって専制政治の新秩序を作り上げようとしている。4つの自由はそのまさに対極にある。

われわれが追求する世界秩序は、自由な諸国が友好的な文明的社会の中で力を合わせる協力関係なのである。

それは道義をわきまえた秩序である。

それは千年先の幻想ではない。われわれの時代と、この世代のうちに実現可能な形の世界である。

4.米国の歴史と革命

米国の歴史は永続的な平和革命である。そこには強制収容所も、逃走を阻む溝もなかった。

米国は、その運命を、何百万人もの自由な男女の手と頭と心に託してきた。そして、神の導きの下で、「自由」に信頼を託してきた。

5.自由とは何か

自由とは、あらゆる場所で人権が至上であること( the supremacy of human rights )を意味する。

そうした人権を獲得し維持しようと苦闘する人々に、われわれは支援の手を差し伸べる。

我々の強さは、我々がこの目的のもとに団結していることにある。

アメリカンセンターJAPAN ホームページより)

Yuko's Blog 「アメリカ ウォッチ」に親切な解説があるので紹介する。

 米国憲法改正第一条には、「言論の自由」と「信仰の自由」が謳われている。ルーズベルトはこれに第3,第4の自由を加えたものである。

freedom from want とは、人権および国際的権利として、すべての国民は社会的および文化的側面から適度な生活水準を維持する権利があることを強調したものである。(とあるが、これを「欲することの自由」とは、まぁその通りではあるが、流石に意訳が過ぎよう)

最後の恐怖のない自由とは、この戦争は世界が平和と自由のために戦っていることを米国民に知らせる意図があったと思われる。

この文章から、4つというのはレトリックであって、要するに2つの自由であることがわかる。

欠乏からの自由というのは、「生存権」のことである。恐怖からの自由というのは「平和的生存権」のことであるが、もっと差し迫っていて、いわば「平和のために闘う権利」ともいうべき色合いを帯びていることがわかる。

どう闘うかは、この時点ではまだ示唆的なものにとどまっているといえる。

この二つは、「自由」ではなく「権利」として憲法前文に生かされている。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」


私にはこの2つの「…からの自由」が、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」と響き合っているような気がする。

何がどう響き合っているのか、あるいはいないのかはわからない。

フロムはフランクフルトの裕福なユダヤ人家庭に生まれた。ナチスが政権を取るのと前後して、アメリカに亡命した。

そして、1941年、アメリカが参戦する直前に「自由からの逃走」が刊行された。

時期的には完全にかぶっており、おそらくフロムはルーズベルトの「恐怖からの自由」を聞きながら、そしておそらくはそれに共鳴しながら、論文を書いたのだろうと思う。

学生時代には一生懸命読んだが良く分からなかった。いまになると、分からないのが当然なんだということが分かった。

そもそもルーズベルトの「恐怖からの自由」というのが持ってまわった表現で、「平和への自由」というところを英語の慣用的表現に合わせて逆説的に言っただけの話だ。

要は「平和的生存権」の主張そのものだ。しかも「平和的生存権」一般にとどまらず、「平和のために闘う権利」まで踏み込んで言及したものだ。

だから言論人は、ルーズベルトの呼びかけに応えて、「平和のための闘争を放棄するな。最後まで闘え!」と呼びかけるべきなのだ。文明論などやっている陽気ではないのだ。

そういう文脈で見ると、フロムの文章は情けないほど状況に立ち遅れている。“フロイド魔術用語”への置き換えを除けば理論的寄与は無きに等しい。

戦後フロムらの新フロイド学派がもてはやされたのは、サルトルの実存主義と同じで、スターリン主義の同伴者として位置づけられたからに他ならない。

スターリン主義が地に堕ちた以上、彼らも同じ運命をたどる他ないだろう。

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