「ニューディール物語」と題しましたが、最初は「大暴落からニューディール 年表」を作成した感想を書くつもりでした。
そのうちに、ズルズルと事実に引っ張られて、「歴史」もどきのものになってしまいました。その割には出典が明らかでなく、筋書きも論争点に着目したゴツゴツとしたものになっています。
もう少し、初めての人にも分かりやすものにしていくつもりです。一番言いたいことは、ニューディールを運動として、民衆と進歩的政権の実践と認識の過程として捉えるべきだということです。
そうすれば、私たちのいまの運動を考えていく上で、ニューディール運動は大きな教訓を与えてくれるだろうと思います。
1.29年の大暴落(Great Crash)
私たちは、教科書的知識として世界大恐慌(Great Depression)を知っています。
しかし、1929年10月にウォール・ストリートで起きた株価の大暴落がどうやって世界大恐慌に結びついていったのかは意外に知らないのではないでしょうか。
それを知るためには、まず大暴落はそれとして別個に理解したほうが良いとおもいます。
2008年に我々が経験したリーマン・ショックと同じで、一応、破滅的な株価暴落とその後現在まで続く長期不況の2つは分けて考えるべきでしょう。
うんと単純化して言えば、大暴落そのものは、生産過剰が証券バブルとなりそれが弾けただけの話で、規模は大きいがある意味では単純な暴落でした。
それが投資家のパニック的な資金の回収によりヨーロッパの金融恐慌をもたらし、世界規模に広がっていきました。これもリーマン・ショックと似ています。
アメリカが風邪を引けば他の国は肺炎になる。これも同じです。
しかしそこから先が少し違っています。リーマン・ショックではアメリカをふくむ各国政府がいち早く財政出動して、金融システムの保護に回りました。
しかしその時のフーバー政権はアクセルを踏まずに逆噴射をかけました。「機長、何をするんですか!」の世界です。
引き締め策は3つの柱からなっていました。高金利・高関税・財政均衡策です。お役所で言えば連銀、商務省、財務省の三役揃い踏みです。とくに金融引き締めは致命的効果をもたらしました。これにより、お膝元の国内金融システムも壊滅的打撃を受けてしまいます。
これでアメリカ経済は失速し、ハードランディングし、長い不況期に突入するのです。
2.大暴落から世界大恐慌へ
その辺りをもう少し詳しく見ておきましょう。
ヨーロッパはなんとか1年半を持ちこたえました。その頃はまだヨーロッパはアメリカに対抗出来るだけの力を持っていたのです。
しかし31年5月になって、ついにオーストリアとドイツが破綻しました。第一次大戦後のベルサイユ体制の歪みが、戦敗国にしわ寄せされたと言われます。
ベルサイユ体制は表面的には、法外な賠償金要求などフランスの身勝手な動きが目立つのですが、所詮は貧乏人同士のいがみ合いです。
ベルサイユ・システムの本当の流れは、ドイツ・オーストリアが賠償金を支払い、それを受けたイギリス、フランスが戦費の借金としてアメリカに支払う。それをアメリカがドイツに投資するという三角形を作っていました。
それが破綻したのは、独・墺への主要投資国であり、随一の資産国であるアメリカが無意味な引き締め策を続けたことにあります。だから独・墺が破綻するとたちまち、英仏が金繰りに窮し、こうして金融恐慌が全欧州に拡散してしまったのです。
この経過には当時世界各国が採用していた「金本位制」のシステム破綻が絡んでいるのですが、そのあたりは省略します。
ひとことで言うと、世界大恐慌は、欧州発の金融恐慌(もともとは大暴落の余波だが)とアメリカ国内の金融恐慌がシンクロして発生したことになります。
3.大恐慌がもたらしたもの
こうして31年後半から32年末までの1年半、地獄のような状況がやって来ます。
32年度末の実体経済を示す数字が、カタストロフィーの深刻さを如実に示しています。
GDPは1919年から45%減少しました。工業生産は平均で1/3以上低落し、基幹産業の生産は半分以下に落ち込みました。農産物価格も半分以下に落ち込みました。失業者は1200万人、不完全就業者が数百万人、合計で1700万人に足しました。失業率は25%、労働可能者の4人に一人が失業状態に陥りました。就業者の平均賃金も半分にまで減りました。
6千近い銀行が破産。最終的には1万を超える銀行が破産状態に陥ります。株価は80%以上下落し、それが回復するのは戦後まで持ち越されましたこの大恐慌で最も苦しめられたのは失業者です。そのほとんどは、大恐慌が生み出した29年以降の新規失業者でした。
次に、農産物価格の低下と旱魃に苦しめられ、家屋敷を抵当に取られ流浪の民となった多くの農民がいます。かれらも失業者の仲間に加わりました。
南部の黒人小作農(シェアクロッパーといば聞こえはいいが、実態は掘っ立て小屋をあてがわれただけの農場奴隷)たちも、不景気を理由に農場を追い出され、あてもなしに五大湖周辺の工業地帯へと向かい、失業者の大群に加わりましました。
さらにヨーロッパからも多くの移民がやって来ます。彼らはそのまま社会の底辺に沈み、アメリカ国内の失業者群に加わって行きました。
ここまでは労働者・貧困者のレベルだが、31年に世界大恐慌の色彩が強まると、それでは済まなくなり、中間層にも影響が及び始めます。
まず銀行がどんどん潰れ始めます。最初は足腰の弱い地方銀行からで、そのうち都市部の銀行もやられるようになりました。31年だけで2千以上の銀行が倒産しました.32年にはさらに8千の銀行が潰れました。
信金とか相互銀行みたいなところが潰れると、小商いの店や企業が連鎖して潰れていきます。そのうち地方では老舗と言われる会社も同じ運命をたどることになります。
そうなれば地方を支えていた草の根中間層がごっそりといなくなり、そこに膨大な失業者群が生まれます。この年失業者は一気に800万に増えました。
だが、これはアメリカ国内の“風邪ひき”の数字であり、ヨーロッパやラテンアメリカの“肺炎”の方の数字は含まれていません。
こうしてみれば、ある意味では第2次世界大戦は、この時すでに運命づけられていたとも言えます。極言すれば、第2次世界大戦の最大の原因はフーヴァー政権にあったとさえ言えるでしょう。
4.ルーズベルトを押し上げた民の怒り
早くも30年の5月には125万人が参加する労働者・失業者の全国統一行動が起きています.これらの運動の中から「全国失業者協議会」が結成され発展していきます。
やがて貧困問題が深刻になると、闘争形態も激しさを増していきます。デモも「飢餓行進」を銘うって行われるようになります。
「飢餓行進」の代表者はフーバーに面会を求めるが拒否されました。「汝ら臣民、飢えて死ね」ということです。世間の情勢はどんどん厳しさを増し、発する言葉も剣呑なものになってくる。
32年に入ると、ついに死者も出るようになってきました。(南部の黒人の間では古くからあたりまえのことであったが)
3月にはデトロイトで職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡しました.
7月には復員軍人2万5千人がデモ行進。引き続いてワシントンでの座り込みに入りました。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」というのが彼らの抗議スローガンでした。
この座り込み行動に対し軍隊が出動し、強制解散させました。この行動は流血の惨事をもたらし、多くの死者を出しています。フーバーの承認なく発砲を命じたのが、ときの参謀総長ダグラス・マッカーサーだったというのは記憶しておいてよいでしょう。
忘れてならないのは、まずもってニューディールが、そうやって追い詰められた民衆の怒りの表現であり、その必然的な方向づけとしてあったという歴史的事実です。
ネオリベの人々は、ことあるごとに「ニューディールが実際のところはなんの役にも立たなかった」とか言って批判しますが、ここまで追い込んだのは当時のネオリベ信奉者たるフーバーと共和党政権であったことを忘れてはなりません。
ニューディールは当時の世相を反映して、政策的には多義的です。なかにはファシスト的色彩を帯びているものさえあります。その一つ一つを切り離して是非を云々しても始まりません。
それが全体として、民衆の怒りを反映し、民衆の願いにそって、民衆ための政治を目指すものであったことが重要なのです。
経済理論というのは、究極的には最大多数の幸福を追求するためにあり、そのための社会実践を補強するためにあります。「市場経済の原理」を守るためにあるのではありません。
これは近代資本主義理論の始祖であるベンサムとジェームズ・ミルの教えでもあります。
5.中継ぎエースとしてのルーズベルト
フーバー政権への嫌悪感は頂点に達しました。もはや一触即発です。
ルーズベルトは、こういう雰囲気の中で体制側の中継ぎエースとして登場しました。
すみませんが、ここで「中継ぎエース」について語らせてもらいます。それまで好調に飛ばしていた先発投手が、勝利投手の権利を目前にして突然、フォアボールを出して崩れ始め、あれよあれよというまに1点差まで追いつめられ、得点圏に走者を残したまま降板、というのが中継ぎ投手の出番です。
中継ぎ投手の役目はまず打者の目先を変えることにあります。先発が力投型なら変化球、軟投型なら豪速球ということになります。
どちらにしてもその目的は目前の危機をしのぐことです。味方は中継ぎ投手に全てを託し、その一球、一球を見守る他ありません。
かと言って、味方は救援投手に全幅の信頼をおいているわけではありません。やはり不動のエースというのはダルとかマー君のような先発投手です。
ルーズベルトの位置づけはまさに体制側の救援投手でした。彼は本質的にはまったく体制側の人であるし、その政策も「ニューディール」というスローガンも含めて曖昧でした。
しかし期待された役割とは別に、彼にははっきりした目標と計画がありました。それは体制側と反体制側の勝ち負けなどとは次元の違うものでした。
彼は市場経済のシステムそのものを変更しようとしたのです。いわゆる修正資本主義ということになります。
その計画は見かけ上はかなりファシストに近いものでした。
ではファシストとFDRはどこが似ていて、どこが違うのか。
似ているのは国家機能を大きく拡大して、政府のイニシアチブにより経済を立て直そうという考えです。
第二には、当座の財政赤字は覚悟の上で政府投資を拡大し、これによる景気回復を図ろうという積極財政策です。
違うのは、経済民主主義と福祉経済の方向に進むのか、大資本の収益確保で生産を軌道に乗せる方向なのか、というところにあります。
アベノミクスで言えば、第三の矢の方向性の問題です。
FDRは経済民主主義という進歩の方向で、資本主義のあり方そのものを変えるところまで見通していました。(おそらく漠然とですが)
これに対してファシストは、せいぜいが農本主義的な後ろ向きのユートピア止まりです。結局大資本本位のシステムを維持することになるから、過剰生産の問題は解決できないし、より深刻にするだけです。
ルーズベルトは政治的民主主義を視座において、それを実現し安定的に運用しうる経済システムの実現を構想しています。
もう一つのファシストとの違いは、リベラリズム(訳しにくいが進歩的自由主義くらいか)です。南部へ行くとほとんど「コミー」(アカ)と同義語です。
英語をやった人ならわかると思いますが、“フリーダム”というのはたんに束縛を受けないという意味の「自由」ではありません。むしろ「権利」と訳したほうがふさわしい場合が多々あります。
かくも生きづらい時代において、原理的権利としての「生きる自由」を尊重することは、そのまま民衆の生存権を尊重することに繋がるのです。
無論、政治家としてのルーズベルトは海千山千のタフな人物です。ただその素性、生い立ち、人脈、政界歴を通じて、民衆を代表する政治家としての構えを形成していたと見るべきでしょう。
ちなみにルーズベルトの祖先はユダヤ系オランダ人の移民です。ルーズベルト一族のセオドア・ルーズベルトはアメリカのキューバ、パナマ侵略の先頭に立った「帝国主義者」ですが、後年には反トラストを奉じ独占資本と対抗した経歴を持っています。(遠縁ではあるが、FDRの妻エレノアの義父役を勤めるなど親しい関係にあった)
彼の訴えたモットーが「スクエア・ディール」でした。訳しにくい言葉ですが、「公正な分前」というか、民衆の取り分を主張したものでした。言葉の上では「ニューディール」にもつながっているように思えます。
basic ideas: conservation of natural resources, control of corporations, and consumer protection.These three demands are often referred to as the "three C's" of Roosevelt's Square Deal. (Wikipedia)
FDRもハイチ侵略の片棒を担いだ経歴を持っていますが、小児麻痺を患って一度政界を引退したあとは、リベラル派の代表としてニューヨーク知事に復活しています。
6.ニューディールの鮮やかな登場
33年3月4日、ルーズベルトは大統領に就任しました。その1ヶ月前、銀行倒産はついに1万件を超えました。待ったなしの状況です。
彼はそれまでの曖昧な見せかけを突如かなぐり捨てて、次々と革新的な政策を打ち出していきます。
それらはいずれも資本主義の延命を「大義」として打ち出されたものでした。しかしその内容は相当吟味されていて、見せかけの資本主義擁護とは逆に資本主義の改造を目指す施策が忍び込まれていたのです。
就任式の2日後に最初の爆弾発表がありました。議会が招集されるまでの4日間、すべての銀行の営業を停止させたのです。
彼はこれをバンクホリデーと言いました。物は言いようです。もともとアメリカでバンクホリデーというのは祝日のことです。銀行が休みだから、商売も休みになる、ということで祝日が発生したということです。
休業命令ということは、結局預金引き出しの禁止にほかなりません。祝日どころではありません。当然パニックが予想されます。ルーズベルトはいきなり地雷原に突っ込んだのです。
もちろん4日後には銀行を再開しなければならない。実はそのための手立てはうってありました。3月9日の議会開会の冒頭、彼は緊急銀行救済法を提出し、銀行破綻を食い止める姿勢を明確にしました。
この法案は数時間という超スピードで議会を通過し成立しました。
見事な腕前です。
おそらく練りに練った議会運営計画だったのでしょう。提案した法案の多くがこのやり方で議会を通過していきました。
こうして3ヶ月あまりにわたる議会で多くの議案が成立しました。「百日議会」と呼ばれる所以です。成立した法案の集合が「ニューディール政策」です(第一次ニューディールと呼ばれる)。
残念ながら、この辺りの経過を詳しく記した日本語文献はネット上では見つかませんでした。
諸文献から察するに、大多数の資本家はこれを歓迎したようです。モルガンやロックフェラーなどの超巨大資本は、依然としてフーバー式の放任政策、財政均衡政策に固執していたが、ルーズベルトの政策に表立って反対はしませんでした。
政府は彼らのポケットに手を突っ込んだわけではないからです。しかし、後に、労働者が直接彼らのポケットに手を突っ込むようになります。それはニューディールのちょっとした波及効果でした。
先程も述べましたが、ニューディールは本質的には資本主義の延命策であり、資本家階級の擁護策です。それをチープガバメントでやるかビッグ・ガバメントでやるかという違いです。
貧困者を犠牲にすることなく、しかもチープ・ガバメントでやろうとすれば、革命によって「収奪者を収奪する」(マルクス)しかないのですが、それはとりあえずおいておきましょう。
価格を安定させ生産の再活性化に結びつけていくためには、当面生産調整が必要です。それを貧困者に押し付けることなく実施するか、強権的に(すなわち大資本家本位)にやるかの違いです。
後者は生産調整がリストラを呼び、さらに多数の失業者をもたらします。前者をとろうとすれば、必然的に財政出動と国家による調整(国有化もふくめた)、すなわちビッグ・ガバメントが求められることになります。
ここまでは理の当然です。ニューディールは必然だったのです。フリードマンの後知恵的批判は、2つのことを示しているにすぎません。すなわち、ニューディールはやり足りなかったということ、国際協調なしにアメリカの都合だけで行われたということです。
6.NIRA 成立のための前措置
第一次ニューディールの中核は全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act) にあります。
「百日議会」は実に巧みに仕組まれていて、最初は抵抗の少ないもの、即効性が期待できるものから始まり、徐々に政府による生産調整という本丸に近づいていくようになっています。
その辺りを簡単にレビューしておきましょう。
まずは緊急銀行救済法ですが、これは見事に奏功しました。3月末には銀行の4分の3が営業を再開し、10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始めました。
ただケチを付けるわけではないが、株価は前年8月には底を打っており(最高時のわずか1割強ではあるが)、放っておいてもいずれ残った銀行は復興する傾向にはありました。
3月10日には「経済法」が成立しました。これは連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額するというものです。なんでそれが「経済法」なのだ。
ニューディールの精神とは合わないが、ニューディールというものが、そもそもゴッタ煮だということを示しています。(ただ上級公務員の退職金や恩給は、とくに途上国においては法外です。私が大統領でもやります)
4月には「金没収法」が成立しました。これも法の実体と似合わない名称で、中身としては金とドルとの交換を停止するというものです。これで実質的には金本位制が破棄されたことになります。
5月には農業調整法が成立しました。これは農家の保護が趣旨ですが、そのために政府の主導で生産調整を行うというもので、反トラスト法に抵触する可能性はあります。
「農家を保護して何が悪い」という開き直りで、ある意味でNIRAを通すための予行演習ともなっています。
農業調整法についてはちょっと語りたいのですが、本題から外れるので、とりあえず次に進みます。
6月には銀行法(グラス・スティーガル法)が制定されました。主たる内容は連邦預金保険公社(FDIC)の設立にありますが、いくつかの爆薬がひそめられていました。銀行業務と証券業務の分離投機の規制条項や持株会社による銀行所有の禁止条項です。(詳しくは関連記事をご参照ください)
ネオリベにとっては長年目の敵となった法律で、90年代に破棄されています。その結果がリーマン・ブラザーズの悲劇となったことは、記憶に新しいところです。
こうして資本家や農園主へのサービスを積み重ねながら、少しづつ政府介入の領域を拡大させ、議員の抵抗が減ったところでNIRAが提出されることになります。
7.NIRAの成立
全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act)は、この法律の説明だけでも一つの記事になるくらい、様々な評価がなされる法律です。ここでは簡単な説明にとどめます。
「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」と言われますが、実際には短命で37年には「違憲」との判決を受け失効してしまいます。その代わりに新たに制定されたのがワグナー法ですが、この話は後で。①この法律の表向きの趣旨は、過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることです。いわば官製トラストであり、ニューカマーの排除をもたらす可能性があります。連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもあります。
②具体的な方法としては「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことです。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保されることになります。
③ここまでは資本家にとって“美味しい”ものです。そもそもこの法律は元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされています。
④法律の謳い文句は、「企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させる」ことです。そうすれば社会の安定化、ひいてはストライキや大衆闘争の抑制を図ることもできます。
⑤官製トラスト(談合)は資本家の狙いです。そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はありません。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえるでしょう。
⑥政権はこれだけの“撒き餌”をしたうえで、「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権という毒針を忍び込ませました。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなりました。
8 ニューディール連合の形成
ここまでルーズベルトは実にうまくやったといえます。議会操縦術といい、その手腕はなみなみならぬものがあったといえるでしょう。
激しい階級対立の中で旗幟を明確にせず、本心を出さないクレバーな政治手法をとっていたとも言えます。
しかしそういう手法でやれるのはここまでです。あとは反改革派との力勝負になります。そうなるとルーズベルトは誰に依拠するのか問われることになります。
その答えがニューディール連合でした。ニューディールを政策的に担ったのはリベラル経済学者で、「ニュー・リベラリスト」と呼ばれます。ケインズだけではなくイギリスの福祉経済学、アメリカのヴェブレンの流れをくむ広範な人脈です。
(ヴェブレン自身は福祉国家論の立場ですが、改良運動に積極的ではありませんでした。ニューディールに主として関わったのはJ.R.コモンズ、A.H.ハンセンら制度学派左派と言われています)
これに比べると、政界にはさほど有力な足がかりはありませんでした。大衆運動がそれを補いました。悪く言えばポピュリスト政権です。
中でも最大の柱が勃興しつつあった産業別の労働運動です。
それまでの労働運動は職人組合的(ギルド)な色合いを強く残していましたが、 労働界に膨大な未熟練労働者、非正規労働者が流れ込んでくると、彼らの要求を受け止めきれなくなりました。
未熟練労働者が主流を形成するようになると、もはやその職種を問うことはなくなります。彼らは熟練労働者の運動(AFL)とは切り離され、単純労働者として産業別組合(CIO)に組織されるようになります。
そこでNIRAで承認された労働者の団結権が生きてきます。労働者には団結する権利があり、団結して闘う権利があります。
技能を持たない単純労働者にとっては、労働組合に入りそこで闘うことこそが、職を確保し生活を守る唯一の合法的な手段となります。
33年末までの半年間でストライキは3倍化しました。組合数も飛躍的に増加しました。しかしこれは口開けに過ぎませんでした。
34年に入ると労働運動が爆発します。7月には西海岸で船員・港湾労働者13万人が立ち上がりました。サンフランシスコでは全市が4日間のゼネストに立ち上がります。
9月には繊維労働者の全国ストが打たれました。敗れはしたものの南部東海岸を中心に50万人が参加する大闘争となりました。
ミネアポリスでは「チームスター」と呼ばれるトラック運転手の組合がストライキに入りました。彼らは州知事の戒厳令まで発しての弾圧を打ち破り、勝利しました。
自作農は農業調整法によって窮地を救われました。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなった。その後、農家はルーズベルトの堅い支持基盤となっていきます。
黒人運動もニューディール連合の力強い担い手となりました。黒人はもともとリンカーン以来の伝統を引き継いで共和党支持であったが、ルーズベルトの政策に共鳴して民主党支持に回ります。
階層別の組織も大いに発展しました。とりわけルーズベルト夫人エレノアの指導する婦人組織、平和組織は「ファシズムとの闘い」を呼号し、ニューディール運動のリベラルな性格を一層強めました。
9 保守派の台頭と第二次ニューディール
強大化する政府機能と労働者よりの姿勢に対して、巨大独占資本は危機感を抱くようになりました。
これらの動きは34年の議会中間選挙を前にして一本化します。
モルガン,デュポンらウォール街の巨頭は「アメリカ自由連盟」を結成し、FDRとニューディール政策への反対を明確にした。この連盟にはUSスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本が網羅されました。さらに、ハーストなど主要メディアもこれに追随しました。
これによりアメリカの政治地図はニューディールをめぐって反対派と賛成派に二分されることになりました。
しかしルーズベルト派は貧困者救済の実績に物を言わせ、中間選挙で共和党・自由連盟・大手メディアの連合勢力を一蹴しました。この時点ではニューディール反対派もまだ手探りの状態だったのです。
35年になると、今度は司法が反改革に乗り出しました。連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決を下したのです。
自由競争を阻害する国家による生産調整というのは、確かにニューディール派の弱点の一つではありました。しかしそれはニューディール派と反改革派の真の分岐点ではありません。
真の争点は大企業の身勝手と横暴を許すのか、勤労市民・中間層の生活擁護を優先するのかという点にありました。というより、論戦を通じて真の争点が明らかになってきたというべきでしょう。
ルーズベルトは対抗手段をすでに考えていました。すでにNIRAの性格は著しく変わってきています。いまや産業保護の意味は後景に退きました。それに代わってNIRAは労働運動の最大の根拠法となっていました。
であれば、ということで、NIRAの無効化を受け入れる代わりに、より労働者保護の色彩の強い新たな法律が提起されることになりました。それが7月に成立した「全国労働関係法」(ワグナー法)です。
ワグナー法では新たに不当労働行為の排除が盛り込まれました。これはすごい法律で、いまの日本の労働基準法より遥かに上をいくものです。(ウィキペディアの記載はむちゃくちゃで、ナチの賛美に終わっています。ワグナー法と労働基準法の関連についてはいずれ勉強しなければならないでしょう)
この法律に基づいて会社側のでっち上げた御用組合は違法化され、解散させられました。会社側のスパイ行為やブラックリストの作成も違法とされ、不当に解雇された組合指導者の職場復帰が進みました。
このとき議会を通過したのはワグナー法だけではありません。中でも目玉とされたのが、依然として数百万に及んでいた失業者対策事業です。そのために公共事業促進局(WPA)が設立されました
大独占グループが嫌うもう一つの法案、すなわち社会保障法です。これにより内容はともかくとして老齢年金、失業保険などがスタートすることになりました。
証券取引をめぐる不正を取り締まる「証券取引委員会」(SEC)が設置されたのもこの頃のことです。初代委員長にはJFケネディの父が就任しました。こいつが稀代の悪党で、少し語りたいのですが、いまは遠慮しておきます。(それでなくても余談が多すぎる)
これらの方針を含めて、ルーズベルトは「第二次ニューディール」と称し、議会運営を「第2の百日間」と位置づけました。
ルーズベルトはこうして、NIRAの失効を機にニューディールをさらに民衆側に立って展開するようになったのです。
それと同時に、今後ルーズベルトの前に立ちはだかるであろう司法権力と真っ向から闘う姿勢を示しました。
FDRは語ります。「米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない」これを「司法への恫喝」と考えてはなりません。両者の力関係を考えれば、当時のルーズベルト大統領に「睨み殺す」ほどの力はありません。それどころか、司法の方は明確な権力を持っていました。「違憲」の名で法案を潰し、最終的には政権を潰すだけの権力を持っています。
だからこれは鍔迫り合いの「権力闘争」と呼ぶべきものです。
だからといって、あまり居丈高にやるのもお勧めはできませんが。
10 「王党派」との対決
36年の大統領選挙では両者の対決は一層明確となりました。ルーズベルトが選挙にあたって掲げたのは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンでした。ここで彼は独占資本との対決の意思を明確にしました。
ルーズベルトは、これまでの曖昧な見せかけを捨て、ある意味で自らの退路を断ったということになります。そして労働者、勤労市民、失業者、農民、黒人の味方として、ウォール街の王党派の敵としてみずからを位置づけることになったのです。
大統領選挙は、マスコミの8割が共和党ランドン候補を支持するという厳しい状況での闘いとなりました。しかしフタを開けてみるとルーズベルトは歴代最多得票率で再選を果たす結果となりました。
(最近5回の選挙で勝者を正確に予測した「リテラリー・ダイジェスト」誌は、ランドンが勝利すると宣言した。…読者は共和党支持者が多かった ウィキペディア)
青色がルーズベルト、赤色がランドン (ウィキペディアより)
開始後4年を経たこの時点で、ニューディールは完全に国民(大金持ちを除く)の間に定着したといえるでしょう。
11 ルーズベルトも人の子
見事再選を勝ち取ったルーズベルトですが、36年度の決算を見てビビります。米国の債務残高がGDP比40%に達っしたのです。
今時、GDP比40%なんてちょろいものだが、なにせ今まで誰もやったことのないことをやって、ここまで債務を膨らませると、周りがうるさい。とくに連銀筋が大声でわめき始めます(日本は15年度で248%)
世論調査では国民の3分の2が、これ以上放漫財政を続けることに反対と答えるようになります。
そこでつい、負けてしまったのです。政府は財政支出の削減に動き、FRBは預金準備率を上げる、それもなんと2倍です。ここから「ルーズベルト不況」が始まります。
実質GDPは11%も下がりました。失業率は4%上昇しました。失業者数は1千万を越えたままで推移するようになります。静かにルーズベルトへの失望が広がっていきます。バーナンキが当時いたらなんというでしょうか。怒りのあまり発狂してしまうのではないでしょうか。
パブル後不況の底入れは、本当の底入れではありません。公共投資によってマインドが持ち直したとしても、隠れ不良資産は山のようにあります。日本の97年不況の最大の教訓です。(アベノミクスもそうなる可能性が大いにあります)
共和党はこう言って攻撃した。「ルーズベルトは労働者のストライキを煽っている。このために生産性が低下して不況を招いた。このままではアメリカが潰れてしまう」
最初にも書いたようにニューディールは間違っていたのでもなく、効果がなかったわけでもない。投下資金量が少なすぎ、期間が短すぎたのです。
しかしニューディールというのは、とにかく世界で初めての、当時としては破天荒な政策です。まずは前向きに評価すべきではないでしょうか。
38年に入って、ルーズベルトは弱気の虫を振り払いました。「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張するようになりました。
そしてふたたび拡大財政に転じます。
しかしその効果を見る期間は与えられていませんでした。ファシズムの脅威が眼前に現れてきたからです。
12 ニューディールから戦時経済へ
39年の年頭、ルーズベルトは演説の中で中立法の廃止,軍備の拡大,全体主義国家への反対,ニューディール政策の「緩和」を打出しました.
「緩和」といえば聞こえはいいが、要するに民生費を削って軍事費につぎ込むということです。
しかしニューディール政策のもう一つの側面、政府の大規模な財政出動と政府による経済統制の強化という意味では、ルーズベルトの意思は(不幸な形で)引き継がれたとも言えます。
9月にドイツ軍とソ連軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。
この時点でルーズベルトは腹を固めました。「すべてを反ファシズムのために!」です。(国内は固まっていなかった。これまで反ファシズムを強固に主張してきた左翼は、奇妙なことに中立を主張した)
しかし、パリが陥落し、ロンドンが連日空襲にさらされるようになると、アメリカが「民主主義の兵器廠」となることに表向き反対を唱える人はいなくなります。
戦争準備の中で、ルーズベルトは慣例を破って三期目の大統領に選出されました。
41年初頭の第3期目の大統領就任にあたっての「4つの自由」演説はきわめて格調高いものです。
言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由(権利)を挙げ、これを守ることが民主主義を守ることだとして反ファシズムの立場を明確にしました。
この立場が、日本国憲法の基調をなしていると言ってもよいと思います。我々が学ばなければならない必読文献だと思います。(いずれ紹介します)
結局、ある意味でニューディールの真価が試されるはずだった2期目の任期は、前半は政策の失敗とそのあと始末で終わり、後半はニューディールは事実上放棄され、戦時経済へと移行していってしまいました。
しかしニューディールの中で形成されたルーズベルト連合は、第二次世界大戦を通じて生き続け、戦後のアメリカの骨格となっていきました。
それを壊したのがネオリベであり、その壊れる現場を我々は目の当たりにしてきたのです。
ということで、一応お話は終わり。ここまで読み通してくださった方に感謝します。
5月4日 一応書き換えを終わりました。まだまだ書き足りないところがたくさんありますが、それは「ニューディール運動史 外伝」の形で別途加えていきたいと思います。