鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

13年4月、ぷらら・Broachより移行しました。 中身が雑多なので、カテゴリー(サイドバー)から入ることをおすめします。 過去記事の一覧表はhttp://www10.plala.or.jp/shosuzki/blogtable001.htm ホームページは http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」です。

2016年04月

「ニューディール物語」と題しましたが、最初は「大暴落からニューディール 年表」を作成した感想を書くつもりでした。
そのうちに、ズルズルと事実に引っ張られて、「歴史」もどきのものになってしまいました。その割には出典が明らかでなく、筋書きも論争点に着目したゴツゴツとしたものになっています。
もう少し、初めての人にも分かりやすものにしていくつもりです。一番言いたいことは、ニューディールを運動として、民衆と進歩的政権の実践と認識の過程として捉えるべきだということです。
そうすれば、私たちのいまの運動を考えていく上で、ニューディール運動は大きな教訓を与えてくれるだろうと思います。

1.29年の大暴落(Great Crash)

私たちは、教科書的知識として世界大恐慌(Great Depression)を知っています。

しかし、1929年10月にウォール・ストリートで起きた株価の大暴落がどうやって世界大恐慌に結びついていったのかは意外に知らないのではないでしょうか。

それを知るためには、まず大暴落はそれとして別個に理解したほうが良いとおもいます。

2008年に我々が経験したリーマン・ショックと同じで、一応、破滅的な株価暴落とその後現在まで続く長期不況の2つは分けて考えるべきでしょう。

うんと単純化して言えば、大暴落そのものは、生産過剰が証券バブルとなりそれが弾けただけの話で、規模は大きいがある意味では単純な暴落でした。

それが投資家のパニック的な資金の回収によりヨーロッパの金融恐慌をもたらし、世界規模に広がっていきました。これもリーマン・ショックと似ています。

アメリカが風邪を引けば他の国は肺炎になる。これも同じです。

しかしそこから先が少し違っています。リーマン・ショックではアメリカをふくむ各国政府がいち早く財政出動して、金融システムの保護に回りました。

しかしその時のフーバー政権はアクセルを踏まずに逆噴射をかけました。「機長、何をするんですか!」の世界です。

引き締め策は3つの柱からなっていました。高金利・高関税・財政均衡策です。お役所で言えば連銀、商務省、財務省の三役揃い踏みです。とくに金融引き締めは致命的効果をもたらしました。これにより、お膝元の国内金融システムも壊滅的打撃を受けてしまいます。

これでアメリカ経済は失速し、ハードランディングし、長い不況期に突入するのです。


2.大暴落から世界大恐慌へ

その辺りをもう少し詳しく見ておきましょう。

ヨーロッパはなんとか1年半を持ちこたえました。その頃はまだヨーロッパはアメリカに対抗出来るだけの力を持っていたのです。

しかし31年5月になって、ついにオーストリアとドイツが破綻しました。第一次大戦後のベルサイユ体制の歪みが、戦敗国にしわ寄せされたと言われます。

ベルサイユ体制は表面的には、法外な賠償金要求などフランスの身勝手な動きが目立つのですが、所詮は貧乏人同士のいがみ合いです。

ベルサイユ・システムの本当の流れは、ドイツ・オーストリアが賠償金を支払い、それを受けたイギリス、フランスが戦費の借金としてアメリカに支払う。それをアメリカがドイツに投資するという三角形を作っていました。

それが破綻したのは、独・墺への主要投資国であり、随一の資産国であるアメリカが無意味な引き締め策を続けたことにあります。だから独・墺が破綻するとたちまち、英仏が金繰りに窮し、こうして金融恐慌が全欧州に拡散してしまったのです。

この経過には当時世界各国が採用していた「金本位制」のシステム破綻が絡んでいるのですが、そのあたりは省略します。

ひとことで言うと、世界大恐慌は、欧州発の金融恐慌(もともとは大暴落の余波だが)とアメリカ国内の金融恐慌がシンクロして発生したことになります。


3.大恐慌がもたらしたもの

こうして31年後半から32年末までの1年半、地獄のような状況がやって来ます。

32年度末の実体経済を示す数字が、カタストロフィーの深刻さを如実に示しています。

GDPは1919年から45%減少しました。工業生産は平均で1/3以上低落し、基幹産業の生産は半分以下に落ち込みました。農産物価格も半分以下に落ち込みました。

失業者は1200万人、不完全就業者が数百万人、合計で1700万人に足しました。失業率は25%、労働可能者の4人に一人が失業状態に陥りました。就業者の平均賃金も半分にまで減りました。

6千近い銀行が破産。最終的には1万を超える銀行が破産状態に陥ります。株価は80%以上下落し、それが回復するのは戦後まで持ち越されました

この大恐慌で最も苦しめられたのは失業者です。そのほとんどは、大恐慌が生み出した29年以降の新規失業者でした。

次に、農産物価格の低下と旱魃に苦しめられ、家屋敷を抵当に取られ流浪の民となった多くの農民がいます。かれらも失業者の仲間に加わりました。

南部の黒人小作農(シェアクロッパーといば聞こえはいいが、実態は掘っ立て小屋をあてがわれただけの農場奴隷)たちも、不景気を理由に農場を追い出され、あてもなしに五大湖周辺の工業地帯へと向かい、失業者の大群に加わりましました。

さらにヨーロッパからも多くの移民がやって来ます。彼らはそのまま社会の底辺に沈み、アメリカ国内の失業者群に加わって行きました。

ここまでは労働者・貧困者のレベルだが、31年に世界大恐慌の色彩が強まると、それでは済まなくなり、中間層にも影響が及び始めます。

まず銀行がどんどん潰れ始めます。最初は足腰の弱い地方銀行からで、そのうち都市部の銀行もやられるようになりました。31年だけで2千以上の銀行が倒産しました.32年にはさらに8千の銀行が潰れました。

信金とか相互銀行みたいなところが潰れると、小商いの店や企業が連鎖して潰れていきます。そのうち地方では老舗と言われる会社も同じ運命をたどることになります。

そうなれば地方を支えていた草の根中間層がごっそりといなくなり、そこに膨大な失業者群が生まれます。この年失業者は一気に800万に増えました。

だが、これはアメリカ国内の“風邪ひき”の数字であり、ヨーロッパやラテンアメリカの“肺炎”の方の数字は含まれていません。

こうしてみれば、ある意味では第2次世界大戦は、この時すでに運命づけられていたとも言えます。極言すれば、第2次世界大戦の最大の原因はフーヴァー政権にあったとさえ言えるでしょう。


4.ルーズベルトを押し上げた民の怒り

早くも30年の5月には125万人が参加する労働者・失業者の全国統一行動が起きています.これらの運動の中から「全国失業者協議会」が結成され発展していきます。

やがて貧困問題が深刻になると、闘争形態も激しさを増していきます。デモも「飢餓行進」を銘うって行われるようになります。

「飢餓行進」の代表者はフーバーに面会を求めるが拒否されました。「汝ら臣民、飢えて死ね」ということです。世間の情勢はどんどん厳しさを増し、発する言葉も剣呑なものになってくる。

32年に入ると、ついに死者も出るようになってきました。(南部の黒人の間では古くからあたりまえのことであったが)

3月にはデトロイトで職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡しました.

7月には復員軍人2万5千人がデモ行進。引き続いてワシントンでの座り込みに入りました。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」というのが彼らの抗議スローガンでした。

この座り込み行動に対し軍隊が出動し、強制解散させました。この行動は流血の惨事をもたらし、多くの死者を出しています。フーバーの承認なく発砲を命じたのが、ときの参謀総長ダグラス・マッカーサーだったというのは記憶しておいてよいでしょう。

忘れてならないのは、まずもってニューディールが、そうやって追い詰められた民衆の怒りの表現であり、その必然的な方向づけとしてあったという歴史的事実です。

ネオリベの人々は、ことあるごとに「ニューディールが実際のところはなんの役にも立たなかった」とか言って批判しますが、ここまで追い込んだのは当時のネオリベ信奉者たるフーバーと共和党政権であったことを忘れてはなりません。

ニューディールは当時の世相を反映して、政策的には多義的です。なかにはファシスト的色彩を帯びているものさえあります。その一つ一つを切り離して是非を云々しても始まりません。

それが全体として、民衆の怒りを反映し、民衆の願いにそって、民衆ための政治を目指すものであったことが重要なのです。

経済理論というのは、究極的には最大多数の幸福を追求するためにあり、そのための社会実践を補強するためにあります。「市場経済の原理」を守るためにあるのではありません。

これは近代資本主義理論の始祖であるベンサムとジェームズ・ミルの教えでもあります。


5.中継ぎエースとしてのルーズベルト

フーバー政権への嫌悪感は頂点に達しました。もはや一触即発です。

ルーズベルトは、こういう雰囲気の中で体制側の中継ぎエースとして登場しました。

すみませんが、ここで「中継ぎエース」について語らせてもらいます。それまで好調に飛ばしていた先発投手が、勝利投手の権利を目前にして突然、フォアボールを出して崩れ始め、あれよあれよというまに1点差まで追いつめられ、得点圏に走者を残したまま降板、というのが中継ぎ投手の出番です。

中継ぎ投手の役目はまず打者の目先を変えることにあります。先発が力投型なら変化球、軟投型なら豪速球ということになります。

どちらにしてもその目的は目前の危機をしのぐことです。味方は中継ぎ投手に全てを託し、その一球、一球を見守る他ありません。

かと言って、味方は救援投手に全幅の信頼をおいているわけではありません。やはり不動のエースというのはダルとかマー君のような先発投手です。

ルーズベルトの位置づけはまさに体制側の救援投手でした。彼は本質的にはまったく体制側の人であるし、その政策も「ニューディール」というスローガンも含めて曖昧でした。

しかし期待された役割とは別に、彼にははっきりした目標と計画がありました。それは体制側と反体制側の勝ち負けなどとは次元の違うものでした。

彼は市場経済のシステムそのものを変更しようとしたのです。いわゆる修正資本主義ということになります。

その計画は見かけ上はかなりファシストに近いものでした。

ではファシストとFDRはどこが似ていて、どこが違うのか。

似ているのは国家機能を大きく拡大して、政府のイニシアチブにより経済を立て直そうという考えです。

第二には、当座の財政赤字は覚悟の上で政府投資を拡大し、これによる景気回復を図ろうという積極財政策です。

違うのは、経済民主主義と福祉経済の方向に進むのか、大資本の収益確保で生産を軌道に乗せる方向なのか、というところにあります。

アベノミクスで言えば、第三の矢の方向性の問題です。

FDRは経済民主主義という進歩の方向で、資本主義のあり方そのものを変えるところまで見通していました。(おそらく漠然とですが)

これに対してファシストは、せいぜいが農本主義的な後ろ向きのユートピア止まりです。結局大資本本位のシステムを維持することになるから、過剰生産の問題は解決できないし、より深刻にするだけです。

ルーズベルトは政治的民主主義を視座において、それを実現し安定的に運用しうる経済システムの実現を構想しています。

もう一つのファシストとの違いは、リベラリズム(訳しにくいが進歩的自由主義くらいか)です。南部へ行くとほとんど「コミー」(アカ)と同義語です。

英語をやった人ならわかると思いますが、“フリーダム”というのはたんに束縛を受けないという意味の「自由」ではありません。むしろ「権利」と訳したほうがふさわしい場合が多々あります。

かくも生きづらい時代において、原理的権利としての「生きる自由」を尊重することは、そのまま民衆の生存権を尊重することに繋がるのです。

無論、政治家としてのルーズベルトは海千山千のタフな人物です。ただその素性、生い立ち、人脈、政界歴を通じて、民衆を代表する政治家としての構えを形成していたと見るべきでしょう。

ちなみにルーズベルトの祖先はユダヤ系オランダ人の移民です。ルーズベルト一族のセオドア・ルーズベルトはアメリカのキューバ、パナマ侵略の先頭に立った「帝国主義者」ですが、後年には反トラストを奉じ独占資本と対抗した経歴を持っています。(遠縁ではあるが、FDRの妻エレノアの義父役を勤めるなど親しい関係にあった)

彼の訴えたモットーが「スクエア・ディール」でした。訳しにくい言葉ですが、「公正な分前」というか、民衆の取り分を主張したものでした。言葉の上では「ニューディール」にもつながっているように思えます。

basic ideas: conservation of natural resources, control of corporations, and consumer protection.
These three demands are often referred to as the "three C's" of Roosevelt's Square Deal. (Wikipedia)

FDRもハイチ侵略の片棒を担いだ経歴を持っていますが、小児麻痺を患って一度政界を引退したあとは、リベラル派の代表としてニューヨーク知事に復活しています。


6.ニューディールの鮮やかな登場

33年3月4日、ルーズベルトは大統領に就任しました。その1ヶ月前、銀行倒産はついに1万件を超えました。待ったなしの状況です。

彼はそれまでの曖昧な見せかけを突如かなぐり捨てて、次々と革新的な政策を打ち出していきます。

それらはいずれも資本主義の延命を「大義」として打ち出されたものでした。しかしその内容は相当吟味されていて、見せかけの資本主義擁護とは逆に資本主義の改造を目指す施策が忍び込まれていたのです。

就任式の2日後に最初の爆弾発表がありました。議会が招集されるまでの4日間、すべての銀行の営業を停止させたのです。

彼はこれをバンクホリデーと言いました。物は言いようです。もともとアメリカでバンクホリデーというのは祝日のことです。銀行が休みだから、商売も休みになる、ということで祝日が発生したということです。

休業命令ということは、結局預金引き出しの禁止にほかなりません。祝日どころではありません。当然パニックが予想されます。ルーズベルトはいきなり地雷原に突っ込んだのです。

もちろん4日後には銀行を再開しなければならない。実はそのための手立てはうってありました。3月9日の議会開会の冒頭、彼は緊急銀行救済法を提出し、銀行破綻を食い止める姿勢を明確にしました。

この法案は数時間という超スピードで議会を通過し成立しました。

見事な腕前です。

おそらく練りに練った議会運営計画だったのでしょう。提案した法案の多くがこのやり方で議会を通過していきました。

こうして3ヶ月あまりにわたる議会で多くの議案が成立しました。「百日議会」と呼ばれる所以です。成立した法案の集合が「ニューディール政策」です(第一次ニューディールと呼ばれる)。

残念ながら、この辺りの経過を詳しく記した日本語文献はネット上では見つかませんでした。

諸文献から察するに、大多数の資本家はこれを歓迎したようです。モルガンやロックフェラーなどの超巨大資本は、依然としてフーバー式の放任政策、財政均衡政策に固執していたが、ルーズベルトの政策に表立って反対はしませんでした。

政府は彼らのポケットに手を突っ込んだわけではないからです。しかし、後に、労働者が直接彼らのポケットに手を突っ込むようになります。それはニューディールのちょっとした波及効果でした。

先程も述べましたが、ニューディールは本質的には資本主義の延命策であり、資本家階級の擁護策です。それをチープガバメントでやるかビッグ・ガバメントでやるかという違いです。

貧困者を犠牲にすることなく、しかもチープ・ガバメントでやろうとすれば、革命によって「収奪者を収奪する」(マルクス)しかないのですが、それはとりあえずおいておきましょう。

価格を安定させ生産の再活性化に結びつけていくためには、当面生産調整が必要です。それを貧困者に押し付けることなく実施するか、強権的に(すなわち大資本家本位)にやるかの違いです。

後者は生産調整がリストラを呼び、さらに多数の失業者をもたらします。前者をとろうとすれば、必然的に財政出動と国家による調整(国有化もふくめた)、すなわちビッグ・ガバメントが求められることになります。

ここまでは理の当然です。ニューディールは必然だったのです。フリードマンの後知恵的批判は、2つのことを示しているにすぎません。すなわち、ニューディールはやり足りなかったということ、国際協調なしにアメリカの都合だけで行われたということです。


6.NIRA 成立のための前措置

第一次ニューディールの中核は全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act) にあります。

「百日議会」は実に巧みに仕組まれていて、最初は抵抗の少ないもの、即効性が期待できるものから始まり、徐々に政府による生産調整という本丸に近づいていくようになっています。

その辺りを簡単にレビューしておきましょう。

まずは緊急銀行救済法ですが、これは見事に奏功しました。3月末には銀行の4分の3が営業を再開し、10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始めました。

ただケチを付けるわけではないが、株価は前年8月には底を打っており(最高時のわずか1割強ではあるが)、放っておいてもいずれ残った銀行は復興する傾向にはありました。

3月10日には「経済法」が成立しました。これは連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額するというものです。なんでそれが「経済法」なのだ。

ニューディールの精神とは合わないが、ニューディールというものが、そもそもゴッタ煮だということを示しています。(ただ上級公務員の退職金や恩給は、とくに途上国においては法外です。私が大統領でもやります)

4月には「金没収法」が成立しました。これも法の実体と似合わない名称で、中身としては金とドルとの交換を停止するというものです。これで実質的には金本位制が破棄されたことになります。

5月には農業調整法が成立しました。これは農家の保護が趣旨ですが、そのために政府の主導で生産調整を行うというもので、反トラスト法に抵触する可能性はあります。

「農家を保護して何が悪い」という開き直りで、ある意味でNIRAを通すための予行演習ともなっています。

農業調整法についてはちょっと語りたいのですが、本題から外れるので、とりあえず次に進みます。

6月には銀行法(グラス・スティーガル法)が制定されました。主たる内容は連邦預金保険公社(FDIC)の設立にありますが、いくつかの爆薬がひそめられていました。銀行業務と証券業務の分離投機の規制条項や持株会社による銀行所有の禁止条項です。(詳しくは関連記事をご参照ください)

ネオリベにとっては長年目の敵となった法律で、90年代に破棄されています。その結果がリーマン・ブラザーズの悲劇となったことは、記憶に新しいところです。

こうして資本家や農園主へのサービスを積み重ねながら、少しづつ政府介入の領域を拡大させ、議員の抵抗が減ったところでNIRAが提出されることになります。


7.NIRAの成立

全国産業復興法(NIRA・National Industrial Recovery Act)は、この法律の説明だけでも一つの記事になるくらい、様々な評価がなされる法律です。ここでは簡単な説明にとどめます。

「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」と言われますが、実際には短命で37年には「違憲」との判決を受け失効してしまいます。その代わりに新たに制定されたのがワグナー法ですが、この話は後で。

①この法律の表向きの趣旨は、過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることです。いわば官製トラストであり、ニューカマーの排除をもたらす可能性があります。連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもあります。

②具体的な方法としては「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことです。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保されることになります。

③ここまでは資本家にとって“美味しい”ものです。そもそもこの法律は元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされています。

④法律の謳い文句は、「企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させる」ことです。そうすれば社会の安定化、ひいてはストライキや大衆闘争の抑制を図ることもできます。

⑤官製トラスト(談合)は資本家の狙いです。そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はありません。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえるでしょう。

⑥政権はこれだけの“撒き餌”をしたうえで、「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権という毒針を忍び込ませました。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなりました。

8 ニューディール連合の形成

ここまでルーズベルトは実にうまくやったといえます。議会操縦術といい、その手腕はなみなみならぬものがあったといえるでしょう。

激しい階級対立の中で旗幟を明確にせず、本心を出さないクレバーな政治手法をとっていたとも言えます。

しかしそういう手法でやれるのはここまでです。あとは反改革派との力勝負になります。そうなるとルーズベルトは誰に依拠するのか問われることになります。

その答えがニューディール連合でした。ニューディールを政策的に担ったのはリベラル経済学者で、「ニュー・リベラリスト」と呼ばれます。ケインズだけではなくイギリスの福祉経済学、アメリカのヴェブレンの流れをくむ広範な人脈です。

(ヴェブレン自身は福祉国家論の立場ですが、改良運動に積極的ではありませんでした。ニューディールに主として関わったのはJ.R.コモンズ、A.H.ハンセンら制度学派左派と言われています)

これに比べると、政界にはさほど有力な足がかりはありませんでした。大衆運動がそれを補いました。悪く言えばポピュリスト政権です。

中でも最大の柱が勃興しつつあった産業別の労働運動です。

それまでの労働運動は職人組合的(ギルド)な色合いを強く残していましたが、 労働界に膨大な未熟練労働者、非正規労働者が流れ込んでくると、彼らの要求を受け止めきれなくなりました。

未熟練労働者が主流を形成するようになると、もはやその職種を問うことはなくなります。彼らは熟練労働者の運動(AFL)とは切り離され、単純労働者として産業別組合(CIO)に組織されるようになります。

そこでNIRAで承認された労働者の団結権が生きてきます。労働者には団結する権利があり、団結して闘う権利があります。

技能を持たない単純労働者にとっては、労働組合に入りそこで闘うことこそが、職を確保し生活を守る唯一の合法的な手段となります。

33年末までの半年間でストライキは3倍化しました。組合数も飛躍的に増加しました。しかしこれは口開けに過ぎませんでした。

34年に入ると労働運動が爆発します。7月には西海岸で船員・港湾労働者13万人が立ち上がりました。サンフランシスコでは全市が4日間のゼネストに立ち上がります。

9月には繊維労働者の全国ストが打たれました。敗れはしたものの南部東海岸を中心に50万人が参加する大闘争となりました。

ミネアポリスでは「チームスター」と呼ばれるトラック運転手の組合がストライキに入りました。彼らは州知事の戒厳令まで発しての弾圧を打ち破り、勝利しました。

自作農は農業調整法によって窮地を救われました。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなった。その後、農家はルーズベルトの堅い支持基盤となっていきます。

黒人運動もニューディール連合の力強い担い手となりました。黒人はもともとリンカーン以来の伝統を引き継いで共和党支持であったが、ルーズベルトの政策に共鳴して民主党支持に回ります。

階層別の組織も大いに発展しました。とりわけルーズベルト夫人エレノアの指導する婦人組織、平和組織は「ファシズムとの闘い」を呼号し、ニューディール運動のリベラルな性格を一層強めました。


9 保守派の台頭と第二次ニューディール

強大化する政府機能と労働者よりの姿勢に対して、巨大独占資本は危機感を抱くようになりました。

これらの動きは34年の議会中間選挙を前にして一本化します。

モルガン,デュポンらウォール街の巨頭は「アメリカ自由連盟」を結成し、FDRとニューディール政策への反対を明確にした。この連盟にはUSスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本が網羅されました。さらに、ハーストなど主要メディアもこれに追随しました。

これによりアメリカの政治地図はニューディールをめぐって反対派と賛成派に二分されることになりました。

しかしルーズベルト派は貧困者救済の実績に物を言わせ、中間選挙で共和党・自由連盟・大手メディアの連合勢力を一蹴しました。この時点ではニューディール反対派もまだ手探りの状態だったのです。

35年になると、今度は司法が反改革に乗り出しました。連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決を下したのです。

自由競争を阻害する国家による生産調整というのは、確かにニューディール派の弱点の一つではありました。しかしそれはニューディール派と反改革派の真の分岐点ではありません。

真の争点は大企業の身勝手と横暴を許すのか、勤労市民・中間層の生活擁護を優先するのかという点にありました。というより、論戦を通じて真の争点が明らかになってきたというべきでしょう。

ルーズベルトは対抗手段をすでに考えていました。すでにNIRAの性格は著しく変わってきています。いまや産業保護の意味は後景に退きました。それに代わってNIRAは労働運動の最大の根拠法となっていました。

であれば、ということで、NIRAの無効化を受け入れる代わりに、より労働者保護の色彩の強い新たな法律が提起されることになりました。それが7月に成立した「全国労働関係法」(ワグナー法)です。

ワグナー法では新たに不当労働行為の排除が盛り込まれました。これはすごい法律で、いまの日本の労働基準法より遥かに上をいくものです。(ウィキペディアの記載はむちゃくちゃで、ナチの賛美に終わっています。ワグナー法と労働基準法の関連についてはいずれ勉強しなければならないでしょう)

この法律に基づいて会社側のでっち上げた御用組合は違法化され、解散させられました。会社側のスパイ行為やブラックリストの作成も違法とされ、不当に解雇された組合指導者の職場復帰が進みました。

このとき議会を通過したのはワグナー法だけではありません。中でも目玉とされたのが、依然として数百万に及んでいた失業者対策事業です。そのために公共事業促進局(WPA)が設立されました

大独占グループが嫌うもう一つの法案、すなわち社会保障法です。これにより内容はともかくとして老齢年金、失業保険などがスタートすることになりました。

証券取引をめぐる不正を取り締まる「証券取引委員会」(SEC)が設置されたのもこの頃のことです。初代委員長にはJFケネディの父が就任しました。こいつが稀代の悪党で、少し語りたいのですが、いまは遠慮しておきます。(それでなくても余談が多すぎる)

これらの方針を含めて、ルーズベルトは「第二次ニューディール」と称し、議会運営を「第2の百日間」と位置づけました。

ルーズベルトはこうして、NIRAの失効を機にニューディールをさらに民衆側に立って展開するようになったのです。

それと同時に、今後ルーズベルトの前に立ちはだかるであろう司法権力と真っ向から闘う姿勢を示しました。

FDRは語ります。「米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない」

これを「司法への恫喝」と考えてはなりません。両者の力関係を考えれば、当時のルーズベルト大統領に「睨み殺す」ほどの力はありません。それどころか、司法の方は明確な権力を持っていました。「違憲」の名で法案を潰し、最終的には政権を潰すだけの権力を持っています。

だからこれは鍔迫り合いの「権力闘争」と呼ぶべきものです。

だからといって、あまり居丈高にやるのもお勧めはできませんが。


10 「王党派」との対決

36年の大統領選挙では両者の対決は一層明確となりました。ルーズベルトが選挙にあたって掲げたのは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンでした。ここで彼は独占資本との対決の意思を明確にしました。

ルーズベルトは、これまでの曖昧な見せかけを捨て、ある意味で自らの退路を断ったということになります。そして労働者、勤労市民、失業者、農民、黒人の味方として、ウォール街の王党派の敵としてみずからを位置づけることになったのです。

大統領選挙は、マスコミの8割が共和党ランドン候補を支持するという厳しい状況での闘いとなりました。しかしフタを開けてみるとルーズベルトは歴代最多得票率で再選を果たす結果となりました。

(最近5回の選挙で勝者を正確に予測した「リテラリー・ダイジェスト」誌は、ランドンが勝利すると宣言した。…読者は共和党支持者が多かった ウィキペディア)

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    青色がルーズベルト、赤色がランドン (ウィキペディアより)

開始後4年を経たこの時点で、ニューディールは完全に国民(大金持ちを除く)の間に定着したといえるでしょう。


11 ルーズベルトも人の子

見事再選を勝ち取ったルーズベルトですが、36年度の決算を見てビビります。米国の債務残高がGDP比40%に達っしたのです。

今時、GDP比40%なんてちょろいものだが、なにせ今まで誰もやったことのないことをやって、ここまで債務を膨らませると、周りがうるさい。とくに連銀筋が大声でわめき始めます(日本は15年度で248%)

世論調査では国民の3分の2が、これ以上放漫財政を続けることに反対と答えるようになります。

そこでつい、負けてしまったのです。政府は財政支出の削減に動き、FRBは預金準備率を上げる、それもなんと2倍です。ここから「ルーズベルト不況」が始まります。

実質GDPは11%も下がりました。失業率は4%上昇しました。失業者数は1千万を越えたままで推移するようになります。静かにルーズベルトへの失望が広がっていきます。

バーナンキが当時いたらなんというでしょうか。怒りのあまり発狂してしまうのではないでしょうか。

パブル後不況の底入れは、本当の底入れではありません。公共投資によってマインドが持ち直したとしても、隠れ不良資産は山のようにあります。日本の97年不況の最大の教訓です。(アベノミクスもそうなる可能性が大いにあります)

共和党はこう言って攻撃した。「ルーズベルトは労働者のストライキを煽っている。このために生産性が低下して不況を招いた。このままではアメリカが潰れてしまう」

最初にも書いたようにニューディールは間違っていたのでもなく、効果がなかったわけでもない。投下資金量が少なすぎ、期間が短すぎたのです。

しかしニューディールというのは、とにかく世界で初めての、当時としては破天荒な政策です。まずは前向きに評価すべきではないでしょうか。

38年に入って、ルーズベルトは弱気の虫を振り払いました。「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張するようになりました。

そしてふたたび拡大財政に転じます。

しかしその効果を見る期間は与えられていませんでした。ファシズムの脅威が眼前に現れてきたからです。


12 ニューディールから戦時経済へ

39年の年頭、ルーズベルトは演説の中で中立法の廃止,軍備の拡大,全体主義国家への反対,ニューディール政策の「緩和」を打出しました.

「緩和」といえば聞こえはいいが、要するに民生費を削って軍事費につぎ込むということです。

しかしニューディール政策のもう一つの側面、政府の大規模な財政出動と政府による経済統制の強化という意味では、ルーズベルトの意思は(不幸な形で)引き継がれたとも言えます。

9月にドイツ軍とソ連軍のポーランド侵攻によって第二次世界大戦の火蓋が切って落とされました。

この時点でルーズベルトは腹を固めました。「すべてを反ファシズムのために!」です。(国内は固まっていなかった。これまで反ファシズムを強固に主張してきた左翼は、奇妙なことに中立を主張した)

しかし、パリが陥落し、ロンドンが連日空襲にさらされるようになると、アメリカが「民主主義の兵器廠」となることに表向き反対を唱える人はいなくなります。

戦争準備の中で、ルーズベルトは慣例を破って三期目の大統領に選出されました。

41年初頭の第3期目の大統領就任にあたっての「4つの自由」演説はきわめて格調高いものです。

言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という4つの自由(権利)を挙げ、これを守ることが民主主義を守ることだとして反ファシズムの立場を明確にしました。

この立場が、日本国憲法の基調をなしていると言ってもよいと思います。我々が学ばなければならない必読文献だと思います。(いずれ紹介します)

結局、ある意味でニューディールの真価が試されるはずだった2期目の任期は、前半は政策の失敗とそのあと始末で終わり、後半はニューディールは事実上放棄され、戦時経済へと移行していってしまいました。

しかしニューディールの中で形成されたルーズベルト連合は、第二次世界大戦を通じて生き続け、戦後のアメリカの骨格となっていきました。

それを壊したのがネオリベであり、その壊れる現場を我々は目の当たりにしてきたのです。


ということで、一応お話は終わり。ここまで読み通してくださった方に感謝します。

5月4日 一応書き換えを終わりました。まだまだ書き足りないところがたくさんありますが、それは「ニューディール運動史 外伝」の形で別途加えていきたいと思います。


恐慌の歴史を勉強していて分かったのだが、恐慌の引き金になるのが農産物価格の下落だ。
最初の恐慌はクリミア戦争の終了後に起きたそうだ。それまで兵隊に送るためにせっせと食糧を増産していて、価格も高値で推移していたが、この需要がいきなりなくなった。
このために農産物価格が暴落して、農村の購買力が低下した。
これが内需の減少につながったということだ。まあ、そればかりではないだろうが…
1929年の世界恐慌へと繋がる株価の大暴落も、農業の生産過剰がひとつの原因だという。
TPPの場合生産が過剰になるわけではないが、外国農産物が入る分、市場価格は間違いなく低下するだろう。
農村が崩壊すれば、内需は一気に縮小する。農業王国北海道の住民は仕事をもとめ、生まれた土地を離れ、流氓の旅に出ることになるだろう。
それを上回って工業製品の生産・輸出が増加すれば、日本全体としての計算上はトントンだが、いまの大企業にそれは期待できない。国外生産を増やすだけだろう。
どうやっても計算が合わないような気がする。

それが恐慌に結びつかなければよいのだが…

1929年

9.03 ダウ平均株価、5年間で5倍に高騰し381ドルの高値に達する。

10.24 「暗黒の木曜日」 ウォール・ストリートで株価の大暴落(Great Crash)が始まる。モルガン銀行、チェイス国定銀行、国定ニューヨーク・シティバンク社が協調して買い支えに動く。

10.28 「暗黒の月曜日」 ダウ工業株平均は13%下落し株価は崩壊する。

10.29 「悲劇の火曜日」(Tragedy Tuesday) 約1,600万株が取引され価総額140億ドルが消し飛ぶ。株価は9月の約半分に暴落。1週間の損失は300億ドル(米国の年間予算の10倍)に達する。 投資家の資金回収により金融機関や企業が倒産し、その数は4500社に及ぶ。

大恐慌をめぐる数字は、資料によって異なっています。問題は何時までを大恐慌ととるかであり、株価暴落の直接的影響なの か、その後の欧州諸国の動揺、それに対する米国の対応によりもたらされたものまで含めるか、すなわち33年3月のルーズベルトの大統領就任直前までの3年 4ヶ月を含めるかで、相当中身は変わってきます。

1930年

3.06 共産党と労働組合統一同盟(TUUL)の指導で労働者・失業者の全国統一行動.125万人が参加し空前のもりあがり.

5 ケインズ、「The Industrial Crisis 」を発表。

大恐慌を 1.一次産品の国際価格の急速かつ大幅な下落,2.不動産や株式などの実物資産の価格暴落、3.資本主義経済の支柱である金融銀行信用システムの機能不全 という複合的危機と指摘。その原因を「世界的な投資不足により資本財の生産が減少したこと」と分析。各国が一致して公共投資を行い、長期債券市場の信頼を 回復させることを訴える。

あらゆる点で最も効果的な救済策は, 三大債権国の中央銀行が国際的な長期債券市場への信頼を回復させるために,一致して大胆な計画に参加することであろう。これは世界各国における起業や事業活動を復活させ,物価と利潤を回復させるのに役立つであろう

6月 スムート・ホーリー関税法(Smoot-Hawley Tariff Act)が成立。国内産業の保護のため高関税政策をとる。他の国も報復関税で対抗した結果、アメリカの輸出入は半分以下に落ち込む。

フーバー大統領は均衡財政主義にしばられ、結果的に増税や金融引き締めに動いた。この結果、銀行経営が危機に陥り市中への資金供給が枯渇した。

7 TUULのよびかけでシカゴで全国失業者協議会結成.「仕事か賃金を」のスローガンをかかげ大躍進.

30年 エンパイア・ステートビルが完成。映画「キング・コング」の封切りは32年。

1931年

5月 ケインズがアメリカを訪問し講演。三つの不況対策を挙げる。

①資金の貸手と借手の双方の確信の回復を図ること、②政府の直接的な支援により投資を促進すること、③長期利子率の引下げと買いオペを実施すること。

景気の回復とともに物価も必然的に正常水準に戻ってくる。それが貯蓄と投資の均衡の実現である。下落した物価水準のもとで均衡を回復しようとするデフレ容認派は間違っている。

5.11 オーストリア最大の銀行クレディット・アンシュタルトの破綻。ドイツオーストリアでは、アメリカ資本による復興を目指していたため、大不況によって資本が引き上げられると、資金不足により企業や銀行が次々に倒産

6月 米国の銀行危機が農村部の中小銀行から都市部に拡大。シカゴ、ロサンゼルス、ニューヨークで銀行閉鎖が相次ぐ。銀行貸付が停止状態となり, 銀行組織による民間経済への融資機能が麻痺。

6月 深刻なヨーロッパの状況を認識したアメリカは、フーヴァー=モラトリアムを行う。ドイツ経済を立て直すため、一年間戦債や賠償の支払いを猶予.議会の承認は12月にずれ込む。

7.13 ドイツのダナート銀行が閉鎖。大統領令ですべての銀行が閉鎖される。

米国には金が流入していたが、FRBは国内のマネーサプライを増やそうとしなかった。このためマネーサプライが減少し続けた。ヨーロッパ諸国は金の流出を抑えるために金利を引き上げ、これが不況に拍車をかけた。

7月 南部の綿作小作農(シェアクロッパー)が農園からの追いだしに抗議して激しい闘争を組織。黒人指導者ラルフ・グレイが虐殺される。

7 失業者,ワシントンで飢餓行進. フーヴァー大統領は代表者との会見を拒否する.このとき失業者が800万人を超す.

9.11 英国は金本位制を離脱して変動相場制に移行,チープマネー政策を採用。同時に英連邦を高関税で囲い込む。ポンドの対ドル為替レートは3か月で3割低下する。

英国のドイツへの短期貸付が焦げ付いたため、ポンドへの信認が大きく低下。フランスなどへの短期資金(とくに金)の流出が加速する。

9 通貨激変に直面した各国は金買いに走り、これに対抗するため連邦準備銀行は公定歩合を大幅引き上げ。

10 不況下の金利引き上げにより銀行恐慌が発生し,全国に拡大.この年だけで2千以上の銀行が倒産.

10.11 シカゴ連邦裁判所,アル・カポネに対し,所得税脱税で懲役11年,罰金5万ドルの判決.

1932年

3.07 ミシガン州のフォード自動車工場で,職を求めるデモ隊3000人に対して警官が発砲し,4人が死亡.

5.29 復員兵による「恩給行進」が始まる。「17年(第一次大戦)には英雄、32年には浮浪者」と抗議する。

6月 ドイツの賠償金支払猶予をめぐるローザンヌ会議。賠償金減額で合意するが、米議会の同意を得られないまま流産。交渉に失望したドイツではヴェルサイユ体制の打破を訴えるナチスが躍進。

7.02 ニューヨーク州の改革派知事として実績を上げたルーズベルトが、民主党の大統領候補に指名される。「三つのR - 救済、回復および改革」と「ニューディール」(新規まき直し)を掲げる。

7.08 ダウ工業株平均が底値をつける。最高値の1割まで下落する。その後22年間、大暴落前の株価に回復せず。

7月 退役軍人のボーナス行進がワシトンに到着.2万5千人が籠城作戦を展開。D.マッカーサーの指揮する軍がこれを実力排除。籠城参加者に2人の死者を出す(ワシントンの戦闘)。

11.08 大統領選。再選を狙うフーバーを打ち破り、フランクリン・ルーズベルトが圧勝.フーバーと共和党への嫌悪感が主要な勝因であった。

FDRの公約そのものは財政健全化、均衡予算、健全通貨など一般的な公約に停まる。一方で、「忘れられた人々」について言及し、漠然と「ニューディール」を提唱した。

11月 共産党は全国で10万票余りを獲得。移民者を中心に党員数も1万8千に達する。学生運動や労働運動を中心に影響力を拡大。リチャード・ホフスタッターやダニエル・ベルらユダヤ系学生が共産青年同盟に結集。

12月 全国農民救済協議会が設立される。恐慌発生以来、農民の所得は半減し、全国で100万の農民が借金の返済不能となり担保権強制執行を強いられる。

32年 南部の経済は崩壊。シェアクロッパー(黒人小作農)が自動車工場への就職を期待して北部に向かう。

以下に大恐慌の影響を著す数字を列挙する。文献により数字の異同はある。

①基幹産業の生産は半分以下、農産物価格も半分以下に落ち込む。6千近い銀行が破産。平均賃金は50%低下、失業者は1700万人、非正規労働者が数百万人に達する。
②GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した

1933年

1.05 憲法修正第22条が成立。アルコールの製造と販売を禁止した修正第18条を撤回する。

1 ナチス,政権をとる.直後に国会焼き討ち事件をでっち上げ、共産党を弾圧。

2.14 ミシガン州で全銀行が営業停止.銀行恐慌が激しさを増す。

2.15 マイアミで,大統領就任式直前のルーズベルトが狙撃される(無事).同席していたシカゴ市長アントン・サーマックは死亡.

3.04 ルーズベルト,第32代大統領に就任.デモやストが先鋭化、国内は激動、資本家・政治家はパニックに陥る。

3.06 ルーズベルト、連邦議会特別会期が招集されるまでの4日間はアメリカの全ての銀行を閉鎖すると発表。

この措置は恐慌を起こすことなく実施された。なぜなら①多くの州は既に銀行を閉鎖させていた。これまでに閉鎖された銀行は1万行近くに及ぶ。②「バンク・ホリデー」と表現することで衝撃が緩和された。③連邦政府が銀行破綻を食い止める姿勢を示したからである。

3.09 「百日議会」が開始。ルーズベルト大統領は議会に緊急銀行救済法を提案。大銀行の連鎖破産を防止することを目的とする。数時間の審議で可決成立する。

政府が一定額までの預金の払い戻し(ペイオフ)を保証すると同時に、①財務省が全ての銀行を監査、②不安定な大銀行を連邦政府が支援、③危機の銀行を再編の柱からなる。

3.09 FDRは緊急銀行救済法に引き続き、膨大な数の法案を提出。ニューディール政策がスタート.

ニューディールは、全体として二つの大目的を持っていた。ひとつは迫りくる革命の危機を切り抜けること、もう一つはそのために連邦政府に権限を集中させることである。
後者の手法が新しいものであり、修正資本主義政策とも言われる。伝統的な自由・放任ではなく、ケインズ学説に依拠して政府が介入・統制し、資本主義システムを正そうとした。

政策は8つの柱に整理される。①銀行制度の再建、②企業の救済、③民間資本の投資促進、④レフレによる物価回復、⑤農業の過剰生産を抑制、⑥抵当権執行の抑制、⑦公共事業による雇用の確保、⑧失業者の救済(ただし最低限)

3.10 ルーズベルトは10億ドルの赤字に直面しているとして、議会に経済法を提案。連邦政府公務員の給与をカットし、退役兵恩給を最大15%減額する。これにより連邦予算の均衡を図る。財界向けのアピールと言われる。

3月末 銀行の4分の3が営業再開。10億ドルの通貨がふたたび市場に流通し始める。

4.19 金没収法が制定される。金本位制を破棄し、金とドルとの交換を停止する.

5月 農業調整法(AAA=Agricultural Adiustment Act)が成立。農務長官ヘンリー・A・ウォレスの願望を反映したものとされる。

農業生産の調整を図るために、農地の作付面積を制限したり、過剰農作物を政府が買い取る計画。助成金と生産量統制によって農業従事者の所得の安定化が図られ、購買力が回復した。農家の総収入はニューディールの3年間で5割増しとなる。

5月 証券取引委員会(SEC)が創設される。株式市場を監視し、預金保険制度を含む銀行制度の改革に乗り出す。

初代SEC委員長はJFKの父ジョセフ・P・ケネディ。FDRは稀代の悪玉を登用した理由を「オオカミを捕らえるためにオオカミを使う。彼なら取引のからくりを何でも知っている」と述べた。

5月 民間資源保存局 (CCC)、公共事業監督局 (CWA)、連邦緊急救済局 (FERA)が創設される。失業者を救済する一連の手段として機能する。テネシー川流域開発公社 (TVA)もこの施策の一部。

6月 銀行法(Banking Act of 1933)が成立。第2グラス・スティーガル法と呼ばれる。①銀行と証券(投資銀行)の分離。②連邦預金保険公社の設立、を柱とする。また頭金無しで株式を購入することが禁止される。

6.13 ニューディールの中核となる全国産業復興法(NIRA=National Industrial Recovery Act) が議会を通過する。初めて労働者の団結権が法的に承認されたことから、「アメリカ史上最も重要な法律の一つ」とされる。

法案成立の経過(かなり長い):
1.表向きの趣旨は過当競争を避けるために連邦政府が関連団体に協定を結ばせることである。いわばニューカマーの排除をもたらす官製トラストであり、連邦大陪審の判断のごとく、違憲の疑いもある。
2.法律の目的は「工業と農業に“公正な競争”を作り出すために、種々の産業で価格・労働規約を取り決める」ことにある。結果として過剰生産に陥っていた各企業の利潤が確保される。
3.元は資本家たちの提起したものであり、ムソリーニの「組合国家」を下敷きにしたものとされる。
4.もう一つの狙いは、企業の安定により労働者の賃金の適正化と生活安定を果たし、国民の購買力を回復させることである。さらにそれを通じて社会の安定、ストライキや大衆闘争の抑制を図ることである。
5.官製トラストは資本家の狙いであり、そのためのお題目として「労働者の生活安定」をうたうことには異存はなかった。これをルーズベルト政権は(結果的に)巧妙に利用したといえる。
6.政権は「労働者の生活安定」のための手段として、労働者の団結権、団体交渉権を持ち込んだ。それはどさくさ紛れに法律の柱の一つとなった。

6月 全国復興局(NRA)が創設される。その統制のもとに団結権(組合結成権)と団交権が承認される。その後実際の運動は「妥協点」を大幅に乗り越えていく。

10.13 AFLが,ナチスの労働運動弾圧に抗議してドイツ製品のボイコット運動を開始.

10.17 アインシュタイン(ユダヤ系)がナチスの迫害でアメリカに移住.

11.17 アメリカがソ連を承認.

12.05 禁酒法を廃止する。

12月 NIRA成立後、組合数は飛躍的に増加。これに伴い労働争議参加者も90万人に達する(前年比3倍)。

33年 グレートプレーンで3年にわたる大旱魃(30年に始まる。41年まで旱魃は続いた)。大恐慌とも重なり、多くの農夫が土地を手離し、さらに西海岸へと「大脱出」(エクソダス)を行う。

1934

1.24 ルーズベルト大統領が,ラテン・アメリカへの善隣外交声明.ラテンアメリカへの武力干渉を停止するとともに,プラット修正条項の廃棄,パナマ,ドミニカへの干渉権の放棄,ハイチからの撤退,メキシコ駐兵権の放棄を決定.

1.31 米政府,平価切り下げの方針を発表.

7 サンフランシスコで船員・港湾労働者13万人が立ち上がる。サンフランシスコ全市を4日間のゼネストに追い込む。闘いを通じて共産党の影響力が拡大。

8.15 ニューディール政策に反対するモルガン,デュポンらウォール街の巨頭がアメリカ自由連盟を結成.USスティール、GM、ATTなどアメリカの巨大資本を網羅。ルーズベルトのニューディールを激しく攻撃。

8月 ルーズベルトの肝煎でアメリカ青年会議が結成される。左翼組織からYMCA、ユダヤ人青年同盟まで幅広い組織が結集。当初ヒトラー・ユーゲントの手法が持ち込まれようとしたが、これらの傾向は排除される。

9 TUUL,AFLとの組織合体の方針を提起.40万人の組合員がAFLへ一斉加入.AFLは職能別組合に加入できない労働者を,産業別に組織する方針を打出す.

9月 AFLの指導する全国繊維ストライキ。11州の労働者50万人が参加するが敗北に終わる。

10.01 シカゴで反戦,反ファシズムの全米大会.

10 サウスカロライナを中心とした南部海岸部で,11州32万人の参加する織物工場労働者のゼネスト.死者13人を出して終結.

11.06 議会の中間選挙。メディア・自由連盟の反ルーズベルトキャンペーンの中、民主党が共和党に圧勝。

11.23 ナチスの排外的・好戦的政策に警戒が強まる。ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンに2万人が集まって大反戦集会.

34年 この年、ストライキ参加者は150万人に達し史上最大規模となる。

34年 ミネアポリス・チームスター(トラック運転手の組合)のストライキが勝利する。一時は州知事が戒厳令を宣言するが、最終的には労働者の権利を認める法律が成立。

34年 この年、歳出予算はGDP比10%を超えた。これはフーバー政権時の3倍にあたる。

1935年

1.04 ルーズベルト大統領が年頭教書で第2次ニューディールを提起.

1月 連邦大陪審が、全国産業復興法・農業調整法などに対し「公正競争を阻害しカルテルを容認している」として違憲の判決。

2.07 ルーズベルトは「コート・パッキング」計画を発表。保守派の牛耳る連邦大陪審に対抗して、判事構成の変更に着手する。

ルーズベルト発言: 米国の司法制度は幾多の病弊を暴露して居る。もし大々的な司法改革が行われないならば、司法部の権限から憲法までの根本的改正を考慮しなければならない。

3.19 ニューヨークで,万引きで捕まった黒人に警官が乱暴したことから人種暴動が勃発し,3人が死亡.

4月 第2次ニューディールの目玉として公共事業促進局(WPA)が設立される。これにより失業者対策事業が前進する。

5月 「第二の百日間」議会がスタート。全国労働関係法(ワグナー法)が提出される。違憲とされた全国産業復興法より、さらに明確に団結権が保障される。

7.05 全国産業復興法に替わるものとしてワグナー法が成立.労働者の権利保護がさらに強化される。

8月 社会保障法を制定。老齢年金、失業保険などが設けられる。

7 コミンテルン第7回大会,人民戦線路線を決定.以後共産党は急速に社会ファシズム路線を修正.

8.31 米議会,中立法を採択.

9.08 ヒューイ・ロング上院議員,ルイジアナ州バートン・ルージュの州議事堂で射殺される

ヒューイ・ロングは民主党の急進派であった。28年から4年間ルイジアナ州知事、その後上院議員となる。1932年の大統領選挙ではFDRを支持。その後「富の分配」を提唱し、FDRと決裂。来るべき大統領選ではルーズベルトの最大の対抗馬といわれた。

11.9 ジョン・ルイスら,アメリカ労働総同盟(AFL)内に産別労働組合会議(CIO)を結成.熟練工中心の従来型AFLに対し、未熟練労働者、黒人労働者などを組織。

産業別委員会はAFL左派を形成。組織員数は100万人に達する。末端には共産党の影響を受けた活動家が結集,CIOの5分の1が共産党の影響下にはいる.

1936年

2月 全米黒人会議(National Nigro Conference)が設立される。585組織120万人を結集。黒人諸組織はリンカーン以来の共和党支持を断ち、民主党支持に回る。

8.07 スペイン人民戦争開始.米政府はスペイン内戦に干渉しないとの声明.

8 大企業と結託したAFL指導部,CIO幹部ジョン・ルイスらを除名.

10.30 海運労働者4万人が西海岸の全ての港湾でゼネスト.カリフォルニア各地で,メキシコ人を主体とする農業労働者のストあいつぐ.

11.03 大統領選挙。ルーズベルトは「ウォール街の経済的王党派を打破する」とのスローガンを掲げ、歴代最多得票率で再選を果たす。マスコミの8割は共和党を支持。

12.01 ルーズベルト,ブエノスアイレス米州特別会議で,西半球の共同防衛を提案.反ファシズムに一歩踏み込む。

36年 米国の債務残高はGDP比40%に達する。これにビビったルーズベルトは、財政支出の削減に動く。FRBはインフレを警戒し、預金準備率を2倍に引き上げ、金融引き締めを図る。

1937年

1.06 アメリカがスペインへの武器の輸出を禁止.劣勢であった共和派軍に大きな打撃となる。

1月 スペイン人民戦争に参加するため、アメリカ人義勇兵3千名が組織される。リンカーン大隊、その後ワシントン大隊が編成される。その半数が戦死した。

1 ゼネラル・モータースで5万人の労働者がスト入り.バリケードを作り工場に立てこもる。44日間の工場占拠闘争のすえ勝利.産別労働運動は一気に拡大.引き続きクライスラーの工場占拠ストも勝利。

3.01 USスチールが団体交渉権と週40時間労働を認める労働協約を締結。

4.22 ニューヨークの第4回平和デモに過去最高の人数の市民が参加.

5月 もう一つの自動車メーカー、フォードのリバールージュ工場でも籠城スト。会社の組織した暴力団が自動車労働者組合のオーガナイザー数人を叩き出す。(41年には山猫ストで勝利し、組合を承認させる)

7月 第二次上海事変。日中戦争が始まる。

10月 FDRが、隔離演説(Quarantine Speech)を行う。

世界に無秩序という疫病が広がっている。警告もなく、正当な理由もなく婦女子をふくむ一般市民が殺戮されている。疫病の流行から共同体を守るために、平和を愛好する諸国民の共同行動が必要だ。それによって病人を隔離するべきだ。

12月 再び不況が襲う。「ルーズベルト不況」と呼ばれる。予算均衡の立場から財政支出を大幅削減。この結果、軍備拡大策をとるまで1年余りにわたり続く。
 

ルーズベルト不況: 連邦予算を均衡させようとしたルーズベルトの拙速策の結果とされる。実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇。失業者数は1千万を越えたままで推移。保守派は大規模ストライキによる労働組合の攻撃によって生じたと攻撃。

37年 南部黒人青年会議(SNYC),リッチモンドで結成大会.自由と平等,正義と人権をかかげ活動を開始.

1938年

4月 ルーズベルト、「国民の購買力を上げること」で「経済を上向かせること」が政府の責任であると主張。ふたたび拡大財政に転じる。

5.26 下院,非米活動調査委員会(ダイス委員会)を設置.親ファシストに対する統制を名目としたニューディール派への攻撃を開始する。これまでに共産党員は7万人に増加.

10月 連邦議会の中間選挙。共和党の勝利に終わる。民主党内保守派とつるんで、ニューディール政策の骨抜きにかかる。

10月 国務省声明。国際連盟の決議に沿って、中華民国における日本の行為をパリ不戦条約違反だと名指し批判。

11.18 産業別組合会議(CIO)がアメリカ労働同盟から独立.ニューディールと集団保障政策を支持すると宣言。

38年 

1939年

1.04 ルーズベルト大統領が中立法を廃止し,軍備拡大,反全体主義国家,ニューディール政策緩和を打出す.

4.01 スペイン内戦、フランコ派の勝利に終わる。米政府,フランコ政権を承認.

4.15 ルーズベルト大統領がヒトラーとムッソリーニに親書を送って戦争拡大防止を要請する.しかし提案は拒否される.

4.30 米国でテレビの普及が本格化。ニューヨークで開かれた万国博覧会の開会式がテレビで実況中継される。

8.02 アインシュタイン,ルーズベルト大統領に,ナチス・ドイツに先駆けて原爆を開発するよう進言する書簡.

8 スターリン,ヒトラーと不可侵条約を締結.共産党に対する不信広がる.ユダヤ系を中心に1万人以上の活動家が党を去る.

9.01 ドイツ軍,ポーランド侵攻開始.第二次世界大戦勃発.スターリンの指示を受けた共産党は、第二次大戦を「世界制覇を目指す帝国主義国家間の戦争」と規定,米国の中立を訴える.

1940年

4.22 ナチス・ドイツ軍が西部戦線を開く。英・仏連合軍がトロンヘイム北方でドイツ軍と交戦.

5.16 ルーズベルト大統領,ナチスに対抗するため年間5万機の飛行機生産と9億ドルの非常支出を求める.

6.14 ナチス,パリを占領.

6.27 ルーズベルト大統領,パリ陥落にともない国家緊急事態を宣言.

9.03 米英防衛協定が調印.

9.05 シカゴで孤立主義者が大集会を開き,中立を主張してルーズベルト大統領の対英援助を批判.

9.16 選抜徴兵制が公布される.

10.14 ルーズベルトレインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認.

11.06 ルーズベルト,第3期目の大統領に就任.

12.29 ルーズベルト,「民主主義の兵器廠」となると演説

12月 この年末の時点でCIOは組合員数400万にまで発展。

1941年

1.07 ルーズベルトが3期目の大統領就任に当たり、「4つの自由」演説。言論および表現の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由を挙げ、反ファシズムの立場を明確にする。

3月 武器貸与法が成立。イギリス、ソ連などへの武器援助が本格化する。武器生産の活発化により工業生産が回復。

5.27 アメリカが国家非常事態宣言.「アメリカ政府を暴力によって破壊転覆することの教唆と宣伝」を犯罪とするスミス法を制定.

6 ナチス,「不可侵条約」を破りソ連侵攻(バルバロサ作戦)を開始.共産党は一夜にして方針を180度転換.「国家的団結」の名の下に軍需生産に協力.

8.1 石油の対日輸出を全面禁止.

8.01 ソ連への援助を規定した米ソ協定調印. 計107億ドルの武器・経済援助が行われることとなる.

8.12 ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋憲章に合意.ファシズムとの対決とする戦争目的を宣言。

12.08 真珠湾攻撃.FDRは対日宣戦を布告。この後米国は第二次大戦へ参戦。

12.11 ドイツ・イタリアがアメリカに宣戦布告.

 

 

 

 

バヌアツは初耳だったので調べてみた。

呆れたサイトがあった。

バヌアツ

というのが、サイトの見出し。「オチンチンむき出し」で不道徳そのもの、まるで「泥棒の宣伝」だ。

最初の数行をそのまま転載する。

豊かな観光資源と陽気な人々で知られるバヌアツは、租税回避国(タックスヘブン)としても世界的に有名です。

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パナマ文書の重大性はどこにあるか

最初にこのニュースを聞いたとき、正直、またかという感想で見ていた。

これまでもウィキリークスで何回かのスッパ抜きがあって、脱税の規模・手口についてはおおよその見当がついていたからだ。

これについては以下の記事を参照されたい。

それでパナマ文書は、①このニュースに新たな質的重要性をふくむのか、②個の事件を基に新たな動きが出てくる可能性があるのか、が分からないと、評価できない。

ということで、その新規性に的を絞って、ニュースを漁ってみたい。

まずは「パナマ文書」とは何かというあたり。これについてはウィキペディアがいち早くレビューしている。

1.「パナマ文書」の名の由来: 

オフショア金融センターを利用する企業の詳細な情報が書かれた機密文書である。

パナマのモサック・フォンセカ (Mossack Fonseca) 法律事務所が作成したもので、これが漏洩したことから名づけられた。正確にはフォンセカ文書と呼ぶべきだろう。

2.漏洩の規模

このファイルは合計2.6テラバイト、私の外付けハードディスクが3テラだからすっぽり収まる。ただここに文字情報として2.6テラ入ると相当な情報だ。

ここに過去40年分、1150万件の情報が記載されていた。そこには21万4千社の企業情報がふくまれている。

まずはこの規模がウィキリークスの情報よりケタ違いに多い。

2010年のアメリカ外交公電の流出が1.7ギガ、2013年のオフショア・リークスが260ギガとされている。

3.権威ある機関による検討と公表

ウィキリークスの漏洩も、ほとんどが真実として受け止められているが、基本的には匿名である。

今回は、ソースは秘匿されているものの、その検討には権威ある国際機関、「国際調査報道ジャーナリスト連合」 (ICIJ) があたっている。

80か国107社の報道機関、約400名のジャーナリストが、1年にわたり文書の分析を行ったとされる

この権威性がパナマ文書をより重要なものとしている。

ただし、この機関はすでに13年のHSBCホールディングスのスイス文書の時にすでに登場しているから、あまり新味はない。

はっきり言えば、規模が大きくて、権威のある研究であろうと中身が大したものでなければしようがない。そこはどうなのだろうか。

私としては、今回公表された脱税が総額でいくらになるか、脱税者は処罰しうるのかが最大の興味だが、ここらへんが明らかにされないと、前回のオフショアリークスの二番煎じに終わるような気がする。

オフショアによる脱税に関しては下記の記事を参照されたい。

カテゴリ別アーカイブ

敦賀に気比神宮という神社がある。神宮のサイトによると、

大宝2(702)年の建立と伝えられています。7柱のご祭神をまつる北陸道の総鎮守。明治に官幣大社となりました。

ということで、時の天皇である天武の肝いりで作られたことがわかる。

それで7柱の御祭神だが、

当初の祭神は伊奢沙別命(イササワケ)1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀した。

ということで、702年というのは社殿の造営であり、神社そのものはもっと古くからのもので、敦賀植民地の開祖であろう出雲系の神が主神である。天武天皇が新たに造営して仲哀天皇・神功皇后を祀ったところに意味がある。天智・天武によるクーデターは敦賀系の皇統を祖と仰ぐグループの仕業ということになる。

「日本武尊ほか4柱」というのが気になり調べると、

日本武(やまとたける)尊、應神天皇、玉妃(たまひめ)命、武内宿禰(たけのうちのすくね)命

となっている。

ふざけた話ではないか。

皇后が主神で、天皇がその他大勢とはどういうことか。

仲哀の活動したのが西暦400年前後とすると、天武はそれから300年もあとの人である。きっと記紀の編纂の過程でこれらの人物の存在を知り、「それでは」ということで新たに神社を造営したのであろう。つまり西暦700年の認識としては「これでいいのだ」ということである。皇統譜上の肩書などは「どうでもいいのだ」ということである。


A.銅鐸文明と前期弥生人

紀元前800年ころから前期弥生人が朝鮮海峡を渡り、九州に進出を始めた。これは長江文明の流れをくむ人々で、銅鐸を信仰のツールとしている点で一致している。

彼らが大量に流入してくるのは、中国大陸及び朝鮮半島における北方系人種の南進をうけたもので、一種のディアスポラといえる。

先住民である縄文人は、ミトコンドリアDNAやゲノム解析によれば、長江文明より以前、おそらく1万年くらい前から日本に定着した北方系種族であり、おそらくは数次にわたる進出と混淆があったと思われる。

水田耕作を主たる生産様式とする弥生人は、漁労・狩猟・採集を生活手段とする縄文人と混在しながら、その生産性の高さにより次第に縄文人を圧倒していったと思われる。弥生化した縄文人もかなりあったであろう。

いずれにしても倭国成立の頃までに、縄文人は山間にこもるか辺鄙な漁村に逼塞するか、どちらにしても歴史の表舞台からは姿を消しており、その後の動きは、アイヌ史を除けば無視してもよいと思う。

B.北方人(天孫族)の侵入

中国大陸では長い戦争の時代を経て秦が全国を制覇する。西安という辺境の民が、馬と車という兵器の力で、長江文明の揺籃の地までふくめ征服したということだ。それは当然朝鮮半島にも反映し、最終的には漢の漢江までの進出という形に現れた。

漢の目下の同盟者としての扶余(遼東)の公孫氏は、漢江を越えてさらに南下し、馬韓の地に百済を起こした。同じように倭国の軍は日本にやってきて支配者たることを宣言した。さらに百済の南方に馬韓が残されたように、近畿以東には倭の統治が及ばない弥生人(銅鐸人)の社会が残された。

彼らは前期弥生人を駆逐するのではなく、前期弥生人の生産システムも破壊せず、彼らの上に君臨した。なぜなら彼らは征服者であってディアスポラではないからだ。しかし選良意識の根拠となる天孫信仰だけは譲れなかった。だから銅鐸はことごとく打ち捨てられた。これはスペインの征服者が新大陸の先住民の神殿を破壊し、その上にキリスト教会を立て、住民にキリスト教を強制したのと同じだ。

これが私の言う天孫族であり、江上波夫の「騎馬民族」だ。

C.倭国の特徴

ここはまったくの推論である。一般に古今東西の征服国家がどのような特徴を持っているか(特に朝鮮南部)検討し、それにより倭国の有り様を推し量るだけの与太話である。

征服者は強いプッシュ要因を持つ植民者ではない。基本的には出張族である。したがってコスモポリタンである。彼らは在所の親族と通婚し自らの血統を維持する。もう一つは宗教的共通性に頼って結束を維持する。遠い扶余(遼東)の国は別としても、百済は公孫氏につながる本家筋として特別な関係があったと思われる。

新羅は弟分の分家であろう。百済は馬韓を支配し、倭国は弁韓を支配し、新羅は辰韓を支配した。これが朝鮮半島及び九州の当時の支配様式であって、それらは決して下から積み上げられた国家ではない

この時代倭国の本拠地はあくまで半島にあったと思われる。金印に記された倭の那の国王は、対馬海峡を挟んで形成された倭連合国の一部を成す那の国の王であろう。那は那の津(香椎?)を本拠地としつつも倭国の日本領全体を支配していたと思われる。決して日本国内に群雄が割拠してその一人というわけではない。でなければ中国が金印を授けることなどありえない。

これが各国の発展に伴い、最終的には分裂していくのである。

D.倭国大乱と出雲の国譲り

これが同じものかどうかはわからない。倭国大乱が西暦100年台に起きたことは間違いなさそうだ。しかし出雲の国譲りがいつかはわからない。考古学的事実の読みによって推定していくしかない。少なくとも同時並行で進んだ可能性はかなり高い。

まず倭国大乱だが、前項の発想に基づけば、それは半島側の倭国と九州側の那国の本家争いだろう。そして大乱後に、両国が分裂しなかったことから考えると、その内乱は半島側政権の勝利に終わったと見るべきだろう。那国配下の諸侯は敗れその地位を失った可能性がある。その延長線上に出雲の国譲りを見るのはあながち不自然とはいえない。

逆に倭国側についた筑紫(筑後川流域)の勢力が内戦後の統治を任されて那の津に進出した可能性もある。卑弥呼政権の地域的、支配構造的な二重性はそれを示しているのかもしれない。

E.出出雲記

此処から先はまったく記紀の読解の世界に入る。私の基本的立ち位置としては、記紀の叙述そのものは全て信用するに足るというところにある。というより、とりあえず信用するしかない、という方が正確かもしれない。ただし年号はでたらめで、恣意的である。また中国や百済の史書との付け合せは全てでっち上げである。

記紀の国造りから以降の神話的記述部分は、天の沼矛と高天原伝説を除けば出雲神話そのものである。したがって大和政権の基層が出雲系であることは間違いない。しかし同時にそれはこれを征服した神武の皇統を引き継いでいる。これは矛盾しているが事実だから仕方ない。歴史的過程の認識の中で受容するしかない。

倭王朝は出雲を併したあとそれ、以上日本海沿岸を東進しようとはしなかった。これはそういう約束になっていたのかもしれない。いずれにせよ出雲族はディアスポラとなって東方に進出していく。記紀で見ると国譲りの当事者である大国主の息子が吉備の国を経て難波津に上陸し、そこから大和に入ったとされている。いわばこれが直系である。

この3世紀半ば、西暦200年から250年というあたりに、我々はかなりの拠るべき材料を持っている。すなわち①魏志倭人伝の邪馬台国記述、②近畿圏における銅鐸文明の壊滅、③纏向遺跡と古墳の発生、である。

この時代における吉備の国の位置づけは不明であるが、おそらくはここも天孫系の支配する国であったろう(出雲族かどうかはわからない)。前方後円墳という様式は出雲族が吉備から学んだものかもしれない。

ただ門脇によれば、同じ出雲系の一族が但馬・丹波から難波津に入り、あたりを支配していた可能性もある。つまり、長髄彦から物部に至る系統は同じ出雲族でも別の流れということになる。それを頼りに難波津に赴いたとすれば、先住者に配慮しつつさらに奥に進み、大和に達したというストーリーも考えられる。

そして大和の弥生人を支配し、統治の証として古墳を建設し始めた。

F.神武東征

神武東征はここ(西暦300年~350年あたり)に置くしかない。少なくとも卑弥呼の後である。直系か傍系かは知らないが、おそらく卑弥呼の時代を下ること2,3世代、九州王朝が直接派遣したか、海賊の成り上がったものかはわからないが、九州出身の神武一家が征服作戦を決行した。当初の難波津攻略作戦は失敗し、紀の川からの攻撃にも失敗し、最後には熊野からはるばる山越えして、裏口から奇襲をかけることによりまず大和の制圧に成功し、ついで難波津の出雲族をも支配下に収めた。

強調しておきたいのは、この東征は吉備の安定的確保なくしては不可能だということである。東征を始める時点ですでに吉備は九州王朝の勢力下に入っていた。なぜ出雲族が吉備に入ったものの、そこに定住せず、さらにそこから大和に向かったのか、その理由はこの辺りにあるのかもしれない。

G.敦賀雇兵集団の興隆

こうして名目は九州王朝系の分家だが、実体としては出雲族の流れをくむ大和政権が成立していく。政権そのものが寄り合い所帯だから、政権内の力関係は変化していく。これに伴い古墳の位置が纏向周辺から、橿原周辺、大和盆地北東部、河内、とめまぐるしく動いている。

権力移動がこれだけ激しいということは、戦闘力の必要性が高まることを意味する。こうした中で力を増していったのが敦賀の雇兵集団だ。彼らも出雲系天孫族ではあるが、傍系である。敦賀系天孫族は、おそらく当初は大和政権とは無関係に近江、美濃、尾張、伊勢に展開し、在地の弥生人を支配下に加えていった。

その一方で大和政権にも参加し、軍事畑で頭角を現した。そして神武から数えて8代目の天皇の時代に、橿原~河内を地盤とするグループと対決し、これを打ち負かした。天皇の在位を平均10年とすれば4世紀後半、もう少し長くとれば400年代はじめころということになる。この軍事政権は仲哀までの5代にわたり続き、西は吉備を制し、東は東海からさらに東に進み関東地方まで版図に収めるようになる。

H.仲哀の敗死と権力交代

この武闘集団による支配は数代にわたって続く。そして仲哀の時には自らが天皇の地位につくまでに至る。その版図は東は関東平野、西は広島まで至る。そして仲哀は下関から海を渡り九州王朝の本拠地、香椎まで入った。

これが敦賀雇兵集団の絶頂期であった。九州王朝は朝鮮半島の戦闘でかなり弱体化していた可能性がある。しかし本気で戦えば、最新鋭の武器を装備し半島での戦いに習熟した倭国軍であるから、大和政権の田舎侍など敵ではない。当初は新羅との戦いに巻き込もうと接近を図ったが、仲哀はこれを拒否した。仲哀は「新羅など知ったこッチャねぇ」と開き直った。ひょっとすると新羅という国の存在さえ知らなかったかも知れない。そこで九州側は香椎滞在中の仲哀を闇討ちにしたのではないだろうか。

そして仲哀の腹心である武内宿禰を言い含め、九州王朝への臣従を約束させる。仲哀の愛妾である神功を皇后に仕立て上げ、その息子を天皇に祭り上げ、大和へと送り込む。

いづれにしてもかなりの無理筋である。留守部隊は当然抵抗する。そこで戦闘となるが、九州王朝の本隊に攻めこまれては到底かなわない。本来皇統を継ぐべき仲哀の息子たちは次々と討ち死にし、残りは武内の軍門に下ることになる。

武内宿禰は幼少の天皇と神功皇后を後盾し、河内に新王朝を開く。しかし次の仁徳の時代には政権を追われ、最後には消されてしまう。このあと九州王朝は五王の時代に入っていく。神功の新羅討伐は、後代に九州王朝の歴史から何かのエピソードを拾ってきて挿入したものであろう。

熊本群発地震のあいだも川内原発がなんの対応もしないことに不満の声が高まっている。
この間のやり取りで、規制委員会の田中委員長の無責任さがかなり浮き彫りになった。以下は共産党井上議員の国会質問への感想。
田中委員長の見解は、一言で言えば「何もしない。不安はない」というものだ。これは個人ではなく、委員長としての発言としてはおかしい。
安全性をあらためて確認する責任は、立場上あるはずだ。
丸川原子力担当相の答弁もまことにおかしい。「これまでのところ川内現発で観測されたのは最大12.6ガルだ。想定基準地振動は620ガルだから、停止する必要はない」というものだ。
しかし益城町ではつい先日1580ガルを記録している。専門家の記者会見では、今後南西方向に地震が波及する可能性もあると、はっきり指摘している。
原発のきわめて深刻な危険性を鑑みれば、群発地震が収束に向かうまでは一時停止するというのが、論理的帰結だろう。未来永劫止めろと言っているわけではない(とりあえず今は…)
一番危険なのは、原発を管理する人物と、規制する人物、指導する人物にまったくそういう発想がないことだ。もし何かあれば「想定外だった」と言い抜ければそれで済むと思っている。
JRだって道路公団だって、その危険性を織り込んで、徐行したり運行中止している。「1580ガルが来たら止めます」などという人はいないはずだ。普通はそういうものではないでしょうか、皆さん。

川内原発を止めてください に協力を



ニューディールの経過を勉強しようと思って、ネットを探したが、まともに取り上げた文章はほぼ皆無である。そのあまりの徹底ぶりに思わず苦笑してしまうほどだ。

ブログ記事はほとんどがフリードマンもどきの懐疑的な見解で埋め尽くされている。学術記事もケインズの業績と関連して刺し身のつま的に扱うだけだ。要するに批判はするが知ろうとはしない。これにはかなり愕然と来た。

国際的には依然ニューディール神話は健在だし、オバマもニューディールを標榜した。安倍首相お気に入りのスティグリッツも現代版のケインズと目されている。

強調しておきたい。ニューディールはあれこれの政策選択ではない。それは大衆運動の圧力のもたらしたものであり、大衆の呻吟を受け止めるポジティブな姿勢の反映である。

大恐慌のときニューディール批判派は何をしていたか。何のオプションも提起せず、大衆を弾圧し、大衆の苦労については、ただ手をこまねいて見ていただけだ。だから、そもそも批判する資格はない。

ニューディール評価をケインズに収れんさせるのは、政策イシューにことを矮小化するためのレトリックに過ぎない。

フリードマンの批判は、50年も経ってからの後付け批判に過ぎない。しかもそのフリードマン理論の下で展開された新自由主義は、世界経済を目茶苦茶にした。その経過を我々はリアルタイムで見つめてきた。

何よりも、ニューディールはファシズムが世界を支配しようとする瀬戸際に、それと真正面から立ち向かう姿勢を貫いた。戦後世界の民主的立場を代表した。たとえその政策に瑕疵があったとしても、この歴史的役割を我々はしっかり評価しなければならない。

現在、ニューディール本流の伝統は赤狩りの中で途絶えてしまって久しい。リーマンショック後の世界経済が世界大恐慌と通底している以上、我々はその積極的側面を大いに引き出し、その教訓を改めて確認しなければならないと思う。

中国経済の動向について書こうと思って調べ始めたのだが、どうも「中国こそが世界経済の牽引車」などというのは嘘だということになった。

そうではなく、ソ連・東欧崩壊後の動きというのは、一貫してアメリカがますます力をまして一国帝国主義の様相を呈してきたところに、事の本質があるように思えてきた。

日本で、並べて地方が沈滞し、ますます東京への一極集中が進むように、世界はますます沈滞し、ウォール街へすべての富が集中しつつある。中国が一時的に元気だからと言っても、それは発展すればするほどアメリカへの従属を強め、やがてはいまの日本のような状況に入るのではないだろうか。

中国経済が景気が良いと言っても、それはアメリカへの輸出を最大の条件としている。そのために各国から資本財をかき集めるから、波及効果が各国に及んでいるにすぎない。

ところが、米国の個人消費が天井を打ってしまった。実はアメリカ国民の貯金はとうの間に底をつき購買力は消失していたのだが、金融市場が悪辣にローンを押し付け、贅沢暮らしをさせてきた。

この借金バブルが崩壊したいま、アメリカ国民の多くが、ただの貧困者どころか札付きの破産者になってしまった。

ところがおかしなことに、アメリカ国民がそうやって貧しくなればなるほど、アメリカには資金が流入してくる。

米国の景気が悪くなれば世界の景気が悪くなり、資金管理者は投資先を店じまいし、それを米国に還流させるからである。好景気は世界を資本主義のもとに置き、不景気はそれを米国のもとに集中させるという循環が繰り返される。

まるでネグリやウォーラーステインをなぞるような話になってしまうが、これはアメリカ以外の国が今のような経済政策をとる限りの話であり、その先には底知れぬ滝壺が待っている。

どこかで米国中心主義から舵を切り替えなければならないし、それは可能だろうと思う。カギは各国が協調した内需拡大策、雇用・賃金の改善策、社会保障の充実策、そして税制の改革ということになる。

まさしくそれはニューディールの柱であるが、肝心なことは各国政府のイニシアチブ、そして少なくとも主要国の協調である。とくにアメリカ自身の手を縛ることが決定的に重要である。

各国政府が強調して、イニシアチブを握りながら何をするか?

それは富の生産ではない。

ここがケインズやウォーラーステインとの決定的な違いである。

モノは有り余るほどある。作る能力も保たれている。だから内需拡大はものづくりに向けられてはならない。

政策努力は、何よりもひとづくりと欲求創出に向けられなくてはならない。この一見、非経済的と思われる施策が、実は一番経済的に合理的な解決策なのである。

ただし、これを一国家だけで実現しようとすれば大変なことになる。輸出競争力は落ちるし、需要の増加はいずれは輸入の増加に繋がる。外国企業は抜け駆けを狙って、安値攻勢をかける。多国籍企業や国内の大企業は新規投資を見合わせる。


これが、社会党政権下のフランスでの1年間の経験である。

しかしこれをやっていたのでは、埒が明かない。政治幹部と経済官僚が国境の垣根を超えて変革の意識を共有する以外に方法はない。また変革を求める国民的世論を大いに喚起しなければならないだろう。

サンダースとニューディール政策

サンダースのルーズベルトに寄せる強い親近感については、ピケティも注目している。

朝日新聞の「ピケティコラム@ルモンド」という記事にそのことが触れられている。いずれ消える可能性がある記事なので、要点だけ紹介しておく。

1.ルーズベルトのやったこと

ルーズベルトの時代、米国は不平等の是正のため、野心的な政策を進めた。

高い累進性を兼ね備えた所得税と相続税とを生みだした。

また米国は、30年代にはすでに最低賃金を定めている。現在のドルに換算すると、その額は60年代末に時給10ドルを超えていた。

2.戦後のアメリカ

年収100万ドルを超える層に課された最高税率は、ケネディ大統領までの時代は91%だった。相続税にも70~80%の高い累進税率が課された。

ドイツやフランスで最高税率が30~40%を超えたことはほとんどない。

高い生産性と教育体制のおかげで、失業はほとんど生まれなかった。

南部でまだ合法的に続いていた人種差別に終止符を打ち、新しい社会政策を打ち出したのもこの時期だ。

3.レーガンのやったこと

この一連の政策は白人有権者のうち少数の反動的な人たちと、金融エリートの間で大きな反発を生んだ。

レーガンは、こうしたあらゆる不満の波に乗り、当時すでに神話と化していた原初の資本主義を復活させた。

86年の税制改革では最高税率を28%まで引き下げた。

クリントンやオバマも本当の意味でこの決定を見直さなかった。

格差は爆発的に拡大した。しかも経済成長は低調で、大多数の人たちの所得は停滞した。

レーガンはまた、最低賃金の水準を抑え続けた。80年代以降、最低賃金はゆっくりと、しかし確実に、インフレによって目減りした。69年は時給11ドル近かったが、2016年は7ドル程度だ。

その後の民主党政権も、レーガンのイデオロギー(レーガノミクス)を根本的に変えることはなかった。

4.ピケティの結論

現在のサンダース氏の成功から分かるのは、米国のかなりの数の人たちが、不平等の増大と見せかけの政権交代とにうんざりし、革新的な政策で平等を目指す米国の伝統 と和解しようとしているということだ。


正直のところ、ピケティの上げた数字については、別の資料での確認が必要かと考えている。

また、コラムという性格上踏み込んでいないのだが、何故そのような改革が可能だったのかという背景には踏み込んでいない。しかしそれがないと、何故アメリカ国民はやすやすとレーガノミクスを受け入れてしまったのか、ということも見えてこない。

いずれにしても、時代背景をも踏まえたニューディールの全面的な検討(ケインジアンとの交錯もふくめ)が必要だろう。

それは日本の戦後改革や日本国憲法の形成過程とも関わっているはずだ。従って、日本国民が直面する民主主義と国民生活防衛の運動とも根っこを一つにしているはずだ。

バーニー・サンダースの闘いは我々(日米両国人民)の闘いなのかもしれない。


ということで、ネットでサンダースの演説を探したが、日本語ではろくな記事はない。

仕方ないので赤旗の記事を要約紹介する。これは去年11月19日、ワシントンDCのジョージタウン大学での演説だ。この演説はルモンド・ディプロマティークでも重要演説として引用されている。

1.ルーズベルトの思想と行動

* ルーズベルトの就任演説(1937年1月20日)

ルーズベルトは米国を見渡し、目にしたものを語った。それは国民の悲惨な生活である。

ルーズベルトは行動した。数百万人を職場に戻し、民衆を貧困から救いた。そして政府への信頼を確立した。

当時の支配階級はこれに激しく抵抗した。ルーズベルトは彼らを「経済反動主義」と糾弾した。

それが今日、我々のやらなければならないことだ。

これは彼の2期目の就任演説だ。この時米国は依然として大恐慌の余波の中にあった。しかも欧州ではナチスがひたひたと侵略の歩みを始めていた。

すでに前年7月からスペイン内戦が始まっている。この演説からまもなくの4月にはゲルニカ爆撃が行われている。7月には第二次上海事変が始まり、そのまま泥沼の日中戦争へと移行する。

* ルーズベルトの「社会主義」

その頃、ルーズベルトの提案したことのほとんどは「社会主義的」と非難された。

社会保障年金、最低賃金制、失業保険、児童労働の廃止、週40時間労働、団体交渉権、強力な金融規制、預金保証などはすべて「社会主義的」と称された。

しかしこれらの事業こそが米国を形作り、中産階級の基礎となっている。

2.支配階級に挑む運動を

* 「覚悟のある運動」が生み出されなければならない

いま、現実の米国は過去40年の間に偉大な中産階級は没落した。そして政治制度への信頼はきわめて低い。

米国を本気で変えようと思うなら、政治活動を生み出す必要がある。私たちの国を破壊する貪欲な支配階級に挑み、打ち負かす覚悟のある運動だ。

* 不平等を維持する権力構造

今日、米国には巨大な富と所得の不平等がある。しかし肝心なことは、それだけではない。米国にはその不平等を維持する権力構造があるということだ。

だから我々は、今の政府を変えるだけではなくこの国の階級制度を変えなければならない。それが民主的社会主義だ。

3.民主的社会主義とは何か

* 新たな経済の仕組みを生み出すこと、そのために政治制度そのものを変えること

民主的社会主義とは何か。それは富裕者だけではなく、全ての人に役立つ経済の仕組みを生み出すということだ。

ウォール街や億万長者、大企業だけでなく、労働者世帯のために民主的社会主義を実現すべき時だ。

第二に、そのためには今日の米国の政治制度そのものを改革せねばならないということだ。

それは全体として不公平なだけでなく、多くの面で腐敗している。

* 社会主義者は国営化も私企業の収奪もしない

私は政府が生産手段を所有すべきだとは考えていない。しかし米国の富を生み出す中産階級と労働者には相応の配分をすべきだ。

私は私企業を収奪するつもりはない。しかし雇用を海外に移出し利益を上げる企業は信じない。米国内で努力し、投資し、成長するような私企業を信じる。

私が大統領に立候補しているのは、一部の人ではなくなく、すべての人に希望とチャンスがある、そういう国に住む私たちすべての出番だからだ。


この主張は、この間勉強したばかりのジェームズ・ミルの主張と瓜二つです。これは社会主義どころか、ベンサム、ジェームズ・ミル、リカードウと続く初期資本主義の本流の考えでしょう。

赤旗にバーニー・サンダースの演説の要旨が掲載されていて、いくつか分かったことがあった。
とくに、彼がなぜあえて、自らを民主的社会主義者と呼び、その立場を貫いて来たかという理由が見えてきた。
彼はフランクリン・D・ルーズベルト(以下FDR)の崇拝者だ。FDRの採用した個々の施策というより、FDRが勤労者・中間層を擁護すべく、大企業やそのイデオローグと対決する姿勢を貫いたことに共感している。
いわば、「遅れてきたニューディーラー」なのだ。
FDRは最低賃金制や、独占資本の規制策により「社会主義」のレッテルを貼られ攻撃された。しかし今ではその基本構想は米国社会に根付いている。それをもう一度無きものにしようとするのが今の支配層だ。
であれば、今あえて、自らを社会主義者と呼ぼうではないか、というのが彼の一貫した思いだ。
別に旧ソ連や中国型の国家づくりを目指すわけではない。むしろFDRとニューディーラーが思い描いた「良き社会」を取り戻そうと言うのが、彼の目指す方向だ。それが資本主義であるか否かは問わない。
彼が社会主義者を標榜するのは、それによって退路を自ら絶とうという決意の現れなのだろう。
かつてFDRが社会主義者呼ばわりにひるまずに、改革を成し遂げたように、バーニーも社会改革を目指す。
「それを社会主義というなら、よかろう。俺はまぎれもなく社会主義者だ!」

BuzzFeed News というサイトに

「社会主義者がアメリカ大統領候補に? バーニー・サンダースってこんな人――大統領選の注目は、ドナルド・トランプだけじゃない」

という記事があった。溝呂木佐季さんという方が書いたものだ。

非常に親切な記事なので一読をおすすめする。

そこにリンクされたChicago Tribuneをたどると、下記の写真(63年)があった。直接あたってもらえれば良いと思うが、著作権を無視して転載する。クレームあればただちに消します。

ct-bernie-sanders-arrested-20160219
63年にシカゴ南部の黒人地区で公民権を要求して座り込み、警官に排除される髪ふさふさのバーニー。


ルモンド・ディプロマティーク国際版に簡単なバイオがある。

1941年 ブルックリンの生まれ。両親はポーランドからのユダヤ系移民。

1960年ころ、バーニーはシカゴ大学で社会主義青年同盟(YPSL)に参加し、公民権運動、ベトナム反戦運動を担っている。

その後バーモント州で小さな政治結社「自由統一党」の候補として活動を続け、80年に州都バーリントンの市長に当選。市街地の再開発に敏腕を発揮した。

地元週刊紙ヴァーモント・ヴァンガー ド・プレスは、「バーリントン人民共和国」という特別号を発行して敬意を表した。

90年に連邦下院議員に当選。唯一の無所属議員として活動。2006年には上院議員に当選。2010年には高所得者層への減税措置に反対し、8時間にわたるフィリバスター演説を敢行した。

1年前に民主党に入党。大統領候補になるためだ。気楽に受けた民主党幹部はさぞかし臍を噛んでいることだろう。

ルモンドによれば、彼は革命の信奉者ではないし、英国労働党左派のジェレミー・コービンのような急進派でもない。サンダースが重視しているのは、所有と支配ではなく、再分配をめぐる闘いだ。



どうも畿内に進出した出雲族には2系統があるようだ。
しかもそれは、一つが枝分かれして二つになったというよりは、登場時期に違いがあって、それぞれに独自の歴史的アイデンティティーを持っているようだ。
ウィキペディアで見ると、第一波が饒速日尊(ニギハヤヒ)の集団で、これは大国主の命を祖先に持つ出雲古王国の直系のようだ。彼らは難波から上陸し、ひとつは河内、ヤマトへと拡散しもう一つは摂津から山城へと淀川沿いに勢力を広げたようである。おそらく吉備国からの流れであろう。
もちろん、瀬戸内に出ずに丹後から山越えして畿内に進出した可能性もある。
彼らは先住者である銅鐸人(縄文人?)を支配下に置き、あるいは駆逐しながら大和川を遡り、纏向に最初の都を設営した。
その後神武の東征を受けてその軍門に降り、大和政権が成立する。しかし少数の神武軍をやがて事実上包摂する。これにより神武の皇統と、出雲神話が併存する奇妙な政権イデオロギーが形成されるに至った。
もちろん、彼らの中には地縁・血縁的に大和派と河内派の相違が生じた可能性がある。また皇室との距離感も異なるし、神武に屈服したグループと最後まで抵抗したグループの間の感情的な齟齬もあったろうと思う。
しかしそれはそれで一体となった。
そこに、いつの頃からかは分からないが、もう一つの流れが合流することになる。それが天之火明命(アメノホアケ)の系統である。
彼らが祀るのはニギハヤヒ集団と同じくスサノオであり、宗教的アイデンティティーとしてはニギハヤヒと同じ出雲族である。
その祭神の多くが敦賀の気比神社を中心に集中しており、越前に入植した出雲族の流れであることは明らかである。天之火明グループは美濃・尾張・伊勢にも入り込んでおり、いわゆる東国グループを形成する。忍熊王が「東国兵」と呼んで頼りにしたのはこの連中のことであろう。
彼らがなぜヤマトに入りこんだのかは良く分からないが、やはり周辺一帯において河内・大和は一つの文化的中心であったのだろう。
当然最初は権力の中心には接触できない。だから彼らは大和政権の雇兵として位置づけられることになったのではないだろうか。
ニギハヤヒ集団にとっても、自らが侵略者であり、相対的に孤立していた環境のもとでは、目下の同盟者としての敦賀雇い兵集団は使い勝手の良い権力ツールだったかもしれない
こうして雇い兵として権力の中に浸透したグループが、やがて軍事力に物を言わせ政権を乗っ取り、自らの政権を実現するという経過は、世界史の中に普遍的に存在する。古代で言えば、例えばメキシコのアステカ帝国はその典型である。
これが「崇神王朝」が登場した理由である。だから、別に文化・産業の中心であったとも思えない敦賀に皇族の往来が引きも切らない理由でもある。
雇い兵集団から成り上がって、武力で中央政権を掌握した天之火明グループにとって、故郷敦賀(そして尾張・伊勢)のマフィアは圧倒的な精神的支柱となっていた可能性がある。

立ち上がるって、とても苦しいことなんだ、ということが分かる。

我々の世代のように、周りが「闘わなくっちゃ」という雰囲気の中で立ち上がるのとはレベルが違うのだ。

それもふくめてこのメッセージには力があって、感動させる。

それが、「市民連合応援団 “民主主義ってなんだ?” リレートーク」での、シールズの奥田愛基さんの訴えだ。

昨年、私が私のままデモにかかわったように、
私のまま選挙にかかわりたい。
私のために政治があるからだ。

これは、私たちへのメッセージだろう。私はこう受け止める。

あなたもあなたのままデモにかかわった。
だからあなたにも、あなたのまま選挙にかかわって欲しい。
あなたのまま選挙にかかわるほどに
あなたに変わって欲しい

私は愛田さんほどに、自分を自分の前にさらけ出し、自分に厳しくあることはできそうもないが、それに感動し、それを支持することはできる。

 一連の経過の中から、フィクサーとしての武内宿祢が浮かび上がってくる。

中核的事実(?)は以下の通り。

1.武内は景行のころから重用され、成務のときには大臣に上り詰めた。

2.仲哀に随行して筑紫に上った時に、九州王朝側に寝返った。

3.彼は仲哀の死を秘匿し、神功とつるんで親倭王朝の応神政権の成立を図った。

4.神功・武内・九州王朝軍は紀伊に上陸した後、錦の御旗の下に追随者を糾合し忍熊軍を連破し、大和王国を平定した。

5.しかし神功・武内・九州王朝軍は大和に政権を樹立するには至らず、河内に新政権を打ち立て、大和をその支配下に置くことしかできなかった。彼らは巨大古墳を作ることで大和に対して威勢を示した。

5.彼は神功の摂政となり政治権力を握ったが、やがて九州生まれの応神に疏まれ、最終的には仁徳の時代に政界から姿を消している。没年は不祥であり、恐らくは因幡の逃亡先で粛清されたと思われる。

ここから河内王朝が始まるのであるが、それは三つのグループの連合であったろうと思われる。すなわち神功・武内宿祢の越前派、九州から派遣されたグループ、そして河内の在地グループである。

九州から派遣されたグループは帰心矢の如しで、神功・武内グループは錦の御旗だけが頼りのグループだから、いずれ在地グループが主勢力を握るのは時の勢いであろう。

こうしてあの「はにやす」勢力が息を吹き返し、大和の越前系勢力とふたたび拮抗関係に入ることになる。

ただこうした一連の経過を通じ、大和政権が九州王朝にとって侮りがたい勢力にまで成長したことも間違いない。

倭の五王時代はこうした緊張をはらみながら推移したことを押さえておく必要があるだろう。

ここまでくると、やはり仲哀を知りたくなる。


はにやすの乱は大和政権の性格をがらりと変えることになった。

新政権には二つの特徴がある。

一つは非常に軍事色の強い政権であるということ。天皇はカイライであり、実権を握るのは大彦という将軍であることだ。

二つ目はそれが大和より東北に位置する勢力の影響の下にあるということだ。具体的には敦賀が頻出する。

これが「崇神王朝」と呼ばれ、崇神、垂仁、景行、成務と4代続く。この時代、とにかく武力拡張主義だ。西へ東へと攻め込み版図を拡大していく。なぜかは分からないが、おそらく物資の欠乏など厳しい時代だったのであろう。

しかしこのような武断政治と絶え間ない戦争が何時までも継続できるわけはない。何よりも民心の離反は必至である。

さらに身内主義が徹底して。血縁結婚ばかり繰り返していたから、遺伝子が劣化して子供ができなくなってしまう。

そこで日本武尊の第2子の仲哀が皇位を引き継ぐことになる。この皇位継承は異例づくめで、皇太子になったのが31歳、即位したのは44歳というから、相当の軋轢があったと想像される。

ひょっとすると皇位を禅譲させたか、あるいは簒奪した可能性もある。いずれにしても天皇が軍を率いたのではなく、軍人(おそらくは軍トップ)が天皇になったということだ。

ただし、この時期記紀の作者は、皇統をいじらずに神武以来の紀元を1千年くらいに膨らませているから、べらぼうな年齢の引き延ばしをしているから、にわかには信じられない。

仲哀の伝は短いが大変面白い。それは彼が西に侵攻し、遂には九州王朝の本拠にまで進出したからだ。

時期的には400年代初めころ、広開土王の碑の如く倭軍と高句麗とが戦った時代と、倭の五王時代との間の時期だろうと思う。

筑紫への神出が可能になったのは、九州王朝の国内兵力が弱体化していたためかもしれない。あるいは九州王朝の主力が朝鮮半島に出張っていたためかもしれない。

もう一つの可能性としては、彼は九州王朝の敵として登場したのではなく、神武以来の臣としての立場で伺候したとも考えられる。腹の中は分かったものではないが。

仲哀は紀伊から海路西に向かった。下関で下船し、敦賀から日本海沿いに海を渡った神功と合流。香椎に向かった。

そして、「神」(九州王朝)から新羅行きを勧められるが、仲哀はこれを拒否した。さらに「神」を非難した。

「神の怒り」に触れた仲哀は、恐らくは香椎に駐留中に急襲を受け死亡した。遺体は辛うじて関門海峡をわたり、下関に殯された。この時すでに52歳であった。

天皇答えて白さく「高き地に登りて西の方を見れば國土を見ず。唯だ大海のみ有り。詐(いつわり)を爲す神」と謂いて…。

神、大いに忿(いか)りて詔らさく「凡そ茲(こ)の天の下は汝の知らすべき國に非ず。汝は一道(ひとみち)に向え」

これで分かるのは、仲哀は新羅などその存在すら知らなかったということだ。ただの田舎侍だ。

ここが大事なポイントだ。

以上はウィキペディアの情報だが、

歴代天皇事典 には別な情報がある。

1.成務天皇四十八年に立太子し、同天皇崩御に伴って翌々年に即位した。翌年には敦賀に移り

2.即位してから神功皇后を妻に迎えている。神功は敦賀の出身とされている。すでにかご坂王と忍熊王は一人前の軍人としてキャリアを積んでいたであろう。

なお、日本書紀の神功皇后=卑弥呼説は無茶である。むしろ九州王朝が大和に攻め込むときの「錦の御旗」として利用されたと考えるべきではないか。そのために新羅征伐の説話がでっち上げられ、ハクヅケに一役買ったというのがリアルなところではないだろうか。


かご坂王と忍熊王

はにやすの乱について触れた以上、かご坂王と忍熊王についても書いておくべきであろう。

はにやすは神武から数えて10代目の天皇の時代である。結論としては大彦と吉備彦の連合軍が河内を制し、山城を勢力範囲に収めたということだ。余勢をかって吉備の国までを版図におさめた。

この時倭国はまさに好太王の時代である。朝鮮半島深く攻め入り、百済と連携して高句麗の軍と争っていた。戦い利あらず後退を余儀なくされたが、朝鮮半島の支配権はその後も五王の時代を通じて維持されている。

しょせん大和政権はローカルな権力に過ぎない。

かご坂と忍熊の乱はそれから4代後の話である。ひょっとすると400年代後半にもかかる可能性がある。ただいずれにせよ、倭の最後の王、武の前であることは間違いなかろう。

大和朝廷の大彦・吉備彦連合が西方に進出し岡山、広島までも版図に入れたとすれば、九州王朝は目と鼻の先である。それから4代、半世紀を経て、大和朝廷が九州王朝にちょっかいを出した可能性はある。

しかしもし侵攻が行われたとすれば、その侵攻(九州侵攻)は失敗に終わったはずである。なぜなら倭王武の上表文には、むしろ倭王朝が東国を制圧した旨が記されているからである。

仲哀天皇の病死を敗死と受け止めるならば、それは大和朝廷に甚大な影響をもたらしたはずだ。そういう観点からかご坂王と忍熊王の反乱を受け止めてみようと思う。


まず事件のあらましを見ておこう。

かご坂王と忍熊王は実の兄弟で、仲哀天皇と大中姫の間に生まれている。仲哀天皇の正室は神功皇后で、その間にできたのが応神天皇であるから、二人は義兄弟ということになる。

つまり仲哀の跡目争いということになる。

私もあまのじゃくだから、

『日本書紀』『古事記』に記されるおし坂皇子の反乱説話は、神功皇后の非実在性と同様に史実ではないと考えられている(ウィキペディア)

と断定されると、「それはないでしょう」ということになる。

中核的事実は次の三つだ。

1.仲哀は新羅かどうかはわからないが、とにかく大和を離れた西方で死んだ。しかも不自然な死を遂げた。(大体、天皇が自らの名を仲哀などと名乗るわけはない。もともとはもっとポジティブな名前があったはずだ)

2.神功皇后という人物が突如登場する。彼女は仲哀の妻となり、筑紫で応神を産んだ。そして皇位継承者の母という名分で軍を率い大和に侵攻する。

3.この皇后軍に対して、かご坂王と忍熊王が抵抗する。彼らは東国兵を動員し明石に陣を構えた。(この“東国兵”は非常に気になる。忍熊王の後日譚がたくさんあって、それを見ると彼らの故郷は越前敦賀であること、素戔嗚命を奉ずる出雲族であることがわかる)

4.しかしかご坂王はイノシシに襲われて食い殺された。このため残党を弟忍熊王が率いることになる。吉備は神功側につく。難波の勢力は両派に分裂する。

5.神功皇后軍は瀬戸内を経て紀伊に上陸した。これを見た忍熊王は内陸に入り宇治に抵抗線を設定した。皇后軍は武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を先頭に立て、忍坂軍を打破した。忍坂王は逢坂で最後の戦いを挑む。そして敗れる、そして瀬田の渡りで琵琶湖に投身した。

6.応神天皇が即位する。実質的には戦闘を率いた武内宿祢の支配下にはいる。


事態はきわめてはっきりしている。大和政権は九州王朝により滅ぼされ、仲哀の未亡人と称する人物に明け渡されたのだ。しかもそれは決して平和的なものではなく、神武東征に次ぐ「第二次東征」という性格を帯びているということだ。

大和政権は神武東征という成立過程からしても、九州王朝に臣従していたはずなので、どうして仲哀が殺されたのかはわからない。

ただ九州王朝の代理人である神功は、神武と同じく、既存勢力を根こそぎ排除するのではなく、それに自らをインテグレートすることにより一種の連合政権を形成した可能性もある。

こういう意見は、学会内にもあるらしい(王朝交代説)。

九州王朝の神功軍が大和を制圧したことと、倭王武の「東国を制すること…」の記載の関係はどうなのか、それが知りたいところだ。

東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。

この「東」は日本海側沿いに進むことを意味するのだろうと思う。そこには丹後、越前、越後、さらに山を越えて関東平野までもふくまれると思う。

これに対して「西」は大和政権・吉備をふくむ瀬戸内周囲を指すのだろうと思う。戦う相手は毛人ではなく「衆夷」だ。したがってそこでは征するのではなく、服せしむることになる。

暁(あかつき)部隊のネット情報

私はかつて暁部隊の被爆者について調査し、発表したことがある。その時、集められるだけの史料は集め、関係者の聞き取りもしたつもりだった。

しかし現在ではネットでかなりの資料が閲覧可能であり、知らなかったこと、誤解していたこともあることが分かってきた。

以下、とりあえずネット上調査の結果をまとめておきたい。

まずネット上の資料を挙げておく。グーグルで登場順に並べたものである。

まずは軍内の位置づけ

1.陸軍直属の組織として船舶司令部(宇品)があり、、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した。所轄の兵は船舶兵と呼ばれた。最大18万人が在籍したという。

2.司令部のもとに二つの司令部(教育船舶兵団司令部、船舶砲兵団司令部)と野戦船舶本廠、船舶砲兵団、船舶練習部、船舶衛生隊、船舶防疫部などがおかれる。

3.管轄下の各部隊は「暁部隊」と通称された。これは各隊が秘密保持のため「暁○○部隊」という兵団文字符(秘匿名)をつけられていたことからくる。

 

次に船舶司令部と部隊の沿革

1889年(明治22年) 日清戦争に備え、宇品港が軍港として整備される。宇品島は本土と陸続きの宇品町となる。ここには、のちに改めて水道が設けられ、暁橋がかかる

1894年(明治27年) 宇品港に運輸通信支部が開設される。

1904年(明治37年) 陸軍運輸部条例発布。宇品の「台湾陸軍補給廠」を改編し「陸軍運輸部」を設置。対岸の金輪島に造船所を建設(現在の新来島宇品どっく)

1937年(昭和12年) 第二次上海事件発生に伴い、陸軍運輸部長(中将職)のもとに第1船舶輸送司令部を編成。司令部を宇品に置く。

1940年(昭和15年) 第1船舶輸送司令部をベースに、船舶輸送司令部が臨時編成。司令部は引き続き宇品。

支部を大泊・小樽・東京・新潟・敦賀・大阪・神戸・門司・釜山・羅津・大連・高雄の12箇所に設置。

1942年(昭和17年) 戦争激化に伴い、船舶輸送司令部を船舶司令部に改編。宇品の司令部のもとに、3つの船舶輸送司令部(門司、上海、昭南)が設置される。

船舶司令部は他に船舶兵団も管理することになる。その後第4(ラバウル),第5(ダバオ)船舶輸送司令部が増設される。

1943年

2月 宇品に陸軍船舶練習部(少将職)が設置される。

8月 宇品に野戦船舶本廠(少将職)が設置される。

1944年10月 セブ島の船舶兵団司令部が宇品に移設され、教育船舶兵団司令部と改称される。

1945年(昭和20年)

1月 第7船舶輸送司令部が編成される。

5月 大本営海運総監部が新設され、全船舶を国家船舶として一括管理することになる。実務的には船舶司令官が国家指定船の統一運用をおこなう。

 

爆発時の状況

1.爆心地の状況

軍の機能は広島城周辺の中国軍管区司令部は壊滅し、司令官が被爆死する。広島駅北側の東練兵場に駐屯していた第二総軍もほぼ機能停止となる。

中国地方総監府・広島県庁・広島市役所も大きな被害を受け機能停止。消防機能も壊滅していた。

宇品の船舶司令部はほぼ無傷の状態。とは言っても、朝の体操をしていた兵士はほとんどが大やけどを負っている。

爆心と宇品
   ヒロシマ新聞より転載

2.被爆後の救援・整理活動

下の絵はきのこ雲の形成過程。

被爆証言を残そう!ヒロシマ青空の会 1集原子爆弾爆発時の状況より

下の写真は

宇品から見た中心部
ヒロシマ新聞より転載。午前9時ころ、宇品の船舶練習部から中心部方面をとった写真である。おそらく2,3キロ位のところまで煙(二次火災)に包まれており、それから先は見えない。

以下はヒロシマ新聞より引用。

直後 船舶司令部は、佐伯文郎司令官の指示で第二総軍、県庁、市役所などに電話連絡を試みる。いずれも不通のため、兵士を各方面に偵察に出す。

午前8時50分 消火艇、救護艇を川から市中心部へ派遣。あわせ救護、消火活動に各部隊を振り分ける。(宇品には全国から徴用された民間船が集結していた)

午前9時 被災者が船舶司令部に集まり始める。当初は被害を受けてない軍医二人、衛生兵三人、看護婦五人が治療に当たる。

殆んどが全身火傷で、すすだらけで黒ずんだ顔。髪の毛や衣服はぼろぼろに焼けちぎれ、肌は焼けただれたり火ぶくれになっていた。皮膚はたれ下がり、又、皮膚や肉片が衣服にくっついていた。担架に乗せようとすると皮膚がずるりと剥けて、手のほどこしようがなかった。
…火傷臭と死臭の漂う収容所内で何度も遺体の搬出をおこなった。船で似島(検疫所)へ移された。

午前11時 佐伯司令官、中国地方の各基地に対し、「敵の新型爆弾が広島市に投下さる。各基地は全力を挙げて復旧救援に従事せよ」との指令を発出。

午前12時 江田島・幸の浦基地の部隊(船舶練習部第十教育隊)が宇品に到着。そのまま市内に進出し救援作業に当たる(この部隊は特攻隊で、ボートで敵船に突っ込む訓練をしていた。マルレ艇を見よ)

午前12時 千田町の広島電鉄本社に指揮所を設置。負傷者の救護にあたる。宇品では対応できないと判断した司令部は、対岸の似島検疫所へ船による輸送を始める。(金輪島へも多くの負傷者が運ばれている)

午後1時 宇品地区の水道が減水。幸の浦基地より衛生濾水器を輸送し、水を確保。罹災者に乾パン、作業着、蜜柑缶詰などを配給する。

午後2時 この時点までに収容した負傷者は1300人。その後も後を絶たず。

夕方 船舶教育隊(石塚隊)が紙屋町、八丁堀のあいだの屍体発掘作業。

7日、船舶司令部の佐伯司令官が「広島警備本部」として市内の救援活動や警備活動の指揮をとることとなり県庁・県防空本部を指揮下に入れる。


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