鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年03月

開幕以来の数試合でいうのもなんだが、日本ハムのBクラスはほぼ確定だ。陽岱鋼、田中健介はすでに盛りを過ぎた。中田は今以上のものにはならないだろう。近藤はチームの中軸とはなるだろうがキャッチャーは無理だ。西川のちゃらんぽらんはチームにとってマイナスだ。若手の内の2,3人が大化けしないと未来は暗い。
大谷が大リーグに行ってしまうと客を呼べるようなキャラは皆無となる。
投手陣も野手ほどではないが、それほど未来は明るくない。有原がいまのところいいが、あの投げ方で150キロ出していたら肩か肘が壊れる。榊原が壊れたのと同じだ。バースは明日にでもクビ、メンドーサも来季はない。中村勝も明日はない、高梨が計算できるとしても、あとは上沢の再起(チェンジアップ系)を祈るのみである。
とにかく中田を4番から外す時が日本ハムを再びAクラスに引き上げるための試練の時になると思う。そのときはスモールベースボール以外にない。田中がファーストに回って「つなぐ4番」を復活させ、レフト石川、センター岡、ライト近藤を中心に若手で外野を埋める。セカンドは当面杉谷でしのぐが将来的には横尾。
陽岱鋼、中田、西川は悪いが戦力外通告だ。

  

というわけで、気を取り直して、今度はジェームス・ミルの生い立ち。

こちらは靴屋の息子から成り上がり、聖職者の養育を受けながら、無神論者となり、やがてベンサム一家の代貸として人脈を築いていく。そしてイギリス 古典経済学の一本化に一役買う、というなかなか波乱にとんだ人生だ。どうせ自伝を読むなら、こちらのほうが面白そうだが、そういう人には自伝を書くような ヒマも、その気もない。

Web上の文献もJ.S.ミルよりはるかに少ないが、少し探してみる。

まずはウィキペディアに載った彼の肖像画、

ほとんどハゲと言っていいほどの広い額の下にどことなく落ち着きの悪そうな小顔が続いている。

J.S.ミルの年譜で(「ミル親子 年譜」と改題)簡単に紹介してあるので、それに加える形で進む。

靴屋の息子ということだが、母親はステュワート家とも繋がる良家の出、とあるがそんなことがありうるのかと思う。ウィキではそれ以上は分からない。

スコットランド長老派の信仰により育てられたが、天啓も自然宗教もともに斥ける立場をとった。ただしカルヴィニストとしての生活信条はそのまま保持された。
 

18世紀後半のスコットランドはアダム・スミス、デービッド・ヒューム、ジェームズ・ワットらを輩出し、フランスに勝るとも劣らない知的・精神的拠点となっていた。
カルビン派プロテスタントの支配するなかで、国家組織や貴族サロンに支配されない、自由で自立的な「個人」の観念が育っていた。(アーサー・ハーマン)
ヒューム以来の啓蒙主義(産業主義)は、文明の進展が自由の擁護者としての中間階級の増大をもたらすとの認識を共有していた。(フォンタナ)

エディンバラ大学を卒業。牧師となる。議員となった支援者ジョン・スチュワートに附いてロンドンに出る。哲学的急進派と呼ばれる集団を形成する一方、ジャーナリストとして不安定な生活を送る。

1808年 父ミル、「商業擁護論」を発表。「販路説」を打ち出す。これについてはフランスのセーの「経済学概論」からのコピーとする説もある。

スミスの混乱した複雑な体系から、流動資本のみを対象とする資本循環のメカニズムを抽出した。これを「販路説」として純化した。(田中秀臣
穀物騰貴により地主が大儲けすることを批判。これに同感したリカードウが父ミルに接近した。(櫻井毅

1808年 ベンサムと知り合い、その支援を受けるようになる。ベンタム崇拝者として“教義”を広める。

ベンサムは哲学的急進派との出会いを通じて、既存エリートを改革の担い手と見なす考えを放棄し、急進的な議会改革を訴えるようになる。
ベンタムは「ジェームズ・ミルは自分の弟子で,そして,リカードがジェームズ・ミルの弟子だから,リカードは自分の孫弟子だ」と語った。(櫻井毅

1809年 リカードウが最初の経済学論文「銀行券の減価の証拠となる金地金の高騰」を発表。「地金論争」が巻き起こる。

1815年 ナポレオン戦争の影響で穀物の価格が暴落。地主を中心とする議会勢力に打撃を与える。地主は穀物法を盾に価格の高値維持を主張。リカードウは自由貿易政策を進める立場から穀物法に反対。

リカードウ: ユダヤ人の証券仲買人の息子として生れ、独立したあと公債取引等で成功し、イギリスで屈指の証券業者となった。アダム・スミスの『国富論』に接し経済学に興味をもち、1810年ころから論壇に参加する。
リカードウというのは先祖がポルトガルに住んでいたためで、Ricardo を英語読みしたもの(らしい)。

1815年 穀物法が議会を通過。友人ジェームズ・ミルの強い影響の下、パンフレット『穀物の低価格が資本の利潤に及ぼす影響についての試論』をあらわす。

穀物法廃止論者で自由貿易賛成派のリカードウは、保護貿易論者のマルサスと衝突し論争となる。(ただし仲が悪かったわけではなく、リカードウは株の仲介でマルサスに儲けせてやっている)

1815年 父ミル、リカードウあて書簡で政治経済学への専心、議員としての公的活動を要請。(この辺の経過は<講演> リカードの「経済学原理」とその周辺 に詳しい)

今やあなたはご家族全部の幸福を図るに足るだけのお金を作られたのだから、この種の獲物には満足し、これからは他の仕事のために余暇を使ってほしいものです
父ミルはリカードウを“イギリスのケネー”に仕立てようとしていたと言われる。

1817年 リカードウの『経済学および課税の原理』が刊行される。

父ミルの督促: とにかく友達に手紙を送るような気持で,思いついたことをどんどんまとめて書きなさい,書いたら私に送りなさい,私がそれを整理して,うまく書き直すなり,なんなりのことをしてあげましょう。…学校教師の立場であなたに強制します。

1818年 父ミル、『英国領インド史』を出版。これを機縁とし東インド会社に就職。

市民社会一般の研究への“悪くない入門書”と自己評価。
これまで我々が知っているもっとも粗野な状態からもっとも完成された状態にいたるまでの殆どを扱い、そこでの社会秩序の諸原理と諸法則とを暴露する。

1820年 父ミル、『統治論』(An Essay on Government)を発表。主著とされる。自己利益優先の原理を前提としつつ、支配者の権力の濫用を防いで社会の多数者の物質的利益を擁護することを統治の目的とする。

略奪者の抑制が統治の目的: 
欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。
中間階級の賛美: 
1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)
2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。
2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している」
3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。
4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。
(ミルが中産階級をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく。中間「階層」として捉えていることが分かる)

1821年 父ミル、リカードウの「原理」を初心者向けに解説した「経済学要綱」を出版。古典経済派の最初の経済学教科書と言われる。

原題は Elements of Political Economy。「政治経済学の初歩」と訳しているものもある。ただしマカロッチは「あまりに抽象的な性格で、平易でもなくあまり有益でもない」と酷評し ている。理由は、経済学的な説明の中に哲学急進派としての父ミルの見解が紛れ込まされていることから来るとされる。(立川潔


1829年 父ミル、連想心理学の手法を用いた『人間精神の現象の分析』を発行。

1836年 ジェームズ・ミルが死亡。


参考文献

ジェイムズ・ ミルの初期販路説とアダム ・スミス 田中秀臣 著 早稲田経済学研究 38号(1993)

ジェイムズ・ ミルにおける中間階級と議会改革 ジェイムズ ・ ミルにおける中庸な財産と陶冶 立川 潔 著 

西洋経済古書収集ージェームズ・ミル,『経済学要綱』 稀書自慢さんのサイト

 

 

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

なかなか本題に入れず、またも余分なことを書く。歳のせいで、大仕事に取り組むのがだんだん億劫になってくる。

今日は、「マルクスがパリノートで読んだミルの本が何だったのか」ということについて、心覚えを記しておく。

1844年か45年にマルクスが読んだミルの本はただ一冊。「経済学綱要」という本のフランス語訳である。

この本が書かれたのは1823年とある。フランス語訳がいつ行われたのかは分からない。

それが「ミル評注」のテキストとなり、「経哲手稿」の「疎外された労働」のテキストになっていくのだから、大変重要な本だということになる。

しかし、小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」 ではこの本のことには触れられていないのである。つまりJ.S.ミルにとっては大した著作ではないということなのか。


年譜をあらためて振り返ってみよう。

1823年といえば、ミルはまだ17歳。日本で言えば高校2年生だ。

ただしこの人、親父が星一徹で、激しいスパルタ教育を受け、はやくもリカードウの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』を読破している。

どうしてこういう読み方をしたか。それは父ミルの指示によるものだ。

父ミルはリカードウの親友で、まだ原稿状態の「原理」を読んだ。そして内容に感激して、ためらうリカードウを説き伏せて出版にまで持って行った、そういう人物である(出版は1817年)。

ここから先は想像だが、父ミルはリカードウを説得した情熱と同じ情熱で、刷り上がったばかりの「原理」を息子に読ませたのだろう。ひでぇ親だ。

父ミルは、リカードウを読了したミルに今度はスミスの「国富論」を読むように迫った。おそらくリカードウについての一文を息子にものさせようという魂胆だろう。

それが終わると、父ミルは息子をフランスに送り、バプティスト・セエと面会させた。セエはフランスで高名な功利主義者で、父ミルとも面識があった。当時、セエは「原理」について一定の批判があったようで、リカードウをフランスに紹介しつつ、論争もするという立場にあった。

というわけで、帰国したミルはただちに旺盛な執筆活動を開始するのだが、「経済学要綱」はおそらくそのうちの一篇に違いない。

とは言うものの、その時までに読んだ経済学の著作は数えるほどであろうから、おそらくこの論文はリカードウの解説書であったろうと思われる。前年に亡くなったリカードウの追悼の意味も含まれているだろう。そしてそれがスミスの「国富論」という経済学の王道の上にあることを論証し、ベンサムの功利主義の色合いも織り込んで、セエの批判も受け止めつつ展開されたものであろうと思われる。

父ミルから見ると、これらの糸は手に取るように明らかだ。


ここまで書いたところで、下記のページが見つかった。

稀書自慢 西洋経済古書収集 さんのページの ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版 の紹介である。

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下記の如く簡単な説明がついている。

ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版

MILL, JAMES , Elements of Political Economy , London, Printed for Baldwin, Cradock and Joy, 1821, pp.xiii+240, 8vo.

直訳すれば「政治経済学の要点」ということになる。装丁は立派だが240ページだから、中身は新書版に毛が生えた程度だ。

リカード経済学を初学者向け教科書として執筆したもの。英語で書かれた最初の経済学教科書とされる。

と解説されている。

そういうことなのだ。つまりミルのオリジナリティーはほとんど発揮されておらず、ミルの著作の中での位置は高くない。だから小沼さんはあえて取り上げなかったのかも知れない。

しかし、ミルという立場を離れて、この本を客観的に経済学史の中に位置づければ、英語で書かれた最初の経済学教科書であり、決してあだやおろそかにはできない。しかもリカードを古典経済学のチャンピオンとして押し出す上でも大きな役割を果たした。

だから出版から20年を経てフランスでも人口に膾炙され、マルクスが古典経済学の入門書として選んだのだ、ということになる。

私は1823年(17歳時)の出版と書いたが、これはパリノートの論考に書かれていたのをそのまま引用したものだった。

しかし21年というとさらに若く、わずか15歳の時の著作ということになる。恐るべきことだが、成立の実情はだいぶ違ったもののようだ。

この本の成立事情については、J・S・ミルが『自叙伝』第一章で触れている。

父ミルは息子を引き連れて毎朝に散歩するのが習わしだった。その時に、歩きながら経済学の講義をし、翌日それを文章にして提出させた。

リカードの「原理」についても同じことが行われた。父ミルは、そうやって出来上がったレポートをさらに書き直させ、レポートを蓄積した。それがこの本の素稿となった。

もしそうだとすれば、「英語で書かれた最初の経済学教科書」を作りあげたのは父ミルの功績ということになる。

父ミルの功績としては次のポイントがあげられるだろう。

1.イギリス古典経済学の正規の、最良の後継者としてリカードを掘り起こしたこと

2.それをぺティー、A.スミスにつながる正統派の嫡流としてプロモートしたこと

3.リカードの理論を経済学の標準理論として脚色・整序したこと。マルクス流にいえば俗流化させたこと

4.マルサスからベンサムへとつながる功利主義者に、ブルジョア民主主義派公認の経済理論としての承認を取り付けたこと

15歳の「天才少年」J.S. ミルは、この時点では、父ミルのしつらえた舞台で踊るパペットに過ぎない。(超高機能ではあるが)

なお、希書自慢さんは「リカード経済学の初学者向け教科書」として本書を特色づけ、以下のように説明している。

この本の章立てが示すように内容は、生産(第1章)、分配(第2章)、交換(第3章)、消費(第4章)の4分法である。

森嶋流の区分では、リカードの主著の「経済学の原理」部分が本書1、2、3章と4章の1~3節、そして「課税」の部分が本書の4章の4~17節に該当するといえようか。

ともあれ、この本の出版後20数年を経て、マルクスはそのフランス語訳を手に入れ、これをもとにイギリス古典経済を学び経済の概念を把握した。それがパリ・ノートであり、とりわけミル評注であり、貨幣論を仲立ちとした「疎外された労働」概念であった。

マルクスの評価では、ミルはリカードの理論を体系的な形で叙述した最初の人であった。しかしミルは「リカード学派の解体は彼とともに始まる」(『剰余価値学説史』と手厳しい評価を下された。それもやむを得ないことであったが、紹介者としての宿命だろうと思われる。

この説明については、まったくコメントする立場にない。

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

とりあえずの感想としてミルとマルクスとを対比してみると、

1.革命家対改良家の違い

ミルはそれなりに進歩的で、資本主義の矛盾も感じていたと思われるが、根本的な矛盾は感じていいない。ヨーロッパの動乱は、産業が隆盛するイギリスにとっては、文字通り対岸の火事であった。

マルクスはまず何よりも革命家であった。48年の革命に自らも参加し数度にわたり勾留され、その後イギリスでの亡命生活に入った。

彼にとっては理論はつまるところ革命のためだ。だから「資本主義の弔いの鐘がなる。収奪者が収奪される」というのは革命家としての願望であり、ほとんど信仰に近い。

ミルにとっては、たとえ忌まわしい側面を持っていたとしても、資本主義的生産システムそのものが自明の前提であるから、マルクスと似たようなことを考えても、その結論は真逆になってくる。

確かに「収奪者が収奪され」ても問題は解決しないわけで、システム構築課題としては、収奪者が収奪できなくなることのほうが本質的であるが…

2.民衆を見る目の違い

ミルは明らかにエリート主義者だ。参政権の拡大を主張したとしても、それは条件付きであり、根本的にはアリストクラシーの信奉者だ。ただこれには時代的制約があり、いまの世の中ならもう少し別の考えを持ったかもしれない。

「衆愚政治」をめぐる懸念は革命家にとって常に悩ましい問題だ。マルクスはこれを「労働者階級」という概念をつくり上げることによって克服しようとした。

そしてそのための土台を、科学技術革命の中に求めようとした。それはかなり説得力のあるものではあったが、結果的にはそれはスターリニズムを生み出してしまった。

この点については、これからも「真の人類の歴史の始まり」を目指す模索の時代が続くと思われる。

それまでの間をどうするか。それには、もう少し虚心坦懐にミルの意見を聞くべきだろう。

ミル親子関連の記事

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

ジョン・スチュアート・ミル

実は経済学・哲学手稿がまだ終わっていない。

結局、へーゲルの論理学があって、それをフォイエルバッハが批判して、マルクスがそれを受け継ぎながらヘーゲル批判をやっているうちに精神現象学まで遡ってしまい、そのうちに「ヘーゲルのほうが正しいんじゃないか」と思うようになってしまい、そんなこんなの中で書かれた手稿だから、読み解くのがとても難しい。

地の文の中でヘーゲルの主張とフォイエルバッハの批判と、マルクス自身の考えが入り混じって並んでいる。

しかも訳文がきわめて読みにくいと来ているから、「挫折するのも当然だ」といまは開き直っている。

フォイエルバッハの所論は飛ばして、とりあえずヘーゲルの精神現象学をマルクスがどう読み解いたかが知りたいのだが、そのためにはヘーゲルの精神現象学を最低のレベルでも良いので理解しなくてはならない。

ということで精神現象学の解説本を読み漁るうちに討ち死にしたというのが現状だ。

そこで今度は、そちらはいったんあきらめて、ミルの方から攻めてみたいと思う。マルクスはけっこうミルを勉強している。それにもかかわらず、ミルへの評価はケチョンケチョンだ。一体それはなぜだろうかというのが、以前から気にはなっていた。

そこでミルの勉強を始めてみた。たぶんまた挫折するだろうが…

まずは年表から

ミル(John Stuart Mill) には詳細な自伝があるようだ。これだけでも変わった人物だ。

ミルに関する論考は、Web だけでも山ほどあるが、ここでは主として小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」を参考とした。

ミルの思想はどうしても父ジェイムズ・ミルとの関係を無視して語ることはできない。そこで父ミルの立志伝から起こすことにした。

さらにミルの思想はどうしてもマルクスと関連付けなければならないし、ヨーロッパを覆った革命の波とも関連付けなければならない。そこで年表に赤字で付け加えることにした。


 

1773年 ジェイムズ・ミル(James Mill)、スコットランドに生まれる。生家は靴屋だったが、スコットランド財務判事のジョン・ステュアート卿にその才能を認められ,エディンバラ大学に学ぶ。

1802年 ジェイムズ・ミル、ロンドンに出て著述業で身を立てる。徹底した民主主義者で,富裕な人々の考え方を嫌悪していたという。

1806年 ロンドンで生まれる。父ミルはJ.S.ミルに徹底的な英才教育を施した。(ミルへの教育は,愛の教育ではなく恐怖の教育であった)

1808年 父ミル、「商業擁護論」を刊行。

1810年 父ミル、ジェレミー・ベンサムの知遇を得、ベンサム邸のとなりに寄寓するようになる。

1817年 父ミル、10年を費やした「英領インド史」を刊行。

1817年 デイヴィド・リカードウ、『経済学および課税の原理』を出版。出版にあたっては父ミルの強い勧めがあったとされる。

1818年 マルクスが誕生

1819年 ミル(13歳)、リカードウの『原理』を読む。引き続きスミスの『国富論』に着手。

1820年 ミル、1年間にわたりフランスに留学。父ミルの友人セイ(Jean Baptist Say, 1767-1832)の家にもしばらく滞在。また社会主義者のサン・シモンとも面会している。

1823年 ミル、東インド会社に就職。

1824年 ベンサムの出資により「哲学的急進派」の機関誌『ウェストミンスター・レヴュー』が創刊される。功利主義と民主主義に基づく議会改革運動。

「哲学的急進派」の理論的基礎の一つがマルサスの人口原理である。ミルは誌上で人口制限政策を主張した。

1826年 ミル(20歳)、ベンサム主義に対する深刻な懐疑を抱く。「幸福は目的ではなく、何かの目的を追求する中に見出される」と考えるようになる。

ミルはワーズワースの詩を読んでロマン主義に傾斜。幸福-感情に彩られた思想の状態を会得したとされる。

1833年 ベンサムの死後1年を機に「ベンサムの哲学」を発表。

ベンサムは「人類は幸福衝動という刺激によって支配されている」と考えた。しかしそれは、実際に人類を動かしている多様な刺激の一部にすぎない。
またベンサムは「その目的のためには冷酷で思慮深い計算家である」と考えている。それは人類が実際にそうであるよりも、はるかに誇張されている。

1833年 ジョン・テイラー夫人のハリエットと恋愛関係(不倫?)に陥る。半公認の三角関係は1849年まで続く。

1833年 ミル、『ジュリスト』誌上に「公共財団と教会財産」を発表。社会的害悪の主要な源泉は,無知と教養の欠如であるとし、政府による教育の充実を提唱する。

1842年 マルクス、ライン地方の『ライン新聞』に参加。革命家としての生涯に踏み出す。

1843年 「論理学体系」(A System of Logic)を発表。帰納法によって発見された経験法則を、再度現象の予測に適用して、法則の真理性を確認するという逆演繹法を確立した。

1844年 Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, を発表。マルクスが読んだのはこの本か?

1848年 マルクス、「共産党宣言」を発表。フランスで二月革命、次いでドイツで三月革命。

1849年 ロンドンに入り以後40年をロンドンで亡命者として暮らす。

1848年 「経済学原理」を発表。正式のタイトルは「政治経済学の諸原理」(The Principles of Political Economy: with some of their applications to social philosophy)である。

リカード以来の古典派経済学のフレームワークに従い、「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書く。
自由放任政策を支持する一方、ロバート・オウエンなどの影響を受けて社会主義的な色合いを持つ。これは折衷主義として、マルクスの激しい批判にさらされる。

1850年 雑誌に「黒人問題」を寄稿。

1851年 ミル、ハリエットと結婚。逆に母や弟妹とは不和になり、二人で別居することになる。

1858年 長年勤めた東インド会社が廃止となる。退社を機に夫婦で南仏旅行。旅行中にハリエットが急逝。

1859年 「自由論」(On Liberty)を発表。(これについては別途検討)

多数者の専制批判: ①たった一人の反対意見が真理かもしれない。②支配的意見は反対意見との論争によって、その合理的根拠が理解できる。③反対意見の中にも真理の一部分が含まれている(常にではないが)

1861年 ミル、『代議制統治論』を公刊。下層階級が選挙権をもつことに反対。教養人に複数投票権を与えることを主張する。

1863年 「功利主義」(Utilitarianism)を発表。

1864年 第一インターナショナル(国際労働者協会)結成。マルクスが指導者となる。

1865年 ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員となる。約4年間の議員生活を送る。ミルは、労働者階級の選挙権、女性参政権を国会に提案。

政治的ポジションは急進的なリベラルであった。アイルランドの負担軽減、婦人参政権、普通選挙制などを主張。ジャマイカ事件で黒人反乱を擁護した。

1866年 資本論第一巻が発行される。

1869年 「女性の解放」(The Subjection of Women)を発表。

1870年 ミル、土地保有改革協会を設立。資本主義的な土地改革を打ち出す。国営・公営農業については認めず。

1871年 普仏戦争→パリコミューン。マルクスが「フランスにおける内乱」を執筆。

1873年 滞在中の南フランスで病死。

1873年 義娘ヘレン・テイラーにより「ミル自伝」が発表される。


ということで、ミルの人となりがほんわかと見えてきた。

1.まず驚くのは、父ミルの広範な人脈である。マルクスが資本論草稿の中で苦闘した相手の名前が、綺羅星のごとく並ぶ。

彼らは一つの星雲を形成していたのだ。そして、学会では進歩派として位置づけられていたのだ。そして父ミルが、かなりその接着剤の役割をなしていたようだ。

2.ミルの関心領域はマルクスのそれと著しく近接している。おそらくマルクスはイギリス滞在中つねにミルを意識していたはずだ。にも関わらず、マルクスは経哲手稿・ミル評注以降徹底的に無視している。まともな理論家として扱っていない。

 3.マルクス主義の分野では、ミルを折衷主義者とするレッテル貼りがもっぱらである。それには二つ理由がありそうだ。ひとつは彼自身がベンサムとワズワースとカントのアマルガムであるということ、もう一つはそれれを融合して新たな思想の地平を作るに至ってはいないということだ。

4.おそらくそれには理由がある。父ミルと違い、彼は党派に属さず孤高を貫いている。それではやはり結局は、人畜無害な評論家にしかなれない。しかしそのことと、彼の政治・経済理論が無力であるかどうかは別の話である。

ミル親子関連の記事

井上陽水の曲を何曲か続けて聞いている。
最初の2,3曲はたしかにおやっと思うほどよかった。
しかしそのうちに疲れてくる。
この男っていったい何なんだろうと思ってしまうのだ。
すごい感性ときれいな声と、素晴らしい音楽センス、すべてを持っているのだが、聞いているうちに落ち着かなくなってくる。
ここは俺の世界ではないな、という居心地の悪さを、いつのまにか感じるようになってしまうのだ。
これだけ同じフィーリング、同時代のフィーリングを感じながら、その底にヒヤッとした冷たさを感じるのだ。
これがさだまさしだと、いささかのあざとさを感じつつも、それもふくめて「われらが世代」感を共有できるのだが、井上陽水にはそのような共感をさしはさむ余地がない。
いろいろ考えてみて、とりあえず次のような結論に達した。
彼には前頭葉がないのだ。これは歌詞だけの話である。本人にはもちろん立派な前頭葉があるのであるが、その歌詞には前頭葉の働きが感じられないのだ。
おそらく前頭葉につながる回路を無意識のうちに遮断しているのだろう。昔の思い出をたぐり寄せながら、「こんなタイプの人間が居たっけ?」と思いめぐらせるが、どうもあまり思い浮かばない。たぶん同じような思考回路の持ち主はいたのだろうが、井上陽水ほどには素質を持ち合わせていなかったということかもしれない。
似たような傾向の歌手にボブ・ディランがいる。しかし彼はもう少しフォークソングの精神に寄り添っていた。だから逆に裏切者呼ばわりをされるのであるが、そういう意味で井上陽水を裏切者と呼ぶ人はよもやおるまい。
それはもはやどうでもいいことだ。肝心なのはあれからすでに50年近くを経過して、いまあらためて聞きなおしてみて、首から上の世界で彼に共感できるものは何一つないということだ。
お互いエイリアンということか。

原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

しばらくサボっていたが、経済の勉強。

23日から赤旗に「経済四季報」が連載されている。

かなりポイントを抑えた簡潔なレポートなので、紹介しておく。

1回めは「世界経済」

最初にポイントがまとめられている。

①米国経済に減速の兆し: 2015年12月の利上げの後、追加利上げは見送り。
②欧州経済は回復が鈍化: 追加金融緩和したものの、マイナス金利拡大には限界。
③新興国経済には資源価格低迷が打撃。中国の景気減速と連鎖し、貿易に悪循環。

ときれいにまとめられた。あまり迫力はないが…

①米国経済

15年第4四半期のGDPは前年比1.0%だった。これは二期連続の低下。

原因は金融市場の混乱とこれに伴う消費控え、ドル高と世界の景気減退に伴う輸出の低迷が挙げられている。(“金融市場の混乱”が何を指すのかは不明)

イエレン議長は「国際的な経済・金融情勢がリスクになっている」と語った。(これももう少し詳細が知りたい)

②欧州経済

EU全体のGDPはプラス0.3%、ユーロ圏では1.1%の伸びとなった。いずれも小幅鈍化となった。

原因は主として中国と新興国の景気減速の余波とされる。(つまりEUは世界経済を規定する主要経済域ではないということだ)

ECBは3つの景気対策をとっている。その一つがマイナス金利。その他に政策金利0%、量的金融緩和が行われている。

マイナス金利というのは、市中銀行の中銀預け入れ金利のこと。昨年12月以来始められているが、3月にはマイナス0.3%から0.4%へとさらに引き下げられた。

ドラギECB総裁は「マイナス金利を続ければ、銀行システムに悪影響が及ぶ」とし、長期とはならないことを示唆。

③新興国経済

ロシアはGDPが前年比マイナス3.7%となった。歳入の半分を占める原油の価格下落が響く。ブラジルのGDPもマイナス3.8%。こちらは鉄鉱石の価格低迷が寄与している。

これらの理由により世界の総輸入額の伸びが半減した(3.0→1.7%)。この結果中国の輸出が減り、その結果中国の輸入が減るという悪循環を形成している。(世銀の分析)

とここまでが1日目の記事。

2回めは「中国経済」

ポイントは以下のとおり

①中国経済は25年ぶりの低成長期となる。生産と貿易が同時に低下。
②中国の経済減速はアジアと世界の各国に波及し打撃を与えている。
③新5カ年計画で、技術革新と調和を目指す。

ということで、ポイントといえばポイントではあるが、ちょっとづつポイントを外している感じがする。とくに米日欧の経済対策が金融政策中心に動いているため、中国の景気減速が国際金融・通貨面でどのような影響をおよぼすかが関心の的であるが、この点について触れられていない。

より本質的には「社会主義的市場経済」というシステムが、最初の「恐慌」を迎えて機能できるのかが問われるわけで、まぁ四季報レベルでは無理な相談だが、念頭には置いておかなければならないだろう。

①生産の鈍化と輸出の減少

2015年GDPは前年比6.9%増。これは25年ぶりの低い伸び。純輸出はマイナス0.2%となった。

国内投資の総量を示す総資本形成は3.4→2.5%に低下した。これは生産能力の飽和を示す。

②最終消費が景気を下支えしている

このなかで最終消費は3.7→4.6%と伸びており、これが景気を下支えしている。これが消費バブルなのか社会生活の向上に根ざすものかは判断を保留。

③過剰生産能力

生産能力の飽和を示す直接指標として生産設備の稼働率があげられる。鉄鋼・アルミなどでは60%台、鉱工業生産は5.4%で7年ぶりの低い伸びであった。

過剰生産能力の解消には大規模なリストラを必要とし、それは大量の失業者を生み出す可能性がある。

④関係国への影響

中国の経済成長が1%減速すれば、アジアの経済成長率は0.33%、アジア以外の地域は0.17%下がる(IMF試算)

とくに中国製造業が不振に陥れば、資源輸出国に深刻な打撃となる。

⑤新五カ年計画

ということで、中国の景気後退は日米欧のような経済構造上の問題に根ざしているのではなく、基本的には景気循環上のリセッションとして捉えられる、ということだ。

それがたんなるリセッションの域を越えて深刻化しているのは、リーマン・ショック時の政府の過剰対応による。リーマン・ショック時、中国政府は日本円換算で53兆円の財政出動を行い、これが生産過剰を増強した。

こういう見方であれば、中国経済の先行きにはさほど悲観する必要はないということになる。

「しかし、本当にそれだけなのであろうか? 何か根本的な脆弱性に根ざしているのではないだろうか?」という漠然とした不安は残るが…

3回めは「国内景気」

ポイントは以下のとおり

①マイナス金利導入は、異次元金融緩和の破綻を示す。
②GDPはマイナス成長。消費低迷を脱却できないことが要因。
③春闘不発。大企業を支援しても賃上げはせず。

①マイナス金利

異次元緩和で民間銀行にお金を供給。しかし市中に回らず、日銀当座預金が積増しされる。これを拒否するためのマイナス金利。しかし貸出先がなければ問題解決にはならず。これは異次元緩和の行き詰まりを示す。

②マイナス成長

第三4半期GDPは年率換算でマイナス1.1%。企業の売上高・経常利益は揃って減少。

個人消費が0.9%減で、中国とは逆に個人消費が景気の足を引っ張っている。

③マイナス収入

毎月勤労統計で、実質賃金指数は4年連続でマイナス。


この連載がいつまで続くか分からないが、問題をとりあえず整理するのには役立つが、あくまでも自己学習のための足がかりだと考えておいたほうが良さそうだ。

を増補しての感想

2013年11月03日

のうち、今回はに手を着けました。1946年(昭和21年)の記述です。


我々は戦後をリアル・タイムで過ごしているから、なんとなく知っている雰囲気になっている。

しかし勉強してみると、実は何にも知らないということがよくわかる。

とくに占領軍が何をしたのか、何をしようとしたのかについては何もわかっていない。戦後史年表のほとんどは日本政府が何をしたかで埋め尽くされている。本当の主語はGHQであるにも関わらず、記述上は日本政府のしたことになっている。まさに「皇国史観」である。

しかし実際に日本政府のやったことはGHQの方針に「日本政府」のハンコを押しただけであり、重要な政策決定はすべてGHQの中で行われていた。吉田首相をよいしょするドラマが何度も作られているが、あれは大嘘で、彼はただのマッカーサーの腰ぎんちゃくに過ぎない。外交官なんてものは“ヒラメ人”というか“手のひら人”というか、しょせんそういう人種である。

歴史を本当に、世界史的視野で知ろうと思えば、GHQの政策の決定過程、とりわけアメリカの本国政府との関係で見ていかなくてはならない。日本人には無敵に見えただろうが、GHQは米本国政府の出先機関に過ぎない。マッカーサーとGHQマフィアの光輝くキャリアは、昭和23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本は反共の橋頭保」発言をもって終わっている。

基本的には2年半足らずの短期間、彼らは思いっきり腕を振るった。それができたのについてはマッカーサーという人物の独特のキャラと押しの強さが結構ものを言っている感もある。それは一種の権力の空白であった。本国政府はソ連とどう付き合うのか、ヨーロッパをどうするのかで頭がいっぱいだった。一方ではルーズベルトの長期政権の下で形成されたニューディーラーをどう扱うのかも深刻な選択であった。

終戦の時点でマッカーサーは本国政府よりも右側にいた。しかし昭和23年初頭のロイヤル発言の時点で、本国政府はGHQよりも右に移動していた。

本国政府がニューディーラーをソ連内通者として排除し、マーシャル長官、アチソン次官ら国務省幹部が日本の直接支配を志向するに及んで、GHQの独自の役割は消失した。それは米政府の反共主義のたんなる執行人となった。重要な政策は彼らの頭越しに本国政府が直接取り仕切るようになった。マッカーサーはていの良いお飾りとなった

こういう流れとして、戦後の日本を把握しておく必要がある。

正確に言うと、その3ではなく、写真集だ。

Viv's blog というページの2012年3月の記事で「喫煙所あります」というのがあった。

この記事によると、ダラスを旅行した時に、空港内に喫煙所があったそうだ。6メートル四方のガラスの檻の中で10人以上の人が吸っているさまはまるで「人間テトリス」だったそうだが、テトリスがどんなものかはわからない。

そもそもダラスに喫煙室があるとは聞いたことがないが…添付された写真はダラスではなくアトランタのもの。

次の写真はフランクフルト空港のキャメルのマーク入りの喫煙所。ミュンヘンにはキャメル・ボックスのほかにウィンストンの立派なラウンジが写真確認されている。

frankfurt

ワルシャワのショパン空港にはJTが立派なラウンジを開いている。

saltlake32631

上はソルトレークシティーの喫煙所。説明には“violated the Utah Indoor Clean Air Act 2007”と書かれている。

lambert_airports_death_boxes

これはセントルイス空港の“Death Box” 1998年の写真だからもう消えているだろう。

結局、嫌煙主義者の主張は「そもそもたばこを吸う姿が目障りだから消えろ」というものだ。それは美意識の問題ではないか。

間接喫煙を錦の御旗にしているが、密閉した喫煙スペースで“自己責任”で、人に迷惑をかけずに吸うのはプライバシーの範囲だ。

「そんなものに使う金が惜しい」というが、それだけの金は払っている。たばこ飲みほど日本の財政に貢献している人種はいない。

たばこの健康被害による経済損失というが、それならおよそ快楽行為はすべて経済的損失だ。あまり体にいい快楽行為というのは聞いたことはない。そういう計算はやめよう。

長髪やひげも、鼻ピアスも入れ墨も、競馬やパチンコも他人に迷惑をかけない限りはカラスの勝手だろう。「自己責任」を声高にしゃべる有名キャスターが、ヨットで遭難して救助を求めたのはいつの話だっけ。

あなたに何の迷惑もかけていないのに、あなたが不愉快だからと言って禁止するのは、プライバシーの侵害だ。

たばこの害は別問題だ。タバコの悪影響について争うつもりはない。「自殺行為」と言われても甘受する。(ただし「自殺行為」に等しいのであって、自殺行為ではない、と密かに思う)

発がん性、肺気腫は主としてタールに関わるものなので、何らかの改善が望ましいのかもしれない。

ニコチンについて言えば、アルコール、カフェイン、テオフィリンと同列だろう。嫌煙論者からは麻薬扱いだが、酒で廃人になる人はくさるほどいるが、タバコで廃人になった人など聞いたことはない。

大体、ダイエット中毒とかマラソン中毒の方が体にははるかに有害だ。(と、密かに思う)


六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。

戦後教育制度の根幹となる文書が、「米国教育使節団の報告書」(1946年3月)である。

文部科学省のホームページにその要旨が掲載されているので、勘どころをサラッと紹介する。

経緯: ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名が1ヶ月の滞在調査の後発表したものである。

本使節団は占領当初の禁止的指令を前提としつつ、「今回は積極的提案をなすことに主要な重点」を置いたものである。

①中央集権の排除

高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治にともなう害悪を受ける。教師各自が職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。

文部省は各種の学校に対し技術的援助および専門的な助言を与える。一方で、地方の学校に対するその直接の支配力は大いに減少する。

内務省地方官吏の管理行政を排除し、地方の住民を広く教育行政に参画させる。このため一般投票により選出せる教育行政機関(教育委員会)を創設する。

教育委員会は学校の認可・教員の免許状の附与・教科書の選定に関し権限をにぎる。(現在はかかる権限は全部中央の文部省ににぎられている)

②天皇崇拝の排除

学校における勅語の朗読・御真影の奉拝等の式を挙げることは望ましくない。


③教育の目的と内容

広い知識と深い知識は、一冊の認定教科書や型通りの試験では得られない。個々の生徒の学習体験が考慮されるべきだ。

「修身」は服従心の助長に向けられて来た。今後は自由な国民生活のためになるようにすべきだ。平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、これらはみな広義の修身(公民教育)である。

地理および歴史の教科書は、神話は神話として認めるが、いっそう客観的な見解となるよう書き直す。(以下略)


④学校制度

義務教育を引上げ修業年限を9年に延長する。最初の6年は小学校において、次の3年は創設されるべき「初級中等学校」において修学する。

さらに3年制の「上級中等学校」をも設置する。この学校は授業料は無徴収、男女共学制、進学希望者全部に学習の機会を提供する。


⑤教授法

つめこみ主義、画一主義は改められる。忠孝のような上長への服従に重点を置く教授法は改められる。

思考の独立を尊重し、個性の発展をうながす。民主的公民としての権利と責任とを助長する。


⑥教員養成と教育機関

師範学校は四年制とし、現在の高等師範学校とほとんど同等の水準に再組織されるべきである。高等教育機関はさらに進んだ研究をなしうるような施設を拡充すべきである。

高等教育機関は、その目的を追求するために、あらゆる自由を保有しなくてはならない。高等教育機関における学問的自由の確立は極めて重要である。

諸要件の維持に関しては政府機関に責任がある。その役目以外には、政府機関は統制権を与えられるべきではない。このため現在の文官制度は廃止するべきである。


⑦学生の自由(この文脈では「自由」を「権利」と読み替えたほうが分かりやすい)

学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の高等な研究に進みうる自由である。

このためにはまず財政的援助が与えられなくてはならない。

とくに女子に対し、今ただちに高等教育への進学の自由が与えられるべきである。同時に女子の初等中等教育も改善されなければならない。


一読した印象としては、この報告は戦後の教育民主化の基本を成すものではない

この報告では、公民教育、軍国主義教育については、「すでに解決された」として殆ど触れられていない。

調査団が関心を持っているのは、教育の官僚統制と画一教育である。

調査団はこれに対して具体的対案を提示している。しかし天皇制と軍国主義はとても解決されたとはいえない状況にあった。それが解決されないと官僚統制も解決されないのである。

ただそれは日本の教育システムをよく知ったうえでの発言というよりは、制度いじりとアメリカ風教育スタイルの持ち込みという印象を持たざるをえない。

地方分権というが、日本においては地方こそが封建主義の牙城であり、彼らは戦災によっても被害を受けず力を温存していた。肝心なのは地方の自治ではなく中央集権的官僚機構の破壊だった。GHQがそれをしゃかりきでやっている最中だった。

それがこの報告の弱点であり、そこが旧体制派に利用されたという側面がある。旧体制派は仕掛けを変えることで、心を入れ替えたふりをすることができる。


私は戦後教育の第一世代の経験者として、これらの制度改編の大波を食らったわけだが、率直に言えば、このシステムいじりが無用な混乱と反感を招き、教育民主化の実を失わせていたのではないかと思っている。

しかしこの報告の本質はそこにあるわけではない。「学問の自由」と官僚統制の排除、分権の徹底という点での毅然とした主張こそが中核である。また「自由」を権利として明確化している点にも特徴がある。

したがって政府には「学問の自由」=学問の権利を守る責務がある、ということも明確にしている。

なおこの文章は報告の「要旨」であり、訳文にもいくつか気になるところがある。原文に直接あたっているわけではないので断言はできないが、どうも「薄めた表現」、「婉曲化表現」ではないかと思うところがある。

 

 

前にも書いたかな。
パソコンが壊れた。
Lenovo のY560 というので、たしかにもう5年間フル稼働した。寿命と言われればそれまでだが、今考えるとどうも初期不良があったようだ。
最初から排気がやたらと高熱だった。ファンの音も相当うるさかった。
ie7 を搭載した最初のノートパソコンというのにつられて発売と同時に買った。大体これがよくない。初期不良はつきものだからせめて半年してから買えばよかった。
ソニーがMDを出した時も予約で買って、3回も修理に出して、結局パアになった。それにも懲りず、据え置き型のデッキが出るとそれも見ずてん買いした。
パソコンにMDデータが移せるのが売りの、それだけの機械も買ったが結局ほとんど使わずにほこりをかぶっている。出るのが(正確には出すのが)遅すぎた。もうMP3ファイルをDACでつなげる時代に入っていた。
かつてのLPやカセットやVHSハイファイでとった音源と同様、捨てるに捨てられず、本棚の上に山積みになっている。

例によって、アルコールが回り始めて話が跳んでいく。
パソコンは最初がNECの中古、続いてエプソンの中古。これは文字通り火を噴いてお陀仏した。
ここでNEC9800シリーズとさよなら、近くにマック教の教祖が居てマックに乗り換えた。この頃はDOSV器が出始めて、三つ巴だったから、選択しなければならなかった。
しかし私にマックはあわなかった。あれは理数系の人の機械だ。週に一度は爆弾が出て、ついにあきらめた。それから富士通のFMV、エプソンのエンデバーという通信販売、IBMのシンクパッドとつないできた。
なじみの小料理屋が引退して、居抜きで買った店主のところに通い続けるのと同じで、Lenovo を買ったが、しょせんLenovo は Lenovo だ。体になじんだ椅子とカウンターは同じでも、出てくるものは総菜屋よりひどい。

ということで、ネットで一番評判のダイナブックに乗り換えた次第。
これだけ東芝のことを叩いておいていうのもなんだが、東芝はいい。我が家はテレビも冷蔵庫も東芝だ。ソニーのように時限装置が付いていないのがいい。
病院ではエコーも東芝だった。「アロカを買え」という、さる筋からのかなり強力な干渉を蹴飛ばして買ったものだ。「おまけ」の量が違うのと、東芝の販売さんが「売ってやる」式に態度がでかいのは散々聞かされた。東芝の没落には営業の責任がかなりあるのかもしれない。

またまた話が跳んだ。
それでダイナブックだが、「予想外に良い」のだ。ハイブリッドというが、ほとんどハードディスクは動かない。1時間に1回くらいかすかにモーターの音はするが、基本的には無音である。したがってほとんど熱を発しない。
SSDはたしかに250ギガでは心もとないが、今のところ2テラのハードディスクを外付けしているので、それで十分だ。何より ie7 はSSDと組み合わせてはじめてその力を発揮するのではないかと思う。
Y560 と比べると軽量小型薄型だ。タブレットに近い。しかしそれは私にとってはどうでもいい。ディスプレイの光沢がなくなって、映り込みがなくなったのはうれしい。見やすいだけではない。時に画面に醜悪な年寄りの顔が映り込むのは勘弁してほしい。
画面が小さくなってしまったのは難点だ。画面に合わせて字も小さい。二画面操作になるとてき面に効いてくる。これは老眼がますます進行している私には脅威だ。

今回の買い替えはウィンドウズ10への乗り換えと同時進行だから、使い勝手はむしろ乗り換えに規定されている。使い手は当然ながらウィンドウズ7的な使い方をしたいのだが、そのためには相当環境をいじらなければならない。
まずはスタート画面に出てくるお仕着せアプリをすべて掃き飛ばすことから始める。ついでエクスプローラー画面も縦罫もツールバーもすっきりさせてなじみのスタイルに戻す。
後は呼びもしないのにしゃしゃり出てくる「吹き出し」を排除したいのだが、まだそこまでの作業はできていない。
ここまでの印象としては、ウィンドウズ10は7をはるかに超えるような水準にはないし、完成度もまだまだということだ。95→98SE→XP→7と進んできた私には、Me とかNT とか Vista などは縁なき存在だった。しかし通信速度、記憶容量が文字通りけた違いに増えて行く流れの中ではOSの改変は不可避的だった、7から10への「進化」にはそういう背景がない。理由なき改革は「進化」ではないように思えるが、いかがであろうか。
私の考える今一番のネックは、活字のテキストファイル化である。一つには著作権の問題がある。もう一つはそれがクラウド化されたとして、そこへのアクセスの問題=ハッキングやネット犯罪への対策がある。
現実の世界の中で「自己責任」がやかましく言われるようになったのは、ネット世界の影響があると思う。ネット世界が自由で開放されたものになればなるほど、自己責任の範囲も拡大せざるを得ないのである。

ありがとう、sznm_0さん
このやり方で幽霊ファイルがあっさりと消えてくれました。
いつもファイルをデスクトップにダウンロードしているのですが、MP3のダウンロードサイトからのファイルが、結構バグが多くて、ダウンロードが途中でストップしてしまうのです。
そうすると、0kbのファイルがデスクトップに残ってしまい、どうやっても消えてくれなくて困っていました。
WEBで見るとずいぶんたくさんの解決法が載せられていて、どれも難しく、説明はそれ以上に難しく、まるでいじめを楽しんでいる雰囲気があります。
やっと簡単かつ確実な方法を教えてもらいました。
詳しくは
http://www.geocities.jp/sznm_0/free-file_del.html
を見てもらえばいいのですが、見るほどのことはありません。
要はDOSで、
CD DESKTOP
でDIRを動かして
DESKTOPになったら
DEL *.*
でみんな消えます。
残るのはカラのゴミ箱だけです。
よくよく考えれば、バカボンのパパではないが、「それでいいのだ!」です。実にシンプルです。
頻用するアプリケーションはツールバーに入れていけばいい。そうでもないものはスタート画面で開ければいい。そういうことです。
これは思想革命(目からうろこ)です。
本当にありがとうございました。

軍部の歴史についていろんな文献があるが、どれもこれも大同小異だ。
刀をもらったとか、銀時計だとか、「人情家だった」などの話にはうんざりである。
そのなかで川田稔の著作は出色ではあるが、悲しいかな類書に乏しいため比較検討ができない。
分かってきたことがいくつかある。
1.天皇制
天皇は荒木貞夫と皇道派によって議会と政府を押さえつけるための方便として利用された。それがうまくいったから、皇道派消滅後も軍部はそれを最大限に活用した。
2.昭和天皇はたんなる飾り物ではなかった
一種の戦後神話として、昭和天皇は軍部支配の犠牲者であり、本質的には平和主義者であったとされている。
しかし天皇は犠牲者でもなく平和主義者でもなく、最初は軍部の精神的代表として、のちには「大元帥」として戦争政策を推進した当事者であった。その故に政治的影響力を発揮しえたのである。
昭和天皇の思想的中核はほとんど狂信的とさえいえる反共産主義にある。かなり聡明であったかもしれないが、この反共原理主義が判断にゆがみをもたらしていると思う。
3.永田鉄山は勝負師である
永田鉄山の資質については様々な評価が下されているが、基本的には勝負師だろうと思う。斬った張ったの修羅場が大好きな人間である。戦略あって哲学なし、軍人としては最高かもしれないが、娑婆の世界では梟雄というべきであろう。
4.「強者の論理」に酔いしれて
「昭和陸軍の軌跡」を貫くのは強者の論理である。いったん始まればそれはどんどん研ぎ澄まされていく。国民は弱者であるにもかかわらず、強者の論理に酔いしれてしまった、
草野球で9番ライトさえおぼつかないのに、王・長嶋になった気分で野球評論する。打たれた投手をボロカスにののしる。怪傑黒頭巾がバッタバッタと斬り倒すのを見て胸がすっとしても、斬られた10人が生きられたはずの10の人生、墓標の前に立ち尽くす親や妻、子供には思いを致さないのである。
それが野球フアンのだいご味でもあるのだが、政治の世界では別の論理を打ち立てなくてはならない。野球評論と政治評論では視点をひっくり返さなくてはならない。自らを弱者の一員として位置づけなければならないのである。


永田鉄山と一夕会 年表

1921年(大正10年)

10月 ドイツのバーデン・バーデンで欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三人(陸士同期)が非公式会談。軍の実権を握る長州閥の打破、国家総動員に向けての計画で合意。「バーデン=バーデンの密約」と呼ばれる。1期下の東条英機も参加。

永田鉄山

永田 鉄山 1884年(明治17年)生 1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。

Toshishiro_Obata

小畑 敏四郎 1885年(明治18年)生 1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし入国できず、ベルリンに滞在。

岡村寧次

岡村 寧次 1884年(明治17年)生 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務。

1923年(大正12年) 陸軍を支配していた山県有朋が死亡。軍は引き続き長州閥の田中義一が把握。

1924年(大正13年)

宇垣一成が陸相に就任。軍縮という名の近代化を遂行。4個師団約9万人を削減し、機動力と火力、航空機の強化に乗り出す。

1926年(大正15年)

4月 永田鉄山、宇垣陸相の下で国家総動員関係の専門家として中央入り。その後内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に尽力、初代動員課長となる。

永田は第二次大戦が必至と考えた。そこでドイツの経験を踏まえ、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えようとした。

1927年(昭和2年)

永田、岡村、小畑を中心に陸士16期~18期メンバーを結集。「二葉会」を結成。会合場所であるフランス料理店二葉亭に由来する。

「二葉会」の後輩にあたる陸士22期~24期が「木曜会」を組織。永田鉄山の腹心にあたる東条が両会の橋渡し役をつとめる。

一夕会
          
ウィキペディアより

1929年(昭和4年)

5月 二葉会と木曜会の合同になる一夕会が第一回会合。1.陸軍の人事の刷新、2.満州問題の武力解決、3.非長州系三将官(荒木・真崎・林)の擁立を申し合わせる。(反長州といっても実態は反宇垣であった)

6月 関東軍の石原、「関東軍満蒙領有計画」を立案。軍事力行使による全満州染料を主張する。

石原莞爾

石原 莞爾 明治22年生 昭和3年に関東軍作戦主任参謀となる。

11月 ウォール街で株価の大暴落。以後世界大恐慌へと波及する。

1930年(昭和5年)

永田鉄山、南次郎陸相の下で陸軍省軍事課長となる。

11月 浜口首相が東京駅で狙撃される。

11月 幣原外相、南満鉄道に並行して走る中国側路線の建設を容認する方針を提示。結果的には、一夕会が満州侵攻の決断を下す引き金となる。

1931年(昭和6年)

3月 宇垣陸相を担ぐクーデター計画が発覚する。三月事件と呼ばれる。最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。

3月 参謀本部情報部が「昭和6年情勢判断」を作成。満蒙問題の「根本的解決」の必要を主張する。1.中国主権下での親日政権樹立、2.独立国家建設、3.日本の直接領有、の三つのオプションが示される。

4月 浜口首相が病気辞任。若槻礼次郎が首相に就任。陸相も宇垣から南次郎に交代。参謀総長の金谷範三は留任する。

南次郎1931
         
南 次郎(1931年)

5月 石原、「満蒙問題私見」を作成。「謀略により機会を作成し、軍部主導で国家を強引」することを主張。これにしたがい戦闘準備に入る。

6月 永田鉄山陸軍省軍事課長をトップとする五課長会議、「満蒙問題解決方針の大綱」を作成。「軍事行動のやむなきに至る」ことを想定して、その準備に入るよう主張する。

8.17 「中村大尉事件」が大々的に報道される。参謀本部の派遣したスパイ中村大尉が興安嶺で内偵中に現地兵に殺害された事件。政友会幹部や東京朝日新聞が「国権の発動」を求める。

9月18日 満州事変が勃発。奉天近郊で鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として兵を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。

事件は関東軍の石原、板垣らによる陰謀であった。この作戦を東京の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長らが支援した。

9.20 参謀本部の建川作戦部長が現地入りし関東軍幹部と会談。満蒙領有論を退け独立政権樹立を了承させる。

9.24 内閣が事態の「不拡大」声明。日本軍攻撃の正当性を認めつつ、居留民の安全が確保され次第撤退すると明らかにする。金谷参謀総長、満鉄所有地の外側の占領地店より部隊を引き揚げるよう命令。

9.25 7課長会議、金谷参謀総長の命に反し満蒙新政権の樹立を含む「時局対策案」を起案。金谷命令は現地ではうやむやのまま実行されず。

10.08 南・金谷ラインが7課長方針を受け入れ、満蒙新政権を前提とする「時局処理法案」を決定。

10.26 若槻内閣が第二次声明を発表。侵攻部隊の無条件撤退を撤回し、既成事実を容認。

11月 南陸相ら軍中央首脳部、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動し関東軍の北満(チチハル)進出を拒否。この後、軍中央は関東軍のハルビン出兵要請、錦州侵攻も認めず。

臨参委命: 参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもの。これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入る。

11月 陸軍中央、関東軍の独立国家建設方針を認めず。これにより一夕会は身動きが取れなくなる(川田稔)

12月11日 安達内相の反乱により若槻内閣が総辞職。(川田によれば安達は中野正剛を通じて一夕会と接触した可能性があるとされる)

犬養内閣が成立。陸相には一夕会が支持する荒木貞夫が就任する。

荒木は日本軍を「皇軍」と呼び、政財界など「君側の奸」を排除して親政による国家改造を説いた。その追随者は皇道派と呼ばれる。
対外路線としては「反ソ」を基本とするが、主要な目標は国内改革にあった。

1932年(昭和7年)

1月 荒木陸相、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえ、参謀次長に盟友の真崎甚三郎を充てる。

部課長人事: 一夕会の小畑敏四郎、荒木陸相の下で参謀本部作戦部長に起用される。軍務局長には山岡重厚、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。 
宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除される。

犬養内閣、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定。関東軍のチチハル、ハルビンをふくむ全満州占領方針も承認される。

1933年(昭和8年)

6月 陸軍全幕僚会議。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立。対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。

会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁(ウィキペディア)

8月 小畑敏四郎、参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出。

1934年(昭和9年)

1月23日 荒木陸相が病気辞任。後任に林銑十郎。皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。

8月 永田鉄山、国府津に腹心を集めカウンター・クーデター計画をを立案。

永田の指導する「経済国策研究会」と右翼団体「昭和神聖会」が、国家改造の上奏請願に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するというもの
ただしウィキは「反永田」で一貫しており、記事出所の信頼性が低い。

永田鉄山、陸軍省軍務局長に就任。

10月 永田鉄山、「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を作成。軍内に配布。軍内統制の強化とともに、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家を建設するよう提唱する。

11月 陸軍士官学校事件が発生。元老、重臣の襲撃を図った皇道派の村中孝次、磯部浅一らが逮捕される。皇道派はパンフレット「粛軍に関する意見書」を軍部内に配布。永田を統制派の中心として攻撃。

1935年(昭和10年)

7月 陸軍人事異動。皇道派の担ぐ真崎教育総監が更迭される。皇道派はこれを永田鉄山の画策と受け止める。

8月19日 永田鉄山、執務中に相沢三郎中佐に斬殺される。

9月 陸軍内で首脳部交代。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任。

1936年(昭和11年)

2月 相沢裁判、林前陸相、橋本前陸軍次官、真崎前教育総監を相次いで召喚。林陸相、永田軍務局長に統帥権干犯があったか否かが事件の焦点となる。

2.26 2.26事件が発生。

7.04 相沢裁判は2.26事件以降実質的審理のないまま死刑確定。相沢は銃殺刑に処せられる。

8月 粛軍人事により皇道派の一掃。小畑敏四郎も予備役に編入される。

 

恥ずかしながら全く不勉強で、昭和8年の陸軍全幕僚会議のことなど知らなかった。

なんとなく、2.26事件や相沢事件のことがあって、皇道派というのがファンキーな連中で、「統制派」というのが多少なりともまともだったのではないかと思っていた。

ところが陸軍全幕僚会議の論議を聞いていると、皇道派の方がはるかにまともで、永田鉄山の理論はとても理論とは言えないほどのハチャメチャぶりだ。どうしてこれが主流になったのかがわからない。もう少し勉強する必要があるが、とりあえずメモっておく。


1933年(昭和8年)6月、参謀本部で対ソ・対中路線をめぐる議論があった。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立の軸となった。

ソ連通の小畑敏四郎が対ソ準備を説いた。これに対し永田鉄山は「対支一撃論」を主張した。

ウィキペディアによると、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対した。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張した。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし、必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

とあるので、両派の対立というより、ひとり永田鉄山が「トンでも理論」で突っ走っていて、ほかの連中が持て余しているという印象だ。

それなのに、その後の経過を見ると、印象はまるっきり変わってくる。

ウィキペディアでは、この論争が皇道・統制両派確執の発端となったとある。

そして2か月後には、小畑敏四郎は参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出している。その年の末に荒木陸相は更迭され、その後皇道派は追い詰められていく。追い詰められたその先が2.26事件ということになる。


どうも話が変だ。バスストップ事件への対応を見ても、荒木貞夫がまともな常識人打倒はとても思えないが、それでもこの会議での発言は永田鉄山に比べれば、少なくともまだまともだ。


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