鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年03月

開幕以来の数試合でいうのもなんだが、日本ハムのBクラスはほぼ確定だ。陽岱鋼、田中健介はすでに盛りを過ぎた。中田は今以上のものにはならないだろう。近藤はチームの中軸とはなるだろうがキャッチャーは無理だ。西川のちゃらんぽらんはチームにとってマイナスだ。若手の内の2,3人が大化けしないと未来は暗い。
大谷が大リーグに行ってしまうと客を呼べるようなキャラは皆無となる。
投手陣も野手ほどではないが、それほど未来は明るくない。有原がいまのところいいが、あの投げ方で150キロ出していたら肩か肘が壊れる。榊原が壊れたのと同じだ。バースは明日にでもクビ、メンドーサも来季はない。中村勝も明日はない、高梨が計算できるとしても、あとは上沢の再起(チェンジアップ系)を祈るのみである。
とにかく中田を4番から外す時が日本ハムを再びAクラスに引き上げるための試練の時になると思う。そのときはスモールベースボール以外にない。田中がファーストに回って「つなぐ4番」を復活させ、レフト石川、センター岡、ライト近藤を中心に若手で外野を埋める。セカンドは当面杉谷でしのぐが将来的には横尾。
陽岱鋼、中田、西川は悪いが戦力外通告だ。

  

というわけで、気を取り直して、今度はジェームス・ミルの生い立ち。

こちらは靴屋の息子から成り上がり、聖職者の養育を受けながら、無神論者となり、やがてベンサム一家の代貸として人脈を築いていく。そしてイギリス 古典経済学の一本化に一役買う、というなかなか波乱にとんだ人生だ。どうせ自伝を読むなら、こちらのほうが面白そうだが、そういう人には自伝を書くような ヒマも、その気もない。

Web上の文献もJ.S.ミルよりはるかに少ないが、少し探してみる。

まずはウィキペディアに載った彼の肖像画、

ほとんどハゲと言っていいほどの広い額の下にどことなく落ち着きの悪そうな小顔が続いている。

J.S.ミルの年譜で(「ミル親子 年譜」と改題)簡単に紹介してあるので、それに加える形で進む。

靴屋の息子ということだが、母親はステュワート家とも繋がる良家の出、とあるがそんなことがありうるのかと思う。ウィキではそれ以上は分からない。

スコットランド長老派の信仰により育てられたが、天啓も自然宗教もともに斥ける立場をとった。ただしカルヴィニストとしての生活信条はそのまま保持された。
 

18世紀後半のスコットランドはアダム・スミス、デービッド・ヒューム、ジェームズ・ワットらを輩出し、フランスに勝るとも劣らない知的・精神的拠点となっていた。
カルビン派プロテスタントの支配するなかで、国家組織や貴族サロンに支配されない、自由で自立的な「個人」の観念が育っていた。(アーサー・ハーマン)
ヒューム以来の啓蒙主義(産業主義)は、文明の進展が自由の擁護者としての中間階級の増大をもたらすとの認識を共有していた。(フォンタナ)

エディンバラ大学を卒業。牧師となる。議員となった支援者ジョン・スチュワートに附いてロンドンに出る。哲学的急進派と呼ばれる集団を形成する一方、ジャーナリストとして不安定な生活を送る。

1808年 父ミル、「商業擁護論」を発表。「販路説」を打ち出す。これについてはフランスのセーの「経済学概論」からのコピーとする説もある。

スミスの混乱した複雑な体系から、流動資本のみを対象とする資本循環のメカニズムを抽出した。これを「販路説」として純化した。(田中秀臣
穀物騰貴により地主が大儲けすることを批判。これに同感したリカードウが父ミルに接近した。(櫻井毅

1808年 ベンサムと知り合い、その支援を受けるようになる。ベンタム崇拝者として“教義”を広める。

ベンサムは哲学的急進派との出会いを通じて、既存エリートを改革の担い手と見なす考えを放棄し、急進的な議会改革を訴えるようになる。
ベンタムは「ジェームズ・ミルは自分の弟子で,そして,リカードがジェームズ・ミルの弟子だから,リカードは自分の孫弟子だ」と語った。(櫻井毅

1809年 リカードウが最初の経済学論文「銀行券の減価の証拠となる金地金の高騰」を発表。「地金論争」が巻き起こる。

1815年 ナポレオン戦争の影響で穀物の価格が暴落。地主を中心とする議会勢力に打撃を与える。地主は穀物法を盾に価格の高値維持を主張。リカードウは自由貿易政策を進める立場から穀物法に反対。

リカードウ: ユダヤ人の証券仲買人の息子として生れ、独立したあと公債取引等で成功し、イギリスで屈指の証券業者となった。アダム・スミスの『国富論』に接し経済学に興味をもち、1810年ころから論壇に参加する。
リカードウというのは先祖がポルトガルに住んでいたためで、Ricardo を英語読みしたもの(らしい)。

1815年 穀物法が議会を通過。友人ジェームズ・ミルの強い影響の下、パンフレット『穀物の低価格が資本の利潤に及ぼす影響についての試論』をあらわす。

穀物法廃止論者で自由貿易賛成派のリカードウは、保護貿易論者のマルサスと衝突し論争となる。(ただし仲が悪かったわけではなく、リカードウは株の仲介でマルサスに儲けせてやっている)

1815年 父ミル、リカードウあて書簡で政治経済学への専心、議員としての公的活動を要請。(この辺の経過は<講演> リカードの「経済学原理」とその周辺 に詳しい)

今やあなたはご家族全部の幸福を図るに足るだけのお金を作られたのだから、この種の獲物には満足し、これからは他の仕事のために余暇を使ってほしいものです
父ミルはリカードウを“イギリスのケネー”に仕立てようとしていたと言われる。

1817年 リカードウの『経済学および課税の原理』が刊行される。

父ミルの督促: とにかく友達に手紙を送るような気持で,思いついたことをどんどんまとめて書きなさい,書いたら私に送りなさい,私がそれを整理して,うまく書き直すなり,なんなりのことをしてあげましょう。…学校教師の立場であなたに強制します。

1818年 父ミル、『英国領インド史』を出版。これを機縁とし東インド会社に就職。

市民社会一般の研究への“悪くない入門書”と自己評価。
これまで我々が知っているもっとも粗野な状態からもっとも完成された状態にいたるまでの殆どを扱い、そこでの社会秩序の諸原理と諸法則とを暴露する。

1820年 父ミル、『統治論』(An Essay on Government)を発表。主著とされる。自己利益優先の原理を前提としつつ、支配者の権力の濫用を防いで社会の多数者の物質的利益を擁護することを統治の目的とする。

略奪者の抑制が統治の目的: 
欲望の対象の多くが、そして生存の手段でさえ、労働の生産物であるということが考察されるならば、労働を確保する手段がすべての基礎として具備されなければならない。…掠奪を防止しなければならない。その方法は、一定数の人びとが団結し相互に保護し合うことである。必要な権力を少数の人に委任することである。これが政府である。
中間階級の賛美: 
1.中間階級は「文明の被造物」である。それは「生存と品位を安定的に維持でき,しかも大きな富をもつことから生じる悪行と愚行とをしでかすおそれもない」のである。(衣食足りて礼節を知るといったところか)
2.彼らは「自らの時間を自由にすることができ,肉体労働の必要性から解放され,いかなる人の権威にも隷属せず,最も楽しい職業に従事している。
2.その結果「彼らは一つの階級として,人間的享受 の最大量を獲得している」
3.少年と婦人で構成され,町を混乱に陥れる暴徒の無秩序は何を意味するのか。人口のほとんどが富裕な製造業者と貧しい労働者とから構成され、中間階級が極端に少ないからだ。
4.民衆のうち下層部分の意見を形成し,彼等の精神を指導するのは中間階級である。不況下での群衆の無秩序な行動は,むしろその命題の正しさを証明するものだ。
(ミルが中産階級をスミスの含意する小ブル「階級」ではなく。中間「階層」として捉えていることが分かる)

1821年 父ミル、リカードウの「原理」を初心者向けに解説した「経済学要綱」を出版。古典経済派の最初の経済学教科書と言われる。

原題は Elements of Political Economy。「政治経済学の初歩」と訳しているものもある。ただしマカロッチは「あまりに抽象的な性格で、平易でもなくあまり有益でもない」と酷評し ている。理由は、経済学的な説明の中に哲学急進派としての父ミルの見解が紛れ込まされていることから来るとされる。(立川潔


1829年 父ミル、連想心理学の手法を用いた『人間精神の現象の分析』を発行。

1836年 ジェームズ・ミルが死亡。


参考文献

ジェイムズ・ ミルの初期販路説とアダム ・スミス 田中秀臣 著 早稲田経済学研究 38号(1993)

ジェイムズ・ ミルにおける中間階級と議会改革 ジェイムズ ・ ミルにおける中庸な財産と陶冶 立川 潔 著 

西洋経済古書収集ージェームズ・ミル,『経済学要綱』 稀書自慢さんのサイト

 

 

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

なかなか本題に入れず、またも余分なことを書く。歳のせいで、大仕事に取り組むのがだんだん億劫になってくる。

今日は、「マルクスがパリノートで読んだミルの本が何だったのか」ということについて、心覚えを記しておく。

1844年か45年にマルクスが読んだミルの本はただ一冊。「経済学綱要」という本のフランス語訳である。

この本が書かれたのは1823年とある。フランス語訳がいつ行われたのかは分からない。

それが「ミル評注」のテキストとなり、「経哲手稿」の「疎外された労働」のテキストになっていくのだから、大変重要な本だということになる。

しかし、小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」 ではこの本のことには触れられていないのである。つまりJ.S.ミルにとっては大した著作ではないということなのか。


年譜をあらためて振り返ってみよう。

1823年といえば、ミルはまだ17歳。日本で言えば高校2年生だ。

ただしこの人、親父が星一徹で、激しいスパルタ教育を受け、はやくもリカードウの『経済学および課税の原理』とスミスの『国富論』を読破している。

どうしてこういう読み方をしたか。それは父ミルの指示によるものだ。

父ミルはリカードウの親友で、まだ原稿状態の「原理」を読んだ。そして内容に感激して、ためらうリカードウを説き伏せて出版にまで持って行った、そういう人物である(出版は1817年)。

ここから先は想像だが、父ミルはリカードウを説得した情熱と同じ情熱で、刷り上がったばかりの「原理」を息子に読ませたのだろう。ひでぇ親だ。

父ミルは、リカードウを読了したミルに今度はスミスの「国富論」を読むように迫った。おそらくリカードウについての一文を息子にものさせようという魂胆だろう。

それが終わると、父ミルは息子をフランスに送り、バプティスト・セエと面会させた。セエはフランスで高名な功利主義者で、父ミルとも面識があった。当時、セエは「原理」について一定の批判があったようで、リカードウをフランスに紹介しつつ、論争もするという立場にあった。

というわけで、帰国したミルはただちに旺盛な執筆活動を開始するのだが、「経済学要綱」はおそらくそのうちの一篇に違いない。

とは言うものの、その時までに読んだ経済学の著作は数えるほどであろうから、おそらくこの論文はリカードウの解説書であったろうと思われる。前年に亡くなったリカードウの追悼の意味も含まれているだろう。そしてそれがスミスの「国富論」という経済学の王道の上にあることを論証し、ベンサムの功利主義の色合いも織り込んで、セエの批判も受け止めつつ展開されたものであろうと思われる。

父ミルから見ると、これらの糸は手に取るように明らかだ。


ここまで書いたところで、下記のページが見つかった。

稀書自慢 西洋経済古書収集 さんのページの ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版 の紹介である。

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下記の如く簡単な説明がついている。

ジェームズ・ミル『経済学要綱』初版

MILL, JAMES , Elements of Political Economy , London, Printed for Baldwin, Cradock and Joy, 1821, pp.xiii+240, 8vo.

直訳すれば「政治経済学の要点」ということになる。装丁は立派だが240ページだから、中身は新書版に毛が生えた程度だ。

リカード経済学を初学者向け教科書として執筆したもの。英語で書かれた最初の経済学教科書とされる。

と解説されている。

そういうことなのだ。つまりミルのオリジナリティーはほとんど発揮されておらず、ミルの著作の中での位置は高くない。だから小沼さんはあえて取り上げなかったのかも知れない。

しかし、ミルという立場を離れて、この本を客観的に経済学史の中に位置づければ、英語で書かれた最初の経済学教科書であり、決してあだやおろそかにはできない。しかもリカードを古典経済学のチャンピオンとして押し出す上でも大きな役割を果たした。

だから出版から20年を経てフランスでも人口に膾炙され、マルクスが古典経済学の入門書として選んだのだ、ということになる。

私は1823年(17歳時)の出版と書いたが、これはパリノートの論考に書かれていたのをそのまま引用したものだった。

しかし21年というとさらに若く、わずか15歳の時の著作ということになる。恐るべきことだが、成立の実情はだいぶ違ったもののようだ。

この本の成立事情については、J・S・ミルが『自叙伝』第一章で触れている。

父ミルは息子を引き連れて毎朝に散歩するのが習わしだった。その時に、歩きながら経済学の講義をし、翌日それを文章にして提出させた。

リカードの「原理」についても同じことが行われた。父ミルは、そうやって出来上がったレポートをさらに書き直させ、レポートを蓄積した。それがこの本の素稿となった。

もしそうだとすれば、「英語で書かれた最初の経済学教科書」を作りあげたのは父ミルの功績ということになる。

父ミルの功績としては次のポイントがあげられるだろう。

1.イギリス古典経済学の正規の、最良の後継者としてリカードを掘り起こしたこと

2.それをぺティー、A.スミスにつながる正統派の嫡流としてプロモートしたこと

3.リカードの理論を経済学の標準理論として脚色・整序したこと。マルクス流にいえば俗流化させたこと

4.マルサスからベンサムへとつながる功利主義者に、ブルジョア民主主義派公認の経済理論としての承認を取り付けたこと

15歳の「天才少年」J.S. ミルは、この時点では、父ミルのしつらえた舞台で踊るパペットに過ぎない。(超高機能ではあるが)

なお、希書自慢さんは「リカード経済学の初学者向け教科書」として本書を特色づけ、以下のように説明している。

この本の章立てが示すように内容は、生産(第1章)、分配(第2章)、交換(第3章)、消費(第4章)の4分法である。

森嶋流の区分では、リカードの主著の「経済学の原理」部分が本書1、2、3章と4章の1~3節、そして「課税」の部分が本書の4章の4~17節に該当するといえようか。

ともあれ、この本の出版後20数年を経て、マルクスはそのフランス語訳を手に入れ、これをもとにイギリス古典経済を学び経済の概念を把握した。それがパリ・ノートであり、とりわけミル評注であり、貨幣論を仲立ちとした「疎外された労働」概念であった。

マルクスの評価では、ミルはリカードの理論を体系的な形で叙述した最初の人であった。しかしミルは「リカード学派の解体は彼とともに始まる」(『剰余価値学説史』と手厳しい評価を下された。それもやむを得ないことであったが、紹介者としての宿命だろうと思われる。

この説明については、まったくコメントする立場にない。

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

とりあえずの感想としてミルとマルクスとを対比してみると、

1.革命家対改良家の違い

ミルはそれなりに進歩的で、資本主義の矛盾も感じていたと思われるが、根本的な矛盾は感じていいない。ヨーロッパの動乱は、産業が隆盛するイギリスにとっては、文字通り対岸の火事であった。

マルクスはまず何よりも革命家であった。48年の革命に自らも参加し数度にわたり勾留され、その後イギリスでの亡命生活に入った。

彼にとっては理論はつまるところ革命のためだ。だから「資本主義の弔いの鐘がなる。収奪者が収奪される」というのは革命家としての願望であり、ほとんど信仰に近い。

ミルにとっては、たとえ忌まわしい側面を持っていたとしても、資本主義的生産システムそのものが自明の前提であるから、マルクスと似たようなことを考えても、その結論は真逆になってくる。

確かに「収奪者が収奪され」ても問題は解決しないわけで、システム構築課題としては、収奪者が収奪できなくなることのほうが本質的であるが…

2.民衆を見る目の違い

ミルは明らかにエリート主義者だ。参政権の拡大を主張したとしても、それは条件付きであり、根本的にはアリストクラシーの信奉者だ。ただこれには時代的制約があり、いまの世の中ならもう少し別の考えを持ったかもしれない。

「衆愚政治」をめぐる懸念は革命家にとって常に悩ましい問題だ。マルクスはこれを「労働者階級」という概念をつくり上げることによって克服しようとした。

そしてそのための土台を、科学技術革命の中に求めようとした。それはかなり説得力のあるものではあったが、結果的にはそれはスターリニズムを生み出してしまった。

この点については、これからも「真の人類の歴史の始まり」を目指す模索の時代が続くと思われる。

それまでの間をどうするか。それには、もう少し虚心坦懐にミルの意見を聞くべきだろう。

ミル親子関連の記事

すみません。とんでもない間違いをしていました。「経済学要綱」の著者は父ミルでした。いま気づきました。完全にドツボにはまっていました。
そういえば確かにそうです。資本論でもマルクスは父ミルを一定評価していたが、息子の方はケチョケチョンにけなしていたことが思い出されました。
反省の意味も含めて、そのままブログに晒すことにします。(3月31日)

ジョン・スチュアート・ミル

実は経済学・哲学手稿がまだ終わっていない。

結局、へーゲルの論理学があって、それをフォイエルバッハが批判して、マルクスがそれを受け継ぎながらヘーゲル批判をやっているうちに精神現象学まで遡ってしまい、そのうちに「ヘーゲルのほうが正しいんじゃないか」と思うようになってしまい、そんなこんなの中で書かれた手稿だから、読み解くのがとても難しい。

地の文の中でヘーゲルの主張とフォイエルバッハの批判と、マルクス自身の考えが入り混じって並んでいる。

しかも訳文がきわめて読みにくいと来ているから、「挫折するのも当然だ」といまは開き直っている。

フォイエルバッハの所論は飛ばして、とりあえずヘーゲルの精神現象学をマルクスがどう読み解いたかが知りたいのだが、そのためにはヘーゲルの精神現象学を最低のレベルでも良いので理解しなくてはならない。

ということで精神現象学の解説本を読み漁るうちに討ち死にしたというのが現状だ。

そこで今度は、そちらはいったんあきらめて、ミルの方から攻めてみたいと思う。マルクスはけっこうミルを勉強している。それにもかかわらず、ミルへの評価はケチョンケチョンだ。一体それはなぜだろうかというのが、以前から気にはなっていた。

そこでミルの勉強を始めてみた。たぶんまた挫折するだろうが…

まずは年表から

ミル(John Stuart Mill) には詳細な自伝があるようだ。これだけでも変わった人物だ。

ミルに関する論考は、Web だけでも山ほどあるが、ここでは主として小沼宗一「J.S.ミルの経済思想」を参考とした。

ミルの思想はどうしても父ジェイムズ・ミルとの関係を無視して語ることはできない。そこで父ミルの立志伝から起こすことにした。

さらにミルの思想はどうしてもマルクスと関連付けなければならないし、ヨーロッパを覆った革命の波とも関連付けなければならない。そこで年表に赤字で付け加えることにした。


 

1773年 ジェイムズ・ミル(James Mill)、スコットランドに生まれる。生家は靴屋だったが、スコットランド財務判事のジョン・ステュアート卿にその才能を認められ,エディンバラ大学に学ぶ。

1802年 ジェイムズ・ミル、ロンドンに出て著述業で身を立てる。徹底した民主主義者で,富裕な人々の考え方を嫌悪していたという。

1806年 ロンドンで生まれる。父ミルはJ.S.ミルに徹底的な英才教育を施した。(ミルへの教育は,愛の教育ではなく恐怖の教育であった)

1808年 父ミル、「商業擁護論」を刊行。

1810年 父ミル、ジェレミー・ベンサムの知遇を得、ベンサム邸のとなりに寄寓するようになる。

1817年 父ミル、10年を費やした「英領インド史」を刊行。

1817年 デイヴィド・リカードウ、『経済学および課税の原理』を出版。出版にあたっては父ミルの強い勧めがあったとされる。

1818年 マルクスが誕生

1819年 ミル(13歳)、リカードウの『原理』を読む。引き続きスミスの『国富論』に着手。

1820年 ミル、1年間にわたりフランスに留学。父ミルの友人セイ(Jean Baptist Say, 1767-1832)の家にもしばらく滞在。また社会主義者のサン・シモンとも面会している。

1823年 ミル、東インド会社に就職。

1824年 ベンサムの出資により「哲学的急進派」の機関誌『ウェストミンスター・レヴュー』が創刊される。功利主義と民主主義に基づく議会改革運動。

「哲学的急進派」の理論的基礎の一つがマルサスの人口原理である。ミルは誌上で人口制限政策を主張した。

1826年 ミル(20歳)、ベンサム主義に対する深刻な懐疑を抱く。「幸福は目的ではなく、何かの目的を追求する中に見出される」と考えるようになる。

ミルはワーズワースの詩を読んでロマン主義に傾斜。幸福-感情に彩られた思想の状態を会得したとされる。

1833年 ベンサムの死後1年を機に「ベンサムの哲学」を発表。

ベンサムは「人類は幸福衝動という刺激によって支配されている」と考えた。しかしそれは、実際に人類を動かしている多様な刺激の一部にすぎない。
またベンサムは「その目的のためには冷酷で思慮深い計算家である」と考えている。それは人類が実際にそうであるよりも、はるかに誇張されている。

1833年 ジョン・テイラー夫人のハリエットと恋愛関係(不倫?)に陥る。半公認の三角関係は1849年まで続く。

1833年 ミル、『ジュリスト』誌上に「公共財団と教会財産」を発表。社会的害悪の主要な源泉は,無知と教養の欠如であるとし、政府による教育の充実を提唱する。

1842年 マルクス、ライン地方の『ライン新聞』に参加。革命家としての生涯に踏み出す。

1843年 「論理学体系」(A System of Logic)を発表。帰納法によって発見された経験法則を、再度現象の予測に適用して、法則の真理性を確認するという逆演繹法を確立した。

1844年 Essays on Some Unsettled Questions of Political Economy, を発表。マルクスが読んだのはこの本か?

1848年 マルクス、「共産党宣言」を発表。フランスで二月革命、次いでドイツで三月革命。

1849年 ロンドンに入り以後40年をロンドンで亡命者として暮らす。

1848年 「経済学原理」を発表。正式のタイトルは「政治経済学の諸原理」(The Principles of Political Economy: with some of their applications to social philosophy)である。

リカード以来の古典派経済学のフレームワークに従い、「豊かな先進国」イギリスの社会問題に対して、具体的で実現可能な処方箋を書く。
自由放任政策を支持する一方、ロバート・オウエンなどの影響を受けて社会主義的な色合いを持つ。これは折衷主義として、マルクスの激しい批判にさらされる。

1850年 雑誌に「黒人問題」を寄稿。

1851年 ミル、ハリエットと結婚。逆に母や弟妹とは不和になり、二人で別居することになる。

1858年 長年勤めた東インド会社が廃止となる。退社を機に夫婦で南仏旅行。旅行中にハリエットが急逝。

1859年 「自由論」(On Liberty)を発表。(これについては別途検討)

多数者の専制批判: ①たった一人の反対意見が真理かもしれない。②支配的意見は反対意見との論争によって、その合理的根拠が理解できる。③反対意見の中にも真理の一部分が含まれている(常にではないが)

1861年 ミル、『代議制統治論』を公刊。下層階級が選挙権をもつことに反対。教養人に複数投票権を与えることを主張する。

1863年 「功利主義」(Utilitarianism)を発表。

1864年 第一インターナショナル(国際労働者協会)結成。マルクスが指導者となる。

1865年 ロンドン・ウエストミンスター選挙区選出の無所属下院議員となる。約4年間の議員生活を送る。ミルは、労働者階級の選挙権、女性参政権を国会に提案。

政治的ポジションは急進的なリベラルであった。アイルランドの負担軽減、婦人参政権、普通選挙制などを主張。ジャマイカ事件で黒人反乱を擁護した。

1866年 資本論第一巻が発行される。

1869年 「女性の解放」(The Subjection of Women)を発表。

1870年 ミル、土地保有改革協会を設立。資本主義的な土地改革を打ち出す。国営・公営農業については認めず。

1871年 普仏戦争→パリコミューン。マルクスが「フランスにおける内乱」を執筆。

1873年 滞在中の南フランスで病死。

1873年 義娘ヘレン・テイラーにより「ミル自伝」が発表される。


ということで、ミルの人となりがほんわかと見えてきた。

1.まず驚くのは、父ミルの広範な人脈である。マルクスが資本論草稿の中で苦闘した相手の名前が、綺羅星のごとく並ぶ。

彼らは一つの星雲を形成していたのだ。そして、学会では進歩派として位置づけられていたのだ。そして父ミルが、かなりその接着剤の役割をなしていたようだ。

2.ミルの関心領域はマルクスのそれと著しく近接している。おそらくマルクスはイギリス滞在中つねにミルを意識していたはずだ。にも関わらず、マルクスは経哲手稿・ミル評注以降徹底的に無視している。まともな理論家として扱っていない。

 3.マルクス主義の分野では、ミルを折衷主義者とするレッテル貼りがもっぱらである。それには二つ理由がありそうだ。ひとつは彼自身がベンサムとワズワースとカントのアマルガムであるということ、もう一つはそれれを融合して新たな思想の地平を作るに至ってはいないということだ。

4.おそらくそれには理由がある。父ミルと違い、彼は党派に属さず孤高を貫いている。それではやはり結局は、人畜無害な評論家にしかなれない。しかしそのことと、彼の政治・経済理論が無力であるかどうかは別の話である。

ミル親子関連の記事

井上陽水の曲を何曲か続けて聞いている。
最初の2,3曲はたしかにおやっと思うほどよかった。
しかしそのうちに疲れてくる。
この男っていったい何なんだろうと思ってしまうのだ。
すごい感性ときれいな声と、素晴らしい音楽センス、すべてを持っているのだが、聞いているうちに落ち着かなくなってくる。
ここは俺の世界ではないな、という居心地の悪さを、いつのまにか感じるようになってしまうのだ。
これだけ同じフィーリング、同時代のフィーリングを感じながら、その底にヒヤッとした冷たさを感じるのだ。
これがさだまさしだと、いささかのあざとさを感じつつも、それもふくめて「われらが世代」感を共有できるのだが、井上陽水にはそのような共感をさしはさむ余地がない。
いろいろ考えてみて、とりあえず次のような結論に達した。
彼には前頭葉がないのだ。これは歌詞だけの話である。本人にはもちろん立派な前頭葉があるのであるが、その歌詞には前頭葉の働きが感じられないのだ。
おそらく前頭葉につながる回路を無意識のうちに遮断しているのだろう。昔の思い出をたぐり寄せながら、「こんなタイプの人間が居たっけ?」と思いめぐらせるが、どうもあまり思い浮かばない。たぶん同じような思考回路の持ち主はいたのだろうが、井上陽水ほどには素質を持ち合わせていなかったということかもしれない。
似たような傾向の歌手にボブ・ディランがいる。しかし彼はもう少しフォークソングの精神に寄り添っていた。だから逆に裏切者呼ばわりをされるのであるが、そういう意味で井上陽水を裏切者と呼ぶ人はよもやおるまい。
それはもはやどうでもいいことだ。肝心なのはあれからすでに50年近くを経過して、いまあらためて聞きなおしてみて、首から上の世界で彼に共感できるものは何一つないということだ。
お互いエイリアンということか。

原発は安全性の秤に乗せるには大きすぎる

1.安全性の議論はフェイル・セーフ機能の範囲内で行われるべきだ

原発の安全性はもう少し理屈の問題として詰めておく必要があるのではないか。

安全性という目盛りはたしかにある。論理的にも危険性の逆数として存在しうる。工学的にも多変量の連立方程式として算出しうる。社会的にも利便性と危険性認容の掛け算として想定しうる。

ただその扱える範囲には限界があるのではないか。歴史的にはその範囲は変化してきたし、拡大しつつある。それはフェイル・セーフの技術が発達してきたためである。

逆に言えばフェイル・セーフの機能が完全でなけれれば、あるいはフェイル・セーフ機能をはるかに越えるものには、そもそも安全性の概念は適用できないということになる。

2.社会的安全度という問題

一つの技術なりシステムというものの安全性は危険性の逆数だが、これが社会で汎用されるときには、利便性と秤にかけられる。

しかし実はこれだけではない。社会の多数の人が関われば関わるほど安全性は高度なものが要求されるようになる。

実験的な使用であればかなりのリスクは受忍されるが、多数の人がルーチンに使用するものなら、安全性ははるかに高度のものが要求される。

なぜなら事故が起きた時の影響ははるかに深刻だからである。

つまり利便性と危険性の秤は、その置かれた土台の広範性を念頭に置かなければならないのである。

3.量的・質的な安全性の限界

もう一つは、安全性が破たんした際の影響の深刻度がある。

これは薬の副作用を例にとるとわかりやすいのだが、薬局でもらう薬の説明書には副作用が書いてあるだろう。例えば吐き気などは極めてポピュラーな副作用だが、これはたいていは軽微であるために許容されている。

しかし数は少なくとも死に至るような副作用があれば、薬の使用に関しては厳しい注意が必要となる。

さらに常用量の問題があって、その範囲では安全性が確認されていても、10倍量飲まれたら安全性は保障できない。

つまり質的・量的な危険性は、安全性の秤を吹き飛ばしてしまうのである。

4.結論

原発は危険性と利便性の秤に乗せるには大きすぎる。

大きすぎるということは、物理的な危険性が現代技術の統制力の力を超えていることであり、その社会的影響力が社会システムの枠を大きくはみ出しているということである。

このことから考えれば、原発の安全性をうんぬんすること自体が論理矛盾であり、それは「安全性」の戯画に過ぎない。

肝心なことは、それを今まで認識できなかったことであり、今やっと認識できたということである。

原発に対する60年の認識の歴史は、結局、この認識に達するための歴史であった。

5.これからの原発

私個人としては、人間の力である程度統御が可能なレベルであれば、原子炉を用いた研究は続けるべきであると考える。

もちろん大型であろうと小型であろうと、原子炉の危険性は本質的には変わるものではない。

ただジェット機は墜落すれば数百人の命が失われる危険性を内包しつつ飛び続けているし、船は沈没すれば千人単位の命が危険にさらされる。

現代人は、今のところ、それを必要なリスクとして甘受している。

しかし原発はそのような安全性リスクの目盛りからははるかにスケールアウトしている。なぜ原発のようなビッグなシステムが、なぜろくな安全装置もなしに開発されたか、それはまさに原爆を製造するという目的のためであり、その副産物だからである。

戦争のための武器だから、どうせ人を殺すんだからということで、安全性にはさしたる考慮が払われないままに野放図に大規模化し、それがある日ぬっと娑婆の社会に乗り込んできたのだ。それが原発だ。

思えば不幸な生い立ちの子だ。

しかしこの子には、大きな将来性がある。一度サイズダウンしたうえで、正しく育てることは大事な仕事だろうと思う。


いろいろと、異論もおありでしょう。

私自身、意見変更の可能性もあります。とりあえずの感想としてお聞きください。

伊方原発が廃炉決定。まずは良しとしなければならない。

地図を見ただけでもその非人道性は明らかだ。事故が起きれば佐田岬半島の住民は皆殺しだ。

関連記事を見ていて、見逃せないポイントがあることに気付かされた。

それはヒトの問題だ。

建築後40年たつと、建てた時の人間はいなくなる。何かあったときに技術が継承されていないと、建築当事者には当たり前だったことが、まったく忘れ去られてしまう。

じつは、私の病院でも同じことがあった。同じ部屋にまったく違う電源があって、片方の電源がどこから来ているのかわからなかった。建設時の設計図や施行図を持って来いというが、これがなかなか見つからない。

結局最後は壁を壊しながら電線の先を探っていくことになった。最終的にはとんでもないところからきていることが分かり、しかも普通の差込口からの危うい電源であった。

「誰がこんなことをしたんだ」と怒鳴ったが、もちろんそんなことが分かるわけはない。強いて言えば「40年の年月がそうさせたのだ」と納得するほかない。

放射能による劣化が勿論最大の問題ではあるが。人間の脳みその劣化も頭に入れなければならない。安全性の技術を考える際にはヒューマン・ファクターを念頭に置かなければならない。

これは鉄則である。

どうもWeb レベルではGHQの司法改革に関して適当なレビューが見当たらない。

辛うじて分かったことは、司法改革に先立つ戦争協力者への処分は行われなかったようだということ、GHQの司法改革担当者にはそれにふさわしい権限が与えられていなかったこと、結果として改革の試みは挫折し、司法省が最高裁事務局を通じて生殺与奪の権限を握り続けたことである。

興味の中心は、あれだけ新憲法に一生懸命取り組んだGHQが、なぜ同じ気構えで司法改革を推進しなかったということに尽きる。ここがいまいち分からない。

細野長良ら大審院グループと司法省の長々しいやり取りは、実はどうでもいいことである。GHQの姿勢があやふやであれば、そのようなグループの発言力など無きに等しい。

を増補しての感想

年表を作ってみて分かったのは、昭和23年1月6日のロイヤル陸軍長官の「日本を反共の防波堤に」発言は、明確にマッカーサーの顔に泥を塗る行為として行われたということである。

年の初め、マッカーサーは年頭の辞「日本国民に与う」を発表している。まるで天皇きどりである。

しかしこの間に本国では対日政策の変更が準備されていた。昭和22年3月にトルーマン・ドクトリンが発表され、すでに基本線の変更は確認されていた。

それ以降、外堀は徐々にしかし確実に埋められてきた。とくに公務員の「忠誠テスト」はGHQ民政局のニューディーラーには脅威であったろう。

いつの間にかマッカーサーは裸の王様となっていた。そして国務長官にマーシャル元帥が押し立てられた。それは国務省がマッカーサーに全面対決のポーズをとったことを意味する。裏で動いたのはアチソン次官だったろう。

国務省は日本に「逆コース」を迫るにあたり、陸軍省を表に立てた。マッカーサーを封じ込めるためである。

それがロイヤル長官の談話であり、陸軍省の派遣したストライク調査団であり、仕上げに送られたドレーパー陸軍次官をトップとする調査団である。

マッカーサーは軍人だから上級の命令には逆らえない、というところを突いたわけだ。

怒ったマッカーサーは大統領選挙に立候補するといってみたり、いろいろ策動を巡らせるが、結局は冷戦システムの中に埋没していくことになる。

しばらくサボっていたが、経済の勉強。

23日から赤旗に「経済四季報」が連載されている。

かなりポイントを抑えた簡潔なレポートなので、紹介しておく。

1回めは「世界経済」

最初にポイントがまとめられている。

①米国経済に減速の兆し: 2015年12月の利上げの後、追加利上げは見送り。
②欧州経済は回復が鈍化: 追加金融緩和したものの、マイナス金利拡大には限界。
③新興国経済には資源価格低迷が打撃。中国の景気減速と連鎖し、貿易に悪循環。

ときれいにまとめられた。あまり迫力はないが…

①米国経済

15年第4四半期のGDPは前年比1.0%だった。これは二期連続の低下。

原因は金融市場の混乱とこれに伴う消費控え、ドル高と世界の景気減退に伴う輸出の低迷が挙げられている。(“金融市場の混乱”が何を指すのかは不明)

イエレン議長は「国際的な経済・金融情勢がリスクになっている」と語った。(これももう少し詳細が知りたい)

②欧州経済

EU全体のGDPはプラス0.3%、ユーロ圏では1.1%の伸びとなった。いずれも小幅鈍化となった。

原因は主として中国と新興国の景気減速の余波とされる。(つまりEUは世界経済を規定する主要経済域ではないということだ)

ECBは3つの景気対策をとっている。その一つがマイナス金利。その他に政策金利0%、量的金融緩和が行われている。

マイナス金利というのは、市中銀行の中銀預け入れ金利のこと。昨年12月以来始められているが、3月にはマイナス0.3%から0.4%へとさらに引き下げられた。

ドラギECB総裁は「マイナス金利を続ければ、銀行システムに悪影響が及ぶ」とし、長期とはならないことを示唆。

③新興国経済

ロシアはGDPが前年比マイナス3.7%となった。歳入の半分を占める原油の価格下落が響く。ブラジルのGDPもマイナス3.8%。こちらは鉄鉱石の価格低迷が寄与している。

これらの理由により世界の総輸入額の伸びが半減した(3.0→1.7%)。この結果中国の輸出が減り、その結果中国の輸入が減るという悪循環を形成している。(世銀の分析)

とここまでが1日目の記事。

2回めは「中国経済」

ポイントは以下のとおり

①中国経済は25年ぶりの低成長期となる。生産と貿易が同時に低下。
②中国の経済減速はアジアと世界の各国に波及し打撃を与えている。
③新5カ年計画で、技術革新と調和を目指す。

ということで、ポイントといえばポイントではあるが、ちょっとづつポイントを外している感じがする。とくに米日欧の経済対策が金融政策中心に動いているため、中国の景気減速が国際金融・通貨面でどのような影響をおよぼすかが関心の的であるが、この点について触れられていない。

より本質的には「社会主義的市場経済」というシステムが、最初の「恐慌」を迎えて機能できるのかが問われるわけで、まぁ四季報レベルでは無理な相談だが、念頭には置いておかなければならないだろう。

①生産の鈍化と輸出の減少

2015年GDPは前年比6.9%増。これは25年ぶりの低い伸び。純輸出はマイナス0.2%となった。

国内投資の総量を示す総資本形成は3.4→2.5%に低下した。これは生産能力の飽和を示す。

②最終消費が景気を下支えしている

このなかで最終消費は3.7→4.6%と伸びており、これが景気を下支えしている。これが消費バブルなのか社会生活の向上に根ざすものかは判断を保留。

③過剰生産能力

生産能力の飽和を示す直接指標として生産設備の稼働率があげられる。鉄鋼・アルミなどでは60%台、鉱工業生産は5.4%で7年ぶりの低い伸びであった。

過剰生産能力の解消には大規模なリストラを必要とし、それは大量の失業者を生み出す可能性がある。

④関係国への影響

中国の経済成長が1%減速すれば、アジアの経済成長率は0.33%、アジア以外の地域は0.17%下がる(IMF試算)

とくに中国製造業が不振に陥れば、資源輸出国に深刻な打撃となる。

⑤新五カ年計画

ということで、中国の景気後退は日米欧のような経済構造上の問題に根ざしているのではなく、基本的には景気循環上のリセッションとして捉えられる、ということだ。

それがたんなるリセッションの域を越えて深刻化しているのは、リーマン・ショック時の政府の過剰対応による。リーマン・ショック時、中国政府は日本円換算で53兆円の財政出動を行い、これが生産過剰を増強した。

こういう見方であれば、中国経済の先行きにはさほど悲観する必要はないということになる。

「しかし、本当にそれだけなのであろうか? 何か根本的な脆弱性に根ざしているのではないだろうか?」という漠然とした不安は残るが…

3回めは「国内景気」

ポイントは以下のとおり

①マイナス金利導入は、異次元金融緩和の破綻を示す。
②GDPはマイナス成長。消費低迷を脱却できないことが要因。
③春闘不発。大企業を支援しても賃上げはせず。

①マイナス金利

異次元緩和で民間銀行にお金を供給。しかし市中に回らず、日銀当座預金が積増しされる。これを拒否するためのマイナス金利。しかし貸出先がなければ問題解決にはならず。これは異次元緩和の行き詰まりを示す。

②マイナス成長

第三4半期GDPは年率換算でマイナス1.1%。企業の売上高・経常利益は揃って減少。

個人消費が0.9%減で、中国とは逆に個人消費が景気の足を引っ張っている。

③マイナス収入

毎月勤労統計で、実質賃金指数は4年連続でマイナス。


この連載がいつまで続くか分からないが、問題をとりあえず整理するのには役立つが、あくまでも自己学習のための足がかりだと考えておいたほうが良さそうだ。

を増補しての感想

2013年11月03日

のうち、今回はに手を着けました。1946年(昭和21年)の記述です。


我々は戦後をリアル・タイムで過ごしているから、なんとなく知っている雰囲気になっている。

しかし勉強してみると、実は何にも知らないということがよくわかる。

とくに占領軍が何をしたのか、何をしようとしたのかについては何もわかっていない。戦後史年表のほとんどは日本政府が何をしたかで埋め尽くされている。本当の主語はGHQであるにも関わらず、記述上は日本政府のしたことになっている。まさに「皇国史観」である。

しかし実際に日本政府のやったことはGHQの方針に「日本政府」のハンコを押しただけであり、重要な政策決定はすべてGHQの中で行われていた。吉田首相をよいしょするドラマが何度も作られているが、あれは大嘘で、彼はただのマッカーサーの腰ぎんちゃくに過ぎない。外交官なんてものは“ヒラメ人”というか“手のひら人”というか、しょせんそういう人種である。

歴史を本当に、世界史的視野で知ろうと思えば、GHQの政策の決定過程、とりわけアメリカの本国政府との関係で見ていかなくてはならない。日本人には無敵に見えただろうが、GHQは米本国政府の出先機関に過ぎない。マッカーサーとGHQマフィアの光輝くキャリアは、昭和23年初頭のロイヤル陸軍長官の「日本は反共の橋頭保」発言をもって終わっている。

基本的には2年半足らずの短期間、彼らは思いっきり腕を振るった。それができたのについてはマッカーサーという人物の独特のキャラと押しの強さが結構ものを言っている感もある。それは一種の権力の空白であった。本国政府はソ連とどう付き合うのか、ヨーロッパをどうするのかで頭がいっぱいだった。一方ではルーズベルトの長期政権の下で形成されたニューディーラーをどう扱うのかも深刻な選択であった。

終戦の時点でマッカーサーは本国政府よりも右側にいた。しかし昭和23年初頭のロイヤル発言の時点で、本国政府はGHQよりも右に移動していた。

本国政府がニューディーラーをソ連内通者として排除し、マーシャル長官、アチソン次官ら国務省幹部が日本の直接支配を志向するに及んで、GHQの独自の役割は消失した。それは米政府の反共主義のたんなる執行人となった。重要な政策は彼らの頭越しに本国政府が直接取り仕切るようになった。マッカーサーはていの良いお飾りとなった

こういう流れとして、戦後の日本を把握しておく必要がある。

正確に言うと、その3ではなく、写真集だ。

Viv's blog というページの2012年3月の記事で「喫煙所あります」というのがあった。

この記事によると、ダラスを旅行した時に、空港内に喫煙所があったそうだ。6メートル四方のガラスの檻の中で10人以上の人が吸っているさまはまるで「人間テトリス」だったそうだが、テトリスがどんなものかはわからない。

そもそもダラスに喫煙室があるとは聞いたことがないが…添付された写真はダラスではなくアトランタのもの。

次の写真はフランクフルト空港のキャメルのマーク入りの喫煙所。ミュンヘンにはキャメル・ボックスのほかにウィンストンの立派なラウンジが写真確認されている。

frankfurt

ワルシャワのショパン空港にはJTが立派なラウンジを開いている。

saltlake32631

上はソルトレークシティーの喫煙所。説明には“violated the Utah Indoor Clean Air Act 2007”と書かれている。

lambert_airports_death_boxes

これはセントルイス空港の“Death Box” 1998年の写真だからもう消えているだろう。

結局、嫌煙主義者の主張は「そもそもたばこを吸う姿が目障りだから消えろ」というものだ。それは美意識の問題ではないか。

間接喫煙を錦の御旗にしているが、密閉した喫煙スペースで“自己責任”で、人に迷惑をかけずに吸うのはプライバシーの範囲だ。

「そんなものに使う金が惜しい」というが、それだけの金は払っている。たばこ飲みほど日本の財政に貢献している人種はいない。

たばこの健康被害による経済損失というが、それならおよそ快楽行為はすべて経済的損失だ。あまり体にいい快楽行為というのは聞いたことはない。そういう計算はやめよう。

長髪やひげも、鼻ピアスも入れ墨も、競馬やパチンコも他人に迷惑をかけない限りはカラスの勝手だろう。「自己責任」を声高にしゃべる有名キャスターが、ヨットで遭難して救助を求めたのはいつの話だっけ。

あなたに何の迷惑もかけていないのに、あなたが不愉快だからと言って禁止するのは、プライバシーの侵害だ。

たばこの害は別問題だ。タバコの悪影響について争うつもりはない。「自殺行為」と言われても甘受する。(ただし「自殺行為」に等しいのであって、自殺行為ではない、と密かに思う)

発がん性、肺気腫は主としてタールに関わるものなので、何らかの改善が望ましいのかもしれない。

ニコチンについて言えば、アルコール、カフェイン、テオフィリンと同列だろう。嫌煙論者からは麻薬扱いだが、酒で廃人になる人はくさるほどいるが、タバコで廃人になった人など聞いたことはない。

大体、ダイエット中毒とかマラソン中毒の方が体にははるかに有害だ。(と、密かに思う)


六面体としての憲法9条 脱神話化と再構築 - 京都96条の会

君島東彦さんが96条の会に寄稿した文章のようである。これの第6章が「世界の民衆から9条を見る」という題名になっていて、なかなかの力作である。本人は「迂遠」と度々コメントしているように、文章のテーマからすればかなり長い「蛇足」になっているが、本来別テーマとして語るべきボリュームと内容を伴っている。その要点を抜き出しておく。後段は私の勝手な感想で、君島さんとは関係ない。


1.憲法9条は世界の平和運動が生み出したもの

憲法9条のひとつの源泉は1928年のパリ不戦条約である。これは提案者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれる。

パリ不戦条約を成立させた原動力のひとつは、1920年代米国の平和運動であった。それは「戦争非合法化」運動と特徴づけられている。

2.平和の理念 消極的平和と積極的平和

平和学の認識によれば、平和とは暴力の克服である。

暴力には戦争という直接的暴力と、社会的不正義という構造的暴力がある。

直接的暴力を克服することは消極的平和であり、社会的不正義を克服することは積極的平和である。

平和とはその両方を克服することを意味する。

3.平和的生存権 憲法前文に即して

日本国憲法に即していえば、まず前文第2段落に注目しなければならない。

「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」

という規定(平和的生存権)は重要である。

(この規定は、日本国民を対象としたものではなく、「全世界の国民」が対象であることに注意すべきだ。「全世界の国民」に保障されるべき権利だからこそ、日本国民にもその権利が付与されるのである。「恐怖と欠乏」は戦争以外の経済的・社会的理由によってももたらされることがあるが、ここでは戦争に起因する「恐怖と欠乏」に限定されるべきであろう、と私は思う)

4.憲法前文と平和的生存権はルーズベルトの決意

この「平和的生存権」の規定は、ルーズヴェルト大統領に由来するものである。それは太平洋戦争の直前1941年に、ルーズベルト大統領の議会あて教書で「4つの自由」として初めて触れられた。そして同じ年の「大西洋憲章」で展開された。

ルーズベルト発言から推し量れるように、憲法前文の、「恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する」という表現の中には、差し迫った緊迫感がある。そこで語られる「平和」には、消極的平和と積極的平和の両方の意味が含まれていると解される。

5.憲法前文と積極的平和

ついで前文第2段落のもう一つの部分に話が移る。

憲法前文は、世界には「専制、隷従、圧迫、偏狭、恐怖、欠乏」という構造的暴力があること、我々はこの構造的暴力を克服しなければならないとしている。

そして、9条はこの精神を受けて、日本の武力行使を禁止し、日本の軍隊を脱正統化している。つまり憲法9条は直接的暴力を克服しようとする規定である。

6.憲法前文と「共通の安全保障」

さらに、前文第2段落は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。これは「安全保障共同体」の形成と、それによる「共通の安全保障」をめざすことを示唆したものである。

日本国憲法の平和主義はこのようにとらえられる。

(この指摘は示唆に富むものであるが、アメリカがそこまで確信を持って日本の安全保障を認めていたかどうかは定かではない。「安全保障共同体による共通の安全保障」が実現するまでの間は、日本が国を守る自衛権を保留するという意見もある)

7.憲法が定める二つの平和規範

憲法が定めている平和規範には2種類ある。第一の類型は国家権力に対する制限ないし禁止規範である。9条はその典型である。これに対し平和的生存権を含む前文第2段落は、日本の平和政策を方向づける積極的政策規範としての性格を持っている。

アジア太平洋戦争という侵略戦争をした日本にとっては、戦争をしないことは何にもまして重要である。しかし、もし自衛隊を海外に派遣しないのであれば、日本の市民と政府は平和のために何をするのか。専制と隷従、圧迫と偏狭、恐怖と欠乏という世界の「構造的暴力」を克服するために、日本の市民と政府は何をするのか。

それが問われる。これは憲法前文の積極的政策規範の具体化の問題である。


感想

日本国憲法の成立におけるルーズベルトの役割

まず憲法押し付け論との関連だが、君島さんは憲法の思想的源流として、アメリカやヨーロッパの平和的運動の潮流を引き出し、その文脈の上に日本国憲法を置こうとする。その意味では外来的思想であることは疑いない。「日本の青い空」を持って国産であるのを主張するのには無理がある。だからそれが外来思想の輸入であることを問題にするよりは、どういう思想を受け継ぐものであるかを明らかにする方が生産的だ。

「憲法前文と第9条は、日本国民が生み出したのでもなく、アメリカが自国の利害を押し付けたのでもなく、大戦間の世界の平和主義の伝統を引き継ぐものとしてみておく必要がある」ということになる。

その上で注目されるのは、ルーズベルトの位置づけだ。君島さんはある意味で日本国憲法が「ルーズベルト憲法」とも言えるのではないかと指摘する。

「4つの自由」というのは寡聞にして知らないが、どうも太平洋戦争=米国の参戦を前にして(欧州大戦はすでに始まっている)国民への決意の促しという側面を持っているのではないか。つまり当面する危機には断固として武力を持って立ち上がろう。その闘いの後、平和が実現するとしたら、それはどういう平和になるのだろうか、国民はそれにどう関わるのだろうか、という観点から読み解かなければならない。

憲法前文を貫く一種の「理想主義」には、差し迫る戦争への危機感、危機と立ち向かい平和を守る決意が秘められている、という見解には深くうなずけるものがある。私は映画「独裁者」におけるチャップリンの名演説を思い出す。あれこそが憲法前文を貫く精神なのかもしれない。

「ニューディーラーの持ち込み」という認識レベルにとどまっていた私にとっては目新しい提起であり、目下のところそれに応えるだけの知識を持ち合わせていない。

君島さんによる平和の定義

君島さんによる平和の定義は日本語的にはかなり厳しい。「平和」は日本語では形容名詞であり動詞ではない。社会的不正義の克服は、普通は民主、平等、公平、公正などの言葉で呼ばれる。ただ、もちろん、平和を周辺概念と関連付けてより広く捉えようという発想や、それをたんなる状況説明の用語ではなく、実践的に捉えようとする視点は重要だろう。

英語と日本語の枠組みの違いは良くある。しかも重要な概念に限ってそれが表出する。例えば英語で自由=フリーダムというのは、「権利」の概念を強く含んでいる。場合によっては権利と訳したほうが通りがいい場合すらある。逆に「自由勝手」のようなニュアンスはあまりない。またヘルスという言葉はたんに健康というのではなく、保健という実践的概念でもあるし、そこに医療も含まれてくる大変多義的な言葉である。一方で技術=テクノロジーという言葉は日本語よりかなり狭い。むしろ「工学」と訳した方がいいかもしれない。

英語のピースが日本語の「平和」とどう重なり合いどうずれているかは、現場で個別に吟味していくしかなさそうだ。

平和の努力には主権の尊重が不可欠だ

「戦争しない」だけで平和を守れるわけではないことは承知である。それに加えて積極的な平和努力が必要なことにも同意する。そして各種のNGOの努力が有効なことにも、国としての平和推進活動の重要性も同意する。

しかしそれだけで平和は守れるだろうか。もしルーズベルトの精神を云々するのであれば、「平和の敵」への断固たる姿勢がもとめられるし、民族主権の尊重が何よりも優先されなければならない。そして「平和の敵」と戦う人々への連帯が検討されなければならない。それは政府の言う「積極平和主義」や「集団的自衛権」と思想的に対決するために、何よりももとめられる視点であろう。

例えば、ウクライナ問題では断固としてウクライナの主権が尊重されなければならないし、その上に打ち立てられた平和こそが尊重されなければならない。イスラム国問題では、そのすべてではないにせよ、イラクへの理不尽な侵攻が発端であったことを常に忘れてはならないのである。

戦後教育制度の根幹となる文書が、「米国教育使節団の報告書」(1946年3月)である。

文部科学省のホームページにその要旨が掲載されているので、勘どころをサラッと紹介する。

経緯: ジョージ・D・ストダード博士を団長とする米国教育界代表27名が1ヶ月の滞在調査の後発表したものである。

本使節団は占領当初の禁止的指令を前提としつつ、「今回は積極的提案をなすことに主要な重点」を置いたものである。

①中央集権の排除

高度に中央集権化された教育制度は、官僚政治にともなう害悪を受ける。教師各自が職務を自由に発展させるためには、地方分権化が必要である。

文部省は各種の学校に対し技術的援助および専門的な助言を与える。一方で、地方の学校に対するその直接の支配力は大いに減少する。

内務省地方官吏の管理行政を排除し、地方の住民を広く教育行政に参画させる。このため一般投票により選出せる教育行政機関(教育委員会)を創設する。

教育委員会は学校の認可・教員の免許状の附与・教科書の選定に関し権限をにぎる。(現在はかかる権限は全部中央の文部省ににぎられている)

②天皇崇拝の排除

学校における勅語の朗読・御真影の奉拝等の式を挙げることは望ましくない。


③教育の目的と内容

広い知識と深い知識は、一冊の認定教科書や型通りの試験では得られない。個々の生徒の学習体験が考慮されるべきだ。

「修身」は服従心の助長に向けられて来た。今後は自由な国民生活のためになるようにすべきだ。平等を促す礼儀作法、民主政治の協調精神、これらはみな広義の修身(公民教育)である。

地理および歴史の教科書は、神話は神話として認めるが、いっそう客観的な見解となるよう書き直す。(以下略)


④学校制度

義務教育を引上げ修業年限を9年に延長する。最初の6年は小学校において、次の3年は創設されるべき「初級中等学校」において修学する。

さらに3年制の「上級中等学校」をも設置する。この学校は授業料は無徴収、男女共学制、進学希望者全部に学習の機会を提供する。


⑤教授法

つめこみ主義、画一主義は改められる。忠孝のような上長への服従に重点を置く教授法は改められる。

思考の独立を尊重し、個性の発展をうながす。民主的公民としての権利と責任とを助長する。


⑥教員養成と教育機関

師範学校は四年制とし、現在の高等師範学校とほとんど同等の水準に再組織されるべきである。高等教育機関はさらに進んだ研究をなしうるような施設を拡充すべきである。

高等教育機関は、その目的を追求するために、あらゆる自由を保有しなくてはならない。高等教育機関における学問的自由の確立は極めて重要である。

諸要件の維持に関しては政府機関に責任がある。その役目以外には、政府機関は統制権を与えられるべきではない。このため現在の文官制度は廃止するべきである。


⑦学生の自由(この文脈では「自由」を「権利」と読み替えたほうが分かりやすい)

学生にとって保証されるべき自由は、その才能に応じてあらゆる水準の高等な研究に進みうる自由である。

このためにはまず財政的援助が与えられなくてはならない。

とくに女子に対し、今ただちに高等教育への進学の自由が与えられるべきである。同時に女子の初等中等教育も改善されなければならない。


一読した印象としては、この報告は戦後の教育民主化の基本を成すものではない

この報告では、公民教育、軍国主義教育については、「すでに解決された」として殆ど触れられていない。

調査団が関心を持っているのは、教育の官僚統制と画一教育である。

調査団はこれに対して具体的対案を提示している。しかし天皇制と軍国主義はとても解決されたとはいえない状況にあった。それが解決されないと官僚統制も解決されないのである。

ただそれは日本の教育システムをよく知ったうえでの発言というよりは、制度いじりとアメリカ風教育スタイルの持ち込みという印象を持たざるをえない。

地方分権というが、日本においては地方こそが封建主義の牙城であり、彼らは戦災によっても被害を受けず力を温存していた。肝心なのは地方の自治ではなく中央集権的官僚機構の破壊だった。GHQがそれをしゃかりきでやっている最中だった。

それがこの報告の弱点であり、そこが旧体制派に利用されたという側面がある。旧体制派は仕掛けを変えることで、心を入れ替えたふりをすることができる。


私は戦後教育の第一世代の経験者として、これらの制度改編の大波を食らったわけだが、率直に言えば、このシステムいじりが無用な混乱と反感を招き、教育民主化の実を失わせていたのではないかと思っている。

しかしこの報告の本質はそこにあるわけではない。「学問の自由」と官僚統制の排除、分権の徹底という点での毅然とした主張こそが中核である。また「自由」を権利として明確化している点にも特徴がある。

したがって政府には「学問の自由」=学問の権利を守る責務がある、ということも明確にしている。

なおこの文章は報告の「要旨」であり、訳文にもいくつか気になるところがある。原文に直接あたっているわけではないので断言はできないが、どうも「薄めた表現」、「婉曲化表現」ではないかと思うところがある。

 

 

前にも書いたかな。
パソコンが壊れた。
Lenovo のY560 というので、たしかにもう5年間フル稼働した。寿命と言われればそれまでだが、今考えるとどうも初期不良があったようだ。
最初から排気がやたらと高熱だった。ファンの音も相当うるさかった。
ie7 を搭載した最初のノートパソコンというのにつられて発売と同時に買った。大体これがよくない。初期不良はつきものだからせめて半年してから買えばよかった。
ソニーがMDを出した時も予約で買って、3回も修理に出して、結局パアになった。それにも懲りず、据え置き型のデッキが出るとそれも見ずてん買いした。
パソコンにMDデータが移せるのが売りの、それだけの機械も買ったが結局ほとんど使わずにほこりをかぶっている。出るのが(正確には出すのが)遅すぎた。もうMP3ファイルをDACでつなげる時代に入っていた。
かつてのLPやカセットやVHSハイファイでとった音源と同様、捨てるに捨てられず、本棚の上に山積みになっている。

例によって、アルコールが回り始めて話が跳んでいく。
パソコンは最初がNECの中古、続いてエプソンの中古。これは文字通り火を噴いてお陀仏した。
ここでNEC9800シリーズとさよなら、近くにマック教の教祖が居てマックに乗り換えた。この頃はDOSV器が出始めて、三つ巴だったから、選択しなければならなかった。
しかし私にマックはあわなかった。あれは理数系の人の機械だ。週に一度は爆弾が出て、ついにあきらめた。それから富士通のFMV、エプソンのエンデバーという通信販売、IBMのシンクパッドとつないできた。
なじみの小料理屋が引退して、居抜きで買った店主のところに通い続けるのと同じで、Lenovo を買ったが、しょせんLenovo は Lenovo だ。体になじんだ椅子とカウンターは同じでも、出てくるものは総菜屋よりひどい。

ということで、ネットで一番評判のダイナブックに乗り換えた次第。
これだけ東芝のことを叩いておいていうのもなんだが、東芝はいい。我が家はテレビも冷蔵庫も東芝だ。ソニーのように時限装置が付いていないのがいい。
病院ではエコーも東芝だった。「アロカを買え」という、さる筋からのかなり強力な干渉を蹴飛ばして買ったものだ。「おまけ」の量が違うのと、東芝の販売さんが「売ってやる」式に態度がでかいのは散々聞かされた。東芝の没落には営業の責任がかなりあるのかもしれない。

またまた話が跳んだ。
それでダイナブックだが、「予想外に良い」のだ。ハイブリッドというが、ほとんどハードディスクは動かない。1時間に1回くらいかすかにモーターの音はするが、基本的には無音である。したがってほとんど熱を発しない。
SSDはたしかに250ギガでは心もとないが、今のところ2テラのハードディスクを外付けしているので、それで十分だ。何より ie7 はSSDと組み合わせてはじめてその力を発揮するのではないかと思う。
Y560 と比べると軽量小型薄型だ。タブレットに近い。しかしそれは私にとってはどうでもいい。ディスプレイの光沢がなくなって、映り込みがなくなったのはうれしい。見やすいだけではない。時に画面に醜悪な年寄りの顔が映り込むのは勘弁してほしい。
画面が小さくなってしまったのは難点だ。画面に合わせて字も小さい。二画面操作になるとてき面に効いてくる。これは老眼がますます進行している私には脅威だ。

今回の買い替えはウィンドウズ10への乗り換えと同時進行だから、使い勝手はむしろ乗り換えに規定されている。使い手は当然ながらウィンドウズ7的な使い方をしたいのだが、そのためには相当環境をいじらなければならない。
まずはスタート画面に出てくるお仕着せアプリをすべて掃き飛ばすことから始める。ついでエクスプローラー画面も縦罫もツールバーもすっきりさせてなじみのスタイルに戻す。
後は呼びもしないのにしゃしゃり出てくる「吹き出し」を排除したいのだが、まだそこまでの作業はできていない。
ここまでの印象としては、ウィンドウズ10は7をはるかに超えるような水準にはないし、完成度もまだまだということだ。95→98SE→XP→7と進んできた私には、Me とかNT とか Vista などは縁なき存在だった。しかし通信速度、記憶容量が文字通りけた違いに増えて行く流れの中ではOSの改変は不可避的だった、7から10への「進化」にはそういう背景がない。理由なき改革は「進化」ではないように思えるが、いかがであろうか。
私の考える今一番のネックは、活字のテキストファイル化である。一つには著作権の問題がある。もう一つはそれがクラウド化されたとして、そこへのアクセスの問題=ハッキングやネット犯罪への対策がある。
現実の世界の中で「自己責任」がやかましく言われるようになったのは、ネット世界の影響があると思う。ネット世界が自由で開放されたものになればなるほど、自己責任の範囲も拡大せざるを得ないのである。

ありがとう、sznm_0さん
このやり方で幽霊ファイルがあっさりと消えてくれました。
いつもファイルをデスクトップにダウンロードしているのですが、MP3のダウンロードサイトからのファイルが、結構バグが多くて、ダウンロードが途中でストップしてしまうのです。
そうすると、0kbのファイルがデスクトップに残ってしまい、どうやっても消えてくれなくて困っていました。
WEBで見るとずいぶんたくさんの解決法が載せられていて、どれも難しく、説明はそれ以上に難しく、まるでいじめを楽しんでいる雰囲気があります。
やっと簡単かつ確実な方法を教えてもらいました。
詳しくは
http://www.geocities.jp/sznm_0/free-file_del.html
を見てもらえばいいのですが、見るほどのことはありません。
要はDOSで、
CD DESKTOP
でDIRを動かして
DESKTOPになったら
DEL *.*
でみんな消えます。
残るのはカラのゴミ箱だけです。
よくよく考えれば、バカボンのパパではないが、「それでいいのだ!」です。実にシンプルです。
頻用するアプリケーションはツールバーに入れていけばいい。そうでもないものはスタート画面で開ければいい。そういうことです。
これは思想革命(目からうろこ)です。
本当にありがとうございました。

軍部の歴史についていろんな文献があるが、どれもこれも大同小異だ。
刀をもらったとか、銀時計だとか、「人情家だった」などの話にはうんざりである。
そのなかで川田稔の著作は出色ではあるが、悲しいかな類書に乏しいため比較検討ができない。
分かってきたことがいくつかある。
1.天皇制
天皇は荒木貞夫と皇道派によって議会と政府を押さえつけるための方便として利用された。それがうまくいったから、皇道派消滅後も軍部はそれを最大限に活用した。
2.昭和天皇はたんなる飾り物ではなかった
一種の戦後神話として、昭和天皇は軍部支配の犠牲者であり、本質的には平和主義者であったとされている。
しかし天皇は犠牲者でもなく平和主義者でもなく、最初は軍部の精神的代表として、のちには「大元帥」として戦争政策を推進した当事者であった。その故に政治的影響力を発揮しえたのである。
昭和天皇の思想的中核はほとんど狂信的とさえいえる反共産主義にある。かなり聡明であったかもしれないが、この反共原理主義が判断にゆがみをもたらしていると思う。
3.永田鉄山は勝負師である
永田鉄山の資質については様々な評価が下されているが、基本的には勝負師だろうと思う。斬った張ったの修羅場が大好きな人間である。戦略あって哲学なし、軍人としては最高かもしれないが、娑婆の世界では梟雄というべきであろう。
4.「強者の論理」に酔いしれて
「昭和陸軍の軌跡」を貫くのは強者の論理である。いったん始まればそれはどんどん研ぎ澄まされていく。国民は弱者であるにもかかわらず、強者の論理に酔いしれてしまった、
草野球で9番ライトさえおぼつかないのに、王・長嶋になった気分で野球評論する。打たれた投手をボロカスにののしる。怪傑黒頭巾がバッタバッタと斬り倒すのを見て胸がすっとしても、斬られた10人が生きられたはずの10の人生、墓標の前に立ち尽くす親や妻、子供には思いを致さないのである。
それが野球フアンのだいご味でもあるのだが、政治の世界では別の論理を打ち立てなくてはならない。野球評論と政治評論では視点をひっくり返さなくてはならない。自らを弱者の一員として位置づけなければならないのである。


永田鉄山と一夕会 年表

 

1921年(大正10年)

10月 ドイツのバーデン・バーデンで欧州派遣中の永田鉄山、小畑敏四郎、岡村寧次の三人(陸士16期)が非公式会談。軍の実権を握る長州閥の打破、国家総動員に向けての計画で合意。「バーデン=バーデンの密約」と呼ばれる。1期下の東条英機も参加。

永田鉄山

永田 鉄山 1884年(明治17年)生 1920年(大正9年)に駐スイス大使館付駐在武官となる。

Toshishiro_Obata

小畑 敏四郎 1885年(明治18年)生 1915年(大正4年)、ロシア駐在、第一次世界大戦下のロシア軍に従軍。参謀本部員を経て、1920年(大正9年)、ロシア大使館付武官。しかし入国できず、ベルリンに滞在。

岡村寧次

岡村 寧次 1884年(明治17年)生 1914年(大正3年)から参謀本部で勤務し、同6年には北京駐在員として中国勤務。

1923年(大正12年) 陸軍を支配していた山県有朋が死亡。軍は引き続き長州閥の田中義一が把握。

1924年(大正13年)田中義一を継いで宇垣一成が陸相に就任。宇垣は岡山出身ながら長州閥の一員とみなされる。

1925年(大正14年) 大戦後不況と関東大震災を受け「宇垣軍縮」が断行される。4個師団約9万人を削減、これを補うため機動力と火力、航空機の強化に乗り出す。

これを機に軍縮・軍制改革の支持派と現状維持派との対立が発生。これが長州派と反長州派の対立と重なる。永田、東条らも当初は反宇垣派に加わる。

1926年(大正15年)

4月 永田鉄山、宇垣陸相の下で国家総動員関係の専門家として中央入り。その後内閣の資源局、陸軍省の動員課と統制課の設置に尽力、初代動員課長となる。

永田は第二次大戦が必至と考えた。そこでドイツの経験を踏まえ、資源、機械生産、労働力のすべてを自前で供給できる体制を整えようとした。

1927年(昭和2年)

4月 昭和金融恐慌の中で、田中義一前陸相が首相に就任。治安維持法の改悪、相次ぐ共産党弾圧など最悪の反動内閣とされる。

永田、岡村、小畑を中心に陸士16期~18期メンバーを結集。「二葉会」を結成。会合場所であるフランス料理店二葉亭に由来する。

「二葉会」の後輩にあたる陸士22期~24期が「木曜会」を組織。永田鉄山の腹心にあたる東条が両会の橋渡し役をつとめる。

一夕会
          
ウィキペディアより

1928年(昭和3年)

6月 関東軍参謀の河本大作らが瀋陽近郊で張作霖の乗った列車を爆破。張作霖は死亡する。田中義一首相は日露戦争時に現地で張作霖と親密な関係にあり、北伐で追い落とされつつあった張作霖の保護を考えていたとされる。河本は第9師団預かりとなるが、一夕会には歓迎された。東条は「あなたは英雄だ」と耳打ちしたという。

1929年(昭和4年)

5月 二葉会と木曜会の合同になる一夕会が第一回会合。満州事変の勃発までの2年あまり、毎月一回開かれた。「一夕を楽しむ」ことを趣旨とする。1.陸軍の人事の刷新、2.満州問題の武力解決、3.非長州系三将官(荒木・真崎・林)の擁立を申し合わせる。(反長州といっても実態は反宇垣で、後の党勢は、皇道派が混在)。

6月 関東軍の主任参謀に就任した石原莞爾、「関東軍満蒙領有計画」を立案。軍事力行使による全満州占領を主張する。

石原莞爾

石原 莞爾 明治22年生 昭和3年に関東軍作戦主任参謀となる。

7月 河本大作参謀への処罰を誤った田中首相が辞任。

11月 ウォール街で株価の大暴落。以後世界大恐慌へと波及する。

1930年(昭和5年)

11月 浜口首相が東京駅で狙撃される。

11月 幣原外相、南満鉄道に並行して走る中国側路線の建設を容認する方針を提示。結果的には、一夕会が満州侵攻の決断を下す引き金となる。

1931年(昭和6年)

3月 宇垣陸相を担ぐクーデター計画が発覚する。三月事件と呼ばれる。参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐が民間の右翼勢力と結託しクーデターを企画。最終的に宇垣の同意が得られず未遂に終わる。事件はもみ消され、橋本らは処罰を受けることなく終わる。

3月 参謀本部情報部が「昭和6年情勢判断」を作成。満蒙問題の「根本的解決」の必要を主張する。1.中国主権下での親日政権樹立、2.独立国家建設、3.日本の直接領有、の三つのオプションが示される。

4月 浜口首相が病気辞任。若槻礼次郎が首相に就任。陸相も宇垣から南次郎に交代。参謀総長の金谷範三は留任する。その後宇垣は政治活動を活発化させる。永田鉄山、南次郎陸相の下で陸軍省軍事課長となる。

南次郎1931
         
南 次郎(1931年)

5月 石原、「満蒙問題私見」を作成。「謀略により機会を作成し、軍部主導で国家を強引」することを主張。これにしたがい戦闘準備に入る。

6月 永田鉄山陸軍省軍事課長をトップとする五課長会議、「満蒙問題解決方針の大綱」を作成。「軍事行動のやむなきに至る」ことを想定して、その準備に入るよう主張する。

8.17 「中村大尉事件」が大々的に報道される。参謀本部の派遣したスパイ中村大尉が興安嶺で内偵中に現地兵に殺害された事件。政友会幹部や東京朝日新聞が「国権の発動」を求める。

8月 陸海軍の青年将校と民間右翼が日本青年館で決起大会。軍事主導の政権づくりを目指す。

9月18日 満州事変が勃発。奉天近郊で鉄道爆破事件が起こり、関東軍は中国軍による攻撃として兵を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領。

事件は関東軍の石原、板垣らによる陰謀であった。この作戦を東京の永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長らが支援した。

9.20 参謀本部の建川作戦部長が現地入りし関東軍幹部と会談。満蒙領有論を退け独立政権樹立を了承させる。

9.24 内閣が事態の「不拡大」声明。日本軍攻撃の正当性を認めつつ、居留民の安全が確保され次第撤退すると明らかにする。金谷参謀総長、満鉄所有地の外側の占領地店より部隊を引き揚げるよう命令。

9.25 7課長会議、金谷参謀総長の命に反し満蒙新政権の樹立を含む「時局対策案」を起案。金谷命令は現地ではうやむやのまま実行されず。

10.08 南・金谷ラインが7課長方針を受け入れ、満蒙新政権を前提とする「時局処理法案」を決定。「幕僚統帥」の先駆けとなる。

10.26 若槻内閣が第二次声明を発表。侵攻部隊の無条件撤退を撤回し、既成事実を容認。

10月 3月事件に続き橋本中佐がクーデターを計画。今度は荒木貞夫中将を担ぐ。橋本は一時拘束されるが、軍法会議は開かれず、橋本は地方連隊に配置換えとなる。

11月 南陸相ら軍中央首脳部、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動し関東軍の北満(チチハル)進出を拒否。この後、軍中央は関東軍のハルビン出兵要請、錦州侵攻も認めず。

臨参委命: 参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもの。これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入る。

11月 陸軍中央、関東軍の独立国家建設方針を認めず。これにより一夕会は身動きが取れなくなる(川田稔)

12月11日 安達内相の反乱により若槻内閣が総辞職。(川田によれば安達は中野正剛を通じて一夕会と接触した可能性があるとされる) 犬養内閣が成立。陸相には一夕会が支持する荒木貞夫が就任する。

荒木は日本軍を「皇軍」と呼び、政財界など「君側の奸」を排除して親政による国家改造を説いた。その追随者は皇道派と呼ばれる。
対外路線としては「反ソ」を基本とするが、主要な目標は国内改革にあった。

1932年(昭和7年)

1月 荒木陸相、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえ、参謀次長に盟友の真崎甚三郎を充てるなど強引な人事をすすめる。

部課長人事: 一夕会の小畑敏四郎が参謀本部作戦部長に起用される。軍務局長には山岡重厚、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。宇垣派はすべて陸軍中央要職から排除される。

犬養内閣、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定。関東軍のチチハル、ハルビンをふくむ全満州占領方針も承認される。

1933年(昭和8年)

6月 陸軍全幕僚会議。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立。対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。

会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁(ウィキペディア)

8月 小畑敏四郎、参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出。

1934年(昭和9年)

1月23日 荒木陸相が病気辞任。正月の痛飲が原因で肺炎を起こしたとされる。後任に三将軍の一人、林銑十郎が就任。皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。

8月 永田鉄山、国府津に腹心を集めカウンター・クーデター計画をを立案。

永田の指導する「経済国策研究会」と右翼団体「昭和神聖会」が、国家改造の上奏請願に伴って戒厳令を布き、皇族内閣を組織するというもの
ただしウィキは「反永田」で一貫しており、記事出所の信頼性が低い。

永田鉄山、陸軍省軍務局長に就任。

10月 永田鉄山、「国防の本義と其強化の提唱」(陸軍パンフレット)を作成。軍内に配布。軍内統制の強化とともに、陸軍の主張を政治、経済の分野に浸透させ、完全な国防国家を建設するよう提唱する。

11月 陸軍士官学校事件が発生。元老、重臣の襲撃を図った皇道派の村中孝次、磯部浅一らが逮捕される。皇道派はパンフレット「粛軍に関する意見書」を軍部内に配布。永田を統制派の中心として攻撃。

34年 永田鉄山、「朝鮮は今のままでは絶対に収まらない。なるべく早く日本人に悪感情を持たれない形で独立すべきだ」と発言。(出典不明)

1935年(昭和10年)

7月 陸軍人事異動。皇道派の担ぐ真崎教育総監が更迭される。皇道派はこれを永田鉄山の画策と受け止める。

8月19日 永田鉄山、執務中に相沢三郎中佐に斬殺される。「相沢が永田を殺したあと、下の階に降りたら山下奉文がいて、相沢に包帯を巻いていやった」(出典不明)

9月 陸軍内で首脳部交代。林銑十郎陸相、橋本虎之助陸軍次官、橋本群軍務課長は退任。

1936年(昭和11年)

2月 相沢裁判、林前陸相、橋本前陸軍次官、真崎前教育総監を相次いで召喚。林陸相、永田軍務局長に統帥権干犯があったか否かが事件の焦点となる。

2.26 2.26事件が発生。

7.04 相沢裁判は2.26事件以降実質的審理のないまま死刑確定。相沢は銃殺刑に処せられる。

8月 粛軍人事により皇道派の一掃。小畑敏四郎も予備役に編入される。

1937年(昭和12年)

宇垣一成、組閣の大命を受ける。陸軍が拒否したため、流産。4個師団削減を恨まれたものとされる。

1938年(昭和13年) 

東条英機が陸軍次官に就任。2.26事件のときは関東憲兵隊司令官に過ぎなかったが粛軍人事で大躍進する。






 


恥ずかしながら全く不勉強で、昭和8年の陸軍全幕僚会議のことなど知らなかった。

なんとなく、2.26事件や相沢事件のことがあって、皇道派というのがファンキーな連中で、「統制派」というのが多少なりともまともだったのではないかと思っていた。

ところが陸軍全幕僚会議の論議を聞いていると、皇道派の方がはるかにまともで、永田鉄山の理論はとても理論とは言えないほどのハチャメチャぶりだ。どうしてこれが主流になったのかがわからない。もう少し勉強する必要があるが、とりあえずメモっておく。


1933年(昭和8年)6月、参謀本部で対ソ・対中路線をめぐる議論があった。参謀本部の永田鉄山第2部長と小畑敏四郎第3部長が対立の軸となった。

ソ連通の小畑敏四郎が対ソ準備を説いた。これに対し永田鉄山は「対支一撃論」を主張した。

ウィキペディアによると、会議の大勢は「攻勢はとらぬが、軍を挙げて対ソ準備にあたる」というにあったが、参謀本部第二部長の永田一人が反対した。
「ソ連に当たるには支那と協同しなくてはならぬ。それには一度支那を叩いて日本のいうことを何でもきくようにしなければならない」と主張した。
これに対し荒木陸相は「支那と戦争すれば英米は黙っていないし、必ず世界を敵とする大変な戦争になる」と反駁した。

とあるので、両派の対立というより、ひとり永田鉄山が「トンでも理論」で突っ走っていて、ほかの連中が持て余しているという印象だ。

それなのに、その後の経過を見ると、印象はまるっきり変わってくる。

ウィキペディアでは、この論争が皇道・統制両派確執の発端となったとある。

そして2か月後には、小畑敏四郎は参謀本部を去り近衛歩兵第1旅団長に転出している。その年の末に荒木陸相は更迭され、その後皇道派は追い詰められていく。追い詰められたその先が2.26事件ということになる。


どうも話が変だ。バスストップ事件への対応を見ても、荒木貞夫がまともな常識人打倒はとても思えないが、それでもこの会議での発言は永田鉄山に比べれば、少なくともまだまともだ。


戦前の大手生命保険会社の株主の一覧表。
財閥系生保の戦後の相互会社化 - 日本保険学会から転載しました。

生保の株主
コーポレート・ガヴァナンスもへったくれもない、完全な個人資産です。
このような巨大な寄生虫が慢性的な貧血をもたらし、経済の成長を阻害し、内需の枯渇をもたらし、海外進出を至上命題とし、やがて世界大戦へと導いていったのでしょう。

内務省年表(とりあえず戦争責任との関係で)を増補しました。
いくつかの点がわかってきました。
1.内務省の設立は大久保利通のクーデターであった
彼は政府の中に内務省というもう一つの政府を作り、そこに権力を集中することによって維新政府の危機を乗り越えた。
2.西南戦争の終了と彼自身の死によって内務省の存在意義は消失した
にもかかわらずなぜ内務省は存続したのか。軍トップの山県がこのありがたい組織に注目し、その存続を図った。以降内務省は第二の政府として軍トップの意向を反映してきた。
3.内務省は軍の装置として軍の権力維持に役立ってきた
権力機構の維持のための装置であると同時に、政府から半ば独立した権力としての軍部を維持するための装置として役立ってきた。

我々が「自らの死」を哲学として考える場合、老化による自然死と、老化とともに発生するさまざまの病気による死亡とを分けて考えなければなりません。

いくら年を取ったとしても、病気で死にたくはありません。やはり死というのはろうそくの蝋が最後まで燃え尽きて、ふっと火が消えるような死でありたいものです。

これまで認知症は老化による死と混同されてきました。しかしだんだんと、それが病気であることが認識されるようになってきました。

だから認知症は克服されなければならないし、人類はすでにその一歩を踏み出しつつあります。

もう一つの混同があります。

それは患者本人をどう対応していくかという問題ではなく、家族がそれにどう対応していくかという問題意識が先行していることです。

私はこれも一種の病気、社会病理現象だろうと思います。率直に言えば、みんなグループホームか老人ホームに入ってしまえば、この問題は解決してしまうのです。

ここのところは、かなり慎重な物言いをしなければならないところですから、できるだけ思慮深く話したいとは思いますが…

まず皆さんに心から納得してもらいたいのは、認知症は脳の病気だということです、そして脳の器質的な病理的変化の結果、精神異常をきたす病気だということです。

だから基本的な戦略は病理的変化を防ぎ、できれば治すことです。そして器質的病変の結果もたらされる精神異常をコントロールし、それなりに社会適応させることです。

そのためには専門的知識と技量が必要です。肺炎や心不全になったら入院が必要なのと同じように、認知症が進行しそのために精神異常が出現したら、自宅で管理するのはやめて専門施設にゆだねるべきなのです。

ここから先はやや乱暴な議論かもしれませんが、徘徊する認知症は施設に入れるべきだろうと思います。それは幻覚・幻聴が出現した統合失調の患者を措置入院させるのと同じです。

なぜならそれは病気であり、専門治療が必要であると同時に、それが病気でありきちっとした治療管理の下でコントロール可能となるからです。

端的に言って、今の日本では「在宅介護こそベスト」というイデオロギーが押し付けられています。よしんばそれが正しいとして、徘徊老人の管理まで「在宅」の範疇に突っ込むのは、医学的に見れば間違いです。

統合失調の患者がうわごとを叫びながら刃物を振りかざすのを、「在宅ベスト」なんだから在宅で見ろというのと同じです。

哲学的判断より、まずは医学的判断です。早期対応が必要です。

なぜそれをためらうのか、それこそ政府やメディアの「自己責任・自助努力」キャンペーンのためです。「善良な市民」はそれをまともに受け止めて真剣に考え込んでしまうのです。

戦時中、若者はほかの選択なしに死を選ばされました。それを運命として受け入れるとき、どう生きるのかということで、三木清がより合理的な、その故に、より屈折した「哲学」を展開しました。

私は今度の線路内侵入・轢死事件も本当の責任者は、「在宅ベスト」論の主唱者だろうと思います。

家族が責任を問われるとしたら、それは「どうしてもっと早く専門施設に入れなかったのか」ということであり、「頑張りが足りなかった」ことでも、「ちょっと居眠りをしてしまった」ことでもありません。そして誰よりも責任を問われるべきは、患者を強制的にでも収容させなかった行政の責任だろうと思います。

ただ2007年の時点でそこまで言えたかという医学の側の問題は残るので、決めつけはできませんが。

結論

認知症問題を哲学的に考えるのはやめよう。すくなくともその前にやるべきことがいくつかある。

天北線 地図の旅

以前、天北線を列車時刻表から引っ張ってきたことがある。もう一度載せておく。

宗谷本線の位置

 これを国土地理院の地図と比べるとだいぶ様子が違う。音威子府から浜頓別までは現在の国道275号線にほぼ一致する。

275号線といえば、実は毎日私が通勤で走っている道路である。札幌の国道12号線から東橋のところで分岐し、その後は石狩川を挟んで12号線と並行しながら北に走っていく。いわば1級国道である12号線の裏街道となっている。

迂闊にも私はそれが旭川に入って終わるのかと思っていた。しかし実際には旭川には入らずにさらに雨竜川を北上する。そして朱鞠内湖の西を廻った後、名寄に出て国道40号に合流する。

しからばそれで終わりかと思いきや、音威子府までの道を国道40号と共有した後、音威子府からふたたび分かれ、旧天北線のコースを辿ってオホーツク海側の浜頓別に達する。

275号はそこで終わり、オホーツク海岸を網走から稚内へと走る238号線へと座を譲るのである。

つまり275号線というのは、むかしの鉄道路線で言うと札沼線、深名線、天北線という裏街道を一手に引き受けていることになる。

ヒマというわけでもないが、ちょっといまの地図で昔の駅をプロットしてみたいと思う。


天塩川は士別、名寄と続く平野の中をゆったりと北上するがここで、行き止まりになる。川は西に向かい、何重にも続く険しい山並みに切れ込んでいく。それは石狩川が旭川平野から空知平野へと抜けていく姿にも似ている。そこにも神居山がある。アイヌの人々はそこに神を見たのだろう。

まあ、そちらはそちら。今回は天塩川に注ぐ音威子府川を遡る形で北上する。

いまの地図では音威子府駅には鉄道の分岐点らしき姿はまったく見当たらない。引き込み線もないし、操車場跡らしき痕跡も見当たらない。駅前にもしもた屋が5,6軒ばかり。事務所や倉庫らしきものも見当たらない。

近くの道の駅で買い物を済ませて出発するしかないようだ。

やがて275号は宗谷本線の下をくぐり、西へ向かう鉄道と分かれる。多分この辺りで鉄道もふた手に別れたはずだが、地図の上ではそれらしきものは見当たらない。

500メートルほど進むと、道路の右手に痕跡が現れる。

 痕跡1

この辺りでは道路の東側を並走していたようだ。

痕跡2

地図の右下5,6軒ばかりの家がおそらく上音威子府の駅のあったあたりだろう。

左上には鉄橋への坂を登る土盛りが残っている。この後音威子府川とも離れ、その支流、天北川に沿ってさらに北上する。

275号は一気に尾根まで出て、そこから山を巻くようにし天北峠を越えている。しかし汽車にそのような芸当ができるわけはない。おそらくどこかにトンネル(天北トンネル)を掘って山向の栄川流域に出たのではないだろうか。

ウィキペディアによると上音威子府の後、天北トンネルを抜けたあとに天北栄という仮駅があったという。しかし現在の地図ではトンネルの痕跡もなく、小頓別までの間、ただ一軒の家もない。

痕跡3

小頓別の集落である。ここで栄川は南から来た頓別川に合流する。

郵便局を左に曲がって切通をまたぐその下が線路跡であろう。小頓別の駅跡には倉庫らしきものが二棟残っている。

小頓別を抜けると栄川の川幅は広がりその周りにはいくばくかの平地が形成される。岩手という10軒ばかりの集落があるから、開拓の手が入ったのだろう。頓別川には秋田という集落名もある。

いずれ鉄道がなくなったように、それらの集落名もなくなるのであろう。アイヌが死して地名を残したように、それらの開拓者たちも地名に名を刻むことになるのかもしれない。

それからの駅間はひたすら長い。上頓別は集落そのものが良く分からない。一応地図でT字路になってるあたりがそうではないかと想像している。線路の痕跡もまったく見当たらない。無意味な道路のある+字辺りはウィキペディアにのみ登場する「恵野」駅ではないかと想像している。

痕跡4

それにしても、時刻表の地図ではひたすら東に向かっているように見える天北線が実は北西に向かっているとは驚きであった。ずいぶん思い切ったデフォルメをするものである。

痕跡5

ピンネシリの集落は温泉があるおかげか、道の駅もあり、20戸近い建物が残っている。支流の稚内宇遠川の流域には豊平という集落もある。しかしここにも鉄道跡を思わせる痕跡は見当たらない。

ピンネシリの近くから線路跡を思わせる点線が登場する。この点線は一旦途切れるが集落を過ぎてまた盛り土の線として続く。途切れた部分も、道の駅を除けばそれらしくスペースが開いている。

痕跡6


松音知はもっとも線路の遺構が残された場所になる。地図上でこれが線路跡とはっきり同定できる。その代わり駅もふくめて集落そのものは消失してしまっている。

その代わり、ピンネシリと松音知のあいだにあったという周磨駅が、「いかにも」と想像される場所があった。チュピタウシュナイ川の合流点である。ただ地図上に地名の記載はない。

松音知を過ぎると、頓別川は知駒内川を合わせ大河の風貌を示し始める。天北線も上駒を過ぎて、最初の堂々たる街に到達する。これが中頓別町である。

それで駅とか線路跡がどうなっているかというと、地図の上ではさっぱり分からない。寿駅も新弥生駅も地名はあっても、それ以上の情報はない。

下頓別から先は海岸まで一面の平野だ。天北線は常磐という小集落を経由して浜頓別へと入っていく。ここから再び線路跡が出現する。

275号線で常盤橋という橋をわたってしばらくすると右手に入る道がある。ここにいかにも駅があったような雰囲気だ。

此処から先は、浜頓別まで、まるで今でも鉄道が走っているような地形がそのまま残されている。土盛りの線路跡が綺麗な弧を描いて街の真ん中に堂々と進入している。町並みもいかにも駅舎があり駅前広場があった雰囲気が残っている。

痕跡7

この浜頓別という町、なかなかに気取った街だ。札幌そのままに大通りが東西に走り北1条から4条まで、南は3条まで碁盤目に作られている。ちょっと西に傾いたところまでそっくりだ。

ここから天北線は北へ向かうのだが、南にも網走を目指して途中まで興浜北線が走っていた。駅から進行方向とは逆に南に向かい、旭ヶ丘と書いてあるあたりから東北東に伸びている直線がその跡地であろう。

天北線が宗谷本線として健在なら、この街は一つの中核都市になっていたかもしれない。そういう自負が伝わってくる街並みだ。

最後に国土地理院の全体図を載せておく。時刻表の地図との違いを体感されたい。

zentaizu
今回調べてみて分かったのは、これが当初の宗谷本線であったことはごく自然のことであったろうということである。上音威子府と小頓別の間の天北トンネルを除けば、これといった難所はない。多少距離は長くても案外こちらのほうが早かったかもしれない。

これに対して音威子府から中川に向かうルートは難所だらけだ。工費も相当かかっただろう。建設当時の土木工事の力量を考えれば、天北ルートは結構合理的だったのである。時刻表の「地図」に騙されてはいけない。



さて今度はこれをグーグルマップや古地図、“てっちゃん”たちのサイトで補強しなければならないが、それはいずれのこととしよう。

 

2月20日、土曜日、多喜二祭の集会に参加するために小樽まで行ってきました。
1.小樽 最近の様子
汽車に乗って銭函の駅を過ぎると、線路はやおら波を浴びそうなほど海岸ぎりぎりに出ます。この波を見たとたん「あぁ小樽に帰ってきた」という気分になります。
まるで省線の四ツ谷駅みたいな切通の底の南小樽駅を過ぎて、突然高架になって右手に港の風景が広がるとやがて終着駅小樽です。この駅は跨線橋をまたぐのではなく、地下に下りる階段を下って、そこを右に曲がると改札口になるのです。とにかく原野に碁盤目の札幌では味わえない、そういうハイカラさが小樽独特のものでした。
ここまでは小樽診療所の所長だった20年前の小樽、余市診療所長だった40年前の小樽と変わりない風景です。
降りてからが全然違う。20年前、すでにうら寂しげな街でしたが、いまやもはや死にゆく街です。駅前通りこそかろうじて街の雰囲気ですが、その1本西側は廃屋通りです。木造3階建、奥行きの深い、さぞや往時はブイブイ言わせたであろう町屋が、いまや無住の家となり残骸をさらしています。
その中の一軒が、今夜の楽しみにしていた「竹八」でした。小樽診療所の所長時代は三日と明けず通い続けた小料理屋です。ここでは締めサバと本マグロの山かけで始めて、季節のものが出てきて、最後は串カツというのが定番でした。とんかつソースを両面漬け、辛子もたっぷりつけて泣きながら食べるのが定番です。亭主があきれてみていました。最後は串カツを10本くらいお土産にして診療所に帰ったものです。
あるいは気分が乗れば、そのまま花園通りまで足を延ばして、ディープな浮世通りに場違いなスナック「新世界」で、サンバ・カンシオン(ときどきセザリア・エボラ)を聞きながら、ご自慢のチーズパイでスコッチを傾けるのが日課でした。
2.当日講演の紹介
講演は小樽商大の多喜二研究者で、非常に水準の高いものでした。多喜二が大の映画フアンで、おそらく小樽時代に見た映画からずいぶん影響を受けているのではないか、ということで当時の映画を映像で紹介しながらプレゼンテーションしてもらいました。
改めて納得したのですが、多喜二の見た映画はサイレントでした。我々はつい考え違いしてしまうのですが、明治生まれの人はまず画像から映像に入り、ついで音声に至るという文化受容の経過をたどったのです。
文字(原語)に始まり翻訳→画像→動画像→音声という経過は、明治・大正の新文化を考えるうえで念頭に置いておいておいたほうが良いようです。
3.夜の小樽
結局飲み仲間との再会はかなわず、一人で街へと繰り出しました。といっても8時の汽車に乗らないと介護に差し支えるので、ちょいといっぱいのつもりで小樽駅周辺で探すことになりました。
「竹八」はもうありません。とりあえず「島崎」に行きましたが満員お断りでした。そもそも選択するほどの店はもはや駅近辺にはありません。仕方ないので、アーケード街からちょっと脇に入った昔からの「炉端焼き」に入りました。相変わらず頭が高い。ネットで宣伝しているのか観光客が入り始めていて、ますます構えが「老舗」風になっています。
結局、注文の品が来ないまま店を出たのですが、おかげで快速の最終に乗り遅れてしまい、自宅についたのが9時半でした。
いささか画龍点睛を欠く20年ぶりの夜の小樽でしたが、今どきの小樽としてはこんなものでしょうか。


これって、ちょっと品はよくないけど、立派な詩だよね。前に戦争法反対の女性の演説載せたけど、詩人っているんだね。そんじょそこらに。

しかもたいてい女性だ。紫式部、清少納言以来の日本的な伝統なのだろうかね。与謝野晶子、茨木のり子、みんな女性ばかりだ。

「保育園落ちた 日本死ね」

何なんだよ、日本!

一億総活躍社会じゃねーのかよ

きのう、みごとに保育園落ちたわ

どうすんだよ

私、活躍できねーじゃねーか

子供を産んで、子育てして、社会に出て働いて、税金納めてやるって言っているのに

日本は何が不満なんだ?

何が少子化だよ、クソ!

子供産んだはいいけど、希望通りに保育園に預けるのは、ほぼ無理だから

…って言ってて子供産むやつなんかいねーよ

不倫してもいいし、ワイロ受け取るのもどうでもいいから

保育園、増やせよ!

オリンピックで何百億円ムダに使ってんだよ

エンブレムとかどうでもいいから、保育所作れよ

有名なデザイナーに払う金あるなら、保育所作れよ

どうすんだよ

会社辞めなくちゃならねーだろ

ふざけんな、日本!

保育園増やせないなら、児童手当20万にしろよ

保育園も増やせないし、児童手当も数千円しか払えないけど

少子化何とかしたいんだよねーって、

そんなムシのいい話あるかよ、ボケ!


いろんなところに載ったと思うけど、未読の方のために再掲しておく。

朝日新聞に「池上彰の新聞ななめ読み」という連載がある。

これの1月29日の「首相動静 安倍氏は誰と食事した?」という記事が秀逸だ。

書き出しはこうだ。

新聞を読み比べていると、新聞が書かない事実が見えてくることがあります。たとえば、安倍首相の行動についてです。

これだけだとよく分からないが、つまり各紙の「首相動静」を読み比べてみたという話だ。具体的には1月21日の夕食をだれと食ったかという内容。


表にまとめるとこうなる

場所

参加者

日経新聞

読売新聞本社(夕食の記載なし)

渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長ら

毎日新聞

会食(場所なし)

渡辺、今井環NHKエンタープライズ社長、評論家の屋山太郎氏ら

読売新聞

読売新聞本社

渡辺、清原武彦産経新聞社相談役、芹川洋一日本経済新聞社論説委員長

朝日新聞

食事(場所なし)

渡辺、今井、清原、芹川、屋山のほか橋本五郎・読売新聞特別編集委員、ジャーナリスト・後藤謙次氏


記事の最後は

朝日新聞の記述によって、会食参加者の顔ぶれが判明しました。記事はこうでなくてはいけません。

と結ばれているが、もちろんそんなことが言いたかったわけではないだろう。

安倍首相との会食に二つの全国紙と唯一の公共放送の幹部、しかも編集幹部がしっぽを振って参加している。しかもそれを隠している。特に日経は論説委員長が出席しているのに、自社報道では伏せている。

池上さんはそこを指摘したかったのだろう。なかなか達者な人だ。カンナ屑みたいにペラペラ燃え上がる私ごときとはできが違う。

まさか論説委員長が同席しているのを社が知らなかったわけではないだろう。芸能人がラブホテルに入るのとはレベルが違う。これについては日経新聞としての見解表明があってしかるべきだろう。

マイナス金利効果は一時的(毎日新聞)

マイナス金利の中長期効果については前に触れたが、短期効果についてはもう結果が出た。

結局マイナス金利は一種の金融緩和政策であり、金利低下による刺激が効かなくなった後、量的緩和で刺激を図ったが、それが飽和状態となり、さらにマイナス金利で刺激しようとしたが、もう市場はうんともすんとも言わない。

むかし理科の実験でカエルの足をつるして電気刺激を与え収縮を観察する授業があった。だんだん刺激が効かなくなると、食塩水につけて少し賦活する。しばらくはまた活発に収縮するようになるが、また動かなくなる。

そうなると電気刺激を強めても反応しない。こういう状況がいま生まれつつある。

マイナス金利効果

2月初め、マイナス金利の発表直後に証券相場と為替相場は大きく動いた。いわばアベノミクスの「一の矢」の再現である。

しかしその効果は数日のうちに消失した。

黒田総裁は国会証言でマイナス金利の導入後も金融市場の動揺が続く理由を次のように述べている。

原油価格の下落、中国経済の減速や欧州の信用問題に対する懸念、米金融政策の先行き不透明感があげられる。総じて、リスク回避姿勢が過度に強まっている。

石原大臣の「暖冬で冬物が売れない」に比べればまだましだが、みんな人のせいだというのは同じだ。


残ったのは「異次元緩和はもうやめられない。死ぬまで続けるしかない」という現実のみである。

1月通貨供給量は2.5%増の1242兆円で、過去最高を更新した。

問題は「異次元緩和」がもう続けられない状況に達したときに、日本株売りと円買いが仕掛けられたらどうなるかということである。いろいろな論評でもこの問題はあまり触れられていない。考えるだけでも恐ろしいからであろう。

前の記事で引用した柳谷さんの文章は、下記の論文からの孫引きである。
この論文は介護者の援護について、樋口恵子らジェンダー派の人たちとの論争の書であり、したがってやや難解である。
ここでは、介護は近世からの引き継ぎ課題であることを明らかにした部分を要約紹介しておく。

三富 紀敬 「介護者, 介護者支援と社会政策研究」 「静岡大学経済研究」2009年12月


A)社会の高齢化は理由にはならない

社会の高齢化にともなって介護問題が顕在化したというのは、必ずしも事実ではない。

平均寿命の延長は乳幼児死亡率の減少によるものであり、乳幼児期を生き延びた人々の平均寿命は必ずしも低くはなかった。

高齢者比率の増加は間違いないが、それは乳幼児死亡の低下及び出生率の低下によるものであり、高齢者の数が増えているとはいえない。むしろ健康で自立した高齢者の増加により、就労者負担は減っている可能性もある。

この説明の当否は(要介護高齢者+要養育年少者)÷(介護者+養育者)の比率を時代で追っていくことで説明しなければならないだろう。

B) 介護が話題になる前の介護

新村拓によれば、1815年(文化11年)の『関口日記』には以下の記載。

老病を介護する『介抱人』は疲労を含む厳しい生活を送っている。息子や娘は介抱のため奉公を止めて家に帰り、あるいは、奉公先に頼んで介護休暇を取ったり、家に居てできる仕事に変わったりしている。

前の記事でも紹介した柳谷慶子の論文、『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

ところで当時の高齢者の比率だが、同じ柳谷さんの論文「日本近世の高齢者介護と家族」では以下のごとく書かれている。

18世紀半ばから19世紀前半にかけて、65歳以上の高齢者の割合は10パーセントから15パーセントに上っている。

これは現代と比べて決して少ない数字ではない。

この数字と「家」のイデオロギーが女性を介護に縛り付けたのである。

近世における高齢者比率の予想外の高さは、日本に限ったことではなかった。

イギリスの福祉史研究者パット・セインは、下記のごとく述べている。

産業革命以前のイングランドとウェールズにおいて、60歳以上の人口比率はけっして低くなかった。それは18世紀初頭には10%を越えていた。…両親の介護は娘の逃れるわけにいかない務めの一つであった。

C)介護者の負担への注目

最初に介護問題が取り上げられたのは、1920年代から1940年代のことである。アメリカの労働統計局、スエーデンのミュルダール、ノルウエーのダニエルセンなどがあいついで調査を発表し、介護者対策の必要を訴えた。

61年にはイギリスのティザードらによる『精神障がい者とその家族−社会調査−』が発表された。

調査は住宅事情をはじめ家計の収入と支出、貧困基準との関係、介護に当る母親と父親の健康状態、休日の外出などを含む家族生活への影響などの項目についておこなわれた。以下が結論。

家族の生活水準ははっきりと低く、介護に伴う追加の出費や母親の無業者化などが影響を及ぼしていた。友人や隣人との接触も短く、社会的な孤立さえ生んでいた。一言で言って豊かな社会生活とは程遠い状態にある。

日本では介護保険の導入時に杉澤秀博らによる本格的な学術調査が行われた。その結果、介護者の情緒的な消耗度は、介護保険制度導入後に有意に強くなっていることが示された。

(これはおそらく介護保険導入のためというより、それが患者の病院からの追い出しと在宅押し付けとして実施された結果であろう。従来からの在宅介護者のみを対象にすれば、逆の結論が出るかもしれない)


一言感想

ジェンダー論者は介護問題を女性を家庭の桎梏から解放する課題として捉えている。それはそれで間違いではないのだが、「家」という封建的な桎梏とともに、財政的な問題(安上がりな高齢者対策としての在宅促進)、「貧困の罠」が潜んでいることを忘れてはならないだろう。

そこには「在宅こそが理想、だから親の面倒を見るのは当然」というイデオロギー面でのすり替え攻撃も並行して行われているが、この手口も江戸時代のイデオロギー攻撃と変わっていない。


 「逆扶養」の歴史的把握が必要だ

家族の監督義務の問題は、そもそも子供に親を見る義務があるのかという根本的な問題に突き当たる。

今回のケースでも長男夫婦が面倒を見ていたから発生した問題で、他の兄弟には責任がないのかという問題をはらむ。

親が子供を見るのは自然の感情としてある。しかし、動物の世界では子が親を見るのはあまり聞いたことはない。子供は成長すれば親離れして、ふたたび会うことはない。

結局、子供が親を見るのは親の扶養義務の類推として、「逆扶養」という発想から生まれた概念ではないのだろうか。

「逆扶養」の範疇

ところで、子供が年取った親の面倒を見る行為を総体として表現する言葉がみあたらない。

どうも困ったことに、老人を1.その生活を経済的に保障し、2.その生活を介助し、3.その生活環境を整え、4.その資産や健康を保全し、5.老人の立場を対外的に代行・代弁し、5.その行動について社会的責任を取る…というような一くるみの行動を一言で言い表す適当な言葉が見つからない。

「お世話」や「面倒見」でも良いのだが、あまりに多義的である。「逆扶養」 (Reversed Maintenance) だと論理的には収まりは良いのだが、いかにも硬い。しかししょうがないのでとりあえず「逆扶養」としておく。

「逆扶養」概念のあいまいさ

たしかに民法上は扶養義務は規定されている。しかし親が子供の扶養を怠れば、「育児放棄」とかいって刑法上の犯罪になるが、親を扶養する義務はそれほどのものではなさそうだ。

また長子相続制の名残かもしれないが、一般的には家を離れた次男、三男坊には義務は強制されていない。

それに親に人格が存在する限り、法的主体は親自身だ。したがって親が何をしようと勝手だから、その結果親が野垂れ死にしようと子供に責任はない。

以上のように子供の扶養義務は子供の扶養義務を拡大解釈した「みなし義務」としての性格があり、厳密な適用にはそもそも無理があると言わざるをえない。

「逆扶養」概念の由来

「逆扶養」という関係はおそらくは社会の中で生まれてきた関係ではないだろうか。とくに「家」という制度によって、二次的にもたらされているのではないだろうか。

知りもしないのに偉そうなことは言えないが、古代的な共同体が大家族制とともに衰退し、これに替わるように小家族制が社会の基本単位となっていく。その時に長子相続制や男系家族制が出来上がっていく。

それと並行して儒教的な倫理が広がっていく。だから「逆扶養」概念は自然発生的なものではなく、イデオロギー的な産物かもしれない。

私の予想を裏付ける文章が見つかった。柳谷慶子『近世の女性相続と介護』では以下のように記されている。(3月11日追加)

江戸時代中期には、親の扶養問題を中心に据えながら、家族が果たすべき扶助役割のなかに看護や介護を位置づけるようになった。

なかでも一家の主人たる男性の責任は重大であった。主人を中心に家族全員が協力して親を養い介抱する家族像が、期待された。

この背景には、直系親族を中心とした小家族の一般的な成立があり、家族役割の自覚化が強く促されたからである。

幕府と藩は、家族による扶養と看病・介護を規範化して、家族の自助努力を涵養した。これにより扶養と介護の主体としての家族の位置づけがさらに一層強調されるようになる。

この場合、子供だから扶養義務を持つのではなく、「戸主」であるがゆえに、家族の構成員の一人としての親(ご隠居)の面倒を見なければならないのである。

まさに今、その「家」という制度が実質的に解体する中で、その制度に基づくような倫理規範というものは存在意義を失いつつあるのではないだろうか。

そしてそういう倫理規範を根本とする民法の体系を本格的に再検討する必要があるのではないか。



メール・ニュースの飛ばし読み 2

1.厚化粧したワニ

高市早苗総務相の答弁。

放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、電波停止を命じると発言。

放送法4条は放送の自律を守るための倫理規範とされてきたが、高市退陣はこれを行政指導の根拠とした。

私はワニに対して畏怖の念を持っている。一番の理由は人間に対して恐怖心を抱かないことにある。普通ならこれだけ乱獲されれば、人間の姿を見れば隠れようとするものだが、彼らにはそのような気配はとんと見えない。

恐怖心を持たない敵というのは底知れず恐ろしい。弾丸もなしに着剣しただけの三八銃で吶喊攻撃をかける日本兵士にアメリカ兵が抱いた恐怖感と同じである。

高市さんにもそういう無防備ぶり、恐怖感の欠落がうかがえるのがとても怖い。

2.太陽電池が下火に

パナソニックが太陽電池をつくる二色浜工場(大阪府貝塚市)での生産を、今月中に休止する。

太陽光発電が買い取り価格引き下げでペイしなくなったためだ。

私は当然だと思う。少なくとも日本では、太陽光がエネルギー政策の中心に座るとは思えない。あまりにも不安定で小規模だ。

この手の自然エネルギーはオフラインでの貯蔵とペアーで考えなければならない。蓄電池の改善も種々考えられたが、商業化の見込みは今のところ薄い。

最終的には水素化以外にはないと思うが、そのためには相当量の電力発生が前提となる。その原価もただ同然に安いことが条件だ。

最近の原油安では、到底太刀打ちできるような電力資源は現れないのではないか。

むしろ石油や天然ガスからいかに炭酸ガスを出すことなく電力を汲み尽くせるかに努力を傾注すべきだろうと思う。

石油は本来電力となるべきエネルギーを内蔵している。そのエネルギーを酸化・燃焼という過程を通さずに引き出す努力が求められているのだろうと思う。

3.ついでにベストミックスについて

ベストかどうかはわからないが発電のエネルギー源については、組み合わせの発想は必要だと思う。そのさいのキーワードとなるのが①安定性、②可変性(柔軟性)、③コスト、④環境負荷である。

ただその際のカクテルベースに原発を持ってくるのは理屈に合わない。ベースに必要とされるのは安定性と可変性である。この条件を満たすのは火力以外にはない。

原発には安定性はあるが可変性が欠けている。水力は安定性・可変性ともにやや力不足である。ほかの自然エネルギーは両方とも低い。

だから能率だけ考えれば火力だけで十分だ。しかし環境問題を考えれば、できるだけ再生可能な自然エネルギーを利用したい。コスト的にもできるだけ抑えたい。

そのためにどうするかを考えるのが「ベストミックス」論である。そうなれば比較的環境負荷の少ない天然ガスをベースとし、あとはコスト面を考えつつ可能な限りクリーンエネルギーを取り込んでいくというのが戦略になる。

同時にあらゆるエネルギーについて、燃焼ではなく水素化が目指されなければならない。

これがエネルギーのベストミックス戦略の基本である。

どこから見ても原発や石炭火発はお呼びでない。

4.マイナス金利の損得勘定

マイナス金利というのはどう考えても不合理な状況だ。

たとえば私が銀行から金を借りる。私の信用次第だが、1千万借りることができたとしよう。それをそのまま自宅の金庫にしまっておく。

金利がマイナス1%とすれば1年後に返すときは990万返せばよいことになる。

これで私は10万儲けたことになる。それではその10万円はどこから出てきたのか。借金の貸し手からである。

これは主として民間銀行対日銀の取引であるから、日銀が損したことになる。では日銀の損は誰が埋めるのか、それは国民だ。

儲かるのは銀行に信用のある大金持ち、損をするのは国家に金を吸い取られる庶民ということになる。貧富の格差はますます広がるというのが結論だ。

これが基本だが、その経路にいろいろアヤが着いているからわかりにくい。そこをわかりやすく説明してくれる記事があった。

5.日興証券の記事

SMBC日興証券が、マイナス金利でだれが得してだれが損するかを試算した。

家計は預金金利が下がって利息収入が357億円減るが、住宅ローンの金利負担が1805億円減るため、差し引き2172億円のプラス。

銀行は、日銀に預ける預金が400億円の減収、貸し出しから得られる収入が3830億円減る。だが預金に支払う利息が減り、国債の売却益が8781億円に膨らむため、差し引き84億円のプラス。

これらを足した8081億円が日銀の損失となる。しかし日銀はこの損失を国家への納入金減額で埋め合わせするため、それは国民負担増となって跳ね返る。

何かわけのわからない金のまわり方だが、出口は単純かつすっきりしている。ローンを組んだ人の懐にローンなど関係ない庶民の懐から金が回り込むだけの話だ。

かくして、話は4.マイナス金利の損得勘定 へと戻っていくことになる。

東京大空襲 新たな事実

新たなニュースというと語弊がある。私が知らなかっただけだ。

本日の赤旗文化面 山部昌彦さんという方の寄稿「空襲被害 実証的研究をさらに」である。山部さんは東京大空襲・戦災資料センターの主任研究員を努めておられる方だ。

ここではとりあえず従来説の変更を箇条書きにしておく

1.空襲のやり方

まず目標地域の中心に大きな焼夷弾を落とす。これによって大火災が起きる。次の飛行機はそれを目印として目標地区全体に焼夷弾を落とす。これが短時間に大量に行われるために、住民は逃げ場を失う。

「目標地域の周囲にまず巨大な火の壁を作り、避難路を断った上で中心部を焼いた」という従来説は誤り。

2.空襲による死者数

日本国内で一般空襲(原爆以外の空襲)による民間人死者は約20万3千人である。これは空襲の行われた800以上の市町村の記録の集計による数字である。

死者50~60万人という従来説は過大であり誤りである。

3.初期消火の強制が大量死を招いた

1937年(昭和12年)に防空法が制定された。これにより国民は消火活動を法的に強制された。このため多くの人が逃げ遅れた。

官設消防は一般住宅には無関心で、軍需工場や皇居の防衛に特化していた。

東京下町大空襲の被害は極力隠された。市民はアメリカ軍が撒くビラから情報を得て判断した。

東京下町大空襲の後、初期消火体制は崩壊した。山の手大空襲の時は市民は初期消火をしないで逃げるようになった。

山辺さんは以下の結論を引き出している。

必ずしも正確ではない空襲像が今なお語り継がれています。

史料や体験記に対して、厳密な史料批判にもとづく実証的な研究が必要です。

空襲の実相を誇張せず、隠さずに明らかにすることによって、運動を進展させていきたいと思います。


「死者60万」などと言い続けていると、そのうちアメリカから「東京大空襲はなかった」と言われかねない。

このように事実解明が進んでいくと、「アメリカはひどい」と考えていた中身が、実はかなり「日本政府のひどさ」に起因していることが明らかになりそうだ。

この辺は沖縄戦の実相の究明とも似た経過だ。

認知症患者の「権利」をめぐる議論には混乱がある。

1.人権尊重は「虐待防止」ではない

認知症という病気をめぐる問題と並んで、議論を混乱させる元になっているのが、患者の権利の捉え方である。

これは私の「オハコ」である。「療養権の考察」という本で徹底的に追究している。

今老健や療養病床では患者の人権が大いに問題にされているが、率直に言って虚しい議論である。

入所者を窓から突き落とすとか、縛ったり叩いたりという「人権侵害」が横行していて、それに対してどう防衛するかという観点から人権が議論されている。

それなりに深刻な問題ではあるが、人権尊重というよりは虐待防止の話であって、もっと根っこのところでの議論が必要だろう。

2.人権の根っこは「生きる権利」

少なくとも切羽詰まった人間にとって、人間の権利は生きる権利であり、生き続ける権利であり、この世で人並みの生活を送る権利である。

此処を人権論の核心におかなければならない。自由の問題も、契約上の権利も同様に重要であるが、それらはここから派生するものだ。

生きるためにはその手段が必要であるから、「生きる権利」は生活手段をもとめ、それを利用する権利となる。それは病人にとっては医療をもとめる権利となる。

ここまでは大方の合意は得られるであろう。しかし医療への要求は時とともに多彩かつ高度なものとなる。財政的限界もある中でどこまで受け入れるかはなかなかむずかしい。

患者の「生きる権利」は通り一遍の言葉では終わらないものを含んでいる。それが何を意味するのかを、その時々に具体的に、真剣に考えて行かなければならない。それが権利を尊重するということである。

(例えば、老人保健施設では入所者にアリセプトとメマリーを併用すれば確実に足が出る。介護職員の異常な低賃金を以ってもそれは贖えない)

3.病人の「生きる権利」を保障するのは社会である

病人の「生きる権利」とは病気を治す権利、ふたたび元気になる権利である。それは公的な権利であって、助け合いの精神にもとづく社会的合意を前提としている。

社会はこの責務の一部を家族に振り分けている。それは世のしきたりである。病人は家族に対して生きる権利を主張できない。(家族の問題は別途考察)

社会の規範たる法律も、基本的にはそうなっているはずだ。しかし現実にはそうなっていない。法の精神と法の運用実態が乖離しているのである。

今回の問題も、補償問題に閉じ込めた議論をすれば、いろいろな見方ができる。しかし患者の権利を尊重し、患者を死に至らしむることがないように対策を考えるのが、本来の責任の取り方である。

そのような再発防止義務は社会以外にはとりようがないのである。そしてそれは可能なのである。

多少持って回った言い方になるが、あの時特養に入っていれば、特養が長い待機を経ずに入所できれば、このような事件は起きなかったかもしれない。だから事故の補償義務は社会(はっきり言えば政府)にあるとも言えるのである。

たまったメールニュースを一気読み(と行きたいところ)

思い出すのは子供のころの大掃除。畳の下に敷いたDDTまみれの新聞紙につい読みふけってしまう。

1.マイナス金利、白川総裁時就任の4人反対

これは金融政策決定会合の話。

賛成派は、「金融政策の信認を保つ」ためにマイナス金利導入を主張した。一方、反対派は、マイナス金利が金融機関の収益に悪影響を与えるなどの副作用を強調。「危機時の対応策として温存すべきだ」などと導入のタイミングにも異論を示した。

「金融政策の信認を保つ」ためとは「よくもそこまで言ってくれたね」という感じだが、「異論」派にも大義はない。だから迫力もない。

それにしても安倍首相の強烈な人事断行には感服する。「常人」にはできない荒業だ。

2.石炭火力新設を容認…環境相、温室ガス削減条件に

経産省が石炭火発を推進、これに環境省が折れたという話だ。あほらしい。

3.トヨタ、国内工場を全面停止

不景気で車が売れなくなったので操短をかけたという話。下請けはえらい被害らしい。

「4半期主義」の限界ではないか。このままだとそのうち国内生産ゼロになる。

4.北朝鮮ミサイル 地球周回軌道に2物体…米が確認

ということは、北朝鮮は間違いなく「衛星を打ち上げた」ということだ。「長距離弾道ミサイルではなく人工衛星の打ち上げだ」という北朝鮮の言い分は正しかったことになる。

それが慰めになるわけではないが、こちらも「人工衛星を口実とする弾道ミサイルだ」という言い方はやめたらどうか。

議論は「核兵器」に絞るべきだろう。

5.シャープ 台湾企業への身売り決定

それはどうでもいいことだ。肝心なことは官民ファンドの産業革新機構が敗北したことだ。

経過を見ると、産業革新機構の本気度に?が5つくらいつく。何を考えているのかわからない。こんなものを官民一体で作るのは税金の無駄遣いだろう。

シャープというのは今の日本の電機会社の中でもっとも「日本的」な企業だ。それが台湾の企業への身売りを決めたのは、日本がいかに「日本的」でなくなっているのかを象徴している。

毎日新聞は次のように産業革新機構を批判している。

国が出資の大部分を占める投資ファンド主導の再建案は、機動性に欠ける上に国民負担がふくらむというリスクもあり、必ずしも今の時代にそぐわない。また、国主導の業界再編に組み込まれる形では事実上の解体につながり、シャープ一体として再建に取り組むことができない。

要するに、経産省はアメリカ商務省の日本支局であり、日本国をつぶす元凶だと言っているわけだ。その意見には大賛成だ。

6.米屋と質屋は三代続かぬ

毎日の「余禄」から。貧乏人にうらみを買う商売は長く続かないという意味だそうだ。

しかし三代先ではこちらの身が持たない。何とか一代限りとしたいものだ。

2,3日目に認知症老人の列車衝突事件について「6つの疑問」という文章を上げた所、いくつかのコメントをいただいた。

とりあえず感想的に述べただけであったので、またその後最高裁判決に至る経過をまとめてみたので、少しまじめにまとめてみたい。

1.認知症をどう受け止めるか

まずは認知症そのものの考え方から。

A) 認知症は治療可能な病気である

1.いまの議論はむかしと同じ

率直に言って、世間の認知症を見る目には誤解と偏見がある。認知症は治療可能な病気である。不治の病ではない。このことをまず踏まえないと、話は煮詰まってしまう。

もちろん、いますぐに治療して治癒可能という訳にはいかない。まだもう少し時間はかかる。

中世のペストに始まり結核、脳卒中、ガン、最近ではAIDSなどがそういう道をたどってきた。

しかしいまこれらのうちかなりの病気は過去の病気になったし、なりつつある。病気そのものは直せなくても、適切な治療でコントロール可能となっている病気も多い。

今度の裁判に対するいろいろなコメントや感想を見ると、認知症は不治の病で仕方ないというペシミズムが支配していることが分かる。

乱暴な人は、認知症なんかまとめてどこかに突っ込んでおけとか、安楽死させろという「意見」を書き込んでいる。

こういう議論はAIDSの時にも出てきたが、いまAIDSについてそういうことを言う人は殆どいないだろう。なぜか、医学が進歩したからである。

2.認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である

認知症は今でもかなりの程度までコントロール可能である。

事故が起きた2007年からまだ10年も経っていないが、認知症の治療は驚くほどの進歩を遂げている。

まず病気の本態がかなり明らかになってきた。

認知症をもたらすアルツハイマー病という病気は脳神経細胞の中に異常な代謝産物が産生され、それを排出できないことから起こる病気である。

おそらくは異常な代謝産物を産生させるような遺伝子異常が引き金になっている。しかし遺伝子が引き金だからといって遺伝性疾患というわけではない。

これで引き起こされる主症状は記憶力の障害である。

だから治療としては此処の遺伝子スイッチを切ってやればよいのである。しかしこれはそう簡単には行かない。

そうすると次に考えるのは、この代謝産物の異常蓄積により働きの落ちた神経細胞を賦活させてやれば良いということになる。つまり脳内活性アミンの補充である。パーキンソン病にDOPAが効くのと同じ理屈だ。

ある意味で「駄馬に鞭打ち」、神経細胞の寿命を縮める結果になるが、幸か不幸かこの病気の患者は老い先短い。4,5年持ってくれればいいのである。


それが最近の抗認知症薬だ。もちろんこれでバッチリというわけには行かず、副作用もある。しかし間違いなく中核症状は改善する。

以上述べた如く、「認知症は治る、あるいはコントロール可能である」という立場に立つか立たないかで、事情は大きく変わってくる。何よりも必要なのは、前向きの姿勢である。

3.認知症は精神疾患としての側面を持っている

もう一つ、市民の意識改革を促したいのだが、認知症は中核症状と周辺症状の複合体だということだ。

周辺症状は、基本的には記憶障害に対する心理的葛藤の過程である。これは拒否、反抗、反応性の鬱、誤った合理化、誤った信念形成などから構築されている。

これらが認知症の心理・行動異常をもたらす。ひっくるめて言えば錯乱・譫妄である。したがって認知症は“錯乱性認知症”と“安定型認知症”に分けて考えなければならない。これは統合失調(分裂病)や双極性障害(躁うつ病)と同じである。

周辺症状は向精神薬でコントロールできる。非定型向精神薬というのが主流でかなり不安感情は抑えられる。

かくして周辺症状が安定すれば十分に在宅治療は可能となる。そういう時代が遠からずくる。そういう立場から病気を見なおすことが求められている。

B) 認知症への誤解が議論を歪めている

認知症を不治の病と見る見方が一種の誤解に基づく偏見であると書いたが、誤解は他にもある。理由はおそらく通俗的な解説が、いかにも誤解しそうな情報をまき散らしているからである。

列挙しておくと、

1.年取ったらみんな認知症になるという誤解

認知症はアルツハイマー病という病気である。老化や他の疾患による記憶力・記銘力の低下とは異なる。それは貧乏くじのようなもので、みんながみんな、なるわけではない。

ここを誤解すると、高齢者の家族はすべからく災難をしょい込むということになり、「お互いさま」という論理に乗っかってしまう。「楢山節考」の世界である。

2.脳力の低下は誰にでも来る

脳力の低下はこれとは違い、基本的には脳のスタミナの低下→意欲の低下→反応の低下として現れる。私はそれを前冬眠状態と考えている。文学的には「涅槃の世界」ということもできる

3.認知症はみんな徘徊するという誤解

安定した認知症への移行は可能である。また落ち着いた認知症は、落ち着いた統合失調と同様に人畜無害である。

多くの人は認知症を彩る周辺症状を認知症そのものと勘違いしている。しかしこれらの多くは抗認知症薬と向精神薬の組み合わせによりコントロール可能である。

問題は服薬の管理である。統合失調の引き起こす事件の多くは無治療、ないし治療中断の下で起こっている。

 

「徘徊高齢者の列車事故」

事件発生から最高裁判決までの足どり

 

2000年 愛知県大府市で不動産業を営む男性(発症当時84歳)に認知症の症状が現れる。当事者男性は妻(当時78歳)と二人暮らし。長男家族は横浜に住み、長く別居状態にあった。

家族関係
                朝日新聞より

2002年

3月 男性の認知症が一段と進行。家族会議を開き、長男の妻が、男性の介護のために単身で近所に転居。

2007年

2月 要介護4の認定を受ける。妻も「左右下肢の麻ひ拘縮」により要介護1の認定を受ける。施設入居も検討したが在宅介護を選択。

12月 愛知県大府市のJR東海道線共和駅で事故が発生。

当事者男性(死亡時91歳)は現場近くで妻(当時85歳)と二人暮らし。長男の妻が近所に住み介護に入っていた。妻と長男の妻が目を離したわずかな隙に男性は家を離れた。大府駅から列車に乗り共和駅に移動。
そして共和駅ホームの端で無施錠のフェンス扉を開け線路に侵入、列車にはねられた。

2010年

2月 JR東海が監督義務者である遺族に、振り替え輸送などの費用約720万円の支払いを求めて、名古屋地裁に提訴。

民法713条では、「精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者」を責任無能力者と規定している。
民法714条では、これに対応して、本人を監督する義務がある者は,損害賠償責任を代わりに負うことになる(ただし監督義務を怠っていないことが明らかであれば、免責される)

2013年

8月 名古屋地裁判決(上田哲裁判長)。民法714条の規定に基づき、長男と男性の妻に監督義務者としての賠償責任があると認めた。そのうえで、2人に請求通りの約720万円の支払いを命じた。

1.介護ヘルパーを依頼するなどの措置を取らず、徘徊を防止する適切な措置を講じていなかった。
2.男性の介護体制は、介護者が常に目を離さないことが前提となっており、過失の責任は免れない。

8月 地裁判決に対し、専門家からは「認知症患者を閉じ込めざるを得なくなる」との批判。ほかに、在宅介護という方向への逆流。介護の拒否、監禁容認と独居認知症増加への懸念が示される。

「認知症の人と家族の会」の田部井さんは、判決を「時代遅れ」と批判、被害の社会的な救済制度が必要と訴える。

2014年

2月 長男が会社を退職。横浜市から愛知県大府市の実家近くに移住。母親、妻と同居し家業(不動産屋)を引き継ぐ。

4月23日 NHK、「認知症の人 鉄道事故で64人死亡」と報道。認知症患者の鉄道事故が最近の8年間で76件あり、64人が死亡していたことを明らかにする。

NHKが鉄道会社が国に届け出た鉄道事故の報告書を情報公開請求して分析したもの。

4月24日  名古屋高裁(長門栄吉裁判長)判決。1.長男に監督義務はないとし賠償責任を否定。理由は「20年以上別居しており、監督義務者とはいえない」というもの(経済的な扶養義務はある)。2.妻には監督義務を承認。理由は「夫婦には助け合う義務がある」と定めた民法の別の規定。しかし妻自身が要介護1であるにもかかわらず、その監督能力は問われなかった。

外出を把握できる出入り口のセンサーの電源を切っていたことから、「徘徊の可能性がある男性への監督が十分でなかった」と判断。
ただし「充実した在宅介護をしようと、見守りなどの努力をしていた」として半額に減額する。(それでも360万円!)
判決はさらに長男の妻が横浜市から転居し、共に在宅介護していた点を評価。JRが駅で十分に監視していれば事故を防止できる可能性があったとも指摘する。(これが精いっぱいなのだろうか?)

4月24日 遺族は「十分に介護に努めていたと考えるので、判決には納得できない」とし、最高裁に上訴。

遺族側の弁護士は報道陣の取材に対し、「今の社会では、認知症の患者の保護について、家族だけに責任を負わせるのではなく、地域で見守る体制を築くことが必要だと思われるが、判決はその流れに逆行するものだ」と語る。

4月25日 産経新聞、『徘徊事故 多くが和解「訴訟は珍しい」』と題する記事を掲載。遺族の弁償を当然視する報道。

要旨: JRなど鉄道各社は、線路や駅ホームへの立ち入りによる死亡事故について、損害額の賠償を遺族らに請求するのが通例となっている。その際、認知症などの病気に起因しているかどうかは問わない。
 賠償額には振り替え輸送の費用や人件費だけでなく、列車の運休による機会損失費、設備の修理費などが含まれる。

各社の請求
2015年

11月 最高裁、当事者弁論の開催を通告。「責任能力がない人が起こした不法行為に、親族の監督義務がどこまで及ぶのか」をめぐり、高裁判決の見直しに動く。

2016年

最高裁第三小法廷(判事は5人、裁判長は岡部喜代子判事)での審理が始まる。妻側は85歳だった妻に監督能力は問えないとし、免責を主張。JR東海側は「介護に責任を持っていた長男が、実質的な監督義務者だ」とし、改めて長男の責任を問う。

2月 最高裁で上告審弁論が行われる。弁論は結論を変更する際に開かれるため、高裁判決の見直しが確定。

3月 最高裁、5判事の全員一致で「家族には責任なし」とする判決。「家族だからと一律に監督義務を負うわけではなく、生活状況や介護の実態を総合的に考慮すべきだ」と判断。

監督義務に関する判断: 妻は同居する配偶者であり介護者ではあるが、民法714条の「監督義務者」には該当しないとする。長男については判事3人が「非該当」、2人が「該当するが、但し書きにより免責」とする。
扶助の義務と監督義務: 民法752条の夫婦の同居・協力・扶助の義務は民法714条の監督義務者と認める根拠とはならない。(扶助義務と監督義務は異なる)。成年後見人の身上配慮義務は、介護や監督義務まで求めていない。


なお2チャン情報では(おそらくその筋のリークであろうが)家族への誹謗情報が繰り返し、繰り返し流されている。当然ながらソースは示されていない。


1.この男性は資産家で、多額の不動産やら5千万以上の預金があり、妻と長男が相続している。
2.長男がJR東海に対し賠償を求め、JR側が対抗措置として逆提訴した。

もう一つの繰り返される論理が、鉄道会社を一私人とし、その被った被害は埋め合わされるべきであるという、一私人の限りでは当然の主張を強調したうえで、「だから遺族は弁償すべきだ」持っていく論理のすり替えである。

これは生活保護の受給問題でも繰り返し用いられた「八つ当たりの論理」である。これは朝日裁判以来おなじみの手口で、義理・人情と絡めて情緒的に攻めてくるだけに反論するのは厄介である。

ただ最高裁も認識しているように、これからの少子・超高齢化社会では「家」の論理(民法が依拠する)は、その根拠となる「家」が崩壊する中で、もはや通用しなくなっているし、これからますます通用しなくなるはずだ。

したがって監督責任や介護責任は社会的に考えなければならなくなっている。むしろ名古屋郊外で不動産屋さんとして一家をなしている今回のケースのような場合のほうが例外となるだろう。

の続きである。少し問題点を整理してみた。

1.JRは被害者か?

市民的常識からすれば、男性を死に至らしめたのはJRであり、ふつうはそういうのを加害者という。

自動車やバイクの前に認知症の老人が飛び出してきた事故なら、ひき殺したほうが加害者だ。なぜなら自動車は潜在的凶器だからだ。

2.監督責任とは、結局、認知症患者を拘束することなのか?

認知症患者を拘束するのは法律違反だ。外出できないように施設へ入れるのも強制すれば違法だ。つまり監督責任者には権限はゼロだ。権限なき責任はあり得ない。

3.賠償金は髙過ぎではないか?

360万円は、今のサラリーマンの平均年収だ。まして700万円なら、首吊りして生命保険で返すほかない。それほど監督不行き届き(84歳の老女のほんの一瞬の居眠り)は罪が重いのか。どうしてJR東海はそこまで老女を責めるのか。どうして裁判所はそれを応援するのか?

4.本人の人格はどうなっているのか?

認知症といえども自立者としての人格が認められるのなら、「自己責任」で弁償させるべきだ。

もし心神喪失に準じるのなら免罪されるし、まして家族には責任はない。

もし単身者であれば、それを保護・監督すべきは「国」であろう。ツケを回すのなら、国のほうへどうぞ。

5.鉄道会社のほうに責任はないのか?

学校内で事故が起きれば、学校側は責任を負う。入院患者が転倒して骨折すれば、たとえ認知症といえども病院の過失責任は免れ得ない。迷惑料を払えとは、口が裂けても言わない。

同じように鉄道会社は鉄道を安全に運行する責任がある。鉄道ならば、相手が認知症患者ならば、安全管理責任は免除されるのか。

6.鉄道会社はリスクを背負うべきではないか?

ほかの会社と同じように鉄道会社も経営リスクを負っている。事故も当然、経営リスクである。保険もかけるし、コストもかける。それは人に転嫁できるものではないからだ。

違いますか? 葛西さん。


これらの疑問は大方の市民の共感するところであろう。

いずれにせよ、徘徊老人の鉄道事故という問題は厳然としてある。しかもますます増えるであろうことも間違いない。
それが難しいから「だれの責任か」に矮小化してしまう。そうではなく、どうしたらそれを防ぐことができるのか、ひいては日本という国が超高齢化社会をどう生き抜いていくのか、という点から考えなければならない。

そこには「弱者の論理」を踏まえた上での、高齢者に寄り添った、高齢者を排除しない「庶民の論理」の確立が求められるのではないだろうか。



ビキニ被爆による健康被害の状況をまとめてみた。

最初は年表に書き込んでいたが、あまりにも量が膨大で、年表が読みにくくなってしまった。そこで別文章の形にする。

データのほとんどは山下正寿さんらにより収集されたものであり、詳細については原著を参照していただければ幸甚である。なおデータの多くは80年代半ばのものであり、その後の追跡が期待される。(原水協通信 「ビキニ事件」の内部被ばくと「福島原発被災」のこれから)

1.第五福竜丸

焼津港所属のマグロ漁船。

3月1日午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて操業中に爆発に遭遇。ここはアメリカが設定した危険水域の外であったが、爆発の威力が予想以上に強かったために影響を受ける形となった。

久保山さんの談話: それから3時間すると粉のような灰が船体一面に降りかかった。その晩から調子が悪くなりメシも喰えない状態で、無理に酒を呑んでもまったく酔えなかった。
 2日目あたりから幾分頭の痛い人も出てきた。3日目には灰のかかった皮膚が日焼けしたように黒ずみ、10日くらい経ってから水ぶくれの症状になった。

3月14日に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院となる。増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

9月23日に久保山愛吉さんが死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50歳前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

2004年に放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。(多くが医原性であることを示唆)

2.第二幸成丸

高知県室戸港船籍のマグロ船で192トン。2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に3回の核実験があった。

3月27日に第2回目の核実験で被爆。“雪”(死の灰)を浴びる。

4月15日に操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

乗組員20人(保険登録者のみ)を追跡すると生存者7人、病死12人(ガン4人、心臓発作4人など)、不明者1人であった。病死者は70代前半2人、後の9人は40~60代であった。

3.第13光栄丸

4月5日、操業を終え、神奈川県三崎港に入る。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.新生丸

19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。

宿毛市の漁村から同じ船に乗り継いだ7人をグループとして追跡した。このグループは1957年に第8達美丸に乗船し、クリスマス島の核実験にもう一度遭遇している。7人中、生存者は1人であり、病死6人(ガン4人、心臓発作2人)、50代が3人であった。生存者の1人も心臓近くの血管と胃の手術をしている。

5.第5海福丸

4月7日帰港時に汚染マグロ340本が海洋放棄された。乗組員の判明者18人中9人が病死(ガン5人)し、生存者もリンパ腺ガン、結核、胃潰瘍などで手術をしている。

6.沖縄のマグロ船(2隻、船名不明)

乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。(沖縄の高校教師による自主調査)

7.高知県の被爆船員の追跡

1987年時点での数字。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

放医研の明石らの調査でもわかるように、第五福竜丸の船員の死亡には、輸血の影響がかなりあることがわかる。

このバックグラウンドを除くと被爆の影響はかなり抑えられることになる。早死・ガン死の傾向は、おそらくは大半が無治療・無観察であった他の漁船のほうが正確に表れているであろう。

その点では、最後に高知新聞の紹介で載せた数字(約40年後のフォロー)が大まかな傾向となろう。消耗率は40÷180×100=22%である。

87年時点での30歳男性の平均余命(50%死亡)が47歳であるから、この数字は必ずしも高いものではない。その2割が70歳未満の死というのも必ずしも驚くほどのものではない。もう少しハイリスク・グループに絞って検討すべきかもしれない。

「投資の神様」と呼ばれるバフェットがこう言ったそうだ。

「いま一番確実な資金運用はベッドの下に現ナマを隠しておくことだ。ただし安心して任せておける管理人がいるとしての話だが」

まさに時代はそういう状況に飛び込みつつある。世界で最も安全とみられていたドイツ国債も、ドイツ銀行の経営に不安がささやかれるなど足元まで火が迫りつつある。

もはや代替案はない。金利をうんぬんする時代は終わった。為替相場がすべてを規定する日がやってきた。皮肉なことに、一番産業リスクの高い米国の通貨が最も安定した資産となる日がやってきた。

こういう国際状況の下で、円は風前の灯火となっている。

黒田総裁は円相場を鉄火場にしてしまった。持ち札は年金資産である、これで国際金融相場とさしの勝負をかけている。外国資本は何度となく日本に売り浴びせをかけた。もちろんこれで株価が維持されれば連中は大やけどを負う。

しかし日本株の持ち主は今や間違いなく外国資本である。だから仕掛けのポイントさえ合えば、相場はあっという間に数千円の下落を示す。このことは、彼らが何回か繰り出したジャブでかなり明らかになった。

日本政府は1万6千円までの間なら対応できる。そのことがはっきりした。売り浴びせをかけても1万6千円を割り込まないのなら、空売りは高いものにつく。しかしをれを割り込んだらどうなるだろう。日本政府・日銀は株価を維持できるだろうか。

我々は二つのニュースを持っている。売り攻勢で1万6千円を割らなければ、日本は勝てるしそれで大儲けする。彼らは大損する。

しかしそれが1万5千円くらいまで下がれば、日本は一致結束して対応できるだろうか。もし国内側で狼狽売りが始まれば、株価はたちまち激減するだろう。

以前にも書いたが株価が1万4千円を割り込めば、たちまちにして東京証券取引場は修羅場と化し、あちらこちらに首つり死体が発見されることになるだろう。

株価は一気に1万円を割り込み、年金の掛け金はたちまちゼロと化すであろう。

そうなった場合、デレバレッジが働き、円によって支えられるドルは一気に下落し、結果として円高状況が再び現れるだろう。つまり円高とGDPマイナス10%というリーマンショック後の状況がそこには再現されるのである。

アメリカはこの危機を回避できる。彼らには基軸通貨発行国という利点があるからだ。だからQE4でも5でも何でもやる。日本が日銀券という紙切れみたいなものを増発しても、それはドルではないから、ただたんに日銀券の目減りを引き起こすだけである。

「徘徊老人の列車事故」の訴訟について

当然の判決であるが、逆に言えば、これまで下級審で常識に逆らうような判決が出続けたのかという点に興味がある。

関係者はA)本人、B)鉄道会社、C)家族という三者関係になっているが、そもそも家族には関係のないことである。

民法的には、もらい事故はリスクであり、鉄道という営業形態に不可避的に伴うものである。その任務に公的なものがあるとはいえ、営業形態が私的なものである以上、鉄道会社も一私人にすぎない。

むしろ踏切事故を防げなかった点では、安全管理責任が発生する可能性もある。学校や病院などの事故では、こういう観点のほうが当たり前になっている。

だから医療関係者や学校関係者なら、JR東海の官鉄気分丸出しの高圧的な態度を訝しみこそすれ、同調する気には到底なれない。

とくに、新幹線の吹田操車場をめぐるJR東海の傲慢極まりない対応を知っている私たちには、なおさらのことである。

しかし民法はそうなってはいなかったようだ。民法を条文通りに適用すれば地裁・高裁の判決が自ずから導き出されるようである。

率直に言って、地裁・高裁は臆病であった。人類史上例を見ないような少子・高齢化社会を迎え、これまでの規定では到底対応できないような事例であるにもかかわらず、旧来の判断基準をそのまま踏襲した。そうすれば必ず世の中の現状と激突するのを知りながらである。そして最高裁に判断をゆだねたようである。若手判事のいかにも少子・高齢化にふさわしい逃げっぷりだ。

そして、最高裁はあえて条文を新たに解釈して、下級審とは異なる判決に至ったのではないか。

従って、今度の判決はいろいろな形で影響を広げていくことになるだろうし、私たちもその意味を深く掘り下げておかなければならないだろうと思う。

新しいパソコンが到着して、ネット接続に手間取り、さらにメールのアクセスを再開するのに時間がかかって、久しぶりに受信トレイを開けたら、なんと350通の未読メール。
ほとんどが迷惑メールなのだが、それでも100通以上の読むべきメールが積みあがっている。
とくに朝日や毎日のニュースメールは膨大で気が重くなる。
とりあえずそれは後回しにして、個人メールで返事が必要なものを片付けていこうと思っている。

と言いつつ最初の毎日のニュースメールが引っかかってしまった。

【毎日新聞9日朝刊編集長のこだわり(前田浩智)】

 ルールに従わず、指摘すれば逆ギレし、自分は間違っていないと開き直る。こんな人が近所にいれば、引っ越しを考えるかもしれません。でも、国は引っ越せません。北朝鮮は隣人であり続けます。町内会(国連)で注意したら、また意固地になるでしょう。厄介です。
と書いてある。
ずいぶん思い切ったことを言うと思ったら北朝鮮批判だった。
実は最初は阿部首相のことを批判していると思って読んでいたのである。
さすがにそこまでは言えないよね。思っていてもーー

ビキニ核実験 被爆年表 増補版

昨年の今頃、ビキニ年表を作成したが、今回新しい情報もあり、増補しようと試みた。ところが増補すべき情報が意外に多く(ということは前回の年表がかなり不十分だったということ)、新たに増補版として、もう一度アップすることにする。

ビキニ被爆者の調査で分かったことは

1.高い死亡率(年間消耗率)

2.比較的若年での死亡率の高さ

3.ガン死亡の比率が高いこと

これは、私が以前調べた「暁(あかつき)部隊被爆者の健康調査」の結果とも一致している。

なお、ロンゲラップなどマーシャル諸島の島民被爆については、いずれ別の機会に掘り下げてみたい。

古い方の年表に行く人もいるかも知れないので、そちらにはリンクを貼っておく。



1946年

7.01 アメリカ軍が太平洋の島での核実験を開始。58年7月までにビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回の核実験を行う。

8.05 ルイ・レアール(フランスのデザイナー)、「周囲に破壊的威力を与える水着」を「ビキニ」と名づけ発表。(こちらのリンクのほうがはるかに興味深い)

1950年 朝鮮戦争が始まる。マッカーサー総司令官は本国政府に対し原爆の使用許可を求める。

1952年 アメリカ、マーシャル諸島の西端エニウェトク環礁において初の水爆実験。アイビー作戦と呼ばれる。

マーシャル諸島は太平洋中西部に位置し、29の環礁と五つの珊瑚島からなる。人口は約5万人のミニ国家。

Marshall_Islands
               核兵器と核実験③ より転載

1953年 ソ連、水爆実験に成功。

1954年

54年3月1日

午前3時42分 アメリカ軍、ビキニ環礁で水爆実験をおこなう(キャッスル作戦)。最初の水爆は「ブラボー」(15メガトン)。この日を皮切りに、5月まで計6回、計48メガトンの核実験が行われた。

アメリカ軍は水素爆弾の威力を4~8メガトンと見積もっていたが、実際の威力は15メガトンに達した。実験を行なった島は消え去り、深さ120m、直径1.8kmのクレーターが出来た。


250px-Castle_Bravo_Blast
             Castle Bravo

動画は下記で
Castle Bravo Nuclear Test 

午前4時頃 ビキニ東方160キロにおいて、焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」は、操業中に爆発に遭遇。アメリカが設定した危険水域の外であった。

久保山さん(無線長 当時40歳)の談話: 水平線上にかかった雲の向こう側から太陽が昇る時のような明るい現象が3分ぐらい続いた。約10分後、爆弾が破裂したような鈍い音も聞いた。

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75年、夢の島で廃船を待つ第五福竜丸。意外に大きく、長さ34メートル、140トン。船体だけで5メートル。マストの先端までだと15メートルある(高知新聞)。
 

午前7時 「第五福竜丸」の乗組員23名全員が放射性降下物に被曝。延縄の収容に時間がかかり、数時間に渡って放射性降下物の降灰を受ける。

3.01 室戸船籍の第七大丸もビキニ近くで操業中、真っ赤な閃光ときのこ雲に遭遇。「死の灰」も浴びた。

3.01 第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していた。放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被爆者は2万人を越えるとされる。

水産庁によれば被曝船は延べ855隻とされる。うち1/3が高知県の船籍だった(高知新聞)


3.01 漁船の乗組員の他に、ロンゲラップ島民86名、ウトリック島民157名が被爆。ロンゲリック島で実験を観測していたアメリカ兵28名も被曝した。

ビキニから180km離れたロンゲラップ島民は避難させられずに、激しい衝撃波と爆風、そして放射能を含んだサンゴの粉が島中に降り積もった。やがて激しい嘔吐、皮膚の炎症、脱毛などの急性放射能障害が島民を襲った。マーシャル諸島(ビキニ水爆実験)

54年3月

3.14 第五福竜丸が操業を終え、母港焼津に帰港。乗組員全員が「急性放射症」と診断され、都内に搬送されて入院。

3.16 『読売新聞』朝刊一面で第五福竜丸の被爆が報道される。

「邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇」、「23名が原爆病」、「太平洋ビキニ環礁付近で、焼津の第五福竜丸が原子爆弾らしいものに遭遇した」、「水爆か」などと伝えられた。(竹峰誠一郎「ビキニ水爆被災から50周年 核実験場とされたマーシャル諸島の今」より転載)

3月16日 船員で中重傷の増田三二郎さん(28)と山本忠司さん(28)が東京大学で診察を受けた結果、原子病と確認される。

3月17日 「原爆マグロ」の報道により、仲買相場が半値にまで下がる。(高知新聞によれば6月には魚価は5分の1以下まで下がったという)

3月27日 シリーズ2回目の核実験。ロメオが爆発。

3月27日 核実験海域よりはるか東方で操業中の室戸船籍の第二幸成丸、“雪”(死の灰)を浴びる。このフォールアウトは2回目の実験により発生したものとされる。

第2幸成丸は高知県室戸港所属のマグロ船で192トン。故崎山秀雄船長の漁業日誌により詳細な航路が明らかになっている。幸成丸は2月24日に神奈川県浦賀を出航。ビキニ東方1000キロの海域で17日間の操業。この間に、3回の核実験があった。

3.18 水産庁は塩釜、築地、三崎、焼津、清水の5港を「遠洋漁業陸揚げ港」に指定。水揚げされたマグロすべてに放射能検査を義務づける。

3.31 水産庁が検査結果を発表。アメリカ水産庁の予測した危険水域の外でも、第13光栄丸・明神丸など漁船の多くに、相当量の死の灰が降り注いだ事を明らかにする。

3.26 「第五福竜丸事件 善後措置に関する打ち合わせ会」が第1回目の会合。この「打ち合わせ会」は安藤国務大臣を筆頭とし、外務、大蔵、農林、厚生など各省次官で構成された。記録には極秘の印が押されるなど、最高機密レベルの会であった。

3月 各地で水揚げされた魚に放射能が発見される。検査は船体とマグロについて行われ、人体の検査記録は除外されていた。

3月の核実験直後は、放射能に汚染されたマグロの部位は内臓やエラであったが、8月以降になると肉や骨からも放射能が検知されるようになり、特に半減期が30年と長いストロンチウム90などに汚染。「ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

54年4月

4.05 三崎に入港した第13光栄丸が高度の放射能汚染。船員中に白血球減少症患者が3人発生。約50トンのマグロは洋上放棄される。

4.06 三回目で、シリーズ中最大規模の「クイン」(110メガトン)の爆発実験が、予定通り行われる。

4月15日 第二幸成丸、操業を終え築地に入る。検査で、船体から4000カウント、船員からも数百~千数百カウントが計測された。これは当時の基準上限の2,3倍に当たる。魚はそのまま処分された。

4.17 カウント100以上の放射能が確認されたマグロは不合格に認定されることになる。7万トンのマグロが放棄される。(一説では約486トン)

4.22 米国家安全保障会議の「作戦調整委員会」 (OCB)、「水爆への日本人の好ましくない態度を相殺するための米政府の行動リスト」を起草。事件のもみ消しを図る。

1.日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする。
2.放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、病理解剖や死因の発表については日米共同で行う。
3.(そのような事態への)準備も含め、非常事態対策案を練る

4月26日 第4回目の核実験(ユニオン)が実行される。

4月 降雨中より放射能が検出されたとの報道

54年5月

5月5日 第5回目の核実験(ヤンキー)が実施される。

5.06 「打ち合わせ会」が第10回目の会合。第五福竜丸の他、第13光栄丸など17隻の被害船が実名であげられる。損害について米側に補償を求めることで合意。

5月09日 原水爆禁止署名運動の杉並協議会が発足し、署名運動が全国に拡大する。

5月14日 第6回目の核実験(ネクター)。一連の核実験は予定通り完了。

5月16日 全国でビキニ水爆実験の影響による放射能雨が計測される。

5月末 6回にわたる水爆実験が終了。

5月26日 調査船・俊鶻丸(しゅんこつ)が、水産庁顧問団から派遣された三宅泰雄ら科学者22人を乗せ、現場海域で第1次調査。ビキニ環礁150キロのところに最大汚染水域を発見。

海水の放射線量は7千カウントをこえ、水しぶきを浴びるだけでも危険という状態だった。プランクトンは1万カウント、魚はかつおの肝臓で4万8千 カウントと汚染されていた。汚染海水は、深さ100メートル、幅約10キロから100キロのベルト状になってゆっくり西方に流れていた。
ビキニ事件の内部被ばくと福島原発被災のこれから」(山下生寿)より

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俊鶻丸の研究者たち NHK静岡「海の放射能に立ち向かった日本人~ビキニ事件と俊鶻丸」より

54年6月

6.08 「打ち合わせ会」の第13回会合。水産庁が「水揚げマグロの検査で41隻の漁船が魚の廃棄処分を受けた」ことを報告する。またリン鉱石運搬船の「神通川丸」で放射能症が疑われるケースが発生し、大阪船員病院に入院したことも明らかにされる。

8.06 「打ち合わせ会」の第16回会合。被害船の数が100隻を超えたことが明らかにされる。「先に内払いを行った33隻以降、116隻の漁獲物を廃棄した漁船の損害…」と記されているが、「内払い」の方法、金額については不明。

9月23日 久保山愛吉さん(無線長)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と言い遺して死亡。日本人医師団は死因を「放射能症」と発表。米政府は「放射線が直接の原因ではない」とし、謝罪せず(現在まで)。

直接死因は急性肝機能障害であった。同様の肝障害は他の乗組員17名にも発生した。その多くは注射や輸血などで医原性にウィルス感染したと考えられる。
乗組員23人の追跡調査では、半数以上が50死前後で若年死、その多くはガンであった。(正確な数字は確認中)

12月26日 鳩山内閣が成立。年内いっぱいでマグロの放射能検査を打ち切る。アメリカ原子力委員会の主張を受け入れたものとされる。

54年 この年映画「ゴジラ」が公開される。ゴジラは水爆実験が産んだ放射線を吐く怪物として設定される。

エード・メモアール: 水産庁や海上保安庁は放射能被害にあった船の被災状況を仔細に調査した。内容は船名、乗組員の数、 トン数、出港から帰港までの日付ごとの移動経路、人体・船体などの放射能測定値、漁獲物の放射能値など。これは外務省から「エード・メモアール」というレ ポートとして逐一アメリカ大使に渡されていた。

1955年

1月 「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約を与え、慰謝料として、200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われた。第五福竜丸被災者への「好意による見舞金」の他、廃棄したマグロ、魚価下落分の補償などに充てらたという。

見舞金は第五福竜丸だけに支払われ、一人当たり200万円に達した。他の漁船からのやっかみがあり、乗組員は仕事を離れざるを得なくなった。

8月 広島で第1回原水禁世界大会が開かれる。原水爆実験反対署名は3200万筆に及ぶ。

55年末 原水爆実験反対署名、全世界で6億7千万人に達する。ノーベル賞受賞らが連名で、ラッセル・アインシュタイン宣言を発表。

人類と核兵器の危機的な関係を直視し、東西の立場を超えて人類の生存の問題として共に核兵器廃絶に踏み出すことを訴える。

1956年

 旧厚生省、延べ556隻の漁船の被ばく状況調査を元に、「(第五)福竜丸以外には、特に放射能症を認められる事実のないことが明らかとなった」と通知。

5月 俊こつ丸による第2次調査。海水汚染は北赤道海域の面まで拡散。魚体内には1954年の水爆実験時の放射能が残留していた。

1957年 ロンゲラップ島に安全宣言が出される。住民の多くが食物摂取により重大な内部被曝を浴びる。

1958年

7月8日 アメリカ、マーシャル諸島で核実験。ビキニ南東1440キロで1リットル当たり毎分400カウント(マグロの廃棄基準は100カウント以上)の放射線を観測。

7月14日 海上保安庁測量船「拓洋」がビキニ西方でスコールに遭遇。雨水中には1リットル当たり毎分10万カウントの放射線を含んでいた。帰国後の血液検査で、乗組員の白血球数低下が見られた。

7月 この頃、室戸船籍の第八達美丸が被爆。

岡本清美さん(乗組員・故人): 皆ではえ縄を揚げていたら突然、大明かりになった。空を見ると赤い火というか、太陽のような丸い玉があった。1、2時間後にスコールが降った。(日時・場所は特定できず。岡本さんは54年にも被爆している)

1960年

8月 高知県幡多郡宿毛の藤井節弥さん(当時27歳)が「原爆症」を苦にして自殺。藤井さんは長崎の被爆者で漁船の乗組員としてビキニでも被爆。

藤井さんが遺した詩: じつと目を閉じ/我が遠きふるさとの磯辺/父母の面影を思い起こさむ/ただいたづらにそれのみ/いたづらにそれのみ/さざなみの泡立つ海へ歩みゆく/さながら自殺する如くにぞ

1962年

アメリカ、イギリスはビキニなど太平洋中西部で92回もの核実験を行った。その威力は、広島に落とされた原爆の六千数百発分に相当する。

1963年 大気圏内核実験が停止される。地下核実験などはその後も続く。またフランスは条約を無視し、66年にムルロア環礁で大気圏内核実験を実施。

1968年 ビキニ環礁、放射能除去作業の結果帰島可能となったと判断。旧島民140人の帰島が許される。10年後に放射線障害が多発したため再離島。住民は食糧難のもと、アメリカ政府からの生活保障費で生活を続けている。

1971年 「被爆26周年原水禁世界大会」(原水禁系)に2人のミクロネシア代表が参加。マーシャル諸島の島民被爆が明らかになる。

1976年

東京都江東区の「夢の島」で廃船を待つ第五福竜丸が発見される。関係者の尽力により、第五福竜丸展示館に永久展示されることになる。

1977年

2月 第二幸成丸の乗組員だった寺尾良一さんが吐血した後急死。40歳前後と推定される。(食道)静脈瘤の破裂の診断。(* 食道静脈瘤破裂は肝硬変末期の合併症)

1985年

4月 幡多地域の教師たち(幡多高校教師の山下正寿さんら)が戦後40年の節目として、県内在住の広島、長崎被爆者の調査。この過程で。水爆実験の被爆者の存在に突き当たる。

発掘のきっかけは、藤井節弥さんの母からの聞き取りだった。母は幡多郡大方町に住んでいた。(高知新聞)

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藤井節弥さんの母の証言に耳を傾ける高校教師ら(1985年、宿毛市内)

7月 「幡多高校生ゼミナール」ビキニで被ばくした乗組員300人を聞き取り調査。

当時の室戸小型船主組合長だった崎山秀雄さんの証言が口火になり、次々に証言が集まった。(高知新聞)
崎山さんは第二幸成丸の船長としてビキニで核実験に遭遇した人。

9月 「幡多高校生ゼミナール」の報告を受けて、高知県ビキニ被災調査団が結成される。森清一郎さんを団長に、医師や大学研究者など約50人が参加する。

30年を経過して多くの人が死亡。第2幸成丸は20人中生存者7名、新生丸は19人の乗組員が保険登録されており、死亡者は14人、生存者2人、不明者3人。第5海福丸は18人中9人が病死(ガン5人)。

1985年 いったん島に戻ったロンゲラップ島民に放射能障害が多発。島民は200km離れたクワジェレン環礁のメジャット島に脱出する。

1986年 高知県ビキニ被災調査団が、自主的な健康診断を実施。

1986年 「マーシャル諸島共和国政府」が独立。米国との間に自由連合協定を締結。第三者組織による放射能の影響調査を開始する。95年に報告書が提出されるが、米国政府はこれを承認せず。

1987年

2月 調査団は高知市で「ビキニ水爆実験被災シンポジウム・高知」を開催。約1年半かけて追跡した船員の健康実態を報告。

消息が判明した本県の漁船員187人のうち40人が病死。その約2割が40―60代の「若い死」だった。被ばく者がなりやすい癌、心臓まひ、白血病で亡くなった人は24人もいた。(高知新聞)

高知の調査を知った沖縄の高校教師らが、独自の調査活動を開始。

沖縄の2隻のマグロ船の乗組員68人を追跡。うち、17人が40―50代で死亡していた。死因が分かったのは12人。11人がガンだった。

1998年 国際原子力機関(IAEA)、マーシャル諸島共和国政府の依頼を受け放射能調査。本環礁に定住しそこで得られる食料を摂ると年間15mSvに達すると推定され「早くとも2052年まで永住には適さない」と結論。

2004年 放医研の明石らが第五福竜丸被爆者の追跡調査の結果を発表。

同年までに12名が死亡。肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名。肝疾患が多くを占めるのが特徴。
生存者の多くも肝機能障害があり、肝炎ウィルス検査では、A, B, C型とも陽性率が異常に高かった。

2010年 ビキニ環礁が「負の世界遺産」に指定される。ミクロネシア連邦は憲法前文に「世界はひとつの島なのだ」を掲げる。

2013年

3月 外務省が資料の一部を開示。国内向けには「ない」としながら、米国に渡していたことが明らかになる。

2014年

9月 厚生労働省からビキニで被爆した他の船体や船員にかんする文書が見つかる。市民団体の情報公開請求に対し、厚生労働省が開示。

第五福竜丸以外に473隻が検査を受けた。毎分100カウント以上(最高988カウント)の放射線が乗組員から検出された船は10隻あった。

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厚労省開示文書

2015年

2月 水産庁、被爆漁船に関する文書を発見し提出。水産庁はこれまで日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けてきた。

2016年

2月 1954年のビキニなどの核実験で被爆した元船員らが、「労災」として船員保険の適用を求め、全国健康保険協会高知支部に集団申請する。

すでに第五福竜丸の船員23名には船員保険が適用されている。

 

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