鈴木頌の発言 国際政治・歴史・思想・医療・音楽

中身が雑多なので、右側の「カテゴリー」から入ることをお勧めします。 http://www10.plala.or.jp/shosuzki/ 「ラテンアメリカの政治」がH.Pで、「評論」が倉庫です。「なんでも年表」に過去の全年表の一覧を載せました。

2016年02月

最近のYoutubeはすごいもので、アントン・ルビンステインのピアノ小曲だけでこれだけ聞ける。
anton
一応全部聞いたが、つまらないものばかりだ。結局ヘ長調の「メロディー」一発の人だ。
この人は交響曲を6曲、ほかにコンチェルトやソナタなど大曲をずいぶん書いているようだ。そちらは遠慮しておく。
編曲すると隠れたよさが引き出されるのか、「天使の夢」 はオーケストラやバイオリン独奏版のほうが定番。

「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」といえば誕生日の定番曲だ。ところがこれに著作権があって、歌うたびに払わなければならないらしい。

赤旗の記事ではベタのトピックス扱いだが、TPP問題と絡めると、これはかなり深刻だ。

まずはウィキペディアで「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」の項目

ただしウィキペディアの説明は要領を得ないところがあり、下記の記事で補っている

ギガジン 2015年9月24日

 

「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」の発祥

世界で一番歌われている歌としてギネス・ワールド・レコーズに載っている。また「世界で最も金を稼ぐ歌」としても知られる。理由は著作権があるからだ。

アメリカ人のミルドレッド・ヒルとパティ・ヒル(以下ヒル姉妹)が作詞・作曲した「Good Morning to All」のメロディを原曲としている。これの替え歌が「ハッピーバースデー・トゥー・ユー」になったのだそうだ。

原曲が作曲されたのは1893年。明治で言えば26年。日清戦争の始まる前の年になる。替え歌のほうは1920年頃だそうだ。

Good Morning to All を含むソングブックが出たのが1924年、ぎりぎりまだ大正だ。

この曲の替え歌が広がって、1931年にはブロードウエイのミュージカルでも歌われるようになった。

この後は、Wired の記事から

「ハッピー・バースデー」の歌詞は、1911年にメソジスト監督教会発行の歌集の中で掲載されている。その歌集には、この歌の所有者や著作権に関する記述はなかった。
また、それより前の1901年には、インディアナ州のある教師が、「ハッピーバースデー・トゥーユー」という歌詞の曲を子供たちが歌ったという記述を残している

1912年まで、さまざまな企業が未許可で楽譜の出版を始めており、その中にはハッピーバースデー(トゥーユー)として今日知られている歌も含まれていた

ヒル姉妹の著作権の訴え

ここでヒル姉妹が登場する。このミュージカルが無断使用に当たるとして訴訟を起こしたのだ。このときは著作権が成立していなかったため、請求は棄却された。

この頃アメリカ国内では登録していない曲の著作権は認められていなかった。

そこで改めてヒル姉妹は曲に対する著作権を登録した。

ここで変なのは、ヒル姉妹が登録したのは曲であって歌詞は登録しなかったのです。ところがエージェントのほうでは Good Morning to All の歌詞も登録しているようです。

さらに変なのは、こちらの出所はウィキではなくギガジンの記事ですが、

原曲よりも人気になった替え歌「Happy Birthday to You」の著作権は、1935年にクレイトン・サミーらによる共有名義で正式に著作権登録がされています。

さらにCNNニュースでは、クレイトン・サミーが姉妹から著作権を託されたとある。

曲の著作権、Good Morning to All の歌詞、Happy Birthday to Youの歌詞の三つの異同がどうもはっきりしない。これが分からないと後の訴訟問題が分からない。困っている。

ここまでが著作権の成立に関する経過。

著作権法の変遷(ミッキーマウス保護法)

国際的な著作権に対する取り決めには「ベルヌ条約」というのがあって、加盟国には著作者の没年後少なくとも 50年間保護する義務が課せられている。

この保護期間は長くても良いので、実際にヨーロッパでは70年間に設定されている国が多い。

したがってベルヌ条約によれば、後に死んだ妹が1946年没なので、少なくとも1996年までは保護されることになる。

アメリカにはベルヌ条約とは別に独自の著作権法がある。1909年の第一次著作権法では登録後最大で 56年間保護されることになっていた。

76年の第二次著作権法、93年の著作権延長法が成立した。これにより登録後95年間は著作権が保護されることになった。

ギガジンによると、この二度にわたる著作権の延長は、下記の事情によるようである。

アメリカでは、ミッキーマウスの著作権の効力が切れそうになるとディズニーの強力なロビー活動を展開。これにより著作権法の有効期限が延長されるのが常でした。過去何度も繰り返されてきた一連の著作権の延長措置は「ミッキーマウス保護法」と揶揄されています。

つまり現状でもアメリカ国内では2030年まで著作権が成立し続けるのである。

GMTY vs ワーナー

ウィキペディアには

今回問題となったのは、「タイム・ワーナー」が著作権を主張したことである。

と書いてあるが、これはダブル間違いのようである。以下はギガジンから。

まず事件の発端

ニューヨークの映像制作会社「グッドモーニング・トゥ・ユープロダクション」(以下GMTY)が、2013年に「Happy Birthday to You」というタイトルのドキュメンタリー映画を制作。映画の中にこの曲を挿入した。

これに対して著作権を管理する音楽出版会社「ワーナー・チャペル・ミュージック」(以下ワーナー社)が使用料の支払いを求めた。

映画製作会社は料金支払いを拒否し、「ワーナーは歌そのものの著作権を保持していない」として提訴した。

話がややこしいのだが、

1.ワーナーというのは楽譜出版社であって、映画会社の「ワーナー」ではない。(ただしワーナー・ミュージック・グループの傘下にあり、ワーナー映画と結びついているかも知れない)

2.支払いを請求したのはワーナーだが、裁判所に提訴したのは、つまり原告は映画制作会社である。

ワーナー社は、1998年にヒル姉妹のエージェントだったサミーの会社を買収。歌の著作権もワーナーに帰属することになった。

訴訟のてん末

GMTYの女社長ジェニファー・ネルソンは相当戦闘的な人。「サミー社が(ヒル姉妹から)譲り受けたHappy Birthday to Youの著作権は、歌そのものではなくピアノを使った編曲に限られる。そのためワーナーがサミー社を買収することで承継したのはピアノの編曲部分に限られ る」と主張した。

何か「ベニスの商人」みたいなせりふだが、肝心なことは、作者を保護すべき著作権が作者のあずかり知らないところでビジネスの道具になって、芸術を圧迫することへの怒りであろう。

Happy Birthday to Youの歌詞が含まれる1924年に発行された書物「Harvest Hymns」を手に、ワーナーが保有するというHappy Birthday to Youの著作権の効力に疑問を投げかけるネルソン氏。 (ギガジンより)

そして2015年9月22日、カリフォルニア州連邦地裁の判決が下った。

1.著作権継承の事実は認定

2.ピアノを使った特定の編曲にのみ著作権を限定

3.裁判官の個人的意見として、「1935年の著作権登録作者とされるパティ・ヒルがこの曲を作曲したかどうかは疑問が残ると指摘する。

ということで、原告側の言い分が認められた。しかし判決内容はCNNニュースでは異なっている。

「サミー社はハッピー・バースデーの歌詞についての権利は取得しなかった。従ってサミー社の権利を引き継いだ被告には、ハッピー・バースデーの歌詞に対する有効な著作権はない」とされている。

今回、話題になったのは

今回、またこれが話題になったのは、下記のニュース(2016年2月15日)

「ハッピーバースデー・トゥーユー」の著作権使用料を徴収してきた音楽出版社のワーナー/チャペルが、これまでに使用料を支払った人たちに1,400万ドル(18億円)を払い戻す和解案に合意した。

この報道に続いて、多少の解説が加えられている。

ワーナー/チャペルは1998年以降、ハッピーバースデー・トゥーユーの使用許諾料で、毎年200万ドル(2億4千万円)以上を売り上げている。総額でおよそ5000万ドルを手に入れた。さらに著作権保護期間の終了する2030年までの間に、さらに1650万ドルが入る見通しだった。

無断使用には15万ドル(200万円)の制裁金が課せられる。考えればあこぎな会社である。

もうひとつ訴訟には内容があった。それは使用許諾料を支払ったすべての人たちに代金を返せという内容だ。これにワーナー側が同意したのが今回の和解の内容だ。

今後「Happy Birthday to You」はパブリック・ドメインとして扱われる

めでたしめでたしか?

ワーナーが和解に応じたのは、

このまま裁判に負ければ、これまで取り立ててきた著作権使用料をも返還しなければならない可能性が出てきました。ワーナー・チャペルは裁判を和解に持ち込むことで、すでに得た利益を守るほうが得策と判断したといえそうです。

とされている。(

つまり、まだそれでもワーナーの側には儲けが残るのである。いわば「やり得」だ。

考えてみると、この件では著作権をめぐる強引な拡大解釈がある。曲(メロディー)に関して著作権を主張するのは当然だが、作曲年が1893年の作品が百数十年を越えて有効という解釈には無理がある。

第二に替え歌であるハッピーバースデーの歌詞に著作権を主張するのはまったく筋違いだ。もし著作権があるならそれは替え歌を作った人に帰すべきだ。

もっともその人はメロディーを盗用していたことになるから、メロディーの使用料をヒル姉妹に払わなければならないことになる。

 

ゲノム解析 とりあえずのまとめ

分からないことを調べていくと、さらに分からないことが出てくる。あり地獄にはまり込んだようだ。

とりあえず、おさらばする前に一応まとめておこう。

1.遺伝子というが遺伝学ではない

一番の勘所はここだ。だからわざわざ遺伝子解析と呼ばず、ゲノム解析と言いなおしているのだ。

遺伝子の日常的作業はタンパクを作る上でのイニシエーターとなることだ。そして一生の間に数回だけ、形質を子孫に伝えるための役割を担う。

そして日常作業としてのタンパク合成は、遺伝子だけでなくほかのさまざまな因子との協同によって遂行されている。だから遺伝子だけではなくほかの因子をも含めた総合的な分析が必要なのである。

そのために、46個の染色体に分包されたDNAの鎖の塩基配列をまず明らかにしようというのがゲノム・プロジェクトであった。(そういう意味ではゲノムという言葉を使ったのは間違いで、DNA解析と呼ぶべきであった)

遺伝子の意味、まして遺伝学的な意味はここでは問わない。染色体という存在の意味は問わない。そういう思いをこめてゲノムという言葉を使っているのだ。遺伝学者がゲノムの講義をするときは、必ずこのことを念頭において話してほしい。

2.ゲノム解析の二つの目的

人間のDNAに乗っている遺伝子の数は意外に少ない。植物のDNAよりはるかに少ない。なぜか。

それは塩基配列の中で、遺伝子の分画以外の場所に、重要な情報が隠されているからである。それによって数少ない遺伝子を使い回ししていることになる。(ほかに複数遺伝子の組み合わせによる作用発現、えぴジェネティクスによる二次修飾もあるが、ここでは省略)

そのために、塩基配列の中から遺伝子分画を発見して分析するだけでなく、それ以外の分画の構造も明らかにしなければならない。

これが第一の目的である。

第二の目的は、まだその働きが不明な遺伝子もふくめて、遺伝子がいくつあるかを確定し、そこからその働きを解析していくことである。

今までは何か遺伝子異常による不具合が発生し、その原因を探り、原因となっている遺伝子をその存在も含め探し出すという作業であった。遺伝子の一本釣りである。

ゲノム・プロジェクトはこの発想を逆転させることになる。トロール網で魚を一網打尽にし、その後で識別・分類を行おうというのである。いわば博物学である。

このライブラリーが以下に応用が利くか、それは生物の系統発生学で旧来の常識がまったく通じなくなったことに典型的に示されている。

3.ゲノム解析のための技術開発

この部分はいまだに良く分からない。

まずは2本鎖を1本鎖にして、これを適当な長さに切断する。これを電気泳動にかけて長いものから短いものまで並べる。

その左端にマーカーをつけて、塩基配列を決定していく。塩基配列が決まったら、そのパターンを比較しながら1本のDNAに再構築していく、という作業のようだ。

このために幾多の新技術が開発・応用されている。主なものがヌクレアーゼ、パルス型電気泳動、プライマーやプローブの開発である。

後は大型コンピュータによる膨大な情報の処理である。

4.遺伝子、制御因子の意義

すでに意味論の研究が始まっている。はっきりしてきたのは単一遺伝子による支配というのはむしろ少なく、その多くが複数遺伝子の総合作用により、生物学的特質が発現するということである。

たとえば今話題のIPS細胞も、先祖帰りのために少なくとも4つの遺伝子の作用が必要だ。その作用順序も関係しているようだ。

これらの情報はライブラリーとして保管され、自由に閲覧できるようだ。もっとも私どもが見ても分かるものではないだろうが。

ミャスコフスキーという作曲家がいる。プロコフィエフと同年代、交響曲をなんと27曲も作曲したという実にロシア的な作曲家である。
スターリン時代を代表する作曲家で、いかにもそれっぽい曲もあるが、「おやっ」と思わせる佳曲もある。御用作曲家ではあるが、ジダーノフ批判の対象にもなったことがある。まぁ、そういう辺に位置する人である。
この人を紹介した記事に面白いものがあった。
19世紀末にミャスコフスキーはペテルブルク音楽院に入学している。プロコフィエフとは同期のようだ。当時の指導教官がリャードフ、これがミャスコフスキーには気に入らなかったらしい。ぐーたら教官と刻苦勉励型の生徒では馬が合わないのは当然だろう。しかしプロコフィエフはぶーたらをいいながらもリャードフの管弦楽法をしっかりと吸収している。
そしてプロコフィエフと反リャードフで意気投合したのだそうだ。それ以来二人は無二の親友になったという。かなりあいまいな記憶で書いているのだが、当時のペテルブルクの雰囲気がうかがわれて、楽しいエピソードではある。
ミャスコフスキーの交響曲のかなりがYoutubeにアップロードされている。しかしほとんど聞いていない。せめて10曲くらいにしておいてほしかった。ほんのちょっと聞いた範囲でのお勧め曲を挙げておく。
弦楽四重奏曲 第7番 「コーカサスの主題による」 タネーエフ四重奏団
ピアノソナタ 第7番 演奏者不明(Hegedus という人の演奏がNaxos から出ているので、それかもしれない)
とにかく、屈託なく、さらさらと音が流れていくのがよい。

修理に出したパソコンの見積もりが出た。
なんと10万円。DVDドライバーの交換をすればさらに5万円。これは購入価格と変わらない。
ようするに修理なんかするな、新品を買えということだ。
たしかに買ったときからCPU周りが異常に熱かった。初期不良だったのかもしれない。
Core i7 の出始めで、ラップトップとしては最初の機種だったかもしれない。
以前なら、技術革新が日進月歩だったから、4,5年で買い替えだったが、いまどき5年でお釈迦はちょっと早すぎる。それにThink Pad ではなく Idea Pad というLenovo の独自開発商品だから、基本的なところでチャチな可能性もある。
「自力でフアン交換を」とも考えたが、ネットの解説ページを見て断念。ファンは一番奥にあって、完全解体修理をするつもりでやらないとならないようだ。それにマザーボードやキーボードもすでに影響を受けているようで、もはや素人が手を出せるような状況ではない。
どうもCore i7がはかばかしい普及を見せないのも、この辺に原因があるのかもしれない。
とにかく嫁さんにパソコンを借りっぱなしになっていて、そろそろ目つきが厳しくなってきたので、もう決断するしかない。
ということで、東芝のダイナブックに決めた。アマゾンで16万円、ハードディスクではなくSSD内蔵というのが売りのようで、ただし容量は少ないから外付けハードディスクが必須だ。
まぁ、そのうちSSDの価格も下がるだろうから、いずれは差し替えもあるかと思う。

ビキニデーを前に、赤旗が意欲的な連載を組んでいる。

去年の今頃は、紙智子議員が「被害を受けた漁船の総数は実に1423隻に及んだ」ことを明らかにさせた。

その時に、私も年表を始めとしていくつかの記事を上げた。

感想ではいくつかのポイントを上げておいた。

1.ビキニの水爆による被爆は「被曝」と書くべきではない。まさにそれは被爆そのものであった。

2.少なくとも結果論としては、米軍は水素爆弾により久保山さんを殺したことになる。

3.第五福竜丸を偶発的な事故のように見せかけつつ、その後さらに5発の水爆を爆発させた。この行為は悪意(殺意)としか言いようがない。

今回はまず、去年の年表に増補し、改訂版として掲載しょうと思う。その後どうなるかは成り行き次第。

 

赤旗文化面のコラム「朝の風」に、すなおにうなづけない二つの歌が掲載されていた。
福島泰樹という人の歌集「焼跡ノ歌」からのものらしい。

あおい炎を ふきだしている 弟のそばに 立っている 電信柱
泥の川に朝日を浴びてよこたわる白い便器のような妹

非常に過激な歌で、その過激さを突き出すことで、戦争の悲惨さを訴えようとする思いは分かるが、どことなく納得出来ない。
その過激さが浮遊しているような気がしてならない。

東北大震災を目の当たりにして、3歳で体験した東京大空襲の場面が蘇ったという。いわばフラッシュバックしたイメージだ。

二つ考えられる。ひとつは70年を経て、諸々の情景に絡まっていた恐怖や悲しみや不安などの心的情景がそこにはさっぱり消えてしまった可能性だ。
もう一つは、その時まさに失感情状態に陥っていたという心的情景が、「昆虫の目をしていた私」の記憶が、写真的情景とセットになって畳み込まれていた可能性だ。

焼跡の情景はダリの絵のシュールリアリズムと似ているかもしれない。しかし本当はシュールどころではないはずだ。もしそれがシュールであれば、それはそこまで追い込まれた人間のシュールな感覚、無感覚の感覚というべき心的状況なのではないか。

これだけ外的情景と心的情景が乖離しているのなら、これらの歌は対となる心的情景の叙景が、いわば返歌として歌われなければならない。でなければ、沈黙を守るほうが良かったかもしれない。

ここを書き込まないと、歌作りは疎外を取り戻す営為とはならないはずだ。そこを書き込まないと、歌人は心をいまだ取り戻せていないことになる。

核酸の分析技術

というページがあって、DNAの壊し方から塩基配列のもとめ方、DNAの再建とIn Situでの観察まで要領よく書いてくれている。

1.核酸分解酵素 ヌクレアーゼ

核酸はヌクレアーゼという酵素で切断していく。

図のように二つの切り方がある。

2.電気泳動による核酸の分離と精製

核酸はタンパク質と結合しているので除タンパクする。これは核酸の水溶液を作り、フェノールと混ぜ振動を加える。ドライクリーニングの要領だ。

除蛋白した後にエタノールを加えると核酸が沈殿する。これに核酸分解酵素を加えるとDNAはバラバラになる。

これを精製するのには遠沈法と電気泳動法があるが、前者は省略。

上図が普通のアガロース・ゲル電気泳動で、溝に臭化エチジウムで染めた試料を入れて電気をかけると、ゲルの中を滲み出していく。この時、短い断片ほど速く移動する。しかしDNAは長すぎて動けない。

そこでパルス電場(PEG)電気泳動という装置で電極をパルス状に反転させながら泳動すると、かなりの大きさのDNA断片まで分離が可能となる。

3.プロッティング

ゲルの縞模様を、ニトロセルロース膜に写し取ること。むかしやった「写し絵」の要領です。

言葉で書くと難しいが、絵で見ると、なんとも原始的な方法。

この写し絵のやり方に次の3つがある。基本的には標識(マーカー)に何を使うかの違いである。

(a) サザン(Southern)ブロッティング:  標識したmRNAcDNADNA断片を検出する方法

(b) ノザン(Northern)ブロッティング:  標識したcDNAdmRNAを検出する方法

(c) ウェスタン(Western)ブロッティング:  標識した抗体タンパク質を検出する方法

このうち基本となるのは、サザンだ。ノザンは、DNAではなくmRNAを検出するための方法。これにより特定のmRNAの(i) 鎖長の解析、(ii) 組織分布、(iii)発現の有無や量が分かる。ウェスタンは昔ながらのデータ保存方法であるが、核酸の検出法としては一種の邪道だ。

4.ハイブリダイゼーション

ここからが話が難しくなる。こちらの脳みそも焼け付きつつある。

ハイブリダイゼーション(hybridization)というのは、標識したcDNAやmRNAと対象の核酸が「2本鎖」を形成するかどうかを調べる方法である。

ここまで面倒なので省略してきたが、DNAはあらかじめ1本鎖にしてある。これはヌクレアーゼによる切断とは違い、熱やアルカリではしご部分を切り離している。

これと標識したDNAを混ぜて置いておくと、ハイブリッド(混血)の2本鎖が出来上がる。これが下の図である。もちろん元のDNA同士がくっつく場合もあるし、結婚できずに独身のままのDNAも混在することになる。

5.一次構造の決定

此処から先はまったく五里霧中。

ジデオキシ法(Sanger法, 鎖終結法)

大腸菌DNAポリメラーゼの一部を用い、配列を決めたい1本鎖DNAの相補的コピーをつくる。この時に特殊な薬液(DNA阻害剤)を加えておくと、ターミネイターのところでDNA合成が停止してしまう。

この停止はランダムに起きるので、鎖の長さの異なる様々な断片が得られる。これを電気泳動にかけて並べてみると、DNAの配列が浮かび上がってくる(のだそうだ)

現在ではこのサンガー法が普及している。なお最近では放射性同位元素の代わりに蛍光物質でプライマーを光らせている。波長の異なる4種の蛍光発色団が同時に用いられることで、大幅なスピードアップにつながっている。

6.転写制御因子の検出

DNAの解析では、遺伝子解析とともに特定のタンパクと結びついて機能を発揮する部位の同定も重要になってくる。

そのひとつが転写制御因子(それ自体はタンパク)との結合部位である。この同定に用いられるのがDNase I (デオキシリボヌクレアーゼⅠ)である。

これはDNA分解酵素の一種であるが、タンパク質と結合したDNAは分解しないという性質を持っている。

当然その部位は大きなサイズの断片になるので、泳動に応じない。このためサンガー法でスペクトログラムを作成すると、その部分が「足跡」のように欠落してくる。

このことから、そこに転写制御因子との結合部位があることが分かる。

7.全体像の形成へ

断片を継ぎ合せることによってより大きなDNA断片の塩基配列が同定されていくことになるが、目的地に達するのに次々とDNA断片を乗り換えて行く方法がある。

目的遺伝子の近傍のDNAから出発して、重なり合うクローンを次々にクローン化(歩行)して目的遺伝子にたどり着く手法であり、巨大な遺伝子の全領域のクローン化には無くてはならない方法

とされている。

これを遺伝子歩行(Gene Walking)という。

中身はさっぱりわからないが、絵柄としては感じは出ている。テレビ番組で「全国路線バスの旅」というのがあって、3人組で路線バスだけを使って目的地にたどりつこうというのだ。いろいろ乗り継ぐのだが、最後になると欠落部分(たいていは峠)を歩いて越えることになる。まさにウォーキングである。

と、だいたいこんな所。

分かったとはとても言えないが、どことなく感じはつかめた。

一つの言葉を知ろうとして調べると、そこには未知の言葉が3つ4つ出てくる、という具合で、いい加減くたびれてきた。

しかしここで挫折しては元も子もない。もう少し頑張ってみよう。

所詮テクノロジーの世界である。アプローチの基本戦略(ショットガン)が分かれば論理過程はそう難しくはないはずだ。…というのが唯一の希望である。

DNAマーカー 定義

まずウィキペディアの定義。と言ってもここではDNAマーカーではなく、「遺伝子マーカー」の定義となっている。「遺伝マーカー、DNAマーカーなどとも呼ばれる」と書いているが、我々一般人の常識からすれば、DNAマーカーと遺伝子マーカーでは明らかに意味合いが違ってくる。しかし、ここでは目をつぶろう。

生物個体の遺伝的性質(遺伝型)、もしくは系統(個人の特定、親子・親族関係、血統あるいは品種など)の目印となる、つまりある性質をもつ個体に特有の、DNA配列をいう。

ほとんど法律用語だ。遺伝屋さんの世界にはこういう人達がいるのだ。

要点を言えば、DNA上のランドマークとなる「特有の塩基配列」ということだろう。先が思いやられる。

DNAマーカーの種類

遺伝子マーカーは、容易に検出でき、その座位が特定されてものである必要がある。逆に言えばその条件さえ満たしていれば何でも良いことになる。

短いものでは1~数塩基の一塩基多型(SNP)や制限断片長多型(RFLP)から、長いものではマイクロサテライトまで、様々な種類がある。

DNA型鑑定にはマイクロサテライトなどがマーカーとして用いられる。

この後、遺伝に関するさまざまな知見が述べられるが、テクノロジーに関しては言及なし。肩透かしの解説だ。

DNAマーカーを利用したDNA操作

我々が知りたいのはゲノム解析であり、そのためのDNA操作だ。その際にDNAマーカーをどう利用するのかが知りたいところである。

農林省のサイトの「ゲノム情報の品種改良への利用-DNAマーカー育種-」はその点に若干触れている。

生命は遺伝子によって支配されています。この遺伝子のゲノム上の存在位置の目印となるDNA配列が『DNAマーカー』です。そして、その目印を利用した育種を『DNAマーカー育種』と呼んでいます。

重要な遺伝子の近くにあるDNA マーカーを見つければ、これを目印に重要な遺伝子の存在を確認することが可能となります。

DNA マーカーには、おおよその場所を特定するDNA マーカーと遺伝子そのものを特定するDNA マーカー があります。(最初のウィキペディアの説明で受けた違和感はこれで解消する。つまり前者をDNAマーカー、後者を遺伝子マーカーと呼び分ければよいのだ)
どちらにしても、それが品種(系統)特異的であればあるほど、汎用性のあるマーカーになります。

ということで、各施設がマーカーの開発にしのぎを削っていることが分かる。

それが分かれば当面はそれで良し。


ついでにDNAマーカーを使った品種改良の仕掛け。
ある作物を品種改良して病気にかかりにくくする。このために、優良品種にすごく劣った品種なのだが、その病気にだけはかかりにくい品種を掛け合わせる。
後はこのf1を元の優良品種と何代にもわたって掛けあわせ、病気にかかりにくい性質だけを引き継ぐ、というのがこれまでのやり方だった。
この取捨選択は手間ひまの掛かる仕事だ。これを苗のうちにやってしまおうということになる。そうするとDNAマーカーを利用して遺伝子を分析し、劣等作物の遺伝子が混じっているものを間引きしていけば、遥かにスピードと精度が上がる。
踏み台にされる劣等品種の立場に立つと、根絶やしにされる能率が良くなるだけで、なんとも辛い話だが…

年表で1980年の記載に以下の文章がある。

80年 DNAマーカーを利用した遺伝子マッピング法が開発される。さらに核酸プローブを利用して遺伝子を染色体上に正確に同定することも可能になる。

三つ分からない言葉が出てくる。DNAマーカー、遺伝子マッピング、核酸プローブである。

知識として分からないのももちろんだが、理屈として分からないのが、「遺伝子を染色体上に正確に同定すること」って、それって遺伝子マッピングじゃないの? ということだ。

ということは、「遺伝子マッピング」という言葉の定義が分かれば、全体が大づかみにできるのかな? と思っていろいろ説明を読んでみた。というより読もうとしてみた。

どれもこれも、ひどい悪文で、ますます混迷を深めるばかりだ。

まずは論理として整理してみよう。

マップというのは地図だ。おそらく道路地図みたいなものだろう。平面上に線があって点があって、その線上に遺伝子が乗っかっている地図だ。これでどんな遺伝子がどこにあるのかが分かるし、その順番も分かる。

この地図を作るのがマッピングという作業だろう。したがってそれは測量法と同義になる。三角点と望遠鏡と磁石があればそれは出来上がるはずだ。後は伊能忠敬並みのガッツだ。

とすれば、DNAマーカーが三角点、望遠鏡が核酸プローブではないかとうすうす見当はつく。

たぶんここまでは与野党とも違いはないのだが、ここから先が違う。ショットガン戦略で考えるマッピングは、遺伝や突然変異をこつこつとやっている人(遺伝屋さん)とぜんぜん発想が違うのである。

遺伝屋さんは突然変異を見つけ出して、その責任遺伝子座をトライアンドエラーで探っていくのだが、ゲノム解析のほうは正常と異常とを問わずブルドーザーで根こそぎ解析してしまおうというのだから、そもそも発想が違う。

そういう点では、このページがゲノム・プロジェクトにおけるマッピングの論理をより反映しているのだろうと思う。

ただしちんぷんかんぷんなのはこちらも同じである。


ちんぷんかんぷんなりに、箇条書きにしていく。

1.マッピングの定義

DNA上の特定遺伝子の位置を決定すること。これまでは既知のマーカー遺伝子との連鎖を測定して位置を割り出していた。近年では核酸自体を解析する物理的手法が用いられるようになっている。

2.まずは切断とグループ化が必要

特定遺伝子の正確な位置を知るには、それをはさむ領域のDNAクローンを作成しなければならない。

そのためには実際の塩基配列の長さに基づいた物理地図をつくり、遺伝地図とを対応させることで、存在場所を限定する。

物理地図作りに使われるのがrare-cutter制限酵素(たとえばNotI)で、これでDNAを切断していく。さらにパルスフィールドゲル電気泳動で、DNA断片をその鎖長に応じて分画する。

3.断片の再統合

ゲノムDNAのNotI切断物を、今度はNotIリンキングクローンで断片を検出する。リンキングクローンとは、二つの隣接するDNA断片の境界にまたがるDNA断片のことである。

これによって絵合わせの要領で、制限酵素断片をつなぎ合わせた制限酵素地図が作成できることになる。これが成功したかどうかはFISH(fluorescence in situ hybridization)法を行うことにより確認できる。

たぶん「誤訳」がいっぱいあると思うが、雰囲気はつかめたと思う。

染色体の研究が遅れているのではないかとバカにしたが、馬鹿なのはこちらで、実はそれなりに進化しているのだ。しかし教科書にはこの話はまったく載ってこない。

クロモリサーチ社のサイトに「分かりやすい」説明があるので紹介する。

染色体とは

すべての生命体は、DNA/タンパク質分子で構成されますが、その遺伝情報は「染色体」に収納されています。

遺伝子発現を制御するためには「染色体」という形態の構築が必須です。

とくに、だいじな領域は

(1)染色体DNAの複製を開始させる、「複製起点」

(2)細胞分裂期における染色体の均等分配に重要である、「セントロメア」

(3)染色体の末端構造の維持に必要な、「テロメア」

の3つです。

人工染色体について

この3つを組み込んだ人工染色体が作られています。最初は出芽酵母で行われましたが、現在はヒト人工染色体(HAC)が用いられています。

これは、ヒト染色体から細胞内での染色体の維持や分裂に不要な遺伝子領域を削除することにより開発されたものです。

上の絵を見れば分かるように、グレーの部分を全部取っ払ってしまったものです。ヒト人工染色体 HAC ベクター構築方法

株式会社chromocenter のサイトより

HACは宿主細胞中で宿主細胞染色体に取り込まれることなく独立に存在し、宿主細胞染色体と同調して倍化・分裂し、次世代細胞に安定に受け継がれてゆきます。

とかなり恐ろしいことが書かれている。

これはウィルスそのものではないか。つまり染色体というのはDNAウィルスの筐体の機能を果たしているのではないかということだ。パソコンの筐体のように電源の差込口やCDスロット、光ソケット、USBなど、たしかにこれがないとDNA情報は通信できないのかもしれない。

言葉が分かったところで、今度はゲノム研究の歴史。

中身はちんぷんかんぷんだが、例によって年表形式で
(2017.6.03 第1回目の増補)
(2017.7.26 第2回目の増補)

1920年 ドイツの植物学者ハンス・ウィンクラーがゲノムなる言葉を造語する。これはGene(遺伝子)とChromosome(染色体)をあわせたもので、ヒトゲノム・プロジェクトにおける「ゲノム」とは意味が異なるもの。

1952年 インシュリンの完全なアミノ酸配列が解明される。

1953年 ワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造のモデルを定期。

1956年 DNAポリメラーゼが発見される。この酵素の働きによりDNAが元のDNAの鋳型から作られることが明らかになる。

1960年 核酸塩基の一つアデニンが、青酸アンモニウムの濃縮溶液から生成される。

1961年 アミノ酸が塩基3つの組み合わせ(コドン)でコードされていることが明らかになる。

1961年 DNA情報をリボゾームに伝えるmRNAの存在が明らかになる。

1962年 ツメガエルで卵に細胞核を移植し、クローン作成に成功。

1970年 塩化カルシウム処理した大腸菌の細胞内にファージDNAを導入することに成功。トランスフェクションと呼ばれる。

1971年 制限酵素を使ってDNAを切断、断片化し、DNA断片の物理的配列を組み立てることに成功。

1972年 ベクターDNA分子と外来DNA断片の末端に、ホモポリマーを付加する事によって、DNA分子を結合する方法が開発される。

1974年 RNAレプリカーゼの存在下で、ヌクレオチド・モノマーからRNAが生成することを発見。別の研究でRNAはRNAレプリカーゼの存在なしで複製することができること、このとき亜鉛が複製過程を補助することが示された。

1975年 サンガーら、DNAポリメラーゼを用いて、 DNAに結合したプライマーからDNA合成を行わせて塩基配列を決定する方法を開発。

1976年 異種遺伝子を大腸菌の中で発現させることに成功。最初はヒト成長ホルモン、78年にはインシュリンの量産に成功。

1977年 サンガー、DNA塩基配列決定に酵素反応を用いた解読装置を開発。ジデオキシ法と呼ばれる。ジデオキシ・ヌクレオチドはDNA鎖に取り込まれるが、その先の反応が進まず(ターミネータ)、DNA合成がストップする。これをゲル電気泳動にかけてオートラジオグラフから配列を読み取る。サンガーらはこれを用いて PhiX174ウィルスの全塩基配列を解析し、全ゲノムを確定した。

77年 ノーザン・プロッティング法が開発される。
78年 カン、DNA解析を用い
鎌状赤血球症の出生前診断に成功。
78年 バーンスタイン、制限酵素によって切断されたDNA断片の再マッピングにより、全ゲノムの解析が可能だと主張する。

80年 DNAマーカーを利用した遺伝子マッピング法が開発される。さらに核酸プローブを利用して遺伝子を染色体上に正確に同定することも可能になる。

81年 ヒトミトコンドリアの全ゲノム配列(17,000塩基)が決定される。

82年 米国生物工学情報センターによる塩基配列のデータベース(GenBank)の作製が始まる。日本DNAデータバンク(DDB)もプロジェクトに参加。

83 ガゼラ、DNAのポジショナル・クローニングによりハンチントン病の遺伝子主座が第4染色体のG8領域にあることを発見。CpGアイランドと名付ける。その後この部分に塩基配列の過誤が発見される。

84年 パルスフィールド電気泳動が導入される。大きなゲノム断片を分離することが可能になる。

85年 PCR法(ポリメラーゼ連鎖反応法)の応用が始まる。DNAの大量複製によりDNAの同定、鑑別が可能になる。

86年 がんウイルスの研究者レナート・ダルベッコ,サイエンス誌に「ヒトゲノム解析計画」への支持を表明。「個々の遺伝子をばらばらに研究するのではなく,ヒトのゲノム全体を研究することが必要だ。そのためにヒトゲノムの配列を全部決定するのが早道」と提唱。

86年 蛍光検出法が開発される。塩基を蛍光物質でラベルしレーザー光で検出するもの。この方法にもとづく全自動高速DNAシーケンサが開発される。オートラジオグラフィー操作が不要となり、速度が数百倍に向上。

87年 酵母人工染色体(YAC)が開発される。これを用いてゲノム断片をクローニング(塩基配列決定)することが可能になる。

88年 電気泳動をゲル状ではなく細管内で行うマルチキャピラリシステムが開発される。これを組み込んだDNAシークエンサーは泳動のための準備が不要で、無人で24時間稼働させることが可能となる。

88年 アメリカでヒトゲノムプロジェクトが正式に発足。この時点で約400種の遺伝子の位置が判明していた。

89年 ヒトゲノム計画の国際連携を図るため、日米欧の研究者によりヒトゲノム国際機構(HUGO)が設立される。

89年 マイクロサテライトマーカーが発見される。これによりゲノムマッピングのためのDNAマーカーが容易に入手可能となる。
90年10月 ヒトゲノム解析プロジェクトの開始。当初は30億ドルの費用と15年の年月が予想された。

91年 遺伝子データベースのコンピュータによる運用が開始される。この頃多くの疾患関連遺伝子が同定される。

94年 フランスのヒト多型研究所、完全なヒトゲノムマップを作成したと報告する。ヒトゲノムの全体を網羅する「物理地図」がほぼ完成,文字配列の解読が詰めの段階に入る。
94年 ベンターら、独自の方式で3万以上のヒト遺伝子を同定。「ネイチャー」誌に発表する。

95年 米国のクレグ・ヴェンターら,全ゲノムショットガン法により、180万塩基からなるインフルエンザ菌ゲノムの解読に成功。あらゆる生物で初めて全ゲノム配列が確定される。その後大腸菌や枯草菌など10種類以上の細菌でも解明される。

95年 核酸プローブの高密度アレイを利用するDNAチップが登場。膨大な遺伝子を同時かつ系統的に解析することが可能になる。

96年4月,単細胞の出芽酵母のゲノム配列が決定される。

97年 ユネスコ,「ヒトゲノムおよび人権に関する世界宣言」を採択。ゲノム研究で得られた知識の扱いについて倫理的な問題が浮上する。

98年 多細胞生物として初めて線虫の全ゲノム配列が発表される。単細胞から多細胞への進化の謎にアプローチ可能となる。また受精卵から個体へという動物の個体発生についても手がかりとなる。

98年4月 ベンター,全ゲノムショットガンで1億2000万塩基からなるショウジョウバエゲノムの全ゲノムを解読。新型のDNAアナライザー「ABI PRISM3700」が導入され、飛躍的に解析がスピードアップされる。
98年5月 ベンターが「セレラ・ジェノミクス」社を設立。人の全ゲノムを3年以内に、3億ドル以下で解読すると宣言。

6月 結核菌の全ゲノム配列が決定される。遺伝子の総数は約4000個で,その8割以上についての機能も予測される。

99年9月 ヴェンターら、ヒトゲノムの塩基配列を、全ゲノムショットガン法で読みとる作業を開始。まもなくヒトの第22番染色体のゲノムが解明された。翌年には第21番染色体のゲノムも解明。

00.6.26 クリントン大統領が記者会見。ベンターとNIHのコリンズが不和に陥ったため、クリントンが仲裁に入ったもの。「ヒトゲノムの解読が基本的に完了」と発表したが、NIHはまだ90%段階に留まっていた。

2001年2月 ヒトゲノムの全解読結果の「第1予稿」(ドラフト)がネイチャー誌に発表される。この時ベンターは99%成功していたという。

2003年 全ヒトゲノムの解読が完了。完成版が公開される。

2003年 大腸菌のDNA合成機構を利用して、ウイルスのDNA断片をつなぎ合わせ完全なゲノムを合成することに成功。

2007年 酵母菌を利用してDNAの断片をつなぎ合わせて、マイコプラズマ・ジェニタリウムという細菌のゲノムを構築することに成功。

2010年 人工ゲノムの細菌への導入に成功。初の合成生命が誕生する。

2015年 中国で「ゲノム編集ツール」を使ってヒト胚のDNAを改変する研究が行われる。ネイチャー誌は「非倫理的研究だ」として厳しく警告。


ゲノム編集: これはDNAの二本鎖切断(DSBs)と、その修復という二つの過程よりなる。
標的へのターゲティングとDNA切断にはCRISPR-Cas あるいはTALENが用いられる。
修復には二つのパスがあり、相同性組換え(HR)あるいは非相同性末端結合(NHEJ)と呼ばれる。 非相同性末端結合においては、いやおうなく欠損が生じるため、対象となった不良遺伝子はノックアウトされる。

染色体屋さんの出遅れ

混乱の最大の原因は、染色体屋さんの出遅れにあると思う。

DNA・ゲノム研究が進めば進むほど、旧態依然たる染色体研究との格差が広がっていくように見える。

DNA・ゲノム屋さんは染色体のことなど馬鹿にして、一言も言わない。染色体屋さんはゲノムは自分の縄張りだと主張するが、説得力はますます失われつつある。

DNA・ゲノム屋さんが染色体屋さんに聞きたいことは、いったいなぜDNAは染色体に分かれるのだろうと言うことだ。さらに言うと、46都道府県に分かれるのはなぜかと言うことだ。道州制ではどうしてだめなのか。

もうひとつ、DNAが染色体と言う形で区分され、ひとつの自治体を形成するには、それなりの利害得失があり、その枠組みにはそれなりの大義名分があるはずだが、それは何なのか。

つぎに、分裂期とそうでないときに顕微鏡的には明らかに形態が違うが、それは染色体のありようの違いを示しているはずだ。それは何なのか。

後はちょっと副次的になってしまうが、染色体はペアーになってはいるが、良く見ればかなり違う。形態でなく、その働きから見てどこが同じで、どこが違うのか。塩基配列上はどうなのか。発生的に見て同じものがだんだん変わってきたのか、それともペアリングした後だんだん似てきたものなのか。

これらの疑問に染色体屋さんはほとんど答えてくれないし、そもそも疑問さえ持っていないのではないかとさえ思ってしまう。

これではいつまでたっても、「染色体屋さんは学生を悩ますために存在し続ける」ことになりかねない。あの高校生の悩みは解決してくれないだろう。

ゲノムの正確な定義

お手軽解説にこんなことを書いては、お手軽どころか、混乱に拍車をかけるだけなので、あえて省いた。

1.ゲノムは遺伝情報の総体だ

まず正確に言っておく。

ゲノムはDNAの表面に塩基配列という言葉を使って書かれた遺伝情報の総体を指す。

この一連の言葉の中で、「遺伝子」を表す部分はそれほど多くはない。それ以外の部分はかつては無駄な部分と考えられていた。しかしその部分も含めてすべての塩基配列が何らかの形で遺伝に関与している。

だから、ゲノムという言い方は不正確であり、塩基配列のすべてを「遺伝情報群」あるいは「遺伝情報セット」として考える必要がある。もちろんその中でも遺伝子の情報が決定的に重要なことは言うまでもない。

これについては下記のページでうまく説明されている。

カーネーションのゲノムは、2013年に、約4万3千個ある遺伝子の並び方がすべて解読されました。

カーネーションンの遺伝子は、約4万3千個。一方、ヒトの遺伝子は、約2万2千個です。

ヒトの遺伝子の数はカーネーションより少ないのですが、ゲノム全体の情報量はカーネーションの5倍もあります。
というのは、ヒトゲノムには、「遺伝子ではない」けれど「遺伝子のはたらき方を調節する部分」がたくさんあるからです。
その結果、いろいろな複雑な調節ができるのです。(NHK高校講座

なお遺伝情報についてはエピジェネティクスも関与するが、ここでは省略する。

2.ゲノムの話は染色体と一切かかわりない

現在使われているゲノムという言葉は、前にも述べたように「ジーン」と「-オーム」(群れ)をくっつけて作られた言葉である。

しかし、この言葉はかつては別な意味で用いられていた。ジーンは同じだが後ろの「-オーム」は染色体(クロモソーム)の「-オーム」である。

なぜか、その頃はまだDNAが知られていなかったからである。

だから木原 均は「すべての生物の歴史は染色体にきざまれている」(1946)と言ったのである。

しかしるる説明したように、現在のゲノムは染色体とはいっさい関係ない。そんなものを持ち出さなくても、完璧に説明がつくのである。染色体は小分けにして梱包されたDNAであり、「マルクス全集」の一分冊に過ぎない。

顕微鏡で見える染色体は分裂期にタンパク質で肥え太ったDNAがとる一時的な姿態に過ぎない。

にもかかわらず、ゲノムというと染色体の話を持ち出すやからが相変わらずいる。彼らこそが人々を混乱させ、困惑させている元凶である。

3.「お前、あほか」と叫びたくなる悪文

進研ゼミのサイトで、高校生からこんな質問があった。「ゲノムってそもそもなんですか?解説をなんども読んだのですが、ゲノムとはなんなのか、つかめません」

それで件の高校生が悩んだ問題。

【問題】
遺伝情報と遺伝子の発現について,次の文章中の空欄に適当な語句を記せ。

ヒトのからだは,1個の受精卵が( ①      )を繰り返してできた多数の細胞が,多種多様に( ②    )して形づくられている。

中略

遺伝情報は,染色体のDNAに含まれており,ヒトでは( ⑥    )本で1組の染色体のDNAが含む遺伝情報を( ⑦     )と呼ぶ。

つまり,ヒトの体細胞は( ⑦ )を( ⑧    )組もっていることになる。

①はなんだろう、「分割」かな?②は「特化」かな? 正解は「細胞分裂」と「分化」だそうだ。これは国語の問題か?

後ろの段はもっとひどい。質問の仕方が悪すぎる。そもそも「遺伝情報は,染色体のDNAに含まれて」いるというのが、ほとんど間違いだ。「その遺伝情報は第23支店のDNAに含まれています」と言うことでしかない。

それに、何を言いたいのか分からない文章だ。染色体を1本、2本と数える数え方も業界用語に過ぎず、なじめない。そのこととDNAがもつ遺伝情報を総称してゲノムということにはまったくかかわりない。

だいたい話が逆だ。1本のDNAが46個の染色体に分割されるのであって。染色体のDNAがひとつに合体するわけではない。

この問題が理解できずに悩んだ高校生はまことに気の毒である。

出題者の書いた解説というのが付け加えられている。

これを読むと、出題者が完全に勘違いをしていることが分かる。冗長なことこの上ないが、全文を転載する。

真核生物の体細胞は,通常,相同染色体を2本ずつもっている。ヒトの場合,父親と母親それぞれから生殖細胞を介して23本の染色体を受けとるので合計46本の染色体が核内に存在する。この生殖細胞がもつ1組(ヒトでは23本)の染色体のDNAに含まれるすべての遺伝情報がゲノムである。つまり,ヒトは父親由来のゲノムと母親由来のゲノムの2組のゲノムをもつことになる。

体細胞分裂では,細胞がもつゲノムは変化しないので,1個の受精卵からつくられる一人のヒトの体細胞は,基本的に同一のゲノムをもつ。一方,多細胞生物のからだは多種多様な細胞で構成されているが,細胞は,同じゲノムをもっていても,どの遺伝子がはたらくかを変えることで,多種多様に分化するのである。

そもそも何を言いたいのかが分からない。ほとんど統合失調の世界だ。生殖の話ならゲノムなど不要だ。ゲノムの話なら、生殖など不要だ。

DNAはタンパク合成のための設計図であり、生殖とか細胞分裂のためにあるのではない。人間は毎日毎日セックスのことばかり考えて暮らしているわけではない。もちろんその時はその時の対応はするが、日々のタンパク合成の営みとはカテゴリーが違う。

うっすらと想像できるのは、この出題者がゲノムという言葉は「染色体遺伝子群」を示しており、ゲノム論は染色体抜きに成立し得ないと信じ込んでいるらしいということだ。染色体のメガネを通してしかDNAを見れないほどに、脳みそがミイラ化している。私が校長なら、暫時休職を勧める。

これについてはウィキペディアの「ゲノム」の項目に詳しい説明がある。ことの性格上、かなりしちめんどうくさい議論となっているので、興味のある方は直接当たってください)

注意!: もし、ゲノムの説明の中に3倍体とか4倍体とか、染色体とか木原均だとか出てきたら、それは昔のゲノムの話なので無視してください。そういう文章は混乱するばかりなので一切読まないようにしてください。

 

トロップのロシアピアノ小曲選にレビコフという作曲家の作品が三つも含まれている。まったくの初耳の人だ。

ワルツがとてもよい。

とりあえずウィキペディアから

1866年5月31日 クラスノヤルスク — 1920年10月1日 ヤルタ ということでリャードフらと完全にかぶる。モスクワ大学哲学科を卒業。モスクワ音楽院にも学んだ、というからロシア・アマチュアリズムの人。

初期作品はチャイコフスキーの影響を示している。抒情的なピアノ小品集(組曲、連作、アルバム)のほか、児童向けの合唱曲や童謡を手懸けた。後年では、新しい進歩的な和声法を利用した。

ウィキペディアには辛らつなレビコフ評も載せられている。

ようつべで検索するとかなりの曲が聞ける。cubusdk という人が自演でアップしてくれているようだ。演奏は悪くない。ただしエレクトリック・ピアノのようでエコーも人工的だ。(Sound from ROLAND RD-700GXとのコメントがある)しかし聞く分には一向に差し支えない。

以下にリンクを張っておく。

情緒のある風景/ Stimmungsskizzen  Op.10  1 Ländliche Scene (Pastoral scene) 2 Volkslied (Folk song) 3 Lustige Stimmung (In cheerful mood) 4 Trost (Depre

Vladimir REBIKOV: Valse Miniature, Op. 10, No. 10

Vladimir REBIKOV: Waltz in B minor, Op. 10, No. 8

夢, 5つの音楽風刺劇/ Les Rêves, 5 mélomimiques  Op.15

Vladimir Rebikov : Naïade , Op. 15 No. 1

クリスマスツリー, 組曲/ Christbaum, suite  Op.21  [1 piano 4 hands]

Vladimir REBIKOV: Op. 21, Valse (Yolka)

 Vladimir Rebikov - Waltz, from "The Christmas Tree" (PIANO SOLO VERSION) Yevgeny Yakovlev

黄昏時に/ A la Brune  Op.23  [1900年]

Vladimir REBIKOV: Chant d'hiver Op. 23, No. 2(Winter Song)

Vladimir REBIKOV: Persuasion (Op. 23, No. 3)

Vladimir REBIKOV: Espérance (Op. 23, No. 4)

Vladimir REBIKOV: Souvenir (Op. 23, No. 5)

Vladimir REBIKOV: Il était une fois.... (Op. 23, No. 8)

田園生活の情景/ Scènes bucoliques  Op.28

Vladimir Rebikov: 2 Dances from op.28 Jouni Somero, piano

Vladimir Rebikov - Scenes bucoliques Anthony Goldstone

Fleurs d'Automne f-moll (1 Moderato 2 Andante 3 Moderato)作品29

Vladimir REBIKOV: Fleurs d'automne I

Vladimir REBIKOV: Fleurs d'automne II(秋の葉 おそらく第2曲アンダンテ)

同じ曲で管弦楽作品もあった。

Misha Rachlevsky - A Russian Mosaic - Chamber Orchestra Kremlin: Vladimir Rebikov (「秋の葉」の3曲全曲が聞ける)

Vladimir REBIKOV: Valse Mélancolique B minor

Vladimir REBIKOV: Waltz in F# minor

ほかのサイトでもいくつかが聞ける

Vladimir Rebikov - Small Bell Dance in E Flat Major Anatoly Sheludyakov

こちらは合唱曲

Russian Orthodox Music - Have Mercy On Us, Vladimir Rebikov / Children's & Youth Choir "Sophia"

まずはお手軽に「ワンポイント解説」から。

これは独立行政法人製品評価技術基盤機構(NITE)のホームページから拾ったもの。

1.ゲノムとは

ゲノム(genome)とは遺伝子の英語ジーン(gene)と集合をあらわす"-ome"を組み合わせた言葉です。

うーむ、「オーム」というのはシンドロームの「オーム」か。ということは「遺伝子群」ということになる。つまりセットとして把握された遺伝子集団のことだな。

その実体は生物の細胞内にあるDNA分子であり、遺伝子や遺伝子の発現を制御する情報などが含まれています。

そうか。1個のDNAに乗っているすべての遺伝子のセットのことだな。ただ注意しなければならないのは、「や遺伝子の発現を制御する情報など」もふくまれることだ。ここには明らかに言葉の拡大解釈がある。これについては項を改めて説明する。

細菌などの原核生物の場合,DNAはリング状で、そこに代謝や分裂などの生命活動に必要な数千個の遺伝子が含まれてい る。真核生物の場合には,DNAは染色体に分かれて存在している。人間の場合なら常染色体の23本と,XとYの性染色体2本に分かれ1セットのゲノムが含まれる。


2.ゲノム解析とは

ゲノム解析といっても二つの段階がある。

A) 塩基配列の解析

DNAというのは蝿取りリボンのようなもので、ぐるぐると垂れ下がった紙リボンの片側に糊がついている。この糊にあたるのがA、G、C、Uの4つの塩基である。

これ以上の説明は省略するが、塩基には並び順があって、それがリボンの端から端までずっと続いている。

この並び順を完全に明らかにしようというのが塩基配列の解析で、実はこれは2000年頃にすでに完了している。

B) 塩基配列の解読

ゲノム解析では端から順番にDNAの塩基配列を調べていって、「遺伝子の発現を制御する情報」、要するに開きカッコ(「)と閉じカッコ(」)を見つければ、その間が遺伝子ということになる。

A) はゲノム解析ではない。DNA上の塩基配列の解析に過ぎない。B) はその区画化とグルーピングに過ぎない。両方とも厳密な意味でのゲノム(遺伝子群)解析とは言えず、むしろ勝負はこれからということになる。

3.ゲノム解析の手法

A) 塩基配列の解析方法

これはいかにもアメリカ的な手法で、ショットガン(散弾銃)作戦と呼ばれる。とにかく取り出したDNAをみじん切りにして、片っ端からクローン培養する。

DNAの断片が大量にできあがったところで、その塩基配列を解析する。無数の塩基配列情報が出来上がるので、これをコンピューターにかけて「絵合わせ」をしていく。そうすると下記のごとくDNAの全体像が浮かび上がってくるというしだいだ。

アセンブルの操作

「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ということだ。昔の日本人なら「何とかもう少し要領よくやる方法はないものだろうか」と考えると思うが、最近は安部首相みたいなノータリンばかりだ。

B) 遺伝子領域の推定

先に述べた開きカッコと閉じカッコは、開始コドンと終止コドンと呼ばれる。開始がATGで終止がTGAだからつじつまは合っている。

その間が推定遺伝子領域と呼ばれる。英語で言うとOpen Reading Frame:ORFとなる。

読んで字のごとく遺伝子だろうと推定されるに過ぎない。本当にそれが遺伝子なのかどうかは、いろいろやってみて、機能を推定するほかない。

この「意味づけ」作業が、英語で言うとアノテーションとなる。

アノテーションの結果はNITEに集積されていて、いつでも研究者が利用できるようになっている。ということで、最後はNITEのPRで終わり。

ゲノム情報データベース
DOGAN

生物の系統発生学でゲノム解析の技術が導入されて以来、これまでの常識が次々と覆されている。とくに昆虫の世界では既存の系統図がほとんど役に立たないほどの有様となっているようだ。また人類の起源においても次々に新説が飛び出してくる。

困ったのは、それがどのくらいの信憑性があるかというのが、判断しかねることだ。どれが正しい技法による解析なのか、どれが不正確なものなのかが分からない。

なかには、科学的な装いを凝らした大法螺もあるだろう。現在の学会はどこもプライオリティーでしのぎを削っているから、スタップ細胞みたいなスキャンダルが生まれかねない。

ゲノム解析の前に、我々はミトコンドリアDNA、Y染色体など類似の手法に親しんできた。それらを組み合わせながら従来の説を補強してきた。

これらに比べるとゲノム解析の情報量ははるかに多いので精度は格段に上がる。逆に資料の問題、コスト問題などから検査対象となる個体数は多くはない。

したがって統計的手法がとりにくい。したがって対象生物の個体差が干渉する余地が大きい。

こういう二面性を踏まえておくべきであろう。

とにかく、ゲノム解析の方法、その限界について最低限の知識を持っておくべきだろう。

ということで、勉強を始めたのだが、何せ新しい学問だから聞きなれない言葉のオンパレード。まるで外国語文献を読んでいるようだ。

とはいえ、私も医者の端くれ。「知らない」では済まされない。これまでの蓄積もある。まずそことの端をつなぐことから始めなければならない。

この手の学問は、何かとてつもない技術的なブレイクスルーがあって一気に発展するものだ。そしてこの技術を用いて次々と新発見が繰り返され、その中で新たなコンセプトやカテゴリーが構築され、それらに名前がつけられていく。

こうしてあっという間に知識の一大ビルが立ち上がってしまうのである。かつてそういう前線の一翼を担ったものにとっては、そういう体系的な認識はなく、後から来た人たちがそれを「学問体系」として把握しているのを見て、「はぁあ、そういうものだったのかねぇ」とひとりごちてしまう。

いつまで戸口の前で、しゃべっているのだ。まずは言葉の理解から。

もういい加減やめにしたいのだが、最後っ屁で、リャードフとリャプノフの関連年表。

 

リャードフ

リャプノフ

1855

サンクト・ペテルブルクに生まれる

 

1859

 

ヤロスラヴリで生まれる。まもなくニジニ・ノヴゴロドに移る。

1870

ペテルブルク音楽院に入学。R・コルサコフに学ぶ。

 

1878

ペ音楽院で教職につく。門下にプロコフィエフ、ミャスコフスキーなど

モスクワ音楽院に入学。

1885

 

バラキレフを慕いペテルブルクに移る。帝国地理協会の民謡収集部に所属する。

1886

ロ短調の前奏曲(作品11の1)を発表

 

1893

「音楽の玉手箱」を発表

 

1897

 

超絶技巧練習曲の作曲を開始。完成は1905年

1905

「ババ・ヤガー」を発表。以後、管弦楽曲に集中。09年には「キキモラ}

 

1910

ディアギレフの新曲依頼をキャンセル。代わりに提供されたストラビンスキーの「火の鳥」が大ヒット。

 

1911

 

ペ音楽院教授に就任。

1913

 

プラタナスの歌を含む小曲集(作品57)を発表

1914

死亡

 

1924

 

革命を逃れパリに移るがまもなく死亡。

 二人が旺盛に作曲活動を展開した時期はほぼ重なり合っている。

まず最初は1880年代後半から1890年代前半にかけてであり、ともにピアノ小曲を中心にコツコツと積み上げている。

この時期においては、リャプノフのほうが大規模曲も手がけたりして一歩先を行っているようだ。ただリャードフのロ短調の前奏曲や「音楽の玉手箱」に匹敵するような有名曲は、リャプノフにはない。

例の93年の民謡収集旅行の後、リャプノフは超絶技巧練習曲の作曲にとりかかり8年の歳月をかけて完成させる。この間リャードフはピアノ小曲をポツポツと作りつつ、管弦楽法の習得をすすめる。

リャプノフは超絶技巧練習曲の後もピアノ・ソナタなど活動を展開するが、形式的にはリストのレベルに留まり、ロシア民謡の吸収も未消化に終わっている。

もともとメロディーで勝負する人ではないが、後半になるとますますメロディーが枯渇してくる印象だ。

いっぽう、リャードフは1905年の「ババ・ヤガー」で管弦楽曲作家として華麗なデビューを果たし、ピアノ小品でもいくつかの佳品を作曲している。

リャプノフは作品57の小曲集などいくつかの佳品を残すが、結局、超絶技巧練習曲の作家として終わってしまう。

リャードフは、大掛かりな管弦楽曲は作れるようになったが、長い構成的作品は作れないままに終わった。しかしそのモダンな手法はストラビンスキーやプロコフィエフに受け継がれている。

というところか。

上野先生に頂いた森熊たけし著「漫画100年、見て聞いて」を、明後日の多喜二忌を前に、遅まきながら読んだ。
A4版で120ページというからかなりの大部ではあるが、絵や写真が満載なので読むのにさほど時間はかからない。
ふじ子の俳句をまとめた「寒椿」という句集がそのまま掲載されている。加藤楸邨に師事したということで、かなり技巧的にも洗練されたものだ。
表紙がいいので、そのまま転載する。多喜二が舞い上がった理由も、セキが好まなかった理由も、森熊がすべてを恕し続けた理由も、すべてこの写真で説明できる。
寒椿

句集の題名は彼女がつけたものではなく、夫、森熊猛によるものだ。由来は彼女が投稿していた句誌「寒椿」によるものだから、それほど深い意味はない。
ただし森熊によると、東京都知事選に美濃部さんが当選したとき、作った句に寒椿が出てくるので、それもあって「寒椿」としたのだそうだ。それがこの句である
枯芝に 紅こぼしけり 寒椿
紅は紅の旗を指すのであろう。さすれば寒椿は風雪に耐える民衆の力の象徴ということになる。
次の句は多喜二に関するもので、有名なものだ。
アンダンテ カンタビレ聞く 多喜二忌

多喜二忌や 麻布二の橋 三の橋
これは句誌に投稿したものではなく、ノートに書き残されていたものを森熊が見つけ出したものだ。
蛇足で申し訳ないが、アンダンテ・カンタービレはチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第一番の第二楽章。甘美な曲だ。バイオリン独奏用の編曲もある。
多喜二はバイオリンが大好きだったから、二人だけの隠れ家でレコードをかけて、音が漏れないように覆って、ふじ子を傍らに聞き入ったのであろう。ふじ子は体中を耳にして、多喜二の息遣いまで一緒に、その情景を心の奥底に綴じ込んだ。そのアンダンテ・カンタビレを、多喜二の何回目かの命日に、一人で密かに聞いているのだ。
“麻布二の橋、三の橋”は、二人が特高の目を逃れるために麻布界隈の間借りを転々としていたことを指す。それが走馬灯となって甦る。畢生の名文句だ。そこにあるのは、覚悟した、まことに濃密な愛の空間である。
これを読んだ時の森熊の胸中も、察するにあまりあるものがある。

つぎに「遺稿」の中から「自己紹介」という文章が紹介される。
わたしは悪女です。それも余り頭の良くない悪女です。人が信じようが、信じまいが、本人が言っているのですから間違いありません。
来世は史上最後の美女に生れます。世界の人類を魅了して夭折します。 以上
「以上」というのが、あっけらかんと潔い。彼女なりに、こっそりと懸命に「悪女」を生き抜いたのかもしれない。
たしかに「美女」とは言えないかもしれないが、それだけで十分に魅力的だよ。

さて句集だが、ひねりを利かせた叙景の中にかすかに叙情を込める技巧はさすがのものだ…と言いつつ眺めているうちに、大変なものを見つけてしまった。
句集の中に、やや場違いに、「恋の猫」の句が二つほど投げ込まれている。飛び飛びで、悟られぬよう密かに紛れ込ませたようにみえる。
恋猫の 一途 人影 眼に入れず

ボロボロの 身を投げ出しぬ 恋の猫
技巧もへったくれもない。まさにあの日あの時の情景だ。
分かるのは、ふじ子が多喜二の傍らでは「恋する猫」であったこと、多喜二がむごい死を迎えたその日、ふじ子もボロボロだったこと。ボロボロだったから、原泉に「私は多喜二の妻です」と叫び、人目もなく多喜二(の遺骸)に向かって身を投げ出したこと。
思えば2月のあの日、馬橋から阿佐谷の駅への道すがら、寒椿も紅色に咲いていたことであろう。

北海道における中国人の強制労働

まず、数字から明らかにしていかなければならないだろう。日中友好協会北海道連合会の資料から引用する。

1.中国人38,939名が日本に連行され各地の事業所で奴隷労働を強いられた。

2.強制連行は1943年4月から1945年5月にかけて行われ、強制労働は終戦まで行われた。強制連行が5月で終了したのは海上輸送が困難になったためである。

3.中国人の強制労働を行ったのは全国135の事業所であった。北海道では58事業所に16,282名の労働者が配置された。これは全体の42%にあたる。

4.その労働が如何に過酷であったかは死亡率を見れば一目瞭然である。全国では6,821名が死亡した。死亡率は17.5%に達する。このうち北海道では3,047名が死亡、死亡率は18.7%となる。

死亡率20%以上の事業所を上げておく。2015年3月15日 中国人殉難者全道慰霊祭で発表された数字のようである。慰霊祭には道知事はじめ各地の首長が賛同していることから、公式な数字と見て良いだろう。

事業場 連行人数 死亡者数 死亡率
1 北炭・空知天塩 300 136 45.3
7 伊藤・置戸 499 104 20.8
12 地崎・東川 338 88 26
13 三井・芦別 684 245 35.8
14 川口・芦別 600 278 46.3
15 鉄工・美唄 415 91 21.9
17 三井・美唄 597 163 27.3
20 川口・上砂川 299 86 28.8
25 鉄工・神威 391 115 29.4
26 川口・豊里 200 52 26
39 三菱・大夕張 292 84 28.8
40 地崎・大夕張 388 148 38.1
41 鉄工・室蘭 439 127 28.9
42 川口・室蘭 969 309 31.9
43 港運・室蘭第一 147 31 21.1
44 港運・室蘭第二 99 29 29.3
45 港運・室蘭第三 202 67 33.2
47 北炭・平和角田 294 76 25.9

総  計 20,430
実数
16,282
3,047 18.7

かなり死亡率にばらつきはあるので、会社のトップだけの責任ではなく、現場の指揮者も積極的に関わったうえでの数字だと思う。「鬼畜米英」と叫んでいた連中こそが、まさに「鬼畜」であった。
この表につけられたコメントを転載しておく。

太平洋戦争開始後約1年たった1942年11月27日、時の東条内閣は日本国内の重労働に従事する労働力の不足を補うために、中国人を強制連行することを きめました。この方針によって、中国の河北、河南、山東、山西など十数省から一般住民および軍事俘虜が日本に連行され、苛酷な強制労働に従事させられまし た。
 その数は、少なくとも、41,762名と考えられ、このうち乗船した数は38,939名です。
 北海道には、16,282名が、58の事業場に連行され、その配置総数は20,430名です。その内死亡者は3,047名で死亡率は18.7%にも達し ています。これは当時の日本人の死亡率1.631%にくらべると、恐るべき数字であることが分かります。しかもこれは、わずか1年ほどの間のことですか ら、もし戦争が長引いていたら、連行された中国人はおそらく全滅したと思われます。

これは「労働」の名に値しない。「皆殺しの苦役」だ。

巷間、慰安婦問題のみがかまびすしいが、率直に言えば、そちらのほうを大声を上げることによって、これら強制連行と強制労働、事実上の大量虐殺についての事実を覆い隠そうとしているのではないかとさえ思ってしまう。

それは契約に基づく「自由労働」ではなかった。「労働者」は使い捨てのおしめであった。日本の会社側に「労働者」のことを思いやる心は皆無だったことを覚えておこう。


抗認知症薬 開発の歴史

私の十八番で、まず分からないことは歴史的に理解しようということです。


* アルツハイマーで脳内のアセチルコリンの減少が確認される。アセチルコリン・エステラーゼの抑制により、アセチルコリン減少を抑制しひいては認知症の進行を抑制する可能性が示される。

1989年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を記憶改善薬として治験開始。

1993年 タクリン(商品名コグニックス)が米国で承認される。肝障害のため使用は広がらなかった。

1997年 スイスのサンド社が「イクセロン」(リバスチグミン)を発売。世界で最も頻用される抗認知症薬となる。ドネペジルと同じく抗コリンエステラーゼ薬であるが、アセチルコリンのみならず、ブチルコリンの分解も抑制する。

当初はドネペジルに比べ副作用が強いといわれたが、「パッチ化」により副作用の軽減に成功したといわれる。

1999年 エーザイ、「ドネペジル塩酸塩」を国内発売。商品名はアリセプト。当初の適応はアルツハイマーのみ。

2000年 彼岸花にふくまれる植物アルカロイドとして古来知られたガランタミン(抗コリンエステラーゼ薬)が、西欧で抗認知症薬として認可され使用開始。商品名は「レミニール」

2000年 この頃からアリセプトの長期投与の成績が報告され始める。

迷惑行動が減少し、意欲低下、無関心、抑うつなどが改善。病理学的にも海馬の萎縮が抑えられたと報告される。
一方、1.アセチルコリン過剰症状: 興奮、イライラ感、精神不安定。2.徐脈性不整脈。3.パーキンソンの像悪、などが報告される。

2002年 メマンチン塩酸塩がヨーロッパで商品生産を開始。商品名は「メマリー」

作用機序は不明だが、広義のカルシウム拮抗剤と説明されている。メマンチンは脳内グルタミン酸活性を抑えることにより膜を安定化させ、カルシウムの細胞内流入を防ぐとされる。独特の鎮静作用があり、コリンエステラーゼ阻害薬とは作用機序が異なるため、併用効果が期待される。

2011年 アリセプトの特許切れ。その後相次いでジェネリック薬品が登場するが、価格はせいぜい半減程度で、薬効(生物学的効果)についても賛否相半ばする。

2011年 リバスチグミン(イクセロン)、ガランタミン(レミニール)、メマンチン(メマリー)が国内販売を開始。抗認知症薬4種類が国内で出揃う。

2014年 アリセプトのレビー小体型認知症への適応が拡大される。

2014年 薬価改定。アリセプト(エーザイ)の薬価が1日あたり(常用量10ミリ)600円を割る。エーザイは剤形の多様化により抗薬価維持を図る。


ということで基本はアリセプト+メマリーの併用、これで多少の過活動化があっても我慢して使えということだ。これにリスパダールとグラマリール(場合によっては三環系抗うつ剤)を組み合わせ、経過によりハルシオンを乗せるというストラテジーになる。

ただしこれらの処方はわれわれ内科医が勝手に積み上げるようなものではなく、精神科あるいは神経内科の先生の力を借りながらやっていくことにになるだろう。

とくに内科医が注意しなければならないのは、抗ヒスタミン剤と抗アレルギー薬の安易な使用であろう。また糖尿病の急速な悪化は何度となく痛い目にあっている。また蓄積作用は1か月を過ぎて因果関係があいまいになった頃から急速に出現することがあり要注意だ。

認知症の薬がたくさん出されている。

これまでは老健施設の担当だったので、まったく勉強する必要がなかった。申し訳ないが抗認知症薬は入所の時点でばっさり切っていたからである。

実際のところ切っても大きな変化はなかった。精神症状があればそれは周辺症状と割り切って向精神薬で対応していた。

しかし老健の担当を外れ、特養やグループ・ホームなどの利用者をケアするようになると、抗認知症薬がそれなりに効いていることがわかり、自らの不明を恥じているところである。

効いているというのはちょっと語弊があって、要するに中核症状か周辺症状かは分からないが、抗アセチルコリン・エステラーゼ薬がかなり老人の認知障害を臨床的に修飾する可能性があるということであろう。

同時にかなり副作用もあって、認知症患者の現状が抗認知症薬によってもたらされている可能性もあることが分かった。

また先発薬であるアリセプトと後発のレミニールにはかなり使い勝手の違いがあることも分かった。

お恥ずかしいことだが、とりあえず抗認知症薬の使い分けについてまとめておくことにする。


アルツハイマー病の勉強をしたときにも触れたことだが、現在使われている抗認知症薬は病気の原因に迫るような薬剤ではない。

端的に言えば使ってみたら効いたというレベルの薬である。

長期的に見て良いかどうかも分からない。ただ認知症の患者さんに「長期」もへったくれもないのであって、1年でも2年でもそれなりに効いてくれればよいのだ。後は野となれ山となれだ。

一番困るのは変に効くことであって、効かなければ効かないで副作用がなければそれで良い。困るのはどういう変化が効果で、どう変化が副作用なのかの判定が難しいことだ。

この辺は現場に判断してもらうしかない。ところが困るのは「現場の声」が必ずしも一致しないことである。ある患者が抗認知症薬を飲み始めた、数週間してから明らかにある種の変化が起こり始めた。それをポジティブにとらえるかネガティブにとらえるのかは担当者によってまちまちである。

とくにベテランと呼ばれる人たちは変化を嫌う。それに対して若手のケアワーカーはそれを積極的にとらえる。それはナースにおいても同じだ。

結果的にいろいろ不都合が出てくると、ベテランは「それ見たことか」とカサにかかってくる。

しかし、パーキンソンの患者にL・ドーパを使ってジスキネジーが出たといって、「それ見たことか」ということにはならない。ジスキネジーが出るくらい使ってみないと効果は分からないということもある。

何もしなければ何も失敗しないのであり、それは無作為につながる。だから医師は現場の声を慎重に聞きつつも無作為につながるような安易な妥協は慎まなければならないのである。なかなか難しいところだ。


と、ここまでが前置き。件のごとく前置きが長い。

この二人をめぐる面白いエピソードがある。
リャプノフは田舎(ニジニー・ノヴゴルド)の出で、父が天文学者、兄が世界的に有名な数学者だ。完全に理数系の血を引いている。対してリャードフはペテルブルク生まれの街っ子。祖父と父親が指揮者という音楽一家だ。
リャプノフの写真を見ればわかるようにコチコチの堅物だ。リャードフはエスケープの名人、ペテルブルク音楽院を一度は放校になってるほどだ。

リャプノフはニコライ・ルビンステインの引きでモスクワ音楽院に進学し、チャイコフスキーの指導も受けている。ここで純西欧風の音楽理論で教育を受けたが、逆に民族風の音楽にはまってしまい、バラキレフの指導を受けるためにペテルブルクに移動する。リャードフはそのころペテルブルクの音楽院で相変わらずチンタラとやっていた。
二人は同じ校舎の中で生活するようになる。しかしいわば水と油だからそう気があうはずはないと思う。
ところがこの二人が1993年に突然長い旅を共にすることになるのだから不思議なものである。
そのとき、帝室地理協会という団体がバラキレフにヴォルガ地方の民謡採集を命じたのである。まぁ政治力に長けたバラキレフのことだから、協会の幹部をたきつけて調査費をせしめたのであろう。
このころはチャイコフスキーの名声がピークに達していたころだ。ペテルブルクのリムスキー・コルサコフもすっかりその気風に染まっている。
民族派の先頭を走り続けてきたバラキレフには面白くない時代だ。そこで民謡でも発掘してそれで巻き返しを図ろうという魂胆だったのではないだろうか。
民族派にあこがれてチャイコフスキーのところからバラキレフの下にはせ参じたリャプノフは当然喜んでこのフィールドワークに参加したことだろう。
ところがそこに、どこからうわさを聞いたものかリャードフが紛れ込んできた。親分のリムスキー・コルサコフも、バラキレフの調査とあれば、少なくとも表向きは反対する理由はない。どうせ遊んでいるようなリャードフのことだから、勝手にすればという感じで見ていたのではないだろうか。とくにこの時期、リャードフは完全なスランプ状態に陥っていた。92年に発表したのは作品29のピアノ小品ただひとつである。93年も数曲にとどまる。その中のひとつが「音楽の玉手箱」なのだ。これでリャ-ドフの首は皮1枚でつながったのだ。
ということで、バラキレフ、リャブノフ、リャードフの奇妙な三人連れがヴォルガ地方一帯をうろうろすることになる。
どういう旅だったのかは記載がないので分からない。ただこのたびの後、二人はともに民族色の強い音楽を書くようになったことは確かだ(特にリャードフ)
旅の結果、300の民謡が採集され、それらは97年に協会から刊行された。リャプノフはこの中から30曲を歌曲として発表している。
なかなか文献がないので想像するほかないが、ぐーたらな街っ子のリャードフがどのくらい足手まといになったかは想像するに余りある。

FOSTEXをいじっていて思ったのが、どのレベルでオーディオプロセッシングをするかということだ。デジタル信号をあつかう場所はひとつでよい。 いまは先発のパソコンソフトに遠慮しているのか、いったんいじったものをもう1回プロセッシングするという形になっているが、それなら何にもしないで送っ てくれということになるだろう。

現にFOSTEXにSDを差した場合は、まったく素の情報を扱っているのだからまったく問題ない。パソコンから情報を受ける場合、欲しいのはASIOかWASAPI、つまりパソコン由来の雑音を拾わないということだけだ。

ところが、である。私にはASIOやWASAPIそのものが音をいじっているように思えてならない。もしそうなら、ファイルにふくまれる情報は再生ソフトでいじられ、ASIOやWASAPIでいじられ、USBからDACに来てまたいじられるということになる。

そうなると、「原音忠実再生」というのは一体何なんだということだ。

この辺のコンセプトがはっきりしないと、何か騙されたような気分だ。結局、原音にお化粧を施しているだけではないか。それがAさんのお化粧にBさんが手直しをして、さらにCさんがいじると、三人の価値観や美意識が違うと大変なことになりそうな気がする。

かくしてアナログ化された音源をさらにプリアンプ、メインアンプでいじる。それはかなり気持ちの悪い世界だろう。


フリーソフトでAudacityという“音いじり”ソフトがある。Youtubeのかなりひどい音源はそれで化粧して聞いている。ポップス系なら結構素人でも改善できる。

結局、再生ソフトなどはそれを瞬時にやることによって音質を改善するのではないか。

であれば、そのプロセッシングを時間をかけてやってもらって、出来上がったものを聞かせてもらうほうがリーゾナブルだと思う。その際はまったく余分なプロセッシングをしない再生ソフトで聞くことになる。できればそのプロセッシングのプログラムを独立したソフトにしてほしいものだ。


リャードフに続いてリャプノフ。この二人あまりにも似ている。
どこがどう似ているかは明日また検討してみようと思うが、両方ともすごい。
リャプノフはこれまで音源がなかったために知る機会がなかったのだが、この人のピアノは高音が実が詰まっている。40歳過ぎまでたいした曲を書いていなかったリャードフと比べ、リャプノフは若いときからしっかりした曲を書いている。有名なのが作品11の「12の超絶技巧練習曲」だが、その前後にもすばらしい曲がある。
まず「12の超絶技巧練習曲」について説明しておくと、これは実は3期に分けて作曲されており、はじめは1897年、完成は1905年となっている。8年がかりだ。59年の生まれだから38歳から46歳ということになる。こうなるともう別の曲集と考えたほうがいい。この練習曲集と時期的には重なりながら、作品8の夜想曲、作品9の二つのマズルカ、作品25のタランテラが作られている。いずれもすばらしい曲だ。
そして1908年に作られたピアノソナタはブラームスのピアノソナタを髣髴とさせる。というよりブラームスの上を行っている。ブラームスの強音は時として濁るが、リャプノフは透き通っている。ただブラームスは若いときのこの方向を捨てている(基本的には)ので、単純に比較はできないが。
この人も寡作で、遅咲きの桜である。最高作といわれる作品46の舟歌は52歳のときの作品だ。50を過ぎてからむしろ油が乗ってくる。56歳の時のバイオリン協奏曲は信じられないほどの瑞々しさをたたえている。ただ古いといえばあまりに古めかしい。この辺は近代音楽に果敢に(恐る恐る?)アプローチしたリャードフと違うところである。
58歳でロシア革命が勃発し、何年か後にはフランスに亡命し、まもなくパリに客死していく。
リャードフと同じく、もっと聞かれてよい作曲家である。

すみません。シラフで聴いてみると、ソナタの後はドンづまっています。斉藤祐樹投手みたいです。この人はここで終わってしまったようです。
基本的にメロディーメーカーではないのですが、ロシア民謡を採集しているうちにそれも枯渇してしまったようです。初期の曲の歯切れの良さも失われてゆきます。
借り物のロシア民謡のメロディーで変奏曲を作るのですが、やはり自発的に内在するメロディーがないと曲が進んでいかないのです。リストと似ていますね。
でも超絶技巧練習曲からピアノソナタにかけては間違いなく一流だと思います。

私の考えるファイル再生システムはSDカード中心である。

目下は東芝のCanvioという2テラの外付けハードディスクに音源を突っ込んでいる。ヨドバシのワゴンセールで1万数千円で買ったものだ。

音楽ファイルは約2万、総計で200ギガくらいになる。この中からまとめ聞きしたいものをSDカードに落として、場合によってはメモリースティックに入れて聞いている。パソコンで聞く時はFLACファイルで、差込口があるラジオならMP3にして聞く。Fostex のDACはWAVしか受け付けないからWAVに戻す。

2ギガもあれば十分と思って、800円で買ったのだが、会計を済ませてからふいと横を見たらワゴンに8ギガのSDが500円で売っていた。

8ギガあれば、同じ音源をWAV,MP3,AAC,FLACの4種類の形で収納できるからユニバーサルである。

前の記事でも書いたが、FOSTEXというDACにはSDの差込口があって、そこにWAVファイルを突っ込めば、パソコンなしで再生してくれる。しかしどういうわけか同じWAVファイルなのに読まないものがある。フォルダーをまたいで再生できることになっているが、実際には同じフォルダー内をぐるぐる回りするばかりである。本体が手の届くところにあるのに、リモコンでないと操作できない。とにかく、あまりにもリモコンがちゃちである。

しかしそのコンセプトは魅力的だ。どうせならソニーにはこの線を狙ってほしかった。

SDの差込みが4つくらいあって、ディスプレーが今の縦横2倍づつくらいあって、本体にボタンやダイヤルが10個くらいついていてもらうと、年寄りにも操作しやすい。ついでにUSBかワイヤレス接続のキーボードがついていると、なおさらよいのだが。

音源はSDカードからとればよいのだから、HDDははずして100ギガくらいのSSDとする。どうしてもほしければHDはUSBで外付けHDに送ればよい。

どうだ、だいぶイメージが見えてきたぞ。



ソニーのHDDオーディオプレーヤー とても手が出ないが

パソコンのほうはあきらめて、オーディオの売り場に向かった。

思わず釘付けになったのが、ソニーのHDDオーディオプレーヤー。HAP-Z1ESという。

希望小売価格21万円! 飲んだ勢いならともかく、とてもシラフで手が出る価格ではない。

とにかくチラシはただだから持ち帰る。

そそられるところはたくさんある。しかしいろいろ考えているうちに、そのコンセプトに疑問がわき始めた。

1.DSD,ハイレゾ対応。これは当たり前だ。「DSDはソニーが開発した技術だから優位だ。当然(?)、ハイレゾPCMも悪いわけがない」てなことを謳っている。

2.PCを介在しないから高速。ただしパソコンだからといって低速でいらいらした覚えはない。そこで持ち出したのが高性能“吸い取り”ソフト。これを使うとパソコン内の音楽データを片っ端から吸い取ってくれるらしい。なんとなつかしのMDファイルも拾ってくれるそうだ。

振り返れば、MDとパソコンの連結をかたくなに拒否したのがソニーの没落の元。あれだけたくさんいたMDフアンを自ら蹴散らかした。

しかし今さらだろう。私もMD音源を取り込みたいばかりに、何とか言う再生機を買ったが、結局タグ付けが面倒なままに挫折した。

今回も一番問題となるのが取り込んだファイルの整理、タグ付け機能であろう。それをパソコンにゆだね続けるのであれば、ただの再生機でしかない。それにしては20万円は高すぎる。

と、ここまでは20万円の追加投資のメリットはほとんどゼロ。


結局コンセプトが煮詰まっていないのである。

致命的欠陥を上げておこう。

1.20万円もする高級再生装置の筐体内にハードディスクという回り物と冷却装置(おそらくは空冷)という雑音・振動発生装置を突っ込む愚策。たんなる記憶媒体であれば文句なしSSDでしょう。
私の貧弱なパソコンでも、再生ソフトをメモリー(仮想RAM)において、SDに音源ファイルを置けば、音質はそれだけで間違いなく向上する。

2.利用者の手持ちの再生装置(プリ・メイン・アンプ)を無駄にする愚策。再生装置であることを売りにするなら、再生装置らしく身辺を整えて買い替え需要に期待すべきだろう。

3.高級DACであることを売りにするのなら、アナログ部分は切り離すべきだろう。DACとしての高性能(なにせソニーですから)に期待する顧客は少なくないだろうと思う。

4.たしかに既存DACの欠陥はディスプレイの貧弱さにある。カラー写真まで映る“大型”画面は魅力である。しかし、それなら、どうして、せめて10インチくらいの画面にしてくれないのか。
聞く側としてはもっと詳細なタグ情報(英語と日本語で)を見たいし、ファイルのツリー構造も見たいのだ。富裕層狙いなのか、いかにもあざとく中途半端である。

5.1テラといえばFLACファイルで、CD数千枚になる。ただ突っ込んだだけではごみ屋敷同然だ。整理・整頓能力があっての貯蔵容量だ。
整理・整頓能力とはリネーム、削除などのファイル操作、フォルダーの作成・統合・分離などのフォルダー操作、タグ情報の取得、フォルダー間の移動などである。
しかしこの問題に関してはまったく無関心である。

結局思い悩んだ末に、パソコンを修理に出した。見積もりで6万円と脅された。明らかに買い換えろという姿勢だ。

とにかく正規の見積もりを聞いた上で判断することで、機械は置いてきた。見積もりだけで6千円はかかるという。ハードディスクが壊れたわけではなく、冷却ファンがだめになっただけだから、どう考えてもねじ回し一本で済む作業だ。ひどいものだ。

ついでに内蔵CDの交換も頼んだら、こちらも6万円という。別に不自由しているわけではなく外付けのCDプレーヤーでちゃんとやれているので、即座に断った。

考えてみると、「パソコンて何なんだ」と思ってしまう。CPUさえあればほかに何にもいらないんじゃないか。後は全部外付けで間に合ってしまう。

ハードディスクは2テラの外付けが2万円以下になっている。SDも100ギガで1万円ちょっとだ。もう“まわりもの”の時代は終わった。CDとかDVDはそもそも過去の遺物だ。

後はディスプレイとキーボードのみだが、これも単体で買えばせいぜい数万円のものだ。とすればパソコンはどうしてこんなに高いのか。

買い替えも考慮に入れていたからパソコン売り場に回ってみた。もうそろそろ5年になるから今までなら断然買い替え、なのだが、新製品には驚くほどに魅力がない。

当然、ie7以外の機種など姿を消していると思いきや、それ以下のCPUが平気で顔を利かせている。SSD内蔵品(ハードディスクとのハイブリッド)も数えるほどだ。ie7とSSDの組み合わせなら20万円を超える値段がついている。

いったいこの値段は何だ。

1942年

1月 連合国共同宣言調印。これに基づき米国政府内に「戦後対外政策に関する諮問委員会」が発足。

11月 国務省特別調査部極東班で日本戦後処理案の研究開始。

44年

1月 国務省内に戦後計画委員会(PWC)設置。

11月 国務・陸・海軍三省調整委員会(SWNCC)が第1回会合。

45年

2月 三省調整委員会極東小委員会(SFE)第1回会合。

6月5日 トルーマン、極東諮問委員会(FEAC)付託条項を承認。

6月11日 三省調整委員会の作業グループが「初期対日方針に関する原案」を作成。

8月18日 トルーマン、「日本の敗北後における本土占領軍の国家的構成」を承認。日本の分割占領を回避する。

8月23日 米政府、英の対日管理理事会設置要求を拒否。単独占領の意向を明らかにする。

8月29日 陸軍省、「初期対日方針」をマッカーサーに通達。

8月31日 国務・陸・海軍長官、修正「初期対日方針」を承認。

9月6日 トルーマン、「初期対日方針」を承認。最高司令官の権限に関してマッカーサーに通達。(マッカーサーの“越権”への警告か?)

9月9日 マッカーサー、日本管理方針に関する声明。間接統治をとること、自由主義を助長することなど。

9月13日 マッカーサー、近衛元首相の訪問を受ける。

9月15日 マッカーサー、東久邇宮の訪問を受ける。これらの訪問を通じてマッカーサーが次第に政権中枢を直接掌握するようになる。

9月16日 マッカーサー詣でに反対する重光外相は罷免される。後任の吉田外相がマッカーサーにとりいって行く。

9月22日 国務省、「初期対日方針」を発表。マッカーサーへの牽制か。

9月29日 天皇のマッカーサー訪問時の写真が各紙に掲載される。

9月29日 GHQ、戦時諸法令の廃止を指令。

10.02 GHQ内に総司令部(SCAP)設置。民政局など幕僚部9局が新たに設けられる。

10.04 政治顧問アチソン、国務省に対し、憲法改正問題に関する指示を要請する。

10.08 アチソン、近衛と接触し憲法改正の柱を示唆する。

10.17 アチソン、国務省より、憲法改正の基本的事項のアウトラインにつき訓令を受領。

10.21 近衛、外国マスコミに対し、GHQへの憲法草案提出および天皇の退位問題に言及。GHQの不興を買う。

国会図書館の「日本国憲法の誕生」詳細年表より


前の記事が未完になってしまったのは、布告第1号をめぐる事実経過が曖昧なためである。

とくに布告第1号が発表されたのか、未発表・未執行のまま終わってしまったのかという問題。マッカーサー、重光葵の関係をめぐる事実が曖昧なので、少し調べることにした。


ネットで当たると、まずウィキペディアの「三布告」の項目が上がってくる。

内容を少し紹介しておく。

最初の定義のところから、記述があいまいだが、

1945年(昭和20年)9月2日に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から出された日本占領政策の最初の布告である。日本国民に直接布告される予定であったもので、GHQによって、占領下の日本に軍政を直接敷くことを目的とした…

までは良いのだが、そのあとが良く分からない。混乱したことだけは間違いなさそう。

分からないままに本文に進む。ここも事実がとりとめなく記載されており、時系列で整理しながら進むことにする。


1944年12月 それまで関係官庁で検討されていた日本占領方針が、国務・陸軍・海軍調整委員会(SWNCC)で統合されることになる。

5.07 太平洋戦線の陸軍部隊の総司令官ダグラス・マッカーサーが、将来の日本における占領統治の最高責任者に決定する。

8.07 「ブラックリスト作戦」案が最終決定される。「日本の突然の崩壊や降伏に備え」たものとされる。(誰によって?どのレベルで?)

しかし終戦間際の時点で、アメリカ政府自体が占領方針に関しては確定していなかった。

終戦からマッカーサー到着までの交渉。

日本政府の渉外委員会(有末精三委員長)が米国との交渉にあたった。大蔵省は委員会を通じて日本円の引き続く使用を要請した。

というところまでが、混乱の背景の説明。以後は9月2日以降の経過。

9月2日、降伏文書調印式。

午後4時過ぎ リチャード・マーシャル副参謀長(占領政策担当)、終戦連絡事務局横浜事務局に対し、1.連合国軍がいずれは東京に進駐すること、2.翌日午前10時に「三布告」を発表すること、を通告。(この時点でGHQは横浜にあった)

深夜 横浜事務局からの報告を受けた内閣は、岡崎勝男外務官を急派。マーシャルとの交渉に入る。交渉の結果、とりあえず3日の「三布告」発表は延期となる。(マーシャルではなく、その上級にあたるサザランド参謀長という文献もある)

9月3日

午前10時半 重光外相がGHQに入りマッカーサーとの会談を開始する。会談の内容説明は省略。結論としては、日本政府の意向を受け布告発令は中止され、軍政の施行も中止された。


つまり、「三布告」は反故にされたということであり、それはマッカーサーの判断(独断的)であったということだ。

「布告の真意」のくだりは、「解釈」が目立つため省略。

「三布告」がどのレベルで作成されたもので、マッカーサーが反故にして良い性格のものであったのか、この辺が分からない。もう少し遡って検討しなければならないだろう。

そもそも、「三布告」のセットが存在したのかどうかもはっきりしない。他の文献では布告第1号とされ、その内容は軍政施行のみとされている。

以上の記述はおおうね下記2著に依拠しているもののようである。

河原匡喜 『マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間』 光人社NF文庫、2005年

増田弘 『マッカーサー フィリピン統治から日本占領へ』 中公新書、2009年


年表を作成してみての感想については、以前にも書きましたが、今回の補遺作業を通じて感じたのは、

1.終戦直後の改革が旧大日本帝国政府の官僚との激しい闘争過程であり、それを遂行したのはアメリカの本国政府だということ。まさに右翼勢力がいうとおり、改革は押し付けられたのです。

2.そこには人民も民衆もほとんど登場しません。当初はほとんど茫然自失状態であったのではないでしょうか。しかし翌年あたりから民衆の声が上がるようになりました。それらは改革を熱狂的に支持するものでした。

3.マッカーサーは本国政府の意向を薄めていた。

この問題については少し詳しく触れておきたいと思います。


A)軍政を中止したのはマッカーサー

マッカーサーは当初から宥和的な態度を強く押し出しています。全土を軍政下に置くという初期方針を旧政府機構の存続に切り替えたのはマッカーサーの判断です。

9月2日に東京湾のミズーリ号艦上で降伏協定の調印式が行われました。これにあわせ占領軍は歴史的な指令第1号を発します。この指令の核心は日本全土(沖縄・樺太を除く)を軍政下に置くということです。しかしこのことは翌日あっさりと覆されました。重光外相の要請を受けたマッカーサーが判断したといわれます。重光葵というのは記録映画でシルクハットをかぶった足の不自由な人です。


現 場で対応するために場面によっては柔軟な対応が迫られるというのはよくあることです。しかし相手はただの官僚ではありません。侵略戦争を遂行し中国人など 数百万の人を死に追いやり、国民を徹底的に弾圧し、言論を封殺し、挙句の果てに兵士、民間人を犠牲にした戦争責任者であり、要するに人民の敵だったわけで す。マッカーサーがそこをしっかり抑えていたか、たぶんに疑問が残ります。

この時点で、本国政府から直接の異議はありませんでした。マッカーサーの基本的任務は日本軍の武装解除と全土の制圧にあったわけなので、それが最も犠牲少なく迅速にできる方法を選択するのは現場の裁量です。

しかし、そのときマッカーサーの真意について本国政府が懸念を抱いたとしても不思議ではありません。

マッ カーサーをできるだけ善意に解釈してみましょう。彼は絶対的な悪の主役は軍部だと考えました。政・財・官の勢力は決して無垢の人々ではないが、改心させる ことはできると考えました。だから彼らを軍部と引き離し自立させることによって、民主化は到達可能と考えたのではないでしょうか。

この基本戦略はドイツやイタリアには通用するものだったかもしれません。しかし日本はヨーロッパの国とは成り立ちが異なっていました。この国は日清・日露戦争以来ずっと侵略戦争を戦い続けてきた国なのです。いわば戦争で飯を食ってきた骨がらみの戦争国家でした。

だ から、もうひとつ根っこまで迫って改革しない限り、同じような国家がまた育ってきます。本国政府の特に知日派は、そこをはっきりとつかんでいたのだろうと 思います。その根っこというのは封建的地主制度、独占資本主義制度です。これらが国家制度と癒着し、その接着剤として天皇が君臨するという絶対主義政治体 制です。

B)天皇、近衛元首相との会見もマッカーサーの判断

マッカーサーは旧支配層との接触を次々に拡大していきます。9月末には天皇との会見、さらに10月4日には近衛元首相を呼び、憲法改正の作業を要請するに至ります。さすがに本国ではマッカーサーの基本方針からの逸脱を批判する声が強まりました。

こ れらの批判をかわすためにマッカーサーは天皇との会見における例の写真を大々的に広めたのではないでしょうか。この写真の絵柄は大変矛盾したものを含んで います。まず第一印象としてはマッカーサーの大変失礼な態度です。どこの国でも一国の元首と会うのにこのようなぶしつけな態度を取ることはありえません。 しかもわざわざこの一枚を選んで発表したのは、マッカーサーの本国向けのジェスチャーと見るべきではないでしょうか。

大事なことはこの写真ではなく、マッカーサーが日本の元首として天皇を遇したということです。「マッカーサーの逸脱きわまれり」と米政府が判断してもおかしくはないと思います。

C)暗黒政治の継続がアメリカ国内に露見した

そこへ持ってきて、一人の政治犯の獄死事件が発生しました。リベラルな傾向を持つ哲学者三木清です。三木清がなくなったのは9月末でしたが、当初はそれほど騒がれたわけではありません。

しかしこの報せを受けたGHQでは、日本政府への強い不信が起こりました。

特に山崎巌内相の発言は唖然とするものでした。

思想取り締まりの秘密警察は現在なほ活動を続けていおり、反皇室的宣伝をおこなふ共産主義 者は容赦なく逮捕する。また政府転覆を企むものの逮捕も続ける。共産党員である者は拘禁を続ける。政府形体の変革とくに天皇制廃止を主張するものはすべて 共産主義者であると考へ、治安維持法によって逮捕される。

これが国内向け発言ならともかく、なんとアメリカ軍機関紙「星条旗」紙に掲載されたのです。GHQはこの発言を聞いて頭に血が上りました。「日本政府は占領軍をなめているのではないか」ということでしょう。

GHQ には多くの米国務省系のスタッフが参加していました。そのボス格だったのがジョージ・アチソンです。(このアチソンは後に国務長官となったディーン・アチ ソンとは別人で、戦前からの中国通外交官)。アチソンは9月7日にGHQ政治顧問として赴任しました。バーンズ国務長官はマッカーサー監視の役割を期待し たとされています。(未完)



ついにハードディスクが壊れたようだ。
2010年の6月に買ったものだからもう5年半になる。壊れておかしくない頃かも知れない。
価格ドットコムで調べたが、やはりパソコンの世界は沈滞傾向のようだ。
いまだにCPUはCore i7、記憶装置は多少大きくなっているが、今は外付けがどんどん進化しているから、スペックとしてはほとんど進化していない。それだけではない。値段も5,6年前とほとんど変わらない。メーカーはただのんべんだらりと生産しているだけだ。買い換えるだけのインセンティブが何もない。
今のメインはオーディオだから、ハードディスクそのものが目触り、耳障りになっている。これをSSDにすれば処理スピードは格段に上昇するだろうし、何よりも静かだ。
ということで、SSD内臓のパソコンを探すことにした。
もっともこれからはDACがオーディオの主流となるかもしれない。フォステックスのHP_A8にはSDカードの差込口があって、ここにファイルを入れればまったくパソコンなしで音が聞ける。
今のところ「ただつけて見ました」というだけで、使い勝手はひどく悪い。しかし原理的にはそのほうが正しいのかとも思う。
内蔵する再生ソフトが取り替え可能であれば、パソコンの再生ソフトを移植すればよい。さらに言えば、この貧弱なリモコンと、貧弱なディスプレイをスマートフォン並みの機能にアップさせれば再生装置として完成である。
今のところこの市場はオーディオ関連の中小企業のしのぎを削る場面となっているが、大手企業(たとえばソニー)が参入すれば事態はずいぶん変わってくるのではないか。最も大手にそれだけの力が残っているとすればの話ではあるが。
目下のところ、ハードディスクをはずしてそこにSSDを収納できないかを検討中である。いろいろなレポートを読むと、なんとなくやさしそうにも、難しそうにも見える。
問題はハードディスクのところにSSDがサイズ的にうまくはまってくれるかどうかということと、ハードディスクの中身がうまく移植できて、ウィンドウズが走ってくれるかどうかということだ。
もし動かなかったとしたらこのパソコンはお釈迦になる。「自己責任」だ。ただデータは外付けハードディスクに落としてあるし、知的財産の毀損はない。あるのは数万円の失費のリスクのみだ。
やってみるか。

9.02 指令第1号。日本軍部隊の敵対行為の即時停止。無条件降伏の実施並びに完全な武装解除、軍事工業解体、日本全土への軍政施行を柱とする。

9.03 米国日本全土での軍政施行計画を中止。重光外相の要請を受けたマッカーサーが判断したとされる。

9.03 GHQ、指令第2号発令。在外日本軍の迅速な秩序ある復員を行うよう要求。

9.08 連合軍が東京への駐留を開始。

9.10 マッカーサー、間接統治に基づき日本を管理すると発表。自由主義の助長を促す。

9.10 GHQ、大本営の廃止に関するメモ。

9.11 GHQ、東条英機ら39名の戦犯容疑者の逮捕を指令。東条は自殺を図るが失敗。

9.16 GHQ、新聞及び通信社に対する統制を廃止する。

9.20 連合軍倍賞委員会のポーレー米代表、日本が現物での賠償を行うよう主張。

9.20 GHQ、朝鮮向け石炭輸出を指令。戦後最初の対外輸出となる。

9.21 米政府、マッカーサーに対し財閥の解体方針を指令。

9.21 GHQ、プレスコードを指令。

9.22 GHQ、初期対日方針を発表。

9.22 GHQ、指令第3号を発令。①日本政府に必需品の公正な分配を確保するため厳重な割当制度を実施するよう指示。②一切の必需品生産、その生産に必要な商品を最大限生産する。③武器・弾薬・航空機などの生産禁止。④GHQの認めたものを除く輸出入を禁止。

9.22 GHQ、財政金融情報の全面的提出を指令。GHQによる全面的把握を図る。

9.24 GHQ、賃金統制の維持、物資の公正配給、輸出入許可制を指示。

9.26 GHQ、経済統制の必要を強調。日本政府はこれを受け軍需工場の民需転換処理を開始。

10.01 人口調査実施。樺太・沖縄を除く内地総人口は7200万人であった。

10.03 GHQ、外国向け金融・産業・商業上の通信を禁止。

10.03 GHQ、生活必需品のうち緊急物資以外のものの価格統制・配給の撤廃方針を表明。

10.04 GHQ、政治的・公民的及び宗教的自由の制限の除去に関する覚書を発表。

10.04 厚生省、推計失業者477万人と発表。

10.06 特別高等警察制度が廃止される。

10.09 GHQ、必需物資の輸入に関する覚書を発表。

10.11 マッカーサーが幣原首相と会談。人権確保のための5大改革をつきつける。

10.15 GHQ、クレーマー経済科学局長が財閥解体の目的に関する見解を発表。

全体主義的独占力を持つ経済勢力の破砕により、日本の軍国主義的再建の基礎を喪失させ、財閥が戦時中に得た巨額の不当利得を吐出させて、戦争が何人にとっても有利な事業ではないことを感銘させる。
実施にあたっては日本政府に拠る自発的改組を期待する。

10.15 治安維持法・治安警察法が廃止される。

10.18 GHQ、輸出入品の全面的許可制を指令。

10.20 GHQ、主要金融機関または企業の解体・清算に関する覚書。

財閥資産の恣意的処分を防止し、解体・清算を統制する。
このため、三井・三菱など15財閥に、その事業内容・資産構成などの報告書を提出するよう指令。

 10.25 GHQ、外交及び領事機関の財産及び文書の移管方に関する覚書を発す。外交機能を全面的に停止し、全外交機関の財産引き渡しを指令する。

10.26 日本政府、GHQni食糧450万トンの輸入を要請。

10.27 トルーマン大統領が外交政策12項目を発表。①米国の安全保障体制の確立、②国際平和機構の必要、③西欧民主主義の擁護と育成、④民主主義の脅威の排除、5自由通商主義の回復を柱とする。

10.30 ワシントンで極東諮問委員会開催。ソ連代表は不参加。

11.01 「日本占領及び管理のための連合国軍最高司令官」(すなわちマッカーサー)に対する降伏後における初期の基本的指令。「初期対日方針」(9月)の民主化措置の再確認。また最高司令官は日本の経済的復興・強化、生活水準の維持に対して何らの責任もおわないことが明示される。

 11.02 GHQ、15財閥の資産凍結を指令。財閥解体の処理方針決定までに資本構成をいじられることを防ぐ措置。

11.03 三菱財閥の首脳が総退陣。

11.06 GHQ、持株会社の解体に関する覚書を発表。日本政府の立案した三井、三菱、住友、安田の4大財閥の解体計画を承認。即日実行を指示する。

11.08 ポーレーを議長とする米賠償委員会、日本国内の資産調査を開始。日本の平和的経済に必要な物を確保しつつ、経済の非軍事化を急ぐ。

11.14 ソ連、日本管理機構問題に拒否権を主張。

11.17 GHQ、荒木貞夫、白鳥敏夫ら10名の逮捕を命じる覚書。

11.18 GHQ、商業航空及び民間航空の廃止に関する覚書。

11.24 GHQ、食糧・綿花・石油、塩の政府輸入を許可。

11.30 GHQ、日銀券発行に許可制を導入。

12.02 GHQ、広田弘毅ほか8名に戦争犯罪人容疑で逮捕命令。

12.02 GHQ、賃金・物価の統制を維持するよう指令。

12.02 臨時国民登録を施行。失業者数は319万人と発表。

12.06 GHQ、近衛文麿以下9名の逮捕を命令。

12.06 GHQ、石炭増産に関する覚書を発表。石炭危機に対し警告を発す。

12.07 米賠償委員会、トルーマンあての勧告。工業施設の撤去、移動案を答申。

12.08 松本烝治国務相、憲法改正について①天皇統治権の維持、②議会の権限拡大、国務大臣の責任強化、国民の自由・権利強化の4原則を発表。

12.08 GHQ、制限会社の規制に関する覚書を発表。GHQの指定した制限会社において一切の資産処分を禁止する。(制限会社とは18財閥の本社及び300以上の子会社を指す)

12.09 GHQ、農地改革に関する覚書。今後の農地改革の方向を明示し、農民解放及び農地改革案を提出するよう政府に指令。また農業協同組合の奨励策を作成するよう指令。

12.16 GHQ、政府に予算編成を指令。GHQの許可を得たうえで国会に回すよう指示。

12.16 近衛文麿が服毒自殺。

12.17 婦人参政権を認めた新選挙法が成立。

12.18 農地調整法改正法案が成立。日本政府が独自に作成したもので、第一次農地改革法と呼ばれる。自作農の創設、小作料の金納化、農地委員会の刷新などをふくむ。地主制度の根幹には触れず。

12.19 マッカーサーが管下部隊に訓令。連合軍の日本占領の基本目的を再確認したもの。①天皇と日本政府は国民統御の一手段、②日本の過去の誤謬を是正し、「世界において尊敬される地位を回復する」ためにその機会を付与する。

12.21 GHQ、占領政策に関し声明。日本民主化指令は一段落した。今後は教育と指導を主たる業務となすと表明。

12.21 米商務省、対日民間貿易の禁止期間をさらに6ヶ月延長すると発表。

12.22 労働組合法が公布される。(施行は翌年3月)

12.27 モスクワで米英ソ三国外相会議。極東諮問委員会に代わり極東委員会対日理事会を設置することが決まる。これは連合国最高司令官の諮問機関とされる。

年表作成に当たり、内山書店の「内山完造・内山書店略年譜」を参考にさせていただきました。


1885年(明治18) 内山、岡山県に生まれる。高等小学校を中退、京都・大阪で丁稚奉公を勤める。以後27歳まで商家の店員として働く。

1913年(大正2) キリスト教に入信し、牧師の紹介で「大学目薬」の営業・販売員として上海に渡る(28歳)。

1917年(大正6) 妻の内山美喜、キリスト教関係の本を日本から輸入するため、自宅の庭先に小店を開く。

1920年(大正9) 上海YMCAの夏期講座を開設。世話役となる。内地から毎年知名人を招く。

1921年(大正10) 中国共産党が上海で第1回党大会を開催。この時の党員数は全国で50名余。

1924年(大正13) 妻の始めた書店を拡大し、自宅の向かいに「内山書店」を開く。書店は文化人のサロンとして日中文化人交流の窓口となる。「文芸漫談会」が生まれ機関誌『万華鏡』を発行する。

1925年(大正14) 上海でゼネスト。日系紡績工場で日本人職員が中国人労働者を射殺。上海総工会の呼びかけたゼネストに20万人が参加。都市機能は1ヶ月間麻痺状態に陥る。

1926年(昭和1年) この年、内山は41歳となる。(非常に数えやすい)

1927年(昭和2) 共産党の指導する総工会が蜂起に成功。軍閥政権を追い出す。この後上海に入った蒋介石軍は「上海特別市臨時政府」を壊滅に追い込む。

1927年(昭和2) 広東から移った魯迅が内山書店を訪問。10年後の魯迅の死まで交流が続く。

魯迅は「蒋介石の乱暴にとても堪えられないで脱出して」来た。魯迅は上海で「師弟として同行しておった許広平女史と遂に結婚」した。
魯迅さんは私のところへ、ほとんど毎日来てました。…午前中勉強して、大体二時か三時ごろ…ぼくのところへ寄る。しばらく漫談して帰っていくわけです。…「魯迅さん」(青空文庫)より

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魯迅と内山完造(1933年夏)

1928年(昭和3) 内山、日本亡命を図る郭沫若を援助。

1928年 蒋介石の国民党軍が北京の軍閥政府を倒し中国統一を達成。日本は山東出兵、張作霖爆殺などで干渉。

この後、上海は国民党政府の事実上の首都として驚異的な発展を遂げる。人口は300万人(東京・大阪は200万人)、消費電力も東京を上回る。バンドには高層建築が林立。女性は摩登(モダン)な旗袍(チャイナドレス)で着飾る。活字、映画文化などが花開き、繁華街は電飾で不夜城と化した。(石川)

1929年 施高塔(スコット)路(後に「北四川路と改称)底に「内山書店」を移転する。

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北四川路
 1930年代上海の四川路

1930年(昭和5) 上海で「左翼作家連盟」(左聯)が結成される。魯迅も中心幹部として非妥協的な論争を展開。

1930年(昭和5) 左翼の進出を恐れる蒋介石軍は上海で活動家弾圧を本格化する。上海市内の共産党組織はほぼ壊滅。

1931年(昭和6) 国民党特務による左連作家6人の虐殺事件が発生。内山は危険の迫った魯迅を庇護(内山は魯迅を四度匿ったとされる

魯迅に逮捕状が出たので、ぼくは心配して…無理から匿れさせた。花園荘という…アパート…の小使部屋をあけて魯迅親子三人をかくしたのです(「魯迅さん」)

1931年(昭和6) 満州事変勃発。日本国内に関東軍支持の大合唱。中国では日本非難の大合唱。

1931年 宋慶齢、魯迅、蔡元培らが中国民権保障同盟(以下民権同盟)を結成。愛国民主抗日と国共合作支持の立場を鮮明にする。国民党の特務統治に反対し政治犯の釈放や言論の自由を求める。

1932年(昭和7) 第1次上海事変勃発。日本人僧侶への襲撃事件を口実にして、日本軍陸戦隊が上海付近を軍事占領する。関東軍の板垣大佐が起こした謀略事件。

1932年 内山は魯迅親子・周建人夫妻を庇護する。この頃から日中双方の側から"スパイ"呼ばわりされるようになる。

内山は魯迅を日本文士に売り込むことで、身の安全を確保しようとしたと思われる。内山の紹介で魯迅と面識をえた日本人は、長谷川如是閑、金子光晴、室伏高信、鈴木大拙、横光利一、林芙美子、武者小路実篤、岩波茂雄ら多数にのぼる。

1933年(昭和8) 民権同盟幹部の楊杏仏、蒋介石の私兵集団により暗殺される。同盟は活動停止に追い込まれる。

1934年(昭和9) 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。

魯迅と完造
 在千爱里避难与内山完造等时合影 1934年8月29日摄于上海内山完造寓所前

1935年(昭和10) 内山、最初の著書「生ける支那の姿」を発表。魯迅が序文を付す。

1935年(昭和10) 梅津・何応欣協定。国民党は政府機関・軍の華北撤退に合意。

1936年(昭和11) 西安事件。張学良が蒋介石を監禁する。

1936年(昭和11) モスクワの共産党指導部、中国左翼作家連盟の解散と中国文芸家協会の結成を指示。これに対し上海の魯迅らは「中国文芸工作者宣言」を発し、「民族革命戦争の大衆文学」のスローガンを提起。上海文化界は激しい論戦に巻き込まれる。

1936年(昭和11) 魯迅が死去。宋慶齢、蔡元培、スメドレーらとともに内山完造も委員に選ばる。埋葬式で、完造は追悼演説を行なう(式辞は蔡元培
大変な苦痛で、籐の寝椅子にもたれて、それでもまだ煙草をもっている。呼吸をみていると吐くばかりで吸う力がない。
石井政吉というドクターが…すぐに見に行ってくれた。そして酸素吸入をし…ながら、十九日の夜明けまでもって、亡くなったのです。(これは心臓喘息であろう)

1936年 上海の文芸界は、魯迅の死を機に「団結と自由の宣言」を出し、統一を実現する。

1937年(昭和12) 盧溝橋事件、第二次上海事変が勃発。南京大虐殺事件が発生。国民政府は武漢に移る。蒋介石、第二次国共合作に踏み切る。日本に避難した内山は東京で4日間の拘束を受ける。

1938年(昭和13) 日本軍、3ヶ月にわたる徐州作戦。武漢三鎮占領。共同租界がある上海に難民が殺到する。

1938年(昭和13) 日中全面戦争下にもかかわらず内山書店は発展、上海の各所に支店を開く。

虹口(ホンキュー): 黄浦江沿いにある上海大厦(旧ブロードウェイマンション)から北四川路沿いに北に上って魯迅公園(旧虹口公園)の辺りまでの一帯を指す。一時は10万人を超える日本人が住んでいたという。

1939年 中国軍、南支で春季反撃作戦。戦線は膠着状態に入る。アメリカは日米通商航海条約を破棄。中国支援と対日経済制裁を強める。

1939年(昭和14) ドイツ、対ソ不可侵条約締結。ポーランドに侵攻。英仏、ドイツに宣戦。

1940年(昭和15) 八路軍が、山西から河北にかけて一斉攻撃。日本軍は報復として三光作戦を展開。住民を大量虐殺。

1941年(昭和16) 太平洋戦争勃発。直後に魯迅未亡人許広平女史が上海日本憲兵隊本部に連行される。内山は救出に尽力。

1945年(昭和20) 日本の敗戦、内山書店は接収される。(60歳)

1947年(昭和22) 内山は中国永住を決断。自宅で古本屋を開業。まもなく国民党により強制帰国命令。

1948年(昭和23) 1年半にわたり、北海道から九州までの"中国漫談全国行脚"を行なう。

1949年(昭和24) 中華人民共和国が成立。

1950年 新たに設立された日中友好協会の理事長に就任(会長は松本治一郎)

1951年(昭和26) サンフランシスコ条約締結。台湾政府を正当と認めたことから日中関係は戦争未終結・国交未回復が続く。内山は日中友好協会理事長として単独講和反対運動を推進。

1953年(昭和28) 在華邦人引揚げ打合せ代表団の一員として渡中。共同コミュニケ調印により、日本人3万の帰国の道が開かれる。

1959年 地方巡回講演の激務がたたり病床に伏す。北京へ病気療養に赴くが、レセプションの最中に脳溢血のため死亡。外国人に対しては異例の国葬級の儀式が、中国対外文化協会によって行われた(吉備路文学館


経過を見れば分かるように、内山完造は明治の気骨を背負った「本屋のおやじ」であり、例えは悪いかもしれないが、「一代の侠客」だ。基本は「窮鳥懐に入らずんば」の世界だ。だから魯迅は心許したのだろう。
キリスト教がバックボーンにあるとはいえ、あまり思想的なものを持ち合わせているとは思えない。日中友好協会の理事長を勤めるには少々荷が勝ちすぎていると思う。
そのことを考えると、その任務をあえて引き受けて、60すぎの老体に鞭打って全国を行脚する姿には頭がさがる。そこには何かしら柳原白蓮の姿と重なるところがある。
…なにか足りないなと思ったら、上海のミニ状況が足りないようだ。
明日その辺りを補充しようと思う。

やっと買ったCDを一通り聴き終えたので、この間たまった仕事に再着手する。

と言っても別に義務というわけではなく、あちこちに飛んで行くのが悪い癖だ。

基本的には飽きっぽい性格なので、せいぜい2,3日で片付くような話題にばかり偏ってしまう。

今回もご多分に漏れず、日中友好協会のパンフレットを読み始めたら、内山完造のことが気になり始めた。今回はじめて知ったのだが、内山は日中友好協会の初代理事長だったそうだ。

内山といえば、上海の内山書店の店主である。あのすべてが暗黒の時代に何か意味のある活動をしていた数少ない日本人の一人だ。

ということは初期の日中友好協会の活動には内山の“好み”が反映されている可能性がある。

全国レベルでの友好協会の結成が1950年10月、中華人民共和国の成立1周年記念日である。

それは朝鮮戦争がもっとも激しく戦われていた頃であり、日本共産党の活動が禁止され、新たな闘争の方向をめぐり大混乱に陥っていた時期である。

だから日中友好運動の北海道での展開は、3年後の53年と随分遅れる。しかも道段階での組織が遅れ、中央直属の形で小樽支部がまず結成される。(ほぼ同時期から札幌支部も活動していたと思われる)

その間、内山は北海道の組織結成を目指し、二度にわたり講演活動を展開している。講演会の回数は総計34ヶ所に及んでいる。ついで54年には大山郁夫夫妻が22ヶ所で講演している。3年間に56回も全土各地で講演すれば大抵の組織はできるでしょう。

もちろん組織も裏で動いたとは思うが、こういう無党派知識人が初期の日中友好運動を引っ張っていったことは念頭に置いておいて良いだろうと思う。

北海道の友好運動はほとんどが強制労働の犠牲者の供養だ。いわば祈り(贖罪をふくめて)の活動として友好運動はスタートしている。

最初の大掛かりな行事は「中国人俘虜殉難者慰霊」であった。これには東本願寺が全面的に動いている。

以上のことを念頭に置いたうえで、日中友好運動に至る内山完造の歩みを追ってみよう。

押し付けられるのが嫌だからといって、とんがる必要はない

最近はNHKのニュースは見ないようにしている。というより、NHKのニュースが始まると慌ててチャンネルを切り替えてしまう。

なぜか。安倍晋三の顔を見たくないからだ。押し付けがましいのに甘ったれた、あの声を聞きたくないからだ。

本当に生理的に受け付けないのだ。同じ世に生きて同じ空気を吸っているということが我慢できないのだ。

最初の頃はここまでひどくなかったが、最近は本当に過敏症になってしまったようだ。「虫酸が走る」というのだろう。

その安倍晋三におもねって、安倍の御用放送と化したNHKが日本の右転換を煽るのが許せないのだ。


ところで、こんな安倍首相の支持率が未だに50%近くあるのだという。

街を車で走っていると、安倍首相の顔をでかでかと掲げた自民党のポスターが目につく。安倍首相を本気で愛している人が世の中にはたくさんいるのだということが分かる。何か日本人が嫌いになりそうだ。


本当に世の中にはがっくり来るようなことがたくさんある。東京都知事選挙でも、あの石原慎太郎が最後まで圧倒的な支持を獲得し続けた。あれって一体何だったんだろう。

大阪では横山ノックが3選も4選もしたし、いまでも橋下が圧倒的に影響力を持っている。アメリカではトランプという金持ちのアホがアホであるがゆえに大方の人気を博している。

福島であれだけ苦労したのに、川内や高浜では再稼働を歓迎している。

一体何なのだ、この世の中は。


結局、見て見ぬふりの「事なかれ主義」なのだろう。

私も事なかれ主義においては人後に落ちるものではないが、日清・日露から50年続いた戦争の時代には戻りたくない。

せめてでも、「賛成する」とは言わない。「支持する」とは言わない。ましてや石原慎太郎や安倍晋三に清き一票を入れることは間違ってもない。なぜなら彼らは「横紙破り」だからだ。


「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、気持ちとしては同感するところがある。それは “お上への反抗” という側面も持つ。しかし安易にやってはいけないことだ。それを許容していくと社会が壊れてしまう。

「同感はしても歩道にとどまる」のが健全な理性だろう。


たとえその結果、少数派にとどまったとしてもだ。

ひょっとして、これが「立憲主義」なのかな?

川内に続いて高浜が再稼働(しかもプルサーマル!)、さらに伊方とどんどん進んでいく。

これらの動きで注目されるのは、再稼働がまったく無言のうちに進んで行っていることだ。

以前なら電力会社側が声高に電力の危機を騒いだものだったが、最近はまったく音無し。ある意味不気味な話だ。

福島の後、大企業側はNHKを動員して、電力が危ないと繰り返した。また電力料金が跳ね上がると脅した。

それが最近ではとんと聞かれないから、庶民の側では原発を再稼働する理由がさっぱりわからない。電力会社の都合としか受け取れないのだ。

福島以前、原発の宣伝は基本的には3本柱だった。安定供給、安全、安価という3つの「アン」である。

原発事故そのものが安全神話の崩壊を意味した。東大教授たちは大方の非難を浴び公の舞台から姿を消した。

さらに残る二つがひっくり返されていったのが福島以降の経過だ。とくに電力不足のキャンペーンは異常なものだった。

しかしこれはすでにクリアされた。もう「電気が足りなくなる」の嘘は通用しなくなった。それと同時に原発再開を前提に火発の再稼働を怠ってきた各電力会社も、火発へのシフトを開始した。

残る問題がコスト問題であった。

コスト問題というのは3つのフィクションの上に成り立っている。

ひとつは人命コスト、国土汚染コストなどのリスク対応コストが排除されたうえでコスト計算を行うというフィクションである。

ふたつ目は「核のゴミ」の廃棄・処理コストがゼロとして計算されるというフィクションである。

三つ目は電源開発などの名目による国税投下がコストから排除されるというフィクションである。これらは本来、電力会社がコストとして負担すべきものであった。

ただ、あえてそれらのフィクションを受け入れたうえで、攻撃的なコスト論争が行われ、液化ガスとの比較優位はほぼ否定された。

残された唯一の問題が、原油・天然ガス輸入増に伴う貿易赤字であったが、円安を上回る原油価格の低下により、この問題も自然解決してしまった。

つまり、電力会社には拠るべき再稼働の理由がなくなってしまったのである。


ネットを探してみると、経団連御用達の「ウェッジ」誌が再稼働推進論を打ち出している。

2015年08月18日(Tue)  川内原発の再稼働が必要な4つの理由  再稼働がもたらすリスクとベネフィット 

これを読みながら反論しようかと思ったが、読んでいるうちにアホらしくなったので止める。

一応リンクはかけておくので、目を通しておくほうが良いでしょう。


1月31日 日曜日 昼から日本中国友好協会 道連の新年会があって出席しました。

正直言って高齢者中心の集会で、69歳の私が若手代表みたいな感じで、なかなか辛いものがありました。そこで「60年史」をいただきまして、何か紹介して置かなければならないと思い、読ませていただいているところです。

日本の中国との友好運動は、当然の事ながら文革開始以前、文革から関係回復まで、回復以降の運動と3期に分かれます。そして真の困難はいままさにこの時期にやってきているといえます。というか、いまその存在意義が深刻に問われているのだろうと思います。

日本AALAも東アジアの平和の同盟作りを目指し署名活動に取り組んでおり、日中友好協会、日朝協会などと協力しながら人民レベルの友好連帯を促進すべく活動しようと考えています。おそらく今後はこういった枠組みで友好・連帯運動が発展していくのではないかと考えています。

その際、中国との友好関係についてはその特殊性を見ておかなくてはなりません。それは仁木町に立てられた碑文にもあるように、たんなる友好ではなく「不再戦友好」でなくてはならないからです。鑑みるに、文革期以降は事実上中国との友好関係は断絶していました。それにもかかわらず30年以上にわたり日中友好協会が活発な活動を続けてきたのは、まさに不再戦の活動のゆえです。

この教訓はきわめて貴重だと思います。それは東アジアの友好運動がたんなる友好ではなく、「平和・友好・不再戦」を掲げた運動でなくてはならないことを示しているからです。

「社会主義国」との友好は複雑な局面を含んでいますが、私たちは「不再戦」を共通の土台に据えて、その先に「平和・友好」を掲げることで、路線の正確さをみずからに課していくことができるのではないでしょうか。

アサギマダラを調べるために、下記の項目を設定して調べ始めたが、材料はきわめて乏しいことが分かった。

1) エネルギー代謝と飛翔技術

2) ナビゲーション能力

3) ロジスティクス

4) 遺伝子解析

5) そして、何故?→「アサギマダラの哲学」

最初は学者の怠慢かと思ったが、調べていくうちに、「これしきのことで騒ぐではない!」と言うほどに昆虫の世界は神秘に満ち満ちていることが分かった。

これだけ謎に満ちているのに、研究者の数は決して多くはない。

「虫めずる君」ではないが、世間からは相当の変わり者とみなされ、それだけでは食っていけない趣味の世界だ。

ところがいったん「害虫」に指定されれば、「どう殺すか」の研究だけはどんどん進んでいく。


正直、あまりに膨大な学問領域を前に立ちすくんでいる。いったん踏み込めば、最低限の知識を手に入れるだけでも資本論を読むくらいの手間が掛かりそうだ。

(と言いつつやることになるのだろうが)


昆虫の勉強はあまりに広範囲なため、例によって年表形式で展開しようと考えたのだが、最初からドカンと壁が立ちはだかった。

最近のゲノム研究で系統図づくりが始まっているのだが、これが従来の系統図と著しく乖離する。

このため従来の系統図、及びその歴史が根本的に問い直されているらしい。中には逆にゲノムからいい加減な結論を出して批判にさらされているケースもあるようだ。

ということで、とりあえずこちらからのアプローチは保留する。

とすれば、対象を昆虫一般ではなく、昆虫の飛翔能力及びナビゲーション能力に絞った勉強が必要かもしれない。現存する昆虫の多くは飛翔するので、昆虫の種類からの絞り込みはほとんど意味が無い。

ちょっとこの課題は保留させてください。


前項で、5つの宿題を出して、その解答をネット上で探した。

1) エネルギー代謝と飛翔技術

2) ナビゲーション能力

3) ロジスティクス

4) 遺伝子解析

5) そして、何故?→「アサギマダラの哲学」

結論から言うと、少なくとも日本語ネット文献に関する限り、あまり研究している形跡はない。しようとしている在野研究者の「つぶやき」が聞かれるのみである。

1) そして、何故? 「アサギマダラの哲学」

順序が逆になるが、なぜかくも長距離の渡りをしなければならないのか。これには個体保存上の問題と種の保存上の問題がある。

個体保存上は、1ヶ所の食料を食い尽くさないようにするというごく単純な論理がある。これは健全な常識である。

イナゴの大群を考えれば分かる。イナゴが大発生して片っ端から食いつくす。人間も非常に困るが、イナゴはありったけ食い尽くせば後は死ぬしかない。

これは今の富裕層・経団連と同じ発想である。前頭葉が壊死している。

もう一つは、幼虫と成虫では食料が異なるということである。幼虫=イモムシは何かの葉っぱを食べる、成虫は花の蜜を吸う。このサイクルを繰り返さなければならないから、幼虫と成虫は一生の間に住処を代えなければならない。

個体保存上の3つめの問題は、変温動物である以上、外気温に生命が左右されるということだ。だから適正気温を求めて南北あるいは上下に移動する。また飛翔 するものの宿命として体表面積が著しく大きく、体重をギリギリに絞り込むために、環境変化に対する体内バッファーがほとんどない。

2)北上と南下は「大移動」の意味が異なる

その間にも季節は移り変わる。桜前線が北へ進むように食料も北へ(あるいは高所へ)移っていく。

アサギマダラも北上の際はこのような尺取り虫型の北上パターンを取る。それは世代をまたがる北上となる。

とりわけ成虫は、蜜をもとめつつ、交合のための努力を重ね、幼虫の餌となる葉を探して産卵しなければならない。この3つの努力が完遂されないかぎり、物語はそれで終わりとなってしまう。

それに対して冬に南下する時は一気だ。それが我々の注目する「大移動」なのである。

オオカバマダラの研究

渡り(北上)は3,4世代をかけて行われる。成虫の寿命は1ヶ月足らずで尽きる。

オオカバマダラの南下は1世代で行われるが、北上は3世代から4世代にかけて行われる。

南下に際しては多量の蜜を脂肪に変え体内に蓄積する。

2)長距離飛行はオスが雄になるための試練?

種の保存上の問題はとくにオスに厳しく迫る。メスとの交合のためにオスはフェロモンというニオイ物質を発散させなければならない。これに惹きつけられてメスがやってくる。このためフェロモンをふくむ蜜を大量に採集する必要がある。

アサギマダラは成熟に時間がかかるので、羽化してもすぐに交尾することはありません。
オスはメスを誘うフェロモンの生成には「ピロリジディンアルカロイド」が必要です。そのためフェロモンが十分蓄積できるまでは交尾行動に入れない…
これを手に入れるにはアルカロイドをふくむ花から吸蜜して摂取しなければなりません。
フェロモン入り蜜を分泌する花(例えばヒヨドリバナ)はそう多くはないので、オスはフェロモンを求めて東奔西走することになる。

これらが、アサギマダラに長距離移動を強制する動機となる。

3)勝者になるための能力

しかしそれはすべての蝶々に共通する問題であるから、アサギマダラを特徴づける宿命とは言い切れない。

むしろ蝶々の世界の勝者となったことに意義を見出すべきかもしれない。在野の研究者金田 忍さんはこう言っている。

蝶々は日向と日陰、筋肉を使っての発熱、風による冷却などによって体温を生活適温に調整している。
アサギマダラが、ほかのチョウと大きく異なるのは、棲息地を高所、または高緯度の生活適温の地へ移動することによって、より長い生活期間を獲得するよう進化(適応)して来たことだ。
彼らは食草を食い尽くすことなく季節を追って移動しながら、広い範囲の食草を利用している。

つまり、生存を続けるということは自然との適合というだけではダメで、ライバルたちとの競争に勝つことも迫られるということである。

比較優位の獲得というのは、その種にとっては、自然への適合以上に死活的問題なのだとも言える。

4) エネルギー代謝と飛翔技術

エネルギー代謝についてはきわめて簡単なことで、外部代謝については酸素消費量と排泄物の分析である程度の予想はつくし、細胞内代謝についても微小電極を用いれば見当はつくはずだ。

この辺はあまり勉強していないのでわからないのだが、生命の誕生以来の地球環境の激変をくぐり抜けて、昆虫類は未だに栄華を誇っている。それは恒温性という利点だけでは割り切れない、生命活動の効率性があるのではないか。

ごく普通の好気性代謝をしていると仮定するのであれば、むしろ航空力学的特徴に興味が移る。

下記はオオカバマダラの飛翔の技術についての言及である(wikipedia)

① 南下時には一日最低でも80km飛ぶ必要があり、労力を使わないで飛ぶ方法を身につけている。

② タカやワシのように旋回しながら上昇気流を利用して旅をするが、方向性が極めて正確である。大きな湖や海を渡るときには、追い風が吹くまで一週間以上も待つことがある。

つまりヒラヒラと飛ぶというよりは上昇気流を捉えながら滑空しているのだ。他の蝶や昆虫とはまったく異なるスマートな飛び方を身につけているのだ。

これはトリの中でも渡り鳥の飛び方だ。これなら渡り鳥が大陸を越え、海を渡り飛翔するように蝶にも飛べる可能性がある。ただしこれには羽根から翼への「骨格」の変化が必要であろう。

5) ナビゲーション能力

そうなると、焦点はその独特のナビゲーション能力になってくる。

森のアルバム より ★空想するアサギマダラ・①(2009)

室内テストの結果アサギマダラは紫外線に激しく反応する。光に誘引された。光への反応の94%は紫外線に誘引されている。
紫外線が見えるということは風や気流が見えている可能性がある。

ここまで言えるかどうかは別として、新鮮な問題提起ではある。

嗅覚はアサギマダラの行動をリードする重要なキーになっている。アサギマダラが海上で陽が暮れて島が見えなくなっても、海の匂いと島の匂いを嗅ぎ分けるのは、そう難しいことでは無い。

三番目は聴覚です。低周波は夜間でも島を探し当てる手がかりになっている可能性がある。

四番目は触覚ですが、温度センサーについては良く観察されており、季節移動のキーになっているようです。また、圧力センサーについては、夜間飛行の場合等に気圧の変化が分かれば高度を知る重要な手がかりとなっている可能性があります。

その他、人間が失ったと思われるものに体内磁石や体内時計があります。

オオカバマダラの渡りにおける磁気コンパスの利用

Nature Communications 2014年6月

オオカバマダラは、時間補償がなされた太陽コンパスを用いて、飛翔方向を決めているが、太陽コンパスを使えない気象条件(曇天など)でも南の方角へ予定通り飛翔を続けている。

Reppertたちは、人工的に磁気を撹乱させた環境下でオオカバマダラを飛ばし、方向性を失わせることに成功した。

これにより太陽コンパスと連動する光感受性磁気センサーが触角の中に存在していると推測された。

今回の研究によって、人為起源の磁気ノイズが、オオカバマダラにとっても潜在的危険になると考えられた。

この「太陽コンパス」については、Neuron. 2005 May 5;46(3):457-67.でReppert らが検討している。彼らの主張は以下のもの。

複眼の背側領域(Dorsal Rim Area)に紫外線を感受する能力があり、概日時計の制御を行う中枢(“Period”と“Timeless”)と接続し、太陽コンパスを形成している。

この先生、国防予算を狙っているのか、明らかに言いすぎだと思う。「概日時計」という仮定、「太陽コンパス」という仮定、「光感受性磁気センサー」という仮定…

しかし誰もそんなこと言っていないのだから、誰も反論できない。だいたいこういう分野では大風呂敷仮説が学問を前進させるものだ。

6)遺伝子学的検討

2014年10月 AFP

クロンフォーストらは、オオカバマダラのゲノム解析を行なった。その結果、オオカバマダラのわたり行動は数百万年前からのことであり、そのときに単一の遺伝子を獲得したためだと解明した。(ネイチャー誌)

この遺伝子は羽の筋肉の形成と機能にかかわるもので、長距離飛行での酸素消費や飛行に関する代謝効率を高めることに関与している。

そうだ。先ほど書いた「羽根から翼への構造的変化」がそれにあたるのであろう。

遺伝子系統樹のマッピングの結果、オオカバマダラは約200万年前から生息していた祖先に由来すること、その祖先はすでに集団移動する性質を持っていた。

7)残された課題

残された課題と言うよりまったく白紙で未着手の課題というべきだろうが、素人から見て一番興味のある「スタミナ問題」(ロジスティックス)がまったく手付かずである。

おそらくは変温動物であるからこその特質に由来しているのだろうと推測する他ない。

アサギマダラの生き延びる力は驚異的である。栗田昌治 「アサギマダラはなぜ未来が読めるのか?」にはこう書いてある。

アサギマダラを三角紙にはさみ冷蔵庫に入れておくと、水分と糖分さえ補給すれば1ヶ月以上生かすこともできる。
しかし太陽光にあたって体温が上昇すると、すぐに脱水状態になり…致命的となることもある。

おそらくこれは変温動物であることによるエネルギー利用の効率性なのであろうと思う。それは一歩間違えばコロリといってしまう危うさと引き換えのものであろう。


http://home.r07.itscom.net/miyazaki/zakki/asagimadara.html

で、「アサギマダラの大移動についてのナゾ」をまとめている。疑問が整理されたということは、解決の糸口が見つかったようなものだが、それをフォローする研究家少ない。おそらく学際的な研究が必要なのだろう。

1) か弱そうに見えるあの小さな体の何処に海を渡って1000kmもの長距離を 飛び続ける力が秘められているのだろうか。
2) 秋に南下する時は、強い偏西風に逆らうことになる。逆風をどうして克服でき、しかも洋上の小島を探し出すのだろうか。
3) 海を渡っている間の食餌はどうしているのか、夜は何処で休んでいるのだろうか。
4) 新しく生まれた蝶は4か月程度の寿命です。つまり渡りをする蝶はいつも新しい世代です。それなのに蝶が南へ、あるいは北へ、渡りの時期が来たことをど うして知るのか。そして、どうやって渡るべきはるかな未知の土地の方角を知るのだろうか。
5) 食草はその土地に1年中あるのに、何故その土地の環境に順応せず、危険の伴う旅を続けるのだろうか。

これをもう少し、学問的に言うと

1) エネルギー代謝と飛翔技術

2) ナビゲーション能力

3) ロジスティクス

4) 遺伝子解析

5) そして、何故?→「アサギマダラの哲学」

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